紅いぼくと蒼いきみ
愛はその手で握るハンドルのように不確かで儚い。
車なごコレクションよりはちあく短編。
俺はどの口で「車なごに重い話は向かない」と言ったのだろうか。未完成につき前書き後書きはありません。
「もうすぐ着くよね?準備しといて」
監督はぼくという女が居ながら彼女とドライブデートだ。
監督のにやついた目付きが気に入らない。今すぐにでもその目を抉り取ってやりたい。思うだけでそんなことを実際にできるわけはなくて、ただ自分の歪んでぐらついた感情に辟易する。
ああ、忌々しい女の家だ。監督はぼくをおいて遠いところにいってしまった。
鍵をかけられた。ガチャッ、と無機質な音がぼくを縛った。あくまでぼくは監督の所有物にすぎないと再認識した。
諦めてはいたけれど、やっぱり納得できない。ぼくは、ぼくの好きな人と同じ場所には立てないのだ。近くにはいるけれど、次元の壁ともいえる見えない距離がぼくを支配している。ぼくがどれだけ手を伸ばしたって、どれだけ胸を押しつけたって、ぼくはその壁を越えることはできなかった。
「あなたはだぁれ?」
声がする。ああ、あの忌々しい女の車だ。女の邸宅のすぐ手前にくっついた、手入れの薄い古ぼけた庭のガレージで。屋根もなければ、床もがさがさで雑草がちらほら。
ぼくは女の車の隣に停められていた。監督にはなにも意図はないのだろうけど、今のぼくにとっては監督の一挙一動が当てつけに感じられた。
「話しかけないで、ぼくは今機嫌が悪いんだよ」
興味がないと言えば嘘だった。ぼくの隣に停められた蒼い車に、蒼い少女の像が映った。
「私はアクア。しーちゃんって呼んでね」
こいつ、人の話を聞いていない。顔をしかめてそっぽを向いた。
「ねえ、あなたの名前は?」
まっすぐで、それでいて無垢な瞳。ぼくは目を合わせられなかった。
「…86。トヨタ、86」
…ウザい奴だと思った。どうして質問に答えてしまったのか、ぼく自身理解していなかった。
それが一度目だった。秋の夜長、ぼくのおぼろげな心を嗤うように綺麗なおぼろ月の夜。
これは五度目、初冬の少し肌寒い日。まだマフラーは要らない、それぐらいの夜。
二度目から四度目は何もなかった。嘘かもしれないけど、本当。アクアちゃんが一方的に話しかけて、ぼくは相づちを打つだけ。
つまらないと言えば嘘だった。悔しいけど、楽しかった。
二度目、まだ辛かった。監督はぼくを見てくれていないことを何度も思い知らされた。
三度目、少し楽しくなった。こんな嫌な場所でも、アクアちゃんの話を聞くという目的が持てたから。
アクアちゃんとその監督…あの女との馴初めとか、私の知らないこの地域の色々なスポットとか。
四度目、今度はもやもやした感情が芽生えた。気づいたら、監督じゃなくてアクアちゃんのことばかり考えていたから。
ぼくが愛してるのは監督だけなのに、アクアちゃんはただの話し相手のはずなのに。
どうして、ぼくの心は、こんなにも簡単にうつろっているのだろう。自分が少し嫌いになった。
そして五度目、ぼくはぼく自身がよく分からなくなった。
「ねえ、アクアちゃん」
「ん、なになに?」
何気ない会話かもしれないけど、ぼくにとっては違う。
ぼくからアクアちゃんに話を振るのは初めて。今まではずっとアクアちゃんが先で、ぼくは後。それが暗黙の約束だった。…もっとも、アクアちゃんはそんなこと全く意識してはいないんだろうけど。
「アクアちゃんはさ…その、監督のことをどう思ってる…の?」
ぼくは何を訊いてるんだ。訊かなくたっていいはずなのに。
でももう後戻りできない。ぼくはぼくの中に巣食った迷いに抗えない。
「監督?私の監督なら…いい人だよ」
ふっ、とアクアちゃんの表情が曇った。真意はわからないけど、機嫌を損ねたことぐらいはぼくだって分かる。
他の車なごと話すことは慣れているはずなのに、震えが止まらない。声がでない。
怯えている?ぼくが?…アクアちゃんに嫌われることに、怯えている?
こんな震え、監督では感じたことがなかった。初めての感情に戸惑うしかなかった。
「ああ、ごめんね。その…いい人なんだけど、一緒に出掛けたことがあんまりなかったから。…私ちょっとナーバスになってたみたい」
隣同士に停まった車、アクアちゃんはぼくの隣に寄り添う。今までよりもずっと距離が近い。
アクアちゃんの吐息が頬と耳に届く。その息遣いが刻々と脈打って、ぼくの耳を伝わる。
アクアちゃんはひどい人だ。こんなことをされたら、ますます震えが止まらなくなるじゃないか。
怯えて震えてるんじゃあない。今は心臓の音が嫌なくらいうるさくて、手と心の震えが止まらない。
「ごめんね86ちゃん…代わりに、震えが止まるまでこうしててあげるから」
わざとやっているのか、それとも素でやっているのか。
ぼくは恥ずかしい音を聞かれたくない一心でこの場から逃げ出したいのに、アクアちゃんはさらに近づいてくる。
ぼくの右手にアクアちゃんの左手が重なる。優しく、ぼくの指にアクアちゃんの指をそっと絡めて握る。
外気にあたった冷たい手だったけれど、その奥にほんのかすかな温もりを感じた。震えとドキドキは止まらないけど、不思議と心が安らぐのが分かった。
「ぼく、ちょっとおかしいみたい」
「え、なんで?」
唐突なぼくの言葉にアクアちゃんの顔が大きく緩んだ。
「ぼくが…ぼくが愛してるのは監督だけなのに。アクアちゃんがいると胸がうるさくて…苦しい」
アクアちゃんの手を握り返す、強く、優しく。
ぼくの口からでた「苦しい」という言葉は、影が落ちてきたのと同時に、とてもぼくの心の腑に落ちていた。
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