2020-11-20 15:21:31 更新

概要

修学旅行の偽告白後、二人に拒絶された比企谷八幡が心を壊してしまう話。


前書き

暴力シーン注意。(追記:7/26)
3000PVありがとうございます。更新スパンは相変わらず長いですが、これからもどうぞよろしくお願いします。(追記:8/5)
いつの間にか5000PV超えてました。ありがとうございます。何故か新幹線が千葉駅行くと思い込んでた……申し訳ない。(追記:11/20)









 風に吹かれ、竹が波打つ。


 辺りがシャラシャラと笹の葉の擦れあう音に包まれる中、俺はさっき起きた出来事を頭の中で反芻していた。






『あなたのやり方、嫌いだわ』




『人の気持ちもっと考えてよっ!』






 あの二人の言葉が、確かな痛みを持って胸に突き刺さる。


 それと同時に、人間であるなら持って然るべき何かに、ピキッと、一筋の亀裂が走ったのを感じた。


 亀裂は、徐々に、徐々に、徐々に広がっていく。




「……いったい、俺は」




 根本から、まるでそれが自然なことであるかのように崩れ、形を失っていく。


 そしてーー。








「俺は、何を守りたかったんだ?」








 『それ』は、音もなく、粉々に砕け散った。






       ✕     ✕     ✕






 新幹線に揺られながら、することもなく窓の外の景色を眺めていた。隣では、戸塚がすぅすぅと寝息を立てながら、俺の肩に頭を預けている。


 昨日までの俺なら、ここで「可愛い」だの「天使」だのと騒ぎ立てていたところだろう。だが、あいにくとそんな感情は湧いてこなかった。


 それどころか、いままで何故こいつからそんなことを感じていたのだろうかと疑問すら覚えてしまう。




「……」




 それはこいつに限った話ではなく、先程から眼前にそびえたつ富士山にさえ「綺麗だ」とも思わない。ただ、山があるという事実が情報として入り込んでくるだけだった。


 やがて新幹線は東京駅に到着し、他の生徒が荷物を持って下車するや否や、そこらかしこで女子の黄色い声や男子の浮足立った声が飛び交い始める。密閉された新幹線の中とは違い、駅のホームは周囲の様々な音とそれらの声が混ざり合って、思わず耳を塞ぎたくなるような喧騒に満ち溢れていた。


 それを俺は、耳を塞ぐことなくただ呆然と聞き入る。だがしかし、やはり「うるさい」以外の感想は出てはこなかった。


 駅構内の広大なスペースを百余人の生徒が埋め尽くし、教師陣が代わる代わるマイクを手にとっては、連絡事項や修学旅行の感想を述べていく。修学旅行のほとぼりが覚めていない生徒の中には、近くのトモダチとこそこそと駄弁る奴、カメラを手に取り写真を眺めてはニヤけている奴、連日で疲れが溜まっていたのか座ったまま眠りにつく奴と、まさに典型といえるような反応がそこらかしこに蔓延している。


 ……どうでもいいな。なんで周囲の反応を俺がわざわざ観察しなきゃならないんだ。


 どこか冷めた目で思考を放棄すると、教師の話はいつの間にか終わっていたようで、集会は生活指導の平塚先生が帰宅までの簡単な注意事項を話しているところだった。


 解散の指示が出されると、次々と座っていた生徒が立ち上がり、集会前の喧騒を取り戻していく。そんな中、俺は一人、誰とも目すら合わせずにその場を離れ、帰路を辿った。







 電車に揺られ、改札を下り、夕焼けに染まる見慣れた道を歩く。家に到着し、声もなく扉を開けると、奥からとてとてと駆け寄ってくる影が一つ。



「おかえりお兄ちゃん! もう、ただいまも言わないなんて小町的にポイント低……」



 俺の前に来るや否や、小町は立ち止まり……そして、おもむろに声が途切れた。



「……? どうした」



「……ねぇ、お兄ちゃん。なにか、あったの?」



 その言葉に、靴を脱ごうと足元に伸ばした手が止まる。ゆっくりと小町の方へと視線を向けると、小町は愕然とした、それでいて心配そうな目で俺を見ていた。



「……別に何もないが」



「嘘。……だったらお兄ちゃん、そんな目してないよ」



 小町はそう言うと、家の奥へと踵を返し、何かを持ってぱたぱたと戻ってきた。



「ほら」



「……?」



 小町が持ってきたのは手鏡だった。「んっ!」と俺の目の前に突き出されたそれには、額いっぱいに自分の顔が映っている。


 はぁと息を吐き、注意深くそれを覗き込む。もはや見飽きた自分の顔。それ以外の何物でもない。


 ……ただ、今まで周りに「腐っている」と酷評され続けていた俺の目だけが、今は違っていた。



「今までのお兄ちゃんの目は、腐っててもちゃんと生きてたよ……」



 ーー俺の目は、文字通り死んでいた。


 生気がない、と言った方がいいかもしれない。まるで黒のマジックでグリグリと塗り潰したような、濁りどころかいっそ綺麗といってもいいような漆黒の暗闇が、無表情の俺の顔を映している。


 俗に言う、レイプ目というやつだろうか。ここまで光のない目は見たことがない。てか、男のレイプ目とかどこに需要があんだよ。はは、笑えよ。


 頭ではそんなことを考えているにもかかわらず、表には一切の感情が出てこない。まぁ、これはいつも通りだが。むしろこれでニヤリとでも笑っていたら逆に怖い。


 そんな俺をよそに、悲痛に顔を歪め、小町が視線を落とす。こいつは自分のことでもないくせに、何故こうも他人に感情移入できるのだろうか。とはいっても、今回は完全に履き違えている。


 ……こんな目になったからと言って、特に何が変わったわけじゃない。すこぶるどうでもいい。



「……別に、普通だろ?」



「ぇ……」



 だから、気付かないふりをする。


 これ以上根掘り葉掘り聞かれても、面倒なだけだ。



「部屋、行ってもいいか? 荷物とかあるし、いろいろ片付けたいんだが」



 絶句する小町の横を抜け、廊下の奥の階段の手すりに手をかける。木造りの階段の一段目に足をかけると、体重で木の軋む音が廊下に響いた。



「ちょ、ちょっと待ってよお兄ちゃんっ!」



 階段を上がろうとした瞬間、左腕を小町に捕まれた。振り返ると、涙目になった小町の潤んだ瞳と俺の燻んだ視線がぶつかる。


 小町はビクッと肩を揺らすも、すぐにその瞳でキッと俺を睨みつけ、若干震えた声で話を切り出し始めた。



「……修学旅行で、何があったのか、教えて」



「なにもねえよ。多少人混みに埋もれたから、そのせいで濁りが増したんだろ。あぁ、あと知らない奴らと寝泊まりするなんて苦行もこなしーー」



「お兄ちゃんっ!!」



 へらへらと並べていた尤もらしい理由が叫びにも似た大きな声に半ばで遮られ、おもわず肩が跳ねる。



「お願いだから、話して……!」



 小町はなおも鋭く俺を睨みつける。しかし、その目から零れ落ちる透明の雫が、力なく震える声音が、小町の本当の感情を雄弁に語っている。


 ……俺のために泣くなんて、涙の無駄遣いってやつだぞ。



「……後でで、いいか。荷物を置いてくる」



「……!! うんっ!」



 それだけ言って、俺は階段を上っていく。去り際に見えた小町の顔は、泣き笑いのような表情をしていて、涙でぐしゃぐしゃになっていた。






「……ねぇ、お兄ちゃん」



「なんだ」



「……もう、葉山さん達と雪乃さん達とは関わらないで」



 リビングで腰を落ち着かせ、まだ目の赤い小町に修学旅行でのあらましを簡単に説明した。


 俺の体面に座り、終始静かに話を聞いていた小町は、開口一番にそう言い放った。



「何で?」



「なんでって……! 当たり前でしょ!? これ以上あの人たちと一緒にいたら、お兄ちゃんが壊れちゃうよっ!!」



 がたっと立ち上がり、語気を強めて小町が叫ぶ。どうやら俺の行動が気に食わなかったわけではなく、単に俺の身を案じてのことだったらしい。


 我が妹ながらいい奴だ。ここまで親身になってくれる人間は、世界中探したってそういないだろう。


 ただ残念なのは、その相手を間違えてるってことだが。



「わかった。関わらなきゃいいんだな?」



「そう、だよ。お兄ちゃんの気持ちがわからない人と関わってたって、お兄ちゃんが嫌な思いするだけだよ。……雪乃さん達なら、わかってくれると思ってたのに……」



 最後にぼそっと何かを呟いていたが、声が小さかったために俺の耳には届かなかった。


 とはいえ、関わるな、か。普通なら難しい話だが、今なら別段難しいことでもないか。






 もう人間関係に価値があるなんて、微塵も思えないからな。






       △▼△▼△▼△▼△▼△▼△






 夢を、見ていた。



 周りは辺り一面真っ暗で、人一人がやっと立てるくらいの小さな台の上に、俺はただ佇んでいる。



 下を見下ろすも、暗闇のため距離感がつかめない。もしかしたらすぐそばに地面があるのかもしれないし、もしくは地面なんてものはなく、台から下は奈落の底なのかもしれない。



 何もしない方がいいか、と勝手にひとりごち、目の前の暗闇を見据える。すると、その視線の先に、淡い白光を放つ欠片のようなものが浮かび上がった。



 それを皮切りに、俺の周りを囲うように次々と光の欠片が浮かび上がってくる。それはまるで夜空に煌々と輝く星屑のようで、まさに幻想的な光景といえるだろう。



 だが、俺は何も感じない。美しいと感嘆の声すら漏らさず、非現実的な風景に胸が高鳴ることもない。人間に本来備わっているべき感性が、根本から欠如しているのだろうと悟った。



 光の欠片が現れてから暫くすると、ふいにその内の一つが俺の眼前に飛び込んできた。



 呆然と、それを眺める。





『小町ぃいいい!! どこだぁあああ!!!』



 ーー欠片には、大声で妹の名前を叫びながら走る少年の姿が映っていた。



『はぁっ、はぁっ……!! 本当に、どこ行っちまったんだよっ……!』



 汗だくになり、息も絶え絶えになりながら、なおも少年は走り続ける。周りの人間から視線を集めていても、構うことなく妹の名前を呼び続け、道という道を駆け抜けていく。



『……っ!! 小町っ!』



『ぁ…………お兄、ちゃん……?』



 ヘロヘロになりながら辿り着いた公園には、ブランコに座る妹の姿があった。



 少女は少年の姿を見るや否や、嗚咽を漏らし始め、ふらふらとブランコから立ち上がる、そして、駆け寄ってきた少年の胸に飛びついた。



『お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ!! ごっ、ごめ、ごめんなさいっ!! 小町、こまち……!』



『あぁ、まったく、父ちゃんも母ちゃんも心配してたぞ。……でも、無事でよかった』



 泣きじゃくって頭をこすりつけてくる妹を抱きしめ、優しく頭を撫で続ける。その少年の表情は、町中を駆け回ったことによる幾ばくかの疲れと、妹の温もりを抱くことができた安堵に染まっていた。





「……」



 そんな光景を、俺はただ冷めた目で見続けていた。と、次の瞬間、その欠片はおもむろに弾け、光の塵となって四方に飛び散った。



 代わるようにして、また別の欠片が目の前に現れる。





『マジキモい! やめてくんない?』



 ーーそれは学校の教室の一角で、ひとりの少年が、大勢の少女から軽蔑の視線を浴びていた。



『かおりに告るとか、ナル谷きっも』



『釣り合わないとか考えないのかなー』



 クラスでは、少年がとある女子に告白したことが広まり、それを肴にクラス中が少年を隅へと追いやっていた。



 くすくすと陰で笑われ、嘲る視線はクラスの女子のみならず、男子までもがそれに乗じて少年を責め立てる。



 少年は無言でリュックを手に取り、ドアを開けて教室を後にする。少年が出て行った瞬間、教室で大勢の笑い声が巻き上がり、教室内では収まりきらなくなった笑い声は壁を隔てた廊下にさえ響いた。



 すれ違う生徒から好奇の視線を向けられながら、少年は廊下を進む。夕日に照らされた少年の横顔からは、大粒の涙が零れ落ちていた。





「……」



 欠片が弾け、また違う欠片が目の前に飛んでくる。





『ねぇねぇ、ヒッキー!』



 ーー青年の隣を歩く桃色の髪の少女が口を開く。



『なんだよ』



『えへへ、なんでもない! 呼んでみただけ!』



 そっけない青年の対応にもかかわらず、少女は弾けるような笑顔で答える。



『……お前なぁ、あんまバカっぽいことばっか言ってるともっとアホになっちまうぞ』



『なっ、バカっぽいってなんだし! バカって言う方がバカなんだからねっ!』



『小学生かよお前は…………ったく』



 ふいと、ぷりぷりと怒る少女と真逆の方向に顔を背けながら青年がぼそりと呟く。その頰は、少し赤みがかっていた。





『比企谷くん。紅茶が冷めるわよ』



 ーー椅子に腰かけた、黒髪の少女が青年に話しかける。



『猫舌なんだよ、仕方ねぇだろ』



『比企谷くんが猫……ふふ』



『いま笑う場面あった? ペットみたいな存在だとでも言いたいの?』



『何を寝ぼけたことを言っているのかしら。比企谷くんがペットだなんて、ペットに失礼よ』



『俺は奴隷かなんかなんですかね……』



 軽口をたたき合いつつ、お互いに机に置かれたマグカップに口をつける。少女は優雅に、青年は熱さに顔をしかめながら紅茶を飲む。



 その変わらない味にほっと息をつき、この教室に流れる雰囲気を噛みしめる。離れすぎず、近づきすぎないこの距離感が、青年には心地が良かった。





 ーー手放したいだなんて、微塵も思っていなかった。





「……っ」



 欠片が弾け、光の粒子となって暗闇に溶けていく。先ほどまで目にしていた光景も、バラバラになって霧散する。



 そしてーー。





『あなたのやり方、嫌いだわ』



『人の気持ちもっと考えてよっ!』





 信じていた二人からの拒絶。つい最近、何かと引き換えに失ったもの。



 ーーこれらはすべて、俺の感情の記憶の欠片だ。



 安堵、不安、悲哀、憤怒、友愛、安心、希望、ーーーーそして、絶望。



 耐えて、堪えて、我慢して、抑えつけて、ようやく掴みかけたものも、また手の届かない場所に行ってしまった。



 欠片は次々に弾け散っていく。感情が、どんどん消えてなくなる。



『ーーーー俺は』



「……っ!?」



『お前は、いったい何を守りたかったんだ?』



 暗闇から、慟哭のように響く低い声。それは俺の脳内で反響し、思うがままに他の思考を掻き消し、蹂躙する。



「俺、は……」



 闇が迫ってくる。何もない、自分の手足すら見えない暗闇が、俺を丸ごと包み込んでくる。



 そしてーー。






       △▼△▼△▼△▼△▼△▼△






「っ……!!」



 目を開けると、そこには見知った天井がある。夢から覚めたのだ。


 窓からは朝日が差し込み、部屋の中央を照らしている。汗で湿った額を拭い、フーと大きく息を吐くと、ベッドの脇にある目覚まし時計に目を向けた。


 が、寝起きだからか、視界がぼやけて時間を確認することができない。



「……?」



 目を擦り、再度時計に目を向ける。しかし、ぼやけが取れることはなく、目を細めても視界が開けることはない。


 まぁいいか、と視界を取り戻すことを諦めて、ベッドから立ち上がり、慣れた手つきでクローゼットを開け制服に着替える。こればかりは視界が定まっていようがなかろうが関係ない。毎日反復していたことなのだから。


 ワイシャツに袖を通し、ブレザーのボタンを留め終える頃には、目のぼやけは収まっていた。視界に入った時計の表示は、ちょうど7時を回ったところだ。


 階段を降りてリビングに入ると、朝食が既に並べられていた。テーブルには、制服姿の小町が向かい側に座っている。


 俺も席に着き、無言で手を合わせて朝食を摂り始める。それに合わせて小町も茶碗を手に取り、ご飯を口に運び始めた。


 それから5分間、俺たちは一言も発さず、黙々と朝食を食べ続けた。静寂の中で、カチャカチャと箸が食器にぶつかる音、皿が机に当たる音、コップに水が注がれる音だけが室内に響く。


 だが、そんな空気に耐えられなかったのか、小町が箸を止め、うつむきながら口を開いた。



「……ねぇ、お兄ちゃん。学校、行くの?」



「ああ、行く」



「だ、だよね、うん。……奉仕部には、行かないよね?」



「行かねぇよ。昨日言ってただろ、もう関わらないでって」



「そ、そう。ならいいんだけど……」



 会話が途切れ、また食器のぶつかる無機質な音が響き始める。小町の視線が俺の方を向いている気がしたが、俺は気にすることなく食事を進めた。



 食事が終わると、俺は食器をシンクへと運び水に濡らし、スポンジを取ろうと手を伸ばす。すると、小町がすぐさま俺の横に並び、スポンジを横取りすると、小さく口を挟んだ。



「あ……洗い物は今日は小町がやるよ。だからお兄ちゃんは準備してて」



「わかった。サンキュ」



 礼を述べ、小町に洗い物を任せて扉に向かう。礼とは言っても、中身のない社交辞令染みたものだった。



「あ! そ、それと、今日は送ってもらわなくていいから! お兄ちゃんは先行ってて!」



「あいよ」



 それだけ言って、リビングの扉を閉める。去り際に小町がどんな顔をしていたのかは、見ていないのでわからない。だがきっと、不安に押しつぶされそうな表情をしていたのだろう。


 だからなんだ、という話だが。


 それから歯磨きなどのもろもろを済ませ、ローファーを履き、荷物を持って玄関の扉の取っ手に手をかける。ガチャ、と音を立てながら扉が開くと、リビングからぱたぱたと小町が駆け寄ってくるのが見えた。



「お兄ちゃん」



「なんだ」



「……無理は、しないでね。早退でも何でもいいから、帰りたかったら帰ってきていいんだよ?」



「しねぇよ。する必要も、理由もなくなったしな」



「……そういうことじゃないよ、お兄ちゃん……」



 うつむき、ぼそりと呟く小町を尻目に、俺は開けかけていた扉を押し広げ、外に踏み出した。



「……いってらっしゃい、お兄ちゃん……」



 扉が閉まる直前、小町が小さな声で言葉を紡ぐ。しかし、俺が返事をすることはなかった。


 かわりに、バタンと扉の閉まる乾いた音だけが、静まった廊下に響いていった。






 学校に着くと、自転車を指定の場所に置いて教室へと向かう。


 いつもは何らかの思いを抱いていたはずの廊下も、今日に限っては無味乾燥という印象しか受けない。時折、すれ違う生徒がこちらを見ている気がしたが、それも人間なら当たり前といえば当たり前という話なので、特に気に留めることもなく進む。


 教室に入ると、いつもどおりの喧騒さが耳を通して思考を妨げる。その中に俺は足を踏み入れ、何食わぬ顔で机に向かい、腰を下ろした。


 周囲から否が応にも聞こえてくる話し声からするに、俺がやった偽告白の件は広まってはいないらしい。おそらく、当事者である葉山グループが他言しないよう身内でもみ消したのだろう。あれは、あの場にいたごくわずかなものしか知らないことだ。ならば必然、黙っていれば周囲に漏れることはない。


 もし俺に何か危害を加えたいならそうはしなかっただろうが、そうしたところであいつらにメリットがない。とりわけ海老名さんに至っては、依頼者とはいえそれで憐みの視線を向けられたところで、ただ単に煩わしいだけだろう。


 ちらりとクラス後方に群れる葉山たちを一瞥すると、浮かない顔をして話を聞き入っている由比ヶ浜と目が合った。由比ヶ浜は俺の存在に気付き、少し表情の陰りが増したかと思うと、ふいっと目を反らしてまたグループの話題に意識を戻した。


 当然といえば当然、至極真っ当な反応だ。俺はポケットから音楽プレイヤーを取り出し、周囲の雑音を遮断すべく音楽の海に思考を沈め、さらにバッグから小説を取り出して残った意識を活字に向ける。


 しかし何故だろう、今日持ってきた一冊は特に気に入っている一冊の筈なのに、ただ文字の羅列を眺めているだけに思えた。



「ーーおはよう、八幡!」



 文字を眺めているだけというのもバカらしい、と小説を閉じたと同時、机の前に見知ったジャージ姿が目に映る。視線を上げると、そこには笑顔で何かを言っている戸塚彩加の姿があった。



「おう」



 イヤホンを取り、口の動きで先程のは挨拶だと推測する。そして俺は一言そう言うと、またイヤホンを耳につけて流される音楽に思考を預けた。



「え……う、うん」



 そっけない俺の対応に、戸塚は戸惑った表情を浮かべる。そして、また何かを言いかけようとした瞬間、学校の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。



「ま、またね」



 戸塚はそう言って、後ろ髪をひかれつつもその場を後にする。「またね」という言葉に対する俺の返答は、終ぞなされなかった。


 本をしまい、バッグから筆記具や教科書を出して授業への準備を進める。ガラリと扉が開き、出席名簿を手にした平塚先生が入ってきたところで、俺は音を吐き出し続けていたイヤホンを取った。




 授業は刻々と進み、時間が入れ替わる度、その教科に応じた先生が教室へと足を踏み入れる。それを見てその教科が自分に必要か必要でないかを見極めると、俺は枕代わりに組んだ腕に頭を預け、静かに目を閉じた。


 時折、後方から視線を感じることがあったが、それが由比ヶ浜からのものだと悟ると、特に気に掛けることなく時間を浪費する。それがどんな表情をしていたとして、俺がそれに対してすることは何もない。




 ーー必然、俺は気付かなかった。その視線が由比ヶ浜のものとは別に、もう一つあったことを。




 午前の授業が終わり昼休みになると、教室はまた朝のような喧騒に満ち溢れる。そんな耐え難い空気から逃げるようにして、俺は総菜パン片手にベストプレイスへと向かった。


 途中の自販機で黄色と黒の注意色を纏った缶コーヒーを購入して、人気の少ない廊下を歩く。ベストプレイスに到着すると、珍しくそこには先客がいた。


 亜麻色の髪をした、ミディアムヘアの女子生徒。少なくとも、俺はこいつを知らない。


 とはいえ、ここは俺が昼休みを過ごせる唯一の場所。うずくまる女子生徒との間隔を空け、段差の端に腰かけてマッカンの蓋に指をかける。


 カシュッと、マッ缶の蓋が開く小気味良い音が鳴る。



「あの……」



「ん?」



 マッ缶を呷り、総菜パンのパッケージを空けてパンを口に運ぶ。すると、先程まで沈黙を保っていた女子生徒がこちらに話しかけてきた。



「よく、泣いてる女の子の横で、平然とパンなんて食べられますね……」



「俺がパンを食べるのに、お前が泣いてる泣いてないは関係ないだろ。俺は別に気にしない」



「そ、そうですか……」



 女子生徒はそう言うと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。そして構ってほしいのか、次にはこんなことを言い始めた。



「ふつう、何があったかとか聞いたりしませんかー?」



「俺はお前を知らない。知らないお前に何があったかなんて興味がない」



「……」



 はっきりとした口調でそう告げると、女子生徒はむっと顔をしかめ、おもむろに距離を詰めてきた。俺は少女側に置いておいたマッカンを咄嗟に拾い上げ、謎の行動に思わず眉を顰める。


 すると、女子生徒は先程までの沈鬱とした表情とは一転、媚びへつらった笑顔を俺に向けてきた。



「あのぉ、ちょっと聞いてくださいよぉーせんぱぁい♪」



「……」



 わざとらしく瞳を潤ませ、甘ったるく、媚びに媚びて男を誘惑するような声。俺を先輩と呼んだということは、おそらくこいつは一年生なのだろう。その態度と声音で、こいつのこれまでの人生の歩みが、まるで絵に描いたようにはっきりとわかった。


 人は見かけによらないとは言うが、この場合は別だ。処世術が人の根幹を決めるなんて話は、どこの世界でもザラにある。


 ……こういう奴を見ていると、心底イライラする。



「……くなぁ」



「え? なんですか?」



「ムカつくなぁ、お前」



 胸中を埋め尽くす黒い何かが、今までに感じたことがないほど渦巻いている。感情は、失ったはずではなかったのか。



「えっ……」



 ぎょっと目を見開き、たじろぎ困惑する女子生徒。赤の他人であるはずの俺からいきなり敵意を向けられ、怯えているのが目に見えてわかった。



「今の発言でよくわかった。お前、さっきみたいなことやって男子を手玉に取って遊んでたんだろ? で、それを見た他の女子生徒から恨みを買って、嫌がらせを受けてここに逃げてきた。違うか?」



「……っ!」



 ビクッと肩を揺らし、女子生徒はさらなる困惑に瞳を揺らす。その反応から図星であると確定すると、ハッと鼻で笑って女子生徒に向き直る。



「媚びへつらって、自分を偽って、それで他人を思い通りに動かして満足ですってか。とんだビッチだなお前。そりゃ恨まれても仕方ねぇわ」



「い、偽ってなんか……こ、これが、わたしの本当の……」



「偽物だろ。猫被って声音まで似せて、それのどこをどう見りゃ本物なんて言えるんだ? もしそう言えたんなら、そいつの目が腐ってんだろうな」



「そんな、こと……!」



「反論できるんなら言ってみろ。できないんならどっか消えてくれ。ーーはっきり言って、目障りだ」



「……っ!!」



 胸中に渦巻くドス黒い何かを吐き出し終えて、俺は手にしたマッ缶を呷る。極甘の濁流が喉を通過し、余韻に浸りながらほぅと息を吐くと、俺の数々の言動に耐えかねたのか、女子生徒はおもむろに立ち上がり、泣きそうな顔で後方の廊下の先へと走り去っていった。



「……」



 女子生徒の姿が見えなくなり、静寂を取り戻した特別棟一階の出入り口付近。マッ缶片手にパンを貪り、初対面の女子に数々の暴言を吐き散らかした男子高校生の姿が、そこにはあった。


 言わずもがな、俺である。



「……何で、俺はあんなに怒ったんだろうな」



 パンを咀嚼しながら、先程までの自らの言動を思い返してみる。


 いつもの俺なら、知人にさえ使わない言葉の数々。さらに暴言という点を除いても、初対面相手にあそこまで口が回ったのは生まれて初めての経験だ。


 だが、悶えることはない。黒歴史の一部として、刻まれることも恐らくない。


 それだけ、俺の思考は冴えわたっていた。あれは、俺の本心なのだから、俺自身が汚名を着せることは許さない。



「……まぁ、いいか。どうせまた遭うこともないだろ」



 結局、俺はそれまでの疑問をすべて帳消しにして、パンの最後のひとかけらを口に放り込み、同じく残り少ないマッ缶でそれを流し込む。


 そのマッ缶の最後の一口は、いつもより甘さが薄れているような気がした。





 午後の授業もほとんどを睡眠にあて、長い学校生活もあっという間に放課後に差し掛かる。


 窓からは橙色の夕日が差し込み、教室内も騒々しかった朝と比べてどことなく落ち着いている。運動部などの一部を除いて、一日が終わったという脱力感とともに、生徒たちのゆるい談笑が辺りに響いていた。


 ホームルームが終わり、各々の目的に向かって生徒が一斉に席を立つ。それに準じるように、俺もカバンを肩に掛け、気配を殺して颯爽と出口へと向かった。


 小町には、金輪際奉仕部には行かないと明言している。だからその足取りは、まっすぐ自宅へと向かっていた。



「ちょっと」



 廊下に出た直後、背後から見知った声がかかった。それが誰を指しているのかはわからないが、それが違う誰かだとしても人は振り向いてしまうもので、俺もその例に漏れず、足を止め振り返る。



「ヒキオ、話があんだけど」



 振り返った先には、明らかにこちらに体を向け、威圧的な瞳で俺を見る三浦がいた。







「……で、何の用だ?」



「とぼけんなし。あんた、わかってんでしょ?」



 キッと俺を睨みつけ、腕を組んで高圧的に言葉をぶつけてくる三浦。それに対し、身に覚えのない俺は謂れのない糾弾に眉をひそめる。


 三浦に連れてこられた先は、校舎の最上階、いわゆる屋上の一角。放課後ともあって辺りに人気はなく、時折下から部活動の活気づいた声が聞こえてくる程度には静寂を保っている。


 すでに季節は秋を迎え、屋上には冷たい北風が辺りを所狭しと駆けており、全身を布で覆っていようと肌寒さは拭えない。そんな中でもミニスカートという見ているだけで寒くなりそうな姿勢を崩さない三浦は、寒さなどどこ吹く風といった様子で俺に視線を送り続けてきていた。



「あんた結衣に何したわけ?」



「別に何もしてないが」



「はぁ!? ふざけんのもいい加減にしろし!」



 俺の返答に、三浦が声を荒げて俺に怒鳴りつけてくる。



「今日の結衣、朝から何かおかしかった! 授業中はずっとあんたのことちらちら見て、その度に悲しそうな顔して…………あれで何もないわけないじゃん!」



「知るかよ。俺には心当たりが何もない。それでおかしくなってんなら、あっちに非があるんだろ」



「なっ……!」



 興味なさげにそう言って、三浦の疑念をばっさりと切り捨てる。何の動揺もなく、なおも平然とした態度の俺に、三浦が唖然とし、口を大きく戦慄かせた。


 実際、心当たりはないわけじゃない。というか、まさに修学旅行のあれだろう。むしろそれしかない。


 だが、わざわざ当事者の所属グループの一員であるこいつに明かす必要はない。明かしたところで、グループがこれまで以上にギクシャクするのは目に見えている。


 葉山のグループがどうなろうと知ったことじゃないが、教室が変な雰囲気になられても困る。主に俺が過ごしづらい。



「っ……ふざけんなっ!! 結衣が、あんたのことどれだけ……!」



 形のいい顔を歪ませながら声を張り上げ、胸ぐらを掴みかかってくる勢いでずかずかと距離を詰めてくる三浦。しかし、至近距離で俺の目を見るなり三浦はぐっと声を詰まらせ、後に続くはずだったであろう言葉が半ばにして途切れた。


 先程までの剣幕はどこへやら、眼前にまで迫ってきていた三浦が愕然と目を見開く。そんな呆けた顔を、俺は間近で、ただ冷めた目で見ていた。


 三浦の黄色がかった瞳に、俺の目が映る。それは、あの時小町が持ってきた鏡に映っていたのと同じ、光の欠片もないドス黒い目だった。


 この世のものすべてに興味の欠片も示していないような、がらんどうの空虚な目。生物皆、死して腐ればやがて塵となり、無に還る。まさに、それに準じた結果のような瞳だ。



「ぁ……」



 振り上げた手をだらんと落とし、三浦が茫然と俺を見つめる。このシーンだけを切り取ったとするならば告白の1シーンに見えなくもないが、相手が相手な上、そんな甘々な場面にはよろしくない「絶望」という名の空気が蔓延している。よって不可だ。



「言いたいことはそれだけか? なら俺は帰らせてもらうぞ。妹が待ってるんでな」



 立ち尽くす三浦を尻目に、俺は出口へと足を運ぶ。扉の枠に手をかけたところで、未だ放心状態の三浦に対して、一応声をかけておくことにした。



「そんなに知りたいんなら、俺じゃなく海老名さんにでも話を聞け。……もっとも、それでお前らの関係が壊れようが、俺は一切責任を負わないがな」



 言い残して、寒風吹き付ける屋上を後にする。ポケットに両手を突っ込んで冷えた手を温めつつ、これからのことを考えながらゆっくりと階段を下っていく。


 最後の忠告は、三浦に対する情けのようなものだ。俺みたいな奴を屋上まで引っ張り上げ、友のために怒鳴りつける。それで何も報われないのでは、流石にあんまりすぎる。


 とはいえ、もしも海老名さんに詳細を聞くことになれば、正義感の強い三浦は「なぜ自分を頼ってくれなかったのか」と思うに違いない。それに、戸部が海老名さんに好意を抱いていたことを葉山だけが知っていて、自分には知らされなかったという事実も次いで発覚するだろう。そうなれば、グループに対する不信感が生まれてくるのはもはや必然。


 何も知らずに悶々とした中で日常を謳歌するか、知って仲間に対する疑念に苛まれながらいつ壊れるともわからない現状を過ごすか。それは本人の行動次第だ。


 事実を知った三浦が言いふらさない限り、少なくとも俺の平穏は守られる。己に降りかかるリスクを鑑みた結果、俺はそれに甘んじることに決めた。


 タンタンと、上履きが階段を叩く音が反響する。屋上ほどではないが、階段はそれなりに冷たい空気に包まれており、それが肌を撫でる度に身震いしてしまう。


 ……帰りに自販機寄って、温かいマッ缶でも買うか。


 そうひとりごちて、俺は体を丸めながら、無機質な音が響く階段を下りて行った。






       ✕     ✕     ✕






 午後5時過ぎ、俺こと比企谷八幡は近所のドーナツショップに足を運んでいた。ミ〇タードーナツである。


 別に甘味が恋しくなったわけではない。甘味はマッ缶で事足りている。


 ではなぜか。答えは簡単、小町に頼まれたからだ。


 三浦の呼び出しから少し経ち、予定通り自販機でマッ缶を購入した丁度その時、ヴーッとポケットの中身が振動した。その振動の発生源であるスマホを取り出すと、小町からメールが届いていたのだ。


 その内容は、「今すぐドーナツが食べたいから買ってきてほしい」というものだった。


 いや自分で行けよ……とこれを見たときは思ったが、平日のこんなタイミングで小町が即行動必須なお願いをするのは珍しい。さらにその時間帯からして、もしも俺が奉仕部に無理やり行かされた際の早退手段として寄こしてくれたんだろう。


 そう推察し、「了解」と一言打ってメールを送信する。そして、妹の仰せのままにドーナツを購入すべく、このドーナツショップに身を置いているわけだ。


 簡単にいくつか手頃なのを選び、トレーをレジに通す。代金を払い終え持ち帰り用の紙袋を手にすると、店を出るため出口へと向かう。


 が、ほぼ一日中寝ていたためか、出口手前でクゥと小さく腹が鳴った。店の中がドーナツの香ばしい匂いに満ち溢れていたこともあって、俺は追加でコーヒーを注文し、小腹を満たそうと店内のテーブル席に腰を落ち着かせる。


 袋から九つの小さなドーナツが輪のようにつながったものを一つ取り出し、食べようとすることもなくじーっとそれを見つめる。……と、そこに突如、ひと一人分ほどの影が落ちてきた。



「あれれ、比企谷君? ひゃっはろー! 奇遇だねぇ、こんな所でいったい何をしてるのかな?」



 視線を上げた先には、ひらひらと手を振り、愛想のいい笑顔を振りまく雪ノ下陽乃の姿があった。






「やー、空いてる席を探してたんだけどね、どこも埋まっちゃってて。そんなときに比企谷君を見つけたもんだからさー。……よければ、相席しても構わないかな?」



 コーヒーカップとドーナツの乗ったトレーをテーブルの上に置きながら、にやにやと笑みを浮かべて相席を申し出てくる雪ノ下さん。既にトレーは卓上にある上、椅子に手をかけているあたり、拒否しようが強引に座ってくるに違いない。



「どうぞ、ご勝手に。椅子も机も、俺の所有物でも何でもないんで」



「……へ?」



 だから、あくまで俺は他人行儀を装う。この人には、まず興味を示すような何かを与えてはいけない。この数か月という期間で、雪ノ下陽乃という人物像くらいは把握したつもりだ。


 手にしていたドーナツの一粒を千切り、無造作に口の中に放り込む。声をかける前と後でまったく変わらない俺の態度に、ぽかんと口を開けていた雪ノ下さんはすぐさま表情を取り繕うと、椅子を引いて対面の席に腰を下ろした。



「珍しいねー、君が悪態をつかないだなんて。ひょっとして、お姉さん飽きられちゃった?」



「飽きるも何も、そこまで顔を合わせてるわけじゃないでしょう。単にいじられるのが面倒なだけですよ」



「ふーん……」



 テーブルに肘をつき、ドーナツを頬張る俺の顔をじーっと見つめてくる雪ノ下さん。その瞳は凍てつくような冷徹さを帯びており、己の根幹が見透かされているような、そんな錯覚に陥ってしまう。


 千切り、欠片を口に運ぶ。その最後の一欠片を口の中に放り込んだ時、それまで見ているばかりで口を閉ざしていた雪ノ下さんが、おもむろに口を開いた。



「それにしても比企谷君……今日は一段と“魅力的な”目をしてるねぇ。何かあったの?」



 にたりと口元を歪ませ、雪ノ下さんがまるで面白いものを見つけたように目を妖しく輝かせてそう問うてくる。事実、面白くなりそうなものを見つけたのだろう。


 テーブルに身を乗り出し、あわや鼻先がくっつきそうな距離で俺の目を覗き込んでくる雪ノ下さん。いつもなら、俺はここで無様にも慌てふためき顔を赤らめ、さぞ雪ノ下さんの加虐心を満たすような反応をしていたのだろう。


 だが幸か不幸か、今の俺は「いつもの」俺ではない。それで動揺する心を、俺は今回持ち合わせていない。


 故に俺は冷めきった目で目の前の黒瞳を迎え撃つと、後ろに少し身を引いて無関心ながらに答える。



「いえ、特に何も。俺は至っていつも通りですよ」



「そっか。この時間だと、まだ君は奉仕部として活動してるはずだもんね。じゃあ雪乃ちゃんたちと何かあったんだ?」



「人の話聞いてます?」



 こっちの話にまるで耳を持たず、嬉々として自論を展開していく雪ノ下姉。この人が話を聞かないのは今に始まったことじゃないので、俺は浅く息を吐き、嫌々ながらに応対する。



「……もしかしたら、買い出しを頼まれただけかも知れないじゃないですか。それか、小町にお使い頼まれたとか」



「後者はあるかも知れないけど、今回に限ってそれはないかなー。そーんなこわーい目をした子が、普段通りの学校生活送ってるなんて思えないもん。……特に、君の場合はね」



 小悪魔……いや、魔王めいた微笑をたたえながら、雪ノ下さんは冷徹な瞳で俺を見つめる。それは何か値踏みされているような、あるいは空腹の蛇が美味そうなカエルを見つけた時のような、そんな真っ黒な興味に満ち溢れていた。


 相変わらず表情にはにこにこと笑顔を浮かべているはずなのに、背後から滲み出る黒いオーラがその華やかさを帳消しにしている。俺くらいになると、そのオーラさえ可視化されてくるのだから余計に悪い。


 しかし常人なら逃げ出したくなるようなそんな威圧感を、俺はフッと鼻で笑っていともたやすく掻き消す。そしてポケットからスマホを取り出すと、小町の催促メールを雪ノ下さんの目の前に突きつけた。



「……残念でしたね、今日は本当に小町からお願いされて来たんですよ。妹の頼みを断るわけには行きませんからね」



「ありゃ、本当だったんだ。これは失礼」



 目を丸くして、アテが外れたという風におどけてみせる雪ノ下さん。だが、俺は知っている。この人が、こんなことで大人しく身を引くような人間ではないことを。



「ーーでも、何かあったことは否定しないんだね?」



 ……ほらな。


 だいたい、こうやって言わざるを得ない状況に追い込まれるのは、この人とエンカウントした時点で既に悟っていた。今までは、それを先延ばしにしようと時間稼ぎをしていたにすぎない。


 あわよくば、手荒な手段を使わずに逃げおおせられる隙を伺っていた。だがしかし、魔王から逃げられる勇者などいないのだ。


 正面から戦って潔く敗北を喫するか、逃亡して捕まり無様にも捻り潰されるか。ならば、なるべく死なないように立ち回り、時間切れを狙うだけだ。



「それは言葉の綾でしょう。だいたい俺、最初に否定してますし」



「あー、そういうこと言っちゃうんだー。ならいいや、比企谷くんが言ってくれないなら、雪乃ちゃんに電話してあることないこと聞いちゃうぞっと」



 表面上は不貞腐れたように装いつつ、カバンからスマートフォンを取り出して愉しげに画面を操作する雪ノ下さん。……とそこに、全く予想だにしない方向からロンギヌスばりに鋭い横槍が飛んで来た。



「あれ? 比企谷?」



 聞き覚えのある声に、思わず体が固まる。聞き覚えがあるとは言っても、その記憶ははるか遠い昔のもので、今とその頃とでは差異があるのは当然のこと。


 だが、それでも、その声だけは間違えようがなかった。



「やっぱ比企谷じゃん! うわ超懐い! あ、あたしのこと覚えてる?」



 ふいと、雪ノ下さんから声のした方向へと視線を移す。そして、気付かれないほど小さく顔をしかめる。


 ウェーブのかかった短めの茶髪、少し吊り上がった猫のような目、人懐っこい明るい声音。



「あたし、折本かおり! 超久しぶりだよね、中学校以来だっけ?」



 ーーそこには、海浜総合高校の制服を身に纏い、同じく海浜総合の女子生徒を後ろに連れた、折本かおりが立っていた。






 若干の静寂。普通なら取るに足らないわずか数秒の静寂が、俺にはまるで数分間に相当するほど長く感じた。


 折本は俺を一瞥すると、続いて対面に座る女性に視線を移す。その女性こと雪ノ下さんはいつの間にか弄っていた携帯をしまい、他人向けのにこやかな笑みを貼り付けていた。



「っと、うわすっごい美人! ……あ、もしかして彼女さんとか? もしかして邪魔しちゃった感じ?」



「ふふふ、やっぱりそう見えちゃう? もう付き合って一ヶ月くらいだもんねー」



「いや違うから……。雪ノ下さんも誤解させるようなこと言わないでくださいよ」



「えー? もー八幡ったら、そんな照れなくてもいいのにー♪」



「うぜぇ……あんたさっきまで普通に名字で呼んでたでしょうが。あと抱きつくのやめてください、暑いです」



 いつの間にか隣に陣取り、腕に絡みついてくる雪ノ下さんを心底嫌そうな顔をしながら引き剥がす。とはいえ触るところに触れば即通報待ったなしなのは明白なので、細心の注意を払いながら振りほどこうとするものの、雪ノ下さんの力が強すぎて一向に離れない。


 その間、折本はというと、そんなやりとりをさも珍しいものを見るような目で眺めていた。



「へー、すっごい仲良さげじゃん。てか、あの比企谷がこんな美人と一緒にミスドで駄弁ってるとか……ウケる」



「いやウケねぇから……」



 げんなりとそう返す俺に、折本がクスクスと笑う。そのいつか見た表情に、胸の中で何かがささくれ立ったのを感じた。



「……それで? 君は比企谷くんとは一体どういう関係なのかな?」



 そんなこともよそに、雪ノ下さんが興味深そうな表情で折本へと問いかける。呼び方が名前から苗字に戻っていることを見るに、どうやらもう茶番はやめたらしい。


 それに折本は「あー」と視線を彷徨わせ、ちらりと俺を一瞥する。その目は、言ってもいいものかを逡巡しているようで、俺は小さく息を吐くと、折本に助け舟を出すことにした。



「……言ったでしょう、ただの中学の時の同級生ですよ。それ以上でもそれ以下でもないです」



「えー? 嘘はいけないなぁ。いかにも何かありました、みたいな顔されると、おねーさん根掘り葉掘り聞きたくなっちゃうんだけど?」



 にまにまと意地の悪い笑みを浮かべて、雪ノ下さんがずいと体を寄せる。先ほどから漂っていた甘い匂いがより強まった気がして、俺はぐっと顔をしかめ、反射的に反対方向へ身を反らした。


 その反応がお気に召したのか、目を細めてふふふと声を漏らす雪ノ下さん。そして引き下がったと思うとおもむろに立ち上がり、向かいの席に腰を下ろした。



「比企谷くんが喋りたくないっていうなら仕方ない。彼女に比企谷くんの中学時代の話を聞こうっと」



「えっ? えっ?」



 雪ノ下さんの提案に、戸惑いを見せる折本。その後ろにいる女子生徒も、状況が掴めずおろおろと困惑している様子だ。



「大丈夫だって。ちょこっと付き合ってもらうだけだからさ」



 そんなこともおかまいなしに、雪ノ下さんはにこにこと愛想のいい笑顔を、しかしどこか威圧的に折本たちへ向ける。折本はそれを知ってか知らずか、後ろに佇む友人に目配せをすると、女子生徒はこくんと頷き、パタパタと店の奥のショーウィンドウへと駆けて行った。


 残った折本は若干頰を硬くしながらも、おずおずと話を切り出し始める。



「えっ、と……雪ノ下さん、でいいの?」



「そうだよー。あ、そっか、ごめんね。わたしとしたことが、自己紹介がまだだったね。わたしは雪ノ下陽乃、比企谷くんの部活仲間のお姉ちゃんなんだ。よろしくね」



「あ、えっと、あたしは折本かおりって言います」



「いやいや、敬語なんて使わなくていいよ。わたしから頼んでるんだし、そっちの方が話しやすいでしょ?」



「は、はい。ど、どうも……」



 にこやかに自己紹介をする雪ノ下さんに、どこか若干緊張が緩んだ様子でそれに応じる折本。どうやら雪ノ下さんの裏の真意には気付かず、外面の八方美人に騙されてしまっているらしい。



「あれ? ていうか、比企谷って部活入ってるんだ。中学じゃ帰宅部だったじゃん。何部?」



「奉仕部っつー部活だよ。生徒から依頼を受けて、それを解決するってのが主な活動だ」



「つまり人助けってこと? 比企谷が人助けとか、ウケる」



「だからウケねぇって……」



 ケラケラと折本が笑い、俺が眉を寄せながらテンプレ気味にそう返す。先程から折本と言葉を交わすたび、頭の中で不規則に反響するノイズが徐々に喧騒を広げている。どこから流れているのか、はたまた音源は何なのか、自らのことながら、俺にはまるで見当もつかない。


 ただただ、煩わしさが募っていく。



「それで? 中学生の比企谷くんはどんな子だったの?」



「んー、あんまり今と変わらないかな? こんな感じの暗い雰囲気で、ずっと教室の端に座って一人でなんかやってるぼっちだったのは覚えてるけど」



「ふむふむ、それじゃほんとに今と何にも変わんないねぇ。他には?」



 向かいの雪ノ下さんが話を切り出し始め、折本が過去の記憶を辿るように人差し指をこめかみに当て、それに答える。そんな中、未だ収まる気配のない、何なら増幅し続けているノイズに苛まれながら、俺は目の前に置かれたティーカップに淹れられたコーヒーに映る自分の顔をじっと眺めていた。


 こうしていないと耐えられない。耳を塞いでも遮断できない雑音に理性が持って行かれてしまう。


 ……何で、俺がこんな思いをしなきゃいけないんだ。



「ーーって感じ!」



「そっか、比企谷くんは中学校でもやっぱり比企谷くんだったんだねー。……んー、でもなーんか物足りないなぁ」



 話は終盤に差し掛かり、雪ノ下さんが簡単に結論を述べて会話を締めくくる。しかし雪ノ下さんは話の内容に納得がいかなかったのか、少し低めの声音で不満げにそう零すと、会話に一切参加せず沈黙する俺を流し見るや否や、嗜虐的な笑みを浮かべて次の話題を振りかけた。



「ーーじゃあ次は、君と比企谷くんとの間に何があったのかを聞こうかな」



 そもそもこれが本命だったと言わんばかりに語気を強め、逃げも隠れも許さないと言った瞳で俺たち二人を見据える。未だ雪ノ下さんの外面に囚われている折本はそんな威圧には気付く様子もなく、ちらちらとこちらを伺うように視線を送り、「あー」とか「えっと」とか言葉を濁し、何とも言えない表情を浮かべていた。


 ……直前まで鳴りを潜めていた雑音が、また少しずつ脈動を始めたのを感じる。








「まぁ見当はついてるんだけどね。君たちの……特に比企谷くんの反応見れば大体わかるよ」








 ーーテレビに流れる砂嵐のような雑音は、徐々に音量を上げ始める。








「折本ちゃん、結構可愛いもんねぇ。それに外受けも良さそうだし、これなら大概の男子はコロッといっちゃうんじゃない?」








 ーー頭の中を所狭しと反響するノイズが思考を搔き乱し、定まらなくなっていく。








「比企谷くん、折本ちゃんに告白したんでしょ。それで、あえなく振られちゃったってところかな?」








 ーー瞬間、脳内に流れていたノイズが弾け、鏡の割れるような鋭い音が鳴り響いた。



「づっーーーーッ!!」



 突然、頭が割れるような激痛が走り、閉ざされた視界がチカチカと点滅する。なおも続く鈍痛に俺は頭を抑えつけ、痛みをどうにかして和らげようと力一杯締め上げつつ、砕かんばかりに歯を食いしばる。


 何なんだ。本当に、今日は何だというんだ。一体俺が何をした。


 額に汗が滲み、肺から大量の空気が吐き出される。ろくに息も吸えないまま、無理解の海に攫われ続けながら、俺はただ過呼吸のような状態でテーブルに頭を押し付けることしかできない。



「ちょっ、比企谷くん!? どうしたの!?」



「比企谷!?」



 ガタッと椅子が床を擦る大きな音が鳴り、双方から慌てた様子の声がかかる。しかし、それにいちいち返していられるほどの余裕などない。


 ガンガンと鳴り響くたび頭に鈍痛が募る中、白と黒の世界を繰り返す視界に、突如として何かが映り出した。



『ーー**ぃいいい!! どこだぁあああ!!!』



『ぁ……お*、ちゃん……? ーーお*ちゃんっ!!』



『まったく、心配したぞ……。ほら、一緒に帰るぞ……**』



 どこかで、見たことのあるような光景。脳裏にフラッシュバックするそれらは、まるで壊れたレコーダーのように途切れては再生するのを繰り返し、ただでさえ壊れかかった理性を否応なしに磨耗していく。



『うわこっち見た! **谷きっもー!』



『***に告るとか、何考えてんだろーねー』



『近寄んないで? ***菌が移っちゃうから!』



 浴びせられる糾弾の雨。理不尽とも言える言葉の暴力は、まだ汚れきっていない心を穿ち、傷と痣で表面を醜く彩っていく。胸の奥底で、また昼間と同じような黒い靄が渦巻き始めるのを感じた。



『あなたのそのやり方、とても嫌い』



『何でいろんなことがわかるのにそれがわからないのっ!?』



 点滅を繰り返す視界はやがて激しさを増し、まるで照らし合わせたかのように脳裏にあの場面が甦る。


 自分で決断したことを実行して、一体何が悪いんだ。これが最善だと、これしかないのだと、そう思ったからこそ俺は今まで行動してきた。その結果として、誰かに恨まれるのは仕方がない。だが、その行動の先に得られるものが、自分にとって誇らしいものでなければおかしいではないか。


 なぜ、糾弾されなければならないのか。なぜ、ここまで言われる筋合いがある。


 俺はあそこでできる最善を尽くした。本当なら犠牲にもしたくない自らを削って、誰も傷つかない方法を選んだ。なのに、どうして。


 ーー誰かが傷つかなければならなかったから、自らを差し出した。ただそれだけのことだろうが。



「がっ……!!」



 視界が暗転し、途切れ途切れのレコーダー画面から現実へと引き戻される。直後、まるで水を打ったように頭の鈍痛は鎮まっていき、若干の余韻を残して跡形もなく消え去った。


 がしかし、それまでに削られ疲弊した体力までは当然戻らず、これまで吸えなかった空気を一気に吸い込んでは吐くのを繰り返す。心臓の鼓動は依然として異常な速度でビートを刻み、血液が取り込まれた酸素を我先にと奪い合っては身体中を高速で駆け巡っていくのがわかる。


 浮かんだ汗が頬を伝って顎先へと流れ、雫となって床に零れ落ちるのを、朧げな視界で呆然と眺める。そこに、見知った声音が降り注いだ。



「比企谷くん、大丈夫……? いきなり苦しみだして……すごい汗だよ」



 視線を上げると、そこには心配そうな表情を浮かべた雪ノ下さんがこちらを覗き込んでいた。後方には、水の入ったグラスを持った折本が、同じような表情をして突っ立っている。


 雪ノ下さんが、ハンカチを持った手をこちらに近づけてくる。その動作が何を意味するのか、今の疲弊しきった頭では理解できなかった。


 ……だから、それは仕方のない事だったのだ。





 ハンカチが肌に触れてしまいそうなところまで近づいてきたその時、ーーーー気付けば俺は、反射的に雪ノ下さんの手を振り払っていた。





「きゃっ!?」



 差し伸べた手を拒絶され、雪ノ下さんが驚きの声を上げる。手にしていたハンカチは宙に投げ出され、ふわりと一度空中を漂ってから、音もなく床に着地した。



「へ……?」



 床に落ちたハンカチを呆然と眺め、何が起こったかわからないと言った風に雪ノ下さんが小さく声を零す。そして、その視線はゆっくりと、ハンカチから事の元凶へと移された。



「……るな」



「……え?」



 聞き取れなかったのか、はたまた聞こえた上でもう一度聞き返しているのか、雪ノ下さんが訝しげに声をあげる。そして、雪ノ下さんは俺の目を見るなり、びくっと肩を揺らし、顔を強張らせて息を詰まらせた。


 おそらくこの目は今、誰に向けたでもない敵意に塗れているのだろう。鏡こそないが、それでも手に取るようにわかった。





「俺に、触るな」





 獣が仇敵に対して上げる唸りのような、はたまた慟哭にも似た低い声が、俺の口から零れ出る。まさか、自分でここまでドスの効いた声が出せるとは驚きだ。


 ただ、少なくとも、この場面で発覚するべき事実ではなかった。いや、あって欲しくなかった。



「あ…………」



 はっと我に返り、極限まで狭まっていた視野が一気に元の広さを取り戻す。そこには滅多に見る事のできない、雪ノ下なら垂涎の代物であろう仮面の外れた雪ノ下さんの素の表情が映し出され、その後ろに立つ折本はグラスを持ちながら怯えた目をして立ちすくんでいるのが見える。さらに周りを見渡せば、空間を共有していた他の客からの、スキャンダルを覗き見るような視線が絶え間なく突き刺さってくるのを感じた。


 急激に頭が冷えていくのを感じながら、あらぬ事を口にしてしまったことを後悔する。続いて、針のむしろに等しい空気に抗うようにして手早く荷物をまとめると、ガタッと無言で席を立ち、足早に出口へと向かう。


 疲れている。決定的に病んでいる。もう、この場にいてはいけない。



「あ、ひ、ひきがやく……」



「すみません、俺もう行かなきゃいけないんで。じゃあ」



 固まる二人の横を抜け、観衆の視線にさらされながら歩を進める。最後、後方から聞こえてきた声を振り返ることもなく口早に遮って、開いた自動ドアから逃げるように外へと繰り出した。


 入店前は明るみを残していた空はもうすっかりと夜の帳を下ろしており、吐く息が白みを帯びて空中に霧散していく。冬並みの寒さと今朝のニュースで謳われた今日はまさしくその猛威を振るい、外の空気を吸い込むたびに肺が凍りつくような感覚を覚えさせた。


 チェーンを外し、スタンドを後ろに払い上げる。サドルに腰を下ろすと、機体からギギッと金属の軋む音が響き、愛車が今までにどれだけ俺に使い潰されたのかをはたと実感した。



「……っ」



 荷物をカゴに乱雑に入れ、脇目も振らずに自転車を漕ぎ始める。凍てつく風が顔に吹きかかるが、そんなことを気にしてはいられない。


 盛大に叫びたかった。どうしようもない感情を、やりきれない心を、どこに向ければいいのかもわからないままに、ぐちゃぐちゃになって胸中に燻り続ける何かを、吐き出したくて仕方がなかった。


 それができなかったから、俺は歯を食いしばってペダルを踏みつけるしかない。漕いで、漕いで、後ろから迫り来る何かに捕まらないように。


 ーーただ、一心不乱に、漕ぎ続けた。






       ✕     ✕     ✕






 家に帰るなり、俺は事切れた機械の如くベッドに倒れこんだ。


 もやしよりも少し強靭なことで有名な俺の体は、自転車での全力疾走により各地で悲鳴をあげ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。布団に身を預けたが最後、もう指一本すら動かしたくなくなるほどの虚脱感が全身を包み込む。


 あれから、地獄の頭痛が再び襲ってくることはなく、煩わしかったノイズも完全に消え去った。しかし。紆余曲折してようやく取り戻したはずの思考は、たび重なる疲労によってまたしても深い暗闇に囚われてしまう。が、完全に意識がシャットダウンする一歩手前、いや半歩手前で理性と睡魔がせめぎ合い、その結果、崖っぷちギリギリで意識をつなぎとめていた。


 とはいえ、そんな身体的な疲労とは別に、ドーナツショップの一件から我が家に至るまでに削られた精神は未だ回復の兆しを見せない。何なら自転車を漕いだ際に消費した体力を軽く凌駕する勢いで蓄積してるまである。これ明日学校行けっかな……。


 時折身をよじらせ、絞り出すように呟きながらベッドの柔らかな感触を享受する。そんなふざけたことを考えてでもいないと、今日の出来事が鬱陶しいほどにちらちらと脳裏に浮かんできてしまうのだ。極力考えないようにしていても、勝手に浮かんでくるのでは手の打ちようがない。


 忘れたい、とは言わない。どうせ明日から、少なからず己に関わってくる問題なのだ。なるべく俺がこれから一人でいられるために、それらをどう潰していくかは、遅からず考えなければならない。


 と、そこに、コンコンと扉をノックする音が室内に響いた。



「お、お兄ちゃん、ドーナツ食べる……? 持ってきたよ」



「ああ……俺はもう食べたからいい。残りは全部お前にとっといたやつだから勝手に食べといてくれ。仮にも受験生なんだし、勉強には糖分必要だろ」



 突っ伏しながら、僅かにくぐもった声をドアの向こうにいるだろう小町へと向ける。そういえば俺が帰ってきた時、小町はやけに疲れ切った俺を見るや否や慌てふためき、昨日のこともあって何かあったのかと忙しなく声をかけてきていた。あの時は言葉を返す余裕がなかったため、頼まれたドーナツの入った袋だけ押し付けて部屋に直行したんだったか。



「それは小町的にポイント高いけど……一人で食べるより、お兄ちゃんと一緒に食べたいかなー……って…………」



「……」



 いつものおちゃらけた口調とは裏腹に、段々と尻すぼみになっていく小町の声。遠慮がちというか何というか、様子のおかしいこちらを気遣ってくれているのはわかった。


 重たい体を起こし、ベッドから床に足を下ろす。ガチャリと扉を開けた先には、手にドーナツとコーヒーが乗ったお盆を持ち、頰を強張らせた小町が佇んでいた。



「あ……」



 目が合い、不安げに揺れる小町の瞳が何だか見るに耐えず、反射的に視線を逸らしてしまう。それに反応した小町は小さく声を漏らし、目に見えて悲愴感が増幅したように思えた。


 俺はそんな妹の沈鬱とした表情を払拭するかのように、頭をガシガシと掻きながら声をかける。



「……少ししたら降りる。持ってきてくれたとこ悪いが、リビングで待っててくれ。待てないなら先食べててもいいぞ」



「……っ! た、食べるわけないじゃん! お兄ちゃん来るまで待ってるからっ!」



 先程の暗い表情から一転、パァッと花が咲いたように表情を輝かせ、俺の返答に食らいつく小町。そして用件が済んだとばかりにパタパタと階段を降りていく小町の背中を見送ると、扉を閉め、俺は部屋の中へと戻った。


 ドアの前で、ひとつ大きく息を吐く。人間関係はとても疲れる。所詮人間はお互いにわかりあうことなどできはしないのだから、些細なことで決裂したり、不和が生じてしまうのは仕方のないことなのだろう。だが、それは他の何よりも辛くて、どこまでも耐え難い。いつも通りの日常がやってこない怖さは、時に死をも凌駕する。


 そんな関係を作ってしまったからわかる。わかってしまう。


 いわく、人間強度が下がるから。どこかの半吸血鬼の青年は、人間のコミュニティに隷属しない理由をそう語っていた。


 まさにその通りだ。人間関係なんてものを構築してしまえば、その手を切り離された瞬間から一人では何もできなくなり、半永久的な苦痛に苛まれることになる。助け合いなんてのは脳内お花畑の連中が勝手にでっち上げた妄言で、現実はただ依存し合っているだけに過ぎない。


 本当に愚かだった。散々思い知ったはずなのに、また期待して繰り返して、こうして心を塞いで……弱くなった自分が心底嫌になる。


 無駄に疲れるのも、勝手に傷つくのもうんざりだ。……だから。



「……もう」





 もう、何も求めたりはしない。過ちは繰り返さない。ーーずっと、一人でいい。






       ✕     ✕     ✕






「ふぅ……」



 ベッドに体を預け、手の甲を額に当て小さく息を吐く。指の隙間からは天井に設置された照明の光が煌々と差し込み、まるでその眩しさに思わず目を細めた。



「比企谷くん、どうしちゃったんだろ……」



 静まり返った部屋の中、わたしはぽつりと言葉を零す。続いて頭の中に思い浮かぶのは、猫背で腐った目をした男子高校生の姿。


 背中の柔らかい感触に蓄積していた疲労が吸われていくのを感じながら、額に当てている手とはまた別の手を照明に向かって伸ばす。その指先はふるふると震えていて、比企谷くんに払われた箇所は未だじんじんと熱を帯びていた。



「……まさか、手を払われちゃうとは思わなかったなー」



 あの瞬間、わたしは頭が真っ白になっていた。人に差し伸べた手を拒まれたことなんて、生まれて初めてだったから。


 わたしが手を差し伸べれば、誰であってもそれを受け入れた。まるでそれが暗闇に差した一筋の光であるかのように、あるいは天から垂らされた一本の蜘蛛の糸であるかのように、身分もわきまえずに縋りついてくる輩も中にはいた。


 端から見ればにこやかに振舞っていても、わたしにはその人たちを本当に救おうだなんて気持ちは微塵もなかった。ただ自分にとって利があるかどうかを吟味して、さらに自らに降りかかるリスクまで計算した上での行動でしかなかったのだ。わたしもそれを理解していたから、何の感情も抱かないことを不思議とも思わなかった。


 ……だからあの時、苦痛に顔を歪める彼に、自然とハンカチを差し出した自分に驚いた。


 何の打算もなく、何の裏もなく、ただ純粋に比企谷くんが心配になった。助けになりたい、隣にいてあげたい、そんな感情で胸がいっぱいになる。


 ーー家族でもない他人にこんな感情を向けるなんて、考えられなかった。



「……」



 掲げた腕の先を、指の隙間からじーっと見つめる。伸ばした手はその先にある何かを掴もうとしているように思えて、でも目の前にはただ見知った天井があるだけ。伸ばした先には、何もない。


 まるで自分を揶揄されているような感覚に、少し不機嫌になったわたしはゆっくりと目を閉じる。静寂に包まれた暗闇の中で、まるで夜空に瞬く流星のごとく、突然あの時の彼の言葉が脳裏を掠めた。




『ーー俺に、触るな』




 凍えるように冷たく、空気が震えるような低い声。次いでわたしを射抜くように向けられた光さえない漆黒の瞳には、悍ましいほどの敵意が滲んでいた。尋常じゃない剣幕に、柄にもなく一瞬たじろいでしまったけれど……でもそれが、わたし一人に向けられたものでないことはすぐにわかった。


 見えるものすべてを忌み嫌い、見えないものすべてを拒絶する。……わたしだけじゃない、この世のすべてに彼は絶望していた。そんな目を、わたしは何度も見たことがある。


 鏡に映る自分の目が、そんな色に染まっていた時期が、わたしにもあったから。



「……比企谷、くん……」



 虚空に向かって、彼の名前を呟く。


 雪乃ちゃんの同級生で部活仲間。死ぬほど捻くれていて、常にひとりぼっちな高校生。歳の割に世の中を達観した目で見ていて、変に大人びている男の子。


 初めて出会った時は、雪乃ちゃんが珍しく他人と交流していたからちょっかいをかけていただけで、特別な感情があるわけじゃなかった。……でもその後で、今まで誰にも気付かれなかったわたしの裏側を看破された時は驚いた。


 同時に、あぁ、この子は他人の真意を見抜ける子なんだと酷く感心した。それ以来、わたしの興味は比企谷くんひとりに注がれてしまっている。


 小さい頃から大人の世界に曝されていたわたしは、人間の醜い部分も裏の顔も飽きるほど見てきた。だから、だんだん人と本音で話さなくなっていったのも、今からしてみれば仕方のないことだったんだと思う。


 嘘や欺瞞に塗れた世界で生きていくことを悟ったわたしは、順応するために人知れず仮面を被った。騙すことを、騙されることを許容して、腐った人間関係に準じていくことに躍起になっていってーーそして今現在も、その仮面が外れることはない。


 外そうと思っても、もう肌の一部にまで侵食したものを引き剥がすことはできなかった。……あぁ、このままずっと、「わたし」は『わたし』を偽っていくのだろうと、鏡に映る自分の姿に辟易したものだ。


 でも、それでもーーいつかわたしを、本当のわたしを見てくれる、そんな人が目の前に現れると願っていた。醜く張り付いた仮面を、優しく取り払ってくれる……そんなヒーローのような存在を、信じて疑わなかった。


 ーーそれが彼であってほしいと、そう思うようになったのは、いったいいつからだろう。



「……よし」



 意気込むように小さく呟いて、持ち上げた足の反動を利用して上半身を起こす。そして傍に放っておいたバッグから携帯を取り出すと、電話帳から見慣れた名前を引っ張り出し、コールボタンを押した。


 二度三度とコール音が響き、四回目の半ばでブツッと切れる。それに代わるようにして、今度は凛とした声が耳を掠めた。



「やっほー、雪乃ちゃん。元気にしてる?」



『……何の用かしら、姉さん』



 茶化すように声をかけると、雪乃ちゃんは相変わらずの不機嫌な声で応答した。これはいつものことなので、やれやれといった風に苦笑しながら会話を続ける。

 


「もー、そんなそっけない態度取らなくてもいいじゃん。お姉ちゃん不貞腐れちゃうぞっ☆」



『……用件がないなら切るわ。姉さんに構ってる暇なんてないもの』



「つれないなー。ちょっと雪乃ちゃんに聞きたいことがあるだけだよ」



 『聞きたいこと』というワードがわたしの口から発せられた瞬間、携帯の向こう側で雪乃ちゃんが身構えるような気配がした。あの子はわたしと話をするとき……いや、面を向かい合わせるだけでも、いつもこうやってガードを固めてしまう。それも、わたしが今まで彼女にしてきたことの報いだとするならば、仕方のないことなのだけど。



『何かしら。手短に頼むわ』



「はいはい、じゃあ単刀直入に聞くね。……雪乃ちゃん、比企谷くんと何かあったでしょ?」



『っ……!』



 じゃれていても仕方がないと、わたしは間を置かずに一気に話を飛躍させる。核心に迫ったわたしの一言に、雪乃ちゃんはぐっと声を詰まらせた。



『……なぜ、姉さんがそれを聞くのかしら?』



「今日の帰りに比企谷くんとばったり会ってねー。なーんか様子がおかしかったから、何かあったのかなーって思ったんだけど」



『……姉さんには、関係ないじゃない』



 ふいに、雪乃ちゃんの語調が強くなった。まるで自身の縄張りに踏み込まれた獣が、相手を威嚇するように。


 ただそれは、言外に何かあったことを肯定していて、つくづく誰かさんと似たような反応をするものだと感心してしまう。そんなわたしをよそに、雪乃ちゃんはおそらく電話越しにキッとこちらを睨みつけながら続ける。



『これは、彼自身の問題なの。部外者が入り込む余地なんてないわ』



「あっそ。ならわたしからも一つ言っておくけど……彼が雪乃ちゃんたちの意にそぐわないことをしたからって、それを雪乃ちゃんたちが責めるっていうのは傲慢だからね?」



『何を……』



「どうせ比企谷くんがまた自分を犠牲にして何かやらかしちゃったんだろうけど、彼だって身を削りたくて削ったわけじゃないでしょ。物事の最善を尽くすために行動した、その結果、救われた人だっているんじゃない?」



『……それは』



「彼が傷つくのが嫌だからって、彼のやり方を非難するのは自分勝手ってもんだよ。何かを成し得るには、必ず犠牲を払わなきゃいけない。……それに、馴れ合いなんて、彼が一番嫌ってるものなんだから」



『……姉さんには、わからないわ』



「わかるよ。だってーー」



 言いかけて、口を噤む。だってーー何だろう。


 わたしは、実際に彼をどう思っているんだろう。同類? 気の合う知人? それともただの可愛い後輩?


 ……いや、多分どれも違う。そんな浅い関係ではないと、ありたくないと思う自分がいる。


 気付いて、ははっと無意識に口から笑いが漏れた。……なーんだ、わたしの中で比企谷くんの存在は、こんなにもおっきかったんだ。


 突き詰めていった先、消去法で潰していった先でこんなにも幼稚な感情に辿り着くなど、一体誰が予想できただろうか。もしも昔のわたしが今のわたしを外側から見ていたら、愚かなものだと一笑に付していることだろう。


 けど、これは偽りじゃない。それだけは過去のわたしが何を言おうと、はっきりと口にできる。

 




「ーーだって、わたしもきっと、雪乃ちゃんやガハマちゃんと同じだから」





 言葉にすると、ようやくストンと腑に落ちた。胸の中に燻っていたわだかまりが一斉に解け、まるで憑き物が落ちたかのように身も心も軽くなっていく。


 簡単なことだったのに、彼に拒絶されるまでそれに気付こうとしなかった。自分で考えようとしなかったから、ここまで時間がかかってしまった。


 わたしの仮面は外しにくくて、素直な言葉を口にすることはできない。だから、今はこれが精一杯。



『同じ、ですって? それは一体どういう意味?』



「それぐらい、胸に手を当てて自分で考えてみたら? それとも、わたしが言わないとわからない?」



 冷たく突き放すように言うと、また雪乃ちゃんが声を詰まらせた。雪乃ちゃんはあまり社交的ではないから、他人に対する感情に蓋をしがちなのだ。わたしは社交的ではあるけれど、感情をさらけ出しているかと言われれば全然そんなことはないのだが。


 とはいえ、掛けれるだけの発破は掛けた。あとは、この子がどう判断するか。



『……私には、わからない』



 ぼそりと消え入るような小さな声で呟いたのを最後に、ブツリと通話が断たれる。ツー、ツーと終わりを知らせる音の向こうには、もう彼女の声は聞こえない。


 はぁー……と息を吐いて、またベッドに上半身を預ける。存外、面倒な妹を持ったものだ。この姉にしてこの妹あり、と言ったところなのだろう。


 彼への気持ちに気付いてしまった以上、これから彼に関わっていくのに妥協は許されない。拒絶されるのは、今回のでもう十分だ。



「……さて、比企谷くん。わたしに目をつけられた以上、もう逃げられないからね♪」



 ニヤリと小悪魔めいた笑いを浮かべ、暗くなった画面を再度明るくさせる。そして『葉山隼人』という名前を奥底から探し出すと、わたしはコールボタンに人差し指を押し当てた。






       ✕     ✕     ✕






 翌朝、最悪な目覚めとともに朝を迎えた。


 朦朧とした意識の中、ぐるりと欲望のまま身をよじらせたその瞬間、昨日の疲労が筋肉痛となって全身を襲い、節々が連鎖的に悲鳴をあげたのだった。立ち漕ぎのせいもあってか、その中でもとりわけ腿の主張が激しく、家の階段を降りる際は一歩目からまさに地獄。


 正にしろ負にしろ、感情に身を任せたらろくなことにならない。それを早朝から実感する羽目になった。



「まぁ、それももう大分楽になったけどな……」



 昇降口に入ったすぐ先の閑散とした廊下を進みながら、少し引きずり気味の足に掌を当てる。行きのサイクリングでいい感じにほぐれたのか、起きた直後よりは幾分マシにはなってきた。今度から少しずつ走ることを視野に入れておくのも考えとこう……。


 ともすれ、この苦痛が俺にもたらす弊害などたかが知れている。どうせ今日一日も昨日同様寝て過ごすのだ。俺に関わろうとする物好きな奴などいまい。



「ほんと、何事もなきゃいいが」



 太ももから時々くる鈍痛に顔をしかめながら、廊下の先を見据えながらぼそりと零す。これは俺の願望であり、幻想であり、実際には何事もないなんてありはしないことはわかっている。


 あれから小町と共にドーナツを食べにリビングに向かった俺は、食べ終えてから就寝するに至るまで、ずっと頭の中に考えを巡らせていた。奉仕部の件、昼間の件、屋上の件、そしてドーナツショップの件と、それらにどう見切りをつけたもんかと思慮分別を余儀無くされていたのだ。その中でも一番軽率だったと感じたのは、やはり三浦の一件だった。


 三浦があのグループに属しているのはひとえに葉山隼人という存在ゆえであり、その関係性が揺らぐ可能性を秘めた要素が出張ってきたなら必ず排除しようとするはず。だからこそ俺はあの時三浦に助言を与えたわけで、信頼が揺らいだからと言ってその根底は崩れない、よって俺が被害を被ることもないと予測を立て、大丈夫だろうと高を括っていた。


 だが、物事に100%は存在しない。不安要素を徹底的に潰したいなら、何もしない、何もさせないのが最善手だったというのに。やはり、俺が他人に同情なんて向けるもんじゃない。



「……とはいえ、やっちまったもんは仕方ない。なるべく接触は避けるか」



 そもそも面と向かい合うことさえ極めて稀だが、もしかしたら三浦のように呼び出しを食らうケースがあるかもしれない。それは由比ヶ浜であっても例外ではなく、いや、誰であっても答えは同じだ。今度こそは間違えないように、徹底的に害となる芽を潰していくことに決めた。


 今日だけは是が非でも、一人を突き通さなければならない。……それが、今後に関わるノルマであるような気がした。


 一歩二歩と、人通りの少ない廊下を幾分ゆっくりと進む。筋肉痛であることを念頭に入れ早めに家を出た分、いつもより廊下に響く足音や話し声は少ない。今だって、俺の足がパタパタと床を叩く音が聞こえるくらいの静寂が辺りを包んでいた。


 とそこに、やや急ぎ気味の足音が重なったのが聞こえてきた。現状人通りは少ないだけで、もちろんこの時間帯に来ている生徒だって多からずいるだろう。そう思い、後方からやって来るであろう生徒の通り道を塞ぐまいと、さりげなく右側にスペースを空けてやる。


 しかし、軽やかな足音は徐々に近づいてくるにつれて勢いをなくし、やがて息遣いが聞こえてくるまでになると途端に足音はやんでいた。後ろに誰かいたのだろうかと振り返ると、そこには膝に手をつきながら息を切らして肩を上下させ、体ほどもある重そうなスポーツバッグを華奢な背中に背負った、見慣れたジャージ姿があった。



「はぁっ、はぁっ……お、おはよう……八幡……!」



「……戸塚」



 ジャージ姿の少年……少年というのはいささか失礼な気もするが、まぁともかく戸塚は息を荒げたまま、途切れ途切れに朝の挨拶を口にする。額の汗を拭う仕草には幾分の疲れが見え、今まで体を動かしていただろうことは容易にわかった。


 戸塚の呼吸が整うまでに一息ついてから、頃合いを見計らってもう一度声をかける。



「朝練か。お疲れさん」



「うん、もう大会も近いからね。最近みんなすごいやる気出してくれててさ、僕も頑張んなきゃって張り切っちゃったよ」



 あははと笑いながらそう返してくる戸塚だが、その笑顔はどこかぎこちない。何かあったのか、それともただ朝練の疲れが出ているだけなのか。そう訝しむような俺の視線を感じたのか、戸塚はしどろもどろになりつつも言葉を紡いだ。



「あ、えと……八幡、今日は早いんだね」



「まぁ、な。やけに早く目が覚めちまったから、その弊害だ」



「そ、そうなんだ……」



 から笑いを浮かべながら澄まし顔でそう宣うと、戸塚はやはりぎこちない笑顔で困ったようにはにかむ。そして会話が途切れると、気まずい空気とともにしんと二人の間に静寂が流れた。


 目覚めがいつもより早かったのは嘘じゃない。昨夜、精神的な疲労の影響もあって単に寝つきが悪かったのだ。そのおかげで昨日は正味四時間ほどしか寝ていないし、全身を包み込む倦怠感が半端じゃない。ではなぜ事実を伝えなかったのかといえば、ただ別に、戸塚に対して筋肉痛であることを述べる必要はないだろうと判断しただけだった。


 他人に「筋肉痛なんだよね」なんて言ったところで、だからどうしたと言わんばかりにスルーされるのがオチ。だいたいそんなことを口にする奴は、「自分筋トレやってます」の強キャラアピールか、「筋肉痛だから褒めて讃えて労って」のかまってちゃんかのどちらかしかない。そのどちらにも属さない派の俺からすれば、まず口にしないという判断は妥当といえる。



「……とりあえず、行くか。教室」



「あ、うん」



 静寂を断ち切るようにして俺が歩き出すと、戸塚もそれに続いて歩を進める。いつもなら横に並んで身を寄せてくるだが、今回はおよそ三歩ほど後ろに身を置いており、戸塚が俺に対して何か遠慮している様子が伺えた。


 しかしその疑念は、次の戸塚の言葉によりすぐに払拭されることとなる。



「……あ、あのさ、八幡」



 ぽしょぽしょと絞り出すように発せられた声は、何かに遮られることもなく俺の耳に届いた。しかしなお歩みを止めず、沈黙を突き通す俺をどう捉えたのか、戸塚は続けて呟く。



「……八幡、最近笑わなくなったよね」



「は?」



 歩きながら、自然と口から声が漏れた。体を反転させ、いきなりどうしたと後ろにいる戸塚に目を向けると、戸塚は2mほど後ろで足を止め、背中を小さく丸めながら俯いていた。


 テニスバッグのハーネスを握る白い手には少し力が込められていて、握られた場所から上下にシワがよっている。



「修学旅行から、なのかな……。あれから八幡が笑ってるところ、あんまり見てない気がするんだ」



「……そもそも、俺は人に笑うとこなんか見せねぇだろ。気のせいだ」



「確かにそうかもしれないけど……八幡知ってる? 八幡はさ、僕が話しかけたら、いつも笑って言葉を返してくれるんだよ」



 小さな、しかしはっきりとした口調で戸塚が告げる。次いで上げられた顔は、何かを決意したような、はたまた何かを堪えているような、そんな歪で真っ直ぐな表情で彩られていた。


 窓から差し込む朝日が俺と戸塚を照らし、廊下に影を落とす。時折、奥の方から何名かの女子生徒がパタパタと俺と戸塚の横を駆けていくのが視界の端に映ったが、それでも俺は、俺に向けられた戸塚の真っすぐな瞳から目を離すことができなかった。いや、戸塚自身がそれを許してはくれなかった。



「八幡に何があったのかは知らないし、僕から聞くつもりはないよ。……けど、もし何か八幡が困ってるなら、僕はその助けになりたい」



 澄み切った眼差しで俺の目を見据え、凛とした声で確固たる意志を口にする戸塚。そこに嘘や欺瞞なんてものが存在しないことは、人間不信になりかけの俺にだってわかる。


 純粋だ。あまりにも純粋すぎる。……何もかもを見限って、名実ともに腐ってしまった俺にとって、その光は眩しすぎる。



「……お前には、わかんねぇよ」



 ようやく口にできたのは、寄り添ってきたものを突き放すような稚拙な拒絶だった。揺れ動く理性を奥底に鎮座する化物が暴力を以て鎮め、独壇場となった胸中を化物の咆哮が木霊した結果だ。そこには俺の意志なんて存在しないし、潜在するのは刻まれた傷の疼きだけ。


 その傷は、誰につけられたというわけではなく、自ら勝手に刻み込んだものだというのに。



「八幡っ!」



 踵を返し、話は終わりだと言わんばかりに再び廊下の先へと足を進め始める俺に、後方から戸塚の悲痛な声が響いてくる。だが俺はそれに振り返ることもなく、返事をすることもなく、ただ黙って教室へと向かう。


 あの朝と同じだ。小町も戸塚も、俺が目を逸らし続ける限り、どんな顔をしているかなんてわからない。だがそれでも、俺を見据える瞳が、俺に向けられた声が、否が応にも頭の中で想像を掻き立たせ、罪悪感をより一層募らせる。情に溢れた言葉も、一握りの優しさも、今の俺にとっては一本のナイフとなんら変わらないのだ。


 俺は誰にも助けを求めない。人は、自分で勝手に助かるだけだ。ゆえに俺は、どれだけ歩み寄られても、どれだけ親身にされても、一人でいることを俺にとってのたった一つの救済とする。……だから、頼む。




 ーーこれ以上、俺に傷を増やさせないくれ。






 あれから戸塚が俺の後を追いかけてくることはなく、俺は一人悶々としたまま教室に辿り着いた。教室にはぽちぽちと机が埋まっている程度に人がいるものの、やはりこれだけ早くに登校するような面子は真面目が多いのか、話し声はほとんどない。その閑散とした中に足を踏み入れると、気配を察したのか数人がこちらに視線を飛ばしてくるが、すぐに興味を無くしたようにまた各々の作業に戻り始めた。



「……」



 しかしその中に、見知った顔が紛れていることに気がついた。青みがかった黒髪のそいつはいつもの仏頂面で後方の扉の前に立つこちらを一瞥すると、不機嫌なのか何なのか、肩肘をつきながら後ろ目に俺の顔をじっと睨みつけて来る。


 確か、かわ……川なんとかさんだ。あいつがこんな時間帯に学校にいるのは珍しいと思ったが、ふと黒板を見てみれば、隅の日直欄に白いチョークで彼女の名前が書いてあるのが見えた。


 あぁ、だからあんな不機嫌そうなのか、と心の中でひとりごちる。弟妹の世話でただでさえ早い朝が、日直という朝の縛りによってさらに早くなったのだろう。……あ、あとついでに名前は川崎というらしい。忘れるまでは覚えておこう。


 と、そんな他愛ないことを考えることで曇りがかった思考をクリアにしつつも席に着き、荷物を足元に放って机にうつ伏せる。机と椅子に全体重を預けた瞬間、どっと今朝から溜め込んでいた睡魔が押し寄せてきた。


 もはや、川なんとかさんの鋭い視線も気にならない。教室に満ちる廊下と何ら変わらない冷えた外気も、徐々に人だかりができ喧騒を増していくクラス内も、俺からすれば蚊帳の外だ。


 本気で寝てしまえば、他人が寄って来ることもないだろう。幸いにも、今日は体育もなければ教室の移動を必要とするような教科もない。願わくはこのまま放課後まで眠っていたいものだと、そんなことは無理だとわかっていても、つい望んでしまう俺がいる。


 やがて瞼を開けていることすらままならなくなり、だんだんと意識が曖昧になっていく。……そして電池の切れかかった掛け時計の如く、俺はゆっくりと深いまどろみへと落ちていった。




ーーーーー

ーーー

ーー





 ーー目が覚めたのは、ちょうど二限が終わった頃だった。


 なぜ二時間目という中途半端な時間に起きたのかと言われれば、知らんと答えるほかない。平塚先生に殴り起こされたわけでも、地震が起きたわけでもなければ、誰かに声をかけられたなんて一番忌避していたことが起こったわけでもない。ただ有り体に言ってしまえば、夢見が良くなかったというのが近しい理由だろうか。


 夢の内容はイマイチ覚えていないが、とにかく高所から飛び降りるなんて夢じゃなかったことだけは確かだ。もしそうだったとしたら、伏せながらビクッと体を震わせるとともに派手な音をたて、クラス中に不快な空気を提供する羽目になっていただろう。そんな惨めな状況に陥っていないことを鑑みて、信じてもいない神に今ばかりは礼を述べておく。


 軽く伸びをして、目だけで周囲を見渡す。当然といえば当然だが、数人しかいなかった教室は数十人の人間によって埋め尽くされ、休み時間の現在は所狭しと会話が飛び交っていた。いつも通りの光景……が、意識が半覚醒な状態にもかかわらず、気にかかることが一点あった。



「なんか優美子、元気なくない? どしたの、やなことでもあった?」



「……え? い、いや、あーしは別に普通だけど」



「そう? ならいいんだけど……」



「あ! あれっしょ、女の子の日的な? どう、どう? 当たってるっしょ!?」



「いや何言ってんのあんた……デリカシー考えろし」



「とべっちさいてー……」



 的外れな戸部の言動に、ゴミを見る目で戸部と距離を取る女性陣。しかしその中核である三浦の言葉には、いつものようなおざなりな感じも刺々しさもまるでない。俺が三浦に進言した海老名さんがにこにことグループを一歩引いた観点から見守っているあたり特に関係に変化は見られず、おそらく誰にも件の話をしていないのだろうが、三浦の中で未だに尾を引いているのは容易にわかった。


 それは前もって想定していたことなので、話をしていないことがわかるとすぐに意識下から外れた。が、それよりも気掛かったのは、もう一人の方だ。



「ちょ、軽いジョーダンだって。そんなマジになることないっしょ! なー、隼人くん!」



「……ん、あ、あぁ、そうだな。でも、あんまり女性の内情に踏み込むのは感心しないぞ」



「っべー! 怒られちったわー! マジ隼人くんだわー!」



 頭に手を当ておどける戸部に、ははっと苦笑いを浮かべる葉山。こちらは三浦とは違って言葉の質自体に変化はないが、その表情はやけに憔悴しているように思えた。


 会話に身を投じている間にも、葉山はどこか上の空といった様子が幾度も見受けられる。普段の葉山なら、会話とは関係のない物事を考えているとしても、グループをおざなりにすることはまずない。だからまずは、葉山に何かあったと考えるのが妥当だ。


 三浦が何かしたのかと一瞬疑いをかけたが、どうやらそういうわけでもないらしく、三浦と葉山間にギクシャクとした雰囲気は感じられない。由比ヶ浜にしろ戸部にしろ海老名さんにしろ取り巻き二人にしろ答えは同じで、グループ内で特殊ないざこざが起きているわけでもなさそうだった。


 となれば、外部からの何かしらであるのは明白だが、それもだいたい察しがつく。あの葉山隼人をここまで憔悴させる人物といったら、俺の知る限り一人しか心当たりがない。それに昨日顔を合わせているだけに、半ば確定的ともいえる。



「……っ」



 と、深く考え込んでいるうちにあまりに不躾な視線を送り続けていたようで、ふいに葉山と目が合う。葉山は俺の視線に気付くなり、ぐっと苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるも、話が振られたことですぐさま普段通りのにこやかな顔に戻っていた。


 あぁ、これはもう確定だ。ここまで露骨な態度を取られると100%が何だとかそんな話はどうでもよくなる。……おおよそ、雪ノ下さんが葉山にコンタクトを取ったのだろう。本当にあの人は、物事を悪い方向に引っ掻き回すのがお好きなようだ。心底腹立たしい。


 とはいえ、これで計らずも葉山が俺を気にかけていることが明白になった。最悪の不意打ちを喰らわないで済む分、まだ世界は俺に良心的だ。



「おらー、席につけ若人ども。授業を始めるぞー」



 鐘が鳴り、頭の中で展開される放課後までの未来設計に終止符が打たれると同時に、前方の扉から白衣を纏った平塚先生が入室してきた。三限は現代文か……叩き起こされるくらいなら真面目に受けておくのが吉と見た。


 というか、二限の終わりに目を覚ましたのは、もしかしたらこれを予期したからかもしれない。体に刻まれたファーストブリットへの恐怖が、無意識的に意識を覚醒させたとしたら……いや、実際にありえそうだから怖い。めちゃくちゃ痛いからね、あれ。セカンド果てはラストまで食らったら、全治二ヶ月じゃ済まないレベル。事故の時より長いのかよ……。


 クラス内に錯綜する様々な思惑の渦中に身を置きながら、バッグの中から今更ながらに筆記用具を取り出し、我関せずとばかりにペンを指で挟み込んで弾く。指の周りを回転しては止まり、回転しては止まりを繰り返すその様子は、これから我が身に降りかかる厄災が、永劫に続くことを示唆しているように思えた。




       ✕     ✕     ✕




 昼休みに入ると同時、俺は足早に教室を去り、いつものようにベストプレイスへと向かう。四限の歴史教師がルーズだったおかげで授業時間が大幅に伸び、およそ10分も延長してしまった。クソ、あのハゲマジぜってぇ許さねぇ……なんて流石に思ったりはしないが、それでも授業の延長というのはそこはかとなく気分が害される。こと昼休みともなれば、休憩時間を削られることに殺気立つ連中だっているのだ。あいつらは絶対病気だと思います……。


 とはいえ急いだのは教室を出た直後だけで、それからはゆったり気ままな足取りで廊下を進む。最近はめっきり冷え込んできたこともあって、歩いている最中に冷たい潮風が吹きつけるあそこに行くかどうか逡巡するのだが、結局俺に居場所なんてないので、向かう以外の選択肢がそもそも用意されていないのだった。


 歩いているうち、徐々に廊下の人通りが少なくなっていく。昨日が例外だっただけであそこには滅多に人が寄り付くことはないが、それでも可能性がないわけじゃない。俺が一番に居座りそこを支配することで、ようやくベストプレイスは完成するのだ。


 ……昨日といえば、と考えたところで、亜麻色の髪の女子生徒の横顔が想起した。初対面の男に散々と言っていいほどの暴言を浴びせられた彼女は、一体何を思って涙したのだろう。罵倒されたことによる怒りだろうか、もしくは年上の男からの敵意に恐怖したからだろうか、……はたまた大穴で、何も言い返せなかった自分への情けなさだろうか。


 三つ目はないなと心の中で苦笑しながら、コツコツと階段を降りる。ああいう奴は自尊心が高いが故に自分が悪いと考えられず、相手が悪いと決めてかかる節があるのだ。反省の色を見せるなど、それこそありえまい。まぁ、もう会うこともないだろうから、反省してるか否かなどすこぶるどうでもいいのだが。



「おい」



 と、階段を下りきった直後、突然後ろから声をかけられた。声をかけられたと言っても、俺じゃない他の誰かを呼んでいたというケースもあっただろうが、そこには俺しかいなかったし、目と鼻の先はベストプレイスだ。この時間帯にここをどれだけの人間が通るかは、俺が一番よく知っている。


 だから、この呼びかけは俺に対してであると断定できた。さらに付け加えるなら、その声音が友人を呼ぶものにしては少々……荒々しさが目立つ。



「はぁ……なんーー」



 恨みを買うのは慣れているが、実際に声をかけられるとやはりいい心地はしない。小さく息を吐いて、鬱陶し気にゆっくりと後ろを振り向いた刹那ーー右頬に硬い衝撃が走り、視界に火花が散った。



「がっ……!?」



 ぐらりと足元が揺らぎ、たたらを踏みつつもなんとか倒れずに踏み留まる。しかし、左頬から伝わる鈍痛が鼓動と交わって徐々に疼きを増し、無理解に頭が満たされていく。


 頰を右手で押さえながら目を向けた先、そこには見知らぬ顔が都合三つ、雁首そろえて並んでいた。


 スポーツ刈りのいかつい黒髪を先頭にして、癖っ毛のチャラそうな見た目の金髪、そして茶髪のメガネが後ろに控えている。そのどいつもがまぁまぁな体格をしており、スポーツに精通しているであろうことは一目でわかった。


 状況を把握する俺を、先頭のスポーツ刈りが敵意の籠った目で睨みつけてくる。ふと下に視線を送ればその拳は固く結ばれており、それを見てやっと殴られたことを知った。



「あんた、ウチのいろはに何したんだよ」



 厳かな声で、スポーツ刈りが問いかけてくる。後ろの二人もそれに同調するように俺に敵意を向けてくるが、一体なんの話をしているのかわからない俺の頭には疑問符しか浮かばない。



「は? いろは? 誰だよそいつ……」



「とぼけんなよ。ここで泣かせてただろうが。テメーが、昨日の昼休みに」



 血の味がする唾液を飲み込み、ようやく言葉を口にすると、後ろに身を置いていた金髪が苛立ち混じりの声で応じる。それを聞いて、なるほど合点がいったと俺は心の中で両手を叩いた。


 おそらく、昨日俺があそこで暴言を吐いた女子生徒がいろはという名の少女なのだろう。そしてこいつらは、何らかのタイミングでそれを見た、もしくは聞いて報復にやって来た猫被り少女信者の中の三人、といったところか。


 それがあの女子生徒に頼まれて来たのか自主的に来たのかで大分意味は変わってくるが、どちらにせよこいつらの目的が俺に制裁を加えることなのは明白。外面に騙されて踊るマリオネット供……憐れな奴らだ。



「いや知らねぇよ……名前すら初めて知ったわ。……つかいきなり殴りかかってくるとか、今までどんな教育受けてきたんだよ。ママに暴力はダメって教わらなかったのか?」



 未だズキズキと疼く頬には回復の兆しが見えないが、それでも俺は余裕を持った表情で煽るような台詞を並べる。……いや、おい何してんだ。殴りかかってきた奴らだぞ、挑発してどうする。


 予想通りこれを挑発と受け取ったのか、金髪はチッと舌打ちをすると、ズカズカと前に体を乗り出してくる。おそらくリーダー的なポジションであろうスポーツ刈りは澄ました顔で横に捌け、それを制することはない。



「っせぇなぁ……黙っとけよこのクズ野郎がッ!」



 怒声をあげたのも束の間、驚異的な速度で金髪の足がしなり、俺の腹部へと突き刺さる。予想外のスピードにまともなガードも取れず、衝撃は俺の腑抜けた腹筋をいとも簡単に突き抜け、一瞬の浮遊感とともに口から大量の空気が吐き出された。



「ごぇ……!!」



 情けない声が漏れ、膝が床へと崩れ落ちる。痛みに腹を抱えて蹲る俺を、三人が見下ろしているのが嫌でもわかった。


 今まで精神的な攻撃なら死ぬほど受けてきたが、こうも直接的な暴力は高校に入って初めてだ。それも、ここまで重い蹴りは未だかつて受けたことがない。



「ていうか何? 初対面の年下女子相手に、泣かせるようなことしたわけ? 最っ低だなテメー」



「ゲホッ……あいにく、常日頃からそういう罵倒は聞き飽きてんだよ。つか、これから三人がかりでリンチしようとしてる奴らに言われたくねぇな。盛大なブーメランかましやがって」



「俺たちはいろはを泣かせたあんたを制裁しに来ただけだ。先に手を出したあんたが悪い」



 今まで口を閉ざしていたスポーツ刈りが、まるで正論であるかのように宣う。確かに最初に手を出したのは俺かもしれないが、それを暴力でお返ししようだとはあまりに前時代めいた考えだ。こいつらの正義のあり方が歪すぎる。



「ハッ、制裁ね。……お前ら、そのいろはってやつに随分とお熱なんだな」



「あぁ? だったら何だよ」



 苛立ち混じりに眉を顰める金髪に、俺はうすら笑いを浮かべる。好意を隠そうとしないその意気は賞賛に値するが、行き過ぎた好意はただの自己満足、あるいはストーカー以外の何物でもない。


 俺はよろよろと立ち上がりながら十分に機能しない肺から空気を絞り出し、ゼロになったところでふーはーと大きく深呼吸して息を吸い込み空っぽの肺を満たす。そしてやっと平静が保てるようになると、俺は醜く口角を吊り上げて苦悶の汗が浮かんだ顔を歪ませ、三人に向き直った。



「……面食いなお前らに、俺から一つアドバイスしてやる」



「はぁ?」



 唐突に繰り出された俺の言葉に、何を言い出すのかと怪訝な顔の面々が発した声が重なる。面食いと呼ばれたことへの悪感情も混じってるんだろうが、あれに好意を寄せてる者をいったい面食い以外の何と評せばいいのか。



「確かに、外見だけみりゃ可愛いんだろう。あんだけ媚びられれば、コロッと落ちちまうのもしょうがねぇのかもな。……まぁ、なんだ」



 口から垂れてきた唾を腕で拭う。ちらりと流し見ると、セーターの裾は赤黒い線が一本滲んでいた。さっき殴られた時、口の中が切れたのか。……まぁ、そんなことはどうでもいい。


 訝し気な表情を浮かべる三人を前に、俺は哀れな人を見るような目でそいつらを一瞥し……「一つ言うとすれば」と前置きをして、口元をにやつかせながらこう言い放った。



「ーー外面だけ見て惑わされてるお前らが、心底不憫で仕方ねぇよ」



 ーーその言葉は、奴らの怒りの導火線に火をつけるには十分すぎたのだろう。


 言い終えるや否や、金髪とスポーツ刈りが瞳に宿した敵意を色濃く変貌させて殴りかかってくる。俺は咄嗟にガードを固めたものの、二人掛かりの攻撃を喧嘩素人の俺が防ぐことなどできはしない。


 一発目を運良く避けられたとしても、続く二発目の拳が正確に顔面中央に飛んでくる。硬い衝撃に顔が灼かれるような熱を帯びるが、そんなことも御構い無しに追撃は俺の体を容赦なく穿つ。



「ーーーーぁ」



 殴られ蹴られ、踏みつけられては掴まれて。全身に走る痛みはやがて薄くなっていき、いつしか俺は抵抗をやめていた。


 いつもなら土下座でもして穏便に済まそうとするところを、らしくない煽りで俺は奴らを挑発した。もちろん殴られるのは痛いから嫌だし、蹴られるのだって当然嫌だ。……ただ、俺は今回意図的に、彼らに手を出させるよう振舞っていた。


 殴ってほしかった。蹴ってほしかった。まるで贖罪であるかのように、自棄になることで自分を壊して欲しかったのだ。


 贖罪なんて体のいい話ではあれど、あの少女に向けた理不尽な暴言に対するものじゃない。おそらくそれは、俺が払うべき今までの行い全てに対するツケであり、何もない空っぽの俺ができる唯一の償いだった。


 心のどこかで、もうどうだっていいと思っていたのかもしれない。それは人間関係だけではなくて、自分すらも見限った結果だったのだろう。



「ーーーー」



 本当はわかっていた。俺が犠牲になることで、悲しむ誰かがいることだって。あの時俺に向けられていた怒りが、本当は誰に向いていたものなのかも。……でも俺は、その全てを自分可愛さで切り捨てた。


 信じられなかった、俺がそんな恵まれた境遇にいるなんて。信じたくなかった、俺がそこまで思われる存在に膨れ上がっていたなんて。そんな敬われるべき人間では、俺は決してないというのに。


 だから、逃げ出した。背負う期待の重さが苦痛で、掛けられる親愛に耐えられなくて、全てを否定することで俺は感情に蓋をして、自ら殻に閉じ籠った。また傷つくのが嫌だったから、傷つけるのが嫌だったから、すべて独りよがりの産物なのだと銘打って、自分を世界から隔離したのだ。


 他の誰が悪いなんて思っていない。……悪いのは、いつだって俺だ。


 雪ノ下に告げられた、やり方が嫌いだと。由比ヶ浜に叫ばれた、人の気持ちを考えろと。だけど、己に価値を見出せない俺にはこんなやり方しかできない。だから、どれだけ最善を尽くしたって、そう糾弾されるのも、恨まれるのも仕方がない。……でも、それでも。




 ……ただ、俺は一言、「お疲れ様」と、声をかけてもらいたかっただけなんだ。



「ーーがッ!」



 視界が横転すると同時、背中が壁に激突した衝撃に息がつまり、呼吸を封じられ過呼吸気味に喘ぐ。ならいっそ息なんて止めてしまえばいいと呼吸をやめると多少はマシになり、軋む身体をなんとか動かして頭をあげると、淀んだ視界には息を切らした二人の姿が映っていた。


 時間の感覚はとうの昔に忘れ去っているため、最初の一発からどれだけ経ったのかはわからない。ただ体感時間だけでいうなら、もうかなりの時間サンドバッグになっているはず。


 人を殴り続けるにも体力がいる。これだけリンチしてれば、二人掛かりだろうと息が上がるのは当然だ。



「ハァッ、ハァッ……気持ち悪りぃなコイツ。こんだけ殴られてんのにまだ笑ってやがる」



「そろそろ手も痛くなってきた。いろはの仇も取れただろ、もうこれぐらいにしとこう。……**先輩に見つかったら面倒だ」



 金髪は額の汗を裾で拭いながら忌々しい目で俺に視線を送り、スポーツ刈りは初めと何ら変わらぬ澄ました顔で乱れた衣服を整えている。最後にスポーツ刈りが何か言っていた気がするが、同時に咳き込んだ俺の音で掻き消されて聞こえなかった。



「そういや、お前やんなくていいの? ずっと後ろで見張りなんてやってたけど」



「……俺は別に」



 金髪が声をかけた先、そこには二人の後ろでこのリンチを傍観していたメガネが立っている。どうも一人足りないと思っていたら、一人は後ろで見張り役を務めていたらしい。何とも周到な奴らだ。



「お前がここでこいつがいろは泣かせてんの見たって言ったんじゃん。一発くらい殴っとけって」



「……」



 ニタニタと笑いながら暴力を勧める金髪に、メガネが観念したかのように大きく息を吐く。そして準備運動とばかりに指をポキポキと鳴らすと、壁にもたれかかる俺に向かってゆっくりと歩き始めた。


 今更逃げる気のない俺はその場から動くこともなく……いや、結局動こうにも、四肢胴体頭部と至るところから痛みを訴える満身創痍の体はまともにいうことを聞いてくれず、やがてメガネは俺の目の前で立ち止まる。メガネは腰をかがめ、ぐいと俺の胸倉を掴み上げて顔を近づけると、じっと俺の目を睨みつけ、おもむろに口を開いた。



「……あんた、一色に何言ったんだ?」



 その声音は底冷えするように冷たく、まるで怒気なんて言葉じゃ言い表せないような圧に満ち溢れている。おそらく、一色というのはいろはなる女子生徒の名字か。……こいつ、どんだけそいつに入れ込んでるんだ。



「……は、覚えて、ねぇな。そんなの、いちいち覚えてるわけ、ねぇだろ……」



「……そうか」



 最後のあがきとばかりに、俺はまたしても挑発を繰り返す。もはや自分で自分をどうしたいのかわからなかったが、ただ自分の中で、取り返しのつかないところまで来ているということだけは鮮明にわかった。


 俺の回答にメガネは一つ嘆息すると、近づけていた顔を離す。そして、敵意に満ちた目をメガネの奥でギロリと尖らせ、掲げた手を砕かんばかりに握りしめた。


 廊下に冷たい風が吹き抜け、ジンジンと熱を帯びる体を急激に冷ましていく。全身余すところなく暴行を加えられたはずなのに、痛みはまるで感じない。ただどこかしら動かせば激痛が走るのは自明の理であり、指一本まともに動かせないこの状況で、俺は結局空笑いを浮かべるしかなかった。


 だんだんと、意識が朦朧としてくる。視界も徐々に暗くなってきた。最後の一発を食らう前に、意識が落ちれば儲けものか。


 自嘲気味に笑い、観念して目を閉じようとしたーーその時だった。



「君たち、何してるのっ!?」



 ふいに、中性的な声音が静まり返った廊下に響き渡る。メガネは一瞬体をビクつかせたものの、直前に振り抜いた拳を止めることはない。


 ゆっくりと、世界が針を進める。人間は命に関わる窮地に陥った際、景色がスローモーションに見えると耳にしたことがあるが、こんな状況でもそれが起きるんだなと、殴られる直前にもかかわらず俺は呑気にそんなことを考えていた。


 霞んだ視界に映る光景は、あるべき音も消え、まるでテレビの低速ボタンを押したがごとく微々として流れていく。造られた偶発的な静寂の中、目の前のメガネは若干血走った目で拳を振るい、その後ろでスポーツ刈りと金髪が突如響いてきた声に動揺し、反射的に振り向こうとしているところまではっきりと見える。


 そしてそのさらに後方、階段の上に佇む声の主は、窓から降り注ぐ日光を背負いながら透き通った白髪を輝かせ、あどけなさが残る顔を歪ませて切迫した表情を浮かべていた。華奢な体つきは女子とも見紛うほどに細く、ジャージ姿も相まって男らしさは微塵も感じられない。半ば逆光気味ではあったものの、幾度となく目にしてきたその姿から、それが誰かは容易に知れた。


 ……なんでお前に、こんなとこ見られちまうんだか。






「ーーーー八幡っ!!」




 


 頰に硬い衝撃が弾け、世界が再び元のスピードで動き出す。俺の意識が落ちる寸前、叫びにも似た俺の名前を呼ぶ聞き慣れた声が、暗くなっていく頭の中に木霊した。






       ✕     ✕     ✕






「…………んぁ」



 目を覚ますと、辺りは真っ白な布で包まれていた。見上げた先には、ところどころ傷のついた知らない天井が広がっている。


 状況がよく掴めないが、後頭部や背中に感じる柔らかい感触からベッドに寝かされているのはわかった。次いで、時折鼻腔をくすぐるこのツンとした消毒液の匂いで、ここが保健室であることもわかる。


 だが、俺がここにいる理由も経緯もわからない。というか、ここに寝かされる以前のことが全く記憶にない。俺は何をしてたんだっけか。


 疑念を抱きつつ、とりあえず起き上がろうと腕を動かした直後ーー腕に鈍痛が走った。



「づっ……!?」



 突如として走った痛みに顔をしかめ、少しだけ持ち上がった上半身が再びベッドに倒れる。その軽い衝撃を起点として、今度は連鎖的に先ほどと同じ痛みが全身を這うように疼き始めた。



「ーーーーッ!!」



 喉元まで出かかった叫び声をすんでにところで食い止め、それでも声にならない呻き声を上げてベッドの上でもんどりうつ。涙腺からは意図せず涙が滲み、痛みを誤魔化すために食いしばった歯は今にも砕けそうなほど軋んでいる。


 それから幾ばくか経ち、波のように次々と襲い来る鈍痛が徐々に鳴りを潜め出すと、ようやく俺は肩の力を抜いて大きく息を吐いた。そして同時に、寝起きで抜け落ちていた記憶が度重なる痛みによって回帰する。


 ああ、そうか。確か昼休みにベストプレイスに向かってたところで俺に恨みのある野郎どもに捕まって、それはもう一寸の手加減もなくリンチされたんだっけ。


 で、気を失いかけたところで、聞き覚えのある誰かの声が聞こえてきて……。



「っ!! そうだっ、とつーーいっ!?」



 頭の中で思い起こされる情景に閉じかけた目を見開き、ガバッと反射的に飛び起きる。が、やはり目を覚ましたばかりで学習しないのか、勢いも相まって先ほどとは比にならない激痛が再び全身に走った。


 完全に上半身は起き上がっていたおかげでもう一度ベッドに背中をつけることはなかったが、そうしたからといって痛みが和らぐことはない。せめて痛みを長引かせないよう、俺は背を丸めてのたうちまわるのを我慢するしかなかった。



「あ、気がついたかい?」



 突然シャッとベッド横の白いカーテンが引かれ、その向こうからおっとりとした声が聞こえてくる。自然とその方向に顔を向けると、浅緑の髪を後ろに結んだ白衣の養護教諭が無気力めいた瞳で俺を見ていた。


 先生はくるりと回転式の椅子を回して体をこちらに向けると、持っていたボールペンの先でこめかみあたりを突きながら、はぁーと溜め息をついた。



「いやぁ、キミが担ぎ込まれてきたときはびっくりしたよ。全身打撲に口内出血、骨まではいってなかったけど結構な怪我だったぞ? 若さにかまけて喧嘩もいいけど、ほどほどにしときなさい」



「……あの、すみません。担ぎ込まれたって誰に……」



「髪の白い女の子。制服じゃなくてジャージだったけど……お友達だよね? あの子はクラスメートだって言ってたから、次の授業に出られないことは先生に伝えておくよう頼んどいたから安心しな」



 俺の問いに淡々とそう答え、先生が書類の束を机の上でトントンと揃える。淡白だなと感じつつも、与えられた人物像に俺の脳裏に映る朧げな姿が重なった。


 やはり、あれは戸塚だったのか。白い髪でジャージを纏った俺の知り合いなんて、頭の隅から隅まで探したって一人しか該当しない。なぜ戸塚があの場所に来ていたのかは知らないが、また俺は他人に迷惑をかけてしまったらしい。



「……そう、ですか」



 ぼそりとそう呟いた直後、授業終わりを知らせる鐘が鳴り響いた。時計を見れば思いの外時間が経っていたらしく、針はいつの間にか昼休みの終わりから一周回ろうかという所にまで差し掛かっている。



「おや、もうこんな時間か。悪いけど、私はちょっと職員室に用があってここを空けるから、君はおとなしくベッドで安静にしときなさい。ある程度処置はしておいたけど、まだ痛むようなら六限もサボっちゃいな」



 気だるそうに椅子から立ち上がると、先生は白衣の裾をパンパンと払って、バインダー片手にゆったりとした足取りで扉へ向かいながら俺に告げる。その言葉に改めて俺の体を見てみると、腕や足にはところどころ包帯が巻かれ、顔には何かひんやりとしたものが貼り付いていた。触ると、それが冷湿布であることがわかり、同時に目を覚ましたときのツンとした匂いはこれが原因であることにも気づいた。


 多分、というか確実に、包帯の下には痛々しい青い痣が浮き上がっていることだろう。恐る恐る手を当てた瞬間、突如として迸る鈍痛がそれを雄弁に物語っている。


 養護教諭が取っ手に手をかけ、ピシャッと扉が閉ざされると、廊下から流れ込んできていた喧騒も遮断され、時計の針が進む音と俺の呼吸音だけが室内に響く。


 ぼーっと養護教諭が出て行った扉を眺め、ふと誰もいない室内を呆然と見渡す。あまり通ったことがない保健室はことのほか新鮮で、棚の中に飾られている薬瓶には一体何の薬が入っているのだろうとか、カルテっぽい書類にはどんなことが記されているのだろうとか、まるで子供のような疑問が次々と頭の中に湧いてくる。


 ただそれは、俺自身が考えるのを放棄したことの証明に他ならない。興味関心など、少し前に失ったばかりなのだから。


 足を少し動かしてみると、腕よりかは幾分動かせるものの、それでも何の淀みもなく歩けるかと言われると微妙に怪しい。仮にもし教室までたどり着いたとしても、こんな包帯だらけでは変に注目をさらうだけだ。それで同情なんてされた時には、あの少女の時よろしく俺の口からどんな暴言が飛び出すかわかったもんじゃない。


 授業に出るのは諦めて、養護教諭の奨め通り俺はサボタージュをかますことに決めた。一息ついて、軽く包帯の巻かれた手のひらに視線を落とし……俺は唇をかみしめ、痛みも気にせず力一杯手のひらを握り締める。



「……何が贖罪だよ。馬鹿馬鹿しい」



 なぜ挑発したのかという俺の問いかけに、俺は償いのためだと答えた。俺が不幸な目に遭うことで、俺の業が少しでも軽くなってほしいと、心の底から思っていた。


 あの時は殴られた痛みや状況も相まって、馬鹿な考えしか浮かばなかった。しかし頭の冷えた今では、ある程度冷静な判断ができる。




 ーー独りよがりも大概にしろよ、クソ野郎。




 まともな思考が働いていなかったとはいえ、殴られて蹴られて傷ついたから許してくださいだと? ふざけんのも大概にしろ。そもそも自分が発端だろうが。


 自分で傷つけておいて、自分で傷ついておいて、辿り着いた答えが自己完結か。とんだ茶番だ。


 何たる傲慢さ。何たる自己満足。何たる思い上がり。己の身勝手さに嫌気が差す。


 何が、償いだ。甘えてんじゃねぇよ。



「ーーッ!!」



 己の都合に他人を巻き込む自分が醜くて情けなくて、俺は衝動的に握った拳で自らの頰をぶん殴る。衝撃に視界が揺らぎ、打たれた頰と慣れない拳から同時に痛みが弾け、じんじんと熱が募り始めるとともに口内に鉄の味が広がっていく。


 あぁ、また切ったのか。だがこれも、自分への戒めとすれば特に気にならない。傷物にさらに傷をつけたところで、もともと最底辺の価値がこれ以上下がることはないのだから。


 そんなことを考えながら口の端から垂れてくる血を軋む腕で拭っていると、コンコンと扉をノックする音が響いた。


 わざわざノックしたということは先生ではない。だとしたら誰か他の生徒だろうか。


 俺としてはこんな様を他人に見られるのはあまりよろしくないのだが、だからと言ってベッドに寝転がりたいとは思わなかった。起きた直後のあの激痛の連鎖は記憶に新しく、さすがに二度も同じ苦痛を味わうのは御免被る。


 仕方なくそのままの姿勢で扉に視線を向けるも、扉を叩いた主は一向に室内に入ろうとしてこない。どうしたのかと訝しんでいると、「し、失礼します」と控えめな声が聞こえ、続いてガラッと扉が開かれる。そしてその姿が目に映った瞬間、俺はぐっと声を詰まらせた。



「えっと、2年の戸塚です。先生は……あっ、八幡! 大丈夫っ!? もう起きられるの!?」



 声の主ーー戸塚彩加はスクールバッグを片手に携えて足を踏み入れると、先生を探しているのかキョロキョロと室内を見渡す。と、すぐに上半身を起こした俺の姿を捉えるや否や、血相を変えてパタパタと駆け寄ってきた。



「あ、ああ。まだ歩けるかどうかは微妙だけど、まぁもう少し休んでれば大丈夫だ……と思う」



「そ、そっか。よかったぁ……」



 俺の言葉に大きく息を吐き、心の底から安堵したような表情を浮かべる戸塚。その純粋な気遣いが直視できず、俺は反射的に目をそらしてしまう。



「……あれ。八幡、ほっぺた赤くなってるよ? なんか腫れてるみたいな……治療してもらわなかったの?」



「あ、いや、これはあれとは全然違うやつで、あの後についたっていうかつけたっていうか……」



 戸塚に指摘され、しどろもどろになって言葉を返す。ついさっき自分で殴りましたなんて、惨めすぎて言えるわけがない。というか、戸塚に余計な心配をかけてしまう。


 そんな俺の姿がどう映ったのか、戸塚は呆れの混じった表情で浅く息をつくと、スクールバッグをベッドの脇に置いて部屋の奥のタンスへ足を運び、ごそごそと棚の中身を漁り始めた。



「もう……八幡はそこでじっとしてて。湿布貼ってあげるから」



「お、おう……」 



 戸塚にしては珍しい有無を言わさぬ物言いに、つい反射的に返事をしてしまう。戸塚は慣れた手つきで棚から冷湿布を取り出すと、ペリペリとシールを剥がしながらこちらに戻ってきた。



「はい、顔だして。ちょうどこのくらいの大きさかな……うん、切らなくても大丈夫そう」



 ぽしょぽしょと呟きながら、大きさを確かめるようにして戸塚が手にした湿布を伸ばしているのが視界に大きく映る。他人に治療を施されるということに多少むず痒さを感じるものの、ひんやりとした感触が頰に貼りついた瞬間、発生したピリッとした痛みによってそんな感覚は彼方へ消え去った。



「っ……!」



「あっ、ご、ごめん! 痛かったかな……?」



「……いや、冷たさにちょっとびっくりしただけだ。気にすんな」



 不安げに瞳を揺らす戸塚に、それとなく誤魔化しつつ声をかける。実際に想像以上に冷たかったわけだから、あながち間違いとも言えない。それを聞いて、戸塚はわずかに胸を撫でおろすと、貼ったばかりの湿布の縁をまるで陶器に触るように優しく押し付け、空気が入らないよう丁寧に貼り付けていく。


 施術が終わり軽く礼を言うと、再び沈黙が舞い降りる。気まずい空気には慣れているが、その原因が俺なだけあっていたたまれなく、バツの悪さに自ら口を開いた。





後書き

本作は戸塚ルートではございません。更新はもう暫くお待ちください。

感想・批評お待ちしてます。猫の話とかでもいいよ。


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1: SS好きの名無しさん 2020-06-17 23:04:47 ID: S:mlLDNe

なんか惹かれる書き方だなぁ…
続きはまだありますよね?

2: SS好きの名無しさん 2020-06-18 15:17:59 ID: S:fvaTJK

続きが気になる期待

3: SS好きの名無しさん 2020-06-22 14:13:06 ID: S:jkgNKE

期待

4: SS好きの名無しさん 2020-06-24 00:15:53 ID: S:G4A21f

転載元ってどこのサイトですか?

5: 鬼灯 2020-06-24 08:26:44 ID: S:61L_EG

明確な転載元はありませんが、探せばあると思います

6: SS好きの名無しさん 2020-06-24 23:58:08 ID: S:MHzhCT

よく見たら再構成でしたね。
主さんの書き方が好きなので楽しみに待っています!

7: SS好きの名無しさん 2020-07-02 09:41:20 ID: S:Y0ttIu

原作は知らないが、面白いです。

8: SS好きの名無しさん 2020-07-13 08:16:36 ID: S:8fvNX-

大変でしたね…更新ありがとうございます

9: SS好きの名無しさん 2020-07-13 09:17:28 ID: S:7LosuP

今、最も気になる作品です。ありがとうございます。

10: SS好きの名無しさん 2020-07-17 15:27:04 ID: S:uJjKBL

読んでても遅いなという印象を受けたことはないので、作者さんのペースで良いと思いますよ
続き楽しみにしています

11: SS好きの名無しさん 2020-07-25 00:16:55 ID: S:k4Z14Y

とても楽しみにしてます
頑張ってください

12: SS好きの名無しさん 2020-08-26 00:20:22 ID: S:rvAeJQ

失踪しちゃったんですかね?

13: 鬼灯 2020-08-26 10:01:17 ID: S:JHnkQ6

失踪はしてないです
書ければいいなとは思ってるのですが、如何せん受験生の身でして……あまり書く時間が取れてない状況です
展開はもうかなり先まで考えてあるので、ちょっとずつ書いて貯まってきたら更新しようと思ってます
申し訳ありません

14: かまた 2020-08-30 08:07:07 ID: S:jm-XQV

ゆっくりでいいですので更新楽しみにしてます

15: かまた 2020-08-30 08:15:17 ID: S:DwvwGB

ゆっくりでいいですので更新楽しみにしてます

16: SS好きの名無しさん 2020-10-31 19:17:02 ID: S:rEFTHb

これは……取り敢えず三人組?金髪茶髪眼鏡は一年だろ、んで禿山の居るサッカー確定。コレ、訴えないとかないからな? よくなあなあで済ますSSあるが。

17: SS好きの名無しさん 2020-10-31 19:18:29 ID: S:XsUvCH

これは……取り敢えず三人組?金髪茶髪眼鏡は一年だろ、んで禿山の居るサッカー確定。コレ、訴えないとかないからな? よくなあなあで済ますSSあるが。

18: SS好きの名無しさん 2020-11-20 13:05:20 ID: S:G9wM4o

新幹線は千葉駅には行かないぞ

19: 鬼灯 2020-11-20 14:25:10 ID: S:rdLzm5

言われてみれば確かにそうだ。修正します。

20: SS好きの名無しさん 2021-01-05 23:27:39 ID: S:gmHKvE

明けましておめでとうございます!
受験終わったらkskしますかね?


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