呪われ勇者とケモミミ幼女
勇者が魔王を討伐し、数年が経っていた。
勇者:アベルは、奴隷として捕まっていた少女:オルカと共に安穏たる日々を送っていた。
「そういえば、一緒に遊びに行ったことなんかなかったですよね! ね、だから、ほら! 一緒に遊びに行きましょうよ。どこか、遠いところに!」
今日は週に一度の休養日。そんな折に、家で寝ていた俺にかけられた言葉がこれだった。
世界を支配しようとする魔王を打倒し、世界を救った勇者だった俺。あれからもうすでに九か月が経過していた。
その間には、勇者の称号を王に返上したり、魔王討伐の報奨金で家を建ててまったりと暮らしていたりしていた。
そして今、ソファーで体を休ませていた俺に声をかける存在。魔王討伐の旅の途中で奴隷から解放したオルカだ。肩甲骨くらいまである銀の髪と獣耳、尻尾がチャーミングな狼族だ。
そんなオルカが俺の家に来たのは、大体六か月前。一人で暮らすのもなんだか寂しく感じていたころに、オルカは押しかけてきたのだ。
……押しかけてきた、というのは事実だが、俺は別にそれを面倒くさいものだとか、とにかく悪い感情をもって受け入れてはいない。むしろ来てくれたことを嬉しくさえ思っている。
なんというか、オルカが俺の家にいるだけで、このむさくるしい家が華やいで見えるのだ。単純に装飾品を増やしたり、景観を良くしようとしたりしたのも要因の一つだが、なんというか、雰囲気が朗らかになった。
無骨だ、不気味だと周辺住民に少しの畏怖を抱かれていた俺の家も、オルカが来たおかげでずいぶんとその印象を変えた。
だから、俺の家にオルカがいることは、俺にとっても、近隣住民にとっても喜ばしいことだった。
さらに、オルカは家事ができる。俺もできないというわけではないが、オルカがいるおかげでその効率や質は何倍にも跳ね上がる。
料理もできる、掃除もできる。気立てもいい……。そんな――こう言っては何だが――女の子らしい女の子、である。
そして今、そんな女の子が、俺より頭三つほども小さい体で俺の服の袖を引っ張っていた。筋力がそれほどあるというわけでもなく、何か特殊な能力があるというわけでもないオルカは、当然だが、俺の体を動かすには至らない。
この事実が余計癪に障ったのか、オルカは頬を膨らませながら服の袖をより一層強く引っ張ってきた。
「いーきーまーしょーうーよー! ほら、私もアベルさんもお金たっぷり持ってますし、ね? 行っても問題ないでしょう? それに、近くに観光地があるのに行かない手はないですよ!」
「……家で寝ておきたいんだが」
「アベルさんってばぁ! そんな怠けてばかりいたら、あの風船みたいな王様の体みたくなっちゃいますよぅ!」
あんな豚にはなりたくもないし、まずならない。そもそも今日は運動をしていないだけで、日頃は剣を振ったり、走りこんでいたりするのだ。
しかしそんなことを言うと、「アベルさんっ! 大人げないですっ!」と頬を膨らませながら、銀色の耳と尻尾をふにゃふにゃとさせるだろう。
……それはそれでいじりがいがあっていいのだが、見た目の幼さの割に意外に姑息な手段を使うオルカに、それをダシにされることは目に見えていた。
「……ねぇアベルさーん。行きませんか?」
「友達と行ってくればいいだろう? ほら、最近できたって言ったじゃないか。なんだっけ……ほら、男の熊族の……ああ、デミール君だ」
「やです!」
……やけに否定の語調が強かった。穏やかというか、他人に激しい感情を伝えるのに慣れていないオルカにしては珍しい。頬は紅潮していて、リンゴみたいだ。なんというか、うん。《《そういう感情》》を抱くには至らないが、かわいい。
その様子を不思議に思った俺は、体を軽くオルカのほうに向ける。
「……その心は?」
「だって……アベルさんに勘違いされちゃ、や、ですもん……」
「勘違い? 何の?」
「そ、それは……」
何かをぼそぼそとつぶやくオルカ。頬は更に赤くなっていて、よりリンゴのような色に近づいていた。
「……? はっきりと言わないとわからないぞ?」
「……っ! 何でもありません! アベルさんのニブチン!」
そうやってリスのように頬を膨らませてそっぽを向く。その様子はいかに自分がおっさんであろうと、少し心をときめくものがある。
……オルカは美少女だ。実際どんな表情でも彼女の可憐さは損なわれない。今のこの怒っている表情さえ、花が咲くような、と形容してもおかしくないほどだ。
あと、誤解がないように言っておくが、オルカが何を言わんとしていたか俺にはわかっている。それが表情がより魅力的に見える要因の一つだろうか。
たぶんだが、オルカは俺のことが好きなのだ。勘違い甚だしいと思われるだろうか?
しかしオルカの態度と表情は、以前、旅の途中で観劇した恋愛劇のヒロインのそれと酷似していた。
だが、その好意を理解していても、何をどうするという話にはならない。俺はおっさんで、オルカは少女だ。それに顔もそこまでよくない上に、見ての通りに怠けものである。
こんな俺よりオルカに見合う男性など星の数ほどいる。
――それに俺は今週中に魔王の呪いのせいで死ぬのだ。こんな俺のせいでオルカを悲しませたくない……そういう思いもある。
しかしそれを表に出すわけにはいかない。できるだけ飄々とした表情を取り繕いながら、オルカに背中を向ける。
「……まぁ俺はここで寝ておく。何もない一日こそが、幸せなんだからな」
「くっ……! 勇者として魔王討伐に明け暮れたアベルさんの言葉になると、重みが違いますね……! いいでしょう。今日のところは私が添い寝して――」
「やめろ」
「えっ……」
思わず、強い根絶の言葉が出てしまった。
……でもしょうがない、しょうがないのだ。俺にかけられた呪いは、俺の体に触れれば触れるほど、その人間に移っていく。そういう性質を持っている厄介な呪いなのだ。そんな中で添い寝などされたら、呪いがオルカへと転写されてしまう。
俺はオルカに死んでほしくなかった。だからこその強い根絶。その心理が表層に出てしまった。……ついさっき表に出すわけにはいかないとか言いながら、このざま。――余裕がなくなってきているというのも、あるのだろうが。
……でも、俺の言葉でオルカを悲しませるのは本意ではなかった。オルカは笑顔が似合う、かわいい女の子だ。笑顔以外をオルカの顔に浮かべさせるのは、男として失格だと思う。――例え死にゆく者だったとしても。
「え、な、なんで……? わ、私のこと……嫌いなんですか……?」
「いや、そういうわけじゃない! ただ……そう。そう、俺はな、今日は一人でゆっくりと寝たいんだ。先週を境に体もきつくなってきたし」
「え、先週『この程度じゃ物足りない』とか言って、運動の量を増やしましたよね?」
「その時はそうだったんだよ」
「……嘘ですね。目を見ればわかります。何年一緒にいると思ってるんですか」
「え、まだ六か月しか経ってないが」
「そういうこというのナシですーっ! もうこうなったら、嘘をついたお返しに、一緒に観光地に行くしかないですね!」
そういって、また笑うオルカ。……その表情がとても自然だったので、安堵する。
この笑顔をこのままにできるなら、旅行に行くのも吝かではない。呪いのせいで動かすだけでも痛みが走る体をゆっくりと起こす。体がきしんで、うまく体が動かない。……少しよろけたが、それでも普通に立つことができた。よかった。
「わっ、大丈夫ですか! 手を貸しましょうか?」
「大丈夫だ。……それよりも、出かける準備をしろ。水着とか持っていくんだろ? 確か海水浴場だったはずだしな」
「えっ! 行ってくれるんですか?! そうなんですか!! 一度言ったからにはもう撤回させませんよ?」
「ああ。男に二言はない。お金の心配がなくて暇なら、まぁ行ってもいいだろう。ただし、出発は明日の正午だ」
「ええ、ええ! それでいいです! やったぁ! アベルさんと旅行だ!」
走り回るオルカ。その耳は嬉しさからかぴこぴこと揺れており、尻尾などもう千切れんばかりにぱたぱたと振られていた。
「……」
そんなオルカを見て、少しの悲しさが俺の胸を満たした。
あと一週間でこの笑顔を曇らせてしまうかもしれない。そのことが、俺の胸にトゲとなって突き刺さる。
少しでもオルカの傷心を薄くするため突き放すべきか、それともこのまま一週間を過ごすか。俺の中では二つの選択肢がせめぎあって、ついぞその答えは出なかった。
……心の整理をつけなければ。少なくとも、明日の旅行までにはどうにかしないと、オルカに嫌われる策を用いることができなくなる。おそらくだが、明後日には俺の体は動けなくなっているだろうから。
それに、もし俺が死んだら、オルカの面倒を誰かに見てもらわないといけないかもしれない。オルカは家事に関しては一通りこなせるが、まずもって家――暮らす場所がない。このまま生活していくにも、どこかしら拠点となる場所は必要だろう。
俺の家を使わせてもいいが、嫌われるにしても嫌われないにしても、オルカの心情的には使わせることはできそうにない。
……そうとなったら、頼るべき人は。
「……ああ、オルカ。俺は今から少し家を空けるぞ。留守番を頼めるな?」
「え、あ、はい! わかりました!」
オルカの元気のいい返事を聞いて、家を出る。
とりあえず、魔王討伐パーティーを頼ろう。オルカのあの性格なら、どのメンバーだろうと明るく迎えてくれるだろうし。
そう思いながらたどり着いたのは、パーティーの一人である魔導士、クランの家。その性格の陽気さと、その裏にある人情深さは俺の知るところだ。オルカを預けるならこいつが一番適切だろう、と俺は思う。
少し古びている木の扉をノックする。しばらくすると、家の中から陽気な声が響く。懐かしい声だ。近場だとは言え、会うのは大体二か月ぶりくらいだしな。
「うん? どこのどいつかと思ったら、アベルじゃない。どうしたの?」
扉を開いて現れたのは、健康的な小麦色の肌に赤い髪の毛の女性――つまりクランだった。その豊満な肢体を、少し小さめのローブに包んでいる。
「……ちょっとお願いがあってきた。少し上がらせてもらうが、良いな?」
「もちろんいいわよ。さ、上がって上がって」
人の良い笑みを浮かべるクラン。その笑みは魔王討伐の時から少しも変わっておらず、いまだに周りに元気を振りまいているようだ。
案内された部屋でソファーに座り込む。対面には少し心配そうな顔のクランが座っていた。
「この時期にここに尋ねた原因はわかるわよ。――その呪いのことね?」
「ああ」
俺が短く頷くと、腕を組んで渋い顔をする。
深くため息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「やっぱりその呪いって、解くことはできないのね?」
「……魔王が往生するときにかけた、身命をかけた大呪術。それが容易に解けるはずがないさ」
「そうよね……。それで、相談とお願いって何よ。悪いけど、解除する手段を探してくれとか、そういうのはなしでお願いね。―――もう手を尽くしに尽くして調べたんだから」
「わかっている。でも、このお願いはひょっとしたら、そのお願いより質が悪いかもしれん」
……そう、クランにはつまり、傷心のオルカをケアすることをお願いすることになるのだ。心の治療は、長い年月とおおらかな愛情をもって行われる。その間治療を施す相手には、多大なストレスがかかる。
それをお願いすることの烏滸がましさ、無責任さは、とても理解している。
それでも……
「お前にお願いしたいのは、オルカの世話だ」
「……了解したわ。オルカちゃんのお世話をしたらいいのね?」
「そうだ。ああ、そうだ。ついでに相談を受けてもらいたい」
「あら、アベルにしては珍しい。いいわよ、言ってみなさい。物珍しさに免じて、精一杯解決に導いてあげるわ」
ほろりと暖かい表情を浮かべながら、クランがそういう。ゆっくりと、大きく息を吸って、本題を切り出す。
「俺はオルカに嫌われようと思っている」
その一言を聞いたのがよほど衝撃的だったのだろうか。クランはあんぐりと口を開けて、目を見開いていた。しかし次の瞬間、勢いよく立ち上がり、俺の襟を掴んでグイッと持ち上げる。少し苦しいが、これも必要な苦しみだと思える。
「……あなた、なんて言ったの? もう一回復唱してみなさい」
「俺はオルカに嫌われようと思っている」
「ふざけるなッ!!」
鋭い平手が飛ぶ。頬にじんわりと熱が伝わって、まるで燃えるように痛い。……体じゃなくて、心が。
――そしてもう一つ、平手が飛ぶ。両ほほに刺すような痛みを感じる。申し訳なさからか、つらさからか。顔をうつむける俺に、クランは顔をこれでもかというほど近づけてきた。
「アベルは、今までオルカと築いてきた絆を全て捨てるつもりなの?!」
「……そうだ」
「っ、この!!」
再度、平手が飛ぶ。
しょうがない。しょうがないのだ。俺だってオルカとの絆は捨てたくない。一体この六か月で何があったか。一体この六か月で、オルカとどんな感情を交わしてきたか。この六か月で――っ!
……だからこそ、俺はオルカとの絆を捨てなければいけないと思う。何よりも、オルカのために。
オルカは優しい。あまりオルカに構ってやれない俺にも、その無尽蔵の愛情を向けてくれる。そんなオルカは、きっと俺が死んでしまったら悲しんでしまう。……意識の闇の底に、落ちてしまうかもしれない。だから、嫌われたく俺は思う。そしたらきっと、オルカはそこまで落ち込まないだろう。もしかしたら、嫌われる度合いによってはせいせいされるかもしれない。
それはそれで、いいかもしれない。
「っ! そんなこと、オルカちゃんが望むとでも思っているの?!」
「喜ぶ、とか。喜ばないとか。そういう話じゃないんだ。俺はただ、あいつが幸せに生きていけるように――」
「――それなら自分から嫌われようなんて思わないわよ!!」
今度は、頬をグーパンチで殴られる。さすがに痛い。……それに心にしみる。
だけどわからない。クランなら、経験が豊富なクランならわかるはずだ。親しい人を失う痛みを、失われることを想像して知る痛みを。
なのに、なぜ。何故クランは、俺のことを殴るんだ。あいつのためには、これが最適解なはずだ。……違う。これ以外に道はない、と言ってもいいかもしれない。
だけど、そんな考えは浅はかだったことを知る。クランは経験豊富で、俺はただの素人だ。そこには歴然とした経験値の差があった。
「ねぇ、あなた自分が何しようとしてるかわかってる?! それは全部ッ! 独り善がりな陶酔よ! 自分が背負う痛みを正当化しようとしてる、自分本位な考え方! 貴方はその痛みを背負うことで、きっと救われるでしょう。でも、でもあの子はきっと、そんなことを望んだりしないし、あなたが背負う痛み以上の痛みを、その身に背負っていくことになる!」
「それは憶測だろう! もし、もしオルカが俺がいなくなったことで、深い傷を負ったらどうするッ! クランは……アイツに十字架を背負って生きて行けと、そう言うんだな……!」
「ええそうよ! そもそも人の死による痛みを別の方法で乗り越えさせるなんて間違ってる! そんなんじゃオルカちゃんは、永遠と報われない負荷を心にしまっちゃう! あのね、アベル。人の死をまっとうに乗り越えて成長するのが、人の心ってものよ。アベルが考えてるみたいに、簡単にいくはずがない! その罪過は、巡り巡ってオルカちゃんの首を絞める楔となるのよ!!」
「だったらどうしろっていうんだよ!! どうしたらアイツの……オルカの傷を塞げるんだよ!!」
「……あの子の今を、幸せなものにしてあげなさい。あなたの身命にかけて」
「それじゃあ逆効果だろうが!」
「いいえ。生きている人間はね、死んでいる人間との思い出を糧にして新しい人生へと舵を切るのよ。オルカちゃんの場合は、あなたが一緒に遊んでくれた間のこと。構ってくれた間のこと。……もしかしたら、それ以外の時のことまでも」
そういいながら、襟から手を放すクラン。そのままその手は、俺の手へと重ねられる。痛いほどの強さで握られたそれは、確かに、生きる人間の熱い鼓動を感じ取ることができる。
しかしそれとこれとは別だ。俺に触ったら――!
「馬鹿、触るなって言ってんだろ! 俺の呪いが移ってしま――」
「――馬鹿はどちらか、今の私なら確信を持って言えるわ。あなたのほうよ、アベル。その次はおおよそ、『呪いが転写されるから』でしょう?」
「そ、そうだよ! お前まで死んでしまったら、どうするんだよ!」
「この程度触っただけで即座に呪われるというわけじゃない。そうだったらきっと、オルカちゃんは今頃呪われて動けなくなってるわよ、たぶん」
そう言いながら、なお強く俺の手を握るクラン。痛い。握られた手が痛い。でもそんな痛みは、あまり気にならなくなっていた。彼女が継ぐ二の句が、俺の意識を麻痺させて、クランの言葉だけに集中させていたからだ。
「アベル、いいわね。もう一度言うわよ。オルカちゃんをこの一週間で幸せにしてあげなさい。彼女はそれを糧にして、彼女の人生を生きていくわ。死が与えるのは、何も絶望や諦念だけじゃない。――希望も与えるのよ」
「……」
言い返そうとした。でも言い返せなかったんだ。
母親が大往生した時だ。俺はとても悲しんだ。涙は滝のように落ちていき、俺は枯れてしまうのではないかと思うほどに泣いた。……でも、不思議なことに何かに挑戦することを、続けることを諦めたり、何かに対して絶望を抱いたりはしなかった。……もしそうだとしたら、少しは納得できるかもしれない。
「……わかった。五日間。五日間だ。オルカと精一杯遊んで、あいつの願いを叶えてやることにする。俺の力の限り――」
「それでいいの。私はそのサポートのために、一肌脱いであげる。……その一つとして、アベル。これを常に持っておきなさい」
「これは?」
「アベルの魔力が弱くなったら伝えてくれる魔道具よ。呪いであなたが衰弱状態になったら、自動的にこれが作動する。作動したら転移魔法で私が貴方のところに駆けつけてあげるわ」
「そりゃ助かる……。恩に着る」
「乗り掛かった舟だし、そもそもアベルに恩を返せる機会はこれが最後だもの。あなたには数えきれないくらいの恩があるの。だから、これくらいは……恩返しさせてちょうだい」
「……ありがとう。――俺が死んだあとは、オルカのことを頼む。アイツが楽しく、明るく生きれるように支えてやってくれ。頼む」
「ええ、頼まれたわ。じゃあ行ってらっしゃいな。オルカちゃんが家で待ってるわよ」
ああ、と一言部屋において、扉から出ていこうとする。
「あ、アベル」
「なんだ」
「一日に五分までなら、接触してもいいから。それ以上は転写される危険性が発生してくるからダメよ?」
「……本当にありがとう。お前がいてくれて助かったよ、クラン」
そう一つつぶやいて、扉を閉める。
ぱたん、と音を立てて閉まる扉にまぎれて、一つの声が、俺の耳に届いていた。
「………ばか。ばかばかばか……。なんで最後にあんな表情できるのよ……! ばかぁ……っ!」
俺はその時、どんな表情を浮かべていただろう。
でもなんだか。不思議と心は穏やかだった。
◇
「海だー!! ね、アベルさん、一緒に泳ぎましょうよ!」
「はいはい。まずは準備体操からだぞー。もしおぼれたら助けられないからなー」
冗談ではなく本当の話なので、ここあたりは本当に徹底させなければならない。仮に触れたらオルカも呪われ――もうくどいか。
「いっちにーさんっしー……。あれ、アベルさんは準備運動をしないんですか?」
「ああ。俺は泳がないしな」
「えーっ?! 何でですか! 泳ぎましょうよ! ほら、広い海ですよ! 白い砂浜ですよ!」
「……そんなものには心動かされない質でな」
俺がそういうと、やはりというべきか、オルカは頬を膨らませて抗議する。先ほどまでぶんぶん振られていた尻尾はへなへなとしおれていて、少し可哀想だった。
でも、俺だって泳げるものなら泳ぎたいのだ。それを呪いが邪魔している。仮に泳いでいる途中に何かがあって、救助される事態などになっては目も当てられないからだ。きっとその時には、俺にオルカが長時間触れることになるだろう。その事態だけは何が何でも回避しなければいけない。
――オルカちゃんを幸せにしてあげなさい
ずらずらと御託を並べたって、クランのあの言葉は俺の頭から離れてはくれない。オルカが悲しまないように、精一杯今この時を幸せに。それだけを念頭に置いて行動をするべきだ、と彼女は俺に告げた。俺も納得した。だから、俺は今自分ができる最大の譲歩をする。
「泳ぎはしないが、海に浸かったりはするぞ。それに、海と言ってもやることは泳ぐことだけじゃないだろ?」
「あ、そうですね! サンオイルを塗りあったりだとか!」
「なんでそっちになるんだ……。ほら、ビーチバレーとか、いろいろあるだろ?」
「むー……。サンオイル塗ってほしかったのに……」
そうは言うものの、構ってくれているのが嬉しくなったのか、尻尾はブンブンと振られ始めた。目をキラキラとさせながら、俺のほうへと寄ってくる。
ちなみに今のオルカの格好は、かわいらしい子供用の水着だ。ご丁寧に尻尾の穴も空けてある。
空色を基調として、ところどころに白いフリルやリボンがつけられていて、とてもかわいらしい水着だ。
……それに対して俺は、パンツみたいな水着の上にパーカーだ。この差には、いくらファッションに疎い俺であっても少しだけ疑問に思った。
まぁそれは置いといて。
「じゃあ、泳ぐか」
「アベルさんは浸かるだけですけどねっ。ふんっ」
「……そんな怒るなって。海の中でいろいろできないだけだ。砂浜の上だったらいろんなことしてやるから」
「いろんな事って、あんなことまで含めてもいいんですか?!」
「いいわけないだろ……。ほら、泳いで来い。初めての海なんだろ? 存分に楽しんで来い」
はーい、と元気よく海へかけていくオルカ。俺はその白い背中を目線で送り出しながら、ゆっくりと海へと入っていく。
……冷たい。なんというか、水風呂とは違った風情とかを感じる。そもそも風情のある水風呂なんざ入ったことはないのだが。
にしても、太陽の光と海の冷たさがいい感じに調和していて気持ちがいい。俺も海なんて観光目的で来たのは初めてだったが、こんなにいいものだとは知らなかった。だからパーティーのメンバーはしきりにここに来たがってたんだな。……老騎士の目的だけ不純だった気がするが。
ゆっくりと浜辺に腰を落ち着けて、耳を澄ませる。
ざざーん……ざざーん……と流れる波の音を聞きながらリラックスしていると、なんだか昔のことを思い出してしょうがない。たしか、海はすべての生き物が生れ出た場所だったか。だから、こうやって昔のことを思い出すのかもしれない。
その中でも一番色が鮮明なのが、オルカと出会った時だ。……オルカは元奴隷だった。紆余曲折の末救い出したが、その時に助け出した俺に何か思うところがあるらしく、今でも同居している。呪いが判明したのも、一緒に暮らし始めて三週間が経った頃。今頃どこかに行っていてもおかしくないのだが、本当になんでだか……。
……俺がこうまでオルカを大切に思っている理由は、奴隷解放からずっと面倒を見てきて、今まで一緒に暮らしてきて、情が移ったからかもしれない。
「……そんなオルカとも、お別れか」
万感の思いを込めたそのつぶやきは、潮騒によってかき消された。……近くにオルカがやってきていたことを考えると、幸いだったと言える。
「? どうしたんですか、アベルさん」
「……いや、何でもない。にしても、どうしてここに? 泳ぐのに飽きたか?」
「そうじゃないけど、アベルさんの顔を見たくなって。えへへ」
「はぁ……。お前、こんなおっさん面のどこがいいんだ?」
俺の顔はお世辞にも優れているとは言えない。むしろ中の下……普通よりも少し顔が悪い、ともいえるような風体だ。オルカのような美少女と釣り合うような顔はしていない。
「えっと……それはですね。全部です」
「全部? えらく抽象的だな」
「全部上げると、きっと夕方までかかっちゃいますから! それに、私が好きなのは顔だけじゃないんですよ? いつか私を撫でてくれたその大きな掌も。厳しくて辛い戦いで、立派に割れた腹筋も、傷跡が残っちゃってる腕も。それに、何よりも。アベルさんの性格が、心がいいなって思ってるんです」
「そんな褒められるところなんてあるかねぇ、と俺は思うんだが」
「自分が知らないいいところなんて、たくさんありますよ。ほら、アベルさんだって、私の知らない私のいいところとか、知ってますよね?」
「まぁ、な」
そういうと、オルカはにっこりと笑みを浮かべる。そのままゆっくりと俺のほうへと近づいてくると、銀色の獣耳がかわいらしい頭を差し出してきた。つまり、これはなんだ。撫でろ、ということか。
「いいところがあるんだから、私を褒めてください。なでなでしてください! 奴隷解放から今までずっと、撫でてくれませんでしたもんね!」
「……」
「……!」
「はぁ……」
目線が合う。オルカは目をキラキラさせて、俺に撫でてもらうことを心待ちにしているようだ。
――一日五分程度なら、触れても大丈夫
クランは、魔法と呪い、まじないに関して、一定以上の知識と経験を誇る人物だ。その人物が断言したのだから、本当に触れても大丈夫なのだろう。だから俺は、呪いがかけられてから初めて、オルカに触れる。
「……ふぁっ……ふにゃ……んっ……」
ゆっくりと、髪をすくように撫でる。さらさらと流れる銀の髪は、まるで絹のような柔らかさを持っていた。海から上がってほどなくして撫でているのにこの質感とは、女性の髪の毛というのはなかなかに不思議なものだ。
撫でるたびにオルカが上げる甘えた声は、否応なく俺の欲を掻き立てる。このままずっと、オルカの髪をなでていたいと思えるほどだ。
しかし、やはり呪いが邪魔をする。そろそろ五分になりつつあった。だから俺は、撫でていた手をゆっくりと離す。
「あっ……」
オルカも名残惜しげな声を上げ、目に見えて尻尾が降られる速度が落ちていく。……流石にこのままでは可哀想だし、本当に楽しい思い出にはならないだろう。俺は荷物を置いた場所へといったん戻り、そこからビーチボールを取り出す。それをオルカのほうに放り投げる。
オルカは危なげなくそれをキャッチし、顔を輝かせた。その顔に安堵しつつ、俺は声高にオルカへと呼びかけた。
「……よし。ビーチボールで遊ぼうか。いつまでもこうしてるのも、ここに来た意味ないしな」
「あ、は、はい!」
花が咲くような笑顔をオルカは浮かべる。俺はそんなオルカの直上めがけて……ビーチボールを弾き飛ばす。
……肩に思わず顔をしかめてしまいそうな痛みが走る。それを必死にこらえて、表情に出さないようにする。
オルカが今浮かべている笑顔を、絶やさないために。
◇
あれから数時間が経過し、夜になった。
海水浴場のすぐ近くにある宿にチェックインしてすぐにオルカは寝てしまい、現在はベッドの上ですやすやと眠っている。
「んにゅ……んぅ……」
何も知らない、無垢な寝顔だった。天使の寝顔とは、まさにこのような寝顔のことなのだろうか、と俺は思う。
こんな寝顔をずっと近くで見守っていたい。そうは思うが、俺には残り四日ほどの時間しかない。だから俺は、せめてこの寝顔を永遠と脳裏に焼き付けておこう。冥界へ渡る運賃と一緒に、この笑顔を持っていくことにする。
そう決心すると、不思議と心が軽くなっていった。オルカの笑顔、表情を冥途の土産に持っていく。いいじゃないか。それなら満足な成仏ができそうだ。
そんなことを思いながら、明日使う荷物をまとめる。荷物はオルカの枕元にあって、俺はそこから明日使うであろう荷物を取り出す。……オルカ曰く、明日は海でスイカ割りをするそうだ。ならばシートだとか棒とかが必要だろう。それらを袋へと詰め込んでいく。
一通りの作業が終わり、俺はオルカのベッドのすぐそばにある椅子に座る。もう少しだけ、オルカの寝顔を見ていたいと思ったからだ。
「ん……くぁ……。あ……べる、さん……」
「……」
「ずっといっしょに……。いっしょに、いっしょに……ごはんをたべましょう……。わたしがつくりますから……」
「馬鹿だなぁ。それだけでいいのか……?」
「だから、もう……ひとりに……ひとりにしないでください……。もう、はなれないでください……」
「……!」
先ほどまで笑顔を浮かべていたオルカの寝顔は、いつの間にか悲しそうに歪められていた。その原因が自分にあると思うと、胸が引き裂かれるような悲しみを覚える。
本当に……本当に俺は、オルカに幸せな日を過ごさせるだけでいいのか。本当は嫌われたほうが、こいつの身のためになるんではないのか……。そんな考えが、頭の中でぐるぐると回る。
……でも、ここまで優しくしたんだ。今その気持ちを斬り捨てたら、きっとオルカの心に深い傷が付いてしまうことは流石にわかった。精一杯。精一杯の愛情を、今ここで注ぐ以外に道はないし、それ以外の道は自分で斬り捨てた。だから、俺は。
「俺はここにいる。お前を、幸せにするために」
オルカの目じりに浮かんでいた涙を人差し指でぬぐって、一回だけ……一回だけゆっくりとオルカの頭を撫でる。
手を戻して、オルカの表情を見る。オルカは幸せそうな表情を浮かべながら眠っている。……良かった。落ち着いたみたいだ。
俺も、少しだけ安堵する。……そうやって安心した時を見計らって、呪いが俺を蝕んできた。まるで蛇のように狡猾に、狙い澄ました瞬間に。
「ぐっ……! うぁ……!」
この痛みにも少し慣れてきたとはいえ、それはいつも想像を絶する痛みを俺に与えてくる。まるで心臓に釘を打ち付けるような痛み。耐えきれず、口の隙間から呻き声が漏れる。
耐え難い痛みだ。俺の意識も何度か飛びかけて、その度に目の前の寝顔を見て持ち直す。……ここで気絶したら、そのままオルカに倒れこんでしまうから。この何物にも代えがたい表情を、外ならぬ俺の手で壊してしまいかねないから。
だからと言って、痛みに耐えられるように声を上げてしまえば、この異常をオルカに悟られてしまう。もしそうなってしまったならば、残りの四日間、オルカは曇った心のままで遊ぶことになるだろう。あの夜、アベルさんに襲った異常は何なんだろう、と。
だから、絶対に耐えようと思った。……耐えきれると、思った。でもそれはいつもの話。残り六日。一週間を切った俺の体は、これまでの呪いの浸食とは訳が違った。俺のことを完全に殺しに来ている。
先ほど、心臓に釘を打ち付けられるような痛みだと言ったが、今の痛みはそれを遥かに越していた。……心臓を切り裂かれたうえで、ぐちゃぐちゃに手でかき回されるような痛みだ。体全体で、その痛みを感じているような錯覚に陥る。
嫌な汗が全身から噴き出る。歯を食いしばって、時折唇を噛み締めて耐え抜く。目の前の寝顔を崩さないためにも、これから俺なしで生きていくオルカのためにも。絶対に。絶対に。絶対に――!
「ぁ………」
でも、そんな覚悟は無慈悲にも打ち砕かれる。一秒にも満たない永遠の中で一際強い痛みを絶え間なく送り続けてくる。まるでそれは、俺の意思を刈り取りにやってくる、死神のように。そしてその死神が刈り取りに来たのは俺の意識だけではなかった。
「な……なんで!」
死神が嘲るように、示したそれ。まだ先だと思っていたそれ。俺が目のあたりにしたのは……。
『まだ猶予があるとでも思ったか。愚かだな。我が狡猾だったのは、何も今この時だけではあるまいに』
『1』から、『0』に変容しつつある、紫色の数字だった。
◇
このSSへのコメント