2016-05-10 00:01:49 更新

概要

いろはすSSです。三年になった八幡のオリジナル展開です。 /→さあ、今回もくっそ長くて申し訳ない。反省してるよ!ゆったりとした時間に、気楽な感じでくつろぎつつも、いろいろ大目にみる感じで読んでね!


シリーズものなので、初めての方は↓からどうぞ。


一色いろは・被害者の会 ~黎明篇~




※※※※※※※※※※※※

~前回までのあらすじ~


一色いろは幕府による弾圧の下、末法の憂いを深める総武高校。

そんな無明の闇を打破すべく、八幡・戸部・副会長は『一色いろは・被害者の会』を結成する。



――夏休み。


銚子のホテルで短期バイトに励む八幡たち生徒会メンバー。

そこでも傍若無人に振る舞う一色だったが、持ち前の適応力を発揮し、僅かな日数にもかかわらず従業員たちの掌握に成功する。


しかし来る大宴会場のイベントを目前に、主役の「サイケネス中原」が遅刻するというトラブルに見舞われる。

一色は、彼が到着するまで会場を維持する大役をその存在感ゆえに担わされてしまう。


果たして八幡達は三十分の間隙を埋めることが出来るのか……

そして受験生が夏にこんなことをしていて良いのだろうか……


様々な迷いと恐れが交錯する中―― 今、被害者の会が暗躍する!


前回 一色いろは・被害者の会5~風雲篇(中間)~





※※※※※※※※※※※※


―― 広大な共用スペースの一角。


カーペットが敷かれたその区画に、皆は少しだらけた姿勢で座っている。


しかし崩した座り方とは裏腹に、生徒会メンバーの表情は皆一様に強張っていた。


ややもすると恨めしげなその視線は、奥まったところに置かれたホワイトボード……もとい、その前に立っている一色いろはに注がれている。


「……さ、さて、そういうわけで作戦会議です!」


少し怯んだ様子の一色だったが、取り繕うようにポンと手を叩く。


「さて、ことのあらましですが……サイケネス中原さんの前座を、見事わたし達が成し遂げよう!……そーいうお話でしたよね!」


「お前がサイケネスの前座を安請け合いしたって話だろうが。捏造すんな捏造」


早速、歴史を修正しようとする一色に釘を刺すと、皆、表情のない顔でコクコクと頷く。


「こ、細かいところはどうだって良いんですよー!」


一色はペンのキャップをきゅぽんっと外すと、誤魔化すように何やらボードに書き始める。


「とにかく!以後、当企画を次のように呼称します!―― そう、ぶ、こう、せい、……あ、ダメだ、書けない……」


……が、一色は板書が苦手らしく、途中でペンをぽいーと放り投げてしまう。


すると、さっきまで隣に座っていたはずの書記ちゃんが、いつの間にか立ち上がっており、見事ペンをキャッチする。


「次のように呼称します!名付けて『総武高生徒会☆前THEステージ』!」


そして一色の声の余韻も収まらぬ内に、書記ちゃんは同様の文言をすらすらとボードに書き綴った。


「おぉ……」


……などと書記ちゃんの成長っぷりと、この無駄に磨き上げられたコンビプレイには少し感心してしまうが、今論ずるべきはそこではない。


「……いや、名前はどうでもいいからさっさと進行しろよ」


「こーいうのは形が大事なんですって。ネーミングは最初に埋める外堀なんですよ」


わかってないなーという顔で、一色は大げさに肩をすくめる。


うん、大分調子が戻ってきましたね……この子……


でもその呼称は定着しないと思うの……


「つってもさー、学校の行事とは訳が違うべ?一般向けの宴会芸とかステージとか、そんなん俺らにできるかなー?」


「……そういう発想から離れた方が良いかもしれないな……ビンゴゲームとか、カラオケでお茶を濁す手もある……」


「まだ外堀だって言ってますのに……三人ともがっついちゃって、そんなだから女子にモテないんですよ」


けっと見下したような顔の一色に、三人して真顔で固まる。


……一体誰のおかげでこんな無駄な労働をするハメになってるのか、分かってんだろうかこいつ……


しかし、よく訓練された俺たちはその陵辱をぐっと堪える。


「まずは外堀からしっかり埋めていきましょう、困ったときは現状分析とリストアップ!」


どこかで聞いた台詞だが、まあしかし間違いではない。


いきなり中身を議論するより、まずは周辺情報を把握しておくべきだ。


と、ふと気付けば、いつの間にやら完全に一色のペースである。


「……というわけで、城廻先輩! まずは当初のスケジュールの説明……ざくっとお願いしまーす」


一色がペちーんと指を鳴らすと、めぐり先輩はあいよっと立ち上がった。


「うん、それじゃ説明すると……ツアーのお客さまが来るのは十五時。その後温泉とか、おみやげ屋コーナーを使ってもらって、十六時に宴会場に入ってもらうの。……そこでサイケネスさんのショーが同時に始まる予定だったんだけど……」


川崎姉弟がサイケネスの名前にピクリと反応して、めぐり先輩の方に目を向ける。


「でも、ここでツアー会社のミスがあって……サイケネスさんのスケジュールをあんまり確認してなかったんだね。他の営業と時間が重なってたみたいで、どんなに急いでも到着は十七時頃になっちゃうらしいんだ……」


「一時間も遅刻するのか……でも女将さんは僕達に『三十分で良い』って言ってませんでしたっけ……?」


横から挟まれた会計くんの疑問に、めぐり先輩は首肯して言葉を続ける。


「うん、女将さんは、ビールとか軽食を最初に持ってきて三十分ぐらい時間を稼いでくれるみたい。だから私達が場を持たせるのは、残りの三十分ってことになるね……」


「なるほど……つまり十六時半から十七時までの間、前座を務めれば良いわけですね……」


「『総武高生徒会☆前THEステージ』です」


「……今が十時半を過ぎたぐらいだから、制限時間はあと六時間足らずか……」


副会長が一色をスルーしつつ時計を確認すると、皆表情が固くなる。


女将さんの計らいは有効だと思うが、それでも時間が無さすぎる……


めぐり先輩はコクンと頷くと、話もそこで一区切りなのか、ついと一色に顔を向けて指示を待つ。


……会議にあたって、最年長である彼女に進行を委ねた方がいいのではないかとも考えたが、めぐり先輩も何か思う所があるのか、今回は一色の下に収まる気でいるらしい。


しかし、その表情はさっきから妙に明るげである。


時間もないし結構ヤバイ状況なのだが、一人ニコニコと楽しそうな顔をしている。


笑ってる場合ではないと思うが、しかしこれが伝説のスーパーめぐりんなのかもしれない。


へへ……オラなんだかめぐめぐしてきたぞ……!



ともあれ、書記ちゃんは話の要所をかいつまんで、ホワイトボードに簡易なタイムラインをさらさらと書いていく。


一色はそれを見てふむんと頷くと、次にちらりと副会長に横目を向けた。


「他に知っておきたいことってありますかねー?」


「うーん……とりあえずツアー客がどんな人達なのか知っておきたいかな。性別とか年齢構成とか……」


いかにも副会長らしい常識的な意見が出てくる。


「城廻先輩、そういうのって分かるもんですかねー?」


「うん、それについてはバッチリだよ。今回は事情が事情だけにツアー会社の人から詳しいデータを教えてもらったんだ」


ツアー会社よりFAXで送信された紙が書記ちゃんに手渡されると、ボードにツアー客の属性が次々と記されていく。


ざっと見る限り、小さな子供連れの家族旅行組と、老年夫婦に大別されるようだ。


十代、二十代や壮年期の客はほとんど居ないが、嫌な感じに年齢が幅広い。


一色もボードを見ながら、難しそうな顔でポツリと呟いた。


「ふーむ……結構アリエッティ豊かですね……いろんな年齢の人がいます……」


なんなのこいつ、借りぐらしとかする予定なのかな……?


多分、バラエティ豊かと言いたいのだろうが……あとでちゃんと教えてあげないと……


「三十~四十ぐらいの夫婦が一番多いみたいですね……数としては半分以上を占めてます。小さなお子さん連れがメインなんですねぇ」


「老夫婦も無視できないよ……数こそ二割ぐらいだけど、この辺の年代は声が大きいから、ちょっと心配だな……」


「お子さんの数もだいたい二割ぐらいっす……この子達も楽しんでもらわないとダメっすよね……」


……と、まあ以上が年齢層で分けた場合の、だいたいの構成比である。


ツアー客の姿は概ね想像がついたが、行うべき演目のイメージにはなかなか繋がらない。


皆も同じ思いなのか、会議が始まった時よりも難しい顔をしている。


「……まあとにかく外堀はこんなところですかね?それじゃあお待たせしました!『総武高生徒会☆前THEステージ』の演目、どんどんアイディア出してってくださーい!」


イェーイ!と一色はテンション高く皆を指差すが、しかし誰からも反応が返ってこない。


「……って、あれ?ど、どうしましたか?」


一色の進め方には何の問題もないはずだ。


しかし外堀を埋めて、かえって敵の強大さが顕になってしまった感がある。


一色から顔を向けられるも、戸部は困惑気味に口を開く。


「三十代夫婦ってのがネックだわー……この辺の人らの受けを取るのって、なんか難しそうじゃね?」


「この年代は目が肥えてそうですよね……学芸会でやるようなショートコントが良いかもって思ってましたけど……」


「下手なものを見せると白けちゃうかもしれないな……子供達や、老年夫婦にも受けが悪いだろうし……」


戸部の呻きに、書記ちゃんと副会長が同調する。


確かに彼らの言う通りだろう。一色も難しそうな顔で歯噛みする。


「……時間もあと少ししか無いっすから、用意の事も考えるとそんな難しいことは出来ないっすよ……」


「音楽系は難しいよね……これだけ年代が離れてると、カラオケなんかもあまり盛り上がらないかも……」


「万人受けして、なおかつ準備も簡単で、あんまり凝ったもんじゃないもの……難しいっす!」


大志とめぐり先輩も、手を口に当ててうーむと考えこむ。


これも二人の言うとおりである。


時間的に凝った演目は不可能だ。クオリティなど望むべくもない。



……そんな中、会計くんがぴっと挙手し、一同期待に満ちた目を向ける。


ふむ……彼は今回のバイトで決定的な働きをした。冴えたアイディアを出してくれるのでは……


「僕、ギターが弾けるんだけど……」


皆ほお……という目で会計くんを見る。意外な特技というやつだ。


「ギターなら旅館にあったと思うよ。なんならエレキも置いてたと思うけど……」


めぐり先輩の口添えにコクリと頷くと、どういうわけか俺の方に目を向ける。


「弾き語りって言うのかな……僕のギターをBGMに、比企谷が自分の黒歴史を延々と三十分披露していくっていうのはどうだろう」


「却下だ」


アホか、どの層にも引っかからんわ。


ふ、ふむ……こいつは今回のバイトで決定的な馬脚を表した……ボケたアイディアひり出しやがって……


「そ、それはやめたほうが良いんじゃないかな……比企谷の黒歴史って確かに惨め臭くて笑っちゃうし、俺も時々ツボに来るんだけど、同年代の……しかも、ちょっと特殊な人達でないと受けないんじゃないかな」


「うーん……良いと思ったんだけど……まあ、副会長が言うなら……」


心底残念そうな顔で、しょぼんと落ち込む会計クン。……ず、随分お気に召して頂けたようで……


あと副会長の言い方がちょっとひどくて、俺も内心でしょぼんと落ち込む。



ともあれ、会計クンのとぼけたアイディアに風通しが良くなったのか、他のメンバーも次々と意見を口にし出した。


手品や演劇、合唱にアカペラならどうだと、いかにも生徒会らしい演目が次々と提案されるが、しかしいずれも却下されてしまう。


どうにも客が喜ぶイメージに結びつかないのだ。


「うわー、これ本当に悩ましいっすね……年代の幅が広いと、何やるかわかんなくなっちゃうっす……」


「特に三十代の扱いが難しいよな……この層を満足させつつ、みんなが喜んでくれるようなもの……」


大志も副会長も一生懸命考えているようだが、これといった案が出ないらしく、頭を抱えて苦悩の声をあげる。


時間だけが過ぎていき、いよいよ皆の顔にも焦燥の色が滲んできた。



……ちな、俺と川崎は皆の輪から少し離れたところで置物のように鎮座している。


時折顔を見合わせては、


―― あんたボケっとしてないで何かアイディア出しなよ。


―― うっせ、そういうお前が出せよ。


みたいな微笑ましいやり取りをガツガツ視線で躱すのみである。


こんな時すっかり役立たずな、どうも俺達です。



もう一人、頼りになる人がいるのだが……ちらりとめぐり先輩を見やると、俺の視線に気付いたのか、うん?という顔でこちらに寄ってくる。


「すごいね、一色さん、ちゃんと仕切ってる。ちょっと見ない間にこんなの出来るようになったんだぁ……ふふ……」


などと完全に子供をみる親の目線である。


まあ、元々この人が得意とするのは、自分でアイディアを捻り出すというよりは、皆から引き出すことだからなぁ……


一色と得意分野が被っているため、今回はあまり役に立たないのかもしれない。


ここはホテルサイドのオブサーバーとしての役割に徹してもらった方が良さそうだ。


「川崎先輩は何か無いですか?」


「あ、や、あ、あたしは……その、こういうのダメだから……」


「姉ちゃんには聞かないであげてください……」


一色は川崎にも水を向けるが、大志のフォローにあっさり引き下がる。


これはここ何日かの付き合いで皆もある程度察していたことだろう。


皆俯きがちになったその時、戸部が閃いたとばかりにぽんと手を打った。


「はた!」


口で言うな。


「あのさー、ウチって女性陣みんな可愛いべ?」


「はぁ……ま、まあそうですかね、わたしを中心にそこそこの美少女が揃ってますよね……」


戸部にそう言われ、一色もまんざらではないのか、曖昧な笑顔を浮かべる。


でも自分を美少女っていうやつは、絶対美少女じゃないんだよなぁ……


あと、いろはちゃんはあれかな?センターとか目指してるのかな?


「だからさー、宴会場に棒とかおっ立ててさー、みんなで水着で踊るってのどう?」


「通報しますね」


「ちょちょ、ホント冗談!これマジで冗談だから……!もう本当いろはすってばジョーク通じないんだから……」


即座にスマホを取り出す一色を、戸部は肩を叩いて必死で宥める。


めぐり先輩だけ苦笑いしているが、他三人は戸部に容赦なく軽蔑の眼差しを向けている。


川崎さんとか、本当に人とか殺しそうな眼光を放っておられました。


「はは……まあ、それで喜ぶのって男性陣だけかもしれないっすね」


「お客さんにしても、半分は女の人なんだから……」


まあ、戸部のアイディアなぞ論外に決まっているのだが……




……しかし良いところも突いている。




「せんぱい!……先輩は何かアイディア無いですか?」


などと思っていると、一色がついに俺にも水を向け、続いて皆の視線が一斉に集められる。


めぐり先輩は不思議そうな顔でそんな皆の様子を見ていたが、やがて彼女もはっとこちらに顔を向けてくる。


……皆、何か期待しているようで、少したじろいてしまう。


残念ながら、俺には芸もビジョンも無い……なので正直に答える。


「無い」


「そんなあっさり……」


「俺はこういうのからっきしダメなんだよ」


「いつもみたいにアイディア出してくださいよー!あるじゃないですか、こう、斜め上でバカみたいなやつですよ!」


とても人にものを頼んでいるとは思えない言い様だが……


でもなぁ……こういうの本当にダメなんだよなぁ……


期待してくれる皆には悪いが、不得意な分野である。


「この手のアイディアがポンポン出るようなら、俺は今ごろクラスの人気者だ」


「むぅ……」


不機嫌な顔で一色が膨れる。


皆も意気消沈する中、しかし戸部と副会長だけが俺から視線を外していない。


……頭に浮かぶのは「一色いろは・被害者の会」の三箇条である。



一、一色いろはの被害者を救済する。

一、一色いろはによる被害を今以上に拡大させない。

一、一色いろはには、魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教える方向で。



そんな訳で、俺にはこの状況を打開する使命がある。


……あるのだが、義務感でアイディアが出るのなら楽なものだ。


やはり面白い考えなどそうそう湧いて出るものではない。


――しかし。


しかしだ、今行っている議論の欠陥は見える。


俺は人の欠点や、悪いところをあげつらうのは大の得意で、そこは同年代の中でも卓越している自信がある。


だから、こんな提案をしてみよう。


「……ただよ、話聞いてて、ちょっと疑問に思ったんだが……」


俺がそう言葉を繋ぐと、皆は沈んでいた顔を上げて、再びこちらに真剣な顔を向けてくる。


「なんでお前ら、“みんな”が受けるようなネタを考えてるんだ?」


「え?」


「……は?」


皆怪訝な顔を浮かべる。


中には何言ってんのこのバカ……などと蔑みに満ちた顔を隠しもしない者までいる。


……戸部はいつか絶対殺すにしても、このキーワードには思うところがあったのか、一色もピクリと肩を震わせた。


「あ……そっか……」


そう呟くと、じぃっと例の視線を俺に寄越して、無言で続きを促してくる。


ただ、どういうわけか、今回はめぐり先輩も一色と似たような視線を俺に向けている。


……思わぬ方向からの視線に、またもたじろいてしまうが、構わず言葉を続ける。


「必ずしも、客全員を喜ばせる必要なんてないんじゃねぇの」


「で、でも、こういうのってお越しの方全員に楽しんでいただくものじゃ……?」


書記ちゃんがペンを両手で握って不安そうに漏らす。


……確かに芸能人なりイベンターなら、そうした心構えも必要かもしれない。


しかし俺たちは一介の学生であり、生徒会と言っても普通の高校生に毛が生えたような別に生えてないような存在でしかない。


少なくとも、まともな大人ならそう考えるはず……


いや、まあ女将さんもいろいろおかしな所のある人だが、それでも真っ当な大人と見なして構わないだろう多分。


……で、あればそもそも、そう過剰な期待はしていないはずなのだ。


「女将さんは俺たちに『三十分、場を持たせろ』ってそう言ったんだろ?会場をどっかんどっかん盛り上げろなんて言ってない」


「屁理屈くさいっす……」


「で、でも比企谷先輩!女将さんは『お客さまが退屈しないように』……とも言ってましたよ!?」


「全員とは言ってなかった」


「そ、そうかもしれないですけど……そう解釈するのは勇気が要ります……」


なおも不安そうな書記ちゃんに、俺は悪い笑みを見せてやる。


「行きの電車でも言っただろ? 『言われたこと以外は一切何もやるな』だ、余計なサービスなんか考えなくて良いんだよ」


「……うぅ」


皆一様に目を丸くする。


……少し呆れも含まれているように見えるが、しかし捨て去ることも出来ないようだ。


その場には居なかっためぐり先輩だけが「ん?」と首を傾げていたが、い、いや、何でもないですよ……?


「誰もが喜ぶ出来のいい演目なんて、今からどう頑張っても出来っこねぇよ。……でも、一部の人が盛り上がればいいって考えたら、なんか思いつくんじゃねぇの」


「な、なるほど……確かにそう……なんですかね……?そうなのかも……」


書記ちゃんも俺のロジカルなシンキングに、ついにご納得いただけたようだ。


一色と副会長も二人して口に指を当て、同じようなポーズで考え込んでいる。


「それは……もう割りきって、確実に受ける人に受けるようなネタを考えればいいってことか……」


「はー……ターゲットを一つに絞っちゃうってことですかね……?」


……二人も、見る限りは心動いているご様子。


「まあ、要するに言っちゃえばそういうことだな。大別すると三つの層がある……この中からどれかを選べばいい」


「……となると、やっぱりこの過半数を占める三〇代夫婦……ここに絞るのが良いっすね!」


大志がぱちーんと指を鳴らすが、残念ながらハズレである。


「いや、そこはさっき副会長や書記ちゃんが言ってたように受けを取るのがもっとも難しい層だ……むしろ真っ先に切り捨てるべきだな」


「いやいやヒキタニくん!?半分はこの層の人達なんだからさー……切り捨てるのはまずいべ?こういうの……マジョッコファミリーってヤツでしょ?」


なんか日曜八時半にありそうなタイトルだな……


多分マジョリティって言いたいんだろうけど、ちゃんとあとで教えてあげないと……


「戸部先輩の言う通りっすよ……多いのを切り捨てるのはまずくないっすか?」


「大丈夫だ、この年代の人達はいわゆるロスジェネだから、切り捨てられるのに慣れてる」


「何も大丈夫じゃない気がするっす……」


「難しいとこわざわざ選ぶ必要はねぇだろ。老年夫婦か、子供……どっちかに絞っちまえばいいんじゃねぇの」


ずばっと言い切ってみるも、しかし大志だけでなく、副会長まで不安げな声を漏らす。


「それはいくらなんでもまずいだろ……どっちも数としては二割ぐらいしか居ないんだぞ……?」


「十分な量だろ。背番号22を堂々と要求した田村を見習えよ」


「いやーでもさー……打率二割に満たないのに、里崎の後釜とか図々しくね?ファンみんなそう思ってるべ?」


その言葉は聞き捨てならない――


戸部の言に、俺は思わず頭に血が上ってしまう。


「は?」


「あ?」


互いに立ち上がってガンを飛ばし合う内に、俺はピピンと来てしまう。


……もしやこいつ……


「……お前、さては吉田派だな……?あいつだって大してバッティング良くないだろうが。……それにポロポロ球落としやがって……」


「お、俺は田村の図々しさを言ってんの!……だいたいあの打順じゃアンパイもいいとこでしょ、それなのに里崎の後継者とか……!」


「は?」


「あ?」


「や、やめろよお前ら!……今マリーンズの捕手達は打撃練習してる場合じゃないんだ!」


副会長がいきり立つ俺達二人の間に入り、どうどうと諌めてくる。


……マリーンズ正捕手問題は非常にセンシティブなトピックである。


川崎姉弟も戸部に怪訝な顔を向けており、逆に書記ちゃんは薄目でこちらを睨んでいる。


一瞬生徒会メンバーにも緊張が走りかけたが、会計くんがあっさりと脱線した話を引き戻す。


「……でも確かにターゲットを絞ると考えやすくなるよね。お年寄りの人だったら、本に載ってるようなベタな宴会芸を楽しんでくれるだろうし……」


「お子さん方だったら、子供番組でやってるダンスとか一緒に踊れば良いと思うっす!……ウチの妹はまだ小さいんすけど、ああいうのもう大喜びっすよ」


「でも、子供は気まぐれですからね……定番をやった方がいいかも……」


老年夫婦か、子供狙いか……


どっちにしようかと、にわかに議論が活発になる。


そんな中、一色がパンと手を叩いて皆の注意を引いた。


「両方やったら良いじゃないですか!お年寄りと子供……二割と二割で足したら四割ですよね?」


皆一色を見る。


……なるほど、演目を二種類作ればそんな計算も成り立つ。


「四割だったら、木曜日の清田並の打率じゃないですか!充分ですよねー!?」


「ああ、今シーズンは飛躍の年になりそうだよな、内角打ちも上手になったし……!」


副会長だけ未だに野球脳から切り替わっていないような気がしたが、ともあれ彼が承認すれば議案は可決である。



―― これでグランドデザインは示された。



皆、表情が明るくなり、顔を見合わせ頷き合う。


「城廻先輩!宴会芸の本とか、このホテルに置いてますかねー?」


「うんっいっぱいあるよー!ありったけ持ってくるね!」


「あと、宴会用の機材のリストもお願いします!」


「はーい!」


言って、にこやかに立ち上がる。先代会長を扱き使ういろはす半端ないわー……


などと呆れもしたが、しかしめぐり先輩は全く不満が無いようで、大変ご機嫌な様子である。


「じゃあすぐに取りに行ってくるね。ちょっと待ってて!」


言って小走りで脇を通り過ぎる際、めぐり先輩は何故か俺の頭を掌でぽんと叩いていく。


……意図がわからず、首を捻るも、鼻歌などを歌いながら走り去ってしまった。


「さあ皆さん!それでは『総武高生徒会☆前THEステージ』のアイディア出してってくださーい!」


「よーし……じゃあとにかく子供と老人が喜ぶ演目を考えたら良いってわけだ……」


「さっきも言ったけど、子供たちには、何か参加出来るダンスみたいなのが良いと思うっす。お子さんが楽しければ親御さんも文句ないっすよ!」


「そうだな……会計が言ったように、お年の方にはベタなのが受けるだろうし……なんとかなりそうだな!」


「お年寄りの方ってー、若者が苦しんでる様を見るのが大好きですよねー?」


……怖い意見が時折差し込まれるが、皆次々と有効と思えるアイディアを打ち出していく。


なし崩しに話が纏まったが、しかし、こうなるといよいよ俺の出番はなくなってしまう。


……一旦枠組みさえ明確になれば、彼らは極めて有能なのである。




再び蚊帳の外でぽけーと座っていると、同じく蚊帳の外の川崎がこちらをじっと見ている……というよりも睨んでいる。


「……なんだよ」


「いや……やっぱりあたしには分かんないなって」


「何がだよ……」


「……褒めてんの」


言って、赤らめた頬をぷいと横に背けてしまう。


「そうは聞こえなかったんだが……」



逸らされた横顔を追うように眺めて、そして……比べてみる。


こんなやり取りを、確か去年もしたような記憶があった。


俺にしても、こいつの考えなど相変わらずさっぱり分からんのだが、しかし声音も顔色も、いずれもあの時とわずかに色が異なっている。


不意に浮かんだ笑顔を見られたくなくて、俺は誤魔化すように立ち上がる。



「……まあ、茶々ぐらいは入れとくか……俺らも混ざろうぜ」


言って、わいのわいのと話し合う生徒会メンバーを顎で差す。


川崎もコクリと頷くと、二人してのろのろと輪に近づいた。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


正面玄関前の大きな駐車場に、大型バスが三台列をなして入ってくる。


いよいよツアー客がやって来たのだ。



休憩所として使われる当ホテルは、百人程度の客なら充分収められるキャパシティを有している。


いっぺんに大浴場を使われると困ってしまうが、そこは女将さんも手慣れたもの。


グループに分けて、温泉に入ってもらったり、おみやげコーナーに誘導したり、ロビーで寛いでもらったりと実に手際よく客たちを誘導していく。


本当はもっと頻繁に団体客を取扱いたいのだろうが、そこはちょっと暗い話で、震災以降は特に観光客数が振るわないのだそうだ。


数少ない機会をなんとか大きな果実に変えようと、気合を入れているのが見て取れる。




やがて休憩を終えた客たちが次々と大宴会場に入ってくる。


そんな中、俺たちは舞台裏で最後の打ち合わせを行っていた。


「川崎、出来たか?」


「何とか三着……一応見栄えに問題はないと思うけど……」


といって取り出したるは、一人で着るには余りに大きな羽織だ。


「川崎先輩って、本当に裁縫がお上手なんですね……あっという間にこんな立派な……」


「……とにかく丈夫さの方を重視したけど、寸法にも気を遣ったつもりだから……」


ほえーと感心する書記ちゃんに、川崎はあたふたと照れくさそうに応じる。


「いい出来じゃないか……早速着てみよう。書記、おいで」


「は、はい……恥ずかしいですね……これ……」


副会長は早速、浴衣の上から羽織に腕を通すと、おいでおいでと手招きする。


書記ちゃんは、ぽっと頬を染めつつも懐に潜り込み、襟だけ整えると手を中に隠す。


……ふむ、問題ない。


川崎も隣で満足気に頷いている。


……そう、俺達が演目に選んだのは二人羽織を利用した芸の数々である。


「凄い……!誂えたようにぴったりだ……!」


「いや……誂えたんだけど……」


背後の副会長が、にゅるにゅると変なポーズを取りつつ賛辞を送る。


前面担当の書記ちゃんは苦笑いで、実にシュールな光景に副会長は爆発しろ。


……そんな感じで、衣装の出来栄えを確認していると、まもなく会計くんも舞台のセッティングを終えたのか、こちらにぐっとサムズアップを見せてくる。




―― 会計くんには、いつものように音響やライトなどの機材を担当してもらう。


こうした機器・ソフトの取り扱いは彼の得意分野でもあり、日頃より絶大な信頼が寄せられていた。


生徒会のインフラ担当であり、まさに生命線のような役割を担っているのだ。


「こっちも音響、舞台装置……どれも準備完了だ。フリーの音源も無事手配できたよ」


演目で流すフリーの音楽素材は、学校からネットで転送してもらった。


以前より懸念だった生徒会の人員不足は既に解消されており、一学期が終わる頃には大志の友人達数名が生徒会室に出入りするようになっていた。


会計くんの指示の下、急遽そいつらに生徒会室まで行ってもらい、音楽などの素材の手配をお願いしていたのだ……いや、夏休みなのに本当に申し訳ない。


「すごいすごい!今年の生徒会は盤石の体制だね!」


あまり良い話ではないと思うのだが、手を合わせてわぁーと歓声をあげるのはめぐり先輩である。




―― 今回、彼女には司会という重責を担ってもらう。


所詮は素人芸。何かと至らぬ点があるのはもうしょうがない。


そんな時、一色の煽るような芸風では客達の反感を買いかねない。


ここは元祖ほんわかパワーの持ち主であるめぐり先輩が適任ということになった。


彼女が司会でほんわかぱっぱ、めぐめぐぱっぱとやってくれれば、老若男女みなほわほわめぐりっしゅ状態になって、多少の至らなさなど笑って許せるめぐりっしゅ空間を形成してくれるに違いない。


何を言っているのか我ながらよく分からないが、とにかくそういう算段である。


「こっちも準備は完了っす!厨房の人達も頑張ってくれましたよ……!」




―― そう言って表れたるは、黒子衣装の大志である。


今回演目は複数用意している。次々と舞台の装置を変更する必要があるのだが、その任務は大志が一人担うことになっていた。


若干一年ながら、気遣いの人としてポジションを定着させた大志。


意外に大人な一面があり、不測の事態にも柔軟に対処してくれるだろう。


姉ちゃんと違い器用なところがあって、コミュニケーション能力だけでなく、単独行動においても定評がある。


次世代型ハイブリッドぼっちとして将来の期待がかけられているのだ(俺に)。


……しかしこいつ、なんか小町に似てるとこあるんだよな……一体どうしてなのかな……?


理由はちっとも分からなかったが、次に進めよう。



―― そして宴会芸を務めるのは、一色、戸部、副会長、書記ちゃん、川崎にそして俺である。


そして今回の前座……成否の如何は戸部の手腕にかかっていると言って良い。


「頼むぞ、戸部……リードオフマンとしての努めを果たしてくれよ」


戸部もそれが分かっているのだろう。


いつになく緊張した面持ちで、ぐっとサムズアップする。


意志は一つに、皆の士気は最高潮に達していたかと思われたが……


しかし、一人仏頂面の奴がいる。大きな羽織りをズルズルと引きずりながら、頬をぶくーっとふぐのように膨らませている。


「むぅ……なんで戸部先輩なんかと……」


一色いろは生徒会長その人である。


二人羽織で戸部とペアになったことにいたく不満を抱いているようだ。


「お前……いつまでぶーたれてんだよ」


「いろはちゃん、確かに戸部先輩と組むのは嫌かもしれないけど、くじびきで決めたことなんだから仕方ないよ……」


「そうだよ会長……ロン毛が鬱陶しいのは激しく同情するけど……リーダーなんだから、そんな仏頂面はみせちゃいけないよ」


「川崎先輩、代わってくださいよ……」


「いや……なんか、ロン毛とか凄い苦手で……ゴメン、あたしこういうのって本当にくしゃみとか出ちゃうから……なんか不潔そうだし……」


散々ないわれように、脇で戸部が泣きそうな顔になっている。


「それに、誰も『総武高生徒会☆前THEステージ』って呼んでくれないですし……」


……まだ言ってたのか、こいつ……


「おい、川崎、俺達も一応袖通しとくぞ」


アホは放っといて、俺も羽織に袖を通して、ちょいちょいと川崎を手招きする。


くじびきの結果、俺と川崎がペアを組むことになったのだ。



川崎も恐る恐る袖を通すと、なるほど、なかなか悪くない。寸法を測ったのだから当然とはいえ、俺達二人にピッタリとハマっている。


簡単な作りとはいえ、こんなものをちゃっちゃと仕上げるとはさすがのサキサキさんである。


だけど、あれですね……ちょっと密着が凄いことになっててアレですね……


「ちょ、ちょっと鼻息荒いんだけど」


「す、すまん、暑くて……」


などとゴニョゴニョやっていると、一色はますます不機嫌に頬を膨らませる。


「先輩が戸部先輩と変わるっていうのはどうですかね?」


「馬鹿言え、俺なんかに戸部の代わりが勤まるわけ無いだろ」


「むぅ……しょうがないですね……戸部先輩、わたし達もスタンバイしましょう」


やっと観念したのか、一色はヘイカモンと戸部を前に招き入れる。


合体すると、うねうねと腕を動かしピースサインを二つ作って見せる。


前面に位置する戸部の間抜け面と相まってすごくアホっぽい。


「よし、一色、戸部の鼻の位置はわかるか?ぐっと押し潰してみろ」


戸部の袖から伸びる一色の手がサムズアップを決めると、そのまま親指がぐっと戸部のまぶたを圧迫する


「ちょ!いろはす、そこ眼球!俺の眼球だから……!っつか鼻も押しつぶしちゃダメだから!」


……おぉ……なんかもう既に面白い……


怖いぐらいに息ぴったりのパートナーである。


生徒会メンバー達も満足気に頷いて、その仕上がり具合を称えるのであった。




※※※※※※※※※※※※※


……そうこうしている内に、いよいよ時間が近づいてくる。


女将さんの手配で、宴会場では既に食事が始まっており、中にはお酒を飲んで既に出来上がっている人もいる。


程よく弛緩していい雰囲気だ。


間もなく、先に会場入りしためぐり先輩の声が響く。


『はーい、皆様ー! お楽しみ頂いているでしょうか? 先ほどお知らせした通り、本日トークショーに来て頂く予定だったサイケネス中原は、到着まで今少しの時間を頂いております……それまでの間、せめて当館従業員による宴会芸をお楽しみください!』


ほう、と声のしたあと、場内からパチパチパチとまばらに拍手が起こる。


本職の司会とは比べられないが、人前で話をするのはさすがに手慣れたものである。


『それではお楽しみください!当館従業員、戸部・一色組による、「二人羽織・おでんの踊り食い」です……!』


早くも、会場から失笑とも嘲笑ともつかない笑い声が起こる。


大喜利で使われるような和太鼓テイストのBGMと共に、戸部と一色の座る台が、黒子と化した大志の手によりすすーと流れるようにステージに運ばれた。


めぐりっしゅ効果もあるのか、実にいいムードでの入りである。


『えー!皆さま、お楽しみいただいてるでしょうか!』


戸部がかしこまった様子で口上を始めると、後ろの一色は手をうにうにと不穏に動かし、脇に置いていた扇子を手探りで掴んで、びしっと客席を指す。


『ビールの方は切らしておりませんか?素面ではとても見れない芸なので……』


そう言っておどけた戸部の頭に、扇子がカツーンと力強く打ち付けられた。


『ちょっ……!』


じわ……と戸部の目尻に涙が浮かぶ。


やだ可哀想……だが、その哀れみが会場の笑いを誘う。


舞台の袖からその様子を覗き見ていた俺たちも、感嘆の声を上げる。


「おぉ、受けてるな……」


「凄いな戸部……老年夫婦だけじゃなく、みんな笑ってるぞ……!」


「いろはちゃん……のっけから容赦無いですね……」


掴みは上々、続いて熱々のおでんが大志の手により運ばれる。


グツグツと煮えたぎったその様に、戸部は座ったまま顔を引き攣らせる。


『ちょ!リハーサルでは湯気が立ってただけだったべ!?なんでこんなに煮えたぎってんの!?』


おそらく素で言っているのだろう、戸部の悲痛な叫びに、会場の客達はこらえきれずに吹き出してしまう。


『いや、これ本当にやばいっしょ!?いや、ちょっと待って、こんなの無理!無理!』


嫌がる戸部だが、無情にもその目の前で、割り箸がパキンと二つに分けられた。


『え、えーと、じゃあまず最初はこんにゃく!こんにゃくから頂きましょう!……って言ってるのに、やめて厚揚げとかやめて!』


一色からはおでんの配置が見えないらしく、適当にとった具材は汁をよく吸った厚揚げである。


もくもくと蒸気が立っており、見るからに熱そうだ。


だが戸部は熱さだけが理由でない汗をだくだく流して、歯を食いしばりながらそれを眺める。


やがて容赦なく厚揚げは戸部の口に近づけられていく。


『フーフーさせて!せめてフーフーさせてって言ってるのに、あっぢゃーーーーーーーーー!』


戸部の大仰なりアクションに会場からはどっと笑いが起きた。


「フフ……」


「ぷっ、クスクス……」


「ぶっフヒ!……ぶヒ!」


舞台袖にいる皆もクスクスと声を押し殺して笑っている。



……正直、俺はこうした人を傷つけることで取るような笑いは嫌いである。


安易にそれを行う者も、それを見て笑う者も、知性や品性に欠陥があるとしか思えない。


ゴールデンタイムのバラエティでも、芸人達が体を張って笑いを取る光景は決して珍しくない。


だが果たして、それは本当の笑いといえるだろうか……?


人としての尊厳を切り売りした笑いの蔓延……それは文明の退廃に繋がるのではないかと警鐘を鳴らす識者がいるが、俺もそうした危惧を持つ者の一人である。


とても正視に耐えず両手で顔を覆う。


そのまましゃがみ込むと、ズキズキと痛みだした横腹を抑えた。


『あー!もうちょっと本当にやめて!いろはす?食べらんないから!そこ口じゃないから!口じゃないから、め゛ーーーーーーーーーーー!』


引き続き食材が違う穴に入れられて、戸部が絶叫する。


「ふ……ブフ…フヒ!……フー!フー!」


宴会場からは大きな笑い声が鳴り響いた。


舞台袖でもさっきから、くぐもった笑いが絶えなく続いている。


「……ふ、ブフヒ!」


「ちょ!さっきから笑い過ぎっすよ!戸部先輩の演目のネタは全部お兄さんが考えたんじゃないっすか!?」


「もうすぐあたし達の出番だよ、ほら立って」


川崎姉弟に諌められるも、中々立ち上がることが出来ない。


あ、あかん、お腹痛い……


戸部が苦しむ姿って本当に笑えるわー……まじっべー……


「比企谷先輩……二人羽織のペアが決まった瞬間、すごい勢いで演目の内容に口出ししてましたよね……」


などと訳の分からない事実確認を行う書記ちゃんだったが、俺は少し漏れてしまった涙と鼻水を袖で拭うと、なんとか立ち上がる。


見やると、脇に居た副会長が心底関心したような顔を戸部に向けている。


「本当にすごいなあいつ……俺にはあんなリアクション、とても出来ないよ……真に迫った演技って、ああいうのを言うんだろうな……」


そ、そうね……


ギャグなのかと思ったが、どうもこの方、真面目に言ってるみたいですよ……?


……そんな副会長に一人戦慄していると、やがて演目が終了する。


『はーい、以上で終了でーす、どうもお目汚しでしたー!』


ぐったり項垂れた戸部とおでんセットが、大志によって舞台袖まで引き下げられた。


宴会場からは大きな拍手が鳴り響いており、これ以上ないぐらいの滑り出しである。


「し……死ぬかと思った……死ぬかと思ったっしょ……」


先鋒の役目を見事果たした戸部だったが、目は虚ろで焦点があっておらず、いつになく声量も小さい。


仕方がないので、代わりに一色を皆で褒め称える。


「会長、良かったよ。ジャガイモを割らずに丸々口に詰め込んだところ……すごく勢いがあって良かったと思う」


「巾着をいっぺんに二袋も口に詰め込んだのは圧巻の一言だったな」


「ジャーナリズム!」


「いやー、そんな……わたしなんてたいしたことないですよー」


皆に褒められ、てへりこと照れながら頭を掻く。


一色はサディスティックな一面があるが、それが今回はいい方向に働いたようで全て計算通りである。


会場もまだ興奮冷めやらぬといった感で、皆顔をほころばせている。



……さて、次はいよいよ俺達の出番だ。


副会長と書記ちゃんが同じ羽織に収まると、俺と川崎もぼっち同士の究極合身を果たす。


すると、一色がジトッとした目つきで睨んできた。


「……ちょっとくっつき過ぎじゃないですかねぇ」


「いや、仕方ねーだろ……」


『さて、お次は、当館従業員によるダンスを披露します!』


一色と睨み合っていると、次の演目を知らせるほんわか司会の声が聞こえてくる。


ふくれっ面の一色は捨ておいて、俺達は四人して舞台ではなく、宴会場の真ん中を目指して袖から躍り出る。


「よし、行くぞ副会長」


「ああ、頑張ろう……!」


などと気合を入れてらっしゃる副会長ですが、俺達の演目は気楽なものだ。


『ではではこれより「アルゴリ○ムたいそう・二人羽織Ver」を始めまーす!お子様達は真ん中のスペースに来てください!一緒に踊ろうねー♪』


めぐり先輩の声に、ご両親に背中を押された子供たちもトテテ……と宴会場の中央のスペースに飛び出してくる。


……そう、もはやラジオ体操に次ぐ国民的体操と言っていい、某国営放送の例のアレを二人羽織りで踊るのである。


大人たちには全く面白くもない演目だろうが、しかし子供たちと一緒に無邪気に踊るさまを見れば誰しも心が和もうというものだ。


『それじゃミュージックスタート!さあ、上手く踊れるかなー?』


めぐり先輩の声に続いて、まもなく例の曲が始まった。


……著作権とかどうなってるのかしら?と思わなくもなかったが、こういうのは某団体との包括契約やらなんやらの範疇となっているようで、カラオケ同様まったく問題らしい。


そんな訳で、俺たちは気にせずア○ゴリズムたいそうを子供たちと踊り狂う。


はいはい、手を横にっと……。


タイミングが早かったのか、俺の手を避けきれず、書記ちゃんの顔に直撃してしまう。


まあしかしこれも、ご愛嬌というやつだ。


ヒットした瞬間、書記ちゃんが真顔だったのが羽織の隙間から見えたような気がしたが、気のせいだったようですぐに微笑みを取り戻す。


そう、こうしたことは全て織り込み済みなのである。



はいはい、頭を下げれば大丈夫……と。


だが、時折、俺がぼっとしていたせいでしゃがむのが遅れ、副会長の裏拳が川崎を直撃したりもしたが、そこもご勘弁頂きたい。


こうしたハプニングこそが二人羽織の本質なのだ。


暗闇の中、舌打ちがすぐ前から聞こえてきたような気もするが、こうして俺達が失敗したり、足をふらつかせたりする毎に、子供たちは嬌声をあげて喜ぶ。


子供たちの可愛らしい姿を、親たちはスマホやカメラを携えて取り囲み、老夫婦もそれを暖かな眼差しで見守っている。


……すべては計画通りである。



会場は和やかな雰囲気に包まれているようで、お怒りになっている客は今のところ皆無のようだ。


羽織の隙間からそれを確認すると、ほっと安堵の息をつく。




ただ、後ろに位置する俺は、密着状態で若干鼻息が荒くなっており、川崎が時折くすぐったそうに身を捩る。


「ちょ、ちょっとあんた、くすぐったいんだけど……!」


「いや、しょうがねえだろ……」


あと、こう、うなじの辺りが妙に色っぽく、暗闇の中、うっすら白く輝いている。こうくっついていると頭がフットーしそうである。


また深い訳あって、どうしても前かがみになってしまい、自然首元に鼻が近づいてしまい、芳しい香りが鼻をくすぐる。


なんかこいつ直前に風呂とか入ってたみたいで、良い匂いがするんだよなぁ……


『アルゴリズ○体操、終わりっ♪』


……などとドキドキと胸を高鳴らせていると、やがて曲も終わり、なんとか最後のポーズを決める。


あとは舞台裏に引き下がるだけだ。


「な、何とか終わった……」


はぁはぁと息を荒げながら舞台袖まで向かっていると、ついに耐え切れなくなったのか、戻る直前に川崎が俺の鳩尾に肘をドボッと入れてくる。オウフ。


たまらず転倒すると、どっと後ろから笑い声が起こった。


だが、転げた拍子にまたいつぞやのように川崎に覆いかぶさる形になってしまう。


「どわっ、す、すまん」


「そ、それはいいから早くどいて……お、重い……」


仰せの通り身を起こすと、俺だけ強引に体を起こしたのがいけなかったのか、川崎が変に身を捩るのがいけなかったのか、羽織と一緒に川崎の浴衣が捲りあげられてしまう。


襟も大きくはだけて、ブラックラグーン(※ブラジャーのこと)に包まれたメロンさんが目の前に飛び込んでくる。


「あ、わりい」


「○△X□X□△X○~~~~~~~~~~~!!」


などと、例の超音波を発する川崎さんですが、あられもない姿を衆目に晒さぬよう、俺は再び川崎にがばっと覆いかぶさり、大きな羽織の中に二人して身を隠す。この冷静な状況判断……さすが俺としか言いようが無い。


「△X○!!○△X!!○□○X~~~~~!!」


しかし川崎はすっかりパニックに陥っているようで、手刀や貫手が矢のように飛んできてテンプルや後頭部にドコスカと突き刺さる。


ちょ!顔はやめてほんとうに!ボディボディ!


一瞬気が遠くなりかけたが、すぐに大志がフォローに入り、俺達の羽織をガッシと掴んで、滑らせるように舞台裏まで引きずっていく。


「凄い勢いよくコケてたけど、姉ちゃん大丈夫? ……お、お兄さんも耳の穴から血が出てるっすよ!?」


「大丈夫だ……ちょっと打ちどころが悪くてな……」


「そんなとこから流血なんて……脳内出血の前触れじゃなければいいんすけど……」


不穏なことを言うので、我が身が心配だったが、しかしあったことを口外するわけにもいくまい。


ちらりと見やると、半泣きの川崎さんから射るような目を向けられ、慌てて目を逸らす。


殺されなかっただけ良しとしなければ……


しかし反対側に目を向けると、一色がこれまた鋭い目付きで睨みつつ頬を膨らませている。……ふ、ふぐはす?



ひんやりと冷気が流れこむ舞台裏だったが、しかし凍えてばかりも居られない。


なにせ演目はまだ半分も終わっていないからだ。


俺たちはこの前座に、五つの演目を用意して臨んだ。司会の時間を含めればちょうど三〇分で終わる計算だ。


先鋒・次鋒とここまで順調にやって来たが、勝負の要は実は三番目の中堅にある……


このステージの成否を分けると言っても過言ではない。


柔道や剣道の団体戦でも、この中堅というポジションを重視する指導者は多い。


流れが良ければこの中堅が勝敗の決め手になり、逆に、もし悪ければ、再び流れを引き戻す重責を担う。


どんな局面に置いてもぶれることのない強いメンタル、精神面でのタフネスさを要求されるポジションなのだ。


そして、そんな強いハートを持つ者など、この生徒会メンバーには一人しか居なかった。





―― そう、戸部である。


「おい、一色、変な顔してないで早くスタンバイしろ。戸部も早く」


「ヒキタニくん……なんかこれ、すげぇキツイんだけど……」


「むぅ……仕方ないですね……」


二人は不承不承といった顔で、衣装を羽織り直すと再びドッキングする。


リア充合身・とべはすである。



『はい、お疲れ様でしたー!みんな上手に踊れたかなー?踊れた子は手を挙げてねー』


会場ではめぐり先輩が子供たちにマイクで語りかけて場をつないでいる。


はーいと手を挙げる子供を見ていると、なんか教育番組に出てくるお姉さんみたいになってるんだけど……


『さて、お次の演目は、当館従業員戸部・一色による『二人羽織で食べよう!海鮮盛り合わせ☆わさびメガMIX』です!どうか拍手をお願いします!』


和太鼓のBGMが流れる中、再び戸部と海鮮盛り合わせが、すーーと黒子たる大志の手によって運ばれる。


その姿を見ただけで、観客たちがどっと湧いた。


「おぉ……!」


凄いぞ、戸部……


登場と同時に歓声が沸くなんて……!


まるでスター誕生の瞬間を見ているようだ。絶対に気のせいだが。



ともあれ、先ほどのおでん踊り食いから、いくらか回復したのか、戸部が口上を始める。


『えー、皆さん御存知の通り、銚子は古くから漁港として栄えています。この時期旬の魚はよりどりみどり!中でも一番季節の風味を味わえるのは、やはり造りかと思われます』


戸部が一息着くと、そのタイミングで再び一色の手によりガスッ!と扇子が戸部の頭を強打した。


……が、今度はあまりいい音がしなかったので、見事に客は無反応であった。


受け狙いの動作であることさえ気付かれていない。


なので、あれは単に戸部が痛かっただけである。


「……ふっ、ブフヒッ!」


「だからお兄さん、笑い過ぎっすよ!?」


『え、えー……わさびなんかも添えると、一層美味しく頂けますが、そこで今日は皆様に正しいわさびの付け方を教示いたします』


戸部が言うと、一色は扇子を手放し、手探りで箸を拾う。


『釈迦に説法は承知の上ですが……思わずね、おうちなんかじゃわさびを醤油で溶いちゃいますよね!……でも、本当はこうやって適量だけお刺身に乗せて……』


という言葉と裏腹に、一色はわさびをこんもりと箸で摘んで刺身に載せる。


『ひ、ひぃ……』


切り身よりも遥かに大きなわさびの質量に、戸部は絶望に満ちた声を漏らす。


その迫真の演技に、観客たちは大きな声を上げて笑う。


「本当にうまいなあいつ……才能あるんじゃねぇか? ……あんな声、普通出せないぞ……」


「ああ、リハーサル殆ど無しでここまでとは……俺たちは戸部の新たな扉が開く瞬間を目の当たりにしているのかもしれないな……」


「あの……演技じゃないと思うんですけども……」


などと突っこむ書記ちゃんは無視して、二人して戸部に見入っていると、一色は容赦なくわさびのてんこ盛りを戸部の口に乱暴に押し込んだ。


『いや、もう本当に無理無理無理!これ俺のわさび消費量二年分ぐらいだから!ひょ、ひょえーーーーーーーー!』


場内は早くも爆笑の渦に巻き込まれる。


『ひーーー!ひーーーー!』


どうやっているのか、目からは噴水のように涙を流し、人に非ざるほど目を剥いて違う生き物のような鳴き声を発する。


観客はこれにも大喜びである。


戸部のちょっとわざとらしいぐらいオーバーなリアクションは、こうした芸と相性が良い。


前回に引き続き、出来栄えについては申し分なかった。


そしてそれを支える一色の出来栄えも悪く無い。実に冷静かつ酷薄に、戸部の口にわさびを詰め込んでいく。


全て俺のプラン通りで、本当に素晴らしいと思いました。



すっかり手馴れてきたのか、ひとしきり生わさびを戸部の口に突っ込むと、次はご飯が盛られた大きな茶碗に、切り身を幾つか乗せて、お茶を注いで海鮮お茶漬けを作る。


一連の動きは流麗で、とても見えない状態での動作とは思えない。


『ひぃ、ひぃ、ええ、地元ではこういう食べ方も乙なものとされてしまして……ここにわさびをひとつまみ入れると非常にさっぱりした味わいに……』


涙をポロポロ流しながらも口上を続ける戸部は本当に凄い奴なのかもしれない。


だが一色は無情にも、ひとつまみどころか箸でこんもりとわさびを掴みあげて、茶碗にべっと放り込む。


『……』


口上も忘れて絶句する戸部に、会場から一層大きな笑い声が起こった。


すごい戸部っち……


無言で笑いを取るなんて、もはや一流のお笑い芸人の域に達してるんじゃ……



『……なんかもう……お湯の部分、抹茶みたくなっちゃってんだけど……ええい!行ったれー!!』


気合を入れてチャカチャカと海鮮わさび茶漬けをかっこむ戸部。


だが忘れないでいただきたいのは、実際にかっこんでいるのは一色の手である。


宴会が始まってからこっち、まったく手心を加える素振りも見せない辺りに、もはや一色は人を超越してしまったのかもしれない……



間もなく刺激が脳を走ったのか、戸部は大量の涙を流して横に倒れこんでしまう。


この真に迫るリアクションに、会場のボルテージは最高潮である。


ブラーボォ!ブラーボォ!


外にいる俺達も痛くなるほどに強く手を叩く。


ピクリとも動かないところも芸が細かい。米国のアクタースクールでカリキュラムをこなした俳優でもあそこまで動きを静止させるのは難しいだろう。


先鋒・中堅という大役をこなした戸部が、大志に引きずられ、大きな拍手を背に舞台を去っていく。


その姿は荘厳ですらあった。


舞台裏に戻った戸部は依然として微動だにしなかったが、その後ろからぶはぁっと一色が出てくると、どういう訳かトテテとこちらに走り寄ってくる。


袖をついと掴んで、上目遣いであざとく俺の方を見つめてくる。


「……どうした?」


「聞いてくださいよ……戸部先輩がセクハラしてきたんです」


なん……だと……?


俺と副会長は横になって呑気に休憩している戸部に軽蔑の視線を投げつけた。


「戸部先輩、さっきの演目で、わたしの太ももを掴んできたんですよ」


「マジか、最低だなこいつ」


「……見下げた奴だな……戸部、宴会が終わったら生徒会の規定に従い制裁を行うからな……覚悟しておくんだぞ」


俺たち二人の非難に、戸部は生気を失った顔で、ふるふると首を横に振った。


「ち……ちが……あれは……タップ……だ……べ……タップ……」


「ん?タップダンスを踊りたかったのか?今頃そんなこと言っても遅いよ……ワガママは聞かないからな」


「マジか、最低だなこいつ」


一色は俺にも非難がましい目を向けて、こちらの腕に取り縋ってくる。


「先輩変わってくださいよー!もうこんなの耐えられないんですけどー!」


「お前もワガママ言うな、俺達もう出番なんだから……」


「そうだな……よし、準備をしよう!……書記、川崎、スタンバイだ!」


戸部のセクハラは許しがたいが、しかし場が盛り上がったのは間違いない。


あそこまでやってくれると、次の俺達もやりやすいことこの上ないので、そこは分けて評価したい。


一色の腕を振りほどくと、副会長や川崎、書記ちゃんと顔を見合わせて、互いに頷き合う。


「も、もうーー!」


一色の非難をスルーしつつ、柄にもなく円陣を組んで、手を合わせたりしてみる。


―― さあ行くぞ!


再び二組の二人羽織と化した俺たちは、未だ拍手喝采の宴会場に飛び出す。



『はい、お目汚しでしたー!……さて、お次は『二人羽織・ア○ゴリズムこうしん』だよー!子供たちはまた真ん中に来てねー!』


俺達が四つ目に選んだ演目はアル○リズムこうしんだ。この国民的体操を以下略。


『さあ、上手に踊れるかなー?』


などというめぐり先輩の呼びかけに、子供たちが再び歓喜の声を上げて、宴会場の真ん中に躍り出る。


親たちも途端に頬を緩ませて、和やかなムードの中、再び撮影会の様相である。


子供たちと列をなして、踊り狂う俺達。


はっきりいって気楽なものである。失敗しても誰も何も言わない。


なお、前回のハプニングから、実は俺にもセクハラの嫌疑がかかっており、今回は前面に押し出されての取り組みである。


大変不本意な話だが、鼻息が荒かった俺の方にも微粒子レベルの非はあったかもしれない。


ということで、気を取り直して汚名返上と参りましょう。


はいはい、栗拾い栗拾い……と。


後ろに居る川崎は、前に居る俺の動きをなんとなく察して手で振りつけていく。


しかし動作の度に、川崎の慎まやかとは程遠い二つの膨らみが背中にあたり、これはこれでなんとも気恥ずかしい。


複雑な事情も相まって、どうしても前かがみになってしまう。


そのせいか動作が遅れ、副会長のかいだ平泳ぎの手がちょうど川崎の頭にヒットする。


「あいたっ!ちょ、あんた、こんな時ぐらい猫背やめなよ!」


ぼそぼそと耳打ちしてくる。


そうなんです、俺って猫背だから気を抜くとどうしても前かがみになっちゃうんですよね……


などと好意的な解釈に甘えていると……


「むぅ……!」


……舞台袖から闘気のようなオーラが発散されているのに気付く。


見やると、一色がシマリスのごとく頬をパンパンに膨らませてこちらを睨んでいるのだ。


何怒ってるのかな、あの子……嫌だな……怖いな……


だが演目を止めるわけにも行かない。使命感に突き動かされるように、俺は定められた動作を行う。


はいはい、一歩進んでえらい人……と。



……しかし、ふんぞり返ると、若干タイミングが早かったのか、川崎は川崎で急に俺がもたれるのに驚いてか、二人して過剰に反り返ってしまう。


そこに、折り悪く前にならえをしようとしていた後ろの書記ちゃんの頭に、川崎の後頭部がヒットしてしまう。


「あつっ!」


「あ、わりぃ……」


振り返って様子を見ると、書記ちゃんが半目でこちらを睨んでいる。


……が、それも一瞬のことで、すぐににこりんと優しい笑顔を浮かべた。


「そんなに……痛く……ありませんでしたから……」


などと書記ちゃんがボソリと呟いていたが……なんかさっきから一身にヘイトを集めているような気がしなくもない……



『おわりー♪』


……そんな心温まるハプニングを交えつつも、俺達の演目はあっさり終わりを告げる。


『みんな上手に踊れたねー。前にジュースがあるから取りに来てねー!』


きゃーと子供たちが、サービスのジュースを取りにめぐり先輩の元に走る。


抜け目ないホテルのフォローに、大人たちもご満悦である。


そんな中、怖い目の一色が迎える舞台袖に、俺達四人も役目を終えて引き下がる。



さて、これで四つの演目を消化したことになる。


ノルマ達成まであと五分。残す演目でフィニッシュだ。


……だが、気を抜く訳にはいかない。


終わり良ければ全て良しと言うが、これは逆に言えば、最後がダメなら全て台無しということでもある。


次の演目は、いわば今回の俺達の集大成……これまで以上に気合を入れた内容になっている。


そして、そんな舞台の締めくくりを飾るのは、やはり俺達の中でも最大最強のエースであるのが望ましい。


総武高校生徒会のリーサル・ウェポン


そんな呼称がふさわしいのは、この中では一人しかいない。





―― そう、戸部だ。


「おい、戸部。ラストだぞ。最後の演目『夏を乗り切るのはから……』」


と、言いかけるも、何やら戸部の様子がおかしいことに気付く。


俺達がさっきの演目に出る前と、まったく同じ位置、同じ様子で横たわっているのだ。


「……ん?どうしたんだ戸部?」


「……」


副会長が肩を揺するが、返事がない。ただの屍のようだ。


……さっきのわさびが脳に来たのかもしれない。


さらに強く揺するも、戸部は目も虚ろにうわ言のようにべーべーと呻くのみである。


一色も戸部の鼻のあたりに手を添えて神妙な顔を見せる。


「なんか戸部先輩、さっきからこんな感じなんですよー…… 呼吸も弱くなってるし、役に入りきってるんでしょうかねー?」


「聞いたことあんな……名優と言われる人達はこの領域に足を踏み入れるらしいぞ」


「ゾーンってやつか……戸部もその境地に至っているのかもしれないな……」


戸部が持つ大器の片鱗に触れて震撼を禁じ得ない。


俺たちは三人して戸部の演技力を褒め称える。


「……なんでこの人達、さっきから演技といって憚らないんでしょうか……?」


などと突っ込む書記ちゃんは無視して、戸部の頬に強めのビンタを二~三発張ってみるが、やはり反応が返ってこない。


「しょうがねぇ……気を失ったままやるしかないだろうな。……なんとか気道を確保して料理を注ぎ込めばいい……そうだ、フラスコみたいなのは無いか?」


「お兄さんって結構鬼畜ですよね……」


「これ以上は戸部先輩、本当に死んじゃうのでは……?」


「といっても、もうあまり時間はないぞ……ここで取りやめるわけにはいかない。戸部一人の犠牲で済むなら……」


副会長が怖いことを言いかけた時、突如一色が後ろから俺に飛びついてくる。


「簡単じゃないですか!こーすれば良いんです!」


後ろからひしっと抱きついてくる一色に、書記ちゃんと川崎が両側から無理やり俺の手を抑え、羽織を一色と一緒くたに被せてくる。


……ちょ、ちょっと君達?


「まあ、あんたしかいないし……」


「……オチは比企谷先輩が決めないと、いろいろ帳尻が合わないですよね?」


二人は見たこともないような酷薄な笑みを浮かべると、ぎゅっと前の帯を強く締めてくる。


何故かその瞳には憎しみや恨みなどといった色が多分に含まれている気がする。


俺が一体何をしたのかさっぱりわからないが、脇では大志が絶望的な量の唐辛子をガサゴソと御膳に乗せている。


い、いや……ちょっと待って……


「お兄さんの言うとおりの量を仕入れましたよ!運良く、スコヴィル値十万のものが市場に残ってました!」


そ、そう……


つい四時間ほど前の、喜々として鬼畜企画をぶち上げた自分をぶん殴ってやりたい。


「大丈夫です、わたしと先輩のコンビなら絶対上手くいくに決まってますって!」


「……いや、ちょっと待て……次のやばいんだって……」


そして、こちらが準備完了したのを確認した会計くんは、片膝を地につけ滑りこむように舞台袖から出ると、垂直に曲げていた肘をぴっと伸ばして司会のめぐり先輩に合図を送る。



なにそれ格好いい……


「……い、いや待て、冷静になれお前ら、よりによって俺はダメだろ!副会長か大志にしろ!」


「無理っすよ!責任とってお兄さんがやってください!さあ行くっすよー!」


いや……もう、本当に俺ちょっとこういうのダメだから……


しかし俺の必死の拒絶にも関わらず、無情にも演目は進められていく。


『さて、締めの演目を飾るのは、当館従業員比企谷・一色による二人羽織りです!』


待って、待って……だ、だって、次の演目は……


『題して!“夏を乗り切るのは辛さと赤さ!ファイヤー唐辛子踊り食い大会 ~俺達が国を愛したように、国も俺達を愛して欲しい~ ”です!張り切って行きましょう、どうぞっ!』


いやああああああああああああああああああ!


などと心中で悲鳴を上げるも、無情にもレールの上を滑って、俺と一色の座る台座がステージ中央に送られる。


どうすんだよこれ……などと絶望に打ちひしがれていると、背中からぼそっと声が聞こえる。


「良かったですね、せんぱい……可愛い後輩と密着できて」


へへ……あ、アホなのかなこの子……?


しかし川崎さんと比較すると、どうしても一色さんのそれは物足りないボリュームである。


「……まあ、あまり背中は嬉しくないけどな」


「……ほう」


思わず鼻で笑うと、顔は見えないが怒気を孕んだオーラが背後から滲み出てくる。


ちょっと今のは失言だったかな……?


「どうも状況がわかってないご様子ですね……先輩は……」


ぽしょぽしょと首筋に何か柔らかいものが触れたような、そうでもないような感触が走り、背筋がぞぞわと怖気立つ。


一方で、目の前の皿には冗談かと思うほど赤唐辛子がこんもりと盛られており、脇には業務用サイズの粉末状の唐辛子缶が置かれている。


一体誰のアイディアなんだ……鬼畜の業か……


もはや観客の姿など目に映らず、居並ぶ唐辛子のオンパレードに戦慄していると、ペチペチと一色の手が俺の頬を叩き、続けてにょーいんと横に引っ張ってくる。


早く口上を始めろとの仰せである。


『え、えー、皆さん、おみやげのいわし油漬はお買い上げいただきましたでしょうか……?』


悲しいかな、口上の内容を考えたのも俺なので、台詞は覚えてしまっている。


『あれはピリッと唐辛子が効いていて、とても美味しい一品です。当館おみやげコーナーでお求め頂けますので、是非ひと……オボボフ!』


開いた口から、早速唐辛子が一本口に投げ込まれ、あまりの辛さに後半で噛んでしまう。


だが、すっかり場内は温まっているようで、たかがそんなことでクスクスと場内から笑い声が起こる。


『ひ、ヒィ、ヒィ、え、えー……他にも、銚子の名物といえばぬれ煎餅が挙げられますが、こちらもマヨネーズに唐辛子などを和えますと、大変美味しゅういただけます』


言うと、一色は濡れ煎餅の上にマヨネーズをぶちゅっと落とすと、そのまま手探りで唐辛子缶のキャップを開け、アホかというぐらいに粉を降り注いでいく。


ひ、ひえぇ……


『えー、ご、ごぞごぞ、ご存知の方も多いと思いますが、お帰りになられたらこの食べ方ぜひお試し……ちょ、ちょっと待て、もうそれマヨネーズ見えねぇから』


喋っている間にも、一色は缶を振る手を一切止めない。


客席からも見えているのだろう、濡れ煎餅の上には唐辛子が高々と盛られており、あまりにシュールな光景に観客がどっと湧く。


ふ、ふえぇ……こんなの口に入らないよぉ……


『ひ、ヒィ……本当にやめてくれ、それはマジでやば……』


しかし無情にも激辛ぬれ煎餅はぎゅむっと口の中に押し込まれる。


一瞬マヨネーズのまろやかな味が清涼剤のように口に広がるが、そんなものは焼け石に水、ビッグバンに水鉄砲である。


間もなく口内に焼けるような刺激が走る。


『ひ、ひぃ、はぁーはぁー!!』


「いい演技だ、真に迫ってるぞ!比企谷!」


「汗もあんなに掻いて……さすがっす!お兄さんはやっぱり凄いっすよー!」


あいつら殴りたい……


外野の呑気の声を他所に、一色は次々に唐辛子がべっとり付いたぬれ煎餅を口に押し込んでくる。


たまらず一色の足にタップするも、あまりの辛さにぎゅむっと思わず太ももを掴んでしまう。


「……あ、またセクハラ!」


後ろからぼそっと怒りを含ませた囁き声が聴こえてくる。


君がやってるのは紛うことなきパワハラですけどねっ!?


『ひ、ひがっ、ふぇふふぁらひがっ、ふぁっふ!ふぁっふ!』


「何言ってるのか全然わかんないんですけど……」


も、もう!察してよね!


などといった感じでやりあっていると、俺が口も聞けないことを察してか、めぐり先輩が口上を代わりに引き継いでくれる。


『さあ、何やら大変なようですが、カプサイシンは元気の素!熱い夏こそ、辛さと赤さで乗り切りましょう!マヨネーズと唐辛子和えは本当にぬれ煎餅に合いますので、まだの方はぜひ当館でお求めくださいねっ!』


などとめぐり先輩がちゃっかりホテル内のおみやげコーナーの宣伝を行う中、怒りのアフガンと化した一色が、むんずと唐辛子を鷲づかみにして、口の中に押し込もうとしてくる。


それに必死で抵抗する俺と、手だけで押し込もうとする一色の争う様が面白いのか、観客たちは更に盛り上がっている。


オーディエンスのテンションは再び最高潮に達しようとしていた。


……もしかしてこの芸って、誰がやっても面白いのかな……?


だがこの演目には、最後の締めがある。


『さあ、それでは名物紹介も兼ねて!銚子名産「醤油サイダー」に唐辛子を入れて飲んでもらいましょう!』


何故俺はこんな企画を喜々として立ててしまったのか……


後ろからは依然としてクスクスとくぐもった笑い声が聞こえてくる。


視界が無いにも関わらず、実に手際よくジョッキに醤油サイダーと唐辛子が投入されて、マドラーでグルグルと渾然一体に混ぜられていく。


醤油サイダーはただでさえ赤みを帯びた飲料だが、今や火のごとく真っ赤に染め上げられている。


もはや背後に控える一色が、小悪魔どころではなく魔王としか思えなかった。


『さあ、それでは一気に飲んでいただきましょう!』


二人羽織の恐ろしいところは、覚悟を決める猶予さえ与えられないところである。


無造作に掴まれたジョッキは、無慈悲にもどんどん顔に近づけられていく。


最後のあがきと、口に付けられる寸前まで拒絶の意を示す。


『待って待って待って、無理無理無理無理、あが……んぐ……ンゴ』


だが無情にもジョッキは口につけられ、「食べ物はを粗末にしちゃだめよ!」という本能にまで植え付けられた両親の教えに従い、さながら溶岩の如き赤い液体を喉を鳴らして飲み下す。


客席からは「おぉ……」などという声が遠くに聞こえる。


やがて全て飲み終えたのを察したのか、一色はタンとジョッキを台に叩きつけ、もう片方の手でぷはーっと口元を拭う。


くそ、すっかり、こなれた動きをしやがって……


それはともかく炎の塊が口内はもちろん、胃の中にまで充満しているようだ。


ふーっと口の小さな隙間から漏れ出る空気は、あたかもバックドラフトのようで、これから起こる大火災を予期している。


『見事、完飲いたしましたー、それでは比企谷くん感想をどうぞ!』


呼びかけられると、拍子に体中の酸素が一気に開放されるように口から咆哮が突いて出る。


『ヒーーーーハァーーーーーーー!!』


という俺の絶叫と同時に起こる客達の爆笑に、舞台袖からも興奮した声が送られる。


「ブラヴォーっすよお兄さん!」


「それだ、比企谷!」


「ジャーナリズム!」


くそ……あいつら……絶対に許さんからな……!


だがそんな思いも霞と消えて、やがて意識も朦朧としてくる。


視界が靄に霞む中、ふとめぐり先輩の方を見やると、こそっと入ってきたフロア長となにやら話し合っている。


まもなく頷き合うと、ぱっと明るい顔を客に向けた。


『はいっ、先ほど連絡があり、サイケネス中原が到着したとのことです!まもなくトークライブが始まりますので、ご歓談の上、しばらくお待ち下さい……!』


言って、めぐり先輩はウィンクをこちらに寄越すと、小さくサムズアップしてきた。


『もしお目汚しでなかったなら、最後にどうぞ、比企谷・一色の二人に盛大な拍手をお願いしまーす!』


めぐり先輩の呼びかけに、観客たちは万雷の拍手で応じる。


中にはピーピーと指笛を鳴らす者もいたが、ビックリするほど嬉しくなかった。


あと、一色さんに拍手はいらないんじゃないですかねぇ……


「お兄さん、お疲れさまっす」


俺たちはセットごと大志に引き摺られ、ぐったりしたままステージを去る。


「……ほら、上手くいったじゃないですか」


などと抜かしやがる後輩に、俺は乾いた笑いを浮かべるしか無い。


俺はもう全身汗だくで、そんな羽織の中に居るのはさぞ不快だろうに、一色の声は喜色に満ち満ちている。


「今回もなんとか乗り切りましたね。……先輩と一緒に。」


「……まあ、それで良しとすっか……」


かくして、またも俺たちは大きな困難を乗り越えたのであった。


なお宴会芸で使った食材は、このあとスタッフが美味しくいただいたよ!





※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


大盛り上がりの大宴会場を後にしてスタッフルームに退避すると、みな緊張が解けたのか、どっとその場に座り込む。


重症だった俺と戸部は引き摺られる形で部屋に放り込まれ、そこいらの床にごろっと乱暴に転がされた。


アフリカ大陸から連行された奴隷もかくやという待遇だったが、川崎がよく冷えたおしぼりを額に乗せてくれたため、俺と戸部は思わず眼を涙で潤ませる。う、うぅ……。


「いや、あんたの場合、自業自得感強いからいまいち同情できないんだけど……」


などと言っておられますが、間もなく枕なども差し込まれて至れり尽くせりの対応である。


その優しさに、思わず恋に落ちて告白して振られるところまで見えた。


さて、そんなお優しい川崎さんの一方で、冷酷無比な一色さんは、普段溜め込んでいるサディスティックな欲求を充分に満たしたのか、肌はつやっと輝いており、大変な上機嫌なご様子である。


く、くそ……あいつめ……


「ヒキタニくん……俺達、受験生なのに何やってんだろね……?」


おいそんな事言うな、泣きたくなるだろ……


だが戸部はそれなりに充実感もあったようで、溜息を一つ付くとこんなことを言う。


「はー、海老名さんも呼びたかったなー……格好いいとこ見せられたっしょ?」


「そこは解釈の余地があるが……」


まあ、しかし彼女が来ていたら、もっとマシな演目のアイディアを出してくれたかもしれない。


確か優れた企画能力を持っていたはずだ。


「……」


俺の方でも思うところはある。


もしあの子が来ていたら……あるいは、あいつが来ていたら……


一体どんな演目になったのか……


無体ないことを頭に浮かべようとしたその時、バタンとドアが開かれた。


「あんた達、よくやってくれたね。期待以上の働きだったよ」


現れたるは、女将さんである。


その顔はいつになく優しげで、近くに居た年少組三人の頭を労るように撫でつける。


「私の目に狂いはなかったね。いろはならきっと上手くやってくれると思ったよ」


「いやー、わたしなんて、熱いものや辛いものを、ただ口に放り込んでただけで……」


よ、よく分かってるじゃないか……


女将さんに褒められ、やーなどと言いながらてへりこてへりこと満面の笑みを浮かべる一色。


こちらとしては苦笑を浮かべるしか無いのだが、しかし、やはりこの栄光は一色のものなのだろうと思う。


会議をリードし、この演目の骨子の部分を閃いたのは一色であることに間違いない。


この枠組でなければ、きっとここまでの結果は得られなかっただろう。


そもそもを言えば、彼女無しには存在しなかった舞台なのだから。


「延長料金もツアー会社からきっちりガメてやったからね。お給金には色を付けておくから楽しみにしておきな」


生々しい女将さんの話に、わ、わぁー……と一同遠慮がちに喜んでいると、扉が再びノックされ、間もなく次なる客が訪れた。


何気なく表した姿に、俺達は思わず目を見開く。


「いやー、君達……私がいない間を取り持ってくれたんだって?」


「あ、あなたは……!」


黄金に輝くスーツは目にも眩しく、綺麗に分けられた髪型はどこか高貴さを漂わせている。


そして、その優しげな風貌は、生き馬の目を抜く芸能界で一時は頂点を極めたとは思えないほどに穏やかだ。


……現れたるはピン芸人の草分け的存在。


必殺の一発芸で一世を風靡したサイケネス中原その人だった。


「サイケネス中原さん!?」


「センキュー、ソーマッチ……!」


ショーが始まる前に、俺達に挨拶に来てくれたのだ。


突然のビッグネーム到来に俺たちは色めき立つ。


「ほ、本物っす!ね、姉ちゃん、本物のサイケネスさんだよ!」


「う……うん!……うん!」


異常に浮き足立っている川崎弟妹だが、俺と戸部も、サイケネスが発するオーラを受け、枕から首を上げて見入ってしまう。


サイケネスはサンキューサンキューと次々とメンバーに握手していく。


皆、歓喜に打ち震えていたが、しかし俺……そして隣に寝ている戸部も同様の思いなのか、収まりがつかず顔を伏せてしまう。


―― 俺たちはここまで苦労したのだ。


言葉だけで、お礼だけでとても満足できるものではない。


二人して、縋るような眼差しを一色に向けると、察してくれたのかコクリと頷く。


そしてこほんと咳払いをするとサイケネスの前に歩み出た。


「あ、あの……サイケネスさん、こんなの本当に図々しいと思うんですけど、わたしの……わたし達のお願いを聞いて欲しいんです……!」


「なんだい?私に出来ることなら何でも聞いてあげるよ、プリティガール」


「……一回だけでいいんです、例のアレを……わたしたちに見せてください!」


両手を握りあわせ、あざとく懇願する一色に、サイケネスはフッと笑うと襟元を正し、そのまま大きく後ろにのけぞって腰を落とした。


「……オーケェ、オールライツ」


これ以上ない快諾に、皆も顔を見合わせて表情を綻ばせる。


サイケネスはゆっくりと姿勢を直立に戻すと、口上を始めた。


一転、皆は真剣な面持ちでゴクリと喉を鳴らして注目する。



「サイケネスさ……最近みんなにこう言われるんだ。『近頃テレビで見ないけど、どうやってご飯食べてるの?』って……もちろん、サイケネスはこう答えるんだ」


お茶碗をかっこむようなジェスチャーを示し、俺たちに目を向ける。


「箸で!」


言うや否や、はっ!と顔を逸らし、のけぞりながらもこちらを指差す。


「……」


「……」


スタッフルームに沈黙が流れる。


で、出るぞ……!あれが生で見られるんだ……!


みな食い入るように、サイケネスの次の動きに注目する。


すると彼は大きく股を広げて身を沈め中腰の姿勢をとると、両腕を大きく天空に突き出した。


……かと思うと、突如、脇を締めて弾くように人差し指を前方に向ける。


「シュリンク!」


―― 生シュリンクだッ!


たまらず皆はわぁっ!と歓声を上げた。


俺達がまだ小学生の頃、日本を爆笑の渦に巻き込んだ一発ギャグ「シュリンク!」である。


俺と戸部も思わずがばっと身を起こし、その動きの華麗さを目に焼き付ける。


「シュリンク・アンド・ターン!」


歓喜に震える俺達に追い打ちをかけるように、次なる小ネタで畳み掛けてくる。


再び沸き上がる歓声。オーディエンスはもはや最高潮である。


「アンド・リヴァースッ!」


トドメとばかりに体を翻し指を鋭く向けてくる。その一連の動きの鮮やかさに俺たちはもはや声もなく身を震わせるしか無い。


これが天下を制した男の一発ギャグなのか……


川崎に至っては、感極まったのか手を口に当てて涙を流し、大志も姉の背中を優しくさすりつつ、サイケネスを眩しそうに眺める。


一体こいつらの家で何があったのか知らないが、とにかく全てが報われる瞬間であった。


ネタを全て終えると、サイケネスは流れるような所作で片手を前に投げ出し、腰をかがめて後ろ歩きで部屋を去っていく。


多分あのまま会場に入るのだろう。


「……」


「……」


「……さて、じゃあ夜のシフトの者もいるだろう。たっぷり休憩してから働いておくれ」


「はーい」


女将さんがぽんと手を叩くと、皆のろのろと立ち上がり、それぞれの持ち場に向かう。


いやー、いいものを見せてもらいましたね……


「やっぱり面白かったね。もうとっくにブームは過ぎたのに、見かける度に笑ってしまう」


しみじみと語る。


永遠はあるんだ……そう言わんばかりの会計くんの言を受けて、書記ちゃんは不思議そうに呟く。


「……それにしてもサイケネスさんは、あの持ちネタでどうやって独りで一時間もライブするんでしょうね……?」


「ああ、続きを見てみたいな、何か生徒会の参考になるかもしれないし……」


副会長は何も得られないと思うが、書記ちゃんのいうことは確かに俺も興味がある。


「作務衣に着替えて、ちょっと覗いてみましょうよ!どうせこの後すぐ仕事ですし」


「俺もサイケネスもっと見たいっしょ!」


一色と戸部もそれに乗っかる。


皆、夜にシフトを入れているようで、何やら楽しそうな企てを立てている。


しかしシフトに入っていない俺が作務衣を着て宴会場に張り付いていると、そのままなし崩しに仕事を振られるに決まっている。


唐辛子の後遺症もまだ残っているし、口惜しいが、今日のところは大人しく自室に戻って受験勉強でもしましょうかねぇ……


……などと思っていると、めぐり先輩にちょんちょんと肩を叩かれる。


「比企谷くん、今日はもうお休みだよね?」


「……ああ、はい。朝にシフト一緒に入れてましたよね……?」


「じゃあ、着替えたらちょっと外に行こうよ。比企谷くんとずっとお話したいと思ってたんだ」


「は、はぁ、まあそりゃいいすけど……」


「叔母さん、車借りてもいいかなぁ?」


普段は女将さんをそう呼んでいるのだろう。


めぐり先輩がぽろっと普段の調子で口にするも、女将さんは咎める様子もなく心配げな顔を向ける。


「いいけども……ここいらは運転の荒い輩も多いからね。くれぐれも事故には気をつけるんだよ」


「ありがとう!じゃあ、比企谷くん、裏口で待っててね」


何やらテキパキめぐめぐと事を運ばれる。


車まで使うのか……一体どこに連れて行ってくれるのかな?


ぼけへらーと笑っていると、一色と川崎が不穏な顔をこちらに向けている。


な、なんでしょうね……二人して……


俺と同じくぼけらっとしていた戸部も、二人の顔と俺を見比べると、何かを察したのかニヤッと嫌らしい笑みをこちらに向けてくる。


「あっ…………ふーん」


ふと殺意の衝動が沸き起こり、俺は懐に忍ばせていたわさびを一本取り出して見せると、戸部は途端に顔を引き攣らせ、カタカタと身を震わせる。


「ひ、ヒィ!わ、わさび……わさ……っべー……っべー…!」


やはりさっきの宴会芸でPTSD(精神的外傷)を負っていたか……


「先輩は、城廻先輩とデートですか……呑気なもんですねー、わたしたちはこれから仕事だというのに……」


うりうりとわさびを手に持ち戸部を隅に追い詰めて遊んでいると、後ろで一色が不機嫌そうな声を上げる。


「……お前にゃ関係ねーだろ」


「むぅ……」


すげなく返してやると、カチンと来たのか一色は眉を吊り上げる。


すると浴衣の懐にゴソゴソと手に入れ「ん……」とか言いながら、何やら赤いものを取り出す。


ドクン


それを目にした瞬間、鼓動が激しく鳴り響く。歪む視界、回る世界……


「ひ、ひぃっ!?」


赤唐辛子を手ににじり寄ってくる一色に、俺は頭を抱えてしゃがみ込む。


いやぁ……赤いの怖いの……


PTSDを発症したのは戸部だけではなかったのだ……


「や、やめろ……お前、やっていいことと悪いことの区別もつかないのか……しょ、書記ちゃん止めてくれ……」


「……川崎先輩の仰るとおり、今回はイマイチ同情が沸かないんですよね……」


たははと可愛く苦笑する書記ちゃん。なんてことだ……爆発しろ副会長。


構わず寄ってくる一色に、俺は弁解じみたことを口にする。


「ま、まあ、あれだ、去年の文化祭とか体育祭でいろいろあったからよ。積もる話があるんだろ……多分、知らんけど」


「……文化祭?先輩って文化祭で委員やってたんですか?」


赤唐辛子を俺の口にインサートしようとしていた一色だが、言うとピタリとその手が止まり、代わりに例の探るような視線を向けてくる。


またこれか……


「まあ奉仕部絡みでいろいろあったんだって……あの人にはお前だけじゃなくて、俺も結構世話になってんの」


「へー」


よくこんな興味なさそうな相槌を打てるな……


などと思ったが、一色はひとまず納得したのか、赤い唐辛子を懐にしまい込む。


……それ……また使うんでしょうか……?


「……まあ、せいぜい気に入られたら良いんじゃないですかー?」


「……じゃあ、そうさせもらいましょうかねぇ……」


ジト目で睨み合うが、間もなく互いにつーんと目を逸らす。


そんな俺達二人の剣呑とした雰囲気に皆が怪訝な顔を浮かべる中、戸部が一人ニヤついた笑みを浮かべていた。


―― 俺は再びわさびを懐から取り出し、戸部の追い込み漁を再開するのだった。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


着替えを終えて、従業員用の裏口から外に出る。


もう夕方といえる時間だが、まだ外は十分に明るく、むんと暑さが残っている。


一色とは少し険悪になってしまったが、めぐり先輩とODEKAKE!……というシチュエーションはそれなりに胸が踊るものがあり、そわそわとさっきから落ち着かない。


何かいいことがありそうな……


そんな予感に胸をときめかせて待っていると、正面口の方から車がすごい音を立ててこちらにやってくる。


敷地は広く作られているとはいえ、この場にそぐわない豪快なエンジン音と疾走感である。


その車は俺のすぐ目の前を猛スピードで横切ったかと思うと、鋭く急旋回し、一八〇度ターンを決めてピタリと止まる。


……が、車のテールが壁に添えて設置されていたパイプ式テントの柱に跳ね飛ばし、支えを失った天幕がドガシャと崩れ落ちた。


「え……?」


突然のことに戦慄していると、間もなく車のドアが開いて、めぐり先輩が片手でコツンと頭を叩きながら出てくる。


「あれ……お、おかしいな?こんな止め方するはずじゃなかったのに……」


……できれば違う人が出てきて欲しかった……


心臓が嫌な拍子で脈打っており、暑さが理由ではない汗がダクダクと流れる。


何か嫌なことがありそうな……そんな予感に胸いっぱいである。


「比企谷くんお待たせ!お姉さんが名所に連れて行ってあげるよ!」


むーんと肘を折って力こぶを見せてくる。


相変わらずほんわかめぐめぐしているが、今はその笑顔がたまらなく恐ろしい。


「あ、や、俺はやっぱり受験勉強しないとだから、今日のところは……」


「さあ乗って乗って!」


だが手を引かれると、さほど強い力ではないのに、引っ張られるままに連れて行かれてしまう。男子ってほんとバカ。


「それじゃシートベルトをきっちり締めて、常時両足を踏ん張れるように座席もしっかり調整してね」


後半ちょっと聞き慣れない警句を耳にした気がするが、言われるままにシートベルトを装着し、座席の位置を念入りに整える。


「いやー、実は私ってペーパードライバーなんだ……ハンドルを握るのは卒業前に行ってた教習所以来だなー」


「そ、そうすか……」


もう今さらだけど、シートベルト締める前に言って欲しかったな……


僅かに残されていた可能性は今潰えた。


先ほど見せたのは超絶テクニックではなく偶然の産物だったのだ。


「じゃあ行くよー、目指すは銚子マリーナ!」


「おわっ!?」


車は急発進し「やっぱ降ります」という声を発する間もなく、ホテルを出て公道に躍り出る。


ムチ打ちになるかと思ったよ!


「喋ると舌を噛むよー、教習所の先生も三~四人講習の途中でやっちゃったみたいで……私『舌切りめぐりん』ってニックネームが付けられてたんだ……」


歯を食いしばってGに耐えていると、知りたくなかった情報が追加更新される。


失礼しちゃうよねー、などと微笑むめぐり先輩だったが、それはニックネームというよりは、仇名という含みがあるような気がする……


「……でも私の運転って、実際、ちょっと舌を噛みやすいみたい」


言って、てへぺろっと舌を出す。


そんな「私ってウィンカーを出すタイミングがちょっと遅いみたい」な感じで言われても困る。


ちょっとその辺り、この方非常に勘違いしておられるようなので一言申し上げたかったが、急激なGの連続につっこむ間すら与えられない。


「あれ?こっちって……逆方向だったっけ……ごめん、私ちょっと方向音痴なところもあって……」


さらに知りたくない情報が追加された。


「しばらく進んだらサイドターン……スピンターンだっけ、それをやるからちょっと待っててね」


「U字!U字ターンでいいんすよ!?」


た、他県からお越しの方……こんな感じで銚子の運転は、ほんのちょっとだけ他より荒いから気を付けてねっ!


あと運転が荒いのは地元民に限らないから、そこも要注意だよ!


「ごめんね、私ペーパードライバーだから、咄嗟の状況判断にはまだ甘さが残るんだ……」


「前!前向いて、信号ーーーッ!!」




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


……幾度と無く死の予感が訪れたが、どうにかこうにか目的地の駐車場に辿り着く。


そこでもめぐり先輩は、超高速車庫入れと、駐車線の大胆な解釈を俺に披露してくれた。


車は一台なのにたっぷり四車分の区画を占有しており、ここまで来ると「番長止め」「ヤカラ止め」の域は既に超越して帝王の風格すら漂わせる。


今日ほど教習所の存在意義を疑問視したことはなかったが、恐怖に怯えて車の影に隠れる警備員さんを余所目に俺たちは目的地までテクテクと並んで歩く。


やがて眼前に大きな砂浜が広がると、小さな事柄はどこかに吹き飛んでしまった。




銚子マリーナ海水浴場である。


海は夕暮れに照らされているが、まだ何人かのサーファーが波乗りに興じている。


昨今、銚子で海水浴場と言えばここを指すことが多いらしく、昼には大混雑することもあるらしい。


しかし遊泳時間は終わっているのか、サーファー以外には既に人もまばらで、砂浜を歩くのは僅かな観光客と、荷物の後始末をしているライフセーバーのあんちゃんだけである。


ユルさと、ともすれば気怠さなども漂っていて、ほんわかのどかな光景だ。



先日遊んだ長崎プールは、実にこじんまりとした海水浴場で、砂浜には石も多くて裸足で歩くには少し辛かった。


一方でここは砂浜も広く、面しているのは同じく太平洋ながら湾のような構造になっているため波も若干穏やかに見える。



……しかしここに訪れた者が、何より心を打つのは西北に広がる絶壁だろう。



「屏風ヶ浦(びょうぶがうら)」と言われるこの断崖、高さは最高六十メートルに及び、長さも約十キロと隣の旭市まで屏風の形に伸びている。


どこまでも広がるような赤褐色の断崖絶壁は、日本のものとは思えない壮大さで、近くに生えるヤシの木も手伝ってか、まるで外国に来ているかのような風情である。


イギリスとフランスを隔てる海峡に似ることから「東洋のドーバー」とも称される、銚子でも一二を争う観光スポットだ。


先だって、関西から来た客に案内した場所であるが、実は俺も初見である。


……こうして実際に目の当たりにすると、やはり大きく情感を揺さぶられてしまう。


「絶景だねー!」


「そうすね……本当にいい眺めっす」


車を降りためぐりんは、すっかりいつものめぐりんだ。


……いや車を運転していた時もいつものめぐりんで、だからこそ余計に怖かったのだが、とまれこうあれ今は愛すべきの普通のめぐりんである。


最初にサイゼで会った時は、大人っぽくなっていてびっくりしたが、いざ接すると、相変わらずこの人はほんわか優しく可愛らしい。


まったく頼りにならないのも相変わらずだったが、それでも何となく人をやる気にさせてしまう。


それだけが理由ではないにせよ、バックレ上等な俺が逃げ出さずにここまで続いたのも、めぐり先輩の人徳に依るところが大きいのではないだろうか。




そんな人と、今こうして、こんなところで遊んでいるのだからおかしなものだ。


清楚なワンピースの裾を持って、浜辺で無邪気に戯れる様は実に絵になっており、それをぼけらっと見守っていると、なんだか本当にデートをしている気分になってしまう。


めぐり先輩は波とひとしきり戯れた後、俺に満面の笑みを浮かべて西北の方向を指差す。


「ほら!比企谷くんが言ってた、屏風ヶ浦に沈む夕日だよー!」


「そうすね……本当にいい眺めっす」


靴を脱ぎ、浅瀬の水に足を浸しつつ、ぼけらーと二人で夕陽が沈むのを待ち構える。


周りにも観光客や、近くに見えるレストランのテラスにも人が集まっていて、皆カメラやスマホでパシャパシャとやっている。


もう少し季節が進めば、夕日の沈む場所は海にずれ込むらしい。


屏風ヶ浦を夕日で染めつつ、太平洋に沈む様はさぞかし壮観だろうが、そうでなくても、名景には違いない。


……俺もこの風景を撮って、帰ったら小町に見せてやろう。そしてあわよくばデートに誘おう。


妹とデートするためには手間を惜しまない、どうも俺です。



そういうわけで俺もパシャパシャとこの絶景をスマホで撮っていると、浅瀬でパシャパシャやっていためぐり先輩がこちらに走り寄ってくる。


「比企谷くん、私が撮ってあげるよー!って、わわ……!」


しかし砂に足を取られたのか、ズベシャと水飛沫を上げて転倒してしまう。


浅瀬は足首が浸かる程度の深さだが、コケれば衣服の被害は甚大である。


「ふえー……濡れちゃったよ……だ、大丈夫かな……透けてないかな?」


「そうすね……本当にいい眺めっす」


俺の適当な答えに、もー!とポカポカ叩いてくるめぐり先輩。


何この人、超可愛いんだけど……


思わず恋に落ちて、告白に踏み切って、あっさり振られて、うっかり自殺しそうになってしまう。


そんな感じできゃっきゃウフフと二人の世界に浸っていると、後ろからこの場にそぐわないスーツ姿の男が話しかけてくる。


「良かったら、お二人の写真……撮りましょうか?」


誰かと思えばまた社畜だった。


よく見るとスラックスをまくりあげて裸足になっており、ジャケットを肩にかけながら歩いている。


悔しいことに格好良く見えないこともない。


しかし、この人何処にでも現れるな……一日一回見ている気がする……


「どうしよっか比企谷くん?」


お好きに……と目で促すと、めぐり先輩は俺のスマホを社畜に手渡す。


「ありがとうございます、それじゃお願いします」


「それじゃ屏風ヶ浦をバッグに……はい、二人もうちょっと寄ってくれるかな?」


社畜の指示に、めぐり先輩は素直に従ってぴとりを身を寄せてくる。


いよいよ恋人気分になってしまい、気恥ずかしさに顔を背けてしまう。


……が、背けた顔の先には社畜がいて、腰のあたりで小さくサムズアップをしてきた。


「気が効いてるだろ?」と言わんばかりのドヤ顔に、反射的に殴り飛ばしたくなってしまうが、めぐり先輩は俺の腕をとり、残った手でカメラの方を指さす。


「ほら、比企谷くん、気持ち悪い顔してないで笑顔だよ!スマイル!」


「あ、はい」


こんな程度のことで、ドキドキと胸が高鳴ってしまう。


で、デュフヒ……とクールに笑ったところを激写してもらい、確認すると申し分のない一枚になっていた。


ちょっと左に写っている男の笑顔が気持ち悪いが、心の目で見れば可愛いと言えなくもない。


「いい感じに撮れたねぇ、ありがとうございますー」


「こう見えて大学の頃は写真部に入っていてね……構図には自信があるんだ」


……その情報はいらなかったが、なるほど確かに良い出来である。


そうだ、この画像を一枚だけブルーレイに焼いて、辛くなった時に見返そう……


いや、待てよ……確か去年の林間学校で小町や戸塚を撮ったものもあるはずだ。これをループで流れるように編集したものを焼けばいろいろ捗る。


勢いで書記ちゃんも盗撮すれば、俺の周囲の可愛い生物四天王セレクションが作れるじゃない……


恐ろしく気持ち悪いことに目を瞑ればこれはナイスアイディアである。


こうなると欲が湧いてくる。


何か他にめぼしい画像はないだろうか。ヌルヌルと写真フォルダの中を物色していると、ふと、いつぞや奉仕部で撮った一枚の写真が目に留まる。


……かつて、フリーペーパーを作り終えた後、一色が撮ってくれたものだ。


「……」


「……ん?」


突然固まる俺に、めぐり先輩はきょとんと小首を傾げる。


そのあどけない顔に曖昧な笑みを返すと、取られていた手をなるべく優しく払う。


「……俺だけじゃ悪いすから、城廻先輩のも撮ってあげます」


「うん、ありがとう!じゃあ浜辺をバックに!」


不自然に見えないよう、ゆっくりした動作で吹き出した手汗をシャツで拭う。


先日から世話を焼いてくれる社畜にも礼を述べて別れると、しばらくめぐりん撮影に没頭した。




そうしてしばらくバシャバシャと撮っていると、間もなく夕日が断崖に隠れてしまう。


まだ日が暮れたわけではないが、辺りは一層濃厚な夕闇に包まれる。


「夕日見えなくなっちゃいましたね……まだ十五分ぐらいしか経ってないのに……」


「う、うん……異常にたくさん……撮ったね……」


まだ三百枚ぐらいしか取っていないのだが、めぐり先輩はハァハァと少し息が荒い。


いつものめぐりっしゅにも若干の陰りが見えた。


「すんません、気付かなくて……じゃあ少し休憩を挟みましょう」


「も、もういいよ、もういいから!比企谷くんも疲れたでしょ、撮影終わり!はい、終わり!」


「そうすか……?じゃあ後で皆で選抜して、これという何枚かを送ります」


「うん……な、なんか重いけど、とにかくありがとう……」


スマホをポケットにしまうと浅瀬を出て、裸足のまま砂を踏んで浜辺をぶらつく。


……もう鼓動は収まっていた。


冗談めかしてしまったが、動揺した心の平静を取り戻すまで、思いの外時間がかかってしまったのだ。





※※※※※※※※※※※


「暗くなってきたねー」


少し先を歩くめぐり先輩が、前を向いたまま声を上げる。


言う通り、辺りはすっかり薄暗く、まもなく夜の帳が下りるのだろう。


夕と夜、その狭間の時間は視界の何もかもがうっすら紫がかっており、浜辺は幻想的な雰囲気に満ちている。


めぐり先輩も露出した肌の部分などが、ぼうっと紫に浮き上がって、なんだかこの世にあらざる生き物のようだ。


俺に至ってはデスラー総統のようになっていないか大変心配である。


「……ちょっと歩こうよ、ほらあっち、公園の方まで」


めぐり先輩はそう言って、夕闇の中、明かりのついた建物の方を指差す。


「了解す」


ザクザクと砂を踏みながら浜辺を脇に二人して歩く。


空の色を映しているのか、波打ち際は紫だけでなく時折にピンクに妖しく反射している。


珍しげに顔を向けながら歩いていると、隣に並んだめぐり先輩がぽつぽつと口にしだした。


「今日は大変だったけど、上手くいって本当に良かった……それにとても楽しかったね」


「上手くやったかどうかはともかく、なんとかやり過ごしましたね」


楽しかった……というのも議論の余地があるだろう。


未だヒリヒリと痛む口を抑える。


「大成功だよー!女将さんもとても喜んでたし……きっとみんなも、お客様も今日のことは覚えてくれてるんじゃないかなー」


覚えてくれてる……?


ちょっと変わった言い回しに思えて、心に引っかかってしまうが、めぐり先輩は構わず続けていく。


「……それに久しぶりの比企谷くん節が聞けたよ。相変わらず……」


「不真面目で最低……でしたかね?」


「うーん、今日のはそうでもなかったけど……でもやっぱりちょっと変わってるって思った」


そう言うと、ほわっと笑って目を細める。


しかしその目には、いつもの脳天気さが含まれていないような気がした。


「作戦会議の時……みんな最初はどうやったらお客様全員が満足するのかって考えてたのに、比企谷くんだけ……どのお客様を省けばいいのかを考えてたんだね」


「……そんな変っすかね?」


「変だし、でも凄いなーとも思った。……相変わらず賢い子だなーって……」


……意外にまっすぐ褒められて少し面映ゆくなる。


「私、大学で基礎数学っていうのを教養科目で取ってるんだけど……そこで講師の人が言ってたんだ。頭が良い人って、みんな引き算が得意なんだって」


「はぁ……」


などと曖昧な相槌を打つ。


面白そうな話ではあるが、悲しいかな、私立文系志望の俺にはその含意が分からない。


「今日はそれを思い出しちゃって……、比企谷くんは引き算が得意なのかなって思ったんだ」


「いや、俺の数学は中学レベルなんで、何が何だか……」


「うーん……なんて言えばいいのかなー?私も専門外だからなー……」


褒めてくれるのは嬉しいが、依然意味がわからないままだ。


スリッポンで砂を踏み、めぐり先輩はうーんと考えながらズンズン先を歩いていく。


そのぼうっと紫に光る首筋を、追いかけるように俺も後に続いた。


「数学の教授って、やっぱりみんな普通の人よりもずっと暗算が早いんだって」


「そりゃそうでしょうね……」


中には数学の学者さんでありながら計算が苦手という人もいるようだが、やっぱりそれは少数派で、日々、数式と論理に向き合う彼らは嫌でも計算能力が高くなるのだろう。


俺などには想像もできない世界だが……


「でもそんな偉い先生も、お年を取ってボケちゃったら引き算からできなくなるの。……引き算は足し算の応用問題だから難しいんだね」


……と言われても、やはりよく分からない。


それに引き算と足し算って逆なだけで難易度同じじゃないの……?などと、反射的にそう思ってしまう辺りも中学レベルなのかもしれない。


「例えば……私は三桁以上の足し算の暗算するときって、小学生の時習った筆算を頭に浮かべるんだけどね?これは結構できちゃうの。……でも、これが引き算だと途端にできなくなっちゃうんだよねー」


悲しいかな……俺にはどっちも暗算できないが、まあしかし、それなら分からなくもない話だ。


筆算に擬えるなら、繰り下がりが続くと、単純に引き算の方が記憶容量を多く求められる。


一桁しか繰り上がらない足し算よりも、複雑といえば複雑かもしれない。


ただ、それにしたって、重要なのは頭の善し悪しではなくて……


「それって単に記憶力の問題じゃないすか?」


「筆算の例だとそうかもしれないけど、要はイメージの手順っていうのかな……数学だけじゃなくて、物事に対しての考え方……私もそうなんだけど、大抵はみんな基本的に“足して”物事を考えていくのかなって思うの」


「……」


「そうやって、積み重ねて、結論をイメージするの」


考えこんでしまう。


相槌を打つ余裕がなくなり、口に指を当て無言で続きを促す。


「でも比企谷くんの場合は……最初から結論がいくつかあって、その中から選んで……更にそこからどんどんやることを差し引いて考えてるのかなって」


行きしなに一色に指南してやったバイトの心得を思い出す。


朧気にでも、不確かでも全体の把握にまず努める。そこからやることを差し引いていく。


結論を導いていく考え方と、結論から差を求めていく考え方……


言われれば確かに後者のきらいが自分にはあるのかもしれない。


こじつければ、去年から講じた策もそのような物が多かったかもしれない。


しかしそれは……


「きっと、いろいろな事が君には見えてて……でも、だから、私からしたら突拍子も無い事に見えちゃうのかなー……?」


振り返りながら、じっとこちらを見てくるめぐり先輩の瞳を、目の端で受け止める。


去年の文化祭や体育祭の時……それに生徒会選挙……あの見苦しい言い争いをしていた時も、確かこの人は居たのだったか。


……なるほど、さぞかし変な事ばかり言う後輩だったに違いない。


「……って、今日の君を見て……私が勝手に考えたの」


おどけた調子で、ぺろっと舌を出す。


いくらか空気が弛緩して、こちらもなんとか苦笑で応じることが出来る。


「……自分じゃ分かんないすよ。そんなこと考えてる城廻先輩の方が、よっぽど物事が見えてんじゃないっすか」


「うーん……言葉にするのと、実際にするのは違うよ……引いて考えるのは、私は咄嗟にできないもん。……比企谷くんはそういう風に考える癖があるのかなぁ?」


「……要はマイナス思考ってことじゃないですかねぇ……」


「そっか、引き算だもんねー」


こちらもおどけてみせると、からかうような調子で合わせてくれる。


しかしそれも互いに取り繕ったものに過ぎないのか、すぐに表情は真面目な顔に戻ってしまう。


「でも、私もそんな風に考えられたらなーって思うんだ……少なくとも、そういう風に考えてる人を理解してあげられたらなーって」


いつの間にか歩みを止めて、めぐり先輩はじっとこちらを見てくる。


顔色を見られるのが嫌で、我ながら滑稽なほどに慌てて目を逸らしてしまう。


距離を開けようと、そのまま一人歩を早めて、めぐり先輩を抜き去っていく。


「……人それぞれでしょ。いろいろ考えがあって……それでいいんじゃないすか」


「うん……いろいろあっても良いと思う」


この人にはお兄ちゃんモードが発動しない。前に居てくれないと思わず歩幅が大きくなってしまう。


「でも、理解してあげられたら、その人のこと嫌いにならなくて済むかもしれない!」


声は先程より遠くに聞こえる。


……離れ過ぎてしまったようだ。


それに気付いて振り向いてみると、めぐり先輩はほっよっと言いながら、歩みを早めて再び俺の横に並ぶ。


「……素敵だって、その場で思えるかもしれない……最低、なんて言わなくて済むかもしれない」


そう言って、少し息を弾ませながらも、ほわっと微笑んでくる。


「それって、とっても良いことだよね」


「……言われた方が楽なこともありますけどね。それに嫌なら、嫌って、素直に口に出していう人も必要でしょ」


「私は好きだよ」


「……」


一瞬、固まってしまう。


「頑張ってる人は好き」


で、ですよねー……


でも、そっちを先に言ってくれないと心臓に悪い……


「それなのに、自分が理解できないせいで嫌いになっちゃうのは……やっぱり悲しいよ」


「……」


いつだったか、折本も似たようなことを言っていた気がする。


めぐり先輩はさっきの言葉を伝えたかったのか、言い終えると、軽やかに身を弾ませて、再び俺を追い越して先を歩く。


「……大学行くとね、君みたいな子が結構チラホラいるような気がする……それで結構みんなから信頼されてるんだ」


「へぇ……」


「だからM大に受かったら、きっと楽しいと思うよ。みんなチヤホヤしてくれるかも!」


「そりゃいいこと聞いた」


「楽しみだなー……もっと大学が楽しくなるなー……」


顔は見えないが、きっと笑顔を浮かべているのだろう。


楽しげに弾むように歩くその背中を見ていると、はたと思いついたようにこちらを振り返る。


「でも……そう考えると、一色さんって凄いね。君をちゃんと使いこなしてる」


「……あれは良いようにこき使われているとも」


「あはは……でも私にはきっと出来なかったからなー……」


「俺、城廻先輩の下では、結構頑張ってたつもりなんすけど……」


「そういう意味じゃなくて、一色さんみたいに、君が活き活きしていられるような場所を作るなんて……出来なかっただろうなーって」


「……そう見えますか」


「楽しそうだからね」


「……」


ともすれば、俺の突き放すような物言いに、めぐり先輩はこともなげに返してくる。


「私ね、M大祭の実行委員になったんだよ」


「へ、へぇ……」


思わず絶句する俺など、意にも介さず、めぐり先輩は話を続けてくる。


こんなところは、あいつとよく似ていた。


しかし文化祭の実行委員とは……何処にいても似たようなことをするものだと、思わず笑ってしまう。


「凄いんだよ!あそこの大祭って委員が三百人ぐらいいるの!……私はまだ雑用みたいなことしか出来ないんだけど、でも今度はもっと上手くやれるって思うんだ……それで、来年はもっと上手くいくね!」


「はぁ……来年もやるんすか」


「うん、今度は比企谷くんをもっと上手く使うんだー」


笑みが少し引き攣ってしまう。


まだ合格もしていないのに、勝手に参加を決められている……


まあ、しかしさすがは先代である。これで姉御肌なところがあるのか、人を使うのに躊躇がない。


もっとも、こういう人の元は働きやすくもあるし、その未来を想うと……少しだけ胸が弾む



この人は以前にも……そう、確か一色が会長に就任し、生徒会室の整理を終えた後のことだ。


あの時の俺がどうしても思い浮かべられなかった、きっといちばん座りのいい未来を、こともなげに示したことがある。


さっき、俺には結果のイメージが見えていると、この人は言った。


しかし、むしろめぐり先輩の方にこそ、その能力があるんじゃないかと思えてならない。


そして多分……その能力を持つのはめぐり先輩に限らない。


何人かの顔が自然と頭に浮かぶ。


いずれも眩しくて、そして妬ましい。


……そのイメージは、きっと積み上げることでしか浮かべることが出来ないものなのだ。



「まあ、俺が参加するかはともかく……楽しそうで何よりっす」


「うん、比企谷くんの方はどうかな?今は楽しい?」


「……」


その問い自体は、俺は素直に答えを出すことができる。


先ほど、めぐり先輩が見透かした通りである。


……にも関わらず、口に出すのを少し躊躇ってしまう。


そんな俺の逡巡を察してか、めぐり先輩はじっと目を俺に向けて、言葉を重ねてきた。


「……去年と比べてどうかな……今はちゃんと、楽しい?」


「――!」


息を呑んでしまう。


「……」


その問いには、応じることが出来なかった。


気の利いた言葉も、誤魔化した物言いも、つまらない冗談も、片言の返事さえも湧いてこない。


……こうして他者から問われるのは初めてかも知れない。


それでも俺には馴染みのある問いだった。


ずっと自分の中に持ち続け、折に触れて脳裏を過り、なお答えの出ない……そんな問いだったからだ。


思索を進めると、途端に靄がかかってしまう。


進めることを拒むのは、一つの感情に起因する。




――比べるのは、ひどく恐ろしいことだった。




「あ、ごめんね……私、はるさんから聞いてて……」


「……ん、そうっすか」


やっと出てきた言葉は、そんな意味のない相槌だ。


この人が知っていたことに不思議はない。


そのことで黙っていたのではなく、本当に返事に窮してしまったのだ。


「このバイトの話、本当はまず雪ノ下さんに電話しようとしたんだよね……それで、はるさんから話を聞いて……」


「いや、すんません……連絡もしないでこっちこそ不義理でした……」


「あ、や、そんなのはいいの。……それで由比ヶ浜さんや、君の事も気になっちゃって……だから津田沼で見た時はちょっと驚いちゃったよ」


「なるほど……」



―― 奉仕部はもう総武高校には存在しない。


あの部を残しておいて欲しいと、そう懇願した小町が入試に失敗したというのがあるかもしれない。


四月から他所の学校に転任した平塚先生の不在というのもあるかもしれない。


だが何より、三人で答えを出したというのが大きかった。


先の三月を以って、奉仕部は廃部となったのだ ――




「ごめんね……ひどいこと聞いた」


「……いや、その答えは、俺も知りたいす」


そう返すと、めぐり先輩はじっと俺の顔を見てくる。……その瞳も、どこか最近のあいつが向けるものに似ている。


ともあれ、こういう時の俺の反応は誰であっても変わらない。


その真っ直ぐな視線に耐えられず、俺は顔ごと目を背けてしまう。


……返事は保留で勘弁してもらおう。


「……でもまだ結論は出ないんで、来年、大学でってことで……どうですかね?」


ちらりと、目線だけ向けると、ほわっとした笑顔で返してくれる。


こちらは一色には到底出せない、天然ものの柔らかな笑みだ。


「うん、楽しみにしてるね」


そう言って俺の後頭部をぽむと叩くと、駐車場の方に向けて歩を進める。


随分歩いていたようだ。公園などとっくに通り過ぎ、海辺を見るととヨットが屯している。


もうすっかり日も暮れて、街灯がめぐり先輩のおでこをつるっと明るく照らしていた。



宿題を抱えてしまった。


どうもこの人の前では、自分はいろいろ頑張らなければいけないらしい。


来年、もし会える日が来たとして……


この人に、きちんと答えを見せられる……そんな自分でありたいと。


……決意も新たに、俺は拳を少し軽く握りこんだ。


「さて、じゃあホテルに戻ろっか!銚子の夜道は暗いからちょっと気をつけないとね……」


「……そ、そうすね……」


はい、そうですね、完全に忘れてましたね……


帰りもあのGに耐えなきゃいけないんでしたっけ……?



この後、無事ホテルに戻れたとして……


この人に、金輪際ハンドルを握るなとピシリと言える……そんな自分でありたいと。


……恐怖も顕に、俺は暖を取るべく総毛立つ両腕を抱えて、軽くさすった。



※※※※※※※※※※※※


帰りしな、軽く三回ほど死にかけたものの、無事ホテルまで生還を果たす。


早速夕食を貰いに食堂に赴くと、棚口の傍で一色が大志と共に例のごとく立ったまま賄い丼をかっこんでいた。


すっかり馴染みのかっこみガールである。


目が合うやいなや、恥ずかしそうな顔を向けるが、それも一瞬の事で、すぐに俺をジト目で睨みつけてくる。


「むぅ……今お帰りですか……随分長い間お楽しみだったようで……」


「おお、後で写真見せてやるよ。結構感動的な風景だったぞ」


一色はちゃかちゃかと丼の残りをかっこむと、口の中をパンパンにしながら今見せろやと無言で手を差し出す。


も、もうこの子ったら本当にアホっぽいんだから……


それと、いいこと、いろはす?女の子が口の中にそんなに食べ物詰め込んじゃだめなのよ?


最近、女子力の低下が目立つ一色の行く末を憂いつつ、掌にスマホを乗っけてやるとヌルヌルと手慣れた様子でビューワーソフトを立ち上げる。


こいつ俺のスマホに入ってるアプリを完全に把握してるんだよなぁ……


「ムグムグ……なんですかこれ……『めぐりん三百連発(304)』……?」


「そっちのアルバムじゃねぇよ、下の『屏風ヶ浦(10)』ってところだ」


「は、はぁ……」


一色の俺を見る目がゴミクズを見るそれになっているが、素直にアルバムを開くと感嘆の声を上げる。


「わー……こんなのこの近辺にあるんですねぇ……」


「これが屏風ヶ浦っすか……俺も行きたかったっす……いいなー……」


大志も横からスマホを覗き込み、へぇはぁと二人して感嘆の息を漏らす。


「夕陽が丁度落ちる頃でな、こう浜辺を歩きながら撮ったんだよ」


「ま、また……!な、なんで他の人ばっかり……」


またも憤慨して頬を一層あざとく膨らます一色だが、そうして入り口でガヤガヤやっていると、車を戻しためぐり先輩も食堂に入ってくる。


そのめぐりんに、一色はジロリと敵意たっぷりの視線を投げつける。


この子ったら……先代相手になんて顔を向けるんでしょう……


こなれてきたのかな……嫌だな……怖いな……


「写真を見てるの?私も久しぶりに見たけど綺麗だったよねー」


「それで……あの……めぐり先輩、お兄さんとのデートはどうだったっすか?」


ケヒヒ……と大志は下卑た笑みを浮かべて、不躾な疑問を投げつける。


やだわこの子……一体誰に似たのかしら……?っていうか、戸部に決まってるわな。


絶対に許さない……あとでわさびをけしかけよう……


「うん、たくさん写真を撮ってくれたんだよー」


「そのようですね……」


一色さんが怖い顔をこちらに向けている。


でも前に戸塚を撮った時は不完全燃焼ながら1000枚近くになったので、これでもまだ遠慮した方ではある。


「後で選抜会開くから、大志、野郎連中に声かけといてくれ」


「だ、だからそれはいいってー!」


「めぐり先輩のショットっすか!?うっひょう!」


などと異常に興奮した大志も交えて、きゃっきゃうふふと三人で戯れていると、一色は肩を震わせてボソリと呟く……


「安牌だと思っていたのが……ちっ、とんだ伏兵の登場ですよ……」


などと、訳の分からないことを宣う始末。


それより……君……その舌打ち……


「でも私、屏風ヶ浦より君ヶ浜のほうが好きだなー……」


しかしめぐり先輩は一色の敵意など意にも介さず、そんな所感を述べる。


この人悪意とか通じないのかな……?


「君ヶ浜って、前に先輩が言ってたあれですか?日の出が早いとか、撮るのに困らないとか……」


「うん、こう朝日でキラキラ海が輝いて……そんで浜辺がぐいーんってなってて、とにかくとても綺麗なんだよ!」


「へー」


「一色さんも見に行くといいよ!」


「むぅ……ま、まぁ、その、考えときます」


超興味ない相槌で返した一色だったが、めぐり先輩の高いテンションに少したじろく様子を見せる。


うーん、やっぱりこう水と油っぽいとこあるなぁ……




※※※※※※※※※※※※※※※


めぐめぐめぐりん☆フォトグラフィック大選抜会も無事終えることができた。


前かがみで水を掬うめぐり先輩の肩口に見える黒い線が、ブライス・ダラス・ハワード(※)の紐ではないかとという審議が思いの外長引き、結局会計くんの分析でただの影だと判別した時には、ヒートアップした戸部と一触即発の険悪な事態に発展するなどちょっとしたハプニングもあったのだが、紆余曲折あって選別を無事終えると、各自、受験勉強に精を出す。


唐辛子の後遺症は依然続いており、体が中から発火しているような感覚が絶えない。


他の面子が一人、また一人と勉強部屋から姿を消すも、俺だけは寝るに寝られず、結局不眠で問題集を解いていく。


しかしぶっ続けで勉強をしていると、さすがに脳も飽いてきた。


近くにあるコンビニまで行こうと、散歩がてら裏口から外に出る。


すでに時間は朝の四時前だ。といっても夜明けにはまだ時間があるらしく、全体的に街灯の少ないのも相まって、辺りは闇そのものである。


ふと思い立ち、俺はコンビニに寄る足を北に向け直す。


……明日のシフトは夕夜だ。今日はもう少し夜更かししても問題なかろう。



浜辺沿いに二〇分も歩けば、関東は最東端、犬吠埼まで行けるはずだ。


途中自販機でマッカンを購入し、ちびちびやりながら歩いていると、ほどなく真白い灯台が見えてくる。


近くに寄ると、思ったよりも巨大な建造物で少しワクワクしてしまう。



そしてここまで来ると、日の出を見るために、まばらではあるが観光客っぽい人をチラホラと見かけるようになってくる。


灯台付近はなんとなく人が多く、孤高を愛する俺は急な階段を下って浜辺まで降りた。


そうやって少し北まで歩を進めると、間もなく君ヶ浜海岸だ。



……と言っても、辺りは暗く、せっかくの名景も黒く塗りつぶされて遠くを見ることが出来ない。


暫く歩くも、諦めて浜辺の適当な岩に腰掛けた。


陸側のライトの明かりにうっすらとしか見えない海だが、荒々しく岩を叩く波音はここまで響いてくる。


暗い海をじっと見入っていると、これだけ離れているのに、不意にさらわれてしまいそうな錯覚に陥る。


そんな波音にいちいちビクつきつつ、程よく涼しい空気を吸い込んでいると、体の中の熱気もいくらか冷めて、思考がクリアになっていく。


……めぐり先輩と話してからというもの、今日はあの二人を思い出すことが多くなっていた。



今頃二人は何をしているのだろうか。



由比ヶ浜はどうだろう?


あの子が勉強している姿というのは、失礼ながらいまいち頭に浮かばない。


そうでなくともこんな時間だ。今頃ふがふがと呑気な顔で寝こけているに違いない。


しかしさすがのガハマさんも、夏休みともなればさすがに焦っているはずだ。


日中は三浦やら海老名さん、あるいは葉山辺りにも泣きついて、勉強会でも行っているのかもしれない。


そして、その底の知れないアホっぷりに皆を戦慄させているかもしれない。


いや、ほんとあいつ受験とか大丈夫なのかな……なんかあの子も浪人とかしちゃいそうなんだけど……




雪ノ下はどうだろう?


時差は約九時間。


すると今頃あちらは十三時ぐらいだろうか。いや、向こうはサマータイムとやらでこの時期は一時間ぐらいずれるのだったか。


なんにせよ、この海を隔てたずっと遠くで、今頃、凛と背筋を伸ばして読書なり勉強なりでもしているに違いない。


単位をすべて持っていけるとかの理由で、どこかの姉妹校に編入したはずだ。


以前にも留学経験があると聞いたことがある。おそらく、向こうの言語にも難なく対応できるのだろう。


あいつは顔の端正さだけで言えば、ワールドワイドに通用しそうだ。


そして向こうはアグレッシブな人が多いイメージがある。


中にはその内面を見抜けない間抜けなGUY達が居て、アプローチを受けたりすることもあるだろう。


しかしあいつは口の悪さもワールドクラスな気がする。


粉をかけられては、流暢な英語で心を抉る罵倒を浴びせるに違いないのだ。


やだ可哀想……向こうの人……





勝手に二人の現在を想像して独りほくそ笑む。


傍から見ればさぞ気持ち悪かろうとも思うが、同時に胸がチクリと痛む。


もう二度と彼女たちと心を通わせることはないのだろう。


その喪失感は、未だ耐え難く身を苛む。


しかし、その一方で、着実に埋められていく想いもある。




―― 今は楽しい?




楽しいと、そう素直に思えてしまう自分は、以前と比べて変わってしまったのだろうか。


例えば去年の俺が、ここに、生徒会に入ったとして……果たして今と同じように振る舞えただろうか。


……考えるまでもない。


きっと上手く行かなかっただろう。おそらく三日と持つまい。




もし、変わってしまったのなら、それは奉仕部で得た経験の数々があるからだろう。


かつて唾棄すべきと断じた、薄っぺらいぬるま湯のような空間。


ここはそんな空間に似ていると言えなくもない。


バレンタイン企画の後に、陽乃さんに指摘されたことを思い出す。


……楽しいと、そう思っていることは、はたして本当に俺の望むものだったのだろうか。


……逆に、違うというなら、では、奉仕部で得た経験の数々もまた偽物なのだろうか。


そもそも蓄積の有無が、真偽の違いを分けるのだろうか……?




と、そこまで思い至り、めぐり先輩の言っていた、引き算の話が脳裏をよぎった。


自分がまた結果から物事を差し引いて考えていることに気付く。



……めぐり先輩は評価してくれたが、俺は以前ほどに、自分のやり方に自信を持てなくなっていた。


人に指摘されると不愉快だが、このやり方で得たものは簡単に覆ってしまう……脆弱なものでしかないことを、身を以て体験したからだ。


林間学校での鶴見留美の一件……


文化祭や、修学旅行での収め方……


雪ノ下の会長選阻止にせよ、クリスマスイベントにせよ……


ともすれば一時凌ぎに陥りやすい俺の手法は、いずれも分かりやすく、早い形で問題として表出した。


めぐり先輩の言うところの、結果から引いて得られるものには限界が有ることを、俺はもう知ってしまっている。


しかし十八年間、それこそ必死に培ってきたものだ。あり方はそう簡単には変えられない。


落とし所は、今もなお見つけていなかった。



だから――



それが知りたくて、分かりたくて、俺は夜空に顔を向ける。


空に広がるのは満天の星だ。


今日は月齢が若いのか、朝も目前になお闇は深く、星は一層鮮明に輝いている。




そして、もう何度目かも分からない、この辛い作業を脳内で繰り返す。


春から起こったことを、去年にあったことを。


ここに居る理由の思索を重ね、かつて居た場所に想いを馳せる。


重ねて、比べて、時には向こう側から透かしてみたりする。


そうやって、何度も、何度も、


星を数え直すのだ。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


気が付くと、海と空の境界が白み始める。


間もなく夜が明けるのだろう、空いっぱいに広がっていた星も、その数を減らしている。


辺りもうっすらと明るくなっており、それまで闇に覆われていた視界も随分と良くなっている。


日の出る位置に適当に目星をつけ、その方角に目を向けると、ふと視界の端に小さなテントがぽつんと置かれているのを捉える。


ここで日の出を見たくて、夜通し張っていたのだろうか。


珍しくもない光景らしいが、そこまで情熱を傾ける様が少し微笑ましい。


ニヤニヤと笑いながら見ていると、その一角から少し離れたところに見覚えのある人影が一つ。


顔はよく見えないが、その歩き方や、立ち振舞い、体を動かす仕草の一つ一つが、既に俺には馴染み深くインプットされていて、遠目でも誰なのかはっきり分かってしまう。


「一色……」


昨日の夜は気のない反応を示していたが、めぐり先輩に言われたことが気になっていたのだろう。


バイト最終日である今朝を最後のチャンスと見たのか、どうやら独りで君ヶ浜まで繰り出していたらしい。


普段はこまっしゃくれた態度をとっているが、こうした素直な一面もあって思わず笑ってしまう。


しかし一色は海や浜辺ではなく、ほえーと明るみ始めた空を見上げている。


空の明るさの割には、思いの外、星が多く残っているからだろう。


確かに光量の多い千葉市街ではちょっとお目にかけない、珍しい空である。


上を見ながらふらふら歩くさまは、少し危なっかしいが、それも可愛らしく見えなくもない。


よっこらしょっと、俺は腰を下ろしていた岩場から立ち上がる。



―― 話をしたかった。


思えばバイト期間中、これだけ近くにありながら、じっくり会話をしていなかった気がする。


下手すれば学校がある時の方が、会話も多いぐらいかもしれない。


こんな気分になるのは珍しい。感傷的になっているのかもしれない。


今はただその近くに居て、言葉を交わしたかった。



……といっても直截に声をかけるのも気恥ずかしく、まずはあいつの視界に入ろうと、日の出の方向にたらたらと歩を進める。


テントを視界の端に捉え、迂回して向こう側まで歩こうとすると、ちょうど中から一人の男が這い出てくる。


暗くてよく見えなかったが、この場にそぐわないスーツ姿、そのふらつく足取り、挙動の一つ一つが、既に俺の脳内に刻み込まれており、顔は影に隠れているのに誰なのかはっきり分かってしまう。


「社畜……」


「やあ奇遇だな。君も日の出を見に来たのか」


出てくるやいなや俺に気付き、気安く話しかけてくる。


―― 話をしたくなかった。


思えばバイト期間中、従業員と客という関係にありながら、無駄に交流を深めた気がする。


行く方方を尽く先回りされており、あまりに頻繁に顔を合わすものだから、ぼちぼち友達みたいに思い始めちゃってる節もあったが、冷静に考えるとやっぱり他人なのでごめんなさい無理です。



脳内でお断りしていると、社畜の顔にぱっと光が指す。眩しそうに目に細めつつも、社畜は俺の後ろを指差した。


振り返ると視界に入るのは、待ちに待った日の出の瞬間である。



空は夕暮れに似る。しかし昇り出る朝日には、一日を始める勢いのような明るさがあった。


明らかに夕陽と異なる鮮烈な光に、俺も思わず目を細める。



荒々しい波が、浅瀬の岩を強く叩いている。反射する光が弾け、なんとも雄大な風情だ。


朝の光が徐々に辺りを照らし、すっかり視界も広くなる。


浜辺に目を移すと、なだらかで美しい曲線が目の前に広がった。


どこまでも広がっていく白い砂浜と、深い緑の松林が朝靄の中で輝いている。


日本の渚・百選にも入っている、「関東舞子」とも言われる君ヶ浜の名景だ。


声もなく、しばらくその美しい光景をただただ眺める。


「霧が多く発生するから『霧ヶ浜』なんて言われたりもするらしい……今日はそれもなくて良かったね、本当に良い見晴らしだ……」


「は、はぁ……」


風景に目をやりながら、社畜が解説してくれる。


でも出来ればおっさんと見たくなかった……


ちらりと振り返ると、少し離れたところで一色も目を丸くしてこの景色に見入っている。


朝日を浴びて、常より輝いて見える。


まあなんか異物も混じっているが、この瞬間を二人して見ることが出来た。


そんな程度のことに充足を覚える。


……少し弾んだ胸を抑えて、俺は一色に声をかけた。


「おい、一色!」


逆光で眩しいのか、一色は目を細めてこちらを見やる。


すると、ぎょっと肩を跳ねて、すざっと後ずさった。



……え?な、何その反応……?


「わっ、わわ……!す、ストーカー!?」


言うや否や、くるぱっと身を翻し、すごい勢いで反対方向に走っていく。


「ちょ!お前、そりゃねぇだろうが!おい、一色!」


脱兎のごとく逃げていくが、しかし一色はアホだから女の子走りしかできない。


少し走ればすぐに追いつけるだろう。


速度を上げようと、砂を蹴る足に力を込めると、隣をものすごいスピードで社畜が横切る。


「実は私はこう見えて、高校時代はスプリンターとして鳴らしていたんだ」


言うと、素晴らしいフォームで、ぎゅわんと速度を上げる。


いや、なんでおっさん一緒に追いかけてるの……?


よく分からないことになってきたが、俺も負けじと速度を上げて、声を荒げる。


「おいっ、一色!待てって!」


その声を受けて、一色は走りながらちらりと後ろを振り返る。


するとものすごい勢いで疾走する社畜に、目を剥いて悲鳴を上げる。


「は、はわわ!」


何がはわわだとも思ったが、無理もない、社畜凄い速いからな……


泡を食った一色は更に足を早めた。


あのフォームでよくあそこまで走れるものである。これまで見たこと無いスピードで逃げ惑う一色。


こちらも必死で追うのだが、徹夜の疲れがここに来て、情けないことに息が続かない。


「きゃー!きゃー!」


「うー!フー!フー!」


朝日の登る海をバックに砂浜を疾走する俺たちは、ぱっと見、青春の一幕を演じていると見れなくもない。絶対に気のせいだが。


「やるな……よしっ、ギアを上げていくぞ……!」


一色の思わぬスピードに驚いていた社畜だが、気持ち悪いことを呟くと、更にスピードを上げて加速していく。


しかしブランクがあったのだろうが、加速した矢先に岩に足がかかってしまい、大きく体勢を崩したのち、豪快に頭から砂浜に突っ込んでしまう。


そして、そのまま、ふっ!ぐふうっ!などと言いながらゴロゴロと転倒し始める。


俺は俺で、すぐ前を突然ド派手に転倒した社畜に対応できず、巻き込まれる形で一緒に砂浜に転げ回ってしまう。オウフ。


砂まみれで、体の痛みにもんどり打つ俺たちを余所目に、一色は悲鳴を上げながら君ヶ浜から退散していくのであった……


い、いろはすー!



※※※※※※※※※※※※※※


這う這うの体でホテルに戻り、従業員用の裏口の戸を開ける。


そこには一色が居て、見るなりぎょっと肩を跳ね上げる。


しかし俺だと分かると安心したのか、たんと床を蹴って、胸に飛び込んできた。


「う、うお!」


「せ、先輩先輩!さ、さっき海岸で……ストーカーが!ストーカーがが!」


よほど怖かったのか、目には涙を浮かべ語尾を重ねつつも、こちらに縋りついてくる。


「怖かったです……何故かわたしの名前まで知っていて、呼びながら追いかけてくるんですよ……朝日が眩しくて顔ははっきり見えなかったんですけども……」


うん、それ俺ね。まるっとはっきり……俺なんですよね……


こうした反応は素直に可愛らしいとも思えるのだが、経緯が経緯だけに微妙な心持ちである。


ぽんぽん肩を叩いていると、そろそろ朝シフト組の起床時間なのか、すぐ脇の扉が開く。


見れば、くぁ~~と欠伸をしながら戸部が廊下に出てくるところだった。


すると、抱き合っている俺たちを見て、にやっと下卑た笑みを浮かべる。


殺意が湧いたので、すかさずわさびを懐から取り出すと、戸部は例のごとく一瞬怯んだ顔を見せたが、しかし敵もさるもの。


戸部は両のポケットから、赤唐辛子を取り出すと、指に挟んで両手に構える。


ひ、ひぃ……!


互いに恐怖に怯えつつも、せめて一太刀浴びせんとジリジリと間合いを一定に保っていると、副会長も自室から出てきて俺達に笑顔を向ける。


「おはようお前ら。……朝も早くから仲がいいなぁ」


相も変わらず、この男はのほほんと呑気なものである。


そういや、今回こいつ痛い目に遭ってないな……


近く機を見て、記録と記憶の双方に残るようなとんでもない体験をさせてあげたいところだ。


ともあれ、四人して朝食を求めに従業員用の食堂を目指す。


「あ、副会長!わたし、さっき君ヶ浜に行ってきたんですよねー」


「へー……いいなぁ……で、どうだった?綺麗だったかい?」


「あれはちょっと感動しますよー、わたしも以前から目を付けてたんですけどー、特にあの日の出!一生に一度は行ったほうがいいですよねー」


「そこまでか……えーと、今の時期って何時頃に行ったら日の出って見られるんだっけ……?」


「四時四十五分頃ですかねー」


「……もっと前から行っても良いんじゃねぇの。星空もすげー壮大でよ、夜が明ける前からテントで日の出まで張ってる人達もいたぞ。明日の朝、書記ちゃんと一緒に行ってみたらどうだ?」


「あ、テントならそこの倉庫にあったべ?女将さんに頼んで、あれ使ったら良いんでね?」


「ちょ、ちょっと待って下さいよ、なんで先輩そんなに詳しいんですか!?」


「あっ!でも、副会長と書記ちゃんがテント使ったら何するかわかんねーし!」


「……ふ、ブフヒッ!」


「……お前ら、そのいやらしい目を今すぐやめろ」


「ちょ、ちょっと先輩!無視しないでくださいよー!」


「ねむてぇ……勉強しすぎた……朝飯食ったら寝るわ……」


「えっ!?ヒキタニくん今日も勉強してたん……!?」


「戸部は受験やばそうだよな……夏にそれだと何処にも引っかからないんじゃないか?」


「……まあ浪人を運命づけられたような顔ではあるよな」


「どんだけバカにしてんの!?」


「も、もう!せんぱい!」


いつもと違う環境で、しかし交わされるのはいつもと同じようなやり取りだ。


そのことに、少しほっとしてしまう。



……そう遠くない将来、俺はこの居場所も失ってしまうのだろう。


それを避けることは出来ない。


でも後から思い起こす事があったとして、そんな時、頭に浮かぶのは、きっとこんな何気ない一幕なのだと思う。




取り留めのないことを考えながら、特に意味なく傍らの一色の背中をポンポンと軽く叩く。


「むぅ……なんかわたしまでバカにされてる気がするんですが……」


不満と猜疑を目に含ませて、ぶくっと頬を膨らませる後輩を見ていると、自然と顔がほころんでしまう。


よし……今日も一日、がんばるぞい!



※※※※※※※※※※※※※※※※※


バイト最終日をつつがなく終え、その次の日。


俺たちは朝も早くから、自室内の後片付けを急いで行う。


もう間もなく、復帰した従業員たちがこの部屋を使うのだそうだ。


荷物を外に出して、申し訳程度に清掃も行う。


めぐり先輩はここに居残り、当分稼ぐ腹づもりのようだが、夕方からのシフトだそうで、今は私服姿でいつものようにほわほわ指示を出してくれる。


明け渡しを終えると、皆で共用スペースに荷物を運んで一息つく。


この従業員用スペースも、ぼちぼち自分の家のように錯覚し始めていたところだが、こうして契約を終えると、見慣れた壁もどこかよそよそしく見えるから不思議なものだ。


「はぁー、ちかれた~」


鞄を枕やクッション代わりにして、皆思い思いにだらけ始める。


今日はほとんど働いていないのに、これまでの疲れが一気に来たのか、皆どこか倦怠感が漂っている。


しかし一つ屋根の下、これだけの期間を過ごしていると、川崎などもこなれてきたのか、生徒会メンバーとダラダラ会話をしている。


そうやって皆でうだうだ時間を潰していると、朝礼を終えた女将さんが部屋にやってきた。


皆、いつもの癖ではっと背筋を伸ばす。


契約を終えたにも関わらず、元上司が来ると襟を正してしまうのだから不思議なものだ。


なんか良くないものを植え付けられてるような気もしたが、女将さんはこちらを見やると、ふっとこれまで見たこともないような優しげな笑顔を向けてくる。


「あんた達、ありがとうね。どうなることかと思ったけど本当によく働いてくれた……次のお正月……は受験生のみんなは無理だけど、また来年にでも来ておくれ。喜んで迎え入れるよ」


などと嬉しいことを言ってくれる。


んー……こんな円満にバイト終えたの初めてかもしれないなー……


などと感慨に浸るも、一色の合図で一同礼を述べる。


実に爽やかな一幕を演じるものの、その後給与明細をもらうと、一転、みんなして色めき立つ。うっひょー!


宴会でのリリーフにも、女将さんは言葉通り特別給を付けてくれており、ほぼ一日分の額が上乗せされている。


唐辛子を見ると体が震えるという精神的外傷を負ったものの、実働十五分であることを思えば、これも過剰と言える額だろう。


きっと贔屓にしてくれたに違いない。


……総括するに、それなりに重労働だったが、勉強時間を減らすことも無く、なかなかに美味しいバイトだったといえよう。




「みんなどうするー?特急まで結構時間余ってるけど……ちょっとぐらいなら観光できるよ?良かったら何処か案内するけど……」


めぐり先輩が訊くと、せっかくだから好意に甘えようと、各自希望を言い立てる。


結局、皆の意見を統合し、一昨日俺とめぐり先輩の行った屏風ヶ浦を見に行こうということになった。


写真を見て、触発されたのかもしれない。


あ、そうだ……写真といえば……


「城廻先輩、LINE良かったら教えて下さい。この前の写真送りますんで」


「……え、え!?う、うん、も、もちろんいいよっ」


撮影会が気恥ずかしかったのか、この人には珍しく、わたわたと慌てて自分のスマホを用意する。


何か冷たい視線を二つほど感じたが、構わずフリフリしてアカウントを交換する。


「審査員五名による新増沢式採点法で選抜しました。満足いく二十五枚になっていると思います」


「う、うん……君はやっぱり不真面目で最低だね……」


冷たい視線は三つに増えたが、俺はやり遂げた充足感に心を震わせていた。


この後起こる惨劇など、思いも至らずに……



※※※※※※※※※※※※※


他の従業員達に適当に別れの挨拶をしながら裏口から出ると、めぐり先輩は既にスタンバイを済ませており、目の前には大きなワゴン車が停まっていた。


よく見ると、アスファルトの地面には丸く弧を描いたタイヤ痕があり、焦げたゴムの匂いを辺りに漂わせている。


先日修理したはずのパイプテントも再び崩れ落ちて、バッテリーなどの機材が天幕に覆われていた。


得意の一八〇度ターンを、俺達の居ないところで実施していたのだろう。


「忘れてた……」


「おい比企谷、後がつかえてるんだからそんなところで立ち止まるなよ……」


副会長は怪訝な顔を向けつつ、出口で立ち止まる俺の背中を押してくる。


「あ、ああ、副会長、お前助手席に座れよ。景色もいいし、城廻先輩とも話したいだろ?」


「ん?まあそりゃそうだが……じゃあお言葉に甘えようかな」


「……助手席って確か一番死亡率高いんだよな」


「え?」


「いや、ジョジョ四部って意外にいっぱい死亡するよなって」


「あ、ああ、クライマックスのところだろ?……あの辺は手に汗握る展開だよな……俺、実は四部が一番好きなんだ、素朴さとスリルの交錯っていうか……」


などと微笑ましいJOJOトークを交わしつつ、呑気に微笑む副会長を助手席に押し込む。


俺も後部座席の一番奥まったところに、さっさと陣取り腰を下ろすと、続いて一色や書記ちゃんが入ってきて、間もなく全員が乗り終えるとドアがぱたんと閉められた。


……さあ、カーニバルの始まりだ……


「城廻先輩って運転できたんですねー」