2017-07-08 19:49:12 更新

概要

前回の続きです。






…………………………。






「…………ん?」




初春は周りを見渡す。今、何か妙な閃光が目の前を走ったような気がしたからだ。




「気のせい、ですかね」




周囲の人間も別段変わった様子はない。気を取り直して初春は、目の前のパフェを平らげることに意識を移した。口角が次第に緩み、上に上がっていく。




時刻は午後13時30分。路肩に面したオープンテラスのカフェでは、遅めの昼食を摂る人々で賑わっている。今日の授業が午前中までだったのをいいことに、制服のままで来店し、テーブルを挟んだ向かい側の椅子に学生カバンを置いている。




「う~ん。やっぱりおいしい。まただれか誘いましょうか」




12月の緩い太陽の光が上から降り、クリームとアイスの部分がじわじわと溶けていく。すかさずその部分をすくい上げ、口に放り込む。ほどよい冷たさが舌に触れた後は、ひたすら甘い感触が口に広がる。それを繰り返している内に、すっかり完食してしまった初春は、満足げにため息をついた。




そろそろお会計を済ましてここを出ようと、カバンを取り、初春は立ち上がり歩き出そうとした。が、その時、




「うおっ」




「ひゃ、あ、すみません」




ドンッと、背後から来ている人影に気づかず、初春は彼にぶつかってしまった。その衝撃でカバンを地面に落とし、半開きだったチャックから中の荷物が外に飛び散った。




「あ、あわわ、ごめんなさい」




慌てて初春は散らかった荷物を拾い始める。筆箱、ノート、教科書、下敷き、文庫本。ぶつかった男も何も言わずにしゃがみ、共に荷物を拾う。




「おい。ほれ」




「あ、ありがー」




言いかけて初春は固まった。彼が手にしていたのはピンクの巾着。中身はもちろん、女の子の必需品だ。




「ちょ」




初春は目にも止まらぬ勢いでそれを取り上げ、鞄にしまい込む。恥ずかしさで顔を俯かせながら、横目でチラッと彼を見る。




「おいおいお嬢さん。悪気はねぇって。白昼堂々セクハラするほど飢えてねぇよ」




その軽薄な言い回しに若干イラつきながらも、初春は何か奇妙な感覚を胸に覚え、顔を上げ、男の顔を真っ直ぐ凝視する。




「悪かったって。あんまジロジロ見るなよ。何だ? 通報でもする気か? そういやその腕の腕章……」




「へ? あ、いや、そういうわけじゃないんです。まあ、周りを見てなかった私も悪かったですし、それじゃあ」




少し早口で言いながら立ち上がり、初春はレジへ向かおうとした。しかし途中で立ち止まり、ゆっくりと、振り向く。




「……あの、名前は?」




男も立ち上がり、彼女を見据えながら答えた。




「帝督。垣根帝督だ」




「……そう、ですか」




「何だ? 聞いただけか?」




「いや、その……それでは」




歯切れの悪い返ししかできないまま、初春はその場を後にした。彼は彼女が座っていた席に腰掛け、メニューを開こうとしている。レジで会計を終え、初春は店の外に出た。近くのバスを拾って、寮へ帰ろうとする。




ずっと、何かが引っかかっている。運命だとか恋だとか、そんなものじゃない、もっと言い表せない何かが。







…………………………。







その少年に親はいなかった。




物心ついた時は既に孤児院にいた。何てことはない、普通から吐き出された歪な子供達の収容所。その頃の彼は、職員たちの憐れんだ瞳が大嫌いだった。




しばらくして彼は学園都市の施設に移された。進んだ科学技術で脳を弄り、超能力という特殊な力を生み出すための街。彼はそんな力に興味はなかったし、何よりもそこに蔓延る大人たちの下卑た神経うんざりしていた。




唯一楽しかったのは、趣味で絵を描いている時だけだった。12色のクレヨンを使い分け、頭に浮かんだあれもこれも気の向くままに紙に落としていく。描いていたのはいつも、ここではない別のどこかのこと。




見たこともない場所の青空。




見たこともない並木道の木漏れ日。




見たこともない花束を渡す、見たこともない誰か。




見たこともない、家族との時間。




見たこともないことが彼の全てだった。空想こそ自分のいるべき場所だった。クレヨンは次第に欠けていき、部屋には用紙が散乱する。日に日に空想の限界が近づいている。訳の分からない機械で脳を弄られるより、この自分だけの現実が、行き詰まってしまいそうなことの方がよっぽど怖かった。




だがその心配は杞憂に終わった。遂に発現した自分の能力の強度が明らかとなったのだ。




超能力者。




能力名「未元物質」




それは間違いなくこの街の頂点。その中でも更に先を行く途方もない力。これからは紙の上じゃない。この世界を、思うがままに塗り替えられる。空想は、もう空想じゃなくて本物なんだ。このことを知った彼は、無邪気な全能感に浸り、多い喜んだ。




この空想のような力が、彼を更に現実の鎖で縛り上げていくことも知らずに。








寮に戻った初春は、制服のブレザーを脱ぎ、壁のハンガーに立てかけてベッドに腰掛けた。そこから何かを思い立ったように、バッグを開きノートパソコンを取り出し、机に置いて操作する。調べているのは、『垣根帝督』についてだ。




やがて画面には、検索結果が映し出された。




「超能力者……第2位。そっか。だから聞いたことあったのかも」




学園都市の学生のデータを網羅した『書庫』。そこに彼の名前も記入されていた。ただ、どういう能力なのかは閲覧不能になっている。彼の更に上の位、学園都市一位の『一方通行』も同様だ。




一応、初春は学園都市有数のハッカーなので見ようとすれば強引に見ることはできる。だが彼女はこれ以上深入りするのはやめ、パソコンを閉じた。




その時、カバンの中の携帯の着信音が鳴った。彼女は急いで応答する。連絡主は風紀委員の同僚、白井黒子だった。




「はいもしもし。どうしたんですか白井さん」




『初春? 良かった。無事ですのね。いや、気になって電話をかけただけですの』




「ああ……またですか?」




『ええ。今度は発火能力。まあレストランがぼや騒ぎになったぐらいなので良かったといえば良かったのですが』




「どうしたんでしょうねここ最近。能力の暴発だけじゃなくて、急に能力を使えなくなった人もいますし。まあどれも一過性のものなのが幸いですが」




数週間前から起こっている異変。能力者たちの能力の使用が不安定になっているのだ。死者が出るような惨事には至ってないが、初春も黒子も、能力を所持している身として気が気がじゃない毎日を過ごすこととなっている。




『風紀委員としてこれ以上の被害は未然に防ぐべきですが、こうも発生がランダムだと手の打ちようがありませんの。現場に駆けつけた頃には、能力もすっかり元通りというのがほとんど。イタズラにしても無差別すぎて意図が取れませんの』




「うーん。まあ私の方でも調べておきます。このままだと安心して眠ることもできませんし。あ、御坂さんは大丈夫ですか?」




『今のところは。お姉様に限らず、超能力者の暴走は特に聞いてませんの。ただ油断はできませんわね。もし寝てる間にビリビリされたら、たまったものじゃありませんの』




「白井さんは大丈夫なんじゃないですか? いつもビリビリされてますし」




『それとこれとは話が別ですの!』




ハハハと笑い、それじゃあと電話を切った。




「うーん……ここ最近の事件と何か関係が……」




そう思った初春は鞄の中に入れたUSBを探す。警備員とも協力して集めた、事件のデータが詰まっているのだ。




だが、 初春はあることに気づく。




「……あれ? ない」




いやまさか、と思いながら執拗にカバンをまさぐる。だがない。逆さにして中身をベッドの上にばら撒き、探しても見つからない。冷や汗が額を伝う。




「………………あっ!」




思い当たる節はただ1つ。先ほどのカフェ。垣根とぶつかったあの時だ。




「あわわ、急がないと」




壁にかけたブレザーをもう一度羽織り、部屋を飛び出そうとする初春。だがその時何かが自分の眼に飛び込んだ。




「……あれ? これ…………」




先ほどベッドの上に放り出した荷物の中に転がった、小さな白いカブトムシのストラップ。一枚の白い羽毛が添えらたそれは、少なくとも持っていた覚えのないものだった。




「…………………………?」




何かの景品だったのか? 知り合いから貰ったのか? 考えても心当たりがないため、ひとまず初春は部屋を飛び出すことを優先とした。






誰もいなくなった部屋のベッドの上。白いカブトムシの瞳が、一瞬赤く点滅した。








停留所に到着したバス。扉が開き、そこから駆け足で初春は飛び出す。カフェまでおよそ5分。おそらく店員が預かってくれているだろうという淡い期待を抱きつつ、足を早める。




やがて店の姿が見えてきた。初春は少し立ち止まり、携帯で時間を見る。3時50分。店を出て2時間は過ぎている。太陽が暮れはじめた空の色を見て、彼女はまた走り出し、そして店へ到着した。




急いでレジの近くに駆け寄り、女店員に伺う。




「あ、あの、すみません。落とし物って届いてないですか?」




息を切らす初春に心配そうな顔で見ながら「残念ながら届いておりません」と返す女店員。絶望しかけた彼女の目に、あるものが飛び込んできた。




「……え? あ、嘘…………」




2時間近く前に自分が座っていたオープンテラスのテーブル。そこに座った人影が見えた。しかも臙脂色の学生服に身を包んだその後ろ姿は、明らかに彼だ。




初春は意を決し、彼に近づく。




「あの~、もしもし、ちょっと聞きたいんですけど」




言い終わる前に、彼は懐からUSBメモリーを取り出し、背中越しに初春に見せた。彼女は安堵のため息を吐き、ありがとうございますと言いながらそれを取ろうとする。




「おっと」




しかし飄々とした声で彼はメモリーを再び懐に閉まった。初春の顔は一気に固まる。




「あ、あの、それ大事なデータが入ってるんですよ。早く返してくれませんか?」




「嫌だと言ったら?」




「……さっきセクハラされたことを独断と偏見による捏造を加えながらネットに載せます」




「おいやめろ。意外とキツいことすんなお前」




彼は振り返り、苦笑した。目つきは悪いが整った顔立ちに金寄りの茶髪。そして超能力者。ステータスは申し分ないのに、どこか精神的に欠陥のある残念な印象を初春は受けた。




「あの、垣根さん、ですよね? お願いだから返してください。落としたのは私の過失ですけど、それを返さないってのは筋が違いますよね。レベル5だからって、そんな横暴が通るとおもむてるんですか?」




「ほう。俺のこと調べたのか。嬉しいね。俺もお前のこと調べたぜ。風紀委員の初春飾利さん」




名前を呼ばれて、思わず背筋が凍ってしまった。何だこの男は。何故自分のことを調べている。




「そんな緊張すんなよ。確かに見ず知らずの男に素性を調べられんのなんてキモいと思うぜ? でもそれが俺みたいなイケメンだったら案外悪くねぇだろ。実に少女漫画的だ」




「……自分で自分のことをイケメンなんて言う人のことをカッコいいとも思いませんし、信用もできません。何なんですかあなた。何が望みなんですか?」




「辛辣だなオイ。別にとって食うつもりはないし、これを返さないつもりもねぇよ。ただ、ちょっとだけ協力してほしいんだ」




「協力? 」




「心配すんな。風紀委員にヤバい頼みはしない。それくらい分かるだろ。信じてくれとは言わねぇ。ただ黙ってついてきて欲しいんだ」




声色が急に冷静になった。拭いきれない疑念と恐怖に内心すくみながらも、どこに? と聞き返す。




「俺の指揮する組織、『スクール』のアジトにだよ








「あ、おかえりっす。垣根さん」




「おう」




垣根に連れてこられた初春は周囲に目を配る。天井を支える円柱のオブジェが縁を囲み、中心の広場に4人分の円柱状の椅子と一台のテーブルのある空間。声が軽くこだまするほどの広さだ。




「あれ? 後ろのその子は?」




椅子の近くに居た青年が声かける。頭にUFOのようなヘッドギアをつけ、紫のジャケットを羽織っている。




「我がスクールに、少しお力添え願いたくてな」




垣根は誉れげに初春の肩を叩く。 初春は少しびっくりして、ビクッと震える。




「あ、あの、私……」




「ん? あ、まぁ、慣れねぇのも仕方ねぇな。とりあえず座れよ」




言われるがまま、初春は丸椅子に腰掛ける。




「よし、まず自己紹介からだ。俺は垣根帝督。このスクールを仕切っているリーダーだ。こいつは誉望万化。能力はレベル4の『念動力』」




ども、と誉望は会釈する。




「あともう2人いるんだが……あいつらどこ行ったんだ?」




「さっき連絡入れたんでもう来ると、あ、あれ」




誉望が指差した方向から、2人の女性がやって来るのが初春にも見えた。




「遅ぇぞお前ら。新入り連れてくるって言ってたろ」




「し、新入りぃ?! ちょ、垣根さん? 話が飛躍してませんか? 私まだ何も聞かされないまま連れてこられたんですけど?」




思わず初春は叫ぶ。この男、余りにも勝手に話を進め過ぎだ。




「その辺は分かりやすいように伝えただけだ。心配すんな」




「あら。随分と可愛い新入りさんね。あなたの趣味なのかしら?」




「え? リーダーロリコンなんですか? 悪いんですけどわたくし、そういった特殊性癖は受け付けてなくて……」




「しばくぞテメェら。初春、右のドレス女は『心理定規』。本名を明かさねぇから能力名で呼んでいる。左のツインテールが弓箭猟虎。無能力者だが、狩猟技術に長けていてな。ウチの狙撃手を担当している。以上が、このスクールの面々だ」




「よろしく。お嬢さん」




「わ、わたくしのことはラッコと呼んでください! ぜぜ、是非!」




「え、あ、はい」




妙に近い距離でそう言ってきたラッコに初春はたじろいだ。3人が垣根の側に集まる。誉望は近くの柱に持たれ、心理定規とラッコは初春を挟むように両側の椅子に座る。





「はぁ……で、一体私に何を」




ようやく本題に入れると思い、初春は緊張で少し肩を強張らせる。




「簡単に言うとだ、俺の指示する研究所、その他施設の情報集めやセキュリティのハッ、いや、デジタル面での『補助』を願いたい。お前の得意分野だろ?」




得意そうに話す垣根。あの短い時間でそこまで自分のことを調べていたこの男に、消えない警戒心を持ちながら初春は返す。





「確かにそうですが、それで簡単に首を縦に降るとでも? 見ず知らずの他人の、よく分からない目的のために私の腕はあるんじゃありません」




「強気な女だな。だが尤もだ」




垣根は少し黙り、丁寧に言葉を紡ごうと思索する。




「……なあ、風紀委員ってのをやってて、この学園都市が本当に秩序を保っているのか、疑問に思ったことはないか?」




え、と初春は口から漏らす。それは自分だけではなく、他の風紀委員全ての課題でもあり、ジレンマだ。




「……秩序に完璧はありません。もちろん、この街にだって汚いところはあると思います。それでも私は、自分の正義に誇りを持って、職務を全うしているつもりです」




「風紀委員の鏡だな。だが結論が早い。それはまだ、この街の『本当の姿』を見てから試される台詞だ」




本当の姿。その言葉に、初春の背筋が小さく震えた。




「俺たちはそれを知っている」




4人の視線が初春を貫く。自分の大事な何かを試されているようで、彼女の喉が緊張で乾いていく。




「あの、じゃあ、学園都市に蔓延る黒い噂ってのは……」




「一概に全部、とは言えないが、中には本当のこともある。どれを知りたい? 教えてやろうか?」




「い、いや、その」




あの中のどれかが本物。一体どれだ?




超能力者のクローンの製造? 脳みそをケーキカットされた子供たち? 脳の視床下部を除いて全て機械化された少女? 身体を分断された結果魂まで分裂して機械に取り憑いたドッペルゲンガー?




知りたくない。どれも嘘であって欲しいのが本心だ。




「恐ろしいか? 自分が住んでいる街が、人の命を何とも思わねぇ外道の実験所扱いされていることが」




「それは……」




言葉を詰まらせた初春に、垣根は笑う。




「お前みたいな奴らを守るために、このスクールを築き上げたのさ。非道な実験を行う組織に歯向かい、この街に真の安寧を取り戻す。それが俺たちの役目さ」




誇らしげに両腕を広げた垣根を見て、周囲の3人も薄く笑う。




「で、でも」




「あ?」




「組織に歯向かうっていうのはその、まさか相手を殺したり、とか」




「…………ブッ」




「な、何が可笑しいんですか! 私だって怖いんですよ?! いきなり連れてこられてスクールだの学園都市の本当の姿だのって! はっきり言って全く話に付いてけてないんですから!」




吹き出した垣根に初春は吠える。




「アァ。悪りぃ悪りぃ。こいつメッチャビビって聞いてんなと思うと可笑しくて」




赤面の彼女を余所に彼は嘲笑する。そして、そのおちゃらけた空気を瞬時に取り下げて告げる。




「それだけはしないんだよ。俺たちは、何があろうと敵の命を奪うことだけはしない。俺たちがしているのは復讐じゃない。もう2度と、俺たちのようなガキを生み出さないための戦いだからな。だろ? お前ら」




振り返った垣根の問いかけ、誉望はぎょっとしながらも答える。




「まあ……そうっすね」




「適度にいたぶるくらいはしますけど」




「私は元々そういう野蛮なの趣味じゃないわ」




彼に続き、ラッコと心理定規も答えた。3人の答に満足した垣根は初春の方を向き、ゆっくりと話し出す。




「お前の力を貸してくれ。初春飾利。お前のその能力、そして、その正義心は必ず俺たちの役に立ってくれる。まだ信じられないのも、不安が消えないのも分かる。ただ、少し考えてほしいんだ。この街は、果たして自分が思うほど汚れていないのか、って」




そんなことを言われたら、何も返せなくなる。初春はすっかり黙り、空間には沈黙が流れる。




不意に、右横から一枚のメモ用紙が渡された。初春はそっと受け取る。




「これ、私の連絡先。今すぐに答えを出せなんて酷でしょ? 今日はもう家に帰って、ゆっくり考えるといいわ。決心ができたら、私に連絡してきて」




メモを渡したのは心理定規だった。年齢は自分とそんなに変わらないはずなのに、自分より数段大人びたその雰囲気に少し落ち着きながら、初春は首を縦に振った。




「わわ、わわわたくしの連絡先も、この際ご一緒に、どうでしょうか?! 1年365日24時間、いつでもメールできます!!!」




「え? あの、さっきから距離が近すぎません?」




がっつきながらメモ用紙を渡してきたラッコに引き気味の初春は、冷ややかな声でそれをなだめる。




「おいラッコ。お前もうちょい考えろよ。初春ビビってんだろうが。友達作る前にまともな人との接し方覚えろ」




呆れながら自分を諭す垣根の方を振り返り、ラッコは何故か目を輝かかす。




「あ、あの、リーダー、それはつまり『俺の親友なんだからあんまり他に友達作ろうとするな』という嫉妬」




「どこをどう解釈してそうなった! 俺がいつお前の親友になったんだコラ!」




「分かってます。分かってますよ。照れ隠ししなくたって、リーダーの親友の座はこのラッコが絶対死守しますからあっ!!!」




そう言って、満面の笑みで抱きつこうとしたラッコを、垣根はサッと避け、彼女は何もない虚空を抱きしめることになった。




「その辺にしとけってラッコ。垣根さん嫌がってんぞ」




「あれ? 誉望さんも嫉妬ですか? でもごめんなさい。わたくし誉望さんはナシなので」




「だからお前のその基準なんなんだよ! 垣根さんも心理定規さんもこの子アリで俺はナシって!」




一向に自分だけ友達と認めない彼女に対し、誉望は悲痛に訴える。




「うーん。何というんでしょう。全身から溢れる小物臭というか、あ、はっきり言うと、顔がタイプじゃないんですわ」




「残念だな誉望。顔がタイプじゃないんだってよ」




「結局顔かよチクショオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」




叫ぶ誉望をせせら笑う垣根に、哀れんだ目で見るラッコ。それを自分の横で無言で見つめる心理定規。初春は何だか可笑しくなり、つい笑ってしまう。










「初春さん」











「はい。何ですか垣根さん。改まって」




呼び声に反応して垣根に返した初春。しかし、当の本人は怪訝な顔で彼女を見ていた。




「いや、呼んでねぇけど。どうした?」




「…………え?」




確かに今、彼の声がした。幻聴だったのか? 初春は急に怖くなる。




「あ、あの、ごめんなさい。今日はもう帰ります。あと垣根さん? ちゃんとUSB返してください」




ああ、ほらよとポケットから出したそれを受け取り、駆け足で初春はその場から去っていった。額の冷や汗を拭い、胸のざわめきを振り払うために、なるべく足を早めて。




「何だったのかしら。彼女」




垣根は無言で去っていく初春の背中を見ている。彼の目は、あるはずのないものが目の前に現れた時のような、その存在を否定する鈍い目つきだ。




「……まあいい。あいつのことは今は置いとこう。さて、次のターゲットのことを話すぞ」




気を取り直した彼はテーブルの方へ向かい、その上に事前に置いていた資料を手に取る。いつものように、人命を弄ぶこの街の闇を排除するための会議だ。




淡々と次のターゲット襲撃の計画を話す垣根を、誉望は凍った瞳でじっと見ていた。







…………………………。







ずっと、不思議に思っていたことがある。




この翼は、何故能力を使う時に発動するのだろう?




日々の血濡れた実験の中で、彼はずっと考えていた。




未元物質という、この世に存在しない物質を生み出す能力。深く考えずとも、科学の発展に莫大な利益をもたらすことが明白な能力。研究者たちは来る日も来る日もその能力の限界を探るための実験を続けていた。




その内容は、まだ10歳にも満たない少年の精神を無残に擦り減らすには、十分すぎる非道なものばかりだった。




どれだけの耐久性を誇り、どれだけの応用が効くのか? 体のどの部分にどうのような負荷を与えれば、どの箇所から物質が生成されるのか? 研究者たちは持てる残虐全てを施し、彼の能力の限界を知り尽くそうとした。




そして研究者たちがこれほどまでに彼に貪欲になれた理由の一つが、彼の序列が「第2位」であったことだ。




実験彼を研究しようとする者たちの多くに、「第1位」の開発に頓挫し、恐怖と無力さに打ちひしがれた心を取り戻そうとする、要は「憂さ晴らし」の者たちもいたのだ。




俺が「第2位」じゃなかったらこんな地獄は見なくてすんだのか?




あらゆる恐怖で磨耗した精神を、保とうとするプライドすら、その序列に打ち砕かれていった。




彼の心の闇は次第に色を濃くして行ったが、決してそれを表に出そうとはしなかった。彼は分かっていたのだ。自分のこの感情が、限りなく醜く、場合によっては自分を痛ぶってきたあの研究者たちより卑劣なものだと。




だからこそ彼は決心した。




11歳になる一日前、彼は自分を研究した研究所、全てを破壊した。




だが、1人の死者も出さなかった。




彼は誓ったのだ。自分の中に巣食う心の闇に立ち向かうことを。そしてもう2度と、自分のような子供を生み出さないと。




俺のこの翼は、この街の闇を払うために与えられた力だ。




11歳になった午前0時。1人の天使が学園都市の夜空に羽ばたいた。




それから一年。彼は学園都市に蔓延る闇を片付けるために日々奔走していた。彼の名は街の暗部に広まり、命を狙われると同時に、畏敬の対象ともなっていた。




ある日、彼はこの街の統括理事長に「窓のないビル」に呼び出された。自分が正すべき敵の中で、最も強大な存在。彼は十分な警戒を払いつつ、敵意を与えない悠々とした態度で会談に臨んだ。




統括理事長が彼に推奨してきたのは、「自分をリーダーとした裏の治安維持組織の設立」だった。

既に人材も1人、用意している。その言葉と共に1人の少女が彼の前に現れた。




後ろでひとくくりにした、ウェーブのかかった白色の髪。真ん中だけボタンを留めた、赤と黒のチェックのジャケット。その下に黒いタンクトップ。下はカーキーのショートパンツとミリタリーブーツ。彼女は彼を一瞥し、すぐ目を逸らした。









この出会いが、地獄の始まりだった。















垣根が初春をスクールに勧誘して一週間後。18学区のとある研究所、その一室に、白衣を着た2人の男がいた。




室内にはデスクトップパソコンが5台。稼働しているのはその内の一台だけだ。その手前に座った茶色い顎髭の男に、20代前半ほどのメガネをかけた男がコーヒーを持ってきている。




「お待たせしました」




「うーい」




茶髭の男は手渡されたコーヒーを飲んだ。




「あ、お前これコーヒーの豆違うぞ。おれケニアの方が好きなんだよ」




「ええ? それ言ってくださいよ。色んな種類あったんで、適当に一種類マシンに放り込んじゃったじゃないですか」




「前に言ったが?」




「え、あ……ホントですか?」




「次間違えたらタブレットでしばいてやる」




怒気と嘲笑を孕んだその一言に、メガネの男は軽く頭を下げた。




「もう夜の9時過ぎか。そろそろ仕事も終わるし、今夜も飲みに行くか?」




「お、いいですね。ゴチになります」




「図々しい野郎だ。奢ってやってもいいが、その代わり酔い潰れるなよ?」




男のキーボードを打つ手が早くなる。もうすぐ業務から解放されるということが、肉体的にも精神的にも心地よい追い込みをかけている。




そこで、部屋のドアが開いた。




「すみません。これ、どこに持っていったらいいですかね?」




同じ白衣を着た研究員の1人が、カートを押しながら部屋の中に入ってきた。




「おう。あ、それはまだ使うから、3階の保管室に持って行ってくれ」




男はそう言われ、カートの上に乗っているものに目をやる。










丸い容器に透明な液体と共に入れられた、人間の脳みそ。












左右に3個ずつカートの上に置き、6個になった上に同じように重ねたものが3段。合計18個の脳みそが、そこに乗っていた。




「分かりました」




男はカートを連れて部屋を出て行った。




「あれ今日の実験で死んだ『置き去り』たちの脳みそですよね? まだ使うつもりなんですか?」




「お前知らないのか? 能力者の脳っていうのは色々使えるんだぞ? 脳を巨大化させて能力そのものを強化する、なんて実験もあったくらいだしな」




「へー。やっぱり流石ですね学園都市」




適当な相槌を打っていると、茶髭の男が大きく息を吐いた。




「よっしゃ! 今日の仕事終わり! さーて、飲みに行くか」




パソコンの中のデータを保存し、画面を切って椅子から立ち上がる。メガネの男もそれにつられてゆっくり立ち上がった。




「でも先輩、奥さんとか子供とかは大丈夫なんですか?」




「大丈夫大丈夫! 休みの日はしっかり家族サービスしてるし、ちょっとくらい遊んでも咎められないって。あ、これ見てくれよ」




茶髭の男は携帯を取り出し、その中の写真を開く。サッカーのユニフォームを着た7歳ほどの少年を抱える、幸せそうな茶髭の男の写真だった。




「これ息子さんですか?! 随分大きくなりましたね。もう何歳ですか?」




「今年7歳。この間行きたかったサッカーの試合のチケットがようやく取れてな。家族で行ってきたんだよ。もう大盛り上がりでなぁ」




「へぇ。息子さんも楽しそうですね」




「だろぉ? こいつ最近サッカークラブに入ったんだよ。子供ってのは、目を離すとどんどん大きくなっていくんだよな。この前まで碌に立つこともできなかったと思ったのに、もうこんな立派に」




楽しそうに、息子と一緒に取った写真をスライドしていく茶髭の男。写真はどれも、仲睦まじい親子の触れ合いだ。




「子供っていいですね。俺も早く結婚したいなぁ」




「おう。嫌なこともたくさんあるが、毎日が新鮮だぞ。もし結婚して、子供が産まれたら、死ぬ気で大切にしろよ? 人生の先輩としての忠告だ」




よし、行くか。と茶髭の男の合図で2人はドアの方に向かおうとした。が、そこでドアが開いた。




「あ? なん」




言い終わる間も無く、先ほどカートを押していた男が2人の方へ吹っ飛ばされてきた。2人は避けようとしたが間に合わず激突し、3人まとめて先ほどまで電源の付いていたパソコンの右隣のパソコンに音を立てて突っ込んだ。




「ゴールッ。悪りぃな。サッカーの話してたからよ。つい足が出ちまった」




開かれたドアの向こうには、蹴りのポーズを構え、不敵な笑みを浮かべる青年がいた。長髪で端正な顔たちの青年は、倒れ込んだ3人を余所目にこの場を去った。




「な、何が……」




頭から流血する茶髭の男はそう呟く。すると、右上からヴンッという音がした。男はなんとかその方向を見る。




「なっ…………」




台の上に並んだパソコン全てが、勝手に起動していた。しかも画面上には赤い縁で囲まれた「WARNING」の表示が、爆発的に増殖している。現状を全く把握できていないが、一つ確かなのはこのパソコンの中のデータはどれも、2度と使用できないということだけだ。




「そん……なっ」




屁のようなか細い声を漏らし、茶髭の男はそこで気絶した。








「クッソ! どうなってんだよ! 外部に連絡が通じないぞ!」




廊下を走る20代半ばのショートヘアの男研究員は声を荒げる。彼の側ではブロンドの髪の女研究員と、眼鏡をかけた黒髪の女研究員が並走している。




「落ち着いて。ひとまずここから外に出て、そこから通信が繋がるか調べればいいのよ」




苛立つ男を落ち着かせ、3人は研究所の裏口へと向かった。たどり着いた場所には実験用の機材を積んだコンテナが大量に積み重なっており、その先にトラックの搬入口がある。3人はコンテナの間を走り抜けていき、そこから脱出しようとした。




「ガアッ?!」




しかし、突如男は左肩から血を流し、前方に転んだ。女二人は愕然とし、ひとまず彼を介抱する。




ブロンドの髪の女研究員が彼を肩に掲げ、コンテナを背に辺りを見渡す。金属のひやりとした感覚が背中に走った。




(潜んでる。この周辺に、間違いなく狙撃手が)




こうなると、この裏口からの脱出は諦めた方がいい。大勢で一気に突っ込めば何人かは脱出できるかも知れないが、そんな博打にかけられるほど彼女らの精神は強くなかった。




「ここからは離れた方がいいわ! 行きましょう」




メガネをかけた女二人は研究員は頷き、男の方もうう、と唸りながらも首を縦に降る。3人は元来た道を戻ることになった。




コンテナの影。チェストリグを身につけたツインテールの少女が静かに笑っていた。








「正面玄関や、他に逃げ道につながるような場所には防火シャッターが降ろされている。唯一の出口だと思ったあそこにも狙撃手が配置されている。マズイわ。完全に外部から隔離されてしまった」




先ほど裏口で狙撃された男を引き連れながら、廊下を走るブロンドの髪の女研究員。横のメガネの女研究員が口を開く。




「にしても、ここまで即座に施設のネットワークを丸ごと掌握するなんて、一体どんな凄腕」




その時、傍に妙な気配を感じた。彼女は立ち止まる。




「何? どうかしたの?」




「いや……何か今、誰か通らなかった?」




「何言ってんのよ。早く行くわよ!」




気のせいかと思い、彼女らは去っていた。それを見計らい、何もない場所から突如人影が現る。




「……気づいてないみたいっすね。流石に気配までは消せないのが難点か」




現れたのは誉望だった。念動力により自身を透明化し、研究所内に進入していたのだ。そのまま手渡されたマップを頼りに目的地の扉の前までたどり着いた。鉄製の厳重なロックのかかった扉だ。『彼女』によると、既にロックは解除しているらしい。彼は難なくその開閉ボタンを押した。




空気の抜ける音が響き渡り、扉が徐々に開いていく。現れたのは、白いパジャマを着用した子供たちだった。病院のような白いベッドが並行に並び、何十人もの子供がその上で寝ている。扉の空いた音と、誉望の存在に気づき何人かが目を覚ました。




「お兄ちゃん、誰?」




それを区切りに次々と子供たちは目を覚ましていく。彼らに向かい、誉望は宣言した。




「『スクール』の誉望万化だ。お前たちを、ここから救いに来たぞ」








一方、四方を白い壁に囲まれた実験室をガラス越しに携えたオペレータールームでも、混乱が湧き上がっていた。外部からのクラッキングにより、実験データは全て破壊された上、外部との連絡も取れなくなってしまったのだ。




そこに、先ほどの3人組が帰ってきた。




「おい、お前どうしたんだ?! 肩から血が出てるぞ!」




「裏口から逃げようとしたんだけど駄目だったわ。狙撃手が潜んでる」




「そんな……」




その場の研究員たちは皆悲壮な表情を浮かべた。




その時だった。ドアのある後方の壁が大爆発を起こし、瓦礫と旋風を周囲に撒き散らした。研究員は皆風圧に押され、後ずさり、7名中3名がその場にへたり込んだ。




「な、何……」




ブロンドの髪の女が、粉塵の中からこちらにやってくる人影に目をやる。




「よお。夜遅くまでクソ仕事ご苦労さん。残業大変だなオイ。安心しろ。明日からしばらく休業だ」




皆は目を疑った。こちらに迫り来る男の背中には、神々しく光る6枚の白い翼が顕現していたのだ。青い月の光を凝縮して作られたような翼。そこから放たれる輝きは、冷酷に彼らに降り注いでいる。




「心配しなくても、殺しはしねぇよ。ただ、自覚はしてもらうか。罪のねぇ子供たちを平気で実験と称して弄り、何千人の命を奪いながら平気で日常を生きようとする、お前たちの歪んだ邪悪さを。そのためには、多少、痛い目にあってもらうぜ」




皆は目の前の脅威に震え上がり、逃げるどこらかまともな思考すら放棄し、ただその場から動けずにいた。




彼らが意識を失う数秒前、その天使は、不敵に笑った。




そして、蹂躙が始まった。









エンジンの音を鈍く鳴らしながら、一台の大型トラックが、夜の高速道路の上を走っている。運転しているのは、スクールの狙撃手、弓箭猟虎だ。




「ったく。いくら操縦できるとはいえ、か弱い女子にこんな任務任せないでほしいんですが。こんなの誉望さんで十分な気が」




「誉望さんは子供たちを救出をして、心理定規さんと一緒に荷台の彼らの心のケアをしてるんですから。仕方ないですよ」




「そんなのわたくしでも十分じゃないですか。それに、私は狙撃手としてじゃないといまいちモチベーションが上がらないんです」




「いや、猟虎さんに対人の任務は……」




「ん? なんか言いました? 初春さん」




「何でもないです」




そして、助手席に乗っていたのは初春飾利だった。膝下にノートパソコンを置いている。画面の中には、先ほどまでのクラッキングを表す文字列が並んでいる。




「しかし、初春さんもここに入ってもう一週間近くですか。今回も見せてもらいましたよ。流石学園都市有数のハッカーですね」




「いやぁ……役立っているなら幸いです。でも、私の活躍なんかより、何人救えるかの方が大事ですよ」




初春はパソコンを閉じ、助手席から見える学園都市の夜景に目を移した。大小様々な輝きを放つ街の姿に、次第に心に平穏が蘇ってくる。




「初春さん。あんまり思いつめない方がよろしいのでは? 手の届かない場所の理想や悲劇に嘆くより、今あの子たちを救えたっていう現実を喜びましょうよ」




猟虎のフォローに、表情の暗さが少し払拭される。初春はありがとうございますと告げた。




(ホント、話しやすくなったな。猟虎さん。心理定規さんが心の距離調節してくれて助かった)




最初の頃は、佐天がよりタチの悪くなったような異常な距離感で接してきたので、初春はとても鬱陶しがっていた。それを見かねた心理定規が、彼女に助け舟を渡したのだ。




垣根に勧誘された翌日、初春は心理定規のアドレスに返信を送った。『あなたたちがどんな組織なのか、この目で見たい』と。すぐさまスクールのアジトに呼ばれた初春は、彼らの言うこの街の闇、常軌を逸した実験の記録に目を通した。




(あれが、この街の抱えた闇。知らなかった。知りたくもなかった。私は、風紀委員として学園都市の治安維持に貢献していると、ずっと信じていたのに)




今もこうして、思い出す度に悔しさと不甲斐なさで胸が潰れそうになる。人を人とも思わない残酷な科学の上に成り立った、薄皮の平穏の上で正義を振りかざしていたなんて。




最初の任務の日。初春はスクールの面々と共に訪れた研究所のシステムを一気に掌握し、あっと言う間に施設の制圧への王手をしかけた。この働きぶりには垣根も予想外だったようだ。




そして10分も経たない内に、その研究所は徹底的に破壊された実験用の機材と、痛めつけられた研究者たちで溢れかえる『ただの箱』同然の施設となった。




だが、怒りに任せた強引な特攻を終えると、初春の身に蘇ったのは戦慄だった。やってしまった。もう後には引けない。自分は今、この街の闇に宣戦布告をしたのだ。いつ命を狙われてもおかしくない、そんな張り詰めた状況に自分を追いやったのだ。




そんな彼女の肩を、任務を終えた垣根は軽く叩いた。




ーよくやったな。心配すんな。お前の命は、リーダーである俺が守るー




彼はそう言い、初春はそこで彼らと別れ、初日の任務は終了した。




(……あの時決めたんです。この人たちを信じようって。この街の闇の中で培った、スクールの望む正義に賭けてみようって)




よく考えてみればおかしな話だ。会って間もない連中と、殺人を犯さないとはいえ限りなく法の範囲を逸脱した行動を取っているなんて。自分の行動は、人からすればあまりに不用心で、善意を信じ過ぎる未熟な情熱の暴走のように思えるかもしれない。




(白井さんや御坂さん。固法先輩。そして、佐天さん。ごめんなさい。今はまだ何も言えないけど、私は、この人たちについて行きます)




それでも、彼女はこの道を選んだ。それが正しいか、間違っていたか、それは後から知ればいい。ただ一つ確かなことは、この街には、不条理に巻き込まれて命を落とす罪なき存在がいるということだ。なら、それを知った上で見過ごすことなど、初春飾利の信じる正義ではなかった。それだけだ。




初春はポケットの中の携帯が震えるのを感じ、取り出した。垣根からのメールだ。任務完了の四文字と、半壊状態の研究所の写真が添付されていた。初春は何も言わず、画面を閉じた。








スクールの面々と初春を乗せたトラックは、第10学区にある、木造の一階建ての施設に到着した。手前の広場に車を停め、初春と猟虎は降車する。荷台の扉を開けると、中に居た心理定規と誉望に連れられ、白いパジャマ着の子供たちが外に降りてきた。




「ここが、この子たちを一時的に預ける孤児院ですか」




「ええ。初春さんは初めてでしたね。『太陽の門(バードゲージ)』。私たちが設立した、学園都市外部への斡旋施設です」




猟虎の説明を聞きながら、初春は施設の門に目をやる。入口の両柱に付けられたオレンジ色のライトが、ぞろぞろと施設の中に入って行く子供たちを照らしている。




その時、彼女らの背後に人影が降り立った。2人は振り返る。三日月を背景に、6枚の翼を掲げた垣根が地面に膝を付け、着地していた。




「垣根さん。お疲れ様です」




「お帰りなさい。相変わらず似合わない羽ですわね」




「心配するな。自覚はある。お前らもご苦労さん」




垣根は翼をしまい、歩き出す。




「初春。ちょっと話がある。付いてきてくれ」




「え? あ、はい」




呼ばれるがまま、初春は垣根と共に施設の中に入っていった。それと入れ替わるように、子供たちを誘導していた心理定規と誉望が戻ってくる。




「猟虎お疲れ。あの人、初春さん連れてどうする気なの?」




「さあ……何か特別な話とか? 親友のわたくしを差し置いて、ジェラシーです」




「あなたそれ自分で言ってるだけでしょ。あっちの気持ちも考えなさいよ」




心理定規は苦笑した。そんな2人を見ていた誉望が口を開く。




「心理定規さん。ちょっといいっすか?」




「何かしら?」




瞳孔の開いた彼の瞳が、より深く影を増した。彼は口を開く。




「やっぱり、垣根さんと話付けてこようかと思います。俺の気待ちは、もう決まったんで」




「……そう」




心理定規は静かに頷いた。両者のやり取りの真意を掴めない猟虎は、困惑げな表情をしている。




「心理定規さんも、一緒に行きますか? ほら、これ、あげますよ」




そう言って懐から取り出したのは、黒い拳銃だった。猟虎の目は見開く。




心理定規は、差し出されたその手をそっと押し返してこう言った。




「気待ちだけ受け取っておくわ。私はもう少し、彼の行く末を見届けたいから。ごめんね」




その返答に誉望は沈黙で答え、拳銃を懐にしまった。




「え? ちょっと、どういうことですか? 誉望さんひょっとしてスクール辞めるんですか?」




焦った口調で、猟虎が隣から問い質す。




「今すぐってわけじゃないぞ。時期を見て垣根さんに伝えるつもりだが、まあ、いずれそうなる、かな」




少しバツが悪げに誉望は言った。




「待ってくださいよ! そんな、せっかく仲良くなったのに。お願いです誉望さん! 考え直してください! 誉望さんみたいに気軽に接せる先輩いないのに。誉望さん!」




猟虎は縋るように彼の右腕を掴む。誉望は何も答えようとせず、心理定規はそんな2人をただ見つめていた。




月明かりがトラックに当たり、伸びた影が3人の足元の近くまで伸びていた。








シュボッと、マッチに火をつけた垣根は、木製の四角机の上に置かれた、蝋燭立ての蝋燭に火をつけた。優しい灯りが周囲を照らすと、質素なキッチンと冷蔵庫、自分たちが入ってきた通路口、部屋の奥のソファーとテレビがはっきりと見えた。




「そこ座れよ」




彼に言われるがまま、初春は椅子を引き、座る。彼女に続いて垣根も座る。




「それで、 話って何ですか?」




初春は聞く。垣根が答えようとしたが、




「垣根さん。今日はお疲れ様でした」




通路口から声が聞こえたので、初春は振り返った。薄い金髪を灰色のシュシュで結わえ、白シャツとジーンズの上に薄緑のエプロンを着た、20代半ばほどの女がそこにいた。




「どうも、こんばんは。初めまして。夜分遅くに申し訳ありません」




初春は軽く頭を下げた。




「いえいえ。お気になさらず。それじゃあ、私見回り行ってきますね」




彼女はそのまま通路の向こうに行った。




「垣根さん。あの人は?」




「ここのガキどもの世話を任せてもらってる。元々俺たちの潰した研究所の一員だったんだが、そこでの実験に嫌気が差していたようでな。救出の際に俺たちに協力してくれたんだ。そのままここを任せたんだよ」




はあ、と初春は相槌を打つ。この街の研究者たちが皆、あのような非道な行いに疑問を持たないわけではない。その事実に初春は少し救われた気がした。




垣根は彼女が去ったのを見計らい、右肘を机にかけながら口を開いた。




「初春。まずは、ありがとよ。元々俺の勝手な誘いだったにも関わらず、この一週間付き合ってくれて」




「いえ、そんな……。私はただ、あんなことが起こっているのに見過ごすなんてできなかっただけで」




初春は俯き、謙遜する。




「その想いは俺たちも同じだ。だから、確かめたくなったんだよ。初春。これから先もお前は、俺たちの戦いに手を貸すつもりなのか?」




垣根の問いに、初春の胸は僅かに鼓動を早めた。彼もまた、不安を感じていたのだ。





「最初は、お前のハッカーとしての腕と、風紀委員としての正義を信じて、スクールに勧誘したんだ。でも俺はお前そのものを見ようとしてなかった。自分の……」




彼はそこで、一瞬言葉に詰まった。




「自分の、感情だけでお前をこの戦いに巻き込んだ。俺としては、ここにいて欲しいことに変わりはない。お前は有能だし、信頼もできる。でもお前はどうなんだ? 聞かせてくれ。初春」




初春は彼の問いに、机の下で両手を握りながら返した。




「心配無用です。私の気待ちは、もう決まりましたから」




その返答に満足したのか、落ち着いた口調で言った。




「そうか」




蝋燭の火が揺らめく。ゆったりと流れる時間の中、初春は自然に、微笑みながら口を開いた。




「まあ、最初は怪しさ満点のナンパ男だと思ってましたから、アジトに着くまでに通報する準備を整えてたんですけね」




「お前中々強かだよな。でも、自覚はあったから言い返せねぇ。誘ったのがこのイケメンだったってのが唯一の救いだ」




垣根は笑い、椅子にもたれる。




「イケメンなら不審な行為が許されるわけじゃないですよ」




「お、ついに俺をイケメンと認めたか」




「タイプのイケメンじゃないですけどね」




可愛くねぇ女だ。と言い、垣根は天井を見上げた。そして、何かを思い立ったかのように初春を見つめ、その後僅かに視線をそらして言った。




「笑っちまうかもしれないけどよ」




彼は意を決して、続ける。




「俺は、太陽になりたいんだ」




え? と初春は呟く。




「許せねぇんだよ。この街の闇も。そして、俺自身の闇も。ガキの頃から脳を弄られて、こんな力を押し付けられて、思い出せるのは血生臭い実験ばかり。何度死のうと思ったか分からないし、何度こいつらをを殺そうと思ったか分からない。心の底の方から、もう1人の俺が、いつもこう言ってるんだよ。殺せ。この街の腐った奴らを、みんな殺せって」




垣根は自分の掌に視線を落とした。初春は何も言えず、ただ彼を見つめている。自分と彼の間では、決して分かち合うことのできない思いがある。光の当たる人生を歩んできた自分では、ドス黒い闇を浴びた者の気持ちなど押し計れない。




「俺は自分自身の、そんな感情を許すことができない。こんな感情を植え付けたこの街も許せない。でも、だからこそ俺は、この街の闇に復讐するんじゃない、この街の闇に光を当たえることを決めたんだ。この街の、自分自身の闇に呑まれるんじゃねぇ、闇に立ち向かい、照らしだすような太陽。そう言う存在で、俺は在りたいんだ」




初めて彼が自分に見せた、心の奥底。消せない過去と、理想の未来を1つの線に繋げようとする誓い。闇を内包しても尚輝くことを諦めない彼の本心を見たその時、初春は疑いの心を完全に捨てた。




「だから、ここの孤児院の名前に太陽を?」




初春は聞く。




「そうだ。タロットでも太陽ってのは『成功』『達成』『約束された将来』ってのがある。ここから旅立つガキどもにはぴったりだろ?」




垣根は笑う。ここの子供達をガキと言っている彼のその笑顔が、初春にとっては一番子供らしく見えて、彼女もまた笑ってしまった。




「あ? 何笑ってんだコラ」




「いえ、何でもありません」




初春は気を取り直して、机の上に置かれた彼の右手の甲に、自分の両手をそっと重ねた。




だがその時、




「え?」




初春は思わず声を漏らした。




「おい。どうした?」




「あ、その……」




初春はひとまず頭に浮かんだ疑念を捨て去り、彼に思いの丈を伝えた。




「大丈夫ですよ。垣根さんは、きっと過去を超えられる。辛い過去を頑張って乗り越えようとする人に、希望の光が差し込まないなんておかしいですよ。私が保証します。あなたは、太陽になれる」




そう言って、初春は垣根の手から自分の両手を離した。垣根は呆れたように笑い、小さな声で、ありがとよ。と言った。




そして、打って変わり表情を冷たくし、彼は自分の掌を見た。




「……太陽を目指す限りは、くすんでいるわけにはいかない。俺自身に、闇をもたらすわけにはいかないんだ」




初春は彼のその様子を訝しく思ったが、何か聞こうとする前に、彼は椅子から立ち上がった。




「話に付き合ってくれてありがとよ。さ、帰るぞ。寮まで送ってやる」




そう言って彼は通路口の方へ向かっていった。彼の後を追うように初春も立ち上がる。進もうとしたその時にふと足を止め、彼の手を触った自分の掌を見ると、先ほどの疑念が浮上してきた。






(……人間の手って、あんな感触でしたっけ?)






おい初春。と垣根の声がした。初春は思想を中断し、足を進めた。廊下を歩いている途中、子供達の寝室が見えた。横目で見ると、皆ベッドで熟睡している。初春は微笑み、そして玄関へと向かった。




灯りの消えた真っ暗な寝室の中。1人の黒髪の少年が、ベッドの上で目を覚ました。




…………………………。




アレイスターのその提案を、彼ははっきりと断った。




彼の中には、誰も殺さないという矜持があった。だが、暗部組織に属するとなるとそうは行かない。上層部からの指令によりこの街に潜む闇を討てるとしても、その結果が殺人になるなら彼にとって何の意味もなかった。




彼は目の前で無表情でビーカーの中を揺蕩うアレイスターと、目の前の彼女に詫びを入れ、窓のないビルを後にした。しかし窓のないビルから外に出て数分後、ビルの前の通りを歩いていると、彼女が自分から彼の元にやってきたのだ。




彼女の言い分はこうだった。誰も殺さずこの街の闇を正そうだなんて、本気でやろうとしているのか。彼はもちろんだと答えた。




彼女は彼の返答を鼻で笑った。




できるわけがない。あんただって、この街がどれほど汚れているか知っているはず。そんな甘い考えが通用する相手じゃない。彼女は真っ直ぐに、彼を見据えてそういった。




彼は理解した。彼女もまた、闇に触れて心が壊れた者だと。そして、彼は彼女にこう言った。




ー気になるなら、付いてくるか? 組織なんて固いもんじゃねぇ。 ただのコンビとしてよー




それからしばらく、彼は彼女と行動を共にするようになった。彼女は無能力者で、戦闘の際は重火器や刃物、毒物などの化学兵器を用いていた。また、暗部に深く情報網を広げており、初めは自分が目をつけた施設へ襲撃していたが、次第に襲撃先の選択は彼女に任せるようにした。




彼女の実力は素晴らしかった。アレイスターが直々に、自分に紹介してきたことはあると彼は思った。




しかし、彼女の戦略は相手を殺すことを目的とする容赦のないものだった。彼はそれを何度も静止した。その度に強く反発を食らったが、諦めなかった。彼女は間違いなく何人も殺してきている。自分と同じ年齢の彼女に、これ以上の罪を重ねて欲しくなかった。




彼女と行動を共にして1ヶ月が過ぎた。彼女は自分の家に彼を招いた。19学区の古びたバーの右隣。そこに地下へと続く階段が設計されてあり、暗がりの中を降りて行くと左側に扉がある。どうやら学園都市の中でもかなりの安宿らしい。




彼女は何も言わず、三回目の踊り場にある扉を開いて、中に入る。彼もその後に続いた。




彼は部屋を見渡す。こじんまりした空間。黒いプラスチック製の脚で支えられたベッド。その上に黄ばんだシーツと毛布。真ん中には黒い折りたたみ式の細長いテーブル。飲みさしのパックの牛乳が転がっている。左手の緑の壁には様々な建物の設計図やターゲットと思われる人物の写真。奥にはキッチンと冷蔵庫。それら全てが天井の、柔らかいオレンジの光に包まれている。




彼は一歩踏み出す。すると、グニャッと、何かを踏みつけた感覚が足裏に起こる。恐る恐る足裏を見返すと、ナイロンに入った、食いさしのカレーパンだった。




彼は辟易としながら、足裏にこびりついたカレーパンの中身をティッシュで拭き、床に腰掛けた。周囲の白いモヤを手で払い、彼女を見る。彼女は羽織っていたチェックの上着を脱ぎ、ベッドの上のハンガーにかけた。




アンタに、見せたいものがある。彼女はそう言って、奥の冷蔵庫の方へ向かった。冷蔵庫の側面に手をつき、横にスライドさせると、そこに奥の部屋へ続くスペースが現れた。




彼は立ち上がり、そこへ向かう。道中床に転がったプラスチックの容器を足で払いながら、少しは掃除しろよ。と愚痴る。彼女は反応しない。




隠し扉を開け中に入り、彼女は部屋の電気をつけた。




そこには、拳銃、機関銃、散弾銃、あらゆる重火器が、それぞれの棚に綺麗に整頓されて置かれていた。ずさんに散らかった生活スペースとは対照的に、ここには何らかの規則と彼女の強い想いがこもっている。それほどここの空気は潔癖だ。彼はそう感じた。




彼女は棚から一丁のアサルトライフルを取り出し、彼に渡す。ここ見て、彼女に指で指されたところを見ると、銃底の側面。「No.62」という記号が、削られたように刻まれている。




これは? 彼は彼女に聞いた。




仲間の名前。彼女は答えた。




彼は察し、アサルトライフルを彼女に預け、他の重火器も取り出してみた。すると、どれもこれも数字が刻まれている。彼は彼女を見た。




彼女は無言で、左手で後ろ髪を捲り上げる。そこには「No.93」の黒い刻印が打ち込まれていた。




やがて彼女は話し出した。かつて自分がいた実験施設では、子供達は皆、この番号で呼ばれていたこと。そして皆、実験で死んだこと。自分は何とか脱出して、生き残ることができたこと。




だが、彼女はそれを憎むような声で言った。皆んな、死んだの。死んだのよ。何も悪いことしてないのに。彼女は手にしたアサルトライフルをぎゅっと抱きしめる。彼は何も言わず、彼女の声に耳を傾ける。




彼女は気を取り直し、また話し出した。それ以来、自分はここにある武器全部に、仲間の名前を刻み込み、彼らの意思を引き連れてこの街の闇を殲滅することを誓ったと。




それをちゃんと聞いてもらった上で、アンタに伝えたい。彼女は言った。




ー私はこの街が許せない。最近アンタに絆されていたけど、やっぱり徹底的にやらないと気がすまないの。ねぇ。もう、いいでしょ?ー




気弱な確認。彼女の目は初めて会った時とは別人のように、俯き、糸くずのように潤んでいる。




勝手にしろよ。彼はそう言った。




彼のその返答に、彼女は切なげに笑う。そうよね。そう。勝手にしたらいい。彼女は何かを諦めたようにそう言った。




ーああ。俺に聞かなきゃならない理由なんてないしな。逆に、お前何で俺にそんなこと聞いたんだ?ー




彼女はハッとし、顔を上げる。




ー後ろめたいのか?ー




ーち、違う。そんなんじゃー




ー後悔してんじゃねぇのか?ー




ー違うって、言ってんじゃん。そんなことー




ー声、震えてるぞー




彼女は気づく。声だけではなく、腕も、足も、震えていることに。何かが殻を破る。心の底で、堪え切れない何かが彼女をノックしている。




彼は彼女に近づく。そして、右手を伸ばし、彼女の頬に触れる。死んだ仲間の為に、自らが血に濡れることを選んだその優しさと勇気。理不尽に巻き込まれて心の奥底に埋め込まれた怒りと嘆き。そして罪悪感。それら全てを包み込むように。




ーもういいだろ。お前1人生き残ったこと。そこに善悪も罪も罰もねぇよ。お前はまだ生きてる。それだけだー




彼はそう言って、彼女が抱いているアサルトライフルに触れる。すると、ライフルは白く発光し始め、触れた所から白い羽毛に生まれ変わり、はらはらと散っていく。舞い落ちる羽毛に彼女は驚きながら、首を横に降る。




ーちがう、ちがう。だって、だって私、皆んなを見捨てて、だから、戦わないと。そう。死んだって、当然の奴らをー




ー人を殺すのって、辛いだろー




ーやめ、て。ねぇ、ごめん……ー




彼女の瞳から、ついに細い涙が落ちる。それを見た彼がそっと微笑むと、部屋中の武器が白い輝き出し、柔らかな羽毛に転生していく。




彼は言う。




ーお前は生きてるんだ。その命、魂。自分で傷つけるのはもう止めろ。ずっと辛かったんだろ。1人だけ生き残って。心配すんな。もう、1人じゃないー




ー彼女は涙を流しながら、混乱した声で言う。だって、だって、私、無能力者で、アンタはー




その言葉が続くことはなかった。彼が自分の体を、優しく抱きしめたからだ。ゼロ距離で触れる彼の暖かさに言葉を失った彼女は、耳元で発された言葉を黙って聞いた。




ー知らねぇよ。そんなのー




彼女はもう、何かを言うことはできなかった。彼の肩と腰に両腕を回し、力強く抱き返すと、胸元で嗚咽を漏らし出した。彼は笑いながら、そんな彼女の頭を優しく撫でた。




黒い後悔と殺意の塊が、純白の羽に変わり宙を舞ったこの時。2人の心は、ようやく1つに通じ合った。




そう、彼は信じていた。








太陽の門を初めて訪れて二日後、昼過ぎの風紀委員第177支部では、いつも通りにデスクに座り業務をこなす初春と、数メート離れた位置でソファーに座り、それを横目で見つめる彼女の上司、固法美偉がいた。固法は手にしたムサシノ牛乳をぐいっと飲み干し、空になったパックをゴミ箱に捨てた。




黙々と業務に没頭していると、パソコンの画面に一通のメールの表示が現れた。差し出し人は心理定規だ。




初春はソファーに座っている固法をちらっと見てから、メールを開封した。




『二日前に太陽の門に送った子供たちの歓迎会しようかと思うの。あなたも行くかしら?』




初春はその文におっと口元を緩め、すぐに『行きます』と返信を送った。するとしばらくして、向こうから『夕方4時にアジト集合』と返ってきた。




「それ誰なの?」




「ひぇあっ?!」




初春は腹から上ずった声を発した。いつの間にか背後にいた固法にメールの内容を見られてしまった。




「あ、あの、新しくできた友達ですよ。最近一緒によく遊んでて。あはは」




「ふーん。なんかここ最近、夜遅くまでどこか彷徨いてるって聞いたけど?」




「いやぁ……ホント、気の合う友達で……」




潔白を証明せんばかりに愛想笑いをし続ける初春。固法はため息を吐く。




「初春さん。正直に言って欲しい。本当に、ただの友達なのね?」




固法の念を押した質問に、初春は膿を潰したような罪悪感が胸に湧くも、それを押し殺すように首を縦に振った。固法も信用したのか、そう、と口にする。




「疑っちゃってごめんね。私も先輩として心配だったからさ」




「いえ、そんな。気にしないでください」




ただ、と固法が付け加える。




「白井さんもそうだけど、1人で色んなもの抱え込んで、耐えられなくなってしまうような、そんなことになって欲しくないのよ私は。あなたは風紀委員として、常に正しくあろうとする心持ってるわ。でも、正しくあろうとする心というのは、往往にして脆いものなの」




正しくあろうとする心は脆い。その言葉に、初春は眉をひそめる。




「だから、困ったことがあったら、まずは私や周りの大人に相談しなさい。あなたはまだ子供なんだし、何より先輩として、私も後輩の役に立ちたいんだから。ま、お節介かもしれないけどね」




「老婆心ってやつですね」




「あ?」




困法の眼鏡の輝きに殺意がこもった。




「や、やだな~冗談ですよ冗談。よーし、仕事頑張るぞ~!」




冷や汗をかきつつも、彼女の殺意を笑って受け流しながら初春は目の前のパソコンを一心不乱に操作し始めた。困法は呆れたように笑って、その場から離る。




(……頼ってほしい、か)




拭えぬ蟠りが胸にこびりつく。今自分が戦っているものが、学園都市に深く根付いた闇だと知ったら彼女はどう思うだろう。




思えば、黒子も佐天も、そしてもしかしたら御坂も、自分には言えない何かを抱えているのかもしれない。初春はそう思う。




佐天は一度、無能力者である苦悩を誰にも打ち明けられずにいた。黒子と御坂はどうなんだろう。人は誰でも、耐えきれないことが分かっているのに抱えこんでしまう何かに、いつかは取り憑かれるのだ。




約束の時間まであと3時間。初春はキーボードを叩く指先に力を込めた。








「お疲れ様です」




午後3時50分。予定の10分前に初春はスクールのアジトに到着した。エレベーターを登り、たどり着いたホールにいるのは垣根と心理定規。そしてバイオリンケースを持った制服姿の猟虎だった。




「よう。誉望の奴は一足先に行ってるぜ」




垣根が答える。初春はそうですかと相槌ち、そして猟虎の方に目をやる。




「あれ? 猟虎さんバイオリン弾けるんですか?」




「ウフフ。わたくしこれでも枝垂桜学園有数のバイオリン奏者ですの。学園の皆さんもわたくしの演奏の虜に」




「おー、一回見たことあるぜ。だだっ広い広場で1人で演奏しまくってたよなお前」




「あ、あれは練習ですから! 余計なこと言わないでください!」




顔を赤らめる猟虎を垣根はハハハと笑う。




「ん? あれは何ですか?」




初春は右手の柱の根元に置かれた巨大なリュックサックを見る。




「ああ。一発芸用の小道具詰め込んだんだ。レクリエーションのボールだミニゲームだ大量だぜ。ギターもあるぞ。初春、何か歌うか?」




「いえ……私歌は得意じゃないので結構です」




「乗れねぇな。じゃあ俺がいっちょやってやるか。エアロスミスとガンズアンドローゼスならどっちがガキ受けするかな?」




「どっちも厳しいと思います。ていうかハードロック好きなんですね」




ニルバーナ以外はな。と返す垣根。談笑する2人の間に、突如心理定規が割り込んできた。




「初春さん。ちょっと、お話したいんだけどいいかしら?」




心理定規に呼び出され、初春はよく分からないまま頷き、ホールの後方にある螺旋階段の踊り場まで移動した。




「……まあすぐ終わるだろ。因みにお前は何演奏するつもりなんだ?」




「そうですねー。エルガーの愛の呼びかけとか、ドビュッシーの美しい夕暮れとか……」




「全然分からん」




「いい曲ですよ。聞いてみますか? ほら」




猟虎は懐の音楽プレイヤーを取り出し、美しい夕暮れを再生させた。








「どうしたんですか? 心理定規さん」




踊り場で初春は彼女に尋ねる。彼女の顔は、どこか愁い気な影を浮かべている。




「初春さん。あなた、これからもずっとここで私たちといるつもりなの?」




二日前に垣根と話したようなことと同じような質問だった。自分の心は決まっているので、彼女の目を真っ直ぐに見つめて返す。




「危険なのは分かっています。それでも、私はあなた達の正義に賭けることを決めたんです。ずっと、かどうか分かりませんが、今ここでやるべきことを貫こうかと思います」




初春の気丈な返答に、心理定規の顔の影がますます色を濃くした。




そして、初春に向かい、はっきりと宣言した。




「私たちの正義なんて、そんなもの賭ける価値もないのよ? だってこのチーム既にバラバラなんだから」




初春は意識せずに、え? と口から漏らした。彼女は今何と言った?




「それが一番顕著なのは誉望よ。彼は既に帝督に付いていくことに限界を感じている。彼は自分自身の憎しみのままに、この街に蔓延る闇を殲滅したいと願っている。なのに、いつまで経っても誰も殺そうとしない彼を内心憎んでいるの。彼にはまだ話してないけど、いずれ誉望はここを離れる気よ」




心理定規は語り続ける。




「猟虎も問題よ。彼女の目的は、猟奇性の解放と、友達作り。私たちのことを親友だと思って、そこから逸れないように、目的に同調してるだけ。彼女本当は、学園都市の闇なんてどうでもいいのよ。自分の能力の誇示と、集団の中に属することだけしか考えてない」




信じていたものがぐらつく。胃の淵から得体の知れない悪寒が走る。それでも初春は、目の前の希望にすがりつく。




「ちょっと待ってください。じゃ、じゃあ心理定規さんは? 心理定規さんは、垣根さんの理想に共感して」




「ええそうよ。でも」




彼女はその最後の砦を、容赦せずに崩しにかかった。




「彼の理想に共感したからこそ、彼の側に居続けたからこそ分かるの。無理なのよ。誰1人殺すことなく、この街の闇に光をもたらすなんて。2年よ。このスクールが結成されて2年。一向にこの街は、同じようなことばかりしてるの。病気の臓器の、その周りの肉ばかり弄り回しているようなことばかりしてるのよ。私達は」




「それは……」



確かに、彼の不殺の意思は賞賛できるものかも知れない。しかし、その結果はどうなのだろう。思えば彼らの活動の歴史を自分は全く知らなかった。




2年。




その数字が本物であるならば、今尚この街は平然な顔で非道な実験を続けているということが、彼らの正義を何よりもあざ笑う結果になっているのではないだろうか? 初春は考えこんでしまう。




「はっきり言うわ。初春さん」




心理定規の声が、初春の鼓膜を揺さぶる。




「私は、彼が行き詰まることを望んでいる。このままでは何も変わらない。私達の自己満足から進まないの。彼が本当にこの街の闇に向き合って、血を流す覚悟を決めたなら、私は彼に着いて行くつもり。でも、あなたはきっとそれを望めないと思うの。そうでしょ?」




初春は何も言い返せない。その沈黙が、何よりの肯定だと言うことが分かっていながらも。心理定規は続ける。




「そうなる前に、あなたはここから去るべきなのよ。あなたはこの中で唯一、光の世界でもまともに生きられる存在。本来私たちと交わるべきでない人間なの。あなたのその正義の心には感謝してる。あなたの決意も、私としては嬉しい。でも、もう一度考え直して。本当に闇と戦おうとするなら、痛みも、血も、避けることができない。あなたは、そんな風に汚れていく私達のこと、耐えられるのかしら?」




初春は依然沈黙する。先ほどの決意の一欠片の強ささえ、言葉に乗せることもかなわなかった。やはり、自分は固法が心配したようにまだ子供なのだ。誰も殺さず闇と戦うという理想に、何の疑いもなく賛同していたのだから。




理想には血が伴う。やがて彼らはそらにぶつかる。ならば自分はどうすべきか? 頭の中で、答えにたどり着こうとする意思の錯綜が始まった。




その時。




「…………ん?」





心理定規が垣根と猟虎の方向へ振り返った時、垣根が携帯で通話しているのが見えた。誰が相手なのか。彼女は彼を見ていると、途端にその顔は信じられないほどの焦燥と憎悪の色に固まった。彼女は身震いする。




垣根は携帯を切り、脇目もふらずこの場から走り去って行った。初春もその様子に気づき、困惑の表情をする。




2人は階段を降り、取り残された猟虎の元に駆け寄った。




「猟虎。どうなってるの? 彼一体……」




猟虎は震えながら、心理定規に説明しようとする。




「誉望さんからで……なんか、子供の1人が暴れ出して、それで、あそこの先生を…………」




それを聞いた2人は顔を青ざめ、そして心理定規はエレベーターのある方向へ急いで走り出した。残された2人も我を取り戻したように走り出す。




一階の駐車場まで降りた3人は黒塗りのバンに乗り、猟虎の運転で太陽の門まで向かった。道中、後ろの席に座った心理定規は、携帯を片手に誉望に連絡を取ろうとする。




「ダメだわ。出ない」




何度コールしても反応のない誉望。この時既に、彼女は最悪の想定を脳内に描いていた。それを覚悟しつつも、抑えられない冷や汗が、額を伝った。




初春は助手席で、最悪を回避するように祈りながらも、先ほど心理定規に告げられたことがずっと脳内をぐるぐる回っており、そのとっ散らかった感情が全身の震えになって現れていた。




初春は隣の猟虎に目をやる。彼女もまた、顔に滲み出す焦燥を隠せずにいた。




「初春さん。心配しないでください。わたくしは大丈夫です」




初春の視線に気づいた猟虎はそう返した。彼女の気丈さに、初春はほんの少し心のゆとりを取り戻せた。




だが、それも次の一言で瞬時に崩れ去ることになった。




「わたくし達の期待を裏切って、暴れ出した子なんか、友達でもなんでもありません。わたくしは、全然傷ついてませんから」




初春の顔は失望に固まった。彼女のその返答は、明らかに自分が主体であり、暴走した子供の心情やその周囲の被害など意識の中にない、あまりにもずれたものだった。




「それよりも、誉望さんや垣根さんが心配です。急がないと……」




猟虎の言葉に、初春は何も返そうとしなかった。そんな彼女の姿を、心理定規は後ろから見つめていた。




やがて車は第10学区に突入し、それからおよそ10分後、太陽の門に到着した。時刻は午後4時50分。空は紫がかった黄昏に染まっている。今日は新月で、月はその姿を隠している。




3人は車から降りた。それと同時に、予想した最悪に、限りなく切迫した現実が視界に入ってきた。




太陽の門の玄関前に、白いパジャマ姿の子供達は固まり、震え、涙を浮かべていた。服が血にまみれている者もいる。そして、白いシーツを被せられた「何か」が、地べたに横たわっている。シーツの隙間からは、血が流れている。3人は、一目散にその固まりの中に飛び込んだ。




心理定規は、恐る恐る白いシーツをめくる。




「ウッ」




シーツの下に横たわっていたのは、顔の右半分と、左腹を削られた金髪の女性の死体だった。太陽の門の子供達の世話を任せていた女性だ。空虚に開いた瞳孔と目が合った時、初春の頭は真っ白になり、魂を引き連れていくような荒い息を漏らした後、腰を抜かし、その場にへたり込んだ。猟虎も呆然と、顔面蒼白でその場に突っ立っている。




心理定規は側にいた少女に質問する。




「皆、大丈夫? 一体何があったの?」




その問いに反応し、泣きじゃくる少女は何とか声を出そうとする。




「あの子が、先生が、研究者だったって知って、それで、突然暴れだして、お兄ちゃんも、それを止めようとして、それで」




過呼吸気味の説明はそこで途切れ、そらから少女はただただ泣き続けた。




「ッ、心理定規さん!」




突如猟虎が声を荒げた。心理定規は右に視線を移す。




「誉望!」




子供達に囲まれた誉望。だがその左腕は二の腕から先が消滅し、断片から鮮血が止めどなく溢れている。傍の2人の少年が、泣きながら自分たちの上着を傷口に抑え受けているが、それを嘲笑うように上着は真っ赤に染まっている。




「しっかりして! ちょっと、そこのあなた。上着頂戴!」




心理定規は近くにいた別の少年の上着を借り、細長く絞り誉望の二の腕にきつく巻きつけた。彼の顔は血の気を失い蒼白で、あと少しの生存も絶望的に思えるほどだった。




誉望は心理定規に向かい、虫の声で告げる。




「あそこ、垣根、さんが……」




誉望は指差す。施設の奥側にある池のほとり。そこに生えた一本の楓の木。その根元に、木にもたれて座る黒髪の少年と、彼を見下ろす垣根の姿があった。




「垣根、さん」




初春はフラフラと立ち上がり、彼の元に駆け寄った。




「垣根さん。これは一体……」




「こいつが、能力を使ってあいつらをやったんだよ。『暴食蛇輪(ホイールイーター)』。光の当たらない陰で繁殖する毒をばら撒く能力。毒に感染した者は、光源を浴びない箇所を削るように破壊されるんだよ。大したもんじゃねぇか。大能力者は確実だな」




垣根は無表情で賞賛を送る。少年は憎悪と、敵意と、恐怖の混じった目で垣根を睨む。




「誉望程度なら隙を突いてやれたかもしれねぇが、まあ俺には通用しねぇよ。さて、一緒に来てもらうか。お前のやったことは決して許されることじゃねぇ。ほとぼりが冷めるまで、俺が責任を持ってお前を周囲から隔離する」




垣根は少年に手を伸ばす。しかし少年はその手を勢いよく払った。明確な拒絶だった。




その反応に、垣根は少年の首を掴み自分の目線の高さまで持ち上げる。少年は苦しげな呻き声を上げ、それでも自分の首を掴む手に思いっきり爪を立て、反撃の意思を見せた。




「垣根さん!」




「心配すんな。殺さねぇよ。それだけは絶対にしねぇ。だからこそ、こいつのやったことを俺は許せないんだよ。何で殺したんだ。お前の人生は、これから一生その十字架を背負うんだぞ」




初春はその口調に違和感を覚えた。それはまるで、実際に経験のある者が誰かに伝えようとする時の口調だった。




「知る、か、んなもん」




少年は息を詰まらせながら反論する。




「あいつらは、俺の毒を使って、俺の妹を殺したんだ! 絶対に許さない。この街の研究者は、全員ぶっ殺すんだよ! クソが! 離せ! ああっ、畜生!」




少年は怒りに身を任せ、怒号を撒き散らした。それは彼自身も自分が何を言っているのか把握していないほどの勢いだった。おそらくこの少年の心は、既に取り返しの付かないところまで崩れてしまっていることが、垣根や初春にも見て取れた。




垣根は首を掴んでいた手を離す。少年は地べたに落ち、灼き焦げるような激情を宿した目で垣根をまた睨んだ。自分の能力が決して彼に通用しないことが分かっているので、それくらいしかやれることがないのだろう。




「うう、あ、あああああああああああああああああああッ!!!」




それでも少年は目の前の彼を薙ぎ倒そうとした。垣根は眉間を歪め、また軽くあしらおうとした。







だがそこで、乾いた銃声が鳴り響いた。







「……………………え?」




少年は、自分の頭部から流れる血に気づき、糸が切れたように地面に倒れこみ、そして絶命した




垣根は絶句し、銃弾が飛んで来た方向へ視線を向けた。そして、この殺人を誰がやったのか。それを把握した瞬間彼は絶叫した。







「誉望ォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」






残った右手に、拳銃を強く握りしめた誉望。側で介抱していた心理定規も、その近くにいた猟虎も、一瞬の出来事に唖然とし、固まっていた。




垣根は彼の元へ、怒気を発しながら迫り寄る。




「テメェ、自分が今何やったか分かって」




だがその道半ば、誉望の瞳が、軽蔑するような視線で垣根を見据えた後、その瞳をゆっくりと閉じていった。




「ちょっと、誉望? ねぇ、誉望?!」




心理定規は彼の頬を叩く。しかし何の反応もない。垣根は誉望の身に訪れたものを察し、溢れ滾っていた怒りも行き場をなくし、まるで空中に霧散するのを待つかのように、その場で立ち尽くしたまま、動くのを止めてしまった。




銃殺された少年の側に居た初春は、また腰を抜かして地べたに崩折れた。




彼女の脳内は、自分が今どこにいるのかも分からなくなるほどの、真っ白な絶望で満ち溢れていた。捻れた運命の輪が、この場にもらたした突然の悲劇。ここから先はもう、自分たちは以前のような関係に戻れない。ただ1つはっきりとしたその事実だけが、彼女の脳内に浮かび上がっていた。




死んだ少年の頭部から流れる鮮血が、池に侵食して水を染めていた。水面に浮かんだ、蓮の葉に血の流れがぶつかって、それが二つに分かれていった。








「……いつから聞いてた。誉望のこと」




落ち着いた声で、しかし張り詰めるような感情を込めて、垣根は心理定規に聞いた。




「ここ2カ月くらいよ。私に相談してきたの。もう、あなたについて行けないって」




キッチンの横の冷蔵庫にもたれている彼女はそう答えた。先ほどの惨劇の後、初春を除くスクールの一員は職員用休憩室に集まり、こうして議論している。以前、垣根と初春が話していた小部屋だ。あの時と同じように、卓上のろうそくの火が揺れている。




垣根は息を吐き、背中を椅子にもたれかける。目の前に座っている猟虎を見ると、彼女はすぐに俯き、垣根から視線を避けた。




「でも、帝督。誉望があなたについて行けないって言うのは、あなたを否定したわけじゃない。ただ、誉望は自分の憎しみに勝てなかっただけなのよ。彼、私にこう言ったの『本当に怖いのは自分だ』って」




「それはここにいる全員がそうじゃねぇのかよ」




冷ややかな声で彼は言い返した。




「俺も、お前も、猟虎も。学園都市の闇に触れて、心を蝕まれて、普通に生きてたら考えもしねぇことを思うようになった。でも、それでもあいつらと同じにならないために頑張ってきたんじゃねぇのかよ。そうじゃねぇのか」




心理定規は顔をしかめ、机の側まで近づき手を卓上に置き、母親が子に諭すような声で彼に言った。




「帝督。あなたの思想は十分すぎるほどに分かる。私だって、出来れば誰も殺したくなんかない。でも、もうそんな我儘言ってられないとこまで来ていること、分かるでしょ? 本当にこの街をどうにかしたいのなら、血を流す覚悟で立ち向かわなきゃダメなのよ」




「血には血を、殺しには殺しで立ち向かうってか。闇を晴らすために俺たちが闇になるってか。それじゃあ結局前と同じじゃねぇか。もううんざりなんだよ! なんのために俺が」




そこまで言いかけて、彼は言葉を噤んだ。心理定規は怪訝な目で彼を見つめている。




「……考えさせてくれ」




先ほどの怒号とは違い、弱々しい声だった。分かった、と心理定規が言おうとした直前に、猟虎が口を開いた。




「あ、あの」




2人は彼女の方を見る。混乱と臆病が肌から発散されているのが目に見て取れた。これから彼女が話す内容を半分以上察しながら、2人は耳を傾ける。




「私、もう抜けてもいいですか? だって、こんなの、誉望さん死んじゃったんですよ? 本当に、本当にこんなことになるなんて、おかしいですよ。垣根さんの言う通り、誰も殺さずに平穏無事に全てが上手くいくって思ってたのに」




舌が上手に回っておらず、額から冷や汗が滲み出ている。2人は何も言わず、その沈黙が更に彼女の額の冷や汗の勢いを増した。




「行きましょう。猟虎」




心理定規は静かに言った。猟虎は無言で素早く立ち上がり、見えない力に操られているように彼女の後ろへと周り、部屋を後にしようとした。




「俺もだよ」




心理定規は立ち止まる。




「今度こそ、上手くいくと思ったんだけどな」




後ろで垣根がそう呟いた。そして、立ち止まっていた彼女はまた歩き出した。今度こそ、という言葉の意味が分からなかったが、もう気にせず歩き続けた。




歩いている途中、心理定規は子供たちが集まっているリビングを横目で見つめた。すると、その中で待機していた初春と目があった。しかし立ち止まることはせず、そのまま玄関を出て外に停めてある車まで向かった。猟虎は無言で運転席まで向かい、エンジンをかける。




「心理定規さん!」




振り返ると、初春が彼女の元まで追いかけて来ていた。




「垣根さんと、どうなったんですか?」




彼女の問いに、心理定規は悲しげな微笑を浮かべた。




「多分、スクールが解散するのも時間の問題ね。あの様子じゃ、もう彼とお別れになりそう」




初春は息を詰まらせ、それでも何とか、目の前の彼女を引き止めようとする。




「心理定規さん、本当にそれでいいんですか? ここで垣根さんと別れて、この街の闇に挑み続けるなんて、悲しくないんですか? 理想には血が伴うって言うのも分かりますけど、もう少しあの人を信じてあげても」




「すっかり、綺麗になっちゃったわね」




初春の言葉を遮り、心理定規は口を開いた。




「あの先生も、子供も、誉望も、血の跡も残さずに消えちゃった。彼がやってくれたのよ。能力を使って、彼らの死体をこの世から完全に消滅させた」




初春は周りを見渡した。夜空の月が青白く照らす地面と、池のほとり。惨劇の跡など微塵も感じさせない潔癖さに、初春は思わず空恐ろしさ覚えた。彼は、死体を消滅させた。




「初春さん。もう分かるでしょ? 私も彼も、あなたのように穢れのない存在じゃないのよ。心の奥底には、どうしようもない憎しみと、残酷さが渦巻いてる」




違う、そんなことは。初春はそう言おうとするが、口が上手に開かない。




「でも、彼はまだそれと戦おうとしている。じゃあもう、私は関われないわ。闇に染まってもこの街の闇を晴らしたい私じゃ、闇に抗う彼に何か言えるわけないでしょ」




さ、帰りましょ。心理定規はそう言って、車へと向かおうとした。




「私は」




初春はその場から動かずに言った。




「ここに残ります」




心理定規は振り向かず、そう。と言ってから車まで歩き、中に乗せてあった彼女の荷物を渡して再び車へと向かい、助手席に乗った。車のエンジンの音が静寂の夜空に響き、まっすぐな光を振り回しながらこの場から去るのを、初春は最後まで見届け、それから太陽の門の中に戻っていった。




その目尻には、小さな雫が溜まってあり、流れ出す前に彼女は右手でそれを拭った。




バックミラー越しの初春が見えなくなったのを確認した心理定規は、ドアミラーを開けて肘を少しだけ外に乗り出した。夜風が沈黙の充満する車内に流れ込む。




「猟虎。気にしないでいいのよ」




猟虎の肩が震えた。




「あなたなら、きっと私たちよりもっと素敵な友達見つけられるわよ。元の学生生活に戻って、そこできっと」




心理定規は猟虎の方を見る。彼女の肩の震えは全身に広がっていき、それがやがて声にも伝染していった。




「何で、そんなこと言えるんですか」




猟虎の膝下に、数滴の雫が落ちた。




「此の期に及んで、自分のことしか、考えれないのに、何で、そんなこと」




そこから言葉を繋げることができなくなった猟虎は、服の裾で涙を拭い、何も言わずに目の前の運転に意識を向けた。だが、涙はまだ止まらず、頬伝うそれを何度も裾で拭った。




心理定規はふうと息を吐き、夜が包み込む第10学区の街並みを見つめる。




(あなたとの心の距離は、結局埋められなかったわね)




込み上げてくる記憶や感情を一つずつ、丁寧に振り分けていくように、心理定規は思いに馳せる。




(あなたはこの街の闇を憎み、自分が闇に染まることも拒んだ。きっと、あなたは光を渇望していて、そして、恐れているんだと思う。あなたも本質は私と同じ、こっち側の人間だから)




志しは同じだった。だが、互いに見ていたものは違っていた。それに気づいても尚期待していたのは、自分の中に、彼に対する何かがあったからだ。心理定規は苦笑する。それが何なのかが嫌というほど分かって、自分でも馬鹿馬鹿しくなるからだ。




(あなたが答えを出す時に、私もそれを、ちゃんと伝えるわ。でも、本当に光を手にしたいのなら、光であろうとするなら、そこから目を背けないで。それがどんなに辛くても、恐れてちゃダメなのよ。帝督)




出来ることなら、彼の側に居て、彼が本当に望む道へ進んでいくのを支えたかった。でも、これから先それを果たすのに、自分よりもっと相応しい者がいる。彼女に任せよう。私は私の覚悟に従って、やるべきことをやろう。




そう思った彼女の口から、自然に一つの言葉が漏れ出した。




「ごめんね、帝督」




「気にしないでください。ありがとう。心理定規」




どこからともなく聞こえた声に、心理定規はハッとし、猟虎の方を見た。だが彼女は腫れた目と、不思議そうな顔で自分を見ているだけだった。




心理定規は気のせいだと思い直し、背もたれに体を委ね、ドアミラーを閉じていった。








「…………垣根さん?」




先ほどの彼らが話していた部屋に訪れた初春。しかし既に誰も居らず、ろうそくの火も消されている。初春は廊下を折り返して歩き出した。リビングを超え、食堂を過ぎて、建物の端にある個室へと向かい、扉を開ける。




「ここに居たんですか。垣根さん」




そこは職員用のベッドが置かれた寝室だった。ベッドの上に彼は、右手の甲を額に当てて、仰向けで横たわっている。手にしていたカバンを小さなテレビの横の台に起き、初春は彼の足元に腰掛ける。




初春は彼を見る。両目は手で隠れて見えず、口元は固く結わえたまま動こうとしない。自分の小さな指が彼のズボンの生地に触れた。初春は何か言おうとするが、それは喉元で泡となり、消えていく。




「やれると思ったんだ」




すると、先に垣根が口を開いた。




「深い絆なんぞで結ばれちゃいなかったが、それでもあいつらとは分かり合えるんじゃないかって思ってた。利用し、利用し合うような関係じゃねぇ。同じ目的を共有できるような、そんな関係に、なれるんじゃないかって。バカみてぇだよな。笑えるぜ。ホント」




彼の口元に笑顔はない。初春は返答をせず、ただ、彼の想いを受け止めることを選んだ。




「結局、俺はあいつらのことなんか、何も見ちゃいなかったってことだ。そしてあいつらも、俺のことなんか信じちゃいなかったって、そういうことだよな」




初春は答えない。胸の中には今にも決壊しそうな感情が渦巻いてるが、それを抑えて沈黙を続ける。




「これじゃああのガキたちも、何一つ救われねぇ。俺のことももう、信用しちゃいねぇだろうよ」




垣根の放ったその一言が、初春の心の結界を砕いた。




「それは違います」




「あ?」




垣根は手を退け、初春を見る。




「垣根さんが、あの子達を闇の中から救い出したのは事実です。これまでの子供達も、同じように救ってきたんじゃないんですか? それが今更怖気付いて、何弱気なことばっかり言ってるんですか」




一度堰が切れた感情を止めることはできず、初春の語調は次第に勢いを増して言った。




「誉望さんが死んで、猟虎さんと心理定規さんも離れていって、辛いのは分かります。でも、垣根さんこうなる前にちゃんとあの人たちと話そうとはしたんですか? さっきの子供にしても、碌に話もせずに決めつけたようなこと言って、そんなんだから誉望さんだって、だんだんあなたを信じれなくなっていったんじゃないですか?」




垣根は一言も発さず、ただじっと、初春を見ている。俯きながら話し続けている彼女の顔は、とても苦しそうだった。




「太陽になりたい。闇を照らしたい。それは分かります。じゃあ本当にしなければならなかったのは、そういうことじゃないんですか? 今の、不貞腐れているだけの子供みたいなあなたを見てると、そう思わざるを得ません」




そこまで言い切った後、初春は急に語気を弱め、ごめんなさい。と言った。




途端に垣根は初春の肩を掴み、自分の胸元に引き寄せた。彼女は驚いた顔をしたが、何も言わず、そしてそのまま彼の胸元に頭を乗せる。彼の感触を、今は手放したくない。そう思ったからだ。




「俺はどうしたらいい」




すぐ側で彼が囁く。




「それは、私の決めることじゃない」




初春は返す。静かな時間が、2人の間に流れる。





「でも、これだけは言えます。私は、あなたの味方です」




初春は肩を掴む彼の右手に、左手を添えた。あの時と同じく、冷たくて、人間のそれとは思えない不思議な感覚。今度は驚くこともなく、しっかりとその手を掌に包み込む。







「寒くないですか? 垣根さん」







「大丈夫だ。心配いらねぇよ」







垣根は初春の手を強く握り返した。それから2人は言葉を交わさず、ただ静かな時間を共に過ごした。時計の秒針の音と、彼の吐息と鼓動の音を聞きながら、初春はゆっくりと眠りに落ちていった。




…………………………。




ショーウィンドウの前を通り過ぎる自分の姿を見つけた初春は、そこで立ち止まり、身だしなみを確認する。白いPコートとその中のボーダー。黄色のプリーツスカートと、黒いヒールを履き、花も今日の気分に合わせたものに取り替えている。上機嫌に唇にグロスを軽く塗り、初春はまた歩き出した。




そして待ち合わせの公園のベンチにたどり着き、彼を待つ。手鏡を見ながら髪や花をいじっていると、向こうから人影が見えた。初春は立ち上がる。




「垣根さん! こっちこっち」




初春は手を振りながら彼を呼ぶ。こちらへ近づいてくる彼はほくそ笑見ながら、軽く手を上に上げた。




「張り切ってんじゃねぇか初春。そんなに俺が待ち遠しかったか?」




初春の元にたどり着いた彼はそう言った。




「ち、違いますよ。楽しみにしてたのは、今日のカフェでの食事です。ほら、行きますよ」




初春は顔を赤らめ弁明する。垣根ははいはいと笑いながら、互いに横に並んで歩きだす。




「いやあ。ようやく垣根さんとあそこに行けますね。前から約束してましたもんね」




「だな。お前、ずっとあそこに行きたがってたもんな。何であそこにこだわってるんだ?」




「いやあ、だってそれは」









初春はそこで足を止め、表情を固まらせた。これから2人で行こうとしているカフェ。そう言えば自分は、何故あそこを選んだ?









「思い出の場所なのか?」




垣根は横で初春に問いかける。彼女は狼狽しながら彼を見つめ返す。彼は笑っている。いつもの悪戯小僧のような不敵な笑みではない。大人びて、憂いを宿した柔らかい笑みだ。




「それは、だって、約束してたから」




声が震える。今現在に、蔓延る違和感に背筋が痒くなる。




「誰と?」




「垣根、さんと……」




初春は彼の右手を見た。すると、指先が乾いた絵の具のようにひび割れていた。




「そう。私は、あなたと約束した」




普段の彼なら絶対に使わない敬語が耳に入り、初春の違和感が最高潮に達した。そして、彼の指先のひびが全身に侵食していき、パラパラと崩れ落ちながら、表皮の下の白い肉体が次々と露わになっていく。




「垣根、さん? いや、違う、あなたは…………」




薄れていく意識の中、目の前の白い男は、こちらに微笑みかける。包まれるような穏やかな緑色の瞳と目があった時、初春の意識は、完全に途切れた。








目を覚ました時、最初に視界に入ってきたのは薄暗い天井だった。手を二回ほど握り、体を起こすと、初春は自分が太陽の門の寝室にいることを確認した。




(あのまま寝ちゃってたのか。私)




ベッドに座ったまま窓の方を見ると、夜明け前の静かな明るさがそこに差し込んでいる。部屋の輪郭も次第にくっきりしていき、初春の思考も同じように明確になっていく。




(さっきの夢、一体なんだったの)




垣根の表皮が崩れ落ち、真っ白のマネキンのような姿になっていったあの夢。シュールな夢の一言で片付けられない予感が、今も胸の中に溢れている。




初春はハッとし、枕元に振り返る。既にそこには垣根の姿はなかった。初春は立ち上がり、テレビの側に置いた鞄を持って部屋を出た。








同じ頃、一足先に起きていた垣根は、子供たちの眠る寝室へと向かっていた。平行に並んだベッドの周りを歩き回り、その中の一つに手をかけ、眠りについている少年を見つめる。




「お兄ちゃん。起きてたの」




不意に少年が目を覚ました。垣根は落ち着いた声で、ああ。と返す。



「昨日は、すまなかったな。怖かっただろ。あんなことがあって」




囁くような声で彼は言う。少年は昨日を思い出したのか、布団の端をぎゅっと握ったが、すぐに笑顔を取り戻して答えた。




「大丈夫だよ。だって、昨日初春のお姉ちゃんが言ってくれたもん。お兄ちゃんがいるから、僕たちは心配しなくていいって」




垣根の目が少しだけ見開く。自分が心理定規と猟虎と話している間、あいつはずっと子供たちを励ましていたのか。垣根はそっと笑いながら言った。




「優しいだろ。あいつ」




「うん。お姉ちゃんも優しいし、お兄ちゃんも、優しいよ。ありがとう。僕たちを助けてくれて」




垣根は笑う。顔を俯かせ、小さな声で笑う。そして、少年の目をじっと見つめて言った。




「心配するな。俺が何とかする。お前たちはもう、何も怖がらなくていいんだ」




そう言い残し、垣根は寝室を後にして、玄関を抜けて外へ向かった。東の空から、祈りの歌声のように輝かしく太陽が浮上しているのが見える。空とビルの境目を満たす黄金の光を眺めながら、垣根は背中から、純白の6枚の翼を顕現させる。




(もう、大丈夫だ。これで何もかも、全てがうまくいく)




言い聞かせるように心の中でそう言った彼は、両手を広げ、翼に意識を集中させる。6枚の翼の周囲に黄金の絹の糸のようものが現れ、彼の周囲を揺蕩い始める。全ての理を手中に収めるような力の波動が、全身に流れしたのを感じた彼は、恍惚と安堵の混ざったような微笑を口元に浮かべた。






「…………垣根、さん?」






垣根は後ろを振り返る。目の前の現象を信じられないような目で見る初春がそこにいた。彼は慌てる様子もなく、力の制御に取り組む。




「垣根さん、ちょっと、何しようとしてるんですか? 一体これは」




状況を掴めない初春に、垣根は諭すように答える。




「初春。俺は今から全てを終わらせる。これできっと、全てが救われるんだ。だから、お前ともここでお別れだ」




困惑したままの初春は、何も返すことができない。垣根は最後にと思い、自分の感情を打ち明けた。




「この世界でお前に会えるとは思ってもいなかった。最初はただの気まぐれみたいなもんだったが、何でだろうな。いつからか、お前が側にいて欲しいって思うようになってた。短い間だったけど、意外と楽しかったぜ」




じゃあな。垣根はそう言い、翼を翻して力を解き放とうとした。初春は巻き起こった風圧にたじろぎ、顔を腕で覆った。一瞬、腕と肘の隙間から見えたのは、純白から黄金に色を変える彼の6枚の翼だった。何か巨大な力がここに振り落ちる。初春はそう直感し、目を思いっきり瞑った。











だが、次の瞬間、垣根の6枚の翼は空中に溶けるように霧散した。











「なッ」




辺りを羽毛の群れがはらはらと舞い落ち、それが朝日を浴びて透けるように輝く。突如訪れた朝焼けの中の静寂に、初春は、そして垣根は呆然とした。




「……何だ。どういうことだ? 今俺は確実に世界を変えようとしていた。何があった。何故急に力が!」




垣根は混乱し、取り乱す。初春はその場に立ち尽くしたままだったが、頭の中で、とあることを思い出していた。




(ここ最近、多発している能力者による能力不全。まさか、今ここで?)




彼と出会った日、黒子と話していた怪現象。それがこのタイミングで発動したのか。初春はその記憶を掘り返しながら、ふとバッグの中で、何かが白く光っていることに気づき、それを取り出した。




「ッ、これ…………」




それはいつからか所持していた、白いカブトムシのキーホルダーだった。眩い光を放つそれを見た垣根は、目を大きく見開いたまま固まってしまった。




「……フッ、クハハハ……アハハハハハハハハハハハハハッ!」




大声で笑いだす垣根。全てを理解した者、証明を解き終えた者特有の快活さすら感じる笑いっぷりに、初春はたじろぎ、声をかけようとした。




その時、垣根は瞬時に初春との間合いを詰め、彼女の首根っこを掴んで玄関の柱に力強く押し付けた。衝撃により初春は枯れた声と唾を漏らす。視線の先には鬼気迫る顔の垣根と、地面に転がったカバンと荷物、そして、白く輝くカブトムシが見える。




「か、きねさん、何して……」




恐怖と混乱が頭を支配する中、何とか外へ絞り出した問い。垣根は怒気を打ち消すように笑う。だかそれは、今まで見せたことのないような邪悪さがこもった笑みだ。




「ハッ。何だよ。結局そういうことかよ。どこまでもお前は俺の邪魔をするってことだな。オイッ! 早く出てこいよ! 今ここに、助けを乞う女の子がいるんだぜ!」




垣根は叫ぶ。それはある種の慟哭のような声の荒げ方だ。初春は自分の首を締め付ける彼の手を握り、何とか引き剥がそうとする。




「なんなんですか! 一体、どうして、お願い。垣根さん! 止めて!」




掠れた声で哀願する初春。足をジタバタさせ、拘束を解こうとするが彼は微動だにしない。




「何も知らずにいれば、幸せなままだったろうに。初春。お前、薄々感じ始めてるんだろ? この世界の違和感によ。こうなった以上教えてやるよ。お前、俺と出会った時のこと覚えてるか?」




冷たい眼差しが、涙の滲んだ初春の瞳を突き刺す。




「出会った時のことって、それは、あのカフェで……」




「そうだ。お前と俺はあそこで出会った。この世界でも。そして、元の世界でもな」




元の世界。その言葉に、初春の脳裏に漂っていた違和感の霧が、少しず消滅していく。




「元の……世界?」




フラッシュバックする映像。10月9日、カフェのオープンテラス、御坂美琴に似た少女、パフェ、右手に大きなピンセットをはめた謎の男、そして、痛み。




垣根は言う。








「まだ思い出せないのかよ。『お嬢さん』」








そう。その男は、自分のことをそう呼んでいた。そして、その男は自分にこう尋ねて来ていた。











ー垣根帝督。人を探しているんだけどー











「……あな、た、は」




失われていた記憶が、元の姿を現す。それは、こことは違う別の世界の記憶。いや、本来の自分の中に根付いた、真実の記憶。






「私を、殺そうとした!」






完全に思い出した。目の前のこの男は、闇を憎み、太陽になろうとした不殺を誓うこと男は、かつて自分を殺そうとしていた。自分の肩を踏みつけ、支配者の笑みで自分を見下すその姿が、目の前の彼とリンクした。




「そうだ。俺はお前を殺そうとしていた。全部思い出したようだな。どんな気分だ? そんな男の味方になろうとしてたなんてよ! アアッ?! どうなんだよ?!」




垣根は初春の首を握る手に更に力を込める。初春は悶絶し、体を激しく揺らす。薄くなる意識の中で、彼は自分に問い続けている。それはどこか自棄を孕んでいるような勢いだ。




「、けて」




初春は何か言おうとする。蘇った記憶の中から、自分に笑いかける誰かが見える。彼女はもう、ちゃんと分かっている。それが一体誰なのかを。




初春は、叫ぶ。




「助けて!」




その瞬間、地面に転がった白いカブトムシの発光が増し、白い光の柱のようになった。垣根と初春はその方向へ視線を移す。




そして、光の柱の中から現れた人影が、垣根へと突進し彼を吹き飛ばした。垣根は数メートル先まで飛び、土埃を巻き上げて地面に転がる。初春は呪縛を解かれ、あうやく地面に落下しそうになるが、その体をそっと、白い腕が抱き抱えた。




「お待たせしました。初春さん」










この声。そしてこの感触。確かに覚えている。前にも同じ様に、彼にこうやって抱えられてた。朝日が完全に浮上し、黄金色を世界にもたらす。その光が、彼の姿を明確に、初春の視界に映し出した。









「さあ。目覚めの時間です。帝督」











白き男。垣根帝督はそう宣言した。











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