トイレットペーパー折鶴
トイレットペーパーの折鶴というものがある
トイレットペーパーのロールから紙を切り取らず、鶴が折れるのである。
私は今、居酒屋のトイレに居る。
洋式の便座にゆっくりと腰を落とし、時間をかけて用を足しながらトイレットペーパーで鶴を折っている。
私は今日、定年を迎えた。
この会社に入社して35年、30年もの間、係長を務めてきた。
係長とはいっても、他人との接し方が不得手な私が、それでも年功序列に従いあてがわれた窓際係長だ。
私より後に入社したかつての新人は、今や部長となり、次期常務の噂も流れている。
しかし私は幸せだったのだろう。
中には鼻持ちならない者も居たが、おおよそ皆良い子たちばかりで、巷で耳にする社内いじめなんてものにも終ぞ縁が無かった。
件の部長となった後輩も、いまだこんな私を慕ってくれている。
しかし、皆との仲が良かったのかと言われると、自信を持って頷くことは出来ない。
私は不器用な人間だ、他人との接し方が分からない。
そんな私を、皆はどこか腫れ物に触るような、半ば空気のように気を使ってくれていたのだろう。
そんな幽霊のような日常も、今日で終わる。
私は遠慮したのだが、部長がプロジェクトの成功祝いも兼ねてと、居酒屋を貸しきりにして送別会を催してくれた。
気持ちは嬉しいのだが、私はこういった行事は正直苦手だ。
特に私が入社する前からのこの会社の伝統なのだが、参加した者は全員一発芸をしなくてはならない。
これがたまらなく辛い。
いつからか、私だけが一発芸をやらなくて良い事になっていた。
別に特例が出されたわけではないのだが、私に一発芸をやらせると、無駄に時間を食う上に不発に終わり場を白けさせてしまう。
そういう訳で、いつの間にか私には、一発芸の出番は回ってこなくなった。
たまらなく辛かった一発芸だが、いざ免除されると、何か嫌な特別扱いを受けているようで、それはそれで寂しかった。
我ながら我侭なものだと思う。
しかし、それも今日で最後だ。
せめて今日だけは一発芸を披露しよう。
人前では到底無理だが、ほんのささやかな驚きを残していこう。
そう思っていると、無意識に鶴を折る手に力が入る。
いけない、あまり力を入れすぎると折り紙よりも脆弱なトイレットペーパーは破れてしまう。
鶴を折る手は離さずに、私はゆっくり深呼吸した。
不意にコンッコンッと扉がノックされた。
しまった、時間を掛けすぎたか。
「係長、大丈夫ですか?」
部長の声だ、彼は私を置いてとっくに出世街道を歩んでいるのに、いまだに私に敬語を使ってくれる。良く出来た男だ。
「ああ、すまんね、もう少しで出るよ。」
「いえ、大丈夫なのですが、係長がなかなかトイレから戻られないので、体調でも悪いのかと。」
「ああ、大丈夫だよ、もう少しで出るから。」
そうですか、と言って部長は席に戻ったようだ。
もうあまり時間が無い。
もう少しで鶴は完成する。
長年一発芸から退いていた私が、いつの日かやろうと思っていた最初で最後の隠し芸が。
この鶴は誰が見つけてくれるのだろうか。
どんな反応をするのだろうか。
他の人に知らせてくれるのだろうか。
そのとき私は、私がやったのだとちゃんと言えるのだろうか。
どんなに頑張ろうとも所詮折鶴だ。
どんなに珍しかろうとも所詮トイレットペーパーだ。
今日の内に下水の中を汚水にまみれて漂う運命だろう。
それでも、この鶴が発見された後の反応を思うと、期待と不安で自然と頬が緩む。
出来た!完成だ!!
何度も練習してきた甲斐があって、なかなかの出来栄えだ。
長年の感謝を込めた鶴の無事完成に、私は静かに目を瞑りゆっくりと深呼吸をした。
さて、そろそろ席に戻るとしよう。
用足しはとっくに終わっている。
そして尻を拭こうとトイレットペーパーに手を伸ばし、私はそこで固まった。
そこには、私が満願の思いを込めて折った鶴。
尻が、拭けない・・・
トイレでトイレットペーパーを眺めながら10分で思いついた作品ですので、「くだらねぇ~ww」と思って頂ければ幸いです。
2016/07/21追記
今年の1月に投稿して全く読まれなったのに6月に入ってから何故か好評価を頂きまして本当に有難う御座います。
このSSへのコメント