2023-05-07 00:48:26 更新

概要

ご意見、ご批判をいただきたく投稿しました。


一、


 


 


男は決して優秀ではなかった。


 


いや、この言い方は適切ではないかもしれない。


優秀さとは基本、他者との比較で決まるものだから。


であるなら、男は所属するコミュニティの中では優秀ではないと言うべきか。


だが、男は世間的には優秀だろう。


中央トレセンでトレーナーとして勤務していること。それは、優秀と判断されるには十分な理由だ。


ともかく、男にとっては不幸なことに、男の職場は彼よりも優秀な人材で溢れていた。


故に、男のキャリアは決して華々しいものではなかった。


 


だが、男は真摯であった。


自分の担当と向き合い、彼女らが勝てるよう時には寝ずに真剣に考えた。


休日もそこそこに、身銭を切ってトレーニングの準備をしたこともあった。


 


だが、粉骨砕身したからといって必ず勝てるわけではない。


勝つことのできぬ、その責任は果たしてどこにあるのだろう。


担当バの才能か。


あるいは、競った他のウマ娘の暴力的なまでの才能か。


はたまた男の能力か。


時の運やもしれぬ。


 


理由はあるのだろう。


負けに不思議の負けなし。


そんな名言もある。


だが、それを見つけるのはとても難しい。


少なくとも言えるのは、男一人の責任ではないことだけか。


 


しかし、男は真摯であると同時に、優しくもあった。


 


男の担当と競ったウマ娘。


あれはまさしく強者であった。


生まれながらにして強者であり、勝つことが目的ではなく過程のようなウマ娘であった。


 


「相手が悪かった。」


「勝てなくても仕方がなかった。」


 


その言葉を言えたらどれほど楽だったろう。


男は言えなかった。


その言葉を言ってしまえば、お前は相手に勝てなくて当然と、誰あろうトレーナーが認めることになると。


 


事実はどうあれ、男はそう考えていた。


故に男は、負けた理由をすべて自分のせいだと考えるようにした。


そうすると幾分、心は楽になった。


お前は悪くないと。悪いのは俺だと。


担当に言い聞かせ、捲土重来を期した。


 


しかしそれでも、勝てぬときは勝てぬ。


男はまた、自分の責任だと考えた。


今度は考えようとしたのではなく、自然に自分のせいだと考えた。


 


中央においては勝ち続ける者の方が稀有だ。


負けは決して珍しくない。


しかし男は、負けを全て自らの責任とした。


その方が楽だったのかもしれない。


何も考えなくてもよいから。


担当に厳しい言葉をかけなくても良い。


だがそれでは何の解決にもならぬ。


 


或いは、男が優秀でない理由はそこにあったのかもしれない。


 


ともかく、男は次第に、全てを己のせいと考えるようになった。


そういう意味で、男は強くなかった。


 


真摯で、優しく、されど弱い男が劣等感に苛まれるようになるのは自然といえるだろう。


 


 


二、


 


 


男は選抜レースに来ていた。


現在、男に担当はいなかった。


 


少し前に担当していた二人はこの間卒業した。


G1を取るには至らなかったものの重賞を幾つか取り、男に感謝を述べて羽ばたいていった。


男は礼こそ受け取ったものの、自分のお陰とは微塵も考えていなかった。


 


彼女らは、男の担当した中では、かなり良いところまで行ったウマ娘といえるだろう。


もちろん、この子らのような例ばかりではない。


男の担当の中でも、夢半ばにして学園を去ったものも-ーーその子らを見て、男はまた責任と劣等感に苛まれるのだがーーー当然いる。


 


とまあそんな担当がいない状況で、男は選抜レースに来ていた。


 


男もトレーナーの端くれ、事前に注目ウマ娘の噂を耳にしているし、書類も目にしている。


しかし、男はそういったウマ娘を自分が担当できないことをよく理解していた。


優秀なウマ娘は優秀なトレーナーがスカウトし、自分のようなトレーナーは残った者に声をかけることを弁えていた。


男はなかなかに現実主義者だった。


 


男はレースの三着四着、或いはそれ以下の者に絞ってレースを見ていた。


三着四着のウマ娘にスカウトを断られることも、男にとっては少なくなかった。


声をかけるウマ娘をある程度決めた男は、残ったレースをぼんやりと見つめていた。


 


残りは最終レースのみ。


だが、周囲は大いに盛り上がっている。


ぼんやりしていた男も盛り上がりに少し興味を引かれ、出走表を取り出す。


 


ああこの子か。


 


男は得心する。


おそらく周りが騒いでいるのは、このグラスワンダーという子のせいだろう。


男もその名を聞いたことはあった。


なんでもアメリカからやって来た、かなり有望な子だとか。


 


男は栗毛の、穏やかなウマ娘を見やる。


なるほど、前評判に違わず相当な実力を持っているらしい。


男は優秀でないとはいえ、それくらいを判断する能力はあった。


 


だが、興味があるかと言われれば別だった。


彼女のようなウマ娘が男のスカウトに応じることはなかったし、これからもないだろうから。


男が最終レースを気にかけていなかったのも当然だ。


彼女の名前を事前に見ていても、自分とは関係のないことだと思っていたのだから。


 


きっとだれか優秀なトレーナーが彼女をスカウトするのだろう。


 


そう思い、男はまた興味を失ったのか、ぼんやりとレースを見つめていた。


周りのトレーナーはこの風変わりなトレーナーに構うことなく、グラスワンダーを熱心に見つめていた。


 


 


なお、その栗毛のおっとり娘は二着だった。


 


 


 


三、


 


 


グラスワンダーがすべてのスカウトを断っている。


 


男がその噂を耳にしたのは選抜レースが終わってまもなくだった。


 


カフェテリアで飯を食いながら男は、はてと首を傾げる。


二着とはいえ、彼女の実力は十分に示されたはずだ。


トレーナーたちは放っておかないだろう。


それに、基本的にウマ娘は早くトレーナーをつけ、レースに向けた本格的なトレーニングをしたがるものだ。


男のキャリアは長いとは言えないものの、優秀なトレーナーのスカウトまで断る風変わりなウマ娘なぞこれまで聞いたことがなかった。


 


男は久しぶりに、いわゆる「強者」のウマ娘に興味が湧いた。


 


まあ、だからといってどうするわけでもないが。


自分より優秀なトレーナーが声をかけて断られたのだから、自分が声をかけてもどうしようもないことを男は理解していた。


 


やはり男は、現実主義者であった。


 


そんなことより男にとっては、先日目星をつけたウマ娘に声をかけることが重要な関心事であった。


 


グラスワンダーのスカウトの話を、男は夕飯まで覚えていることはなかった。


 


 


 


 


四、


 


 


男はぶらぶら散歩していた。


散歩するにはうってつけの、晴朗な日であった。


だが、男は曇りの方が好きであったので、さんさんと輝く太陽をうざったそうにしている。


 


なぜ男は散歩しているのか。


いや、休日に何をしようと勝手ではあるのだが、以前までであれば男は担当ウマ娘のトレーニングに四苦八苦していた。


しかし今、男に担当はいない。


数人にスカウトをしたが、そのうち数人には断られ、数人には保留にされた。


故に男は今、待つことしかできない。


つまりは、暇だった。


 


とはいえ何も考えなくてもよい休日は男にとって久しぶりだった。


幾ばくか早くおき、何をしようか考えたが特に思い付かなかった。


男は少し、落ち込んだ。


だが家でなにもしないよりはいいだろうと、近所をぶらぶらと歩いている。


人間は何か待っているときにじっとしているのは苦手なものだと、男は常々思っていた。


 


あてもなく歩いていると、いつの間にかとある公園にいた。


わりと大きく、学園のウマ娘もよく見かける公園である。


今日も、学園で見たことがある顔がちらほらしている。


男は自販機でコーヒーを買い、近くのベンチに腰かけてぼーっと遠くを見つめていた。


 


すると、学園指定のジャージに身を包んだウマ娘がいることに気づく。


 


休日にまで熱心だなぁ。


 


と男は思うが、その栗毛の影をみてふと思い出す。


あれは、件のグラスワンダーではないか、と。


男は数日前の昼飯時ぶりに、彼女のことを思い出した。


そして、自分が興味を持っていたことも思い出した。


 


人間は時に、普段なら絶対にしないようなことをしてしまうときがある。


繰り返すが、男は暇であった。


特に深い理由はなく、彼女と話をしてみたいと男は思った。


 


そうと決まればと、男は缶コーヒーを飲み干して潰そうとしたがスチール缶のためできず、苦々しい顔で缶をゴミ箱に捨てて少女の方に向かった。


 


 


 


五、


 


 


やあ、


と男が声をかけると、栗毛の少女は不審げに向き直った。


 


どなたでしょう。


と少女はいきなり話しかけてきた男に尋ねる。


 


不審そうに自分を見る少女を見て、通報されてはかなわないと、男はトレーナーであることを明かす。


すると少女は、


 


あら、失礼しました。初めまして、トレーナーさん。


と笑顔でトレーナーに返す。


随分と大人びた子らしい。


栗毛の少女は続ける。


 


「私はグラスワンダーと申します。何かご用でしたか?」


 


「いや、たまたま散歩に来たら君がトレーニングしている様子を見てね、興味本意で話しかけてみた。おや、自己紹介がまだだった。トレーナーの○○と言う。よろしく。」


 


「よろしくお願いいたします。少し驚きました。最近私に話しかけて下さるトレーナーさんはみな、スカウトのことばかりだったので。」


 


グラスワンダーは意外そうに話す。


自惚れでも何でもなく、彼女にとって見知らぬトレーナーに話しかけられるとはすなわちスカウトということなのだろう。


 


「いやいや、君のような優秀な子、俺のようなトレーナーはスカウトなぞできないよ。今だって、担当がいないからぶらぶらしてたんだ。」


 


おっとりとした彼女の雰囲気に当てられたのか、男は普段より饒舌に話す。


 


「あらあら、ずいぶん謙遜されるのですね。では、スカウトでないとしたらどんな御用でしょう?」


 


「いや、スカウトの話と全く関係ないないわけではないんだがね、君がスカウトを断っていると耳にしてね。事実なら、なぜだろうと思っているんだ。気を悪くしたらすまない。だが、単純な興味なんだ。」


 


男の興味はその一点に尽きた。


彼女は自分とは違って才能がある。


更に、自分とは比べ物にならない優秀なトレーナーに声もかけられている。


それなのになぜ、彼女は?


男は疑問に思った。


純粋な気持ちだけではない。


自分の中に鬱積する黒い感情が、強者に対する鬱結が漏れ出そうになるのを抑え、男はつとめて笑顔で話した。


 


そんな男を見て彼女は一瞬、すっと目を細めた。


しかしすぐにもとの様子に戻り、いつものおっとりした様子で話す。


 


「それは、申し訳ありませんが、自分の問題としか言えません。」


 


彼女はやはり大人びているらしい。


男は、彼女が本心を明かさないであろうと確信した。


そして、これ以上の会話で求める答えを彼女が自分に与えないことも確信した。


 


「そうか。練習の邪魔をしてすまなかったな。」


 


「いえいえ、とんでもありません。私もよい休憩になりました。」


 


「そう言ってもらえるなら、幸いだ。怪我には気を付けるんだよ。」


 


男の興味は尽きた。


話してもらえないのなら、別によい。


男にとってその程度だったのだろう。


切り上げて飯でも食べに行こうとすると、


 


「本当にスカウトをなさらないんですね。」


 


とグラスワンダーの方から尋ねてきた。


男は少し驚き、やや意地の悪い返しをする。


 


「まあね。それとも君。今、君をスカウトしたら君はそれを受けてくれるのかい?」


 


男はそんなことは露にも思っていなかった。


目の前の彼女は、そんなウマ娘でないだろうことは一目見てわかっていた。


それに、スカウトする気は本当になかった。


 


「受ける、といったらどうするんですか?」


 


グラスワンダーは少し挑発的に返す。


なんだ、大人びていると思ったら、年相応のところもあるじゃないか。


男は笑いを堪えきれず、少し吹き出してしまう。


 


「いや、ないね。今日君をみて、スカウトを受ける気がないことくらいは俺でもわかる。それにどうやら、君は周りが言うようなウマ娘ってわけでもなさそうだ。」


 


男は優秀ではないが、人の機微にはなかなかに敏感であった。


いや、男が劣等感を抱えているからこそ敏感なのかもしれない。


ともかく、男はグラスワンダーへの認識を改めた。


 


男の発言に、グラスワンダーはまた目を細めていた。


 


「あら~。どうしてそう思われるのですか?」


 


彼女は自分を律しているつもりなのだろう。


それがまた、男の笑いを誘った。


 


「いや、なんでもないよ。忘れてくれ。時間をとらせてすまなかった。俺も陰ながら応援しているよ。」


 


男は、強者の仮面の下をのぞけただけで十分だった。


また男は、強者に長く関わるとろくなことが起きないことも知っていた。


男は引き際を弁えていた。


何か言いたそうにするグラスワンダーを無視して強引に話を切り上げ、男は機嫌よさげに帰路についた。


 


 


グラスワンダーは変わらず、目を細めて男を見送っていた。


 


ざりざりと、地面をかく音が聞こえた気がした。


 


 


 


 


六、


 


 


男は困惑していた。


なんでも今朝、理事長室にグラスワンダーが現れて男をトレーナーにしたいと言ったそうなのである。


そう伝える目の前の理事長秘書も困惑した様子である。


男はなぜかと尋ねるも、秘書もわからないらしい。


わかっているのは、グラスワンダーが男を逆指名していることだけだった。


 


兎も角、男は彼女に再び会うはこびとなった。


先日とは一転、男は気まずそうにしてグラスワンダーに向かう。


理事長とその秘書は当たり障りのないことを言って出ていってしまった。


この部屋に残されているのは、気まずそうな男とニコニコしているウマ娘だけであった。


 


「こんにちは、トレーナーさん。」


 


「ああ、こんにちは。ええと…どうして俺を?」


 


男は目の前の少女が何を考えているか分からなかった。


この学園の会長ならつかみどころのない言葉で腹を探ろうとするのだろうが、生憎男は弁が立たない。


言葉を選べば、朴訥であった。


故に、男は素直に聞くことにした。


 


「トレーナーさんは先日、私の質問に答えてくださりませんでした。」


 


相変わらずニコニコしているグラスワンダーは意趣返しをしたいのか、男の質問に取り合わない。


男はほとほと困ってしまった。


 


「なあ、グラスワンダー。この前の俺と君のおしゃべりとは訳が違うんだよ。聡い君なら分かっていると思うが、君の人生を左右する重大な選択なんだ。この前の俺の態度が気にくわなかったのなら謝る。」


 


男は困り顔でグラスワンダーに言う。


だが、その様子をみて栗毛の少女はますます笑みを深める。


 


「もちろん、もちろん分かっていますとも。それに、私は怒ってなどいないのですよ。むしろその逆です。ねぇ、トレーナーさん。可笑しな話ではないですか?今トレーナーさんに担当がいないのはうかがっています。こんなにお膳立てされてなお、なぜ貴方は私をスカウトしないのですか?」


 


私、結構スカウトされてるウマ娘なんですよ、と付け足しながら彼女は言う。


いや、まったくその通りである。


 


男に色よい返事をしたウマ娘はまだいなかった。


故に、男にとっては願ってもない申し出のはずである。


しかも相手はそんじょそこらのウマ娘ではない。


あのグラスワンダーなのだ。


一流トレーナーも血眼になって彼女を担当にしようと欲する、あのグラスワンダーなのだ。


もちろん、男も彼女の才能の片鱗を目にし、認めている。


 


だからこそ、だからこそ男は理解できなかった。


なぜ自分なのか。


男は現実主義者であると同時に、いや、だからこそ、自分の実力をよく理解していた。


故に理解できない。目の前の少女が。


彼女がより良いレース人生を歩むなら、自分という選択肢は除外すべきものだと男は分析していたし、それは客観的にも正しいのだろう。


男は困り果てた。


 


「なあ、もちろん申し出はありがたい。俺も君のようなウマ娘に声をかけてもらえるなんて光栄だよ。だが、なぜなんだい?なぜ、俺なんだい?」


 


男は尚も尋ねた。


もちろん、心当たりはある。


というか、彼女と話したのはあの晴れた日だけだったから、そこで彼女の何かに触れたのだろう。


だが、男にそれ以上は分からなかった。


 


「トレーナーさんが以前の質問に答えてくれるなら、私も答えましょう。」


 


男は頭を抱えた。


やはり、この栗毛の少女は周りが言うようなウマ娘でないと改めて思う。


恐らく彼女は本当に、男から満足のいく答えを聞かなければ、口を開かないのだろう。


 


「なんとういうか、やはり、君はすごいな。」


 


男は少し呆れながら、彼女を褒めた。


すると彼女はまた嬉しそうに目を細める。


皮肉にも動じず、ニコニコとしている。


 


「お褒め頂きありがとうございます。して、お聞かせ願えますか?」


 


男は苦笑した。


目の前の少女は許可を求めている口ぶりだが、言外に話せと言っていた。


だが、男にとってその理由を口にするのは憚られた。


それを口にするのは、己の醜い劣等感をさらけ出すに他ならないのだから。


目の前の生徒に、黒い感情を明かさない程度の常識が男にはあった。


 


「悪いが、それは言えない。なあ君、このままだと俺は本当に君と担当契約を結んでしまうぞ?目の前のトレーナーが勘違いしないうちに、はやく戻りなさい。」


 


男は彼女を脅した。


契約するぞと、無能がお前と契約するのだぞと、本当は言ってやりたかったがそれでは本末転倒だ。


男は願った。


目の前の少女が、あら残念。とでも言い残して部屋を立ち去るのを。


だが悲しいことに、男は少女がそんなに簡単でないことをよく理解していた。


グラスワンダーはますます嬉しそうだ。


男は嫌な予感がしていた。


 


「勘違いしていただいて結構ですよ。私はあなたと契約を結びたいのですから。」


 


男は天を見上げた。


もう、逃げ道はなかった。


 


その日、栗毛の少女と冴えない男が契約を結んだと学園では話題になった。


 


 


じゃじゃウマ娘め…


男は書類を記入しながら、少女に聞こえないよう呟いた。


栗毛の少女は相変わらず、ニコニコとしているだけだった。


 


 


 


 


七、


 


 


やはりと言うか、グラスワンダーは強かった。


もちろん男も出来る限りを尽くした。


睡眠時間を削り、常にグラスワンダーの勝利を考えた。


男は未だ、真摯であった。


もちろんそれは周囲の圧力ーーーこんな才媛を勝たせられなかったらーーーというのもある。


男は胃をやられかけた。


だが、男は担当したからには勝たせなくては、と本心から思っていた。


それはグラスワンダーだからではない。


どんな子でもそう思っただろう。


 


そんな心配を他所に、グラスワンダーは勝ち続けた。


涼しげな顔で、まるで勝つのが当然とでも言うように。


その度に男は自分の存在意義を問うた。


自分などいなくても、この少女は勝ち続けるのではないか?と。


 


「おめでとう。流石だ、グラス。」


 


「ありがとうございます~。トレーナーさんのお陰ですよ。」


 


「なあに、すべて君の実力だよ。」


 


男は、尚も滲み出る己の劣等感から目を背けた。


男の担当は負けなかった。


男は、自分のせいにすべき敗北を失った。


故に男は、劣等感に苛まれずに済むはずだ。


しかし尚、いや以前より、男は劣等感に苛まれるようになった。


 


知ってか知らずか、グラスワンダーはトレーナーさんのお陰ですよ。と繰り返した。


その度に劣等感に苛まれる自分を、男は嫌っていた。


 


 


 


 


 


八、


 


 


 


意外にも、男とグラスワンダーの関係は良好であった。


トレーナーの性か、男はどんどんとグラスワンダーにのめり込んでいった。


 


やはり彼女は強かった。


レースもそうだが、精神と言うか、心も強かった。


曲げぬことは曲げぬ。


練習に不満があれば口を出す。


だが、納得すれば素直に従った。


 


男は彼女との時間を好むようになった。


自分の考えたメニューに口を出されることをひどく嫌うトレーナーもいる。


だが、少なくとも男はそうでなかった。


可笑しな話だが、口を出されたり説得したりする日々は男にとって心地よかった。


そうしている間は、なんだか彼女と対等な立場のような気がして少し、劣等感から解放された気がした。


 


男は彼女の高潔さに引かれた。


男にはないものだったから。


強く、気高く、そして強者であった。


男は彼女が自分とは全く異なる存在であることを理解していた。


どんなに手を伸ばしても届くことがないことを理解しているはずだった。


それでも、手を伸ばせば届きそうな輝きが彼女であった。


故に、手を伸ばさずにはいられなかった。


 


彼女は謙虚であった。


彼女は驕らなかった。


男が褒めると彼女はやはり、トレーナーさんのお陰ですから。と口にする。


いつのまにか、男は最初ほど劣等感を感じなくなっていた。


それどころか、彼女の口から自分のお陰であるという言葉を聞くと、心が安らぐ気すらした。


その安らぎに、多少の劣等感はもはや香辛料に過ぎなかった。


 


男はますます、グラスワンダーにのめり込んでいった。


 


 


時には対等な友人のように。


時には慈悲を与える女神のように。


時には劣等感を与える悪魔のように。


男にとってもはや、グラスワンダーはただの担当バではなくなっていった。


 


 


更に男は、グラスワンダーにのめり込んでいった。


寝食を忘れ、トレーニングやレースのことを考え続けた。


 


 


グラスワンダーはそんな男を見て、口を三日月に歪めるのだった。


 


 


 


 


九、


 


 


グラスワンダーが骨折した。


そんな報せが飛び込んだのは、桜の蕾が膨らみ始めたころであった。


 


まさか、と男は思った。


しかしどんなに疑っても、事実は変わらなかった。


最近、少し様子がおかしかったから念のためと病院を訪れた結果であった。


グラスワンダーは大事をとり、暫く入院することになった。


 


男は酷く取り乱した。


グラスワンダーにはそんな姿こそ見せなかったものの、彼女がいないときはひたすら彼女に赦しを請うた。


久方ぶりに、劣等感に押し潰された。


他のトレーナーが、自分のことを責めているように感じた。


学園にいるときは、ありもしない陰口に怯え続けた。


帰り道は、通りすがる人がこちらを見ているのではないかと感じた。


家に帰っても心は休まらず、十分に睡眠をとれない日が続いた。


彼女に捨てられる夢も見た。


男は日に日に弱っていった。


 


そんなある日、男はふと思い立った。


グラスに会いに行こうと。


ここ数日は病院に会いに行けていなかった。


彼女が寂しがるとは思えないが、担当トレーナーとして彼女の容態を確認するのは責務だろう。


 


あれこれ理由をつけたが、男は彼女に会いたかっただけなのだろう。


或いは、どうしようもない現実が、彼女と会うことでどうにかなると思い込んでいたのかもしれない。


 


男はふらふらと、救いを求めるように病院へ向かった。


 


 


 


 


十、


 


 


グラスワンダーは笑顔で男を迎えた。


無機質な病室に佇む彼女は、芸術品のように幻想的であった。


男は現実主義者だったが、彼女の前では幻想を見続けていた。


彼女が幻想を見せ、惑わせるならそれでも構わなかった。


むしろ、その幻想に惑っていたかった。


男の考えは破滅的で、倒錯的だった。


 


やつれた様子の男を栗毛の少女はじっと見つめる。


少女はいつの間にか、無表情であった。


いや、表出する感情を押し込めているようでもあった。


ともかく、少女は無表情であった。


 


男は、何を話そうかすっかり忘れていた。


彼女が無表情だから焦っているのではない。


きっと、彼女がそこにいる喜びに震えていたのだ。


しかし、男は自分の感情に気が付かない。


いや、気づかぬふりをしているのか。


 


見舞いの品を持った男は、ようやく彼女の隣に腰をおろすことを決心した。


 


男が腰をおろしても、グラスワンダーはなにもしゃべらなかった。


男が話すのを、じっと待っていた。


 


いつものニコニコとした彼女とは違う様子に、彼は何を話せばよいかさらにわからなくなった。


男は、彼女のことを理解しているつもりでいた。


 


そういえば、他のトレーナーは彼女のことをおっとりしているとか、闘争心がないとか言っているらしい。


男は鼻で笑った。


この学園に来て初めて、優越感を持った瞬間かもしれなかった。


男は本当の彼女を知っているのは自分だけでいいとすら思っていた。


 


だが、日頃は分かっているつもりでもいざとなると自信がなくなった。


 


迷った挙げ句男は、具合はどうか、と尋ねた。


彼女は、それなりです。と答えた。


 


再び、沈黙が場を支配した。


男には言いたいことがたくさんあった。


何かを言い切ることで、全てを投げ出したかった。


 


だが、疲れきった男でもそれがよくないという判断くらいはできた。


 


グラスワンダーは男を見つめている。


その透き通った青い眼に見つめられると男はいつも、自分の全てが見透かされているのではないかと恐れた。


自分の醜い感情を見られているのではないかと。


もっとも最近は、それでも良いと思い始めているのだが。


 


見かねたのか、グラスワンダーがついに均衡を破った。


彼女は、何か言いたいことがあって来たのではないですか、と尋ねた。


図星であったが、男は何も言わない。


グラスワンダーは続けた。


 


「私も、トレーナーさんに言いたいことがあったんですよ。」


 


その言葉に、男はびくりと震えた。


あぅとか、あぁとか、言葉にならない言葉を発している。


男はひどく恐怖していた。


この栗毛の少女が、自分を捨てるのではないかと。


今度こそ、優秀なトレーナーの元に行ってしまうのではないかと。


男は、過去の担当が自らのもとを去った時を思いだし、震えていた。


 


そんな男を、グラスワンダーは歪んだ表情で見つめる。


透き通っていた瞳は暗く濁り、顔を紅潮させて男を見ている。


少女は続けた。


 


「でも、先に、トレーナーさんから話していただけませんか。」


 


もはや男に、正常な判断力は残っていなかった。


 


 


 


 


十一、


 


 


グラスワンダーがその男を認識したのは、ある天気のよい日であった。


己の走りを許せず、トレーナーたちからのスカウトを断り続けて自らを律しようとしているなか、とある男がのうのうと声をかけてきた。


 


いきなり声をかけてきた男を不審に思ったが、聞くとトレーナーであると言う。


彼女は、またか。と内心で悪態をついた。


もちろん態度にはおくびにも出さないが、彼女はここ最近のトレーナーたちのアプローチを快くは思っていなかった。


そのトレーナーたちが、彼女のことをおっとりしているだとか闘争心がないとか言っているのも滑稽に思えた。


貴方のことを一番に考えている、といったことを何度も耳にしたが、自分を闘争心がないと評するトレーナーにそういわれてもいまいちピンと来なかった。


 


闘争心がないと、友人であり同室のエルコンドルパサーが聞いたらどう思うだろうか。


…想像したらなんとなく腹が立ってきたので、今夜エルはしばくとして。


 


グラスワンダーとしては、どうせスカウトに来たであろう男に断りを入れ、またトレーニングに戻ろうという気しかなかった。


この時点で、彼女は男に全く興味がなかった。


 


だが、男にスカウトをするつもりはないのだと言う。


グラスワンダーは少し、興味をひかれた。


少しくらいなら、話してもよいかと思った。


 


なんでも男は、自分がトレーナーからの誘いを断り続けていることに疑問を持っているらしい。


まあ、もっともな疑問だ。


彼女としては、その事を尋ねる男に暗い影が差す方が気になるが。


だが、彼女はそれに答えるわけにはいかなかった。


曖昧に誤魔化すと、男は興味を失ったのか帰ろうとする。


 


本当にスカウトしないのか尋ねると、男は意地悪そうにスカウトしたら受けるのか、と尋ね返してきた。


受ける気などさらさら無かったが、受けるといったらどうするのかと尋ねてみた。


 


すると男は堪えきれないといった感じで笑い始め、自分を周囲が言うようなウマ娘ではないと言い出した。


初対面の相手にずいぶんな態度だが、彼女の心はどくんと跳ねた。


この不躾な男のことを、もっと知りたいと思った。


 


しかし、男は答えをはぐらかして愉快げに帰っていった。


彼女にとってそれは堪らなく不快だったが、同時に強く魅かれた。


この男ならあるいは、と、心の中で思った。


 


グラスワンダーは、トレーナーが誰でも同じであるとは全く思っていなかった。


しかし、どんなトレーナーのもとでも己が覇道を極める覚悟と自信があった。


 


少女はその日一つ、決心をした。


自分を少しでも理解した男を、不躾で面白い男を、彼女は逃すつもりがなかった。


 


自身の右足が地面をかいていることに気がついたのは、男が去ってしばらく経ってからだった。


 


 


 


 


十二、


 


 


グラスワンダーが男と半ば強引に担当契約を結んでからしばらくたった。


 


彼女は勝ち続けた。


周囲はそれを彼女の実力だといって褒め称えたし、彼女のトレーナーもそうであった。


だが、そういったときトレーナーの目が黒く澱み、一際暗い影が差すのを彼女は見逃さなかった。


 


彼女が男の劣等感に気がつくのは時間の問題であった。


彼女がトレーナーのお陰と言えば、彼はまた黒い影を身に纏う。


彼は、そんな自分を隠し通せていると思っているようだった。


グラスワンダーは、そんな彼を見るとなぜか無性に心がかき立てられた。


そんな彼の様子がいじらしく、愛おしくて堪らなかった。


倒錯的な感情だと分かってはいたが、自分を唯一理解した男の弱さに、彼女もまたのめり込んでいった。


 


最近の彼は、以前より劣等感を感じなくなっているようだった。


グラスワンダーはその事に不満を持っていなかったし、むしろ初め契約を結ぶのすら渋った彼が自分にのめり込むのを感じて、悦びすら覚えていた。


 


唯一不満があるとすれば、男がグラスワンダーを何か遠いもののように認識していたことだ。


彼は自分を、なんだか神聖視している節があった。


グラスワンダーとしてはあの時自分を理解してくれたように、自分を、グラスワンダーそのものをみてほしかったが、当面は彼が自分の方を見ているだけで満足した。


 


さらに彼女は、男がグラスワンダーのために身を削り、自分の言葉で安らぎを得ているだけで心の昂りを抑えることができなくなっていった。


 


 


ーーー骨折が判明したのは、そんな時だった。


 


 


 


十三、


 


 


グラスワンダーは、骨折に対して冷静だった。


幸いそこまで重症でないし、リハビリをすればレースには十分戻れる。


彼女はリハビリに耐え、再び鍛錬を積むだけの心構えがあった。


しかし、彼女のトレーナーはそうもいかなかったようである。


彼女の前でこそ平静を保っていたが、その実酷く憔悴していることをグラスワンダーは見抜いていた。


 


そして、ことトレーナーにおいては、彼女は冷静ではなかった。


彼女を安心させようと気丈に振る舞う男を見たとき、えもいわれぬ震えが体を走った。


見舞いに来た友人から、学園でのトレーナーの様子を聞いて思わず口を歪めそうになった。


彼が、一人でどんな感情を背負っているか。それを想像するだけで胸が高鳴り、脳は甘く痺れた。


 


彼女は待った。


男が限界を迎え、この病室を尋ねるのをじっと待った。


本当は一瞬でも早く彼を呼び寄せ、彼を堪能したかったが、彼の方から自分を求めるのを待った。


空腹に耐え、獲物をじっと待つその姿はまるで蜘蛛のようだった。


 


 


数日後、病に男はのこのこと現れた。


男が扉を開けたとき、グラスワンダーは笑みを抑えることができなかった。


 


 


 


十四、


 


 


男は全てを話した。


自分が劣等感に苛まれていること、そんな自分が嫌なこと、グラスワンダーの言葉が安らぎになっていること。


そのおおよそはグラスワンダーの知るところであったが、彼女は神妙な面持ちで彼の話を聞いていた。


本当はこの倒錯的な感情を早く彼にぶつけたかったが、彼女は待った。


獲物が糸に足を絡ませ、もがいてより強く糸に拘束されるのをじっと待った。


 


男は静かに泣いていた。震えていた。


言葉は途切れ途切れだが、しきりに捨てないでくれ、見捨てないでくれと譫言のように繰り返していた。


 


ああ、この憐れな男を一刻も早く抱き締めてやりたい。


グラスワンダーは必死に己を抑えた。


震えそうになる体を鎮め、彼女は最後の仕上げに入った。


 


「そうだったのですね…話していただき、ありがとうございます。」


 


「ですが私は、走るのが怖くなってしまいました…。トレーナーさん、私が、もうレースから去りたいと言ったらどうしますか?」


 


グラスワンダーはつとめて不安そうに、自分がトレーナーから去る未来を与える。


すると、トレーナーは絶望に顔を歪ませ、涙を流しながら懇願する。


 


やめてくれ。


俺を置いて行かないでくれ。


一人にしないでくれ。


もう俺は、グラスがいなくては生きていけないんだ。


 


 


とうとう男は本心をーーー既にグラスワンダーは知っていた本心をーーー自分の口から明かしたのだ!


彼女も、愛おしい彼をこれ以上我慢できない。


 


ああ、なんと憐れなのか!


ああ、なんといじらしいのか!


ああ、なんと可愛らしいか!


 


胸が、これ以上ないほど昂っている!!


 


グラスワンダーは男の涙を右の指で掬い、優しく、されど強く彼を抱き締めた。


もう離さないと、逃さないと言わんばかりに。


 


大丈夫です。


私はずっと、トレーナーさんのおそばにいますよ。


安心してください、トレーナーさん。


ずっと、ずっーと一緒ですよ。


 


そう囁くと、男は限界を迎えたのか幼子のように泣き出し、そのうち疲れ果てて彼女の腕の中で眠ってしまった。


 


グラスワンダーは愛おしそうに男を抱き締め、彼の頭を撫でた。


そして右の指をぺろりとなめ、うっとりとした表情で彼を抱き締め続けるのだった。


 


 


 


 


男は優秀ではなかった。


 


だが、優秀さとは何だろう。


少なくとも、栗毛の少女にとって男はこれ以上ないパートナーであった。


 


 


幸せとはなんだろう。


 


人間なぞ所詮、本質的な幸せを見つけることはできない。


他者との比較でしか幸せを感じることのできない憐れな生き物だ。


 


 


少なくとも、


私の価値基準からは男と栗毛の少女を幸せとは言えないがーーー


 


ーーー彼彼女は、これ以上ないほどの幸せを感じているので仕方がない。


 


ああ、仕方がない。


 


 






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1件コメントされています

1: SS好きの名無しさん 2023-09-17 18:08:36 ID: S:7BORD7

作品読ませて頂きました、設定のままに再現され時にはオリジナルでトレーナーとグラスの思惑が表現されていて良かったです。一つ残念だった事として、トレーナーサイドとグラスサイドが初見で分かりづらかった事ですね、(11番目がグラスサイドかな)、なので番号を入れず3点リーダを間に挟んだり、グラスサイドと入れた方が読みやすいかな〜と思いました。長文失礼しました。内容はとても良かったですよ〜♪


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