2019-02-09 16:42:56 更新

概要

藍子ちゃんがプロデューサーを想ったり想わなかったりしながら頑張る話です。


 夕日が住宅街の隙間から差し込んでまぶしい。その陰になって、その人の表情は見えなくなった。呼吸を一つ、二つ。心臓が押し上げてくる言葉を無理矢理飲み込み、頭が用意していた言葉を、吸い込んだ息とともに告げる――。




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「やめる?」



 最後のひとかけらとなったハンバーグをフォークに刺したまま、未央ちゃんは尋ねる。誰の声ともわからない雑音の海の中、未央ちゃんの声は良く通る。私は彼女の顔を見据えたまま、すっと頷いた。お店は忙しい時間帯に突入したらしく、あちらこちらで店員さんが往来している。



 演劇のお仕事の話をいただいてから数か月。いよいよ本番を二週間後に控えていた。私、未央ちゃん、茜ちゃんの三人でのお芝居のお仕事は、『秘密の花園』公演以来だ。私は、二人とまた公演に関わることができて嬉しかったし、また二人も同じように、三人でお芝居ができることを跳んで――誇張のように聞こえるかもしれないけれど、実際茜ちゃんは、レッスンで使用するバランスボールのように飛び跳ねていた――喜んでいた。



 稽古は順調に進み、あとは全体での演技を細かく修正するだけと思われていた。しかし、今日の稽古で、とてもお客様に見せられないようなシーンができてしまった。原因は私。未央ちゃん、茜ちゃんの役と一緒に、意地悪な養父から解放され、新しい旅立ちを祝福する、クライマックスのシーン。そこで突然、私が変調した。喜びが表現できないのだ。嬉しいとか、幸せとか、そういった感情が掴めない。いや、掴めてはいるのかもしれない。けれど、ちょうど熱いやかんに触れてしまった時に反射的に手を引っ込めるように、手のひらがそれを握ることを拒んで放してしまい、掴みかけた感情がするりと滑り落ちてしまう。



 思うような演技ができなくなったことに関して、演出さんは少し訝っていたけれど、特に心配されることはなかった。おそらく、今日は調子が悪いのだろう、程度に思われていたのだと思う。それは私にとって、ありがたかった。原因に心当たりはあっても、他の人に相談すべきことではないと思ったから。だから、稽古後に未央ちゃんから「緊急藍子ちゃん会議を実施します」と宣言されて、私の悩みに気づいてくれた感謝と一緒に、緊張の糸がまた一段張り詰めたような感覚も、感じていた。



「理由も教えてくれなくて。私たちには言わないって、決めたんだと思います」



 未央ちゃんが眉をひそめて、うーんと唸る。茜ちゃんは、すでに平らげたカツカレーのお皿をじっと見つめて、いつもの姿からは想像できないほど静かにしていた。



「あーちゃんは、どうしたい?」



 ハンバーグの刺さったフォークを置いて、こちらを見つめてくる未央ちゃん。茜ちゃんが平らげたカレーのお皿を、今度は私が見つめながら、私は答える。



「……どうしてプロデューサーさんがやめちゃうのか。それが知りたいです」



 テーブルの下で組んでいた手に力が入る。手のひらが湿り気を帯びた気がして、気持ち悪い。



 本当なら、プロデューサーさんが言わないと決めたことなら、私が詮索すべきではないと思っている。だけど、プロデューサーさんが辞めるということを知って、その理由がわからないままの状態が、結果演技に支障をきたし、二人にも心配させてしまっている。このままでは、舞台を台無しにしてしまうだろう。二人とも、この舞台のために一生懸命努力していた。私が偉そうに言えたことではないけれど、実際、二人の演技は『秘密の花園』の頃より格段に成長した。私がその努力を無碍にするのは、私自身が耐えられない。だから、知らなければならない、聞き出さなければならない、と思う。思う、けど……。



 それまで静かにしていた茜ちゃんが、ずい、と身体を乗り出してきた。口角は上がらず、口は半開きのままだ。



「知るだけじゃ、きっとよくならないです」


 

 いつもなら前向きで元気をもらえる、茜ちゃんのぱっちりした目が、今は私のなにもかもを見透かしているようで、怖くなった。視線を逸らすと、家族連れだろうか、男性と女性、それと小さな子供がはす向かいのテーブルに座っていたのが見えた。胸の奥を締め付ける力が、一段と、強くなる。



「ちゃんと、やめないでほしいって、言った方がいいと思うんです」



 締め付けられて、きりきりと、悲鳴をあげている。



「あ、あーちゃん、優しいから、きっとプロデューサーの迷惑になるんじゃないかって、思ってるんだよ、ね?」



 茜ちゃんの隣から、未央ちゃんがフォローに入ってくれる。確認するようにこちらを向いた未央ちゃんに、私は、首を縦に振ることができなかった。



 茜ちゃんの言う通り、真実を知っただけで元に戻れると思えない。辞めないでほしい、まだ一緒に居たい、まだ一緒にお仕事したい。でも、未央ちゃんの言っていることも事実だ。私は、プロデューサーさんの進退に口を出せる立場じゃない。それに、黙って辞めようとしていたのはきっと、私、いや、私じゃなくても誰かが、止めに入るのを恐れていたんだと思う。それなのに「辞めないでください」と言うのは、それこそプロデューサーさんが一番危惧していたことで、一番、心苦しいことなんじゃないか。私にとっては、どちらも正しくて、どちらかを選ぶというのは、難しい。



「藍子ちゃん、やってみなきゃわかりません! 当たって砕けろですよ!」

「砕けちゃダメでしょあかねちん!」



 茜ちゃんが暴走しかけて、それを未央ちゃんがセーブする。いつもの私たちの光景だ。胸の奥の締め付けが緩む。今はこの安心感が、何より愛しい。ただ、茜ちゃんは声が少し大きい。だから、さっきの子供が不思議そうにこちらを向いているのが見えて、申し訳なさと恥ずかしさも同時にやってくる。あぁ、ごめんなさいごめんなさい。



「未央ちゃんは、どう思いますか?」

「わ、私? えっと……」



 言い淀んで、ちらと私のほうを見た。こういう時未央ちゃんは、何も言わない。普段は陽気に振る舞って場の雰囲気を盛り上げてくれるから、おしゃべりさんな印象があるけれど、今みたいに誰かが悩んでいる時は、ずっと黙って聞いていてくれる。きっと、本人の意思を最優先に尊重して、軽い気持ちで言葉にしたくないのでしょう。その心遣いが、とっても嬉しい。

でも、この優しさに甘えていたら、二人に迷惑をかけてしまう。だから決めなければならない。これは、私の問題なのだから。



「私、は……」



 おへその下のほうから絞り出た、か細い声だった。お店の喧騒にまぎれて消えてしまったと思った。それでも、その小さな声に反応して、二人は揃って私を見つめて、次の言葉を待ってくれた。呼吸を、一つ、二つ。お皿が並んだテーブルを見つめて、次の言葉を探して。



「……プロデューサーさんに、辞めてほしくない」



 だって、と呟いて、続く言葉を見失った。だって、なんだろう? どうして、プロデューサーさんに辞めてほしくないんだろう? どうして、プロデューサーさんが辞めることが、演技ができなくなったことにつながったんだろう? どうして、プロデューサーさんが辞めることが、こんなにも辛いのだろう?



 言葉の暗闇をさまよい、「だって」と続けるうちに、未央ちゃんが「うん」と言って頷いて、私を暗闇から引っ張り出してくれた。



「未央ちゃんたちに任せてよ。かわいいあーちゃんのためですもの」



 視線を上げると、いつもの二人がそこにいた。眉間に寄っていたしわがほどけて、かすかにほほ笑む未央ちゃんと、「そうですよ!」と言って、きりっとした眉の茜ちゃん。



「藍子ちゃんの絶対特権、主張しましょう!」



 私の目をしっかりと見据えて言う茜ちゃん。燃えているように爛々と輝く瞳。やっぱりこの目には、人に勇気を与える力がある。「おぉっ、ガンガンバリバリ主張しちゃおうっ!」とこぶしを振り上げる未央ちゃん。ぱっと弾けるように燦々と輝く笑顔。やっぱりこの笑顔には、人を元気にする力がある。ああ、いつもの二人だ。そう思えて、身体の中を暖かい何かが浸透していって、ふうわりと優しい気持ちになれた。絶対特権という単語は少し大仰な気がして、「そ、そんな立派なものじゃないですよ」と答えたけれど。



 ユッコちゃん、愛梨さん、輝子ちゃん、そして茜ちゃんと私の五人で歌った『絶対特権主張しますっ!』。やきもちを焼く女の子の歌だ。レコーディングのとき、茜ちゃんは「恋愛のことはよくわかりませんが、誰よりも一番になりたい、って考えて歌いました!」って言っていたっけ。そんな風に考えて歌うのもあるんだなあって、感心した記憶がある。……私は、何を考えて、あの歌を歌ったんだっけ? プロデューサーさんのことを思っていたような気がする。どうして? それは、やっぱり、プロデューサーさんが……。



 『緊急藍子ちゃん会議』――自分で自分の名前に「ちゃん」をつけるのは、ちょっと恥ずかしい――は、店員さんに長時間の居座りを嗜められるまで続いた。二人が既に食事を終えた一方で、私が頼んだナポリタンは、とっくの昔に冷めてしまっていた。




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 役者というのは、ただ台本を覚えて、舞台に立てばよい、というものではない。台本を覚えただけで感情が伴わなければ、ただ台本を「読まされている」役者が出来上がってしまう。……今の私が、そうなってしまっている。そうならないためにも、役者さんは、台本を読み込む。自分の役の性格、出自、経歴、周りの人との関係性、何に怒って、何に悲しんで、何に喜ぶのか。この他にも本当に、本当にたくさん色々なことを考えて、自分とは違う「一人の人間」を作り出す。



 それが終わったら次は、自分との擦り合わせだ。作り出した人に、自分自身がなる。役がどういう人かが分かっていても、その人のことを理解していなければ、その人にはなれない。例えば、せっかちな人が、私、「高森藍子」という役を演じるとする。「高森藍子」がゆっくりのんびり生きていることは分かっても、どうしてゆっくりのんびり生きているのか、演者さんは理解していない。演者さんは、ゆっくりのんびり生きていないから。それなのに、「ゆっくりのんびり、いきましょうね」なんて言葉を、実感を込めて言うことができるでしょうか。



 だから、役の感じること、役の信念みたいなものを、演者さんが自身に落とし込むことが必要になる。その過程で、私は、自分を役に寄せるというイメージを持っている。私は怒ったり悲しんだりするのが他の人より苦手らしく、役がそういった感情を抱く場合、表現するのになかなか苦戦してしまう。だから、「この場面でこういうことを思って、こういう背景があるから、こう感じて、この台詞を発したんですね」といった具合に、役柄に共感するような考え方をしている。最終的に、「私」というものはなくなって、作り上げた人物だけが舞台上に発露する。だけど、こうして作り上げたものも、かなり絶妙なバランスで成り立っていて、ちょっとしたハプニングやアドリブがあるとてんやわんやになってしまい、簡単に崩れる。勿論、本当に上手な役者さんは、ちょっとのことで動じたりしないのだけれど、私はまだまだ、その域には達していない。



 逆に、未央ちゃんは、どんな役柄も結構簡単にものにしてしまう。未央ちゃんのような人は、自分をベースに演技をするからか、役としての完成も早いし、アドリブやハプニングへの対応も難なくこなせる、そして自身からもアドリブがぽんぽんと出てくる。だから私は、役者としての未央ちゃんを、すごいなあ、って思っている。勿論、役者としてじゃなくてもだけれど。未央ちゃんもまた、「完成度ではあーちゃんにかなわないよ。私は演技してても、大体私になっちゃうもん」って褒めてくれたりするけど、でも私は、完成に時間がかかっちゃうし、何より、


「お疲れ、藍子」

「ぷっ、プロデューサーさん?」


こういうハプニングに弱すぎるのが、悩みの種だ。



 稽古が終わり、各々が帰り支度を始めていた。外は今朝から、秋雨がしとしとと降っていた。ずっと雨に降られていると、今がお昼なのか夕方なのか、わからなくなってしまう。稽古は市営の体育館を使用して行っている。体育館の重い扉を開けると踊り場になっていて、自販機もおいてある。私は飲み物を買おうと思って、踊り場に出た。そうしたらばったり、プロデューサーさんに出くわしてしまったのだ。びっくりした、来ると思っていなかったから。渇いていた喉が一層渇きを増した気がして、つい唾を飲み込む。プロデューサーさんは、私の動揺にはあまり気づいていない風だった。ジャケットの右肩の部分が濡れている。



「稽古終わりか?」

「は、はい」



 つい顔を見ないで言ってしまった。



「プロデューサーさんは、どうして……?」

「ああ、演出さんと公演前最後の会議」



 本当ならば、辞めないでくださいと、明日事務所で伝えるつもりだった。今日は直帰と聞いていたから。だけどまさか、私の稽古場に寄ってからだなんて。「あ、あぁ」と、何気ない返事を返した。……ちゃんと何気なく返せているだろうか。さっきから口の中が渇いて仕方がない。



「ほら、差し入れ」



 そう言って、ビニール袋を差し出してきた。プロデューサーさん本人とは違い、全く濡れていなかった。「ありがとうございます」と感謝して受け取る。中には、コンビニで買ったのであろうミルクティーとプリンが入っていた。……ミルクティー、私がいつも飲んでいるやつだ。喉が渇いていることすら、お見通しみたい。プリンも私が好きな銘柄のもの。これらが好きだと、特に明言したことはなかった。それでもプロデューサーさんは、いつもこのセットを差し入れに、稽古場に来てくれる。……プリンは体形維持に影響するから、毎回は持ってこないでください、と前にも言ったのだけれど。



「稽古、調子はどうだ?」



 ぎくりとする。散々だった。演技中に見た未央ちゃんと茜ちゃんの表情が、私を心配しているように見えて、申し訳なさでさらに感情がこもらなくなってしまった。



「ま、まあまあです」



 なのにどうして、嘘をついちゃったんだろう。唇を舐める。見抜かれてしまうかもとびくびくしていたけれど、私が口走ってしまった言葉に、プロデューサーさんは「そうか」としか答えなかった。沈黙が、二人の間を通り過ぎる。なんだかとても気まずい。何か喋らなければ。



「……ブラックですか?」



 プロデューサーさんが持つ缶コーヒーに目がいって、なんてことのない話を切り出す。



「ああ」

「好きですよね、ブラックコーヒー」

「……口に合わないから、微糖」

「そうなんですか」

「藍子は、カフェオレ大好きだよな」


 別に、好きって訳じゃ。


「苦くて飲めないだけですよ、コーヒー」

「そうなのか? 飲めるもんだと思ってた、藍子結構大人びてるから」

「そんな、全然そんなこと――」



 プロデューサーさんの背後で扉が開いた。思わずびくりとしてしまう。



「あ、すいませんプロデューサーさん、お待たせしました~」



 気の抜けた声が、私とプロデューサーさん以外に誰もいない踊り場に響く。演出助手さんが、体育館への扉を開いて待っている。会議の時間、なのだろう。首だけそちらに振り向いて、「あ、はい」と答えるプロデューサーさん。



 本当ならここで、何も言わないでいても良かったはずだった。明日になれば、プロデューサーさんは事務所に来る。未央ちゃんも茜ちゃんもいる。「やっぱり直接、辞めないでください、って言いましょう」と決めていた。明日になれば、準備してきた通りに、ハプニングにも強い二人と一緒に、プロデューサーさんを説得していたはずだった。だけどこの時、私の好奇心が、知ったら後戻りできないことを知りたがって、私の恐怖心が、安堵を求めて、私をアドリブへと、駆り立ててしまった。



「じゃあ、気を付けて帰れよ。また明日」

「あ、ま、待ってくださいっ!」



 そちらに向かおうとするプロデューサーさんを、呼び止める。こちらを向いて、不思議そうに見つめてくるその人。呼吸を一つ、二つ。



「……本当に、やめちゃうんですか?」



 この問いには、しばらく答えが返ってこなかった。私がプロデューサーさんの顔を見つめると、困ったように眉をひそめていた。そして、「そうだな」と、一言だけ。



「どうしてですか」



 この問いにも、答えなかった。ただ口を真一文字に結んで、地面を見つめるだけだった。予想はしていた。この質問に答えるつもりは、やはりないのだと。それがわかった瞬間に、私は、その言葉を、口にしてしまった。



「結婚するから、ですか」



 えっ、と声を漏らすのが聞こえた。目を丸くしたその人が、私を見つめている。その瞳を見つめるのが怖くなって、目線を逸らしてしまう。



 未央ちゃんたちとの会議で、辞める理由として、結婚が一番ありうるだろうと推測された。結婚するとなれば、お互い、相手のために時間を作りたい、作らなければならない、と思うものだろう。今のプロデューサーさんの働き方で、それが叶うとは思えない。かなりの重労働だ。泊まりで仕事をしていた、という話も、ちひろさんや早苗さんたちから聞いたのは一度や二度ではない。それに未央ちゃんは、「旦那さんが、あーちゃんみたいに綺麗でかわいい女の子に囲まれて仕事してたら、嫉妬もしちゃうだろうしねえ」と言っていた。私が「綺麗でかわいい女の子」の枠組みに入るかは別としても、仮に私がお嫁さんの立場だったなら、未央ちゃんの言う通りに考えちゃうかもしれないと思った。お嫁さんを心配させないためにも、プロデューサーという職業から身を引こうとしているんじゃないかと。



 だから、鎌をかけてみた。否定してくれたなら、また別の理由があることになる。それが何なのかはわからないけれど、今の私には、結婚でないことだけわかれば十分なような気がした。だからこれは、一番ありうる線で、


「……知っていたのか」


一番、肯定してほしくない線だった。



「やっぱりですか」



 まるで全部知っていたかのように、余裕綽々というように言った。本当は、余裕なんて、どこにもなかったのに。



「……すまない、黙っていて」



 頭を下げるその人。違う。私がショックを受けたことは、この人には関係のないことだ。



「いえ、プロデューサーさんは悪くないじゃないですかっ」



 本心から出た言葉、のつもりだったのに、声は震えていた。声だけじゃない、足が、腕が、唇が、震えている。この震えがバレてしまったら、この人はどう思うだろう。心配してくれるのかな。申し訳ないと思うのかな。どちらも、嫌だな。私の我が儘で迷惑をかけちゃうのは、嫌だ。嫌だけど、嫌だと思うほど、震えが止まらなくなる。



「おめでとうございます」



 これも、本心、のはず。この人が幸せなら、それが一番です。幸せになるために辞めるのなら、私が止められるはずないじゃないですか。笑って祝福してあげたい、のに、笑顔になればなるほど、足の震えは勢いを増して、立っていられなくなりそうだった。



「……ありがとう」



 苦笑いで応えてきた。胸の奥がきゅうっとして、雑巾を絞るみたいで、痛くて、たまらない。



「奥さんのこと、大事にしてあげてくださいねっ」



 無理矢理、溌剌とした声を出した。きっと普段の私なら、こういう台詞を発すると思うから。……本当だろうか。普段の私は、こんなにも元気いっぱいの子だったんだろうか。普段の私は、一体、どういう子だったんだろうか。



「プロデューサーさーん?」



 演出助手さんの声がこだまする。どこかの劇団で役者をやっている方らしく、声が良く通る。「は、はい、すみません。すぐ」と答えると、すぐに私に向き直り、私のほうへ一歩近づいてきた。びくりとして、のけぞってしまった。後ろにも引きたかったけれど、足は言う事を聞いてくれない。



「……大丈夫か、藍子」



 しかめ面で、じっと私を見つめるその人。私はその目を見返すことができなくて、目を瞑って、瞑目したことが不自然に見えないように、ひきつった笑顔でカモフラージュする。



「大丈夫です」



 続く言葉は見つからず、押し黙ってしまった。沈黙が、怖かった。黙っていれば動揺していることがバレてしまいそうだ。でも、話すことも、怖かった。喋れば喋るほど、自分がぼろぼろと崩れていってしまいそうだ。



「……そうか」



 しばらく私を見つめた後で、その人は言った。振り向き直って、体育館の方へと向かっていく。そして扉に手をかけたところで、「何かあったら、ちゃんと相談しろよ」と言い残して、演出助手さんと体育館の中へ入っていった。誰もいない踊り場に、外の雨の音だけが響く。いつの間にか、こぶしを強く握ってしまっていたようだ。手のひらの中が、随分と、湿っぽい。



 どうして聞いてしまったのだろうと、後悔する気持ちは、少なからずあった。けれど、後悔したって過去がなかったことになる訳ではない。それに、明日このことを知ってしまったとしたら、どうなっていただろう。辞めないように説得しなきゃいけないのに、邪魔することはできないと、未央ちゃんと茜ちゃんに駄々をこねていたかもしれない。そう考えれば、今ここで知ることができて、良かったのかもしれない。二人には、後で謝らなきゃ。



 プロデューサーさん。私は、プロデューサーさんと一緒に居られて、幸せでした。



「さあ、頑張らなきゃ。まだ本番が残ってる」



 自分を鼓舞するように呟いてみたが、唇はいまだ震えていた。




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 ぶしゅう、と空気の抜けるような音とともに電車のドアが開く。車内は、座れるほどは空いておらず、つり革に掴まってスマホをいじったり文庫本を読んでいたりする人がちらほらと。それを確認したと同時に、座席に座っている家族連れが目に入った。子供が飛行機の模型を持って遊んでいる。その子を間にして、お父さん、お母さんが座っている。なんだか、とても、幸せそうで。その子たちが目に入らないように、入ってきたほうとは反対側のドアに寄りかかって、窓の外を見つめる。



 小さいころに初めて電車というものに乗ったときに、今と同じように窓の外を眺めて、不思議な気持ちを抱いたことを覚えている。おおよそ今と変わらずのんびりと生きていたものだから、目の前をびゅんびゅんと物が通り過ぎるという感覚が、目まぐるしく変化する景色が、とても新鮮で、とても恐ろしくて。このまま私はどこまで行けるんだろう。このまま私はどこまで行っちゃうんだろう。私の知らないところに行けるのかな。私の知らないところに連れていかれちゃうのかな。そう考えて、瞳を煌めかせながら、お母さんの服の袖に掴まっていた。



 電車が動き出す。窓の外に見える民家が次々と形を変えていく。唯一変わらない景色といえば、遠くの方に聳え立っている大きなビルくらいだろうか。秋の昼間は短い。電車が動くにつれ、ビルの合間から、黄金色に輝く太陽が顔を出したり隠れたり。見慣れた光景だ。過ぎてゆく景色は、いつもと変わらない。なのに、初めて電車に乗ったときみたいに、私はどこに行っちゃうんだろうと思って、息苦しくなる。



 公演まで残り一週間となった。体育館でプロデューサーさんと話して以来、私の演技は元に戻るどころか、酷くなる一方だった。あまりに良くならないものだから、シーンを削りますか、という話まで持ち上がってしまった。そのシーンがなくなるということはすなわち、未央ちゃん、茜ちゃんの出番も削ってしまうということだ。私は最後まで「できます、やらせてください」と主張し続けたが、できないのだから説得力がない。結局、今日の稽古で、シーンがなくなるか否かが決定してしまう。



 ふと、プロデューサーさんが辞めると知ったときのことを思いだした。朝、事務所にやって来たら、ユッコちゃんが開口一番尋ねてきた。「私たちのプロデューサーがやめちゃうらしいです、心当たりありませんか」と。勿論その時は、何から何まで何一つ知らなかった。どうやらユッコちゃんも風の噂で、プロデューサーさんが辞めるということを知ったみたいだった。すぐに本人に真相を確かめた、けれど、プロデューサーさんは苦虫をかみつぶしたような顔をした後、観念したように「そうだ」と頷いた、ただ、それだけだった。理由についても訊ねたけれど、「それは、君らには関係ない」と一蹴されてしまった。この時から、時々胸の奥の辺りがきゅっと絞られるようになった。思った通りの演技ができなくなったのも、それから。



 ……どうしてプロデューサーさんは、辞める理由を話さなかったのだろう。いや、辞めることすら、最初は話す気がなかった。結婚のことを、他の人に知られたくなかったのでしょうか。それなら、辞めることが漏れた時に、一緒に事情を話してくれればよかったのに。「結婚するからやめるけど、他の人に知られるのは困るから、言わないでね」って。私たちでは言わない保証がない、と思ったのでしょうか。……ユッコちゃんは、ぽろっと言っちゃいそうな気がするなあ。本人には悪いけど。



 ドアが開く音がした。ふっと我に返る。稽古場の最寄駅まで、あと二、三駅というところまで来てしまっていた。心臓の鼓動が一段早くなる。もう、すぐだ。判決はすぐそこまで迫っている。私は、できることをやるしかない。未央ちゃんにも、茜ちゃんにも、この仕事を持ってきてくれたプロデューサーさんにも、嫌な想いはさせたくない。大丈夫、できるはず。できる、はず……。



 目を瞑って、深呼吸をしようとする、が、上手く息を吸えない。さっきからとても息苦しい。落ち着こう、いったん落ち着こう。震える身体に、無理矢理息を詰め込んで、吐き出そうとした瞬間に、

「藍子ちゃん?」

後ろからかけられた声にびっくりして、「ひっ」と変な声が出てしまった。身を守るように体が丸まる。



「だ、大丈夫ですか?」



 目を開いて顔だけ振り向く。まゆちゃんだった。前かがみになっていた私を、心配そうに見つめていた。背中に手が乗せられているのがわかる。温かい。



「ま、まゆちゃん……」

「ごめんなさい、驚かせちゃいましたか?」



 首をぶんぶんと横に振った。驚いたのは事実だけれど、まゆちゃんは、直接は関係なかったから。いくぶん落ち着いて居直ると、まゆちゃんも私の背中から手を外す。



「ぐ、偶然、ですね」

「はい、偶然です」



 にこりと笑うまゆちゃん。その笑顔を見て、胸のつっかえが少しはとれたような気がした。



 沈黙する二人。そういえば、今までまゆちゃんとはあまり話したことなかったかも。話題を決めあぐねていると、まゆちゃんのほうから話が振られた。



「公演、もうすぐでしたよね」



 心臓が、跳ねる。



「は、はい」

「頑張ってくださいねぇ」

「……あ、ありがとうございます」



 にこにことしている彼女を見ていると、とても申し訳ない気持ちになる。内部事情を話すわけにもいかない。未央ちゃん茜ちゃんは頑張っているのに、私のせいで行き詰っている、なんて、期待値を落とすようなことは言いたくない。けれど、事情を何も知らない人に、弱音を吐きたいという気持ちも、少なからずあった。



「……まゆちゃん」



 小首を傾げて、「はい?」と答えるまゆちゃん。まゆちゃんは、動作の一つ一つが本当に可愛らしくて、見ているだけで癒される。



「もし、まゆちゃんのプロデューサーさんが結婚したら、まゆちゃんはどう思いますか?」

「結婚、したんですかぁ……?」



 ふっと口角が落ちるまゆちゃん。



「もっ、もし! もしもの話ですから!」



 慌てて弁明すると、元通りのにこっとした表情に戻った。



「うふっ、びっくりしちゃいましたぁ」



 ほっと胸をなでおろす。口角が下がるだけで、あんなにも普段とのギャップがあるなんて。まゆちゃんから視線を外すと、先ほどの親子連れが目に入った。子供が信じられないものを見たというような表情でこちらを見て、お母さんの服の袖を掴んでいた。あぁ、ごめんなさいごめんなさい。



「……藍子ちゃんは、プロデューサーさんが結婚したら、どう思いますか?」

「えっ?」



 逆に質問されるとは思っていなかった。こういう時、私は弱い。



「い、嫌だなあ、って思いました。寂しくなって、辛くなって、まだ一緒にお仕事したいのに、まだ一緒に居たいのに、離れて行っちゃうのは、嫌だなあって……」



 ぽろぽろと口から零れ落ちてしまう。確かに思っていたことではあったけれど、こうして口にするのはまた別の話で。まゆちゃんは、「うんうん」と頷いて、微笑んでいた。頬が、耳が、熱くなるのがわかる。



「も、もうっ。まゆちゃんに聞いたんですよっ」

「うふふっ、そうですね。いじわるしたくなっちゃいましたぁ」



 いじわるしないでください、もう。



「……私も、プロデューサーさんが結婚したら、寂しいし、嫌です」



 ぽつぽつと、語り始めた。下を向いて、多分そうなったときのことを考えながら。



「でも、私は、最期の最後まで、諦めません。プロポーズの瞬間を、誓いのキスの瞬間を見届けるまで、まゆは、諦めませんよ」



顔を上げるまゆちゃん。決意に満ちた表情、に見えた。



「それって……」



 そこまで言って、私は、続く言葉を発するのを憚られた。本当に自分がそう考えてしまったようで、怖くなったから。でもまゆちゃんは、まるで私の考えもわかっていたようにかぶりを振って、「結婚を邪魔するわけではないですよ」と答えた。



「プロデューサーさんと私は、もともと結ばれない運命ですから。プロデューサーさんが幸せになろうとしているのを、私は、止めたりできません」



 でも、と続けて、また、私の瞳を見つめるまゆちゃん。茜ちゃんのようにぱっちりはしていないけれど、目尻の垂れたその目を見ていると、まるで吸い込まれてしまいそうな、そんな魔力がある。



「振り向いてもらえるよう、努力することはできます。最後の最後の、最期まで。あの人に振り向いてもらえるまで、まゆは、ずっと、ずぅっと、努力し続けます」



 唇をぎゅっと結んだまゆちゃんの、瞳の奥がきらりと光る。目の前にいるまゆちゃんが、なんだか随分と遠くにいるように感じられた。たとえ本当に、まゆちゃんのプロデューサーさんが結婚することになったとしても、この煌めきは、絶えることがないのだろう、そう思えた。美辞麗句を並べれば表現に事足りるのかもしれない、でも今は、そんなことすら無粋に感じて、何も言うことができなかった。



 電車のドアが開く。しばらく話し込んでしまっていたらしく、見覚えのない駅に到着していた。乗り過ごしてしまったみたいだ。まゆちゃんは「私はここで」と、肩掛けのポーチを掛けなおし、また、にこりと微笑む。



「藍子ちゃんも、もう少し自分勝手でいいと思いますよ」



 えっ、と声が漏れたところで、駅の発車ベルが聞こえた。「それじゃあ」と言って、手をひらひらとさせて、車内から降りていく。まゆちゃんは、私の現状を、知っていたのだろうか? ドアが閉まった後で、とことことこ、と走る姿が窓の外に見えた。まゆちゃんが走る先にいるのは、まゆちゃんのプロデューサーさん、だろうか。確認する前に、電車はホームを通り過ぎて、見えなくなる。



電車の揺れる音が、また私の世界に戻ってくる。降りるべき駅で降りず、稽古に遅刻するかもしれないのに、私は、不思議なくらいに冷静だった。「自分勝手」という単語が、脳の中をぐるぐると廻っている。



 もし私が、自分勝手に、プロデューサーさんに想いを伝えたら、どうなるんだろう。辞めないでいてくれるだろうか。結婚も取りやめてくれるだろうか。……仮にそうだとしても、そんなことされたら、罪悪感につぶされて、もっと酷くなってしまいそう。だから、なんとしてでもあの人には、結婚してもらわなきゃ。あの人の幸せは、あの人のものだ。私が邪魔していいものじゃない。……じゃあ、私の幸せは? 私の幸せもまた、他の人が干渉していいものではないことになりませんか?



 ……やっぱり私は、自分勝手にはなれないみたいです。



 住宅街が、若干の赤味を帯びて、目の前を通り過ぎていく。もう二度と見ないであろう景色が、遠くへ、遠くへと、過ぎ去っていく。




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「……確かにこれで全部です」



 書類を机にとんとんと叩いて揃え、千川さんはこちらを振り向いた。その表情は、なにかを訴えかけるように、口元がへの字に曲がっていた。



「すみません、あとはよろしくお願いします」

「良かったんですか? 本当のことを伝えなくて」



 返答に窮する。本当ならば、アイドルたちに余計な心配をさせないよう、せめて藍子が公演を終えるまで、部署移動することを黙っていようと思っていたのだ。しかし、やはり人の口に戸は立てられぬということか、辞めることは簡単に担当の二人にまで伝わってしまった。それだけならばまだよかったが、藍子は、結婚のことまで知っていたらしい。彼女らには、真相を話すべきなのだろうか。



 千川さんの問いに答えないままいると、彼女は鼻をふんと鳴らして、肩を落とす。



「プロデューサーさん、まだ結婚してないじゃないですか」



 そう言われると少々心苦しい。けどこれは、覚悟の問題だ。他の人にとやかく言われることではない。



「……今日も直帰します。失礼します」



 それだけ言って踵を返し、千川さんのデスクから離れる。背後から「お疲れ様です」と聞こえたが、それが千川さんのものだったのかは、定かではない。



 劇の演出と会議をしたあの日、本来ならば、事前に議題に上がっていた業務的な話だけで終わるはずだった。しかし、会議の終わり際、最近の藍子の不調について訊ねられたことは、寝耳に水であり、かつ、少しばかり危惧していたことでもあった。会議直前に話した藍子から、普段とは似ても似つかないような、おかしな雰囲気を感じたから。次の日、事務所に来た藍子と話をした。何か悩んでいることはないか、と。しかし、やはりというか彼女は、前日と同じように、「大丈夫です」としか答えなかった。本田から直訴が来たのは、その数日後だ。曰く、「あーちゃんが不調になってしまったのはプロデューサーがやめるからです、どうかやめないでください」と。涙目になって必死に訴える彼女に対して、何も言う事ができなかった。嘘でもよかったのだろうか? 公演が終わるまで、やめるわけないだろと、俺は、嘘をつくべきだったのだろうか? ……こういう時、自分の正直すぎる性格が、恨めしくなる。



 今日、ようやく、アイドル事業部を辞めるための書類が揃った。そして先ほど、提出を完了した。事業の大きい部署は、必要な書類が多くていけない。藍子の稽古は午後五時から。そして今、四時五十六分。急いで稽古場に向かったところで間に合わないのは目に見えているが、せめてもの彼女に、なにか声をかけてあげなければ。……何を? なんて言えばいいんだ? 結婚のことについて謝罪すべきだろうか。「結婚はしますが、正確にはこれからプロポーズする予定です、誤解させて申し訳ありませんでした」と。……そんなことを言われた本人からすれば、「どうしろと」としか思えないだろう。結婚を取りやめるか? ……藍子に叱られるだろうな。「私たちのために人生棒に振るつもりですか」と。彼女はあれでいて頑固だから、絶対に譲らない。……そもそも、辞めると決めたタイミングで話していれば、こんなことにはならなかったのだろうか。……後悔したところで、過去がなかったことになる訳じゃない。次にどうすべきかを、考えないと……。



 急いで自分のデスクに戻り、帰り支度を済ませた、その瞬間。耳をつんざくような、ばあん、という音が鳴り響いた。おそらく、事務所のドアが勢いよく開かれ、そのままドアが壁にぶつかったのだろう。たまにこういうことがある。こういう時は大抵、裕子がテンション高めで入ってきたときか、日野や龍崎がドアを開けた時だ。だから、ドアの方を見て、開けた張本人が藍子であることを確認した時は、夢でも見ているのかと錯覚した。



「あ、藍子!?」



 急いで彼女に駆け寄る。どうしてここに? 稽古は? 藍子は、膝に手をついて、肩を上下させていた。どうやら相当走ってきたらしい。過呼吸気味で、息を吸う音がはっきりと聞こえる。



「だ、大丈夫か?」

「ぷっ……ぷろ、でゅーさー、さん……」



 切れ切れになった、小さな声が聞こえる。直後、ごほっごほっと、大きな咳。どう考えても、正常な走り方をしてきたとは思えない。日野や大和とのトレーニングでたまにこういった事態に陥ることはあったが、今藍子の隣には、誰もいない。



「とりあえず少し休め。何があったかはその後――」



 唐突に、顔の前に手がかざされた。藍子の手だ。そして、彼女は手をかざしたまま、何度か呼吸を繰り返したあと、最後にもう一度、大きく息を吸って、吐いて、吸って。顔を上げ、俺の顔を見据えて。「プロデューサーさんっ」と、はっきりした口調で言った。紅潮した頬、輝く瞳。



「お散歩、しませんかっ」




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 お味噌汁の匂いがしますね。お夕飯の支度中でしょうか。あそこの側溝と垣根の間にはタンポポが生えていて、いつも春になれば花が咲くんですよ。一輪だけだけど、それでも、力強く。遠くで子供たちの楽しそうな声が聞こえます。下校途中なのかな。わぁっ、あのおうちから生えている木に、柿がなってます。あんなに大きな実、食べたことありません。美味しいんだろうなぁ。



 いつも以上に饒舌に話す私に、プロデューサーさんは、若干困惑しているように見えた。私、どきどきしているんだと思う。また緊張しているのかな。それとも、お散歩できて嬉しいのかな。あるいは、直前に走りすぎたせいかも。



 ポケットの中のスマホが振動する。確認すると、未央ちゃんからのメッセージ。『これからあーちゃんの出ないシーンの練習! しばらく大丈夫!』。そして、頑張れ! と叫んでいる、等身のおかしな猫のスタンプ。顔は猫の形をして、耳も生えているのだけれど、体は人間そのもの、そして顔も体も真っ白な、猫……みたいな生きもの。思わず、ふふ、と笑みがこぼれる。ありがとう、未央ちゃん、茜ちゃん。



 垣根の上を、黒猫さんが通り過ぎた。私たちが歩く速さよりもずっと速く、細い足場をひょいひょいと歩いていく。……あ、こっちを向いた。真っ黒な肢体をただ一つ裏切る、黄色くて大きな瞳。可愛い。トイカメラを構えようと、バッグの中を覗いたところで、今日は持ち歩いていなかったことに気づく。



「使うか?」



 横にいるプロデューサーさんが、カメラを差し出してくれた。黒い色の、小さなデジタルカメラ。プロデューサーさんよりいくぶん手の小さな私でも、持ちやすく扱いやすい。いつだったか、二人でお散歩した後に、自分用にと買ってきたらしい。「藍子が楽しそうに撮っているのを見て、感化されちゃったな」と。その時のプロデューサーさんの気恥ずかしそうな顔を見て、自分がプロデューサーさんに影響できたことを実感して、なんだか、とても、嬉しく感じたことを覚えている。



「ありがとうございます」



 受け取って初めて気づいた、カメラについた二つのアクセサリー。一つは、私と未央ちゃんでものづくりカフェに行ったときに、プロデューサーさん用に作ったもの。「こんなに可愛いの、俺には合わないだろ」と文句を垂れていたけれど、ちゃんと着けていてくれたんだ。もう一つは、ユッコちゃんが渡していた、スプーンのアクセサリー。夕日にあたってきらきらと輝いてるそれらを見て、私たち二人とも、この人に大事にされていたんだなあって思えて、なんだか、とても、とても……。



 視界の端で、黒猫さんがぴょんと跳んだ。元居た垣根を振り向いた頃には、もうその姿はなかった。



「行っちゃいましたね、黒猫さん」



 残念そうに言ったが、また、声が震えていたかもしれない。プロデューサーさんの顔を見るのが怖かった。……というより、今の私の顔を見られるのが。鼻の奥がつんと痛む。プロデューサーさんは、「ああ」と、一言だけ。



 静寂。一つ先の交差点を、スクーターが横切った。冷たい風が、目元に溜まっていた雫を引っ込ませてくれた。どちらともなく、歩き出す。結婚の話を聞いたときは、沈黙が怖くてたまらなかったのに、今は、とても心地よかった。この沈黙が、もっともっと、続いてほしい。この幸せな時間が、ずっとずっと、続いてほしい。



「プロデューサーさん」



 けれど今、未央ちゃんと茜ちゃんは、私のために、引き延ばしを図ってくれている。急ぐことは苦手だ。苦手だけど、苦手なことが、やらなくていいという免罪符にはならない。



 ん、と言ってこちらを見つめる、その人。鼓動の音が、大きくなる。お腹の奥で燃えている何かが、私の体温を上げる。



 ぱしゃり。借りたカメラで、プロデューサーさんを撮った。画面に映ったのは、急にカメラを向けられて、ちょっとたじろいでいるプロデューサーさん。眉は上がり、口は半開きのまま。その顔がなんだかおかしくて、くすっと、笑ってしまう。



「なんだよ」



 ちょっとばつの悪そうな、でもまんざらでもなさそうなプロデューサーさん。



「ごめんなさい。なんだか撮りたくなっちゃって」



 半分本当。もう半分は、こちらの言葉を待たれて、だけど言葉が出てこなくなってしまったから、カメラに逃げた、だ。



「もう一枚、撮ってもいいですか?」



 人差し指を立ててお願いする。プロデューサーさんは、唇を結んで、困ったような顔をしていた。この人は、カメラを向けられるのが苦手だ。どんな顔をしていいか、わからなくなるらしい。だから、写真を撮っていいですか、と聞くと必ず嫌がるのだけれど、いつも最後には、観念したという感じで了承してくれる。今回も、そうだった。数拍あったあとに、「ああ」と頷いた。



「ありがとうございます。じゃあ……」



 カメラを構える。デジタル式だから、ファインダーから見える景色は手元の画面に映される。画面の中のその人は、笑っているのかよくわからない、微妙な表情をしている。それを見て、ああ、いつものプロデューサーさんだ、と思えて。この人にスカウトされて、アイドルになって、未央ちゃんや茜ちゃんたちに出会って、たくさんレッスンして、たくさんお仕事して、たくさん幸せをもらって……。



 この人は、奥さんになる人のために、忙しさとアイドルから距離をとるのだろう。問いただしてもそんなことは肯定しないだろうけど、きっとそう。だから私も、言わないでおこうと思う。私の気持ちは私の中に、時間が経って取り出した時に、あんな頃もあったなあなんて笑えるように、宝物のように大事にしまっておこう。



「プロデューサーさん」



 だけど、だから、せめて、最後に私は、自分のエゴを、自分勝手を、貫こうと思う。たくさんもらった幸せを、いつか返すことができるように。



 夕日が住宅街の隙間から差し込んでまぶしい。その陰になって、その人の表情は見えなくなった。呼吸を一つ、二つ。心臓が押し上げてくる言葉を無理矢理飲み込み、頭が用意していた言葉を、吸い込んだ息とともに……。



「ずっと、私のプロデューサーでいてください」



 ぱしゃり。




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「……というのが、稽古前にあったことです」



 話し終えて、ふうと息を吐く。隣にいる未央ちゃんと茜ちゃんは、私が話している間、ずっと静かにしてくれていた。



 稽古が終わり、私たちは、電車の沿線に沿って歩いていた。居酒屋さんが並んでいるおかげか、夜でもあまり暗く感じない。人通りも結構多く、仕事終わりの人たちだろうか、スーツ姿の男性が大半だ。



 あの後、すぐに稽古に向かった。稽古は未央ちゃんたちに頼んで、私のいないシーンの練習をしてもらっている、と正直にプロデューサーさんに伝えたところ、こっぴどく叱られた。どうしてそれを先に言わないんだ、と。稽古は六時から、と嘘をついた手前反論することもできず、お叱りを甘んじて受け入れた。だけどそのあと電車の中で、正確にはまだ結婚していなくて、これからプロポーズする人に、覚悟を見せるため部署を移動する、という旨を伝えられた時には、私が叱った。そんなこと今更言ってどうするんですか、今言うくらいだったら最初から言えばよかったじゃないですか、広まった後に振られたら恥ずかしいって振られる訳ないでしょう何言ってるんですか、と。普段の私だったらこんなに言わなかったかもしれないけれど、その時はかなりカチンときて、でもそのカチンときたのも、なぜか、心地よくて、幸せだった。



 しばらく黙って、三人で並んで歩く。右側から未央ちゃんが、私の顔を覗き込んだ。



「あーちゃん、大丈夫……?」



 今にも泣きだしてしまいそうに、目がうるうると輝いている。私は、「大丈夫」と答えかけて、思い直した。プロデューサーさんの言葉が、脳裡をよぎったから。



「……ごめんね。なんだかちょっと、もやもやしてる」



 苦笑いで、本音を伝える。



 未央ちゃんの「大丈夫」が意味しているのは、公演のことではないことは分かっていた。やりきったという自覚はあるし、元通りとはいかなくても、ちゃんと幸せを表現することはできた。シーンを削るか否かについては、私たちが帰った後に話し合うらしい。今もその話し合いが行われているのだろうか。どちらにしても、明日わかることだ。



 また、沈黙する私たち。二人にはたくさんお世話になった。だからせめて、二人を落ち込ませたくなかった。なのに、心配しなくて大丈夫だよ、と表現する言葉は浮かべども、今の私がそれを口にしてしまったら、途端に効力を失うような気がして。むしろ、さらに二人を不安にさせてしまう気もして。発すべき言葉を必死に探していたから、左隣で茜ちゃんが「走りましょうっ!」と叫んだ時には、びくっとして身体が縮こまった。



「もやもやしてるときは、走るのみですっ! ほら、藍子ちゃん!」

「え、えぇっ?」



 「うおおおおおおお」と叫びながら、街頭とお店の明かりに照らされた道を走って行ってしまう。茜ちゃんは、人通りの中を泳ぐのが得意だ。小柄な体で減速せずに、すいすいすいと進んでいく。ただ、泳がれるのが得意な人は、多分いない。茜ちゃんが横を通り過ぎると、もれなく皆さんびっくりして、態勢を崩してしまったり、声を漏らしてしまったり。後ろの私たちを振り向く人もいた。あぁ、皆さん、ごめんなさいごめんなさい。



「あ、茜ちゃん、周りの人に迷惑だから――」

「おりゃあああああああ!」



 さらに違う叫び声が聞こえて、またびっくりしてしまった。未央ちゃんだった。茜ちゃんを追いかけて、どんどん走っていく。そんな、未央ちゃんまで。だけど、未央ちゃんは途中で止まって振り向くと、目尻を拭って、「あーちゃん!」と叫んだ。



「私たちは、どんなになっても、ずっとあーちゃんと一緒だから!」



 いたずらっぽく、歯を見せて笑う未央ちゃん。



「私たちはずっと、あーちゃんを待ってる、あーちゃんと並んでる! どんなにあーちゃんがゆるふわしてても! それが、私たちだから!」



 遠くで止まった茜ちゃんが、両手をぶんぶんと振って、私の名前を呼んでいる。通りがかった人がのけぞるぐらいの大声で。稽古中は感じなかったのに、また、胸の奥がきゅうっとして、でもこの痛みも心地よくて。足元を見つめて、風が冷たくて、冷たいから、鼻をすすって、私は……私は。




 私の最後の自分勝手に、プロデューサーさんは戸惑っていた。辞めると言っているのに、ずっとプロデューサーでいてください、なんて言われたら、困っちゃうのも当然だ。



「……俺は、辞めるんだぞ?」

「それでもです」



 ふふっとはにかむ私。わからなくてもよかった。これはただの、私の意思表示だったから。けれどその人は、数秒後には「わかった」と返してきた。きっと、何もわかっていない。そんな顔を、しています。



「本当にわかりました?」

「……言わないとわからないことだってあるんだ。言うべきことは、ちゃんと言うんだぞ」



 はい、ごめんなさい。でもそれは、プロデューサーさんだって同じでしょうに。不満の一つでも言ってやりたいと思った、けど、それよりも、正直に言ってくれたことのほうが、ずっと嬉しくて。ずっと胸の奥を締め付けていたものが、するすると緩んで解けて、ようやくプロデューサーさんに、笑うことができた。



「……はい。わかりましたっ」



 私は、プロデューサーさんが好きだった。その好きには、きっと、いろんな、たくさんの意味が含まれていたんだと思う。先生みたいな、恋人みたいな、親子みたいな、そんな、たくさんの「好き」が。あの人に、褒められたり、叱られたり、心配されたりして、あの人と、他愛のないお話をしたり、お散歩したり、笑いあったりするのが、嬉しくて、楽しくて、幸せで。……辞めるとわかって、辛かったんだと思う。ずっと一緒だと思っていたあの人と、もう一緒にいられないんだって。結婚するとわかって、悲しかったんだと思う。他の誰かのもとに行ってしまうあの人に、私の「好き」は受け入れてもらえないんだって。



 だから私は、最後に、自分勝手をお願いした。私の「好き」は、届かなくてもいい。ただ、プロデューサーさんがプロデューサーを辞めても、私をプロデュースして良かったと、誇りに思えるように。あの人からたくさん貰った幸せを、あの人にたくさん返せるように。私は、立派なアイドルに、立派な大人になります。今はまだまだ、駆け出しの、子供だから、どれだけ時間がかかるか分からない。それでも、どれだけゆっくりでも、絶対、絶対、絶対に。だから、それまで、どうか、ずっと、


「わ、わあぁぁぁぁぁぁっ」


待っててくださいね。私の、プロデューサーさん。


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うたはさんから
2019-02-15 21:20:48

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