2015-05-20 02:01:02 更新

概要

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のいろはルート。

『序章 だから一色いろはは幸せを願う。』
『第一章 きっと、誰しもそれらしさを探している。』の続きです。


第一章 きっと、誰しもそれらしさを探している。





第二章 あるいは、その姉妹だけは既に知っている。




〝あの人のようになれたら〟


 それはきっと、生まれてから死ぬまでの間に誰もが一度はつぶやく言葉。


 でも、叶うことはない。

 だから、願うことに意味なんてない。


 けれど、それでもわたしは願わずにはいられなかった。

 誰かと人生を交換して欲しい。

 そんな思いがわたしの胸を埋める。

 しかし、絶対に叶わないのだから諦める他ない。

 わたしはこのまま生きていこう。


 失ってしまったけれど。

 遠ざかってしまったけれど。

 不幸は続くものだけど。

 今、ここで味わったのなら、わたしの間違いだらけの青春はハッピーエンドになるはずだから。


 わたしは進もう。


 きっと、いつか見つけられる。

 掛け替えなのない、代わりのきかない、誰とも交換したくないと思えるような。


 わたしだけが持つ、人生の意味を——


  ****


 始業式の次の日に行われた入学式はつつがなく終了し、小町ちゃんは晴れて総武高の生徒となった。


 生徒会で次にある仕事と言えば生徒総会とかそんなところだ。

 それまでも雑用だのなんだのはあるが、基本前期はぼけーっと過ごすことになるだろう。

 だって、わたしより副会長とか書記ちゃんの方が仕事できるしね。


 しかし、やはり、二年時の楽しみと言えば、十一月の修学旅行。

 私立の学校とは違いお金がないので、行き先は京都とか奈良、大阪辺りになる。

 とは言っても楽しみなものは楽しみで、なにが楽しみかと言えば、色恋沙汰だろう。


 誰々が誰々に告白したーだとか、誰々に告白されたんだけどどうしよーとか、お前からの告白とか求めてない求めてないどうしようーとか。

 きゃぴきゃぴとどす黒いことを話す女子達の会話に混ざるのも女の子の嗜みというものだ。


 まあ、女の子の友達あんまりいないんだけど。

 可愛いというのも考えものである。

 その点で言えば雪ノ下先輩はほんと辛そう。

 たいして関わったこともないくせに、トイレで悪口言ってる同級生よく見るし。

 なんだか同情してしまうレベル。


 同情してかわいそうだとか言ったところで「ええ、そうね。彼女達は他人を卑下することで自分が劣っていると認めてしまっているということに気づいてないもの。本当にかわいそうよね」とか、かわいそうの対象を履き違えられそうなので絶対に言わないけど。


 しかし、修学旅行か……。

 旅行出来るのは確かに楽しみだけど、わたしの心中では少し前よりは楽しみが半減していた。

 先輩と会えないなー……。

 三日も。

 学校行事に参加してるのに先輩に会えないとかなにそれ辛い。


 いや、三泊四日だから四日……?

 なんか日程的にそのまま休日に突入しそうだし、下手したら一週間くらい会えないかもしれない。

 うわぁ……なんか憂鬱になってきた。


 イベントと言えばその前に文化祭があった。

 これが十月か……。

 今年の文化祭は先輩と一緒に回れるかなぁ、昨年は葉山先輩につき纏って……。

 あ、あれかー。

 あのドラマのヒロイン、あの文実の委員長に似てるんだ……。

 うわー、すっきりした。


 思えば、あのときあの扉の向こうで委員長を糾弾していたのは先輩の声だった気もする。

 そうか……あの反ヒキタニシュプレヒコールはそういうことか。

 けど、なんでそんなことを……。

 考えることに意味はない。

 いくら考えたってわたしが分かることではなかった。


 んー……、この頃はまだ生徒会だし、忙しくて会えないかも。

 先輩、文実やってくれないかなぁ……。

 仕事はできるし、スカウトしたいぐらいなんだけどな。


 で、体育祭との間くらいに生徒会選挙か。

 早く来ないかな選挙。

 いや、でも、わたしが生徒会じゃなくなれば先輩につきまとえる理由もなくなっちゃうな……それはまずい。

 えー、でもやりたくないなー。


 間を置かずに体育祭、か。

 棒倒しと騎馬戦だっけ?

 なんかものっすごい気持ち悪い人が騒いでたのと、葉山先輩がいつも通りかっこよかったのは覚えてる。


 だから、忘れていた。

 ヒキタニという人物の存在を完全に忘れていた。

 ヒキタニの名前だけが浮き立っていたのも理由の一つだろう。

 実際にそんな人は存在しない。

 そんな恥ずかしい名前の人は知らない。


 ていうか、なんかこの学校、秋に行事持ってき過ぎじゃない?

 明らかにバランスおかしいでしょう……考えようよ。

 普通に文化祭とか夏休み前にやってもいいだろう。

 一年はたいしてすることないし、二年ならクラスが変わってもいくらか顔見知りがいるわけだから無駄に手間取ることもない。


 うん、おかしいよこれ……。

 生徒会への嫌がらせとしか思えない。

 文化祭、生徒会選挙、体育祭ってことは、文化祭の仕事中に選管の仕事もやらなきゃいけないかもだし……選管は適当に募集しようかな。

 アウトソーシング? だか、ワークシェアリング? だかってやつだ。

 先輩が言ってた。


 体育祭はわたしが新会長の面倒を見るしかないか。

 っても、昨年の体育祭のときはまだめぐり先輩が会長やってたからわたしもよく分からないけど。

 先輩やってたって言ってたし、分かんなかったら先輩にでも聞こう。


 ひらりと年間スケジュールの書かれた紙を生徒会長席の上に放し、はぁーとため息を漏らす。

 前期はぼけーっと過ごすことになりそうだ。

 なんて現実逃避はもう終わりにしなければならない。

 前期に文化祭が来てくれてれば……くっ。


 コーヒーを啜り、書類を確認しつつキーボードに手をつける。

 二年時に行われる校外学習の行き先アンケート調査の仕分けだ。

 所謂、雑務というやつである。

 無駄に生徒の数が多いため、こんな雑務でもそこそこの時間がかかる。


 さらにはこの雑務が一通り終わって一息つくと、月が変わって五月には職場見学なるクソイベントの希望を取り、ひいてはそれのアポまで取らなければならない。

 マジくそ。

 自分で取ってよー……もう高二なんだからそのくらい出来なきゃ社会に出て行けないでしょ……。


 なんてぶつくさ文句を垂れるが、ここは曲がりなりにも進学校なので生徒会以外そんなことはしない。

 なら、先生がやればいい。

 そう思うが、平塚先生を筆頭にここの教師陣は面倒くさがりなのである。


 平塚先生はマシな方か。

 単純に一番話しやすいから最初に顔が浮かんでくるってだけだ。

 むしろ平塚先生もよく仕事を押し付けられている気がする。

 とにかくうちの教師陣は面倒くさがりなのだ。

 さらに言えば生徒会担当顧問は押し付けが得意。


 必然、生徒会に仕事のない時期にはこういう雑務が回されてくる。

 そのくせなにか失敗しようものなら、やれなんで聞かなかっただの、やれなんで勝手にやっただのと終わりのない説教を聞く羽目になるのだ。


 ていうか、進学校なら職場見学とか無駄なイベントいれてんじゃねぇよ。

 前年度卒業生の進路統計結果、就職0パーセントじゃねぇか。

 まず大前提にそこだろ、そこ。

 三年進級時のコース選択に就職コースがあるわけでもあるまいし、バカじゃねぇの。


 なんなら生徒会で下請け企業の擬似職業体験出来てるからとわたしだけでもご遠慮願いたいレベル。

 なにが面白くてやりたくもない仕事で失敗して先生に頭下げて、電話の向こうでお怒りの先方に見えてもいないのにへこへこしなきゃいけないのか。


 いやほんと、新入生歓迎会での新入生の態度が悪いせいでゲストがもう二度と来ないとか言い出すし、なんなの。

 高校生なんてそんなもんだろうが。

 もうちょっと心を広く持とうよ。

 最近の若者は、とかリアルに聞きたくなかったよ。


 おーい。

 クレーム処理委員会作ってー。

 ていうか先生の仕事じゃないの、これー?

 おっかしいなー。


 あー、生徒会とかマジくそ……。

 わたしの口調も心なしかいつもより荒れ気味である。

 ちょっと先輩の愚痴を参考にしてたりする。


 さっきもわたしが生徒会に入ることを断れなかった原因である一年時の担任が、「お前がだらしないと俺が怒られる」とか文句を垂れていった。

 そんなに心配なら手伝ったらどうですか、という意味を含めた言葉を吐くと、用事があるからとそそくさ逃げていく始末。


 なにが用事だ。

 メインである仕事を生徒会にほとんど押しつけて一体なんの仕事をしているのか甚だ疑問である。

 職員室行ってもコーヒー片手に談笑してんだろ、お前。

 交通事故にでも遭ってしまえ。


 そんな罵詈雑言を唱えながらも、黙々と働く。

 パソコン腱鞘炎になりそうです。


 早く奉仕部行きたい。

 なんなら奉仕部で仕事したいくらいで、むしろ奉仕部で仕事した方が捗るまである。

 けれど、面目やらなんやらでそういうわけにもいかない。


 わたしがアクションを起こそうものなら副会長の瞳がキラリと光る。

 月曜に使った『書記ちゃんが好きそうなデートコースを教えてあげる代わりに作戦』はもう当分は使えない。


 今週は新入生歓迎会やら部活動紹介やらと雑務で忙しかったし、今日だって離任式があったからその片付けで時間が押している。

 デート行く暇なんてないだろうからまだ活用してないはずだ。


 ぐぬぬ……春休み前に奉仕部に入り浸っていたのが仇となったか。

 結局、春休みの間はまともな理由が思いつかずに先輩と会うことも叶わなかったし。


 ちょくちょく先輩の行きそうなところをぶらついたりしてたんだけどなー。

 サイゼとか、ラーメン屋さんとか。

 あ、なにこれ、ちょっとストーカーっぽい。

 だいたいあの人が外に出ないのが悪いんだよ。

 もうちょっとアウトドアになってくれればエンカウント率も上がるというものである。

 スイクンの方がまだ出会いやすい。

 先輩の生息図誰か作ってくれないかな。


 スイクンはちょっと古かったか……ポケモンとかゲームは長いことやってないから分からない。

 精々ルビサファが限界。

 それすらもうろ覚えだったりする。

 先輩が努力値がどうのこうの言ってるときは本当に別ゲーの話かと思った。

 ドン引きした。


 本当なら小町ちゃんに聞くのが手っ取り早いんだけど、生憎小町ちゃんも春休みは忙しかったようだ。

 なんでも、受験シーズンに遠ざけていた友達関係を少し修復するとかなんとかで家でゴロゴロしていることが少なかった。


 小町ちゃんは先輩と似て単独行動を好む習性を持っていると思ってたので、へー意外だねーと返したら、主に総武高合格者数人に重点を置いてるとか言ってた気がする。

 あくどい。

 あくどいは言い過ぎか、わたしでもそのくらいはする。

 ごめんね小町ちゃん。


 しかし、わたし街に行って知り合いやら同級生に会うことってほとんどない気がする。

 自然に避けれてるのだろうか。

 先輩と行動することが多いから都合はいい。


 あ、でもつい先日ラーメン屋で平塚先生に出くわしたな。

 先輩もだけど凄く美味しそうに食べるもんだから見てるこっちが幸せになってくる。

 まあ、病みつきになるって気持ちも分からないではないんだけど。


 平塚先生の語り癖はもう病気な気がする。

 ところどころ納得できる部分があってしまうあたり、わたしも社畜に染まってきてしまったのだろうか。

 あ、それ分かりますっ!

 とか言っちゃったし。

 特に得意でもなかったキーボードのタイミングもかなり慣れてきた。


 あー、先輩ー……。

 最終下校時刻にちゃちゃっと終わっても、片付けとかしてるうちに先輩は悠々自転車で帰っちゃうし。

 なんでこう学期始めという時期は忙しいんだろうか。

 日曜にある統一地方選挙の啓発は他の役員に任せてあるけど、来週は交通安全指導があるし、うわー、もう。


 今日はもう終わらないだろう。

 仕分けが終わったってそれだけじゃひと段落とも言えない。

 アポ取って撮影許可取ったり、行き先によっては前売りでのチケット確保しなきゃいけない。


 あー……だるい。

 ん?

 え……ちょっと待って……?

 雑務じゃなくなってる……?

 信じられない……っ!


 全然雑務じゃないんですが、これ。

 思いっきり業務だよ。

 先生がやってるの企画提供だけだよ!

 アンケート作りも集計も企画書作成も生徒への企画説明も全部生徒会に丸投げじゃんっ!


 なんなら例年通りの行事なので、先生はなにもやってないとも言える。

 ここまでいくと怒る気力もなくなってくる。

 頭痛くなってきた……。

 もうわたしここの臨時顧問になれるんじゃないかな……事務専門で。

 なら事務員か。


 そんなこんなで色々こなしてやっとひと段落なわけだ。

 しかし、行事が終わればまた仕事がやってくる。

 その後に控えている校内新聞に載せるための新聞部の取材やら学校ホームページの編集に手を回さなきゃならない。

 そこまでやってようやく一つのイベントが終わるのだ。


 仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事。

 仕事がゲシュタルト崩壊しそう。

 聞いてないっ!

 生徒会がこんなに忙しいなんて聞いてないです、先輩っ!


 サッカー部マネージャーとか春休み明けてから一切顔出せてないし。

 この雰囲気じゃ、マネージャーを理由に抜け出すなんて無理。


 奉仕部に手伝ってもらおうかとも考えたけど、代わりにやってもらうことは出来ても協力してやってもらうことはない。

 同時進行すればそりゃあ早く片付くけど、それほど切羽詰まってるわけでもない。

 わたしと他生徒会役員でこなせてしまうっていうのが一番の問題だった。

 問題は会議室で起こってるんです!


 つらい、つらいよぉ……。

 仕事は持って帰ろう……新入生の行事が多いせいで全然進まない。

 土日で終わらせる。

 そして来週の月曜には奉仕部に行こう。


 そうだ、奉仕部へ行こうっ!

 と、立ち上がって生徒会室から逃げ出したい気持ちを抑えて仕事を続ける。


 また一口コーヒーを飲み、ぽーっと生徒会室内を見渡してみた。

 いつもより人は少ない。

 でも、みんな頑張って働いてくれてるし、わたしも頑張らないと。

 ことりとソーサーにカップを置く音がキーボードを叩く音に掻き消される。


 よし!

 やるぞー!


 無理にでも張り切って、意味不明なテンションのまま胸の内で浮かんできたラブソングを唄う。

 今度先輩とカラオケ行こう。

 ていうか、これ失恋ソングだったな……。

 またキーボードをカタカタと鳴らし始めたところで生徒会室の扉が開いた。


「あ……」


 死んだ魚のような腐った目。

 アホみたいにぴょこんと跳ねた毛はその人となりを表すようだった。

 以上二点だけ見れば、もう他全部隠してても生徒会室に入って来たのが誰か即答できる。


 目とアホ毛がチャームポイントというか、ウィークポイントというか……むしろ本体?

な先輩。

 わたし達の視線を気にした風もなくずけずけと入り込んできた。

 え、なに、なにが起きてるの一体。

 嬉しいけど……わたしなんかした?


 他の役員はわたしへの用事だと一瞬で察知したのか、すぐに仕事へ戻る。

 先輩は真っ直ぐわたしのデスクへと寄ってきて、立ち止まった。


「えー……っと? なんか用です? ていうか、失礼しますくらい言いましょうよ……」


 内心の喜びをおくびにも出さず呆れた口調で問う。

 なんか不機嫌だ……いつも世の中の全てが面倒くさいみたいな顔してるけど、今日は増し増しで酷かった。

 アンハッピーパウダー250%増量でもしてるんだろうか。


「ん、ああ……悪い。なんか家に帰ってきたような気分だったわ……。うわ、生徒会室に来て家に帰ってきた気分とか、俺の社畜根性もいよいよ末期だな……」


 生徒会室が三番目のホームになっちまってるよー。

 ちなみに二番は部室で、一番はもちろんマイホーム。

 小町がいるだけでたぎってくる。

 小町マジ天使。

 帰りてー。


 とかなんとかぶつぶつ言いながらこめかみに手のひらを当てて唸る。

 はぁーっと長嘆息すると、膨らんでいたポケットから徐にMAXコーヒーを取り出してゴクゴクと飲み始めた。

 え……この人、ほんとに何しに来たの……怖い。


「で、ご用件はなんでしょうか? 冷やかしならお引き取りください。出口はあちらとなっております」


 にこーっと笑みを向けながらひしひしと怒りを伝える。

 思った以上に冷たい声音になった。

 会いたくても会えなくて必死に仕事頑張ってるときに、こんな態度で平然とされたらやはり少しくるものがある。


「お、おう……すまん。いや、なんか、小町が……お前がほとんど顔見せなくてさみしいから手伝って来いって、奉仕部に、指名依頼を……ですね……」


 冷めた目で睨んでいると、言葉尻にいくにつれて先輩の口調が大人しくなっていく。

 ふむ……小町ちゃんの差し金か……。


 うーん……いや、嬉しい。

 嬉しいんだけど……わたしもいい加減雑務というか、こんな単純な事務で頼ってもいられないっていうか。

 なんでも先輩に頼るのは止めだ。

 む、むしろ……頼られたいなー、みたいな。


「えー……、折角なんですけど、そんな切羽詰まってるわけじゃないので。わざわざ来てもらったのにすいませんー」


 言外に要らないですという意を含めて答えると、先輩は眉を顰める。


「……大丈夫か、お前? 熱でもあんのか?」

「はい?」

「いや、だってお前、俺に仕事押しつけるのが仕事みてぇなもんだろ。それなのに入学式終わってからほとんど顔見せないし……なにやってるのかと思えばちゃんと仕事してるっぽいし?」


 言いながらわたしの背後に回ってパソコン覗き込む。

 続け様に書類を手に取り、マウスでパソコンの画面をスクロールする。

 ちょっ、近い近い。

 この人無意識だとたまにすっごい距離感近くなるから反応に困る。


 先輩はへー、ほー、と納得してるのか感心してるのかよく分からない声を上げる。

 い、息が……耳にっ!

 先輩いつもこんな気分だったんですね……やめませんけど。

 しばらく書類と画面を交互に見ていたかと思うと、もう一度つぶやいた。


「いや、ほんと、大丈夫かお前……」

「ど、どういう意味ですかねぇ……?」


 必然的に口元がひくつき、眉が吊り上がってしまう。

 なんなのこの人……わたしをバカにしに来たの?

 入室直後の不機嫌さは微塵もなく、本気で心配されている顔なのが余計に腹立つ。


 わたしがちゃんと仕事してたらおかしいですか、そうですか。

 ならもう先輩に全部やらせようかなー、あははー。

 わたしだって頑張ってるのに……。


「いや、でも、そうか……与えられた仕事はなんだかんだやるもんな。存外真面目なんだな、お前。へぇ……ちゃんと生徒会長してんだ、凄えな」


 わたしの心中なんてお見通しとでも言わんばかりのタイミングで吐かれた褒め言葉にたじろぐ。

 さっきまでの怒りなどどこかへ吹っ飛んでしまった。

 先輩に褒められた。

 たったそれだけのことで、ちょっとの間だけでも頑張ったのが報われた気がした。


「あ、ありがとうございます……」


 なんだか恐縮してしまい、身体を縮こまらせてお礼を述べる。

 しかし、なにか不思議だったのか、先輩はきょとんとした顔になった。


「は? なんでお礼?」

「え……いや、珍しく褒められたので」


 素直に思いの丈を告げると先輩に訝しげな視線を浴びせられる。


「いや、それは違うだろお前……。俺は評価されるべきものを正しく評価しただけだ。別にお前にお礼を言われる筋合いはない」

「そ、そういうもんですかねー?」


 なんだか雪ノ下先輩の言いそうなセリフだった。

 受け売りなのかもしれない。


「そういうもんだ。お前はいつも通り、『そうなんですよー。頑張ってるんです、わたし』とか言っとけばいい」

「な、なんですか、それ……」


 わたしいつもそんなこと言ってるかなー?

 え、言ってない言ってない。

 言ってない……よね?

 なんだか、こう自信満々に言われてしまうと分からなくなってくる。


 自分の普段通りの発言なんて思い出そうとして思い出せるもんでもないけど……。

 そんな癪に触るような言い方はしてないと願いたい。


 そうなんですよーって……そうなんですよーって……。

 なんでそんな自分で自分の努力の程は理解してますっ☆きゃぴっ。

 みたいなアピールをしなければならないのか。

 理解に苦しむ。


 ちょっと自分を見つめ直した方がいいのかもしれない。

 んー……それにしたって、そうなんですよーはないでしょ。

 先輩が相手じゃなかったとすれば……。

 えー、そんなことないですよぉー(照)。

 とかになるはずだ、多分。


 なんだか充分過ぎるほどにうざい気がしてきた……。

 だが、そんなことないですよぉー(照)の威力には目を見張るものがある。

 それだけでジュース奢ってもらえたりするし。


 まあ、男子と遊びに行けば大抵のものは奢ってもらえるけど。

 堂々割り勘宣言をしてくるのは先輩くらいのものだ。

 今となってはその先輩もわたしの妹キャラスキルに落ちた。

 あれ? わたし最強じゃない?


 そうは言っても、あんまり先輩に奢らせるのも悪いなと感じてきたわたしがいる。

 この人基本お金持ってないし。

 バイトなんて始める雰囲気すらない。

 もはや先輩がバイトしてたらちょっと引くレベル。


「はぁ……まあ、もうなんでもいいですけどー」


 ぱしっと書類を先輩の手から奪い取り、作業を再開しようとキーボードに手を伸ばす。


「それで? なんかやることねぇの?」

「はいー……? だから、別にそこまで切羽詰——」


 先ほど述べた理由を再び口にしようとすると、わたしの台詞を遮って先輩が口を開く。


「いや、だから、切羽詰まってるとか詰まってないとか、そんなもんはどうでもいいんだよ……。奉仕部も暇だし……このまま帰っても小町にどやされるのが目に見えてる。っつーわけで仕事寄越せ」


 ん、と手で催促してくる。

 意識せずとも、ふっと呆れたような短いため息が漏れてしまった。


 なんだこの先輩……。

 普段は仕事なんてしたくねー、働きたくねー、帰りてーが鳴き声のくせに、どんなツンデレですか。

 仕事ちゃんも思わずきゅんっときちゃいますよ。


「はぁ……。それじゃ、来週の交通安全指導後に配る交通安全意識調査のアンケート作成をお願いしますー。そこの空いてるデスク使ってもらって結構です」

「はいよ。それは最初から作るのか?」

「あ、前年度の資料がフォルダに残ってるはずなのでそこまで手間はかからないと思います。では、お願いします」


 はいはいと返事をする先輩ににこーっと笑いかける。

 はぁーあ、頑張ってもっと先輩に褒められたかったなー。

 とか内心落ち込んでいると、先輩はまだなにか思うところがあるようで、じーっとわたしのパソコンを見る。


「それは分かったが……一色が今やってんのはやんなくていいのか?」

「へ? ああ、はい。これもアンケート作成も元々土日に終わらせようと思ってたので、それだけやってくれれば充分助かります」


 答えると、今度は奇異なものでも見たかのような視線を浴びせられる。

 え、なに、なんなの……。

 わたしなんか変なこと言った……?


「土日ってお前……家で仕事すんの? どこの会社員だよ。だいたいなんだこれ……役員ほとんどがそれぞれ別の作業してんじゃねぇか……生徒会に負担かけ過ぎだろ」

「あー……」


 そういうことか。

 なんと言えばいいものか。

 ぶっちゃけこの希望先の仕分けは来週中に終わらせれば間に合うんだけどな。

 わたしが奉仕部行きたいから前倒しして進めようとしてるだけだし。


「え、えっと、これ自体の締め切りは来週中なんですけどー。えー……、ほら、自由な時間を確保したいじゃないですかー?」

「……いや、それなら尚更平日にやればよくね?」


 確かに……。

 先輩は土曜日至上主義だし、先輩の脳内ではわたしは土日遊んでるイメージがついてそうだ。

 実際そうだったわけだけど、先輩と出掛けられないなら遊びにいく意義もない。


「あー……っと、わたしは放課後に生徒会室に閉じこもらなきゃいけないほうが嫌なんですよっ! サッカー部もそろそろ顔出さないとまずいですし……」

「はーん……。まあ、いい……アンケート終わったらそれも手伝う」


 終わったらって、いや、確かにすぐ終わるものではあるんだけど……。


「いやいや、流石にそこまでしてもらうのは悪いのでー……っていうか、それだと奉仕部の理念に反してません?」

「は? さっき言っただろ、小町の指名依頼なんだって。俺個人での依頼なら俺がどんなやり方しようが関係ねぇだろ」


 なんか文句ある?

 とばかりに言ってくる。

 そんなに強くこられると拒否し辛い。

 けど、やっぱり先輩に頼るのは気が引けるので、なにか理由はないかと模索していると追い打ちをかけてきた。


「つーか、小町の依頼は『手伝って』、『お前を部室に連れてくる』ことなんだから、その過程がどうあろうが問題ない。そもそもこの依頼自体が奉仕部の理念に反してるしな。だから、はっきり言っちまえば、これは小町のお願いだ」

「ぐっ……」


 反論の余地がない。

 小町ちゃんのお願いなら先輩が動く理由として充分過ぎる。

 なんだこのシスコン、キモい。


「しっかし……やっぱりどう考えてもこれは生徒会の仕事の範疇に収まってねぇだろ……。複数の教師から請け負ってるみたいだしどっかで仕事重複してたりすんじゃねぇの? どこのブラック企業だよ」

「あー……、重複は本当一回味わって泣きそうになったんで、気をつけてます」


 あのときは本気でなにやってたんだろうと自分を責めた。

 一仕事終えたと思って、他の役員が終わらした仕事確認してたら同じことやってたっていうね……時間の無駄にも程がある。


 あのときって……あれ、三日前くらいの話だったっけ。

 仕事が積もり過ぎて遥か昔の出来事のように感じる。

 ほとんど毎日、企画複数同時進行してるからどれが終わってどれが終わってないのかメモ帳見なきゃ把握できないし。


「労基法スレスレだろ……」

「まあ、生徒会は企業の労働組合・ユニオンとかとは違いますからねー。給与貰ってるわけじゃないですし。学校や教師、生徒の処遇に対する不服申し立てなんかは基本的にはできないんですよ……」

「はぁ? それは……」


 続く言葉は容易に予想できたので、被せる形で言葉を紡ぐ。


「たとえ、学校側の不当なものだとみなされる場合も、です」

「おぉ……信じられんくらい真っ黒だな、ここ」


 本当真っ黒ですよ……わたしの視界も真っ黒になってくれないかなー。

 働きたくなーい。

 けれど、わたしがサボれば誰かがその尻拭いをするわけで……もしそれに奉仕部が関わってきたらと思うと絶対にサボれない。


「近々、はっきり意思を伝えるつもりではありますけどねー……」


 先生からあれこれ言われたらなんかはいはい言っとかなきゃダメな感じがして断れないのは他のみんなも同じ。

 だからってこの状況を甘んじて受け入れられるほどわたしの懐は広くない。

 文句の一つや二つ言ってやらなきゃ気が済まない。


「ま、そりゃそうだろうな……。んで? 今残ってるのは役員がやってんのと交通安全アンケにその希望調査集計だけか?」

「まあ、そうですねー……また増える可能性もなくはないですけど」


 急に入ってきてぎゃーぎゃー言って仕事置いてくんだもんなぁ……。

 下っ端ってつらいなぁ。

 生徒会長なんて結局、生徒でしかないのだ。

 生徒の上には導いてくれる先生(笑)がいる。

 道筋も教えずにどう導いてくれるのか小一時間問い詰めたい。


「それは断れよ……。アンケと集計終わればこっち顔出せんのか?」

「は?」

「お、おお……なんかすまん?」


 あぁ……思わず高圧的になってしまった。


「はぁ……ごめんなさい。ちょっとイライラしてるみたいです……」

「あぁ……うん、そりゃあ仕方ねぇだろ。気にすんな」


 なんか先輩がいつもより優しい。

 じーんとくる。

 こんな状況じゃなきゃ優しくされないって事実に。


 うーん……いつも優しい、のかな?

 あざといあざとい言ってくるから、全く優しさ感じないだけで本質は優しいんだ。

 ふとした優しさにドキドキしてるわたしがいる。


「ありがとうございますー。それで、これ終わればそっち顔出せるかって話ですが……これ終わっても他役員のが終わってなければ手伝うというか……色々あるので、月曜にちょっと覗くくらいなら」

「……ん、そうだよな。どう考えても役職分けてる意味なくなってるし」

「そうなんですよねー……」


 一人一つの仕事をこなしているなら組織の意味がない。

 正直なところ、今の生徒会は最高決定権がわたしにあるというだけで、書記も会計も庶務も名前だけの存在だ。

 なんならわたしが事務局長であとは全員事務局員とかでいいとすら思う。


「だいたい、仕事の量に対して人員が少な過ぎんだろ……これ」

「あー、まあ、この時期ですから補佐は」

「部活勧誘、か」

「はい……」


 人はいるにはいるのだ。

 特に戦力となる人材は揃っている。

 副会長、書記、会計、と選挙で決まった役付きはいるし、庶務だっている。

 残ってくれている人は基本的に全ての業務に関わってくれている人たちだ。

 だから、遅れることはない。


「遅れることはなさそうだが……。むしろ、遅れないことが問題だな。下手に出来ちまうから余計に仕事を任されるし、こなしちまえるから出払っている人材を呼び戻すのも忍びない、と」

「おぉ……流石ですねー?」


 素直に驚いていると、そのくらいパッと見りゃ分かんだろ、と返されてしまう。

 普通の生徒なら分からないと思いますけど……雪ノ下先輩とかならとにかく。


 先輩は働きたくないからこそ働くことに詳しい。

 だから、職場の現状を即座に把握できる。


 誰よりも知っているから、誰よりも嫌がる。

 だから、仕事というものはやりたくなくてもやらなきゃいけないことだと分かっている。

 お父さんに仕込まれたとかなんとか言ってたな……。


「補佐は部活との兼任が多い……っても、お前みたいにマネもいるんだろうが。マネはこの時期忙しいよな。マネが可愛いかっこいいってだけで入部するやつだっているわけだし、看板娘みてぇなもんだ」

「はいー……、流石に生徒会を優先してとは言い辛いんですよねー。補佐って言っても常駐してるわけじゃないですから……」


 だから尚更言い辛い。

 来てもらって各役職の補佐についてもらえれば一つ一つを役割分担して効率よく進められるんだけど……。


 はぁ……この状況も、なんだかんだ言って仕事を拒否出来なかったわたしの責任だ。

 みんな先生から言われたら面と向かって拒否することは出来ないのだろう。

 けれど、わたしが生徒会長で、わたしに決定権があるんだから。


「はぁあー……」

「問題だらけだな……」


 わたしのため息に反応して先輩は改めて生徒会室を見回す。

 そしてしばしの間、なにか思索にふける。

 ふぅ、と息を吐いて動き出した。


「一色……ちょっと出てくる。別に逃げやしねぇから、待ってろ」

「……はい?」


 なんでですかと尋ねようとしても、先輩は早足で生徒会室を立ち去って行ってしまった。

 悪い予感がする。

 先輩は変わったのだ。

 主に奉仕部のメンバーを頼るようになった。


「あー……」


 後悔先に立たずとはこのことだ。

 先輩には無理にでも帰ってもらえばよかった。

 来て欲しくない未来から目を背けるように書類と格闘していると、再度、生徒会室の扉が開かれた。


「はぁ……やっぱり」


 ぞろぞろと侵入してくる面々はどれも見知った顔だった。

 つい、デスクに肘をついて額を押さえてしまう。

 頭痛い……。

 人生って思い通りいかないなぁ。


 一人は小さく手を振りながらの入室だった。

 肩までのピンクがかった茶髪に緩くウェーブを当てて、歩くたびにそれが揺れる。

 探るようにして動く視線は落ち着かず、わたしのため息が聞こえてしまったのか、小さく肩を震わせた。


「や、やっはろー? え、あんまり……歓迎されてない?」


 一人はまるでここが居城かのように堂々入ってきた。

 流れる黒髪。

 冷めた瞳の奥には僅かばかりの暖かさがあることをわたしは知っている。

 ただの微笑はその端正な顔立ちとあいまって妙な神秘さを帯びていた。


「こんにちは、一色さん」


 一人は恐る恐るといった様子で外から中の様子を窺い、意を決したような顔をしてぴょんっと飛び込んできた。

 その際にどこかの先輩にそっくりなアホ毛がふるふると揺れる。


 猫やら犬やらに飛びつかれそうだった。

 あ、猫飼ってたな……あれを遊び道具にしてるんだろうか。

 それはないか。

 小柄な背丈にショートカットの黒髪。

 取り繕うように笑顔を見せるとチャームポイントの八重歯がやけに強く主張する。


「いろはさん、こんにちはですー」


 最後に入ってきたのはなんか目の腐った不審者じみた男だった。

 ポケットに手を突っ込んでいて、その顔はふてぶてしい。

 遠目からみても猫背だと分かった。

 誰こいつ、知らない。

 無言だし。


「みなさん……こんにちはです。奉仕部メンバー揃ってなにかご用でしょうか……と言ってもきっとそこの……えっと、んー……? ひ、ひ……。こほん、なんとか先輩が連れて来たんでしょうけどー」

「おい、諦めんじゃねぇよ。え、もしかして本当に忘れてたりする? あ、だから、俺のこと先輩って呼ぶの?」


 マジかよ、知りたくなかったよ。

 と腐ったオーラを撒き散らす先輩。

 いや、本当迷惑だから出てって……。


 まあ、最初は本当に覚えてなくて先輩先輩呼んでたからあながち間違いでもない。

 ちなみに、今更比企谷先輩なんて呼ぶのは小恥ずかしいから変えるつもりはない。

 言うともっと腐臭漂わせそうだから言わないけど。


「そんなどうでもいいことは置いといて、どういうつもりです?」


 ふっとバカにするように短く息を吐き、先輩の顔を睨む。


「い、いや……大変そうだったし、問題があったから解決しに……」

「頼んでませんけど。ていうか先輩、そういうの得意じゃないですかー? わたしの真意を知って、なんでわざわざこんなことするんですかー?」


 視線を外す先輩。

 眉を吊り上げてじーっと見つめる。

 多分、心底不愉快そうな顔になってるだろう。

 けど、気にしない。


「先輩ー? わたし聞いてるんですけどー? ちゃんとこっち見ましょうよ」


 自然と高圧的な口調になってしまう。

 黙り込む先輩の態度にイラつく。

 頬杖をつき、ひたすら冷たい視線を浴びせていると口を開いたのは先輩ではなかった。


「一色さん? 手伝いに来たのにその態度は」

「いや、だから、わたしは頼んでないんですよねー? ていうか、わたし今、先輩とお話してるんですけどー?」


 いつもなら怯えてしまう冷たい声音も今日ばかりはなんともなかった。

 なんで。

 いや、一体なにをしたいんだこの先輩は。

 そんな想いが胸に渦巻く。


「む……いろはちゃん、ちょっとその言い方ないんじゃないのー?」


 言われて少し冷静になる。

 これ自体は先輩がやらかしたことだから、確かに雪ノ下先輩まで無碍に扱うのは違うのだろう。

 先輩の優しさで、受け入れるべきなのだろう。


 雪ノ下先輩と結衣先輩。

 双方の態度もわたしからしてみれば『ない』んだけど、波風立ててもしょうがない、


「はぁ……そうですね……。不快な思いにさせてしまってすみません……」


 立ち上がり、軽く頭を下げる。

 なんでこんなにイラついてるんだろう。

 思い通りにならないのなんていつものことなはずなのに。

 いや、分かってる。

 なんでなんて、そんなことはわたしが一番分かってることだ。


「ふぅ……奉仕部の依頼で来てくれたんですよねっ! 本当にごめんなさい……。じゃあ……お願いします。雪ノ下先輩には副会長の補佐を、結衣先輩には会計の補佐を、小町ちゃんには書記の補佐を、先輩には庶務の補佐を任せてもいいですかー?」


 先輩はただわたしのことを考えて動いてくれたに過ぎない。

 わたしが不慣れだから。

 わたしが使えないから。

 わたしが問題を解消できないから。

 そう思って奉仕部の面々を連れて来てくれたのだ。


 どこにも怒る必要なんてない。

 ここは素直に頼るのが普通だ。

 それが自然の流れだ。

 逆らうべきじゃない。

 わたしが持ってる感情はただの意地なんだから。


「ええ……構わないわ」


 雪ノ下先輩にも。


「うん、分かった」


 結衣先輩にも。


「はーいっ!」


 小町ちゃんにも。


「おう」


 先輩にも。


 誰にも悪気なんてないのだろう。

 ただ、そう。

 わたしのことを知らないだけなのだ。

 だから、勘違いして、すれ違って。

 いつか失われてしまう。


 それは酷く怖い。

 でも、ここで怒ったってなんにもならない。

 知って、そこで壊れてしまうかもしれない。

 わたしには、丸くおさめて次からこうならないようにすることしかできない。


 わたしのことを知りたい、とそう言ってくれた先輩を裏切るようで心苦しいけれど、こんな幼稚な感情はわたしだけが知っていればそれでいい。


「……先輩」


 出来るだけ申し訳なさそうな顔を作る。

 いや、作らなくたってそう見えるだろう。

 わたしの顔は情けないことこの上ないはずなのだから。


「ん? なんだ……?」


 わたしのご機嫌でも窺うような声色だった。

 先輩は全然、わたしのことなんて知らない。

 だから、わたしがなんで怒ったのかなんて分からない。

 わたしの真意なんてものも分かってなかった。


 なにを期待していたのだろうか。

 先輩にだって分からないことはある。

 そんなことは知っていたのに。

 わたしのことを知っていてくれているなんて。

 自惚れもいい加減にしておけと自分を諌めたくなる。


 見れば、結衣先輩も雪ノ下先輩も小町ちゃんもわたしたちの様子を窺っていた。

 心配なんだろう……先輩が。

 この人たちが大切なのはわたしではなくて先輩なのだ。

 だから、頼んでもいないのにここに来て、わたしが先輩に文句を連ねれば不機嫌になる。


 如何にも人間らしかった。


 才色兼備、容姿端麗、文武両道だなんて持て囃され、浮世離れしている雪ノ下雪乃も。

 空気が読めて、スクールカースト最上位に君臨し、漫画の中から飛び出してきたような優しい女の子、由比ヶ浜結衣も。

 社交的で、その反面一人でも生きていけて、腹黒くて、あざといと感じさせながらも可愛いと思わせる、先輩曰く天使な比企谷小町も。


 等しく、ただの人間なのだ。


 先輩がどう言いくるめたのかは知らないが、どう考えても奉仕部が手伝うのはおかしいこの状況で、頼んでいないと事実を述べたわたしを責め立てる。


 どこか決定的に間違っていた。


 エゴイストで、恋愛脳な女の子。

 頼られるのが嬉しくて、正常な判断能力を失った女の子。


 馴れ合うことを知ってしまった。

 口に出して伝えることを覚えてしまった。

 だから、ぬるい。

 対極に位置するなにかを手に入れたとき、きっと彼女達の本質は変わってしまったのだ。


 あるいは小町ちゃんだけは変わっていないのかもしれない。

 どちらにせよ、先輩側であることには変わりない。


 だから、わたしは。

 わたしがいくら納得していなくとも、こう述べるしかない。

 置いてきた仮面をつけて。


「さっきはごめんなさいでしたー! いやー、やっぱりちょっとカリカリしちゃってるみたいですー……。改めて、お願いしますねーっ? ほんと、お手伝いありがとうございますっ。助かりましたー!」


 つけた仮面ははがれない。

 今の先輩といても、決して。

 はがれない。


「あー……いや、まあこんだけ仕事してりゃストレスもたまんだろ……気にすんなよ」


 先輩を騙すことなんて容易い。

 先輩はわたしのことを知らないけど。

 わたしは先輩のことを知っているから。

 もう、同じ轍は踏まない。


「あはっ、はーい。ではでは、やっちゃいましょうっ!」


 恋に憧れ、裏で毒を吐き、気にもしてない男子に可愛く振る舞う。

 それは確かに昔のわたしで。

 もう完全に戻ることはないのだろう。


 けれど、この日。

 わたしは一部だけ戻った。

 一色いろはが一色いろはたりえるものが帰ってきたのだった。


 この日はきっと切っ掛けに過ぎなかったんだろう。

 他にも数多の理由が加わっていくのだろう。


 以来、先輩の前では。

 無意識に笑みが漏れることはなくなった。


  ****


 世の中に溢れる女子高生という生き物は男子の前でどんな姿を演じるのだろう。

 可愛らしく。

 弱々しく。

 そんな姿を演じているだろうか。


 女子高生にとって男子なんてものは飾りでしかなかったりする。


『あ、なにそれー?』


 そんな感じで軽く近づき。


『へー、相模くんってゲーム得意なんだー?』


 小首を傾げてにこにこーっと笑う。


『なんかそういうのかっこいいかもー』


 心にもない言葉で褒め称え。


『あ、照れてるー! かわいー!』


 容易く心を弄ぶ。


 それはわたしだけなのかもしれないし。

 やっぱりみんなそうなのかもしれない。


 ただ言えるのは、男子もまた可愛い女の子を求めているということだ。

 誰も彼もが可愛いわたしに寄ってきて。

 誰も彼もが可愛いわたしを求めてる。


 本物なんて求めているのはあの先輩くらいだ。

 そんなもの、幻想だ。

 本物なんてない。

 手に入らない。

 いくら願ってもいくら望んでも、現実に現れることはない。

 きっとこれは諦めるための言い訳なのだろう。

 まだ少しの間しか探していないのだから。


 誰も求めてないわたしを晒す必要なんてない。

 あの男子も、そこの男子も、わたしにそんなものは求めていない。

 だから、わたしの本当を見せればこの群れは散り散りになり、みな一様にわたしに失望する。


 勝手に期待して、勝手に失望して。

 こんな関係は嫌だった。

 どこまでも嘘くさい青春。

 楽しんでいる自分を作って満足していた。

 だから、あの言葉を聞いたときに胸が高鳴った。

 この作り物の世界から抜け出せる気がした。


 それなのに、わたしは。

 結局また同じことをやっていたのだ。


 勝手に期待した。

 先輩となら本物が見つけられるかもしれないと。

 なんでも出来る人間なんていないのに。

 先輩には全てを見透かされているなんてバカなことを思って。

 そうじゃないと知って失望した。


 まだ先輩と本物を見つける方法はたくさんあるだろう。

 溜まった鬱憤を喚き散らしてみるのは最善手だ。

 ただしそれは、その後になにかを失う覚悟がなければ出来ない。


 わたしにはその覚悟がない。

 恐ろしい。

 嫌われてしまうのも。

 避けられてしまうのも。

 壊れてしまうのも。

 変わってしまうのも。

 大切なものを失うのも。

 堪らなく怖い。

 だって。


 ——まだ、好きだから。


  ****


 結局、押し寄せていた仕事の波は奉仕部の力添えによって解消された。

 ほとんど倍速で稼働したためか、月曜には校外学習のアポ取りまで済ませられた。

 かなり前倒ししたので、火曜である今日からは数日奉仕部に顔を出せるだろう。


 全く、奉仕部メンバーの働きぶりには舌を巻く。

 何回か生徒会の手伝いを経験していたからだろうけど、手際がよく、なによりわたしの意図をしっかりと理解していた。

 各役職の補佐を手伝ってくださいという建前を見抜き、見事に各役職の仕事をこなしてくれた。


 雪ノ下先輩はわたしと副会長の補佐を。

 結衣先輩は金銭管理系統の仕事を。

 小町ちゃんはー……、まあ、書記は会議でもやらないとその本領が発揮されることはないので、上手いこと書記ちゃんの仕事の分担を図っていた。

 先輩はお得意の雑務をやりながら、結衣先輩に仕事を回したりしていた。


 雪ノ下先輩がいくら有能でも、じゃあ副会長の役割をお願いしますなんて言えない。

 役員にも面子というものがある。

 そこらへんを理解してくれたのは素直に助かった。


 四人の人員追加で、各役職それぞれの仕事が出来る。

 みんな一通りのことは出来るけれど、やはり得意分野、慣れ親しんだ分野というのは一歩勝る部分があるのだ。

 効率上昇、能率上昇、それはそのまま時間の短縮になる。


 改めて思い返してみても、やはり疑問が残る。

 なんでそこまでして早く終わらせたかったのか。

 わたしがではなく、先輩達がだ。


 先輩に頼られたから?

 落ち着いて考えると、それは理由として弱いのではないだろうか。


 いくら甘くなったと言っても、あの雪ノ下先輩が素直に頷くとは思えない。

 いや、あの人はなにか勝負を持ちかければ案外簡単に乗るか……。

 うーん。


 そんな疑問は自室から出てリビングに向かうと、お母さんの言ったセリフで解消された。


「あ、いろはおはよう。誕生日おめでとっ!」

「おはよー……誕生日……?」


 あぁ、そういえば、今日誕生日だったか。

 今まで忘れることなんてなかったけど、今回ばかりは忙しくてすっかり忘れていた。


 となれば、先輩達が急いでいた理由もなんとなく想像がつく。

 わたしの誕生日を祝ってくれるつもりだったのだろう。

 言い出しっぺは結衣先輩か小町ちゃんあたりかなー。

 先輩が最初に出したのが小町ちゃんの名前だったことから推測するに、小町ちゃんの線が強そうだ。


「お母さん、産んでくれてありがとーっ」


 大げさなお礼を述べて抱きつく。

 苦笑しつつもお母さんは受けとめてくれた。


「はいはい。早くご飯食べないと遅刻するよ」

「はーい」


 実際には、まだ学校に行くにはかなり早い時間なためゆっくり食べても遅刻することはないのだろう。

 しかし、夜は一緒に食べれないので朝食は仲良く二人で食べる。

 これが女二人しかいない我が家の鉄の掟。

 まあ、たまに書き置きとともにお母さんに破られるけど。


「いろは」


 毎日の幸せを噛み締めながら朝食を食べていると、声を掛けられる。

 お母さんの顔はどこか申し訳なさそうだった。


「ん? なにー?」

「その、お母さん今日も遅くなっちゃいそうなんだよね」


 はぁ、と深いため息を溢す。

 言いたいことは分かった。


「そんなこと気にしなくていーよ。あ、でも日曜の夜にでもケーキ食べさしてねー?」


 にぱーっと笑いかけると、お母さんはくすりと笑う。


「任せて」


 今から日曜日が楽しみだ

 わくわくしながら食事を終え、お母さんを見送る。


「行ってらっしゃい」

「行ってきます。いろはも、行ってらっしゃい」


 いつも言えないからといつの頃からか言ってくれるようになった言葉。

 満面の笑みには満面の笑みを返そう。


「行ってきますっ!」


 今日もいい朝だ、なんて思いながら、少しくつろいで学校へ向かう。


 幾人の男子から誕生日プレゼントをもらってしまった、頼んだっけ?

 頼んだんだろうなぁ、いや、頼まずともそれとなく伝えていたのだろう。

 なんともわたしらしい。

 呆れた……。


 先輩達が急いでいた理由は確定した。

 しかし、彼女達の本質が変わってしまったのもまた事実だと思われた。

 雪ノ下先輩に誕生日を祝われる謂れはないし。

 それだけ変わってしまったのか。


 それに、先輩がわたしのことを知らないのも当たり前だが事実だ。

 知っていれば知りたいとは言わない。

 あのとき、わたしは嬉しく思ったはずなのに。

 なんでそれを今、素直に喜べないのだろうか。


 ほうけていても勝手にやってくる放課後。

 いつも通りまずは生徒会室に向かい、適当に仕事をこなしてから久々に奉仕部へと向かった。


 人気のない特別棟の廊下はひんやりとした空気が蔓延している。

 迫り来る宵闇。

 薄暗い場所にいると憂鬱になってしまいそうだ。


 早足で歩いていると、目的地である扉まですぐに辿り着いた。

 なんの変哲もない、しかしどこか懐かしい扉。

 中からは笑い声と共に仄かに甘い匂いが漏れてくる。


 からりと扉を開けば、室内にいる人達は前年度より一人増した四人でわたしを迎え入れてくれた。


「おっ! いろはちゃん、やっはろー!」


 元気な声に合わせて振られる手。

 手を振り返して返事をする。


「結衣先輩、こんにちはですー」


 間もなく小さな影がとてとてと近づいてきて、笑顔を向けてきた。


「いろはさん、こんにちはですっ!」

「こんにちは、小町ちゃんっ! いやー、もうすっかり奉仕部員だねー?」


 少し腰を曲げてにこーっと微笑む。

 小町ちゃんのブレザー姿はやはりまだ見慣れない。

 生徒会室で見てたのパソコンの画面だしなぁ。

 どこか初々しいその様はいつにも増して愛くるしかった。


 改めて奥に目をやれば、この謎過ぎる部活の長と目が合う。

 微笑みは逆光でよく見えないが神秘さは健在で、むしろ逆光が後光に見える。

 あなたが神か。


「こんにちは、一色さん」

「雪ノ下先輩こんにちはーっ! 今日はお招きありがとうございますっ」


 もう分かってます。

 そんな意を含めた言葉を送ると、バツの悪そうな顔をして結衣先輩と小町ちゃんを見る。


「由比ヶ浜さんと小町さんがしつこくてね……ごめんなさい。迷惑ではなかったかしら?」

「いえいえっ! そういうことなら喜びが勝るというものですー。まさか、こんな風に祝ってもらえるとは思いませんでしたよー」


 長机には見栄えのいいホールケーキが置かれている。

 やっぱりそういうことなんだろう。

 うんうん頷いていると、最後の一人が口を開いた。


「お前、分かってんなら直で来いよ……」


 セリフだけ見れば不機嫌そうだが、その声色は暖かい。

 顔も少し気恥ずかしそうだ。


「先輩。挨拶ってしってます?」

「は? あぁ、あれな。不審者に対する牽制のやつな。よくされるから知ってるわ。むしろこの中の誰よりも挨拶について詳しいまである」


 どうだ! とばかりにふんぞり返る。

 ちょっと、この人自慢気になに言ってんの。

 挨拶される理由がかわいそう過ぎる。


 卑屈過ぎる解釈に結衣先輩がうわぁと声を漏らし、雪ノ下先輩はこめかみを押さえる。


「出た、ヒッキーの不幸自慢……」

「あなたのことだから本当にありえそうで怖いわね。けれど、祝いの席でそのような発言をするのは余り褒められたものではないわよ。一色さんに謝りなさい、卑屈がやくん」

「誰だよそれ、お前が俺に謝れ」


 いつものやり取り。

 いつも通りの光景。

 そのはずがどこか居心地が悪い。

 気色悪い。


 分からない。

 なんでこんなことを思ってしまうのか。

 失望してしまったからだろうか。

 テレビドラマでも見ているような。

 リアリティのない演劇を見せられているような気分になる。


 先輩はわたしのことなんて知らないから知りたいと言ってくれたのに。

 なかなか言葉に出せない。

 気づいて欲しいのか。

 構ってちゃんもほどほどにしておいた方がいい。

 メンヘラじゃあるまいし。


 一番気色悪いのは、わたしか。


「おーい、いろはさーん?」


 その声にはっとなる。

 なに考えてんだろ。

 めんどくさい女だなぁ、わたし。


「ん、なにー?」


 呼びかけてくれた小町ちゃんに問うと、小町ちゃんはわたしの顔を見つめたまま首を傾げた。


「んー……、いや、なんでもないですーっ! そんなことより、早くケーキ食べましょー! ケーキ♪ ケーキ♪」

「食べる食べるー」


 誰がどうとか、わたしがどうとか。

 そんなことどうだっていい。

 今はこの甘ったるい空間に混じることに専念しよう。


「そういや、なんで遅れてきたんだ? もう仕事はねぇんだろ?」


 ケーキを口の中一杯に頬張りもぐもぐと食べているとそんなことを聞かれた。

 なにこのケーキめっちゃ美味しいんだけど。

 メイドイン雪ノ下。

 ほんとなんでも出来るなこの人。


 ゆっくり味わいたいところだけど、先輩を無視するわけにはいかない。

 紅茶でケーキを飲み下し、先輩をじろーっと睨む。


「先輩ー? それ本気で言ってますー?」


 むむぅと唸って見せると先輩は少し狼狽えた声を出した。


「お、おう?」


 よく分かってなさそうだった。

 普通に分からないこともある。

 当然だ。

 人間なんだから。


 ああ、いや、こういうのはやめようって。

 思考を切り替えて、わたしの言葉を待つ先輩に目を細めて気だるげな声で答えた。


「はぁ、なに言ってんだか。仕事ってのはやめることはあっても終わることはねぇんだよ……」

「……いや、お前がなに言ってんの? この前も小町が俺の真似してたけど、なにそれ、流行ってんの? 流されすぎじゃない? 素麺なの?」


 ううーん?

 似てなかったかなぁ?

 結構自信作だったんだけど。

 小町ちゃんやったんだ、なんか親近感。


「あ、それヒッキー言ってたーっ! ていうか、いろはちゃん超似てるし」


 くすくすと笑う。

 やっぱりなぁ、先輩の言いそうなことだ。

 やったー……?


「ん、なんか先輩に似てるってのも嫌な話ですね。これは封印です」

「あ、そだよねー……ごめんね?」

「いえいえっ! 先輩の真似なんてどう転んでも傷つく未来しかないのにやったわたしが悪いんですよー!」


 あははーと賑やかな笑い声が響く中、暗いオーラを纏う人物が一人。

 長机を挟んでわたしの向かいに座っている。

 んん、誰だっけこの人?

 声をかけようとして口を開いたまま虚空に視線を漂わせる。


「あれー? おっかしいなー……、なんで俺の心が抉れてくんでしょうか。つーか、お前、なに誰だっけこの人ー? みたいな顔で見てんだよ。白々し過ぎて逆に傷つかねぇよ」

「おお、流石先輩! なんでもお見通しですねー?」


 白々しい。

 本当に白々しい。

 喋れば喋るほど上っ面の気分は高揚していくのに、反比例するように隠された心は冷めていく。


 好きなのに、嫌。

 この嫌はなんなんだろう。

 なににたいする嫌悪なのだろう。


 わたしの気分がころころと変化を見せる。

 考えないように考えないようにと遠ざけても、いつのまにか浮かんでくる。

 ほんっと、めんどくさい……。


「なんでもは知らねぇよ、知ってることだけ」

「なんですかそれ。意味わかんないです、引きます」

「え、知らねぇの……?」


 はぁぁーっと盛大にため息を吐く。

 なんかわたしが悪いみたいなんですけど。


「自分が知ってるものを相手も知ってると思ったら大間違いですよ、先輩。そんな風に思って期待してたらきっといつか失望します」


 それは自分に向けた言葉だったのかもしれない。

 わたしなりにヒントを出したつもりだったのかもしれない。

 気づいて欲しいけど気づいて欲しくない。

 知られたくないのに知られたい。


 なんだこれ、わたしは先輩にどうして欲しいんだ一体。

 あー……、やだやだ。


「おお……なんだ、やけに真面目なこと言うな」

「わたしもたまには真面目ぶってみたくなるときがあるんですよー?」


 ふふーんと誇らしげにすると、訝しげな視線を向けられた。

 心の中を覗かれている気分になる。

 この瞳にはなにが見えているのか。

 わたしの思いは見えているのか。


 いや、見えていないのだろう。

 戻ってきた仮面は厚い。

 先輩と喋っていても綻びすら見せない。

 だから、きっと、見えてない。


  ****


 からりと晴れた日の放課後。

 いつのまにか生徒会室の前にいた。


 あれぇー?

 さっきまで名も知れぬクラスの男子と話していた気がするんだけど。

 どういうことなの……。

 目覚めたら会社にいました。

 みたいな。

 それなんて社畜ー?


 はぁ、ここでうだうだやってても仕方ない。

 まだ誰も来ていないようなので、ポケットに入れっ放しの鍵を使って錠を外す。

 すぱーんと勢いよく開けると、扉ははね返りすぐさま閉まった。


 あ、危ない、手挟むかと思った。

 痣が出来たら先輩に貰ってもらうしかなくなる。

 やだなにそれ、痣作ろうかなっ!

 なんか恥ずかしい子みたい。

 無意識に耳についたピアスを撫でる。


 頭の悪そうな思考を振り払い、キョロキョロと周りを見た。

 誰にも見られてない……よね?

 見られてたら恥ずかしいじゃ済まない。

 家で枕に突っ伏して悶え苦しむレベル。


 しかも、学校にいる間中見た人と出会わないように細心の注意を払わなきゃいけなくなる。

 運悪くばったりと出くわしてしまった日には、あっという声とともにぷっと吹き出され枕を濡らす。


 よし、誰もいないな。

 おーけーおーけー。


 ふーあっぶねーと額を拭い、改めて扉を開いて入室。


「……え?」


 一歩踏み込んで硬直。

 視界に飛び込んできた存在感ある紙束。

 嫌な汗が噴き出す。

 恐る恐る手に取り、一枚一枚確認してみる。


 保護者面談に伴う教室整備。

 歯科検診診察誘導、保健委員への説明及び歯の手入れについてのアンケート作成。

 育友会常任理事会のプリント作成。

 部員勧誘における問題行動の統制。

 各部活動GW期間中の合宿申請審査及び合否決定。

 新規部活動申請の申請書確認及び合否決定。

 GW期間中の街中見回り。

 GW期間後、指導対象生徒の指導及び指導後の報告書作成。

 五月生徒総会の主要動議内容決定及び各委員会への通達、議長の選出。

 etc.


「……なにこれ?」


 ちょっと待ってちょっと待って。

 え、ほんとなにこれ?

 なんか半分以上先生の仕事に見えるんだけど気のせいなの?


 保護者面談に伴う教室整備ってなに?

 掃除?

 机を教室の後ろに運んで廊下に椅子並べるだけだよね?

 いや、自分でやれよ。


 は?

 歯科検診?

 歯?

 保健委員への説明?

 いや、直接保健委員行って説明して来いよ。

 なんで生徒会通してんだよ。

 アンケート作成も保健委員がやれよ。


 育友会ってなに?

 育友会?

 え?

 常任理事会とかやるなら委員会あるんじゃないの?

 委員会のメンバーが自分で作るもんじゃないの?


 こいつらGW仕事する気なさそうだけど、なにするつもりなの?

 街中見回り?

 なんで他の生徒が遊んでるところを生徒が探し出して指導するの?

 わたしたちにGWはないの?

 バカなの?

 生徒指導を生徒がやってどうすんだよ。


 え、なにこれ、怖い。

 怖い怖い怖い怖い。

 部活関係と生徒総会以外全く関係ないんだけど。

 この学校大丈夫?

 本気で心配になってきちゃったよ。


 ぐぐぐっと力強く書類を握りしめていると、人の気配を感じて振り向く。


「あ、こんにちはー。今日もよろしくお願いしますねっ」


 そこに突っ立っていたのは副会長と書記ちゃんだった。

 なにやら瞳に戸惑いが浮かんでいる。


「……ん? どうしましたー?」

「あ、あぁ、いや……なんか殺気立ってたから。……今も」


 少し引き気味に言われる。

 おっと、苛立ちが隠しきれていなかったらしい。

 男子に引かれるというのは先輩以外では珍しい体験だ。

 別に体験したくもなかった。


「あっ、と……すいません」

「……いや、別にいいけど。それ、なに?」


 副会長が眉間に皺を寄せて紙束を指さす。

 もう分かっているんだろうけど、一応の確認ってやつだ。


「あー……いつものあれです」

「だよな、はぁ……」


 いつも堅苦しい顔がより堅くなっている。

 書記ちゃんもどこかお疲れ気味だ。


 しかし帰るだの断れだのとは言い出さない。

 わたしが断れないのを知っているし、自分たちも断れないから。

 わたしもわたしなりに頑張っていると分かってくれているから。


 意欲的に仕事に取り組んでいる相手にたいして文句を言う人たちではない。

 最近はそこそこうまくやってるし。


 だからこそ、この意味不明な仕事を馬鹿正直にやってやるつもりは微塵もない。


「わたしちょっと出てくるんで、この部活関連の会議と生徒総会の動議についての会議どっちでもいいんで進めててもらってもいいですかー? 会議内容は議事録読んで把握します」


 はい、と副会長の手に書類を渡す。

 会議に会長が出ないというのも少し問題だけど、書記ちゃんが有能だから議事録を読めばしっかり会議内容の把握は出来る。

 それならわたしは別のことをやる。

 もっと大きな問題を解決しなきゃいけない。


「……分かったけど、会長はどこへ?」


 怪しむような視線。

 しょうがないしょうがない。

 奉仕部に入り浸っているわたしが悪いのです。

 しかし、今回はガチ用事なので瞳をしっかりと捉えて答える。


「ちょっと職員室へ。このバカげた仕事の返品作業してきまーす」


 にこーっと笑みを向けると後退りされた。

 悲しい。

 なんだろう、そんなに怒ってる風に見えるかな。

 言いようのない怒りに駆られてるのは事実だけどさ。

 ちょっと酷いです。


「ではでは、あとよろしくですっ」

「う、うん……」


 苦笑いを浮かべている副会長を横目に生徒会室を出る。

 一直線に職員室へ、といきたいところだけど、わたし一人が行ったところで適当にあしらわれるのがオチ。

 だから、最終兵器を求めてわたしは足を特別棟へと向かわせる。


 扉の前でふーっと息を吐き、誰に何を頼むかを再確認したのち、扉を開けた。


「こんにちはー!」


 見慣れた面子に挨拶をしながら足を進める。


「やっはろー!」

「いろはさん、こんにちはですーっ!」


 似たようなテンションで挨拶を返してくる結衣先輩と小町ちゃん。

 残る雪ノ下先輩も微笑み混じりに挨拶をしてくれた。


「こんにちは、一色さん」

「よう。なんか今日早くないか?」


 おっと、先輩を忘れてた。

 え、先輩がわたしを無視しなかった?

 珍しい。

 こんなことが珍しいとかすっごい悲しい。

 なにこの人、いつもどんだけ失礼なの?

 びっくりだよ。


「そうなんです! 今日はちょっと依頼があるんですよー」


 言うと、先輩の顔が曇る。

 この前は信じられないくらいやる気だったくせに。

 小町ちゃんのお願いじゃないとやる気が出ないとか、マジシスコン。


「先輩キモいです」

「いきなり罵倒かよ……」

「あっ……いや、今のはつい口からこぼれてしまったというかですねー」


 ついついね。

 うん、よくあるよねー。

 しょうがないよねー。


「え? お前いつもそんなこと考えてたの? つーか、全然フォローになってないし」

「は? いつも先輩のこと考えてるわけないじゃないですかなんですかバカなんですか独占欲ですかちょっとくらい他のことも考えさせてくださいごめんなさい」

「いや、だからなんでそうなるの? おかしくない? え、もしかして俺がおかしいの?」


 えー? あれー?

 と鳴き声を上げている先輩を無視して、たった今荒くなった呼吸を落ち着かせる。

 そして、依頼人として奉仕部の面々の前に立った。


「小町の初仕事ですねーっ! なんなりと!」


 目をキラキラと輝かせて既に承諾する気満々な小町ちゃん。

 その横で結衣先輩がなんだろーと首を傾げ、雪ノ下先輩がこめかみを押さえる。

 苦労が伝わってくる。

 雪ノ下先輩ふぁいとです!


「はぁ……小町さん。まずは依頼内容の確認。その後受けるか否かを検討し、受けると決まってから動き出す。内容も聞かないうちからあまり安請け合いしてはいけないわ」

「は、はーい……ごめんなさいです」


 雪ノ下先輩の諌めるような口調に、あぅぅ……と身を縮こまらせる。

 ていうかさっき初仕事とか言ってたけど、お兄ちゃんのお願いはノーカンなのね。

 まあ、わたし頼んでないしなぁ。


「それで? 依頼というのは?」


 真っ直ぐ凛とした瞳を向けてくる。

 今回の依頼は別段難しいものじゃないし、日を跨いだりするわけでもない。


「依頼、というか……お願いに近いんですけどー……。雪ノ下先輩に職員室まで同行してもらいたいんです」


 簡単なお仕事だ。

 拍子抜けしたのか、雪ノ下先輩は目をぱちくりさせる。


「……同行? 理由は?」

「そうですねー……。まずは、これ、見てください」


 持ってきた紙束を机の上に置く。

 細くしなやかな指が汚い紙束に触れる。

 そんな紙くず触らせてしまってごめんなさい。

 こんなものは書類と呼ばない。

 大人の汚い部分が寄せ集まった紙くずだ。


 一枚一枚確認していく。

 重ねるごとに雪ノ下先輩の表情は曇っていった。

 結衣先輩と小町ちゃんも横から眺める。

 その顔も当然のように険しいものになっていた。


 最後の一枚まで目を通し、雪ノ下先輩は紙くずを机に置いてふぅとため息をつく。

 それに追従するように結衣先輩が口を開いた。


「これ……生徒会の仕事なの?」


 疑問形の口調ではあったが、結衣先輩も分かっていて聞いているのだろう。

 じゃじゃーん、ここで問題ですっ!

 これは生徒会の仕事でしょーかっ?

 正解は、絶対に違いますっ!

 シンキングタイムとかいらない。


 論理的にでも倫理的にでも道徳的にでもご自由に考えて下さって構わないが、真実はいつも一つである。

 いや、道徳的に考えたらそうならないのかもしれなかった。


 あれ、答えは一つじゃないとか言われるし。

 いやでも、これは圧倒的にモラルが欠如してるので、やっぱりこの答えに限っては一つ。


 絶対に間違っている。


「いや、違いますよー。全然生徒会の仕事じゃないです」

「だ、だよねー……あはは」


 また怒りが滲んでしまっていたのか、結衣先輩の笑い声は乾いたものだった。

 ひそひそと声が聞こえてきたのでそちらに目を向けると小町ちゃんが先輩に耳打ちしている。


「お、お兄ちゃん、総武高ってこんなに酷いの……?」

「は? いや、俺見てないから知らん……なんかハブられてるみたい」

「お兄ちゃん? 今、小町真面目な話してるんだけど?」

「……え? なに? そんなに酷いの? いや、この前のも結構酷かったけど……」


 先輩の言葉を耳ざとく聞いていたのか、雪ノ下先輩が結衣先輩に、結衣先輩が小町ちゃんに、小町ちゃんが先輩にと紙くずを回す。

 ようやく手に入った紙くずを……なんかこの言い方だと先輩が紙くず欲しがる変な人みたいだ。

 なにこの人、そんなに紙くず欲しかったの?

 親近感湧いちゃったのかな。


 そんなことを考えてるうちにも、変な人代表な先輩はパラパラと目を通していく。

 最後にとんっと机で紙くずを揃え、わたしに返してくる。

 受け取りたくもないが受け取らないわけにもいかないので、渋々受け取る。


「まあ、あれだな……、これは流石にないな」

「ですよねー……?」


 げんなりとした表情になるとかわいそうなものでも見るような目で見られる。

 わたしってば本当かわいそう。


「んで? 依頼はこの現状をなんとかしたいってとこか」

「は?」


 なに言ってんだろこの先輩……。

 わたしの話聞いてたのかな。


「いや、さっき言ったじゃないですか。依頼は雪ノ下先輩に職員室まで着いて来てもらうことです」

「それになんの意味があるのかしら? 私が先生方に説得を試みればいいの?」


 言って、真剣な面持ちのままわたしに目を合わせる。


「いえいえ、それは自分でやりますので雪ノ下先輩は基本的に後ろに立っていてもらうだけで構いません。だいたいそれだと奉仕部の理念に反しているじゃないですかー」

「え、ええ……それはそうなのだけれど、私がやった方が」


 雪ノ下先輩も思うところがあったのだろう。

 直接文句を言ってやりたいという気持ちが伝わってくる。

 けれど、そんなことは頼んでいない。

 だから、雪ノ下先輩らしからぬ言動を遮り強めの口調で言う。


「自分で出来ます」


 室内がしんと静まりかえる。

 わたし以外の誰もが驚きを露わにしていた。

 それもそうだろう。

 きっと、前のわたしなら言わないセリフだ。


 ここで甘えて雪ノ下先輩に全てを任せるのが、今までのわたし。

 でも、そのままじゃいけないと思ったから。

 自分で出来ることは自分でやりたいから。


「そう……」

「はい。とは言っても雪ノ下先輩にも少し話してもらいますが」

「と言うと?」

「雪ノ下先輩には奉仕部の部長として、この前の仕事に奉仕部が介入したという事実を述べてもらいます。それ以外は本当に立っていてもらえれば充分です」


 そこまで言うと、雪ノ下先輩は得心がいったようだ。

 先輩も軽く頷いている。


「そういうことね……」

「なになに? どういうことなの?」


 結衣先輩は理解しかねているらしく、雪ノ下先輩とわたしの顔を交互に見て説明を求める。


「つまり、生徒会だけでは処理しきれていないという現状を先生方に分かってもらうということよ。この仕事の押し付けは前期に生徒会の仕事が少ないから回されている。それなら、許容量を超えた仕事は受ける必要はない」

「へ、へー……」


 本当に分かったのかよく分からない返事をする。

 まあ、結衣先輩に詳しく説明する必要もない。

 会議を任せてきてしまったし、早く行きたい。


「そういうことです。まあ、全部返品するつもりですが」


 にこっと笑うと、雪ノ下先輩にマジで? と視線で問われる。

 勢いよく頷くと雪ノ下先輩は目を俯かせて少し逡巡し、再び顔を上げた。


「他にも仕事があるのかしら?」

「正解ですっ! 生徒総会関連のものと部活関連のものがあります。加えて、校外学習の事後処理と職場見学の準備。これだけあれば他の仕事を断る理由として充分じゃないですかー?」

「……そうね。そもそもが生徒会の仕事ではないのだし」


 うんうん頷き、雪ノ下先輩は立ち上がる。


「その依頼、受けるわ。さっそく行きましょう」

「はいっ!」


 颯爽と出て行く雪ノ下先輩を追いかける。

 去り際に「用心棒かよ……」というつぶやきが聞こえた気がしたが、無視した。


 職員室へ向かう途中、雪ノ下先輩が再び口を開く。


「由比ヶ浜さんや小町さん、比企谷くんを呼ばなかったのは……単純に必要ないからかしら?」

「あー……、まあ、それが一番の理由ですねー。別に何人もいる必要ないですし」


 ここで一番と言ってしまったのは失策だったかもしれない。

 当然、雪ノ下先輩はそこを追求してきた。


「二番もあるのかしら?」

「え、あ、まあ……」

「教えてもらっても?」

「……怒らないでくださいよー?」


 ちらりと雪ノ下先輩の顔を窺うと、少し不機嫌そうな顔をしていた。

 しかし、なんでいきなりそんなことを……あぁ、先輩の声聞こえてたのかも。


「それは聞いてみなければ分からないわね」

「ですよねー……。まあ、いいですけどー。その、ぶっちゃけ来てもらっても邪魔というか……雪ノ下先輩の雰囲気が柔らかくなってしまうんですよねー」


 雪ノ下雪乃という人間は、自分に親しくしてくる人間に滅法弱い。

 普段は冷酷な笑みも結衣先輩が話しかければ優しい笑みに変わる。

 わたしは馴れ合いが心地よくなってしまった彼女を求めているわけではない。


「それは……いつも私が冷たいということかしら?」


 そう言った雪ノ下先輩はどこかさみしげだった。


「まあ、他の生徒から見ればそうなんじゃないですかねー……? わたしも最初は怖かったですし……」

「そ、そうなの……」


 目に見えて落ち込む。

 だが、雪ノ下先輩も分かっていてやっていたはずだ。

 敵意を近づけないように。

 近づいてくる者を容赦なく叩き潰せるように。


「今はその怖さを頼りにしてますよー? 雪ノ下先輩の有名度は校内随一ですし、そもそもが総武校一の秀才。先生もあまり強いことは言えないでしょう」

「用心棒、ね……よく言ったものだわ」


 やっぱり聞こえてた、先輩のバカ。

 用心棒なんて人聞きの悪い。

 わたしはただ後ろに雪ノ下先輩が控えているという事実が……やっぱり用心棒か。


「……ごめんなさい」

「はぁ、別にいいわ。私だってもともとはそのつもりでやっていたのだし。それに……」


 そこで言葉を区切る。

 そんなところで止められては気になるので、続く言葉を催促してしまう。


「それに?」

「その、こ、後輩の頼みだもの……」


 いつも通りの仏頂面だったけれど、頬は少し赤らんでいた。

 それはやっぱり雪ノ下先輩らしからぬ態度なんだろう。

 けど、たまにはこういうのも悪くない。


 ていうか、わたしって意外にも受け入れられてたのか、なんか嬉しい。

 にまにまとした笑みを浮かべていると、雪ノ下先輩が軽く咳払いをして立ち止まる。


「着いたわね」

「そうですねー……」


 職員室の扉に手をかけてふうと息を吐く。

 大丈夫。

 出来る。

 自分に言い聞かせて、扉を開いた。


「失礼しますー」


 職員室に入ると、まずコーヒーの匂いが出迎えてくれた。

 目標へと目をやると、楽しくおしゃべりしながらコーヒーを飲んでいる。

 わたしに仕事を押しつけて自分は歓談に夢中とはいい度胸だ。


「……あの人です」


 そっと雪ノ下先輩へターゲットを伝える。

 確認すると同時に眉間に皺が寄った。


「……そういえば、担当顧問が変わっていたのだったわね。なるほど、だからあんな……」


 離任式で前任が他校へ行ったのは知っていたようだ。

 前任との面識はあったらしく、仕事の押しつけは新しい顧問によるものだと推測する。


 それはその通りだ。

 事実、春休み前はたいした仕事があったわけでもないのにそこまで仕事が回ってくることはなかった。


 今回は運が悪かった、悪い先生に当たってしまったと言えばそこまでだが、はいはいと従ってやるつもりは毛頭ない。


 しかしあいつのせいだけとは言えない。

 他の教師の仕事まで回ってきているからだ。


 あいつが安請け合いして流しているのだうが、あの態度を見るに生徒会に頼んでいるのは他の先生だって容易に推測できるはず。

 ならば、それに感化されてよしとしてしまっているこの学校の教師全体に問題がある。


 今回でその流れを断ち切る。


「行きましょう」


 雪ノ下先輩の声色は氷点下にまで下がっていた。

 いつも正しくあろうとする雪ノ下先輩には刺激が強かったらしい。

 まあ、この場合に限っては、いい発破剤になったと思っておこう。


「はい」


 強い歩調で担当顧問の元へと向かっていく。

 職員室がそんなに広いわけもなく、辿り着くのに要したのはほんの数秒だった。


「お話中に失礼しますー。先生、少しお時間よろしいでしょうか?」


 目の前まで来てそう告げる。

 丸々とした体型にふてぶてしい顔つき。

 髪の毛はあまり肥えてない。


「おお、一色か。なんだ? なにか用か?」


 わたしに顔を向けて心底不思議そうに聞いてくる。

 めっちゃ腹立つ。

 先生は雪ノ下先輩も目に入ったのか、少し戸惑うような顔になった。

 やっぱり、先生にも雪ノ下オーラは効くらしい。


「えーっと、まあ、用ってほどのことじゃないんですけどー」


 間延びした声で言う。

 そんなわたしの態度が癇に障ったのか、先生は眉を顰めた。


 気が短いなぁ、毛も短いし。

 なんなら足も短いぞこの人。

 ダックスフンドか。

 いや、ダックスフンドって結構細身だし……豚?

 頭も肌色だし豚だな。


「はやくしろ。俺は忙しいんだ」


 急かすように言う。

 思わず吹き出してしまいそうだった。

 忙しいって、デスクの上になにも置かずにそんなこと言われても信憑性0なんですけど。


「申し訳ありませんー。では……」


 そこで一旦言葉を区切り、ばんっと手に持っていた紙クズをその綺麗なデスクに叩きつけてやった。

 いきなりのことに目をぱちぱちと瞬かせる。


「これ、生徒会では承りかねます。ご自分でなされてはどうでしょうか?」

「……は?」


 ぽかんと口を開けて固まる。

 しばしの間が空き、ようやく事態を飲み込んだのか豚は鳴き声を荒げる。

 躾しっかりしとけよ。


「どういうつもりだっ! 正当な理由があるんだろうなっ?」


 そのセリフは想定済みだ。

 なんのために雪ノ下先輩を連れてきたと思ってる。


「現在、生徒会では生徒総会関係と部活関係で複数の仕事が行われております。加えて、『生徒会とは関係のない仕事』が二件」


 生徒会とは関係のない仕事、のところを強調する。

 ぶっちゃけ、この時点でおかしいのだ。

 そんなものやってやる理由はない。


「先日頼まれた校外学習と職場見学です。これ以上は生徒会の手には負えません。それにこれ、全て生徒会管轄外の仕事ですよ? 一体先生方はなにを?」


 デスクに置かれたコーヒーをちらりと見て、ふんっと嘲るように笑う。

 挑発は最大の交渉手段だと思う。

 冷静でない相手との交渉は楽に進む。

 ドラマかなんかでやってた。


 しかし、効果がなかったようだ!


「俺は俺で忙しい。今は休憩していただけだ。これは生徒会にやってもらう」


 偉そうに椅子にふんぞり返り、腕を組んだ状態で鼻を鳴らす。

 ほんと豚だなこいつ。


「いや、ですからー。生徒会も今は手一杯なので、無理です」

「この前ははやく終わらせただろ。今回も出来るはずだ。出来ないと思っていてはいつまでも出来ない。やろうと思う意志が大事だ」


 為せば成る為さねば成らぬ何事も。

 そんな有名な言葉を少し自分の言葉に変えていい事言ったみたいな顔されても困る。

 だいたいなに一ついい事言ってないし。


「根性論で語らないでください。現実を見て、ご自身の計画性のなさを認識した方がよろしいかと。それともなんですか? わたしたち生徒会がやろうと思ってやれば、もし出来なかったときの責任を取ってもらえるんですか? それでよければやりましょう。任せてください。絶対に間に合いませんが」


 言ってやると、豚は渋面をつくる。

 ここまで言われては任せられないだろう。

 わたしがやろうと思ってやったかなんて、生徒会室に来ないこいつには分かりやしない。


 であれば、わたしの言葉だけが真実。

 わたしが出来なかったと言えば、それはどうしても出来なかったのだ。

 自分が怒られることになる。


「だが、この前は……」


 この前は、この前はと渋る。

 前回出来たからと言って今回も出来るなんて思わないで欲しい。


 今回出来なかったものが次回出来るようになることがあるように、前回出来たものが今回出来ないということもある。


 それがもし同じメンバーなら泣き言だろう。

 疑いようもなく甘えだろう。

 だが、違う。


 こいつは知らないからそんなことが言える。

 いつだって、どこでだって、誰かが手伝ってくれるなんて保証はない。

 いつだって、どこでだって、これからは、わたしは自分でやりたい。


 視線を半歩後ろに下がっていた雪ノ下先輩に向ける。

 雪ノ下先輩は頷いてわたしの隣に立った。


「横から申し訳ありません。三年の雪ノ下雪乃です。前回の件ですが、早期に終わらせることが出来たのは、私が部長を務める奉仕部の関与があったからです」


 冷酷に響く。

 字面だけ見れば、ただ淡々と事実を述べているに過ぎないはずなのに、それを聞いた者は身を竦ませた。

 冷たい声音は職員室を一瞬で静寂に包む。


 ごくりと、誰かが息を飲む音が聞こえた。


「そ、そうなのか……?」


 恐る恐るといった様子でわたしに真偽を問う。

 そんな臆病な彼にわたしははっきり現実を突きつけた。


「はい、その通りです。奉仕部の助力がなければ仕事は終わらなかったかと」


 嘘は言ってない。

 本当に、奉仕部の助力がなければ仕事は(早期に)終わらなかった。


 雪ノ下先輩にじと目で見られる。

 あ、悪意はないんですよー?

 本当ですよー……?


「……こほん。そもそも、これとか全く生徒会関係ないですよねー?」


 机に置かれた紙クズのうちの一枚。

 生徒指導関連のものをとんとんと指で叩く。


「そ、そうか……だが、俺も忙しくてなぁ。悪いが今回も奉仕部に手伝ってもらえないか?」


 おぉ、そうくるのか、お前。

 まさかそのパターンがあるとは。

 ていうか、生徒指導の件は無視しやがった。


 やはり先生と生徒では雪ノ下オーラの効果に程度の差が出るのだろうか。

 それとも転任してきたばかりだからか。

 どうしようか、と考えているところで、ガラガラと職員室の戸が開いた。


 静まったままの室内にその音はよく響く。

 つい視線を扉へと向けると、そこには馴染み深い顔があった。


「はぁー……疲れた。……え?」


 一歩踏み込むと同時に異様な雰囲気を感じ取ったのか、その人物は長い黒髪を靡かせてくるりと方向転換する。


 逃がしません。

 悪いけど、ちょっと利用させてもらおう。


「平塚先生っ!」


 名を呼ぶと、平塚先生はぴたっとその足を止めて首だけこちらに向ける。


「んー? 一色じゃないか、なにをしているんだ?」


 わたしの姿を認識して、つかつかとこちらへ歩み寄ってくる。

 あまり近づいて逃げられないのはかわいそうなので、到着を待たず質問を投げかける。


「先生ー。生徒指導を生徒がやるのって問題じゃないんですかねー?」

「は? なにを言っているんだ君は。そんなもの問題に決まっているだろう? 生徒を指導するのは我々教師の役目だ」


 凛とした風体で堂々答える。

 平塚先生はやっぱりまともだ。


「ありがとうございますー! それだけ聞ければ充分です。引き止めてしまってすみません」


 暗に出て行った方がいいと伝える。

 その意図を察してくれたのか分からないが、んーと首を傾げて、じゃあと平塚先生は職員室を後にした。

 平塚先生のおかげか職員室は再びざわめきを取り戻した。


 改めて豚に向き直り、さて、と話を切り出す。


「だそうですが? わたしとしても普通はそうだと思いますが。そこのところ先生はどうお考えで?」

「ぐっ……」


 忌々しげに扉を睨みつける。

 平塚先生ごめんなさい。

 もし押しつけられたら、お詫びにラーメン屋にでも付き合ってあげよう。


「ま、まぁ、生徒指導の件はいい。というか、なんで生徒会の方に行っているんだろうな? ふむ……混ざってしまっていたようだ」


 なっ、こいつ!

 なんて白々しい……本当に人間か。

 いや、豚だった。


「ふーん……そうですかー。では、そういうことで。他の件に関しても生徒会で承るつもりはありませんので」


 さっと踵を返して歩みを進めようとすると、引き止める声がした。


「待て!」

「はぁー、なんですかー? まだなにか?」


 心底嫌そうな顔をして尋ねると、ばっと目の前に紙束が差し出される。

 よく見れば文字が書いてあった。

 これ、紙クズだ。


「一つ減ったんだ。なら出来るだろう」

「……はい?」


 なに言ってんだこいつ。

 出来ないから持ってきてるんですけど。

 頭悪いのかな。


「ですから、手に負えないと先ほど申し上げましたよねー?」

「なんでだ? 奉仕部が手伝えば出来るだろう」


 ああ、そんなこと言ってたな……。


「いや、奉仕部の理念はあくまでサポートなんで。前回はやむなく携わって頂いただけであって、毎回そういうわけにはいきません」


 明確に拒否の姿勢を貫く。

 が、まだ諦めていないようだ。


「なら手伝え。どうせ奉仕部なんてたいして依頼が来るわけでもないのだろう? そんな部の存在を認めるわけにはいかない。実績を残すためにも生徒会の手伝いをしておいた方がいい」


 なんだこいつ。

 ほんと、なんなのこいつ。

 なんでそこまで頑なに拒否するの。

 どこまで腐ってるんだよ……。


 これが大人?

 楽を覚えるのが大人になるってことなの?

 違う。

 違うはず。


 平塚先生だって、他の一部の先生方だって、わたしのお母さんだって、毎日、毎日、しっかり働いてる。

 嫌だ嫌だと思っていても、それがやらなきゃいけないことだから。

 自分の義務を果たして、それで生きてる。


 それなのに。

 それなのに、なんなんだこいつは。

 生徒に仕事を押しつけるのを当たり前だと思ってる。

 必死に働いている人を、真面目に頑張っている人をバカにしてる。


 そのことがわたしには許せない。


 わたしだって、頑張る方向性を変えただけでいつだって頑張ってきた。

 可愛く。

 みんなが求める自分になるために。


 奉仕部に手伝ってもらうにしても、出来ることはやってきた。

 なんでそんな。

 そんな適当に生きていられるのか分からない。


 なんかイライラしてきた。

 次から次へと想いがこみ上げてくる。

 嫌いだ。

 わたしとは絶対に合わない。

 こういうやつは嫌いだ。


 なんて言えばいい。

 考えると、横でぐっと拳を握りしめる音がした。

 見れば雪ノ下先輩の拳は固く握られていて、ふるふると震えている。

 怒っていた。

 それでも、黙ってくれている。

 わたしが「自分で出来る」と言ったから。


 なら、どうする。

 落ち着け。

 怒りに任せたってたいしたことは言えない。

 わたしにはわたしなりの——


「ほら、早く受け取らんか。俺は忙しいんだ」


 相も変わらない傲岸不遜な態度に、何かの切れる音がした。

 一体、何が切れた音だったのだろうか。



「はぁ? あんた、頭おかしいんじゃないの?」



 それは誰の言葉だったろう。

 三浦先輩の言いそうな言葉であり、雪ノ下先輩の発しそうな声音で、結衣先輩の声のようによく通り、平塚先生の態度に似た威圧感、そしてどこか先輩の持っていそうな憤ぎりが感じられる。


 怒気が職員室を冷気で包み、わたしも先生も雪ノ下先輩もが動きを止めた。


 そして、思い出したようにわたしの口は動き出す。

 圧倒的に。

 つけいる隙もなく。

 次から次へと言葉が飛び出していく。


 気づけばわたしは雪ノ下先輩の腕を掴んでずかずかと職員室の扉へと足を進めていた。

 ばんっと勢いよく扉を開ける。

 一歩、廊下に踏み出し、去り際に一言。


「仕事しろっ!」


 ぴしゃりと扉を閉めると、息が切れているのが分かった。


「はぁっ……はぁっ……」


 や、やっちゃったー。

 なに言ったのか全然覚えてないけど、すごいことを言っていた気がする。

 やっと身体の主導権が戻ってきたことに安堵し、足早にその場を離れた。


 職員室から離れて怒りの向くままに歩いていると、雪ノ下先輩から戸惑いがちに声をかけられた。


「い、一色さん……その、手を……離してっ……くれないかしら?」

「あっ! す、すいませんっ!」


 ぱっと手を離して雪ノ下先輩を見ると、肩で息をしている。

 そう言えば体力ないとか言ってたっけ。

 階段とか駆け上がって来ちゃったし。

 ていうか、ここどこ……と、周りを見回す。


 廊下、と言ってしまえば平坦だが、目の前には階段が続いており、その先には机が積まれている。

 どうやら、屋上に続く階段の前まで来ていたようだ。

 いつかの秋にこそこそと登った、特別棟の屋上へ続く階段。


 あのとき彼は、なにを思ってあんなことをやったのだろうか。

 その真意はいまだしれない。

 隣で佇む彼女なら、あるいはなにか知っているのかもしれない。

 が、そこに踏み込む勇気は出なかった。


「すいません……戻ります。ありがとうございました」


 大げさにお辞儀をして踵を返すと、不意に制服の裾が引かれた。

 なにかと思い振り返れば、そこには柔らかな微笑みをたたえる雪ノ下先輩の姿があった。


「……一色さん。少し、お話をしましょう」


 落ち着いた声音は自然とわたしを頷かせる。

 流麗な動きで階段を登っていく雪ノ下先輩に引かれるように、わたしは一つ目の段を登った。


  ****


 屋上に踏み入ると一陣の風が春の香りを運んでくる。

 暖かくなってきた四月中旬。

 とは言え、もう夕方だ。

 日は完全に沈みきっていないが、薄暗い。

 当然、身体に吹きつけた風は冷たく、思わず身体をぶるりと震わせてしまう。


 部活の行われている校庭を照らす明かりが、屋上の真ん中付近で立ち止まった雪ノ下先輩を微かに照らす。

 それはスポットライトと言うにはいささか心もとない。


 薄暗さと照明の灯りにたいした差はなく、雪ノ下先輩が浮き立つこともない。

 だから、ここでこれから起きることが、フィクションじみた青春劇ではないことを実感できた。


 雪ノ下先輩は再び吹いた柔らかい風に髪を靡かせながら、こちらを振り向く。

 なにか達観したような笑みを浮かべて口を開いた。


「あなたも怒るのね」


 言われて先のことを思い出し、恥ずかしさがこみ上げてくる。

 なにやってんだろ、わたし。


「それは……はい。わたしも、人間ですからねー……すいません」


 結果的に巻き込んでしまったので、雪ノ下先輩ものちのち怒られることになるだろう。

 なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 時価数千万の陶器にひびを入れてしまったような絶望感が襲ってくる。


「別に怒っているわけではないわ。私も……その、なんて言えばいいのか分からないのだけれど……。そうね、すっきりした、と言うのが適切かしら」


 ふ、と呆れたようにため息を吐く。

 少し間を置いて恐る恐る言葉を発した。


「あれは、私には出来れば勘弁して欲しいわね」

「えっ! いやいや、やりませんよっ! わたしが言い負かされるのが目に見えてるっていうか……だいたい、雪ノ下先輩に怒る理由がないですし!」


 慌てて言葉を返すと、少し考えるような仕草をして首を傾げる。


「そう、かしら? あれは、正直私でも勝てる気がしなかったのだけれど。あなた、正論しか言わないし」

「そ、そうだったんですか? その、あんまり自分の言ったこと覚えてないっていうか……」


 正論しか言わないって、多分思ったこと全部吐き出しただけだと思うんだけど。

 過大評価にもほどがある。


「そう。でも、凄かったわよ? 仕事とはなんたるかを克明に語っていたもの。少し感心してしまったわ」

「あ、ありがとうございます……? で、でも、恥ずかしいのでもうこの話は終わりでお願いしますー……」


 雪ノ下先輩はいたずらっぽい笑みを見せる。

 分かっててやってるでしょこの人。

 そうね、となにを言おうか思索にふける。

 わたしを見たかと思うと、ある一点で目を留めた。


「それ、つけているのね」

「え、あ、まあ、せっかくもらいましたから……」


 なんとも抽象的な言葉だったが、それがなにを指すのかはすぐに分かった。

 少し気恥ずかしくなって、ピアスを撫でる。

 誕生日プレゼント。

 先輩からの、だ。


 身につけるものとか重いですよー、なんて言っちゃったけど、やっぱり嬉しい。

 これは先輩が恋愛に疎いから起きたサプライズ。

 いや、でも、先輩ならそういうトラウマもありそうだよなー。

 なんだろ、そう考えると……小町ちゃんかな?

 どちらにせよ嬉しいことに変わりはない。


「ふふっ、変わらないのね、あなたも」


 その言葉に少し戸惑う。

 自分なりに変わったつもりでいたから。

 いや、雪ノ下先輩が誰かを変わっていないと思っていたことに、なのかもしれなかった。


「そ、そうですかねー……」


 自然と顔を俯かせてしまう。

 優しい声は再び紡がれた。


「そうよ。変わらない……、変わっていないのよ、誰も」


 胸が抉られるような気分だった。

 一体、この人はどこまで分かっているのだろうか。

 ふと、そんなことを考える。


「そう、ですか。ちなみにー、どこらへんが……ですかねー?」

「そうね、意地っ張りなところかしら?」

「うっ……」


 もう全て見抜かれているらしかった。

 しかし、それでもあの頃とは変わったと自分では思っていただけに、なんだか悲しい。


「彼に……、比企谷くんの口車に乗せられてしまう人は大抵意地っ張りよ。ソースは私」


 続けてつらつらと人物を挙げていく。

 知っている人も、知らない人もいた。

 きっと、それが先輩の、先輩達の救ってきた人達なのだろう。


「変わってしまったと、そう思った?」


 その問いに頷きで返事をする。


「そう。それなら……それはきっと、真似をしているだけだわ。誰一人、変わった者はいないのだから」


 雪ノ下先輩が見上げた空は曇っている。

 時間が時間だし鼠色だ。

 これが綺麗な夕景ならあるいは嘘くさいと感じられたのかもしれない。


 この場にはなにもかもがなかった。

 舞台も役者も機材も足りない。

 演じることなんて出来ない。

 雰囲気に流されることもない。

 ただありのままの真実しかなかった。


「真似……?」

「そう、真似。私も彼も彼女も、足りないものがあって、真似をすることでそれを補おうとしている。由比ヶ浜さんは私と比企谷くんを、比企谷くんは私と由比ヶ浜さんを、私もきっと由比ヶ浜さんと比企谷くんを真似ている……」


 なんとなく、言いたいことは分かった。

 それはもしかしたら誰でもそうなのかもしれない。


「真似たいわけではないし、きっと、いいものでも、ないのだけれど……。わたしはそれが分かっていて尚、止められない」


 意識的にしろ、無意識的にしろ。

 誰だって自分にないものを求めてる。

 いつだって。

 だからそれを持っている人に惹かれてしまう。

 わたしが先輩に惹かれたように。

 きっと、わたしのもただの真似事だった。


「でも、人はそう簡単には変わらないし、変われない。真似をして表面上は取り繕えても、その実本質はなにも変わっていないのよ……」


 本質、それは一体なんなのだろうか。

 わたしの本質とはなんなのだろうか。

 そして、彼女の本質とは。


 分からないものを変えることは出来ない。

 自分を変えるには、まず自分を理解しなければいけないのかもしれない。


「変わると一口に言っても、成長と変化は違う。誰かの真似ばかりして、それではまるで妖怪変化よ。狐の化かしと変わらない。生まれてからずっと……真似をしてきたから分かる」


 驚きは隠せなかった。

 雪ノ下先輩が一体今まで誰を真似てきたのか。

 結衣先輩と先輩以外の誰かの存在。


「……誰の、ですか?」


 聞くと、雪ノ下先輩は虚空を見つめたままつぶやいた。


「姉さんよ。私はずっと、姉さんの真似事をしてきた」

「お姉さん、ですか」


 雪ノ下先輩のお姉さん。

 はるさん先輩かー。

 真似をしてきたということは、はるさん先輩は雪ノ下先輩にはないものを持っているということになる。

 上位互換だと思えばいいのか。


「まあ、姉さんの話はいいわ……、あまり考えたくないし。あなたの見てきた比企谷くんは変わっていない。奉仕部も変わっていない。それだけ分かっててもらえればいいの」

「そうですかー……」


 そう言われてしまえばそう答えるしかなくなる。

 そしてまたしても雪ノ下先輩は核心をついてきた。


「それと。一色さん、言わなければ伝わらないこともあるわよ」


 逃げてきた。

 ずっと、怖くて。

 手放したくなくて。

 その事実から目を背けてきた。

 それを今、言われてしまった。


「これは由比ヶ浜さんの言葉なのだけれど、『言ってくれなきゃわかんないことだって、ある』らしいわ……」

「分かってます、分かってますけどー……」


 それが出来れば苦労していない。

 なにもかも捨てる覚悟で、全てを吐き出せば楽になれる。


 でも、そのあとに残るものが本当になにもなかったとしたら。

 そのときわたしはどうすればいい。

 たらればなんて考えたらキリがないけど、それを考えてしまう。

 だいたい先輩だって……言わないときあるし。


「私はそのとき『あなただって言わなかった』と言ってしまった。でも、今はこう思う。言わなかったからが言わなくていい理由にはならない、と」


 なんでもお見通しらしい。

 それは既に経験したからなんだろうか。

 分からないけれど、その言葉には妙に信憑性があるように思えた。

 それでもやっぱり踏ん切りはつかない。

 だって、でも、そんな言葉ばかりが思考を埋める。


「『言われても分かんないことだってある』」


 どきりとした。

 どこかの先輩が言いそうな言葉だった。

 その予想は当たっていたらしい。


「これは、比企谷くんの言葉ね。その後にはあなたも知っているように、彼は『本物が欲しい』と言ったわ」


 それは聞いていた。

 言わなくても分かるなんてものは幻想で、それでもと続いたセリフ。

 それがなんなのかわたしには分からない。

 分からないから欲しいのかもしれない。


「私には分からないわ。まだ、分からない。きっとあなたもそう……違う?」

「そうですね……分からないです、私にも」


 正直に伝えるとやはり雪ノ下先輩は笑う。

 そうよね、と微かな声でつぶやいて、またなんともなしに空を仰ぐ。


「もしかしたら、比企谷くんには言っても分からないのかもしれない。彼は鈍い、というよりかは……そうね、捻くれているから」


 その通りだった。

 先輩は捻くれている。

 だからきっと、ありのまま真実を伝えてもそれが真実だと受け止められない。

 疑って、裏を探って、納得してくれない。


「それでも……いえ、だからこそ」


 雪ノ下先輩はそこで言葉を区切る。

 その先が、今の雪ノ下先輩自身がわたしに贈る言葉。

 改めてわたしを捉えたその真っ直ぐな瞳を見返す。


「言わなければ絶対に伝わらないわよ」


 そうだろう。

 それはその通りなんだろう。

 言わなくても分かるなんて。

 そんなものがもしあったとしても、わたしと先輩はそんな関係には至っていない。

 それならばやはり、言わなければ絶対に伝わらない。


 一体わたしはなにに失望して終わったと勘違いしていたのだろうか。

 まだ始まってすらいなかったのに。


 先輩は鋭いけれど捻くれているから曲解する。

 何度も何度も繰り返し言わなければいけないかもしれない。

 それでもいつか伝わるときが来るのなら。

 いつか本物が見つかるのなら。

 わたしは踏み出さなければいけないのだ。


 先に待つのは立ち入り禁止区域なのかもしれない。

 南京錠は壊れていないのかもしれない。

 なら、自分で……。

 わたしが、壊す。


「そうですね、わたしも、知って欲しいです……」


 失いたくないし、怖いから、出した声は弱々しいものだった。

 それでも、強くならなくてもいいから、一歩前に進みたいと、しっかり伝えようと、そう思った。


 悪いことだ、いけないことだという意識があれば、弱々しくもなる。

 これは、その先の景色を見たいというエゴだから。

 そうした結果二度と来れなくなってしまっても、わたしはきっと。

 初めて見たその景色を忘れない。

 それは、偽者ではないから。


「そう。なら、頑張って。私はあなたを応援しているわ、奉仕部の部長として」


 にこりと微笑み、風で乱れた髪を手で後ろへ流す。

 宵闇に溶け込む髪は雪ノ下先輩がどこかへ消えてしまうのではないかと思わせた。

 そんなことはあるはずもなく、雪ノ下先輩はわたしの横を通り過ぎ、がちゃりとドアノブを捻る。


「では先に戻るわ……あ。最後にもう一つだけ。諦めるのは早計だと思うわよ、一色さん」


 びくっと肩を震わせて勢いよく振り返る。

 しかし、そこにはもう、誰もいなかった。

 だから。


「まだ、諦めてませんよ……」


 その言葉は誰にも届かない。


  ****


 なんだか予定外に遅くなってしまった。

 足早に生徒会室まで戻り、扉の前で荒れた息を整える。

 会議はどの程度まで進んだだろうか。

 そんなに進んでいなくとも問題はない。

 一回で決めなければいけないことではないし、他の仕事を断ったので多少時間をかけて取り組める。


 そんな感じで、職員室での暴挙を記憶の奥底にしまい込み、わたしは扉を開いた。


「遅くなりましたー……え?」


 それはきっと必然の邂逅だったのだろう。


 頬杖をつき、顔を支える腕は細く白く、伸びる指はしなやかでたおやかで。

 触れれば簡単に折れてしまいそうな様はそれこそ彼女そのものだった。


 わたしに向けられた顔。

 その瞳には一瞬だけ値踏みするような視線が宿る。

 ぞくりとわたしの肌を震わせたそれはすぐさま奥に引っ込み、代わりに宿るのは子供じみた興味。

 まるでおもちゃを見つけた子供。

 口元は柔らかい微笑みをたたえていた。


 しかし、わたしはそれを知っていた。

 いつか鏡で見た。

 けれどそこには明確な差異がある。

 敵わない。

 わたしなんか足元にも及ばないと思わせるほど、彼女の方が分厚い仮面をつけていた。


 溢れる暖かい笑み、ともすれば冷たい顔が見え隠れする。

 わざと見せているんだろうか。

 だとすれば、なおさら恐ろしい。


「あー……えっと、お久しぶりですー。はるさん先輩」


 自分で言っていてなんだか久しぶりに思えなかった。

 それはあの日、進路説明会で出会ったのがありありと思い出せるからではない。

 全てリセットされてそんなことはなかったと思い込みそうになっているからだ。


 わたしはどんな呼び方をしていただろうか。

 これで合ってるのか本気で悩む。

 わたしはどんな会話をしたのだろうか。

 全く記憶が蘇らない。

 一つだけ残っていたのは恐怖だった。

 この人は怖い。

 それだけは分かる。


 けど、今はもっと怖い。

 あのとき出会ったのは違う人だったのではないかとそう思わせるほどに。

 ついさっき口から出した呼び方を忘れてしまえるほどに。

 その、モノを見るような目は、おおよそ人間に向けていいものだとは思えなかった。


 ただ、それに反してどこかで見たことがあるという感覚も存在していた。

 進路説明会以外にも……どこかで。


 どこで見たんだっけ……。

 思い出せないけど、割りと前から確実にこの人の顔をわたしは知っていた。

 それをなんで進路説明会のときに思わなかったのかはよく分からないけど。


「んっ、久しぶりだねー!」


 挨拶を返し、そのままなにかを言おうと口を動かす。

 すかさずわたしはつぶやいた。


「やっぱり似てる……」


 聞こえるか聞こえないかという絶妙な声量。

 しかし、この場において、彼女に限って、それを聞き逃すことはない。

 それだけは断言できる。


 標的を定めた人間というのは、標的の一言一句に耳を尖らせ、一挙一動に目を光らせる。

 この人がそういう人間であるならば、絶対に聞こえてしまったはずだ。


「……ん?」


 ——かかった。

 心中で拳をぐっと握る。

 これなればもうさっき言おうとしたことは言えない。

 タイミングがずれれば、この人がさっき言おうとした内容についてわたしが先に語るのは容易なことだ。


 とりあえずはまあ、まさか聞こえてしまうとは、みたいな白々しい態度でつぶやきの意図を晒せばいいか。


「あ……いえ、その、前も思いましたけど、やっぱり雪ノ下先輩に似てるなーと思ったので」


 びくびくと小動物のような反応を見せる。

 前も、なんて嘘っぱちだ。

 進路説明会のときに似てるなんて、一分も思わなかった。

 いや、あの詰め寄られたときに少しは思ったか。

 ただ、まあ、今はこう思う。

 そっくりだ、と。

 全然違うはずなのに、妙に重なって見える。


「へー……。あんまり似てないって言われるから驚いちゃったよー。なんか雰囲気が違うみたい。並べて見比べれば顔立ちは似てるらしいんだけどね」


 にこっと笑いかけてくるが、へーのとき全く目が笑ってなかったんですけど。

 もう気づいたんですか、怖い。


 けど、その返しは大方予想通りだ。

 驚いたから引っかかった。

 あらかじめお姉さんの存在を知ってなかったら、わたしもたじろぐしかなかったわけだけど。

 知っていれば、察するのは難しいことじゃない。


 そもそも、この人なんかわたしに似てるし。

 わたしよりも面の皮が厚く、わたしよりも頭がいい。


 でも、人間だから反射には抗えない。

 わたしが今までどれだけ相手の反応を窺ってきたと思ってる。

 予想外なことを言われて一切反応を見せない人間なんていない。

 予想外なことを言われても表情を崩さないようにしようなんて、そんなことを考えながら生きている人間なんていない。


 考えを見抜くのもそこまで難しい話じゃない。

 わたしのことはわたしが一番よく分かってるんだから。

 はるさん先輩がわたしにされたことにすぐ気づいたのも、あるいはそんな理由からかもしれない。


 んー……、いや、誰が相手でもお見通しな感じするな。

 やだ、なにこの人怖い。


「そうなんですかー? じゃあ、わたしが分かったのは、さっきまで雪ノ下先輩と一緒にいたからかもですねー? あ、今、雪ノ下先輩に頼んで一緒に用事を済ませてきたところなんですよー」


 そこまで少し駆け足で言い切り、ほっと胸を撫で下ろす。

 なんか意地の悪いことを言おうとしていたのは分かっていた。

 わたしが今言われるとすれば、生徒会長が会議に出ずにどこをうろついていたのか、ということだ。


 内容を先に述べてしまえば、もうどうこう言うことはできない。

 怒られる前に謝れば多少怒られる度合いが減るのと似ているかもしれないな。

 こんな人に詰問されたくない。

 声音と表情だけでイエスマンになってしまいそうだ。


 そのまま奥へと足を進め、途中で書記ちゃんから議事録を受け取ってコピー。

 その間にソーサーをはるさん先輩が腰掛ける生徒会長のデスクに置き、コーヒーを淹れる。


 別に戦う気はない。

 雪ノ下先輩にしろこの人にしろ、わたしは勝てない相手に勝負を挑むような真似はしない。

 わざわざ敵に回す必要もない。

 であれば、あとは友好的に事を済ます。


 議事録に目を通しながら、ことりとソーサーにカップを置く。

 一応、シュガーポットも隣に差し出して目を合わせると、じーっと睨まれた。


「ど、どうぞー?」


 ちょっとー?

 わたしなんかしたー?

 なんか意地の悪いこと言いそうな顔してたから、未然に防いだだけなんですけど……。

 自己防衛本能が働いちゃったんですよー。


 ていうか、コーヒーくらい出しとけよと役員をひと睨みすると、みな一様にして固まっていた。

 うん、あー……、まあ、仕方ないか。

 だってこの人怖いもん。


「おっ、ありがとー」


 声音からはひしひしと怒りが伝わってくる。

 伝えてるんだろうな、これ。


「えー……っと、八色ちゃん? ちゃんと気も遣えるんだねー」


 誰ですかそれ……。

 なんか先輩の名前とくっついたみたいでちょっと嬉しいとか思ってしまった。

 不覚っ!


 この人遠慮ないなー。

 せめて、なに色ちゃんだっけ? とか聞くならまだしも、思いっきり間違えたまま進めようとしてくるし。

 わざとですよーって言われてるようなもんだ。

 どうやら逆鱗に触れてしまったらしい。


 ていうか、ちゃんと気も遣えるんだねーって。

 全然気遣えるように見えないんだけどーって意味だよね、絶対。

 もう真っ黒だよ、この人。

 嫌われちゃったのかなー。


 そもそも、段々思い出してきたけど、あのときいろはちゃんじゃありませんでしたっけ?

 下の名前なんて忘れちゃったーみたいな?

 悪意が濃いよ。


「先輩ですからねー……雪ノ下先輩にはお世話になってますし。あと、一色ですよー」

「あぁ、一式ちゃん」

「な、なんか違いますけど。はぁ、もうなんでもいいですー……」


 一式ってなに。

 二式もあるの?

 なんなら零式とか出しちゃう?


 わたしが諦めるとはるさん先輩も満足したようで、満面の笑みを浮かべた。

 やっと本当の意味で笑ったなこの人。

 ああ、いや、これは本当の意味での笑みっぽい笑いか。

 そんな作り込まなくても。


「ごめんごめん、一色ちゃんね! しっかり覚えたよっ!」


 うっわ、嘘くさ。

 次会うときには七色ちゃんとか言われそうだった。

 なにそれ憂鬱。

 虹なの?

 もう突っ込まないようにしようかな。

 なんか癪だし。


「いや、別にいいんですけどねー……」


 笑みもどこか引き攣ったものになってしまう。

 うーん。

 もう切り替えよう。

 内容もだいたい把握したし、会議会議。


「ではでは、会議を再開しましょうかー?」


 長ったらしいおしゃべりを切り上げて、役員に目を向ける。

 そこは流石に生徒会役員なのか、ぱっと真剣な面持ちに戻った。

 うんうんとそれを確認して会議を進める。


 先にやっていたのは新規部活承認申請の認否だった。

 最近話題のライトノベルという書籍ジャンルの影響なのか、活動方針のよく分からない謎部活が多い。


 いたずらっぽいのも多数含まれていた。

 もう高校生なんだから本当やめようよ、こういうの。

 無駄に仕事増やさないで。


 しかし、謎部活だからダメというわけにもいかない。

 この学校の基準がかなり緩いからだ。

 加えて、活動方針がよく分からないと言っても、なにやらよく分からない言葉をびっしりと書き込んであるものもある。

 意気込みだけは伝わってくるんだけどなぁ。


 よく分からない言葉でなくとも、なんだか文節やらがめちゃくちゃで結局なにが言いたいのか分からないとか。

 しっかり日本語使おう?


 ていうか、奉仕部なんていう四人しかいないよく分からんやつとか、遊戯部とかいう二人しかいないのとかあるし、前例があると拒否し辛い。


 隣人部ってなんだこれ……。

 友達が欲しい?

 はぁ?

 先輩でも紹介してあげようかな。


「ひ……昼寝部?」


 おい、ちょっと待て。

 活動方針、ただ昼寝するだけの部活ですってなんだこれ。

 あ、下の方に海外ではシエスタがどうとか書いてある。


「えー……却下で」


 役員に目配せすると、異議はないようで頷きが返ってくる。

 そんな感じで、詭弁論部やらGJ部、女子部、侵略部、スケット団、のばらの会……etc.を仕分けていく。


 帰宅部って。

 俺には帰る家がある!

 いや、そんなこと言われても、却下。


 なんだかんだあまりにもふざけた(だいたいふざけてるが、その中でも酷い)ものを除いて、しっかりと審議を繰り返していくうちに完全下校時刻になってしまった。


「それでは、今日は終わりましょーかー」


 号令に従い、荷物をまとめていく。

 あっという間に生徒会室内の人口密度が下がった。


 副会長が扉に手をかけたのを確認して、ただひたすらふむふむと見ていたはるさん先輩に声をかけようとする。

 と、副会長はぴたりと止まり、わたしに向き直った。

 少しの逡巡ののちに口を開く。


「会長」

「はいはい? なんですか〜?」


 なんか真面目くさった顔をしている。

 いや、副会長は大概こんな顔してるな。


「その、どうなったんだ? あれ」


 指示語の溢れる言葉にんーと考えてしまう。

 あれ、に思い至るまでにそこまでの時間は要しなかった。

 無理やり忘れていた職員室での出来事を思い出す。


「あぁ、ちゃんと断ってきましたよー! なので、仕事は部活関連のと生徒総会、それに校外学習と職場見学だけです!」


 言いながら、だけって言えるのかなーと考えてしまい、苦笑いがこぼれた。


「そっか……分かったよ。ありがとう。じゃあ、また」


 副会長はそそくさと逃げるように去って行ってしまった。

 そこにはもうなにもないけれど、ぽかんと扉を見つめてしまう。


 おぉ、なんか感謝された。

 正直に言葉にされると達成感がわいてくる。

 やっぱり、伝えるのは大事だと思いました!


 改めてはるさん先輩に向き直る。

 ちなみにわたしはずっと立ちっぱなしだったりする。

 まあ、そこまで苦でもない。

 荷物を抱えているわけでもなし。


「どうでしたー……?」


 遠慮がちに尋ねる。

 はるさん先輩はうーんとしばらく考えたのちに評価を口にした。


「二十点」


 思いのほか厳しかった。

 世知辛い世の中です。

 先輩とMAXコーヒー半分こしたい。


 かくんと肩を落とすと、はるさん先輩はあははと快活に笑う。


「っていうのは冗談で、五十点ってとこかなー」


 おっ! っと、喜びそうになったけど、よくよく考えればたいしていいとも言えない。

 二十点のインパクトが強すぎて、凄くいい点に聞こえてしまった。

 無理難題を頼んでから、少しランクを落としたものを提案するみたいな。

 打算的ななにかがあった。


「おー、ここで喜ばないなんて結構やるねぇ、いろはちゃん。じゃあ、大甘で五十点満点ってことにしちゃおうかなっ」


 どこの中学のテストですか、それ。

 だから素直に喜ぶことはしない。

 なにか見定められているような気がした。

 ここで喜んで、それで満足しちゃうやつだと思われるのは避けたいし、避けるべきだ。


 雪ノ下先輩のお姉さん。

 出来ることなら仲良くしたい。

 そんな欲が出ていた。


 ただ一つ聞かせて欲しい。

 一色ちゃんで覚えたんじゃなかったんですか?


「そうですかー……、では、次は百点満点で百点取れるようになっておきますね〜」


 言えば、はるさん先輩は微かに驚く。

 そして、ほぉーっと最初に向けた値踏みするような瞳で見つめてきた。

 怖くて目をそらしたくなったが、ここは我慢してみることにする。


 なんか負けた気になりそうだから。

 別に勝つ気もないけど。

 なんで戦ってるんだろう、わたし。

 意地っ張りかー、その通りだなぁ。


「そっか。そういう子なんだね、あなたは。うんっ! 面白いっ! お姉さん気に入っちゃったなー」


 どうやら試験は終わったらしい。

 ふーっと額の汗を拭う。

 気に入られたならそれで充分。

 最高の結果だ。

 こういう人を敵に回すとろくなことにならない。


「ありがとうございます〜っ」


 にこぱーっと業務用スマイルを向けると、訝しむような視線が飛んできた。


「普通に笑っていいよー?」

「え、あー……いえ、そう言われましてもー」


 普通に笑えるわけない。

 ていうか笑みなんてこぼれてこない。

 素になったら、ただただ怯えるばかりである。


「うーん。じゃ、普通にしていーよー?」


 暗に普通にしろと命令されているようだった。

 そういうことなら従うしかない。

 仮面を剥ぎ取れば頭がくらっとした。

 緊張感の解れからたたらを踏んでしまう。


「す、座ってもいいですかー?」


 はぁーっと深いため息を吐いて聞くと、はるさん先輩はどーぞどーぞと笑混じりに言ってくれる。

 お言葉に甘えて椅子に腰掛けた。


「ふぅ……ん?」


 少し落ち着くと、はるさん先輩が黙りこくっていることに気づいた。

 もう口に出すのも億劫なので視線でなんですかーと問う。

 言わなくても伝わることなら別にそれでいいと思いました!


「ふふっ、なんか似てるなーと思って……いや、似せてるのかな?」


 似せているという自覚はない。

 けど、憧れていた。

 だから、きっと、無自覚に真似事をしてしまっていたのだろう。


「……先輩、あー……比企谷先輩とですかー?」


 そういえば、進路説明会で会話してた気がする。

 やっぱり、お気に入りになれてよかった。

 わたしの選択は間違っていなかった。


 こんな人に邪魔されたらもうどうにもならない。

 どちらにせよ、わたしの味方になることはないんだろうけど。

 でも、先輩と雪ノ下先輩をくっつけるのには協力してもらえるかもしれない。


「うん。よく分かったねー、もしかして自覚あった?」

「いえ……無自覚でしたけどー……、でも、憧れてたので」


 答えるとはるさん先輩はまた笑う。

 心底おかしそうに。


「そっかー。とうとう比企谷くんに憧れる子が出て来たかー……」

「……そうは言っても、本当に先輩のやり方でやったことなんてわたしほとんど知らないんですけどねー……」


 本当に、知らない。

 知っているから騙すのは容易いだなんて……一体どの口が言うのだろうか。

 なんにも知らなかった。

 分かっていなかった。

 分かったつもりでいた。


 迷惑な話だ。

 そんなのは先輩が嫌がることだと分かっていたはずなのに。

 勝手に理解したつもりで。

 先輩は理解されたいなんて望んでないだろうに。

 理解した気になって絡んでくるような人は嫌いなのに。


 こういうこと、なのかな。

 知らないから間違えるし、勘違いもする。

 すれ違っていずれ失ってしまう。

 だから知りたい。


 でも、わたしは完全に理解できるなんてことはないと思うし、別に完全に理解したいとも思わない。

 ただ、そう、理解して欲しい。

 知られて失うこともあるかもしれない。

 それは嫌だ。

 でも知られないまま失うのはもっと嫌だ。


「比企谷くんは面白いよ、本当に。でも、いくら真似たってそれはどこまでいっても真似でしかない」

「分かってます」


 反射的に答えていた。

 二度目だったからだろう。


「やっぱり……姉妹なんですねー。似せようとしなくても、どこか似てますー……」


 はるさん先輩はまた意外そうな顔をした。

 どこらへんが意外だったのか……姉妹なんて似るものじゃないの……?


「ふふっ、そんなこと初めて言われたよー」

「……そうなんですかー。気に障りました?」

「あははっ! そんなわけないじゃない……雪乃ちゃんも成長してるんだなーってちょっとしみじみ」


 そう言って溢した笑みは優しくて、やっぱり雪ノ下先輩と酷似していた。

 見れば見るほど重なって見える。

 それは多分、本質が同じだから。

 あぁ……そういうことか。


「多分、はるさん先輩を真似ることをやめたからじゃないですかねー……? 本質が似てるから、技術や経歴を真似たところでむしろ歪になってた、みたいな……」

「ほう……そう見るかー。そっか……やめたんだ、雪乃ちゃん。やっと、お下がりから抜け出したんだね」


 そっかそっかと懐かしむように虚空を見つめる。

 その瞳にはなにが見えているのだろう。

 それを知ることはかなわないけれど、なにか希望があれば素敵だと思った。


「でも、やっぱり気に入らないなぁ」


 苛烈さを極めた声音に鳥肌が立った。


 視線を戻してわたしの顔を見つめる。

 その瞳には当然、目の前のわたしが映っているはずなのに。

 わたしを見透かしてその先を、いや、それどころか、途方もなく遠くを見据えているようだった。


 これは本性なのだろうか。

 いや、違うのだろう。

 本心ではあれども本性ではない。

 本物なんて口が裂けたって言えないおぞましくて歪んだ紛い物だ。


 はたとその瞳の奥になにがあるのか気になったところで、はるさん先輩の口が再び言葉を紡ぐ。

 もうそこには苛烈さの欠片もなかった。


「それにしてもよく見てるねー、いろはちゃん」

「……まぁ、そうやって生きてきましたからねー。でも、はるさん先輩に言われてもなんか素直に喜べないですよー……。わたしなんて結局、うわべだけしか見えてませんし……だからなんですかねー。うわべしか取り繕えない」


 たははーと困った風に笑う。

 わたしにもこの人みたいにいろんなものが見えてれば今頃違う自分がいたのだろうか。

 いや、そんなたらればに意味なんてないのだろう。

 いくら欲しがっても手に入らないものだし、欲しがる部分は相手のいい部分でしかない。


 その人にはその人の持つ嫌なところやダメなところがあって、それでやっとその人たり得るのだ。

 ならば、わたしがこの人のようにいろんなものが見えるようになったとき、その苦しみも分かるようになってしまうのだろう。

 逆に言えば、苦しみが分からなければ見えるようにもならない。


 だから、もしもに意味なんてない。

 わたしはわたしでいればいい。


「うわべすらも見えていない人だっているからねー。なにか見えるのなら、それで充分だよ。そ、れ、と! 陽乃でいいよ。いろはちゃん気に入ったし。はるさん先輩はなんか歪だから却下ね。あ、なんならはるのん♪ でもおっけー! むしろ推奨!」


 びっと人差し指を立ててぱちっとウインクする。

 なんかさらっと酷いことを言われた気がする。

 歪って……。


 素なのか外面なのか……外面だろうな。

 誰にでも言ってそうで、言いなれてる感が凄い。

 なら、のってしまおう、うん!


「あはっ、じゃあはるのんでー!」


 ぱちっとウインクを返すと、呆気に取られた顔になる。

 こんな返答は初めてなんだろう。

 年下なら陽乃さんが妥当で、同級なら陽乃さんか陽乃、年上なら陽乃になるのが普通だ。


 そして先輩なら多分、頑なに雪ノ下さんだ。

 なんだか想像出来てしまう。

 あの人免疫うっすいからなー……。

 はるのん♪ みたいなタイプは特に。

 外面見抜いて恐れてそうまである。


「……っと、まさかそうくるとはねー……。入室してきたときと言い、随分挑戦的じゃない。んー?」


 拗ねた様子でじろーっと睨んでくる。

 なんだか結構睨まれてるなわたし……当初の予定と違う。

 先輩にも計画性ないとか言われたし、改善点かもしれない。


 でも、女の子は行き当たりばったりくらいが可愛いと思うんだけどなー……。

 先輩にたいして普通の男子の感じる可愛いをやっても意味ないか。

 またあざといって言われるのがオチだ。


 けど、一応こんなことをした理由はある。


「だって、わたしに普通にしろって言ったくせに、自分は全然普通にしてくれないんですもん。今のだって常套句って感じでしたしー……」


 むーっと同じく拗ねて見せると、目をぱちくりさせてから大口を開けて笑う。


「あっははははっ! ま、まさかっ……そんなこと言われるなんて! くっ……くくっ……はぁっ、はあっ……ダメ、死ぬ……」


 えぇっ、はるのん死んじゃうのっ!?

 なんてふざけてみる。

 本当に死ぬわけないし。

 そ、そんな面白かった……今の?


「ははっ、は。はぁ……いやー、いろはちゃん本っ当最高っ! よし、ならわたしはいろはすって呼ぶ」

「ええっ……は、陽乃先輩?」

「今更言ったってもう遅いでーす」


 くぅ……まさか逆手に取られるとは……。

 はるのん恐るべし。

 下手に殴ると殺されかける。


「あっ、ちなみにはるのん呼びはいろはすが初だよー?」


 にやにやと悪戯小僧みたいな笑みを浮かべる。

 そこには嘘臭さなんて欠片もない。

 まあ、これを引き出せたのなら、いいか。

 なんて、どこぞの男の心境みたいな心持ちになってしまった。

 そんなプレミアいらないですよー……。


「はるのん以外で呼んだら、そうだなー……。うーん……、あ、比企谷くんになんか吹き込んじゃおうっ!」


 あ、悪魔だ……。

 なんてものを引き出してしまったのだろうか。

 奥に引っ込んでてくれてよかったかもしれない。


「……りょーかいです。あ、でもいろはすにプレミアついてませんよー……?」


 戸部先輩とかいろはすいろはすうるさいし。

 戸部先輩に限らず結構な数の人間にそう呼ばれている。

 水じゃんそれ……みかん味めっちゃみかんの味するよね。

 無色透明オレンジジュース。


「んー、そっかー。じゃあ、八色ちゃん? 比企谷くんと合わせて」


 にひひっと口元を吊り上げる。

 ちょっと待って、この人心読めるの?


「か、勘弁してくださいー……」

「んー、だって、いろはって愛称つけにくいんだもん。なんでそんな名前なの?」


 なにこの人、めっちゃ失礼。

 わたしは自分の名前結構っていうか……かなり好きなんだけど。


「わたしにとってはお母さんがつけてくれた大事な名前なんですけどー……。命名の理由は知りませんけどねー」


 必然、眼に力が込もってしまう。


「あ、そっか……ごめんね?」


 顔の前で手を合わせて申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 本当に悪いと思ってくれているようだ。

 悪意があったわけじゃないのなら怒る理由もない。


「いえいえー……大丈夫です」

「ふふっ、よかった。そうなると……やっぱり、わたし専用じゃないのは残念だけどー、いろはすで」

「はいー……」


 いろはす♪ はるのん♪ って……なんだこれなんか凄い仲良さげ。

 このまま女子会とかしちゃう勢い。


「よし! じゃあそろそろ帰ろっか」


 立ち上がり、ぐーっと伸びをする。

 さっさと帰らないと……もう完全下校時刻とっくに過ぎてるし。


「ですねー」


 二人並んで校門まで歩く。

 不自然なほど先生に避けられていた気がする。

 ブラックリストにでも入れられてしまったのだろうか。


 明日の説教は平塚先生かなー。

 生徒指導だか生活指導だかの担当だし。

 っても生徒指導担当が一人ってわけでもないか。

 じゃなければ、生徒会にあんな仕事は回ってこない。

 平塚先生がいーなー……。


 説教とか指導とかマジめんどくさーいなんて女子高生らしいテロップを頭の中で流す。

 なんだか女子高生らしいことを考えたのが久しぶりに思えて憂鬱になった。


 最近、完全にキャリアウーマンみたいな思考してたからなぁ。

 よし、この仕事片付いたら自分へのご褒美にデパ地下でスイーツ買うぞーとか。

 どこぞのOLかよ。

 わたしの脳内思考が既にスイーツ(笑)。

 ちょっとお洒落なカフェでクマのラテアートとか見て「かわいー」とか言ってる方がわたしには似合ってるな。


 そんなくっだらないことを考えてるうちにも校門に辿り着く。

 そこには見慣れない黒塗りの高級車があった。

 平凡な我が校の校門でその存在感は凄まじい。


「お、おぉ……金持ちって感じがビシバシ伝わってきますねー」

「でっしょー? わたし見栄っ張りだからさー。便利だよー、これ」


 見栄っ張りて……。

 見栄を飾る必要なんてないくせに。

 どんなに張ったって飾ったってそれ以上にはならないでしょ。

 高度な嫌味か。


 まあ、でも、一理ないこともない、か。


「その外面が一番高級そうですねー……。わたしも欲しいんですけど、いくらです?」

「あははっ! 本当期待を裏切らないねー。そうだなー……いろはすの人生と等価交換かな」


 そんな安くていいのか。

 わたしが一生頑張ったってその外面は手に入らないだろうし。

 セール期間?

 友達割引かな?

 ま、本当に欲しいわけじゃないからどんだけ高かろうがどうでもいいけど。


「それ何十パーセントオフですかー」


 卑屈っぽいことを言うと、陽乃せ……なんで睨まれてるの。

 この人本当に心読んでるんじゃないの、怖い。


 こほん……はるのんは真面目ぶった顔になる。

 その顔は大人っぽくて、それこそどこかの結婚できない女教師がよく見せる諭すようなものだった。


「等価交換って言ったでしょ。これはわたしの人生だからね……。誰かの人生なんて他の誰かにとっては等しく無価値。真似をすることに意味もない。だから、等価値だよ」

「人生ですかー……」


 外面が自分の人生だと言い切る。

 一体どんな心持ちなんだろうか。

 外面なんて嘘でしかないはずのに……。

 まるで、自分の人生が嘘で出来ているとでも言うような自虐めいた訓諭。

 むしろ本題はそちらなのかもしれない。


 しかし、誰かの人生は他の誰かにとっては等しく無価値だと、その説諭にはなんとなく納得できた。

 誰かの人生を羨んだところでその人生が手に入るわけじゃない。


 もし手に入ったとしても、それはもう自分の人生ではない。

 他の誰かになっただけで、自分が変わったわけじゃないから。

 だからこそ真似することにも意味はない。

 それでも自分は変わらないのだから。


「真似をすることが悪いことだとは思いませんけどねー……。したくてしてるわけじゃない人もいますし」

「そりゃそうだろうね。だから別にいろはすが比企谷くんの真似をしてることを諌めてるわけじゃないよ? わたしは比企谷くんにしたっていろはすにしたって、そのままでいいと思ってるから」


 にこりと向けられた笑みは暗闇の中でも輝いて見えた。

 この人はわたしたちの行く先に何を見ているのだろうか。

 もしかしたら、自分の進めなかった道を進むわたしたちに希望を見出しているのかもしれない。


 雪ノ下陽乃という女の人生はきっと、生まれたときから決められていたのだろう。

 だからこそ、雪ノ下先輩が自分の真似をやめたことを知って安堵した。

 全ては推測で、どこまでいっても憶測でしかないのだけれど、その予測は少しばかりの真実を帯びている気がしてならなかった。


 しかし真実がどうあれ、わたしが心配することではないだろう。

 彼女は既に自分の中でケリをつけているのだろうから。


 誰だってそうだ。

 みな高校生になる頃には、早い人なら中学生の間にも現実との折り合いをつける。

 器用に、上手に。

 夢を捨てて、それが当然のように正しい道だと信じて生きていく。


 そういう意味では、わたしなんかよりも先輩なんかよりも、青春戯曲の登場人物になりきる有象無象の方がよっぽどリアリストに思えた。

 諦めて。

 諦めたことすら忘却して。

 わたしもそうだった。


 でも、わたしは思い出した。

 みんながみんな捨て去り忘れ去っていく淡く儚い夢を。

 きっかけは一つの言葉。

 本物。

 それはきっと掛け替えのないなにか。


 作られた劇的なんていらない。

 ビッグドリームではないけれど、いつだって不安定で今にも崩れそうな脆いものだけれど。

 わたしはそれが欲しい。


「さっ、帰ろう! 送ってくよ!」

「あ、ありがとうございますー」


 一切の躊躇なく甘えると、はるのんはとうとう苦笑する。

 彼女はもう諦めてしまっているけど、わたしの前でくらいは仮面を外せたらいいな。

 なんて。

 なんだかわたしも地味にこの人に、この人自身に惹かれているようだった。


 乗り込んで家の住所を告げる。

 実は甘えたのはただ予想外なことをしたかったからじゃない。

 まだ聞きたいことがあったからだ。


「陽乃せ——はるのんは今日はどうして学校に?」


 だからその目怖いって。

 野獣も逃げそうだよ。

 目で殺すってこういうことか。

 一クラスくらい殺してそうだ。

 バトル・ロワイアルは間違いなくはるのんの圧勝。

 雪ノ下先輩と共演なら少しくらい見所が作れるかもしれない。


「あー、雪乃ちゃんに会いにねー。結構ちょくちょく顔出してるんだよー? というかいろはす……今のわざとじゃなかった? んー?」


 ぐりぐりと頬を長い爪で捻られる。

 痛いっ!

 痛い痛いっ!

 痛いってばっ!


「す、すいませんー! 痛っ! や、やめてくださいよー!」

「ふふん、今回は許してあげよう。でも、次やったら比企谷くんに言いつけちゃうぞ?」


 にたぁっと身体が芯から凍りつくような笑みを浮かべる。

 こ、怖い。

 なにを言いつけるつもりなのか。

 聞くのはもっと怖いから触れずにいよう。


「オッケーです、肝に命じておきますー。ん、ああ、だから見覚えあったのかなー……。いや、でも、すれ違ったって感じじゃないんだよなー……」


 うーんと必死に記憶の糸を手繰っていると、はるのんは思い当たる節があったらしいく、あぁとつぶやく。


「進路説明会以外でなら多分文化祭だと思うよー。わたし有志団体でステージ出てたから。オーケストラ、見た? あ、それとサプライズ的な立ち位置で有志団体の大トリでバンドもやったかなー。ドラムで」

「——あっ!!」


 蘇る記憶に思わず声をあげてしまった。

 それか、そういうことか。

 そりゃあ見覚えもあるはずだ。

 凄い目立ってたし。

 バンドの方は残念ながら最後の方しか見れてないけど。


 思い出すとあの光景は今まで忘れていたことが嘘のようにありありと脳内に映し出された。


 様々な楽器を抱えた女性たちが華麗なドレスに身を包み、ステージにずらりと並ぶ。

 そこに悠々とした足取りで登場した女性は月並みな表現ではあるけれど、まるで磨きあげられた宝石のようだった。


 絢爛たるスポットライトの下、身体のラインを強調する細身のロングドレス。

 闇色の衣は一歩歩くごとに翻り、わたしを含めた観客全てを魅了する。

 胸もとと髪留めにあしらわれた黒薔薇のコサージュは割と前方に位置する席に座っていたわたしには華々しかった。

 真珠とスパンコールの煌めきがより一層彼女の輝きを強くする。


 淑やかな一礼を済ませて高いヒールで指揮台に上ると、彼女はタクトを手にした。

 すっと上に掲げ、ぴたりと動きを止める。

 その婉麗な所作に見る者も思わず動きを止め、これから始まるなにかに期待して固唾をのむ。


 ——そして、レイピアのように鋭く振り抜いた。


 瞬間、旋律が走る。

 圧倒。

 驚愕に次ぐ驚愕。

 アクションはさらに強烈なインパクトを与える。


 気づけば終わっていた。

 冷めやらぬ興奮。

 同時に戦慄した。

 こんな人物の存在に。


「……あれは凄かったです」


 なにが凄かったって、もう全てが凄かった。

 一言ではおさまらないどころか、言葉では言い表せない凄さだ。


 と、そこで、なんで進路説明会のときに見覚えがあると思わなかったのかが分かった。


 単純に興味がなかったんだ。

 この人が今までなにをしてきたのかとか、この人がどんな人かってことに。

 ただ、雪ノ下先輩のお姉さんはきっと凄いから仲良くなっておこうみたいなことを思っていた。


 そして、この人もわたしに興味がなかった。

 だからわたしにそこまで深入りしなかった。

 故に、この人の印象が問い詰められたときの怖いしか残っていなかったのだ。


 ただのなんか怖い雰囲気があるお姉さんと、あのオーケストラを指揮していた指揮者ではわたしの中で明確な差異があった。

 今日のは進路説明会のそれと違ったから。

 興味深々でおぞましいくらいの顔をしていたから。

 その表情がきっかけだったのだ。


「そっかそっか! 満足してもらえたならよかったよ」


 ふふっと満足そうに笑う。

 わたしが満足することではるのんが満足するのなら、わたしはこの人をずっと満足させられそうだ。

 はるのんは規格外だから。

 やることなすことがわたしを必ず感嘆させるだろう。


「あー……、文化祭と言えばあれもそうだね。ぷっ……くくっ……あはははっ!」


 なにを思い出したのか、大口を開けて笑い出す。

 わたしが不思議そうに見ていると、涙を拭いながらはるのんはわけを話してくれた。


「いやー……比企谷くんがちょっとね。文化祭の後一時的にだけど、ヒキタニって二年生の噂が流れなかった?」

「あぁ……」


 あの屋上でのことか。

 そのことは知ってる。

 なぜか実行委員長を探している葉山先輩に焦った様子で聞かれて、階段上っていくのを見かけてたから、教えたんだ。

 こっそり後をつけていって会話を聞いてたから、大トリはラストしか見れなかった。


 あのときも今もなんでそんな状況だったのかはよく分からない。

 ただ先輩が信じられないくらい辛辣な言葉で実行委員長を責め立てていて、それに葉山先輩が激怒したことだけは覚えてる。

 葉山先輩も怒るんだって思った。

 こんな酷い人もいるんだって思った。


 けど、今思うものは違う。

 経緯は分からないけど、あの糾弾には意味があったんだろう。

 先輩は意味もなくそんなことはしない。


 しかし真意を知ることは出来なかった。

 なんでとかどうしてとか、そんな疑問を本人に投げかけることは出来ないから。

 あの二人にしても、葉山先輩にしても、聞いたところで答えてはくれないだろう。

 実行委員長は面識ないから論外。


 今なら知ることが出来るのかもしれない。

 はるのんになら聞いてもいい気がした。

 常に傍観者とか観客気取りで雪ノ下先輩と先輩を見てきたこの人になら。


「それ、実は一部始終聞いてたんですよねー……」

「へぇ。……知りたい?」


 言わなくともわたしが知りたがっていることを理解してくれていた。

 わたしは知りたい。

 少しくらいは理解しなければ、どう理解してもらえばいいのかも分からない。


 でも、本当にいいのだろうか。

 先輩にとっては知られたくないことなのかもしれない。


「ふふっ、迷ってるねー。じゃ、お姉さん勝手に喋っちゃおーっと! これは独り言。いろはすはなにも聞いてない。それでいいよね?」


 ふっと呆れ混じりの短いため息が出た。

 もうこうなってしまってはわたしが拒否したところで語り出すだろう。

 この短時間でこの人がそういう人であると確信していた。


 だからわたしは無言で肯定を伝える。

 返事をしてしまったら、頷いてしまったら、罪悪感に苛まれてしまいそうだったから。


「うん。それが賢い選択だよ。それじゃあお姉さんはつぶやこうかな。あの優しくて小物な捻くれた子の話を」


 じっと聞き耳を立てる。

 あの大成功と思われた文化祭の裏の物語に。

 はるのんの口からぽつりぽつりと言葉が紡がれていく。

 その話にときには驚愕をときには憐憫を、そして最後にわたしの心を埋めたのは葛藤だった。


「——こうして彼は見事に彼女を救ったのでした。他にもやり方は一杯あるなかで比企谷くんはそれを選んだ。きっとそれは雪乃ちゃんのやり方に沿ったんだろうね。同時に奉仕部の理念に」


 いや、それは取り繕った理由だ。

 そうでなかったとしても、二番手三番手に違いない。

 本当の理由は、根幹をなす部分はもっと別のなにか。


 はるのんが中途半端に言葉を区切った時点で確実だ。

 シンキングタイムがあるのなら、じっくり考えさせてもらいます。


 映画のフィルムを巻き戻すようにして、わたしはわたしの記憶を遡っていく。

 なにか、なにかあったはず。

 そのときのわたしには不可解に見えたなにかが。


 ——見つけた。


 ぐんぐんと流れていく記憶の中に、彼女たちの発言の中に、奉仕部の歴史の中に。

 その答えを見つけた。


 わたしが奉仕部の存在を知ることになった昨年の晩秋。

 生徒会選挙にてわたしを落選させる方法を議論したとき、奉仕部は内部分裂を起こした。


〝あなたのやり方を認めるわけにはいかないわ〟


 なにが起きているのか全く理解しかねていたけど、文化祭の全容を聞いた今では分かる。


〝応援演説が原因で不信任になるなら、誰も一色のことは気にしないだろ〟


 そうやって、また、先輩は自分の傷つく方法を選んだのだ。


〝ねぇ、その演説って、誰が、やるのかな……。そういうの、やだな〟


 如実に浮かび上がる情景。


〝……なら、あなたのやり方にはなんの意味があるの?〟


 あのセリフはそういう意味だったのかと、だから否定したのかと、気づけばすんなり受け入れられた。


〝今回に限って? いいえ、違う〟


 先輩は文化祭のこと以外にも何回かそういうやり方をしてきた。


〝……あなたは、前もそうやって回避したわ〟


 それは分かっていたことだったはずなのに、わたしが思っていたよりもずっと醜いものだった。


 そういえば、暇つぶしで聞いた戸部先輩の恋バナにも思い当たる節がある。

 知り合いに邪魔されちゃって告れなかっただのなんだの言ってたけど、なんでその人がそんなことをしたのか疑問だった。


 まるで自分が先に告白することで、戸部先輩が傷つくのを『回避』したようで不可思議だった。

 知り合いレベルの関係なのに。


 つまり先輩は、前も、こうやって回避したわけだ。


〝それで、……なにか問題があったか?〟


 きっと問題はなかった。

 戸部先輩の態度を見るに、気にした風もなかったし、なら守るべきものは守れたし頼まれた依頼は達成できたんだろう。

 けど。


〝そんなうわべだけのものに意味なんてないと言ったのはあなただったはずよ……〟


 そう、うわべなんだ。

 表面上は確かになんの問題もなかった。

 戸部先輩の告白イベントで、戸部先輩自身も、多分その相手も、出演者は誰も傷つかなかった。


 だから先輩も傷ついてなんていないんだろう。

 これが先輩自身なんだから。

 ただ、いつも通りに事を済ませただけだ。


 でも、それでも、どこかで、裏方でサポートに回っていた誰かが傷ついた。

 自己犠牲で傷つくのは本人だとは限らない。

 そして、そのとき傷つかなかった先輩すらも、最終的には傷つく。

 それを先輩は分かってなかった。

 分かってても、そうするしかなかったんだろうけど。


〝変える気は、ないのね〟


 だから、雪ノ下先輩が諦めたような口調で言った問いに対する先輩の言葉はもちろんこうなる。


〝……ああ〟


 変える気はない。

 変わる気もない。

 変えられない。

 変わらない。


 先輩の自己犠牲なんて、行動原理なんて、殺身成仁でもなければ、先難後獲でもない。


 そう、きっと。

 先輩はそういうやり方しか知らなかっただけなのだから。


 まあ、これ自体は実際のところ元々予測できていた。

 改めて問い直し、同じ答えになったというだけのことだ。

 ただ、前とは重みが違った。

 胸焼けしそうだ。


 結論を導き出して顔をはるのんに向け直すと、彼女は頷いて続く言葉を口にした。


「まあ、一番の理由は、比企谷くんはそんなやり方しか知らないからだろうね」


 答え合わせの結果は百点満点と言って差し支えないだろう。

 それだからこそ、葛藤は大きくなる。


 先輩は今も、それしか知らないから。

 生徒会選挙の解決方法はイレギュラーだ。

 依頼を正確にこなすわけではなく、依頼そのものをなくす。

 わたしをその気にさせれば、雪ノ下先輩と結衣先輩の立候補は止められる。

 そういう算段だったんだろう。


 でも、毎回同じようにはできない。

 依頼そのものをなくす、なんて奉仕部の理念に反してるようにも思うし。

 奉仕部を失くしたくないから切り出したジョーカー。


 本質はなにも変わっていない。

 いつか、また、先輩は自分らしいやり方でなにかを解決する。


 わたしはどうすればいいんだろう。

 どうすれば先輩の傷つく姿を見なくて済むのだろう。


 この思索も二度目だけれど、やっぱり前回より重みが増していた。

 わたしは今まで知らなかった。

 奉仕部の雰囲気とか先輩の考え方から予測していただけだ。

 その予測は大方当たっていたけど、わたしの思っていた規模より一回りも二回りも大きい。


 だからそう、その思索には追加項目がある。

 どうすれば奉仕部を維持できるのだろうか。

 正確には、どうすれば奉仕部の人数を維持できるのだろうか、か。


 先輩のやり方では必ずいつか先輩は奉仕部を離れることになる。

 そして弱々しい肩で一人生きていくのだ。

 横には小町ちゃんが並んでくれるのかもしれない。


 だが、なにかを失ったときの喪失感は何者にも耐え難い。


 そんな先輩は見たくない。

 それに先輩が失ったとき、同時に雪ノ下先輩も結衣先輩も失う。

 そんな先輩たちは見たくない。

 わたしはあの、暖かくて優しい空間が好きなんだ。


 あのいつかの晩秋みたいな寒々しい部室になんて入り浸りたくもない。


 先輩が傷つかない方法。

 それを見つけるのは今後の必修課題だ。

 なるべく早く、なにかが起きる前に。


 くすりと、不意にそんな笑いが耳に届いた。


「な、なんですかー?」

「いやー、わたしのことも忘れて思索にふけっちゃうなんて妬けちゃうなぁ」


 にやにやと口元を緩ませる。


「本当に比企谷くんのことが好きなんだね」

「えっ……あ、はい……」


 正直に頷く。

 別に隠す必要もなかったし、というか既にバレてると思ってた。


「でも、わたし……それ以上にあの部活が好きなんですよねー……。そこにいる先輩が好きなんです、多分」


 失って欲しくない。

 全員揃ってわたしを迎えて欲しい。


 雪ノ下先輩が先輩を罵倒して。

 結衣先輩が先輩にアホ呼ばわりされて。

 小町ちゃんが先輩と二人の仲を取り持って。

 先輩がそんな風景をぼんやりと眺める。


 どうしようもないほどありふれた日常を続けていて欲しい。

 もう誰も間違えなくていい。

 ずっと、なんてそんなものありはしないけど、ならせめて卒業するまではそのまま。


「そっか……。まあ、比企谷くんはどこにいても面白いけどー。あ、でも、比企谷くんは雪乃ちゃんのものだからね?」


 瞳には威嚇が込められていて、つい萎縮してしまう。

 わたしを見て彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。

 それが意外だった。


「ごめんねー。いろはすの応援もしたいんだけどね……妹だから」


 本当に気に入られてるらしい。

 まさか応援したいと言われるなんて思ってもいなかった。

 柄でもない感じ。


「らしくない? でも、きっと、らしくないのが本質だよ」

「そう……ですね」


 らしくないのが本質。

 仮面をつけているわたしには附に落ちた。

 らしさなんて他人の抱く願望だ。

 それから外れて本当を見せれば引かれる。


「あ、ていうか、そんな心配はいりませんよー。わたしも先輩と雪ノ下先輩にはくっついて欲しいですし」

「それ、本心?」


 一発で見抜かれた。

 嘘はよくないな。

 嘘でもない、か。


「半分は本心ですかねー……。どうせわたしじゃ雪ノ下先輩には勝てませんから」

「わたしの妹だからねー」


 そこで否定しないのがこの人のいいところだろう。

 雪ノ下先輩の上位互換であるところのはるのんに否定されたって嫌味にしか聞こえない。


 上位互換は少し違うか。

 はるのんには雪ノ下先輩にないものがある。

 しかし、雪ノ下先輩にもはるのんにないものがある。

 どちらも等価値だ。


「ふむ……でも、そっか。そういうことならそっち方面で協力関係が築けそうだね」

「ですねー!」


 よしよし。

 計画通り。

 はるのんが味方ならもう怖いこともない。

 敵だったら震え上がるけど。


「じゃあ、これからよろしくね? っと、ちょうど着いたみたいだね」


 言葉通り、窓の外を見れば見慣れたわたしの住む住宅街が映った。

 ここからなら歩いて三分もかからない。


「どうする? 家の前まで送ろうか?」

「あ、それは大丈夫ですー! すぐそこなので。ではでは、ありがとうございましたー」


 言って、開いたドアから片足を地面につける。

 そこでふと気になることが脳裏を過ぎった。


「そういえばー、雪ノ下先輩に会わなくてもよかったんですかー?」


 雪ノ下先輩に会いに来たとか言ってたわりに、ずっと生徒会室にいたよなこの人。

 陽乃先輩は特に考えるでもなく、返答する。


「いいのいいの。別にいつでも会えるし、あんな面白いもの見ちゃったら話してみたくなるじゃない?」

「面白いもの……ですかー?」

「職員室」


 思わぬところで出てきた単語にびくっと肩が跳ねる。

 う、うわ……見られてたー?

 見てたのにあんな文句言おうとしたのかこの人。


「先生たちにはフォロー入れといたから、安心していいよ。静ちゃんに個人的に呼び出されるかもだけど」


 おお、悪魔かと思ったらちょっとだけ天使な部分もあった。

 でも、そんな簡単にいくものなの……?

 外部に漏れるとまずいからとか?

 それとも、雪ノ下家の威光?


 うんうんと考えていると、はるのんの口が三日月型になる。

 うっわ……。