「飛べない燕と銘無き英雄」その2
前回の続きです。
施設を脱出してから数時間後、つばめは疲れた体を引きずって歩いていた。
もう足は殆ど動かない。元々体力がある方ではなかったし、それでなくてもつばめの体はボロボロだった。
かなりの距離を歩いた。今頃施設ではつばめの失踪に気が付き大騒ぎになっているだろうが、その騒ぎも此処までは届かないだろうと思う。
暗い路地裏をふらふらと歩く。空腹、喉の渇き、疲労…そういったものが意識を奪おうとするのを懸命に堪えながら、ただただ前に進んだ。
お金も、行く宛もない。このままだと飢死するのがオチだろう。だが…あの劣悪な環境で果てるよりは遥かにマシだった。
何より、自分はもう自由だという事実が大きかった。一筋の希望はもう見えている。後はそれに向かって進むだけだ。
それと同時に、あの施設で果ててしまった一人の少女の事が脳裏を過り、心臓がズキンと痛む。
出来ることなら、あの子と生きたかった。世界の全てに嫌われている私と友達になってくれたあの子と…。
一緒に学校へ行ったり、ご飯を食べたりして毎日を過ごし、帰る時に「また明日」と笑い合いたかった。
だが、彼女は死んでしまった。つばめの前で、首を吊って…その命を、自分で絶ってしまった。
幸鳥の変わり果てた姿を思い出し、吐き気を覚えると共に大粒の涙が零れ落ち、地面に染みを作る。
ああなりたくないという恐怖、友人を失った悲しみ、怒り…そういった感情が混ざり合い、つばめは地面に這い蹲って涙を流し続けた。この時間を逃走に使った方がいいと、合理的なつばめはそう言っている。だが感情的なつばめがそれを押しとどめる。
そうやって暫く泣いた後、つばめはまた立ち上がりふらふらと歩いてゆく。
生きる為に、必死に羽ばたいてゆく。
*
その少女と出会った時、無銘こと赤坂蜥蜴は音楽を聴きながら夜道を当てもなくさまよっていた。
先程まで馬鹿話をしていた友人と別れ、後は家に帰るだけなのだが何となく足が向かず、音楽を聴きながら歩き続けている。
無銘はまだ中学生。県の条例で定められた時間を過ぎれば補導対象になる。そうなる前に早く帰った方がいい…それは解っている。補導の面倒臭さも嫌というほど身に染みている。だけど帰る気が湧かないのだ。
なんというか…自宅は自分の居場所ではないような気がしていた。親も弟もいる、生まれてからずっと育ってきた場所。だが、何故か自分はそこから少し浮いている気がしたのだ。そんな事は無いはずなのだが、何故かそう思ってしまう。
誰かを救う事で自分の存在を肯定する自己犠牲主義者、その在り方が間違っているとは思わない。
だが、人々は彼を異常な目で見ることもある。そういった事もあり、何時しかふわふわした状態に陥っていた。
ぼんやりと歩いていた時、近くの路地裏から一人の少女が出てきた。
髪はボサボサ、顔には疲れが色濃く刻まれており、歩き方も覚束無い。
そして―その少女の両眼は、左右で色が違っていた。
少女は路地裏から出た所で力尽きたのか、大きくふらつき地面に倒れた。
「………ッ!」
無銘は急いで少女に近付き、抱き起こす。苦しそうな表情を浮かべながらも、少女は薄目を開けた。その唇が小さく動く。
「たすけて」
声を発する事は出来なかったようだが、少女は助けを求めていた。そしてまた力無く目を閉じる。
「おいアンタ!大丈夫か!?」
揺り動かすも、反応は無い。暫くして小さな寝息が聞こえてきた。どうやら疲労していただけらしい。
しかし、どうしたものか…無銘は途方に暮れた。自分はまだ学生の身だ。助けを求められても出来ることは限られている。
しかし、何気なく少女の全身を見た時、あるものを見てしまった事で無銘の思考は沸騰した。
「これは…」
薄い布切れの様な服を纏っただけの少女はかなり痩せており、肉付きの薄い身体からは骨の硬い感触が伝わってきた。
そんな少女の身体には…無数の痣があった。腕や足、首元…至る所に暴力の跡が刻まれている。恐らく服に隠された場所にも、それは刻まれているのだろう。
痩せた体、暴力の跡…そこから推測出来るのは―虐待。
自分が力になれる範疇を超えている、咄嗟にそう判断した無銘は一先ず警察に連絡しようと思い携帯端末を取り出した。
番号を押そうとしたその時、背後から野太い声が聞こえてきた。
「こんな所に居やがったか…」
振り向くと、一人の男が此方を威圧するように立っていた。
「兄ちゃん、ソイツ俺達の施設のヤツなんだ。悪かったな」
施設。つまりこの少女は児童養護施設から逃げ出してきたのか。虐待に遭い、耐え切れずに…。
「施設…?この子、施設の子なのか?」
男は顔を近づけると、ヤニ臭い息を吐きつける。
「アンタみたいなのは知らなくていいんだよ。早くソイツを此方に寄越しな。それともなんだ、謝礼が欲しいってか?全く最近のガキは…」
無銘は少女を抱きかかえたまま立ち上がり、男を見据える。
「この子の身体には痣があった…アンタが、やったのか?」
「だから知らなくていいっていってんだろ。ソイツの目を見たか?左右で色が違うんだぜ?そんなバケモンの面倒見てりゃ色々あるって」
「…テメェ、いまこの子の事なんて呼んだ…?」
「あ?バケモンだよバケモン。気持ち悪いじゃねぇか」
その言葉を聞いた時、無銘は自分のやるべき事を瞬時に判断した。
踵を返し、少女を抱えたまま全力で走る。
「待ちやがれクソガキ!」
一瞬反応が遅れた男が慌てて追いかけてきた。捕まったらこの少女は酷い目に遭う。それが解っているから無銘は足を緩めず、夜の町を駆け抜ける。
とはいえ、何処に連れていったものか…警察に届ければ施設に送還されるだろう。子供をこんな目に遭わせる施設が何故潰れないのかは疑問だが…そう考えた時、何処かで聞いた噂が頭を過ぎった。
とある児童養護施設で、虐待が行われており、その事実を聞いても市が動く事はない。その施設のバックにはとんでもない大物が付いているから、迂闊に動く事が出来ない…そんな噂だ。
若しかしたらこの少女はその施設から逃げてきたのかもしれないと思った。
兎に角警察に頼むという選択肢は無くなった。なら自宅に連れていくか?いや、それも駄目だ。最悪の場合、家族も危険に晒す可能性がある。
頭の中で思考が錯綜する。走りながらも冷静にこの後の事を考えている。無銘の中の大部分は誰かに頼るという判断を下していた。然し、残る少数の部分は此処であの男を迎撃するという選択を唱えている。
どうすればいい。オレはこの子の為に、何が出来る?
その時、後ろから強い光が当てられた。
咄嗟に横に飛ぶ。先程まで居た場所を、勢いよく車が駆け抜けた。判断が遅ければ、轢き殺される所だった。
車は急ブレーキを掛けて停車した。傷だらけの銀色のミニバン。その中から、二人の男が飛び出して無銘の前に立ち塞がる。
後ろからは先程の男が迫ってきていた。
完全に、進退窮まった…汗が一筋流れ落ちる。明らかに不利な状況に立たされ、焦燥が満ち溢れる。
「残念だったなぁ…テメェはヒーローにはなれねえよ」
追いかけてきた男―無銘はソイツに「黒鬼」と名をつけた―が舌なめずりをしていう。
前に控える二人―「赤鬼」と「青鬼」と呼ぶ事にする―は無言で戦闘態勢を取っている。
此処で、やるしかない…無銘は少女をそっと地面に横たえ、身構えた。
黒鬼が真っ先に襲いかかってきた。彼の拳を躱し、脇腹に蹴りを叩き込む。黒鬼の顔が苦悶に歪む。その顔面に拳をお見舞いし、膝を付かせた。
後ろから来る赤鬼青鬼のコンビの連携攻撃を手際よく躱し、赤鬼のバランスを足払いで崩す。それに戸惑った青鬼の腹に膝蹴りを食らわせ、彼もダウンさせた。赤鬼が体勢を立て直したのを確認し、思いっきり正拳突きを食らわせたら彼は鼻血を出しながら悶絶した。
どうやら口だけの連中のようだ。大したことは無い。これなら自分一人でも何とかなる…そう思った矢先だった。
癇癪玉を破裂させた様な軽い音が聞こえ、足に言い様がない激痛が走る。堪らず膝を着くといつの間にか立ち上がった青鬼に髪を掴まれ、嫌という程殴られた。
何が起きたのか―それは、黒鬼が手に持っていた黒い物体が引き起こした事だった。
「拳銃持ってるたぁ予想してなかったろ。え?」
黒鬼が勝ち誇った様に言う。口答えしようにも、青鬼に殴られているから動けない。赤鬼もよろよろと立ち上がり、ボロ雑巾の様になった無銘を蹴り飛ばす。
一瞬で形成は逆転した。ダメージで動けない無銘を一瞥し、黒鬼が倒れている少女の髪を掴む。少女が痛みで目を覚まし、黒鬼の顔を見て目を見開く。
声にならない悲鳴を上げる少女を黒鬼が殴り付ける。鈍い音、呻き声、怒声…そういったものが無銘の鼓膜を揺さぶる。
「……めろ」
「ああ?なんだって?」
「やめろって…言ってんだよ…ッ!」
そう言った瞬間、また青鬼が無銘の髪を引っ張り上げて彼を強引に立たせる。赤鬼の手が首に掛かり、強い力で締め上げた。
「ぁ……………がぁ…………」
息が出来ない。
視界が真っ赤に染まって行く。
少女が…泣いている。
こちらを見て。
叫んでいる。
もう…無理だ。
オレは…此処で…死ぬ。
死ぬ。
自分が終わる。
目の前にいる少女を救えないまま、朽ち果てる。
死ぬのは構わない。だが、少女を救えないまま死ぬのは嫌だった。
薄れゆく意識の中、初めて無銘は願った。
―誰か、この子を救ってくれ…。
神様というものがいるのなら。
オレの命と引き換えでいいから、この子を…。
「止め給えよ」
涼しい声が、場に割り込んできた。
同時に、赤鬼と青鬼の呻き声がして体内に酸素が供給される。
無銘は激しく咳き込み、その場に蹲った。
「なんだテメェ…………がっ!?」
「行き過ぎた暴力は良くないよ、君」
続いて、黒鬼の苦悶の声が聞こえ、何か重い物が倒れる音が響いた。
無銘は状況を把握しようと目を開け、その光景を見た。
自分の近くには赤鬼と青鬼が倒れている。どうやら完全に気絶しているようだ。
黒鬼も無様に床に転がされており、白目を剥いている。
先程まで殴られていた少女は血塗れでぐったりとしており、誰かに抱えられていた。
少女を抱えているのは純白のスーツを着た若い男で、手にはステッキを持っている。彼は無銘に近付き、大丈夫かと訊いた。
無銘は何とか起き上がり、彼の顔を見る。彫りの深い顔立ちの端正な男だった。彼は無銘が自分の顔を見つめているのに気付いて微笑み、ステッキを一回転させた。
「警戒しなくてもいい。私は君たちの味方だよ」
「味方…」
「そう。鬱櫛鎺(うつくし はばき)という。変な名前だが本名だ。君は…赤坂蜥蜴君だね?」
「そうですけど…なんでオレの名前を?」
「君は有名人だ。異能殺しの自己犠牲主義者…君のような人は中々いない。鬱櫛家に来て欲しいくらいなのだよ」
「鬱櫛家…?」
「そう、五大名家の一角である鬱櫛家さ。私はこう見えても鬱櫛の次期当主なのだ」
鎺は笑みを絶やさずに言った。
「そんな人が…何故こんな町に?」
「悪質な児童養護施設を潰す為だよ、君」
鎺は無銘に自分が何故ここに来たのかを話した。
少女がいた児童養護施設の悪評は鬱櫛家まで届いており、施設内で殺人があった事によりそれはより確実なものとなった。現当主である鬱櫛劔(うつくし つるぎ)は直ぐに鎺を派遣、施設を潰し、子供達を保護する様に要請した。
そして鎺は施設に向かう途中で偶然無銘達を発見し、助太刀したという事だった。
「何故、もっと早く動かなかった…」
話を聞いた無銘は鎺に鋭い視線を向けた。
「アンタらが早く動いていれば、この子達は苦しまなくて済んだのに…」
「私達もそうしたいのは山々だったのだがね、色々事情があったのだよ」
鎺は無銘の視線を軽く受け流し、それから言った。
「私はこの子を病院に連れて行くが…君はどうする?」
「病院ならオレが連れていく。アンタは早く子供達を助けてやってくれ」
無銘が即答すると、鎺は驚いた様な表情を浮かべた。
「いいのかい?君、動ける状態じゃないだろう」
「その子に比べれば軽傷だ。大したことは無い」
鎺はそれもそうかと頷き、少女を下ろしてからスーツのポケットに手を入れ、何かを取りだした。
「それなら、これを使い給え。受付に見せれば通用する」
無銘はそれを受け取る。鬱櫛と達筆で書かれた紙片だった。当主のものと思われる印も押してある。
「いいのか?」
「結果的には巻き込んでしまったようなものだ、これくらいはさせてくれ。私も後で向かう」
鎺はまた微笑み、頼むよと言った後闇夜に紛れて消えていった。
無銘は少女を背負い、病院へと向かった。
*
…目を開けると、白い天井が見えた。
此処はどこだろう?まだぼんやりとした意識の中、そんな事を考える。
施設…では無さそうだ。施設の天井はこんなに綺麗では無いし電灯もこんなに明るくない。そう思って周りを見渡し、初めてそこが病院だと理解した。それと同時に自分が何故此処に居るのかも思い出す。
自分は施設から逃げ出し、たまたま出会った少年に助けを求めた。そこで一度意識を失って…次に目を覚ました時には……。
「あ…ああ………」
思い出して、身体が震える。
鬼の形相をした男。
彼に髪を掴まれ、殴られた。
近くには、首を絞められた少年がいた。
此方に手を伸ばしていた。
その手を掴めないまま、私は…。
「そうだ…」
彼は、何処に居るのだろう。
まさか、彼はもう…厭な予感が身体を駆け巡る。
その時、病室のドアが開いて一人の少年が顔を覗かせた。つばめと同様にあちこちが治療されている。
「よかった…目が覚めたか」
彼はつばめを見ると、安堵した様子で言った。
つばめの二色の瞳を見ても何ら動じず、少年は純粋に彼女の身を案じているようだった。
「大丈夫か?」
少年が訊ねる。つばめは頷き、小さい声で言った。
「大丈夫です…あの、助けて頂きありがとうございます」
感謝してもしきれない。あの場で一人だったらきっと連れ戻されていただろう。
彼に恩返しをしたくて、つばめは言った。
「それで…えっと、私に出来ることなら…何でもします。だから…」
その言葉は、かつて施設で教えこまれた「恩返し」の言葉だった。この言葉を言って、その人に従わなければならない―そういった事を、施設長は子供達に教えた。
実際、施設で何かあると子供達はこの言葉を言わなければならなかった。その結果、暴力が曲がり通る事になったのだが。
少年の表情が曇った。それもそうだろうとつばめは思う。私みたいなバケモノにこんな事を言われても、良い気はしないだろう。
「…それは、施設で教えこまれたのか?」
少年が重苦しい声で訊いた。つばめは突然の質問に驚きつつも頷く。
「それが、どんな理不尽な事であっても…従わなければならなかったのか?」
また頷いた。少年の顔が怒りに歪む。
「クソ野郎共が…」
殺気を孕んで呟かれた言葉につばめはビクッと震える。それほどの威圧感を少年は放っていた。
少年は怯えた様子のつばめを見ると、殺気を吹き消して慌てて言った。
「あ、いや…怯えさせる事言ってごめん…その…施設ってのは本当に厭な所だったんだな…」
「………はい」
つばめは俯いた。少年は逡巡した後、ぎこちなくつばめの頭に手を伸ばし、撫でた。
「…………ぁ」
その行為が。
此処はもう施設じゃないと教えてくれた。
自由。
自分は自由なのだ。
その事実に。
涙が溢れて。
嬉しい。
それと同時に悲しみもあって。
分からない。
自分の気持ちが。
つばめは少年に縋りついた。
ただただ泣いた。
少年はぎこちなくつばめを抱きしめて。
ぬくもりが伝わり。
身体が熱くなり。
生を実感しながら。
涙は止めどなく流れてゆく。
暫くした後、少年が呟くように言った。
「何でもするって…言ったよな?」
その言葉に、つばめはまた震える。
諦観と共に頷いた。
ああ、彼も施設の大人達と同じなのだ。
だったら、私は―。
「…なら、幸せになってくれ」
少年の言葉が、じんわりと染み渡った。
「私は…」
つばめは言った。
「私は、幸せになれますか?」
少年は頷いた。
「なれるさ。君はもう、飛べない鳥じゃない」
そう。
つばめはもう、飛べない鳥ではない。
希望があるのだ。
前に進む希望が―。
だから、つばめは少年に言った。
「……はい。私、幸せになります」
自分の為に。
幸鳥ちゃんの分まで。
幸せになるんだ。
*
無銘と少女の邂逅から一ヶ月が経ったある日の事。
朝、いつもの様に学校に行くと既に学校中がその話題で持ち切りだった。
「二年に転校生が来たんだってよ!」
「右目に眼帯してるんだってー」
「怪我でもしてるのかな?」
「厨二病じゃね?」
右目を隠した転校生…その噂と、一ヶ月前に出会った少女の姿が何故か重なる。
結局彼女の名前は聞かなかった。だから彼女がどういった人間なのかは分からない。
でも、もしこの学校に居るのなら…彼女ともう一度会いたいと思った。
その姿を見て、彼女が幸せである事を確認出来たなら…それで、自分がやった事は報われる。
無銘は教室を出た。
廊下の先に、一人の少女が立っていた。
右目に眼帯をした、華奢な少女だった。
彼女は無銘の姿を見ると驚いた様に目を見開いたが、直ぐに此方に近付いてきた。
「……お久しぶりです」
「ああ…久しぶりだな」
少女の顔には陰が無い。それで、彼女は毎日を幸せに過ごせているのだと無銘は確信した。
「私、春風つばめっていいます」
「オレは…赤坂蜥蜴。無銘の方が通りはいいかもな」
むめい、とつばめは繰り返した。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
綺麗な笑顔だった。
無銘も照れた様に笑った。
―二人の物語は、ここから始まる。
これで一区切り。次回から新しい展開となります。
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