2018-07-09 04:40:23 更新

概要

題が「九十九集」
その名の通り、様々な付喪神を買い取る質屋の日常。


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↑分かりやすい現代語訳



…。

…。

…。


春の門出に引き継がれても。

夏の雨を凌いでも。

秋の小道で踏み鳴らしても。

冬の寒さを受け止めても。


やがて人はソレを捨てる。

百年経てば妖怪へと変わる、と言う信仰によって。


百年、経つ事を喜び、主の為に腹を開いても。

鬼のような雷雨から、主を守り抜いても。

夜の酒に浮かれ、足が疎かな主に踏まれても。

行く銀世界に、肩の雪を落としても。


箪笥だろうと、傘であろうと、下駄であろうと、蓑であろうと。

取り手を直され、穴を塞がれ、鼻緒を直され、繕われ。

それほど大事にされた物であっても、やがては捨てられる。


九十九年の思いは重なり、九十九の縁が重なり。

縁は円、輪と成し間に和、話を語る。


九十九集いて、縁と成す。


…。

…。

…。


唐傘「嫁ぎ者は二十になった。相も変わらず夜になれば椀が飛び交い腕を振るわれ。「嫁ぐとは女の耐え仕事」。家柄家形の繁栄を、長男以外は道具のように扱われる。江戸はそうよ、逃げ出す者の多い事。畑を耕しささやかな飯を食らう彼方へと歩き出す。女はほとほと困り果て、遂にその時が来たのじゃ」


桐「親方様や。注ぎましょう」


「うむ」


唐傘「女は草履に足を通し、ふと戸を開くと雨の匂い。終わり頃の五月雨は強く、この先この先は全て暗い。末は漆黒、振り返ればほのかな灯。女は迷った。逃げ出すべきか、それともこのまま余生を過ごすか。戻れば暖かい部屋と飯がある。歩き出せば何も無い」


桐「夜伽中失礼致します。明朝より振袖の売りが参ります。今晩はお早めに」


「何を言う。これからが面白いのだ。客は神だと言うが、買う神が居なければ金は入らぬ。厚かましい神など待たせておけ。三十路になるまで寝るつもりは無い」


桐「…承りました」


唐傘「続けるぞ。女は今こそ決断じゃ。迷いに迷って半刻過ぎる少し前、間もなく亭主の戻る頃。一度、雷光。一度、雷鳴。最後にぐっと唇を噛みしめる。そして…」


唐傘「女は、私を差して走り出したのじゃ」


「ふむふむ。そして、そして」


桐「それでは、お先に失礼致します」


「うむ。良い夜を。唐傘、待たせるな。早くせい」


唐傘「じゅるじゅると、草履に染み込む雨の音。ぐらぐらと、遮る光と、遮ぐ音。小門を飛び出し、大通りを避けて路地を進む。進み、進んで。早じまいをする商店なぞ目もくれず。だが、そこに立っていた男は見逃す事は無かったのじゃ。「お花!お花ではないか!」「ああ!あなた!」なんと、亭主が店の前で何かを買うていた。このまま逃げるか、それとも連れ戻されるのか。女の目の回るような焦燥が、手から私へと流れ込む」


唐傘「「お花、何処へ行こうと言うのだ!」「お許しを!お許しを!」嘆くような言葉に、雨は囁く。「お花よ…これを…」亭主が何かを呟いた。手の中で光る何か。腰に差した二つの刀がキチリと音を鳴らす。見る間もなく、恐れ慄き、女はまたも走り出す。「お花!お花!!」後ろから叫ぶ言葉には耳もくれず。…だが、私は見たのじゃ。亭主の手で光り輝いていた玉は、かんざしの装飾であった。振り返り様、刀は鳴る。何も恐れる事は無い。亭主の優しさの溢れる姿であった。それを後目に逃げ出して…。…二人の悲しさは、次々と私に積もるばかりなり…」


「ふむ…。ふむ…」


唐傘「…続き、逃げた雨の彼方歌」


「よろしい、続けよ」


…。

…。

…。


江戸時代。古物商の「九十九屋」と言う店があった。

そこはどんな訳があろうと何も聞かずに九十九文で引き取ると言う、質屋の体をしておった。

だが、事実。その店は何も売らない。曰く、買い専門であり、売られた箪笥や唐傘、下駄や蓑はどうなったかなど、誰一人として知る者は居なかったと言う。

売らなければ物は積まれるばかり。掃き溜めのような内を予期して塵を売ろうと入ってみるが、その実がらんどうのようにこざっぱりしているそうな。

周りからは案外重宝がられている。何故ならば、本当ならば売る事など許されぬ、所謂「曰く品」を売れるから。

九十九年使い続けた、一子相伝の仏壇だろうと。途切れた一家の入った墓石だろうと。そこはなんでも買い取る。

そんな物ばかりの店を、低級の神ばかり集めた「八百万屋」とは、誰が言ったか言い得て妙。


今日も、男は一人で店番をしている。竹が焦げた煙管を吹かしながら、桜花道待ちぼうけ。


…。

…。

…。


「買わぬ」


客「なんだと!?」


「これはいかにも見る目は古い振袖だ。だが、あくまで見てくれのみよ。保管が悪く、虫に食われて焼けただけ。十年は越えても…ふむ、二十は行っていない。これはただのクズだ。こんな物を買い取るもの好きが居る訳も無し」


客「この九十九屋はちげぇってのかい!?ええ!?」


「残り物には福来る。百年大事に使われ、妖へと変わるのを恐れて捨てられる、言わば「使える道具」の専門だ。クズに興味などなし」


客「おい!この振袖は越後谷様から譲り頂いた、大変に価値のある…」


「その価値をクズにしたのはお前だろう。着られた跡も無し、大事にされた跡も無し。そんなのは振袖とは言わず、ただの布。クズだクズ」


客「なっ…!こ、このやっ…!」


「帰れ帰れ。こっちは今忙しい。そうだな…そう、煙管の雲の形を見るのに忙しい」


客「てめぇ!!」


「おっ。蛙にも見える…いや、これは兎か…」


客「良い死に方が出来ねぇな!阿呆くせぇ!帰るぞ!」


「おーおー。帰れ帰れ…。おい。戸ぐらい静かに閉められねぇのか」


桐「…」


「…そんなんじゃ、買われた物も良い心地しねぇだろうよ」


桐「…親方様」


「おう、桐。丁重に門前払いしたから塩を撒け」


桐「親方様、良いのですか?虫食い穴は二つだけ、日焼けはあっても目立たない。卸せば幾何かになろうでしょう…?」


「おい、滅多な事言うな。うちをなんだと思ってる」


桐「質屋でしょう」


「質…いや、確かにそうか。表にも書いてあるな…」


桐「目利きをし、安く仕入れ高く売る。質とは…」


「良い。言うな。知っている。そうではなく、ここは九十九屋だ」


桐「…」


「ただただ、無念を買う店よ」


桐「…良いのですか?」


「何が」


桐「飯食らい、世は金無しに、生きぬ道。そう銘の付く物にございます」


「一日に二食。夕餉にささやかに酒に酔い、朝日昇るまで眠り続ける。ただそれだけ満たしていると言うのに、これ以上金が必要か?」


桐「越後の大黒様への献上をお忘れでは…?」


「…ああ、うっかり忘れておった…。そうだそうだ。店を出すのも、只じゃない」


桐「…私は嫌にございます」


「…何を言う。ほれ、私が生きるのに必要だ。今晩とは言わぬから頼みたい」


桐「…はぁ。承りました」


「それで良い。あとは…どうだ、煙管の雲遊びでもせぬか?」


桐「なら、唐傘にでも頼めばよろしいでしょうに」


「お前が良いのだ。桐」


桐「…はぁ。お相手致します」


…。

…。

…。


「どうだ、これは間違いなく蟷螂だ。うむ」


桐「こおろぎ…」


「…おおっ。確かに、いや。まごう事なく、こおろぎであったな…」


桐「これで五度目にございます」


「何を何を。次だ次」


桐「はぁ…。うん?」


「む?」


桐「はて、唐傘が起きたようにございます。一度仕舞にして、昼に致しましょう」


「うむ。楽しみにしている」


桐「では、失礼致します…」


…。

…。

…。


桐「唐傘、七草粥はどうでしょう」


唐傘「正直…飽きたのじゃ…。七日続けて粥のみとは…主も頭を抱えるじゃろう…」


桐「ではたくあんと…」


唐傘「桐よ…。お主、箪笥じゃろうに何故好みが分からぬ…。いや、好みと言ふよりは、生きる事をじゃ…」


桐「何を申します…」


唐傘「人は私らと違い、食わねば生きていけぬ。それも、漬物ばかりではなく、魚や煮物を…言えば鶏も食わねば生きられぬのじゃ」


桐「晩に魚を…と思っておりましたが…」


唐傘「…に、してもじゃ。…まあ、魚…ええと、なんじゃ?」


桐「何か適当に…。目の前の堀で採れるどじょうでもと…」


唐傘「どじょうは旬ではない。夏でなければ」


桐「小ぶりで食しやすい事かと。むしろ、親方様は喜々とするでしょう」


唐傘「…「おお!この時期にどじょうとは!なんと珍しい!こう言う旬の外れた魚は一体どんな味がするのだろう。いや、興が湧く」…言いかねんの」


桐「でしょう。ですから、昼は七草と漬物にでもしましょう」


唐傘「うむ。そうしよう」


…。

…。

…。


唐傘「味噌も入れるか」


桐「ええ、入れましょう。ことことと音が鳴りましたら昼になります」


唐傘「主様を呼んでくれな」


桐「今」


「…ほう、ほう」


桐「…親方様。まだ雲遊びを…」


「桐。来客だ。茶を持て」


客「どうも」


桐「ああ、これは失礼を…。ただ今」


客「…あの障子の向こうの女子は主人のコレ、ですか?」


「何を言う。女子どころか、見てくれは三十路よ。それに嫁などでは断じてない。して、ほれ、早く見せてくれぬか?」


客「ええ。こちらの壺です」


「ほぉ…。ほぉ…」


客「…長らく続きましたが、江戸に入って店が変わるとは…。悲しい限りですな。三つで九十九。お譲りしたく願います」


「峠の茶屋から、大通りの茶屋へ。何が悲しいものか」


客「いえ、つづらは大きくなればなるほど、欲にまみれる。子は私の為だと言い張るが…。いかがでしょうか。心中は存じません」


「大きくなれど、心は相伝すれば良い。味も、もてなしも忘れなければ繁盛するだろう」


客「そうだと良いのですが」


「そうだな…。強いて言えば多売に薄利。客はまるで神のようにもてなすものよ」


桐「…先ほど神に塩を撒いたばかりでは?」


「うむ。あれは神は神でも悪鬼の類よ。茶が入ったか。そこに置いておけ」


桐「承りました」


「で、だ。二つで九十九など、新たな門出を祝うには足りんだろう。一つで九十九。三つで三百で手を打とう」


客「ややや…!そんな大層な物では…!」


「良いのだ良いのだ。私とて興が湧く。持って行ってくれぬか」


客「…そ、それでは…」


「うむ。よろしい」


客「…有難う御座います」


「礼は要らぬ。宝を譲る心こそ、礼をするべきだろう。有難う」


…。

…。

…。


桐「…して、七草粥のお味は…」


「ふむ。美味い。だが、飽きたな」


唐傘「ほれみぃ」


「まあ…明日からは豪華な飯になる。お前たちも楽しみにしておけ」


桐「…今度は何を買ったのですか?」


「壺だ。壺」


桐「壺?」


唐傘「なんじゃ。百年も使われた壺か?それとも、私のように米寿か?」


「驚くな。峠の茶屋が、味を買われて江戸に店を出すそうでな。…「いくつ」と思う?」


桐「峠の茶屋…。はて、齢五十も行けば良いのですか?」


唐傘「主様の事じゃ。それこそ百は行くじゃろう」


「…鎌倉から続く茶屋よ」


桐「なんと…!」


唐傘「か、鎌倉とは…!?か、鎌倉の幕府か!?」


「そうだ。今こそ名のある東海道に店を構え、富士を背にする峠茶屋「紅楼」よ」


唐傘「…それは驚きじゃ。声も出ん」


「先見の明だな。飛脚や山伏の心着く山道で、団子、茶漬けを主にしておった」


桐「…それが、壺、ですか?」


「流石に初代は割れておろう。この壺共は二代目よ。…誰だあれは。ああ、後醍醐の頃からの物だ」


唐傘「ほぉ…」


「後の二つは…まあ、九十九こそあれ、それ程古い物ではない。織田の頃よ」


桐「はぁ。…では、何故買い取りを…?」


「ふはは。それぞれ何が入った壺か…桐、想像してみよ」


桐「…大方、味噌。でしょうか」


「鋭い。そうだ。それぞれ味噌、醤油、海苔が入っていた」


唐傘「海苔?」


「うむ。「炙り漬け」と銘打ってな。この壺に海苔を入れ醤油でふつふつと煮た物よ。茶屋はこれを飯に乗せ、「茶漬け」として売っていた」


唐傘「…なんじゃなんじゃ。美味そうじゃのう」


「一番の古株は味噌よ。これも味噌を保管するに留まらず、少なくなれば山菜を入れて漬け込み炙って、汁の具にしていた」


桐「…ああ。合点がいきました」


「…そう。九十九の間の「味」が染みついている「壺」だ」


唐傘「ふむ!つまりはそれを現…」


「はぁ?何を言うか。これで飯を炊くのだ」


桐・唐傘「は?」


「うむ。七草のみでは腹も膨れぬ。桐、この壺に水と米を入れ雑炊にしてみよ」


桐「…具は」


「無しだ」


桐「無し…?」


「うむ。炊けば分かる」


桐「…はぁ。承りました」


唐傘「どうだかのぉ…。塩も入れんのか?」


「塩も要らん」


桐「…親方様。中はつるりと綺麗に洗われておりますが?」


「それでも。だ」


桐「…はぁ」


…。

…。

…。


「ふはは…!やはり、思った通りよ」


唐傘「こ…これは…?」


桐「…先に。私は具も味付けも何もしておりません。ただ、水と米のみにございます…」


「うむうむ!九十九の間に染み込んだ味噌の味だ!どれだけ綺麗に落としても、壺は味を忘れておらん!」


唐傘「ほぉ…。つまり、醤油や海苔の壺も、同じく水と米のみで…」


「ああ。美味い雑炊になるだろう。いや、今更だが粥か」


桐「…して、味わった後は…」


「漬け込むも良し。だ」


唐傘「…も?」


「…唐傘。言わんとて分かるだろう。桐、茶を持て」


桐「承りました…」


「…唐傘よ。何故九十九屋は損を承知で古道具を買う」


唐傘「…話を聞くため。じゃろう」


「うむ。では、何故古道具でなくてはならない?」


唐傘「溜まりに溜まった話は興になる。からかの」


「…うむ。まあ、その通りであるが。…ああ、お前も人世も分かってないな」


唐傘「うん?」


「…道具も米も酢橘も全て同じよ。美味い中身を吸われ食われるが、人は皮を捨ててゆく。皮と身の間が一番に血になると言うのに、苦いと分からず捨ててゆく。良薬は口に苦しとあれど、人は良い思いをしたいが為に、使える分を割り切って捨てるのだ」


唐傘「…」


「お前たちは皮よ。使い使われ九十九年。熟れいに熟れた思いのみが積もっておる。九十九年も見た景色は、源氏の妄想や平家の終物語よりも面白い。浄瑠璃や噺よりも人情がある。俺は皮まで食う男でな。古道具の価値を知っているのよ」


唐傘「…古道具と言えば聞こえは良いな。捨てられたのと変わらんわ」


「捨てるなら拾おう。銭も何もかも。無念もだ」


桐「ええ。捨てられたのですから」


「…桐」


桐「なんです」


「…いや、良い。茶を置け」


桐「はい」


唐傘「…まあ、とは言えその後はどうするのじゃ?夜伽に歩いた道を語っておるが、その後じゃ」


「うん…?」


唐傘「皮を食らい、血肉に変えた後じゃ。糞となり、またも捨てるのじゃろう?」


「…気になるか?」


唐傘「…なんとなしにの」


「…ふはは!誰が捨てるか。俺が死ぬまで、皆、側で夜伽を続けてもらおうではないか!」


「主が先に逝く道具。これ程の事は他にあるまいて!」


唐傘「…ああ、まあ。そうとも言えるの。少しばかりズレておるが。一寸、いや、一間ほどか」


「嫌うな。俺は面白い事が好きなだけだ。誰よりも何よりも。面白可笑しく生きていく」


桐「傾奇者…とでも言いますか」


「それで良い。うつけで良い」


唐傘「…ふむ。では仕舞にしようか」


「うむ。馳走であった」


桐「…はて、この後は」


「店番をして、夕に畳み、夜伽だ」


桐「…承りました」


…。

…。

…。


唐傘「女、三十路。新たなる恋に染まり、私の元で肩を寄せ合ひ。慎ましい暮らしにも慣れ親しんだ頃、ふいに訝しさ残る調子に襲わるる。飯が喉を通らず、次に食うてもまた戻すばかり」


「…ほう」


唐傘「あまりの事に男は右往左往。女も何一つ分からずにおる。人里離れた山奥の二人暮らしには、それが何を意図する物か知る良しも無し。だが、遅れて不幸は流れ込む。秋の実りに感謝し、米狩りや栗を拾うておると、そこに黒き点を見つけたのじゃ。男はすぐに理解する。「ややっ。これは正しく疫病ぞ。実り妨げ害を成す。食せば体も朽ち果てん」」


桐「…哀れな」


唐傘「次第に冬へと入る。残る米ばかりをかき集め、椀の一つに盛り上ぐる。幸いがあれば、前の秋の豊作に残る米が有った事。冬は越せると胸を撫で下ろす。が、春や夏はいかがなものか。囲炉裏を囲む八畳二部屋はがらんどう。売る物も無ければ金も無い」


唐傘「二人は悩みに悩んだ。女の病も、先の飯も。先に霧こそ立ち込めん。先に、霧こそ、立ち込めん」


唐傘「…続き、赤子供養」


「…ふむ。一度仕舞じゃ」


桐「…どうされました」


「…興も沿えん。大方は分かっておる。「つわり」を病と違えたのだ」


桐「ええ。でしょう」


「が、知らぬは罪よ。続く話が赤子供養とは、あまりに酒が濁るでな」


唐傘「救われぬは世の常じゃ」


「…よし。今晩の夜伽は止めだ」


唐傘「さればに候、どうするのじゃ。外は暗くとも、寝るには早い事」


「…桐。時に感情箱の中の銭は幾何か?」


桐「一貫文もありはしません」


「ふむ。それでは二人、どうだ」


桐「…嫌にございます」


唐傘「ふむ?何をする気か?」


「なに、ちとばかり盗み入る事よ」


唐傘「なんと!?」


「二十年も前からそうよ。暮らす金をば奪ってきた」


唐傘「…それは私とて断りじゃ」


「ならば寝ていろ。どうせ盗むは俺の金だ」


桐「俺の金。と言えば聞こえは良いですが、越後の大黒様への土地借り金にございましょう…」


「うむ。ならば俺の金だろう。言うて、江戸は針から錐まで、纏める者は金を持ちすぎておる」


唐傘「地頭も庄屋も、先見の明につけ込んだのじゃ。人の才を羨むな」


「羨んでなどおらん。違いがあるとすれば奴らの方よ。不正な帳簿に袖の下。いつの世も変わらん。何故奴らの娯楽に貢がねばならん?役人も何もかも、下から上へと必要以上に吸い取るのだ」


桐「それが世の常にございましょう…」


「ならば世直しだ。店で買い取る九十九文でこそ、大方は借金や地頭への首回らずに流すのみ。客の先など決まっておる。その後、絞られた」


唐傘「…それは違いない。赤子供養の先の先には夜逃げが待っておる」


「そして、唐傘売りか」


唐傘「…」


「桐。お前とてそうだろう」


桐「…ええ。今とて恨みは消えませぬ」


「…まあ、なに。小判一枚盗むだけ。欲に溺れん。唐傘、お前はここに残っていろ、俺と桐、そして他の者とで行って来る」


唐傘「…良いのか?主様として命ずれば、私とてそれは断れんのじゃぞ?」


「嫌なら良い。だが、桐。お前は背負ってでも連れてゆくからな」


桐「…はあ。承りました」


「桐。如来と地蔵、経文も叩き起こせ。今晩は宴だ」


桐「…ええ、あの者らなら喜んで興じるでしょう。承りました」


「…ふむ。興が湧いてきたぞ。そら、妖々と興が湧く」


「堀を進むか、それとも月影に隠るるか。いや、提灯に毒とも楽しかろう」


唐傘「…主様は、盗みを楽しんでおるのか?」


「うむ。楽しみの一つだ」


唐傘「それに庄屋、地頭が怒り狂うたり、よもや足らずと知らぬ者に災厄が…とは考えぬのか?」


「…うん?ふむ、唐傘。何か間違えておるな」


唐傘「何をじゃ」


「俺が狙うのは賄賂よ。白紙に包まれ、箱の下に眠る小判一枚よ」


唐傘「…うん?」


「誰が地頭の帳簿に泥を塗るか。そうなれば、確かに農民や商人に害が及ぶ。だが、己の欲にまみれた金を狙う事の何が悪い」


唐傘「な、ならば先の「俺の金」とは?」


「店を構えるのに、大黒へいくら流したと思う。大通りから外れていると言うのに、足元を見てふんだくる。江戸となってすぐに店を構えた連中以外、皆して渋い顔を迫られる」


唐傘「…ふむ。では、袖の下からいつ盗むのじゃ?名の通り、肌身離さず忍ばせた金じゃぞ?」


「前は眠らせたな。その前は覆面を。その前は…ああ、談合の最中に姿を消して」


唐傘「…面妖な」


「お前が言うな」


唐傘「して、悪事を働いて心は痛まぬのか?」


「悪事では無いからな。裏金摘まむだけよ。最も、人が死のうが生きようが金しか見ぬ連中の方が心無し」


唐傘「…ふむ。一理ある」


「…ふむ。ごとごとと音のする。地蔵やらが起きたか。では…」


「唐傘。少し出てくる」


唐傘「…戻りは?」


「さあな」


唐傘「…結局、何があの人なんじゃ。主様は…?」


…。

…。

…。


「大黒門はこの角を曲がれば着こうだろう」


桐「…門の前にはやはり提灯持ちがおります。怪しい者がおれば、控えの雇われ武士が駆けつける事でしょう」


経文「してからに、宝庫口に提灯二つばかり。廊下に人影無し」


如来「控え部屋は談合場所から三つ、離れにおる」


地蔵「如何とす。大黒は眠りにつき、狙うべきは宝庫のみ」


「だが、宝庫は錠がこれまた二つ」


桐「…以前も蔵開けに会いました。増えてる事では?」


「ふむ。まさに鉄の壁」


経文「では…」


「…廊下には人影無しか?」


経文「厠に向こう無ければ」


「では、堀を越えようぞ」


桐「…親方様。二間もの高さは、忍刀の力添えによって成せた事。今ではそれも叶いません」


「む。…そうか」


地蔵「…所で、前に話した奴を使うてはどうだ」


「…ああ。奴か。では提灯持ちは越えられよう」


桐「宝庫は…?」


「…なに。小判一枚とあらば、窓より空蝉とでもすれば良い」


桐「空蝉…」


地蔵「我は二尺も。窓は通れん」


桐「私とて物に戻れば箪笥にございます」


如来「仏閣の落ちに連れられた如来像を削れと申すのか?朝日が昇ると違いましょうか?」


「…決まりだ。中に投げ込まれ小判一枚攫って来い」


経文「…損だ。小判よりも大損だ」


…。

…。

…。


提灯持ち一「奇事あらば語り候え。さればに候…。一条の戻り橋、あるは九条の羅生門に妖怪変化現れて。老若貴賎分かちなく、鬼、一口に食いたりなど…」


提灯持ち二「おう。それは羅生門の口上か」


一「うん?いや。渡辺綱に鬼退治を命ずるとこよ」


二「ほう。なんだ、妖怪物には詳しいのか?」


一「まあな。例えば浄瑠璃だとか語りだとか、そうだな、大衆の好む話は耳にする」


二「他には無いのか?人っこ一人通らん提灯持ちなんぞ暇で仕方ねぇ」


一「良いぞ。…ああ、見事に沿った話がある」


二「…まさか提灯持ちの話じゃあるめぇな」


一「そうよそうよ。ふと暗がりに光を当ててみると、何やら妖気の混じる霧に包まれてな」


二「おい、やめろ!やめろ。生まれてこの方怖いもんはカミさんだけだが、墓場と一緒よ!話されりゃ怖くなる!」


一「…おぅ」


二「…うぅ…!」


一「…春の最中に冷える風か…。ああ、寒い」


二「てめぇが余計な話するからだろうが」


一「お前が話せと言った癖に」


「…寒いだろう寒いだろう」


「竹替えも知らずに捨てられた煙管の煙と心は寒いだろうよ」


桐「まあ…ものの見事に通れました」


経文「俺の方が寒く出来る。なんせ涙無しで語れない冷世の話だ」


地蔵「興も無し。だが、九十九も使わろうた煙管。竹替え無しとは考えられん」


「だから詰まって捨てられた。主人が阿呆では物も悲しむ。さ、進むぞ」


如来「ああ、神も仏も無き世やの…」


…。

…。

…。


如来「…にしても、この煙管がねぇ…」


「溝に落ちておった」


桐「使えると言って持ち帰りましたが、人の口の付いたこれをよくもまぁ…」


「洗えば変わらん。箸と同じよ」


如来「して、何時から姿くらましに?」


「吸っておって声を掛けて来た。もう九十九も超えたからとな」


地蔵「うん?声を聞いたことの無き事。もう喋らぬのか」


「役目を損なわずに使っているからだ。お前らと違いな」


桐「私は腹を毎日の様に開かれますが…」


「勘定箱とはそんなものよ。宿り感情箱とは上手い事を言ったつもりだ」


経文「おおい。話してる場合か。大黒が厠に歩いてる」


「おお。あれが憎き肥やしだ。醜い音を立てて歩く歩く」


地蔵「どうする。計画倒れだ」


「なに。煙に巻く」


大黒「…ん?はぁぁ…春とは言え夜は冷える。厠が遠い。なんでこんなにも大きく造ったか…。くそっ…大工め…後で覚えていろ」


桐「…腹の大きさと違い、小物にございますね」


如来「ああ。うちの坊主はあんな風にございましたわ。汚い汚い」


地蔵「憎い憎い。家造りに我を井戸に落とした男に似ておる」


経文「あれは駄目だ。煮ても食えない。仏様も救えん男よ」


「皆して言うな。面白い」


桐「ええ。箪笥の下敷きにでもしたくなります」


「なら、少し遊んで行くか。煙管よ、姿くらましだ」


…。

…。

…。


「経文よ、厳かに。皆も続け」


経文「どうする。般若か。それとも付喪、夜行の理か」


「述べよ。我ら…」


地蔵「百の年月を数え」


如来「鬼と謳るる力を手に」


経文「夜更けに空を駆け巡り」


桐「行くは回る廻る浮世」


大黒「ぐっ…?な、なんだ…?霧か…?霞か…?」


「百鬼夜行の名の下明けぬ夜の袂にて、無念輪廻爛世常世を、ただ見届けよう」


大黒「…っ!」


「地蔵、鳴らせ」


地蔵「ああ、憎い、憎い」


大黒「なんだ、なんだこの音は!?何を引きずっている!?金箱か!?」


地蔵「蔓延る無念よ」


「如来、祓い集めよ」


如来「さあさあ、妖魔御参なれ」


大黒「くっ…!曲者か!出会え!出会えええ!!」


桐「それらは叶わぬ夢と散る」


大黒「なっ…!?」


桐「儚くば、無残に煙る、髑髏染め」


大黒「あ…妖だ…っ!ワシが何をした!?許せ!勘弁してくれぬかっ…!」


桐「残らぬ。残らぬ。残るは心のみ」


大黒「ひぃっ…!」


「桐。仕舞え」


桐「…金に憑かれ我を忘れた男よ。ただ、哀れなり」


大黒「ひいぃぃぃぃぃいっ!!!」


「…」


「おう?なんだ、気絶したか。これからが面白いと言うのに」


桐「仕舞う事も叶わぬとは、箪笥としてどうなのでしょう…」


経文「なんだなんだ。妖気に中てられ気絶とは…。脆い人よ」


地蔵「鍛錬が足らぬ。転じて、気心の無き傍若無人に違いない」


如来「…おっ。この狸っ腹は金を持っておりますわ」


「むっ?宝庫に入る間もなくか?」


経文「ああ。投げ込まれる損をこかずに済んだか」


地蔵「小判三枚に大判も持っておる」


桐「金以外に信用の無い男なのでしょう。哀れですね」


「ほぉ…。なんだ、そうかそうか。…興が削がれた」


如来「もうお帰りか?」


「ああ、帰ろう。つまらん。小判一枚持って行くぞ」


…。

…。

…。


唐傘「…む?早い帰りじゃの」


「そら、布団を温めてくれおったのか?」


唐傘「なに。春風がびゅうびゅうと入って来ての」


「なら、茶漬けを持て。それまでは花札にでも興じよう」


桐「…親方様。常々思うのですがあの花札…」


「うん?あれも九十九よ」


桐「通りで…。異様な引きを見せるものですから」


唐傘「茶漬けは如何にする。たくあんでも刻むか?」


「うむ。美味そうだ。頼もう」


桐「…して、時に親方様?」


「なんだ。申せ」


桐「…地蔵、如来、そして経文。随分と念が溜まっているのを感じました」


「うむ。だが、もう少し現世を楽しませようではないか」


桐「悪鬼になる前に、忠告致しました」


「礼を言う。…はあ、確かに、神も仏も無き世だな」


桐「ええ。人世にございます」


「崇められ捨てられた物は特に恨み深い」


桐「人も物も盛者必衰。平家のように、強い無念が仇を生む」


「そうだ。…桐。お前は未だに恨むか?」


桐「ええ。恨みは朽ちませぬ。晴らすまでは陰り続けるのみにございます」


「…そうか」


唐傘「主様。茶漬けが出来たぞ」


「持ってこい。俺は今、煙管に酔うのに忙しい」


…。

…。

…。


浮世に奏でる早春は、流れるが如く過ぎ去る物と存ずる。

ひと月程に小判は一枚もたらされ、やがて九十九となって消えてゆく。

それらは春の桜に例えられるように、儚く巡り円と成る。


煙管を持ち、煙の薄くに感じる事は夏の訪れ。

しとしとと風が吹き、また長い雨が日を陰らせて、裸一つの身に纏うは、茶に蒸した色合いの薄衣。

立ち返るかのようなひと時はまた、夏のように過ぎて行く。


縁は円、輪と成し間に和、話を語る。


縁は巡り廻る物。また、立ち返るかのように、戻って来る。

長い雨が過ぎるのを、煙管片手に待ちぼうけ。


…。

…。

…。


「…はぁ」


唐傘「女、四十二。ささやかな幸せに告げるは寺の鐘じゃ。ぐわんぐわんと、祇園精舎の唄にある様、遂に終わりが訪れん」


桐「親方様。注ぎましょう」


「いや、いい」


唐傘「愛し愛され、身の辿った道を振り返れば、なんと物の無き事か。男は死に至り、また、自らだけが残された。家と畑とは、己を満たす事など程遠く、ただ涙枯れるような虚無に染まる。誰じゃ。誰がこれを作り上げた。二十も昔に同じ雨の中を逃げ去って、何が何となったのであろうか?子も無く、夫も亡く、ましてや金も無い。その一生に意味を問うばかりじゃ」


桐「…親方様?」


「いや、なに。煙が目にな。それに退屈な話に睡魔が寄る。唐傘、続けよ」


唐傘「…寝んのか?」


「いい。聞いてから寝る」


桐「唐傘、気を悪くしないよう。…泣いておられるのです」


「誰が泣くか馬鹿馬鹿しい。ほれ、続けよ」


唐傘「…そして、女は何もかもを売りに出す。実家を訪れ、果てた家系に涙して。決めていた事。何も無ければ仏の道に縋るまで。明日は何処へ足を向けるか、それは人とて分かるまい。剃髪し、いずれ迎うる死だけを全うするだけなのだろう。かの日に雨を凌ぎ見守った、祖父代々の唐傘は売られゆき、悲しき背のみ送り見ゆ。悲しき背のみ…送り見ゆ」


「…そうか。そうかそうか」


唐傘「これが…私の長き九十九話じゃ…。つまらんかったろう」


「何を言うか」


唐傘「…」


桐「茶を淹れましょう。唐傘の分も」


唐傘「有難うな」


「…後は九十九屋の主人にこき使われ話すのみ…か。ふん、余程、今の方がつまらんだろう」


唐傘「主様よ」


「なんだ」


唐傘「…これで身の上話は仕舞じゃ。春に申した通り、雨が止めば穴の開いた傘に場など無し。…如何にする?」


「…」


唐傘「ほれ、煙管など吸ってごまかすな。私をどうしたい。長き世に生れ落ち、桐の如く大した未練も無い物ぞ」


「…そうだな。ふむ…お前は恨みの積る物では無い。朽ち捨てられて売られた訳でも無し。ではあえて問うぞ、人世に恨みは残るか?」


唐傘「人が私に魂を込めるが如く作り上げ、人が私に頼り、そして、人が私と話している。何も残らん。人世こそ、私にとっての仏よ」


「…よく言った。それでは、お前はしばらくこき使わせてもらおう」


唐傘「ふむ。店に置いてくれるか」


「おおそうよ。…うむ、見る目は齢三十四十。良い熟れた女である。つまりは俺の好みでもあると言ふ事よ。誰が捨てるか」


唐傘「ふはは。なんじゃ、女の趣味も残り物か」


「上手い事を」


唐傘「で、あれば共に寝るか?私は逆らわん。人に使われてこそ生きる物じゃ」


「…ふむ、それは確かに面白い。だが怖い。止めておこう」


唐傘「うん?桐がか?」


「ああ桐だ。今も俺を睨んでいる事であろうぞ」


唐傘「冗談…おい、冗談じゃろ?障子が僅かに開いたぞ」


「…俺は嘘を言わん」


唐傘「…おおぉ…!ぞっとしたぞ。身の毛もよ立つばかりじゃ…!」


「まあな。桐は特別よ。人に惚れるが如き恨みを抱えておる」


桐「惚れはしませぬ。ただ、恨むのみ」


「…だと。茶はまだか?」


桐「ただ今、湯を沸かしております。火の燃えが悪く」


唐傘「…桐は箪笥じゃろう。何を恨んでおる」


「さあな。奴は話さん。分からぬわ」


唐傘「ん?なんじゃ、九十九話はせんのか?」


「うむ。まあ、そっとしておいてやれ」


唐傘「…ふむ」


「さて、唐傘よ」


唐傘「なんじゃ」


「共に生きようぞ。人を恨まぬ変わり者は大いに好きだ」


唐傘「なっ!?め、夫婦か!?」


「それでも良いが、浮世を楽しむ九十九屋の一人となるのだ。恨むのでは無く、楽しむのだ」


唐傘「なるほど。それは愉快極まれる」


「して、その変わり者の一団を俺はこう呼んでいる。手を舞わせ、浮世踏み抜く、九十九集」


唐傘「つくも…しゅう。九十九集か」


「うむ。悪事だろうが関係無し。ただ楽しみ死に向かうだけの、儚き一団よ」


唐傘「…乗った!」


「いよし!それでこそよ!」


唐傘「…して、桐とはどこまでいったのじゃ?」


「さてな」


唐傘「もったいぶるで無い。男女事情は花の歌。それほど面白い事も無かろうに」


「俺はあまり好かん」


唐傘「なんじゃなんじゃ。いや、待て。熟いた女の好きな事。つまりは主。攻められ優しく抱きしめられる…などが好きか?」


「冗談じゃない。何故俺の趣向を語らねばならん」


唐傘「面白いからよ」


「はぁ…。なんだ、遂に悪事に目覚めたか」


唐傘「何が悪事じゃ。これくらい」


桐「お茶を…やはり止めましょう」


「ああ桐。行くな行くな。こいつは一人だと手に余る」


唐傘「甘えおってからに」


桐「私とて手に余ります故。一人で二杯の茶を飲みます。ごゆるりとされては?」


「越えぬ越えぬ。桐、お前ともゆるりと話したい事がある。行くな行くな」


桐「はあ…そう言われては仕方ありません」


「さて…」


唐傘「童貞か?」


「黙れ。真面目に話をしたい」


唐傘「ほう…」


桐「改まった顔を。いかがしました」


「…先日、雨の中訪れた金物屋を覚えているか?」


桐「ああ…あの」


唐傘「どうも食えん男か」


「あ奴は報を売り買いする者でな。九十九屋の看板の話をつけた」


桐「はあ、それはどうも…。また盗みですか?」


「いや、客こそ来れど満たぬ酒。買う物は一握りだが…」


唐傘「…なんじゃ、物々しい顔を」


「…その金物屋がな、曰く付きの下駄を売ろうと言うのだ」


桐「曰く…?」


「履けば病に侵され死ぬ…と言われる、数紀も前の下駄よ」


唐傘「…」


桐「…」


「社に奉納しろ。とは言えん。むしろ喜々として買おうと言った。だが、今になって思い出した話があってな」


桐「…あ。狐」


「そう。狐の件だ」


唐傘「狐…。化け狐は聴けど、下駄とは如何に」


「うむ。石遊下駄…と言ふ物を知っているか?」


唐傘「石遊下駄…。石下駄か?」


「そうだ。だが、その石は軽く長持ちし、漆で黒に塗られた万に通ずる女物の下駄よ。砕き、彫り、装飾し遊んぶ石下駄を石遊下駄と言ふ」


桐「はぁ…石下駄…とは聞きましたが、女物とは」


「木よりも軽く、まるで妖のように惹きつけるでな。若い女に流行したそうだ。だが、呪いの話を聞いてからはとんと見なくなった」


唐傘「…のお。石、狐ときて、ようやく身震いしているのじゃが…」


「ああ…」


桐「玉藻前の殺生石…」


「うむ。まさにそれだ。平安の宮廷崩しの女狐が、近づく者皆殺し絶えたあの石よ」


唐傘「それは方々に飛散したと聞くが…?」


「飛散したのならば、その石を使った下駄のある事に可笑しきは無い」


唐傘「…とんでもないのぉ…」


「今になって悩んでおる。流石のソレは、唐傘以上に手に余るだろう」


唐傘「なんじゃと?」


「いや、むしろ桐よりも…」


桐「…なんです」


「…思ふてみろ。現界した途端に九十九屋ごと江戸を乗っ取るやも知れん」


唐傘「ならば履けばよかろう」


「殺す気か」


唐傘「おや、主様なら恐れず…とはならんのか。そうか、それほどの物か」


「…俺とて楽しみ半分、畏怖半分よ」


桐「拒まぬのですか?」


「なんでも買うのが九十九屋の銘だ。看板に嘘書くにもいかず」


唐傘「八方塞じゃの」


「…まあ、明日になれば分かる。今日は酒は控えて備えるばかり」


唐傘「そうじゃの。何かあるのは明白じゃ」


「はぁ…。恐ろしきかな」


桐「…親方様」


「うん?」


桐「何かあれば私が仕舞いましょう。九十九屋よりも、何も拒まず受け入れるのが箪笥にございます」


「馬鹿を言うな。女一つ守れず何が親方だ」


桐「…ほう。これは…」


唐傘「ああ、歯がゆい歯がゆい。恰好付けおって…!」


「煩い。もう寝るぞ。明日に備えよ」


「…戦う謂れもあると思へ」


…。

…。

…。


客「では、これにて」


「うむ。帰りは気を付けろ」


客「はっはっは。死にませんよ。これで死んでいたら命がいくつあっても足りない」


「そうだと良いが」


客「では…。む…雨か」


「…」


桐「死相が見えますね」


「ああ。看板は出ないと見える」


唐傘「盗まんで良いならそれに越した事は無いがな」


「…はぁ。ああ、恐ろしい」


桐「…まるで玉手箱のようですね」


「開けて老いるだけならどれだけ楽か。これを現界させるなど、命知らずだろうな」


桐「では何故引き取ったのです」


「…看板屋のあの顔を見て心が痛んだ。いや…もしくは…」


唐傘「…魅せられたか」


「…桐。どう見る」


桐「恨みは絶えずして、人世牛耳る九重の、尾々は往々、忌らえる…と言いましょうか」


「…唐傘。暖簾を外せ」


唐傘「良いのか。まだ昼じゃぞ?」


「どうせ客は来ん。この雨はコイツが降らしているに違いない。人除けもしてる事だろう」


唐傘「…外してこようぞ」


桐「…経文らを起こしますか」


「いや、恨みを買われて寝返るとも考えられる。弓は当ててこそよ。返されては言葉も無し」


桐「…」


「よし…開けるぞ」


唐傘「…主様」


「まあ待て、話は後だ」


唐傘「外が騒がしい。どうも、筒抜けのようじゃ」


「うん?石下駄の話がか?」


唐傘「違う。なんの拍子か分からぬが、刀の鞘から身の飛び出す奇事よ」


桐「鎌鼬の類…妖の仕業に違いありませんが…もしや…」


唐傘「…誰が斬られたかは見もせんわ。胸糞悪い」


「…今聞きたくなかったな」


唐傘「…よもや。とも思わぬ。コイツの所業じゃろう」


桐「…これ程までに近づく者へと不幸を招く物も珍しいですね」


「…どうする。看板屋はおおよそ戻らぬ。さりとてこれを売ろうものなら、俺とて筒抜けやも知れん」


桐「…現界し、恨み晴らさはいかがに…」


「無い。恨みなど、根絶やしだけだろう」


唐傘「…」


桐「…」


「よし、開けるぞ。備えよ」


桐「仕舞の準備はとうに」


唐傘「守ってやろう」


「…っ」


桐「…まあ、何も起こらないとは思いました」


唐傘「…流石に現界させねば何も起きぬか」


桐「そうでしょう。祟り殺す為には、魅せて手に取らせる必要がありましょう。見れば牙、なぞ、誰も取りませぬ」


「ふぅ…。だが、これだけでかなりの気心をすり減らした」


桐「後は現界させるのみ…」


「まあ待て。まずはじっくり見てやろう。ふむ…なるほど、石遊下駄とはこう言ふ物か…」


唐傘「漆黒に塗られ、鼻緒は赤。うむ、綺麗なもんじゃ」


桐「花の模様も美麗にございますね」


「…だと言うに、この軽さはなんだ。履いてくれと言わんばかりだ。履けば身も軽く感ずる事だろう」


桐「惑わされなきよう」


「ああ。…桐。それでは呪文を語ろうか」


桐「かしこまりました…。あっ」


唐傘「ん…」


「なんだ。どうした」


桐「…申し上げにくいのですが…」


「言え。怖い」


桐「…親方様は今、呪われました」


「…はっはっは。嘘を言え」


唐傘「…これは…洒落にもならんの」


「…本当なのか…?」


桐「ええ。黒い糸がしっかりと、はっきりと見えまする」


「…」


「はぁ…なんという…」


唐傘「主様。これは本当に危うい。命に関わる位の物ぞ」


「…丁度、経文らの浄化に…と、あの寺へ行く算段があった。乗じようぞ」


桐「…ああ、恐ろしい声がします」


「…俺には聞こえんが」


桐「深く深く、ただただ親方様を地獄に引きずり込む声にございます」


「…明日、早速向かうぞ」


唐傘「…流石の物好きもこれは喜べんか」


「死の告を喜ぶのは仇のみよ」


…。

…。

…。


桐「着きましたね。もうへとへとにございます…」


唐傘「…生安寺…?なんとも安直な名じゃな」


「おい、坊主。坊主はいないか」


経文「なんだ、寺に入らんのか?」


「門前払いも有りうる。汚したくないのだ」


如来「ああ、憎い憎い。寺は見るだけで憎い」


地蔵「如来がそれを言ってはおしまいよ」


坊主「なんだ騒々しい」


「おお、歩心。居ったか。良かった」


坊主「んん…?どうし…どうした。その黒い糸は」


「殺生石にやられた。なんとかしてくれ」


坊主「うん…?ああ、まあ、入れ」


「なんだ、訳も聞かず。良いのか」


坊主「手前が馬鹿みたいに物を集めるように、こっちは憑いたのを払うのが仕事なんだ」


「…行くぞ」


桐「…親方様」


経文「憎い…憎い…」


如来「熱い…熱い…」


地蔵「汚い…汚い…」


桐「…気を付けなければ」


「ああ、だろう」


坊主「おい、暇はねぇぞ」


「ああ、分かった」


坊主「大体な、手前はなんだと思ってる。物に心なんか宿るかって話だ。いつもいつもよ」


「うん?それを祓うのが坊主だろう」


坊主「悪鬼が宿るって話だ。浮世に善人は居ても、妖は鬼だ。もののけ…と呼ばれるように、物の病よ」


「ああ、違いない。それは違いない」


坊主「…あと。そうだな、茶の間で待ってろ」


桐「ああ、私が茶を淹れましょう」


坊主「ん?桐さん、良いのかい」


桐「ええ」


坊主「じゃあ…。ほら、入れ。おい、障子は閉めろ」


「なんだ、随分と苛立っているな」


坊主「…」


「…狐のせいか」


坊主「違う。それより厄介な話だ」


「む…?何か憑けたか?」


坊主「…経文、地蔵、後は如来か…。そいつらがとんでもない」


「なに、少し黒ずんだだけだろう。あと…そうだな、秋までは持つはずだ」


坊主「糸も見えねぇ癖に知った口聞くんじゃねぇよ」


「…っ」


坊主「良いか。糸ってのは妖怪と人間とじゃ見え方がちげぇんだ。あいつらも気づいてねぇだけで真っ黒よ。漆で塗ったように、文字通りの漆黒だ」


「…切ると言うか」


坊主「その通り」


「…いやな、あいつ等も不幸を抱えた身よ。僅かでも…」


坊主「楽しませるか?馬鹿も休み休み言うんだな。今だって…。っ…!」


「…桐か?」


坊主「違ぇ。…知ってんだろ。障子の隙間から睨むのは悪鬼悪霊だ」


「…」


坊主「見るなっ…。寺も社も同じよ…。秘めたもんを曝け出す」


「…」


坊主「アレは手前が作った。手前の甘さが作った鬼だ」


「…すまぬ」


坊主「…殺生石も黒々としてやがるが、アレの方が先だな。いや、水神の類と同じで祓いきれん」


「…どうすれば良い。奴らを殺さず、それでいてなんとかしてやりたいのだ」


坊主「…なら、手前も坊主になんだな。今は弟の頼みだとなんとかしてやるが、俺が死んだらどうしようもねぇぞ」


「…考えておこう」


坊主「…縁切りさせてもらうぞ」


「ああ、頼む」


桐「…茶が入りました。…親方様」


「なんだ」


桐「…切るのですか」


「ああ、切る。切って空に浮かべるのみよ」


坊主「それこそ鬼神にならんようにしねぇとな…」


…。

…。

…。


桐「我ら百の年月を数え、鬼と謳るる力を手に、夜更けの空を駆け巡り、行くは回る廻る浮世、百鬼夜行の名の下、明けぬ夜の袂にて、無念輪廻爛世常世を、ただ見届けよう」


坊主「…人手には困らねぇのが九十九の良いところだな」


「如何にも」


坊主「だが、積もり積もって悪霊になるのが悪しきところよ」


「…経文よ」


経文「なんだ。やはり捨てるのか。あれだけ盗みを働かせて捨てるのか」


「捨てぬ。捨てぬが…」


坊主「手前が物事を悪く考えるのがいけねぇ。桐さんやら唐傘さんやらを見てみろ。謳歌してるだろう」


如来「捨てられた恨みがどれほどか、人には分からないのねぇ…」


「分かる。分かるぞ。そうであったとしても、俺は人を憎まん」


坊主「他人の不幸を願ってるばかりじゃ、自分は幸せになんぞなれねぇよ」


地蔵「憎い、憎い。誰ぞ、邪魔をするな」


「憎かろう…。想いは一心に受け止める所存ぞ」


坊主「人に作られて人を憎むんじゃ、親不幸と同じよ」


地蔵「何故邪魔をする」


坊主「手前が人様に迷惑だからよ」


地蔵「それが我らよ」


坊主「飯食って寝るだけなら文句も無ぇ。手前の理が人の理と違うを知れ」


経文「何故捨てるんだ。人は勝手よ。作り役目を終えさせては捨ててゆく」


坊主「人もそうよ。使えなくなれば捨てるのみ。手前らだけだと思うな」


坊主「おう、桐さん。もっと経を強めてくれ。夜行が山に見えて来た」


桐「承りました」


如来「ならば何故崇められた物が捨てられる。万年を崇めたまへ」


坊主「そうだな。盛者必衰を知れ」


地蔵「ああああああ…憎い憎い」


坊主「拾ってもらえなければすぐに辿った道だろう。ここまで生き永らえたのは、コイツのおかげだ。少しは感謝してみろ」


経文「嫌だ、嫌だ」


坊主「同じ言葉を繰り返すのみは魑魅魍魎と同じ。もうダメだ、情など一つとして存在しない」


坊主「…手前もよく見ておけ。羅心の儀が出来る奴と、出来ない奴との違いを。ここまで堕ちれば切るしかねぇ」


「…ああ」


坊主「これだけ互いに嫌な思いしてまでまだ買うか?買うなら品を選べ」


「すまない」


桐「…百鬼夜行と通じます」


坊主「そら、手前ら別れだ。後は上の奴らと仲良くやれよ」


「お前ら…。すまない。気心は俺が承る」


「…もう、恨まないでくれ。人世を」


坊主「…よし、桐さん。閉じてくれ」


桐「はい」


坊主「…そら、物から妖への変化だ。…桐さんも唐傘さんも。ああなりたくなきゃ、仲良く生きろよ」


桐「…はい」


唐傘「…」


坊主「…よし、後はお天道様から逃げるだけ。永遠の夜を楽しめ」


「…」


坊主「さて…。うん?なんだ。何を落ち込んでる。手前に憑いてる狐もなんとかするんだろう」


「…ああ」


坊主「…大方、今の情をどこに置けばいいか分からん…て顔だ」


「…拾った事は間違いなのか。捨て犬に情を掛け、面白可笑しく暮らすのと何が違うのか」


坊主「どこも違わない。いや…二つ違げぇな」


坊主「九十九の理を知り、人を変えられぬ程に恨む事よ」


「…」


坊主「さ、先に飯だ。しょぼくれんな。面白可笑しく暮らすんだろう?後にも先にも、あ奴らの定めよ。何も変わらん。飯でも食って気心を直せ」


桐「…戻りましょう」


「ああ…」


唐傘「…これ程、人と九十九は違うのか」


…。

…。

…。


坊主「さて、真面目な話は終わりだ」


「うん?」


坊主「次は殺生石をなんとやら」


桐「それも命に関わる話では…?」


坊主「何言ってる。弟が死んだところで笑って酒呑み送るだけよ。むしろ愉快だ」


「歩心はそう言う奴だ。気にするな」


唐傘「随分と業のある坊主じゃの…」


坊主「なに。俺も昔は九十九侍らせて愉快にしてたもんよ。大方の心情は手に取るように分かる」


桐「では、この下駄も…」


坊主「うん?ああ悪いが、妖の理なんぞ何も分からん。何を以て恨むのか、何をすれば喜ぶかなぞ、人以上に分からぬ理に満ちててな」


「前に刀の妖と話したが、研がれる事を嫌っていたな」


唐傘「なに?手入れをされて怒るのか?」


桐「人の手入れは妖の身削り。望まぬ圧を掛けていたのでしょう」


坊主「そう言う事よ。それで、まあ…この女狐は…」


「糸の色は?」


坊主「そら真っ黒よ。元より人を貶めて楽しむ連中の元締めだ」


「そうか」


桐「では、これも縁切りを…?」


坊主「いや、現界してやろうと思う。玉藻の前とはそういう妖だ」


唐傘「…まさかとは思うが、侍らせるのか…?」


坊主「そのまさかよ。玉藻は出来る男を堕落させる。千変万化に心を掴み、看取るまで堕落させる眉唾物の妖怪だ」


「うむ。それは興味が湧く」


桐「震えておりますが…」


「気のせいだ。怖いものか」


唐傘「怖い。とは一言も言っておらんのじゃが…」


「ええい、やかましい。歩心、やってしまえ」


坊主「おう、怖くて小便漏らすなよ」


「だから怖くなど無いわ!」


坊主「へいへい、それじゃ、ちょっと奥に行くぞ。ほら、早く来い」


「分かった分かった」


坊主「…どうした。先を歩かんか」


「まあ待て。どの部屋に連れて行く。案内を」


坊主「…わっ!…はっはっは!驚きおって!馬鹿だ!鳩の様だ!」


「笑うな!祟るぞ!」


坊主「はっはっは!さて、それじゃあ桐さん、唐傘さん、ちょっと茶の間でゆっくりしていてくれ。俺ら男はまだしも、女が居るとどうなるや…。分からんからな」


「おい!障子を閉めるな!何も見えないだろう!」


坊主「いいから歩け歩け」


桐「…」


唐傘「…あんな主様は初めて見たのぉ」


桐「…九十九返し。夜行の儀。久しく見ればあんなものでしょう」


唐傘「…なんじゃ、前にもあったか?」


桐「ええ、ええ。親方様の周りに私ともう一人だけの頃」


唐傘「ほぉ…。して、あれは捨てられたとは思わんなだ」


桐「私もそう考えます。人の手のひらに乗らねば、同じ妖に返すだけの事。憎みも何もありませぬ」


唐傘「して、その気心を背負うなどとは…。主様はどうも弱いのぉ」


桐「弱いも何も、捨てきれずに物を溜める人。まかり通っております」


唐傘「…そうじゃな。のぉ、奴らは店の奥に仕舞われておったのじゃろう?それが因とはならぬのか?」


桐「はぁ、なりませぬ。眠り、経を唱えるだけの日を送る、少々、殊な者達でした」


唐傘「ほぉ…。やはり、崇めが要因か」


桐「ええ、そうかと。主の行いを反芻するのが九十九等にございます故」


唐傘「難しいのぉ。人世の妖は」


桐「妖…ではありません。日ノ本を歩けるだけ幸せと思ふのです」


唐傘「なるほどの」


桐「そうでもしなければ…恨むばかりでしょうに」


唐傘「じゃのう」


桐「…っ!」


唐傘「んっ!?なんじゃ!?今の音は!?」


桐「…現界。よもや失敗でしょうか」


唐傘「なに!?行くぞ桐!」


桐「まあ、待ちなさい」


唐傘「何故待つ!?」


桐「許しの無き事。今歩けば道を違えるやも知れません」


唐傘「…っ」


桐「親方様は腹を括りました。それを無碍にするなど、主従に違えた行いと存じます」


唐傘「…無力じゃの」


桐「ええ」


唐傘「…時に桐」


桐「はい?」


唐傘「…恨みだのなんだの言いながらも、随分と主の慕う事。もしや、コレか?」


桐「…」


桐「…そ、その。あまりからかわぬよう」


唐傘「なんじゃなんじゃ。赤くなりおって」


桐「い、いえ。ですから、そう言った話が元より苦手にございます。お戯れを」


唐傘「…うん?じゃあ、何を思って主に嘘をつく」


桐「…わ、私が嘘をと申しますか?」


唐傘「うむ。人を憎むのならば、人を好む事など無かろうに」


桐「…」


唐傘「…ああ、触れん方が良い話じゃったか」


桐「…ええ。そのまま黙って親方様の戻るを待ちましょう」


…。

…。

…。


桐「…!」


唐傘「むっ」


坊主「よし、戻ったぞ」


唐傘「何じゃ!あの音は!?肝を冷やしたぞ!」


坊主「いやなんの。飛んで跳ねてで仏壇を倒しやがった。いや、来なくて良かった」


桐「…やはり、私等が行けば呪いに触れると…」


坊主「違う。それがなぁ…」


「おい、離れろ。離れろと言ってるだろう」


下駄「くすくす。三歩後ろを歩いております」


「数も数えられないのか。それは一歩だ」


下駄「ほら、一歩二歩、三歩」


「一寸ずつしか進んでない。もっと離れろ」


下駄「くすくす」


唐傘「…嫌な予感しかせんの」


桐「ええ、まったく」


坊主「…まあ、その予感の通りよ。して、呪いを解く事は叶わんかった」


唐傘「なんと…」


坊主「と、言うよりも、解こうとすれば男の弱みに付け込む。どうも俺たちには助けられん」


桐「…美貌変化。玉藻はその者において最愛の姿に変わると言う…」


坊主「…俺も、弟も、中身こそ違えど…祓う事の出来ん、心残りの姿よ」


「ああ畜生…。戻ったぞ」


唐傘「…うむ」


桐「…あら」


「…疲れた。やにわに疲れきった」


下駄「ほうらほうら、どうしました」


「離れろ。下駄狐」


下駄「くすくす」


唐傘「新人よ。九十九屋の主は人にある。離れたまへ」


下駄「くすくす。もう、祝言を上げたのです。九十九屋の女将となり申した」


桐「は?」


唐傘「…?」


坊主「…あーあ。小雨が降って来やがった」


下駄「狐の嫁入りですのよ、お義兄様」


唐傘「…おぅ、説明してみるんじゃ小僧」


「歳こそ小僧だが、主に口のきき方を忘れるな唐傘。…いやな、飛んで跳ねて、捕まえたと思へばこうなっていた」


下駄「尾を引く思ひに恋焦がれて、時待たずして祝言を…」


「尾を引いたのは事実だが、仏を転がすお前が悪い」


下駄「くすくす」


桐「…仕舞いましょうか」


「うむ、頼む」


下駄「ふむ、箪笥の付喪神と心得ました。けれど…それで?」


桐「年月何処、九十九年。赤々唸る鳴る取り手のみ。眉顰めぬと心わず、兼ねていよいよの事と成す」


「…っ!おい、桐。やめろ!」


桐「…?どうしました」


下駄「くすくす」


「…駄目だ。心に入り込まれている。これでは下駄と共に俺まで仕舞われる」


桐「…なんと」


「…ああ、なんと言う事だ。お前、そして唐傘から延びる糸が見える」


唐傘「…主様。呼び声に引かれてはならぬのじゃ」


「経を唱え、なんとか塞ぎ込んでいる」


坊主「なんだ、遂にお前も坊主となるか?」


「ならん」


下駄「どうします。私をどうするつもりです?」


「なに、祓うまで。いずれ」


下駄「直ぐに出来ないならば、取り込み取り込み…。くすくす。楽しみな事です」


「…坊主、糸を切れ。九十九返す事も無く」


坊主「無理だ。お前の糸と一心同体だっての」


唐傘「…聞くが、糸とは?」


坊主「繋がりよ。人と人、恋、恨み、縁の字に入るように糸とはソレよ。己を高めるべく染みた色は赤色に、己を恨み殺すべく染みるは黒色よ」


唐傘「ああ、このずっと見えている赤い糸はそれじゃったのか」


坊主「だが、この下駄から延びるのは全て黒だ。まさに妖」


下駄「くすくす。くすくすくす」


坊主「しようがねぇ。おい、弟よ。しばらくはそのままだ」


「…どうしろと」


坊主「食われねぇように経を読め。読誦の用意だ」


「…礼を言う」


桐「…七日七晩、仁王経」


唐傘「…こやつは癪に障る。主様よ根比べよ。負けるでない」


…。

…。

…。


「…翻り、何をするつもりだ下駄よ」


下駄「私を買い込みして、その言葉。ああ、目が熱く込み上げます…」


「嘘を言え。お前が泣かした男はいかほどか」


下駄「くすくす」


「お前はもう、九十九返しも無い。心しろ。後は仏に任せるのみ」


下駄「何を仰います。付喪神から妖へと昇華させる九十九返し。それが無きとて、元より妖。なんの不都合もありませんわ」


「狐は嫌いだ」


下駄「私は好きです。ねえ、お前様?」


「やかましい。それに、付喪神とは何のことだ」


下駄「あら、九十九集いて円と成す。人の心が宿りしそれらは神とも呼ばれているのです」


「九十九は九十九。神であるはずも無し。無礼千万な事を言え」


下駄「くすくす。頑固なところがさらに愛い」


「…」


下駄「…時にお前様。この赤糸二つは何ですか?」


「…」


下駄「ああ、箪笥と傘から繋がる縁ですわ。そうでした。うっかり、うっかり」


下駄「…うっかり、今にも切ってしまいそうで」


「おい」


下駄「ふふふ…ふふふふふ…」


「…本性はそれか」


下駄「つい先に会って、私の何を知っています…?」


「化け狐だ。以上も以下も無し」


下駄「ああ、臭い事臭い事。他の女の匂いは臭すぎますわ」


「糸に触れるな」


下駄「何故に?」


「…触れれば、如何にお前の姿であろうと、歩心の宝剣にて切りかかる」


下駄「…ほお」


下駄「お前様が愛したこの姿を斬ると」


「愛するはお前では無く、お前が姿を借りた女よ」


下駄「…くすくす。そうですか、そうですか」


「…今に見ていろ。その嗤いをふさいでやる」


…。

…。

…。


「…雲は問う、形を似せる、赤落ち葉」


下駄「秋風に、凪いで雲消ゆ、江戸の夜」


「ふむ、良い句か?」


下駄「良いでしょう良いでしょう。くすくす」


「雲隠れ、仮初謳う、故郷山」


下駄「秋懐古、憂い寄り添う、夫婦宿」


「ふむ、俺らに似た歌よ」


下駄「ええ。取り込まれ尽くされたお前様のように。くすくす」


「顔は愛した女、そして気立てはそれ以上。愛さぬ理由など、とうに無き」


下駄「こうして寄り添っているだけで、今にも燃え滾りそうですね」


「ああ、是非も無し」


下駄「…お前様」


「…玉藻よ」


下駄「良いのです。他の女を断ち切って、私だけの物になって下さった。それだけで、貴方の生きる糧になりましょう。心も、そして、体も。全てを満たしてみせませう」


…。

…。

…。


唐傘「仕損じた…じゃと!?」


坊主「ああ。唐傘さん。桐さん。悪いが奴は、俺の手にゃ負えん」


桐「…何を以て」


坊主「…伝説は伝説。俺が仏に背けぬように、奴は神の一角よ。と、言うより、清から渡って来やがった大妖怪。流石に手も足も出なかった」


桐「…今すぐ、糸を切り候え。黒雲蠢き染み込んだ糸、まごう事無く死の生糸ぞ。誰とて親方様を殺しとうとは思わなず。引けば其方も取り入るぞ」


坊主「…桐さん。怒んな。あんたが言うと冗談にもならん」


唐傘「…慄くばかりじゃ」


桐「心得よ。親方様の死は、夜行揺るがし百鬼襲来の兆しなるぞ。我とて糸、染めん事躊躇わず。江戸が滅びようとて情も湧かぬ。如何にせん。歩心坊」


坊主「…だから、俺じゃ無理だ」


桐「…」


唐傘「…っ。待て、桐。…なんじゃ、含みを感じたぞ」


坊主「…言ってんだろ。俺は。無理だ。俺には。だ」


唐傘「…なんぞ匂う。山の土の匂いじゃ。坊主、何を呼んだ?」


坊主「なに、如何にも手の内よ。今の世に消えた陰陽の使いをな」


唐傘「…晴明の類か」


坊主「違う。陰陽術なんざ人はもう使えん」


桐「ならば…?」


坊主「…妖には、妖を。俺の師を呼びつけた」


…。

…。

…。


「…むっ?」


下駄「お前様、人肌はすぐに冷えてしまいます。離れないで下され」


「…なんだ、あの音は」


下駄「音…?」


「…」


下駄「…」


「なんだなんだ、しゃあん、しゃあんと」


下駄「私には聞こえません。ささ、お戻りを…」


「なんだ…っ?まるで九十九屋に近づくかのような音」


下駄「何も聞こえませぬっ。江戸空には虚空太鼓も現れません」


「…来たっ」


下駄「…っ!」


「…杖。杖の音だ。錫杖だ。しゃあんしゃあんと、幾重にも飾られた金の輪が音を出している。聞き覚えのある音だっ」


下駄「…」


下駄「…なんでしょう…。誰でしょう。この玉藻の張る結界を破るなど…。…晴明の残党か。安倍晴明か。陰陽かっ!」


下駄「まこと憎き小僧よなっ…。何時の世まで生き続けるつもりか!姿を現せ!」


「…止んだ」


下駄「…もう、入り込んでおります」


「…」


下駄「…」


ひぃ…ふっ…と、風凪げば。


下駄「…っ!そこかっ!」


「何奴!?」


鼻高々と、鋭き眼。

長らく変わらず、そして廃れず。

赤黒々とする面に、人ぞ恐れを成しにける。


誰が問うとてその姿、如何にせん。問うとて愚となり西の山。

東と山々見下ろして、鬼にも例うる眼前の。寝返り救う、鬼山伏」


天狗「誰が言うたかその面を、天狗と人は呼びにける」


天狗「第一幕、巡礼外し」


「行くなっ!」


下駄「お前様、止めないで下さい。この男は紛う事無く天狗にございます」


下駄「つまり、九十九の理による外道よ」


天狗「男、成礼とする。そこに座り見ておれ。悪鬼の言に惑わされ、右も左も分からぬだろう。辛かろう。今外す」


下駄「ふんっ。小賢しいにも程がある。我を誰と問うか?愚かにも神ぞ仏ぞ、呼ばぬば勝てぬ大妖怪よ」


天狗「男、お前とて陰陽道、羅心の道を歩む事と知れ。回亡き道に踏み込む事ぞ」


下駄「誰と語うておる!!敵は目の前ぞ!!」


天狗「…ただ、一言」


天狗「物の怪、妖の言には耳など貸さぬ」


下駄「無礼なっ…!なっ…!?」


天狗「ひゅぅっ…」


下駄「かっ…はっ…!?」


天狗「ふんぬっ…ほぅっ…!」


下駄「…っ!…くくく…。三度と絶世の美女の顔を殴るなど、やりおるな…」


天狗「ふんっ」


下駄「ぎゃっ!!」


「天狗!!止めよ!止めよ!これは出来こそ悪かろうとて、俺の愛する妻なのだ!」


「確かに耳も隠さず、姿と声こそ同じ女だ!俺の記憶に蔓延る悪鬼よ!だが、俺の心残りなのだ!辿った道なのだ!」


天狗「笑止。ほうっ!!」


下駄「い、痛い…!?と…!?…おのれ…!一体何の術を持っておる!?数珠を投げられようと、傷すら追わぬ肌ぞ!?」


天狗「ふんっ」


下駄「ぎゃあぁ!!」


「天狗!!」


天狗「…これは文の錫杖よ。古より、彼方まで、週狭法々の理を成す。金じゃ。金の付喪神よ。死に際に握る金、殺す金。そして祈る金。それらを紡ぎ溶かした金ぞ。妖退治の数珠と成す」


下駄「くっ…!うっ…」


天狗「「方々よ刮目せよ。糸と糸との分かれ道。還す理をとくと知れ。天狗に来世は無きとして、狂う道こそ山を積む。輪廻の亡き無く」…第二幕、糸染め」


…。

…。

…。


唐傘「つまり…じゃ。天狗ならば奴に勝てると言ふか?」


坊主「ま、多分な。必ずじゃない」


桐「私共としては、あの獣のみを除きたいのですが…」


坊主「そりゃあ無理だ。七日間も俺が手を尽くした末を見たろう。「初夜には鼻を失い、二日には耳を失い、三日には腕を失い、四日には足を失い、五日には目を失い、六日には正気を失う」。今、あいつの霊体はズタズタよ。本来、長い時を掛けて食う狐が本気を出した。俺にゃ止められん」


桐「…では、親方様をどうすると…?」


坊主「天狗は色を抜ける。黒だけとは上手く行けば良い。下手に下駄から出した分、また下駄に戻して焼落とす。弟は…まあ、桐さん達ゃ赤だ。その残り物の霊体をなんとかしてやれる。…天狗としちゃ、己の道に引き込みたくもなるが」


唐傘「んん…?待て待て、つまりはどうすれば良いのじゃ?」


坊主「弟次第よ。失った精神を桐さん達に任せるか、それとも天狗に弟子入りするか。俺らが決められる事じゃねぇ」


唐傘「…ふむ」


桐「私は前者を選びませう。親方様から受けた想いは返すべきであると」


坊主「…お。柄にも無く良い事を」


唐傘「お。お。なんじゃ。恨んでいるのではないのか?」


桐「…黙ってなさい、唐傘」


坊主「アレだ。あいつの前じゃ素直になれないだけで、本当は心から慕って…悪かった悪かった。冗談が過ぎた。桐さん、ほら、そんな顔するな。いや、取り込むな取り込むな」


桐「…次はありません」


唐傘「…ふっふっふ…」


桐「唐傘」


唐傘「ん…?ぬわっ!?わ、悪かった!謝る!」


桐「…はぁ。翻り、私達に出来る事は?」


坊主「おう、ちょうどある。これだ」


唐傘「…件の下駄じゃの」


坊主「どうせ天狗は成仏なんざさせん。だからと言って、あれ程の妖怪を野放しにも出来ん」


桐「…なるほど、堕とすと」


唐傘「堕とす?」


坊主「経を唱えて、奴をまた下駄に封じ込むのよ。流石に現界は興が過ぎた。身から出た錆は落とさねばならん」


桐「そうして、この石下駄は祀り上げ…神や仏に任せるのです」


唐傘「なるほどな。なるほど」


坊主「さ、こっちも経を唱えよう。あっちはもうそろそろ終幕だろう」


…。

…。

…。


天狗「…事は大なり。お前は既に全てをこの女狐に捧げ祀った。祀れば妖は力を持つ。付喪神も神も悪鬼も、全ては同じ理の中。信仰は力なり。よって、それを振りかざしては悪行の渦を作るこ奴を生かす道理無し」


「止めてくれ…止めてくれ…」


下駄「ぎあぁぁあっ…!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁっ!!」


天狗「底が知れたな女狐よ。お前は生くる為に人を化く。欺きを解けば妖力こそあるただの狐に過ぎぬ」


天狗「そして、男よ」


「…止めてくれ」


天狗「お前は心の内に何を理と存ずるか」


…。

…。

…。


春、西海に凪ぐ日には、尚も驕れぬ仏を見る。齢二十五にもならん頃、男は稼業を継ぎにける。

売りに買い取り、日越え売り。月買い、年売り、時を買う。三年も過ぎた頃、下駄屋の女に恋手向ける。

通い詰め、通い詰め、果てに二人は一つとなった。して、嫁入り道具に、桐の箪笥を持ち寄って。

だが、幸とは手から離るる物。永い時を待たずして、子さえ出来ぬ前に。女は病に侵された。

黒き斑点が腕より現れ、次いで足の骨が曲がり、臓腑の腐る「妖病」に。

兄は呪詛を祓おうと、弟の為と帆走し。女は男の為に生く。

やがて、やがて。それが、土蜘蛛、山姥の想い残りと知る時には手遅れであった。

斃し、めでたしとなるは、子向けの話。何時の世も、誰とて救われん。


…。

…。

…。


「…っ!」


天狗「何を理と存ずるか」


「…何をした…っ!」


天狗「何も。全ては女狐の妖力ぞ。弱まり、消ゆる前知らせ」


「…っ!」


下駄「あああぁ…!ああっ…!」


「…や…止めてくれ…!止めてくれ!またも目の前で死ぬところを見たくない!」


天狗「なに、安堵せよ。間もなく顔は崩れ狐となる」


天狗「さあ、何を理とする。女か、それとも今か、さあさ選べ」


このSSへの評価

3件評価されています


SS好きの名無しさんから
2017-11-05 11:47:15

トラフグさんから
2017-10-20 08:06:12

SS好きの名無しさんから
2017-10-18 08:12:27

このSSへの応援

2件応援されています


SS好きの名無しさんから
2017-11-13 15:00:01

トラフグさんから
2017-10-20 08:06:16

このSSへのコメント

2件コメントされています

1: トラフグ 2017-10-20 08:09:01 ID: n2sQ77Fe

地の文無しでここまで表現出来るとは、、、舌を巻きました

2: SS好きの名無しさん 2017-11-05 11:47:42 ID: 0bIgxhxS

こいつはすげえや


このSSへのオススメ

2件オススメされています

1: トラフグ 2017-10-20 08:11:32 ID: n2sQ77Fe

世界観とテンポがマッチしていて、読んでいて楽しいです。
オススメ

2: SS好きの名無しさん 2017-11-05 11:55:08 ID: 0bIgxhxS

設定と言葉回しが達者
絵付きで読みたいな…


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