2017-09-27 00:40:29 更新

概要

朝の通勤ラッシュの中で腹痛に襲われ、駅のトイレに篭る男性会社員。そこで、或る者が扉を隔てて声をかけてくる。少し奇妙でおかしな短編。


前書き

文学志向の軽い短編です。何かありましたらお知らせください。


トイレというものに、人々は感謝しなければならないという。

考えてみたら、確かにそうかもしれないと思う。例えば、もちろん用を済ませることは出来るし、秘密の会話をすることも出来るし、携帯をいじってることも出来るし、食事をとることもいざとなれば出来るし、果ては自慰などの淫行を行うことも出来る、まさに万能の場所だ。

そんな場所で起こった出来事である。



ある会社員の男は、山手線で会社まで通っているが、ある日急激な腹痛に襲われ、致し方なく次の駅で降りることを決意し、その駅のトイレに走ったのだ。


すし詰め状態になっている駅の中をかき分け、空いているだろうか、と心配しつつやっと男子トイレに辿り着き、幸いにも一つの洋式便所にも人はいなかったのでその一つに入ることが出来た。きっと、皆は自分の体よりも社会を優先するので忍んでしまうのだろう。そっちの方も切羽詰まってはいるのだが。


男は便所に座ると同時に事を済ませながら、携帯を取り出して上司にメール連絡した。


「申し訳ございませんが、生憎腹痛に襲われてしまったので、只今○○駅のトイレに篭っております。少し遅れてしまうかもしれませんがどうか宜しくお願いします。」


ありきたりな文章なのかもしれない。しかし、無断で遅刻することよりどんなに礼儀正しいことか。いいのだ、別に、「嘘だろ」と突っ込まれても礼儀正しいことには変わりない。


第一の波を鎮めても、まだ腹痛の残りがあったので暫くそのまま座っていた。すると、メールの返信が来た。


「朝からご苦労。いくら遅れてきても構わないが、今日はあの日であることを忘れちゃあ、困りますね。今、君も、私達も切羽詰まってますから」


寒冷な洒落を呟く気さくな上司である。しかし、男は困惑した。そうだ、あの日だ。今日は次の契約に向けての大事な会議なのだ。確か、時刻と言ったら今は7:40…。


会議の時間は、8:30である。早い。そんな寝ぼけ眼で会議が出来るのだろうか。

まだ余裕はあるからそこまで急ぐことはないが…いい加減この腹痛が治ってほしい…この小さな空間から社会へ抜け出さなければ…。


そこで第二の波が来る。今度はもっと大きい波であった。プロサーファーでも到底乗り切れないだろうに。波の音はかなりの大音量であったが、それだけ腹痛の激しさも和らいだ。

腹痛は津波との相関関係があるかもしれない、と男はふと考えたくらいだった。


昨日は何を食べたんだっけ、と考える。普通に、かみさんの温かい夕飯だ。煮え立った筑前煮に、醤油を垂らした焼きナス、相模屋の豆腐を使った味噌汁。どれもこれも美味かった。

つまみも、特段変わったものは食べていない。プレミアム・モルツと柿の種だけだ。ここだけの話、この二つだけで最高のひと時となる。


では一体、この腹痛はどこからもたらされるものなのだろうか?かみさんは優しいし、人情深い奴だから到底、期限切れの料理を出すことはあるまいし、そもそもその行為を助長する喧嘩も最近していない。

柿の種だってつい最近、ミニストップで買ったやつだし、プレミアム・モルツもそこで同じく買ったものだ。風邪を引いたのか?いや、そんなことはあるまい。朝から頗る元気だ。では何なのだろう、この腹痛は?


「ちょっと、あんた」突然声が聞こえた。


「あんただよ、そこにチョコんと座って、もがいてるあんた」


私の事だろうか、と思った男は


「えっと、誰ですか」と、情けなげに言った。


「誰って、今掃除をしに来たババアさ。ここで何年もやってるんだ。ところであんた、大丈夫か?長いこと篭っているようだけど」


男は少し慄然とした。何故私がトイレに篭っているということを知っているのだろうか?それに、普通だったら掃除をしに来た人が、使用中の人に声を掛けることはまずないので、奇妙である。


「ええっと…もうすぐで出られるので待っててもらえませんか?」

あまりの羞恥に早く出たくて、まだ襲う腹痛も忘れて口走った。


「ダメだよ。全部出し切りな。こっからでも分かるんだよ、かなり込み入ってることが。あんたも大変だねえ、全く!」


この人は何を言っているのだろう?全く訳が分からなかったが、彼女に対する畏怖によってその言葉に従った。


そして、第三の波が来た。今度は、人生で体験したことのないような、激しい痛みだった。あまりの痛みに、男は少し唸ってしまった。


「耐えろ!それが過ぎればもう終わりだ!」


ああ、恥ずかしい。扉を隔てているので、この声を受けているのは誰かが、第三者からは分からないが、きっと小便だけ済ませる人から見れば、何事なんだ、と嘲笑の念を扉に押し込みながら傍観しているだろう。


最後、出切ったところで、痛みがスッと無くなった。不思議なくらい腹が軽くなり、今までの腹痛が嘘みたいになくなった。


「よく耐えたもんだね。もうあんたは大丈夫だよ。そんじゃ、私は掃除に取り掛かるとしようかね」


男はトイレットペーパーで部所を拭き、事を流した。



「あなたは一体…」と言いながら扉を開けると、その掃除ババアの姿はなかった。実際に見てはいないが、声だけは聞いていた。だがもう今や、その声の主はいなくなっていた。


男が扉の前で立ち尽くしているのを、用を足しにきたサラリーマンが不思議そうに一瞥して小便器のところへ向かった。


何だかなあ、と男は首を傾げつつも、時刻を見ると8:10だったので驚いて、急いで会社へ向かった。


結局のところ、会社の会議に遅れはしたが、特段責められることも何故かなく、むしろ上手く事が進み、予定していたよりも二ヶ月早く他社との契約を自らの手で結ぶことが出来た。

これには上司も社長も大いに褒め、給料が今までの四倍に膨れ上がったのだ。


生活がなんとか安定になってきた頃、ふと男はあの時のことを思い出す。きっと、あの腹痛は、今まで溜まりに溜まった陰湿の悪だったのかもしれない、と。

そしてその掃除のババアは、それを取り除こうと馳せ参じた神の使いであったのかもしれない、と。


現在、そのトイレは駅のリニューアルにより取り壊されてしまったという。そして、男が扉を隔てて出会った掃除のババアも、これ以後目撃、及び男の事例を経験したという者は未だにいない。


今日も扉を隔てて、叫び続けているのだろうか?


後書き

お読みくださりありがとうございました。


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