辞めたい#1 【艦これ小説】
着任後から一年間が経ったある日、西野(にしの)真之(さねゆき)こと、提督は鎮守府近くの病院の病室に居た。誰かに階段から突き落とされた結果、骨折してしまったのだ。 犯人は依然として見つかっていないものの、艦娘の誰かというのは明らか。といっても一年間もの間、前任のせいもあり、艦娘達から酷い風評被害を受け、無視や陰口、暴力等が日常的に行われていたのでいつかこうなるとは提督も分かっては居た。これまで落ちぶれていた艦娘達の為に尽力してきた提督だったが、ついにこの事件がきっかけで愛想を尽かしてしまう。
前に同じ作品をss方式で投稿していましたが、何らかの不具合なのか、その作品を投稿していたアカウントにログインが出来なくなってしまい、更新がずっと止まったままになっていました。しかし、ふと別端末で別のアカウントを作れば投稿出来ることある日思い付き、本作品を投稿しました。前の作品を見てくれていて、応援してくれていた方々に、ここでお詫びの言葉を送らせて下さい。本当に申し訳ありませんでした。
それと、今回は以前のss方式ではなく、小説方式で投稿したいと思います。ハーメルン様の方でも同じ作品を投稿しておりますので、良かったらご観覧して頂けると嬉しいです。長々と失礼致しました。
「……辞めたい」
不意に、そんな弱音を病室のベッドの上で吐き出してしまった。
これまで色々なことを、見舞いに来てくれた一人の艦娘である大和と話し込んでいたが、俺は一通り会話が終わると、自然と口からそんな弱音を溢していたのだ。
何かにすがるような思いだった。会話が終わった後に訪れた静寂が、元々疲弊しきって極限まで心細くなった心をさらに寂しくさせたのだろうか。
「……提督」
俺の言葉に、大和が先程までの会話で淑やかに微笑んでいた表情を暗くさせる。
「……いや。ごめん。今のは、ちょっとした冗談って奴だ。……まだ二十二才という若輩者が、しかも提督というの立場にあるというのに、こんな弱音を吐くわけにはいかない。……だから、今の言葉は無かったことにしてくれ」
やはり病室に居ると心細くなるのだろう。普段はこんな弱音は吐かなかった筈なのに、こうして無意識に吐いてしまった。気も滅入っている。
普段の大和は俺のことを凄く思いやってくれる艦娘だ。だから、そんな俺のちっぽけな命令もいつも通り聞き入れ、俺が弱音を吐いたことを流してくれるだろう──そう思っていた。
「……無理です」
「──」
しかし、今日の──いや、今の大和はそうではなかった。
「……提督は私達艦娘の為に、もの凄く頑張ってくれました。あれほど前任によって落ちぶれていた横須賀鎮守府は、提督の尽力によって今はすっかり以前の横須賀鎮守府に復興を遂げています」
「……そうらしいな」
「なのに、なのに……私や武蔵、陸奥さん、翔鶴さん以外の艦娘達は……提督に酷い扱いをしました」
沸々と湧いてくる怒りを、その腹に抑え込んでいるかのような話し方で、静かに大和は語る。
「……誰も見向きもしませんでした。誰も提督の努力を認めませんでした……そして──」
「お、おい大和」
「──誰もが……提督の存在を否定しました!!」
これまで怒りを遂に抑えきれなくなったのだろうか。普段、俺の前ではこれほど声を荒らげることはなかった、あの淑やかな大和撫子のような子が、初めてその感情を露にしたのだ。
「提督は無茶しすぎですっ! 今まで無視を始めとした酷い扱いをされているにも関わらずにっ……提督は何も言わずに甘んじて受け続けています! しかも今回のような人間の力の数倍はある艦娘達から暴力を振るわれても執務を続け、挙げ句には懲りずに交友を持とうと近付いて……また暴力を受けて!」
「……すまん」
「しかも……今回に至っては暴力の範疇を超えて階段から突き落とされたんですよ!? 頭を打って死んでも……こうして助かった今でも後遺症があってもおかしくなかったんですよッ……!?」
「……」
「……私は。そして武蔵や陸奥さんや翔鶴さんだって今回のことを知ったとき……どんなに、どんなに心配したかっ……」
気付けば、そこで大和の瞳が潤んでいた。
「や、大和……本当に申し訳ない。あ、ああ……ここにティッシュが」
「私がこうして涙を流してるのは誰のせいなんですかっ……ティッシュなんて取らなくて良いんです! 今は私の話に集中してください!」
「……分かった」
そこで、それまで張り上げていた自分を落ち着かせようと深呼吸をした大和。表情はこれまで見たことがない程に、悲痛そうで、悩みに悩んでいる。
「……先程、提督が私に本音を呟いてくれる前、正直迷っていました。鎮守府にこのまま残り私達と共に護国の鬼として戦って欲しいと言うか。それとも、鎮守府から出て、戦いということから距離を置いて、穏やかな違う余生を送って欲しいと言うのかを」
「……俺は、提督だ。だからこれからも戦k「ですがもうひとつの考えが浮かびました」……ぇ」
「──もう私は……あなたに無理をさせたくありませんっ」
「大和……」
「思えば、着任から今までで、初めて提督の本音を聞けることが出来ました。……普段から私達が心配して声をかけても、苦笑するだけで、詳しくは話してくれなかったのですから」
そこで依然として眦に溜めていた涙を初めて流しながら、大和は淋しく微笑する。
「初めて……この私に溢してくれた本音が……なんでこのようなものなのでしょうか。なんでこんなにも、互いを心苦しくさせるものになってしまったのでしょうか……?」
「……それは、」
大和は、動揺して言い淀んだ提督の反応を一瞥した後、その涙をハンカチで拭い、普段のような確りとした雰囲気になった。
「……提督。もう良いのです。提督は何も悪くないのです。提督は、あの娘達が過去から脱け出せるように尽力しました。そして、その結果が今の状態なのです。全てはあの娘達をあのようにしてしまった前任のせいもありますが、多くはそれらの暗い過去にすがり付いて脱け出せない、弱いままのあの娘達のせいです──自分達の自己満足が為に、目に余る行為を犯してきた、そんな娘達だったのですよ。軍人として。誇りある日本海軍の軍艦としての風上にも置けません……ですから私は、そんなあの娘達の解体処分を希望します」
「っ……や、大和。自分が今何を言っているのか理解できてるのか?」
「はい。味方を……戦友を、死刑に処して下さい。……今回を含めて今までのようなあの娘達の行いは、上官に対する暴力や命令違反という、立派な軍規違反であると同時に、法律上裁かれるべき犯罪行為にもなります。それに……もしも他の方が今の提督のような立場になったとしたら、精神的な疾患に必ずと言っていいほど陥り、即刻自殺もしてしまうことでしょう。今の提督はそれほど酷い扱いを受けているのです……前任の後に着任したのがあなたでなくもしも違う誰かだったのならば、その他の方が今のような状況になり、犠牲になっていたことも容易に想像が出来ます。……私でも毎日あのように扱われれば気が狂いそうになると思います。正直提督がいつか自殺してしまうのではないかと気が気でありませんでした」
「……いや、それは結果論で他の奴でも自殺はしn「提督ッ!!」──っ」
「……提督。どうか自覚してください。これまでの提督は他から見れば、どれほどの酷い扱いを受けていたという事実を……そして、提督の自己犠牲を見て心が張り裂けそうになるほど心配している人がいるということをっ……」
「……」
「もっと御自愛下さい。提督は少々自己評価が低すぎます。世間から見てもあなたはとても素晴らしい提督です。そして尊重に値する人間でもあるのです。確かに指揮した多くの艦娘があなたの力を認めませんでした。しかし、少なくとも私──大和。武蔵、陸奥さんや翔鶴さんはあなたのことを誰よりも認めています」
「そう、か」
「そうです」
「……」
「提督は軍を辞めますか?」
「──いや、まだ続けたいと思っている」
「ではもう一度やり直しましょう。現在の横須賀鎮守府の多くの艦娘を解体処分で一新して、新生横須賀鎮守府に生まれ変わらせましょう」
強い意志を持った瞳で告げてくる大和の言葉に心が揺れた。
「……」
確かに。大和の言う通りかもしれない。今のままでは、今回の階段から突き落とされた以上のことをされ、どんどんとエスカレートしていくと思う。挙げ句には俺の命も……
なれば、現在横須賀鎮守府に所属していて、俺へ反抗的な態度を取る多くの艦娘達を解体処分して、新しい艦娘を建造で増やし、艦隊を一新すれば良いのではないか。
今まで俺にして来たような目に余る態度をする艦娘が他の鎮守府に異動させたとしても上手くやっていけるわけがない。
実際、今横須賀鎮守府に所属している艦娘の多くが一緒に前任の悪虐非道な振る舞いを耐え抜いたことで生まれた仲間意識による強い絆で結ばれている。その為絶対に離れたがらないので、他の鎮守府での戦闘で連携がとれずに力を発揮できないとも予想がつく。
だからこそ解体処分して、新規に着任した艦娘を最初から育成すれば良いのではないだろうか。
大和からの提案に、今まで散々揺れ動いてきた心が融解し始める。
──何をしたって又、裏切られるだけだ
(……そんなことはない。いつか、きっと)
──もう疲れただろ? あいつらがお前に死んでほしいと思ってるように、きっとお前も心の底ではあいつらに死んでほしいと思い始めてるはずだ
(違っ……)
──なんでそこまであいつらに拘るんだ。あんな奴等、唯のバケモノだ。お前も散々身を以て体験したじゃねえか。そうだろう?
(……うるさい)
──お前がいくら手を差し伸べたって変わろうともせずに悲劇のヒロインぶってるクソアマ達を救う義理なんてあんのか?
(……黙れ)
──お前がこれまで頑張ってきても、結局何も過去から進展してねぇ。大和が言った通り、あいつらは弱いんだ。そんな奴等に、重要拠点である横須賀鎮守府を守らせるのか?
(……)
──もう諦めろ。横須賀鎮守府はここ一年間、ほぼお前だけの力で立て直してきたんだ。対して勝手に出撃して、勝手に遠征して、資材も勝手に減らし、報告書さえ出さずにお前と妖精さん達が苦労して直した入渠場で暢気に傷と汗を流してるような奴等だぞ?
(…………)
──あいつらを解体しろ。そうすればお前の功績も認められるようになって、昇進すr
(──黙れッ!)
これまで艦娘にされてきたことが一瞬のうちに、走馬灯のように流れた。
溜め込んできた怒りや哀しみ、妬み等で蝕んでいた心の闇がここに来て大きくなっている。
(俺は……あいつらを)
「……大和の言いたいことは分かった」
「……提督!」
やっと分かってくれた。そのような嬉々とした表情を浮かべたが、次の俺の言葉で、大和は又その顔を涼しくする。
「──だがダメだ。解体処分は受け入れられない」
そう。確かに解体をすれば、今の状態は解決するのかもしれない。
しかし、それが根本的な解決になるのかと言われれば違う。俺を無視し、俺へ暴力をしてきた彼女達の目はいつも、深い闇に濁っていた。死んでいるのだ。この世界に絶望し、何もかも捨てようとしている。しかも、前任という勝手なやつに良いようにされ、心も体も汚されたからというとても可哀想な理由で。
俺はそんな彼女達を。過去に絶望し、今を葛藤する狭間を行ったり来たりしている彼女達を見捨てることは出来ない。
正直、解体したら清々はするだろう。だがそれ止まりで、俺の勝手なエゴを解体という行動で示しているだけなのだ。
そんな行動をしてみろ。必ず未来の俺は、後悔するに決まっている。そもそも、彼女達がこうなってしまったのは大袈裟に言えば俺達人間側のせいだ。勝手に呼び出して、自分達のために戦わせて、挙げ句には非人道的な扱いをして、前任は居なくなりやっと自由を得たと思えば、後任である俺が着任し、又命令される。
そして、一年間という彼女達にとって見れば短い間、反抗的な態度を取っていただけなのに、命令違反その他諸々で解体される。
……そんなこと、幾らなんでも酷すぎではないだろうか。これまで、なんやかんや俺へ反抗していたが、横須賀の近海を守り続けていたのは彼女達なのだ。それに比べ、俺達人間はどうだろうか。いや、俺はどうだったんだろうか。出来る限りの事はしてきたつもりだ。しかし、彼女達の深く刻まれた傷を取り除けないでいる。
こう言い出したらキリがない。だからこそ、俺は彼女達を解体出来ない。いや、したくない。
例えその心の殆どが艦娘への憎悪に蝕んでしまっていても、俺の一番大事な心の根っこは生き続けている。それは人としての道義だ。感謝の心だ。そしてそんな感情たちも、彼女達にもあるはずなのだ。
「……何故ですか」
表情は驚きに染まっていた。それはそうだろう。ここまで怪我をしておいて、身の危険を感じない人間が居るわけがない。やられる前にやる。それを戦いの中で散々実行してきた大和が、ここで対処をしない俺を、今どんな目で見ているのだろう。無能な提督だと。いや大和は優しいので、理由次第で怒ってくれるのかもしれない。
「俺は横須賀鎮守府に着任する前に元帥から、ある命令を仰せつかっていた」
「それは、一体?」
「横須賀鎮守府を救ってやってくれ。とな」
「……しかし!」
「ああ! わかってる……そうした結果がこの有り様だ」
「ではどうして「俺がバカだからだ」……え?」
「あいつらは、心にそれはそれは深い傷を負っている。前任の独裁的な統制によって身も心も汚された」
「はい」
「勿論、お前だってそうだ」
「……はい」
「あいつらは来る日も来る日も俺なんかがされているような生温いものなんか目じゃないほどのことをされ続けた。俺は……ここ一年間ずっと耐え忍んで来て、あいつらの痛みを充分に理解できたんだ。いや、そう簡単に理解できたなんて言ってはいけない。それほどのことをあいつらは俺と同じように耐え忍んできたから、今日まで俺も耐え忍んだんだと思う」
「……」
「憎悪の対象が目の前に無抵抗で突然現れたとしたら、やり場のない怒りを俺もあいつらと同じようにしてぶつけていたと思う。……大和」
「……はい」
「……俺が憎いか?」
「提督」
「なんだ?」
「金輪際そのようなことを言葉にしないで下さい。流石に私も……怒ります」
やはり大和は優しく、そして強い女性だと再確認した。
「……そうか。ごめん。でもこれだけは分かってほしい。大和」
「……はい」
「誰もがお前のように心を切り替えられるわけじゃないんだ。……お前のように強くなんかない」
「わ、私は弱いですよ……提督があの時来なければ、私の精神は今のように立ち直ってません」
「そうだ。俺もこれまで耐え忍んでこれたのはお前が居たお陰なんだ。お前が俺を精神的な支柱とするように、俺もお前を精神的な支柱とした。だからお前はここまで立ち直り、俺もここまで頑張ってこれた。だがあいつらの場合は違う。俺たちのように精神的な支柱が姉妹に居たとしても、その精神的な支柱が今にも崩れそうになってるんだ。──つまり、あいつらには希望を持てる存在が近くに居ない、生きる意味も見出だせてないでいるんだ」
「──!」
「さっきお前が話した、暗い過去から脱け出せない弱いあいつらが悪いという話だが、確かにお前の言う通りだとは思う。だが、一番の原因はあいつらの周辺に希望をもてるきっかけがないことだと、俺は思う」
「……」
「だから俺は……あいつらを解体処分したくない。生きる希望を持たせてやりたいんだ。救いたいんだ。大和、心配してくれてありがとう。でも大丈夫だ。これからも俺は横須賀鎮守府の為に尽力したいと思っている。これは元帥からの命令であり、一年間を通しても変わらない、彼女達とぶつかり合って益々叶えたいと思った俺の夢でもある」
「提督の、夢」
「そうだ。俺の夢だ。だからこれからもよろしく頼む。こんな懲りないバカ野郎だがな」
「……そんなバカ野郎だなんて」
「それに、もう心を鬼にして仲間を解体処分して下さいなんて言うな。お前が傷付くだけだろうが」
「っ! ……もしかして、気付いてたん……ですか?」
「バカ。一年間も一緒に居るんだ。お前が心優しい性格してるのは重々理解してる」
「…………てい、とくっ……」
俺の言葉に明らかに身を跳ねさせて反応し、それまで本心ではまだ生きていてほしいという思いが、図星を突かれたことで一気に防波堤が融解したのだろう。
「ほら。泣くなよ実際俺の方が今骨折して泣きたいっていうのに」
「ですが…………です、が……っ」
大和は本当に心を鬼にしていたんだろう。本当はまだ信じていたいあいつらのことを思い、葛藤しながら、俺へ解体をしようと進言してきた。本当に心優しい。素晴らしい艦娘だ。
「……はは。たまに子供っぽくなるよな」
だが泣いている姿は一番似合わない艦娘でもある。いつもの通りに、淑やかに微笑を浮かべて欲しい。
顔を俯かせて、肩を震わせ泣いている彼女の頭に、思わず手を置いた。
「! 提督だっていつでも子供っぽいじゃないですか!」
「撫でられながら言われても説得力がないぞ」
「……な、なっ! 離してください」
「おっと」
「ぁ」
「ん? どうした」
「っ……なんでもありません」
「そうか。……まあ、とはいっても現状が危険なままなのは変わりないな」
「そうですね。ですからこれからは交代制で提督の護衛に付くことにしました」
涙をハンカチで拭いながらも、そう告げてきた大和に思わず聞き返す。
「え? いつ決まったんだ?」
「もしも提督が解体処分もせずに又鎮守府に戻ってくるケースも考えて、事前に私と武蔵、陸奥さん、翔鶴さんで取り決めたことです。……ですがもしものケースではなく本当に適用することになりそうですね」
「そうなのか……俺としても、今まではお前らも側に付かせようとはしなかったが今回のことを考えると付けざるを得ない状況だと思うが、……迷惑じゃないか?」
「ですから提督は自己評価が低過ぎます! これは個人的な理由を外したとしても提督をお守りするという艦娘としては当たり前の対応ですからね? 私達に迷惑だとか迷惑じゃないとかそういう次元の話では無いんですよ!?」
「……そうか。すまん」
「それで提督。これからも今までのようにあの娘達と接していくんですか?」
「……いや。流石にもう無理だと思ってる。不必要に親しみを持って接していくことはもうしない。実際、生きる希望は自分で見つけるものだし、無理に俺がお前みたくあいつらの精神的な支柱にならなくても良いと思う。突き落とされる少し前の鎮守府は俺が居ないところでは、頼み込んで支給した娯楽品を楽しんで居たようだったし、料理も美味そうに食べていたようだ。だから皆の心で徐々に鎮守府に帰ってくる理由も出来ていると思っている」
「ではどうするおつもりで?」
「それはもう決まってるだろう──」
「基本不干渉。要は仕事以外の会話はしない。流石に俺も、あいつらには愛想が尽きかけている。あいつらに何か生きる希望を持たせて真っ当な人生を送らせるという夢は達成するが、もう友好関係を結ぶのは諦める」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
横須賀鎮守府
「ハア……なんでワタシが執務室に行かないとならないノヨ」
執務室へと続く廊下を、一人の艦娘が幾分か不貞腐れながら歩いていた。
(高級な紅茶カップなんて本当にあるでしょうカネ?)
妹たちとのじゃんけんに負けて、霧島が目撃したという高級なカップを探しに、金剛は執務室に来たのだ。
早速目の前にたどり着き、勿論ノックもせずに扉を開けた。
「……そういえば確か、誰かに階段で突き落とされて入院中デシタネ」
(まあ、ワタシ的にはどうでも良いことネ。さっさと妹達と更にゴージャスなティーパーティーするために見つけないとデスネ)
好都合だ。金剛はそう思ったのと同時に、執務室を物色し始める。
「棚には何も置いてナイ……」
(だとしたら机かもしれないネ)
「この大きな引き出しに……あ、あったネ。──?」
目的の物を提督の机の棚から見つけ、持ち上げた時、棚に何か違和感を感じた。ガコッ、という音と触れてみればその板の先に不自然な空間があるのに気が付いたのだ。
「ここ、なんかおかしいデスネ」
棚の底の怪しい板を取り外してみると、そこには
「……ダイアリー?」
(日記……よネ?)
『日誌』と達筆で書かれたタイトルのノートが置いてあった。
「……」
(……もしかしたらシークレットシートかもしれないネ)
日誌と書かれているものの、極秘書類を隠すためのカモフラージュかもしれない。でなければ、態々隠し棚という隠し方はしないと金剛は思ったのだ。
そこで、恐る恐る、金剛は頁を捲った。
「──」
その時、瞠目する。
○月△日 天気は曇り
今日は曇りで、近くの泊地から嵐の恐れありという連絡を受けたので、大事を取って休みにした。朝礼では相変わらず嫌われているようだ。着任してから二ヶ月経つが未だに俺と艦娘達との関係の間に深い溝がある。どうにかしなければならない問題だが、皆はそれほどのことを前任されたのだろう。ここは俺が耐えなければならない時だ。
皆に今日の活動は休みだということを知らせると、皿やコップなどが投げつけられた。どうやら皆は働きすぎると手当てを支払わなければならないので、態と手当てを減らすために短い間隔で休日を強要していると思っているらしい。
短い間隔で休日を設けてるのは皆の体の疲弊を癒してもらうためと英気を養ってもらうためという意図があるのだが、皆は必要ないのだろうか。特に潜水艦達の疲弊は相当だと思うのだが。
それは置いておこう。
投げられた皿等が頭に当たり、少したんこぶが出来て朝礼は終了した。執務室で大和に心配されたが、これからこのようなことがエスカレートすると思うので今のうちにある程度の耐性は付けておかないと体が持たない。と返したら微妙な顔をされた。いつも心配をかけてすまない大和。
そういえば金剛姉妹は紅茶好きとか大和に話されたことがあった。それもお茶会を開いて和気藹々としているのだそうだ。艦娘達との関係を進ませる為にも、これを利用する……というのは言い方が悪いが、良好な上下関係を成立させる為にも、この話を聞き流すことは出来ない。そう考えて、俺は先ず早々に執務を終わらせて金剛姉妹と仲良くなるために紅茶カップを買いに出掛けた。
が、しかし。高級な紅茶カップを買ったら財布が随分と寂しくなってしまった。そういえば艦娘達の給料に俺の給料の三割くらい当ててた気がする。所得税もなんやかんやあるので、これは結構痛手だったが、金剛姉妹と仲良くなれるのなら問題ない出費だと思う。
──これは……
「……なんデスカこれは。こんなのまるで……ウソっ」
(しかもこの紅茶カップ……それに)
「ウソデス! こんなの、絶対にアイツじゃない! ……違う! ワタシは……っ」
○月×日 天気は雨
天気は雨。土砂降りだ。朝礼ではまた休日と伝え、やはりいろんなものを投げつけられた反応だったが、心のなかではやっぱり昨日休日にして遠征しなくてよかったと思った。
彼女達が沈むことはあってはならない。彼女達には前任によって潰されてきた喜怒哀楽が出来る人生を歩んでもらはなければならない。仲間達と清々しい朝を迎え、仲間達と一緒に美味い飯を食って下らない話をして、共に目標を達成して、時に喜び、ぶつかり合い、哀しみ、そして生きていて楽しいと思ってほしい。だからそれまで、俺は絶対に誰も轟沈させやしない。
終戦まで、絶対誰も死なせない
──嘘に
「……ウソデス。ぜったいありえないデスっ。アイツがこんなこと書くわけが……っ」
頁を捲る度に、目に入ってくる、提督が記した当時の心境と活動記録。
口では思わず否定してしまうが、心の奥底でどんどんと蘇ってくる記憶と共に、当時の落ちぶれていた鎮守府が改善されていった事と辻褄が合っていく。
○月△×日 天気は晴れ
早速、金剛姉妹の噂のお茶会を覗いてみた。扉の隙間から覗いて見ると本当に和気藹々としていた。
そして同時に羨ましいと思った。俺には兄弟が居ない。小さい頃からこういう家族ながらの温かな雰囲気を感じられるのは父や母、お祖父さん、お祖母さんと一緒に居るときぐらいなものだった。しかし、その全員が深海の奴等の襲撃によって亡くなり、今や天涯孤独の身だ。
だから、この雰囲気が羨ましかった。本当に輝いて見えた。
あの後は結局覗いていたのが見つかり、主に金剛と比叡から殴られたり蹴られたりした。まあ覗いてたのが悪かったし、別にここで愚痴を書くつもりもないが、毎日こういう理由もなくサンドバッグにされるのは理不尽でならないと俺は思う。
それでも俺は例え上官への暴力という軍規違反を犯しているあいつらを本部には報告しない。あいつらは真っ当な人生を歩むべきだ。
そういえばもうすぐで監察官が来るんだった。明日の朝礼では厳しく監察官のいる間は暴力をしないように言っておこう。でないとやらかしかねないからな。
いつか俺もあのお茶会に参加したいな。でも今のままでは叶わない夢。
願わくば、艦娘と良好な関係を結べるように。ここで神に静かに願っておこう。
──ワ、タシは……
「……っ」
(──!)
最後の文章を読んだ瞬間、気付いたら金剛はその提督の日誌を両手で大事に抱え、執務室を飛び出していった。
あれから1ヵ月後。骨折した部位も完治し、懸命に続けていたリハビリの甲斐もあって以前のように歩けるようになった。
家族は居ないので、入院中は基本独りで過ごすことになると思っていたが、度々大和と翔鶴が見舞いに来てくれたので、そこまで寂しさとかは気にはならなかった。
それに俺のことを知ってか、士官学校以来会ってなかった元提督候補生──つまり今俺と一緒に第一線で艦娘の指揮を執っている他の提督達も見舞いに来てくれたことがあるので退屈もしなかった。所謂同期だな。
そうして今、明日で退院するので病室を退く準備を終わらせてから、本を読んで時間を潰していると
「──うーっす」
「……? なんだ。お前か清二(せいじ)」
一通り片付けられた病室の扉を開け、そこに居たのは提督の証である純白の制服を着て、軍帽を片手に人懐っこそうな笑顔を浮かべる坊主頭の青年だった。
「よ。何読んでんだ?」
「純文学だ。恋愛小説だな」
「へえ。お前には似合わないな」
「そりゃお互い様だぞ坊主」
宮原(みやはら) 清二(せいじ)。俺が提督候補生として士官学校で学んでいたときの同期だ。
成績は結構下の方だったが、艦隊運営の腕はずっとずば抜けていた。今じゃその腕を見込まれ、舞鶴鎮守府の提督補佐として活躍しているらしい。
「坊主は今関係無いだろが母ちゃん」
「母ちゃん言うな」
「おいおい。今更本業隠すなよ。昔お前の部屋に勉強教えて貰いにいったときは俺らに良く夜食振る舞ってくれたじゃねえか」
「……それぐらいで母ちゃん呼ばわりは止めろと言ってるだろうが。あんぐらい誰でも簡単に作れるって言うのに」
「──ふふ。そのやり取り懐かしいですね……またやってるんですか?」
「ん? ──あ、お前もしかして……新島(にいじま)……だよな?」
「はい。お久し振りですね。西野くん」
「あ、そうだったな。新島が来てるんだったわ。言うの忘れてた」
「おいおい……」
相変わらず、清二は平常運転らしい。
「すみません。宮原くんが早く言わないからつい入ってきちゃいました」
そう悪戯な笑みを浮かべる新島に対して、清二は
「いやすまん。本当はもうちょっと御膳立てしてから登場させるつもりだったんだがなー」
と頭を掻きながら苦笑した。
「本当ですよ全く。……これは後で反省文、十枚ですね」
「えーマジかー……ん? 十枚?」
──清二の後から入ってきた、清二と同じように純白の制服を着た女性の名前は新島(にいじま) 楓(かえで)という。こいつも厳しい訓練を一緒に乗り越えてきた俺の同期だ。
女子でありながら成績も実技も常にトップをひた走っていた。こと指揮能力についてはその当時誰も右に出る者はなく、試験的に艦娘を貸し出されて行われた演習では、前人未到の無敗の記録を保持している。
それに、黒いショートボブという清楚な髪型で端正な顔立ちをしているため、多くの士官候補生並びに提督候補生からの人気と人望もあった。勿論今も人望はあるが、当時の男だらけの士官学校の時の比ではない。
「相変わらずナイス支援だな新島」
「それはありがとうございます。あ、勿論冗談ですからね」
「……そ、そうか良かった。当時はやることなすこと本気だったから今もてっきりそうなんじゃないかとな」
「ああ。確かにそんな頃もありました。……懐かしいですね。でも卒業する頃にはもう今の感じでしたよね? 西野くん」
「いや俺に聞かれても……まあ確かに、出会った当初とはまるで印象は変わったけどな」
「まあ、あの頃は私も若かったんですよ」
「何言ってんだよ。今も充分若いだろうが」
「そうだぜ。まだピッチピチのお姉さんじゃねえかよ」
「ふふ。それもそうですね」
清二のセクハラ紛いの発言も今やこの三人では恒例となっているので、新島は特に気にもせずに微笑んで応えている。
因みに新島が俺のことを西野くんと呼んでいるのは、俺の名前が西野 真之(さねゆき)だからだ。同期からは普通に西野やら真之やらで呼ばれるのが専らだが、ここには居ない一人の同期から『さねっち』という愛称で呼ばれている。
「それにしても、二人とも最近はどうなんだ? 上手く行ってるのか?」
「俺は順調に提督街道を突き進んでるぜ。この頃艦隊指揮も任せられるようになって、地位も提督補佐兼参謀になってる。もうジャンプの主人公並の成り上がりようだわ」
「へえ……やれば出来るじゃねえか。ジャンプの主人公は流石に言い過ぎだけど、作戦参謀は中々良い経験をさせてもらってるんじゃないか?」
「まあな。何でも舞鶴の提督さんが言うにはあともうちょっと、だそうだ」
「あともうちょっと、か。……新島」
「……はい」
清二の言葉から俺と新島は、あともうちょっとの理由を察することができた。
(……絶対セクハラ紛いの言動が問題で昇進が先送りされてるよな)
(女性にとって少々近寄りがたい性格なのが難点ですね……)
そこまで考えて、二人して顔を合わせて苦笑する。
「ん? どうした二人とも。悟り開いたか? ムハンマドか?」
「違ぇよ。イスラム教の布教をした人じゃねえか。……あともうちょっとって言われたけど、今のお前じゃもう少し長くなりそうだなと思っただけだ」
「……同じく、です」
「うっわ相変わらずひっでえなお前ら。良いし。その内抜かしてやるし」
「そうかよ。じゃあ俺は一足先に執務室でコーラとポテチを嗜みながら高見の見物でもしてますかね」
とは言っても、実際は何も口に入らないほど、精神が追い込まれていたが。
「宮原くんには何だか、絶対に負けたくありません。……下手すれば私の人生の最大の汚点になります」
「西野。お前は取り敢えずウザい。そして新島。お前はさりげに酷い。もう泣きそうだぜ」
「はあ……泣かないでくださいよ。塩水がこぼれてしまうじゃないですか」
「ついでに米もな」
「俺は塩むすびじゃねえよ! 坊主=おにぎりみたいな定理を作らないでいただきたい」
「宮原くん。残念ながら、既にその定理はとある芸人の力により、あの三平方の定理並みに世間では浸透してしまっています。もう手遅れです」
「……ふざけんな! 芸人、許すまじ!」
「新島。清二はどうやらマジで許してくれるらしいぞ」
「マジですか? ありがとうございます」
「もう煩い! こうなったら見返してやる。……というか俺をイジるときだけお前ら本当に息ピッタリだな」
「──それで新島の方はどうなんだ?」
「私も呉の方ですが、宮原くんと同じような感じですね」
「……もう良い。俺ぁ不貞寝する」
ついにスルーされたことに清二のライフはゼロになったようで、俺のベッドに顔を埋めてしまった。
「提督の補佐をしつつ、作戦の立案や指揮を参謀として任されています」
不貞寝する行動さえもスルーする新島に容赦ないなと思いつつ、苦笑して応えた。
「新島も提督まであと一歩のところまで近付いてるな。……清二、新島。取り敢えず二人とも、ここまでお疲れs「──おうっ!」……反応が早えよ。清二」
「ふふ。本当に単純なんですから。……私たちが目指すべき提督である西野くんからそう言われると、何だかやっと一段落がついた気がしますね」
「そうか?」
「確かに言われてみれば。誉められるには誉められるんだけど、やっぱり周囲の皆は何処か忙しないからなぁ……」
「同感です。確かに本心から功績を讃えてくれているのでしょうけど、まだ周囲の皆さんからは壁があるように思えて釈然としないんですよね。……まあ、私達はどうやら、若くして提督の才能を遺憾なく発揮する『稀代の卵』と世間から呼ばれているらしいですし、注目されているのは分かりますが……」
「そうそう。なんか誉められてるのにあんまり嬉しくないんだよな。昔俺をバカにしてた知り合いとかも急に連絡寄越してきて誉めちぎってくるし。なんというか……」
「「気持ち悪いんだよな(ですよね)」」
清二と新島が珍しく共感し合っているのに少し笑いながら
「……成程。分かる気がしないでもない」
と、相槌を打つ。
「そんなときに、こう……同期のお前から労われると、ああ~……ってなるんだよ。分かるか?」
「いや……ちょっと分かった気がしたけど、やっぱり分からなかった」
「つまり、西野くんのような自分達が目指すべき提督でありながらも、本音を遠慮なく言い合える仲の人に労われた方が、真実味があって、本当に自分が頑張ってきたということを実感できる……ということですね」
そこで新島はクスッと、恥ずかしげに清二に問いかける。
「そう! それだ」
「…………なんか、恥ずかしいな」
「ふふ。……実は私も、です。普段は軽口ばかりでこうして本心をさらけ出すことは滅多にしませんからね。特に宮原くんに至っては普段はぶつかり合ってる相手に本心を言ってしまったも同然ですから、恥ずかしさは二倍ですね」
「お、おいおい……お前ら顔赤らめてんぞ。可愛いな~!」
「自己紹介すんな」
「……うっせぇ。あ、そろそろ彼女とデートなんだ。またなっ!」
勝手に自滅して顔を更に赤らめた清二は、慌ただしく病室を後にする。
「あらら。今日は有給で、この後予定がないとここに来る前に豪語していたのにも関わらずに行ってしまいましたね」
「新島さんよ。それ以上は止めたげて」
「おっと。口が滑ってしまいました。この話はここだけの話ですよ?」
「もうその約束ごと全く意味がないんだよな。……というかあいつが一番恥ずかしがってんじゃねえか」
「ふふふっ。間違いありません」
「まあ、又会ったときにでも、一応俺を頼りにしてくれた礼でも言っておくか」
「そうしてください。多分ですが、西野くんから礼を言われた後の数日間の宮原くんは、恥ずかしさを悟られないように普段以上に突っかかってこようとしてくるはずですから、受けて立ってやってください」
なんでだろうか。綺麗な笑顔で言われたが逆にそれが不自然に思える。
「……お前本当に容赦ねえな。普通そういうことは逆に悟ってやらないんだよ」
「おっと。口が思いの外滑ってしまったようです。この話は忘れてください?」
「ごめんもう忘れられなくなったわ。次会うときちょっと気まずくなったらどうすんだ」
「その時はいつも通りに軽口を叩き合い、そしていつも通りにそこに私が現れて、いつも通りに愉しげに私と西野くんで宮原くんを連携攻撃すれば済む話ですよ?」
「……そうだな」
楽しげに微笑む新島に、俺も釣られてしまう。
「それでは私もここら辺で、お暇させていただきます。……一年ぶりの再会とは思えないほど話が弾みました。楽しかったです」
「こちらこそありがとうな。次は三人……いや、次はあいつも含めて四人で又駄弁ろうな」
「はい。お元気で」
「またな」
「やっぱり……西野くんは、西野くんでしたね」
(……次は提督同士、二人きりで……だなんて言えませんでしたけど、彼の元気な姿だけでも見れて良かったです。そして又、次に出会う日まで頑張れそうですね)
「必ず又会いに来ます。西野くん」
それから彼女は手に持っていた軍帽を深く被り、歩いて遠ざかっていく彼の病室を背にして、独りでに綺麗に微笑んだのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「──提督。お迎えに上がりました」
「ああ。ありがとう大和。早速行くか」
「はい」
同期達の突然の再会があった日の翌朝。
純白の軍服を確りと着て荷物とともに外に出ると、朝一の大和の華々しい笑顔が出迎えてくれた。
病院前まで態々迎えに来たらしく、黒い高級車が停まっていた。
高級車のシートに大和と共に座ること一時間。大和とは情報交換を行っていた。
「──以上が提督が不在中の鎮守府の様子でした」
「……」
そして今大和から聞かされた情報に、俺は少々困惑している最中である。話し手である大和さえも自分が伝えた情報に理解が追い付いていない様子だった。
「それは……本当、なのか?」
思わず真偽を問い質してしまう。それほど、大和から聞かされた俺が不在中の鎮守府の様子が様変わりしていたのだ。
「……はい。全て本当のことです。身近で見ている側である私や武蔵外二人の秘書艦も同様に、くまなく一ヶ月間鎮守府を監視しておりましたが、本当に唯信じられない現実としか言い様がない光景でした」
「──」
絶句する。
目の前の大和がこの期に及んで嘘を吐くとは到底思えない。いや、大和は普段から信頼しているし、これまでの言動の全てが信用に足る艦娘であると証明している。しかしそんな信頼を寄せている大和を疑ってしまうほど、俺が今聞かされた『提督が不在中の鎮守府の様子』についての内容が衝撃的なものだった。
大和からの話によれば、これまで不定期に自分達のタイミングで出撃や遠征をしていた多くの艦娘達が、俺が入院した後日を境に、きちんと割り当てられたローテーションで出撃をする艦娘が増えていったらしい。しかも最初の発端はあれほど俺に嫌悪感を露にしていた戦艦、それも金剛型というのだから驚きだ。
お茶会を興味本意で覗いていたのが見つかり、暴力を受けて以来、主に金剛と比叡から悪口や暴力を振るわれていた。
それなのに。どうして金剛型が率先して適切な行動を取るのだろうか。あれほど俺を嫌い、俺を否定し、率先して行っているらしい俺が立案した出撃と遠征のローテーション表を皆の前で破り捨てたこともあったというのに。
分からない。なぜだ。
それにまだあった。
前任が退任し俺が着任した直後素行を著しく悪化させた一部の艦娘達がどうやら気持ち悪いほど大人しくなっているらしい。そいつらは勿論俺に暴力や嫌がらせを行っていた奴等だ。満潮、霞、曙、五十鈴、摩耶、能代だった気がする。大人しくなった時期も金剛型が積極的に活動し始めた時期と一致するとの話だが、一体何があったのだろうか。
大和も流石に気になったようで直接、「何故急に大人しくなったのか」と単刀直入に聞いてみたらしい。
すると帰ってくる答えは誰もが口を揃えて「償い」だと言ったとのこと。
(償いか……)
彼女らが償いたい相手。それはどう考えても俺のことだと思うが、どうして今更そのような行動に出たのか俺は先ずそれが知りたい。
又、大和によれば全体的に活動は活発ではあるが、雰囲気はお通夜ぐらいに暗いらしいし。
「一体何が起こってるんだ?」
「すみません。この現象の原因ついては未だに解明が出来ていません。聞き込みするにしても、前々から提督側についてた私達ですから不審がられる可能性があるので……なんとも」
「そうか……」
(とにかく。これはどの道にしろ、早急に鎮守府へ帰らなければならないな)
「運転手さん。急用が出来ました。横須賀鎮守府へ急いでください」
「——は、はい。分かりました」
「大和」
「……はい」
「嫌な予感がする。着いたら直ぐに執務室へ行き、状況を確認次第講堂に皆を集めて緊急集会を開くからそのつもりで居てくれ」
「はい!」
提督が不在の鎮守府内のそれぞれの場所では、それぞれの艦娘達が多種多様な会話をしていた。
例を挙げるとするならば、弓道場。
「……ついに、今日ですね」
「……ええ。そうね」
そこには的前に立ち、早朝の射込み練習の後片付けをしている二人の艦娘が居た。
的を取って土を払い、矢が刺さり穴が空いた土を水を掛けてから均す。
普段から幾度となくやっているその作業。当然手間取ることもなく、綺麗に片付けをしていく。だが今の二人は、何処か一つ一つの行動に焦りや悲しさが感じられる。
「……」
「……」
無言。不気味で居心地が悪い静寂が二人の間を取り巻く。
辺りに響くのは土の足音や、土を払う又は土を均す音だけである。
「…………私は──私達はどんな顔をして迎えれば良いのでしょうか」
静寂が訪れて暫くした後、不意に土を均している片方の艦娘が口火を切った。
その声は酷く落ち込んでいて、不安げである。
「……分からない、わ」
不安げに聞かれた質問に、箒で矢取りの際に使う通路を掃除する、もう片方の艦娘が少し力無く答えた。
「そう、ですよね」
「……ええ」
そうしたときには既に、二人の艦娘は無意識に作業を止め、顔を俯かせていた。
「……」
「……」
再び静寂が訪れ、土を均していた方の艦娘は密かに、提督にどう顔を合わせれば良いのかを考えるために提督との記憶を振り返っていた。
………………
…………
……
それはある日のこと。
『ふふ。今日はB定食ですねっ』
朝の射込み練習が終わり、食堂に向かおうとしていた時だった。
『あ。あの、赤城さん』
『っ』
当時は、全く接点の無かった。会話だって事務以外にしなかった提督から初めて話しかけられたのだ。
『少し、良いですか?』
『……何か用ですか』
『あの、もし宜しければなんですけど、執務の方を手伝ってくれませんか。今日は特に多くて……』
『……すみません。加賀さんを待たせてますので』
『ぇ』
またある日。
(朝食を堪能してたら蒼龍と一緒に練習することをすっかり忘れてましたっ……)
『──赤城さん』
『……』
『あの』
『すみません。忙しいんです』
『……』
そして、また。
(今日は練習もありませんし、何も約束ごとは無いですからゆっくりお茶でも飲んで過ごしましょうか)
『……赤城さん』
『──っ』
(また……ですか)
『あの、今日は空いてますか?』
『……すみません。今日も予定が』
『そう、ですか……──いッ……!』
『?』
(……何を痛がって──……成程。他の方がされたのですね。よく見れば肘が腫れ上がってます。ああ。だから執務もままならないので最近私を誘ってきているのですか)
『……』
(ですが、私は提督を嫌いでもありませんし好きでもありません。しかも過激な人達から暴行されてるようなので火の粉がこちらに来ないか心配なので余り関わりたくないと思っています……。それにしても提督に暴行している人達のことですが……確かに前任のことは憎たらしいのですが、今の提督のことは何も知らないし、何よりあの時無関係だった人に暴行をしたくなるとは……到底思えないですね。しかし気の毒ですがここは私のこれからの平和な生活の為にも火種を持っている提督は邪魔でしかありません)
『それでは』
『……はい』
(……まあ、私がこういう行動をとっている時点で、提督に対して無意識に嫌悪感があると言えばあるのでしょうね)
………………
…………
……
「……っ」
「……そろそろ時間です。行きましょう赤城さん」
「……は、はい。加賀さん」
「……」
こうして、二人の艦娘は弓道場を後にした。
重巡寮のとある一室で、二人の艦娘が話し合っている。
見た目からして高校生ぐらいの見た目から、一見して話している内容は年相応の明るい話だろうと誰もが思うだろうが、実際のところはその真逆だった。
暗く、そして鬱々とした雰囲気がその部屋に、いやその部屋だけでなく、鎮守府全体にも及んでいる。
「……そろそろ時間だね」
早朝だからだろうか、電気を点けてない。日は昇りきってはいるものの曇りという天気が理由で、まだ鎮守府には晴天時のような明るい光は差し込んでいないので、事実点けていないと薄暗く、見えにくい位の部屋の明るさである。
なので今日の曇りで比較的薄暗い現在の場合は点けた方が良いと思うのだが、しかしこの二人の間に流れる重い空気から察するに、それは態とだということが想像できるだろう。
「そう、ですわね」
「熊野。大丈夫、なの?」
「……」
そう心配された艦娘──熊野は瞳を僅かに揺らし、それを隠すように下へ俯いた。
「……熊野?」
「ごめんなさい。……分かりませんわ。ですが今は胸の奥が締め付けられて、とても……とても苦しいのです。これしか今は分からないんですの。私は……どうしたら、良いのでしょうか——鈴谷」
熊野から聞かれたもう一方の艦娘──鈴谷も、先程の熊野と同様に、表情を曇らせ、今ではこれで一杯一杯かのような苦笑を見せる。
「……ごめん。私も分かんないや」
「……っ」
鈴谷と熊野。二人は今、どうしようもないくらいに後悔していた。
会話が途切れて、二人の間に沈黙が訪れたことからもそれは一目瞭然だろう。
(どうしよう、か)
熊野から言われたことを、心のなかでもう一度自問した。
今までであれば、鈴谷のその性格上直ぐに答えを生み出し、行動に移していたところだろうが、今の鈴谷にはそれは到底出来ないものなのだ。
これからどうしようと言われても、自責の念や罪悪感、後悔ぐらいしか浮かんで来ない。無力感に襲われて、それを振り払おうと行動に移そうとしても今度は悪化しないかという不安の波が押し寄せてくる。
(……もうすぐ提督が戻ってくるというのに、私は何やってるんだろ)
そこでふと甦る、後悔した記憶。
………………
…………
……
──それは提督が階段から落とされる日の数日前。憂さ晴らしに勝手に出撃して帰還した時のことだった。
『あ、ちょっと今時間良いか? 鈴谷』
『……はぁ。何ですか?』
当時の鈴谷はその時、何で私が……と思った。
普段から皆から煙たがられ、避けられ、陰口を叩かれては少し悲しそうに苦笑する。鈴谷から見てもこんな扱いを受けているというのに、何故笑っていられるのかという気持ち悪い印象と、前任のこともあり同じ軍人なので一方的に、話したこともないのに嫌悪感を抱いていた。一部からは暴力を受けているのを見たことがあり、その暴力を受けたとしても平然と執務室へ戻っていく提督の行動にもっと気持ち悪く思っていた。
この時が鈴谷にとって初めて提督と話した時。第一印象は最悪だった。
『ごめん。実は熊野のことで用があって』
『……熊野に?』
『そう。食堂で熊野の財布が落ちてるの拾ったんだけど……熊野が何処に居るのか知ってるか?』
『っ……何で私に聞くんですか』
『普段から鈴谷と熊野は仲良しに見えるし、姉妹だからな。知ってそうだから聞い──』
『──ッ!』
瞬間、感情が一気に熱く沸き上がり、気付けば提督の頬へ向かって、掌を振るっていた。
『……っ!?』
辺りに、パシンという、強烈な殴打音が響き渡る。
『ふざけんな! あんたっ……そうやって私が知らないのを良いことに平然と聞いて、何度も何度も裏では熊野を探しだして……熊野をぉッ!』
——過去に。前任にされたことが今、怒りとなって爆発している。
どうやら私が知らぬ内に、前任が熊野を慰め物にしていたらしい。それも、熊野の場所を特定する為に、私に毎度聞いてきたのだ。そして、当時の弱かった私は、提督が怖くて、毎度の如く、馬鹿正直に熊野の居場所を教えてしまっていたのだ。
そのあと、熊野が慰め物にされているのにもかかわらずに。
私は、最愛の熊野を隠れ蓑に……利用していたのだ。
『な、何を言ってるんだ! ッ……俺は何もっ──』
だから今、こんなにも目の前にうずくまる提督という憎むべき相手に対して、無我夢中に蹴りを入れているのだろう。
『黙って! 私は……あんたが大っ嫌い! キモい! 死ねばいいのに……軍人なんてっ……死ねばいいのに!』
今考えれば、この行動は何も意味を成さないだろう。ただ、あの頃の弱かった自分を。熊野を隠れ蓑にしていた後ろめたい気持ちを。
そして、これまでの鬱憤を、これまで溜め込んできた怒りを前任に似たようなモノにぶつける。鈴谷はそのような的外れで、最低な行為を提督にしていたのだ。
『死ね! 私を騙して熊野を苦しませたあんたなんて絶対に許さない……! 殺してやる……ころしてやるぅ!!』
そして今の鈴谷は過去の記憶を振り返り。思う。
『軍人なんて……軍人なん、てっ!』
最低だと。
そしてこの後のことは一生忘れられないと、鈴谷は俊巡する。
『──《b》……それは俺じゃねえよ!!《/b》』
『……!』
それまで無我夢中に振るっていた蹴りを、その頃は憎悪の対象だった提督相手だというのに思わず止めてしまうほど、提督が放った咆哮は──怒りに、そして悲壮に満ちていた。
まるで自分達と同じように、憎悪に、怒りに、悲しみに染まっていたのだ。
『……け、んな』
声を張り上げた後、提督はそう言って、当時の私の襟を強く握り締めて引き寄せ
『——っ!』
『《b》ふざけんじゃねえよ!!《/b》』
——瞠目する私に、提督は間近で怒鳴り付けた。
まるで先程の私のように、これまで溜め込んできた鬱憤を、怒りをぶちまけるように。
その時の私は何よりも、普段から暴力や陰口を受けたとしても決して見せずに笑ってさえいた提督が、初めてその瞳に涙を溜らせて見せたことに、衝撃的だった。
『いつも……いつもいつもお前らは、俺に……俺はお前らの為にと頑張ってるのに……──《b》お前らはいつもぉ!《/b》』
『っ、……』
依然として瞠目し、そこで若干瞳が揺れる。そんな襟を強く握られて揺らされるままの私に
『お前らなんてっ……お前らなんて——ぁ』
提督はそこで正気に戻ったのか、提督の涙で濡れた、強く握り締めていた私の襟から手を離し
『《vib:1》……ごめんっ《/vib》』
その一言を残して、私の前から逃げるようにその場を走り去っていった。
『——……っ』
そこで初めて、自分がしでかしたことを理解した。
これまでの気持ち悪い印象は変わらない。しかし、今自分がしたことは唯の八つ当たりで、前任がしていたことと変わらないことだと。
作戦がうまく行かず、作戦時に旗艦だった艦娘を一人残らせて暴行を行う。あの時の前任と同類な行動を取ってしまった。
『……ぁ』
遠ざかっていくその背中にその時の私はただ呆然と、弱々しい声を漏らし、力無く片手を伸ばしただけだった。
その後、私は直ぐに提督に謝ろうとしたが、そんな行動も虚しく、提督は階段から突き落とされ病院に搬送されてしまい、敢えなく謝ることは叶わなかった。
………………
…………
……
あの日から一ヶ月後の今日、当時のことが色濃く記憶に残り、心には絡み付いている。
「……っ」
不意にそこで鈴谷の瞳から頬へ一筋の雫が流れ落ちる。
「! す、鈴谷?」
《vib:1》「くまのぉっ……わた、じ……ていとくに……ていとくにぃっ」《/vib》
後悔しても、したりない。
「鈴谷……」
《vib:1》「わだし……どうし、だらいいのかなぁ」《/vib》
「……」
熊野がそこで、私を優しく抱擁してくれた。私はあなたを売るような事をしたのに。
「わかんないっ!《b》わがんないよぉ!《/b》」
(提督……)
そこで、熊野も目を瞑り、記憶を辿った。
………………
…………
……
『《b》近付かないで!!《/b》』
『!』
『あなたも……どうせっ、どうせ同じなんでしょう!?』
『……ち、違う! 俺はただ熊野を……──くっ』
『……近づかないで。これ以上私を……汚さないでッ!!』
『……熊野』
………………
…………
……
「……っ」
鈴谷を抱きしめながら、熊野も静かに涙をその頬へ伝らせる。
(ごめんなさい……提督。本当に)
「ごめん、なさい」
「……ていとくっ」
その後、重巡寮は、鈴谷と熊野の部屋だけでなく、至る所で涙をすする音が木霊していたという。
………………
…………
……
△月 ○日 天気は晴れ
最近、熊野の体調が気になっている。何処が虚ろげとしており、足取りも少し怪しい。声を掛けてみようか。
それよりもこの頃艦娘から俺への嫌悪感が増してる気がしている。正直辛い。辞めたい。そう思う日々が続いている。
暴力の頻度も増してきている。体の方もアザだらけで、寝るときに一々痛くて、寝返りを打っても痛みは増すばかり。執務中に寝不足気味で倒れそうになることもある。
だがそれでも俺は諦めない。
例えどんなに拒絶されても、例えどんなに殴られても、例えどんなに無視されても俺は絶対に諦めない。前任が着任する前の活気があり、栄光ある横須賀鎮守府を取り戻して見せる。
そして元帥から仰せつかった──横須賀鎮守府、ならびに艦娘達を救ってやってほしいという命令を、俺の夢を必ず叶えて見せる。
△月×日 天気は雨
今日は凄く気が参っている。気が参っているのはいつものことだが、今日は特に心苦しい。胸がチクチクと痛み、ふとした瞬間に涙が出そうになる。
つい先程、食堂で熊野の財布を見つけ、届けるついでに熊野の様子が心配だったので声を掛けてみたのだが、酷く拒絶され、挙げ句には頬を叩かれてしまった。どうしてなんだろうか。その気持ちだけだった。しかしよく考えてみれば直ぐに分かることだ。前任になにかトラウマを植え付けられたのだろう。
涙を溢しながら走り去ってしまった熊野のことが更に心配になり、探していると熊野とよく一緒に居る鈴谷を見かけた。場所を知っているのかと思い、鈴谷に熊野のことを知らないか聞いてみれば、鈴谷にもいきなり激昂され、鳩尾に打ち込まれて屈んだ俺をこれでもかと蹴りを喰らわせられた。
……そこで俺はついにやってしまった。
あの時の記憶はよく覚えていない。ただ、俺の心が限界を迎えていたのか、鈴谷に掴み掛かってしまったことは覚えている。俺は何故あのような愚行に走ってしまったのだろうか。何故俺よりも辛い思いをした艦娘にこれまでの怒りをぶつけてしまったのだろうか。
こうして文字にしているが、書いている今でも今日のことを思い返して後悔し、そして情けなくも──だめだ。涙を流してしまっている。
紙に滲まないように涙を何度も拭いながら書いているが、駄目だ。止まらない。
俺が何も考えずに近付いたりしてしまったから熊野を泣かせてしまった。
俺が依りにもよって普段から不干渉だった鈴谷に怒りをぶつけてしまった。
鈴谷、熊野。本当にすまなかった。俺は最低男だ。本当に、最低な提督だ。
………………
…………
……
鈴谷と熊野。二人の心には金剛から見せられた提督の日記のとある二ページの文章が深く刻まれていた。
「これは……」
「……」
現在、俺と大和は鎮守府に到着して門を通り、執務室に向かっている。
門を通る前は一月前と何ら変わりはないように見えたのだが、通った後建物に近付くにつれ段々と違和感を感じ始めていた。
大和は俺が不意に困惑して呟いた言葉を予想しているかのように目だけを瞑って、歩き続けている。
その俺が感じた違和感の正体。それは──
「……静か過ぎ、ですよね」
「……ああ」
そう。静か過ぎるのだ。
横須賀鎮守府はここ日本では都心の護る盾となる最重要拠点の1つ。しかも太平洋側に位置しているので、最も深海棲艦の襲撃を受けやすい。そのため、約200名近くもの艦娘が在籍している。
一月前ならばこの前庭を歩いていれば誰かしらの談笑や演習中の砲撃音、工廠等からの金属音が聞こえてきたものだ。
なのに今、木々や防波堤に波打ちしている自然音ぐらいしか耳に届いていない。
ここまで聞こえて来ないとなると、まるでもぬけの殻になった広大な廃墟のなかを歩いているようだ。
「二週間前までは、まだ騒々しさはありました。ですが……」
「……? もしかして、この静けさの原因が分かったのか?」
「いえ、これはあくまでも予測なのですが」
静かな鎮守府というなんとも不気味になった勤務地を歩いている不思議な経験をしていると、隣を歩く大和が不意に、無意味な情報かもしれないと遠慮しながらも俺へ話し始めた。
「……大勢の艦娘達の集まりが、とある日の夜に行われたらしいのです」
「艦娘達の集まり……? まさか俺が不在中に大規模な作戦でも行ったのか?」
「私もそれを耳にしたときは警戒したのですが、そのような動向は見られませんでした。皆さんはいつも通り、提督のローテーション通りに出撃し、報告書も確りと提出していました」
「……やっぱり信じられないな。ちゃんと、ただ深海棲艦を撃滅するだけの艦娘としてではなく、横須賀鎮守府の艦娘として任務を遂行しているという話は……中々信じられない」
「……ですが、何度も申し上げた通りこれは真実です」
「ああ。大和が言うことだから信じる他ないんだけどな……それでも、俺のなかであいつらに期待をするな……とかな? 後ろ向きな言葉ばかりが浮かんでくるんだ」
「……提督」
「…………すまん。話が脱線したな。それで、勝手に大規模な作戦を実行しようとしたという線は消えた訳だ。じゃあ他に何か大和に心当たりがあるのか?」
「……はい。心当たりというよりは、憶測です。実は、その集まりをするように促したのは金剛さんだったそうなんです」
「金剛?」
「はい。金剛さん……いや正しくは金剛型の姉妹達が発端です。それで……そもそも横須賀鎮守府の艦娘達が次々と改心し、任務を真面目に遂行するようになったのは金剛さんが始まりだと先程話しましたよね?」
「あ、ああ」
「しかも提督が突き落とされた事件が起きてからそう経ってはいない時期、そして積極的に鎮守府の活性化をするという今までは考えられなかった行動を照らし合わせてみれば、あの集まりの目的が大体見えてきます」
「……俺に関係すること、だよな。多分。……そういえばさっき、俺にあんな過激な反抗──暴力をしていた一部のやつらが償いだといって大人しくしていると聞いたし……考えられるとすれば」
「はい。多分ですが、これからの提督への対応をどうすれば良いのか……みたいなことを考える集まりなのではないかと」
「うーん……」
「ま、まあ、これはあくまでも私の憶測なので……」
「ああ。わかってる。でも気持ちに留めておくよ」
「はい」
(取り敢えず、今は執務室に行って状況整理をしなきゃな)
「──ここまで誰も会いませんでしたね」
「ああ。……ちょっと不気味だ」
前庭から建物に着き、執務室間近まで来ている。
誰にも会うことなく、辺りに響くのは俺と大和二つの足音のみだ。
「久し振りだな」
執務室の扉前まで来ると、思わずそんな言葉を呟いていた。
ここのドアノブを握る度に浮かんでくるのは、痛みや悲しみ、怒り──そして心地好さと優しさ。様々なものが複雑に絡まり合っている。
気持ち悪い。しかし、僅かな温かな思い出がそれを抑え込んでくれている。
………………
…………
……
それは、着任してから半年が過ぎた頃だ。
『提督。お茶が入りましたよ』
『ああ。ありがとう大和』
『あら? 私もお茶淹れちゃったんだけど……』
『……ふっ。いいよ陸奥。そっちのも飲む』
『そう? ごめんなさいね。大和も』
『良いですよ。提督も、二杯飲めて嬉しいようですし』
当初は大和だけが執務室で執務を手伝ってくれていたが、ある日陸奥が、突然目の前に来て、「私も……手伝うわ」と、進言して来てくれた。どうやら俺のこれまでの復興活動を正しく評価してくれたみたいで、前任とは違うことを分かってくれたらしい。そうして、いつの間にか陸奥もこうして時たま手伝ってくれるようになった。
『まあな。そういえば朝から一滴も水を飲んでなくてな。喉が渇いてたんだよ』
『え……もうっ提督! そうでしたら早く言ってくだされば良かったのに』
『そうよ? 一日に結構な水を飲んでおかないと、後々それが祟って体調不良を起こすことになるの。無理しないで頂戴』
『いやあはは。……善処する。でも今日は特に調子が良くてな。いつも退屈だと思っていた執務がスラスラと終わるもんだからつい明日のぶんにまで手を出してて、つい休憩するの忘れてたんだよ』
『ついって……日々の仕事量も他の鎮守府に比べて多いという激務なのに倒れたらどうするんですか』
『その時は溜まってる有給を使って休むよ。久し振りにゲームとか手を出してみたいと思って……いや大和。わかってるからそんなジト目で見ないでくれ。勿論ちゃんと休んでからするから』
『提督もゲームがしたいお年頃なのね』
『お年頃っていうよりは世代じゃないか? 俺の世代の遊びは専らゲームだったし』
『ふーん……じゃあ提督は私のようなお姉さんが出てくるエッチなゲームとかやってるわけね?』
『いや、18禁のゲームはやったことないな。ストーリーはきっちりしてるのが多いけど。俺が好きなのはRPGだ。冒険する奴』
『冒険する奴って言われてもやったことがないからどういう奴か分からないわね……というか提督、赤くなってる?』
『は? いや? 別に』
『……も、もう陸奥さん。終わりましょう』
『あら。大和さんが赤くなってたわね』
『大和は純粋過ぎるやつだからな。因みに陸奥はあざとい』
『『……提督?』』
『!……お、おう。あ、時間だな。さ、執務に戻るぞ』
『て、提督! 私はこれでも大人なんですよ! 純粋とか子供扱いしないでくださいっ』
『そういう怒りっぽいところ』
『は、はいぃ!!?』
『もう提督? あざといって何かしら? 私の何処があざといのよっ?』
『……そういう無駄にむくれるところだな』
『ふふっ。流石に露骨過ぎたかしら』
『はは。ほら。やるぞ。明日の分も終わらせちゃおうぜ』
………………
…………
……
「……ふ」
柄にも無く、以前のことを思い出して、自然と笑いを溢してしまう。
「……提督? どうかしたんですか?」
「いいや。何でもない」
「そうですか。入りましょう」
「ああ」
そうして、ドアノブに手をかけて、捻ると。
「……え」
扉を開けた先にはいつも通りの執務室。しかし、そこには
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……っ」
満潮、霞、曙、五十鈴、摩耶、能代がそれぞれ、それはそれは深く床に頭を打ち付けて土下座をしていた。
「あなた達は……」
俺もそうだが、大和もさすがにこの光景は驚いたようで瞠目している。
「……何を、してるんですか」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
困惑しながらも大和がした質問に依然として答えず、唯土下座をしている。
ただ、俺はもうこの六人が大和の質問にも答えずに土下座を敢行する真意に気付いてしまった。
「……もう一度聞きます。何をしてるんですか。」
再度、大和が質問する。しかし、その時の声は先程のものと比べ格段に低くなり、困惑気味だった語気も鋭く、そして冷たくなっていた。
「「「……」」」
然れど、その六人は答えず、ただじっと頭を床に打ち付けている。
「一体、何をしてるんですか。──今頃、何をしに来たんですか?」
「「「……っ」」」
「っ……さい」
「や、大和?」
大和の声が底冷えするほど低い声で何かを言った。聞き取れなかったがそれは重要ではなく、一番はあの温厚で心優しい大和が初めて、俺の目の前であのような低い声を出したという事実だった。
「ふざけないでくださいッ……!!」
「……!」
(大和……)
「「「——!?」」」
それまでただ土下座していた目の前の六人は、大和の怒鳴り声にそれぞれ体を跳ねらせる。
「今頃……今頃何をしに来たんですか。あれほどのことをいつものように提督にしておいて、今更土下座ですかっ!! ……本来は祖国日本のために着任された提督が、前任のせいで傷付いた私たちの心身を癒さんがために、必死で態々大本営の上官にまで頭を下げに行って、私達が快適に過ごせるように施設の改良や娯楽品などの導入をしてくださったり、汚れて壊れたままだった入渠場の一部を修理、又は改良してくださったりしてましたのにっ……。なのにあなた達はッ……日々の激務で疲れている身でありながらも私達に残り続けている傷を支えてあげようと、交流を持とうとする提督を無視や、陰口の対象にして、挙げ句には散々暴力を振るっていたことを分かっているんですかっ……虫が良すぎますよ!!」
「「「……」」」
そこで、能代と曙が少し顔を上げて、俺の方を潤んだ瞳——いや、罪悪感に塗れたような哀しげな瞳でこちらを見てきた。
「……今提督がなされたことを挙げましたが、これはまだ一部に過ぎません。もっと……もっと私達艦娘の為に、されたことはあります。ですが、挙げてもあなた達はまた奥底では、どうせ信じないでしょうね。——だって、一年もの間提督の言葉を……提督がしてきた事も。そして、提督から差し伸べられた手を無視していたのですからっ——ッ!!」
そんな最後の言葉を自分の事のように口を噛みしめて、悔しみながらも放った大和。俺はその大和の姿に、凄く感銘を受ける。
「多分ですが、提督はあなた達を多少なりとも許すことでしょう。提督はどこまでも優しい方ですから。……いえ、どこまでも優し過ぎる方だからこそ、ここまでの事態に発展してしまったのでしょう」
(大和……)
「ですが私はあなた達を……目の敵にしていた殆どの方を易々と許す気はありません。いえ、一生許さないでしょう。たとえ駆逐艦であっても、絶対に許しません。早く演習がやりたい気分です。……そして、滅多撃ちにしたいです」
「っ!?」
流石に、それは不味いと、大和に待ったをかける
「お、おいそれh「分かっています」……?」
——が、どうやら続きがあるらしい。
「そんなことをすれば、私はあなた達と同等になってしまい、これまで寄せていただいていた提督からの信頼を裏切ることになります。ですからしません」
「……」
「ですがもし、又提督に危害を及ぼすようであれば、秘書艦権限で提督の護衛行為として即刻敵と見なし、問答無用で撃ち込みますので……覚悟をしておいてください」
「「「……!!」」」
「……さて。提督。私は側で確りと見守ってますので、この先はお任せします」
「……分かった。──大和」
「はい?」
「本当に……その、ありがとう」
「……はい。それでは提督」
「ああ。……それで、だ。土下座をしているのは見れば分かるんだが……お前らは一体何をしに来たんだ? 謝罪に来たのか?」
「…………は、い」
「お前は確か、満潮だったな。お前が言い出したのか?」
「い、いえ……その……皆で」
「皆で、か。じゃあ誰かが言い出したから仕方なくやってるって言う奴は居ない訳なんだな?」
「……はい」
「……満潮。俺にどんなことをしたのか、覚えてるか?」
「はい。沢山の……その。嫌がらせや暴、力を……しました」
「確かにそうだな。だけど、満潮は俺が突き落とされる前にした嫌がらせや暴力の内容は覚えてるのか?」
「ぇ……えっと……その、……あんまり」
「……霞。お前はどうなんだ」
「…………私も、です」
「曙」
「……覚えてないです」
「五十鈴は?」
「…………」
五十鈴はそこで首を振る。
「摩耶」
「……オレ、あ……いや。私も、覚えてない、です」
「……能代は——っ?」
「ごめんなさ、いっ………ご、めんなざ、い」
能代に聞こうと目を向けると、そこには涙を流して顔を歪ませる能代が居た。それに少し動揺しながらも、俺は言葉を続ける。
「俺は今謝ってほしい訳じゃない。俺が聞きたいのは、俺が突き落とされる前にした嫌がらせや暴力の内容を覚えてるのか、だ」
「……っ……ない、です」
「……俺がなんで今こんなことを聞いてるか分かるか?」
そう聞くが、当の本人達が顔に疑問符を浮かべていた。
「……満潮には資料を運んでいたら出会い際に足を引っ掛けられて転ろばされた。そしてその時大笑いしながら『さっさと辞めてくれない?』と言われたんだ」
「……あっ」
「霞は朝食の時だった。俺が食堂で朝食を食べているとお前は『何駆逐艦の方を見てニヤついてんのよクズ』って周囲に聞こえるように言ったんだ。お蔭で皆からゴミを見るような目で見られたよ」
「っ! ……そ、それは」
「曙には出撃後だ。報告書の提出を促した瞬間、脛を蹴られたな。その後は……そうそう。爆笑しながら蹲ってた俺の頭、踏んづけてたよな」
「……っ」
「五十鈴には散々やられたよ。出会い頭に鳩尾に一発。頬に二発だもんな」
「!……」
「摩耶も随分と五十鈴がやったところへ的確に殴ってきたよな。もしかして手を組んでたのか?」
「…………!」
「……能代は……俺のこと階段から突き落としたんだろ?」
「……っ!!?」
「別にお前らを責めたい気持ちがない訳じゃない。……ただ、まぁ何が言いたいかと言うとさ。お前達加害者よりも被害者の方が圧倒的にその時の記憶が刻まれるってこと。それは何故かというと、体に、心に一方的に痛みを感じているからなんだよ」
「……!」
「お前らは大して痛みを、哀しみを感じなかった。俺をいたぶることで得ていたのは優越感と幸福感。そして──前任と同じ軍人に暴行をすることによって他の艦娘を守っていると思っていた正義感だろ?」
「…………」
「皆でやれば怖くない。皆が言っているから、皆がやっているから正義なんだ……そう思ってたんだろ」
そこで、皆は一様にその顔を俯かせる。
「これは大和にも言ったことなんだが、皆の気持ちはこの一年間で充分に分かったつもりだ。だが一月前までのお前らがやっていたことなんて比にならないくらいのものなんだろ? だから、俺はこの一年間耐えてきたことを鼻にかけるつもりはない。復讐したいのも分かる。何かに行き場のない怒りをぶつけたいのも分かる。……だが、お前らがやっていたのは前任と何ら変わりない最低な行為だ」
「……」
「……それはお前らの他の艦娘を守るために行った決して正義に乗っ取ったものではなく、正義と言う建前で自己の鬱憤の発散のためにやっていた自己中心的で最低な行為だ。……お前らはそんなことのために痛めつけてきた最低な奴だ」
「……っ」
「もう一度言う。お前らは最低だ。前任と同じだ。被害者の皮を被った加害者だ」
「……」
「正直今、お前らを目の前にして、やり返したい気持ちが凄くある。だが俺はそんな最低な奴等を──苦しんでる艦娘達を、救ってやりたい。チャンスをあげたいという気持ちもある」
「……え」
そんな言葉を放ったとき。それまで、俯かせていたその顔を、驚いたように瞠目させながらこちらを見上げてきた。
「……病院で大和にもそんな反応をされたな。まあそれが普通の反応だろうが、俺はどうやら普通じゃないらしいからな。どこまでも馬鹿で、どこまでも人を信じれずには居られないアホな奴だからだろう」
「……」
「……俺は本当に馬鹿なんだ。昔からこういう性でな。直ぐ人を信じて、直ぐ騙されるんだ。お陰でどんどん友達、恋人に裏切られる。家族も全員死んだ。……昔からどうも裏切られる側だから、俺はどうしても信じて切ってほしいと躍起になってしまう。だからこうして無視されたとしても、陰口を叩かれたりしても、酷い暴力を受けたとしても……そして階段から突き落とされたりしても──」
「っ!!?」
「──俺は何処か、お前らには期待しちゃうんだろうな。同じ裏切られる気持ちを味わったからかもしれないけど」
「……てい、とくっ」
能代が、涙で顔を滲ませながら俺を呼ぶ。またそれに、動揺してしまう。やはり、男の性。涙を流す女性を見ると心が揺れてしまうのだろう。
「勿論、この件は許すつもりはない。大和は許してくれると期待したが俺も流石に無理だ。大和すまんな」
「ふふ。別に大丈夫ですから。続けてください」
「おう……まぁ、だから。罰は与えようと思う。その方がお前らにとっても気が楽だろうし、何よりここは海軍だ。規律を違反した輩は懲罰しないといけないからな。これまで見逃してきたが、これからは厳重にしていく。肝に命じておくように」
「「「……はい」」」
「それとだ。許さないとは言ったが、ここからやり直すことは出来る。過去は過去。今は今。未来は未来。お前らはここからだ。日本最高の横須賀鎮守府の艦娘としての誇りをこれから取り戻していけ。今も深海の勢いは止まってない。前線基地によれば、数も増えてきているとのことだ。だから……頼むぞ。全員、起立」
「「「っ!」」」
「あ、最後は俺にちゃんと謝ってから退室しろ。これは命令だ」
「「「はい」」」
「はい。先ずは満潮」
「はい。その……今まで本当に、本当にすみませんでした。罰も確りと受けます。……それと、これからもよろしくお願いします」
「よろしく。退室してよし。次、霞」
「……はい。……本当にごめんなさいっ。誤解も勿論この身をかけて解いておきます……なのでこれからも……よろしく、お願いします」
「よろしく。俺はロリコンじゃねえからな。はい次、五十鈴」
「はい。本当にすみませんでした。その……一杯殴ったりして……本当に、ごめんなさい」
「……もう殴ったりすんなよ。次、摩耶」
「………………本当に、申し訳……ありませんでした。だから、その……これからもよろしく、お願いします」
「……おう。よろしく。次、能代」
「…………っ」
「……能代?」
「…………てい、とくっ……ほ、んとうに…………もうじわけ、ありまぜんでしたッ!」
「……」
「わだじ……ていど、くを……でいとくをっ……」
「……ああ。そうだな。痛かったよ。……腕の骨とか折れたな」
「ひぅっ……!」
「だけどお前のお陰で皆は前を向いて歩き出すことが出来た。それはお前も同じで……まあつまり、ありがとうな。……痛かったけど」
「……っ!?」
「もう謝ったんだ。出ていいぞ」
「…………は、はい」
「能代」
「……?」
「これからよろしく」
「…………! は、いっ」
「……ふう」
「……お疲れ様でした。提督」
「そっちこそ。俺のために叱ってくれた時……嬉しかった。ありがとう」
「……いえ。秘書艦ですから」
「頼りにしてる」
「はいっ」
「……さて。色々と問題は山積みだな」
◆ ◆ ◆
大和side
——と、目の前でそう言いながら背伸びをする提督に、私は思いました。
(……)
提督は優しすぎる。普通ならあの場であれば怒鳴り散らかしても、報復で暴行をしてもおかしくないはずです。
しかし、提督はそれさえもせずにただ叱っただけで終わらせました。
愚直で優しい。
それは良い意味でも、悪い意味でも。
どうやら幼い頃からその優しすぎる性格が災いし、何度も裏切られたらしいので、普通の人ならばそこで人間不信に陥るところだが、提督はそれさえなく、逆に自分の身を犠牲にしてまで、自分を信じて欲しいがために行動するになったといっていました。
極端に自己評価が低くて承認欲が常人よりも数倍は強いのでしょう。
そしてこうも思いました。
提督の心の一部は、既に壊れていると。
何かが欠けている。常識は通じなく、ふと少しこれまでとは違う風が吹くと簡単に崩れ去ってしまうような、脆くも強い提督の心。
(……提督。私は必ず、あなたを幸せにしてみせます)
これまでも、そして今も、提督の心からの笑顔を見ていない。何かを隠していて、何かに怖がっている。弱みを見せまいと自制している。
私はあなたの本当の笑顔を見たい。そしてそれを見て、又、私も心からの笑顔を浮かべたいです。
そう、いつか必ず
私は、今も提督が浮かべるいつも通りの嘘に塗り固められた脆い笑顔を見つめながら、そう決心しました。
曙を除く満潮達が部屋から立ち去って一段落してから早数秒、大和が俺へ如何にも困惑してるかのように首を傾げてきた。
「それで提督。そこにいる曙さんを残らせたのは、何か理由でもあるんですか?」
「……? ああ、そうだったな」
(忘れてたな。……やっぱり一ヶ月前より、大和達以外の艦娘に余り関心が持てなくなっているのか)
俺が先程まで主に危害を与えられていた艦娘達を前にして、何故あれほど冷静にいられたのか。
正直な話、心が冷めきっていたからだった。確かに憎悪や怒りが沸々と湧き出てきていたが、それ以上に最早どうでも良いと言う感情が、さっさと会話を終わらせたいと言う気持ちが先行したのだ。
この一ヶ月。陰口や悪口、無視、暴力という自分に害を為していたものから隔離された時間を過ごしてきた。
入院中は静かに本を読んだり、主治医や看護師、リハビリで一緒になった人達と談笑したり、ストレスでそれどころじゃなかった好きなゲームを久々に嗜んだりという穏やかな時間を過ごしてきたのだ。
だからだろうか。ここに戻ってきて早々、何故自分からこのような場所に来てるのだろうと思い始めている。
人の温かみに触れて、人と話す楽しさを思い出した今の自分にとって、ここはもうどうでも良い存在に成り下がっていた。艦娘達のことだけを考えて悩みに悩んだ毎日が今思うと馬鹿馬鹿しく思えても来ている。そういう何もかも擲(なげう)って奔走していた、あの頃の苦悩に満ちた自分を否定するような考え方が心に浸食してきているのかもしれない。
今まで篭っていたのだ。横須賀鎮守府という小さな世界に。最初からこうしておけば良かったのだ。月に数回は鎮守府から街へ特に理由がなくとも繰り出して、自分が話しかけても無視せずに話してくれる相手を見つけておけば、あそこまで精神的に追い詰められずに済んだし、状況も悪化しなかったんだ。冷静に考えてみればこうして色んなことが浮かんでくる。理由があれだとしても、こういう考え方が生まれたのは鎮守府から一旦出たからだ。
(……心に余裕があったら鈴谷にも当たらなかったと思うしな)
突き落とされる前に、俺は一度鈴谷という艦娘に胸ぐらを掴んで怒鳴り返したことがあった。それまでは日記に書く形で気分を転換し、どうにか一回も艦娘達へ反抗的な態度をしてこなかったのだが、その時に初めて艦娘に対して怒鳴るという反抗的な態度をとってしまった。
気分は最悪だった。何故なら、その時まで耐えて耐えて耐え忍んできたという過去の自分の行動の全てを無駄にしてしまったのだ。それに、鈴谷はあの時に初めて俺へ反抗的な態度をとってきた艦娘だ。前科があるわけではなく、何か熊野のことについて気に障ることを言ってしまった俺の失言が原因で怒らせてしまったのだというのに、俺は鈴谷の胸ぐらを掴んでこれまでの鬱憤をぶつけてしまった。鬱憤の主因は他にあるのに、関わってない鈴谷に怒鳴った最低野郎なのだ。
だから今でも悔やんでいる。あの時の俺の心にまだ余裕があったらと。
(鈴谷には謝りたい。そして熊野にも)
しかし、それはたらればに過ぎない。今を生きているんだ。過去に生きるのは以ての他だ。
であれば、
「──……今できることをしないと」
「提督?」
「ああ。いや……それで曙。そんなに怯えなくて良い。残らせたのは俺の疑問に答えて欲しいからだ」
曙を除く執務室で提督に謝った五人は出ていき、次に提督は未だに提督から話を振って貰えずにおどおどしている曙に漸く口を開いた。
「……っ、はい。でも、あの」
「謝るのは後で良い。質問に答えてくれ」
「……はい」
「何故俺に謝ろうと思ったんだ。簡潔に答えてくれ。余計なことは言わなくて良い」
「……それは、その……金剛に……──」
(金剛? また金剛か……)
「提督が書いた日記だと見せられたからです……」
「……っ!」
「それで……読み進めていくうちに、私達が送っていた生活が改善されていた事とか、色々と辻褄が合っていって……」
「ま、待て。曙。日記、だと? 日記ってもしかしてこれぐらいの大きさの紺色のノートのことか」
「は……はい」
「──」
(嘘……だろ。あれを、艦娘達に見られたってのか)
「あの……提督。日記とは」
「……大和。後でそのことは話す。曙ちょっと待っててくれ」
そこで急いで自分の机の引き出しを開けて、高級な紅茶カップを取りだし、その下の隠し棚を開ける。
「……ない」
(……ここに隠してあった筈の日記がないということは、曙が言ってることは本当なのか)
「……!」
——ダァン
「……!」
「っ……!」
思わず、ノートを探していた両手で強く机を叩いて八つ当たりしてしまった。それまで静かだった執務室に大きく響いた強打音に大和は瞠目し、曙は驚いて体を跳ねさせる。
あの日記は当時の俺の心境を書き殴ったものだ。余り書かないようにしていたが、所々彼女達に対して悪口を残してしまっているページもある。何より、あれは俺の精神安定剤の一つとしての役割を担っていた。己を鼓舞し、反抗心にまみれた行動を出さないように、艦娘一人一人を出来るだけ観察し良いところを書きまくり、「自分にはこういう態度だが、実は優しく、純粋で良い子なんだ」と、所謂心を安定させるための自己暗示の材料としても使っていた。
言うなれば俺にとって負の遺産なのだ。日記らしいことは書いているが、心が潰れそうで夜が眠れなかった時に無意識に書いてしまった数々の誹謗中傷が残っている筈。
当時の俺の心境を書きなぐった負の遺産としても、何より彼女達へふと書いてしまった誹謗中傷を見られれば、彼女達を傷付かせてしまうので見られたくなかった。
(見られたく……なかったのに)
……しかし見られてしまった今、何故かこれまで押さえつけてきた醜い心の一部分が膨張してきている。
文字のなかでも期待するように自己暗示を掛ける程いつも折れそうだった弱かった自分を。
彼女達の苦悩を解決も出来ず、ただ無視や暴力を受けただけで易々と誹謗中傷を日記に記してしまった醜かった自分を。
彼女達にだけは──知ってほしくなかった。
「…………曙」
「は、はいっ」
「……質問に答えてくれてありがとう。もういい。退室して良いぞ」
「……え?」
「良いから。早く出ていってくれ」
「で、でも……まだ私は」
「出ろ」
「………………は、い」
このまま曙と一緒に居ると息が、胸が羞恥心や自虐にまみれた心で苦しくなる。いや、大和達以外のあの日記の内容を知ってしまっている全ての艦娘が今、この近くに大勢居ると思うと、気が狂いそうだ。
着任して初めて強めに言ってしまったためか、顔を見るからに俯かせて、とぼとぼと扉へ向かう曙。
その後ろ姿を見て、ハッとした。
(いや、何曙に当たってんだ……曙も、他の艦娘達も、今回の件の主因らしい金剛も関係ないじゃねえか。あんな日記を書いてしまった俺にそもそもの原因がある。だから、俺は)
強めに退出を促してしまったことを後悔し、それまでの怒りに似た何かが、段々と罪悪感へと変貌を遂げて
「……や、やっぱり待ってくれ曙」
気付けば、呼び止めていた。
「……!」
ドアノブに手をかけつつあったその小柄な背中へ声をかけると、分かりやすくピクリとさせて、直ぐ様今度は瞠目させた顔を振り向かせてくる。
「……」
ここは単に先程のことを謝っても意味がない気がする。ここは、一歩踏み出そう。
「……お前に、実質初の命令を下したいと思う」
「──」
言葉に詰まった。そんな顔だ。
「講堂に皆を集めろ。大至急だ」
「え……あ、は、はいっ」
「頼むぞ」
「……はいっ!」
曙は依然として緊張としていたが、先程までのような重い、重い何かが心身にのし掛かった暗い雰囲気は感じられなかった。
今は、そう。
「──必ず……!」
若干遠慮しながらも、敬礼して見せた曙の肩にのし掛かっていた何かが消えていたような気がした。
「はあ……」
急ぎ足で出ていく曙を見送り、思わず椅子に腰を下ろす。
(何やってんだろうな……)
身を仰いで、そう思ってしまった。
「提督は……優しいですね」
そんな俺と、それまでの一部始終を見守っていた大和が口火を切る。
「ただ謝罪を求めるだけではなく、挽回出来る機会を与えていました……その最たる例が先程の曙とのやり取りでしょう」
「……」
(俺は優しいのか)
「私は……正直、提督の立場であれば即刻解体も選択していたでしょう。謝らせる口も、その態度も取らせず、ただはね除けるだけで……」
「……」
(いや、違う。俺はただ、お前に)
「提督のその強さは、どこから来ているのですか……?」
(艦娘達に)
「提督……」
(皆に)
──認められたい、信じてほしいだけなんだ。
「……曙から伝言です。講堂に全員集合完了とのことです。提督」
あれから30分後。一人で待っていた執務室に大和が入室し、そう告げてきた。
「……ああ。じゃあ行こうか。大和」
「はい。行きましょう」
俺はそれに少しにこやかに答えると大和も同様に答えてくれる。
正直、緊張がままらなくてここ30分ずっと黙考していたが、いつも通りお淑やかな綺麗な笑顔を浮かべてくれた大和のお陰で、少し気が楽になった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
横須賀鎮守府 講堂
鎮守府内に設けられた大きなかまくら屋根の建造物は、さながら小中校に設置されている体育館を連想させる。
そこの使用用途は多岐に渡るが、主に使われる目的と言えば、早朝に行う集会や作戦会議、来賓を招いての食事会の会場として使用される。
最近までは荒れに荒れていたので来賓は来なく、専ら集会のみに使用されているのだが、今日は久々の集会となる。
一月前までは早朝に集会をここで毎日行っていたのだが、集会を執り仕切る鎮守府内の最高指揮官である提督が階段から落ちてしまい、入院してしまったので必然的に早朝での集会は行われず仕舞いでいたのだ。
しかし今日久々に提督が復帰するとのことで、何時もより遅くの時間帯に集会が行われることになっている。
なので講堂には既に全ての艦娘が整列して、提督を待っていた。尤も、大体が顔を俯かせているが。
不気味なほど静かだ。度々会話が聞こえるが、内容は全て仲間の体調の心配だった。体調というよりは心の方だろうが。
駆逐艦や潜水艦達は今にも泣きそうで、軽巡や重巡達の大半はとても緊張した面持ちで、空母と戦艦達は平静を装っているが何処か落ち着かない様子だ。
そして私も、一筋の汗を滴らせるくらいの緊張と、やはり罪悪感の波に揉まれながら、提督が立つと思われるステージ上を見据えていた。
「……」
「…………あ、あの。北上先輩」
重い空気が講堂内に充満しているなかで、隣から話しかけてきた子が居た。
「……んー? どうしたの」
話しかけてきたのは一週間前にここに異動してきた新入りの吹雪だった。
「……い、いえ。あの、どうしてこんなに空気が……その重いというか、なんというか」
「…………そっか。まあ配属されて一週間じゃね。というか、聞いても誰も答えてくれなかったんでしょ?」
「は、はい。……何かあったんですか?」
「……そーだねぇ。うん。あったね。……それはもう、酷いどころの話じゃないね。……皆も──そして私も」
「……はい?」
「……この鎮守府は……本当に腐ってたんだよね。いや、今もかな……」
「……北上先輩?」
怪訝そうな顔で聞いてくる吹雪に、「……まあ後で、ね」と集会後に何があったのかを教えることにしてその場は凌いだ。あのままでは周囲に聞き耳立てている子が居たし、何より吹雪とは逆方向の私の隣に居る大井っちが今にも泣きそうな顔をしていたからだ。
釈然としない吹雪に対して、私はもう一言付け加えた。
「ただね……これだけは言えるよ」
「……?」
「──私たちが、最低だってこと」
「……え?」
「……っ」
隣で奥歯を噛み締め、片手で手を振った大井を横目に
(ごめんね。大井っち。でもここで言っておかないと、ダメな気がしたんだよ)
私は心でそう思った。
「……」
「……」
「…………熊野」
「なんですか、鈴谷」
「……手、握ってくれないかな」
「……」
「そうじゃないと、私……」
「……良いですわよ。繋ぎましょう」
「……ありがとう」
「……赤城さん。大丈夫?」
「……っ。は、はい。加賀さんこそ大丈夫、ですか?」
「……ええ。私は、ね」
(……でも赤城さん。あなた、震えてるじゃないの)
「……そろそろですね。陸奥」
「……翔鶴。そうね」
「……」
「ねえ翔鶴」
「何ですか?」
「……提督、こんな大勢の前で大丈夫なのかしら。体力的な面じゃないけど……こう、精神的な面で」
「……それは分かりません。でもお見舞いでお邪魔した時は普段と変わらないご様子でしたので」
「……そうなの」
「──大丈夫だ」
「え? 」
「……どうして? 武蔵」
「提督の隣には大和が居る。それに、提督自身も強い男だ」
「……そうね」
「……」
──艦娘達は様々な思いを巡らせていると遂にその時がくる。
ガチャ
「「「──!」」」
突如、講堂の扉が開き、皆はそれに反応し注目する。
「提、督……」
艦娘の誰かが呆然と呟く。
瞠目させた視線達の先には純白の制服と軍帽を着こなし、涼しい表情を浮かべる提督の姿があった。
「……」
「「「──」」」
──その時、講堂を埋める全ての艦娘が、一瞬にして静まり返った。そして一様にその目を見張らせている。まるで、何かに怯えていて、その正体を今目の前にした時のように。
息を飲む者。
動揺し僅かに一歩後ずさる者。
今にも涙を流しそうな者様々であるが、一つ、共通することがあった。
「……」
──誰もが今、一人の男に注目していることだ。
その男は、海軍で高等士官以上の者にしか支給されない、純白の制服を着こなしている。深々と被るのは、金の菊の刺繍という一工夫が施された軍帽。そして、胸には提督であることを表す、金で出来た大きな錨(いかり)と菊の紋章の勲章を胸に下げている。
高い背丈。鍛え上げられた体。純朴で微笑めば優しげに見えるが、今は厳格な雰囲気を漂わせる。
世間からは、若くして現状の日本の最高戦力である横須賀鎮守府の最高司令官に昇り詰めたという偉業を成し遂げた事から、『期待の卵』とも呼ばれている。
「……行きましょう。提督」
「……ああ」
しかし事実は、前任による悪虐非道な行いにより落ちぶれてしまった厄介な鎮守府を、大本営から一方的に押し付けられた汚れ役でもあった。
その事実は、大本営の一部の者と、提督自身しか知らない。
──提督は思う。この講堂に居る艦娘達は大本営から厄介者として扱われていることを知らないと。
だからこそ、提督は当時は大本営を見返してやろうという野心で動いていた。
だが、そんな野心も次第に変わっていく。毎日自分には強がって見せても、裏では辛くて、嗚咽をもらしている艦娘達を見てからだった。
——……なんで、私達だけ、こんなっ…… なんでなのよぉっ……
そう。とある日の夜の廊下。ある艦娘が、普段から自分へ罵倒を浴びせてくる様子とは掛け離れた様相をしていたから。
——その当時まで、認めて貰いたい為。信じて欲しいが為に、他人の為に出来るだけ動くようにしていた。
しかし、そこで初めて、艦娘達を自分の為に救おうと思えた。自身へのどんな非道な行いをされても、一年間耐えて、鎮守府の復興に尽力したのだ。
(……)
「「「……」」」
艦娘達は、そんな真相を提督が着任して一年経った時初めて、とある日記から全てを知った。しかも、提督が階段から突き落とされたという、まるで神が嘲笑うかのように、それはもう悪いタイミングでだ。
——大本営から、自分達のような人間に危害を及ぼしかねない厄介者を。
——落ちぶれた鎮守府を押し付けられたのにも関わらず、反抗的な態度を取っている自分達の為に、裏では復興に力の限りを尽くしてくれたことも。
——厄介者を押し付けた張本人である大本営のトップ達に、資材を得るために一人で好奇の目に晒されながらも、プライドを捨ててまで、その頭を下げ続けていたことも。
——自分達を気遣って、鎮守府内にある前任が残した数々の非道な行いの産物を、協力的だった大和達をも気遣い、一人で撤廃してくれていたことも。
——命令を聞かない自分達のせいで中々攻略に乗り出せなくて、大本営の連中から『臆病風に吹かれた無能』として後ろ指を指されていようとも、自分達のことを『厄介者』だと揶揄すれば、その相手に対して当時は本気で反抗してくれていたことも。
そして——自分達に忌み嫌われながらも、自分達がいつか振り向いてくれると信じ続けてくれていたことが何よりも、嬉しく。同時に、そんな提督の熱意を『前任と同じ軍人』だからという、一方的で勝手な思い込みで無下にしてしまってきた行いを、大いに恥じた。
「……」
金剛は、ステージに向かう提督の姿を認めながら、自然と心の底から。
ごめんなさい。
そんな言葉が、浮かんできた。
提督を、様々な感情に揉まれながらも、しっかりと見据える金剛。勝手な思い込みというだけで、提督へ暴力をしてしまった愚かな過去を持つ艦娘だ。
(……)
なんでだろうか。提督の姿を今、こうして遠くから認めていると、そんな言葉しか思い浮かんでこない。確かにもっと、思うところはある。思うことはあれども、結局は『ごめんなさい』という言葉に行き着いてしまうのだ。
そういう謝罪なんて、軽いものな筈なのに。何度も、何度も奥底から浮かんできてしまう。
——今まで、一度も妹達への前任の毒牙から守れなかった。だから次に着任してきた軍人には、徹底的に反抗してやろうと。
そんな、まるで『前任が居た頃の私は出来なかったが、いつでも反抗できた』と、当時は強がりというか、言い訳に近い決意をしていた。
——今度は、必ず守るネ
当時何も出来なかったのは、自分が弱く、仲間を救おうとする気概も無かった、ただ臆病だっただけだと言うのに、金剛は日記を見つけるまで、そう思っていたのだ。
しかし日記を見つけ、その内容を見てからそんな勝手な考えも、どこかに吹き飛んだかのように、彼女の狂気とも思える妹達を守る心は、ゆっくりと融解し、次に支配したのは後悔や罪悪感だった。
——……ああ、そうか
提督の姿を認めると、何で謝罪の言葉しか浮かんでこないのか。それは、金剛が何故その暴力や嫌がらせをしてきたのかという理由と関係している。
それは、妹達を守るという名目と建前で、ただ自分勝手に思想を押し付けて、提督を悪者に仕立て上げて、あの当時の弱かった自分を消し去りたかっただけだったから。
そんな自分が気付かなかった事実を、金剛はそこで初めて自覚することが出来た。
なんと自分勝手なんだろうか。他人の為と動いてきた行動が、ただ自分の心にあった妹達を守れなかった罪悪感から目を逸らし、消し去るためというだけ完全なるエゴで、提督へ暴力を重ねていたのだ。
だからなのだ。だから、金剛は提督の姿をその目で認める度に、『ごめんなさい』という言葉しか浮かんでこないのだ。
「……提督」
(……いや、私には)
周囲の誰にも聞こえないように、小さくその名を呼んだ。
果たして、私がこれからその名を呼ぶ資格があるのだろうか。いや、無いだろうと思う。
切に思うのは——私を解体して欲しいということ。
裏で提督が鎮守府を復興する為に尽力していたのにも関わらず、それに気付けずに、しかも何もしてやれなかった妹達への罪滅ぼしの為という勝手な理由だけで暴力をしてしまっていた。
これでは、前任がやってる事と同義なのだ。
そんな過去を持ちながら、自分が生きて行くことなんて出来ない。前任と同義なんてレッテルを貼られながら、生きて行くなんて、そんなことは。
——だから、この集会が私の最期になるだろう。
せめてもの罪滅ぼしに、提督の居ない一ヶ月間は提督の日記を使い、提督の評価を回復することに尽力したが、それでも私は解体されなければならない。規律違反したものには罰を。軍では当然のことだと思うし、何よりも、私によって傷付けてしまった提督の心に対して、私という浅はかで、勝手で、自分の顕示欲を満たす為に暴力を振るってしまうような屑が向き合うこと自体が間違いなのだから。
——-最期の最後まで、自分勝手でごめんなさい。
(でも……)
——もし。もし少しでも時間が許してくれるなら……最後に一回だけ、提督と妹達とお茶会をしたい……やり直—-
「——っ!」
そこまで考えて、首を振る。
(やっぱり……私は、自分勝手だネ)
そんな時間、許してくれる筈がない。提督がお茶会をしたかったのは、当時のまだ暴力を振るっていなかった私で、今の汚れた私ではないのだから。
「……お姉様? 大丈夫ですか?」
すぐ隣で、私を心配してくれている榛名。
「……ぇ」
「確かに……」
「お姉様、何だか顔色が悪いですね……」
榛名を皮切りに、比叡、霧島も私を心配してくれる。
……どうしてだろう。普段は、そんな心配なんて、直ぐに返答して、笑顔を見せることが出来るのに。
今はなぜか、いつものように『大丈夫』と、答えようとすると目頭が熱くなり、ふとした瞬間に涙を流してしまいそうになる。
——……わた、しは
当然、妹達は、この集会を最後に私が提督へ直々に解体届を出しに行くことなんて知らない。
言う必要はあるのかもしれないが、心優しい妹達は、必ず止めにくるだろう。だから知らせるわけにはいかないのだ。
妹達への憂いは、昨夜で断ち切った筈なのに、やはり身体は言うことを聞かない。
妹達と離れたくない。
一緒に居たい。
これからも一緒に、海を駆け巡りたい。
そういう思いも込み上げてくるが、一番は
——最期の最後まで、情けない姉でごめんネっ……
という、思いだった。
結局、私は何がしたかったんだろうか。前任に良いようにされて、その傷を何処かで引き摺り、弱かった自分を認めたくないが為に提督へと暴力を振るい、提督の心身を傷付けて、挙句には提督の熱意を無下にして裏切って……これまでの私は、一体何がしたかったのだろう。
もう、分からない。これまでのしてきたことが、段々と無駄になって行く感覚が。
私の自分勝手に巻き込んでしまった提督への罪悪感が。
濁流のように、心から溢れ出してくる。
「——ごめん、なざいっ……」
「「「——!」」」
突然、涙を流し、謝り出した私のことを見て、妹達は瞠目し、動揺する。
もう弱みは見せないと決めたのに、最後まで情けない姉でごめんなさい。
でも榛名、比叡、霧島……あなたたちは私と違ってやり直せる。
「……お姉、様」
「……」
「……っ」
榛名達は、私が向ける視線の先を一瞥してから、何故涙しているのかを察した様子で、それぞれ、悲しげな表情を浮かばせた。恐らく、私が提督を見ると涙が出てしまい、思わず謝ってしまったのだと思っているのだろう。
それも確かに含まれているが、多くはこれまでの情けなさで、妹たちへ自然と謝罪を吐き出してしまったことに気付いてないようだった。
最期の最後まで、妹達はこんな私に付いてきてくれていた。
——バイバイ……元気でネ
そんな、愛する妹達へ、私は告げることもない、別れ言葉を心で告げていた。
結局、私は提督からも、妹達からも、逃げてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やはり。この場に居ると、胸が痛む。
「……」
なんでこんなところに来なければならない。
なんで態々、こいつらの相手をしなければならないんだ。
怒り、恐怖、悲しみ。様々な思いを混じらせた気持ち悪い感覚が襲いかかる。
本心ではもう既に、この場に居たくなかった。直ぐに離れて、執務室で鍵をして引きこもりたい気分だ。
しかし、まだ心の奥底では、彼女達にちゃんと向き合うんだと。対極的な思いが、今すぐにでもこの場から逃げ出したい俺をなんとか留まらせている。
「……」
この感覚は初めてだ。今まで、信じて、裏切られ、信じて裏切られを繰り返して生きてきたが、ここまで盛大に裏切られた相手にも関わらずに、まだ期待を何処かで寄せているのは。
一体、どうしたというのだろうか。彼女達の何処に、期待を寄せるものがあるのだ。
何か分からない『それ』を、必死に自問し、今考える。
彼女達が最近、俺の日記を見た理由なのか分からないが、普段は反抗的だった行動を改善してきているからなのだろうか。
俺の日記の、それまでの俺の心情を、真意を、考えを、醜いところから全て見られたからだろうか。
そこまで黙考し、いずれも違うだろうと思った。
あくまでそれらは結果であり、過程では無いからだ。
着任して今日までの間の何処かに、ここまで彼女達に裏切られても、また期待を寄せてしまう何かがあった筈なのだ。
これから講堂で俺は、トラウマであり、何処か期待を寄せてしまう、言ってしまえば気持ち悪い奴等に、挨拶をしなければならない。
(……あれは、武蔵。あと翔鶴と陸奥も)
その時、大机があるステージへの階段を上る途中、これまで大和と同じように、俺に付いてきて、支えてくれていた三人の艦娘が視界に入る。
翔鶴は心配げに眉をへの字にして、陸奥は落ち着かないのか腕を組み、武蔵は依然としてこちらを見据えていた。それぞれ違う様子だが、同じようにやはり俺のことを心配してくれているのだろう。
心臓が、緊張と不安、恐怖ではち切れそうになっている今、この三人と少し後ろを歩く大和の存在を再確認出来たのは、気持ち的に大きい。
そのままステージへ上がり、大机の後ろに立った。
(……このまま視線を上げれば、艦娘達全員の目と合うことになる)
「……スゥ」
そこで、心を深呼吸で落ち着かせて決心する。
「……提督」
「ああ」
そんな俺に、大丈夫か。という意図を込めた目を寄越してくれた大和に、心配するな。と、返答して、そのまま視線を上げた。
「——」
瞬間、心臓が止まった。
目の前に広がるのは、当たり前だが艦娘達。
しかし、やはり俺にとって、こいつらの顔はトラウマだということを今、再度、深く理解することが出来た。
変な冷や汗をかいて来ている。寒気もして、胸も腹も痛みが生まれ始め、動悸も先程と比べて明らかに荒くなって来ていた。
——やっぱり。俺は。こいつらとは、もう……
マイクはあるが、敢えてそれにスイッチは入れず
「——おはよう。皆」
開口一番。当たり障りの無い挨拶を、大きな声で始めた。艦娘達は依然として、緊張した面持ちで聴いている。
「今回は集まってくれてありがとう。……普段はこんなに集まることがなかったから、少し新鮮だ。さて。先ずは話すことは二つだけで、余計な事も言わないつもりだから、そのまま起立しておいてくれ」
叫ばずに、されど聞こえやすいように意識した俺の声が、講堂に響く。
「先ず一つ目。大和から報告されたのだが、俺が居ないこの一ヶ月間。……良く、頑張ってくれたらしいな」
「「「——」」」
「……」
まさか、労いの言葉をかけられるとは思わなかったのか、艦娘達は総じて目を見張る。一方、大和はその言葉を予想していたのか、あまり驚いていない様子だ。少し怪訝そうに眉を寄せている以外は。
「……なるほど。そういうことね」
「提督……」
「……」
「——……ありがとう。皆のこの一ヶ月間の精力的な働きにより、大本営からも、政府からもお褒めの言葉を頂くことができた。しかも、あの呉鎮守府のここ一ヶ月の敵撃破数に迫る成績を叩き出しているため、色んなことがあったにしろ、ここまで成長出来た皆を誇りに……誇りに思う。これからも、この調子で……皆には頑張って行って欲しい」
講堂内が少し騒つく。ここにいる艦娘の大多数が、今日の集会で提督から罵倒を浴びせられたり、現実的に予想すれば、解体命令だって出されてもおかしくないと覚悟していた。そんな中、今までの話の中でそれらへ繋がるような話は出て来ていないのだ。しかも、出てくるのは称賛ばかり。
要は今、彼女達は、この妙な空気に気持ち悪さを感じていた。
そんなおかしな空気は勿論提督も感じている。確かに、ここで解体命令を出したい気持ちも無きにしも非ずだったが、その気の迷いは大和の前で確りと断ち切り、あの階段から突き落とされて艦娘達へ愛想を尽かした当時に、また艦娘達を救いたいと決心したのだ。
それは元帥と誓ったこと。着任していつの日か、心で固く約束したことだ。
正直、早々に立ち去りたい。しかしここを今、降りてしまえば、二度とこの横須賀鎮守府という場所を、胸を張って歩けなくなると思う。だから、こうして激しい動悸を我慢しながら話して、踏ん張っているのだ。
俺は本物の提督でありたい。決して、艦娘達をモノのように扱うような虚偽の存在ではなく、彼女達にとって、本物でありたいのだ。
彼女達へ愛想を尽かしたが、それでもこの根っこの部分は心の中に在り続けている。
だから
「……そして二つ目。これは、まあ……個人的に話したい事だ」
「「「——!」」」
騒ついてた艦娘達は、『個人的な話』という部分に明らかに反応して、その開けていた口を閉じた。
(……ついに。か)
(……私達への、当然の報いね)
ステージ上の提督を見ながら、赤城と加賀はそこで、何かを察し
「……提督」
(……鈴谷と私は、提督に一言謝らせてくれれば、悔いはないですわ)
鈴谷と熊野はどこか諦めながらも、辛い表情を浮かばせる。
「……皆。すまなかった。俺は、お前達のこと、何も考えちゃいなかった」
「……は、い?」
「「「!?」」」
大和が立ってるはずの後ろから、講堂が一気に騒がしくなったが、意に介さずに話し続ける。
「お前らの気持ちなんか考えず、不用意に近付いたりなんかしなかったら、こんな状況になってなかったのだと思う」
「……! て、提督! それは提督が——」
「——他にもッ!」
大和はきっと。『皆を助ける為に近付いた結果であり、提督が悪いわけじゃない』と言おうとしてくれたのだろう。
だけど、俺はそんな言葉を遮るように。そして、騒つく講堂内を静まらせる為に、声を張り上げた。
案の定、そこで静まり返る艦娘達。俺はそれらを確認してから、言葉を紡ぐ。
「まだ……まだ要因はあると思うが、やはりこれまでの俺の行動が主因だったのは確かだ。精神が不安定な状態の時に近付いたら……誰だって『こう』なることは予想出来たんだ。けど、俺はそんなことも考えずに行動したバカ。ハハッ……『こう』なって、当然だ——……はぁ、はぁ」
やばい。もう、混乱して、言ってることが支離滅裂だし、動悸も抑えきれなくなって来ている。
「提督! 大丈夫ですか!?」
大和の心配を手で制して、言いたかった提案を艦娘達へ提示する。
「……すまん。少し取り乱した。つまり……だ。もう俺は、お前らと親しくなりたいとは思わないし、お前らも俺に親しくなりたいと思わない。そうすれば、不必要に接近することもなく、変ないざこざは起こらないと思うんだ」
「……ぇ」
誰かは分からないが、呆然とした声を溢したが気にせず話を進める。
「これからは……必要最低限度のコミュニケーションで行こう。そうすれば、お互いにとって良いだろうし、一年間一緒に戦ってきたつもりだったが、別に俺が居なくとも……いや、俺が居なかったから、この鎮守府は充分に機能していたみたいだしな」
艦娘達の多くが、何故か眉を下げているように見えた。気のせいだろう。やはり、俺の日記を見たって一ヶ月で変わるはずがないのだ。
「——これからも、よろしく頼む……解散」
——俺はもう、間違いは起こさない。
——大本営。
「——|新島《にいじま》二佐。失礼します」
「入りなさい。|亜門《あもん》一尉」
男声と女声が大本営のとある一室に響いた
高級士官用に用意された椅子に座り、資料をまとめている、長い黒髪を一つに結わえた端麗な女性高等士官である新島二等海佐を訪ねてきたのは、同じく男性高士官である一等海尉だ。
「何かあったのかしら。あともう少ししたら会議があるの」
その会議に使う資料だろうか。忙しめにそれらを、まとめて準備している様子で鬱陶しさを募らせた語気で質問してくる新島に、亜門は冷静に用件を伝える。
「はい。実は、横須賀鎮守府の西野提督のことで報告があります」
「——」
その亜門の言葉に、それまで書類を整理していた手を止めて、明らかな反応を見せる新島。
「……」
彼女は数秒の沈黙の後に、静かに亜門へ、言葉を紡ぎだした。
「手短にお願い」
「はっ。簡潔に伝えますと……西野提督が現在の鎮守府で、部下である艦娘達から暴力を受けている可能性があります」
「……はい?」
突然のことを話された新島は、思わず聞き返すが、亜門はその反応を予想していたのか否か、意に介さずにそのまま続けた。
「詳しくは、この調査書類に目をお通し下さい」
「……?」
懐疑的な目を部下である亜門に向けながら、新島は言われるがまま、渡された書類に目を通すと
「っ!」
普段は余り感情を表に出さないことで知られている新島二等海佐が、誰から見ても分かるような瞠目をした。
それから数分もの間、食い入るように亜門から渡された最近の横須賀鎮守府と、そこを任されている西野提督についての調査書類を見る新島と、それを静かに見守る亜門の構図が出来上がっていた。
やがて
「……この情報を知った日時と経緯を教えて」
そこまで、一通り目を通したのか、視線を落としていた資料から流し目を男性士官の方へ向ける。
「……はっ。約1ヶ月前。例の横須賀鎮守府で、西野提督が階段から誤って落ちてしまったという事故が起きていたのは」
「知ってるわ。妹の同僚だし、私の後輩だもの。耳にした時は驚いたけど、直ぐに電話をかけて、安否の確認を取ったわ。それで?」
「はい。実はその事故が起きた当初は、自分達もお見舞いの機会があり、その時は余り事情という事情は聞かなかったのですが、少し顔に生気が感じられていなく、自分達が知っている西野提督……いや、西野先輩とは違ったように見えたんです。ですが、それは違ったように見えただけで、別に今回みたく、書類にまとめるほどの捜査はしなくても良いと思っていましたが……」
そこで言葉を切った亜門に視線で促され、新島は持っている書類のある一文に注目した。
「『西野 真之 精神科 カルテ帳』……これかしら?」
「はい。実は西野提督は、入院先の病院に精神科があることを知り、お忍びで何度か診察に足を運んでいるようでした。当時はそれらの部下からの報告に目を疑いましたが、写真や映像を証拠として提出されたときは流石に看過するわけにもいかず、もう少しこの事故について掘り下げてみました」
「……続けて」
「そのカルテは今も横須賀鎮守府近くの総合病院で勤めている、とある精神科医から極秘にコピーをさせて頂いたものです。当時、担当した精神科医も、今回の事故とはまた別の相談をされた時……相談内容が内容なだけに、こちらがこの事に対処する旨を伝えると直ぐに渡してくれました」
「……西野提督との守秘義務に留まらない事情だと、精神科医もそこで判断したのでしょうね」
「そのようですね」
そんな精神科医が守秘義務を破ってまで、西野提督を救済する為に、この事実を監査官である亜門に、情報を譲渡した心情を察した彼女の苦渋な表情に、亜門も同じように表情を沈ませた。
彼女の目の先にあるのは、当時、西野提督の診察した時に、精神科医が直々に見て、実際に相談された状況を細々と綴った文である。
羅列する文の端々には、一様に西野提督の酷い精神状態が記されており、特に新島が目に留まったのは
——いつ自殺してもおかしくない状態であり、未だ当人の中に残り続けている『艦娘を救いたい』という旨の、そのような固い生きがい、信念が無ければ、精神は崩壊していた可能性が高かっただろう。
しかしながら、当人の話を聞く限り、その救いたい目標であるはずの艦娘達から、何とも記述し難い扱いを、ここ一年受け続けていたらしい。後もう少しあの状況の鎮守府にいれば、とっくにそれは崩壊していたと予測出来る。
尽力してもそれが報われることはない、ある種のループ的な状況に陥っていたのだ。
よくこれまでで自ら命を絶たなかったと思う——
という文章だった。
そう。人の心理に精通してる精神科医に『よく自殺しなかった』と言わしめるほど、当時の西野提督は追い詰められていたのだ。
「……」
自分が知らない間に、妹の同僚がこんなことになっていたとは。
新島二等海佐はそこでふと、西野提督。いや——新島香凜としての、西野 真之との思い出の一部分を振り返る。
………………
…………
……
二年前の夏。
その日は丁度、トラック島での前線の指揮から本土に帰還し、功績を考慮されて一週間の休暇を貰い、実家にてゆっくりとしていた。
前線指揮のしがらみから解放され、晴々とした心持ちで、昔から好きだった朝ドラを見ようとテレビの前で朝食を取っていた時のことだった。
「……?」
突然、側に置いていた携帯から着信音が鳴り出し、開くとそこには、妹である新島 楓の名前があった。
何だろうかと思い、耳に当てると、携帯から明るい妹の声が響いた。
《あ、もしもし。お久しぶりです。香凜》
「……え、ええ。楓? どうしたのよ。こんな朝早くに」
当時はおおよそ一年振りくらいの会話だ。
久々の妹の声を聞けて嬉しい気持ちは勿論あったのだが、それよりも、自分の知ってる妹の雰囲気が様変わりしていたのに驚いていた。
私が知っている楓といえば、家族にも徹底した敬語のせいと、他人に極端に冷たく、人見知りだったせいか、全体的に暗い雰囲気があったのだが、少し見ないうちに——
《いえ。久々に本土帰りした姉の声を聞きたかったのと、少し用があってかけただけです……その、迷惑でしたか?》
——誰だこの子。健気で可愛い妹になってる。
「……い、いいえ。別にそんなこと思ってないわ。私もそろそろ楓に電話で士官学校の様子を聞いてみたかった頃合いだったし」
物腰などその他諸々が、ここ一年で180度変化している妹に若干動揺気味に、されど、久々の妹との通話に、素直に嬉しい気持ちを感じながら続けた。
「それで……どうなの? 海軍士官学校を二年過ごしてみて」
《凄く良い経験を積ませてもらってます。これまで出来なかった学友も増えて、訓練や先輩からの絞りは辛いですが、楽しいこともいっぱいあって……とても有意義な生活を送ってると思います》
「ふふ……そう」
《はい。特に一番楽しみにしてる講義は演習です! 各鎮守府から派遣された艦娘さん達を実際に指揮するんですよ》
「へぇ……実践演習か。私がいた頃よりも提督候補生に対しての育成が良くなってるのね」
《そうみたいですね。あ。そうでした香凜。実は私、入学してからこの方演習では負け無しなんですよ!》
「凄い。私に似て将来有望な提督候補生になってきたわね」
《私に似てって……もしかして香凜も》
「残念ながら二敗してるわ。流石に無敗は無理だったわ。因みに負けた相手は、呉鎮守府で指揮してる坂本くんと、函館鎮守府で指揮してる石川くんね。当時は私を合わせてその三人が有望株って言われてたのよ?」
《やっぱり凄いですね香凜は。確か、最前線に近いトラック島で指揮してるんでしたよね? まだまだ勝てそうにないです》
「まぁ年季が違うもの。経験という力は、誰にも覆せないものよ。勝負は時の運とか言うし、やってみたら案外楓が勝つかも知らないわよ? ……というか、これまで無敗ということは楓の他に提督候補としての有望株は居ないってことなのかしら?」
《一応言われている人は五人居ますよ? でもどれも、私以外本物じゃないとか、私達提督候補生を教えて下さっている南野教官が言ってましたね》
「あぁ……|南野《みなみの》さんか。南野さんが言うのならそうかも知れないけど。南野さんは私の世代も教えていた超ベテランなのよね。というか、まだ教えていたなんて……」
《そうなんですか!? 確かに貫禄がある人だなと思ってましたけど、香凜以上に年季があるんですね》
「そうね。多分だけどあの人なら、まだ現役で指揮執れるんじゃないかしら。指揮の腕は私と同等以上あるもの。ふーんそっか……じゃあ楓を負かしそうなライバルみたいな人は居ないってわけね?」
《いえ、居ますよ? 一人だけ》
「え? そうなの? 誰?」
《——西野くんという同僚の方です。この前と言っても二年生になって初演習くらい前なんですけど、その人に初めて敗北寸前まで追い込まれたんです》
「へぇ……追い込まれたのね」
《はい。最後まで油断ならない相手でした。次の一手を打つ前に、まるで此方の心の内を見透かしていたように、直ぐに対策を講じてくるんです。特に駆逐艦の指揮が非常に巧妙で、重巡と戦艦の砲撃を回避する私の艦隊を、駆逐艦が放った牽制雷撃に当たるように誘導されたりとかされましたね》
「——」
思わず、驚愕する。
(まだ若く、実戦も経験してない提督候補生が、まさかそんな策を咄嗟に考え付いて、実行。見事成功させる指揮力があるなんてっ……)
思えば、ここで初めて、西野真之という人物に私は興味を持った。
普通、提督候補生の内から、楓が話したような西野という人が実行したらしい複雑な指揮が出来る筈がない。才能があろうとも、少なくとも五年はかかると言われており、ましてや深海棲艦とほぼ同じ動きをする艦娘達相手に、『砲撃で、牽制雷撃に直撃するように誘導させる』という芸当は、当時の私のような現役の提督でも難しいほどだ。
正確な指揮と、精密な調整、何より指揮される艦娘達との信頼も無ければ成し得ないこと。
それらを本番で実行したとなれば、とてもじゃないが、西野真之という提督候補生は、既に候補生の枠に留まらない程の器がある。
ここで、艦娘達との信頼を勝ち取るのはそんな難しいことではないと思うかもしれない。しかしながら、演習で貸し出される艦娘達は皆、他の鎮守府から派遣された艦娘達だ。
いずれも実際に実戦を経験し、所属している鎮守府の提督の指揮をそれまで忠実にこなしてきた中堅の艦娘ばかり。当然その艦娘達の方が経験値が高く、ある程度の戦術や作戦は身に付いていて、到底提督候補生が無闇な指揮を出来るような相手じゃない。
それに、それら艦娘達に引き合わされるのは演習の一週間前。
つまり、たった7日間という短時間で、歴戦の艦娘達とどれだけ親睦深め、その提督候補生が臨機応変に展開する作戦に、従うに足る指揮官だと分からせるかが肝となってくるのだ。
この時点でもう分かると思うが、提督候補生同士の演習で評価されるのは、臨機応変に対応し、作戦を実行できる指揮力だけでなく、艦娘からの信頼を得られる《《提督》》としての器も重要なのだ。
それほどに、提督候補生同士の演習は難しいものなのだが、西野真之という楓の同僚は、それらの要素を全て及第点以上にクリアし、実際に楓を追い詰めた。
「……勿論、その人は有望株なんでしょ?」
現役の提督として、非常に興味を持ったその時の私は、少し西野真之という人物について、つい探りを入れてしまった。
《……そういえば。有望株かと聞かれてみれば、あまり名前は聞かない方ですね》
「……そうなのね」
妹の話を聞く限りでは、有望株以上でないとおかしいくらいの能力を持つ候補生だ。少し怪訝に思いながらも、妹の話を聞き続ける。
《はい。でも……不思議ですよね。《《西野くん》》程の指揮力がある人なら、有望株と注目されてもおかしくないのですが……》
「——」
またそこで、衝撃を受けた。
「……えっ? あの、楓?」
《? どうしました?》
「今、西野真之っていう人のこと、西野くんって呼んだ?」
《は、はい。呼びましたが?》
「そうよね? ……呼んだわよね?」
《……? 香凜、何か私は変なこと言ったでしょうか?》
「……」
携帯の向こう側で、小首を傾げているだろう妹の反応に、少しため息ついてしまった。
何せ、楓は、家族以外は全てフルネームで呼ぶ事がざらにある程の人見知りだったと私はあの時電話を取る前まで、認知していた。が、何度も言うが妹からの電話を取ってみれば、明らかに明るく、社交的になっており、おまけに西野真之という人物を親しみを感じる『くん』付けで呼んでいる始末。
(……触れない方がいいか)
確かその時は、もう一々反応するのも面倒臭いし、敢えて触れないことにした筈だ。
——そしてその後、私は楓に、何故明るくなったのか、そして西野真之という同僚は一体どういう人かを根掘り葉掘り聞いた記憶がある。
楓によれば、西野真之との演習での出会いをきっかけに、勉強を教え合う仲になり、西野真之の友達の|宮原清二《みやはらせいじ》という明るい人とも友達になり、西野真之と宮原清二にその後も、どんどんと人を紹介されて、その影響かは分からないものの、気付けば他人とも話せるようになっていたのだとか。
その話を聞いた後、私は提督としての才能もそうだが、何よりそれまでの妹の酷かった社交性を正してくれた西野真之と、次いでに宮原清二という人物に人間性の面においても興味を抱いたんだと思う。
◆ ◆ ◆
妹との通話から約一ヶ月経った時、私はその通話から興味を抱き続けていた西野真之が在籍する提督候補生の授業を、海軍士官学校に野暮用があった次いでにお邪魔していた。
教室の扉を開けると、既に候補生達は起立して休んでおり教壇の方へ注目していた。
「——全員、気を付けぇ!」
教壇の上で私の隣に立ち、号令をかけたのは、妹との通話で、少し話題に出てきた南野教官。
そんな中、私は自然と、確りと気を付けている楓と目が合う。流石にこの場では妹へ笑いかけたりなどしない。
そして次に、一方的に興味を抱いている西野真之を探すと、直ぐに見つかった。
実はあの通話の後、楓から『これは私と宮原くんと西野くんが遠泳大会で無事泳ぎ切った時のものです!』という自慢するような言葉と一緒に、写真が送られてきた際に、西野真之の容姿を焼き付けていたのだ。
「……」
引き締まって鍛え上げられた体に、平均よりはやや高めの背丈。短く切り揃えられた清潔な黒髪に、少し切れ長な瞳。目鼻立ちは整っている。
写真で見た時は素直に格好良いと思っていたが、実際目にすると、少し気迫が感じられ、楓からの話に聞いていた通り、有望株に足る雰囲気を周囲に漂わせていた。
彼に悟られないようにゆっくりと視線を外し、挨拶をする。
「……私は、現在トラック泊地で指揮を執っている、二等海佐の新島香凜です。今日は一時間、君達の講義を見学しますが、私のことは気にせず、普段通りに受けて下さい」
「——礼!」
「「「お願いします」」」
挨拶が終わったのを見て、また号令をかける南野教官に、小さくよろしくお願いします。と伝えて、教壇から降りてそのまま教室の後ろに用意された椅子に座ると、「着席!」と、また南野教官の号令が響き渡り、候補生達はやっと椅子に腰掛けた。
私は二等海佐なので、この教室の中では一番立場が上になる。その為、私が座るまで、候補生達は座れないのだ。上官が座るのを見計らってから座る。堅苦しい礼儀作法の一つである。
「それでは、艦隊運営の講義を始める。教科書120ページの四角の一番。『資材の調達と遠征』というところだ——」
「——気を付け。礼!」
「「「ありがとうございました」」」
艦隊運営の講義が終わり、休憩時間に入ったのを見計らって、私は楓の元に行った。
「新島准尉」
「はい。用件はなんでしょうか二佐」
普段は楓と呼んでいるが、相手が妹だとは言え、ここは海軍士官学校。教育機関と同時に海軍の機関の一つだ。その中で気安く楓なんて呼んだら示しが付かない以前に、規則である。
「……後、西野准尉は居ますか」
「——! は、はい!」
突然呼ばれて、明らかに動揺した西野真之に、教室中から多くの候補生達の視線が集まり始めた。勿論、呼ばれた楓も同様だ。
「二人に少し話があります。付いて来なさい」
「「はい」」
人目を憚らずに私達は教室を出ると、指導室に二人を案内する。
「……」
「……」
道中は、指導室に着くまで終始無言だった。
「——さあ、入って。先に座って」
いきなり砕けた口調にした私に、西野真之——いや、西野くんは怪訝な表情を見せながら、「……失礼します」と、楓と一緒に、用意された椅子に座った。
「……さて。先ずは、時間取らせちゃってごめんね。楓……そして、西野真之くんも」
「大丈夫ですよ。香凜」
「えと……その、大丈夫です」
そう笑顔で答える楓と、まだ緊張と私への不信感が拭えないのかぎこちなく答える西野くん。
「改めて、自己紹介するわ。私は新島香凜。そこの楓と姉妹なの。よろしくね。西野真之くん」
「あ、西野真之です。……妹の新島には普段からお世話になってて、その、よろしくお願いします」
「そうなの。楓の方からは自分の方がお世話になってると聞いていたけど……まあ、互いに助け合ってる仲なのね。ありがとう西野真之くん。これからも、楓のことよろしくお願いするわ」
「……はい」
またぎこちなく答えた西野くんに、楓が小首を傾げる。
「……? 西野くん、緊張してるんですか?」
「え? ま、まあそうだけど。というか、あのトラック泊地の新島提督ご本人の前なんだから緊張するに決まってるだろ」
「ああ……確かに、香凜は有名らしいですから」
「へえ。私、結構有名人なのね。あんまり日本に帰らないからそういうの分からないのよ」
「でも香凜、昔から朝ドラ以外テレビ観ないじゃないですか」
「テレビ観るくらいなら部屋で本読んでいた方が私的に面白いのよ……それよりも、時間が無いしさっさと本題入りましょう。西野真之くん……は長いから西野くんで良いかしら?」
「……それは、ご自由に」
「分かったわ。……それで、最初に伝えたいことはお礼よ。ありがとう。西野くん。妹の極度の人見知りを改善してくれて」
「え? あ、ああ。そのことですか。……自分は何もしてないですよ。あくまで、色んな友達を紹介したりだとか、人と関わるきっかけを作っただけです。自分の力じゃなく、新島自身が治したことに、変わりありませんよ」
「それでもあなたがきっかけになった事は、楓の中では凄く大きな事だったと思うの。そうよね?」
「はい……」
そこで楓に振ると、微笑を浮かべて頷く。
「本人もこう言ってる事だし、素直に自分の功績を認めなさい」
「……で、ですが俺は本当に——」
「——知ってる? 謙遜はたしかに美徳だけど、過ぎた謙遜はただ相手を困らせるだけなのよ?」
「…………はい。ありがとう、ございます」
「よろしい。……あ、もうこんな時間。やっぱり移動に時間使ったか」
「じゃあ香凜、もう良いですか?」
「……まだ西野くんに聞きたいことは結構あるのだけど、背に腹はかえられないわね。なら最後に一つだけ、これは聞いておきたかったことがあるの」
「はい。何でしょうか」
「あなた程の能力なら有望株として教官からも、同僚からも噂されるはずなのだけれど、実際はそこまで注目されてないと楓から聞いたの。それは何でか分かるかしら?」
「……」
そこで西野くんは少し表情を沈ませ、心無しか楓も悲しげな表情を浮かべている。
少し間を置いて、西野くんは口火を切った。
「——……自分は妖精さんが見えないんですよ」
「……え?」
「提督になる為には、いくら努力しても、妖精さんが見えなければ成れることは出来ないと決められています」
「え、ええ。それは承知してるわ……では何故、あなたは提督候補生に?」
「……それは、まだあなたには話せません。そろそろ時間なので失礼します」
「え? ちょっと……」
そう言い残し、制止もむなしく西野くんは足早に部屋を出て行ってしまう、
「あっ、西野くん! ……香凜、私もここで失礼します」
そしてそれを追うように、楓も足早に去って行った。
私はそれ以降、彼との接点は数えるほどしかなかった。しかし、あの時見せた違和感ある反応が、私の心の中で引っかかり続けている。
そこで、回想を終わらせる
………………
…………
……
——手に持っている調査書類を見つめながら黙考する。
「……」
(もしかして、妖精さんが見えないことを悟られて提督としての信頼を失い、暴力などの反抗をされていたっていうこと?)
しかし、それだけの理由で上官相手に暴力を犯すなんてことは馬鹿げた話だ。ましてや、艦娘達は人間より悪意を他人に抱きにくいという研究結果が報告されている。果たしてそれは、妖精さんという超常的な存在が影響しているのかは定かではないが。
それにいくら悪意を抱きにくいとは言えど、もしそれらが人間基準だとしても、妖精さんが見えない程度で上官相手に暴力をする程の悪意を抱くというのは考えにくい。
(……横須賀鎮守府。過去に何かあったのかしら)
何故艦娘達が提督に対して、解体覚悟で暴力を振るっていたのか。
そう考えた時、西野くんが着任する前に指揮していた、前任である遠藤元提督の時に何かしらが起こっていた為、提督へ憎悪を抱いていた。その結果、後任として着任した西野くんを当て馬にしたという線が妥当だろうか。
(そういえば、横須賀鎮守府の前任だった遠藤は確か『一身上の都合により、急遽辞任した』という旨の電文を各鎮守府、泊地に送ってきていたわね。後にも、大本営から公式に同じような電文が送り付けられた記憶があるわ……)
一身上の都合。何か臭う。
「……亜門一尉」
そこまで思考を巡らせ、側で控えていた亜門に、一つの命令を下す。
「——西野提督の前任だった遠藤について捜査しなさい」
「……はっ」
「あら? やけに今日は早いわね。いつもなら私の命令に一つ二つ何かしら言ってくるのに」
「……流石に今の命令は冴えてましたよ」
「その言い草だと普段は冴えてないってことになるけど……?」
「……気のせいです。しかし、今回の捜査は必ず、何かが出て来るかと思います」
「ふふ。やっぱりあなたも勘付いたのね? 今回の事故と、西野提督が精神的に追い詰められていた原因」
「はい。これは大本営と遠藤元提督の間で、秘密裏に何かあったとしか思えません。この前の遠藤元提督が辞任した時の理由が余りにも不可解且つ不明瞭なものでしたしね」
「『一身上の都合』……確かに少し考えれば意味不明だったものね」
「ええ。ですから、これからは過去の資料とか入手する為に、立場上色々と融通が利く新島二佐にも協力を願うこともあると思いますので」
「大丈夫よ。何か欲しいものがあれば言って頂戴。今回は全力でバックアップするから」
「はい。では、失礼します」
「ええ。ご苦労様」
(これから、忙しくなるわね)
必ず、西野くんは守る。何せ、楓のお気に入りであるし、密かに私も結構普段から気にしてしまっている人であるから。
亜門が部屋を後にするのを見計らって、私はソファーに深々と寄り掛かり、ため息を吐いたのだった。
——横須賀鎮守府の他に、また二人の人物が動き出した。
今、横須賀鎮守府の執務室で、俺は大和と翔鶴の三人で、一ヶ月の間入院していたせいで溜まりに溜まっている書類を片付けている。
現在、呉鎮守府より功績を挙げられてないものの、規模自体は日本一の横須賀鎮守府であるため、全国から資材調達の要請や、救援要請、各鎮守府、警備府、泊地等が担当する海域の近況報告書が流れ込んでくる。他にも色々とあるのだがそれは置いておき。
実質、規模が規模なだけに、大本営の一個下くらいの権力を横須賀鎮守府は有しているため、横須賀鎮守府の提督は次期元帥候補がなると言われている。
勿論、なる気は毛頭ない。
横須賀鎮守府の役割は確かに近海の監視や、横浜に毎日流通する民間航路の安全確保が目的であるが、実は裏では全海軍施設の管理、総司令も一任されている。勿論、大本営にも一任されているが、現在は戦争状態。一々上層部の指示を待っている時間も惜しい戦いの中では、現場の判断、即応が好ましく、また直ぐに艦娘を対応に当たらせられる面においても、大本営より、横須賀鎮守府の方に軍配が上がるだろうという理由で、元帥が数年前に、『即応体制』という革新をした。
詳しく説明すると、それまでは大規模な海戦が起こる度、大本営に連絡、そして指示を待たなければならなかった。
しかし、元帥が打ち出した『即応体制』という横須賀鎮守府を中心としたこの革新的な体制はどんな規模の海戦が起きたとしても、必ずしも大本営の指示を仰がなくとも良いというものだったので、対応が遅れて、大惨事になることが少なくなったのだ。
お陰で近年では、各海域で起こる海戦をいち早く察知し、即対応が可能となり、遥かに敗北率や轟沈数も少なくなった。各鎮守府、警備府、泊地、基地の間に固い情報共有ネットワークが確立。それまで一進一退の攻防が続いていたが、現在は安定した戦線維持に成功している。
改めて思うと、俺は大本営と同じくらいの権力を持っていることになる。
正直言って、自分の判断一つで多くの命が犠牲になるのだから凄く怖い。しかし、元帥から任されたこの役目を必ず果たすと心に決めている以上、ここで怖気付くわけにはいかない。
——あの講堂での出来事から、既に2週間が経過している。
現在まで、特に問題も起きずに滞りなく横須賀鎮守府は運営出来ている。
前までは勝手に出撃、遠征して、鬱憤を晴らさんばかりに近海に現れる偵察に来た深海棲艦、或いははぐれた深海棲艦を撃破しまくっていたのだから、現在の落ち着きようは少し新鮮な気分だ。
横須賀鎮守府の主な役割は近海の監視、及びタンカーや漁船の運航ルートの安全を確保することであるため、結果的に憂さ晴らしだった深海棲艦を撃破する行動がそれらの役割の達成に一応繋がっていた。
なので、本当はまともに命令を聞いてくれない等、まともに軍事施設として運営が成ってないのに、大本営側からはちゃんと役割を果たしていると思われていて、怪しまれることはあれども。ここまでの一年間、艦娘達の俺への暴力などの行為は明るみに出ることはなかった。
もし艦娘達が憂さ晴らしに近海の深海棲艦を撃破も、出撃もしなかったら既に徹底的に捜査されて、バレていたことだろう。
因みに、月に一回は監査官が来るのだが、その時は命令はちゃんと聞いてくれていた。
しかし、俺が階段から落ちてしまったという事故が起こり、当然その知らせは大本営の耳に届いているはずだ。
近い内にこれまでの緩い監査官ではなく、違う監査官が来る可能性が高いため、前とは比べものにならないくらいに自分の命令を聞き始めた艦娘達を見て、『問題無し』と評価をして、大本営に帰ってくれるだろうと踏んでいるが、やはり危惧しなければならない。
目敏い監査官が来たら、その時はもう神頼みするしかない。
せっかく一年間も引きこもりたくなるような苦痛を耐え忍んできて、やっと艦娘達と未だに気まずいままだが、ようやく適切な上下関係に修復することが出来たというのに、その艦娘達が解体されて刑務所に入れられていくのを見るのはキツいものがある。
そんなことになれば、俺は一体。何の為に一年間も耐え忍んでいたのかと絶望することになるからだ。
まだあいつらのことは恨んでいるが、同時に今回の騒動で本当の俺を見てくれるようになった。
階段突き落とされ騒動の前のあいつらにはきっと、俺のことは過去の前任と重ね、憎悪を向けるべき対象に見えていた。その結果、俺が断固として艦娘達の粗相を上に報告しない性だと認識した瞬間に、『もう屈しない』という反抗心や正義心が心を支配して俺を孤立させ、弾劾し、挙句に暴力をしてきた。
しかし、それらの過去の言動を恨んでいる反面、過去の前任を引きずっていた彼女たちが少しずつ前を向き始め、前任と同じ軍人という枠組みに入れずに、俺という個人の存在を少しだが認めてくれて嬉しい気持ちがあるのだ。
着任前に、天涯孤独な俺にとって父同然に育ててくれた元帥に頼まれた、いや課せられた任務がある。
『横須賀鎮守府を……艦娘達を、救ってほしい』
その任務を胸に、提督候補生からいきなり提督として、どんな理不尽なことも耐えて、耐えて、頑張ってきた。
大本営に用があって出向いた時は毎度のごとく周りから、元帥殿の|贔屓《ひいき》で提督になれただけの凡人と揶揄され続けたが、そんなもん知ったことか。このクソ野郎と鼓舞して、頑張ったとしても、陰口や暴力などの捌け口にされて誰も見向きもしてくれないだろう横須賀鎮守府にまた帰る。
何度も、幾度と無く。そんな生活を繰り返していた一年間。
いくら身を粉にして報われなくとも、こうして頑張っていればその先で、俺が元帥に再会して『無事、任務を達成しました』と、胸を張って笑って言っているような未来があると信じて。
いくら突き放されて殴られたとしても、こうして頑張っていれば、あいつらと——いや、艦娘達と今は亡き家族のような……和気藹々とした、そんな温かい横須賀鎮守府で自信を持って指揮を執っている自分がいる未来が待っていると信じて。
そんな二つの願いは、結局夢物語で終わったのだが、現在の状況は明らかに去年よりも進展していると言える。
二週間前の講堂で、あいつらに向かって俺は——
『必要最低限度のコミュニケーションで行こう』
——と、あの場で、あの状況で、自分の心身のことも、艦娘達のことも考慮に入れた最善の提案をした。
あの提案を言った直後、何故か凄くざわついていたのを覚えているが、何か間違っていたのだろうか。
俺が居ない間の一ヶ月間の横須賀鎮守府は、素晴らしい程に機能していた。現最高の呉鎮守府にだって引けを取らない程の功績を叩き出したのだ。
では、ここ一ヶ月間で栄光を戻しつつある横須賀鎮守府を立て直そうと俺が頑張っていたあの一年間は、どうなるんだろうか。
無意味だったと言われれば、確かにと頷かざるを得ない。
何せ、極端な話というか、単純に考えれば——俺が居なくなれば良かっただけな話だったからだ。
(……)
しかし、分からない。俺には。
最近。ふと突拍子もなく、講堂で突き放すような言葉を放った時、一様に悲しくさせた艦娘達の悲しげで、寂しげなあの時の表情を思い出す。そしてその度に、俺は何故か胸が痛むのだ。過度な関わりを持たなければトラブルなんて起こりもしないし、双方嫌っているのだから、どちらにもwin-winな提案だったはずなのに。
あいつらは一体、俺に何を求めてるんだ。
前任のような、艦娘は兵器であり、軍の所有物だと考えている最低野郎であってほしかったのか。
(俺に向かって陰口を叩いたり暴力などをしたということは、そういうことだったんじゃないのか?)
元帥のような、普段は厳しいが誠実で、実は部下を第一に思ってくれている熱い人であってほしかったのか。
(そうであってほしかったなら、何故一年もの間頑張っていた俺を信じてくれなかったんだ?)
そんな二つの疑問の答えは不思議と簡単に浮かび上がってくる。
——西野真之は、いくら頑張っても艦娘から信頼されないような小さな器の持ち主。それ即ち、提督の器ではないということ。
確かに、俺のことを信頼してくれている人は少なからずいる。提督を目指すきっかけの元帥であり、義父である安斎さん。士官学校の元同僚で、今はそれぞれ舞鶴と呉で経験を積んでいる宮原や新島。トラック泊地で最前線で指揮を執っている新島の姉さんもなんだかんだで心配してくれてるし、大和、翔鶴、陸奥、武蔵も信頼してくれている。他にもまだいるが、だが、逆に考えてみればこれくらいしか居ない。
提督に関係なく、多くの部下を抱えて、命令を下す士官という立場に立つこと自体が許されない程に、命を預けるに値する指揮官としての器が未熟すぎるのだ。
一年間、死に物狂いで頑張ってきたつもりだったが、艦娘たちからは結局、それはただの独り善がりの偽善で、地位を上げる為に仕方なくやっていた行動にしか見られなかった。
頑張るだけじゃダメなのだ。
やはり、頑張ったとしても、指揮官としての器——カリスマ性は才能である以上、それはどう取り繕っても指揮官に向いてないということだ。
妖精さんも見えない——妖精さんからも信頼されない俺はどれだけ見繕ったって、ただの『士官学校上がりの贔屓された提督擬き』に過ぎないのだから。
多くの艦娘達を救えないままだ。
有言実行出来てないではないか。
何が救う? 何が提督になりたいだよ。
ただの夢ばかり見てる女々しいクソ野郎が
卑屈過ぎだろうか。だが、一年間も費やして得られなかった信頼は、つまりそういうことではないだろうか。
(……やっぱり、俺には)
——て……と!
(俺に、提督は……)
「——提督!」
「……え?」
それまで、執務の手を止めて窓から見える水平線を見て呆然としてたらしく、呼ばれた方へ聞き返すように隣に目を向ければ、そこには少し頬を膨らませた翔鶴が居た。
「はぁ……やっと気付いてくれましたね。さっきから五回くらい呼び掛けても、ずっと窓の方を見てたんですよっ?」
「あ、ああ。ごめん。ちょっと水平線みてボーッとしてた」
「また水平線を、ですか? ……まあたまになら良いですが、最近の提督はこういうことが多くなってきてますので、今後余りに水平線を見てボーッとするようであればカーテンは閉めさせて貰いますからね? ……ではこの書類の整理が終わったので、確認をお願いします」
「う、うん。ごめん翔鶴。えっと、ああ。『資材』についてか。確認するわ」
「はい。では引き続き執務に戻りますね」
(っと。まずいまずい。ボーッとしてた)
「——……あ、大和その書類取ってくれないか?」
「はい。えっと、これでしょうか」
「……ありがとう。それと翔鶴。その書類はそこに置いておいてくれ。後で目を通すから」
「あ、はい。ここですね?」
「うん。そこで良い。……にしても、一ヶ月分の書類の整理がこんなに溜まってたなんてな」
「……すみません。提督が休養中に、私達も何とか頑張ったのですが、本格的な執務はまだしたことがなかったので、勝手がわからずそのままにしてしまいました」
「いや、別に大和達を責めようとして言ったわけじゃない。ただこの書類達を見て、一人で引いてるだけだから、余り深く受け取ってもらっちゃうと困る。それに、本来の提督補佐役である大淀が居ないし。あ、でも大淀、確かもうそろそろ復帰出来そうなんだろ?」
「え? そうなんですか。……大淀さんの調子はどうでしたか? 翔鶴」
そこで話を振られた翔鶴は走らせていた万年筆をゆっくりと置いて、穏やか表情で話し始める。
「はい。とても元気なご様子でしたよ。休養して一年、当初は心が不安定な状態でしたけど、ここ一ヶ月になって、提督が事故に遭われた直後に、何かのきっかけか、前任が来る以前のような笑顔を、よく見せてくれるようになったんです。まだぎこちないですけど……でも、前はあれほど恐怖していた男性の方にも段々と接せられるようにもなってきているんです」
「そうか……大丈夫そうで、本当に良かったよ」
「はいっ。最近、大淀さんと話す機会が無くて心配だったんですけど安心出来ました。ありがとうございます。翔鶴」
「いえ。提督と大和さんはこの頃大変でしたし、動けるのも私や陸奥さん、武蔵さんくらいしか居なかったですし……礼には及びませんよ。それにしても、提督」
「? なんだ」
「実は大淀さんから伝言を預かっておりまして」
「伝言?」
「はい。大淀さんから『提督。あなたのお陰で、私は苦しみを乗り越えて更に強くなれました。ありがとうこざいました。そして、これからもよろしくお願いします』とのことです」
伝言を言い終えた後、花のように笑う翔鶴と、静かに瞑目して微笑した大和。
「……」
そんな予想だにしなかった感謝の言葉が、予想以上に。今の俺の心には深く、深く響いた。
何も返さないまま、瞠目してる俺に、翔鶴と大和が同時に頭を下げる。
「提督。……大淀さんを深い闇から救い出して下さったことに、心から感謝を申し上げます」
「大和からもお礼を。私の大切な友人を、また救って頂きありがとうございました」
「……」
未だ、黙って茫然としたままの俺に、翔鶴は真っ直ぐに見つめて、言葉を紡ぎ出した。
「……大淀さんが言ってました。提督は時間を見つけては、遥々鎮守府から病室までお見舞いに来てくれて、自分を笑わせようと頑張ってくれたと。何度拒絶しても、また気付かない内に隣で、その温かい笑顔を向け続けてくれたと」
何でだろうか。
「……そう、か」
あんなに自分を拒んでいた大淀が、俺に礼を言ってくれた事が、こんなにも。
「……提督」
そんな俺を見る翔鶴は、まるで子供を諌めるかのように口火を切った。
「最近、何か考え事が多く見受けられますが……それについては何も言いません。あくまでそれは自身のことであるからです。ですがこれだけは言わせてもらいます」
「……」
「提督の判断に間違いはありません」
「……い、いや——」
「——いいえ、ありません」
否定しようにも、翔鶴は言葉を遮りなお続ける。
「私から見たら、間違いはありませんでした。現に今、こうして艦娘としての自信を持って生きていられるのも、提督の判断があったからなんです。そして、その提督の判断に従うか拒否するかを選んだ際、私は従うという判断をしたからこそ、今こうしていられるんです」
「……」
「確かに、当時の提督の判断や行動で過去から救われた艦娘は少ないでしょう。他の人たちは、これを『間違い』と揶揄することでしょう。しかし、そんな行動で心から救われた私達からしたら、提督の判断や行動について『正解』だったと言う他無いんです」
そんな翔鶴の言葉に、大和も続く。
「利己的な考え方で申し訳ありません。ですが確かに、提督のその手で救われた私達からすれば、提督の判断は間違っていなかったんです。それに、少なくとも今の鎮守府の状況を見れば分かる通り、もはや身を粉にして努力して、鎮守府の復興を実現させた提督の行動を『間違い』だったという艦娘は一人もおりません」
「……ですから、提督。もう自分を責めないで下さい。過去は変えることは出来ませんが、積み上げてきた過去が今、違う形であれ、多くの人から認められて、実を結ぼうとしてるんです」
「……翔鶴」
ああ。この二人は本当に——
「……提督。皆さんとこのままで、この状況を維持するか。それとも、この状況を変えるかどうかは、これまで『間違い』は無かった提督の判断にお任せします」
「……ありがとう、大和」
——本当に、優しい。
「そう、だよな……」
「——……よし」
「あ。提督」
二人からの有り難い言葉を貰い、意気込んで執務にまた戻ろうとしたが、何かあったのか疑問符を浮かべた翔鶴へ、大和と俺が二人して聞く。
「何かありました? 翔鶴」
「ど、どうした翔鶴」
「どうやら既に一二〇〇を回っているようで……」
「本当か?」
そうして、時計に目を向ければ、確かに12時を針が回っていた。
二人とも執務に集中していたら、気が付けば昼になっていた感覚なんだろうか。なんだかとても意外そうな面持ちを大和、翔鶴が浮かべている。
一方、俺はというと。ただ殆どの時間をボーッとしていただけなので、そんな中で執務を黙々と進めてくれていた少し二人に悪い気がして、つい苦い顔をしてしまっている。
どうにかして罪滅ぼしというか、なんというか。とにかく、二人には少し何かをしてあげないと悪い気がする。
しかし、誤った過去は戻らないので、正直余り気は進まないが二人にこんな提案をした。
「……あー、その。大和、翔鶴」
「はい?」
「? どうしました? あ、提督の昼食は私達が持っていきますので」
「あ、いや。今日は……食堂で三人で食べないか?」
「……え! それ本当ですかっ」
「……! て、提督? ……あの、どうして」
俺の言葉に、素直に頬を染めて嬉しそうにする翔鶴と、嬉しそうするのを抑えて冷静に見せようとする大和。
「……まあ、その。二人には前から誘われてたけど、食堂には皆がいて、気まずい理由から断ってただろ? でも、毎日嫌な顔をせずに執務を手伝ってくれる二人に、悪い……っていうか。その。今日も、ほら頑張ってくれたじゃないですか。だから、日頃のお礼で、間宮券もあるし使い所かなって。そう思ったわけで……」
普段から結構な付き合いがあれど、俺からこうして誘うのは初めてなことかもしれない。そのせいか、照れ臭さが勝って言葉が変になってしまっている。
そんな変な俺を、大和と翔鶴はクスクスと笑ったが、同時に心優しく
「——……提督。では、行きましょうか?」
そう言って、裾を掴んで引っ張る可憐な笑顔を見せた大和。
「——提督っ! 間宮券ありがとうございます! 今日の昼食は楽しくなりそうですね?」
そして、そんな二人に並んで楽しげに微笑む翔鶴の二人と一緒に、俺は食堂へと足を運ぶ。
(このままで本当に……良いのだろうか)
食堂にいるだろう艦娘達のことを思いながら、そんな一抹の不安を胸にして。
「……」
大和、翔鶴と共に食堂の前に着くと、やはり緊張してくるものがある。手に汗握るし、鼓動も速くなっているのだ。
後二、三歩で食堂に入れるというのに、一向に立ち止まってしまった足が動いてくれない。当然、両隣に居る大和と翔鶴は自分の今の精神状態を理解してくれている為、心配そうにしながらも、俺が自分自身の足で食堂に入るのを待ってくれていた。本当に良い部下に恵まれてる。
「——……はぁ」
速くなっている鼓動を落ち着かせるように、そして心の準備を整えるように、その場で深呼吸した。
(……多分、この会うと気まずい気持ちは俺だけじゃない。食堂に居るあいつら、艦娘達も同じなんだ)
——最低限のコミュニケーションで行こう。
そんな方針を取って二週間だが、出撃、遠征後の報告時のあいつらには別段変わった様子は見られなかった。
(少し気まずそうに、報告してる子以外の艦娘がこちらをチラチラと見てきてはいたが)
例えば。赤城さんが戦果報告をしに来た時の四日前に遡る——
『——……て、提督。報告に来ました』
四日前の14時15分頃。その日の時は執務の仕事が一段落し、一人執務室でコーヒーを片手に小休憩していた。そんな時、何故か少し俯いたままの赤城さんが報告書を持って執務室に来たのだ。
『……? 』
やはりまだ一部の艦娘以外の娘には抵抗があり、当初は大和達の誰かが側に居ないと正常に艦娘達と話が出来なかったのだが、それも少し慣れて来て、自分一人の状況でも一対一で話せるようになったころだ。
『……えっと、お疲れ様です。報告をお願いします。後、申し訳ないんですが、その線から内側には……』
『……!』
その言葉に、赤城さんは少し瞠目した後、分かりやすく沈んだ表情を浮かばせた。
『……申し訳無いです。では、お願い出来ますか』
暗い空気を漂わす赤城さんのことを気にしながら、報告を促す。
『……はい。太平洋側の元排他的経済水域の境界線近くまで哨戒活動を行い、会敵は無し。赤城、衣笠、大井、筑摩、夕立、時雨六名の被弾は皆無。任務を終えて全員、先程1400時過ぎに帰港致しました。以上です』
気まずさを感じさせる雰囲気ながらも、流石に自分が着任するずっと前から主力として活躍してきた歴戦艦であるのか、スラスラと報告する。
『ありがとうございます。無事だったようで何よりです。あそこは特に深海棲艦が出没する海域ですからね。今回の哨戒任務では何事も無く済んで幸運でした。お疲れ様でした赤城さん』
『……』
多少たじたじになりそうだった言葉も綺麗に言い終えたので自分の心の中で安心していたら
『…………はい』
数秒経って帰って来たのは赤城さんには珍しく、何処かパッとしない返事だった。
『では、これを。間宮券です。今回の哨戒任務を担当した娘達の分とあなたの分です。ゆっくりと英気を養って下さい』
『……い、いえ。ですがっ……今回は、何事も無かったので』
すると、途端に俯かせ気味だった顔と目を初めて、しっかりと俺の顔を捉えて赤城さんは拒んだ
『だ、だからこそです。だからこそ、今日みたいな日にしっかりと有事に備えて、英気を養っておくべきなんです』
その気迫に少し圧倒されながら、疲れを癒してもらいたいからとまだ粘ってみると
『っ! ……で、ですが!』
やはり、赤城さんは頑なに渋った。
ここまで渋る理由はなんだろうかと。確かに気まずく思ってる者同士だが、赤城さんから受けた仕打ちは無視程度でしかなく、互いをここまで気まずくさせる程のものではないとこちらは思っているのだが。
そこまで考えた時、ある答えに行き着いたが、同時に自嘲の念が押し寄せてきた。
『……ああ。そう、ですよね。俺から、俺と艦娘達はこれからは最低限のコミュケーションで行こうと言ったのに、こんなお節介は……鬱陶しい、ですよね? ……はは、すいません』
そうだよな。と素直に思える。自分からあんなこと言っておいてなんて虫の良さなんだと、赤城さんがここで憤りを感じるのも無理はない。
そう思っていると——
『《b》っ! それは違うんです!! 提督ではなくっ……私のッ《/b》 ——私達の方がッ……』
『——!』
しかし、そんな勝手な自己完結で、独りよがりな返答をした途端に、それまで何処か暗く、消極的だった赤城さんが様変わりし、その声を張り上げて必死に否定した。
驚いたと同時に、そして、何でそこで否定したのか理解出来ないでいた。
いや、なんで俺が俺自身を否定することを口に出す途端に否定を入れてくるのかと。普通に考えるに、俺のことを思って、否定してくれたと思うだろう。
しかしその否定に至った赤城さんの真意を理解しようとしても、散々打ちのめされ、散々蔑まれて捻くれてしまった薄汚れた心が、否定しようとするのだ。
——赤城さんが俺に何かを思っていて、そしてその思いを伝えたいと思っているのではないか。
そしてその何かとは、自責の念に駆られてこれまでの行いを俺に謝罪したいという思いと、この互いに気まずい関係から信頼し合える関係に修復したいと思っているのではないかと。
そんな、『もしかしたら』という様々な憶測が出てくるなかで、心の中のどうしようもなく黒い何かが否定するのだ。
——艦娘と西野 真之という男は分かり合えないと。
『……いえ、無理しなくて良いんです。すいませんでした。退室しても良いですよ』
『……!』
そうやって、何を思ってか、無意識に。——赤城さんからの思いから逃げるように。
強引に退室を促した俺の顔を、赤城さんは何処悲しげに眉尻を下げて、何かを訴えかけるように見つめた気がした。
『……赤城さん?』
『っ…………失礼しました』
しかし、今一度よく見れば、入室時と同じようにその顔を少し俯かせていた。
『…………』
赤城さんもそうだが、あの後名取も報告に来たとき——
『……あ、あの。失礼、します。遠征の報告に、来ました』
赤城さんの後で、心もブルーになっていたのだろう。
『……ああ。報告を頼む』
当時は少々、そうやって素っ気なく返答してしまった為か、名取は肩を落として、少し悲しげな目をした気がした。
『あ……はい』
『っ……ごめん名取。その線より内側は入らないようにしてくれないか』
『え? あっ……ご、ごごごめんなさいッ!』
『……いや、大丈夫だ。でもごめん。艦娘の距離が近くなると動悸が激しくなったりとか、胸に痛みを感じ始めることがあるから……すまん』
『……!』
そこからだ。
『……名取?』
——名取が、突然その顔を歪ませて、静かに涙を流し始めたのは。
『…………ほん、とうに。申じ、……っ訳、ありまぜんでしたっ……』
『お、おい。いきなり……どうしたんだ名取』
その時は分からなかった。何故、名取がこんなになって俺に謝っているのかを。しかし次の言葉を聞いた時——
『あのどきっ……提督さんは、ほんとうに辛そうな顔でッ……泣いていて……でもわだしは、怖くてッ……逃げて、じまいましたっ』
『……っ』
◆ ◆ ◆
——名取が何故謝っているのかを重々理解することが出来た。
あれは階段から突き落とされる事件が起こる、三日前の出来事だ。
それまで名取と俺の接点はあったにはあった。ただ、それは俺と名取が廊下すれ違う時くらいだった。しかも大抵名取は姉達と一緒に行動していたので、すれ違う際は長良と五十鈴の陰に隠れて、明らかに避けていたので、話したことも一度もなかった。
そのくらい接点は無い等しい名取だったが、俺は突き落とされる三日前の夜。その日も無視や陰口、避けられるなどと言った対応を艦娘達に取られて、心身共に限界も近付いてきていた。
いつになったら認めてもらえるのだろうか。
いつになったらこの辛い状況から解放されるのだろうか。
そもそも、なんで自分が前任の尻拭いをする形で着任し、こんな目に遭わなければならないのか。
そのようなことをもはや精神安定を図るための代物となってしまっている日記に書き終わり、早めに就寝を取ろうと思ったのだが、その日はどうにも寝付けなかったので気晴らしに外に出てみたのだ。港の方へ歩くと、夜に寝静まった鎮守府を照らす半月が、雲一つ無い夜空で輝き、穏やかな海面にその月光を反射させていた。
——綺麗だ
夜中の肌寒さを、暗闇の中で一人という漠然とした恐怖を感じるがそれ以上に、あの日の夜は、目の前に広がる暗い海の海面から、夜空の月へと伸びる月の道が、どうしようもなく綺麗に見えた。一年もの間、夜になればふと寝る前に、自室の窓から何度も見ていた筈なのに、すごく新鮮な気持ちになれたのだ。
——このまま足を踏み入れば、真っ逆さまで海に落ちるな
だからだろうか。不意にそんな馬鹿げたことを思ってしまった。死にたいと。死んで楽になりたいと。
試しに一歩、二歩と足をゆっくりと、防波堤の上を進めていく内に、様々な感情が湧き出してきた。
もう限界だ
ここで死んで良いのか
楽になりたい
死んだら何もかも失うぞ
逃げたい
逃げてどうするんだ。その先に意味があるのか
ここまでやっているのに、どうして認めてくれないんだ
認めて欲しいのか。認めさせたいのかどっちなんだ
——生きていても意味がない
——生きることに意味がある
穏やかな波が打ち付ける防波堤の上で葛藤した。
その時にはもう、足を止めて。
——ッ……くっ……
静かに膝を地面につけて、涙を流していた。まだ葛藤があるのならば死ぬ覚悟なんて出来ていない。そんなこと、実行に移す前から分かっていたことなのに、俺は本気で死のうとも思わずに死のうとしたのだ。
色々な感情がある。しかし何よりも、戦場で日夜戦い、生と死の瀬戸際に立たされている艦娘たちに、簡単に死のうと思った俺の行動が本当に、本当に申し訳が立たなくて。だからこそ、涙が止まらなかった。
大の大人が夜中の防波堤の上でうずくまり、情けなくも大号泣している。
誰か通りかかったら間違いなく変人として通報されるだろう。そんなことを思いながらも、俺は本気であの時は泣いていた。
『——っ』
そんな時、足音と誰かの声がした気がした。
不意に、その物音がした方を振り返ると、そこには誰もが居なかった。
気配を感じたのは気のせいだったか。
不思議に思いながらも、そろそろ寝ないと明日の執務に差し支えると、涙を拭って誰にも見られないように自室に戻ったのだった。
◆ ◆ ◆
『……そう、か。あれは名取、だったんだな……』
当時のことを思い出し、感慨に耽る。
そんな俺の言葉に対し、名取はコクリと頷き、ショートボブの髪を揺らした。
『……私も、あの夜……息苦しい鎮守府の空気に、険悪になっていた皆に耐えかねて、どうしようと悩んでいてっ……眠れなかったんですっ』
しかし。あの名取が。姉達に隠れていた引っ込み思案な名取がここまで目の前で感情を爆発させるなんて。と当時は思った。
『辛い時は……港にある、防波堤で海を見るのが習慣でしたっ……ですがっ——』
それまで顔を俯かせて、震えていて、静かな声だったが
『——でも私以上にあんなに、あんなに誰かにっ……だすけを求めていた方がっ……先に防波堤の、いつもの場所で泣き、崩れていたんです……』
『……』
『わだしはその時っ……何も出来ずにっ——ただ物陰で見守ることしかっ……出来なかったんです!!』
『——』
『わた、しは……卑怯ですっ……周りの空気、にながされてっ……提督さんのことを、っ! 避けてっ……普段から、何も出来なくて……努力して、も。いつも……優しく挨拶してくれる提督さんをわたしは怖がって……でも助けたくて、何も出来なくてっ! 五十鈴姉さんに長良姉さんが居ないと結局何も、なにも出来なくて——』
『…………』
『わたしが、よわい、がらなんですッ……あの夜、勇気をだして声を、かけられなかったわだしがっ……』
『名取——』
『わだじはわたじが嫌いですっ……! ——っ!!』
『っ! な、名取!』
普段なら想像つかない程に声を張り上げた名取は、そこで執務室から走り去って行ってしまった。
——そんなことがあったりして、これまで他の報告に来た艦娘達の時も、赤城さんや名取の時と似たような状況になったりしている。そう。お互いにすれ違っているのだ。
正確には赤城さんや名取の時と同じように、皆一様に俺に何かの思いを伝えたがっていて、俺はその思いを受け取るのを怖がって、逃げている。
悪循環に陥っているのだ。
——俺と艦娘。どちらも互いに否定し合っているのだから、仲良く交流をすることなんてこれからないだろう。
そんな俺の汚れて捻くれた子供のような心が、このすれ違いを生んでいるに違いないだろう。
しかし、このままでも良いのだ。しっかりとした上下関係。事務だけの、仕事上だけの付き合い。
ここは軍だ。
上官とそれに従う部下。一定以上の関係になる必要はない。
色々と迷ってはいるがどっち道、俺のしていることは間違ってないと思う。
ただ。こうして艦娘達とすれ違う度に思うことがある。
自分達が俺という一度裏切られた軍の人間を、艦娘達は恐怖し、強く反発し、これでもかと拒んできた。
では今の自分はどうだろうか。あれほど恐怖し、あれほど自分達を苦しめた前任と、同じような酷いことをして、挙げ句に殺そうとしてしまった、俺という相手に、罪悪感に苛まれながらも歩み寄って来始めた艦娘達に対して、恐怖して、奥底では憎んでいて、ここ二週間拒み続けているのではないか。
自分が今してることは、以前の艦娘達と同じようなことなのではないだろうか。
そういえば。同級生をいざこざで泣かしてしまった時とかその度に、自分が嫌なことは他人にしてはならないと、ガキだった頃に今は亡き母からしつこく叱られたことを思い出す。
考えてみれば今、自分が艦娘に対してしてることは、俺がされて嫌なことだ。
また思えば、ここ二週間、艦娘達が報告に来る度、大体が俺の独り善がりの言動が発端で、元々気まずかったのが更に気まずくなってしまっている。
俺は一体、何をしているんだ。艦娘達への当て付けなのか。それとも仕返しをしたいが為だけに、この鎮守府に戻って今、指揮を執っているのか。
違うだろう。俺は——提督になりに来たんだろうが。
「行くぞ。大和。翔鶴」
「はい」
「提督。無理しないで下さいね」
「ああ。分かってる」
食堂の扉に手をかけて開くと——
「——あ! 電! その天ぷら一口良いかしら!」
「え? もちろんいいのです! 雷ちゃん。この大きなエビさんあげるのです!」
「わぁ。ありがとう電!」
「もう、雷。食事してるときは騒がないのがれでぃとして当たり前なのよ! しゃんとしなさい! はしたないわ!」
「いや、暁もうるさいと思うけど」
「えぇ!? そうかしら、響」
「うん。まぁ、別に良いんじゃないかな。賑やかだし」
「——あっ、時雨! 間宮券あるっぽい! 良いなぁ」
「ほんとだー。良いなぁ時雨ちゃん」
「うん。四日前の哨戒任務で提督がくれたんだ。春雨は?」
「私はもう前に使っちゃったな。間宮アイス、凄く美味しかったよ」
「へぇ〜! 春雨もなのね。やっぱり提督さんは良い人っぽい! 皆この前まで悪い人だから無視しようって言ってたけど、あれは嘘だったのね!」
「……うん。そうだね。提督は、ここ一ヶ月の素晴らしい鎮守府を作り上げた、本当の功労者だからね」
「……」
「え? でも時雨、この前は悪い人って言ってたっぽい!」
「……うん。そうだね。ゆる、されないよね……僕」
「……時雨がもしかして提督さんに悪いことしたのなら、ちゃんと謝った方が良いっぽい」
「うん。いつか、僕が旗艦になって、報告に執務室に行けるときが来たら土下座してでも謝るよ。必ず」
「その時は夕立も付き合ってあげるっぽい!」
「……私も付き合うよ。時雨ちゃん。夕立姉さん」
「——最近私、調子が良いんだよね」
「そうなんですか? 川内姉さん」
「うん! なんかねー、夜戦モードの私がずっと続いてる感じ?」
「それは……すごいですね」
「ちょっとなんで神通は引いてるの?」
「い、いえ……あの、夜戦の時の川内姉さんは凄いですから。それが最近ずっととなると……ちょっと」
「ええ! なんだよー。じゃあ那珂はどう思うの」
「え? 那珂ちゃん? 別に川内ちゃんが良いなら良いんじゃないかなー」
「あ、なんか誤魔化した感じがするっ」
「……でも確かに、夜戦モードの川内ちゃんがずっととなると、流石に敵に同情しちゃうなって那珂ちゃんは思っちゃう」
「ですよね」
「もー! 二人共なんかヒドい!」
「—— ……」
「……」
「…………」
「……はぁ。大井っち」
「……? なんでしょうか。北上さん」
「ここ最近特に元気ないじゃない。何かあったの」
「えっ……いえ、特に無いですけど」
「特に無くて、私だけに甲斐甲斐しい大井っちがこんなに喋らないっていうのは有り得ないでしょ。何、相談乗るけどー?」
「……ですが、本当に無くて」
「……提督の事?」
「っ!」
「……はー。もう分っかりやすいなー大井っちは。提督と何かあったのかは聞かないけど、モヤモヤするんだったらさっさと会って話し合ってくれば良いじゃん」
「……でも! そんなの」
「もしかして怖い?」
「……」
「……大井っち。私も同じように提督としっかりと話し合いたいと思ってるよ。そして、キチンと謝って、解体されるならされるで良いかなーとも思ってるんだよね」
「……!」
「私、あの人の命令ならどんなものでも受ける続けるつもり。例え、大破状態で進軍しろと言われても、私は胸を張ってその命令に従うことが出来る」
「……北上さん! それは——」
「——大井っち」
「!」
「大井っちが今、あの人にどんな思いを抱いてるのかは知らない。でも、私は本気。あの人は私達にとって人間を信じられる最後の希望。砦だよ」
「……北上さん」
「あの人が生きている限り、私は全力で人間を救う。あの人の故郷を守るために。だから私はあの人のために戦う。大井っちはどうなの。今、戦っている理由は何?」
「……私は」
「……」
「私にとって北上さんの為に戦うことは当たり前でした。……ですが、正直最近、戦っていても妙な気力が無くて、呆けてることが多くなっていたんです」
「うん」
「私は……人間が嫌いです。特に前任、軍人という人間が。目にした瞬間、砲撃して消しとばしたくなるほど。ですが最近、皆さんが一度自分たちの手で拒んでしまったあの人に振り返ってもらいたいと、必死に任務に励んでいます」
「……うん」
「そんな中、私は何故かやる気になれないんです。あの人のことを、本当に信じていいのか。あの前任と同じ軍人なのに、本当に背中を任せて良いのかって」
「……」
「ですが……北上さんの提督への思いと決意を聞いた瞬間から、こう段々と自分の中で変わりつつあります。これからは軍人としての彼では無く、一人の人間として見ようと」
「そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、もうこの後は大丈夫だね。大井っち、付いていかなくても良いよね」
「……はい」
「よし。この昼食が終わったら早速執務室に行こうか。やっぱり心配だから途中まで付いてく。ケリ付けてきなよ?」
「はい!」
様々な談笑が聞こえてくる食堂。俺はついに半年ぶりにここで食べるらしい。
「……やっぱり多いな」
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
早速動悸がしてくる。トラウマに近い大勢の艦娘に囲まれているせいだろうか。
大丈夫だ。問題ない。俺は提督だ。これはショック療法だ。我慢しろ。
自分をそんな言葉たちで励ましていると
「……えっ」
「っ!」
「司令、官?」
「……提督、さん」
「どういうこと?」
「何か口頭で連絡があるとか……?」
と、やはり騒がしくなる。
そんな騒然としている状況下で、「あ。あそこの席空いてますね。先に翔鶴と座っておいて下さい。私は水取って来ますので」と、大和が手を引いて空いている席まで連れていってくれた。
「……提督? 何を頼みますか?」
翔鶴と席に座ると、早速、翔鶴が聞いてきてくれた。この状況で自分から話をするというのはキツイから助かる。
「ん、ん? ああ……じゃあ今日はB定食で」
「分かりました。では、私もB定食にします」
と、俺みたくB定食が何なのか注文表を見ないで決めてしまう翔鶴。
「……え? いや、俺に合わせなくても良いんだぞ翔鶴」
「いえ、無理にではなくて。私もたまたまB定食が良いなって思っただけですよ」
注文表を見ないでか。
「でもB定食、大盛りキムチ炒飯だぞ? 女子にはキツいんじゃないか?」
と、そう聞くと、途端に翔鶴は、得意げな微笑を浮かべた。
「ふふん。提督。私は空母です。こう見えて結構食べられるんですよ?」
「……ああ、なるほど。確かに空母は運用する上で多くの資源も必要になってくるし、その分動かす方も燃費が悪いのか」
「そうなんです。ですから結構、空母の私達はお腹周りを気にしてるんですよ」
「いや、大丈夫だろ。皆それ以上の運動はしてるんだから」
「ふふっ……そうですね。それより、嬉しいです」
「……ん? どうしてだ」
俺がそこで首を傾げると、翔鶴は若干頬を染めて、こう言ってきた。
「提督が私のことをちゃんと女性として見てくれてると分かったから……ですかね?」
「え? いや、当たり前だろ」
逆に翔鶴みたいな大和撫子を女性以外にどう見たら良いんだ。
「その当たり前なことをやってくれるのが女としては嬉しいのですよ。提督」
「……そうか」
褒められているらしいので、素直に嬉しい気持ちだ。
「では、私が食事を取ってくるので、提督はここで待っていてください」
翔鶴はそう言い残して、間宮が居る厨房の方へ歩いて行った。
さて。
「「「……」」」
なんだか妙に皆から睨まれてる気がするが、なんでなんだろうか。実はさっきから気付いていたのだが、俺と翔鶴の会話を、皆耳をすまして聞いていた。
途中までは興味本位で大多数は聞いていたのだが、俺が翔鶴に『当たり前なことをやってくれるのが女としては嬉しいのですよ』と、褒められた時から、なんだか敵意を感じる鋭い視線になった気がする。
「「「……ッ!」」」
「……っ」
大和。早く来てくれ。この静まった食堂の重い空気を打開してくれ。
「——提督。お待たせしました。氷水です」
「お、おお! ありがとう大和」
と、そんな時。にこやかに微笑しながら水を持ってきた大和が救世主に見えた。
周りには静かにチラチラと視線を送ってくる艦娘達という完全アウェイな状況だったが、大和が席に来たことによって安心感のボルテージが上がり、その肩に勢い余って片手を置いてしまう。
「えっ……」
「っ! す、すまん!」
頬を赤らめる大和の肩から手を離し、直ぐに着席する。恥ずかしい。普段はこうして感情を素直に出すことは無いんだが。
「い、いえ。そのっ……私が注ぎます、ね?」
「お、おう。ありがとう」
意識してるのかまだ頬が赤い大和がトクトクトクと注いでくれる。
一方でコップを持っている俺は、さっきのボディータッチは明らかなセクハラではないかと自責の念に駆られている。
その時だった。
「——あの。司令官!」
誰も艦娘が話しかけない、奇特で気まずいこの状況の中で、一人俺に話しかけてきた艦娘がいた。
「初めまして! 先月呉鎮守府からここ、横須賀鎮守府に着任した、特I型駆逐艦 吹雪です! よろしくお願い致します! 司令官!」
「……」
翔鶴、そして大和以外誰も俺に話しかけてこない。多くの艦娘たちが、こちらからも感じられるほどに気まずい空気を侍らせながら、遠巻きに見ている、そんなどちらとも気まずい状況下で話しかけて来た一人の艦娘。
──特I型駆逐艦一番艦 吹雪。前々から呉鎮守府から異動してくる優秀な艦娘が居たと聞いていたが、そうか。俺が入院した時と同時に、入れ替わる形で来たのか。
華奢で、すこし顔に幼さを残しつつも、駆逐艦ながら、何処かしっかりとした雰囲気が並の駆逐艦よりある印象だ。
二ヶ月前。現在呉鎮守府の司令官である坂本提督という、士官学校の時にお世話になっていた先輩から、「そちらに優秀なんだが、まだまだ精神的にも、戦いの面においても若い子だ。しかし、お前の今の状況を良くしてくれると思う。どうか、よろしく頼む」と無理矢理な形で移籍させてきたという経緯があるのだが。
ところで、なんと言っても。
(……)
……確かに、今の状況になにかの変化を起こしそうだと。突拍子もなく、そう思ってしまう。そんなオーラがある。
「──あの、司令官?」
と、考えごとをしていると、吹雪が中々返答がこない俺に小首を傾げてきた。
「……あ、ああ。君の話は二ヶ月前から聞いていた。来てくれてありがとう。すまない、こんな形で、しかも初めて挨拶をすることなって」
そんな俺の不甲斐なさがある言葉に、吹雪はそんなことを気にしてないと一目で分かるほどの、快活な笑みを浮かべてくれた。
「いえ。司令官が階段で事故を起こして入院していたことは、先輩達から聞いていましたので。……その、大丈夫ですか? お怪我の方は」
なんだか新鮮である。大和達以外の艦娘から体の心配をされるのは。
「……大丈夫。あと数週間もすれば完治するだろうからな。心配してくれてありがとう」
「いえ。前々から坂本元司令官の方から、色々と司令官のことは聞いていましたので……その影響なのか、実はここに来る前から少し、司令官のことについて興味があったんです」
「あ、そうなのか。あの坂本先輩が」
因みに、もう一つ付け加えると、坂本先輩は提督になる前に一ヶ月ほど呉の方で提督補佐をしていた頃でもお世話になっている人だ。23才ながらも、日本で二番目に規模が大きい呉鎮守府を指揮している凄い人でもあるため、色々と提督について教えていただいたということもあって、士官学校時代からもだが尊敬している人の一人だ。
「はい……ですが、今こうして対面して話してみると、坂本元司令官が話した通りに優しく、そして生真面目という印象を受ける人ですね」
そうして柔らかく、気恥ずかしさなのか頬染めて微笑んでくる吹雪。
それに一瞬見入ってしまうも、いかんと思ってそこから自然と目を逸らして、話も逸らす。
「あ、ああ、えと。そうだ……横須賀鎮守府に来て一ヶ月……どうだ。ここは。上手くやっていけそうか?」
「「「……っ」」」
そんなタジタジになる俺を見て、周囲で一連の会話を見守っていた艦娘達から少しクスッと笑われた気がする。
イラッとくるよりは、恥ずかしさに似たむず痒さを感じたので、意地で吹雪の方へまた目を合わせると、そこには同じようにクスりと笑う吹雪がいた。
「ふふ……あ、失礼しました。はいっ! ご飯も美味しいですし、先輩達も親切で……何より、横須賀の海は綺麗ですから、今のところ、施設面においても呉鎮守府に見劣りしてないので、以前と比べてみても変わりなく過ごせています!」
坂本先輩から聞いている通りに、若さと明るさが比例している子だ。
──そして不思議と。今まで俺と艦娘達の間での気まずさで沈み気味だった食堂の雰囲気が、吹雪が話し始めてから緩和されていっている気がする。
「……そうか。確かに、俺もよく一人で海に見に行くときがあるからな」
「そうなんですね! 私もよく呉の方でも、時間があれば海を見に行っていたんですけど、今や横須賀の海の虜になってます! 特に海軍カレーパンを食べながら、夕日が沈む水平線を眺めるのが好きですね!」
「お、おう。そうか」
「その時は良く夕立ちゃんと一緒にいくんですよ!」
「そうか。夕立と……」
夕立。関わりは廊下ですれ違う程度だったが、その時には萎縮気味でも、勇気を出して小さな声でも毎回挨拶してくれた数少ない艦娘の一人だ。
本当に優しい艦娘なんだと、関わりが少なくてもわかる子だ。
「夕立ちゃんがですね。水平線に沈んでいく夕日を指差しながら……「っ! 吹雪ちゃんその話はダメっぽいぃ〜っ!」……夕立ちゃん!?」
そんな吹雪の話を遮った夕立が慌てて前に出てくる。
当時からこんなに確りと夕立を目の前で見たことが無かったので新鮮だ。容姿からでも分かる通り、きっと仲間たちの前では吹雪と同じくらいに凄く元気な子なんだろう。
「どうしてもこうしたもないっぽい! 提督さんにその話は恥ずかしすぎるの!」
「……」
「……吹雪ちゃん?」
と、そこで吹雪は何を思ったかすこし悪戯な笑みを浮かべて、次には少し大きな声で態とらしく
「それで、『そこで暁の水平線に勝利を刻むっぽぉい!』っていきなり夕立ちゃんが立って……「ダメっぽいぃ!!」ん〜!?」
そんな夕立の面白い話を食堂に聞こえるように言いかける吹雪の口をまた慌てて両手で塞ぐが、殆どの内容が漏れてしまっているので無意味である。
「……ぷはっ! ちょっと夕立ちゃん! 苦しぃ……ん〜!」
「もう話させないよ吹雪ちゃん! ああ顔熱いっぽいぃ〜!」
そんな吹雪と夕立の小さな攻防戦を、一応ここの鎮守府の最高指揮官である俺の目の前で繰り広げているという、着任当初からあり得なかったシュールな光景に、それを見ている軽巡や重巡を中心に微かな笑い声が広がっていく。
いつの間にか側にいる翔鶴はクスりと片手で抑えて笑い、大和は我慢しているのか少し体を震わせている。
そして、そんな周囲の雰囲気に流されて────
「──ぷっ、ははっ! ……」
今まで、張り詰めていたものが。
「ははは────」
今まで肩にのしかかっていた何かが。
「……提督?」
気づけばどこかに行ってしまっていた。
「くっははは!」
大和が怪訝な顔をしているが、そんなこと。
「「「──!」」」
周囲に居る一部艦娘達も驚いた顔をしているが、そんなこと、今は関係ない。
俺が今心から笑えているのは目の前で、まだみんなから笑われていてもなお続けている吹雪と夕立の絡みを見ているのもあるが
「……ははっ」
何よりも。着任当初から夢に見ていた、艦娘たちと俺が心から笑えている状況になれたことが……嬉しくて、嬉しくて。
これはそう。嬉しくて笑っているのもあるかもしれない。
「えっ、司令官?」
そんな感慨深くなっていると、目の前の吹雪と夕立が不意に絡みをやめた。
「あ、な、なんだ?」
一瞬絡みをやめたのは俺が変な笑顔を浮かべて気持ち悪かったからかと不安に思ったが
「……なんで、涙を」
「「「……?」」」
吹雪の言葉と、艦娘たちの不思議そうに向けられてくる視線たちにハッとして、自分の手を瞳に伸ばすと、確かに涙に濡れていた。
「──え?」
涙を流していることに自覚は無かった。しかし、どうして無意識のうちに涙を流しているのか。その理由は……
「どうして……泣いているっぽい?」
夕立が怪訝な顔してもう一度質問してくる。
「……いや、ははっ。どうして、なんだろうな」
──いや、もうその理由の答えはわかっているではないか。
心がそう急かしてくる。
「提督……」
心配そうな目で、翔鶴が俺を呼ぶ。
しかし、なんで涙を流してしまったのか。その理由を今ここで吐いてしまったら、艦娘たちから軽蔑されないかと心配でならない。
そもそも、ここ一ヶ月。鎮守府は俺が居なかった方が正常に機能していた。これまで一年間という貴重な時間を、無駄にしてしまった無能な司令官である俺が、果たして『艦娘たちと俺とが、こうして心から笑っているこの夢にまでみた状況に感極まってしまった』と、言っていいのだろうか。
そんな不安の波が押し寄せてくる。
ああ、まただ。また、《《この場から逃げ出したい》》と思い始めている。
しかし、また心の中で問いかけてくるのだ。
──また、自分から手放してしまうのか
そんな警告に似た良心が。
「……」
嗚呼、またか。
その時、足が自然と後退り、出口に向かおうとしていたが
「司令官!」
今までにないほどに透き通った吹雪の声が、俺の足を止めた。
「……この鎮守府の過去に、何があったんですか」
「……っ!」
「ふ、吹雪ちゃん!」
周りで固唾を飲む音。夕立が止めようとする声。しかし、吹雪は止まらない。
「私は着任して一ヶ月間、何があったのか仲間たちに聞いてみても誰も話してはくれませんでした。このことばかりが、この鎮守府で過ごしてる中で、唯一心にしこりを残しているんです。そして今、司令官が涙を流したのは……きっと、それに関係することなんですよね?」
「……」
「提督」
「……」
「……私は、ここの。横須賀鎮守府の本当の艦娘になりたいです!」
「──!」
そうだったんだな。
吹雪は確かに、もうここの艦娘になり、その明るさで多くの仲間を作った。
しかし、吹雪の中では、どうしても。過去に横須賀鎮守府であった事件の真相を聞けずに、本当の仲間意識になれなかったのだ。だから不安で、本当にここの仲間たちは信用してくれていのか不安で仕方なかったのだとしたら。
このまま、逃げていてはダメだ。
この鎮守府に流れ始めた、《《新しい風》》を、ここで途絶えさせてはダメだ。この風を途絶えさせてしまえば、それこそ無能だ。
もう、散々反省したではないか。
もう、沢山苦しんだではないか。
そんなもの、もう懲り懲りだ。
「……分かった吹雪。あとで1600に執務室に来てくれ。その時に洗いざらい話す」
ここからだ。
「っ! は、はい!」
「そしてさっき涙を流してしまった件だけど……ただ嬉しかっただけなんだ」
「──嬉し、かった?」
「……こ、こうして皆で笑えたのは、着任当初から考えられなかったんだ。だからこうして笑えたのが嬉しくて……いや、ま、まあそのことについてもあとで話すから、ここではもう勘弁してくれ」
そう。ここからなんだ
「「「……!!」」」
その言葉に、艦娘たちの多くは驚きながらも頬を染めた。
「……」
そんな中、夕立一人が凄く不思議そうな顔をしていた。
「な。なんだ夕立……顔に変なものでも」
「……あ、いや……その。もしかして提督さんって……」
「お、おう」
「色々と不器用な人……っぽい?」
「ぷふっ!」
そんな夕立の言葉に、隣で大和が吹き出す。
「や、大和?」
「い、……いえっ。すみません。くしゃみで……っ」
「……そうか」
……普段の俺ってそこまで大和が共感できるほど不器用なのか。というか翔鶴も体震わせて明らかに笑ってるな。
「大和」
なら、どうやら不器用らしい俺のことを笑った仕返しをして、器用なこともたまにはすることを主張してやるか。
「っ……は、はい」
「昼食は没収な」
そうして、机に置いてある昼食をのせたトレーを持って厨房に返しにいこうとすると
「も、申し訳ありません! もう、もうしませんからそれだけは!!」
「……ほーん。ならこの天ぷらを譲渡すれば今日は許してやる」
「え……」
冗談なのにそんな悲しそうな顔されると冗談ではなくなるではないか。
「……仕方ありません」
「嘘に決まってるじゃないか」
「えっ!」
全く。普段の頼れる秘書艦大和はどこに行ったのやら。食い意地がすごくて、なんだか
「ははは!」
「もうっ! 提督!?」
「ぷ、はは! すまんすまん大和」
笑えてくる。
「──!」
そして、そこで吹雪は少し驚いた表情をみせた。何故かは知らないが今まで俺と吹雪との会話を見守っていた周囲の艦娘達も瞠目させている。
「……ん? どうした、吹雪」
「い、いえ、その。失礼ですが、先輩達から、提督は着任から本物の笑みを見せたことがないと聞いていたので……」
「……」
言われてみればさっき。俺は確かに自然に笑顔になれた気がした。自分でもそれを思い出して、驚いている。
(でもそうか。確かに、あいつらの前では作り笑いを見せてしまっていたな)
それはつまり、あまりにも躍起になりすぎて、緊張してしまい、自然体で接していなかったということだろう。その結果、作り笑いをしてしまい、胡散臭く見えて、信用されなかったのかもしれない。
俺がこれまで艦娘に信用されず、積もりに積もった不信感と憎悪で階段の事件に至ってしまい、今のような微妙な距離感になってしまっている原因は、俺自身にもあったのだ。
前任への憎悪。人間への不信感以外に、俺の態度にも原因があった。
(無視しても、陰口を叩いても、殴っても、蹴っても、辛いはずなのに作り笑いをして、そのような行為を黙認するような上官がいたら、俺は果たして、そいつのことを信用し、ついていけるだろうか)
答えは否だろう。
「……そうか」
少し考え込んでから返事をする俺に、吹雪はたどたどしくなり
「す、すみません提督! 私変なことを──」
失言があったのかと、頭を下げようとするが
「──いや、ありがとう吹雪。夕立」
「え?」
「……ぽい?」
そんな唐突の感謝に、吹雪と夕立は首を傾げた。
「いや。……なんでもない。吹雪、夕立。そろそろ席に戻って食べた方がいい。時間も時間だからな」
「あ、はい! それでは、失礼します! ほら行くよ夕立ちゃん」
「そうね! 提督さん、失礼しましたっぽい!」
「──」
そう。俺は今まで本当の自分を失いかけていた。
自分を抑え込み、艦娘達に対して理想であろうとする心が災いし、理想の提督を演じて接し続けていたのだ。
自分の席へ戻っていく吹雪の背中を見て、ふと思う。
──また、話をしたい。
そうしたら、また何か。俺に気付かせてくれるかもしれない。
そして、吹雪という新しい風をきっかけに、この横須賀鎮守府は前に進み始めるかもしれないと。
吹雪と話す前までは、これからどうしようという一抹の不安があった。しかし、こんなに短く、何気なかった会話の中で、自分の過ちに一つ気付くことができた。それに少なくとも、艦娘である吹雪とは正常に話せた。不思議といつもかくはずの冷や汗もかいてない。
そしてなんと言っても、吹雪と夕立のおかげで、他の艦娘たちと話せてないにしろ、距離は縮められた気がする。
いや、そうか。今日の1600に。また話せるではないか。
そうして艦娘とまた、話したいと思えるようになったのも。
これは明らかな進歩ではないだろうか。
(たとえそうでなかったとしても。俺はそう思いたい)
「提督」
そこで、隣で座っていた大和から声をかけられた。
「ん? 大和。どうした」
「いえ。ただ伝えたいことが一つありまして……」
「……?」
少し言いづらい言葉なのか。はたまた、恥ずかしい言葉なのか分からない。そんな表情をした後。
少し頬を赤らめてから、大和は美しく微笑んできた。
「先程見せてくれた笑顔。とても、素敵でしたよ」
その言葉に、さすがに驚いて、次の返答が上擦った声になってしまう。
「……そ、そうか。いや、まあ。これからはもう少し心を開けるように、頑張るから。その……」
「ふふっ、分かってますよ。気長にお待ちしております」
そんな俺を見て可笑しそうに笑う大和に、釣られてしまう。
「——……ああ。待っててくれ」
俺はそう言って、また自然な笑顔になる。今度もちゃんと笑えているだろうか。そんなことを思いながら昼食を食べるために席につくのだった。
吹雪たちとの一悶着があったその後。特に状況は変わりなく、依然として向けられてる視線達は気になるものの、腹が減っていたせいかすぐに平らげてしまった。
今までであったなら、艦娘たちに囲まれた状況で食べるなんて言語道断だったのだが、先ほどの吹雪と夕立の絡みで一緒に笑い合えたのが理由なのか、今はそこまで恐怖感などその他諸々の感情は湧き上がってこなかったので、なんの問題もなく昼食にありつけられた。それに、側に大和と翔鶴も居てくれたおかげで、比較的リラックスした昼食を楽しむことができたのもある。
このひと時で、こうも人というのは心情が変わっていくのか。
「……ふぅ。美味かった」
そんな様々な因果があって平らげた今日の飯は、この頃で一番美味かった飯だと言える。そんな余韻を乗せた満足気な俺の言葉に、翔鶴も丁度平らげたのか、反応してくれた。
「……はい。美味しかったでしたね」
「なんだか、いつもより……美味く思えた」
率直な本音を溢すと、翔鶴は「だから度々、提督のことを誘っていたんですよ。みんなと食べるご飯は美味しいですから」と、静かな笑みを溢した。
「ああ……そうだったな。すまなかった。今まで断ってしまって」
「いえ。良いんですよ。提督に非があるわけではありません。これは、私と大和さんの……提督と出来れば昼食を共にしたいという我儘に過ぎ無かったのですから」
「それでも、翔鶴と大和が今日誘ってくれていなかったら、俺はこれからも、恐怖心という狭い牢の中に閉じ籠っていたかもしれなかった。今日、俺は一つ、吹雪と夕立と接することで、今まで気付かなかった……いや、気付かないフリをしていた自分の過ちを、再度認知することが出来たんだ」
「……このひと時が、提督の心中で何か変われたきっかけになったのであれば、私は幸いでございます」
「ああ。ありがとう翔鶴」
そう。俺がここ一年間。艦娘たちのことを救済しようと尽力しようとしたが、当の艦娘たちには認められなかったこと。
|側《はた》から見れば、多くの人は俺のことを『どうしてこんなに頑張っている提督を認めないのか』『大本営に騙されて、態々こんな魔境に入れられた提督が不憫すぎる』と擁護するだろう。実際。大和たちはそう擁護してくれている。しかし、それは大きな間違いなのだ。
先程の、吹雪と夕立との会話で分かったことである。それは、艦娘たちに、『理想の提督』という一つの軍人として接してしまっていたということ。なにも反論もせず、ただ無視や暴力をされているのに、上官として罰則を与えなければいけなかったことを黙認していたということ。これは罪なんだと。しょうがないんだと心の中で諦めて、これまで前任が犯してきた艦娘たちへの人間たちの罪を、この身で一つで無理やり清算させようとしたのだ。
当然、艦娘たちからしたら上官という立場ではなく、上官という立場でありながら、まんまと艦娘たちからの酷い行いを受けにきた、そんな胡散臭い人間が提督として着任してきても、誰も信じるはずがないのだ。
部下である艦娘——能代に、階段から突き落とされたあの騒動も、これまでの積もりに積もった不信感などが災いしているのだろう。
被害者の皮を被った加害者だったのだ。俺は。
「……」
そんなことを自覚すれば、当然かなり気が落ち込んでくるが、自分の過ちの全容を理解し、これで先に進める手立ての一つとなると思えば、そう悲観はしなかった。これまで紐解け無かった、絡みに絡まった糸のような、俺と多くの艦娘たちとの辛く、暗い過去からなるすれ違いの関係に、今回の出来事を皮切りに、新しい一歩を踏み出せる気がする。
今はまだ不安要素しかないこの鎮守府だが、小さな希望の光が灯ろうとしている。俺がこれからすべきことは、その灯りを消えさせず、大きく、そしていつの日か、艦娘たち全員が『帰りたい』と思える鎮守府を作り上げることだ。
その為の第一歩として、やはり艦娘たち全員との和解をしなければならないだろう。
問題は山積み。だけど、着任当時と比べれば、まだ希望がある。
——必ずやり遂げて見せる。
「……」
「提督?」
自然と力が入る拳を見ていると、翔鶴が不思議そうな顔色をさせてきた。
「あ、ああ。どうした」
「いえ、なんだか少し呆けていたので、不思議に思っただけです」
「いや。まあ……大丈夫だ」
「なんですか。その釈然としない返事はっ」
「す、すまん」
頬をむくらせる翔鶴への反応に困っていると
「——二人とも。麦茶を持ってきました。食事終わりに一杯如何ですか?」
その時、氷が入った麦茶を持って大和が来てくれた。
ナイスタイミングだ。
「ありがとう大和。頂くよ」
「大和さんありがとうございます」
俺と翔鶴は礼を言い、麦茶を一口含む。「ふぅ」と、落ち着いた余韻に浸っていると、翔鶴はゆっくりと顔をこちらへ向けた後に口火を切ってきた。
「ですが、実は今回もそうでしたけど、提督はご飯の時になると、今のように呆けていたり、いつもそちらに夢中になるもんですからね。話しかけても無視されることもしばしばありますし」
——と、少々揶揄うような微笑みを浮かべながら、そう言ってきた。
「え。それは……本当なのか」
翔鶴に驚きながらそう聞き返せば、直後に「はい」と返答してくる。どこか様子がおかしい。もしかしたら、先程俺に話しかけてくれたが、飯に夢中になってて気付かなかったために、少し気に障っているのかもしれない。
「そ、そうなのか」
そういえば確かに、俺が最後のスパートでご飯をかき込んでいたとき、隣から声がかけられた覚えがあるような。しかし、食堂は今、先程のピークは去ったものの、まだまだ他の艦娘達が談笑をしながら食べている。
多分だが、翔鶴が俺へ話しかけたとき、丁度真後ろの席で、背を向けて談笑に勤しむ、二人の艦娘の声が重なってしまい、俺の耳に届かなかった可能性もあるが。
「……ごめん。今日はさっきまで何も食べてなかったから、しかも久々の間宮さんの料理となって、余計に飯に集中してしまって」
そんなことを長ったらしく語っても意味がないというか、ねちねちそんな言い訳を吐く生き物は海の男じゃない。なのでここは素直に謝る。
「……」
そんな俺の謝罪に、依然として無言の『笑顔』なのだが、それは普段から向けてくる優しげな『笑顔』とは程遠いものだった。
なんだか。こう、冷たい感じである。率直に怖い。
「あの……翔鶴、さん」
「はい。なんでしょうか。提督」
「えーっと……」
「……」
またもや完璧な『笑顔』。いや、完璧すぎる『笑顔』だから尚更怖い。これほどまで『笑顔』に威圧感を感じるのは翔鶴くらいなものだ。
「——ふふ。翔鶴。その辺にしないと、提督が可哀想ですよ」
と、そこで翔鶴のいる右隣の反対側。俺の左隣で何故か微笑みながら、こちらの様子を静観していた大和が、助け舟を出してくれた。
「提督は騙せますが、私は騙されませんよ? 困っている提督を見て、本当は面白がってるあなたのことは」
「は?」
「えへへ。バレてしまいましたか。流石はこの横須賀鎮守府最強の船。その数十キロ先の敵もお見通しな『目』は誤魔化せませんか」
拍子抜けして素っ頓狂な声を出した俺とは違い、二人はなおも話を続ける。
「今のはそんな事関係ありませんよ。寧ろ、こんな簡単な演技にまんまと嵌ってしまう提督に心配するほどです」
「……え?」
てっきり助け舟かと思えば、大和は呆れたような顔で俺にそう言ってくる。
「そうですね。指揮能力は見事なものですが、まだまだ若いところが見受けられますよ提督。頑張って、日々精進ですよ」
「……はい?」
そして、原因である翔鶴も大和のその言葉に便乗して言ってくる始末である。
え? 今の俺が悪かったの?
そんな疑問をはっきりと浮かばせているような困惑顔な俺に、翔鶴は気付いたのか、耳元にその口を近付けて
(ふふ……申し訳ありません。提督)
「ふぇっ」
と、そんな小悪魔が囁くように言ってくる。しかも、俺は耳が弱いことを知っていながらである。
「っ! しょ、翔鶴!? あなた今提督に何をしましたか!」
咄嗟に大和がそれに気付き、声を張り上げるが、時すでに遅し。その時には、翔鶴は机にあるお茶を何知らぬ顔で啜っていた。素早い動きである。
「いえ。ただ謝罪を申し上げただけですけど」
「態々耳元で囁くほどのものではないですよね!」
「申し訳ありません。つい」
「『つい』とはなんですか『つい』って! 絶対反省してないですよね!」
「してますよ。ごめんなさい大和さん。ふふ」
「してないですっ! 大体翔鶴はですね——」
必死に頬を赤らめながら抗議する大和と、それに冷静に、あくまで微笑みを絶やさず対応する翔鶴の対極的な二人の口論に、それを見守る周りの艦娘たちの反応は様々であり。
——大和はこの鎮守府では、能力的にも練度も最強の一角の艦娘。
——そして、翔鶴は鎮守府内で一航戦の赤城に次ぐ、練度を誇っている熟練艦。
そんな二人が、間に俺を挟みながら、なんとも度し難い議題で言い争っているのだ。
普段、この鎮守府を牽引し、貢献しているはずの二人がこうしているのを初めて見る駆逐艦たちや巡洋艦たちは、予想通りあんぐりとした感じで、驚いているのか、呆然としているのか分からない反応をしている。
一方、戦艦たちや空母たちはどう反応して良いのか分からないので、瞠目させているか、苦笑させているのが大半であった。
「……」
しかし、普段から冷静な大和がここまで踊らされるとは。
なんと末恐ろしい人なんだろうか。翔鶴は。
俺はその内、この人に骨抜きにされているのかもしれない。
そんなことを考えながらも、流石にそろそろヒートアップしてきたので止めに入る。
「二人とも。一旦落ち着い——」
「「——提督には関係ありません!」」
「……」
が、二人から同時にそんなことを言われてしまった。この場合また俺が悪いのかと内心困惑する。というか、冷静に対応していたはずの翔鶴もムキになってしまっている。このままじゃ後の祭りだが、かと言って俺もそうだが、艦娘内でも古参で武勲艦であるこの二人を止めに入れるような度胸がある艦娘はこの食堂にはいないという状況である。
赤城さんと加賀さんがこの場にいれば、止めに入れるかもしれないが。
「大体翔鶴は最近提督との距離が近いんです! 自粛してください!」
「私は普通にしているはずですが。大和さんの意識的な問題なのでは?」
「はーん。……朝早く起きて提督の寝顔を拝みに行ってるようなあなたが『普通』だなんて冗談でも甚だしいですよ!」
ん? 今聞き捨てならないものを聞いたぞ?
「っ!? ……たとえ、もしそれが本当だとしてですけど。なんでそんな事を知ってるんですか? もしや大和さんも覗きに来てたんですか?」
「っ……ち、違うに決まってるじゃないですか! あの時はたまたま朝早く起きて……ああっもう! ああ言えばすぐこう言いますね! あなたは減らず口多連装砲でも付いてるんですか!」
なんというか、反応を見るに翔鶴も怪しいが、大和も充分怪しいな。
「大和の方こそ……提督と私の話してるところに妬いちゃって、すーぐ私に突っかかるじゃないですか。突っかかり多連装魚雷でも付いているのではなくて?」
「は、はいぃ!?」
——さて。空の食器とトレイを片付けてこよ。
● ● ●
食堂では大和と翔鶴のヒートアップした口論を止めれそうになかったので、現在俺は一人で工廠に向かっていた。まだ吹雪との、16時に執務室で、これまで鎮守府でなにがあったのかを話し合うという約束まで早いので、野暮用というよりは個人的な用事を済ませに来たのだ。
最近ではすっかりご無沙汰なのだが、階段から落ちる前まで、毎月に五回は通っていた。何故かというと建造も、開発もそうなのだが、一番は俺の個人的な理由でもある。
それは——提督でありながら、『妖精さん』が見えない体質が関係している。
実は工廠には、大和たちと一緒に行動するようになる前に、俺のことで親身になってくれた一人の艦娘がいたのだ。
そんな彼女の名前は——
「——〜♪」
工廠に着くと、そこで独りでに軽やかな鼻歌を響かせながらも、艤装の修理だろうか。夢中で作業をする艦娘——明石がいた。
「明石!」
「〜♪ ……あ、提督!」
俺がそう呼ぶと、直ぐにこちらは振り向き、作業を中断してまで小走りで迎えにきてくれた。
「こんにちは!」
「こんにちは。悪い……今忙しかったか?」
相変わらず、着任当初の最悪な鎮守府の状況だった時からも、快活で、こちらも元気を貰える良い挨拶と笑顔だ。しかし、先程まで夢中で作業していたようにも見えたのだが。
「いえ。忙しいとは言っても、そこにいる妖精さんたちが、なんだかんだ、金平糖をあげれば、必死になって手伝ってくれますから大丈夫です。あと、私もそこまで職人気質ではないので、別に作業中に話しかけられても、鬱陶しいなぁとか思いませんからね。なのでこれからは別に無理に気を遣わなくても大丈夫ですから!」
「……そうか」
そんな言葉に、下手に俺から気を遣わせようとさせない、人の好さが滲み出る彼女らしい返答に、俺もそれ以上追求はしなかった。
「はい! ところで提督。今日は何をご入り用で?」
「いや、何か欲しいものがあるわけじゃなくてだな」
そこまで言って、明石も察したのか「あ、なるほど。ではアレですね」と言ってくれた。
「ああ。久しぶりなのだが頼みたい。今出来るか?」
「はい! 当然です! ……明石の出番ですね。準備しますので、どうぞこちらに座ってお待ちになってて下さい!」
言われた通り、脇に置いてあったパイプ椅子に座り、待つことにする。
今からやることなのだが、至極単純なものである。
明石が妖精さんを俺の目の前に置き、俺がその妖精さんに色々なコンタクトを取るというもの。つまり、妖精さんが見えない体質な俺のリハビリみたいな感じである。
と言っても、これが上手くいった試しはなかった。これまで何十回と繰り返してきたが、全て見えもせずに終わってしまっている。
「——はい。準備完了です! どうですか? 見えますか?」
明石が準備したのは、金平糖が数個置かれている皿がある小机だ。しかし、俺には今見えていないだけで、明石からして見れば、実際には今そこに、金平糖をかじっている妖精さんがいるのだという。
「……いや、全く」
「うーん。一応今ので、試行回数は116回目ですね。提督、何か話しかけてみてください」
「……」
そう言われてみると弱る。何せ相手は妖精さんだ。人間の世間話、しかも俺という世間話という話題もないつまらない男の話である。興味を持ってくれるとは考えにくい。
はて。何を話そうか。
「え、えと。提督の趣味とかは」
見かねたのか、話題の助け舟を出してくれる明石。
「……すまん。趣味という趣味はないんだ」
だが申し訳ない明石。ここ数年は趣味にも充てる時間がないのだ。
「では昔話とかはどうでしょうか。なにか、学生時代の話は」
「学生時代か……」
学生時代。別に特筆すべき思い出という思い出はない。ただ学校に行き、学友と一緒に遊んだり、勉強したり、協力して文化祭をやり切って、楽しんだり。友達も余り多かったわけでもなく、2、3人くらいでいつも行動していた。
至って普通な学生生活であった。まだ提督候補生だったころの話であれば、覚えていることも多いし、少しは話せるのかもしれないが。
「明石」
「はい」
「……すまん。思いつかない」
「そ、そうなんですか」
やはり妖精さんが興味を持つような話題が見つからない。たとえ見えていないが、ごく普通の学生生活を話したとしても、多分小首を傾げてもなお金平糖をかじっている妖精さんの姿が容易に想像できる。
「それでしたら……——」
——ヂリリリリリリ
また、なにかの話題を提示してくれようとした明石だったが、突然工廠に鳴り響いた電話の音に遮られる。
「あ、す、すみません提督」
「いや、俺に構わず。ゆっくりでいいぞ」
「はい。少しの間失礼しますね」
と、広い工廠の入口の方にある固定電話の受話器を取りに行った明石を尻目に、とりあえず勇気を出して。俺は少し妖精さんに話してみることにした。
依然として、皿から独りでに宙に浮いたまま、妖精さんなのだろうか。少しずつ削られていく金平糖。そこに妖精さんがいるのは確実だった。
不自然に、皿から宙に浮いている金平糖を真っ直ぐに見つめながら、俺は口火を切った。
「妖精さん……こんにちは」
挨拶しても、特に宙に浮いている金平糖に変化は見られなかった。
「多分、明石から聞いているとは思うが、俺はここ横須賀鎮守府の提督という地位に就いている者だ。|西野《にしの》 |真之《さねゆき》という。これからもよろしく頼む」
先ず何から話そうか。であれば、俺がここに来た時の話だろうか。別に話しても良いが、いきなり空気が重くなるのも忍びない。何せ指揮する筈の人間が、部下たちにひたすら無視されているという話だ。話している方もそうなのだが、その話を聞いてる方も悲しくなる。そしたら別の——
そこまで考えて。やめる。ここは率直に聞こう。
「妖精さん。実は君だけではなくて、この工廠にいる全員にも聞きたいことなのだが」
そんな俺の真剣な雰囲気を察したのかは知らないが、宙に浮いていた金平糖が、元の皿の上にゆっくりと戻されていく。
実体は見えないが、気を遣ってくれているのが分かる。
「妖精さん。実は提督でありながら……俺は、君たちの姿を視認できないんだ。生まれて来てからずっと。そこで、君たちに質問なのだが、どのようなことをしたら、この先後天的に妖精さんを見える時が来るのか教えてほしい」
君たちを見えるようになれるのにはどのようなことをしていけば良いのか。本人たちに聞くというのも中々に滑稽に感じるが、今まで明石にこのような実験を116回も続けてきて、未だに何も尻尾さえ掴めれずにいる。しかし、何振り構ってはいられないのだ。これから鎮守府変わっていく為には、今のような、俺が認知していないところで妖精さんが支えてくれているこの現状ではなく、互いを認知し、フォローし合わなければならない。このままでは妖精さんだけが俺のことを認知して支えてくれるが、俺は妖精さんのことを認知していないので、一体何をフォローされたのかすらも分からずにいて、自分が何か、余計なことをしでかしてしまうかもしれない。艦隊運営の効率的にも悪ければ、最悪艦娘の命さえ脅かしかねない現状だ。
現在はまだ、人間と深海棲艦たちの最前線での攻勢は見られないものの、あと数年もすれば、大規模な海戦が起こり得る可能性が高い。今のうちに、身内の厄介ごとは終わらせておかないと、いざと言う時にそちらへ集中できなくなり、結果敗戦してしまうのだ。
「……」
しかし、妖精さんから一向に返事がこない。それはそうだろう。見えない状態でそもそもあんな質問を投げかけたって意味がない。
であれば。
咄嗟に胸ポケットから、手帳と鉛筆を取り出した。
「話せないのであれば、ここに言いたいことを書き記してくれるだろうか」
たとえ見えなくとも、そろそろコミュニケーションくらいは取っておきたい。そんな気持ちで咄嗟に機転を利かせた結果、筆談という方法を取ったのだが、そもそも妖精さんたちは字を書けるのだろうか。
ああ。くそ。行き当たりばったりだな。と、自分の計画性の無さにイラついてしまう。
「やはり……ダメなのか」
今日のところは、引き返そうかと。
明石も今、急ぎの電話中だし、このまま進展もないままここにいても、迷惑なだけだと。
少し嘆息をしてから、開いたままの白紙のページと鉛筆を片付けようとしたその時。
「……っ!」
奇跡だろうか。目の前の鉛筆が、先程の金平糖のように、独りでに浮遊し、動き始めたのだ。
徐々に、白紙のページに低学年児が書くような拙い平仮名だけの文字が、書き記されていく。
これまで何度話しかけても無為に終わった。提督候補生時代では、何度もやること成すこと、妖精さんが見えないことが壁となって立ちはだかり、皆んなから嘲笑と憐憫な目を向けられた。妖精さんが見えない提督としてレッテルを貼られ、当然若くして提督になった俺への、数々の軍人たちからの不満の風当たりは物凄くあった。時には、候補生時代に苦楽を共にしたはずの一部の元学友たちからも、数々の不平不満が一挙にぶつけられた。俺が一体何をしたというのかと。ただただ理不尽な世界と、偽善や建前で成っていた、友情とは名ばかりの虚偽の人間関係の醜さに、絶望し、悲観した。
しかし今、目の前で、これまで苦しんできていた自分のコンプレックスでもあった『妖精さん』が、俺に初めて顔を向けてくれたのだ。複雑な気持ちだ。俺はこの物体が見えないという理由で、多くの人間関係に拗れを生ませられたというのに。何故、こんなにも嬉しい気持ちになっているのだろうか。これまで自分に理不尽に降りかかってきた悪意に対して怒りや不満、悲しみ。そして、これから妖精さんと初めて会話できるという嬉しさと希望。
この数々の感情が今織り混ざって、気持ちが悪い感じである。
だがついに、俺は妖精さんと。
独りでに、ゆっくりと白紙のページに書き記していた鉛筆は、やがて動きを止め、机に倒れる。
俺は書き記された手帳を、またゆっくりと、目前まで持って行った。そこに記されていたのは——
——ていとくをやめてください
「……は?」
そこには、思わず呆けた声を出してしまうほどの、衝撃を受けてしまう文章が羅列していた。
──トラック諸島。そこは、かつて旧日本海軍の軍事施設が存在していた島であり、敗戦まで当時の大日本帝国が統治していた島でもある。しかし敗戦後。アメリカによる国連信託統治により、1986年にミクロネシア連邦として、名をチューク諸島に改名し、独立した。
日本に統治される前から、スペイン、ドイツからの植民地支配も受けていたかつてのトラック諸島。しかし、第二次世界大戦という世界中を巻き込んだ大嵐の時代を経て、ついにチューク諸島の島民たちは、強者からの支配から脱し、独立することが出来た。
しかし。2018年の夏。またもや、チューク諸島だけでなく、世界中にも、大規模な厄災が降り掛かってしまう。
その厄災とは──深海棲艦の出現であった。
終戦記念日である8月15日。突如として世界中の海域出現した、人智を超越する力をもつ怪物たちに、当時運航していた多くの艦船たちが瞬く間に撃沈され、また太平洋、大西洋、インド洋に航行していた殆どのセスナ機、ヘリコプターなど低高度を飛行するあらゆる航空機も撃墜された。
その被害は相当なものであり、急遽国連で会議に至るまでになったほどである。各国はまだ深海棲艦の詳細の多くを認知していなかった為か、世界情勢は第二次世界大戦が始まる前。世界恐慌以来の、国家間の緊張が生じた。
それだけではなく、コンテナ船による海輸ができなくなったことにより、各国で品薄による影響で様々な物の物価が高騰。海外への輸出入が困難になったためか、多くの業界の収入が回らなくなり、株価が大暴落したことも大きな問題になった。また、一、二ヶ月経っても深海棲艦に対する具体的な対策案が国連から発表されない理由で、不満が各地で高まり、大規模なデモが発生。
物価の高騰によって、多数の業界が、人件費の削減によって多くの人をリストラしたため、貧困層の増加により、反政府組織による抵抗の悪化。各地で、特にアフリカの方でまたもや紛争を巻き起こす種となってしまった。
このままでは取り返しのつかないことになる世界の情勢を鑑みて、国連は各海域で暴れ回る未確認生命体──深海棲艦の殲滅を断定。アメリカ主導で、世界で有力な海軍力を持つ6カ国に招集を呼びかけた。その結果、日本、中国、ロシア、イギリス、フランス、インド、アメリカと世界で初となる、7カ国の総力を合わせた国際連合艦隊を結成。深海棲艦の本拠が存在する可能性が非常に高い太平洋へと、各国の軍港から、それぞれの最新鋭の軍艦が国民総出で華々しく見送られた。
──しかし、結果は惨敗であった。
高速で海上を《《走行》》し、砲弾、魚雷、ミサイルをその小さな体躯で避けていき、近付かれて一発砲撃され、沈没してしまう艦船が殆どであった。もとより、イージス艦やフリゲート艦などの現代の軍艦は、一昔前の軍艦のような、鉄の塊の如き頑丈さは持ち合わせていない。何せ、現代の軍艦の定義は《《近付かれない》》ことを念頭に置いており、要は互いに姿が見えない遠距離から、レーダーで敵艦を捕捉し、対艦ミサイルを発射し、撃沈するというのが現代の軍艦たちが理想とする戦術なのである。そのため、半径約数キロ以内に近付かれることは先ず想定されていないので、最低限の装甲しか施されていなかったのだ。
しかも深海棲艦による砲撃は、一昔前の戦艦並みの威力があった。
そんな砲撃が、装甲もままならない現代の軍艦に放り込まれるのだ。深海棲艦からすれば、鈍くて、脆い。甲羅も持たない亀を相手にしてるようなもの。戦力差は歴然であった。
歴史的な大敗北を決した太平洋という広い海域で行われたこの歴史上もっとも大規模且つ一方的な展開で悲惨な状況になったこの海戦を、後の人々はこう呼んだ。
『第一次太平洋海戦』と。
こうして、深海棲艦の出現により、世界中が大戦以来。いや、大戦時以上の混乱の渦になっている中──
──深海棲艦が現れてから、激動の三ヶ月間。世界では様々な問題が起こり、次々と人の命をも失われていく状況下で、一つの小さな光が、日本という極東の島国に差し込む。
人類の総力を挙げても、退けられなかった深海棲艦に対抗しうる存在。
ある日の夜明け。暁が水平線に昇る頃──艦娘が現れたのだ。
その艦娘は自らの名を、『大和』と。そう名乗った。
その『大和』が、日本政府と早々に協力関係を結び、早々に向かったのが、横須賀の自衛隊と米軍が所有していた軍港であった。とは言っても、第一次太平洋海戦で敗北を喫したこともあって、ここに停泊していた多くの艦艇が戻ってこなかったことで、ドックはほぼ空っぽの状態。もはや軍港として機能はしていなかった。そんな軍港を、『大和』と共に現れた『妖精さん』という超常的な力を持つ存在が、人間たちの協力も得ずに、瞬く間に、艦娘たちが利用できるように改装していった。そして、一週間後には艦娘たちが整備、休養、抜錨できる施設。『横須賀鎮守府』へと変貌を遂げていた。
それから。先ず、『大和』は横須賀を中心とした、近海に彷徨っている深海棲艦たちの掃討を開始。同時に、それらを倒して得た不思議な資材を元に一人、また一人と艦娘たちを誕生させていった。まるで、二次大戦時に惜しくも沈んで行った、様々な海域で藻屑となっている、かつての軍艦たちをサルベージするようにである。
そうして誕生したのが。
──駆逐艦『島風』
──軽巡『神通』
──重巡『妙高』
──正規空母『赤城』
──潜水艦『伊58』
──工作艦『明石』
という六人の艦娘であった。
それぞれ、多くの深海棲艦と戦い、勝利、一度は深海棲艦の闇に染まりそうになった世界中の海を、人類が生活できるほどに航路を回復させた糸口となったという、偉大な艦娘たちである。
人々は『大和』も合わせてこの七人をある言葉で総称した。
あの日。暁の水平線に世界初の艦娘である『大和』が突然出現し、その後数々の恩恵をこの世界にもたらしてくれたことに倣い
──『暁の七艦』
と、そう呼び、各々人々から、大いなる賞賛と尊敬の意を浴びせられた。
それからその人々たちの希望となりながら、七人はまた、後継者を作らんがためと、多くの艦娘たちを誕生させていった。
十年後の2028年。西野真之が提督として、横須賀鎮守府に着任した時に居た殆どの艦娘たちが、その七人によって誕生させられた艦娘たちであるという事実がある。他にも、各都道府県に存在する鎮守府に在籍する多くの艦娘たちも同じなのだが、それはまた別の話である。
話は戻り。そんな『暁の七艦』の中の一人である『大和』が、横須賀鎮守府の次に拠点を作り上げたのは、チューク諸島であった。
一度は独立し、それまで長閑な時間を送っていたチューク諸島。しかし、周囲に深海棲艦が現れたことにより、深海棲艦の初出現の2018年8月15日から三ヶ月もの間、外国との一切の交流を断っていたのだが、突然日本の護衛艦とともに来た艦娘により、深海棲艦は掃討されたことにより、島民たちの生存を確認できた。
そこに、『大和』主導のもと、少しずつ物資を運び込み、それらを『妖精さん』が組み立てて『トラック泊地』を作りあげた。チューク島に設立したのに、名前を何故『トラック泊地』にしたのかは未だに日本政府は理由を語らない。しかし、なぜそこに作り上げたのか。それについては『大和』がこう語ったのだと言う。
《font:85》来たるべき艦隊決戦の時、ここは勝利するための鍵となり。要となるからです《/font》──と。
◆ ◆ ◆
2029年6月14日。西太平洋沖
現在でも、人類と深海棲艦の最前線であるトラック諸島沖周辺。太平洋を経由する様々なタンカー船やコンテナ船の護衛、航路の監視、深海棲艦の掃討。多くの重要な任務を抱える、そんな太平洋の一大拠点の一つである『トラック泊地』の飛行場に、日本という遠くから空旅をしてきた、一機の輸送機が着陸した。
出迎えるためだろうか。その基地の航空自衛隊の殆どの職員たち。そしてそれに混ざるように、二人の艦娘が並んでいる。
輸送機が飛行場の脇に止まり、次に高速で着陸してきたのは護衛の為に付いて来ていた、二機のF-35戦闘機である。
これだけの出迎えと、護衛機が付いている。この状況だけで、輸送機に乗っているのはそれほど重役なのだろうか。
輸送機の扉が開き、一人の女性が降りてくる。多くの勲章を胸から吊し、それぞれ金の刺繍が施してある純白の制服と制帽を着用している。
「……全員気を付けぇ!」
「「「──」」」
一人の武骨な自衛官が号令をかけると、一糸乱れぬ動作で三十人もの自衛官と二人の艦娘が気を付けた。
全員の視線は、輸送機から今降り切った女性の軍人に向けられていた。
「礼!」
全員が予め軍帽を外していた為に、敬礼ではなく、また一糸乱れぬ動作で、彼女へ小礼を行う。
それらに応えるように、彼女もまた敬礼を行い「休んで下さい」と一声かけると、また全員が姿勢を戻し、言われた通りに体を休ませた。
「新島提督。長い空旅、お疲れ様でした。お身体の方の調子はどうでしょうか。少し目に隈が出来ているそうですが」
先程号令をかけていた、この基地では重役である自衛官から、労いの言葉をかけられた彼女の名は|新島《にいじま》 |香凜《かりん》。そう。西野提督の同僚である、|新島《にいじま》 |楓《かえで》の姉である。軍部の中でも、西野提督のことを第一に気にかけている、数少ない幹部達の中の一人でもあった。そんな彼女が、それに対して微笑んで対応する。
「……ああ。この目の隈は気にしないで下さい。いつもの事ですから。それにしても、|柴木《しばき》ニ尉。貴方の方こそ、少し顔色が優れない様子ですよ? 少しは休む時間を確保して、万全な体調を維持することも、ここの皆さんを指揮する指揮官としての責務だと、私は思いますよ」
そんな彼女からの返答に、巨躯で武骨な自衛官──二等海尉である柴木は、「あ、いやっ! これはこれは」と愉快に笑った。
「ご心配痛み入ります。最近は特に仕事も多くなって来ましてね。小官もただ椅子に座ってるだけでは無いですからね。舞い込んでくる執務の仕事などその他諸々が重なってしまい、正直に申しますと、最近あまり休養が取れていないのが現状ですね。というか柴木ニ尉とか……固いのはこの辺にしときませんか。なんというか、しっくりこないですし」
「確かにそうですね。柴木さんとは、なんだかんだで長い付き合いですしね。なるほど。そんな事情が。てっきりずっと椅子に座って詰め将棋をしてるのかと思ってましたけど」
「こりゃ手厳しいですなぁ……まあ、ここだけの話。週に3回くらいはしてますがね」
「態々多くの部下が居る前で聞こえるように言ってしまう柴木さんのそういうところですよ」
「ははっ! まあまあ。ここには憲兵という堅物も居ませんし、多少の無礼は許して下さいよ。……何せここは人類にとっての最前線。深海棲艦への反抗作戦を五年前に開始してから今日までもそうでしたが、これからも要となる最重要拠点です。そんな場所に立ち、ここを護っています。……気を休めるときに色々と身体から抜いておかないと、いざと言うときに本領を発揮することは叶いませんから」
と、それまで笑顔だった柴木二尉が、少し表情を曇らせる。
そんな彼に、新島提督は「……そうですね」と、頷く他なかった。
今は束の間の平穏を取り戻せているが、三年前に、多くの艦娘たちを擁した万全な状態で挑んだ『第二次太平洋海戦』では、多くの犠牲を出しながらも、辛勝出来たばかりなのだ。新島本人が思うに、最近徐々に深海棲艦側の動きが活発化してきている。そのことを踏まえれば、近々また、大きな海戦が巻き起こってしまうことは予想している。
また、それは柴木二尉も薄々感じ取っているのだろう。このまま平穏な日々が続くことはあり得ないということを。そして、もし深海棲艦が次に攻勢を仕掛けて来るとすれば、恐らくここ──チューク諸島にある基地、泊地|諸共《もろとも》破壊しに来るだろうということも。
「──柴木さん」
「……? どうしましたか」
しかし、それを分かっているからこそ。彼女──新島提督は怖気付いてはいられないのだ。
「有事があった際は……私たちトラック泊地に在籍している『第一太平洋艦隊』にお任せください。泊地に在籍している全ての娘たちは、これまで多くの深海棲艦と戦い、何度も死線を潜り抜けてきた精鋭ばかり。必ずや、自衛隊の方々を、命を賭してでも祖国に帰還させます」
提督とは、今の時代で言うところの、その国の守護神の立場にある地位の人の意味も孕んでいる。
深海棲艦と艦娘は対の存在同士。どちらとも人智を遥かに超越する力を有している。そんな存在である彼女たちを従わせ、指揮し、深海棲艦という敵を倒して、勝利を手にし、国を敵の魔の手から退ける役割も持っているからだ。
逆に言えば、一度戦いに負けてしまえば、それ相応の犠牲が伴ってしまうという側面もあるのだが、だからこそ彼女は、自信を持って、今、目の前で柴木ニ尉みたく、心の中で怯えている人達に言うのだ。
──必ず勝つと
提督には国を、国民を護る為に、勝利し続けなくてはならない責任がある。日本から。世界からそんな多大な期待を、新島はここ五年間ずっと背負って、時には苦悩しながらも戦い、多数の海戦で勝利を収めている彼女だからこそ言えるのだ。
勿論、柴木二尉も、今この場に居る多くの自衛官たちも、そんな彼女の功績を知っているからこそ、そんな彼女の言葉に、胸を撫で下ろすことが出来る。
現状だと、世界中を探しても、新島 香凜ほど深海棲艦と戦闘経験がある実戦的な艦隊を指揮している者は居ない。アメリカの方の『ノーフォーク海軍基地』所属の世界中の海外艦で構成された国連直属の艦娘部隊があるという噂があるが、練度、経験、組織としての完成度。どれをとっても、日夜最前線で鬼級や姫級などの強敵と戦って、実際に勝ち続けている精鋭の艦隊を指揮している新島に軍配が上がるだろう。
そんな、現役最強の艦隊の指揮官が目の前で、『任せてくれ』と言ってくれているのだ。
彼女の揺るぎ無い自信から発せられたその言葉は、日々、深海棲艦の脅威に怯えていた柴木二尉の心を安心させるのには、充分なものであった。
「……その時はあなたにお任せします。ありがとうございます。新島提督」
「「「……」」」
柴木の少し後ろで並んで休んでいる自衛官たちにも日々積もっていて、複雑に渦巻いていた不安も、無くならないにしろ、緩和されたのか自然と安心したような表情を浮かばせていた。
新島自身も、面々の心を少しでも安心させることが出来たことで、自然とその表情を柔らかくした。
「では、私はこれで。……行くわよ。──北上、青葉」
「はいっ」
「はい!」
──目の前で自分たちの提督が人々をまた、心の面で救っていた様子を、微笑んで見守っていた二人の艦娘。当の本人にその名前を呼ばれれば、その表情は瞬時に確りとしたものに変わった。
泊地からの送迎車へと歩き始める彼女たちの背中を見送りながら、柴木二尉はふと思う。
「……」
(やはり、あの人こそ。いや、新島提督も含め、ここの泊地に在籍している彼女達こそが、人類の希望なんだと……また、再確認出来た)
「……礼!」
「「「──」」」
そしてまたこうも思う。
──彼女たちの背中は、小柄で、華奢のように見えるが、実は私たちより数倍は逞しく、頼もしいものだと。
しかし、そこの基地の自衛官。そして、今日も人類の海を守る彼女たちは知らない。
──既にもう、始まってしまっているということを。
◯ ◯ ◯
横須賀鎮守府 工廠
「──」
どういうことなんだ。
妖精さんが、拙い文字で書き記した、自身の手帳の一ページの文章。
──ていとくをやめてください
というこの衝撃的且つ不可解な文章。
(なん、で……)
いくら考えても、妖精さんが俺に、なんでこんなことを言って来たのか理解出来なかった。
──いや、正しくはこの言葉の真意を、理解したくないという、俺の自己中心的なモノが、理解しようとするのを阻害しているのかもしれない。
しかし、心当たりはある。
確かに俺がここに着任してから、艦娘たちやこの鎮守府にもたらした恩恵は少ない。結局、一人で鎮守府復興の為に奔走して、心のどこかで救っていたと思い込んでいただけだった。艦娘たちに信用されなかったのも、俺に原因があったことを今日やっと理解することが出来た。やっと。やっとだ。
一年という、あれほど長い期間。艦娘たちとぶつかり合っていたのに、今日やっとそのことを理解したのだ。
どれだけ阿呆なんだ。客観的に見てみれば、部下たちの懐疑的な視線。悲痛の叫びに気付かずに、ただ救済に似たそれっぽいことをやり切って満足してたような鈍感で自意識に自惚れていた奴が、自分の鎮守府で提督をやってると思うと、自分でも今すぐ辞めてほしいと思ってしまう。
妖精さんが見えない体質なんかじゃない。元々、俺の普段からの行動に妖精さんから好かれない理由があったのだとすれば。
納得がいくと同時に、思わず自己嫌悪してしまう。
「……そ、うか。そういう……こと、だったのか」
嗤えてくる。自分に。
俺は艦娘たちの理想の提督という仮初の存在になろうとした。助けるためになろうとした──否。自分の勝手な独善で、救おうという気になっていただけだった。誰だって人の仮初の善意を。偽善を押し付けられたら、その人のことを信用しないに決まっているだろう。
そうか。そういうことだったのか。
「……っ」
つまり、俺は今まで、ただの自己顕示欲の欲求解消のために、この提督という立場も。
艦娘たちを救済しようという理由も。
当時着任した鎮守府の状況も。
──全て。自分のために、利用していただけに過ぎなかったのではないだろうか。
勿論、そんな事は露にも思っていない。しかし、妖精さんがもし、俺の心中に無意識の内に芽生えていた、黒くて醜いエゴの本質を見抜いていたのだとしたら。
「は、ははっ」
──そんな独善的で、自己顕示欲の塊な最低な提督は
(妖精さんから、辞めてくれと言われても……しょうがないじゃないか)
もう。自分のことが分からなくなって来た。
俺は今日。吹雪という艦娘に出会い、少しだが交流を深め、今まで俺がやらかしていたこと。そして、今まで気付けなかったこと。──そして、艦娘との交流はやはり心温まることも。多くのことを学べた。
思えば。これまでの俺の行動に、果たして明確な『自分』というものがあっただろうか。
艦娘たちと、提督としてではなく、『自分』として接して来てただろうか。
俺という『自分』は──体何者なんだろうか。
着任前の俺と、今の俺は何が違うのか。
人というのは、何事も主観的に捉えてしまうものだ。愚かな者と、賢い者の違いというのは、自分のことを俯瞰的に見て、分析し、次の行動に活かせるかどうかなのだ。
自分の今までの行動は前者の方だった。
客観的に捉えようとして、結局最終的には自分という小さな世界で物事を決めてしまっていたのだ。だから、艦娘たちが何故あれほど無視してきたのか。暴力を働いてきたのか。それらの行動の本質を見抜くことが出来なかったんだ。
そんな俺だからこそ妖精さんは『ていとくをやめてください』などと──
「──!」
いや。違う。もし、妖精さんが違う意図で俺にそう言っていたのだとすれば。
「……妖精さん。──俺は、提督を辞めれば良いんだな?」
そんな俺の質問に、妖精さんは相変わらず姿を現さずに、依然として静寂で応えてくる。
それで充分だ。
「…………そうか。いや。ありがとう。妖精さん」
(妖精さん。もし君の言った言葉に対して、俺の解釈が正しかったら、その時は褒めてくれ)
今日のところはもう帰ろう。──嬉しい誤算があったものだ。
「──提督。遅れてすみません。首尾はどうですか」
と、そんな時に、電話が終わったのか明石が近くまで歩いて来ていたようだ。
「ああ。やっぱり今日も相変わらず……だったな」
「……そうですか」
自嘲気味に返すと、明石は反応に困ったからなのか苦笑する。
「いやでも……ああ、これ言っちゃって良いのかな」
「ん? なんだ」
「……実は提督のやる気の維持の為にこういうことは、これまで敢えて言わなかったんですけど、提督がここに来るたびに、妖精さんたちが一際嬉しそうにしてるんですよね」
「……え?」
妖精さんが、俺が来ると嬉しそうに、だと。
今日一番に驚いたかもしれない。
「はい。それはもう私の肩の上とか膝の上とか、酷い時は頭の上でぴょんぴょん跳ねるもんですからくすぐったいやらなんやらで……提督と話してるとき、悟らせないようにする為に実はずっと我慢してたんですよ」
「そ、そうなのか」
何だか。俺が知らない間に明石には苦労をかけていたようだ。後で間宮券でもあげた方が良いかもしれない。
「はい。でも何故か……散々私の肩の上とかで喜ぶ癖に提督の方には一切誰も向かわないんですよ。不思議ですけどね」
「……」
避けられているのか。それとも何か、俺に姿を見せられない且つ、話せない理由があるのかもしれない。ただ、今凄く安心している。嫌われていたとしたら本当に辞めざるを得なかっただろう。先程書き記された、妖精さんの言葉に新しく思いついた解釈を元に、これから行動しようと決心したことが無駄になるところだったが、これなら大丈夫そうだ。
──俺はこれから提督を辞めるのだ。妖精さんに言われた通りにな。
「その、何故俺の元に来れないのは聞いたのか」
気になる。やはり俺には、何か。例えば、そう。妖精さんが近付けられない体質だったりするのだとしたら、提督として死活問題になりかねない。
「あっ……そういえば聞いてなかったですね。——ねぇ、あなたたちなんでなの?」
そう聞くと、明石はハッとして、肩の上の方を見て問い掛けた。そこに妖精さんが居るのだろうか。俺からしたら明石が虚空に向かって話しかけてるようにしか見えないが。
「……ふむふむ。え、どういうこと? ……むっ。肝心なところを教えてくれないんですか? ……はぁ分かりましたよ。もうこれ以上聞きませんから──どうやらですね」
「ああ」
「──誰かに強く言いつけられているらしいです。提督には必要以上に近付かないこと……という風に」
「……それは誰なんだ?」
「それが、頑なに教えてくれないんですよ。『これはおしえられません』って」
「そうか」
なるほど。少なくとも、妖精さんが俺にあまり交流を持とうとしないのは、俺の方にだけではなく、妖精さん側にも一因があるわけだな。
内心、体質の問題ではなくてホッとする。
「いや、ありがとう明石。……今までも、結構な迷惑もかけてたらしいしな」
「あ、ああ! いえ、別に大丈夫ですから。これは私が勝手にやってたことなんですから。提督は気にしないで下さい」
「でも礼は言わせてもらう。今まで、懲りずに俺に付き合ってくれてありがとう。正直、明石が居てくれたから、ここまで諦めずに妖精さんと向き合うことが出来たんだ。この礼は、いつか必ず」
俺が頭を下げながらそう言うと「……ふふ。もうっ。今の時代、艦娘に頭を下げる提督はそう居ませんよ?」と、笑顔で応えてくれた。
「……そ、そうか」
「そうです!」
「──ふ」
俺もそんな明石の笑顔を見て、自然と笑顔になる。
「……っ!」
すると、明石が突然、俺の顔から目を背ける。
一瞬そんなに俺の笑ってしまった顔が気持ち悪かったのかと思ったが、明石がそんな失礼なことを思ってあからさまに目を背けるわけがない。憶測だか、多分気恥ずかしくなったのだろうか。たしかに距離は近かったし、だとしたとしても、こちらの方も何だか気恥ずかしくなってくる。
「あ、ああ。い、いや。まあ、その……なんだ」
恥ずかしい。こんなにむず痒くなるのは久しぶりだ。
「──あ、あの……提督?」
「……?」
おどおどとしていると、依然として俺から目線を背けている明石から何か聞きたいことがあるようだった。
「えっと、礼をしてくれるという話でしたよね?」
「あ、ああ。礼は必ずするぞ」
是非もないだろう。これだけ俺に付き合ってくれている人に礼をしないなんて考えられない。
「その話ですが……実は最近食堂の方に行けてないんですよ」
「そうなのか? ちゃんと飯は食べれているのか?」
「あ、はい。妖精さんに持ってきて貰ってます。ですが……久しぶりに間宮さんのアイスを食べたいと思ってまして」
「そういうことなら、ここに丁度二枚の間宮券があるが……二枚ともあげれば良いのか?」
実はこの二枚の間宮券は、この後、食堂で口喧嘩していた大和と翔鶴を仲直りのきっかけになれば良いなと思って持ち合わせていたのだが、明石がそういうのならまだ在庫があるし、あげてもいいと思っている。
が、しかし明石は「い、いえ! そういうことではなくて」と、差し出した間宮券の二枚の内一枚だけ抜き取って、若干頬を染めながら、次にはこう言ってきた。
「もし迷惑でなければ、二人で間宮さんのアイス、食べに行きませんか?」
「……」
普段の俺ならば断っていただろう。何故なら、あの時講堂で放った、『これからは最低限のコミュニケーションで行こう』という言葉に、その行動は反しているからだ。あとただ単純に、艦娘と関係を深めることに怖がっている節があるのかもしれない。仲良くなって、その先にまた裏切りがあった時、俺はまた立ち直れるか分からないからだ。だから、これまで交流を不必要にしなかった。
しかし、俺はそこで妖精さんのあの拙い文字を思い出す。
──ていとくをやめてください
そうだ。俺は今日を持って提督を辞める。
これからは、『自分』として艦娘たちと接していこう。
散々、失った。散々、後悔した。散々、泣いて——散々、悲しんだ。
そんなもの、もう散々である。
失うものは何もない。
もしまた何かあった時は、後悔をして、学んで、また歩きだせばいい。
「……やっぱり、ダメでしたよね。すみません出過ぎたことを──」
「明石」
寂しげに言葉を最後まで吐き出そうとしたが、止めるように途中でその名を呼ぶ。
「え?」
明石と俺しか居ない工廠内に、呆然とした声が響き、少しの静寂の後、口火を切った。
「……今日だけではなくて、これからも一緒に行ってくれるか?」
「……!」
着任当初から、明石とは一度もこういう会話をしたことなかった。
しかし今日。俺はまた一歩踏み出してみようと思う。
「……はいっ」
──明石はまるで満開した花のように笑顔を咲かせた。それは彼女と出会ってから、一番綺麗に思えた一瞬でもあった。
第十二話で、このssは一旦終了させて頂きます。
前のやつ見てました!
頑張ってください!
応援してます!
気長に更新を楽しみにしておりますので、お身体に無理をせず宜しくお願い致します。
気長に更新を楽しみにしておりますので、お身体に無理をせず宜しくお願い致します。
なんかゾクゾクする
面白いです。頑張ってください。