2018-08-04 21:56:16 更新

概要

戸塚彩加の秘密を知ってしまった比企谷八幡。
初めて自分の秘密を知られてしまった戸塚彩加。

二人は、色々な困難や苦しみ、悩み、不安を、不器用ながらもお互いに分かちあって、自分自信と向き合っていく。


「約束、したから」


前書き

こんにちは。戸塚彩加は隠していた。続編です。
別サイトにも投稿してたので、粗方修正はしましたが、もしかするとルビの感じや繋ぎが不自然なところがあるかもしれませんので、都度教えていただけたらと思います。とつかわいい。


同じクラスになったのは1年生の時。


男の子として通うのにもとっくに慣れていたし、女の子としての感情なんて僕の中にはもうないものだと思っていた。


でも、彼を見た途端に胸がとくん、と跳ねるのが自分でもわかった。


その当時まで恋愛なんてしたことのない僕は、それがどういう感情なのかはさっぱり。


中々話しかける勇気も出なかったけど、テニスをきっかけになんとか話す機会が出来た。


それなのに、「誰?」なんて言われちゃうんだもん。結構ショックだったなぁ。


そしてそれから、あの感情の正体を確かめようと積極的に話しかけた。


僕は、彼のことが好きなんだ。


それに気づいたのは本当に最近。


そして今では...



トランプゲームの罰ゲーム


「...んで、なんでお前はトランプを持ってきてるんだよ」


冬休みまで残り一週間を切り、玄関、廊下、教室、どこへ行ってもどこか浮かれた雰囲気が見られる。


寒々しいのはうちの学校の生徒だけに留まってはくれず、肌を滑らす冷たい空気もいっそう厳しくなってきている。


世間では聖夜だのなんだの言われているが、ぼっちである俺にとってそんなことは関係ない...ということも今年に限ってはないのかもしれない。


そう、愛する彼女が出来てしまったのだ。


つまり、リア充爆発しろなんて言葉は二度と使えない。悪いな、お前ら。


そんな浮かれた生徒の一人となってしまった俺だが、今日も今日とて部活である。


そして生徒会長である一色いろはは、今日は雑務の代わりに裸のままのトランプを部室へと持ち込んで来た。


「最近小説で読んだんですけど、『真実か挑戦か』っていうゲームがありましてですね。奉仕部の皆さんとやりたいなー、なんて!」


「何それ面白そう!」


いの一番に喰いついたのはお団子髪の少女、由比ヶ浜結衣である。


おい、やめとけ。不吉な予感しかしない。


どうせこういうのは主催者側が主導権を握り、負けた人には罰ゲームが課せられる。


『一年間私のお世話をしてくださいっ!』なんて言われたらどうしよう。やだもう引き受けちゃう。


「それで、その真実か挑戦か、というのはどういうルールなのかしら」


察するにトランプゲームなのだろう。


今どきの若者はトランプの遊び方もしらないの?


トランプってのは一人用のゲームなんだぞ。これ常識な。


「ルールは簡単です。こんな風にトランプを円形にして伏せます。全員が一枚だけカードを引いて、一番数字が大きい人が小さい人に『真実か挑戦か』と聞いて、『真実』を選んだ場合はどんな質問にも正直に答える。『挑戦』を選んだ場合はどんな命令にも従う。以上です」


一色がトランプをテーブルに並べながら説明したが、由比ヶ浜だけは終始頭を抱えていた。


「つまり、相手が誰かわかった上でやる王様ゲームみたいなもんだろ?」


由比ヶ浜のために一行で説明してやると、ポンと手を打って納得の表情をする。


「てか、それやらなきゃだめなの?ハイリスクハイリターンすぎない?」


ふと、苦い思い出が蘇る。


『比企谷4だぞww』『おーけーwww』『んじゃあ4番は家に帰れ』


もういじめの領域こしてるよねこれ。


「まぁまぁ、たまにはいいじゃないですか」


「そうだよ、やろうよ!」


「比企谷君にどんなトラウマがあるのかは知らないけれど、酷な質問はしないから安心なさい」


エスパーかよ雪ペディアさん...


「はぁ、わかった。やる」


俺は戦争に出る兵士よろしく覚悟を決めた。


小町、後は頼んだ...ぞ...


「「真実か挑戦か!」」


由比ヶ浜と一色が声をそろえてカードを引く。


「私8です!」「あたしは10!」


「私は...キングね」


初っ端からトップって。トップなのは成績だけで十分でしょうが!


という事は消して口には出さず、一番最後にカードをめくった俺は...


「...1」


「あっははははは、先輩1って!!」「さすがヒッキー!あはははっ」


なにこれ奉仕部内での権力順位なの?それにしても1はひどくない?八幡泣いちゃうよ?


そしてトップは雪ノ下。この女王様、いったい何を命令する気だろうか。


「真実か挑戦か」


雪ノ下が、まさしく奴隷を従える女王のような表情で問う。


「...真実」


恐る恐る答える。雪ノ下がしそうな質問をあれこれ考えるがやはり浮かばない。


由比ヶ浜と一色が期待を宿したキラキラした目で雪ノ下を見つめる。


「...そうね。はじめは無難に、『異性のタイプ』でどうかしら」


「私もそれ気になります!」


「...」


一色が食いつき、由比ヶ浜が俯いてもじもじする。


異性のタイプ、そういえば真剣に考えたことはあまりないな。


てか女子の前で女子のタイプ言うって超恥ずかしくない?


「...養ってくれる人」


「そういうのいいですから」「真面目に答えなさい」


真面目だから。いたって真面目だから。


「気配りができる人、とか...」


仕方なく真剣に答えたが、やはりどこかこそばゆく、段々と小声になってしまった。


ここで、異性のタイプは戸塚なんてことを言えば惚気でしかないし、こいつらもそんな回答は認めないだろう。


見ると、全員少し赤くなっている気がした。窓から差す夕日のせいだろうか。


「...な、なんかこっちまで恥ずかしくなりますね」


「......///」


「で、では第2回戦といきましょうか」


なにこの空気。ゲームってもっとわいわいするもんじゃないの?お葬式なの?


引いたカードはテーブルの端のほうに起き、再び真実か挑戦かゲームが始まる。


ジョーカー抜きのトランプは52枚。つまり4人でやるなら13回戦まで続くのだ。続かないよね?


次のトップは11で一色。


ビリは5を引いた由比ヶ浜だ。


「ふっふっふ、結衣先輩。真実か挑戦か!」


「し、真実で...」


由比ヶ浜が年下相手にも拘わらずかなり怯えている。さっき俺を笑った罰だ。やったれ一色!


「ずばり!好きな人はいますか?」


すっごいニヤニヤした一色が指を指しながら問う。


「え!?す、好きな人...///」


「水を差すようで悪いんだが男の俺がいると言いにくいんじゃないのか」


「それも、そうね」


雪ノ下が気まずそうに答える。


「そういうゲームですから」


別にまったくもってこれっぽっちも一ミリも一ビットも興味ないこともないこともないのだが、それでもやはり罪悪感はある。


顔を真っ赤にした由比ヶ浜だったが、ひらめいたとばかりに顔を上げる。そして、


「ゆきのんもいろはちゃんもヒッキーの事も好きだから、好きな人いるよ!」


言ったあと、ふっふーんと大きな大きな、それは大きな胸を張って一色に勝気の表情を見せる。


「やりますね、結衣先輩...」


一色が、これは一本やられましたねというような表情を見せてから、三度目のゲームの準備が始まる。


「ねぇねぇ私このゲーム向いてるかも!」


「言っとけ、俺が王になったら痛い目に合わせてやるよ」


「すごいニヤニヤしてる!?」


この人こわーいと、両手で自分を抱きしめるような素振りを見せる由比ヶ浜。


ていうか、これ何回戦やるの?もうやめようよ怖いよぉ。


一人でトランプなんかすると、結局途中で飽きてAmazonで届いた邪魔な段ボールの奥底で埃をかぶる羽目になるんだよなぁ。


挙句の果てには溜めに溜めたAmazon段ボールで巨大ロボとか作ると妹に「邪魔!燃やすよ!」なんて怒られるから注意な。


俺の心の声も虚しく、ゲームが三回戦に移行しようとした時、こんこん、と扉を叩く音がした。


ドアは一斉に四人の注目を浴び、雪ノ下の「どうぞ」という言葉を合図にゆっくり開かれ、開いたドアの隙間から細い光が差し込む。


「えっと、ど、どうも」


殆どの部活が始まってから約30分が経っており、ただいま絶賛部活中であるはずの戸塚が苦笑まじりの微笑で恐る恐るといった風に中に入る。


「彩ちゃん?部活はどうしたの?」


「うん、今日部活休みだったの忘れちゃっててさ...」


言いながらテニスラケットの入っているバッグを背負いなおす。


「それで、時間が余ったから、その...」


窓から差し込む夕日に負けないほど顔を真っ赤にし、その続きを言いづらそうに体を捩る。


「じゃあ彩ちゃんもトランプしよ!トランプ!!」


「あ、いいですねー!どんな命令しちゃおうかなぁ」


前のめりになる由比ヶ浜と、うふふと小悪魔的微笑を浮かべる一色が、ウェルカムトゥヨーコソジャーパリパーク!とどこかのフレンズばりに眩しい笑顔を戸塚に向ける。


すると戸塚は、そんなフレンズよりもさらに眩しい笑顔を振りまいて、一色の左側の席に着く。


「八幡もトランプやってたの?」


雪ノ下がそっと戸塚に紅茶を差し出す。こんなさり気ない気遣いもさすが奉仕部部長である。


「ああ、まぁな。王様ゲームより質悪いゲームだけどな」


王様ゲームは指名時にランダム性が生じるが、このゲームは任意に指名できる新手のいじめだ。


そしてスクールカーストの低い俺は引き当てる数字も低い。まったく、世界は理不尽に満ちているぜ。


しかし、ここで万が一俺が一位で戸塚が最下位になったらあんな命令を...


おっといかん、危ない橋を渡るところだった。戸塚に恥をかかせるわけにはいかない。


「それじゃ、もういっかいやろう!!」


由比ヶ浜が仕切り直し、そして最初にカードを引く。


続いて一色、雪ノ下、そして俺がカードを引くと、ルールも説明されていない戸塚もあわあわとトランプと睨めっこ。


なにそれ超可愛いんですけど。そして戸塚もおずおずと手前のカードを引く。


「うわぁ、5だぁ」「11ね」「私13です!」


各々自分の引いたカードに一喜一憂し、俺もカードを見ると、


「また1かよ...」


「...」「......」


や、やめろっ!そんな哀れむ目でみるなっ!


いっそ笑ってくれた方が救いがある。


トップは一色か、と視線を右へ移すと、


「あの、ルールよくわからないけど、僕も1だよ」


戸塚が、またもやおずおずと、小さな手を小さく挙げながらカードを見せる。


戸塚と一緒の1なら悪い気はしない。


「これ、二人とも最下位だったらどうするの?」


「二人ともやっちゃえばいいじゃないですか」


二人ともやっちゃうって、なんかだめだろ。何がとは言わないけど。


純真無垢な俺にとって『朝まで生テレビ』すらちょっといやらしく聞こえていたもんだ。


そ、そんな恥ずかしい名前しらないっ!


「それでは二人とも、真実か挑戦か!」


「真実」「えっと...真実」


俺に遅れて戸塚が真似る。


相変わらずなんのゲームをしているのかわからない様子の戸塚を気に留めず、二度目の権力を手にした一色はピンと人差し指を立てて質問を投げかける。


「ズバリ...」


またズバリかよ。どんだけズバズバするんだよ。坂上忍でもそんなズバズバしてないぞ。


「二人とも、好きな人いますか?もちろん、異性的な意味で!」


また同じ質問かよ、という返事はしなかった。


その代わりに、俺と戸塚の間で沈黙が流れる。


いや、一色以外の4人の間で沈黙が流れた。


というのも、由比ヶ浜と雪ノ下は、俺と戸塚が付き合っている事を知っているからだ。


たまたまその時部室にいなかった一色だけが知らないのだ。


「...」「え、と...」


由比ヶ浜と雪ノ下も、気まずそうな苦笑を一色に向けるが、事情を知らない一色はそんなことはお構いなしに畳みかける。


「先輩ってひねくれてるし、戸塚先輩は女の子っぽいから、恋愛のことになるとどうなのかなって!前から聞いてみたかったんですよー」


そう、こいつは戸塚が女だってことすら知らないのだ。


どうする八幡。ここはうまく濁すか?


しかし、この機を逃せば俺らの関係のことを知らせるタイミングは二度と訪れない気もする。


いくら付き合っているとはいえ、ここで戸塚のことが好きだなんて言える気もしない。


由比ヶ浜は、さっきは気まずそうな顔をしていたくせに、グッジョブ!とばかりに親指立てている。


それにどことなく、雪ノ下も笑いを堪えている気がする。気がするじゃない。笑い堪えてた。超笑ってる。


「何ですかこの空気?」


「僕はね...」


「...」


一色の質問に返事をしようと口を開いた戸塚に視線が集まる。


段々と戸塚の顔が朱色に染まる。そしてジャージの余った袖を口のあたりまで持ってきて、


「八幡に、下着姿を見られたんだ」


突拍子もない新事実に、3人の女の子と一人の男が唖然とする。




余った袖を口に当てながら言った俺の彼女、戸塚彩加は顔を真っ赤に染めていた。


ていうか何言ってくれちゃってるのん!?


いや事実だけど!言っちゃいけない事実だってあるでしょ!


親父の貯金が1000円切ってるとか!親友の彼女を寝取ったとか!ダメ、絶対。


「し、しし下着姿を...?」


「ヒッキーどういうこと!!!」


「...」


俺と戸塚を交互に見る一色。立ち上がって大声を出す由比ヶ浜。無言で携帯電話をとりだす雪ノ下。


やめてっ!通報しないで!


「い、いやちょっとまってくれ。とくに雪ノ下。これには事情が...」


「女子の下着姿を盗撮するのにセクハラ以外のなんの理由があるというのかしら」


俺を勝手に盗撮魔にしないでね。靴にカメラとかしかけてないからね。


というか、何で好きな人の話から下着になったのん!?と、疑問の視線を戸塚に向ける。


俺たちを動揺させた当人は、未だ顔を朱に染めている。


「なんで好きな人の話から下着の話になったんですか!ていうかなんで戸塚先輩が下着を...まさかそういう趣味...」


俺の意思を受け取ったのか、一色が疑問を投げかける。


「ち、ちがうよ!あのね――」


そして戸塚は、俺が下着姿を見た経緯、なぜ唐突にそんな話を持ち出したのかという理由をすべて話した。


戸塚が女だということは雪ノ下も由比ヶ浜も知っている。しかし何故それをしているのかを知っているのは俺だけだ。


「だから、その...僕が好きな人は八幡...です」


戸塚は粗方の説明を終え、真実、というよりも結論を述べる。


またも顔を真っ赤にした戸塚だが、言われた俺も相当恥ずかしい。好きって。好きって。


3人が納得の表情を見せた後、質問をした本人がやれやれやーれんそーらんそーらんはいっはいとため息をつく。


「...なるほど、大体わかりました。戸塚先輩に異常性癖があったらどうしようかと思いました」


「ほんとびっくりしたよー」


「そうね。思えば、こんなヘタレ谷君が盗撮なんてする度胸ないものね」


「すいませんねお騒がせして。全然俺のせいじゃないけど」


一歩雪ノ下を止めるのが遅かったら、ヒッキーが牢獄へヒッキーするところだった。


誤解も晴れ、これで一件落着という空気が流れて今日のところはお開き、ということにはならず、生徒会長は許してくれるはずもなかった。


「いやいや、なんかおしまいみたいな空気流れてますけど、先輩の答えまだ聞いてませんよね」


「たしかに!」


4人の視線が俺へと集まる。


「え、俺?いや、俺は良いでしょ」


「じゃあ、先輩は戸塚先輩のことが好きじゃないんですか?」


「は?んなわけねーだろ」


「じゃあちゃんと答えてください」


一色がからかうような、試すような表情で言う。


おいおい嘘だろ...こんなところで好きっていうなんて公開処刑だろ...


「わりぃ、俺、死んだ」とどっかのゴム人間のようなかっこいいことなんて言えない。言いたくない。


「はちまん...」


しかし、戸塚もこの状況で言ったんだもんな。男の俺が言わないでどうする。


「俺の、好きな人は...」


「...」


まるで闇の中にいるかのような沈黙が流れる。


外から野球部の掛け声が聞こえる。夕日はもうほとんど沈んでいて、明かりのつけてない部室はかなり暗い。


それでもぎりぎり見える、戸塚の何かを求めるような、切なそうな表情で決心がつく。


「俺は、戸塚が、好きだ」


途切れ途切れに出た俺の言葉に、4人の女の子が耳を傾ける。


4人の女の子、4人のヒロイン。そう、これはニセコイではなくマジコイです。


あの青髪の女の子と戸塚の声が似てるななんて思ってないから。


俺の顔は、さぞ真っ赤になっているのだろう。


視線のやり場に困り、目をおろおろと泳がせていると、戸塚が両手で顔を覆い俯いているのが目に入った。


「と、戸塚?」


具合でも悪いのかと、戸塚の名を呼ぶ。


どうしたのだろうと3人の女の子を見やると、何故だかみんな顔が真っ赤だ。


「お、おいお前ら?」


「.........あ、えーっと。あはは、はは...」


「.....」


「...」


なにこれ。なんだこれ。


一色は、ハッとした反応を見せた後苦笑する。


無言の由比ヶ浜は、両手で頬を包む。


そしてもう一人無言の雪ノ下は目をおろおろさせている。


だからこの空気なんなの?みんな俺の告白に気持ち悪くなっちゃったの?なにそれ死にたい。


「ご、ごめんなさい先輩。なんか、久々にキュンとしちゃいました」


「う、うん...」


「お、おう?」


良かった。どうやら気持ち悪くはなかったみたいだ。


「ていうか戸塚、大丈夫か?」


相変わらず両手で顔を隠し俯き、表情がわからない。


「先輩はほんっと空気読めませんね!空気になることしかできないんですか?」


「えぇ...」


いや大体あってるけどさ。空気は行間しかないからむしろ読めないんだよなぁ。


一色にひどい罵倒を受けると、ずっと黙っていた戸塚がついに口を開く。


といってもその開いた口はまだ見えないのだが。


「ぼ、僕、今の表情八幡には見せられない、かも...」


結構ショックなことを言われた。いや、伝わり方の問題かもしれない。そう思うことにする。


まぁ、後のことは女子軍に任せて、男の俺はぱっぱと退出しよう。すごい恥ずかしいし。


「なんかよくわからんけど、俺は帰る。恥ずかしくて死にたいし」


「わ、わかったわ。では比企谷君、また」


「じゃあね、ヒッキー」


「さよならです」


「...」


始めトランプをしていたのが嘘かのように静かになった部室を後ろにドアを閉める。


「はぁ、女ってのはわからんな」


そもそも人間のことをよくわかっていない俺が女子を知るなぞ至極至難だ。


教室を出て少し、恥ずかしさのあまりに忘れていたが結構寒い。


この時刻になると廊下の暖房は消されるし、部室につながる特別棟は人通りが少ないため余計に肌寒さを感じる。


早く帰って小町に慰めてもらおう。




「まったく、あの先輩ってたまにドキドキさせてくるから困りますよね」


「認めたくはないけれど、それは同感するわ」


「なんかドラマ見てるみたいだったね!わぁ、思い出したらまたドキドキしてきた...」


八幡が部室を出てから、すぐに和やかな雰囲気に変わる。


僕はやっぱり、奉仕部のこういう雰囲気が好きだなぁ。


でも、さっき変な空気が流れたのってきっと僕のせいだよね。


だって、だって、付き合ってはいるけど、面と向かって好きなんて言われたことはなかったし...


『好き』たった二文字の言葉なのに、それを言われた瞬間、まるで体の中でうさぎがぴょんぴょん跳ねたように胸が高鳴った。


それだけじゃない。顔が一気に熱くなって、つい頬が緩んで、嬉しくて嬉しくて仕方がなくて。思わず両手で顔隠しちゃった。


明日から八幡の顔ちゃんと見れるかなぁ。


八幡に会いたい。ふと、そんなことを思った。


二人の決意

「へぇ、なるほどね」


あの謎の空気の正体はつかめないまま家に帰り、仕方なく小町に聞いてみることにした。


真実か挑戦か、というゲームを一色が持ちこんできたこと、俺が危なく変態王子と笑えない盗撮魔になるところだったことなど今日あったことを話した。


「お兄ちゃんはほんとダメダメだなぁ」


かまくらの首をすりすりしながら片手でやれやれというポーズをとる。


「俺なんか悪いことしたのかな、しくしく」


「その仕草はほんと気持ち悪いけど、お兄ちゃんはよく頑張ったよ」


きもい悪いと言いながら、小町は優しい目を向ける。


「もっと信用しなよ、雪乃さんのことも、結衣さんのことも、一色先輩も。そして、彩加先輩も。


あの人たちがお兄ちゃんを嫌いになることなんて絶対ないから。これは小町が保証する」


「その自信どっからくるんだよ...あと一歩で本物のヒッキーになるところだったというのに」


「とにかく!今のところお兄ちゃんが心配しなきゃいけないのは彩加先輩との行く末だから!明日学校で見つけたらお兄ちゃんから声かけること!以上!」


人差し指をぴっと俺に向けた後、小町はそそくさと着替えをもって風呂に行ってしまった。


小町の励ましによって一つ分かったことがある。


戸塚が顔を両手で隠していた理由。


あれはきっと、照れなのではないかと思う。


”好き”なんて、言うだけでもかなり恥ずかしいのに、言われるのもそりゃあ恥ずかしいだろう。


てか、なんでそれに気づけなかったんだよ。彼氏だろ俺。


あぁ!!!見たかった!!戸塚の照れる顔が見たかったよぉ!!!


俺は心の叫びを、かまくらにぶつけていると、メールの受信を知らせる通知が鳴り響く。


送り主は戸塚から。


そしてただ一言、


『会いたい』


思わず俺はかまくらを雑に放り、コートも着ずに外へ駆け出した。



「…寒い」


外へ駆け出してから約3分、自転車通学の甲斐もあってガトリン顔負けのスピードで走ったせいで喉が痛い。


今の俺の現在地から、家と駅までの距離までは大体等しい。


とりあえずもう一回戸塚に連絡しよう、うん。勝手に家まで行ったらさすがの戸塚にも引かれるかもしれないし。


「あー、もしもし戸塚?」


「は、八幡!?ごめんね変なメール送っちゃって...」


「いやいいんだ。よければなんだが、少しだけ会わないか?」


「いいの!?でもちょっと遠いよ?」


遠いと言っても、電車で10分程度だ。行けない距離ではない。


それに、


「あんなメール送られたら、会いたくなるだろ」


「僕も八幡に会いたい!」


なんて、傍からみたらバカップル同士にしかみえない電話を終え、電車に向かう。


小町にはメールだけしておこう。



電車を降りると、戸塚が改札の前できょろきょろとしている。


俺の存在に気づくと、改札越しで「あ、八幡!」なんて手を振るもんだから、「可愛すぎんだろ俺の嫁!!!」と言いたい気持ちを心の奥にしまい改札を抜ける。


てててっと俺の方へ駆け寄ると、戸塚は少し申し訳なさそうな微笑を浮かべる。


「んじゃ、行くか」


「うん!」


お互い特に目的地を決めたわけではないが、ただゆらゆらと暗い空の下を歩く。


方向としては戸塚家の逆方向。


駅を離れるにつれ、人通りも街灯も減る。


特に会話をすることもなく歩き続け、やがてお互いの靴音だけが聞こえてきた時、東方向に見えるやや広い公園に二人吸い込まれるように入った。


ここまでくると人通りはほとんどなく、公園も薄暗い。


「八幡、ブレザーのまんまなんだね」


本来なら改札で会った時に言うべきセリフを、ベンチに座ってやっと口にした。


しかし違和感などなかった。


「あぁ、まあな」


「あれ、コートは!?」


戸塚があわわと俺の頭からつま先までを眺める。


それは本当に改札で言うべきセリフですね。


「ちょっとスタートダッシュに成功しすぎたっていうか、男って単純だよな...」


「なにそれ」


俺が冗談交じりに言うと、ふふっと笑ってくれる。


とても心地がいい。一生続けばいいのにと、ふと叶わない願いが頭を過る。


「じゃ、じゃあ八幡」


「ん?」


俺の名を呼ぶと、すっと俺にぴったりくっつき、自分のマフラーを解いた。そして、


「こうすれば、あったかいでしょ?」


戸塚と俺の首を柔らかく包んだマフラーは、なんともいえない暖かさをもたらしてくれる。


巻いているのは首だけのはずなのに、自然と心も温かい。


「あ、あの、近い...」


「ご、ごめん!嫌だった...?」


「ち、ちがう!ちょっと心の準備が出来ていなかっただけだ」


思えば、戸塚彩加という女の子はこう見えて積極的なのだ。


選挙の時や、泊まりに行ったとき、そして今。


それはきっと、秘密を知らなければ知ることのできなかった戸塚の一面なのだろう。


「......」「...」


段々と緊張していくのが自分でもわかった。


戸塚が息を吐くたび、白い煙が視界に入る。


小町はとっくに風呂を上がっているだろう。そして俺の送った『ちょっと出かける』というメールも見たはずだ。


それなのに先ほどから携帯が鳴らないのは、きっと小町なりの気遣いなのではないかと、勝手に思い込む。


そう思い込んでいいほどにできた妹なのだから仕方がない。


「八幡は、卒業後の進路どうするの?」


「ん、そうだなぁ...。とりあえず大学には行けと親に言われてるから、地元でそこそこの大学ってとこだな。戸塚はどうなんだ?」


「僕も地元がいいなって思ってたけど、どこの大学かはまだ決めてないかな」


「つっても、今度は大学卒業後の進路も考えなきゃならないんだよなぁ...」


今までは、一貫して専業主夫希望だったが、そういうわけにもいかなくなった。


「俺も、働かなきゃならんしな」


「え!八幡働くの!?」


ちょっとその反応傷つきますね。いやわかるけどさ。


「...僕、八幡と大学別れるのやだな」


「...なら、お互い地元だし、俺も特に行きたい大学ないし、その...」


必死に言い訳を探し、取り繕う。


そんな欺瞞が、嘘が、自分でも気持ちが悪い。


だからやはり、せめてこの女の子の前だけは、俺を信じてくれたこの子の前では素直でいたいと思った。


だから、


「一緒の大学、行かないか」


思っていたよりすんなりと出てくれた。


しかし、戸塚の顔を伺うのが怖いと、否定されるのではないかという懸念が俺の視線を下に落とさせた。


「...はい」


まるで、プロポーズを受けた彼女のように、たった二文字の、それでいて力強い肯定をしてくれた。


それからの会話はなかった。


代わりに、たまたま触れた手は、指を絡めるように繋がれ、


その左手の温もりから、まるで戸塚の言葉、想いが体に染み込んできた気がした。


ルーズリーフと、 。

現在の時刻、AM7:00


朝起きると、異様なほどの頭痛に苛まれた俺は、仕方なく熱を測ることにした。


案の定38度。


まぁコートも着ずに長時間外にいたらそりゃこうなりますわ。


っふ、遂にグールに喰われてしまったのか...


喰うのは死体だけにしてほしいよ、金木君。


「まったく、ほんっとバカなんだからお兄ちゃんは」


「いやほんとすまん。受験生なのにな...」


「そのことは別にいいんだけどさ。んじゃ小町行ってくるから。なるべく呼吸しないでね、菌うつるし」


それはつまり死ねっていってるのかな。死ね(生きてね)、だよね?死ねは生きての裏返しだものね。


「はぁ、寝るか」


食欲ないし、暇だしということでありったけ寝よう。地震が来ても地雷が落ちても空間震警報が鳴っても布団から出ない。


そう決意すると、机の上に置いていた携帯が鳴る。


『風邪、引いちゃった』


仲間がいました。


それにしても、戸塚からのメールはいつも簡潔。


由比ヶ浜のような痛々しいほどの顔文字絵文字などはない。


『俺もだ。悪いな、昨日長く外にいさせちまって』


簡潔なメールに簡潔なメールを返す。


そして、1分と経たないうちに再び携帯が鳴る。


『あ、じゃあさ、お互い看病しようよ!』


”お互い看病”という単語に、絶妙な響きを感じてしまった。




結果として戸塚は家に来ることになったので、せっせと部屋を片付け、せっせとシャワーを浴びる。


にしても、なんか喉がイガイガしてきた。まぁいいか。そんなことより今は戸塚が来る喜びの方がでかいのだ。


秘蔵のお宝本はしっかり本棚の奥にしまったのを確認すると、インターホンが鳴る。


今日の戸塚はどんな私服なのだろうかと、るーるるるっるー♪と心の中で妄想を膨らませながらドアを開ける。


「おはよ、はちまん」


ドアを開けると、少し大きいサイズの熱さまシートを額に貼った戸塚がにぱっと微笑んだ。私服どころじゃなかった。


なんだこの可愛い生き物。飼いたい。


「ぁ、ぉ...」


...あれ?


「...ぉぅ、ぁ」


...あれれれ?おっかしいぞー?僕の声帯が仕事をしないぞー?


なんて言ってる場合じゃない。


「八幡?」


声が出ない。


朝は普通に小町と会話できたのに。


さっきのイガイガの正体はこれか。


壊れたロボットのような掠れ声しか出せない俺はたぶん、結構アホな表情をしているのではないだろうか。


そんな俺の挙動と表情を見て、戸塚が不思議そうな表情で俺を見つめる。


こんな状態だけど、やっぱ可愛いな。


手話を会得していない俺は今、戸塚とのコミュニケーション方法がない。


仕方なく、スマホで声が出ないことを伝えようとスウェットのポケットへと手を伸ばす。が、


「もしかして、声でないの...?」


どうやら察してくれたようだ。俺はゆっくりと首肯する。


「え、と...ごめんね。ここまで重態だったなんて思ってなくて...僕やっぱ帰るね」


「...!!ぁ...ぇ...」


申し訳なさそうに、戸塚が俯く。


帰るな、という言葉も出てくれず、俺は必死に首を横に振る。もう水浴びした後の犬くらいブルブルしてる。


「で、でも...」


このままでは本当に帰ってしまうと、反射的に戸塚の手を握ってしまった。ほら、戸塚が驚いてるだろ。


すると、俺の思いが通じてくれたのか、戸塚は優しく微笑んで握った手を優しく握り返してくれた。


「...うん、わかった。お互い看病するって約束だもんね」


だからその、お互い看病ってやつ、僕気になりすぎるんですけど誰か教えてくれない?リプライ待ってるよ!




戸塚を家の中へ通しリビングに入ると「あ、かまくらちゃんもおはよ」と一撫でする。


このままでは戸塚と会話すらできないので、ルーズリーフに俺の言葉を書くことにした。


失ってから初めて気づくことなんて山ほどあるが、声を失うのがこれ程不便だとは思っていなかった。


なんせ人と話すこと自体少ないため、声帯さんの出番が人より少ないのだ。


『おい、お前友達作れよ!俺の仕事がないんだよ!働かせろよ!』なんて毎日思ってるんだろうなぁ。


俺と違って仕事熱心で何よりです。


「八幡朝ごはん食べた?」


背負っていたバッグを部屋の隅に置いた後、俺の隣に腰掛けながら戸塚が聞く。その質問にさっそくルーズリーフを使う。


『食欲がなくてな』


なるべく大きく、そして数学の授業の時よりもきれいに書く。


すると、戸塚は頬を膨らませて人差し指を立てる。


「だめだよ、風邪のときこそしっかり栄養とらなきゃならないんだから」


『つっても、戸塚も風邪なんだろ?お前だけに負担を負わせるのは』


書いている途中で戸塚が俺の顔をのぞき込むように俺を見つめる。


「いいの!今日はお互い看病なんだから、まずは僕から八幡の看病ってことでさ」


こうなった戸塚は止めれない。戸塚はこれでも頑固なのだ。


『助かる』


簡潔に書くと、戸塚は俺の太ももを支えに立ち上がる。


男の子はそういうボディタッチに弱いんだからやめてね。


「冷蔵庫借りるね」


待っているのも手持ち無沙汰ということでテレビのチャンネルを回していると、とんとんとんとまな板の叩く音が聞こえる。そして水を流す音。ガスコンロを点ける音。冷蔵庫を開ける音。戸塚の歩く足音。


テレビを点けてこそいるが、意識は戸塚が生み出す音に向いている。


何度かこういう光景はあったが、やはりいいなと思ってしまう。


今までは、高校生の分際で『絶対結婚しようね』『当たり前だろハニー』なんてやってるカップルを寒々しいと思っていたのだが、少しその気持ちがわかる気がした。


それが成長であれ後退であれ、こうして戸塚と共に過ごしていけるのならばどちらでもいい。


好きなのだから、愛しているのだから、ただそれだけでいいのだ。



意識が飛んでいたのではと錯覚するほど、戸塚のことを考えていると、料理が俺の前に運ばれていた。


「お口に合うかわからないけど、どうぞ召し上がれ」


戸塚が作ってくれたのは、具がたくさん入ったスープ。青梗菜や、人参や、ウィンナーなどが入っおり、生姜の香りが鼻をくすぐる。


両手を合わせてからスープを飲む。


その瞬間、戸塚の優しさ、気遣い、そして愛情が伝わってきた気がした。


風邪を引いているという事。朝だという事。俺が答えた、食欲がない、という事をすべて考慮した上で作ってくれたのだとわかる。


見ると、戸塚は不安そうな表情をして俺を見つめている。


本当なら言葉で伝えたいが、それも叶わずルーズリーフにただ一言『好きだ』


なんて書いてしまったのだから、喉だけじゃなく俺の頭も相当故障している。


料理の感想ではなく唐突の好きに戸塚があわあわとし、しかしこれだけで伝わってくれたのか、優しく微笑み俺のシャツの端っこをつかむ。


可愛すぎるので、スープをすくったスプーンを戸塚の顔の前に持っていく。


最初は頭に疑問符を浮かべていたが、ハッとした後、一気に顔が真っ赤になる。


熱さまシートもお手上げというくらい赤くなっていた。


ゆっくりと口を開き、スープを飲む。


口の横からスープが一滴こぼれる。


それを見た途端胸がとくんと弾み、見てはいけないものだという罪悪感から視線を背ける。


それから、そのスープは俺と戸塚に交互に食べられながら完食した。




『なんかするか?』


「うーん。あ!本読みたいな」


戸塚は、本を語り合える友人がいないのか、俺と家で遊ぶときは大体本を読みたがる。


ドキドキドッキングな食事を終えやや気まずい空気が流れていたため、戸塚から話題を振ってくれたのはありがたい。俺声出せないし。


戸塚を部屋に案内し、前と同じように戸塚が本棚を眺める。


俺は昨日の夜寝る前に読んでいたラノベの続きを読もうとベッドに向かう。


............ってまずい!!


振り返ったころには時すでにお寿司。間違えた、遅し。


本棚の奥に隠していた所謂男の子の本を両手で持ちながら表紙をじっと見つめる戸塚。


「え、っと...これって...」


段々と赤くなる戸塚の表情。ぷるぷると震える両手。俺氏終了を知らせるアナウンス。


ジャンピング土下座の覚悟を決めると、戸塚がもう一度口を開く。


「こういうこと...したい?」


俺の視線はきっと、本には向いていなかった。


理性と妄想


意識はどこに向けられているだろうか。


左手に持ったルーズリーフでも、外から聞こえる犬の鳴き声でも、戸塚が持っている本でもない。


俺の全神経は、戸塚自身に集中していた。


本を持つ白くて艶やかな指。清楚感に溢れたさらさらした髪。うるうると揺らぐ大きな瞳。そして、布に包まれた裸体。


それは、見えこそはしないが、妄想はポンプで空気を入れているかのように膨らんでいく。


視界が揺らぐ。脳が溶けるような錯覚に陥る。しかし、このままでは本当にまずいと、必死に妄想の空気を抜く。


やっと半分まで抜き切ったというところで、俺は大きく深呼吸をしてから口を開く。


「ぁ.ぉぁ.....」


あまりの動揺で、声を出せないことを忘れていた。


ルーズリーフで伝えるという発想も思いつかないほど動揺していた俺に、戸塚は顔を真っ赤にしながら歩み寄ってくる。


え、うそでしょ?マジなの?いいんですか?いやだめだろ。でも今後チャンスがあるとも...。だからといって急すぎでは...。


必死の葛藤を続ける俺。歩み寄る戸塚。後ずさる俺。歩み寄る戸塚。


そうしていると、脹脛が何かに引っ掛かり尻もちをついてしまう。ベッドだ。視界に青いカバーのラノベがうっすら入った気もするが、意識はそちらへ一切向いていない。


尻もちをついた反動で放してしまったルーズリーフは、奇跡的に折れることはなかった。


戸塚は、まだ歩み寄る。


やがて戸塚もベッドまで到達したかと思うと、しかしまだ止まってはくれない。


俺を跨ぐようにベッドに乗り、両手を両肩にそっと置く。


顔の距離はおよそ10cmにも満たない。戸塚のいい匂いが俺の脳を溶けさせる。


抜きかかっていた妄想の空気は、パンクしそうなほどに膨らんでいた。


お互いの吐息が顔にかかる。その吐息がかかるたびに視界が揺らぐ。


俺の自慢の理性も、おそらく今は仕事をしてくれていない。熱のせいだろうか。


熱のせいにしろ、交わる吐息のせいにしろ、密室のせいにしろ、はっきりとわかる。


俺は、興奮している。


あまりにも近い戸塚の唇に、自分の唇を重ねてしまいたい。いっそ、服を脱がしてしまいたい。


しかしそんな衝動が、行動に移されることはない。


ここで俺の感情のままにしてしまうのは、戸塚を傷つけてしまう可能性があると、僅かな理性が念押すのだ。


俺は戸塚を愛している。だからこそ、その一歩が踏み出せない。そんな自分が今は少しだけ憎い。


戸塚が最後に口を開いてから数分。


やっと戸塚がもう一度、口を開く。


「僕は、したい」



その先のことは、よく覚えていない。




「お帰り、小町ちゃん」


「ただいまー...って彩加先輩!?ややや、小町お邪魔でしたかねー」


「全然だよー!ごめんねお邪魔しちゃって」


小町が帰ってくる時間になり、日中のやや暖かい空気も午後になるほど寒くなる。


なんていうんだっけ?ほうしゃれいきゃく?僕文系だからわかんない。


『お帰り、愛する妹よ』


例によってルーズリーフに親愛の言葉を書く。書いたのに全然気づいてくれない。


おい、いくら声が出ないからって存在くらい認知してくれてもいいんじゃないですかね。


「その熱さまシートどうしたんですか?」


「風邪ひいちゃって...あ、うつったらいけないからもう帰るね」


「全然いてください!」


だから俺抜きで話し進めるのやめろよ...いやほんとやめてください。


絶妙に会話に入りきれないぼっちみたいになってるから。むしろ浮いてるから。


「ううん、今日はもう帰るよ。じゃあね、八幡」


『学校で』


「あ、お兄ちゃんいたの。てかそのルーズリーフどしたの?遂に声帯にも嫌われたの?」


『なんかでなくなった』


「まったく...」


戸塚は帰る支度を済ませると、かまくらを一撫でしてから駅へ向かった。


送ろうかと聞いたのだが、八幡も風邪なんだからと止められた。


戸塚が家を出ると、小町はコートを脱ぎながら聞く。


「二人とも風邪なのに、何してたの?」


……。そういえば、お互い看病って結局なんだったんだろうな。一方的にされてた気もするが...。別に興味あるわけじゃないよ?


小町の質問に少し困ってしまい、シャーペンを動かすことが躊躇われたが、『なにも』と一言だけ残しさっさと部屋に戻る。


ベッドの上の布団は、少しだけ|皺《しわ》が出来ていた。


修羅場

翌日、どうやら声帯に嫌われていたのは一日だけだったようだが、念のためにもう一日だけ学校を休み、さらにその翌日。


明日の終業式を跨げば冬休みということもあって、教室の雰囲気は浮かれており、いっそのこと物理的にも浮いているのではというくらいプカプカしている。


そういえば某猫型ロボットは3ミリだけ浮いているらしい。どうでもいい。


そんな猫型ロボット集団に紛れ、俺もその一人なのだ。


というのも、戸塚をクリスマスデートに誘う、というのがミッションだからだ。


”ミッション”というのは、小町にそうしろと言われたからである。まぁ確かに、そうでもしてくれなきゃヘタレて誘えないかもしれないしな。


しかし、HRが始まっても戸塚が教室に入ることはなかった。


HRを終えると、窓側後ろの席に座る由比ヶ浜がてててっと俺の座る席へ歩み寄る。


「おはよう、ヒッキー。彩ちゃんどうしたのかな?」


桃色がかった茶色のお団子を揺らし、後ろで手を組んでいる少女は眉を八の字にする。


「風邪が長引いてるんじゃないか?」


「あ、そっか。昨日も休みだったしね」


たははーと可愛らしく笑う由比ヶ浜が携帯を取り出す。


慣れた手つきで携帯を操作し耳に当てるところをみると、恐らく戸塚に電話をかけているのだろう。


2,3回のコールで反応があり、幾分かの会話を交わすと、由比ヶ浜が俺に携帯を押し付けてくる。


「はい、ヒッキーも挨拶!」


まるで子供を躾ける母親のような言い方に、子供はお前だというツッコミを心の中で入れる。あ、由比ヶ浜さんは立派な大人でした。


「戸塚、大丈夫か?」


『あ、八幡!一応治ってはいるんだけど、お母さんが無理するなって。心配させてごめんね。明日は行けるから』


「ああ、大丈夫ならよかった。あと...」


クリスマスのことを誘おうと思ったのだが、やはりこういうのは直接の方がいいのだろうか。


「いや、なんでもない。また明日な」


電話を切り、携帯電話を由比ヶ浜に返す。


「いやー、羨ましいなー」


「なにがだよ」


「なんでもない!んじゃ放課後部室で!」


今日でいったん部活終わりなんだよな。寂しさがないから不思議だ。



最後に部室に入ったのは三日前。


一色の持ち込んだ”真実か挑戦か”という謎のゲームをし、俺が恥ずかしい思いをし、女子軍が変な空気になるという悲惨な日だった。


由比ヶ浜がスライド式のドアを開けると、いつものように雪ノ下は本から目を話して挨拶をする。


いつもと違うのは、今日は俺らよりも先に一色が来ているという事だ。


「ふふふ、全員揃いましたね」


席に座るよりも早く、一色は不吉でしかない笑みを浮かべる。


「それじゃあ、ゲームをしましょう!!」


え、なに、ノゲラ?DTニート?


「…罰ゲームは」


「もちろんあります」


「やだよ。前回それで俺が辱めに合ったこと忘れたの?」


「忘れました」


「まあ、私は別にいいけれど」


いつの間にか本を鞄にしまっていた雪ノ下が自信のある顔で言う。


君前回負けなかったもんね!成績だけじゃなくて運もよかったもんね!


「あたしもやりたい!」


あぁ…これは多数派の勝利になる奴だ。


てか、なんで多数決で決めたことが正しいみたいになるの?


特に、葉山のような超絶リア充が意見だした時点で俺らぼっちに介在の余地なんてないんだよな…


「んで、なんのゲーム」


出来るだけぶっきらぼうな声音で一色を見る。いや、睨んでた。


関係ないけど、ロリッ娘に睨まれるのってなんかドキドキするよな。ルミルミとか。


「ワードウルフっていうゲーム知ってますか?」


なんでマイナーなのばっか持ってくるんですかねこの子。


「人狼ゲームとは違うの?」


「はい、違います」


「人狼ゲーム?なにそれ」


またもや知らんゲームを口にした由比ヶ浜に疑問を投げかける。


すると、3人が可哀そうなものを見るような目で俺をとらえる。


え、なに。


「人狼ゲームは今若者の間ですごい流行ってるじゃないですか…」


「友達とかでやると楽しいよ!」


「やったことないけれど、聞いたことはあるわ」


そんな有名なの?俺若者じゃないの?そういえば目とかもう死んでるもんね。


「ワードウルフとはざっくり説明すれば、仲間外れを探すゲームです」


「俺のこと?ゲーム終了じゃん」


「いやちがいますから...。


一人一人に同じ単語が書いてある紙をくばり、その単語について話し合います。ただし、一人だけ違う単語が書かれている人がいます」


「つまりその人を当てるってわけか」


一色が説明を終えると、由比ヶ浜が頭を抱えている。


「ま、やればわかるよね!」


由比ヶ浜が行った後、一色がスマホを制服のポケットから取り出す。


「4人の名前を入力してっと...。それでは、最初は練習ということで」


どうやらワードウルフというゲームはスマホアプリにもなっているらしい。


一色が見た後、次に雪ノ下、由比ヶ浜、そして俺へとスマホが回される。


一色は意外と、キーホルダーや派手なスマホカバーなどはつけないようだ。


『りんご』


まぁ、最初はこんな感じか。


『次へ』ボタンを押し、スマホをテーブルの真ん中に置く。


「3分でいいですかね、よーいスタート!」


「私はこれ結構好きだなー」


「ものによっては甘い、かしら」


りんごも酸っぱいやつと甘いやつあるもんね。


そういえば、青森のリンゴとか中に蜜みたいの入ってんだよな。青森だけか知らんけど。


由比ヶ浜と雪ノ下の発言を聞く限り、少数派は一色なのではと思ってしまうが...


「冬によく食べますかねー」


ほら、やっぱ少数派は一色だ。


なんて少し油断していると、


「そうね」「私も私も!」


あれ?なんか3人とも共感してない?てか冬ってなに??


「比企谷君、さっきから黙っているけれどあなたはどうなの?」


ゲーム開始から聞くことしかしていなかった俺に雪ノ下が疑いの目線を向ける。


どうする八幡。おそらく少数派は俺だ。ここはこいつらの単語を予想して...


「あー、そうだな...くだもの、だな」


俺が予想したのはみかんだ。由比ヶ浜が好きで、みかんもものによっては甘い。そして冬に食べる。


完璧な推理。これで俺の疑いは...


「くだもの...?」「くだもの...」「これ先輩ですね」


晴れなかった!もう俺の負けでいいよ!


まだ3分もたっていなかったが、満場一致で俺。


一色が『終了』をタップする。おそらく、そこに誰がどんな単語だったのか書いているのだろう。


『多数派:雪乃先輩 結衣先輩 私

ワード:餅 


少数派:先輩

ワード:りんご』


「やっぱり」


「はいヒッキーの負け―」


一色と由比ヶ浜がイェーイとテーブル越しにハイタッチをし、第二回戦へと移行する。


ここから本番ということは、罰ゲームが加わるという事だ。負けるわけにはいかない。


由比ヶ浜からスマホを受け取り画面を見ると、『キス』


いや待て待て。急にお題ハード過ぎない?


ハードな割にみんな全然動揺してなかったよね?これもう絶対俺少数派じゃん!


いや、女子はそういう話題に慣れている可能性が...特に一色なんかは...


ポーカーフェイスを心掛けつつ、『次へ』ボタンをタップしてからスマホをテーブルの中心に置く。


「それでは、3分間話し合いましょう!よーい...」


「どーん!」


由比ヶ浜の掛け声でゲームがスタートする。


最初はだれから仕掛けるのだろうと閉口していると、どーんと叫んだ由比ヶ浜が最初に口を開いた。


「二人で、するかな?」


「あー、しますね」「そうね...」


あれ、キスって二人でするよな。


「そうだな。お前らはしたことあるか?」


ここで俺が仕掛ける。この反応次第で誰が少数派なのかはわかるんじゃないだろうか。


3人とも、答えはNO。


少しだけ安心してしまったのは内緒だ。


正直、一色はキスくらい星の数ほどしてるのではと思っていたのだが...


「では、私から。どんな時にするかしら、比企谷君」


「俺指名かよ...まぁなに。俺もよく知らんけど...」


ここで下手なことを言えば確実に怪しまれる。


ピンポイントになりすぎず、曖昧に。そう、バーナム効果というものがあるのだ。詳しくはググってくれ。


「したいときに、じゃないの?」


「...まぁそうなんですけど、そうじゃない気が...」


「うーん、したいって思うことあんまないかな」


あれれ!?結局怪しまれちゃったよ!バーナム効果使えねぇ!


「怪しいわね」


「待て待て。俺はちがう」


「犯罪者は皆そういうのよ」


「咎人探すゲームじゃないから...」


これで俺が多数派だったら、呆れるほど責めてやる。


俺が心の中で決意を固めると、ゲーム終了のアラームが鳴る。


「私たちは先輩が怪しいと思います。先輩は?」


「じゃあ一色で」


そんな一色が『次へ』ボタンをタップする。


『多数派:私 雪乃先輩 結衣先輩 

ワード:二人三脚』


「やっぱり先輩が少数派じゃ...」


『少数派:先輩

ワード:キス』


「...」「......…」「...」


だから何なのこの空気。俺にキスなんて似合わないとか思ってるんだろお前ら!泣くぞ!!


てか、このお題考えたやつ誰だよ。絶妙すぎだろ。


そんな変な空気を破ったのは由比ヶ浜。


もじもじしてどうしたのかしらと視線をくれてやると、


「ひ、ヒッキーはしたの?その、彩ちゃんと」


「...は!?いやいや、なにその質問。おかしいでしょ?また俺に恥かかせるの?」


「だって、ヒッキーも私たちにその質問したじゃん!」


「そうね、不公平よ」


「そうです!」


横暴すぎだろ...。


確かに戸塚とキスはしたが、んなこと正直に「はいしました」なんて言えるか。


「結果的にお前らは二人三脚をしたかどうかで答えただろ。だったらお前らもキスしたことあんのか言えよ」


「ないわ」「私もないよ?」「私もです」


「...」


「なんで私を見るんですか!!本当にしたことないですから!」


ぷんすかぷんすかと訴える一色。いやだって、君どう見てもビッt...ビッツだし。


「ほら、見てくださいよこのぴちぴちな唇を!とてもキスをしたことがある唇に見えないでしょ!」


言いながら、唇を若干尖らせて寄ってくる。


「いや、キス経験者の唇とかわからないから...寄るな寄るな」


歩みを止めない一色は、ぷんすかしていた表情をころっと変え、今度は小悪魔めいた微笑を浮かべる。


「なんなら、先輩に初めてあげちゃってもいいですよ?」


「...は?」


「ちょっといろはちゃん!?ずるい...じゃなくて、だめだよ!」


「...」


一色は俺をからかうように唇に人差し指を当てる。


男の性として、一色の艶やかで、口紅を塗ってないであろう唇に目が引き寄せられる。


やがて一色は俺の肩に手を乗せると、顔の距離は余程近くなり一色の吐息がかかる。


冗談だという事は分かっている。だからこれは避けなければならないのだ。拒否しなければならないのだ。


なのに俺は、それをすることはできなかった。


「ほら、もうしちゃいますよ?」


一色は、まるでこの空間には二人しかいないかのように、あわあわしている由比ヶ浜と、体がぷるぷるしている雪ノ下を気にしていないかのように唇を寄せてくる。


かくいう俺も、二人の存在を一瞬忘れていた。


いっそのこと...


そう思ってしまった俺に、天罰が下った。


一色の唇に意識が注がれていたせいか、がらがらがらと立て付けの悪いスライド式のドアの音に気付けなかった。


もし気づけていれば、なんて考える余裕もない。


入り込む特別棟の冷たい空気でやっとドアの方に顔を向けると、テニスラケットを背負った女の子が胸のあたりを左手で握りしめるようにして棒立ちしていた。


喧嘩

「と、つか...?」


一色が素早く俺から離れ、気まずそうな表情のまま自席に着く。戸塚の方は見ていなかった。


そして、”二人だけの空間”は一色から戸塚へと変わる。


戸塚は何も言わず、ただ困惑した表情で、切なそうな表情で俺を見る。正確に言えば、俺の方は見ていないのかもしれない。


戸塚は何も言っていない。しかし、聞こえた気がするのだ。


『何してるの?』と。


それは、言ってこそいないが確かな冷たさを含んでいたのだ。


戸塚から感じた初めての拒絶だった気がした。


弁明するための言い訳が浮かばない。俺は無実なんだと、証明できる方程式が浮かばない。


当たり前だ。俺は無実ではないのだから。戸塚があのまま部室に来なければきっと...。


「戸塚...」


俺はもう一度、弱々しく名前を呼ぶ。呼んだ理由は、きっとなにもない。


戸塚は何も言わずそのまま部室のドアを勢いよく閉め出て行った。


タンタンタンと廊下を叩く音が部室内に響く。


俺はただ、どんどん遠ざかるその音を聞くことしか出来ず、体はまるで金縛りにあったかのように固まっていた。


「え、と...せんぱ」


「ヒッキー!行かなきゃだめだよ!」


体を揺さぶられてやっと我に帰る。


揺らしたのは、当人である俺よりも必死な顔を浮かべる由比ヶ浜。


そう、由比ヶ浜はどこまでも優しい。きっとこの子はわかっているのだ。


俺がこのまま戸塚を追いかけなかったらどうなるのかを。


きっと、由比ヶ浜も同じ経験をしているから。


「でも...」


なんて言って戸塚に謝ればいいというのだ。


これは、未遂であるからとはいえ完全に浮気だ。


戸塚の笑顔を見ていたいと決意を固めていたはずなのに、俺はできなかった。


そんな俺に何が...


「いいから、行きなさい。今あなたにできること...いえ、すべきことはそれしかないわ。もし仮に私達の誰かが弁明に行ったとしても、ただの慰めにしかならない。それはあなたのためにも、戸塚君のためにもならない。違う?」


ああ、その通りだ。俺はきっと間違った。勘違いをしていた。


戸塚彩加という女の子が、きっと誰よりも寛容であると。そうやって理想を押し付け、自分を許してきた。


一番嫌っていたはずなのに、それは二度としないと自分を戒めていたはずなのに。


由比ヶ浜と雪ノ下にはまた迷惑をかけてしまった。


その二人に目線だけで礼を伝える。


一色は、俯いたせいで表情が見えない。


「一色、すまない。お前のせいじゃない。これは全部俺の責任だ。だから...」


「そんな、気を遣わなくても...」


声はかなり震えていた。


「終わったら、ちゃんと謝る。それまで待っててくれ」


言って、俺は椅子の横に置いてある鞄を置き去りにして部室を後にした。


――――――――


何が起きているのかわからなかった。だから逃げ出してしまった。


胸が苦しくなった。背負った鞄の重さは感じなかった。今も感じていないかもしれない。


僕は逃げるべきじゃなかった。逃げないで、ちゃんと話を聞くべきだった。


もしかしたらただの誤解かもしれない。勘違いかもしれない。


そう自分に言い聞かせたのに、涙が止まらない。止まってくれない。


誰にも会いたくない。こんな顔、見られるわけにいかない。


あの場面がたとえ勘違いだとしても、もう見たくない。


会いたくない。彼に会いたくない。これは、拒絶かもしれない。


それなのに、迎えに来てほしいと、矛盾している自分が嫌になった。


――――――――


無我夢中で走り出したが、戸塚がどこへ行ったのかなんて確信はない。正直言ってわからない。


屋上にも行ってみたがいなかった。


下駄箱を見ると、戸塚の外靴は入っていなかった。


「外か、どこだ...」


思い当たる場所をいくつか考えてみる。テニスコートか、駅周辺か、それとも以前行った水族館か。


しかしどこもピンとこなかった。わざわざ県境の水族館まで行くとも考えにくい。


「公園...」


そうだ。風邪を引いた前日、戸塚から会いたいとメールが来てそのあと、二人であの公園にただ吸い込まれるように入っていったのだ。


そこに、戸塚はいる気がした。


そう思い至った途端、再び強く地面を蹴る。


外は、すでに暗くなり始めていた。




電車を降りて改札へ向かう。あの日のように、改札の奥で戸塚が待っていることはない。


電車でのインターバルがあったとはいえ、滅多にしない運動のせいで冬だというのに汗だくだ。


中のYシャツが張り付いて気持ちが悪い。


喉と肺もなんとなく痛い気がする。


それでも俺の足はまだ動いてくれる。


戸塚になんと声をかけるのかなんて考えていない。


いや、考えるほど余裕がないだけなのだ。


それでも伝えなければならない。


あの日、理屈、義務、責任、そんな言葉をすべて蹴散らして戸塚と歩んでいくことを決めたのだ。


だから...



スピードを緩めることもなく走り続け、ようやく明かりも人影も少ない公園に到着する。


「はあ、はあ...戸塚...」


「はち、まん...」


戸塚は、いてくれた。


戸塚がいてくれたことの安堵で、どっと体に疲れがのしかかる。


「...戸塚」


前と同じベンチに座っている戸塚に歩み寄る。しかし、


「...来ないでよ」


その言葉は、俺を制止させるには十分だった。


わかっていたことだ。戸塚は俺を拒絶している。


しかしそれで引き下がってはここまで来た意味がない。


由比ヶ浜と雪ノ下が背中を押してくれた意味がない。


俺は止まってしまった足をもう一度持ち上げる。


「来ないで!!!!」


初めて聞いた戸塚の大声だった。


こんな状況なのに俺は、そんな声も出すんだなと思った。


相変わらず胸は苦しい。戸塚の表情は伺えない。また、両手で顔を覆い隠しているからだ。


それでも俺はわかった。戸塚の表情が。


そしてそんな顔をさせてしまったのは間違えようもなく俺なのだ。


「俺は、一色とそんな関係になるつもりはないし、キスだってしていない。するつもりだってない。これは嘘じゃない」


言いながら歩み寄る。


「来ないで...」


顔を隠した両手の横から、涙が溢れだしているのがわかった。


「俺が戸塚を好きだってのは変わらない」


どの面下げて言ってんだよと、自分に対して猛烈な怒りが湧き上がる。


「じゃあなんで!!あれはなんだったの!!!あんなの、あんな距離で、おかしいよ...」


叫んだのと同時に、戸塚は両手を顔から離す。目が真っ赤になっていた。


――――――――


違う。僕はこう言いたいんじゃない。


それなのに、勝手に口が動いてしまう。


八幡が困った顔をしている。ごめん。ごめんなさい。


――――――――


どう伝えればいいのかわからない。


どうしたら伝わるのかわからない。


ドラマやアニメでは主人公の親友が、本音をぶつければいいんだ、なんてかっこいいアドバイスをくれるが、恐らくそれは今通用しないし、俺の本音はもう伝えている。それでも戸塚はきっと許してくれない。


いや、きっと戸塚も困っている。


戸塚自身も、どうしたらいいのかわかっていないのではないだろうか。


――――――――


どうしたらいいかわからない。


僕は怒りたいんじゃない。ただ仲直りをしたいだけなんだ。


なのに、素直な言葉が出てくれない。どうしたらいいのかな。


相変わらず涙は止まってくれない。


――――――――


かといって、どうするのかなんて結局決まってる。


本音を伝えてもだめなら、伝え続けるしかない。


それで拒絶されても、避けられても。


それが俺の気持ちなのだから。


だから、主人公の親友はきっといつも正しい。


――――――――


あの場面を見て僕はすごく嫌な気持ちになった。


その理由はわかっている。八幡のことが好きだから。


わかってる。わかってる。それを伝えなきゃ。伝えたい。


なのに、あと一歩だけ勇気が足りないんだ。


――――――――


伝える。今伝えるんだ。


こんなに小さな肩を震わせて、胸を押さえて、それでもずっと一人で悩み続けてきたこの女の子と寄り添うって決めたのは俺だ。


「...」


――――――――


少しだけ沈黙が続いた後、僕よりも15cmくらい背の高い男の子が僕の目をまっすぐとらえる。


一瞬ドキってしちゃったけど、僕はその目を合わせることができない。


もうすこしだけ、勇気が足りない。


僕に勇気をください、八幡。


――――――――


「好きだ」


前進

「ごめん、なさい...」


ヒッキーが部室を出るとすぐに、いろはちゃんは泣いた。


声を出して泣いた。


私も泣きそうだった。理由はたぶん、わかってる。


「ううん。私もね、いろはちゃんの気持ちわかるから」


ゆきのんはあんな状況でも、冷静にアドバイスをした。やっぱすごいなぁ。


でも、いつもの真っ直ぐで力強い目は今は少しだけ弱々しく見える。


たぶんゆきのんも、私と同じことを思ってるんじゃないかな。


「羨ましいなって思うもん。私もずっと、ヒッキーのこと好きだったから。それに今も」


「...結衣先輩」


こんなに顔をぐしゃぐしゃにして、ヒッキーの前だと絶対に見せないのに。


思わず可愛いなぁなんて思っちゃったよ。


ここはちょっとだけ、先輩っぽくしなきゃね。


「最初に彩ちゃんが自分は女の子だって告白した時にね、もう気づいてたんだ。ヒッキーは彩ちゃんのことが好きなんだって、なんとなくだけどね」


「...」


「だから私も少しだけずるいことしようかなって思った。でも、それでヒッキーが振り向いてくれるのは違うの。私が、私たちが好きになったヒッキーはそうじゃないから」


「でも、それで諦めるのは、すごい、辛いです...」


途切れ途切れに出される可愛らしい声。なんだか私も胸が苦しくなってきた気がする。


「ヒッキーはきっと、ずっと彩ちゃんのことが好き。だから私たちはたぶんそこの隙間には入っていけないと思うんだ」


言っていて、胸の奥が段々圧迫されるような感覚に襲われる。目頭が熱い。


視界に映るゆきのんの肩は少しだけ、震えている気がした。


「ヒッキーは自分で選んだ。いままでヘタレてばっかだったくせに、今度はちゃんと自分の意志で決めたの」


「でも...!でも...」


私は今、泣いていた。涙はなんとか堪えた。それでも泣いていた。


「私ね」


置いて行かれた鞄を見た途端、涙が溢れ出した。




戸塚の表情が見えにくいのは空が暗いという事もあるが、そもそもこの公園に明かりが少ない。


加えて周辺一帯は人が少なく、この公園は広い割に遊具が少ないのでやけに過疎って見える。


しかし目の前の女の子からは確かな熱を感じる。


赤くした目頭、そこから溢れ出す涙、荒くなった呼吸。


その女の子にもう一度、伝えたい言葉を伝える。


「好き、なんだ」


その言葉を聞いた瞬間、戸塚は俯いていた顔を勢いよく上げ、そのまま俺に抱きついたと思い難いほど強く体当たりをした。


「うあああぁぁぁあああぁあああ...ばかああああぁぁああぁぁ...」


バカ、なんて言葉も使うんだなと、またしても場違いなことを思った。


戸塚は声を出して叫ぶように泣いた。その叫んだ際の吐息と涙のおかげで胸が温かい。


震える体。しがみつくように背中に回す小さな手。


そこから伝わる熱は、言葉をも超えるほどの戸塚の心が伝わった気がした。


『ごめんなさい、ごめんなさい。愛してます』と。


だから俺も伝えた。『本当にすまなかった。愛してる』


するとその途端、戸塚はぐしゃぐしゃになった顔を上げ、


「っん...」


長くて深い、キスをした。




「あの、そろそろちょっと苦しいかなぁ、なんて...」


「...」


戸塚と長いキスを交わし、しばらく抱きしめあっていた。


そう、文字通りしばらくだ。


おかげで腰が痛い。


「戸塚さん?」


「...まえ」


ぼそり、と戸塚が胸の中で呟いたが、その言葉は俺のブレザーにかき消される。


「なまえで、呼んで」


「えと、戸塚?」


「違う!下の!」


急だなと思ったが、戸塚が頑固なのは知っているし、今回の件でお互いの距離が一層縮んだのはお互いがよくわかっている。


その”証”というやつなのだろうか。


「...さい、か」


女子を名前で呼ぶなど小町とどこかのロリにしかしていなかったせいで、むず痒さを覚えた。


「...うん」


どこか戸塚の口調も変わった気がする。これも前進、という解釈でいいのだろうか。


「それで、彩加さん。腰痛いんですけど」


「八幡、浮気するから」


「...わかった」


ここで否定をしなかったのは、俺の意志を伝えるためだ。


二度としないという意志を。


そのためなら腰の一つや二つ、心臓の三つや四つはくれてやる。


にしても、ここまで拗ねている戸塚は初めて見た。


...悪くない。大変良い。花丸あげちゃう。


「わかってはいるんだが、このままだとまたお互い風邪引くぞ」


「それも、そうだね。僕はそれでも...」


「ん?」


「な、なんでもない!とにかく、次はないからね、八幡!」


やっと俺から半歩離れ、ピンと人差し指を立てる。


「あぁ、誓う」


これが、俺と戸塚の初めての喧嘩。そして、初めての仲直り。


喧嘩、というのも少し違う気がするが、その辺は気にしない。


すると、ブレザーのポケットの中でスマホが音を出さず震える。


『☆★YUI★☆

ヒッキー、明日終業式が終わったら部室来て!絶対ね!』


俺は簡潔に『わかった』とだけ返信する。おそらく、今日の一色のことだろう。


スマホをブレザーにしまうと、戸塚の後ろのベンチにあるテニスラケットの入っているバッグが視界に入る。


「とつ...彩加、部活は?」


「今日は部活は休みでサークルがあるんだけど、今日はいいや」


「...そうか」



公園を出、すっかり暗くなった空を見上げながら彩加と帰路につく。


気温は例年の12月末よりもやや低く、鞄だけでなくコートも学校に忘れた俺にとってかなり寒い。


しかし、自然と繋がれた手は、それを吹き飛ばしてくれるほどの熱があった。


やがて駅前まで来たが、その手が解かれることはない。


「今日は、ごめんね」


「いや、お前が謝るのは違う。悪いのは俺だ」


「ううん、僕も何も言わないで逃げたから」


「彩加は悪くない、すまなかった」


すると彩加は頬をぷくっと膨らませ、むーっとこちらを睨む。可愛くて上目遣いになってるけど。


「僕が悪いの!!」


「いやいや、どう考えても俺だから。浮気だからほとんど」


「そうだね、八幡が悪い」


「いやなんでだよ...」


ふふっと、彩加は見せたことのない小悪魔な微笑を浮かべる。


その仕草に、不覚にもドキっとしてしまった。


「ま、まぁなに。また明日な」


「うん、明日!」


駅前の喧騒に負けない声で別れを告げた彩加は、左手を振る。右手は、胸のあたりで握りしめていた。


俺は左手をポケットに突っ込んで、相変わらず騒がしい人波をかき分けて改札を抜けた。


女の子。プール。水着。

「ところでお兄ちゃん、彩加先輩誘った?」


「...あ」


「まったく。わかってる?イブ明後日だからね?」


「いや、聞いてくれ。24と25で悩んでだな...」


そう、24《にし》っと笑うか25《にこ》っと笑うかの二択。この選択次第じゃ全然にっこにっこに―!出来ないから。


「小町的に25日はお兄ちゃんと過ごしたいかなーテレテレ。お兄ちゃんとサーターアンダギー食べたいかなーテレテレ」


「可愛いなお前」


ローストターキーのこと言いたかったんだろうが、可愛すぎて指摘するとこを忘れていた。


「...」


ちょっと、そんなどぶの中のゴキブリを見るような目で見ないでください。


「お兄ちゃん、それ浮気だよ?」


「...そうなのか。すまん。全然可愛くなかった」


浮気、ダメ絶対。


「それはポイント大暴落だから。妹ならセーフだよ、ほら褒めて褒めて」


「どっちだよ...」


わしゃわしゃと小町の頭を撫でながら今日の事を振り返る。


何故一色はあんなことをしたのか。


一色が俺のことを好きだなんて考え難い。あいつは葉山が好きなのだ。


あの後の一色の落ち込み方を見る限り、何か理由があるのだろうか。


「お兄ちゃんなら大丈夫、根拠はない!」


何も言っていないのに、俺が何か悩んでることをこの超出来すぎる妹は察してしまうのだ。


「そうだな、お兄ちゃんだからな」


一色のことは結局わからず、俺はいつもより数時間早く布団へ潜った。




「あ、先輩。どうもです」


「遅いよヒッキー」


校長のナイル川並みに長い話を乗り越え、HRを乗り越え、浮かれる生徒の大群を乗り越え部室に来ると、二人の女の子がいつもの席に座っていた。


雪ノ下はいない。


「んで、話ってなんだ」


特に意識してはいなかったが、自然一色の方へ目線が走ってしまう。


それもそうだろう、ほぼ浮気相手なのだから。


それに、昨日あんなことをした意図も聞きたい。


「先輩ってほんとにぶちんですね」


「...は?」


入って早々何故か貶された俺は自分でも驚くほど阿保っぽい声が出た。



「急になんだよ…」


「先輩はこう思ってるはずです。なぜ昨日私があんな事をしたのかと」


平らな胸を堂々と張り、人差し指を立てながら偉そうな態度をとる一色。


「まあ、そりゃあ思うだろ。落ち込み方が普通じゃなかったしな」


「それで、なぜだと思いますか?」


「その答えを教えてくれるんじゃないのかよ」


「ほらほら、考えて!」


「んな事言われてもなぁ…」


からかってたとしか思えない。


「また葉山相手の練習か?」


1番可能性のある理由を言ったのに、2人が大きくため息をつく。


「最低です先輩」


「えぇ…」


部室来てからというもの罵られてばかりだ。アレなの?Sに目覚めたの?


「なんで私もここにいるのかも考えてねヒッキー」


「…」


俺の屁理屈しか思いつかない脳をありったけ働かせ、アレかコレかと記憶を辿るがやはり思い当たる節はない。


「も、もう無理だよぉ…ふえぇ…」と脳みそちゃんのロリボイスが聞こえたところでようやく諦める。


「…すまん、もうお手上げだ。教えてくれ」


「わかりました」


一色は、ちらと由比ヶ浜の方に視線を向けてから、もう一度俺の目を捕らえる。


そのしっかりと意志をもった目で思わず気圧されてしまう。


「難しく考えすぎですよ。私があんなことをしたのは、単に私がしたかったからですよ」


「したかった?何で」


「な、なんでって……好き、だからですよ…」


「ん?聞こえんぞ」


「先輩のことが好きって言ってるんですよ!!!!バカ!!!」


「え?好き?俺の事が?マジ?」


唐突の告白に戸惑いが隠せないでいると、由比ヶ浜もその後に続いた。


「私もヒッキーのことが好きだよ」


「…ちょ、ちょっと待ってくれ」


整理しよう。


一色と由比ヶ浜が俺に告白をした。以上。


冗談、ではないのだろうか。


「私たちの気持ちです。もちろん嘘じゃないですよ?」


俺の無駄な懸念は一色にばっさり切り捨てられる。


二人が俺のことを好き、というのは正直信じられない。


いや、逃げていただけなのかもしれない。知らないふりをしていただけなのかもしれない。


由比ヶ浜の態度を見れば、もしかしたら俺の事、なんて何度も思ったが、その度に勘違いだと自分に言い聞かせてきた。


というか、一色はマジで嘘なんじゃないかと思っているが、昨日のことなどを考えると合点が付く。


「ケジメみたいなものです。先輩はあまり気にしないでください」


「うん。ヒッキーが彩ちゃんにぞっこんなのは分かってるから。私たちの勝手なわがままに付き合わせてごめんね」


「いや、でも...」


「いいから!早く彩ちゃんのとこ行く!!」


「早く行かないと明日と明後日の予定私達で埋めちゃいますよ?」


「それはやめてくれ...さんきゅな。それと、すまん」


「...うん」「...許します」


それぞれ返事をした二人の女の子は、とても優しい、温かい微笑みを俺に向けてくれた。


しかし優しいその笑顔を、俺は見ていることが出来なかった。




「はちまーん!」


由比ヶ浜と一色の告白を受けた後、戸塚をクリスマスに誘うために教室へ戻る。


すると戸塚は、太陽も慄く程の笑顔を浮かべながらてててっと俺に駆け寄る。


「ああ、戸塚か。ちょうどよかった」「八幡、ちょうどよかったよー」


声が重なってしまい、戸塚はえへへっと微笑む。なんだそれ可愛いなお前。


目の前にいる女の子の可愛さに見惚れつつ、先にどうぞと顔だけで促す。


「うん、明日のイブなんだけどさ、予定あるかな?」




今日はイエスさんが誕生した日と言われるクリスマスイブだ。


正確には今日なのか明日なのかわからないが、そんなイエスさんの誕生日、俺はデートの申し込みをされた。


滅多に帰らない戸塚の父ちゃんが今日だけはいるから俺に会わせたいと悪魔、もとい戸塚の母ちゃんが提案した。


その提案というのは、ホテルを借りて4人で家族パーティをしようというものらしい。俺家族じゃないんですけど。


そしてその予約したホテルには温水プールが付いており、パーティまで二人でそこで遊ぶ、という所までがとつ母ちゃんの提案だ。


とつ母ちゃんの提案に乗るのは少々癪ではあるが、温水プール。プール。つまり、戸塚の水着姿を拝めるのだ。そんなの断るわけがないだろ。


現在地は駅前。今日の待ち合わせ場所である。


そして、現在の時刻16時。待ち合わせ時間の一時間前だ。張り切りすぎだろ俺。


一時間もどうしようかしらと、頭を悩ませていると、人込みをかき分けながらこちらへ向かってくる女の子が見えた。


「戸塚?」


「え、八幡!?まだ一時間前だよ!?」


「いや、なに。全然待ってないから。うん」


用意していたセリフを言うと、戸塚はぽかーんとした顔をしたかと思うと、くすっと笑う。


うーん、どう考えても今言うタイミングじゃなかったですね。だって小町に言えって言われたんだもん。


てか戸塚も一時間前に来てるし。もしかして楽しみだったの?単純に照れてしまいましたどうも俺です。


「...って戸塚!?その服...」


戸塚の全身を眺めてみれば、めっちゃ女の子女の子な服装であることに気づく。


トップスは黒ニットで肩掛けバッグ。ボトムスはスカートでそのスカートの奥から覗く細い足を覆うタイツに艶めかしさを覚える。


普段から可愛い戸塚だが、今日の私服を見ると、キレイな大人な女性という感じが印象的だ。


正直言って、そこら辺を歩くケバいJDと比にならない程可愛い。いや、控えめに言って可愛い。念のため言うが、可愛い。


「えへへ、ちょっと頑張ってみたんだ。どうかな...?」


「いやもう俺の彼女可愛すぎるから。マジで」


「ほんと!?よかったぁ」


心底ほっとした表情を見せる戸塚だが、しかしそれよりも俺が気にするべきは...


「いいのか?そんな女子っぽい恰好しても。ばれるんじゃないか?」


「せっかくのクリスマスデートだし...僕だってちゃんと女の子なところ見せたい」


ちょっと拗ねたような戸塚の表情で、思わず胸がどくん、と弾む。


「そ、そうか......行くか」


「うん!」


いつもより、レーザーポインタースキルを最大限に発揮しながら電車に乗る。


俺たちが目指す温水プール付きホテルは、調べてみると電車で20分のところに位置しているらしい。


「そういえば、戸塚随分荷物少ないな。水着とか持ってきたのか?」


目的地についてから気づいたが、戸塚は肩から掛けている小さなバッグしかもっていない。


そこに水着が入っているとは考えにくいが...


「荷物は先に部屋に送ってあるからね」


なるほど、そういうサービスもあるのね。勉強になるわ。


どこぞの雪ペディアさんを心の中で真似つつ改札を抜けると、俺が想像していたよりも何倍もでかい、そしてセレブ感満載な建物が嫌でも視界に映る。


「それじゃ、はいろっか」


え、これが今日いってたホテル?八幡お財布大丈夫かしら。


ホテル代は私に任せて!というとつ母ちゃんの言葉を一瞬忘れ、恐る恐るホテル内に入る。


チェックインを済ませると、「僕荷物取りに行くから先に行ってて!」と言われたので仕方なく一人でプールに向かい、水着に着替える。


わかってはいたが、プールも尋常じゃないくらいでかい。例えるならそうだな、サンパレスくらい。行ったことないけど。なんなら見たこともないまである。


戸塚の水着姿を心待ちにしつつ準備運動をしていると、カップルや子連れの家族が多いことに気が付く。


それに右を向いてみれば、思わず「なんだこれ...」と声に出してしまうほど巨大なウォータースライダー。


の、乗りたくねぇ。


準備運動を終えると、とんとんと肩を突かれ振り返る。


すると、


「...」


胸が、どくん。痛いくらいに弾んだのは、目の前の女の子が原因だ。


てっきりワンピースとか露出の少ない水着で来ると油断していた。


しかし目の前の彼女が身に着けているのは、フリル付きのピンクのビキニ。


俺の視線は、慎ましやかなその胸の上から見える白い鎖骨。そして白いお腹、白い太ももへと釘付けにされる。


声を出すことを、いや、床に足がついていることすら忘れていた俺は、やっと目の前の女の子が戸塚であることに気が付く。


「と、とつか、さん...?」


「あの、あまり見られると、恥ずかしい...です...」


「すすすすすすまん!さーてなにに乗りますか?」


あまりの神々しさに思わず敬語になってしまったが気にしない。


「あ、あそこに行こうなんか面白そうだー」


「う、うん」


俺が適当に指を指したのは、さっきの巨大ウォータースライダー。


行くと言ってしまった以上引くわけにいかない。


プールはカップルやら家族やらで相当賑わっているはずなのに、鼓膜には俺の後ろでぺたぺたと歩く戸塚の足音だけが届く。


気づけば頂上までもう来ており、こちらですと案内するお姉さんに促される。戸塚もおずおずといった様子でついてくる。


するとそのさわやかお姉さんは「カップルですねー。では女の子の方は前へ。男の子はその後ろへ」


いまいち説明の要領を得られず、左のレーンのカップルをちらと見ると文字通りぴったりくっついていた。


え、これやるの?ちかない?それちかない??


「ぼ、僕前はちょっと怖いな」


「それなら彼氏さん、前へ」


「は、はい」


言われるがままに滑り台のように腰を下ろす。


すると、「し、失礼します」という可愛らしい声が後ろから聞こえたかと思うと、戸塚は俺のお腹に手を回す。


背中の、この、感触...


やばい!!当たってる!マシュマロ当たってるから!


当たる二つのマシュマロのせいで背中がピンとなってしまう。


「それでは、いってらっしゃーい!」


「...え」




「...はぁ、はぁ、はぁ」


「楽しかったね!八幡!」


「お、おう...ちょっと...休憩...」


あれから戸塚はすっかりウォータースライダーの虜となり、驚愕の5周もした。


三半規管が大して強くない俺は、車酔いになったかのように眩暈がする。


入口横のベンチに二人で腰かけると、くらくらしていた頭に酸素が配られていくような感覚が心地いい。


「ご、ごめんね。僕楽しくて...」


い、いかん!戸塚が落ち込んでる!


「俺も楽しかった。こんなに楽しんでもらえたなら、やっぱ来てよかったわ」


俺の金じゃないけど。


「良かったぁ。それじゃあそろそろ着替えよっか」


言って、それぞれ更衣室へ向かい、来たときと同じ私服に着替える。


女子の着替えはやはり男子より長いのか、ロビーの自販機で買ったマッ缶を飲み終えたころに戸塚が更衣室から出てきた。


「遅れてごめん!それじゃあ...」


戸塚が何か言いかけたところで携帯が鳴る。


通知音からして、俺のではなく戸塚のだ。


「もしもし、お母さん?」


相手の話し声はこちらまでは聞こえないが、恐らくあの小悪魔さんと電話をしているのだろう。


タイミングよく、今のロビーはチェックインする人もプールを出入りする人も2,3人しかおらず、高級感あふれるホテルが一層落ち着いた雰囲気を醸し出している。


電話を切ったかと思うと、戸塚の顔が一気に真っ赤になる。


正確に言えば電話をしている途中には既に赤かった。


するとゆっくり口を開いた戸塚は、目線を俺の胸あたりで固定させてぼそり、と、それでも確かに聞き取れる声で言った。


「お母さんたち来れないから、部屋に二人だけだって...」


プールから出てくる子連れの親子が、視界に入った。


ホテル内デート

聖夜。正確には24日の夜のことを指すらしいが、それは聖夜であって性夜ではない。大事なことだからもう一度言う。聖夜であって性夜ではない、と思うのだ。


巨大温水プールを出た後、ホテルでのディナーを済ませ、とつ母ちゃんが予約した最上階の部屋へと入室した。


室内に入ると、落ち着いたオレンジのライトが壁を反射しているのがすぐわかる。


そして設置されているベッドの数は二つ。つまり、とつ母ちゃんの策略にまんまとはめられたというわけだ。


室内を見渡してみれば、まず目に入るのはホテルから見渡せる千葉の夜景だ。


大人たちはこういう景色を眺めながらワインとか飲むのかしら。


これでもかというくらいにフカフカな窓側のベッドに腰を下ろし、大きなため息をつく。


性夜ではない、のだ。例え同じ部屋からシャワーの弾く音が聞こえても性夜ではない。


......正直申すと俺の心は今、超性夜ってくらい悶々としている。


今はシャワーを浴びている戸塚のベッドの方に視線をやると、その気持ちは一層強まってしまう。


クリスマスだし?デートだし?ホテルだし?俺が万が一間違いを犯しても許されるべき言い訳は揃ってるはずだ。うーんこれ完全にギルティですねぇ。


俺の中のエロスとタナトスが世界を滅ぼすほどの戦争を勃発していると、やがてシャワーの音が止まる。


そして浴室のドアが開き視線をそちらへ移すと、白いバスタオルに身を包んだ戸塚が、なんてことはなく、しっかり部屋着を身に着けた戸塚が出てくる。べっべつに期待してた訳じゃないんだからねっ!


「八幡、はいっていいよ」


「お、おう」


つい声が裏返ったが、俺も着替えをもって浴室へ向かう。


入ると、戸塚が使っていただろうシャンプーやらの匂いの強さに一瞬頭がクラっとしてしまう。


これは長居してはだめだ。変な気持ちになる。


俺の鍛え上げられた上腕二頭筋を駆使し、高速で浴室を出ると、戸塚はベッドでうつ伏せになってなにやらトランプをいじっていた。てかその体勢太ももとかすごい見えちゃうから。ほんと危ないから。


「あ、八幡!トランプやらない?」


「ん、おおいいぞ。なにやる」


現在の時刻は21時を回っているが、いつまで起きているのが普通なのだろうか。


念のため昨日はしっかり寝てきているため、徹夜の準備はできている。


「真実か挑戦か」


今となっては懐かしいその謎ゲーを口にした戸塚は、少しだけいたずらめいた表情を浮かべていた。


「...え、アレやるの?」


もうほとんどトラウマなんですけど。


「うん」


「...」


「あ、もしかして八幡、負けるの怖いの?」


にこやかとしている戸塚は自信があるのか、俺に少し挑発的な態度をとる。


そんな戸塚を見返してやろうと、ギャンブラー八幡としての秘めた力が発揮されてしまう。


「ふっふっふ、いいだろう。あの日の屈辱を今宵晴らしてくれる!」


『真実か挑戦か』は、過程においては最大52人までできてしまうが、ゲームをするのは実質2人だけだ。つまり命令する人とされる人だけで成り立つのがこのゲームの特徴だ。


戸塚は、ベッドとベッドの間にテーブルを動かすと、その上にトランプを円形状に伏せる。


そしてそのテーブルを挟むようにしてお互いベッドに座ると、ゲームは開始される。


「「真実か挑戦か」」


「俺は、7だ」


「じゃあ10の僕が勝ちだね」


ギャンブラー八幡ここに敗れり。はや。


またもや戸塚はふふっと小悪魔な笑いを見せる。一瞬戸塚の後ろにとつ母ちゃんの影が見えた気がするが絶対に気のせい。戸塚に小悪魔の素質なんてあるはずが...


「真実か、挑戦か」


この楽しそうな表情、もう小悪魔です。


「...真実で」


「それじゃあ、質問だね。小町ちゃんとの、一番の思い出は?」


案外と軽い質問だなと気が抜けてしまった。小町との思い出なんて星の数ほどあるが、その中でも一番印象的な思い出は、


「小町が迷子になったことだな。あん時は父ちゃんが泣いて喚いてうるさかったから仕方なく俺が探しに行ったんだ。そしたら俺も知らん橋の傍で小町が蹲って泣いてたんだよな」


「小町ちゃん、きっとすごい嬉しかったと思うよ。僕もお兄ちゃん欲しかったなあ」


「やめとけやめとけ、俺みたいなのがお兄ちゃんだったら妹も色々大変だからな...」


「そんなことないよ!」


「そう言ってくれるのは戸塚だけだ...うるうる。というか、なんか照れくさいから次だ次」


妹との思い出話とかこっぱずかしいし。ほんと何年たっても可愛いから不思議だよな。


その後も恙無くゲームは続き、戸塚の思い出話や俺のトラウマ話、好きなタイプなどを語り合った。


話をしているとき、話を聞いているときの戸塚の表情は心底楽しそうに見え、やっぱ来てよかったなと、小悪魔に心中で感謝する。


部屋に入る前にホテルのコンビニで買ったお菓子などをつまみながら時計を見やると、時刻は22時に差し掛かろうとしていた。


何がとは決して言わないが、まさにお盛んの時間帯だろうかと考えてしまうのはきっと聖夜のせいだ。


クリスマスデートってこんな感じなの?八幡わかんない。楽しいからいいよね。


「それじゃ僕、そろそろ本気でいくね」


え、手加減してたの?カード透けて見える特殊能力とか持ってるの?


どことなく頬が赤らんでいる気がする。そんな戸塚が引いたのはキング。おいおいまじかよ。


「真実か、挑戦か」


聞きなれたその問いかけに、決まった言葉を返す。未だ、挑戦を選んだことはない。


「...真実」


室内は先ほどよりも余程静かになった気がした。しかしそれは錯覚なのだと気づかされる。


心理的に、人は緊張をすると周りの音が小さく聞こえるらしい。今がその状態なのだと思う。


「...八幡は、やっぱり大きいほうが好き、かな」


それはきっと、目の前の女の子も同じなのだろう。



「え...と...」


何が、と聞かなかったのは、抽象的な大きさを表すものがそれしか浮かばなかったからだ。


そしてなによりも、俺がそのようなことを期待しているのは間違いないのだ。


戸塚も、そうなのだろうか。


「...急、だな」


「...」


戸塚はただ答えを待っている。赤らめた顔は、段々と色気を増していくような気がした。


俺はきっと、戸塚の胸部に意識が集中している。


「挑戦だったら、何を命令するんだ?」


ここへ来て、このゲームのもう一方の選択肢、挑戦へと逃げる。


このゲームは真実の質問に答えられない場合、挑戦に変更することができるのだ。


「挑戦、だったら...」


戸塚は顔を染めたまま少しだけ考えると、両手で胸を押さえながらこう言った。


「証明、するよ」


戸塚が口にした言葉は、主語も補語も目的語もない言葉足らずで不完全な文だったが、その意味が俺に伝わるのは容易だった。


「...いいのか」


俺は無意識のうちにそう答えていた。


目の前の女の子にしか意識が集中しておらず、思考回路はほとんど停止していたのだ。


このままでは止まらない。止まれない。以前風邪を引いた時にもこんな雰囲気になったが、俺が気を失ったせいで何もすることはなかった。


しかし、今の俺は熱もなければ風邪も引いてない。


戸塚は無言のままベッドを立ち上がり、そしてまたベッドに腰掛けた。俺の隣だ。


戸塚が俺にぴったりと密着すると、シャンプーの香りが俺の理性にちょっかいを出す。


そして戸塚は俺の太ももに右手を乗せると、少し前かがみな姿勢になる。ラフな部屋着の胸元から、慎ましやかな谷間が覗き、その谷間に釘付けになった俺は、下半身へと血液が滝のように流れ込む。


俺の下半身が元気になり始めてやっと僅かな理性を取り戻す。逆だろと思うかもしれないが、俺もそう思う。


「な、なぁ戸塚」


「真実の選択肢、もう選べないよ」


「...」


思考を読んだのか、俺の言わんとしたことは阻まれる。


「でも、色々準備してないしな...」


「それは...」


戸塚は、期待している。それは今日に限ったことではないし、かくいう俺も何倍も期待している。


「戸塚は、俺のことが好きか?」


「当たり前だよ!!!大好き、じゃなきゃ、こんなことしないし...」


「それは俺も同じだ」


「なら...!」


「俺は戸塚を愛してる。でももし今日ここでして万が一のことがあった時、正直俺は責任をとれない」


戸塚は、きっと甘えベタなのだと思う。


ずっと一人で生きてきたから、秘密を隠してきたから、誰かに甘えるという事が今までできなかった。


だから、これが第一の甘えだと思っている。


俺たちは、まだそのステージに立っていないし、立てないのだ。それは気持ちとか同意とかそういう感情的なものではなく、単に年齢的なものとして。


こればかりは、理屈でしかないのだ。己の欲情に負けてしまえば、それこそただの”甘え”だ。


「でも、僕は...」


「俺だってしたい。けど、戸塚ならわかるだろ?」


「...うん、わかる」


「よし、それなら今日はもう寝ま」


「なら代わりに命令!!」


俺が説得するにつれて段々と落ち込んでいた戸塚は、バッと立ち上がり、潤んだ目で俺を見る。


「一緒に寝て」


拗ねるような戸塚のお願いがあまりに可愛いせいで、危なく理性が切れてしまうところだったが堪える。


「...わかった」


了承した後、お互い無言のまま歯を磨き、窓側のベッドに二人潜る。


しかし、先ほどの余韻は完全に消化できていない。それは、戸塚も同じだった。


「ねぇ、八幡...」


「...」


俺たちはベッドの中で、いつもしているよりも深い、お互いを感じ、求めあうようなキスを、日付が替わっても止めることはなかった。



1月1日


視界が暗い。闇の中にでもいるのだろうか。




体が動かない。金縛りにでもあっているのだろうか。




背中が冷たい。いったいここは、どこだろうか。



異世界召喚されたときの主人公と今俺が感じている感覚は、きっと似ている。俺は、飛ばされたのだろうか。


異世界に来ちまったってことは、もう戸塚と小町に会えないのか...。


幾分の寂しさと名残惜しさを心の中にぐっと閉じ込め、新たな人生を歩む覚悟を決めると、暗くなっていた視界はやがて開ける。




「...ちゃん」


ああ、幻聴まで聞こえてきた。




「お兄ちゃん!!!」


「......こ、まち?」


「どこで寝てるのさ!!!」


「お前も召喚されたのか?」


「...何言ってるのお兄ちゃん。腐るのは目と根性だけにしてよね」


あたりを見渡せば、現在地は俺の部屋。ただしベッドにはいない。勉強机の下だ。


「部屋に入ったら死んだように倒れてて、ほんとに心配したんだよ?」


やっと目を覚まし顔を見上げると、小町の目は確かに潤んでいた。


「わ、悪い。寝ぼけてた」


「まったく...あ!彩加先輩もう来てるよ!」


.........


「ってやばい!!」


慌てて机の上にあったスマホで時間を確認してみれば13時を過ぎていた。


というのも、今日は戸塚と小町と初詣に行く予定なのだ。


異世界とか言ってる場合じゃない。


超絶怒涛の速度で支度を済ませ、戸塚のいるリビングへと向かう。


中性的な私服に身を包んだ戸塚は、「おはよう、八幡」と寝起きの俺に刺激を与えるほどの、まるで向日葵ような笑顔を俺に向ける。


あ、これ夫婦っぽい。


「すまん戸塚!」


「大丈夫だから、ゆっくり準備していいよ」


きっと俺はまだ、異世界気分が抜け切れていない。なぜなら今目の前に大天使が見えたからだ。


そんな大天使に、体がギシギシのゾンビヒッキー、略してゾンビッキーが成仏されそうになっていると、小町がトトトっと階段を下ってくる。


「彩加先輩聞いてください。さっきまでお兄ちゃんが死んでたんですよー」


「おい、その言い方だと本当にゾンビになったみたいだろ。ゾンビなのは目だけだ」


「そこは認めるんだ...」


もはや『これはゾンビですか?』というタイトルも『これはヒッキーですか?』に変えても誰も気づかないレベル。気づきますね。


「それで、八幡がどうしたの?」


「お兄ちゃんなんであんなとこで寝てたの?」


「...わからん」


不思議なことに、昨日の夜何をしていたのかも全然覚えていないのだ。


「ま、行くか」




電車で20分ほど揺られ目的の駅へ着くと、1月1日の賑やかさは肌で感じることができる。


まだ神社にはついていないが、年齢は限らず着物を身に着けている女性がちらほら見える。


っく、戸塚の着物姿が見たかったよぉ!!!


すると、俺と同じことを思ったのか、我が妹が提案をする。


「彩加先輩も着物きたらどうですか?」


「えっ、でも持ってないし...」


「レンタルできるんですよ!あそこで!」


ピッと指した小町の指の先に視線をやると、確かにそこから着物を着た人々がぽつぽつと出てきていた。


ここは小町側に加勢すべきか...?


しかし戸塚が女子だってばれる可能性も...


でも見たいし!!!


「いや、戸塚が女ってばれたらどうするんだよ」


「あー、そっかぁ...」


すると、ずっと考えていた様子の戸塚は決心がついたように両拳をぐっと握る。


「僕、着るよ」


「え?でも」


「バレたらしょうがないよ。それに僕、着てみたかったし」


「...そうか。んじゃ俺は待ってる」



戸塚が着物を着つけている間にMAXコーヒーを買いちびちび飲んでいると、やがてかこん、かこんという音が鼓膜を刺激する。


段々その音が近づきそちらに視線をやると、プールの時と同様ピンク色で花柄の着物を纏った戸塚が不安そうな表情で、それでいて照れた表情で俺の胸あたりを見つめる。


「...え、と」


と戸惑いを隠せなかったのは、戸塚ではなく俺だった。


付き合ってから、戸塚の我儘な部分を見ることが多かった。


しかし目の前の女の子からは、その気配を感じさせないほどの麗しさがあった。


華奢な体躯。僅かに覗く、細くて白いうなじ。


そのあまりの美しさに、周りの音が完全に遮断される錯覚に陥る。戸塚の横に立つ小町の存在さえも一瞬忘れていた。


「はち、まん...?」


初めて口を開いた戸塚のおかげで、遮断されていた音が解放され、小町の存在にも気づく。


「お兄ちゃん、感想は?」


「あ、あぁ...いいな。それ。きれいだ」


片言になってしまった俺に小町が半ば呆れつつ、戸塚が照れつつ俺も照れつつ変な空気が流れる。


照れを隠すように俺はいち早く足を前に運び、神社へと向かう。


後ろから聞こえるかこん、かこん、という音は、鼓膜ではなく心臓へと届いていた。




「結構人いますねー」


「うん、すごい賑やかだね」


「うえぇ...」


これは人に酔いそうだ。


がやがやとした人込みをかき分け、小町の受験合格を祈ったところで人気の少ない方へと歩いていくと、あることに気が付く。


「あれ、小町ちゃんは?」


「...電話かけてみる」


この騒がしい中で電話に気づくとは到底思い難かったが、なんとびっくり半コールで反応があった。


「あ、お兄ちゃん?小町先帰ってるから彩加先輩よろしくね!それじゃ!」


言い返す間もなく光の速度で電話が切られる。元々それが狙いだったのかよ...


「なんか、先帰るって」


「具合でも悪かったのかな?」


「いや、違うと思うが...」


さてどうするかと頭を悩ませていると、俺の腹が『ご飯をお与えください、ご主人様...』とロリボイスで嘆願する。もちろん脳内でだ。


「あ、八幡ご飯まだだったね。屋台いこっか」



かくいう戸塚も昼食はまだだったようだ。


「八幡、はい」


「ん?」


人気の少ないベンチでたこ焼きを平らげると、戸塚は一口かじってあるクレープを俺の顔の前に持ってくる。


え、これやるの?人が見てる!若い二人組の女子がこっち見てるから!


しかし戸塚の好意を無下にできるはずもなく、まだ口のつけていない側を小さくかじる。


「おいしい?」


「お、おう...うまいぞ」


なんだこれただの夫婦やん?思ったよりも悪くないやん?


今の俺たちは、傍からみたらクレープよりも甘ったるいカップルでしかなかった。



腹を満たし、適当に屋台を歩いていると、「ちょいちょいそこのカップルさん」といかにも胡散臭さ満載のおっちゃんが手招きをしている。


寄ってみると、どうやら甘酒がタダで飲めるらしい。


「でも僕たち未成年だし...」


「甘酒はアルコールがほとんど含まれていないから未成年が飲んでも捕まらんぞ」


俺が説明すると、そうなんだとさぞ感心した様子の戸塚。


「それじゃ、飲んでみようかな」


戸塚は酒に強そうなイメージはないが、甘酒なら大丈夫だろと俺もその隣のものを手に取る。


一口飲んでから視線を戸塚に向けると、戸塚はありえないスピードで顔が赤くなっていた。


「お、おい戸塚、大丈夫か?」


「...」


絶妙に嫌な予感がする。


おいおい、甘酒で酔う人なんて本当に存在したのかよ。


このままじゃまずそうだと戸塚の甘酒を取り上げ、おっちゃんにそれを返す。


するとふらふらしていた戸塚は、


「はーちまん!」


と、俺の首に手を回し抱き着く。


「お、おい!いったん離れないと...」


抱擁を交わす俺たちに周りの視線が集中していることは確認しなくてもわかった。


「歩けるか?」


戸塚を引きはがし手を引くと、ふらっと戸塚の姿勢が崩れ、危うく顔面から倒れそうになる。


「あぶねっ!」


どうする八幡。この緊急事態を一刻も早く逃れるためには...


仕方なく、戸塚の背中と膝に腕をまわして持ち上げる。


ギャラリーの「おおぉ」という声は聞こえないフリをしたが、おっちゃんの「神社を出て東に行けばホテルがある!行け!!」という死に際の親友のような声だけは、しっかりと耳に残っていた。




「ここ、ラブホじゃねえか...」


それに気づいたのは、部屋に入ってからだった。


誘惑

ラブホ、他にはレジャーホテルだのブティックホテルなどの呼び方はあるが、思っていたよりも部屋の内装は普通のホテルと大して相違ない。照明が少しだけ色っぽい気もするが。


俺が、ここがラブホだと気づいた理由はただ一つ。戸塚をベッドに寝かせた時に視界に入った四角い、そして薄い”ヤツ”だ。


それをこっそり部屋の隅にあるごみ箱に放る。ほら、ホテルのヤツっていたずらで穴とか開けられてるらしいし。いや使わないよ?


しかし、入ったことのない未知の世界に興味が湧いてしまうのも男の性。


少しだけ探検しようと、入り口側にあるドアを開けてみる。


「...でけぇ」


ユニットバスとは違う、ラブホ特有の広さであろう浴室が広がる。


こんな広くて何に使うのかしらと、知らないふりをながら浴室を出る。


戸塚が眩しそうだという配慮からカーテンを閉めたはずなのに、どこか背徳感を感じてしまうのはきっとこのラブホのせいだろう。


てかここ、高校生は本来入ったらダメなんじゃなかったか...。もし俺が戸塚を抱えてラブホに駆け込むところを知り合いにでも見られてたら...。


俺の行く末を心配しつつ、静かに戸塚の寝ているベッドに腰掛ける。


いくらここがラブホとはいえ、彼女の寝こみを襲うなんぞまっさらする気はない。


すぅすぅと小さな寝息をたえる女の子の顔を見つめると、やはり言うまでもなく寝顔が可愛い。


そしてそのまま視線を下にずらしていくと、細い首、白い布、花柄の着物...



............ん?白い布......?


ってうぉいい!!!!見える!!!てか見えてる!!着物がはだけてブラ見えてるから!!!


さらに上だけでなく、下に視線を向けてみれば白い太ももの付け根がすぐそこまでという程にはだけていた。


ここはラブホだ。これもう襲ってもいいはずだ。恋人だし...


そんな邪心を殴り散らして、なるべく視線を上にあげたままフカフカな布団を戸塚に掛けてやる。


掛けてやろうとしたところで、戸塚はんんぅと可愛らしい声を出すと、


「はちまん?」


薄く目を開け、とろんとした声音で俺の名を呼ぶ。


そして、



「はち、まん...」



俺の首に腕を回し、そしてそのまま倒れこむ。


右の頬に布団の柔らかさを感じる。しかし、俺に優しく抱き着いた女の子の柔らかさはこの高級であろう布団を遥に上回っていた。


上半身はそれほど密着していたわけではないが、戸塚が足を絡ませてくるせいで、俺の下半身の一部が段々熱くなっていく。


そして完全に密着していなかったが故に、下に視線を落とせば、そのはだけた着物から完全にと言っていいほど下着が覗いていた。


ダメだとはわかっていても、俺の視線はそこから逃れることができなかった。


普段は慎ましやかなものでも、こうして横になってみればそれは寄せられ谷間が形成される。


絡まる太もも。覗く谷間。かかる吐息。


俺の性欲は、それらに触発される度に暴走の準備を始める。


「と、とつか...そろそろやばい...」


「はちまん...」


3度目に俺の名前を呼んだ声は、1,2回目とは少し違って戸惑いのようなものが見えた気がした。




「当たってる、よ...」




言った戸塚の赤くなった顔には、どこか照れが混ざっていた。


「いやほんとすいません。でもこれは男の子の証だからしょうがないというか...」


「わかってるよ。まだ、だもんね」


酔っているはずの戸塚が言ったその言葉は、それでも理性を含んだ、落ち着いた雰囲気が見られる。


「そうだ、な...」


俺たちはまだそのステージに立つことができない、そういったのは間違いようもなく俺自身のはずなのに、少しだけ、寂しさを感じてしまった。




「...触りたい?」


「......はい」



どこを触りたくて返事をしたのか自分でもわからない。


”そのステージ”とは、どこまでのラインを言うのか。触るのは、セーフなのではなかろうか。


そう考えていると、布団の衣擦れする音がしたかと思うと、戸塚は俺の左手首をそっと握り、




「...」


「と、ととととつか!?」


左手の平には、確かな熱を感じた。そして、指を動かさなくてもわかるほど、柔らかかった。


「太ももなら、セーフでしょ?」


少しいたずらめいた微笑を浮かべる目の前の女の子からは、アルコールの気配を感じなかった。


「俺の心がもう少しでアウトだけどな...」


俺が今触っているのは、正確にはわからないが付け根から3,4cmほど離れた部分。


なんとなくの罪悪感が、指を動かすことをさせてくれない。


しかしそれとは反対に、指を動かせない物足りなさと、このいたずら顔を見返してやりたいという衝動から、俺の腕自体が動いてしまう。


付け根までの距離が、2cm、1cmと縮まるにつれて、戸塚は艶めかしい声を漏らす。


「あの、はちまん...」


やがて俺の手が終着点まで付くと、太ももの温かさとは違う、太ももの触り心地とは違う感触が、人差し指に当たる。


そこまで到達すると、戸塚の顔は破裂してしまうのではというくらい真っ赤になり、無言のまま俯く。


しかし俺も、それ以上のことはしない。というよりも、ヘタレてできないだけなのだが。


「八幡のえっち...」


拗ねたような上目遣いで、ぎりぎり聞こえる大きさで戸塚は言った。


えっちなのは俺じゃなくて男の子なんです!DNA的にしょうがないんです!!


「すまん...」


「僕...」


ゆっくりと口を開くと、




「僕、早く大人になりたい」


衣擦れの音がだけが、耳に届いた。



「それは...」


どういう意味なのかと、聞こうとしたが、その言葉の意味するところを察して閉口してしまう。


戸塚は戸惑いの表情を浮かべる俺を見て、


「なんてね」


ぼそり、と呟いた。


「あの、八幡。そろそろ下着が...」


戸塚に言われ意識を左手に戻すと、確かに最初触れたとき時よりも温かくなっていた気がした。


「すすすすすすすいませんごめんなさい調子乗りすぎました許してくださいなんでもするんで通報だけは...」


即座に手を離し土下座をすると、戸塚は赤らめた顔のままふふっと笑う。


「なんでもするんだ」


「いやなんでもっていっても出来る範囲で...」


上半身を起こして少しの間考える素振りを見せると、


「ここお風呂あるかな?」


「ああ、めっちゃでかいのがついてる」


ここの風呂はラブホなだけあってか妙に広い。そういえば、ここがラブホってこと戸塚はまだ知らないんだよな。


「少し汗かいちゃったし、汚れ、ちゃったし、お風呂入ろうよ」


「ん、そうか。んじゃ俺は待ってる」


「...はちまんも」


「...............俺も!?」




風呂は嫌いじゃない。むしろ人よりも好きなほうだ。


家で入ってる時なんかもついテンションが上がって独り言をもらしながらヒトリゴト歌ったりするし。そ、そんな名前の歌しらないっ!


それはホテルの風呂でも同じことだ。いつもと違う光景で入るのも新鮮だし、見たことのないシャンプーや見たことのない泡風呂が目の前で完成されていたとしても同じ、では決してなかった。


因みに俺の視線はそんな泡風呂よりも、泡風呂を完成させた本人であるバスタオルに身を包んだ戸塚にしか目が行っていない。


「すごいよ八幡!お湯が真っ白!」


こちらを振り返りながら言う戸塚から即座に視線を逸らし、適当な返事をする。


「そ、そうだなー」


適当な返事をしながらシャワーの蛇口を捻ると、強くも弱くもない圧の水が髪の毛を濡らす。


「こういうのってやっぱり、お互いの背中流したりするのかな?」


「いや、わからん...」


見ないようにはしているが、それでも視界には白いバスタオルが入ってしまう。


「八幡?なんで目瞑ってるの?」


「いや、見えそうだし...」


「大丈夫だよ、タオル巻いてるし」


それでも見えそうなものは見えそうなんです!!


しかし、この方法にはある欠点があった。


「シャンプーどこだ...」


性欲を抑えることには成功したが、そのせいでシャンプーのボトルの位置がわからない。


手を伸ばして探っていると、頭をがしっと手のようなものに捕まれる。


「じっとしてて、僕が洗ってあげるから」


「...助かる」



「それじゃあ次は体、だね」


「いやそれはさすがに自分で!」


「...僕に、やらせて」


何故かそれを受け入れてしまったわけだが...



「な、なんで素手なんですかね戸塚さん...」


「え、体って手で洗うものじゃないの?」


「確かにそういう人もいるけど...」


戸塚はどうやらそのタイプらしい。肌キレイだもんね。いやそういう事じゃなくてね。


何故か呼吸をすることが出来ず、戸塚が俺の体を洗い終えるまでの約2分間息を止めた。


「それじゃ俺は先に湯船に...」


後ろから「むぅ」と可愛らしい声が聞こえた気もするが、それを無視して戸塚の完成させた泡風呂へと入る。


うお、すげえなこれ。


ここのホテルの風呂は、オレンジ色の照明が壁に反射し、やけに高級感を漂わせていた。


しかも、浴槽の前に2段だけ階段になってるんだけどこれ何の意味あるの?


やがて戸塚も頭やら体やらを洗い終えたのか、ぺたぺたと後ろから足音が聞こえる。


「ぼ、僕も入るね」


「ん?ってちょっとまて。上がるから。俺上がるから」


ここまできて何をヘタレてるんだ俺は...


「僕とはいるの、嫌?」



「.........どうぞ」


そのお願いの仕方はずるいんじゃないんですかね。


うちの生徒会長がやればただあざといだけなのに、なんでこうも違うのか...




「それじゃあ...」


ちゃぽん、という音が聞こえると、白い泡がゆらゆらと揺れる。


出来るだけ端に寄ったはずなのに、背中に柔らかい肌が触れる。


.....柔らかい、背中...?


横を向いてみれば、そこにはかなりの水分を含んでいるだろう白いバスタオルがたたんで置いてあった。


「戸塚さん、一応聞くけどタオルは?」


「...」


戸塚は、無言という名の肯定をした。


「八幡、温泉に入るときはタオルをとるのがマナーなんだよ」


「ここ、温泉じゃないんですけど...」


「八幡だけずるい」


「えぇ...」


横暴すぎる...


しかし、戸塚もバスタオルを巻いてないとはいえ、泡風呂のおかげで何も見えていない、と思う。背中向けてるからわからんけど。


まあ見えないならいいかと、無言のまま腰に巻いたタオルの結び目を解いて浴槽の外に置く。


「しかし、今日は朝からいろんなことがあったな...」


「八幡、昨日のこと思い出せた?」


今日の朝、何故か起きたのがベッドではなく机の下だった。


昨日は12月31日の大晦日。例年通り家族で飯食ってガキ使みて、そしてそのあと...


「親父と酒飲んでた気がする...」


そうだ、小町が寝床に入った後、一人で酒を飲んでいた親父が半べそかきながら「俺と飲んでくれ」なんて情けないことを言うから同情して飲んだのだ。


なにやら小町に怒られたのが原因らしいが。


それで親父が酔いつぶれた後俺もおぼつかない足取りで部屋に戻ったがベッドまでたどり着けず御就寝って訳だ。解決。


「二日酔いとか大丈夫なの?」


未成年であることは触れないでくれるんですね。


「ああ、不思議と頭はすっきりしてたな」


もしかしてお酒が強いのかしら。しかしお酒が強い人はむしろ二日酔いになるって聞くが、未成年の俺が知る必要もないだろう。


「にしても、戸塚がまさか甘酒で酔うなんてな...」


「あはは、でも寝たらすっきりしたよ。それに」


「?」


「そのおかげで、今こうしていられるんだし」


恐らくここが風呂じゃなければ聞こえなかったその小さな声は、この硬質そうな浴槽の壁をよく反射し、俺の鼓膜までちゃんと響いてくれた。


そして、バシャリという音が響き渡ると同時に、背中に喪失感を覚える。




「八幡、こっち向いて」


「...」


無言のまま体ごと振り返ると、思っていたよりも近い距離にいた戸塚は、きっと湯あたりのせいではない他の理由で染めた顔を少しだけ俯かせていた。


足が触れ合う。お互いの視線は交わらない。


「僕、これでも結構恥ずかしいんだよ?」


気づけば、戸塚は俺に抱き着いていた。


首に腕を回し、加えて足は完全に絡み合っていた。


しかし俺の意識が集中していたのはそこではなく、胸にあたる慎ましやかな双丘だった。


それはお世辞にも大きいとは言えないが、それでも触れてみると、確かな柔らかさがあった。


「戸塚...俺やば――」


言おうとしたことは、唇を重ねた戸塚によって阻まれた。


そして、


「んん、んんんぅ...」


くちゅ、という音がしたのは、お互いの舌が絡み合っているからだ。


それは戸塚からしたものでもないが、かといって俺からしたわけでもない。


自然と、という言葉がしっくりくる。


「んん...んはぁ...」


酸素を求めて唇を離すが、今度は戸塚を求めて唇を押し付ける。


硬質な浴室には、その音がよく響いた。


「んはっ」


ここが風呂だという事、そして目の前の一糸まとわない女の子と口付けを交わした事から、俺の理性が一瞬崩壊する。


しかし、それは目の前の女の子に抑制される。


戸塚は首に回していた腕を解き、




「それじゃ、上がろっか」


まるで何もなかったかのように、そう言った。


『 』



「それじゃ、またね八幡」


電車のドアがしまっても手を振り続ける女の子に片手だけ上げると、電車は慣性なんて知りませんとばかりに心地よく動き出す。


電車内を見渡してると、俺と同じく初詣帰りといった親子が多くみられる。


30分ほど前小町に送った『今から帰る』というメールに対しての返信を見ようとスマホを取り出す。


メールの着信はない。しかしその代わり、LINEアイコンの右上に着信を表す印が一件だけついていた。


俺がLINEを交換しているのは一人だけ。先ほど別れた女の子だ。


どうしたのだろうかと緑色のアイコンをタップする。


それは、3分前に送られたもの。



『楽しかったよ。また来年も三人で来れたらいいな』



それを見た瞬間に、背中に寒気が走る。



スマホを持った手がぷるぷると震えだす。



夥しい程の汗が、毛穴という毛穴から噴き出す。



肺が圧迫され、息が苦しい。



足に力が入ってくれず、膝をついてしまう。



そんな異様な状態の俺に、当然周りの乗客の視線が集まっていた。



自分でも理由はわからない。何故か俺はその文章を見た瞬間、恐怖を感じた。



やがて俺の降りるべき駅まで差し迫った頃に、何かに体を揺さぶられていることに気が付いた。


「おにーちゃん、だいじょーぶ?」


視界には電車の地面しか映っていないが、その細く幼い声を聞いてやっと我に返った。


「...あ、あぁ。すまん、大丈夫だ。ありがとう」


顔を上げると、女の子は可愛らしいハンカチをこちらに差し伸べてくれる。そのハンカチを汗だくの手で受け取ると、てててっと向こう側にいる恐らく母親のところに戻っていった。



電車を降り、ふらふらとした足取りで改札を抜ける。




外は闇だった。




視線を遠くにやればやるほど、その闇は色濃くなる。



そしてふらふらとした足取りのまま、その闇へと体を運ぶ。




思考回路は、ほとんど止まっていた。




なんとか家に向かう道に沿って歩けたのは、体が染みついていたからだろう。


理由不明な恐怖の正体は、人の通りが完全になくなった、ちょうど家と駅の半分くらいのところに来たところで判明した。


足を止めて、握りしめたままのスマートフォンをさら強く握りしめる。


あの時感じた恐怖の正体は、”喪失感”だった。


強がり



戸塚が千葉の大学附属病院に入院していると知ったのは、冬休みを開けて最初の登校日だった。


あの日感じた喪失感から、俺は冬休み中何度も戸塚にメールを送った。電話も掛けた。しかし、戸塚がそれに応えることは一度もなかった。


コール音を重ねるたびに募る不安。聞き飽きた機械的な女性の声。


その後戸塚の家には一度だけ訪れた。しかしドアを開けた先に立っていたのは娘には似ても似つかない容姿の戸塚の母親がいるだけ。


いや、いるだけというのはだいぶ違う。かなりやつれていたのがわかった。訪れた俺の顔も、たぶんこんな感じなのだろうかと思った。


戸塚の母は、何故戸塚が家を留守にしていたのかを教えてはくれなかった。ただ、「ごめんなさい」と言うだけ。


俺もそれ以上深入りしようとはしなかった。怖かったからだ。


あの喪失感が、ただの気のせいであってほしいと。そう自分に言い聞かせた。


受験を控えた小町の前では、極力なんでもないような態度を心掛けていたが、それでもきっと、小町は見透かしていただろう。


戸塚彩加が隠していること。削った睡眠時間の分だけ考えては行きつく結論はいつも同じ。


”病気”


それが、どれほどの年数がかかるのか、いつから患っていたのか、どれほど重いものなのかは、戸塚の母親の様子を思い出せば大体見当がついていた。



爆発しそうな不安を抱えたまま始業式を終え、平塚先生から聞いた少し離れた病院へと向かう。


つんと鼻を刺激する病院独特の匂いに少しだけ嫌悪感を抱きながら、リノリウムの床を歩いていく。


やがて『201 戸塚彩加様』と表記されたプレートの前までくると、一度だけ大きく深呼吸をする。


部室のものと同じスライド式、それと異なって確かな重量となめらかさを感じながらそのドアをゆっくりと開く。


開けてすぐに目に入ったのは、白く清潔なベッドの上で体を起こして陽が差す窓の方を見つめる清楚な女の子。


その女の子は、ドアの音に気付くとこちらをゆっくりと振り向く。


少しだけ驚いた表情を見せるが、その目に映っている俺は、それよりもっと驚いた表情を浮かべているだろう。


「とつ、か......?」


正直、もっと重体だと思っていたのだ。最悪のケースも何度も想像した。


しかし数メートル先に見える女の子は、確かな命を宿して、そこにいてくれたのだ。


「八幡」


何時間、何十時間とかけて蓄積してきた不安の塊は、その声を聞いた瞬間に溶かされ、一瞬で蒸発する。


「戸塚...」


ゆっくりと歩み寄る。


近づくにつれて、戸塚の視線は落ちていく。


俯いた表情の戸塚に、「何で教えてくれなかったんだ」とは言わなかった。それをわかってやるのが、俺の仕事なのだから。


「よかった...」


言って、どこか前よりも白くなった戸塚の細い手を優しく握る。


「......聞かないの?」


「言いたくないんだろ?」


「...」


「言いたくなったらっていうのもおかしいけど、お前のタイミングで教えてくれればいい」


「.........ごめん、なさい...」


握った手をさらに強く握り返すと、ぽたりと俺の手の甲に一滴の涙が零れる。


「ごめんなさい......」


「なんでお前が謝るんだよ。むしろ謝るのは俺だっつの...」


「だって...僕は.........」


「いいから。言わなくて、いいから」


その先を言わせまいと、包むように戸塚を抱きしめる。


本当は気づいていたのだ。


1月1日に感じた喪失感。戸塚の母の様子。そして、今の戸塚を見てみれば、嫌でもそれに気づいてしまう。


不思議と俺は、取り乱しはしなかった。


暫く、体温を確かめ合うような抱擁をすると、戸塚は幾分か落ち着いたのか、小さな声で口を開いた。


「やっぱり、今言わなきゃ...」


どれだけの決意、覚悟をもった言葉なのかは戸塚の目を見れば一目瞭然だった。


その覚悟に応えるべく、俺は静かに耳を傾ける。


「僕の寿命は、半年もないかもしれないんだ」


「.........え」


音が、消える。


心臓が握りつぶされたような感覚に陥り、全身の血液が一気に凍る。


息が、呼吸が、止まった。


あの日感じた喪失感が、また違う濃度を蓄えて再び俺に押しかかる。


「はん、とし...?」


寿命が限られているという事には察しがついていた。


3年か、長くても5年か。いずれにせよ、それを聞く覚悟が、しっかりと出来ていたはずだった。


それなのに...


「そんな顔しないで、八幡」


こんな状況で、何故俺が慰められているのか。


そんな優しい声かけやがって、立場逆だっつーの。


「...」


寿命が半年の彼女を前にして、俺が落ち込んでいる場合じゃないだろ。


一番不安なのは、目の前にいる女の子のはずなのに。


「......そうだな、落ち込んでる場合じゃないよな。すまん」


「それにね」


「...?」


「助かる可能性だって、ゼロじゃないんだよ?」


そう言った戸塚の微笑みは、今までにないくらいに、美しかった。


「...お前なら、できる。絶対だ」


「うん!!」


元気に返事をすると、スライド式のドアが音もたてずに開かれる。


「比企谷さん、面会の時間が過ぎましたので御帰宅の準備をお願いします」


「それじゃ、またね八幡」


「あぁ、またくる」