もう一つのハチロク48696
この物語は実際に走っている58654号機のお兄ちゃん48696号機のお話
SL人吉の牽引である58654号機を支えた48696号機のすこし、ボクノ妄想でかいたお話実話ではない
ですが、48696の気持ちになって読んでほしい
またあいつと走りたかった
1922年僕は誕生した。
僕は蒸気機関車8620の型として作られた。
48696号機となずけられた僕は、同じ年に生まれた弟の58654号機と一緒に九州各地を走り回った。1971年8月23日僕は休車になると担当の機関士から告げられた。弟はどうなるのかと機関士に聞いた。すると
機関士「48696、58654はまだ走るそうだ」
それを聞いた僕はほっとした、僕の愛する弟がまだ元気に走る姿がまだ見られるからだ。そのあとに僕はこの後どうなるかを聞いた、すると機関士は泣き崩れてしまった、あとから聞くに僕は廃車になるかもしれないからだ、僕はショックで涙がこぼれてしまった、二度と58654と一緒に走れなくなり、スクラップにされてしまうかもしれないからだ、僕は寝れなかった、もし廃車にされスクラップにされるのが怖かったからだ、「いやだ、死にたくない、廃車にされたくない、またあいつと走りたい」僕はいつも思っていた。同年12月13日僕の廃車宣言が鹿児島で行われた、来てほしくないことが来てしまった、僕は生きることをあきらめた、翌年3月いつものように鹿児島でぼーっとしていると、誰かがやってきたどうやらスクラップになるときが来てしまったらしいと思いながら見ていると、その人が紙をみせた内容は、無償貸与契約締結と書いてある、その人が口を開いた「大牟田に来い」と僕に希望が見えた、また線路で走れるのかと思っていたが、ついていった場所は大牟田市動物園だった、僕は「ここに保存されるのか悪い気はしないな」と思いながらも保存場所についた、みたところ露天保存らしい、環境は最悪だがまた走れることを祈って我慢することにした、数年後JR?を名乗った人が僕を訪れた、その人が「58654を観光列車にするんだ、だから部品提供をしてほしい」といった僕は弟が元気にいていることや、また弟と一緒に走れることを祈って大量の部品を提供した。それから数年、数十年たっても僕を整備しないで外にほったらかし、申し訳程度の紹介看板が立っている程度だった僕は裏切られた気分だった、それからしばらくしていると、弟の引退が決まった、おまけに故郷につながる路線が大雨で流されたというのが耳に入った、「なんでこんなひどいことが立て続けに起こるんだよ!!」と僕はたくさん嘆いた、ただ嘆いただけだった、それいがいに何もできなかったからだ、僕は大牟田で朽ち果て何も考えなく保存されようと思う、弟は僕見たいにならないでほしいものだ
終わり
読んでくださりありがとうございます。今回は僕の好きなSL58654号機を陰で支えたお兄ちゃん的な存在である48696号機のお話でした。僕の妄想ですのでご了承願います。
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