【艦これ】叢雲/司令「明日に架ける橋」【2】
小説形式です。
横須賀のおとなりの、小さい泊地のお話。オールディーズ好きな司令は、今日もレコードをかけながら部隊を運用します。 第二話として完結しました。
《前回》
【艦これ】叢雲/司令「明日に架ける橋」【1】
《章ページ内リンク》
幕開 1章 2章 3章 終幕
SSとはなんぞや、とばかりに地の文まみれです。ご了承願います。
ついでにいうと弩級シリアスです。
展開上、オリジナルな要素がわさわさでてきます。許せない方はごめんなさい。
青葉の短パンに手を入れてかじかむ両手を温めたいです。
登場人物と所属艦娘(個人的に使っていたものなので見づらいです)(直すとは言わない)
まだ登場していない艦娘も書いてあります。それに、ざかざか更新されます。
ネタバレもありますが、展開に影響を与えなければ記載します。気になる方はスルーを願います。
ちなみに記載したキャラがすぐ出るとは限りません。
あくまで目安程度です。
【大本営】
〔連合艦隊司令長官〕
--
〔司令長官付き〕
飛龍 蒼龍
〔所属〕
香取 鹿島
【富津泊地】
〔司令官〕
清水
〔所属〕
■重巡洋艦
古鷹 青葉 熊野 足柄 摩耶
■軽巡洋艦
夕張 木曾 能代
[異動組 横須賀→富津]
川内 神通 那珂
■駆逐艦
叢雲 涼風 三日月 夕立 山風 秋月
[異動組 横須賀→富津]
卯月 初雪 曙 浦風 島風
■水上機母艦
[異動組 横須賀→富津]
千歳 千代田
【横須賀鎮守府】
〔司令官〕
森友
〔所属〕
■空母
加賀 赤城 雲龍 天城 葛城
■軽空母
瑞鳳 飛鷹 隼鷹
■戦艦
大和 長門 金剛 比叡 榛名 霧島
■軽巡洋艦
大淀 北上 大井
■重巡洋艦
高雄 愛宕
■駆逐艦
暁 雷 電 黒潮 綾波 時雨 不知火
[異動組 富津→横須賀]
ヴェールヌイ
■潜水艦
伊168 伊8 伊19 伊58
■潜水母艦
大鯨
【主計】
八木
【陸軍】
カーペンターズ
他
多分にいたらない事があるかと思います。アドバイスなり、ぜひよろしくお願いいたします。
また、なにかご不明な点がございましたら遠慮なくご質問ください。
司令室には音をかすらせたレコードが流れる。背中を焼く陽はまだ熱く、窓から入ってくる潮風はだいぶ冷たくなった。1800を過ぎれば陽も沈み、わがもの顔で水平線にあぐらをかいていた入道雲も薄くちぎれ、空を遠くした。数日前の台風以降めっきり秋めいてきた富津泊地は、隙間風と家鳴りが、眼前の冬を感じさせる。
さだまさしの私花集B面が秋桜を歌い終わったところでぷっつりと音が途絶え、富津の責任者である清水が顔を上げた視線の先には、日替わりで当番を頼んでいる艦娘が、鼻歌まじりにレコードを変えていた。
「おい、せめて『主人公』を聴かせろ」
青い髪が秋風になびき、彼女の羽織った薄いカーディガンもそよぐ。
横須賀から異動してきた浦風は、勝手知ったる我が家とばかりに、眉根を寄せて唇を突き出す。
満面の渋顔。
「こんなん聴いとったら気が滅入るけぇ、ただでさえこの時期はうら寒いんじゃから」
レコードを変える手際よく、流れてきたのは泣きのエレキギター。フォークと呼ぶには騒がしいしゃがれた声でプレーヤーは歌い出し、スピーカー前の彼女は足でリズムを取り始める。
「お前も気にいると思ったんだがな。……拓郎か。この曲も気が滅入らないか」
「かァーっ、わかっとらん、わかっとらんな提督。過去に犯した過ちを抱えて、けれど意地張って生きようとする男の生き様じゃろう」
自分の体を抱きしめて、うっとりとした表情を浮かべる姿を見つめていると、父性なのか呆れなのか、とにかく隠せない苦笑いに口元がゆがんだ。清水の趣味のせいで、彼女の趣味もまた、古臭いものになっているのだろう。
「お前はダメな男につかまりそうだな」
ジャケットを片手に半身で振り返った浦風が、片眉を吊り上げて、とてもねっとりした視線を送る。
「ひとつやふたつ、スネに傷がある男のほうが女の気を引けるんよ。提督はずいぶん綺麗な足をしていそうやね」
ため息ひとつ、やぶへびである。秘書をたのむのは二度目だが、司令室には毎日のように入り浸っている。浦風に限ったことでなく、娯楽がまったくと言っていいほどない基地だから、たまに取り寄せる本と、ここに置いてあるレコードぐらいしか退屈を慰めるものはない。最近では詰所と入居ドック、食堂に脱衣所と、いたるところに夕張が複製したプレーヤーが設置されて、どこに行っても音楽が流れている。清水自身は過ごしやすい反面、艦娘たちのようなうら若い少女たちは満足しているのだろうかと首を捻ることもある。
夏の終わり頃から夕張は、吹っ切れたように工廠から廃材をもらってきて何かしら手いたずらをしていた。もちろん仕事をこなした上なので言うことはないが、元来こう言った精密作業が好きなようで、司令室に置いてあるプレーヤーを複製し(針だけは取り寄せたものをつかっている)、おまけにオートチェンジャーとリピート機能を増改造するということまでやってのけた。時には夜っぴて作業をしているようで心配したこともある。しかし、自分の作ったもので皆が楽しんでいる姿を見ている時、彼女は一番いい顔で笑うのだ。そんな顔を見てしまえば何も言えない。
「人が好きィーやけ、ネー」口ずさむ彼女のぴったりした七分丈のジーンズがリズムに合わせてふとももの震えをあらわし、組んだ腕はカーディガンの上からでも体のラインを強調させ、幼さ残る顔の造形と比べて成長著しい体は、例えば三日月に比べると高校生と小学低学年程度の差が感じられた。まこと彼女達の体の基準に不思議なものだ。
はずむ彼女の声と、年を取って渋みのでた拓郎の声がまざり、清水自身も足でリズムをとりながら、名残おしく目を書類に戻した。慣れとはすごいもので、あれだけ苦手だったことも、二ヶ月みっちり休みなしでこなしているうちに流れ作業に変わった。机をすっきりさせて一日を終えるのは気持ちがいい。日暮れは書類仕事はしないつもりでいるので、冬場は少しペースが落ちるかもしれないが。
シングル盤はすぐに鳴り止み、フェードアウトしていくエレキを最後まで追いかけて針を上げた浦風は「ええのう」余韻に浸る。艦娘に出身地があるのか知らないけれど、広島弁を使う彼女に『唇をかみしめて』は、何か郷愁に訴えかけるものがあるのかもしれない。満足して手近にあったレコードを三枚、四枚と適当にプレーヤーにセット、ようやく秘書机に戻った。
日暮れも近い。スパートをかけてしまおう。流れ始めた、毛色の違いすぎるポップな曲調と筆記のリズムが合わせていく。
深海棲艦というものがある。
数百万年、王座にあぐらをかいていた人類をあっさりと打ち倒した化け物である。母なる海から顕れたとされる者たちは、海だけでなく空すらも奪い、海を超えて栄えた人口を一気に減らし、各国に設けられていたインフラ設備(発電、港湾、空港施設。果ては河川まで)を軒並み破壊し尽くした。漁業に出れず、自給率の低い島国日本はまさしく滅亡寸でまで追い詰められたのだ。深海棲艦は奪った王座に座るのではなく、王座ごと消滅させるがごとく侵攻してきた。
平和な時代に生きれば精神に贅肉がつく。でっぷりと肥えた人らは栄養失調に陥った。精神の飢饉。こうなっては、右翼だ左翼だのはなく、とにかく抵抗をという民意に、自衛隊は再び『軍』の旗を翻す。しかし「自衛」という役割は変えず、国土防衛のための軍。受動的な鎖国状態である現状に、口をはさむ国などありゃしない。
地球上に顕われたものなら人類でも抵抗が可能、驕りを捨て切れなかった新生日本軍は、まさに強姦される処女だった。必死の抵抗はいきのいい獲物がここに在りと声高に叫んでいるだけで、まったく損害を与えられずに、ただただ攻められるまま、詰められ、撃たれ、爆撃され。沿岸の形が変わるほどに攻撃を受け、食料の自給自足すらもままならず、残飯生産量世界一位の国は肉体的にも飢餓になり、日本全国かつえ殺しの形が整った頃、彼女たちが顕れた。
艦娘。
オートチェンジャーが動き、一転ジャジーな曲に変わる。富津では出撃詰所でよく流されているもので、往年の喜劇スターが歌ったもの。浦風は小さい声で口ずさむ。清水も、口だけで歌詞を追う。「こ、い、し、い、家、こそ」歌っている時に声が変わる奴がいるが、浦風もそのクチらしい。鼻にかかった声が戦時の艦隊司令室に泳いだ。
人の増えた富津泊地の司令室には、ここ最近、ひっきりなしに客がくる。
大きな音を立てて開いたドアに浦風は飛び上がった。
「うーちゃんの青ぞベッ」
ただの板っきれに近いドアは勢いを殺さず、また派手な音をさせて閉まった先に一瞬、ピンクの髪のいたずら娘が見えた。
清水は小さく鼻をならす。
ふたたび、今度はゆっくり開いた向こうに、半べその卯月が立っていた。
「びっくりしたあ。うわちゃ、卯月、大丈夫?」
今にもこぼれ落ちそうな涙を瞳にためた卯月に駆け寄って肩を撫でる姿は、駆逐隊の母という言葉がしっくりくるほど、板についている。「うあはえぇ……」ぽろり、ひとつ涙が溢れて、浦風の胸に顔を埋めた。「あっ、ちょ、もう。も少しおとなしくせんと、提督さんの迷惑じゃろ?」困ったように笑う姿は、同じ駆逐艦とは思えないほどに大人びていて、自分も少しぐらいなら許されるんじゃないかと邪念を抱かせる。
清水の仕事は、彼女たちを戦地に送り込むこと。往時の人権団体が大騒ぎするようなことであっても、この時勢では美化されてしまう。ぜい肉をそぎ落とされた人類はもう、なりふり構っていない。
浦風のふくらみに一通り顔を押し付けて、まんぞくげに顔を離した卯月の鼻からは、横一直線に赤い線が走っていた。
「うわっ、うわわっ」
慌てた浦風が胸元を確認する。清水もつられて目線をやれば、しっかりと赤くシミがある。
「鼻血!」
「ぷぇ?」首をひねる卯月が鼻をこすればこするだけ、顔と手が赤くなっていく。そうして染まった手を見て、やっと慌てだした。
「提督、ティッシュ、ティッシュっ」
「おうよ。ちっと待ってろ」
二三枚引き抜いて、上むきに鼻をおさえている卯月の顔をつかんだ。小さな鼻の穴にはぬるりとした血が詰まって、奥から次々にあふれてくる。狙い定め、丸めたティッシュを突っ込めば、小さい鼻が限界まで押し広げられて、鼻翼がぱんぱんに膨らんで間抜けな顔になった卯月、自分でやるのと人からされるのではわけが違う。目を白黒させて、幼いながらに、今度は羞恥に顔を赤くした。
「ありえない、ありえないっぴょんっ。いいから箱ごとよこせっぴょんっ」
言っておいて、机に置いてあったティッシュ箱をむしり取り、部屋から駆け出て行った。
「……今年の台風はまだ終わらなそうだな」
開けっ放しのドアと窓が、良い道ができたとばかりに風をまっすぐに通し、冷えた空気に体が一つ震えて、日暮れがもうすぐそこであることを了解した。「そんなこといっとったら、一年中台風だね」けらけら笑って鼻血がべっとりと付いている胸元を引っ張り、それから眉を寄せて、苦笑いした浦風が言った。
「悪いが、服を貸してくれんか」
「上がってもいいぞ。もうそんなに仕事もないだろ」
「あー、それがな。スケジュールが全然で……。うちらとそっちと、なんとも難しくてなあ」
清水は大きくため息をついた。
「もうお前らが来て二ヶ月目だぞ。まだダメか」
「うちはともかくとして……。仲たがいしているわけでないんじゃけっど」
眉間にしわを寄せてこめかみをおさえる浦風と話していると、教員同士が職員室で生徒の扱いに悩んでいるようで、どこかちぐはぐな気分になってしまう。
「私の部屋のタンスの二段目。サイズは合わんぞ」
「すまんのう、駆逐舎はなにぶん遠くて。部屋に鍵はかかる?」
いたずらな笑みを浮かべて、試すようにさえずる彼女に、清水はわざとどっかと音を立てて椅子に座り、うっとおしがっているように顔を作る。
「鍵はないが、お前が信用してくれるならば、覗かないと約束しよう」
「ひひ、そうやって女に選択肢を与えるのは男らしくないなあ」
「早く着替えなさい。早くしないと、私が脱がせるぞ」
大げさにリアクションし、ちらりと服をまくった浦風を睨みつけると、「おお、こわいこわい」声が執務室横の部屋に消えていく。やはり舐められているのだろうか、と女所帯の肩身狭さにため息をもらしても、肩をたたいて同情してくれる男はここにはいない。
軍人の異動といえど、艦娘は名称の通りに娘である。横須賀の加賀のような妙齢から童女まで幅広く、この基地には若いを越して幼い艦娘たちが多い上、横須賀との提携で、さらに増えていくことだろう。相手は生身で多感な少女。人間関係のひとつやふたつ、うまくいかないのは当然と思う横で、横須賀の森友が送ってきたのはとりわけ面倒なやつらだったんじゃないか、と邪推するほど問題児が多い。反骨精神たっぷりなやつ、ゴム球のように自由奔放なやつ、出不精、酒飲み。資料上ではそれなりに実績があるとしても、自分に扱えなければ、ただ腐らせるだけだ。
さいわい艦娘の教育が得意な軽巡と、面倒見のいい浦風のような艦娘もいるのでなんとかなっているが、早く解決せねばならないのは第一課題だ。現状ではまだ、部下といえるほど、彼女たちを扱えている自信はない。
薄暗くなった室内に裸電球にかさをつけただけの照明をつけると、再度客が来た。
「第一水雷戦隊、演習から戻ったわ」
しっとりした服に口が開かず、歯の隙間から息をする叢雲が、両腕で自分の体をかき抱いて入ってきた。
「おう、おつかれさん。そろそろ暖房も容易しとかなきゃなあ」
着ていた軍服をかけてやると少しはマシになったようで、からだの震えは大人しくなり、頬の力が抜けて、いつもどおり秘書机に小さい尻を乗せた。夏の敗戦で焼けてしまった髪は、ようやく伸びて肩甲骨の上辺り。軽く活発な印象になったが、早く元の長さに戻って欲しいとひそかに願っていた。似合わないわけでなく、月明かりに輪郭が銀色に輝く彼女は、現実と思えないほどに美しかったから。
ちなみに叢雲は、秘書机に人がいる場合は清水の机に腰掛ける。
「うすめでお願い」
部下に飲み物を作ってやるのもおかしな話ではあるのだが、コーヒーも酒も、人に作ってもらったほうが美味いのだから仕方がない。自分に入れる半分ほどの粉を入れて湯を注ぎ、「むらくも」と油性マジックで書かれた色気のないマグを両手で受け取った叢雲は、熱さに口をすぼめて一息ついた。清水は冷たくなった自分のマグに今度は濃い目に淹れなおす。湯気立つマグをふたりで掲げて、彼女と同じよう、自分の机に尻をのせた。熱すぎるコーヒーが舌を焼く。
「そういえば」二口目をずずっと、ほんのり顔を赤くした叢雲が、鼻もすする。「卯月がティッシュ箱抱えてすっとんでったけど、なんかあったの」
「撃った銃口が自分に向いていたというか、なんというか」
意味わかんない、と目で訴える。「どうせまた何かやらかしたんでしょう」そう言ってまたコーヒーをすすった。
清水は悩みの種の一つである卯月について、初期艦である彼女に聞いてみたいことがあった。
「お前はあいつのこと、苦手に思ってたりするのか」
ずず、ずず。コーヒーと鼻水を忙しそうに交互にすすられても、ティッシュは持って行かれてしまったのだからどうしようもない。
鼻を赤くした叢雲は「ああ、そのこと」、曲に合わせて足をぱたつかせた。
「別に、かわいいものじゃない、ちょっと警戒心が強いだけで。言っておくけど、あの娘を邪険にしてる娘はいないわよ。異動組も、すくなくとも私の見てる限りだけれど問題ないわね」
「お前が言うならそうなんだろうなあ。……なんとも難しい」
「ふふん、あんたがうちの中では一番懐かれているんだし、がんばんなさいな。それよりも」
とん、机から飛び降りた叢雲は勢いのまま清水に迫った。肩から羽織った軍服が重そうになびいて、こぶしふたつ分の位置まで近づく。生乾きの服が、汗と海の匂いを濃くかもし、鳩の血のような瞳が影に光る。
「『お前』っていうのやめてって、何度言ったらわかるのかしら、このボンクラは」相変わらずの上目遣い。髪と同じ、白いまつげが赤を強調させる。いい加減彼女にこうやってにらまれることに慣れた清水は、鼻息ひとつ吐いて、その長いまつげを揺らした。「お前が『あんた』っていうのをやめるまでかな」
ガン、手に持ったマグを揺らさず、器用に足を踏みならして抗議されると、本当に自分に司令としての威厳はないんだなあとしみじみ感じる。叢雲はわりとはじめからこういった風であったからいまさらかもしれない。こちらも少々意地になってしまっているのはわかっているが、相手の呼び方を変えるというのは、はじめのとっかかりがなかなかに難しい。特に、相手が異性であるならばなおさらで、気恥ずかしさが先にたち、どうしてもふざけてしまう。べつに固執することでもないというのは分かっていてもだ。
「あんたがお前っていうのをやめれば、あたしもやめたげる」
毎度のやりとり。結局のところ、清水と叢雲はおなじ穴の狢。
「つまりはお互い様ってことだ。それよりも、演習の報告をたの」「えへへ、提督の服はぶちでかいのう」
そこへ、清水の部屋着をかぶった(着ているとは言いがたい)浦風が出てきた。
「叢雲、お疲れさん。いやあ提督、うちも言おう言おうおもっとったけど、女の子に『お前』はアカンて。ちゃんと名前で呼んであげな」
ふとももまですっぽり被さるシャツのすそを結びながらにらみつけられて、言葉に詰まる。叢雲ならばいくらでも言い返せるのに、浦風にたしなめられると不思議と逆らえない。けれど今は、ゆるい胸元からのぞく肌が非常に目の毒だ。
そのなさけない男の習性を見逃す叢雲ではない。
「お疲れさま。女の子に自分の服を着せるなんて、ずいぶんいい趣味してるのね」底冷えのする声でようやく目線をはずした清水が、目玉をとめずに目の前の少女を映すと、顔だけはにこやかに口が動くのを認めた。「浦風、気をつけなさい。司令に隙を見せたら、頭の中で素っ裸に剥かれるわよ」
思わず吹き出してコーヒーをぶっかけそうになるのをこらえ、出口を塞がれた液体が鼻に逃げてむせたが、対照的に本人はきょとんとした後、からから笑い、いたずらっぽく胸元を隠した。
「叢雲っ、おま、そんなことはない!」
女所帯でそんなことが広まれば仕事が回らなくなる。が、わずかな罪悪感が焦りを生み、虚を突かれた男の滑稽な言い訳が、余計に彼女たちを楽しませ、口を回らせて、さらに責めあげる。一度取り乱した男は目も当てられないもので、何ら厚みのない言葉がむなしく司令室にひびき、かしましい少女たちの声と飽和した。「俺はお前たちにそんな感情を抱いたことはないっ」「さっきのあんたの目線、真似してあげる」叢雲が背伸びして鼻の下を伸ばし、大げさに胸もとをのぞけば、浦風は顔を真っ赤にして大笑いだ、涙まで浮かべた。
こうなってはなにを言ってもからかわれるだけ。
無線のマイクを取り、詰所にいる誰かに向けて連絡を入れた。逃げの口実の、とにかく彼女たちの搦手からの脱出を図る。
「司令室から詰所。誰かいるか。……誰かっ」
哨戒の交代には早いのだから当然、用意のできていない詰所からの迅速な応答はなく、ただの一人芝居に、艦娘ふたりが腹をかかえて笑った。汗でぬるつく額に手を当てて、無線機のスピーカーが遅れて『おう、どうした、緊急か』木曾の声を伝える。こちらのマイクが伝えるのは大声量の笑い声。またからかわれているのか、木曾の呟きが聞こえてきそうなためいきが向こうから聞こえ、もはやどうでもよくなった清水は再度マイクを握り、やけくそに舌を回す。
「私も夜間哨戒、ついてっていいか」
返ってきたのは無情にきられた無線の、短い電子音。
限界かと思っていた笑い声がさらに大きくなった。
軍事施設といえども民間あがりの人間に海の男の艦隊勤務はあまりに負担がおおきいので、緊急時の対応をのぞく、富津独自の休日がある。本当ならば生活リズムを昔に合わせたかったのだが、雨がふるたびに休むのは下界のルールから逸脱している。日曜日。キリスト教に基づいた由緒正しき安息日。教会に行くわけでもなく、祈りをささげるわけでなく「周りの業者は日曜休みがおおかった」からという、いかにも日本人らしい性格で決めたものだ。
総員起こしの放送(当番ごとにかかる曲が変わる。今日は三日月がピートシーガーのヤンキードゥードゥルを流した)に起こされ、寝間着のまま自室を出れば、夜勤をたのんでいた青葉が、年代物のポロライドカメラの手入れをしていた。少し赤くなった目で、それでも慣れた笑顔を見せる。
「おお、司令官、おはようございますっ」朝から耳に突き刺さる高音にのけぞって挨拶をかえす。彼女はどのタイミングで会っても元気が良く、寝起きのような、頭がぼうっとするときに会うとなかなかに釣り合いが取れない。しおらしい瞬間を見てみたいものである。「問題は何かあったか」あくびをかみ殺しながら要点だけ聞くと、通信記録を1枚差し出された。流し読む。
「0146時頃、八丈島北東六五海里ほどで敵偵察部隊と交戦がありました。島風さんが小破するも、航行に問題はないようなので、そのまま行動をお願いしてあります」
「ううん……最近おおいな。先週もきてたろ」
「ですねえ。犬吠埼の詰所も、毎日のように深海棲艦をみかけるらしいですよ」
そうだ、最近、犬吠埼に艦娘が詰める場所ができた。基地と言えるような立派なものでないが、富津から向こうまで足をのばさずに良くなったぶん、じっくりした哨戒ができるようになったのでありがたい。所属は大本営から直接派遣されたり、よその基地で再起不能の傷を負った艦娘たちで、指揮は清水が卒業した学校の生徒と、本営付きの指導艦が担当している。敵の活動が活発になってきているので、森友の提案を強引に通した結果である。指導艦の中には、清水が恐れる香取も詰めているので、傷のある艦娘の部隊でも十分戦えるだろう。
あくびが一つ出た。ダメだ、今日は頭を使わない日なのだからしっかりと休めねば。
「くぁあ、了解。今日は難しいことを考えるのはよそう。顔洗ってくる、朝の哨戒部隊が出たらお前も寝なさい。お疲れさん」
「了解でーすっ」青葉の声を背中にうけてドアをあければ、ひりついた冷たい風が頰をなぜ、温まった体をかき抱く。見慣れた水平線からは寝ぼけた朝陽が顔を半分ほど出していた。
カルキ臭い水で頭を締めてぬるつく顔を洗い、流れで歯を磨く。毎日やっていることでも今日は机に座っていなくていいのだと思えば、憎らしい朝陽も美しい。わざとらしいミントの香りを感じたまま、ポケットに入れっぱなしのよれた煙草に火をつければ、濃いバニラ香が鼻腔に広がる。
さて、今日は何をしようか。煙を吐き出して朝陽に目を焼く。駆逐舎の増築に手をつけるか、それとも司令室と執務室を分ける設計に手をつけるか。道を整備して、コンクリートでも流そうか、レンガ敷きにするのもいい。それとも草刈り。夕張に手伝ってもらって、ストーブもつくっておきたい。せっかくの休みだ、寝ているのはもったいない。背中、首、腰、股関節、指と骨を鳴らして、唯一灰皿が設置されている吹き抜けの休憩所に足を運ぶと、起床時間すぐだというのに先客がいた。
「ん、おはようございます、提督」
千歳だった。ショートの髪は風にそよがずしっとりぬれていて、濃い石鹸の匂いと、裏にひっそり香る酒の匂い。「また徹夜か」彼女に対して風下になることを確認し、少し間を空けてベンチに腰掛け、灰皿の上で煙草を叩く。
「失礼な。ちゃんと寝ましたよ。アルコールが残っていたので抜いただけです」心外だ、とばかりに清水の太ももを叩けば、ぱん、いい音が鳴る。
「毎日々々よく飲める。私だって寝酒の一二杯は飲むが、べろべろになるまでは飲んでられん」吐いた煙が潮風にとけた。「ところで、富津には慣れたか」
「もう、顔合わす度にそればっかり。バリエーションに富んだ会話希望です」
「寝起きに風呂上がりの美女がいれば、そりゃあ緊張して頭も口も回らんさ」
「うふふ、お上手お上手。使いまわされた感がありますが」ずり、ずり、砂の擦れる音をさせて、ごほうびとばかりに寄り添われた。お互い寝間着のために、体温がしっかりと伝わり、凍みた体の触れている箇所が、千歳のほてった体温と同じになっていく。
「うちで唯一の航空戦力なんだから自重してくれよ」
「それも聞き飽きました。今日は千代田が当番だからちょっとぐらい、いいじゃないですか」
水上機運用に長けた艦娘の千歳と千代田は、横須賀からの異動組。航空戦力心もとない富津唯一の水上機母艦である彼女たちには、隔日で陸上から艦載機を飛ばしてもらい、近海の航空哨戒を頼んでいる。問題は姉の千歳が大ザルであることだが、今の所支障はないし、自分の仕事のある日は控えてくれるので、別段扱いづらいわけでない。
半ばを過ぎて辛くなった煙草をもみ消す。禁煙していた期間などなかったかのように煙草の毒はよくなじんで、おそらくこの仕事をしている以上やめることはない確信がある。
「さて」朝の日課を終えた清水が立ち上がって大きく伸びをした。せっかく温まった右半身が寒い。
「あら、もう行ってしまうのですか」
「そろそろメシ作らんと、育ち盛りのガキどもが騒ぎ始めるから」
「残念ながら育ちませんけどね。毎日ごちそうさまです」
「どうだ、口に合うか。横須賀はさぞ豪華なメシが出たんだろうなあ」ここは大きな基地ではないので、運ばれてくる物資もそれなりだ。そもそも手の込んだ料理なんかできるはずもないので、毎日代わり映えのしない料理なのが申し訳ない。
「確か横須賀にゃ、専属の料理人がいたよな」
「間宮さん。料理人というより給糧艦ね。でも、あれを基準にしてしまうのはダメですよ、異次元ですから、あの方の料理は。特に甘味です甘味、間宮さんの饅頭と日本酒の相性ったら!」
「甘いもんで酒飲むやつは、もう戻ってこれないぞ」
「ふん、別にいいですよーだ。提督のお料理は、うん。私は好きですよ、素朴で」歯に引っかかる言い方。確かに子供に人気なメニューは、一度挑戦して、個人的な問題から封印している。得意料理は地味なものばかり。つまみも、炙ったイカか塩があればいいのだから世話ない。「文句があるなら言ってくれ、それか手伝え」
「あはは、私お料理はちょっと。個人的には本当に好きなんですよ。だけど、あの、卯月が……」
ため息を吐いた。また卯月。
「だ、だいじょーぶです。ちゃんと言い聞かせますからっ」
ぐ、胸の前で拳を作ると、彼女のぱつんぱつんに張った胸に細い腕が食い込んだ。
卯月だけでないだろう。食というのは士気に密接に関わる。間宮や伊良湖のような給糧艦の存在も知っているし、艦娘の中には料理のうまいものもいるというが、立ち上げの流れのまま、富津基地の調理は清水が全て受け持っていた。そも、そう言った艦娘を建造している余裕が今はないし、大本営から派遣されるのも、激戦区の日本海側基地が優先なのはわかっている。八木にわがままをいうのも考えたが、いざというときに、本当に欲しいものが手に入らなくなる可能性は否めない。
仕事量も増えてきて、さらに着任している娘も増え続けているのだから、もうそろ調理も当番制を導入してもいいかもしれない。
日々のギャンブルも、士気を刺激するにはいい材料だ。
「そのことについては考えておこう。私たちは同じ釜のメシを食う家族なんだから」思いを込めて千歳の肩をたたくと、裏に隠れた嫌な気配を感じ取った千歳の顔はひきつった。
怯えた女性は可愛い、と思うのは、自分の心が汚れているからだろうか。
不気味に頷く清水の顔と肩に置かれた手を交互に見て、やがて「そうですね」と搾り出した声で肯定した。
「飽きたっぴょん」
引き寄せの法則、とはまた別だろう。噂をすれば影、瓢箪から駒、灰吹きから蛇、とにかく口に出したことが本当になるというのはよくあるもので、千歳との会話から一時間後の食堂、ついにいたずら娘の堪忍袋の緒は切れた。
「卯月、せっかく作ってくれとるんじゃけえ、めったなことは言うもんじゃないよ」珍しく真面目な顔で叱る浦風を無視して卯月は立ち上がる。「飽きた、あきた、飽きた! もうイヤぴょん! せめてお肉食べたい!」地団駄を踏んで、全身で不満を表している中、清水は一つ味噌汁をすすった。
今日は追いがつおに挑戦をしてみたが、なかなかにうまい出汁がでてくれている。
ご飯には大根を混ぜ込み、食感が楽しく、ほんのり香る辛味と風味がある。ちびっと醤油をたらして一口。うまい。米を飲み込まないうちに、昨夜漬けたぬか漬けのキュウリを一つ。まだ塩っ辛さが物足りないが、ぬか床もいい感じに育っている。多分、今日の夜には一緒に漬けたナスがいい具合になっているだろう。最後に味噌汁で口を洗う。うまい。
「司令官、聞いてるのおっ。うーちゃん怒ってるんだからねっ」
「ウインナーなら冷凍庫に入ってるぞ。焼けばいい」
「早く茹でろぴょん!」
浦風が落ち着かせようとしたが、一度火のついた子供の癇癪は簡単におさまるものではなく、どすどす、というよりはぽてぽて、といったオノマトペで迫ってきて、思い切り清水を睨み付ける。
「昨日の朝ご飯、覚えているぴょん?」
座っていれば同じ目線だ。ここで立ち上がるのは大人気ないし、してはいけない。
「卵かけご飯とぬか漬け」「昼ごはん」「菜めしとぬか漬け」「おやつ」「ぬか漬け」「夜ご飯っ」「炊き込みご飯とオオバコのおひたしとぬか漬け」「その炊き込みご飯にはお肉が入ってなかったことを覚えておけぴょん! で、今朝は」「大根飯とぬか漬け」矢継ぎ早の質問にも清水は動じず、的確に淡々と答えていき、答えれば答えるだけ、卯月の目は釣りあがっていく。
「ぬか漬けばっかっ。なんなの、司令官は修行僧か何かなのっ。ええい、違うぴょん。言いたいことはそうじゃなくて、一日置きに同じメニューを繰り返すのはやめるぴょんっ。どうせ今日のお昼は小豆ご飯とぬか漬け、夜は芋ご飯となんかの天ぷらとぬか漬けでしょ」
「いや、栗があるからな、栗飯だ。それに、今日のナスはきっといい具合に漬かっているぞお」頭を撫でてやると、今度こそ爆発した。
まあ、仕方ない。
「いい加減にしろぴょん! ここに来てから毎日かて飯とぬか漬けばっか。ハンバーグとかシチュー食べたいっ。さんまも食べたい、アジのお刺身も食べたい、アイスも大福もあんみつも食べたい食べたいっ」
何度もなんども地団駄を踏み、顔はどんどん赤くなっていく。清水は叩きつけられる不満をまっすぐに認めて、ただじっと、決して目をそらさずに聞いていた。
「せっかく来てやったっていうのに、ちょっとはおいしいもの食べさせてくれたっていいじゃんっ。うーちゃんの力が必要なんでしょ、だったらもっといい扱いしろぴょん! オンボロ基地なんて、なんにも面白いことないっ」
浦風がいい加減に落ち着かせようと立ち上がったのを目で抑え、最後の叫びが吐き出されるのを待った。
「もうやだっ、間宮さんのご飯食べたい、おやつ食べたいっ、暁と遊びたい、黒潮に会いたい、美味しいもの食べたいっ。こんなとこもうやだっ、横須賀に帰りたいよお!」
「卯月ぃ!」
食器や金属が震える音が聞こえるほど静まり返った中に、乾いた音が響いた。我慢の効かなくなった浦風に頭をひっぱたかれるという形で黙った卯月は間髪入れず、ガソリンをぶっかけたように激しく泣きはじめる。せっかくの休日が最悪な形で始まってしまったことに清水は頭をかいて、それから味噌汁を一口すすった。
「なんでそんなこと言うん。提督だってお仕事あるのに、うちらのために頑張ってご飯作ってくれてるんだよ。富津の娘もいい人ばっかじゃろ。わがままばっか言っとったらいけんっ」腕をつかめば振り払われ、暴れる卯月をなだめようとしても、えづくほどに全力で泣いているのを抑えるのはどだい無理な話だ。辛抱強く声をかけても意味はなく、他の艦娘たちは食事の手を止めて、音すら立ててはいけないような、緊張感あふれる場になった。
食堂はこれではいけない。もっと和気藹々した空気があふれ、楽しげな、用がなくてもつい居ついてしまう場所でなければいけない。基地の雰囲気は、組織の雰囲気は、ともに食事をする場所から生まれるのだから、そんな大事な場所が居づらい場所であってはいけない。いつも通り古鷹の正面に陣取った叢雲と目が合い、お手並み拝見、とばかりに味噌汁をすすったのを見て心の中で苦笑いする。異動組の一番の問題児。人見知りするせいで、清水の見ているかぎり、一度も富津の艦娘と話しているところも、遊んでいるところも見たことがない。それとなくほかの娘に聞いてみても「ごくたまにいたずらはされるけど話したことはない」というばかりで、見ているものと状況は変わらないのだろう。上官という存在は別なのか話すことはあるが、いつもそばには異動組の誰かがいた。浦風がスケジュールを組めずにいたのも、いざという時に行動できなくなる可能性があるからだ。戦力が増え、駆逐隊を組んだ際、あえて異動組だけで組まずに涼風を投入したのも、間違った采配ではないと清水は信じている。いつまでも前の住処に固執させるわけにもいかない。
ボルテージが上がり、もう一発かましそうな浦風の柔らかい肩に手を乗せる。
「事実だからもういい。つまらん食事しか出せんのは私のせいだから」
「でも頑張ってくれてるのに、卯月がわがまま言うのは、うち許せんっ」興奮した彼女の目は潤み、卯月と同じく顔を赤くしていて、普段隠れていた子供っぽさがにじんでいた。
「男やもめの生活が長くてな、ロクな飯が作れん。んで、そろそろ私もかて飯にも飽きてきたところだ。多分、口に出さないが同じことを思っている奴も多いろ。一つ、提案がある」
清水はなるべく音を出さないように立ち上がり、全員がこちらに傾注しているのを確認した。
こう見るとうちも大所帯に見える。
「料理も当番制にしようと思う」
視界の端で千歳が頭を抱えたのが見えた。今朝の怯えっぷりから予想はついていたが、どうやら本当に料理が苦手らしい。
人とは違う生まれ方、育ち方をしている艦娘の料理がどういったものなのか興味があった。給糧艦はうまいものを作る、料理がうまい艦娘がいる。これらの基準がわからない。もしかすると、うちの中にも、腕の立つ料理人がいるかもしれないのだ。このまま不満をため続けるより、食えないものが出てくるか、涙を流すほどうまい料理に出会えるか、賭けに出るのも悪くない。毎日味が変わればいい刺激にもなるだろうという、見切り発車の提案である。
「というわけで、後で表を作っておく、スケジュールの兼ね合いもあるしな。一週目はどんなもんか見ておきたいから、一食づつ、だが基本は一日の食事を全て受け持ってもらうぞ。食料は倉庫の中のもの、自分でとってきたもの、なんでもいい。食えなくてもマズくてもいい。自信がなけりゃ本だって取り寄せるし、米の炊き方ぐらいは教えてやれる。細かいことは今日の夕食までに決めておくから。もちろん卯月、お前もやるんだ」
しゃっくりを上げて、涙でぐしゃぐしゃになった目で見上げられる。
「で、で、でも、ぃぐっ、うーちゃん、りょ、料理なん、てしたことな、いぃ」
「知るか。誰かに教えてもらえ。それか、私がかて飯の炊き方と、ぬか漬けのつけ方と、ぬか床の管理の仕方を教えてやってもいい」
「ぜ、ったい、ヤ!」噛み付いてこれるなら大丈夫だろう。頭を撫でてやれば、にらみつけられこそすれ、払われることはない。「浦風もな」言葉をかけると未だ興奮さめやらぬ風で、不満そうに卯月を見て、言った。
「料理なら自信あるよ。けど、うちは提督が作ってくれる料理も好き」
「そいつは楽しみだ。私の当番が回ってくれば、またいくらでも作ってやるさ」気を利かせて言ってくれたのはありがたいが、自身が飽きているのだ。彼女だっていつかは飽きが怒りに変わるときがくるかもしれない。浦風の頭もなでてやると、こっちは逆に払われてしまった。子供扱いするんじゃないということなのか、単純にうっとおしかったのか。「そういうことだ、終わり。今日一日は我慢して、私のメシを食え」
清水の一言で、再び食堂に食器が擦れる音と、先ほどよりも大きいざわめきが戻る。どんなもんだと叢雲を見れば、彼女は千歳と同じよう、頭を抱えてうつむいていた。なるほど、清水は今度こそ隠さず苦笑いを出す。
まずい料理には慣れているつもりだ。誰も食えなくても、せめて自分の皿だけはきれいにしてつき返してやろうと心に決めて、ぬか漬けをひとつ口に放り込む。うまい。
仕事以外で頭を回すのは苦痛にならないもので、前に浦風が残業して出した一ヶ月分のスケジュールと調整し、日の暮れには表が出来上がった。清水の勝手な印象で、料理の得意そうな艦娘と、そうでなさそうなものを交互に配置してある。もちろん、自分もその中に組み込んであるし、例外なんてない、全員道連れ。
晩飯の仕込みをして(生米と剥き栗を釜に入れてかぼちゃの天ぷらの用意をするだけ)風呂に入り、熱い湯で顔を洗う。この建物を突貫で作ってもらった当初は、さすがに歪みがあって向こう側が湯船の真正面から覗けてしまったもので、いつか直さなければと思っていた矢先、いつの間にか板が打ち付けられていた。女性側から気づかせるのは申し訳ないと思っていたが、すぐに手をつけなかった自分も悪い。偶然とはいえ、実際に「見て」しまった叢雲が気付いていないことを祈るばかりだ。
体を洗い終わってもう一度湯船に足を突っ込んだところで、哨戒から戻ってきた娘らのかしましい声が、薄い壁を通して聞こえてきた。
神通、叢雲、三日月、曙、山風の富津第一水雷戦隊。一人でいっぱいいっぱいの男湯と違い、女風呂は広く作ってある。体の小さい艦娘たちならば、七八人入って、なお余裕だろう。盗み聞きしているわけでない、聞こえてきてしまうのが悪いのだと、清水が静かに物音を立てないよう湯船に浸かると、ちろちろしたかけ湯の音が聞こえてきた。
『くぁっ。この時期になると、熱いお湯は辛いわ』叢雲の声。
次に聞こえたのは、はじめの流水音の倍以上。気持ちのいい豪快さだ。
『私はもう少し熱い方が好みですね。あ、山風、髪の毛上げませんと』
『ん、んぅ。……ありがと』
横須賀の艦娘も、何も問題のあるやつらばかりではない。神通を旗艦とした第一水雷戦隊、那珂が旗艦の第二水雷戦隊、川内旗艦の第三水雷戦隊、川内型三姉妹は、劇的に富津の艦娘たちの練度を上げてくれた。自分たちが元横須賀の異動組というのを念頭に置いた上で、決しておごることはない。だからこそ旗艦に置いた時も、富津組からは純粋な祝福を受けていた。やはり、経験のある艦娘から直接教えを乞えることは大きい。
メリットがあったのは艦娘らだけではなく、清水にもある。開発能力の乏しい基地に対して、最優先で作らなければいけないものをアドバイスしてくれ、さらに戦術や艦隊運用に関わることも教えてくれる。彼女たちの異動のおかげで、基地が基地たりえるためにかかる人月を、大幅に短縮できたのだ。おかげで夏以降、戦闘が活発になってきた今であっても、横須賀に手助けしてもらうことは少なくなった。向こうは向こうで何かしらが動いているらしく、どうも最近は慌ただしいようで、双方にとって喜ぶべきことだろう。大事な戦力をこちらに渡してくれた森友に足を向けて眠れない、というか大きすぎる借りを作ってしまったことが恐ろしい。
『さっきの話の続きなんですけど、そちらの間宮さんって、そんなにお料理上手なんですか。給糧艦は知っているんですが』三日月の振りに答えたのは曙の声。清水に対してつっけんどんな態度を取る娘は、同僚同士なら受け答えが柔らかいのだということに、彼は初めて気づく。
『美味しいというか、もちろん美味しいんだけど、なんていうんだろう。すごくしっくりくるのよ、間宮さんの料理は』
『しっくり、ですか』
『アタシはそんなに味にこだわりはないんだけど、ううん、なんて言えばいいのかな』シャワーを弾く音がして、一度曙の声が途切れる。『ぷう。シャンプー……あ、ありがと。間宮さん以外の料理って、ここの提督のが初めてなんだけど、まあ、それなりに食べられる味という感想がまず初め。別にまずくもないし、どちらかといえば美味しいと思った』
『ぼのたんがデレたわ』すかさず水音が爆ぜて、叢雲の可愛らしい悲鳴が上がった。「さすがに飽きるわよ!」
クソだの役立たずだの、散々な罵倒を会うたびにぶっつけてくる曙が、自分の料理をうまいと言っている。それだけで鼻の奥がツンと痛み、垂れてくる鼻水を、音を立てないようにお湯で拭った。艦娘指揮官として力不足なのは認めているから言われるがままに耐えていても、小指のつま先ほどに残った「男」としてのプライドがある。それが指揮官として関係のない、料理をほめられたぐらいで嬉しくなってしまう時点で情けないことこの上ないとしても、曙を見る目が変わってしまう。この先、裏表の裏をぶつけられた時、きっと都合よく捉えてしまうのだろう。表が存在する言葉でないとしてもだ。
『ともかく』仕切り直しとばかりに、語調を強めた声が続く。
『きっと料理って、食べればそれなりに感想があると思う。でも、間宮さんのは違うのよ。スっと舌に馴染んで、今までずっと食べてきた味に感じるの。だから初めて食べた時も、食べる前から味が予想できて、予想通りの味。それでいて毎日食べても飽きない、不思議な料理だった。うち……横須賀の提督が言うには、「おふくろの味」ってやつらしいけど』
艦娘のおふくろって誰なんですかね、三日月の声で女湯からそぞろ笑い声が小さく響いた。彼女の言葉には、単純な疑問だけがある。
『あの方、人によって味付け変えていましたから』
『へぇ、それはまた手間のかかっているものね。横須賀に行けば食べさせてもらえるのかしら』
『大丈夫でしょ。あたしか神通、というか、元横須賀組と一緒に行けば顔も利くし。明日は出撃もないし、ちょっと行ってみる?』
湯船から上がる音、入る音、髪を洗う音、体をこする音、差し込まれる生娘の声。男湯と女湯の温度を別個にできず、向こうが熱ければこちらも熱い。いい加減じっと浸かっているのも限界だった。聞き耳を立てているのも申し訳なく、気付かれないうちに、忍んで風呂から上がった。冷えた脱衣所の空気と火照った体の折り合いがつかずに酩酊する。風呂場の隙間がなくなったから大丈夫だろうと思っても、すぐ隣に若い娘がかしましくしていると心が休まらない。やはり夕方、いや、艦娘たちが風呂に入るであろう時間帯は司令室でおとなしく酒でも飲んでいよう。ほろ酔いで浸かる風呂も、またいいものなのだ。
拭いても拭いてもにじみでる汗の上から寝巻きを着て戸を開けると、波音と一緒に、薄い膜に体を突っ込んだように体が冷える。血の管が一脈々々狭まって軽い立ちくらみをおこしたところに、追い打ちをかけるよう煙草を一本くわえ、マッチをする。甘いバニラの香りが立ち込めて昇るはずの紫煙が潮風にかき消えていく。入浴所から食堂に行くまでの道のりで強い潮風に吹かれていれば髪も乾く。からからに乾いた喉は煙を引っ掛けて、いがらっぽさに少しむせた。この後にはいつも通り、大量の天ぷらを揚げなければならない。隔日ごとの行事のため、いい加減腕前は上がっていると信じたいが、自分が飽きているものなのに艦娘がそうでないはずがない。まして、聞いた通りの間宮で過ごしていた者たちならば当然だろう。卯月の爆発はむしろありがたいことだ。因習は怖いもの知らずが壊さなければならない。士気に関わる調理を清水一人が担当していたという因習を打ち壊してくれたのだから、感謝こそすれ、苛立つなんてもってのほか。料理のできない卯月が今後どう立ち回るかも、彼女を縛る因習を壊すための布石となるだろうと踏んでいた。そうでなくては困ってしまう。
道すがら、夜間哨戒に向かう部隊が出撃した合図の鐘が聞こえた。できれば出撃前には暖かい料理を食わせてやりたいが、専属の料理人が望めない弱小基地では、作り置きでガマンしてもらうしかない。
戦力は整いつつある。ならば、彼女らや自分にとっての『狭いながらも楽しい我が家』を創りはじめるのも悪くない、と考えたところで、胃がひしゃげた気がした。風呂上がりの酩酊と、加減を考えずにピースの煙を肺に入れたヤニクラが重なったせいだと言い聞かせ、せり上がった苦い胃液を無理に飲みこむ。一二度深呼吸をすれば治って、真っ暗い道、支えるものを求めて闇をまさぐっても何も見当たらず、腹から空気を絞り立ち上がった。
体が冷え切る前に火の前に立ちたい。一気に冷えた体をさすりながら、食堂までの道を急ぐ。
交代制の食事当番は幸いに好評だ。
はじめに固めた、出撃がかぎられている第一重巡戦隊(古鷹・青葉・足柄・熊野・摩耶)の腕前が高かったこともある。清水の所感では、料理が苦手と踏んでいた青葉・熊野・摩耶が見事に作り上げてくれたことにおどろいた。「知識だけならありますから」「淑女として当然ですわ」「ナメんな」いとも簡単にいってのける三人が頼もしく、新たな一面が見られたことも、制度がうまい具合に転んでいることをあらわしている。こっそり古鷹と足柄に料理指導を受けていたのは微笑ましかったが、彼女たちの名誉のためにも知らぬふりをつらぬき通さなければならない。おかげで卯月の機嫌も多少回復して、当番表の前で一人百面相をしているところをたまに見かけるようになった。相変わらずコミュニケーションはうまく取れていないようだが、このままゴキゲンを維持させておけば、少しのきっかけさえあれば事は回るだろう。布石も打ってあるのだから、あとは時間の問題になってくれることを清水は願っている。今朝の当番で軽巡組も終了、昨日の神通と川内で期待が上がったところ、那珂の番にブーイングが上がったのも、刺激として考えれば良いことだ。はじめからこうしておけばよかったと、塩っ辛すぎる口内を必死で洗いながら思った。食事時の気分一つで、淀み始めていた基地の雰囲気に、新しい流れが生まれつつある。
何度歯をみがいても那珂がつくった味噌汁の、焦げた鉄みたいな甘ったるい香りと、味噌のかたまりをそのまま頬張った味が抜けず、煙草をくわえて司令室に足を向けた。今日の昼は山風だったはずだ。おどおど弱気だった彼女も、同じく物静かな(どちらかと言えば無気力な)初雪に料理の手ほどきを受けていたし、あれでいて真面目な娘だから、それなりに期待が持てるというもの。今朝の様子も、眉がいつもよか力強く見えた、かもしれない。潮風に背を押されて、短く刈った襟足に体中を冷やされながら歩いていると、司令室の扉が開けっぱなしだった。中には今日の秘書艦が通信手として詰めているはず。これでは寒かろうと覗き込めば、千代田と卯月が、ほとんど一方的な形で話していた。躊躇せずドアを叩き、先読みして煙草を持つ手高く上げる。
「おう、おはよう」
同時、まさしく脱兎のごとく卯月が、清水の脇の下をくぐり抜けて走り去って行った。ご丁寧に拳を脇腹に叩き込んだ上でだ。
「こら卯月っ! ああもう、すみません、あとでいっときます」
「くゥ……、別にいい、自由に遊ばせてやりなさい。どうせ仕事前だしな」
艤装を展開していなければ彼女らの力は相応なものだから、体格の小さい卯月に殴られたところで大した痛みはない。後ろ手に扉を閉めて靴の裏で火をもみ消すと、千代田が灰皿を差し出してくれる。
「何聞きます?」返す足でレコードをかけようとする。清水は少しだけ考えるそぶりを見せて、結局何も思い浮かばずに、彼女に丸投げした。
「胃もたれしそうにないやつ」
秘書机の上には、食堂から運ばれてきた朝食が、行儀悪く食べかすを残した状態で置きっ放し。一人は無線機の前に詰めていなければならないから、卯月が食事を運んでくれたのだろう。今日に至っては、むしろ抜いたほうがよかったかもしれないと、だいぶ苦労が見て取れる食器の具合を見て苦笑いが出た。千代田も抑揚のない笑い声で応えてレコード棚の前であごに手を当てている。その間に、濃いめにコーヒーを淹れて口を洗い、昨日さっぱり片付けたはずの机に散らばった郵便物や資料、書類にざっと目を通す。一枚、毛色の違うものがあった。
『友軍募る』見出し文字の下に、簡単なプロパガンダ絵、一番下に大きく舞鶴鎮守府とだけ。手書きのものを印刷した、簡単なチラシを手にとって眺めていれば、しっかりした単音のブルースが流れ始める。盲目であるブラインドボーイフラーのギターは軽快で心地がいい。ジャケットを棚の上に立てかけた千代田が「何ですか、それ」と手に持ったチラシを取り上げた。
「向こうも大変みたいだな。そういったもんをバラ撒く程度には困窮しているらしい」書類でも何でもないので、誰に見られたところで問題ない。そもこの簡潔な文面のものは民間にも回しているはずだ。まじまじと書面を眺める千代田の柔らかそうなポンチョ・セーターの腹が目の前で、呼吸に合わせて膨らんだ。
「私も話でしか聞いたことはないですねえ。朝鮮のどこかがどうたらこうたらとか、台湾がどうとかの話?」
「別に朝鮮に限った話じゃないが、大陸の沿岸一部が深海棲艦の基地になっててな、おかげで日本海は元気いっぱいな敵がわんさか、隠岐諸島はオセロゲームだ。九州は佐世保と対馬泊地が頑張っているが、北海道なんてひどいぞ。小さいとはいえ、奥尻島にやつらの基地を作られたせいで、もうここ数年、青森から北へ行けた試しがない」
言葉に出せば出すほど、よくもまあ日本のような島国が存続できているものだとしみじみ思う。艦娘がいなければ深海棲艦の大規模基地として新しい使われ方をしていたかもしれない。
少し、彼女に踏み込んだ質問を投げかけた。
「確か、千代田はここの前任がいた頃から横須賀で戦っていたよな」
「えー、あー、うん、まあ……そうですね」歯切れ悪く答える顔には予想外の質問に対する驚きと、内側の軟い部分に踏み込まれた嫌悪感の表情がうっすら認められる。もらった書類上では千代田は二年以上前に建造されていて、ちょうどその頃、富津のみならず太平洋側の近海掃討作戦が発令されていたはずだ。この基地に残されている、前任者たちの祈りの言葉を見かけて、当事者は何を思うのか。純粋な興味でなく、新しい椅子を受け継いだ責任として知る義務がある。話したくなさそうに摘んだチラシの角を、折り曲げたりさすったり手遊びする千代田の目を、清水はじいっと見つめた。極力目つきが柔らかくなるように心がけて、右に左に上に泳ぐ瞳を捉えようとする。
やがて下向きに固定されていた顔が上げられて、視線がかち合う。
「ごめんね、今は話したくないかな」
困ったような笑顔で言われたらそれ以上突っ込むことはできない。空気に似合わない陽気なラグが急に大きく聞こえる。
「いい、いい。悪い、ちょっと急いた」清水も笑って返すと、哀れみをかもしていたようで、少し言葉を被せられた。
「違います、朝に話すことじゃないかなーって。そのうち千歳おねえと一緒に飲みましょう」片手で猪口を持ち上げる仕草はサマになっていた。妹のほうはあまり酒を飲む印象はなかったが、やはり姉妹。いま笑ってしまうのも空気を乱す気がして、「はいよ」コーヒーをすすって濁した。輸入の問題で洋酒は国内在庫を絞り出している段階なのだ、他にも沖縄、北海道のような海を渡らなければならない酒も手に入りにくい(四国は別として)。机に入っているニッカ『余市』は八木がわざわざ毎月探してくれているもの。一人やサシ飲みするならいざ知らず、できればこっそり飲んでいたい。メーカー銘柄を問わない国産の酒はそれなりに支給されるのだから、余市以外は優先的に回してやれば釣り合いは取れているだろう。
「やっぱり、提督であろうお方は良いお酒とか持っているの」
まったく油断ならない。
「……いい酒というか、個人的に思い入れのある酒なんだ。そのうち飲ませてやる」
不満そうに頬を膨らませられても、こればかりは。困ったな、コーヒーをすすれば、「けち。ま、そのうちがなるべく早く来るように祈るわよ。ちなみに私もおねえも日本酒派だから」あっさり引いてくれた。最後の言葉は条件付けだろうか、何かいい酒でも仕入れておけよと捉えられる。探しておいてもらおう。男と女の不文律はいかなる時にあっても心地がいい。割りを食うのは口の悪い親友だ。
書類仕事に入る前の、うら若い女性との楽しいひと時。もう少し引き延ばそうとして、清水は会話をつないだ。
「酒といえば、千代田はつまみなんかどうしているんだ。さすがに玉ねぎかじりながらというわけじゃないだろ」
支給される食料はほとんどが未加工品の常備菜なものだから、一部艦娘らは釣りをしたり、演習ついでに艤装に網をひっかけたりと当番に向けて作れる料理を色々試しているらしい。姉の千歳が頭を抱えていた以上、妹の方ももしかしたらという思いがある。ジャブ代わりに繰り出したお題に、千代田は言葉を濁らせずに応えた。
「冷凍庫のお肉ちょっと拝借して焼くぐらいなら、まあ。千歳おねえはそれすらできないからね。あんまりおつまみいらないのよ、太っちゃうし。あとは水雷の娘たちと組んで、魚群を見つけ次第……でお刺身とか」
「千歳、そんなに料理が下手なのか」
「一回練習だーって野菜炒め作ってくれたんだけど、さすがの私も無理だった。塩舐めてた方がマシ。正直、那珂ちゃんの方が上手」
何かにつけ姉をヨイショしているのにこの言いようだ、余程なのだろう。それに比べ妹は簡単な物なら、といったところだろうか。清水が当番の時は肉をほとんど使っていなかったのでいいとして、刺身に心が惹かれる。魚介類は本当に出回っていないから食べられないのだ。艦娘部隊を率いるということは、海の幸に手が出せるということなのだということに今更ながら気づいた自分のマヌケさに呆れる。
「刺身がある時は私にも声をかけてくれ。なんなら仕込みはやるから」
意外だ、と彼女の顔が言っている。
「全然お肉食べないから菜食主義の人かと思ってた。お魚は食べるんだ」
「肉だって食えないわけじゃないぞ、ここ数年まったく口にしてないだけで」
おそらく千代田はその後に「へえ、なんで?」と何気なしに聞いてきたに違いない。だが、清水は疑問に答えられるほど、彼女に配慮した言葉を持っていなかった。気を持たせる発言をしたのにずるかったかもしれないが、外から声が近づいてきていることに気づきていたから、あえて話した。
見込んだ通り、良いタイミングでドアがノックされる。
「……むぅ。私だってお話しするんだから提督も続き聞かせてくださいね、お酒の席で。はーい、入っていいわよ」
千代田が声を張るとドアが開かれ、清水の目に馴染んだ二人組が立っていた。
「おう、どうした」清水が声をかけると前に立った古鷹が人見知りの子供を親戚に挨拶させるように背を押す。
「お疲れ様です、提督。叢雲がお話あるみたいなので、私はその付き添いです」
いつも我が物顔で司令室に入ってくる奴が珍しい。かといって、予想がつかないわけでもない。千歳と同じく頭を抱えたもう一人。彼女の食事当番は今週中だ。
「ふ、古鷹ぁ」
情けない声を出してすがる姿は初めて見る。自然と上がりそうになる口角を、失礼にあたると思い無理やり抑え込んだが、千代田を見れば同じく察していて、こちらは無遠慮ににやけていた。にこにこ笑ったまま知らぬ存ぜぬ、楽しんでいるようにも見える古鷹にすがるのは、今は間違っている気もしないでもない。アテにしていたのだろう、やがて「裏切ったわね」と恨みがましく台詞を吐いて、言った。
「料理、教えて」
顔を赤くしてうつむいても短くなった髪は顔を隠しきれず、白の隙間から赤がよく見える。嗜虐心が鎌首もたげて、ついいじわるを言ってしまう。
「私なんかよりも、古鷹の方がきっとうまいぞ。こないだの胡麻汚しなんて絶品だった」清水の言葉に、叢雲は頭の上をひっかくような妙な動きをした。いつも出撃時に帽子をかぶっているからクセになっているのだろう。だが今、頭の上に、顔を隠せるものは乗っていない。もみあげの髪の毛で口元だけ隠すような、いじらしい姿に落ち着いた。
料理の不得手で恥ずかしがることもないだろうに、微笑ましくて鼻から息を吐く。
「いや、本当に。私の教えられるものはたかが知れているから、また卯月が暴動を起こす」
「あはは、私も教えるよって言ったんですけど、「あの味で作りたい」なんて言われたら、何も言えぐッ」「古鷹ァ!」
いつか清水が八木の口を塞いだように、自分より背の高い古鷹を壁に叩きつけるほどに慌てていた。にやけていた千代田はなぜか真面目な顔になり、うんうん一人でうなずいている。
「あんたねぇ、天然も大概にしなさいよっ」
「まあまあ、叢雲ちゃんの言いたいこともわかるから。危ないから暴れないの」体だけで判断しても年長組に当たる千代田が仲裁に入ると空気が回り、部屋の香りが一気に華やかなものになる。ただ仲裁しただけではない、「別に隠さなくてもいいじゃない」言葉を繋げて、唸り声を上げている叢雲の肩を撫でてなだめている。
「神通から聞いたよー。こないだ間宮さんのご飯食べに行ったんだよね。美味しかった?」
古鷹ちゃんも、と付け足して、二人の意見をまった。いつぞや風呂場で聞いていたが、まさか本当に行っていたとは、何の報告も受けていないぞ、困惑しても、後ろめたさで発言がしにくい。幸い、葛藤でアホ面を晒していても、清水の方を見ているものはいない。力を抜いたのを感じたのか、千代田が一歩下がった。
解放された唇をむにむにもみながら先に応えたのは古鷹。
「はい、とても。毎日あんな美味しいもの食べてたら、確かに、卯月ちゃんが爆発するのもわかっちゃいます」ほんわか答えれば、バツが悪そうに叢雲が後に続く。
「美味しかったけど」
「けど?」
「なんか、よそよそしい味だった」
あの風呂場で聞いたのとだいぶ違う評価。あれだけ絶賛されていた間宮の料理だ、叢雲の舌がおかしいんでないかとも思える。艦娘のおふくろの味をよそよそしい味と例えるのはどういうことか、口を挟みたくても挟めないもどかしさが清水をおそう。
「ふうん。よその娘は、そう感じるわけ」さして腹をたてるでも意見するでもなく、納得がいったというふうに千代田は頷いた。
「事前になんて聞いてた? 懐かしい味、とか、馴染むー、とかでしょ」
元横須賀の娘の言葉に、純粋な富津の娘がこくこくうなずく。
「私たちは一発目からあれを食べていたからそう感じるし、間宮さん自体の腕前も超弩級だから忘れがちだけど、富津の提督であらせられる清水さんのご飯を初めて食べた時、二人の感想は。はい古鷹ちゃん」
急に振られた彼女の顔が少しだけ驚きに変わる。「えー」「あー」記憶を探るように視線が上向きに行ったり来たりして、自信なさげに答えた。
「落ち着くなあって思いました、はい。多分」
しり切れとんぼの言葉だが、面と向かって自分の料理をそう評価されるのは気恥ずかしいもので、顔を引き締めるためにぬるくなったコーヒーを一気にあおる。もう一杯作ろうとすると、叢雲から「私の分もね」と不遜に告げられ、先ほどまでのしおらしい娘はどこに行ったんだと愕然としていると、さすがに、と言った体で、古鷹が全員分のコーヒーを淹れてくれることになった。
部屋中に香ばしい香りが立ち込める中「じゃあ叢雲ちゃんは」、話が戻る。
コーヒーを頼んだあたりから顎に手をやり考え込んでいたのだが、頭の中で合点がいったように、表情が弾けた。
「そういうことねっ」
いきなりの発言に全員が訝しげになるのは当然のことで、しかし千代田だけが「そういうこと」と同意した。清水もすぐに、そう多くない話の焦点に行き当たる。
「刷り込みみたいなものか」
またしても千代田は「そういうこと」相槌を返して、未だ眉根を寄せている艦娘たちへ体を向け、説明を始めた。
艦娘は赤ん坊のまま生まれてくるわけでない。歩き、思考も思想も、体もある程度成熟した状態の、しっかり自立して動く存在として生まれる。人間ならばそこに行き着くまでにいろいろなことを経験しているはずである。食べ物一つとっても母乳、ミルク、米のとぎ汁みたいな液体食から始まり、離乳食を経て、それぞれの好みを持つまで数年。食というのは面白い。思い出は匂いと味でできている。まっさらな状態で生まれてきた艦娘は、その辻褄合わせのために、初めて食べる料理を、まさに思い出の味として錯覚するのだ。
では叢雲はどうなのだろう、清水は彼女を見た。まだ一度も料理についての感想をもらっていないが、文句を言っている事も、顔をしかめながら食べているところも見たことがない。彼女は大本営で建造されたのだから、大本営で出されていた食べ物に郷愁を感じるのが筋なのだろうか。が、「あの味で作りたい」とまで言ってくれたのだ、評価は悪くないはず。ふと目があって、「なんだ」とばかりに片眉を上げられて、目をそらす。
「ま、私もよくわかんないけどね」千代田はそう締めくくり湯気の立つカップを傾けた。自分の体のことがわからない、大した恐怖のように思えることでも、初めからそうある艦娘たちはおくびにも出さずに、感心していた。今体が動いていて、ものを考え、言葉を交わし、感じることがすべて。健康そのものの精神は見ていてまぶしい。
「だから、差があるんですね」
「そうそう。卯月みたいに毎日よその家のご飯食べてる気になる娘もいれば、浦風のように自分の味覚に合うって感じる娘もいる。古鷹ちゃんは富津っ娘だからね、清水さんの料理がおふくろ……オヤジの味?」くもぐった笑い声が広がった。「叢雲ちゃんはドンピシャなんでしょ。なかなか、同じ味を作れるようになりたいなんておもわないぞお」
「うるっさいわね。好きなものは好きなんだから、人の好みを茶化さないで」
そっぽを向いたところを見計らって古鷹が、清水の脇に忍び寄り小さい声で言った。
「胃袋をつかまれたようで恥ずかしいんだって。でも、叢雲って初期艦ですよね。提督の料理、懐かしいって言ってたんですけど」
「味覚なんて生きてりゃかわるし、勘違いだってするもんだ。しかしなんだ、ここまで自分の作ったものを気に入ってもらえるのは、気恥ずかしいな」
「ふふ、意外と提督のお料理は人気あったんですよ」
古鷹の身長は、清水の顎あたり。横に並べば見上げる形になり、それで自然に笑いかけるものだからタチが悪い。色の薄い片目が茶髪の隙間からのぞいて、しばらく見つめ合い、体温で昇ってくる香りを濃く感じる。色恋とは違う上等な愛おしさがあった。
二人が静かにしていれば目立つのは当然で、いち早く二人の距離が近いことに気づいた叢雲がいらただしげに、マグを揺らさずに足を踏み鳴らした。
「何でそこは見つめ合ってんのよっ。ああもう、ムカつく!」
夜も更けた食堂には誰もいない。少し前まで風呂上がりの三日月らがおしゃべりをしていたが、日付が変わる頃には解散して、うすら寒い空間に変わっている。その中にあって、厨房の明かりだけが煌々と点いていた。
「ああ、もう、かっ……たいっ」
冷たい明かりの下でまな板の周りに、にんじんの残骸を生産している叢雲がいた。横には清水が付いていて彼女を見守っている。
だん。だん。
生のにんじんは固い。だのに彼女はまな板に対して包丁を平行におろしているものだから、きれっぱしはどれも、途中で薄くなって途切れたものばかり。素材は斜めにひん曲がり、いつ手を切るかヒヤヒヤする。艤装を展開させれば人間離れした力が出る艦娘である、前に試した奴がいた。まな板を割られてから、料理に対する艤装の使用は一切を禁止している。それに、コツをつかんでもらった方が応用が利くというものだ。なお、壊れたまな板は、夕張に言って、適当な木材で作り直してもらった。
まくった腕からのぞく細い腕は時期外れに日焼けしていて、力を込めるたびにうっすら筋が浮かぶ。下を向くと邪魔になる髪の毛は後ろでひとつに結ばれているので、頭が揺れるたびにひょこひょこ動いて、見ていて楽しい。
もし、自分に娘がいたら、こんな一コマがあったのだろうか。
目をこすったところを、偶然ふりかえった叢雲に目撃されてしまった。バツが悪そうに包丁を置く。
「つき合わせちゃって悪いわね。毎日忙しいのに」
つとめて笑って応える。
「私の料理のファンなんだ、無下にするわけにもいかないだろ」
髪が結ばって細いあごの線が出ていると、わずかに動いたのもわかりやすい。結局何も言わずに包丁を持ち直して、またリズム感の無い、甲高い音が厨房に響いた。背後にあるシンク台に尻を乗せて、再び揺れ動く叢雲の髪の毛を見つめた。
深海棲艦が顕れたことで人間の暮らしは変わった。順風満帆に思えた人生を壊された人も、もちろん大勢いる。清水も例外ではない。しかし彼は考え方の問題だと割り切ろうとした。人生を壊されたのでなく、こうなる人生だったのだ。そう考えておかないと、きっと自分は廃人になる確信を持っていた。深海棲艦が現れて間もない頃に転職し、誰も行きたがらなかったサンカたちと同じ現場にすすんで入ったのも、とかく現実を見たくなかったからというのもあるし、今まで得てきたものを全て捨ててしまいたかった心持ちがあった。彼らはは手荒だった。だが賢かった。ぽっと出の未熟な監督を受け入れてくれ、仕事が終われば立場が逆転し、若造扱いをする。そして、絶対に深入りはしてこない。野生動物並みの勘と警戒心でわかっていたに違いない。掘り返せば山が崩れてしまうことを。
妖精を初めて見たのは、そんな山の中でのこと。はじめは酒のせいでみている幻覚かと思った。怪異譚や神秘的な話に事欠かない場所だったし、職人たちのネタにも多かったから、すぐに慣れた。相談しても「じゃあ、そなえもんの一つでもしておかなきゃな」ぐらいで、なんとおおらかな人たちであろうかと感心したものだ。工事の報告のため久々に山から下り、会社の上役に「小人を見た」と話をしたところ、すぐさま軍に行けと言われて、あれよあれよと言う間に司令官である。自転車操業の日々だったからこそ今まで生きてこれたのかもしれない。
だのに、目の前の少女である。
夏の、あの大敗北を喫した戦闘で、久々に現実を叩きつけられた。結局自分は何も変われていないと絶望して、こちらに関しては、しっかり立ち直る事ができた。人間、悩むよりも、一度とことん絶望しきったほうが良い。
ごどん。
三本目のにんじんを真っ二つにして一センチほどの厚さで切っていき、最後に短冊切りにしていく。文字にすればこれだけでも、かれこれ三十分かけて三本だ、総勢二十五人分で、五本は仕込みたい。
ず、どん。ず、どん。たんたん、たん、たん。
それなりにリズムが取れ始めてきたころには一時を回った。哨戒ついでに獲ってきてもらったイカと、砂浜に打ち上げられた昆布を夏の間に干したもの。松前漬けなんて、年寄りじみたものをリクエストしてくれた。イカを入れない、にんじんと昆布だけのレシピなら付け合わせにたまに出していたが、千代田の話で魚介類を仕入れることができるというので、どうせならと組み込むことにした。
物音を立てないように厨房から出て、暗い食堂でマッチを擦って煙草に火をつけるとぼんやりした橙色の玉になる。半分ほど吸い終えたところで不安げな声が清水を呼んだ。
「ねえ、いるでしょ、どこ?」
風の音も静かな夜、厨房に明かりがついていると言っても、蛍光灯の白は、余計に暗さを際立たせて、空間を倍以上に広く恐ろしげに見せる。ここで意地悪をすれば、ひどいしっぺ返しを食うのはわかっていたので、「すまん、煙草」そう返した。
「にんじん切り終わったわ、ちょっと見てくれない」
「最後の方はよくできてたから大丈夫だ、次は昆布をハサミでできるだけ細く切ってくれ。あと少しで吸い終わる」
「水で戻したほうがいいのかしら」
「いや、そのままで。終わったら、イカをさばいてボイルだ」
了承の返事が聞こえ、煙草を一口吸った。普段からこのように素直であれば可愛げがあるというのに、苦笑いが出る。
それに、情報が不透明すぎる艦娘について自分なりの答えを持ちたくて色々考察していたが、叢雲の手つきを見て、一つ確信に至った。
彼女たちの学習速度は異常なのだ。
物覚えがいいというものではない。「忘れていたものを思い出した」かのようだ。教える側からすればこれ以上ない優秀な生徒である。もちろん、得手不得手はあるようだが、上達速度が人間の比ではないのだ。機械いじりを始めて半月もしないうちにレコードプレーヤーを複製した夕張が一番けん著であるが、叢雲も負けじ劣らじ、初めて料理をする割には、コツをつかむのが早い。古鷹も建造以降料理をさせたことはないが、彼女の場合、はじめからレシピを知っていて、みごと形にすることができ、今では他人に教えるほど。戦闘艦時代に関係があるのか一度調べてみる価値がありそうだ。
ふと食堂の空気が冷え込んだのに違和を感じて扉を見ると、うすく開いていた。立て付けが悪くなったか、根本まで吸って辛くなった煙草をもみ消し、扉から顔を覗かせて誰もいないことを確認した。なぜか練習しているのをあまりおおっぴらにしたくないというので、こんな夜更けにこそこそしているのだ。知っているのは今日の夜間通信手である三日月、それから古鷹、千代田の三人だけ。
「昆布、切り終わったわよ。イカはとりあえず内臓だけ抜いたけど、下処理とかわからないわ。ちょっとこっち来て」
返事をして後手に扉を閉め厨房に戻ると、まな板の上には綺麗に内臓を抜かれたイカが、哲学者の瞳を天井に向けて横たわっていた。
「すごいじゃないか、ワタの抜き方なんて教えたっけか」
「こんなもの引っこ抜けばいいってのは見ればわかるでしょ」
簡単に答えに行き着くものでもない。
「このまま茹でればいいの」
綺麗に抜かれた内臓を見ているとどうしても塩辛を作りたくなる。ゲソをもらってホイル焼きにするのもいい。
「ねえってば!」
「うおっ」袖を引き下ろされて、耳元でがなられれば当然おどろく。「ああ、いや、開いてから茹でるんだ」
若干ごきげんが斜めになった叢雲は改めて包丁をにぎり、言葉だけだというのに、見事にイカを開いた。軟骨も取り除かれている。あまりにも手際が良すぎる、一時間前に初めて厨房に立ったとは思えないほどに。
水を張った鍋に下処理をしたイカを入れてしばしの休憩。あとで酒のアテにイカ肝のホイル焼きを作ろうと、未処理のものをビニール袋に入れて冷凍庫に放り込み、鍋の中をじいっと見つめている叢雲の横に立った。
「料理本見たのか。古鷹に教わったとか」
「あんたに教わるまで、料理のりの字も知らなかったわよ。なんで、どこか変?」
厨房の中は肌寒く、火に近づこうと体をずらしたら叢雲の肩にぶつかった。彼女は気にしたそぶりを見せない。
「はじめはまさに初心者って感じだったがな、今改めて見ていると、なんとも手馴れている」
「ほんと」見上げてくる顔には喜色があった。「よかった」
本当に嬉しそうにする姿を見て、つい頭に手を伸ばしてしまい、睨みつけられた。彼女もまた、不用意に頭をなでられることを嫌うのだった。置き場のなくなった手を、仕方なく自分の頭にもっていく。
沸騰する前に火を止めさせ、さてあとは冷まして切るだけだという段階で、いい加減底冷えにやられたのか、叢雲の体がすこしふるえ始めた。
肩のひとつでも抱けるような男であるならば、もう少し違った人生を歩んでいたのだろう。
羽織っていたドテラをかぶせてやると、片眉を上げて、「まあ上々」といった風に表情をつくられて、蟲惑的であり、また挑発的なものであることに清水は気付かない振りをした。
「あんたってさ、子供いたこと、ある?」
何気なしに聞かれた事が胸に刺さる。だが、努めて冷静を装い答えた。
「いなかった。どうしてだ」
「ん、いや、なんとなく。古鷹が言っていたのよ、『提督はお父さんみたいだよね』って。お父さんってのがどんなものか知らないけれど、いわれてみれば、一番近しい表現だなって思ってね。スケベなとこさえ目を瞑ればだけど」蛍光灯の灯りで、薄くなった瞳の赤色が、無邪気に笑った。
「悪かったって……。視線がいっちまうのは仕方ないだろう、私だって男だぞ」
「あははっ。そう、私たちは女で、あんたは男」同じことをもう一度繰り返して言葉を繋いだ。「それなのに色恋に気持ちが浮かれないのは、やっぱり戦時中だからってのもあるんだろうけど、それ以上に、あんたから漂うお父さんオーラのせいかもしれないわね」
まな板の周りに散乱した残骸を、その他の食材が入っているタッパーに放り込み、「洗い物終わるまで持ってて」といって、たった今かぶしたドテラを手渡された。冷たい水に顔をしかめ、手を真っ赤にしながら道具を洗う背中に、清水は困った物言いで言葉を返す。
「それを聞いて何を返せばいいのかわからん。父親のようだと言われて悲しいとでも言えばいいか」
「悲しいの?」肩がゆれていた。
「古鷹はそれなりに女と言っていい年齢に見えるからな、ああ、見た目だけは」
蛇口を閉じた音が甲高く響いて、肩越しにひねって見せた目つきは、とてもじゃないが上司にみせるものではない。
「わたしは?」手から滴った水がコンクリートの床にしみる。
「寸胴だしなあ」うっかりしたと口をつぐんだことが決定打になった。耳聡い叢雲は顔を赤くして、今にも飛び掛らん気迫を見せている。
「すまん、いや、いつもあれだろ、お前の私服はダボついたものが多いからそう見えるだけであって」我ながら顔がひきつっているんだろうなと分かっているのだから、真正面から見る叢雲が気付かないはずがない。怒りと羞恥で光る瞳のままおもむろに近づいて、痛みを感じるほど強く、清水の部屋着で手をぬぐった。
これ以上口を開けば、またぞろなにか失言してしまいそうで怖かったので、なすがままに胸を開いてまな板の鯉に成り果てていると、彼女はドテラを奪い、そいつで自分の体を隠すようにして、吐き捨てた。
「最っ低!」
鍋の湯はすでに水になっている。
数日後、いざ叢雲が晩飯の当番になった。
どうせなら最後までとあれからも料理を教えていたのだが、例の失言は後を引き、針のむしろの毎日であった。こちらが話しかけてもウンともスンとも言わずに、言ったことを黙々とこなされ、近寄ろうものなら大げさに距離をとられる。もちろん日常にも影響し、事情を知っているであろう古鷹だけが苦笑いをして、他の艦娘たちには「夫婦げんか」などと囃される。いい加減機嫌を直していただきたいものだが、自業自得なのだ、勘弁してくれとしか言えない歯がゆさを感じていた。
食堂の長テーブルの上には素朴な料理が並んでいる。麦飯まじりの米にはかさましに拍子木切りの大根、いわゆる大根飯。時間をおいて粘りの出た松前漬け。だしの取り方から教えた味噌汁。それから、誰から教わったか、揚げ出し豆腐。見事に切りそろえられた、にんじんときゅうりのぬか漬け。彩りも申し分ない。ほとんどが自分の教えたものであるのが奇妙な背徳感をさそう。
「うし、じゃあ全員、叢雲に向かって」立ち上がり、チラと叢雲を流し見ても、彼女はこれ見よがしに鼻を鳴らして無視する。「いただきますっ」
少女たちの華やかな声が広がり、やがて食器の擦れ合う音と雑談の喧騒に変わっていく。毎回席順を決めているわけでないので、清水の脇は都度変わり、今回は千歳と、正面に千代田になった。二人はまず味噌汁に口をつけ、それから暖かく微笑んだ。
「おいしいっ。お出汁ちゃんと取れてる」
「ね」千代田が近くで話に花を咲かせている浦風に聞こえないよう、体をずいと乗り出して、小さい声で清水に話しかける。「提督の指導の賜物ですかねえ」育った胸が今にも食器をひっくり返しそうだ。隣からも、ぼそり耳打ちされた。「女の子に自分の味を教え込むなんて、男冥利に尽きてます?」
内緒にしてくれと言われただろうに、姉妹間の情報共有だけであることを祈りつつ、一口味噌汁をすすった。自分のものよかわずかばかり味が薄いが、散らされた小口ねぎがそれを気にさせない。一を教えれば十で返してくる艦娘の学習能力とはおそろしい。
「ねえ、ところでさ、叢雲はなんであんなに怒ってるの。ここ最近ぜったい提督のこと避けてるでしょ」
「千代田、提督にも触れられたくないこともあるだろうから、そうやってなんでも突っ込まないの。あ、松前漬けもすごいおいしい。ほら、食べてみなさい」
「食べてるって、おねえはちょっと黙ってて。ねえ、なんでなんで?」
あからさまに嫌な顔を見せてもひるまない水上機母艦の妹は言葉の通り、まんべんなく箸をつけながら話しかけてくる。
無視を決め込んで喧騒に耳をそばだてると、評価は上々。叢雲を盗み見ると、いつも通り行儀よく食べているようでそうでない。ご飯だけなんども口に運んだり、揚げ出し豆腐を食べようとしてポトポト落としていたり、食べ物に意識がいっていないのに、顔だけは隠しきれずににやけている。今も古鷹に褒められて、必死に顔をとりつくろおうとしているのが丸わかりだ。
嬉しくないはずがないだろう。自分が作ったものが美味しいと言われるのは。これがあるから料理を作るのは苦ではないのだ。きっと夕張が機械いじりに没頭するのも同じ気持ちであろう。叢雲の喜びを我が事のように嬉しく思い、歪んでしまう口元を隠そうと松前漬けを口に含むと、隣から矢が飛んできた。
「やっぱあれかな、お風呂覗いたってやつ」
せっかく口に入れたものをもう一度小鉢に吐き出した。
「うっわ、汚ったな!」
下品な音に何人かの艦娘が振り向いたが、すぐにおしゃべりの波に埋没していく。ぬるつく口の周りは、すぐに千歳が拭ってくれた。
「千代田、千代田」手招くと、服を気にしながら、また前かがみになって顔を近づけてきた。容赦なく突き出された頭にげんこつを下す。「あいだっ」暴れればテーブルを汚すことはわかっていたようで、おとなしく椅子に座った後、頭をさすりながら憤慨した。
「痛いじゃないっ」
「ふざけんじゃねえバカ野郎っ。誰が覗きなんかするか!」
できる限り絞った声で叫んだ。性に関係することには非常にデリケートな職場なのだ、間違ったことを流布されたらたまったものでない。どこから広まったことなのか知らないが、どこかで断ち切っておかないと、尾ひれ背びれ胸びれがついてからでは遅いのだ。
二人でにらみ合っていると、浦風と夕張が会話の横槍を入れてきた。
「なんじゃ、隣でガチャガチャやられると気になるのう」
「覗き? ああ、叢雲のやつでしょ。浦風は知らないんだっけ」
「待て、待て、待ってくれ。いうな、拡めるな!」
「いいじゃない、間違ったことが拡まるよりも、事実を先に教えておいてあげたほうがいいわよ」
「まずなんでお前らが知っているんだ。叢雲が言いふらしてるのか」
夕張と千代田(千歳も)は全員が同じ艦娘を指差した。先には、曙らと楽しそうに談笑する三日月がいる。
なるほど。
「今夜あいつを呼び出せ。2200に司令室に来いと伝えろ、命令だと付け加えてな」
「夜に呼び出してナニするん? 上官に逆らえん、いたいけな駆逐艦にナニする気?」
「誰か浦風の頭ひっぱたけっ」
清水の一団が騒がしくすると周りも声を張り、一時騒然となった。ちょっかいを出されて、きゃあきゃあくすぐったそうに身をよじる浦風、「うちの愚妹がすみません」本当に申し訳なさそうにする千歳。軽口のスイッチが入った娘らを抑える術は自分にはないと諦めて、揚げ出し豆腐を一口食べた時、爆発的な懐かしさが清水の中に渦巻いた。
出汁を吸った衣の柔らかさ、申し訳程度に乗せられたおろし生姜と万能ねぎ、ただ出汁醤油を薄めただけのつゆ、誰が作っても同じ味だろうに。溢れそうになる嗚咽を必死に飲み込む。そんな無様を見た周りの艦娘たちははしゃぐのをやめ、焦った。
「千代田、浦風! ふざけるのもいい加減にしなさい、ほら謝ってっ」彼女らがからかいすぎたのだと勘違いした千歳が激昂した。からかわれて泣くような男に見られているのだろうか、余計に悲しいことである。
「えっと、ええ? うそでしょ、ごめんねっ」
「お豆腐が泣くほど美味しかったん? うわ、ごめんなさい、にらまないで」
声を出すと余計なものまであふれてしまいそうで、必死に感情をなだめつつ、少し待ってくれと片手を突き出した。背中をさすられ、あやされ、注ぎなおされたほうじ茶をあおってようやく落ち着いた。
「悪い」言葉を吐き出したあと、恥ずかしさをごまかすために、咳払いを一つ入れた。
「こちらこそ本当にすみません。もうほんと、千代田と浦風にはよく言っときますから」
「違う違う、そう目を吊り上げてやるな。お前らが楽しそうにしてくれるのが、私にとって一番だから」
「じゃあ本当に美味しくて泣きそうになったの?」
「それも違う。美味いのは確かだが」まじまじと食べかけの揚げ出し豆腐を見た。「うん、美味いよ」
答えにならない答えを聞いて一同首をひねった。が、結局それ以上話を続けない清水を訝しんで、これ以上掘り下げることはいいことではないと気づいたのだろう、停滞した空気を壊そうと、浦風が声を張った。
「叢雲ー、提督がお豆腐おいしいって言うとるよー!」
相変わらず騒然とした中で声を届かせようとしたのだから、もう食堂全体に響く声量だった。人をからかうことが好きな連中が多い、囃されて顔を赤くした叢雲が、「当然のこと言われても嬉しくない!」と叫び返して、大きな笑いが上がった。
そんな中にあってもじいっと揚げ出し豆腐を見つめている清水に、千代田が話しかける。
「提督の、おふくろの味ですか」
からかっているものでない。とてつもない温かみを持ったものだ。
人には事情がある。親がいない人間など掃いて捨てるほどいる世の中。
「そうでもない」未だ両親が健在である清水には、その手の話ならいくらでもする用意がある。
「えー。本当、提督は自分のこと話さないですよね。私が知ってるのは、学生の頃からあんな古臭い歌にハマってた変な人、学校で良い成績だったって嘘ついたこと、元山男ってぐらい。こないだのお肉を食べないお話だって、結局まだしてもらっていないし」
「隠してるわけじゃないんだが、わざわざつまらない話する必要もないと思って。こんな時勢なんだ、面白くない話の一つや二つ事欠かない」
「私たちもですけどね」千歳が静かに答えて、失言だったと額に手をやった。
「悪かった」
「いえいえ」
彼女たちだって、一番辛い時期を乗り越えてきたのだ。自分よりもよっぽど地獄を見てきたにちがいない。司令官として前任の話を聞き出そうとしている以上、代わりにというわけでないが、いざ聞かれたら答えられる心持ちを作っておかなければならないだろう。
詫びにもならないだろうが、前哨として、清水は自分の内側を少しだけ露出させた。
「おふくろの味ってわけじゃあないが、まあ、懐かしい味だったんだ。昔何度も食わされたことがあってな、一生分の揚げ出し豆腐をあの時に食った気がする」
「へえ、青春のお話? 手作りのお弁当って本当にあったんだ」
茶化しを入れてくる千代田に苦笑いを返しておいた。話の邪魔をするんじゃないと姉がたしなめ、妹は口をつぐむ。そも、弁当に揚げ出し豆腐を入れられる青春なんてたまったものじゃない。
「青春というか、まあ、元嫁の話。結婚してはじめの頃は料理がヘッタクソで、毎日が苦痛だった」
「ええ、結婚してたの」夕張が心底驚いた顔をしたのがおかしくて、胸に渦巻く吐き気がなんとかごまかされ、幾分か楽になる。
あまり気持ちがいい話ではない。嫁の話ではなく、「元」嫁の話なのだから。
「私も三五なんだよ、結婚していてもおかしくないだろ。嫁に来てうちの母親と一緒に料理をしている間はよかったんだが、いつかどこかの居酒屋で食べた揚げ出し豆腐がうまかったと言ってしまったんだ。したっけ対抗心を燃やしやがって、「お母さんは今日からお料理休んでください」なんてな。朝、夜、毎日食わされた。衣は剥がれて、かと思いきやぺちょぺちょ粉っぽくて、味は濃かったり薄すぎたり、そんなに難しいものでもないだろうに」
艦娘たちに話をするのが少し気恥ずかしくて、熱かった茶をまた飲み干してしまう。自分のことを話さないと言っても、話すのが嫌いなわけでないから、話し始めればあれもこれもいろいろなエピソードが湧いてきて、どうしても顔が緩んでしまう。
知らない人の話というのはあまり面白くないはずなのに、千歳たちが実に楽しげに聞いているものだからやめどきが見つからなくなってしまった。適度に突っ込まれる質問で、さらに口は回る。
「中学ぐらいの時か、私の通っていた学校にやつが転入してきて、クラスメイトから距離を置かれていたのが、こんなつまらない男と仲良くなったきっかけだ。八木と……と、今ここの主計を担当してるやつなんだが、つるんで悪さばっかしてたところに、急に割り込んできたんだ」
「不良やったんかあ。そんな風に見えんけど」
「はは、そんな大層なもんじゃない。ただ斜に構えて、当時クソまずく感じた煙草を吸って、「勉強なんか将来使わん、学校なんて潰れちまえ」ってな、ああ恥ずかしい。それでいてサボる度胸もないもんだから、学校にはきちんと行く始末」
「そんなところによく転校したての、しかも女の子が声かけようと思いましたね」
「気の強いやつだった。誰とも話しているところを見たことがなかったから、「大人しい女かと思った」と言ったら『そっちの方が話しかけやすいと思ったのに、田舎の人ってホント排他的ね』とのたまいやがった。面白いだろう? それから毎日つるむようになったよ。古い曲も、やつから教わった」
「普通逆じゃない? 男の人に染められるシチュエーションが私は好きだなあ」千代田は肘をついて、行儀悪く箸を回した。
「じいさん家に引っ越してきたら、古いレコードがいっぱいあったんだと。初めてフォーク・ソングというものを聞いた時、糸の付いていない風船のようだった自分がしっかり根付いた気がした。……傾倒したよ。新左翼について調べたり、思想や現代詩、プロレタリア文学を読みあさったりして、いくら調べても勉強しても、何もかもが楽しかった。これは本当だが、国語だけならいつだって満点だったんだぞ。点数がいきなりひっ飛んだもんだから、教師たちがカンニングしたんじゃないかってツノを生やした」
日本のフォーク・ソングは学生運動、新左翼思想、つまりはマルクス・レーニン主義、反マルクス主義、トロツキー主義などに深く根付いたもので、どうしてもぶつかるものだ。おかげで危険思想と疑われたこともある。ただ清水たちはそんな時せいにあって、純粋にフォークを探求していた音楽家たちに特段心を奪われた。音楽という題材を使って学のない大衆にわかりやすく、いざ掘り下げようとすると奈落のように深い底に飲み込まれる、宗教じみた魅力がある。
当然、つるんでいた三人はさらに孤立を深めることになり、余計に結束を固くした。
千代田は笑った。
「あっはっは、そんな知識をたくわえた人が、今じゃ軍の提督サマですよ。世も末だねえ。平時なら真っ先に弾かれるでしょ」
「媒体を深く知るための知識を蒐集していただけで、私自身そういったものとは関係がない。フォークしか知らない奴は、フォークを知らない。その時代に何があったか、他に流行っていた曲は何か、どのような文化があったか。結局熱は冷めず、海外のフォーク、民謡や労働歌などにも耳を広げて。どんどん同世代から乖離していく私たちにあって、紅一点だった女に心惹かれるのは、我ながらなんとも単純なやつだと思う」
「じゃあ、告白は提督から?」
「幼馴染の男の子二人、『お前は俺たちのどっちが好きなんだ』、詰められる女の子! ある日、片一方から告白されて、三人の仲に亀裂がっ。くう、胸がキュンキュンするっ」
だいぶ勝手に妄想をふくらませている浦風が、また体をくねらせていた。
「……そんなバカみたいな恋愛話はない。奥手だった私の方が告白されて、あれよあれよと言う間に大学を卒業、んで結婚。その間八木と仲違いしたことは一度もない。むしろデートプランを考えたりしてくれたし、何より告白された時に相談に乗ってくれたのがアイツだ。曰く『女としては好みじゃなかった』んだと」
そう言うと、話を聞いていた艦娘らからブーイングが起こった。「ロマンのかけらもない」「男気なし」「ダサい」「意気地なし」散々な言われようで、もう笑うしかない。事実なのだから、もう言い訳も何もできずに、四方八方から吹き荒れるなじりの言葉を受け止める。
よくよく思い返せば、ことの始まりはいつだって彼女からだった。男らしさなんて一度も見せられなかった。プロポーズまで彼女からだったと言ったら、見損なわれるに違いない。
だが会話というのは自分の思っている通りに進まないもので、どうごまかそうかと考えていたところに、一足飛ばしの質問が、鋭い針となって、清水を貫いた。
「そんなに仲の良かった奥さんなのに、なんで別れちゃったんですか。その、八木さんだって反対したでしょ?」
すかさず千歳が妹のすねを蹴っ飛ばしたようで、がたん、椅子を鳴らして声のない悲鳴をあげた。衝撃ではねた清水の汁椀がひっくり返り、ぬるくなった味噌汁がズボンにしみていく。だのに、身じろぎひとつしなかった。
「このバカっ。ああもう、ほら、何か拭く持ってきなさいっ。駆け足!」
冗談ではない怒気に一も二もなく立ち上がり、びっこを引きながら厨房に向かった。その間、千歳は不始末をさんざん謝り通して、他の艦娘らは気まずそうに箸を置いてしまった。ある程度察しがついていたのだろう。ただ熱が冷めて離婚したわけではないということにだ。人には過去がある。このご時世、そう面白くない話の一つや二つ、誰だって抱えている。同じ基地で、命を預かる側と預ける側、いつかは「清水」を構成している事柄として話そうと思っていたが、心の準備ができていない。彼女のことに関して整理をつけられていないのだ。
どれほど強く蹴ったのだろう、顔を歪めて戻って来た妹から受け取った雑巾で太ももを拭かれて、さすがにそれは、とやんわり断り、ガシガシと雑に拭う。どうせ部屋着、いくら染みになったところで構わない。
「聞きたいか」つとめて笑って言葉にしたはずでも、まともな表情になっていないのは、当の清水自身がよくわかっている。周りの艦娘は、興味はあるが迂闊に踏み入れないという、複雑な顔を見せていた。空気の読めない千代田も見事に意気消沈し、がっくり肩を落としている。
対応を間違えてしまった。この空気は粘度が高く、話題を変えても糸を引く。かといって続けても、盛り上がる展開は一切ない。どうしたものかと閉口していると、都合よく、はねっかえり娘が飛び込んできた。
「食べないならもらうっぴょんっ」
ムチウチにでもなりそうな勢いで、背後から飛びつかれた。
後ろから伸ばされた腕が、話の発端である揚げ出し豆腐を鷲掴みし、汁を滴らせながらまた後頭部に消えていった。すぐに頬を膨らませた卯月の顔が真横から出てくる。肩が重い。跳ねた細い髪の毛がくすぐったくて、首をかしげて避ける。
「ああ、卯月っ、提督の服がまた汚れちゃうじゃない」
千歳が声を上げたが、本心を邪推するならば「よくぞ来てくれた」といったところか。清水も似たようなことを思っていたので世話ない。
「んっふっふ、お残ししてた司令官がわるいんだもぉん。おお、千歳のももーらいっ」
ググッと体を伸ばしてまたも豆腐を掠め取っていく。背中に身体が押し当てられていてもまったくそそられず、卯月自身も気にしていないようだ。肩口をだし醤油と衣で、汚れた指を胸元で拭われてようやっとおでこをひっぱたいた。「あう」
「こら、行儀の悪い。ちゃんと座って食べなさい」服を汚されたことなど露ともせずに、的外れな指摘をする清水に、千代田は半ば呆れた目をする。
「むむむぅ、じゃあおひざを借りてぇ、よいしょ」
とすん、柔らかい尻が乗り小さい体がすっぽりとおさまって、ケアなど考えていない、だのに絹糸のように細く柔らかい髪が暴れて鼻をくすぐった。まだ風呂に入っていないのか、一日中駆け回って遊んでいた身体からは、甘い汗の香りが服の隙間から昇ってくる。
こいつは甘やかしたくなる。自分を諌めてもついつい甘い顔をしてしまうのだ。目の前で勝手に夕食を食べ進められても「どうだ、うまいか」なんて聞いてしまう。
「提督もちゃんと怒ってくださいよ。私達の言うことなんて聞きやしないんですから」
姉妹そろって同じような顔をして、姉が言う。
「え、ああ、はは。まあいいじゃないか、美味しく食べてくれているし」
「……おじいちゃんか。私もこうしたら、甘やかしてくれる?」
素行は悪いが、おかげで湿っぽい空気は霧散したのだ。天真爛漫な艦娘も一人くらい必要と、誰に向かってでもなく言い訳する。当の本人は頭上を飛び交う会話など聞く耳持たず、「これ! うーちゃんこれ好き!」松前漬けをかきこんでいる。
あれほど飽き飽きしていたであろうぬか漬けも綺麗さっぱり食べて、それでもまだ物足りなさそうにしていた。
「今日は誰とメシ食ってたんだ。だいたい浦風と一緒の印象だったが」
浦風を見ると、黙々と食を進めていた。
同じ駆逐艦で、どうしてここまで差がついた。
「んー、あっちで島風とだよ、あと初雪。ねえ、それ、残ってるならちょーだいっ」また松前漬けの小鉢をかすめ取ろうとして、すんでのところで千歳が防衛に成功した。相変わらず富津組との接点はないようだが、さっきから夕張が話しかけようかそわそわしているのが視界の端で認められる。
「ダーメッ。食べたいなら叢雲に言って残ってるかどうか聞いてきなさい」
「ぷっぷくぷぅ、けちだからそんなにおっぱいが大きくなるんだねぇ」
「うーずーきぃ?」
にこやかに怒髪されてさすがにまずいと感じたのだろう、体を清水に押し付けて袖口をキュッと握った。一瞬の隙間に言葉をねじ込んだのは夕張だ、とってつけた笑顔で小鉢を突き出す。
「あの、これ、私はまたお代わりするから、よかったら食べて」漫画的に表現するのならば、おそらく冷や汗の一つでも描き足されていそうな顔である。
人見知りを発揮していてもやはり食べ物には弱いようで、うずうずどうしようか悩んでいた。警戒心の強い飼い猫飼い犬、果たして受け取っていいものかと思惑を巡らせて、この場にいる異動組の顔を流し見る。誰しもが「もらっちゃいなさい」と目で伝えていても、決して口には出さなかった。
奇妙な緊張。
間。
「いい」
とてもとても小さな声だった。喧騒にかき消されるほどの声は、ぶつけられた本人にはそれこそ砲撃の暴力的な轟音に寄ったものにちがいない。「あ、そう、あはは」すぐに小鉢を引っ込めた夕張には、注目を集めておいて失敗した恥ずかしさと拒絶された悲愴感を背負って、今度こそ本当に汗をにじませていた。
今この一瞬を一番気にかけたのは誰だろう、当の本人の夕張はもちろん見た目からして落ち込んでいる。千代田は額に手をやっているし、千歳は夕張に関係ない話題を振りながら、恥をかき消そうとしている。清水は上官である。ほつれた穴を直す方法を口伝することはしても、糸を差し出すことはしない。艦娘と人間、男と女、上官と部下、引き金と銃弾、様々なしがらみを鑑みて、彼自身が敷いたルールである。
ただ黙々と食を進めていた浦風が立ち上がった。
手のひらをテーブルに叩きつけ、またひっくり返りそうになった汁椀がだるまのように揺れる。
「ごちそうさま」
声と物音というのは根本的に違うもの、食堂は一瞬だけ静まる。が、すぐに盛り返し、一挙一動を見ていたものだけが、彼女の異様に気づいた。
「浦風、ごちそうさまっぴょん? ねえ、遊ぼっ!」
行儀悪くテーブルの下に潜り込んで向かい側に回って、食器を片付けている浦風の腕に絡みついた。食器は自分で片付けろよ、声をかけようとして、次の光景に瞠目する。
力任せに卯月を引っぺがしたのだ。
「触らんといて」
一言だけ残し、さっさと食器を持って洗い場の方へ足早に去っていく彼女を卯月が見つめていた。きょとんとした後、何をされたか理解したのか、今にも泣き出しそうな顔で、堪えるようにうつむく。夕張とは違う、悲痛なものだった。付き合いの長いであろう他の異動組も驚いて同じ方向を見つめている。
「ちょっと、浦風!」千代田が後を追いかけていく。
確かにわがままが過ぎるが、周りは卯月を子供として認めている。好意を無下にされた夕張だって、悲しみこそすれ恨みはしない。横一直線の関係にある艦娘同士で最も持ってはいけない感情とは。事実何を思っているかは知る由もないが、今見せた行動には清水が危惧するほどの暗さがあった。
おしゃべりに夢中になっていた他の艦娘も「なんだなんだ」と、やがて立ち尽くして様子のおかしい卯月に焦点がいく。
千歳は雑に髪に手を突っ込んでため息を吐いた。
「はあ……千代田はお節介が過ぎるのよ」
自分に視線が集まっているとわかるや、相変わらずのすばしっこさで外に駆け出していく姿を追いかけようとしたところ、腕を掴まれて椅子に押し付けられた。
「いい薬です、卯月にとっても、浦風にとってもね。ほら、ご飯足りていませんよね。私の半分わけてあげます」
食器に取り分ければいいのに、わざわざ一口ごと食べさせようとしてくる千歳の強引さに押されていると、厨房の方から二人の言い合いが漏れてくる。
ああ、なぜこうなるんだ、食堂は楽しい場所であってほしいのに。当番制は上手く回っていると思ったのにこうなってしまうのなら意味がない。
冷えた米を押し込まれながら改めて女所帯の面倒さをかみしめる。
世話焼き女房さながらな真似事をしながら、今あったことを忘れさせるとぼけた顔で、「ちょうどいいですね」何か考えついた千歳が言った。
「提督にも協力していただきたいのですが」
秋雨は楽しい。
梅雨と同じ、絹糸みたいな雨が地面を叩く音はとても静かで、なのに賑やか。気分次第でどちらとも取れる、この時期の雨が好きだ。行潦に草舟を浮かべて流れの行く着く場所まで追いかける。小さな土塊や小石すらが草舟にとっては大きな障害で、引っかかったり、急流のたんびに浸水したりひっくり返ったり、その度に「頑張れ」「あと少し」なんて小声で応援したりしてみる。もちろん、どこがゴールなのかわからないけれど。こっちに移ってきてからは、道があまり整備されていないから、雨が降るといろんな場所に流れができる。横須賀は石畳だったからこういう遊びには気付けなかった。道端の猫じゃらしは水滴をうんと付けて、名前も知らない菖蒲みたいな草は雨をぴんぴん跳ねている。大きな水溜りを草舟から目を離さないようにして飛び越えると、出撃ドックへ続くゆるい下り坂になった。流れはうねって、道の端にはたくさんの小石がよけられている。難所だ。一気にスピードを増した舟はあちこちにぶつかって、くるくる回って前後不覚。舟底をこすりながら、浮かんでいるというよりは流れに押されているだけ。でもまだ止まってはいない。転びそうだから傘は捨ててしまおう。晴れの日とは違う動き方をしているせいで火照った頭に、秋の雨は気持ちが良い。水をよく吸うパーカーがすぐに重くなって、いっそ脱いでしまいたかったけど、きっと誰かに見られたら叱られるだろうから、やめておく。千代田は怖くない、千歳はちょっと怖い。那珂と川内は優しいけど、神通は鬼。島風は一緒によく遊んでくれるけどかけっこばっかで疲れるし、初雪と曙はあまり遊んでくれない。浦風は、うん。最近の浦風は怖いけれど、でも、横須賀で同じ時期に建造されてから、ずっと一緒だし。黒潮や暁とさよならするのは本当にイヤだったけど、浦風が付いてきてきてくれるって言ってくれたから、行ってやってもいいかななんて思った。新しい友達もできると思ったけど……、けど。真ん中にでんと置かれた石を草舟がうまいこと避けて、少し段になっているところに飛び込んで、消えた。「あと少し、頑張るっぴょんっ」行潦の壺に声をかけても何も浮かんでこない。本当、何があと少しなのか。どこかから浮かんできていないか、少し先を見に行っても何もなかった。目の前には木造の、横須賀に比べたら粗末なドック。中からは待機している艦娘たちの声が聞こえて、つい聞き耳を立てた。声は、島風と、秋月と、木曾と、川内。何を話しているかまでは雨が食ってしまっているけれど、笑い声だけは、はっきりと聞こえた。島風がまたバカをやっているらしい。それを秋月がたしなめて、川内が囃して、木曾が呆れる、そんな気配。木っぺら一枚隔てた先に雨は降っていない。泥に足を取られながら元来た坂を駆け上る。傘はどこかに吹き飛ばされてしまっていてもうなかった。もう一艘草舟を作ろう、手近な葉っぱをちぎって、切れ目を入れて、編んだ。今度はコースを変える、もっと難所があるところがいい。新しい流れをさがしに行こう。雨はまだ止みそうにないから、まだ遊べそうだ。
食堂のひと騒動から数日が経ったが、相変わらず浦風は卯月と接するのをアレルギー的に拒絶した。風呂の時間も意図的にずらし、食堂でも席を離して、話しかけらればあからさまに無視をする。そのくせ目の前で別の艦娘と笑顔で話すものだから、卯月は胸をえぐられる疎外感を味わされていた。しかし、日常というものは過ぎていく。
朝、艦娘寮近くの水道は、洗顔の順番待ちでいつも通り混雑していた。早い者勝ちである、例外として出撃前後の艦娘が優先という暗黙の了解がある。ようやく自分の番が回ってきて、あくびをしながら蛇口をひねると、背後から声がかかった。
「ういーす、卯月、おはよ」出撃帰りの川内が目を赤くさせて立っていた。髪の毛はバサバサになって、前髪が固まっている。「川内、おはようっぴょん。すぐ終わるから、ちょおっと待っててね」お疲れなのだから譲るのが筋であろうが、蛇口をひねってしまった、今更恩着せがましい。日に日に冷たくなっていく水が、夜のうちにたるんだ顔を引き締める。「ぷう。はい、どうぞ」肩から下げていたタオルで顔を拭いて、邪魔にならないように端に寄った。見れば出撃帰りの、川内率いる第三水雷戦隊の面々がいた。口々に挨拶をしてきて、入れ替わり立ち替わり、蛇口をひねりっぱなしの水道に頭を突っ込んでいく。「うひぇ、つっめたーいっ」島風が、この時期にどうかと思うほど薄着の戦闘服のままで、体を震わせていた。めくらにうろうろし始めた彼女の顔に、タオルを投げつける。「だれー? ありがとーう」なんの遠慮もなく顔を拭いて、彼女のきめ細やかで、日焼けしない真っ白な肌が、朝日を正面から受け止めた。「卯月じゃん、おはよ」
「おはようっぴょん。見ていて寒いから、さっさと着替えるっぴょん」
「んー、私はこの服の方が動きやすくて好きなんだけどな。よいっしょっと」
ずっと目をそらさずいたのに、島風は暖かそうなニットセーターの上からジャケットを羽織って、スキニーを履いていた。頭には黒いキャップを斜めに乗せている。痴女のごとき格好から一転、露出が一切なくなった。服装の切り替えは、たとえ目をそらさずいても、認識がズレたように目視できない。同じ艦娘同士でもそうだし、いざ自分が切り替えを行うときもそうだ。ぼやけたような、何を見ていたのか忘れたような、とにかくどうなっているのか確認できない。
「卯月ーぃ、私にもタオル貸して」川内が豪快に水を垂らしたまま突っ立っていた。他にもいっぱい人がいるんだから、そっちに借りればいいのに。
「はいはい、島風、貸してやれっぴょん。ふぁーあ」
朝日が暖かくて、また眠気がやってきた。手の甲で溢れた涙をかしかしこする。
「そういや、島風の料理当番、明日だよねえ。ダイジョーブなの?」
「ふっふーん、よくぞ聞いてくれました」一切の膨らみがない胸を張って(自分の方が絶対にある)、背後を指差した。「秋月が教えてくれてたんだよ。節約料理っていうのかな、とにかく何でも使うんだけど、美味しいの、ね」
ふーん、体の内側が、カッと熱くなった。
自分の名前が聞こえた秋月が、洗顔もそこそこに体を起こす。
「コンセプトとしては司令のお料理と似ていますよ。おからだって美味しいんです……、むが」
川内の手から奪ったタオルを、そのまま秋月の顔に押し付けて、小走りに食堂へ向かった。「これ誰のですか」後ろからそんな声が聞こえてきたが、無視。
道すがら、眠そうに歩いている、何人もの艦娘とすれ違う。一人で歩いている娘はほとんどいない、それぞれが二人ないし三人の束になって、陽に目を細めながら談笑している。彼女らを追い抜くたんびに声をかけてくれるが、今まで一度も返事をしたことはない。いや、返事はしている。相手に聞こえない声量の返事を、返事というのであればだが。富津の艦娘が嫌いなわけでない。でも、どうしていいかわからずに、結局目を合わせないようにするしかない悪循環。なんの話をすればいいのだろう。何かしちゃいけない話とかあるのかな、嫌われてないかな、役立たずとか思われていないかな。ただでさえ富津の艦娘が未知の世界に生きているようで恐ろしい。そこに一人じゃ答えが求められない設問が渦巻き、話しかけられるたびに言葉がいくつも浮かんでは消えて、何も言えずに逃げてしまう。わかっている、富津の艦娘たちが受け入れようとしてくれていることぐらい。その好意を受け入れられずに逃げてしまう、自分の性格が大っ嫌いだ。
目の前に青い髪が揺れていた。長い髪。寝起きだからか、あの特徴的なドーナツ状のお団子は作っていない。最近はやたらと風当たりが強い。いつもなら背後から飛びついて驚かせて、お小言を言われるまでがワンセット。けれど、あの冷ややかな目で見られたくない。無視されるのが怖い。
「お、おはようっぴょん、浦風……」
彼女は振り返らない。潮風に髪をなびかせて泰然と歩き続ける。朝に強いのは知っている、一人で歩いているからか、少し早歩きの浦風と距離を詰めるために、小走りになる。
「浦風、おはようっ」
振り返らない。
あのひょうきんで柔らかい笑顔を向けてくれない。もう、長いこと(三週間ほどであるが)、自分に向けて、微笑んでくれない。鼻の奥がツンとした。が、すぐにふつふつと苛立ちが湧いてくる。こんなのは卯月らしくない、浦風相手にこんなおどおどする必要ないじゃないか、向こうがかまってくれないなら、こちらから押していく。そうすればいつか「しょうがない奴じゃのう」とか言って、ふにゃっと笑ってくれるにちがいない。
右足を引いて力を込める。つま先がしっかりと土を掴まえている。二三度膝を曲げてバネをつくり、ひっ跳んだ。抱きつくというよりはまさしく飛びつく。肩甲骨の真ん中あたりに頬を叩きつけて「ぐえっ」逆くの字に折り曲がった彼女が五歩六歩よろめいた。
「お、は、よ、う、ぴょん!」応えてくれるまで逃がさないから、回した腕に力を込めるともう一度「うぐえぇ」空気を絞り出される、あまり綺麗ではない声が漏れた。
「なになに、だれ、卯月ぃ?」
「そうだよおっ。おはよう、浦風っ」
「あたい、浦風じゃあないよっ」
「へえ?」腕をすこしあげると、憎たらしいほど腫れ上がった乳がない。全身の血の気が引いていく。顔をくすぐる髪の毛も、よくよく見てみればすこし暗い。朝日の加減で、直接日が照っているところは淡い水色であるのに、影をかぶせてみると、海の色。深い深い海の色。
体を離し、胸下に手を当てて、半身に後ずさった。自由になった艦娘は振り返った。
「涼風でした。あはは、確かに髪の色、似てるかも」
毛先を持ち上げて光を当てて快活に笑った。それから肩口で二つのおさげを作る。
「こうすりゃわかるかい? まあ、あたいの方が長いから、そう間違えることもないだろうけどさ。あ、おはよう卯月。朝っぱらから生きがいいねえ」
浦風とは違う勝気な笑顔。青くて丸い大きな目が、少し上から自分を見下ろしていた。
人違いだった!
とは言っても、涼風は同じ駆逐隊のメンバーで、浦風、卯月、涼風の三人で構成される富津第四駆逐隊。これは千歳型姉妹所属の第一航空戦隊の護衛を想定された部隊。話したのは一度きり、部隊が発表された時の顔合わせに、ほんの一言だけ挨拶を返しただけ。清水はコミュニケーションのとれていない部隊を海に出すことを嫌っているから(夏の敗北の一端と考えている)、名前だけの部隊と成り下がっているのだが。
目の前で意味もなく怯えられて笑顔を維持するのが辛くなったのか、だんだん涼風の顔は引きつっていく。
一挙一動にいちいち体がビクリと反応してしまう。脳みそはもうとっくに仕事を放棄している。一歩寄られれば一歩下がり、喉はヒリつく。なぜ朝からこんなことになってしまったのか、自分が人違いをしたせいなのだけれど。
いい加減困り果てた涼風が話題を変えた。
「とりあえずさ、朝ご飯食べ行こうよ」くるり翻って、歩を進めた。「今日は夕立だっけ、あんまり期待できないよねえ。こないださ、何作るのって聞いたら、ビーフシチュー作るとか言ってたよ。ルーもないのにどうするのーって言ったら、『何とかするっぽい!』だって、気合いで何とかなればいいけどねえ」
ついていこうか悩んだが、一人で勝手に話し続けてくれるのならばと、彼女の五歩後ろをキープした。声は大きく、後ろを向いたままでもよく聞こえる。
「あー! そういえばあたいも来週当番じゃん。うええ、どうしよう、何も考えてなかったなあ。なんか食べたいものある? そしたらそれ作ってみようかな」
思ったそばからこれだ、いちいち話しかけないでほしい。振り返った涼風に首を横に振って否定を意思を見せると「そっかあ」また前を向いて歩き始めた。
「なーににしようかな。粉物が楽だなあ。お好み焼き、もんじゃ焼き、かんこ焼き、うどん、たこ焼き、すいとん。お肉はいっぱいあるから餃子でもいいし。鉄板があればなあ」
たこ焼き。黒潮がたまに作ってくれたなあ。わざわざ妖精さんに作ってもらって、「油をなじませて育てるのが楽しいんよ」とかなんとか。
あ、食べたくなっちゃったかもしれない。
「あ、の」
勇気を振り絞ってみた。蚊の泣くような音でも、後ろを歩いていたので、追い風が味方してくれた。
「なんだいなんだい、何か食べたいものあった?」
勢いよく振り返られて思わず後ずさる。涼風は「おおっと」両手を上げておどけてみせた。「ごめんごめん、で、どしたの」
「たこ焼き、作れる、んですか」
「作れる作れるっ。と言いたいところだけど、あれは鉄板がなけりゃあねえ」ころころよく表情が変わる艦娘だな、そして朝から元気がいい、まるで東京版浦風だ。
「鉄板が、あれば……」
「作れるよ。だけど、知ってるかい? うちは妖精が少なくてさあ。余計なリソース割けないのさ。今だって朝から晩まで装備作ってくれてるじゃん。そんな忙しいところに、『来週までにたこ焼き用の鉄板作ってください』なんて言えるかい、いや、言えないよ」
ワシャワシャ頭を掻きむしって、長い髪が風に舞う。舞う髪の一本一本は淡い水色になるというのに、まとまると濃い青になる。
それならうーちゃんに任せておけっぴょん、黒潮に頼んで、ちょっと借りてくるよお。
言葉が喉のすぐそこまでせり上がってきた。あとは放出するままにしておけばいいというに、引っかかって上手く出てこない。心臓は内側から暴れて飛び出しそうだ。顔がほてり、足が震える。言葉を出すだけ、出す言葉は決まっている。これ以上ないお膳立てされた状況、今言わなくていつ言うんだ、頭が緊張でぐわんぐわん回って、自分の髪の毛が顔をくすぐっても気にならない。歩き出した涼風は二の句を紡がずにいる。
踊る心臓を抱えたまま食堂の近くまで来てしまった。彼女は明るいから、誰とでも仲がいい。ご飯の時は離れ離れになってしまうかもしれない。今でもギリギリなのに、これ以上人が増えたら言えなくなってしまう。
いうぞ、よし、いうぞ。
「あのっ」
意を決した瞬間、ものすごい勢いで何かが自分たちを通り過ぎて、食堂に飛び込んでいった。「うわわ、何だあっ」驚いた涼風が道端に飛びのいても何もない。ただ、シャンプーの香りが、潮風に飛ばされる一瞬香った。開けっ放しにされた扉が潮風に煽られて壁にぶつかっていた。中からはすぐに怒号が聞こえてきた。
『こンのばっかヤロウが、今更起きてきやがって、何にも準備してねえじゃねえか!』
『ごめんなさいぃ。今から頑張るから許してっぽいっ』
『ふざけたこと言ってんじゃねえ。一から作ってどうにかなる時間はとっくに過ぎてんだよ、どうしてくれんだ』
穏やかではない。当番の夕立が寝坊したようだ。
しっかり怒声を耳に入れた涼風が恐る恐る中を覗いて、その少し後ろから彼女の突き出されたお尻を呆けてみている。
だめだ、もう先ほどの話を蒸し返せる空気はない。
『ああもう、どうする、とりあえず米は炊いてる、おかずはぬか漬け、いや、昨日漬けたばっかだし一晩じゃさすがに無理だ……ん、涼風か』
入り口から覗いていた顔に司令官が気付き、気付かれた方もおずおず中に入っていった。
せっかくのチャンスが……、夕立を恨んでも仕方ない。小さくため息をひとつ吐いた。それよりも朝ごはんはどうなるんだろうか。今ご飯を炊いてるってことは三十分以上かかるはずで、食堂と反対側に目を向ければ続々と艦娘たちが歩いてきているのが見える。食事はただ腹を膨らませるものでなく、ルーティンでありながら一大行事なのだ。日々の楽しみ、それも最大級の。ああ、可哀想に、きっといろんな人から怒られるんだろうなあ。
何はともあれ人が集まってくる場所にとどまっているのは都合が悪い。工廠あたりにでも行って、適当に遊んでこよう。
踵を返して、背を向けた食堂から、涼風の声がぶつかった。
「ねえ、卯月。今からご飯作ることになったんだけど、手伝ってくれる?」その後ろから夕立も出てきて、申し訳なさそうな、しょぼくれた顔をして言った。「お願いっぽいぃ。みんなで作れば、少しは早くご飯食べれるからさあ」
「元はと言えば寝坊した夕立が悪いんじゃん」というのは飲み込んだ。涼風の声に少し振り向いて、それから逃げようとした。が、いつの間にかそこまで来ていた川内が声をはりあげる。
「おーい、何かあったの?」今だにオレンジ色の、目に沁みる戦闘服を着たままの彼女が、一仕事終えた後の食事を楽しみに笑顔で小走りで向かってくる。ああもう、タイミングが悪すぎる!
「夕立が寝坊しちゃってさあ、まだご飯できてないんだよ。だから手伝ってくれる人、絶賛某集中ってわけ」涼風が答えると、川内はあからさまに顔を引きつらせた。
「ええ! 勘弁してよ、もうお腹ペッコペコなのにさ。……仕方ない、三水戦で手伝うね。あ、卯月も手伝うんでしょ、先行ってて」
川内は嫌いではないが、こんな風に勝手に話を進めるところは好きではない。言うだけ言って走り去ってしまう。後に残されて何をしろというのか。逃げるに逃げれず、ただ立ち尽くすほかない。背中には二人の視線が、熱を持って、強かに感じる。
さらに駄目押しとばかりに、今度は司令官の声が背中に投げられた。
「すまん、本当に手伝ってくれないか。メシが一時間以上遅れていいのなら、まあ無理とは言わんけども」
「それはイヤっぽい!」反射で答えた夕立が頭を軽くひっぱたかれて縮こまった。
仕方ない。頷いた。
夕立は援軍が来たことに喜んで抱きつこうとしてきたが、近付けばその分だけ怯える様を見て、途中で足を止めた。別に仲良くなったわけではないのに、馴れなれしい娘だ、恐ろしい。そもそも、自分は料理できないんだけど。手伝いなんてできないし、ああ、やっぱり断ればよかった。今から逃げようかな。
だが、さすがになれたのか、それとも意図があったのか、涼風がずんずん近づいてきて手首を掴んだ。電流を流されたみたいに体が大きく跳ねる、腕を引き寄せようとしても、ぐいと引っ張られて、足を動かされる。散歩から戻りたくない犬はこんな気分なのだろうか、違うだろうな。むりやり食堂に押し込まれて、少し息を上げた涼風が言った。
「ふっふっふ、逃がさないよ。さすがにたこ焼きは無理だけど、とりあえずなんか作っちゃおう。卯月は料理できる?」無言で首を振った。自分の髪の毛の甘い香りが振りまかれる。
「じゃ、味噌汁作っちゃおう。ピーラーないよね、皮むきはー……難しそうだから、ナス、ナス適当に切ってもらおう」
展開がめまぐるしい。厨房に押し込められて、手を洗わされて、目の前にまな板と包丁が置かれ、大量のナスが積まれる。まずは手本と、涼風がへたを切り、半分に切って、小さめの乱切りにして、あっという間に一本のナスを仕込んだ。
「こんな感じ! 適当でいいよ、へただけ落としてくれればさ。終わったら教えてね。夕立ー、何か焼き物できるかい? 卵焼きとか」
「むりむり、無理っぽい。料理なんかしたことないし」ビーフシチューはどこに行ったんだ、突っ込むのも野暮だろう。言われた通りに、ナスに包丁をあてて、ぐ、ぐ、上から押し込んでいくと、硬い皮がへこみ、甲高い音を立ててへたが飛んだ。わっ。「あー。今晩初雪が卵料理にするとか言っていた気がするから、残してやってくれないか」涼風が在庫をチェックして言った。「ううん、今日は搬入ないし、使えないね。大根おろしに大葉きざんでポン酢かけてみようか。すぐ作れるし、量も稼げるよ。その代わり……」「夕立やる! 簡単そうっ」「腕がつりそうだ。よし、じゃあそこにある大根三本おろせ。おろし器コレな」「え、なんか小さいっぽい」「あとあったかいものがもう一品欲しいねえ。何かあるかな」「鴨肉がある。ネギとゴマ油で炒めればいい。私は食えないが」「食べられないんじゃ意味ないじゃん。しょうがない、提督のだけ野菜炒め別に作ろっか」「連れてきたよー」ぞろぞろと入ってきたのは三水戦。合わせて八人が厨房に詰めることになり、必然、人と人との距離が縮まる。脇に木曾が来て、未だ山になっているナスに手をつけた。
「手伝う。乱切りでいいのか?」
「えっ、あ、はい、そう、です」
しゃらりと置き場から抜かれた包丁が、自分の手つきと比べ物にならないほど鮮やかに動き、次々鍋に放り込まれていく。時には飾り包丁まで入れる余裕を見せていた。
「出汁は何にする」「昆布でいいんじゃない」「小口作るからネギの頭残しといてくれ。卯月、手が止まっている」「あ、はいっ」「うーでーがー痛いっぽいいぃ」「罰だ罰。全部一人でおろしたら、寝坊は勘弁してやる」「勘弁されてないっぽいいぃ」「鴨肉なんて高級食材、朝からこんな豪勢な……」「はいはい、お肉の仕込みはあたいがやるよ。ネギを斜め切りにしといてくれるかい、八本くらいかな」「お、きゅうりが残ってるじゃん、島風、エスニック漬け作ってみる?」「何それ、美味しそう! 作る作るっ」「じゃ、こっちおいで。卯月、ごめん、ちょっと端っこ借りるね」「みそ汁の具がナスだけってのは寂しいな。もやしと……油揚げでいいか」「なんとかなりそうだ。じゃんじゃん作って、出来た順に並べていこう」「はーい」
一枚の大きなまな板に二人が詰めて、時折包丁の使い方を川内が指導してくれる。隣では木曽が鍋に次から次へと食材をぶち込んでいる。大きな中華鍋に火が入れられて、油がばちばち、声をあげた。鉄火場のようにみんな真剣であるというのに、ぎすぎすした印象はない。へたを落として、半分に切って、乱切り。両脇に比べれば明らかにおぼつかない手つきだが、それでも確実に量は減っていく。切り終わったものは片っ端から木曽のまな板に置いていけば、勝手に処理してくれる。
結構、楽しい。
飛び交う会話は真面目なものだし、無駄口も叩いている暇がないけど、みんなの中にいる。みんなの中に入り込んでいる。みんなと同じことをしている。忙しいけど楽しい。嬉しい。
ナスの山があと少しでなくなりそうだという頃、木曾が鍋に水を張って野菜を洗い、それからごま油を回し入れて火にかけた。香ばしい匂いがすぐ鼻に入ってくる。
「すまん提督。昆布とってくれ」
「こんなもんで足りるか。おら、肉とネギ、仕込めてる分入れちまえ。片っ端から炒めてやる」
「お、いいねえ男らしい! じゃあまずお肉ね、どーんっ」
瞬間音が弾ける。熱せられた油がコンロの火を舐めて、大きな火柱が上がった。司令官は意に介さず、ガシャガシャ中華鍋を振る。
最後の一本を仕込み終われば、手空きは許さんぞと油揚げが置かれた。切り方が分からず、ああでもないこうでもない、包丁をあてがっていると木曾が鍋を気にしながら言った。
「まず縦に、あとは垂直に細く切ればいい」
言われた通りに包丁を入れれば、少し不格好だが、よく見る形になった。今まで食べるだけだったものを自分で作れることが楽しい。案外料理もいいものかもしれない。誰かが髪をまとめて、ゴムで縛ってくれた。視界明瞭になり、格段に作業がしやすくなる。一瞬だけ目をまな板からそらして誰かを確認すると、持ち場に戻ろうとしているのは涼風だった。いつもは二つにおさげにしているのに、今は一つ縛り。地団駄を踏みたくなるほど胸がいっぱいになる。けれどお礼を言う空きなんかない、彼女もまたまな板に向かっているし、こっちも仕事がある。あとで返す時に、しっかりとお礼を言おう。たこ焼き機のこともその時に話してみよう。それ以外にもいっぱい、もっと、お話しできるかも。
ちょっと待てよ。毎日見ていた当番表を思い返す。
多少の前後があるにしても、食事当番は部隊ごとで区切られていることがほとんどだった。属しているのは出撃予定のない第四駆逐隊。涼風の当番は来週。
そういえば、うーちゃんの番、その次だ。
どうしようか、どうしよう。悩んでいても時間が止まるわけでない。あっという間に日付は過ぎていき、あと数日で自分の当番が回ってきてしまう。夕立みたいにとぼけてみようかとも考えたが、あのあといろんな艦娘(司令官にも)にこっぴどく叱られていたのを見たら気がひける。そりゃそうだ、軍人にとって時間は絶対的なものだから。かといって、やる気でレシピが浮かべば苦労はない。料理は誰かに教えてもらう風潮が蔓延した中では、料理本の取り寄せに願いを託すのもむなしく、今更頼みに行っても「次の搬入は来週だぞ」。ならば風潮に従おうとして横須賀組に片っ端に声をかけたのだが、誰一人として首を縦に振ってくれない。川内、神通、那珂、初雪、曙、島風、千歳、千代田、一応浦風にも声をかけて一人もだ。司令官に恥を忍んで頼み込んでもダメだと言われた。全員訓練だとか細々した出撃があるとか執務があるとか、いよいよ八方塞がりである。
手段は、まだあるけれども。
富津の艦娘にと頼み込めばよい。自分から話しかけて、お願いして、教えてもらう。
ポケットに入れっぱなしになっていたヘアゴムを何度もなんども指でこねくり回す。目の前の扉が重厚なものに見える。ノックをするために持ち上げた手が二十分も空中で固まっている。涼風の部屋の前、時刻は夜夜中。消灯時間はとっくに過ぎていて、彼女が起きているのかわからない。体が固まってしまったんじゃないかと感じる寒さでありながら、顔は上気して、手足先の感覚がない。夕食を食べ終わって、お風呂に入って、それからずっとタイミングを計って、結局部屋の前に立ったのが〇時過ぎとは、我ながら笑ってしまう。いくら好意的に考えても迷惑になる時間帯だがこちらも時間がない。明後日の夕食は、自分が二十五人の食事を作らなくてはならないのだ。この追い詰められた状況で何を怖気付くことがあるのか!
生唾を飲み込んで固まっていた手首を動かした。撫ぜるようにノックした、当然音は小さい。家鳴りの方がまだ大きい。気づいてもらえるはずもなく、もう一度、今度はしっかりとノックした。口から心臓が飛び出しそう、最近はこんなことがよくあるなあ。
『……んー、ねえ、いま、物音しなかった』声が聞こえた。が、涼風の声じゃない。ああ、なんて自分はバカなんだろうか。一人部屋なんて勘違いをしていた。同室の艦娘がいてもおかしくないじゃないか、富津の白露型は三人もいるのに。
『風のおとでしょーう。今日強いしさあ。くぁあ』
『夕立姉が帰ってきたのかも』
『そんなわけないじゃん、哨戒行っているのに。山風は明日総員起こしの当番でしょ、早く寝ときな』
あ、ああ。どうしよう、起こしてしまった。しかも一人じゃない、どうしよう、どうしよう。でもせっかく来たし、これだけ頑張って勇気を、それこそ振り絞ったし。涼風だけ出てきてくれないかな、ゴム返して、お料理教えてくださいっていうだけだから、神様。
『うぅ。そう、そうだよね。おやすみ、涼風』
『あいあい、おやすみぃ』
誰も出てこないことにホッとして、かぶりを振った。ダメじゃん、ちゃんと気づいてもらわなくちゃ。緊張でどろどろになった頭ではもう考えることなど無意味だった。今度はしっかりと、聞き間ちがいのないように、三回、素早くノックした。
『涼風ぇ、やっぱ何か聞こえる』
『……こんな時間に? 誰だろ、提督かな』
『なんかヤだよぉ。夕立姉に、何かあったんだよぅ』
『そんなわけないって、夕立だよ? もっとポジティブに考えよう。あの娘はたとえ戦艦にぶち抜かれたって生きてるって』『そんなこと言わないでよおっ』
下手をすると泣きだすんじゃなかろうか、切羽詰まった山風の声の後に木材の軋む音がする。
ヘアゴムをいじっていた指が止まる。
『怖がる必要ないって。誰だい、提督だったら身支度整えるまで待ってね。山風がすっぽんぽんだよ』
『バカなこと言ってないで、早く確認してよっ』
ひとつ、ふたつ、みっつ、足音が聞こえる。わずか遅れたふたつの足音、中の様子が手に取るようにわかるのが微笑ましい。心臓はいよいよ小動物並み。ここまで来たんだ、もうあとはないぞ。追いつめろ、逃げ道はもうない。
数センチの板っきれを挟んで向かい合ったことを確信した。
『どちら様ですかあ』
長い時間外で固まっていた、かさかさの喉を震わせる。全身に久々に血がめぐり、体が寒さを認識した。
「卯月、です」
『卯月だって?』
警戒なく扉が開けられた。
ノブを握って前傾に出てきたのは今まで寝っ転がっていたであろう、長い髪に癖をつけてしまった涼風。彼女の腰の服を握り、盾にして隠れているのは山風。二人は、扉のすぐそこに立っていた自分に一瞬驚いた。生ぬるい部屋の空気が、彼女らの濃い生々しい匂いと一緒に、寒風に運ばれていった。
「さむっ。どしたの、こんな時間に」
「こ、これ、返しに」
手を突き出す。かたく目を閉じてしまったので涼風の表情はうかがえなかったが、声の調子は、笑っているようだった。
「別にいいのに、ゴムなんかいっぱい持ってるしさって手ぇつめた! ちょ、震えてんじゃん、ほら、入って入って」
また腕を引かれた。今度は、それほどびっくりはしなかった。全身が涼風の、いや白露型の匂いに包まれる。部屋の真ん中に穴が開けられて砂が敷かれていて、その上で木が赤く光っていた。窓が少し空いているのは換気のため、それでも十分すぎる暖かさがある。
「ほら、ここ座って。山風、毛布貸したげて」いろり端に座らせられて毛布でくるまれ、天井から吊った鈎に引っかかっていた鍋から白湯を、これまた使い込まれたスチールマグに注がれた。冷えた手に火傷しそうな熱さがちょうどよく、黄色い暖かさが指をすぐに温める。「またどっかで遊んでたのかい。風邪ひくよ、私たちが病気するのか知らないけど」肩をこすって頭の上から声が降ってくる、力の緩んだ顔から鼻水が垂れてきた。白湯を一口すすると予想以上の熱さに舌を火傷した。びくり、跳ねた体で察した涼風が笑う。
自分には同室の娘がいない。異動組の同型艦がいない、もっともらしい理由だが、初雪と叢雲が同室なのを見れば、ここには三日月もいるのだ、同室になってしかるべき。少し考えればわかる。気を利かせてもらっているのだ。建物も限られているのに広い駆逐舎の一つをまるまる使っている。そう、考えればわかることなのだ、自分がいかに特別扱いされているか。ただ囲炉裏は予想外だった。これからの季節、毛布一枚でどう乗り切ろうか思索する意味がなくなる。少し前ならば浦風の布団に潜り込めばよかった。が、それも今のままではできない。囲炉裏があれば暖かいし、何より灯りになる。
「ちょっとは温まった?」
隣の辺に腰を落とした涼風が、火かき棒で炭をかき回すと熱が吹き出て、目を細めた。その対面に山風もしとやかに座った。二人とも私服でも戦闘服でもない薄い寝巻きで、それでも寒くはなさそうだった。
「これ、作ったん、ですか」目の前を指さすと、白湯をもう二つマグに注いだ涼風が声を殺して笑った。
「寒いっつったら夕張がね。提督には言わないでよ、一応火気厳禁なんだから駆逐舎は。いくら決まりごとでも寒いもんは寒いしねえ。言えばやってくれるよ、代わりに工期の間はご飯のおかずがひとつ消えるけども」かき回すたびに火の粉が秩序なく舞う。
「炭もね、夕張が作ってるの。あんまり量はないけど、寒い夜をしのぐぐらいはね、できるよ」
初耳だ。他の艦娘の部屋にもあるんだろうか、少なくとも浦風の部屋にはなかったはず。最近行っていないからわからないけれど。
「あの、すずかぜさん」すんなり言葉が出た。一緒に同じ作業をしたことで、わずかだが話しやすく思う。「涼風でいいって。同じ部隊じゃん、なあ」からから笑う彼女は裏表がない、説得力のある表情をする。
「あたし、席外した方がいいかな」
山風が普通にしていても困り眉に見えるのを、さらに顕著にした。それも申し訳なく、恐縮してしまう。「大事な話?」涼風がころりと表情を変えた。
「いえ、大丈夫、です。山風さんが、あの、いても」
失礼な言い方をしちゃっただろうか、一言発するたびに同じ言葉を繰り返して反芻して、果たして正しい言葉の選びだったか考える。眉間に寄ったしわが薄くなったのを見ると、最悪な間違いをしていなかったようで安心する。
が、山風は立ち上がった。
「先にお手洗い、行ってくるね、消灯前いってなかったから。気にしないで、お話してて」
そう言うとさっさと立ち上がって部屋から出て行った。ドアの方へ顔を向けた涼風の横顔が、窓から入ってくる月明かりで青白く光っている。
山風には申し訳ないが、二人きりなら話しやすい。
「で、どうしたの。誰かに聞かれたらまずい話? なんかやらかした?」
首を横に振った。いつも何かやらかしているわけではないのだ。「じゃあ何だい」月が雲に隠れた。赤熱した炭が涼風と自分を形作る。彼女の深海色の髪は、橙色と混ざって、どっちつかずの色。目を火からそらさず、時間の過ぎるままにしていた。贅沢な時間をもらった。ゆっくり、けれど無駄のないように、口に出す言葉を何度も頭の中で練る。語尾を変え、主語を確認し、礼儀を踏まえ、確実に理解してもらえるように。
炭の一つが弾けた。ウッドブロックを打ち鳴らしたような、そこいらの木材で作った炭とは思えない甲高い音。
「私に、料理を、教えて下さい」
言った!
惜しむらくは目を見て話せなかったこと。どうしても視線が横にずれてしまう。マグを握る手は汗ばみ、それなのに外にいた時と変わらないぐらい感覚がない。無意識に力が入って中の湯に慌ただしい波紋を描いた。
涼風は唖然した。火かき棒がただ炭に焼かれる。それから燃え上がるように笑った。
彼女の仕打ちに愕然して、それから苛立ち、一周して涙が溢れそうになった。今、持てるすべての勇気を総動員したのに笑うなんてあんまりじゃないか。満杯のカップに最後の一滴が落とされ、ついに決壊した。あふれても次から次へと得体の知れないものが入ってきて、事態を収拾できないまま、際どく均衡を保っていた木の葉が強烈なスウェルに翻弄されて、ついに沈んだ。この醜悪な空間にこれ以上いたくない、とにかく体の動くまま跳ねて、扉を壊しかねない力で開けた。「ちょっと待って、ごめんって!」嘲笑したヤツの言葉なんてもう耳に入れたくもない、煮立った頭がただひたすら呪詛を唱える。
だが扉のすぐ向こうに山風がいた。
手首を掴まれて強引に引き擦られた。いくら暴れてもビクともしない。普段見かける怯えたような足取りではなく、意思を持った行進で涼風の前に仁王立ちした。
「駄目じゃない! なんでそんなことするのよ」
もちろん山風とは話したことがないのだが、遠目に見ることは多々あった。あの鬼の神通率いる一水戦の面子といても子供っぽく消極的であったと思う。それが今、涼風を怯えさせていた。
「涼風はわからないでしょ、人とお話するのが、どれだけ難しいか。どれだけ怖いか、どれだけ恐ろしいか! 一人ってね、本当に辛いんだよ。だから誰かと一緒にいたいのに、上手にできない娘だっているの。素直な言葉を出せないもどかしさを抱えて、延々と苦しむ気持ちがわかるの? 卯月がどれだけの覚悟を持って扉の前に立ったかわかる? どれだけの勇気を持ってドアを叩いたかわかる? どれだけの迷いで言葉にしたのかわかる? わからないでしょ。わからないならなんでわかろうとしないの。あなたのしたことは、最低のことよ!」
初めて山風が涼風の姉に当たることを思い出した。威風堂々した叱責は微塵も臆病さを感じない、粗相をした妹への強烈な攻撃だった。掴まれた腕に力が入り震えている。暗闇が退いていく。乱れた髪の隙間から、山風の怒りに染まった瞳が隅に照らされて輝いていた。
「いや、ごめんって、えと、山風、姉……」「謝る相手が違うでしょ!」「ひいっ」
性格が逆転したようだ。山風の一言にしどろもどろになる涼風。同じ部屋で暮らしていたにもかかわらず、おそらく初めて見せられ、たたきつけられたのだろうことがわかった。今度は困惑と恐怖が一緒くたになった顔をしている。
「ごめん、卯月。いやほんと、悪気があったわけじゃないんだよう」
「じゃあなんだっていうの。言えないようなことだったらあたし、涼風のこと嫌いになるからね」
こうなると涼風がかわいそうに見えてきて、山風の裾を引っ張って落ち着かせようとした。こちらを向いた表情はいつもの困り眉。阿修羅像でも見ている気分だ。
「本当にごめんね。涼風にはきつーく言っておくから、許して。涼風の代わりに、あたしがお料理教えてあげる。一応、できるから」
「ちょ、待って! 教えないなんて一言も言ってないってっ」
わずかに反論をしても一刺にらめば妹は黙る。
「あなたに任せられないわ。どれだけひどいことをしたか、しっかり反省なさい」
頭をかきむしった涼風が今度は苛立ちを隠さず声を荒げた。
「話を聞いてって。笑っちまったのは悪かった、だけどさあ、よくよく考えて。何をそんなに大真面目になる必要があるんだい。おびえなくたっていいじゃないか、同じ釜の飯を食う仲間なんだよ」
「磊落なあなたにはわからないでしょって言ってるの。卯月は繊細なのよ、あなたとは違って! 仲間っていうけれどあなたは卯月に対して何かしてあげたの。あなたが信頼に足らないと思われているから、いらない苦労をかけているんじゃないの」
「わからないだのわかるだの、山風こそ何がわかるっての。いっつも勝手に自己完結してまともに話さないくせに、こういう時には饒舌になるんだね。普段ためこんでいる鬱憤をあたいに叩きつけられて満足かい? だったら明日からもっとシャンとしてほしいもんだね」
「今は卯月のことで怒ってるの、この分からずやっ。あたしのことを悪く思う暇があるなら、もっと卯月と仲良くしてあげればよかったじゃない。それが毎日々々フラフラして、あたしが知っている限り気にしてあげている素振りすらなかったくせに、大きな口叩かないで」
「なあっ、好きでフラフラしてるわけないじゃん。あのさあ、卯月にも卯月の考えがあるんだよ、そうやってお人形さんみたいになんでもかんでも決めつけて、山風こそ卯月の何がわかるの。それこそ最低のことじゃないの。誰彼構わず甘えて、嫌なことがあったらすぐ自分の殻に閉じこもってりゃそりゃあ楽だろうさ、そう考えりゃ、卯月の方が立派だとあたいは思うね」
「卯月をダシにしてあたしの悪口言いたいだけ? 今言う必要ないじゃないっ」
「最初に仕掛けてきたのは山風だろっ。ああもう、気分悪い!」
「バカ! それはこっちのセリフよ」
「なんだとっ」
涼風が立ち上がって山風の胸ぐらを掴んだ。身長差がある。持ち上げられる形になっても、山風はひるんだ顔を一切見せない。
「あたしだって色々考えてんだよ、なんでそれをわかってくれないんだい。山風が一番人のこと考えてないじゃんっ」
「あなたみたいな無神経な娘が? じゃあ何を考えているか言ってみなよ」
「それはっ……」
「ほら、結局何も考えてない。いいわ、提督に頼んで、卯月は一水戦に入れてもらうから。あなたみたいな娘と一緒の部隊なんてかわいそう。そうやって、ずっとヘラヘラしてればいいのよ。海にも出ずに、ずっと陸で!」
「言いやがったなあっ。表に出ろ、山風っ」
「もうやめろっぴょん!」
とにかく腹の底から声を出した。時間なんて考えない、全力で。「もうやめて」もう一度同じことを言った。今度はかすれた声にしかならなかったが、余った力を山風の手を振りほどくことに使った。振りほどかれた手はいつもの不安げな山風の胸元に戻っていく。
「全部うーちゃんが悪いっぴょん。涼風が海に出れないのはうーちゃんのせいだから。ケンカになっちゃったのも、うーちゃんのせいでしょ」
感情が爆発して泣いたことは何度もあった。悲しくて泣いたのはどのくらいだろう。こんなに耐えられない、胸がぎゅうっと締め付けられて呼吸も苦しくなって、静かに泣いたのはいつぶりだろうか。黒潮が大破したとき。浦風が偵察に行ったまましばらく帰らなかったとき。横須賀を発つ日。初めて富津に来て一週間経ったとき。あ、割とある。でも毎回思う。二度とこんな気持ちになりたくない。
涼風と山風はこちらを見ていた。きっと彼女たちはとても仲がいい。
「あ、うづ……ごめ……」落ち着きを取り戻した山風が、先ほどの威勢はどこに行ったんだという風な顔をする。だから精一杯笑った。笑えていたかはわからない。
「もういいっぴょん。涼風が笑ったのだって、ちゃんと理由がわかったからもういい。山風がうーちゃんのために怒ってくれたのも嬉しかったっぴょん。心配してくれてありがと、でも、もういいっぴょん」
一歩引いた。山風が手を伸ばしてきたからだ。空を切った手は、橙色に照らされた部屋の空気をつかむ。
もう何もかもどうでもよくなった。自分のせいでケンカになってしまうなら、自分がいなくなればいい。火種がなくなればいつか火は消える。コミュニケーションを取ろうとしなかった自分が悪いのに、そのせいで二人が傷つけあうのは見たくない。きっとこのままだと、他の娘たちも同じことになってしまうかも。そんなことは絶対に嫌だ。
「お料理もね、もう大丈夫。なんとかしてみせるっぴょん。だから、だからっ、……仲直りしてね。ごめんなさい、おやすみっ」
外に出ると頬の濡れた場所が一気に冷えてつっぱった。すぐに暖かくなって、また冷たくなる。こすってもこすっても意味がない。流れるままにして走った。
あーあ。だめだったなあ。だから異動なんかしたくなかったのに。みんないい娘なのはわかってたけれど、受け止められない欠陥品みたいな自分じゃ意味がない。輪を乱す腐ったりんご、それが卯月。どうしよう、もう眠れないし。というか、もう、居たくない。こっそり出て行こう。そうした方がきっとみんなのためになる。第四駆は海に出れるようになるし。司令官は悩みの種が消えて胸をなでおろすだろうし、浦風だって、もう卯月のことなんて嫌いだろうし。食事当番だってわがままを言う奴がいなくなればまた元どおり。司令官が頑張ることが一番角が立たないのはわかっている。彼の料理は嫌いではなかったのだが、どう考えても同じメニューばっか食わされていたら飽きるのは当然で。いろんな娘の料理を食べたんだし、少しはレパートリーを増やせばいい。
出撃詰所には誰もいない。そりゃそうだ、もうとっくに夜間部隊は出発している。今日は誰だったか、壁を見ると二水戦の札がかかっていた。そうだ、夕立は二水戦だったっけ。那珂の下とか大変そう。部屋の真ん中に置かれたダルマストーブがごうごう音を立てて灯油を燃やしていて溶けてしまいそうになるほど暖かい。いつかこの空間で出撃前の恐怖を笑い話で吹き飛ばすおしゃべりをする日が来たのだろうか。まあ、もうどうでもよいことだ。横須賀じゃいろんな娯楽品が備えられていたものだが、ここには何もない。何もないからおしゃべりぐらいしかすることがない、らしい。こっちで出撃したことがないから伝聞だけど。これが初出撃、そして最後の出航。一人っきり、見送りもなし。役立たずの自分にはお似合いだ。
『……誰かいるの?』
急に天井から声が聞こえてきて飛び跳ねた。拍子に、ストーブの上に置いてあったヤカンをひっくり返した。
「あっつぅ!」
誰だ、天井に隠れてたとか反則!
恨みがましく目を向けるとスピーカーがあるだけ。司令室に詰めている、夜間通信手だった。
『大丈夫? 何かあったの。ええと、どちら様でしょうか』
ドックにつながる扉の脇にマイクがある。常につなぎっぱなしなのか、単純にスイッチの切り忘れか、送信がオンになったままだった。
こっそり出て行く計画がパーだ。必死に頭を巡らせてごまかしを考える。声は古鷹だろう。ぼうっとしている印象しかない。
「三日月です。すみません、忘れ物をしちゃいまして。もう、びっくりするので急に声をかけないでください。ヤカンひっくり返しちゃったじゃないですか」ここに卯月がいるのは不自然すぎるから名前を騙る。軍規違反は気にしない。
『三日月かぁ。ごめんね、でももう消灯時間過ぎているから、あまり出歩いちゃだめだよ。あ、あとついでにマイク切ってもらっていいかな。誰か入れっぱなしにしたまま出てっちゃって、雑音が入って耳が痛いの』
「了解しました、お疲れ様です。おやすみなさい」
『おやすみぃ』
ぶつん。
スイッチを切ると、以降スピーカーは沈黙した。しゃっくりが出そうだったり鼻声だったり、ボロボロの声だったけど、彼女も眠いのかもしれない。全く警戒された気配はなかった。大丈夫か富津泊地。
マイクが本当に切られているか確認してドックに入った。温められた体は、海から吹き抜ける風に一気に冷やされた。裸電球が一つ、ベニヤと端材で作られた簡素な机の上で揺れていて、哨戒用の日誌があった。見る必要もない、自分の名前は一度たりとも書き込まれることはないのだ。ぐるりと空間を見渡すと新しい柱と古い柱が入り混じっている。机の横には土埃をかぶって白茶けた黒板が一つ、ひっくり返して後悔した。一人で海に出る前に見るものではない。自分が建造された頃すでに以前の富津泊地は壊滅していた。その残滓を残しておくなんて……、なかなかできた司令官じゃないか。彼の下でならば、よしんば沈んでしまっても悲しくない気がする。自分の死をとても大事に扱ってくれそうだ、と考えて頭を振った。その資格が自分にないのだから出て行くのだ、何を今更。これから往く海が、ドックのわずかな明かりを食って、真っ黒くたゆたっている。指先をつけると気温よりも暖かい。辺りを見渡すとドラム缶があり、中にはどろどろの液体が入っていた。匂いでわかる、重油だ。艤装を展開させて、ドラム缶の中から伸びている機械を背中の艤装に突っ込んでスイッチを入れると、恐ろしい勢いで見た目の内容量を超える重油が飲み込まれていった。ドラム缶一本をまるまる飲み込み、それでも足りないが、どうせ行くあてなどないのだ。今更横須賀にも帰るわけにもいかない、適当に沿岸沿いを走って、とにかくここではないどこかへ行こう。重い体を波打ち際まで引き擦って海に足を入れると、艤装が浮力を出して浮かんだ。体が波に揺られて、陸では重くて仕方なかった体が途端に軽くなった。
振り返った。
誰もいない。暖色の一つの明かりが風に揺れているだけ。
「お世話になりました。……ぴょん」
電球に向けて頭を下げると途端に体の内側が持ち上がったような浮遊感が生まれ、陸に背を向けて機関に火を入れると低いうなり声が、深夜の、波の音だけの世界に大きく響く。海鳴りに消されてどうせ艦娘舎の方までは聞こえないだろう。ああ、艦娘というのは素晴らしい。半日も暖気せずともすぐに動き出せる。
ゆっくりドックを抜け、久々の海上ではほの暗い気持ちが溶けていく。夜の海に一人で出たことはない。いつも部隊の誰かと一緒だった。これからは一人、一人でこの海で生きていくのだ。途端に湧き出るワクワクした気持ち。雲が厚くなり、涼風を照らしていた月は隠れていた。それでも勘と経験を頼りに浦賀水道まで出る。海水をすくってパリパリになった顔を洗い、服をまくってはしたなく顔を拭けば、腫れぼったかった目がシャッキリして、両脇に顎のように見える陸地をことさらはっきり意識させた。そりゃあ昔はこのあたりまで敵潜水艦が来ていたものでひどかった。出撃前の合流地点にたどり着く前に沈められるなど笑い話にならない。最優先で対潜哨戒のちに撃滅作戦が発令された、自分の初戦果だって潜水艦だ。とは言っても、ほとんど掃討が進んでいて、たまたまはぐれた潜水艦が目の前に浮上してきたからなのだが。深海棲艦といえど酸素は必要なのか、ガチガチの哨戒網が構築された中で逃げ場がなく限界だったのだろう、何をするわけでもなく、ただ浮かび上がってきて、じいっとこっちに顔を向けているだけ。見つめ合っていた。浦風の叫び声で我に帰り、無我夢中で主砲を打ち、爆雷を放り投げた。波が落ち着いた海には、何も浮いていなかった。腰を抜かした浦風を震える膝で引っ張り起こした場面、写真でも撮っておいてもらいたかった。今見たらきっと笑えるにちがいない。
浦風。浦風。何が彼女をあそこまで怒らせてしまったのだろう。燃え上がるようなケンカはたくさんしたが、こんなに冷たいケンカは初めてだ。頭を叩かれるくらいなんともない、でも拒絶されるのだけは本当にイヤだった。
やめよう、また涙がにじむ。
もう一度海水をすくって顔になすりつけた。
両脇から陸地が見えなくなり、ちょうどよく月がもう一度出てきたので速度を落とした。この先は三つの航路がある。まっすぐ進み御蔵島方面へ向かうルート。これは富津の艦娘の哨戒ルートだから問題外。それから、右手に進む、相模湾から西日本に臨む航路。これも横須賀の哨戒ルート。今の時間で、順調に進んでいるなら初島あたり、それから伊豆に向かうはず。そして左手。沿岸沿いに九十九里を往くか、太平洋に出てしまうか。太平洋に出てしまえばもう戻ってこれない。確実に、燃料切れ云々ではなくて、沈められる。深海棲艦から未だ制海権を取り戻せていない場所だから。昔太平洋に出たことがある。思い出したくもない。沈む娘がいなかったのが奇跡だった。自分だって命からがら、他の娘なんて気にする暇もなく逃げ帰ってきたのだ。一人でなんて自殺しに行くだけ。
となれば選択肢は一つ。体を傾けて左の、沿岸沿いに航路をとった。犬吠埼に新しくできた基地の艦娘たちと出くわすかもしれないが、初対面であるなら問題ないだろう。嘘をつくのは得意なのだ。
鴨川を越え、勝浦の沈黙しきった漁港を眺め、九十九里に入ると弓なりに延々続く砂浜が月に照らされてぼんやりと光っていた。波が砂を洗う様が蠕動しているようで気持ちが悪い。念のため、装備に宿る妖精たちに警戒を厳にするよう命令しておく。新しくできた基地の練度を知らない、多少警戒させてもらうしかない。横須賀を出た時のままの装備であるため、索敵には不向きなのが難点。それよりも燃料切れの心配をした方が良い。出がけに入れたドラム缶一本程度じゃあそう遠くへ行くこともできない。犬吠埼で燃料を分けてもらえるだろうか、分けてもらえたとして、さて次はどこへ行くのだろう。東北の方、柱島の泊地とかどうだろうか。奥尻島の深海棲艦と激戦を繰り広げている大湊基地の後方支援だとか、時折の火力支援が主な場所だったはず。すぐ近くには三陸の海岸があるから、漁業の復興に力を入れているとかなんとか。艦娘の随伴と時間の制限を強いて、限定的に船も出しているらしい。もちろん全て伝聞なので確実なことはわからないが、いっそ艦娘であることを忘れて、海女さんになるのもいいかもしれない。艤装さえ展開させなけりゃわからないはず。
夢は膨らむ。行ったことのない場所に自由に行ける。もういいじゃないか、艦娘であることを忘れたって。艦娘として役に立たないのだから辞めてしまえ。釣り糸を垂らしていれば生きていくぐらいできるだろう。砂浜で寝たっていい、雨が降ればどこか雨宿りできる場所を探せばいい。そうだ、艦娘なんてやめてやれ!
そうするにしても、もっと富津や横須賀、とかく自分の知り合いがいるだろうところからは遠く離れた方が良い。陸路を行ってもいいのだが、内陸に向かうにつれて治安が悪くなっているとの話。ぼやかした言い方をされたが、軍が出張っていることを考えると相当なものなのだろう。それならば海岸沿いを行った方が燃料があれば抵抗できる、安全なのかもしれない。
反っていた海岸線が終わりを見せてバイオリンの弓の頭みたいな出っ張りが見える。
速度を落とし、限界まで砂浜に近づいて、戦闘服のまま艤装だけを収納した。途端に浮力がなくなって海に落ちるが、陸地はすぐそこである、腰あたりまで沈んだ体を波にあおられながら砂浜まで持っていく。数ヶ月甘やかした身体はそれだけで息を上げた。あたりを見渡しても人の影はない。少し先の浜辺の終わり、堤防の向こうには建物の残骸がある。ある程度状態のいい(天井は吹き抜けになっていたが)一軒に忍び込み、砂まみれになっていた畳敷きの部屋で横になる。妙な寝苦しさで濡れている服を思い出した、少し場所を変えて、私服に戻した。
明日になれば脱走兵が出たと泊地は大騒ぎになるのだろうか。前代未聞だろうな。艦娘の脱走だ、きっと付近の基地にも捜索願が出されるに違いない。残りの燃料でどこまで行けるだろうか。東北まで行く余裕はないから、やはり露呈する前にどこかで油をもらわなくてはいけない。早起きして、すぐそこの犬吠埼基地にもらいに行くしかない、密令だとか言っておけば多分大丈夫だ。あとは行けるとこまで海路、折を見て陸路に切り替え。銚子だからきっと釣竿ぐらいあるはずで、お一つ拝借して、肩に担いで太公望。軍の外だって楽しめそうだ。傾いだ月は見えず、薄く膜を張った雲の隙間から見える見事なオリオン座を眺めているとすぐに眠くなってきた。今日は疲れた。明日からは、新しい生き方が始まるのだ。富津泊地所属の卯月は寝てしまえば終わり。目が覚めれば……、どうしようか。はぐれ艦娘じゃあ悲しすぎる。
まあいいや、呼び方なんて自分で決めるもんじゃない。
星の明かりすら眩しくなった、こういう時は、まぶたを閉じて暗闇に逃げ込むべし。
「密令だって?」
翌朝、時計すらもなく、とりあえず日が昇ったらすぐ海に出て犬吠埼詰所に向かい、ちょうど哨戒から戻ってドックで作業していた艦娘の一人に声をかけた。
「そうだっぴょん、大湊まで行かなきゃいけないから、燃料を分けて欲しいっぴょん」
「待て待て、お前はどこの卯月さん?」
「それもいえないっぴょん。そういう命令っぴょん」
片目に眼帯をかけた艦娘は鼻から息を吐いて頭をかいた。所属も言えないという怪しい乞食だ、司令官にお目通ししてもいいか悩んでいるのだろう。他の何人かも遠巻きにこちらを見ている。正直少し居心地が悪いが、嘘をつくときは堂々としているのが一番だ。決して平常心を崩してはならない。
「まあ、大丈夫じゃない。艦娘が敵に寝返ったなんて話聞いたことないもの」着物に袴を履いた、全体的に赤い娘が答えた。見たことはないが確か神風だったと思う。「そういう問題じゃあねえだろ。一応ここだって軍なんだからさあ」こっちは天龍。過去に横須賀に在籍はしていたらしいが会ったことはない。もちろん、今目の前にいる天龍とは別人だ。
「固苦しく考えすぎなのよ、天龍は。ここは日本海じゃないの。神経質になりすぎると頭までおかしくなっちゃうわよ」
片腕を直角に曲げて、ぱっと見お腹をずっと抑えているように見える神風が眉根を寄せて笑った。艤装を解いても荷物を片付けていても曲がった手を伸ばさない。ずっと片手で作業している。神風だけでない、目の前で困ったふうに腕を組む天龍も、右手首から先がない。視界に入る他の艦娘もどこかしら動きがおかしかったり、見てわかる形で体が欠損していた。
「わかったわかった、んじゃ司令室行こうか。案内する、ついてこい」
「出撃日誌は書いとくね。報告はついでによろしく」
神風から投げられた言葉に明朗な返事をして天龍は艤装をしまった。手首から先はカーディガンにすっぽり隠れて見えなくなり、目を吸い寄せられることもなくなる。
途中すれ違う艦娘も、遠目に見える艦娘も、どこもかしこも戦闘に行ったまま入渠していないんじゃないかと思うような人ばかりだった。顔に及ぶ大きな火傷があったり、びっこを引いて歩いていたり、肩口から先がなかったり。けれど体の欠損に暗い顔をしているのは認められず、目はしっかりと前を向き、話していれば笑っている娘ばかり。犬吠埼は傷病兵が集められたところだというのは聞いていたが、まさしくその通り、どこかしらに傷を負ったものしかいなかった。あんまりじっと見ているのも悪い、わかっていても目線がいってしまう。もちろんすれ違う艦娘たちもこちらの目線に気づいてしまうのだが、欠損部位を隠す娘はほとんどいなかった。恥ずかしそうに笑ったり、誇らしげに見せつけるようにしてくる。中にはおどおど挙動不審になってしまう娘もいて、そういったときには慌てて目をそらした。
意識が放散していて立ち止まった天龍に気づかず、彼女の背中にしたたかにぶつかった。
「うがっ。おい、ちゃんと前見て歩け」
「ご、ごめんないさい」硬い体だった。鼻を押さえて視線を上げると訝しげにこちらを見下げた天龍の頭の上には『艦娘隊司令室』の文字があった。
左手でドアをノックした天龍は扉の中に声をかける。
「犬吠埼四水戦旗艦天龍、入室します」
『はーい、お疲れさま。どうぞ』
部屋の中に入っていった天龍の後どうしていいかわからずに右往左往していると、手だけが伸びてきて、入室するよう促された。それなりにカッチリした基地のようだ、もちろん、そういった場所は苦手である。
部屋の中は殺風景だった。くすんだ木材の上にはとりあえずといった形で安そうな絨毯がひかれて、壁には本がぎっしり。見ているだけで頭が痛くなる。真ん中には大きな海図が置いてあり、小さな駒が散らばっていた。正面には、これまた簡素な机があって、窓の外には海が延々と広がっていて、景色は良好。まさしく、艦隊司令室と呼べる、格式ある部屋。
「こら、お客さまがいるときはちゃんと教えてください。卯月さん? どうしたのかしら、異動のお話は聞いておりませんけど」
逆光の中、湯のみを傾けていたのは香取。艦娘が司令官をしているというのは本当だったのか、驚いた。
「密令で動いているっぴょん。貴基地にて補給をさせていただきたいっぴょん」
みたところ香取はどこも怪我をしていない。歩いてもびっこをひかない。火傷もない。
高慢に依頼を出されて一瞬眉根を寄せたが、何か一人で合点がいったらしく「ああ、はいはい」笑顔で歩み寄ってきた。
「横須賀の卯月さんね」
体が飛び跳ねてしまうのを抑えるのが精一杯だった。なぜバレたのだ、どこかに自分の知らないマークでもついているんじゃないかと冷や汗が出たが、待てよ、冷静になる。自分はもう富津に移動して三ヶ月になる。それを「横須賀の卯月」と言ったのだ、異動したことを知らないなら、多少のハッタリをかます余地はある。
どうせもう開き直っているのだ、たといバレても逃げればいい、足の速さには自信がある。
「違うっぴょん。どこに所属しているかいうなと厳命されているから教えられないよお」困ったような、泣きそうな顔を作るのがミソ。命令に従って動くだけの一艦娘を全力で演じる。
じっと見つめられていたが、眉間に指を当てて「あらら外れちゃった」と崩れ落ちる演技をおちゃらけて見せた香取を見てハッタリが通ったことを確信する。やはりこういう時は堂々とするに限る。
「また森友さんが何かやっていると思ったんだけど……、私も勘が鈍ったものね。えっと、補給でしたか。もちろん許可します。わたしがサインしなくちゃいけない書類とか、あるかしら」
そんなものはない。高尚な理由なくかっぱらっていくだけなのだから。
「何にもありまっせん」
「了解しました。じゃあ天龍、燃料と弾薬、卯月さんに渡してあげてください。数はちゃんと記録しておいてね。それから私は今日の午後に東京に戻ります。入れ替わりで鹿島と学生さんが来るから、哨戒の報告もそっちにお願い」
「了解っ」
「では退室してよし。卯月さん、ご苦労様です。お気をつけて」
柔らかな笑顔に見送られて外に出ると足の力が抜けそうになって身体が傾いだ。数分しか顔を合わせていないのになんでこんなに疲れなくてはいけないのか。簡単だ、香取は絶対に怖い人だ。言い表せない圧力がある。
「すげえなあお前、香取相手にぴょんぴょん言えるなんて。怒るとマジでおっかねえんだぞ」
自分の顔がよっぽどげっそりしていたのだろう、言葉を出さずとも疲労を理解した天龍が笑った。「だよなあ」元来た道を戻る彼女の後ろをまた歩く。できたての割には艦娘の数は多く、ひっきりなしに誰かとすれ違う。
先をずんずん歩く彼女についていくには小走りにならなければいけない。いい加減疲れたので、雑談がてら、気になっていたことを聞いた。
「ここには入渠するところって、ないぴょん?」
気だるげな声で返事をして、眼帯をしていない方で振り返った。息が少し上がっている自分を見て速度を緩めてくれる。「なんだ、どっか怪我でもしてんのか」脊髄反射だったのだろう、そう言ってから「こっちの方か」と右手を持ち上げた。私服に変わってからは見えなかったが、布の可愛らしい袋で傷口が覆われていた。手のひらのない腕を振って彼女は答える。
「治んねーんだ、これ」
「治らないって……」
「治んねーもんは治んねえ。けど入渠場はあるぞ。まあ、ここにいる奴らはそれでも治らねえカタワばっかだけどな。はは、心配しなくたって戦闘で受けた傷は治る」
そんな顔をしていただろうか。
顔をペタペタ触って確認する様を笑われた。こちとら心配しているというのに失礼なやつだ、自由に体を動かせないことで、いざという時望んだ動きができないというのは、戦闘で致命的だと思うから。
傷病兵の集まる犬吠埼詰所。掃き溜めというには基地の雰囲気が良い。誰も彼も暗い顔一つしていない、普通の基地だった。
「聞きたいか」
おずおずボサボサの髪の毛の隙間から彼女を見た。やはり影一つささない、さっぱりとした顔で天龍が、口角を上げていた。
傷の理由。主語がなくても焦点にはいきあたる。
頷いた。
「くっく。気にならねえはずがねえもんな、正直でいい。とは言っても簡単な話だ、俺ぁ能登半島の基地にいたんだけど、ある日作戦をしくじって手が吹っ飛んだ。一緒に戦っていた龍田と一緒に」
能登半島。
日本海に突き出した佐渡島のすぐ脇。今一番激戦区と言われているあたりの艦娘。前線中の前線から、しかも姉妹艦を失っただと。今にも口笛を吹きそうな雰囲気でとんでもない話をする。段々になっている短い階段を下りながら「簡単な話だろ?」と笑う彼女の大きさが変わった。もともと自分は身長が小さいが、それ以上の、巨人を見ている錯覚に陥る。
けれど傷が治らない理由。ショックを受けたから? よほどひどい傷口だったから? 精神的なもので傷が治らないという話は聞いたことがあるが、艦娘の、あの妖精特性の治癒液にも適応されることなのだろうか。段々と気温が下がっている、出撃ドックに直通するこの廊下は風が強く、前髪がめくれ上がって、それから賑やかな声が風に乗ってここまで聞こえてきた。
「龍田ってあなたの姉妹艦でしょ。なんでそんな、悲しくないの?」
ふつふつと怒りが湧いてきた。自分の仲間がもし沈んでしまったとしたら、きっとひどく悲しむ。口に出すのすら嗚咽と一緒に、そして海に出るのが怖くなり、逃げ出すか、引きこもってしまうか。どちらにせよ癒えることのないトラウマになるはず。少なくとも、こんなに飄々と人に話さない。
しかし自分が口を出すことではなかった。すぐに今の発言は間違いだったと謝罪する。
「あ、と、ご、ごめんなさい」何かを言われる前に回り込んで頭を下げた。天龍は足を止めて「気にしてない」頭を左手で雑に撫でる。また歩き出した天龍の、少し後ろをついていく。
「悲しんださ。そりゃあもう、悲しくて悲しくて大暴れした。あそこの提督は物腰こそ柔らかいがおっかない人だった、そんなのおかまいなしに司令室で『何であんな作戦を発令しやがった』って胸ぐら掴んで引きずり回したよ、俺らの力で」
艦娘の力のことを言っている。それは何というか、生きていたのだろうか、そこの司令官。
「凄かったぞお、艤装を展開した山城すらぶん投げてたらしいからなあ、俺。もちろん提督も血まみれだ、あと少し落ち着くのが遅かったら死んでたんじゃねえかな。そしたら晴れて解体処分だったんだが」へらへら笑いながら話をしているが冗談ではない。軽巡が装備を展開した戦艦を力でどうこうしたというのもありえないが、上官を血まみれにしといて、のうのうとまた軍に居ることが異常だ。「とどめだったなあ、ありゃ。とどめ刺すつもりで、最後の一発を叩き込もうとした。この潰れた右手で、提督の顔をぶっ潰してやろうと思ってた」ぶん、右手を思い切り叩き込むジェスチャーをした。生身の人間相手にそんなことをすれば確かに。ひとたまりもないはずだ。
「それで、どうしたっぴょん。大和あたりに取り押さえられたとか」
先を促す。
ドックにつながる最後の階段に差し掛かって、階段の途中の、踊り場の横に備え付けられた扉の中に入っていく天龍の後についていく。濃い油の香り、重油の保管庫だった。言われるままに艤装を展開してホースを突っ込まれ、機械が動く低いうなり声が空間に響いた。頭がぼうっとしてくる。だんだん重くなる体が、艦娘として燃料を食っているというのを感じさせる。ふらっといなくなった天龍が戻ってきた時、彼女もまた艤装を展開していて、頭の上の機械が近未来的な発光をしていた。薄暗い室内がぼんやりと明るくなる。
「弾はなんだ。一応、十センチと二十五ミリ持ってきたが」
「機銃弾だけでいいっぴょん。ありがと」
もともと、補充というよりは予備の弾が欲しかっただけだ。いや、弾も本当はいらない。燃料だけあれば、いざとなれば陸に逃げ込めばいい。自分は、もう艦娘をやめてしまうのだから。
目の前に置かれた弾をひと撫ですると、まるで初めからそこに何もなかったかのように消えた。これで自分の体のどこかにある弾薬庫に補充される。あとは各装備に宿った妖精たちが勝手に分配して、戦闘の時に消費されていく。一体、自分はどんな生き物なのだろうと不安に思うことはない。このように生まれてきたのだから疑問を持つことが間違いだ。
そんなことより話の続きが聞きたい。まだ半分ほどしか燃料が入っていないから時間はある。
扉の向こうをかしましく通り過ぎる艦娘がいた。多分、神風だ。
「提督に言われたんだ」
空になった弾薬箱を雑に片付けて彼女は艤装をしまった。それから端っこに備えられた机の上のノートに何かを書き込んだ。
「『天龍、あなたのなくなった右手は、最後に何を掴んでいたのですか』。笑顔でな。血まみれの笑顔ってすげえぞ、ちょっとした化け物に見えるんだ。つうかお前、ずいぶん燃料食うじゃねえか。どっから来たんだ?」
どっからって、距離的にはすぐそこだ。富津じゃまったく補給を受けていなかったから(出撃がなかったし)数ヶ月ぶりで、確か黒潮たちが最後に遊ぼうと言って、横須賀の前の海で陣取りゲームか何かをしてそのまま。もちろん、余計なことは口に出さず、「ちょっと遠くの方だぴょん」とだけ答えた。
最後に掴んだもの。
「何て答えたの」
「龍田の手」
しばらくの沈黙の後、機械がおとなしくなった。満タンになった背中の艤装が重くて身体がかしぐ。ホースが抜かれたのを確認して艤装をしまう。
「龍田の手だ、俺の右手が最後に掴んだものは。お互いもうほとんど動けなくなって、けれど向こうに撃たれた雷跡がまっすぐ龍田に向かっているのに気づいて、あいつから差し出された手を握った瞬間にドカン」
天龍は後片付けをして、タンクのメーターを確認して、またノートに何かを書き込んだ。もう用は済んだが、自分の足は動かない。
「最期に龍田が手を差し出したかはワケは知らねえが、ま、助けを求めたのか、こっちに来るなと言っていたのか。とにかくそういったら提督が、血まみれのまま幸せそうに笑うんだ。『龍田はあなたと一緒にいけたんですね。よかった』って。ふざけんじゃねえってな。その頃にゃ基地中の艦娘が司令室に集まってた。そりゃあそうだが」一通り仕事が終わって天龍は机に腰掛けた。ようやくゆっくり話に集中できるという、腰を据えた体制に、こちらも彼女の目をきちんと見た。何度見ても辛そうな記憶を引っ張り出しているようには見えない。
「だが恥ずかしい話」困ったように笑う顔はとても可愛らしかった。自分よりも年上な風体をしているのに、庇護欲をそそられる笑顔だった。「提督の言葉のおかげで俺は上官殺しにならずに済んだんだ。そう言われて、決してはっきり思い出せなかった龍田の顔が見えた。あいつは、あくまで俺の想像の中でだと思うけれど、俺の手を握った時にな」深呼吸を挟んだ。何度も何度も取りだしてすりきれた思い出をもう一度取り出したような、そんな言い方。
「笑ってたんだよ」
人の頭を撫でてあげたいと思ったのは初めて。抱きしめてあげたいというのも初めて。でも体は動かせなかった。見飽きるほど眺めた思い出を大事そうに見つめる天龍はひどく儚く見えて、まったく消え入りそうにない。それどころか絶対的な存在感を放ち、自分にとって巨人に見えるわけがわかった。
彼女は二人存在しているのだ。死人である龍田を背負っているとか陳腐なものではない。前に歩き出した天龍と、立ち止まったままの天龍と、くっきり別れた二人の天龍を内包している。龍田と一緒にいた天龍を、色あせさせることなく、あの時の存在をしっかり生かしている。理解した時、彼女は巨人ではなくなった。異質なものではなく地続きの、他の艦娘と同じ存在に収縮した。途端に自分がみずぼらしく感じた。
「不便だよ、片手がねえってのは。だけど俺の右手は龍田と一緒にあるんだ。あいつが寂しくねえように、俺の体が海の底に逝くまで、しばらく貸しといてやんなきゃ。だから治らねえ。俺の右手は治らねえんだ」
誇らしげに、布に覆われた右腕を掲げた。薄暗い明かりの中で宝物でも掲げているみたいな荘厳さを見出している。
「……神風も?」
「そうだよ、あのひん曲がった腕だろ。筋肉まで焼けただれて変なくっつき方しちまってるから伸びねえんだと。舞鶴だったかな、姉妹艦じゃねえが、まあ仲の良かった同じ部隊のやつの死に際を看取ったっつってた。燃え盛る艦娘を抱き続けたんだろうな、あの形は」
「なんで……」
「人のことをべらべら話すのは俺も好きじゃない。だからこの辺にしとく、けど本人に聞いてもいいんじゃねえかな。ここはカタワのやつばっかで、どいつもこいつもシャレにならない傷つき方してるが誰も後ろを向かねえ。誰かに話したくて仕方ないんだ、魂の形が変わるほど大事なやつがいたことを誇りに思っているから」
机の上に乗せていた尻を持ち上げて「わり、長話しちまった。驚かせるからあまり話すなって言われてんだけどな」と、また恥ずかしそうに笑った。彼女に対して首を振る、子供っぽいことしかできない。
また彼女の後についてドックに向かった。来るときには気づかなかったが、階段の片側にレールが付いていて、下に簡単な椅子があった。電動ではない、それに一人でも動かせない。誰かが上に乗り、誰かが引っ張ったり押したりするアナログなものだ。動けないほどではないが、足が不自由な艦娘がいるのだ、いろいろな助け合いの形が設備として、よく見ればそこらじゅうにある。きっと目に見えないところでも様々なことが行われているのだろう。はたから見れば異質な基地である。でも、普通の基地だった。
艤装を展開して海に浮かび、機関を動かす轟音の中で、天龍は見送りをしてくれた。嘘つきの脱走兵に向けたものではない顔で、「また来いよ」と気持ち良く送り出され、進路を北にとった。
惚けていた。何も考えられずに、崩れた漁師町を左手に見ながら進んでいた。凪いでいるのに足元がふわふわして、果たして今進んでいるのか止まっているのかわからず、思い出したように顔をくすぐる髪の毛で、ようやっと前進していることに気づく。今攻撃を受けて沈んでも、きっと何かを思うことなく沈んでいくだろう。だまくらかして燃料を盗った自分が急に情けなくて、恥ずかしくて、頭をかきむしった。犬吠埼の基地からかなり進んだことを確認して、周りに誰もいないことも確認して、思い切り叫んだ。何度も叫んだ。喉が痛くなっても、むせ込んでも、顔を真っ赤にして叫んだ。まっすぐ進めず、航跡が醜く歪んでいるのがわかる。一通り叫んでガサガサになった喉を、出がけにもらった水筒で潤した。暖かいお茶が食道から胃袋に落ちていくのが、溶けた鉛が固まっていくみたいにはっきりとわかる。涙を流すことなんておこがましい。体の中に溜まった悪いものを全部出すまで叫び続けたい。頭を撃ち抜きたいほどに汚らわしい自分が憎くて憎くて仕方なくて、きれいなもの、あんなにきれいなものを見せられてしまったら、今度こそ自分という存在の価値がなくなってしまったように感じて、どうすればいいかわからずに、とにかく叫んで安定しようとした。
魂の形が変わるほど大切なものだと? 自分は何だ。勝手に他人と壁を作って、ひたすらわがままして、好意を蹴っ飛ばし、挙句自分のために起こったケンカが嫌になって逃げ出してきた。何だ、何なんだ自分は! 笑顔を向けて送り出してくれた天龍が、そんな価値自分にないのに! 何一つ本当のことなんか言ってないのに、嘘を信じ切って、どこの誰かもわからないやつにあんな話までして。きれいすぎて吐き気がする。腹が痙攣して、卯月という存在を吐き出そうとする。辛かっただろうに、そんな、魂に影響するほど悲しい出来事だっただろうに、あんなに笑顔で話せるなんて、妬ましい、妬ましい! 自分はああはなれない、たとい傷病兵になったとしても、あそこの仲間にはなれない。恐ろしい。恐ろしい場所だ。二度とあそこには足を踏み入れられない。二度と天龍と会うことはない、会えない。こんな汚らわしくいやらしい卯月は会う資格なんてない。
頭がクラついて速度を落とし、空を見上げた。雲の厚い、灰色の曇天。
卯月と天龍が司令室を出て行った後、香取は無線機の前に立っていた。
「これから出て行く卯月さんに一機、偵察機をつけてくださいますか。……ええ、はい、ごめんなさい、お休みのところ。……わかりました、お土産に何かおいしいもの仕入れてきますから」ため息を吐いて、今度は電話機に手を伸ばす。呼び出し音二つ、素早く連絡が通じたことに、相変わらず几帳面にやっているだろう森友の懐かしい顔が思い浮かんだ。
「あら、そうなんですか。じゃあそっちに連絡を取ってみます」
受話器を置くことなく、手で回線を一度きり、もう一度ダイヤルする。ツ、ツ、ツ、ツ、と単調な呼び出し音。1分ほど待たされた後、秘書艦だろう艦娘が出たので、柔らかく声を作る。
「犬吠埼詰所司令官の香取と申します。清水クンいるかしら」
さらに待たされそうだったのでお茶を一口すすった。電話口の向こうから察せられる雰囲気は、朝だというのにものすごくバタバタしている。渋すぎるほど濃く入れた茶が気持ちを引き締めてくれる。まったく、教え子から巣立ったというのに、まだお小言が必要とは。思わず指示棒を握る手に力が入る。
息をあげて電話口に立った彼の声を聞いてつい口角が上がってしまった。
夕方になる前には曇天の空が雨を降らせ、視界が不明瞭になったために陸に上がらざるを得なくなった。
またしても廃墟の一軒に忍び込み、艤装だけしまって、濡れたままの戦闘服で火をおこそうと躍起になった。寒かった、体が冷えていた。戦闘服を着ている状態ならば体は艦娘の頑丈さを出す。乾いた私服を展開させた方が暖かいことはわかっているが、ダイレクトに気温や風にさらされて心が折れた。人と同じ性能になると子供となんら変わらないのだ、歯の根が合わず、手先は震え、そんな状態で乾いた廃材を集めに雨の降りしきる外を歩き回ることはできなかった。
選んだのは艦の記憶からすれば当時に近い、玄関口が土間になっている平屋の一軒。集めた木材を適当に積み上げ、物置に積んであった新聞紙とマッチを使って着火する。たちまち新聞は燃えあがり、木に燃え移るまでエネルギーを補給し続けた。換気など考えておらず家の中が煙っぽくなる。二束目の新聞紙を投げ入れたあたりで倍の量の煙がもくもくと立ち上り、ようやく熱が通り始めた。薄いものとゲバ棒に使えそうな角材を艦娘の力を使ってへし折り、適当に投げ入れていく。気付けば家の中全体が真っ白くなったので奥につながる引き戸を閉めた。立て付けの悪いすりガラスがはめられた戸板の脇の柱には、自分の身長と同じぐらいの位置に何本も傷跡があった。見上げても幾つか跡があり、一番高い所は、まっすぐ手を上げてようやく届きそうな位置にある。上に行くにつれ傷の間隔は広くなっていて、ははあなるほど、女の子のものじゃないな、男の子のだ。確信した。なんとなしに自分も、いつかここに男の子が立っていたように立ち、近くにあった金属片で頭の上で傷をつけた。もともと付いていた傷の、ちょうど真ん中あたり。一番上のは何才ぐらいのものなのだろうか、どちらにせよ、身長の高い子なんだな。
温まってきた玄関口、そろそろいいだろうと戦闘服を脱いで真っ裸になり、すぐに私服を展開させる。誰もいない海上とは違う、ここは、人の営みがあった場所なのだ。さすがに恥じらいを感じる。脱いだ服が重ならないように小上がりに並べた。濡れた服のしゃくしゃくした音と湿った木が爆ぜる音が、しんとした家の中に、生活音として響いた。喉が痛くなるほど煙が充満してきてこれはたまらんと玄関を少し開けると、外はどしゃ降り。しとしと降っていた先ほどとはまた違う叩きつけるような雨。これではしばらく動けない。せめて夜までに福島には着きたかったが仕方ないだろう。雨と夜のコンボで動くなんて自殺行為だ。
今回はきちんと家を選んだので屋根もきちんと付いている。雨漏りはないだろうか確認するために電気が通っていない、うす暗くなり始めた家の中を歩き回った。古い家だがしっかりしているようで、ほこりや砂がたまっていることに目を瞑れば、すぐにでも住めそうなぐらい綺麗な家だった。雨漏りもなく床もほとんどきしまない。畳も腐っていないし、昨夜に比べれば段違いの快適さがある。
押入れを漁ってハの字に広がった土間箒を探し出し、畳に積もった砂をはきだして、台所で水道をひねるとまだ水が出る。かけっぱなしになってカチカチに固まった雑巾を濡らし、畳と、真ん中に鎮座するやたら重厚なテーブルを拭くと、使い物にならなくなるぐらい真っ黒に汚れてしまった。だが畳は黄土色の輝きを取り戻した。一仕事終えた達成感で寝転がるとほぼ二日、何も補給を受けていない胃袋が抗議した。それは困る、食べ物など持ってきていないのだから。犬吠埼にもらった水筒も、叫んで乾ききった喉を潤すために、昼すぎに空にした。しかし腹が減るのは仕方ない、寝転がったばかりの体を起こし、火事場泥棒さながら台所を漁る。が、見つけたのはしなびた常備菜だけ。乾麺も缶詰もカップ麺もない。小さいジャングルみたいなジャガイモはいくら腹が減っていても食べる気にはならない。仕方ないので、鉄の味が濃い水道水をがぶ飲みして、今度はこれでお納め下さいと、胃袋に媚びへつらった。刻一刻と暗さは増し、手元すらも危うい。暗闇にじわじわと飲み込間れるあの感覚が、特に人の営みがあった場所だと海の数倍の恐怖がある。また玄関口に行く。灼熱した火の明かりがあった。開けっ放しにした扉の向こうの雨の音がうるさくて寂しさが和らいだ。ねっころがる。素足をぶらぶらさせて、指先が少し冷たいと思えば火にあてて、足の裏が遠赤外線でじわじわ温められる、こそばゆい感覚。誰もいない家は静かだ。
それからじいっと天井を見つめていた。頭に渦巻くのは今朝の犬吠埼の一件、ずうっと、天龍の言葉が反響している。「魂の形が変わるほど大事なやつがいた」。空きっ腹に米を大量に入れた気分だ、頭が重くなって、胸の奥で虫が這いずり回っている。艦娘とは人の魂に艦の記憶を練り込んだもの、そんなことがまことしやかな噂になっていることは知っている。実際のところ、事実を知ることはきっとないのだが、思考することができる以上、答えを求めたがるのが性だ。魂は形を作り、記憶は存在を創り出す。魂の形が変わる、体を形作る設計図が損傷したと、彼女らはまさに、第三者によって魂に傷をつけた。ああそうだ、それならば、彼女たちが誇らしげに生きている理由になる。誇らしくないわけないじゃないか。じゃあ自分には? 自分の魂が傷つくほど大事な人がいるだろうか。自分のために魂を傷つけてくれる人がいるだろうか。意味のない設問だ。けれど頭から離れない。日は暮れ、焚き火の明かりだけが頼りになり、未だ外からは雨音が、先ほどよりも激しく聞こえていた。明日に続くのだけは勘弁してほしい、さすがに腹が減った。東北に入ったら陸に上がり、海岸線を一度離れて内陸に向かおう。子供の姿だ、ある程度甘く対応してもらえる気がする。食べ物の一日分ぐらい分けてもらえるかもしれない。ああ、雨が止んだらこの付近の家を探索して、釣竿の一本でも見つけておかなくては。昨日は寝ぼけていて忘れた、今日はしっかりと寝るぞ。そうやって現実的なことを考えて、深淵につながる考えを頭から掃き出した。
手の届くところにある木材を火の中に放ると火の粉が大きく上がり、散らばった、赤熱している炭が熱源を広げる。折を見て干していた服をひっくり返す。まだ湿っている。いくら火で空間が温められていると言っても排煙のために玄関を開けているからまだらな寒さがあった。毛布の一枚でもないものかと、おっくうに体を起こして、火のついた木材を一本引っぱり出して、再度家探しをしてみる。儚げな灯り一つで家探しをしていると、外の世界なんてないような、とても窮屈な世界を生きている気になった。和室、和室、和室、ふすまを開けるたびに畳敷きの部屋が現れる。どれも客間のような作りをしていて、埃まみれでぺしゃんこの座布団こそあれど、目当てのものは見つからない。
建物の広さから考えて最後の部屋、最奥の部屋のふすまに手をかけた。力を入れなければ開かなかった今までと違い、ロウでも塗られているかと思うほど滑らかに開いた。
寝室。
生活感にあふれた部屋。桐たんすはぴっちり口を閉じて、剥製や日本人形が入れられたガラスケースがほこりをかぶっている。ゆらめく灯りに照らされた彼氏彼女は非常に不気味だが、恐怖することは不思議となかった。柔らかく微笑みをたたえる人形達は、ケースの内側から、こちらに挨拶をしているようにも見えた。
だから敷居をまたぐ前に不恰好にお辞儀をした。
改めて部屋を見渡す。布団が入っていそうな押入れがあったのでひとまずは凍えずにすみそうだ。美味しいものは最後にいただく、この家から人がいなくなってどれほど経ったか知らないが、不思議に小綺麗なたんすを開けてみた。いいものだ、心地よい重さなのにすんなりと開く。防虫剤の強い香り。中には綺麗にたたまれた、どう贔屓目に見ても若者向けでない服があった。一枚引っ張り出してみると紺のスラックス。それからパリッとノリを効かせたシャツ。家の広さから想像は付いていたが、ここは良い家柄のようだ。別の段を開けると今度は婦人服。服というよりは着物。普段使いに適していそうな、派手でもなく地味でもない、誰かの後ろを歩く柄のメリンス生地。畳めないので広げることはしなかったが、毛布がもし使えなかった時のための予備として考えておく。一番下の段には、今度は時代を一気に上った、若者向けの服が入っていた。女物だった。短めのスカート、生地の薄いTシャツ、他にも服がぎゅうぎゅうに押し込まれていた。一人娘だろうか。自分の体に当ててみると少し大きいぐらい。一二枚、着替えに拝借していこうか悩んだが、そのままにしておいた。せっかく廃墟にならずきれいに残っているのだ。この家に人が戻ってくる時、娘の服だけがなくなっていたら、薄気味悪さを感じてしまうことだろう。自分にそのケはないし、知らない人でも、勘違いされるのは心地いいものではない。小さい引き出しにはこれもまたきれいに整頓されて、おんな物の細々としたアクセサリーが、娘の物と母の物と、きっちり仕切られて入れられていた。値の張りそうなものは持ち出したようだ。けれどどれも上品なもので、娘のものも、若者らしくないといえばそのようなものだった。あとは服用薬の入った引き出しと(よいのだろうか)、父のものか、紐タイが入っているだけだった。
タンス一つで家の内情が見えてくることが楽しくなってしまい、押入れを開けた時もわくわくした気持ちでいた。中には布団一式が入っていて、奇跡的なことにほこりもたまっておらず、今すぐにでも使える。いっそここに住んでも良いぐらいである。布団は三組あった。反対側を開けると、こちらには衣装ケースや段ボールが、一分の隙間なく詰め込まれていた。人の家を漁る罪悪感はとっくに消え去っている。これは重労働だぞと一人ほくそ笑んで、手近な箱を片っ端から開けていくと、冬物の婦人服、冬物の紳士服、コート、暖房器具と、この家から人がいなくなったのが夏場だということがわかった。両手が使えないことに不便し、タンスの引き出しに木材をくわえさせて本格的に漁る。服、服、ストーブ、よく分からない機械、よく分からない鉢、絵。まさに物置。奥に行けば行くほど、もう二度と日の目をみることのないようなものが出てくる出てくる。娘の学生服もあった。名札には『小坂』とあった。別の箱から出てきたノートの名前に『小坂千綾』。アクセサリーはともかく、中身は若者らしい娘だったらしい。名前欄にはよく分からない記号が乱舞していて、内容は授業を真面目に聞いていたと言い難いもので笑ってしまった。ただひたすら、教師の授業に対する文句が垂れ流されているページもある。筆談した跡も残っている。小綺麗な女性の字、汚い男の筆跡。甘酸っぱい青い春を送っていたのだろう。筆談の書かれたページは何度も開かれたように、ノートにしっかりと跡がついてしまっていた。これらを眺めているだけで一晩越せそうだが、楽しみは最後にとってくのだ。だが、娘の荷物は、おそらく高校以降のものは一切なかった。あとは父の趣味だろう、古文学の色あせた本やレコードが今度こそほこりをかぶっていただけで、興味をそそるものはなかった。
ノートを取り出しやすくするために箱の順番を変えて片付け、ひとまず古そうなものだけを持って、布団を引きずりながら玄関口に戻った。別格に暖かいこの空間の狭い小上がりに布団を敷いて、枕に頭を乗っけて、時間つぶしにノートを開く。少しカビ臭い布団が、自分の知らないノスタルジーを思い起こさせた。
なんてことはない、黒板に白墨で書かれたことをそのまま写したような面白みのないことがずっと続く。余白に大量の落書きがあることを除けば。断片的な言葉だ、学生らしくない言葉遣いは、これが詩や歌の類であることを教えてくれる。この時代の流行曲など知っているわけもないが、とりわけ目を引くのは『部落』や『資本家』『祖国』の単語。こんなものが流行るわけがない、となると、文学少女だったのだろうか。それも自分の記憶にあるような古いもの。父の影響もあるかもしれない。
そんな自分の内側を書き綴った余白は、ある時を境にガラリと印象を変える。
ーー『ダルい、帰らない?』『ふざけろ』『ケイは?』『数学好きなんだよ俺』『つまんない!』『無視すんな!』ーー『ホーボーコンサートの音源手に入った!』『朝比奈逸人の曲入ってるやつ? 今日行く』『俺ムリ、明日は』『明日はムリ。あさって』『あいよ』『雨と直ちゃんね。カナメおいで』『お前んとこの爺さん怖い』『お茶目だよ?』『行くには行く』ーー『あのハゲなんつってんの?』『さすが国語以外胎児頭脳』『カナメがいじめる』『つんぼさじき』『キサマら! 休み時間おぼえとけよ!』ーー『二十二日ヒマな人ー』『塾』『山掃除』『じゃー山内商店前集合、九時』『メクラかお前』『私は傷ついた、おごってくれなきゃ泣きわめく』『俺はチアヤの味方だ、泣かないでおくれ』『あんたは塾サボりよろしくね』『メクラかお前』
何てことはない日常のほんの一幕。授業に飽き飽きした彼女が仲のいい男子を巻き込んでいる。千綾、カナメ、ケイの三人が、このノートに登場する全員だ。他にも似たような、益にならない日常が書き綴られていた。後半になればなるほど筆談の占めるスペースは大きくなり、最後数ページに至っては授業の内容など何一つ記録されておらず。
二冊目、三冊目も同じような内容。知らない人の青春を覗き見る楽しさにすっかり魅せられてしまった。何度か押入れを往復して、ついにメモ帳にまでサイズダウンした筆談用ノートを見つけた時、胸の奥がくすぐったくなった。ピンク色の表紙には二つの日付が書かれていた。始まりと終わり。それから名前が三人分あり、きちんと順番に積み重なっていて、彼女がこの記録を大事に思っていたことが強く伝わった。お互いを罵りあって、巻き込んで、それぞれが自分以外の二人と絡まり合っていることを大切にしていた。人生は終わった青春を惰性で生きること、なんて誰かが言っていたが彼女らの青春はどうなのだろうか。もう終わってしまったか、まだ続いているのか。紙の端が黄ばんでいるからだいぶ前のものであることはわかる。それに海沿いに家があるのだから……。避難できたのだろうか。できただろう。できたに違いない。見たこともない他人を思うことができるような聖人ではない。が、彼女らの幸せを願わずにいられない。
今でも三人一緒にいてくれたらいいな。
時計を持っていないので今が何時だかわからない、けれど日が暮れてから、だいぶ長い時間が経っていた。枕元にはノートとメモ帳を散らかして、沸き立つ心で眠気が訪れないのだから仕方ない。散々ひっくり返した段ボールに入っているのもあと僅かでどうせなら全部読んでしまいたくて。
読んでいたのは彼女たちが中学から高校までのもので、男二人に女一人という構図であっても、下品なことは一切書かれていない。かといって女をヨイショするわけでもなく、いたって健全な、友人の付き合いを六年も続けていた(千綾によるセクハラはかなりあったが興味ゆえの気がする。徹底的にボロクソ言われていたし)。その間、他の人物が出てくることは一回もない。この三人の世界だけがある。恋愛的な要素も何一つなく、本当に暇つぶし。対面した上では何か進展があったのかもしれないが、ここにはいない、まったく別の人とそれぞれがくっついても不思議ではない、妙ちくりんな関係。
メモ帳が読み淡ってもノートの方にも何かまだ書いてあるかもしれないし、もしかすると他の箱にもっと面白いものが入っているかもしれない。
次のメモ帳に手を伸ばしたところで音が聞こえた。
瞬間、目が玄関に釘付けになる。それから家の、目に付くところをぐるりと見渡す。誰もいないし何もない。物音を立てないよう、獣になって警戒した。
足音と声。今度ははっきりと聞こえた。
急いで布団から飛び起きて(物音には細心の注意を払って)、少し逡巡したが、燃え盛る火に布団をかぶせた。布が焦げる甘い匂い、何度も足踏みをして焚き火を踏み消す。玄関を閉めて煙が外に逃げないようにする。
冗談じゃない! 散らばったメモ帳やらノートを拾い集めて、寝室がある最奥の部屋に引っ込み、押入れの中に乱雑に詰め込んだ。こんな時間にこんな場所をうろつく奴らにロクなのはいないはずだ、犯罪者の類に違いない。いざとなれば艦娘の力を使って圧倒できるが、民間人に危害を加えたとあっては艦娘の立場がなくなる。そんなことをしてしまえば……深海棲艦と何ら変わらない!
干しっぱなしの服を思い出してそろりそろり、外に傾注しながら玄関に戻った。雨にかき消されかけた足音はまだ遠く、声は着実にこちらに近づいてきていた。二人、いや三人か。玄関の鍵を閉めて裏口を探した。が、人のいなくなった家の劣化は凄まじく、玄関に比べて貧相な作りの勝手口は枠が歪んでしまい、少し動かしただけで耳をつんざくような音を出した。全身の血の気が引いた。ドアノブを握ったままじっとしていると、この雨の中で耳聡く今の音を聞きつけた奴らの声が明らかに目標を持った。足音も、ここからハッキリ聞こえるぐらいに近づいた。バレることを前提で扉を蹴破り外に出ようか、いやしかし、じっとしていればやり過ごせるかもしれない。夜になってこの辺をうろつく浮浪者が動き始めたのかもしれない、そうなったら外に出ることの方が危険だ、どこで鉢合わせするかわからない。時間が引き延ばされている。雨の音が大きくなる。全神経を研ぎ澄ませて、知覚できる範囲を広げる。
声が聞こえた。
『卯月っ卯月っ! どこ! いるんでしょ!』
『家の中探さなきゃダメだって、あんま先行かないでよっ』
顔が引きつった。
そして恐怖した。なぜだ、なんで。
なんで涼風たちの声が聞こえるんだ!
まだ泊地を出て二日ほどしか経っていないのに、こんな北茨城の、哨戒コースからも索敵コースからも外れた場所に涼風が、居場所がバレたんだ。ついこないだなのに、こんなに早く追いつくなんて、後を尾けられていたとしか……。
考え至ったのは、犬吠埼。
香取、騙しきれてなかったのか。間違いない、騙されたのはこちらだったのだ。平然と燃料弾薬を補給させておきながら、潜水艦か艦載機か、見張りも怠った自分にずっと尾かせてきたにちがいない。そうすれば朝のうちに近隣の基地に連絡を入れて、すぐに富津に行き当たり、あとは定期的に位置情報さえ送ればいい。天気も鑑みれば、おおよそどこに宿を取るか、いや、自分が陸に上がったのは雨の降り始めだ、ピンポイントで場所を送ったに決まってる。全速力でここに向かえば、なるほど、なるほど。
すべてのつじつまが合う。
どれだけ家出の才能がないんだ、自分。
『この区画! 木の折り口んトコが新しいよっ』
『コラァ、卯月ぃ! はよ出てこんと主砲ぶっ放すっ』
慌てて家の中で隠れ場所を探していると懐かしい怒号に体が止まった。
浦風。
浦風も来ているの。
『待って待って、家壊すのはダメだってぇ、それにここ陸だからっ』
『しるかぁ!』
直後、どこか近くで、腹の底に響く砲音と、かろうじて形を保っていたはずの家がガレキになる音が聞こえた。遅れてもう一つ、何かが転がる音。浦風はなんだ、私を殺したいとでもいうのか!
『ああもうほら、言わんこっちゃない! 大丈夫かい、生きてる?』
『うちのことはええから、はよあのバカ探してっ』
久々に浦風が自分のために動いてくれた感慨など、たった今崩された家とともに消え去った。顔を合わせたら命の危険すら感じる。もう外には出れない。出た瞬間に砲撃されるかもしれない、下手な暴漢よりもよっぽど恐ろしい浦風の雷が落ちる。
とにかくどこか隠れる場所を、と至ったのは、寝室の押入れ。箱が閉まっている側は既にスペースがないが、布団を一組引っ張り出したので、そちらには人一人入る余裕がある。今ほど体が小さいことに感謝したことはない。カビの匂いのする布団に頭を突っ込んで、後ろ足でふすまを閉める直前、この家の玄関がけたたましい音を立てた。
『ここ! 鍵閉まってる!』
『だから先行かないでって山風っ。家の人が閉めてっただけかもしれないから、どっか入れる場所を』
けたたましい音を立てた玄関は激しい断末魔をあげた。すりガラスが割れる音、サッシがひしゃげる音。
急いでふすまを閉めた。全身をすっぽり布団に隠れるように体制を変えて、なるべく平べったくなるようにうつ伏せになる。息を潜めて自分はもうこの家にいないと見せかけることに全力を尽くす。
『……これ、まだあつい。卯月、いるんでしょ、卯月ぃ!』
振動が体に伝わるほど近くにいる。
自分がやったことがかわいいと思えるほどの、本当の家探し。聞こえてくる音は、ふすまがふっとびそうな勢いで開かれるものや、床を踏み抜かんばかりの足音。せめて艤装はしまっていてくれ、床が抜けてしまう。
やめて欲しかった。合わせる顔なんて持ってない。
自分のような輪を乱す厄介者なんかに、そんなに一生懸命にならないでほしい。いない方がうまく回るに決まっている。涼風も浦風も、山風と海に出てこれたじゃん。第四駆はいっそ解散して、どこかに編入された方が絶対にうまくいくじゃん。
このまま見つからずに、自分は一人で生きていった方が、みんなに迷惑かけないで済むから。お願いだから、このまま帰って。
ついに隣の部屋に、それから、この部屋に端を踏み入れられる。
わかってる、世の中、そんなにうまくいくはずがないってことぐらい。ふすまがスタンッと勢いよく開いて、すぐそこで息を切らせる山風の気配。
「……よかった、よかったぁ、卯月ぃ」
柔らかいものが床に落ちる音と振動。鼻をすする音、嗚咽。
間。
息を切らせた呼吸と、山風の嗚咽だけがあった。とっくに隠れている意味など無くなっていたが、この布団を押しのけることはしない。顔を合わせたくないのだ。遠くの部屋をまわっていた足音がゆっくりとこちらに向かってきて、山風の後ろあたりで止まった。立ったままなのか、定期的にたつんたつんと水滴が垂れる音がする。
「卯月」
三人の荒い息遣い。意地になっているのは重々承知だが、頑なに、身じろぎひとつ取らずにいた。しゃくしゃくした衣摺れの音がして、「山風、ちょいとすまん」目の前の人物が変わった。どすんと重いものが床に座り込んだ。布団が剥ぎ取られる気がして、体に巻き付けるようにして抵抗の意思を見せる。が、浦風はこちらの爪が剥がさんばかりの力でひっぱり、虚しく自分と彼女らを隔てる最後の防壁が崩された。
「卯月、帰ろ」
体を丸めて顔は髪の毛で隠す。話を聞かない。自分でも駄々をこねた子供のようで、恥ずかしくて、悔しい。けれどどうしていいかわからなくて、腹立ち紛れに主砲をぷっぱなしたとは思えないほど優しい浦風の声を無視する。狭い押入れの中に、富津から全力で飛ばしてきたであろう彼女たちの汗の匂いが、雨で濡れた布の匂いと混じって充満した。
お尻を誰かが揺する。「卯月、ごめんね。ね、帰ろ?」山風が懇願するように言った。
吐きそうだ。犬吠埼の一件でかき乱された心がまた大時化になる。山風の謝罪がガリガリと頭を削った。そんな愛情を向けられる資格なんてない、このまま忘れ去ってくれればよかったのに。山風となんて会話したことないし、ここまで一生懸命になられる筋合いなんてない。涼風だってそうだ、同じ駆逐隊で散々迷惑をかけてきた。海が本分の艦娘がずっと陸にいるストレスは自分も感じていた。特に、姉妹艦が海に出ていた劣等感を鑑みれば、もっと辛かったにちがいない。責めてくれればいいのに、じっと事の成り行きを見守るように、一言も発せず立っていた。
おとといのケンカだって、笑われたのは辛かったが、よく考えてみればなんてことない。冷静になって考えてみれば、本当になんでもないのだ。彼女の性格を知っていれば。竹を切ったような性格といえば話が早い、自分と同じ駆逐隊の艦娘が、あんなに改まって、しかも結婚でも申し込むのかと思うほど緊張していれば、笑い飛ばして「気にすんな」と気を回してくれたことぐらい理解できたはずだ。緊張をほぐして、富津の艦娘たちの橋渡し役になろうとしてくれていた。朝食を作った時に無理やり引っ張ったのもきっとそう。結果的に一瞬、卯月という波紋が富津の艦娘の間に広まったことは事実で、隣でナスの仕込みを手伝ってくれた木曽や、ポカした夕立、タオルを貸したお礼を言ってくれた秋月は、しっかりと自分を認識してくれたに違いない。
ああ、そうか。人と仲良くなるというのはそういうことなんだ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、一回だけじゃなくて、何回も卯月という波紋を浸透させていくことなんだ。
「ほら、帰ろ。卯月のお料理当番は明日だよ。あたいも手伝うから、みんなにおいしいもの食べさせて、あやまろうよ」
きっと涼風は何度もチャンスをうかがっていたのかもしれない。自分と同じ部隊になったという特大の波を受けていたから。となれば姉妹艦の山風にも波が行っていて、あんなケンカに、自分のためにケンカになってしまうようなことになったのかもしれない。自分の都合のいいように考えることはいくらでもできる。
だからこそ合わせる顔がない。
申し訳が立たない。絶望的にバカな自分。何が人見知りだ、人と話せないだ。差し伸べられた手を払いのけるような、ただの薄情者じゃないか。今度こそ本当に自分が嫌になった。今差し伸べられている手を握るわけにはいかない。こんな汚らわしい女は、呆れられて唾でも吐かれた方が似合っている。
じっとしていた。
雨の音が強くなった。
「……ええ加減にせえっ」
急に足をひかれて押入れから引っ張り出された。苦し紛れに握っていた最後の布団がだらしなく伸びて、それでも決して顔を上げなかった。声も上げなかった。
「こんだけ提督さんにもみんなにも迷惑かけて何様のつもりなん。今海にゃ、千歳と千代田が必死こいて付いてきてくれてるんよ。護衛に一水戦までつけて、距離あるから念のためにと対潜警戒に二水戦と三水戦まで出して、哨戒に古鷹さんら重巡戦隊を借り出しとる。おかげで基地はすっからかんじゃ。富津総出で卯月を迎えに来とるんに、あんたはまだワガママやんのかあ!」
強引に体をひっくり返されて胸ぐらを掴まれて、それでも顔は腕で覆って隠した。
見られたくない。絶対ひどい顔になっているから。
やめて、本当に、そんな価値、うーちゃんには、ない。
腹が痙攣して声が正しい音にならない、なんとか聞き取った浦風が一つ鼻息を漏らした。重みが消えて、代わりに頭の後ろに手が回されて座らされる。うつむいて髪の毛と手のひらで顔を隠す。
「無視してごめん。頑張っている人を無下にした卯月に腹が立った、それは事実。ごめんなさい」手は退けないから、浦風がどんな顔をしているのかわからない。「でもそっから先は、うちにくっついてばっかじゃダメだと思って、わざと卯月を無視した。本当にごめん。まさか家出するとは思わんかった……」
「あー、それはあたいらが原因。行きがけに話したっしょ、ちぃーっと口論になっちまって」涼風が言った。バツの悪そうに若干声を曇らせて。
「卯月、ごめん。バカにして笑ったんじゃないんだよ。ちょっとは楽になるかなと思ってさ、山風に怒られてわかったよ。頭悪くてごめんね」
やめて。やめて。
謝んないで。
「……あたしは謝らないから」
山風の声は震えていた。大丈夫、謝られるほど、今の自分に効くことはない。もう、心はズタズタになっている。「でもさ」彼女の声は、声だけで、今までの数倍の力があった。
「何があっても、お願い、お願いだから、もう一人で出て行くことなんてしないで。そのためならあたし、なんでもするから。気に食わなければ、ぶたれてもひっぱたかれてもいいから。だからお願い、もう二度と、一人でどっかに行かないで」
それだけ言って、あとは針のような細い泣き声。何か山風のとても大事なところを汚してしまったような悲しい泣き声が、激しい雨の音と混ざった。
限界だ。胸が爆発しそうな良心の呵責と、暴れたいほどに暖かい、彼女たちが想ってくれていた事実を、頭はごちゃごちゃで、それでもまだ意地を張り続けなければいけないと言うちっぽけなプライドが小さな体にぎゅうぎゅうに押し込まれて、薄っぺらい皮膚を突き破って風船の空気が抜けるみたいにしぼんでくれればいいのに、ただただ押し込まれるばっかりで、嗚咽と涙でしか発散することができないもどかしさで頭がおかしくなりそうだ。
背中をさすってくれている浦風は黙っていた。涼風も一言も発さなくなる。山風はずっと泣いている。
雨の音。
手のひらで抑えきれない涙が指の隙間から漏れて、手の甲を生暖かく濡らす。喉まで出かかった言葉を、しゃっくりが邪魔する。みんな自分を見ている。自分を中心に据えている。卯月をここまで追いかけてきた。誰のためでも誰のついででもない、富津の艦娘たちが、うーちゃんのために動いてくれている。
「おこんない?」
背中を撫でていた手が頭の後ろに回されて引き寄せられた。柔らかい、久しぶりの感触。汗と、すえた乳の匂いと、嗅ぎ慣れた浦風の香りを、しゃっくりと同時に胸いっぱいに吸い込む。
「誰も怒っとらん。帰っといで」
顔を浦風の胸に強く押し当てて背中に手を回した。もういい、一人でいることだけを考えていると深みにはまっていくことがわかった。自分のためにここまでしてくれるのが富津の艦娘と司令官なんだ。この事実さえあれば、難しいことなんて、もうどうでもいい。意地も何もかもいらない。うーちゃんのためにここまでしてくれる、富津のみんながいればもうどうでも。
浦風はゆっくり慈しむように頭を撫でてくれている。手付きこそ柔らかいが、力強い。絶対に離してくれなさそうだった。だからこちらも力を込める。ぎゅうっと、浦風の魂に跡をつけるつもりで抱きしめた。
「ゴメンなさい」
「それはうちじゃなくて涼風たちにいわんと。昨日から一睡もせんでずっと海に出とったんじゃから、ほれ」体を引き剥がされた。抵抗する力をわざわざ出すこともない、心地よい場所から顔を引き剥がして、袖を伸ばして顔を拭いた。鼻水も伸びた気がする。目をこするとくちゅくちゅ音を立てて、こすってもこすっても押し出される涙で埒があかず、視界が歪みきったまま、ようやく彼女たちを見た。山風の足元にある小さなライトが唯一の光源で、それ以外はぼんやりと黒い。二人もこちらを見ている。山風は自分と同じように涙で汚れた顔をしているし、涼風は彼女に寄り添って、快活そうな笑顔で、何も言わずに待っていた。
浦風を見た。
見て、驚いた。
「浦風、血!」
ライトに照らされた浦風の顔の半分はぬらぬらと光る赤で塗りつぶされていた。綺麗な空色の髪もまだらになっている。心臓が握りつぶされた気がした。
「うそ、もしかして敵と遭ったの? ごめん、ごめんなさいっ」涙と鼻水で汚れた袖で血を拭う。拭いたら拭いただけ引き延ばされていくが、後から血が流れてくることもない。深くはないようだ。
「違う違う。さっき主砲ぷっぱなした時に踏ん張りきれなくてすっ転んだだけ。痛くもなんともないし大丈夫じゃ。そんなことよりほら」
肩をぐいとひねられて、もう一度涼風たちに向けられた。傷があるのは浦風だけ、どうやら本当に戦闘はなかったようだが。海と言うクッションの上で艤装を使うのと違う、この細い二本の足では、どうあっても砲撃の衝撃を殺すことはできない。無茶なことをする。
肩越しに振り返ると浦風が微笑んでいる。いつもの、あの、見守るような、優しい顔で。
姿勢を正した。
大丈夫、背中には浦風がいる。それに、自分のためにこんなに一生懸命になってくれた。だから今度こそ応えなきゃいけない。
咳払いを一つして、喉に絡んだたんをスッキリさせて、しっかり彼女たちを見た。
「ごめんなさい」
「うん。あたいもごめんなさい。あともう一ついい? 山風の言ったこと、守ってくれるかい」
今度は涼風は笑っていなかった。真剣に答えを求めている。
迷うことはない。即答だ。
「もう絶対にどっかに行ったりしないぴょん。どっか行く時は」少し照れくさくて言葉を切った。けれど、背中に熱く当たる視線が背中を押してくれる。大丈夫、遠慮なんて何一つない。
「みんな一緒に」
言い終わると同時に山風が飛びかかってきた。言葉通りだ、跳ねるようにして抱きついてきた。耳元でわんわん泣かれて、その声が悲痛なものじゃなく、安心しきったような、そんな泣き方だってことがわかった。わかるようになった。
つられて一回おさまったはずの涙腺が緩んで、また頰が生ぬるく濡れる。山風の細くてふわふわな髪の毛はたっぷり雨を吸って自分の服にどんどん染みていくが冷たくなんてない。二人分の体温があれば冷たさなんて感じない。
抱き合ったまま気の済むまで泣いて落ち着いた後、お互いの汚れきった顔を見て、もう一度強く抱き合った。向こうからはもう離さないと、こちらからはもう離れないという気持ちを込めて。頭をすりつけあって、猫のマーキングみたいにお互いの匂いをこすりつけた。もう心配ない。よしんば離れてしまっても必ずまた会える。電探なんかなくても絶対に見つけ出してみせる。
「さあて、帰るかあ」
膝を叩いて立ち上がった涼風が、浦風の脇に頭を差し入れた。「すまんのう」と、体重を預けて引っ張り上げられた浦風の足には力が入っていないようだった。
「あだだだ、あー、二度と陸で砲なんか撃つもんか」
「むしろなんで撃ったのさ。この家に当たってたら卯月死んでたよ」
「いやあ、気がはやってたんじゃなあ。お恥ずかしい」
足がおかしくなって当然だ。道路はアスファルトなのだから。
よろけながら立ち上がる山風も心配だが、一言ことわりを入れて、涼風とは逆の浦風の腕を首に回した。
「浦風は任せるぴょん。うーちゃんがうちまで担いで帰るから」
涼風は「ああ、そう?」と肩から頭を抜いた。すると、本当に全体重が自分にのしかかってきた。「うぐっ」
「大丈夫? まさか卯月に肩を借りることがあるとはなあ」本当に足に力が入らないらしい。折れているわけではなさそうだが、たとい途中で暴れたって下ろしてやる気はない。なんでもいいから自分の体の上から下ろさずに連れて帰る。そのぐらいしなきゃ気がすまない。それに肩を貸したのは初めてじゃない。初戦闘の時、腰の抜けた浦風を背負って横須賀に帰ったことを忘れたとは言わせない。
まあ、もうどうでもいいけど。
「あ、ちょっと待って」
ふと思い出して押入れに向き直った。つい勢いで浦風を振り回してしまい、耳元で絶叫が上がった。
「うづ、卯月っ、いだい、痛いってえっ」
「うわごめんぴょん。あのね、借りていきたいものがあるの」
そして、つい肩を浦風に貸したまましゃがみこんだ。当然浦風はまた絶叫する。
「あんたいい加減にせえよっ」
「うわわ、ごめんっ」
「謝る前に体制変えてっ。足変な方向に曲がってるからあっ」
山風が浦風の足をまっすぐ伸ばしてきちんと座らせるのを手伝い、布団をたたんで押入れにしまいこんだ。一枚燃やしてしまったけれども、残ったものはちゃんと片付けていきたい。
反対側の、雑に放り込んだノートやメモ帳も、順番はとりあえず考えず、元あった場所に戻した。ただ一冊、メモ帳の一番新しい日付のもの、つまり、最後の一冊を拝借していく。半分ほどしか書き込まれていないが、彼女たちの青春の最後がどのように終わったのか気になるのだ。
「誰か鉛筆持ってない?」
ポケットを漁った三人は首を横に振った。それからライトを持っている山風が軽く家探しして、台所にあったペン立てを持ってきた。メモ帳の何も書かれていないところにメッセージを残し、ちぎって、段ボールの中に他のノートたちと一緒に入れておいた。
『一冊かります。あなたたちの青春が続いていますように。富津泊地所属艦娘 第四駆逐隊 卯月 追伸、布団燃やしてごめんなさい』
それから今日の日付。泥棒ではない。彼女らの青春を祈って、憧れて、借りていく。基地や部隊は移動になるかもしれないが、今日この日、卯月がここに所属していたことはずっと残る。自分が沈んだとしても、問い合わせがあれば返却できるようにしておかなくてはいけなかった。
「お待たせぴょん。もういいよ、いこ」
「食器すら片さない卯月が廃墟の片付けするなんてね。……なんでそんなもん持ってくんじゃ」
んふふ、喉をくすぐって笑った。
「後で話してやるぴょん。涼風と山風にもね」
よっこいせ、今度こそ浦風に肩を貸して立ち上がった。ゆっくり、ペースを合わせて歩いていく。涼風は後続の部隊に連絡を入れると言って先に外へ向かった。山風は自分たちの足元を照らしてくれている。めちゃくちゃに壊された玄関を見て、「あ、これも謝っとけばよかった」とも思ったが、バレないうちに、そのうち直しにこようと思い直す。いつここに人が帰ってこれるかわからない。開けっ放しにすることで風化が進んだり、荒らされたりするかもしれないが、今はごめんなさい。大事な人たちと、大事になる場所に、急いで帰らなくてはいけないから。いつかピッカピカに直しに来る、読み終わった青春の影を、必ず返しにきますと心で謝った。
秋の夜長、あれだけ寒く感じた雨も今は顔を洗い流してくれるちょうどいいもの程度にしか感じない。片方には浦風、もう片方には山風が腕を組み、手引きするように歩いてくれているから、むしろちょっと暑い。砂浜に出て艤装を展開し、戦闘服を脱いでいたことを忘れていて素っ裸になって赤っ恥をかいた。あっさり浦風を肩から下ろして、我が事のように慌てる山風からライトを借りて。急ぎ先ほど別れを告げたばっかりの家に戻った。まだしっとり濡れている戦闘服と下着をつけて砂浜に戻る頃には、先行していた一水戦が到着していた。ひるまずしっかり歩き、微笑みをたたえてこちらを見つめる彼女たちに頭を下げた。
「大丈夫そうね。おかえり卯月」
全員びしょ濡れだった。服もピッタリ張り付いて、寒いはずなのに雨と海の匂いに混じって汗の匂い。夜の、大時化の海。作戦行動でもないのに潜水艦と遭難の恐怖に脅かされながら自分を迎えに来てくれた彼女たちには謝るよりも伝えなくてはいけない言葉があった。叢雲は満足して腕を組み、曙は、意外にも抱きしめてきた。三日月はあからさまに安堵のため息を吐いて、「無事でよかったです」と微笑みかけてくれた。神通は……神通は、ちょっと目を見ることができない。にこにこしていたのは一瞬認めた。意図は考えたくない。ただ、部隊の統率にうるさい彼女が配下の山風を先行させたことを考えれば、うん。自分の想像が完全な妄想ではないのだろう。
全員が自分を見ている。みんなが卯月のために動いてくれた。富津の基地全体をうーちゃんのせいで混乱させてしまった。
これを取り返すにはいっぱいいっぱい働かなくちゃいけない。しばらく遊びにも行けないかもしれない。一人で遊ぶのは飽きたが、これからは、遊んだことない娘ともいっぱい遊べそうなのに。それだけが残念。まあいい。時間はいくらでもある。誰かがいなくなりそうなら、魂を傷つけても助けてあげればいいだけだし。
今度こそ艤装を展開させて浦風を持ち上げた。身長差がわりとある娘をお姫様抱っこするのは妙な感じだが、艦娘の力があれば人の体重の浦風ぐらい軽いものだ。本人は恥ずかしがって「おんぶにして」と抗議したが、背中には艤装がある。これ以外どうしようもない。観念した浦風に「落ちないようにつかまっててね」と声をかけ、準備ができたことを伝えて、みんな一斉に海に入り、機関をうならせる。四方八方に仲間がいることがわかる。布団の中で子守唄を聞いているみたいだ。自分を中心にして他の娘たちは輪になった。多分、途中で千歳たちも合流して同じ輪の中に入るのだろう。
今は何時かわからない。真っ黒で雨が顔を叩きつける中、神通が指揮をとって、乱れのない輪形陣で富津を目指す。なるべく浦風に雨が当たらないように体をかがめて、精一杯屋根になった。
「ごめんね」顔が近づいたついでにもう一度謝った。彼女が言葉を出す前にもう一つ付け加える。「ありがと」
「うちもごめん」胸の前でたたんでいた腕を首に巻きつけて、浦風が力を込めた。
「卯月のことが嫌いになったわけじゃないから。うち、自分で思ってる以上に子供っぽいみたいじゃ」
「別に怒ってないぴょん。建造されてからずうっと一緒なんだから、ケンカぐらいとーぜん」
「無視してごめんなさい」雨でびしょびしょになっているし、きつく抱きついてきているから顔が見れないのが残念だ。
声が震えていた。
「うーちゃんの方が迷惑かけてるぴょん。釣り合いなんか取れないよ」
「卯月の手を振りほどいて、本当にごめん」
首筋に生暖かい息が当たる。全身こそばゆいが、震えた息が何度もため息みたく当てられては体をよじるわけにいかない。甘んじて受け入れるしかない。
「ねえ、浦風」
「なんじゃ」
「うーちゃんが沈んだら、浦風の魂は傷つく?」
「……」
「浦風?」
「……やだ。そ、そんな、こと言わ、ん、といて」
「もしもの話だっぴょん。沈む気ないでっす」
「い、やだ。想、像、した、くないぃ」
「そ」
「やだから、ね。卯月、いな、くなら、んよね」
「もういなくならないぴょん、大丈夫だよ」
「卯月が沈んだらうちも、一緒にいったげるから」
「それはダメぴょん。ああでも、何か欲しいな。何くれる? 浦風が死なない程度で」
「何でもあげる。どこでもいいからもってき」
「……やっぱいいや。うーちゃん沈まないし。誰も沈ませまっせん」
艤装を展開している艦娘が痛いと感じるほど力を込められて抱きつかれればもう十分だ。早いとこ犬吠埼に、かっぱらった物資を返しに行こう。第四駆逐隊のみんなの初任務はきっとうーちゃんの尻拭いからはじまる。なんと情けない。情けなくて笑ってしまう。
ふと、頭に声が響いた。
『沖に出ますので、現時刻から無線封鎖を実施します。……卯月、艤装の妖精さんに気を引き締めるように言っておきなさい。マイク入れられてますよ』
……。
ウソでしょ!
それから〇時過ぎに泊地に帰ってきて、翌日の晩ごはんが終わるまで、その通り目の回る一日が始まった。
何が誰も怒ってないだ、浦風め、嘘をつきやがって。
帰ってきて早々司令官に謝りに行けば怒鳴られて(男の人に怒られたことがなかったから本当に怖かった)、明日の朝一番で犬吠埼にかっぱらった資材を返しに行くことを条件に許された。
半べそかいていたら第四駆の二人と山風に慰められて、そのまま自分の部屋でみんな一緒になって寝た。浦風は入渠場で足湯してくるなどと言って寝付くまでには帰ってこなかった。狭いベッドにおしくらまんじゅうになって寝た。ただし、朝方に涼風が山風を蹴り落としたらしく、なんやかんやケンカになり、結局寝不足のまま総員起こしの放送に頭を痛めるはめになったが。
涼風らと冷水で顔を洗い、すっかり元気になって当番をこなしていた浦風の手伝いをして、手早く朝食を作り上げた。米と、ナスの味噌汁と、ほうれん草のゴマ汚し。それからぬか漬け。「これはうちの全力じゃのうて、時間がないから仕方なしに」なんてブツブツ言っていたが、小さい声でつぶやいたって、自分たち以外の誰にも聞こえない。米は余分に炊いて、みんなが朝食を食べている間におにぎりを大量にこしらえる。昼食の当番は涼風だが、一緒に犬吠埼に向かう任務があるから作り置きしておかなければならない。山風が代わりを申し出たが、「あたいらの責任だしねえ」と断っていた。とんでもない、自分の尻拭いなのだ、責任なんかないのに。謝ろうとしたら頭を軽く叩かれて黙らされた。
立ったまま朝食を流し込み、洗い物は帰ってからまとめてやることを報告し、おにぎりを四つ持って、夕張を巻き込んで泊地を飛び出した。
夕張、浦風、涼風、卯月。富津第三艦隊第四水雷戦隊。初の任務は輸送作戦。しかも盗んだものを返しに行くだけ。
情けない。情けないなあ。
二十ノットほどで沿岸沿いを、極力陸に近いコース取りで、片道五時間。昨日の今日なので、犬吠埼の艦娘らも自分のことを覚えていた。夕張らはあからさまではなくとも、やはり視線が落ち着かない様子であった。そして犬吠埼の艦娘の反応はやっぱり変わらず、逆に見せつけるように堂々と肩で風を切っていた。残念ながら天龍は海に出ていて不在だった。香取もおらず、代わりに司令官の席に座っていたのは、香取とよく似た服を着ている艦娘、鹿島。それから軍礼服を着用した、妙にキビキビした男性が一人、鹿島の横で、彼女の一挙一動に注視していた。あらかじめ事情は知っていて、「今回ばかりですからね」と諌められ、四人で頭を下げた。まったく自分のせいなのだけれども、旗艦である夕張と浦風は、親がするように、全責任を負う勢いで頭を下げていたのが心苦しかった。
あとはもう時間との勝負。犬吠埼を飛び出して海水にさらされながらおにぎりを食べ、全速力で富津に向かった。手のかからない料理をさまざま提案してくれたが、実は作りたいものは決めていた。
なぜ最初からこの考えを思いつかなかったのだろう。やっぱり落ち着くと、見えてこないものが見えてくる。
暮れの早くなった太陽が半分ほど水平線に消えた頃、浦賀水道まで戻ってきて、そのまま富津には向かわず横須賀へとコースをとる。連絡の一つもなしにドックに入り、中で談笑していた黒潮や時雨が驚いて、「久しぶりやなあ!」なんて抱きしめてくれたのもほどほどに用件を伝えた。快諾した黒潮は自室まで走り、戻ってくるまで時雨と話をした。自分たちが抜けてから大きな作戦の準備に入ったようで、編隊を見直し、鎮守府に赴任してくる軍人が多くなって、落ち着かない毎日になのだと。富津は司令官一人で雑務まで回しているが、横須賀はそれ以外の軍人も多数在籍している。確かに、ドック内の掲示板にもびっしり文字が書き込まれて、木箱やドラム缶、木材が乱雑に、それでいてある程度整然として積み上げられていた。艦娘の指示に従いながら動く人も、自分の知らない人ばかりだった。
二枚の鉄板を黒潮から受け取って、別れの挨拶もそこそこに横須賀を発った。
そして。
今、自分の前に夕張が即席で作った簡易コンロが二口、ごうごうガスを噴出させて火を燃している。仕込みをしている間に夕食の時間は多少オーバーしてしまって、食堂には腹を空かせた女どもが、何も並べられていないテーブルと自分とを訝しげに見ていた。
「うちのボスは横須賀さんとお電話中よ。話し込んでいるみたいだったから、先に始めてしまってもいいと思うわ」
叢雲が口火を切った。
「さあ、何が出てくるのかしら。そこで熱せられている鉄板で、何か作ってくれるんでしょう」
みんなこちらを見ていた。
むず痒さと居心地の悪さで落ち着かない。昨日の夜は帰って話する間もなかったから、迷惑をかけて改めて全員(哨戒に出た三水戦除く)の前に立っているのは晒し者になった気分だ。
仕込みを手伝ってくれた浦風と夕張は席に着いている。ただ、涼風だけは隣に立っていた。彼女が力強く尻をひっぱたいてくれたおかげで、はからずしも喉が声を出す準備が整った。
「ッた、たこ焼きを作りまっす」
おお、食堂が少し賑やかになった。
「たこがないでしょうに。誰か獲ってきたの」叢雲のまっとうな突っ込みには、涼風が言葉を返す。
「だから、具はありもので適当にやるよ。何が入るかはお楽しみってことで」
「あらそう」空きっ腹を温めるために用意しておいたお茶を一口すすって、叢雲は目をつむった。「たこ焼き自体食べたことないし、楽しみにしてる」
「もう少しお待ちくださいっぴょん。黒潮直伝の、絶対美味しいやつだから」
ディスペンサーに入れたごま油を鉄板の窪みにちゃっちゃと落としていくと、食堂の中にこもっていた女の匂いを一瞬で上書きして、興味を持った艦娘らが席を立って群がってきた。手元に視線が集中しているのを感じたが、黒潮の名前を出したから、彼女の名誉のためにも無様は見せられない。邪魔になる髪の毛は涼風がまたゴムで結んでくれて、山風から借りたピンが前髪をきっちり除けている。額にじっとり汗がにじんでも隠すことはできない。
実のところ直伝なんて嘘っぱちで、何度も見ていたから自然と覚えただけだ。だから生地の分量はおおよそ目分量。ゆるさを合わせたぐらい。ただ、ひっくり返すのは教えてもらった。大丈夫、なはず。
油が十分温まったのを見て、おたまで生地を流し入れていくと、じうじう音を立てて、鉄板に接したところがふつふつ泡立った。別のボウルに入れておいた具を落として、さらに生地で蓋をする。
「実演してくれる晩ご飯もいいものですねえ」
青葉がカメラで自分と、それから鉄板とを撮った。そのカメラはどこから持ってきたのか。ネガ式の、一番流通しているデジタルなものではない。彼女が着任してどのぐらいか知らないが、ネックストラップを見る限り、相当使い込まれている。
続けて叢雲が言った。「だけど犬になった気分よ。ねえ卯月、その具って生で食べられないの。一個ぐらい、いいでしょ」三日月がそれをたしなめた。「やめてくださいよ。みっともないから」伸ばした腕は、苦笑いする古鷹にしっかりつかまれていた。青葉はそれすらも写真におさめていた。
折を見て竹串を二本使い、生地と鉄板を剥がしてひっくり返すと、焦げ目のついた丸い生地が油を泡立たせていた。うまくできて顔がほころぶ。ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、リズムをとりながらひっくり返していくと、何人かの艦娘が声をあげて楽しんでいた。そちらを見る余裕なく、自分で作ったリズムを崩さないように集中する。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
失敗しなかった。焦げ目のついた面がポコポコ鉄板から隆起している。
「ほお、上手いわね」足柄が唸った。「黒潮ってアレよね、涼風と知り合いの」
「そうさ。久々に会ったけど、あんま話しできなかったねえ」
知っていた。涼風の初出撃の時の話を聞いていたから。時間を取ってあげられなくて申し訳なかった。
今度、間宮さんとこ連れてったげよう。そしたらお話しできるはず。
そこかしこで溢れる雑談に耳だけ傾けて焼き加減を注視した。「こんなん適当でええんよ、適当でえ」なんて黒潮は言っていたが、一から自分でやるのは初めてなのだ、緊張もする。
もう一度ひっくり返してみる。両面しっかりと丸く固まった。
完成だ。
涼風に渡された皿に出来上がったたこ焼きを乗せていく。叢雲が爪楊枝を握って待っているのが本当に犬みたいで、さっきから視界の端で捉えるたびに笑いそうだった。平然な顔してお茶をすすり、席に座ってそわそわしながら爪楊枝を握っているのだ。ようやく気が抜けて笑えた。
「できたっぴょん!」群がっている艦娘らから拍手があがる。
見た目は完璧だ。もっと表面が柔らかくなればよかったが、作ってもらったコンロは火加減が細かく調節できない。トロ火か強火の二択では、のんびり焼いているわけにもいかない。一度に焼ける数は二十四個。全員の腹を満たすのに何個焼けばいいのだろうか。
皿をテーブルに置いて早速手を伸ばした叢雲を古鷹が諌めた。
「こら、ちゃんと全部焼きあがるまで待たないと。行儀わるいよ」
「いいっぴょん、熱いうちに食べちゃって」また油をしいて、生地を流しながら促した。これ以上お預けにするとかわいそうだ。
「うーちゃんどんどん焼いてくから! 涼風もありがと、あとは一人でだいじょぶっ」
「そうかい。それじゃあ甘えまして。ほらほら、ソースはこっちにあるから慌てないでね」
はじめは浦風たちに食べてもらいたかったけど、端っこの方で山風と一緒に自分に作ったたこ焼きに群がる人だかりを柔らかい顔で見ていたのを認めた。だから何も言わないで、次を作ることに集中した。
「いただきます……あっふ!」
待ってましたとばかりに先にかぶりついたのはやっぱり叢雲で、出来立てのたこ焼きの洗礼を味わっていた。顔を真っ赤にして口をとんがらせ、なんとか冷やそうと躍起になっている。取り皿の上で割って冷ますものもいるが、だいたいが、そんなゆっくりしてられんと丸ごと口に放り込んでいた。
あちこちでほふほふと息の音が聞こえる。
緊張して具を入れ忘れたり、二つ入れたりした。自分の料理を食べてもらうことは初めてだ。美味しいと言ってもらえるか、こんなに不安になるものか。
咀嚼されている間のちょっとした静寂。生地を流し込みながら生唾を飲み込んだ。
「ッく」
口火を切ったのは、やはり叢雲だった。
「うっくっく、たこ焼きって初めて食べたけど、漬けものを具にするとは予想外よ」
「あはは、私は見てたから想像ついてたけど、生野菜はやっぱり火が通らないよね。……生のナスは美味しくないなあ」
「わたくしの、何かしらこれ。うどん?」
「青葉のはイカですね、当たりです!」
「当たりとかハズれあんのかよ。キャベツって何だ、当たりか?」「そりゃ多分お好み焼きもどきですねえ」「だよなあ」「摩耶はまだいいじゃない……、なんかすっごい舌がビリビリするんだけど、卯月あんた、食べられるもの入れてるわよね?」「それ、多分、山椒。私も、……辛っ」「あ、これ美味しいじゃん! なんだろねこれ、わかんないけど」「あんたは幸せそうねえ。ああ、お姉! ソース垂らしてるって! 胸んとこ!」
ワッと盛り上がった食堂。
反応が様々すぎて、果たして受け入れられているのかさっぱりわからない。近くにいた熊野に「美味しい?」と尋ねたら、「分かりませんわ」と言われた。そのあと「でも面白くていいですわね、これ」と付け足された。反応に困る。
二弾目が焼きあがると皿に盛る前に、鉄板から直接とっていかれるという暴挙に出るのもいた。食べてくれているというのなら、少なくともまずくはないのだろう。
三回、四回、五回。
焼きあげる側からすぐに空になった皿が突き返される。海に出ると腹が減る。自分も、手が離せない代わりにいろいろな艦娘から、熱々のたこ焼きを口に詰め込まれた。涙が出るほど熱かった。浦風と山風、それから涼風も反応をうかがったが、なんとも複雑な表情をしていた。自分の感想も同じだ。少なくとも、二度と生野菜は入れない。それから、味に刺激が出ると思って入れた香辛料もだ。嫌がらせ以外の何物でもない。あと硬いもの。炒り豆の食感がたこ焼きの柔らかさをぶち壊してくれる。
でも楽しいというみんなの気持ちはわかる。ギャンブルだこんなの。
途中からそれぞれ食材を引っ張り出してきて、あれはうまいだのこれは合わないだの、勝手に具材を放り込まれた。生地も二回追加で作った。面白がってわざとまずいものを作る奴も出てくる。三日月がこっそり入れた生のオオバコに当たった足柄は、虫と勘違いして絶叫して吐き出していた。揚げ物油を温めた古鷹が、焼きあがったたこ焼きを油に放り込んで揚げた。具は入れなかったが、カリカリの表面がいいアクセントになり、酒を持ち込むものも出てきて、夕食はあっという間に宴席に変わった。
あとは大騒ぎである。喉が痛くなるほど笑ったのなんていつ振りだろう。自分も飲まされて、手元があやふやになりながらふにゃふにゃのたこ焼きを焼いて、熱々のものを酒で冷やしながら食べる。焼酎だ、焼酎が合う。三日月は足柄に早々に潰された。それでも飲ませようとするのを摩耶と熊野が取り押さえ、その向かい側では曙が初雪に絡み、那珂は誰も見ていないのに、レコードに合わせて歌って踊っていた。千歳姉妹は変わらない。静かにたこ焼きをつまみながら飲んでいて、同じ席に叢雲と古鷹が、同じように落ち着いて飲んでいた。青葉はここぞとばかりにカメラを構えて右往左往していたし、能代と神通が暴れる夕立に説教をしている。そして自分のそばには第四駆が、それから山風も一緒に、酒を飲み交わしている。
「なんだなんだ、なんでこんなことになってんだ。臭いぞここ」
出来上がった女の酒宴に異物が一つ。
仕事を終えた司令官が、魔窟と化した食堂に顔を出した。
「おお、てえとくいいから座れ、食え、飲め、追いつけえ!」
摩耶に引っ張られて体制を崩した司令官は熊野の上に尻を乗せた。
「きゃあっ、ちょ、提督、 おーもーいーでーすーわー!」
「悪い、おい摩耶ひっぱるな、お前も女なんだから足広げて座るなバカ」
「いいからいいからぁ、ほれ駆けつけ一杯」
「……焼酎ストレートを駆けつけで飲ませるバカはどいつだあ! お前かあ!」
「はっはっはぁ、卯月ぃ、てえとくにも酒、じゃねえ、たこ焼き焼いたれぇ。おい足柄、三日月が死にそうだからほんともうやめてやれ。おーい叢雲ぉ、三日月の保護頼むー」
「無理に飲ませるのだけは感心しないわね。ほら三日月、立てる?」
「……ぉう、ぉえんなあい、ぉおぉみたくぁいぃ」
「どんだけ飲ませたのよ」
「草を食わせた罰よ。フンだ」
焼きたてのものを新しい皿に盛り、司令官に持って行くと、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。
「おお、うまいじゃないか。いただきます……あぐっ」
すぐに口を冷やそうと手近にあったグラスを煽れば、それは先程渡された焼酎のストレートで。すぐに顔を赤くした司令官は涙目になりながらむせ込んだ。
「ゴフ、ゲフッ。から、辛っ!」
「あはははっ、花山椒だっぴょん!」
「貴重だから使うなつっただろうが、辛えっ!」
もうこれで全員分焼いた。あとは、混ざってしこたま飲める。
笑いすぎて痛くなった腹筋を抑えながら、浦風たちの元に戻ると、もうこちらも出来上がっている。右を見ても左を見ても、正面を見ても後ろを見ても、もう酔っぱらいしかいない。怒号と嬌声立ち上る、今深海棲艦に攻め込まれたらあっさり全滅する、情けない泊地だった。もちろん、自分の提案し、作り上げた料理が大元なのだが。
みんなが自分の料理を食べて笑い転げている。酒の力もあるが、その通り、大元は自分なのだ。そして今、孤立することなく、この狂宴の中に混ざっている。誰彼構わず抱きつき、ちょっかいを出し、指をさして笑った。耐えきれずフラフラと外まで出て行った三日月が食堂のすぐ脇で吐き戻したのを見て、夕立に誘われて一緒に大ボウルいっぱいの水を持って、頭からぶっかけた。うろんな顔で追いかけてくる三日月をからかいながら外を駆け回る。この基地のことならよく知っている。一人で遊びまわっていたから。行き止まりの道を行こうとする夕立の手を引いて、食堂の裏手に回る獣道に誘導して、ゾンビみたいな動きで追ってくる三日月を、影から見て忍んで笑った。
楽しい、楽しい!
三日月が通り過ぎたのをしばらく見て、宵闇に彼女が溶けていくのを、ずっと隠れて見ていた。心臓がまた跳ね上がっていた。あの夜、と言っても二日前だが、涼風の部屋のドアをノックした時と同じような緊張。
涼風と、それから山風と。彼女たちとはもう友達で、仲間になった。自分の頑なな殻を打ち壊して、こっちに来てくれた。同じ部隊の夕張とは、これからもっと仲良くなれるはず。だから、自分の力で友達を作ろうと思った。
「あの、夕立」
三日月の消えていった方向を見ていた夕立が、酒で赤くなった顔をこちらに向けた。
「んー? どしたの、虫でもいた? とったげる!」
「うーちゃんと、友達になってくれる?」
……。
……。
夕立は笑った。
つられて笑ってしまった。
「いまさら何言ってるの、こないだ料理手伝ってくれたでしょ。あたし、本当に助かったんだから。……今回はうちの妹たちがずいぶんご迷惑おかけしたっぽい。ごめんね」
また謝られた。
「あれはっ。……んーん、うーちゃんこそ、ゴメンなさい。涼風たちのこと、怒んないでね」
「怒ってないもの。妹の友達だもん、あたしだって混ぜてくれなきゃイヤっぽい。というか、そんなこといちいち考えてる娘なんて富津にいないよ。ちっちゃい基地だし、提督だってお父さんみたいなものっぽい。あ、ちょっと待ってね」
夕立は立ち上がって艤装を展開させた。足元の地面が、変化した重みで少し揺れた。
耳に手を当てて、ぶつぶつ何かを言っている。音声無線の通信のようだった。
「うん、わかったっぽい。ねえ、三日月そっち行ってる? ……リョーカイ、通信終わり。ほら、卯月」艤装を引っ込めた夕立が差し出した手を握ると、よいしょと立たされる。「戻ろ。みんな待ってるってさ」
服に引っかかったひっつき虫を取られて、軽く全身をはたかれて、手を引かれた。わけもわからず引かれるままに夕立についていく。あれほど爆発的に盛り上がっていた食堂の前に立つと、シンとして、建物全体が息を潜めたように、ひっそりとしていた。自分がいない間にみんな別の世界に飛ばされてしまったみたい。スズムシの鳴き声がことさらはっきり聞こえて、今までのことは全部夢だったんじゃないか、なんて妄想にとりつかれそうになる。
「ほら、行くよ」
ぐっと引かれて、上半身をつんのめさせて食堂に飛び込んだ。
青白い蛍光灯の明かり。かかっていたレコードは針を上げられていた。そこにみんながいた。
そこに、みんながいて。
視界が歪んだ。
「こんな感じのがお前もスッキリするだろ」
みんな固まって、こっちを見ていて。
壁に、『着任祝い』って、それだけの、簡単な飾りがあって。
「ようこそ富津泊地へ。私たちは、卯月を」
あ、だめだ。
抑えられない。
「大歓迎する」
あんなに酔っ払っていたのに、相変わらず空気は酒臭いし、食べ散らかしたものと酒瓶が転がっているきったない場所なのに。人数だって、そんなに艦娘のいない小さな基地なのに。鼓膜が痛くなるぐらい拍手の音が大きくて。もうここ数日泣きっぱなしだ。こんなに濃密に感情が動いたこと、今までで一回もない。もう顔を隠すのも面倒になって、手放しで、ブサイクに顔を歪ませて泣いた。夕立が抱きしめてくれて、しがみつきながら声をあげて、背中を撫でられるたびに涙がこぼれた。
「よしよし、いいこいいこっぽい」
同じ駆逐の、しかも浦風ほど背も体型も変わらない夕立に慰められるのは癪だが、もうどうしようもないのだ。嬉しすぎてもう、自分じゃ全くコントロールできない。鼻水だって出ている。でも、ずっと抱きしめててくれた。
富津に異動する夜、黒潮が抱きしめてくれた。その時もしがみついて泣いた。横須賀を発つドックの中で、暁や電が泣いてくれた。隣だからいつでも遊べると言ってちょっぴり強がった。富津での初夜、周りの艦娘が怖くて、一人部屋を割り当てられて、それも怖くて浦風の布団にもぐりこんだ時もやっぱり泣いた。浦風に頭をひっぱたかれてないて、腕を振りほどかれ時もこっそり一人で泣いた。涼風の部屋から逃げた時も泣いたし、あとは昨日か。そして今だ。泣きっぱなしだ。
少し汗の匂いがする夕立の首筋に噛み付かんばかりにしていた。泣いている間は時間が止まっているみたいに、誰も何も言わない。昨日もそうだった。ああもう、子供っぽいなあ! 大人にならなくちゃ。いつまでも子供じゃダメだ。もっと、みんなの力になれるようにならなくちゃ。
「落ち着いた?」
しゃっくりをしながら頷いた。「全然落ち着いてないっぽい」困ったように夕立が笑った。ぽんぽん背中を叩かれて、奥に残っていた涙が叩き出された。
「それじゃあ、新たに着任した卯月、ぜひ自己紹介をお願いしたい」
司令官が大仰な仕草をして言った。芝居がかっていて、なのに真顔でやっているもんだから、ダサくてキザっぽくておかしい。
夕立から体を離して顔をこすった。吸収の良いパーカーが顔をきれいにする。鼻水は伸びた。
しっかり前を向いて、もう一回鼻をすすって、喉にひっかかった痰を咳払いして、精一杯、笑顔を作った。
よし。
「横須賀鎮守府から富津泊地へ異動してきた卯月でっす。これから、よろしくお願いしまっす!」
[こーしんりれき。 ……なに?]
9/29 一話リンク先修正
02/36 終幕開始・終了 一部推敲 2月以内に終わらせられました^^
02/26 三章終了 あと一万文字で終わるだろうか(戦慄) 推敲不十分かも、違和感あったらおせーてください
02/17 三章追加
02/14 三章追加 カテゴリ追加 やっと平熱に
02/06 三章追加
01/31 三章追加 全体推敲(話に一切変化ナシ)
01/26 三章追加
01/22 三章開始
01/21 二章終了
01/15 二章追加
01/12 二章追加
01/11 二章追加
2018 01/06 二章追加 ジジイのションベン更新
12/31 二章追加
12/28 二章追加
12/26 二章開始
12/22 一章(多分)終了 俺は悪くない、酒が悪いんや 酔っ払い更新だぁ
12/11 ひどい文だったので一段落分推敲(内容に変更なし)
12/10 一章追加 ジジイのションベンみたいな更新
12/07 一章追加
12/06 一章追加
12/05 一章追加
12/04 一章開始
12/02 幕開終了 全体推敲(内容に一切の変更ナシ)
11/30 幕開追加
11/27 二話投稿開始 幕開開始
相変わらずの面白さ。続き期待です。
>>1 さま
十日もしてコメ返しするクズです、どうも。
SSとは名ばかりの文体ですが楽しんでいただいて嬉しい限りです。
好き勝手書いております、面白いと言っていただけるのは、ひとつの自信になりますね。
今一番更新を期待している作品です!
>>3 さま
あじゃじゃす。
キャラ崩壊はなはだしい作品ですが、どうぞお楽しみください。
今月中には二話終わらす。予定。
読売新聞(9月28日(金))7面
💀韓◆国💀
文大統領、国連総会で『慰安婦問題』に基づき日本🇯🇵🎌🗾を非難する演説実施
これは『慰安婦問題』で相互に非難応酬する事の自粛を約した『慰安婦問題を巡る日韓合意』の明確な違反であり、💀韓◆国💀は『慰安婦問題』を『蒸し返す』事を国家として正式に宣言した。と、思料
加賀『頭に来ました。』