2017-04-26 23:58:48 更新

概要

記憶喪失の男が漂着したのは艦娘のいる島であった。
なんやかんやで提督となった男は地下の部屋で死んだはずの元提督を見つけてしまう。
それを快く思わない加賀によって幽閉された彼はどうなってしまうのか。
前作→http://sstokosokuho.com/ss/read/8018


前書き

海から来た人の続編です。
前作を見てない人はそっちから見ないと分からないと思います。
自己満足全開の妄想で書いていくのでよろしくお願いします。


プロローグ




 苦しい戦いだった。

 紙一重の攻防だった。

 ほんの僅かでも歯車が狂っていれば、朝日を拝むことは出来なかったであろう。

 それでも生きていた。

 ゆっくりと瞼を開く。

 見慣れたボロボロの天井に壊れた蛍光灯。

 ひび割れた窓ガラスから差し込む太陽の光。

 そしてそれに照らされる電と、暁、響、雷の三人。

 そう、彼女らと一緒に寝たのだ。

 仲良く。

 語り合い。

 笑いあい。

 時には泣いて。

 感情をぶつけあって。

 あの頃のように。

 幸せに床に就いたのだ。

 夢のようだ。

「ん……」

 電が目を覚ました雰囲気を察したのか、雷も目を覚ます。

 彼女はゆっくりと上体を起こすと、ぐっと伸びをして大きな欠伸を一つ。

「おはよう、電」

 そして柔らかい笑顔で言うのだ。

 あの頃のように。

「はい。おはようなのです、雷ちゃん」

「もう、……朝かい?」

 続いて響も目を覚ます。

 が、暁だけはどうやら深い夢の中にいるままだ。

「ほら、朝よーっ」

 雷が布団を引っ張って暁がベッドから転がり落ちた。

「ふぎゃっ!」

 レディらしからぬ悲鳴が早朝に響き渡る。




 【誰かの手記】

 知ってしまった私はどうすれば良かったのでしょうか。

 見なかったことにすれば。

 目を逸らし、なかったことにすれば。

 この幸せな日々は続いたのでしょうか。

 けれども、それはとても空しい幸せなのでしょう。

 故に、壊そうと思ったのです。

 痛みを伴おうとも。

 愚かな私を許して下さいと。

 嘆き、慟哭しても。

 それでも尚、突き進む茨の道を。

 歩むと決めたのです。




 激しい音が部屋に鳴り響いた。

 音の発生源は部屋の扉であった。

 蝶番ごとぶっ壊す勢いで開け放ったのが原因である。

 そしてそれ程の勢いで入ってきたのは夕立であった。

 右肩から腕にかけて包帯を巻いた姿である。

 彼女がとんでもない形相で肩を震わせている。

 真っ青な顔色に大量の汗。

 ただ事ではない。

「どうしたのですか?」

「いない……、っぽい」

「いない、ですか?」

「海人がっ……、どこにもいない、っぽい!」

 沈黙が部屋を支配した。

 夕立の荒い息だけが聞こえる。

「どう、いう。意味なのですか?」

「どうもこうも、島中のどこを探しても海人が見当たらないんだってばっ!」

 まるで世界の終わりのような声色で夕立は叫ぶ。

「とにかく、探すのを手伝って欲しいっぽい。川内さんや山城さんはもう手伝ってくれているから、時雨も!」

「わ、わかったのです!」

「仕方ないわね」

「そういうことなら手伝おう」

「わ、私も手伝うんだからね!」

 島にいる艦娘総動員での必死の捜索も空しく、日が落ちても海人は見つからなかった。

 日が暮れても探すと譲らない時雨と夕立と川内の必死の捜索も空しく、この島のどこを探しても彼の姿を見つけることは叶わなかった。

 まるで霞のように。

 何も残さずに。

 消えてしまったのだ。

「きっと記憶が戻ってこの島を出て行ったのよ」

 意気消沈する夕食の場で、加賀がそう呟いた。

 それが、いけなかった。

 机が宙を舞う。

 夕食を吹き飛ばし、それでも不動の加賀の襟首を鷲掴みにした時雨が睨みつける。

「発言には気を付けるべきだよ。僕の手が滑らないとも限らないからね」

 彼女の手には鋭利な刃物が握られていた。

 それが加賀の腹部を静かになぞる。

「何もおかしなことは言っていないでしょう? 記憶を取り戻せば、彼にも帰る場所があるのだろうし」

「海人は僕たちを見捨ててどこかに行くなんて絶対にしない」

「大した自身ね。根拠もないのに」

「やめてください」

 一触即発の二人に電が割って入る。

「確かに海人の記憶が戻ればこの島を出ることもあるでしょう。否定はしません。けれど、相談もなくいきなり消えてしまう可能性は低いと思うのです。……、何か不測の事態が起きたと考える方が自然なのです」

 電の言葉に耳を傾けた二人は怒りの矛先を収めた。

「……不用意な発言だったわ」

「僕も熱くなってしまったよ。ごめん」

 時雨は俯き、加賀の横を通り過ぎる時に。

 静かにこう告げた。

「もしも君が原因だったなら、僕は自分を抑える自信がないよ」

 と。

 電は疲れた様子で自分の席に戻った。

「お疲れ様。やっと皆で集まって食事が出来るようになったのに前途多難だね」

 響が言う。

 そうなのだ。

 ようやく楽園から解放された艦娘の何名かが希望して、電らと一緒に食事をすることが出来るようになったのだ。

 これも全て海人のおかげである。

「海人がいないだけで皆情緒不安定なのです」

「そりゃ海人がいたからこそまともになった連中の集まりだからね。とくに心酔していた時雨や夕立、ほの字っぽい山城が不安定になっているね」

 響の冷静な分析通り、確かにその三名は海人が行方不明になってからというもの精神的に危なげであった。

「いつの間にか、この島で海人がとても大切な支えになっていたのね」

 夕食のスープを口に運びながら雷が言う。

「電はどう考えているの? 海人がどこに行ったのか」

 暁が問う。

「分からないのです。……ただ、推測される可能性は多くはないのです」

「それは?」

 電は答えない。

 それは口に出すべき可能性ではないからである。

 一つは深海棲艦に連れて行かれたという可能性。あり得なくはない。

 もう一つは海人本人の意思で姿をくらましたという可能性。彼の記憶が戻った場合。もしくはそれが特定の艦娘を救うための手段ならば、彼の性格上実行する可能性は少なくない。

 そして最後は他の艦娘によって監禁されている可能性。

 一番考えたくはない可能性だが、現実的に考えれば加賀が実行したと考えるのが自然だろう。

 彼女にはそれをする理由が十分にある。

 一騎打ちの模擬戦の結果で彼女は海人を殺すことが出来ない。口約束を破るのは簡単だろうが、それを実行すれば彼女の人権はもはや島にはないだろう。

 故に監禁する。

 殺しはしないが、実質の島からの退場だ。

 人間を極限まで憎む彼女ならば実行しても違和感がない。

 しかし決めつけは良くない。

 それを前提に思考を進めればきっと痛い目を見る事だろう。

「……今は、何とも言えないのです」

 それが、嘘偽らざる彼女の現状の答えであった。




 【誰かの手記2】

 それを知ったのは私だけではありませんでした。

 しかし知った者は悩み、苦しみ。

 そして例外なく一つの結論に辿り着くのです。

 壊そうと。

 終わらせてしまおうと。

 この偽りだらけの島を。

 犠牲の上に成り立つ幸せに身を任せるのは嫌だったのでしょう。

 動き出した歯車は止められません。

 幾つかの思いを乗せた計画は動きだしました。

 もとより、誰一人後戻りする気はありませんでした。

 私も、彼女がいれば。

 最後まで傍にいれば。

 後悔することもなかったのでしょうか。

 今は、後悔しかありません。

 いったいどれ程の罪を贖えば良いのでしょうか。

 それでも、この醜い自分を肯定は出来ませんが。例え汚れても、無様でも、滑稽でも。

 叶えたい願いがあったのです。

 それは本当に酷く身勝手で、許されざる。

 願いだったのです。

 きっとこの手記は懺悔なのでしょう。

 許される罪とも、思えませんが。




第一章 牢獄と過去




 そこは静かな場所であった。

 音はなく。

 明かりは壁に備え付けられた松明のみ。

 松明の僅かな明かりが殺風景な部屋を照らしている。

 部屋には粗末なトイレとベッドが一つずつ。他は何もない。

 床は冷たいコンクリートで、壁も同じ材質で囲まれている。

 目の前には堅牢な鉄格子。

 鉄格子は鍵の掛かった扉と、食事を配膳する為の僅かな隙間があるのみだ。

 もちろん、人が通れるような隙間ではない。

 トイレの脇には水で流すためのバケツが三つ。水が満タンにくまれた状態で置いてある。

 どうやら、加賀が定期的に補充しているようだ。

 そんな牢獄に男二人。

 一人は海人で、もう一人は提督と名乗る。死んだ筈の男であった。

 薄暗い部屋で黙して壁に背中を預ける二人。

 ここを訪れた際に真っ暗だったのは、鍵をなくした加賀が松明の油を補充出来なかったからだろう。

 今はごうごうと音を立てて燃えている。

 一酸化炭素中毒で倒れないのは空気が流れているからだ。

 どこかに換気するような空間があるのだろう。

 海人は大きく溜息を吐く。

「……捕まっちまった」

「僕から見た感じだと、わざと捕まったように見えたけど?」

「ご明察。こうでもしないと、アンタと話せないと思ったんだよ」

「僕のことを知っていたのかい?」

「いやなに、加賀が隠す秘密が何かと想定して。一番ヤバそうなのを考えたら、アンタだっただけの話だ。人生、当たってほしくない最悪の想定程よく当たる。……困ったことに」

「僕に聞きたいことでもあるのかな?」

 薄暗くて顔がはっきりとは見えないが、男は静かに笑ったような気がした。

「ああ、この島の過去を知りたい。……いったいここで何があったんだよ?」

「君はどこまで知っているのかな?」

 どこまで、難しい質問である。

「大本宮との合同作戦でこの島が囮となり、島の設備は壊滅。多くの艦娘が沈んだ。敵の本拠地を強襲した部隊は成功するも大打撃を受け、提督は死亡。戻ってきた島で生き残りが静かに暮らしている。……隠された建物に住む艦娘達がいる場所は、楽園と呼ばれていた。その程度のことは知っている」

 それが海人の知るこの島の過去だ。

 しかしそれは全てではない。

 事実ですらないのかもしれない。

 死んだ筈の提督がここに確かに生きていることは、海人の知る過去からしたら矛盾そのものである。

 誰かが隠し、他の誰も知らない事実が、恐らくあるのだろう。

 それをこの男は知っている。

 そう確信したからこそ、海人は抵抗せず加賀に捕まったのだ。

「……長くなるけど構わないかな?」

「どうせ暇で寝るくらいしかすることもない。ゆっくり話してくれ」

 そうして、男は語り始めた。




 【誰かの手記3】

 私は誘惑に負けたのです。

 許されないことと知りつつ。

 それはあってはならない裏切りだと理解しつつ。

 それでも尚、縋りつくしかなかったのです。

 それほどまでに、私にとって貴女は大切で。失い難い存在だったのです。

 隠しきらなければ。

 手に入れるその日まで。

 もう一度、肩を並べるその日まで。

 この悲劇を、奇跡に変える為に。

 私だけが知る本当の真実。

 楽園の裏側に隠された地獄。

 この島に鎮守府がある本当の理由。

 それにもし、私以外の誰かが辿り着いたならば。

 全てを壊し、消し去ってくれることを切に願います。

 私には出来なかったそれが。

 きっと正しい道なのだから。




 海人が消えた日の深夜。

 彼女たちは静かにその場所に集まっていた。

 そこは星空と月明かりだけが照らす薄暗い場所である。

 夜の静けさに彼女らの息遣いと虫の鳴き声だけが響く。

 そこに集まったのは三人の艦娘であった。

「準備はいい?」

「覚悟も、だよ?」

 川内が問い掛け、時雨が付け加えた。

 それに夕立が頷く。

 月に雲がかかる。

 暗闇が広がり、それに乗じて三人は音もなく移動した。

 風が流れ、雲が空を奔る。

 月が再び世界を照らすとき、彼女たちの姿はもう既にそこにはない。

 目的地は近いが最短距離を移動するは愚かだと言えた。故に海人がいた部屋ではなく、山の方から向かう。

 山城と鈴谷から情報を得ている。

 獣を捉える罠を設置するルートから少し外れた場所に、岩陰に隠れた洞窟の入り口があるのだと言う。

 そこから海人、山城、電は迷宮から生還したのだと言う話だった。

 洞窟から迷宮に入り、その最深部にある扉が今回の目的地である。

 時雨は確信を持って言う。

「海人を監禁しているのは間違いなく加賀さんだよ」

「根拠は?」

 問う川内に時雨は用意していた言葉を並べた。

「夕食で僕が加賀さんに挑発した時、彼女が無反応無表情だったからだよ」

「無反応で無表情なら関係ないってことじゃないっぽい?」

 夕立が首を傾げる。

 川内もそこには同意見だ。

「いや、僕の知る加賀さんなら無実だとすれば、僕の挑発に無表情だとしても無感情はあり得ない。多少なりとも苛立ちを感じる筈なんだ。でも、一切の無反応だった」

 それはつまり。

「加賀さんは完全に感情をコントロールして抑え込んでいたんだよ。そんなこと、本当に無関係ならする必要はないからね。逆なんだよ。反応がないからこそ、関わっていると断言出来るんだ」

 多少加賀が犯人であると決めつけて考えている節は見受けられるが、間違っているとも思えない。

 感情を含めなくても。

 現状加賀が最も疑わしいのである。

 そもそも他の艦娘に海人を監禁するメリットが思い浮かばない。

 いや、監禁することで己の愛欲を満たす性癖を持つ艦娘がいないとも限らないが。

「ちょっと前ならともかく、今の体力が回復した海人が簡単に捕まるとも思えないしね」

 川内は言いながら思い出す。

 加賀との模擬戦を。

 油断しているときの不意打ちならばともかく、正面から海人を拘束できる自信は川内にもあるか怪しい。

 かなりの実力者が相手で、武装していた。もしくは海人が自らの意思で捕まった。と、考えるのが妥当だろう。

 海人の考えは読めず、こちらの思惑を大きく外れることが多い。故に彼が自ら捕まったという可能性はそれなりに高い。

「とにかく、最低限海人が危機的状況かどうかだけでも確かめよう」

 と、言いつつ。川内は海人の身柄に危険が迫っているとは思っていなかった。

 不自由はするだろうが、あの加賀が約束を違えてまですることとは思えない。

 川内の知る加賀はそういう心の持ち主であった。

「ここら辺のはずっぽい」

 夕立が言う。

 周囲を散策すると確かに非常に気付き難いが、岩陰に洞窟の入り口がある。

 人間一人分の僅かな隙間だ。

 遠目で見れば岩の亀裂に見え、とても奥に空間が広がっているとは思えない。

 そしてよく見れば、それが人の手が加わって出来た人工的な細工だと分かる。

 誰かが作ったのだ。

 迷宮の隠れた入り口を。

「先頭は一番夜目が効く私がいくね」

 川内が最初に亀裂に入った。

「後ろは気配と音の察知に敏感な夕立に任せるよ、僕が次に行く」

 時雨がそれに続いた。

「後ろは任せるっぽい」

 可能性が低いとはいえ襲撃の可能性は考慮すべき問題であった。

 想定する相手は白兵戦でも強く、さらにその本領は静かに標的を射抜く弓にある。

 一瞬の油断が命取りとなるだろう。

 彼女が命まで狙うとは思えないが。一切の可能性を排除するのは愚か者のすることだ。

 慎重に、かつ素早く進む。

 話を聞く限りここはかなりの迷宮らしい。

 故にここは時雨の特技に頼らせてもらった。

 彼女は脳内に正確に地図を引くことが出来る。通った道を全て覚えているのは最低限として、僅かな道の勾配から高低差までも把握し、それを立体的に結んで地図とするのである。

 歩幅から距離を、動物染みた方向感覚で方位を常に違えず。

 彼女は自分がどこを歩いているのかを正確に割り出すことが出来るのだ。

 海域でも活用するこの特技を時雨はこの迷宮で驚異的な精度で行う。

 結果、驚異的な速さでこの迷宮を突破することとなった。

 山城から聞いた風景と一致する。

 ここがその場所だろう。

「こんなところまでよくもまぁ来てくれたものね」

 予想した声が静かな暗闇に響く。

「やっぱり、貴女だったんだね……」

 持ってきた懐中電灯でその人物を照らした。

 そこには空しい程に感情を殺した、加賀がいた。

「時雨ね、あの迷宮を突破したのは。ここを教えたのは山城と鈴谷かしら? まったく余計な真似をしてくれたものだわ……」

 歴戦の猛者である川内と夕立が飛び退く。

 加賀に対して脅威を感じた訳ではなく。

 目の前の、仲間である筈の時雨に対して。

 本能的な恐怖を感じ取ったからである。

 川内の脳内に疑問符が浮かび上がった。

 彼女の知る時雨の気迫ではない。場を掌握する程の圧倒的な殺気。これは普段の彼女とは別の種類の、黒い。まるで汚泥のようにどろりとした濃密な死の気配であった。

 夕立が呟く。

「やばいっぽい……」

「やばいのは雰囲気で分かるよっ! これどういうことなのっ!?」

「時雨と夕立は提督さん、海人じゃない方の前の提督さんに特別な訓練を受けていて……」

 事情を説明する前に、時雨がゆらりと動いた。

 死人を連想させる頼りない足取りだった。

「僕、……言ったよね?」

 その力ない足取りに、音はない。

 体重がないかのように左右に体を振りながら歩くさまはとても無気味であった。

「自分を抑えられないって」

 消える。

 消えたとしか言い表せない。

 瞬きの間の出来事だった。

 そして気付けば、加賀の後頭部が時雨に蹴られていた。

 否。

 後頭部と時雨の足の間に加賀の腕が挟まれている。

 防いだのだ。

 音もなく、影さえも置き去りにしたような身のこなしに反応したのである。流石加賀と言える状況だが、防ぎ切れてはいなかった。

 直撃寸前に腕を差し込んだだけの為、その驚異的な威力を込めた蹴りの威力を殺しきれなかったのである。

 後頭部に貫通した衝撃が抜けた加賀の足元がよろけた。

 それを見逃すほど時雨は甘くない。

 腰から抜いたナイフがその首筋を狙う。

 加賀はあえて膝の力を抜くことで重力に従い、それを躱す。

 屈む頃には足はしっかりと動く。

 縮めたばねを解き放つかのように時雨から離れた。

「…………」

 沈黙する加賀の額から、滴がひとつ。零れ落ちた。

 一瞬たりとも時雨の姿から目が離せなかった。

 瞬きなどもってのほかである。

「な、……なにあの動き?」

 川内の知る時雨の動きではない。

 あれは夜戦時の川内の戦闘力を大幅に上回っている。

 下手をすれば加賀さえも。

「な、なんなのこれ?」

「スイッチが入ったっぽい……。ああなったら目標を殺すまで、止まらない。夕立でも、止められない。止められるのは夕立と時雨をこうした、提督さんだけ」

「スイッチって?」

「対象を暗殺する為の、殺戮マシーンになるスイッチ」

 なんだ、それは。

 聞いたことがない。

 そんな訓練を何故この二人が積んでいるのか。

「スイッチの入った夕立と時雨はほぼ同等っぽい。夕立も発動するとどちらかが死ぬまで終わらない、だから、時雨を止める方法が、ない、……と、思う」

「それは、……困ったね」

 口調は軽いが状況は重い。

 夜とはいえ。

 あの戦闘力の艦娘が殺す気で向かっているのを止める実力は川内にはない。

 しかし、加賀を殺す気で来た訳ではない。

 時雨は最初からそのつもりで来たのだろうが、川内はそうではない。恐らく止めたいと言う意思がある以上、夕立もそうなのだろう。

 なにより、ここで加賀を殺すのは絶対に間違っている気がするのだ。

 海人的な意味で。

 彼がそれを望むとは思えない。

 が、暴走する時雨を止める手段が思い浮かばないのだ。

 装甲悩んでいるうちに加賀と時雨の壮絶な殺し合いが続いていた。

 いや、違う。

 実力の劣る川内でも分かった。

 加賀は時雨を殺す気がない。あくまでも取り押さえるような戦い方をしている。

 ここまで明確な殺意を向けられて尚、彼女は時雨の命を尊重する。

 ならば何故。

 どうして。

「海人を捕まえるなんてこと、……するのさっ」

 川内はもどかしさを吐き出すように叫ぶ。

 その先で、時雨の攻撃が速度と威力を確実に増していく。

 繰り出されるそれは気を抜けば加賀でさえも一瞬で殺されるだろう超絶技巧の連続である。

 並大抵の艦娘では正面からでも瞬殺。

 油断を突かれれば、相手がだれか把握する間もなく息絶える事だろう。

「……なるほど、貴女たちがやっていたのね」

 加賀は初めて感情を見せた。

 それは悲しみだった。

 そして憐みであった。


「深海棲艦に落ちかけた艦娘を、殺していたのは」


 夕立が震える。

 同時に、時雨の動きも止まった。

「どう、……して、それ、を……」

「あの人の秘書艦の一人ですもの」

 時雨の瞳が赤く、染まる。

 怒りに身を任せ。

 負の感情が心を焼き尽くす。

「やめなさいっ!」

 加賀が叫んだ。

「殺してやルッ」

 時雨も叫ぶ。

「だめっ、負の感情に身を任せてはいけないっ!」

 時雨の刺突が加賀の頬を掠る。

 飛ぶ鮮血。

「私たち艦娘は、憎悪に身を任せてはいけないのっ!」

「死ね、死ね、シねェェェェッ」

 瞳が燃えるように。

 赤く。

 赤く。

 濁っていく。

「怒りと、憎悪と、絶望に支配されてはっ」


「おすわりぃぃぃぃぃぃぃっ!」


 突然の野太い声と、壁に叩きつけられる時雨。

 その人物は加賀でさえも捌くのがぎりぎりの速度の攻撃を見切り、受け流し、時雨の重心を見事に操ってその勢い全てを掌握して投げ飛ばしたのである。

 おまけに彼女の握るナイフを奪うまでしてのけている。

 そして壁に叩きつけられた時雨は体勢を整えるや否や、素早く正座して背筋を正している。

 その瞳は赤くはなかった。

 いつもの時雨が、そこにはいた。

「あれ? 僕はいったい……?」

「どうして、貴方がここに」

 加賀が驚愕の声を上げた。

 川内も目の前の人物を信じられない目で見ている。

 夕立に至ってはおすわりの命令を聞いて同じく正座していた。

 そこには時雨からナイフを奪った何故か上半身裸の海人がいたのである。

「どうしてだって? 聞きたいことが聞けたから、とりあえず脱獄したに決まっているだろう」

 何でもないことのように、海人は笑いながら言った。

「そうしたらここに出くわした訳だが。これどういう状況なんだ?」

 本当に、思惑を大きく外れる男であった。




 【誰かの手記4】

 幾度となく諦めて殺してしまおうと思いました。

 けれど、私にはその覚悟がなかった。

 あの卑劣で醜い男を殺すことなど造作もありません。むしろ殺す理由は数え切れないほどある。それだけの恨みと憎しみは抱えていました。

 けれど。

 彼女を諦めることは私には出来なかったのです。

 他の艦娘には絶望を見せて。

 深海棲艦化を防ぐ為とはいえ。

 嘘の楽園を作り上げておいて。

 なんという裏切りでしょう。

 私がこの島で、最も醜く薄汚い。

 自覚しても、いくら後悔しても。

 この男を生かし、この島の深部に隠したのはほかならぬ私。

 従わぬ艦娘を地下牢に捕え。

 拷問してからいたぶり、殺して。

 深海棲艦化しそうな艦娘を殺す。

 これも全て、私の責任なのでしょう。

 故に、望みが叶ったら。

 一瞬でも叶ったら。

 私は全てを抱えて死にましょう。

 この身を海の底に沈めましょう。

 それが私の決意と責任です。

 その時はもちろんあの人も一緒に道ずれに。

 この島の本当の姿と一緒に。

 沈めて、消すのです。

 仲間が、これ以上絶望することのないように。

 この手記も、見つかる前に消さなくてはなりませんね。

 いや、この場所を見つけられたのならば。

 この手記を見られても手遅れという気もしますが。




 男は静かに語り始めた。

「僕は主席での卒業後、いくつかの戦場を経験し、運良く生き残った。結果、気付けば最年少で提督に任命されたんだよ。任された鎮守府は本土から離れに離れたこの島だったんだけれどね」

 自傷するように男は笑う。

「それに最年少もその半年後に記録を抜かれてしまったし」

 男の言葉が何故か海人の記憶を刺激する。

『君は最年少記録を更新してしまったんだよ。半年前に記録を残した彼には気の毒なことだが……』

 誰の声だろうか。

 記憶の奥底が叩かれる感覚であった。

「初期艦である電と協力して少しずつ任務をこなし、徐々に鎮守府を盛り上げていった」

 違う。

 初期艦は電ではない。

 彼女は。

『あんたが司令官ね。ま、せいぜい頑張りなさい!』

 なんて上から目線で。

 孤高で。

 気高く。

 そして自信に見合った努力も怠らず。

 それでいて実は優しい。

 そんな少女だった筈だ。

 いや、これはなんだ。

 微かに過るこの光景は誰のものだ。

 頭痛が、記憶の海を塞き止める。

「初めて鎮守府に戦艦が着任した時は嬉しかったよ。彼女の名前は扶桑と言ってね」

 扶桑。

 ではない。

 金剛型だ。

 金剛型とはなんだ。

 分からない。

 いや、思い出せ。

 痛みを、苦痛を無視して力尽くでも記憶の糸を手繰り寄せるのだ。

『高速戦艦、  、着任しました。あなたが提督なのね? よろしくお願い致します』

 痛みが加速する。

 彼女を思い出すと、耐えきれない程の痛みが。

 痛みは脳が割れるかと思う程だ。

 それでも。

 心の奥底が暖かかくなる。

 忘れていてはだめなのだ。

 彼女の名前は、何があっても。

 死んででも、手放してはいけない。

「初の空母は加賀だった。彼女は、僕のケッコン相手でもある。結婚ではないよ? ケコンカッコカリなんて恥ずかしい名前の戦力強化があってさ。指輪を渡すんだよ。特別な想いを結んだ相手としか出来ないらしい。戦争が終わったら一緒になろうという仮の婚約。だからケッコンカッコカリなんだってさ」

 ケッコンカッコカリ。

 知っている。

 知っているとも。

 当然だ。

 海人はそれを経験しているのだから。

 薬指に輝く銀色の光。

 だが、それが漆黒に染まる。

 意識が薄れかねない痛みが襲う。

 体中が痙攣している。

 薄暗いことが幸いし、男には気付かれてはいない。

 が、海人は失神手前を行き来していた。

「違う、初の空母は瑞鶴だ」

 遂に、海人は口に出す。

「え?」

 男が疑問の声を上げた。

「いいや、なんでもない。続けてくれ」

 震える声で答えた。

 異変を感じ取ったのか男は躊躇するも、先を促された為に続けた。

「僕らは困難な海域を幾度となく突破した。犠牲もあった。けれど、確実に成功を積み重ねた」

 海人は犠牲を出さなかった。

 出さないように可能な限り全ての手を尽くした。

 海域突破は遅かった。

 期待されていた程の結果は残せなかったかもしれない。

 それでも絶対に轟沈だけは許さなかった。

 支えてくれた沢山の艦娘と共に。

 戦い続けた。

 そのもっとも傍にいたのは。


『なんでしょう……。守りたい気持ちが、溢れてしまいます。仲間も……、そして、提督……、貴方のことも……』


 言葉を思い出した。

 声を思い出した。

 もう痛みは忘れていた。

 男の声も聞こえない。

 思い出したのだ。

 名前は榛名。

 海人の、ケッコン相手だった。

 忘れてはならない。

 大切な人だった。

 思い出せないことは多いが、それでも重要な点を思い出した。

 叢雲という初期艦。

 榛名というケッコン艦。

 そして自分が提督であったという事実。

 微かだが思い出した断片的な情報もある。

 漆黒の指輪と、それに関わる三つの名前。

 葛木提督。

 金田提督。

 杉野提督。

 そう、確か海人はこう覚えた筈だ。

 絶対に許さない人物リストとして。

 痛みから解放され。

 海人は再び男の言葉に耳を傾ける。

「僕は裏切られたんだ」

 男はそう切り出した。

「信じていた仲間に。愛していた加賀に」

 徐々に感情が高ぶっていくのか、声が次第に大きくなっていく。

「知らなかった。僕が与り知らぬ裏で話は進んでいた。大本宮との合同作戦。島を囮にした敵拠点の襲撃作戦を!」

 男は悲しみと絶望を乗せて語った。

「島を囮にするなんて聞いていなかった。そんなの許すはずもない!」

 最悪の想定ほどよく当たる。

 人生とは都合の悪い選択肢の連続である。

「大本宮の艦隊は壊滅。僕の指揮する艦隊も多大な犠牲を出してようやく敵を殲滅した。けど、その責任を僕に押し付けて、彼女らは僕を閉じ込めた!」

 そうした機微に鋭い海人は無感情にその熱い言葉を聞き流す。

「それでも、……僕は彼女らのことを、恨めない。憎めない。大切に、思っているからだ」

 一通り話して落ち着いたタイミングで海人は無感情に言い放つ。

「で、お前の名前は?」

「え? 葛木幹夫だけど……」

 葛木提督。

 その名前が全てであった。

「葛木提督」

「なんだい?」

「お前は加賀を舐め過ぎだ」

 鋭い蹴りが葛木の顎を捉える。

 悲鳴を上げる間もなく、彼は意識を失った。

「加賀はお前を閉じ込めたことを誰にも言ってはいない。死んだことになっている。全部あいつが一人で抱えたんだよ。残念だったな、【彼女らが僕を閉じ込めた】なんて言葉は成立しない」

 海人は意識を失った提督であった男に言い捨てる。

 そして上着を脱いで上半身裸となった。

「松明で一酸化炭素中毒にならないってことは空気が流れているってことだ」

 そう呟いて狭い牢獄内を歩き回る。

「俺が設計者なら流石にトイレの上に換気をつけてやる」

 指を舐めてトイレの上空にかざす。

 すると微かにだが風が上に流れていくのを感じた。

 ボロボロだった海人の服の代わりに電が用意してくれた衣服。心の中で彼女に謝ってそれを四つの布きれに破く。

 それを両手両足に巻きつけ、水の入ったバケツに突っ込む。

 十分に水分を吸ったのち、海人はトイレの近くにある部屋の角に向かう。

 そこで背中を角に押し付け、両手両足で壁を押さえながら体を上へ上へと持ち上げていく。

 強靭な肉体が可能にする超人芸であった。

 まるで蜘蛛のように壁を登っていく。

 気付けば、彼は天井付近まで登り切っていた。

 薄暗くて見えなかった天井がはっきりと見える。そして、やはりトイレの天井には換気用の穴が空いていたのである。

 成人男性一人分の穴だ。

 柵で塞がれてはいるが木材で出来ている。おまけに長年放置されているせいか半分腐っていた。

 やって壊せないことはないだろう。

 限界まで己の体を酷使し、両手のみで体を支えた海人は柵を蹴り壊した。

 今度は両足のみで体を支え、両手で穴の壁を押さえる。

 そこから腕力のみで体を引き上げ、どこに続くか分からない穴を進んでいく。

 そうして牢獄から脱出した海人は暴れる時雨を発見したのである。




 脱出の経緯のみ話した海人は加賀に呆れられていた。

「……想定外すぎて頭が痛いわ」

「そいつはお前が甘いだけだな。人生は常に最悪の連続なのだからそここそ想定していかないとな」

「大人しく捕まったものだから、あそこに用があることは予想していたけれど。まさか入った次の日の夜にこうもあっさり抜け出して見せるなんて普通想像もしないと思うの……」

「でも良かったよ、無事で。結構心配したんだからね」

 川内が海人に笑いかける。

 安堵の笑みであった。

「ああ、悪かったな。というかお前らその怪我でよく来たな。大丈夫なのか?」

 そこまで言って海人は気付く。

 時雨も川内も満身創痍であった。

 それ以上に夕立は重症である。

 さらにそれよりも重傷な加賀は先程まで激しく動いていたことに思い至ったのだ。

 ふと加賀を見る。

 いつも通りの無表情だが、普段よりも顔が青い。血の気がないといった感じだ。

「……限界、ね」

 そう呟いて、加賀はぱたりと倒れた。

「うわぁぁぁぁ、こいつ腹に穴が開いているのにあんなに激しく動くからっ」

 珍しく海人が狼狽する。

「と、とにかく運ぼうっ」

 川内が叫ぶ。

「時雨、座ってないで足をもて、足っ、俺は上半身を持つからっ!」

「わ、分かったよっ」

「夕立先導しろ、とにかく地上に戻るぞっ」

「ぽ、っぽい!」

 こうして慌ただしく五人は地下を後にしたのだった。




 【誰かの手記5】

 電が人間を拾ってきました。

 外部からの人間のようです。

 これは困りました。

 閉じられた偽りの楽園に混じり込んだ外部からの異物。それはいったいこの島にどのような影響を及ぼすのか想像も出来ません。

 排除するべきか。

 利用価値はあるのか。

 慎重に判断しなければなりません。

 個人的には人間なんてもう信じられないとは思う。

 裏切られ苦しむのは一度でたくさんだ。

 でも、それは私の感情。

 この島の未来を考えれば、人間が必要になる可能性がない訳ではない。

 その人物が艦娘の信頼を得て。

 私よりも遥かに優れていて。

 そして何より私欲に負けて裏切るような薄汚い心を持っていなく。

 そう、彼女を任せられるような清廉な人間であるならば。

 全てを預け。

 託し。

 私は汚いもの全てを一身に集めて沈んでいきたいと。

 そう、思うのです。




第二章 清廉さの証明




 この島に大きな変化が生じた。

 まず一つ目は鎮守府の復興だった。

 海人が提督となったことにより、指示がなくて途方に暮れていた妖精が働けるようになった。その結果、信じ難い速度で島の設備は整っていったのである。

 防衛設備はもちろんのこと。

 生活に必要な設備。

 艦娘の修理、回復に必要不可欠な船渠の設置。

 鎮守府や宿舎は補修ではどうにもならない為、改築というかもはや新築のような形で建て直された。

 次に艦娘だ。

 未だ心に深い傷を持つ一部の艦娘を除いて、楽園と呼ばれる山奥の宿舎から鎮守府に近い方の宿舎に移り住んだのである。

 この状況に追いつけない鈴谷は、逆に楽園での艦娘の世話という名目で楽園に移り住んでもらった。

 彼女も少しずつ現実を直視出来ればと戻れることだろう。

 海人は彼の体型に合った軍服を用意された。

 大本宮に認知されていない非公式な鎮守府がそこでは完成しようとしていたのである。

 そして一番大きな変化は、加賀が海人の秘書艦に立候補したことだ。

 これには沢山の艦娘が異議を申立て。

 そして加賀の提案をすんなり受けた海人の頭の中を本気で心配する艦娘が多数現れた。

「加賀さんに任せるくらいなら僕がっ」

「流石に危ないのです、電がっ」

「ど、どどうしてもと言うなら、私があうっ「面白そうだから私もやりたい。ねぇねぇ、沢山夜戦しようよ!」ふ、……不幸だわ」

 こんな声を全て無視して。

 不敵に笑う海人はどこまで加賀の思惑に気付いているのか。

 仕事の多さから誰もが忙しい期間を過ごして。

 秘書艦として非常に優秀な加賀と。記憶に残らずとも、体が覚えていた海人の仕事ぶりは順調そのもので。

 気付けば山のような仕事を処理しきり、仕事の合間にお茶を楽しむ余裕が生まれていた。

「長年秘書艦を経験していただけあって流石に優秀だな、助かったぞ」

「貴方こそ。どうしてなかなか、不思議と手馴れていて驚きました。やはり以前も提督を?」

「……まぁ、お前に隠す必要もないか。そうだよ。他の鎮守府で提督をしていた。あまり多くは覚えていないがな。仕事は体が覚えていてくれて助かったよ。大本宮に提出する書類はここでは全部しなくていいから仕事も楽だった」

 加賀の用意したお茶を飲みつつ、海人は窓の外を眺める。

 島の美しい景色が満喫できた。

「それで、だ。……そろそろお前の思惑を話してはくれないのか?」

「……そうですね」

 加賀は背を向けたままこちらを見ず。

 感情を見せない声色で続ける。

「殺すことも監禁することも有効ではないのならば、一番近いところで監視するのが最も賢いやり方だと判断したまでです」

 そこまでは海人も察してはいた。

 怪しい行動をすれば始末できる。

 何かを企めば素早く看破出来る。

 秘書艦とはそういう監視をするにあたって都合の良い場所だ。

 故に海人が知りたいのはそれではない。

 試すような視線の意味を、聞いているのだ。

「お前は俺の何を見極めようとしている?」

「全て、です」

「全て?」

「回りくどい話はお好きではないでしょう?」

「俺の性分をよく御存じで」

 海人は笑う。笑うが、目は一切笑ってはいなかった。

「では単刀直入に。私に認められたいのならば、私が楽園と定義した場所を、貴方の手で壊してください。ただし、艦娘は壊さずに」

「……そういうことか」

 壊れてしまった艦娘を救えと。

 楽園からこちら側に連れ戻せと。

 加賀はそう言っているのだ。

「期間は?」

「設けません。ただし、失敗すれば私が貴方を殺します」

「おい、模擬戦の約束は?」

「故に、貴方が認めてください。失敗したら殺されると。それが私に出来る最大限の譲歩で、貴方が私を認めさせる最後の機会です」

 逃げ場はなさそうである。

 己の命が賭けられていた。

 問題ない。

 もとよりこの島の全ての艦娘を心から笑わせる心積もりであった。

 そこに己の命が賭けられていても、大した痛手ではない。

 それどころか成功すれば加賀が認めると宣言したのだ。

 むしろ大収穫である。

「認めよう。失敗したら殺される。だが言質を取ったぞ? 俺が成功すればお前は俺を認める」

「構いません。達成出来たのならば、私は貴方を認め。私の知る全てを話して、貴方に全てを託しましょう」

 氷のように冷たい加賀の視線を真正面から受け止め。

 海人はさらに追加する。

「そしてお前も絶対に心から笑わせてやるからな、加賀」

「ご自由に」

 その日から、海人の新たなスタートが切られた。

 手段は問わない。

 賭けられたのは己の命。

 報酬は加賀。

 そして目的は楽園を壊すこと。




「という訳でやってきました【楽園】こと、山奥の宿舎です」

「なんですか? そのノリは、正直不愉快なのですが」

「手厳しいな、おい……」

 雰囲気だけでも盛り上げようとした海人に対し、加賀は冷徹かつゴミでも見るような視線を突きつける。

「こういうのは計画的にやらないといけないからな、目標を定めるぞ」

「なるほど。てっきり私は貴方のことを行き当たりばったり。出たとこ勝負、行動してから考えるタイプだと思っ ていました」

「いや、間違ってはいないんだけどな。本当の事を本人に叩きつけると傷付くんだぞ? 知っているか?」

 がくりと肩を落としながらも海人はまるで傷付いた様子がない。

 加賀の毒舌を楽しんでいる雰囲気すら見受けられた。

 鋼のメンタルである。

「それで、その意図は」

「いや、ここに残った面子と戻ってきた鈴谷は正直軽々しく触れられない精神状況だからな。浜風とか心に地雷だらけで足の踏み場がない」

 完全に現実を見ていない。

 もしくは自分の都合の良い世界を形成している。

 そうやって事実を誤認して改変している精神状況の艦娘は、少しの事で取り返しがつかない程に壊れる危険性を内包しているのだ。

 故に接し方も細心の注意を払う必要がある。

「ちなみに俺は楽園から出た奴らのケアも必要だと思っている」

「……私が提示した条件外の話ですか」

「ああ。夕立や時雨。確かに壊れているとは言えないし、このままでも問題はないんだろうが、心に暗いものを抱えたままにするのは可愛そうだろ。やはり心の底から笑えるようになってほしい」

 彼女らは殺戮兵器としての自分を刷り込まれている。

 長い時間を費やした特殊な訓練だ。

 おまけに命令されたとはいえ、仲間を殺したという自責や後悔の念は一生ついて回る。

 解放することは出来なくても、それと向き合う方法は教えなければならないだろう。

「難しいことですよ?」

 時雨はスイッチが入る。と言っていたが、殺戮の人格に意識を奪われると本当に我を忘れていた。己の全てを使って目標を殺すだけの存在になっていた。

 実際に戦った加賀にははっきりと分かる。

 恐らく、夕立もそう違いはないだろう。

「確かに刷り込まれた暗示を解くのは沢山の時間と労力を必要とするだろう。だが、それは俺が一緒にいる限りゆっくり進めればいい。それよりもあの二人は当面の問題を全部解決するもっと手っ取り早い方法がある」

「そんな便利な手段が?」

 加賀は驚く。

 そんな方法を彼女の知識では一切思い浮かばなかったからである。

「なんとふたつもある。ひとつは忘れさせることだ。記憶領域から忘れさせれば解決させられる。思い出せないようにするだけでいい。それなら方法は無数にある。が、この島は記憶を刺激する情報に溢れているからな、この方法は有効じゃない」

「もうひとつは?」

「上書きすることだ。消したり解除したりするより簡単な上に、上書きする俺が傍に存在する限りかなり強い効果がある」

「……掛けられた暗示よりもさらに強い暗示で上書きするということですか。そんなことが本当に可能なのですか?」

「暗示は新しい自身の肯定だ。暗示を解くために昔の自分を否定するよりも遥かに簡単だし、時雨と夕立の心が受け入れれば難しいとは思えないな。催眠術を掛けようって訳じゃない。簡単に今ある暗示の妨げになる新しい暗示を鍵のように掛けるだけだよ」

「簡単に言っていますがそんな都合よく……。いや、貴方はやるのでしょうね」

 変な信頼であった。

 けれど悪い気はしない。

「表面上はまっとうな川内もあいつはあいつで抱えているだろうし、それも一度吐き出させてやりたい」

 川内が己の強さで抱え込んだ闇は加賀も心当たりがある。

「やるべきこと、やりたいことはいくらでもある」

「どうして貴方はそこまで?」

「どうしてと言われてもなぁ……」

 海人は黙って暫く考えた。

「記憶を失って最初の感情が電に恩返しがしたいだったが」

 今は違っていた。

 いや、今も尚、命の恩人である電には感謝をしている。

 川内にも。

 だがそれ以上に。

 明確な理由と意思がある。

「俺が提督だからだ。提督が艦娘を助けるのは当たり前だろう?」

「意味不明ですが」

「何故だ? 艦娘は体を張って海を守っているんだ。傷は船渠で癒える。でも心はどこで癒す? 彼女らの心の支えは何だ? 提督なんて椅子に座って偉そうに命令する身分なんだ。心ぐらい支えてやる。痛みくらい癒してやる。辛いなら一緒に背負ってやる。深海棲艦と戦えない無能な人間だからこそ、彼女たちの心だけは俺が全力で守るんだよ。それが、提督が提督である証だと俺は思う」

「…………そうですか」

 そっけなくそう言って加賀は前に進む。

 宿舎に入るのだろう。

「ちょっと待った」

 慌てて肩を掴んで引き留める。

「どうしました?」

「こう言っては失礼かもしれんが、お前がここに姿を現すのは多分相手側の心象によろしくない、と思う」

 加賀は確かに。そんな感じの表情をした。

 珍しく間抜けな表情であった。本当に意識の外にあったのだろう。

 まさかそれほどまでに動揺していたのだろうか。海人の言葉によって。

「俺の言葉に惚れ直すのは構わないが、ポカはこれくらいにしてくれよ? 俺だってフォローはするが、それでカバーし切れるとも限らなぐえっ!」

 海人は腹を抱えてその場に蹲る。

「おい、マジで殴ることないだろ……」

「空いている部屋で待機しています。終わったら、教えてください」

 そのまますたすたと先に行ってしまう。

「痛つつ……、鳩尾に鋭い一撃。完全に殺す気だったろこれ……」

 苦笑いしつつ。

 加賀と多少はコミュニケーションがとれたことに喜びを感じた。

 例えどんな感情であれ心が動くことは良い事なのだ。

「さて、ではやり始めるか」

 目標は決めてある。

 おまけに用事まで用意してきた。

 レ級戦での約束を果たすのだ。

『いいぞ。その調子だ、島風。あとでご褒美だっ!』

『本当ですかっ? やったーっ!』

 切掛けには丁度良い用事だろう。

 そう、海人はこれから島風と天津風に会いに行くのである。




 静かな廊下を歩く。

 ほんの少し前までは賑やかだったこの場所も、多くの艦娘が移動したことにより今は静けさと寂しさの同居する空間になってしまっていた。

 楽園と名付けられた場所。

 ここから踏み出すことが本当に正しいのだろうか。

 そんな迷いが海人にない訳ではない。

 けれど思うのだ。

 彼女らには心の奥底から笑ってほしいと。だから海人はその部屋の前にやってきたのである。

 島風と天津風二人の部屋だ。

「海人だ、入っていいか?」

 ノックと共に少し大きめの声で言う。

「え!? か、海人!? どうして!?」

「おぅっ!? 提督ですか? いいですよー」

「ちょ、だめっ、待って私、準備が、まだっ!」

「わっ、ちょっと天津風、暴れないでよーっ!」

 なにやら部屋の中が大変騒がしい。

 どうやら中で天津風が慌てているようである。

「入っていいのか? 悪いのか?」

「いいですって」

「よくないわよっ!」

 即答で間反対の答えが返ってくる。

 とりあえず天津風の気が済むまで待つしかないだろう。

「……入ってよかったら教えてくれ」

 そうとだけ言って海人は黙って待つことにする。

 そうして腕を組んで扉の前で待機することおよそ十分程度。これ以上待つならば流石に日を改めようか考えていた頃にようやく。

 天津風が扉を開けて出迎えてくれた。

「ま、待たせたわね」

「本当に待ったぞ」

「こういうときイイ男は笑って待ってないと言うものよっ!」

「俺はイイ男じゃないものでな」

 そう言って天津風を見る。

 いつも通りの整った服装と髪型だった。

 身嗜みを整えていたのだろう。

 次に部屋を見る。

 かなり片付いている。が、慌てて片付けたのが分かるくらいには粗が目立った。

 それに気が付かない振りをするくらいの気遣いは流石に海人にも出来る。

「ていとくー、聞いてくださいよー。天津風ってば見栄っ張りだから、大慌てて着替えて片付けて島風まで手伝わされたんですよー?」

 台無しであった。

 そして天津風が顔を真っ赤にして体を震わせている。

「あんたはーっ、どうしていつもそうやって余計なことをっ!!」

 叫びながら飛び掛かるも、島風の素早さは尋常ではない。この狭い空間でも縦横無尽に駆け回り、飛び回るおかげで天津風では影さえも捕まえられない。

「天津風おっそーい!!」

「待ちなさい、待って、……待てコラァッ!!」

 海人を中心に駆け回る二人。

 蚊帳の外で立ち尽くす海人はもう帰ろうかと思い始めていた。

 激情して飛び掛かる天津風。それを島風はいとも簡単に飛び越えて躱してしまう。

 勢い余った天津風はそのままクローゼットに直撃して。

 その衝撃でクローゼットが弾けた。

 そう、弾けたのだ。

 もともと無理な収納をしていたのだろう。

 海人の急な訪問に驚いた天津風は、急場しのぎの為にそこに部屋の物を積み込んだのだ。

 それが衝撃によって飛び出した。

 故にクローゼットが弾けたのである。

 大量の衣服、下着、ぬいぐるみや雑貨、もろもろ様々な小物類が雪崩のように部屋に溢れ込む。

「……一度、部屋を出てやりなおそうか?」

 あまりにも酷い惨状に海人が言えたのはそれだけであった。

 顔を床に伏せたまま、耳を真っ赤にして体を震わせている天津風は呻く声で嘆いた。

「もう、手遅れよ……」

「それで提督はどんなご用件ですかー?」

「この状況で通常運転とは島風、お前は本当にマイペースだな」

 苦笑してしまう。

「褒められましたー?」

「そんな訳ないでしょっ!!」

 半分泣き声交じりで天津風の絶叫が部屋に響き渡った。

「おぅっ!?」




「あー、改めて俺がここに来た要件だが」

 部屋を三人で片付け、天津風も落ち着いてきた頃合いを見て切り出す。

「この前の戦闘で島風に褒美をやるって言っただろ?」

「そうでしたっけ?」

「あんたねぇ、覚えてなさいよ」

 どうやら島風は覚えていないらしい。

 加賀の件がなければ、ならいいか。と引き下がるところだが、自分の命が賭けられている以上そういう訳にもいかない。

「お前が覚えていようがいまいが俺はそう言った以上ちゃんと実行する。で、何が欲しい?」

「欲しいものですか? うーん、すぐには思い浮かばないですねー」

「して欲しいことでもいいぞ。そもそも俺は人にあげられるほど何かを持っていない。なにしろ自分の記憶すら持っていないくらいだからな」

「貴方のそれは笑い事じゃないわよ……」

「記憶くらいなくてもなんとでもなるものだ。俺は今のところ毎日が楽しいぞ?」

 本当の事であった。

 思うままに行動して。思うままに言いたいことを言っている。

 この島は退屈には程遠い。

 実に人生を謳歌していると言えるだろう。

「加賀さんに命を狙われていてそういうことが言えるの、本当に貴方は胆力があるというか。心臓に毛が生えているというか……」

 天津風が呆れ顔で言う。

「失礼な。俺だってこう見えて結構繊細なんだぞ?」

「おー、提督と無縁な言葉ですね」

「褒美の前に拳骨くれてやろうか?」

「おぅっ!? 冗談ですってばっ」

 島風が頭を押さえて逃げる。

「でも私も島風と同じ意見よ。貴方に繊細なんて言葉は似合わないと思うわ」

「お前ら俺をどういう目で見ているんだよ」

「鉄人ね」

「無敵超人って感じですかねー?」

「どんな過酷な環境でも生き残りそうなゴキブリ並みの生命力だと思うわ」

「ゴリラに殴り合いで勝てそうです!」

「趣味は筋トレ。休みの日は滝に打たれて修行してそうだわ!」

「あとあと……」

「ええっと、あとは……」

「待て待て待て、ちょっと待て」

 止めなければ幾らでも出てきそうな二人を強引に止め。

 聞きたくはないことを聞く。

「え、なに? お前ら艦娘って俺をそんな目で見ているのか?」

「だって加賀さんに勝っちゃうのだもの」

「だよねー? 提督はもう人間として見られないですよ?」

 正直ショックである。

 少なくとも海人は艦娘より強いなどとは微塵も思ってはいない。

 条件付きの白兵戦で手段を選ばず、ズルを駆使することでようやく一本を掴みとれる程度の自負はあるが。それを特別とは思ってはいない。

 実のところ。

 その考えが既に人間離れしているのだが。

 常識的に考えれば、艦娘の戦闘力相手に勝機を見出すような存在はもはや人間とは呼べないだろう。

「嘘だろ、俺なんて副砲掠れば絶命するか弱き人間だぞ……」

「か弱き?」

「おい、島風。首を傾げるな」

「普通に生きてそう……」

「いや、流石に死ぬからな? 頼むからそういう前提でいてくれ?」

 戦場で海人だから大丈夫だろう。と、砲弾の嵐に放置されたらたまったものではない。流石に守ってもらわなければあっという間に死んでしまう。

「話に聞く限りだと艤装とリンクしていない私たちよりは強いのでしょう?」

「そんな訳あるか。お前ら俺を過大評価し過ぎだ。加賀との一戦は奇跡を掴むための努力はしたが、結局あれも運が良かっただけだからな?」

 あまり自分を低く見せるつもりはないが。

 いくらなんでも艦娘の評価が過剰のように思える。

 加賀との模擬戦は本当に数%以下の奇跡を拾ったのだ。

「もう一度やれと言われても絶対に出来ないぞ」

 同じ手は加賀には通用しないだろう。

「あ、それなら私の欲しいもの決まりましたー」

 突然、島風が元気に言う。

 とんでもない事を。

「加賀さんに模擬戦で勝つところを見せてくださいよっ!」

 さらりと、言う。

 奇跡を、もう一度起こせと。

 流石に海人も、顔をひきつらせた。




「という訳で加賀、負けてくれ」

「嫌です」

「そこをなんとか」

「嫌です」

「お願いだからっ」

「嫌です」

 加賀は断固として譲ってはくれなかった。

「少しは俺に協力しろよっ!?」

「どうしてですか? 貴方が達成出来なくて死んでも私は全く構わないのですが?」

「確かにそうだろうけどなっ!?」

 身も蓋もなかった。

「それにあの模擬戦は私としてもかなり悔しい思いをさせられました。ええ、その日は悔しくて寝られないくらいに。再戦で仕返しが出来るならば願ってもありません」

「私怨の塊だなぁっ!!」

 どうやら、茶番で終わらせることは出来ないらしい。

 加賀は全力で倒しに来る。

 試合を断られないのは助かるが、油断なし手抜きなしの加賀相手に奥の手もない状態の海人が勝てるとは思えない。

 可能性の欠片もなかった。

 奇跡とは準備し、掴む努力を放棄しなかった者が掴むべくして掴むのである。

 偶然降って湧く物ではないのだ。

 故に、海人は策を練る。

 弱者故に工夫をするのだ。

 手段を選ばないとは、取れる選択肢は全て実行できる準備をした者だけが言える台詞である。

 持てる札は多いほど良い。

「一週間後だ」

「はい?」

「一週間後にやるぞ。俺とお前の模擬戦は皆も興味あるだろ? 島風への褒美とはいえ、皆が楽しめる催しなら大々的にやろう」

「一週間も準備時間は必要ないでしょう?」

「いや、ある。イベントとしてやるんだ。ちゃんと皆が楽しめるようにしたい」

 全て嘘である。

 いや、確かに皆が楽しめるような明るい話題は欲していた。

 が、準備は急げば三日も必要ない。

 海人は加賀に勝つための準備の為に一週間を欲しているのだ。

「三日もあれば十分でしょう?」

 流石に痛いところを突いてくる。

「六日間はいるだろ? 鎮守府の仕事も進めないといけない」

「切羽詰まった仕事はありません。猶予を持たせても四日あれば問題ないかと」

「いやいや、なにも俺とお前の一騎打ちだけで終わらせるのも味気ないだろうよ。他にも企画したい。五日はどう考えても必要じゃないか?」

 水面下でのせめぎ合い。

「貴方に五日も与えるのが正直心底気に入りません」

「お前圧倒的有利の癖に器が小さいぞっ!?」

「前回の勝者が何を。私に余裕なんてある訳ないじゃないですか」

 艦娘の異常なまでに高い海人への評価がここでも弊害を及ぼしていた。

 たかが人間。そう侮っていればどれだけ気楽か。

 しかし加賀は海人を強敵として認め、全力で挑まねば負けるという気概でいる。

 証拠に準備期間を一日でも削ろうと今も譲る気がない。

 冗談ではない。こんな状態の加賀相手に勝てる訳がないだろう。

「……わかった。四日だ。四日後に俺とお前の模擬戦を行う」

「ルールは以前と同じで?」

「そうだな……。イベントとして催す訳だからな、些細な変更はあるだろうが。概ねそうだと解釈して構わない」

「…………」

 加賀が思案する。

 気付かれたのだろうか。

 海人の背に汗が流れる。

 重い空気。

 沈黙が、苦しい。

 それでも表情には出さないようにした。

「いいでしょう。貴方が一日譲ったのです。私も気付かなかったことにします」

 やはり気付かれていた。

 イベントの主導は提督である海人が握れる。

 それは些細なルール変更を海人が掌握出来ることを意味していた。

 そこに勝利の為の布石。手札の一枚を仕込むことを想定していたのである。

 これを得られたのは大きい。

 準備期間を一日削った以上の有利を得られた。

「では告知ですか。人数が少ないとはいえ、青葉がいないことが悔やまれますね」

「会場を作るとこからやるぞ。妖精さんに手配する。出店も作って雰囲気を出そう。総指揮者は提督である俺が。補佐に電を付ける。食品の扱いは意外に料理得意な川内に任せるか」

「そうだろうとは思いましたが、貴方が主導でやるのですね。おまけに私の関与を許さない。電を補佐に付ければ確かに私が文句を言う余地もないでしょう。お見事ですね」

「勘ぐり過ぎだ」

 不敵に笑う二人。

 そして四日間は、目まぐるしくあっという間に過ぎていく。




 妖精の急ピッチで進められたその会場は、僅か四日間で行われた工事とは思えない出来であった。

 中央の模擬戦場を囲うように座席が設けられ、おまけに実況の席までも作られていたのだから驚きである。

 本日の主役はこの鎮守府の提督である海人とその秘書艦の加賀だ。

 この二人がここで争い、実力を競い合うのである。

 この日の為に食べ物の屋台まで準備されていた。

 出店から漂う香りに引き寄せられて多くの艦娘が足を止め、購入した食べ物を片手に会場へと向かっていく。

 捕えた野生動物の肉を串に刺して焼く川内は、出来上がった物を配る雷に聞く。

「凄い盛り上がりだねー」

「皆明るい話題に飢えていたところに、こんな催しの知らせだもの。楽しみじゃないほうがどうかしているわ!」

「雷はどっちが勝つと思う?」

「普通に考えたら加賀さんじゃないかしら?」

 確かにそうである。

 誰もがそう考えるであろう。

「成程ね。でも海人は普通じゃないからさ」

「川内さんは海人が勝つと思っているの?」

「五分五分かな」

 互角。

 川内はそう考えているのである。

「川内さんは海人を凄く評価しているのね?」

「ちょっと雷が考えているような評価とは違うかなぁ」

「どういうこと?」

「私は海人が勝つ気なら十割勝つと思っているよ?」

「加賀さん相手に?」

「誰が相手でも、よ」

 川内は確信を持った強い声色で言う。

「だから五分五分というのは勝つ気があるかって意味。ただの催しで皆を楽しませることが目的なら、そりゃ海人も真剣にやるだろうけど多分勝つのは加賀さん。でも、もしもどうしても負けられない理由があって手段を選ばなければ……」

「勝つのは海人だと思うのね?」

「そう信じているって言うほうが正解かな」




「どうして貴女がここに?」

 静かな部屋に加賀の声が響く。

 そこは選手の控室であった。

 会場に作られた選手の控室で、狭く簡素ではあるが四日間という期間を考えれば随分立派なつくりだと言えるだろう。

「海人の傍には沢山いるでしょうから。電は傍にいたいと思ったのですよ」

「物好きね」

 加賀は電の姿を視界に入れないまま、冷たい声で吐き捨てるように言った。

「心って不思議ですよね」

「……?」

「辛く苦しくて、余裕がないと自分の心さえも見えなくなるのです」

「何が言いたいのかしら?」

「でも余裕が出来て自分の心が見えてくると、今度は周りの心も見えてくることもあるのですよ……」

 電の声は温かく優しい。

 それは昔からだが、今の彼女の優しさには強さとどこか余裕がある。

 切羽詰まり、力んだ過去の彼女の姿はどこにもない。

 誰かが変えたのだ。

 彼女の心を和らげたのだろう。

 恐らく、海人が。

「何を抱えて、どれだけの覚悟でいるのか、電には分からないのです。……でも、それが虚勢で精一杯の強がりだってことは、今の私には分かってしまうのです」

 優しい声を。

 彼女の心を、それでも加賀は受け入れない。

「余計なお世話ね。どうあっても、私は私が決めた道を進み続けるわ」

「私には止められないのですよ。でも、その道を一緒に歩けませんか?」

「貴方は、もうこれ以上私に付き合う必要はないわ。これは私の私利私欲だもの」

 不思議な言葉だと電は思った。

 もう通り過ぎた過去を抱える加賀。恐らくこの島の皆を守る為だろうその茨の道を、加賀は私利私欲と言葉にした。

 とてもそうは思えない。

 やはり電の知らない大きな何かを、彼女は抱えているのだ。

「海人に預けることは出来ないのですか?」

「それは、私が決めることだわ」

 それに値する人物か加賀が見定める。そう、彼女は遠回しに言った。

 もう交わす言葉はない。そう言うかのように加賀は立ち上がり、模擬戦場へと向かった。

 一人残された電は寂しそうな瞳で呟く。

「電じゃだめだったのです。……海人、加賀さんを救って欲しいのです」




「どうしてまたこんな無茶なことを……」

 青ざめた顔で山城が言う。

 そこは海人の控室であった。

 加賀のそこは違い、狭い部屋に大人数が押し掛けていて大変騒がしい。

「いいじゃないか盛り上がって。なかなか面白い催しだろ?」

「実力も手の内もばれているようだけど、勝機はあるのかい?」

 響が聞く。

「勝つための手は尽くしたが、どうだろう。かなり勝つ見込みは低いだろうな」

「わ、私に出来ることはないかしら!」

 暁が気合の入った声で言うが、正直もう出来ることは全てしてしまっている。

 あとは運任せだろう。

「気持ちだけ受け取っておく。暁、こういう時は信じて送り出すのが立派なレディってもんだぞ」

「わ、分かったわ。……信じて待つから、絶対負けないでね!」

 不安そうな瞳でどうにかその言葉を絞り出した暁の頭を撫でる。

「な、なでなでしないでよ!」

「男が女の頭を撫でるときは落ち着きたくて甘えているんだよ。大人しく撫でられていろ、大人の女性なんだろ?」

「そ、そうなの!?」

 もちろん嘘である。

 そして何故か部屋の艦娘が全員こちらに向かって頭を差し出していた。

「おい、なんだよ。……お前らなんで俺に頭向けているんだよ」

「提督ーっ! って、おぅ!? どうして皆頭差し出しているの? 気持ち悪いっ!」

 部屋に入ってきた島風が引いていた。

「島風、俺の勝つところしっかり見とけよ」

「本当に勝てるんですか?」

「ばっかお前、俺は約束を守る男だ。……と言いたいところだが、厳しいな。相手が相手だしな」

「始まる前からそんな弱気でどうするのよ」

 続いて天津風も入ってくる。

「やるだけやってはみるけどな」

 そう言って海人は席を立つ。

「よし、そろそろ行くか」

 沢山の応援の言葉を背に、海人は歩き出した。




「こちら実況席の時雨と」

「夕立っぽい!」

 公開模擬戦の時間が近付いて来た為、観客席は賑わい始めてきた。

 川内の焼いた串焼きを手に、誰もが始まりはまだかと期待に胸ふくらませている。

 この島の殆どの艦娘が集まり、そして誰もが明るい顔をしていた。

 こんなことは久しぶりであった。

「時雨はこの一戦、どう見るっぽい?」

「そうだね。近接戦の技巧は海人の方が上回っている。けれど加賀さんの腕前が低い訳ではなく、それどころかこの島の艦娘の中では随一だ。海人の体術が異常な域にあるだけだね」

「技術では海人が有利っぽい!」

「でも身体能力では純粋な人間である海人は大幅に不利だね。総合して見ると加賀さんの方が圧倒的に優勢だとみて間違いないと思うよ」

「だとすると海人の勝ち目はないっぽい?」

 普通に考えればそうだ。

「いや、海人は基本的に何をするにしてもこちらの想定を超えてくるからね。今回もどんな隠し玉を用意しているか分からない。そういう不確定要素がどこまで加賀さんに通用するか、そこが見所だね」

「なるほど。普通に戦えば加賀さんの勝ち。だけど、普通じゃない手段を海人がどこまで用意しているか、そしてそれが加賀さんに通用するのか、そこに注目して見て欲しいっぽい!」

 そんな二人の解説に耳を傾けていた響が呟く。

「あの二人、意外と真面目に解説できているみたいだね」

「そういえば響も解説役を頼まれたのよね?」

 串焼き片手に雷が言う。

「断ったよ。あまりああやって話すのは得意ではないしね」

「あー、私も頼まれたけど断ったなー」

 串焼きを完売し、片付けまで終えた川内が言いながら雷の隣に座る。

「どうして断ったの?」

「海人に屋台頼まれていたし、これ以上忙しくなるのはごめんだよ」

 基本的に川内は優秀だが怠惰なのである。

 今回の屋台の件も海人の頼みでなければ断っていたところだ。

「あ、二人が入場したみたいだよ」

 川内が指さす先に加賀と海人の姿が見える。

 張り詰めた表情の加賀と、落ち着いて笑みを浮かべる対照的な姿だった。




「こわい顔するなよ、楽しんでいこうぜ?」

「私としては汚名返上の機会なのですから、余裕なんてないわ」

 油断してくれる様子はないようだ。

 緊張している訳ではなく、集中しているということが雰囲気から分かる。

 海人としては都合が悪い。

「本日の主役二人の入場だよ」

「拍手で迎えて欲しいっぽい!」

 解説席から二人の大きな声が響く。

 準備の関係上拡声器もマイクもスピーカーも用意出来なかった為、解説席から観客席全体に聞こえる声で言う必要がある。

 狭い会場とはいえ楽な役割ではない。

 響が断る訳である。

 観客席に向かって手を振る海人とは対照的に加賀は周囲を隅々まで調べていた。

 どうやら、海人が海上に何かを仕掛けている可能性を考えているらしい。

 無駄だとは思いつつ、海人は親切に教える。

「会場には何も仕掛けてないぞ」

「この一戦が終わるまで、貴方の言葉には一切耳を傾けません」

「おいおい、まるで今までは傾けてくれたみたいな言い方じゃないか」

「それもそうですね。訂正します。私は貴方と出会ってから、そしてこれからもその言葉に一切耳を傾けません」

「指摘しなければ良かったな……」

 苦笑する海人に冷徹な視線で答える。

「ではルールを説明するよ」

 時雨は手元の資料を読み上げる。

「加賀さんは徒手空拳。それに対して海人は模擬戦用に刃引きされたナイフを使用出来るね。今回は前回と違い制限時間ありのポイント制で対戦を行うよ。対戦時間は十分間、加賀さんは海人の行動の自由を奪えば10ポイント。攻撃のヒットで1ポイント。対して海人は加賀さんの行動の自由を奪えば勝利。攻撃のクリーンヒットで10ポイント。攻撃のヒットで5ポイント。行動の自由を奪った場合はポイント獲得後仕切り直しで、勝利条件は15ポイントを獲得するか、制限時間終了後、ポイントの多かった方が勝者となるよ」

 ルール説明を聞いた加賀が疑惑の視線を海人に向ける。

「どうしてポイント制に?」

 何を企んでいるの。そういった疑問を含んだ言葉であった。

「その方が盛り上がりそうだろ?」

 それを海人は涼しい顔で受け流す。

「実況は夕立、解説は時雨がするっぽい」

「それと審判は電にお願いしているよ」

 時雨の声と同時に電が会場に姿を現した。

「電が審判をするならお前も文句はないだろう?」

「そうね。彼女相手に自分だけが有利になるような仕組みは出来ないでしょう」

「信用ないな、おい。俺だって流石に審判相手に仕組みはしないぞ」

 無言で聞き流す。

 どうやら本気で海人の言葉に耳を貸す気がないらしい。

「徹底しているなぁ……」

 呆れ半分関心半分で海人は苦笑する。

「では観客の皆も待ちきれないようだし、審判の合図で試合を始めるよ!」

「盛り上がってきたっぽい!」

 会場の中心で相対する海人と加賀の中心に電が立つ。

 両者を見て互いの準備が万全であることを確認し。

「いいですか。電が手を振り下したら開始なのです。それと同時にタイマーも動き出します」

 海人が頷き。

 加賀も頷いた。

 電が手を振り上げ。

「始め!」

 そして振り下した。




 先に仕掛けたのは意外にも加賀であった。

 滑らかな重心移動と静かな動作から、二人の距離をまるで魔法のように詰めてしまう。

 普通ならば意識の狭間に滑り込むようなその踏み込みに対し、反応することは難しい。しかし海人は普通ではなかった。

 的確に反応し、逆に加賀の喉元にナイフの先端を滑り込ませる。

 さらに切り込むか一瞬の思考。それは刹那にも満たないほんの僅かな時間であった。

 加賀は引くことを選択する。

 完璧に決まった踏み込みだったが、不意打ちとならなかったならば無理に続けることもないだろう。このまま切り結んで得点に繋がるとは思い難い。

 どんな隠し玉を持っているか分からない海人相手に無謀な攻めは危険と判断したのだ。

 前進のエネルギーなどまるでなかったかのように加賀は後ろに飛び退いた。

 が、海人はそこまで読んでいた。

 後退に合わせ踏み込まれる一歩。

 それは先程加賀が見せた踏み込みよりも遥かに静かで無駄がない。

 意識の外から距離を詰める、まるで芸術のような身のこなしであった。

 先頭の最中にも関わらず加賀が見惚れてしまう程に。

 繰り出されるナイフの一閃。

 ナイフの腹を掌で受け流す。

 続く回し蹴りも上体を逸らすことで躱した。

 体勢を立て直す余裕はない。

 次の連撃を躱すことは困難だろう。

 素早くそう判断すると加賀は体勢を立て直すことを放棄した。

 体をそのまま後ろに投げ出し、両の手を地面へ。強く両手で体を跳ね上げてさらに後ろへと飛び出していく。

 宙に浮いた体は一回転して加賀は両足で見事に着地した。

 追撃はない。

 海人は静かにナイフを構えて間合いを計っていた。

 会場が静まり、静寂が訪れる。

 誰もが息を飲んでいた。

 話には聞いていた。

 加賀の実力も誰もが理解してはいる。

 しかし、実際に海人の体術を見た者は少ないからだ。

 そして歓声が上がった。

 あり得ない光景。

 信じがたい技量に誰もが称賛の声を贈るのだ。

「まずはお見事と言っておきましょうか」

「そっちこそ。あんな踏み込み隠しておくなんて驚いたぞ」

「貴方の踏み込み程、完成している訳でもないのであまり見せたくはなかったのですが」

 謙遜である。

 そう海人は思った。

 確かに海人の方が洗練された踏み込みだろうが。加賀のそれも完成の域にある。


「開始と同時に仕掛けた加賀さんの動きも凄かったけど、それをいなしてさらに切り返した海人も凄い。時雨の解説が聞きたいっぽい!」

「そうだね。本来近接戦闘用の技術なんて補助程度に修得すれば十分な加賀さんが、あんな踏み込みを習得しているのは驚きだよ。普通の人は足の力で地面を蹴って移動するのに対して、加賀さんや海人は重心や重力を利用することで、より相手に察知され難い間合いの詰め方が出来る。これを相手の意識の隙に行えば対応不可能な一撃が生まれる筈なんだけど……」

「海人は対応したよね?」

「海人にとっては予想の範囲内だったのか、もしくは僕たちには気付けないレベルの微妙な予備動作が海人には見えているのかもしれないね」

「もしも後者なら……」

 夕立が息を飲む。

「うん。海人には加賀さんの踏み込みからの不意打ちが一切通用しないことになるね」

「あっ、今度は海人が仕掛けるっぽい!」


「いくぞ」

 静かに海人は呟いた。

 全身から力が抜かれ、崩れるように体が重力に従って落ちていく。

 その加速を、重心移動で巧みに前方へと運ぶ。

 力を入れる瞬間がほぼない為、相手には予備動作が見えず。まるで突然目の前に現れたかのような踏み込みが可能となる。

 意識の隙間にそれをされれば対応する術はない。

 しかし来るとあらかじめ覚悟していれば話は別だった。

 加賀は驚異的な反応速度で海人の踏み込みに蹴りを合わせた。

 が、その蹴りは空を切る。

 まるで幻覚でも見ていたかのようだ。

 海人はその場から一歩も動いてはいなかったのである。

 やられた。

 そう気付いた時には既に遅い。

 完全な隙を晒していた。

 海人の振るうナイフによる鋭い一閃が加賀の急所を狙う。

 回避不能。

 だが回避不能と気付いた時点で加賀の思考は次の行動へと奔っていた。

 こんな序盤で切る札の予定ではなかったが、温存できる状況でもない。己の未熟さを嘆くよりは流石は海人と思うほうが健全であろう。

 切り札の一つを切らされたのだから。

 急所を狙うナイフに対し、加賀は自ら当たりに行くことでそれをクリーンヒットからヒットへと逸らそうと試みる。それは成功しなくても最悪構わなかった。

 僅かでもポイントを削る悪あがきに過ぎない。

 狙いはヒット後にあった。

 狙われた首ではなく、肩でナイフを受け止めるようにぶつける。

 実戦では狙えない技だった。

 それは模擬戦で使用する刃引きされたナイフ故に使える。

 肩で受けた衝撃を体内で移動させ、軸足を中心にそのまま空を切り威力を失った蹴りに送り込む。

 そうすることで蹴りは息を吹き返し。

 己の中ではなく、外から得た力を使って放つため予備動作も存在しない。

 海人のような達人には想定外だろう無からの一撃。

 それがナイフを振るい僅かな隙を晒す海人の脇腹に突き刺さる。

 威力は僅かだがそれは確かに彼を悶絶させるに足りる一撃であった。

「両者ともにヒット! 海人5ポイント、加賀さん1ポイントなのです!」

 電の声が響く。

 しかしそれは会場の歓声に掻き消されてしまった。

 それほどまでに誰もがこの模擬戦に夢中になっている。

 誰もが目を奪われる程の技術のせめぎ合い。

 僅かな差が明暗を分けるハイレベルな戦闘は観ているだけで心を揺さぶるのだ。


「凄い、凄い凄いっぽいぃぃぃぃっ! 何が起こったか分からないくらい凄いっぽいっ!」

「そうだね。とんでもない駆け引きだった」

「時雨今のが分かるっぽい?」

「なんとかね」

 そう言う時雨の額には粒汗が浮かんでいた。

 それほどまでに集中して見なければ解説などままならないのだろう。

「最初の加賀さんの蹴りが空ぶったのはどういうことっぽい? お見合いに我慢できなくなって牽制したの?」

「違うよ。加賀さんはありもしない幻影に攻撃を振らされたんだ」

「詳しく教えてほしいっぽい」

「互いに重力と重心移動を使った予備動作のない踏み込みを習得しているのはさっき説明したよね?」

「うん」

「それに対応するにはあらかじめ準備するしかない。具体的に言うと初動である力の抜きを見た瞬間に攻撃を放つんだ。もはや予知レベルの対応の早さが要求されている筈だね。でも加賀さんも海人もその予知レベルのカウンターを合わせられる実力者だ。それを海人は利用したんだよ」

 言っている時雨も半信半疑である。

 同じことをやれと言われて行う自信はない。

「海人は抜きだけして踏み込み動作を途中でやめたんだ。素人目には何もしてないように見えるだろうけど、加賀さんには踏み込み間合いを詰める海人の姿が確かに見えた筈だよ。それはもう予知のようにね。でも実際それは海人の用意したフェイントに過ぎない。結果加賀さんは攻撃を空ぶってしまったんだね」

「じゃあ仕掛けは海人が完全に上回ったっぽい?」

「うん、仕掛け。は、ね」

 だがそれだけでは終わらなかった。

「海人は完全な隙を見せた加賀さんを狙った。取り押さえて勝利なんて欲を見せずに、確実に急所に一撃入れる堅実な一手だよ。でも加賀さんもそこで終わらない」

「そうそう、どうしてあの完全に隙だらけで重心も崩れていた加賀さんがあそこから蹴りを放てたの? それも一度目と同じ足で」

「これは想像だけど、多分加賀さんはあの瞬間に二つのことをしていたんだ。一つ目は自らナイフに当たりに行くことで急所を外すこと。そしてもう一つが肩でナイフを受けることでその衝撃を体内で循環させて、その力を利用して一度空ぶって死んだ蹴りにもう一度威力を吹き込んだんだ。軌道修正までおまけしてね」

「そんなことが本当に可能っぽい?」

「少なくとも、僕にはとても出来ないよ」


「……どうやら駆け引きでは貴方が上手のようですね。分かっていたことではありますが、悔しいことに変わりありません」

「痛てて……。何が駆け引きは上手だよ。そっちこそとんでもない隠し玉あるじゃないか」

「こんな序盤で切らされたのは屈辱でしかありません」

 加賀の蹴りで地面を転がった海人は服に付いた砂埃を払う。

 加賀もナイフで皺の寄った肩を整える。

 僅かに弛緩した空気は再び二人が構えることで張り詰めた。

「なら、俺も準備した札を一枚切ることにしよう」

 海人が不敵に笑う。




 会場の中心で高度過ぎる駆け引きを行う二人を誰よりも真剣な目で見つめる瞳があった。

 食い入るようにその戦いを見つめる彼女の心に余裕はない。

 それを楽しむというよりも、鬼気迫る必死の形相だった。

 そこに何を重ねているのだろうか。

 どれほど切実な思いがあるのだろう。

 誰もが催しだと思っているこの模擬戦を、彼女だけは全く別のものとして認識していた。

 彼女の名前は島風。

 その隣には、心配そうに島風を見つめる天津風の姿がある。

 身をもって加賀の強さを知っている島風は、この模擬戦が如何に無謀な挑戦であるのかを正しく理解していた。

 故に海人の勝利があり得ない程に望み薄で。

 そう、それは奇跡と呼べるものだと認識していた。

 だから望んだのだ。

 島風は、奇跡が起こせるものだと。

 その可能性を海人に求めたのだ。

 単純な戦闘力の考察と状況から判断すれば海人に勝ち目はない。

 ルールを初め、体術。あるいは会場にまで仕掛けられた幾重にも施されただろう策略の数々、それらを総動員したとしても勝てる可能性はないに等しい。

 確かに海人の近接戦闘技術は加賀を上回っている。それどころかこの会場にいる誰よりも上だろうことは疑いようがない。

 もともと天賦の才能を持った人間が途方もない努力を積み上げ、そして実戦を通して確かな経験と共に己の血肉とした結果、その完成形が海人なのだろう。

 もしも彼が女として生まれ、ナノマシンの適合者として艦娘となったならば、あるいは単体で鎮守府一つを任せられる程の戦力と呼ばれていただろう。

 砲撃を掻い潜り拳とナイフのみで深海棲艦を沈める姿は笑えるくらいに歪ではあるが。

 それでも尚、島風は冷静に海人の勝利をないと分析する。

 加賀自身が海人に及ばずながら、卓越した近接格闘術を習得しているだけでなく。そもそも艦娘としての性能を考えれば当然の帰結なのだ。

 人間と艦娘では身体的性能に差があり過ぎる。

 それは艤装にリンクしていなくても圧倒的なまでに自明の理であった。

 おまけに加賀は練度限界と言っても過言ではない。

 島風の考える限り、海人の前回の勝利は紛れもない奇跡の産物だと確信している。

 加賀の油断。巧妙に仕組まれた勝利までの道筋。それらが僅かな、本当にほんの僅かな誤差で霧散してしまう細く頼りない道筋を生み出したのだ。

 これを奇跡と呼ばずなんと呼ぶのだろうか。

 そう、海人は奇跡を起こしたのだ。

 それを島風は肉眼で見てはいない。

 又聞きで半信半疑の眉唾物である。

 だから見たかったのだ。

 この目で。

 奇跡を。

 自分がこの先を歩むための勇気に繋がると信じて。




 加賀は警戒していた。

 理由は簡単だ。

 目の前の男が何を企んでいるのか予測が困難だからである。

 基本的に加賀は近接戦闘における読みあいや仕掛け合いを得意とはしない。彼女はどこまでも基本に忠実で、そして愚直なまでに真っ直ぐな戦い方をするからである。

 その基本となる技術が飛びぬけて高い為、生半可な実力者の仕掛けは意に介さない。

 が、海人程の実力者が相手ならば話は別だ、

 この男は基本とは程遠い奇策を平然と打ってくる。それも加賀を超える超高度な技術を使ってだ。

 対処は困難を極めるだろう。

 余裕など一切ない。

 海人は既に5ポイント得ている。

 勝利条件は15ポイント。あとクリーンヒット一発で試合が終わる計算だ。

 ここまで考えて加賀の中で一つ疑問が浮かび上がった。

 それについて思考する間もなく、海人が距離を詰めた。

 意識の狭間に滑り込む、予備動作のない踏み込み。油断していた訳ではないが、思考に気を取られていた分反応が僅かに遅れる。

 このレベルの試合において、その差はかなりの痛手であった。

 ナイフによる鋭い一閃が放たれる。

 狙いは頭部だった。準備が万全ならば前方に回避しても良かったが、不利な状況でそれは危険だと加賀の直感が告げている。

 加賀は上体を逸らしてそれを回避した。

 一見不安定な体勢のように見えるが重心は崩れていない為、次の行動に余裕がある。

 となると海人の狙いは当然体勢を崩すこととなるだろう。上半身の自由がきくのは両足でしっかりとバランスをとっているからだ。故に、その足を狙うのが定石。

 海人はナイフを振るう回転を利用して下段回し蹴りを放つ。

 想定されていた攻撃故に対処も容易い。

 選択肢は多い。

 飛ぶか。防ぐか。受け流すか。

 回避後は反撃するか。それとも一度距離を置いて仕切りなおすか。

 数々の選択肢が脳内に流れ。

 その中から悪手を消していく。

 消去法で残った僅かな選択から最良を選び抜く。その繰り返しが加賀の基本スタイルであった。

 しかしそれは海人も同じこと。

 彼も大量の選択肢の中から悪手を消し、最良を選択出来る実力を持っている。ならば、相手の選択肢を予測することも難しいことではない。

 何しろ、加賀は最良を選択し続けるのだから。

 そこまで思考は至り、加賀は直前で選択した最良を放棄した。

 回避ではなく、受ける。

 いくら海人の蹴りとはいえ、艦娘の身体能力であれば耐えられる。足を刈り取られず、大地を踏みしめたまま反撃できる。

 加賀の意識は受けた瞬間に海人を取り押さえるという至ってシンプルなものになった。

 足払いで体勢を崩さなければヒットかどうか怪しいところだ。ヒットしたとしても取り押さえれば互いに10ポイントでイーブン。

 さらに最善手を撃ち続けるという加賀の行動、それに僅かでも疑問を抱かせるような一手をここで打てればこの後の読みあいで海人の予測を簡単にはさせないことも大きい。

 その覚悟が、僅か。本当に極僅かだが、加賀の纏う雰囲気を変えた。

 それをこの男は。

 海人というある種の化物とも呼べる男は。

 なんと読み取った。

 驚くことに。

 信じられないことに。

 全身を使って蹴りの方向を直前で地面に逸らし、その勢いを利用して地面を蹴り大きく飛び退いたのだ。

 限界まで大地を踏みしめていた加賀は追い打ちをかけることが出来ない。

 そこには不思議な間合いと空白の時間が生まれた。

 見ている者からしたら首を傾げるだろう一連の流れ。

 海人の額から一滴の汗が流れ落ちる。

 それを見て加賀は確信した。

 彼が確信を持ってこのままでは危険だという判断で下がったのだと。

「……未来でも見えるのですか?」

 悔しさを隠さずに加賀は言う。

「嫌な予感がした。全身が警告を放っていた。ああいう時は分が悪いと経験上知っているからな、悪いが引かせてもらった」

 動物的感性であった。

 超能力のような洞察力である。




「海人が仕掛けたと思ったら急に引いたっぽい? どうして?」

 夕立の疑問に時雨は答えない。

 答えられないのだ。

 解説としての仕事を果たせないのは悔しいが、彼女の知識では読み取れない何かがあったのだとしか思えない。

 あの二人の行動に無意味な動作が挟むとは思い難いし、なにか想定外な事故が生じた様子もない。

 紛れもなくそこには何かがあったのだ。

 時雨が気付かなかっただけで。

「時雨?」

 黙して語らない時雨に夕立が催促の言葉を投げかける。

「ごめん、解説として情けない限りだけど、僕には今の一連の動きは解説が出来ないよ。けど、無意味ではないと思う。あの二人しか見えない読みあいが生じた結果だと思う」

「仕方ないっぽい。時雨が分からないならここにいる誰もが意図を読み取れないと思うし」

 夕立の言葉は間違っていた。

 少なくとも二人。

 実戦での実力ではなく、読み合いや仕掛け合いの技巧に長けた人物がそれを理解していた。

 川内と響である。

 川内は近接技量の高さと経験で。

 響はその驚異的な洞察力で。

 二人は目の前の出来事を正しく理解していたのである。

「……海人の直感は人間の域を超えているね」

「ハラショー。とても鋭い第六感だよ」

 川内はただひたすら驚き。

 響はその感性に感嘆し、称賛した。

「二人は時雨も分からない今の攻防が分かるの?」

 雷が周囲を代表して二人に聞いた。

「最初に海人が加賀さんの意識の隙を突いて仕掛けたのは分かるよね?」

 川内の言葉に皆一同に頷いた。

「海人は初撃を回避させ、二手目の足払いを放った。そこで加賀さんは足払いを回避するべき瞬間に何かを仕掛けた。何かまでは分からなかったけれど、海人の様子から推測するに恐らくそれは勝敗を決しかねない攻撃手段だ」

 川内の言葉の続きを響が言う。

「足払いのヒット直前に海人はそれに気付いたんだろうね。多分勘だよあれは。野性的というか超能力的というか、信じられないけど何かを感じ取った海人は足払いを中断して一度仕切りなおすために飛び退いたんだ」

 川内の説明に皆半信半疑で唖然としていた。

 ここまで見て。

 川内はとあることに気付いていた。

 それは地下での時雨と加賀の一戦を見ていた川内だからこそ気付けたことで、分析力の高い響にも気付けないような違いだ。

 暴走状態にあった時雨自身も恐らく気付いてはいないだろう。

 だが、それを加味して考えた場合、勝利するのは加賀だという結論に至る。

「……海人、どうする気?」

 川内の問いは会場の中心で構える海人の姿に吸い込まれた。


 海人自身にも自覚はあった。

 この試合、加賀が開き直って覚悟を決めればいつでも自分の敗北が決定することを。

 故に彼女がとある制限の中戦っているうちに決めなければならない。

 海人の奥の手は決まれば試合を終える。

 そいう条件を既に整えていた。

 しかし、一度凌がれれば二度目はない。

 慎重にならざるを得ない。が、奥の手が決まらなかった場合の策も実は準備はしている。

 完遂が困難な上にみっともないことこの上ないので使用は躊躇われたが、奥の手が決まらなかった場合は覚悟を決める必要があるだろう。

 ルールを海人が設定したからこそ。

 ある程度の練習日数を稼げたからこそ放てる奥の手。

 使いどころはそう遠くはないだろう。

 無駄に長引かせれば気付かれる。

 海人は静かに覚悟を決めた。

 準備した手札二枚を囮に、奥の手を放つことを。


 加賀は自らが気付いた疑問を冷静に分析し、そして答えに至っていた。

 ポイント制というルール。

 彼が日数を求めた理由。

 それらが綺麗に符合する。

 条件は整っているだろう。

 故に確実に決まるタイミングを彼は狙ってくる。そこが加賀の勝機だ。

 気付いたことを悟らせず、タネの割れた切り札を正面から打倒する。これこそが加賀の敗北を上書きする完璧な勝利ではないだろうか。いや、そうであるに決まっている。

 加賀は心を殺した。

 僅かでも感情を浮上させれば。

 思考から極僅かでも雰囲気に漏らせば。

 彼はそれを嗅ぎ取るだろう。

 気付かれてはならない。

 悟られてはならない。

 加賀が海人の企てに気付いたことを。


 緊張が高まる。

 雰囲気を察して会場の観客も息を殺した。

 音が死に。

 風が止み。

 氷そうな時の中。

 音のない踏み込みから。

 風を切るような体捌きから。

 二人の距離がゼロとなる。


 互いの攻撃が届く近接距離で海人は加賀に背を向けた。

 そこから繰り出されるのは恐らく回し蹴りだろうが、初手から放たれる大技は褒められた手段ではない。

 威力の高い大技は決まれば得られる有利も大きく、防がれてもその防御ごと相手の体勢を崩すことが可能だ。しかし回避や受け流されればその隙は致命的なものになる。

 海人がそれを理解していない訳もなく。

 故に、当然加賀としてはこの大技に警戒せざるを得ない。

 その次に控えているだろう何かを想定して対処しなくてはならないのだ。

 一度距離を置いて仕切りなおすのも構わないが、この大技を捌けば圧倒的な優位を掴むことが出来る。

 わざわざこちらから引く理由はなかった。

 結局は読み合いと技巧のせめぎ合いだ。逃げる必要はない、勝たなくてはならないのだから。

 加賀は覚悟を決めて海人の回し蹴りを受け流す。

 そのまま大技の隙に一撃を決める。その為に彼女はもう一度冷静に状況を確認した。

 海人が仕掛けただろう罠を警戒したのだ。

 そして彼女は気付く。

 海人の手にはナイフが握られていないことに。

 右にも、左にもない。

 ではどこにいったのか。

 一瞬の思考の空白。

 背を向けた理由。初手回し蹴りという選択。それらが繋がり、そして彼女自身悔しくて寝られないとまで言った記憶が脳裏によみがえる。

 それらは一種のトラウマと言えるのかもしえない。

 この場所にいてはいけないという強迫観念が彼女の体を攻撃から退避へと切り替えた。

 そう、海人は回し蹴りの最中背を向けることが目的だったのだ。その動作故に意識は蹴りの軌道に向けられ、背を向けたことで両腕が視界から消える。

 その状態で真上にナイフを投げられれば気付くことは容易ではないだろう。

 ナイフを空高く放り投げ、相手の頭上に落とす。

 海人が前回加賀を打倒した曲芸だ。

 あまりにも印象深いその技はあまりにも鮮明に記憶に残っており、加賀をその場所で縛り付けられれば負けると思い込ませるには十分過ぎた。

 それこそが海人の狙いである。

 隙を晒した海人へ攻撃を仕掛ける寸前での後退という、相反する指示を受けた加賀の体は僅かではあったが混乱して硬直した。

 その隙に海人は姿勢を立て直し、素早く次の攻撃を仕掛ける。

 放たれる海人の鋭い拳に対し、加賀は唇を噛み切るほどの全力を振り絞ってなんとか防ぐことに間に合う。

 渾身の防御だった。

 故に、さらに続く海人の攻撃を捌くことは出来ても。徐々に余裕が失われていくことはどうしようも出来なかった。

 いずれ破綻し、直撃をもらう未来が目に見えている。

 どこかで手を打たなければ追いつめられるだけの袋小路だ。

 しかし海人がどこに狙いを定めてナイフを落とすか分からない以上、足を止めて応戦するのは危険が付きまとう。

 現状海人の攻撃を捌きつつ、徐々に後退してはいるがそれにも限界がある。

 模擬戦場の外側を覆うように囲まれた壁までしか、加賀は後退することが出来ないのだ。

 一瞬でも上を見られればナイフの軌道も読めるのだが、それを目の前のこの男が許す筈もない。加賀がナイフの軌道を確認すれば、その隙を突いて致命的な一撃が差し込まれることは予想するまでもない。

 ナイフの頭上からの落下に加え、詰将棋のように優位を積み上げていく海人の連撃に防戦一方だった。

 加賀は必死に連撃を捌きながら思考を奔らせる。

 自分だったらどうするのか。

 もしも自分が海人の立場で、相手を追い詰め、袋小路へと追い込んでいる最中であるならば何に警戒するのか。

 勝利を確信するのか、否。

 彼はそんな満身に流されるような男ではない。

 常に負ける可能性を模索しながら進むような男だ。

 加賀の起死回生の一撃を警戒しているだろう。

 ナイフは優位を築くための布石だろうか。恐らく違うだろう。

 回し蹴りからのナイフの投擲で優位を築いたのは確かだろうが、ナイフの落下位置を無意味な場所にするのは思えない。

 そんな無駄な一手を打つとは到底思えなかった。

 試合会場をよく観察していた加賀だが、何か仕掛けていないかを疑うあまりそこがどれだけの広さであるかを失念していた。

 海人は恐らく把握しているだろう。

 つまり加賀はいったい壁までどれだけの余裕があるか分からないが、海人は把握していると言うことだ。

 ただでさえ後退する加賀に対して、海人は前進しているのだから視界の優位性は明らかに向こうにある。

 あと何歩で壁にぶつかるのか。

 そしてそもそもあと何手この攻撃を捌き続けられるのか。

 限界は近い。

 加賀は無意識のうちに手を抜いている自覚がある。

 実は加賀は艦娘としての圧倒的な身体能力を制限していた。

 それは人間相手に振るうべきでないという誇りだった。故に彼女は地面を陥没させるような膂力を海人に向けて放ってはいない。

 使えば勝てるだろう。

 それは誇りを捨てることになる。

 が、手段を選んで勝てる相手でもない。

 加賀のなりふり構わぬその覚悟が決まる瞬間が、海人の狙っている瞬間だと断定した。

 相手がそこまで読むと仮定しての、あるいは愚かな選択だ。相手の実力を信じての本来はあり得ない読みだ。

 そこまでしなければ勝てないと本能が訴える。

 加賀は限界まで耐えた。

 己の技術で捌ける限り海人の攻撃をいなし。

 そして壁にぶつかる前にその限界は来た。

 次の攻撃は間違いなく直撃するだろう。

 加賀が本当の全力を出せば、海人の体を完全に破壊する理不尽な艦娘の力を解放すれば反撃は可能だった。

 そこまで追い込んだ海人はこの瞬間に、この絶好の機会にこそ保険の追撃を仕込むと加賀は根拠もなく信じた。

 故に、艦娘としての力を使って。

 地面を蹴った。

 とんでもない勢いで後方に飛び退き、そして背中から壁に激突して肺の空気を吐き出す。

 彼女が見たのは先程まで彼女がいた場所に一本のナイフが落ちる光景と、海人が反撃を予測して後退する姿だった。

 読み勝ち、追いつめられた状況を打開して。

 そして加賀は感嘆した。

 海人の人を超えた先読みと、あまりにも冷静過ぎる対応に。

 勝利を目の前にしても一切の油断も隙も見せない。故に、その実力を信じた加賀が上回ったのは皮肉でしかなかった。

 感情的に読み合いで上回ったとは素直に喜べない。

 それでも、驚愕に染まる彼の顔は観ていて面白いものだった。

 攻めるならば、ここしかない。

 加賀はそこから、前に出る。


 いったいどれ程までに深い思考を重ねればあそこで後ろに跳べるのか。

 幾重にも張り巡らされた罠を全て対応されてしまった。

 四日かけて習得した回し蹴りの途中にナイフを投げて、正確に落とす技。それによって加賀のトラウマを刺激し、彼女の隙を生み出す。

 そこからナイフの行方を確認させないよう連続で責め立てて追いつめる。

 結果徐々に優位を積み重ねていく。

 そこで危険視すべきは地面を陥没させる程の彼女の身体能力だ。

 それを本当の意味で使っていない彼女が、それを使うと決めれば海人が敗北することは疑いようがない。

 では彼女がそれを行使する瞬間とはいつか。

 簡単だ。

 負けそうになる瞬間だろう。

 故に、その場所にナイフを落とした。

 そこまで追い詰め、最後は退いてナイフを当てる。

 そうして勝利する予定だった。

 回し蹴りによるナイフの投擲。そして極限まで練られたナイフの落下位置。それが彼のふたつの札だった。

 これを完全に攻略された今、海人には本当に奥の手しか残ってはいない。

 通用するかは分からないが。

 それを試さなければならない程に海人は追い詰められていた。




 穏やかな波の音に耳を傾けながら、海人は海面に沈む一本の糸を無心で眺めていた。

 近くには誰もいない。

 海人ただ一人である。

 釣りをしてはいるが、釣ろうというつもりはない。何しろ針には餌がついていないのだ。

 肩の力を抜いて心を落ちつけたかっただけなのである。

 先日の模擬戦により疲労した体力を回復させる為。そのような名目で多くの艦娘が気を使い、二人に暇を出した。

 結果、やることがない海人はこうやって暇をつぶしているのだ。

 彼は勝てなかった。

 いや、加賀に及ばないだろうことは彼にも分かっていた。この結果は当然のもので、もちろん全力で手は尽くしたが、それでも何度も掴みとれるほど奇跡は安売りしてはいない。

 故に、彼が気に病んでいるのは模擬戦の結果ではない。

 ちなみに加賀も模擬戦の結果に納得してはいないようだが、海人の知ったことではなかった。彼はもう二度と加賀と模擬戦を行う気はなかったのである。

『やっぱり、奇跡は起こらないんですね』

 寂しげに、そして諦めたように呟いた彼女の言葉が頭から離れない。

 彼女が模擬戦に何を期待し、どんな希望を見出していたのか。それを知っていれば、あるいは模擬戦の結果は変わっていたかもしれない。

 確かに海人は模擬戦で全力を尽くしたが、死力を尽くしてはいなかった。

 もう遅いことではあるが。

 まさか島風が模擬戦にそこまで強い願望を秘めていたとは想定していなかった。

 後悔してもどうしようもない。

 過ぎたことを思いつめるのは意味がない。

 行動しなければ始まらない。

 何も変わらない。

 海人は立ち上がって釣り具を片付け始める。

 島風と天津風に会いに行くのだ。

 希望を求めているのならば。彼女らはきっと今、絶望の淵にいるのだろう。

 恐らく救いを求めている。

 声には出さない悲鳴が、確かに海人の心には届いている。

 ならば手を伸ばしたい。

 絶望の淵から引き上げたいのだ。

 海人は、提督なのだから。

 釣り具を片付け、かつて楽園と呼ばれた場所へともう一度向かう。

 歩きながら海人は模擬戦の結末を思い出していた。




 加賀の思考はこの試合の最後までを見通していた。

 海人が最後まで隠し続けていた切り札。本当の奥の手の姿を、彼女は冷静な分析と繰り返された思考の果てに手にしていたのだ。

 この模擬戦のルールは無駄に複雑だと言える。

 もっと単純でいいのだ。

 そう、彼と初めて戦ったときのようなルールで構わないのである。

 では何故ポイント制等というものを採用したのか。

 それはひとえにそれこそが彼の有利に結びつくからだ。

 必要だからそうした。たったそれだけの単純な理由だろう。

 加賀が行動の自由を奪ってもポイントを得るだけ。海人が行動の自由を奪えば勝利に直結。それは加賀が身体能力的な優位を持っている故の適正なハンデだ。と、一見見える。が、実際はそうではない。

 このルールの重要な点は加賀が勝利に複数手必要なのに対して、海人は一手で勝てるということにある。

 行動の自由を奪うだけではなく、海人には攻撃を複数回当てるだけで勝利できる。という隠れた勝利方法があるのだ。

 行動の自由を奪った場合は仕切り直し。しかし打撃によるポイント取得は試合続行となる。つまり打撃技のみ連続でポイントを入手することが出来るのだ。

 加賀は打撃で得られるポイントは僅かに1ポイントだ。

 十五回当てるか、一度行動の自由を奪っても五回は当てる必要がある。とても一手で行える回数ではない。もう既に1ポイント得ていることを入れても絶望的な数字だ。

 それに対し、海人は二連撃、三連撃で勝利まで届く。

 一手で行うには現実的な数字である。

 そしてその為の連続技を数日かけて集中的に鍛えれば、彼ならばあるいは初見では対応できない連撃を用意することは不可能ではないだろう。

 つまり。

 海人の切り札は初見殺しの連続打撃。確実に決まる、あるいは高確率で決まる二連撃あるいは三連撃だ。

 そこまで看破すれば対応は容易い。

 加賀は勝利を確信し。

 次の瞬間に否定する。

 敗北の記憶が加賀をどこまでも冷静に疑い深くしているのだ。

 まだ負ける可能性がある筈だ。

 限界まで勝利を疑え。

 最後の最後まで敗北の道筋を探し続け、それを潰し続ける。


 それはあまりにも皮肉であった。

 加賀は気付いてしまったのだ。

 これは海人の戦い方に他ならない。

 常に最悪を想定し、負ける可能性を無限に想定し、その全てを潰すことで勝利する。

 そんなある種のマイナス思考の極みにおいて、彼は自分を疑わない。

 自分が勝つと信じる。否、自分が勝つという未来を諦めないと言った方が正しいか。

 誰よりも彼を憎み。

 誰よりも彼を疑い。

 誰よりも彼を恐れ。

 誰よりも彼を見てきた彼女は。

 知らず知らずのうちに彼を学んでいた。

 彼から、知らず知らずのうちに教えてもらっていた。

 その強さのあり方を。

 本当に皮肉である。

 彼からもっとも遠い筈である彼女が、誰よりも彼の言っていたことを愚直に受け継いでいるのだから。

 これはあるいは信頼に他ならない。

 本当に殺す気だったのだ。

 彼はいらないと思っていたのだ。

 しかし、ここまで追い詰められ。

 自分をさらけ出した結果がこれでは、あまりにも疑いようがなく。

 加賀の心は海人を認めてしまっていた。

 故に、彼女は敗北したのだ。

 それを認め、受け入れた瞬間、彼女は海人に負けてしまったのである。


 それでも。

 いや、だからこそ。

 この勝負は是が非でも勝ちたい。

 勝たねばならない。

 踏み込んだ。

 目の前に海人がいる。

 今も尚、負け筋を数え。

 それを一つ一つ潰し、獰猛に切り札を狙う男が目の前にいる。

 超えるのだ。

 ここで彼を倒す。

 でなければ、彼を否定し。認め続けない。そんな自分の心を打ち砕いた彼に、自分は真正面から向き合えないだろう。

 海人が踏み込みからその推進力を腰のひねりで増加させ、肩から拳へ運ぶ。

 驚異的な速度と威力の拳が放たれる。

 ぎりぎり躱せるだろう。

 だからこそ、受けると決めた。

 防御では意味がない。

 5ポイントを投げ捨てる。

 クリーンヒットでなければ、敗北につながらないポイントであれば捨て置く。

 左肩で受ける。

 受けた左肩を全力で突きだす。

 痛みはある。

 強烈な一撃だ。

 堪え、その先を見逃さない。

 拳から返る反動で海人の動きは鈍い。

 想定外だったのだろう。それでも動き出した体はもう止められない。

 本来回避していれば不可視だっただろう彼の肘打ち。しかし加賀にははっきりと見える。

 捌く。

 続いて刹那の後に放たれる膝蹴り。

 捌く。

 連撃と分かっているからこそ出来た芸当だ。

 海人の表情が驚愕に染まる。

 気に入らない。

 加賀は不貞腐れた。

 海人の驚きが信じられないという類のものではなく、そこまで理解されていたか。という諦めにも似た幸福な表情だったからだ。

 腕を取り、重心を奪い。

 固め。

 地に叩きつける。

「か、……加賀さんの10ポイントなのですっ!」

 電の声が響き渡り。

 圧倒的な歓声がその余韻を掻き消した。

 仕切り直しだ。

 まだ勝負は終わってはいない。

 けれど、彼の持ちうる札の全てを打ち砕いた手応えがある。

 これ以上はないだろう。

 それでも、これ以上があるという可能性を模索する。

 その徹底した加賀のある種の献身とも呼べる、一途な海人の強さの模倣は。

 彼本人の勝利の可能性を刈り取った。

 そう、勝利のである。

 このとき、加賀は慢心をしてはいなかった。

 油断もしてはいなかった。

 けれど、それでも彼女はまだ海人を理解しきってはいなかったのである。

 いや、この会場に海人を全て理解しきる艦娘はいなかった。

 何故ならば、この後の展開を誰一人として想像していなかったのだから。

 加賀は海人の仕掛けたポイント制の裏を九割まで読み切った。

 けれど、残りの一割は届かなかった。

 勝利の可能性を奪われた海人は不敵に笑う。

「始め!」

 電の声と同時、加賀は攻める。

 海人は捌く。

 本当に全て用意した札を出し切ったのだろう。

 海人は防戦一方でひたすら加賀の猛攻をいなし続けている。けれど、それもいつまでも続きはしない。

 1ポイント。

 また1ポイントと徐々に奪われていく。

 気付けば加賀の得点は13ポイント。対して海人は10ポイント。

 勝利まであと僅かだ。

 一撃でもクリーンヒットが入れば海人も勝利の目はある。

 そもそも一度でも行動の自由を奪われれば加賀は負けるのだ。

 しかし、正面から正々堂々と。仕込みも何もない状態の海人ではそれすらも難しい。

 加賀はそれほどの相手なのだから。

 何を狙っているのか分からない。

 不透明な相手の目的に背筋が凍る。

 そんな不確かな恐怖で手を緩める加賀ではない。

 緊張の糸が緩んだのか。

 そもそも限界だったのか。

 先程までの余裕は強がりだったのか。

 海人は突然、加賀の攻撃に対して応手を間違えた。

 致命的な隙である。

 見逃しはしない。

 加賀は素早く彼の腕を掴み、流れるように――。

「そこまで!」

 電の叫びが聞こえてから海人の自由を奪い、地に伏せた。

「勝てなかったか……」

 加賀に組み伏せられた海人が呟く。

「ええ、私の勝ちです」

「くくっ」

 海人は笑う。

「それは違うぞ」

 いつかのように海人は笑う。

「そうだろう? 電」

「本当に海人には驚きなのです。秒数まで寸分も狂いなく、試合中ずっと数えていたのですか?」

 二人の会話が理解出来ない。

 加賀は不思議な顔で二人を見ている事しか出来なかった。

 それでも、落ち着いてみると一つの可能性に行きつく。

「……試合時間は十分間」

 そのルールを思い出す。

 この急ごしらえの会場に時間を表示する物なんて用意してはいない。いや、あるいはこの男はそれを用意させないことまで妖精さんに頼んでいた可能性さえある。

 十分間は電の持つストップウォッチが計っていた。

 海人は、最悪全てが通用しない場合も考えて最初から十分間を数えていたのだ。

 恐らく、打撃によるポイントが1ポイントと少ないのも時間稼ぎ出来るように。

 どこまで最悪を想定すれば気が済むのだろうか。

 恐ろしさを超えてもはや呆れの領域である。

「つまり勝敗は――」

「はい、時間切れで引き分けなのですよ」

 複雑なポイントルール。

 それは時間制限に疑いを持たせず。さらに十分間の試合時間を記憶の片隅に追いやる為の仕掛けでもあったということだ。

「ふふっ」

 笑いがこぼれた。

 本当に我慢できず。

 自然と、もうしばらく笑ったことのない彼女が。

 お腹を抱えて上品に笑う。

 組み伏せられながら、それを覗き見た海人は純粋に。

 彼女のことを美しいと。

 そう感じた。


 その様子を悲しい瞳で見ている少女がいる。

 頬を伝い。

 滴が落ちる。

 何を期待していたのだろう。

 目の前で奇跡が起きたからといって、自分にも奇跡が起こる訳ではないのだ。

 けれど、勇気は奮い立ったかもしれない。


 彼女の心は折れていた。




 海人は基本的に後悔する人間ではない。

 しかしこれは流石に己の迂闊さを悔いた。

 加賀との模擬戦を思い出していて、そちらに思考がとらわれていて深く考えてはいなかったのだ。

 自然と歩みは島風と天津風の部屋に向かい。

 そしてノックを忘れて扉を開いた。

 見てはいけなかった。

 見るべきではなかった。

 それが彼女らの着替えであり、怒った彼女らに叩かれ罵倒されるだけならばどれ程良かっただろう。

 赤。

 部屋を染めるのは痛々しい赤一色。

 部屋を汚さないように養生された床に、赤い花が咲き誇る。

 違う。

 鮮血が花のように床を染めているだけだ。

 天津風の華奢な手に握られているのは、赤く染まった包丁だった。

 息を飲む。

 天津風が泣きながら。

 島風をその鋭い刃で傷つけている。

 島風の肌を剥ぎ取って。

 島風の角を削り取る。

 島風の瞳は紅い。

 燃えるような瞳。

 艦娘が負の感情を高ぶらせると瞳が紅く染まることを知識として知っている。

 そして深海棲艦の瞳が、それ以上に真紅に染まっていることも知っている。

 島風の瞳は深海棲艦のそれに近い。

 危うい程に、近い。

 海人の膝をつく音が部屋に響き渡る。

 力が抜け、立っていられなかったのだ。

 その音で島風と天津風が海人に気付く。

 光を失った絶望の紅い瞳と。

 深い悲しみを抱く涙で濡れた双眸が海人を射抜く。

「………………」

 ゆらりと、天津風の体が揺れる。

 一歩進めるたび、包丁の先端から赤い滴が床に花を咲かせた。

 高質化した鱗のような肌。額から生える鋭い角。燃えるような真紅に近い瞳。

 その全てが物語っている。

 島風は深海棲艦化していた。

 それもかなりの末期症状である。

 振り下された包丁を素手で受け止めた。

 振り下したのは他でもない、天津風である。

 指から鮮血が飛び散った。

 痛みが海人を現実に引き戻す。

「やめろ、天津風! 俺はこのことを誰にも言いはしないっ!」

 言葉が届いているのかいないのか。

 悲しみ以外の感情を伴わないある意味無機質な瞳はどこでもない虚空を見ている。

 相手は艦娘だ、力で勝てるとは思えない。

 つまり天津風は全力で包丁を振り下している訳ではないということだ。

 これは防衛本能からくる暴走状態なのだろう。

 島風を守るという悲壮なほどの想いが彼女を突き動かしているのだ。

 命が惜しい訳ではないが、海人にはやり残したことがある。ここで死ぬ訳にはいかない。

 目の前に泣いている艦娘がいるのだ。

 苦しんでいる艦娘がいるのだ。

 提督がどうして手を伸ばしてやれない。

 包丁ごと手首をひねり、天津風からそれを奪う。

 そして投げ捨て。

 抱きしめた。

 強く。

 強く。

「俺が助けてやる」

 心を込めて囁いた。

 天津風の心に届くように。

 その悲しみで凍った心を溶かすように。

「むりよ」

 意外にも、彼女の言葉は冷静だった。

「だってあたしも島風も、もうどうにもならないもの」

「どうしてお前たちは素直に助けてと言えないんだ」

 困ったように海人は笑う。

 出来るだけ、穏やかに。

「手遅れなの。あたしと島風の事は放っておいて。終わりまで、本当の終わりまで、二人で静かにいさせてよ……」

「悪いが、泣いている娘を放っておける性分じゃなくてな。俺がお前たちを放っておくなんてことはあり得ないから諦めろ」

「どうしてよ、貴方には関係ないでしょ?」

 背中を優しく叩く。

 あやすように。

 幼子を扱うように。

「関係あるだろ。……俺はお前たちの提督だ」

 天津風はまだ理性がある。

 彼女を抱きしめながら、その肩越しに島風を見て。

 海人はこの島で一番の恐怖を感じた。

 島風の瞳は酷く紅いものの。

 その奥の感情は無機質で無色透明で。

 まるで機械のようにこちらを見ていた。

 ああ、深海棲艦となることに抗うのに。

 心を殺すことは必要不可欠なのか、と。

 直感的に彼は悟った。




 もう何度も繰り返しているの。

 彼女はそう語った。

 あの日。

 運命の日。

 沢山の艦娘が沈み。

 提督が死んだと告げられた日。

 どうして少なくない艦娘が死ななければならなかったのか。

 その事実は実は深海棲艦化にある。

 あまり知られていない事だが、艦娘は負の感情が一定を超えると瞳が赤くなる。それはこれ以上踏み込めば戻れないと言う合図だ。

 それを超えて感情を発露させると肉体に影響を与える。

 深海棲艦になってしまうのだ。

 故にあの日。

 加賀を始め、時雨や夕立等の知っている艦娘は瞳の赤くなった艦娘を取り押さえ。そして紅くなった手遅れの艦娘の命を奪った。

 天津風により隠され、生き延びた紅い瞳の艦娘が島風なのだ。

 深海棲艦化は不定期に訪れる。

 その度に島風は心を殺し。

 天津風は彼女の肌をそぎ落とし、角を削る。

 深海棲艦化の影響か治癒力が異常に高く、朝起きれば島風の肌は復活しているのだと言う。

 これだけ露出の多い服を着ていてばれなかったのはその為だ。

 不定期な深海棲艦化は期間を狭めているらしい。

「終わりはきっともうすぐそこよ。限界は見えているの。その時は、あたしが終わらせる。あたしも、一緒に終わるの」

 そう締めくくり、血で汚れた島風を抱きしめた。

「お願いよ。誰にも迷惑をかけずに静かに終わるから。それまでの間だけでいい、見逃してほしいの」

「俺が――」

「出て行ってっ!」

 悲痛な叫びが刃のように海人を傷つける。

「お願いだから、二人にしてよ……」

 これ以上踏み込むべきか悩む。

 いや、踏み込むことはもう決まっている。ここで踏み込むべきかどうかだ。

 思考に費やしたのは数瞬。

 海人は素早く意識を切り替えるとなるべく明るい声で言った。

「また来る」

 そうしてその場を離れる。

 海人はそれを見るまで深海棲艦化の事を知らなかった。

 いや、見たことによって思い出したのだ。

 つまり知っている。

 忘れているだけだ。

 思い出さなくてはならない。

 今ほど記憶がないことを悔やんだ瞬間もないだろう。

 彼女たちを救うには過去の記憶が必要だ。

 あまりにも危険すぎるこの情報、誰にも言う訳にはいかない。

「どうするの?」

 真上から聞こえる声。

 部屋を離れ、森を歩く最中の事だ。

 見上げれば樹の枝に足をかけてぶら下がる川内の姿があった。

「……気付かなかった。気配を消すのが上手いな」

「敵意を持たないで海人に気付かれない範囲を私が覚えただけよ。気配消しても接近すれば気付かれるだろうし、海人はやっぱり凄いと思うよ?」

「聞いていたのか?」

「全部ね」

 どうやら川内は海人をつけていたらしい。

 悪気はないのだろう。恐らく、護衛の意味が強い。

「困った奴だ」

「私も出来ればこんなことは知りたくなかった」

 本気の悲しみを帯びた声色だった。

「他言無用で頼む」

「海人の命令なら仕方ないけど、私はもう知ってしまったからね。海人の身を守る為なら手段は選ばないよ?」

 川内はこう言っているのだ。

 誰にも言わない代わりに海人の護衛は続ける。そして天津風や島風が海人に危害を咥えようとして彼が対応できなかった場合、彼女が手を出すと。

 それは殺すという意味まで含まれている筈だ。

「俺が大人しく殺されるように見えるか?」

「確かに見えないわね……」

「俺は提督だからな、艦娘に守ると言われれば実は悪い気はしない」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に川内の頬が赤く染まる。

「だが、俺の腕を信じてぎりぎりまで手を出さないでくれるとありがたい。俺は提督として苦しんでいる艦娘を救わなくちゃいけないんだ」

「そりゃあの二人を助けてくれるならそれに越したことはないんだけど、……流石に今回ばかりは始末するしか手はないと思うよ?」

 冷酷な声で冷酷な言葉を投げる。

 それは事実だろう。

 だが。

「まだ島風は艦娘だ」

「時間の問題じゃない? 彼女は深海棲艦。沈めなくてはいけない敵よ」

「深海棲艦になると決まった訳じゃない」

「海人、島風だけの為にこの島全ての艦娘を危険に晒す気? 事情を知っている私か、加賀か時雨か夕立あたりに頼めば済む話よ」

「殺させはしない」

 海人は頑なに川内の言葉を受け入れない。

 揺るがない。

「信じたいとは思う。けど、リスクが大きすぎるわよ。こればかりは見過ごせない」

「川内」

 降りて来いと視線で促す。

 素直に彼女は海人の目の間に降りてくる。

 彼女の手を握った。

 それを海人は自身の首に持って行く。

「俺は死んでも島風を見捨てはしない。彼女を殺したいなら俺を殺してからにしろ。俺を殺し、島風を殺すか。俺を信じて俺に託すかこの場で選べ」

 泣き笑いのような複雑な表情で川内は呟いた。

「……折角人が悪役を買って出てあげたのに」

「分かっている。楽で安全な道を選びやすくしてくれたんだろう? 悪いが俺はそれを良しとはしない。時間をくれないか?」

「可能性があるのね?」

「俺の記憶に賭けてみたい」

 今度は海人の手を川内が取り、自分の胸に持っていった。

「もともと最初から海人の意思に逆らうつもりは私にはないし、お好きにどうぞ」

「ありがとう。……ところで、当たっているんだが」

 意外に主張の激しい胸が海人の手に当たっている。

 温かく柔らかい。

「馬鹿ね。当てているに決まっているじゃないっ」

 魅力的な笑顔で川内は言う。

 それで強張った肩から力が抜け。

 ようやく海人は自分が緊張していたことに気付いた。

「らしくないな」

 力を抜いて自然体を意識する。

 手は抜かないが無駄な力は入れない。それを常に維持することが良い状態だと海人は認識している。

 確かに状況は深刻だ。

 しかし気張ってどうにかなることでもない。

 まずは己と向き合い、そして落ち着いた天津風、島風と話すことだ。

 解決する手段は己の記憶に眠っていると自分の奥底で確信している。

 問題はどうその記憶を掘り起こすかだ。

「川内、記憶喪失ってどうやって直すんだ?」

「そんなの私が知る訳ないじゃない」

 ごもっともである。

 この島に医者はいない。

 精神科医などいる筈もない。

 自力でどうにかするしかないのだ。

「……記憶を取り戻したいと言ったら協力してくれる奴はいるだろうか?」

「海人それ本気で言ってるの?」

「どういう意味だ?」

「海人が助力を求めて助けない艦娘なんてこの島ではもう少数派もいいところよ?」

 それは純粋な驚きであった。

 恩人を救う為に前向きに。

 ある時からは提督として艦娘の為に愚直に。

 そう盲目的に進んできたが、そこまで艦娘の信頼を勝ち取った自覚はなかった。

「あー、海人って若干鈍感系男子ってやつなの?」

「どうだろうか。人の感情には鈍くないつもりだが」

「そうでしょうけど。自分に向けられる敵意以外の感情には鈍いとか言われない?」

「……記憶がないからなんとも言えないが、確かにそんな事をよく言われていた気がしないでもないな」

「朴念仁。武骨。ぶっきらぼう。多分、海人の為にある言葉よ」

 心の奥底からおかしそうに笑って川内は言いたいだけ言って去ってしまう。

 いなくなったとはいえ、またこちらの与り知らぬ場所で海人を見守っているのだろう。

 海人は再び歩み始める。

 その足取りは幾分先程よりも軽かった。




 島風を救う方法は海人の失ってしまった記憶の中にある可能性が高い。

 これはなんの根拠もないのだが、海人は不思議と確信していた。

 しかし記憶を取り戻す方法が思い浮かばない。

 そもそも彼の知識にある記憶喪失の治療方法は自然治癒が主だった方法だ。他にも催眠療法や薬物を使用した方法もあった筈だが確実なものではないのである。

 この記憶喪失が脳に損傷を負った結果のものであれば取り戻すのは難しいだろう。

 だがその心配はあまりしていない。何故ならば電が発見したと言う海人の外傷に頭部は含まれていないからだ。

 確かに頭部をぶつけて頭の内部を損傷した可能性も否めないが、それならば多少頭に傷や腫れがあっても不思議ではない。

 それさえも見た目にはなかったらしいので、恐らくこの記憶喪失は薬物による人為なものかもしくは精神的なものである可能性が高い。

 となれば、自らの意思で記憶の扉をこじ開けることは不可能ではないだろう。

「……俺自身の心の深いところで思い出すのを拒絶している、そんな感じだろうか」

 となれば心の奥底から思い出すことを望めば良い訳だが。

 海人は既にそれを望んでいる。

 しかし思い出す様子はない。

 ということは、海人の考えが根本的に間違っているか。未だ自分の気付かぬ深層心理が拒絶しているのだろう。

 どちらにせよ、海人が能動的に記憶を取り戻す手段を持っていないことに変わりはない。

 行き詰まりである。

「さて、どうしたものか」

 あまり時間的猶予はないと考えて動いた方が良いだろう。

 実際は島風の限界がどこかなんて分かりはしない。今日かもしれないし、あるいはこのまま一年間持つかもしれない。

 そもそも一年もったとしても、島風と天津風は救われないままだ。

 あのままでは互いにいつか心が擦り切れてしまうだろう。

 海人は答えのない思考を続けながら鎮守府を歩き彷徨っていた。

 誰かに助力を求めようとも、記憶喪失に関して力になれる艦娘に心当たりがない。そもそも島風の深海棲艦化について触れられない以上、あまり詳しい説明も出来ない。

 川内の言うことを信じるならば、求めれば皆は手を貸してくれるのだろう。

 だが取るべき手がそもそもないのでは意味がない。

 目的もなく歩き続けていると、ふと賑やかな喧騒が聞こえてきた。

 どうやら複数の艦娘が一つの机を囲って何かをしているらしい。

 かなりの盛り上がりでそこに近付く海人に誰も気付かなかった。

 机を囲む一人に声を掛けてみる。

「これはなんの騒ぎだ?」

「あ、司令官じゃない」

 雷である。

 彼女の声に反応してその場の全員が海人に注目した。

「海人もやるっぽい?」

 夕立が元気に海人の腕に絡みつきながらそう言う。

「これは強敵がやってきたね」

 響が怪しげに笑い。

「も、もう一度よ!」

 海人を一瞬だけ見た山城がそう強く言い放った。

 机には一枚のコインと二つのコップが置かれている。

 コップは有色で中身が見えないタイプのものだ。

 そして机の脇には大量の菓子類が並べられている。

 この菓子類には見覚えがある。海人が提督になったことにより封じられていた備蓄庫が解放され、その中にあった保存食や雑貨品に混じってあったものだろう。

 それらはきちんと全て在庫を記録し、平等に艦娘に分けた筈である。

「……なるほど、配られた菓子を賭けて遊んでいた訳か」

「だめかい?」

 響が聞く。

 もちろん問題はない。ここにそんなことを禁止するルールはないのである。

「構わない。で、ゲームの内容はどんなものなんだ?」

 単純な好奇心からの言葉である。

「ゲームはシンプルだよ。一人がコップにコインを隠し、シャッフル。もう一人がどちらのコップにコインが入っているか見極めるゲームさ」

 響はそう言ってコインを小指に挟み、右手と左手それぞれにコップを持つ。

 どうやら山城と響の勝負が始まるらしい。

 山城の真剣な瞳が響のコインに集中している。

「現在山城さんの四連敗中。その相手の響は七連勝中だよ」

 後ろから時雨が教えてくれる。

「七連勝? 他の皆も負けたのか?」

「僕、夕立、川内だね。動体視力には自信があったんだけど、どうにも響の方が一枚上手だったみたいで」

「なるほど。……その川内は?」

「負けた直後に『こりゃ挑むだけ時間の無駄かな……』とだけ言い残してどっかに行ってしまったよ」

「へえ……」

 川内の言葉に海人は響の手元への集中を高めた。

 軽く見ていくつもりだったが、その言葉の真意を確かめたくなったのだ。

 響がゆっくりとした動作で机にコップを起き、そして目にもとまらぬ速さでコップを交差させた。

 既に小指にコインはない。

 恐らくどちらかのコップの中だろう。

 それで終わらない。

 素早く幾度も机を走るコップはまるで踊るように交差し続ける。

 それを操る響の手捌きはあまりにも早過ぎて目で追うことは非常に困難だ。

 そして静止する。

 山城の困惑した表情が物語っていた。

 完全に分からないと。

「貴女……、さっきまでは本気じゃなかったのね」

「ごめんよ。海人の前だからね、手加減出来なかった」

 不敵な笑み。

 山城は悩むが答えは出ないと観念して右側のコップを指差す。

「流石は山城さん――」

 そう言って響は選ばれたコップを上げる。

「勘は外れる運命にあるようだね」

 そこにコインはない。

 もちろん反対側のコップを上げればコインが入っていた。

 響の勝利である。

「不幸だわ……」

 海人は純粋に驚いていた。

「凄いな、この位置からじゃ見切れなかった」

 感嘆の声だ。

 褒めたつもりである。

 けれど響はそう受け取らなかった。

「……目の前で見れば見切れるのかい?」

 こう聞かれれば海人も正直に答えるしかない。

 嘘を言う理由もないからだ。

「恐らくな」

 こうして海人と響の一騎打ちが始まった。




 菓子を失って落ち込む山城が立ち上がる。

 海人と席を替わる為だ。

 すれ違いに呟く。

「そう落ち込むな、取り返してやる」

 囁かれて顔を真っ赤に染めた彼女に気付かぬまま、海人は静かに響の対面に座った。

「座ったはいいが、俺の掛け金がないな……」

 海人がそう言いながら苦笑すると、机の上に菓子が置かれる。

 置いたのは時雨だった。

「これでいいかい?」

「いいのか?」

「僕の所有権は全て海人のものだよ?」

 素直に受け入れるのも怖いが、受け取らねば勝負も出来ない。

「助かる」

 礼を言い、響と向き合う。

 いつになく気合の入った様子で彼女は海人を見ていた。

「……私は海人に恨みも敵意もない。むしろ尊敬しているくらいだよ。それでも。いや、だからこそ。こういった勝負で一度戦いたかった」

 どうやら、加賀との模擬戦はいらない闘争心を生み出していたらしい。

「期待に添えるかは分からないが、全力を尽くそう」

 響がコップを両手に持ち、コインを小指に挟んだ。

 海人は集中力を高める。

 これは動体視力及び集中力と器用さ素早さのせめぎ合いだ。

 響の技術が海人の目を欺くか。それとも全てを見極め、看破するか。

 先程の彼女の手捌きを見る限り、響はどうやらかなりの手際のようだ。もしかしたら彼女の趣味がジャグリングや手品の類なのかもしれない。

 しかし、海人の目で見極めきれない程ではないだろう。

 先程の手捌きが手加減されたものだとしたら、際どいところだが。

「ではいくよ」

 響の手が静かにコップを机に置く。

 刹那。

 交差。

 そしてコインは消える。

 まだ見失ってはいない。

 右左と素早くコップが踊り、交差したりしなかったり。音を立てず一瞬コップが浮き、コインそのものがコップの中身を移動したりもしている。

 驚くべき技術だった。

 海人はコインを目で追っていた。が、それと同時に響の手首から二の腕までを注意深く視界の端で捉えている。

 この勝負、単純な技術のみ使われるとは限らないからだ。

 もしかしたら、彼女は海人が勝利不可能になるような手を使ってくるかもしれない。

 なにせそういうことを禁止したルールを設定していないのだ。

 騙される方が悪い。

 海人はそう思っている。

 故に、勝ちたければ騙される余地を作らない。

 それさえも見据え、乗り越えて勝利と言えるのだ。

 響の手が止まる。

 コインの場所は分かっていた。

 海人は見失ってはいなかったのである。

 しかしまだ油断は出来ない。

 響がどちらでしょう。とでも言いたげな表情で見ていた。

 海人は答える。

 その瞬間こそ、彼はもっとも集中力を絞り出していた。

「俺から見て、右のコップだ」

 周囲の息を飲む声が聞こえる。

 響の余裕の表情が勝敗を物語っていた。

 そして素早くコップが持ち上げられる。


 そこに、コインはなかった。


 周囲に落胆の雰囲気が流れる。

 なるほど。

 見事な腕前であった。

 海人は素早く手を伸ばす。

 響よりも早く反対側のコップを掴み押さえ込んだ。

 これを彼女に開けさせるわけにはいかなかったのである。

「どういうつもりだい?」

「響、お前が一番良く理解しているんだろう? 川内に仕掛けたのはこれか、それだけ彼女が手ごわかったということか?」

 海人が不敵に笑う。

 全てお見通しだと言わんばかりに。

 そうして海人はゆっくりとコップを上げる。

 そこにもコインはなかった。

 誰もが息を飲む。

「参った。降参だよ。ご推察の通り、コインはここ」

 響が苦笑しながら自分の服の袖からコインを取り出した。

 彼女は山城相手にはゆっくりとコップを持ち上げて見せた。しかし海人相手には素早く上げていたのである。これが怪しかった。

 海人はコインの行方を見失ってはいなかった。故に、そこにコインがなければ何らかの方法で消したと考えるのが自然だ。

 そしてその消したコインを移動させる前にもう片方のコップを開けば、彼女の仕掛けた手品は機能することはない。

 恐らく彼女はコップを上げる瞬間にコップの淵でコインを弾き、自分の袖に投げ入れたのであろう。

「イカサマを禁止するルールはないからね。けれど見破られたならそれは咎められるべきだ。どうする? 海人の言う通りの罰を受けるよ」

「そんな嬉しそうな顔の奴を罰する気はない。掛け金の菓子を全て返却すればそれでいい」

「甘いんだね?」

「最初から全部返すつもりだったのだろう? これは遊びだからな」

 響は自分が鍛えた腕前を披露したかっただけだろう。

「山城相手にイカサマした様子はなかったし、俺と川内の二人に一度ずつだけか? 川内の『こりゃ挑むだけ時間の無駄かな……』という発言は不正をされて負けたことに気付いても、不正の内容そのものは見抜けなかった故の言葉といったところか」

「それにしても凄いね。一筋縄では勝てないとは思っていたけど、ここまで筒抜けなのは想定外だったよ」

「そりゃ二度目ともなれば……」

 二度目。

 海人はこれをどこかで見ている。

 思い出せない。

 いや、思い出せ。これは過去の記憶だ。

 頭痛が思考を妨害する。

 張り裂けそうな痛みの中、必死に意識を繋ぎ留め。荒い呼吸で海人は問う。

「その手品、どこで覚えた?」

「……どうしたんだい? 凄く苦しそうだけど」

 心配そうな響の言葉を振り払う。

「答えてくれ」

「前に他の鎮守府に少しだけ世話になった事があって、そこの手癖の悪い司令官に教わったんだよ」

 海人の深刻な表情に、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか響はそう答えた。

「その提督の名前は?」

 頭痛の痛みは増すばかりだ。

「確か、……金田提督だったかな?」

 膨大な感情と映像の奔流に飲み込まれ、海人は意識を手放した。

「え?」

「海人っ!」

「大変っぽい!」

 艦娘の悲鳴に似た叫びが遠くに。

 暗転した世界は何も映さない。

 けれど確かに取り戻した実感がある。

 海人は、記憶の欠片を掴みとっていた。




「起きてください、もう朝ですよ?」

 優しい声色と共に体を揺すられる。

 どうやら寝てしまっていたらしい。

 海人は意識を浮上させて目を覚ました。

 そこは見慣れた執務室である。大量の書類を枕に机で寝落ちしていたようで、慌てて書類に涎が垂れていないか確認する。

 書類が無事であることを確かめてから、また性懲りもなく深夜まで仕事をして気絶したのだと己を恥じた。

「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」

「ああ、平気だ。心配かけてすまない」

 苦笑いしながら彼女にそう答える。

 秘書艦である榛名に。

「昨晩もかなり夜遅くまで続けていたのですね? 榛名に言って下さればお手伝いしたのですが……」

「いや、普段から榛名には世話を焼かせているからな。そんなに無理はさせられない」

「榛名は大丈夫です! 無理じゃありません。……むしろお世話させて下さい。提督は頑張りすぎですっ!」

「そうだろうか?」

 この横須賀鎮守府の提督を任されてからというもの、海人は艦娘と打ち解け。彼女らを育て。執務に取り組み。海域を攻略し。走り続けてきた。

 振り返る余裕はなかった為、自分が頑張っているという自覚が薄い。

 あるいは感覚がマヒしているのだろう。

「安全な場所で偉そうに命令する身分だからな、ここに所属する艦娘を誰一人沈めさせない為の努力ならそれはもはや努力ではないよ。当然の義務だ」

「提督は素敵です」

「お世辞でも嬉しいよ。……さて、今日も朝から演習だ。旗艦は榛名に任せたいと思う。頼めるか?」

「もちろんです!」

 元気に答え、榛名は握り拳を作る。

 彼女が横須賀鎮守府に所属したのは海人の直後であった。その頃から気が合い、秘書艦となってからはずっと一緒に支え合ってきた。

 直別な感情がない訳ではない。

 いや、海人は立場上公にしていないだけで榛名へ心を奪われている。

 それを尋常ではない意志力で押さえ込んでいるのだ。

 故に誰も気付かない。

 これは墓まで持っていくつもりであった。

 なにより、明かしてしまっては彼女に迷惑がかかるだろうことは想像に難くない。


 起こさなくてはならないと理解していても、榛名はそれをすぐには実行することが出来なかった。

 普段は隠している想い。

 それを悟られない為に、普段から尋常ではない意志力で己を偽っている。

 しかしそれもふとした油断から表に出ることがある。例えば、お酒に溺れた夜とか。目の前で愛しい人が寝ている二人きりの部屋でとか。

 海人は熟睡している。

 きっと夜遅くまで執務を続けていたのだろう。

 榛名が手伝うと申し出ても笑って休んでくれと断られるのが見えている。

 そんな愚直なまでに真面目で努力家な彼が好きだった。

 恋をしていた。

 だから彼を起こすまでの僅かな時間、寝起きの可愛い顔を眺めることはきっと許されるのだろう。

 そう言い訳をして自分の隠した欲求を僅かでも満たす。

 本当は打ち明けたい。

 受け入れてほしい。

 けれど彼女は兵器で彼は人間なのだ。

 彼の迷惑になる行為はしたくない。負担にはなりたくはないのだ。

 だからこのままでいい。

 この距離のままでいい。


 海人は頭を抱えて眉間に皺を寄せている。

 原因は一枚の書類であった。

 そこには大本宮からの重要な指令が書かれている。

 ケッコンカッコカリシステム。そう名付けられた新兵器の導入についてであった。

 練度を極限まで上げ、提督と深い絆で結ばれた艦娘は白銀の指輪によって新たな領域へと踏み込むことが出来る。

 純粋な戦力強化だ。

 これは喜ばしい。

 問題は【ケッコンカッコカリ】という名前だ。

 上層部は何を考えているのか。

 艦娘とはいえ、相手は年頃の女性である。軍務とはいえ、こんなバカみたいな名前の兵器を素直に受け入れてくれるとは思えない。

 そんな海人の考えは簡単に打ち砕かれる。

 書類と睨めっこしていたところ、偶然報告にやってきた瑞鶴に聞いてみたのだ。

「このケッコンカッコカリというシステム、どう思う?」

「なにそれ?」

 首を傾げる彼女に書類を渡して見せる。

 海人がやっぱり嫌だろう? と聞くよりも早く、彼女は答えた。

「私と提督さんが? それなら嬉しいけど」

 あまりにもあっさりと、彼女は言い放ったのだ。

「……嫌じゃないのか?」

「まさか、純粋な戦力向上でしょ? それとも提督さんは特別な感情でもあるの?」

「そ、そんなものか。い、いや。深読みはしなくていい、特別な感情はない」

「なーんだ、残念」

 そう言って瑞鶴は書類を海人に返す。

 残念という言葉の深い意味を考えず、海人は考えを改めた。

「なるほど。これなら気軽に練度が高い艦娘全てに実施するか」

「刺されたいの?」

「!?」

 穏やかじゃない言葉に息を飲む。

「ど、どういう意味だ?」

「いや、さっきは私個人の意見なの。瑞鶴はそう思っていても、他の艦娘はそう思わないと思うよ? 例えば金剛型とか、不知火も意外と気にするかなー、他にも叢雲、翔鶴姉も気にすると思うし、瑞鳳さんとか……。全員実施するにしてもちゃんと説明しないといけないし、それでも最初に渡す相手は真剣に選んだ方がいいと思う。貰った相手は絶対に特別な意味として受け止めるだろうし」

「……いやいや、そんなまさか。俺から渡された戦力向上の装備以上の意味なんて受け取らないだろ?」

「本気でそう思っているなら包丁の一つや二つ覚悟した方がいいんじゃない?」

 冗談の欠片もない真面目な声色であった。

「こ、……これ真面目に考えた方がいいのか?」

「当然じゃない。その……、提督さんはいないの? ここまで女性に囲まれてて気になる娘とか」

「意識しないように努めていたからな、俺は軍人であり艦娘の上官だ」

 嘘である。

 一人だけ感情を殺しきれない相手がいた。

 隠しているだけで、消えてくれない強い想い。

 厄介な気持ちだった。

 瑞鶴は言いたいだけ言い残すと執務室を去る。

 相談して正解だったが、状況は改善していない。海人は再び頭を抱えて眉間に皺を寄せた。




 二つの影が素早く交差する。

 幾度も混じりあい、素早く絡み合う。

 拳が放たれれば受け流し、返しの蹴りが放たれる。それも受け止められ、足を掴もうとした手がさらなる手で振り払われる。

 一人は海人だ。

 この横須賀鎮守府の提督である。

 もう一人はそこに所属する艦娘であった。

 彼女の表情は険しい。

 理由は簡単である。組手の相手が自分より上手で、このままでは結果が見えていたからだ。

 艦娘としての圧倒的な膂力を用いれば勝てるだろうが、それは勝利とは言えない。

 それではこうして組み手をしている意味がないのである。

 そして今日も全ての仕掛けをいなされ、その上をいかれた。

 足を払われ、無様に尻餅をつく。

 実戦ならば間違いなく命はないだろう死に体を晒している。

「負けですか、……今日も手も足も出ませんでした」

「いやいや、相当危ういところまで追い詰められた。流石は不知火だ」

「お世辞は良いですから、もう一本お願いします」

 相変わらずの無表情で続きを求められる。

 これは日課であった。

 海人は榛名の提案でいささか反抗的というか、我の強い不知火と模擬戦を行ったことがある。

 それに奇跡的に勝ってしまってからというもの、不知火は素直に命令を聞くようになり、反抗的な態度は一切なくなったのだが。その代わりに毎朝徒手空拳による組手を申し込まれているのだ。

 単純な技術で言えば海人は不知火よりも遥かに高い水準にある。つまりこれは競うと言うよりも指導する稽古の形に近い。

 やり始めた頃は近接戦力向上の為に参加する艦娘もいたが、不知火と海人のハイレベルかつ早朝の組手とは思えないハードな内容に誰もついて行けなくなり、気付けば組手には二人しか残らなくなっていた。

 艦娘達の間では不知火が海人と二人の時間を確保する為に、意図的にハードな内容にしていたとまことしやかに囁かれていることをこの二人は知らない。

「すまん。今日はこの後に用事があるんだ」

「用事ですか?」

「ああ、金剛にたまにはティータイムでもどうですか? と誘われたんだよ」

「不知火との訓練よりも大事なことですかそれは?」

 無表情だが心なしか責められている気がする。

 居心地が悪い。

「確かに司令からしたら、不知火の実力不足でためにならない時間かもしれませんが……」

「そんなことはない。この鎮守府で不知火の近接戦闘技術は随一じゃないか、それは誰もが認めているところだろう」

「しかし、司令には勝てません」

「俺にはそれくらいしかないからな」

 不知火の眉間に皺が寄る。

「嫌味ですか? 司令は超長距離狙撃。剣術などもかなりの腕前と聞いていますが」

「全部深海棲艦相手には意味のないことだ。俺は艦娘ではないからな」

「純粋な人間でそこまで強くなれるのならば、私たち艦娘は怠惰も良いところですね。……いえ、まだまだ努力が足りないと思っただけです。他意はありません」

 どう考えても他意はあるだろうがそこを突くほど海人は野暮でも馬鹿でもない。

「悪いが約束の時間が迫っている。今日はここまでにして、また明日頼む」

「……引き留めて申し訳ありませんでした。また明日お願いします」

 汗をかいてこれからシャワーでも浴びようと考えていた不知火に対して、海人は汗をかいた様子がない。組手中息を切らせていなかったのを覚えている。

 彼は無駄な動きを極力行わないことで体力を温存し、相手の力を利用して戦っていたのだ。

 それは彼らしい戦い方とは言えない。

 つまり、不知火と海人の間にはそれを行えるだけの実力差があると言うことだ。

「……遠い、ですね」

 不知火の呟きは虚空に消える。

 海人は既にその場から離れていた。




「ヘイッ! 提督ぅーっ、バァァァァn」

 飛び掛かる金剛の額にデコピンを一発。

「~~~~っ、い、痛いデース!」

 額を押さえてしゃがみ込む金剛に、海人は苦笑しながら言う。

「飛び掛かるのも抱きつくのも禁止だと前から言っているだろう。投げられないだけマシだと思え」

「酷いデース! 提督は私の事嫌いなのデスカー?」

「そういう問題じゃない。いきなり上官に飛び掛かるのはやめろと言っているんだ。別にお前が憎くて言っている訳じゃない」

「それならクソ提督とか言う方がよっぽど問題じゃないデース?」

「駆逐艦を引き合いに出すな。お前は話して分かる相手だと思っているから言っているんだ」

 言葉は厳しいものの、それはそれが彼の役割だと理解しているからだ。

 心の奥底からそう思って言っている訳ではない。

 その証拠に口では厳しい言葉を投げかけていても、座り込む金剛の頭を優しく撫でてからいつもの椅子に向かう。

「提督は厳しいけど優しいから大好きデース」

「そういえば妹たちはどうしたんだ?」

 机に用意されたのはいつもより少なめのスコーンと二人分のティーカップ。そして部屋にはいつも一緒にいる比叡、榛名、霧島の姿が見当たらない。

「今日は提督と二人だけでティータイムデスヨ?」

「珍しいな、お前は俺に好意を隠さない癖に二人きりになるのは恥ずかしがっていたじゃないか」

 顔を真っ赤にした金剛は答えられずに黙って対面に座る。

「二人きりで、話したかったデース。榛名には悪いと思いマース。けれど、ここがラストチャンスだと思うヨー!」

 元気な声だが、不思議と海人にはそれが寂しげな声色に聞こえた。

 まるでこれから悲しいことがあると分かっているかのような。

「私、指輪欲しいデース……」

「指輪?」

「ケッコンデース」

「……なるほど」

 そこまで言われて海人は金剛の言いたいことが分かった。

 彼女はケッコンカッコカリを直談判しにきたのである。

「違いマース。提督は思い違いをしているデスネー」

「思い違い?」

「私はケッコンカッコカリなんてどうでもいいデスヨー。もちろん提督からバーニングなアプローチでプロポーズされるのは悪くないデスガ……。私が欲しいのは本物の婚約指輪デース」

 想定外すぎて海人は思考が停止した。

 いや、確かに普段から金剛は熱烈な好意を示してくれている。

 ストレートすぎて冗談かと思う程に。

 彼女から慕われている自覚はあったが、その想いの強さが正直彼の想定を遙彼方まで超えていたのだ。

「提督……、いや……」


「  さん」


 名前を呼ばれた。

 そう、そうだ。

 海人とは電に付けられた名前で。

 本当の名前は。


 暗転。


 激しい頭痛に苛まれる。

 記憶の欠片が抽象的な映像と情報を彼の脳に叩きつける。

 それは情報の暴力であった。

 それでも、島風を救う可能性を掴みとらなくてはならない。

 意識を手繰るようになんとか情報をかき集める。

 尋常ではない重労働だが、それを驚異的な意志の力で行う。

 そう、ケッコンカッコカリシステムはもともととある計画の副次的に生まれたものだ。

 そのシステムそのものが、ある研究を完遂させるための資料集めの一環に過ぎない。

 艦娘とは人間にナノマシン手術を施した言わば強化人間だ。

 ナノマシン手術に成功した者は人間離れした能力を得る。さらに艤装と呼ばれる強力な兵器を運用出来るようになるのだ。

 それでも尚、一部の深海棲艦には及ばない。

 艦隊を組んで練度を高めた艦娘でさえ倒せないこともある。

 ではどうすればいいのか。

 選択肢はいくつかある。

 その一つに、深海棲艦ならば深海棲艦を倒せるだろうという倒錯したものがあった。

 強力な深海棲艦を人類の手中に収めればそれは心強い力となる。そんな恐ろしい考えが、まさか実現の為に実際に進められているとは誰も思わないだろう。

 海人も、目にするまでは想像もしていなかった。

 漆黒の指輪はケッコンカッコカリシステムの先にある物。

 もともと目指していた深海棲艦の力を得ると言う禁忌の研究による産物だ。

 その研究の過程で艦娘と深海棲艦の謎について多くの秘密が明かされることとなった。

 それを辿る。

 記憶のどこかに眠っている筈なのだ。

 島風を、深海棲艦化した艦娘を助ける方法が。

 深く、深く。

 記憶の欠片を手探りで探していく。

 見つけた。

 見つけて、気付いた。

 何故自分はそれを知っているのだ。

 その研究に関わっていないと到底知りえないだろう知識の数々。

 漆黒の指輪。

 胸の痛み。

 漆黒の指輪をつけた、榛名。

 愛しい榛名。

 記憶の彼女は、何故泣いているのだ。

 海人は、過去の自分に恐怖した。

 あるいは自分は許されざる者なのではないのだろうか。

 罪深い人物かもしれない。

 どうして自分は記憶を失ったのだ。

 何故、傍に榛名がいないのだ。

 疑問が尽きないまま、恐怖に震えたまま。

 海人の意識は浮上する。




「おはようございます。やっと目覚めたのです」

 穏やかな声で電が言う。

 温かい布団に綺麗な部屋。

 どうやら、海人は長い夢を見ていたらしい。

 手が、震えている。

 寒さではない。

 恐怖で。

「……自分に記憶がないことに、今初めて恐怖を感じたよ」

「突然何を言うのですか、それが普通なのですよ」

 優しい声色に包まれて少しだけ震えが収まった。

「そうか、普通か……」

 海人は瞳を閉じて、もう一度己が何者であるかを確認する。

 命の恩人である電と川内を救い。

 笑わせ。

 この島の提督として全ての艦娘の心の闇を照らす者だ。

 それ以外の何者でもない。

 例え自分が過去に何をしていようともだ。

 この感情と誓いは揺るがなかった。

「しかし困った」

「どうしたのですか?」

 電の問いには答えずに海人は思考を続ける。

 島風を救う方法は思い出した。

 これならば深海棲艦化を確実に押さえられるだろう。

 まだあの浸食率ならば十分に間に合う。

 しかし、重要な物がなかった。

 いや、ないと決めつけるのはまだ早いだろう。

 ここはもともと鎮守府だったのだから。

 海人はさらに考える。そして思い出した。

 葛木提督はこう言っていた。

 ケッコン艦は加賀だと。

 確かにある。

 それはこの島にあるのだ。

 複数あるかは分からないが。

 一度使用した指輪を他の艦娘に流用できる可能性がないこともないだろうが、あまり期待出来るとは言い難い。

 やはり必要なのは未使用のケッコン指輪だ。

「電はケッコンカッコカリシステムって知っているか?」

「本当に今日は突然ですね。……もちろん知っているのですよ?」

「ケッコン指輪ってこの島にあるのか?」

「……えーっと、加賀さんなら持っていると思いますが」

「それは知っている。未使用の物だ」

 電は深く考え込む。

「聞いたことがないのですよ。ただないとも言い切れませんし、電としてはあるかもしれないし、ないかもしれないとしか言えないのです。そしてもしあるとしてもそれを知っているのは多分もう亡くなってしまった提督だけなのです」

 つまり、もう一度会わなくてはならないということだろう。

 顎を蹴った手前会いにくいことこの上ないが、島風を救う可能性がそこにしかないのならば考えるまでもない。

 海人はもう一度、地下の牢獄に顔を出すことに決めた。




 地下の提督に出会うには手順を踏む必要がある。

 加賀に何も言わぬままでは彼女がどんな行動に出るか想像できないからだ。

 しかし海人は彼女の居場所を知らない。

 今まで積極的に彼女を探そうとは思わなかったし、それどころかむしろ彼女と出会わないように気を付けていた。

 故に加賀がどこにいるか分からなくて困ったことは一度もない。

 しかし彼女にも自室はある筈だ。

 海人の体調を心配していた電を置いてきて一人で廊下を歩いている訳だが、彼にはある確信があった。

「川内、いるんだろ?」

「はいはーい、川内ですよー」

 問いかけに自然と返ってくる声。それは間違いなく川内のものであった。

 彼女はずっと海人をつけていたのである。

 護衛なのだろうが、頼んだ覚えはない。

「……いつも俺を見張っているのか?」

 海人は頭上を見上げて苦笑しながら言う。

 そこでは天井の板を一枚捲った淵に足を掛けた川内が、逆さまにぶら下がりながらこちらを見下ろしていた。

「だって海人危なっかしいし、また加賀さんに監禁されても困るしね。おかげで海人の生活習慣に合わせなくちゃいけなくて、すっかり健康的な生活になっちゃったよ」

 どうやら川内の夜更かし癖の強制には役立っているらしい。

「一つ聞きたいんだが、加賀の自室を知っているか?」

「ええー、加賀さんに会いに行くの?」

「秘書艦に会いに行くんだ。何か問題でも?」

「いやー、まぁ海人だし説得するだけ無駄なんだろうけど。危なくない?」

 諦めたような雰囲気でそれでも川内は言う。それだけ海人の身を案じているのだろうが、それでも海人は止まるつもりはない。

「お前が守ってくれるのだろう?」

「そう返されると弱いなー。分かった。分かりましたよ。案内するからついてきて」

 川内は器用に体を一回転させ、着地する。

 まるで猫のような身のこなしだ。

「ありがとう」

「くれぐれも加賀さんを刺激するようなことはしないでよね?」

「悪いがそれは保証できない」

「……あー、やだやだ。何もなければ見捨てるだけなのに、――れた弱みってやつよね」

「何の弱みだって?」

「なんでもありませーん」

 川内は歩きはじめる。

 その先に加賀の自室があるのだろう。

 海人はそれについて行く。

 何事もなく済めば良いのだが。




 川内に案内されたのは廊下の突き当たり、周囲に部屋のない孤立した部屋だった。

 そこはまるで人を拒絶しているかのような雰囲気さえも感じられる。

 海人はゆっくりとした動作で扉をノックした。

「加賀いるか?」

 待つ。

 待って数秒。返答はない。

「留守か?」

「みたいだね」

 時刻は夕暮れ、食事かもしくは入浴中かもしれない。

 この鎮守府が妖精さんによって改築されてからは艦娘の為にかなり充実した設備が整えられた。

 故に就寝まで時間を潰す場所は不自由しないだろう。

 加賀の趣味が何かを知らぬ以上、どこで時間を潰しているかを予測するのは難しい。

 海人は秘書艦である加賀の事を良く知らないことに今更ながら気付いた。

「川内は加賀の趣味とか知っているか?」

「……ごめん、知らない」

「いや、謝らなくていい。俺も全然知らないからな。しかし困ったな、ここで待つ訳にもいかないし、明日にするか」

 川内が真剣な顔で海人の肩を掴んだ。

「どうした?」

「……海人、加賀さんはどこにいると思う?」

「いや、それが分からないから困っているんだろ」

「あら海人が気付かないとは珍しい。なら質問を変えるね。……加賀さんの居場所を知っているのは誰?」

「……おい、まさか」

 海人は一つの可能性に行きつく。

「いや、前からおかしいとは思っていたのよね」

「川内お前は加賀が鎮守府にいないと言いたいんだな?」

 ご明察。そう言いながら川内はウインク一つ。

「長い付き合いだけど私は加賀さんの居場所を知らない。でも他の艦娘も知らない。部屋にもいない。なら考えられるのは……」

「地下か」

 加賀は頻繁に地下に行っているのだ。

 それならば加賀の姿を鎮守府で見ることがなく、誰も彼女の居場所を知らないという理由にも納得がいくだろう。

 海人が依然加賀に出会わないように気を付けていたとはいえ、あれだけ自由に動き回って彼女の気配すら掴まなかったのも道理だ。

 だが疑問は残る。

 地下の提督は加賀と頻繁に会っている様子ではなかった。最低限定期的に訪れるだけだろう。

 食事の時間にやってきてトイレ用のバケツの水を補充。それと松明の油の補充。それくらいしか用がない筈だ。

 長時間必要な用事ではない。

 では加賀は長時間地下で何をしているのか。

「おいおいおい、まさか……」

 海人はとある可能性に辿り着いた。

 それは想定としては最悪と言えるだろう。

 しかし。

「世の中都合の悪い想定ほどよく当たるものだ」

 彼の信条にて口癖であるそれを口にする。

「地下に何かあるんだね?」

 確信を持った声で川内は聞く。

 確かにここの地下には全てをひっくり返すほどの巨大な秘密が眠っている。

 この島の艦娘の心が壊れた原因、死んだ筈の提督が生きているのだから。

 しかしそれを公開する気は海人にはなかった。

 それが彼女たちの為だと判断したからだ。

 そして川内の推測と海人の推測は方向性が全く違っている。

 川内は加賀が地下に眠る秘密の為に頻繁に姿を消していると思っている。そしてそれが前回の海人の監禁に繋がっているとも。

 海人は違う。

 彼はそれよりも遥かに最悪の想定を持っていた。

 本当はもっと早く気付くべきだったのだ。

 提督の監禁されていた牢獄が迷宮の道中であることを。

 そこが最深部でない理由を考えれば簡単に気付いた筈だ。

 海人も僅かながら動揺していたのだろう。

 後悔しても仕方がない。

「とにかく、地下に行く気はない。今日は諦めて部屋に戻る」

「……海人が言うなら従うけど」

 どこか腑に落ちない表情で川内は大人しく引き下がった。




 加賀はいつも通り無表情なまま、静かにそれでいて手早く仕事をこなしていく。

 彼女は仕事が終わればまた地下に向かうのだろう。

 いったいその細腕にどれだけの秘密を抱えているのだろうか。

 どれ程の重圧を背負って歩んでいるのだろうか。

 海人にはもう強がりながら、足を引きずりながら必死に耐えて進んでいるようにしか見えない。

 それは言葉に出来ない程に痛ましい姿だった。

「加賀、突然だが一つ聞きたいことがある」

「なんでしょうか?」

「ケッコン指輪、持っているか?」

 部屋の空気が一気に氷点下まで下がったような気がした。

「不愉快なことを聞きますね?」

「必要なことだからな」

「必要と申しますと?」

「島風を救うのに、だ」

 加賀は複雑な表情でたっぷりと十数秒沈黙した。

 表情からは思考が読めない。

「……答えは否です。私はもう処分してしまいましたから」

「だろうな」

「しかし未使用の物に心当たりはあります」

「本当かっ!?」

 想定外の収穫に海人は珍しく喜びの感情を隠せなかった。

「ええ。この島が襲撃される直前あたりに、彼は私の次のケッコンカッコカリの準備をしていたので、恐らく指輪は大本宮より送られていた筈です」

「それはどこにある?」

「彼しか知りません」

 加賀の言う彼とは海人の事ではないだろう。

 この島にいる男は海人を除けば一人しかいない。

「死んだ提督か」

「ええ」

 短く、肯定する。

「教えてくれ、加賀。お前は何を抱えて、どうしてこんな回りくどい事をする?」

「さぁ……。それは貴方が自ら辿り着くべき答えでは?」

「本当はもう九割ほど見当がついていると言ったら?」

「もしも本当にそうなら、尚更貴方は指輪を手に入れるしかないのではありませんか?」

「違いない」

 海人は苦笑した。

 誰が聞いているか分からない故に、二人は確信に触れずに言葉を投げ合う。

「一つだけ言っておきたいことがある」

「なんでしょう」

「お前がどれだけ嫌おうとも、俺はお前を救うぞ」

 加賀は目を見開いて海人を見詰めている。

「底抜けのお人好しですね。こちらは貴方を殺そうとしているのに」

「本当に殺したければもう既に死んでいる」

「まさか、川内や電や山城、その他もろもろの護衛を掻き分けて暗殺しろと? 貴方が思う以上に貴方の守りは万全ですよ」

 加賀は嘲笑するように言い捨て、執務室を後にする。

 彼女は本日分の仕事を終わらせたのだろう。

 優秀だ。


 廊下で一人、加賀は呟く。

「私が貴方を嫌う? 節穴も良いところです」


 彼女のいなくなった部屋で海人は一人呟く。

「……加賀、お前が嫌っているのは、お前自身だよ。自分を許せないお前を、俺が許してやるんだ」




第三章 尊き誓い




 加賀の監視のもと、海人は地下の牢獄に来ていた。

「気分はどうだ?」

「最悪だよ。どこかの誰かさんが顎を打ち抜いてくれたからね」

 かつて提督であった男は不機嫌を隠さずに言う。

「まさか君が加賀さんと繋がっていたとはね」

「それは勘違いだ。別に俺は加賀と繋がってなんていない。俺はこの島の艦娘全ての味方だ」

 葛木提督はどうやら海人を良く思ってはいないらしい。

 別れ際にしたことを思えば当然だろうが。

「今日は頼みがあってやってきた」

「頼みかい?」

 何かを頼めるような関係ではないと思うが、だからといって試すことまでも放棄することはないだろう。だめでもともとの精神で海人はやってきていた。

「ケッコンカッコカリの指輪の場所を教えてほしい」

「……あれが必要なのかい? 君に?」

「そうだ」

 葛木は黙って考え込むと眉間に皺を寄せた。

「戦力強化や燃費の向上が目的とは思えない」

「そりゃそうだ」

 海人は素直に認める。

「だとすればあの指輪に意味なんて……。いや、まさか」

 葛木の表情がかなり険しいものとなる。

「まさか君はあの指輪がなんなのか知っているのか?」

「……その様子だとそっちも承知済みか」

 二人の会話に黙って耳を傾けていた加賀も、この二人の奇妙なやり取りについ口を挟んでしまう。

「どういう意味ですか?」

「ケッコンカッコカリシステムはただの戦力強化なんかじゃないってことだ」

 海人は迷わず即答する。

 初めから加賀にはある程度話すつもりではあったのだ。

「いや、確かにケッコンカッコカリシステムはただ純粋に戦力を求めて生まれた副産物だが、その着想は全然違うところからきている」

 葛木が黙ったまま、何故そこまで知っているという疑惑の視線で海人を見ていた。

 加賀は黙って海人の言葉の続きを促している。

「艦娘の深海棲艦化とそれの制御方法、深海棲艦の力を手に入れた艦娘を意のままに操る研究の副産物として生まれた未完成品、それがケッコンカッコカリシステムだ」

 加賀の目が見開かれる。

 そして葛木も驚きから息を飲んでいた。

 両者の驚きは正反対のものである。

 信じられないという驚愕と、それをどこで知ったという疑問だ。

「何故それを知っている? 君は何者なんだ?」

「それは俺が知りたいくらいだ」

「その話、嘘では……」

 加賀の声は震えていた。

「嘘じゃない。誓う神なぞおらんが、誓って嘘じゃない」

 海人の記憶が間違いでなければという条件は付くが。彼は嘘偽りなく真実を語っている。

「指輪一つで艦娘の性能上限が極端に上がる訳がないだろう。あれはもともと艦娘が持っている性能だ。深海棲艦化することによって引き上げられた性能だ。深海棲艦化による外部的影響と、精神的影響を抑える役割をしているのがケッコン指輪で、ケッコンカッコカリシステムの正体なんだよ」

 驚愕の連続に思考が停止しかける。

 しかし加賀にとって聞き捨てならない情報がそこに混じっていた。

 彼女は抑えきれぬ興奮をそのままに、震える声で呟く。

「ケッコン指輪は深海棲艦化を抑えることが、……出来る?」

「いや、完璧ではない。完全に抑えられるなら、未完成品なんて言葉を使いはしない」

 その続きは葛木が引き継いだ。

「ケッコンカッコカリシステムは非常に浅い深海棲艦化までしか抑えることは出来ないんだよ。深海棲艦を制御するなんて出来ないし、深海棲艦化といってもその力を最大値二割程度までしか引き出すことは出来ない。それ以上は暴走してしまうからね」

 加賀に冷酷な事実を叩きつけるように。

 あえて絶望を見せるように葛木は言った。

 加賀の心が急速に冷めていく。

 温度を失っていく。

 それを見逃す海人ではない。

「そいつは浅慮ってもんじゃないのか?」

 笑う。

 葛木の思い違いを笑い飛ばしてやる。

「俺が知っている情報がこの程度だと思って油断しすぎだろう」

 加賀の絶望すらも吹き飛ばす底ぬけた笑い声が地下に鳴り響く。

「……何がそんなにおかしいんだい?」

「確かにケッコンカッコカリシステムは未完成だ。副産物だからな。では本筋の研究はどうなったのか」

「君はどこまで知って――」

「いや俺も自分が気味悪い。どうして軍の機密の中の機密を俺が知っているのやら。研究に携わっていたとしか思えないんだが、どうにもまだ記憶があやふやでな」

 苦笑して海人は加賀に微笑む。

「安心しろ。加賀、お前の希望はまだ捨てなくていい」

「貴方、もしかして全てを知って……っ」

「いやそれは違う。俺は今持っている情報から推測して話しているだけだ。ただお前の不自然な行動と態度を逆算すればそう難しい謎でもなかったが」

 海人は不敵な態度を崩さず、堂々とした姿で葛木を真正面から迎え撃つ。

「俺の記憶が少しは戻ってきたのもあるが、この意味不明な島もようやく色々見えてきた。一番意味不明なのは加賀だったが、それもこれで大方見当がついた。となれば、俺がお前を味方と認識するのは難しいな」

「……指輪が欲しいんじゃないのかい?」

「どうせ素直に渡しはしないだろ?」

「取引だ」

「だろうな」

 ここまでは想定済みだ。

「僕をここから出してほしい」

「そいつは難しい話だな」

「許しません」

 背後で加賀が鋭い殺気と共に弓を構えていた。

 海人もろとも葛木を殺す気なのだろう。

「僕が死ねば君の願いは一生叶わないよ?」

「黙っていろ。お前なんぞいなくても俺がなんとかする」

 背後の加賀の心を守るように強い言葉で海人は宣言した。

 弓を持つ加賀の手が震える。

 それは心の震えだ。

 抑えきれぬ、彼女の叫びだ。

「弓を向けられようが、寝込みをナイフで襲撃されようが。どんな罵倒で詰られようが、悪いが俺は加賀の味方で彼女を守る」

「お節介ですっ!」

「お節介で何が悪い。艦娘の節介も出来ずに提督がやれるかっ!」

 加賀の声は半分泣き声になっていた。

「どうして……、貴方は……」

「お前が最後まで全てを抱えて隠しているならそれでもいい。構うものか、そのまま全部背負って俺が歩く」

 彼女に背を向けたまま、葛木を睨み付けて言う。

 振り向かないのは彼女が強いからだ。

 強過ぎる故に。

 弱さを見せぬ彼女故に。

 誰かが見ていては泣けないのだろう。

 この島の艦娘は皆不器用すぎる。

「どうするつもりだい?」

「取引の話か? それならここに来る前から交渉決裂だ。俺は最初からお前と交渉するつもりなんて微塵もありゃしない」

「……理解に苦しむね」

 刹那。

 海人が。

 キレた。

 狭い地下の空間に響く甲高い音に加賀さえも肩を震わせた。

 彼の拳が鉄格子に突き刺さっていたのである。

 激しい音はその拳が放った衝撃だろう。

 人間業ではない。

 何が起こったのか遅れて理解した葛木の額に汗が流れる。

 金属を歪める程の拳を持った人間がどこの世界にいるというのだ。

「深海棲艦の力を手に入れようなんてくだらない研究の為にこの島の艦娘を利用し、裏切ったことを俺は許さねぇぞ」

「誤解だ、僕は……っ」

「クソつまらねぇお遊戯はもうやめようぜ? 俺はお前のことを知っているんだぜ?」

「……」

 葛木は豹変した。

 どこか頼りない優男だった彼は、一瞬で汚い笑みを浮かべる畜生に変貌していた。

「取り入って騙して利用してやろうと思ったんだけど、上手くいかないものだねぇ」

「それがお前の本性か」

「だとしたら?」

「胸糞悪い話だ。あの出来の悪い仮面で艦娘達を騙していたのか?」

「騙したなんて心外だなぁ。誰だって仕事用の余所行きの顔ってものがあるだろう?」

 薄気味悪い声色だった。

 人の心象を著しく踏みにじるような声だ。

 心地悪いが、海人はそれを気にしない程度には上機嫌であった。

 ここまで上手くいくとは思わなかったのである。

「お前の優男風の仮面も下手糞だが、俺のキレる演技も上手いとは言い難いか?」

「何を言って……」

 葛木が息を飲む。

 海人の後ろ。

 加賀の背後。

 そこに。

 気配を殺した。

 川内が立っていたのである。


「信じたくなかったよ」


 その手には、妖精さんが作っただろう録画媒体が握られていた。




「川内……っ、貴女どうしてここにっ!?」

 加賀の驚愕の声が室内に響く。

 しかしその驚きは葛木も同じであった。

「直前に海人に言われたからだよ。地下に信じられないものがあるから、一切の感情を殺してこれで記録してくれって」

 そう、海人は地下へと連れて行かれる前に川内に軽く事情を話してついてくるように指示していたのである。

 彼女の気配の殺し方は一級品だ。それは殺気を伴わず、ある程度の距離を保てば海人でも気付くことが出来ないレベルだ。

 恐らく加賀も気付くことは出来ないだろう。

 彼女は地下で見たものに動揺せず、感情を荒立たさなければ誰にも気付かれることなく記録を続けることが可能であった。

 そして川内は例え死んだ筈の提督が生きていて、そして裏で艦娘を裏切っていたと知っても動揺しない程には海人を信頼していた。

「川内……っ、これはっ」

「見苦しい言い訳も演技も必要ないよ。私は貴方でもなく、加賀さんでもなく、海人ただ一人についていくと心に誓っているから」

「……くそっ、僕の迂闊な言葉を引き出す為の演技だったのか!」

「俺が感情に任せて話していると知れば警戒レベルも下がるだろう? 思っていたよりもあっさり尻尾を見せてくれて助かった」

 悪戯が成功したかのような無邪気な笑顔で海人は笑う。

「さて、取引の時間だ」

「なんだって?」

「取引だよ。川内が記録した映像と指輪の場所、交換しないか?」

 海人は指輪の場所という、切らなくてもいい札を葛木に握られていた。

 葛木は自由が目的だ。

 しかしそれを加賀は許さない。

 その状況で海人が葛木に提供できるものはない。故に指輪の入手は不可能と言えるだろう。

 拷問といった力技もなくはないが、失敗した場合指輪を手に入れる方法はがむしゃらに探す以外になくなってしまう。

 島風の深海棲艦化が急に悪化する可能性も否めないこの状況で、そんな悠長な方法を選択する余裕は海人にはない。

 ではどうするのか。

 取引せざるを得ない状況を無理やり作れば良いのである。

「脅しかい? 無意味なことを、ここから出られない僕には関係のない話だ。公表するかい? 真実は残酷だ、それを知って壊れる艦娘も暴走する艦娘も少なくはないと思うけど?」

 あくまでも強気な葛木の言うことは間違ってはいない。少なくとも現状では。

 しかし、未来は違う。

「ああ、公表するぞ。いずれな。今じゃなくていい。俺がゆっくりと艦娘の心をケアして、公開しても問題ないと判断した艦娘に少しずつ教えていく。これでお前はチェックメイトだ。……流石に困るだろう?」

 指輪の情報を明け渡すには十分過ぎる理由だろう。

 彼にはこの映像を破壊する利点が十二分にある。

 苦渋の決断であった。

 辛酸を舐めさせられるとはまさにこのことだろう。

 それでも、葛木に選択肢は残されていなかった。

「いいだろう。指輪の場所を教える。その映像は破棄してくれ、バックアップも残さないでくれよ?」

「交渉成立だな」

 海人が指を鳴らすと、川内は迷うことなく記録媒体を床に叩きつけてから踏み潰す。

 加賀は迷っていた。

 川内は知ってしまっている。

 彼女をここから出す訳にはいかない。

「そんな怖い顔してこっち見ても無駄よ。加賀さんが考えるべきはこっちじゃなくてあっち」

 川内は海人を指差して言う。

「どういう意味かしら?」

「私は海人が命じれば公表するし、黙れと言うなら死んでも喋らない。忘れろと言うなら二度と思い出さない。加賀さんと戦えと言われれば死力を尽くすし、加賀さんに手を出すなと言われれば抵抗せずに死ぬ。そういう覚悟でここに来ているもの」

 加賀は海人を見る。

「どういうつもり?」

「どういうつもりも何も、川内には教えるべきだと俺が判断した。指輪を手に入れる為には記録係も必要だったから都合が良かった。それだけだ」

 軽い混乱状態の加賀をそのままに、海人は葛木に詰め寄る。

「指輪はどこにある?」

「あれを大本宮に受け取りに行ったのは赤城だよ。そして彼女に渡すつもりでもあった。あるとすれば彼女の艤装に収納されている筈だよ」

 赤城は島にいない。

 恐らく、例の戦いで沈んだ艦娘の一人なのだろう。

 しかし困った、赤城の艤装は発見されてはいない。

 海の底に沈んでしまった可能性がかなり高いだろう。

 海人が指輪入手方法を新たに考えようとする最中、以外にも加賀が声を上げた。

「……赤城さんの艤装なら、私に心当たりがあります」

「本当か」

「ええ、指輪は探しておきましょう」

 言外に、その場所を教えたくないと言っていた。

 加賀、赤城と言えば正規空母、第一航空戦隊の両翼のような関係だ。

 切っては切れぬ赤と青の翼。

 沈んでしまった相方に対して特別以上の想いがあっても不思議ではない。

 海人は深く踏み込まないことに決めた。

「それよりも、川内についてどうするのですか?」

「加賀、俺も川内ももうお前の仲間だ。お前が何を隠そうが、どれだけ拒絶しようが勝手に仲間面するから諦めろ」

「彼女も秘密を共有すると?」

「何れ島の全員に知られる事実だ。構わないだろう?」

「……っ」

 張り詰めた空気に引き絞られた弓が不吉な音を立てる。

 弦が徐々に伸びる音だ。

「やはり貴方を、生かしておくべきではなかった」

「冷静に考えてみろよ」

 海人は眉間に狙いを定められていても呼吸ひとつ乱さない。

「川内は真実を知っても動揺ひとつしてないぞ」

「いや、海人に言われたから表に出していないだけで十分驚いているからねっ!?」

「だとしても制御できる程度だろう? 加賀の危惧していた暴走も、深海棲艦化もする気配がない」

 海人の言葉通り川内は落ち着いていて、驚きこそしたがそれ以上の精神の乱れは見受けられない。

「それは彼女が偶然そうであっただけで……」

「電も山城も大丈夫だろうな。他の第六駆逐艦隊はもう少し様子見だとは思うが、響辺りは今すぐにでも問題ないだろう。他の艦娘も時間の問題だ」

「しかし……」

「あとは加賀個人の問題だが」

 この先の言葉は海人としても覚悟のいる部分であった。

 自信はない。

 しかし、ないことを悟られてはならない。

「俺がなんとかする」

「そんな言葉、信じられるわけが……っ」

「おいおい冗談だろ?」

 海人は酷く傷ついた演技をした。

 表情は冗談半分で、しかし声色は真剣そのもので続ける。

「ここの糞野郎の言葉は信じられて、俺の言葉は信じられないのは流石に傷つくぞ」

 海人は加賀の核心をあっさりと突いた。

「……え?」

 間の抜けた声だった。

 正真正銘想定外だったのだろう。

 海人の言葉はそれだけ加賀にとっては衝撃的であった。

「楽園にいる者たちは嘘を教えられ偽りの真実を教えられ。真実を知る者は楽園にはいられず、その真実を知る者全てを偽って加賀一人が提督を匿い隠している。この状況はある仮定で説明がつく」

 加賀は川内にどこまで教えたのかと厳しい叱責の視線を向けるが、川内は困ったように笑うだけだ。

「誰も何も教えてないよ。嘘みたいだけど、海人が自分で全部考えて辿り着いたの。本当艦娘や深海棲艦が可愛く見えるくらいに恐ろしい人だよ」

「冗談……、よね?」

「はっきり言おうか。……あの襲撃の日、楽園に閉じ込められた艦娘とは別の、敵の本拠地に向かった真実を知る艦娘は大本宮の部隊と一緒に戦い、深海棲艦に部隊を壊滅させ、その混乱に紛れて葛木提督を暗殺し、この島を地図から消して自由を獲得する計画を立てた。そして手に入れた自由が楽園とこの島だ。だが加賀は提督を殺さず一人地下に隠して監禁した。何故か、それは提督のみが知る情報が彼女の目的に必要不可欠だったからだろう」

「その情報って?」

 川内が問う。

 彼女の否定が入らないのは彼女が知る限り海人の言っている推測は全て合っているからだ。

 確かに一部の艦娘はこの島を解放する為に葛木提督を暗殺し、この島を地図から消す方法を計画して実行した。

「それが分からない。だがそれさえ解決すれば加賀は解放される。こんなむちゃくちゃで意味不明な行動をとらなくてもすむ筈なんだ」

 からん。

 と、弓と矢が床に転がる音が鳴り響いた。

 加賀の力なく項垂れた腕から零れ落ちたのだ。

 そのまま力なく彼女は膝から崩れ落ち。

 枯れた笑い声で喘ぎながら。

 瞳から滴を垂らした。

「貴方にどう救えるというのですか……、このどうしようもない絶望を……」

 幼子のように加賀は体を震わせて泣いている。

「ふふ、はははははっ、だから言っているだろう。加賀、君は僕を解放するしかない。僕に助けを乞うしかないんだ」

「うるせぇ、お前は黙ってろ」

 海人は床の小石を蹴り飛ばして葛木の顎に直撃させた。

 脳震盪で彼は再び意識を失う。

「指輪の場所さえ聞ければ正直お前に用はない」

 海人はゆっくりとした足並みで加賀に近付くと、優しく背中をさすって言う。

「教えてくれ、お前は何を抱えているんだ?」

「まだ残っています」

「残っている?」

「島風、天津風、鈴谷、浜風、北上、大井。彼女らを解放するまでは、言えません。それがせめてもの、私の責任です」

 震える声で加賀は言う。

 泣いていても、その意思が鉄のように固いことは窺えた。

「川内、とりあえずここで聴いたこと見たことは口外するなよ?」

「もちろん」

「加賀、待っていろ。すぐに楽にさせてやるからな」

 海人は覚悟を新たに立ち上がろうとする。

 その裾を加賀が掴んだ。

「貴方の愚かなまでの信頼と愚直なまでの優しさに敬意を表して、教えます。……北上と大井には気をつけなさい。あれは、時雨や夕立よりもたちが悪い」

「良く分からんが、肝に銘じておこう」

 このとき、海人は加賀の言葉の意味を理解してはいなかった。

 愚かしい程に。




 二人きりの執務室で、加賀がどこからか持ってきた指輪を海人に手渡す。

 それを渡す彼女の表情は非常に複雑なものだった。

 海人は言及しない。今は聞くべきではないと思ったからである。

 ただ黙って丁寧に指輪を受け取った。

 もちろん聞きたいことは数え切れないほどあった。けれども加賀はもう既にどうしてほしいのかを告げている。ならば海人は愚直にそれを行うだけだ。

 これまでそうしてきた。

 そしてこれからもそれは変わらない。

 そうすることが唯一、凍った艦娘の心を溶かす方法だと信じて。

 まずは島風を救う。

「必ず島風を助けると約束しよう」

「私は結果を見守るだけです」

 加賀はそれだけ告げて背中を向けた。

 静かに部屋を立ち去るその姿を最後まで見続け。

「これからどうするの?」

 そこにいるのが当然のような口調で川内が後ろから言った。

 流石に海人も途中から気付いていたが、呆れて指摘する気力も湧かない。

「お前は本気でずっと俺を監視しているんだな」

「監視とは失礼な。完全に善意からの護衛だよ!」

「悪気が一切ないのが始末に負えないな……。見られて困ることはしないし、もともとプライバシーにも拘りはない。俺が知っている情報をお前も共有しているから不都合もないが、常に見張られていては落ち着かないのだが」

「私の事は空気か何かだと思ってくれて構わないのに」

「思えるか、お前は俺の大切な仲間の一人だぞ」

 不意打ちだった。

 川内は何も言えずに魚のように口を開閉させ、顔を真っ赤にして震える事しか出来ない。

「こ、……これで山城さんや電を籠絡させたの?」

「意味が分からないが」

 自覚はないらしい。

 恐ろしい天然の女殺しである。

「そういえばこれからどうするかだったな、もちろんこれを島風に渡す」

 そう言って指輪を見せる。

「島風とケッコンするということ?」

 若干不機嫌な声で川内が言う。

 聞いて海人は首を傾げた。

「何故だ? 練度は足りないし、俺と島風にケッコンシステムを適用するだけの絆はない」

「え、じゃあその指輪をどうするのよ?」

「文字通り渡すんだよ。少し手は加えるが。これは別にケッコンしなくても持っているだけで深海棲艦化を抑える作用がある」

「良かった、なら海人は島風とケッコンするつもりじゃないわけね?」

「何が良かったんだ?」

「自分で考えなよ、おばかさん」

 上機嫌で川内は笑う。

 再び海人は首を傾げて疑問符を並べた。




 不運だった。

 不運だったとしか言いようがない。

 島風が発作を起こしたので抱きしめて落ち着かせ、幾度も優しく語り掛けて変化を抑え込む。

 どうにか落ち着いてきた頃に取り押さえて角を削り、砕き、彼女のもがき苦しむ様子を見ながら、鱗のように変質した彼女の肌をそぎ落としていく。

 心を殺した無機質な島風の瞳も。

 それを行う天津風の瞳も。

 温度はなく。

 けれど流れる滴は止まらない。

 部屋が染まる。

 島風の赤色で染め上げられる。

 普段ならば警戒していた。

 しかし、海人という存在が僅かながら彼女たちを油断させていた。

 それは凍った彼女らの心を僅かでも溶かした彼の功績とも呼べるが。このときばかりはその全てが不運だったとしか言いようがない。

 絶対に掛けていた部屋の鍵を忘れていた。

 そしてノックの音に僅か反応が遅れた。

 不運だ。

 本当に不運だ。

 そして終わりだった。

 夕立が扉を開く。

「ここに海人来ているっぽいっ?」

 それが時雨であったならば返事があるまで待っていただろう。

「ダメだよ夕立っ、返事があるまで開けちゃ――」

 言葉が途切れる。

 部屋の惨状を見てだ。

 夕立と時雨の時間が止まる。

 いや、島風と天津風の時間も停止していた。

 夕立と時雨は知っていた。

 異常な光景だが、幾度となく見ている。

 あれは深海棲艦化だ。

 理解して。

 次の瞬間。

 二人のスイッチが、カチリと。

 音を立てて入った。


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1: とーご 2017-01-03 11:40:16 ID: Xnoa-Qe9

現状構想段階で【海から来た人】は四部作となっています。
なんと、まだ二部です。
まだまだ続きます。
なんでそんなに膨らませたのか考えた自分殴りたい。
マイペースで頑張りたいと思います……。

2: とーご 2017-01-05 07:49:29 ID: b4JkbHzy

最初はこんなハイスペック主人公にするつもりはなかったのに、なんか気付けばなんでも出来そうな感じの主人公に……

3: SS好きの名無しさん 2017-01-06 15:05:25 ID: yp_sM-Zt

一気に追いついてしまって続きが気になって仕方ありませんな...。

4: とーご 2017-01-06 18:30:43 ID: wp84Hgdg

3〉あの量を一気に読んでくださるとはありがとうございます。
三連休使って大幅に進める予定なのでお待ちくだされ。

5: SS好きの名無しさん 2017-01-09 18:02:51 ID: fvg8pPJE

4>イヤッホォォォォオオオオオ!!!

6: とーご 2017-01-10 07:48:39 ID: 5wGNE-u8

こ、…更新しようと思ってたら寝落ちしました……(震え声)

今晩やります( ;∀;)

7: とーご 2017-01-10 22:05:05 ID: u_VnKahF

更新しました。
今晩中にもう一回更新できる・・・かな?
頑張ります。

8: SS好きの名無しさん 2017-01-10 22:16:45 ID: qSQ5LHhl

お疲れ様です!楽しみにしてまする

9: とーご 2017-01-10 23:35:46 ID: u_VnKahF

めっちゃ更新した。
疲れた・・・・・・。

10: とーご 2017-01-10 23:37:01 ID: u_VnKahF

8>ありがとうございます。
楽しんでもらえれば幸いです。
というかコメントくれる人みんなありがとう。嬉しい。
応援押してくれる人も、評価くれる人もありがたいです。

11: とーご 2017-01-10 23:37:32 ID: u_VnKahF

ちなみにこの脱獄方法ノンフィクションです。
実際にこれやった人いるらしい。