達仁と貧乳三銃士の宮島・しまなみ海道の旅
達仁は海未は、凛とにこと希と一緒に山陽新幹線「ひかり」に乗ってしまなみ海道と宮島へ行く事になった。
「達仁、一緒に行けれて嬉しいです。」
「そうか、じゃあ俺達はひかりに乗って福山で降りて、そこからバスに乗って街道を巡るのさ。」
「達仁君、お待たせにゃ。」
そこへ、凜がやって来た。
「凛、凄い荷物だな。」
「しまなみ街道と宮島に行くんだから、新幹線「ひかり」に乗って行けるなんて楽しみにゃー。」
達仁と海未と凜は、新幹線のホームへ行くと、そこへにこと希がやって来た。
「達仁、お待たせにこ。」
「うちも今着たよ。」
「そうか、じゃあ乗ろうか。」
「うん。」
達仁と海未とにこ達は東京駅から新幹線「ひかり33号」博多行きに乗った。
「達仁、海、さっき売店でお菓子買ってきたにこ。」
「ありがとう。」
達仁とにこ達は新幹線の車内でお菓子を食べていた。
「うわぁ、富士山だにゃ。」
凜は窓の車窓を楽しんでいた。
「岡山から福山まで普通列車で行くのね。」
「うん、乗り換えしないといけないんだ。」
「そこから普通で行くのか。」
達仁と海未達が乗った「ひかり33号」は11時頃に岡山駅に到着した。
「そこから山陽線に乗り換えて福山まで行くんだ。」
「あれが、山陽線ね。」
「うん。」
22番乗り場に来た達仁と海未達は岡山発の糸先行の列車に乗って福山へ向かった。
「ひかりから普通列車に乗ってしまなみ海道へ行けれるの。」
「うん、そこから福山でしまなみ海道の観光バスが動いているんだ。」
「なるほど。」
福山駅に着くとしまなみ海道のバスが止まっていた。
「あのバスだ、はやく乗ろう。」
「うん。」
達仁と海未達はしまなみ海道のバスに乗ってしまなみ海道を巡ることにしました。
「うわー、海がきれいだよ。」
「うん。」
達仁達は瀬戸田に到着した。
「やっと瀬戸田に来たにこ。」
瀬戸内海には個性豊かな島々がたくさん点在しています。風光明媚な島々が連なる「瀬戸内しまなみ海道」を中心に、安芸灘の島々を結ぶ「とびしま海道」、旧海軍兵学校で有名な江田島と遣唐使船の建造なども行われた倉橋島を結ぶ「かきしま海道」、船でしか訪れることができない
「ねぇ、レンタサイクルに乗ってしまなみ海道をまわって見ようか。」
「賛成。」
達仁と海未達はレンタル自転車を借りて旅に出ることにしました。
「とても気持ちいいわ。」
「自転車サイコ―にゃー。」
自転車で街道をまわった後、耕三寺を見物をすることにした。
「じゃあ写真撮るよ。」
「うん。」
にこは、あの言葉で写真に入った。
「にっこにっこにー!。」
カシャッ。
次の日、しまなみ海道を見物した達仁と海未達は広島で下車し、宮島へ見物をすることにしました。
「広島から連絡船で行けれるんだよ。」
「本当。」
宮島は、太古からその島の姿と、弥山を主峰とする山々と、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。
嚴島神社は、社伝によりますと推古元年に佐伯部の有力者であった佐伯鞍職[さえきくらもと]により現在の場所にご創建されたと伝えられています。
大同元年に、僧空海(弘法大師)が唐から帰朝し、京の都へ帰る途中に宮島をご覧になり、島から霊気を感じ、ここは霊場に違いないと弥山に御堂を建て、百日間の求聞持[ぐもんじ]の修法をされました。
このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で燃え続けている「消えずの火」です。
久安2年に、平清盛が安芸守に任ぜられました。
清盛公は、夢枕に立った老僧から「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」という示現を受け止め、嚴島神社を深く信仰し、当時の寝殿造りを模して造営され、また舞楽を大阪四天王寺から移したほかに、清盛公をはじめ一門により法華経を写経し、清盛の願文[がんもん]と共に奉納された写経が平家納経で、国宝中の国宝と言われています。
このほか甲冑や刀剣をはじめ等美術工芸品を奉納するなど、都の文化を宮島に移しました。また社領を増やすなど厚い庇護をいたしました。
都からは、清盛公をはじめ平家一門のほか、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院・中宮徳子らの皇族や貴族が社参しています。
平家は壇ノ浦に滅びましたが、その後の鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉も篤く信仰し庇護いたしました。
人々が宮島に住み始めたのは、鎌倉時代末と思われます。
初めに、神職や供僧が住み、そして庶民が住み始めたと思われます。
戦国時代、中国地方の有力者であった大内義隆は、宿老の陶晴賢[すえはるかた]の謀反により長門大寧寺[だいねいじ]で自刃してしまいました。
義隆と盟友関係にあった毛利元就は、晴賢に兵を向けましたが、兵力は陶軍がはるかに優勢であったので、策を謀り、宮島の北に位置する宮ノ尾に城を築き陶軍を宮島に誘き寄せました。弘治元年9月のことです。
陶軍は、2万の兵を宮島に上陸させ、まず勝山城に本陣を置き、続いて宮ノ尾城が良く見える塔の岡に置いて攻めたてましたが、守りが堅くなかなか落とすことができませんでした。元就は、10月1日おりからの暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前[じごぜん]から3千5百の兵を引き連れて密かに包ヶ浦[つつみがうら]に上陸し、塔の岡の背後の尾根である博打尾[ばくちお]に登り、一気に陶の本陣めがけて攻め下りました。
陶軍は、混乱し戦うすべもなく敗走しました。陶軍の勇将弘中隆包(ひろなかかね)は、絵馬ヶ岳(駒ヶ林)に敗走して自刃し、晴賢はわずかな手勢を引き連れ大江の浦に落ち延びましたが、自刃し果ててしまいました。この戦いを「厳島合戦」といい「日本三奇襲戦」の一つといわれています。
毛利氏は、陶氏を滅ぼし中国十カ国のほか豊前や伊予を支配し強大な勢力を誇る戦国大名になりました。
毛利元就・隆元父子は、天神社を創建し、反橋[そりばし]や大鳥居の再建や社殿の廻廊を張り替え、また能舞台を寄進し演能するなど、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しています。
豊臣秀吉は、天正十五年戦没将兵の供養のため、安国寺恵瓊に命じて大経堂を造立いたしましたが、慶長3年秀吉が亡くなったため、完成間近で工事は中止されました。
完成していれば桃山時代の美術工芸の粋を集めた素晴らしい建物になっていたことでしょう。
江戸時代になると、福島正則が安芸国の藩主となり商業・廻船業を保護いたしました。
続いて藩主となった浅野氏も継承し、宮島は交易の中継基地として発展し、歌舞伎や大相撲・富くじなどが催され、瀬戸内地方文化の中心地としても栄えました。
僧誓真は、広島で米屋を営んでいましたが、一念発起、宮島光明院で仏門に入り了単[りょうたん]上人の導きを受けました。当時から島には多くの貴人・文化人・商人・参拝客が訪れていましたが、これという宮島の産業がないことを嘆き、弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案して島民に教え普及いたしました。
また水不足を解消するために井戸を掘り(誓真釣井)、雁木[がんぎ]を造るなど宮島の恩人の一人として今でも慕われ、光明院の近くにはその遺徳を称え誓真大徳碑が建立されました。
慶応元年尊皇倒幕を推進する長州藩とそれを押さえようとする徳川幕府の間で第二次長州戦争が起こりました。慶応2年大願寺が休戦交渉の場所となり、幕府海軍奉行勝安房守(勝海舟)と長州の広沢正臣らで休戦会談が行われました。
明治元年神仏分離令が発令され、廃仏毀釈運動が起こり、宮島に多くあった寺院が廃寺となりましたが、主な7ヶ寺が残り、嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像が寺院に移されるなど少なからずの混乱がありました。
「へぇ、達仁って何でも知っているのね。」
達仁たちは嚴島神社へ見物する事にした。
「ここが廻廊だよ。」
「ウチの神社よりもっと広いもんやわ。」
「希、行ったことがあるのか。」
「うん、ウチが小学校の修学旅行で行ったことがあるから。」
「そうなの。」
東側廻廊は47間、入口は切妻造りで、屋根は檜皮葺[ひわだぶき]で、棟には棟瓦が載せてあります。
西廻廊は、61間あり、西の端は、唐破風造りになっています。
昔は、西側が入口であったことがうかがえます。東西併せて約260mあり、1間・1間に釣灯籠が下げられています。
床板は、1間に8枚敷いてあり、釘は使っていません。板と板の間は少し開いており、潮が高い時や台風時に波のエネルギ-を減免・消波する構造になっていて建物を守る工夫が行われています。
この床板には釘が使われていません。また、床は二枚重になっていて、本来の床板は下にあるほうで、上に敷いてあるのは養生板といい、参拝者が土足で歩いても良いようになっています。これは近年になって施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していました。
廻廊の釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製のものを寄進したのが始まりといわれています。現在のものは、大正時代に奉納されたもので青銅製です。
「結構広いのね。」
「うん。」
そして、次の日広島から新幹線で東京へ帰る事になった達仁と海未たちは広島のお土産を買って帰る事にしました。
「そうだ、穂乃果にもみじ饅頭買っておこうか。」
「そうだな。」
帰りは広島発15時28分発の東京行き新幹線「のぞみ20号」に乗って東京へ帰りました。
「あら、凜と希は眠ったのか。」
「歩き回ったからね。」
「そうだな。」
劇中の東海道新幹線の時刻は平成6年のダイヤを使用しています
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