モバP「自由への逃走」
地の文多
中二病
読んでいただければ幸いです。
アパートの一室で目を覚ます。
頬につくフローリングが冷たくて、軋む身体をゆっくりと起こす。
どうやらベットには辿り着けず玄関で倒れこむように寝てしまったようだ。
覚醒しきらない頭で部屋の中を見渡す。
全く生活感のない部屋。
あるのはベットと録画機能のついたテレビだけで、クローゼットには同じ色のスーツだけが並んでいる。
備え付けのキッチンには調理器具はおろか冷蔵庫さえない。
越してきてから今日までここに何度帰ってきただろうか。
おそらく数えるのには片手で足りるだろう。
壁に手をついてフラフラと立ち上がる。
ゆっくりと立ったのに眩暈がして、頭は前に落ちていきそうになり支えるため顔を抑えた。
今の俺はきっと酷い顔をしてるんだろうな。
鏡を確認せずともわかって嘲笑が漏れる。
眩暈から立ち直り、目を開けると焦点の合わない視界に無機質な部屋だけが映る。
ああ、もうどうでもいい。
ふと、そんな感情に支配された。
ポケットをまさぐりながら、壁伝いにベットへ向かう。
携帯を二台取り出し放り投げて、代わりに枕元に置いてあった給与袋から紙幣を3枚引き抜いてポケットに突っ込む。
それと、隣のビニール袋の中身も。
先ほどよりかまともになった足取りで玄関に戻り、革靴を履く。
外に出ると太陽は中天に昇っていて眩しく思わず目を細めた。
明るさに目が慣れないまま階段を降りていく。
玄関に鍵はかけないままだった。
駅近と宣伝されている道を倍の時間歩いて、やっと駅にたどり着く。
昼過ぎという時間もあって、駅前にも人は疎らだった。
券売機に近づいていって、ICカードを差し込みポケットの札のうち2枚分をチャージして改札を抜けた。
真新しい電光掲示板には、上下線の運行情報が表示されている。
迷わずに下りのホームに向かう。
人が多いところには行きたくなかった。
電車を待っているのは自分だけで、他には退屈そうに掃き掃除をしている駅員が1人。
聞こえるのは小鳥のさえずりと規則正しい箒の音。
およそ駅舎という場所には似つかわしくない静寂がこの場を包み込んでいた。
あぁ、ここでもいいかもしれない。
漠然とそう思う。
一歩踏み出す。
点字ブロックを踏んだ感触がする。
もう一歩踏み出す。
ホームの淵から足の半分がはみ出している。
そしてもう一歩。
完全に宙に浮いた足を文字通り踏みとどまらせたのはせわしなく車輪が線路を叩く音だった。
金属同士が擦れ合う耳障りな音が駆け込んでくる。
半歩下がって停車するのを待つと、鉄の箱が一緒に連れてきた風でただでさえボサボサの髪がさらに乱れた。
空気の抜ける音とともにドアが開く。
乗った車両の乗客は俺を含めて3人。
まぁ、この時間帯なら妥当なところだろう。
長い座席の真ん中に座る。
窓枠に切り取られて見える反対側のホームは出来の悪い絵画のようだ。
間抜けな音楽とともにドアが閉まりゆっくりと電車が動き出す。
段々と加速していく電車の振動が心地よく、先程は耳障りだった音が眠気を運んできた。
今までの疲れを吐き出すかのように全身から力が抜けていく。
重い瞼は重力に従って落ちていき、同時に意識も微睡みに落ちていった。
下車したのは知らない駅だった。
適当に3本の電車を乗り継いで辿りついたのは名前が綺麗な海辺の町。
一度も来たことがないはずのこの寂れた町は何故だか懐かしさを感じさせた。
駅前のコンビニに寄ってから、町の中をフラフラと歩いていく。
この町に俺を知っている人間は誰もいない。
潮風に脆くなった家の間をすり抜けていく。
路地を抜けていく風は潮の匂いがして手に持ったビニール袋をカサカサと揺らした。
周りの家から漏れ出る生活の音がどこか遠い世界の出来事に感じられる。
陽が落ちてきて辺りが赤く染まりそこかしこから子供達が元気にただいまという声が聞こえる。
家族の笑い声。幸せな家庭。当たり前の日常。
どうやら俺はそういったものから決定的に切り離されてしまったみたいだ。
あてもなくただ潮の香りがするほうへ歩いていく。
あてはない。だが目的はある。目的だけはある。
故にこれは逃避ではなく逃走だ。
しがらみから抜け出るための、解放へ向かうための飛翔。
自由への逃走なのだ。
陽が沈み周囲が闇に包まれたころ小さな浜辺に出た。
踏みしめられた砂の音と打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
夜空に月は無く、かといって雲に翳っている訳でもない。
無数の星がそれぞれ思うままに瞬いている。
いい夜だ。
星々を見上げながらその場に腰を下ろす。
スーツに砂が付くのはわかっていたが、今更気にすることでもない。
僅かに届いている星の光だけを頼りに傍らに置いたビニール袋から安っぽいたまごサンドとペットボトルの水を取り出す。
包装紙を開けて2つあるうちの1つを取り出し口へ運ぶ。
一口囓って飲み込むうちに口の中の水分は奪われ、舌は濃いマヨネーズと胡椒の味に蹂躙された。
いつも通りのいつもと変わらない味だ。
俺はコンビニが嫌いじゃない。
間違いなく人がいるのに無機質で画一的でこの世で最も世俗的な神聖さを持っている。
そんな風に思う。
だから俺も儀式のように同じことを繰り返す。
毎回買うのは水とたまごサンド。
1つ目を食べ切って口の中を水で潤す。
もう1つには手をつけず包装紙に包んだままビニール袋の中に戻す。
2つ目を残すようになったのは一体いつからだったか。
家から持ってきたPTPシートをポケットから取り出し錠剤を3つ押し出す。
口に含んだそれを水で流し込み、中身を半分ほど減らして役目を終えたペットボトルをビニール袋の中に戻した。
持ち手を結んだビニール袋を置いたままゆっくりと立ち上がる。
飲んだのは以前処方された強力な睡眠薬だが効いてくるまでは少し時間がありそうで、足元はまだしっかりしていてふらつかなかった。
ちょっと前までは眠れなくて病院に通ってたのに今じゃ眠れない方がありがたいなんて。
我ながらとんだお笑い種だと思う。
でも今は嘲笑も出ない。
音を頼りに波打際まで歩いていく。
歩くうちに効き目を現し始めた睡眠薬が俺の身体中から力を奪っていく。
まともに握りこぶしを作れなくなったくらいで波が革靴を濡らした。
霞がかかったような頭で波を掻き分けていく。
進めば進むほど抵抗が増していく。
瞼が重くなってきた。
もはやどれほど沖にやって来たのかもわからず、首まで海に浸かった。
あらゆる感覚が鈍くなり、もはや自分が前進しているのか後退しているのかもわからない。
もうそろそろ限界か…
頭上に広がる高い空を目に焼き付けたのを最後に瞼の重さに抵抗するのをやめる。
意識が暗闇に落ちていく。
身体は水底に落ちていく。
遠く広がる満天の星空に一際輝く星を見つけた気がした。
結論から言えばスーツを着た男の水死体が揚がったというニュースが流れることはなかった。
最悪の目覚めだ。
喉に強烈な痛みを感じて海水を吐きだし咳き込む。
ずぶ濡れの衣服の気持ち悪さが生の実感をもたらす。
あぁ、また失敗した。
打ち揚げられた砂浜はたぶん出たところと同じだろう。
軋む身体に鞭を打って上体を起き上がらせる。
大きく深呼吸をして乱れた息を整える。
霞む目は瞑ったまま隣にいるはずの彼女に声をかけた。
「ありがとな。加蓮。おかげでまた死ぞこなえた」
加蓮は答える。
「いいんだよ。Pさん。いつものことだから」
隣に腰を下ろした加蓮は続ける。
「たまごサンドご馳走さま。でも偶にはポテトもあるといいな」
「善処するよ」
「それ絶対実行しないやつじゃん」
不満を言う加蓮を笑顔で受け流す。
「で、今日は誰に手伝ってもらったんだ?芳乃か?」
「ううん。今日は茄子さん。芳乃は今日鳥取でロケでしょ」
「そういやそうだったな」
痛みが引いてきたことを確認してゆっくりと目を開ける。
辺りはまだ暗闇に包まれていた。
肌が触れ合いそうな距離にいるのに加蓮の顔がはっきり見えないほど暗い。
「…加蓮。今何時だ?」
「えっと…」
加蓮はポケットからスマホを取り出して時間を確認する。
淡い光に映し出された横顔はとても綺麗だ。
「ただいまの時刻は…午前2時42分」
大きなため息が漏れる。
「親御さんには?」
「奈緒のとこに泊まるって言ってある」
「明日…いや今日の仕事は?」
「2時半から雑誌のインタビュー、5時からダンスの合わせ」
そう宣言した加蓮は何故か得意顔だ。
「そうか…偉いな加蓮」
「そうでしょ〜」
頭を差し出してきた加蓮の意図を察して、手に付いた砂を払い撫でてやる。
表情こそ見えないがどこか満足そうだ。
一通り撫で終えた後荒っぽく髪型を崩して立ち上がる。
未成年をあんまり遅くまで外出させとくわけにはいかないしな。
動くことによって濡れた衣類の気持ち悪さを再認しながら今更なことを思った。
「加蓮、携帯貸してくれ」
俺が考えていることを察したのか加蓮から不満の声が上がる。
「もうちょっとゆっくりしようよ。折角星がこんなに綺麗なんだからさ」
「アイドルを遅くまで夜更かしさせとくのは美容とかに悪いだろ。それにこのびしょ濡れスーツから着替えたいんだよ」
「そう言うと思って…ほら」
加蓮が投げて寄越したトートバッグを受け止める。
「バスタオルと着替え持ってきたの」
中を改めるとバスタオルに長袖のTシャツとジーンズ、靴下に下着まで入っていた。
またため息が漏れる。
「だから…ね?いいでしょ?」
この攻撃には…弱い。
せめてもの抵抗を示すためにぶっきらぼうに言ってやる。
「着替えてくるからちょっと待ってろ」
「手伝ってあげよっか」
小悪魔のようにいたずらめいた口調で加蓮は言うが二度目の攻撃には動じない。
奈緒をいじる時と同じ顔をしているのは見なくてもわかる。
やられっぱなしも癪なので反撃してやることにする。
「それじゃあ頼むよ。じっくりとさ」
「え!?ほ、本気で言ってるの?」
いい反応だ。
上ずった声が可愛らしい。
「冗談だよ」
それだけ言って加蓮から離れる。
スーツを脱ぐと途端に体が軽くなった気がした。
バスタオルで手早く体を拭いて、用意してもらった服に着替える。
黒を基調とした上下に赤を差したそのコーディネートは流行りではないがスマートな印象を与えるだろう。
さすが加蓮だと舌を巻く。
男物のファッションセンスも抜群のようだ。
脱いだスーツはバックに入れて加蓮のところに戻ると体育座りの姿勢で星を見上げていた。
黙って隣に腰を下ろす。
俺も星を見上げると、肩に少しの重みがかかって頭を預けられたことがわかる。
触れ合った部分から鼓動が伝わってくる。
お互いに何も言わないまま時間だけが過ぎていく。
ふと投げ出した右手が柔らかい感触に包まれた。
細い指が絡められ、手のひらが重なる。
強い衝動に駆られる。
このまま握り返したいと心の底からそう思う。
でも、そうしてしまったら…
ここに幸せを感じてしまったら…
俺は今度こそ本当に死ななきゃいけなくなる。
理由を持って死ななきゃいけなくなる。
明確な殺意を持ったらそれは自殺じゃなく殺人だ。
それだけはご免だ。
だから俺はこの優しい手をそっと解いた。
同時に肩にかかっていた重みが消え、加蓮は立ち上がって大きく伸びをする。
「満足したか?」
「うん、もうそろそろ帰ろっか」
「そうだな」
俺も立ち上がって服についた砂をはらう。
ずっと上を見ていたせいか首が痛い。
試しに回してみると骨が軋む音がした。
隣に立っている加蓮はスマホを耳に当てている。
通話の相手はちひろさんだろう。
あの人にはいつまでも頭が上がらない。
上げる気もないけど。
「…それじゃ、お願いします」
「ちひろさんなんだって?」
「10分後にはお迎えが来るって」
「そうか、さすがちひろさんだな」
「だからね…」
そう言って加蓮は左手を差し出してくる。
「これくらいならいいでしょ?」
そして気づく。
あれは確認だったのだろう。
俺と加蓮がどこまで近づけるかの。
俺が頷いて手をとると加蓮は海岸線沿いに歩き出す。
二人並んで歩く砂浜は永遠を感じさせるほど遥かまで続いているようで、握った手を強く握りなおした。
「なぁ、加蓮…」
「なに?」
口から出ようとしているのは酷く利己的な願いだ。
「俺が加蓮をトップアイドルにできてさ」
繋いだ手を離したくないと思ってしまったからこその願い。
「その時が来たら…」
俺という歪んだ人間に残されたたった一つの願い。
「俺を殺してくれないか」
加蓮の足が止まる。
繋いだ右手が痛いほどに握られた。
俯いたその表情は読めないが、右手から伝わる震えに加蓮の存在を強く感じる。
無限に引き延ばされた一瞬が過ぎる。
いつも間にか震えは止まり、顔を上げた加蓮は俺を見据えていた。
「…約束するよ。北条加蓮がトップアイドルになったら、その時は私が…ううん、アタシが貴方を殺してあげる」
言い放った加蓮の表情は慈愛と覚悟に満ちていたのだと思う。
「…ありがとう」
俺はそう返すことしかできず、溢れる涙は落ちるままにして星を見上げた。
波の音に混じって車のエンジン音が聞こえる。
どうやら迎えが来たようだ。
「じゃあ、行こっか」
「そうだな」
手を繋いだまま、星に照らされた道を歩き出す。
二人とも足取りは軽い。
夜空で一際輝く星も見間違いではなかったようだ。
こうして俺の八度目の自殺も未遂に終わり、そしてきっと最後の自殺が始まった。
Oh ‥