2015-07-04 00:30:03 更新

概要

やはりわたしの青春ラブコメはまちがっている。
いろはルートになります。


前書き

とうとう四章です!
ここまで書き続けられているのも、読んでくれている皆さんの応援あってこそ。
いつ終わるんだろう……(苦笑
現在、七章でいろはすと八幡のいちゃいちゃを飽きるほど描いてますので、とりあえずそこまでストレス溜めつつお読み頂きたいなと思ってます。
その辺りが折り返し地点かなと自分では思ってます。


第三章 言うまでもなく、比企谷八幡の優しさはそこにある。





第四章 いつの間にか、雪ノ下陽乃は居座っている。




 生徒総会から数日が経過した。

 前期生徒会の仕事は残すところ職場見学のみ。

 と、言いたいところなのだが、実は先日もう一つ増えてしまっていた。


 総武高創立三十周年記念イベント。

 学校としても大きなイベントにしたいらしい。

 市立のくせに見栄っ張りだ。

 そう言ったイベント事は生徒の自主性云々で生徒会に任されるのが常となっているこの高校。

 当然のように今回も生徒会に回ってきた。


 テストも近いし、最初は断ろうかとも思ったのだが、大人に必死に頭を下げられては断れるものも断れない。

 まあ、職場見学に関しては大した仕事でもない。

 選択肢は用意されてるし、グループに分けたって人気者の行くところに集まることが多い。

 例年通りのイベントだから企業側も理解してる。

 集計してアポ取ればそれで終わり。


 イベントは予算も多い、夏休み直前なので日程にも余裕がある。

 多いと言ってもいつもより多いだけなのでたかが知れてるし、それほど苦しいものにはならなさそうだ。

 イベント事ならクリスマスにもやったしね。

 フラッシュアイデアだのWIN-WINだのロジカルシンキングだの。

 あれ、なんか不安になってきた。

 軽くトラウマである。

 フラッシュバック。


 そんなことより目下の問題は中間テスト。

 なんなら、毎日部活と生徒会以外の時間は全て勉強に費やしているので、今回でかなり成績が上がるのではと期待している。

 来月頭には英検があるのだが、それを受けようか迷い中。

 さすがに間に合わないかなぁ。

 だいたいにして受験料かかるし。

 うん、今回は見送ろう。


 そんな感じで今日も今日とて生徒会の仕事をキリのいいところで切り上げ、部活へ。

 廊下に出て、数歩歩いたところで足が止まった。

 今日、部活休みだった。


 奉仕部行こーっと。

 こういう休みの日は奉仕部に行き、先輩と雪ノ下先輩に文系科目を教わっている。

 二人とも受験生なのに大丈夫かと聞いたところ、「家でやってるから問題ない」とのことだ。


 まあ、毎日本読んでるし、本当に問題ないのだろう。

 先輩に関してはちょっと不安なので、小町ちゃんに真偽を問うたところ、本当にやっているらしい。

 真面目だなぁ。

 惚れ直しました!

 もともとゾッコンだけどね!


 ふふーんと軽快な足取りで部室の扉の前まで辿り着くと、中から聞き慣れない声が聞こえてきた。

 依頼が来たのだろうか。

 うーんと考えた末に、そっと聞き耳を立ててみる。

 あんまりいい趣味とは言えないけど、出てくるタイミングが分からなければ入るに入れない。


『それで、依頼は……その、ラブレター? に対する返事の内容と、付き合うことになった場合のサポート、ということでいいのかしら?』


 これは、雪ノ下先輩の声だろう。

 ラブレター?

 いまどきそんなもの送る人いるんだ。


『は、はいっ! あ、でも、断るときのだけで大丈夫っす。ほら、変に断るとなんか噂になりそうじゃないっすか?』


 なんでそんな上からなの。

 その自信満々さは流石に引く。

 ていうか、友達とかに聞くならまだしも、それを公にして他人に頼むとか……ないわー。


『あ、あー……そういうのあるかもー……』


 あははーと乾いた笑いが聞こえる。

 信じてないんだろうなー。

 わたしも信じてないけど。


『これ、名前とか書いてないじゃないっすか? 会うまで断るかどうかの判断も出来ないんすよねー』


 名前書いてないとか、うわぁ。

 もう決まっちゃったよ。

 ギルティ。


『いや、お前……それって……』

『俺こういうの初めてなんすよねー! あ、でも、最近女子と遊ぶことも多かったりしてて!』

『あぁ……うん』


 せ、先輩っ!

 ダメ!

 諦めちゃダメですよ!

 なんか無駄に嬉しそうだから言い辛いのは分かるけど!

 心の中で応援する。

 その応援が伝わったのか分からないが、再び先輩の声が聞こえてきた。


『あ、あのな、最悪の事態を想定してだな……』

『え? なんすか? あ、もしかして嫉妬っすかー? 先輩そういう縁なさそうっすもんね』

『お、おう……まあな』


 ちょっ、こいつわたしの先輩になに言ってんの?

 はぁ?

 よく考えなくてもわたしたちの方が酷いこと言ってた。

 でも、こいつこれガチで言ってるな。

 絶許。


『あ……あのさー、あたしはそういうの……自分で考えた方がいいと思うなー……とか』


 そうそう。

 そのくらいは自分で考えないと。

 誠意が足りない。

 まあ、相談したくなっちゃう気持ちは分からないでもないんだけど。


『ええっ!? そんなこと言わないでくださいよー! お願いしますっ!』


 結衣先輩のちょっとイラっとしてる感じがひしひしと伝わってくる。

 この男子気づいてないのかな。


『あー……っと、まあ、出来ないならいいっす。ありがとうございました。じゃあ』


 戦慄。

 それは言っちゃいけない言葉である。

 誰に向かってそんな口を聞いているのか。

 無知は罪。


『待ちなさい』

『ひぃっ』


 やっぱり……。

 もう五月半ばなのに寒いよ。


『あなた、私をなめているのかしら? 今までどれだけその類を断ってきたと思っているの? 出来ないわけがないでしょう』

『い、いや、そんなことないっす、すいませんっ!』


 弱……。

 それから十分程経過し、そろそろ足痛いなー、疲れたなーと思っていたところで、扉に向かってくる足音が聞こえた。

 少し足早にそこを離れ、いかにも今来ましたーみたいな態度で引き返す。


 すれ違った男の子はなんというかパッとしない感じ。

 いや、でも、そこそこ顔立ちは整っているようにもおも、思わないことも、ないかな。

 野球部とかに入ったら多分モテる、適当。


「こんにちはー……」


 部室内はめんどくせーってオーラが充満していた。

 適当に挨拶を済ませ、先輩の斜め横に座る。

 ちらと雪ノ下先輩を見やると目が合った。

 そのままじーっと見ていると、かくんと小首を傾げる。


「雪ノ下先輩、なんで受けちゃったんですかー?」


 じとーっと見つめたまま問うと、少し考えるような仕草を取り、答える。


「え……ああ、聞いていたのね。……だって、その、悔しいじゃない」


 しょぼんとした様子で顔を俯かせる。

 かわいいけど、ダメです。


「だって、あれ、絶対悪戯じゃないですかー?」

「え……?」


 え、なんでそんな不思議そうなの。

 もしかして本気で誰かがあの男子にラブレター送ったと思ってたの?

 やだ、純粋。


「そうなのかしら……?」


 意見を求めてきょろきょろと視線を動かすと、それぞれがうんうんと頷いた。

 まあ、あれはどう考えても悪戯だろう。

 雪ノ下先輩が知らないのも仕方ないのかもしれない。

 そういう側になったことはないだろうし、それに、女子はやられない系統のやつだ。


「どう考えてもそうだろ……。名前は書いてないわ、下駄箱に突っ込んであるわ、その上告白が明日ってなんだそれ」

「明日? え、なんですかそれ? やった人バカなんですか?」


 嘘ですって言ってるようなもんだ。

 あの男子もよく信じたな。


「明日だと……なにがまずいのかしら?」

「そりゃあお前……どう見ても不自然だからだろ。渡した日の放課後に設定するのが一番信憑性がある。まあ、俺だったら名前がない時点で捨てるけどな。いや、むしろ、開かない」


 それは、警戒心強過ぎでしょ。

 経験があるのだろうか。

 ありそうだなぁ……。


「そう……そういうこと。……その、ごめんなさい」


 ずーんと分かりやすいくらいに落ち込む。

 知らなかったらしょうがない。

 無知は罪?

 そんなわけないでしょうが。


「ゆ、ゆきのんだけのせいじゃないよー! あたしも止められなかったし」

「そうですよー!」


 慌てて二人がフォローに入る。

 しかし、すぐに立ち直ることは出来ないだろう。

 そういうの気にしそうだし。


「まあ、もう受けちゃったわけですし、どうするか考えた方が有意義ですよー」

「そう……ね」


 ふむ……と思索にふける。

 それを待たずして結衣先輩が口を開く。


「あ、あたしはしょうがないんじゃないかなー……って思うんだけど」


 さっきのいらだちがまだ尾を引いているのか、否定的だ。

 それが妥当と言えば妥当なのだろう。

 別に頼まれたわけじゃなし。


「だな。それで俺みたいになるわけだ」


 はっとバカにした感じで笑う。

 うっわー、性格悪いなーこの人。


「うわぁ……それはちょっとかわいそう。なんとかしてあげたいかも……」

「おい、なんでそこで意見変えてんだよ」


 気持ちは分かる。

 わたしもそれはかわいそうだと思ってしまった。

 こんな腐った目になったら、あの男子の高校生活はもう絶望的である。

 捻くれ者は先輩一人で充分。


「そうね……これ以上環境を汚染するわけにはいかないわよね」


 心なしか青ざめている。

 深刻な問題だ。

 早急に対処すべきだろう。


「ねぇ、なんで俺が汚染物質みたいな言い方なの? おかしくない?」

「誰もあなたのことだとは言ってないでしょう? 自意識過剰よ、比企谷菌」


 流石自意識の化物。

 菌って聞こえたのは気のせいだと思いたい。


「いや、言ってるから。菌って超言ってるから。なに? 環境汚染レベルなの? 俺の目ってそんなに酷いの?」


 気のせいじゃなかったらしい。

 でも、先輩の目はそんなに酷いです。

 自覚してください。


「噛んだだけよ。そんなこと言えないわ……悪口は好きではないもの」

「いや、それ言ってんのとほぼ変わらねぇから……」

「ま、まあまあっ!」


 いつ間にかすっごくいい笑顔を咲かせて生き生きと先輩を罵倒していた雪ノ下先輩を結衣先輩が止める。

 顔を横に向けると、小町ちゃんと目が合った。


「お人好しだねー」

「ですねー」


 苦笑する。

 基本見守るスタンスなのだろうか。


「んー、でも、どうしよっかー……」


 ふぬぬと顔を顰めて唸る。

 三人がしばらく考え考えしていたが、どうにも案が浮かばないらしい。

 その様子をただ見ていた先輩と目が合う。


「まあ……一応、策はあるちゃあるが……」


 はっきりしない口調に雪ノ下先輩と結衣先輩が不安げな表情を浮かべる。

 小町ちゃんは特に気にしてなさそうだった。

 それが先輩なのだと、理解しているのかもしれない。


「話す……。先に話すから……それから検討してくれ」


 諦めたように言う。

 成長、してるんだなぁ、本当に。

 優しい微笑みをたたえて頷く二人を確認し、先輩はその策とやらを話し出した。

 内容自体は簡潔なものだった。

 しかし、話し終えた直後の二人の表情は曇っている。


「それって、誰がやるの……?」


 恐る恐るといった様子で結衣先輩が尋ねる。


「まあ、出来るやつがやるしかねぇだろ……」

「……どうせヒッキーがやるんでしょ? それじゃ、なにも変わらないよ」


 変わらない。

 なにが変わらないのか。

 依頼の進行か。

 先輩のやり方か。


「大丈夫だろ。一年経ったら分かんねぇけど、そんな直後で話したがるやつなんていねぇ。ソースは俺。これなら、俺に被害はないし、あいつの傷も浅く済む」

「でも……」


 いまだ不安そうなままだが、反論が浮かばなかったのか俯いてしまう。

 そこで今まで思考を練っていた雪ノ下先輩が顔を上げた。


「私が……、『間違えて入れてしまった』と言うではダメなのかしら……?」


 慎重に提示された案を聞いて、先輩は即座にかぶりを振る。


「ダメだ」

「……理由を聞いてもいいかしら?」

「そういうタイプじゃないだろ、お前」


 確かに。

 絶対にまちがえないとは言い切れないが、というかそんなことは絶対にないのだろうけど、少なくともそういった行動に関して入れ間違えるなんてことをするとは思えない。


「そう……そうね」


 再び室内を沈黙が包む。

 結衣先輩が声を発したのは、しばらく経ってからのことだった。


「は、はいっ!」

「結衣さん、どーぞ!」


 元気な声とは裏腹に小さく挙げられた手。

 いつの間にか司会進行役的立ち位置に移動していた小町ちゃんが発言を許す。


「そ、その……」


 言い辛そうに顔を俯かせ、もじもじと指を交差させたり突き合わせたりする。

 ようやく決心したのか、ふぅと息を吐いて言葉を紡いだ。


「あ、あたしがやるなら……いいよね?」


 雪ノ下先輩の案を、ということだろう。

 結衣先輩がやるなら、さっきの問題はクリア出来そうだと思ったが、先輩は再度かぶりを振る。


「ダメだ。そもそも、この部室で顔を合わせている以上、お前らがなにかやったところで怪しまれる。気づいたとき辛いだろうな、あいつ。偽の手紙で舞い上がって、女子に同情されて」

「それなら……。それなら、あなたがやっても意味がないのでは?」


 もっともな疑問だった。

 まあ、でも、そこを理解していて言ってるのなら、先輩はクリア出来ているのだろう。

 その予想は当たっていたらしく、先輩はにやりと口元を歪ませて、自信あり気な調子で答える。


「いや、俺なら絶対に成功する。よく考えれば分かんだろ?」


 なんでそんな自信満々なんですか。

 全然分からないし。

 その挑発的な物言いに雪ノ下先輩ははてなと思考を巡らせるが、やはり分からなかったようで、再度問う。


「……説明してもらえるかしら?」


 その言葉が予想外だったのか、先輩は疑問符を頭上に浮かべ渋面になる。


「いや、そりゃお前……だって、陰薄いだろ、俺」

「え、あ……そう、そういうことね」

「いつも罵倒してるくせになんで分かんねぇんだよ……」


 真面目に聞かれてしまってはやはり堪えるものがあるらしい。

 机に両肘を乗せて、がくっと項垂れる。


 目の前に先輩の頭が現れた!

 ちょっぴりかわいそうだ。

 どうする?

 撫でる。


 ぽんぽんと撫で始めて二秒と経たないうちに、先輩はがばっと頭を上げた。

 その顔は驚愕で彩られている。


「え……? なに? なにしてんのお前……」

「あー……、いや、かわいそうだなーっと思いまして」

「……は? え、なに? なに企んでんの? 怖い」


 うっわぁ……と身体を仰け反らせる。

 その反応は結構傷ついちゃうんですけどー。


「なんにも企んでませんよー! 失礼な……先輩はわたしをなんだと思ってるんですかね……」

「いやいやいや、なんもないのにお前が俺に優しいわけないだろ。なに? 熱でもあんの?」


 ぴきぴきと血管が浮き上がりそうだった。

 流石のわたしも怒りますよー?

 怯えた態度を取る先輩ににっこりと微笑む。


「は?」

「なんかすいませんでした」


 一秒の間も無く謝罪を述べる。

 素直でよろしい。

 にこにこーっとしたまま、引き攣った笑みを浮かべる先輩と見つめ合っていると、こほんと横から咳払いが聞こえた。


 そちらを見やれば、雪ノ下先輩が眉間に皺を寄せ、結衣先輩が唇を尖らせている。

 その背後では小町ちゃんが暖かい目で微笑んでいた。


 敵意が剥き出し過ぎるよ。

 諦めるのは早計だとか言ってたじゃないですか!

 あと小町ちゃんなんか怖い。


「す、すいませーん……」


 雰囲気に気圧されて謝ると、雪ノ下先輩がふうとため息を吐いた。


「まあ、今のは比企谷くんが悪いわね」


 その言葉に乗っかるようにして、結衣先輩も先輩を批難する。


「そ、そうだよ! ヒッキーのバーカ!」


 結衣先輩……ぼ、ボキャブラリーが……。

 頭の程度が知れてしまう。

 まあ、そこがかわいいのでそれはそれでいいのだろう。

 どうやって入学したのかが七不思議になるレベルではあるのだが。


「えぇ……なにこの理不尽」


 言われた先輩はどうも納得がいかない様子である。

 しかし、そういう風体というだけであって、さっきまでの鎮痛な面持ちが二人から消えたことを安堵しているのか、声色は暖かみを伴っていた。


「まあ、世の中理不尽が常ですよ」


 諭すように言うと、妙に納得した調子で頷かれた。

 人生に疲れてそうだなこの人。


「それで……その、あなたのやり方は本当に大丈夫なのかしら……?」


 真剣さを宿した瞳を先輩に向ける。

 こういうときの雪ノ下先輩には、どこかはるのんに似た苛烈さがある気がした。

 先輩は攻撃的な瞳をしっかりと見返し、はっきりとした口調で答える。


「大丈夫だ」


 答弁を聞き、雪ノ下先輩はゆっくりとまぶたを降ろす。

 一秒ほどだったろうか。

 刹那と言ってもいいかもしれない。


 再び開かれた瞳は凛と澄んでいた。

 なにかを受け入れたような、そんな瞳だった。

 このとき、また、この人たちはお互いに一歩歩み寄ったのだろう。


「……そう。それなら、あなたを信じるわ」


 確認の意思を込めて、結衣先輩と小町ちゃんに視線を送る。

 二人とも首を縦に振った。


「……うん、分かった」

「小町もそれでおっけーです。ま、お兄ちゃんがなにやっても小町はずっとお兄ちゃんの妹だよっ! あ、今の小町的にポイント高いっ!」


 きゃはっとあざとかわいく笑う。

 いつも通りの仕草、態度に場の空気が和らぐ。

 が、わたしの心中は穏やかではなかった。


 信じる、応援してる、頑張って。

 それは重荷だ。

 枷で、鎖で、重圧だ。

 誰かに期待される。

 誰かに応援される。

 願ってもいないのなら、そんな人生は苦しくて辛い。


 信頼。

 その言葉は今までどれだけの人間を押しつぶしてきたのだろうか。

 わたしはいい。

 やりたくてやっているのだから。

 励まし、期待はモチベーションの上昇になる。


 では、先輩はどうだろうか。

 すっと先輩の瞳を見る。


 ——あ。


 見えてしまった。

 一瞬、浮き出た不安が。

 なにか、隠していることがある。

 先輩の話のどこかに嘘がある。

 前はなにに関係するものか分からなかった、でも今は分かる。

 なら、わたしは、どうするべきだろうか。


 わたしが踏み込んでもいいのだろうか。

 部員ですらない、わたしが。

 わたしに、せっかく纏まった意見を壊す権利なんてあるのだろうか。

 でも、ここで言わなきゃ、言っしますておかなきゃ、後悔する気がした。


「あ、あのー……」


 暖かい空気に水を差す。

 声を出したわたしに注目が集まっている。

 本当にいいのだろうか。

 再度自問した。

 やらなきゃダメだ。

 再度自答した。


「それって……その、やっぱり放っておくって選択肢はないんですかー……?」


 空気が凍りついた気がした。

 差した水が冷え冷えして凝固していく。

 わたしはまちがえてはいないだろうか。

 不安になる。

 胸が押しつぶされそうになる。


「いや、その、わたし部員じゃないですし、余計な口を挟んでるっていうのは分かってるんですけどー……」


 それでも、止めたい。

 もっと早く言うべきだったのかもしれない。

 先輩の案が出た時点で積極的に否定すべきだったのかもしれない。


 でも、歩み寄ったのをまた離れさせることに価値があるのだろうか。

 やっぱり、なにも言うべきではなかったのでは。

 ぐるぐると渦に飲み込まれていく。


「その、先輩に被害が及ぶ可能性が少しでもあるなら、やめた方がいいんじゃないかなー……みたいなですね」

「それも、そうね……」


 柔らかな声だった。

 ほっと息をつく。


「でも、やっぱり、なんとかしなければと思うわ」


 固まってしまった。

 なんでそういう結論になるのかよく分からなかった。

 先輩が傷つく=却下。

 わたしの脳内方程式はそんな感じなわけだが、雪ノ下先輩は違うのだろうか。


〝諦めるのは早計だと思うわよ〟


 再び浮かんできた言葉は、さっきとは違う意味で捉えられた。

 自覚、してない?

 いや、でも、まさか。

 あれだけ先輩に執着して置きながら自覚してないなんて、そんなことってあるの?


 恋したことがなかったから、気持ちの整理が出来てないとか……?

 それとも、奉仕部として先輩を認めているだけだという理性で抑えつけているのか。


 どちらにせよ、由々しき事態である。

 少なくとも、雪ノ下先輩にとって先輩の身が最優先事項ではないのだということが発覚してしまった。

 あるいは、本当に信頼しているのか。


「で、でも……知らない人ですよー?」

「……今までだって、そう。比企谷くんのときも、由比ヶ浜さんのときも、知らない人だった……。当然、一色さん、あなたのときもね」


 それを言われてしまえば黙るしかない。

 いや、そうでもない、か。


「わ、わたしのときは依頼は達成されてないじゃないですかー? あれは、依頼を失くしただけであって」

「それでも、達成するための努力はしたわ」


 それは、そうなんだろう。

 事実、雪ノ下先輩と結衣先輩が立候補した。

 途中で先輩がなかったことにしただけで、放っておけば雪ノ下先輩か結衣先輩が会長をやっていた。


「私は知己の仲だから手を差し伸べるわけではないのよ。あなたが心配しているようなことには、きっと、ならない。だから……安心して」


 落ち着いた態度で宥められてしまった。

 どうすればいいのだろうか。

 先輩を信頼……?

 いや、無理だよ。

 そんなのは無理だ。


 ていうか、雪ノ下先輩がなにかするわけじゃない。

 やるのは先輩。

 企画も提案も実行も先輩。

 先輩がやりたくないと言うか、過半数の票を手に入れるしかない。


「えっと、でも、助けを求められたわけじゃないですし……。結衣先輩はいいんですか?」


 卑怯な手を使ったと思う。

 優しい女の子にどっちかの味方につけというのは酷だろう。

 けれど、それしか手がない。


「え、いや、あたしは……その、どうかなーとは思うんだけど。その……うーん」


 わたしと雪ノ下先輩を交互に見ては唸り声をあげる。

 ああ、もうダメだ。

 一言目で引き込めなかったら、付き合いの長い雪ノ下先輩につくだろう。


「ヒッキーを信じてみたい……かな」


 詰んだ。

 きっと、とか、みたい、とか。

 そんな漠然とした言葉で済まさないで欲しい。

 もっと、もっと重要なことなはずなのに。


 残るは小町ちゃんのみ。

 二対三だ。

 多数決は絶対。

 いや、でも、小町ちゃんが味方になってくれれば、それで先輩に頼めば先輩は止めてくれるだろうか。

 まだ、微かに希望の光が残っていた。


「こ、小町ちゃんはどうかなー……?」


 尋ねると、小町ちゃんはうーんと少し考えたのちに答える。


「小町は……そうですねぇー。お兄ちゃんの味方ということで……」


 申し訳なさそうに言う。

 よくよく考えればそうなることは最初から分かっていた。


 先輩の瞳に不安が見えたと、言うべきなのだろうか。

 それは、怖い。

 信頼していると決意を固めている人たちに、そんな証拠にもならないもので反論するのはキツい。


 わたしだけが見えてしまった。

 なんだか、少しだけはるのんの気持ちが理解できた気がした。

 誰も分かっていないことが分かる。

 なんだこれ……辛いな。

 分かるのに、分かってもらえない。


「一色……」


 声色に迷いがあった。

 わたしの言葉を聞いて意志が揺らいだのだろうか。

 それなら、これが最後のチャンスだ。


「せ、先輩には前に言ったんですけどー……、わたし、この部活好きなんです」


 なるべく暖かく。

 優しさのある声音で。

 それだけ想っているのだと伝わるように。


「その、わたし別に部員じゃないですし? 余計なお世話だとは思うんですけどー……、でも、出来れば止めて欲しいなって感じ……です」


 雪ノ下先輩も結衣先輩も驚いていた。

 わたしがそこまで奉仕部に想いを寄せているとは思っていなかったのだろう。

 小町ちゃんは、気づいてたみたいだけど。


「ダメ、ですかねー……?」


 重くなった。

 空気が。

 この先輩方はなにに躊躇しているのだろうか。

 分からない。

 でも、もう少しで分かる気がした。


「一色さん……ごめんなさい」


 申し訳なさそうに顔を背ける。

 そうまでしてなんで……。


 はたと一つの可能性が頭に浮かんだ。


「もしかして……」


 よくよく考えてみればそういうことだったのかもしれない。

 そこからして歪なのだ。

 内に潜むプライドと優しさと信念が邪魔をしていた。

 だから、きっと、断れない。


「依頼……断ったこと、ないんですか?」


 沈黙。

 あり得ない。

 一年も活動していて、一度も断ったことがないなんて。

 数多とは言わないまでも、そこそこの数の依頼がきてたはずだ。

 一度くらい断っていてもおかしくない。

 というか、一度くらい断っていなければおかしい。


 いや、何度か断ろうとしたことはあったのかとしれない。

 何でも屋じゃない。

 そう言っていた。

 それでも、誰かが動いたのだろう。

 誰とは言わないが、誰かが。


 今現在、小町ちゃんを除く三人がそれぞれの真似をしているのも問題だと思われた。

 それぞれにプライドがあり、優しさがあり、信念がある。

 断れない。

 問題を無視できない。


 ここで問題を無視して逃げたら、この人たちは罪悪感に苛まれるのだ。

 心にもやがかかって、うわべで取り繕うしかなくなる。

 この人たちは、そんな関係を求めているわけではない。

 目の前にある問題を無視しなければ維持できない関係性など希薄なもので、そこで壊れしまうならそれまでだと思っている。

 だから、そうするしかないのだ。


「そういう……ことですか……」

「違うわ。依頼が……、依頼が断れないわけではないの」

「問題を無視できないのなら、同じことですよ……」


 そんなの同じだ。


 わたしも、先輩を信じるしかないのだろうか。

 あの瞳に宿った不安はなにに対する不安なんだろうか。

 分からない。

 一見、デメリットは潰されていたように感じた。

 ……ああ、でも、まだ、相談できる人がいた。

 これは、家に帰ってから考えよう。


「えっと、では、方針も固まったみたいなので……っていうか、まあ、わたしが邪魔しただけなんですけどねー。雪ノ下先輩、今日もお願いしていいですか? 先輩も」


 重い空気をはぐらかすように笑って問題集やらノートやらを開くと、雪ノ下先輩も微笑んだ。


「ええ、もちろん」

「おう」


 学年一位と文系三位に挟まれた状態で勉強する。

 会話はほぼない。

 小町ちゃんが先輩とこそこそ話すくらいだ。


 わたしがまちがえれば脇に控えて本を読んでいるどちらかから指摘が入る。

 集中できるし、嫌なことを忘れられるからそれはいい。

 結衣先輩も一緒に混じって勉強している。


 わたしとしては、先輩が見ててくれているってだけで頑張っちゃうぞーって感じなので、最高と言ってもいい。

 楽しい勉強タイムである。


 しばらくすると、ぱたんと本を閉じる音が耳に届く。

 それが終了の合図だ。


「そろそろ終わりにしましょうか」

「だな」


 五人揃って部室を出て、人気のない廊下を歩く。

 小町ちゃんと結衣先輩が先行し、雪ノ下先輩と先輩がそれを見守る。


 最近はこういう配置が多い気がする。

 わたしは先輩の近くにいたいので、当然後列である。


「一色さんは……存外真面目なのね。それに、覚えも悪くない」


 突然贈られた褒め言葉に、えっと驚きつつ雪ノ下先輩の顔を見ると、優しく微笑んでいた。


「だな。もともと頭は悪くねぇんだし、やる気の問題だったのかもな」


 二人してそんな褒めないで欲しい。

 いや、嬉しいんだけど、恥ずかしい。

 あわあわと取り乱してしまう。


「それは大きいかもしれないわね。確か、読書もしているのよね?」

「え、あ、はい。『藪の中』と『羅生門』と『走れメロス』は読みましたねー。今は『人間失格』を読んでます」


 答えると、雪ノ下先輩はふむと考える。


「太宰と芥川……比企谷くんにしては無難なチョイスね」

「なんだよそれ……ライトノベルなんか勧めたってしょうがねぇだろ。流石の俺でもそのくらいは弁えてるっつーの」

「そう……意外だわ。あなた、弁えることが出来たのね」


 言って、雪ノ下先輩はくすりと悪戯っぽい笑みをこぼす。

 楽しそうだ。

 先輩は苦々し気だが。


「純文学なら、綿矢りさもいいと思うのだけれど」


 どうかしら? と、首を傾げる。


「いや、綿矢りさは著作権切れてねぇだろ。中島敦がギリ」


 先輩の返答に雪ノ下先輩はこめかみを押さえる。

 そのポーズ好きですね。

 好きでやってるんじゃないと思うけど。


「……そんな理由で文豪の著作を勧めていたのね。本当……呆れた」

「あー……いや、それは……なぁ?」


 勝手に言ってもいいものか判断がつかなかったのだろう。

 わたしに目配せする。

 うんと頷き、雪ノ下先輩に声をかける。


「その、わたしがあんまりお金を使いたくないんですねー? 勉強も特待生になるためですし」

「……そうなの? なにか……あ、いえ、なんでもないわ。そういうことなら、仕方ないわね」


 なんとなく察してもらえたらしい。

 雪ノ下先輩自身も、なにか家庭の事情があるのだろう。

 まあ、本を買うくらいのお金はあるんだけど。


「……そうね。あ、でも、綿矢りさに限らず有名な作品なら図書室にも置いてあると思うわ。よかったら読んでみて」

「綿矢りさですね……覚えておきます」


 なんか聞いたことのある名前だ。

 そもそも純文学がなんなのかよく分からないが、まあ気にすることでもないだろう。

 うん。


「それで? なんか気に入ったのとかあったか?」


 言われて、んーっと考えてみる。

 気に入ったのか……。

 そういうのは特にないかなぁ。


「これといって特にないですかねー。どれも興味深いですし。ほら、描かれているものがそれぞれ違うじゃないですかー? だから、そもそも比べることに意味を感じないっていうか……。強いて言うなら、全部気に入りましたかねー」


 それぞれにそれぞれの良さがある。

 みんな違ってみんないいみたいな。

 だから、どれも等価値なのである。


「へぇ、なんか哲学的なこと言うな」

「……一色さんはそういう考え方なのね」


 ほう、と感心したように息を漏らす。

 そんなたいそうなこと言ったかな……。

 考え方が違うとそうなるのかもしれない。

 しかし、結構はるのんに影響されたコメントである。


「まだ理解できてないだけかも知れませんけどねー。なんか堅い雰囲気あるじゃないですかー?」

「ああ……まあな」


 なんにせよ、先輩と話す話題が増えたのでわたしは満足です。

 ライトノベルとやらも読んでもいいかもしれない。

 もうちょっと落ち着いたらだけど。


「あ、そういえば、最近、あのー、なんでしたっけ? お悩みメール? とかいうのやってないんですか?」


 あまり見てない気がする。

 パソコン自体を。


「あぁ、いえ、最初に確認だけしているわよ」


 そうなると、あれか。

 わたしが来るの遅いってだけか。

 まあ、納得である。


「でも、別にたいした相談はこねぇけどな。材木座の愚痴とか……あ、なんか今日匿名の来てなかったか?」


 なにを思い出したのか、雪ノ下先輩に確認するように尋ねる。

 すると、雪ノ下先輩は先輩に訝しげな視線を浴びせた。


「……あれ、本当にあなたじゃないの?」

「いや、違ぇよ。俺が何年ぼっちやってると思ってんだ。暇潰しは俺の百八の特技の一つ。暇を潰させたら俺の右に出る者はいねぇ」


 なにを自信満々に言っているのだろうか。

 一瞬、かっこいいこと言ったのかと思った。

 そのドヤ顔は正直うざい。


「あなた以外にも……いるのね」

「おい。どういう意味だそれ。ぼっちなんて沢山いんだろ。例えばお前とか」

「あら、心外ね。私には……」


 言いかけて口を噤む。

 わたしにはなんとなく分かってしまったが、そこは流石の先輩、なんにも分かっていないご様子。


「はぁ? 私にはなんだよ」


 問い詰められて、前方をチラチラと気にしながらぼそぼそとつぶやく。


「いえ、その……私には、ゆ、由比ヶ浜さんがいるもの」


 言った瞬間。

 結衣先輩がバッと振り返り、雪ノ下先輩に抱き着く。


「ゆ、ゆきのんっ!」

「き、聞いていたのね……は、離して」


 鬱陶しそうに身じろぎするが、その頬は赤らんでおり、全く説得力がない。

 はぁあと呆れ混じりのため息を吐き、さっさと歩き出した先輩のうしろにちょこちょこと着いていく。


 全くもって気づいてなさそうなので、くいっと袖を引っ張ると、ようやくにしてわたしを認識した。


 え……わたしってそんな陰薄いですかね。

 い、いや、うしろにいたら普通気づかないよね!

 背中に目がついてるわけじゃあるまいし!

 うんうん!


「あ? なんだ?」


 なんだかうしろに着いていくのは不安なので、すーっと隣を位置取り、質問に答える。


「メール、内容なんだったんですかー?」


 結局聞いてない。

 なにがなにやら分けも分からず、置いてけぼりにされている感がすごかったです。

 わたしは悲しいです。


「ん、あぁ、なんか『友達がいないので昼休み暇なんですが、どうしたらいいですか?』みたいな感じだったな、確か」

「え、それ本当に先輩じゃないんですか?」

「いや、だから違うっつーの」


 友達がいないとか。

 それもうイコール先輩って感じなんですけども。

 ぼっち人口って結構多いのかな。

 日本の行く末が心配。


「んー……、まあ、信じましょう。で? なんて返したんです?」

「なんで嫌々なんだよ……。俺が返したわけじゃねぇからよく分からん……っつーか、返してなかった気がすんな」

「え……? いや、本読むとかあるじゃないですか」


 他にも……うーん。

 先輩みたいに思索にふけるとか。

 寝るとか。

 テニスをする戸塚先輩を眺めるとか。


 先輩がやってることしか思い浮かばなかった。

 身近なぼっちを先輩しか知らない。

 どうでもいいけど、身近なぼっちってなんかすっごい矛盾してる気がする。


「あぁ、いや、そう、メールの内容がそれだけじゃなくて、なんか本を読んだりとか自分なりにやってみたけどどうにも合わなかったみたいなことも書いてあったらしい。だから、とりあえずは延期」

「へー……延期って、それ、奉仕部じゃどうしようもなくないですかー?」


 昼休みの暇潰し。

 いろいろやってみてダメならもう諦めるしかないんじゃないのか。

 それか、奉仕部メンバーの誰かが友達になってあげるとか。


「まあな……」


 んー、でも、昼休みかー……。

 わたしも最近昼休みが面倒になってきたんだよなぁ。

 本読みたいのに女子のコミュニケーションに付き合わなきゃいけないし。


 生徒会でなにか出来るかな。

 どうだろ……本が読めなくてもあれに付き合うのはだるいから逃げられるなら逃げたい。

 完全に個人的理由だった。


「あのー、もしよかったら」


 考えてみますよーっと提案しかけたとこらで、放送の開始を告げるリズミカルな音が校内に響き渡り、わたしの声を遮った。


『1年A組、比企谷小町さん。1年A組、比企谷小町さん。落し物が届いています。校内にいるようでしたら、職員室までお願いします』


 平塚先生の声だった。

 落し物ってそんなんでいちいち放送するとか……。


 あぁ、でも、毎回雪ノ下先輩と結衣先輩が二人で鍵返しに行ってるから、鍵が返ってきてないのならまだいるってことになる。

 であれば、見知った顔の落し物があることを伝えてあげるくらいはするだろう。


「おっと……じゃあ、今日は小町も一緒に職員室行きますねー」

「うんっ、そだね! 一緒に行こうっ!」


 なんだかよく分からない盛り上がり方をしている後方に特に顔を向けることもなく、歩みを進める。

 放送……。


「あ! 先輩! いいこと思いつきました!」

「やめろ、言うな」

「はいっ! あのですねー……って、言うなってどういうことですかっ!」


 あんまりナチュラルに拒否されてたから全然気づかなかったよ。

 びっくりだよ。

 なんなのこの人。

 わたしのこと嫌いなの?


「いや、お前のいいこととか絶対ろくな案じゃねぇだろ……」

「そ、そうですかねー……」


 んー、そう、かな?

 そうなのかもしれない……。

 いっつも押しつけてるイメージつよいもんなぁ、わたし。

 そう思われても仕方ないし、きっとそうなのだろう。

 なんだか妙に納得してしまった。


「そうですねっ」


 先輩わたしのことよく知ってるなー、うんうんと頷きながら言うと、先輩から疑惑のこもった声が返ってくる。


「え……?」

「え、なんですか……。先輩がろくな案じゃないって言ったんじゃないですかー……」


 じとーっと睨みつけると、目をそらして明後日の方向を向いたまま答える。


「ああ、いや、無理にでも言うのかと思ってた」

「あー、でも別に、わたし頭いいわけじゃないですしー? 多分ろくな案じゃない気がするんでいいです」


 にこにこーっと笑ってみせる。

 しかし、どうも納得いかないらしい。


「……なんか悪かった。聞いてから判断するべきだった。奉仕部じゃ解決出来ないかもしれないし。だから、あー……、その案、聞いていいか?」

「……え、あ、えっと、はいっ!」


 ちょっと!

 先輩に頼られてる!

 なんか嬉しい。

 我ながらちょろいなぁ。


「えーっと、生徒会で昼休みに放送してみたらどうかなー、みたいな感じですねー……。その、学内の有名人をゲストで呼んでー、質問に答えてもらったり、とか? あ、あと、生徒に人気なものをアンケート取って、発表してみたり……とか……。情報ラジオ的な? どうですかねー……?」


 ちらっと先輩の顔を窺う。

 と、先輩はなにか考えているようだ。

 うずうずとしながら返答を待っていると、とうとう顔をこちらに向ける。


「どうだろうな……、雪ノ下、聞いてたか?」


 ふっと後ろを振り向き、問いかける。

 その動きにつられてわたしも雪ノ下先輩に視線をやる。


「ええ、聞いていたわ。特にこれといって他に案があるわけでもないし、いいのではないかしら?」


 微笑みながら賛成してくれた。

 この認められた感じ。

 あー、嬉しいなぁ。


「んで? どうする? 生徒会でって……別にそこは無理しなくてもいいぞ? 相談は奉仕部に来てるわけだからな」

「あー、わたしも結構昼休みに女の子と話すのが煩わしいと言いますか……だるいと言いますか……」

「あぁ、そう……」


 なんか気持ち引かれてしまった。

 女子は黒いんですよ……。

 先輩ならよく知ってるでしょ。


「ですのでー、生徒会……というより、わたしがやりますよー。アウトソーシングってやつだと思ってもらえればオッケーです。わたしを助けると思って……」


 上目遣いでうるうるっと瞳を潤ませる。

 先輩からも、後ろからもため息が聞こえてきた。


「……雪ノ下」

「……やりたいというのなら構わないわ。私たちよりも、一色さんの方が慣れていそうではあるのだし。それに、奉仕部の活動と言っても生徒には伝わらないでしょうから」


 確かに。

 奉仕部の存在なんて、基本誰も知らない。

 誰かから斡旋されない限り、辿り着くことなんてないだろう。


「では、やらせてもらいますねー」


 いい逃げ場所が見つかった!

 それにこれうまくいけばわたしの宣伝効果も期待できるし。

 有名人と仲良いアピールも同時に出来る。

 我ながら頭がいいのでは。


 卑賤な思惑を表に出さないように気をつけつつ先輩らと共に足を進めた。

 駅で先輩と別れ、電車とモノレールを乗り継ぎ、帰路を辿る。


「ただいまー!」


 鍵の開いた玄関の扉を開け放ち、帰宅を報せる。

 すると、リビングの方から声が返ってくる。


「おかえりー」


 それに引き寄せられるようにしてリビングに踏み込むと、美人のお姉さんがソファに腰掛け、首だけをこちらに向けて手を振っていた。

 シャフ度(ソファver.)みたいな。


 艶やかな黒髪。

 きめ細かく透き通るような白い肌。

 その端正な顔立ちがこの人が美人であると極めつけていた。


「はるのーんっ」


 人懐っこい笑みを浮かべる雪ノ下先輩の姉、雪ノ下陽乃に駆け寄り、ソファを挟んであすなろ抱き。

 なんだかはるのんが勉強の合間にどうでもいいことを教えてくるせいで、変な単語を覚えてしまった。

 テストに出るかな。

 出ないね。


「よしよーし」


 ペットでも愛でるように、わたしの頭を撫でる。

 撫でられ心地がいい。

 なんだそれ。

 しかし、ごろごろと喉を鳴らしてしまいそう。

 吾輩は猫である。

 完全に籠絡されているわたしだった。


「よっと」


 我が身の安全のためにもはるのんの手中から抜け出し、回り込んでソファに腰を降ろす。


「で、今日は帰るんですかー?」


 窺うように上半身を傾けて問う。

 このお姉さんゴールデンウィーク明けから、頻繁に我が家に泊まっている。

 わたしが勉強を教えて欲しいと頼んだときから、だ。

 土日だけのつもりが、まさか泊まってまで教えてくれるとは思わなかった。


「んー、まだー。……ていうか、いろはすー、それ毎日聞いてくるけど帰って欲しいのー? お姉ちゃん、邪魔?」


 瞳をうるうるさせて聞いてくる。

 わざとらしい……。


「いやいや、そんなわけないじゃないですかー! 帰っちゃうのかなー……って思いまして……」


 二人暮らしのくせに我が家は無駄に広いのだ。

 わたしのためにというお母さんの愛情が満ちているけれど、結構、一人は辛い。

 帰っちゃったら、さみしーなー。


「やだ! かわいいっ! いろはすかわいーっ! もうしばらくいるよー。雪乃ちゃん冷たいし……」


 ぎゅぎゅーっと抱きしめられる。

 この顔に当たってる脂肪分けてくれないかな。

 そしたら、先輩を悩殺できるのに。

 わたしにそんな勇気がなかった。


「雪ノ下先輩が冷たいのは自業自得だと思いますけど……」

「まあねー♪」


 パッと離れ、ふんふんと鼻唄を歌う。

 なにやらご機嫌だ。

 雪ノ下先輩を虐めるのを思い出しているのなら、ただただ怖い。

 わたしに矛先が向かわないように祈るばかりである。


「ていうか、帰らなくて大丈夫なんですかー?」

「んー? うん。今、反抗期だからー」


 なんだそれ。

 反抗期ちょっと遅くないか。

 ときどきよく分からないことを言う。


「さて、夕ご飯作ってあるから食べよっか」


 立ち上がり、んーっと伸びをする。

 最近我が家の夕食は豪勢である。

 原因は言うまでもなくはるのん。


「毎日毎日、食費とかいりませんよー?」


 美味しい料理に舌鼓を打ちつつ、むすーっと口を尖らせて言う。

 ほんとこの人なんでも出来るな。

 雪ノ下先輩にケーキを作ってもらったときにもそんなことを思った気がする。

 ほんとこの姉妹なんでも出来るな。


「いいのいいの。無駄に高い食材使っちゃってるし」

「いや、自分で買ってきてるじゃないですかー」


 全く理由になってない返しに言い返す。

 手渡されるなら受け取らなければいいからまだマシなんだけど、そこらへんに置いてくから困る。

 お金は大事にしましょう。


「一人でやるのも大切だけど、頼るのも大事だよ。いろはす危なっかしいのよね。ほっとくと壊れちゃいそうでさ。だから、好意は素直に受け取りなさい」


 めっと諌められてしまう。

 わたし恵まれてるなぁ……。

 でも、甘えてばっかは嫌なんだよなー。


「はぁ……手伝ってもらってばっかりですね……」

「いろはすの『手伝って』は本当にサポートだけでしょ。そんなこと気にしなくていーの」


 優しい声音ではあったが、そこには有無を言わせぬ迫力がある。

 それだけでぐっと言葉に詰まってしまうのだから、この人には一生敵いそうにない。


「それに、勝手に壊れちゃったら、つまらないじゃない?」


 ふふっと蚊も殺せないような優しい笑顔で、そんな狂気染みたことを言う。

 勝手に、か。

 この人はわたしをどうしたいんだろう。

 これもフリならいいんだけど。


「……、そんな柔じゃないですよ」


 歓談混じりに食事を済ませ、ぱぱっとお風呂に入ったら勉強タイム。


「今日はなにやろっかー。数学? 化学? 物理? でも、テスト範囲だいたい終わっちゃったよねー、遊ぶ?」

「いや、遊ばないです」


 なんだその余裕。

 急に遊びにシフトするとかどうなってんの。

 脳内お花畑か。

 わたしはそこまで自信ないんですけど。


「もう一回最初からやりましょー。あと、今日の復習」


 むんっと張り切って見せると、はるのんはあからさまにめんどくせーオーラを撒き散らす。


「えー、だっていろはす学校でほとんど覚えてくるから教え甲斐ないんだもん。なに? 満点でも取るつもりなのー?」

「満点っていうかー……学年一位取りたいのでー」


 学年一位目指すとか言うと、『学年最下位だったわたしが一年で大学に特待生入学!』とか、そんなアホっぽいタイトルの小説が頭に浮かぶ。

 だが、まあ、そもそもわたしは成績が悪いわけではない。

 かと言っていいわけでもないのだが。


 ていうか、ヤンキーがちょっと頑張ったからってちやほやされるというのがまず間違っている。

 最初のゴミクズだった部分には目を瞑ってるんだもんなぁ。

 過去は消えないのに。


「ふーん……もう取れると思うけどなぁー」


 ぶつくさと文句を垂れつつも、じゃあやろっかと最終的には手伝ってくれる。

 なんでここまでしてくれるんだろうか。


 行き当たりばったりに見えて、無駄なことはしない人である。

 なにか企んでいそうだ。

 単純に優しさだけなら、それはそれでいいんだけど。


 余計な不安を脳内から消し飛ばし、勉強に集中する。

 数学の問題集、テスト範囲の最初の問題から始め、黙々と取り組んでいくと、何度もページを捲り、いつの間にか最終問題になっていた。

 それを解き、じっと黙っていたはるのんに目をやる。


「んー? なにかありました?」


 なんか全然指摘された覚えがない。

 手を休めずひたすらノートに答えを書いていた気がする。


「ううん、全問正解」

「……ん?」


 言われた意味が分からず、かくんと首を傾げてしまう。

 ……全問正解。


「え? いやいやいや、今何問やったと思ってるんですかー。冗談にしてはたちが悪いですよー?」

「冗談じゃないよ。ちょっと同じ問題やり過ぎたかもねー。答え覚えちゃってるみたい」


 あー、確かにそれはあるかもしれない。

 あんまり迷わなかったし。

 どうしたものか……。


「明日、わたしの問題集持ってきてあげる。とりあえず、一旦休憩して生物でもやろっか」

「はーい」


 ぐぐーっと伸びをして、コーヒーを淹れ、着座する。

 小説でも読もっかなーっとケータイを手に取ると、はるのんが話し掛けてきた。


「それで? 比企谷くんと雪乃ちゃんはどう? ちょっとくらい近づいたー?」

「あー……あの人たち距離が近づいても変わりませんよ。相変わらず本読んでます。わたしが集中しちゃってるってのも問題かもですけどー」


 雪ノ下先輩と先輩に勉強を教わるのは、はるのんの提案である。

 四月末にあまりに暇で頼んだこともあったけど。

 うまい具合に心の距離感も狭めてくれればいいと思ったが、そうもいかない。

 まあ、この程度で変わるならもっと早くくっついてるだろう。


「そっかー。でも、いろはすは頑張らないとだもんねー」


 ぐでーっとソファに体重を預けていると、わしゃわしゃと頭を撫でられる。

 割りと本当に気に入られているようで嬉しい。

 わたしもはるのんお気に入りですよ!


「……あ、あと、雪ノ下先輩、自覚してない気がするんですよねー」

「ん、あー、どうだろうね。雪乃ちゃん、純粋だから。まあ、あれが好きとかそんな綺麗なものならいいんだけど」


 くすりと怖気の走る笑みをこぼす。

 怖いなぁ、この人。

 敵に回すのは絶対に避けたいものである。


「最近、なんか面白い依頼とか来てないのー?」


 と、そこで、今日の依頼のことを思い出した。

 嫌なことをとことん奥底に沈めていたらしい。

 依頼と言えば、少し前にも恋愛相談だかを受けてたな。

 わたしは又聞きしただけだからよく知らないし、そのことは今はいいだろう。


「あー……、なんか今日、変な依頼があったんですよねー……」

「おっ! なになに?」


 ずいっと顔を近づけてくる。

 瞳がキラキラしていた。

 無邪気な子供って感じだった。


 まあまあと興奮を抑えて、今日の依頼の詳細を話す。

 依頼内容から、その問題点、先輩の解決策。

 話し終えると、はるのんの口はにやりとつり上がっていた。


「へぇ……面白そうじゃない」

「面白くないですよー……」


 全っ然面白くない。

 わたしはどうしたらいいのだろうか。

 なにも変えないためために。

 個人的には、あれを成長と呼びたくはない。


「でも、そっか……変わらないなぁ。文化祭のときから、なんにも変わってない」


 変わらない。

 それは部室でも聞いた言葉だった。

 なにがどう変わらないのか。

 変えないために動くけれど、もともと変わっていないと言う。


 わたしはなにを変えたくないのか。

 彼女たちはどこが変わっていないのか。

 そこには禅問答のような分かりづらさがある。

 ならわたしは頓知でもきかせた答えを導き出せばいいのかといえば、そういうわけでもないのだろう。


「その先が見えているのに、なんでまちがえるのか。それじゃあ、なにも、変わらない。それでいいと思ってるんだろうね。そこが甘い。だから気に入らない」


 はっと嘲るように笑う。

 その先、先輩が行動したあとに起きる問題。

 ああ、と思い至ってしまった。

 先輩のついた嘘が分かってしまった。

 それも全て予測に過ぎないのだけれど。

 限りなく真実に近いのではないだろうか。


「でも、本当に、先輩を信頼しているのかもしれないですよー……?」


 本当に信頼しているからいいとか、そんなこと全く思ってもいないくせに、ついそんな言葉を吐いてしまった。


「まあ、ないこともないだろうね」


 そこで言葉を区切り、わたしの瞳を改めて捉える。

 ほんの一瞬で視線は逸らされたが、そこにどんな意味があったのだろうか。


「また、人に押しつけて……ダメだなぁ、雪乃ちゃんは」


 くすくすと愉快そうに笑う。

 ころころと表情を変える人だ。

 しかし、全てが作りものに感じる。

 そう、それこそ一から十まで作りものな感じ。


「だいたいそれって結局、傷が浅くなるだけで、根本的な解決になってないじゃない? まあ、その小物っぽさが比企谷くんらしいけど」


 それはそうなのだろう。

 先輩のやり方ではどっちにしたって傷つく。

 であれば、それに意味はあるのだろうか。

 先輩がやっていることに、なんの意味があるのだろうか。

 ただ、自分で自分を傷つけているだけじゃないのか。


「信頼することが必ずしもいいことだとは限らないですよねー……」


 信頼は重い。

 誰かに頼られるのはキツい。

 逃げ道がなくなる。


「だねぇ。でも、もしかしたら、なにも問題は起こらないかもしれないよ?」

「もしかしたら、かもしれない……ですか」

「はっきりしないよねぇ」


 本当、はっきりしない。

 そんな可能性にかけるなんてどうかしてる。

 曖昧模糊とした言葉で片付けていい問題じゃない。

 甘いのだ。


「いや、そもそも、あれは信頼、なんですかね……」


 先輩には前科があるのに信じて。

 方法がないからといって頼る。

 そんなものは信頼とは呼ばない。

 なにをどう呼ぶかなんて、人それぞれだけど、わたしは呼べない。


「わたしは、出来ませんね。時と場合によっては信用しますが、信頼はできません」


 人を信ずることができぬ。

 なんだかその言葉の意味が少しだけ理解できた気がする。

 信実なんて……あるのだろうか。

 幻想で妄想で、フィクションの中にしかないのではないのだろうか。

 フィクション、物語。


「あれも無責任な信頼ですよねー……その場にいない人の命をかけるなんて」


 唐突につぶやかれたわたしの言葉に、はるのんは意味を考える様子もなく答える。


「あははっ! 確かにね、そこから歪んでたのかも」


 突然、呼び出されて、約束が取り付けられてて、王の前でどう断ればいい。

 信頼なんて、実はメロスのひとりよがりだったんじゃないだろうか。


 言葉ではなんとでも言える。

 感動の再会のとき、セリヌンティウスは嘘を吐いたのではないだろうか。

 ずっと、疑っていたのではないだろうか。

 ただ、セリヌンティウスの懐が広かっただけで、最初から戻ってくるなんて思ってなかったんじゃないだろうか。

 あのとき、再会して、ようやく信頼したんじゃ……。


 人の腹の内なんて探れない。

 真実は物語の中に隠されたまま。

 誰にも分からないからこそ、そんなことを思った。

 そんな信頼はいらないと、そう思った。


「信実は……空虚な妄想だと思っておくことにします」


 信実がイコール本物であると、そう定義されているわけではない。

 わたしは疑うことを知っている。

 どうしたって先入観が働いてしまうし、完全に信頼するなんてことはできない。

 信頼する気もない。


 だいたい、嘘くさいんだ。

 美しい愛情だとか。

 麗しい友情だとか。


 美麗ってなんだそれ。

 カードバトル型ソーシャルゲームの宣伝文句?

 あれが美麗なのは金のためである。

 綺麗な薔薇に棘があるように、綺麗事には裏がある。


 世の中綺麗なことばかりじゃない。

 どれだけ目を背けても、逃げても、そこに必ず汚いものがあるのだ。

 それを見て見ぬフリして得るものにはなんの価値もない。


「そっか。じゃあ、いろはすはどうする?」


 嬉々として聞いてくる。

 なんだかうまく乗せられてしまったらしい。

 そういうことか。

 それが目的だったというわけだ。


 この人にとって大事なのはやっぱり雪ノ下先輩で、わたしは邪魔だったのだ。

 最初っから諦めたなんて思ってなかった。

 しかし、わたしのことを気に入っているというのも、嘘ではないのだろう。

 だから、不安材料は消しておきたかった。


「はぁ……おもちゃになるつもりはないですよー。もう少し……考えます」


 考えてどうにかなるのだろうか。

 分からない。

 分からないが、考えなければ。

 わたしはわたしに出来ることを考える。

 考え出した出来ることを、やってもいいのか、も考える。


「ふぅん……」


 苛烈さを極めた瞳と目が合う。

 それに屈せず、ふっと呆れたように息を吐く。

 同時にはるのんも破顔した。


「ふふっ、うん。いろはすはそれでいいよ」


 その抜き打ちテストみたいのやめてくれませんかね……。

 普通に怖いし。


「さーって、勉強再開しよっか」

「……はい」


 その後、ひたすらに勉強を続け、ベッドに横たわる。

 考えることが多過ぎる。

 いや、実際にはそこまで多くはないのだろう。


 しかし、でも、けれど、そんな逆説の言葉を使って逃げ回っているのだ。

 わたしは……どうすればいいんだろう。

 本当に、これでいいのかな。

 くだらない追いかけっこをしているうちに、わたしの意識は遠ざかっていった。


  ****


 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。

 選ばないとすれば——わたしの考えは、何度となく同じ道を行き来した挙句に、ようやく結した。


 しかし、この「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」なのだ。


 わたしには、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、その後に来たるべき「盗人になるよりほかに仕方がない」という事を、積極的に肯定するだけの勇気がない。


 ここでの「盗人」というのは、当然ながら比喩ではあるのだが、正確に喩えられてはいない。


 それは、先輩がこの件を解決に導くのなら先輩は悪になるのだろうが、わたしがやるのであれば悪にはならないからだ。

 わたしがやれば、きっと、誰も傷つかずに済む。


 ——先輩も。


 いくら「仕方のない悪業」であっても、悪い事をした人は責められる。

 先輩のその行為自体に実際にはなんの悪意もないわけだが、それを見聞きした他の人間はどう思うだろうか。

 想像に難くない。

 またあのときの焼き直しだ。

 もっとも、先輩の説では誰も見聞きしないらしいが。


 そんなことを授業中を除きひたすら考えていた。

 現文の点数だけ上がりそう。

 やったね!

 それでも中々勇気が出ない。

 そうこうしてるうちに昼休み。

 もう時間がない。


 ていうか、なんか疲れた、甘いものが欲しい。

 甘いものと言えば、MAXコーヒー。

 短絡的思考でMAXコーヒーを求めて自販機へ向かう。

 がこんっと音を立てて落ちてきた缶を手に取り、踵を返す。


「えっ、あ、こんにちはーっ!」

「よう」


 野生の先輩がいた。

 しかしモンスターボールが切れている。

 くっ……抱きつくしかないのか……。

 まぁ、学校でそんなこと出来るはずもなく、再び自販機に向き直り、素早くMAXコーヒーをもう一つ購入。


「どーぞっ。奢りです、話聞いてください」

「……いや、金は払う」


 嫌だと言わないところが流石先輩。

 もはやあざとい。


「いいですいいです。ほら、早く行きましょう」


 ポケットをがさごそと漁り始めた先輩の背中をぐいぐいと押す。


「分かった、分かった。自分で歩くからやめろ」

「はーいっ」


 パッと離れ、先輩の横を歩く。

 ベストプレイス。

 来るのは二度目。

 だって……一人がいいって言ってたし。

 嫌われたくないし……。


「んで? なに?」


 腰を下ろし、ぶっきらぼうな口調で聞いてくる。

 ムードもくそもあったもんじゃない。

 先輩にそんなもの求めてもいないけど。


「今日の放課後……やるんですよね」

「ん……あぁ」


 顔をテニスコートに向けたまま、微妙な返事をする。


「大丈夫、なんですよね……?」

「あぁ……」


 顔は変わらずテニスコートに向いている。

 腰を上げ、ばっと先輩の前に立つ。

 じぃーっとその瞳を見つめる。

 目を逸らされた。


「こっち、向いてください」


 少し強めの口調で言うと、先輩は素直にわたしの顔を見た。

 ぐっと上半身を傾け、瞳に焦点を合わせて再び問う。


「大丈夫、なんですね?」

「あぁ、大丈夫だ」


 はっきりと淀みない口調で答える。

 改めて先輩の隣に座り直すとふっと息が漏れた。

 また、見えてしまった。

 不安が。


「ふふっ、そうですかー……。なら、いいです」


 ほんっと、馬鹿だなぁ……この先輩。

 しょうがない人だなぁ。

 でも、それが確かに先輩らしいのだ。


「そういうところ、嫌いじゃないです」

「はっ、そうかよ。俺も自分のこういうところが嫌いじゃない。むしろ大好きだ」

「うっわぁ……」


 この人が意見を変えることはないのだろう。

 であれば、わたしがどうにかするしかない。

 はなっから選択肢なんてなかったんだ。

 誰も傷つかずに依頼を達成する方法は一つ。

 先輩を傷つけないためなら、わたしは手段を選ばない。


「じゃ、わたしもう行きますね」

「ん、あぁ。あ……さんきゅーな」


 ぼそぼそと小さい声でお礼を言い、MAXコーヒーを掲げる。

 それににこっと微笑みを返した。


「いいですよ。勇気、もらいましたから」


 不思議そうに首を傾げる先輩を横目に教室へと戻る。

 弁当を食べ、昼休みも終了。

 午後の授業を終え、とうとう来たるべきときが来た。


 指定場所は校舎裏。

 少し遅れると副会長に告げて校舎裏に向かっていると、角のあたりで固まっている女子に近づく影が四つ。

 先輩たちだった。

 言い争いを始めたところに少し駆け足で近づき、声をかける。


「先輩」


 振り向いた先輩は不思議そうな顔でわたしを見る。


「わたしが説得しますよ」


 言うと、先輩は安堵の息を漏らした。

 女子たちは逃れよう逃れようと雪ノ下先輩との終わらない論争を繰り広げている。

 やはり悪戯だったのだろう。


「そうか、助かる。じゃあ、俺はそろそろ依頼人のところへ行って」

「違いますよー。わたしが説得するのはあの男子です。先輩たちはこの子たちを遠ざけて言いくるめてきてください」


 しばしぽかんと口を開いたまま固まる。

 意味が伝わったのか、先輩は眉を顰めた。


「出来るのか……?」


 懐疑的な視線を向けてくる先輩の瞳を真っ直ぐ捉え、わたしは答えた。


「はい、必ず」

「そう、か……なら、いい。お前に任せる」


 先輩はどこか安心したような表情になる。

 やはり、問題点を理解していた。

 わたしはまちがっていない。


「では、早く」


 先輩はこくりと頷き、雪ノ下先輩に耳打ちする。

 雪ノ下先輩は一瞬だけわたしを見て、結衣先輩と小町ちゃんに宥め役を任せた。


 結衣先輩が優しく言葉をかける。

 泣き出しそうになっている女子の背中をそっと包んだ。

 あれが主犯か……。

 一言二言言葉を交わすと、残り二人の取り巻きを伴って、先輩たちは戻っていった。


「……ありがとう。ごめんなさい」


 そんな言葉が、去り際に聞こえた。

 気づかれてしまっただろうか。

 敵わないなぁ……。


 ふぅーっと大きく深呼吸して決意を固める。

 この状況で誰も傷つかずに丸く収めるにはどうすればいいか。


 先輩がやろうとしたのは、自らが名乗り出て騙された男の子を嘲笑するという方法だ。

 男子というのは女子の目を気にする生き物。

 相手が男子ならそこまでのショックはない。


 それに加えて他学年。

 傷は浅く終わる。

 のちに噂が流れることがなかったのなら、過去のものとして忘れ去るのに時間はかからないだろう。


 しかし、デメリットがある。

 先輩の悪評が広がる可能性だ。

 いくらあの男子があの女子三人にとって悪戯をされる煩わしい存在だとしても、本当に仲のいい友人一人や二人はいるだろう。


 話すはずだ。

 必ず。

 自分がどれだけ非道なことをされ、傷を負い、悲しんだかを。

 そこから先輩の悪評が噂となって伝播する可能性は大いにある。


 絶対と言ってもいい。

 人の口ほど閉じていられないものはない。

 先輩が過去に話さなかったのは、単に先輩に友達がいなかったからだろう。

 避けられるのなら、避けるべきだ。

 本当に仲のいい友達なんて、結局、主観でしかないわけだし。


 大体、過去に一度、「女子に暴言を吐いて泣かせた屑野郎ヒキタニ」の名が広がってしまっている。

 もう一度広げるのは難しいことではない。

 その上、裏サイトという匿名で晒し上げる手段まである。

 鬱憤を晴らすならこんなに適切な場所はない。


 そして、そんなやり方を先輩に取らせてしまった奉仕部の彼女らはどう思うだろうか。


 慰めるかもしれない。

 心配するかもしれない。

 諌めるかもしれない。

 親密な仲だからこそ、きっと、その行動を咎める。

 この問題は推測できただろうと。

 なんで言ってくれなかったのかと。


 先輩がやったことは裏切りに近い。

 信頼を裏切る行為だ。

 予想できた問題を蔑ろにした彼女たちにも責任はあるわけだが。

 問題を無視できなかった全員に責任があるわけだが。

 優劣をつけるとすれば、頑として譲らなかった、問題点を隠した先輩の責任になるのだろう。


 さらに後悔する。

 こんな結末を迎えてしまったことを、必ず後悔するだろう。

 またあの寒々しい雰囲気になるとまでは言わないけど、いい未来は見えない。


 あのとき止められててもうわべになったし、行動を起こしたら起こしたで問題になる。

 板挟みだ。

 葉山先輩のように選ばないことはできないから、より嫌忌する方を選んだ。


 全部予想で予測で、勝手に心配して、勝手に行動してるだけだけど、少しでも可能性があるなら、わたしはそれだけは避けたい。


 結局これも全て、そうなる「かもしれない」だけだけど、百パーセントそうならないと断言出来ないのなら百パーセントそうならないようにすべきだ。


 わたしなら、それができるから。

 それ以外の手法でもって、彼も先輩も彼女たちも傷つけずに事を終わらせられるから。

 はるのんの期待にも応えられるから。


 例えそれが、ありがた迷惑で、大きなお世話な、余計なお節介だとしても。


 わたしが動くべきときは、今だ。


 一歩、校舎裏へと力強く踏み出した。

 じゃりっと砂を踏みつける音に反応して、男子がわたしをその純真無垢な瞳で捉える。

 たったっと可愛らしく駆け寄り、気持ち眉尻を下げて申し訳なさそうな顔を作った。


「ご、ごめんね……いきなり呼び出して」

「い、いや、別に気にしてないよ」


 照れ隠しか頭を掻く。

 名前も知らない。

 いや、よく見てみれば、どこかで見た顔だ。

 ……あ、この男子サッカー部だ。

 うわ、今まで分からなかったとか……やば。

 試合に出てた記憶も上手い記憶もないから、全く興味ない。

 次の瞬間には記憶に残ってすらいない、どうでもいい存在。


「そ、そのね……わたし、今、生徒会に部活に勉強とかも頑張ってて、多分それらしいことなんにも出来ないんだけど、抑えきれなくて……それでも、よければ」


 悪意によって作られた嘘の告白現場。

 問題点は嘘、というところだ。

 なら、実にしてしまえばいい。

 問題の解決、ではなく、問題の消去。

 問題自体がなくなれば、まさに問題ない。


 だから、選ばないとすれば——


「わたしと付き合ってください」


 ——告白するよりほかに仕方がない。


 わたしはまた、嘘を吐いた。

 本当にまちがっていなかったのかどうかは、よく分からない。


  ****


 校舎にもたれる。

 足に力が入らず、ずるずると地面に落ちた。

 夕日が出るにはまだ早い。

 だから、見上げた空は明るい。

 もう少し……ドラマチックなら。

 嘘くさいものだと現実逃避出来たのに。


「はあぁぁぁ……」


 あれだけ断る理由を挙げつらえたのに告白は成功してしまった。

 いや、失敗か。


「ははっ……」


 なにやってんだろ、わたし。

 まあ、いいか。

 守りたいものは守れた。

 誰も傷ついてない。

 なにも、まちがえてない。


 結論を導き出したところで、両側から足音が聞こえてきた。

 特に確認する気も起きない。

 誰かなんて予想がつく。


 一人はあの謝罪を述べた人物で、もう一人は彼に奉仕部を紹介した人物。

 誰が彼を奉仕部に回したのか。

 それも少し気掛かりだった。

 答えは彼がサッカー部だと分かった時点で明らかになった。


「……いろは」

「一色さん」


 ぼーっと空を見上げたまま、わたしを呼ぶ声に返事をする。


「どうしましたー?」


 少し態度が悪いのは勘弁して欲しい。

 これで先輩とは当分会えなくなってしまったわけだし。

 はるのんの思惑通りというわけだ。

 まったく、ひどいことするなぁ。

 拒否できないわたしが悪いんだけど。


「どうして……」


 拳を固く握りしめる音が聞こえた。

 また、悔やんでいるのか、この人は。

 自分がなにも出来なかったことを。

 そんな資格ないだろうに。

 分かっててやってたんだから。


「あはっ、それ、聞いちゃいます? また、先輩に押しつけようとしたくせに……」


 柄にもなく、睨みつけてしまった。

 その後悔の浮かぶ瞳に僅かな安堵が見えて、なおさらイラついた。


「それは」

「いいですよね。そういうの、楽で。誰かに押しつけて、逃げて、甘えて。優しい世界で生きるのは楽しいですよね。選ばないのは、保身のためですか」

「俺は……そんなつもりじゃ」

「でも、先輩がなにをするかは分かってた」


 分かってて動かないなら、同じだ。

 むしろ、もっとひどい。

 汚くて、浅ましい。

 本当に獰悪なのは、こういう人じゃないのか。

 いや、それはわたし主観か。


「はぁー、まあ、いいですけどねー。先輩の逃げ道はわたしが作ります」


 沈黙。

 なにを言えばいいのか分からないのだろうか。

 それとも単に、なにも言いたくないのか。


「一色さん……」


 らしくない。

 怯えるような声音。

 もっと、堂々としててくださいよ。

 それじゃあ、わたしはなにを守ったのか分からない。


「ごめんなさい」


 二度目の謝罪。

 その謝罪に、朗らかな笑顔を作って答える。


「気にしないでくださいよー」

「でも……私も、あなたに甘えた。分かっていて、目を背けた。あなたは……奉仕部のために」

「やめてください」


 そんなの聞きたくない。

 奉仕部のためとか。

 そんなんじゃない。

 わたしは……わたしは、勇気を先輩に、動く理由を先輩に求めてしまったけれど。

 でも、そんなことが言われたくて動いたわけじゃない。


「わたしがこうしたのは、奉仕部のためとか、彼のためとか、先輩のためとかじゃないんです。ごめんなさいとか、そんな言葉が聞きたかったんじゃないんですよ」


 わたしが動いたのは。

 それは、もっと、独善的で、独裁的なそれこそ唾棄すべき傲慢な感情である。

 だから、そんな憐れみも同情もいらない。

 優しくて甘くて楽な人生はいらない。

 それは心地いいぬるま湯だから。


 わたしは強くなると決めたのだ。

 そんなおためごかしで今のわたしがあるだなんて思わないで欲しい。

 誰の犠牲にもなってない。

 わたしは最初から、わたしのためだけに動いているのだから。


 すっと、立ち上がった。

 弱さが露呈した彼女の瞳を見つめて、言い切る。


「慰めは、いりません。あぁ、もし二人になにか聞かれたら『実は少し前から好きだったらしい』とか言ってくれればオッケーです。心配されるのは、辛いので」


 また微笑む。

 僅かな圧力を込めて。

 否応なく頷かせる彼女の苛烈さを真似て。


「……分かったわ。ありがとう」

「いえいえっ。葉山先輩も、さっきはああ言いましたけど、気にしないでくださいね。誰にだって出来ることと出来ないことがありますし」


 目をそらして黙り込む。

 ふっと呆れるようなため息が漏れた。

 そんな罪悪感に苛まれるくらいなら、最初からやらなければよかったのに。

 しかし、まあ、選べなかったのだろう。

 葉山先輩は優しいから。


「じゃあ、またなにかあったら手伝ってください。それでチャラってことでー」

「そんなことで……」

「別にたいしたことじゃないんですよー、わたしにとっては。では、また後で」


 話を打ち切り、生徒会室へ。

 業務をこなして、部活。

 なにやら不躾な視線が飛んできたが、その一切をはねのけて、いつも通りお見舞いに行き、家に帰る。


「おかえりー」


 変わらず出迎えてくれるはるのん。

 その口元はいやらしく歪んでいる。

 本当、この人は。


「どうだったのー?」

「聞かなくても分かるじゃないですかー、概ね期待通りですよ」

「あら、そう」


 くすりと笑みをこぼす。

 手のひらで踊らされている感が否めない。

 腹立たしい。

 もっと、なにか別の策はなかっただろうか。

 つい、そんなことを考えてしまう。


「ふふっ、嫌いになった?」


 期待の眼差し。

 どちらを期待しているのか。

 どうでもいい。

 探る気も起きない。

 めんどくさい。


「変わりませんよ。はるのんがなにも言わなくたって、わたしはこうしたと思いますしー。なんなら、はるのんがいてくれるだけマシですらありますね」


 自分で動いた責任を誰かに求めるのは、あまりにも遣る瀬ない。

 出来ることが出来なくなるより。

 出来たことを否定するのはなにより辛い。

 あいつがこうしていなければ、あのときこんなことをしなければ、そう思って生きていくのは、重いし苦しい。


 だから、後悔はしない。

 わたしは為すべきことを為したのだと。

 せめてわたしくらいは褒め讃えてあげなきゃいけないだろう。


「うんうん、やっぱり、いろはすはいろはすだね。ありがと」


 ぽんぽんとわたしの頭を撫でる。

 その手を振り払い、真っ直ぐその子供じみた瞳を睨んだ。


「いつまでも、思い通りになっているつもりはないですけど」

「へぇ……」


 頑として譲らない。

 わたしにだって、確かにあるはずなのだ。

 一人でも、決意した。

 揺るぎない信念が。


「じゃあ、期待してるね」


 心底見下したような視線。

 いつか、きっと。

 この侮蔑的で屈辱的な視線を変えてみせると、わけもわからない、くだらない闘争心が芽生えた。


「足元、気をつけてくださいね」

「そうだね、ちょっと泥濘んできたみたい。コンクリートで固めとこうかな」


 慈悲もない言葉である。

 容赦もないし、なにもない。

 まぁそんなもの、いらないけど。

 しかし、泥濘んでる、か。

 本心からそう思わせられたのなら、今は満足しておこう。

 しばらくそのまま。

 どちらともなく笑う。


「はるのんー」


 がばっと抱き着く。

 柔らかい。

 わたしこんなに柔らかかったかなぁー、おかしいなぁ。

 同じ女の子なはずなんだけどなー。


「よしよし」

「先輩に会えないです、本当にそれだけが辛いですー。先輩と会えるならなにをしようがどうでもいいです」

「うん、うん……? それはちょっとどうかと思うなー?」


 マジかよと引き気味な視線を向けられてしまった。

 でも、本当に心の底からどうでもいい。


 わたしが嫌だったのは、わたしが動くことで先輩に会いづらくなることだった。

 けど、今日、先輩に会ったとき、先輩の不安が見えていて見逃したら、結局、顔は合わせづらくなるな、と思ってしまったのだ。

 先輩が傷つくのを黙認したら、二度と笑えなくなってしまうような気すらした。

 ずっと後ろめたくなるくらいなら、ちょっと会えないことくらい我慢できる。


 何ヶ月付き合えば別れてくれるかな。

 彼を傷つけないようにするために、彼が振るまでわたしは演じなければならないのだ。

 依頼なんて、来なければいいのに。


 と、思ったところでなんの意味もないことは分かっている。

 けど、分かっているのと、理解しているのは別だ。

 納得出来なきゃ理解じゃない。


 せめて夏祭りまでには別れたいな。

 今年は先輩の誕生日と被ってるから、デートついでに誕生日プレゼントを渡すのだ。

 なにそれ楽しい。

 やだ、わくわくしてきた。


「なに、にやにやしてるの……」

「いえ、なんでもないでーす」


 企みの成功に一縷の望みをかけて、わたしは全力で彼と付き合おう。

 彼と別れるために。

 なんとしても。


 こんなことを考えていると、どうにも自分が悪辣というか悪逆というか、悪鬼のごとき存在に思えてきて仕方がない。

 まあ、この際、捻じ曲がったやり方であることは肯定しよう。


 非常に不服ではあるが、わたしが憧れを真似たことは事実であり、その憧憬の的がそもそも捻くれている。

 であれば、虚言で彼の学生生活を守ったわたしもひん曲がっていて然り。


 わたしにはアイデンティティーがないんだと思う。

 もっと言えばセルフアイデンティティー?

 意味はそんなに変わらなかったかな。

 自己同一性障害に割りと近いだろう。

 自分がない。

 他人は疎か本にすら、すぐ影響を受ける。

 それでも、ただ信念だけはあった。


 そこに、彼のためという考えが一分でも含まれていたかと聞かれればそんなことはない。

 もし、一通りの流れを見て誰かのためだと思った人が一人でもいたならば笑止千万。


 ヒーローでもなければ、ヴィランでもない。

 他人のためになにかをするほど正義じゃないし、悪評が広まることを良しとすることは出来ない。


 なんだこれ、清々しいまでのクズっぷりだな。

 でも、本当に一ミクロンも彼のことなんて考えちゃいないのだ。

 なんなら断言しよう。

 絶対にない。


 わたしはわたしの大切なものが失われるのが怖いから、わたしのために道化を演じるのである。

 仮面を被った経緯だって、確かそんな理由だった。


 やること成すこと言うことがころころと変わっても、それだけはきっと、変わらない。

 わたしの人助けに労わりも思いやりもない。

 言い直した方がいいか。


 わたしはわたしが大切だから、あんなことをしたのだ、と。


 はなっから隠す気などさらさらない。

 私利私欲のため。

 それが真実。

 真実はいつも誰かにとって残酷だ。


 わたしはわたしに嘘は吐かない。

 自分にすら疑われてしまったらなにに信じてもらえばいいかも分からない。


 あぁ、そうか。

 例えば、百人の友達がいて、百人に嘘を吐き続けなければいけなかったとしても、たった一人、わたしに嘘を吐かなければそれでいいのだ。

 わたしだけには包み隠さず話せる。

 なんだ、信実、あったじゃん。


 信実だって真実に負けず劣らずな残虐性を秘めていた。

 中途半端な信頼は誰かにとって苦しい。

 中途半端に実直な彼はわたしにとって傷ましい。


 そもそもが他人に求めるべきものではなかったのだ。

 なんにも知らない、知ってもらおうとしても伝わらない、全てを理解されることはない。


 それなのに誰かに信頼してもらおうだなんて、理解して欲しいだなんて、そんな考え自体が常軌を逸しているとしか思えない。

 分かっていたものを再認識しただけなのに、少しだけ自分のことを知れた気がした。


 ——なのに、まだ、諦めきれない。


 疑うことも、装うことも、騙すことも、貶めることも。

 おおよそ、人間の醜い部分であり同時に人間らしい部分のほとんどを知ってしまっているのに。


 どこかにあるんじゃないかって。

 わたしの中以外にも信実はあるんじゃないかって。

 あの部室にいるとそんなくっそくだらない妄想をしてしまう。


 分かって欲しい。

 知って欲しい。

 知らないままでいられることはひどく怖いことだから。

 勘違いして、すれ違って、遠ざかっていってしまう前に。

 完全に理解されて、信頼して欲しい。

 全てを暴き出されたい。


 ——自分は、信頼なんて出来ないくせに。


 そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

 醜悪で汚穢した自己満足。


 けれど、もし、全てを知ってもらえたなら。

 もしもお互いがそう思えるのなら。

 その汚さを許容できる関係性が存在するのなら。


 そんなこと絶対にできないのは知っている。

 そんなものに手が届かないのも分かっている。

 でも、そんなものは存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても、わたしは。


 ————わたしは本物が欲しい。


  ****


 中間テストが終了し、三日が経った。

 あの日から数えれば、二十日ほどだろうか。

 週明けの月曜日。

 英語で言えばMonday。

 これパッと見もんだいって読める気がするのわたしだけなの?

 というわけで、なんだか問題が起きそうな気がしている。

 どういうわけでだよ、支離滅裂だよ。


 既に梅雨時。

 最近、太陽の顔を拝んでいない。

 岩戸隠れってやつだろうか。


 空は今にも降り出しそうなほど曇っている。

 この心中で雨は勘弁してもらいたいな。

 最近、先輩の顔も拝んでいない。

 あれ以来、先輩とは一度しか話してない。

 一度話せただけでもラッキーだと思わなきゃ、かな。

 はるのんに邪魔されてほとんど話してないけど。


「はぁ……」


 先輩に会いたい。

 しかし奉仕部との関係がバレるとまずい。

 どうしたものだろうか。


 ちなみに、校内ラジオは今日から始められそうだ。

 初回ゲストと、知りたい情報についてはアンケートを取ってある。


 わたしの学校知名度もうなぎ登りになること間違いなし。

 ここのところ、女子に話し掛けられる、というか、親しげに接せられることも増えた。

 葉山先輩を諦めたのが露見したからだろう。


 見事なまでの手のひら返し。

 わたしってかわいいから(顔が)。

 利用するにはもってこいなんだろうなー。

 見事なまでに名前を覚えてないのだが。


 いや、思い出そうとすれば思い出せるけど。

 思い出そうとも思わないわけだ。

 彼女らの名前を覚えるくらいなら、英単語を一つ覚えた方が大分マシだな。


 そんなどうしようもないことを考えながら、駅から出て、学校までの道のりを歩く。

 先輩の登校時間に合わせたいなー。

 そうなると、もうちょっと遅い電車に乗ればオッケー。


 けれど、最近は一定ではない。

 先輩と出くわすであろう時間は論外。

 会ったらなんか気まずいし、先輩と喋ってるときに彼氏(笑)が登場して変な修羅場になったら軽く五回は死ねる。


 その点、葉山先輩ってすごいよね!

 最後までチョコたっぷりだもん!

 甘々だし、先輩もわたしが葉山先輩狙いだと思ってたはずだから一緒にいてなにも気負うことがない。


 まあ、葉山先輩の話は置いといて、それなら、先輩と会う時間から一つずらせばいいだけじゃないかって話になりそうなもんである。

 だが、人生そんなに甘くない。

 いろいろ、いや別にいろいろじゃないや。

 とにかく理由があるのだ。


 うんうん唸っていると、ちょうどその元凶がやってきたらしい。

 キキッとタイヤの擦れる音がわたしの隣で鳴る。

 わたしはと言えば、やったー会えてうれしーなーみたいな笑顔の描かれた仮面を生産し、バッと横を向いた。


「あっ、おはよぉ〜!」


 我ながら甘ったるい声である。

 カキ氷シロップ(イチゴ味)を注いだコップに、果糖と練乳とハチミツを投入して「はい、ジュース。飲む?」みたいな。

 最後のセリフいらないな。

 ただの悪魔だった。


「おうっ! 最近よく会うな」

「だねーっ(うっわ、白々しい)」


 余りの白々しさに聞く人が聞けば分かるような声色になってしまった。

 最近よく会うってなに。

 わざわざ会った次の日から別の電車に変えてるのに君が毎回特定してくるんでしょ。

 女子か。


 まあ、そういう部分に疎いのは救いである。

 意図的に避けてるのがバレたら気づかれる恐れが出て来ないこともない。

 っていうか、それを奉仕部に相談されたりしたら困るし。

 加減が難しい。

 明日は何時の電車に乗ろうかなー。


「なぁ、明日は何時くらいに登校するんだ?」


 おっと、とうとう聞かれてしまった。

 いつか聞かれそうだとは思ってたけど。

 そんなに一緒に登校したいのー?

 マジで女子かよ、こいつ。

 わたしは君より先輩と登校したいなー。


「んー、いつも起きた時間によってバラバラだから分かんないかなぁ。なんで〜?」


 きょとんと首を傾げて、全然意図が分かりませんよーって感じの言葉を返す。


「あ、いや、別に」

「そっかぁー」


 にへらと笑うと、スポーツマンらしい明るい笑みを見せてくれる。

 女々しいのは自覚しているのだろうか。

 直接言うだけの度胸はないらしい。

 ま、断られたら怖いもんなぁ。

 分かる、分かるよ、その気持ち。

 わたしも頑張るから、君も頑張ろうぜ!

 いや、頑張られたら困るわ、やっぱ今のなし。


「そういえば、今日分かるんだよな、順位」

「うん、そうだねーっ」


 わたしは何位だろうか。

 一位は取れているだろうか。

 あれだけ勉強したし、テストも手応えがあった。

 自信はある。

 根拠はない。


 今日、全ての試験結果が返ってくる。

 定期考査順位の公表は生徒総会でも議論が白熱したわけだが、両者譲らず時間が押してきてしまったので、代案として提案された上位三十名のみ公表に落ち着いた。


「いろはは頑張ってたから名前出てるかもな!」


 僅かに、だが。

 いろは、の部分が強調されていたように思う。

 気のせいかもしれないが。


 しかし、もしそうでなくとも、この男子が女子の名前を呼ぶことになにかしらの想いを抱いているのは間違いない。

 どの男子も、なんて言わない。

 葉山先輩みたいな人だっているし。


 なんだろうか。

 独占欲か、こいつは俺の彼女なんだと自分に認識させているのか。

 どちらも、なんだろうか。

 自信が欲しいのか。

 証拠が欲しいのか。


「えー、そうかなぁ〜」


 考えてみれば、男女交際というものを定義できるものなんてない気がする。

 お互いがお互いを彼氏彼女だと認めて好き合っている、とか。

 いや、それは今のわたしが真っ向から否定している。


 好きでなくても成立してしまう。

 相手の気持ちなんて分からない。

 だから、嘘をついて隠していくのは容易だ。

 自信、証拠、か。

 そんなことで得られる証拠に証拠としての意義はあるのだろうか。


 名前なんてただの記号でしかないのに、そこに意味を見いだそうとする。

 くだらない価値観であるが、同時に誰もが持っている価値観。


 わたしだって先輩の名前を今更呼べない。

 雪ノ下先輩だって八幡だなんて呼び出すことはないだろう。

 結衣先輩はあだ名をつけたりしてる。

 葉山先輩みたいな人であっても、ヒキタニくんと比企谷で区別したりするのだ。

 はるのんだってそう。


 それになんの意味があるのかと問われれば、わたしの場合は恥ずかしいとしか言えない。

 なにが恥ずかしいのか意味不明。

 それでもなんか恥ずかしいの!

 い、いや、別に呼びたいわけじゃないけどね。


 彼の場合も自分でよくは分かっていないのかもしれない。

 それでもなんとなく満足してしまっているのだろう。

 名前を呼ぶことが必ずしも親しさに直結するわけではないのに。


「俺は微妙かもなー、全然勉強してねーし」

「えー、そうなの〜?」


 わたしを勉強に誘っておいて勉強してないとかどういう了見ですか。

 いや、お見舞いだなんだかんだと難癖つけて断ったわたしにも原因はあるのかもしれないな。


 不健全な理由で誘っていたのではなく、モチベーションが下がってしまったのだと思うことにしといてあげよう。

 なにこれ、超上から目線。


 さり気なくスキンシップを避け、会話に相槌を打っている間にも足は動いているため、学校に到着する。


 この数日間で、彼がどうして悪戯をされたのか分かってしまった。

 ぶっちゃけ、ちょっとウザいのだ。

 なんか自意識過剰っていうか。

 勘違いしやすいっていうか。


 会話が特別上手いわけでもない。

 顔が別段よかったりもしない。

 でも、なんか調子乗ってる感がある。


 所属するグループを間違えてしまったという可能性が有力。

 年度が変わって変わるのは、なにも先生だけじゃない。


 当然のようにクラス替えがあり、新しいグループが結成されるわけだ。

 毎年毎年、よくやる。

 どこぞのアルファベット三文字のアイドルグループですか。


 そこで運悪く人気者が集まるグループに所属してしまったのが彼というわけだ。

 たまに見かけると劣化葉山先輩みたいなのと喋ってるし。

 いるよねー、三人ユニットで一人だけ顔悪いやつ。


 空気を読む力もない。

 会話を盛り上げる力もない。

 でも、女子だけは寄ってくる。

 だから勘違いした。


 浮かれて調子に乗ってるやつほどウザいもんはない。

 今回、彼はあくまで被害者なわけだが、もうこれ放っておいて自覚させた方がよかったんじゃないのとか思ってしまう。


 だから、やっぱり、一般的に考えて、わたしのやったことも、先輩のやろうとしたことも正しくない。

 だが、それならどうすればよかったのかわたしには分からない。

 自覚させたら彼は傷ついてしまう。

 それは奉仕部はもとより、わたしとしても望まないことだ。


 鬱陶しいし、面倒くさいし、女々しいし、頭悪いし、中途半端だし、チャラ男もどきみたいな彼だが、別に嫌いじゃない。

 欠点こそあれ、嫌悪するほどでもない。

 わたしにだってとても隠しきれないほどの欠点があるのだし。

 嫌いじゃないし、好きでもない。

 やっぱり、(どうでも)いい人だった。

 どうでもいい人を積極的に傷つけようと思うほど、わたしは人間辞めてないつもりだ。


 問題はなんだっただろうか。

 正しかろうが、間違っていようが、わたしとしては正しかったので、後悔はしていないけれど、どんなことであれ反省はすべきだろう。

 省みて、似たようなことが起きたときに、次はもっとうまく出来るようにするべきなのだ。


「お、あれじゃね?」


 隣から聞こえたそんな声に反応して、彼が指差す方向を向く。

 廊下の壁に設置された掲示板。

 そこには何枚か紙が掲示されていて、その前に幾人かの生徒が群がっていた。


 近づいて掲示板を見上げ、総合順位と書かれた紙から自分の名前を探す。

 下から。

 上からより下からの方が期待が高まる気がするのは、わたしの名前がこの紙に書かれているという自信があるからだろうか。


 六位 一色いろは


 ぐっと心の中で拳を握りしめる。

 ——くっそ、悔しいっ!

 えぇー、あんなに頑張ったのに六位なの?

 納得がいかない。

 一位取りたかったなぁー。


「おっ、いろは名前載ってんじゃん」


 彼がなんか言った。

 ぽすっと頭になにかが乗せられる。

 やめて欲しい。

 避ける隙もなかった。

 いや、わたしが隙だらけだったのか。


「は、恥ずかしいよ……」


 上目遣いで見つめつつ、そっと手をどける。


「お、おう、ごめん」

「……ううん」


 葉山先輩ならいい。

 はるのんでもいい。

 先輩なら最高。

 でも、そんな目でわたしのことを見ながら頭を撫でるのはやめて欲しい。


 なに考えてるのかだいたい分かる。

 テストは終わった。

 お母さんも先月末に退院した。

 だから、そう、ようやく恋人らしいことができると期待しているのだ。


 残念だが、恋人らしいことなんて、なに一つするつもりない。


「またすぐ期末だから頑張らないとねーっ! 高校総体も一次トーナメント始まったし。部活頑張ろうねっ! 生徒会が七月の記念イベントで忙しいからあんまり顔出せないかもだけど……」


 ごめんねーと謝罪の意を込めて眉尻を下げる。

 ここまで言われてしまえば、言えることなんて限られてくるだろう。

 人間は周囲に共感を求めたがる生き物だし、求められれば応えようとしてしまう。

 相手によりけりだが、基本的にそういう性質。


「そ、そうだな! 頑張るよ!」


 だから、こう言わせることになんの苦労もいらない。

 言質を取ることになんの意味があるのか。

 深い意味はない。

 ただ、目の前で頑張ると口にしてしまった以上、そうしないことに少なからず罪悪感は生まれるから、それを回避しようとするのもまた性質。

 それだけの話。


「うんっ、応援してるね〜」


 無責任な信頼。

 無責任な期待。

 こちら側にはなんの苦痛もなく、一方的に相手を追い詰める精神攻撃。

 その人間が適当であればあるほどわたしの求める結果になる可能性は大きい。

 プレッシャーっていい言葉だなー。


 この期待を裏切れば関係が壊れてしまうと無意識的に自覚させる。

 だから、頑張る。

 頑張って辛くなる。

 辛くなると逃げたくなる。

 そして天秤にかけるのだ。

 頑張りとそれに対する見返りを。


 そこで気づく。

 論功行賞なんて言葉がバカらしく思えるほどのコストパフォーマンスの悪さに。

 どれだけ頑張ってもわたしとの進展がまったくない。


 適当だから、逃げることを選ぶのに時間はいらない。

 他に好きな人ができたとか、ついていけないとか、適当に理由をつけて別れを切り出せばいい。

 振らせるのも案外楽なもんだ。


 要は面倒くさいとかつまんないとか思わせればいいだけ。

 振られ方が分かっていたからこそ、わたしはあんな行動を取ったのだ。

 まあ、告白が成功しないのが最善だったんだけど、それが無理なのも分かってた。


 奉仕部の依頼も完遂される。

 デートプランを考えたところでデートには行かないし、行ったところでイチャイチャするわけでもない。

 依頼はサポートであって進展じゃないから、奉仕部の範疇外だ。

 なにも気にすることはない。


 わたしにしては上出来だろう。

 雪ノ下先輩にバレてしまったのが少し不安だけど、バレてしまったものはしょうがない。

 もしそれでなにか問題が起きたのならそのとき考えればいい。


「じゃあ、また部活で」

「おう」


 簡素な挨拶を交わして教室へ入る。

 一瞬、四方八方から視線が集まり、間もなく散開。

 ほとんどの人が再びおしゃべりに戻る中で、数人がわたしに近づいてきた。


「いろはちゃん、おはよー」

「あ、おはよー」


 にこにこーっと笑う。

 どうでもいい人とどうでもいい会話。

 現在進行形で時間を無駄にしてると思うと憂鬱になってくるので、先輩の顔を思い浮かべながら適当に答えるのが吉。

 授業とそれを繰り返しているうちに昼休みがやってきた。


「今日から放送するんだっけ?」

「そうだよー、行ってくるねー」


 ばいばーいと手を振り、足早に放送室へと向かう。

 ゲストにオファーは承諾されているから呼びに行く必要はない。

 さらに、放送自体は昼休憩が開始されてから二十分後なのでそこまで急ぐ必要もない。

 だが、しかし、まあ、待たせても悪い。

 というより、女子の会話に混ざるのがだるい。


 校内有名人の話を面白おかしく冗談交じりにその本人と語り合う。

 休み時間に音楽を聴いても本を読んでも楽しめない孤高な御仁が満足するとは到底思えないが。


 けれども、他にたいした案も出ない。

 であれば、手段を考え実行してその孤独愛好者が満足出来なくてもそのあとはご自由にどうぞという話だった。

 わたしは満足だから、無名匿名顔も知れない赤の他人のことなんてどうでもいい。


 満足。

 ……いや、実際には、この人気者との対談というのはかなり危ういのか。

 雪ノ下先輩の有名人っぷりは葉山先輩と比べて勝るとも劣らないほどだ。

 だから、近いうちにきっと会うことになる。

 ん、あ、いや、そんなものは操作してしまえばいいだけの話だった。


 これを使えば軽い情報操作なんかも出来そうだな、なんて不穏なことを思い浮かべてせかせかと歩く。


 一人ぼっち、か。

 心の底から孤独愛好者なんて本当にいるのだろうか。

 どこに行っても一人。

 それがどれだけ寂しいことか考えたことがあるのだろうか。


 ふと周囲を観察してみれば、確かに一人で行動している者はいる。

 今、このときに限れば、わたしもその一人ぼっちにカテゴライズされていておかしくない気さえする。


 まあ、でも、その、例えば先輩とかに言わせてみれば違うのだろう。

 時間を限定すれば一人で動く機会なんていくらでもあるわけだし。

 そんなことを言えば、先輩も時間を限定しなければぼっちではない気がするけど。


 いつも一人、ね。

 いつも一人な人間なんて少なくともこの学校にはいなさそうだけど。

 それとも心の問題なのか。

 どれだけ友達がいても、心の中ではいつも一人。

 そんなの、みんなそうだ。


 わたしたちって親友だよね、とか。

 部活仲間だから、とか。

 なんでも話し合える仲だ、とか。

 どれもこれもひとりよがりに違いない。


 学校で友達を作ることにどれだけの意義があるのか知れない。

 作っても卒業したらどうせ会うこともない。

 協調性とか仲間意識とかくだらない。


 学校で友達を作らないことにどれだけの意義があるのかも知れない。

 作ったら卒業したあともなにかの役に立つかもしれない。

 排他的とか敵対意識もくだらない。


 そんなのどっちだっていいじゃん。

 あのときあいつとつるまなければ。

 あのときあいつと仲良くしておけば。

 後悔しながら生きていくのは疲れる。


 であれば、自分のしたいようにするのがいい。

 もちろん、その先のリスクリターンを計算して、だ。

 どれを失いたくないか。

 なにを手にしたいか。


 そして、そのあと後悔してはいけない。

 自分で選んだ道なんだから、肯定してあげなきゃまちがいでしょ。

 だから、そんなシリアスな顔してお弁当食べるのやめようよ。

 超美味しくなさそう……。


 件の匿名相談人は、一体なにを思ってあんな相談をしたのだろうか。

 彼か、あるいは彼女かも知れないが、考えてみれば、孤独愛好者ではなかったのかもしれない。


 先輩がそうだったから彼らもそうとは限らない。

 むしろ先輩以外はそうじゃないと考えるほうが理に適っている。

 先輩はちょっと特殊。


 本や音楽という選択肢を潰して、奉仕部に相談をした意味。

 友達が欲しかった、とか。

 匿名でも言えなかったわけか。


 ていうか、匿名……?

 全く関わり合いのない人が奉仕部のお悩みなんたらにメールするなんてことがあるのだろうか。

 わたしは分からないことも多いが先輩たちは送り主のことを知った風だった。

 そうなると、あのメールを送ってくるのは奉仕部の存在を知っている人だと考えていいのかも。


 剣豪だとかホモだとかお姉ちゃんだとか、恐らく自身を表すキーワードを使ったハンドルネーム、はたまたyumikoなんてど直球でくる人すらいる中で匿名。

 知り合いだからこそバレたくなかったみたいな作為的なものを感じる。


 ふむ、どうでもいいな。

 もし仮にその匿名さんが奉仕部メンバーの知り合いだとしても、わたしに分かるわけもない。


 そもそも真意が友達が欲しいだと決まったわけじゃないし。

 あんまり深読みして考えなしで行動しても失敗する未来しか見えない。

 別にやりたくないし。


「あっ」


 思考を中断すると、放送室の扉に誰かが寄りかかっているのが見えた。

 流石にそんなすぐ来るとは思ってなかった。

 小走りで駆け寄ると、相変わらずな爽やかオーラを纏ったその人はわたしに気づいたらしい。

 軽く手を上げて挨拶をしてきた。


「やあ」


 にこりと笑って葉山先輩に挨拶を返す。


「こんにちはー! こんなに早く来ちゃって大丈夫ですかー? なんか、ほら、三浦先輩とか」


 あとで詰め寄ってきたりしないですよね?

 大丈夫ですよね?

 そんな不安を察してくれたのか、葉山先輩は苦笑する。


「ああ、それなら心配ないよ」

「そうですか、それならいいんですけどー」


 言って、あらかじめ借りていた鍵で放送室の扉の錠前を外す。


「っていうか、お弁当持ってますけど、わたしが早く来なかったらどうするつもりだったんですかー……」


 入室しつつ問う。

 葉山先輩の手にはお弁当が入っていると思われるお弁当袋の持ち手が握られている。

 思われるというか、むしろその様相でお弁当が入ってなかったらびっくりするレベル。

 そんなドッキリを仕掛ける意味も意義もないので、まずお弁当で間違いないだろう。


 中には更に二つの扉があり、片方の扉を開いて中に入る。

 放送室の控え室、とでも言おうか。

 ガラス板で区切られた向こうの部屋には、機材というかなんと呼称すればいいのかよく分からないが、放送室らしい設備が備わっている。

 パッと見狭っ苦しい感じだ。

 実況席なんかに似てるかもしれない。


 たいしてこちら側は割とスペースが広く取ってあり、四人掛けの食堂テーブルが置かれている。

 お弁当を置いて椅子に座り、改めて葉山先輩を見ると、なにやら困ったような顔をしていた。


「昼休みは放送室で過ごすから自由な時間に来ていいって言ったの、忘れたのか?」

「えっ」


 あー、言われてみればそんなことも言った気がする。

 別に早く来てもらって困ることもないし、いいんだけど。


「忘れてましたー……」

「はは、だろうな」


 特に気にした様子もない。

 それならまあ、わたしが気にしている必要もないだろう。

 気を取り直して袋からお弁当を取り出す。

 わたしが動く音以外になにも聞こえないのが不自然で、葉山先輩を見ればなぜか固まっていた。


「どうしましたー? 時間もったないですし、食べながら話しましょうよー」

「あ、あぁ、そうだな」


 慌てた様子でお弁当を取り出し、食べ始める。

 わたしもそれに習って卵焼きを一つ口の中に放り、咀嚼して自らの料理の腕の向上にうんうんと頷く。

 こくりと飲み込み、ちらと見やるとなにやら切り出すタイミングを見計らっているようなので、わたしから切り出す。


「なにか、話があったんじゃないんですかー?」

「あぁ……悪いな。最初から分かってたのか?」

「それはまあ……気づきますよー、普通」


 三浦先輩やいつものグループとの食事を断って来たのなら、いや、それを聞いていなくてもこれだけすぐ来れば気づく。

 分かりやすいというか、むしろ気づかなかったら異常。


「そうだよな……」


 苦笑い。

 さっきから苦笑いばっかりだ。

 そんな重い話なの?


「あんまりうじうじしてるの、らしくないですよー」

「それを言うなら君もだろ?」

「それはそうですけどー……ってはぐらかさないでください」


 むむーっと頬を膨らませてみせると、葉山先輩はまた苦笑して、いつかのパルコで見たような真剣な表情になった。


「君は……、君はなにがしたいんだ?」

「はい?」


 ようやく話された本題に、素っ頓狂な声をあげてしまった。

 なにがしたいって……そんなのもう分かってるだろう。


「わたしがしたいことはもう見ましたよねー?」


 あのとき、見たはず。

 言ったはずだ。

 わたしにとってはたいしたことじゃないと。

 奉仕部のためでもなければ、彼のためでもない、無論先輩のためでもないと。


 だから、あれがわたしのしたかったことに違いない。

 その返答に葉山先輩は顔を俯かせたまま、再び問う。


「……あれが、本当に君のしたかったことなのか?」

「わたしはしたくないことはしませんよ」


 一切の間も無く、一瞬の逡巡すらなく、口から言葉が飛び出したことに自分でも少し驚いた。

 その驚きは葉山先輩も同じだったのか、珍しく口を開けて間抜け顔をさらしている。

 ごまかすように咳払いをすると、三つ目の問いを発した。


「じゃあ、なんであんなことがしたかったんだ……?」


 そう問われてしまうと、わたしも少しばかり考えざるを得ない。

 その答えが分からないから考えるわけじゃない。

 その答えを言ってもいいのかを考えているんだ。


 しばらく考えてみても、言うのが得とは思えない。

 ぶっちゃけた話、わたしの価値観なんてかなり最低な部類に入る。

 どす汚れたヘドロ臭い傲慢な価値観。


 ここで言ったときのリスクは、葉山先輩と決別する可能性。

 リターンは理解されて受け入れられる可能性。

 考え方が違うだけで仲違いするとまで言ってしまうのは少々オーバーな気もするけど、それでも、悪感情を持たれるのは進んでやりたいことじゃない。


「なんで、知りたいんですか?」


 とりあえず問い返してみることにした。

 この人がなにを思ってわたしの内面を知りたがっているのかが分からない。

 決断はそのあとでもいい。


「それは……」


 とうとう箸を置き、指を交差させて組む。

 一見、祈っているようにも見えるポーズだ。

 実際は思議しているのだろうけど、この人がなにかに祈るとすればそれはなんだろうか。


 こんなことを考えることに意味はないと思うが、この待ち時間に考えてもいいだろう。

 お弁当を食べながら思惟してみる。


 祈るっていうと、一般的に神様だとか仏様か。

 神様を信じている類の人間とは思えない。

 仏教徒であれば仏を拝んでいてもおかしくないけど、形式的に拝むのと、個人的に祈るのではまた意味合いが違ってくる。


 ならば、なにか。

 わたしの場合……、わたしの場合はあれだな。

 そもそも祈らないかな。

 こうあって欲しい、こうなって欲しいと祈ることになんの意味もない。

 最悪の事態を想定していなければ辛いと分かってしまった。

 最初から期待しなければ失望もしない。

 なんの参考にもならないな、わたし。


 葉山先輩が祈るとすれば、そもそもそれはなにを祈るのか。

 こうなりたいは既に自分で解を出しているように感じる。

 なら、こうしたいだとか、こうありたいだとかになってくる。


 未来の話。

 未来に祈っているのだろうか。

 未来の、自分に。

 神様に祈るのとそう変わらない。

 未来の自分が願いを叶えてくれるなら、そんな楽なことはない。

 先輩に愛されたいです。

 未来のわたし、ふぁいと!


 本当に頑張るのは今の自分なので、無意味に違いなかった。

 どうしようもないなわたしの脳内。

 アホくさ。

 そもそも葉山先輩もなにかに祈るなんてことをしているのかと聞かれれば、そんなもの分からない。


「……以前、失敗したんだ」


 わたしのくっそどうでもいい脳内思考を破って、葉山先輩の言葉が耳に届く。


「失敗、ですか?」


 なににたいしてなのか、そういう意味も含めて葉山先輩の言った言葉を反芻するように問う。

 目を合わせると重々しげに首肯して、再び口を開く。


「俺は……、彼を、いや、彼のことをなにも知らない。だから、中途半端なことをして、傷つけた。……多分、こう思うことがそもそも彼の癪に触るんだろうな」


 彼、それが誰を指すのか。

 聞かなくても分かった。

 だから、その予想にもなんとなく頷けた。

 彼は憐れみや同情はいらないだろうと、わたしも思う。


「彼は俺に出来ないことを平然とやってのける。それが、たまらなく悔しい。それを悔しんでる俺が俺は嫌いだし、だから彼を擁護したくなる」


 出来ないことを平然とやってのける。

 その言葉に違和感とも言えない、なんだろうか、なにかまちがっていると感じた。


 だって、別に、彼は平然とやっているわけではないだろうから。

 必死にもがいて、可能性を模索して、手段を導き出し、それが出来るのが彼しかいなかったから、そうしたに過ぎない。


 うわべだけの薄っぺらい関係なんて求めてないから。

 そんなものに意味なんかないし、分かったフリをして出来なかったものから目をそらすような人間でいたくないから。

 信念だけを突き通して、やるべきことをやったのだ。


 利己的で打算的なわたしとは根本的に違う。


「それ、別に平然とやってるわけじゃないですよー、きっと」

「そうか……、そうかもな」

「その、彼からしてみれば、葉山先輩がそう見えてると思いますし。似たようなことを彼も考えてたと思います」


 今も考えてるのかは、分からないけど。

 それも、目の前の彼も同じか。

 話は思ってたより長くなりそうだった。

 この雰囲気でケータイを触る気にはなれず、時計を一瞥すると針は放送開始の五分前を指し示している。


 時間通り放送を開始するか。

 遅れてもいいから葉山先輩の話を聞くか。

 決めるのにそう時間はかからなかった。


「続き、どうぞ。なんなら放送は遅れても中止してもいいですし」

「……意外だな。なにか企んでいたんじゃないのか?」


 からかうように笑う。

 なにこの人、酷いっ!

 どっかのアホな先輩じゃないんだから、そういうこと言わないでくださいよー。

 確かに企んでましたけど。


「……わたしが今やりたいことが葉山先輩と話すことに変わったってだけですよー。放送が後日になったってたいした影響はないですし」


 明日も明後日もあるが、ゲストを呼ぶのは週二なので明日にでもまた来てもらえばいい。

 生徒の期待度がそこそこ高いので、期待を裏切るようで心苦し……くはないな、別に。

 ああ、期待といえば、目の前の人はどうなんだろうか。


「多分、期待されてますけど、どうします? 今日部活休みですし、生徒会も休みにしたので空いてますけど」


 くすりと悪戯っぽい笑みを浮かべると、葉山先輩は渋面を作る。

 はぁと諦めたようにため息を吐いて、自嘲気な笑顔を見せた。


「放送、やろうか」

「ですねー」


 期待通りの答えを出した葉山先輩と隣の部屋に移動する。

 流石学内一のイケメン、ゲスト紹介のときに黄色い声援がここまで聞こえた気がした。

 やってみれば終わるまでの時間はあっという間で、気づけば授業開始十分前。

 適当に切り上げて、ふぅと息を漏らす。


「……慣れてるな」


 メモ帳にペンを走らせていると、不意にそんなことを言われた。

 顔を見ずに返事をする。


「まあ、人前に立つことがよくありますからねー。もう半年ですし、慣れもしますよ」


 生徒会に入って半年。

 十二月頭から今までやってきた。

 慣れて当然。


「それに、もともと人前に立つのは苦手じゃありませんからねー」


 人の上に立つのは得意じゃないけど。

 壇上で話すくらいなら、マイク越しに喋るくらいなら、生徒会長一色いろはを作り出せばいいだけだ。

 そこに事務処理能力もリーダーシップもいらない。


「っと、はいどーぞ。ここに来てください。あんまり外で見られるのはお互いマズいと思うのでー」


 わたしが差し出した紙を受け取り、まじまじと見てから口を開く。


「ここは?」

「わたしの家です」

「は?」


 わたしの顔と手元の紙とを交互に見て、顔に戸惑いを浮かべた。

 ここまで動揺している葉山先輩も珍しいものだなー、とか思いながら椅子から立ち上がり、弁当を持って出口に向かう。


「早く出ないと授業遅れちゃいますよー? わたしもそろそろ行かないと。次、職場見学ですし」


 そう、今日は職場見学の日である。

 だから、実はもう既に二年生のほとんどが校内にいなかったりする。

 わたしもそろそろ行かないと怒られてしまうので、面倒だけど急がなければ。


「あ、あぁ、……いいのか?」

「あはっ、葉山先輩に限ってそんな心配はしてませんよー」


 実際必要ないだろう。

 葉山先輩がそういう人なら、心配なんていらない。

 それに、どうせ今日も怖いお姉さんは来るだろうし。


「悪いな」

「いえいえ。では、待ってますねー」


 葉山先輩と別れて校門へ向かう。

 門前には黒塗りの高級車。

 その車窓からは、にこやかな顔をした美女が小さく手を振っていた。


「いろはす、おっそーい」


 わたしが車に乗り込むと、けたけたと笑いながらそんなことを言う。


「葉山先輩と話してたんですよー……」

「へぇ、隼人と。なんの話してたのかなー? お姉さんに教えてごらん」


 教えてごらんとか。

 そんな邪悪な笑み浮かべながら言われても困る。

 半分くらいっていうか、八割方強要されている感がある。


「ほらほら〜」


 話し始めないわたしを見かねて、指で頬をつついてくる。

 痛っ!

 痛い痛いっ!


「ちょっ、痛いですってー!」


 ぱんっと手の甲で払いのけると、頬を膨らませてじとーっと睨んでくる。

 かわいいけど怖い。

 心臓を射抜かれている心持ち。


「別にたいしたこと話してませんよー。それに、今日来ますから、気になるなら直接聞いてください」


 少し引き気味に言うと、はるのんはきょとんとした顔になる。

 意外だっただろうか。


「へ? 隼人が来るの? いろはすのお家に?」

「はい」

「ふぅん……そ。じゃ、わたしも行こっかな」


 にこーっと満面の笑み。

 柔和に見えて、拒絶を許さない底知れないおぞましさ。

 瞳の奥に怪物でも飼ってるんじゃないの、この人。


「そんな怖い顔しなくても、別に拒んだりしませんよ。どうせ来るんだろうと思ってましたし、ご自由にどーぞー」

「へぇ、いろはすはなーんでも分かっちゃうんだねー」


 ここまであからさまな皮肉を言われるとは思っていなかった。

 嘲笑と侮蔑、奥に隠れるのは期待だろうか。

 いや、それはわたしが知って欲しいからそう思うだけのことだろう。

 どこか似た雰囲気を感じるからついついこの人と自分を重ねてしまう。


 ぴったりと張り付いた全てを見透かしたような笑み。

 わたしの考えだなんてお見通しだと言わんばかりに、なにか企んだところで無駄だとバカにするように。


 本当に、なにか見えているのだろうか。

 実は、なにも見えてなかったりして。

 そんなことはないんだろうが、全てが見えているとはとても思えなかった。

 わたし自身の汚さは、わたしが語らない限り誰にも見えない。


 『旧約聖書』に出てくる悪い蛇みたいな人だけど、わたしは唆されるほど無知ではない。

 『人間失格』に出てくる作りものみたいな顔だけど、わたしは騙されるほど単純ではない。

 『走れメロス』に出てくる邪智暴虐の王みたいな行動をするけど、わたしはそもそも誰も信じてない。


 であれば、そんな皮肉にたじろぐこともない。

 しかもそれ、二度目だし。


「あはっ、なーんにも分かりませんよー? はるのんのことも」


 目の前のお姉さんの笑顔を真似てそう返すと、むっと顔を顰めた。

 ご機嫌を損ねてしまったらしい。

 まあ、よくあることなので、放っておく。

 すると、しばらく無言が続く。


 ぴりぴりとした緊張感が車内を満たしているが、わたしはこの空気がそんなに嫌いじゃない。

 取り入りたいという感情が薄れていた。

 というより、ご機嫌を取って気に入られようとすることはこの人には逆効果な感じなので、怒ってるなーって思うとちょっと優越感なのだ。


「ふふっ」


 まったりと車窓から街並みを眺めていると、思わず笑みがこぼれる。

 自然に笑えるのは、今やこの人の前でだけかもしれない。

 そうは言っても、隠し事があるので作りものの笑いをするときも多いんだけど。


「なに笑ってるの」


 鋭く、突き刺すような攻撃的な雰囲気を纏った声が横から飛んできた。

 人のことを嘲るのは大好きなくせに、自分が笑われるのは許せないらしい。

 随分と傲慢なお姫様だった。


 傲慢さで言ったら、わたしもひけを取らないと思うけれど。

 この人の場合、育ちがあれだから仕方がないのかもしれない。

 人の上に立つために生まれてきたような人だ。

 むしろ、そうでなきゃいけないまである。


「なんでもないですよー」


 眉を顰めてじろっと睨みをきかせるはるのんを笑って受け流す。

 はるのんに限っては変に取り繕うほうが悪手だと思う。

 素直に話す気はないですよーと言い含めたほうが、無駄に探られなくて済む。


「はぁ」


 呆れとも諦めともつかない嘆息が、誰に向けるでもなく虚空に消えていった。

 無意識に窓の外に向けていた視線を、再びその嘆息の主へやる。

 もう緊張感は緩和されていて、怒気も伝わってこない。

 わたしに顔を向けもせずに、はるのんは口を開いた。


「いろはすはさ、どこまで分かってるの?」


 その問いにすぐ答えることは出来なかった。

 憂いを帯びた声音には僅かばかりの期待が混じっていたし、なによりそんなことを聞かれるのが予想外だった。


 らしくないと言えばそうだろう。

 だから、これが雪ノ下陽乃の本質。

 もちろんこれが全てではないだろうけど、これが雪ノ下陽乃の持つ弱さであることは疑いようもなかった。


 それすらも、演技であるという可能性を除けば、だけど。

 それだから、わたしはこの人を信じきれない。

 なにも知らないし、なにを考えているのか分からない。


 もちろん、相手の考えていることが手に取るように分かったら、そんなのは気持ち悪いというのは理解している。

 けど、なにも分からないほど怖いものもない。

 まあ、なんでもかんでも疑ってかかるわたしの性根が一番恐ろしいのかもしれないけど。


 そう考えると、誰にしたって同じか。

 期待や信頼の声は別として、言ったことを鵜呑みにできない。

 どうしてもその真意を探ろうとしてしまう。

 どうやら、わたしは相当に捻くれてしまっていたらしい。


 無垢な信頼心は罪らしいけど、汚穢した警戒心も罪深い。

 誰も信じないやつなんて、きっといつか誰にも信じてもらえなくなる。


 視線を窓の外に戻して、なんともなしに答える。


「なんにも分かりませんよー、ほんと。予想して、勝手に決めつけて、それに則した行動を取ってるだけです」


 そう、ただそれだけ。

 この人はこういう人だ。

 こういう性格でこういう態度を取るとこうなる。

 今までの行動を鑑みて予想してそうしてるだけ。


「そっか。……期待して、とは言わないんだね」


 その声音には気鬱さが欠片もなかった。

 あるいは、これも、予想に過ぎないのだろうけど。


「なにかに期待するのは、やめたんです」


 期待されるのは嬉しい。

 わたしは頑張ると決めたから、期待や応援は嬉しい。

 けれど、期待はしない。

 期待なんて言葉の響きはいいけれど、類義語は重荷だと思うから。


 期待、羨望、憧憬。

 それはその対象を型に嵌めて苦しめる。

 失望させてはならない。

 嫉妬に変えてはならない。

 幻滅させてはならない。

 完璧を求められたら辛いだろう。

 完璧な人間なんていないんだから。


 それに、期待した方も辛い。

 辛いって言い方はおかしいか。

 勝手に期待したんだから、自業自得だ。

 勝手に期待して勝手に失望する。

 勝手に羨んで勝手に妬む。

 勝手に憧れて勝手に冷める。


 その度合いが大きければ大きいほど、振り幅は大きくなる。

 誰かに、何かに、自分に、期待したっていいことなんてない。

 だからなんにも期待しないし、最初っから最悪だけを考える。

 それが一番合理的だ。


 でも、なんか悲しい。


 ときどき、心が空っぽになってしまったような、虚無感に襲われる。

 誰かに縋りたくなる。

 でも、それはしない。

 現実はいつだって残酷だから。


 誰も助けてくれないし、誰も承諾してくれないし、誰も寄り添ってくれない。

 最初からそれだけを考えてれば、世界が輝いて見える。

 憂いも哀しみもないから。


 助けてもらえたときにすっごく嬉しいし、拒否されなかったときに心から喜べる。

 多分、電飾みたいなわたしが作り出した輝きだけど、それでもそっちの方が楽しい気がした。

 一人でイルミネーションを眺めたって、楽しいはずないのに。


「それは……わたしも、含めて?」


 遠慮がち、なのにどこか高揚した声。


「もちろん、そうですよー。だから、わたしの前では頑張らなくていいです」


 もし。

 これは本当にもしもの話で、真実、仮定に他ならないんだけど。

 もしも、わたしが誰にも期待しないことで、期待され続けた人の逃げ道が作れるなら。

 電飾だけじゃなくて、そういう人たちの輝きを取り戻せるのなら、なんにも救いがないというわけでもないのかもしれない。


 密かに、いや、まことしやかにと言ってもいい。

 そんな嘘くさい微かな希望を、胸の内に真実として留めておいた。


 偽物の光が輝く一人ぼっちの世界の空に、星が見えた気がした。

 でも直視はしない。

 きっと、近くにいて欲しくなってしまうから。


「わたしが代わりに頑張りますよー」


 先輩にも言った言葉。

 葉山先輩にも、似たようなことを言った気がする。

 あのときは一緒に逃げてあげようと提案したのだったか。

 今は、ここは俺に任せてお前は逃げろって感じだな。

 やだ、わたしったらかっこいい。

 完全なる死亡フラグ。


「そっか……」


 ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

 訪れる静寂と、一瞬の緊張。

 はるのんは一言つぶやいて口を噤む。


 そのつぶやきは、今にも消え入りそうなほど小さくて、普通なら聞こえないほど微かなもの。

 なのに、押し殺しきれていない震えがそれを留めて、様にならないたどたどしい声をわたしの耳までしっかりと届かせる。

 じんわりと空気に溶けていく四つの記号から、今まで極々微々にすら感じられなかったこの人の温もりが、この空間を満たすほど溢れ出していた。


 これが雪ノ下陽乃の本体なのだろうか。

 流れていく街並みから視線を逸らさず、そんなことを考える。

 聞くのは、まだ当分先だろう。

 そのとき信じられるか分からないから、またわたしは予想して勝手に決めつけておこう。

 窓に映るわたしの顔が、なんだか妙に満足感に包まれていて、再び笑みがこぼれた。


  ****


 朝方に空を覆い尽くしていた雲はいつの間にやら退去していた。

 さつきばれ、か。

 ビルに降り注ぐ陽光は、大量のガラス板に反射されて、思わず瞑目してしまうほどの輝きを放っている。


 高層ビル、というのは、どうしてこう一面ガラス張りなんだろうか。

 デザインの問題なのか。

 どこの高層ビルもこれだと見分けつかないし、直射と反射の二段攻撃でコンクリートが焼けそうだからやめた方がいいと思いました(小並感)。


 そんな感じで職場見学を済ませ、くるりと踵を返す。

 同時にガッと、ブラウスの襟を掴まれた。


「ちょっと、どこ行くの」

「い、いやー、もう職場見学したし帰ろうかなー、みたいなですねー?」


 冷や汗をたらたらと流しながら答えると、はるのんはにたりと表情を歪めた。

 まるで誰かの弱みを握ったかのようだ。

 誰のだろうか。

 分からないし、分かりたくない。


「もしかして、今さら緊張してるなんてことないよねぇ?」


 底意地の悪そうな笑みである。

 この人いい性格してるなぁ。

 でも、そんな程度の低い挑発にわたしが乗るわけない。


「あはっ、そんなわけないじゃないですかー」


 あっれー?

 心情とは正反対のセリフである。

 一瞬、なにかに取り憑かれちゃったのかな。

 しかし、いくら嘆いてもこう言ってしまった以上、いや、もとより帰るという選択肢は用意されていない。


 すっぽかさないように送迎車付きなので、いい加減諦めるとしよう。

 今ここでこうしてることが、正しくわたしのやりたいことなのだと、そう考えるしかない。

 そう考えでもしなければやってられない。

 まあ、はるのんが考えなしに動くとも思えないから、そこまで心配はいらないか。


「よし、じゃあ行こっか」


 カツカツとヒールが地面を叩く音を響かせて、はるのんはビルの入り口へと歩みを進める。


 立ち並ぶビル群の中でも一際ぬきんでて高身長な目の前のビル。

 見分けがつかない?

 そんなわけあるもんか。

 この自己主張の強さが分からないなら、その人は飛び抜けて理性が強いのだろう。


 慌ててはるのんに着いて行くと、堂々と設置された会社板には、雪ノ下建設の文字があった。

 なにここ、スーパーゼネコン?

 Wikipediaとかに載ってるんじゃないの?


 金持ちなのは知ってたけど……、なんか閨閥とか形成してそう。

 ああ、いや、そもそもが県議会議員だったか。


「ていうか、どうやって説得したんですかー?」


 なんでわたしがこんな大手ゼネコンに一人で職場見学に来ているのか。

 それを語るには、一週間と少し、つまるところ職場見学のグループ分け兼行き先決定日の前日にまで遡らなければいけない。


『そう言えば今度職場見学あるじゃない? もういろはすの見学場所決まってるから。単独行動だよ、やったねー!』


 とは、この鉄仮面お姉さんのセリフである。

 やったねーじゃないよ。

 世界は理不尽が常だとは思っていたが、ここまで理不尽なことをされたのは生まれて初めてである。


 おかげで薄っぺらい笑顔を浮かべ続けなくても済むし、放送も行えたので、感謝してると言えばしてるんだけど。

 雪ノ下家の大黒柱と会うとなれば話は別。

 結局愛想笑いする羽目になりそうだった。


 弱者は理不尽に晒される運命らしい。

 どうにかして抗いたいな。

 運命なんて信じちゃいないけども。

 アイドントビリーブインディスティニー。


 ディスティニーと言えば、ディスティニーランド。

 確かあれの創設者はなんとかディスティニーだったか。

 なにか運命的なものを感じる名前である。

 わたしはディスティニーに因縁的なものを感じているが。

 校内放送で、ディスティニーで告白したら振られるという都市伝説を広めてやりたい。

 完全なる八つ当たり。


 あ、八と言えば、


「あー、ちょっとお願いしたら是非にって言ってくれたよ」


 わたしが終わらない脳内マジカルバナナもとい、現実逃避を繰り広げていると、ふふふという不気味な笑い声と共にそんな言葉が返ってきた。

 なに、どこの魔女?

 ギリシャ神話とかに出てきそう。


 お願いって。

 是非にって。

 お願いの内容と是非にに至るまでの会話を聞きたい。

 いや、やっぱ聞きたくない、怖い。

 まさか生徒指導の件だろうか。


「そうですかー」


 ひどく平坦な調子の声になってしまった。

 しょうがない。

 そんなことを気にするより、今は目前に迫った受付である。

 はるのんが受付嬢と二言三言交わすと、しばらくしてフロア内がざわめき立つ。


 その発生源に顔を向けると、一人の男性がエレベーターから降りてこちらに歩み寄ってきていた。

 秘書的な人はついていないが、十中八九はるのんのお父さんだろう。

 例えるなら日系ベッカムみたいな。

 雰囲気の話ね。


 これだけの企業のトップなのにも関わらず、傲慢さを感じさせない圧倒感。

 はるのんより巧妙に隠しているのか、それともこの先導者的風体が生来からの持ち味なのか。

 どちらにせよ、成功者たる資質を彼が備えているのは結果から見てまちがいない。

 一生、会いたくなかったタイプだなぁ。


 わたしたちをその誠実そうな瞳で捉え、軽く手を挙げる。

 はるのんが手を振り返すのと同時に、わたしは会釈を返した。


 あまり早く顔をあげて待ちぼうけるのもアレなので、ちょうど目の前にたどり着くというタイミングで顔を上げる。

 精悍な顔つきは口元に作られた優しげな笑みによって、柔和なものに変わっていた。


「こんにちは。君が陽乃のお友達かな?」


 決して大きくはない。

 しかし、どこまでも届きそうな通りのいい声。

 これも真骨頂だろうか。

 恐ろしいものだが、天は二物を与えない。

 そういう方面の才能が優れているのだろう。

 つまるところハッピーセット。

 まあ、なにものにも対価が必要なので、悩みという名の代金を支払い続けているのだろうが。


「はい、一色いろはと申します。本日は」


 形式的な挨拶を学生らしい笑みを添えて返そうとすると、遮られた。


「ああ、そういう固い挨拶はいらないよ。陽乃からいろいろ聞いているからね」

「そ、そうですかー……」


 出鼻を挫かれてしまった。

 じろりとはるのんに視線を向けるも、軽く受け流されてしまう。

 どうやら視線で人は殺せないらしい。

 一体、なにを聞いているのか……、わたし気になります。


 呼び方は雪ノ下さんでいいだろうか。

 ファーストネームは馴れ馴れしいし、まちがっても先輩ではない。

 いや、人生の先輩ではあるんだけど。


「では、行こうか。着いてきてくれ」


 颯爽と歩き出した雪ノ下さんに追従する。

 案内された先は応接室らしき部屋。

 手前開きのドアを開いて手で中へ勧められたので、おずおずと足を踏み入れる。


 高級さを感じさせる黒い革張りのソファ、木製のセンターテーブルを挟んで、ソファと同じ素材で作られたであろうアームチェアが二つ。


 数からして対少人数用の応接室なんだろう。

 どっちかって言えば、要人用って感じだけどそれは気にしない方向でいく。


 ちらりと雪ノ下さんの顔を窺うと、にこりと笑いを返された。

 こんなの完全に想定外だよ!

 下座?

 下座でいいんだよね?

 いくら客って言ってもこっちがお願いしてる立場で、雪ノ下さん目上の方ですし。


 とか考えつつ、身体が勝手に下座であるアームチェアに進んでるわたしだった。

 見上げた下っ端精神である。

 これは万年平社員だな、わたし。


 一応、座る前に立ち止まり、雪ノ下さんがにこにこしながら座ったのを確認して腰掛ける。


 きゃー、すっごい柔らかーい!

 なにこれ!

 学校の応接スペースにあるのと全然違う!

 本革?

 オーダーメイドだったりする?


 自然ともたれそうになる背を頑張って伸ばす。

 ただ柔らかいだけじゃなくて、なんというかなんとも言えない座りやすさである。

 なんだこれ。

 一家に一脚本革アームチェア!


「高校生にしては、よく出来た子だね」


 人好きのしそうな笑みを浮かべて言う。

 高校生にしては、のところに微量の毒を感じたのはわたしだけでしょうか。


「な、なにか粗相でもありましたか……?」


 折角の機会である。

 気にしないように振る舞うより、もしまたはるのんがなにか企んだときに困らないためにも聞いておいた方がいい。

 恐る恐る問うと、はるのんがくすりと笑い、雪ノ下さんは豪快に笑う。


「ははっ! これは確かに、貪欲だ」

「でしょー?」


 ちょっと?

 貪欲ってどういうこと?

 そりゃあ結構欲深い自覚はあるけど。

 二人のわたしの評価がマジで気になる。

 貪欲って褒め言葉だっけー?


「ど、どういう意味ですかねぇ……」


 引き攣ってしまう顔を必死に整えつつ、僅かばかりの苛烈さを滲ませて再び問う。

 しかし、そこはやはり大企業の社長。

 なんの苦もなくさらりと受け流し、爽やかな笑みを浮かべる。


 どうでもいいけど、この人笑ってばっかりだな。

 はるのんと同じで底知れない。

 雪ノ下家は怪物の巣窟か。


「悪いね、ちょっとカマを掛けさせてもらった。そんな怖い顔しないでくれ」


 別に怖い顔はしてないんだけど。

 わたし女の子なんですけど。

 ちょっとこの人、初対面の女子高生にたいして酷くない?


「はぁ……」


 もう気をつかうのも疲れた。

 これはあれだ。

 はるのんと同じタイプだ。

 いや、全部が全部ってわけじゃないけど、面白いものが好きなあたりはそっくりだろう。


 先ほどより深い位置に重心をずらし、軽く背もたれに体重を預ける。

 気を張ってたのがバカらしい。

 父親がこうなら、つまり怖いのは母親の方か。

 まあ、どっちにしろ、会いたくないタイプであることに変わりはなかった。


「あのー、わたし、職場見学に来たんですけど……」


 どう見ても案内とかする気なさそうだけど、せめてなんかしら資料くらい貰わなきゃ。

 軽いレポートもあるし。


「ああ、それなら、帰りに資料を渡すから安心してくれて構わないよ」

「そうですか……」


 準備がいいですね。

 そのいい笑顔やめろ。

 なに考えてるのか全然分かんない。


「総武高は進学校だったと記憶しているけど、なぜ職場見学を?」

「え、さぁ? 先生の考えることなんてわたしには分かりませんよー。昨年の進路統計、就職者0パーセントなので、完全に無駄だとは思いますけど」


 本当、無駄なんだよなぁ。

 慣習ってやつかな。

 それとも地域企業との交流?

 偉い人の考えることはよく分かんない。


「わたしのときもあったなぁ。中止させる気はないのー? いろはすがっていうか、生徒会が準備してるんでしょ?」


 中止、か。

 それは考えたことなかったな。

 まあ、なければないで生徒会の仕事が減るからいいんだけど、あってもさほど困るわけではない。


「生徒会は下請けですからねー。そんな権限ないです。たとえ出来ても、それに割く労力考えたらやっちゃった方が楽じゃないですかー?」


 地盤は出来てるわけだし。

 今まであったものをなくすっていうのは、そこそこ面倒だろう。

 よくは知らないけど。


「アポ取ったり面倒じゃない?」

「んー、実際そうでもないですよー? 慣れれば電話するだけですし。わたしは大手ゼネコンの取締役と会談する方がよっぽどキツいですね……」

「ははっ、まさか嫌味を吐かれるとはね」


 嫌味を嫌味とも思わないような顔してそんなこと言われても。

 爽やかすぎる。

 貪欲とか言われた仕返しのつもりだったけど、ここまで鮮やかに躱されてはぐうの音も出ない。


「進学校の生徒が企業にアポを取るのに慣れてるってのもおかしな話だな」


 言われてみればその通りである。

 将来役に立つスキルだろうし、特に問題はないけど。

 しばらく続く世間話。

 途中で出されたお茶を飲み、サイドテーブルに置いて話を切り出す。


「えっと、本題はなんですかー?」


 横に座るはるのんに視線を送るも、我関せずといった感じである。

 巻き込むだけ巻き込んで傍観ですか。

 まあ、もともと期待はしてない。

 ノープロブレム。


「そうだな……、君はなんだと思う?」


 質問に質問を返すのはよろしくないかと思います。

 さすがにそんなことを言うわけにもいかないので、考えてみる。


 はるのんが父親とわたしを会わせる理由から。

 はるのんのしたいことが、わたしになんらかの貸しを作ることだと仮定して考えると、わたしが今求めているものが答えなのかな。


 前期の生徒会の仕事は残すところ職場見学の事後処理と三十周年イベント。

 わたし個人としては、お金と学力。


 資金援助受けるほど困ってないし、断るのははるのんも分かってるはず。

 学力に関しては既にはるのんにみっちり教わってる。

 三十周年イベントのスポンサーかなにかかなー。

 そこらへんが妥当だと思う。


 でも、それだけじゃ、ないんだろうなぁ。

 貪欲。

 内容のない世間話。

 大方、わたし自身の品定めってとこか。

 はるのんからなにを聞いているのか知らないが、そんな定めるほどの価値はわたしにないと思うけど。


「三十周年記念イベントと、今こうしてわたしと話してることが本題、ですかー?」


 確認すると、こくりと首肯する。

 だいたいそんなところですよねー。

 はるのんに大きな借りを作るのは怖いから嫌なんだけどな。


「それってー、その、等価交換ってことになります?」


 問うと、雪ノ下さんはまた笑った。

 この人ほんとよく笑うな。

 なに、そんなに面白いのわたし?

 ははは、乾いた笑いしか出ないです。


「等価でいいなら構わないけどね。強制で連れてきたんだ。私に貸しを一つ作ったと思ってくれ」

「え……」


 マジですか。

 信じられない高待遇である。

 ん、ああ、いや、違う。


「はるのんに借りもないってことで、いいんですよねー?」


 はるのんに目を向ける。

 さっきからくすくす笑っていた顔が、きょとんとしていた。

 少しの間を置いて破顔する。


「あははっ! うんうん、それで大丈夫だよ。いろはすは心配性だなぁ」


 誰のせいだと思ってるんですか。

 いっつもなんか企んでるから怖い。

 いつの間にかハマってたりしないよね?

 笑ってるときが一番怖いんだよ。


「……それなら、いいんですけどね」

「わたしは父に頼まれただけだからねー」


 頼まれた、ね。

 なら、はるのんは既に報酬をもらってるってことか。


「はるのんに貸しを作ってまで話す価値がわたしにあるとは思えませんけどー……」

「そんなことはない」


 なんだか非常に凛々しい声で否定されてしまった。

 有無を言わせない強制力である。

 これも彼が成功者足り得るものなのか。


「じゃあ、なにが聞きたいんですかー?」

「ははっ、まどろっこしいのは嫌いなタイプか」

「いえ、探られるくらいなら拒否するか、自分で言った方が気が楽なだけですよー」


 遠回しに探られて、表層だけ知ったつもりで語られたくもない。

 わたしの仮面も、結構な分厚さになってしまった気がするし。

 いや、これも結局、わたしの内面に違いないか。

 隠そうとしたって隠せないし。

 だからこそ、誰にも知りえない。


「そうか。では、単刀直入に聞こう。君にはなにが分かった?」


 は?

 と、失礼過ぎる返答をギリギリのところで留めて、その意味するところを考える。

 なにに対してか、聞いてもいいのかなー。

 相変わらずのにこにこ顔には、自分で考えろと書いてある気がした。


 そんなー。

 嘆いてみても、現状は変わらない。

 もしや、こんな短期間で自分のなにかが知られたなんて思ってないよね、この人。

 わたしそんなハイスペックじゃないんですが。


 一ヶ月丸々一緒にいたはるのんのことすら全く分からないのに分かるわけないじゃないですかー、やだなー。

 しらばっくれられる雰囲気でもない、と。


 八方塞がり。

 十六方位にならないだろうか。

 ……マジでなんにも分かんないんだよねー。

 どうしよ、これ。

 そのまま答えるしかないか。


「……なんにも分かりませんよー。こんな短時間でなにかを見抜くとか、嘘発見器じゃないんだからそんなの無理ですよ」


 別に嘘ついてるわけじゃないか。

 それでも無理なもんは無理。

 人の感情を見透かせるのなら、こんな恋煩いに頭悩ませてないし。

 人の行動を読むのに長けているわけでもない。

 たまーに、分かる時があるだけだ。

 分かったつもりになるのが得意なだけだ。


 人をよく見ていると言われたことがある。

 それは、当たらずとも遠からずといった感じだろう。

 きっと、見ているようで、何一つ見てなどいないのだから。


 わたしが言葉を返すと、ふんふんと納得したようなしてないようなよく分からない反応を示し、雪ノ下さんは口を開く。


「それでは質問を変えようか。どうして、途中で態度を変えたんだい?」


 うん?

 その質問なら、特に迷うこともない。


「単純に、気を張ってるのが無駄だと思ったからですよー」


 無駄なことはやりたくない。

 別に気に入られたくないわけじゃない。

 気に入られたいからこそ、営業スマイルを外したんだ。


「無駄と思ったのはなぜなのかな?」

「なぜ、と言われましてもー……、必死に悪いところ隠すより、多少毒があった方が面白いじゃないですかー? あー……、えっと、もしかして、別に面白いもの好きってわけじゃありませんでした?」


 まさか、ね。

 結構失礼な態度取っちゃってるよ、わたし。

 今更、取り繕えないよ。

 ど、どうしよう。

 はるのんと同じタイプだと思ったんだけど。


「面白いもの好き、か。いや、その通りだよ」


 よかった……。

 ほっと安堵の息を吐く。

 再び視線を戻すと、目で問われていた。

 どうしてそう思ったのか。

 同じ問いの繰り返しだ。


「はるのんと似てるなーって思ったので……、全部じゃなくて、えっと、三分の一くらいですかね。あ、これは、貪欲、わたしの返答に笑ったからですよー」


 また問われるのも面倒なので、先に理由まで述べる。


「へぇー、三分の一ね。残りの三分の二はなに?」


 結局、また問われてしまった。

 はるのんの問いに僅かに顔を横に向けて、答える。


「外面と、はるのん自身の持つなにか、です」

「……ってことは、外面と面白いもの好きはわたし自身の持つものじゃないってこと?」


 きょとんと首を傾げてさらに問いを重ねてくる。

 かわいい。

 いや、違う違う。

 なんて言えばいいんだろう。

 そういうんじゃないんだよなー。


「んー、なんですかねー。三分の二が親の影響、遺伝みたいな感じでー、三分の一が環境で形成された人格……、みたいな?」

「ふぅん」


 なんか興味深そうに頷かれてしまった。


「まあ、わたしにはなんにも分かりませんけどー。どれも勝手に予想して決めつけてるだけです。これから変わる可能性も変わらない可能性もあります」

「そっか……」

「そうです」


 人格やら性格やらは一定じゃない。

 わたしみたいにころころ変わることもあるだろうし、どっかの誰かみたいに頑として変えようとしない人もいる。


 変えようと思って変えれるものではないし、変わりたくないと思っても変わってしまう。

 常にその形を変え続ける。

 芯となる部分が変わらなくても、付随するものが変われば形は変わるのだ。

 だからこそ、信頼できない。


 いつの間にか、わたしの知らない誰かに変わってしまっている可能性が少なからずある。

 だから、期待もしない。


 そんなんだから、寂しいんだろうなぁ。


  ****


 外はまぶしさが健在で、キラキラと反射した光が妙な輝きを放っている。

 傲慢と顕示欲と見栄が生み出したビル群。

 人間のつまらなさの象徴みたいな場所である。

 ナンバーワンよりオンリーワンってどっかの誰かも言ってたよ。


 詭弁だと言うだろうか。

 たった一つの掛け替えのないものなんて怖い。

 いつか壊れてしまうと、言うのだろうか。


 それとも。

 絶対に壊れない、と。

 夢物語を騙るのだろうか。


 両方、入り混じってるんだろう。

 でなければ、こんなに迷ってない。


 迷宮に閉じ込められた心待ちである。

 行き止まりばっかりで。