2017-07-04 23:23:01 更新

前書き

これで完結です。





…………………………。




彼女との日々は、彼にとってかけがえのない幸福な時間だった。彼女は彼の半身だった。共に学園都市の闇に立ち向かう同士にして、愛すべき者。大切な人。彼には彼女が必要で、そして彼女も彼を必要としていた。




また、時の流れはいつしか彼らの仲を男女のそれへと変えていき、作戦のない日は2人で街へ繰り出し、甘い一時を過ごしていた。




彼女の服も彼が新調し、羽衣のような白いレースのワンピースに、胴に茶色の細いベルトを巻き、同じ色のヒールを履かせることで、彼女の埋もれていた女性らしさを呼び起こさせた。彼女も最初は恥ずかしがっていたが、慣れていったのか彼と遊ぶ時は大体その姿になった。




そんな日々が2年と過ぎた。あいも変わらず、暗部との戦いを繰り返す毎日だったが、その中で彼は次第に焦りを感じていた。




一体いつまで戦い続ければ、この街の闇は消えてなくなるのか? 終わりの見えない戦いの中で次第に彼の精神は消耗していった。




一度見逃した敵がまた、同じような施設で同じような実験を行っていたこともあった。




救い出した子供たちの体内に小型爆弾が仕込まれていて、脱出と同時に敵に「爆散」されたこともあった。




自分のしていることを悉く踏みにじる暗部の「悪意」は、想像を上回る勢いで彼を蝕んでいった。




そして、それと同時に見過ごせなかったのが、彼女の体だった。




気づけば彼女の体には、治癒しきれない痛々しい傷跡がいくつか残っていた。元々無能力者で、重火器や近接戦闘を戦いの主とする彼女では、戦いの度に傷が増えて行くのも無理はなかった。




治療を施す際、苦しい声を上げたり、時には泣き叫び、地べたにうずくまる彼女を見るのは、彼にとって耐えられない光景だった。




何より、どんな激しい戦いの後も傷一つ負わない自分と、癒えぬ傷が増えて行く彼女を比較してしまい、いつしか彼の心は真冬のように冷たい罪悪に満たされて行った。




彼の憔悴を隣で見続けていた彼女は、3月のある日、彼を第21学区の小高い丘の上へと連れてきた。




既に日は沈み、前方には学園都市の眩い灯が広がっている。時々ここに来てるの。彼女はそう言って芝生に座った。彼も後を追うように座り、2人は夜景を見ながら語り出す。




ーごめんね。私が弱いから、そんな風に心配かけちゃってー




彼女の言葉に彼は怒気を込めて止めろ、と言い換えした。そしてしばらく考え込んだ後、一言ずつ丁寧に、彼は彼女に伝えた。





ーもう、お前は戦わなくていい。大丈夫だ。俺1人で何とかするよー




2人の間に流れる沈黙と夜風。彼女は、彼をただ見つめる。その透明で揺るぎない視線に、彼は目線を合わせることはできない。




そして、彼女は張り詰めた空気を綿で包むように笑った。




ー私は、何も傷付かずにアンタの側にいることの方がよっぽど辛いの。ずっと一緒にやってきたじゃない。いいことだけじゃない。迷いも、苦しみも、味わうならアンタと一緒がいいのー




一瞬の曇りもない発言だった。彼は心にかけられていた重い鎖が緩むのを感じた。だが、やはりまだきつく、心に食い込んだ鎖の痛みは彼を更に不安に追いやり、それを解くために彼は質問する。




ー本当に、お前はそれでいいのか? 俺は超能力者だから、傷なんて何でもない。でもお前はー




そこまで言った彼の口を、彼女は人差し指で塞いで、その後に続けた。




ー知らねぇよ。そんなの。アンタ、そう言ってたでしょ?ー




彼女の笑みを見て、彼はもう疑うことを止めた。彼女は既に覚悟できている。自分が本当に恐れていたのは、今ここで怖気付いてしまったこの魂だ。彼はそれに気づき、彼女と同じように笑い、彼女を抱きしめた。




ー悪かったな。これからも一緒に、よろしく頼むぜー




彼女は首を縦に振り、ええ。一緒に戦いましょう。と言った。




そこで、彼は彼女の背後のあるものに気づいた。それは、白いアネモネの花だった。







ー綺麗ー







ーああー







互いの体が、そっと触れ合い、彼女は彼の方へ振り返る。



2人は微笑み、そして、何も言わずに唇を重ねた。永遠にも近い時間が、2人の間に流れた。




帰り道、無言の時間が長く続いた。合間に適当なことを話しては、まだ黙りった。それがもどかしくもあり、また幸福でもあった。




そうしそうしている間に2人は丘の麓まで降り、帰りのバスに乗った。車窓からの景色の灯りはまばらだったが、街の近くへと近くごとに輝きを増していった。2人はそれを眺めながら適当なことを話していた。バスはそろそろ、第4学区に差し掛かろうとした。




だがその時、バスの前方に、2台の黒いバンが現れ道を塞いだ。




運転手と他の乗客はざわざわとしたすが、2人は落ち着いて、自分たちを下ろすように運転手に頼んだ。




バスから降りた途端、8人の重武装の男たちが2人に銃口を向けた。後ろの方でざわめきが聞こえるが、2人は一向に気にしない。すると、バンの中から白衣を着た老年の研究員が現れた。




彼は思わず鼻で笑う。その老研究員は一度襲撃した組織のトップだった男だ。俺への復習が目的か? と彼は老研究員に聞いた。




彼は顔の皺と無精髭をにんまりと広げ、彼に宣言した。




ーそれもあるんだけどね、そろそろ潮時かと思ったんだ。君の元に送った彼女が、どれほど君に影響を与えたのかを見るのにねー








「ずっと待ち構えてた、ってわけか」




土埃を払いながら、彼は立ち上がる。




「待ち構えてた、というのは少し違います。この世界に『移動』するのに時間を有しただけです。まあ、多少の干渉はできたので、あなたの行動も見させてもらいましたがね」




垣根は明瞭な声でそう言う。彼の腕の中の初春は、まだこの状況になれないのか戸惑いを隠せない瞳をしている。




「ハッ。そうかよ。それじゃあ、分かるよな垣根帝督。俺はさっさとこの世界を改変して『次』に行きたいんだよ。邪魔、しないでくれるか?」




彼は自分自身の名前を、目の前の男に向かって告げる。だがそれは、逆説的に相手の存在を認めないことを誇張する言い方だった。




「いいえ。そうはいかない。この世界での貴方を見ていて分かった。貴方は、ここで私が止めなければならない」




垣根の宣言に一切の迷いはなかった。




「垣根さん……私…………」




垣根は胸元の初春を見て、優しく笑い、彼女を地面に下ろした。




「分かりますよ。貴方だって、彼に募る想いがあることを。でも今は、彼がしようとしていることを止めなければならない。彼と話すのは、その後でよろしいですか?」




少ししゃがんで、自分にそう言ってきた緑の瞳をしっかりと見つめて、初春は頷いた。垣根は立ち上がり、もう本来の自分の方へと向かい歩き出す。




「結局、お前とはこうなる他にないか。覚悟しろよ、虫ケラ」




彼は迫り来る垣根を蔑んだ目で睨み、口元に笑みを貼りながら6枚の翼を広げた。垣根もそれに対して、同じく6枚の翼を背中から生やす。




「ようやく、この時が来ましたね」




垣根はそう言った後、少しだけ口元を緩めた。






次の瞬間、両者の距離は消滅し、拳と拳の激突による衝撃波が発生した。







「ッ!」




初春は後ずさる。そして両者は音速で朝焼けの空へ舞い上がり、この場から姿を消した。跡地に舞い落ちる羽の群れを見て、彼女は息を呑んだ。




「本当に、ようやくだな。クソッタレ」




後ろからの声に初春は反応し、振り返る。そこに居たのは、玄関から外に出てきた杖をつく白髪赤眼の男。その周囲には先ほどの激突の衝撃で目覚めた子供たちが何人か付いて来ている。




「第1位さん! あなたもこの世界に?」




初春の問いに、学園都市第1位の能力者、一方通行は気怠げにああ、と返した。




「初春の姉ちゃん。この人誰? 急に現れたんだけど」




「あれ? 垣根の兄ちゃんはどこに行ったの? ねえねえ、知ってる」




周囲の子供たちは彼の服の裾を掴み、執拗に質問を続ける。彼は軽くそれを払い、初春の横まで向かう。




「……私、ずっと思ってたんです」




横の彼の方には向かず、初春は語り出す。




「私を殺そうとした、本来の垣根さんとも、いつか向き合いたいって。叶わない願いなのは分かってました。でも、そうしないと、垣根さんのことが、いつまでたっても信じ切れない気がして、怖かったんですよ」




初春は一方通行の方を向く。




「あの人は、生きてたんですね。垣根さんは、それを知っていた」




一方通行はさっきと同じようにああ、と言った。




「俺があいつに聞いたンだよ。本来のお前はどこにいるって。あいつもあいつで、ウジウジとしてたようだからな。それでもあいつは自分の過去にケリ付けようとした。お前は、どうするつもりだ?」




一方通行は視線を彼女に移す。彼女の瞳は憂いを宿しながらも、迷わない決意を秘めている。




「答えるまでもないですよ」




返答を聞いた一方通行はしばし黙して、そして口を開いた。




「もっと早く、必要だったのかもな」




え? と初春は言ったが、直後に一方通行は彼女を両手で抱き抱えた。




「なンでもねェよ。さあ、後追うぞ」




一方通行は前方へ歩き出し、背中から4枚の竜巻状の噴出を発生させる。しかし、初春はあることが気になっていた。




「……第1位さん。腕、震えてません?」




自分を抱える細い両腕が頼りなく震えているのを背中から感じた初春はそう聞いた。彼の性格からして恐怖ではないことは分かる。つまり、物理的な問題だと初春は察した。




「アァ? 全然震えてねェよ。これくらい余裕だクソッタレ」




「あの、無理しなくていいですよ? 別に空飛ぶ以外にも移動方法があれば」




「大丈夫だつッてんだろ!」




瞳孔の開いた赤い瞳に睨まれ、初春は黙り込んだ。すぐ側で、全然行けるんだよ。と自分に言い聞かせるように呟く声を聞いて、思わず胸元で笑いそうになった。




(……垣根さん、全てを分かった今だからこそ、話したいことが山ほどあります。だからまずは、自分自身に負けないでください)




行くぞ。と声がして、その瞬間には初春の身体は空中に居た。




「しっかり掴まってろ」




彼の言葉通り、初春は身を固めた。








「ねえ。あれ何?」




11学区を流れる高速道路を運転する一台の乗用車。その助手席に座る8歳ほどの少年が、バックミラーをじっと見ている。少年の父親は自分側のミラーを覗き込んだ。




「ッ! な、何だ?」




そこには6枚の翼を掲げた2人の男が、互いに接近しては一撃を加え、一進一退の攻防を繰り返しながら、高速の上空を前進している光景だった。父親は思わず見とれたが、すぐに前方の運転へ意識を向け、アクセルを踏んでスピードを早めた。




「映画の撮影かな? 2人とも凄い能力だったね」




「あ、ああ。かもな。やっぱり学園都市は凄いよ」




引きつった笑顔で父親は答えた。そして、本当にこんなところに息子を預けていいのだろうか、としばらく思索していた。




一方、上空の2人の男。翼だけではなく、容姿も瓜二つの男たちは、張り詰めた表情で、時には笑みを浮かべながら激突を繰り返している。両者の違いと言えば、片方は蝋人形のように真っ白な身体と、人工的な緑色の瞳をしているくらいだ。




「さあ垣根帝督! 遊んでやるのもこの辺にしといてやるよ! こんな戦いはさっさと終わらせたいもんでな!」




「来るがいい。貴方の全力を受け止め、その上で貴方を超えてみせます。帝督」




彼らは互いに、同じ名前を呼んだ。




「抜かせ。本来なら、お前如き既に世界改変で存在ごと消したはずだった。だがこうして目の前で生きていることと、改変の能力が封じられたことを考えると、別の方法で攻めた方がいいらしいな」




冷静な瞳の奥に憎悪をちらつかせ、彼は垣根を見、そして右の掌を翳した。






次の瞬間、垣根の身体の左半分が吹き飛んだ。





「グアッ!?……」




彼は驚き、バランスを崩して地面への落下を始める。しかし途中で半身を再生させながら、体勢を立て直し、再び上昇を始めようとした。




「無駄だ虫ケラ」




間髪入れず、見えない一撃が垣根の右腕を吹き飛ばし、続けて胴体を真っ二つに切り裂いた。損壊した箇所の周囲にひびを入れながら、上半身だけになった彼は落下する。身体の半分が再生途中の彼の姿は、まるで制作途中で放り出された粘土細工のようだ。




「……なる、ほど。貴方のその力、純然たる魔神のものではないらしい」




落下しながら垣根は呟き、一気に全身を再生させた。翼をはためかせ、高速の高架下を潜り抜け再び前進する。背後から追跡してきている彼を少し振り返る。




「まあな。本来の魔神の力、何てものは流石に扱いきれる代物じゃねぇ。だから俺は、全体論の超能力に魔神の力を組み込んだ」




全体論の超能力。マクロの世界を歪めることによりミクロの世界に影響を及ぼすという、軍神の槍の創造にも用いられた新たなベクトルの超能力理論。垣根は船の墓場で、彼がこの理論について少しだけ触れていたことを思い出した。




「この全体論にはある特徴がある。マクロを変化させ、ミクロに影響を及ぼすのがこの理論だが、その影響は時間軸を超えて発動できるんだよ。俺はこれを利用し『過去を改変した』。すなわち、軍神の槍で制御した魔神の力でマクロの世界を歪め、過去の一瞬に干渉し、バタフライ効果で世界を作り変える。これが世界改変の真相だ。そして今は、『5秒前のお前』に干渉して、攻撃を加えている」




彼は笑う。




「過去への攻撃を防ぐ手段なんてものはない! 例え第1位のベクトル操作だろうと、演算する暇もない概念上の攻撃を反射するなんてできやしねぇだろうかな!」




彼は再び手をかざし、5秒前の垣根に遅いかかる。陽炎のように全てがぼやけた世界。右腕は崩れ、上半身だけになった垣根の首を切り落とそうと、彼は翼の一枚を垣根に振り下ろした。







だがその時、存在していないはずの垣根の右手が、彼の攻撃を受け止めた。








「これが貴方が、修羅の果てに掴んだ力ですか。だとしたら、余りにも悲しい。この翼の先から伝わってくるのは、貴方の幼稚さと、深い嘆きだけだ」




垣根は彼を見据えてそういった。気づけば世界は視界のはっきりとした、現在の世界だった。彼は翼を元に戻し、舌打ちをした。互いに高架下から再び上空に舞い上がり、彼は垣根に言う。




「何をしたんだ?」




「気づいたんですよ」




垣根は自分の真っ白な掌を見つめる。




「こんな身体になったからこそ、分かったことがたくさんあります。未元物質とはどこから来たのかというのも、その1つです。貴方も一方通行との戦いで少し分かっていたようですが、まず前提として、この能力と、そして一方通行は虚数学区の制御のために作られたものだ」




虚数学区。学園都市の能力者たちが発生しているAIM拡散力場を集合させ、出来上がった人工的な異世界。かつて純粋な人間だった頃の自分を完膚なきまでに叩き潰した一方通行の黒い翼を見て、垣根は虚数学区の意味と、自分の役割というものを察していた。




「そこまでは分かっている。だから俺はあの時、AIM拡散力場の流れを操作し、未元物質の出力を最大限まで上げた。だがそれでもあの黒い翼には敵わなかった。あれはAIMだ虚数学区とかで表せる代物じゃねぇ」




かつての敗北を思い出しながら、彼は言う。




「その通りです。彼の翼は虚数学区のその先の次元から引用したものだ。その次元こそが、未元物質の起源なんですよ」




彼の目元が僅かに震えたのを見て、垣根は一拍を置いて続ける。




「帝督。貴方も魔神の力に触れたものとして分かるでしょう。私たちのいるこの世界は、様々な宗教の世界をモチーフとした『位相』というフィルターが重なりあい出来ている。この位相越しに私たちは世界の全てを認知している。だが、その位相に頼らない、本来の世界というものがあります。『真の科学の世界』と呼ぶべき、真っさらな世界が」




垣根は明瞭な声で、彼に告げた。







「未元物質とは、そこから来た物質だ。純粋な物理法則のみが支配する世界。その世界を支える素粒子こそ、この未元物質だ」







彼はその真相を聞き、一瞬小さな声を漏らしたが、すぐに納得したかのような口を結わえた。僧正から魔神の力を読み取ったあの時から、どんな魔術にも根付いていないこの力の正体がそういうものであることを、薄々感づいていたからだ。




「そして帝督。まだオリジナルの肉体が残っている貴方とは違い、私は全身を未元物質で構築している。つまり、私という存在は、『真の科学の世界そのものと結合している』と言えませんか?」




彼はそこで目を凝らした。目視数メートル先の垣根の6枚の翼が、根元から眩い銀色に染まっていっているのだ。




「真の科学の世界とは『法則』の世界。私は私を基準として、真の科学の世界をこの世に拡張し、あらゆる法則を自由に塗り替えることができる。『法則の制御』これが未元物質の本質だ。そして、この段階に達したものを、学園都市ではこう呼んでいる」




垣根は微笑を浮かべ、言った。










「絶対能力者。レベル6と」









言い終わったと同時に、垣根の翼は銀色に染め上がり、鈍い光を周囲に放った。あらゆる色を内部に詰め込んだように、怪しく光るそれの周りには青いオーラのようなものが揺蕩っている。




「……ハッ。なるほどな。俺の世界改変の影響を受けなかったのも、その真の科学の世界とやらに自分の存在と、第1位のクソも一緒に避難させてたってことか。この世界に拡張できるってことは、その逆もできるだろ」




「ええ。そしてこの世界と、真の科学の世界を隔てる『門』の役割を果たしているのが、虚数学区です。しかし何分慣れていませんから、虚数学区を通しての移動の際に、多少強引な演算をしてしまいましてね。学園都市全体のAIM拡散力場に多少の乱れを生み出してしまいました」




「それがここ最近のチンケな事件の正体ってわけだな。やれやれ。こいつは困った。全ての法則を制御。レベル6、ねぇ。そいつは少し厳しいーー」




垣根の圧倒的な能力の説明を聞いても尚、余裕げな表情と口調を崩さない彼は、口調を荒げていった。




「なんて思うわけねぇだろ!!!」




彼は再び5秒前の垣根に向かい、攻撃を仕掛けた。今度は逃げ場のないよう翼を縦横無尽に動かし、あらゆる角度から執拗に、垣根を切り刻もうとする。先ほどと同じように攻撃は途中で無効化され、再び現在の時間軸に戻り、垣根は高架下の柱の間や、その下の道路を通る車の頭上ギリギリを飛行し全て交わした。




「ッ!」




はずだった。垣根は左手を見ると、肘から先が切断されていた。彼はすぐさま腕を再生させ、自分の上空を飛ぶ彼を見上げる。




「全ての法則を制御する。確かにそれを自在に行えるってんならお前は『無敵』だよ。だが最大の弱点は、お前本体に明確な自我があることだ。かつて俺の悪意の抽出体が、未元物質の全能性に飲み込まれて自滅したように、何も考えず世界を拡張させ続ければお前の意識はいずれ薄れていき、消滅する。だろ?」




彼は悪意のある笑みで垣根に尋ねる。




「現に今、俺の世界改変を防ぐためにこの世界のどこかに真の科学の世界を拡張させているようだが、その分お前のキャパシティは消費されている。お前の周囲にまで連続して拡張できる時間は、10秒もないってところか。悲しいなオイ。せっかくの無敵の能力なのに、お前の存在そのものと演算能力がまるで追いつけていねぇ」




流石自分だと言わんばかりに垣根は肯定の笑みを浮かべた。




「ええ。実際、本物のレベル6には到底及んでいません。その最も近いところに辿り着いただけです。完璧な制御のためにはまだ時間がかかります」




だが、と垣根は言う。




「これで貴方と、対等に渡り合える。それだけで十分だ」




対等。その言葉が気に食わなかったのか、彼は余裕の表情の中に黒く濃い怒りの雫が混ざり込んだような顔をした。




「しかし位相の話を持ち出すとは。どうやらお前の未元物資の覚醒には、また別の誰かが噛んでやがるな?」




垣根の質問に、彼はええ、と答える。






「とあるヒーローと、その仲間たちに助言を頂きましてね」










「そっか……フィアンマから名前聞いた時は思い出せなかったけど、あんたのことだったんだな。でも、よく俺の家分かったな」




「カブトムシさんとして、学園都市中にネットワークを広げている私にとって匿名性というのはあまり意味を成しませんから」




「……なんか、ちょっと怖いな」




心配せずとも、悪用する気などありません。と垣根は上条に返す。彼らがいるのは第七学区。上条当麻の暮らす寮の一室だ。




時は遡り、垣根が船の墓場へと向かう前日の夜。一方通行と別れた後、彼は以前学園都市の上層部から受け取ったある指令を思い出していた。




船の墓場から脱走した魔神オティヌス。そして上条当麻の抹殺。




以前、上条とはとある事件で共闘をした中だった。あれ以降会っていないのだが、あの指令からして彼は船の墓場を一度経験している存在だ。それに、自分の領域外の非科学についても詳しいはず。現地に赴く前に、彼らの元を訪れてみようと思い、垣根は彼の住む寮まで向かい、こうして彼と話している。2人の同居人たちと共に。




「だがあそこで捻り潰してやったあいつの片割れが、お前のような男だとはな。少し意外だ」




上条の右肩に乗った15センチほどの小さな少女にして、元魔神オティヌスはそう言った。絵本の中の魔法使いが被っているような巨大な帽子。露出度の高い装飾の上に羽織ったマント。右目を覆う眼帯。姿だけ見れば、かつて世界を混乱に陥れた大規模な組織のボスだと到底思えない。垣根はそう感じた。




「それで、お前は一体何を聞きに来たんだ?」




オティヌスは垣根に聞いた。




「オティヌスさん。かつて船の墓場を使っていたものとして聞きたい。あそこで悪用されて困るようなものは、ありますか?」




垣根の問いに、オティヌスは少しの間宙を見て、そして答えた。




「私たちが軍神の槍の精製に使った、演算装置の群れがそのままだ」




軍神の槍。垣根はその物騒な言葉をリフレインする。




「私が魔術の神として、世界に混迷をもたらしたのは知っているな? 私は自分の魔神としての力を完全にコントロールするために、奴の能力を用いてその槍を作ったのだ。その際、複雑な演算を補うために島に漂流した様々な機材を並列に繋げ、演算装置を作り上げた。恐らく、今でも使おうとすれば使えるはずだ」




オティヌスの言葉を聞き、垣根は再び上条の方を見る。




「そして、先ほど教えて頂いたように、上条さんの知り合いのフィアンマさんは船の墓場で彼に会い、未元物質を受け取ったと。そしてそれを魔神との戦いで使用した」




上条はああ、と答える。垣根はしばらく考え込み、そして口を開いた。




「もしかすると、魔神の力を未元物質を用いて読み取り、再現しようとしているのかもしれません」




その言葉を聞いた上条とオティヌスは、にわかにも信じられないといった表情をした。




「垣根。お前、魔神っていうのを分かってないだろ。あいつらは『神』なんだよ。再現なんて、簡単にできるもんじゃないぞ。だろ? オティヌス」




オティヌスは首を縦に降る。それは自身の体験上、この上なく理解しているということが伝わる頷きだった。




「私は化学側の者ですから、魔神というものの凄さを理解し切れない。でも、貴方たちの顔を見ていればそれは何となく伝わります。だが、今話しているのは可能性の話だ。そして、貴方たちも分かってないでしょう。未元物質という能力が、どれだけの可能性を秘めている能力か」




垣根の返答に、2人は言葉に詰まった。上条はベットの方に向く。




「お前はどう思うんだよーーー







インデックス」







彼らの話を黙して聞いていた、白い修道服を身にまとった銀髪碧眼の彼女は、そこでようやく口を開いた。




「ていとく。あなたは、もしもう1人のあなたが魔神の力を再現できていたとしたら、何か対策を考えているの?」




「……私が予感している、未元物質の『ある可能性』の仮説を立証できれば魔神の力と拮抗するのは不可能ではない、と考えています。だが、それにしても私は魔術というものを余りに知らなさすぎる。だから、今日こうして貴方たちを訪ねたのです」




インデックスの質問に垣根はそう返した。互いの碧眼が、同一線上に並ぶ。




「私の頭の中には、10万3000冊の魔道書の知識が詰まっている」




彼女は神妙な面持ちで語る。




「この魔道書の知識を全て習得したものは、魔神にも等しい力を震える。でも、魔道書の原典っていうのは並みの魔術師じゃ扱い切れず、精神を崩壊させるような危険な代物なんだよ。まして、ていとくのような化学側の人間が、そんなことしたらどうなるか、想像に難くないんだよ」




インデックスの言葉に、上条とオティヌスは焦ったような顔をした。




「お、おいインデックス。お前まさか……」




「とうまは黙ってて」




上条の言葉を遮り、彼女は垣根を見据えた。





垣根はしばらく無言で彼女を見、そして彼女の額に手を触れた。




「ッ! おい垣根!」




上条は声を荒げる。垣根の身体は小刻みに震え出し、時間が経つにつれ、体の至る所に細い亀裂が走りだす。インデックスは目を閉じたままだ。上条とオティヌスは最悪を予感しつつも、これ以上何かを言おうとはしなかった。




緊張が走る空間の中、ある程度時間が過ぎていくと、変化が起こった。垣根の身体の振動が止み、全身の亀裂も徐々に再生していっている。




そして、インデックスの額に手を触れて10分程経った時、垣根は手を離し、ふう、とため息をついた。




「……なるほど。これでどうやら、私の考えていたことは正しいと証明された。インデックスさん。ありがとうございます」




垣根は乱れた髪を少し整え、彼女に礼を言う。彼女もまた、安心した表情で言った。




「本当は、こんなこと危険過ぎて絶対に承諾できないって思ってた。でも、ていとくの顔を見ると、断れなくなっちゃったんだよ。でも、本当によく耐えれたね」




垣根は疲労の読み取れる笑顔で、彼女の心配に答えた。




「能力者の脳の構造は、魔術と相成れることはない。それは分かっていました。ならば、『脳の構造を魔術に耐えられるように変換させ』れば、魔術にも耐えられる。そう思ったので、実行に移したまでです」




疲れ混じりの笑顔で語る垣根に、一同は呆気に取られた顔をした。科学と魔術の両立。それをいとも簡単に成せる能力。目の前のこの男は、明らかに「ヒト」の領域を超えている。皆はそう思った。




「すげぇ能力だな。お前のそれ」




「ええ。常識が通用しないのが売りなので」




上条の感想にそう答えて垣根は立ち上がった。




(……この世界に幾重にも重なる位相。そして、その最下層に位置する純数な科学の世界。この未元物質は、そこから来たというわけか。おそらく、一方通行の翼もそうでしょう。とにかく、アレイスター。私も、そして彼も、貴方の思い通りにはならない。この力は、私のものとして使わせてもらう)




「おい垣根」




思索を巡らせていた垣根に、上条が横から入ってきた。




「お前、もう1人の自分と決着付けに行くんだよな」




ええ。と垣根は答える。




「俺の話になるんだけどよ、前にこいつと戦って、その時俺は、自分の弱さって奴をことごとく思い知らされたんだよ」




上条は肩に乗ったオティヌスを指差す。彼女はバツが悪そうに視線を逸らした。




「だからこそ言えるんだけど、自分の意義や存在なんてのは、そう簡単に分かるもんじゃねぇ。掴めたと思ったら、それは幻想みたいにすぐに壊れちまうことだってある。オティヌスだってそうだった。自分の存在意義を生み出すため、何度も何度も世界を改変した」




上条は左の人差し指でオティヌスの帽子を突く。彼女は少し顔を赤らめて俯いた。




「でも、そうやって悩んだ末、オティヌスは俺の幻想殺しで作り上げてきた世界を壊し、この世界で罪を償うことを選んだんだ。垣根。悩んだ末の答えってのは、正しいかどうかじゃねぇんだ。そうやって絞り出した答え。それが今のお前そのものなんだ」




上条は右手を差し出す。




「お前のその答え。誰がなんと言おうと俺は肯定する。お前は垣根帝督の一部ってだけじゃない。悩み、覚悟し、前に進める、ただのカッコいい奴だよ。だから、負けんじゃねぇぞ」




上条の言葉に、垣根は小さく笑った。その後彼と握手を結ぼうとするが、寸前で手を引き下げる。




「貴方の右手と、私の身体は相性が悪い。残念ながら握手はできません。その代わり」




垣根は拳を握り、右腕を手前に差し出す。上条ももそれに答えて右腕を構え、2人は力強く互いの前腕をぶつけた。








(上条当麻。貴方は紛れもない、本物のヒーローだ。残念ながら私は、貴方のように強く、真っ直ぐ生きることはできない。能力に存在の全てを飲み込まれ、今にもかき消えそうなちっぽけなこの自我を、何とか保とうとしている哀れな私では)




垣根は翼を震わせ思い切り浮上し、高速道路と、もう1人の自分を上空より俯瞰する。




(それでもいい! 今の自分が、どれだけ惨めだろうと、滑稽だろうと構わない! 誰からも認められなくてもいい! 私自身が、誰よりも分かっている。私は垣根帝督だ。垣根帝督として、貴方に立ち向かって見せる!)




垣根は自分自身の過去へ向かい、特攻し、叫ぶ。




「帝督うううううううううううううッ!!!」




激しい翼の烈風が彼を包む。彼は小賢しいと言った表情で、同じように烈風を生み出し相殺させる。爆風が周囲に発生して高速道路の一部に切れ目を入れた。




「そんなに俺のことが目障りかよ! 俺さえ消せば、自分が穢れのない真のヒーローにでもなれると思ってんのかあッ?! つけ上がんじゃねぇよ虫ケラ! お前は未元物質で出来たただの人形だ! 何の過去も苦悩もねぇ、スッカスカの偽善者なんだよ!」




「黙れ! 私は垣根帝督だ! 誰が何と言おうと、垣根帝督なんだ! 垣根帝督として、貴方と向き合い、貴方を救わなければならないんだ!」




「その臭ぇ口を今すぐ閉じろ。俺を救う、だと? とことん俺をムカつかせるのが得意なようだなテメェは。俺を救うのは俺だ! 俺は俺自身の力で自分を救うため、学園都市のクソ共や魔神のブタ女にゴミみてぇに扱われながらもこの力を手にしたんだ! 誰も手もいらねぇんだよ! ましてやテメェなんかなあ!」




やがて2人は巨大な円状のインターチェンジに辿り着き、その中央を貫くように流れる直線の道路上へ着地した。四方から流れてくる道がこの一点で結び目のように絡み合い、上空から見下ろせばまるで一種の幾何学的な模様のようになっている交差地点だ。




「ここでケリつけるぞ」




彼はそう言って、手を上にかざす。すると、インターチェンジの周りを囲むように、透明な虹色の壁が発生し、一切の車の横行を遮断した。




「これで邪魔も、無駄な犠牲も発生しねぇ。悪ぃな。お前らもそこで見学してろ」




彼がそう言った直後に、上空から1つの白い影が虹色の壁の前に降り立った。垣根は振り返る。




「一方通行! 初春さん!」




第10学区から跡を付けてきた一方通行と、彼の腕に抱かれた初春。初春は彼の手を離れ、路上に降り立ち、垣根ともう1人の彼を見つめる。




「……いろんな恨みも辛みもあるだろうな。何にも知らねぇお前をいいように利用したんだからよ」




彼は無表情でそう言う。




「そうですね。私はあなたのことを何も知らなかった。だから、ずっと知りたかったんです。あなたのことを。約束してください。この戦いが終われば、全てを打ち明けてくれるって」




初春の言葉に、彼は少し口元を緩め、ため息と共に返答した。




「そいつは、できねぇ相談だ」




言い終わった瞬間、初春の足元から蚕の糸のような白い繊維が現れ、彼女を内部へと封じ込め、外壁を固め出した。数秒も経たぬうちに、繭状の白い塊が生まれ、宙に浮かんだ。




「彼女に何をしたんだ」




一瞬の出来事に目を奪われた垣根は、怒気を孕んだ声で聞く。




「俺のことが知りたいようだから、今すぐ教えてやるんだよ。あの繭の中で、あいつの意識と俺の過去の記憶をリンクさせ、実際に見てきてもらう。そっちの方が分かりやすいだろ。全てを見てきたら分かるはずさ。垣根帝督の嘆きも、そして、どうしても乗り越えられなかった絶望もな」




どうしても乗り越えられなかった絶望。その言葉が、垣根はこの世界を真の科学の世界より眺めていた時から感じていた疑念と絡み合い、1つの過程を口にさせた。




「帝督、貴方ひょっとして」




垣根は言う。






「『2回目』なのですか? この世界は」






…………………………。




夜風の冷たさが無に変わるまで、彼女は走り続けた。それは悪魔に取り憑かれたような必死さを思わせる逃走。ヒールの足は折れ、全身を汗が侵食する。疲労と、狼狽の生み出す汗だ。




彼女は第4学区の食品倉庫街に辿り着いた。そこで足を休め、倉庫の壁にもたれ、夜空を見上げながら座り込んだ。




ー気が済んだか?ー




静寂を突き刺した声。右へ振り向くと、自分を追いかけてきた男が悲しげな顔をして立っていた。いや、彼からすれば今まで自分を出来る限り遊ばせてやっていたのだろう。学園都市第2位の能力を持つ彼は。




第21学区から第19学区へと帰宅するバスに乗っていた時、突如バスを塞ぐように現れた黒塗りのバンたち。そこに乗っていた学園都市の暗部の面々から告げられた真実は、あまりに残酷なものだった。




ずっと、自分の側に居た彼女の正体。それは自分を暗部に陥れるために遣わされた人間であった。




その事実を聞いた瞬間、彼の内部で安定していた何かがゼリーのようにぐちゃぐちゃになり、冷や汗と引きつった笑顔を顔に浮かべさせた。そんな彼を見た彼女は、手提げのバックの中に隠し持っていた手榴弾をバンに向かい投げた。明らかに相手を殺す気の攻撃に、周囲は一斉に身を伏せ、そして爆発が周囲を包んだ。




垣根が覆っていた腕を上げると、燃えるバンと地べたにひれ伏した暗部の一員が見えた。だがどこにも彼女の姿が見えない。彼はすぐに捜索を始め、そして今に至るわけだ。




彼女は目の前に現れた彼を見るや否や、立ち上がりまた逃げようとした。しかし一瞬で間合いを詰められた彼に後頭部を握られ、そのまま地べたに叩きつけられた。




それでも彼女は逃げ出そうとしたが、右耳すれすれのところにダンッ、と音を立てて足が振り下ろされたのを見て、一切の身体の動きを止め、仰向けになり彼の方を見た。




ー最初から、俺をはめる気だったのか?ー




夜の外気に晒された薄い鉄板のような声が、彼女の耳元に届く。彼女はゆっくりと、首を縦に振った。彼の顔は、より濃い絶望に染まったが、一縷の希望の色はまだ潰えてなかった。




ー全部、嘘だったのか?ー




彼の口から、次々と言葉が漏れる。




ー仲間を研究員共に殺されたってのも、この街の闇が憎いってのも、俺と、俺と過ごした時間も、俺に着いて行くっていったのも、あの笑顔も涙も、全部嘘だったのか? 全部、俺をはめて、殺すためだったのか?ー




脳内に押し寄せ、溢れてくるこれまでの記憶が彼の顔を苦痛に彩っていく。俺を騙していたのはいい。ただ、あの日々のどこかに、欠片でも本物があってほしい。そんな切なる願いで、彼の胸は満ちていった。




それはーーー




彼女は答えを、口にしようとした。










だがそれが彼に届くことはなかった。突如轟いた銃声と、前方から飛んできた銃弾により、彼女の頭蓋は破裂しアスファルトに脳髄を撒き散らしたからだ。










彼は虚無の表情で前方を見た。先ほどの特殊部隊の面々と、彼らに囲まれた老研究員がこちらにやってきた。




いやあすまない。君に心を許したと仮定して、とりあえず殺しておいたよ。実に残念な結果になってしまった。まあいいか。では、私はまた研究に戻らさてもらおう。




無言で立ち尽くす彼を余所に、彼らはこの場からの撤退を始めた。視界に映るその背中越しに、彼の中で押さえ込んできた感情の渦が表層に湧き上がってくるのを感じた。




後悔。




嘆き。




絶望。




怒り。




まごうことなき殺意。




彼はもう一度足元の彼女の亡骸を見つめた。抉られた脳髄。頭蓋の破片。どくどくと溢れる血。その生気なく開いた目に、自分の視線が重なった。




それが、完全に限界を超えた瞬間だった。目の前が充血し、赤く濁る。頭がたった1つの感情に支配され、他の全てが遮断される。自分の声すらも、一体何を言っているのか分からない。ただ、言葉にならない何かを叫んでいるのは事実だ。




彼の背中から6枚の翼が展開し、前方の連中に向かい突撃していった。




……やがて彼の感情が少し落ち着いてきた時、辺りが一面血と屑肉の海になっていることに気づいた。かつてそれが9人の人間だったことなど分からないほどの、完璧な虐殺の後がそこにあった。彼は自らが生み出した地獄絵図の中で、取り返しのつかない後悔に打ちひしがれた。




ついに砕けてしまった。心に突き立て続けていたものが折れてしまった。もう、自分は、堂々と光をその身に浴びれない。




彼は血だまりの中で地面に膝をつき、頭を抱えてうな垂れた。圧し殺すような声と、赤い地面に落ちる透明な雫の音だけが、空間に響いた。




ここは地獄だ。彼はそう思った。




しばらくして、彼は立ち上がり、振り返る。愛していた人の亡骸。その方向へ彼は歩き出し、彼女が手にしていた鞄をまさぐり、その中にあった拳銃を取り出し、懐にしまい、遺体に一瞥をしてまた歩き出した。







これでもう、耐える必要はなくなった。







彼はそう思った。自分は元々こっち側の人間なんだ。今まではそれに抗おうとしていたが、何の結果も残せなかった上に愛する者を亡くしてまで、それを貫くつもりはない。奥底に眠っていたどす黒い重油をサルベージした彼は、涙の跡を拭き取り、冷酷に笑った。




やることは変わらない。この街をあるべき姿に正す。これ以上、学園都市が自分のような人間を生み出さないようにする。




だが、もう手段は選ばない。必要とあらば、アレイスターが手招きした暗部組織であろうと率いてやる。邪魔をしようとする奴は、例え光の住人であろうと容赦しない。




自分だけの現実を、そのように構築し直した彼は、純白の6枚の翼を広げて夜空へと飛び立っていった。跡地に舞い落ちた羽の群れの一枚が、彼女の亡骸の上にはらりと落ちた。




…………………………。




「……………………」




その光景を、棒立ちで見つめている人物がいた。それは本来ここにはいるはずのない者にして、これまでの彼の、垣根帝督の記憶を巡礼してきた者だった。




「これが、垣根さんの過去……」




彼女は、初春飾利はそう言った。彼に招かれ記憶の世界に落とされた彼女は、その終着地点にたどり着いたのだ。




彼女は全てを見てきた。両親に見捨てられ、誰も信じることができなかった幼年時代。




学園都市に招待され、強大な力を手にした代わりに非人道的な実験の餌食になり、人格を悪意に侵食されていった少年時代。




自らの悪意と、この街の不条理に立ち向かおうと、愛する者と共に戦った青年時代。




そして、目の前に訪れた、その末路。






「……だが、まだこれで終わりじゃねぇ」





背後からの声に初春は振り返った。そこにいたのは、自分を殺そうとした方の『現在』の垣根帝督だった。




「……終わりじゃ、ない?」




初春は彼の言葉を繰り返す。




「これから先はお前の知っての通りだ。邪魔者は容赦なく殺す、外道の完成だよ。そして、外道は外道らしく惨めに殺され、そこで人生を終えるはずだった」




彼は自分の掌を見つめる。




「だが分からねぇもんだ。紆余曲折を経て、俺は非科学の神の力の一端を手にし、過去をも変えることができるようになった。この力を手に入れて最初に考えたのは、学園都市のことじゃなかった」




彼は顔を上げ、初春と視線を合わした。




「あいつが、最後に一体何を言おうとしていたのかってことだ。それだけは、どうしても知りたかった」




彼は手を初春に差し出す。




「知りたいか?」




初春は微かに震えながらも、前に歩き出し、彼の手に触れた。




視界が徐々にホワイトアウトし、次の世界へと移り変わる。








彼の6枚の翼が黄金色に染まり、その表面から斑のように浮かび上がった無数の光線が垣根に向かい、発射された。




垣根は飛行しながら、周囲を円状に囲む2段の高速道路の間を潜り抜け、回避する。光線が高速の支柱を次々に破壊し、ドミノを崩すように高速はひしゃげていった。




垣根はその勢いのまま彼に突撃する。光線は未だ止むことなく発射されているが、それは垣根の半径2メートルに侵入した瞬間に背中の銀色の翼に吸収されていった。彼の光線を吸収した翼は一気に肥大化し、彼を切り裂こうと襲いかかる。




しかし彼は笑い、手をかざす。すると垣根の翼はサイコロステーキのように細切れになり、彼に届く前に瓦解した。




「無駄だ!」




すかさず垣根は破片になった翼を自分の掌に凝縮し、全長10メートルほどの長刀を作り上げる。それを握り締め、彼に向かい振り下ろす。




「チッ!」




彼は左側の3枚の翼でそれをガードした。だが翼は木綿を裂くようにバッサリと切られ、彼は体勢を崩し落下する。




彼は落下の途中、垣根に向かい手を翳した。その瞬間、垣根の身体を包囲するように8本の軍神の槍が現れ、瞬く間に突撃したそれが垣根の身体を滅多刺しにした。




「グッ……」




「くたばれクソが」




彼は道路上に膝を付き、垣根にそう言った後広げた掌をグッと握り締めた。




すると垣根の頭上に高層ビルほどの高さの軍神の槍が現れ、釘を打つように垂直に降り落ちた。槍は道路上をえぐるように突き刺さり、垣根の姿は跡形もなくそれに押し潰される。




彼は立ち上がり、モニュメントのようにそびえ立つ槍を眺めた。




その槍の中心部が、小さくひび割れた。




「ッ!」




見る見ると槍はひびの発生した中心部から白く染まっていき、全体が真っ白になった瞬間、大きな音を立てて崩壊した。




崩れ落ちる白い破片の豪雨の中から、銀色の翼を震わす垣根がこちらに接近してくる。彼はそれに構えようとした。




だがその時、強烈な重力の魔手が体に襲いかかり、思わず彼は膝をついた。




「グッ、セコいマネしてんじゃ」




彼は何とか立ち上がろうとするが、その瞬間、ピアノ線のような煌めきを放つ白い繊維が彼の身体の至るところに巻きつき、彼の動きを封じ込めた。




「そこは私の制御下だ。無駄な抵抗は止めて頂こう」




垣根はそう言い、拳を構えて彼に殴りかかろうとした。




だが、上空から槍を携え舞い降りた『2人目』の彼が、垣根の脊髄から胃のあたりにかけてまで槍を貫通させた。




「なっ」




彼の攻撃により、垣根はその場に標本のように貼り付けられた。彼は笑う。




「オイオイ。俺1人を完全に押さえ込んだからって油断するなよ。クッキーを割っても味は変わらない、だろ? 生身の肉体を持っている俺でも、分裂くらい余裕なんだよ」




彼は黄金の翼の先端を垣根に向け、その身を八つ裂きにしようとした。




しかしそこで垣根の身体は液状化し、ゴボゴボと音を立てながら瞬時に別の形状になった。それは蓮をモチーフにした白い花だった。




彼が何かを言う間も無く、その花は閃光を撒き散らし、大爆発を起こした。




そこから数メートル離れた所に、白い糸を渦巻かせ、自らを再生させる垣根。巻き起こる粉塵の中から、首を軽く回しながらこちらに歩いてくる人影が見えた。




「……大した不死身だよな。俺もお前も。何回殺されようが死なない。どんな気分だよ。そんな体になっちまったのはよ。ア?」




粉塵の中から姿を現した無傷の彼は、静かな威圧を込めてそう言った。




「複雑、とだけ言っておきましょうか。だが、元を辿れば自業自得です。この運命を恨むようなことはしません」




彼の言葉に垣根は冷静にそう返す。




「当てつけかコラ? 確かに俺は腐ったことばかりやってきた。それは否定できねぇし、するつもりもねぇよ。だが何の関係もないお前が、何故その罪を引き受けようとする。俺の罪は俺自身の手で裁く。お前如きに出しゃばられても、目障りなだけなんだよ」




「貴方の目にはそう映っていたとしてもだ。私の中には明確な貴方の記憶があり、罪の感触がある。このマイナスを少しでも0に近づけられるのであれば、私は貴方の罪の全てを引き継ぎ、その苦しみに耐えてみせる。それが垣根帝督の名を冠する者としての、学園都市を守るカブトムシさんとしての責務だ」




「だから」




彼の声に苛立ちが浮かんだ。




「その必要がねぇって、言ってんだよ。お前は垣根帝督でも何でもねぇし、学園都市ももう、お前は気にしなくていい。初春にも言った通り、終わらせるんだよ。そもそも、この街の存在そのものが間違ってたんだ。ガキの脳を弄って能力を生み出す? その能力にランク付け? 狂ってるよ。今更言うまでもねぇが、この街は何もかもが狂ってる。お前らだってそう思うだろ」




垣根と、壁の向こうで2人の戦いを眺めている一方通行は、無言でただ彼を見つめる。




「この街は確かに歪だ。それを少しでも正す為に私はここにいる。貴方だって、闇に染まっても尚その思いは変わらなかったはずでしょう?」




垣根の声が、冷気のように鈍く、彼の耳を揺らす。




「ああ。だから今、それを果たすんだよ。こんな街があったから数え切れない不幸が生まれたんだ。この街のない世界があれば、学園都市に生きる230万人は今より救われるはずだ。だから俺は」




得意げに語る彼を遮り、垣根は言う。




「過去を操作し、『学園都市が存在しない世界』を作り出す。それが貴方のやろうとしている贖罪ですか?」




垣根の言葉に、彼は口元を僅かに緩める。




「考えてもみろ。この街が存在しない。それだけで、子供達を利用した非道な実験はなくなり、暗部なんてものも完全に消滅する。能力の格差に苦しむ無能力者達も救われ、強大な能力に振り回される悲劇もない。終わりの見えねぇ応急処置みたいなことやるよりも、この方が確実に救われる人間がいるだろ」




彼は両手と翼を広げ、空間を震わせる。




「俺は、太陽になりたいんだよ」




壁の外の一方通行が、目を見開いた。彼の頭上100メートルほどの位置に、果てしない炎上とエネルギーを感じさせる、直径40メートルほどの真紅の太陽が形成されていたのだ。




「この街の包み込む闇の全てを、俺は照らし尽くしてみせる。何度でも言ってやるよ。お前の手なんか必要ねぇ。分かったら邪魔を、するな」




太陽を背に黄金の翼を高らかに広げる彼は宣言する。垣根はそれに一切動じず、言葉の代わりに銀の翼を展開した。




「何を言っても無駄か」




上空の太陽が激しく光り、彼の黄金の翼を経由して、光線の雨へと変わる。垣根はそこに立ったまま、迫り来る光線の法則を全て制御し、無力化していく。




「防ぎきれる、とでも思ってんのか?」




黄金の翼が勢いよく光ったと同時に、上空の太陽から光弾が、スプリンクラーのように発射された。光弾は周囲の物体を見境なく破壊し尽くしていく。垣根は上空に飛び立ち、攻撃の本体を叩こうとする。




(今、法則の制御を行える時間は9秒ほど。そこから再び能力を使用するには2秒のタイムラグがある。そのラグを読み取り、休む間のない攻撃を仕掛けて圧殺する気か)




攻撃を無効化しつつ、自身の能力が及ぶ範囲にまで太陽に接近し、垣根はその法則を書き換えようとする。




だが、




(ダメだ! 間に合わない!)




無情にも太陽に辿り着く寸前、9秒が過ぎてしまった。直後に垣根の体を、無数の光弾が貫いた。




「ガアッ……」




光弾によりポップコーンのように宙を跳ね回る垣根は、そのまま虹色の壁まで飛ばされ、壁に激突した後、中央を貫く高速道路上に落下した。光弾の雨は止み、辺りを圧倒的な破壊の残痕が漂う。




「しっかりしろ。俺の前で情けない闘いしてンじゃねェぞ」




壁の外から声が聞こえた。壁にもたれかかり振り返ると、赤い瞳でこちらを睨む一方通行の姿があった。




「心配どうも。大丈夫ですよ。貴方はそこで見ていればいい。そこで、じっくりと」




垣根は立ち上がり、一方通行に礼を送った。




「その様子だと、世界を拡張させる範囲や箇所にも限界があるようだな。縛りありまくりの似非無敵じゃあ、俺を止めるなんて到底できねぇぞ」




垣根の前に彼は降り立ち、見透かしたような口調でそう言った。




「ご明察の通り。同時に、複数箇所に世界を拡張できるのは2つまでです。また、改変は私の半径2メートル以内でないと効果が発動できません」




冷静に語る垣根に彼は言う。




「オイオイ。バラしていいのかよ。しかも能力の発動範囲までもよ。つまり俺はそれより遠くから一方的に攻撃し続けば、いずれは推し勝てるってことだよな?」




「その認識はある種正しいです。だが」




垣根は太陽に向かい、手をかざした。




直後に太陽の周囲を巨大な水泡が包み込み、複雑に蠢きながら太陽を消火した。彼はそれを見届け、再び垣根を睨む。




「この世界に認識できる空間全てが『自分』。それが未元物質の生命力だ。私の半径2メートル以内とは言いましたが、実際発動範囲なんて関係ないと思っていただこう」




堂々と宣言した垣根を無言で3秒睨んだ後、彼はフッと笑った。




その笑みに共鳴するように、彼の周囲の空中に、ブラックホールのような4つの黒い渦が現れた。そしてその渦から、おどろおどろしい噴出が沸き起こり垣根に襲いかかった。




「ッ! それは」




垣根は飛び上がり、高架下の広場に避難した。彼はニヤニヤと、壁の向こうの一方通行を見る。




「同じ次元の力は、制御し難いようだな。どうだ? お前が俺をこいつでぶち殺してくれたおかげだよ。こうやって再現できるようになった。驚いたか? まあ魔神の力を再現した後じゃあ見劣りするか」




「……ハッ。猿真似の分際で偉そうな顔してンじゃねェよ三下」




自身の黒翼を再現された一方通行は、以前戦った垣根帝督の悪意の集合体が、いずれ能力者の能力の完全再現もできるようになると言っていたのを思い出した。




「威勢だけはあるな。今じゃその三下呼ばわりも滑稽だぜ第1位。どっちが上か、どっちが下か。そんなの比べるまでもなく分かってるはずだろ?」




「…………………………」




「……まあ、あいつは諦めてねぇようだが」




彼は地上に膝をつき、自分を睨みつける垣根に一瞥した後、一方通行の横に視線を移した。




「お前の隣のそいつはどうかな?」




一方通行は隣の初春を見る。うっすらと透けた繭に包まれた状態で、胎児のように膝を抱えている彼女。




その体が、頼りなくぶるっと震えた。




…………………………。




白塗りの世界から徐々に視界が開けてくると、そこは先ほどまでと同じ、夜の第4学区の倉庫街だった。冷たい空気感、夜風の匂い。そして、同じく目の前に、地べたに仰向けになった彼女と、それを見下す彼がいた。




「ここは…………」




初春は視線の先の彼を見る。彼の顔は、前より少し悲しみの薄れた表情だった。




「この世界はあそこから始まったんだ。あの時、研究員のジジイにあいつを殺されなかった世界。という前提でな」




初春は声のする右横を向いた。目の前の彼の未来。垣根帝督がそこにいた。




「ちゃんと見てろ。あれが俺の抱いた幻想の末路だ」




彼に誘導され、初春は視線を前に移した。




「全部、嘘だったのか?」




あの時と同じ言葉を、彼は口にする。




「仲間を研究員共に殺されたってのも、この街の闇が憎いってのも、俺と、俺と過ごした時間も、俺に着いて行くっていったのも、あの笑顔も涙も、全部嘘だったのか? 全部、俺をはめて、殺すためだったのか?」




「それはーーー」




周囲に邪魔者は誰1人としていない。彼女は今、その答えを口にしようとした。










「ーーーぷっ」









彼女の口から発されたのは、言葉ではなかった。




「ぷっ、アハハハハハハ! え? 何ぃ? 何て? アハハハハハハハハハッ! ハッハハハハハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハッ!!!」




彼女はただひたすら、笑い続けた。彼にとってそれは、どんな返答よりも残酷な答えだった。




「何、笑ってんだよ」




彼は怒りと恥ずかしさと嘆きが混じった、震えた声で聞く。彼女はそれを無視して笑い続け、しばらくしてその爆笑の跡を顔に残し、上半身を起こす。




そして、鞄から拳銃を取り出し、それを自分のこめかみに押し付けて彼に言った。




「出来るだけ、アンタを絶望させて暗部に堕とすように。それが私に与えられた指令よ。さあ、どれが嘘か、教えてあげるわ。何が知りたい? さっきのキス? 負わされた怪我? 楽しいデート? それとも、私の死んだ仲間たちのこと?」




彼女はそう言ってまた笑い出した。彼は魂を抜かれたように足元をふらつかせ、彼女から遠ざかろうと後ずさり始める。




「…………ッ……」




初春は口元を押さえ、その光景を苦しそうに見ていた。隣の垣根は石像のように無表情だが、視線の先の呆けた顔の彼を見ると、何も言われなくてもその胸中を図るには十分だった。




彼女が放った言葉の1つが脳に鉤爪を立てた。彼は震えた声で、言う。




「死んだ、仲間たち?」




「あら? それがお望み?」




彼女は嘲笑し、告げた。




「あそこで私以外は実験で死んだって言ってたでしょ? あれ、本当は私がやったのよ」




彼の瞳が、重い影に閉ざされた。




「と言っても、実験に失敗して半身不随になったり、体が奇形化したり、脳に障害が出て使い物にならなくなった『死に損ない』の処理って形でだけどね。研究者共が煙たがってやりたがらない仕事を、率先して引き受けたまでよ。でも、昔の人間って偉いわね。ガス室に集めてちゃちゃっと殺すのが一番効率的だって、既に証明しちゃってるんだから」




自分が成し遂げた仕事を誇らしく語るその姿に、かつて自分の前で罪悪感に苛まれ、優しい涙を零した少女の姿は微塵も残っていないと、彼は確信していた。




「じゃあ、その首のマークは……」




「自分で付けたに決まってるでしょ? 誰があんな不良品共と臭い飯食いたがるのよ」




余りにも弱者を見下し切ったその物言いに、遠くから眺めている初春は眉間を歪め、拳を握った。




「……何で」




「アレイスターの為よ」




彼女は即答する。




「親に捨てられたも同然でこの街に来て、イかれた実験の末に貼られたレッテルは『無能力者』。ふざけんじゃないわよ。どいつもこいつも私をバカにしやがって。掌から風だ雷だ出すのがそんなに偉いのかよ。くっだらない。何としてでも私は自分の価値を証明したいのよ」




彼女は怒りを顔に滲ませた。劣等感と自尊心がせめぎ合い生まれた、歪んだ怒りだ。




「私はすぐに力を求めて、暗部に堕ちた。そこであらゆる技術を習得したの。能力になんて頼らなくても、私は強いことを知らしめる為にね。そして、ついにこの街の頂点。学園都市統括理事長アレイスター・クロウリーに会うことができた」




彼女は頬を赤らめた、牝の表情で彼に告げた。




「衝撃だった。それはもう、あんたなんか目じゃないくらいにね。私は思ったの。ああ、私の人生は、この人に捧げる為にあったんだって。あの人の持つ、途方も無い力に私は惚れたの。あの人の為なら私はどんなことでもするわ。嘘だろうと、殺人だろうと、好きでもない男とのキスだろうとね」




彼は目はもう、何も見ようとしていなかった。初春には痛いほど分かった。彼はきっと、この現実を存在しないものに、しようとしているのだと。




「嘘だ」




「ホントガキね。アンタ」




彼女の引き金を握る指に、力が入る。




「言ったでしょ? この『作戦』は、あんたを限りなく絶望させて暗部に堕とすのが目的なのよ。本当は何も知らないまま、私をあいつらに殺させるつもりだったんだけどね。でも、今のアンタを見てると、こっちの方が良かったのかもしれないわ」




彼女は恐れのない笑みを浮かべる。




「止めろ」




「大体さ」




彼女は彼に告げる。




「肝心の襲撃場所を私に選ばせたり、偉そうなこと言った割には『たった』2年で根を上げ出したり、あんたのやること成すことには『芯』がないのよ。結局、自分が気持ちよければそれでいいんでしょ? 周りにいいように見られたいだけの自意識過剰なガキが、この街を救うなんて笑わせるんじゃないわよ」




彼女は息を吸い、もう一度強く、こめかみに銃口を当てた。




「止めろ! お前が居なくなったら、俺は」




「知らねぇよ。そんなの」




それを最期に、彼女の頭を銃声と銃弾が貫いた。脳髄と鮮血を撒き散らしながら、彼女の体は重力に吸われ、再び地べたに仰向けに横たわった。



「ッ……………………」




初春は目を覆った。その惨劇も、それを目の当たりにした彼の姿も、もう、見たくなかった。




だが彼女の頭を垣根は横から掴み、無理やり顔を上げさせた。




「ッ、や、ぃや…………」




「イヤじゃねぇよ。いいか? しっかりと見ろ。これが俺の過去なんだよ。どうしようもなかった、惨めな結末なんだよ。ホラ、ちゃんと見ろ!」




その声は冷静で、どこか荒んでいて、そして哀しげだった。




彼女の亡骸を見下す彼は、口を半開きにして、何かを言おうとしている。だが、どんな言葉もこの絶望を表現できないことを分かっている。彼はそれでも何かを言わずにはいられない。




「違う」




彼はようやく一言口にした。




「違う。違う。違う! 違う違う違う違う! 違う!違うッ!」




一度溢れ出したら、もう止まらない。彼は壊れたレコーダーのように、何度も同じ言葉を繰り返した。







「……止めろ! 違う! 俺が、俺が望んだのは…………」







彼はそう言って、背中から6枚の翼を展開させた。その翼の周囲に黄金の絹の糸のようなものが揺蕩い、空間に天使の歌のような荘厳な音が轟き始める。初春は知っている。これは、太陽の門の前で発動しかけていた、世界改変の前兆だ。




彼の翼が根元から、ゆっくりと黄金色に染まって行くのを見ながら、隣の垣根は口を開いた。




「分かっただろ? 俺が引き下がれない理由を。俺にはもう、何も残っていないんだよ」




初春は垣根を見る。冷静に、過去の自分を見つめるその瞳が、何よりも孤独でひ弱に感じられた。




「この街がある限り、間違いなく『ああいうこと』は繰り返される。もう、そんなのは御免なんだよ。分かったら初春、邪魔をしないでくれ」




垣根は静かにそう言って、初春に背中を見せ、この場を去り出した。それを目で追う暇もなく、翼の輝きが最大限になり、目の前が再びホワイトアウトした。




寸前。初春の視線が、黄金の翼を持つ彼の視線と重なった。彼は初春を認識できないにも関わらず、何かを訴えるように彼女を見ていた。








一方通行が隣の繭が見つめていると、突如発光し出した繭が内側から緩やかに解けていき、その中から解放された初春が、膝から地面に着地した。




「……………初春さん」




高架下の広場からそれを確認した垣根は、彼女の名前を呟いた。一方、道路上でそれを見ていた彼が口を開く。




「これで十分か?」




初春はハァ、ハァと息を荒げ、両手を地面に付き、項垂れている。汗が一雫、コンクリートの地面に落ちた。




そして初春は、顔を上げて壁越しの彼を見た。




「ッ、何だその目は」




彼女の瞳は、ただ真っ直ぐに彼を見ていた。その目に宿っているものの全てを彼は理解しきれなかったが、そこに自分が望んだものは混じっていないことは明らかだった。




彼はたまらず何かを言おうとしたが、自身の体に白い糸が絡みつき、その動きを封じ込めたことにより、言葉を繋げることができなくなった。




そして、彼の体は高架下から音速で追突してきた垣根の拳に押し出され、数十メートル先の空中へと吹き飛んだ。跡地に残った垣根は、初春を見る。




垣根はゆっくり微笑んだ。




初春はそっと頷いた。




一瞬の、しかし確かな邂逅の後、垣根は吹き飛ばした彼を追い、銀色の翼を震わせて飛翔した。




「……垣根さん、勝てますかね?」




初春は隣の一方通行に聞く。




「さァな。だが、ある程度の算段は聞いた」




その言葉の後、僅かな沈黙が生まれる。初春は彼を見た。




「……本当に、やる気なのかあの野郎」








彼は顔を歪ませ、翼を駆使しバランスを整え、迫り来る垣根を迎撃する準備を整える。




「クソがッ! 失せろッ!」




彼は掌を垣根にかざした。5秒前の次元からの不可侵の攻撃により、垣根の体は、だるま落としのようにバラバラになる。




しかし彼の周囲に、先ほどと同じような繊維が集結している。彼は顔に動揺を浮かべ、そして自身の真上を見た。




「こっちだ」




無傷の垣根が、翼の先端をこちらに向けて突撃してきている。垣根の制御下にある状態の彼は、的同然の、蹂躙されるのを待つだけの存在だ。圧倒的有利の攻勢から垣根は彼を狩ろうとする。




そこで垣根は振り返り、背後から襲撃をかけてきた『2人目』の彼の黄金の翼を、銀色の翼で迎え撃った。翼の先端同士が激突し、拮抗したまま両者は睨み合う。





「2度も同じ手は通用しませんよ」




そう言う垣根の背後で、白い糸に絡まった彼が蝋燭が溶けるようにドロドロになり、消滅した。




「ハッ。だが追撃をかまさねぇ辺り、お前の分身の限界は、真の科学の世界の拡張も含めると4人までってことか? いや、それもブラフかもしれねぇな。何にせよ、しぶとい野郎だ」




彼は、忌々しげに垣根を睨む。




「さあ? ご想像にお任せします。それと、この私にしぶといだなんて今更じゃありませんか?」




垣根は鋭い目で彼を睨み返しながらも、口元には細い笑みを浮かべている。




「だな。全く、ムカつく野郎だ。お前も、あのガキも」




あのガキ。その言葉に垣根の眉がぴくりと動いた。




「ムカつく、というのは、どこか彼女に期待してしまっている自分がいるからじゃないですか?」




垣根はそう言って、また不敵に笑った。彼は沸騰したように顔を憤怒に濁らせ、5秒前の次元に干渉し、垣根に翼の斬撃の嵐を浴びせた。垣根の体はテッシュを破くように散り散りになっていく。




「その怒りが、答えのようなものですよ」




既に背後に作られていた『2人目』の垣根の言葉に、彼は歯を食いしばる。




「きっと、『2回目』の世界でも、貴方と彼女は同じような結末を辿ったのでしょう。貴方は初春さんにその全てを伝えた。だが彼女は折れなかった。彼女はまだ、貴方に希望を見出している」




彼は勢いよく振り返り、翼で垣根を横から一刀両断する。




「私もですよ」




すぐさま『3人目』が背後に回り込み、語りかける。彼は破裂しそうな怒りに震える。




「貴方はきっとやり直せる。そう信じているんだ。それを拒み続けているのは、偏に貴方が光の世界を恐れているだけだ。『人を殺した自分が許されるはずがない』『一度折れた自分がやり直せるはずがない』貴方はそうやって自分をーーー」




「ウルセェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!!」




彼は咆哮し、掌から再現した黒翼を噴出させ垣根にぶつけた。吹き飛ばされた垣根は再び中央の高速道路の上に落下し、仰向けに横たわった。その体は卵の殻を砕いたかのようにヒビだらけだ。




「どの視点から説教垂れてやがんだコラァッ! やり直せるだぁ? 虫酸が走るんだよ! クソみてぇに薄っぺらい希望をチラつかせやがって。んなモンに惑わされてたまるか! テメェの不始末くらいテメェでつけるんだよ。この街さえなかったことにすれば、俺も、俺以外の奴らもきっと」




「笑わせるな」




低く、冷たい声で垣根はそう言い、全身を再生させながら立ち上がる。




「貴方が自分の弱さと、犯した罪にとことん向き合おうとしたならば、そんな安易な答えは生まれないはずだ。自分以外の人間も救われる? 自分の正当化に、他人の不幸を利用するな。貴方はただ、逃げ出したいだけだろ」




「『もしも』の世界に逃げられるなら、誰だってそうしたい。でも、本来それは出来ないんですよ。だからこそ皆、自分の弱さも、過ちも、後悔も全部引き連れて、それでも何とか生きようとしているんだ。貴方がやろうしていることは、そんな『覚悟』への冒涜以外の何物でもない!」




垣根は右足を、強く前に踏み出した。壁の向こうの一方通行は、それを静かに見守る。




「逃げ切らせてたまるか」




全身を再生し切った垣根は、6枚の銀色の翼を背中に広げる。




「そんな腑抜けた答え、私は絶対に認めない。足掻いて、苦しんで、その末に絞り出したものがそれだと言うのなら、真っ向からそれを否定してやるまでだ。自分を何一つ省みないまま、『もしも』の世界に逃げて満足しようとするのなら、そのふざけた幻想は私がぶち殺す」




垣根は迷わぬ意志を瞳に乗せ、彼を睨んだ。




その言葉に、彼は唸り、憎悪に滾った拳を握りしめる。




「カッコつけてんじゃねぇよ」




彼は怨嗟の声を口から吐き出す。




「大層なこと言いやがって! お前の方こそ、本当は怖くて仕方ないだけだろ!? 学園都市が存在しない世界を作り上げれば、お前の存在は完全に消滅する。そもそも俺が肉体を失くすことがなくなるからな。それが怖いだけだろ! アァッ?!」




彼が発する罵倒を受けても、垣根の瞳が揺らぐことはなかった。




「……やってみろよ」




彼は空中で静止したまま、そう言う。




「そこまで言うなら見せてみろよ。お前の意地を。こいつを喰らっても尚、んなナメたことが言えんのならなぁッ!」




それと同時に、彼の翼が根元から、黄金を更に超えた輝きすぎるほど輝くプラチナに変色していった。一方通行は、その翼の色に目を見開く。




「その翼……真の科学の世界と同じ領域の力、ですね」




「ああ。その世界に根付いた天使、『エイワス』の力だよ。学園都市のクソどもに利用されてる間、そいつの存在に触れる機会があってな。何とか再現しようとしたんだが、魔神クラスの難易度で随分時間がかかったもんだ。だが、もうじき終わる。完璧な力をふるえるまで、後30秒もねぇよ」




プラチナの翼がキィィンと鳴動し、眼下の垣根に照準を定める。




「同じ次元の力だ。お前にこいつを防ぐことはできない。発動を許せば最後、お前は必ず死ぬ。それまでに俺を食い止めてみせろよ虫ケラ。やれるモンなら、な」




垣根は上空の彼を見つめる。翼の輝きはまるで太陽のようで、この空間全てに等しく異常な光の波動を浴びさせている。伸びた背後の陰に誓いを立てるように、垣根は左足を後ろに下げ、来るべき瞬間に備えた。




「決着をつけましょう」




垣根の言葉に、彼は口元を歪ませ、告げた。




「残り10秒」




それが合図だった。垣根は瞬時に彼との間合いを詰め、彼を制御下に置いて身動きを封じ、その胸元を拳で貫いた。彼の体はその傷口から、砂の城に水をかけたかのようにボロボロと崩れていった。




「残り6秒」




背後に強烈な光。『2人目』の彼がプラチナの翼を掲げ、不敵に笑っている。




「無駄だ!」




垣根は再び真の科学の世界を拡張させ、彼を封じ込めようとする。




だがそれよりも先に、過去からの攻撃により垣根の体は縦に真っ二つに切断された。




「グッ……」




「ほら、残り4秒」




プラチナの翼の輝きが更に増していく。鋭利な先端がこちらを冷酷に見つめるのを見て、垣根は、フッと笑った。




同時に、彼の周囲に真の科学の世界が展開される。蜘蛛の巣のように白い糸が張り巡らされた2メートル四方の空間の中で、彼は無表情で、切り裂かれた垣根を見つめる。




垣根は自分の半身を再生させ、そしてもう2人の分身を創造した。計3人となった垣根は、彼の周囲を取り囲む。




「この空間を『お前』と考えると、生み出せる分身は5人までか」




垣根は問いに答えず、3方向からの、合計18枚の銀色の翼で、彼を切り刻もうとした。後2秒。これが、最後の攻撃だった。




だが突如、彼を縛り付けていた空間は消滅し、3人の垣根は過去からの攻撃により翼を粉々に砕かれた。垣根は、表情を凍らせる。




(まさ、か、あの時!)




脳裏をよぎったのは、自分を槍で貫いたあの瞬間。




(既に、能力を読み取られていたのか!)




少なくともそうとしか考えられない目の前の現実に答えるように、彼は笑みを浮かべた。




「同じ未元物質で、できないとでも思ったか? おかげで3秒ほどなら制御可能だ。切り札は、とっておくべきだろ?」




3秒。その一瞬が、最後の勝敗を分けた瞬間だった。




タイムリミットが訪れた。




「ここでお別れだ」




彼の翼がこれまでで最大の輝きを放った。瞬きの間もなく、3人の垣根の体は、紙吹雪のように散り散りになった。




「垣根さん!」




壁の外から、決着の瞬間を眺めていた初春が悲痛に叫んだ。




粉砕された垣根が、徐々に空中に溶けていき、完璧に消滅していく様を見届けた彼は、歓喜を滲ませた声で呟いた。




「勝った…………」






彼が口元を緩ませた、その時だった。






白い光の柱が、中央の高速道路上に、轟音と共に天から降り立った。






「ッ、何だ?」




彼は思わずその柱を見る。純白の輝きの線が段々細くなっていくと、その中から人影が見え始めた。




「貴方の質問に答えましょう」




人影は声を発した。その声は、聞こえるはずのないものだった。




「私の分裂の限界は、6人までです。それくらいにしておかないと、また主導権を奪われてしまいますから」




光の柱の中から現れた白い影は、紛れもない垣根帝督だった。




「……どこに隠れてやがった?」




彼は尋ねる。




「最初からずっと、真の科学の世界に潜んでましたよ。とあることの為にね」




その返答に彼は、顔を歪めながらも笑う。




「……そうか。お前、第1位とそっちに避難してやがったな。自分にムカつくな。『この世界』のお前が、お前全てだとは限らなかったことを失念してたぜ」




彼は頭を掻き、それで、と言葉を繋げる。




「どうするつもりだお前。真の科学の世界に雲隠れしてたはいいが、この戦況、覆す手はあんのかよ!」




彼はそう言い、プラチナの翼を数百メートルほど巨大化させ、その内の1枚を垣根に向かい振り下ろした。法則の制御下に置くこともできない同等の次元の力。垣根が再三縦から肉体を切り裂かれることは必然のはずだった。







垣根は右手を翼にかざした。パキィンという音が響き、翼は軌道をずらされ右横に振り下ろされ、高速を切断した。








彼はその光景に絶句する。同様に、壁の外の一方通行も驚きを隠せない様子だった。




「本当に、やったのか。あの野郎……」




初春は何が起こっているかも分からない表情で、一方通行と壁の向こうの垣根を交互に見つめている。




「……何だ、その右手」




彼の問いに、垣根は答える。




「とあるのヒーローの能力ですよ。貴方と同じように、能力の再現に漕ぎ着けただけです」




垣根は不敵に笑い、その能力名を口にした。










「幻想殺し。あらゆる異能を打ち砕くだけの、最強(さいじゃく)の能力ですよ」










能力の全貌を聞いた彼は、呆然と垣根を見つめる。




「本来、彼の右手でないと宿らない能力なんですがね。その法則を制御して、私の右手でも使えるようにしました。中々大変でしたよ。この世界で貴方を食い止めつつ、この能力を完成にまで持っていくというのは」




垣根の語る経緯など全く耳に入っていない彼は、純粋な驚愕をぶつける。




「自分が何やってんのか、分かってんのか?」




彼は言う。




「異能を打ち消す右手だと? お前がそんなもん体に宿らせたら、どうなるか分かるだろ」




彼が語っているその間にも、垣根の右手は歪にひび割れていき、その余波はやがて垣根の全身を蝕み始めていく。




「ええ。笑えるくらいに相性最悪の能力だ。法則制御で何とか抑え込んでいますが、長くは持たない。だから、今ここで終わらせます」




垣根はしゃがみ、右手を地面に付かせた。




「この右手の持ち主にヒントを頂きましてね。彼が魔神との戦いで世界改変に巻き込まれた際、幻想殺しで書き足した世界を破壊し元の世界に戻ったそうです。つまり、貴方が改変したこの世界も、幻想殺しでリセット可能ということですよ」




垣根は右手に力を込める。すると、そこを中心に空間に亀裂が走り始め、世界の全てのメッキを剥がすように次々と広がっていく。




「ぅ、グッ、ガッ…………ッ!」




だがその破壊は、使用者である垣根をも巻き込んだ。垣根の体にはより深刻なひびが入り、皮膚の表面は彫刻刀で抉られた木のように、各部分が少しずつ弾け、崩壊していく。




「垣根さん! 止めて!」




初春は叫ぶ。その訴えが耳に届いたのか、垣根は初春の方を一瞬見て、誇らしげに笑った。




「そこまでするのかよ。そこまでして俺を、認めないつもりかよ」




彼の背中のプラチナの翼は無残にひび割れていく。彼はそれを一向に気にせず、眼下の垣根に問いかける。




「貴方を認めないんじゃない。貴方に、認めて欲しいんですよ。己の弱さを。強さを。そして、私のことを」




垣根は言う。その覚悟に返す言葉を失った彼は、呟くように言った。




「死ぬぞ。お前」




「そうかもしれない。だが私の」




いや、と垣根は言い、そして笑みを浮かべて告げた。







「俺の未元物質にその常識は通用しねぇ」







それを聞いた彼が、何かを言おうとする直前、世界に行き渡った亀裂から白い光が溢れ出し、全てを飲み込んでいった。




…………………………。




「…………ッあ!」




初春は目の前を覆っていた腕を下ろすと、そこは見たことのない、ボロボロになった甲板の上だった。一体自分がどこにいるのか、辺りを見渡してみると、一面廃材や木屑の山、錆びついたタンカーの死骸が山のように横たわっている異様な光景が目に飛び込んできた。




「ここは、一体……」




よくよく見てみると、自分がいるこの甲板も、死に絶えた豪華客船のそれのようだ。彼女は客室の方に向かおうと、足を進めた。前方はどうやら、水のないプールサイドのようだ。




そこに飛び込んできた光景に、彼女は息を詰まらせた。




「…………垣、根、さん…………垣根さん!」




プールの底で立ち尽くしていたのは、塗装が剥げた遊具のように全身にくまなくひびを行き渡らせた、惨めな垣根の姿だった。最早それは生きていることすら怪しい、抜け殻のような姿だった。




初春は一目散にプールサイドに向かい、プールの底に降り立ち垣根の側に寄り添う。




「垣根さん! しっかりしてください! 大丈夫ですか?! 」




初春に肩を触れられた垣根は、あっ、と息をこぼし、彼女に向かい倒れこんできた。彼女はそれをしっかりと受け止める。




不意に、自分の背後に何かの気配を感じた。初春は振り返る。




そこには旋風のように白い糸が集結し、みるみると人の形を形成していく様があった。やがて時が経つと、それは完全に人間の姿になった。初春は呟く。




「…………垣根さん」




自分を殺そうとした方の垣根帝督が、地面に膝をつき、全身を再生し切った姿がそこにあった。




「してやられたぜ。まさかあんな捨て身の特攻しかけるとはな」




彼は立ち上がる。




「だが払った代償もデカかったな。その様子じゃもう、碌な戦闘はできないだろうよ。残念だったな。いくら幻想殺しで世界を元に戻そうと、もう一度俺が世界改変すれば全て元通りだ」




ありったけの嘲りを凝縮して、彼は小さく笑った。




「……ええ。私はもう、ここまでです」




だが垣根は、敗北宣言とも取れるその言葉の後、力強い笑みを口元に浮かべた。




「ただ、忘れていませんか? 私以上に、貴方の最大の敵たる存在を」




彼は何かに気づき、口を開こうとした。瞬間、左横からの高速の拳が、彼を船の外に押し出した。




「よくやった。後は任せろ」




その男は、垣根にそう告げて、船の外に向かった。




吹き飛ばされた彼は空中で体勢を立て直し、船外の広場に積み上がった錆びたクルーザーの船首に着地した。それを追うようにして、目の前の平坦な鉄屑の大地に降り立った者。




「悪りィが、こっから先は一方通行だ」




学園都市最強の能力者、一方通行はそう言った。そして彼の背中から、6枚の銀色の翼が展開した。




「……似合わなすぎんだろ。メルヘン野郎」




「心配するな。自覚はある」




彼は黄金の翼を広げ、最強に立ち向かう。








初春はプールサイドから、両者の激突が始まったのを横目で確認した。そして、一方通行の背中に垣根と同じ翼が生えていることに、不可解な顔をする。




「何で、第1位さんが……」




すると、彼女の膝上で横たわる垣根が、ぴくりと動いた。




「ッ! 垣根さん! 」




初春は反応する。




「……ずっと、彼の周囲に私の力を発動させていたんですよ。彼の能力の真髄は、『自身が観測した現象から逆算して、限りなく本物に近い推論を導き出す』事。つまり、未元物質の真の力を解析し切ることができたなら、私と同じようにその力を扱える。彼は今、自身の周囲に展開された未元物質を、導き出した推論の元駆使しているのです」




垣根はフッと笑ったが、その拍子に左腕のひび割れた表皮がパラパラと地面に落ちた。初春はそれを見る。




「もし私がこの戦いで死ぬことがあっても、彼が私の力を扱えるようになったなら、結果的に戦況は覆らないでしょ? まあ、その犠牲として私自身が能力を使える時間を大幅に失ってしまいましたがね」




垣根は自分の右手を見た。手首から先が引きちぎられたように、荒い断面を残して消滅している。彼はまた力なく笑った。




「何、笑ってんですか」




初春は呟く。垣根は彼女の表情を見る。今にもふり落ちそうな澱んだ顔と、潤んだ瞳が見える。




「死ぬところだったんですよ。本当に」




初春の言葉に垣根は苦笑した。




「ははは。ムチャし過ぎました。流石にこの右手は、私の器に収まるものではなかった」




垣根は右手を地面に下ろした。




「認めて欲しかったんですよ」




垣根は語り出した。




「あの時、貴女が彼に誘われて、スクールの皆と初めて会ったあの瞬間。皆の幸せなそうな笑顔を見て思ってしまったんですよ。この世界に、私は必要ないって」




初春はその言葉に、息を詰まらせた。




「『彼女と会わなかった』。その前提の元に改変されたあの世界は、全てが理想に近かった。そこに私という異物が混じっても、何の得にもならない。そう思えてくると、悔しくて、悔しくてならなかった。思わず私は、貴女に声をかけてしまった」




あの瞬間に聞こえてきた声。あれはやはり、垣根のものだった。初春は記憶を振り返り、そう確信した。




「でも、考えてみると、元々私の存在は世界にとっての『異物』なんですよ。本当は、『人間』としての垣根帝督が、『人間』として公正して、人生をやり直すのが正しい道筋だった。それなのに、私という存在が生まれてしまい、挙句彼が成さなければいけないことまで奪ってしまった」




垣根は形を残した左手で、自分の顔を隠した。




「あの世界で身に染みましたよ。自分がどこにも必要じゃないと分かった時の、やるせなさって奴を。私の存在が、彼にとってどんなに苦痛なのかも。でも、それでも私は認めて欲しかった。認めさせたかった。私は紛れも無い垣根帝督だってことも。私のいるこの世界でも、貴方がやり直すことはできるってことも」




垣根はそこで一旦言葉をつぐみ、初春の方をしっかりと見ながら言った。




「こんな気持ちになったのも、貴女がいてくれたからです」




初春は、息を呑み、彼の言葉に聞き入る。




「あの世界で貴女は、どんな目にあっても彼の側にいようとした。あの姿を見て、決心が着いたんです。これ以上貴女を裏切ってなるものかって。垣根帝督として、もう、初春飾利を傷つけるのは御免なんですよ」




気づけば初春は涙を流していた。頬を伝う雫が、垣根のひび割れた体に落ちて染み込んでいく。



「貴女は強い人だ」




垣根は手を伸ばし、初春を涙を拭った。




「私よりも、ずっと、ずっと強い。いつの間にか私は、貴女の強さに甘えようとしていたようだ。一方通行に言われたんですよ。自分と向き合う気はあるようだけど、貴女と向き合おうとする気はないのかって。私は、怖かっただけなんですよ。貴女に、自分の弱さをさらけ出すのが」




垣根はそこで、悲しげに笑った。




「やっぱり私は、真のヒーローにはなれないようだ」




その言葉に、初春は涙を拭い、募りに募った想いを彼にぶつけた。




「違いますよ!」




初春の怒号に、垣根は目を見開き、彼女の顔をみる。




「そこまでして、誰かを思いやれるあなたはもう、十分ヒーローですよ。大体、私を過大評価し過ぎですって。私だって、ガキだし、バカだし、何か上手く言えないけど……」




初春は頬を伝う雫を拭い、思いの切れ端を何とか繋げようとする。




「あなたの、あの人の優しさに触れる度に、心の奥から、よく分からないものが這い上がってくるんですよ。それがとても怖くて、だから、何とかこの一瞬を留めておきたいって。それだけなんですよ」




だから、と初春は続ける。




「生まれてきたのが間違いだったなんて、そんな風なこと言わないで。あなたもあの人も、私の側から離れないで欲しい。今ここで消え去られるのが、一番怖いの……」




人が人を信じようとするのは、辛く、苦しいことだ。




千切れそうな糸の上を歩く曲芸師のように、側から見れば危険で滑稽で、不恰好な行為だ。




彼女はそれを分かっていながら、尚も自分に手を伸ばそうとした。垣根はその事実に気づき。彼女に向けて微笑んだ。




(私たちの関係は、なんて歪で、例えようのないものだ。だけど、一つだけ言える)




垣根は左手を伸ばし、人差し指で初春の目尻の涙の轍を拭き取った。




「こんなことを言う資格がないのは分かってますが、貴女に、出会えてよかった。本当にそう思います」




初春は彼の左手をそっと握りしめ、微笑み返した。だが。瞳の涙はまだ止まらずにいた。








一方通行は船の墓場の上空を飛びながら、より天空に舞い上がった彼を睨む。黄金の翼が、再び輝き過ぎるほど輝くプラチナに生まれ変わる。




「死ねえェェェェェェェェェェェェェッ!!!」




時間、空間、認識の概念を超えた翼の一撃が一方通行に降り注ぐ。かつて手も足も出なかった巨大な力をに向かい、一方通行は手をかざした。




翼は彼の掌の上で静止し、そのまま右横に軌道を逸らされた。




「グッ、このっ……」




彼は苦虫を噛み潰したような顔で一方通行を睨む。本来、制御下に置かれないはずのない攻撃のはず。何故奴は、涼しい顔で防ぐことができる。彼の中でその疑念が暴れ出すと同時に、脳の片隅に淡々としている理性が、どうしようもなく合理的な回答を導いて行く。




(理論上、絶対能力者に辿り着けるのはあいつだけだった。クソがッ! そうだよな。お前の方が、その力を上手く扱えるのは当然だッ)




受け継いだ力を、より昇華して練り上げた鈍い銀色の6枚の翼。それを背中にはためかせる一方通行は、一切表情を動かさずただ彼に向かう。




彼は回避するために翼を翻し、降下しようとした。




その瞬間、彼の周囲に白い氷柱のような、鋭利な包囲網が張り巡らされた。




「ッ……!」




垣根の時以上の協力な封じ手に、彼は迫り来る一方通行に対してただの「的」に成らざるを得なかった。




(何でお前と俺が1位と2位に分けられているか知ってるか?)




「ッ、止めろッ!」




記憶の底から、一方通行の宣言が自分の魂を蝕む。




(その間に、絶対的な壁があるからだ)




そしてそのまま、一方通行の拳は彼の胸下に叩き込まれた。彼に絡みついた白い氷柱は、殴打の衝撃でいともたやすく砕け、辺りを雪のように旋回する。




吹き飛ばされた垣根は錆びたトタンと鉄パイプに囲まれた漁船に墜落し、粉塵を巻き上げた。すぐに立ち上がり、追撃に備えようとする彼の頭上に、巨大な影が舞い降りた。




彼は上を向く。空が落ちてきたかのような、全長400メートルほどのタンカーが頭上を覆っていた。そのままタンカーは重力に導かれ地面に落下し、辺りに破滅的な轟音をまき散らした。




そのタンカーを蹴り飛ばした張本人。一方通行は、再び翼を広げタンカーのあった場所から墜落地点まで移動した。目の前に横たわるタンカーは、まるで国を隔てる壁のように圧倒的にそこにあった。




突如、タンカーの表面に亀裂が走った。亀裂は次第に表面を伝っていき、内部から押し出すように砕け、中から翼を震わす彼が一方通行めがけて飛び出してきた。




彼の鋭利な翼が一方通行に照準を定めた途端、彼の周囲に16本の光の槍が円状に地面に突き刺り、彼の駆動を封じ込めた。




「チィッ! このッ」




彼は素早く包囲網を破壊しようと、魔神の力を使おうとした。だがその時、肋骨が溶けるような胸の蠢きを感じ、彼は思わず右ひざを地面についた。




「な、何が……」




彼は胸下を見た。一方通行に殴打された部位に、白い花のようなものが寄生し、脈動している。彼は息を呑み、目を見開いた。




「お前に攻撃した時。内臓に未現物質を送り込んだ。どうやら別の場所に移動させる時間はなかったようだな。まァ、幻想殺しの影響から肉体を再生させたばかりだ。それも仕方ねェ」




「ッ…………テメェ…………」




彼は怒りと、焦燥に身を任せ歯を食いしばる。生身の内臓に未現物質を寄生されたということは、自身が紡ぎ出す魔神の力の制御の法則を、目の前の男に制御されてしまうということだからだ。




だが彼はすぐに、不敵な笑みを浮かべた。




「……これで魔神の力はもう使えない。とでも思ったか?」




彼の言葉に続くように、船の墓場のスクラップの山たちから白いツタが増殖し出した。一方通行は振り返る。




「この島に散りばめられた並列演算装置のこと忘れたか! あれに接続すれば、魔神の力の行使に必要な演算はまだ行えるんだよ!」




白いツタは血流のように島の隅々に行き渡り、演算装置に絡みついていく。




「生身の俺の主導権握ったからって、勝ち誇ったのがテメェの敗因だ。これでもう一度、世界を改変してやる!」




勝利を確信した笑みを浮かべる彼に、一方通行は冷ややかな表情で告げた。




「つまらねェ小細工で勝ち誇った面してンのはお前だろ。まだ分からねェのか? もうお前は詰ンでるンだよ」




何? と彼は返した。そして異変に気付く。接続した演算装置たちから、反応が一切帰ってこないのだ。




「オイ、待て。何だこれは。一体どういうことだ!」




彼は打って変わって顔に焦りを浮かべる。その落差は、見ているものにどうしようもない哀れみを買うほどの乱高下だった。




「自業自得ってのは、このことだな」




一方通行の言葉に、彼は何かに気づき、島に張り巡らせた未現物質の一部と自分の視覚情報を共有させた。




「初春っ、お前………………」




視界に移ったのは、傍に垣根を寝かし、演算装置のキーボードを操作する初春の姿だった。彼女のクラッキングにより、島全ての演算装置は使いようのない箱になっていたのだ。




「これで分かっただろ? もうお前は何もできねェ」




目の前の一方通行との距離は、3メートルもないほどだ。それなのに、この槍の囲いにより、手も足も出ない。彼の奥底から、ドロドロしたものが沸騰し、次第に顔面を醜く歪ませていった。




「殺す、殺す! お前だけはッ! 殺してやる! クソがッ! クソがあああああああああッ! 出しやがれェッ! ちくしょうッ! ぶっ殺してやる!」




彼は槍に殴りかかり、何とかしてここから抜け出そうとした。しかし槍は寸分の狂いもなく、ただそこにあり続ける。彼はそれに構いもせず、ひたすら槍に攻撃を加え続ける。




「ここがお前の通行止めだ」




一方通行の言葉に、彼はより憎悪を滾らせた。




「ふざ、けんじゃねぇ」




血の滲むような声で彼は言う。




「認めてたまるか。諦めてたまるか。俺は俺を救い、学園都市の闇を晴らすんだよ。こんな、こんなところで」




彼の目から、赤黒い液体が一雫流れた。




「終わってたまるかああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」





彼の背中の黄金の翼が内部から弾け、虫に喰われたようなボロボロの黒い翼が現れた。勢いよく全貌を露わにした翼は、そのまま周囲の槍を全て破壊した。ガラスの破片のように地面に飛び散った砕けた槍を、彼は踏み潰す。





「…………………………」





一方通行は無言で彼を見つめる。胸元の花弁が、硫酸に沈めたように消滅していった。




「内臓に、魔力を通わし未現物質を排除した。これで、俺も力を使える……」




そういう彼の姿は、誰がどう見ても悲惨だった。体には至る所に小さな亀裂が走り、目と口からは血が流れ出ている。




「能力者に魔力は馴染まねぇ。今まではその副作用をダミーの内臓に肩代わりさせてたんだが、こいつは、かなりキくな……。早く、終わらせるぞ」




悲しげに笑う彼の瞳には、殺意の眼光が宿っている。それを見た一方通行は、翼を震わせ上空に飛翔した。彼もすぐさま後を追う。




「お前さえ殺せば、後はどうとでもなる! どうせ世界を改変すれば、お前だって違う人生を送って生きてるんだよ! 今ここで、ぶっ殺すのに何の問題もねぇ!」




自分を追いかけて上昇してくる彼の背後の翼は、まるで昆虫の足のように濁っていて、無機質だと一方通行は感じた。彼はその翼を一方通行に向ける。




「殺してやる。粉々に切り裂いて、跡形もなく殺してやる。絶対に、殺してやる」




その瞳には、狂信的な信念が見えた。彼は血反吐を吐きながら、翼の先端を一方通行目掛け、射出した。




「ゥァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」




焼け付くような憎しみと懇願を腹に込め、絶叫上げた彼に向けて一方通行は右手を前にかざし、透明の防御壁を精製した。







翼の突撃はそれにぶつかり、クラッカーを割るように容易く砕け散った。







彼の瞳の殺意は一瞬で消え、曇りなき絶望に支配された。




「一つだけ教えてやる」




目の前の絶対強者の声が、彼の鼓膜を執拗に揺らしていく。




「例えこの絶望的状況から、大逆転を起こして俺を殺し、世界を作り変えたとしても、その世界で幸せになった人間を見届けたとしても」




一方通行は自身の瞳に憂いを乗せ、彼に告げた。




「自分の犯した罪からは、決して逃れることはできねェ。一生背負い続けるしかねェンだ」




一方通行の背中の6枚の翼が脈打ち、融合し、一つの塊になっていく。




(彼を、殺すつもりですか?)




垣根の言葉が、脳内で再び自分に問いかけてきた。一方通行は、あァと答える。




「殺してやるよ。メルヘン野郎」




やがて翼の融合は完了し、6枚だった銀色の翼は、2つの純白の噴出へと生まれ変わった。この世のあらゆる美しさを統合したような神々しい白を掲げる一方通行に、彼は呆然と見とれてしまった。




「その、惨めな幻想をな」




最早自分が負けることは決まりきっている。だが、そんなことを歯牙にもかけず、彼は心のままに叫ばずには入られなかった。




「何で、何でだよ! お前だってこんな世界に生まれて後悔してるはずだろうが! 何にも悪くねぇのにこんな力を植え付けられた挙句血に塗れたんだぞ! おかしいだろ! 俺たちにはもっと、相応しい世界が」




「必要ねェよ」




彼の悲痛な訴えを遮った一方通行は、拳を強く握った。




「俺の欲しかったものは全部」




一方通行の脳裏に、様々な人影が過ぎった。ジャージ姿の女教師。白衣を着た元女研究員。アオザイを身にまとった目つきの悪い少女。そして、自分を闇から救ってくれた、最愛の少女。




その全てを、余すことなく胸に秘め、一方通行は白翼の噴出を強める。そして最後に、彼にこう言い残した。




「ここにある」




一方通行の豪速の拳が、一瞬の内に彼の腹部に炸裂した。彼の背中の翼は砕け、そのまま一気に地面に墜落し、地表に大穴を開けてその下の空洞へと突き抜けていった。




圧倒的な瞬殺だった。








一方通行は穴の側に降り立ち、白翼をしまった。穴は直径50メートルほどはある。その下は空洞になっており、穴の周囲には無造作にチューブや鉄骨が突き出ている。下へ行くには、この出っ張った廃材たちに足を引っ掛けて行くべきだと彼は思った。




「第1位さん」




声の方向へ彼は振り向いた。肩に垣根を抱えた初春がそこにいた。垣根の全身の亀裂は、少し元どおりになりつつある。




「あの人と話させてください」




彼女の言葉に、彼は無言で側に立ち寄り、垣根を背負う役を交代した。初春は頭を下げ、廃材の足場を伝い下に降りていった。




「彼女に任せていいんですか?」




垣根の問いかけに、一方通行は鼻で笑う。




「心配すンな。此の期に及ンでまだくだらねェ答えだすなら、迷わず殺すつもりだ」




彼なりの情が詰まった返答に、垣根は思わず笑ってしまった。




「何笑ってンだコラ」




「いえ。何でもありません」




垣根はそう言い、ふと辺りを見渡した。すると、とあるものが目に入ってきた。




垣根は気のせいかと思い、もう一度目を凝らす。海の向こうに見える親指サイズの軍艦の、砲台がこちらに向いている気がしたのだ。








穴の奥底。太陽の光が差し込むその中心で、彼は力なく、仰向けに横たわっている。




(……クソが。結局、何もできず終いかよ。畜生…………あのクソ一位。虫けら。お前らのせいで……)




心の中の罵倒も、ただただ虚しさが募るだけだった。今の自分に、未来などありはしない。降り注ぐ太陽の光を見ないように、彼はそっと目を閉じようとした。




その時、自分の体に影が覆い被さった。彼はその影の本体を見て、皮肉げに笑う。




「……何だよ。恨み言でも言いにきたか? 初春」




初春は彼の足元に立ち、無言で彼を見下している。




「何とでも言えよ。どうせ太陽になれなかった負け犬だ。今更何言われたって、どうってこと」




彼が言葉を言い終わる前に、初春は彼の胸元に近づき、そこ思いっきり手繰り寄せ、二発鋭いビンタをかました。




「ガッ、な、何……」




彼は冷水を浴びたような目で、彼女を見る。




「あなたに対する怒りは、これくらいで収めておきます。そしてここからが、私の言いたいことです。垣根さん。逃げないでください」




その真っ直ぐな視線に目を合わせた後、彼は力なく笑って俯いた。




「……どいつもこいつも。じゃあ俺はどうすればいいんだよ。このクソったれた世界で背負わされた罪に、成すすべなく打ちのめさせれて、這い蹲るしかねぇのかよ」




「そうです」




初春は即答した。




「自分の過ちを背負い、一生苦しみながら生きてください。それが、本当の意味での救いになるんです」




初春は一つ一つ、丁寧に紡いだ言葉を彼に届けようとする。





「あなたなら出来ますよ。自分の汚れた部分にばかり、目を向けないでください。あなたの中には、優しさも、強さも、勇気も兼ね備えた、色んなあなたがいるんです。学園都市のない世界を作って、実験に晒された人を救おうとしたのも、あの世界で太陽の門を作ったのも、紛れもない優しさの一部じゃないですか」




「……違ぇよ」




彼は言い返す。余りにもか細い声で。




「あいつらの言う通りだ。全部、自分なんだよ。自分が良ければそれで良かったんだ。もういいよ。俺に構うんじゃねぇ」




「嫌です」




初春は迷わず告げた。




「あなたを諦めたくない」




その言葉に彼は、胸ぐらを掴む両手をそっと払いのけ、再び地面に仰向けになった。




「何なんだよ。もう。お前は一体、俺に何を求めてるんだ」




その姿は、まるで駄々っ子のように無防備だった。初春は少し口元を緩め、彼にとある提案を言おうとする。




「垣根さん、良かったらーーー」







その時、突如飛来した白い槍が彼の腹部を貫いた。







「………………え?」




初春の口から思わず声が漏れた。




「あ、ガ、ぅ、うああああああああああああああああああああああッ!!! グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!! ガアアアアアアアアアアアッ!!!」




彼は地面をのたうち回る。その姿からは、一目で想像できる激痛の気配があった。初春は顔を青ざめ、後ずさる。




「予想通りだったよ。やはり君では、彼らは越えられなかったか」




初春と彼は、声の方向に顔を向けた。地上の穴の淵。垣根と一方通行がいる方向とは逆の場所に人影が見える。緑色の手術服に身を包み、銀色の長髪をたなびかせる異質な存在。




吐血し、番犬のように唸る彼は、その「人間」の名前を口にした。




「アレイスター、クロウリーッ!」




男にも女にも、子供にも老人にも、聖人にも囚人にも見える『人間』がそこにいた。彼の登場に、向こう岸の垣根と一方通行も息を飲んでいる。




「とりあえず、礼は言っておくよ。君との競り合いのお陰で、未元物質の進化。そして一方通行の力をより『プラン』の実現に近づけることができた」




とすると、と彼は告げる。




「君の存在は最早完全に不要なんだよ。これ以上過去に干渉されるのも、あまり好ましくないしね。未元物質の現統率者の彼はその心配はないようだが、君は、そうじゃないだろ?」




アレイスターの冷ややかな眼光が、彼の充血した眼を貫く。彼は槍の刺さった腹部を抑えながら、何とか言葉を発しようとした。




「まさか………」




「そうさ。察しの通り、君を貫いたその槍は妖精化の槍だよ。君が右方のフィアンマを利用して作った、魔神を殺す用の変異型を小型化したものだ」




垣根は怨嗟と屈辱の篭った目で、槍を見た。




「今は君の体内にある魔力が微量のため、効果も今ひとつのようだな。だが、その力を10倍に高めたら、どうなるかな?」




アレイスターは手にしたねじれた銀色の杖を彼に向けた。彼の顔は、死期を悟り蒼白になった。




「その恐れが、君の死因だよ」




無慈悲な宣告と共に、アレイスターは杖の効果を発動させた。『衝撃の杖(ブラスティングロッド』。魔術の効果を、標的の想像の10倍に強化する補助術式。




それにより、彼の腹部に刺さった槍が、より一層輝きだした。




「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!! グ、ガアッ! ぃ、アアアアアアアアアアッ!!! アアッ!!! は、ハハハハハハッ! ガアアアアアアアアアアアッアアアアアアアアッ!!!」




余りの激痛に、途中笑い声を挟みながら、彼はただ地面を無様に転げ回った。




「垣根さん! 垣根さんっ!」




目も当てられないその姿に彼女は悲痛に叫び、垣根と一方通行は、顔を歪めながら、杖を振るう彼を食い止めようと拳を構えて突撃した。




しかし、彼は瞬時に自分たちが元いた場所に移動していた。




「どうした第1位。彼を救いたいのか? 私を止めたかったか? だが真の科学の世界を操る時間はもうないだろ? 彼が死ぬのは、もう確定だよ」




その宣告に、垣根は何かを言おうとしたが、上空から甲高い音が聞こえたのをきっかけに、空を見上げた。




「これは…………」




そこには渡り鳥の群れのように、列を描いて飛行する戦闘機の姿があった。




「この島には、彼が寄生した未元物質の残骸が数多く眠っている。やるなら徹底的に、だよ。君にはこの島ごと、眠ってもらおう」




アレイスターがそう言うと、海上の軍艦から砲撃音が鳴り響き、数拍の間を置いて島の岸辺に砲弾が炸裂した。火柱と鉄屑が、島の中央から確認できるほど強く巻き上がる。




「原型制御(アーキタイプコントラー)で、この島に対する人類の認識を変換させた。かつて世界に混乱をもたらした魔神の古巣。それを早急に取り除く為、いち早く学園都市が動きだした。というシナリオさ。これなら沖合で島が一つ消滅しようと、対岸で見守っている人々は安心できるだろ?」




「原型、操作…………?」




虫の息の彼が、アレイスターに問いかけ




「ああ。私の力の一つさ。人間の共通価値観、認識を自由に変換する。要するに君は、この力により世界から完全に拒絶されたということだよ。異物を司る者として、皮肉な最期だな」




アレイスターは眉一つ動かさず、ただ事実を淡々と彼に告げ、そしてこの場から背を向け去ろうとした。




「待て!」




穴の底からの声に、アレイスターは振り向く。




「人間の、認識の操作っ、だと? お前、まさかその力であいつを……」




芋虫のように這いずりながら、眼球が飛び出そうな勢いで彼はアレイスターを睨む。




「……あいつ、というのは君を裏切った彼女のことかな?」




アレイスターは一瞬記憶を辿り、そして彼に問いの答えを告げた。







「そんなわけないだろ。彼女は自分の意思で私に忠誠を誓い、自分の意思で君を裏切ったんだ」







今度こそ、彼の目から一縷の隙間もなく、希望が消滅した。初春は再び訪れた無惨な末路に、思わず口を押さえる。




「……仮に彼女が私に操られていたとして、それで何なんだ? 今際の際に、私に全ての責任をなすりつけられるとでも思ったのか? 自分がここまで堕ちたのは、私のせいだとでも言いたいのか?」




作り物のように微動だにしなかったアレイスターの顔が、深い軽蔑の表情を浮かべた。




「甘ったれてんじゃねぇよクソガキが。私はお前のような奴が一番嫌いなんだ」




腐った内臓を見るような目で彼を見下し、アレイスターは続ける。




「大層な理想や信念を語って自分を大きく見せたがる。そのくせ何の犠牲も背負う覚悟がない。確かに君を暗部に堕ちるよう仕向けたのは私だ。だがそこまで腐りきったのは、ひとえに君のその弱さが原因じゃないのか?」




アレイスターは背を向けて、最後の言葉を吐き捨てた。




「軟弱者に与えられる役目の駒などない。大人しくここで死んで、今すぐ盤上から失せろ。負け犬が」




直後にアレイスターはこの場から姿を消した。そして戦艦と、戦闘機による砲撃が巻き起こり、少しずつ島を破壊していく音が無造作に響いていく。




だが穴の底では、アレイスターが去った後を見つめたまま、ぴくりともしない彼と、その様子を見つめる初春が、静寂に取り残されている。




「垣根さん…………」




初春は言葉を発したが、それは砲弾の音と、どうしようもない虚夢に晒されたこの場の空気に負け、情けなく消滅していく。




「フッ」




彼はようやく、一言を発した。




「ハハハハハハハハハッ。ハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハ…………アハハハッ!! ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!! アヒャハハハハハハハハハハッ!!!」




途端に、止まらない乾いた笑いが彼の口からあふれ出した。




「何だよ。結局何もできず終いじゃねぇか。なぁ? アハハハハハハハハッ!」




彼は初春を見た。剥き出しの自棄が宿ったその瞳に、初春の胸は抉るような痛みに襲われる。




「分かったか初春? これが現実なんだよ! 幻想に溺れた人間に、現実は容赦しねぇんだ! 分かったらとっとと失せろ! ここに居たら巻き込まれて死ぬぞ? ハハハハハハハハハハッ!」




そう言っている間にも、彼の口からは血が溢れ、全身は痛々しくひび割れていく。深く重い絶望の淵で、彼は今すぐ目の前の彼女が居なくなることを望んだ。




「…………嫌だ」




その返答に、彼は疼くめていた顔を上げ、彼女を見た。




「…………は?」




初春は潤んだ瞳で彼を見つめ、言う。




「ここであなたを見捨てたら、あなたは本当に1人になる。そんなの嫌だ! 」




「……お前、何言って」




「私が」




初春は彼の側に寄り添い、乾いた餅のように割れた彼の右手をにぎりしめた。




「最期まで、側に居ます!」




彼の目は彼女を見つめ、固まる。




「何言ってんだ、お前っ。死ぬぞ」




「分かってますよ」




初春は言う。




「何、言ってんだ! 俺がお前に何したのか忘れたのか!」




「分かってます」




変わらずに彼にそう告げる。




「…………………何で」




「言ったじゃないですか」




初春は彼の手を握る力を強めた。




「あなたの味方だって」




自分の手に走った温もりが、改変した世界でそう言っていた彼女の姿を思い出させた。彼女と過ごした情景が、止まらない速さで彼の脳裏を駆け巡る。




澱んだ感情の油に火が灯り、震える口元から言葉が漏れ出した。




「失せろ」




彼は初春を思っ切り突き飛ばした。彼女は尻餅をつき、彼を見る。




「失せろ! ウゼェんだよお前! 自分に酔ってんじゃねえ! 目障りなんだよ! 今すぐ目の前から消えろクソガキがッ!」




彼の罵倒を喰らっても、瞳に宿った決意を変えない彼女はゆっくりと立ち上がった。




「止めろ。来るんじゃねぇ。消えろ。こっちに来るな!」




彼の言葉を物ともせず、初春は彼へと一歩を踏み出す。




「来るなつってんだろッ!」




彼は後ずさり、近くにあったL字の鉄パイプを初春に思いっきり投げた。パイプは回転しながら彼女の左目の上の額に激突し、カランと地面に転がった。彼女は顔を伏せ、立ち止まる。




顔を上げると、傷口から血が滴っていた。それでも彼女は、彼に向かい足を進める。




「止めろ! いいか? そこから後一歩でも動いてみろ。お前をぶっ殺すからなッ!」




彼は後ずさり続け、そして背中に廃材の壁が当たった。息を荒げ、充血した目で彼女を睨み続けている間にも、妖精化の槍の破壊が全身を蝕み、彼はまた呻き出し胸元を抑える。




初春はそんな彼を見て少し足を止め、また歩き出した。




「止めろ! 来るなっ」




掠れた声と共に、口から血を吐き出す彼は、右手で自分の口を覆い、その後、顔全体を覆い隠した。




「頼むっ、から…………」




地べたに吐き出された血溜まりの上に、透明な雫が落下した。彼はより強く掌で顔面を覆い隠すが、頬を伝う涙と、歯を食いしばった口元は隠し切れずにいた。




「垣根さん…………」




初春は震えた声で、彼の名を呼んだ。




その時、砲撃が穴の淵に炸裂し、爆音と共に崩れた瓦礫が初春の頭上に向かい降り落ちてきた。




「ッ!」




初春は身動きを取れず、ただ反射的に両腕を顔の上にかざした。彼の顔に、焦りが浮かび上がった。




瓦礫は彼女の居た場所に降り注ぎ、粉塵と小さな鉄の破片を巻き上げた。やがて視界が晴れてくると、彼の視線の先に、2つの人影が見えてきた。




「っ、第1位さん!」




彼女を抱き抱え、瓦礫の倒壊から避難した一方通行が、彼から5メートルほど離れた位置に凛と立っていた。




「行くぞ」




彼は初春に告げた。




「え? ちょっと待って、嫌だ。あの人が、まだ! 離して!」




初春は一方通行の腕の中でもがくが、彼は彼女の額の傷口に触れ、血中酸素のベクトルを操作した。彼女は安らかに、気絶する。




瓦礫越しに、一方通行は瀕死の彼を見る。互いの瞳はじっと見つめ合い、そこに言葉は一向に交わらない。




「行けよ」




「あァ」




ただそれだけを言い残し、一方通行はこの場から飛び去った。たった1人になった彼はズルズルと壁を伝い、仰向けに地べたに倒れこんだ。




不意に横を見ると、霞んだ視界の先、鉄くずの群れのその向こうに、白い影が現れた。




彼は最期の力を振り絞り、震えながら立ち上がる。




「気分は、どうだ? あ? これでお前は、晴れて垣根帝督だ。嬉しいだろ? 何か、言えよコラ」




目の前の、自分と全く同じ形をした白い男に、彼はそう言う。




「ふざけんじゃねえ」




彼の目が、殺意に濁る。




「何で俺が死んで、紛い物のお前が残る! ふざけるな! せめて、お前だけは、お前、だけはああああああああああああああああああああッ!!!」




彼は背中から、ボロボロになった白い6枚の翼を展開する。それはもうかつての面影など微塵もないほど哀れな翼だったが、それでも彼はその翼をはためかせ、男に向かい突撃する。






その男、垣根帝督は、俯いていた顔を上げ、素早く彼の懐に潜り込み腹に拳を炸裂させた。







刺さっていた槍は粉々に砕かれ、胴体も呆気なく貫通された。カウンターも出来ぬまま、瞬時に反撃を食らった彼は、口から盛大に血を吐き出す。




彼の体が、徐々に白化していき、繊維状に分解され垣根の肉体に吸収されて行く。




「………素直じゃない方だ。こんな回りくどいやり方をしなくても、介錯くらい、頼まれればやりますよ」




垣根はやり切れない表情で、彼に言う。




「何言ってんだよ。ボケ。お前に何が分かるんだ」




もう上半身しか残っておらず、体もほとんど白化した彼が、悪戯げな笑みを浮かべる。




「分かりますよ」




垣根ははっきりと、彼に告げた。彼はそれに何も返さなかったが、垣根に完全に吸収され、消滅する寸前、小さく口を開いた。




「そうかよ」




彼は煙のように棚引きなから、消滅した。




垣根は彼の体を貫いた、自分の右手に目を落とし、そして、翼を広げて上空に飛び立った。




ある程度の高度に達した時、船の墓場を見下すと、軍艦や戦闘機の砲撃により至る所から黒煙を上げ、ゆっくりと、海上で死んでいく様が見えた。




夕刻の近い時間の微睡んだ太陽も、西の方からそれを見届けていた。








日が傾き、茜色になった太陽が海面に光の道筋を刻んでいく光景を、東京湾のとある港から一方通行は眺めていた。背後にはトタンで覆われた倉庫がぽっかりと扉を開け、その奥に影をもたらしている。




彼は振り返る。倉庫の手前には、目を閉じた初春が座り込み、壁際にもたれかかっている。額の傷は、ベクトル操作で細胞を活性化させて癒着させた。彼女は寝息を立て、静かにそこにいる。




そして両者の間に、6枚の翼から羽毛を散らし、垣根が上空から降り立ってきた。




一方通行は垣根と目を合わし、また海の方面へと振り返った。垣根は初春を見る。





「もうしばらくしたら起きるだろ。その時に、ちゃンと伝えてやれ」




一方通行は背中越しの彼に向けてそう言った。




「申し訳ありません。貴方に、心苦しい役目を負わせてしまった」




「気にすンじゃねェ。汚れ役は性に合ってる」




垣根は一方通行の方へ向く。




「アイツはどうなった?」




彼の質問に、垣根は神妙な面持ちで答える。




「最期は、私の手で葬られることを望みました。この手で彼を貫き、未元物質のネットワークの中へと吸収した」




そう言って垣根はまた、自分の掌に視線を落とした。




「戻ってくる可能性は、あるのか?」




彼は首を横に降る。




「私が未元物質の統率者である限り、彼の人格は、ネットワーク上のデータに過ぎない。戻ってくることはまずないでしょう」




波の音が、両者の間に虚しく響く。一方通行は何も言わず、垣根は、しばしの沈黙の後事実を告げた。




「生身の内臓が消滅した今、『人間』垣根帝督は、完全に死にました」




そうか。と一方通行は返した。




垣根はまたしばし沈黙する。脳内に、アレイスターが言っていたあの言葉が浮上してきたらだ。




(どうした第1位。彼を救いたいのか?)




垣根はゆっくりと、言葉を切り出す。




「一方通行。貴方本当は………」




「アァ?」




一方通行は上半身を振り返らせ、赤い瞳で彼を睨んだ。その反応に、垣根は笑う。




「……いえ、貴方と私の関係に、それは無粋だった」




ただ、と垣根は言う。




「これだけは言わせてほしい。ありがとう。本当に」




その言葉に、一方通行はハッとため息をもらした。




「行きますか」




垣根はそう言い、初春の方へと歩き出し、彼女を抱き上げた。一方通行も彼に続き、そちらへ歩き出す。




道中、彼はまた海の方面を向いた。




「…………………………」




海は太陽を飲み込み、その表面を赤く焦がしていく。そこにはもう、船の墓場の姿はない。戦闘機と戦艦の爆撃により、海底深くに沈んでいる。それでも彼は、かつてそこにあったはずのそれを思い浮かべ、ただ海を見つめた。




ポケットの中の携帯電話が震えた。彼はそれを取り出し、応答する。




『あなたー? もうそろそろ帰ってくるの? ってミサカはミサカは待ちきれない思いを伝えてみる!』




電話の向こうには、自分が守るべき最愛の少女の声がした。彼は彼女の姿と、そこにいる、大切な人たちの顔を思い浮かべて答えた。




「アァ。もう終わった。今から帰る」




…………………………。




少し前に、本で読んだことがある。




エジプト神話の神々の1人、ネフェルティムと言う美しい花の神のことを。




彼は頭に睡蓮の花を携えていた。




その花の香りは、エジプト神話を代表する神、太陽神ラーに捧げられた。彼が冥界の深くで復活を待つ間、花は絶えず花弁の中に彼を内包し、活力を与え続けたという。




そして、復活を遂げたラーは、蓮の花の上で神々しく輝いたそうだ。








一週間後、垣根と初春は、互いが始めて出会ったカフェのオープンテラスに居た。時刻は午後4時を過ぎ、太陽は茜色になりつつある。




テーブルの上には、初春が注文した大型甘味パフェがある。彼女はそれをスプーンで掬い、満面の笑みで頬張り続ける。




「ん~、やっぱり美味しい! あ、垣根さんも食べます?」




初春はスプーンに乗ったパフェを彼の口元に運んだ。垣根は微笑む。




「遠慮しておきます。貴方が全部食べればいい」




彼女はまた笑顔で、分かりましたと答えた。彼女の周りには、張り詰めた陽気さが漂っている。




お待たせしました、と言いながら店員は垣根の注文を持ってきた。バラの香りが漂うダージリンティーが机の上に置かれ、彼はありがとうと告げる。




垣根はカップを持ち、鼻先へと近づけ花の香りを味わい、そして一口すする。カップを皿の上に戻し、彼は暖かいため息を吐いた。




(あのことを思い出した時、思わず笑ってしまった。頭に花なんて、正に目の前の彼女だ)




初春は依然と、幸せそうにパフェを食べている。垣根はそんな彼女の姿を見ながら、思索に耽る。




(もう1つ、笑ってしまったことがある。太陽神ラーは数ある形態の1つとして、夜明け前、蓮の花に包まれている時は、スカラベの姿をしたケプリと言う神になるらしい)




古代、スカラベは神聖な甲虫として崇められていた。スカラベが転がす糞球が、沈んではまた登る太陽の運行と同一視されていたからだ。




そのことからスカラベは、復活と再生の象徴とされていたようだ。




(花から生まれ出る、復活と再生の象徴の虫、か)




垣根は思い出して、また微笑む。




(初春さん。貴女は紛れもない花だ。汚れた泥土を吸い上げても尚、美しく咲こうとする立派な花だ。ならば私は、そんな貴女に救われ復活を遂げた、一匹の虫だ)




ずっと、この関係を何と呼べばいいのか分からなかった。最低の出会いから始まった、この奇妙な関係は、名付けるのにはあまりにも複雑だった。




男と女でもない。




被害者と加害者でもない。




(ようやく見つけた気がしますよ。貴方と私の、絆の名前を)




例えるなら、そう。




「花と虫」




垣根の言葉に、初春はパフェを頬張る手を止め、彼を見た。




「垣根さん、何か言いました?」




「いえ、何でもありません」




垣根はそう言い、また手前の紅茶を軽くすすった。




やがてカップを皿に置いた彼は、初春に向かい語り出す。




「初春さん。まずは、今日時間を取っていただいて感謝します。そして、謝らなければいけない。私は結局、彼を救い出すことができなかった」




あの日、眠りから目覚めた初春に全てを伝えた。彼女はただ頷き、一言も喋らず、終始顔を埋めていた。垣根はその時のことを思い出し、彼女に謝罪する。




初春は黙っていたが、すぐに顔に笑顔を戻す。




「嫌だなぁ。垣根さんが謝ることじゃないですよ。仕方なかったことなんですから」




その笑顔の真意を理解している垣根は、一切表情を緩めない。




「それに、あの人は最後まで、救われることを拒んでた。きっと、私なんかが何言っても意味がなかったんですよ。だから垣根さんも、そんな顔しないでください」




それは違う。と垣根は素早く返す。




「貴女は最後まで、彼を救おうとした。その想いはきっと彼に伝わっていたはずだ。でなければ、あんな涙は流さない。違いますか?」




初春は笑顔を続けるが、次第にそこに暗い影が混ざり始める。




「分からないですよ」




彼女は顔を下に向ける。




「確かめようにももう、あの人はいないんですから」




その言葉に、垣根は答える。




「そうだ。彼はもうこの世界にはいない」




彼女の顔から笑顔が消えた。それを見た垣根は、そっと手を伸ばす。




「だが、ここに『もしも』の世界がある。もし、あの時彼が死ななかった後の世界が」




その言葉に、初春は顔を上げた。自分に向かって伸びた垣根の掌から、万年筆ほどの大きさの、軍神の槍が発されていた。




「垣根さん、それ…………」




「彼を吸収した際、彼が記憶していた軍神の槍のデータを元に、新たに作り上げたものです。これで私も、魔神の力を制御できるようになった。後は法則制御と組み合わされば、彼が行なったような過去改変を行える」




ただ、と垣根は続ける。




「幻想殺しをこの身に宿らせた後遺症が少し、発生しましてね。法則制御の力を、安定して使うことが出来なくなってしまった。このまま過去改変をしても、おそらく5分もしないうちにバランスを崩し、元の世界に戻ることになるでしょう」




5分。初春はその言葉を繰り返す。




「これが所詮、幻想なことは分かっています。だがそれでも、私は貴女に伝えたい。貴女がどれだけ、彼を、垣根帝督を、救ってくれたのかを」




あり得たかもしれない世界。




たった5分の間の幻想。




そんなものに縋ったって、現実が変わるわけじゃない。




そんなことは彼女にも分かっている。




だが、それでも彼女は、彼が差し出した手に、触れようと手を伸ばした。




世界が白に染まり、生まれ変わる。




…………………………。




初春が目を開けると、そこは学園都市を見下ろせる展望台がある、レンガ式の道が敷かれた遊歩道だった。




「ここは…………」




初春は辺りを見渡す。道の脇には木々が並び、山中に建てられた風力発電のプロペラの回る音が耳に過ぎる。視線の先には下へ続く階段があり、その先に展望台がある。




「さあ。行ってきてください」




隣の垣根が、初春の背中をそっと押した。彼女は振り返り、無言で頷く。




初春は歩き出し、階段を降り、展望台から学園都市を見下ろしたた。改変前と同じく、時刻は夕方で、街はオレンジ色の光を反射して切なく輝いている。




初春はそこで、あることに気づいた。




(……何か私、少し大きくなってるような)




自分の顔や胸や腹をペタペタと触り、改変前よりも成長していることを感じる。とすると、ここは未来なのだろうか?




そんなことを考えていると、不意に左側から声がした。










「初春」









聞き覚えのあるその声に、彼女は振り向く。そして、息を詰まらせた。




「…………垣根、さん?」




目の前に居たのは、紛れもない、かつて自分を殺そうとした『本来』の垣根帝督だった。初春は言葉を失い、じっと、彼を見つめる。




「何ボッーとしてんだコラ。パトロールは済んだのか?」




「へ?」




パトロールと言う言葉が彼の口から出たことに、初春は呆けた声を漏らす。そして、彼の右腕にかけられたものを見て、震えながら指を指した。




「あ、あの……その、腕章は……」




「ハァ? オイオイ。天然なのは知ってるけどよ、遂にボケが始まったのか? ずっと付けてんだろうがよ」




彼は腕を上げ、彼女にそれを見せびらかす。それは自分がずっと掲げてきた、風紀委員の腕章だった。




(そうか。この、世界は……)




初春はあの時、彼に言いそびれた言葉を思い出した。











ー垣根さん。もし良ければ、風紀委員に入りませんか?ー









(それじゃあ、あの後、垣根さんは私の誘いに乗って…………)




初春はそれに気づき、唇を固く結わえる。そして、すぐに顔の緊張を解いて笑みを浮かべた。




「そうでしたね。うっかりしてました」




「ったく。しっかりしろよ。あ、悪りぃ電話。もしもし……ああ、白黒か。んだよウルセェな……分かってるよ…………ああ、ちゃんと用意してる………ウルセェよボケ。殺すぞ」




彼は電話越しに会話を続ける。白黒、ということは、おそらく相手は黒子だろう。初春は少し笑い、掌をぎゅっと握り締めた。




(良かった)




彼女の奥底で、感情の波が荒立ち、激しさを増していく。彼女はそれを抑え込み、自分に言い聞かせる。




(あなたは、ちゃんと自分に打ち勝てたんですね。じゃあ、泣くなんてダメだ。あなたの為にも、最後まで笑顔でいて、この世界と別れよう)




この世界で過ごせる時間は、後4分を切った。初春は息を吸い込み、彼へと向かう。




彼は眉間に皺を寄せながら電話を切った。そして初春の方へ向くと、彼女は満面の笑みをして、すぐ目の前にいた。




「パトロール完了しました。さあ、本部に帰りましょう」




「おう」




彼はそれに微笑みながら答えたが、その後直ぐに掌を彼女に向け、静止させる。




「その前に、初春。手ぇ前に出してくれないか? ちょっと、赤ん坊を抱き抱えるようなポーズで頼む」




初春は怪訝に思いながら、言われた通りのポーズをとる。




「よっしゃ。3、2、1!」




彼が指を鳴らすと、初春の腕の中に突然花束が現れた。赤や黄色、紫の花々が咲き誇る、華やかなギフトだ。初春はわっと驚き、花束を握りしめたまま少し後ずさった。




「ハハハッ! ビビったか? 未元物質を駆使した瞬間移動だ。白黒のお株を奪っちまうが、俺の未元物質に常識は通用しねぇからな」




彼は無邪気な笑みを浮かべて手を叩く。そして、一転して真摯な表情で、彼女と向かい合う。




「初春。今日で俺が風紀委員に入って、2年が経った。そいつは、お前への礼だよ。どうしようもねぇ俺に手を差し伸べてくれた。お前へのな」




初春の口元が、歪に震えた。




「俺は最初、お前を殺そうとしていた。それなのお前は、そんな俺に光を与えてくれたんだ。その思いを、全部言葉で伝えるってのは、ちと難しいだろ? その花束が代わりだよ。初春。ありがとな」




彼は照れ臭さそうに、時々視線を逸らしながらそう言う。




(ダメだ)




初春は必死で、自分に言い聞かす。




(甘えちゃダメだ。泣くな。泣いちゃダメ)




彼女は顔を上げて、笑う。




「ありがとうございます。垣根さん。これからもよろしくお願いします」




ああ、と垣根は笑った。




「でも、もう2年か。早いもんだな。色々あったよな」




彼はまた語り出す。




「俺が犯人捕まえる際にやり過ぎて、始末書に追われたりした時は皆んなにめちゃくちゃ怒られたよな。特に白黒がうるさくてよぉ。よく2人であいつの悪口言い合ったよな」




「ですね」




「夏皆んなで海行ったときもよ、お前の貧相な体と美偉の体比べてイジったら、顔真っ赤にして怒りまくってたな。あの後やった花火で俺に向かって火花ぶっ放してきた時は、マジでヤバい奴だと思ったぜ」




「あはは、まあ」




「一端覧祭の時は、一位の野郎と組んでバンドやらされたな。あんなに空気の悪りぃライブ初めてだったぞ。あいつと音楽の趣味も全く合わねぇし。ニルバーナが好きなんて、信じられねぇよ。お前の頼みだからやったんだぜアレ」




「うん」




「クリスマスの日には、カブトムシと一緒に学園都市中のガキにプレゼント配ってたよな。あれは恥ずかったぜ。サンタの代わりに天使が来たとかそこら中に言いふらされてよ。あ、そうそう。最後にお前にマフラー渡したら、満更でもねぇ顔してたな。あの時のお前の顔、中々見ものだったぜ」




「……うん」




「入って一年も経てば後輩も出来るし、ようやく一番下っ端から抜け出せたと喜んだもんだ。どいつもこいつも、学園都市2位を顎で使いやがって。中でも1番こき使ってやがったのは、お前だけどな。負い目に漬け込みやがって。腹黒い野郎だ」




「ちょっと」




「でも、悪くなかったぜ。初めて俺に、まともな居場所が出来たたんだ。背負った罪は一生消えねぇけど、それでも少しずつ、削ぎ落としながら進むつもりだ。初春。本当に」




「ねぇ」




彼はそこで、言葉を失った。目の前で笑顔を保っている彼女の瞳から、大粒の涙が溢れていたからだ。




「止めて…………」




初春はもう、耐え切れず、手にした花束の影に顔を隠してひたすら涙を零す。




「初春……?」




彼は口を開け、彼女をただ見つめる。




そしてあることが、頭によぎった。




「違うの……何も、出来なかった。こんなの、貰う資格なんてない……私は、あなたを救えなかったの……だから、止めて…………」




初春はそこではっとしたように顔を上げ、涙を拭き取り、また顔に笑顔を灯す。だが、一度流れ落ちた涙は決して止まらず、頬を伝うのを止めようとしない。




「あ、アハハ。何、言ってんでしょう私。垣根さんが言うように、ちょっとボケて来ちゃったのかなー? ハハハハハハ」




「……お前、ひょっとして」




「さあ、もう帰りましょうよ! この花どうしましょっか? んー、風紀委員の本部に飾るのは邪魔かなあ? じゃあ、寮の部屋にでも、飾ろっ、かなあ……」




何度も瞳を擦り、涙を拭き取ろうとするが、その度にまた溢れ出す涙に、初春は逆らう気力を失くしつつあった。




「えへへ。垣根さん。ありがとう。私、大事に」




それでも何とか笑いながら、彼に礼を言おうとしたが、言い終わるよりも先に彼は初春を抱きしめていた。花束が花弁を散らしながら、地べたに落ちる。




「へ? あの、垣根さん?」




彼は強く、初春を抱く腕に力を込める。彼女の体に、何度も肌に触れたあの感触がよみがえる。彼は右手で彼女の頭を優しく撫でながら、ゆっくりと話し出す。




「そっちじゃ、俺はもういないのか?」




その言葉に、初春は腹が痙攣した。それでも彼女はまだ、自分の意思を貫こうとする。




「な、何言ってるんですか? そっちて、垣根さんもちょっと疲れて」




「ごまかすんじゃねぇよ」




彼の声は低く、暖かく、初春の鼓膜を満たす。




初春はそこで反逆の意思に、決定的な亀裂が走ったのを感じた。




「俺も世界改変をやった身だ。大体分かる。答えてくれ。そっちじゃ、俺はもう居ないのか?」




意思が儚く崩れ落ちていく音が、自分の口から嗚咽に変わって漏れ出すのを初春は感じた。




「風紀、委員に、誘おうとしたんです。だけど、アレイスターって人に、それで…………」




そこから先は言葉にならなかった。ただ胸元で泣き続ける彼女を、彼は頷きながら、しっかりと抱きしめる。




「そうか。頑張ったんだな。最後まで諦めずに、俺を救おうとしてくれたんだな。初春。ありがとな。本当に」




彼の言葉が、優しい感触で内側に入ってくる度に、それが巡り巡って涙に変わり、瞳から溢れかえってくる。初春はその激情を乗せるようにして、首を勢いよく横に振った。




「結局、何も出来なかった。私はあなたを、どうすることも、だから、あなたにそんなこと言われる資格なんか」




彼は首を、ゆっくりと横に振る。




「例え俺はもうそっちに居なくても、お前の言葉が、お前の優しさが、俺の心に光を指したのは変わらねぇよ。お前は十分、俺を救ってくれたんだ」




「違う、違うっ」




初春は涙を散らしながら、何度も首を横に振り否定する。




「私じゃない。あなたが、自分に勝っただけなの。だから、違うの。そんな優しいこと、言わないで……」




「俺はそんなに強くねぇよ」




彼は囁く。




「俺にそんな力があるなら、それはお前から貰ったもんだ。ずっと、自分の弱さにムカついてた。俺がこの世界でこうしてられるのも、お前が側に、居てくれたからなんだよ」




彼は初春の頬を伝う涙を指で拭き取り、その頬を掌で包む。彼女は顔を上げた。




「だから、そんな顔すんな」




彼は笑う。一点の曇りのない笑顔で。




「俺はもう、大丈夫だ」




その笑顔を見た初春は、何かを言おうとして、そして、大声を上げて泣いた。自分の存在は、確かに彼の中で花開いていた。そのことが分かった今、彼女は何も包み隠すことなく、ただ涙を流し続けた。彼はそんな彼女の頭を、優しく撫でていた。







一秒、一瞬、一目でも、この笑顔を見れてよかった。







私たちはこんなにも、分かり会えたんだ。








「グェッ?!」




突如、自分を抱きしめていた彼がバランスを崩して前に倒れてきた。初春は咄嗟に彼から離れ、彼はただ1人地べたに倒れ落ちる。




「全く。気になって来てみれば、よくもまあ初春に熱い抱擁をしやがりましたわね。このペ天使」




そこに居たのは黒子と、彼女のテレポートで同伴してやって来た固法だった。黒子が彼の後頭部にドロップキックをかましたたのだ。2人とも2年経って、少し体が大きくなっていると初春は感じた。




「初春さん! どうしたの? 泣いてるじゃない! 帝督に何か言われたの?」




固法は急いでテッシュを取り出し、初春の目元を拭く。初春は戸惑いつつ、為すがままでそれを受け入れた。




「どう言うことですの? 説明によっては磔にしてやりますわよ」




「やってみろよ雑魚が。よくもやりやがったな。いつまでもナメていられると思ったら大間違いだぞ白黒」




彼は後頭部を摩りながら立ち上がり、怒りのオーラを周囲に発散する。だが、横から固法に耳を抓られ、その怒気は一瞬で消滅した。




「帝督? 説明しなさい。あなた一体初春さんに何言ったの?」




「イテテッ! ちょ、止めろ美偉。何も言ってねぇよ! だろ初春!? 説明してやれ!」




彼の懇願に、初春はプッと吹き出し、したり顔で固法に言った。




「とっても、とっても酷いことしました。死ぬかと思った」




彼の顔から血の気が引いた。




「ちょ、初春、おま」




彼の言葉は、今度は顔面に直撃した黒子のドロップキックにより遮られた。




「やっぱりそうですのねこのペ天使があああああああああッ!!! 私のパートナーを痛ぶった罪、覚悟するんですのォッ!!!」




黒子に足蹴にされる彼と、それを見つめてため息を吐く固法。そんな光景を眺めながら、初春は心の底から笑った。その瞳からまた一筋、涙が垂れ落ちた。




そこから少し離れた、遊歩道の柵にもたれていた垣根は、耳に入ってくるそのやり取りを聞き静かに笑った。




空を見上げると、茜に混じった薄い紫色の向こうに、透明な月が輝いていた。




…………………………。




12月の太陽は、死んだ動物の皮膚のような温度を街中に放っている。彼はその空気の中を当て所なく歩きながら、そんなことを思った。




(まさか、この世界でもあいつらと共にいるとはな。とんだ縁を用意してくれたもんだ。魔神の力って奴はよ。ムカつくなクソったれ)




彼女の凄惨な裏切りから逃れる為、彼は2度目の世界改変を行なった。




それは、彼女と合わなかったという前提の世界だった。その世界で彼は、スクールの面々を引き連れ学園都市の闇に戦いを挑んでいた。




思いがけずまた、彼らと行動を共にすることになった彼の胸中には、逃れられない自分の業というものを感じた。




(なあに。前とは違う。あいつらとも上手くやって、今度こそ俺はこの街をあるべき姿に戻してやるさ)




彼は自信のある笑みを浮かべた。




しかし、その表情はすぐに崩れ、代わりに虚しさを顔に浮かべた彼はその場に立ち止まった。人の往来が、自分の左右を満たしていく。




彼の脳内に、彼女に裏切られた時に堪らず発した言葉が蘇る。




(俺が本当に望んだのは……何だ? 俺は何がしたかったんだ。この街を正して、俺のような奴を生み出さないようにすることじゃ……)




彼の自分自身への確認は、空風のように胸の内を通り過ぎていくだけだ。




(ホント、ムカつくな。ああ。分かってんだよ。俺はただ、自分を変えたかっただけなんだ)




彼は自覚していた。幼い頃に絡みついてきた人間の残酷さ、非情さ、どうしようもなく汚れた闇が、いつの間にか自分の中にも同じような闇を作り上げていた。




(分かってんだよ。こんな奴が、幸せになれるわけがねぇってことくらい。それなのに、俺はどうしても俺を認めることができねぇんだ)




元の世界で、自分が引き起こしてきた様々な血染めの惨劇が頭に再生される。その度に彼は、自分を正当化し続け弱さから目を背けてきたのだ。




その末に手に入れた魔神の力。これでやっと、彼は自分が変われると思った。過去に根付いた闇をなかったことにさえすれば、自分は本当の存在に生まれ変われる気がした。




だが、何度世界を変えても、前提を変えても、自分の記憶を、感情までも塗り潰すことはできない。




掴みかけていた答えが、敢え無く散っていく幻想だったことに彼は気づき、その空漠を紛らわすためこうして彷徨くことになった。




彼はまた、歩き出す。




(どうするつもりだ。こうしてブラブラしてても、何の解決にもならねぇってのに)




彼は自分にまた問いかける。答えも出ぬまま歩き続けていると、とあるカフェのオープンテラスに差し掛かり、そこで見覚えのある人影を見つけた。




(あのガキ、確か…………)




それは、かつての世界で自分が殺そうとしていた花飾りの少女だった。




彼女は自分の手で死の淵に追い込まれても、己の信念を曲げようとはしない強い女性だった。




そして自分はその直後、一方通行との戦いに敗れたのだ。だから自分が手をかけてきた人間の中でも、一際印象に残っていた。




(こいつもまた縁なのか? 魔神様よ)




自分は結局、彼女を救うことも、自分を救うことすらもできなかった。




その業が、今度はこの花飾りの少女に、償いを求めているとでもいうのか。




気づけば彼はカフェの中に入り、彼女に近づこうとしていた。彼女は立ち上がり、ここから去ろうと振り返った瞬間、彼とぶつかる。




「うおっ」




「ひゃ、あ、すみません」




その衝撃で、鞄の中の荷物が地面に盛大に散らばった。




「あ、あわわ。ごめんなさい」




慌てふためく彼女を見て、彼は内心笑い、2人してしゃがみこみ荷物を拾い始めた。彼はその時、1つの黒いUSBを見つけ、それをそっとくすねた。




「おい。ホレ」




「あ、ありがー」




ついでに見つけたピンク色の巾着も彼女に渡す。セクハラかもしれないが、自分の顔立ちなら許されるだろう。彼は自然にそう思った。




「ちょ」




彼女は素早くそれを受け取り、顔を俯かせながら警戒した瞳で彼を睨む。




「おいおいお嬢さん。悪気はねぇって。白昼堂々セクハラするほど飢えてねぇよ」




彼は冗談交じりの弁明をするが、彼女の表情は和らぐことはない。だが直後に、警戒とは違う何とも言えない顔をした。自分のことを覚えているのか? それはないだろ。彼は思い直した。




「悪かったって。あんまジロジロ見るなよ。何だ? 通報でもする気か? そういやその腕の腕章……」




「へ? あ、いや、そういうわけじゃないんです。まあ、周りを見てなかった私も悪いですし、それじゃあ」




彼女は立ち上がり頭を下げ、去ろうとしたが、立ち止まって振り返り、ゆっくりと彼に問いかけてきた。




「……あの、名前は?」




「帝督。垣根帝督だ」




彼ははっきりと答えた。




「……そう、ですか」




「何だ? 聞いただけか?」




「いや、その……それでは」




彼女はその答えに満足したのか、その場を離れていった。彼は彼女が座っていた席に座り、メニューを開いて卓上に置いた後、くすねたUSBを見つめる。




(……何、バカなことやってんだろうな)




自分はまた、幻想に縋ろうとしている。そもそも、彼女は自分のことなど覚えていないだろう。一体どうしてこんなことをしたのか、彼は甚だ疑問に思った。




ふと、記憶の奥底から声がした。それは自分が学園都市に来る前。孤児院に居た頃に教師から聞いた言葉だった。







(いい? 誰かを想う心さえあれば、どんな時でも希望は消えないの)







彼はUSBを、ギュッと握りしめた。




(くだらねぇ)




記憶の奥底からの声を、彼は一蹴した。




(これは断じてそういうつもりじゃねぇ。そうだ。あいつは風紀委員なんだろ? じゃあ、この街の闇の正体を知らせれば黙っちゃいないはずだ)




彼は右目の虹彩を黄金に染め、魔神の力を使用し、彼女の過去に軽く干渉した。




(名前は、初春飾利。オイオイ。学園都市有数の凄腕ハッカーじゃねぇか。こいつは使えるな。初春。お前のその正義は、俺たちの目的の為に役立たせてもらうぜ)




少し、彼女を側で見てみたくなった。殺されようとしても尚曲げながった、風紀委員としての意思の強さ。結果的にそれは、スクールの活動にも役立ってくれるだろう。




彼はUSBを懐にしまい、静かに笑った。






もう一度やり直そう。






垣根帝督は、己にそう誓った。















とある魔術の禁書目録SS 白垣根「花と虫」









ー完ー










後書き

以上で、垣根帝督と初春飾利の物語は終了です。



新約6巻で白垣根が登場した時から、いつかこいつを初春と元の垣根と絡ませるSSを書きたいと思っていました。そうこうしていると、元垣根が船の墓場でバレーボールになったりオティヌスが世界をぶっ壊したり、フィアンマがラリアットで吹っ飛ばされたりと色んなことがありました。



しかし、このパーツから何か新しいモノを作れそうだと思い、色々考えた末にようやく去年から執筆に取り掛かることができました。原案では僧正や上里や美琴を絡ませようとしたこともあります。でも、最終的にこの形に落ち着くことになりました。



僕の中では、白垣根が「今生きる理由」を作ってくれたのがフレメアと打ち止めの2人だと思っています。なので、初春は白垣根の「垣根帝督としての過去」を救ってくれた存在として描いたつもりです。



至らぬ所は沢山あると思います。こんなSSでも見てくれる誰かがいると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。



ラストはELLEGARDENの「花」を聞きながら一気に書き上げました。もしよければこの曲を聞きながらもう一度ラストシーンを読んでみてください。



それでは、ここで筆を下ろさせていただきます。


このSSへの評価

3件評価されています


SS好きの名無しさんから
2019-04-19 20:40:50

SS好きの名無しさんから
2018-11-11 21:40:30

SS好きの名無しさんから
2018-09-07 02:42:15

このSSへの応援

2件応援されています


SS好きの名無しさんから
2018-11-11 21:41:00

SS好きの名無しさんから
2017-07-16 02:47:26

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