2015-06-26 23:51:42 更新

概要

耳が弱い八幡のお話です。

pixivにもUPしてます。



「ねえ、ヒッキー……」



ある日、いつも通りに部活に励んでいる、といっても本を読んでいるだけなのだが、由比ヶ浜がそっと耳打ちしてきた。

読んでいた本に栞を挟みいったん閉じて彼女に向き直ると、少し困ったように「耳かして」と小さく呟く。

渋々体を寄せ耳を傾けると、さっきまで弄っていた携帯の画面を二人でのぞき込むような体制になる。近いっつーの。



「あのさ、これ……なんて読むの?」



差し出された携帯には文字の羅列、絵文字も混じっており最初はメールかと思ったがそうではないらしい。っていうかこれって……。



「お前、携帯小説読んでんの?」



携帯小説。しかもSSとかそういうのではなくガチのスイーツ(笑)っぽいやつだった。似合ってるけどさ、うん。だが俺は絵文字入りの文章を小説とは認めんぞ。やれやれ┐(´ー`)┌

馬鹿にしたようなニュアンスが伝わってしまったのか、由比ヶ浜は怒ったような、しかし変わらず小さな声音で問い直した。



「別にいいでしょ……! で、これってなんて読むの?」



指された画面には「凌辱」と書かれている。オイ。

これ説明しろってか。ていうか何読んでんだよマジで。スイーツ(笑)。



「あー、これはだな……。うん、雪ノ下に聞け」



丸投げ。や、聞いて。どうせ説明したところでセクハラ扱いされるのは目に見えている。だったら同性の雪ノ下にさせるべきだろう。どっちみちお鉢を回したのが俺だと知ればセクハラ谷くんだの言われるんだろうけど。

それでもコイツに凌辱の意味を教えるとかいう嬉しくない恥ずかしイベントは回避したい。ガード+↓ボタン、緊急回避!



「前にゆきのんにこの小説見せたら、なんかすっごい目で見られたんだよ~……」


「……だろうな」



気持ちは分かる。雪ノ下は本物の文学少女だ。しかも文章から登場人物までアイツが嫌いな人種が話すような言葉でできてるスイーツ小説を認める気にはなれないんだろう。

かくいう俺も得意ではない。つっても読んだことはないが。ガッ○ーも三浦○馬も割と好きなんだけどな。つーかこれからっしょ。



「ねえ、ヒッキー……おねがい」



ぽしょぽしょ。

耳元で囁かれたねだるような由比ヶ浜の声が脳に染み渡る。

甘く響く音の波が頭蓋を反射し超振動のように頭の中を溶かしていく錯覚を覚えた。おれはわるくねぇ。

しばらく呆けてしまったのを、由比ヶ浜が再び「ヒッキー?」と呼んだのをきっかけに、俺は自我を取り戻した。



「あ、ああ……悪い。えーっとだな……」


「うんうん」


「これは『りょうじょく』と読んでだな……」


「りょーじょく……?」



由比ヶ浜の口から凌辱なんて言葉が出るのを聞いただけでドキドキしてしまうが、悟られないように細心の注意を払う。



「ああ……、で、意味なんだが……。その、ひどい事するって事だ。………主に性的な意味で」


「せっ!?」



驚いて少し声量が大きくなった由比ヶ浜の声に、ぴくりと雪ノ下が反応する。

しかし由比ヶ浜がわざわざ俺にひそひそ話をしてきた時点で、自分に聞かれたくない話だと理解しているのだろう、あえて目線すら寄越さずに本に向かい続けていた。



「せ、性的とか……ヒッキーのバカ!」


「なんでだよ……お前が聞いてきたんだろ」



やはり待ち受けているのは理不尽であった。どうあがいても絶望。私は貝になりたい。



「……へんたい」



ぽしょぽしょ。

またしても耳元で囁かれた言葉。

馬鹿にするというより責めるような声が耳から浸透していく。思わず身体が跳ねかけるがなんとか抑えつけることに成功した。

だが外見上は抑えられても、中身はそういう訳にもいかずに、心臓は今もばくんばくんと飛び出さんばかりに跳ね回っている。


由比ヶ浜は顔を真っ赤にして自分の定位置に戻ると、携帯小説の続きを読み始めた。




* * *



「今日はここまでにしておきましょうか」



ぱたむ、と本を閉じる音と共に雪ノ下がそういうと、由比ヶ浜は未だ戻らぬ顔色のまま慌ただしく立ち上がった。



「お、おつかれさま! 今日はあたし、行くところがあるからっ!」



叫ぶように宣言するや、自分のリュックを掴み上げぱたぱた走り去ってしまう。挨拶も出来なかった雪ノ下が少ししょんぼりしているが、俺にはどうしようもないので続いて外に出る事にする。



「そんじゃ、おつか」


「待ちなさい」



学生鞄に手を伸ばした瞬間に、雪ノ下に鋭い声と目線で制止される。「おつか」ってなんだよ。男らしい戸塚の略か? そんなの絶対認めんぞ!



「なんだよ……」


「さっき、由比ヶ浜さんとこそこそ話していた事だけれど」



ですよねー。

まあ、これ自体は聞かれるだろうと予期していた事もあって、言い訳はつらつらと出てきた。



「ああ、あれな。なんか、携帯小説で読めない漢字があったみたいでな、その意味を教えたらああなったんだよ」


「そう……。彼女がどのようなものを読んでいるのかは、だいたい予想がつくわね」



納得半分、呆れ半分で頷く雪ノ下。

やっぱお前、携帯小説嫌いっぽいよな。



「でも、その事ではなくて」


「……え?」



違うの?

由比ヶ浜のあの様子の原因を聞かれると思っていたばかりに、思考が停止する。が、そんな事はお構いなしに雪ノ下は続けた。



「由比ヶ浜さんと話している貴方がとても気持ち悪い顔をしていたから。……二回ほど」



ひどい言い草である。しかし「二回」と思い出す場面を制限されると、つい理由が頭に浮かんでしまう。



「気持ち悪いって……割といつも言ってるだろ、お前は」



本当に、ひどい事ではあるが言われ慣れる程度には言われていると思うぞ。



「まあ、普段から気持ち悪いところはあるけれど、今日のそれは一段と酷かったわ。何をされたのかしら?」



なにもそこまで言わなくても……。だがこの聞き方。「何を話していた」ではなく「何をされた」と来たか。雪ノ下の事だから話していた内容はほぼ理解しているのだろう。

つまり「気持ち悪い顔(ひどい)」をしていた理由を聞かれている。それも、二回。

……ここまで追い詰められて問われれば、逃げる事もかなうまい。

全面降伏した俺は、仕方なく理由を説明し始めた。



「その……だな、耳元で囁かれるのが苦手なんだよ。なんかゾワゾワするっていうかな……」


「へぇ……」



は、恥ずかしい。なんで俺は同級生の女子に性癖を暴露しているんだ。

返された言葉は一言。しかし、俺はそのキラリと鋭く光る目を知っていた。


玩具を見つけた猫のような目。

街中で俺を見つけた陽乃さんのような目。

……やっぱお前ら姉妹だよな。


雪ノ下はおもむろに立ち上がると、足音もなくこちらへ近づいてきた。

無音で近づかれると妖怪というか雪女みたいで怖い。マジで怖い。誰か助けて。



「比企谷くんは」



氷漬けにされたように固まる俺の目の前で立ち止まった雪ノ下は、ぽつりと名前を呼ぶと、ゆっくりと頭をおろし、口元を耳に近づけていく。

目の前で前かがみになられると目のやり場に困るうえ、さらさらと流れるような黒髪がいい匂いを放ちつつ妖艶に揺れて俺の精神をガリガリ削っていった。



「――耳が弱いのかしら」


「は、っぐ」



ぽしょぽしょ。

放たれた言葉はただの確認。

だと言うのに極限まで静謐に囁かれた声音はどこか甘く、容易に俺の意識を錯乱させた。

神経を直接くすぐられたかのような感覚に、今度こそ跳ねた体を制御しきれず、あまつさえ声まで漏れ出てしまうのだった。



「ふふ」



悪戯が成功した子供のように無邪気に笑う声がする。

まだ彼女の口元と俺の耳の距離は変わらない。くすくすと笑うだけでも俺の背中にはえも言われぬ感覚が走り抜ける。



「な、んの事だよ、ていうか近いから。離れろ」



精一杯の抵抗、を試みるも体はしびれたかのように動かすことが出来ない。

口だけは文句を言いつつも、俺の体は餌を待つひな鳥のように、耳に精神を集中させて雪ノ下の言葉を待っている。



「比企谷くん」



ぞくり、またも名前を呼ばれただけで全身に甘いしびれが迸る。

返事も出来ずに蕩けた頭でどうにか耳だけでも機能させようと意識を集中する。



「また、明日ね」


「ひぅ、……え?」



もはや言葉を言葉として受け入れる事の出来ない脳内で、雪ノ下の声の意味をどうにか理解しようとするが、それより早く彼女は自分の鞄を持ちあげて部室の扉に手をかけた。



「鍵は貴方にお願いするわ」



最後に振り返って小さく笑うと、静かにドアを閉める。



後に残されたのは耳が痛いほどの静寂と、静かすぎて誰にでも聞こえそうな心臓の音だけだった。






―――――――――――



翌日、いつも通り小町を中学校に送ってから学校に向かう。

いつも通り駐輪場に自転車を停め、いつも通り下駄箱でローファーから上履きに履き替える。


いつもと違うのは、そこに雪ノ下がいたことだけだった。


基本的に部活以外で雪ノ下を見かける事は少ない。

国際教養科であるJ組とは体育だろうと一般教科であろうと、合同で授業を行う事がない為だ。

ゆえに下駄箱で佇む雪ノ下の姿には、部室でそうであるようにある種絵画のような美しさを感じつつも、違和感を覚えるのであった。



「……」



なんと声をかけるべきか?

いや、そこは普通におはようでいいだろ。

などと頭の中でもんもんとしていると、こちらを見つけた雪ノ下が、昨日と同様に音もなく近づいてきた。



「比企谷くん」



凛とした声は響かずに、下駄箱に挟まれた俺と雪ノ下だけが聞き取れる。まるで世界に二人きりのような錯覚。

昨日の事もありどぎまぎとしていると、彼女はそっと背伸びをして、また、綺麗な形をした唇を、俺の耳に近づけた。



「――おはよう」



ぽしょり。

もはや電撃とまごう程の激しさをもってしかし、静かに、甘く、優しく、雪ノ下の声が鼓膜を通して全身に駆け巡った。



「ぉ、はよう……」



ごにょり。

呟きは雪ノ下と同じ大きさでありながら、絶望的なまでにキモチワルイ感じに返答する。

こんな事では、いつもの通りなら

『あら、挨拶もまともに出来ないのかしら、まあ家に引きこもっていたらそうなってしまうのも頷けるけれど、ヒキコモリくん』

などと言われてもおかしくはないのだが、雪ノ下は決定的にいつも通りではなかった。



「ふふふっ」



部室で見せた、悪戯が成功した子供のような笑い声。

そしてその可愛い悪戯に、見事にハマった俺は照れ隠しにぽりぽり頬をかくしかないのであった。


と、そこにワイワイと集団で登校してきたリア充どもの声が近づいてくる。

そもそもこの時間帯は別に人が少ない訳でもなく、雪ノ下と居るところを誰かに見られたのではと振り返り、誰もいない事を確認する。よかった、俺のクラスの下駄箱周辺には誰もいなかったようだ。

雪ノ下に早く教室に行くよう勧めようと向き直ると、既に彼女は姿を消していた。妖怪か。


一人ぽつんと佇む俺の耳には、いつまでも彼女の声が反響していた。



* * *



「――ちまん、はちまん?」



本日最後の授業が数学だったこともあり、いつもより深い眠りに浸かっているとゆさゆさと揺られる振動で目を覚ました。

目は覚めたが起き上がる気力までは湧いてこずに、揺られる感覚すら新たに睡眠の糧にしてしまおうと思った、その瞬間。



「はちまんってば……」


「ふおっほぁ!?」



耳元ではないが、困ったような声でぽそりと囁かれ、反射的に飛び起きた。

慌てて周囲を確認すると、天使のような戸塚が天使のような笑顔で天使をしていた。天使って動詞だったっけ。



「お、おお、戸塚か。すまん寝てたわ」


「ううん、部活に行く前に声をかけようと思ったんだけど、八幡も部活でしょ? 起こしておこうと思って」


「わり、助かった」


「いいよっ。じゃ、ぼくはテニス部行ってくるから、また明日ね」


「おう、がんばれな」



小柄な戸塚が大きなテニスバッグを背負うことでその天使度はさらに昇華されもはや言葉も出ない程可愛いのだが、戸塚自身は可愛いという言葉に良い思いをしないらしいので一般的な挨拶と激励を飛ばしておく。

.


「さて、俺も部活に……」



得意の独り言をかまして立ち上がり、忘れ物が無いように確認してから奉仕部へと歩き出す。

雪ノ下がまた……なにか、をしてくるかも知れないが、由比ヶ浜がいるうちは大丈夫だろ。帰りも有無を言わさずとっとと出ていけばいいだけだし。

気楽にそう考えると、足取りは別段重くもなく、まっすぐに部室へと向かうのであった。



* * *



「おいー……っす……」



ガララと部室のドアを開けると、今度こそいつも通り、雪ノ下が本を読んで佇んでいる。

そしてアホの由比ヶ浜がアホみたいな独特な挨拶を……してこなかった。


それもそのはず、由比ヶ浜が部室にいないのだから、挨拶のしようもない。



「こんにちは比企谷くん。由比ヶ浜さんは今日はお友達と遊びに行くそうよ」



ゆ、由比ヶ浜ぁぁぁぁああ!

遺憾の念をどこぞにいる彼女に飛ばす。漫画なら間違いなくくしゃみをするくらいに飛ばす。大魔王でも呼び出してやがれ。



「そ、そうか」



どもりつつもいつもの席へつき、何事もなかったかのように本を取り出す。

雪ノ下だって昨日の今日で、しかも部室で何かをするわけでもあるまい。

ちらりと彼女の様子を目線だけで伺おうと――



「……」


「うおぁっ!?」



目の前にいた。いや、場所的には俺の真横だけど。

本当に無音だったんですけど? 癖になってるんですか? 音を殺して歩くの。



「そんなに驚いて、どうしたのかしら?」


「いや、いきなり目の前にいたら誰だってびびるだろ」


「ふうん……」



ものすっごい興味なさそうに鼻で流す雪ノ下。しかし目だけが、キラキラ? いや、ニヤニヤとこちらに向けられている。



「…………なんだよ」


「別に何も?」


「そうかい……」



ここまで近づいておいて何もない訳がないだろっ。と叫んでやりたいところだったが、弱みを見せてしまったのは俺なので、あえて触れてやらずに本を読むことにした。

なんだか既にいい匂いがするのを意識の外に追いやり、文章を、読み



「――ねえ」


「ひゃおっ」



卑怯だろオイずるいだろ頑張って何も考えないようにしてたところに。

おかげで南斗水鳥拳が発動しちまったじゃねぇか。

昨日と同じく、前屈みになって耳元に顔を寄せている雪ノ下を精一杯の怒りの表現として睨みつけるが、当の本人はくすくすと笑うばかりで全く効いていない。その無邪気な笑顔やめろ、勘違いしそうになる。



「――本当に、弱いのね」


「やめ、ろって……」



雪ノ下がぽしょぽしょと、ウィスパーボイスを側頭部辺りに吹き付けるように話しかける。

どれだけ意識しないようにしても、俺の耳はいう事を聞かずに律儀に雪ノ下の声だけを拾い続けて鼓膜へと吸い込んでいった。



「あなたにこんな弱点があったなんてね」


「弱みに付け込むなんて、いじめだろそれは……」


「あら、相手の弱点を突くのは常套手段でしょう?」


「ああいえばこういう……」


「……やめてほしい……?」


「っ、やめろって、言ってんだろ……」


「……呂律が回ってないわよ。……あなたの目のように、のうみそまで、くさって、しまったのかしら……?」


「っく、う」



一言一言区切るようにゆっくりと話される。つまり文字数に対して吐息が多く配分され、雪ノ下の言葉はため息まじりのように艶めかしさをさらに増加させて俺の耳に襲い掛かった。



「っはあ、ふう、おまえな、人にやられて嫌な事はするなって小学校で習っただろ」



なんとか息を整えて上半身だけでも雪ノ下から遠ざける。

離れる事で逆に今までの距離の近さを知り余計に顔が熱くなった気がしたが、なるべく気取られないようにそっぽを向いた。



「そうね、そう言われたこともあったかしら。……実践できていた人は少なかったけれど」


「確かにな……」



呆れたように呟く雪ノ下に思わず同意してしまった俺。

そうなんだよな……。むしろ何もしてなくても嫌がられた俺は実践できてない男ナンバーワンまである。



「それに……、別にやられても嫌ではないわ」


「……は?」



信じられないセリフに雪ノ下へ顔を向けると、彼女も失言だったのか顔を赤くして床へ目線を落としていた。

つまり……どういうことだってばよ?



「わ、私はひそひそ話ごときにあなたのように取り乱したりしないわ、という事よ」


「……ほう?」



つーん、と先ほどの俺のようにそっぽを向く雪ノ下に、復讐心がメラメラと燃え盛る。

俺はゆっくり立ち上がると雪ノ下の真似をするわけではないがなるべく音を立てずに近寄った。癖になってんだ、音殺して歩くの。

いくら音を立てずに動いても、こいつの察知能力は俺より高いようで、こちらをちろりと目で確認するとまた床へ視線を戻す。なるほど、やってみろ、と。

その動作を挑発と受け取った俺は、ゆっくりと、雪ノ下の形のいい耳へ口を近づけ……



「……お」


「ひゃうんっ」



ずざざざー。

油断したノラネコが敵の接近に気付けなかった時の慌てっぷりを完璧に表現しながら、雪ノ下が俺から距離を取った。



「……」


「……」


「あの」


「い、今のは!」



まだ何も言ってないよ……。



「今のは、そう、声とかそれ以前に、あなたのような男が私の近くにいたことを許容できなかっただけであって、決してくすぐったかったとか、耳が予想以上に弱かったとかそういうのでは全くないから」


「いやお前さっきまで自分から近づいてきたじゃねえか」



ハンッと鼻を鳴らすと、雪ノ下が「ぐぬぬ」とでも言いたそうな顔で俺を睨みつけた。

息を一つついて、どこぞの黒い魔法少女のように髪をふぁっさーすると、どこからでもかかってこい的なオーラを放ちだす。



「じゃあ、やるぞ?」


「……ええ、どうぞ?」



俺は再び、雪ノ下へ近づき耳元で



「……ゆ」


「ふぅぅっ」



ずざざざー。



「……」


「……」



近づき



「……な」


「ひうぅっ」



ずざざざー。



「なんなんだよ!!」



何度やってもソッコー逃げ出す雪ノ下に業を煮やして叫んでしまう。

あいつ自身、逃げたのを認めざるをえない様子で珍しく手をもじもじさせている。



「そ、その、体が勝手に逃げてしまったというか……」



ほお、あそこまで逃げ回っておいてあくまで俺が悪いと申すか。

ならば逃げられない状況にすればいい訳だな?



「じゃあ、こうするか」


「……え?」



壁際まで退避していた雪ノ下を、これ以上どこにも行かせないために両手で逃げ道をふさぐ。



「あ、あの……」


「これなら逃げらんねえよな?」



顔を真っ赤にして俯く雪ノ下に、今度こそ耳元をターゲッティング。

なるべくくすぐったそうなイメージの、薄い声色で囁いてみる。



「……雪ノ下」


「あ、うぅ……」



とりあえず名前を呼んでみたが、呻くだけで返答はない。

こいつ、結局弱いんじゃないのか?



「……本当はお前も弱いんじゃないのか、耳……?」


「ち、ちがぅぅ……」


「……嘘は、言わないんじゃ、なかったのか……」


「あっ、あ、ふ……」



先ほどやられた、一言ずつ区切る攻撃の仕返しにさしもの雪ノ下も沈黙したようである。

……っつーか自分でやっといてなんだが、何この状況……。すっげぇ近いし、雪ノ下の反応もなんというか、ちょっとエロい……。


なんだか急に恥ずかしくなってきた俺が、雪ノ下から体を離そうとした瞬間、奉仕部のドアがノックもなく開かれた。



「やっはろー! なんか優美子が急用入った……とかで……」



闖入者の声がだんだんとしぼんでいく。


由比ヶ浜が、信じられないものを見る目でこちらを見つめていた。





――――――――

―――――

――



由比ヶ浜が現れて、最初は何やら勘違いをしたらしく「お、お邪魔だったかな」などと言って出ていこうとしたが、雪ノ下が必死に引き止めた結果、とりあえずは話し合いの形になった。

そして今由比ヶ浜は仁王立ちで俺の前にいる。雪ノ下は椅子の上で縮こまり、俺に至っては床に正座だ。何この差。パンツ見えそう。



「……で、二人がその、付き合ってるとかじゃないのは分かったけど、何をしてたの?」


「そのですね……なんといいますか」



落ち着け。まずは状況を整理してみよう。


Q.由比ヶ浜視点では俺は一体何をしていた?

A.雪ノ下を壁ドンして耳元で何か囁いていた。


あダメだこれ。正直に言ってもダメな気がする。

もごもごと言いあぐねていると、雪ノ下が遠慮がちに手を挙げた。



「あの、由比ヶ浜さん……」


「なに、ゆきのん?」


「さっきのは……そう、そこの男が発情して襲い掛かってきたのだけど、あなたが来てくれて助かったわ」



おいおいおいおい何言ってくれてんだこのアマ! こいつ友情の為に俺を豚箱に入れようとしてやがる!

だが由比ヶ浜も俺のリスクヘッジ能力を高く見ているのか、訝しげな目を雪ノ下に向けた。



「それにしてはゆきのん、あんまり嫌そうじゃなかったよね?」



う、と言葉を詰まらせる雪ノ下。いかん、余計に由比ヶ浜を怒らせる結果になったか……。

俺を見下ろすのをやめ、今度は雪ノ下に詰め寄って行く。



「ゆきのんって、嘘は吐かないんだよね?」


「え、ええ……」



正確には嘘が吐けないんだと思うが。あいつは生来嘘を必要とする場面が極端に少なかったから、虚言に慣れることが出来なかったのだと思う。



「じゃあ聞くね。『なにをしてたの?』」



まさか由比ヶ浜が心理戦をするとはな……。

雪ノ下も逃げ場がなくなったのか、しかしそれでも答える事が出来ずに俯く。



「……あーもう、正直に言うよ」



見ていられなくなった俺は、降伏を決めた。まあ、自分の恥ずかしい性癖を暴露するだけだ。たったそれだけでこの場をやり過ごせるなら安いだろう。



「その……俺の弱点の話をしてたんだよ」


「弱点?」



由比ヶ浜の表情が怒りから興味へと移っていく。こいつちょっとちょろすぎないか? そういえば戸部がここに来た時も恋の話を聞いたとたんに顔色変えやがったしな……。



「俺はどうやら、耳が弱いみたいでな。それを雪ノ下がからかってきたもんだから、じゃあお前はどうなんだよって話になって」


「……」


「雪ノ下が大言吐いたくせに逃げ回るから、壁に追いつめたところにお前が来たって感じだ」


「ふうん……」



すー、と由比ヶ浜の目が細められる。睨んでるわけではなく、真贋を見定めようとしているようだ。そのまま、雪ノ下にも目をやる。あ、真っ赤になって顔を逸らしやがった……。



「耳が弱いってどういう意味なの?」



取りあえずは信じる事にしたのか、怒りオーラがふと消える。

やれやれと立ち上がろうとするが、手のひらを額の上に翳されて制止を受けた。まだ座ってろってのか。



「だから……昨日お前もやってただろ? 耳元でぽしょぽしょされっと、なんかぞわぞわすんだよ。お前ああいうのやめろよ。男は簡単に勘違いしちゃうんだからな」


「そっか……」



翳した手をどかし、前屈みになる由比ヶ浜。ち、ちょっと待て、これはさっきの雪ノ下と同じ、いや俺が椅子に座ってない分より前屈するような体勢だ。

目の前には大きく広げられた胸元。柔らかそうな肌と肌が隙間なく合わさっている。雪ノ下とは違う、クッキーのような甘い匂いが鼻孔をくすぐった。……ごくり。



「――勘違い、しちゃうんだ?」


「ふあっ」


「あは、本当に弱いんだ……」



前屈姿勢から戻った由比ヶ浜が、妖艶な笑みで俺を見下ろす。ともすればペロリと舌舐めずりでもしそうな顔だ。ちょっとエロい。

その始終を見ていた雪ノ下がむすっとした顔で俺たちの間に割り込んできた。



「ゆ、由比ヶ浜さん、危険だわ! その男が調子に乗るのは実証ずみなのよ」


「おい」



お前が挑発してきたんですがねぇ……?

だが由比ヶ浜は取り合わず、逆に雪ノ下を睨み返した。



「でもゆきのん、壁ドンされてちょっと嬉しそうだった……」


「な、あり得ないわ。私がそんな事をされて喜ぶなんて」


「ふーん、じゃあゆきのんはもういいんだよね」


「……え?」


「ヒッキー!」


「うおっ!?」



がばあ! と飛びつくようにして俺の腕に絡みつく由比ヶ浜。や、柔らかいものが腕に当たってます! パターン青、おっぱいです!

さっきも感じた甘い香りが再び俺の意識を苛む。



「さっきゆきのんにしてた事、あたしにもしてよ」


「ゆ、由比ヶ浜さん!?」


「お、おい……」


「ね? ――おねがい」



ぽしょぽしょ。

由比ヶ浜の普段より甘えた声がウィスパーボイスになる事で、より一層の可愛らしさと艶めかしさを引き立てた。

相反しそうなその二つを見事に折り合わせた一言は、理性を一撃の元に破壊すると共に腕に感じる柔らかな感触を強く意識させ、もはや俺は由比ヶ浜の傀儡もかくやと言わんばかりに骨抜きとなったのであった。



「は、はひ……」


「ひ、比企谷くん!」


「な、ちょ!?」


「ゆきのん!?」



由比ヶ浜とはまた逆に、するりと滑り込むようにして雪ノ下が俺の腕に絡みついた。前者とは違い、どことは言わぬがふくよかさが足りないと思われた彼女はしかし、健全な高校生をドギマギさせるには充分な柔らかさと温かみを持っていた。



「あ、あんな事由比ヶ浜さんにさせる訳にはいかないんだから。絶対に――ダメ、だからね」


「ふひぃ……」


「ゆきのんずるい! あたしだって壁ドンされたいもん! ねえ、ヒッキー……してぇ?」


「おっふ……」


「――……ダメったら」


「くふぅ……」


「――……ヒッキー…?」


「らめぇ……」



両側からトロけるウィスパーボイスに挟まれた俺は何も考える事ができずに、いつまでも脳髄を溶かす甘い痺れに酔っていた。

はっきりとした時間は分からないが、おそらく数分ぽしょぽしょを続けてしばらくして我に返った二人は、ビグンビグンしている気持ち悪い男(俺)を冷めた目で見つめた後、二人で仲良く帰路へとつくのであった。


床、冷たいなあ(涙)





―――――――





「おにーいちゃん♪」



家に帰り、自分の部屋のベッドで今日の出来事について悶々としていると、いつの間にやら小町がそこに居た。また勝手に俺のTシャツ着てやがる……。ちゃんと下も履きなさい。


見るからに能天気そうな我が妹は携帯を持ち何やら上機嫌にくるくると回っている。こけるからやめろ。



「お兄ちゃんさあ、耳が弱いって本当?」


「は、はっ!? なにそれ知らないけど。どこ情報? それどこ情報よ」


「結衣さんと雪乃さんに聞いたー」



あいつらああああ!


しどろもどろになった俺にムフフ♪と意味深な笑いで近づく小町。


ベッドに座っている俺に抱き付くと、可愛らしい唇をこちらへ近づける。



「……おにいちゃーん♪」


「なんだよ」


「……あっれー?」



嬉しそうに小声で囁いた小町に、極めて冷静に返す俺。小町はアテが外れたのか「おかしいなー」なんて首をかしげている。



「お兄ちゃん耳弱いんじゃなかったの?」


「はっ、だからどこ情報だって言ってんだよ。嘘つかまされてんじゃねーか」


「むう……?」



っぶねー。本当はちょっとぞわっと来たけど、なんとか耐えられたわ。小町を妹以上として見ていないからか、胸がドキドキすることもなくギリギリで冷静に対応することができた。


それにこいつの事だから、こういう悪戯っぽいの好きそうだしな。予想できただけで大分マシだった。



「むーぬぬぬ。――あ、……ふーっ」


「ふおおあ!?」



むくれた小町が何か思いついたように抱き付きなおすと、今度はいきなり耳に息を吹きかけてきやがった。


予想外の攻撃に体は驚きに身をよじる。



「あはは、やっぱり弱いのは弱いんだ」


「おまえな……」


「でもなんで声だけじゃ効かないのかなー」


「知らん。ていうか効かん」


「またまたー。お二人には骨抜きにされたみたいじゃないですかあ?」



ニヤニヤとやらしい笑いを隠そうともしない性悪天使小町。


あいつら、どこまで話してくれやがってんですかねえ……。


兄の性癖を妹に伝えるってどんな状況なんだよ。黒歴史もバレてる上に性感帯まで掌握されてるとか、マジで千葉の兄妹ってすごい。改めてそう思いました。



「小町のだけ効かないって事はー……やっぱり、二人には女性的な魅力を感じてるからかな?」


「はあ? そそそそんなことないじょ!」


「……」


「……」



ニヤッ。


こいつ、すっげぇ悪い顔してる……。べ、別にあいつらが特別……ではあるかもだがそういう訳じゃないんだからねっ。勘違いしないでよねっ。俺も勘違いしないように気を付けてるんだから。


小町はすぐにこやかな妹フェイスに戻ると、今度は俺の腕に抱きしめ直す。



「そういう事なら、ポイント高いかなー」


「へーへー、そうですかい……」



んふふ、と頭をぐりぐり俺の肩に押し付ける。猫みたいだな。小町はずっと一緒にいたからか、なんだか安心する匂いがするんだよな。抱き枕にしたら安眠できそう。


そんな事をぼへーっと考えていると、小町は座ったまま背を伸ばしてまた耳元に近づく。事前に分かっちまえば効かないって分かったろーに。



「妹的にはポイント高いけど、――小町的には、ポイント、低いかなぁ」



ぽしょぽしょり。


今まで幾度となく聞いたはずの小町の声はこれまでのどの言葉よりも切なそうな響きを秘めていて、耐性があるはずの俺の心理的防護壁と聴神経をたやすく突破した。


ただ甘いだけではないその響きは、妹と侮った俺に小町は女性なのだと新しくイメージをインプットさせるには充分な艶やかさを持って、感覚記憶を保存する海馬にしっかりと刻みこまれたのであった。



「――あは♪」



声も出せない俺に、小町は満足そうに笑う。


その顔は、いつも一緒にいて、一緒に育って見てきたどんな表情とも違って見えた。



「ちゃんと効くんじゃん。まだまだ小町にもあるよね、ちゃんす」



それだけ言い残して、小町は俺の部屋を去って行った。


どうしよう、妹が怖い。


そうだ、高坂さんに相談しよう、人生相談があるんだけど!



「あ、そうだ」


「うおっ!?」


「お兄ちゃんの弱点さー」


「……弱点ちゃうわ」


「……いいから。お兄ちゃんの弱点、色んな人にばらしちゃった」


「………はあああああああ!?」



部屋のドアの隙間からにょきりと上半身だけ生やして、小町がとんでもない爆弾発言を残していった。



――――――



憂鬱だ……。

あれから小町をいくら締め上げ(と言う名の煽て)ても、誰にバラしたのか吐きやがらなかった。

それどころか


「教えてあ・げ・な・い、ふーっ♪」


などと耳に息を吹きつけて煙に巻かれる始末。

小町の行動範囲というか交友関係は無駄に広く、総武高校に限っても普通に俺よりも連絡先が多いので全く把握し切れていない。いったい何人があの情報を手に入れたのか。

普段ならぼっちには関係ないと強がっても見せるものだが、(客観的に見て)常識人の雪ノ下が見せたあの行動が、どうにも危機感を募らせる。



「……なにもありませんように」



思わず神にすら祈ってしまったが、千葉限定かしらんがラブコメに関してはまちがっている前例があるため、気休めにもならないのであった。もう神も仏も滅べばいいのに。ゴクドーくんお願いします。


今日も駐輪場に自転車を停め、下駄箱で履き替え。

すると後ろから優しく肩を叩かれた。



「八幡っ」


「戸塚ぁ! おは――」


「――おはよっ」



振り返った瞬間目に入ったのは、物理的に入れても痛くなさそうな現世に舞い降りし天上の使いだった。

予想外に近くにあり、一瞬の出来事であるにも関わらず色素の薄い柔らかそうな髪、慈愛を感じさせるうるっとした目、形の整った小さな鼻に可愛らしい唇、と戸塚の全てが海馬に記憶される。

それらが俺の顔の横を通りぬけざまにぽしょりと朝の挨拶を残していく。

耳の穴から侵入してきた音の波は脳内で受肉し戸塚の姿を形取り、脳みそをこねこねして俺の頭を戸塚でいっぱいにした。――結婚したい。



「えへへ、小町ちゃんが八幡はこれが弱いって言ってたから……。あれ、八幡? はちまーん」



戸塚(脳内)がいつまでも消えずに俺の頭の中に住み着き、やがて長い付き合いの末結婚する寸前、戸塚(リアル)によって現実に引き戻された。



「お、おう、そうか」


「ふふ、八幡の弱点知っちゃった」


「ッッッ!」



小町グッジョッッッッ!!

これだけで昨日の罪状を全て濯いでもいいと思える。

挑発的に笑う戸塚は初めて見たが、その表情も所作もパーフェクトだった。はちまん点あげちゃう。



「じゃあ、ぼく先行っちゃうよー」



棒立ちでフヒヒと笑っていると、待ちきれなかったのか戸塚は先に教室へ向かってしまった。動けよ俺の足! 今動かなきゃなんにもならないんだ!

あーでも今の戸塚だけで10年は戦える気がするわー。じゅるり、おっとよだれが。

道行く見知らぬ女子が「ウッ」と汚物を見る目でこちらを見たため、両手で頬を叩き表情筋を引き締め直す。よし、行くか。フヒッ。


廊下を歩きながら戸塚の事について考える。いや戸塚の事はいつも考えているが、そういう意味ではなく「小町から聞いた」という点だ。

小町には戸塚の話は時たまする程度だが、本人同士は数回会った程度のはず。勉強会、千葉村、誕生日会辺りか?

我が妹のコミュ力の高さには舌を巻くが今回の件に関してはを焦燥を感じざるを得ない。

数回会っただけの戸塚の連絡先を知っているのだ、もしかしたら1回会っただけのクラスメイトにさえメールアドレスを聞いているのかもしれない。

戸塚は良いとして、戸塚は良いとして(大事な事なので)次から知り合いと顔を合わせる時は慎重になった方がいいだろう。




* * *



そーっと、ステルスヒッキーを発動させながら教室に入る。

がやがやと今日も騒がしい我がクラスは毎度のごとく、それぞれのグループを維持しつつ談笑している。

俺が教室に入ろうとも気にする者はおろか、気付いた様子すらない。……一部を除いて。


まず由比ヶ浜がちらっとこちらを見た。

まあこいつは問題じゃない。というか小町にチクったのはコイツと雪ノ下だしな。

そのぺらっぺらに軽い口を閉じろと睨みつけてやりたい所ではあったが、顔を見たとたんに昨日の事を思い出してしまったので顔を逸らすついでに教室を見回してみた。

そこに俺を確認した途端、びっくーん! と体を跳ねさせた女子が一人。ホンダだっけ? スズキかな? ……川崎か。

あいつは間違いなく聞きやがったな……。

直接連絡先を知らずとも、大志という連絡経路(人間とは認めていない)があるからな。予想していた訳ではないが驚きも少ない。

他に、俺に反応したやつはどうやらいないようだ。取りあえずここでこれ以上気を張る意味はないと判断して席につく。


どうしようかとも思うが、しかしまあバレたと知ったところで何が出来る訳も無し、俺はいつものように寝たふりを始めた。トイレにでも逃げ込むのもアリだが、トイレには授業が始まる直前に行くのが通のぼっち。頻繁且つ長時間トイレに居るとトイレの神様とかあだ名付けられるからな……。

なんなんですかね、あれ? トイレはたむろするところじゃないんですよ? 用を足すところなのに用を足したらやり玉にあげられるんだよな。


ふう、そんな暗い過去より明るい未来の事を考えるか。

先ほどの戸塚の妄想(みらい)を頭の中で描き始めようとした瞬間、俺の肩に手が置かれた。



「――ねえ」



戸惑いがちに上から落ちてくる囁き声。……川崎かぁぁ。ちょっと行動が早すぎる気がするのだが? サキサキは先を行くのかな?

寝たふりも始めたばかりでそのままやり過ごすのも憚れたため、仕方なく体を起こそうとするも、肩に置かれた手が優しくそれを抑えた。



「――そのまま聞いて……」


「……っ」



普段の勝気な印象も声量と同じくなりをひそませている。いつもの気だるげなハスキーボイスは、囁く事によって悩ましい色気を漂わせていた。

顔だけぐりんと横に回し、足りない分さらに横目で川崎の様子を確認すると、屈んでいるため照明の逆光により影っているが、それでも分かるほど赤面している。

眉尻は下がり、困ったような表情と、肩に置いたのとは逆の手で髪を耳にかける動作が、心臓に負担をかけるには充分なエロスを発していた。



「――アンタの妹が、その、こうすると喜ぶって言ってたから……」



小町ィィィィィ!

なんだよ喜ぶって! どっちかーっつーと俺は漢字的には悦ンッンー! ワタシは何も考えてマセーン! トゥーンにより無効デース!

しかしこいつがそんな事で俺に話しかけてくるのは意外だ。ぼっちとぼっちが仲良くしても、悪夢のペア決め以外でメリットなんてないはずなのに。



「アンタには借りがあるし……だから、」


「――喜んで、ほしくて」


「ッ!」



ぽしょぽしょ。

ずるいっすよこれは。あのいつも強気な川崎が不安げな声で喋るだけでも何かクるものがあると言うのに、よ、よろこ……。

このセリフのチョイスは言うならば二回曲がるカミソリカーブくらいの威力で、身構えていた八幡スピリットは見事に空振りし、その言弾はミットと言う名の鼓膜へ吸い込まれていった。ワンストライーク。

思わず組んで枕にしていた両手に力が入り、左右それぞれの袖を握り締める。その様子に川崎も効果は絶大だと思ったのか喜色めいた声音が混じり始めた。



「……あ、き、効いてる……のかな」



ツーストライーク。



「――うれしい」


「ぉふ」



あーっとここでピッチャー直球ストレートを選択ゥ! 先ほどの緩急にバッターついていけなーい! 空振り三振、ゲームセット!


これまでにコレをされた誰にも「エロさ」は感じていたが、川崎のそれは俺に対して「女」を強くイメージさせるものだった。

俺の目はイメージを強調させる言葉を発した唇に釘付けになってしまった。ピンク色の、柔らかそうなそれは口紅かリップクリームかは分からないがぷるんと光沢を放っている。

彼女の唇が何かまた言いかけるように形を変え、吐息を漏らし、思わず体を縮こめる。

びくりと震える俺を見て何故か満足げに微笑み、川崎は自分の席へ戻って行ったようだ。……ようだと言うのは顔を上げられずに視界の端でしか確認できなかったからである。

顔も上げられなければ立ち上がる事も出来なかった。立ってるのに不思議だね? フフ……下品ですが。


結局、授業が始まる前にトイレには行けない俺であった。




――――――

――――

――




本日最後の授業も終わり、よろよろと立ち上がると鞄をもって教室を出た。

授業中は戸塚と川崎の事が頭から離れずに、全く持って集中できなかったぜ……。しかも由比ヶ浜も何か言いたげな顔でこっちをちらちら見てるし。


そういう訳で、何か言われる前に逃げるように教室を後にして、少し時間を置いてから部室へ向かう魂胆である。

そんな時に俺を迎え入れてくれるのは昼食時にもお世話になるベストプレイスだ。ついでにマッカンも完備。最強構成。

はあ、俺のベストプレイスまじベストプレイス。

準備運動してる戸塚を見ていると朝の事を思い出してしまうが、さらさらと吹くそよ風が火照った頬に気持ちが良い。


なんだかMAXコーヒーがいつもより甘く感じて、半分程残して横に置いていると、少し遠くから明るい声が飛んできた。



「あっ、せんぱーい!」



せんぱーい、呼ばれてますよー。



「先輩ってば!」


「お゛ッ!?」



声の主を確認もせずにテニスコートを眺めていると、背中に衝撃が走り変な声が出てしまった。

後ろを見ると俺に叩きつけた掌底を胸元に戻し、「きゃるん♪」と効果音が付きそうなポーズで一色いろはがそこに立っていた。ていうか今の何、張り手? ところでアシガラドッコイって技名カッコいいよね。


打撃じゃない、衝撃<インパクト>! を喰らった俺は背中をさすりながらあざとい後輩を睨みつけた。



「一色か。……何か用か」



知り合いと顔を合わせる際には注意すべし、と教室で決めたが、一色に関してはどうしたものか考えあぐねる。

クラスメイトではないし、小町とも面識はないはずだ。……ないよな?

あんまり自信はないが奉仕部面子ですら連絡先を知っているかも怪しいし、小町にこいつの事を詳しく話した記憶もない。知らんうちに会ってメアドも知ってます! などと言われたらそれはもうどうしようもない事だ。


結論、注意して話を聞き怪しかったらダッシュで逃げる。


よし。

そう結論付けした俺は一色の言動を細かく確認しながら話を聞く態勢に移った。



「ちょっと生徒会の仕事が手詰まり気味で~」


「自分でなんとかしろ、以上」


「ちょ、先輩!?」



そして打ち切る。

もう小町が何を言ったとかそういう問題ではなくて、単純に一色が持ってきた仕事を受けたくなかっただけだが。

こいつめ、事あるごとに俺を小間使いとして扱いやがる。



「奉仕部は何でも屋じゃねえって言ってんだろ」


「ぶーぶー! いいじゃないですかー! それに、奉仕部じゃなくって先輩個人にお願いしてるんですよ」


「いや、もっとお断りなんだが……」


「なんでですかー! こんなに可愛い後輩に頼られて嬉しくないんですかぁ?」



キャピーなんて聞こえてきそうなあざといポーズ。ギェピー!

しかし歴戦の敗者たる俺には通用しない。敗者なのかよ。



「ううー、私一人だと終わるのがいつになるかも分からないんですよぅ」


「……」



あざとさは消えないが、困っているのは本当らしい。

それに、どうやらこいつは俺の耳に関して何も聞いてないように思える。一色の事だから、もしそれを知っていたならば「お願いしますよー、ふー♪」なんてまさに可愛くない小町みたいな事をしてきただろう。


やれやれと息を吐く。

どうせ奉仕部に遅れていく為の言い訳を探していたし、ちょうどいいか……。



「分かったよ……。少し手伝うだけだからな」


「ほんとですか? やった、流石は先輩ちょろぃ……優しいですね♪」


「おい」


「それじゃ、行きましょうか」



今ほとんど言いきってたよね? そこ無視は無理があるだろ。

しかしもう了承してしまったので、仕方なしにぴょこぴょこ飛び跳ねながら歩き出す一色に付いていく。

半分残ったMAXコーヒーは、途中にあるゴミ箱に捨てたいし一気に飲み干しちまうか。

グイと缶を傾け、残りを喉へ流し込む。



「……ふう」


「せんぱーい、早く行きますよー!」


「はいはい」



鼻に残る甘い香りがマッカンのせいなのか、前を歩く一色に残り香なのか、俺には判断が付かなかった。




* * *



「なあ」



カリカリとシャーペンの走る音だけが響く生徒会室で、俺の声がそれを打ち消した。



「なんですかあ?」


「なんで俺たち以外誰もいないんだ?」



そう、今この生徒会室には俺と一色の二人しかいない。シャーペンの音が止まるのも、俺が声をかけて一色が反応すれば、他に音を発するものがないからだ。

手詰まりと言うだけあって仕事量はそれなりだが、終わらない量ではない。だがそれも生徒会役員全員でかかれば30分もしない内に終わるはずだ。

残った書類の山を見ながらそんな事を考えていると、一色が淡々と質問に答えた。



「今日はお休みの子と早引けの子が多いので休日としました。それと、残っている仕事の多くが会長の裁定待ちばっかでしたしね」


「ああ、そう。……え、じゃあ俺いらなくない?」



事実俺が担当している仕事量はそれなりとは言いつつ、後日に回していいものが多いと感じる。

一色の担当は会長でなければダメな重要書類なので手は出していないが、そこまでせっぱ詰る多さでもないはずだ。

ていうか生徒会って休日あるの? 奉仕部にも制定してくんないかな。



「休日にしたのは良いんですけど、わたしって一人で黙々、って捗らないし性に合わないんですよねー。それに今日やらないと週末に食い込んで来そうですし」


「そりゃお前の都合な上に俺には手の出せない仕事だろうが……」


「ええー? わたしを会長にしたのは先輩なんですから、先輩にもできるはずですよ。はいどうぞ♪」



どんな理屈だよ……。

差し出された書類を押し返しながらため息を吐く。

一色はむくれ顔でそれを引っこめると、右手のシャーペンを机の上に置いた。



「いったん休憩でもとりますか」


「……そうだな」



からから音を立てて椅子を引き、立ち上がる一色。そういえば生徒会には無駄に私物持ちこんでたしな、お茶を入れるためのポットやらもあるんだろう。

俺も一息つけるかと首を鳴らしていると、がばちょと後ろから抱き付かれた。



「うおっ、ななななんだよ!?」


「えー? ……――きゅうけい、ですよ?」


「っ、お、まえまさか……聞いたのか……」



挑発的な声と含み笑いを右耳に受けて抜け出そうともがいてみるも、抱き付いた一色の腕も引きはがせないレベルで力が入らない。

後ろから首を抱きしめられるような形で密着して嫌でも体温を感じてしまう。……っは! これはまさか、伝説のあすなろ抱き! 実在したというの!?



「どうやら本当に弱いみたいですね~、……せーんぱい♡」


「っゃめろ……!」


「ふふ……せんぱーい♡」


「お、い……」



ヤバイ。

これは危険だと今までに負け続けた本能がガンガンに訴えてくる。


――これには、勝てない。


一色のあざとさは俺も理解していたはずだ。そしてそれは俺には通じないと、そう思っていた。

だがそんなのは傍から見ていた上辺だけの認識だったのだ。

檻の中のライオンを怖くないと勘違いしているようなものなのだ。


ここはライオンのホームグラウンド。

密室の生徒会室だ。そんな敵の本拠地にも関わらず油断したのは、自分の驕りだ。

歴戦の敗者などと自分を誇示しても、自意識の化け物などと誉めそやされても、一人の女子の、ただの囁きにこんなにも打ちのめされているのだ。



「――あは、カワイイです、せんぱい……」



俺の絶望が表情に出ていたのか、一色は横から覗き込み、由比ヶ浜が部室で見せたのと似た妖艶な笑みを浮かべている。

本人にその気がなくなっても、ぽしょぽしょと漏れるウィスパーボイスが聴神経を駆け巡り、ぼう、と耳が熱を持ち始めた。


一色も何かを感じているのか、頬が熟したリンゴの様に染まり上半身をこすりつけるように左右に揺すらせる。

ぽよぽよとしたものが背中に押し付けられては離れ、存在をアピール。

理性は耳だけでいっぱいいっぱいなのに、意識はしっかりと背中の感触を確かめている。男って悲しい生き物なんですね……。



「どこで、聞いた……」


「そんなのどうでもいいじゃないですかぁ……――せんぱいは、わたしの声だけ、聴いてればいいんですよ」



精一杯の抵抗、もとい時間稼ぎも、結局は一色に喋らせる必要があるため全く意味を為さない。

黙って腕をばたつかせても、逃がすまいとより強く抱きしめられる。



「……にがしませんよ♡」


「……っ」


「諦めちゃいましたかぁ……?」



ラリーでも壁打ちでも、球が帰ってくるのが前提だ。もちろん会話も。

だというのに、俺が黙っても一色はぽしょぽしょと囁くのを一向にやめない。

右耳の熱が頭部全体を侵し、首を伝わり、全身へ巡る。



「……んふふ」


「……くっ……」


「……ん、……せん、ぱい……せんぱい――」



ただの「上級生」の意味の単語にしかすぎないというのに、彼女の言葉は脳みそをとかす甘美な調べとなって耳へと流れ込む。

音波にすぎないはずの声は、洪水のようにうねりを上げて俺の理性を押し流そうとしていた。

甘く甘いピンク色の奔流に、理性は危険信号と抵抗を示すも俺の意識は既に陥落し、ついに濁流に溺れかける理性の手を放してしまったのだった。



「……い……っしきぃ」



俺の口から声が漏れ出る。自分でも驚くほどに情けない声だった。

逃れようとしていた腕が無意識に一色を求めてさまよい、俺の首に腕を回して抱きしめている彼女の手に自分の手を重ねた。

柔らかくて暖かいその手が、自分の手にすっぽりと覆われているのを見ると、何故だか無性に愛おしく感じてしまう。


瞬間、ぶるりと大きく一色の体が震えた。

え、そんなに嫌だったの? と一瞬理性を取り戻しかけたが、一色の吐息とも笑い声ともつかない声に、再び深く桃色に沈むこととなった。



「――あ、はぁ……♡」


「――――ッ!?」



あ、ムリだ。

俺の理性は最期にそう言い残して、融けて消えた。



「……せんぱい、ずるいですよぉ……」


「……ぅあ」



何がとも尋ねる事さえ叶わない。

肉体的にも精神的にも抵抗をやめた俺は、すがるように一色の手を握り締める事しかできない。



「……こんなの、抑えきれなくなっちゃいます……」


「……っ、な!」



ぽしょりとそう囁いた後、一色は自らの額を俺の側頭部へ押し付けた。彼女の鼻先が耳介、耳の上部をくすぐる。そして――



「――っはあ……はあっ……」


「ぅあ……」



唇が、耳の穴のすぐそばに、触れるか触れないかの距離に置かれ、吐息さえ俺を射殺しかねない暴雨となって襲い掛かる。



「……せんぱい、きっと、わたしもせんぱいも、今おかしくなっちゃってますよね……」


「……ぁ、ああ……」



一色が確認するように尋ねる。今までより近い距離の声に、体の反応が抑えられないが気にもしていられない。

お前のせいだろ、と言ってやりたいが不用意にホイホイついてきた自分にも責任を感じてしまうので肯定しておいた。



「……だから、今から言うことは、何の意味もないので、返事も責任もいりません……」


「……、っ?」



その台詞に、どのような意味があるのか全く理解が及ばない。しかし本能だけが、それを甘言だと、禁断の果実に絡みつく蛇をイメージさせた。

否定も肯定もできない俺の耳に、一色の唇が開かれる水音が淫靡に響く。





「――――すき」



「……………………っあ」




「……せんぱい、……好きです、せんぱい……」


「はぁ、はぁ」


「……好き、……はあ、んくっ……だいすきぃ♡」


「ふ、っぐ……」



一色が止まらない。俺も止められない。

言葉の意味を考える事も放棄して、ただただ耳を通して送られてくる快感と熱に浮かされている。

彼女も同じなのかだんだんと抱き付く腕に力が入り、さらに距離が縮まる。もう、唇は完全に耳に触れていた。



「……ん、ちゅ……せん、ぱい……ふぅ、んぅぅ♡」


「――あ、ぅあ、いっし、き……も、やめ……」


「……どうし、たんですかぁ……?」



理性を融かし、後に残った本能でさえもこれ以上は危険だと叫んでいる。

一色から送られた熱が、物理的に脳を溶かしそうなくらいに熱い。



「……もう、やめろ……とける……」



残った力を振り絞って、まさに絞り出した言葉。

どうにか危険を示すも、通じているのか、むしろちゃんと言えているのかも分からない。



「……あは♡」



あ、これ通じてないわ。



「……いいですよ……せんぱい」



ねっとりと絡みつく。声も、腕も、熱も、匂いも。

そのすべてをもってして、トドメが撃ちこまれた。




「――――とけちゃえ♡」




「あ――――」




プツンと何かが切れる音がした。

甘い痺れはついに本物の電気ショックとなって、脳のブレーカーを落としたらしい。

桃色の濁流に溺れた理性のように、俺の意識も深く、深く沈んでいった。




* * *



気付くと真っ白い天井を眺めていた。


場所を確認するために体を起こそうとしても、上手く力が入らない。仕方なく頭だけ動かして辺りを見回す。なんか見覚えがあるな……。

見覚えがあると言っても周りはカーテンに囲まれていたのだが、その色合いと隙間から見える薬品棚からここが保健室であると推測した。

少なくとも救急車で運ばれた訳ではなさそうだ。


ひとまず安心する。

年下の女の子に耳を責められたら気絶して搬送されました、なんて黒歴史ってレベルじゃねーからな。

取りあえず落ち着きはしたが、なんだか体はだるいし、耳にもまだ、一色から受けた熱がぽわぽわと残っている。

思い出すと布団を引っ被って叫びたくなるが、やっぱりだるいので大人しく寝転がっておこう。今が何時なのかは分からないが最終下校時刻になれば誰か呼びに来るだろ。……来るよね? ワンチャン忘れられて朝を迎えそう。俺のステルスも考え物だな。


そう決めて、せめて横を向こうと寝返りを打とうと体に力を入れるのと同時、カーテンがシャッと開かれた。



「あ、気が付いたの?」


「……めぐり先輩」



カーテンを引いたのは、ほんわかオーラをほんわか放つ唯一上級生の知り合い、城廻めぐり先輩だった。

彼女は自分の学生鞄とは別に、もう一つ同じ型の鞄を持っていた。おそらく俺のか。



「それ、俺の鞄ですか?」


「そうだよー。生徒会室から持ってきたの」


「すんません、ありがとうございます」


「いいのいいの」



ぽわわ、と笑顔を見せながら鞄を床に置き、背もたれの無い丸いパイプ椅子に腰かけると、そっとこちらへ手を伸ばしてきた。そのまま額に触れると、しばらく動かなくなる。冷たくて気持ちいい。



「うーん、少し熱いかな?」


「そ、そうですかね」



おそらく、というか確定で風邪とかそういう類じゃない事は自覚している。

一色のぽしょぽしょを超えたぽしょぽしょ攻撃により陥落した俺の脳が放出したアドレナリン……いや、エンドルフィンか?

ともかく脳内麻薬みたいな物の後遺症だろう。体が重くて、頭がぼーっとする。麻薬、ダメ、絶対。



「一色さんが慌てて連絡してきたんだよ、先輩が倒れちゃったんです、って」


「……そうなんですか」



倒したの間違いじゃないのか。まあ俺を倒したところで経験値なんか渡せるほど持っていないがな!

俺も自身の事を吹けば飛ぶ存在だと思っていたが、本当に吹かれてトんだ。なにこれ怖い。

そういえば、生徒会室で一色が変な事言ってたよな……。しかし俺もあいつもおかしくなってたって自覚があるし、それこそ勘違いだよな、うん。



「その、一色、は?」


「一色さんと私で君をここに運んだあと、生徒会室に戻ったよ。起きるまで待ってれば、って言ったんだけど『今は顔を合わせられないです』だって」


「……」



勘違いなんですよね? 思いっきり意識してそうですが。

あの時のあざとい後輩の顔を思い出して、熱がぶり返した気がした。



「ねえ、比企谷くん……」


「はっ。はい、なんですか?」



めぐり先輩がほわほわした雰囲気を引っこめ、やや沈鬱気味なトーンで俺を呼んだ。

この人が暗い顔をしているところなんて、滅多に見ない。というよりそもそも余り会わないのだが、その表情には見覚えがあった。彼女の暗然たる顔は――あの文化祭の最後以来だった。



「私ね、今でも後悔してるんだ。……文化祭の時、どうして君の事を分かってあげられなかったんだろうって」



どうやら、その事をまだ引きずっているらしい。道理で見覚えがあるはずだ。



「それは、俺がそう仕向けたからですよ」



相模からこちらへ、ヘイトを集める行為。

そのためには、誰に理解もされてはいけなかった。そうでなければ意味がない。



「それにめぐり先輩は体育祭で分かってくれましたし、気にしてないですよ」



そうだ。彼女は分かってくれた。

あんな、非難されて当たり前の事を見せつけられてなお、俺を理解してくれた。

普通はそういう相手だと思っていれば、二度と近づきたくないというのが当然だ。それだけでも充分、めぐり先輩は俺にとってありがたい存在なのだ。



「でもね、私は……こんなずるい私を許せない」


「えっと……どういう……?」


「体育祭の時に、比企谷くんがした事が分かった。文化祭が成功したのも、相模さんが悪く言われずに済んでいるのも、君が犠牲になった事で成り立っていたんだって」


「……」


「私は、分かったってだけで、比企谷くんに何も返せてない……。なのに君には色々頼み事をして……ごめんなさい」



それだけ言うとめぐり先輩は座ったまま膝を握り締めて頭を下げる。

慌てて制止しようと、俺はなんとか上半身だけでも起こして両手を振った。困り顔Wノーサンキュー。



「いや、ほんとに気にしてないですって。頭上げてください」


「うん……」



それでもまだ納得のいっていなさそうな彼女に、どうしたものかと重い頭をどうにか回転させようとしていると、またぽつりぽつりとめぐり先輩が話し始める。



「それで、何か恩返しをしたかったんだけどね?」


「はあ……」


「はるさんにも相談してみたんだけど……」


「雪ノ下さんに……」



あれ、なんか嫌な予感がするぞ?



「その、比企谷くんは耳元で囁けば喜んでくれるって……」


「…………」



この瞬間、俺の中でラスボスが決定した。

あの人は、本当に引っ掻き回してくれる……。



「一色さんも比企谷くんには助けてもらってるって言ってたから教えたんだけど」



そういう事だったのね……。

つまり「小町→陽乃さん→めぐり先輩→一色」という伝言ゲームがなされていたのだ。

伝言ゲームだからこそ、情報の正確性があいまいなのか。弱点って話だったのになんで喜ぶことになってんだよ。いや、まあそういう面も無きにしも非ず的な?


何も言えない俺に、めぐり先輩は暗い顔から恥ずかしそうな表情へ変え、ある事を訪ねてきた。



「その……喜んでくれるって、そういう意味、なのかな」



何の話だ?

訝しげにめぐり先輩に目を向けると、先輩は赤みが差した顔である一点を見つめていた。


――下腹部が毛布を押し上げている。



「おわああああ!?」


「きゃあっ!?」



咄嗟に膝を丸めて恥ずかしいふくらみを隠す。

思えば一色にぽしょぽしょやられてる時から破裂しそうな程張りつめていたが、気絶後も朝のアレ的な意味で収まりがつかなかったのかもしれない。

っつーかちょっと待て。運ばれてる時もこのままだったのか。なにそれ死にたい。



「す、しゅ、すみません……」


「う、ううん、こちらこそ……?」


「ねえ、あの、一色さんは……し、したの?」


「いやっ、そのあれですよ、そんな事実は」


「したんだ……」



ホント死にたい。

年下女子(生徒会長)にぽしょぽしょやられて股間を膨らませていたのを年上女子(元生徒会長)に知られるとかどんなギャルゲーの設定だよ。胃が痛いよ。



「学校で、し、しかも生徒会室でそんな事するなんて……」


「いや、俺がした訳じゃ……」


「……何かしてあげたいとは言ったけど……こういう事じゃ……はるさん……」



めぐり先輩が何やらひとりぼそぼそ喋っている。

その隙に何とかアレを沈めようと瞑想染みた事を始めてみる。しずまりたまえ……。



「とにかく、比企谷くんへのお返しは何か考えておくから」



こほん、と顔を真っ赤にしながらも息を整えてそう言うめぐり先輩。女子の下ネタはエグいとよく言うが、めぐり先輩はこういった話には慣れていないのだろう。

そんな彼女を見ていたら、何故だか嗜虐心がムラムラと湧いてしまった。



「めぐり先輩はしてくれないんですか。……少し残念です」


「ええっ!?」



演技とも呼べない、ほぼ棒読みのセリフにめぐり先輩は面白いほど反応した。満足。

ここでなーんちゃって! と言うために冗談だと強調するように棒演技をしたのだ。流石は俺、リスクヘッジはきちんとしている。



「……し、してほしい、の?」



きちんと……。あっるぇー?



「いや、冗談です、冗談!」


「比企谷くん……」


「め、めぐり先輩!?」



顔を上気させためぐり先輩がじりじりと寄ってくる。

未だ力の入らない体では逃げる事すらできはしない。

触れそうな程に近づいた彼女の、そっと口を開く気配がした。



「――君はやっぱり、不真面目で最低、だね……」



ぽしょぽしょ。

先輩が放った言葉が、文化祭と体育祭の記憶を呼び覚ます。しかしそのどちらの時とも違う声色が俺の背中をびりびりと走り抜けた。

ゆるいはずのめぐりんアトモスフィアは、普段のほんわかした暖かさではなく明確な熱として、落ち着き始めた俺の体に再び火を点けるのであった。



「ご、ごめんなひゃい……」



愛すべきゆるほわ先輩にぽしょりと囁かれ、思わず謝ってしまう俺。呂律まわってないけど。

めぐり先輩はくすりと笑って、自分の鞄を持って立ち上がった。



「先輩をからかうなんてダメだよ」



そう言ってはにかむめぐり先輩の顔はほんのり赤く、男であれば誰でも何かに落ちてしまいそうなほど色っぽかった。



「じゃあ、またね」


「……さようなら」



一人保健室に残された俺は、一抹の寂しさを感じて毛布に潜り込んだ。先輩のオーラの依存性マジ高い。

開かれたカーテンから時計が覗く。最終下校時刻まではもう少しあるか。


めぐり先輩によって再度点火されてしまった体の熱を早く冷まさないと、帰り道に通報されてしまいそうだと、頭だけは冷静に、回避すべき最悪パターンを構築している。

だというのに、ふとした瞬間に浮かぶ後輩と先輩の顔がちらつくだけで、酸素を取り込んだカイロみたいに毛布の中の温度がどんどん上がってしまうのだった。




* * *




なんとか燻る心を落ち着けて保健室を後にする。

そういえば結局一色の仕事も放りだしたままだし、奉仕部にも何も連絡してねえや。


……明日の事は明日の俺がなんとかするさ!

ダメな方の名言で精神的逃避を完了させて、携帯を確認してみると何件かのメールと電話受信履歴があった。


From【★☆ ゆい ☆★】

件名:ヒッキー?

本文:今日は奉仕部来ないの?(´・ω・`)


そして数件の受信履歴。


From【★☆ ゆい ☆★】

件名:何かあったの?

本文:電話出れない?


そして数件の受信履歴。


From【★☆ ゆい ☆★】

件名:いまどこ

本文:なにしてるの



怖い。怖いよ。

ピッピッと指を滑らせてスクロールさせてその辺りのメールをすっ飛ばすと、見慣れないアドレスからメールが来ていた。



From【***@...】

件名:一色いろはです♪

本文:結衣先輩にアドレス聞いちゃいました。登録してくださいね。


    今日の事は誰にも内緒ですよ☆

    またわたしのお仕事手伝ってくれたら、お礼、いってあげます♡



……。

カチっと音を立ててスリープボタンを押し込む。


明日の事は明日の俺がなんとかするさ!

再び現実から目を逸らして下駄箱の方向へ向かうと、喫煙所から戻ってきたのか煙草の薫りを漂わせた平塚先生と出くわした。

奉仕部に顔を出していないし、挨拶がてら説明しておくか。



「あ、先生、丁度良かった。実は今日は」


「ああ、生徒会の手伝い中に倒れたんだってな。大丈夫か?」



どうやら一色かめぐり先輩かは分からないが先生に報告してくれていたらしい。



「はい、もう大丈夫です」


「なら良かった。雪ノ下も由比ヶ浜も、君を心配していたぞ」


「……え、あいつらも知ってるんですか?」


「部活に現れない君を探して、私のところに来たからな。その後に一色君が息を切らせて飛んできて、比企谷が倒れたと報告を受けてな」


「そうでしたか……」



メールを見た限り全く反省してないと思ったが、一色は一色で焦っていたのだろうか。まあ、人が気絶する所なんて普通に過ごしてたらほぼ経験しない場面だしな……あいつのせいだけど。

じゃあ由比ヶ浜のメールと電話は、俺が倒れる前に送られたものか。ほとんど流し読みで時間まで見てなかったわ。



「比企谷が起きるまで待つとも言っていたが、いつになるか分からなかったしな、先に帰らせたよ」


「はあ、分かりました」



気のない返事をしてしまったが、正直グッジョブ平塚先生である。

今の状態であいつらに質問攻めでもされたら本当の意味で頭が痛くなりそうだ。



「じゃあ、俺も帰りますね」


「ちょっと待ちたまえ」



心の中でグッジョブしたまま先生の脇をすり抜けようとしたところ、腕を掴まれてしまった。



「なんですか……」


「君の妹君が何やら面白い情報をくれたが……」



小町ィィィィィィイ!!

よりによって先生にもかよ! 本当にもう、なんで戸塚だけに限定してくれなかったんだよ!


腕を引かれて先生の顔の前に引きずり出される。

煙草と女性らしい香水の香りが混ざって、弱った頭にクラクラくる。ちょっとやばいかも。



「……――っ」


「……ぅ」



すぅ、と息を吸い込む音。それだけでも、他の女子たちとは一線を画す色っぽさがにじみ出ていた。

しかし先生は何も言わずに、俺の腕を掴む力を抜き、数歩離れてからからと笑った。



「――やめておこう。私は君とは、今の関係が気に入っているしな」


「……平塚先生」



そういって白い歯を見せる彼女は、夕陽を受けてとても輝いて見えた。

……イケメンすぎる。



「先生には勝てる気がしませんよ、いろんな意味で」


「フフ、比企谷ごときには、何年経とうが遅れは取らんよ」



イケメンスマイルで微笑んだ後、自分で言った「何年経とうが」の部分に凹む先生を宥めつつ、俺は帰路へとつくのであった。




――――――

――――

――




翌日。


――体がおかしい。

目覚めて一番に思ったのはそれだった。


保健室で目覚めた時と似た感覚だが、あの時よりはまだマシだと思う。思うが結構つらい。だるおも。

まあ昨日は朝から放課後までいろいろあったしな……。

帰ってきてからもずっと悶々として、小町の襲来に怯え発散することもままならずに朝を迎えてしまった。

健全な男子高校生にはなかなか厳しい環境じゃないか、これは。



「おにいちゃーん、もう起きないと遅刻しちゃうよー?」


「小町……ちょっと体がだるいから、様子見て遅れていくか休むか決めるわ」


「え、大丈夫なの?」


「ああ、まあ少し休めば良くなりそうだ」


「とかいって、休む気まんまんなんでしょー」


「……なぜバレたし」


「お兄ちゃんの考えてる事なんて小町にはお見通しだよ。あ! これ小町的にポイント高い!」



なんて会話があったのも数時間前。

小町も両親もとっくに家を出て勉強に仕事に精を出しているだろう。精を出すってなんだかエロいよね。

現在時刻は午前11時前と言ったところ。


のそのそと起きてリビングに向かい、早めの昼飯を食ったら学校に向かうかと思案する。やっぱ休もうかな。この間0.5秒。俺の意志、弱っ。

この時間に家にいるのが珍しいのか、カマクラがふんすふんすと俺の足のにおいを嗅いでいる。

どれ、久しぶりになでてやるか。



――ピンポーン。



カマクラに手を伸ばそうとした瞬間、うちのインターホンの呼出音が鳴り響いた。

こんな時間に誰だ? 回覧板かなにかか。

そう思い、インターホン付属のカメラが映し出す映像を見やる。



――そこに、魔王が立っていた。



冷や汗がぶわっと吹きだした。

なんで陽乃さんが家に来るんだ? いや、まず何故俺が家にいる事を知っている。ま、まて、まだ俺が目的とは分からん。ここは落ち着いてトラップカードオープン、居留守を使おう。

ぐるぐるとまとまらない思考を無理やりまとめ上げ、居留守を決行。家の奥で縮こまることにした。


カマクラ、俺と一緒に逃げ……。

いねぇ。アイツ俺を見捨てて逃げやがった。



――ピーン……ポーン……。



間を持たせたチャイムの音が、ビシビシと俺にプレッシャーをかけてくる。言葉にするなら、「ハヤクデロ」と言ったところか。

インターホンが映し出す小さな画面の中で、陽乃さんがニコニコとしているが、ふいにその表情が失せた。あまりの急変に目が離せなくなる。



ハ・ヤ・ク・デ・ロ。



通話ボタンを押してないので音声は出ないが、寸分の狂いもなく口がそう動いていた。

余りの恐怖に、画面越しだというのに屈服してしまった俺は、恐る恐る通話ボタンを押す。



「…………はい」


「あ、やっぱ居た~♪」


「なんか用ですか……」


「比企谷くん暗いよ~。お姉さんがお見舞いに来てあげたんだぞ♪」


「……それはどうもです。――それじゃ」


「比企谷くん?」



簡潔にお礼を済ませお引き取り願おうとするも、陽乃さんのニッコリとした表情と全くニッコリしていない声音のギャップに戦慄する。

もう、どうやっても逃げられないと言うのか……。

すまん親父。あんなに美人には気を付けろと教えてくれたのに、俺は道を踏み外すかもしれん……。踏み外すというより突き落とされるんだけど。



「…………どうぞ」


「はぁ~い♪」



玄関の鍵を開け、魔王を家に迎え入れる。

俺は戦士でもなければ勇者でもない。平凡な町民Aでいたかったのに。やあ ここは ひきがやけ だよ▽



「何しに来たんですか? そろそろ帰ります?」


「今来たばっかりだよ!?」



口ではツッコミを入れつつ、陽乃さんは放り出すようにミュールサンダルを脱いでいる。おいお嬢様。

毎度のごとく肩まで丸出しのセーター、中からは謎の肩紐が伸びている。これなんなんです? セーターもどうやってずり落ちないようになってるんです? 妹には出来ない謎の原理なのだろうか。

そして下は短いホットパンツでも履いているのか、セーターが伸びていてまるで何もつけてないようにも見えてしまう。

一言で言えば露出度が高い。


昨日から悶々ムラムラな男子高校生には目の毒すぎて直視できない。

俺が自分の方を見ない事に気付いたのか、笑いを堪えきれないといった様子で陽乃さんが口に手を当てている。



「おやおやぁ~? 美人のお姉さんに興奮しちゃったのかなー?」


「……何言ってるんですか。そろそろ帰ります?」


「だから今来たばっかりだってば!」



よよよ、と泣きまねをする陽乃さんにため息をついて、家に上がってもらう。どうやったって帰りそうにないしな。



「といっても、早めに昼食べて学校に行くつもりだったんですけど」



嘘である。

ただそうでも言わないとこの人がいつまで家に居るか分からないので逃げる口実を予め先出ししておく。

魔王に通じているのかは定かではないが、陽乃さんは案内する俺の後ろでふーんと鼻を鳴らした。



「意外だね。君の事だから休める口実があるなら休んじゃうと思ってたけど」



ごりっとまるっとお見通しなようだ……。

俺の引き釣り笑いもどこ吹く風で、陽乃さんはうちの内装をキョロキョロと見回している。一般庶民の家が珍しいのだろうか。

リビングへ案内して、ソファを勧める。ぽふんと彼女が座った際に、眩しい太腿とその奥に目線が吸い込まれる。

それに目ざとく気付いた陽乃さんがニヤニヤとこちらを見つめてきた。

逃げるように目を逸らしたが、陽乃さんはぽんぽんとソファを叩く。……座れと。



「い、いや、俺は昼飯を……」


「比企谷くん……おいで?」


「……はい」



精一杯の抵抗空しく、ソファへ向かう。

できるだけ「隣と呼ぶ範囲だが絶対に接触はない」距離を見極めて座った。


ずずいっ。ぽす。


陽乃さんが俺の隣に座りなおした音である。

もはや距離と呼べるものがなくなってしまった彼女から、わたわたと逃げようとするも強引に隣に引き寄せられた。



「はいいらっしゃーい♪」


「……はあ、どうも……」



楽し気に笑う陽乃さん。

世の男どもなら一発で恋に落ちているのであろうその笑顔も、俺には屠殺場で美味しいお肉になぁーれ☆と無邪気に願う顔にしか見えなかった。



「ねえ比企谷くん、昨日と一昨日はお楽しみだったみたいだねぇ?」


「…………いや、そんなことは」


「まさか気を失っちゃうなんてねー」



この人はどこまで知っているんだ。

おそらくはめぐり先輩からなんだろうけど。



「というか、昨日のはそもそも雪ノ下さんが余計な事を広めたからじゃないですか……」


「あはは、だってこんな面白い事、独り占めなんてもったいないじゃない?」



けらけらと笑う陽乃さん。

いやぜんぜん独り占めじゃないですよ、主にあなたの妹のせいで。あ、俺の妹のせいでもあるが。


陽乃さんがゼロとなった距離ですりすりと体をこすりつける。

それがなんだか獲物を狙う蛇を連想させて、ドキドキするのと同時に怖気が走ってしまった。



「な、なんですか……」


「んー、確かに広めたのはわたしなんだけど、今はちょっと後悔してるかなー?」


「どういう意味です?」



決まった形の決まった笑顔の仮面の奥に、密やかに不安の色が滲んで見える。

俺の腐った目が見たそれは、彼女が自分の意思で見せたものかどうかまでは分からない。



「わたしは君の事を、理性の、自意識の化け物なんて評したけれど」


「あー、あの褒めてるのかよく分からないあれですか」


「褒めてるよ。でも、総武高校にそれをとかせる人がいるなんて思ってもいなかった」



どこか悔しそうな面持ちで、陽乃さんはそう述べた。

一色のあれは俺も予想外だったが……、あいつのポテンシャルを見誤ったのがなあ。

だがやはり、陽乃さんがどういうつもりでそんな事を言っているのかはさっぱりだ。なので、素直に聞く事にした。



「何を言いたいのか、よく分かりませんが」


「んー、つまりだね……」



呟くと、陽乃さんはなんとも自然に俺をソファに押し倒した。

あまりにもナチュラルすぎて、一瞬、「あれ、俺なんで仰向けになってるの?」と自問自答したほどに。



「え、え?」


「比企谷くんの弱点を広める事で」



言いながら、陽乃さんが俺の上に覆いかぶさるようにのしかかってくる。柔らかい。



「ちょ、ま」


「君を想う子たちの出方を見て」



ずりずりとのしかかったまま上へ上へと登ってくる。柔らかい。



「あ、あの……」


「その子達の味見? 耳見? をしてもらって」



ついには逃げようと顔を逸らす俺の耳元へ口が届くところまで。いい匂い。



「――そのあとわたしが全部、塗りつぶしちゃおうと思ってたのに」


「ひぅ」



不満げな陽乃さんの囁きが、二つの意味で俺をぞくりと震わせた。

蛇に睨まれた蛙ということわざを、実体験する日が来ようとは思わなかった。マジ俺ヒキガエル。

ちろりと覗いた陽乃さんの舌が、艶めかしく唇を潤していくのを見て、俺は震える事しか出来ないのであった。



「でもまさか、このわたしが後手に回るなんてね」


「な、なんでそんなことを……」


「分からない?」


「……分かりませんよ」



陽乃さんの問いに、俺はノーと答えた。


分かるはずがない。分かってはいけない。

そういう曖昧なものを期待するのは、中学生活と共に卒業したのだから。


だから俺は理由を問う。

理由を、動機を、原因を、聞いて聞いて聞いて、問い殺す。相手にも、自分にも。

そうやって悪意も善意も同情も、一緒くたにして否定してきた。

そうしないと俺は耐えられそうになかったから。ほんの僅かな好意に期待して、裏切られる事にも、それに幻滅する自分にも。

結果として、俺は一人になったし、それでもいいと納得もしている。


しかしそんな俺にも踏み込んでくる奴らがいた。こんな俺に「明確に悪意ではない」何かをぶつけてくれる奇特な人間。


そして彼女もまた――




「――わたしは、きみがほしい……」


「ッ、どう……して」



――こんな俺を。


ぽしょりと、裏も表も感じない雪ノ下陽乃の吐露にやはり俺は理由を問う。

ハイスペックなどという言葉では到底表し切れない彼女が、俺を欲する事なんてありえない。



「……君は自分の事をよく卑下してるけど、比企谷くんは自分が思ってる以上に稀有な存在なんだよ?」


「そんな事は……」


「――あるんだよ」


「っ、ふ」



合間に囁かれた言葉に身を竦ませながら、思考は彼女の言葉を否定する。

俺はただの捻くれたぼっちだ。探せば似たようなのはそこら辺にいるだろう。



「……わたしの仮面を見抜ける人なんて、数える程しか会った事がなかった」


「……数える程でも、居るには居たんでしょう」


「そうだね、そういう人は大抵、何かしらに裏切られて、何も信用しない。そんな人ばかりだったなあ」


「……」



その人たちの気持ちは、とても良く分かる。きっとさぞや目が腐っていたんだろう。

それでも、と陽乃さんは続ける。



「そんな目をしながら、誰かを救うなんて事をしていたのは、君が初めてだよ」



……それは、依頼だったからだ。

奉仕部という部活に所属して、依頼があって、最も効率がいい方法を取っただけだ。誰かを救いたくてやった訳じゃない。


そう言葉にしても、陽乃さんは全く譲らなかった。



「だからこそだよ。誰でも、君は救ってしまう。そんな君にだから……」




「――――いつか、わたしも救ってほしい、なんて思い始めたんだよ」



「……え?」



陽乃さんはそこまで言うと、少しだけ身を引いて俺の胸に顔をうずめた。

彼女の息が押し付けられた部分から熱を広げていく。

どうするべきか、頭でも撫でるのか? いやそんな高度な事俺にはできないわ……。

脳内で右往左往としていると、陽乃さんが突然がばっと起き上がった。



「ああーっ、もう! 恥ずかしい!」


「おわっ、ちょ」


「お姉さんにこんな事言わせるなんて、罪な男なんだから!」


「しゅ、しゅみまへんって」



ぐりぐりぐりーと頬を指で押し込まれる。

その顔は赤みが差し、所作に若干のあざとさを感じさせながらも、素の陽乃さんを見せてくれているのではないかと思った。



「めんどくさい話は抜きにして、わたしは比企谷くんを自分のモノにしたいの!」


「いや、だから……」


「まあ、めんどくさい話を抜きにすると、君は拒否するんだよね?」


「ええ、まあ」



もっとも、話を聞いても拒否するかもしれないんだけど。

そんな言葉の裏を、陽乃さんは見抜いたのだろうか。




「だから、君の理性も自意識も、何もかもとかして――」



「――――わたしのモノにしてあげる♡」




まさしく太陽のように眩しい程の笑顔で、そう言った。




* * *




「――っはぁ、む♡」


「っちょぉ、雪ノ下さん、それ、はぁ……」


「ん、……ふふ、……んむ……んっ」



初撃で全てを決定付けられそうな一撃が耳を襲った。

ぷるんととろけそうな唇で、俺の耳たぶを挟んでいる。何度も咥えなおして、その度にゾクゾクと何かが背中を走る。

陽乃さんは気が昂ぶっているのか、だんだんと声に甘い色が混ざっていく。



「……んぅ♡……ひき、がやくん……」


「ぅぁぁ……ほんと、に……まずいですって……」



押しのけようにもどこを触っても柔らかくて意識が持って行かれそうになる。

この世にこんなに軽くて柔らかい物体は他にあるのだろうか。

力でどかす事を諦めた俺の手は、宙で所在なさげにゆらゆらと揺れているのみであった。



「ゆき、のした、さん……」



手で触れられないので身をよじって離れようとしても、のしかかられては全く意味がない。

言葉の抵抗も、彼女にとっては征服欲を満たすスパイスにしかならないのだろうか、より淫靡さを増した声色でねだる様な囁きを落とす。



「……はるの、だよぉ……」


「ッ、ゆき――」


「……はぁ、るぅ、のぉ……だよ?」



ぽしょぽしょと、おねだりを吐息に混ぜて耳に吹き込まれる。

何重にも張った防壁の一枚目が崩れるのを感じた。



「は、……はるの……さん」


「……うんっ♡」



喜色めいた返答と同時、ちゅ、ちゅ、と唇が卑猥な響きを立てて耳に押し付けられた。一つ一つが核爆弾もかくやと、怒涛の威力で理性を破壊していく。

声も吐息も、衣擦れの音さえもが俺を責めたてている。



「……抵抗は、もう終わりかな……?」



挑発的なその台詞に思うところが無いわけでは無い。が、反発しても意味が無いのもまた事実である。



「……く、どうせ、したって無意味なんでしょう……」


「当然だよ♪ ――ぜ~ったいに、にがさない……♡」


「……ふぐぅ……」


「あは、カワイイんだから……」



俺と同じくらい、陽乃さんの呼吸が荒く、かつ甘くなる。

逃れられない限界がすぐそこに迫っている事を、本能が理解してしまったのか、足が勝手に後ずさる動きを取った。



「――っ!? んん、ひきがやくん……そこは……もうっ♡」


「え、……あ、すみ、……まひぇっ!?」



仰向けの匍匐前進の様に逃げようとしたため、膝を立てた結果……陽乃さんの、あそこに押し当てる形になってしまったらしい。押し倒された際に、互いの足が交互になるように組み伏せられていたようだ。

一瞬驚いた声を上げた彼女だったが、反撃のつもりなのか、俺の耳にぬるりと舌を侵入させた。



「ぅあっ、ああああ!」


「ん、ちゅ、んむぅ……れる……」



蠢く舌がまるで生き物のごとく耳の中を蹂躙し、ぬっちゅ、ずっちゅ、と音が響く度に、背中が反りあがり視界が明滅する。

人生で経験した事がない、快感なのかも分からないその刺激は容易に俺の意識を弾き飛ばした。



「あ――、あ――――」


「ん、うふ……」



口からだらしなく涎が垂れるのもお構いなしに、体は反射的にびくんびくんと跳ねている。

どこかへ落ちてしまいそうな、恐怖にも似た心地に、腕が目の前にある物をかき抱いた。

柔らかなそれを強く抱きしめ、悲鳴のように名を叫ぶ。



「あっ、ああ! 陽乃さん!」


「はぁあ、もっとぉ……強く抱きしめて、いいよぉっ……♡」



柔らかすぎて、腕がどこまでも沈んでいきそうな錯覚を覚えたが、体は意思と切り離されてしまって加減することもできない。

本能が求めるままに、強く強く、もはや抱きしめるというより締め上げると言った方が的確なほどに強く絡みつく腕。

しかし彼女は肺の空気が押し出されるような圧迫感さえも、嬉しそうに享受していた。



「――っふ、ぅうう……も、っと、わたしを、求めてぇ……♡」



すでに欠片も残っていない心理防壁の跡で、陽乃さんの声だけが甘くこだまする。



「はあ、……ふう、ぅ」


「あ……ふ」



ようやく、胸焼けにも似た息苦しさが治まり、腕の力が抜けていく。

締め付けから解放されたというのに、陽乃さんは物惜しそうな声を漏らした。自由になった体をうねらせて、蠱惑的な動きで全身をこすりつけてくる。

両の腕のコントロールを取り戻しても、彼女の引き離す選択肢は浮かんでこなかった。


陽乃さんが体を揺するたび、たわわな実りが形を変えて押し付けられる。

耳に熱い吐息を受けながら背中に回した手を滑らせてみると、なんとも可愛らしい嬌声が上がった。



「ひゃうぅっ♡」


「うっぐ……」



陽乃さんの唇は、今も俺の耳に押し当てられている。そんな状態で喘ぎ声など食らおうなら、いかな俺の精神でも耐えられるようなものではない。

防壁を失った理性は簡単にトロけて、むき出しになった本能についに行動を許してしまった。


今度は優しく、右手で宥めるように背中を撫で、もう片方は指通りのいい髪を梳く。

服越しにも分かる引き締まったくびれから、脇腹を通って肩甲骨の辺りまで撫で上げるたびに、陽乃さんの口からくぐもった声が漏れ出る。


何かを耐えるように、俺の肩口に顔をうずめた彼女に、仕返しとばかりに囁いてみる。



「……はるのさん、可愛いですよ……」


「――あ♡ だめ、だめ、まって……♡」


「……はるのさんの声、もっと聴きたいです……」


「……はあぁ♡……ずるい、そんなのずるいぃ♡」



人は声で、物体をも溶かせるんじゃないかと思うくらい甘い声で反応する彼女に、たまらず気分が高揚してしまう。

陽乃さんの跳ねた腰が、立てた俺の膝にぐいぐいと押し付けられている。

淫魔を彷彿とさせるその動きが、俺の――理性を超えたなんらかのリミッターをぶち壊した。



「――陽乃、……はるのっ……」


「ひっ、ひきがやくん、ダメぇ♡ あっ♡ とまらないよぉ……♡」



こしこしとこすり付ける動きに合わせて、俺の腰も動き出す。

はち切れんばかりに膨れ上がったモノが、俺の脚にしがみつく彼女の太腿に押し付けられた。



「――コレぇ、すごいよお♡」


「お、れも……やばいですっ……」



何重もの布越しだと言うのに、熱も柔らかさも、超ド級の快感となって押し寄せてくる。

お互いがお互いを貪るように動き、ソファがギシギシと音を立てた。



「あ♡ あ♡ うそっ♡ もう……っ」


「は、はるのさんっ、お、おれも……っ」



極限まで高まった熱を放出するかの如く、陽乃さんがぶるりとその身を震わせた。

同時に、堪え切れなかった快感がびゅくりという脈動と共に吐き出される。



「あぁ、――あ、はぁ……♡」


「う、あっ……――あ」




――――――

――――

――



「…………」


「…………」




……気まずい。

事が終わって、吐き出された快感がそのまま不快感となって下着を湿らせている。

それは陽乃さんも同じなのだろうか、顔を真っ赤にして俯いたまま、二人並んでソファに座り続けていた。



「「あ、あの」」



やっちまったー!

気まずい時にありがち、ぼっちの禁忌「同時にしゃべりだす」やっちまったー!



「は、陽乃さんからどうぞ」



両手を謎の動きでぐねぐねさせながら陽乃さんに先手を譲る。



「ひ、比企谷くんからでいいよ」



対して微動だにせず膝を握り締めて陽乃さんが答えた。

仕方なく、人差指で頬を掻きながら、しどろもどろに話を始めた。



「えっと……その、調子に乗りすぎてしまいました……すみません」



ぼっちの基本、謝罪から入るパターン。効果は負けを認めて、ぼっちが加速する。やっぱりぼっちだった。

しかしながら陽乃さんもまた、しどろもどろに返答した。



「あー、いや、それはわたしも望むところではあったんだけど……」



世にも珍しい、判然としない陽乃さんの態度ではあったが、それを真正面から見る勇気は俺にはない。

どうしたものかと戸惑っていると、ふと小さく笑う声がした。



「――ふふ、……理性を剥がした君は、ケダモノだったね」



世の男を残らず魅了するだろうその表情は、今度こそ例にもれず、俺をも見惚れさせた。

なんとか正気を保ちつつ、努めて冷静に返す。声が裏返りませんように。



「……そりゃ、俺もひとりの男ですから」


「うん、すごかったよ♡」


「ぅぐ……。陽乃さんこそ、仮面外したらあんなにエロいんですか」


「ちょっと、わたしの内面がいつもあんな状態みたいに言わないでよ!」



まるで契りを交わしたかのような会話であるが、実際は中学生よりも幼い、人によれば児戯にも満たない稚拙な行為。

しかしてそれは俺の化け物と呼ばれた理性を、弛緩剤を打ち込んだかのごとく弱いものにしてしまうのであった。




――――――

――――

――




陽乃さんとの……、その、なんだ、アレが終わった後、汗とかナニかで気持ち悪い体をシャワーでさっぱりさせて(もちろん一人ずつ)遅くなった昼食をとったら時刻は2時過ぎ。どんだけくっついてたんだ。

もう開き直って本当に休もうかな、と思っていたところ、陽乃さんから車で学校まで送るとの申し出があった。

俺に対して取ってつけたようなデスマスク笑顔はほんの少し鳴りを潜めたものの、にっこり笑うその裏に何か嫌なものを感じる。



「……何企んでるんですか?」


「えー、ひどいな~疑うなんて。君とわたしの仲じゃない♪」



シャワーを浴びるまで、見たことがないくらいおろおろしていた陽乃さんであったが、すっかり調子を取り戻したようである。

おどおどもごもごしている陽乃さんも可愛かったが、やはりこっちの方が魅力的……何言ってんだしっかりしろ俺。

砕かれた精神的防護壁は建て直す事も出来ずに、最後の砦であるはずの理性も、どろどろに融かされて完全には元に戻らなかった。


つまり今の俺は、中学生レベルまで弱くて無防備な比企谷八幡という訳だ。簡単に言えば童貞クサい。元からか。 ……うるせ。

そんな俺に唯一残された武器はこの腐った目である。武器? いやほら、呪われた武器ってデメリットがあるけど強いじゃん。え、呪われてんのかよ。


ひねた目線で陽乃さんを見透かそうと見つめてみても、「ん?」と楽しそうに見つめ返してくる彼女と目を合わせられずにそらしてしまった。

……使えねえ、この武器。


今から学校に向かおうにも、着いたころには授業も終わり際、みなが部活へ励み始める時間になるんじゃないか。

今日は7時限目とかいう悪夢みたいな時間割の日でもないはずだ。

しかし陽乃さんは、いいからいいから、とだけ言って俺に制服を着させようとする。ひとりでできるもんっ。

正直今は奉仕部の面々と顔を合わせたくなかったのだが、急かす陽乃さんに根負けして制服を身に着ける。



「よしっ、じゃあレッツゴー♪」


「ちょ、ちょっと!」



楽しげに腕を取って絡めてくる陽乃さん。今のレベル1ハチマン(職業:ゾンビ)にはきついものがある。

同じボディソープやらを使ったはずなのに、漂う陽乃さんのいい匂いが弱体化した俺の脳裏に少し前の情景を鮮明に映し出して男の象徴が鎌首をもたげた。呼んでないから!

一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにニヤリと笑みを浮かべる彼女に、たらりと汗が流れる。

組んだ腕を離さずに、ずずいと顔を寄せてくる。



「しょうがないなあ。――もういっかい、シちゃおっか?」


「……おっふ」



ぽしょぽしょと囁かれたのはまさに悪魔のささやき。

そもそも健康な男子高校生が一発ヌい……コホン、多少発散できたところで満足できるはずもなく、俺の意識はいともたやすく悪魔に乗っ取られそうになったがなんとかギリギリで持ちこたえる。

持ちこたえたけど一部持ちあがってる。あかん。

それに気づかないはずがない悪魔、もとい陽乃さんはくすくすと笑っていた。死にたい。




* * *




家の前に停まっていた、うちには明らかに不相応なリムジン、……ハイヤー? 違いがよく分からないが、それに乗り込み学校へと向かう。

驚くほど揺れが少なく静かに進む車内で、俺は陽乃さんにある事を訊いた。



「雪ノ下さん」


「はるの」


「いや、あの」


「陽乃、だよ」



訊けなかった。

諦めて、ハードルが高いがなんとか名前を呼んで、今度こそ尋ねる。



「……陽乃さん」


「なあに?」


「うちで言ってた、『いつかわたしも助けてくれる』って、どういう意味なんですか?」


「…………」



しばし無言で熟考する陽乃さん。

それを邪魔しないように俺も黙り込むと、リムジンの中は本当に走行中なのか疑わしい程の静寂に包まれた。



「……そうだね、どこから話そうか」



やがて重い口を開くと、陽乃さんはぽつりぽつりと語り始めた。



「比企谷くんも知ってるだろうけど、わたしの親は県議会議員で、建設会社の社長……」


「まあ、県議になったのは割と最近の事なんだけど、その下地作りとかでね、小さい頃から、パーティやら式典やらに連れ回されて、『雪ノ下』の名前を背負わされてた」



苦々しげな彼女の様子に、無理はしなくていいと止めようと思ったが、目線だけでそれを制止された。

それを受けて、こくりと頷いて続きを待つ。



「まるで小説か何かに出てきそうな英才教育とかも受けててさ、小学校くらいにはもう自由はなかったかなあ。でも、親に反抗したり嫌になって逃げだしたりはしなかった。……そう『教育』されてたから」



リムジンの運転手がバックミラーでちらりとこちらの様子を伺った。

その顔からは感情が読み取れない。



「……でもね、いつからか、『来賓の前では笑ってなさい』っていう命令に従ってるうちに、わたしが普段どんな顔をしてるのか分かんなくなっちゃったの」


「それに気づいた時から、わたしは仮面をかぶり続けてきた。……ううん、もう、自分でも外せなくなってた」



――それは、ある種のゲシュタルト崩壊とも呼べる現象なのかもしれない。

鏡に映る自分に「お前は誰だ」と呟き続けると、映った自分が誰だか分からなくなってしまうという。

それを陽乃さんは、自分の内側から、外側に貼りついた仮面を見続けているうちにそうなってしまったんだろうか。



「わたしは、親には逆らえない。特にうちの母はとってもコワイんだよ? ……少なくとも、あの人に着けさせられたこの仮面を被っているうちは」



目を伏せて物悲しそうに吐露する陽乃さん。

しかし、切なくなりそうな程 魅惑的な表情で小さく笑うと、俺の方を向いた。



「……だからかな。 比企谷くんがわたしの仮面を見抜いた時は、少し嬉しかったけど、それだけ。でも、雪乃ちゃんや静ちゃんから君の活躍を聞いた時に思ったの」



「――比企谷くんなら。誰でも救ってしまう君なら、仮面を外してくれる。……わたしを助けてくれるんじゃないか、って」



そう言って俺を見つめる陽乃さんは、儚げで今にも消えてしまいそうな程弱々しく、きっと彼女は本当に俺に助けを求めていたのだろう。

しかし、俺は……俺には……。



「俺に……そんな事が出来るとは思いません。俺にそんな力は……ないですよ」



誰かを救うなんて、大それた事は出来ない。これまでだって、救ったとは言い難い。ただ「そうなった」にすぎないんだ。

それでも陽乃さんは笑顔を失わない。顔を左右に振って俺の弱音を否定する。



「ううん、もう、君にはひとつ、貰ったよ」


「……え?」


「この恋心は……これだけは、他の誰でもない……雪ノ下陽乃のモノだから」



「――――」



この人は、本当にずるい。

そんな笑顔で言われたら何も言えないじゃないか。

未だ戻らない俺の捻くれたはずの理性は、彼女の言葉をまっすぐに受け止めて、心の奥にしまい込んだ。



「それに、もう一つ。やってみたい事もあったしね」


「……なんです?」


「恋のか・け・ひ・き♪」



悪戯っぽく笑うと、それが合図だったかの様に車が減速しはじめた。

外を見れば我らが総武高校の正門前。帰宅部であろう生徒たちの注目を浴びながら、目立ちまくるリムジンは停車した。降りたくない。



「さあ、行こうか!」


「……え?」



一緒に来るの?

あっけにとられている俺に、陽乃さんはピーンと星でも飛びそうなウィンクで返す。



「は、陽乃さん?」


「言ったでしょ? やってみたい事があるって。……比企谷くんはもう少し自分の事を見直した方がいいんじゃないかな」



その言葉の意味は。

昨日までの俺なら鼻で笑って流していただろう。

しかし陽乃さん……と、何人かによって脆弱な勘違い野郎までに戻されてしまった理性は、思いのほか素直にその言葉を飲み込む。


……あいつら、も。



戦場へ向かう勇者のように、雪ノ下陽乃が車から降りて立ち上がった。彼女はもう、魔王なんかではない。

なるべく存在感を出さないよう心がけながら、俺も続く。俺はまだゾンビのままです。



「ほーら、きりきり歩く!」


「……ひゃい」



勇者パーティってなんで一列に歩くんだろうね。まあ現実世界でも本当は一列で歩くのが交通ルールなんだけど。つまり広がって歩くリア充は魔物。

そんな無体な事を考えながら、引きずられるようにして学校内へと入って行く俺であった。




* * *




「ひゃっはろー!」



どばーん。

陽乃さんが奉仕部のドアを吹き飛ばすがごとく開け放つ。入る前に深呼吸の一つでもしたかったのだが、それすら許されずに彼女に続いて引きずり込まれた。



「姉さ、……比企谷くん?」


「え、ヒッキー、なんで?」


「先輩?」



三者三様の返事が返ってくる。まて、一色は何故ここにいる。



「よ、よう」


「ヒッキー、今日は休んでたんじゃ……」


「今その事について、一色さんとも話していたのよ」


「……そうか」



やばい、誰とも目が合わせられない。

存外素直になってしまった俺はまた、繰り返そうとしているのかもしれない。

……ものすごく、怖い。期待してしまう自分を必死に抑え込もうにも、やはり戻らぬ防壁は開けっぴろげに俺の精神を晒していた。



「先輩、心配したんですよ。わ、わたしのせいかもって……」



まあ間違いではないな。

などとどストレートに言えるはずもなく、言葉に詰まって頬を掻く。



「あー、や、まあ大丈夫だから、気にすんな」


「それで、どうして姉さんと一緒に来たのかしら?」



一難、いや一問去ってまた一問。

氷の女王が周囲の空気ごと俺を凍らせたいのか、冷たい目線で睨んでいる。なんだか寒くなってきたぞ。



「それは、だな……」


「それはー、小町ちゃんに教えてもらったアレを試しにいったからだよー♪」



「「な!?」」


「……え!?」



言い淀む俺を差し置き、陽乃さんが楽しそうに答えると雪ノ下と由比ヶ浜が同時に、めぐり先輩経由でアレを知った一色が遅れて反応した。

今更だけど、俺の弱点広まりすぎじゃね……。



「比企谷くん、まさかとは思うけど私の姉に変な事はしていないでしょうね」



先ほどよりも5℃ほど下がった冷たさで再び睨んでくる雪ノ下。



「……………………」


「いやー、熱い時間を過ごしちゃったね」



やはり答えられない俺の代わりに返答してしまう陽乃さん。もうやめて、俺のライフはゼロよ!

そんな俺たちを交互に見た後、雪ノ下は下唇を噛みしめた。



「……あなた、まさか……」



言外に語る。

あれほど言っていたのに、外面に騙されたのか、と。



「雪ノ下、その、一線は超えてないし、別に騙されてるとかでもない、ぞ」



いやまあ中学生レベルの今の俺の判断だから100%じゃないかもしれんが。これで嘘でしたー♪なんて言われたら自殺するまである。

信じられないと目で訴える雪ノ下、と他の二人。

そんな彼女らに、陽乃さんが一歩前に出た。



「一線は超えられなかったけどね。だからこそ、今日はここに来たんだよ」


「陽乃さん……どういう事ですか?」



由比ヶ浜が慄くように手を握りこんでいる。

雪ノ下も一色も、それぞれが陽乃さんの言葉を待ち構えている。


すぅ、と大きく息を吸い込んで、陽乃さんが宣言した。



「わたしは、……比企谷くんが好き。誰にも渡したくない。だから――負けないよ!」



「「「……!」」」



彼女の宣戦布告に三人が衝撃を受けたかのように固まっている。

だが断言しよう。この中で一番動揺しているのは俺だ!


フリーズする部室の中で、最も早く再起動したのは由比ヶ浜だった。



「あ、あたしだってヒッキーの事好きだもん! ずっと、ずっと、この中で一番、長い間好きだったんだからぁ!」



立ち上がり叫ぶようにそう宣言する由比ヶ浜。

どうして、などとはもう思わない。


呼応するように、一色も立ち上がった。



「わたしだって、わたしだって先輩の事、好きですっ! 捻くれてるけど、頼りになって、わたしをわたしとして見てくれる先輩が好きになっちゃったんです!」



一色に関しては、少し意外、というのが正直なところだった。

こいつが好きだった葉山と俺では比ぶべくもない。


だが俺は……その言葉を受け止めよう。



最後の一人は、戸惑いを隠しきれない表情で握った拳を口に当てている。



「……ゆきのん」


「……私、は」


「雪ノ下先輩……」



由比ヶ浜と一色が、なんと表現したらいいか分からない表情で雪ノ下を見つめている。

昔、母さんが拗ねた小町を見守っていた時も、こんな表情をしていた気がするな。

判然としない雪ノ下に、陽乃さんが呼びかけた。



「雪乃ちゃん」


「……」


「わたしはもう、誤魔化さないよ」


「……!」



それがどういう意味だったのかは俺には分からない。

しかし、その言葉は雪ノ下に火を点けるに足りたようだった。



「私は……、私も、比企谷くんの事が……」



「――――好き」



一瞬のためのあと、消え入るような声の告白。

だが俺の耳は一部も逃さず、その全てを拾い上げた。



「ふふ、モテモテだね、比企谷くん?」



何故か嬉しそうに俺に笑いかける陽乃さん。

ちょっと今頭ごちゃごちゃしてるんで返事できないっす。



「ヒッキー……」


「先輩……」


「…………比企谷くん」



全員が俺を見つめてくる。

声に出さずとも、目が物語っていた。



『……誰を選ぶの?』



そんな目線に晒された俺は間違いなく混乱している。


動揺もある。


困惑もしている。



けれど――。



「ヒッキー?」



目じりから温かい何かが伝っている。

それが涙だと気付いたら、もう止まらなかった。


情けない程にぼたぼたと溢れ出てくるそれを拭う事すらできない。



それくらい、俺は、――嬉しかったんだ。



「わ、わりぃ……おれ、は……っ」



必死に嗚咽を抑えようとしても、涙も、体の震えも収まる事がなく。

気付けば、陽乃さんに優しく背中を撫でられ、一色にハンカチを当てられ、由比ヶ浜と雪ノ下には心配そうに見つめられていた。


弱くなった心に、彼女たちの好意はまっすぐ沁みこんだ。捻くれた理性も自意識も、もうそれを邪魔することはない。


だからこそ。



「俺、は……。誰も、選ばない」



選べない。

誰がどのくらい、などと比べる事も出来ない。

小町以外から初めて向けられた感情に、順位など付けていい物じゃない。



それくらいに、彼女たちが好きで、大切で、その関係を壊したくないんだ。



そんな俺を、彼女たちもまた理解してくれたのか、誰も何も言わずにただ時間だけが流れていた。


が、一人だけは度胆の強さが別格だったようだ。



「うーん、やっぱりまだ足りなかったかあ」


「え?」



場違いに軽い陽乃さんの声に、全員がそちらを向いた。



「ねえ、えーっと……」


「あ……、一色いろは、です」


「いろはちゃんね。わたしは雪ノ下陽乃、雪乃ちゃんのお姉ちゃんだよ」



今更自己紹介をしている。

え、何この空気?



「ねえ、比企谷くんを気絶させたのってあなた?」


「えっと、は、はい」



何ほじくり返してるんですか陽乃さん……。

未だ目的の見えない彼女を、誰もが訝しげに見ていた。



「その時さ、比企谷くん、どんな感じだった?」


「え……」



やめてよぉ! ライフはゼロどころかマイナスよ!

一色も答えなくていいから! 無視しろ、無視!



「うーん、どんなと言われても……。あ、最後の方とかなんか素直になって可愛かったですよ」


「そういえばあたしたちの時も……」



お前も思い出さなくていいから!

顔から火が出るとはこのことか。

穴があったら入りたい。穴掘って埋まってますぅ……。



「やっぱり? わたしの時もそうだったんだよねぇ。……だからさぁ」



キラリと陽乃さんの目が輝いた。

予言しよう。次にその口から出るのは碌な事じゃない。



「わたしたちで、比企谷くんの理性を跡形もなくとかして、受け入れてもらおっか♪」


「……はい?」



なぜだ。


なぜ戸惑っているのが俺だけなんだ?

あとの女子3人はどうしてか真面目に思案顔である。



「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。どういう意味ですかそれは」



あれだけ頬を濡らした涙も引っ込み、焦りながら陽乃さんを問い詰める。

涙の数だけ強くなるんだったら、けっこうレベルアップしたよ俺。



「だからー、比企谷くんはみんな同じくらい大好きなんだよね? だったらみんなまとめて受け入れてもらえばいいかなーって」


「いや、おかしいでしょう!」


「それを頷いてもらうために、残った理性もとろっとろにとかしちゃおう☆って」


「いやいやいやいや」



理性とかそういう問題じゃなくて、倫理とか常識的にまずいでしょうが!

俺の背中からは未元物質なんて出ないんだから常識も法律も俺に通用するんだよ! レベルアップしてもレベルゼロじゃん。



「あ、あたしは賛成、かな」



由比ヶ浜ァ!!

目を見開いて彼女を見ても、由比ヶ浜は怯まない。



「あたしは、ヒッキーが好き。……けど、それでゆきのんと、誰かと争いたくないから……」


「わたしも、いいですよ。もともと、結衣先輩や雪ノ下先輩には敵う気がしませんでしたから。そこにさらに強敵も現れましたし……」



イローハス、お前もか。

視線を向けると、やはり怯まずに見つめ返してくる。



「わたしもねー、最初は独り占めしたかったけど、比企谷くんの事を好きな子とは仲良くしてたいし」


「……でも」


「今まで独りだった分、みんなで愛してあげたいな」


「っ!」



陽乃さんの言葉に、欠片ほど残った理性が揺らいでしまった。ちょっと嬉しいじゃねえか、くそっ。

しかしながら、ぼっちにいきなり彼女が4人もできるとか正気の沙汰じゃない。

最後の砦、ルールや規則は絶対守るであろう雪ノ下雪乃に一縷の望みをかけて向き直る。



「ゆ、雪ノ下……」



お前ならこんなのおかしいって言ってくれるよな?

声色で俺の心中は伝わったかに思えたがしかし、雪ノ下は戸惑いながらも常識を敵に回すのであった。



「比企谷くん……、言わなかったかしら。――私は一般の女子とは価値観がかけ離れているのよ」



終わった……。

いや、いや。否!


俺が耐えればいいだけの事。

ぽしょぽしょなんかに、絶対負けたりなんかしないもん!




* * *




「あひぃ……も、もう……やめ……」


「……だーめでーす♡ せんぱい……こないだより、もっともーっと、とかしてあげますね……♡」


「……ふふ♡ なーんにもかんがえないで、きもちよくなっていいからね……♡」



右から一色のスウィートボイスが響けば、左からは陽乃さんの誘惑が囁きに乗せられる。

ふえぇ、ぽしょぽしょには勝てなかったよ……。2コマ即落ち。どこの凌辱同人誌だ。


壁まで追い詰められた俺は床にへたり込み、二人に挟まれている。

前方では出遅れた由比ヶ浜と雪ノ下が、悔しそうにこちらを眺めていた。



「ううー、ヒッキー……」


「……くっ」



唸るように歯噛みする由比ヶ浜に、どこぞの女騎士みたいに舌打ちする雪ノ下。それは俺が言いたい。くっ殺せ!

見かねたのか、陽乃さんが顔を離して悪魔的提案を唱える。



「この際だから、比企谷くんの弱点、もっと増やしちゃおっか」



探す、ではなく増やしちゃうんですか。

このままだと俺、マンボウより弱い生物になりそうなんだけど。



「どうすればいいですか!」



ノータイムで飛びつく由比ヶ浜。女の子はもうちょっと慎みをですね……。



「んー……、えい♪」


陽乃さんがちょいちょい、と指先で由比ヶ浜を呼び寄せると、俺の正面に突き出した。

――ぽふ、と豊かな双丘が俺の顔面を包み込んだ。



「ひゃあ!?」


「んむんん!?」



悲鳴を上げるも逃げる様子はない由比ヶ浜。

その柔らかさは、制服越しだというのに得も言われぬものであった。そして、それ以上に……。



「どうかなーガハマちゃん、いい匂い、する?」


「におっ!? ま、まって今日体育あったからぁ!」



によによしながら俺に訪ねてくる陽乃さん。

胸を押し付ける事だけが目的かと思っていた由比ヶ浜が、予想外の主旨に驚き離れようとする。

もう何にも縛られる事のない本能が、それを反射的に両腕で抑え込んでしまった。



「あっ、ヒッキー、だめだよぉ……」



由比ヶ浜の抵抗を無視して、顔をうずめ続ける。

体育があったのに、いやむしろ、体育があったからこそか。

あの日も感じたクッキーのような甘い香りがより強く感じられ、頭の芯からクラクラくる。正直、たまりません。



「……あは、比企谷くん、すっごい気持ちよさそう」


「あ……ヒッキー……、うれしい……♡」



いったい俺はどんなだらしない顔をしているのだろうか。

しかし今は何を置いても、この匂いと柔らかさを堪能していたい。



「……むぅ。せんぱい、わたしだって、そこそこあるんですからね……」



一色の拗ねたような声が右からぽしょぽしょと耳にかかる。

そしてやはり、左からは甘い誘惑が囁かれる。



「……わたしも、あとでしてあげるからね♡」


「んん、……はふぅ……」



理性どころか、脳みそ、ひいては全身が物理的に融解しそうな熱に侵されている。

すでに限界は超えているというのに、耳と鼻から絶え間ない悦楽が送り込まれてくる。

刺激を受けるたびに、抱きしめる形となった腕に力が入り由比ヶ浜が声を上げた。



「ひ、比企谷くん……」



ここで、唯一残された雪ノ下が近づいてきた。

勢いがあったとはいえ、ここに居る全員が俺を想っていると告白してくれた。

ゆえにだろうか、全員を平等に構ってやりたいのが男の性か、取り残された雪ノ下に罪悪感を覚えてしまう。


しかし、雪ノ下雪乃は強かな女であった。



「聴覚も嗅覚も取られてしまったなら、……次は触覚かしら?」


「……?」



由比ヶ浜を抱きしめていた腕を片方だけ剥がすようにして引き寄せる。

下世話な俺は胸にでも押し当てるのかと思ってしまったが、つくづく彼女は俺の上を行くのだった。



「……ん♡」



俺の左の手のひらを自分の顔の輪郭に沿うように押し当てる。

そのまま、後ろへゆっくりとスライドさせると、さらっさらの黒髪に指がとおっていく。

遠目にも艶やかで美しいと思わせる雪ノ下の髪は、いくら指を梳かしても全く引っかかる事はなく。

さながら上質な絹を撫でているかの感触を味わわせてくれた。


そしてその行為は、新雪を踏みしめるような、聖域に踏み入るような、そんな特別な征服欲のようなモノを満たしていった。

女の髪は命、とも言うしな。



「コレ……やば……」


「……私は、身体的に喜ばせられるか分からないから」



思わず声が漏れると、雪ノ下は不安そうに目を伏せる。

……そんなことは無いと思うが。事実頬に手が触れただけで、そのきめの細かさにすら快感を覚えたのだ。

引かれた手を、今度は自分の意思で伸ばして髪を、頭を撫でていると雪ノ下が嬉しそうに身を捩じらせた。

俺が彼女の感触を愉しんでいると、雪ノ下が微笑みながら零す。



「――これからは、貴方のためだけに、手入れをするわ」


「――ッ」



性的な快楽とはまた違う、しかし似たゾクゾクとしたものが込み上げてくる。

耳元でぽしょぽしょした訳でもないのに、雪ノ下の言葉は俺の何かを刺激した。



「……雪乃ちゃんもやるねぇ」


「うぅ、さすがにアレは勝てないかもです……」



左右から幾分かトーンの落ちた声が聞こえる。

由比ヶ浜は「むぅ」と唸ると、今まで肩に乗せていた両腕を俺の頭に回してきた。



「っぷぁ、ゆいがはまっ」


「ヒッキー、あたしはー……?」



そりゃもう最高ですけど。

より密着して、たまらない匂いと温かさに包まれる。

ぽよぽよした感触も、強く押し付けられているのに優しく、しかしだからこそ殺人的に俺を快楽の海に引きずり込む。



「ちょっとー、ガハマちゃん」


「あーっ、結衣先輩、耳が隠れちゃいますぅ!」


「あっ、ご、ごめん!」



陽乃さんと一色が抗議の声を上げて、由比ヶ浜がわずかに腕の力を緩めた。

腕の隙間から再び、彼女たちの吐息が近づいてくる。



「……せんぱい、わたしのことも忘れないでくださいよぉ?」



もう既に脳の処理能力は天元突破している。ドリルは天を向いてげっほごほ。

それでも耳は声を逃す事はないし、心肺機能は甘い匂いを取り込もうと必死だし、左手は雪ノ下の感触を求め続けていた。


しかし、それでも不満なのか陽乃さんが一段階、ギアを上げようとしていた。



「……しょうがないなあ、ちょーっと、ほんき、出しちゃおっかな♡」



なにを、と思う間もなく、家で味わったにゅるりとした感触が耳に侵入する。

一度経験してるにも関わらず俺の体は一秒と耐えずに跳ね上がった。



「んむぅううう!?」


「っひゃあ!?」


「きゃあ!」



反射的に身が縮こまろうとして、だらしなく伸びていた足を曲げ、両腕は由比ヶ浜と雪ノ下を抱き寄せてしまう。

雪ノ下の髪をひっぱらなかった事に頭の片隅で安堵しつつ、飛びそうな意識を必死に繋ぎ止めた。



ぬっちゅ、ちゅ、ずちゅ。

淫靡な水音が頭に響く度に、意識は暴れ牛の様に暴走しそうになる。

左側の悪魔的所業に、右側の小悪魔が唆されたように呟く。



「へぇ……」



まさか。まって、まて、もう――



「……せーんぱい♡」



ぽしょり、と呼びかけるや否や、小悪魔も禁断の手段に出た。



「……ん♡ ん、んむ、っちゅ、はむ♡」


「んんんぅ!? ふあ、ああああ!」



刺激と興奮に、埋まっていた由比ヶ浜の谷間から逃れて上を向く。

由比ヶ浜は普段の能天気さが残らず消え去り、ひどく好色的な顔で俺を見下ろしていた。



「……ヒッキー、すっごいえっちな顔してる……♡」



もう表情の体裁など気にもしていられない俺は必死に酸素を取り込んでは叫ぶ。

左手で抱き寄せていた雪ノ下の頭を傷つけないように離すが、何かに縋っていないとどうにかなってしまいそうな手がじたばたと暴れている。

それを捕まえた雪ノ下の細い手が、たおやかな指が俺の指に絡んだ。


距離的には由比ヶ浜と変わらない雪ノ下もまた、俺を見下ろしている。

切なそうな目がまたたき、小さな唇を震わせてゆっくりと俺に近づいた。まっすぐに。



「ん……」



桃色の、性的ですらある唇が視界いっぱいに広がり接触の直前に目を瞑る。

閉じられた瞼の上に口づけが落とされた。


能動的な雪ノ下に気圧されたのか、由比ヶ浜が場所を譲る様に横へスライド。

由比ヶ浜の腕がどかされて、空いた所へ続けて頬、輪郭、首筋とついばまれていく。

口は意図的に避けているのかキスの嵐を止めた後、戻らずにそのまま俺の胸辺りに顔をぐりぐりしている。

普段のクールさはどこへ行ったのか、猫のように無邪気に甘えている。なんだこの可愛い生物は。


そんな雪ノ下に、他の3人もあっけにとられてその様子を眺めていた。

4人分、計8つの目が自分を見ている事に気付いた雪ノ下は、恥ずかしそうに俺のシャツで顔を隠す。ワイシャツだから伸びなくて口元だけだけど。



「な、なにかしら……」


「……いや」


「わ、私だって……甘えたいのよ」



ぐっは!

ヤバイ。これはヤバイ。何がヤバイってもう言葉にできないくらいヤバイ。っべーとかそんなレベルじゃない。

それは他の女子たちも同じであったか、ぐぬぬと悔しそうな声を上げている。



「ゆきのん可愛すぎだよ……」


「さすが雪乃ちゃんだわ……」


「う~~!」



一色がひときわ大きな声で唸ると、フリーになった俺の右手を掴んでぶんぶん振り回した。今は体に力入らなくて怖いからやめて。



「勝てないぃ……。せ、せんぱい! せんぱいは何をしたら一番喜んでくれるんですかっ!」


「え、いや、喜ぶとか……」



何その響きエロい。……今更すぎるか。

もうそういうのを超えた事しちゃってるよな。



「わ、わたしは、せんぱいが喜んでくれるなら、……なんでもしますよ?」


「……ぅ」



やっぱエロい。あざとエロい。

だがその言葉は一色いろはの本心なんだろう。男として嬉しくないはずがない。

……え、いまなんでもって言った?



「そ、その……一色」


「はい……!」



うるうるとした目で何かを期待している。エロい。あざとエロ可愛い。



「その……、声、声は……一色のが、一番好きだ……」


「ふぇ」



粉砂糖を脳に吹き付けるような彼女の声は、甘いという言葉では表現できないほどスウィートボイスである。シュガシュガスウィート。オイ☆

この美女美少女たちの中でも、それは選りすぐりと言っていいだろう。

いかん、順番は付けられないって言ったのに……。まあ声の話なんだけど。



「――えへ、えへへへ……そうですか、そうなんですかもしかしてプロポーズですかこんなの無理ですズルいです断れるわけないですよろしくお願いします」



それだけ一気に言い切ると、へにゃ とくだけて俺の肩に顔をうずめた。

いつの間にかプロポーズしてオッケーされちゃったよ。


困惑顔で3人を見ると、むすっとこちらを睨んでいる。怖い。



「あ、あの……」


「ヒッキー、あたしは!?」


「ちょ、ま、落ち着けし」


「あたしもヒッキーに好きって言われたい!」


「わたしも言って欲しいな~」


「わ、私も……」



3人がずずいと詰め寄ってくる。怖い怖い! 多人数に近距離で睨まれるって結構な恐怖! 初めて知った!

後ろの壁に頭をぶつけながらどうにか落ち着かせる。



「好き、って、そもそも何をしたら俺が……自分で言うのもアレだが、喜ぶって話じゃなかったのかよ」


「むぅ、そうだけど……」


「あ、じゃあ、それぞれにして欲しい事とか。どこが好きだからこうして欲しいとかないかな?」


「……適材適所、ね」



一応は話がついたらしい。

3人は詰め寄った上半身を戻して今か今かと待っている。


……なにこれ、下手な告白より恥ずかしいんだけど。



「……あー、その、前提としてはむしろ嫌いなところが無いわけだが――」


「それは嬉しいけど、今は前口上とかいらないから。おっぱいが好きって言われても、お姉さん喜んじゃうよ?」



俺の出鼻をくじいて陽乃さんが言う。てかおっぱいとか言わないで興奮しちゃう。

由比ヶ浜はうんうんと強く頷いているが、その横で雪ノ下が下唇を噛んでいた。やめたげてよぉ!



「はい……。じゃ、じゃあその、由比ヶ浜……」


「うんっ!」



とりあえず先手に由比ヶ浜を選択。

他の二人がみるからにしょぼんと落ち込んでいた。いや、順位とかじゃないからね。決しておっぱい順とかじゃないから。



「……由比ヶ浜の声も、……好きだ。あと、さっき抱き付かれた時の匂いとか、くらくらするくらい、いい匂いだった」


「そっか……へへ、そっかぁ……」



恥ずかしい……。

由比ヶ浜も一色と同じく、へにゃりと破顔して俺の右胸辺りにおっこちていった。こそばゆい……。洒落じゃないよ。



「……雪ノ下は、髪とか……っつーか手とか、触れたところ全部気持ちよかった。……ずっと触ってたいくらい」


「……! そう……」



努めて冷静でいようとしているんだろうが、表情筋がによによと頬を引きつらせている。

前の二人と違ってへにょらずに膝の上でもじもじして固まった。へにょるってなんだ。



「……わたしは?」



待ちきれなかったのか、陽乃さんがわくわくして尋ねてきた。こういう子供っぽいギャップもまた可愛い。



「陽乃さんは、なんていうか……完璧すぎて逆に言う事が無いと言いますか……」


「えー……」



これでは足りなかったのか、しょんぼりと肩を落とす。

……ああもう可愛い。



「スペックが高すぎて、まだ分からないんですよ……。キリっとしてても綺麗ですし、今みたいに拗ねてるのも、……可愛いんです」


「……ふふ、そっか♪」



ひとまずは満足してくれたのだろうか、その顔に笑みが戻る。

恥ずかしすぎて精神がすり減ったが、まあこれで一区切り――。



「じゃあもっと分かってもらわないとね♡」


「……え?」



もう、もう無理だよ、死んじゃうよ……。何がって俺が暴走して社会的に死ぬ。間違いない。



「とりあえず場所交代しよっか?」


「え、え?」



「ん~、わたしはもうちょっと、このまま続けたいです。…… ね、せーんぱい♡」


「ぅぐぅ……」



「あ、あたしも次は隣がいいかな……。 ……えへへ、ヒッキー♡」


「ふぐぅ……」



「私は……その、甘えていたいかしら……」


「ぐは……」



「わたしは、比企谷くんに、さ、触ってほしい、かな」


「おっふ……」




……ぽしょぽしょどころか、全てにおいて俺は勝てそうにない。



―了―


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このSSへのコメント

13件コメントされています

1: SS好きの名無しさん 2015-06-27 01:31:27 ID: 7ts-0l2g

素晴らしい。
…続編とか書いてもいいのよ?(チラッチラッ

2: SS好きの名無しさん 2015-06-27 12:25:23 ID: OhgpHLhw

ぽしょぽしょって言葉が良いです♪

3: SS好きの名無しさん 2015-06-27 17:52:38 ID: Vdnuz_xm

耳責めいろはすとか神すぎてもう、ね。
ぜひまた続編とか待ってます!

4: SS好きの名無しさん 2015-06-27 21:23:22 ID: GS5eSCHW

さてヒキタニくん俺とその場所を変わろうか

5: SS好きの名無しさん 2015-06-28 19:10:15 ID: 1-uKPFQC

葉山君はいつでも出来ると思うんだ

6: SS好きの名無しさん 2015-07-05 14:47:54 ID: NLj3gZzc

ドロドロだね

7: ネクロン 2015-07-08 20:24:55 ID: v_dXrykG

あれ?そこにいるのは俺のはずじゃ?(困惑)

8: SS好きの名無しさん 2015-07-10 10:08:10 ID: BByMCHQM

陽乃さんがエロすぎてヤバい
何がヤバいって、ヤバいがヤバいわ

9: SS好きの名無しさん 2015-11-12 19:56:04 ID: azwDqQs4

雪乃を責めるのまじっべーわー!
マジ神すぎっしょ!

10: SS好きの名無しさん 2015-11-12 19:56:39 ID: azwDqQs4

続き書いてほしーわー

11: SS好きの名無しさん 2017-03-08 22:58:18 ID: u_9bgeQY

何だこのすんばらしい作品は。

12: SS好きの名無しさん 2019-08-04 12:10:42 ID: S:DFrq0b

最高かよ

13: SS好きの名無しさん 2020-03-30 17:26:21 ID: S:-HvqaL

神作キター‼︎(あーしさんもいたらな〜)


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1: SS好きの名無しさん 2016-10-31 20:14:22 ID: xdg9_l5w

ふぅ…

2: SS好きの名無しさん 2019-08-04 12:10:04 ID: S:xR8hRZ

最高かよ。

3: SS好きの名無しさん 2020-03-30 17:27:46 ID: S:EGQVOd

マジっベーわー‼︎

4: SS好きの名無しさん 2020-04-06 10:03:20 ID: S:nWcVjv

なんだ、神作かよ...


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