提督は艦娘たちと触れ合いたい
提督は艦娘たちと触れ合いたい【転載】
【未完成】
Twitterアカでのログインが出来なくなって早半年
復活があまり期待できないのでひとまず転載
↓転載元はこちら↓
【提督は艦娘たちと触れ合いたい】
↓大まかな目次:各パートへジャンプ
【1.大淀パート中盤】 【2.大淀パート後半】
【3.青葉と川内】 【4.神通】 【5.食堂】
【6.間宮と伊良湖】 【7.長門】 【8.大和と武蔵】
【転載以降の更新】
チュンチュン
「いい天気だ」
そう呟いた壮年の男。彼は日本海軍における防衛拠点の一つである鎮守府に所属し、その代表を務める存在。周囲の者たちからは提督と呼ばれていた。
連日にわたる海域奪還作戦も終わりを告げ、新しい朝を迎えた提督は窓を開け新鮮な空気を部屋に招き入れると、陽の光を浴びてキラキラと輝きが広がる海を眺めながら作戦の成功を噛み締める。
皆、本当に良くやってくれた
今回の作戦は深海棲艦の抵抗激しく、以前よりも巧みな戦術に新しい個体の出現と、苦しい戦いを強いられた分、感慨もひとしおだ。
新鮮な空気で肺を満たした提督は、洗面台に向かい歯を磨いて髭を剃る。最後に冷たい水で顔を洗い流すと、頬を叩いて『ヨシ』と決意の込もった声で気合いを入れた。
壁に掛かっていた軍服に袖を通したら、姿見に映し出される身なりを整え、正帽を合わせて準備を終える。時刻は丁度『〇六〇〇』を鐘が告げたところだ。
提督が執務室に向かうべく廊下へ出ると、自室の扉から少し離れた場所に立っていた人物が目を合せてから頭を下げる。
「提督、おはようございます」
「大淀、おはよう」
涼やかな翡翠(ひすい)の瞳に艶やかで長い黒髪。落ち着いた声色で挨拶を交わすのは、本来であればこの場所には似つかわしくない、十代も半ばとおぼしき女性。
大淀と呼ばれたこの少女は、提督が長を務める鎮守府に所属する戦闘員である『艦娘』のうちの一人だ。
艦娘とは、かつて軍艦だった船舶の魂をその躰(からだ)に宿し、秘めたる力で艤装と呼ばれる装備を駆使して戦う乙女たち。それは近年、海原に出没しはじめた人類の敵と認識される深海棲艦に立ち向かうための存在。
なぜ軍艦の魂と呼ばれる物が彼女たちに宿っているのか。共に過ごし三年が経過した今でもその謎に提督は畏怖を感じていた。
「執務室へ向かう」
「畏まりました」
廊下では床板の軋みが上げる鳴き声を二人の靴音がかき消していく。やがて提督の背中を見詰めながら歩いていた大淀は執務室まで到着すると、そっと前に出て扉を開けた。
「どうぞお入り下さい」
「ありがとう」
続いて執務室に入り扉を閉めた大淀は提督が椅子に腰掛けるのを待つと、更に一拍おいてから用意していた言葉を口にしながらこうべをたれる。
「提督、昨日完遂された海域奪還作戦。改めまして、成功おめでとうございます」
「ああ、これも君たちの惜しみない助力の賜物だ。礼を言う」
それは大淀が自身の耳を疑うような。提督の口からは今まで一度も聞いた事がない労いの言葉だった。
「えっ? あっ! い、いえッ…、とんでもありません」
聞き間違い?
あまりにもらしくない発言に伏せていた顔を驚きと共に上げると、提督が穏やかな表情で自分を見詰めている。
大淀は推察する。大規模作戦が成功に終わったことで、今の提督はすこぶる上機嫌なのかもしれないと。
思えば先程の朝の出迎えにしても、わざわざ名前を呼んでから挨拶を返してくれたこと。廊下を歩いて来た時にも、普段なら提督の歩幅に合わせて早足になるはずなのにゆっくりとした足取りだった。それに加えて執務室の扉を開けた時のお礼の言葉。
艦娘を好きではない提督にしては珍しい事もあるものだ。そう自分の中で結論付けた大淀は、いつもこれくらい機嫌が良ければいいのになと、今までの日々を振り返る。
おくびにも出さないものの、彼女は提督が苦手なのだ。かと言って嫌いな訳ではない。
最初の頃は提督にもっと自分たちを知ってもらいたい。お互いに親睦を深めたいと思って行動をしていたが、残念ながら提督が歩みを寄せてくれることはなかった。
そんな提督ではあるが、決して無下な扱いをするでもなく規則正しく運営される鎮守府での生活に加え、今までの戦果を踏まえたその手腕には感服するばかりだ。
ただ、提督にとっての艦娘はどこまでいっても深海棲艦に対抗するための手段でしかないだけ…。
次第に提督と艦娘はこのままの関係でも十分ではないか。そう思い諦めていった。
それでも彼の機嫌を損ねないようにと、打算的な思惑ではあるが毎朝の出迎えをしたり。偽りこそないが先程のような功績を称えるおべっかを口にしては機嫌を取り続けている。
「大淀」
「は、ハイッ!!」
不意に名前を呼ばれ慌てて返事をした彼女に掛けられた言葉とその態度は、またしても想定外なものだった。
「フフッ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたぞ」
提督が普段なら絶対言わない冗談のようなセリフと共にクスリと笑っているのだ。
今日の提督は絶対におかしい
昨日までとは明らかに異なるその振る舞い。自分は今、試されているのではないのだろうかと大淀は考える。
「申し訳ありませんでした」
努めて冷静に謝罪の言葉を述べつつも、訝しむような眼差しを向ける。そんな大淀に対する提督の声色はいつもより優しかった。
「いや、責めている訳ではない。冷静な君にしては珍しい事もあるのだと、少し驚いただけだ」
「提督、本日の執務に関してですが」
このままではいけない。そう判断した大淀は無理矢理にでも話題を変えていく。
「ああ、まだ本営からの電文が届くまでは時間があるな」
「はい。作戦終了後の報告書関連はいつもとは形式が異なりますので、ゼロロクサンマル頃での少し遅れた配信になるかと」
これでやっと仕事の話に切り替わる。大淀は良かったと胸を撫で下ろした。後はそのまま時間まで準備をするために席を外すと伝えよう。そう思って口を開きかけた矢先だ。
「そうか。まだ時間があるなら、少し私の質問に答えてはくれないか?」
「それでは… えっ? コホンッ ンッ はい、勿論です」
提督からの突拍子もない提案は、逃げ出そうとした自分の心を見透かされているような心地になる。
思わず飛び出してしまった驚きの言葉を咳払いでなんとか誤魔化したつもりの大淀だが、視線の先で捉えた時計の針が入室してから遅々として進んでいない現実を前に、作り笑いを浮かべて承諾するしか術がなかった。
「まあ、世間話のたぐいだ。軍機に属するものではないので気を楽にして答えて欲しい」
今の提督に対して疑念を抱く大淀にその言葉は届かない。本当にそうだろうか。これまでの流れそのものが自分を油断させるためではないか。騙されてはいけない。そんな思いが膨らんでいく。
「畏まりました!」
こうなってしまっては、普段と変わらぬ事務的な対応に徹するだけだ。そう決意した大淀は気楽な姿とはほど遠い、指の先まで力を込めた直立の姿で対抗する。
「フフッ、ずいぶんと堅いな。それで、まあ、尋ねたいのは私自身のことだ」
どうやらここから先が本題だ。大淀は、笑顔を浮かべ続けている提督にますます警戒心が強くなっていく。
提督の口から何が飛び出すのか。大淀の喉をゴクリと鳴らした塊が奥底へと落ちていった。
「君は、私をどのように思っている?」
そう質問した提督の顔からは頬笑みが消え、眼光は鋭さを増していく。既にいつもと同じ。いや、いつも以上に真剣な面持ちへと変わっていた。
この表情の変わりよう。やはり提督の巧言に従ってお気楽な発言をするのは自らの足で罠を踏み抜く愚かな行為だと思わせる。ならばここはひたすら褒めちぎるべきだと大淀は判断した。
「はい。提督は、いつも卓越した手腕で私たちを導いて下さり、感謝の念に堪えません。それは私の着任直後から判断しても明白です。最初の頃はまだ施設内において、破損や倒壊による修繕が必要な箇所が多々ありました。ですが、現在ではそれら全てが稼働できる状態まで復旧し…。いえ、今の状態であればそれ以上になっています。更には艦娘寮の増築及び設備の改修まで行って頂きました。それに、なんと言っても私たち艦娘には本来ではありえない請暇(せいか)制度の導入ではないでしょうか。もちろん休息は充分頂いており体調は万全に整えていますが、この制度によって艦娘皆が心身共に充実した時間を過ごせていると考えます」
少々早口になってしまった気もするが、よくもまあスラスラと胡麻をする言葉が浮かんだものだ。大淀は改めて自身が口にした内容を整理してみたが、何の事はない。誇張のない事実を羅列しただけだと気が付いてしまった。そして改めてこの提督の元に在籍している艦娘は恵まれているのだと実感する。
「そうか、そうか…」
途中からその猛禽類のような鋭い目をそっと閉じながら聞いていた提督だが、大淀が言葉を終えるとなぜか残念そうに呟いた。
どうして、そんな顔に?
大淀は再び見開らかれた提督の瞳が醸し出す物悲しさに困惑する。
「大淀、君が私の仕事振りを高く評価してくれているのは非常に嬉しい。だが君の口から聞きたい『私をどう思う』かとは、私自身の人となり全ての話だ」
提督は不意に席を立ち大淀に迫った。
「言葉が足りなかったかもしれないが、褒めるべき点以外でも、もっと、こう、私に抱いている負の感情を含めて率直に言って欲しいのだ。例えば、今みたいに私と接している時だ。なんだか怖いとか、ちょっととっつき難いとか、君も私に思うところがあるだろう。なっ?」
大きな手振りを使い『そうだろ』と言わんばかりに提督が力説する。机を挟んで向かい合っていた大淀はその勢いに押されて、一歩、また一歩と、後退りしてしまった。
「はっ、はい…」
そんな言い知れぬ提督の圧力に、大淀の口からこぼれ落ちてしまった爆弾は、自らの手で逃げ道を塞いでしまう失言だ。すぐに眉間に皺(しわ)が寄る。
「なに、心配しないでくれ。この件で君を邪険にするつもりはないと約束しよう」
大淀が訂正の言葉を口にする前にそう告げた提督は、満足げな様子で再び椅子に腰を下ろした。
「それは私に、提督に対する批判や不満を口にしろと?」
先の提督の発言から、この抗議が無駄に終わることは大淀にも分かっていた。だが、それでも聞かずにはいられない内容だ。
「その通りだ。言い難いことは十分に理解している。ただ、できる限り具体的に言ってくれることが望ましい」
ジッと覗き込む提督の鋭い視線を前にして、大淀の額には大粒の汗が浮かんでくる。
まるで時間が止まったかにも錯覚する重苦しい雰囲気が支配する部屋の中で、時計の針だけが正確な時の流れを刻んでいた。
しばらくの間、水を打ったように静まり返っていた執務室に凛とした声が響く。
これは提督からの命令だ。そう覚悟を決めた大淀は力強い口調で思いの丈を打ち明ける。
「では、僭越ながら申し上げます。提督は私たち艦娘への対応に問題があります。提督から艦娘とのスキンシップをはかる意思が微塵も感じ取れません。なぜ、報告に訪れる艦娘を労っては頂けないのですか? どうして、戦果に貢献した彼女たちを褒めては下さらないのですか? それは内心では艦娘をうとんじているからではありませんか? 私たち艦娘に対して悪感情を抱いているから心を閉ざし拒絶する。提督に関する問題のそもそもは艦娘を嫌いなことに帰一(きいつ)する。そう感じてしまうのです。これ以上は、私の口から申し上げることはございません」
大淀は言った。請われた手前のことではあったとしても、提督が艦娘を忌避していると面と向かって言ってしまった。
もしかしたら提督と顔を合わせた時から感じていた、一連のおかしな空気に当てられてしまったのかもしれない。決意と共に自らにほだされた熱を吐き出し満たされたのも束の間、額に張り付く冷たい汗の感触が蘇(よみがえ)り、落ち着きを取り戻していくにしたがって、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだと、顔から血の気が引いていく。
既に自分は提督と艦娘の関係に見切りを付けて納得したはずではないか。今の環境で艦娘としての本分を尽くす。それ以上を望む必要があったのだろうか。未練がましく過去の自分が提督と艦娘を繋ごうとした行動にとらわれ口を滑らせしまった。伝えるにしても、もっと別の言い方があったのではないかと項垂(うなだ)れる。
先程交わした約束など、提督にとぼけられてしまえばそれだけで終わってしまうのだ。例え今回は不問になったとしても、提督の艦娘嫌いが進んでしまえば、この勢いに任せた身勝手な発言の代償はどうなるのか。それが自分だけに留(とど)まらず、他の艦娘にまで被害がおよんでしまったら。
執務室を暗澹(あんたん)とした雰囲気が包み込む。再び押し黙った二人の間を支配する沈黙から、大淀は逃げ出すように瞼をギュッとつむってしまった。
提督が何を考え、艦娘にどう応えるのか。止めどない後悔の念が押し寄せる。そんな最中、独り言のように提督がぼそりと口を開いた。
「心を閉ざし拒絶している…、か。そうだ、その通りだ」
怒りも、不機嫌さも潜在しない、落ち着き払った提督の声色。そこに嘆きを添えた溜息を挟みながら提督は続けていく。
「私は君たちをずっと避け続けてきた。そうすることが正しいと思っていた」
最悪、この場で解体を言い渡されるかもしれない。そう思っていた大淀の心境とは異なる事態が起きている。揺り動かされるように瞼を開いた大淀を、提督は変わらずに見詰めていた。
「君たちが生命を宿さない元の船のような存在や、ロボットであったなら、このような感情は生まれなかっただろう。私は大切な君たちを失うのが恐いのだ」
その言葉の意図を推し測ることはできない。ただ、提督の瞳は深い悲しみに沈んでいるようにも見える。
「少し話を聞いてほしい」
席を立ち窓を開けた提督が、日差しに向かい眩しそうに目を細めながら言った。
「私は提督の素質ありとして鎮守府で指揮を執るにあたり、艦娘が圧倒的な武力を持ち、深海棲艦に対抗するための存在であるのを知っていた。君たち艦娘が兵器として扱われていることも。だが、実際に目にする君たちは、よく笑い、よく喋り、よく食べる。艦娘は戦う力を除けば、少しも人と変わらない。私の知る兵器とは違っていた」
まだ誰もいないグラウンド。提督が遠い目を浮かべるその先には、きっと自分とは異なる景色が映っているのだろう。言葉を終えて振り返った提督が大淀へと向き直す。
逆光に遮られる前に彼女が捉えたその横顔。提督の目尻で光に反応した小さな煌めきは、風に煽られた正帽を直した後にはもう残ってはいなかった。
「まず提督に任じられた私は将官の下で艦娘の運用を学んだ。そこで最初に言われたよ。『我々は屍の上に立っている』と。その時はまだ漠然と分かったつもりでいた。戦いに多少の犠牲は付き物だと。だが、言葉の意味を取り違えていたのを現実を突きつけられ理解した」
窓辺の日差しを逆に受け、影の掛かった表情からはその心中を察するまではいかない。それでも、がっくりと肩を落とした姿は、提督の遣る瀬無い思いを大淀へ伝えるには十分だった。
「深海棲艦に対する開戦直後、あの時の我々はまだ艦娘本来の力を扱いきれず、物量に物を言わせる戦い方しか知らなかった。私が顔を合わせれば笑いかけてくれた君たちが翌朝にはもういない。そんな毎日を繰り返していくうちに自分が恐ろしくなってしまったのだ。私は君たちに日々死ねと命じているのだと」
理解を進めながら聞いていた大淀は、ついさっきまで自らの頭の中を埋め尽くしていた不安な気持ちなど、すっかり何処かへ飛んでいた。
「艦娘として生を授かる君たちは戦いこそが使命であり、私が束ね指示を出すべき立場だというのも十分に理解している。それでも私の目の前で、送り出したその先で、君たちを失うのが恐かった。いや、自分がその罪の重さを背負う度胸がなかった…、のだろうな。その後、この鎮守府へと赴任した私は、君たちから逃げるように距離を取り、余分な感情など抱かぬようにと自らの心に蓋をした。実に情けない男だ」
言葉の最後に自嘲の笑いを浮かべたようにも見える。だが、何よりも提督の艦娘に対する思いと、今までの対応の経緯を大淀は知ることができた。提督は過去に傷付き、更に重ねて傷付くのを恐れるあまり、これまでわざと自分たちを遠ざけていたのだと。
「今でこそ、艦娘の運用は確立され、以前と比べ格段に損耗は抑えられている。だが、今回の海域攻略作戦でこのままではいけないと思い知らされたのだ。今までの過(あやま)った君たちとの関係が、私への提言をためらわせる状況を作り上げてしまったと」
コツリ、コツリ。ゆっくりとした靴音を響かせながら、ぐるりと机を回った提督が歩みを寄せる。
「幸いなことに、今回の作戦は君たちを誰一人として失わずに事なきを得た。だが、ここに至るまで私がもっと心を通わせていれば、皆も萎縮せずに忌憚(きたん)のない意見を述べることが出来たのではないか。そのような関係を構築していれば、これほどの被害を出さずに済んだのではないかと考えてしまう」
執務室に響く乾いた音が止み、正面から向き合う二人。大淀は自分よりも頭ひとつ上背のある提督へと視線を上げた。
「身から出た錆、自業自得、因果応報。私の失敗を表す言葉は多いが、自分で蒔いた種は自分で刈る必要がある。私は君たちとの関係を改善したいのだ」
これまで真摯にその胸の内を吐露した提督が大淀を正視するその瞳は真剣そのものだ。
「何よりもまず、君に感謝を伝えたい」
「私…、ですか?」
艦娘全体への話が続くと思っていた大淀は、自分だけに向けられた提督の言葉に面喰らってしまった。少し前までの彼女であれば提督の言動には何か裏があると、ここでまた妙な勘繰りを入れただろう。
「大淀」
「はい」
提督からの呼び掛けに、大淀は素直に耳を傾ける。
「今日までの君の尽力は計り知れないにも係わらず、私はなにも応えずにいた。執務の内容によっては、君に一任している件もある。私の知らぬところで泥を被ることもあっただろう」
「い、いえ、そんな…」
「先程もそうだ。君は恐れず本音を語ってくれた。私に意気地がないばかりに今まで辛い思いをさせてしまったが、それでも君は変わらずに私を支えてくれる。大淀、君にはいくら感謝をしても足りないほどだ。いつも私を助けてくれてありがとう」
言葉を終えた提督が深く礼をする。大淀は自身に向けられた謝意を込めたその言動に、込み上げる思いをかき立てられ視界を滲(にじ)ませていた。
「提督は…、本心から艦娘を拒絶されていた訳ではなかったんですね」
「君たちを切り捨てられるほど、冷徹にはなれなかったよ」
提督の返す言葉を聞いて、自らの意思では制御できない感情の昂(たかぶ)りがぽろぽろとあふれ出し、大淀の頬を伝っていく。
「よ…った」
くぐもったその声を提督は聞き取ることができなかった。伏せていた瞼を開くと、ぽつり、ぽつりと床を染めている小さな染みが幾つも存在する。
そして静かに頭を上げると、大淀は涙を落としていた。
私は一体どうすればいい?
提督は考える。何か気休めの言葉を掛けるべきなのか。それとも慰めの言葉を掛けるべきか。はたまた別の言葉なのか。
気の利いた言葉を持ち合わせていない提督が唯一できるのは大淀の側で寄り添うこと。
私は今日をもって変わる。そう決めたではないか
何が正解なのかは分からない。これは間違いかもしれない。それでも朝に誓った自らの決意に押され、提督は前に進むべく彼女の肩へと手を添えていった。
提督…?
両肩に置かれた手の平から伝わる熱に気が付いた大淀は、今の自分に起こっている状況を悟る。
あったかい…
例えそれが、妙に力の入ったぎこちなさを感じる手だったとしても。抱き締めるまでいかない少し焦れったいこの距離でも。提督が自分のためにここまでしてくれたことがこの上なく嬉しいのだ。
今の提督なら受け入れてくれる。一度は諦めてしまった自分だって、歩みを寄せて応えるべきだ。そう言い聞かせた大淀は両腕を提督の背中へ通すと、まだ触れずに留まっていたお互いの躰を引き寄せた。
「大淀ッ!?」
ギュッと抱きつかれて驚きの声を上げる提督と、何も言わずに提督の胸に顔を埋めた大淀。
何をすればいいのか分からない提督は、これまで何もしてこなった自分への罪滅ぼしのつもりもあったのだろう。
慣れないことで板に付かない不自然な動きでも、今まで彼女を褒められなかったその代わりになればと、思いを込めて大淀の頭を撫でていく。
提督の大きな手の平は、何処かこそばゆくも心地好く、その優しさが伝わってくる。
大淀は提督の温もりを感じながら、期せずして訪れたこの幸せな時間に溺れてしまいたい。いつまでもこうしていたいと本気でそう思っていた。
なのに水を差された気分だ。
普段ならさして気にすることもないはずの音。それをこんなにも憎らしく思ったのは初めてだろう。大淀の切な願いを突き放すように、執務室の時計が『〇六三〇』を告げる鐘を無常に響かせ、彼女を現実に引き戻したのである。
少し前の自分であれば喜び勇んでこの部屋を出て行ったはずなのに…。その考えがこの場所に来た理由を思い出させたのだ。
「提督、もう大丈夫です。ありがとうございます」
大淀は提督の背中に回したその腕をほどいた後、名残惜しそうに一歩下がった。そして邪魔物である時計に向かって一瞥を与えると、心の中で湧き上がる不満の声を押し殺し意識を切り換えていく。
大淀は仕事のできる任務艦なのだ。今、その印象を傷付ける訳にはいかない。
「コホンッ!! 時間になりましたので、作戦室へ報告書の確認に行って参ります」
少し強めの咳払いを一つ挟み、ゆるんでいた心を引き締め直した大淀はきびきびと行動を開始した。
「それでは、書類の印刷をしてお持ちしますね」
高らかに響せる靴音を連れて、大淀が廊下の先へと消えていく。
執務室で一人きりになった提督は心の張りが解けたのか、どっと吹き出す疲れとあせりに見舞われていた。
やってしまった
椅子に腰掛けた提督は正帽の上から頭を抑えて嘆きを入れる。
大淀が私の胸まで飛び込んで来たところまでは悪くなかった…はずだ。問題はその後だ。私から躰を離した大淀は目をすわらせ、その後に咳払いを打って警告を促した。終いには部屋を出るなり、まるで怒りをぶつけるように足早に去っていったではないか。
髪は女の命というフレーズを耳にしたことがある。不用意に頭を撫でたのが失敗の原因だろう。女性が朝、整えたばかりの髪型に触れられて怒らない理由がない。ごく当たり前の反応ではないか。もう少し慎重に考え行動すべきだったのだ。
船出から暗礁に乗り上げた航海。椅子の背もたれにその身を投げた提督は、どうしたものかと天を仰いで青息を吹く。
そんな自らの勘違いに提督が頭を悩ませる一方で、大淀はすこぶる上機嫌だった。
作戦室の端末で受信した電文から必要な書類を選別すると、印刷をかける間に提督から求められるであろう資料をあらかじめ用意する。
提督が扱う報告書は直筆を求められるものが多い中で、大淀が担う仕事は入力の作業が大半だ。作戦に関する昨日の夕方までの記録は既に作成済み。後は昨夜の分を集計し、最終的にまとめ上げるだけなのでそれほど時間をかけずに終わる。
これは以前から変わらず、当たり前にこなしてきた仕事の範疇だ。提督に苦手意識を抱いても疎(おろそ)かにしなかったのは、きっと任務艦としての大淀が持つ矜持(きょうじ)を示しているのだろう。
でもこれからはもっと…
含み笑いを薄らと浮かべ、書類の入ったケースを大切にかかえながら来た道を戻る大淀。もし、他の艦娘と廊下ですれ違っていれば、要らぬ心配をかけてしまったかもしれない。
だが、朝食の時間をまもなくに控え、なおも提督の元を訪れる。そんな物好きな艦娘などいるはずもなく、特別なことなど何もない。執務室へとたどり着いた大淀は扉をノックして入室の許可を願いでるのだった。
「大淀、報告書をお持ちしました」
『入りたまえ』
提督の声がいつもより近くから聞こえてくる。とりあえず手を伸ばした大淀だが、ドアノブに触れる前に扉が勝手に開き始めた。
そして目の前に立つ提督を見て、わざわざ招き入れてくれたのだと理解する。まずはお礼を言わなければと、頭を下げようとしたその矢先。大淀はまたしても先手を打たれるのだった。
「先程は君を怒らせるようなことをした。本当に申し訳ない」
提督が物凄い勢いで頭を下げる。それはなんの変哲もない、提督らしさが滲み出た愚直ともいえる謝罪だ。大淀が戻ってくるまでの間、どうすればいいかを散々悩んだ挙げ句にたどり着いた結果がコレである。悲しいことに人付き合いに関しての失態を挽回できるノウハウを、提督は持ち合わせてなどいなかった。
ビシッと決まり綺麗に直角を描いたお辞儀。大淀は提督のその姿に感心しつつも、戸惑いながら答えを探る。
「あの…、一体なんの話でしょうか?」
「私が君の頭を不用意に撫でてしまったことだ。本当に申し訳ないと思っている」
『先程』の意味から考えれば今日の出来事のはずだ。その中では提督が自身の人となりを強引に尋ねたことくらいしか思い当たる節のない大淀は、答えを聞いて不思議に感じる。
「提督はなぜそのように思われたのでしょう?」
あれは大淀にとって至福ともいうべき時間だった。それに対して謝罪を受けるのはどうしても腑に落ちない。
「君は髪をいじられ乱れるのが嫌だったのではないか? あの後、君が向けた睨むような視線も、咳払いをしたのも、女性に対するデリカシーに欠けた私への注意喚起が目的だろう。そう考えれば合点がいく」
「えっ? ああ〜」
大淀が大口を開け間延びした声を上げる。ほんの少し前のことだ、記憶が鮮明に蘇り原因が明らかになった。
提督とは直接は関係のない行動。その意味を取り違え、自分の責任だと盛大に勘違いをしているのだ。よくよく考えれば誤解に繋がる素振りがあったと自らも反省する。
そういうことですか
大淀は小さく溜息をもらした。
「大丈夫です、私は怒っていませんので。それよりも先に報告書を置かせて頂きますね」
「そ、そうだな」
「上から順に処理できるよう資料を重ねてありますので」
入り口での問答を終わらせ、報告書の入ったケースを机に置いた大淀が振り返ると、開いていた扉を閉めた提督が近づいて来る。その表情から察するにまだ何かあるのだろう。
「大淀、折り入って君に頼みがある」
「はい、ご協力いたします」
私は提督からの願い出を二つ返事で承諾する。別に内容を聞かなくても全てが分かるほど理解が及ぶ訳ではない。
ただ、私が最初から無理だと突き返すような内容を提督が言うとは思えない。これまでのやり取りから、そう予感めいたものがあった。だから私は受け入れる。
「大淀、とても助かる。では、話が前後する形になってしまったがその内容だ。私が皆との関係を修復する手助けを君に頼みたいのだが、どうだろう?」
やはり何も心配はいならかった。むしろそれは私がかねてよりの目標として、取り組みはしたが失敗から諦めてしまったもの。何より、以前は障害として立ちはだかったともいえる提督からの要請であれば私にとって願ってもない好機だ。自分の躰がじわりと熱を帯びていくような気がする。
「もちろん、お受けいたします」
「ありがとう。君の助力に心から感謝する」
大淀から二度目の承諾を受け、顔を綻(ほころ)ばす提督。
当時を思い起こせば、のれんに腕押し、ぬかにクギ、ともいえる提督の冷淡な態度を恨んだりもした。けれど、それは提督が心の奥に秘めていた思いを私が汲み取れなかっただけ。
でも、それは提督も同じだ。私が過去に何を思い行動していたのかを知るよしもないだろう。私たちは自分の気持ちを優先して、お互いに歩み寄ろうとはしなかったのだから。
提督は『君は恐れず本音を語ってくれた』。こう言ってくれたけど、あの時は感情が昂ってしまっただけ。実際にはすぐに言わなければ良かったと後悔もした。それに気付く様子もなく私の発言を好意的に捉えていたのは、これまで上辺だけの付き合いでしかない私たちからすれば当然の結果といえる。
「ただ、それでしたら…」
「懸念があるなら教えて欲しい」
だからこそ、もっと深くお互いを知ることができる。もっとお互いの気持ちを分かり合える。私はそれができると信じたい。
大淀はその願いを叶えるため、提督と正面から向き合う決心をした。
「提督と艦娘が理解を深めるにはもっと気持ちを伝え合う必要があります。正直にお話すると、私は今までずっと提督が苦手でした。でも今日、提督の胸の内を知って考えが変わりました。提督が私たちを大切に思ってくれているその気持ちを、もっと声に出して伝えて欲しいのです。それはきっと、先ほど仰られた関係の修復にも繋がると思います」
提督は自分が前に踏み出す切っ掛けを与え、艦娘と親交を結ぶための知恵を絞り伝えてくれる大淀に、感謝の気持ちを込めてその両手を握る。
「大淀。私は君の言葉で、自分の気持ちを打ち明ける決意を固められた。そして今も心を尽くし助言を惜しまずくれる。私は何よりも君と、この関係が築けたことを嬉しく思うよ」
「私もです。提督のお側にいて今まで気付けなかったのは悔やまれますが、私たちの身の上をこれほどまでに案じて頂いているとは思いませんでした」
大淀から投げかけられた、にこやかな頬笑み。この笑顔を見た後では、今までに称賛と併せて向けられていたその顔が彼女に無理を強いていたのだと、提督は自らの至らなさを痛感する。
「私がそうさせてしまったのだ。気に病む必要はない。それに今日、改めて口に出して伝えることの大切さがよく分かった。屈託なく笑う君の可愛らしい姿を、初めて目(ま)の当たりに出来たからな」
「かっ、かわ…」
提督の口からいきなり飛び出した訳の分からない言葉に驚き、大淀は飛び跳ねるように繋いでいた両手を切った。
「て、提督はどうして、いきなりそんなことを」
普段の上官として接する提督にはそれなりに慣れている大淀だが、異性を意識させらるような褒め言葉に対する免疫はない。
「そんなこと?」
「可愛らしぃ…とかです」
改めて自ら口にしたことで、言われたセリフの恥ずかしさに顔が火照るだけでは済まず、耳の先まで熱くなってくる。
「君からもっと気持ちを伝えた方がいいと言われ、実践したつもりだが。不味かっただろうか?」
「いえ、そうではないのですが、いきなりでびっくりしたもので…」
『心臓に悪いです』と、口から飛び出しかけたところを大淀はギリギリで止めた。提督に下手なことを言っては、本当に心肺への負荷を懸念し始めそうだったからである。
「ふむ。慣れないことをするのは、やはり難しいものだ」
「私たちもいきなり褒められるのは、今までの提督との関係から心の準備が必要になりますので、最初は任務を終えた艦娘への労いから始めるのがいいかと」
「まずは労い…か。少しづつ学んでいこう」
「あとは、そうですね…」
大淀はひらめいてしまった。あの時に感じた不満をすぐに解消できる良案を。
「良くやったなどの言葉の他にも、受け入れやすいのは頭を撫でる…でしょうか。特に駆逐艦の子たちには効果が高いと思われます」
「ッ…、大淀にやったアレか」
失敗を思い知らされた提督が渋面に染まっていく。
「はい。あのぎこちない手付きでは、本番を迎えるにはまだまだですが」
「重ね重ねになるが、すまないことをした」
急にふくれた顔をして、どこか不満げにじぃっと提督を凝視する大淀。
「私は別に撫でられるのが嫌で怒ったりはしていませんし、実際にはとっても嬉しかったんですよ。提督はなぜか勘違いしてるみたいですけど」
「なら、君の取った行動にはどんな意図があったのか?」
「いい雰囲気だったところを時計に邪魔されたので、仕事に戻る時間だなーと、ちょっとスネちゃいました」
ツンとすましてそっぽを向く。言葉使いがいつもより乱れていたり、少し挑発的ともいえるその態度に自分では気付いていないのだろう。大淀が見せる新たな一面は、提督の瞳に微笑ましく映っていた。
「そうだったのか。やはり私は心の機微(きび)を捉えるのが苦手なようだ」
「そうですよ。だからそれを少しでも解決するためにも、まずは私の頭を撫でて練習をつまないとですね」
自ら差し出した頭の上に、ぎこちないと評したその手を掴み乗せていく。
大淀が助言にかこつけて、自分のために頭を撫でる練習を提案したことを提督は知らない。むしろ実験台としてその身を捧げた勇気にきちんと応えねばならないとさえ考えていた。提督が彼女の気持ちを理解するにはまだ時間を要するだろう。
「さあ、どうぞ」
提督に抱き着いた大淀が、準備万端とばかりに圧をかけてせき立てる。
「これでいいのだろうか」
はぁ…♪
先程よりもこなれた手付きで、頭に置かれた大きな手が繰り返し髪を撫で下ろす。提督の胸に顔を埋める大淀は抱き締められた躰から伝わる温もりに包まれ、ゆったりとした時間の中で溶け出しそうな夢見心地に溺れていた。
そんな二人を止めたのは、耳に届いたあの音。
安らぎのひと時に終わりを告げる時計の鐘。七度に渡る知らせを聞いた大淀は吐息をついて満足げに顔を上げた。
「改善は必要ですが、とりあえず合格を上げますね」
「そうか…。まだ不足があれば君が納得をするまで練習に付き合ってはくれないか?」
「はい、喜んで」
及第点をもらった提督だが、二回目を終えて心構えや手の仕草に余裕が生まれたのを感じ、大淀にまたの機会を打診する。彼女からしてみれば、まさに渡りに船ともいえる状況だ。
「それと大淀、もう一つ頼みがある」
「何でしょう?」
提督からのラッキーな提案に少しうわついていた大淀は、小首をかしげた愛らしい姿をうっかり披露していた。
「先程から、君の言動が少し砕けている気がするのだが…」
「し、失礼しました。大変申し訳ありません」
ハッと我に返って黒髪が宙を舞う。無意識に提督を真似たのか直角を描く大淀のお辞儀。その美しさに感嘆の声を上げ思わず見惚れてしまった提督は、そうではないと慌てて言葉を使い訂正する。
「大淀、君を咎(とが)めるつもりはない。むしろその逆だ、できればさっきのように気軽に接して欲しいのだ」
「よろしいのですか?」
姿勢はほとんどそのままに、大淀が顔を上げた。
「私も以前であれば距離を取るための手段として畏まった話し方を歓迎もしたが、これからは少しでも君との距離を縮めていければと思うのだ」
「提督の希望であれば、普段通りに話してみますね。失礼な時があるかもしれませんが」
そう口にはしたが大淀は心配などしていない。今の彼女は提督の言葉をありのままに受け入れる。これまでのように疑念を浮かべ頭を悩ませる必要などなかった。
「君が堅苦しさを感じない程度でいい。無理強いをするつもりはないが、これからはあまり言葉を選び過ぎない程度に私の前では接してくれると嬉しく思う」
「はいっ」
姿勢を正し髪を整えた大淀を正面から見据える鋭い目。大淀からしてみれば恐怖の対象でしかなかったその視線に対する印象が、この短時間の内にだいぶ変わったものだと肌で感じられた。
「それにしても、もう七時か」
「何も進みせんでしたね」
大淀が嬉しそうに笑うと、それに釣られた提督が口元を和(やわ)らげる。
「構わないだろう。それ以上に実りある時間になった」
「私もそう思います」
「定時から報告書に着手するとして、まずは食事だ。その方が切りがいい」
「はい」
毎朝の食事は隣にある休憩室を兼ねた小部屋で取っている二人。大淀にとって昨日までは別に楽しくもない時間だったが、今日からはそれも変わるはずだ。アゴに手を当てた提督が何を頼むかを考えているところで、大淀にふと疑問が浮かぶ。
「提督、一つ聞いてもいいですか?」
「構わないが」
「食堂を利用しなかったのは、提督が艦娘との交流を避けるためだったりします?」
提督の視線が大淀から逃げるように逸れていく。どうやら図星を突いてしまったらしい。
「まあ、私が食堂を使っても、いい顔はされないからな」
提督の自虐的な笑いを打ち消すように、小気味好い音が打ち鳴らされる。その主は両手を合わせた大淀だ。
「でしたら今日は食堂に行きましょう」
「いや、朝から皆の気分を害するだけになると思うが」
大淀がにっこりと笑いながら詰めてくる。
「行きましょう」
「だがなぁ…」
今、この場では完全に彼女が主導権を握っており、その勢いを前に提督はたじろぐのであった。
「提督は現状を改めて知る必要があると思います」
「それを言われてしまっては、断る理由を失ってしまう」
気乗りはしない提督だが、大淀の提案も一理あると考える。食事を楽しみにしている艦娘たちには悪く思うが今後のためだ。今日くらいは我慢してもらうしかあるまい。そう気持ちを切り替えて、罪悪感をうやむやにした。
「大丈夫です。何かあったら私が対応しますので」
「君が協力してくれるのを、とても頼もしく思うよ」
瞳を輝かせ、やる気に満ちあふれる大淀。そんな彼女に半ば引きずられるように提督は食堂へと向かっていく。
一方その頃、別の場所では…。
『大丈夫です。何かあったら私が対応しますので』
『君が協力してくれるのを、とても頼もしく思うよ』
・
・
・
「ふふっ♪ 青葉、聞いちゃいました!」
提督たちの様子を伺うのは、セーラー服とキュロットパンツに身を包み、髪をざっくりと後ろで束ねた一人の少女。その大きな瞳にクルクルと変わり続ける表情が、人なつこい快活さをよく表している。彼女は重巡洋艦の青葉型一番艦である青葉だ。
多くの者たちから鎮守府一のカメラ好き。何にでも首を突っ込みたがるゴシップメーカーとして知られる彼女。時より鎮守府の連絡掲示板に張り出される『青葉新聞』と称される四方山(よもやま)記事は、艦娘たちの耳目(じもく)を集める娯楽の一つにもなっている。
執務室から少し離れた倉庫部屋。使われなくなった家具や雑貨が乱雑に置かれた部屋の中で、先程の音声が記録されたレコーダーを見詰めながら青葉は眉根を寄せて独り言を呟いた。
「朝からこの部屋で張った甲斐がありました。これを記事にすれば、絶対にウケると思います。でも…」
昨日終えた海域奪還作戦の続報として何か新しい情報でも入ればと、軽い気持ちで聞き耳を立てていた青葉だが、提督のとんでもない秘密を知ってしまい本当に記事にしても大丈夫なのかと不安に駆られる。
『青葉は、やったモン勝ちだと思いますよぉ』
かつて演習で出会った同型の自分であれば嬉嬉として、この事実を広めただろう。話した瞬間から気安い友人のように感じたもう一人の青葉は『何でもござれ』を体現したような人物だった。
まるで鏡に映したような瓜二つの自分が口にした発言が頭をよぎり、あの時に感じたモヤモヤがぶり返す。
やっぱり青葉もあの子と同じなのかな…
憂鬱な考えを廻らせる。そんな青葉を現実へと引き戻したのは、すぐ近くから聞こえてきた声だった。
「あー、お腹すいたー」
そう叫んだのは髪を左右で結び上げた、どことなく猫を思わせる風貌を持つ少女。彼女は軽巡洋艦である川内型一番艦の川内。明るく姉御肌な性格は艦隊のムードメーカーともいえる存在である。
しかし、それ以上に夜間戦闘に熱を上げている印象が周りは強い。ついには『夜戦バカ』のあだ名が付くほどに有名な話だが、当人は『ホントのこと』と認めており、別段気にしてなどいなかった。
この鎮守府でも高い練度を誇る彼女は、特徴的な白いマフラーを揺らしながら廊下を進んでいく。
「姉さん。報告さえ終われば食事にできますから」
そう言って隣で川内をなだめるのは、同じく川内型二番艦の神通だ。
川内に似たノースリーブセーラーとプリーツスカートを身に付け、優しげな瞳で長い黒髪をなびかせる。髪に大きく結んだリボンが可愛らしさを演出する一方で、強い意思を感じさせる額の鉢金。
平時に見せるたおやかな可憐さと、戦場で見せる勇猛な苛烈さ。二つの華を内に咲かせる少女。
川内と神通は提督から命じられた撤退する深海棲艦への追撃を終え、報告のため執務室へと向かっていた。
「あっ!」
「どうしました?」
「ごっめーん。夜戦明けでテンション上がり過ぎて、艤装外した後に点検するのすっかり忘れてたわー。戻って終わらせてくるから報告は神通に任せちゃっていい?」
拝み倒すように両手を合わせた川内の姿に苦笑いを浮かべる神通。
「もう、姉さんは…」
「ごめんって」
「いいですよ。では、行ってきます」
書類を託した神通の目が険しく変わっているのを見ると、どうやら気が付いたようだ。目配せをして妹に手を振り見送りを終えた川内は、捉えていた気配に向けて言い放つ。
「いつまでそこに隠れてるの?」
壁を一枚隔てただけの目と鼻の先から聞こえる呼びかけに、青葉の心臓が驚きで飛び跳ねる。
そして自らの意思とは反する形で開かれていった扉の先では、川内がにっと笑みをこぼしていた。
「ふ〜ん、青葉じゃん」
「ど、ども〜。きょーしゅくです、青葉です〜。川内さん、おはようございまーす」
精一杯の明るい声を出し平静を装う青葉の横に並び、強引に肩を抱いた川内がそっと耳打ちをする。
「ねえ、どうせ悪い事してたんでしょ?」
「い、いやぁ、別にそんな…」
組まれた肩からのし掛かる重圧にたじたじの青葉。はたからから見れば蛇に見込まれた蛙のようだ。俗っぽい例えをすれば先輩に絡まれた後輩のような状況だが、その先輩が楽しそうに告げる
「じゃあ、今から提督に会いにいこっか」
「ちょっ、ちょっと待って下さい!」
青葉の慌てふためく様を覗き込み、したり顔を浮かべながら畳み掛けていく川内。
「なら、青葉がここで何をしてたのか教えてよ」
「分かりました。喋ります、喋りますよぉ〜」
どう頑張ってもこの状況から自力で抜け出す術のない青葉は白旗を掲げ、半ばヤケクソ気味に川内へと打ち明けるのであった。
『それにしても、もう七時か』
『何も進みせんでしたね』
・
・
・
「これがさっきまで青葉が執務室を録音した内容です」
レコーダーから再生された提督と大淀の会話を把握し、その顛末を青葉から聞いた川内。
「いや〜。まさか、あの提督の態度が実は私たちに対する気持ちの裏返しってのにも驚いたけど、それよりも青葉の行動にドン引きだよ。提督の会話を隠れて録音するとかヤバくない? こりゃあ、バレたら解体コースかもね」
「うぐっ…」
「青葉はなんで盗聴器なんて付けちゃったのさ?」
「だって、司令官っていつも冷たい態度だったじゃないですかぁ。私たちに危険が迫るような情報があるならそれを逸早く知りたかっただけで、そもそも腹の底であんな風に考えてるのを知ってたら、こんな事やってませんよ〜」
つい正義感をはやらせて仕掛けた盗聴器が、完全に裏目に出てしまったのだ。改めて川内に指摘され、笑い事では済まされない事態に頭を抱える青葉。
「まあ提督もずっとあんな調子だったし、青葉が盗聴器を仕掛けた理由も分かったけどさ。やっていいラインを超えちゃってるんだよねー」
「川内さん。青葉、どーすればいいですか?」
「それを私に聞く?」
反逆とも取れる行為をした青葉に罪があるのは明白だ。いくら自分たち艦娘を危惧しての行動だとしても、執務室への盗聴は許される内容ではない。川内はどう決着を着けるべきか悩んでいた。
「なんとか青葉を助けて下さいよぉ」
「自業自得じゃん」
「そんなこと言わずにお願いします〜」
本来は提督に青葉を突き出すのが正しい判断であり、神通ならすぐさまそうしただろう。だが、それで今後の事態が好転するとは川内には思えなかった。
この感情も船の記憶と関係あるのかな
半べそをかいた青葉の顔を見てしまうと、古い面影が重なってどうしても彼女を憎めないでいる。むしろ何とかしてあげたいという気持ちが疼(うず)いてしまうのだ。
「ったく。しょーがないなぁ。さっきの会話を聞いた感じだと正直に伝えれば提督も許してくれそうだし、素直に全部話すのも一つの手だよね」
「はい…」
「まあ、でもバレないように黙っとくのもアリなんじゃないかな」
「えっ!? でも、いいんですか?」
川内からの提案に驚きの声を上げた青葉が真剣な面持ちで耳を傾ける。
「そりゃあ良くないよ。けど、盗聴されてたのを知ったら提督の艦娘に対する好意とか、あの二人が作ったせっかくの雰囲気をぶち壊すかもしれないじゃん」
「すみません…」
「一応聞くけど、提督に協力する気はあるんだよね?」
「もちろんですっ。あの内容を聞いて反対するはずないじゃないですかぁ」
「なら提督がいつかは私たちにも伝えてくれるんだから、それを待ってさ。できる事をやっていけばいいんじゃない」
その言葉を聞いて青葉の顔がパッと笑顔になった。
「そうですよねっ! その時が来たら青葉はいっぱい司令官に協力しますよぉ〜」
いつの間にやら取り出していたメモ帳に、うんうんと唸りながらペンを走らせていく青葉。どうやら提督に対して自分なりにやるべき事を考えているようだ。
ホント、青葉らしいわ
普段見せる底抜けの明るさを取り戻した青葉を見ながら、これなら大丈夫だと判断した川内が告げる。
「でも、一応のケジメはつけないとダメだから、これは処分するよ」
青葉の目の前でバキバキと音を立てているのは、川内が取り上げたレコーダー。意識的に力を込めるだけで、ただのガラクタへと変わっていく。艦娘にとっては人がジュースのアルミ缶をへこませるよりも簡単にできてしまうのだ。
「くすん。青葉のレコーダーが…」
川内から手渡された原形が分からないほどに小さくなった残骸を見詰めて青葉は悲しそうに呟く。
「泣きごとは言わない! 証拠も潰しちゃったし、これで青葉と共犯だよ、全く」
「川内さーん」
運命共同体として思わぬ名乗りを上げた川内に青葉は感激の余りに飛び付いていった。
「ハイハイ。分かったなら後で執務室から盗聴器の回収するから場所を教えること」
「青葉、りょーかいです」
「ちゃんと私が処分しとくから」
「ええ〜…」
「当たり前じゃん」
青葉の口から自然ともれた不満の声を、川内がぴしゃりと跳ね返す。
「分かりましたよぉ」
「んじゃ、この件は一旦お終いね。取り敢えずお腹すいたし、ご飯いこーよ」
その言葉と共に倉庫部屋から連れ出された青葉は、川内の後ろを歩きながら自分の手の平をまじまじと見詰めていた。
部屋を出る時に手を引いてくれたその姿にどこか懐かしい気持ちが強くなる。
船であった時の情景がぼんやりと蘇るというのもおかしな話だが、それは二度目の大破の後に川内によって曳航(えいこう)された時のものだった。
あの時の青葉も途中で擱坐(かくざ)をしたりで迷惑をかけちゃったのに今回も…
川内がいなければ青葉はきっと一人で悩んでいただろう。もしかしたら自分らしさを捨てて、提督たちの会話を記事に起こしてしまったかもしれない。
そんな時に手を差し伸べてくれた川内へ、小さくお辞儀を向けた青葉は駆け寄って肩を揉み始めた。
「川内さ〜ん。よければデザート奢りましょうかぁ」
「なーに、今からご機嫌取り?」
「いや〜、バレちゃいましたか」
「露骨すぎでしょ。それにちょっとくすぐったいって」
この一件が終わったら、きちんとしたお礼をしよう。そう心に刻んだ青葉。
柔らかい朝の光が差し込む廊下では、古い機縁(きえん)に救われた一人の少女が、輝く笑顔を振りまいていた。
こうして提督の預かり知らぬところで二人が新たな協力者として名乗りを上げたその数分後、倉庫部屋の前を通り過ぎる影が三つ。一番後ろを歩く神通はホッと安堵の息をつく。
別れ際に川内が送った視線。部屋の周囲に争った形跡はなく、合図となる目印も残されていない状況から穏便に事が済んだと確信した。
一番の不安を解消した彼女は、今の自分に起きた状況を改めて整理する。
まさか提督から朝食に誘って頂けるなんて
少し前に川内と別れた神通は、執務室に向かう廊下で提督の姿を見かけると、その端に寄って道を譲った。
「おはようございます」
「おはよう。神通、報告か?」
立ち止まり挨拶を交わす提督。そのすぐ後に続く大淀は二人の邪魔をしないようにと会釈を返す。
「はい。残敵掃討任務の報告に参りました。お忙しければまた改めて伺います」
「大淀、少し遅れるが構わないな」
「はい」
「執務室に戻り報告を聞こう」
その言葉に踵(きびす)を返し従う大淀。提督の背中を追って執務室へと入室した神通は、川内が艤装の点検を行っている旨を伝えると、戦果を述べて報告書を手渡した。
提督が戦闘詳報を一読する前に発した『楽にして良い』の言葉にも彼女が微動だにする様子はない。そのしなやかに絞られた肢体。ただ細いだけでなく、鍛え抜かれた強い体幹が示す美しい姿勢。大淀は同じ艦娘として、その心構えに敬意を払わずにはいられなかった。
普段、執務室への入室を許可された艦娘の中でも取り分け実直で知られる彼女の作る報告書。提督が必要とする情報は全て網羅(もうら)されている。華華しいとは言えずとも、戦果としては十分な水準を超えており、後は解散の下知を待つだけだと神通は思っていた。
「神通、今回も良く働いてくれた。素晴らしい成果だ」
「ありがとうございます」
読み終えた書類を机に置いた提督が掛ける労いの言葉。想定外であるはずの同じ状況でも、動揺を見せた大淀とは違い、神通の顔色に変化はない。
「ちょうどいい機会だ。君に話がある」
「はい」
自信を伺わせる声色からも、一本芯の通った強さが伝わってくる。そこにかつての物怖(ものお)じしていた彼女の面影はなかった。
大淀が最初に話し掛けた時には探照灯がないと夜の海には出たくないと怯えるほどに弱腰で、それを呪いのように付きまとう船の記憶だと嘆いた神通。
『最期に集中砲火を受けて沈む切っ掛けにもなったはずなのに、どうしても依存してしまうんです。おかしな話 ですよね…』
自分の中に存在するかつての姿。艦娘は大なり小なり、前世の記憶に引きずられている。あの時、自虐的に笑う彼女に掛ける言葉が見当たらなかったのは、自身も船の記憶に翻弄(ほんろう)されていると気付いてしまったからだろう。
艦娘としての生を授かったばかりで艤装の扱いがまだ不慣れだった大淀。初めての演習で準備が間に合わず迷惑を掛けてしまった時に呼び覚ました記憶は『戊号(ぼごう)輸送作戦』。カビエンへの物資輸送において、大淀の揚陸作業が遅れ〔基地航空隊による哨戒の不足も要因だが〕空襲を受けた時のものだった。
その記憶が引き金となり、膨らみ始めた負の感情が彼女の胸を締め付ける。
当初の計画にあった潜水艦隊旗艦としての運用が叶わなかったこと。連合艦隊旗艦の肩書(かたがき)も聞こえは良いが、頭にこびり付いた記憶は手放しで喜べるものではなかった。他にも旗艦としての乗船を拒否された記憶が蘇る。
そんな不甲斐ない自分の過去を悲観した大淀だが、その後は他の鎮守府を倣(なら)う形で提督を補佐する任務艦へと指名された。その時に戦う事への見切りをつけてしまったのだ。
大淀には神通とお互いの性格が似ていると感じる部分がある。それなのに艦娘でありながら戦場から逃げ出した自分に対して、トラウマともいえる艦船の記憶に立ち向かった彼女は違う。
今の神通が備(そな)える胆力は、きっと深海棲艦との戦闘で培われたものだろう。そこに達するまでに積み重ねた努力の結果が風貌にも現れていた。
こうして大淀が一人物思いに耽っている間にも、提督の告白は終局へと向かっている。
「私が艦娘を遠ざけていた理由と今後の懸念に関しては話した通りだ。共にこの難局を乗り越えるべく君の協力を仰ぎたい」
「深海棲艦の打倒は艦娘として生を享(う)けた私にとっても宿願。身命を賭す覚悟があります。ですが、戦いしか取り柄のない私に、提督の望まれるお力添えが可能でしょうか…」
かねてより姉の夜戦に対する熱意を尊重した運用もそうだが、妹が鎮守府内で休日に私的な活動を行う認可を与えてくれた提督には恩義がある。何より艦娘との関係を円滑にするための手伝いと聞いて、それを断る理由はない。
提督としても、嚮導(きょうどう)艦娘であり、艦隊運動の軌範を担う自分は他の艦娘との接点が多い事から、その繋がりを期待しているのだろう。だが、姉妹を除けば懇意(こんい)とする間柄は非常に少ないのが現実だ。
「君に無理を強いてまで仲を取り持てと言う気は更々ない。戦闘の最中で感じた事はもちろん、疑点でも構わないのだ。気付いた時にそれを伝えて欲しい」
「お心遣いに感謝いたします。であれば、この場を借りて提督にお伺いしたい件があります」
戦闘に関する内容で良いという一言に、肩の荷が下りた神通は瞼を閉じて息を小さく吐き出した。そしてわずかな時間で思考を切り替えた彼女は提督に質問の可否を願い出る。
「遠慮は無用だ神通。包み隠さず君の意見を聞かせてくれ」
「ありがとうございます。では今回の出撃ですが、なぜ探照灯の使用を許可頂けなかったのでしょうか。夜戦での功用から、さらなる戦果を上げられたものと意見具申いたします」
提督の掲げる想いには全力で応えたい。それでも昨日指示された兵装の変更には腑に落ちない点があった。
「その件か。君にどう説明するのが正しいのか…」
提督は出撃前に神通が率いる艦隊を見送った際、一瞬だけ彼女が怪訝な顔を浮かべていたのを思い出す。
作戦伝達の折、説明なしに却下とだけ告げてしまったのは、抱いていた懸念をあの場で口にするのはどうしても憚(はばか)られたからだ。
しばらくの間、提督が深く考え込む様子を黙って見ていた神通だが、彼女の疑問はなぜ今回の夜戦では探照灯の持ち出しを止められたのかを知りたいという単純なものだ。
これまで命令に従い間違いがなかった過去を振り返れば、提督の指示には何かしらの意図があり、この難しい顔をさせてまで知りたい内容ではない。
「提督、無理にとは申しません」
次第に曇り顔へと変わりつつある神通を見て提督も考える。遠慮は無用と自らが発した言葉に従い、前に踏み出してくれたところに答えを窮(きゅう)するようでは、彼女の性格からして今後は身を引いてしまう恐れがある。
艦娘との関係を改善したいと打ち明けたその誠意を示すためにも、自らの気持ちを包み隠さず伝えるのが大切だろう。
「いや…。これは君たちに向き合うと決めた私が果たすべき責任だ」
眉間に寄せたシワを頭(かぶり)を振って追い払った提督が意を決して口を開く。
「昨日の掃討任務にあたり探照灯の持ち出しを却下され、さらなる戦果を上げる機会をふいにした事に対する不満もあると思うが、それは君の戦術を否定した訳でも、個人に対する嫌気でもない。全ては私の我儘だ。その理由を話そう」
「はい…」
「あの兵装のまま戦地へと向かわせれば、私は二度と君の顔を見ることが出来ないと判断したのだ」
提督の言葉に顔をしかめる神通。探照灯の使用による深海棲艦からの集中砲火。そのような危険は元から織り込み済みであり、示された答えだけでは耳を疑うのも無理はない。
「君の疑念は至極当然だ。今から話す内容はさらに人を食ったものになるが聞いて欲しい。昨日の朝、私は身の毛がよだつ感覚に襲われた。原因は目覚める直前まで見ていた夢にある。それは煌煌(こうこう)と辺りを照らしていた光が海原に埋没していくものだ。その光は幾度も暗闇から顔を出そうともがきはしたが、次第に小さく弱くなり、ついには水底へと消えていった。君からすればその程度のことかと笑い飛ばしたくもなるだろう。しかし、私は過去の出来事からこの夢がこれから起こりうる結末の一つだと言える確信があった」
提督の夢に現れた光。その正体を自分が使う探照灯に結び付けた縁起の悪い夢と理解はできても、納得のいく答えにはならない。だが、悲しみを映す提督の瞳と、ゲンをかつぐ以外にも別の事由があるのを知った神通は、静かに耳を傾け次に続く言葉を待った。
「まず最初に夢を見たのはこの鎮守府で指揮を執る前の話だ。同じように夢を見た私はその時はさして気にも止めずにいた。しかし、ある日送り出した艦隊の一つと連絡が途絶える事態があり、彼女たちが無念の最後を迎えた事実を調査の結果で知ったのだ。その時はまだ夢の内容を結び付けるまでには至らなかったが、私はそのすぐ後にも艦娘が沈んでいく夢を見た。しかもそれは前回よりもハッキリと瞼に焼き付く鮮明なもの。この不吉な夢の内容を出撃する艦娘に伝えると、彼女たちは細心の注意を払い、その状況に陥れば撤退すると約束をしてくれていた。だがそれでも結果は変わらなかった…」
そう言葉を終えて下を向いた提督。神通が釣られるように視線を落とすと、いつの間に握り締めていたのか、震えるように拳を戦慄(わななか)せる姿がそこにある。
「今でも不意にあの時に夢で見た沈みゆく彼女たちの苦しむ顔が、断末魔の叫びを連れて瞼に浮かぶ時がある。それも全ては私の無力が元凶だ。然(しか)るべき報いといえよう」
その胸中にはきっと様々な感情が渦巻いているのだろう。俯きながら自らを責める提督は、昂る気持ちの決壊を抑え込もうとしているのか、歯を食い縛ったまま鼻を啜(すす)る姿がとても痛痛しかった。
あまり感情を表に出さない提督がここまで…
少しの間を置いて、呼吸を整え直した提督が再び顔を上げる。伏していた時には気付かなかった赤く充血した目を見詰めながら神通は案じていた。提督の過去。これは封じていた記憶を呼び覚ます、触れてはいけない心の傷だと。
「すまない。話が途切れてしまったな…」
まさか、あの質問からこの流れになるとは思ってもいなかった神通だが、提督にここまでの話をさせてしまった以上、中途半端なところで邪魔をする気はない。
「こうして二度目の過ちを犯した時に、この夢に抗わなければならないと判断した私は、艦隊の人員を変え対抗してきた。幸いにも功を奏しているのか、この鎮守府へと赴任してから今日まで轟沈者は存在しない。今回の出撃に関しても夢を理由に君を作戦から除外し、別の人員を割り当てることも考えた。だが、負傷者が多いこの状況下で、君に代わり部隊の一翼を担える者を選出する余裕がなかったのだ。故に君から申請があった探照灯の持ち出しを却下してまで戦術を変える必要があった。これが私が下した判断の全てだ。何か思うところや、他に尋ねるべき事はあるだろうか神通」
思い返せば過去にも何度か出撃の直前になって、不可解な人員変更や部隊の差し替えがあった。提督の話を信じる信じないは別として、その考えに基づいた変更であれば辻褄が合う。
「他……ですか。であれば、提督は明言されていませんでしたが、夢の中で私が沈む時に見せた戦い振りはどのようなものだったのでしょうか?」
まさか自分の死に様を尋ねられるとは思っていなかったのだろう。提督はどこか申し訳なさそうな顔をした。
「君は深海棲艦の攻撃を一身に受け、苦悶の顔を浮かべながらも攻撃の手を緩めなかった。最後まで前へと進む事を諦めようとしない、その姿はとても神通らしい武者振りだった」
「お答え頂き、ありがとうございます」
礼をした神通が姿勢を正すと両肩に置かれた提督の手。肩口から二の腕に掛かる指先には力が籠っている。
「私が艦娘との関係を改善する上で、君たちと活発に意見や考察を交わせる環境を構築し、戦闘における負傷者を減らしたいと伝えたのも、今回の出撃があったからだ。正夢とはならずに済んだが、危ない橋を渡るのはこの限りにしたい」
自らの弱さと過ちを打ち明け、今後に向けてを真剣に語る。提督は本心から艦娘を心配いるのだ。言葉以外にもその仕草から込められた情動が伝わってくる。
「私は…昨夜の無線で帰投に就く君の声を聞くまでの間、実に気が気でなかったよ。よく無事に帰って来てくれた神通…」
言葉を終えた提督が見せる安堵の顔。普段なら近寄り難くさえ感じる鋭い瞳が穏やかに、真一文字に閉じられた口元も柔らかく上がっている。神通は初めて向けられたその頬笑みに、頭の天辺から爪先までを衝撃が駆け抜けていった。
何よりの駄目押しは、最後に顔を寄せて耳元で告げられた一言。
「大切な君を失わずに済んで良かった」
理解をしたつもりでいても、目の前にいる提督の昨日までとは丸で異なる態度。頭の中で木霊するセリフに、齟齬(そご)を生じる神通の意識を少し遅れて押し寄せた激情の渦。畏敬、驚嘆、法悦、様々な感情の支流が絡み合い、本流となって躰を支配する。
ああ…、提督がこんなにも私を気に掛けて下さっていたなんて
瞼を閉ざして感佩(かんぱい)を心の奥底へと刻み付ける。この瞬間を忘れる事はないだろう。
提督 提督 提督ッ 提督ッッ
そして神通の中で目覚める、深く感じ入る感謝だけには留まらない情念。
「平気か神通?」
自らの名前を呼ばれ現実へと引き戻された神通は、惹かれるように声の主を見上げていく。
絡まる視線と、掴まれた肩に食い込む指先の感覚を意識するだけで躰が火照ってしまう。乱れる呼吸が頭の中でやかましい程に響き渡り、激しく打ち付ける鼓動で胸が張り裂けそうになる。
「提督、痛い…です」
「すっ、すまない」
神通の言葉に慌てて肩を揺さぶっていた両手を離した提督だが、不測の事態にその発言の意味にまで気付く余裕はなかった。仮に提督が渾身の力を込めて握り締めたとしても、艦娘である神通にとって痛みを伴うものではない。
「いえ…。私の方こそ取り乱してしまいました」
自らの躰から離れていった提督の手を名残り惜しそうに握り直して神通はうふふと笑う。
「提督のお気持ち確かに頂戴いたしました。神通はより一層の忠節を誓います」
「あ、ああ…。この突拍子もない話に理解を示してくれて助かる」
ひとまず話を終えたつもりの提督だが、重なる手の平が離れていく素振りはない。神通の反応から微妙な認識のズレを感じつつも、彼女が醸し出す雰囲気に気圧されていた。そんな状況がしばらく続いたのを見兼ねてか、提督の背後から声が届く。
「提督、お話しが終わったようなので失礼します。時間が押していますが、次の予定はどうされますか?」
その呼び掛けに振り返り、見交わす視線で提督は理解した。そして、渡りに船とばかりに彼女の話に便乗する。
「そうだったな。思った以上に長話となってしまったが、食事はまだ間に合うだろうか大淀」
「ハイ。当初の予定からはかなりズレ込みましたが、今ならばまだ。加えて言えば、神通さんがご一緒して頂ければ、より心強いかと」
大淀の向ける笑顔に気が付いた神通は、繋いでいた手をすぐに離した。提督だけに目がいってしまっていた自分が取った行動を間近で見られていた事に、顔から火が出る程に恥ずかしい気持ちが込み上げてくる。
「神通。私たちが廊下で会ったのも、元々は食堂へ向かう所だったのだ。大淀の提案だが、今の私が皆にどう思われているかを改めて確認する試みになる。その目的は別として、良ければ君も朝食を共にしないか?」
こうして二人から誘われる形で食堂へと向かうことになった神通は廊下を歩きながら、ついさっき自らに起きた出来事を心に浮かべていた。
私の中にこんな感情が眠っていたなんて…
つい目で追ってしまう提督の背中。平静を装ってはいるものの、躰の内から湧き上がる熱病に悩みを忍ばせる。そんな彼女の戸惑いをよそに、前を歩く提督は先程とは違い意気高らかに先頭を進む。
大淀だけでなく神通まで…
自らの提案に協力すると言ってくれる二人の存在。あまりの幸先の良さに、提督の足取りも軽くなるのであった。
たどり着いた入り口を前に、足を止めた提督が独白する。
朝食の時間を迎えて開かれた引き戸。食堂として解放されたホールからは、がやがやと活気のある声が聞こえていた。
「ではいくか」
後ろを振り返ると頷く二人。その姿を確認して提督は足を踏み入れる。
賑わいを見せる食堂の中、出入り口から一番近い食卓に備え付けられた椅子に腰掛ける一人の少女。
目じりの下がった幼く優しい顔立ちに黒髪のロングヘア。セーラー服に身を包む姿は、はたからすれば清純な女学生にも見紛う駆逐艦艦娘。綾波型十番艦の潮である。
今、彼女は目の前に座る友人が続ける話題に少し頭を悩ませながらも、ひたすら聞き手へと徹しているのだった。
「あのクソ提督ったら、一体何を考えてるんだか。ホンット、どれだけ輸送任務でこき使うのよ…って。潮、聞いてる?」
潮を問いただすのはお揃いのセーラー服に長い髪をサイドテールでまとめた姉妹艦の少女。綾波型八番艦の曙だ。吊り上がった目とその口調からも分かる通り、強気な態度を全面に打ち出す彼女だが、常に潮を気に掛け、絶えず傍(かたわ)らで励ましてくれる頼もしい存在である。
先に朝食を平らげ話に花を咲かせる曙と、ゆっくりと食事を続けながら聞き手に回る潮。この姿は毎朝の見慣れた光景だ。曙が自分とお喋りをしてくれるのはとても嬉しい。嬉しいのだが、潮はこの手の話題を苦手としていた。
出撃をした後、決まって提督の文句を並べる曙。その言葉が本心でないのは長い付き合いから分かっていても、聞かされる立場としては余り気分が良くないものだ。
食事をしっかりと噛んでいる間くらいは、少しでも意識しないようにと瞼を閉じていた潮はコクリと喉を鳴らしてから応える。
「そんなこと言っちゃ…!?」
歯止めが効く内に止めさせるべきだと、目をしっかり開いて曙を見詰めようとした潮。だがその瞬間、自らが捉えたゾッとする映像を前に言葉を詰まらせてしまった。
瞳を閉じる前の記憶は、自分の向かいに居たのは椅子に座る曙だけだったはず。それなのにこの状況における最悪の人物が彼女のすぐ背後に立っていたのだ。これならいっそのこと、幽霊でも見た方が怯えるだけで済んだ分マシだったのかもしれない。
「う、うし…」
「どうしたの潮、顔色が悪いわよ大丈夫?」
曙は背後に佇む人物の気配にはまだ気付いていない。食事の途中で急に体調を崩した潮の姿を気にかけ、青ざめた顔で震える妹の躰を心配した。
そんな時、場内をぐわんと揺らす大音声(だいおんじょう)が上がる。
「敬礼!」
辺り一面のざわめきを一瞬にしてかき消すのは号砲に勝るとも劣らない迫力に満ちた声。その主が椅子を倒して立ち上がる姿に驚きの視線が集まっていく。
精悍な顔立ちに偉容(いよう)を誇る態度を示すのは長門型一番艦として生を受ける戦艦長門。多くの艦娘にとって憧れの存在である艦隊のまとめ役を任される彼女は、自らの視界に提督を捉えるとすぐさま全体に警鐘を鳴らしたのだ。
号令が掛かるその時まで、楽しい食事の時間を満喫していた艦娘たち。その多くは昨夜無事に作戦を終えたことに安堵の息をつく者たちだが、自らの在籍する鎮守府が標的である深海棲艦を撃破した最大の功労者だという事実に浮かれていた者もいる。
その最中で自分たちを統括する立場である長門が掛けた号令。彼女が見詰める一点先を追うように視線を向けた艦娘たちは、その顔を土気色に染めるのであった。
なぜ提督がここに?
これが多くの艦娘の心を代弁したものである。提督が食堂を利用したのは着任当初のみであり、それも両手で数えられる程度。決まって大淀が食事を運ぶ姿を見かけていた艦娘たちは、今さら提督が食堂を訪れるとは考えが及ばず、気付くのが遅れてしまったのも無理はない。
慌てるように席を立ち上がるものが続出し、食堂が騒がしい音で包まれたのも束の間。長門の命に従う艦娘たちによって、今はピタリと静まり返っている。
艦娘一同からの敬礼を受ける提督が右から左へと視線を移して見回せば、誰しもが緊張の面持ちであった。偶然目が合った艦娘の中には、明らかに怯える様子が見てとれる者もいる。
大淀の言っていた現状を知るとはまさにこの反応だ。艦娘との接点を避けるべく、限られた者のみに執務室への出入りを制限し、よほどの作戦でなければ見送りさえしない。そんな薄情な態度でこれまで彼女たちを蔑(ないがし)ろにしてきたのだ。
当然の報いだな…
始めに二人が力を貸してくれた事で、どこか浮かれていた提督は現実をまざまざと見せ付けられるのだった。
答礼で応えた提督が右手を下ろすのを確認した長門が発した『なおれ』の合図。その後も自らに向けられる視線を比べてみれば、大淀や神通のように日頃から接点がある艦娘とそれ以外の艦娘で反応が大きく二つに分かれている。そしてより重要なのはやはり接点を持たない艦娘たちへの対応だと確信した。
私がこの鎮守府へと配属が決まる前、短い期間ではあるが前任である提督が解職され、責任者が不在となる期間があった。着任当初の施設の惨状や、残されていた記録を紐解けば、前任より不当な扱いを受けていたのは明白である。
いや、そのような事をわざわざ調べずとも、初めて彼女たちに会った瞬間からその表情で私は気が付いていたはずだ。ただ我が身の可愛さを優先する余り、彼女たちと向き合おうとせずに今まで見て見ぬ振りを続けてきた。
あれから三年を経て成し得た事といえば、各施設の修繕など生活面における居住性や利便性を向上させたに過ぎない。
恐らく提督という存在に対する評価は前任からあまり変わってはいないだろう。彼女たちにとっての提督は未だに日常を脅かす余所者(よそもの)でしかないのだ。
いずれは大淀や神通のように自らの気持ちを打ち明ける必要はあるが、この人数をいきなり相手にするのは無理がある。まずは本来の目的である艦娘たちの反応を確認すべきだ。
「皆、おはよう。まずは昨日までの長きに渡る大規模作戦を無事遂行できた事に心より礼を言う。知っての通り一部の保安任務を担当する者以外は休みを通達しているので手短に話を済ませよう。まず、私が食堂を訪れたのは抜き打ちでの監査などを行うためではなく、食事に来ただけだと理解してほしい。なお、今までと違い今後は食堂を定期的に利用するつもりだ。追って掲示は行うが、特別な場合を除いて食堂における私への敬礼を不要とする。それでは皆、自由にして食事を続けてほしい。以上だ」
大淀の言っていた任務を終えた艦娘への労いの言葉を添えるという提案だが、彼女たちの表情から心の機微を察するのはまだ私には厳しいと思われる。
誰も椅子に座る素振りがない以上、自分が動いてこの雰囲気を終わらせるしかない。そう考えた提督が足を上げて一歩を踏み出そうとしたその時。
「コレッ、いただきィ!」
わざとらしく声を上げて、向かいの皿に乗ったウインナーに手を出す少女。大きな声を発し周囲の目を引いてみせたのは川内だった。
この流れの中で唯一察知できたのは妹を気遣う姉のなせる技だろう。
提督の後ろに佇む神通が発する威圧的なオーラ。彼女としては提督の言葉に従いなさいと睨みを利かせたつもりでも、川内を除く艦娘たちは彼女の目力を前に勝手に動くなと解釈違いを起こしていた。
「ず、ずるいですよ。川内さ〜ん!」
どこか芝居がかったオーバーリアクションでテーブルから乗り出した青葉が川内の肩を揺さぶっている。
そんな呆気にとられる状態から我に返った艦娘たち。急いで提督に視線を戻したがもうそこには居ない。慌てて周囲を探してみれば、大淀と神通を連れてカウンターで話し込む姿に胸を撫で下ろした。
だが、提督が存在する空間。この感覚を受け入れられる者はまだ少ない。食事をひたすらかき込むことに全力を尽くした彼女たちは、その味を楽しむ余裕もなく、そそくさとその場から逃げ出していく。
提督たちが注文の品を待つ間にも艦娘たちが一人、また一人と席を立ち、返却口で食器の片付けを終えると足早に食堂を後にする。これは提督からしてみれば悲惨な結果といえるはずだ。
「大淀。君の助言には本当に助けられている。頭が下がる思いだ」
それでも彼女たちを見送る提督の表情は、困惑を浮かべるどころか晴れ晴れとした顔にすら見える。
「いっ、いえ! 私はただ…、その…。こちらこそ、ありがとうございます」
まだ慣れずにいる提督からの感謝。それに対して大淀はとっさに返す言葉が見当たらない。食堂への訪問はなんとなくその場の勢いで口にした提案だった事もあり、どこか後ろめたさを感じつつも胸の高鳴りを受けて赤く染まる頬に戸惑いを覚えながら頷くのだった。
「食事を終えた後、先程の対応に関する君たちの意見を尋ねたい。神通、昨夜の作戦からその足で振り回すのは心苦しくもあるが、この後も付き合ってはくれないか」
「勿論です。提督のお役に立てるのであれば、いくらでも構いません」
「ありがとう」
落ち着きなさい…
提督の喜ぶ顔を見て感情が溢れ出しそうになった神通は執務室での暴走を思い出す。その昂りを押さえ込もうと、頭の中で『心頭滅却』をひたすらに唱え続けるのだった。
「提督、注文が来たようです」
丁度良いタイミングで神通の鼻が香ばしい匂いを捉えた。彼女の視線を追うように提督が顔を向けたその先では、栗色の長い髪をリボンでまとめ、割烹着に身を包んだ細身の女性。この鎮守府で調理全般を請け負う食堂の責任者。給糧艦の間宮がお膳を詰んだカートを押してカウンターに姿を現す。
一見(いっけん)すれば大人びた女性の印象を醸し出す彼女だが、随所で見せる何気ない仕草はどれも微笑ましい。先程も厨房からパチパチと油が弾ける小気味好いリズムに乗って鼻歌が聞こえていた。
軽やかな動きで、てきぱきと準備を進める間宮。艶のある白米に味噌汁。おろしを添えた鮭の切り身と漬物の小鉢がお膳に並ぶ。
「食欲をそそる良い匂いだ」
「ふふっ。匂いだけかもしれませんよ」
「君の料理はどれも絶品だからな。疑う余地もない」
「あら、お上手。でしたら是非、温かいうちに召し上がって下さいね」
口元に手を当ておどける間宮。
「そうだな。せっかくの料理が冷めてしまっては勿体無い。今後は頻繁に顔を出すつもりだ。宜しく頼む」
「はい。お待ちしています♪」
座席に向かう三人の後ろ姿を見送った彼女は先程の提督の言葉を受けて、にへらと笑みを浮かべていた。その喜びは自分の調理の腕前を褒められた事だけではない。着任直後に食堂を利用したのも束の間、すぐに姿を見せなくなった提督がまた足を運んでくれると約束してくれたからだ。
間宮にとって提督は前任の行いにより機能不全に陥った食堂に救いの手を差し伸べてくれた恩人でもある。
彼のお陰で各施設は見る見るうちに修繕され、食堂は見違えるほど綺麗な場所に。配給される食料も鎮守府の功績を踏まえてか次第に増え、お腹を空かせた艦娘たちに何も与える物がないと打ちひしがれる事もなくなった。
あの時と同じ場所に立つ今の自分がどれだけ幸せな毎日を過ごしているのかを実感する一方で、その恩に報いる機会をひたすらに待ち望んでいた彼女。
ただ、提督が食堂に来なくなった原因が自分にあるのかも知れないという考えを否定できずにいた。
間宮は過去に陳情を上げるために執務室を訪れた事がある。結果的には承認を受けたが、あの時のどこか冷たくあしらうような態度を思い出すと疑いは膨らんでいく一方だった。
だが今日の提督は注文を受けた時の印象から違っていた。以前の彼であれば要件を除けば向こうから声を掛けるなどありえない。まして冗談まじりの雑談に花を咲かせるとは夢にも思わなかった。
何が提督をここまで変えたのか、間宮にそれを知る術はない。それでも一連の流れに追い風を感じる間宮は、喜びの余りにくつくつと肩を震わせていた。普段の明るく朗らかなイメージと掛け離れていたとしても、それを指摘するのは少し酷な話だ。
自分の作った食事を食べる提督の姿を目で追いながら、心を奪われたようにうっとりと頬笑む。そんな彼女を我に返らせた厨房に響き渡る良く知る声。
「間宮さ———ん」
「伊良湖ちゃん、どうしたの〜?」
どこからか聞こえる自分を呼ぶ声に辺りを見回せば、返却口に溜まった食器を洗い場まであたふたと運ぶ少女の姿が見える。
「もう洗い物がいっぱいですー」
今にも泣き出しそうな声を上げているのは同じ給糧艦として食堂で働く伊良湖。間宮とお揃いのリボンを使いポニーテールに髪を結び、和風喫茶のウェイトレスを彷彿とさせる着丈の短い割烹着とミニスカートを合わせた可愛いらしい女の子だ。
「あら、大変」
提督が突然食堂にやって来た事で、多くの艦娘たちがいつもより早く食堂から引き上げていった。その影響で必然的に洗い物がどんどん溜っていったのである。
「伊良湖ちゃん。さっさとやっつけちゃうわよ」
伊良湖を助けるべく袖を捲った間宮が気合いを入れて洗い場へと向かうそんな頃、提督たちは各々の食事を楽しんでいた。
特に提督と大淀の二人はお互いにそれを強く感じているはずだ。昨日までの気を遣いながら黙々と箸を進めるだけの作業じみた食事から解放され、くつろぎながらその味を噛み締めている。
今なら執務室の隣にある休憩室でも同じような空気で食事を取れたであろう事を考えると、この場に居合わせた艦娘たちへの心苦しさを抱く提督。
ただ、それ以上に彼女たちの反応を肌で感じられたのは大きな収穫だと自分を納得させていた。
「提督。お食事中に失礼します」
「どうした、長門」
まだ食堂に残る艦娘たちの視線を一心に受けるのは、提督たちの来訪に逸早く号令を掛け、混乱を起こす前にあの場を収めた長門だった。
改ニとなった際に賜った黒のロングコートに身を包む彼女は艤装に頼らずとも凛然とした重みがある。
「どうしたではありません。いきなり食堂へ来られたのは、一体どのようなご用向きでしょうか」
落ち着いた声色で丁寧ながらも力強く詰め寄る長門。はたから見ても感じる圧力に対して提督が動じる様子はない。
「ふむ…」
相槌を打ちそっと箸を置く。その合間に横目を使った提督は、向かいの席で小さく頷く姿を受けて答えた。
「先程も言ったが食事を取るためにここへ訪れたのは本当だ。だが君から尋ねてくれたのは丁度いい。改めて伝えるべき話がある。朝食を済ませたら声を掛けるので、少し時間をくれないだろうか」
「わかりました。それでは食事が終わるのをお待ちしています」
そう答えた長門は提督の側を離れ、颯爽(さっそう)と自らの席へと帰っていく。しかしそのやり取りを見守る大淀と神通は見逃さなかった。立ち去る彼女が振り向きざまに溜息をついた瞬間を。
えっ、どうして…
長門がなぜ去り際にそんな態度を取ったのか、大淀は理解が及ばず当惑を隠せずにいた。
提督の補佐として毎日顔を合わせる自分を除けば、執務室を訪れる機会が一番多いのは彼女だ。余所余所しい所もなく、提督との話に実が入る姿からは嫌っている素振りを感じなかった。
そんな二人の関係を以前から知っている大淀は、楽観的に考えていたのかも知れない。提督に信を置く長門ならば、話をすれば直ぐにでも味方に引き込めると疑わずにいたからだ。
食堂へ向かう途中の廊下で神通が次は誰に話を持ち掛けるのかを提督に尋ねた時、彼の口から真っ先に飛び出した名前が長門。この鎮守府で次席にあたる彼女に筋を通すのは当然だろう。提督もまずは彼女に打ち明けようと考えていたらしい。
大淀が最初に選ばれたのは執務室での質問が思わぬ方向に進んだ事から始まる想定外の出来事だが、結果としてそれで良かったと提督は喜んでいた。
今、重要なのは長門の浮かべた表情にどんな意味が含まれていたのかであり、それを考える神通にも陰りが見える。長門が持つ艦娘たちへの影響力は提督の今後を左右しかねないものだ。彼女が拒否を示せば、後に続く者が増える恐れがある。
まさか提督と共にいた二人が自分のことで頭を悩ませているなどとは露程も知らずにいる長門。そんな彼女は席に着くなり腕組みをしながら『むぅ』と唸りを上げていた。
提督を前にしてはご褒美にあり付けないではないか…
この鎮守府の艦娘たちの間で『ご褒美』と呼ばれるのは、作戦終了後に慰労を兼ねて注文が可能になるちょっと贅沢な限定メニューを指している。
どれもほっぺたが落ちる程に美味しいと評判で、長門は食後のデザートを楽しみにしていた。それはもう遠足の前日を迎えた子供のように寝る前から心を踊らせていたと、姉妹艦であり同室の陸奥が後に語っている。
その最中で提督の来訪というイレギュラーな事態が発生してしまった。立場上そのまま無視を決め込む訳にもいかない長門が、念のため食堂に来た理由を探ろうと行動を起こした結果。自ら墓穴を掘る羽目になったのである。
提督と話した後では時間的にもオーダーは無理か…
楽しみにし過ぎたせいで、頭の中を埋め尽くして止まないデザートの誘惑からやっとの思いでケリを付けた長門。
真剣に考え込む余り俯いていた顔を上げると、まるで計ったかのようなタイミングで隣の椅子にドカリと腰を落とした艦娘がいる。
「ずいぶんと難しい顔をしているではないか。提督に何を言われたのだ」
誰だと顔を向ければそこに居たのは、人類の期待を背負い決戦の切り札として持てはやされる大和型戦艦。その二番艦を務める武蔵。
彼女の堂々たる振る舞いは長門に通じるものがある。だがその風貌は眼鏡を掛けた知的な顔立ちとは異なるとても野生的な見た目だ。躰に申し訳程度のサラシを巻いただけで褐色の肌を惜しげもなく晒(さら)す。どこか目のやり場に困る艦娘であった。
「長門さん。お隣、失礼します」
また別の方から声がする。後ろへ振り返ってみれば、武蔵の姉であり武威を持って双璧を成す大和型一番艦の大和。長門の隣へ上品な所作で腰掛けた大和がにこやかに微笑んでいた。
紅白の彩りを基調としたその服装は、優美なボディーラインを際立たせる肩出しのセーラーに、スラリとした美脚を覗かせるミニスカート。艤装を背負えば艦娘最大の砲火力を誇るのは勿論。名は体を表すの通り大和撫子の言葉がピタリとはまる才色兼備の淑(しと)やかな女性だ。
この鎮守府における最大の戦力を担う二人に両側を固められた長門が煩わしそうに口を開く。
「話があるから待てと言われた。それだけだ」
「ほう…。その話、私も一枚噛ませてくれ」
「お前は何にでも首を突っ込みたがるな。別に見世物ではないのだが」
「いや、決して茶にするつもりはない。むしろ不測の事態があったとして、この武蔵がいれば安心ではないか」
常に自信たっぷりで、飾り気のない性格はどこか羨ましくもある。
「あちらもお三方で来られますし、大和もご一緒したいです」
こちらへと近づく人影を伝える彼女が漏らした言葉。武蔵だけに留まらず大和がこの流れに便乗したことに驚いた。
「どちらにせよ私の一存で決められるものではない。提督次第だな」
「まあ、駄目だと分かれば大人しく立ち去るだけだ。なあ、大和」
「もちろんです。無理は申しません」
長門が席から立ち上がり姿勢を正すと、大和と武蔵もそれに併せて起立する。直立不動で構える戦艦組。
それを遠巻きから眺めていた者たちは提督の向かう先が長門だと知り、ただならぬ雰囲気を感じたのだろう。好奇心よりも身の安全を優先した結果。二人がテーブルを挟んで対峙する頃には、食堂は再び水を打ったような静けさに包まれていった。
「休暇の最中に手間を取らせる」
「構いません。ですが…」
周りの視線を気にしているのか、声を抑えて答える長門。
「どうした?」
「憚りながら、込み入った話であれば場所を移した方がよろしいかと」
日頃の会話の中心が作戦に関する相談や、鎮守府における伝達が主である以上、彼女の懸念はもっともだ。まだ艦娘たちが残る食堂で話が筒抜けになる事を危惧した上での発言だろう。
「君の立場を考えれば当然か。だが軍機に属するものではないので心配無用だ」
「それは失礼しました」
「さて話を始める前に、まずは席に着いてからだが…」
そこで言葉を止めた提督は空咳を挟みつつ長門の両脇に立つ二人を一瞥して続ける。
「参加は自由だ。君たちも座ると良い」
「お気遣いありがとうございます」
「いずれは皆に伝えるべき内容だ。問題ない」
頭を下げる大和にそう答えると椅子に腰を下ろした提督。だがその言葉は彼の後ろに控える二人にも併せて釘を刺すためのものだろう。ほんの一瞬だが眉根を寄せる神通の姿を武蔵は見逃さずに捉えていた。
キャラクター紹介
提督
鎮守府の運営能力は海軍内でも高く評価されている。
大淀(未改装)
鎮守府における事務仕事のほとんどを一手に引き受ける任務艦。戦闘は得意でないと見切りを着けて今に至る。何やら提督に協力したい一心から、戦闘への復帰を検討しているとかいないとか。
青葉(未改装)
艦隊新聞を発行するゴシップメーカー。楽しい思い出を残そうと、カメラのシャッターを切っている。まだ演習や近海への出撃で力を付けている段階。『青葉も活躍したいです』とは本人談。
川内(改二)
鎮守府の夜間警備の責任者を務める『夜戦のエキスパート』。高い戦闘能力を誇り一目を置かれている。硬軟両用の態度で空気を読むのがとても上手い。皆からも頼りにされる姉御的存在。
神通(改二)
駆逐艦などの教練を務める嚮導艦娘。その指導の厳しさは愛情の裏返し。なお自分には更に厳しい模様。姉の補佐から妹の衣装作りまでもをこなす。那珂ちゃん曰く『寝てる所を見たことがない』
那珂(改二)〔未登場〕
艦娘としての生活を送りながらアイドルを夢見る女の子。休日は近くの街に残る人々を訪問(地方巡業)していたりも。出撃中もマイク(探照灯)片手にリサイタル。艦娘はバイト。
潮(改)
ちょっと引っ込み思案だが穏やかに笑う優しい少女。発育の良さを気にしており、胸を隠すように猫背になってしまうクセがある。ぴょこんと反発する巻き毛を直すのはどうやら諦めたようだ。
曙(改)
意図せず余計な事を口にしてしまう時がある不器用な少女。活躍の場を望むのは過去の記憶の影響か。外出許可は主に釣りで使われている。『ボノたんは、釣り人界のツンデレラ』とは漣の弁。
長門(改ニ)
艦隊のまとめ役であり、その姿に憧れる者は多い。周りから堅い性格と誤解されがちだが、それは自らの立場をわきまえてのこと。駆逐艦が好きだと公言する同型の存在に頭を悩ませる隠れ甘党。
間宮
鎮守府の食堂を管理する責任者。その腕前はピカイチ。今の自分の立場に誇りを持っており、全力を注ぎ込んでいる。休日でも厨房に足を運んでは、つい手伝ってしまう頑張り屋さん。
伊良湖
鎮守府の食堂で働く女の子。間宮と鳳翔から指導を受けた腕前は、既に二人に引けを取らない領域まで達している。彼女たちが少しでも休めるようにと仕事へ励む姿は実に健気で愛らしい。
このSSへのコメント