2014-09-13 01:26:02 更新


25話-1



 朝、目を覚ました計佑は、まず自分の状態を顧みて、それから安心の溜息をついた。


「……よかった。一応、いつも通りには戻れたみたいだな……」


 二日前の深夜、まるでどこか壊れてしまったかのように泣き崩れてしまってからずっと、

まともな精神状態ではいられなかった。


 あの晩、日が昇る前にはどうにか泣き止めたのだけれど、それでも心はどこかおかしくなったままで。

余りにも泣きすぎて、感情が麻痺してしまったのか──もう、ぼーっと呆け続ける事しか出来なくなっていた。


 雪姫に散々縋り付いて、みっともなく泣き続けて、

恥ずかしくて堪らないのが当たり前だろうところなのに、そんな感情すら湧いてこなくて。

 辛うじて、迷惑をかけてしまった事を詫びるくらいは出来たような気がするが……それすらも

ぼんやりとした記憶しかない。

 雪姫に何があったのかと聞かれても、それにすら答えられなくて。

……そう、答えられる訳がなかった。計佑自身も、何も覚えていなかったからだ。

 自分が何故グラウンドなどに来ていたのか、何が悲しかったのか、まるでわからなかった。

霞んだ意識では、思い出そうと試みる気力すら湧かなくて。

そんな風に呆け続けて、危なっかしい計佑だったから、心配した雪姫に送り出されて。

せっかくの合宿だったのに、皆が起きだす前に早退する羽目になった。

 幸い、まくらも早々と目を覚ましていたようだったので、まくらが付き添ってくれたのだけれど。

……そう言えば、帰りの道中、まくらも全然口を開かなかった気がする。

まあ、あの時の自分に、まともに話をする事は多分無理だったのだろうけれど──

ともあれ、昨日は一日ぼーっとし続けて。

 またこうして朝を迎えてみて、ようやく普段の精神状態を取り戻せた事に安堵した訳だった。


──今日から、生まれて初めてのバイトなんだもんなぁ。

  初っぱなからまともに働けないとか、絶対許されねーだろ。


 昨日の自分の状態から心配だったのだろう、様子を見に来てくれた由希子に『もう大丈夫』と伝えて。

顔を洗って、服を着替えて、食卓に向かって。

そして、そこでまくらの不在に気付いた。


「あれ、おふくろ?  まくらはどうしたんだ?」

「ん? いやね、今日もなんか忙しいって話してたんだけど……どうしたんだろうね?

昨夜もくーちゃん来なかったでしょう、随分と珍しいわよね」


 言われて気が付いた。

確かに昨日、家まで送り届けてくれて以降、まくらが一度も顔を見せていなかった事に。


──……あ、そう言えば……アイツとはちょっとケンカっぽいままだったんだよな……ちゃんと話するつもりだったのに。


 硝子にも念を押されていた事だった。

 とは言え、たとえまくらがいつも通り目覚家で過ごしていたとしても、

昨日の自分には、まともに話をするなんて到底不可能だったのだけれど。


──うーん……早いとこちゃんと話すべきなんだろうけど、今もあんまり時間ないしな。

  とりあえず、バイトから帰ってきて、かな。


 そんな風に決めて、朝食をとり始める。


──そういや、昨日からホタルもいないんだよなぁ……


 昨日は一日中、部屋でボーっとして過ごしていたのだけれど、結局一度もホタルは姿を見せなかった。


──まあ……早速、榮治さん探し再開したんだろうなぁ。


 きっと元の姿に戻ったであろうホタル。

あのクールな目つきの彼女なら、今頃は恬淡としている事だろう。

それに、榮治探しの合間にも時折は顔を見せにはくる、とは旅先でも言っていたことだし。


──そう、永遠の別離を迎えたわけでも何でもない。

その内、また帰ってくる事もある筈だから。

だから、寂しがる事も、悲しむ必要もない。


 ホタルとの、『最期の』別れを思い出せない少年は、そんな風に考えて。


……そうして、心の平穏を保っていたのだった。


─────────────────────────────────


 それからの10日程の間、計佑は初めてのバイトに励んだのだが──

その予想を遥かに上回るハードさに、ぐったりと疲れきる毎日を過ごしていた。

 短期集中のものだったので、休日が挟まれる事もなく、

あまりに疲れて食事もろくに喉を通らないような日々にまでなってしまって。

 そんな状態だったから、両親は勿論、まくらともろくに会話をする事もなくて。


……結局、全てが手遅れだったと知ったのは──バイト終了の、翌々日だった。


「おふくろ、おかわり」

「あらっ、珍しい。ようやく、食欲戻ってきたのかい?」


 計佑が差し出した茶碗に、由希子が安心したような笑みを浮かべた。


「まあなー……昨日は、まだキツかったけど。今朝になったら、やっと楽になってきてたよ」


 バイトは一昨日で終わりだったが、昨日はまだ食欲も回復してくれなくて。

今朝目を覚ましてみて、ようやく身体が楽になってきた事を実感出来たところだった。

 そうして、久しぶりに余裕を持って味わえる味覚にちょっとした幸せを感じていたのだけれど、

向かいに座る人物が漂わせる暗い雰囲気のせいで、その幸せに浸りきる事は出来なかった。


「……なあ、まくら。その……まだ落ち込んでるのか? 試合の事で……」

「……別に。そんな事もう気にしてないし、特に落ち込んでるつもりもないけど」


 伺うように話しかけてみたが、まくらの反応はやっぱり芳しくなかった。


──ていうけど……明らかに元気ないんだよな、コイツ……


 いくらなんでも、合宿の時の事をまだ引きずっているとは思えない。

とすると、あとはもうソフトで敗退した事しか原因が思い当たらないのだけれど。


……そう、まくら達は、あの合宿後の次の試合で、あっさり敗退してしまっていた。

 前の試合では、あれほどのピッチングを見せていたまくらだったのに、

次の試合では別人のように調子を崩していたらしく、大敗を喫してしまったのだった。


「……え……? 計佑アンタ。もしかして、まだ聞いてないのかい!?」

「は? 何をだよ」


 由希子が目を丸くしているが、計佑には何の話なのかさっぱりだった。


「……ちょっと、くーちゃん……?」


 由希子が、心持ち厳しい顔をしてまくらを見つめて、まくらはその視線から逃げるように顔を逸らした。


「……おい? 何の話だよ」


 計佑が問いかけたが、二人はしばらく口を開かなかった。


「くーちゃん……自分で話したいっていうくーちゃんの気持ちを尊重したつもりだったけど、

アタシは計佑の母親でもあるんだよ。 くーちゃんが言わないんなら、もうアタシが──」

「──待って、おばちゃん」


 まくらが、諦めたような表情で計佑のほうを見つめてきていた。


「ちゃんと話すから……計佑。私の家にきて」


─────────────────────────────────


「私、引っ越すんだ」

「……え……」


 一瞬、何を言い出したのか理解出来なかった。


「……は……? え、何の冗談……」


 呆けたような声が出たけれど、まくらの静かな表情に変化はなかった。


「おい、だから……」


 言いかけて──視線を落とした。


……わかっていた。冗談などではないことくらい──あちこちに積み上げられたダンボール箱を見せられれば。

 俯いた少年に、まくらの静かな声が覆いかぶさる。


「お父さんの仕事についていく事にしたんだ。 ……新潟のほうだよ。結構遠いね。

子供の頃からずっとこの街だったから、ちょっと不安はあるけど……」


 そんなまくらの声は、殆ど耳に入らなかった。……頭がグラグラするような気がして。


「なっ……なんで今更? どうして、ついていこうなんて……」


 どうにか声を出した。

──けれど、ドクドクと悲鳴を上げる心臓がうるさくて、自分の声なのにろくに聞き取れなかった。


「何でって、別に当たり前のことでしょ。親の転勤についていくのなんて」


 そっけないまくらの答え。けれど、そんなものに納得なんて出来る筈もなくて。


──今まで、ずっとお前のコトなんてほったらかしにしてた父親にかよ!!


 そんな言葉を口にしそうになって。ギリギリで踏みとどまった。

そんな事を口にしたら最後──父親のことを本当に慕っているまくらは完全にキレてしまって、

話は終わりになってしまう。

 大きく溜息をついて。深呼吸をして、どうにか気持ちを落ちつけた。


「……いつ引っ越すんだよ」

「29日」


 その答えに愕然とした。


──もう数日しかないじゃないか……!!


「なっ……なんでそんな急な……!?」


 そう口にしていて、思い出した。今朝の食卓での母とまくらの会話──

引越しの話自体は、もうずっと前に出ていた事なのではないかと気付いて。


「……いつ、引越しなんて話が決まったんだよ」

「合宿から帰ってきた日の晩」


 相変わらずそっけないまくらの答え。

けれどそれに、ついに心が沸騰してしまった。


「……10日以上前じゃないかよ!  何でこんな長い間黙ってやがったんだよ!!」


──もっと早く話してくれていれば。

──引き止める事だって出来たんじゃないか。

──もうあと数日もないなんて、それじゃあもう手続きも何もかも終わっていて、完全に手遅れじゃないのか──


 そんな憤りを抱いて、思わずまくらに詰め寄ったが、まくらの表情は変わらず落ち着いたままだった。


「だって計佑、ずっとバイトで疲れきっていて、話をする余裕なんてなかったじゃない」

「そっ……それは……!  ……でも!!」


 確かに、帰宅すればすぐにベッドに倒れこんで、泥のように眠る日々だった。

それでも、全く口を開けなかった訳ではない。

こんな大事な話なら、どんなに疲れていたって、無理をしてでも絶対に聞いておきたかった……!!


 うつむいて、悔しさに唇を噛み締めていると、


「……ちょっと意外。まさか、そんなに動揺するとは思わなかったよ」


 久々に、まくらの声に感情がこもっていた。バッと顔を跳ね上げる。


「ふざけんなよ……! しないワケないだろ!!

何で、もっと早く言ってくれなかったんだよ……そしたら、引き止めるコトだってなんだって……!!」


 そんな風に訴えたが、一度は浮かんでいたまくらの感情が、また顔から消えた。


「引き止めるって何? ……さっきも言ったけど、合宿から帰った日には、もう決まっていた話なんだよ。

仮に、もっと早く話していたとして、それで計佑が引き止めようとしてきていたとしても。

結果は変わらなかったんだよ」

「……っ……!」


 取り付く島もないまくらの言動に、歯を噛み締めた。拳を握りしめて俯いていると、


「……ねえ、なんでそんなに悔しそうなの? 私が引越すからって、別にもう計佑にはどうだっていいコトじゃない」

「はあっ!? 妹みたいだったお前がいなくなるんだぞ……どこがどうでもいいコトなんだよ!!」

「だって。妹なら、もうアリスちゃんとかいるじゃない」

「……は?」


 予想外の答えに、ポカンとしてしまった。


「綺麗で優しい恋人に、素直に甘えてくれる妹もできちゃって。 ……生意気なばっかりの妹なんてもういらないでしょ?」

「……なっ……なんだよ、それ……」


 まくらが言っている事が、僅かな間は理解出来なかった。

 けれど、合宿二日目での、

あの時には全くわからなかったまくらの言動──髪をかきまわしてみせろと言い出した──を思い出して。

 漸く、理解できた。

あの時のまくらが『妹として』アリスに嫉妬していたのだと。


──そ……そういうコトだったのか……


 ずっと、まくらに対してしかやってこなかった "ワシャワシャ"。

それをアリスにやってみせているところを、見つけてしまって。

 そして最近では、まくらに対しては全くやっていなかった行為だから、

自分たちの間に、距離が出来てしまったと考えたのだろう──そう気付いた。


「なんでっ……いや! あの時言いたかったのはそういう事じゃないんだよ。

別に、お前と距離をとろうとか考えてたワケじゃなくて!

偉そうな兄貴ヅラはやめて、もっとこう、対等にっていうか、オレが望んだのはそういう新しい関係みたいな──」

「──私は、そんなもの望んでなかった」


 まくらに、途中で遮られて。


「……え……」


 もう、二の句が告げられなかった。


「どうせ、私が望んだ関係なんて無理だったんだから。

……それならせめて、兄と妹って関係だけでも続けて欲しかったのに……計佑はそれも拒んだ」


 冷たい目で見つめられて、もう何も言えなくなった。それでも、ここで黙りこむ訳にはいかなかった。


「ちっ……違う!  別に、拒んだつもりなんてない!!

あの時は、お前がそんなコト考えてたなんて分からなかっただけだ。ちゃんと、そう話してくれれば──」

「──それに、雪姫先輩だっているしね」


 またもまくらに割り込まれてしまって。


──……え? せ、先輩? 先輩が、なんで今の話に……?


 また、言葉の意味がわからなくて黙りこんでしまう。


「……見たよ。あの日の晩……計佑、先輩にしがみついて、ワンワン泣いてた」

「あっ……な!?」


 雪姫にすがりついて、みっともなく泣きわめいていた姿を、妹分に見られていた──

その気恥ずかしさに、顔が熱くなった。


「いっ……いや! 違うんだよ、あれは、オレにもよくわかんないんだよ!!

気がついたらグラウンドにいて、なんか訳もなくすげー泣けてきちゃって。

そこにたまたま先輩が来てくれただけの話で!!」


 必死に弁解したが、まくらの表情に変化は起きなかった。


「雪姫先輩には、少しでもいいトコを見せよう──計佑の立場なら、普通はそう思うよね。

でも、計佑は先輩に、あんな風に泣いて縋りつくことも出来るんだね。

……私には、絶対あんなトコロ見せてくれないのに」


 まくらが、ふうっと一息ついて。


「素直に甘えてくれるカワイイ妹がいて、泣き顔だって晒せるくらい、甘える事が出来る恋人もいて。

……もう、他の女のコなんて。計佑、いらないでしょ?」


 そう問いかけてきながら、まくらが寂しそうな笑みを浮かべてみせた。


「……少なくとも……お父さんは私を必要としてくれるもの。

私に、お父さんについていかないなんて選択肢はないんだよ」


──ずっとお前をほったらかしにしていた父親じゃないか。

──なんでそれでお前を必要としてるなんて言えるんだよ。

──必要としてるっていうんなら、俺のがよっぽど……!


 そんな風に言ってしまいたかったが、やっぱりそれも出来なかった。

けれど今、他に言える事は見つからなくて。黙りこむしか出来ずにいたけれど、


「……まあ、ちょうどよかったのかなって。正直、もう今の暮らしには疲れちゃって、限界だったんだよね」


 そんな言葉をまくらが口にした瞬間、カッと心に炎が灯った。


「……おい。なんだよそれ。疲れたってどういう意味だ……?」

「……っ……」


 自分でも驚くくらい低い声が出て、それにまくらがビクリと息を呑んだ。


「オレの態度に、色々と気に入らないコトがあったのはわかったよ。

……けどな、俺達との暮らしが疲れたってどういう意味だよ。

お前、あんだけオフクロにだって懐いてたじゃないかよ。

オフクロだって、お前のコト実の娘みたいに可愛がってたじゃねーかよ……!

それをお前……っ。

それにっ、須々野さんや、部活のみんなまで切り捨てるのかよっ。

オレにムカつく事なんて、今までだっていくらでもあっただろ!?

なのに何でっ、何で今回はそこまでっ……

疲れたなんて言って、今までの生活、オレの全部、全部を否定すんだよっ……!!」


 こんな風にキレて、怒鳴り散らすような言い方じゃあ、

まくらも逆ギレして、話し合いなんて終わってしまうかも──そんな考えも掠めたけれど、止められなかった。


……いや、いっそそれでも構わなかった。


 話している最中、まくらはずっと穏やかな表情のままで。

こんな、暖簾に腕押し状態のままの会話じゃあ埒なんてあかない、それだったらいっそ、キレさせでもして。

 いつもだったら、キレたまくらはただ見送っていたけれど、

今回ばかりは絶対に逃さないで、徹底的にケンカしてでも──そんな風に考えていた。


……けれど、


「……そうだね。ごめん、今のはヒドイ言い草だったよ」


……やっぱり、まくらの静かな態度は変わらなかった。

殆どヤケになってぶつけた言葉すら、苦笑1つでやり過ごされて。愕然となった。

目を見開いて見つめるしか出来ない内に、


「今日は、ソフト部のみんなが送別会をしてくれる事になってるんだ。

私はもう出るから、鍵のほうはよろしくね、計佑」


 言い残して、まくらがあっさりと部屋を出ていく。


……その後ろ姿を、ただ呆然と見送る事しか出来なかった。


─────────────────────────────────


 やがて、静寂に包まれた部屋の中で、


「……ふざっけんな!! お前までいなくなろうってのかよっ……!!」


 吐き出すように、怒鳴ってしまっていた。──直後、


──……? ……お前『まで』って何だ……誰に続いてって……?


 自分の今の言葉がわからなくて、戸惑いが湧いた。

先にいなくなった──その事実に思い当たるのは、ホタルしかいない。

……けれど、ホタルとは完全に別れた訳ではない。

時々は、ちゃんと顔を見せに帰ってくるのだから。

瞬間移動みたいな真似までやってのけてみせていたのだ、意外とちょくちょく帰ってきてくれる筈なのだ。

だから、ホタルは違うに決まってる──


……そんな風に考えている少年には、自分がどれ程ホタルの事を必死に否定しようとしているのか、自覚はなかった。


 ただ、そうやって思考に耽っている最中、

ふと──自分とホタルがグラウンドにいて、

ホタルが幸せそうな笑顔を浮かべている姿が脳裏をよぎり──ゾワリと悪寒が走った。

慌てて頭を振って、考えるのをやめる。


──……っ! 今は、ホタルの事を考えていても仕方ない。まくらの話のほうが先だろ……


 そんな風に考えて、無理やりにでもまくらの事に考えを戻す。


──合宿から帰ってきた日の晩に、決めた話だって言ってたな……


 合宿から帰ってきた日──それはつまり、一日中、計佑が呆けていた日だ。


「くそっ……須々野さんにも約束してたのに! あの日の内に、ちゃんと話が出来てれば……!!」


 そうしていれば、まくらの誤解だってちゃんと解いて、もしかしたら引き止められていたかもしれない。

なのに、自分は一体何をしていたのか……そんな後悔に、拳を握りしめて。


「ちくしょう……!  あの時のオレは、何だってあんな状態に……」


 どんなに悔やんでも、時間を巻き戻せはしない。

……そして、この少年にはその真相を思い出す事も──決して出来ないのだった。


─────────────────────────────────


「全っ然っ! 納得いかねーよ、おふくろっ!!」


 怒鳴った計佑が、拳をドンっとテーブルに叩きつけて。


「あ~……はいはい、黙ってたのは悪かったね。

でもくーちゃんは自分で話したいって言ってたし、まさかまだ話してないとはアタシも思ってなかったんだよ」


 計佑の正面に座っている由希子は、のんびりとお茶を飲んでみせていた。


 あの後、自宅へと戻った計佑だったが、当然の事ながら怒りはまるで収まっていなかった。

やり場のない怒りを持て余して、そこでキッチンにいた母を見つけて──ここぞとばかりに、母へとその憤りをぶつけていたのだった。


「そのコトもそうだけどっ……

そもそも、なんでオフクロはそんなにあっさりしてるんだっ?

どうして、オフクロは引き止めようとかしないんだよ!」

「ちょっとちょっと。ムチャ言うんじゃないよ。

隆さんが望んで、くーちゃんも望んでるコトに、なんで他人のアタシが口出し出来るって言うんだい?」


 計佑の詰問に、由希子が苦笑してそんな風に尋ね返してくるが、

そんな母の言葉は、計佑にはまるで納得できないものだった。


──どこが他人だというのか。由希子だって、まくらの事は娘のように可愛がっていたじゃないか。

──それなのに、ずっとほったらかしにしていた父親についていくなんて話を、何故そんなにあっさり受け入れているのか。


 まだ子供の計佑には、そんな風にしか思えなかった。だから、


「おじさんが望んでる? そんな話あるかよ。そりゃまくらの方はずっと慕ってたけど、

それなのに、まくらのコトなんてずっとほったらかしにしてた人じゃないかよ」


 そんな言葉を口にしてしまって、


「……バカ言うんじゃないよ、計佑。それ以上言ったら本気で張り倒すよ」


 母親の鋭い眼光に、少年がぐっと息を呑んだ。


「……隆さんはね。くーちゃんのコトだけを支えに生きてるような人なんだよ。

同じ親であるアタシには断言出来る。

あの人以上にくーちゃんを愛している人は、この世界のドコにもいないんだよ」


──妻を亡くした時の、隆の荒れ様は本当に酷かった。

それでも、どうにか持ち直したのはまくらの存在があったからだ。

 今では、まくらの事だけを頼りに日々の激務を耐えているような人から、

娘の存在を取り上げるなんて非道な真似は、同じ親としてやれる筈もない事だった。


 そんな風に考えていた由希子からの叱責だったけれど、


「……なんだよそれ。オレには全然信じられねーし、わかんねえよ……」


 まくらを失ってしまう事に、どうしても納得できない計佑が俯いたまま呟いて、


「そりゃ16歳のアンタで理解られちゃあ、むしろ怖いけどね」


 由希子が釣り上げていた目尻を下ろして、苦笑してみせた。

そうして、母の怒気が緩んだ事でどうにか顔を上げられた計佑が、


「……まあ、おじさんの事はオレにはわからないけど。

……でも、まくらのあの言い様だって……あんまりだったんだよ」


 そんな風に、母へと訴えて。


「なんだい? くーちゃんからは、どんな風に話をされたんだい?」

 

 由希子が水を向けてきて、


「だってさ……あいつ、俺達との生活を『疲れた』なんて言ったんだぜ……?

あんまりじゃないかよ。オフクロにだって、あんだけ懐いてたクセしてさぁ……?」


 こればかりは、絶対に母にも同意を得られるはずだ──そう信じて、少年が問いかけた。けれど、


「……疲れた? くーちゃんがそう言ったのかい?」


 由希子は目をパチクリとさせるばかりで、計佑の望んだような反応は返ってこなかった。


「そうだよ、間違いなく!

……いや、一応後で詫びてはきたけどさ……それでも、あの時のアイツ、多分本気で言ってた。

そんなの、オフクロだってムカつくだろ!?」

 

 母だって、自分のこの怒りにきっと同調してくれると思っていたのに。

芳しくない反応に納得できず、語気を強めてもう一度訴えたけれど、


「……は~……なるほどねぇ……まあそういう可能性も考えちゃいたけど、本当にそうだったんだねぇ……」


 由希子は何やら一人でうんうんと頷き始めて。結局、計佑の望んだ反応はないままだった。

……けれど、計佑にとって、もうそんな事はどうでもよくなっていた。


「……え? お、オフクロ、まくらが何考えてるのかわかるのかっ!?」


 まくらの、自分への不満は一応わかったつもりだったけれど、

それでも『疲れた』なんて言い出した理由は、さっぱりわかる気がしなかった。

 もしそれを母がわかるというなら、是非とも知りたいところで。

身を乗り出して、母の顔を至近距離から覗きこんだが、


「……ん~……」


 由希子は何やら難しい顔をして、唸るばかりだった。


「ちょっ、おい! 何だよ、焦らすような──」

「──まあ、ちょっと落ち着きなさいって。

気持ちはわからないでもないけど、アンタさっきから落ち着きなさ過ぎだよ。

とりあえず、ホラ、お茶でも飲みな」


 肩を押しやられて、渋々椅子に腰を戻すと、由希子が湯飲みにお茶を注いで差し出してきた。

──言われてみると、確かにまくらとの話し合いからこっち、声を荒げる事が多くて。喉の渇きを、そこで自覚した。

素直に手にとって、一気に喉へと流し込んで、


「好きなコが出来たんだろ、計佑」

「ぶーーーーーーーっっっ!!!」


 母からの予想外の一言に、息子が派手にお茶を吹き出した。


「がはっ……ごほっ、ごふごふっ!!」

「うわ~……またキレイにハマったわね~、しかし。……まるで、松田優作みたいな噴水っぷりだったわよ?」


 どうやら計佑の反応は予想していたらしい……というより、

むしろ狙っての一連の言動だったらしい由希子が、

計佑からの噴水をブロックするのに使ったお盆をテーブルに戻すと、布巾で飛び散ったお茶を拭きとり始めた。


「………ふっ……ぐふっ! そっ…………げほ、げほっ! ………まっ……ごふ!!」

「……『ふざけんな! ……そんな話、どうでもいいだろ!?……まくらの話をしてんだよ、今は!!』

……ってトコかい?」


 咳き込むばかりで殆ど言葉を紡げなかったが、母親は正確に意を読み取ってくれた。計佑がコクコクと頷く。


……けれど、こちらの言いたいことをしっかり分かっていながら、由希子はそれには付き合ってはくれない。


「バカ言ってんじゃないよ。アタシにとっちゃ、全然『どうでもいい話』なんかじゃないんだよ。

石ころにばっかり目がいってたアンタが、ようやっと目覚めてくれたってコトだろう?

全く、このまま石ころばかり追いかけ続けて、まさかアタシは孫の顔を見れないんじゃなかろうかと

ちょっと心配になりかけてたんだからね?」

「だっ、だから今はそんな話どうでも……! って、いや!? そっそもそも、別に好きな人なんて……!」


 漸く落ち着いた少年が、必死で否定しようとしてみせたけれど、


「そんな、わっかりやすい反応しといて、今更誤魔化せるとか思ってんのかい? このおバカ。

それでも否定したいんだったら、せめて『そんな話、どうでも!』なんて部分は口にするべきじゃなかったね」

「……ぐっ……!!」


 言い訳を添削までされてしまって、もはや何も言えなくなってしまった。


「くくくっ……! 随分とまあ赤い顔しちゃって……カワイイもんだねぇ」


──かっ、顔が赤いのは咳き込みまくったせいだろっ……!!


 そんな風に、少年が心中で言い返した。……というか、心の中でしか言い返せなかった。

 咳き込んだせいの赤みなんて、息が落ち着いた今はもうとれてきている筈で。

……そう、少年とて、本気で咳き込んだせいなどとは思ってはいないのだ。

 それでも、思春期少年には母親にこんな風にからかわれるのは耐えがたくて、

けれどそんな言い訳を口にしても、また笑われるのはわかりきっていて──

結局、心のなかでしか言い返せなかったのだった。


「で? そのコとの進展具合はどうなんだい?

……まー、あんたのそのザマからすると、まだ正式にお付き合いとまではいってないんだろうけれど。

それでも、くーちゃ……んんっ、まあ、大方もう両思いで、ゴール直前ってトコなんだろう?」

「おっ、オフクロっ! いい加減にっ……!!」


 さっきまでとは立場が変わって、今度は由希子が身を乗り出してくる。

 けれど初心な少年の方は、先程までの母親のように落ち着いて質問をいなす事などできる筈もなくて。

赤い顔をして、母の追求から必死に逃れようと仰け反ってみせた。


 そんな風に、暫しの間息子の狼狽えっぷりを堪能していた母親だったけれど、

やがて満足したのかニヤニヤとした笑みを消すと、


「……まー、マジメな話。アタシの口から教えてあげる気はないんだよ、くーちゃんのコトなら」

「なっ……!?」


──「冗談だろ、まだからかう気かよ」……そんな言葉は続けられなかった。

真面目な母親の顔を見れば、本気で言っていることは察せられて。


「……なんでだよ……こんな大事な話なのに、なんでそんな意地悪なマネなんて……」

「……別に、意地悪で教えないとかじゃないんだよ。

アンタがこんな風にアタシに甘えてくれんのは珍しいし、教えてやりたいとも思うけれど。

……でも、くーちゃんの気持ちも考えるとね。

やっぱり、アンタが自分で気付かなきゃいけない話なんだよ」


 困ったように苦笑しながら、由希子がそんな風に諭してきて。


「それじゃあ、アタシは仕事に行ってくるからね」


 そんな風に去ろうとした由希子に、

それでも諦めきれずに縋ろうかと考えた瞬間、ケータイがメールの着信を知らせてきた。

 狙いすましたかのようなタイミングでの着信音に水をさされて、

舌打ちしたいような気分で相手をさっと確認したが、


──えっ、先輩……!?


 直前の軽い苛つきなど完全に吹き飛んで、ドキリと心臓を高鳴らせていた。

 雪姫からの連絡は久しぶりだった。

バイトを始めて、二日目辺りまでは連絡をくれたりしていたのだけれど、

計佑が本気で疲れている様子を察して遠慮したのか、それ以降はさっぱり連絡がなくなっていた。

 もちろん計佑のほうも、家族とすらろくに会話も出来ないような状態だったので、

こちらからメールを打つという事もなく──以前の濃密な時間からすると、随分久しぶりの連絡といえるものだった。

 そんな、久しぶりの雪姫との接触に、思わず母親に詰め寄ろうとしていた事も忘れて、慌ててメールを開いた。

そこにあった文面は──


──久しぶり、計佑くん。もう元気取り戻せたかな?

──アルバイト、一昨日で終わりだったんでしょう?

──良かったら、今度一緒に映画でも観に行かない?


 要約すると、そんな内容だった。

そして、そんな文面を読んだ少年の表情には──


──……そうだ……オレも、先輩に会いたい……!!


 久しぶりに、笑みが浮かんでいた。

 計佑がバイトを始めた1番の理由は、雪姫へのプレゼントの為だった。

ちょうどいい、映画を見て、そして雪姫へのプレゼントを一緒に選んで──

そんな風に雪姫の笑顔を思い浮かべると、今朝からずっと暗く淀んでいた気分が晴れる気がして。

すぐに、返信を打ち始めた。


─────────────────────────────────


 計佑が由希子と話をしていた頃。


「ああぁ~~……もう10日以上、計佑くんに会えてないよぉ~~……」


 自室のベッドにうつ伏せで寝転がった雪姫が、足をバタつかせながらぼやいていた。


「う~~っ……う~~っ……声すら聞けなくなって、それだってもう一週間以上……」


 ゴロゴロとベッドの上で転がる。


「もう……いいよね? 昨日までガマンすれば、もう十分だよね?」


 誰にともなく尋ねて、ケータイを手にとって。

──昨日は、まだバイトが終わった次の日で、きっとまだ疲れているだろうからと、どうにか自制した。

 けれど、もう一晩明けてみると、いよいよ我慢の限界だった。


 計佑が、危なっかしい様子で合宿から帰って行った日。

 心配で、何度かメールを打ったりしていたのだけれど、

計佑からの返信は「はい」か「いいえ」の一言しかないような簡素なものばかりで。

不安になって、まくらにも連絡をとったけれど、


「ごめんなさい、家には確かに送り届けたんですけど……今日は私も忙しくて、

もう計佑ん家には寄ってる時間なさそうなんです。でもさっき偶然おばちゃんと外で会ったんですけど、

計佑、部屋でじっと大人しくしてるだけだって言うから、そんなに心配しないで大丈夫だと思います」


 貰えた答えは、そんなもので。

 悶々として一日を過ごして、次の日の朝になって、ようやくまともな──いつも通りの──

計佑からのメールが届いて。ようやく安心出来たのだった。


……けれど、そこから雪姫にとってのつらい時間は始まった。

 計佑たち一年は、夏休みの後半には夏期講習がない。

それで、天文部の次回の活動は二学期に入ってからにしようという事になっていて。

 そうして出来た時間を利用して、計佑はバイトを始めてしまって。

最初の一日二日は連絡をとっていたのだけれど、計佑が疲れきっている事は電話越しでもはっきりと理解できた。

 そうなっては、流石に雪姫とてワガママは言えない。

まくらを通じて、ちょくちょく計佑の様子は伺っていたけれど、やっぱり、そんなものでは寂しさは埋めきれなくて。


──とうとう今、限界を迎えた少女が、少年へと連絡をとろうとしていたのだった。


「う~……ん……計佑くんの声、聞きたいよぉ……でもまずはメールからがいいかなぁ……」


 連絡をとる事は決めたけれど、どういう風に切り出そうか──ケータイを弄びながら、悩み始める。


──何の用もなく、ただ会いたいっていうのはちょっとあれだよね……何か口実ないかな……


 しばらく考えて、


──あ、そうだ! あの女優さんの映画……!!


 結構好きな女優が主演している映画が、今公開中だった事を思い出した。

普段だったらDVDなどで済ませてしまうところだけれど、今回は映画館まで足を運ぶことにしよう。

……まあ、あまり男の子が見るようなタイプの映画ではないのだけれど、それはこの際無視だ。


『貰い物のチケットが余ってるんだけど、カリナはじっと映画を見るとか耐えられない性分なんだよね。

……計佑くん、付き合って!』


 そんな風に頼み込んだら、優しい計佑だったらきっと付き合ってくれる。……と思いたい。

……けれど、恋愛物の映画なんて知ったら、流石にイヤがられそうな気もする。


『他の友達とか、まくらとかと行ったほうが……』


……そんな風に、逃げられそうな気もする。


──……ええい、いつまでも悩んでたって仕方ない!!


 嫌がられるようだったら、計佑が好きそうな映画でも構わないのだ。肝心なのは、計佑と会う事なのだから。

そう意を決して、メールを打つ。


……結局、やはり電話ではなくメールを選んだ。


 理由は、


──久しぶりに聞く計佑くんの声なのに、『まだ忙しい』とか『あまり映画は……』

  みたいな拒絶、されたら怖いもん……


……そんな、相変わらずの打たれ弱さの虫が顔を出したからだった。

 果たしてどんな返事が帰ってくるかと、ビクビク、ドキドキしていたら、すぐに返信があった。慌てて確認する。


──先輩さえ良かったら、明日にでも。

──映画が終わったら、先輩へのプレゼント、一緒に買いに行きませんか?

──先輩に聞いて欲しい話もあるんです。


 そんな内容が含まれたメールには、


──うっ、うわぁああ~~~!!

──ホ、ホントにっ!? うっ、嬉しいっ!!

──こっ、こっ、これはもしかしてっ……!!??


 雪姫を三重に喜ばせる点があった。


 1つ目、明日には計佑に逢える。

もう夏休みも残りは少ない。確かに付き合ってもらえるとしたらここ数日の間しかなかったのだけれど、

断られる可能性にビクビクともしていただけに、予想以上の早い実現が本当に嬉しかった。

 2つ目、計佑からのプレゼントが貰える。

計佑が初めて白井家を訪れた日に、約束してくれた事。

その後のアリスとのドタバタで、もう有耶無耶になってしまったかとも思っていたのに、

ちゃんと計佑は覚えていてくれた。

 3つ目、そしてこれが──1番大きく、雪姫の心臓に嬉しい悲鳴を上げさせた。


──あ、改めてお話とかっ……そ、それってもしかしてっ、と、とうとう……!?


 デートをオッケーしてくれて、

プレゼントも贈ってくれると言ってくれて、

そして最後には、改めて話がある……とくれば。


 恋する乙女が妄想するその答えは、一つしかなかった。


──うわ~~~~!! うわあああああ!!


 嬉しさのあまり、しばらくの間ベッドの上を転がりまわっていたけれど、


──……って、あ、あれ? デ、デートって……これが初めての計佑くんとのデートっ!?


 島での二人きり(雪姫視点では)での探索も、雪姫にとっては特別な時間だったけれど。

あれをデートとは流石に言えない。


「たっ、大変……!! 明日は、すっごく特別な日になるんじゃない……!!」


 大好きな男の子との初めてのデートで、

そして(ちゃんとした形では)初めてのプレゼントを贈ってもらえる日で、

……何よりも、とうとう応えてもらえるかもしれない日で……!!


「どっ、どうしよう……! 明日は、めいっぱいオシャレしていかないと!!」


 慌てて起き上がり、ベッドから立ち上がろうとして──その前に、ヘッドボードの小物入れを開く。


「……ふふっ。明日、キミの弟か妹がやってくるんだよ……?」


 計佑の命を守ってくれた、計佑からの初めてのプレゼントを見つめて。少女が幸せそうに微笑む。

 やがて満足したのか、小物入れを閉じると鼻歌交じりに部屋を横切り、

クローゼットを開いて服を物色し始めたのだけれど、浮かれ少女は突然、ピタリとその動きを止めた。


──……あれ……ちょっと待って。今からこんな準備とかしてたら……!?


 明日の準備は入念に行っておきたい。

 けれど、ベッドの上に何枚も服を引っ張りだしてきている所や、

浮かれきっている自分を、あの "小悪魔" に見つかったりしたら。


──意外とカンのいい小悪魔は、きっと事情を見抜いてきて、そしてニンマリと微笑みながら、


『私も、久しぶりに  "おに~ちゃん" に会いたいな~?

……ついてってもいーい?

あ、おねえちゃんじゃなくて "おに~ちゃん" に訊いてようかな~。

……優しい "おに~ちゃん" だったら、きっとオッケーしてくれるんだろうな~?」


 そんな風に『嫌がらせ』をしてくる未来が脳裏に浮かんで、ゾクリと背筋を震わせた。


「だっ、だめよ!!  明日は、絶対にダメなんだから!!」


……ここにはいない少女の、それも妄想でしかない姿に対して思わず叫んでしまう。ところが、


「……ん~? どしたのおねえちゃん、随分大きな声出して。何がダメなの~?」


 突然ガチャリとドアが開いて。

まさに今、雪姫が最も恐れていた相手──アリスが顔を出してきたのだった。

 そのあまりのタイミングのよさに、雪姫の頬がひきつり。


「えっ、あ!? な、なんでもないワヨっ!?

で、電話よ電話。カリナが、またバカな事言い出したもんだから、つい……!」

「……ケータイ、ベッドの上にあるよね?」


 咄嗟に繰り出した言い訳は、あっさりウソだと見ぬかれそうで。


「あっ、あっ、頭にきたのよ、すっごく!

それでっ、電話切ってすぐに、ベッドに投げつけちゃったのっ」


 今更後には引けず、そんな風に説明してみせる少女。……けれど、


「……ふ~ん。それじゃあ、なんで今、服を引っ張りだそうとなんてしてるの? どっかにお出かけ?」

「あっ、えっ……そ、そうなの! 明日、突然仕事が入っちゃって。

今回は大事なお仕事だから、気合入れてっ、今のうちに服とか選んでおこうかなって……!」

「……へぇえ~~~。おねえちゃんが、仕事にそんな前向きなのって初めて見るけどねぇ~~~……??」


 アリスが完全にジト目になって。雪姫はダラダラと脂汗を流し始めて。

 

……やがて、アリスが大きくため息をついた。


「……おねえちゃん、いくらなんでもウソ下手すぎ~……

ほんと、けーすけのコトになるとダメダメになっちゃうよね~。

そんなに心配しなくても、デートの邪魔なんかしないよ~?」

「なっ……!? え!? やっ、違っ……」


 恐れていた通りあっさり見ぬかれてしまって、慌てる雪姫だったけれど。

アリスの反応は、雪姫の予想とはまるで違っていた。


「ホントのホントに邪魔なんてしないし、イジメたりもしないから。安心してってば~」


 苦笑しながらそんな事を言ってくる。


「……え……? ほ、ホントに……? で、でもだって……」


 計佑絡みでは、散々──本当に散々、徹底的にからかい続けてきていたのに。

……そんな不信感が拭いきれなくて、


──……そうだよ! まだ安心なんて出来ない!!


 今までだって、コロリと態度をひっくり返したりしてみせたりで、こちらを翻弄し続けてきた相手なのだ。

今回のこれだって、こちらが信用して安心した瞬間、きっと裏切ってみせるのだ。


──……そう、例えば。

私にはこんなコトを言っておいて、裏では計佑くんに連絡をとったりして。

私にはナイショで、いきなり待ち合わせ場所に現れるとか狙ってたりするんだ……!


 そんな疑念の元に、高3少女は『う~~~っ!』と唸って小学生モドキを睨みつけて。

睨まれた相手がズサっと後ずさりした。


「ぜ、全然信じてくれない……!? こ、これはオオカミ少年状態……っ」


 愕然としていたアリスだったが、やがてコホンと空咳をつくと。


「……ほ、本当に今回は何もしないから。だってさ~……?」

「……だって、なに……?」


 上目遣いで伺ってくるアリスに、ジト目少女が先を促すと、


「今回ばっかりはさすがに、ねえ? 久しぶりに会えるんでしょー?

最近のおねーちゃんの様子を思えば、

今回ジャマしちゃったりすると、なんかも~、おねえちゃん本気で泣きだしそうなんだもーん」

「んな!? ……ば、バカにして! そんなんくらいで、本当に泣いたりなんてしません!!」


 またからかわれたと考えて、カッとなった雪姫だったけれど、

アリスのほうは呆れた様子でまた溜息をつくと、ケータイをとりだして見せて。


「……へぇ~……あ、そうだ。

こないだの、おねーちゃんが例の壊れたおもちゃに色々話しかけてるトコ、

録画しといたヤツ。あれ、けーすけに送ってみてもいーい?」

「なっ!? ま、まだ消してなかったの!? いっいやあっ、絶対やめてっ!!?」


……計佑に会えない寂しさが募って、随分と恥ずかしい言動をクマちゃんに繰り出していた日の一件。

アレを動画でそのまま計佑に見られるなんて、いつぞやのお休みキスを知られた時以上に恥ずかしい……!!


 絶対に阻止しなければと、慌ててアリスに駆け寄ろうとして、するとアリスは素早くケータイをしまってみせた。


「……こんなんくらいで、もう涙目になるクセに。

そんなんで、よくもまあ強がれるもんだよね~、おねえちゃんも……

私も大概強がりだと思うけど、それでも今のおねえちゃんよりはマシだと思うよ~?」

「……くっ……うぅう……!!」


 小学生モドキにジト目で呆れられて、悔しさに唇を噛み締める。

……確かに、正直なところ。

今回のデートばかりは、もし邪魔されたりしたらアリスの言う通りになるだろうという、

情けない自信(?)もあって。だからもう、唸るしか出来なくなってしまった所で、


「う~ん……これは言いたくなかったんだけど。

……でもコレ言わないと、おねえちゃん、もう信用してくれなさそうだね……」


 アリスが悄然と俯いた。やがて少しだけ顔を上げると、


「……あのね、もし邪魔したいと思ってても、明日からはそんなヒマなくて無理なんだよね……」


 どこかビクビクとしながら、そんな事を言ってくる。


「……え? どうして。何か予定でも入ってるの?」


 アリスが不安そうに自分を見つめてくるなんて久しぶりの事だ。

軽く驚きつつ尋ねると、アリスは人差し指をツンツンと突き合わせながら、


「……夏休みの宿題、全然やってなくて。もう遊んでるヒマなさそうなの……」


 怒られる事を覚悟した様子のお子様が、上目遣いでそんなセリフを口にしてきて、


「……全然やってない!?  嘘でしょっ、何やってたの!?

あれほど計画的に進めておきなさいって言っておいたのに!!」


──そしてお子様の予想通り、雪姫の雷が落ちた。

久々に威厳を取り戻した少女からの大喝に、アリスがひっと首をすくめて。


「とっ、とにかくそういうワケだからっ、明日ジャマしちゃうとか、そもそもムリなの。

だっだから、安心していーんだよっ?」


 ジリジリとアリスが後退りしていくが、


「……ちょっと待ちなさい、アリス」


 ガシリとその肩を捕まえられて。


「……さっき、『明日から "は" そんなヒマなくて』って言ったわよね? ……どうして今日は違うの?」


 雪姫に至近距離からジロリと睨みつけられ、「うっ」とアリスが呻いて。


「……今日までは、遊ぶ予定が……」

「何言ってるの!! 今すぐ、宿題始めなさい!」

「やっ、だって!! 今日は友だちと約束してるのぉ。あ、明日から! 明日から本気出すからぁ!!」


──そんな風に、ひとしきり少女たちが騒ぎあって。

 久々に再逆転出来た立場を満喫した雪姫は、やがて最後に


「明日は、本当に、絶対に! 邪魔しないように。……そうしたら、宿題手伝ってあげるから」


 そんな交換条件を出して、それにアリスが一も二もなく頷いて。


 今度こそ何の憂いもなくなった少女が、改めて、ニコニコと上機嫌で明日の準備を始めるのだった。


─────────────────────────────────


 雪姫が一日千秋の思いで待ちわびていた、デート当日。


 久しぶりに会った計佑は、寝不足なのか少し疲れている様子だった。

 見たい映画をその場で初めて知らせると、どこかつまらなそうな態度を見せる少年に

不満を覚えたりもしたけれど、男の子をラブストーリーの映画に付き合わせようというのだから、

これは仕方ないのかもしれないと諦めて。


 そしていざ始まった映画だったが、これは期待以上の面白さだった。

 正直、主演女優を目当てに見に来た部分が大きかったのだけれど、

話の筋やカメラワークも素晴らしくて、いつしかうっとりと魅入ってしまっていた。


 ヒロインとその恋人が、手だけで愛を語り合うシーンで雪姫も感極まって、

自然、計佑の手へと自分のそれが伸びて、


……その手を避けられた。


 瞬間、陶然としていた心地から、一気に引き戻されて。

それどころか、目の前が真っ暗になっていく気がした。


 もはや、映画なんて全く頭に入ってこなくて、気がついたらスタッフロールも終わって、

場内に明かりが戻っていて。逃げるように映画館を後にした。


 追っては来てくれた計佑に、矢継ぎ早に話しかけた──涙声で。


 なのに、自分の話には答えてくれずに、何かを切り出そうとする少年の声を──必死に遮った。

当然だった。その先なんて、絶対に聞きたくなんてなかった。

なのに、聞きたくないと全力で叫んだのに、彼は聞いてくれなくて。


 そして、


「ごめんなさい」


……少年のその言葉で、雪姫の恋は終わりにされてしまった。





































「──いやああああ!!!!」


 認められなくて、目を見開いて叫んで、──目の前が暗がりだと気付いた。


「……んぅ~? おねえちゃん、うるさいよぅ……」


 隣から、寝ぼけた様子の声が聞こえて。首を回すと、そこにはアリスが眠っていて。

自分もまた、横になっている事に気付いた。そこでようやく、今のが夢だった事も理解出来た。


……けれど、


──……ゆめ……本当に……今のが夢……!?


 未だに、心臓がドクドクと悲鳴を上げていた。

 あまりに鮮明な……正に現実としか思えないほど存在感のある夢は、生まれて初めてだった。

たった今まで、あの場にいたとしか思えなくて。

今この瞬間こそが夢だと言われたらそう納得出来てしまいそうで、どちらが現実なのかと戸惑うくらいだった。

 震える手を伸ばして、こちらの方へと横向きになって眠っている、アリスの頬へと触れてみた。……暖かい。


「……えへへ……」


 むにゃむにゃと微笑を浮かべたアリスが、こちらの手へと頬ずりをしてくる。

その和む光景を目にしても、暖かさを感じていても、悪寒は取れずに全身が震えていた。


──なんで……なんで、こんな日に、こんな変な夢なんて……


 今日は特別な日になるのに。

 きっと最高の一日になる筈なのに、それを否定するかのような……まるで予知夢のような内容で。

何もかもが普通の夢とは違っていて、ただの夢だと笑い飛ばせなかった。その不吉さに、改めて震えて。

 縋りつくように、目の前で眠るアリスへときゅうっと抱きついた。


──それでも夢、夢だったんだから……!!


 思い込むように、何度も心の中で夢だと繰り返して。

さっさと忘れようと、もう一度眠ってしまおうと、ぎゅうっときつく瞼を閉じて。


 やがて、再び眠りに落ちる直前、


──……話があるって言ってたけど、本当に私が望んでたような話なのかな……


 そんな考えも浮かんできて──少女は不安に包まれたまま、眠りについたのだった。



─────────────────────────────────



 計佑が、待ち合わ場所である映画館のロビーに着くと、既にもう到着していた雪姫を見つける事ができた。

 計佑とて約束の時間より随分早く来たつもりだったが、

それでも雪姫を待たせてしまっていた事実に慌てて駆け寄っている最中、雪姫もまた計佑を認めて。


「よかったっ、計佑くん、ちゃんと来てくれた……!!」


 パァッと顔を輝かせて、随分と大げさに雪姫が喜んでいた。

……そう言えば、自分の存在に気づく前の雪姫は、何やら不安そうな様子だった気がする。


──いや、約束してて来ないワケないのに……先輩、なんか他に心配事でもあったのか……?


 少し気になったが、とりあえず雪姫の目の前まで駆け寄って。

すると笑顔だった筈の雪姫の顔に、また不安そうな色が戻ってきていた。


「け、計佑くん……大丈夫なのっ? なんだか随分痩せちゃってるよ……!?」


 雪姫が心配そうに、こちらの頬へと手を伸ばしてきた。


「え……? あ、あー……そうですね、ちょっと痩せちゃったかもしれませんね」


 確かにバイト期間中、身体を随分と酷使した割には、あまり食事をとれていなかったし、

いくらかやつれて見えるのかもしれない。


「ちょ、ちょっとって……全然そんな風に見えないよ? ホントに大丈夫?

きついんだったら、ムリに付き合ってくれなくていいからっ」

「……ありがとうございます、先輩。でも、本当に大丈夫ですよっ」


 わたわたと狼狽えながら、自分の事を必死に心配してくれる雪姫の姿に、感動を覚えて。

こみあげてくる嬉しさに押されて、笑みがこぼれた。


「食欲だって、昨日からはちゃんと戻ってて。……ていうか、今からでも、ちょっと食べたいくらいなんで」


─────────────────────────────────


 やつれてすらいる様に見える計佑に、不安がこみ上げてきた雪姫だったが、

「全然大丈夫ですってば」と元気に笑いながら、

Lサイズのホットドッグをペロリと平らげてみせる計佑の姿に、ようやく安心できた。


 それから、談笑して時間を潰して。恋愛映画だと伝えると、


「れ、恋愛物ですか……まあ、タダ見させてもらう立場ですし、

案外食わず嫌いみたいな感じで、気に入るかもしれませんしね」


 これは案の定、苦笑されてしまったけれど。

 やがて入場時間を迎える頃には、

もう夢の事なんてすっかり忘れかけていた雪姫だったが、映画が始まって間もなく、


──う、うそ……っ!!


 背筋を凍りつかせる事になっていた。


──な、なんで……!? なんで、夢と全く同じ内容なのっ!!?


 本編前の予告編からして、はっきりと既視感があった。

けれど、予告だったらぼんやりとテレビCMなどで目にしていた事もあったかもと、気にしないでいられた。


……それでも本編が始まって、つい半日ほど前に見たばかりの内容と、

全く同じ映像と音が流れてきては……もう無視出来なくなっていた。

 圧倒的な鮮明さと存在感を持っていた、現実さながらの夢。

昨夜、必死に否定していた『予知夢』という単語が改めて思い浮かんできて。


──ちがう……絶対にそんなハズないよっ!! 絶対に、どこか違うハズ……!!


 目を皿のように開いて、夢との違いを必死に探し続けた。

……けれど、中盤を過ぎても、いつまで経っても夢の通りで、違う箇所はまるで見つからなくて。


──そんな……そろそろ……!


 夢の通りなら、主役の二人が手だけで気持ちを交わし合う──雪姫を絶望の底へと突き落とした──シーンがやってくる。


──だ、大丈夫だよ……映画は同じでも、違うコトだって、いくつもあったもの……!!


──夢での計佑は、今日みたいに痩せてなどいなかった。

──映画の前に、ガツガツと食事する事だってなかった。

──夢では憂い顔だったけれど、今日の計佑はずっと笑顔だった。


 だから、大丈夫だと……信じて。


 やっぱりただの夢だったと笑い飛ばす為に、そっと手を伸ばして。


 そして、計佑の手に重ねて────夢以上の勢いで避けられた。


「────────」


 目を見開いて、凍りついて。


……そして、雪姫の思考は真っ白になった。


─────────────────────────────────


──へぇ~……! 正直期待してなかったけど、これは……


 計佑は、静かな環境で落ち着いて星を見るのが好きな性分だ。

だから、ドカンバカンと煩いアクション映画よりは、

ドラマ映画の方が好みではあるのだけれど、流石に恋愛物はどうだろうかという懸念があった。

けれど、いざ見始めてみると、いつしかすっかりと映画に引きこまれていた。


──始まりは、小学時代からだった。

 ヒロインは、耳を悪くしていて。

耳を悪くするのとほぼ同時だった転校先で、そんなハンデに負けないようにと頑張るのだが、

それは空回りに終わってしまい、いつしか虐められるようになってしまう。

 もう一人の主人公である少年が中心になって、徹底的に虐めが繰り返されるのだが、

やがて校長が出張ってくる程の問題になり、スケープゴートとして主人公一人が責められて。

 そして、彼もまた虐められるようになっていくのだが、虐められる側のつらさを知っても尚、

少年はヒロインに同情したりはしなかった。

 それどころか派手にケンカをしてみせたりしている内に、やがてヒロインは転校していって、

後に、ヒロインの強さと優しさを知る一件を経て、ついに少年は涙して。

 それから、少年はヒロインとの再会を誓って。

 数年後、少年にとっては運良く、二人の高校は同じになっていた。

ようやく果たせた再会に、少年は覚えてみせた手話を披露して、そして二人の新しい関係が始まる──


 前半は、そんな粗筋だった。


『虐める側のリーダーだったクセに、後でヒロインと恋仲になるとかムシがよすぎるんじゃないか?』


 最初はそんな感想を抱いていた計佑だったけれど、

高校で再会して以降の、少年が贖罪の為にと頑張る所はなかなかのもので、

いつしか少年を応援する気持ちになれていた。


 そして後半、成人した二人の、とあるラブシーン──と言っても、

一般的な肉体関係を描くようなものではなく、手話を使いつつ、

手や指を何度も絡み合わせたりする独特の──で魅せる二人の交流に、完全に魅入ってしまって。


──……先輩の手、握りたいな……


 独特のラブシーンに触発されて、そんな欲求が生まれていた。

 心臓がドキドキと早鐘を打ち始める。


──……に、握ってもいいかな……!?


 初心すぎる少年にとっては、手を握ろうとするだけでも一大決心だった。

 今までに、雪姫の手を握ってきた事は幾度もあったけれど、

少年にとっては、それは求められての事か、非常事態ゆえかのものばかりで。

 こんな風に、下心から行動しようとしていたのは初めてだった。


……まあ、既に結構色々な経験を経てきている癖に、ようやく目覚めた下心が

『手をにぎる』

なのだから、相変わらず奥手すぎる少年ではあったのだが──


 ともあれ、とうとう決心して。

 バクバク煩い心臓と、ドクドクと全身を熱く駆け巡る血に後押しされるように、

ジリっと右手を動かした瞬間──先に、雪姫の方が左手を重ねてきた。


──!!!!!!


 驚きもあって、バッと音がする程の勢いで右手を逃して。


……雪姫の左手を、払いのけるような形にまでなってしまった気がした。


「あっ、す、すいません……!」


 今は上映中だ、大きな声は出せない。

慌てて小声で謝ったが、ちょうど大きな音がスピーカーから流れ、雪姫に届いたかは怪しかった。

 それでも話し込む訳にもいかず、とりあえずスクリーンに向き直る。


──くっそ、恥ずかしい……!!


 自分の下心が完全にバレてしまった様な気がして、顔が熱くなった。


──くうっ、ホントになんでこんななんだよっ、オレは……!! ヘタレにも程があんだろ……!!


 別にバレていたって構わない筈なのに。

雪姫の方だって手を伸ばしてくれていた訳で、つまりは、きっと自分と同じ気持だった筈なのだから。

だというのに、恥ずかしくて逃げてしまった自分が、本当に情けなかった。


──……せめてもの救いは、今のオレの顔を先輩に見られずに済んだコトかな……


 きっと真っ赤に染まってるいるだろう自分の顔を見られていたら、

後でまたからかいのネタにされていただろう──と、そんな風に自分を慰めて。


 そんな風に考えてばかりで、少年は愕然とする雪姫に気付かないまま──

いつしか、また映画に魅入り始めるのだった。


─────────────────────────────────


 やがて映画が終わり、スタッフロールが流れ始めて。

ラストも爽やかに締めてくれた映画に、計佑が満足の溜め息をついた。


「先輩って、スタッフロールも最後まで見る──」


 そして雪姫に話しかけて、驚いた──雪姫が、ポロポロと泣きだしていたから。


──ええ……!? 途中は感動的なトコあったけど、

  ラストの方は、そんな泣くような感じではなかったんじゃ……?


 まあ、感動するポイントなんて人それぞれで違うものだろうし。

 男である計佑ですら魅入ってしまった恋愛映画だ、

雪姫からしたら最高に感動してしまったという事なのだろうと、

もう声をかけようとはせずに、エンドロールを眺める事にして。


 やがてそれも終わり、場内に明かりが戻ると、改めて雪姫へと振り向いて、


──えっ……!! ま、まだ泣いてる!?


 まだ涙を零し続けている姿に、意表をつかれた。


……けれど、明かりが戻った状態ではっきりと目にする雪姫の姿は、

感動で泣いているというより、悲しみなどの負の感情に泣き濡れているようだった。


「せ、先輩……!? どうしたんですかっ。どっか痛むとか、苦しいとかあるんですかっ?」


 映画は、暖かい感動を与えてくれる話だった。

だとしたら、今雪姫が苦しんでいるのは体調からくるものだろうと心配して、


「立てますかっ!? なんだったらオレ、先輩のコト背負いますから。だからとりあえず、ここを出て──」

「や、やだあっ!! ……こ、ここを出たら……出たらぁ……!!」


 かけようとした言葉は、涙声で遮られてしまった。

 ブルブルと強く首を左右に振る雪姫が、両膝の上でぎゅうっと拳を握りこんで。身体も縮こまらせて、

『絶対にここから動かない!!』

 と全身で主張してきていた。


──せ、先輩……一体どうしちゃったんですか……!?


 二人の立場を入れ替えての、合宿二日目深夜の再現のようになっていた。


─────────────────────────────────


 計佑に、手を払いのけられてしまってから。

その後の雪姫は、昨夜同様に──映画なんて、全く意識に入ってこなかった。

 やがて、エンドロールも終わってしまって、もう場内から自分たち以外誰もいなくなっても、

立ち上がる事も出来ずに泣き続けていた。


──だ、だって、ここを出たら……!!


 喫茶店に行こう、買い物に行こう、レストランに行こう──そういくら誘っても、

少年は応じてくれずに……絶対に聞きたくない言葉を繰り出してくる。


──もはや雪姫にとって、昨夜の夢は "絶対の予知夢" としか思えなくなっていて。

そんな風に、半日ほど前に『体感したばかりの出来事』を思い出して、

椅子の上で身体を縮こまらせていたら、……両手に触れてくるものがあった。


「…………?」


 きつく閉じていた瞼を薄く開いて、自分の手を見下ろして、

──そこに、計佑の手が重ねられている光景を目にして。涙を溢れさせている瞳が、大きく見開いた。


「先輩……どっか痛いとかじゃないんですね?

何でここから動きたくないのか、オレにはわからないけど……

でも、先輩が落ち着けるまで、オレだって絶対、先輩のコト一人にしたりしませんからね」


 あの日の夜、ずっと自分を抱きしめ続けてくれた人へ、

今度はこちらが恩を返す番だと、少年が力強い瞳で雪姫を見つめていた。

 そんな風に身を乗り出してきている少年の顔を見つめて、もう一度自分の両手を見下ろして、

力強くこちらの両の拳を握りしめてきている、少年の両手を見て──雪姫がまた、大粒の涙を零した。


──……計佑くんの手……私の大好きな、計佑くんの手だ……!!


 何度も自分を救ってくれて、幸せな気持ちにしてくれた、自分にとって特別な──計佑の手。

 さっきは避けられてしまったその手が、今自分の手を力強く握ってきている事に、

先程までとは正反対の理由での涙が零れて、それが心から嵐を流し去っていった。


「……な、なんで……っ」


 一言だけ口にして、握りこんでいた拳を開いて、手を裏返して。

計佑の手を、こちらからも握り直した──強く強く、自分の精一杯の力で。


「……ど、どうしてっ、さっきはっ、わ、私の手を払いのけたのぉ……っ?」


─────────────────────────────────


 しゃくりあげながらの雪姫の質問に、計佑は一瞬きょとんとしてしまった。


「……え? ……それって、映画の途中でのコト、ですか?」


 確認すると、雪姫がコクンと頷いて。


「……えっ!? いやっ、一応謝ったんですけど……あ、やっぱり聞こえてなかったですかっ?

す、すみません……でも、そんなちょっと手を避けたくらいで──」


──そこまで泣き崩れるなんて、いくら打たれ弱い先輩でも、あんまりでしょう──


 なんて言葉は、流石に続けられなかった。


……けれど、途中まで口にしてしまった言葉、そして恐らく顔にも出していたであろう感情で、

雪姫には十分伝わってしまっていたようで。

 ようやく涙を止めた雪姫が、むうっと上目遣いで睨んできた。


「な、なによぉ……っ。ど、どうせ私は泣き虫ですよぉ……!

でもっ、仕方ないじゃないっ。昨夜、イヤな夢見て。すごく、すっごくヤな夢だったんだもんっ。

あ、あんな夢さえ見てなかったら、私だってっ、こんなんでここまで泣いたりなんてしないもん……っ!!」

「……夢……?」


 チリっと脳裏にノイズが走った気がした。

それが引っかかって、違和感にしばし呆けていたら、


「……なに、ぼうっとしてるの……?

……い、今は、ちゃんと私のコト見ててくれないとヤだよ……?」


 また不安そうな顔に戻った雪姫が、至近距離からこちらの顔を覗きこんできていた。


「わっ!?」


 我に返って、恥ずかしさに慌てて仰け反る。

──が、雪姫にしっかりと両手を握られていたせいで、大した距離はとれなかった。


「……それで? どうしてあの時、私の手から逃げたのか聞いてないよ……?」


 そして瞳を潤ませたまま、雪姫が心細そうに尋ねてくる。


……その姿は、奥手少年であっても思わず抱きしめたくなるだろう程の可愛さだったのだけれど、


──えええ……!? あ、あれを話せっていうのか……!!


 あの時の "下心" を話せと迫られて、

焦りからヒクヒクと頬をひきつらせる少年には、そんな感情を抱く余裕はないのだった。


─────────────────────────────────


 夢の事を口にしたら、突然計佑の目から光が消えた気がして。

手を握り合っているのに、なんだか計佑が遠くに行ってしまったような気もして。

慌てて縋り付いたら、すぐに計佑は意識をこちらに戻してくれたけれど、それでもまだ安心しきれなかった。


──映画中に手を避けられてしまった一件が、まだ片付いていなかったからだ。

今となっては、昨夜のような──気持ちに応えられないから、という──

理由からではないだろうとは思うのだけどれど、それでも。


 たった今、計佑の意識がどこかへ行きかけたのを目にしただけで、

弱々しい少女はまた不安がぶり返していたのだった。


 改めて尋ねると、少年は頬を引き攣らせて。

『話したくないなぁ……!』

その顔は、そんなセリフを声高に伝えてきていたけれど。

 それでも雪姫が、しっかりと手を握ったまま、

未だ涙が残っているだろう瞳でじぃっと見つめ続けていると、やがて少年はプイっと雪姫から顔を逸らして、


「……かしかったからです」


 言い捨てるように答えてくれたが、早口なせいで聞き取れなかった。


「え……? 聞こえなかったよ、計佑くん……?」


 "もう一度言って" という意味を込めた、質問という形のお願いに、少年の横顔がカッと赤くなった。

 最近は雪姫の専売特許になりつつあった、「う~~……っ」という唸り声を少年があげて。

歯を食いしばって、しばらく逡巡していた様子だったけれど、ついに観念したのか顔をこちらに戻してくると、


「……恥ずかしかったんです」


 俯きながらだが、今度はちゃんと聞き取れるように、ゆっくりと口にしてくれた。……けれど、


「……え? ……恥ずかしい?」


 雪姫には意味がわからない答えだった。


──え? え? だって……今さら? もう手を握るくらい、いくらでもやってきて……?


 ぽかんとしていたら、こちらの顔をちらりと見上げてきた少年が、

意図が伝わっていないと察したのか更に言葉を足してくる。


「……だから……ですね。あの時、オレも……その、先輩の手を握りたいなぁって思ってて。

動こうかと思った瞬間、先輩の方から来てくれたから、その……ビックリもしたんですよっ」

「……はぁ。……えっと……」


 計佑の言葉の意味は、それでもよくわからなかった。

タイミングが合いすぎてビックリした……それならまだわかる。

そのせいで、反射的に逃げてしまっただけ──というならわからないでもないけれど、

『恥ずかしい』という事情もあったらしいのが、よくわからなかった。


──えっと……計佑くんも、私の手を握りたいって思っててくれて……?


 今日の自分は、昨夜の夢を否定する為に手を伸ばしていたけれど。

本来なら、昨夜のように──映画の内容に感化されて、手を計佑へと重ねていた筈だ。

 では、同じタイミングで動こうとしていたという計佑も、

やはり同じような気持ちでいてくれたという事なのだろうか……?


──……んん……? でもそう言えば、計佑くんが私の手を握ってくれるのは……


 自分が求めた時か、弱っているかの時ばかりだった。

それが、今日は違ったという事で……昨夜の自分同様の気持ちだったというのならば、


──それはつまり、計佑くんが……初めて、私の事を求めるような気持ちで手を握ろうとしてくれていたって事……!?


 以前、彼が突然頭を撫でてきた時の事は未だによくわからないけれど、

今日の計佑の気持ちは、はっきりと理解できて。一気に嬉しさが溢れてきた。

 そして、


「ぷっ……! ふふっ、あはははははっ!! け、計佑くんって……計佑くんってホントに……」


 少年が『恥ずかしい』と言う理由──

"ある意味、初めて" 手を握ろうとする行為で、一杯一杯だったという──

も理解できた気がして、笑いもこみ上げてきてしまった。


「い、今さら……! 今さら、まだそんなコトが恥ずかしいの……!?

け、計佑くんらしいと言えばらしいけど、……ていうか、らしすぎる気もするけど……っ!」


 事故も含めれば、もう随分と色々な接触を重ねてきているのに。

未だに手を握る程度の話で、顔を真っ赤にしている少年が堪らなく可愛かった。


 そうして、雪姫が身体を折り曲げて笑い続けている間、

少年のほうは『やっぱり笑われる羽目になった……!』と不貞腐れたように口をへの字にしていたけれど。

ようやく雪姫に笑顔が戻った事に、内心安堵も覚えていて。その目元には笑みが浮かんでいた。


──そんな風に、二人が和んでいた所で、


「……あの。もう掃除したいんですけど……」


 突然後ろから声をかけられて、二人してビクリと振り返ると。

そこには若い清掃員が、道具を手にしてこちらを見下ろしてきていた。

そのどこか冷たい眼差しは、特に計佑たちの繋ぎあった手に注がれていて。


「「すっ、すみませんでした……!!」」


 二人は慌てて手を離すと、謝りながらガタンと立ち上がる。

 そして、清掃員からの


『時と場所は選んでイチャつけよっ、このバカップル……!! リア充爆発しろ!!』


 そんな無言のプレッシャーに追い立てられ、逃げるように映画館を後にしたのだった。



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