八幡「雪ノ下の椅子…」
授業も終わり、俺はいつも通り部室の前に来ていた。
八幡「ん?…開いてない」
いつもなら雪ノ下が一番に来て、鍵をあけているのだが
どうやら今日今日はまだ来てないらしい。
八幡(あいつ休みか…?)
一瞬そのまま帰ろうかと考えたが、由比ヶ浜が来るかも知れん。一応部室に居ておこうと思い、職員室に鍵を取りにいく事にした。
八幡「失礼します」
平塚「む?比企谷か、どうした?」
八幡「いや部室の鍵を…」
そう言うと、平塚先生は少し驚いた様な顔して、フッと短く笑った。
平塚「そういえば雪ノ下は来ていなかったな」
平塚「君が取りに来たのか。君の事だとそのまま帰りそうなものだが。いい心がけじゃないか」
八幡「俺もそうしようかと思ったんですけどね。後が怖いんでやめときました」
平塚先生は「ふふっそうか」と呟いて引き出しから鍵を取り出した。
鍵を受け取り、ふと雪ノ下の事を聞いてみた。
八幡「そういや雪ノ下は?」
平塚「ああ、雪ノ下は少し風邪気味だそうだ。」
風邪か…あいつ体弱いのかな…。
そうですかと短く相槌をうって、軽く会釈をして俺は職員室を後にした。
部室の前に戻っても由比ヶ浜はまだ来ていなかった。
とりあえず鍵を開けて中に入り、いつもの椅子に座った。
読みかけの文庫本を鞄から取り出すと、同時にケータイが鳴った。
八幡(ん…小町かな?…………あいつも来ねーのかよ)
メールの差出人は由比ヶ浜であった。どうやら今日は三浦たちと遊ぶらしい。
八幡(一人で居ても意味ねーし帰るか…)
鍵を取りに行ったのは無駄足だったようだ。
文庫本を鞄にしまい、立ち上がるとあくびをして窓の外に目をやった。ふと視界の端にあるものが映る。
八幡「雪ノ下の椅子…」
それは雪ノ下が普段座っている椅子であった。
全然気になってなどいないが、俺はなんとなく雪ノ下の椅子に近づいた。
八幡「雪ノ下の…」
全く思うところなど何も無いが、俺は雪ノ下の椅子に手を置いていた。
八幡「椅子…」
全く深い意味など無いが、俺は雪ノ下の椅子に頬擦りをしていた。いやなんとなくね?ほ、ほっぺたが痒かったんだよ…
八幡(雪ノ下がいつも座っている椅子…雪ノ下の尻がいつも密着している椅子…)
俺はつい誰もいない部室で雪ノ下の椅子に頬擦りしているという状況に興奮してしまい呼吸が荒くなった。
そのまま本能のおもむくままに俺は自慰行為を始めていた。
八幡「はぁ…雪ノ下…はぁ……雪乃…雪乃………うっ」
八幡「はぁ…はぁ…」
八幡(ヤバイ凄い冷静になってきた。何してんだ俺…雪ノ下の椅子にかけちまったし………)
八幡(とにかく証拠を消さねば!)
熱いパトスに駆られてつい本能のおもむくままに行動してしまったが、幸い誰にも見られてはいない…見つからなければ犯罪にはならない!
八幡(よし、とりあえず椅子を拭こう)
鞄からポケットティッシュを取り出し、椅子を拭こうとしたその瞬間、部室の扉が開いた。
八幡「……!」
時間が止まったかと思った。いやむしろ止まって欲しかった。そこにいたのは雪ノ下雪乃であった。
八幡「雪…ノ下…何で…」
動揺のあまり声がスムーズに出てこず、途切れ途切れになる。それとは対照的に雪ノ下は落ち着いた様子で淡々と説明した。
雪ノ下「あら、平塚先生から聞いてないの?少し熱っぽかったから保健室で休ませてもらってたのよ」
八幡「ほ、保健室に居たのか…」
雪ノ下「ええ」
ちょっと平塚先生!話が違いますよ!風邪とだけ言うからてっきり休んでるものだと思っちゃったじゃないですか!
これはヤバイ…だが雪ノ下は気づいてないみたいだ。証拠さえ消せればこっちのものだ!
雪ノ下「それよりあなた一人かしら?由比ヶ浜さんは?」
八幡「ああ、由比ヶ浜は用事があるらしい」
雪ノ下「そう…ところで」
八幡「!」
雪ノ下「あなたはさっきからそこで何をしているのかしら?そこは私の席なのだけれど」
八幡「あっああ実はさっき虫が居てな、お前の椅子に止まってたから潰しちゃって…すぐふくよ」
雪ノ下「そう」
とっさに適当な事を言ってしまったが、雪ノ下は気にしていない様子だった。
よし拭き取った!見たかこの速業!いや見られちゃダメなんだけどね…。
八幡(ふぅなんとかなったぜ)
雪ノ下「別に構わないわ」
そう言って雪ノ下は自分の席へ向かった。俺はいつも座っている自分の椅子に腰掛けて、内心ドキドキしながら雪ノ下の方を見ていた。
雪ノ下は自分の椅子の前でぴたっと止まってこちらを見た。
雪ノ下「ねえ比企谷くん」
八幡「な、なんだ?」
雪ノ下「なんだかこの部屋生臭くないかしら?」
八幡「そ、そうか?俺は別に…何も臭わんが」
雪ノ下の突然の質問に俺は動揺していた。それでもなんとか平静を装おうと答えた。…多分装えていなかった。
雪ノ下はそう…と呟くと少しうつむいた。その表情は少し微笑んでいるように見えた。雪ノ下の柔らかい笑みもそのときばかりは嫌な予感がした。
雪ノ下「私さっき面白いものを撮ったのよ」
八幡「…」
背中からじわりと汗が吹き出るのを感じた。何も言えないでいる俺をよそに雪ノ下は鞄からケータイを取りだし画面を見せてきた。ケータイには雪ノ下の名前を呼びながら椅子に顔を擦り付ける男の動画が流れていた。というか俺だった。
八幡「……」
頭が真っ白になるとはこう言う事だろう。言い訳も謝罪の言葉も出てこず、ただ体を硬直させていた。
雪ノ下「これは一体何をしているのかしら」
ケータイを片手に持ったまま、雪ノ下はクスリと笑った。
薄々バレているんじゃないかと感じていたが、バレているどころか証拠を動画にまで収められていた。ピンチ!八幡ピンチ!
雪ノ下は相変わらず微笑を浮かべたまま、こちらの様子を伺っている様だった。次に俺がどう出るかを観察しているのだろうか。
俺はここが運命の、いや人生の分かれ道だと悟った。ここで下手を打てば最悪警察沙汰、誰かにばらされただけでもぼっちから女の子の椅子が大好きな変態へとジョブチェンジしてしまう。なんとかしなければ。
雪ノ下「ねえ、ひき……」
雪ノ下が口を開くと同時に俺は額を地面に着けていた。つまり土下座である。
八幡「…すいませんでした」
謝罪の最高形態であるDOGEZAとシンプルな一言のコンボ。これが最善の選択肢かと思われた。さらに相手からの追い討ちが来た場合は「つい出来心で…」と続ければ完璧だ。これで勝つる!
などと馬鹿な事を考えならがも、滲む汗は止まらなかった。祈るように目を瞑っていると、頭の上から雪ノ下の声が聞こえた。
雪ノ下「頭を上げなさい比企谷くん……私は別に怒ってなどいないわ」
雪ノ下は諭すようにやさしい口調で言った。
あまりにも予想外の言葉に俺ははっと頭を上げ、雪ノ下の方を見た。雪ノ下はこちらに近付いて俺の腕を引き、そのまま立ち上がらせた。
雪ノ下「ほら、制服が汚れているわよ」
そう言うと雪ノ下は俺の膝あたりを手で払った。俺はそれをただ黙って見ていた。
八幡(……いや誰だこいつ)
おかしい…。俺の知っている雪ノ下雪乃という女はこんな状況になればひとしきり罵詈雑言を浴びせた後に、無慈悲に警察に通報するような奴だ。そこまでしなくとも一言も責めないというのは明らかにおかしかった。
雪ノ下「今日はもう誰も来ないみたいだし、帰りましょう」
え、マジ?解放されんの?なんのお咎めもなしに?なんか逆に怖いんですけど。
雪ノ下「何をしているのかしら、鍵がかけられないじゃない」
八幡「あ、ああ」
俺は考えるのをやめ、鞄を手にして雪ノ下と共に部室を後にした。
部室を出てから下駄箱までの間、俺と雪ノ下は一言も言葉を交わさずにいた。いや俺は何度か口を開いてはいたのだが、いかんせん何を言えば良いのか分からなかった。自分で言うのもなんだが、あの部室での行為は相当変態的だったと思う。あれを見て何も無いというのはやはりおかしいだろう。
それにさっきまでの雪ノ下はなんというか……
八幡(いや、落ち着いた様に見えて雪ノ下も混乱していたのかもしれん)
これで終わりにするつもりは無いだろうが、お互いに落ち着いてから話し合うつもりなのだろう、と半ば無理矢理飲み下す様に俺は結論を出した。
八幡(とりあえず今日はこのまま帰るか…)
八幡「…俺、自転車だから」
ようやく口を開くと、俺は雪ノ下に短く告げた。雪ノ下はええ、と返してそこで立ち止まり何かを考えている様だった。
俺はそのまま振り向いて、自転車を取りに向かおうとした。
雪ノ下「比企谷くん」
呼び止められ、振り返る。
雪ノ下「…これから時間あるかしら」
どうやら雪ノ下は今日中に話をつけるつもりの様だ。
俺は一瞬返事を躊躇ったが、だらだらと先伸ばしにするよりかはいいだろう。
八幡「わかった……自転車とってくるから待っててくれ」
そう告げると雪ノ下はこくりと頷いた。それを見て俺は自転車置場へと向かった。
自転車に乗り、先程の場所に戻ると雪ノ下は俺の顔をちらりと見てからついてこいと言わんばかりに、スタスタと歩き出した。俺はすぐに自転車を降りてその一メートルほど後ろを歩いた。
……なんだかまた雪ノ下さんが怖くなってきたぞ。
ほとんど口を開かず、先程の部室とは打って変わって表情はいつもの冷たさを帯びていた。いやむしろいつも以上に冷たい。さながらブリザードの様だ。
そんな雪ノ下の雰囲気に落ち着きかけていた心臓の動きが速くなる。
俺はどうなってしまうのか……雪ノ下に全てをばらされ、社会的な死を迎えてしまうんだろうか?
急に不安が押し寄せてくる。
ただ…少なくとも、俺があの部活にいることは出来ないだろう。
もしかしたら雪ノ下はこう言った事に慣れているのかもしれない。男に言い寄られる事は多かっただろうし、その中には歪んだ欲望を持つ者も……。
そう考えると部室での落ち着きようにも納得がいく。
雪ノ下からすればたまたま近くにそれが居ただけで、いつも通りに排除するだけの事かもしれない………いや俺がこんなことを考えても仕方がない。決めるのは俺じゃなく雪ノ下だ。すべては雪ノ下次第なのだ。
俺は考えるのをやめ、雪ノ下に視線を向けると、雪ノ下はピタリと立ち止まった。
雪ノ下「着いたわ」
八幡「…え?」
目の前にあった建物はカラオケであった。
予想外の場所に俺が困惑しているのを尻目に、雪ノ下は中へと入って行った。
店に入ると、平日という事もあり客足は少ない様だった。
雪ノ下は手早く受付を済ませると、マイクの入ったカゴを持ってこちらへ歩いてきた。
雪ノ下「中へ入りましょう」
そう言われ、俺は雪ノ下と指定された番号の部屋に入って行った。
部屋に入り、雪ノ下と向かい合う様に座って、頼んだドリンクが届くのをただ無言で待っていた。
八幡「…」
何でカラオケ?とさっきは思ったが、誰の目にも触れず、二人きりで話し合うには確かに都合は良いかもしれない。
女子と二人きり、という単語だけ見ればそこはかとなく甘酸っぱい響きがあるが、今日この場においては微塵もその様な雰囲気は無かった。
雪ノ下「…」
雪ノ下は背筋をぴんと張り、瞳を閉じて、腕を組むようにして座っている。
沈黙が続き、つい先程の続きを考えてしまう。
俺の処遇については考えても仕方がない。ただずっと違和感のような物が喉元に引っ掛かっていた。
あの時の対応は、俺の知っている雪ノ下のそれでは無かった。それだけがずっと頭に浮かんでいた。
俺と雪ノ下の関係性は一言では言い表せない。友人とは呼べないし、て言うか断られてるし……。知り合いで済ましてしまうには少しあっさりし過ぎているような気もする。あくまで俺は、だが。
それでも、短いながらもあの部室で時間を共にした。
繋がりみたいなものは確かにあったはずだ。
俺の行動は今までのそういったものを全て台無しにしてしまったのかもしれない。
…なら、あの時の雪ノ下の笑顔はきっと失望なのだろう。
優しさから生まれた訳でもなく、戸惑いをごまかすためのものでもなく、俺と言う人間に対して、失望し、諦めたのだろう。
八幡(……くそ)
俺は今更ながらに強い罪悪感を感じていた。取り返しのつかない事をしてしまった。そう後悔していた。
八幡(せめて謝ろう…)
それが雪ノ下の為なのか、自分の罪悪感を和らげるものなのかは判らないが、形だけでも謝罪はするべきだと思った。そして、雪ノ下の言うことを全て受け入れよう、そう覚悟した。
口を開こうと雪ノ下を見据えた瞬間、コンコンとノックの音が響き、びくりと肩が跳ねる。
ガチャリとドアが開いて、「失礼しまーす」と間の抜けた声で店員が入ってくる。
店員「お飲み物お持ちしました」
テーブルの真ん中あたりに飲み物を手早く置くと、「ごゆっくりどうぞー」と言い残して出ていった。
び、びっくりした…。タイミング良すぎる、いや悪すぎるだろ…。
額からは冷や汗がたらりと流れ、心臓がやたらと速く音を立てていた。
そんな俺をよそに、雪ノ下は落ち着いた様子で片方のグラスに口を付けている。
八幡(…ぐ…タイミングを逃した)
だが、このまま黙っていても埒が開かない。聞こえないように深呼吸をして、俺は再び口を開いた。
八幡「雪ノ下」
緊張で少し声が上ずってしまう。
名前を呼ぶと、雪ノ下は大きな瞳をこちらに向けた。
八幡「その…部室での事なんだが…」
雪ノ下の真っ直ぐな瞳につい目を逸らしてしまう。
手に力が入り、じわりと冷たい汗がにじむ。
テーブルにグラスの置かれる音が聞こえた。
雪ノ下「………」
雪ノ下は何も言わずにただ黙って俺の言葉の続きを待っていた。
ごくり、と唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
八幡「…悪かった」
なんとか謝罪の言葉を吐き出した。きっと今立ち上がったら、脚が震えているかも知れない。情けないが、声が震えなかっただけまだマシだ。
雪ノ下は少しだけ考えるよう視線をずらすと、すぐに戻して口を開いた。
雪ノ下「その事についてはもう終わったはずよ。あなたの事を許す、そう言った筈なのだけれど」
淡々と雪ノ下は答えた。まるでそこには感情が含まれてないような、そんな響きだ。
許す、その言葉を額面通りに受けとることは出来ない。
何もかもが腑に落ちない。じゃあなんのためにこんな場所にいるんだ。話をつけに来たんじゃ無いのか。
雪ノ下の意図が全く読めずに、俺はただ混乱していた。
八幡「いや、じゃあ…」
と口を開いて、そのままなんと言えば良いのか分からず、俺は黙ってしまった。
ここで俺が疑問をぶつけて、雪ノ下を問い詰める事は、どう考えてもお門違いだ。
そもそもの原因は俺なのだ。それを言われてしまえば返す言葉は無い。
今はただひたすらこの沈黙に耐え、雪ノ下の言葉を待つという選択肢しか俺には与えられていなかった。
雪ノ下「…」
八幡「…」
再び沈黙が訪れる。俺は緊張のせいでやたらと喉か渇き、それまで触れてもいなかった目の前のグラスに手を伸ばし、口を付けた。
半分ほどに減ったグラスを静かにテーブルに置き、俺は心の中でため息をついた。
八幡(今日帰れんのかな…)
予想以上に進展の無い話し合いに、俺はそんな不安を抱いていた。
雪ノ下の様子を窺う様に、ちらりと視線を上げると雪ノ下と目が合ってしまい、不意に逸らしてしまう。
雪ノ下「貴方には少し頼みたい事があるのよ」
ようやく沈黙を破り、雪ノ下はそんなことを口にした。
頼み事、と言われてもまるで見当がつかず、俺は目線で続きを促した。
雪ノ下「…ペットを飼いたいのよ」
………ペット?そんなもの勝手に飼えば宜しいんじゃ無いですかね。まさかそのペットにかかる費用を俺に出させようという腹積もりなのだろうか?あいにく俺にそんな金はない。
雪ノ下「でも私の住んでるあのマンション、あそこペット禁止なのよ」
どうやらそういうつもりでは無いらしい。しかしマンションが無理ならどうしようもないんじゃ無かろうか。
八幡「…で、俺に頼みたい事ってのは?」
雪ノ下「…その」
急に言いづらそうに言葉を濁らせ、困ったような表情をしながら少し考えるような仕草を見せる。しかしその様子はどこか芝居がかった物に見える。
こちらに向きなおし、意を決した様に雪ノ下は口を開いた。
雪ノ下「貴方に…ペットになって貰いたいのよ」
八幡「はぁ?」
意味不明な雪ノ下の申し出に俺は間抜けな声をあげてしまった。え?マジでなにいってんのコイツ?
八幡「いや…なにいってんのお前…」
雪ノ下「貴方のレベルの低さは重々承知していたのだけれど、まさかここまで理解力が無いとは思わなかったわ」
ふー、とため息をつきながら雪ノ下は額に手を当てる。
いや、わかるわけねーだろ。今のでわかるやつがいたら会ってみたいわ。スパコンでも処理追いつかないレベル。
ただひとつ分かった事は、今日の雪ノ下は少しおかしい、いやかなり。
俺は雪ノ下を刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら話す。
八幡「お前頭おかしいだろ。危ないお薬とかやっちゃダメだぞ」
雪ノ下「あまり調子に乗らないほうが身のためよ。それとも死にたいのかしら社会的に」
にこりと可愛らしい笑顔のまま、雪ノ下は鞄からケータイを取り出す。それを見て再び嫌な汗が流れる。
雪ノ下「あくまでこれは"お願い"なのだけれど」
八幡「ぐ…」
雪ノ下はトントンとケータイを指で叩きながら、こちらの様子を窺う。
雪ノ下「聞いてくれるかしら比企谷君?」
誰がどう見ても分かるだろう。明らかに脅しである。
雪ノ下の頼み事とやらを聞かなければ俺は社会的に抹殺されてしまう。俺にはNOと言うことは出来ない。
しかし、自分の絶望的な状況は理解出来たのだが、肝心の雪ノ下の頼み事というのがさっぱり理解出来ない。
八幡「待て、勝手に話を進めるな。そもそもお前の言っていることが俺には理解できん。どういう意味だよペットって」
俺は雪ノ下に説明を要求した。正直聞きたく無かったが、聞かない事には話が進まない。
いやほんと意味わかんない。人間をペットとかダメでしょそんなの。どこの世紀末だよ。
雪ノ下「どういう意味も何も、そのままの意味よ」
しれっと澄ました顔で雪ノ下は言った。先程の言いづらそうにしていたのが嘘のようだ。
八幡「いや、それがわかんねぇから聞いてんだよ。何で俺がお前のペットになるんだよ」
ごくごく当たり前の疑問を述べたつもりだったのだが、どうやら雪ノ下には何ら不思議な事では無いらしく、ふぅ、と短くため息をついてから俺の質問に答えた。
雪ノ下「それもさっき話したじゃない。マンションだからペットが飼えないのよ。貴方、数分前の会話も覚えてないの?一度脳を精密検査でもしたほうがいいんじゃ無いかしら」
あーはいはい、確かに人間だったらマンションに入れるもんねー。全然おかしくないね!八幡なっとく!
……ダメだおよそまともと思える答えは返ってきそうにない。
俺は雪ノ下との対話を諦め、しばしどうするべきか考えを巡らせた。
雪ノ下は核心めいた物を話そうとせず、のらりくらりと俺の質問を躱すばかりだ。こいつと会話が成り立たないなんて、初めてだ。その様子はまるで雪ノ下らしくない。
どうしたものかと頭を悩ませていると、コンコンと雪ノ下がテーブルを指で叩いた。
雪ノ下「なにか考える事があるのかしら?貴方はやるかやらないかを選ぶだけだと思うのだけれど」
.........確かにそうである。俺がどれだけ頭を悩ませたところで、この場の力関係が逆転することは無い。ただ雪ノ下から与えられる二択を選ぶほか無いのだ。
八幡(ていうか、実質一択だろ......)
雪ノ下「決まったかしら比企谷くん?」
雪ノ下は首を少し傾けてニコリと微笑む。しかしその笑顔からはどこか圧力めいたものを感じる。
八幡「………るよ」
もうどう仕様もない、詰みだ。ていうか初めから詰んでた。そもそも交渉も対話も不可能だったのだ。俺は雪ノ下に弱味を握られている。この場では雪ノ下の" お願い"を聞くしか無かった。
雪ノ下「何かしら?聞こえないわ」
八幡「…だから、やるって言ったんだよ」
わざとらしく聞き返してくる雪ノ下にそう答えると、彼女は満足気な笑みを浮かべて、念を押すように確認してくる。
雪ノ下「それは比企谷君が私のペットになる、と言う事でいいのよね?」
だからそう言ってんだろーが。というかそう言わねぇと帰れねぇんだろ?ちくしょーめ。
だが、今の俺には恨み言の一つも言う権利は与えられていない。
八幡「…ああ」
それを聞いて雪ノ下は立ち上がる。やれやれ、やっとこさ解放されるようだ。ほんの少しの安堵と共にどっと疲労感に襲われる。
俺もよっこらせ、と言わんばかりにゆっくり立ち上がった。
雪ノ下「そう、じゃあ……」
じゃあ帰りましょう、と続くことを期待していた。しかし雪ノ下は鞄を持たずに俺の前に立っている。………嫌な予感がする。
雪ノ下「…靴を舐めなさい比企谷君」
八幡「………………」
俺は声を出す事も忘れ、完全に思考がフリーズしていた。
予期せぬ事態の連続に、もはや俺の脳は限界を迎えていた。
八幡「スマン、俺の聞き間違いかもしれんが、いま靴を……」
雪ノ下「靴を舐めなさいと言ったのよ」
俺の耳がおかしくなったのかも知れないという淡い期待は雪ノ下の言葉によって打ち砕かれてしまった。
いや、マジで何言ってんのこの女?これはあれなの?俺がここで救急車とか呼ばないと後で責任問題に問われるとかそう言うやつなの?
雪ノ下「比企谷君、もう時間があまり無いわ。早くしてくれないかしら」
八幡「ちょっと待て、落ち着け。マジで意味わかんねーから。お前大丈夫か?」
主に頭の心配をしているのだが、それを聞いて雪ノ下は少し不機嫌な表情になる。
雪ノ下「失礼ね。貴方にそんなこと言われたく無いのだけれど。私はいつでも大丈夫よ」
人に靴を舐めろと言った後に自信満々に大丈夫宣言するあたり、もう全然大丈夫じゃ無い。精神病院ってこの辺りにあったかしら…。
雪ノ下「比企谷君。私はペットの躾もろくに出来ないような無責任な人間にはなりたくたいの」
ほー、それはご立派ですなあ。では私はこの辺で…とそのまま無言でドアノブに手を掛けると、がしっと雪ノ下に鞄を掴まれる。
雪ノ下「まだ話しは終わってないのだけだと」
怒気の籠った声に顔を向けると、冷え切った目でこちらを睨んでいる。そんな視線に負け、俺の手はドアノブからするりと離れた。
八幡「い、いや躾とかおかしいだろ。百歩譲って躾するにしてもなんで俺がお前の靴を舐める事になるんだよ」
靴を舐めろとかどこの魔人探偵だよ。怖えよ。
俺は雪ノ下になんとか交渉を試みた。雪ノ下は顎に手を当て、考える様な仕草をしてから、再び椅子に腰掛けた。
雪ノ下「…そうね、確かにペットといえども靴を舐めさせると言うのは少しやりすぎかも知れないわね」
意外にもあっさりと俺の意見は通ったようだ。良かった雪ノ下にもまだ人の心は残っていたようだ。
今からでも治療すれば雪ノ下はまだ間に合うかも知れない。そんなことを考えていると、椅子に座ったまま、雪ノ下はおもむろに片足の靴と靴下を脱ぎ始めた。スラリとした美しい脚が露になる。
八幡「…何してんの?お前」
雪ノ下「靴を舐めろ、と言うのは言い過ぎだったわ。だから、足を舐めなさい比企谷君」
前言撤回。無理だわ。もう間に合わねーわこの女。ブラックなジャック先生も匙を投げるレベル。
八幡「…雪ノ下さん。自分で何を言ってるか分かってます?」
雪ノ下「貴方が靴を舐めるのは嫌だと言ったんじゃない。まだ何かあるのかしら?」
八幡「いや、なにと言うか…」
そこで俺は言葉を詰まらせてしまう。
どうやらこの女はとんでもない変態だったようだ。完璧超人かつ優等生である雪ノ下にこんな一面があるなんて、にわかには信じ難い事だが、俺は既にそれが事実であるという根拠足り得るものを、十分見てしまった。俺としては知らずに居たかった……ていうか今日という日を永遠に忘れ去りたい…。
雪ノ下「私は貴方の意見を聞いて、一つ譲歩したのよ。まだ文句を言うつもりなのかしら?…いい加減立場を分からせる必要があるようね」
なにそれ…超こわいんですけど…。
いろいろ突っ込み所が多過ぎて追いつかないのだが、ひとつ言える事は、もう雪ノ下に俺が逆らう事は許されないらしい。逆らっちゃいけないとかほとんど奴隷じゃねぇか。
八幡「いや譲歩どころか余計ダメな方向に行っちゃてんだろ。取り敢えず一旦、俺が何かを舐めるってのから離れろよ」
こう言っておかないと、次は床を舐めろとか言われかねん。
しかし、悲しくもレッドカラーとなってしまった俺の言葉は雪ノ下には届かなかった様で、まるっきり俺を無視して、鞄からケータイを取り出して何やらしている様だ。
その様子に嫌な予感が走る。
八幡「……なにしてんだよ…」
雪ノ下「貴方には言っても無駄みたいだから…」
それだけ言うと、雪ノ下は自分の手にあるケータイの画面をこちらに見せた。そこにはメール送信中の画面。
八幡「なっ……」
俺がうろたえている間に、ケータイの画面は送信完了の文字を写していた。
まさかこいつ、あの動画を……。
俺は画面を眺めたまま、内心ひどく取り乱していた。そんな俺を見て雪ノ下はくすりと笑い、こちらに画面を向けたまま、メールの送信履歴から今送ったと思われるメールを開いた。
そのメールには本文は何も書かれておらず、代わりに添付ファイルがひとつだけあった。
そして、そのメールの宛先の所には由比ヶ浜結衣とあった。
八幡「…っ…………!」
全身から嫌な汗が流れ出る。パニックになりそうな自分をなんとか落ち着かせようとするが、今にも脚が震えだしそうで、立っているのがやっとだった。
よりにもよって由比ヶ浜に………。
今にも泣き出しそうな俺の顔を見て、雪ノ下は楽しげな笑みを浮かべながら、メールの添付ファイルを開いた。
やめろ。そんなもの見たくない。まだ追い討ちをかけるつもりなのか。今それを見たら、俺はもう……。
八幡「…………えっ…?」
そこに写されていたのは、可愛らしい子猫が二匹寄り添っている写真だった。
雪ノ下「どうしたのかしら?随分とうろたえいた様だけれど」
全身の力が一気に抜け、同時に急激な疲労感に襲われる。
少し間を空けて、雪ノ下は再び俺に問いかける。
雪ノ下「それで、どうするのかしら?」
先程からの雪ノ下の行動に俺の心は激しく揺さぶられ、疲労していた。そして、この瞬間に完全に折られてしまった。
八幡「…………………わかった」
雪ノ下「何が、分かったのかしら?」
威圧する様な声音で雪ノ下は言う。
八幡「……だから…お前の、足を……舐める」
目を泳がせながら、弱々しく俺は答えた。
それを聞いて、雪ノ下は微笑むを浮かべた。それは嗜虐的なものではなく、優しくも妖艶で、それでいてどこか陰のある笑み。その表情は姉の陽乃さんを思わせた。
八幡(……そうか)
そう、ただ雪ノ下は楽しんでいたのだ。あの時部室で俺を見つけてから、ずっと。先程からの様子を見れば、楽しんでいるなど誰が見たって分かる事なのだが、しかし、余りにも俺の知っている雪ノ下とはかけ離れていたため、事実を理解するまでに時間がかかったのだ。
なんか必死に色々考えていた自分が馬鹿みたいだ。
雪ノ下に完全に屈服してしまった俺の頭は、なぜか妙に冷静さを取り戻していた。
今俺が見ている雪ノ下は、気が触れた訳でも、何かを演じている訳でも無く、ただ今までおくびにも出さなかった、恐らく俺しか知らない、正真正銘雪ノ下の一面なのだ。
雪ノ下「そう…ならば床に跪きなさい」
もはや俺には抵抗する気力は残されていない。言われるがままに床に膝を着く。
それを見て、雪ノ下は白く透き通る、陶器の様な細い脚をこちらに向ける。
つづきます
まぁ面白かったwww
超絶期待です!
続き気になる
はよはよ
カラオケのくだり、最高です!(*´ω`*)
八幡ペットになるとはある意味新しいタイプの展開ですね。
これからの更新を期待しておりますよ。
はよ
あくしろよ
風邪ひくだろ
雪ノ下「靴を舐めろ、と言うのは言い過ぎだったわ。だから、足を舐めなさい比企谷君」
今の段階で足を舐めなさいが来ると次は足のつけ根舐めなさいとか来そうですね。
次の更新も期待しておりますよ。
シリアスと軽さのバランスが良いよね。気楽に引き込まれる。
説明過多でもはしょり過ぎでも無い文章が読みやすくて羨ましい。
この後どう展開してくのか楽しみだよ!