2015-06-11 22:54:38 更新

概要

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のいろはルート。

『序章 だから一色いろはは幸せを願う。』
『第一章 きっと、誰しもそれらしさを探している。』
『第二章 あるいは、その姉妹だけは既に知っている。』の続きです。

ほかサイトにて、いろはすがいろはすじゃなくなっていると指摘を受けることが多いのですが、単に私の技量不足ですね。
そう思われた方がいましたら、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。

お楽しみ頂ける方は、是非、引き続きお楽しみください。
早速応援、オススメ、コメントありがとうございます!


第二章 あるいは、その姉妹だけは既に知っている。





第三章 言うまでもなく、比企谷八幡の優しさはそこにある。




 しとしとと雨音が校舎内に響く。

 気温が高いせいか、じっとりとした空気が肌に纏わりつき髪はところどころぴょんぴょんと跳ねていた。


 天然パーマの完成。

 ボリューミーでチャーミング。

 やだ、わたしったら意識高い系!

 ゆるふわウェーブ! とか言って。

 やだなにあーし、天才?


 この髪型なら雨降ってるときセットしなくていいじゃん!

 これ言ったら絶対はぁ? とか言われるな、封印封印。

 別に三浦先輩嫌いじゃないし。

 そもそも全然ゆるふわウェーブじゃない。


 しっかし、まあ……雨だねぇ、雨だなぁ。

 先輩今日は教室でご飯食べたのかなー。

 いつもどこか違う場所で食べてるみたいだけど。

 一人ぽつんと……かわいそう。

 今度雨降ったときは生徒会室に誘ってあげよう。

 いやでも、外じゃない可能性もあるか。


 愛妻弁当を作るのもいい。

 なんなら通い妻しちゃうぞー?

 妻……か。

 うわわ……なんか恥ずかしくなってきた。


 ていうかぼっちの人って結構な確率で休み時間音楽聴いてるよねー。

 あれって本当に聴いてるのかなー。

 ちょっと!

 なんか気になってきた!

 今度昼休みに先輩の教室に突撃して確認しないと!

 聴いてなかったらマジうけるとか言っとけばいい。

 いや、ウケねーからって返してくれる多分。


 折本さん……だっけ?

 どういう関係なんだろ。

 同級生って言ってたけど、先輩に友達がいたとは思えないし。

 しかも女の。


 さり気なく聞き出してみようか。

 あの人自分の傷晒すの好きだからなぁ。

 案外簡単に教えてくれそうだ。

 傷って決めつけちゃダメか。

 なんか淡い青春劇があったかもしれない。

 いや、ないな。

 絶対ないよ、うん。


 ざぁざぁと雨足が激しくなった。

 帰れるかなぁー……。

 それだけが心配だった。


 いつもなら雨が降ってるってだけで信じられないくらい身体がだるくなるけど、今日ばかりはその心配はない。

 昨日の決意によって、わたしの心中はからっからに晴れ渡っている。

 日本晴れだ。

 なんならお散歩に行ってもいい。

 いや、やっぱそれは無理。


「一色……聞いているのか?」

「えっ、はいはい! 聴いてないと思いますよー? 多分あの先輩聴くフリですっ!」

「なんの話をしているんだ君は……」


 職員室の一角。

 パーテーションで区切られた応接スペースには、革張りの黒いソファとガラス天板のテーブルが置かれている。


 ソファに座った女性は呆れたように片手で顔を覆う。

 しなやかにのびた脚。タイトなパンツスーツに包まれていながらも、その長さと形の良さが窺える。

 視線を上に滑らせていくと、絞られたウエストが。

 さらに上にいけば、それと対をなすわたしにはない豊かな胸部に釘付けになった。


 なにを食べればこんなスタイルに育つんだろう。

 はっ!?

 まさか、ラーメンがスタイルの秘訣なの!?


 慎ましいとまでは言わないが、あくまで平均的なわたしの胸と見比べるとからっからに晴れ渡った心にも少しばかり雲がかかった。


 現国兼生活指導担当の平塚先生はふうっとため息を漏らす。

 続けて、狭っ苦しい胸ポケットに入ったくしゃくしゃな煙草の箱から煙草を一本抜き取った。


 火をつけたのは安っぽいコンビニライターだったけど、無駄なところに拘らないその様が逆にかっこいい。

 慣れた手つきで煙草を吸い煙を吐くと、空気に少し靄がかかる。

 この煙草臭さにももう慣れたものだ。

 なんならあまりにも平塚先生がかっこいいので、わたしも吸いたくなってしまうくらいまである。

 まあ、吸う気はないけど。


 ふむ……。

 考えてみれば平塚先生が結婚出来ない理由はこれなんじゃないだろうか。

 いや、煙草臭いとかじゃなくて。

 かっこ良すぎるんだ。

 靡く黒髪にモデル顔負けのスタイル。

 どんな男だって気後れしてしまう。


「まぁまぁ、冗談ですよー。昨日の件ですよね〜? でも、ぶっちゃけわたしもあんまりおぼえてないというかー……」


 ごめんなさーいと小動物ばりの愛くるしさを形作る。

 が、まあ、基本的に女性に効果はないのである。

 むしろ、イラっとされることの方が多かったりするしね。


「はぁ……まあいい。私も、なんだ、スカッとしたしな」


 にやりと口角を上げる。

 どうやらあの所業には平塚先生も思うところがあったようだ。

 なんだかんだ芯の通った人だし、当然と言えば当然だろう。


「今度ラーメン食べに行きませんー? 美味しいお店、連れてってくださいよ〜」


 くすりと笑って密かな声で誘う。


「はっ……付き合ってやろう。お互い溜まってるしな」


 にかっと男らしい笑みをこぼして了承の旨を伝える。

 かっこいい……。

 先輩とか足下にも及ばないよ。


「それでー……こんな適当に済ませたってことは何か別件があるんじゃないんですかー?」

「おぉ、察しがいいな」


 まあ、そういうのは得意分野ですし。

 平塚先生は考える仕草をしたのちに脚を組み替えて口を開く。


「雪ノ下姉妹と話をしたらしいな」


 そっちの話か。

 いや、そんなあっちもそっちもあるわけじゃないけど。

 ていうかなんで知ってるのこの人。

 不思議に思ったのが顔に出ていたのか、平塚先生はあぁとその理由を述べる。


「君が職員室を飛び出した後、少し陽乃と話をしたんだよ。陽乃は生徒会室に向かい、わたしは奉仕部へ向かったんだが、どうにも雪ノ下の帰ってくるのが遅かったのでな」


 ああ、そういうことか。

 帰って来るのが遅かったから雪ノ下先輩となにか話してきた。

 生徒会室に向かった陽乃先輩がわたしと話さないわけもない。

 雪ノ下先輩に見透かされてたのも、陽乃先輩にものっすごい品定めされたのも苦い思い出だ。


「どうだった?」

「それは……どっちですかー? それとも、統合してって話ですか?」

「ははっ……。いや、そうだな……では、統合して君の心中はどう変わった、と聞こうか」


 やっぱり、みんな気づいているんだろうか。

 雪ノ下姉妹はもちろんのこと、先輩や結衣先輩も。

 そういえば、自分で出来るって言ったっけ。

 なにかあったと察するには充分か。


「自分でって意志は変わりませんよ……。ただ、言わなきゃと思いました。わたしの中では昨日、全ての結論が出ましたねー……」


 言うと、平塚先生は優しい顔をした。

 生徒の歩みを感じた。

 そんな感じだった。


 わたしは本当に歩めているのだろうか。

 前に進めているのだろうか。

 自分自身では自分の成長を推し量ることは出来ないから、誰かに認めてもらいたいと思った。

 その誰かにはきっと先輩も入ってる。


「自分で、か……。その意識向上は素直に褒めてやりたいところなのだが、私は、一人自分でやることしか知らない生徒が傷つくのを見てしまっている」


 誰のことをを言っているのか。

 そんなものはすぐに分かった。

 いつも一人で全て抱えて、気づけばどこかに行ってしまいそうな人。


「真似はしませんよー……。参考にはしますが。一人で出来そうにないときには平塚先生にでも助けてもらいますっ!」


 にこぱーっと笑顔を咲かせると、平塚先生は苦笑する。


「そうか……。それなら余計な心配だったな。では、もう一つ。雪ノ下雪乃と雪ノ下陽乃、双方を見て、双方と話して、君はどう感じた?」


 その問いも思索にふける必要はなかった。

 どう感じたか、どう思ったかは自分の中で整理がついてる。


「似てますよねー、あの二人。やっぱり姉妹なんだなぁって……。二人とも……素敵な人だと思います」


 わたしの言葉になにか変なところでもあったのだろうか。

 平塚先生は目を見開く。

 驚かれるは二度目だった。

 一回目は陽乃先輩。


「……君は思った以上に大物なのかもしれないな」

「む、それどういう意味ですー? もともと小物に見えてましたかー?」


 まあ別に自分自身でも自分が大物とは思えないけど。

 本物を見つけたいなんて。

 そんなことを思ったくせに、いつまでも先輩との関係の維持に努める。

 突き詰めれば壊れてしまいそうなほど脆い。


「いや、もともと期待はしていたさ。君は比企谷と同じで他人をよく見ている。だからきっと陽乃の外面も見抜くだろうとは思っていたが……。まさか、素敵な人だなんて言葉が出てくるとはなぁ……」

「素敵じゃないですかー? 優しくて、強くて、でも弱い……。わたしを助けてくれる人はいつもそんな人です。いい人はなんでか助けてくれない」


 それは多分、本当にいい人なんていないからなんだろう。

 葉山先輩はいい人だけど、わたしにとって素敵な人ではなかった。

 葉山先輩が先輩に劣ってるってわけじゃない。

 むしろ葉山先輩の圧勝だ。


 頼めば手伝ってくれて、悪意も敵意も見せない。

 葉山先輩がなにを求めてるのかは分からないけど、葉山先輩にとってきっとわたしはどうでもいい人で、わたしにとって葉山先輩はかっこいい人なのだ。

 いい人なんて結局演技に過ぎないから、いい人は怒ってくれないし歯向かってこない。

 その程度の距離感が心地いい関係。


 わたしにとっていい人だった葉山先輩は、いつか素敵な人を見つけられるのだろうか。

 いつもいつも、何かを隠して生きているところはなんだか先輩と通ずるものがある。

 それに、葉山先輩のこと自体嫌いじゃないから見つけられたらいいな、と思った。


「あいつのことを弱いと言ったのは君が初めてだな……」

「怖いですけどねー……。それにわたしじゃ勝てません。でも、勝ち負けじゃないと思うんですよねー? なんていうんですか? こう……誰かに見つけて欲しい、何かを見つけたい、みたいなー? ほら、弱味を見せられる相手がいるのって、すっごく素敵なことじゃないですかー?」


 弱味を見せているつもりで、ひた隠しにしている先輩もいるし。

 陽乃先輩にはまだいないのかもしれないけど、でもいつか見つかる。


「だいたい弱くない人間なんていないじゃないですかー? いくら分厚い仮面つけても、結局それって隠してるだけですし?」


 わたし自身の話をしている気分だった。

 どれだけ取り繕っても弱味がなくなるわけじゃない。


「分厚い仮面ってより、はるのんの場合は外套って感じですかねー……」

「……は、はるのん?」


 ああ、知らないとこういう反応になるのか。

 はるのんはプレミアだからなぁ。

 これだけ仲よさげな平塚先生が普通の呼び捨てだと、なんか特別っぽくてはるのん呼びも悪くないように思えてしまう。

 はーるのんっ。


「なんか流れでそう呼ぶことになっちゃってー……」


 はははーと苦笑を返すと、真剣な顔で見返されてしまった。

 生徒が卒業しようと先生にとってはずっと生徒なのかもしれない。

 その顔には期待が乗せられていた。


「わたしじゃ……無理ですよー?」

「どうだろうな。少なくとも陽乃にとって、君は新しいタイプのはずだ」


 それはそうなんだろうけど。

 うーん……。

 でも、まぁ。


「おもちゃになるつもりはないですよー。先生の期待に沿えるかはびみょーですけどー、仲良くはしたいので……。そんな感じで見ててもらえると助かります」


 ふと微笑むと、平塚先生も笑う。


「当然だ。それが私の仕事だからな」

「じゃ、そういうことでよろしくですー。そろそろ生徒会戻りますねー」

「ああ」


 雪ノ下先輩と陽乃先輩。

 わたしには二人が隠すなにかは窺い知れないけれど、それでいいのかもしれないと、わたしが知る必要はないのかもしれないと思っていた。


 どうせ見せてくれることもないだろうしなぁ……。

 まあ、もしそうなったら、そのときはそのときだ。

 受け止める準備くらいはしとこうか。


  ****


 わたしが進んだはずの日から僅かではあるが時間が経った。

 校外学習も終わり、四月末日。

 結局、先輩に言えてない。

 でも、小町ちゃんに誘われてゴールデンウィークに料理勉強をしに先輩の家にお邪魔することになった。

 そのときには、必ず。


 生徒会の仕事は生徒総会の動議と職場見学くらいしか残っていない。

 とは言っても、職場見学が終われば今度はまたその事後処理をしなきゃなんだけど。


 動議……かぁ。


「ぶっちゃけ、生徒総会とか誰も聞いてなくないですかねー?」


 ぐでーっとデスクに身体を乗せて、不満げに口を尖らせる。

 それに答えた副会長の顔は認めざるを得ないのが実に遺憾です、みたいな感じだった。


「まあ、そうだな。誰も、ということはないとは思うけど……」

「誰かが聞いてくれてる程度じゃモチベーション上がらないですー……」


 わたしが言いたいのは、わたしは必死で動議を考えたり当日には壇上で生徒会からの報告を行うのに、生徒はぺちゃくちゃおしゃべりを繰り広げるところにある。


 動議なんてどうせ意見出ないし、合間合間に手を挙げて聞いてもいないものを承認するのが生徒の役目。


「そうは言ってもな……」


 どーにかならないかなー……。


「なんか生徒の興味が出そうな動議にする、とかダメですかねー?」

「そうだな……例えば?」


 例えば……うーん。

 この学校結構校則緩いからなぁ。


「同好会の発足とか、制服着用の有無とか……定期考査順位の張り出し。あ、マラソン大会中止なんてどうです!?」


 マラソン大会中止、という言葉に役員の目が光った。

 やっぱりみんな嫌なんですね。


「そこら辺になるな……。まあ、マラソン大会を実際に中止させることは出来ないと思うけど」


 ですよねー。

 学校行事だもんなぁ……。

 PTAとかから反発があったりしない限りは無理だろう。


 同好会は結構イイ線だと思う。

 意味の分からない部活やりたがる生徒多いし。

 生徒総会なんだから生徒の関心がある話題でやった方がいい。

 これならいけそうだ。


「でも、それでも見てるだけだと思うな」

「えー。なんでですかー」


 ぶーぶーとその理由を問う。

 自分の学校生活に関わることならって思ったんだけどなぁ。


「全校生徒の前で発言するっていうのは、結構勇気がいるからね。会長みたいに誰でもできるわけじゃない」

「あー……」


 そういうことか。

 確かにそういうところで発言できる人物は限られている。

 三浦先輩とか雪ノ下先輩とかなら物怖じせずに言いたいこと言いそうだけど。


「それにそういうことが出来る人は大抵学校の中でも有名な人だからね。有名な人は発言力がある、でもそういう人は基本こういうことに興味がない」

「それはありますね……」


 わたしも多分そんな動議であっても見てるだけだ。

 目立つし、みんなやらないからわたしもやらないみたいな。


「うーん……。じゃあ、まぁ、とりあえず動議の内容はそういう方向で決定して、また後日にでも各自意見を考えてくるってことでいいですかー?」


 行き詰まったままやっても時間の無駄だ。

 役員も特に反論はないようで、それぞれが頷く。


「では、今日は解散で。お疲れ様でしたー」


 荷物をまとめて出て行く役員たちを見送り、鍵をかける。

 さて、どこに行こう。

 選択肢としては、奉仕部かサッカー部。


 奉仕部はそのうちまた仕事を頼みに行くかもしれないし、部活行くかぁ……。

 面倒だけど、わたしを生徒会長に推してくれた先輩に迷惑はかけられない。

 たとえそれが奉仕部のためだったとしても。


 わたしが生徒会を理由に部活をサボり顧問に呼び出されたりすれば、きっと顧問は「出来もしないのに生徒会なんて入るから」と、わたしを糾弾するだろう。

 そんな嫌な思いはしたくない。

 わたしはわたしを推してくれた人に信頼されたいから。


 あ、サッカー部で葉山先輩と戸部先輩になにか良い案ないか聞いてみよう。

 こういうとき、空気を読む戸部先輩みたいなタイプの人間の意見は参考になる。

 クラスの中心でもグループの中心ではない。


 一般目線って言うとなんだか見下しているみたいだけど、街角調査みたいなもんだ。

 部活やりながら生徒会の仕事も進められるなんて一石二鳥でなんかお得。


 そういう点では奉仕部で頼れるのは結衣先輩くらいだからなぁ。

 いや、先輩は学内最底辺だし、それはそれで意見欲しいかも。

 でも、雪ノ下先輩と先輩を議論させると葉山先輩くらいしか入り込めないからなー。


「あんれー? いろはすじゃね?」


 なんだか聞き慣れた声が飛んできた。

 声の方へ顔を向ければ、昇降口へと入ってくる戸部先輩。


「戸部先輩、こんにちはー。どうしたんですかー?」


 うん……?

 まだ部活中のはずだけど……。

 試合前でコンディション整えるってわけでもないだろう。

 そんな話は聞いてないし。


「あー、なんかスプレー切れちまっててさー! 保健室の在庫貰ってくるとこってわけ」


 あっははーっとあっけらかんにそう言う。

 しかしわたしはその事実に固まるほかなかった。


 え、なに、なんで切れてるの?

 コールドスプレーだよね?

 だって、ついこの間……。

 あぁ、いや、在庫補充に行ったのは随分と昔の話だ。

 やっちゃった……。


 別にそんなに気にすることでもないんだろう。

 今日にでも買いに行って、補充すればいいんだろう。

 本来なら、それでいいんだ。

 わたしが生徒会長じゃないのなら、それでいい。


 でも、違う。

 わたしは今、生徒会長兼サッカー部マネージャーなのだ。

 いつも見ていられるわけじゃない。

 他のマネの子なんてただのミーハーで、葉山先輩とおしゃべりするのがあの子たちの部活だから、わたしがやらなきゃ誰もやらない。


 誰もやらないわけじゃない、か。

 誰かがやるんだ、きっと。

 だから。

 誰かがやってくれるからって言って、みんなやらないから。

 葉山先輩とか戸部先輩みたいな人が買いに行く。


 それでもいいのかもしれない。

 実際、今はたいした問題にもなってない。

 マネージャーのいない部活だってあるし。

 でも、誰かがやってくれるまで誰もやらなかったら、本当に使いたいときには多分ない。

 いつか、そうなる。


 そしたら、マネージャーはなにをやってるんだって話になる。

 わたしが葉山先輩にアピールするために率先して買い物に行っていたし、スポドリ作ったりしてた。

 それがいけなかったのかもしれない。

 部活のマネージャーなんて何人も要らないから、わたしがほとんどやってた。

 それはまずかったのかもしれない。


 そう、きっと。

 そういう話になったら他のマネの子は、「あれ? いつもなら一色さんが……」とかって言うんだろうから。


 そこで、「一色は生徒会長になったんだからお前たちがやらなきゃダメだろ」って言ってくれるならいい。

 でも、もし「一色が生徒会長になったせいで」ってなったら。

 それはよくない。


 普通ならない。

 でも、分からない。

 なんせこの学校の先生だ。

 みんながみんなああじゃない。

 それは分かってるけど、あれに影響されちゃう人だっている。


 それでわたしが怒られたとして。

 わたしだけで話がおさまるならいい。

 それならまだいい。

 でも、マネの子たちがそんな噂を流したら。


 そう考えると、どう転んでもダメな気がしてきた。

 わたしが生徒会長になって自分たちが怒られてやる羽目になったのなら、確実に愚痴る。

 で、結局、そんな噂が伝播して「一色いろはは出来ないくせに両方をやろうとした目立ちたがり」なんてレッテルを貼られるのだ。


 もう一年じゃない。

 生徒会に入ってそこそこの時間が経過して慣れてきたときなら、甘くみてはもらえない。

 それで困るのがわたしだけならいいんだけど。


 そんな噂を聞いて責任を感じてしまうバカな先輩がいる。


 困る。

 そんなのは困る。


 だいたい、マネだけじゃない。

 サッカー部顧問とか、生徒会執行部顧問とか、あと一年時の担任。

 噂の広まる経路なんて挙げようと思えばいくらでも挙げられる。


 それに、頑張ろうって思ってるときに助けられるのって、やっぱりちょっと悔しいし。

 甘えはあくまでアピール。

 そこらへんはきっちり区別しとく。

 助けてやらなきゃなんにも出来ないやつだとは、思われたくない。


 だから、しっかりしないと。

 もっと、もっと、ちゃんとやらないと。


「戸部先輩っ! 今日、部活終わったあと暇ですかー?」


 駆け寄り、ずいっと顔を近づけて問う。

 勢いがあり過ぎたのか、戸部先輩は二、三歩後ずさった。


「お? おぉ? ん、あー……、別にいろはすが気にすることじゃねぇべ? 生徒会頑張ってんだろ? 隼人くんもあんまいろはすに負担かけんなって言ってっし。ま、こういうときこそ俺が行くってやつっしょ」


 にかっと歯を見せて笑う。

 頼もしい。

 頼もしいし、本当この人いい人だなぁって思うんだけど。


「ダメです。わたしも行きます。本当はわたし一人で行きたいくらいです。ですが、やっぱり重いのでー……。仕方ないのでついてきてもいいです」


 にこっと笑いかける。

 が、どうも納得がいかないご様子だ。


「いやいや、いろはすは生徒会長やってろって! どっちもなんて大変だしよ。こっちはたまに顔出してくれりゃいいから。なっ?」


 実に戸部先輩らしい返答だった。

 気をつかうのがうまい。

 けど、なんだかこの人気をつかうのが当たり前みたいな節がある。

 そうやって生きてきたんだろうか。

 いつも外れくじばっかり引いてそうだ。


「わたしが行きたいんですよ! マネも生徒会長も頑張るんです……」


 どっちも、頑張る。

 出来る。

 出来るはずなんだから、頑張る。

 出来ることなら頑張りたい。


「どっちもは大変だからとか、そんなのダメなんです。負担とか……そういうの嫌なんですよ。出来ないって、思われたくないんです……。使えないとか、やっぱり出来なかったとかっ。お前には、無理だとか……思われたくないんですっ!」


 一気にまくし立てたからか、はぁはぁと肩で息をする。

 熱い。

 胸が焼けそうだ。


「い、いや、別にそういうつもりで言ったんじゃねぇっつーか。誰もそんなこと思わねぇだろー」


 落ち着け落ち着けとわたしを宥めてくる戸部先輩。

 気を遣わせてしまっただろうか。

 思いがせり上がってきて、つい熱くなってしまった。


「分かってます。分かってますけど、自分でやりたい、です」


 真剣な顔で真っ直ぐ瞳を捉えて告げると、戸部先輩は困ったようにぽりぽりと頭を掻く。


「おお、なに、いろはすなんか今日熱くね? ガチ気合い入ってる感じ?」

「ガチ気合い入ってます。生徒会長はわたしですが、サッカー部のマネもわたしです。だからどっちも全部しっかり、やります」


 そこまで言い切るとようやく諦めたらしい。

 そっか、と小さいつぶやきを落として戸部先輩は再びにかっと笑った。


「よっし! んじゃ、今日買い行くべ!」

「はいっ!」


 おーっとなんか変なテンションで盛り上がる。

 さて部活に戻ろうかと昇降口を見ると、葉山先輩が立っていた。


「……え?」

「……あ」


 わたしは不思議そうな声を、戸部先輩は見つかったやっべーって感じの声を漏らす。


「や、やあ……」


 い、いつから立ってたんでしょう……この人。

 なんか恥ずかしい。


「え? あっれー? 隼人くんどしたん?」

「ああ、いや、戸部がスプレー取りに行ったきり戻ってこないからなにかあったのかと思って……な」


 気まずい。

 この口調から察するに完全に見られてた。

 ど、ど、どうしよう。

 顔熱い。

 なんか凄い熱血漢みたいなこと言っちゃったし。


 ていうか、スプレーとか全然忘れてたし。

 戸部先輩も普通に戻ろうとしてたし。


「あ、やっべ、スプレーとか完全に忘れてたわー!」

「おいおい……」


 やはり戸部先輩もわたしと同じだったらしい。

 葉山先輩が苦笑いをする。

 わたしのせいですよねー……。

 ごめんなさい。


「まあ、いい。それより、今日備品の買い出しに行くんだって?」

「あ、あー、まあ……」


 優しく問いかけてくる葉山先輩に戸部先輩は気まずそうに言葉を濁す。

 わたしの同行を許可したからだろうか。

 葉山先輩には止められてるって言ってたもんな。


「そうか。なら俺も行くよ。一応、部長だしな」

「えっ!? い、いやっ、隼人くんはいいっしょー! ほらなんかアレだし? な? いろはす! なっ? ……あ」


 早口で拒否し、わたしと葉山先輩の顔を交互に見る。

 どうやら相当テンパってるらしい。


 わたしと葉山先輩のわだかまりはマラソン大会のときに傍目から見ても解けている。

 なのに、わたしと葉山先輩が近づくのがまずいと思って断ったり、その渦中のわたしに同意を求めてしまったり、後々気づいてやっちまったーみたいな顔になったり。

 そして、最後に、あっそうだったと思い出したような顔になってふーっと息を吐いた。


 この人大変そうだなぁ。

 と、さっきまで大変そうだと思われてたわたしが思ってしまうレベル。

 ちらりと葉山先輩の顔を窺うとちょうど目が合い、お互いに苦笑してしまった。


「やる気があるのならわざわざそれを否定することもないだろ。三人で行こう」


 やっぱり聞かれてたー。

 やーだー、はーずーかーしーいー。

 穴があったら入りたい気分だった。


 葉山先輩にまで同行してもらったら、なんか悪い。

 ここは断ろうと口を開くが、そういえば相談したいことがあるんだったと思い直す。

 どうせならゆっくり落ち着いた場所で話した方が疲れも取れていいだろう。


「そうですねー! わたしもちょっと生徒会の仕事で二人に相談があったんですよー。よかったらそれもついでに聞いてもらっていいですかー?」


 きゃぴきゃぴっと小首を傾げて聞くと、二人とも快く頷いてくれた。


「おっ、そゆことなら全然任しとけって!」

「ああ、俺も構わないよ」


 葉山先輩の一歩後ろへ下がってわたしにグッドサインを送ってくる戸部先輩。

 どうやら勘違いさせてしまったようだ。


 ああ、葉山先輩が来た途端にかわいこぶったからそう思われるのも仕方なかったかもしれない。

 別に狙ってやったわけではなく、タイミングが合ってしまっただけなんだけど。


「じゃ、お願いしますっ! わたしスプレー取ってくるので、二人は先に戻っててくださーい!」


 ではではっと軽く手を振り、二人の元を去る。

 別に保健室に行くだけなので、そこまで時間がかかるわけもなく、さっさと部活に参加した。


 久々というほどでもない。

 最近はそこそこ出れていた。

 けれど、それはやっぱり途中参加なわけで、途中参加ということは時間も少ない。

 すなわち、出来ることも少なくなる。


 それをなあなあにしていた。

 生徒会も部活も参加して頑張れてるつもりでいた。

 でも、全然出来てなかった。

 備品チェックなんてそんな当たり前のことも忘れてしまっていたのだ。

 どうしようもない。


 当たり前のことを当たり前に出来る人間になりたい。

 新年の抱負だとか、大人になったらだとか、そんなときによく耳にする言葉だったけれど、これが結構難しい。


 当たり前のことを当たり前に出来てない大人もたくさんいる。

 高校生だから、まだ子供だから。

 生徒会もやってるから。

 そんな理由を取り繕って逃げるのは簡単だろう。


 でも、楽なことを覚えるとろくなことにならない。

 楽な方へ楽な方へ。

 そうして進んだ先にはなにもない。

 気づいたときにはもう遅いのだ。

 わたしはなにも残らない人生なんて嫌だ。


 逃げ道なんていらない。

 妥協点なんて探る必要はない。

 これがわたしの人生だと。

 胸を張って言えるなにかが欲しい。


 黙々と作業に勤しんでいると時間が進むのは早くて、いつの間にか部活の終了時刻になっていた。

 備品のチェックも終わらせた。


 校門で二人が来るのを待つ。

 もうだいぶ暖かくなってきたからか、少し汗ばんだ身体にシャツがくっつき不快指数が上昇した。

 そんな嫌な感じすら吹き飛ばす爽やかオーラを纏って葉山先輩は現れた。

 身体から柑橘系の匂いがしそうだな、この人。


 先輩は腐った魚の匂いがしそうだ。

 実際そんなことなくて、案外あったかいんだけど。

 そういうトラウマもありそうだった。


 脇には戸部先輩もいる。

 大きく手を振りながら歩み寄ってきた。

 胸の前で小さく手を振り返し、到着とともに並んで歩き出す。


「そういやーさ」


 そんな、文字で見れば一瞬何語が判断しかねるような言葉遣いで戸部先輩が話題を提供する。


「いろはす最近遊びとか行かねーけど、土日なにしてるん?」


 土日は部活してるわけだが、そういう意味ではないのだろう。

 部活終わったあとになにをしてるのか、という意味だと捉えて言葉を返す。


「んー、雑務とかですかねー。あ、あと料理とか最近はまっててー」

「へー、そうなん。……は?」


 納得しかけたと思うと、疑問符を頭に浮かべて固まる。

 なにかまずいことでも言ったかな。

 料理してるのは本当なんだけど……。

 やってみたら案外楽しかったし。

 お母さんと料理するなら有意義な時間の過ごし方だ。


「え? え? なに? 土日も仕事してんのっ?」

「生徒会……そんなに大変なのか?」


 あー、そういう。

 葉山先輩まで心配そうな顔つきになってるし……。


「えーっと、その、空いた時間に雑務とか済ませとけば平日も部活出れるじゃないですかー? だから、えっと、やらなきゃいけないってわけじゃなくてですねー……」


 もっともらしい反論をする。

 しかし、逆効果だったようだ。


「は!? なおさらやべーっしょ! そんな無理してまでやる必要ねぇって!」

「……そうだな。俺から他のマネの子にも言っておくよ」


 おお、なんかまずい方向に傾いてきた。

 失敗した。


「いや、えっと、その、やりたくてやってるのでー……。だいじょぶ、です」

「そ、そうか?」


 本当に大丈夫か?

 と、言われている気がした。

 別に現時点でそこまで苦しいってわけでもないし、本当に大丈夫だ。

 両手で握り拳を作り、ぐっと気合い入ってますアピール。


「はいっ! 任せてくださいっ!」

「なら、いいんだけどな……」


 ちょっとわたし今回はガチなんですー、とかなんとか葉山先輩たちを説得しながら歩みを進める。

 そういうのは得意だ。

 だいたいにして、今までだって自分磨きは頑張ってきた。


 だから、実質、やることは変わらない。

 ただ対象がそこらへんのかっこいい人みたいな漠然としたものではなく、先輩へと一点に絞られただけのこと。

 そうして電車に乗り込み千葉駅へ、パルコに辿り着いた頃には七時を回っていた。


「あー、マーカーとかどうしましょうかー……。結構数減ってたんですけど、学校に持ってく時間とかないですよねー。完全に頭から抜けてました、ごめんなさい」


 スポーツ用品店へと向かいながら、そんな初歩的なことに気づく。

 足がないし、そういう嵩張るものは買えない。

 買えても学校はもう閉まってる。

 土日の昼に来ればよかったかなー……。


 ずーんと気を落としていると、先輩方がフォローに入ってくれる。


「ま、まあ、また土日にでも来ればいいさ。今日はスポドリとかスプレーとか消耗の早いものを中心に買おう」

「おっ、おう! そうだべ、いろはすー! 土日も付き合うからまた呼べよ!」


 そんな必死になられるとなんだか申し訳なくなってくる。

 しかしまあ、気遣ってもらったのにうじうじしてるのもよくない。


「そうですねー! あ、プロテイン買いましょうプロテイン!」

「うげぇ……」


 一瞬でげんなりとした表情に変わる。


「なんですかー。ていうかちゃんと飲んでますー? 筋トレしてますー? 全っ然変わってない気がするんですけど」

「いや、だってあれ不味いじゃんよー。まあ、飲んでっけどさー……ないわー」


 嫌とは言いつつも飲んでるんだ。

 ないってなんですか、ないって。

 こんな可愛いマネージャーが飲んでって言ってるのに。

 それだけで美味しくなるでしょ。


「はぁー。でも、なんでしょうねー? つきにくい体質なんですかねー?」

「あー、それあるかもしんねぇわ。ん、あ! んなら意味ねぇべ? 飲む意味ねぇべ?」

「いや、それなら、もっと飲んでください」


 がっくしと肩を落とす。

 ないわーないわーとそういう鳴き声の動物のように鳴く戸部先輩を見て、葉山先輩と二人で苦笑してしまった。


「そういえば、新入生どうですかー? なんか強そうな子とかいます?」


 聞くと、二人とも記憶を探るようにあー、うーん、と考え始める。

 少し経って評価がまとまったのか、わたしに顔を向け直した。


「そうだな……。トップ下とサイドバック、それとボランチ志望で中々実力ありそうなのがいたよ」

「んあー、ウイングやりたいとかってやついないっけ? あれも結構やれる感じだったべ」


 トップ下、サイドバック、ボランチ、ウイング……。

 ウイングはうちのフォーメーション的に使う場面がないからサイドミッドになってもらうことになりそうだ。


「トップ下ってどんな感じですかビジャですか」

「ビジャって……よく知ってるな。サッカー好きだったんだっけ?」

「好きになったって感じですかねー」


 好きな人と共通の話題を持つのは当然のこと。

 葉山先輩狙うなら有名なサッカー選手の名前くらい覚えとくべき。

 ていうか、そもそもサッカー部のマネなんだからちょっとくらい分からないと困る。

 スペインサッカーは至高。

 無敵艦隊。


「そっか。流石にビジャと比べるとかわいそうだけど、パスもドリブルもうまいよ」

「ほう……。つまり残りはラモスとイニエスタとセスクですね! パスサッカーに方針変更しましょう!」


 あ、セスクボランチじゃないっけ、てへぺろ。


「いんやー、サイドバックとウイングは足速くてドリブルうまい感じだったべ? パスは……まあそこそこ」

「だな」

「そうですかー……。トーレスとか来ないですかね」


 俯き、ちらっと見やると、手でないないってやられてしまった。

 トーレスかっこいいよね。

 顔が。


「まあ、でも! 二年生も結構レベル上がってきてますし! ちなみに今年の目標はーっ?」

「もち国立っしょ!」


 うぇーい!

 と奇妙な鳴き声を上げる戸部先輩に同じくうぇーいと返し、ハイタッチ。

 んー、青春って感じですねー。

 こういうのって行けないってわかってるから、簡単に言えるんですよねー。


「ぶっちゃけ、ガチな話するとどこまで行けそうですかねー? わたし大会のレベルとかまではそんなに詳しくないんですけど……」


 葉山先輩が飛び抜けてうまいのは知ってるけど、他の人たちがどれくらいなのかは正直なところよく分からない。

 見てないってわけじゃなくて、基準をよく知らないから。

 葉山先輩と比べてどうとかしか言えない。


「そうだな……。意外といいところまではいけそうな気はしてる」

「おお……。なら、応援頑張りますねーっ! 二人ともわたしを国立に連れてってくださいっ!」

「うっしゃ! 任せとけっ!」

「はは……出来ればいいけどな」


 葉山先輩は期待に応える人だ。

 だから出来るか分からないことを出来るとは言わないのだろう。

 でも、出来ないと決まったわけじゃない。

 新入部員が本当に超戦力になるかもしれないし。

 先輩たちはこれで最後だから、どうせならいくとこまでいって欲しい。


 淡い希望に胸を高鳴らせてスポーツ用品店へと入る。

 買う物を厳選したためにそこまで時間はかからなかった。

 戸部先輩は新作のスパイクを見て、へーほーかっけーと謎の三段活用をしている。

 不規則動詞ですかね。


 まあ、その気持ちも分からんでもないので葉山先輩と談笑しながら気が済むのを待つ。

 いつも振り回してたからなぁ……。

 こういうのはちょっと新鮮。


 今までも見たかったのかな。

 だとすれば悪いことをした。

 わたしだって服屋さんとか行って可愛い服出てたら見たくなるし。

 これからはもうちょっとペースを合わせてあげよう。


 ああいうのって見てるだけで楽しかったりすんだよね。

 スパイクって高いし、履き慣れとかあるからそんなほいほい買い換えるもんでもない。

 だから、どうせ買わないんだろうけど、それでもあんなキラキラした目で見てるのを邪魔しちゃ悪い。


「変わったな」


 そんな言葉が横からぶつかってきた。

 ぼーっと見てる間に会話が途切れていたらしい。

 反射的にパッと顔を向ければ、葉山先輩が笑っていた。


 優しい笑み。

 でもどこかぎこちない。


「変わってないですよー? なーんにも。もしかしたら、戻りかけてるのかもしれません」

「戻る……か」

「はい……。昔の、わたしに」


 キャラ付けをやめて、戻りかけてる。

 あの頃の、仮面をつけてなかった頃のわたしに。

 そんな気がするだけなのかな。


 自分のことは自分が一番知っている。

 でも、それは自分に似た人を見るときに役立つだけであって、自分自身に問うときにはなんの役にも立たないのだ。

 この世で一番なにを考えてるのか分からないのは自分自身なのかもしれない。


「でも、戻ることはない気がします……。なんとなくですけどねー……」


 ふと吐いた息は、呆れているようだった。

 なんだろうか。

 なにか嫌な予感がしていた。

 漠然としていて全く掴み所がないけれど、それがどうしようもなく暗くて怖かった。


「比企谷なら……戻せるのか……?」


 不意に出てきたその名前に肩が跳ねる。

 どうなんだろうか。

 わたしの仮面は厚くなってしまった。

 あのときから、笑えていない。


 思いの丈をぶちまければ仮面も一緒にどこかへ行ってくれるのだろうか。

 最初から分かっている結果なんてない。

 だからそのときまで分からない。

 ただ、こんなことを考えてしまっている時点でもう手遅れだったのかもしれなかった。


「どうなんでしょうねー……」


 たははと困ったように笑うと、葉山先輩は顔に影を落とした。


「……すまない」

「あはっ、なんで葉山先輩が謝るんですか〜」


 なんとなく言われる言葉は分かっていた。

 この人はなにも出来ないのが苦しいのだろう。

 なんでもできると持て囃されていて、その実、重要なところでなにも出来ない。

 それが歯痒くて、悔しくて。

 拳を握りしめることしか出来ない自分を忌々しく思っている。


「……俺には、なにも出来ないから」


 だけど、それは筋違いというものだ。

 なにも出来ない。

 知り合いの、友達の、後輩の助けになってやれない。

 それを悔しむのは凄くいいことで、だからきっと葉山先輩はいい人なんだけど。


「気にしないでくださいよ。頼んでませんし」


 頼んでないのだ。

 優しく手を差し伸べるのは葉山隼人の当たり前かもしれない。

 そこにきゅんときて甘いマスクに心奪われるのは女子高生の習性かもしれない。


 でも、わたしはそんなこと頼んでない。

 だから、そんなことで謝られても困る。

 それに、そんなことをされたらなんだかわたしがかわいそうな子みたいじゃないか。


 違う。

 わたしはかわいそうじゃない。

 憐れでも惨めでもないから、情けはいらない。

 昔のわたしに戻りたいなんて思ってない。

 今のわたしが悪いなんて思ってない。

 両方わたしで、わたしはずっとわたしに違いないのだから。


 わたしでなくなりたいと願ってもそんな願いは叶わない。

 であれば、どんな未来になっても、わたしはわたしであり続ける。

 つまり、認めるしかないのだ。

 自分自身と向き合って、自分自身の存在を。

 受け入れてあげなきゃいけない。

 わたしを否定する権利なんて、わたしを含めて誰も持ってない。


「そう、か……。そうだな……」

「そうですよー! 戻れなくたっていいんです。別に戻ることに価値があるわけじゃないですし」


 仮面を無理やりはがすことに価値なんてない。

 それに、はがせない。

 自分でもはがせない。

 いつか自然にはがれるのを待つしかない。


 もしかしたら、これがわたしの新たな仮面なのかもしれない。

 昔のわたしに戻りたがってるのに、いまだに今のわたしを捨てきれないわたしの新しい仮面。

 中途半端なところでぬるま湯に浸かるためのつくりもの。


 わたし自身がつくりものなら本物を見つけるのは容易いことではなさそうだ。

 鬱になりそう、マジ鬱。

 とても鬱になりそうな人間の言葉じゃなかった。


「葉山先輩。多分、これからもお手伝いしてもらうと思うので、それに関してはよろしくお願いしますねっ」

「……ああ。俺に出来ることがあるのなら、喜んで」


 ちょっぴり感傷的な気分になってしまう。

 そんな顔でいられると困る。

 葉山先輩はわたしにとってはかっこいい人だけど、どうでもいい人ではないのだ。


「頼ってくださいね、いつでも。逃げ出したくなったら愛の逃避行でもしましょうか」

「はは……。君がそういうことを言うのは初めてだな」

「ですねー……。でも、愛のってところ以外は本心ですよ」


 にこっと笑顔を見せると葉山先輩はまた苦い顔になる。

 弱々しい顔は基本的に見せない人だから、そういう顔の方が人間らしくていい。


 何かを隠してるって意味では、もしかしたら先輩よりはるのんに近い、かも。

 ていうかはるのん、葉山先輩とか嫌ってそうだなー、表面では。

 なんだかいつの間にかはるのん呼びが板についているわたしだった。


「あ、そう言えば、はるのんと幼なじみなんでしたっけ?」

「はるのんって……陽乃さんか。そうだよ。誰かに聞いたのか?」

「あー、まあ、先輩に焚き付けられたときにちょっと」


 はーん……幼なじみ、ねぇ。

 なんて雪ノ下先輩に軽い敵意を抱いたりもしたけど、今となってはどうでもいい。

 そういう作戦だったんだろうな。


「比企谷が……。そうか、そういうことも……するんだな」


 誰かを使ってなにかを守る。

 そこが意外だったんだろうか。

 しかし、先輩はどうでもいい人はとことん利用する人だ。

 悪質で陰湿で嫌われることに躊躇がない。


「あの人……割とそういう人ですよ」

「そうかもな……。やっぱり、俺にはなにも見えてないんだろうな」


 少し上に向けた視線にはなにかが見えているのか。

 きっとなにも見えてない。

 そこには天井しかない。

 ただ、描くことはできる。

 誰にだって、なにかに思いを馳せる権利はあるのだから。


 卑屈な彼は、潔癖な彼女は、優しい彼女は、完璧な彼女はなにに思い馳せて、なにを思いあぐねて、なにを思い描くのだろうか。

 そして、彼は。

 ふと、そんなことが気になった。


「はるのんのこと、どう思います? あー……いや、どう思われてると思います?」


 人の目を気にしている彼だって、少しは見えるはずだ。

 いや、でも、やっぱり見えないんだろう。

 きっと、彼が本当の意味で見えるようになるのはまだ先なのだ。


「……なんでもそつなくこなす人間は面白みがないと、そう言われたよ」


 なんだか、あのとき、わたしを面白いと言ったはるのんの気持ちが分かった気がした。

 そっかそっか、確かにこれは面白みがない。

 全く分かってくれないし。

 でも、それがこの人の面白さだろう。


「そうですかー、では、今度は言われたことじゃなくて、葉山先輩自身がどう予想してるのか聞いてもいいですか?」


 最初っからなんて言われたかなんて聞いてない。

 他者の自分への評価の真意は分かっているのか。

 そのあたりを見たかった。

 そして、なにを思うのかが聞きたかった。


「あの人は……俺には興味がないんだ。君や比企谷みたいな自分が面白いと思ったものにしか手は出さないから……俺にはなにもしない」


 ほんと、つまんないなこれは。

 はるのんがそう言うのも分かる。

 それも逆効果になっちゃってるみたいだし。

 はるのんにも出来ないことがあると、それを近くで見て笑いそうになる。

 まあ、流石に感じ悪いから堪えるけど。


「はぁ……。わたしは別に、自分を卑下することが悪いことだとは言いませんけど、あんまり人の好意に気づかないフリをすると嫌われますよ」


 言うと、葉山先輩はぴくりと肩を震わせた。

 両手は硬く握られている。

 なにに憤慨しているのか。

 わたしの言葉にだろうか。

 それとも、自分の無力さにだろうか。


「なにも、言わないんですねー。そういうところ、嫌いじゃないです。でも、言わなきゃなにも伝わりません。本当に大切な人はきっと葉山先輩のことを待っていると思いますよ、わたしは」

「本当に、そうかな……」

「さぁ? わたしの主観的意見なのでー」


 偉っそうだなぁ、わたし。

 いつから人に意見出来るほど偉くなったんだろう。

 自分のこと、なんにも出来てないのに。

 ふっと、自嘲じみた笑みが溢れた。


「君は……なんでも分かるんだな」


 皮肉めいた言葉は意趣返しのつもりだろうか。

 だとすれば、その選択はまちがっている。

 そんなことに意に介す性格ではない。


「なんでもは分かりませんよ。でも、葉山先輩はなんにも分かってませんねー。はるのんは興味がない人にそんなことを言うような人じゃない。っと……まあ、わたしが言えるのはここまでですかね」


 みなは言わない。

 葉山先輩のためにもはるのんのためにも。

 それに気づくのは自分の力でやるべきだ。


 確かにはるのんは興味がない人間にはなにもしない。

 本当になにもしないのだろう。

 であれば、そんなことを言われてる時点ではるのんの興味の対象に自分が含まれてるって分かりそうなもんだけど。


 自分のことなんて分からないか。

 分かってたらこんなに悩まないんだろうし。

 フリでもないのか。

 それが葉山隼人の本質なのだろう。


 まあ、これも、予測に過ぎないんだけど。

 はるのんはどうかなんて知らない。

 あの人なに考えてるか分かんないし。

 でも、葉山先輩が明らかに無視している好意があるのは傍目から見ても明らかだよなぁ。


「君に……なにが分かる」


 静かな怒りのこもった声は、今までの葉山先輩の中で一番面白かった。

 なんだ、そういうのできるんじゃないですか。


「あはっ、分かりませんよ。なーんにも! ただ、そのままでいたらいいとは思います。あっと、もうこんな時間ですねー! 戸部せんぱーい! 行きますよー!」

「お、おう! わり! 時間忘れてたわー!」


 葉山先輩がなにかを言った気がしたが、それは戸部先輩の声にかき消された。

 弱々しくか細い声で言ったなにかはきっと弱音だろう。

 それが出来たら苦労しないとかそんなことだろう。


 でも、やる気がないのならいつまでたっても出来ない。

 やる気があるのなら今すぐにでも行動に移すべきだ。

 じゃなきゃ進めない。

 近いうちに一歩を踏み出せたらいいと、また偉そうなことを思った。


「んー……。相談したかったんですけど、今日はもう遅いですし、後日にしましょうかー?」


 時刻は八時半。

 閉店時間ギリギリになってしまった。

 このまま相談して、終わった頃には九時過ぎだろう。

 そこまで付き合ってもらうのは悪い。


「ん? いや、そんなん気にしなくていーべ? な、隼人くん? っつーか、俺のせいだしよ」

「ああ、気にしなくていいよ」


 まあ、そういうことなら、優しい先輩方に甘えるとしよう。

 二対一じゃどうしようもないし。

 そうと決まればやることは一つ。

 にぱっと満面の笑みを作って答える。


「そうですかー? ありがとうございますー! じゃ、お言葉に甘えちゃいますねっ!」


 先輩の顔が引き攣りそうな仕草だった。

 あの人の困り顔はなかなかに愛らしいのだが、あまり困らせて嫌われるのはいただけない。


「んじゃ、どこ行くかー。俺結構腹空いてっから、飯食えっとこがいんだけどさー」

「そうだな……。この時間だと……」


 考える素振りをしながらちらりとわたしを見る。

 その意図を察して、こくりと頷く。


「あっちにデニーズあったよな? そこにしようか」


 別にファミレスがどうのこうの気にしたりはしない。

 すぐ近くにサンマルクやらドトールやらがあるが、カフェなんか行ったって練習終わりの戸部先輩のお腹は満たせないし。


 ここで中途半端に食べて夜中にお腹空いて食生活が乱れるほうがマネージャーとしては困る。

 まあ、外食なんてバランス悪いからあんまり変わらないかもだけど。


「おっ、それありっしょ!」

「ですねー」


 同意して足を向かわせる。

 時間帯的に夕食どきではないため、店内の人はまばらだった。

 空いてるテーブルに腰掛けて注文を済ませる。

 まずはとりあえず言うべきことを言っておくことにした。


「今日はありがとうございましたー。買った物くらい……わたしが持って帰りますよ?」


 付き合ってもらって、そこまでされるのは忍びない。


「そこまでされちゃうとわたし来た意味ない気すらしてきますしー……」


 買い物も二人で出来る。

 買った物は二人で持って帰る。

 それで明日二人ともちゃんと持ってくるのだろう。

 わたし来た意味。


「いやいや、んなことねぇべ? な、なぁ隼人くん?」

「ああ。いろはがいなければなにが足りないのかも正確には分からなかったわけだしな」


 そっか……。

 んー、でもなぁ。

 どうにも納得しかねて渋っているわたしを見て、葉山先輩が話題を切り替える。


「まあまあ、たまには先輩面させてくれよ。それで? 相談っていうのは?」


 葉山先輩が言うと、戸部先輩がやっべーとなにかミスったような表情になる。

 どうやら気を遣ってわたしと葉山先輩を二人きりにさせたかったらしい。

 別にそういうのいらないけど。


 ていうか、さっきまでナチュラルにそういう企み忘れてたんだなこの人。

 相当お腹空いてたのか。

 気にしないでという意味を込めて笑顔を送ると、なにやら顔を青くする。

 なんだがわたしが怒っていると勘違いしてそうだった。


「あー、それなんですけどー。生徒総会ってあるじゃないですかー?」


 それ自体たいして目立つような行事でもないので、知ってる体で進めるのは躊躇われた。

 思った通り、葉山先輩はうんうんと頷くが戸部先輩は首を傾げて唸る。

 

「そんなんあったっけ? わり。俺基本流してっからさー」

「俺は一応覚えてる。が……まぁ、そこまで記憶に残ってるってわけじゃないな」

「ですよねー……。ぶっちゃけ、わたしも昨年の生徒総会記憶にないですし」


 一応、過去の資料に目を通しはしたので全く知らないというわけでもないけど。

 やはり、記憶は曖昧だ。


「全校生徒で議論するーみたいなやつだと思ってもらえればおっけーです。ま、別に知ってても知らなくてもそこは大した問題じゃないんで……。んー、やっぱりそこが問題、ですかね?」

「つまり、記憶に残るものにしたいってことでいいのかな?」


 さすが葉山先輩。

 理解が早くて助かる。


「そんな感じですねー! 具体的に言うと、みんなの興味が集まって自然と意見が出る、みたいなー?」

「おぉっ! 生徒会長っぽい! いろはす、めっちゃ会長っぽい! かっけーわー!」


 いや、ぽいとかじゃなくて会長なんですけどー。

 まあ、正直言って見た目会長っぽくないもんなぁ、わたし。

 そういう評価も仕方ないのかも。

 むしろ有効活用すべきだな。


 ギャップだ。

 札付きの不良が実は動物好きみたいな。

 それはギャップ萌えか。

 まあ、わたしの評価が上がるのならなんでもいい。


「そうなると……関心を集められそうな議論をするってことになるのかな?」

「はい! あ、でも、そこはもう考えてあるんですよー」


 スクールバッグをガサゴソと漁り、今日の会議の記録を差し出す。

 二人とも真剣な顔でテーブルの上の紙に目を通してくれた。

 なんだか正反対に頬杖をついているため鏡のようだ。


 戸部先輩も真剣なときは真剣なんだよなぁ……。

 結衣先輩と似て空気を読むのがうまい。

 グループ内でトップではないから身についたものだろう。

 三浦先輩があれだからってのもありそうだな。


「うわっ! ちょっ、いろはす〜! テスト順位の張り出しはやめた方がいいべ? いや、マジで」


 勘弁してくれと、両手を合わせる。

 やっぱりそれは重要だよねー。

 わたしもそこまでいいわけじゃないから困る。


「そういう明確な拒否反応があるってことはやっぱり関心が集まるってことなので、決定ですねー!」

「うっわ、マジかよー! ないわー……。いろはすないわー……」


 ないってなんだ、ないって。

 たいした意味もないんだろうけど。

 戸部先輩相手だと特に怒る気にもならない。

 この人もわたしも冗談だって分かってるし。

 少し笑い合うと、そのあたりで注文したものが来た。


「あー、どうします? 食べ終わってからにしますー?」

「んあー……俺は別に食いながらでいいけど。どーせ喋るわけだし? 隼人くんはー?」


 二人で同意を求めて葉山先輩に目をやると、笑顔で頷いてくれたので少し行儀は悪いが食べながら話を進める。


「まあ、嫌なら動議のときに積極的に反対意見を出して否決するか、妥協案をかんがえるしかないな」

「そういうことです」

「っはぁ〜。いやでも、無理っしょー……。全校生徒の前でとか恥ずいしよぉー」

「そこ、なんですよねー……」


 そう、そこなのだ。

 問題点はそこにある。

 あれだけ嫌がってても、それだけのことで諦めてしまう。


 流石、みんなと一緒は嫌だなんてみんなと一緒のことを言う代表である。

 今回はその平凡さが頼りだ。

 戸部先輩がやる気を見せればきっと雰囲気も固くならないし、それなら他の生徒も続いてくれる。


 ……ん?

 ああ、そうか。

 そういうことか。


「戸部先輩」

「ん? え? ……なに?」


 真面目な顔で見つめると、戸部先輩は嫌な予感でもしたのか額に薄っすらと汗を滲ませた。


「生徒総会で発言してください」

「うぇっ!? い、いっやー、無理っしょ! 無理無理! マジそういうのは隼人くんの方が適任だしよ!」


 隼人くんオナシャス!

 と、なんだか時代劇でやられそうになったチンピラみたいなことを言い出す。


「おいおい……」

「あ、もちろん葉山先輩にもお願いするつもりですよー?」

「まあ、俺はいいけどさ」

「うーわ……」


 退路を断たれた戸部先輩は露骨に嫌そうな顔をする。

 あ、これガチのやつだ。


「かわいい後輩のためだと思ってお願いできませんかねー……?」


 瞳を潤ませてきゃるんとした瞳で頼み込むと一瞬たじろぐが、すぐにはっとする。

 その手にはかかんねーぞと言われてる気分だった。

 ちっ……戸部先輩には割と適当に接してるせいかぶりっ子がバレているようだ。


「まあ、そんなに嫌ならいいですよ……。しょうがないですし。無理矢理やってもらうってのもなんか悪いですしー……」


 んー、じゃあ誰にしようかなー。

 なるべく口外しない人がいい。

 サクラなんてバレたら生徒会の評判が危うくなる。

 でも、一般人でってなるとなぁ……。

 結衣先輩含め奉仕部の面々には頼むとして……他誰かいるかなぁ。


「はぁー……」


 思索にふけっていると、誰かの長嘆息が聞こえてきた。

 意識を二人に向けるとどうやら嘆息の主は戸部先輩だったようで、忙しなく襟足を弄っている。


「あー、いや、まあ、なに? 手伝えることあんなら手伝うけどよー……。いろはすって、あんまそーいうガチな相談とかしねぇし?」

「え? マジですか! でも嫌なら嫌でいいんですよ? 他に当たりますし。ほら先輩とか奉仕部とか。まあ手伝ってくれる人が多ければそれだけ心強いんですけどね」

「お、おう……?」


 なんだか気を遣わせたかと思って早口でまくし立てたら、今なんて言った? みたいな顔をされた。

 微妙に気恥ずかしいので、紛らわすようにこほんと咳払いをする。


「本当にいいんですねー?」

「おう。……まあ、隼人くんがやんなら俺はそんなに目立たねぇっしょ」

「そうですか……。ありがとうございますー!」


 にこにこーっと笑ってみせると、戸部先輩も笑顔になる。

 ほんとこの人いい人だなー。

 いい人過ぎていい人止まりで終わりそうな感じが凄いする。


「で、ですよ。そうなると、葉山先輩のグループ内で何人か信用できる口の固い人にもお願いしたいんですねー?」


 誰か思い当たる人がいないか、という意味を込めて視線を向けると、二人は顔を見合わせて考え出した。

 一応、名前くらい把握しておきたいので聞き耳を立ててジッと見守る。


「っあー、んなら女子じゃね? あいつらを信用してねぇってわけじゃねぇけど、ほら、俺と一緒で軽いとこあんじゃん? 大岡とかはクラス別になっちまったし」

「まぁな……。いろはと面識があるわけでもないから、そもそも手伝ってくれるかどうかも怪しい」

「だしょ? そうなっと……優美子とか海老名さんになるべ?」

「だな。結衣には奉仕部通して頼むんだろ?」


 不意に話を振られるが聞いていたのでどうということもなく、普通に言葉を返す。


「あ、はい。その予定ですー。結衣先輩なら、これ、絶対拒否ると思うんでー……やる気になると思いますし」


 とんとんと指先で紙を叩く。

 そこには定期考査順位の公表と書かれていた。


 結衣先輩は、その、まあ、言っちゃ悪いけど頭がちょっとアレだから確実に反対だろう。

 そして言いたいことは言う人だ。

 それが奉仕部に関わる言いづらいことならまだしも、全校生徒の前で発言なら構うことはない。

 そんなことより自分の順位の公表の方がキツイはず。


 二人ともわたしの言いたいことが分かったのか、あーと声を漏らす。

 雪ノ下先輩に関しては断られる理由がないし、雪ノ下先輩と結衣先輩が承諾したら先輩に発言権なんてない。

 かわいそ過ぎる……。


「じゃ、そんな感じでいいですかねー? また後日話を合わせるってことで……いいです?」


 わたしとしても直接お礼を言っておきたいし、雪ノ下先輩と先輩にはしっかり話を通しておかないと暴走しかねない。


「そうだな」

「おっけ!」


 同意を得たので、そこからは世間話に話題を切り替えてゆっくりと食を進める。

 結構話に花が咲いてしまい、だらだらと話し込んでいたら十時になってしまった。


「あっ! そろそろヤバいですね!」


 十一時を過ぎたら補導対象だ。

 そうそう運悪く警察に出くわすなんてことはないと思うけど、もしもを考えれば避けたい。

 生徒会長が補導とか最悪だし。


「部活でお疲れなのに長引かせちゃってすいませんでしたー……」


 店を出て歩きながらだが謝っておく。


「いや、俺たちもたまにはこういう息抜きが出来た方がいいし気にすることでもないさ」

「そうそう! いやー、隼人くんいいこと言うわぁー!」


 本当に特になんとも思ってないらしく、二人の顔は晴れやかだ。

 あんなことを言われたあとでも切り替えが出来るのは葉山先輩の技能だろう。

 充分、人にはないものを持っている。

 もっと誇るべきだし、驕るべきだ。

 誰にでも出来るわけじゃないことをやれている。


 自分のいいところを褒めるっていうのは凄く大事なことだと思う。

 自信のなさはその人の魅力を八割方奪う。

 いいところより悪いところの方が目につくし。

 まあ、それを差し引いても葉山先輩は女子にとって魅力的なんだけど。


 この柔和な雰囲気と持ち前のポテンシャル、そもそも顔がいい。

 顔がよければ性格がそこそこ歪んでても女子高生には好かれる。

 結局のところアクセサリーだし。

 かっこいい彼氏という自分を輝かせるものが欲しいのだ。


 あんまり性格悪いと評判も悪くなるからお断りだけど。

 恋愛沙汰で同情やら嘲笑されるのは彼女らのプライドに酷く傷をつける。

 速攻切り捨てるだろう。

 ……女子高生という生き物の非情さを知ってしまった。

 もともと知ってたけど。


 あー、葉山先輩の場合、なんでも出来ちゃうから困ってるんだっけ。

 なんでも出来る人間なんていないけど。

 本当にそうなら困ることなんてない。

 なにか解決できない問題がある。


 ある種、葉山先輩はわたしに似ているのかもしれない。

 周りの作った葉山隼人という人物を壊さないように期待を裏切らないように。

 そのままでいれば一生を劇的に過ごせそうだ。

 劇的っていうより、まあ劇なんだけど。


 ああいうのを見慣れたわたしやはるのん、あと先輩あたりからしてみればどうでもいい。

 いや、先輩ならあるいは尊敬、もしくは敵対するのかもしれない。

 正反対の道を歩むまぶしい存在を。


 このまま終わるのを嫌がってるようには見えない。

 やっぱり選ばないのだろうか。

 誰にも正しいことなんて分からない。


 でもわたし個人としては、大衆の期待に応えるのをやめて、個人の願いを聞けるようになれば……凄くかっこいいと思う。

 なんにせよ、応援、してます。


 わたしの視線に気づいたのか、戸部先輩と話をしながら目を合わせてきた。

 それににっこりと微笑みを返すと、苦笑いされる。

 傷ついちゃうなぁー……。


 この人も、自分の中で既にケリをつけているのかもしれない。

 真実がどうあれ、やはりわたしが口を出すことではないのだろう。


「ではではっ! また明日ー!」

「ああ、また」

「おうっ!」


 わたしは途中でモノレールに乗り込んでも帰れたけど、付き合ってもらっておいてそんな態度を取るのは気が引けた。

 駅まで三人仲良く足を進め、ホームで簡素な挨拶を交わして別れる。


 生徒会役員がサクラを用意することに賛同してくれるかは分からないが、案は固まった。

 ぼーっと先輩の顔を思い浮かべながら帰路を辿る。


 ゴールデンウィークには話さなきゃ、だ。

 しっかり、自分の言葉で。

 先輩はどんな顔をするだろうか。

 なんて言ってくれるだろうか。

 そうして、ふと先輩の言葉を思い出してみる。


〝俺は、本物が欲しい〟


 あれはわたしに向けた言葉じゃなかったけど、どきりとした。

 本物ってなんなんだろう。

 わたしがやっていることは本物なのかなって。

 葉山先輩への好意は、この好きの気持ちは本物なのかなって。

 悩んで、考えて、それでも答えは導き出せなかった。


 だから、ディスティニーで確かめたんだ。

 結果は分かってたけど、それでも、好きでいられたなら、諦めずにいられたなら、この気持ちが本物だと思える気がして。

 玉砕して改めて分かったんだ。

 やっぱり、結局、かなり好きっぽい感じでしかなかったのだと。


 そりゃあ悔しいから涙も出た。

 わたしの作ってきたかわいいは無意味なものだったのかと絶望した。

 もうどうしようもなくて、どうすればいのかも分かんなくて。

 そのときに一緒にいてくれたのが先輩だった。


〝すごいな、お前〟


 初めて褒めてもらえた。

 あのとき、胸がすっと軽くなった。


 わたしの本性を知っている先輩がそう言ってくれたから。

 なんだか仮面をつけたわたしもありのままのわたしも、わたしの全てを認めてもらえたような気がして。

 今まで頑張ってきたのは無駄じゃないと言ってもらえた気がして。


 嬉しかった。

 ちゃんと見てくれてる人がいるって。

 だから、わたしもちゃんと見ようって。

 初めて、なにかと向き合えた気がした。


 あのときからだろうか、本当の意味で先輩がわたしの行動の理由になったのは。

 なんだか単純な女だなぁ、わたしも。

 傷心につけ込まれたのとそう変わらない。

 でも、この気持ちがかなり好きっぽいなんて曖昧な気持ちじゃないことだけは胸を張って言える。


 葉山先輩には悪いことしたな。

 わたしの都合で告白されて、断って、そしたらわたしは先輩に乗り換えた。

 パッと見れば、都合のいい女だ。

 いや、よく見てもそうだろう。


 葉山先輩が好きな風に装っていたのは、そのこともある。

 わたし自身の評判も落としたくなかったし。

 葉山先輩はそれも分かってて対応してくれていたんだろう。

 感謝、しないと……。

 葉山先輩にも、もちろん先輩にも。


〝お前を会長に推した奴が悪いに決まってる〟


 あの言葉はどこまで本心だったのだろうか。

 例えそれが百パーセント冗談であったとして、わたしが重大なミスをしたとき、わたしの立場が危うくなったとき、先輩はどんな行動に出るのだろうか。

 そのときは百パーセント本気でそんなことを言いふらしそうな気がする。


 嫌だ。

 それだけは絶対に嫌だ。

 わたしのために、だとかそんなことを言って止めたって絶対に聞かない。


『お前のためじゃない俺のためだ』


 とかそんな言葉から始まって。


『俺は誰かを責めたくなんてねぇんだよ。誰かを恨みに思うのは恨みに恨みきれねぇだろ。これは優しさとか責任感とか高尚なもんじゃない。自分のことなら早々に諦めちまえるが、人にされたことじゃ諦めがつかないだけなんだ』


 なんて、理屈をつらつらと述べる。

 それから、きっと。


『あのときあいつがこうしていれば、そのときそいつがちゃんとやっていれば、そう思って生きていくのは辛いし重苦しいしやるせない。ぶっちゃけ、だるい』


 こんな感じで嫌だという意思をはっきり言い切るんだ。

 反論を許さないために。


『なら、あのときお前に押し付けた俺のせいにしちまった方がいい。自分一人の後悔なら、嘆くだけで済む。だいたい……俺は押し付けたんだ。どう考えても俺が悪い』


 締めくくりは自分自身の落ち度を示す言葉によってなされる。

 ちょうど、こんな感じだろうか。

 先輩の長ったらしい屁理屈は。

 言いそうだ。

 言うだろう。

 全くとは言わずとも、似たようなことを。


 失敗は出来ない。

 先輩に任せはしない。

 お前に任せた俺が悪い、なんてそんなことは言わせない。

 いつか、必ず。

 お前に任せてよかったんだな、って思わせてみせる。

 だから、これからも頑張ろう。


 また、すごいって言って欲しいから。


 気づけば自宅の前まで来ていた。

 街灯が切れたままだからか、妙に暗い。

 こういうのってどこに電話すればいいんだろうか。

 そんなことを思いながら鍵を取り出し、差しこもうとしたところで鍵が開いていることに気づいた。


 心がざわざわと音を立てる。

 不快な音だ。

 早く帰って来たらいつも連絡をくれていた。

 嫌な予感がする。


 がちゃりと玄関の扉を開いた。


「ただいま……」


 返事はなかった。

 いつものことだ。

 毎日あるのは朝の行ってきますに行ってらっしゃいと言うのと、そのとき行ってらっしゃいと返してくれるお母さんに行ってきますと答えるくらいだから。


 電気はついていた。

 リビングから廊下に明かりが漏れている。

 そろりとなにか恐ろしいところにでも向かうかのような歩調になった。


「お母さん……? んっ……」


 リビングには誰もいないかのように思われた。

 ただ、焦げ臭い。

 ダイニングキッチンへと数歩近づくと焼け焦げた野菜炒めがフライパンの中に入ってるのが遠目で見て取れた。

 安全機能のおかげかクッキングヒーターの電源は切れているようだ。


 怖い。

 どうしようもなく怖い。

 この先に踏み出すのが、怖い。


「はぁ……はぁ……」


 動悸がする。

 息が荒くなっていた。

 激しく上下する胸の中では心臓が警鐘を打ち鳴らしている。

 一歩、一歩と近づくたびに、ぶわっと汗が噴き出す。


 キッチンからはダイニング、リビングの様子が窺えるようになっているが、ダイニングからは視界が狭まっているんだと今になって実感した。

 そこに誰かが倒れてでもいなければ、特に気にする必要もないことだから。


 願わくば、誰もいないで欲しい。

 それがあり得ない願いだと知っていても願ってしまう。


 実際には数分でしかないのに途方もないくらい長く感じる時間をかけて、わたしはそこに辿り着いた。


「お母さん……」


 足元には絶望があった。

 予想通りの展開だ。

 それでも現実を受け入れきれてない自分がいる。


 ここで倒れているのは本当にわたしの母親なのかなんてくだらない自問自答を繰り返し、横を向いた顔をそっとこちらに向けさせた。

 どこからどう見ても紛うことなくわたしのお母さんだった。


「お母さん……っ!」


 再び呼びかけるも返事はない。

 ただ、温かった。

 はっとなってケータイを取り出し、急いで番号を入力する。

 呼び出し音が途切れるのを待っていると、早々にそのときは訪れ、すぐさま言葉を吐き出した。


「も、もしもしっ! お母さんがっ——えっ、あ、救急です! お母さんが家で倒れて……それで……っ」


 相手の落ち着いた声音に少しだけ心が休まった。

 いくばかの質問に答え、通話を終える。


「はぁ……」


 ため息が漏れた。

 ちらりと窺うようにお母さんを見る。

 座り込んで顔を覆うと、浮かんでくるのは後悔だった。


 なんで、こんな……。

 いつも元気だったのはフリだったの?

 どうして気づけなかったんだろう……。

 そういうのは得意だったはずなのに。


 わたしはここでも、なあなあにしてたのかな。

 甘えてたのかな。

 でも、それのなにが悪いんだ。

 なんでこんなやり方で責められなきゃいけないんだ。

 家族にくらい……甘えさせてよ……。


 しばらくうつむいていると、救急車の音が聞こえてきた。

 ふらふらとした足取りで玄関の扉を開く。

 家の前で止まった救急車から出てきた人と業務連絡みたいなやり取りをして救急車へ乗り込む。


 がたがたと車内が揺れる。

 意外と揺れ大きいんだな、なんてどうでもいいことを考えた。

 まるで目の前の現実から目を背けるように。


 そこからの記憶はおぼろげだ。

 ただ、気づけば自室のベッドに寝転がっていた。

 お母さんはどうなったんだろうか、とか、そんなことを考える気力もない。

 というより、考えたくなかった。

 再び逃げるように意識を手放した。

 朝になったら、全て元通りになっているだろうか。


  ****


 朝日が鬱陶しい。

 まだ寝ていたい。

 眠気なんてないのにそんなことを思った。


 リビングに踏み入っても誰もいない。

 記憶を辿れば、断片的にだが昨日のことを思い出せた。

 結局、もう遅いからとか明日また来てくれとかそんなことを言われて帰宅を促されたんだったか……。


 お母さんが倒れるとかなにその展開。

 急展開過ぎてついていけないわー。

 わたしならそっと本を閉じるレベル。

 あー、もー、本当意味わかんない。

 悲劇のヒロイン的な?

 ははっ……笑わせる。


 くっだらない脳内劇を演じてみた。

 全っ然、笑えない……。


 朝ごはん……面倒くさい。

 お弁当……面倒くさい。

 学校も部活も生徒会も面倒くさい。

 行きたくない。

 久々にそんなことを思った。


 ぼけっとだらけていると時間は瞬く間に過ぎ、学校へ行く時間になる。

 ……先輩に会いたい。

 会ってどうするとか、そんなことは考えられなかった。

 ただ、会いたかった。


 無意識に足は進み、いつの間にか学校に着く。

 授業も半ば放心状態で、話しかけられたときだけは作り笑いを浮かべた。

 内心の苦痛をおくびにも出さず、クラスメイトと接する。

 便利な世の中になったなー。


 そのまま昼休みになったが、当然食べるものがない。


「いろはちゃーん、お昼食べよー」


 そんな声をかけて来た名も知れぬ女友達Aに「あっ、ごっめーん! 今日お弁当忘れちゃってー」とか言って購買に向かう。


 誰だっけあの子。

 ぶっちゃけクラスメイトの名前とかほとんど覚えてない。

 一色いろはの脳内ストレージに興味ない人の名前に使える容量はないのである。

 マジで一ビットもない。


 だいたいあいつが主犯だ確か。

 わたしを生徒会長に立候補した件の。

 名前を覚えてやる価値はない。

 別に名前覚えなくても会話できるしね。

 こっちから話しかけることないし。

 あっても、「ねぇ」とかで充分凌げる。


 なんだかいつもの数十倍性格の悪い脳内になっていた。

 不覚……。

 どうしようもないな、わたし。

 胸がずきずきと痛む。

 息をするのが苦しい。


「……あ」


 購買に着くと、列の最後尾に見覚えのある人がいた。


「よう」

「こんにちはーっ!」


 先輩に会うと、胸の痛みも少しだけ和らいだ。

 なんなんだろうこの人。

 リラクセーショングッズ?

 アロマ?

 わたしの顔を見て先輩は眉を釣り上げる。


「なんか……あったのか」


 しばらく考えた後に発せられた言葉に内心で驚く。

 一発で見抜かれちゃったか。

 凄いなこの人。


「なーんにもありませんよー?」


 だから嘘をついた。

 言えば先輩は辛い時期だけでも負担を担ってくれそうだったから。

 そういうのは求めてない。

 辛くて苦しくて、どうしようもなく痛いけど。

 甘くて楽しくて優しい人生なんていらない。


 なら、ここで甘えるわけにはいかない。

 楽な方へ逃げて、優しい人に頼って、甘い空間に浸って。

 その先にはきっとなにもないから。

 わたしはもう少し頑張ってみよう。


 なに、母親が倒れて入院した「だけ」だ。

 珍しいことじゃない。

 わたしだけが不幸なわけじゃない。

 それでも頑張ってる人なんていっぱいいる。

 それならわたしにだって出来るはずだ。


「そうか……」

「はいっ!」


 にこにこしたままパンを買い、そのまま先輩に着いていった。

 なにかを察してくれたのか、特に拒まれない。


「いっつもこんなとこで食べてるんですかー?」


 特別棟の一階、保健室横。

 購買の斜め後ろに位置するこの場所からはテニスコートが眺められる。

 どうやら戸塚先輩が自主練をしているようで、テニスコートから振られた手に先輩も軽く手を振り返していた。


「こんなとこって言うな。ここが俺のベストプレイスなんだよ」

「ふぅん……。わたしなんかが着いて来てよかったんですかー?」


 言うと、は? って感じの顔をされた。


「え? なにお前、ここで食べるつもりなの?」

「あ、あー……ダメですよねー。じゃあ、わたし教室戻りますねー……」


 難癖つけて無理矢理居座る気はわかなかった。

 ふぅと小さい吐息を漏らし、座りかけた腰を再び持ち上げた。


「あー……待て待て。いや、別に待たなくてもいいんだが。その、なんだ? お前がどこで食べようとお前の自由だと思うぞ」

「……へ?」


 なにを言われてるのか理解するのに数秒かかってしまった。

 本当、素直じゃないな……この人。


「ふふっ、そうですか。では、お言葉に甘えさせてもらいますねー」


 無愛想な優しさについ頬が緩む。

 心中では笑う気力なんてなかったから、やっぱりこれも仮面だった。

 相対するように先輩の顔はどこか曇っている。


 気を遣わせただろうか。

 やっぱり、まだ弱いな……わたしは。

 まあ、疲れたときには甘いものが欲しくなるし、今のうちに甘えておこう。


「……ふぇんぱい」


 パンをもぐもぐと食べながらだったからか、発音がおかしくなってしまった。

 顔が熱くなる。

 ぶんぶんと顔を振り熱を冷ましてから仕切り直すように咳払いをして、再び声をかける。


「……せ、先輩」

「おお、今のなかったことにすんのかお前……」

「ちょっ! そこは空気読んで忘れてくださいよー! もぉ……」


 ほんと、この人は……。

 うつむきがちに視線を向けると、先ほど見られた曇りはなくなっているように見えた。

 この人なりに気を紛らわせてくれたのか。

 そう思うと再び顔が熱くなる。

 やさしーなぁー……。


「はいはい、忘れた忘れた。んで? なんか言いかけてたろ?」

「あー……別に、暇ですねーって」


 特に話すこともないから、そんなことを言おうと思っていただけだ。


「へぇ。そうだな」

「うわ……」


 適当だなー。

 だが今はその適当さが心地いい。

 なんともなしにすりすりと先輩との距離を詰め、こてんと先輩の肩に頭を乗せる。

 なにを考えているのか、先輩は全くどかす気配がない。

 それがどうしようもなく嬉しくて。


 安らぐ。

 春風駘蕩たる穏やかな日和に身を委ね、目をつむれば潮の香りが脳内に海を映した。

 聞こえてくるのはさざ波ではなく、ポンポンと一定の間隔で打たれる鼓のような音だったが、それがより一層わたしの眠気を誘う。


 そのまましばらくうとうととしていると、先輩の微かな声が耳に届いた。


「……なにか、あったのか?」


 力強い声でなかったのは、眠そうにしていることからきた配慮か、それとも無理に答えなくてもいいという厚情か。

 分かったのは、この人は結句優しいのだということだった。


 二度目だ。

 二度聞かれてしまって答えないのは申し訳ない。

 それに、かえって怪しまれるだろう。

 しかし、まあ、なんて言えばいいものか。

 ああ……そういえば先輩の家族にも隈ができるほど働いている人がいたな。


「わたし、母子家庭なんですよねー……」


 先輩は頷くでも答えるでもなくただ黙っている。

 それが、この、あまり人の寄りつかない閑散とした場所には酷く似合っていた。


「それで、そのー……最近、お母さんの調子が悪そうで」


 また、嘘を吐いた。

 調子が悪いどころか倒れたなんて、そんなこと言ったら絶対心配するだろう。

 言えない。


 心配してもらえるのは嬉しい。

 けど、その反面で苦しい。

 先輩が傷つくの自体嫌だけど、それが雪ノ下先輩のためだったり結衣先輩のためだったらまだ許容できる。


 でも、わたしのためだったら、本当に苦しい。

 先輩が心配してくれるっていうのが、自惚れとか自意識過剰ならいいんだけど……。


「で……、ほら、わたしって結構マザコンじゃないですかー?」

「……いや、知らんけど」


 ですよねー。

 なにやってるんだろ。

 言いたいけど、言葉を選んだり改変したりしているせいかどうにも歯切れが悪くなってしまう。


「ま、まぁ、マザコン……なんですよ」

「お、おう、そうなのか」

「それで、えっと……あの、あー……」


 考えが纏まらなくて言い淀む。

 ちらと視線を落とすとパンを食べ終え、所在なさげな手が瞳に映る。

 また、撫でてくれないだろうか。

 暗がりでもないこの場所では、勘違いのしようがない。


「先輩……」

「なんだ……?」


 喉まで出かかった言葉がその先に進まないい。

 やっぱり、言えない。

 そんなことが言えるなら、もっと大事なことが言えてるはずなのだ。

 今はただ、肩から伝わる温もりに浸ろう。


 この態勢になるのを許しているのは、また小町ちゃんと被っているからなのだろうか。

 勘違いはなくても、無意識に荷物を持とうとする先輩だ。

 そのくらいはありそうだな。


「小町ちゃん……なにかあったんですか?」


 少し、聞いてみたくなった。

 言いたいことを、言えることを、整理する時間が欲しかっただけかもしれない。

 せめて、この胸の鼓動が落ち着くまで。


「は? なんで?」

「あぁ、いえ、先輩がじっとしてるの珍しいなーって思いまして」


 いや、できれば、この時間が少しでも長く続いて欲しい。

 そんなやましい気持ちの方が大きかったかもしれない。

 悩んでいるのか黙り込む先輩の口が開くのを待つ。


「いつだったか忘れたが……」


 そんな言葉で束の間の静寂は破られた。


「小町が家出したんだ……五日くらいだったか、家に帰って来なくてな」


 へえ……。

 そんなことするんだ、小町ちゃん。

 なんか意外。


「親は仕事で忙しいし、俺が捜しに行ったんだよ……。んで、ほら、俺あいつの交友関係なんて知らねぇからさ」

「先輩自体に交友関係とかないですもんね……」

「ほっとけ。……小一時間走り回って、公園でようやく見つけたと思ったら泣いてたんだ、あいつ」


 なんだか……わたしみたいだ。

 状況が、だけど。

 春休み前の、あの公園でのことと似ていた。


「帰って来ても誰もいないって、さみしいって……」


 その気持ちは痛いほど分かった。

 わたしも朝しか会えないから。

 夜なんて一体何時に帰ってきてるのかすら知らない。

 さみしいし、苦しかった。

 けど、流石にそれは言えなかった。

 頑張ってるのは知ってたから。


 晩ご飯くらい……作ってあげればよかった。

 出来ることなんて一杯あった。

 もっと手伝いとかすればよかった。

 なんで、逃げてたんだろう。


「親は働いてるわけだから、そんなのは当然で、文句なんて言える部分じゃないんだよな。でも、子どもだからな……どうしようもなくさみしいときがあるんだ。……まあ、そんときの体勢がちょうどこんな感じだったんだよ」

「そうですか……」


 ちょっとした昔話が終わってしまった。

 まだ微妙に心拍数が上がっている。

 落ち着かせようと何度か深呼吸を繰り返す。


「ゆっくりで、いい」


 不意にかけられたその言葉は柔らかな声音をしていた。


「はい……」


 先輩のわたしのことをおもんばかる態度にようやく落ち着きを取り戻して、わたしは話を戻した。


「小さい頃から……甘えてばかりだったんです」


 思えば、お母さんが朝から働くようになったのは、わたしが学校で給食費の滞納をバカにされて泣いたときからだった気がする。

 それから二度とそんなことはなかった。

 いや、後にも先にもそれ一回だけだったな。

 そのとき何があったのか知らないが、そんないい生活はしてなかったから小さなことで家計がピンチになることはあり得る。


「わたしが……わたしが家のことで虐められたら、必ずお母さんはなんとかしようとしてくれて……」


 お母さんの帰りが遅くなったのは、わたしが学校で古いアパートに住んでいることをバカにされて泣いたときからだったはずだ。

 今の家に越したのはその三年後くらいか。

 おいおい、わたし泣き虫にもほどがあるでしょ。

 つい先月にも泣いたし。


「いつもいつも……朝から深夜まで働いて、朝ごはんまで作ってくれて」


 いつだったろうか。

 全然会えないのがさみしくて、一緒に朝ごはんを食べようと早起きしたのは。


 そのときのお母さんの笑顔が嬉しくて。

 少し涙ぐんですらいたお母さんの顔がまぶたの裏に張り付いて。

 こんなことで喜んでもらえるなら毎朝起きようと思った。


「お小遣いもあるんですよ……? わたしのお母さん凄いんです……ほんとに」


 今だから分かる。

 パート経験しかなかった主婦が正社員採用試験に受かる難しさが。

 たった三年でボロアパートから新築の家に引っ越す苦労が。

 日曜以外を朝から深夜まで働く労力が。

 年頃の女の子なんだからと学生には多いくらいのお小遣いを渡す優しさが。


「……わたしのせいで大変なんじゃないかって。最近は、遠慮してましたけど、中学の頃とかは日曜に買い物付き合ってもらったりとか……してましたし……」


 少しでも休みたかったはずだ。

 毎日働くだけ働いて、日曜くらいはって……普通そう思う。


「でも、いっつも……笑顔で……」


 一度だって辛そうな顔を見せたことなんてなかった。

 それが……なんで急に。

 隠してた。

 わたしが心配するから。

 お母さんも……意地っ張りだなぁ。


「わたしが甘えてばっかりだから……ダメだったんですかね……。その、先輩のお母さんも働き詰めじゃないですか? 先輩なら、こういうときどうしますか……?」


 尋ねると、間が空く。

 真剣に考えてくれているのだと、それが分かって胸が高鳴る。

 なんなのこの人……ほんと、だいすき。


「どうもしねぇな……多分」


 ぼそりとつぶやかれた言葉にはどんな意味が込められていたのだろうか。

 続きを促すように沈黙を貫く。


「……なんつーか、あいつらって基本子どもに弱いところ見せたがらないんだよな。だから、ふらふらしてても目に濃い隈が出来てても気づいてないフリをしてやる」


 親のことをあいつらって……。

 らしいっちゃらしいけど。


「本当にやばそうになったらなんかしら言うかも知れねえけど……。やっぱ、それでも『余計な心配すんな』って言われるんだと思う」


 確かにそんな感じするな、と思った。

 気にすんなって、そんなことより彼氏連れて来いって、はぐらかす。


「だから、余計な世話は焼かねぇな。まあ、そもそも俺は養われる気満々だしな」

「うっわ、最低ですねー……」

「実際、高校生なんてそんなもんだろ。なんつーの? 一色みたいになんか抱えてるやつの方がやっぱ少ねえからさ……。だから……つい、忘れちまうんだよなぁ……」


 そう、ついつい、そんなことを忘れそうになる。

 当たり前だと思い込みそうになる。

 事実、思い込んでいたんだろう、わたしは。


 お母さんがいて、母子家庭なのに一定水準以上の生活をさせてもらっていて、それが当たり前なんだと。

 十幾年の時間をかけて思い込んでいた。


 辛くないはずないのに。

 苦しくないはずないのに。

 事の重大さから目を背けて、逃げ道を作って、笑顔だから大丈夫だなんて……そんな保証はどこにもないのに。


「忘れないようにしておきます……これからは。わたし、お母さんが苦しいのは嫌なんです。だから、頑張ります」

「そっか……」

「……はい」


 家族だから。

 大切な人だから。

 苦しいなら、助けてあげたい。

 わたしが。


 じきに昼休みも終わるだろうか。

 ぼーっと景色を眺めていると、ひゅうっと風が吹いた。


「なんか……風向きが変わりましたねー」


 天気でも悪くなるのかな、なんて青空を見上げてしまう。

 見たところ雨雲はなさそうだった。


「……臨海部だと、昼を境に風向きが変わんだよ。朝方は海から吹き付ける潮風が、まるでもといた場所へ帰るように陸側から吹く」

「へぇー……物知りさんですね」

「一般常識だ」


 もといた場所へ帰る、か……。

 わたしがもといた場所はどこなんだろう。

 いつかそこへ帰れたら、いつか帰る場所が見つかったら、と柄にもなく願った。


「帰る場所があるっていいですね……。あんまりうまく言えないんですけどー、今のこの感じ結構好きです」

「そうか……。俺も嫌いじゃないな、一人ならなお良し」

「またそういうこと言う……」


 センチメンタルな雰囲気が台無しだ。

 まあ、先輩とそういう雰囲気になるってなんかくすぐったいからいいんだけど。

 心はまだ痛いし苦しいけど、気持ち朝よりは軽くなった思う。

 予鈴と同時に、さて、と立ち上がり、伸びをする。


「先輩……なんにも、手伝わないでくださいね」

「……は?」


 間抜けな声が返ってきた。


「一人で、出来ますから。近いうちにしっかり伝えますから……もうしばらくは、ただ見ててください」


 にっこりと張り付けた笑顔は偽物かも知れないけれど。

 いつかまた心から笑って見せるから。


「……おう」

「ではではっ! またそのうち奉仕部で」

「なるべく早く来いよ。待ってるから、小町が」

「なんですかその倒置法。暗に自分は違うアピールとかいらないですから。知ってますから」


 むーっと頬を膨らませて言うと、先輩は固まる。


「なにお前……え、なに? 今のも真似?」

「へ? え? いやいや違います違いますていうかなんですかそんなこと言ったことあるんですかもしかしてわたしが同じこと考えてるからって勘違いしちゃいましたかわたしも嬉しいですけどもうちょっと待っててくださいごめんなさい」

「ああ……そう」


 なんか知らんけどまた振られたようだ、とかぼやいて歩き出す。

 聞き取りが苦手なのだろうか。

 リスニングの点数悪そうだな。

 いや、悪くてよかったんだけど。


 とりあえず最後にごめんなさいって言っとけばなんとかなる。

 先輩がバカでよかったー。

 まあ、聞こえてても冗談にしか捉えられないだろうし、気にすることでもないか。


 あとを追うようにして校舎内へ戻り、教室に向かう。

 午後の授業はしっかりと受けよう。

 手伝う隙なんて与えない。

 雪ノ下先輩ばりの成績になってやる。


 そんな決意から少々の時間が経ち、午後の授業終了の鐘が鳴る。

 昨日から面談週間で短縮授業なため、今日も生徒会と部活両方に顔を出せそうだ。

 もちろん、顔を出すだけじゃ意味ないのでしっかり働く。

 お母さんに出来て娘に出来ない道理はない。


 面会は八時までだったか……。

 部活の方は毎日でなくとも二日に一回くらいは早く切り上げたいな。

 途中参加な上に早退なんて心苦しいが、そこばっかりは勘弁してもらいたい。

 朝会えないだけで結構キツいのだ。


 と、考えてるうちに生徒会室に着いた。

 んん……?

 帰りのショートは?

 いつ歩き出したのわたし……やだ、怖い。


 もうこれも何回目かって感じなので自分の社畜っぷりに半ば感心しつつ、生徒会室へと入る。

 コーヒーを飲みながら待っていると、役員がぞろぞろとやってくる。

 適当に挨拶を交わして出揃ったタイミングを見計らい、ではと執務の開始を告げる。


「今日もよろしくお願いしますね〜。それで生徒総会の件なんですが、早速いい感じのアイデアが浮かびましたっ!」


 言って、役員の顔色を窺う。

 あまりよろしくないことから察するに妙案は出なかったのだろう。


「では、今から説明します。まだ決まったわけではないので、途中でもなんでも、もっといい案が思い浮かんだときには説明後に提案をお願いします」


 ペンを持ち、ホワイトボードの前に立つ。


「えー、まず、問題点、ですね。昨日の会議でどうすれば生徒の発言を促せるか、そういう雰囲気を作れるかという問題が出ました」


 きゅっきゅっと音を立ててボードに字を書いていく。

 なんだか先生になった気分だ。

 ここテストに出るぞー。


 本当なら昨日のうちに概要資料を作っておければよかったんだけど、生憎いろいろあり過ぎてそんなことに気を回していられなかった。

 許して欲しい。

 そう思った矢先に副会長に指摘されてしまう。


「資料とかはないのかな……?」

「あー……えっと」


 なんて言おうか。

 いや、まあ、生徒会役員なら話しても問題ないか。


「昨日、母が倒れましてですねー……。それで、ちょっと暇がなかったと言いますか……。すいません」

「あぁ、いや、そういうことなら仕方ないよ。……大丈夫なの?」


 バツが悪そうな顔で聞いてくる。


「あ、はい。大丈夫……だと思いますー。今日この後お見舞いに行く予定です」

「あー、そういう意味じゃないんだけど……。そっか、まあ、分かった」


 ああ、わたしの心配をしてくれてたのか。

 なに……優しいじゃないですか副会長!

 いつも刺々しいのに!


「あ、このことは内密にお願いしますー……。あんまり、その、同情とかされるのも嫌なので」


 ねっとそれぞれに同意を求めると、頷いてくれた。

 いい意味で堅い人たちだから問題ないだろう。


「それで、どうやって発言しやすい雰囲気を作るかってことなんですが、あらかじめ数人に議題を教えておいて、その人たちに先陣をきって発言してもらったらどうかなーと」

「それって……」

「まあ、はっきり言うとサクラですねー。とは言っても、そのあとに生徒が参加するようになったら切り上げてもらうつもりですよ?」


 最初の一歩さえ踏み出せればいい。

 あとは道なりに進むだけだ。

 誰でも発言していいという雰囲気が出来上がれば、参加率は上がる。


「でも……」


 渋る副会長。

 どうにかして説得出来ないものか。


「んー、でも、本当に最初だけなのでそんなに問題でもなくないですかー? そのあとどういう意見を言うのかはその人たち次第ですし」

「それも……そう、なのかな?」


 困ったように他の役員を見る。

 反応からしてそこまで否定的でもないようだ。

 まあ、やっぱ聞いてもらえないとつまんないし。

 満足そうにうんうんと頷くと副会長も諦めたようで、短い息を吐いた。


「では、これを一つの案として。他になにかある人いませんかー?」


 特に思いついてなかったのか。

 思いついてはいたが、わたしのよりは確実性が薄いと判断したのか。

 誰も意見を発しない。


「これに決定ですねー。じゃ、もうちょっと詰めましょうか。誰にやってもらうとかそこらへんを」


 そうして会議を続け、三十分程度が経った頃には細かいところまで決めることができた。


「それでは、今日は解散しましょうかー。後日、名前の出たメンバーを集めるので声をかけておいてください。あ、この人たちはわたしが言うので大丈夫です。ゴールデンウィーク後にまた会いましょう」


 出て行く役員たちににこにことした顔で手を振る。

 そのまま椅子に腰掛けるとふうと安堵とも呆れとも取れるような息が出た。

 空になったカップにコーヒーを淹れて、ブラックのまま口をつける。


「うっ……にっがぁ……」


 当然だった。

 しかしたまには苦いコーヒーも気分転換になっていい。

 甘いものに慣れると太るしね、ほんと甘えるとろくなことないなこの世界!


 まあ、コーヒーもこんだけ苦い思いをしてるんだから、わたしがちょっとくらい肩代わりしてあげるのもやぶさかではない。


 現実を体現したような味のコーヒーを飲み干し、ばっと立ち上がった。

 脳裏に浮かぶ擬人化コーヒーちゃんを憐れに思いながらも生徒会室を出る。

 きっと苦労人な顔をしているに違いない。

 先輩の顔が浮かんできた。

 こんなに苦かったら、そりゃMAXコーヒーにも惚れるな……。


 更衣室でジャージに着替え、グラウンドに着くと、サッカー部はパス練をしていた。

 ワンツーの練習らしい。

 きゃーきゃー騒いでる葉山先輩専用マネ(笑)には目もくれずに、新一年生へと目をやる。

 どうやら昨日の話通りだったようで、パスはそこそこらしい。


 基本出来てるけど、たまにタイミングが早かったり、逆に遅くて相手がスピードを緩めたり。

 センスも重要だけど練習で積み上げるものだって大きいし、今後に期待するしかない。


 一旦その場を離れ、ボトルに冷水機の水を汲んでベンチに置く。

 結構な人数がいるからそこそこキツい。

 そのまま観察を続けていると葉山先輩と戸部先輩がわたしに気づき駆け寄ってきた。


「おっ、いろはす〜! もう生徒会終わったん?」

「やあ」


 相変わらずうるさいのと爽やかなのだった。


「はい〜。今日は昨日の報告みたいなものなので、結構早めに終われたんですよー。あ、これどーぞ」


 二人にボトルを渡すと、やはり喉が渇いていたのかごくごくと飲み始めた。


「ふぅーさんきゅー。やっぱいろはすいると助かるわ〜」

「すまないな。君にばかり頼ってしまって」


 まあ、あのマネがやるわけないしな。

 顧問も基本葉山先輩に任せっきりだし。

 本当、ここの教師ダメだなぁ……。


「いえいえっ! むしろマネージャーなんだからもっと頼ってもらわないとって感じですよー! 昨日は手伝ってもらっちゃいましたし、助かりました」

「そっか。力になれたみたいでよかったよ」


 にこっと微笑むと脇の女子から黄色い声があがる。

 そして即座にそれを向けられているわたしに殺気の込められた視線が飛んできた。

 そういうのは慣れたものなので軽く受け流して、話を続ける。


「そういえば、今日から二日に一回くらい早退することになると思うんですけどー……」

「ん? なにかあったのか? 別に構わないけど……」

「んだべ。こっちは気にしなくていーからよ」


 言うべきだろうか……。

 無理して言うことでもないし、別にいっか。


「ありがとうございますー! では、練習頑張ってくださいっ」


 練習に戻る二人を見送って、わたしもしばらくは練習を見守る。

 基礎的な練習が終わると、今度はミニゲームがある。

 そろそろかなーと、ベンチから立ち上がった。


「葉山せんぱーい! ビブス何色いりますー?」

「あー、今日は全面使えるから……適当に二種類お願いできるか? もうちょっと後になると思うけど」

「りょーかいでーす」


 二種類ってことは三チームでやるのか……。

 ワンゲーム何分だろ。

 それとも一点先取で交代かな。

 どちらにせよ、ミニゲームの途中で抜けることになりそうだ。


 いくばか時間が過ぎ、チーム分けがなされる。

 なんというかいつもより練習量が多い気がした。

 戸部先輩と葉山先輩は違うチームらしく、戸部先輩の着けているビブスと同じ色の選手だけがコート外に出てくる。


「うぃーっす」

「お疲れ様ですー。どーぞー」


 隣にあったボトルを渡す。

 別に手渡す必要もないが、目の前まで来てて且つ横にボトルがある状態で渡さないと言うのも感じが悪いだろう。


「おっ、さんきゅー!」


 お礼とともに水分を補給し、どかっとベンチに腰を下ろす。


「ふー……。いやー、今日ちょっとメニューきっついわー」

「そうなんですー?」


 やっぱり、いつもと違うのか。

 どうしたんだろうか。


「あれじゃね? あれ。国立」

「あぁー……。結構真面目に考えてくれてたんですねー」


 へーっと感嘆しつつ遠くを走る葉山先輩を見る。

 いつも通りに見えるけど。

 まあ、もともとが真面目だからなぁ。


「まっ、俺も行けるなら行きてーし? やれるだけやってみんべ」

「おぉー。なんだかんだ言って戸部先輩も結構うまいですもんねー」


 なんの気なしに言ったつもりが、戸部先輩的にはたいしたことだったようだ。


「おっ、そう? 分かっちゃう? いやー、いろはす見る目あるわーっ!」

「ちょ、うるさい、うるさいです」

「えぇー……そりゃないでしょー」


 がくっと肩を落とす戸部先輩。

 だってうるさかったんだもんしょうがないじゃん。


「はぁ……ていうか、現実的な話すると戸部先輩そんな時期まで部活やってる暇あるんですか? もしも勝っちゃって県代表なんかになったら冬ですよ冬」

「んあー……まあ、もし勝っちゃったら最後まで勝てばオファー来んじゃね? みたいな?」

「うわ……」


 若干引いてしまった。

 よくそんな楽観視できるなこの人。

 逆に中途半端に県の二次予選とかで敗退したらもう目も当てられない。


「ま……自信があるのは分かりますけどねー」


 昨年は二次予選準々決勝までいけたから、自信があるのは分かる。

 でも、準決勝と決勝があるのだ。

 運良く準決勝で勝てても、奇跡は二度起こらない。


「市立船橋に流経大柏、習志野、八千代……うちで勝てます?」

「そ、そりゃやってみなきゃ分かんねぇべ? ……隼人くんがマジなら俺はいけっと思う」


 申し訳なさげな声で吐き出された言葉からは、彼がよくも悪くも葉山隼人という人物を信頼しているのだということが伝わってきた。

 まあ、やる気があるのをとがめる気はない。

 最後のチャンスだし。


「なら……応援してますね」

「おう!」


 告白イベント以来、戸部先輩は僅かにだが真面目になった気がする。

 それが先輩へのライバル心からなら思い違いも甚だしいけど、いい方向に向いているとは思うから、これはそのままでいいのだろう。


 変わった、というより成長したのだろうか。

 わたしも、同じように。

 今なら、今回はマジで本気だからとか言ってた戸部先輩の気持ちがよく分かる。

 マジじゃない本気ってなんだろう。


「戸部先輩。わたし、葉山先輩のことは諦めました」


 ひっそりとギリギリ耳に届くくらいの声で言う。


「うぇっ!? マジッ!?」

「ちょっ、声大きいですって」

「お、おう……わり」


 なんのために小声で話したのか。

 幸い、特に誰も気にしなかったようで、こちらに顔を向けてはいない。

 いつもうるさいからか。


「……で? え? マジなん?」

「マジですよ。大マジです」


 わたしに習って声を極小にして聞いてくる戸部先輩に、変わらず小さい声で返す。


「そか……いや、でも、なんで急に?」

「急……でもないんですけどね。他に、好きな人ができたんです」


 戸部先輩は茶化さずに聞いてくれる。

 自分が今そういう状態だからか、それとももともとこういう人なのかは分からないが、ありがたい。


「え……それってなに? 隼人くんよりかっけーってこと?」

「んー……。いや、そんなことないですね。葉山先輩の方が顔はいいですし、気は使えるし、かたやわたしの好きな人なんてぼっちだし、周りからキモいキモい言われてますし、むしろクラスメイトから誰? って聞かれてます。あと目が腐ってますね、もう誰にも相手にされないそこらへんのゴミクズみたいな」

「お、おお……それ、ほんとに好きなん?」


 その疑問ももっともだった。

 他者からの評価が下にカンストしてるとか、逆に尊敬するレベル。

 でも、はっきりと答えられる。


「好きです」

「ど、どこらへんが……?」


 どこだろうか。

 やるときはやるところとか、一人で頑張るところとか、周りの評価に流されないところとか、なにかを大切にできるところとか。


「全部です」

「……マジか」

「マジです。今回はわたしもマジです」


 今までマジじゃなかったような言い草だった。

 性悪ここに極まれり。


「そっか……。んなら、頑張るしかねぇっしょー」


 ニカっと笑い、だべ? と聞いてくる戸部先輩に頷く。


「はい、頑張り……ます」

「そんで? 俺はなにすりゃいいわけ?」

「そうですねー……、その、まだバレたくないんですねー?」

「あー、そういうね。あるわー、それある」


 腕を組み、うんうんと頭を上下させる。

 なにやら共感してもらえたらしい。

 戸部先輩もそういうことを思うんだろうか。

 なんだかズバッといきそうなイメージだけど……。

 ああ、でも、奉仕部に相談するくらいだし、存外肝が小さいのかもしれない。


「でも、誰にも話せないと辛いじゃないですかー?」

「あー、あるある。それはマジである」


 再びうんうんと首肯する。

 それはってなんですか……。

 さっきのは別にそうでもなかったのか。

 思いはしたが、これが戸部先輩なので余計な事は言わない。


「だから、たまに愚痴とか聞いてください」

「おっけ。そゆことなら任せろ」


 どんと胸を張る。

 この人いい人だなぁ。

 そういうところ嫌いじゃないです。


「あ、ちなみにこれ葉山先輩知ってるんで」

「へー……ん? はぁっ!?」

「いやだから声でかいですって」

「わ、わり……で? どゆことなん?」


 再び声のトーンを落として疑問を振ってくる。

 なんて言えばいいのかなぁ。


「えー……っと、知ってるっていうか、気づいてるって感じですかね。別に教えたわけじゃないんで」

「はー……、ま、隼人くんだしな」


 なんかよく分からない納得のされ方だった。

 あの人完璧超人かなにかなの?


「ま、まあそれはいいです。それで、ですねー? 当分葉山先輩狙いなフリを続ける予定なので、わたしと葉山先輩が話してるときは戸部先輩も今まで通りの態度でお願いします」

「おー、あー、そういう……それでいいん? なんかその好きな奴にアピッても意味なくね?」


 まあ、確かにそうだろう。

 普通ならあまり利点はない。

 でもわたしが好きな人はあんまり普通じゃない。


「どっちにしても今のところあんまり効果ないんで、大丈夫ですー……」

「そなん? ……なんかそれヤバそうだな」

「ヤバいですよー……、わたしが落とせないのなんて葉山先輩くらいだと思ってました」

「いろはすが落とせないっつーと……やっぱやべぇな」


 なんだかガクブルと震えている。

 なにを怖がっているのかよく分からない。

 先輩に怖がる要素は全くないんだけど。

 むしろ先輩の方がいつも怯えてる気がする。

 主に雪ノ下先輩とかに。

 まあ、雪ノ下先輩こわ——


 ぞわりと怖気がした。

 な、なに……なんなの。

 きょろきょろと辺りを見回しても運動部しか見当たらない。

 なんか分からないけど怖いからやめておこう。


「そういうことでお願いしますねー?」


 なんだか、戸部先輩の言葉を無視したような返しになってしまったが、戸部先輩は特に気にした風もなく「おう」と笑い返してくれた。


 そのあとしばらくは談笑しつつ、たまに解説を求めたりして、ミニゲームを観戦している。

 二戦目が終了したあたりで、ふと校舎の時計に目をやれば、そろそろ行かなければという時間になっていた。


「葉山先輩! わたし、そろそろ行かなきゃなのでー、このあたりで失礼しますねー……」


 昨日、昇降口で、全部しっかりやると言ってしまったからこその罪悪感があった。

 うしろめたいというか、不甲斐ないというか、心やましいというか。


 罪を背負ってしまったような。

 裏切ってしまったような。

 どうしようもない、やる瀬ない。

 そんな気持ちが胸を埋める。


「はは……そんな気にしなくていいさ。一人で全部やる必要はない」


 それは、分かってる。

 ただ、わたしは、自分で出来ることは自分でしたかっただけだ。

 必要があれば頼る。

 けど、どうにも、この出来るはずだったことが出来なくなるということが許せなかった。


 あぁ……ほんと、苦いなぁ。


「ありがとうございますー……。では、また明日、部活で」

「ああ、待ってるよ」


 柔らかく優しい笑みは本心からこぼしたものだろう。

 ほんの僅かにではあったが、救われた。

 踵を返して更衣室に行こうとすると、戸部先輩が大きな声で挨拶してくる。


「いろはす〜! またなー!」

「はーい! また明日ーっ!」


 手を振り返して、改めて更衣室へと戻り、着替えを済ませて学校をあとにする。

 一旦家まで帰り、お母さんの着替えを持って病院へ向かった。


 病院に着いた頃にはケータイの時計は六時半を示しており、あまり長くはいられなさそうなことに少し気分が落ちる。

 昨日の朝から声を聞いてない。

 受付でお母さんの部屋を聞く。


 院内を歩いていると、そこでなにか違和感があることに気づいた。

 わたしはなんでお母さんが入院すると思い込んでいるのだろうか。

 思い込んでいるというよりかは、知っているという感覚に近い。

 昨日、そんな話したっけ……?


 思い出せない。

 不安になる。

 またこれだ。

 心がざわつく。

 イライラする。


 過労で倒れただけじゃないのか。

 それとも過労で倒れたら入院するのが普通なのだろうか。

 分からない、そんな病院事情に詳しくはない。

 考え事をしているうちにもお母さんのいる部屋へと着いた。


 すーっと円滑さを自慢するような音を鳴らす引き戸を開ける。

 学校の扉に聞かせたらさぞ悔しがることだろう。


 こんな下らないことを考えてしまうのは、先に待つなにかから目を逸らしたいからだと自分でも分かっていた。

 それでも、余計なことを考えずにはいられなかった。


 それは甘えであり弱さであり、恥ずべきものであるとどこからか誰かが囁く。

 甘えて弱音を吐いて恥を晒す人生は楽だとまた誰かが囁く。

 よくある、自分の中に潜む天使と悪魔というやつだろうか。


 バカバカしい。

 天使と悪魔なんてわたしの中にはいない。

 わたしはわたしだ。

 わたしと誰かの関係性が変わることはあっても、わたしが変わることはない。

 であれば、わたしの中に潜むのはわたしただ一人であると、もう解は出ている。


 そのわたしはなにを決意した。

 頑張ると、そう言ったはずだ。

 強くなる必要なんてないと、そう言ったはずだ。

 逃げ道はいらないと、そう言ったはず。


 だから、それだから。

 偶像に惑わされる必要はない。


 確かに甘えはよくない。

 しかし弱さを受け入れるのは大事なことだ。

 こんなやつらとは根本的に考え方が合わない。

 別個に考える必要なんてないんだ。

 善も悪も、両方混じってるのが人間なんだから。


 弱いままでもいいから、目を逸らしたままでもいいから、一瞬でわたしの心をぶち壊しそうな現実に立ち向かう。

 それで負けるなら、そのときはそのとき。


「いろは……」


 お母さんがいたのは個室だった。

 にこりと笑う顔は申し訳なさそうに眉尻が下がっている。

 いつも元気に振舞っていたお母さんが初めて弱々しい部分を見せた瞬間だった。


 お母さんに元気がないのならわたしが頑張らないと。

 そう思い、にっこりと最上級の笑顔を作って早足で近づく。


「お母さんっ!」


 小さい子供がするように抱きつく。

 お母さんはいつものように優しく受けとめてくれた。

 ゆっくりと離れ、近くに置いてあった椅子に腰を下ろす。


「もー……心配したんだよー?」


 唇を尖らせて、けれども微笑みを絶やさずに言うと、お母さんは困ったように笑った。


「ごめんねー?」

「いーよっ。わたし、決めたんだよねー。頑張るって。だから、お母さんは安心して休んでてねー?」


 小首を傾げて決意のほどを伝える。

 すると、お母さんはどこか安心したような顔つきになった。

 それを見て、頑張ろうって意思がより強くなった。


「そっか……じゃあ、応援してるね」


 それは誰に対して言った言葉だっただろうか。

 わたしに対してのものだと思った。

 が、直後に発せられた言葉から自分に対してだったのかもしれないと思い直した。


 この解答はどちらも部分点しかもらえないだろう。

 それは、きっと、両方だったから。


「お母さんも頑張るから、応援してくれる?」

「……え?」


 お母さんはわたしの言ったことを聞いてなかったんだろうか。

 休んでていいと、そう言ったはずのに。

 そんなことはないはずだ。

 聞いてて、それで言ってるんだ。


「それって……どういう」


 言葉を詰まらせるわたしに、朗らかに笑う。


「お母さんね、*****なんだって」


 聞き取れなかった。

 いや、聞こえないフリをしたんだ。


 しかし、本当は聞こえてる。

 だから、頭の中にその台詞がしっかりと残っている。

 それでも、認められなかった。


「え……いや、えっと。や、やだなー、お母さん。今日エイプリルフールじゃないよー? ていうか、それは流石にたちが悪いってー……」


 あははと乾いた笑いしか出ない。


「ごめんね……嘘じゃないの」


 知ってた。

 そんなこと、知ってた。

 でも、やだ。

 そんなの、やだ。


「嘘だよ……そんなの、嘘。ねぇ……嘘って言って? 今ならまだ怒らないから……」

「嘘じゃないよ。もう一回、しっかり聞いて」


 真剣な眼差しで言われた。

 そんなことを言われたら聞くしかない。

 嫌でも、受け入れなくちゃいけない。

 忘れ去ることもできない。



「お母さん、余命三ヶ月なんだって」



 ガツンと鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 二度目の宣告。

 これが真実。

 現実からは逃げられない。

 逃げ道なんて、用意できる問題ですらなかった。


 本当の喪失は覚悟してないものからやってくる。

 だから、痛いし苦しい。


 絶望の狭間に取り残された気がした。

 闇がわたしを包む。


「でもね、治った人もいるって」

「……え?」


 わたしは何度間抜けな声をあげればいいのか。


「頑張って闘って治したんだって……だから、お母さんも頑張ろうと思ってね」


 にこりと笑った笑顔は、入室時とは対照的に強く芯のあるものだった。

 安堵の息が漏れる。

 即座にそれを非難した。

 安堵できる部分なんて一つもなかったから。


 お母さんが余命三ヶ月だという事実は揺るがない。

 どれだけ頑張っても治らないかもしれない。

 最悪の事態を想定しておかなければ、本当に失ってしまったとき。

 壊れてしまいそうだった。


「応援……してる」


 小さなつぶやきは無事聞こえたようだ。


「ありがと。お母さんも応援してるよ」

「うん……」


 ほとんど吐息と変わらない声量で返すと、続く言葉は口パクになってしまった。

 唾を飲み込み、改めて、応える。

 期待に。


「がんばる」


 それはやっぱり弱々しい声で、震えて情けなかったけれど、お母さんは満足したのか頷いた。

 わたしに向かって手を伸ばし、頭を撫でる。


「強い子に育ってくれて、よかった」


 ナイフで抉られた気分だ。

 本当は強くなんかない。

 わたしは弱い。

 今にも泣き出して、弱音を吐いて、全てを諦めてしまいたかった。


 お母さんの方がよっぽど強い。

 余命三ヶ月だなんて言われて、普通そんなすぐにその結論には至らない。

 やっぱり、わたしのお母さんは凄いんだ。

 わたしは情けない。


 それでも、強い子だと言ってくれたなら。

 その信頼を裏切ることはしない。

 強くなる理由が出来てしまった。


 だって、お母さんを嘘つきにするわけにはいかないし。

 嘘から出た実なんてことわざもある。

 必ず、実に変えてみせよう。


 お母さんが胸を張って、自慢の娘だと言えるように。

 わたしが堂々とお母さんの娘だと語れるように。


 思えば、長いことぬるま湯に浸かっていた。

 生まれてから今まで甘えてばっかりで。

 いつの間に、こんなに冷めてたのかなぁ。

 いい加減、現実見ないと。


 希望はない。

 けれど、目標はある。


 それなら、もう少し、頑張ろう。


  ****


 五月上旬。

 暦の上では夏となり、さらさらと吹くそよ風は若葉や花々の香りに満ち溢れる。


 天候は晴れ。


 わたしの心の中があの日から曇天であることを考慮して少し暑っ苦しいくらいに輝いているのであれば、悪くない選択だ。

 ご機嫌取りはあからさまなくらいがちょうどいい。


 陽気に包まれた住宅街を歩いていると、鯉のぼりが目につく。

 五月上旬なんて曖昧な言い方をしたが、今日はこどもの日だ。

 つまり五月五日。

 ちなみに憲法記念日の振り替え休日で明日も休み。


 ふと、なんでおとなの日はないんだろうか、なんて瑣末なことを思った。

 考えるのもバカバカしいが、目的地に到着するまでの時間潰しにはなるだろうと、考えてみることにする。


 おとなの日。

 第一印象は卑猥な感じがする。

 大人の日と漢字で書くよりも平仮名の方がより生々しい気がした。


 こんなどうしようもない見解を示していながら、類似と言ってもいいものか分からないが。

 母の日、父の日、敬老の日というものがある。

 母と父、それと老人に限定する意味って一体……。


 母と父、老人だけ特別みたいな。

 結婚して子を持つことと、長く生きることは大切だと暗示しているのか。

 もしや近年の出産率低下の対策なのか。

 そんなわけないのだが。


 どこかの独身女教師はこどもの時期を過ぎたら老人になるまでこの類の祝日で祝われることはないのだと思うと、じわりと視界が滲んだ。

 誰かもらってあげて!


 母の日と言えば、今年は五月十日だったと記憶している。

 今年はなにをあげようか。


 毎年毎年お小遣いから捻出しているのだから、お母さん側からすると結局のところ返ってきたに過ぎないのかもしれない。

 それでもなにかあげたいなー。


 実は母の日とお母さんの誕生日のためにお小遣いを貯めていたりするわたしだった。

 やだなに、わたし優しい!

 単にお母さんに喜んで欲しいだけなので、実際は自分のためなんだけど。


「あ……」


 気づいたら目的地を数歩通り過ぎていた。

 あっぶなーい。


 早足で目的地まで戻り、備えつけのインターホンを鳴らす。

 中からはーいと可愛らしい声が聞こえ、がちゃりと玄関が開かれた。


 くりっとした大きな目。

 笑うと八重歯が見えるその女の子の頭からはぴょこんと毛が飛び出している。

 天真爛漫といった感じ。


「いろはさんどーもー! よくいらっしゃいましたー!」

「小町ちゃんこんにちはーっ!」


 どーぞどーぞと促されるままに屋内へと足を踏み入れる。

 この家に入るのは二度目だ。

 一度目はすごく恥ずかしい思いをした。


「お邪魔しまーす……」


 リビングへ通じる扉をそろそろと抜ける。

 ラスボスの顔は見えない。

 それだけが気がかりだったので、ほっと胸を撫で下ろす。


「よう」


 声をかけてきた男はソファに転がっており、その顔はいつにも増してふてぶてしい。

 いや、いつも通りか。


「先輩っ! こんにちはー!」


 笑みは相変わらず作らなければ出てこないものの、自然と声色が明るくなってしまう。

 たったっと駆け寄り、どーんとダイブ。

 見事に避けられ、そのままソファに沈み込む。


「い、今の受けとめるとこだと思うんですけど……」

「……アホか」


 しらーっとした視線を浴びせられ、ついついううーっと悔し混じりな声が出た。


「今日はお母さんいないんですかー?」


 それはそれ、これはこれ。

 さっと切り替えて、きょろきょろしながら問う。


「あー……なんかいらん気遣って出てった。……親父は引きずられてたけどな。泊まってくるらしい」

「なんかごめんなさい……」


 悪いことしたなぁ……。

 せっかくの連休なのに。


「そういうわけで! 今日も泊まっていきますよねー?」

「え、あ……あぁ、そういうことね」


 朝の着替えを用意しろというメールはそういうことか。

 確かに期待していた自分がいる。

 なに期待してんだろ……恥ずかし。


「じゃあ、お言葉に甘えよっかなー……?」

「やった! いろはさんゲットーッ!」


 勢いよく飛びついてくる小町ちゃんを受けとめる。


「いろいろ協力しちゃいますね」


 ぼそぼそと耳元でつぶやかれた言葉にびくっと肩が跳ねた。

 こ……この子、怖い。


 小町ちゃんはパッとわたしから離れると、なにかに気づいたようでわたしの顔の横をしげしげと見つめる。


「それ、毎日つけてますねー!」


 いつだったか、雪ノ下先輩に言われたのと似たセリフ。

 はっとなって耳を押さえてしまう。


「あっ……え、うん、まぁ……ね? い、いやっ、ていうか、毎日じゃないよー? ほら、先輩の家来るのにつけてなかったら感じ悪いし?」


 嘘です。

 毎日着けてます。

 寝るときとお風呂以外では外してません。

 一生の宝物です。


「ほうほう……」


 怪しげな笑みを浮かべてつぶやく。

 そんな目立つかなぁ……。


 ていうかキャッチピアスなのが悪いんだよ。

 学校で着けれないようなのなら着けないのに。

 それでも持ち歩くけど……。

 かわいいバックキャッチまで付いてたし。


 結論、先輩が悪い。


「先輩が悪いんですよっ! こんなかわいいの贈られたら普通着けます!」


 唇を尖らせてぶーぶーと文句を垂れると、不満気な声が返ってくる。


「えぇー……俺が悪いの? お前なんか文句言ってないっけ?」

「あ、あれは! アドバイスですよー! 今後の参考にと思って! わたしだから良かったものの、彼氏でもない人から身につけるもの贈られたら普通引きますよ! だから、わたし以外には贈らないでくださいね!」

「お……おう? なんか知らんが……まあ分かった」


 やったー!

 わたしだけ特別!

 ……なんかにまにましちゃうな。


 そんなわたしたちを見て、小町ちゃんはくすりと笑った。


「ではではっ! 小町は時間になるまでお部屋で漫画でも読もうかと思います! 昨日読みかけの漫画があったのをたった今思い出してしまいましたので!」


 言い切ると、ささーっと自分の部屋へと向かっていく。


「うわぁ……」


 なんてわざとらしい。

 わざとらしいのもわざとだとしたら、中々計算高いな。

 それに気づいてたら止めようがないわけだから、止めようという気持ちが沸いてこない。

 末恐ろしい……。


「はぁ……」


 隣でため息が漏れた。

 わたしと二人でいることにたいしてではなく、小町ちゃんの企みにたいしてだろう。


「なにしましょーかー?」


 くりっと小首を傾げて上半身を少し倒し、いつの間にか本を読み出していた先輩の顔を覗き込む。


 ばっちり目が合う。

 固まる。

 そのまま数秒固まる。

 頬が熱くなってくる。

 目線が泳ぐ。

 ちょっと態勢の維持がキツくなってくる。

 恐る恐る声を出す。


「あ、あのー……」

「あ、あぁ、悪い」


 時が止まったのかと思った。

 ソファにぽすっと背をもたれさせ、バレないように顔をあおぐ。

 あっつ、顔熱っ!

 なぜか見つめ合ってしまった。


 一生の思い出である。


 なに考えてんだわたし。

 んっ、んんっ、と恥ずかしさを紛らわせるように咳払いをする。


「えー……、で、なにしましょうか……」


 仕切り直して、もう一度問う。


「んあー……、なんかしたいことあるか?」

「え?」


 先輩がいつになく乗り気だ!

 なにっ?

 デレ期!?

 デレ期なのっ!?

 デレがやなの!?


「で、デレがや先輩……」


 きらきらと目を輝かせて羨望の眼差しを向けると、先輩の眉間に皺が寄る。


「誰だよそれ……つーか、デレてねぇよ。俺がデレるとか気持ち悪いだろ。いや、こんなこと言わせんなよ……悲しくなってきた」


 太腿に肘を置き、背を丸める。

 ずーん……って感じだろうか。

 漫画ならたれ線が入りそうだ。


「ちょっと、まだ梅雨前なのにジメジメするじゃないですか。やめてください。除湿機持ってくればよかったなー……」


 はぁーっと大袈裟に息を吐く。

 魂まで抜けてしまいそうだった。

 できるなら幽体離脱して、倒れたわたしを先輩がどうするのかにまにましながら見守りたい。


 えっ! そんなとこ触っちゃうんですかっ? とか。

 ちょっ! それ、キスしても目覚めませんよっ! とか。


 いや、キスはないか流石に。

 心ミジンコだもんなこの人。


「なにこの後輩……ちょっと酷くない? 俺なんかした?」

「あはっ、ちょっとデレてみましたー」


 きゃぴっと冗談を言ってみると、予想外に真に受けてしまったらしい。

 ぽかんと固まったかと思うと、目が濁る。

 目が濁ってるのはいつものことだった。


「……は? 今のがデレ? 怖……二度とデレないでくれると助かるんだが」

「ひっど……」


 なにこの先輩、酷い。

 泣いちゃいそう。

 これもいつものことだった。

 えー、いつもこんななのー?

 なにそれかなしーなー。


 女って怖い……と現実に打ちひしがれている先輩に擦り寄り、気持ち体重を預ける。

 こんなこと言われてもくっつきたくなっちゃうなんて……。

 わたしってば一途!


 気づかれてしまうという心配はない。

 なぜなら先輩がバカだから。


「お前ちょっと最近スキンシップが激しくねぇか……」


 ささーっとソファの隅に逃げていく先輩との距離をさらに詰める。

 うげぇと苦い顔をする先輩。


 こんなかわいい後輩がすり寄ってきてるのに逃げるとか、この人ほんとに男?

 あっち系の人なのかと疑いそうになる。


「いや、だから、もうこれ以上寄れないから。来んな来んな。追い詰められるとねずみだって噛むんだぞ」


 しっしっと追い払うようなジェスチャーをされてしまった。

 まじか。

 噛むのか。

 先輩になら別に噛まれてもいいかなー、とか。

 ちょっとアブノーマルかな……。


「葉山先輩とかにはしないので大丈夫ですー。嫌われたくないので」


 めげずに擦り寄る。

 ぴとっとくっつくと心が安らぐ。


 除湿機持ってくるとか言ってたの誰だよ。

 人間洗浄機が汚染されちゃうでしょうが。

 わたしにはむしろ、このぬくぬくした感じが最高なのです。


「それ俺には嫌われてもいいってことになっちゃうんですけど……」


 離れよう離れようと身体を反らせながら、ぶつくさと文句を垂れる。


 もー、変わらないなー。

 そういうところ、嫌いじゃないです。


「せんぱーい。なんか面白い話してくださーい」


 諦めたのか態勢を戻して本を読み始めた先輩の口元がひくつく。

 すっごい嫌そうだった。


「出た、リア充特有の無茶振り……。ぼっちにそんなもん求めんじゃねぇよ……」

「あ、あー……なんか、ごめんなさい」


 結構ガチで嫌そうだったので、素直に謝っておく。

 先輩には絶対に嫌われたくないです。


「謝んなよ……虚しくなんだろうが」


 謝るところじゃなかったらしい。

 分かり辛い……。


「じゃあ、なんかお話しましょーよー」

「なにそのなんの脈絡もない、じゃあ。どこに接続してんだよ……」


 なんかよく分からないつっこみをする。

 接続ってなに……?

 もしかして、じゃあって接続詞だったの?

 なに詞なのかなんて気にしたことすらなかったよ。


「いや、そんなことどうでもいいですよ……。つまんなくてもいいのでお話しましょう」

「はぁ……」


 うわー、あからさまにため息つかれた。

 そんなにその本面白いのかな。

 それともわたしと話すのが嫌なのか。

 そ、そんなことないはず……だよね。


 うーんうーんと不安に押し潰されそうになっていると、間をあけて先輩が口を開いた。


「あー……。そういや、お前、なんでこんな微妙な時間に来たんだ?」

「あ、んー……部活、ですね」


 じろりと睨まれる。

 ぶ、部活があったのは本当なんだけどなー。

 嘘じゃないよー。


「その、部活終わったあとは、お母さんとお話してたんですよー……。で、泊まるかもーとは思ってたので、少し長くなっちゃったみたいなですねー?」

「あー、そうか……。なんか、悪い」


 納得してもらえたらしい。

 本当は別に長話していたわけじゃなくて、病院まで行ってたからなんだけど。

 明日も行けるし、問題ない。


「いえいえー、そんな気にすることでもないですよー」


 なるべく明るく答えると、考えるような仕草を取り恐る恐る声を出す。


「……調子はよくなったのか?」

「あー、まあ、そこそこって感じですね」


 何回、嘘を吐くのだろうか。

 心苦しい。

 けれど、正直に打ち明けるわけにはいかない。

 心配、かけたくないから。


 沈黙が訪れる。

 あまり居心地のよくない沈黙だ。

 先輩はこれ以上踏み込むべきではないと判断したのだろうし、わたしもこれ以上踏み込まれたくはない。

 先輩は口下手だし、わたしが話題を提供するしかないだろう。


 んー……。

 あ、そういえば、聞いてなかったことがあった。


「先月、誕生日パーティー開いてもらったじゃないですかー?」


 話題を完全に切り替えると、好機と判断したのか、先輩は「ああ」と続きを促す。


「なんで、誕生日知ってたのかなーって。わたし言いましたっけー?」


 うーん、と思い返してみるも、どうにも記憶に残っていない。

 だが、なんかアピールしたような気がしないこともない。


 いつだったか……。

 言っていたとしても、そこそこの時間が経っているだろう。


「いや、お前が言ってたんだろ。『わたしは四月十六日が誕生日ですよ、先輩。プレンゼント期待してますね。高いの』とかって」

「え、マジですか……。それいつです?」


 わたしそんなこと言ったの?

 なに高いのって……。

 先輩からのプレゼントならなんでも嬉しいんですけど。


 なんなら母の日に小さい子供が贈る肩叩き券みたいに『先輩と一日一緒にいられる券』とか、『先輩に一つだけなんでもお願いを聞いてもらえる券』とかでもいい。


 そんなものもらった日には、なんでもかぁ……なににしよっかなぁ、などと、それを考えるのに一月くらい要してしまいそうだが。


「雪ノ下の誕生日パーティーした日だよ。ちなみに後半は嘘」

「あー! あのとき……って嘘ですか……。嘘はよくないですよ、先輩」


 どの口がそんなことをほざいているのか。

 白々し過ぎて吐き気がする。

 嘘ばっかり!


 いつか、これが本当になっちゃうのかなー。

 どこかの優しくて苛烈な、弱々しいお姉さんのように。

 あの生徒会室での邂逅以来、何度か生徒会室に訪れている。

 見れば見るほど、外面が悲しげに映る。

 近づいてしまっているのだろうか。


 人をよく見ている、と言われたことがある。

 自分自身ではそうは思わないけど、どうなんだろうか。

 別によくは見ていない気がする。

 目を合わせれば、不安だったり優しさだったり、疑念だったり、それなりに分かることはある。

 対峙すれば見ざるを得ないから、そのときになにか被って見えることもある。

 被ってしまうことがある。

 わたしが嘘に塗れるのも可能性として低くないのだろう。


 嘘を吐くのに慣れてしまうことを考えると、ゾッとした。

 例えば友達が百人いて、九十九人に嘘を吐き続けなければならないとしても、一人だけは本心を話せる友達が欲しい。


 そんなことを胸の内でそっと願った。


「悪い悪い」


 にべない態度に意味もなくほっとする。


 わたしはこのままでいいのだろうか。

 人は簡単には変われない。

 きっといくら頑張ってもその人の本質は変わらないだろう。


 でも、心持ちや意識、態度、思想。

 そういうものを変えることが出来るとは思う。


 友人関係、生活習慣、家族仲。

 そういうものだって変えることは出来るのだと思う。


 ふとした瞬間に見せるなにか、自分の中核をなすなにか。

 例えば、優しいだとか小狡いだとか。

 それ自体が変わらなくても、それに付加されているものを変える。

 もしくは、変えようという意識を持って生きる。


 わたしは、どうすれば、いいんだろうか。


 その問答は、如何にも重要なことのように思えた。


「でもよく覚えてましたねー? あ、もしかしてわたしのこと好きです? でも好きな人がいるのでごめんなさい」


 思考の渦に飲まれそうになるのを堪え、きゃぴっといつも通り、なにも変わらない、ただただ普遍的な態度で接する。


 変わるとか。

 変わらないとか。

 変われないだとか。

 変えられないだとか。


 そもそも、そんなものは、自分で制御出来るものではないのかもしれない。

 たとえ過去のわたしがどんなに醜くても過ぎ去ったものをどうにかする術はない。

 たとえ未来のわたしがどんな姿であろうと見えないものをどうにかする術はない。


 嫌なことも、楽しいことも。

 二つともあるから、人生なのだと。

 とりあえず、今のところはそう思っておくことにしよう。


「なにがどうしてそうなんだよ……。自意識の化物だなお前。たまたま記憶に残ってただけだ」


 自意識の化物ってなに。

 自意識過剰のナルシストってことですか。


 自分のことを褒めるのは大事なことだと思います。

 一色いろはゼミナールでは褒めて伸ばす方針を採用したい。


「それどういう意味ですかー……」


 じとーっと睨みつけると、先輩はなんでもない風に答える。


「知らん。……雪ノ下さんに言われたんだよ」

「ちょっ……自分が言われたことを人に押しつけるとか先輩マジですか。それよくないと思います」


 自意識の化物、ねぇ。

 じろじろと先輩を舐め回すように見る。

 いまいち意図が掴めないが、はるのんのことだから意味があるんだろう。


 気になってしまってどうしようもないので、ケータイで自意識を検索してみる。

 ぐーぐる先生はなんでも知ってるからね、うん。


 自意識……。

 自分自身についての意識。

 周囲と区別された自分についての意識。


 ふっと呆れたような息が漏れた。

 それに気づいた先輩がわたしのほうを向く。

 ケータイに落としていた視線を戻す。


 自意識……か。

 自分のことをよく分かっているということだろうか。


「なんかいいですね、そういうの」


 羨むような声が出た。


「わたし、自分のことなーんにも分からないんです。だから、分かってるってすごくいいなって感じです」


 なんにも、分からない。

 自分のことなんて一切が不明確で不明瞭。

 盲目。

 暗闇。

 自分の心の中を覗くと途端に闇に包まれる。


 自意識の化物だなんて恐れ多い。

 わたしなんていまだにそこらへんの有象無象と変わらない。


 でも、それでも、いつかは探らなければいけないのだろう。

 最初は手探りでおっかなびっくり。

 次は懐中電灯でも持ってゆっくりと。

 電灯を取りつけ、探索を続け。

 全貌を見ることは叶わないのだろうけれど、その一端だけでも、この目に焼き付けて理解するべきなのだ。


 わたしだけでなく。

 彼も、彼女も、先輩も。


「……そうか」


 弱々しい声には安堵があったように思う。

 なにに安堵したのかな。

 自分を認めてもらえたことになのか。

 それとも、もっとひどいなにかなのか。


 なにが「なんか抱えてるやつの方が少ない」だ。

 誰よりも抱えてるくせして。


「先輩……」


 呼びかけると、先輩は再びわたしに顔を向ける。

 じっと、見つめる。

 瞳の最奥にはきっと優しさがある。

 表層には不安の色があるように思えた。

 どうしてこんなに淀んでしまったのだろう。

 本当に、分かっているのだろうか。


 化物なら、区別というより隔離だろうか。

 自意識に囚われて身動きが取れなくなるみたいな。

 それとも、他意識に興味がないという意味だろうか。

 相手の意識の矛先に目を向けず、ありのままでいるみたいな。

 なんかどっちもありそうだな。

 考え過ぎかな……。


 整った輪郭。

 鼻筋の通った端正な顔立ち。

 その中で弱々しく濡れた瞳だけが、助けを求めている。

 そんな気がした。


 頬にそっと手を添える。

 蛇に睨まれた蛙の如く固まる先輩。

 手から温もりが伝わってくる。

 周囲の音が消えたような錯覚すらしてしまう。

 周囲の色が消えたような錯覚すらしてしまう。

 鼓動はわたしのものしか感じられないはずなのに、今、このときだけは、先輩の音も聞こえたような気がした。

 けれど、その音はすごく遠く感じて。


 こんなに簡単に触れられるのに、どうしてその心に届かないんだろう。

 不安があるとすればなんだろうか。

 いくら見えたって、心当たりがない。

 結局、わたしはこの人のことをなにも知らないのだ。

 わたしが助けてあげることは、出来ないのだろうか。


「なにか、悩んでませんか……」


 あるかどうかも分からないのに。

 訊いたって言ってくれっこないのに。

 どうしても、言わずにはいられなかった。

 先輩は答えない。


「奉仕部でなにかありましたか?」


 今度はもっと優しい声音で。

 しかし、先輩は答えない。


「わたしには……、なにも、出来ませんか……」


 先輩は、答えない。


 その沈黙だけが、ただただ、わたしの問いを肯定していた。

 自嘲染みた笑みが漏れる。

 自分のことは自分で、か。

 もどかしい。


 触れていた手をそっと離す。

 温もりは霧散して、手には言いようのない悔しさが残る。

 目をつむれば、わたしの胸の鼓動だけが静かに脈打っていた。

 ぎゅっと拳を握りしめる。

 出来るときには、必ず。


「やっぱり、押しつけてください……」

「……は?」

「押しつけていいですよー。逃げても、負けても、目を背けても、いいです! わたしが代わりに頑張ってあげますよーっ」


 にこにこーっと笑う。

 わたしは大切な人を助けたい。

 それは全てわたしのためになる。


「なに言ってんだお前……なんで、そんな」

「後輩ですからね……先輩の。たまには、かっこつけたくなるじゃないですかー」


 ふふんと自慢げにしてみせると、先輩は呆れ半分嘲り半分と言った様子で笑う。


「はっ……また、か?」

「はい。また、です」


 生徒会選挙にて、奉仕部を残すためにわたしに生徒会長という役職を押しつけた先輩。

 嘲りは自嘲だろうか。


「……機会がありゃあな」

「どうせすぐありますよ。先輩、よくなんかに巻き込まれて悩んでますし」

「不吉なこと言うな……」


 なにを想像したのかうわぁと顔を歪める。

 巻き込まれて、というより、首を突っ込んでの方が正しいか。

 生徒会選挙とクリスマスイベントに関してはわたしのせいですね、ごめんなさい。


 くすりと笑みをこぼすと、先輩もつられて笑った。

 きっと、あんなことを言ったところで先輩はわたしをあてにはしないのだろう。

 けれども、一つでも逃げ道を作れたらと、そう思った。

 少しくらい寄り添えたのかな。


 でも、まだ、しっかり笑えない。


 夕刻。

 時間にしては、まだ窓から差し込む光の色は変わっていない。

 それでも、そのうち変わる。

 自らの意志とは関係なく。

 でも、太陽はどこに沈もうが太陽であることに変わりない。


 であれば、わたしもどうなろうがわたしであることに変わりはない。

 それは暴論だろうか。

 しかし、先輩を傷つけないために、わたしはわたしのために、なにかをしたい。

 たとえ、闇に飲まれようとも。

 たとえ、希望などなくとも。

 わたしはこの道を進む。


 わたしはわたしのしたいように生きる。

 自分を他の誰よりも受け入れてあげなければいけないのは、自分なのだから。


「……先輩」


 端無く、ここで言おうかなと考えた。

 そして、数秒。

 今、このタイミングで言おうと決意した。


 あのとき、潮風の漂う人気のない場所で。

 伝えきれなかった、思いの丈を。


「……なんだ」


 真摯さの感じられる声音だった。

 ちゃんと、聞いてくれる。

 だから、ちゃんと、言わなきゃ。


「わたし……」


 そこで言葉を区切り、緊張ですっ飛んでいきそうになっていたセリフを掴む。

 握りしめて、決して、離さない。

 言いたいことは纏めてきたから。

 これを言えばいいだけだ。

 深く深呼吸をして、言葉を続ける。


「——あの部活、好きなんです」


 返事はない。

 無言だったが、それが続きを促すものだということだと気づくのは容易かった。


「雪ノ下先輩がいて、結衣先輩がいて、小町ちゃんがいて、先輩がいて……。あの空間が心地よくて、好きなんです」


 好き。

 その単語にどれだけの想いをのせたのか。

 わたしでも推し量れないけれど、それはそう表すしかないものだった。


「この仕事が終わったら奉仕部に行けるなーって思うと、頑張れるんです」


 きっと、また、暖かく迎えてくれる。

 だから、必死に頑張れる。

 先輩に会うため。

 それだけで、頑張れる。


「でも、だからこそ、手伝ってもらいたくないんですよね……」


 そう。

 ちゃんと、頑張ってあの場所に行きたい。

 前は違ったかもしれない。

 けれど、三月、わたしは先輩の努力の片鱗を見た。

 その胸に額を押し当てて、心の鼓動を感じながら、わたしは先輩の頑張りを実感した。

 失うことを怖れず、踏み出してくれた。

 自分たちはこうやってきたのだと証明してくれた。


「あの人たち、いっつも頑張ってるじゃないですか? だから、頑張らないで行きたいとは思わないんですね」


 頑張って、頑張って、形成されたあの空間に。

 わたしは堂々と居座りたいのだ。

 サッカー部マネだけど。


「だから、頑張ります」


 自分で出来ることは自分でやる。

 自分が出来そうなことはやってみる。

 マネージャーも生徒会も、出来れば奉仕部の存続も。

 家のことも。


「それに、褒められると嬉しいんです」


 心底、嬉しい。

 頑張りが認められるのは嬉しいのだ。

 その相手が先輩ならなお嬉しい。

 だから。


「だから、頑張りたいんです」


 まだ、続きがあった。

 けれど、先輩はそこで終わりだと思ったらしい。

 軽く頷く。


「……そうか。なら、あー……」


 なにを迷っているのだろうか。

 言葉を探すようにあっちこっちに視線を行き来させる。

 ようやく見つかったのか、ただ一点、わたしを見つめて言った。


「見ててやる……?」


 疑問形。

 すぐにそっぽを向く。

 ぶっきらぼうな態度に救われた気がした。

 昼休み、見ててくれと言ったのを思い出したから出てきた言葉だろう。

 タイミングよく笑い、ぽすっと頭を先輩の肩にのせる。


「ありがとうございますーっ」


 飛び出た声はやっぱり上向きで外面で。

 しかし、心の中では一瞬だけ太陽が顔を見せた。


「でも、一人で出来ないこともあります。わたしなんでも出来るわけじゃないっていうかー、基本なんにも出来ないので」

「……そりゃそうだろ。俺だってなんにも出来ねぇし。むしろなんにもやりたくねぇ」


 なんかクズいこと言い出したぞこの人。

 なんにもやりたくない、か。


「やりたくないことでもやらなきゃいけないときっていっぱいありますよねー……」

「だな……」


 うんざりとした口調で同意する。

 やりたくもなかったことをやってきたから。

 嫌にもなるよなぁ。


「で、話は戻りますが、もし、出来なかったら先輩を頼ります。なので、そのときは手を貸してください」


 一人でなんでもは出来ない。

 頼るべきところではきっちり頼る。

 でなければ、失敗する。

 そこで意地を張る必要はない。


「えー……」


 嫌そうな返事をいただいた。

 でも、頼ればしっかり手伝ってくれるのだろう。

 そういう人だ。


「よく考えたら、あんまり前と変わりませんね」


 前だって、なんでもかんでも頼ってたわけじゃない。

 変わったのは結局、わたしの心持ちだけだ。


「……そうか? 全然違うと思うが」

「そうですかねー? それはそれでいいですけど」


 それならそれで問題ない。

 変わったと感じてくれたのなら、少しは進めたのだろう。


「でも、わたし意地っ張りなので、多分素直に頼れません」


 頼らなきゃいけない。

 意地を張る必要はない。

 どれだけ心で分かっていても、行動に移せるかは別問題なのだ。

 そういう意味では、前の方が楽だったな。


「なのでーっ!」


 えいっと横から先輩に抱きつく。

 鬱陶しそうに身じろぎする先輩。

 その顔を見つめて、瞳を潤ませる。


「こんな感じで抱きついてうるうるしてたら、聞いてくださいー。あのときみたいに、『なにかあったのか?』って」


 そうすればきっと、頼れる。

 聞いてもらえれば頼れる。

 分からない。

 ただ、抱きつきたいだけかもしれなかった。


 わたしを見て、先輩は真剣な面持ちになる。

 なにかと小首を傾げてみると、あーと迷う素振りを見せる。


「……なんか、あったのか?」

「……はい?」


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