2017-03-31 00:36:28 更新

概要

P×佐久間まゆ
オリジナル設定を致死量に含むので注意 リスカ描写あり


前書き

原作執筆時期
2013年 12月22日


この世界はつまらない。

石灰色の空が広がりモノクロな景色だけを繰り返す世界は『色』がない。

明るい未来などない。先が見えない。

それは、予定調和な出来事ばかり起きる現実に希望を見失っているからだ。

非凡な事は起こらずただただ無為に過ぎ去っていく時間。

最初から勝ち負けが決まっている理不尽な八百長試合。

抑圧と統制に満ち充ちた機械仕掛けの社会。例外など許されない意識。

だから私は思う。この世に神様は存在しないのだと。

居るとするならば、それは何て・・・・残酷な神様なのだろうと。

人間はただこの世界を享受して生きていかなければならない。

ああ、酷すぎる罰ゲーム。人間は生まれながらにして原罪を背負っていると説いたのは

何処の誰だったか。人間は生まれながらにして悪だと唱えたのは誰だったか。

選択肢などない、拒否権など介さない強制参加の不完全ゲーム。

・・・・・ツマラナイ。



『ほら、佐久間立て!まだ2周も残っているだろう!?

お前が走り終わらないと皆の休み時間が潰れてしまうだろう!!』


『・・・ねぇ、まゆちゃんって本当に運動出来ないのかなあ?

発言とかも消極的だしやる気がないだけだったりしない?』


『勉強もそこまで出来るタイプじゃないもんね。

家庭科とかはすっごく得意だけど、まさか今から

お嫁さん修行してるんですなんて言うんじゃないでしょうねーあはははは!』


・・・・・このやり取りはもう何度目だったか。

同じ動作を続ける歯車のように機械的に繰り返されてきた。

付和雷同、異口同音。民衆群衆総力戦。口を揃えて大合唱。

何度も何度も同じ出来事を体験して同じ反応のみが返ってくる。


『ねぇ佐久間、あたし達が雑誌持ち込んでたことあのゴリラ先公に

チクったんだって?なあオイ、人の嫌がることして楽しいか?

あたし達は何も佐久間に手ぇ出してないって言うのにさ』


『まゆちゃんって本当何考えてるんだか分かんないよねー。

普段は大人しいというか控えめなのに周りに合わせる気がないって言うか・・・

自分の意見を述べちゃうというか、ほんと自己中なの止めてほしいよー』


デジャヴュなのかループ世界なのか。

或いは、私の認識が壊れていてこれは全て私の幻聴なのかもしれない。

私の見ている白昼夢なのかもしれない。それさえも曖昧だったが、

そんなのはもうどうでもいいことだった。全てが白黒の日常だ。

私の目が濁っているのかと思っていた時期もあったがそれも違った。

濁っていたのはこの世界の方─────

「私、は・・・・・」

一体、何のために生まれてきたのだろう。何の使命を帯びて、

何を為せば良いのだろう。永久に終わらない問いかけが反駁する。



死のうと思ったことはあった。

実際に死にたいと試したことはあった。何度でも。

でも、死ねなかった。

マンション屋上、地上15階。けったいなフェンスをよじ登って越える。

あと一歩、踏み出せば足場を失った身体はそのまま落下を始める。

重力に身を委ねて、約4秒後に私は重力場に抗える。

けれど踏み出せない。たった一歩が重い。縫い付けられたかのように動かない。

徒歩数分。昼夜を問わず忙しなく人の行き交う車道に立ち尽くす。

だが轢いてはもらえない。耳障りな急ブレーキ音とクラクションが鳴り響くだけだ。

それでも立ったままでいると誰かがお節介で私をどかす。

普段は助けてなどくれないくせに、そういう時は助けて私を死なせてくれない。

赤信号に飛び出せばきっと轢いてもらえる。だけどやっぱり足が動かないのだ。

台所から無断で取り出した柳刃包丁。胸に寄り添ったその刃先が2cm引かれれば

肉を突き破った凶器は私の心の臓の喘鳴を止めてくれる。

でも刃物を持った両手が震えて出来なかった。中途半端な覚悟と日和が私を苦しめる。

死ぬよりも辛いことは生きることだ。この世で生きる生き地獄。

まるで死人の急行列車。亡者が踊るワルプルギスの夜。

でも濁った世界を生きるのが苦しいのはきっと自分だけなのだ。

周りの皆が地に足をつけて水に浮いている中で私だけが溺れている。

だから外れているのは私で間違っているのも私なんだろうと、本能的に思った。

私は生まれる世界を間違えた。

数が多い方が正しいと世界は言うのだ。だったら外れている私が悪い。

私が悪い。私が悪い。私が悪い。悪い。悪い。悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い──────

「あ・・・・」

気が付くと私は『それ』を手に取っている。自らを傷付ける断罪の刃。

自身を律する精神安定剤を。その刃先が肌に食い込んでいく。

鈍い物を切る感触がする。柔らかい肌がふわりと跳ねる。赤黒い静脈血が浮かんでくる。

皮膚を軽々と突き破り肉を抉る直前で刃は止まり、外界へと顔を出す。

そして一瞬遅れて傷口から痛みが滲み出す。腕が重たいものに打たれたような感覚。

痛みが伝染したのか、思わず右の手のひらからカッターを床に落とした。

「っ・・・・・」

血が泡のように浮いてきて手の上にいくつもの流れを作っては筋を流れていく。

ひんやりと冷たいわけではない。生温い人の温度をした鮮血が皮膚の表面をつるつると滑っている。

左腕が打撲したような痛みを帯びる。ズキズキと繰り返し痛む。

だがそれが逆に心地良かった。私はこれで許される。罰された。生きていても許される。

心の底からホッと安堵している自分がいる。気持ちが安らいだ気がする。

先のない未来を生きていることに謝罪を。私が生きていることで不幸せな思いをさせた

者たちに贖罪を。悪い私に断罪を。生きている痛みを実感している。

傷口のすぐ隣にうっすらと浮かんでいる橈骨動脈を切れば私はきっと楽になれる。

この世と永遠に決別することができるだろう。でもそれでは意味がない。

私は私が生きながら苦しまなければきっとこの罪は贖えない。

傷はもう幾重にも絡み合って刻み込まれている。何度も繰り返された傷害。

ゆったりと精神が衰弱していく。心が病んでいく。蝕んでいく緩やかな死。

「・・・っ、まゆ、は・・・・どうして、こんなに苦しいの・・・・?

空っぽなの・・・欠けているの・・・・満たされないの・・・・!

ねえ、なんで・・・・?何で・・・・?何でよ・・・・」

問い掛けは無意味だ。そんなことはとっくに分かっている。

それでも止めることはできない。身体は人間らしくあろうとする。

何故か?簡単だ。自分にはこの苦しみを分かち合える人が居ない。だから、

一人で抱えてしまって、こんなに膨れ上がって、こんなにも辛いのだ。

自分は常に自分を偽って生きていかなければならない。生きるために必要なことだ。

だがそれが苦しい。辛くて苦しくて、たまらない。

親には相談できない。彼らは良い親だ。・・・・だからこそ話せない。

彼らに話して拒絶されてしまったら、今度こそ私の居場所は何処にもなくなってしまう。

彼らの前では仮面を被った上部だけの綺麗な姿を見せることしかできない。

それ以外に誰が居ると言うのか。誰も居ない。だって誰も作れなかった。

私は悪い子だと分かっているから他人に私をさらけ出せなかった。

理解してもらう努力をしないで理解をしてもらえるわけがないだろう。

分かっている、分かっている。分かっているのに。

「ごめんなさいっ・・・、ごめんなさい・・・っ、ごめんなさい・・・」

無意味な謝罪を繰り返す。聞き手はこの世界森羅万象全て。

それはどうしようもなく無価値だ。何が残るわけでもない何が償えるわけでもない行為。

ただ私が少しでも楽になりたいという思いから来る低俗な願い。

「まゆ・・・!?どうしたの・・・っ・・・、その傷・・・は・・・」

その声に気が付くと。私の啜り泣くような声を聞き付けたのか、必死の形相で

母親が私の部屋へと上がり込んできていたのが見えた。そして、見られた。

「あ・・・・っ」

私の座る床のすぐそばには、不衛生な血を吸ったカッターが転がっている。

まだ乾ききっていないぬめついた鮮血。床に出来た小さな水溜まり。

弁明など出来る筈もない状態だった。

いや、手間がかかるとはいえ自室のドアに鍵をかければ完全に

母親をシャットアウト出来た筈なのだ。

私はもしかしてこの傷を彼女に見せたいと思っていたのだろうか。

彼女に理解されたいと本当は思っているのだろうか。もう自分が自分で分からないのだ。

「....どうしたの?学校でなにか嫌なことでもあった?

それとも・・・恋の悩みでも持った?」

「・・・・・・・」

何を返答することもない。だって言葉が見つからない。

言葉で表すことも、説明することもできない。

私は私の言葉で意見を言えない。抑圧されたこの世界では。

私が外れている此処では。何に関しても私が間違っているのだから。

「・・・・・分かったわ。お母さん、まゆが話してくれるまで待ってるから。

大丈夫、きっと大丈夫よ。だって貴女は私とあの人の娘ですもの」

そう言って母親は去っていった。それだけだった。何も追及しなかった。

私の自己嫌悪が加速することも知らないで。私に優しくする。

そんなことを憎む私を私はまた嫌う。嫌いで嫌いで仕方ないのに自分が大事で堪らない。

死にたくて死にたくて堪らないのに死ねないのは、生き汚い私がどこかに居るからだ。

そうやって自己否定は円環を描いて連鎖し続けるのだ。無限のような矛盾地獄。



だがその後多分お父さんと話し合ったのだろう。

暫くずっと何も言い出さなかった為にそんなことも忘れ始め、

・・・・それでも時折自分を傷つけていた日々を越えて。

私は高校の受験勉強に取り組もうという時期に、目を見開くような提案をされた。

「読者モデル・・・・?私が、ですか?」

「そうそう、いやごめんねまゆちゃん!まゆちゃんの居ない間に

お父さん方から話は大体聞いちゃったんだけどさ、勿体ない!って思ってね。

だってこんなカワイイのに、何処のスカウトも受けることもなく

埋もれていただなんて、いやぁ勿体ない。僕達もさ、所謂上下関係とか

コミュニケーションとか苦手で・・・世渡りが下手っていうの?

要領よく物事を進められない気持ちは分かってるつもりなんだよね」

母と父が私の知らぬ間に話を進めていたという、男性。

年は三十後半だろうか、お洒落程度のあご髭を蓄えたノリも服装も軽い男は

とある雑誌のディレクターを務めていて、父と母からの頼みで

私の話を聞いて興味を持ち、こうして読者モデルにならないかと誘いに来たらしい。

普段ならこういう人間の言うことなど意にも介さないのだが、

軽薄そうに見えてもディレクターと名乗る男の目には冗談などではない芯が通っていた。

取り敢えず話だけ聞こうと思ったのはそれが理由だろう。

「事前に何も教えずに勝手に決めてしまい、すまない。

だが、まゆ。これはもしかしたらお前にとって一つの転機になるかもしれないんだ。

そうしたら、もう傷付かないで済むかもしれないんだ・・・!」

痛いほど突き刺さってくる実の父親の視線。

逃れるように横に逸らすと今度は母親も同じような顔をして此方を見つめていた。

二人とも張り詰めた顔をしている。私を真剣に心配してくれている表情で。

それは紛れもなく私が二人に作らせた、私が二人を傷付けた故のもので。

これは今までの巡り巡ってきたツケなのだと思い、諦めるように受け容れた。

「でも私・・・読者モデルなんて一度も考えたことなくて。

どんなことをすれば良いのか分かんないですし・・・それに、

活動拠点は東京なんですよね?仙台から通うにはちょっと遠いような・・・・」

「うんうん、確かにそうなんだよね。ロケーションも毎回仙台でやるわけにはいかないし

出来れば東京に来てほしいんだけどさ・・・・。

高校生で一人暮らしってやっぱ難しいよねぇ・・・・・」

一人暮らし。確かにそれは考えたことなかった提案だ。

だが、同時に非現実的だとも思う。一般的に言っても時間に余裕のない高校生では

一人暮らしをする為の収入を得ることすら困難で、基本的には大学生以上になってから

やることだろう。家事が出来ないわけではないが、金銭面的に苦労することは間違いなしだ。

「....ねえまゆ、受験だけど・・・・東京の学校へ行ってみない?」

「えっ・・・?」

「貯金もあるし・・・・仕送りもするからまゆの一人暮らしはサポート出来るの。

もしかしたら、一人で生活した方がまゆにとって楽になるかもしれないから」

・・・・私の家は有り体に言うのであれば「理想的な夫婦」だ。

父親は特に一流大学の出ではなく、所謂B級俳優として役者を志していたが

自分では掴めないと引き摺ることなく諦めをつけ、中途採用で民間企業に入社した。

特に秀でた才能を発揮することもなかったが、誠実で人当たりの良い彼はその後ずっと

同じ企業での勤務を続け、昇格をしっかりと重ね今は課長の座についている。

母親はフルタイムでこそないが、共働きしている。言わすもがな私は一人っ子である。

本当は男の子と女の子、二人産みたかったらしいが母は子供が出来づらい体質で

後にも先にも妊娠したのはまゆだけなのだとか。つまりは三人暮らし。

祖父母とは少し距離をおいた現代日本の典型的な核家族だ。

父母は共に堅実的で酒・煙草・ギャンブルなどに費やすことなく貯金しているので、

保険金と合わせて私が奨学金を借りずとも大学四年間までの費用を賄える分だけの

お金はあると言う。貧乏な人たちから憎まれ口を叩かれそうな恵まれた環境である。

「・・・・・」

それでも。環境を変えることに抵抗がなかったと言えば嘘になる。

同じくらい、期待もあった。代償として失うものは何もないのだから。

離ればなれになって悲しんでくれる友達さえ、私には居ない。

運を天に任せ、一発逆転。高校デビューだとか、大学デビューだとかそんな

言葉でそれは広く浸透している。もし本当に、この世の中が15歳までの人生で

100%何もかもが決定してしまう世界だったら一縷の希望すらもないただのBADENDで

あると思っていたならば私はとっくにこの世界に見切りをつけている。

それでも捨てきれないからこそ"人間"であり、この世界のシステムなのだ。

「まゆは・・・・・」



────────。

────────。

それから私の生活は変わった。読者モデルをやっている最中は

束の間の心の平穏を楽しむことが出来た。何かに没頭するということ。

常に痛みが付きまとう現代では、逃避することだけが私に安らぎをもたらしてくれる。

現実から目を背けて、その癒やしとして娯楽を求めて愉悦する。単純明快にして最適解。

私自身、ビジュアルにそこまで絶対の自信を持っていたわけではなく、

また身長も低く胸も平均的な私がモデルをやっていけるのかは不安であった。

だがその心配は杞憂に終わることになる。

私を歓迎してくれたのはロリータファッションだった。正しく西洋のお姫様が着るような

灰色の世界を明るく照らすような華やかな衣装。

フリルやレースが過剰にあしらわれた可愛い洋服は一見私には不釣り合いに思えたが、

悪い気分はしなかった。寧ろあの時は新天地に辿り着いたような高揚感を覚えた。

鏡に映った私はまるで私ではないみたいで。カメラを意識するのは不思議な感覚だった。

「じゃあ、一枚撮ります。まゆちゃん、笑って!」

「・・・・はい♪」

褒められることは嬉しかった。今までされて来なかったからか。

服を選ぶのは楽しかった。今までメイクを凝ったりしなかったからか。

覚えた・・・否、覚えさせられた作り笑顔。だったものはいつしか本当の笑顔になった。

ディレクターは見た目によらずその道のベテランらしく、しっかり信念を持って

私の撮影に臨んでくれた。下心など無いように私が躊躇いを見せた衣装は代案を出してくれたり

断ってもいいと言ってくれた。撮影は数時間から長くて半日程度。

一週間にそれを2、3回ほど繰り返し残りの時間は学業や趣味に使える。

芸能学校とは言え、しっかり単位を取らなければ留年の危機である。

定期試験の為の勉強は一通りこなす必要がある。だが、大学に入るとしても

一般受験はしないのでそこまで知識を深めなければいけないわけではない。

クラス内で平均より少し上程度の成績をキープする。不満はない。

そこまで学力や学歴に執着はない。そんなことよりも大事なものがあるのだ。

仕事は順調に軌道に乗っていた。そして更に先の段階へと進んだ。

「ファッション雑誌の・・・・編集者さんですか?」

「そうそう!凄いよねまゆちゃん!単独ではないけど超大手だよ!」

それは読者モデルとなってから半年ほど経った頃だったか。都会に不慣れなまゆですら

名前だけは聞いたことのある、女性向けのファッション雑誌。

ディレクターの言うとおり超大手である。その1コーナーをまゆに預けてもらえることになったのだ。

ディレクターを残して、撮影スタッフなどは総取っ替えとなる。

機材も人員も、比べ物にならないほど豪華になった。給料も増え、

仕送りなしでも一人暮らしをするのに十分な収入が得られるようになった。

私は一躍期待の新人モデルとしてその名を飾り、

一部のファンから手紙やプレゼントを頂くこともあった。

読者モデルの中でも私は成功した方だったと言えるのだろう。

全くのゼロからのスタートをきって一年で私は彼らの信頼を勝ち取っていた。

仕事のバリエーションも増えた。数々の『新しい』を体験できた。

決まりきっていた日常は失せた。退屈だった日々には潤いがもたらされた。

私は産まれてから初めて、生きる喜びを知った。ただただ楽しかった。


その一方で、私の生活は変わらない。芸能学校は誰もがひた向きで"自分"を見ていて、

下らない差別に勤しむような生徒は居なかった。だが、裏を返せば

皆自分のことで精一杯とも言える。馴れ合いはあるが深く関わることは出来ない。

それだけの時間がない。余裕がない。であるならば。


「う・・・・は、あっ・・・」

見慣れた血塗れの金属が床に落ちる。だが昔に比べれば痛みも少ない。

静脈を傷付けるまでに深く刃で自罰することは減っていた。

一人暮らしを始めて寂しいと感じることは少なくなかったが、

同時に気を遣い続けることもなくなった。家は正真正銘いつでもまゆの安息地となった。

一人で楽になったこともあった。一人で安らいだ気持ちになることもあった。

それでも自傷癖は無くならなかった。新たなステージに立って相応の苦労が襲い掛かった。

やはり彼らは『目』が違った。それは憐憫や悲哀で、歩み寄りではない理解。

否定はしないが近寄ってもくれない。"こちら側に"足を踏み出そうとしてくれない。

スタッフが入れ替わった時期にやはり色々と揉めた。特に衣装さんが問題だった。

撮影班らに左手首のことを教える必要はないが、向こうの編集者と衣装担当には

どうしても話さねばならないことである。小耳に挟んだ話によれば相応に悩んだらしい。

一度自分から契約を持ちかけて成立させておきながら、それを反故にすることまで視野に入れて。

しかし、ロリータファッションというジャンルにおいて違和感なく自傷痕を隠すことは

容易であることに加え、手放すには勿体ない逸材と言う理由で私は続けることができた。

そもそも。悪くない。決して悪い気分ではない・・・・のだが。

"読者モデル"をやっているという今を一つ取ってみても、そこに私が居ないのだ。

読者モデルを志したのは、その夢は決して自身から溢れたものではない。

親に言われて、ディレクターに勧められて、半ば成り行きの様になったのだ。

競争意識は低いし、トップを目指したいだなんて思ったことはない。親は喜んでくれるのかもしれないが。

そう思ったら、私は目指すのだろう。そこに自分の意思はない。まゆが介在しない。

真剣に読者モデルで登り詰めようとしている人達から見たら私は敵視されても仕方のない存在なのだ。

そのことを話したら幻滅されるのだろうか。今度こそ居場所がなくなってしまうのだろうか。

だから私が心を許せる人など居る筈もなく。結局一人でまた抱え込んでいる。

死んじゃえ。死んじゃえ。死んでしまえ。何故死なない?

楽になろうとしてる?助かろうとしてる?自分だけ、のうのうと、生きようとしてる?


『世界中では今この時も苦しんでる人が生きているのに自分だけ楽になろうとしてる?』


『生きたくても生きられない人のために貴女は生きなくてはいけない』


『貴女なんかよりもっともっと苦しみながら生きている人がいるのに命を粗末にするの?』


『やったね、これで君も幸福者(えらばれたもの)だ』


「違うッ!!!違う・・・・違う・・・違う・・・・ッ!

まゆが欲しいのは、そんな・・・、そんな言葉じゃない・・・・!!」

嘘じゃ騙せない、偽善じゃ癒えない、憐憫じゃ足りない、慈愛じゃ救えない。

私が求めていたのはそれらとは違う何か。

例えばそう──────私と、同じ立場で。同じ目線の理解者が欲しかった。

顔を上げて血の伝った指先を見ると、そこには"誰か"が居た。

まゆにそっくりな服を着て、まゆにそっくりな顔と身体をしていて。

まゆに似たような声でまゆと同じような口調でまゆのことを代弁する『私』が。


『貴女は私。私は貴女。貴女は願った、憎んだ、恨んだ、嫉妬した。

幸せそうに生きている人間が不幸になればいいのにと思った。

そうすれば少しはまゆの気持ちも分かるかもしれないと勘違いして。

衣、食、住。三拍子揃った何不自由ない幸せな生活をして一体何が不満なの?傲慢なの?』


幻覚ではない。幻聴でもない。これは、れっきとした現実(リアル)だ。

私が認めたくなかった私。醜くて汚くて真っ黒な私。私の側面。

単なる可哀想な、純真無垢で迷える子羊の被害者ではない私。

そうだ。いっそのこと世界中の皆が苦しんで不幸になってしまえば皆平等だ。

痛みを知らない人間が知ったような口を利いてるのを見ると嫌な気分になる。

自分がもしその立場になったら必死に弁護と権利を求めるくせに、

自身が安全圏にあると強く出てくる。勝手に強くなったと勘違いして。

「知らないのだから仕方ない」じゃ済ませたくない。痛い目に遭ってほしい。

許せない。許したくない。裁きたい裁きたい裁きたい。堕ちろ。

苦しみを背負え。終わらない問いで悩め。後悔しろ、恐怖しろ、絶望しろ。願った。

そうじゃなきゃ、合わない。まゆだけがこんな辛い思いをしなければならないなんて

不平等すぎる。何故私は進んで肥やしにならなければいけないのか。

私はお前よりも不幸だと、私より下の人間から恨まれることもあった。

その通りなのだろう。私は最底辺ではないのだろう。だから恨まれて当然なのかもしれない。

それでも、痛い。傷つけられたくなんてない。

そんな僻みなんてぶつけてほしくない。仕返しをしたい。しなければ。


『そう、どうしても苦しいのね。我慢出来ないのね。

じゃあ、する必要なんてないわ。全部全部教えてあげればいいのよ!

人を傷付けた快感を貪って肥え太ったケダモノ達に復讐を────』

手を差し伸べてくる。幸せに生きなさい、楽になりなさいと甘美への誘惑。

その手を取れば本当に楽になれるのだろう。童話に出てくるような虚言なんかじゃなくて

本当に幸せを掴みとれるのだ。その一つの"手段"なのだ。

どんどん手は近付いてくる。まゆの為に、まゆを取り込もうと伸ばされる。


「ダメ・・・っ!!それは、出来ない・・・・!

違うの、まゆが悪いの・・・・まゆがいけないの・・・・!

まゆが傷付かなければならないの、まゆが傷つけられて当然なの・・・・!!

五月蝿い、聞きたくない聞きたくない・・・・・っ!!」

────そうして、『不満を言う佐久間まゆ』は殺された。殺した。私が。私を。

ビチャビチャと粘着質の液体が落ちる音がして。グチャグチャになった肉塊が崩れ落ちる。

断末魔の悲鳴なんて聞こえない。呆気なく、本当に呆気なく声の主は消滅した。

まるで人の脆さを物語っているかのような不気味さと儚さで、死んだ。

これでいい。駄目だ。傷付くのは私だけでいい。駄目だ。他人に迷惑はかけられない。それでは。

私が抱え込めばいい。救えない。まゆ自身が処理すればいい。でき、ナイーーーー

「うる、さい....よ?」

また、一人死んだ。もしかしたら私を理解してくれる存在だったのかもしれないのに。

私は私で孤独を選ぶ。どうせ私は欠けたままで、空っぽで救われない命なのだ。


けれども彼女たちはずっと私を信じて待ち続けるだけだった。

いっそのこと暴力や恫喝を振るって無理矢理言い聞かせて、『これが教育だ』と言って

くるような親だったならば私はきっと、もっと楽になれただろう。

毒親だと罵ることが出来て、責任を押し付けることが出来れば私はもっと楽だったのに。

私の貧弱で強靭な精神が恨めしい。早くに壊れてしまったらこんなにも苦しまなかった。

読者モデルの仕事は楽しいが、そこに私の意思はない。勿論、人並みにお洒落の研究はしている。

都会のファッションは日本らしいものも日本らしくないものも様々で、時折奇抜だとさえ思えるような

衣服もあって、そして何よりも移り変わりが恐ろしく早い。流行に乗っていかなければ

時代遅れのタイムトラベラーと見られてしまう。だからついていく。

幸いにして私の好みと彼らが推したい私は合致していた。成功したのはそれもあるだろう。

進化の過程で消えていった生物がいるように、この世全ての者がこの世界で輝けるわけじゃない。

蕾のまま花開くことなく枯れていった植物や、生まれることなく終わっていった生命たちがいる。

私は、どっちだろうか。

「佐久間・・・まゆ、佐久間まゆ・・・・」

私の繭はいずれ破られ、羽化して自由へと飛び立つものなのか。

それとも、永遠に叶わぬ羽化を夢見続けそのまま死を待つ孤独の檻なのか。

私は上手に大空へと羽ばたける蝶になれるのか。

無意識に溢れていた涙で濡らした枕をぎゅっと抱き締め、視界を閉じて明日を待つ。

希う。暗く寂しい夜の終わりを。



──────その日のことを、今でも鮮明に覚えている。

私の人生で未来永遠絶対に忘れることはないだろう、運命の日。

セットしておいたアラームが奏でるメロディーに起こされ、

私はいつも通り学校へと通うため、早朝に起床した。

顔を洗って目をきちっと覚ました後、リビングに向かい

何気なくリモコンを操作してTVの電源をつけてニュース番組を流す。

無音の空間で朝御飯を食べたいと思うほど私は酔狂ではない。

『速報です。お笑いコンビ、モミジカタツムリの西本さんが

女優の水樹ゆかりさんと結婚していたことを発表しました。二人は・・・』

特段政治に強い興味があるわけではないが、最近はどの局も同じような内容の

芸能ニュースを取り上げてばかりでメディアの質が落ちていると感じる。

読者モデルとはいえ芸能関係の仕事に携わっている私が言えることではないが。

そんな下らないことを考えながら、

天気情報は見ておきたいのでチャンネルを変えたりはせずに黙々と食事を進めた。

天気予報が終わると、やがて今日の運勢占いのコーナーに入った。

星座占い。自らの誕生月の十二星座が元々持っている特性や性格と

現在の星回りとを合わして、運勢を導き出す占星術の一つ。

軽く流し見をしていたが中々私の星座は発表されず、遂には1位と12位のみが残った。

少しだけ気が惹かれる。そして。

「1位は・・・乙女座のアナタ。今日は超絶運が良い日。

千年に一度の運命の相手に出逢えるかも・・・ですか」

運命。何者かによって定められた、避けることのできない事象。

或いは私は運命に嫌われたのか、それとも私が走るべきレールから脱線したのか。

千年に一度、それは人類史が二転も三転も変わることさえ可能な年月。

そんな確率で運命と出逢ったならば私は変われるのだろうか。

まるでメルヘンなおとぎ話、子供が見るような夢物語。

でも私はそういうお話は嫌いではなかった。特に───灰被り姫。

白雪姫のような誰もが認める美貌の持ち主ではなく、

何処にでも居るような、等身大の少女が魔法使いから一夜の奇跡をもらい、

自らの努力によって王子と結ばれ幸せに暮らす光景は私にとっても憧れである。

そんなシンデレラ・ストーリーを私は──────

「・・・いけない、遅刻しちゃう」

あまりのんびりせずに朝食を腹に放り込み、家をあとにした。


今日は6限が終わった後、都内の一角に位置するスタジオを借りて撮影をする日だった。

幅広い芸能プロダクションが平素から出入りしている場所であり、

勿論今回の撮影でも、同じ時間に違う部屋で様々な事務所の人達が入り交じって仕事をしているので

粗相のないように、変にいがみ合わず仲良くするようにと言われている。

宮城では中々見る機会がない、都内周辺の名物・超満員電車に揺られ

私の脳内は一時的にその機能を制限させる。人混みはやはり苦手だ。

暫くして、凍結していた脳内に温かい陽射しが当たった。

目的の駅の到着を知らせるアナウンス。幸いにして他の人も多く降りている。

わざわざすみませんと断りを入れることもなく、ホームに降り立ち

そのまま列にそって階段を上がり改札を出た。


高校は最寄り駅から徒歩13分と言った距離に点在している。

遠いと言う程ではないが、近いとも言い難い。雨が降ると少し面倒な距離である。

途中、何度か道を曲がる必要があるが迷うことはほぼない。曲がる箇所は決まって

大きな交差点になっていて、信号機つきの横断歩道が配置されている。

雑踏が行き来する往来に多色の風景が混ざり溶け込む。

私立だけあってとても綺麗な校舎が見えてくるのにそんなに時間はかからない。

時間は過ぎる。過ぎ去って行く。授業は簡単すぎず難解すぎない。

特段難癖をつけてくるような教師も居ないのだ。きっと恵まれたのだろう。

同時に私のズレを再認識する。これが『普通』。これが『一般』。


何事も起こらずに全授業が終了し、放課後に和気藹々と駄弁り始める生徒たちを

置き去りにしてひたすら駅へと歩を進める。夕方に差し掛かると、定時で帰れる

会社員らで溢れて中々グロッキーになる電車内状況が展開される。

とは言え、寧ろ都内は平日の昼間とて空席などないという光景をしばしば見る

場所ではあったりするのだが。ドーナツ化は本当に進んでいるのだろうか。

案の定、座れはしなかったものの身体を正常に伸ばすのに十分なスペースが空いている。

まずまずの好条件と言えるだろう。体勢が辛くないというだけでプラスなくらいだ。

人の呼吸音と列車が線路を走る音を再び遮断しながら私は携帯を取り出す。

前もってディレクターから渡されていた添付ファイルを開いて本日の撮影場所までの

ルートを整理する。時間は有効に使わなければいけないという強迫観念めいたものが私を突き動かす。

そうして地図を眺めていると、もう電車は目的の駅へと着いていた。

地図を読めないということはない。しかもほぼ東口から一直線だ。

余程の方向音痴でもなければ比較的簡単に辿り着ける場所である。

道中、目印となる建物で方角を確かめつつ足早に歩道を行く。

長年居を構えている建物が多い町では記号が多いため迷いづらい。

しかし、今回のスタジオはそんなに大きい場所ではない。注意して見なければ

分からないくらいのひっそりさだ。注意しなければ見過ごしてしまう場合がある。

が、何の問題も起きずにどんどん足は進んで行き、そして辿り着いた。

一階の外に刻まれている小さな看板だけがそこをスタジオだと証明教示してくれる装置である。


狭い廊下を進んでエレベーターまで辿り着く。最早慣れてきたと言うべき

独特な空気がする。それが何よりもここがスタジオなのだと感じさせる。

エレベーターは昨今の建物では中々目にすることのない旧型式であり、

少し老朽化しているところにこの建物の年季をちょっぴり感じる。

それにしても。

「静か・・・すぎないかしら・・・?」

あまりにも人の気配がないと流石に不安を覚えてしまう。

エレベーターで相席になることがないくらいなら兎も角、こうして廊下に

立ってまでも全く何も感じられないのはおかしいのだ。

疑念を懐きつつも私の名前が書かれた貼り紙のある扉を開けて中に入る。

机の上には今日の撮影で使うのだろう衣装が用意されている。私の控え室である。

落ち着いた色調の制服から派手な撮影用の衣装に着替える。

万が一、場所を間違えたのなら─────急げば間に合うだろうか?───いや、

ここで合っている筈なのだ────ならば、どうして居ないのか?

ゾッと背筋が寒くなるような感覚に少し青ざめる。何か、私は間違えたのか?

誰もいない。何も聞こえない。深海都市に一人迷い込んでしまったかのような

孤独感と寂寞感が私を苛む。鼓動が早まる。心臓が苦しくなる。

次の瞬間、先程まで暖色で纏められた控え室の風景がモノクロに染まった。

「──────!!」

声にならない悲鳴が潰れる。いや、本当に声が出ないのかもしれない。

発声すら許されない空間に飛ばされたような感覚に陥る。錯覚に過ぎないと

一笑に付しても錯覚は終わる気配がない。

・・・それは発作的なものだった。突然、何もかもが居なくなって、聞こえなくなって

私の孤独を嘲笑うかのように突き刺してくるのだ。

不安定に苦しくなって辛くなって病に心も身体も蝕まれていく。

急に駆け出したくなる焦燥に駆られて時間はまだあるのに駆け出した。

見た目通り体力がない私はその数秒の疾走でも息が上がって来てしまう。

心臓が軋む。呼吸が不安定になる。────真っ直ぐ前に進まない。

それでもすぐに確認しなければその不安に押し潰されてしまう気がして。

「はっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・!!」

ビルは外側から見た通り、幅が広いとはとても言えない程度の広さしかない筈なのに。

いつまで経っても廊下が続いている。もう扉をいくつ過ぎただろうか。

同じ景色がずっと繰り返されているように感じる。足を前に運んでいる筈なのに

一歩も進んでいないのではないかと疑念がよぎる。辺りを見回すと曲がり角が見えた。

そこに終わりがあると思って駆け抜けた。曲がり角を猛スピードでカーブすると。

突如、私の視界が真っ黒なもので塞がれた。


「きゃっ!?」

「うおあっ!?すみません、急に曲がってくるとは思わなく・・・て・・・・」

その瞬間。その空間に色が、差した。先程まで何の生気も感じることが出来ずに

いた筈のスタジオは作業をしている人の声と物音が壁に反響している。

そして────正面。ぶつかった人の影が何より色鮮やかに映った。

黒いスーツ姿の男性。痩身ではないが体格が良いとも言えない中ぐらいの体型。

黒髪は綺麗に纏められているが癖っ毛が少しハネていて、身長は成人男性の平均ほど。

・・・・焦げ茶色の瞳。その瞳が、何よりも私の目を奪った。何故なら。

「『目』・・・・・?」

その目は何処かで見たような色をしていた。昏く照らされた沼のような水晶。

深淵に闇を感じさせる退廃的な悲観的な双眸。誰かと似ているその目は。

でも、決定的に何かが違う。そんな違和感がある。────輝いている。

絶望の情景を映しておきながら、中に眩しいほどの『希望』が宿っている。

それが、私をこんなにも惹き付けるものなのだろうか。

こんな目は見たことがなかった。都内に溢れている単なる失意者とは異なる、

儚くて退廃と光明が混ざりあった不思議な瞳。

暫く双方は無言の内に見つめ合っていたということにはたと気付き、

若干夢心地のままゆっくりと意識を現実に戻す。

「えっと、ここに撮影に来た娘かな・・・?俺は平気だったけどそっちは大丈夫?

ごめんね、曲がり角だったからよく見えなくて。起き上がれないなら手を貸すよ」

・・・・男の人にこうやって手を差し伸べられたのは、これが初めてだった。

他人になんて構っていられないほど人々は日々を忙しくなく過ごしている。

誰かとぶつかって物を落としてしまったとしても拾ってくれる人など少ない。

異性と手を繋ぐような行為は恥ずかしい行為だと社会は断罪する。

少ないというのは力がない。この世は多数が支配するのだから何れ虐げられる運命なのだ。

この人もきっとそうなのだ。優しいから傷付いてきた人なのだ。なのに。どうして。

「──────え・・・?」

どうして、こんなにも手が温かいのだろうか。そんな筈はないと思ったのに。

私の手とは比べ物にならないくらい人間の温度を帯びた手。

冷たい心を溶かしてくれるようなその温かさが私の体温に伝播した。

今急に、偶然に、端なく巡り会っただけなのに私の心はどうしようもなく奪われた。

だって、ありえない。有り得ない。私は外れていて、理解者なんて居る筈もなくて、

孤独と寂寞に苛まれて一生を生きていかなければならないのに。

傷付いて傷付けて傷つけられて。全部一人で背負っていく宿命だったのに。

なのに。どうして。そんなにも、真っ直ぐな優しい心を向けてくるのか─────

どうして。そんな綺麗な色で居られるのか。

「....」

端的に言えば。一目惚れだった。誰かを好きになる気持ちなんて一度も抱いたことない少女は

この時、初めて恋という感情を知った。消化しきれない。

或いはこれも私の病気なのかと思ったくらい。私は、目の前の男性に惹かれていた。

ルックスじゃない。声でもない。ましてや勿論打算など一欠片もあるわけがない。

魂レベルで、男を好きになっていた。

男の周りだけがとても色鮮やかに映る。こんな色鮮やかな世界は初めて見た。

痛みさえも苦しみさえも気にもならなくなる程の強くて深い感情。

....それをどう定義付けるか、まゆの中ではもう決まりきっていた。

『愛』。私はこの人のことを愛している。欲しくて欲しくて堪らない。

貴方をもっと知りたい。貴方の為になりたい。貴方を側で見守り続けたい。貴方と共に歩きたい。

私に愛を向けて欲しい。愛を囁いて欲しい。貴方に救って欲しい。私の物になって欲しい。

ずっとずっと、私の為に側にいてほしい。私だけの為に。

いつか私が見た、あの作品のように・・・・。

「もープロデューサーさん!ボクの撮影が揃々始まるって言うのに

全く見てもくれてないってどういうことですか、これじゃ始められませんよー!?」

感慨に耽りそうになると、奥の方の部屋からハイトーンで可愛らしい女の子の声が聞こえてきた。

ちょっと幼め...の所謂アニメ声と呼ばれるやつだ。まゆも少しそのケはあるが。

その声に男性が反応した。"プロデューサー"とは彼を指しているらしい。

芸能界では特別珍しくも何ともない、いち代名詞である。が、

「あっ...あの...!」

「ああすまん、俺のせいで撮影が押してしまうところだった!

君もタレントさんだよね?撮影、頑張ってね!それじゃあ!」

そう言って、彼は背を向けて声がした部屋の方へ去ろうとする。

駄目だ。ここで逃がしてしまっては駄目だ。折角、逢えたのにこのまま流れるように別れて、

また私を置いていって、どっかに行ってしまっては嫌だ。手に入れたいのだ。

やっと。やっと、見つけたのだ。逃すわけにはいかないのだ。

細くて切れそうな、まだ未知の糸だけど手繰り寄せないことには始まらない。

「.....っ!」

───────しかし、伸ばされた手は虚しく空を切って。

私の一目惚れの相手は振り返ることなどなく、

後ろ姿すら素敵に映る彼は遠ざかっていってしまった。ドア一つを隔てた別れは

まるで今生の別れのようで。感傷的な気分のまま床に倒れ伏せそうになった。


終わりだと思った。絶望に身を焦がすような思いだった。

人目も憚らずに乾いた笑いを溢していた。今、ここに刃物があったならば

自分に今すぐ刺したい程最低最悪な気分だった。

しかし、視線が地面に注がれていた私はすぐに気付いた。灰色の床の中に不自然に白いタイルがあることを。

無意識に手が伸びる。藁にもすがるような勢いで。指を通して引っくり返す。タイルだと思っていたのは一枚の用紙だった。

それも、文字が色々と記入されている長方形の紙。

「これ、は.....」

床に張り付いていたのは正にディレクターが初めて会ったときに渡してくれたようなサイズの、名刺だった。

恐らく先程ぶつかった際の衝撃でこうして床に落ちてしまっていたのだろう。

名刺にはしっかりとプロデューサーと呼ばれた彼の本名と、事務所の住所と電話番号が記されている。

『シンデレラガールズプロジェクト 総合プロデューサー』。

....偶然とは思えなかった。これは与えられたチャンスなのだと思った。

その時何気なく朝の運勢占いの単語を思い出した。正しくそれが今日この事なのだと。

『運命』。私と、彼との間だけに与えられた二人を繋ぐであろう特別な縁。

今のご時世、住所と電話番号を知っていればいくらでも検索と特定が可能な時代である。

これで彼を追う前に立ち塞がる障害は全て取り除かれた。彼に再び会える算段がついた。

先程まで泣きそうだったくしゃくしゃの顔には、三日月を裂いたような深い笑みが宿っていた。

「見つけた・・・・・まゆの・・・・・」




それは、ある晴れた日のことだった。切り取られて、まるでそこだけ何回も繰り返されたかのような一シーン。

だだっ広いビルの一階にある休憩所で彼を見つけ、再び出逢い、世界は変わり、私が....生まれた。

胸にはいっぱいの新しい感情。視界に広がるは綺麗な世界。そして目の前には────

「君は・・・・・」

「佐久間まゆ、16歳です。B型の乙女座。趣味はお料理と編み物です♪

まゆ、プロデューサーさんにプロデュースしてもらうために来たんですよ。うふ...ステキですよね...

ねぇ、貴方も運命....感じますよね? ねぇ? うふ....まゆの事、可愛がってくれますか?」



──────枯れ野に咲いた薔薇は。今、花弁を開かせ静かに・・・・その生を紡ぎ始めた。


後書き

リスカ女子って尊いと思う欠星光月です
『深紅の絆』より前のお話をを描く内容でもって『深紅の絆』三部作の二作目をなす物語。
それがこの『枯れ野に咲いた薔薇』だったりします これも以前にあげていたものを手直しした奴です
CDデビュー特訓後のまゆの台詞を聞いて、まゆの抱えていた「闇」はどんなものだったろうと想像して書いた作品になります
今回はまゆをピックアップした物語でしたが、結びとなる『永遠の絆』ではプロデューサー側をピックアップしたお話です
暗い話ばかりで申し訳ないですが、もう少しお付き合い頂いて彼女たちの物語を見守って下さると幸いです


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SS好きの名無しさんから
2017-05-24 18:00:55

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2017-04-27 14:13:13

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2017-04-27 14:13:20

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