走れ、提督
提督が怒っちゃいました
この作品は太宰治氏の2次創作です
前夏目漱石と書いていましたほんとすいません
提督は激怒した。必ず、かの邪智暴虐
の元帥を除かなければならぬと決意した。提督には内務がわからぬ。提督は、横須賀鎮守府の司令である。煙草を吹き、夕立と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明提督は鎮守府を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此の千代田区にやって来た。提督には父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な加賀と二人暮しだ。この妹は、横須賀の或る律気な一海兵を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。提督は、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、千代田区やって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。提督には竹馬の友があった。三井である。今は此の千代田区で、造船所の社長をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちに提督は、町の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、町の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきな提督も、だんだん不安になって来た。路で逢った若い特高警察官をつかまえて、
何かあったのか、二年前に此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い特高警察官は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて酒に酔ったオッサンに逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。オッサンは答えなかった。提督は両手でオッサンのからだをゆすぶって質問を重ねた。オッサンは、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「元帥は、艦娘を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、艦娘もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの艦娘を殺したのか。」
「はい、はじめは元帥の秘書艦さまを。それから、御自身のケッコン艦を。それから、青葉さまを。それから、青葉さまの妹の衣笠さまを。それから、中将さまを。それから、内務部長の大淀様を。」
「おどろいた。元帥は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。艦娘を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、部長の心をも、お疑いになり、少しく派手な装備をしている者には、間宮券を差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば割り箸にかけられて、解体されます。きょうは、六隻解体されました。」聞いて、提督は激怒した。「呆れた元帥だ。生かして置けぬ。」
提督は、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ大本営にはいって行った。たちまち彼は、怖面の憲兵に捕縛された。調べられて、提督の懐中からは短刀が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。提督は、元帥の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
元帥は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その元帥の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「大本営を暴君の手から救うのだ。」と提督は悪びれずに答えた
「おまえがか?」
元帥は、憫笑した。
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」
と提督は、いきり立って反駁した。
「艦娘の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。元帥は、艦隊の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、五・一五事件だ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」
こんどは提督が嘲笑した。
「罪の無い艦娘を解体して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」
提督は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、艦娘の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔
になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、提督は足もとに視線を落し瞬時ためらい、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の加賀に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」
と暴君は、嗄れた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」
提督は必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。加賀が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この区に三井という造船所の社長がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
提督は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。竹馬の友、三井は、深夜、元帥官邸に召された。暴君元帥の面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。提督は、友に一切の事情を語った。三井は無言で首肯き、提督をひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。三井は、割り箸に縄打たれた。提督は、すぐに出発した。初夏、満天の星である。提督はその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、鎮守府へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、艦娘たちは海に出て作戦を実行していた。提督の十六の加賀も、きょうは兄の代りに艦隊指揮の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」提督は無理に笑おうと努めた。
「大本営に用事を残して来た。またすぐそこに行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
加賀は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、横須賀の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
提督は、また、よろよろと歩き出し、私室へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。提督は起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の海兵は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、遠洋航海訓練まで待ってくれ、と答えた。提督は、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の海兵も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた艦娘たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に軍歌をうたい、手を拍うった。提督も、満面に喜色を湛え、しばらくは、元帥とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。提督は、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。
提督は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの鎮守府に愚図愚図とどまっていたかった。提督ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい加賀に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免被って眠りたい。眼が覚めたら、すぐに大本営に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばん嫌いなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
加賀は、夢見心地で首肯いた。提督は、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、加賀と地位だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、提督の弟になったことを誇ってくれ。」
加賀は揉み手して、てれていた。提督は笑って艦娘たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。提督は跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの元帥に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って割り箸の台に上ってやる。提督は、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、提督は、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。元帥の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、鎮守府。
若い提督は、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。横須賀を出て、練兵場を横切り、石油備蓄場をくぐり抜け、川崎市に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。提督は額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや鎮守府への未練は無い。加賀たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに大本営に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、提督の足は、はたと、とまった。見よ、前方の多摩川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に崩し、橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。提督は川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら観音様に手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、鎮守府に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」濁流は、提督の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今は提督も覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、観音様も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。提督は、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。提督は馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の青年将校が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに大本営へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。提督証明証を置いて行け。」
「私には証明証の他には何も無い。その、たった一つの証も、これから元帥にくれてやるのだ。」
「その、証明証が欲しいのだ。」
「さては、元帥の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
青年将校たちは、ものも言わず一斉に拳銃を構えた。
提督はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その拳銃を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を射ち殺し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、提督は幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。空を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、将校を三人も射ち殺し韋駄天、ここまで突破して来た提督よ。真の勇者、提督よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく元帥の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや扶桑型戦艦ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。観音様も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと山城にも笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。三井よ、許してくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、三井。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。三井、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。多摩川を突破した。将校の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。元帥は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は元帥の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は元帥の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。元帥は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。三井よ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、独り善がりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。横須賀には私の家が在る。艦娘も居る。妹夫婦は、まさか私を横須賀から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。ふと耳に、潺々、美味そうな声が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。路地裏で、伊良湖羊羹を売っいるらしい。よろよろ起き上って、見ると、店先で美味しそうな羊羹が陳列されているのである。その店に吸い込まれるように提督は入った。羊羹を一個買って、一くち食べた。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! 提督。私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。提督、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、観音様よ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。路行く人を押しのけ、跳ねとばし、提督は黒い風のように走った。町で遊郭の、その行為のまっただ中を駈け抜け、遊郭の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
「いまごろは、あの男も、割り箸にかかっているよ。」
ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、提督。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。提督は、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、千代田区のビル群が見える。ビルは、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、提督様。」
うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」
提督は走りながら尋ねた。
「三菱でございます。貴方のお友達三井様の部下でございます。」
その若い部下も、提督の後について走りながら叫んだ。
「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
提督は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。割り箸前に引き出されても、平気でいました。元帥が、さんざんあの方をからかっても、提督は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! 三菱。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、提督は走った。提督の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、提督は疾風の如く割り箸前に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。提督が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
と大声で割り箸前の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉
がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに割り箸が高々と立てられ、縄を打たれた三井は、徐々に釣り上げられてゆく。提督はそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。提督だ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。三井の縄は、ほどかれたのである。
「三井。」
提督は眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
三井は、すべてを察した様子で首で頷き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く提督の右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「提督、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」提督は腕に唸りをつけて提督の頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君元帥は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、元帥万歳。」
ひとりの駆逐艦が、緋のマントを提督に捧げた。提督は、まごついた。
佳き友は、気をきかせて教えてやった。「提督、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い駆逐艦は、提督の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。
加賀さん夫婦に栄光あれ
このコメントは削除されました
このコメントは削除されました
>>2
太宰さんほんとすいません。
殴って下さい