ごめんなさいとありがとう
男性恐怖症を克服しようとする五十嵐カエデが取った荒療治。生徒会副会長の家に泊まりに行くのは、病の治療のためか、それとも別の目的か?
かれこれss書くのは10年ぶりです。久しぶりに文章を書きたい欲求にかられたので、書いてみます。
久しぶり過ぎて、元々ない文章力が壊滅的になっているのでご注意下さい。
当該作品とキャラに対するわたくしなりの愛情を込めておりますが、愛情が足りないと指摘される方はご教授頂けると幸いです。
後学のためにも、先ずは書き上げて、批難に足るssにしていきたいと思います。
『私は、本気で男性恐怖症を克服したいんです!』
『俺でできることなら、何でも協力しますよ』
その言葉が、後に安請合いであったと後悔するのは、津田タカトシにとってはまだ先の話である。
時節は五月。世に言うゴールデンウィークだった。普段は仕事に勤めるサラリーマンも、学業を勉める学生も、このときばかりは暫しのお休み。日頃の疲れを癒し、連休明けの業務や学業に備えるのだ。
その年は曜日巡りが良く、ゴールデンウィークは九日間。旅行に出掛けるにも良し、家で疲れを取るのも充分過ぎるほどの時間があった。
にも関わらず、津田タカトシの表情は冴えない。
桜才学園の副会長である身。たとえ周囲が大型連休の直中であれ、普段はできない作業のため学校に赴いたり。なにもない日でも、下ネタとボケのオンパレードである先輩方に連れ回されるなど、疲労は蓄積されていった。
皆のことは嫌いではない。むしろ尊敬している。それは津田の偽りならぬ本心だった。とはいえ、毎日毎日振り回されているのもどうか。
世の男子が嫉妬で歯噛みする状況でありながら、津田は心底、休息を欲していた。
今日と明日は、津田にとり念願の予定のまったくない日。ゴールデンウィークの最後の二日間。妹のコトミは親友のもとに泊まりに行くと出掛けていって、家にはただ一人という状況だ。
「じゃあタカ兄、トッキーのところに泊まりに行ってくるね。明日の昼には帰ってくるけど。誰か連れ込むなら今のうちだよ」
「誰も連れ込まないから、さっさと行け。時さん待ってるだろ?」
「おっとそうだった。じゃあタカ兄、また明日ねー!」
眠い瞼をさすりながら、妹を見送る。ゴールデンウィークも終わりなのに呑気なことだ。津田はそう思いながら、自分の部屋に戻っていく。もう邪魔は何一つない。彼の両親は毎度の出張で不在だし、生徒会の仕事もなければ、誰のお誘いもない。
日頃突っ込みで疲れた心身を休ませるには、絶好の機会だ。
津田は妹を見送ったあと、ひとつ欠伸をし自身の部屋に戻る。まず今日は、ゆっくりと惰眠を貪らなければ……。
『from:五十嵐カエデ
to:津田タカトシ
本文:風紀委員の五十嵐です。アドレスは友人から聞きました。
なかなか時間が取れなかったのですが、かねてより依頼の、男性恐怖症を克服したいというお願いを聞いてもらいたくてメールしています。
津田くんは今日は暇でしょうか? 暇なら、これから津田くんのおうちにお邪魔したいと思います』
昼前に、メールの受信を伝える振動が携帯電話にあった。しかしそのときには、津田は深い眠りの中にあったのだ。
時刻は夕方の五時を回ったところ。津田は微睡みから覚め、枕元の時計を見ようとしたそのとき。
不意に、来客を告げるチャイムが鳴った。
誰だろう?
津田はまだ眠い瞼をさすりながら、携帯電話の確認もせず、玄関へと向かう。眠りから覚めたばかり、深慮もなく玄関のドアを開けた先には。ひどく赤面した、五十嵐カエデの姿があった。
「……あれ、五十嵐さん。どうかしましたか?」
「もう!津田くんはメールの確認してくれていないんですか?」
「……ああ、すいません。つい今まで寝ていたもので。
メールくれていたんですね。確認していなくてすいません……で、五十嵐さんがわざわざうちに来るのは、どういったご用件で?」
津田がそう言った途端。五十嵐の顔はさらに紅潮を増していく。それは男性恐怖症とか、羞恥とかではなく、怒りに似た感情によるものだった。彼女も、津田副会長が朴念仁であるという噂が、真実だったと思い知ったのである。
「津田くんは本当に噂通りなのね! とにかく、折角ここまで来たんだから、迷惑でも津田くんのおうちに上がらせていただきます! 津田くんはメールの確認をしてきて下さい!」
もし仮に、この二人がもっと親密な関係であったら、五十嵐は怒りのあまり罵声を重ねて自分の家に帰ってしまっていただろう。
幸いだったのは、二人が『まだ』親密な関係でなかったことと、五十嵐が並々ならぬ覚悟を決めてここまでやって来たことだ。
「はい、すいません! すぐにメールを確認します。その間、リビングで待っていて下さい」
条件反射か。寝ぼけ眼も瞬時に消えて、風紀委員長を容易く家に上げる生徒会副会長。
ほんの数分後には、冒頭の通り、自身の言葉を後悔することになるのだが。
事情はわかった。理解した。携帯電話のメールを見て、五十嵐カエデがここまで来た経緯は把握した。津田タカトシはそこまで愚かな人間ではない。
ただ、理解したとはいえ納得はいかなかった。なぜ――
「男性恐怖症を克服するために、今日は津田くんのおうちにお泊まりさせていただきます」
顔見知りではあれ、特別親しいとは言い切れない、五十嵐カエデがそんなことを言うのか。
「だってほら、他の男子は全然話もできないし、信用できないし。津田くんなら、もうある程度慣れていて……信用している。というか、万が一のことがあったら、津田くんもただではすまないでしょ? だから」
話を聞きながら、津田は思い浮かべる。その『万が一』のことがあれば、
五十嵐をオカズではなく主食で頂いてしまったのか!という生徒会会長の姿。
不純異性交遊です!と烈火のごとく激怒する生徒会会計の姿。
あらあらうふふ、後で感想聞かせてね。とほくそ笑む生徒会書記の姿。
それらの姿を想像し、津田はぶるりと震える。
――実際には、そんな想像の遥か上を行く修羅場が待っているだろうが――
異性間の交際を認めない校則からいっても、厳罰は免れまい。『万が一』を起こす度胸など、津田タカトシには微塵もなかった。
「それに、言ってくれたよね? 何でも協力してくれるって」
結局、五十嵐の最後の言葉が決め手となった。男に二言はない。津田が安請合いを後悔したのは、そのときだった。
「……分かりました。とにかくまずは、お茶でも飲んで落ち着いて下さい」
お茶は昂った精神を静め、安らぎをくれる。茶菓子には母が買い置きしていた餡入りの饅頭だ。少しでも心が和らいで、この状況はまずいと我に帰り、退散頂けるのが最善の道だった。
「ありがとう……やっぱり津田くんは気が利くのね。緊張しているときにはお茶が良いから」
ああ逆効果だ。何となしに津田は思う。
「大したものではありませんけどね」
「でも、私も緊張していたから。心遣いが感じられます」
本人の意識していないところで好感度が上がっていく。それはいつものことだ。ただ、彼が朴念仁であることを良しとしないものが、彼の周りに一体どれだけいるだろうか?
津田はひとまず、あはは、と軽い笑いを相槌とする。
「特におもてなしはできませんけど。俺なんかで五十嵐さんの男性恐怖症が治るなら安いものです。
なんなりとお申し付けください」
大袈裟に頭を下げる様は、後ろめたい気持ちのない、彼の本心を表している――五十嵐はそう思った。
彼女はどちらかと言えば、相手に強く出られれば感化され易い性格だった。だが話の相手は平伏し、協力してくれるという。
なんと素晴らしい後輩を持ったことか!
内心秘かな感動を抑えつつ、
「そんなに畏まらなくていいのよ。私はただ、男子の家に泊まっても何も起こらなかった。間違いはなかった、ていう自信が欲しいだけなんだもの」
そう言った。
男性は常にいやらしいことを想像し、いかがわしい行動に出て、世の中の女性を不幸にする。そんな五十嵐カエデの先入観を覆してくれるのなら、男性恐怖症も克服できるだろう。
津田タカトシへの信頼は、さらに増していくのだった。
(あれ?五十嵐さん、落ち着いたって言ってたのに帰る気配がないな)
対する男子は全く違うことを思う。
どう考えたところで、年若い女性が、たとえ顔見知りでいくらかの信頼をされているとはいえ、お泊まりなんてNGだ。それこそ風紀が乱れていると言われても釈明のしようもない。
「……そういえば、大丈夫ですか?
大義名分があるとはいえ、もしこのことが他人に知られれば、風紀的に問題ですよね?」
このまま帰ってくれないかなー、と思うのは、日頃の疲れを癒したいという欲求も手伝っている。波風たてることなく、今日と明日の二日間は、眠りに就いていたい。
「わたしの男性恐怖症という病を治したいという理由に、風紀の乱れなんか関係ありません……男女二人だけで宿泊する、という単語にイコールで不純異性交遊を結びつけるのは、そう思う方もふしだらな考えを持っているわけで」
言いながら五十嵐の顔が紅くなっているのを、津田は見逃さない。
要は。男女が二人寄り添っているだけで不純とは想像が飛躍している。その二人は兄妹かもしれない。あるいは既に夫婦の仲かもしれない。そんな二人に対して『不純』など、あらぬ妄想が独り歩きした結果なのだ。
「……分かりました。五十嵐さんがそこまで言うなら。対したことはできませんけど、自分の家だと思ってリラックスして下さい」
津田はそう言う。五十嵐に帰ってもらうのは諦めて、ここまでくれば少しでも緊張を解してもらいたいからだ。
「あ、ありがとう。津田くん」
ただ。こちらは割り切って協力しようというのに。何も間違いは起こらないと示しているのに。
そんな、顔を真っ赤にして感謝をされるのは、反則ではなかろうか。
いや、それが感謝なのか件の症状なのかは別として。津田は顔中を紅潮させながら俯いている姿を見て、そう思っていた。
……。
………。
暫しの沈黙の後。
「あ、すいません」
津田の腹の虫が鳴った。
朝、妹のコトミを見送ったものの、食事を採らずにそのまま寝てしまっていた。夕方の今まで食べ物を口にしていなかったのだから、空腹はある程度当然である。
「あはは、もう津田くんたら」
沈黙を破ったのは腹の虫の音だった。それまで緊張の面持ちだった五十嵐は、一気に破顔微笑した。
「いや、朝から何も食べていなかったので……」
顔を赤らめるのは、今度は津田の番だった。釈明の言葉も、虚しく空を切る。
それを見ながら、五十嵐はくすりと笑いながら立ち上がる。
「今日お世話になるお礼に、何か作りましょうか」
「悪いですよ。お客さんにそんなこと」
「気にしないの。お台所はどこかしら」
五十嵐は気まずい空気が和らいだのを感じたか、そう切りだし部屋をぐるりと見回す。よくよく見れば、突然押し掛けた割には掃除がされていて、綺麗なリビングだ。両親が長期の出張で留守になることが多いと聞くが、案外しっかりとしていて几帳面な性格なのかもしれない。
「……じゃあ、お世話になります。
台所はこっちです」
津田は観念したか。五十嵐に続いて立ち上がり、彼女を案内する。
――彼の表情には、折角の惰眠と休息を絶ちきられた諦めの色が見てとれる。とはいえ仕方がない、協力するといった手前、無下にするわけにもいかぬ。食事についても、空腹は事実なのだから、作ってくれるのなら頂いてしまおう。津田はそう考えながら、台所まで案内していた。
ーー対する五十嵐はどうであったか。津田の後で、今なお紅い顔をし俯いているのは、男性恐怖症の影響か。はたまた緊張のせいか。それとも?
津田タカトシは気付かない。もしここに第三者がいたとしたら、そんな二人を見てなんと言うか。
『なんだ、五十嵐はもう男性恐怖症は治ったのか』
きっと、その一言に違いない。
時間にして一時間ほどか。
外は暗くなり始め、周りの家には灯りがつく。春とはいえまだ肌寒い風が窓を叩き、夜の到来を告げる。
津田は他の連中が宿泊したときのように、五十嵐の後に立って、料理の様子を観察しようとした。それを遮ったのは『ずっとそばにいられるのは恥ずかしいから、津田くんはテレビでも見ていて』という言葉だった。
だからいま、津田はリビングで、夕食が出来るのを待っている。
いまの時間帯はまだニュース番組がメインであって、ゴールデンタイムにはまだ早い。コマーシャルに入る度にチャンネルを切り替えて、ころころと違う番組を眺めては、台所を気にしていた。
……そんなに手間隙かけて調理をするような材料はそもそもない。さきほどは何も言わなかったが、冷蔵庫と戸棚に入っている材料を見れば、おおよそ出来上がるのはカレーかシチューだろう。和風であれば肉じゃがか。どれも煮込み料理であるにしても、やや時間がかかってはいないだろうか。
「五十嵐さん、やっぱり何か手伝いましょうか?」
杞憂ではあれ、念のために台所を覗きに行く。その入口からは、馴染みの深い、カレーのいい匂いが漂ってきた。
「え、あ、ああ! 大丈夫! もうできるから、タカトシくんは向こうでゆっくりしていて」
突然出てきた津田に焦るように返事をする。それと同時に、何かを咄嗟に食器入れの棚に仕舞ったのを、彼は見逃さなかった。
「なにかありました?」
「なんでもないの! 待たせてごめんなさい。本当にもうすぐだから、もうちょっと待っていてね」
みるみるうちに、彼女の表情は紅潮していく。まるで病気のような――ああ、病気だからか。
津田はそんな呑気なことを考えながら、あはは、と笑ってリビングに戻っていく。
ちらりと見えた鍋からは、ごろごろ具材の、よく煮込まれていそうなカレーの姿が見えた。以前にも、お騒がせな連中がカレーを作っていった記憶があるが、それと同等に、美味しそうな予感がある。
津田は鳴り止まぬ腹の虫をぐっと抑えながら、もう暫しの我慢と言い聞かせ、もといたテレビの前に戻っていった。
その姿を見送りながら、五十嵐は、先程慌てて閉めた食器棚を開ける。そして、ひとつのスプーンを取り出して、じっと見つめるのだ。
それは、他のものと比べて一段と古い。持ち手が青色で、おそらく、津田がまだ幼い頃に使っていたものだろう。そんな代物が、まだこの台所には残っていた。
「美味しく、できたかな」
ちらりと腕時計を見、そういえば朝から何も食べていないという津田を思う。そうして、スプーンを棚にそっと仕舞いこんでから、大皿を手に取り、ご飯を盛り付ける。津田は大変な空腹だろうから、と多目に炊いたご飯。レストランのように見映えよく盛り付け、カレーを注ぐ。仕上げにはとろけるチーズをトッピングして完成だ。
じっくり時間をかけて煮込んだ。何度も味見した。空腹は最大の調味料だ。
にも関わらず五十嵐が少しでも不安を持つのは何故であろう。
「お待たせしました」
そう言いながら、二つの大皿を持ちリビングに向かう。相変わらず顔は紅潮を隠しきれない。
ーー食器入れの奥にあったスプーンには、汚い文字で『タカトシ』と書かれていた。
「すごく美味しいよ、五十嵐さん」
「ありがとう津田くん。でも、食材を勝手に使ってしまって……」
「ああ、だからさっき、悩んでいたんですか? 大丈夫ですよ、五十嵐さんに美味しくしてもらった方が、食材たちも喜びますって」
勢いのあまり夕食を作ったのはいいが、考えるまでもなく、全て人様の家のもの。鶏肉も、カレールーも、にんじんもジャガイモも玉ねぎも。五十嵐も途中で、本当に使ってよかったのか、と不安に駆られたのは言うまでもない。
このときのカレーは、玉ねぎのみじん切りをしっかりあめ色になるまで炒めたのちに、鶏肉を加え軽く火を通し。大きめにカットしたにんじんを入れて煮込み始めた。ジャガイモはこの時点で入れると煮崩れするから、後にする。ブイヨンをひとつ加え、沸騰したらアクを丁寧に取っていく。ジャガイモとマッシュルームの水煮を入れる。ジャガイモに火が通ったら、火を止めてカレールーを溶かす。それからまた弱火で煮込み、最後にホウレン草だ。
オーソドックスで、ルーを使った家庭的なものではあるが。津田にとってはこれ以上ないご馳走だった。
「今度、使った分のお金は払うから」
「いやいやいや、お金を払うなら、こっちの方ですから。お店で出せますよこれ」
彼の言葉と表情には、嘘偽りは微塵もない。次々と口に運ばれ皿から消えていくカレーライスの様子を見ても、津田に取り大変な美味であった。
それなら良いんだけど、と、またしても俯く五十嵐。ただそれは緊張ではなく、嬉しさと気恥ずかしさが混合したものだ。満足がいったようで良かった、という安心感もあるようだ。
食事の後で、津田の煎れたコーヒーを飲みながら、五十嵐は何気なくテレビのモニターを見る。
食べ終わった食器の片付けをしようとしたら、それは津田に止められてしまった。曰く、『これ以上、五十嵐さんにしてもらうわけにはいきません。洗い物は俺がするので、今度は五十嵐さんがゆっくりしていて下さい』だそうだ。
今度は津田があまりに強情で譲らなかったので、折れてリビングで寛いでいる。というのがいまの状況。とはいえ、始めて訪れる男子の家、リラックスと程遠い。
「……なんであんなに、普通なのかな」
むしろ五十嵐にとって、不満と疑問とが、リラックスできない第一の要因であった。
彼が普段から、男女分け隔てなく接し、秘かであるがみなに人気があるのは知っている。
度々生徒会役員の間で旅行や宿泊をしているのも知っている。
だからこういう状況にある程度以上の免疫があることも、ここに来る前から、重々承知していたのだ。
ただそれらを踏まえながらも、目前のあまりにいつも通りな姿に、もやもやとした憤りを覚える。その感情の正体を、五十嵐カエデは知っているのか?
「お待たせしました、五十嵐さん。なにか面白いテレビやってます?」
いきなりの津田の登場に、わあ! と声を出してしまう。津田は自分では十分に距離を取って話しかけたつもりだった。
「その反応は傷つくなー」
だからそんな言葉が出ても、なんの非もない。五十嵐が慌てて、考え事をしていて、と取り繕っても、それは後の祭だった。
もちろん津田も本当に傷ついたわけではない。あくまで冗談である。だが二人の間に、再び無言の空気が流れるのも、また仕方のないことだった。
テレビではこんなときに限って、恋愛ドラマの放送があった。先輩の女子高生と後輩の男子生徒。彼女に振り回される彼氏、二人を巻き込む事件事案。幾多の艱難を乗り越え、より絆が深くなる彼氏と彼女。そんなべたべたな学園恋愛ドラマが、津田と五十嵐の前で繰り広げられていた。
見ながら、どちらもなにも言わず。
チャンネルを変えようともせず。
ただなんとなしに、二人はテレビの画面をじっと見ていたのだった。
「……タカトシくんは、恋愛に興味がありますか」
沈黙を破ったのは、五十嵐からの一言。
「ないと言えば嘘になりますけど、うちの学校では実現しないでしょう、こんなお話」
男女の交際を認めぬ校則は、ついこの間まで女子校だった所以だろう。校内においては自由な恋愛は規制され、度を過ぎると罰則の対象にもなる。
「それはそう、なんだけどね」
五十嵐の返事には、どこか歯切れの悪さがある。周囲からかねてより聞かされているフラグクラッシャーの異名。それが伊達ではない、ということを思い知らされているのだ。
勇気を振り絞って発した、目前の男子の名前。それは当該の人物の意に介することなく、宙に消えていった。
「五十嵐さんは……まあ、男性恐怖症を治してからですかね」
男性恐怖症の、しかも風紀委員長に、恋愛に興味がありますかと聞いても答えは分かりきったこと。途中まで出ていた言葉を飲み込んで、津田はまた愛想笑いをした。
「……私も、興味はあるのよ。ただ男の人が苦手なのもあるし、もちろん校則のこともあるし。今まで素敵な男性に巡り会えたこともなかったから」
「じゃあもしかして、今は素敵な男性に巡り会えたんですか?」
津田の問に他意はない。自然にそう思ったから口をついて出た質問だ。
それに対し、悩み多き乙女はなんと応えたか。
「……そう、よ」
それからの津田は饒舌であった。テレビはドラマも終わり、バラエティ番組に移行している。出演陣の、とりわけ男性の発言に対し、いちいちコメントを発していた。
「確かにここはそう言いますよね」
とか。
「あれは美味しそうですね」
とか。
「あ、でも、カレーは五十嵐さんの方が美味しそうですよ」
とか。
何かにつけて一言を付け加えていく。それは五十嵐に対して退屈をさせまいという思いと、少しでも男性に対して好印象を持ってもらいたいという気遣いからだ。
相対する五十嵐は、そうね。という何気ない相づちを打つに留まっている。
津田の内では、五十嵐には気になる男子がいて。男性恐怖症のためにお近づきになることができず。こうして害の無さそうな男子の家に泊まることにより、その男性との距離を縮めたい。ならば、協力をするべきだ。
そういう思いがあって、津田は積極的に話し掛ける。相手の反応が薄いのも知ったことか。とにかく今は、五十嵐とその意中の男のため、男性恐怖症の症状を緩めていかなければならない。
ああ、五十嵐カエデはなんと思いやりのある素敵な後輩を持ったことか。その胸中は、感謝と感激でいっぱいになっているはずだ。
だが何故だろう、どこか浮かない表情をしているのは。顔の紅潮は収まった。家に上がり込んできたとこのような緊張感もなくなった。もしかしたら、本当に男性恐怖症は治るのかもしれない。なのに、五十嵐カエデの表情が浮かないのは、その奥にどういった感情が隠れているからだろう。
「あ、もうこんな時間。五十嵐さんお風呂入りますよね? 俺、準備してきます」
言いながら津田は立ち上がる。五十嵐はほとんど無意識に自分の身体の臭いを嗅ぎながら、「そ、そうね。汗かいちゃったかしら」と答える。すんすんと鼻を動かす五十嵐の姿を見て、津田は再び笑みを漏らしながら、
「いえ、五十嵐さんはいい匂いですよ。リラックスしてもらうにはやっぱりお風呂かな、て。五十嵐さんは朝風呂派でした?」
「いえいえ、いつも夜に入ります。頂けるのなら、是非お願い」
答えながらなぜか紅潮していく頬。おそらく他意などないのだろうが、『いい匂い』という形容詞を始めてつけられて、戸惑い恥じらうのは当然だ。発言だけ聞けば変態のそれである。
五十嵐の返事を受けて、津田は笑みをひとつだけ返した。風呂場に赴き、さっとシャワーで汚れを洗い流してから、湯を張り始める。
タイマーをセットしてからリビングに戻ってきた津田は、相変わらず赤い顔をした五十嵐に
「五十嵐さんがお風呂入っているうちに、部屋の片付けしておきます。俺の部屋は流石に入れないと思うんで、妹のコトミの部屋で寝て下さいね」
と言った。
たださえ男性恐怖症を自負する五十嵐だ。俺の部屋で寝て下さい、なんて口に出しただけで意識を失うに違いない。最近立ち入ったことはないが、同性の妹の部屋の方が遥かにリラックスできるであろう。
津田の提案に、勿論そうね、などと返す五十嵐。顔の紅潮がやや収まり始めたのは安堵のためだろうか。それとも……。
風呂はすぐに沸いた。どこか間抜けなタイマーの音がリビングにも響き渡る。
「じゃあ、お風呂お借りするね。分かっていると思うけど、覗かないでよね」
分かっている、とはまた違う。そもそも朴念仁の津田にそんな発想はなかった。だから、勿論ですよ、なんて言いながら愛想笑いを浮かべるのも当然だった。
やや五十嵐は不満げに頬を膨らませながらも、立ち上がり風呂場へと向かう。脱衣場には既に新品と思われる真っ白のバスタオルが用意してあり、湯船も温かそうな湯気を立ち上らせていた。
湯船に浸かりながら、五十嵐はひとつため息を吐く。風呂桶から上がる湯気と一緒にため息は消えて、薄いベージュ色した風呂場には、湯の波打つ音だけが残る。
「なんであんなに普通なのかな」
その問いは先ほどもあった。答えは、津田がこういう状況にある程度の免疫がある、と出ているはずだ。それでもなお五十嵐が疑問を禁じ得ないのは、男性恐怖症に由縁しているのだろうか。
心のどこかでは、津田の間違いを恐れている。
男は狼だと教わった、おそらくは想像のなかにいる、朴念仁と称される彼も例外ではあるまい。
先輩後輩の間柄なれど、離れている歳はひとつ。ほぼ同年代の男女がひとつ屋根の下にあり、女の方は一糸纏わぬ姿で湯浴み中だ。なにか間違いがあったとして、なにか不思議はあるだろうか。
……風呂に浸かり始めて数十分。湯船にはおろか脱衣所にも変化はない。五十嵐のあらぬ想像と妄想とは、杞憂だった。
このままでは逆上せてしまう。
五十嵐は湯船を上がり、いつもより、念のため、身体を入念に洗ってから風呂場を出る。津田もこのあと入浴するのだろう。もう夜も更けた、明日は休みといえ、そろそろ眠くなっても仕方ない。
無意識にため息を吐きながら、五十嵐は服を着て、脱衣所を後にした。
「お風呂頂きました……あれ」
リビングに戻ると、そこにはなにやら疲れ悩んだ風な表情の津田が居た。頭を押さえながら、うんうんと唸っている。
「ああ、お帰りなさい。ゆっくりできましたか?」
彼女の存在に気付くと、パッと笑顔を取り繕う。それでも表情のあちらこちらに、焦燥の色が見てとれた。五十嵐は風紀委員長である。隠しごとなどすぐに疑い、洗い出してしまう。
「……なにかあったの?」
「え、いや、あの」
それはいつも学園でも見られる困り顔だ。本当に隠しごとがあるのだろうか。
「言いにくいこと?」
「……コトミの部屋、想像以上に汚くて。親の部屋を空けましたので、そっちを使って下さい」
隠しごとではなく、単に兄妹の話だった。
五十嵐は津田コトミの顔を思い浮かべる。確かに、普段の生活を見ても、お世辞にもきれい好きとは言えないだろう。ただ、
「突然押し掛けてごめんね。前もって言っていたら良かったよね……」
と、口をついて出たのはそんな言葉。本当に事前に宿泊の話を持ち出していたら、絶対に許可など下りなかったろうが、五十嵐は申し訳なく思う。
対して津田は首を振りながら、コトミには説教が必要だ、と言うに留まった。果たして彼が妹の部屋で何を見たのかは、想像だにできない。
「わ、わたしは別に。リビングでも、つ、つ、津田くんの部屋でも寝られるから!」
「いや、親の部屋は綺麗だったので、そちらでお願いします。俺の部屋でなんて嫌でしょう。俺も眠りにくいと思いますし」
五十嵐の決意の一言は空を切った。男性恐怖症を治したい、という言葉を信じ、頑なに意志を通していれば当然の発言だ。さりげなく津田自身の都合を交えるのも、五十嵐にとりそれ以上の発言を許さないものだった。
「……じゃあ、ありがたく使わせて頂きます」
「ええ、自分の家のように、というのは無理かもしれませんが、できるだけゆっくりしていて下さいね」
頬笑む彼の表情には、男性恐怖症を患う相手への気遣いがある。リラックスには程遠いだろう。ならば、少しでも緊張をほぐし、この家にいる時間を過ごしてもらいたいのだ。
「ありがとう、津田くん」
「いえいえ。じゃあ俺も風呂に入ってきます。親の寝室は二階に上がって右側の突き当たりです。あ、別にここで寛いでいてくれても良いですからね」
言いながら津田はテレビのリモコンを五十嵐へ差し出す。彼女はおそるおそる、という風にそれを受け取る。時刻は夜も深くなり始めた頃。品行方正、規則正しい生活を送る五十嵐には、この時間にやっているテレビ番組など知るよしもない。
「……うん。津田くんが上がるまではテレビでも観てるね」
けれども、そういう発言が口から出るのは何故だろう。
津田は充分に、男性恐怖症を持つ五十嵐に対し、男は(ひとにもよるだろうが)安全だと態度で示している。このまま何事も起こるはずもなく。さっさと親の部屋で寝てくれれば、一層間違いの起こる可能性は低くなるだろうに。
津田は逡巡ののち、これも五十嵐の、本当に病気を治したいという気持ちからきた言葉だと感じた。
男は信じられぬ。それが多少の信頼ある生徒会副会長でもまだ同じ。どうせ最後には、野獣と化してか弱き乙女を手込めにするのであろう。信頼させたつもりで、その腹の内は読めている――だからわざと相手に誤解を生ませかねない発言をして、こちらの様子を見ているのだ。
五十嵐も姿形はどうあれ意地が悪い。自分が試されているのだと感じたとき、津田はただ渇いた笑い声を上げた。
「あはは……そんなに観たいテレビあるんですか? 意外ですね。五十嵐さんはもっと早く寝ちゃうのかと勝手に思ってました」
「ふ、普段はそうだけど……明日も休みだし。それに、テスト期間中なら、わたしも結構遅くまで起きてるよ」
「ああ、考えてみれば俺もそうです。明日が休みだと思ったら、やっぱり夜更ししちゃいますよね。テスト勉強中だとすぐに寝ちゃいますけど」
言った途端に、五十嵐の批判めいた視線を感じる。ちょっとした冗談のつもりだったのだが、彼女はほとんど本気で、いつも成績の芳しくない津田を睨み付けるように見つめていた。
視線に冷ややかなものを感じた津田は、あはは……なんて、やはり渇いた笑いを上げながら風呂場へと消えていく。五十嵐はその姿をじっと見送った。
――リビングには静寂が訪れる。テレビの電源は、何故か消されていて。夜らしい無音な空間が、そこには広がっていた。
眠気は一切ない。仮にこの場に自分の親が居たとして、早く寝なさい、と言われても到底寝付けないだろう。
五十嵐の視線は、ふとリビングの壁掛け時計を見ていた。男性は女性に比べて風呂は早いらしい。津田はあとどのくらいでリビングに戻って来るのだろう――。
ここで彼と彼女を傍観するものとしては、二人の間の些かなすれ違いを見逃せない。
男性恐怖症を治してもらいたいと一心に願う津田。その前にあり、思春期の男子を惑わせるような、ともすれば勘違いをさせるような発言がある五十嵐。
津田は、男が安全で信頼に足る存在だと示すために。五十嵐の想う素敵な男性のために。半ば全男子を代表するかの如く、誠心誠意接して、彼女が散りばめる様々な罠をすり抜ける。なにも間違いがないのは当然、心底五十嵐のことを心配し、気遣う津田には、使命感にも似た感情が芽生えている。
さて。ここでひとつの疑問が沸き上がるのは当然ではなかろうか。二人を見守るひとがあるなら、必然的に出てくる疑問符。
五十嵐カエデが、あらゆる危険と隣り合わせになっても、振り向いて欲しい素敵な男性とは、一体誰なのだろう?
「あれ、五十嵐さん。テレビも見ないで起きていたんですか? 俺のことなんか気にせず、先に休んで良かったのに」
「……お帰りなさい、津田くん。なんだか、やっぱり緊張してるのかな。眠くならなくて」
――その緊張は、果たして病によるものなのか。
「まあ、そうですよね……俺は男ですし、実際、男性恐怖症なんてどういうものか分かりません」
すいません、と付け加えながら、風呂上がりの津田は続ける。
「精一杯、五十嵐さんをリラックスさせて、安心させようとしても、やっぱり無理でした――力になれず、申し訳ありません」
五十嵐の些細な一言に、妙に恐縮する津田である。それもそのはず、この時間で眠気のひとつもないのは、まだ男性を信用できていないから。津田を危険だと感じているから。ひとつ屋根の下にある男が先に寝てしまうまでは、全く安全でないと信じて疑わないから。
それもこれも、自身の力不足であると津田は考えていた。
「え……津田くんは関係ないわ、私の心の問題だもの」
津田の落ち込む様子を見て、慌てて取り繕う。それも時既に遅し。
「いや……五十嵐さん、やっぱり今日は自分の家に帰った方が良いですよ。俺なんかじゃ、五十嵐さんの役には立てません。
それに……五十嵐さんの想う素敵なひとが、病気の克服のためとはいえ、俺と二人で夜を過ごしたなんて知ったら、いい気持ちになるはずがないです」
夜も遅いしちゃんと送っていく。タクシー呼ぼうか料金は俺が出します。なんて後に続く言葉は、確実に五十嵐の身を案じたもの。そしてその瞳には、自分の力不足を責める、暗い色が映っていた。
ああ、違う。そうではない。津田に落ち度はひとつもない。落ち度かあるとすれば、こんな意地悪で我が儘な願い事を聞いてもらおうとした、自分自身にある。五十嵐はそう思い、咄嗟に口を開き、弁明しようとする。
だが、津田も妙なところで頑固なのか。信頼し尊敬する先輩の役に立てないと実感したがために、もう聞く耳を持たない。
本当に残念そうな視線を五十嵐に向けながら、すいません、と頭を下げるのだ。
「これからタクシー呼びますので、それで帰って下さい……次は、俺なんかより頼りになるところで、男性恐怖症を克服して下さいね」
その顔色の紅潮は、風呂上がりのためか、それとも自分に対する怒りのためか。
「ちょっと待って!」
半ば呆然と津田の言動を見守っていた五十嵐だったが。本当に携帯電話を手に取り、タクシー会社に電話しようとする姿に、最早いてもたってもいられなかった。
突然の大声に、携帯電話を手にしたまま固まり動きを封じられる津田。その天性の朴念仁の姿を前にしながら、五十嵐は続ける。近所迷惑など考えない。津田の迷惑を省みる余裕もない。あまりにも鈍感な彼に対する怒りのような感情が、彼女を突き動かしていて――でも。このタイミングを逃せば、きっと一生涯後悔するということは、冷静に判断できていた。
「私の素敵なひとは、津田くんなの!」
――そうだ。津田の気遣いなど、初めから意味はなかった。五十嵐の言葉の端々を広い集めるなら、明白な事実である。
五十嵐の恋い焦がれる男性とは津田で、もし万が一間違いが今夜あったとしても、『仕方がない』の一言で納得できるのは、津田以外にはなかった。
「えっと……五十嵐さん、それって?」
直前の発言に対する疑問はもちろんあった。男性恐怖症の克服を大義名分として津田家に宿泊をしているにも関わらず、実際には、津田タカトシと接近を目論んでいたのではないか?
「だから――私は津田くんが好きなの……帰れなんて、言わないで」
トマトを思わせるほど真っ赤になり、俯き、感情を少しでも隠そうとする姿。それにはあらゆる不安と羞恥とが入り雑じっていた。
彼女が患っていたのは、本当に男性恐怖症だったのだろうか? 否、先般の五十嵐の言葉を信じるならば、患っていたのは恋の病に他ならないのだ。
「……ありがとうございます。その気持ちは、素直に嬉しいです」
「つ、津田くん?」
「今日はもう寝ましょう。五十嵐さんは大分お疲れみたいですし。俺はもう、このままここで布団だけ敷いて寝ますから」
俺の部屋でも、両親の部屋でも、お好きなところで寝てくださいね。と、朴念仁は言った。それは好意を受け取ってもなお揺るがない、ある想いに由来している。
「じゃあ、私もここで寝ます!」
もはやどんな過ちや間違いが起ころうが、文句は出さない。風紀委員長の肩書きが大いに傷つけられても構うものか。想い人と一緒の夜を過ごすことは、五十嵐カエデにとって、何よりも有意義で、意味がある、幸福な時間に違いないのだから。
ただ、対する男子の思惑はどうか。五十嵐の言葉の一つ一つを咀嚼し、飲み込む。視線を色々な方向に巡らせては、うなり声を上げ、頭を抱えて悩んでいる様子である。
それもそのはず。日頃から好奇と好意の視線を受けながら、淡々と自身の業務をこなそうとする姿勢。それは単に、自分はモテない、と思い込むことにより成り立つ。生来より家族を除く他人に好かれるという感情に疎い津田は、いま五十嵐の直線的な感情をぶつけられて、なにを思うのか。
生まれて初めての、赤の他人から寄せられる好意に対して、どのような反応をすれば良いのか。それは人付き合いの練度はともかく、色恋沙汰に疎い性格では、分かるはずもない。
だから、津田タカトシという罪深き男は、
「そんなに言っても。五十嵐さんがどんなに演技が上手くても、騙されません……俺はあなたに、男もそう捨てたものではない、と認識してもらうために、泊まってもらうことにしたんですから」
と、非情な勘違いな発言をした。彼はこの期に及んでも、当初の目的を忘れない。きっと五十嵐の言葉は、張り巡らせた罠へと誘い込む甘い奸計。ここで勢いと欲情とに身を任せ、肌を重ねようとしたその瞬間。【ドッキリ】とか書かれた看板を出されるような古典的な展開があったら……五十嵐はもちろん、津田自身も立ち直ることが出来なくなるだろう。
だから。津田はそう言った。それを聞いた途端に、悩み多き恋患いの重病人は、声を上げて泣き始めた。
大粒の涙を流しながら、綺麗に整った顔立ちまでくしゃくしゃにして、ごめんなさい、と連呼する。
津田の勘違いは己のせい。男性恐怖症を楯にして意中のひとと結ばれようなど、誰かが許してくれようとも、神と津田は許さなかった。
仮に二人の仲を見届けようとするひとがあったとして、女を泣かせた男を叱りつけるだろうか――否、自業自得だと、五十嵐に哀れみの視線を向けるに違いない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
――騙していてごめんなさい、変なこと言って悩ませてしまってごめんなさい。謝るから、どうか、私を嫌いにならないで!――
涙で濡れる顔を隠そうとはしない。しかし津田の顔を直接見ることもできないまま、天井を見上げながら泣く。大層な近所迷惑だろう。でも、涙はいくら泣いても止まらない。止められない。嘘を吐いていた罪悪感と、津田の同衾を拒絶する言葉と、哀れすぎる自分自身の姿とを合わせれば、たとえ世界が涙で充たされても足りないのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
そんな姿に、津田は声を掛けない。何か五十嵐に気の利いた言葉を投げ掛けたなら、夜を切り裂くような泣き声も止まるかもしれない。
それでも何も言ってやらないのは何故か。
何故、泣き叫ぶ、普段は尊敬に値する先輩の惨めな姿を見ながら、何も言ってやらないのか――
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
無限に続くかと思われた時間にも、五十嵐カエデの泣き声にも、終わりは迫る。何分か、何十分かそうしていたか分からない。ただ段々と声は力を失い、涙は水源を枯らしていった。
「……俺、正直、誰か他人を好きになったことがないので、五十嵐さんの気持ちは解りません」
鳴き声が弱まるのを見計らって、津田は沈黙を破る。たとえ演技であろうが、罠であろうが、本心であろうが、伝えなければならないことがある。
「でも、五十嵐さんのそんな姿を見て、心の底から悲しくなります。胸のざわつきが収まりません。どうか笑顔を見せてと思います。こんな気持ちの正体は解りません……」
五十嵐はまだ泣きながら、どこかで津田の言葉を待つ。
「だから、どうか。五十嵐さんに、この気持ちの正体を教えて欲しいです」
それは色恋沙汰に疎すぎる、朴念仁らしい言葉。好きです愛しています、なんて嘘でも言えれば、この場は一端の静寂を取り戻すかもしれない。ただ、彼に取りそんな上っ面の言葉は考えられなかった。
「……ごめんなさい……」
最後の『ごめんなさい』は、何十回と発せられた同音単語の中で、最も心の奥底から出たものだった。
津田タカトシという人間は、恋愛という感覚に鈍いのではない。知らないのだ。
男であれば、そういう感情はしばしば性欲と直結して考えられやすい。ただ、彼にとっては別らしかった。
幼子のように泣きじゃくる姿を見て、性交に及ぼうという気が起こらないのは分かる。ただ奥歯にものが詰まったような、胸のうちにあるもやもやとしたわだかまりの正体を、津田は知らないのだ。
「……私は……津田くんの……タカトシくんのおかげで……病気が治りそう……だから、」
「……お詫びとお礼に、その気持ちの正体を……一緒に、考えてあげる」
五十嵐の嗚咽は続く。言葉の端々に、涙と咳と、腹の内から出てくるような得体の知れない気持ちを交えながらも、言葉を紡ぐ。
学校での授業とは違う。津田の気持ちに対する解答など誰も教えられるわけがない。
でもいまはそれで良しとする他ない。五十嵐はそう決め込んで、徐々にクリアになりつつある思考を働かせて、提案をした。
「ありがとうございます。五十嵐さん」
「……ありがとうは、私のセリフだよ……タカトシくん」
ようやく二人に、わずかばかりの笑みが戻る。五十嵐は泣き張らした紅いままの顔で。津田は――いつもの愛想笑いではなく、心底安堵したような、優しい微笑みを向けていた。もはやどちらが年上で、どちらが後輩で、など二人の間柄を知らない者には判別がつかないだろう。
だが考えてもみよ、こと恋愛に際して、当事者たちは年齢の上下を気にしている暇などないのである。
「俺、なんだか眠気が覚めてきちゃいました。明日も休みですから、もうちょっと夜更かししてみませんか?」
「……うん、私も。まだ眠りたくないかな」
どこで寝る寝ないの話からこんなことになったのだ。どうせ翌日は朝早くからやることもない。生徒会の業務はないし、世話を焼かせる妹も、友人宅から早々帰ってはこないはずだ。
五十嵐の様子は心配で、出来れば身体を休めていて欲しいと思うものの、下手に言葉を掛ければ逆効果になりかねない。
「じゃあ、ゲームでもします? あれでも、五十嵐さんは普段そんなのしないんですっけ」
「いつもはしないかな……でも、タカトシくんがやりたいんだったら、私もやりたいな。見てるだけでもいいし」
津田は軽く笑って見せてから、自分の部屋にゲーム機を取りに行った。こんなときに出てくる気の紛らわせ方がゲームとは、なんとも情けない。とはいえそれでも五十嵐は付き合ってくれるのだから、できた先輩である。
津田はなるべくポプュラーなパズルゲームを選び、がちゃがちゃとリビングに持ってくる。二人で対戦もできれば、協力プレイもできる代物。少しでも楽しんでくれればよし、退屈でつまらなければ眠気に誘われるだろう。
リビングに戻ってきた津田は、テレビにゲーム機を取り付ける。その様子を五十嵐は静かに見守っていた。
時計の針は、日付が変わったことを知らさせている。
津田タカトシと五十嵐カエデは、互いに悩みと気持ちを吐露し合った。
それは普段の学園生活で得られない、貴重な意見交換の場である。もちろん万事解決とはいかない。それでも二人の距離は、ほんの少しばかり縮まったていた。本当に楽しいお泊まりの夜は、いまこのときより始まった。
津田の持ち出したパズルゲームは、誰もが名前なら知っているようなもの。五十嵐もたぶんに漏れず、実際に遊んだことはないものの、何となくルールは分かっていた。
初めは協力して敵を倒していき。操作方法を理解した五十嵐は対戦プレイを所望した。
津田も得意とまでいえないものの、初心者を相手にして良いものか。と不安に思った。
最初こそ津田に軍配が上がっていたが、パズルゲームは理解力と想像力とを繋げて行う頭脳戦だ。桜才学園でも十指に入る秀才が、不得意であるはずがない。途端に一進一退の攻防を繰り広げるようになり、二人は時間が経つのも忘れて楽しんでいた。
「これで俺の20勝19敗ですね……五十嵐さん、すいません……もう眠いです」
「――もう、タカトシくんたら……勝ち逃げするつもり?」
外は明るくなってきた。時計は4時を回っている。
普段徹夜は慣れているはずの津田だったが、今日は色々あったのだ。耐えきれぬ睡魔に襲われても文句は言えまい。
対する五十嵐も、口では先に寝ようとする姿に非難めいた言葉を発するが、その実眠気は耐え難いものだった。意識していないと、瞼が勝手に、この夜の楽しい時間に幕を下ろそうとする。
「……やっぱり私も眠いわ……ちょっと休憩しましょうか……」
言いながらゲーム機のコントローラーを起き、なんの許可も取らずに、津田の肩に頭を乗せる。彼は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにまた優しい笑顔をして、眠気に任せ、五十嵐に寄り添った。
「…………五十嵐さん、まだ起きてます?」
「……うん、どうしたの……?」
「なんで、タカトシ、て呼ぶんです……か?」
「私がそう…………呼びたいから。嫌だった?」
「いえ……五十嵐さんが呼びたいなら……お任せします……」
「ごめんね、タカトシくん」
胡乱な意識の中で、二人は最後の会話をする。互いに意識は夢の一歩手前である。
「あはは……もう『ごめんなさい』はいいですよ……」
津田は、五十嵐カエデが放つ、一生分の『ごめんなさい』を聞いた気がした。
五十嵐は、津田タカトシに聞かせる、一生分の『ごめんなさい』を言った気がした。
それでも何故、さらに謝罪の言葉を重ねるのか。
「………………タカトシくん」
「はい……?」
「好き、………………」
それから五十嵐の声は聞こえなくなった。夢の世界の誘引に負けて、すやすやと、寝息をたて始める。
その寝顔をちら、と垣間見た男の、優しい視線が向けられた。津田の表情は、家族を見守るような、慈愛に溢れたものだった。
その気持ちの正体は相変わらず分からない。そもそも大変に眠いのだから、考えが纏まらない。でも、
「ありがとう……カエデさん……」
彼が眠りの前に最後に放った言葉は、感謝の言葉だった。
どうしてそれが口をついて出たのかは分からない。胸の奥のもやもやは、未だに解消されない。けれど、なんとなく、津田は五十嵐に、感謝を表明したいのだった。
「たっだいまー!」
午前9時、津田家にはそんな騒がしい明るい声が響いた。声の主はコトミである。彼女もまた徹夜で遊んできて、友人の時が寝入るのを見守ってから、自宅に帰ってきた。
そこでふと、違和感。
「あれ、この靴……誰かいるのかな?」
玄関にあった見慣れない靴。いつもの騒がしい連中とは違うものだ。そもそもあるのは一足だけ。生徒会役員共も、一人きりで泊まれるわけがない。
できるだけそっと、コトミは歩を進める。玄関先であんな大声を出したのだから、今さら気配を断とうとしたところで遅い。
ただそれでも、出迎えの姿も声もないのは――期待に胸を膨らませても仕方のないことだろうか。
リビングに行くと、ソファーで兄と風紀委員長が眠っていた。二人とも静かに寝息を立てて、互いに寄り添い、幸せそうな面持ちだった。
コトミは嬉々として携帯電話を手に取り、この目の前の光景を写真に収める。普段奥手な兄が踏み出した第一歩の記念と。知人友人への報告のために。
ふと気づくところがあって、コトミは撮影を止める。それまできらきらと好奇に輝いていた瞳は、一旦なりを潜めて、兄想いの優しいものに変わっていた。
妹は両親の寝室から大きめな布団を持ってきて、二人に掛けてやる。
そうしてから小声で、お幸せに、なんて言ってから、自分の部屋に去っていった。
二人が起きてから、ことの顛末を伺おう。
それまでは、尊敬する先輩と、敬愛する兄の、幸せな夢を応援しようではないか――
暖かい布団の中で、寄り添う二人の右手と左手は、しっかりと握られていたのである。
『ありがとう、五十嵐さん。俺、分かったんです。あなたのことが好きなんだって』
それはどちらかが見た、幸せな夢の結末。夢に終わりは来るが、次には現実が待つ。
津田タカトシと五十嵐カエデの仲を見守る人々は、どうか、二人の幸福を願って欲しい。
ところで、この小さな物語の結末は?
それならば決まっている。
何時間後か、何日後か、何か月後か、はたまた何年後か。
二人は互いに手を取り合い、口を揃えて言うのである。
『ありがとう』と。
お目汚し失礼しました。久しぶりのSSでした。
途中でタイトルまで変えるという失態ではありますが、いかがでしたか。
個人的に生徒会役員共では五十嵐さん推しなもので、こんな話書いてしまいました。
次があれば、もうちょっと上達しておきたいと思います。
ではでは、失礼致しました。
五十嵐さん可愛いよ!
五十嵐さんは天使
素晴らしいお話をありがとうございます...
これは駄作ではない。神作だ。
ぐぅー、これは良き、、、タカトシ×カエデカプ厨にはたまらん!
あとは、シノ達にバレる描写があったらもう本当に最高だった