2018-05-03 13:40:04 更新

概要

小説形式です。 
横須賀のおとなりの、小さい泊地のお話。オールディーズ好きな司令は、今日もレコードをかけながら部隊を運用します。 間違えて消してしまいました。ついでとばかりに手直しして再投稿。内容は変わりません。


前書き

《章ページ内リンク》
 幕開    終幕

《注意》
 実在の人物や団体との関係はありません

 二次創作
 SSどころでない地の文量
 オリジナルキャラ(提督に名前あったりとか、別基地の人とか、陸の人とかパンピーとか)
 いろいろ独自設定
 公の場であまり使われなくなった単語(気違い、びっこ、メクラ、カタワなど)
 軍事知識なぞない

 好き勝手解釈してる部分あり。
 SSの投稿の場なのに、こんな真っ黒な画面を作ってしまってすみません。

《》
 叢雲むらむら

《所属艦娘 兼 編成》
古鷹
夕張
木曾
叢雲 
三日月
涼風

長くなるので別基地は省略します。
この辺はコロコロ変わるので、本文でしっかり描写します。今回の話はこんな編成、みたいに、目安として捉えていただければ大丈夫です。



幕開


 鼓膜を裂かんばかりの蝉がわめく。砂防林を突っ切るコンクリート道路は、まったく人の気配がなく、耳に入るのは蝉と、一つの足音と、波の音。トランクを引っさげ、真新しいシャツを汗で透かしながら歩く男は、最寄り駅を出てすでに一時間は歩き続けている。足を交互に動かす機械となって、先にあるはずの建物を目指していた。日よけにかぶった中折れ帽は汗をすっかり吸い取って根元の色が変わっている。ごく平凡な夏の風景に、はやっていた気持ちがどんどんと溶けていく。

 四年前。

 人類は自らがいかに驕っていたのか、痛みをもってまざまざと思い知る。「モノをつかむ」ことからはじまった人類の栄華はおおよそ四百万年間、常に地球上生物のトップにあったはずだ。ここ数百年のうちの急激な技術発達によって、長く縛り付けられた地球からも巣立とうとしていたのだ。もはやわれらは地上に目を向けず、今までさんざん見下されてきた宇宙への侵攻を考えるばかりになっていた。アメリカ、日本、ロシア、ドイツ、中国の五国の技術提携によって開発された宇宙母艦。五千人を超える人員を搭乗させることのできる船は世代交代をくり返しながら、時すらもない宇宙空間に、生存可能な星の探索にでるための箱舟。家畜用のスペース、日光を必要としない食用植物の栽培スペース。「小さな地球」と名づけられた船は発射場をめざして、人類の威光を見せつけながら航海していた。

 残り数時間で発着場へと到着するという生番組を放送していた局は、「小さな地球」号沈没のさまを、しっかりとお茶の間へ届けた。

 深海棲艦。

 日本政府が正式呼称として発表したのは、沈没事件から一週間後のことだった。

 ふと男が顔を上げると、永遠に続くかと思われた道の終点が見えている。陽炎に揺らめく鉄門がみえる。暑さでカラカラになった心に潤いが染み渡っていく。口元がにやけてしまう。誰が見ているわけでもないのに、ついあたりを見回して身体中の血が炭酸にでもなったみたいなシュワシュワした気恥ずかしさを感じた。

 一歩、一歩、一歩。ゴールに近づく。近づけば近づくだけ、ぼんやりと見え始める。

 一歩、一歩、一歩。全力で走れば一分もかからないだろう距離で、はっきりと見えた。

 この熱射の中に少女が立っている。

 そこまで視力のいいほうではない。こちらを向いて立っている、というぐらいしか分からないのだが、目が合ったとはっきりわかった。だから手を振って挨拶しようとして、あげきる前に、少女はその場に崩れ落ちた。

「くそっ」

 手に持っていた真っ白な上着も、トランクも、全て放り出して走る。

 滑り込んで倒れた少女を抱え起こすとこの熱さだというのに水気がない。ただ、風呂上りかと思うほどに体温が高い。

 少女はおっくうそうに、とろんとした赤い目で、カサカサになった唇を動かした。

「ぁ、……ぉ」

「いいから、だまってろっ」

 少女を抱えて、波の音のする方へ走る。自分と、少女の重さで砂浜に沈む足を必死に動かして、彼女の顔に汗を大量に垂らしながら、抱いて駆ける。波打ち際ではだめだ。男は服を着たままにもかかわらず腰辺りの深さの場所まで走った。陽に射された体が冷やされてぞわぞわした感覚が頭頂まで駆け抜ける。それは少女も同じだったようで体がこわばっていたが、嫌がる表情は認められない。

 安堵したような、力の抜けた表情。

「立っていられるか」

 足に回している手を抜き、少女の足が海底についたのを確認して聞いた。胸元までとっぷりと海水につかった少女の目は、はっきりと男を映している。

「……ええ。きもちいいわ」

 紫がかった薄銀の髪が海面に広がってゆらゆらゆらめいている。

「肩までしっかり漬かっておきなさい。俺が戻ってくるまで動くな、なんかあったら大声を出すんだ」

 男は陸に上がり、少女が自分を追ってこないこと、水平線に見る限りの怪しい影がないことを確認して、放り出した荷物をひっくり返した。バッグの取り口にあった水筒を抱えて少女の元へ走る。一口だけ飲もうと考えた自分を叱責した。

 波打ち際から眺めると、律儀に海面から頭だけを出した少女がこちらを見ている。近づいてこようとしたのを片手で静し、海へと入った。

 一度潜ったのだろう少女の髪の毛はびしょびしょになって、すっとした顎から水滴を垂らしていた。鳩の血のような目でじっと見すくめられると、子供でありながら、扇情的な、女の匂いすらも感じられる。

「飲みなさい」

 水筒から麦茶を注いで渡すと、目をくりくり動かしてから、奪い取るようにして飲み始めた。

「もう一杯っ」

 注いでやると半分も溜まってないのにかぶりつくように飲み始める。そして一口で飲みきった水筒のフタを、「まだるっこしいわね」などとほざき、思い切り振りかぶってはるか遠くに放り投げた。ほぼ全身を水につけているのにみごとな剛肩だ。呆れた。

「おい、なにをしてくれやがる」

 一瞬、彼女の頭に何かが生えた気もする。それに少なくとも自分の視力では水に落ちた場所すらわからない。

 手で庇をつくって、水平線の入道雲の先に多少の水柱でも見えないかと探していたら、くいくいと服を引かれる感触があった。

「えあ」

 目線を下げれば少女が口を開けて待ち構えていた。目を瞑って、赤い口内をぬらぬらとさせて、ひな鳥がエサをねだるように。

 その様に邪念を抱くよりもいらだちが勝つ。

「よし、動くなよ」

 顎をつかむ。眉根を寄せた少女がこちらをにらみつけると同時に、掲げた水筒を傾ける。

「ちょっ、ぷあっ、ぐぶ、はなっ、鼻にはいっ、たっ!」

「ほうれ、動くと口にはいらんぞお。おとなしく口をあけろお」

 必死に顔を背けようとする少女。逃がさまいと顎を押さえる男。

 沈黙していたビーチが、息を吹き返したかのよう。

 水筒の中身が最後の一滴をしぼり出したのを見て、男は少女の顔を解放した。あまりに暴れるものだから頬が指の形に赤くなっている。

「はっは、人様のものを粗末に扱ったらどうなるか、身をもってわかったなお嬢ちゃん」

 げほげほむせ続ける少女は、大半を鼻から飲んだ麦茶で、大分回復していた。眉を吊り上げて男をにらみ、張り手をかましてやろうと手を振りかぶって、歯軋りとともに手を下ろした。

「こっの……。覚えてなさいよ」

 上目遣いに睨まれるものだからかなりキツい目つきになっている。それでもさきほどの意識が朦朧としている顔よりは、よほどかわいらしい。

「それで」男は顔を厳つく見えるように作り変えて、改めて少女を見た。「海に近づいてはいけないと教わらなかったのか。あんなところでなにをしていた」

 年相応に怒られていると感じてくれれば良い。そんなつもりで表情を作ったのだが、少女は余計に目を吊り上げて、吐き捨てた。

「ヒトフタマルマルに、私の大切になる人と会えるってんでね。お出迎えしてキスのひとつもくれてあげようと思ったんだけど、待っても待っても来やしない。電話しようにも場所を離れて入れ違いになるのも悔しいし。だからキスはやめて、とび蹴りでもかましてやろうと、じっとじっとじぃーっと待ってたってわけよ」

「電話が通じなかったのはそのせいか……」

 男は額に手を当てて空を仰ぐ。

 連絡がつかなかったのは襲撃されていたわけではなかったと分かり、一つの悩みの種が消えたことに安堵する。そもそも、この泊地は破棄された場所で、まして鎮守府の管轄下にあり、深海棲艦による脅威はないところなので杞憂なのだが。

 それよりも目の前の少女である。

 ときの読み方で確定した。彼女は自分の部下になる存在だった。

「それで、まだあなたの素性が分からないんだけど。女の子に鼻から麦茶を飲ませて興奮する異常性癖のオッサンじゃないって、証明できるものはあるのかしら」

「あるよ、あるある、持っている。とりあえず陸に上がろう」

 お手上げだ。


1

 ぐっしょり濡れたシャツは砂浜で書類を漁っているだけで生乾きになる。水筒を取り出すためにぐちゃぐちゃになった荷物をさらに引っ掻き回して、一束の紙束と金属製のバッヂを少女に渡した。

「到着をもって富津泊地の責任者となる者だ。一応将官だが、戦時に特別あつらえられた階級だから大して意味はない。実戦経験なし。一応学校はなかなかの成績で出ている」

 少女の目が書類の上を滑って、階級をあらわすバッチを見て、敬礼している男の顔で止まる。

 大きくため息をひとつしてわざとらしくかぶりを振ったあと、口角を上げるだけの笑顔を見せた。

「あんたが司令官ね。ま、せいぜい頑張りなさい」

「私を司令官と呼ぶお嬢さんは、私の予想通りの存在でいいのかな」

 司令がそういうと、少女は姿勢を正して、覇気のある声を出した。

「特型駆逐艦五番艦、叢雲です」

「駆逐艦、ねえ」

「なによ、あんた成績はよかったとか言ってたじゃない。なにをいまさら」

「悪い、疑ってるわけじゃない。学校にも何人か、教練官としていたからな。練習巡洋艦だっけか」

「香取さんかしら、鹿島さんかしら。まあ、とにかく泊地を案内するわ。……もしかしたら、学校ですれ違っていたかもね。あんたのその顔、まるで初めてとは思えない」

 叢雲はくるりと翻って、泊地へと足をむけた。

 短いホットパンツから伸びる脚には海水の垂れた跡が塩を吹かせる形でのこっている。歩くたびにふるえる太ももをじっくり見ているだけで一日を終えても良い。

「っと、ほれ」

 立て付けの悪い門に手こずる叢雲を手伝うと悔しそうに睨みつけられた。あれだけモノを遠くに投げる力があるのに、こういったものには力が発揮されないのか、不思議に思う。艦娘であるのだから人間離れした力を持っているはずだ。学校の教練官も線の細い女性だったが、ついぞ一度も力比べで勝つことはできなかった。

 執事のように門に手をかけて、頭を下げたままエスコートしてやる。キザったらしい司令は、一瞥してさっさと中に入ってしまった叢雲を呼び止めた。

 なんだ、自分がエスコートをしたかったのか。それなりの背伸びをする子供を見るのは久々だ。

「なによ」

「お前の目つきが怖い。だからコレをかぶらせる」

 手に持っていた、汗でしとしとに濡れた中折れ帽を彼女の頭に載せると、さすがにサイズが合わず視界がなくなるほどに深く沈んだ。

「案内途中に、また倒れられても困るからな」

 ぶかぶかの帽子を手で上げながら、先ほどのきつい目つきから、驚きのくりくりしたものに変えて、「目つきが怖いなんて、女の子に向かって失礼ね」ときゅっと帽子で顔を隠す仕草は照れ隠しとしておこう。汗で汚れているはずのものを嫌がるそぶりも見せない。こちらがどぎまぎしてしまう前に、「そういえば」と話題を変えた。

「ここの泊地は破棄されて長いと聞いていたが、む、らくもは構造をしっているのか」

 初対面の女性を呼び捨てにしてもいいものか少し悩んだ。が、これから彼女の上官となるのだからとなれない威厳を見せつけてみたら、彼女は照れていた表情を意地悪く作り変えた。

「着任する施設の構造なんて、頭に叩き込むに決まっているでしょう」

「ああ、そう……」

 着てから見ればいいと、渡された見取り図はトランクの端っこでしわになっている、はずだ。何かの書類と一緒に捨てていなければ。

「私は0900には到着していたからね。軽く見て回ってたの」

 そんなに早く着ていたのか。

 列車の遅延で三時間近くも遅れてしまった事が、なおさら申し訳なくなる。

「見て回ったけど、ダメね。ドックは四つあるけど、二つは使い物にならない。残りも、かなり掃除しなくちゃならないわ。ぬるぬるして、あちこちに虫が飛んでるようなところで入渠なんかしたくないもの」

 ちなみにあれね、と指差された建物は、骨組みがむきだしになっている倉庫のようなものだった。艦娘の入渠は、回復効果のある特殊な液体につかる仕組みだったはず。あんな場所では入渠はおろか立ち入ることすらも危ないだろう。

「あれは……建て変えたほうがいいんじゃないのか」

「そんなんしてたらいつまでたっても出撃できないわよ。掃除して、最低限きれいにしたら、トタンでもなんでも立てかけるわ。資材に余裕ができたら、妖精さんに頼みましょ」

「叢雲は出撃経験があるのか?」

 司令の問いかけに、わざわざ腰に手を当て、胸を張って答えた。

「これでも歴戦よ。バダビア沖、ミッドウェイ、ガダルカナルとね。他にも色々戦ったわ!」

「それは艦の記憶だろう。君自身の戦闘経験を聞いているんだよ」

「……ないけど、なに」

 分かりやすくぶすくれる叢雲に思わず笑ってしまった。

「なによっ。少なくともあんたよりは、実戦というものをわかってるんだからっ」

 ぷりぷりおこって歩を早める叢雲を小走りで追いかける。潮風に乗って彼女の生乾きの服のにおいが薫る。全体的にパリッとしていて、正直着心地が悪そうだ。

「くっく。すまん。そうだな、確かにそうだ。俺は本と映像の知識しかない。俺には恐怖心が足りない。フォロー頼む」

 分かりやすいご機嫌とりでも、叢雲は気分をよくしたようだ。

 歩速を緩めてとなりを歩いてくれる。

「横に見えるのがあんたの根城。本館よ。で、向こうに見えるでっかいのが工廠。どうする、先に妖精さんたちに挨拶する?」

「横に見えるって、これ休憩所か何かじゃあないのか? そうだなあ、先に間取りを案内してくれ」

「はいはい」

 本館の前に荷物を置いて(泥棒なんているはずもない)、夏の日差しを二人で歩く。

 あっちじゃない、そっちじゃない、それは道じゃなくて草むら、そっちは草むらじゃなくて一応道。服を引っ張られ、なじられ、「あんた本当に地図見たの?」なんて呆れられ、汗でぴったり張り付くシャツの気持ち悪さに顔を歪めた。

 しばらく歩き回った結果、相当酷い有様ということだけが分かった。建物の中に植物が生えている時点でお察しだ。ドックどころか、二人分の居住区を整えるだけで一週間はかかりそうである。

 水が生きていたことだけが唯一の救いか。赤水ではありつつも、真水が通っている。電気はひとまず工廠と出撃ドッグ、本館の一部は問題がない。電話が使えなかったらどうしようかとも思ったが、よくよく考えれば、今日の昼にはつながったのだ。妖精が必要最低限は復旧してくれたのかもしれない。

 歩き回ってすっかり乾いた服。赤水を出し切った水道でのどを潤して、アスファルトも敷かれていないむき出しの土と、簡素なつくりの建物ばかりの泊地を見渡す。

 これから、ここが、俺の城。

「なにアホ面さらしてんの。ほら、最後。挨拶行くんでしょ」

 尻をはたかれて、思わず睨みつけてしまう。

 確かに、全開にしたシャツにすそを捲り上げたズボンという風体では、格好が付かなかったかもしれない。首から下げた、前の職場からもらってきた建設会社のタオルが風にあおられて落ちた。

 腰をかがめてタオルを拾う。「お前なあ。一応上官だぞ」

「弱った女の子があんなことされて、いまさら堅苦しく接するなんて無理」

「お互い様だろ。体調が悪くなるまで外にいるほうが悪い」

「はいはい」と受け流す不敬な部下だが、仕事には真面目なやつだ。さきほどから建物の状態や復旧方法などをしっかり考えて案内してくれている。早くにここに着たのも、二人してああでもないこうでもないと悩む時間を極力へらすために色々と調べていたことがよくわかる。

 景色はすでに赤くなっていて、真正面の太平洋に沈みゆく陽に目を細めた。

 何もないように見えても、この海から顕れた深海棲艦が、人類を衰退に追いやった。戦うべき相手がいる海だ。母なる海、なんて言葉は似合わない。我が子を殺そうとする母など。

「ほら、最後。工廠行くわよ」

 ぐっと手を引っ張られる。

 彼女達は最後の希望である。

 勇ましく戦い、人類の剣となり盾となる少女の手は、柔らかく、小さいものだった。


「くああ、つかれた……」

 工廠の妖精は、十人。

 平均的に泊地には三十人ほどの妖精がいるはずだが、放置された時間が長すぎたのか、大半が出て行ってしまったと、古参の妖精が教えてくれた。

「お疲れ様。はい、水」

「せめてコーヒーをくれ。トランクにインスタントのやつ持ってきてるから。勝手に漁っていい、許可する」

 ぶつぶつ言いながらトランクをひっくり返す叢雲をみながら、先のことを考えてみる。

 艦娘に関する全てのことを一手に担う妖精が少ないということは、この泊地の力がないということだ。一般的な鎮守府には百人を超える妖精が存在しているとなれば、現状艦娘の「建造」でさえ多大な時間をくうことになる。まして、艤装も開発してもらわねばこまる。ドックの改修にだって借りださなければならない。人手がないのでインフラ整備も手伝ってもらおうかと思っていたが、この分ではあきらめる以外の道はない。人の手でできることは、ぜんぶ自分達で何とかしなければ。

 まず明日は出撃ドックの整備からだ。草原を突っ切らなければたどり着けない出撃ドックなど、そこらの堤防から出たほうがまだ早い。玄関は一つであるから、家が家たり得る。

 目の前に置かれた、水が入っているスチールのマグカップにドバドバとインスタントコーヒーを入れられて視線を上げた。

「入れすぎ」

「知らないわよ、コーヒーなんて飲んだことないもの」

 叢雲はコップがないので、フタのなくなった水筒から、水を直飲みしている。

 指でかき回してもほとんど溶けない、埃の浮いた泥水みたいなものを一口飲んでみると、異様に苦かったり薄かったり。

「飲んでみろ」

 しぶしぶといった体でマグカップに口をつけた叢雲の顔は、写真に撮っておきたいほど芸術的にぐにゃりとゆがむ。

「なにこれ。なにもかもがかみ合ってない、最高にまずい液体ね。こんなのがすきなの?」

「そうだな、こんなクソまずい液体を一杯飲まなくちゃいけないんだ、涙が出てくるよ」 

 執務室には椅子がなかった。机はあったのだが、椅子がない。あるにはある。コケが生えて座れば足が折れるであろう椅子がある。こんなのに座るくらいならと威厳を捨てて、床にあぐらをかいた。叢雲は躊躇なく机にこしかけた。これではどちらが上官かわからない。文句を言う元気もなく、クモの巣が張った天井を見上げた。

「予想以上にボロボロでしょ」

 楽しそうに叢雲がさえずる。月明かりのみが頼りの室内で女性と二人きり。心ときめくはずのシチュエーションである。お互いに一日中歩き回って、風呂に入っていないという事実に目をつむれば。

「まともに海に出れるのに一週間ってとこかなあ」

「あら、もう目処立ててるのね」

「そりゃあそうだ、旅行に来たわけじゃないんだから。優先しなくちゃいけないことがなにかぐらい考えるさ」

 それを聞いて、叢雲は「へーえぇ」と口角を上げた。

「なら、明日一番で対応しなくちゃいけないこと、あんたはなんだと考えるのかしら」

「トイレの修理」

 よくできましたとばかりにけらけら笑う。

 タンクの中が森と化していて、水が流れない。さすがは女の子ということで、とんでもない置き土産をのこしたままにする、という失態をする前にあらかじめ調べてくれていた。おかげで青空トイレだ。彼女もふらりとどこかに消えることがままあったから、同じことをしていたはず。言及すれば反乱でも起きそうなので何も言わない。

 けれど速やかに対応してあげなければならない。

「それから風呂……は妖精にドラム缶でももらうか。こっちはすぐ出来るし、明日の夜にはお互いの鼻をつままなくても大丈夫だぞ」

「つまむのは私だけ。女の子がくさいなんてありえないわ、でしょ?」

「今この部屋に漂う生臭さは、お前の匂いだ」

 そういうと慌てて自分の服をかいで、認めたくないが事実だということに気づいたらしい。窓を開け放ってなんとか換気をしようとしたが、無駄なことだった。

「気にするな。私のほうがくさい」

 三十を超えた男の、汗びっしょりのシャツ。想像を絶する匂いだったので早々に脱ぎ捨て、上半身を裸ですごしている。支給品の一つでも残っているだろうという考えは、多分に甘いものだと思い知らされた。

「そして出撃ドック、入渠所、居住区。整備が済まないうちに近海に深海棲艦があらわれた場合、お前には迷惑をかける。申し訳ない」

 床に手を付いて謝ると、あわてて叢雲が頭を押さえつける。足で、ということを考えなければ上司のメンツを大事にするいいやつだ。汗を吸った靴下が臭い。

「ばか。仮にも泊地のトップがそう簡単に頭をさげるんじゃないわよ」

「事実だ。ここまで酷いとは思っていなかった。業者を手配するなり先にしておけばよかったのに、確認をおこたった私の落ち度だ。いいから足を退けろ」

 百万程度なら、今までの貯蓄でどうにかなる。妖精と意思の疎通ができるという事で一般企業から軍に徴用されたから、人並みの金はもっていた。趣味なし、バツイチ、子供なし、実家暮らしの仕事人間。娯楽産業の会社は軒並みつぶれたが、こういうときこそインフラ業は潤う。山を拓いて田畑をつくる工事人夫の監督で、だいぶ儲けさせてもらった。

「そんなのわかるわけないでしょう。実費でなんとかするとか考えたらダメよ。そんな人は経営者に向かないんだから」

 これから人類の存亡をかけた戦いの末席に座るというのに、基地のトップを経営者というか。

「なによ!」

「いや、すまんすまん。なんだ、お前商家の娘みたいだな」

 平和な夜だ。

「はあ、とにかく、明日からは大変ね」

「ああ、大変だ」

 しばらくお互いに無言になる。あれほどやかましかった蝉の声は、ころころ鳴く虫の声に変わっていた。あるのは波と、虫と、潮風がガラスを撫ぜる音だけ。

 司令も叢雲も何も考えず、ただ時間の過ぎるままにまかせる。

 月を雲が隠して、司令室は真っ暗闇。

 ちらと視線を上げると、叢雲の瞳が、真っ暗闇のなかで赤く煌々とかがやいていた。輪郭を長髪がつつみ、再び顔をのぞかせた月明かりが、白銀に光らせる。

「なによ」

「……なんでも。さて、どうしようか。なにかぶっちゃけ話でもするか。なんなら恋バナでもいいぞ。残念ながらトランプも花札も、娯楽品はなにも持ってきていないからな」

「建造されて三週間のあたしが何をぶっちゃけろってのよ」踵で机をガンガン音をさせながら、一つ思い出したように笑顔を見せた。「あ、そういえば大本営にいたころ、総司令長官の食事に雑巾の絞り汁入れてやったことがあったわ」

「お前……バレたら解体どころの話じゃないぞ」

「あのハゲ頭を引っぱたいたこともあるけど、気のいいおじさんよ。笑ってたし。蒼龍さんと飛龍さんも『他の娘たちもよろしければどうぞ』って言ってたわ」

 海上自衛隊から海軍に名称変更があってからの初代長官だ。キレ者であることはまず間違いない。うかつな事をするとクビが飛ぶだけでは済まないんだぞと説教しても、叢雲は反発するだけで聴く耳をもたなかった。

「頭のいい変態って手に負えないんだから。実際にアイツに会ってみればわかるわよ」

「ああ、まあ確かに。……私から見たら壇上の人だったからな」

 課程を修了した式において、一度だけ見かけただけの存在。空母の艦娘である飛龍と蒼龍を侍らせて小難しい話をしていた。いかにもたたき上げの、深海棲艦があらわれてから第一線で指揮を執っていた男らしい顔つきだったはずである。

「ま、もうしばらく会う事はないし。それよりあんたはどうなのよ。なにか面白い話ないの」

「残念ながら。真面目に仕事して、真面目に学校を卒業したただの元一般人だ」

 あからさまに嫌な顔をして、足を組んだ。押し出された太ももの形が変わるのを、ちょうど目の高さでじっくりと観察できる。

「目に映るもの、聞くもの、すべてが真新しいのよ私には。たとえば、あんたの一人称が『俺』なのか『私』なのかも興味があるわ」

 首をひねった。着任にあたり、すこしはいいとこ育ちのように見せたくて、学校から一貫して「私」に変えていたはずである。

 その様を見ていた叢雲は、のどでくつくつ笑った。

「私を海に置き去りにしたとき」

「ああ」

 確かに言った気がする。

 あの時はすこしあせっていたから。目の前で女の子が倒れて、今考えると海に放り込むなんて危険な事をしたものだ。

 司令は若干の罪悪感と、気恥ずかしさで居心地がわるくなり、コーヒーを煽る。

 まずい。

「で、どっちなのかしら。私はべつに、どっちでも気にしないけど」

「前の仕事はな、ドカタをまとめる仕事だったんだ。将官になるにあたって、少しは言葉遣い直しておこうとおもってな」

「ふうん、いいと思うけどね。乱暴な言葉遣いでも。もちろん、綺麗であればなおのこといいけれど」

「言葉遣いは手前の生き方を映す。内緒にしておいてくれよ」

「わかったわよ」

 叢雲が脚をパタパタ動かすたびに、左右の太ももが形をかえる。気持ちよく引き締まったふくらはぎも、彼女達が鋼や燃料から「建造」されたとは思えないほどに、人間だった。

 十回、二十回と往復する脚の動きをみていると、とん、と勢いをつけて叢雲が立ち上がった。

 彼女の履く運動靴はどろどろに汚れていて、今日一日泊地を歩いただけとは思えない。彼女の、生乾きの洗濯物のようなにおいと、海のにおいが濃く嗅げるほどに近づいて、司令の目の前にぺたんと座る。

「ここはどういう場所になるのかしらね」

 にこにこと笑う顔に、心臓がすこし高鳴った。

「どういうとは。ここは深海棲艦に立ち向かうための場所、それ以外なにものでもない」

 叢雲はふるふるとかみの毛をゆらして、そしてじっと司令の目を見つめた。

 赤い瞳で見すくめられると、自分と違う、奥行きのある強い目をしている。

「つよい泊地、よわい泊地、楽しい泊地、つまらない泊地。しあわせな泊地、かなしみの泊地、絶望の泊地、希望の泊地。ぜんぶ、あんた次第なのよ」

 沈黙している。

 真顔で見つめあう二人の間に、また再度影が落ちる。

 波の音すらも聞こえなくなったと錯覚するほどに集中して見詰め合っていても、司令の心臓は、ふしぎと落ち着いていく。

 がたり、と司令室の窓が、潮風に鳴った。

「世界は今、絶望のただなかにある」

 それを皮切りにして口を開いた。

「妖精とコンタクトをとれる人間はわずかだ。今までの艦艇の指揮をしていた将官は軒並み死に絶え、外交が途絶した日本は地獄の様相。それを打破するちからをもって、私はここに着任した。人類の反撃ののろしとなる日本海軍艦娘部隊指揮官養成学校の栄えある一期生としてな。とんだ田舎にとばされたが、やることはかわらない。俺たちがちゃっちゃと深海棲艦をぶったおして、平和な世の中にもどしてやればいい。みんなのヒーローになるんだから、明るく楽しく、だれ一人失わず、しあわせな、希望に満ちあふれた場所じゃなきゃダメじゃないか」

 叢雲は満足げにしたあと、茶目っ気の強い顔を作った。

「実戦経験のない童貞さんがずいぶん大きい口叩くじゃない」

「だまれ処女。でかい口叩く男のおさめる泊地はイヤか」

 風で雲が流れて月明かりが戻るが、司令の真正面には叢雲が、名のとおり月をさえぎるように立ち上がった。

「悪くないわ」

「お気に召してくれてうれしいよ。さて」

 腕時計は2100。動き回って、頭もフルに動かした。

 もういい加減にねむい。

 司令は膝を叩いて立ち上がり、執務室の横に備え付けられた寝室へと足を向ける。

「私はもう寝るから、大本営に私が着任した旨の連絡たのんだぞ、秘書艦」

「え、は、えっ。私がかけるの。ちょっと、そんぐらい自分でやりなさいよっ」

 ぐだぐだ背中になげかけられる叱責を、扉を閉めてシャットアウト。扉が薄いので、直後に大きなため息が聞こえたことに少し笑ってしまう。

 しばらくして電話のダイヤル音が聞こえてきた。なんだかんだで言うことを聞いてくれる叢雲は、きっとこれから色々と助けになってくれるだろう。

 頼もしい。

 司令は大本営との、時候のやりとりじみた堅くるしい挨拶をしている叢雲の声を聞きながら、ホコリくさい布団にくるまった。そういえば彼女はどうするのだろうか。たしか駆逐艦寮があったはずだが、廃墟のごとき風貌だったはず。

 そうして悶々と考えていると、叢雲がこちらに聞こえるようになのか、ひときわ大きな声で、電話口に用件を伝えていた。

「提督が泊地に着任しました。これより、艦隊の指揮を執ります」

 電話口の叢雲が、こちらを見てニヤニヤしているのが分かる。まさにそのとおり、司令もその言葉に腹の奥が熱くなっていたのだから、早くも性格を掌握されているようである。

 チン、と電話の置くおとが聞こえた。次の叢雲の行動に、司令は、やはり多少の遠慮ある艦娘のほうがよかったと後悔した。

 大きな音をたてて開けられたドアの向こうに、叢雲が仁王立ちして、正直に宣言する。

「寝るところがないわ。さあ、私のスペースを空けてちょうだい」

 ぐいぐいと体全体でスペースを作ろうとする叢雲に断わりの言葉はもはや遅い。裸の背中にあたる叢雲の前髪を感じ、念仏を唱えながら着任初日の夜は更けていく。


2

 翌朝、第一に感じたのは衝撃。次に痛み。最後に砂の味。「景気づけに派手に起こしてあげたのよ、文句ある」と、ベッドの向こう側から声が聞こえた。

「ッまえなあ。もうすこし加減をおぼえろ」

 朝日の射し込む窓を背にして叢雲が立っている。睨みつけると、ぷいと横を向いてしまった。あまりに生意気すぎて、このまま放っておくといつか大変な事になりそうで怖い。それでいて、今ここで彼女と仲たがいをしてしまうと、今後の泊地運営に大きなマイナスになりそうで怖い。対極の恐怖で先が不安である。

「はい、おはよう。時刻は0600。よく眠れていたわね」

「……おはよう。お前こそ、私を抱き枕にしてよく眠っていたじゃないか。お陰で体が冷えずに済んだ」

 それを聞くと、気づいていたとはといったものか、叢雲の顔がゆがむ。唇をひきしぼり、さわやかであるはずの朝から般若となった女性の顔を見るのは、なかなか気分がいい。

「このっ、こ、このぉ。うぅ」

「くっく。眠りは浅いほうでな」

「がぁーっ」

 涙目で地団駄を踏む彼女を笑いながら、司令は大きく背筋を伸ばした。ぴったりくっ付かれていたので、寝返りがうてなかった分、盛大に骨がなる。背中、首、腰、股関節、指とバキバキバキバキ気の済むまで音を鳴らし終わるころには、叢雲も少しは冷静になっていた。

 いじり甲斐がある分、まだ生意気は許せる。

「ったく、そういうことは気づいていても口に出さないのがいい男でしょう。せっかくコーヒー淹れてあげたっていうのに」

 壊れかけたベッドサイドテーブルの上には、湯気のたったマグカップが置かれていた。

 口の利き方を知らないが、気が利くやつだ。一口すすると、まだ濃すぎる気もするが、昨夜のひどすぎる水出しよりは飲める。これで白米と納豆があれば文句ないが、物資の搬入は午前中には来るらしいから、高望みはしないでおこう。

「まだ濃いな。朝にはちょうどいいが」

 喜んでいいのか分かりかねる表情をしている叢雲に「美味い」と言うと、分かりやすく顔が変わる。一瞬だけ。すぐに不機嫌そうな顔に戻り、「だったら余計なこと言わないでほしいわ」とすねてしまった。よくもまあ、朝っぱらからころころ顔を変えられるものだ。

「それにしても、よく湯が沸かせたな。ガスはまだないだろう。まさか、生木で起こしたとか言ってくれるなよ」

「んなわけないでしょ。妖精さんたちに手伝ってもらったのよ。棒みたいなの水に入れたら、すぐお湯が沸いたわ」

 電熱棒か。

 確かに、電気さえあれば湯が沸く。かつて海が平和だったころ、ベトナムやタイを貧乏旅行したときに使った事があった。

 わざわざ早起きして、工廠まで足を運んで一杯のコーヒーをつくってくれたのだ。これで暴力的な性格さえなければいっそ嫁に欲しい。しかし艦娘は成長しないし、戸籍もないので、結婚なぞできるはずもない。

 司令はトランクから私物のタオルを取り出し、一枚叢雲に渡す。今日から毎日肉体作業だ。

 二人は本館を出た。むあっとした熱気と潮風が拮抗して気持ちがいい。山暮らしをしていたから新鮮な光景に思えるが、これからは毎日この景色を見ることになる。そう考えると、司令は腹の底がむずむずして、ボイラーで湯を沸かすような感覚にたまらず叫ぶ。

 叢雲は飛び跳ねて驚いた。

「急に大声出さないでよっ」

「気合入れたところで物資がないことには、トイレの修理もできない。妖精たちの仕事もない。ひとまず、掃除ぐらいしかやることはないんだけどな。とりあえず、ねぐらをどうにかするところから始めよう」

「なぁにが気合よ」とぷりぷりしている彼女を放って、司令は水場に足を向けた。

 昨日貸した帽子を頭に載せている叢雲は、なんだかんだでかわいらしい。

 蛇口をひねれば、どこから引いてきているのか夏には冷たすぎる水があふれ出る。頭からかぶると暑さでたるんだ頭が、ぐっと引き締まった。

「掃除用具なら、ボロボロだったけど残っていたわよ。お持ちするわ、司令官」

 皮肉たっぷりの声が尻の後ろから聞こえて苦笑いをしてしまった。乾いた土を蹴る音が聞こえなくなるまで、流れ出る水に頭をさらしていた。蝉の声はすでに盛況で、今だけを考えれば、平和で平和でしかたない夏の一日の始まり。けれど一昼夜過ごして、司令は「着任した」ということの責任を、より強く考えるようになっていた。

 私がここにきたことで阿鼻叫喚の地獄となるかもしれない。かつて当地で戦って果てた前任者たちのように。

 まだ艦娘の運用の仕方も知らなかった黎明期。錬度の低い艦娘ばかりだというのに、近海には空母ヲ級や戦艦ル級、タ級がうようよとしていた。演習に出れば補足され、潜水艦も忍び寄る。なけなしの物資をつぎ込み、沈んでは建造、沈んでは建造。大破した艦娘は、弾薬の補給をうけることもなくデコイとなるために出撃した。一度海に出れば帰れる方が奇跡。命令を受けた艦娘たちは、それでも恨み言ひとついうことなく、勇ましく出撃していったらしい。近海に空母や戦艦のような強大な敵がいると、本土を爆撃される。錬度を上げるよりも、とにかく物量でなんとかしなければいけないほどに追い詰められていた。おかげで現在の日本は、文明のレベルが三、四十年下がるほどに疲弊しきっている。

 昨日あちこちを回って気づいた。前任者たちの生きた痕が、いたるところに遺されているのだ。

  第六駆逐隊 暁 響 雷 電 

 響の名前だけ斜線が引かれていなかった。

  帰  き ら、お  さまの 高の紅  飲 せてくださいね

 連絡板に書かれた言葉は、何度も擦ったような、かろうじて行間を読み解ける言葉が遺されていた。

  快勝!これが重巡洋艦なんです!

 出撃ドッグの片隅に貼ってあった泊地内新聞には三人の重巡洋艦が、ボロボロの姿で笑っていた。記事の部分は、埋め尽くすほどの謝罪の言葉が上書かれていて読むことは出来なかった。

 そして、ただひとつ係留されていたボートの残骸には、ただ一言だけ、操縦席の壁に走り書きがあった。艦娘がボートにのることはない。おのずと誰が書いたのか推測できる。

  すまない

 弾痕がいたるところに残っているボートは着底していた。浅瀬でなかったら、前任者の後悔は、誰にも知られることなく消え去っていただろう。ここの生き残りがいないことは着任前に説明されている。

 司令はそれを見たとき、生々しすぎる「死」に絶句した。そして士気を考えて、表情のない叢雲に、「これは消したほうがいいのか」とたずねた。判断を部下に委ねることを情けなく思ったが、自分ひとりで判断すれば、彼女とのあいだにきっと絶望的な亀裂が生じると思ったから。司令の第六感は正しく働いていたようだ。叢雲は昨日よりもさらに目を吊り上げて、「消すなんて正気なのかしら。できるものならやってみなさい。あんたの大事なもの、チリも残さず消し飛ばしてやるわ」とのたまった。直後、平身低頭謝られたのでため息一つで許したが、もともと司令自身消そうと思ったわけではない。艦娘である彼女が影響はないというのだから、その言葉を信じることにした。

 景色だけはさわやかな泊地。景色だけは平和な泊地。

 他の鎮守府も泊地も、きっと似たようなものに違いない。彼氏彼女たちの捨て身の奮戦によって、近海から深海棲艦を退けることができたのだから。

「っはぁ。はい、こんなのしか残ってなかったけど、なんとかなるでしょ」

 汗で前髪を張り付かせた叢雲が持ってきたのは、砂のたまったバケツと毛羽立った竹箒。それと柄の折れたモップ。

「……まあ、なんとかしようか。暇してる妖精にも声をかけよう。どうせ資材がないんだ、遊ばせておくにはもったいない」

「昼前には搬入されるんでしょ。それなら工廠を完璧に整備してもらっていたほうがいいと思うけど」

「道具を見れば分かるさ。設備はボロだがしっかり磨き上げられているし、そこいらの工具だって綺麗に類別されていた。グリースの劣化具合もさほどでもない。よく手入れされていたから大丈夫だよ」

「ふうん。さすが、元土木業は見るところが細かいわ。姑みたい。私には小汚い場所にしか見えなかった」

「ちゃかすな。そういうわけで、さきに本館の掃除始めててくれ」

 叢雲は軽く腕をあげて、敬礼の真似事をする。横着をするんじゃないと言おうともおもったが、さっさと本館の中へ入っていってしまった。

 遅ばせながら誰もいない、叢雲の背中に答礼して、工廠へと向かおうと踵を返す。

 波音のあいだから叢雲の気合が聞こえた。

「さあ、はじめるわよっ」


 軍の輜重部隊は一分の遅れなく到着した。

 どちらがバケツをひっくり返したのか口論になっていたところに、無用心に開け広げられていた正門をくぐり、七台、八台とトラックが入ってくる。消耗品に衣類、食料から資材まで全ては陸路で輸送しなければならないのだ。近海から深海棲艦を遠ざけることはできたとはいえ、未だちょっかいを出してくるの奴らがいるので危なっかしい。もちろん漁業は禁じられたままで、安全を考慮して一般人は海岸線六キロ以内立ち入り禁止となっている。

 小突きあいながら二人が表にでると、先頭のトラックから、この暑いなかビシッと制服を着込んだ男がおりてきた。その人は、司令には馴染みの顔であった。

「ひさしぶり。しばらく見ないあいだに、随分ワイルドになったじゃないか」

 かたやエリートのようにキメた姿。かたや浅黒く焼けた上半身を惜しげもなくさらしている、工事現場の男のような風体。

 制服と同じように、けちのつけようのない敬礼をする男に、司令も倣って答礼し、そして抱き合った。

「おお、おお。久しぶりだな。うちの担当はお前かっ」

「俺も少し前に知ったばかりだったんだ、連絡できなくてすまない」

 男は、司令の汗で制服が汚れるだろうに、ひとつも嫌がる素振りをみせない。がっちり固めた髪の毛は、潮風にも微動だにすることなく、黒々とかがやいている。

 司令が二の句をつむごうと口を開きかけたとき、男が割り込んだ。

「そうか、ドベだったお前が司令か。感慨深いなあ」

 アっと彼の口をふさいだ。

 暑さとは違う、じっとりとした汗が全身から吹き出るのを感じる。おそるおそる叢雲に視線をやると、にやにやと口角を吊り上げた彼女が、それはもう楽しそうな声色でさえずる。

「へぇえ。『学校はなかなかの成績で出てる』司令官さん、どういうことかしら」

 額を押さえて空を仰ぐ司令に、男は目をしばたかせたあと、泊地全体に響き渡るかのような大声で笑い始めた。

「うあっはっはっは。おまえ、なかなかって。そりゃあなかなかだっただろうよ。毎回試験前に補習を宣言されて、香取さんの指示棒を七本折らせた伝説の一期生だもんなぁ」

 もう威厳もへったくりもあったもんじゃない。司令は叢雲の笑い声に怒る気にもならず、かつ目の前の口軽男につかみかかる気力もなくなった。冷静沈着、頭脳明晰、部下に好かれる温厚篤実な鉄人提督への夢はあっさりと打ちくだかれた。

 それに七本じゃない。正確には一二本だ。何度か留置所と見間違うようなところで、ふたりきりの時間があったことをコイツはしらない。叱られて泣いたなど、子供以来の経験だ。

 叢雲たちはしこたま笑い転げた後、今にも足元から崩れそうな司令をみて、もう一度笑いはじめる。

「ごめん、ごめんよ。ええと、キミは叢雲だな。あんまり笑わないでやってくれ。勉強はからきしだったが、バカじゃない。勉学は時間をかければ形になるが、バカにはいくら時間をかけても習得できないものを、コイツはちゃんともってる」

 なにをいまさら、と半ばヤサぐれて目の前の男をにらんだ。

「大丈夫よ、その辺はもう、なんとなくだけど理解しているから」

 頭の上に乗っている帽子を指ではじく。男は口笛を軽く鳴らして、叢雲に向けて改めて敬礼を示す。

「関東圏内施設の一部主計を担当することになった八木だ。この見栄っ張りの、富津泊地の司令である清水とは同期で、何の因果か、幼馴染までやっていた。あんまり無茶は聞けないが、多少のことは融通してやるから、困った時は俺に直接電話してこい。深夜の逢引したいってんなら、出張先からでもすっとんでくるぜ」

 本当に電話番号のかかれた紙を渡され、あまりの準備のよさに叢雲はもう一度ふきだし、苦笑いながらも、帽子を脱いで答礼した。

「特型駆逐艦五番艦、叢雲です。お誘いはありがたいけど、もううちの司令官とは同じ天井をみているの。妬かれたらかなわないからお受けできないわ」

 とんだ言葉の選び方をする叢雲の頭をかるくひっぱたく。

 その様を見て八木はまた笑い、わざとらしく大仰な身振りで頭をかかえた。「おお、神よ!」

 叢雲はどうやら、このように軽口の応酬がきらいではないようだ。体をくの字に曲げて笑っている。

 八木はいい加減からかいすぎたと感じたのか、すこし眉根をよせた表情をつくった。

「叢雲をここに配置したのは俺なんだが、正解だったみたいだな。おそろいの農夫スタイルもよく似合ってる」

 一言多いのは、こいつのわるいクセ。

「てめぇら、山谷の男なめるなよ。ヨキさえもってりゃ、口裂け人間の仲間入りだ」

 久しぶりに精一杯のドスを利かせて凄むと、八木は降参とばかりに両手をあげた。清水はこの、ちゃらちゃらとした言葉を出す八木の口だけは好きになれないでいる。

「覚えておくといい。こいつが『俺』という一人称を出すのは、余裕がないときだけだ」

 八木が叢雲に耳打ちするフリをして、ふたりでくつくつ笑う。

 この、相手の逆鱗のまわりだけをこねくり回す口のうまさに、子供の頃から辟易させられた。それでもなぜずっとつるんでいたかというと、認めたくなかったが、気持ちの良いわずらわしさだったからだ。

「ちょっとまっててくれ」と八木が車に戻ったとき、今度は叢雲がそそそ、と耳打ちをする。

「ずいぶんなお調子者じゃない。主計官さんっていったらエリートのイメージあったけど、大丈夫なの」

 先ほどまで一緒になって笑い転げていた相手に辛辣である。やはり女。花の匂いを嗅ごうと、うかつに顔を近づければ、潜んでいた蜂に痛い目に合わされるもの。

 清水は腰をかがめて、同じように耳打ちを返した。

「頭『は』いいんだ。お前も言っていたじゃないか、頭のいい変態はなんちゃらと」

 強調された助詞に喉を鳴らして、叢雲は清水の耳に言葉を返す。彼女の熱い息が耳にかかり、あやうく声を上げそうになるのをなんとかこらえる。

「あんたの親友だものね。堂の入り方だけは、新人とは思えないわ」

「腐れ縁だよ。昔から要領がいいんだ、あいつは。在学時からお上の覚えめでたく、業務の手伝いもしてやがったから、まあ、心配はいらん」

 バムン、とトラックの扉が閉まる音を認めて、二人は自然に体を離した。お互いに、今の内緒話の格好を見られたら、八木になんといわれるのか、手に取るようにわかる。会って数分で人の中に入り込むには、彼のようなおちゃらけも必要なのかもしれない。

「これ、受領書。それから、今後の輸送計画の話もしたい。時間を取らせて悪いが、よろしく頼む」

「わかった。倉庫まではこいつに案内させよう。叢雲」

「了解したわ」

 待機しているトラックへと駆け出す叢雲の背中を、旧友同士は眺めていた。

「良い子だろ」

 八木がにたにたと笑って、ひじでつついてくる。

 最初に配置される艦娘の手配も主計科の仕事だ。司令となる人間の性格に合わせて、あらかじめお上に決められた艦娘を手配される。頭のいい司令ならばサポートに特化した艦娘。戦闘意欲の低い司令には強気な艦娘。メンタルの弱い司令ならばやわらかい艦娘といったように。

 叢雲のように真面目で気の強い艦娘ならば、さしずめ不出来で粗野な司令といったところか。

 あからさまに挑発してくる八木を無視して、本館へと案内した。掃除の途中でひっくり返したバケツの水は、夏の気温でほとんど消え去っている。

「なんもないが、ひとまずの司令室だ」

 八木は雑草の積み上げられたトイレや、日焼けして真っ白になった机を見て、軽くため息した。

「ま、富津がひどい状態っていうのは聞いていた。というわけで、陸軍のやつらを多めに持ってきている。搬入が終わったら施設整備に使ってくれ。ちなみに、彼らのトラックは整備不良で、きっと帰り道はトラブルの連続だ。五日ぐらい、本隊へ戻るのが遅くなりそうだな」

「ありがたい」

 こういうところで手回しのいいやつだ。彼を苦手といいつつも尊敬するのは、いつも絶妙な気の利かせ方をみせるからである。彼らは輜重部隊ですらないだろう。おそらく、全員施設整備に特化した部隊の人間達だ。

 大勢のスペシャリストを五日も貸してもらえるなら、予想以上に早く、この泊地を機能させる事が出来る。ひっぱりだこな人材たちであろうに、ありがたいことである。

「俺は残念ながらさっさと帰らねばならない。横須賀の司令がおっかない姉さんでな。ほら、同期主席の」

 彼女か、と清水は苦々しい顔をした。

 ドベだった自分からしたら、雲の上の存在。七つも年下のクセに、横須賀のようなおおきな場所で艦娘部隊を率いるのは、なるほど、納得のいく人選だ。

「突っつきがすごいんだ彼女。お前の初めての城だというのに、手伝えなくてすまない」

「体力がからきしのやつに、こんな炎天下の中作業させられんよ」

「はっはっは。よし、ならデスクワーカーはデスクワーカーらしく、書類で仕事をするとしよう。受領書にサインをくれ。そのあとはスケジュールと、頻度と連絡手段、それから要望書について……」

 蝉の声がうるさい。

 椅子にも座らず(ないものはないから仕方がない)、男二人は汗を流しながら、今後のことを詰めていく。

 いよいよ、泊地が本格的に動き始めた。


 場面は再び日暮れである。

 八木の連れてきた陸の連中は、やはり精鋭であった。わずか半日で泊地全体の電気系統を復帰させ、本館の修繕はもちろん、道の整備まで終わらせた。聞けば、深海棲艦に崩壊させられた街の復興を担当する部隊であるらしい。炊き出しまで世話になってしまった。これならば、五日もあれば、各艦種ごとの居住区すらも完璧に修繕されることだろう。

 彼らは日暮れ前に突貫で作り上げた仮住居のなかで酒盛りもしている。司令たちも是非、と誘われたが、大勢の男を前にして意外と人見知りをする叢雲をかんがみて、丁重に断わった。最終日だけでも、ちらと顔を出そうと思う。

 あかりも灯き、見違えるようになった司令室の中で、ふたりは静かな酒盛りをしていた。子供にしかみえない彼女に酒を飲ませるのは抵抗があったが、これが好き者らしく、ニッカの瓶を見るやいなや飛びついてきたのだ。

「ストレートはさすがにきついけど、ウイスキーもいいものね」

 だばだばとスチールマグに注ぐ姿は、可憐な少女とはいいがたい。もうすこしきれいな飲み方を教えたほうがいいのだろうかと、自分のマグをかたむけた。氷のないウイスキーはぬるく、舌とのどを激しく焼く。

「ずいぶんと慣れているな。酒が好きなのか」

 搬入された秘書用の机の上に小さい尻をのせた彼女が「んふふ」と笑う。せっかく椅子が運ばれたというのに、なんと行儀の悪い。

「好きか嫌いかといわれたら、もちろん好きよ。お酒はいいものだわ。ほら、よくいうじゃない、『人生に 楽しみ多し 然れども』」

「『酒なしにして なにの楽しみ』。酒飲みってのはどうしてこう……」

 酒飲みほど詩人に向いている人種はいないだろう。そして酒飲みほど言い訳がうまいやつもいない。

 なにかと理由をつけて酒を飲みたがる。

「あんたも人のこと言えないじゃない。補給物資のリスト、酒保品のところで手がとまっていたくせに」

「『酒が飲みたい夜は 酒だけではない 未来へも罪障へも口をつけたいのだ』」

「あははっ。あんたってやっぱりキザだわね。ぜんぜん似合わない。それなら私は、あんたが罪障なんかのために酒を飲んだ時、『血が出るほど頬を打って』やるわ」

 うふふ、くくく、と笑う叢雲に鼻息ひとつ返して、暖色の灯りの中に佇む酒瓶を眺めている。長い山暮らしの中では、楽しみなど数えるほどしかなかった。騒ぐ酒も、静謐の中で呑む酒も、苔むす森の中では宝石のような価値があったものだ。

 懐かしい感触だった。

 酔うための酒しか知らなかった私に、本当の酒というものを教えてくれた、かつての職人達は元気しているだろうか。手紙を書こうにも、サンカとして山を渡り歩く彼らに連絡をとる術はない。またあの荒々しく熱い酒が飲みたいものだ。

「それにしても、一日でこんなにきれいになるなんて」

「これでわかったろ。ちゃらついているが、頼りになるやつだって」

 妖精たちにも、さっそく作業に入ってもらった。目下、所属する艦娘を増やすため、五人の建造をたのんだ。資材もカツカツであるからほどほどにと念を押して。六人もいれば、最低限の艦娘による部隊が編成できる。当面は近海哨戒を行いながら、戦力の増強というスケジュールで動いていくことになる。

 それまでは、横須賀から数人の艦娘が変わりに担当海域を哨戒をしてくれるとのことだった。例の主席女に借りをつくるのは怖かったが、背に腹は変えられない。叢雲だけでは、たとえば深海棲艦による二隻三隻の駆逐級の哨戒部隊でさえ脅威になる。横須賀と共に浦賀水道から太平洋に向かう位置にあるから、いわば前線にほど近い。近海から強大な敵は消えたとはいえ、やつらがいつ再度東京湾に侵攻してくるかもわからないのだ。

「よく気の利く、やっぱりあんたの友達なんだなってのはわかったわ。今どきこんなもの、手に入らないでしょうに」

 叢雲は秘書机の上にLP盤をばっさり広げた。もちろんレコードプレイヤーもある。木製で、浅黒く手垢のついた、それでもよく手入れされている骨董品である。LP盤は、清水の趣味にあったものをセレクトしてよこした。「着任祝いだ」といいながら個人的に。

「10代の頃にこじらせてな、こういったものをよく集めて、八木と一緒になって聞いてたんだよ。うお、カーターファミリーまでありやがる。どこで買ったんだ」

 どれもこれもよく聞いていたLP盤だった。

 そうそう、このジャケットがズルいんだ。ほら、このジャケットいいだろ。あとこれは金のないフォークシンガーの夢の塊。こっちのアルバムは一発撮りの、雑音や雑談まみれの音源なんだぞ。まあフォークはそんなのが多いんだけどな。お、この辺はロックが台頭してきたあたりの、きれいなものだ。洋楽も有名どころは網羅されてるな。さすが八木だ。

 深海棲艦があらわれる前は、音源はデータ販売となっていた。そんな中、少ない金で電車に乗り、東京のでかい音楽ショップに行って、一枚だけ買って帰るあのわくわく感。一時間以上も、紙ジャケを見ながら、この曲はどうの、あの曲はどうの、この録音がどうの、奏者がどうのとなどと分かったように話をしていたものだ。

 あっちもこれもと夢中になってみていると、しようのない男に見せる笑顔で、叢雲が清水のマグにウイスキーを注いだ。

「艦の記憶じゃ、SP盤までね。ずいぶん大きくなったものだわ。ね、オススメのかけてちょうだい。虫の声を肴にするのもいいけど、せっかくだし」

 少し気恥ずかしくなり、いや、それも酒のせいにして、またひとくち呑んだ。

 趣味を前にして自分を抑えられる男など、まったく、熱意が足りない。

「お前が知っている曲もあるんだがな。ほれ、この辺の民謡集とか。まあしかし、せっかくなら戦後の、聞いたことないような曲を開拓していくのも面白いだろう。特に、アメリカ、のものとかな」

 この言葉をだすのは、少し抵抗があった。

 彼女達は、かつてアメリカを敵国として戦っていた記憶を持っている。並々ならぬ恨みつらみ、確執もあることだろう。が、今の世の中では、その負の感情は、深海棲艦にぶつけてもらうしかない。ともに宇宙という、広大な時間を行こうと手を取り合った仲なのだから、過去の確執は取っ払ってもらうしかないのだ。

 だから、チョイスをしたLP盤を叢雲に手渡した。

 叢雲は受け取った。彼女の顔に後ろ暗い感情は道められない。

「そんなに気にしなくてもいいわよ。沈んだのは戦闘艦『叢雲』であって、この『叢雲』じゃないわ。そりゃ、口惜しい気持ちもあるけども、あの『叢雲』は自分の正義に殉じて沈んだの。戦争だもの。その辺は割り切ってる。あちこちに遺されているものを消すなっていったのも、なにもワガママじゃないわ。彼女達だって彼女達の正義のために沈んだはず。同姓同名、姿かたちが同じ他人。他人のような気のしない他人よ」

「それより、渡されても使い方がわからないのだけど」と、とりあえずビニールから取り出したレコードを置いて、あちこちいじくる叢雲を、姿勢を正してみていた。

 余計な気遣いをみせてしまった。

 艦娘としての彼女達は「同じ施設に着任して、初めてあった姉妹艦」のみを姉妹として認めるらしい。だから先に着任して散っていった彼女達に知った名前見た顔があっても、それは他人として認識する。よその鎮守府で姉妹艦や絆の深い艦娘と出会っても、混乱しないのはそのためらしい。いったいどういう仕組みになっているのか、解明するための学者たちは軒並み頭を拗らせている。

 壊しかねない扱い方をしはじめた叢雲の頭をぐしゃりとなでて、使い方を教えてやる。これから長い付き合いなのだ、いちいち自分で取り替えるのも楽しいものだが、それで業務が滞っても本末転倒。覚えてもらったほうがよい。

「まずは回転数を合わせるんだ。この大きさだと大体三十三回転だから、ここのレバーをあわせる。そう。そしたらレコードを乗せて。うっすら筋がみえるだろう。この筋が曲の境目だ。今は四曲目が聞きたいから、四つ目の筋に針を一応そっと乗せる。ボリュームが最低になってるか確認してな」

 アームを動かすとレコードが回転し始め、音も鳴っていないのに叢雲ははしゃいだ。

 そして、LP盤にそおっと針を乗せると、盤面につけられた傷を引っかき、音を出した。ボリュームをひねらなくても音が出るものだ。夜に聴くときは、よくこの状態で聞いた。低音のまったくない、味気ない音だが。

 ゆっくりとボリュームを上げると、音がはっきりとしてくる。

 ああ。

 清水の頭には夜の森と、十代の八木と一緒になって、なれない酒にむせながら聴いた昔の景色が、ありありと浮かんでは消え、浮かんでは消えた。あのころは世界がこうなるなんて、露ほどにも考えていなかったのに。

 まず歓声が聞こえる。二人の再結成にセントラルパークに集まった五十万人を超える観客。ゆったりと流れ始めるピアノに、もう一度観客が沸いた。このイントロは、二人が対立することになった原因となった曲。それをまた、二人の声で聴けるのだ。私だって、その様を思うだけで心が昂ぶる。

「ちなみに、なんていう曲なの」

 もう頭の中に叢雲はいない。流れる音楽に支配され、話せない英語の歌詞が次から次へと浮かんで、対訳すらも同時にこなす。もう何度聞いたかわからない歌だ、心に染みついている。

「Bridge Over Troubled Water」

「氾濫した川にかかる橋。いや、荒れた川にかかる橋かしら。なかなかいいタイトルね。泥臭くて力強いわ」

 鼻を鳴らしてしまった。たしかに直訳するとそうなるが。

 レコードが彼らの歌声を鳴らす。さもしい、素朴で儚げなハーモニーが執務室に響く。

「もっといい訳がある。日本じゃ、そっちのが有名だな」

「へえ」、叢雲は彼らの声と、ピアノに耳を傾けている。机に腰掛け、浮いた足でリズムを取りながら、「なんていうの」と、唇だけで先を求める。

 叢雲と同じように、机に尻をのせ、目を閉じて歌に浸った。

 聴衆の一人になって、つぶやくように答える。

「明日に架ける橋」

 ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの歌声がやんでからも、二人はしばらく波と虫の音に耳を傾けていた。


3

 朝日差し込む司令室で一人の男と六人の娘が向かい合っている。

「では改めて。自己紹介を頼む」

 叢雲もいつもの私服ではなく、白いセーラー服と、ウサギみたいな機械を頭につけて、艤装も展開していた。もともと狭い司令室がさらに手狭に感じる。心配なのは、床がとんでもない歪み方をしていることだ。机の上に置いたマグの中身は大いに、彼女たちに向けて偏っている。

「特型駆逐艦五番艦、叢雲よ」

「睦月型駆逐艦十番艦、三日月、です」

「白露型駆逐艦十番艦、涼風っ」

「夕張型軽巡洋艦ネームシップ、夕張です。まあ、夕張型は私一人なんだけど」

「球磨型軽巡洋艦五番艦、木曾だ」

「古鷹型重巡洋艦ネームシップ、古鷹です。どうぞよろしくお願いします」

「うん、ありがとう」

 清水が答礼すると、全員の背筋も改めて伸びた。

 一日一人のペースではあったが、妖精たちはしっかりと仕事をしてくれた。引き続き建造を頼んでいる。しかし人員を装備開発にも回したので、ペースはさらに落ちることだろう。ひとまずはこの六人で頑張ってもらうことになる。横須賀から毎日のように担当海域を哨戒してもらっているのも今日で終わりにして、自立しなければ。いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。

「早速ではあるが、これから毎日、十二時間交代で哨戒にあたってもらう。引継ぎの時間は、0600、1800だ。ローテーションは、昼の部を夕張、木曾、涼風。夜の部を叢雲、古鷹、三日月。仲間が増えればもっと細切れにできるんだが。旗艦は第一に呼称したものである」

「了解したわ」「了解よ」

「昼の部の担当のものは、このあとすぐにでも出てもらいたい。横須賀の艦娘と落ち合う予定だから、引継ぎを受けろ。それから、富津の清水が礼を言っていたと。直接言いたいんだが、終ぞ一度も顔を見せなかったから」

「横須賀の司令官にも電話したほうがいいんじゃないのかい」

「あぁ……もちろん、非常に非常に、非常に気が向かないが、しておくさ」

 涼風にいさめられて、全力で苦々しい表情をつくると、彼女達の涼しげな笑い声が響いた。

 いや、本心も苦々しいものなのだから、あながち作ったものでもない。

「最後に、この富津泊地は横須賀にほど近いため、多くの作戦を共にすると思う。しかし私は元一般人で、不慣れが多い。お前たちのかつての記憶が苦しいものであるのは知識として知っているつもりだ。それでも、私の手助けとなるものがあれば、その気持ちを抑えて、どうか教授を頼む」

 出撃のないときは後詰めとして自由に体を休めろ、と告げると、彼女達はもう一度敬礼をして、司令室を出て行った。

 出て行った後の司令室は鉄と油と火薬の匂いに混じって、花のような、混ざることのない匂いが混同されている。

 幸いな事に、全員が揃うと同じぐらいに、泊地の整備が全て完了した。艦娘の宿舎も、ほぼ一からに近かっただろうに、見事に寝泊りは問題ない程度に建て直されている。これで全員が司令室の寝室にはいるなんてことにならずに済んだ。そんなことになれば、野宿でもしたほうが精神安静上よいだろうと覚悟を決めていたから助かった。出撃ドックも、酒保も、食堂も、すべてがきれいになっている。けれど入渠ドックは、完全に崩壊した二つは妖精でなければ修理できないため、とりあえずは使えるところだけを整備してもらった。

 これだけやったのに、さらに簡易的な入浴場まで作って帰ったのだから、もう彼らには頭が上がらない。今度実費でなにか送ってやらねばと考えている。叢雲も許してくれるだろう。死に金ではないはずだ。

 これで清水も艦娘たちも、遠慮なく素っ裸でのんびりできる。

 敬意をこめてカーペンターズとでも呼ぼうかといったら叢雲は笑った。

「それで」一緒に出て行った彼女達に混ざらず、一人司令室に残った叢雲に声をかける。

「お前もみんなと一緒に行くといい。今日から秘書艦としての仕事は、しばらく休みだ」

 そういうと叢雲は、搬入された家具のうち、小さな冷蔵庫からコーラの瓶を一本取り出す。

「ひとつ相談があるんだけど」

 栓を抜いて清水に手渡した。

 まだコーヒーが残っていたが、渡されたものはしかたない。キンキンに冷えて、早くも汗をかいている瓶からひとくちのめば、強すぎる炭酸がのどを刺激する。

 気づけば叢雲は見慣れたホットパンツとタンクトップの私服に戻っている。これは妖精特製の服なのだという。どういうわけか、艤装を展開すれば制服に、納めれば私服に戻る。ただし、妖精の手によるものでなければ切り替えができないらしく、寝巻きなどは軍支給品をつかっているため、夜間出撃は着替えの手間がかかるらしい。

 ファンタジーの権限はらしくなく、表情を曇らせている。

「古鷹のことか」

「え、ええ。よくわかったわね」

 余った資材で作ってもらったレコード棚からウディガスリーのLP盤を取り出し、慣れた手つきで針を落とす。音質の悪い、軽快なカーターファミリーピッキングに乗せて、開拓時代の政府に怒る声がすぐに流れ出した。

「一応、お前達の艦歴は調べているさ」

 触れてはいけない地雷を踏まないように。

 肉体労働ばかりしていたせいで溜まった書類に向かいながら、彼女の顔を見ず、二の句をつむいだ。

「自分で言っていたじゃないか。あの時はあの時、今は今。古鷹も、自分を見つけてくれなかったといって、お前のことをうらんでいたりしない」

 書類の隙間からちらと覗き見ると、眉根を寄せて、でかかった言葉をかみ殺し、また出かけた言葉をかみ殺し、必死に言葉を探しているように見える。

「それならいいのだけど」

 結局でてきたのはその一言だけだった。

 あの後、救援にむかった「叢雲」も沈んだはずだ。そのことを知らない「古鷹」ではあるが、感謝されこそすれ、恨まれることなどなにもないはずである。

 肝心なところで気の弱い。

「気になるなら、ちゃんと話し合え。万が一仲たがいしてしまったなら、私が出張っていってやる」

 叢雲はそれを聞いて、「ありがとう」とだけ言って、司令室から退室した。

 度し難いものだ。記憶と言うものは。ああはいっても、こんなに早く、自分の最期の関係者と出会うことになるとは思っていなかったのだろう。

 叢雲も大概な見栄っ張りじゃないか。

 ふと禁煙したはずの煙草を吸いたくなって、引き出しに手をかけたとき、もう一度ドアが開いて、思わず手を引っ込めた。

「あんたは横須賀にちゃんと連絡しなさいよ。私は出撃まで寝るわ。おやすみ」

 最後に口角を吊り上げて、静かに扉が閉められる。

 まったく、度し難い。

 清水は頭をかきむしって、受話器を手に取った。


 ああは言ったけど、と叢雲は、駆逐艦の宿舎を通り過ぎ、重巡洋艦の宿舎へと足を向けていた。

 もんもんとした気持ちのままで寝られるとは思えない。

 まさかこんなに早くに着任するなんて、心の準備が。司令のこと笑えないわ、あたしだってあんな大きい口叩いといて、いざ目の前にしたらこの体たらく。昨日工廠から「着任した」と聞いてから、すぐに飛んでいきたかった。だけど、足が動かなかった。司令室に挨拶に来た時だって、休憩してくるといって、抜け出してしまった。あのときの「叢雲」が早く見つけていたら、もしかしたら……そんな考えが、昨日からずっと頭を渦巻いている。

 暑いはずなのに叢雲は汗を浮かべてはいない。それなのに喉はカラカラで、ドアをノックするために上げた手が、動かない。

「叢雲? どうしたの」

「んがあ"っ」

 心臓が口から出るかと思った。

 ぎこちなく振り返ると、手洗いの帰りなのか、階段の下に古鷹がハンカチ片手に立っていた。

 そういえば共同トイレは重巡舎の目の前だった。

「あ、ごめんね。まだ着任してから、お話してなかったよね。古鷹型重巡洋艦の」

「知ってる、知ってるってばっ」

 だめだ、完全にペースが乱れてしまった。今だって、わざわざ挨拶してくれたのに、さえぎっちゃって!

 けれど彼女はそんな失礼にも朗らかに笑って、こと、こと、と木製の階段を上ってくる。彼女また私服にもどっていて、つば付きの、薄いニット帽を脱いで、叢雲の正面に立った。

「サボ島沖以来かな。あっちの「古鷹」と、「私」は同じではないけれど。入っていきなよ、ちょっとだけお話ししよ」

 そう、そうなのだ。あの「叢雲」と「私」は違うのだから、そんなに神経質にならなくてもいい。ならなくていいのに、ヒリついた喉が声をだしてくれない。「あ」だの、「うん」だのと、古鷹のおしゃべりに、生返事を返すだけ。

「私、あの辺りの記憶が曖昧で。こんなこと聞いても、もうなんの意味もないんだけど、輸送作戦って成功し」

「あ、よ、夜っ。同じ哨戒部隊でしょっ。早く寝なきゃ、迷惑かけてしまうわ、おやすみっ」

 だめだめね、私。

 一気に流れ出した汗が顎を伝う。

 重巡舎、軽巡舎を駆け抜けて、特I型駆逐舎の扉に、思い切り頭をたたきつけた。


「切れとのことですので、失礼します」

 叩きつけるように受話器を置く。

 横須賀鎮守府の司令室。二十分にもわたる舌戦を勤め上げた加賀は、ひとつ鼻息を漏らした。

「私だって、明日の出撃に備えていろいろやることがあるのだけれど。わざわざこんなことで呼び出さないでくれるかしら」

 向こうからは「森友を出せ」の一点張り。こちらは時折司令からの伝言を伝えて、それ以外は「代われません」と言うだけ。ひどく不毛な時間に付き合わされて、加賀の機嫌はすこぶる悪い。

「今はヴェールヌイを愛でるのに忙しいんだ、少しぐらいいいだろ、なあ」

 ひざの上に乗っかって、なでられるままに頭を揺らしている白髪の少女に視線を落とすと、こちらのいらだちを一切気にしていない風に、ネコのような、甘ったるい声を出す。

「そうさ、加賀もひざに座ってみるといいよ。このまま溶けてなくなりたくなるから」

 頭をなでられ、耳の後ろをなでられ、顎をなでられ。顔中をこねくり回されているというのに、そんな気持ちよさそうにできる意味が分からない。

 秘書艦はあなたでしょう。なじるのもバカバカしくなり、踵を返した。

「赤城はどうしてる」

「演習場にいるわよ。このあとは私と一緒に艦載機の整備を受ける予定です」

「そう」

 加賀は一言を背中に受け、わざわざ聞こえるようにため息を吐いて、扉を閉めた。

 富津とは比べ物にならない様々な調度品に彩られた室内である。洋館然としたあしらいの部屋には、ほのかな、ビャクダンのかおりがただよっている。

 横須賀の主である森友は、SP盤から流れる「Home,Sweet home」にあわせて鼻歌を歌いながら、ヴェールヌイの髪で遊び始めた。

「でもよかったのかい森友さん。富津の人に、あんな失礼な態度とってしまって」

 いじられるままに、彼女の髪型は作り変えられていく。編まれてあげられてわけられて。しかし痛みを感じさせない熟練さに、女の髪の扱いに対する慣れがうかがえた。

「いいんだよ。伝えることは伝えたし」

「お隣さんなんだから、なかよくしておかないと。今後の作戦だって、彼らと一緒に行うんだろう」

「その辺りはもちろん、きちんとやるよ。ただ、まずこちらが主導権を握っているってのを叩き込んでおかなきゃ。ちょっとでも苦手意識をもたせときゃ、真面目な清水のことだ。強く反発はしてこない」

「ふうん、よく知っている人なんだね」

 それを聞いて森友は、わずかに眉根をよせた。

「アイツは、ただのいけすかない女としか思っていないだろうがな」

「恋慕の相手とか……あいたっ」

 森友は分かりやすく、少しだけ力をこめた。当然の報いだ、とばかりに、謝罪の言葉一つかけずに、編みこみを再開する。

「もう、髪をひっぱるのだけはよしてくれ」

 言葉の変わりに頭をなでられると、ヴェールヌイは再び目を細める。

 ゆったりとした時間。

 けれど、鎮守府ともなれば、所属している艦娘も多い。森友もまた、一般からの徴用であったため、軍規にさほどうるさくなく、部下達とフランクな付き合いをしていた。

 だから司令室にはひっきりなしに客人がある。

 扉を蹴り開けたのは、暁型駆逐艦の一番艦。

「あっ、やっぱりここにいた。なにやってるのよ、響っ」

 鎮守府のトップに挨拶ひとつなく、大またで暁が入ってくる。

 ヴェールヌイはとろけていた顔を、寒風にあたったかのように引き締めて、あからさまに目線を落とした。

「扉は静かにあけるものだろう。レディが聞いてあきれる」

「うるさいわね、扉が重すぎるのよっ」

 雰囲気じゃない。ヴェールヌイはガコンとSP盤から針を上げた。深く帽子をかぶって、これ以上は声を出したくないと、まるで子供のようにわがままな態度をとりはじめる。

 帽子をかぶられては、ヴェールヌイの髪で遊べない。森友は役割がなくなってしまった手を暁の頭に回した。

「はいはい、仲良く仲良く。こいつがここにいるのは当たり前だろう、秘書艦なんだから」

 それを聞くと、なにを言っているの、と憤慨した暁が、地団駄を踏んだ。

「今日は六駆でお茶するって言ったじゃない。響から聞いていないの」

「……。あー。ごめんなさい」

 暁に見えないよう、ギリギリつねりあげられる痛みに、なるべく顔色を変えないように答える。

 別に仕事もさほどたまらないから、秘書艦といえども、多少の自由を与えている。まして約束事があるならなおさらだ。戦時だからこそ、憩いの時間は大事にしなくてはいけない。

 今ここでヴェールヌイの尻をひっぱたいて六駆の部屋に行かせることは簡単だ。そのあとに簡単ではない面倒ごとが勃発するのさえ目を瞑れば。

 ヴェールヌイに鼻息一つかけると、すぐに手をどけてくれた。

「富津がようやく動き出してな。今まであっちの担当分も哨戒していた隊を西に向ける事が出来るから、少し話をしてたんだ」

 それを聞くと、「仕事なら」「でも」とぶつぶつもじもじ。

 明らかにそんな堅苦しい話をする体勢でなかったのに、こんなにだまされやすくてよいのか軍人、と少し心配になる。ヴェールヌイも大概だが、暁は輪にかけて子供っぽい。これが姉を自称するネームシップなのか。そりゃあ、練度も艦娘としての時間も、膝の上で黙りこくるこの子の方が上なのだけど。

 ダメ押しをするように二の句をつむいだ。

「ともあれ、連絡もしなかったのは悪かった。もうちょっとしたら終わるから、どうか今は勘弁してくれないか」

 暁は「しょうがないわね」と納得したのかしていないのか、また大またで扉へと向かっていった。

 最後に振り返り仁王立ちして、

「終わったらいらっしゃい。いつでもいいから。もちろん、司令官もね」

と、来たときと同じように、派手に音を立てて去っていった。

 嵐のようなやつだ。

 森友は、ひざの上で体をこわばらせている彼女の肩をやわらかくなでる。

 音楽の消えた司令室には、暁が残していった乳のような匂いと、わずかに蝉の鳴き声が聞こえている。

「行くか?」

「そういう優しさは、嫌いだよ」

 ひざから飛び降りた彼女は、黙って秘書机に向かい、まったく急ぎではない書類をさばき始める。

 結局その日、ヴェールヌイが司令室を出ることはなかった。


 連絡を受けた部隊は、命令をもって出撃。浦賀水道で待ち合わせた、横須賀の哨戒部隊との合流を果たして、太平洋を航行している。

 富津からは夕張、木曾、涼風。

 横須賀からは、那珂、黒潮、初雪。

 夏の海の、無限に広がる入道雲を追いかけて海をゆく少女達。見慣れぬ人が見れば、狐狸妖怪にでも遭ったのかと思うほど奇怪な光景ではあったが、聞こえてくるのはかしましい、軽やかな声であった。

 前方で騒いでいる涼風、黒潮。見守るように後ろをゆく木曾。その最後尾で、夕張はこれから哨戒にあたるルート。すなわち三宅島のさらに南、御蔵島をぐるりと回り、銚子沖を経由するルートにおいて、注意点や深海棲艦との戦闘報告などを、那珂から引継ぎを受けていた。哨戒というには範囲が大きすぎるが、パトロールと言えばわかりやすいか。未だ近海をうろちょろしている深海棲艦から本土爆撃を避けるために、とにかく近海、沿岸で防戦につとめるしかないのだ。

 だがそれも、今年から着任し始めた、艦娘部隊の指揮を専門とした人材が普及してきたおかげで、光明が見え始めている。

「とにかくぅ、銚子沖だよねぇ銚子沖。あの辺はよくお客さんがいっぱいいるんだよぉ」

 くるくるくるくる。よくもまあそんなに回りながら航行できるものだと、夕張は先ほどから頭を抱えていた。いちいち頭の中で変換しなくてはいけない引継ぎなど、面倒極まりない。敵である深海棲艦を「お客さん」とのたまうか、普通。

「お魚さんがいっぱいだからかなぁ。もう少ししたらイワシがいぃーっぱい獲れるんでしょう? それまでには、あの辺のお客さんには帰ってもらいたいなぁ。刺身も塩焼きも梅煮も、なーんでもおいしいよねぇイワシ」

 自分が初出撃で、気がはやっているのはわかっている。それでも、那珂の気の抜けっぷりはいかがなものかと思う。自分も何度も出撃すれば、彼女のようになってしまうのだろうか。

「夕張ちゃんはイワシ好き?」顔を覗かれて、慌ててメモ帳を海に放り投げそうになった。

「もう、航行中は危ないから、あまり近づかないでくださいっ」

 那珂はぶすぅと頬をふくらませた。

「えー、なんで。昔はさあ、こんなに近寄れることもなかったんだよ。せっかく人の形になれたんだから、もっとスキンシップしようよぉ。百合営業だって大事なんだよっ」

「なによ百合営業って……。いいから、ちゃんと索敵しましょう」

「ちゃんとって、那珂ちゃん一応偵察機も飛ばしてるんだけどなぁ」

「えぇっ」

 慌てて、夕張も自分の水偵を飛ばそうとして、正面に上げた手を那珂につかまれた。

「いいって、作戦行動中じゃないんだから。銚子沖向かう途中でいつも戻ってくるから、そしたらお願い」

 抱きつくように腕を絡められて夕張は少しだけ、歯軋りした。経験の差があるとはいえ、このようにふざけた態度の娘に遅れをとったなど。

 横須賀には多くの艦娘が所属していて、すでに何度も深海棲艦との戦闘を経験しているということは聞いていた。よほど立派な先輩方なのだろうと期待していたのだが、会ってみて、尊敬に値するものかどうか、わかりかねるようになった。

 那珂は言わずもがな、ずうっとこのような感じで、話が右往左往する。アイドル宣言をかましてきたあたりで怪しかったのだが。

 黒潮は、うちの涼風を巻き込んで、先頭でおしゃべりばかりしている。「あまり気を抜いちゃダメ」と無線で諌めても喜悦の声をあげて、同じ年頃の娘とわちゃわちゃ。あれでは哨戒どころではない。いざと言うときに命令を聞いてくれないと、恐ろしいことになるかもしれないのに。

 そのような横須賀の最後の良心と思えた初雪。彼女は口数少なく、たまに聞こえてくるつぶやきは、「ねむい」「かえりたい」「ゲームしたい」。

 夕張は先ほどから、イライラとため息が止まらない。

「浦賀水道を出て、すぐ飛ばすんだぁ。半日じゃあ青ヶ島ぐるりとまわるのは難しいし、そっちは水偵で確認して、その手前で私達はコースを変えるの。もちろん、敵影があれば、そっちに向かうよ」

 どうせ青ヶ島も八丈島も、人がいないからねぇと何事もないかのようにつぶやいた。

 その言葉にゾっとする。ぴったりとくっついていた那珂は、夕張の表情にいち早く気づいた。

「えっと、あっと、ちがくてっ。えっとぉ、島の人たちが死んじゃったわけじゃなくて、あたっ」

 後ろからの衝撃に、つんのめって海面に頭を突っ込みそうになった那珂は、涙目で振り返った。背後にはいつの間に忍び寄ったのか、初雪が立っている。

「言い方、考えなよ。ゆうばりさん、島のひとたちは、みんな脱出しただけ。すごかったらしい、よ。キスカ島までとは、いわないけど。艦娘がいなかったのに、民間人には、被害がなかったんだってさ」

「うぅ、そのとおりです。ごめんなさい」

 初雪の言葉をこんなに長く聞くのは、今日初めてではないだろうか。相変わらず眠そうな、ダウナー気味の声だが、中には夕張に対する気遣いがこめられているようにも思える。

 しかし、さらに先。小笠原諸島にも人がいたはずだ。ここからさらに倍以上遠い。青ヶ島でそんなに難しい作戦だったのなら、小笠原は。

 那珂も初雪も、夕張の表情を認めて、あえて何もいわなかった。それこそが解答だった。

 ふと、前方をいく駆逐艦の声が流れて来る。

「おぉ、あれが御蔵島かい。でも、あそこにいるのは……」

 見れば、じゃぎじゃぎな、下手したら艦影と見間違えるような島が見え、そこには、いくつかの通常の艦艇があった。

「あー、なんかなー、八丈島に基地つくろーって話になってんねんて。あれは下見の船やろなぁ。夜にこっそりでるんちゃうやろか」

 クルーザーだろうか。

 素っ裸の通常艦艇でここまで出てくるなど、自殺行為はなはだしい。艦娘の戦隊ひとつでも派遣してやればいいのにとも思ったが、戦闘艦の速度に合わせるよりも、クルーザー単船のほうがはるかに高速である。もしかすると、意外と安全なのかもしれない。

 黒潮は島を指差して、涼風に言った。

「よーっし、じゃああそこまで競争しようや、涼風ちゃん。よぉーい、どーんっ」

「ええ、ちょ、黒潮ぉっ。そんなの粋じゃねぇやっ」

 大きく水しぶきを上げて、二人は島へと向かっていった。遊びに来ているわけじゃないのに、と夕張が大きくため息を吐いて、そして彼女達の真後ろに立っていた木曾を見てふきだして、あわてて表情を引き締めた。

 出力を上げれば排水量は多くなる。図体こそ小さくなったとはいえ、航行するのに必要な靴はしっかりと熱をもつから、もちろん同じシステムで排水される。真後ろに立っていた木曾は海水をモロにかぶって、ぬれねずみとなっていた。

 涼風は先行する涼風に無線を入れようとしたが、木曾のつぶやきに邪魔をされる。

「なあ、夕張」

「なに。今涼風たちを呼び戻すから……」

「怒ってもいいよな、これは」

 まって、と言う前に、木曾は出力を上げて、未だ何も知らずにはしゃぎまわる二人を追いかけた。

「まてコラこのクソガキどもっ。二度と俺に頭が上がらねぇように教育してやるっ」

 木曾の上げた水しぶきはさらに細かくなり、夏の熱射をうけてきらきらと輝いた。その細やかなしぶきはじりじりと焼かれた肌に、とても気持ちがよい。

 夕張は逆で、最後の砦である木曾までもが、横須賀のたるんだ空気に引っ張られていってしまった気がした。今度こそ無線を入れようとしたら、割り込むように那珂が、抜けた声をはさんでくる。

「あはっ、みんな楽しそうだねぇ。ね、夕張ちゃん」

 なにが楽しそうか。私は今腹が立っているのに。

 表情に出ていたのだろう。夕張の表情に、那珂もぶうっ頬をふくらませた。「もう、せっかく笑ってくれたのに」と夕張の顔を伸ばすように、頬を引っ張る。間近で見る彼女の顔は日焼け一つなく、色白で、大きな目をしている。同姓でもかわいいと感じてしまう顔が、目の前にあった。

 ぐにぐにぐにぐに。肉をやわらかくするように顔をこねくり回される。こんなにいじられると、夕張にも女としての恥辱はある。助けを求めるように初雪を見ると、あからさまに目をそらされた。

 無視しやがったな!

「やめへくらはいっ」

「だーめっ」

 ぐにぐに。必死に顔を背けようとしても、那珂は合気道家のようにぴったりと体をくっつけてくる。

「あぶあいえふからぁ」

「だーーめっ」

「なんえでふはぁっ」

「もーぅ、かたいっ」

 最後にパチンと両頬を叩かれて顔を潰される。さすがに恥辱のきわみだ。夕張は速度を緩めて、その場にしゃがみこんだ。

 那珂は夕張と目線を合わせるようにかがんで、じいっと目を見すくめる。

「あの子たちと、夕張ちゃんの違うとこ、なーんだ」

 彼女の顔は、先ほどまでの抜けた顔ではなく、いたって真剣な顔をしている。濃いとび色の瞳が、夕張を諌めるように、微動だにせず見つめている。

 木曾や涼風と違うところ。

 私は、そう、私は違う。彼女達がふざけているなら、代わりにしっかりしなくちゃ。万が一が、想定外が、もしかしたらがそこら中に転がっている場所なのだから。私達は遊びに来ているんじゃない。旗艦である私のミスひとつで、彼女達だって沈むかもしれない。ミスひとつで、日本が大変な事になるかもしれない。

 パチンと、もう一度頬を張られた。

「なんか面倒なこと考えているでしょう。那珂ちゃん、感は鋭いんだよ」

「面倒って。私達がしっかりしなくちゃダメじゃないですか」

「しっかりってなに? 那珂ちゃんがしっかりしてないからムカついているの」

 それは、と口ごもった。

 的を射ているようで違う。夕張が腹を立てているのは、那珂にではない。彼女は態度は不真面目だけど、やっていることはやっているのだ。

 でもね、経験が違うんだもの、仕方ないじゃない。

「それとも、単純に私達と一緒にいるのがつまらないの」

 違う。

 大事なところが、根本的なところからズレている気がする。那珂は遊びかなにかと勘違いしているのか。気を引き締めておかないと、いざというときに行動できないじゃない。

 那珂はこちらの気持ちを知ってか知らずか、大きくため息を吐いた。

「こりゃ、涼風ちゃんよりも重症だねえ」

 背後で一緒に立ち止まっている初雪に視線を送ると、彼女は舌をべっと出して同意した。

 こいつら。

「どういうことですかっ」

 凪いだ海の上にいると、上からも下からも、陽に焼かれているように感じる。

 先頭をいく三人の声は遠く、耳をすまして、ようやく聞こえるかといったところ。そのような海原の真ん中で、味方が一人もいなくなったような。

 那珂は立ち上がって、もう一度ぐぐぅっと体を伸ばして、木曾たちのほうをみた。

「涼風ちゃんも大分やわらかくなったよね」

 やわらかくだと。夕張は文句を言いたくなった。あれはお前のところの黒潮にそそのかされただけじゃないか。涼風は、はじめは真面目にしていたのに。無駄口も叩かず、しっかりと隊列を守って。

「あの子、ビビってたんだよ。黒潮がこっそり教えてくれた」

 頭に上っていた血が一気に下がっていく。

「ガッチガチでさぁ、さすがにこんな状態で攻撃されたら、まっさきに沈んじゃうなぁって思ったの。だから、ある程度こっちでカバーするから、なんとかしたげてって。何言ったかは知らないけど、あのぐらいリラックスできてれば、動けなくなるなんてことにはならないっしょ」

 そんなの知らない。

 今日泊地を出るまでは、そんな感じしなかったのに。いつもどおりチャキチャキに話していたし、ご飯だっていつも通り食べてたし。

「初めて出撃する子ってね、海に出たときにああなっちゃうことがあるの。地上なら息巻いてても、海に出ればいつ沈められるかわからないでしょ。自覚しちゃうんだよ」

「で、でも。それならなおさら、隊列を崩して、あんなに先行しちゃうのは危ないじゃないですか」

 ただの揚げ足取り。重箱の隅をつついてるだけ。なんとか自分を守るために、夕張の口は回る。

「なんのために水偵飛ばしているの。それに、黒潮がわざわざ木曾ちゃんに海水ぶっかけたのも、それを追いかけるであろう木曾ちゃんの性格も分かってなかったわけ」

「……っ」

 見透かされたように言葉をぶつけてくる那珂に腹が立った。かわいらしく見えていた顔も、今では憎たらしい、ひどくベトついたものに見える。

 木曾は、唯一のとりでだった。そのことは正しかった。わき目もふらずに先行する二人のお守りとして追いかけていったのだ。

「ま、木曾ちゃんはわりとリラックスしてたからね。わざわざあんなことしなくても大丈夫だったと思うけど」

 なぜ。

 私だって、日は浅いとはいえ、同じ釜の飯を食べた仲だ。それがぽっと出の、今日初めて会った様な子が、こんなにわかったような口利けるの。

 けれど言い返せない。全てが的確で、見事に、自分の中の空いた隙間にぴたりと当てはまっていく。

「今後はあなたたちが三人で哨戒にあたるんでしょう? いっとくけど、哨戒なんて基本中の基本。作戦でもなんでもないんだよ。だのに、この体たらく。向いてないんじゃないかな、旗艦」

 パシン。

 那珂は打たれた頬を押さえることもせずに、じっと夕張を見つめている。

 一番言われたくないことを、一番深く心にあったことをえぐられた。怒りにわななく声で夕張は、那珂に言い返す。

「わかってるわよ、戦闘向きじゃない私が、旗艦に向いていないことなんて。いくら記憶があるっていったって、今の私はまったくのぺーぺー。そんなこともわかってる。だけどね、私は旗艦になったの。富津の、私達の泊地の、一番初めに出撃する戦隊の旗艦になったのよ。せっかく司令が選んでくれたのに、万が一を起こすわけにはいかないじゃない。石橋を叩いて壊すぐらい慎重になったっていいじゃない。もし私が見逃した敵が、町を攻撃したらどうする。もし私が見逃した敵が、誰かを沈めたらどうする」

 怖かったから。彼女には悟られたくなかったことでも、もう回りだした口は止まらない。

 静かな海面に夕張の怒声が飛んでゆく。

「私の目の前で、私のミスで、人も仲間も死んじゃうかもしれないの。なんであなたはそんなに軽薄でいられるの。私には理解できないっ。私に旗艦を任せてくれた司令に顔なんてあわせられないじゃない。なにかあっても私、責任とれない! 耐えられない!」

 まだ何かあったわけではない。たかだか哨戒でこの体たらく。那珂の言うとおりである。

 司令が何を考え夕張を旗艦としたのかわからないけれど、任命してくれたのなら精一杯期待にこたえなければならない。たとえ、木曾のほうが旗艦に向いていると自覚していたとしても。

 痛いほどに肩をつかまれた那珂は何も言わなかった。ただぶつけられるまま、夕張の告白を聞いていた。

 はじめに口を開いたのは、那珂たちの隣に立って見張りをしていた白雪である。

「沈むときは、どうやったって、沈む」

 静かでなければ聞き逃してしまうよな声量。間延びした、緊張感のかけらもないように聞こえる声は、低く、頭に直接言葉を叩き込まれているような気がした。

「だけどね、『せいいっぱいやって』満足して沈むよりも、『まだ楽しいこといっぱいあるのに、沈みたくない』って思いながら、沈むほうが、いい。私は、そうやって、沈みたい」

 沈む気はないけどね、と最後に付け足して、白雪は機関を動かした。彼女の上げた水しぶきをモロにかぶり、夕張たちもずぶぬれになる。

 熱射にあてられてカッカしていた頭が、スゥっと冷えていくのを感じる。夕張の表情が、若干緩んだのことを認めて、「責任を感じるのもわかるけどさ」と、初雪の後を継いだ。

「もっとリラックスしようよ。白雪がいったとおりだよ。あの子達が沈みたくないって思えるようにしよう? 那珂ちゃんたちががんばったって、どうしようもないこともあるんだよ。夕張がそうやって苦しそうにしてたら、みんなが苦しんじゃう。いざというとき、皆が頼るのは夕張ちゃんなんだよ」

 でも、でも。

 感情が昂ぶりすぎて制御ができない。ああ、女の体というのは面倒だ。海水で濡れた頬を、生暖かい涙が流れている。こんなもの、艦ならばなにも感じなかったのに。

 那珂は泣きじゃくる夕張の髪の毛をかき回して、さらに言葉を重ねる。

「苦しむのは、後に残しておこう。ちゃんと苦しめるように。それ以外は、後に何も残らないぐらい笑っておこう。一人じゃ楽しい思い出なんてつくれないから」

 何度も何度も頭をかき回されて、一つ縛りにしていたゴムからも髪の毛がはみ出る。髪の毛が結ばっちゃう、なんて言ってられない。言いたくない。

 沈みたくないし、沈ませたくないけども。人を守るための力をもって生まれてきたのに、守れないのはイヤだけど。私一人ががんばって苦しんでも状況は好転するわけじゃない。それなら、みんなとたくさんの思い出を残したい。いざ海の底に向かうときも、苦しい記憶よりも楽しいことをたくさん思い出せるように。

 不謹慎ではあるけども、と前置きをする。

 不謹慎ではあるけども、夕張は那珂の言葉に救われた。

「ごめんなさい」

 そのことを理解できたから、夕張は素直に頭を下げる事が出来た。嗚咽だけで言葉になっていなかった気もするが、那珂はそれはもう偉そうに胸を張って、「許す!」といった。

 肩を叩くと、ふにゃっとした笑顔がかえってくる。

「よぉーし、それじゃあ、初雪にやり返しにいっちゃおっかぁ」

 那珂の声はよく通る。わざわざ大声で宣言した。

 耳に届いたであろう初雪が、「そんなつもりじゃないぃ」とさらに速度を上げて逃げ始めた。

 先行していた三人は、島の影に隠れないよう、手前で待っているのが見える。

 戦隊は私一人で成り立つものではないのだ。彼女達だって、彼女たちなりにがんばっていて、彼女達なりに悩んでいる。私は舵なんだ。あとは皆を信じて、皆でなんとかしよう。皆でうまくいかなかったら、なるべく私一人が苦しむようにしよう。

 それでいい。今は、楽しい思い出を。

「まてぇ、はつゆきーっ。那珂ちゃんまでびしょぬれにしやがってぇー。髪の毛がパリパリになっちゃうでしょーぉ!」

 ふざけるわけじゃない。リラックスが大事。

「ちょ、ちょっと待って、置いてかないでよぉ!」

 大して速度もでない、実験艦の自分。必死に追いすがっても、那珂たちの背中は小さくなるばかり。髪の毛はぐしゃぐしゃで、顔もぐしゃぐしゃ、それでも私は旗艦なのだ。

 目の前に広がる海が、入道雲を背に突き出る島が、十倍大きく見えた。


 格好つけて窓際に机を置くんじゃなかった。このままでは夏が終わる前に、陽に背を焼かれて制服が焦げそうだ。かといって、日中にカーテンをしめることはあまりしたくなかった。薄暗い室内にいては、気分も滅入ってしまいそうだから。

 哨戒中は緊急時をのぞいて、無線を使用しないよう伝達してある。だから、彼は自分の命令で初の出撃となった彼女達のことが心配でたまらない。結局、書類整理も大してすすんでいない。浦賀水道に入ってから通信されるはずの無線を合図として、夜の哨戒部隊を出撃させる手はずである。時刻は1823。距離が長いとはいえ、三十分近くの遅れに、清水の気持ちははやっていた。出撃前に声をかけた、旗艦の夕張の緊張っぷりが思い出されて、余計に不安になる。これでも考えた結果である。涼風が上に立つには、まだしばしの経験が必要であると思うし、木曾は前線に出して暴れてもらったほうが性にあっているだろう。夕張は頭を使うタイプであり、知識欲のある女性と踏んだ上での決定なのだ。間違いない。間違いはないと思うが、と、先ほどから思考がループしていた。

 ザ、ザ、とサイドチェストの上に置かれた無線機が、久方ぶりに声を出す。

『哨戒部隊より富津泊地。哨戒部隊より富津泊地』

「夕張かっ」

 半ば飛びつくように無線のマイクに向かってつばを飛ばした。あまりの反応の速さに驚いた夕張が「もう、うるさいですよ司令」といたずらに諌める。

『まもなく浦賀水道へ入ります。時間的な事情により銚子沖へは水偵のみの索敵となってしまいましたが。深海棲艦との交戦はなし。異常もとくにありません』

「了解した。こちらも次の部隊を出撃させよう。今朝横須賀の艦娘と待ち合わせたポイントで待機していてくれ」

『了解』

 緊張がドっと溶け出したのが自分でもわかるほど、マイクを握りながら安堵した。腰から下がなくなったようだ。

 出撃待機所への連絡を入れようとして、手を引っ込めた。後で直接聞けばいいことなのに、安心からか、少し気分が昂ぶっているようだ。もう一度夕張に無線をつないで、一つ問いかける。

「初出撃はどうだった」

 しばらくの無音の後、もう一度無線機が鳴る。

『不謹慎かもしれないですけど』と前置きがあり、それから誰にはばかっているのか、聞こえにくい、小声で言った。

『これからも楽しくやっていけそうです』

 夕張の言葉を聞いて清水は「じゃ、またあとで」と無線を切った。

 横須賀の艦娘になにか言われたのだろうか。今朝受けた最後の無線よりもはるかに明るく、弾んだ声色だった。そう、彼女達には楽しくあってほしい。笑い声のない娘など、娘ではないのだから。絶望のただなかである世の中だからこそ、そうあってほしいものだ。それを理解したのかしていないのか分からないが、旗艦である彼女が楽しくやってくれるのなら、もう心配はない。

 そして今度こそ出撃待機所への連絡を入れようとして、司令室のドアがノックされた。この時間に泊地にいるのは、出撃予定の艦娘しかいない。出撃が遅くなり、痺れをきらした叢雲辺りがきたのだろうか。

「今夕張たちから連絡があった。ようやく出撃だぞ」

 ドア越しに声をかける。

 そのまま踵を返すと思いきや、扉が開いた。艤装をまとい、すぐに海に出れる準備を終わらせた古鷹が立っていた。

「古鷹か。どうした」

 火急の用事か、と声をかける前に、古鷹の、湿った唇が柔らかく動く。

「提督、一つだけ教えてください」

 準備の前に風呂にでも入ったのだろうか。飾り香のない、石鹸の匂いが司令室に舞い込んだ。


 古鷹が待機所に戻ってすぐに、司令からの命令が下った。

 夏の日は長い。水平線に沈む、濃い卵の黄身のような夕日に、全員が目を細めている。誰彼時とはよくいったものである。装備開発が間に合っておらず、寄せ集めの装備しか持たない富津の夜間哨戒部隊たちは、夕張たちの間近にいたというのに、無線が入るまで気づかなかった。お守り代わりにかぶってきた司令の帽子では、えぐるように目を射す光をさえぎれない。サングラスでも装備したいわ、と、旗艦である叢雲は夕張と笑いあう。

「お疲れ様。どうだった、初出撃は」

 夕張たちはびしょぬれだった。髪の毛なんかはボロボロで、とても潮風だけのせいとは思えないほど乱れきっている。

「異常はなかったわよ。でも、ごめんね。私のせいで、ちょっと時間が押しちゃって。銚子沖の索敵は、私と那珂ちゃんの水偵を全部飛ばして確認しただけ。敵影はなかったけど、気をつけたほうがいいかも」

 ね、と夕張は那珂に声をかけた。初出撃の自分だけの意見ではないと、ことさら印象付けるように。

「うーん、そうだね。あの辺は駆逐級のお客さんがちらほら出てくるから。夜はいつもお姉ちゃんが出てたんだけど、手ごたえがなくてつまんないっていってたよ。参考までにっ」

「ありがとう」叢雲が声をかけると、那珂はふやけた笑顔を見せた。

「それで、どうして時間が押したのかしら。夕張の速度でも、十分帰ってこれる時間だったと思うけど」

「それがさあ! 夕張ちゃんたらかわいいんだよ。もぅぼろぼろ顔真っ赤にしッぼッ」

 驚くほど汚い声を出した那珂が、体をくの字に折った。

 腹には夕張のこぶしが突き刺さっている。

「なーかーちゃーんー?」

「うぶぇ……那珂ちゃん大破ぁ……」

 彼女のだす、あまりに汚い声に、周りから自然と笑い声がもれる。斜陽の海上に、たちまちかしましい花が咲いた。

 あまり長く話し込んでいるわけにもいかない。二人の旗艦から哨戒ルートとその方法について確認した後、すぐさま出発した。間際、那珂たちの背中を見届けた後、夕張は叢雲のかたをやさしくなでて、その後ろを追っていった。

 意図している事がわからないほど間抜けではない。叢雲は困ったように笑って、出立の連絡を送る。

「哨戒部隊より富津泊地」

『泊地より哨戒部隊。引継ぎは受けたか』

「ええ、つつがなく。もうすぐ浦賀水道を出るわ」

『そうか』昼に気を張り続けて、若干疲れた声が聞こえる。

 サイズが合わずすぐに吹き飛びそうになる帽子を片手で押さえながら、叢雲はカマをかけてみた。

「深夜何かあったら、どうすればいいかしら」

『起きている。連絡して来い』

 即答だった。

 本当にバカねあんたは、となじる。

「交代要員が建造されるまで寝ないつもり? そこで一つ意見具申なのだけれど、横須賀の緊急用の無線、知っていれば教えてくれないかしら」

 無線がしばらく沈黙する。

 先頭をすすむ三日月に声をかけ、速度を落とすように指示した。ならって古鷹も速度を落とす。

 まだうじうじ言うようなら思い切りどなりつけてやるんだから、と鼻息荒く返事を待っていると、意外にもあっさりと了承された。

『横須賀からお前のところに、連絡を入れさせる』

 今朝とは大違いである。「随分殊勝じゃない」と、拍子抜けした声で言った。

『夜を駆けるお前達には申し訳ないが、人間ってのは厄介でな。睡眠不足の回らない頭で、緊急時の対応を的確に指示する自信はない。私の頭一つでお前達の安全が確保できるなら、よろこんで横須賀にいじめられるさ』

 なによそれ、といって無線をきった。それでも、自分が表現できる最大の感謝を裏に貼り付けて。あの間抜けにそれが伝わるとは思えないのが、すこし癪ではあるが。

 本当によい司令官の下についたと思う。

 いつまでもうじうじとしているわけにはいかない。早くこの、胸につかえたままの、やり場のない気持ちの整理をしなければ。自分で頬をひっぱたき、上ずりそうになる声を押さえつけて、古鷹に話しかけた。

「古鷹さん、日が暮れる前に水偵飛ばしてちょうだい。日が暮れたら、その時点で引き戻してくれてかまわないから」

「了解っ」

 いつでも出せるように準備していたのか、声をかけると同時にカタパルトがはじける。那珂たちは青ヶ島からさらに大きく銚子沖方面へ飛ばしていたようだが、水平線に沈む陽は早い。そこまで広範囲にわたる索敵は期待できないだろう。それから、返ってきた水偵に別の搭乗員をあて込んでもらって、夜偵の練習もしておきたい。

 叢雲は夕張とちがい、まっさらな状態で出撃しているわけではない。知識はある。大本営で建造されてから、清水が着任するまでの二週間、みっちりと訓練した。香取は叢雲の教官でもあった。彼ほどひどい成績ではなかったが。艦娘とは強力な戦力である、なんて、兵器かなにかのように教育されたものだ。

 もしあなた方が沈んでしまいそうになったら。けれど彼女は最後の講義を終えた後、そう切り出した。「どうしようもない状況というものがあります。誰かが犠牲にならなくてはならない場合もあるでしょう。そのとき、生を手放さなければならない順序としてはじめにあるのは、駆逐艦であるあなたたちです。撃たれ、傷つき、目がかすんできたとき、考えてください。あなたが簡単に沈んでしまったら、追撃部隊が、逃がした娘たちに向かうことを。あなたが逃した艦載機一機が、本土の町を焼くことを。頭が沈んでも、砲だけは空に向けなさい。そうしていれば、もしかしたら」。彼女の声はここまでだった。かぶりを振って、たしか直後に、それぞれの着任先を告げられた。これから死地に向かうことを、いやでも叩きつけられる、ひどすぎる送別の言葉。いざというときには命を捨てろ。たとえどんなに苦しくても、簡単に沈むな。絶句する教室の中で、叢雲は彼女の言葉の続きを見ていた。

 かぶりを振る一瞬前の空白に動いた唇。

 すくい上げてくれる手があるかもしれません。

 そう動いているように見えた。

 自分の教え子が何人生き残っているかは分からない。教鞭を取るために、いろいろな記録をみているはずの彼女が、最後に口にしようとした夢物語。最後まで生をあきらめるなという真意に気づいたのは、あの教室で何人いたのだろうか。

 だれもかれも、難儀な問題をかかえている。

 ため息を一つ吐く。

 結局、偵察機が青ヶ島にたどり着く前に、陽は水平線の向こうへと沈んでいった。

 しずんでからもしばらくは明るいと言うものの、夜に慣らしていない搭乗員を、そのまま飛ばしておくのは怖すぎる。帰ってくる頃には真っ暗になっていることだろうし、古鷹に帰投するように連絡を入れてもらった。

 ちょうど古鷹が連絡を入れ終わったのと同じぐらいに、後方からプロペラの音が聞こえてくる。ずいぶん低空を飛んでいて、まさかと思い身構えたが、日が沈んで薄暗い中で、バンクしているのを認めた。横須賀のものだろう。そのまま、見事に叢雲の頭に小さなカプセルを落として、Uターンしていった。中には、無線の周波数と思われる数字だけが書かれた紙が入っていた。

「叢雲さん」

 わざわざな場所に落として行った偵察機を、恨みを込めて見送っていたら、潮風に乗った三日月の声が耳に入った。

「どうしたの、三日月」

「御蔵島が見えました。どうしましょう、このまま青ヶ島まで向かいますか」

 薄紫に染まる空を背景に、真っくろい島が見える。

 叢雲は少し考えた。さすがに青ヶ島は遠すぎる。昼と夜では勝手が違うことをいまさらながらに実感した。海上にでてから気づくなど、よほど私の頭のめぐりは悪いようだ、自己嫌悪する。もっと司令と詰めておけばよかったのだが。というか、司令から言ってくれるものでしょう、こういうものは。

 あたりはどんどん暗くなっている。オレンジ色に染まっていた世界が、濃藍色に代わり、そして墨のように変わっていく。

 周波数の書かれた紙を飲み込んで、結論を出した。

「古鷹さん。夜偵をお願いする妖精さんは、ちゃんと目を慣らしているかしら」

「うん、大丈夫だよ。今日のお昼ごろから、ずっと私のここに入ってるから」

 ちょんちょん胸元を引っ張って、暗がりにいることを示す。その中で眠りこけているであろう妖精を思って、苦笑いがでた。あまりにセクハラ的だ。

「コース変更よ。御蔵島直進、八丈島を回り込むようにして、それから北東に進路をとるわ。古鷹さん、今飛んでいるのは、どの辺までいけた?」

 古鷹がぼそぼそとなにかつぶやく。彼女のどこかにいる、水偵に宿らせている妖精と話しているのだろう。

 艦娘が不思議ならば、艤装も不思議である。砲塔や機銃、魚雷管、そして艦載機にいたるまで、まるで艤装自体が生きているかのように動く。装備には妖精がやどっていて、彼らに指示を出しているわけなのだが、稼働中に彼らの姿は見られない。文字通り、やどっているのである。艦娘が願えば姿を現すので、意思疎通がはかれないというわけではない。結局艤装の開発も妖精が行うから、仕組みは彼らのみぞ知る、である。艦載機もまた、搭乗員をやどして飛ばすわけであり、能力はやどる妖精次第となる。本体はひとつ、精神は機体の数だけ。神社の分霊を例にあげよう。古鷹は二人の搭乗員妖精をつれていた。そうなると、妖精のやどる装備を用意しなくてはならないから、体の小さい彼女は装備を犠牲にしている。機体の数だけ分霊できるとしても、妖精一固体に縁のある装備にしかおこなえないというのだから仕方がないことだ。

「八丈島の南だって。大体青ヶ島との中間あたりで、今は半分ぐらい戻ってる」

 これならば、彼女には夜偵用の装備だけを載せてもらって、日中用の搭乗員は降ろしてもいいかもしれない。その分副砲を乗せてもらったほうが、重巡本来の火力に期待できるだろう。

「じゃ、八丈島を過ぎたら訓練ついでに、青ヶ島まで飛ばしてもらえるかしら。そこから先は任せるから。みんな、それでいい?」

 二人から「了解」と返事があった。

 香取の教育のおかげで、初の航行でも恐れることはない。むしろ彼女から教授していない、艦娘の記憶に関する問題が苦しい。三日月もまた、ふたりの(あるいは一方的な)空気感をよみとっているのか、口数がすくない。それが申し訳なくてときおり叢雲が話しかけるのだが、古鷹の頭上を飛び交う会話になってしまう。叢雲は話す。三日月は気まずそうにする。古鷹の表情はうかがいしれない。三つ巴の不穏が濃藍色の海にとけずに、塊となってうごめいている。

 古鷹は無言のまま、戻ってきた水偵を回収し、夜間用の艦載機を飛ばすため、再度カタパルトを炸裂させた。 

 あたりには三人が海を行く音しかない。八丈の二島をぐるりとまわり、銚子沖へ向かう航路に入った頃には、まさに原始の世界ともいえる、つきとほしの明かりだけが世界を作っていた。足元に広がるのは完全な闇で、世の深淵をすすんでいるよう。うねり、ときおり月明かりを反射することで、ようやく自分達の足元には海があるのだと確信できる。夜の海と言うのはなにもない。本当に何もない。太平洋に突き出した犬吠崎の灯台も、今となっては廃墟となっていたはずだ。

「海って、何も変わらないですね」

 延々広がる黒の世界に、三日月はすこし上ずった声を出す。

 叢雲は帽子をおさえたまま、すこし胸を張った。

「ええ、懐かしいとも、新鮮ともいえる。あのころはいったい、どの目線で海を見ていたのかしら。艦橋? 艦首? それとも、缶から?」

 あなたの後ろに恐怖はない。そう伝えたくて、努めて明るく振舞った。甲斐あり、三日月は笑った。弾んだ息の音が聞こえる。

「私はマストからだと思います。もっと遠くまで、向こうを見ていた気がしますから」

「言われてみれば。でも、主砲が火をふくのを間近でみていた気もするし、機関室でてんてこ舞いに動く人たちも見ていたのよね」

「ということは、艦全体に目があったってことなんでしょうか。百目鬼であるまいに、なんだか気持ちが悪いです」

「ふふ、確かに」

 三日月は首だけ後ろに回して、真後ろにいく古鷹に話しかける。

「古鷹さんはなにか、印象的なこととかあってありますか」

「私? うーん」

 急に話をふられた古鷹はすこし考えて、まさに該当する記憶を探し当てたようで、笑った。

「艦の私が進水してすぐ、皇族の方が乗られたんだけどね。その人がまた未練たらしくて」

 しばらくくすぐったそうにして、「でもやっぱり」と繋げる。

「戦争中のほうが頭には残っているかな。ぜんぜん怖いとかは考えていなかったけど。戦うために造られたんだもん、当然かもしれないけど」

「そうですね、艦だったころは、必死でしたから。私の最期は、ちょっと恥ずかしいですが」

「そんなことないよ」語調を強めてもう一度繰りかえす。「そんなことない。みんな頑張ってた」

 またしばらく沈黙があった。はからずしも暗い話題に展開してしまったことを、三日月はきっと申し訳なく思っているだろう。『艦と艦娘の生は別物』というのは、三日月も古鷹も、おおよその艦娘も同じように考えてることは同じである。けれど、この時代に生まれてから、まだ浅い。濃くうずまく艦の記憶を新しいもので上書くには艦娘としての生が浅すぎる。

 最後尾を航行する叢雲は、彼女達のことを苦々しく見つめていた。いや、見ているのが怖くて、顔をそむけていた。古鷹の巻き上げる海水に、帽子と絹糸の髪が湿気る。あれほど探した彼女が前にいるというのに。何度もめぐる思考に、脳みそがミキサーにかけられたように頭痛がする。

「私の最期の記憶はですね」三日月が話し始めた。めぐり続ける邪魔な考えを振って飛ばし、彼女の独白に耳をかたむける。

「とてものんびりした時間でした。思い切り座礁してしまって、どうしても動けなくて。敵に見つかっても動けずに、魚雷を受けて、もうどうにもならんと、皆さん脱出されまして。そこから私の意識がなくなるまで、ただぼーっとしていました。世界があわただしく動いていた中で、何も考えずに、ただあるものを見ていました。あんなに動き回っていた海も、皆が戦っている海も、そんなことはちっとも考えずに、のんびりとしていました。休みなしの艦隊勤務がうそのように」

 笑いながら話せるのは、彼女が吹っ切っている証なのだろうか。先頭をゆく、見た目は自分よりも幼く感じられる三日月の告解を黙って聞く。

「艦娘として生まれ変わって、もう一度戦ってくれって言われて、私うれしかったんです。また御国の役にたてるって。だけど、陸に立って、人と話して、艦の頃とは違う気持ちが湧いてしまいました。戦えばよかっただけとは違います。今は、叢雲さんとも、古鷹さんとも、夕張さんも涼風さんも木曾さんも、そして司令とも。『お話』できるんです。すこし、戦うことが、怖くなりました」

 おびえているわけじゃないんですけど、と付け足して、彼女は恥ずかしそうに笑った。

 艦娘とは。再度この世の土を踏みしめた夜、一人考えたことがある。艦が海をすすむものならば、人の形と艦の魂をもつ自分はいったいどこをすすめばいいのだろう。結局答えは出せずに、あわただしい司令との時間に埋没していったのだが、三日月の言葉で、ふと糸がつながった気がした。

 三日月の言葉に、「わかるなあ」と古鷹がつぶやいた。

「お話できるってすごいよね。私の言葉が相手に届いて、言葉が返ってくるって、すごいことだって思った。私と同じように、相手も私のことを考えているのかなって思うと、うれしくもあるけれど、時々怖い」

 叢雲はその言葉が自分にあてられているものではないかと感じた。だから、ふたたびゆっくりすすみ始めた彼女の後を、何も言わずについていく。

「もう、ただ戦えばいいだけじゃないんだなって、司令と会ってわかったの。私が建造されて、司令室に挨拶にいったときに、いろいろ聞いて、聞かされて。私、あまり頭がよくないみたいでさ、ごちゃごちゃに混乱して目を回してたらね、司令に笑われちゃったの。そしてら、『これだけ覚えてればいい』って、教えてくれた言葉があるの」

 古鷹は詠った。

 月明かりの下で詠う彼女の顔を見ることはできなかったが、きっと、綺麗なのだろう。目を閉じて、頬をちょっぴり染めて、目蓋の裏には、おそらく司令の顔を思い浮かべて。「花にもし香りがなかったら」彼女は最初の一文を口にだした。

「花にもし香りがなかったら、なんで花といえよう。若者に燃える火がなかったら、なんで娘たちの心を暖められよう」

「それ!」三日月が喜悦の声をあげた。

「私にも教えてくれました。いい詩ですよね。そうあれかし、といわれているようで」

 叢雲はすこし嫉妬した。彼女はこの詩を聞かされた事がない。私が一番初めに会ったのに、私の知らない詩を、古鷹たちは知っている。

 すこし強がってみようとして、それよりも先に、ふきだしてしまった。

「あ、叢雲ひどい!」

「あはは、ご、ごめんなさい」

 想像してしまったのだ。薄暗い司令室で、混乱する少女を落ち着かせようと、キザったらしく詩を滔滔と詠み上げる司令の姿を。想像すれば想像するだけ、くっきりと場面が頭に浮き出てきて、笑いが止まらなくなる。ツボにはいったようだ。あはは、ひひひ、からだを折り曲げて、顔は真っ赤になっているだろう。

 古鷹は鼻息ひとつ吐いて、それから一緒に笑った。三日月もまた、しのぶように笑っていた。おだやかだった海面に波が立つ。腹をかかえてただ笑う彼女達は、まさしく娘。ただの娘だった。

「私たちは艦娘になったから」一通り笑い終えた古鷹が、いまだ震えている腹を押さえながら声を出す。

「娘になったんだ。笑うといい。笑って、歌って、やりたいことはなんでもやれ。わがままも言え。それが女というものだ、なんて」

 これも司令に言われたんだけど、と付け足された言葉で、またもや腹がよじれた。あまりにひどい口説き文句だ。一瞬感じた嫉妬は、笑い声と一緒に、海原のどこかに吹っ飛んでいってしまった。

 古鷹の言ったとおりだ。言葉はすごい。たった数文字で、思考を変えさせる。司令はこういいたかったのだ。「艦であるまえに、娘なのだ」と。そのためには怖がることも、命を惜しむことも、時には間違った自分に突っかかってくることも、すべて許す。真意がどうあれ、女として『そうあれかし』というのだ。この場合の「若者」というのが司令官自身なのだとしたら余計に間抜けである。

 何もなかった夜の海に、ハチが飛び回るような音が、だんだんと大きく聞こえてくる。夜間偵察に向かっていた古鷹の艦載機が戻ってきた。

 また腰をかがめて、偵察機をすくい上げる古鷹を見て、決心がついた。それもこれも、思い出したくもない過去の話をしてくれた三日月と、そのあとに宝石のような言葉で背中を押してくれた古鷹のおかげだということも理解した上で。

 うじうじするのは、もうやめだ。きちんと話そう。

 それが、私が艦『娘』になるために必要なものだから。

 考え方ひとつ変えるだけで、まっくらな海が淡くなる、全身が沸き立った。沸き立つ体でみんなに抱きつきたいけれど、今はガマン。私が娘になれたら、もう遠慮なんかしないんだから。

 時刻は深夜二時。月明かりに照らされる、はるか遠くの陸地に、太くて長い影が立っていた。犬吠崎の灯台だ。叢雲は危険地帯に入ったことに、改めて気を引き締める。駆逐級なんて、無傷でぼっこぼこにしてやるんだから、と息巻きながら。

 かつては、深夜であるこんな時間であっても、銚子港の船に灯りがあったはずときいている。灯台が回り、海保の船がゆったりと哨戒し、海岸沿いには夜釣りの竿がたくさん立てかけられていた。伊勢えびを獲りにきている民間人が、テトラの近くをうろちょろしていることもあったろう。灯台は真っ先に壊された。度重なる空襲と砲撃で、硫黄島のように、海岸線の形は変わっている。もちろん、ひしめきあっていた漁船は全滅。漁獲量一位を誇った港は沈黙していた。

 そのさらに沖あいで、三人は神経を尖らせていた。潜水艦にでも攻撃されたらたまらない。ただでさえ、水中探信儀は、未だ泊地に配備されていないのだ。最低限の装備ぐらい大本営から送られてきてもいいのに、とごちたところで、ないものはない。そういった装備は、太平洋側とは比べ物にならないほど激戦区である日本海側に優先的に渡されるのである。

「気持ち悪いほどに静かね」

 遠くに聞こえる波の音以外が聞こえない。先ほどまでたてていた排水音は、速度を抑えたことでほとんど無音。なにか雑談しようにも、この海域には「物音を立ててはいけないのではないか」と思えるほどの緊張感があった。

「……うん。私の電探では、あたりに敵は確認できませんね」

 三日月は、この部隊の命綱ともいえるべき水上電探に宿る妖精と密に話し合っていた。

 彼女の身長は一メートルと四十センチに満たない。叢雲も多少上とはいえ同程度であるから、目測で見渡せる範囲は、四キロほど。古鷹は二人に比べて身長はあるが、それでもいいところ六十ほど。目測で見える距離ならば、相手からも丸見えである。

 時代はすすんでいる。よほど高性能なレーダーや、まして衛星を使えばもっと正確に敵の位置を把握できるはずなのに。叢雲は大本営でそのような質問をしたことがある。が、人間だってバカではない。散々試したのだ。試して、ダメだった。深海棲艦には、おおよそ人の知能では敵わない。人同士の戦い用に開発されたレーダーを、ことごとく深海棲艦はすり抜けてくる。反応しないのだ。衛星でも、深海棲艦が活動している付近は映像が写らない。「なにかしらの妨害電波を放出している」調査の結果出された答えは、それこそ三才の子供が出すような結論から、一切の進展を見せていない。

 唯一の望みは妖精の開発する、はるか昔の、黎明期の装備のみ。仕組みは同じはずなのに、彼らが開発しない限り、深海棲艦に有効な装備が作れない。完全なブラックスボックスに頼らざるをえないのが、科学を第一に成長してきた、人類の末路だった。

「やっぱり、私が装備したほうがよかったんじゃないかな」

 おっとりした顔つきを引っ込めて古鷹が言った。多少なりとも身長のある古鷹が装備したほうが、たしかに広範囲をカバーできる。

「今日は古鷹さんは水偵を多く持っていますから。明日以降の装備は考え直しましょう」

「そうね」叢雲が賛成する。「水偵は一つおろして、夜偵用だけ積んでもらおうかしら。ごめんなさい」

 正直、今日の装備は、完全に失敗だった。

 清水からは、「お前たちのほうが詳しいだろうから」と、一切合財を任されていたのだが、頭を使うにはコンディションが悪すぎた。いや、そんなのは言い訳にしかならない。

 叢雲の謝罪を受けて、古鷹は振り返った。

「叢雲のせいじゃないよ。私たちだって、何も言わなかったし」

 その言葉に三日月も「そうですよ」と続く。

「そもそも、司令が叢雲さんに投げっぱなしにしたのがわるいんです。そういうことにしましょう」

「くくっ。三日月、あなた意外に腹黒いのね」

「上司とは恨みを引き受けてくれるものです。……言わないでくださいよ?」

 畳みかけるような言葉に、古鷹もふきだした。

 三人はゆっくりと銚子沖を哨戒する。けれどそこには敵の影はおろか、魚の飛び跳ねる音すら聞こえなかった。

 そうして一時間ほど、適度に雑談をはさみながら滞在していても、結局なにも起きず。よく考えてみれば毎日のように敵が出るのならば、ここは激戦区だ。常駐軍を置いたほうがいいほどの。

「適当なところで切り上げましょうか」提案する叢雲に、全員が賛成した。

 妖精たちにしいていた戦闘配備の号令を解除し、重い装備に凝った肩を回す。艤装を展開していれば人間離れした怪力を発揮できるといっても、重いものは重い。泊地にマッサージ屋でも導入してくれないかしら、と本気で考えた。これから毎日、十二時間労働である。かえって、ご飯を食べて、寝て、ご飯を食べて、また出撃。ひどい環境だ。はやく戦力を整えてもらわないと、倒れてしまいそうだ。

 というか、司令の面倒みる時間がない。

 彼にはまともな書類処理能力はない。頭脳労働向きではないのは、叢雲がこの一週間見ていてイヤというほど理解した。書類に書かれている言葉がわからないといわれたときは、鼻で笑ってしまった。あれで本当に、「学校をなかなかの成績で卒業した」というウソを貫き通すつもりだったのだろうか。「四十一センチ砲ができたぞ、叢雲もってけ」。バカ、殺す気か。そもそも戦艦がいないのに、なぜそんな装備を依頼したのかしら、と問いただしたら、「口径がでかいほど威力があると習った」と、なんとも前時代的(艦だった頃ですら時代遅れの)な思想をさらけ出してくれた。もちろん、他の着任した艦娘たちにも笑われていた。そのことが「使えない上司」ではなく「しようがない人」と思われたのは、人柄によるものなのか。どちらかといえば親しみやすい印象に転んだのは、まこと運がよい。手の空いた艦娘が勉強を教えるということで、ひとまずの対策とした。部下に教育されることを厭わない性格であることもひとつの要因だろう。一度崩されたプライドを立て直すことはあきらめたらしい。

 右手に九十九里海岸をみていると、ときおりうごめく影が見えた。

 この辺りは遠浅だが、座礁するという概念が艦娘にはない。艦に比べれば喫水が浅すぎるし、万が一座礁しても、艤装をとけばいいだけだ。機関が致命的なダメージさえ受けなければ、乗り上げても心配はない。

 彼らは海の上を行く影を見ると慌てて逃げ出そうとするが、月明かりに照らされた艦娘をみると、大きく手を振った。夜のうちに、釣りや仕掛けを使って、食料を確保している民間人だろう。本来ならば海岸線に立ち入ってはならないのだが、そうでもしないと飢えてしまう。このあたりはまだ、戦闘の少ない場所だったはずだ。

 貿易のできなくなった島国の宿命。増えすぎた人口をやしなえるだけの食料は、いまの日本には残されていない。まして漁業は全滅。山を拓いて田をつくったって、焼け石に水の状況。

 叢雲たちは彼らに手を振りかえして、その行為を黙認した。「陸にいても海に出ても人は死ぬ。生きあがこうとする人々を護るのが私たちの仕事だろう。さすがに沖合いに出てこられたら困るが」清水の言葉が三人の頭に残っている。立派な思想であるが、戦争に生きた記憶のある艦娘らには、別の考えがあった。このような言葉が出るほど人類は追い詰められているのだ。現状はもはや、深海棲艦と戦争をしているのではなく、一方的な制圧状態にあり、ネズミのように這いずり回っているだけ。

 浜辺をみつめる三人の目に憐れみの情が浮かんでいても、とがめることは出来ない。

 元鴨川魚港を過ぎた辺り、空が白んできた。

 海が色づき、陸が色づき、空が色づくと、凝り固まった思考がさらさらと流れ始める。何事もなく泊地へ帰還することに拍子抜けするよりも、ようやく陸に足をつけられることに安堵していることが、なんだかおかしい。

「――っぁあ。あー、髪がベタベタですね。お風呂はいりたいなぁ」

 三日月が伸びをすると、ぽくぽく骨が鳴る。単縦陣の先頭で気を張っていた彼女の体もまた、よく凝り固まっていた。

 潮風だけならまだしも、と叢雲は苦笑いした。最後尾を航行していれば、風にのって、彼女たちの巻き上げた海水が、しぶきになって体を濡らす。かぶっていた帽子すらもしっとりと重くなって、髪の毛も服も湿っている。長い髪は固まって細い束になっていて、これならいっそ、次の出撃時には結んできたほうがよいだろう。

 そんな折、古鷹が何気なく、とんでもないことを口走った。

「そういえばさ、お風呂の壁、すこしゆがんでて、向こう側すこし見えるの知ってる?」

「えぇっ。ちょ、向こうって男湯ですよねっ」

 三日月の足元に波が立つ。

 日は彼女達の背後から昇ってきていて、だから三日月の見開いた目と、ひきつった口元がはっきりとよく見える。

「司令から丸見えってことですかっ」服の上からでも貧相な胸を隠すと、左手に展開されている主砲が鈍く輝く。

「私たちがお風呂いただく時間と、提督が入る時間はかぶらないから、大丈夫だとは思うけど。たしか0時を回ってからだよね、提督が入るのは」

 ねぇ。

 なぜ自分に答えを求めるのかと思いながらも、叢雲は苦々しく口を開いた。

「……お風呂ができたのって、わりと初めのころだったじゃない。いい加減においを気にし始めた私たちをおもんぱかって、陸の人たちが急いで造ってくれてさ」

 一番初めに建造された三日月がそれに同意した。

 最初の三日間、全力で動いていた叢雲たちは、なかなかの匂いになっていた。それもそうだ、夏の炎天下、ひたすら土木作業にいそしんでいたのだから。艦娘といえども汗はかく、トイレにだっていく。清水のように上半身裸で、夕方素っ裸で海に飛び込めたらどんなに楽だったろうか。現世に天使なんていない。

 さらに言いにくそうに叢雲が続ける。

「お風呂ができてすぐは、仕事終わりにすぐに入ってたのよ。あのひと、日が暮れたら仕事したくないって言ってたから、夕方にね。夜中に入るようになったのは、二日ぐらい前」

 古鷹は「へえ、そうなんだ」なんて気楽に応えたが、三日月は頭を抱え始めた。

「それって、もしかして」

 縋るように叢雲を見つめても、彼女が見るのは、額に手をあててうつむく、希望のない姿。

「『気を利かせて』時間をずらしたかもしれないわ」

「あああぁぁぁ……」

 いやいやと頭を振ると、彼女の黒い長髪が風になびく。色も香も知らないおぼこではないのだ、最低限の生理知識は、建造されてすぐからでも持ち合わせている。そして、自覚さえしていれば、女は幼くとも女である。

 このなかではおそらく一人だけ「みられていない」古鷹は、コトの重大さに気づいていない。そもそもといったところ、あまり重要視していないようだった。

「なんで早く教えてくれないんですかあっ」

 噛み付くように詰め寄る三日月にすこしのけぞって、古鷹は手をふる。

「私がお風呂にはいったの昨日がはじめてだよ? 結構分かりやすいとこにあったし、誰もなにもいわないから、別に気にしてないのかなって」

「そんなわけないじゃないですかっ。お風呂ですよ、すっぽんぽんですよ、油断しまくってるんですよっ」

 ぐいぐい詰め寄る三日月、さらにのけぞる古鷹。

「ちなみに聞きたいのだけど、その穴、どこにあいているの」

 大きくのけぞった古鷹は、苦しそうな顔で、なんとか首を後ろに向ける。

 あまり体がやわらかくないのかもしれない。

「ちょうど洗い場のうしろ。後ろ向いてるし、大丈夫じゃない?」

「かーがーみっ! 目の前に鏡あるでしょー! あぁぁあああもうだめだぁ、司令に全部みられてたんだぁ!」

 この世の終わりとばかりに天を仰いで、三日月は慟哭した。

 さすがにノゾキのようなことはしてないと思うけど、と叢雲がフォローしても、ダメだった。あまりの狼狽ぶりに、さしもの古鷹も悪いと思ったのか、平謝りしている。元々気づかなかった私たちがわるいのだけど、というのは口に出さないでおいた。裸を見られていたかもしれないという重大な状況において、古鷹の危機意識が薄すぎたからだ。

 突貫で造ってもらった建物だし、使っているのは廃材。窓もないから、電球ひとつの薄暗い屋内では、なかなかアラを見つけづらいのは仕方ない、と頭の中で言い訳する。

 ちょっと待て。一番マズいのは私じゃないかしら。思い当たるフシがある。

 三日ぶりに風呂に入ったことを思い出したのだ。あの日は二人して、「風呂を造っておきました」と聞いて、駆け込んだ。三日ぶりだ。三日月には悪いと思ったが、一日多く作業している分、もはや限界は超えていた。そして盛大にくつろいだ。壁は薄いから、隣で司令がオッサンのような声を出しているのを聞いて、さすがに音は気にした。が、振る舞いは気にしていなかった。三日ぶり。艦ならいざしらず、人の姿であるならば、垢もほこりも出る。

 あの日は全身を念入りに洗った。それはもう、くまなく念入りに。体勢も考えず。

「うがあああぁぁぁぁっ!」

 急に背後から叫び声が上がって、ふたりは飛び上がった。さすがに海に浮かんでいたら艤装をつけていても跳ねられない、飛び上がらんばかりに驚いたといったほうが正しい。

「む、むらくも?」

 おそるおそるといった体で古鷹が話しかける。ようやくコトの重大さに気づいて、一番背の大きいはずの古鷹が、一番小さく見える。器用に上目を遣うが、帽子をすっぽりと顔までかぶっている叢雲の表情は、彼女達からは見えていない。

 見せられるはずがない。ただの裸ならまだよかった。よくはないが、まだマシだと思える。

 叢雲は全身から、日の昇り始めた暑さとは違う、じっとりとした汗をかいていた。

「ふさぎましょう」

 帽子をかぶったまま隊列を維持する器用さを見せて、ぼそりとつぶやいた。

「帰ったら、速攻でふさぐわよ。報告なんて、それが終わってからでいいわ。で、忘れましょう。今後一切話題に出すの禁止。司令にもなにも言わないし、何も聞かない。いいわね」

「は、はい」

 有無を言わせない、深くよどんだ声色だった。

 結局、責任を取って、という形で工事は古鷹が受け持った。ただ板を打ち付けるだけだが、他にも危ないところがないか点検もしてもらうことにした。彼女からしたらむしろなんで今まで気づかなかったという話だが、こればかりは仕方ない。もうすこし危機感を持ってほしいものだ。女所帯に男が一人。司令は山暮らしで禁欲には慣れているだろうが、男と女なのだから、そういったものはきちんと意識して注意しなければならない。それが司令のためでも、艦娘たちのためでもある。

 ちなみに同じベッドで眠りこけていたことは、他の娘たちには内緒にしてある。今思えば、初対面の上がりきったテンションのまま、随分なことをしたと反省している。

「うぅ……ごめんね」

 千葉の最南端、野島崎灯台の跡地に建つ軍の建造物を過ぎた。ここまでくれば、泊地はもう目の前だ。

 時刻は五時をすこし回ったところ。このまま浦賀水道に入ってしまっては、引継ぎには早すぎる。大島まで出ることにした。

 三日月にずっと説教をされていた古鷹が、この短時間で五十回はくだらないんじゃないかというほどの謝罪の言葉を、またひとつ追加した。

「古鷹さんだって、まだ建造されたてで混乱しているかもしれませんが、今は女の子の姿なんです。そして司令は男のひとです。さっきいったこと、ちゃんと覚えていますか!」

「えっと、足を広げない、べたべた触らない、肌はなるべく見せない……でもこの制服って、足丸出しだよ。どうしようもないんじゃ」

「これはこういうものです! それにちょっとの露出はオシャレに必要ですから。だからこそ、ちゃんとした所作を身につけてなければいけないんですよ。その服装で足広げて座ったら、ぱんつ丸出しの痴女ですからねっ」

 肌を見せるな、だけど露出は必要。

 古鷹は完全に混乱していた。

 べたべた触るなというのも分からない。そんなに触ることって、日常生活にあるのだろうか。

 妖精からもらった私服はボーイッシュにまとめられているので、普段はそんなに気にしなくてもいいんじゃないかと出来心で口答えしたとき、涙があふれそうなほどボロクソに言い返された古鷹は、おとなしく聞いていた。

「わかったよぉ。一応、恥じらいは持っているつもりなんだけどなあ。人の姿でいることにあまり違和感ないし。司令の前で裸になったりしないよ?」

「そ、ん、な、の、は、当然ですっ。私が言っているのは、みっともないことをしない、といったものです」

「はいぃ、ごめんなさい」

 また追加。

 だんだん三日月のイメージする女性像の話にシフトしてきているのを、叢雲はすこし楽しんでいた。どちらかというと人をからかうタイプの性格にうまれたらしい叢雲には、新鮮な話である。艦娘によってこんなに意識の違いがあるのは面白い。

 なるほど、今度アイツが私をいやらしい目つきで見てきたらすこししおらしくしてみよう。叢雲は考えた。私は古鷹と逆で、私服で足を出しているから。ちらちら太ももを見ているの、気づいてないと思っているのかしら。もしそうなら、男ってのは想像以上にバカ。

「ほらほら、大島が見えたわよ。三日月、面舵」

「ふぉおう、了解です」

 舵なんてないからこんな号令に意味はないのだが、ついついクセで口に出してしまう。最後まで隊列を乱さないように航跡をなぞると、ググっと体が左側に投げ出されそうになる。

「何事もなく終了、かしら。みんな、お疲れさま」

 このまま浦賀水道に入れば、ちょうどいい時間になるだろう。それでもすこし早いが、もう夏の陽が、半身水平線から覗いている。

 叢雲はしょぼしょぼする目をしばたたかせて、ひとつあくびをした。

「すこし拍子抜けした気もするけどね」

「そうですねぇ。那珂さんたちの話で注意していた銚子沖も、結局静まり返っていましたし。今ならやる気あるのにな」

 すっかり興奮した三日月が、後ろを振り返って力こぶをつくる真似事をした。

「叢雲も旗艦おつかれ。三日月……さんも先頭で疲れたでし……ましたよね」

 それとは真逆に、最後の最後で体力と精神力をすべてもっていかれた古鷹は、声が一トーン落ちている。言葉遣いもメチャクチャでおかしくなっていた。 

「古鷹さん、やめてくださいって、 うー、言い過ぎました、ごめんなさいぃ」

 真っ赤になって目の前でぱたぱたと手をふっていると、先ほどまで毅然と説教をしていたようには見えない。妹のようであり、姉のようでもある、不思議な性格だ。げっそりとしながらも笑顔で三日月をなだめる古鷹も、背伸びする妹に相対する姉のようである。

 もう一度叢雲があくびをすると、遠くから変わった音が聞こえてきた。エンジン音とも、ウミネコの鳴き声のようにも聞こえる。どこかで聞いたことがあったが、それがなんだかは思い出せない。

 だんだんと近づいてくる。時間も時間であるから、横須賀の部隊が飛ばしていた偵察機かもしれない。

「横須賀かしら、さすがに朝早いわね。私たちの交代までこのまま行ってもすこし早いから、軽く演習でもする?」

 思い返せば、着任してから一度も砲を撃ってない。とにかく泊地をまともな住家にすることに全力だった。叢雲はともかく、残りの艦娘は演習すらした事がないのだ。

 さすがに実弾をつんだまま撃ちあいはできないが、動きだけでも練習しておいたほうがいい。それに、戦闘を意識するのは、頭をからっぽにできる。帰ったら古鷹と話し合う決意をしている叢雲は、一発おもいきりからだを動かしたい気分だった。

「いいですけど」三日月が目をこらして、空から飛んでくる音のほうを見つめていた。

「この音、なんでしょう。何か飛んでるみたいですけど」

「ん、対空電探はないからなあ。叢雲、識別信号ってわかる?」

「電探が欲しいわね、まったく。発光信号しかないわ」

 資料を見る限り、近頃太平洋側には駆逐級や軽巡級の水雷戦隊しか出没していなかったので、対空装備はおざなりにしていた。よくよく考えてみれば、味方識別でも使用するのだ。艦娘は六人そろい、装備開発にも妖精を回せるようになったので、帰ったら作ってもらおう。司令の頭さえ回っていれば、もう依頼をだしているかもしれない。

「横須賀には空母の人たちもいるから、長距離索敵でもしているんじゃないかしら。夜明けから出れば、わりと遠くまでいけるでしょう」

 そういって、叢雲は胸がずぐんと高鳴った。

 まて、そういえば司令がいっていたじゃないか。引継ぎをもって、横須賀は西に部隊を向けると。

 ずぐん、ずぐん、心臓が高鳴る。

「長距離索敵って、編隊組むんですか? どちらかというと航空隊の演習に見えます」

 慌てて振り向く。

 大島はもう大分遠い。その大島と自分達の中間辺り、四機編隊の飛行隊が、七つ。叢雲が視界に納めると同時に、隊列を変えた。

 明らかに戦闘態勢。

 叢雲は、全身の血の気が引くのを感じた。

「航空戦の演習でしょうか。ということは、この近くに横須賀の方がいらっしゃるんですかね」

 三日月は座学も、演習すらもしていない。それに、資料は見ていたとしても、この辺りに直近、敵空母が出現したとは書いていなかった。だからこそのんきに、いもしない艦娘の影を探して、きょろきょろ辺りを見渡している。艦のころの記憶があるといっても、「あのときとは勝手が違う」と叢雲でさえ建造されたてのころ思っていた。

 まさに今空を飛んでいる航空隊は、こちらを狙っている。

「演習じゃないわ」

 やっとで絞り出した声は、老婆のようにしゃがれていた。

 緊張でのどがひりついているのだ。

「え?」

 古鷹がいぶかしげに叢雲を見た。

「演習じゃない! 敵襲よ!」

 艦娘となっても、速度は艦のころから大して変わっていない。航空機のほうが圧倒的に早いのは昔から変わらない。気づけばいくつかの敵機は高度を下げていた。

「敵襲って、そんな、ここ泊地の目の前ですよっ」

 三日月も古鷹も、旗艦である叢雲を、完全に混乱した表情でみていた。しかし、叢雲は敵機の挙動を、まばたきもせずに見つめている。

 指示することもせずに。

 そして高度を下げた機体が海面に何かを落としたのをみて、思い出したかのように叫んだ。

「雷撃よ! 魚雷がくるっ、かい、回避運動っ!」

 白い雷跡をなびかせて、叢雲たちへまっすぐむかってくる魚雷に全身があわ立った。

 昔はあれに何隻もやられた。姿かたちが変わっても、恐怖は脳に染み付いている。

「か、回避運動! 右てんか、って古鷹さ、きゃああ!」

 おのおのが近づきすぎていた。

 まだ帰投していないというのに、油断しきっていた。

 同じ方向にすすんでいれば、艦娘の姿であるなら航行中でも触れ合うことは出来る。けれど、別々の方向にすすもうとしていた同士が、時速五十キロ近くでぶつかれば、いくら艤装を展開して頑丈になっているからといっても無事では済まない。

「古鷹さん、三日月!」

 古鷹と三日月は、まさしく衝突した。バチンという肉の音と、艤装同士がぶつかりひしゃげる金属音があった。

 一度放たれた魚雷は止まらない。約束された時限まで、ひたすらすすみ続ける。叢雲が人の心配をする余裕もないほど肉薄しているというのに、二人は動けないままだった。

 叢雲は、皮肉ではあるが二人が団子になって動きを止めたため、魚雷のコースからかろうじて逃げ出す事が出来た。

「いったぁ……」

「う、ぐ、ごめんなさ」「早くたって! にげてぇ!」

 どこにもつながっていない、地獄からの糸が自分を通り過ぎたのをはっきりと見た。

 直後、腹の内側から響くような爆音があり、二人が真っ白い水柱の中に消えた。

 離れたところまで回避していても、大きく爆ぜる風としぶきに顔をそむける。おさえた中折れ帽のつばがひっくり返るほどの暴風。

 まっすぐ昇った海水がまっすぐ落ちて行く。中には足元からの水圧で不恰好に体を持ち上げられたまま、ふたりは立っていた。

「ふたりとも、大丈夫なのっ」

 水を飲んだのか、痛みなのか、古鷹も三日月も不規則に全身を使って呼吸していた。まだ浮いている。生きている。それだけで足の力が抜けそうになるのを、なんとかこらえる。

 航空隊は編隊を組んでいた。規模はそれほどでないと言えど、まさか雷撃機だけを出撃させるわけがない。予想通り、エンジン音とキィキィミャアミャア不気味な音をさせて、ぐんぐんと戦闘機が近づいてきていた。

 ふたりも心配だが、状況は着実にすすみ続ける。

「対空戦闘よぉーい!」叢雲は艤装の各部が熱く、駆動していくのを感じる。装備にやどる妖精が、ようやく主の号令がかかったと、戦闘配備についたのだ。

「うちぃーかた、始めェ!」

 命令と同時に、腰に展開している装備の一部が火を噴いた。一転、澄み渡っていた海上に硝煙がまき散らされ、きたない朝もやとなって陽をさえぎる。しかし対空装備など考えていない。申し訳程度に備えられた機銃の発砲音が、むなしく、なににもさえぎられることなく海のかなたへ消えて行く。

「古鷹、三日月、動ける? とてもじゃないけど落とせないわ!」

 三次元機動する豆粒のような敵機に、点で攻撃を撃ち込んでもまったく意味がない。一機の損失も与える事ができず、耳障りな音を立てて近づいてくる。うち何機かは空高く高度を上げて、明らかに急降下爆撃の準備に入っていた。

 爆撃機まで!

「ふたりとも!」

 咳と隙間風のような呼吸音。

 言葉がなくとも、答えだった。

 せめて、せめて呼吸が整うまではかばわなければ。隊列から分離してまっすぐ向かってくる機体に機銃を打ち込みながら、腰のアームのもう片方、主砲の発射準備にうつる。火力を、とにかく火力をつぎこまなければ。こちらに注意を向かせなければ。

「主砲、ってェ!」

 腰を落として衝撃に備えた。

 聞こえてきたのは、過去にイヤと言うほど聞いてきた音とまるっきり同じ。モノが小さくなっても威力は変わらないということだ。これもまた妖精マジックのたまものである。体が後ろに投げ飛ばされる感覚に思い切り足で踏ん張る。艦と違い、二本の細い足しか支えるものがないというのは、また勝手の違うことで、いささか不便でもあった。

 主砲につんでいるのはまったく普通の弾薬のみ。発砲炎をみて、一瞬で散開した敵機には当然当たらず、危険域まで侵攻された。

「っ! まだまだあっ。準備が出来次第ボコスカ撃ちな、きゃあっ!」

 正面ばかりに気をとられていて、側面からの攻撃に思わず声を上げる。

 敵の別働隊の機銃が、とがった火箸で連続で突かれているような痛みを叢雲に与えた。五発、十発、十五発。艤装を展開した艦娘の肌を食い破り、白い制服がみるみる間に破れ、赤くしみを作っていく。幸いなのは、肉に食い込むほどではないこと。目だけは潰されないように顔をおさえて、ひたすら四方八方から弾を撃ちこまれるのを耐えた。ガン、ガン、艤装に当たって、耳障りな金属音が連続する。さすがに衝撃は殺しきれず、まるで痛みから逃げるように、一見でたらめな軌道で逃げ回っているように形ばかりの回避行動を取る。

 ほら、こっちにきなさい。ビビって逃げ回るカモが、小うるさく抵抗しているわよ。

 敵機は動かずに沈黙しているふたりよりも、未だ健在で反撃をしてくる駆逐艦を先に潰そうと標的を定めたらしい。腹に、脇に、肩に腕に背中に、倍以上の衝撃が加わりはじめたのを感じて、苦し紛れにほくそえんだ。攻撃を集中されていることで、もはやどの部位を攻撃されているかわからないほどに、全身が痛い。右わき腹を突き刺すような痛みがあったかと思えば、逆方向からネイルハンマーで殴られたような激痛が走る。それでいい。火力を私に集中させなさい。ふたりから離れるようにすすむ私に、ついてくるといい。

 腕の隙間から空をみると、あちこちに艦載機が、クソにたかるようにとんでいた。その合間にも主砲と機銃は火を噴いて、攻撃にやっきになって近づいてきた機体を一機、三機、四機、落としていく。

 制服が七割方赤く染まったころ、叢雲はふたりから戦闘機を完全に引き剥がすことに成功した。くわえて、落としきれなかった戦闘機も弾切れを起こし、大島方面へと帰っていく。合間をぬってふたりのほうを振り返れば、離れた場所でゆっくりと航行しはじめた姿がみえた。

「あっ、ぐ、大丈夫?」

 音声通信を送る。声を出すだけで、肺のあたりがひどく痛む。骨というものは意外にもろいらしい。

 残った敵機が動き始めた二人に向かって頭を向けたのを認め、全火力をそちらに向けた。背後からの砲撃にはさすがに回避が遅れるようで、見事撃墜する。

『私はなんとか、ちょっと速度がでにくいけど。だけど三日月がっ』

『だ、だ じょぶ、です。わ、たし って戦え、かふ』

 聞こえてくる音声は雑音がひどく、通信機能にも障害が出ていることが伺える。

 遠目からみても、その小さいサイズのどこからそんなに、というほど三日月の艤装は黒煙をふいていた。ところどころ火があがっているのも見える。缶をやられたのか、それではまともに戦闘などできない。しかし震えながらも左手に展開している単装砲を空へ向けたのを、叢雲はみた。もう敵はほとんどいないというのに、意識ばかりが興奮してしまっているのだろう。

 意気は汲むが、古鷹に肩を貸されてようやく立ち上がっているのに、無茶だ。

 叢雲が止める前に、彼女の主砲が火を噴いた。

『三日月っ!』

 そんな体で主砲の衝撃に耐えられるわけがない。彼女の小さい体は古鷹から離れ、肩口からはじかれたように吹っ飛ぶ。古鷹は慌てて彼女の元に駆けた。再度起こされた三日月の左手は、おもちゃかなにかのようにぶらぶらと力なくゆれている。衝撃で肩が外れたのかもしれない。右に、左に、大きく揺れるたびに、慣れない痛みで悲鳴を上げているのが、風に乗って聞こえてくる。

 ちっ。叢雲は舌打ちしながら、足りない血にぼやける頭を働かせる。

 状況はTARFU、いや、FUBARね。打つ手がない。大破がひとり、中破がひとり、まともにうごける私だって、進行形で攻撃を受けてる。対空手段はほとんどなし、そもそも敵がどこにいるかもわからない。どうしようもない、最悪の状況。

 行きがけに覚えた周波数に打電するよう、妖精に命令した。せっかく顔面は無傷だったというのに、悔しくてかみ締めた唇から血がにじむ。

「富津哨戒部隊より横須賀鎮守府! 我、敵機動部隊と交戦せり! 当方対空装備の用意なし、応援求む! 急いで送りなさい!」

 敵がどのような編成でいるのかわからないが、まさか空母一体で侵攻してくるとはおもえない。ヤケっぱちの電文だが、戦闘中の混乱として許してもらおう。

 頭の中に単調な電子音が聞こえる。はじめに富津に打たなかったのは、たとえ連絡しても装備がないから。横須賀には空母連中もいる。錬度だって、きっと比べ物にならない。残酷な事に、基地の力としてはまったく及ばない。

 打ち終わった後に、一応富津にも打電した。報告代わりだ。今日は彼の顔を見る前に、入渠場に直行することになるだろうから。「寝ていて緊急連絡に気づかなかった」と罪悪感にさいなまれないよう、横須賀に応援を依頼済みと添えて。

 背後から重く、太い砲撃音が聞こえた。衝撃で髪の毛がざわつく。新しい敵か、と背筋が凍るが、あたりを見渡しても、機影は見当たらなかった。

 となれば、味方のものである。

「古鷹、大丈夫なのっ」

 左肩を三日月に貸した古鷹が、深く腰を落として右手の主砲を空に向けていた。

 叢雲の頭上をめがけて。

『それどころじゃない! 上、直上!』

「え」

 古鷹の絶叫が、無線を通して耳元から聞こえる。と、同時に背中が爆発して、叢雲は前方に大きく吹っ飛んだ。

 背中が熱い。ヤスリで何度もこすられているような痛み。ヒリヒリして、背中とは関係がない、手や足が痙攣する。

 いたい、いたい!

「がっ、は、はああ、ふぐううぅ」

 頭がふわふわする、体を動かせない、気絶してしまいたい。

 古鷹の声が遠い、けれど気絶できない。焦げ破れた服が擦れるたびにイヤでも意識を引き戻される。

 そうだ、爆撃機。

 亀になり必死で痛みに耐えていても、そんな苦労は敵からしたら好機でしかない。敵爆撃機は、わざわざひきつける必要もなく、ひとり落伍したように離れた位置で止まっていた叢雲に標的をしぼっていた。至近弾が何発も落とされ、うずくまった背中にも、また一発、爆弾が投下された。

「ぁ……けっ……」

 髪と肉の焼けるいやなにおいがあたりにただよう。

 言葉を出すのも、波にゆられて姿勢が変わるのすらも苦しい。上手く息がすえなくて、まさか自分の喉からこんな、といった妙な音がでる。

 すべての敵が、一仕事終えたとばかりに帰投して行くのを、かすんだ目で見送る。

 終わった。

 いや、第二次攻撃がすぐにくるはずだ。

「叢雲、むらくもぉ!」

 いつのまにか古鷹が近くにきていた。叢雲の通信機能は完全に沈黙していた。

 古鷹は、おとりとなって一心に攻撃を引き受けた叢雲を見て上げそうになった声を飲み込んだ。爆撃を二発も食らった叢雲は、どこをどう触ってもさらに苦しむだろうぐらいに負傷している。服も、もはや服として機能していない。首の部分でかろうじてつながった一本の糸のようなもので、なんとか体に引っかかっているだけ。背負った艤装は、肌を焼きながらゆっくりと溶け落ちている。

 せめて、と海水をかけて冷やすと、命を吐き出しているのではないかというほどの絶叫が響いた。古鷹はひりだすように謝りながらも、水をかける手を止めない。放っておけばさらに怪我がひどくなるだろう。いまさら来たって、私にできるのはこれぐらいだから。ごめんね、ごめん、絶叫、絶叫。

 鉄が本来の色に落ち着いて、肌を焼かなくなってようやく、叢雲は意識を飛ばす事ができた。水に浮かぶはずの艤装はすっかり浸水し、腕がとっぷりと海中に浸かってしまっている。胴体がかろうじて海の上に浮かんでいるだけの、危ない状態。けれど、まだ沈んでいない。一週まわって古鷹は冷静になっていた。

 あたりを見渡す。先ほどの攻撃で激しく波打っていた海面も、だんだんと穏やかさを取り戻していた。後ろを見れば、立ち上がるので精一杯な三日月、目の前には、轟沈直前の叢雲。

「三日月、つらいだろうけど、お願いしてもいいかな」

 視線を、大島方面に定める。

 なるほど、そういうこと。諦観した顔で、古鷹は状況を理解した。

 夜のあいだは島に寄り添って隠れていたのだろう。水雷戦隊と水上打撃部隊が、傷ついた獲物に愉悦するようゆっくり近づいてくるのを見つけた。人型ならば陸に潜む事が出来る。空から見ても、木陰に邪魔されては意味がない。陸に潜んでいた深海棲艦が、錬度の低い部隊に担当が替わったことに気づいて攻撃を開始したのだ。錬度の高い横須賀の部隊が配置換えになるのをじっと待ち続けて、初出の艦娘を狙って。

「だいじょぶです、先ほどのようなヘマは、もうしません」

 ゆっくりと古鷹のもとにたどり着いた三日月が、今度こそはと腰だめに構える。構えは立派だが、足がおもしろいぐらいに震えていた。そのことに気づいて苦々しい表情を作り、それならいっそとひざを海面につけて安定させた。しかし、これでは回避行動ができない。固定砲台になるのは、最後で最期の悪あがきだ。

 古鷹はひきつっている顔をみせないよう、さらに震えそうになる声を張って抑えた。

「叢雲をつれてってあげて。私がしんがりをやるから」

「だめです、さすがに一人じゃ!」

 予想どおりの返答に、ひきつった笑みを浮かべて、すこしだけ顔を三日月に向けた。目だけはじいっと深海棲艦を見据えている。

「しんがりは一人でやるものだよ。それに、このままじゃ叢雲が沈んじゃう。初出撃で叢雲が沈んじゃったら、提督はきっと戦えなくなる。それでもいいの?」

「それはっ……でも、でもっ」

 私って意外と性格悪いなーなんて、場違いに頭に浮かんだ。「それでもいいの」なんて言いかたは、我ながらズルい。まだ一緒にいる時間はすこしだけど、三日月は相手のことをしっかり考える娘だ。これだけズルい言葉を使えば、どんな罪悪感を感じても、彼女は叢雲をつれて帰ってくれる。叢雲と司令がいいコンビになるだろうことは、昨日今日着任した私だって、わかる。つらいばかりの戦いのなかでも、ちょっとキザでお父さんみたいに優しい提督と「悲しいぐらい優くて」古女房みたいな叢雲がいれば、きっとみんながんばれる。あの泊地を、提督を、みんなを護ろうって思える。私だってそう思ったんだから。建造されたばかりの私なら、提督の負担も、きっと。

「……あなたが沈んだって、提督はひどく苦しみますから、絶対!」

 自己犠牲の考えを見透かしたように吐き捨てて、なるたけ傷に触れないよう、叢雲を担いで背中を向けた。彼女もまた魚雷の直撃を食らって、ボロボロである。のろのろ航行していると、せっかくやり返された言葉が、滑稽におもえてしまう。

 彼女の精一杯の応援に対して配慮するように、古鷹はふたりのことを頭から消した。言葉だけを何度も何度も頭に再生する。そうしていると、見えている絶望に震えていた体は落ち着きを取り戻した。たぎる腹の熱さに上がった口角には気づかない。

 軽巡二、駆逐四、重巡三、戦艦二。そして未だ隠れているはずの空母一。よくもまあ、一応は制海権を取り戻した太平洋側近海にこれだけ展開したものだ。艤装を構えて、調子の悪い缶を全力で回すよう指示した。すぐに足が熱をもち、下手をすればやけどをするのではないかと思うほどに熱されたのを待って、はじかれたように前進する。

「重巡古鷹、突撃します!」

 三日月たちに戦闘開始を告げるため、叫んだ。


終幕

 背中に砲撃の音を聞きながら歯を食いしばる。

 今の音はどっちだ、敵か、古鷹さんか。

 撃ちあいの音がしていれば、彼女はまだ無事。無事、な、はず。今すぐ反転したい。ひざ立ちならば私だって主砲のひとつは撃てるだろうし、魚雷は……発射管がメチャクチャだから無理か。戦いたい、何もせずに撤退なんてイヤだ。でも右肩には、叢雲がいる。今ここで戻ったら、きっと古鷹に嫌われてしまう。雷鳴のような音。戦艦の主砲に体を食い破られる古鷹の姿がくっきりと思い浮かんだ。振り返らない、振り返ってはいけない。みれば、彼女の最期を確定してしまう気がして。

 今の状態を曳航といっていいのか、とにかくまともに速度を出す事ができない。せめて艤装を解かせる事ができれば、人と変わらない重さになるので楽になるが、この怪我ではあっさりと死んでしまう気がして怖かった。艦娘としての頑丈さは、艤装を展開することで発揮されるのだ。耳と頭に砲撃音が、何度も何度も侵食してくる。耳をふさぎたくとも両手が使えない現状では、歯を食いしばるぐらいしか抵抗できず、ただ必死に機関を回して、引き絞った唇からは嗚咽ともうめきとも取れる音が漏れていた。未だ戦場からほど近く、ときおり流れ弾で波が寄り、そう大きくない波だとしても、満身創痍である彼女たちには、全身が悲鳴を上げるぐらいに筋肉を使う。今もまたひとつ、おおきなうねりで体勢を崩した。

「あっ、い、ひぐうっ」

 三日月が姿勢を崩せば叢雲もしわ寄せを受け、しゃっくりをするようにうめいた。

「ごめんなさいっ。ガマンしてくださいね、今泊地に向かっていますから」

 長く細い銀の髪が、体液で薄く赤く染まっていた。潮風にさらされて傷が乾きつっぱるような痛みがあるのだろうか、すこし身じろぎするだけでくもぐった叫び声を出す。まだ多少水気があるうちにと髪の毛を前に垂らした。傷口にくっついてしまったら、きっとひどく痛むだろうと思って。司令からもらったと言っていた帽子も、ところどころに焦げと破れができてしまっている。

「ぁ、ぃ、き、わたぃ、が」

「がんばってください、あと少しですから!」

 ウソだ。泊地へは、このままだと一時間以上はかかる。

 それに、どんどん叢雲の体が重くなっている。足首まで海面にのまれ、彼女の浮力は殆どない。こうして肩を貸していなければ、そのままずぶずぶと沈んでしまいそうである。なんとか速度を上げようとしても、叢雲の体が枷になり、余計に遅くなる。三日月も叢雲につられて、足が海に沈んで行く。

 だめだ、もっと速度を上げなければ。

 石臼は回し始めが一番力をつかう。勢いさえついてしまえば、あとはさほど力を入れないで済むが、三日月にはもう、回し始めの力が出せない。足が燃えるように熱い。無理に機関を回しているせいで爆発寸前まで熱せられていた。

「てき、は」

 だいぶ小さくなったとはいえ、未だ聞こえてくる砲音へ首を向けようとして、また悲鳴を上げた。

「古鷹さんが足止めしてくれていますっ」

 すぐに状況を察した叢雲は大きく目をみひらいて、今度は思い切り体をひねった。激痛だろうに、声ひとつ上げない。

 引き返そうする叢雲の体を抑えて、引きずるようにすすんだ。

「も、どって」

「戻りません。古鷹さんがしんがりを引き受けるといったのです。戻ってはダメです」

「もど、りなさ、い」

「戻りません」

「もど、るのぉっ」

「戻らせません!」

 叢雲の抵抗は弱弱しく、簡単に押さえつける事ができる。しかし、暴れれば暴れるほど速度が落ちる。

 抵抗していたが、すぐに体力切れを起こしておとなしくなった叢雲を担ぎなおした。彼女の口からはもれるのは、苦痛か、悔恨か。今はどのあたりだろう。せめて館山湾を超えていれば、浦賀水道まであとすこし。

「いやだ、あぁ」

 髪を前に垂らしたままうつむいていると、顔がまったく見えない。潮風になびくはずの長髪は、ところどころバリバリに固まってしまっていて、重そうにしだれていた。

「また、たすけられないの、は、もうやだあ!」

 振り絞った叫び。

 彼女がなんの事を言っているのか、容易に理解できる。

 自分はとくに、過去に対して思うことはない。終わってしまったものよりも、膨大に横たわる未来に対する憧憬のほうが大きい。けれど、全員が全員そう考えているわけではない。未だ艦の記憶は濃密なのだから。

「大丈夫です、目と鼻の先にいるんですから。泊地に頼んで、すぐに応援をだしてもらいましょう」

 砲音は音と言うより、衝撃のみが伝わってくるぐらいには離れた。波もおだやかになり、これなら多少航行しやすくなる。

「おうえん、そう、応援。横須賀は、まだきてないの」

 思い出したように叢雲がつぶやいた。静かな海上にしゃがれた声が転がる。彼女が連絡を入れたことは三日月は知らなかったので、眉根を寄せてありのままを報告した。

「横須賀? いえ、まだ」

「つうしん、いれたのに、いっ。はやくしないと、古鷹がっ」

 意識も朦朧としているのだろう、でたらめにぱたぱた手足を動かして、苛立ちと焦燥を表現していた。痛みを感じていないのかと、背筋に冷や汗が流れ鳥肌がたった。

 アリ地獄に立っているように暴れれば暴れた分だけ、叢雲の足は海に沈んで行く。もう、ひざ下まで海に浸かってしまっている。

「おとなしくしてください! 大丈夫、大丈夫ですから、まだ古鷹さんは戦っていますっ」

 ぎりぎりと重みがかかり、外れた肩が痛む。

 このままでは本当に沈んでしまう。叢雲も、自分も。それだけは避けねばならない。必死に声をかけるのだが、半ば夢遊して活動している彼女に届く言葉はない。

 強く口肉をかんで、ただれた背中に軽く爪を立てた。当然、想像を絶する痛みに叢雲は体中を痙攣させる。

「ぅああっ!」

 噛み千切った口内の傷から、鉄の味が染み出てくる。

「私の声が聞こえますか。聞きなさい、聞け叢雲!」

 無理やりにでも覚醒させようと、耳元でがなる。ひどくうつろな顔で、彼女の瞳だけがしっかりと三日月をとらえた。

 首にかかる重さに脂汗を流しながら声を叩きつける。

「古鷹さんは私たちのためにあそこに残ったんです! 今叢雲と私が戻ったって、なにができるの。ただ邪魔になるだけでしょう。今は逃げるしかない、がんばってくれている間に逃げるしかないっ。そして、ぼろぼろになって帰ってくる古鷹さんに『おかえり』っていってあげましょうよ。ええ、そうです、帰ってくる古鷹さんに!」

 叢雲に向かって声を荒げても、言葉の一つ一つが自分に突き刺さる。脳にしみこんでいく。自分だって戻りたい。戻りたいのに。

 戦場となっている方向から、髪の毛を引っ張るように音が聞こえて、振り切るために叫ぶ。叢雲のために、自分のために。

「私ひとりで『おかえり』なんていえません。私ひとりに『ごめんなさい』と言わせるのですか。そんなことになるくらいなら、ここで一緒に沈んだほうがマシです。古鷹さんに任された以上、意地でもあなたをつれて帰らなきゃいけないんです!」

 もう叢雲は、ただ泣いているだけ。

 気丈に振舞っていた「旗艦・叢雲」はどこにも見る事ができず、口から甲高い泣き声をもらす少女が一人。聞き分けの悪い妹を叱り付ける気持ちで言葉を選ぶ。機関を動かせず着実に沈んで行く叢雲を引きずり出したくて、自分にこんな声が出せたのかと思うほどに、あらん限り小さい体をふるわせた。

「古鷹さんの気持ちを踏みにじりたくないなら、生きて帰らなきゃいけないんです。わかったら返事をしなさい、叢雲!」

 しゃっくりをあげて首を振る叢雲は、ただの駄々っ子のよう。顔中をぐしゃぐしゃにして、こびりついた煤にスジをつけて涙を流す。そのあまりにも情けない姿に、体力を消耗していた三日月はいらだちを感じた。

 この、わからずや!

 布がほとんどなくなった叢雲の胸倉をつかんで、まったく持ち上がらないことに気づいて、全身の血の気が引いた。自分の力が出ていないことももちろんだが、叢雲はどうしようもないほど、沈もうとしていた。

「叢雲さ……」

 海の音、遠くに聞こえていた砲撃音、緩やかに吹く風の音。またひとつ音が増える。

 三つ。三つの、航行音。それと、鉄を破いたような、気味のわるい鳴き声が潮風に混ざっている。

 まさか、そんな。ゆっくり目を向けると、黒点が三つ。駆逐級が三体、まっすぐ向かってきている。古鷹さん、息だけの呟きが自分の口から漏れたことに、三日月は気づかない。

 二体の敵は黒煙をふいていた。黒煙は彼女の奮闘の痕でもあるし、敵がこちらにきたということは、つまり。痰がからんでしまったように、吸い込む空気がのどにひっかかる。

 足の力が抜けそうになり、がくがく震える。

 もう、おしまいかな。

 いいや。

「……そんなこと、言ってられませんよね」

 ぐったりした叢雲の下敷きになるよう姿勢を落として、砲を構えた。背中に乗せると重みでとっぷり沈むが、こうでもしないと、片手で主砲を構えることなどできない。蛇行して近づいてくる敵に照準を合わせる。

「撃ち方用意!」声のひっくり返った号令に妖精が応えて、艤装が熱を持った。キィキィさえずる奴らの声も、はっきり聞こえる。こちらも敵も十分射程圏内だ。

 初っ端から随分な状況だなあ。目の力を抜いて、すこし表情を和らげた。負け惜しみとは考えない。

 ぐ、と足と腰に力を入れる。いくら駆逐の砲といっても、いくら艦娘の力が発現しているといっても、今は満身創痍。ただでさえ体が小さいのだし、きっと一発撃てば体がばらばらになりそうなぐらい痛むに違いない。

 装填の済んだ主砲が、いつでも火をふけると言っている。目測で距離を測り、おおよその着弾位置を頭で思い描き、雑念として振り払った。計算している余裕なんてない、とにかく撃って当てる。それだけ。

 これを最期の戦いになど、してたまるものですか!

「うちぃーかたっ、は」『富津部隊、砲撃中止しなさい!』

 じめ、と言う前に、自分の真上を何かが通過したのを感じた。

「いぃやっほぉう! 那珂ちゃん弾頭、しゅっつげきぃ!」

 三日月は呆けて口を開けたまま、空から降ってきた叫び声を聞く。

 なんだあれは、人だ。艤装も展開していない、ただの人だ。聞こえてきた名前は、でも今、那珂と。昨日の夕方会ったはずの、横須賀の艦娘の名前。艦娘がなんで空を飛んでいる。そもそも本当にあれは那珂なのか。意味が分からない。

 目の前をあっというまに飛び去っていった怪奇現象は敵まで混乱させた。航空機ではない、ワンピースと麦藁帽子というあざとすぎて反吐が出る格好の少女が、帽子を手で押さえたまま、自分達に向かって飛んできているのだ。さしもの深海棲艦も、どう対応していいのかわからずに、とりあえず射線上から離れるために散開しようとしていた。

「させません!」

 今度は真後ろから突き刺さる叫び声が聞こえて、直後重低音がふたつ。振り返ろうとしていた三日月は体をビクりと硬直させ、目をつむった。高音と低音がまぜこぜになった、なじみのある音が頭の上を通り過ぎる。砲弾の行方は左右にわかれ、展開しようとした深海棲艦は足を戻して固まりになった。着弾の水柱が二本上がり、至近弾でもない砲撃に敵は健在である。

「おねーちゃんありがとぉーっ。それじゃあ那珂ちゃんオンステージ、いってみよぉー!」

 くるり。空中で見事に一回転すると、オレンジ色のスカートをひるがえして艤装を展開させた。重みでグンと勢いが落ち、緩やかな放物線から急降下に線を変える。

 なんだ、この状況。左手を下ろして立ち上がり、ずり落ちそうになった叢雲の体をあわてて抱きとめた。

「まずは那珂ちゃん攻撃隊、きゅーこーかばくげきぃ!」

 敵のほとんど真上で何かをばらまいた。行く道を制限されて固まっていた敵はまとめて大爆発をおこす。魚雷。艦載機の真似事をしたというのか、軽巡が! 

 直上からそんなものを雨みたく降らされた敵はたまらず海上で大炎を上げ、げっぷのように黒煙を吐き出して、果てた。爆発の衝撃、遅れて熱と臭いが生暖かく前髪を上げる。

 だが全て仕留められたわけではない。炎と煙の幕の中から、敵が一体だけほうほうの体で抜け出てきた。傍目にも沈むのは時間の問題であろうほどに燃え盛り、あさっての方向に向かってすすんでいる。ぼん、ぼん、加速と減速を繰り返して、機関も完全にイカれてしまっているのだろう。おまけだといわんばかりに、海面に激突間近な那珂は体勢を変えた。両腕に設けられた砲を向けて「そーれっ、どっかぁーん!」、火を噴かせる。空中で撃ったものだから、衝撃のあおりをうけて、きりもみ回転して後方に吹っ飛んでいった。が、遠目にみても体勢が綺麗過ぎる。体を上手く丸めて、体にかかる衝撃を全て移動へのエネルギーに変えていた。空中でロンダートのように動いた彼女は派手な水しぶきを起こして着水に成功……した。多分。

「……は。な、なにが」

 一連の現象に、三日月がようやくしぼり出せた言葉はそれだけ。直接砲弾をぶちこまれた最後の駆逐艦は爆炎を上げて、ずぶずぶと海の中へ還っていく。一瞬々々変化する状況のなかで、真後ろまで近づいていた航行音に初めて気がついてゆっくりと振り返ると、三人の艦娘がいた。うち一人は、昨日も会った初雪。半開きの目は増して開いておらず、一目で眠そうだということがわかる。

 先頭の、那珂とよく似た服を着ている艦娘が朗らかに微笑んで、三日月を見下ろした。

「横須賀の神通ともうします。この二人は川内と初雪。あとはどうぞ、お任せください」

 神通は逆側から叢雲の肩に手を回し、そのまま一気に彼女の体を引き揚げた。下半身をとっぷり沈ませていた体は足首まで持ち上がっている。馬力の違いをまざまざと見せ付けられた気がした。万力の重みから開放されて、勢いあまってしりもちを搗く。スカートの上から海水がしみて下着まで濡らして体があわ立つ。

「初雪」神通が声をかけると、初雪が叢雲の手を握り、触れている場所が淡く発光した。

「なにを、したんです」

 光はゆっくりと脚部に向かう。ぼろぼろになっていた艤装が水を吐き出し、スクラップ同然となっていた艤装が、目に見える形で修復されていく。折を見て神通がゆっくり力を抜くと、叢雲の体はしっかりと水に浮くようになっていた。 

「ダメコン妖精さん、わたしの、あげた」

 のったりとした話し方が、場に充満していた緊張感を取りのぞいていく。三日月はもう、足にも腕にも、体全体の力が抜けてしまって、自らの重みで動く事ができなかった。

 助かったのか。空っぽになった頭が考えることを放棄させようと、眠気が津波となって押し寄せる。

 目の前に白く長い指をした手が差し出されて、目線だけをあげると、川内が気の強そうな笑みを浮かべていた。目の前に手を出されても、自分の腕を持ち上げるほど体力が残っていない。いつまでたっても動かないことをいぶかしんで、「あ、ごめんごめん」肩を入れて立ち上がらせた。しみこんだ海水が内腿をつたう。生暖かく、粗相をしてしまったかのような感触がくすぐったくて、腿をすり合わせた。

「体は、なおせないから。はやく、入渠させて」

「ありがとう、ございま、す」

 川内に体重を預けたまま眠ってしまいたかった。梅の甘い香りとほんの少しの火薬の臭いに余計、安心を覚える。目を閉じてしまいそうになって、脳のすみっこに押しやられていたものを踏み抜いた。弾かれたように頭を上げる。すぐそこにあった川内の顔に思い切りヘッドバッドをかました。

「ンぶえっ」「古鷹、古鷹さん! まだもう一人、仲間が!」

「大丈夫」神通が片耳に手を当てながら、また微笑んだ。

「まだ戦っていらっしゃいます」

 なら早く向かってください、神通に噛み付こうとして、航空機の音が聞こえてきた。反射的に体がこわばって、鼻をおさえた川内に「はいひょうぶ」とたしなめられた。

「あれはうちのだよ……。神通、鼻血でてない?」

「あらあら、鼻が低くなってしまいました。大丈夫、どんな顔でも姉さんはかわいいですから」

「うぇえ! 戻れもどれーっ、あたし、今日から嘘つきまくるからね!」

 自分達の上空を航空隊が通り過ぎてゆく。編隊を作って次から次へと。かつての光景とは逆の、味方の、航空支援。一波、二波、通り過ぎて行く航空機を見上げている。鼻の奥が痛い。表情が作れない。顔がゆがむ。

『加賀です。敵部隊が対空攻撃を開始したわ。……赤城さん、見えているかしら』

『はい。うふふ、慢心しましたね。敵空母、発見しました。加賀さんは下をお願いします。私は、上を』

 川内にくっついているお陰で、彼女に流れる無線を聞く事ができた。彼女の口元のマイクに向かって叫ぶ。

「古鷹さんは! 大丈夫なんですかっ」

 しばらくの無音のあと、再び無線が帰ってくる。無礼など一切考えない、ただ感情のままの言葉にも、相手は怒ることなく応答してくれた。

『今のは富津の娘? 心配いらないわ。注意が逸れたからって戦艦に突っ込んで行くような娘は、そう簡単にくたばりません』

 矢継ぎ早に、今度は那珂から無線が入る。相変わらず、戦場を戦場と思わない軽快な声で、爆撃や砲撃の音と一緒に、彼女の声が聞こえる。

『那っ珂ちゃんでーすっ。ちょーっと興奮してるみたいだけど、引っ張って帰るからねー! 加賀さーん、援護よろしくうっ』

『あんまり小うるさいと、直撃弾をぶちこむわよ』

『ええ、ひっどーいっ。さーて、那珂ちゃん、突入しまーすっ』

 本当はだめかもしれない。絶対なんて、私は信じていないから。冷静であろうとする自分がストップをかける。でも、川内のやわらかい体に寄りかかっていると、不思議と確信を持てる。

 いいよね? はちきれんばかりに張っていた糸がぷつりと切れた。

 もう、いいよね? 大丈夫だよね? 助かったんだよね?

 あとはなし崩しだった。絶望の涙ではなく、怒りのものでもなく、安心したがゆえの情けない涙を、必死に声だけは抑えて、あふれるままに垂れ流した。目から、鼻から、口から、息もうまく吸えないほどに。

「うわー、お願いだから私の服で拭かないでよ? 洗ったばっかりなんだかあああぁっ」

 いじわるな声がしたので、黙れとばかりに顔を押し付けた。ふくらみがちょうど顔を包み込むように当たる。やめろと体を押し戻されても、顔を離さない。意地でも離さない。吸水性の悪い生地で、押し付ければおしつけるだけ顔に汚れが広がる。知ったことか。もう体は言う事をきかない。頭も、もうぼやけてきた。

『ほーら、古鷹ちゃん、かーえーるーよー! ってうわあっつうっ、加賀さん、間近で爆撃するのはやめてぇっ』

『敵重巡沈黙、やりました』

『やりましたじゃないっ。古鷹ちゃーん、ほーら、もうおしまいっ。早く帰らないと鬼ババに誤爆されぅぎゃあ! タンマタンマ、焦げる、髪が焦げるっ! 待って、那珂ちゃん小破っ、加賀のせいでぇ!』

 にぎやかな無線。さっきまでの大変さなんか、なかったみたい。戦いなのに、いきいきとしてて、楽しそう、なんて。横須賀の艦娘たちはすごいなあ。

 私もあんなふうになれるかな。

 川内はもはや引き剥がすことをあきらめて、おとなしくなった三日月の髪の毛を梳いている。

 くすぐったくて、きもちいい。いいにおい、やわらかい。

 髪の毛の根元から先まで、十二回目の往復まで数えて、意識を飛ばした。


 天頂から暴力的に射す陽に焼かれて、軍服はアイロンがけの後のような焦げ臭さをかもしている。清水は入渠ドックからの帰り道すがら、内ポケットに忍ばせていたロングピースに火をつけて、久々の濃厚な煙を肺に落として、むせた。酩酊感。ヤニクラあるいは熱射病の前兆、そんなことはどうでもいい。からだの中にうねっていた「はやり」を吐き出すために、咳をこらえて、細く長く息を吐き出す。

「良いところですね、ここは」

 風上に立つ、青い弓道着の女性が汗ひとつかかずに右に左に顔を向けている。潮風に押し付けられたスカートが彼女の尻を形づくるので、悩ましい光景である。よい具合に筋肉のついた足が、濃い青から伸びて、体重がかかるたびにうっすら筋を浮かべていた。

「横須賀に比べりゃただの田舎道だろ」

「それはそうなのですが」加賀が強く吹いた風にスカートと前髪をおさえる。「土を踏むと帰ってきたという気持ちを強く感じることができますから」

 片方に結わえられた髪の毛が重そうに上下する。ゴムを取り、跡のついた髪が風になびく様を想像しながら歩いていたら、だいぶ距離を詰めてしまった。彼女によく似合うレザーノートがピースの香りとまざる。

「ん、ここだ」靴の裏でタバコを揉み消して、吸い殻をソフトケースの中に突っ込んだ。鍵もかからない薄っぺらな板でこさえられたドアを開けてやり、叢雲にしたのと同じよう、軽く頭を下げて建物の中に誘う。

「私は一艦娘です。司令ともあろう方が、そう簡単に頭をさげるものではないわ」

 彼女が気にしすぎないよう、顔をあげずに、目だけですこし微笑んだ。

「うちの娘たちの命を救ってくれた恩人だ。つま先にキスだってしようじゃないか」

 いたずらな軽口を叩いて、出方を見た。

 自分のところの艦娘がやられて混乱していた無様な男をよその艦娘には見せたくない。命の恩人ではあるが、基地のトップとして、せめてもの威厳を見せ付けたかった。自分が軽視されすぎれば、部下達も軽んじられてしまう。滑稽なほど情けない意地。

 その哀れな男の気持ちを知ってか知らずか、微笑む加賀が堂々と部屋へ足を踏み入れる。

「あら、ではお願いしようかしら……お風呂上がりにでも」

 部屋へ入り込んだのを見て、後手に扉を閉めた。窓を開けっ放しにしていたが、やはり暑い。潮風にはためくカーテンが、生ぬるい室温を換気しようと躍起になっていた。

 清水は執務机に、加賀はその正面に立つ。

 砂防林は離れているというのに蝉の声は盛況。暑さなどおくびにも出さない加賀が口を開いた。

「横須賀第三艦隊第一航空戦隊所属、加賀です。本日の戦闘について、貴基地部隊に変わり報告致します」

 擦り切れ、意識もない叢雲と三日月がまず最初に。しばらくして、あちこちに打撲を作った那珂と初雪が引っ張って来たのは古鷹。富津泊地に属する艦娘の初舞台は、惨敗に終わった。練度もあったかもしれない、油断もあったのかもしれない。それより一番大きい敗因は、敵戦力が大きすぎる点だと、必死に自分をなぐさめた。こちらは重巡一、駆逐二。対する敵艦隊は戦艦二、空母一、重巡三、軽巡二、駆逐五。哨戒のために即席で組んだ部隊に対して、あまりにひどすぎる戦力差だろう。誰も沈まずに帰ってこれたのは、一番に横須賀に打電した叢雲の機転である。評価すべきことだ。自分たちの泊地に余る戦力と対することを見越した。だが、この無力感に振り上げた拳をどこに下ろせばいいのか。戦闘を終えた加賀が入港するまで、叢雲と古鷹が入渠するドックの前で佇んでいた。基地の修繕を最優先にしていれば、三日月もすぐ入渠できたはずなのに。彼女は今、一人宿舎で眠っている。体が「まだ」無事である三日月には、叢雲か古鷹が入渠から上がるまで待ってもらうしかない。

 清水の顔色を見て、横須賀の戦闘記録をつらつら述べていた加賀が話をシフトさせた。「あくまで私が観測していたものですが」そう前置きして、少しだけ声色が機械的なものから人間味のあるものに変わった。

 目をつむって、今彼女のまぶたの裏には、艦載機を通した視界が再生されているのだろう。

「しんがりを務めていたのは古鷹さんでした。水上部隊十二隻相手にひとりで殴り合いを挑むなんてどうかしていると思うのだけど、たいしたものよ。初めての娘とは思えない立ち回りだったわ。戦闘も、度胸も」

 口を挟まずにじっと聞いている清水に、ためいきをひとつ挟んで言葉を繋げる。

「叢雲さんと三日月さんをはじめに見つけたのは川内たちだから、伝聞になってしまうけれど。古鷹さんを出し抜いた敵駆逐が三隻、彼女たちに向かっていたらしいわ。艤装はボロボロ、片腕はブラブラ、肩には沈みかけの娘がひとり。そんな状況で、三日月さんは砲を向けました」

 組んだ指は手の甲の皮をめくり、汗ばんだ皮膚に傷がしみる。この時勢、フェミニストであろうとは思わないし、艦娘についての知識もある。あるが、いざ自分の指揮下にある少女同然の形をした生き物が、痛みと絶望にまみれたことは、決して気持ちのいいものではない。仕方ないこと。そのために顕れた、人類の救世主。いくら頭を説得しようとしても、こればかりは慣れることはできないだろう。

 もし、今回の件で誰かがいなくなったら。

 ひどい話であるが、彼女たちが傷を負ったを行ったことで、清水は心の準備を整えることができた。戦いとは無傷で成せるものではないのだと、しっかりと現実として捉えることができた。

 今度こそしっかりと、彼女たちの安全を守るには、今の自分では役不足だと認識した。

「なあ、加賀さん」

「何かしら」

 強い風が吹いた。じりじり熱せられていた背中が少しだけ冷やされ、こもった部屋の空気が少しだけ入れ替わる。

「少し甘えさせてもらってもいいだろうか」

 あからさまに一歩後ろに下がる彼女に、慌てて言葉を投げた。

「いや、すまん、違うそういう意味じゃない。横須賀に、もうしばらくうちの担当海域の哨戒を頼めないかと言う意味だっ」

 顔を引きつらせていた加賀が肩を下ろしたのを見逃さない。

 こいつ、本気にしやがった。

「それは」失態をそよ吹く風で、咳払いをして答える。「力不足がゆえにですか」

「その通り。それからもう一つ、そちらの艦娘たちと演習を組ませていただきたい」

「演習、ですか。確かに、貴基地の娘たちの練度は高いとは言えませんが」

 片眉をあげる、特徴的な困り顔。

 横須賀の部隊とでは大きな差がある。こちらの得るものが大きくても、向こうは素人を相手にしているだけで、得るものは少ない。ここは学校ではないのだ。両者にとって利益のあるものなくてはいけない。清水が言っているのは、無償の奉仕をしてくれと頼む乞食同然のタカりだ。

「例えばだ」一度言葉を切って、加賀が頷くのを見た。

「お前も分かるだろうが、今後うちとそちらでは共同で作戦行動を行うことになるかもしれない。いざという時に足を引っ張りたくないんだ。もちろん精一杯練度を上げる努力をする、戦力の増強もする。だが、うちは妖精の数も少なく、まだしばらく準備に時間が掛かる。今回がいい例だ。中途半端な状態で敵とやり合うのはどんなに無謀か思い知ったんだ。もう少し時間が欲しい。お前からも森友に頼んでくれないか」

 立ち上がり、机に手をついて、頭をこすりつけた。

 基地のトップが、よその基地の艦娘に懇願している。上に立つものの意識が必要であることはわかっているのだが、現状では伏して慈悲を請わなければならない。これがぼろぼろになった彼女たちへの責任であり、叢雲たちの悔しさを共有するための覚悟。頭ひとつと思われても、プライドを捨てた男などなんの価値もない、そうあらねばならない。少なくとも、山の職人にはそう教えられた。

 清水の行動の被害者は加賀だ。ただ報告をしに来ただけなのに、新人とはいえ上役の人間の懇願を受けなければならないのだから。頭の上でおろおろしているのが雰囲気で伝わる。「私に言われても困ります」肩をぐいぐい持ち上げられても意地でも頭を上げない。艤装さえ展開させていなければ、か弱い女性だ。少し頭を持ち上げるたびに机に頭を打ち付けることをしばらく続けて、加賀がため息をついた。

「その件について、森友司令から言伝を預かっています」

 やがてあきらめたような、吐息まじりの言葉がすぐ近くで聞こえた。

「言伝?」顔をわずかにあげると、変わらず片眉をあげたままの加賀がいる。姿勢を直すまで話す気はない、そう表しているように、口は固く閉じられている。

 こんな失態を犯したのだ、森友が黙っているはずがない。大方、代替の人材をすでに向かわせたから荷物をまとめてさっさと田舎に帰れとでも言われるのだろうか。まだだ、まだ帰るわけにはいかない。一戦交えてようやっと戦いというものを理解できたのだ。頭のめぐりが悪いのは重々承知であるが、この覚悟を持って、今更一般人になど戻れるはずもない。

「頼む、俺もこれから死ぬ気で努力する。もう二度とこんな失態はしない、だからどうか今回ばかりは許してくれとっ」

 額に脂っこい汗が滲む。

 はあ、衣ずれの音と、大きなため息。

「口だけならだれでも言えます。いいから、頭を上げてください。うちの司令はそちらの艦娘に、むしろ賛辞を送ってやれと申されています」

「はあ」拍子抜けして聞き返した。「あの森友が、賛辞?」

「嘘ではありません」加賀が駄目押しとばかりに、優しく肩を押し上げた。今度は抵抗せずに、素直に体を起こす。

「重箱の隅をつつくように粗探しをして、少しのほころびを全力でほじくるあいつが、賛辞だと」

 少なくとも、記憶ではそういう女だ。戦力不足、装備不足、練度不足、見事なないない尽くしの上、状況ばかりに焦って出撃させた自分は責められることこそ当然である。「信じられん」

「あなたがどのような印象を司令に持っているかはわかりませんが、褒めるべきところは褒める人です。確かに、あなたの知識と判断はひどいものです。艦娘の身として、とてもではありませんが命を預けることはためらいます」

 直接意見をぶつけてくれる加賀は気持ちがいい。しっかりと打ちのめしてくれる。

 そう、叩きのめしてくれればいい。今のうちに叩いて、打ってもらったほうが、腹にしっかりと刻むことができる。

「ですが今回はイレギュラーです。近海に、あれだけの兵力で攻めてこられたら損害が出るのは当たり前でしょう。そもそも、陸上に敵が潜んでいるかもしれないという予測を立てられなかったこちら側にも責任があります。あの敵が練度不足である部隊を狙っていたのなら、むしろ責任はこちらにある。申し訳なかった、と伝えてくれと」

「森友が謝ったのか」

「ええ」薄く笑って答えた。「すごく、苦々しい顔をしていたけれど」

 学校で散々いじめられた森友の顔はすぐに思い描くことができる。年下だというのに、常に見下されているような感覚に陥らせる高圧的な性格。少しミスしただけで嬉々として暴言を投げかけてくる彼女を、頭の中で何度胸倉をつかんだことか。

 そんな彼女が謝った。いよいよ、娘たちを出撃させるのが怖くなった。次は戦艦の二十隻や三十隻が出てくるんじゃないだろうか。

「それで、演習の件ですが」

「お、おお。そう、記憶があると言っても、艦娘としての戦闘経験はないから。ぶっつけ本番で戦わせるよりいいかと思って」

「もちろん賛成です。が、建造されたての娘たちと私たちが演習しても、一方的な蹂躙に終わります。それに、私たちには私たちのやるべきことがあるので、長々と講釈を垂れている時間もありません。そこで、司令が提案を」

 懐から一枚の書類を取り出し、差し出された。まだ温もりが残る紙を受け取ると、一番に目についたのは「辞令」の二文字。提案と呼ぶにはいささか段階をすっとばしている。

 簡潔に書かれた書類。数行の文字列をたっぷり時間をかけて読み込んだ。何度もなんども読み返す。

「おい、なんだこれ」書類と加賀の顔を何度も往復させて、三往復目に加賀の顔を見上げた。

「『横須賀所属部隊 軽巡洋艦娘、川内、神通、那珂。駆逐艦娘、卯月、初雪、曙、浦風、島風。水上機母艦娘、千歳、千代田。以上十名を富津泊地に異動とする』。そう、書いてあるはずですが」

「お前は頭がいいんだな」紙をひらひらと振って、机に置いた。「そのとおり。それから、私の承認を求めるメモ書きだ」

 『文句は受け付けんから判を押せ』相変わらずの、憎たらしいほど整った字。

「こんなに艦娘を異動させたら、そちらの戦力がなくなるだろう」

「役割分担です」加賀は表情を変えずに答えた。

「役割分担?」

「ええ、うちは空母や戦艦を中心として、そちらは重巡、軽巡、駆逐を中心とした戦隊を。互いの特色を生かした連合艦隊を望めるというわけです。あなたの言うとおり、共に作戦行動を執る前提の話になるわ」

 うぅむ、清水は腕組みをして、頭を巡らせる。

 人材不足でひとつの基地に艦娘を指揮できる人間はひとり。これは、全国いたるところに基地を増設していることに由来する。これから反抗作戦に出たところでさらに基地は増えるだろうから、それぞれが特化した戦隊を受け持つというのは非常に魅力的な話だ。まして自分は勉強が苦手である。全艦種の運用方法をおぼえるよりも、分担となれば負担も減るし、集中できる。もともとの役割が違うのだから、バラバラの基地に属する艦娘が艦隊を組んだとしても、チームワークでばらけることも少なくなる。

 あくまで共同作戦をとればの話だ。

「共に艦隊行動を取るのならば、良いことだと思う。が、普段使いが悪くないか」

「別に縛りを作るわけではありません。余裕ができたならば、補強していけばいいでしょう。私たちだって、護衛の娘は自前で用意しますから」

「なるほど確かに、近くに置くなら同じ基地の人材を使った方がいい」

 こういった形を提案してきたということは、森友は本当に今回のことを見逃してくれるらしい。それに、少なからずともこちらの働きに期待を持っているとも受け取れる。主導権を完全に握られているのは癪であるが、頭が回るのは彼女の方だ。自分はどちらかというと、用意されたものを部下たちにこなさせる、現場監督が性に合っている。

 机の引き出しを開けて、物々しい装飾の付いた判子を取り出した。学校を卒業した際に渡されたものだ。森友のメモ書きと比べてもひどい字でサインをして、上から判を押す。どうも万年筆というものの力加減がわからない。インクを大量ににじませた書類を手渡す。

「森友によろしく言っといてくれ」

「確かに受け取りました。戦闘報告書は後ほどお送りいたします」

 受け取った紙を再び懐にしまいこみ、加賀は敬礼を示した。答礼をして、話はまとまったと席を立った。「それじゃ、見送りさせてもらうよ」

 外は風が常に吹いている分、屋内よりも涼しい。同じように扉を開けてやると、熱気で汗ばんだ体に心地いい。

 加賀はサイドポニーをひょこひょこ揺らしながら歩いている。彼女の持つ硬めなイメージとアンマッチで、電話口で受けた冷たい女という印象は完全になくなっていた。大方、あの時は森友がわがままでも言っていたのだろう。上司を選べない艦娘も大変なのだ。

 分かれ道で足を止めた。まっすぐ進めば出撃ドック。右に進めば宿舎、左に進めば入渠ドックがある。足音が続いてこないことに気づいた加賀も振り返り、じっと立ちすくむ清水に、彼女は柔らかい声色で声をかけた。

「大丈夫です。私たちはしぶといですから」

 どちらかに顔を向けることができたら、分解しそうな心持ちが多少は楽になったのだろうか。この分かれ道のどの先にも、自分の部下たちがいる。自分の命令で人が傷つく。当たり前のことにようやく気づかせてくれた彼女たちのことを思った。

 強い風が吹く。

「私もしぶとくいたいものだよ」

 声色と違わず、目尻を下げた加賀が微笑んで、足を動かした。

 蜘蛛の糸のように絡みついてくる分かれ道の誘惑を振り切って、彼女の背中を追う。

 ドックで艤装を展開させ海面に一歩踏み出し、どうやって安定させているのかわからない靴艤装で浮かぶ。低く、耳に刺さるような高音を混じらせた音が響き、ふと彼女が振り返った。切れ長の視線は柔らかい。

「司令官と艦娘は同じ天秤の両端にあります。ここは、きっといい基地になるわ。」

 そう言って加賀は海へ出て行った。彼女の残した波が、出撃ドックをにわかに賑やかにさせる。

「同じ天秤の両端に、ねえ」ポケットからロングピースを取り出して、マッチを擦る。一口目の甘い香りを吐き出して、クールスモーキングなどさせんとばかりに吹く潮風が灰を吹き飛ばした。「慰め方が気取りすぎだな」

 煙草をくわえたまま踵を返して、来た道を引き返す。軍服を脱ぎ、シャツのボタンをほとんど外して、そうして差し掛かった分かれ道。どちらに進もうかと一瞬逡巡して、かぶりを振った。

 彼女たちには彼女たちの、私には私の仕事がある。見舞いに行くよりも、努力こそが必要だ。

 踏み出したのは、まっすぐ進む道。

 一歩、一歩、一歩。まとわりついていたものが落ちていく。

 一歩、一歩、一歩。目線が上がり、世界が広がる。

 天頂には陽が輝いている。

 今日もまた、景色だけは変わらない、夏の一日が過ぎてゆく。

 

 

 


後書き

[更新履歴だよ、おっそーい]
5/3 全部消しちゃったのでふっきゅー。評価などは履歴に残っております。ありがとうございます。


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2018-05-15 20:54:33

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2018-05-07 11:34:00

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1: SS好きの名無しさん 2018-09-29 16:37:15 ID: C2hhghBh

読売新聞(9月28日(金))7面

💀韓◆国💀

文大統領、国連総会で『慰安婦問題』に基づき日本🇯🇵🎌🗾を非難する演説実施

これは『慰安婦問題』で相互に非難応酬する事の自粛を約した『慰安婦問題を巡る日韓合意』の明確な違反であり、💀韓◆国💀は『慰安婦問題』を『蒸し返す』事を国家として正式に宣言した。と、思料

加賀『頭に来ました。』


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読売新聞(9月28日(金))7面

💀韓◆国💀

文大統領、国連総会で『慰安婦問題』に基づき日本🇯🇵🎌🗾を非難する演説実施

これは『慰安婦問題』で相互に非難応酬する事の自粛を約した『慰安婦問題を巡る日韓合意』の明確な違反であり、💀韓◆国💀は『慰安婦問題』を『蒸し返す』事を国家として正式に宣言した。と、思料

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