いつだって、雪ノ下陽乃はかき乱してくる。
\七月七日は雪ノ下陽乃の誕生日/
二本も書けなかったわ(絶望)
ペース的に厳しいので、はるのん誕生日SSはこの作品のみになります、すいません。
モチーフがあります。
(モチーフっつーかまあ九割パクった)
何の作品か分かっても黙っておきましょう。
完結しました。
000
【俺が俺になるまでの物語を、これからしようと思う】
なんて、球磨川禊よろしく括弧つけて言ってみたはいいものの、これはそんな墨付き括弧を使うほど格好いい話ではない。
むしろ、どこまでいっても格好悪い俺の話だ。
そう考えると、弱さにおいて最強な俺のお墨付きなので、墨付き括弧もあながちまちがいでもないのかもしれないが。
正直言って、あまり面白い話ではない。
ぐだぐだと悩み苛み、冗長で平坦な、聞いているだけでイラついてくるような、そんな話。
なんというか、聞かせるのが申し訳ないくらいのどうでもいい話なので、無理をしてまで聞いてもらうわけにはいかないのだが、それでも、できれば聞いて欲しいというのが、俺の素直な気持ちだ。
たいした意味はない。
きっと、いくら他人に話したところで、聞いた人にとってなんの得にもならない、どうしようもない話だから。
それでも、俺は話したい。
それが、俺なりのけじめなのだと思う。
これは俺の罪だから、一緒に背負ってもらおうなどとは甚だ思ってはいないけれど、これを話せるようになったのだという事実を、俺は彼女に伝えたい。
俺は前を向ける人間になったのだと、そう、伝えたい。
そのために選んだ手段が、これだったというだけのことだ。
話半分に聞いてもらえると、非常に助かる。
語ることで前を向いた証明になるとか、そういう言説に対して俺は割と肯定的だし、彼女も肯定してくれる。
それはきっと気のせいなのだとしても、それを、その錯覚こそを、人は心から望んでいるのだと——彼女はやっぱりそう言うのだろう。
その言葉を俺は納得して受け入れることができる。
いや。
たぶんそれは、『彼女が言っているから』、受け入れられるという、それだけの話なんだと思う。
その意見がどういう意見なのかじゃなくて、彼女がどういう人間なのかによって、俺は受け入れる受け入れないを決めている。
酷い話だ。
何を言ったかが問題じゃない、誰が言ったかが問題だ、なんて思想はいっそ差別的だとも言える。
しかし、それもまた、俺という人間なのだとすれば、そういう気持ちを頭ごなしに否定することも出来ない。
それどころか、学校において常に差別を身近に感じてきた身としては、俺はなにかを選べる立場にあったのかと感嘆すら覚える。
選択権って俺にもあったのかぁ。
人を好きにならずに生きていけたらどれほどいいだろう。
誰も愛さずに生きていけたらどれほど幸せだろう。
それは分かっている。
そんなことは言われるまでもなく分かっている。
だいたいにして、そういう感情のせいで(九割方俺自身の問題)小・中・高、とぼっちライフを満喫してきたのだ。
俺はこれまで多分に勘違いを繰り返し、いろんなやつに告白してきた。
実際のところ、本当にいるのだろうか?
この世に、『私は今まで人を好きになったことがない』なんて、おおっぴらに言える人間が。
それが、たとえ、『本物』ではなかったとしても、一時的に好意を寄せていることには変わりない。
すくなくとも俺は——比企谷八幡は、いいやつをたくさん知っている。
中学時代は思い出すのも憚られるので省略するが、高校時代において——面と向かって言ったことはほとんどないが、心の中では——友人だと思える人間は、どいつもこいつも世界中で愛されなくとも誰かに必ず愛されるようなやつだった。
そして、俺は自分のことを誰から見ても嫌なやつだとは思っていない。
自分の嫌なところは死ぬほど見つかる。
これまでの人生で何度も見てきた。
けれど、やっぱり、そんな俺を俺は好きになれているんだと思う。
そんな俺を友人だと慕ってくれるやつも、少なからずいる。
なにも、この世に生きている人間の大半が、自分自身が大好きで、最高の人格だと思っていると言うわけではない。
性格にしろ人生そのものにしろ何にしろ、自分の何かが不満で、自分の何かが嫌いで、自己嫌悪に陥ることもあるはずだ。
ことあるごとに自分が嫌になるはずだ。
だけどそれでも、明日も生きていかなきゃならないんだろう?
だから、俺は自分の弱さを肯定して、自分を好きになったのだ。
これからするのは、俺が俺になるまでの物語。
俺という矮小で低俗な人間が、自分のことが心から嫌いになり、それでいて死ぬことも出来ずにうじうじと悩んで苛んで、瞳だけでなく根から腐りかけていたときから——彼女に照らされて、卑怯で卑屈で陰湿な、高校時代の俺+αに持ち直すまで(なんだあんま変わんねぇな)の物語だ。
だからこれは、彼女の話でもある。
俺の話と、彼女の話だ。
聞いて欲しい。
そして、出来れば、聞き終わった後に、「きみって最低だね」なんて言ってもらえれば、高校時代の先輩を思い出せるので、とても嬉しい。
と、まあ、そんな冗談はさて置き、そうだな、出来れば、お前の話を聞かせてくれよ。
俺は似たような過ちを繰り返し繰り返し生きてる。
お前は一体、どんな風に生きてる?
001
「君は理性の化物だね」
そう言われたことがある。
自意識の化物、とも。
たぶん、あのときから既に、俺はあの人の言葉をほとんど鵜呑みにしてしまっていたというか、もしくは、あまり疑っていなかったのだろう。
なにか言われれば、そうではないという部分を探すより、そうだろうと納得できる部分を探すことに躍起になった。
基本的にあの人は人の心を見透かしている節があるので、躍起になるほど探さなくても思い当たるものが浮かんでくるのだが。
最初の出会いは確か、六月辺りだったか。
雪ノ下と共に由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに出掛けたときだったと思う。
異様なお姉さんというと、なんだか卑猥な気がするが、あの人は異様だった。
終始違和感を覚え、その正体が分かったときには悪寒が走ったものだ。
いまだ、あれ以上の外面を見たことはない。
あの人の妹や幼馴染みから話を聞いても、偶然同席したときも、やっぱり、この人は普通じゃないな、と引き攣った笑みを浮かべてしまっていた。
「ひっどーい。人のことをそんな魔人みたいな言い方して! 比企谷くんにはお仕置きしなくちゃいけないなぁ」
お仕置き……ぞくぞくする。
おお、俺が言うとものすごい変態的な言葉に聞こえるから、日本語というものは不思議だ。
この人の声を聞くのも、何年ぶりだろうか。
いつだって、俺を試すようなことをしてきた彼女と会えないのは、微妙な安心感がある。
「ちょっと? 比企谷くん。それ、どういうことかなー? こんな美人のお姉さんと会えないのに安心するの?」
まあ、そりゃあ、それなりに。
悪い場面では必ずこの人がいた。
けれど、最終的に必ず事態が好転していたのは、今思えば絶対に俺の力なんてことはなく、紛れもなくこの人の力なのだろう。
俺もそれなりになにかをやった。
けれど、それすら計算して操作されていたように感じる。
流石に、考えすぎか。
そう言えば葉山が「あの人は興味がないものにはちょっかい出したりしない」とかなんとか言っていたが、そうなると滅茶苦茶に絡まれた俺は結構脈アリだったのかもしれない。
もったいないことしたなー(棒読み)。
「そう思ってるなら今からアタックしておいでよ。わたしは、断ったりしないよ? 君と違って」
この人の口から飛び出すのはいつも針のように心に突き刺さる。
大概にして欲しい。
せっかく逃げてきたのに、いまだ囚われたままかのような錯覚に陥りそうだ。
好きなものを構い過ぎて殺すか。
嫌いなものを徹底的につぶすか。
そんなようなことも言っていたが、それは今現在でも、肯定できるような気がしない。
俺は確かにあの頃よりさらに地に落ちた。
それどころか、地中に埋まってるまであるが、潰れても殺されてもいない。
しかし、最後に、刺された。
興味を失ったような冷めた目で。
彼女の口から発せられた、たった一言が、今でも耳に残っている。
「——ばいばい」
ぐさっと、槍で突き刺されたかのような痛みに、俺は特に驚くこともなく、目を開いて自室の天井を見上げた。
全身はべっとりと汗に濡れている。
槍で突き刺されたことはないから、当然、槍で突き刺されたような痛みなんて分からないんだが、それでも頭が覚醒するのには充分な痛みを伴っているように思う。
何度目だ。
もう、ここ数日、ぐっすりと眠れない。
いや、ぐっすりと眠れてはいるのだが、気持ちよく起きられないのだ。
毎朝毎朝、バカの一つ覚えみたいに同じ映像が頭を過り、言葉の槍でもってあのときの痛みを呼び起こされる。
忘れるのを許さないとでも言うように。
逃げるのを許さないとでも言うように。
「負けたっていい。弱音を吐くのも構わない。でも、忘れるのと逃げるのは許さないよ? 君はずっと、覚えておくべきだからね」
どこかでそんな声が聞こえた気もする。
けれど俺は無視をして、風呂場へと向かう。
季節もう七月。
悪夢の冷や汗に加えて寝汗でティーシャツが濡れている。
まさかこのまま学校に行くわけにもいくまいし。
脱衣所で衣服を脱ぐと、隙間風が身を震わせた。
002
無言。
買い溜めしてあるカップラーメンの入った袋を漁り、今日の気分でラ王を選出。
無言。
テレビをつけ、お湯を沸かす間に歯を磨く。
無言。
沸いたお湯を注ぎ、テレビをぼんやりと眺めつつ三分経過を待つ。
無言。
食事を終え、ひたすらだらける。
終始無言。
この家には、誰もいない。
生活環境が変わってから、俺は家事が案外苦手だと言うことに気づいた。
というか、今までやってこなかったものを急にやれるわけがない。
専業主夫になりたいとか言ってた割には、やっぱり心の中ではそんなに固執してなかったんだなぁ、と自分の底の浅さが嫌になる。
今ではカップ麺、レトルト、冷凍食品、乾麺が俺の食生活を形成している。
部屋には、なにか置くと片付けることになるので、テレビ、テーブル……リモコン? くらいしか置いていない。
散らかることがないというか、散らかそうにも散らかせない。
ああ、まあ、教科書がテーブルの上に乗っていたりとかはあるのだが。
「もうあと一月もしないうちに夏休みだねぇ。いいこと、あるといいね」
頭の片隅でそんな声を聞きながら、俺はマッカンを飲む。
環境はめまぐるしく変化するが、マッカンの味は1975年から変わらない。
千葉県民、おふくろの味、マッカン。
まあ、俺は生まれてねぇけど。
それにしても今日は幻聴が酷い。
何かの前触れだろうか。
それとも、何かが尾を引いているのだろうか。
単純に、もうすぐ夏休みということで、俺が精神のバランスを若干、欠いているだけならいいのだが……、しかし、俺に限って、夏休みになったところで心配の種があるわけでなし。
となれば、最近あの人の夢をよく見ることから、盛大に妄想してる線が強そうだ。
我ながらキモい。
本当。
俺は一人じゃダメだ。
俺は一人じゃ何も出来やしない。
そんなことを思いつつ、ゲームをやり始める。
全く、悪夢……まあ、悪夢だな。
迷惑なもんだ。
こんな時間に起こされても、まだ学校に行くには早いし、テレビはニュースしかやってないし。
ともあれ。
それでも時間というものは経過する。
基本的にだらけた生活を送っているし、今更規則正しくなんて言わないが、たまには早起きして、早目に家を出るのも悪くはない。
そう言えば、一色に面倒事を頼まれたり、平塚先生に呼び出しをくらったりして部活に遅れたときにはよく怒られたな。
平塚先生に呼び出しをくらったあととなると、二重で小言を言われるので勘弁して欲しい。
怒られるのは嫌だ。
いや、まあ、雪ノ下や由比ヶ浜、小町や平塚先生に怒られるのは、気に入っていた日常ではあったのだけれど。
結構、変態チックな発言だった。
ふうと、息を吐く。
もうあの面々が俺を怒ることはないのだ——だって、あいつらは、もういないのだから。
今でも、思い出してはそばに感じているけれど、それはただの錯覚、妄想だ。
俺はそんな自分の未練がましさに失笑しながら、支度を済ませて学校に向かう。
誰もいない、学校へ。
003
なんて言い方をすると、まるであいつらが死んでしまったみたいだが、別にそんなことはなく、あいつらとは進学先が違ったというだけのことである。
あいつらはそれぞれの道へ進み、俺は逃げて千葉からは少し離れた大学へと進学した。
それだけ。
それだけのことだ。
雪ノ下は家の都合で千葉の国立大に、由比ヶ浜は自分の成績でいけるギリギリの私立文系に、小町も大学受験に受かったとメールで言っていたので、今年度から大学生だ。
みんなそれほど離れた大学には行っていないので、地元に行けば会えるだろう。
平塚先生は……、あの人まだ若手若手言ってんのかな。
きっと、俺の知る面子のほとんどは今でも交流を絶っていないだろう。
小町には、悪いことをしたなと思っているが、あいつはあいつで上手くやれるやつなので、罪悪感はあるものの、そんなに心配はしていない。
大学進学当初は、今まであった交流が一気に絶えたことに、悲しみとは別種の戸惑いを覚えてしまった。
一言で言うと、あっけなさ、なのか。
あっさり、なのか。
思ったより『こんなもんか』という気持ち。
劇的でもなければ衝撃的でもない、『こんなもん』な別れ。
これはあくまで、俺の主観的に言った場合だけど、向こうも、そんな感じで済ませてくれているとありがたい。
侮蔑や嘲笑は慣れたものだが、怨恨の類いは人と関わりが薄かった俺には縁がない。
そうなった場合、どうおさめればいいのか対処に困ってしまう。
直接的なものなら警察に突き出して終わりにすればいいのだろうが、元友人を警察に突き出せてしまうほど俺は冷淡じゃない。
……未練がましいと自虐したり、かと思えばこんなもんかなどと強がったり、元々弱かった俺だが、とことん落ちぶれたらしい。
そんな自分を好きだとも思えない。
「比企谷くんはなぁんでも分かっちゃうんだねぇ」
これもいつかのあの人の台詞。
あの言葉は、やっぱり、なんにも分かってない俺への挑発だったのだろう。
いや、やっぱりってなんだよ……、最後までなにも分かってなかった癖に。
もう、ここの景色も見慣れてしまった。
千葉にいる頃は千葉の景色を思い出すなんてことはなかったし、懐かしむことはなかったが、離れている今、故郷が懐かしいと思うことも少なくない。
あちらには会いたくない——いや、会いたいのだが、顔を合わせなくない——知人がそこそこいるので、帰省はしていない。
食生活が乱れているのに交通手段だけは便利になってしまったので、最初はぶくぶくと太ることを心配していたが、どうやら太りにくい体質らしい。
そう言えば、前に三浦が教室でそんなことを言っていたなと記憶が蘇る。
こんな些細なことまで覚えているとは……、俺は案外、高校生活に魅力を感じていたのかもしれない。
あんな高校生活が楽しくなかったわけがないのだが。
ま、それはともかくとして、俺、比企谷八幡は数月前に三年生になった。
たった一人になって、二年以上も月日が流れたのだと考えると、なかなか感慨深い。
目標も目的も宛もなく、ただ毎日それなりに勉強してそれなりに頑張っている。
目的がないは違うか、一応、成り行きで、なんの職に就くかは決まっている。
ああ、だから、そういう意味では、もう一年近く、一人ではないのか。
「あっ、せんぱーい!」
原付を大学の駐輪場に止めると、俺の隣に駆け寄ってくる足音。
そちらを見やれば、かわいい系の女子がにこにこと笑って手を振っていた。
忘れていた、というわけではない。
ただ、そんなに喋るわけでもないのだ。
一色いろははもう、昔ほど近い距離にはいない。
こいつからも俺は一度逃げているのだが、うだうだと自堕落な生活をしているうちに追いつかれてしまった。
俺が腐りきらなかった九割は恐らく一色のおかげなのだと思う。
なんだこいつ、超いいやつじゃん。
「よう、一色」
「はいっ、おはよーですっ!」
俺は校舎へと足を進めながら、あざと可愛さ健在の元総武高生徒会長様に挨拶をする。
一人になろうと思えば、いくらでも方法はあった。
実際、一色は空気の読めるタイプなので、俺の機嫌が悪いときにはそんなに話しかけて来ないし、迷惑だと言えば離れていくのだろう。
それが出来ないのは、俺が弱いからに他ならない。
どこまでも弱くて、一人じゃなにも出来なくて、だからだろうか、一年前、校舎の中で一色に出会ったときに——ほっとしてしまった。
小町すら俺と必要以上の接触はしなくなってしまったのに、まだ俺に話しかける誰かがいたのだと思うと、自分から捨てた癖に安心したのだ。
気持ち悪い、反吐がでる。
今の俺は、もう、猜疑心に絡め取られていた頃の俺じゃない。
自意識の化物でも理性の化物でもない。
相変わらず目は腐っているし、心も腐葉土みたいになっているが、それでも前より素直にはなれている気がする。
気のせいか、気のせいだな。
人はそう簡単には変わらないし。
けれど、毎日のように挨拶され、たまに家に来ては愚痴混じりに飲み会を開き、何度となく誘惑してくる一色が、まだ俺に気があるんだろうなと思えるほどには、改悪されている。
改善と言うべきだろうか。
いや、そんなことはない。
こんなのは、多分、気づかないほうがいいのだ。
自分が誰を好きか、相手が自分のことを好きかなんて、そんなもの、気づかない方が幸せに決まっている。
「相変わらずぬぼーっとしてますねー」
「まあな。これが俺のアイデンティティーだ」
「ふふっ、そうですね。そういうところが好きです」
「ちょっ、お前、外でそういうこと言うなっつってんだろ」
「嫌ですよー。隙あらばガンガン押してくので、覚悟してくださいね」
まるで自分は平気かのような言い草だが、一色も一色で頬を赤く染めているので、完全に自爆テロである。
なんだこいつ可愛いな、くそ。
なんてことを思いはするが、可愛いから付き合おうとはならない。
俺の思考回路はそんな直結してない。
下半身のことしか考えられないようなバカだったなら、もっと楽だったのかもしれない。
半端に知恵をつけるから下らないことを考えて、いつまでも燻る羽目になる。
わたしは猿になりたい(迫真)。
「お前、自分で覚悟してからそういうことしろよな……」
茶化すように言うと、一色は少し表情に陰をつくる。
しまったと思ったときにはもう遅く、口から静かに言葉が落とされた。
「わたしは、覚悟、出来てますよ。もう、この大学を受けるって決めたときから」
「……そう、だな。いや、悪い。なんだ、そういうつもりで言ったんじゃなくてだな」
「なーんて! 焦ってる先輩かわいーっ!」
「っ……こんの、くそあま」
と。
まぁ、こんな感じの当たり前を、今は過ごしている。
一色いろはの本当の狙いは今でもはっきりとは分かっていないものの、それでも俺みたいな偏屈家と仲良くしているのを考えれば、結句こいつはいいやつなのだろう。
そういうやつが一人でも周りにいると、救われる。
一色いろはは救われていないのに。
俺一人、救ってもらっている。
どこまでもダメなやつだと、心からそう思う。
これからもきっと、そういう日常を過ごしていくのだろう。
一色には申し訳ないが、俺が逃げている限り、俺は誰とも付き合うことは出来ない。
付き合ったとしても、誰かを幸せになんて出来ないだろう。
だから俺は、このまま、ありていに言えば平凡な毎日を過ごしていくのだ。
そして、そういう台詞を放った直後は、小説や漫画では必ずなにかが起きると決まっている。
別にフィクションと現実をごっちゃにしているわけではないが、ただ、その一色の言葉はタイミングが良過ぎた。
「そう言えば先輩。わたし、さっき、はるさん先輩を見かけたんですよー」
ハルサン……先輩?
004
早く来たせいで講義が始まるまでいくばか時間があったので、適当にキャンパスライフを謳歌する。
中庭でぐだーっとしたり。
良く言えば時間に余裕を持っていて、悪く言えば時間を持て余していた。
ぼっちは一人でいるときは大抵なにかを考えているものである。
つまり、いつもなにか考えている。
だから、今も考えている。
ハルサン先輩。
一瞬、誰だそのアジアにありそうな名前の人物、バルサンなら知ってるぞと思ったが、いろはす的に考えてハルサンが名前な人と昔からの仲とは思えないし(偏見)、そもそも、そんな呼び方をしていたのを俺は聞いていた。
もう二年も聞いてなかった固有名詞である。
二年前ですら、そんな何回も聞いていたわけではないので、忘れてしまっていたのも無理はないと思う。
つまるところ、はるさん先輩とは、陽乃さんのことだ。
と、そこまでいくのにたいした時間はかからず、俺はその名前で固まってしまった。
場所は駅近くだったらしい。
ここはそこそこ栄えていると言ってもいいくらいには街中だし(千葉には劣るが)、そういう偶然があってもおかしくない。
たまたま用事かなにかで立ち寄った陽乃さんを一色が視界に入れたというだけのことだろう。
だが、陽乃さん、という人間は俺にとって、どうしようもなく逃げ回りたくなる存在なのだ。
それが、今、この街に、いるかもしれない。
となれば、固まってしまうのは当然のことだった。
「まあ、本当にはるさん先輩かどうかは分かりませんけどねー。わたしも結局、先輩が卒業してから皆さんとは疎遠になった上に、ほら、アレのせいで連絡先とか分かりませんし」
薄情なやつだな。
と思ったが、アレという単語で思い出した。
俺も一色も一度、ケータイを壊している。
いつだったか忘れたが、とりあえず昨年であることは間違いない。
盛大に焼酎ボトルを割り、二人ともケータイが酒に溺れたのだ。
まちがいなく泥酔。
当然、水没。
あのときのやっちまった感は口にし難いものがある。
まあ、俺に関しては高校時代の連絡先は消していたし、小町の電話番号と家電は暗記してあるためたいした問題にはならなかったが。
本当に大変だったのは一色の方だろう。
バックアップは取ってなかったらしいので、結局、高校時代の連絡先は向こうからの連絡を待つしかないとのことだった。
それでもたいして気にしてないあたり、流石一色である。
閑話休題。
はるさん先輩こと、雪ノ下陽乃がこの街に来ているかもしれない。
もう帰ったかもしれない。
こちらには連絡手段がないから確認のしようがないし、俺は俺で高校卒業時に携帯を新規契約して電話番号まで変えてしまっている。
誰だよ、一色のこと薄情とか言ったやつ、ぶっ殺すぞ。
小町が教えていない限り、向こうが知っている可能性は低いだろう。
だが、小町を100%信用することは出来ない。
あいつには前科がある。
一色いろはという前科が。
まあ、一色のおかげで俺は現界出来ているようなものなので、文句を言う気はないけれど。
一色がいなかったらきっと、透明人間にでもなっていた。
目標も目的もなく、ただ淡々と毎日を過ごして、どこに宛てるでもない想いを抱えたまま死んでいっていたのではないかと思う。
誰に必要とされるでもなく。
そんな大袈裟なことを言ってしまえるくらいに、俺の中で一色いろはという人間の存在は大きいし、事実、一色いろはは素敵な女の子だ。
しかし、いや、だからこそ、恋愛には発展しない。
俺には確かに好きな人がいて、そしてその想いを伝える勇気のない俺もいて、ずるずるといつまでも引き攣って。
そんな状態で誰かと付き合おうなどと思えるほどに、俺は人間を辞めていない。
相手が一色なら、尚更。
中途半端なまま、流されるような真似はしたくない。
たとえ、一色がそれでもいいと言ったとしても。
恐らく、これだけが俺の最後の堤防で、最終防衛ラインで、それが崩れてしまえば、俺はいよいよ人間失格になる。
ただ生きているだけの状態を生きているとは呼びたくないし、意思も心も脳みそも揃っているのにそんな状態のクズは人間ではない。
俺はそれなりにクズな自信があるが、一番超えてはいけない一線だけは理解しているつもりだ。
だから、きっと、俺は——会いに行かなければならない。
正直なところ、会いたくない。
けれど、会わなければならない。
ずっと逃げてきた道が、とうとう行き止まりになったのだ。
いい加減に前を向けということだろう。
卒業式、俺の目の前に並んだ三人の顔が脳裏に蘇る。
あの答えは今でも変わらない。
俺はあのとき、誰かを選べなくて逃げたのだと思っていた。
あるいは、誰かを選ぶことで壊れてしまうのが怖くて逃げたのだと思っていた。
多分、あいつらもそう思っているのだと思う。
しかし、違うのだ。
あいつらから離れて二年、頭に浮かんでくるのは、決まっていつもあの人で。
だから、それでようやく気づいた。
あのとき、あの突き刺すような視線を受けて、なぜ逃げたくなったのか。
あの言葉で、なぜ絶望を感じたのか。
なぜ、俺は——全ての告白を断ったのか。
それは、好きな人がいたからに他ならない。
ただ、そういう気持ちにたいしてあまりに過剰な理性を向けて、理屈をくっつけていた俺は、こうなるまで気づけなかった。
自分の気持ちにすら。
気づいたときからずっと、俺の時間は二年前の総武高卒業式で止まっている。
ずっとあの場所を見ている。
走っても走っても戻れるはずないのに。
自分の足で、行かなければならないのに。
怖かった。
拒絶されるのが。
恐ろしかった。
嫌われるのが。
でも、多分これが、最後のチャンスだから、逃げ続けた負けを今度こそ受け入れよう。
005
然れども、この広い街中で、たった一人を見つけ出すというのは、そうやすやすと達成できる困難ではない。
ので。
その日は講義を受け、少し遠回りや寄り道をしながら、帰路につく俺だった。
我ながら情けない。
しかも、ずっと、会いませんようにと願っていたのだから、全くどうして救いようがない。
あんな決意に似たなにかをしたが、ぶっちゃけもう帰っちゃったかもしれないし、しょうがない。
学校に行けば必ず会えた奉仕部メンバーとは違う。
自分からこの街を出て会いに行こうという気にならないあたり、脆弱なクソ野郎に違いなかった。
やっぱり、こんな自分は嫌いだ。
こんな自分を甘んじて受け入れてしまっている、べらべらと理屈を並べて縫い止めている自分が、これ以上ないほどに嫌いだ。
アパートに到着し、バイクの鍵を抜いて自分の部屋へと向かう。
ちなみに一色の住まいはご近所のアパートである。
たまにラノベに出てくる幼馴染みみたいな行動をしてくるが、それ以外は基本連絡があるので、たいして問題だとも思っていない。
鍵を開けて中に入る。
すると、陽乃さんがー、なんて展開があるはずもなく、小腹が空いたために適当に菓子を取り、テレビをつけて、一枚口に放り込んだ。
そのときだった。
ガチャっと背後で音がした。
脱衣所の扉を開けた音である。
え、おいおい……、誰だよ。
怖くて後ろ振り向けないんだけど。
バカみたいにポテトチップスを放り込んだ直後の体勢で固まっていると、聞き覚えのある——否、決して忘れたことのない声が、俺の鼓膜に響き渡った。
「あ、比企谷くんだー! おっかえりー♪」
慌ててバッと後ろを振り向くと、そこには髪を濡らし、バスタオル一枚で佇む黒髪の女——雪ノ下陽乃がいた。
「な……え? はぁ?」
いきなり過ぎるラブコメの神様降臨に驚き過ぎて、間抜けな声を出してしまった。
瞬間的に上から下まで陽乃さんの肢体を目におさめる(フルオート)。
おお、なんだ俺の目も案外捨てたもんじゃないな。
しかし、バーサクしかけた意識が戻ってくると、それを見つめ続けるわけにはいかないことに気づく。
社会的にも、八幡の八幡的にも非常に困ったさんな事態になること請け合い!
「久しぶりだねー。来ちゃった♪」
慌てて視線を背後から正面に向けると、背中にふふーと満足気な笑みを漏らしながら吐かれた台詞が突撃してくる。
来ちゃった♪ じゃねぇから。
なんだそれ、可愛いなおい。
「久しぶりですね……。えっと、なんでここに? つか、あんた鍵どうした……」
「小町ちゃんに合鍵貸してもらっちゃった☆」
小町ぃぃいっ!!
グッジョブ。
だが、鼻血出そう。
やっべーわ、ラッキーすけべとか一色で慣れたかと思ってたが、やばい。
なにがやばいって、マジやばい。
「あー、その、なんか用すか……?」
我ながら不器用なやつである。
気の利いた言葉一つ掛けられない。
悔しさに思わず顰めっ面になりながらも答えを待つ。
ほんの数秒が経った頃、ぱさりと布が落ちる音が室内に響いた。
実際には響いてなどいないが、今も俺の頭の中では、ぱさりぱさりパセリパセラと反響している。
パセラか……懐かしいなぁ(現実逃避)。
今まで逃げ続けた挙句、こんな状況に陥っても脳内で逃げていると、それを許さないとでも言うように俺の背中になにやら柔い感触が訪れた。
近い近い柔らかいいい匂いずっとこうしていたい!
その柔らかい二つのものがなんなのか、頭で理解し、俺の鼻からたらりと血が垂れるまで、僅か0.1秒!
記録更新!
とか言ってる場合じゃねぇぞ、これマジで。
生のパイが俺の背中に二つ。
鋭敏になった触覚がその生々しい質感をティーシャツ越しに捉える。
人間、本気出せばなんでも出来る。
そのまま身じろぎ一つ出来ずにだらだらと鼻血を垂れ流していると、ゆったりとした調子で首に細い腕が回された。
白い!
やばい!
もうなんでもやばい!
なんだこれ、なんだこの状況。
妄想?
そうか妄想か、それなら納得だなー。
と、二度目の現実逃避。
逃がさないぞとばかりに耳に濡れた唇がつけられた。
「ひゃ!」
……なんだ今の気持ち悪い声は。
落ち着け、落ち着くんだ比企谷八幡。
これは試練だ。
もう乗り越えられなくてもいいんじゃないかとか思っちゃいけない。
諦めは俺の十八番。
ダメじゃん。
試練とか俺に一番向いてない類のやつじゃん。
「ね……比企谷くん……」
陽乃さんが言葉を紡ぐたび、熱っぽい吐息が耳にかかる。
もうこれを一生の思い出にして、真っ直ぐ生きていける。
「……しよ?」
な、なにをですかー?
ちょっと待って、ちょっと待って!
チェリーボーイには余りにも荷が重いんですけど!?
陽乃さんの荒くなった吐息を間近で感じ、俺もひゅーひゅーと過呼吸みたいな息を漏らす。
おいおい、どうすればいいんだってばね。
とりあえず、アレだ。
離れよう。
これはマズイ。
このまま流されちゃうのはマズい。
それはなんか違う。
のは、分かってるんだけどなぁ!
この柔らかい感触が俺の心を掴んで離さない。
これが万乳引力の法則か。
「あ、え、その、とととりあえず、一旦、おちつきめしゃう?」
噛みまくりだった。
しょ、しょうがないだろ!
今の俺は一色と小町以外の女子と会話したら必ずキョドって噛む自信がある。
そんな俺の対応に、陽乃さんはくすりと笑って身体を離れさせた。
「比企谷くんは変わらないなぁ。もっと男らしくならなきゃダメだぞ?」
「……は、はい」
なにがはいなのか全然分からん。
なんだこの圧倒的ラスボス感。
俺まだレベル1なんだけど。
それどころか一生レベル1まである。
「そういえば、お酒の缶が転がってたんだけどー? 自棄酒はよくないわよ、少年」
服を着ているのか、布が擦れる音が間近で聞こえ、まだ心臓がどくどくする。
つくづく心臓に悪いな、この人。
「ああ……、その、すいません」
「お酒は便利だけどね。気分が落ちたときには勧められないな。あれは楽しいときにちょっと呑むくらいがいいのよ」
「それ、自分ルールじゃないっすか」
と、憎まれ口を叩きつつも、そうかそういうもんか、なんて納得しかけている自分がいることに気づく。
本当、俺はどこまでいっても……、苦笑するほかない。
「年上のお姉さんからの忠告だよ。長いものには巻かれておきなさい」
「確かに。……陽乃さんは、強いですからね」
「…………」
静寂。
これが話が終わったから訪れる静寂でないことくらいは、雰囲気で察せられた。
不思議に思い、そのままの姿勢で声をかける。
「陽乃さん?」
「え、あ、う、うん? なにかなー、八幡♪」
そこまで言われてようやく失敗に気づく。
そう言えば俺はこの人のことを雪ノ下さんと呼んでいたのだったか。
心の中でいつも陽乃さん陽乃さん言ってたから頭からすっぽり抜け落ちていた。
昔だったら、きっとこんなミスはしなかった。
昔の俺だったら。
今も、どこまでもこの人のことを警戒して、決して陽乃さんだなんて名前で呼ぶことはなかった。
「はあ……。すいません、雪ノ下さん」
「あれー? もうやめちゃうの? 残念だなぁ」
そんなことを言いつつ、俺の隣に腰を下ろす。
近い、だから近いって。
横にずれると、その距離を埋めるように陽乃さんもずれる。
更にずれると、またという繰り返しだった。
三回目くらいで諦め、反対側に身体を傾けて言葉を返す。
「な、なにが残念なんだか」
「相変わらず、キョドり方がキモ可愛いなー」
「なんすかそれ、褒めてんすか」
「もちろん。絶賛したわよ」
「嬉しくねぇ……」
こんなやり取りも懐かしいなと、高校時代の思い出が蘇る。
高三になってから、何度も呼び出された。
多分、断ろうと思えば断れた。
それは誰にしたってそうなのだが、この人の場合、隙をついてもどうせ埋められてしまうからとかよく分からない理屈をつけて、そんなに抵抗しなかった気がする。
今だから、そう思えるだけだろうか。
ちらと改めて陽乃さんの顔を窺う。
二年経って、ますます大人っぽくなったように思う。
高校のときは散々世話をかけた。
お金持ちで勉強の出来る大学生は暇なのだとかなんとか言っていたが、そんなことが出来るのは家族への愛情あってこそだ。
家族間の不和。
結局、雪ノ下と母親の問題は解消されはしなかった。
しかし、姉妹の確執だなんだと俺の胸中をざわつかせていたものは、確執というのには余りにも一方通行で、雪ノ下の最後の依頼は雪ノ下自身の手によって達せられたのだ。
三年の一学期が終わる頃には、雪ノ下姉妹の笑い合う姿をよく見かけていた。
俺は、その横で、ずっと一人わだかまりを抱えていた。
俺の本物は——見つかった。
確かに、そこには汚いものを見せ合える関係があって、たとえ泥沼の中に引きづりこんでしまうようなものであっても、あれが俺の求めたものだった。
助けて欲しいから、誰かを頼るわけじゃない。
ただ、そう。
隣にいてくれるだけで、自分で這い上がれる。
欲しいものは手に入った。
それなのに、俺は。
それだけじゃ、足りなくて。
なにかが違う。
決定的な違和感。
俺が求めていたものがこれだけではないのだと、そう気づくのには時間はいらなかった。
だから離れた大学を受験して、本物を手放し、逃げた。
そして昨年の今頃、気づいたのだ。
——俺は、この人が好きだったのだと。
いつからそうだったのかは分からない。
だから、多分、これは俺の素直な気持ちで——どうしようもなく捨てられない想いなのだ。
あいつら、奉仕部は大切だった。
一色も、もちろん大切だった。
掛け替えのないもので、代わりの効かない唯一のものだ。
だけど、それは好きとかそういうんじゃなくて、だからってなんて言えばいいのか分からないけれど、大切ななにかでしかないのだ。
手放すのは惜しかった。
ずっと一緒にいたかった。
一人になりたくないと思った。
それでも、そのときは理由もなく彼女のらの想いを拒絶するしかなかった。
そんな自分がどうしようもなく嫌だった。
今も、こんなに近くにいるのに、なにも言えない自分が心から嫌だ。
こんなもの、チャームポイントにもなり得ない。
ただのグズだ。
「比企谷くん、わたしさー、家出して来ちゃったんだよね」
「はあ……、は?」
「お母さんと喧嘩しちゃってさー。だから、しばらく匿って?」
手を胸の前で合わせて、上目遣いで懇願してくる。
あー、くそ、いちいち可愛いな。
「いやいや、流石に男の一人暮らししてる部屋に年頃の女の人が泊まるとかは……」
「ふぅーん。比企谷くんはわたしを見捨てるんだ」
「い、いや、その言い方はずるくないですかね」
拗ねたように唇を尖らせ、指先で床をなぞる。
一色のあざとさが霧散するほどにあざとい。
なんだこの最強生物。
「あ、近くに一色住んでますし、そこじゃダメですか?」
「ダメ」
え? なんでー?
なんで断られちゃったの俺。
どう考えてもそっちの方が安全でしょう。
つか、俺の精神が持たん。
俺がどうしようかと眉間に皺を寄せていると、陽乃さんはふふっと上品な笑みをこぼす。
そちらに視線を向ければ、なにやら小悪魔めいた顔をしていた。
「冗談よ」
「……はぁぁ。そうですか」
「がっかりした?」
「安心しました」
「ひどいなぁ。こんな美人なお姉さん家に上げておいて」
「勝手に上がったんでしょう。普通に不法侵入ですよ」
「美人は否定しないんだね。偉いぞー」
にやりと口の端をゆがめて、わしゃわしゃと頭を撫でられる。
もうあと一ヶ月と少し経てば二十一歳にもなるというのに子供扱いされるのは勘弁願いたかったが、どうにも逃げられそうにない。
自宅なのに借りたきた猫のように固まってしまう俺を見て、陽乃さんはまたもくすくすと笑う。
「で、結局、なにしに来たんです?」
「ちょっと近くまで寄ったから、様子を見にね。チェイサーみたいな。それはいろはちゃんかな」
「はっ、確かに。あいつはチェイサーですね。逃げられる気がしません」
「それ、本気で言ってる?」
嘲笑うかのような声音に背筋が凍った。
ついつい、どうだろうと思索してしまう。
冗句だな、考えるまでもない。
俺はずっと、あいつの気持ちから逃げている。
身体は捕まっても、心は掴まれない。
正面から拒絶したのは、卒業式のみ。
本当はしっかり突き放すべきなのだ。
あいつの優しさに甘えて、安心して、都合のいい存在にしている。
「ふふっ。ま、分かってるならいいよ」
「分かってるんだか、分かってないんだか……。本当に分かってるのなら、こんなことにはなってない気がしますけどね」
分かってないから、理解してないから。
いつまで経ってもこんな状態なのだ。
「なら、どうにかしなさい」
「どうにかできるならしてますよ」
「どうにかする方法が分かってるのに、やらない。やろうとしてないだけじゃない?」
「そうですね……」
「そういう人間を、社会ではクズと呼ぶのよ」
「知ってますよ」
そんなこと、知っている。
とっくに知っているのだ。
自分がクズなことくらい、自分が一番よく分かっている。
ダメなやつだと思う。
情けないやつだと思う。
「比企谷くんが、今、一体、なにに悩んでいるのかは知らないけど、大抵の場合、悩みなんてものは時間が解決してくれる」
その言葉には大方同意出来たけれど、とても本心で言っているとは思えなかった。
この人はそんなことは許さない。
そういう人のはずだった。
それとも、あれだけ深く関わっておいて、俺はこの人のことをいまだになにも分かってなかったんだろうか。
「……そうですけど。でも、それは、逃げてるだけじゃないんですかね」
「逃げの何が悪いのよ。君はいっつも逃げてるじゃない。今だって逃げてるでしょ? そのまま逃げ続けていれば、問題は問題じゃなくなる。あっさりと——納得できてしまう日が来る」
「…………」
なんだか言いくるめられているような気分になる。
いや、これは実際に言いくるめられているのだろう。
——違うな。
言いくるめられているという言い方もまた、責任を陽乃さんに押しつけている。
逃げるのはいい、弱くてもいい、ただ、自分の責任は自分で持つべきだ。
俺は納得したのだ。
彼女の言う通り、彼女の言い分に、あっさりと。
そう、もしもあのとき——高校時代、散々頭を悩ませてきた奉仕部に舞い込んできた問題を解決しようと躍起になっていなければ——こんなことにはなっていなかったのだ。
「さて、じゃあそろそろ、わたしは帰るよ。比企谷くんの生死も確認できたことだし」
「死んでるわけないでしょう」
呆れ混じりにそう返すと、立ち上がった陽乃さんは俺を肩越しに見下ろして一言つぶやく。
悪魔も慄く、薄い笑みをたたえて。
「——死んでるかと思ったよ」
靴を履いた陽乃さんから別れの言葉を受け、条件反射的に言葉を返す。
パタンと玄関の扉が閉まるまで、俺はそこから一歩も動けずにいた。
つーか、靴……どこに置いてたんだ、あの人。
ふうと息を吐き、固いフローリングの上に仰向けになる。
殺風景な部屋には陽乃さんの匂いなんて欠片も残っていなくて、たった今の出来事は嘘だったんじゃないかと思えてしまう。
しかし、背中に触れた感触が確かにあの人の存在を証明していた。
どこで証明してんだよ。
俺はこれからも逃げ続けるのだろうか。
誰からも逃げて、自分の気持ちからも逃げて。
それを繰り返す。
一生。
永遠に。
これも、時間が解決してくれる問題なのだろうか。
とてもそうは思えない。
それに、多分、時間に解決させてはいけないのだと思った。
多分、それはまちがっている。
だいたい、高校時代、俺が躍起になって問題の解決に尽力していなかったら、確かにこんなことにはなっていなかったかもしれないが——しかし、していなかったら、本物は見つからなかった。
だから、そういう意味では、どちらにせよ同じだろう。
あの理論に従えば、俺が本物を手にできないという『悩み』だって時間が解決してくれるべきなのだ。
あんなに必死にならなくても。
「どうでもいいな……」
もしもなんてものに意味はない。
考えるだけ無駄。
脳の浪費だ。
ただでさえ資格を取るために脳みそを毎日フル稼動しているというのに、無駄なことを考える余地はない。
006
以上のような出来事を、ここまで長々と語ったあとでこんなことを言うのもとんだちゃぶ台返しだが、しかし、これはほとんど俺の予想通りだと言ってよかった。
陽乃さんとの再会は俺にどんな変化をもたらしたのか。
それはその時点で、俺にはよく分からなかったが——結局、どうしようもなく俺は俺だし、今更変われるとも思っていない。
だいたいにして納得してしまった事柄を、否定する必要があるのだろうか。
多分ない。
死んでいると思ったなんて言われた通り、俺はほとんど死に損ないだったのだと思う。
たった一つの恋心にびびって、逃げて、一色に頼って、クズの中のクズになった。
だから、陽乃さんは来てくれたのだろうか。
しかし、もう会うことはないだろう。
根拠はなかった。
今まで、全く会わなかったからではない。
ばったり会ってしまう偶然も考えられなくはないが、それでも、もう会わない気がした。
これが、最後のチャンスだったのだろうか。
だとしたら、俺は諦められるのかもしれない。
人の問題は無視出来ない。
でも、自分の問題なら無視出来る。
もう二度と会わないのなら、きっと、いつか、忘れて、失ってしまう。
そういうものだ。
そのときはそうは思えなくても、全部、時間が解決してくれる。
つまり、俺にはそもそもやる気なんてなかったのだ。
陽乃さんと会ったところでなにも言えないのは目に見えていた。
だから、俺にとって雪ノ下陽乃との再会は、その程度の出来事でしかなかった。
これからも逃げ続けるということが決まっただけのことだった。
あの人のことを忘れる日まで待つしかないということが決定しただけだった。
もう幾年かあの人が俺の心の中心に君臨し続けると、それだけのことだったのだ。
本来ならば。
本来ならばと言うからには、当然、実際にはそうではなかったということであり、そう、実際には俺にとっては雪ノ下陽乃という想い人の存在は、この後、心から消え去ることとなる。
消え去る、と言うと少し誇張が過ぎているかもしれないが——ともかく、翌日のことだ。
金曜日。
今日頑張れば明日明後日と休みだ。
そんな最高な日に、俺は特に夢を見るでもなく目を覚ました。
久々の快眠だった。
心がスッキリしている。
ずっと胸に抱えていたなにかが落ちたような。
本当にそんな感じだった。
この時点で、俺はもう昨日ことをほとんどなんでもない出来事のように思っていた。
陽乃さんが俺になにかをしてくるのは、今思えば、いや思わずともよくあることだったし、だからそんな重要なことでもない。
逃げるのはいいことだし、自分がダメなのは自分がよく分かっていて、やっぱり俺は——俺は?
胸中がざわめく。
なんだ、この、感じ。
俺は今、なんて言おうとした?
俺は、確かに、昨日まで、自分のことが嫌いだった。
今は——そんな自分すら、俺は好きになれる気がした。
007
なんだ?
これは夢か——とか思ってみたものの、目を覚ました夢なんて、それこそファンタジー、フィクションの話だろう。
あんな幻聴を聴いていた身としては無視出来ない可能性があるというのが、少しばかり痛いけれど。
見ることは叶わない。
しかし、確かに分かる。
だから、そう、この場合は——心を疑うとでも言うのだろうか。
なんだそれ、中二くせぇ。
一体、これはどういうことなのか。
もちろん嬉しいという気持ちもあるが、それ以上に懐疑的意見を持たざるを得ない。
人の気持ちが一晩ですっかり逆転なんて、そんな気持ち悪い話はない。
脳裏に浮かんだのは一色の顔だった。
一年と少し、高校時代よりも離れた距離からではあったものの、交友を持ってきた唯一の女性。
何度となく、好きだと言われた。
何回か遊びに行った。
心地よい関係に浸っている俺に愛想をつかすこともなく、そばにいてくれた。
奉仕部より先に一色の顔が浮かんできたのは——そういうことなのだろう。
もちろん、嬉しいという気持ちはある。
俺だって、高校時代も含めればおおよそ二年はアピールされ続けた。
全く想うものがなかったかと言えば嘘になる。
けれど、それはギリギリのところで留まっていた。
このままじゃいけないという自制心から。
流されるわけにはいかないという理性から。
それをようやく向けられる。
大切なものを大切にできる。
だから嬉しくないわけがない。
でも、『その嬉しさを遥かに上回る比率で、戸惑いがある』。
どうして?
どうして、今日、いきなり?
俺はどうして、最初に陽乃さんを思い出さなかったんだ?
なんで、陽乃さんが好きだと思えなくなっている?
時間が解決してくれると言っていた。
それはそうだと納得した。
でも、でもだ。
そんな都合のいいことがあるのか?
昨日、陽乃さん再会して、翌日には想いがなくなっているだなんて。
それとも、俺は昨日、無意識のうちに陽乃さんに告白して振られたのか?
まさか。
無意識だったら、むしろ、逃げている。
俺はそういうやつだ。
それとも、俺は一色のことを陽乃さんより僅かに届かないレベルに感じていたのだろうか。
一色と関わっているうちに陽乃さんへの想いが削られていって、昨日それが逆転したのだろうか。
なんだその謎理論は。
意味が分からない。
不思議だ。
やっぱり、『嬉しいというよりは、戸惑いが大きい』。
そしてやっぱり、『気持ち悪い』。
理由もなくこんなことが起きるなんて。
感情は理論や理屈じゃ説明できない。
だからってこれはないだろ。
なんだよこれ、なに?
逃げすぎて、感情からすらも逃げられる特殊能力でも会得しちゃったの?
怖。
時間が解決してくれる問題。
本当にそれだけか?
それでいいのか?
悩んだり考えたりはやめて、あれだけ苦しんでいた気持ちから解放されたぜやっほーとかってはしゃげばいいのか?
そこまで考えて俺が思うのは。
思い出すのは、昨日、前触れもなく現れた女性。
かつての想い人——雪ノ下陽乃だった。
008
とは言え別に、まさか陽乃さんが完璧超人如き御力で、俺の想いを綺麗さっぱり切り取ってしまった——なんてところまで、勢い余って考えてしまったわけではない。
そんなこと、あるはずがない。
俺の脳内はそんなお花畑していない。
いくらマッカンが主飲料だとしても、そこまで甘ったるい幻想は抱かない。
マッカンは紛れもなく健康飲料だ。
マッカンに罪はない。
もしかしたらあの人は俺の心を見透かしていたのかもしれないが、だからって人の気持ちを消せるほど人間辞めてないはずだ。
少なくとも、俺の記憶の中では。
おおよそ人間の範疇に収まっていたように思う。
そういう理屈は分かっている。
だけどそれでも、それを踏まえた上でも、俺が思い出すのは、この喪失感を覚えて思い出すのは、彼女なのだった。
「どうすっかな……」
いくら考えたところで俺なんかに分かることではなかった。
生憎と心理的な分野は学んでいない。
重要なときに使えねー頭だなと自分の脳にぶつくさ文句を垂れつつ、俺はいつものように学校に向かう。
そして、講義を受け、昼食を食べるために食堂に行ったときのことだった。
今日の気分はカレーライス。
ちなみに食堂で一番不味いのはラーメン。
前に母親が通販で買っていた蒟蒻ラーメンにも勝るとも劣らない不味さだった。
ラーメンは外で食べる。
さてと、スプーンを持つと、そのタイミングで目の前の椅子を誰かが引く。
俺は基本的に隅なので、ここに近づいてくるのは、俺と同じぼっちくらいだ。
終始無言なため、迷惑でもない。
「いや、気づかないとかマジですか、先輩」
その声にバッと顔を上げてしまった。
そうだ、こいつがいた。
毎日ではないが、こいつもよく近づいてくる。
一色いろはの顔を捉えて、何故だか顔が熱くなる。
なんだよ、こいつ……、こんなかわいかったか?
「よ、よお……」
震えた声で挨拶すると一色は怯えたように肩を抱く。
瞳が完全にアブナイモノを見る目だった。
「なにキョドってるんですか、気持ち悪いです。こんにちはっ」
最後の挨拶だけはにこやかな笑みで返してくれた。
ふっと笑みをこぼし、俺はカレーを食べ進める。
一色は不思議そうな顔をしつつも、着座しオムライスを食べ始めた。
もぐもぐと食べる姿すらあざとい、さすが一色。
「……先輩、なんかいいことありました?」
あと数口で食べ終わるというタイミングで唐突に聞かれた。
なぜそう思ったのか、視線で問う。
すると、一色は心底楽しそうにはにかみながら、その理由を教えてくれる。
「だって、今日はよく笑うから。先輩が楽しいと、わたしも楽しいですっ!」
グッドサインをしつつ、ぱちっとウインク。
どこまでもあざとい。
まぶたを下ろして、少し思い返してみる。
前は、そういうことを言われるたび、胸が痛くなっていたように思う。
なんだか申し訳なくて。
けれど、今は——
「——あれ?」
「えっ! せ、先輩っ? あ、あの」
目を開くと、あわあわと忙しなく手を動かす一色。
困ったように眉尻を下げて口を開いたが、既にそれは頬を伝っていて、俺も自覚している。
「な、涙が……」
「……すまん」
泣いていた。
何度か拭ってみるも止まりそうもない。
急いでカレーライスを完食して席を立つ。
「悪い。またな」
「えっ」
俯いたまま食器を片付け、食堂をあとにする。
この学校の中庭は広い。
故に、一人になれる場所が多くある。
ぼっちに優しい大学。
別名ぼっち大学(命名俺)。
あまり奥に行き過ぎると行き過ぎたイチャイチャを見る羽目になるのは、入学当初に経験済みなので(トラウマ)、中途半端な場所に置かれているベンチに腰掛ける。
大学に進学して俺がまず最初にしたことは、ベストプレイスの発掘である。
もうこれまでの経験予測からして、俺に人付き合いなんてものが出来ないのは分かりきっていた。
俺はグループとかを作って群れる奴らに対して偏見の目を向けていたが、それはただの醜い嫉妬でしかない。
なにが偽物、なにが薄ら寒い。
俺は孤独でいることの正当性を躍起になって探し出し、それを主張して虚勢を張っていただけなのだ。
あいつらにはあいつらの本物がある。
自分だけが一人なのは特別なことのように思っていた。
一人でいれば、確かに、その他大勢にはならないから。
でも、それはなれないだけだ。
笑わせる。
俺が一人なのは、俺に問題があるからなのだ。
なにもかもを社会のせいにするのは誰にでも出来る。
自分が悪いんじゃない、社会が悪いなんていうのは、それこそ、虚偽で欺瞞で幻想だ。
くそったれな現実逃避でしかない。
でも、一人で生きていけるやつだって存在するだろう。
例えば、雪ノ下陽乃のように。
だから、言い直すならば——自分も悪くて、社会も悪いのだ。
いつだって歩み寄ってくれるのは相手側で、いつだって遠ざけていたのは自分で。
確かに、俺にはいろんなトラウマがある。
しかし、それをされる原因は俺にあった。
認めたくなかっただけなのだ。
あたかも俺が切り捨てたかのような言い訳を並べて、見下していたかっただけなのだ。
だいたい、中学時代に、小学生の頃に、もしくはその間ずっと、謂れなきイジメを受けてきたようなやつだって世間には沢山いるはずだ。
それでも、高校では友達を作れたってやつだっているはずなのだ。
だから、やっぱり、俺が悪い。
俺はそういうやつなのだ。
つくづく、自分の悪いところを直せない意地っ張りなのだ。
俺に友達が出来ないのはどう考えても俺が悪い。
けれど、どうしてだろう。
もう二十年近く付き合ってきたからだろうか。
俺は、そんな自分のことを——好きになれる。
久々の感情だった。
朝から感じていた。
これが——自分の気持ちなのだ。
あのとき失ったはずの、あの場所に置いてきてしまったはずの。
俺の、気持ち。
面倒で醜悪で悩んでばかりでダメダメな自分を好きになれる、過去を認められる、気持ち。
「ははっ……」
ベンチに腰掛けて俯いたまま、俺は跳ねる心臓を掴むように、胸のあたりを押さえ、笑っていた。
笑っていたし、泣いていた。
戻ってきた感情を確かに胸の内に感じながら、バカみたいに涙を零していた。
「はは、なんだよこれ……。くそ、ありえねぇ、ありえねぇだろ……。ああ——」
——嬉しい。
そう思った。
さっき、一色と話したときもそう思った。
嬉しかった。
くそ、ダメだ。
嬉しさよりも戸惑いの方が強いだなんて、喜びよりも気持ち悪さのほうが上回るなんて、そんなのは、ただの格好つけだ。
二重括弧で強調しなければ自認出来ない、くそったれな強がりだ。
理由なんてどうでもいい。
普通に嬉しい。
今、俺にある気持ちは、それだけだった。
009
通報されかけた。
それも一色に。
なんという非道。
つーか、マジでこいつの俺への態度っておおよそ先輩への敬意とかないよなぁ。
まあ、見下されるのがデフォルトだから別にいいんだけど。
「そりゃ通報したくもなりますよ。目の腐った男がぼろぼろ涙を零しながら笑ってるんですよ? わたし怖すぎて泣きかけたんですからね」
「なに? 俺って泣くのも許されないの?」
ちょっと酷くない?
気を使って人目のないところまで来たんだけど?
まあ、主観的に見ても頭のおかしいやつだったのは確かだが。
そうなれば、それは本当に気持ち悪い絵面だったのかもしれない。
「悪かったな」
気持ち悪くてごめんなさいとか、なんかイジメられている気分になる。
上げて落としすぎだろ。
高低差高過ぎて墜落死しそう。
「まあ、先輩が気持ち悪いのはいつものことなので、いいです。それで? なにかいいことでもあったんですか?」
さっきも聞かれたことだった。
いいことがあった、間違いなく。
しかし、それを一色に説明していいものかどうか躊躇してしまう。
嬉しさのあまり言ってしまいたいという気持ちもないではない。
俺が真剣に話せば、きっとこいつは真剣に聞いてくれる。
それは分かってる。
しかし、やはり、分かってるのと実行出来るかは別問題だ。
それが、きっとである以上——いや違う。
そんな言い方では、まるで一色に原因があるみたいじゃないか。
だからそれは違う。
一色に話すことが出来ないのは、単に一色を100%信用出来ない俺が悪いだけだ。
まあ、もともと俺は嬉しいことがあったからといって、他人と共有したいと思うような性格をしていないし——だから、ここで話さなくてもたいした問題じゃないだろう。
「いや、なんでもねぇよ」
笑ってそう言葉を返すと、一色は拗ねたように唇を尖らせた。
しかし、その反面、喜びの滲んだ声音で答える。
「なんでもないってことはないと思いますけどー……、よかったですねっ」
「はっ、なんだそれ」
呆れてそう言う。
実際に呆れていたわけじゃない。
そういう態度に救われている。
「ああ、一色」
「はい? なんですかー?」
「昨日の夜、雪ノ下さんが家に来なかったか?」
問うと、一色はきょとんとした表情で小首を傾げる。
「いえ、来てませんけど……はるさん先輩がどうかしたんです? あ、昨日会ったとかですかー?」
「ああ、まあ、たまたまな」
たまたまどころか家で待ち伏せされてた。
しかし、そうか、来てないか。
「なんか、家出したとか言ってたから、一色の家に泊まったかと思ったんだが……」
「ふーん。特に連絡もありませんでしたけど」
「そうか。まあ、冗談って言ってたし、本当に冗談だったんだろ」
「ああ、あの人、どこからどこまでが嘘なのか分かりませんからねー」
そうなんだよなぁ。
そもそも、陽乃さんがこんなところに用があるとは思えないし。
だから、もしかしたら本当だったのかもしれないと思ったんだが、そんなことはなかったらしい。
しかし、そうなると困ったな。
一色が居場所、あるいは連絡先を知っているのなら、それを訊いてもう一度陽乃さんに会いに行こうと思っていた矢先だったのだが。
俺の気持ちが戻ったことと陽乃さんとの接触に、何らかの関わりがあるのではというのが、今のところの、俺の独断と偏見に基づく推測だ。
嬉しいは嬉しい。
本当に喜んでいる。
そこは誤魔化さない。
そこで嘘はつかない。
自業自得の苦しみとは言え、その苦しみから解放されたことは、とても嬉しい。
本当は喜ぶべきではなかったとしても、その気持ちは本物だ。
だが、それでも理由は知りたい。
俺はどうして陽乃さんが好きではなくなったのか——知れるなら知るべきだし、知りたい。
そのとっかかりとして、陽乃さんともう一度会わなければならないと思っていたのだが——まあ、彼女がもう千葉に戻っていたとしても会う方法なんていくらでもあるか。
昨日、連絡先を訊いておけばよかったかもしれないが、生憎とそんなリア充スキルは習得していない。
必要だと思ったときにしか尋ねられないたちなのだ。
そんなんだからいくら環境が変わろうが友達が出来ないんだろう。
変えるつもりもないが。
そもそも、もう会わないと、最後のチャンスだと、そう思っていたのだから、訊かなくて当たり前だった。
しかし、名前と妹を知っているのなら、所在を突き止めるのはたいして難しい話ではない。
小町なら陽乃さんの連絡先も知ってるだろうし、連絡してもらうか。
いや、流石に俺のせいで途絶えた交友相手に再び連絡しろというのも悪いか。
小町に連絡先を訊いて、俺が連絡しよう。
たまに来るといまだに小言吐かれるんだよなぁ。
「ていうか、先輩ずるくないですかー。わたしも久しぶりに向こうの知り合いに会いたいです。呼んでくれればよかったのに!」
「ああ、そっか。……そうだよな、悪い」
つっても、誰かを呼べるような空気じゃなかったし、それに陽乃さんはすぐ帰っちゃったし。
まあでも、一色が連絡取れてないのも半分は俺が悪いみたいなもんだし、謝っといて損はないか。
「や、そんな謝られるほどのことでもないですけどねー」
と、そこまで口にして、一色はキラリと目を輝かせた。
「あ、でもでも! もし悪いと思ってくれてるなら、日曜日にデートしてくれませんか……ね?」
驚いた。
大学入学以来、買い物に誘われたことはあっても、デートに誘われたことはなかったのだ。
そんなに、分かりやすく俺は元気になっているのだろうか。
いや、だとしても——あぁ、そうか。
冗談半分なんだろう。
どころか、冗談九割くらいかもしれない。
断ったところで一色はいつも通り笑ってくれるだろう。
しかし、一色には散々世話になっているし、この機会に多少でも恩を返すのもいいかもしれない。
はたから見れば、俺の方がなんか得してる気がしないでもないが、誘われなければ、いや、誘われたところで、滅多に外に出ない俺だ。
俺が出来ることなんて精々荷物持ちくらいだが、かわいい後輩のためにそのくらいは頑張ろう。
「分かった。何時だ?」
「ですよねーって、えっ!? いいんですか!?」
「んだよ、嫌なの?」
冗談全部だったの?
だとしたら俺恥ずかしくて死んじゃうよ?
「い、いやいや全然、すっごく嬉しいんですけどね!」
そういうこと言うなよ、恥ずかしいだろ。
結局、恥ずかしいのかよ。
なんだこの完璧なトラップ。
これがハニートラップか。
違うか、違うな。
010
次の日。
つまり土曜日。
昨日考えた通りに小町に電話してみることにした。
連絡先を訊くならメールの方がいいかと思ったが、小町と会うのも一月に一度程度。
たまの連絡のときくらい声が聞きたい。
そんな感じで小町の声に想いを馳せながら、イブニングコール。
どうしてイブニングになってしまったのか。
これには深い理由がある。
テーブルに散らかってる缶チューハイやら焼酎瓶を見ればお察しだろう。
プルルルルという音ですら響く。
マジで頭痛え……。
メールにすればよかったと後悔していると、プツッと呼び出し音が途切れ、続け様に声が響く。
『はいはい、もしもしですよー。お兄ちゃん、小町になんか用?』
なんだか酷く冷たい声だった。
ただでさえうっとなるのに、頭痛のせいでうっ(吐き気)てなる。
「あー、その、なんだ。訊きたいことがあるんだが、いいか?」
『んー? 別にいいけど……、どしたの、なんか調子悪そうじゃない?』
なんだかんだで兄の心配をしてくれる自慢の妹です。
なんだよこいつー、かわいいじゃねぇか。
『うわ、なんか寒気したんだけど……、お兄ちゃん気持ち悪い』
「それだとなんか俺が気持ち悪いみたいだろうが」
『へ? だからそう言ってんの』
「…………」
なんだこいつ、かわいくねぇ。
久々のお兄ちゃんに辛辣過ぎじゃない?
お兄ちゃんそろそろ泣いちゃうよ?
ていうか、俺の気持ち悪さ電話越しに届いちゃうのかよ。
比企谷菌に距離は関係ありませーん。
俺が盛大にいじけていると、はあと嘆息が耳に届く。
『で? どしたの』
「ん、ああ、お前、陽乃さんの連絡先って知ってるか?」
『ん? んー、一応は知ってるけど、どっかの誰かさんのせいで疎遠になったからもう二年は連絡してないし、変わってるかも』
俺ですね、すいません。
まあまあ、妹よ。
昔のことだろう。
『昔のことでもいつかちゃんとケリつけてよ。ほんと、小町は雪乃さんとも結衣さんともずっと仲良くしてたかったのに気まずいったらないよ!』
お怒りなのは構わんが、怒鳴るのはやめて欲しかった。
頭がぐわんぐわんしてる。
つーか、なんで心読んでんだよ、こいつ。
お兄ちゃんのことならなんでも分かるってか。
妹の愛が重い。
つっても俺が橋渡しにならないと小町とあいつらに接点がないのは事実なんだよなぁ。
いや、本当反省はしてるんだがな、ずっと。
「悪い悪い。そのうちそっち戻るから」
『はぁっ!?』
ぐわぁぁぁぁぁぁあっ!!
頭がっ!
頭がぁぁぁぁあっ!!
「ちょ、小町さんや……。お兄ちゃん頭痛がひどいので大声は控えてくれませんか」
思えば最初からこう言うべきだったのだ——こんなこと、言うべきじゃなかった。
『また、お酒飲んだの!? ほんっと、ごみいちゃんはっ!』
!?!?!?!?!?!?!?
俺の脳内はまさにこんな感じで、疑問符と感嘆符のオンパレードだった。
どうしてこうなった(絶望)。
『別に大学生だからちょっとくらい羽目外してもいいけど! でも節度を守って、だよ!』
即座にスピーカーに切り替えた。
思えば最初からこうするべきだったのだ……。
なにを馬鹿正直に耳に押し当ててたんだ俺は。
そういや、陽乃さんにもそんなようなことを言われたな。
お酒は楽しいときにちょっと呑むくらいがいい、だったか。
平塚先生に聞かせてあげたい。
でも、昨日は全部が全部俺のせいってわけじゃないのだ。
そりゃあ飲み過ぎたのは俺の自己管理がなってないせいだが、飲むことになったのは俺が決めたわけではない。
「別に自棄酒とかじゃねぇよ。い、一色に誘われたんだ……」
『ん? ありゃ、そうだったのー? それならそうと早く言いなよ!』
いや、弁明の余地もなかったじゃないですかー、やだー。
結局、やかましいのは変わらないし。
本当、小町には参る。
略して、こまいっちんぐ。
『んでー? お酒の勢いでーとかは?』
「……アホか」
俺に限ってそんなことはあり得ないし、一色だってそこらへんは弁えてる。
そういう成り行きみたいなのは、お互いのためにならん。
『ま、だろうと思ったけどさ。お兄ちゃんもいい加減逃げるのやめないとだよ? いろはさんだっていつまでも待ってくれないんだから。分かってる?』
「分かってる分かってる」
こいつの口はとどまるところを知らないな……、マシンガントークってやつか。
よくそんな次から次へと小言が出てくるもんだ。
俺の問題だな。
『でー、えっと、なんの話してたっけー?』
マジかよ。
お兄ちゃん、妹の記憶力のなさにちょっと不安になっちゃったよ!
いまだに勉強は苦手らしいし。
それでもなんとかなっちゃうのが、こいつの凄いところでもあるのだが。
「雪ノ下さんの連絡先教えてくれ」
『あぁ、そうそう。そうだったねー! ていうか、なんで電話? それならメールの方が楽じゃん』
「たまには小町の声を聞きたいんだよ」
『うわー、なにそれ』
「そんな真正直に引かないでくれない? ねぇ、今、声マジだったよ?」
『小町は別にお兄ちゃんの声聞きたくなんてないんだからね』
「なんだその唐突なツンデレ……」
やっすいツンデレだなぁ。
なんか小町が安いみたいだな。
お兄ちゃんはそんな子に育てた覚えありませんよ。
『ま、いつでも帰って来なよ。お兄ちゃんの家はちゃんとあるんだからさ』
「こ、小町……」
感動した。
お兄ちゃんはとても感動しました!
『じゃ、連絡先はメールで送っとくから。またねー』
「おう」
通話を終了して、しばらくしてからメールが届く。
それを見ながら、そう言えば理由を訊かれなかったなと思った。
なにかを察してくれたのだろうか。
やっぱり俺の妹なんだなと内心喜びつつ、早速メール送信画面を開いた。
内容は……、まあ、用件だけ書けばいいか。
適当に本文を作成し送信する。
さて、本格的にやることがなくなった。
勉強するか……。
暇つぶしに勉強するとか、なんか友達いなさそうだな。
本当にいないんだけど。
そして日曜日になった。
011
マジかよ。
あっれー?
メール返ってきてないぞー?
ごっめーん、寝てたーとかすらない。
予想できる事態としては、メールアドレスがまちがっているか、迷惑メール拒否設定によって届いてない、もしくは、届いてはいるが気付いていないか。
そうなると電話か。
電話かー……、電話は緊張するからいやなんだよなぁ。
もしもメールの返信がない理由が、単純に無視だった場合、電話も無視される可能性は低くないし。
どうしようか。
正直、もういいような気もしてきている。
悪化する可能性のある事柄に自分から首を突っ込みにいくだなんて馬鹿げてるとしか言いようがないし。
とりあえずは帰ってきてから考えるか。
そんな問題の先送りをしながら、俺はとりあえず、今日の約束に間に合うよう家を出る。
一色いろはとの約束だ。
「こんにちはーっ!」
待ち合わせ場所にたどり着けば、一色はいつもの何割増しかの声で元気よく挨拶してきた。
結構早く出たつもりだったんだが……。
「よう。待たせたか?」
「いえっ、今来たところですよー」
そんなやり取りをする。
なんか逆な気がするが、それは気にしない方向でいこう。
「それで? 行き先は決まってるのか?」
「はい、決まってますよー! 先輩との初デートですからね。ばっちしです」
ぐっとサムズアップ。
俺の精神的建前としては、今回は一色へのお礼ということになっているので、全部任せっきりなことに少しばかりの罪悪感が芽生える。
しかし、金曜の夜、一色自身がわたしに任せろと言っていたので、気にすることでもないだろう。
「ではでは、行きましょうか!」
自然と腕を絡ませてきた一色に若干の抵抗感を覚えつつも、俺は歩みを進めた。
012
一色とのデートも終盤。
夕食に連れて行かれたのは、オサレというよりかは、高級な雰囲気の漂う食事処だった。
入店と同時に一色が店員に一言二言告げると、速やかに個室に案内される。
予約でもしていたんだろうか。
金はある。
今日はそれなりに浪費するだろうと考えて、たまのバイトで稼いで貯めておいた金をいくらか持ってきた。
それに、一色のプランは思ったより金の消費がなかったものなので、ここで諭吉を一人失ったところで予算内だ。
慣れない雰囲気のこの店に浮き足立った気持ちになり、そわそわしてしまう。
親戚のおばちゃんにちょっといい店に連れて来られたかのような緊張があった。
それを見ていたのか、向かいに座った一色がくすりと笑みをこぼす。
一色のことを親戚のおばちゃんは流石に失言だったな。
「今日はどうでしたか?」
順々に運ばれてくるコース料理に舌鼓を打ちつつ、一色に訊かれる。
その表情には僅かばかりの不安が混じっているように思えた。
だからと言って、相手に合わせて自分を偽るような真似はしたくない——それが一色なら尚更——ので、俺は率直な感想を述べる。
「あー、結構、楽しかったな」
俺の言葉に一色は咲き誇る花のような笑みを浮かべ、そうですかそうですかと頷く。
楽しそうだ。
これを見る限り、一色が無理をして俺に合わせたということもないのだろう。
疲労を我慢すれば鬱憤がたまる。
一度それをしてしまえば、元に戻すのは難しい。
相手に我慢を強いるような関係は嫌いだ。
「よかったです……、楽しんでもらえて。わたし、すっごく頑張ったんですよー? まあ、考えるのもそれはそれで楽しかったんですけどね」
照れを紛らわすように微笑む。
その姿が、一色は一つ下の後輩なのだということを、改めて感じさせた。
一色はどう厳しくみたっていいやつだ。
強いし、求めるもののためなら妥協を許さない芯がある。
だから、もう甘えてはいけないのだと思う。
いいやつなだけの人間なんていないし、悪いやつなだけの人間もいない。
どの方面から見ても同じ性格のやつはいないし、どの時点でも同じ性格のやつもいない。
それは、俺が見ていないところで、一色いろはが嫌なやつで弱くて芯のないやつである可能性を肯定している。
だから、もう甘えていてはいけないのだ。
俺は、逃げるのも諦めるのも負けるのも得意だが、綺麗な部分ばかりを見ていたいとは思わない。
汚い部分があるから、信じられる。
俺は一色にとって、綺麗な部分だけしか見せられない相手ではいたくはない。
……いや、そんな格好つけずに、もっとシンプルな言い方をしよう。
俺は可愛い後輩に頼りない先輩だと思われたままでいたくない。
下らないプライドだ。
プライドなんてものが俺にあったということに、俺自身驚きを隠せない。
ちっぽけで、既にボロボロなプライドは、俺という矮小な存在にはお似合いなのかもしれなかった。
「ありがとな」
自然と溢れ出た感謝の言葉に、一色は目を丸くする。
そして、顔を赤くしたのちに俯き、小さな声で、
「い、いえいえ」
と、言葉を返した。
食事もそろそろ終わるという頃合いで、一色が再び口を開く。
「先輩」
「ん? なんだ?」
「その、今日は、どうしてオーケーしてくれたんですか?」
訊かれてしまった。
訊かれるのは覚悟していたので、別段慌てているわけではないが、だからと言ってありのまま語るのはな……。
どうすっかなぁ。
ありのまま語るのは不安だが、嘘をつくのも嫌だ。
長考していると、一色は窺うようにして視線をこちらに向ける。
「はるさん先輩に会ったのと、なにか……関係があるんですかね」
どきりとした。
しかし、その詳細は俺にも分からない。
俺もいまだに、どうしてこんなことになっているのか分かっていないのだから。
言うべきか?
いや、考えてる時間の方が無駄だ。
なにかを隠すような真似も、出来ることならしたくない。
「あると言えば、あるんじゃないかとは思ってる」
そう言うと、一色は呆れたように息を吐く。
その顔はどこか不満気だ。
「なんですかその曖昧な感じ」
なるほど。
隠し事をされていると思っているらしい。
だが、やっぱり俺にはそれを断定することは出来ないのだ。
だから、一つ一つ、説明していく。
それを聞いていた一色は半信半疑という感じではあったが、話し終えると一応は納得してくれたらしい。
「……どうなんでしょうね」
「なにが?」
「いえ、本当にそういうことがあるのかなって」
「ああ……」
信じてもらえていなかったことに少し落胆すると、その色が声音に滲んでいたのか、一色は矢継ぎ早に言葉を発する。
「い、いえ! 信じてないわけじゃなくてですよ? その、偶然なんじゃないかなーみたいな。それか、はるさん先輩と話したことで諦めがついたとか? 超能力とかの類はわたしは結構否定的です」
「あぁ、それはな……」
そりゃあそうだ。
偶然だと考えるのが普通。
そんなものを信じていいのは幼稚園児までだ。
しかし、一色は自分の発言になにか思うところがあったのか、うーんと思索する。
「あ、でも、わたし自身にそういうことがあったわけではないので……あ!」
「おお、どうした」
突然なにか閃いたような声をあげた一色に声をかけるも、なにやらぶつぶつとつぶやいたまま黙ってしまう。
数分ののちに、考え事は終わったのか顔を上げて神妙な面持ちで訊いてくる。
「……先輩がわたしのお誘いを受けてくれたのは、心境の変化からなんですよね?」
心境の変化というとなんだか微妙な感じだが、まちがってはいないので首肯する。
すると、一色はおずおずと二つ目の質問を口にした。
「はるさん先輩からなにか頼まれたわけじゃないんですよね?」
「うん? ああ」
別に頼まれごとはなかった。
あの人に頼まれれば、どうせ逃げられないので断っていなかったとは思うが、特になにもなかったのが事実だ。
「そうですか、そうなると……。先輩、もしかして、もういいやとか思ってます?」
その言葉に心臓が跳ねる。
正直、そう思っていた。
ぶっちゃけ、雪ノ下あたりにまで連絡を取るのは気まずいから気が進まないし、メールが返ってこなくて、さらに電話を無視されたりでもしたら中々にショックだ。
わざわざ傷を抉りに行く必要はない。
「本当に、それでいいんですか?」
真剣な瞳で問われる。
本当にいいのだろうか。
どうだろう。
どうしたものか——いや、どうしたものかと言えば、一番いいのは、ここで諦めてしまうことだ。
陽乃さんともう一度会おうとしたけれど無理でした、仕方がない。
ドンマイ、よくやった自分。
それで話を終わっていい。
別に俺が彼女に会えなかったからと言って、誰かが困るわけでもない。
そもそも気持ちが消えたことと、彼女に因果関係があるかどうかなんて、繰り返すように分からない。
当てずっぽうだ。
俺が仕事に励んだことが、必ずしも翌日、雪が降る理由にはならないのと同じことだ——たまたま、俺の気持ちに整理がつく前日に、昔の想い人に出会っただけの話なのかもしれないじゃないか。
かもしれないどころか、その可能性はとても高い。
超能力なんてものを信じるより、そんな偶然の方がよっぽど信憑性がある。
だから——俺はここで諦めてもいい。
めでたしめでたしで話を閉じてもいい。
ぽっかりと胸に穴が空いたような空虚さは——きっと時間が解決してくれる。
「わたしは構いませんよ。先輩が逃げても諦めても負けても、わたしは構いません。そういうのもいいのかなって思います。でも、先輩は……どうなんですか? それで納得出来るんですか?」
なのにどうにも踏ん切りがつかない。
俺はここまま一色に甘えていたくない。
もう一度、よく考えてみる。
俺はなんで諦めようとしていたのか。
ひょっとすると、気持ちが消え去ったのはほんの一時的な現象であり、翌日とか、その次の日とかにはもう戻ってきているのではないかという危惧もあったけれど、あれから二日、そんな気配はまるでない。
二日という期間はそんなに長くはないし、前触れなく失くなった以上、前触れなく戻ってもおかしくないので、全然油断が——そもそも油断のしようも警戒のしようもないが——とりあえずは、俺の気持ちは、本当に失くなったのだと思ってしまって良さそうだ。
だからある。
俺の前には——選択肢が。
選択権が。
未来なんて見えなかった。
いつだって過去を見てきた。
ずっと縛られてきた。
それなのに、もうないと思っていた場所へと続く道が、現れた。
逃げるか、戦うか。
今までは、逃げていればいいと思っていた。
けれど、今、逃げてはいけない気がした。
これに関して、俺はけじめをつけなければならない。
雪ノ下陽乃。
彼女とのことを白黒つけなければならない。
その結果、彼女が無関係だと分かったなら、それでもいいのだ。
その決着をつけないと、一色に、また甘えることになる。
それは嫌だ。
そういうのには限界がある。
どちらかが我慢するような関係は、いつか破綻する。
これは問題だ。
俺が現実で直面している問題だ。
これを解決しないことには、誰かに——一色に迷惑がかかる。
俺が解決しなければならない。
俺はどうすればいいのか分かっている。
ただ、会って話をする。
それだけだ。
それをしないことには、俺は一人で生きていけない。
人に迷惑をかけずに生きられて、初めて人にものを頼める。
一人で生きていけるようになって、初めて誰かと歩いて行く資格がある。
一人で生きられるから、一人で出来るから、きっと——誰かと生きていける。
「よく、ないんだろうな。会わなきゃ、ダメだ」
答えると、一色は満足気に笑って頷いた。
「ふふっ、先輩ならそう言うと思ってましたよー! それでは、帰りましょうか」
一色の柔らかい態度が空気を和ませる。
が、俺は一色に訊きたいことが出来てしまった。
帰り際、そっと尋ねてみる。
「なあ、なんで途中で、雪ノ下さんになにか頼まれなかったか、なんて訊いたんだ?」
あのときから、一色の雰囲気が少し変わった。
超能力に否定的なら、一色は今回のことをもっと適当に扱ってよかったはずだ。
それが、急に一変した。
なにが理由なのか。
「あ、あー……、その、実は聞いてたんですよね」
「なにをだ?」
「木曜日の夜、はるさん先輩から『金曜日に先輩をデートに誘えばオーケーしてくれる』ってことを。なんだか口止めされたので……嘘ついちゃいましたけど」
その言葉に固まってしまう。
「半信半疑で言ってみたら本当にオーケーされたので、なにか話が回ってるんだと思ってました」
013
家に着くと、すぐにシャワーを浴びた。
明日は学校だからという理由の他に、きっと、少し気持ちを整理したいという理由もあったと思う。
バスタオルで髪の毛をわしゃわしゃと拭き、冷え冷えのマッカンを飲みながら考える。
一体、なにが目的でそんなことをした?
陽乃さんは陽乃さんで、俺が彼女を追っていることに気づいているのか?
いや、でも、一色との接触は木曜日。
その段階では俺は陽乃さんともう一度会おうなんてことは思っていなかった。
いずれにしても——もうなりふり構ってはいられない。
こんな未来予知じみたことをされれば、陽乃さんがなんらかの形で俺から感情を消し去ったという説が信憑性を帯びてくる。
何がなんでも彼女と決着をつけなければならない。
時刻はもう午後十一時近い。
この時間に掛けるのは迷惑かもしれないが、一応確かめておこうと、俺は番号を入力してケータイを耳に当てる。
呼び出し音は聴こえなかった。
代わりに機械音声が耳に届く。
『この電話番号は現在使われておりません』
少し驚いた。
出ないだろうなと思ってはいたが、まさかケータイを解約しているとは。
それか番号がまちがっているか。
まあいい。
気を取り直して、通話履歴から小町に電話を入れた。
呼び出し音が途切れると同時に声を出す。
「もしもし、小町?」
『もしもしー? なに、お兄ちゃん』
眠いのか、少し機嫌が悪そうな小町に謝罪の言葉を入れつつ、話を切り出す。
「頼みがあるんだが、いいか?」
『んー? うん、いいよ』
ほとんど二つ返事で引き受けてくれた。
我が妹ながら、なんだか心配だ。
俺が相手だからだと思いたいが……、いや、俺みたいなやつを相手にこうだから心配なんだ。
「昨日訊いた雪ノ下さんの連絡先がどうも繋がらなくてな。雪ノ下辺りに雪ノ下さんの居場所を訊いてもらえるか?」
『あー、やっぱり繋がらなかったんだー。へー、で、それはなんで?』
それを訊かれると言葉に詰まってしまう。
ペラペラと話したい内容でもないのだ。
「まあ、なんだ、いろいろな」
言葉を濁すと、小町は不満気な声ながらも了承してくれる。
『ふぅん。ま、いいけどさ。えっと、今日はさすがに無理だからー、んー、明日の……夜にはメールするよ。小町も学校あるし』
「おう、悪いな」
『いいよ。小町はお兄ちゃんの妹だからね。それに、久しぶりに雪乃さんと話す口実も出来たし』
うししっと無邪気に笑う小町は本当に楽しそうだ。
俺も、そのうち会いに行かないとな。
『それじゃ、おやすみー』
「ああ、おやすみ。ありがとな」
俺は素直に礼を言った。
ただし——小町に対するこの依頼は、結局のところ、空振りすることになる。
いや、最終的には空振りではなかった。
陽乃さんの居場所について、小町はちゃんと調べてくれた。
だが、ごくごく短期的に見れば、この依頼自体は、物語に必要なかったと言える。
なぜなら俺は、この翌日の月曜日。
またぞろ自分の部屋で——雪ノ下陽乃と会うことになるからだ。
014
「自分の過去を話したがる人っているでしょ? これこれこういうことがあって、こうでした。比企谷くんも割りと好きだよね、そういうの。でもさ、わたしにはよく分かんないんだよねぇ、だって、自分の失敗談とかさ、普通話したくないじゃない? ま、わたしは失敗なんてしたことないから関係ないんだけどさ」
夕方、講義を終えて、帰ってくると、部屋の中に一人、しかも俺のベッドの上に、陽乃さんが当たり前みたいに座っていた。
酎ハイの缶を気分よさ気に掲げて、待ちかねていた。
酔っ払いかよ、めんどくせぇ……。
「だからさ、そういうことをする人の心理っていうのを、ちょっと考えてみたの。比企谷くんを待ってる間の暇つぶしにね。自分の過去を話す理由——さっきは、失敗談って言ったけど、実際のそれは色々あって、成功談だったりも当然するんだよね。だから、そっちから考えれば分かるのかなって思って、お姉さんも頭を捻ってみたわけ。自分の過去を話す理由。失敗談、成功談を語る理由。それは、多分、その出来事を思い出にしたいから、過去の出来事にしたいからなんじゃないのかな。成功談なら、自分に自信をつけるため、失敗談なら過去に捨てるため、どちらも前を向くため」
「…………」
「どう? 過去の気持ちをいろはちゃんに話して——今、どんな気持ち? スッキリしたかな? 比企谷くん」
そう言って陽乃さんは、ゆっくりと肩を竦め、やはりゆっくりと立ち上がる。
「……どうしてあなたがここに——いや、じゃなくて……」
俺は混乱しながら陽乃さんに訊く。
そう、混乱だ。
酔っ払いは確かにめんどくさいけれど、それはあくまで自分の心を落ち着かせるために考えを逸らしただけだ。
だって、電話もメールも繋がらなかった相手が、こうして目前にいるのだから。
「今日は……、何をしに来たんですか?」
「たまたま通りかかっただけ」
そんなことを言う陽乃さんを睨めつける。
「あは、そんな怖い顔しないでよ。——そんなわけなくて、うん、もちろん比企谷くんに会いに来たんだよ。わたしに会いたがってるんじゃないかと思ってさ」
「……まあ」
どうしても、曖昧な返事になってしまう。
頭の中で、昨日、小町にした頼みが早くも功を奏したのかと思ったが、それはないだろう。
小町の言っていた時間とは違うし、それに、いくらなんでも早過ぎる。
ということは、言葉通り——先日のメールを今頃確認したのか、それとも一色にでも接触したのか、まあなんらかの形でなのか、それが陽乃さんに伝わって——向こうから会いに来たと、そういうわけか。
しかしどうして?
俺に会いに来た?
なぜ?
混乱しかない。
「どうしたの? 比企谷くん」
陽乃さんは言う。
「わたしに訊きたいことがあるんじゃないのかなー? だからわたしは親切にもこうして——わたしのことが好きだった君のために——足を運んできてあげたんだよ」
と、陽乃さんはわざとらしく胸の辺りを押さえる。
わざとらしく。
嫌らしく。
「……訊きたいことは、もうなくなりました」
「ん?」
「こうして直に会って、そこまで言われれば流石に気づきます」
それに微かに感じるのだ。
抜け落ちた心のざわめきを。
「雪ノ下さん」
俺は言う。
「俺の気持ちを奪いましたね 」
「貰ってあげたんだよ——煩わしいでしょ?」
陽乃さんは言って、いかにもそんな会話などどうでもいいとばかりに、缶チューハイをぐいと呷る。
ぷはっと息を漏らすと、こちらに向けて缶を掲げ、首を傾げた。
「いる?」
「いりません……」
そんなもん飲めるか。
「あっそ」
陽乃さんはやや残念そうに、しかし特に未練もなく、缶をテーブルの上に置く。
普通だ。
どうしてこんな普通なんだろうか——異常なことが起きているのに普通過ぎて異常だった。
「いつですか? いつ奪ったんですか?」
「君がわたしのおっぱいに夢中になってるときだよ。ま、そのときには仕掛けを打っただけだけどね」
効果が出たのは翌朝だろう、と陽乃さん。
その予想はその通りだが——仕掛けた本人が言い当てたところで、別段すごくもなんともない。
犯行を自慢げに語る真犯人のようで、むしろ滑稽なくらいだった。
あと、俺は断じて夢中になってなどいない!
「そんな睨まないでよ。ていうか、むしろわたしはお礼を言われてもいいくらいだと思うんだけど? 悩みの元である気持ちを、解決してあげたんだからさ」
「俺は——」
俺が睨んだのは俺の尊厳が危うくなるような発言についてです。
とは、とてもじゃないが言えなかった。
しかし、それでも話は続く。
「悩んでなかったって、言えるの? わたしと再会して——あんな表情を浮かべてたのに」
「…………」
一体どんな表情を浮かべてたんだ、俺は。
かつての想い人——いや、あのときはまだ現役か——を見て、全体どんな表情を。
「……それ、まさか、俺以外にもやったりしてます?」
「ふふっ、大丈夫。比企谷くんだけ、特別だよ?」
なんだその特別は。
あまり嬉しくない。
いや、確かに嬉しかったはずなのだが。
ただ、そうか。
被害者は俺だけか。
一色は関わっていないか。
しかし、だとすれば——
「……一色に、今なら俺にデートを申し込んでも断られないなんてことを吹き込んだのは、どういう意図ですか? 確かに俺は断りませんでしたけど、あのとき断っていれば、一色は少なからず傷ついていたんですよ?」
「傷つかないよ。傷ついてないでしょ?」
「そんなのは結果論だ」
「あら、結果以上に大切なものがあるみたいな言い方じゃない。まあ、たまたま会ったらいろはちゃんが比企谷くんのこと好きだって訊いたから、ちょっとした人助けよ」
「まさか」
「冗談よ」
「まあ、この際意図はどうでもいいとしても——ただ、どうして俺が断らないのが分かったのかは、教えてもらわないと少し不気味ですよ」
「比企谷くんは分かりやすいからねー」
「…………」
はぐらかすばかりだ。
会話にならないり
ならば、本題に入るしかないだろう。
「雪ノ下さん……、あなたはどうして、そんなことを——」
「それを説明してあげるためにわたしは今日、こんなところまで足を伸ばしたんだよ」
こんなところとはご挨拶だった。
綺麗な部類に入ると思うんだが……、しかしかまあ、殺風景の方がお似合いか。
「そう、ですか……」
「うん、そう」
「じゃあ、聞かせてもらえますか?」
「もちろん、喜んで」
015
なんて格好つけて言ってみたものの、実際そんなにたいした話じゃないんだよ。
たいした話じゃないし、面白くもない。
九割方つまらない話だね。
あれは——そう、確か、今からちょうど三年前くらい。
いや、それよりもうちょっと前かな。
雪乃ちゃんが自分の問題を解決した頃だよ。
あの頃の——というより、昔からだけど、あの頃は特に——わたしは、雪乃ちゃんにべったりだった。
そうなれば、当然、わたしも、その問題に関与しているってことになる。
まあ、問題提起——言ってしまえば出題者がわたしだったんだから、なにを今更って感じなんだけど、あのときにそれがバレるのは不味かったんだよね。
雪乃ちゃんプライド高いしさ。
誘導してるなんて思われたら全部水の泡でしょ?
だから、姉妹関係に確執があるような態度を取って、比企谷くんたちから見れば悪役になったわけだけど、どういうわけか気付いちゃった男の子がいた。
困るんだよねー、本当。
だから勘のいいガキは嫌いなのよ。
しかも、それが大切な妹の好きな男の子とか、勘弁して欲しいよ。
遠ざけたい、でも近づけたい。
わたしだってお姉ちゃんだからね、妹の幸せのために動くことだってあるのよ?
知ってる、か。
そりゃそうだよね。
きっと、そういうわたしを——君は好きになってくれたんだから。
正確な日付はイマイチ覚えてないけど、それもそんなに時期は変わらなかったかな。
気付いたときは焦ったよ。
自分はどこでまちがえたんだろうって考えた。
そこからは、なるべく嫌われるように振る舞って、振り回してたつもりだったんだけど……、効果なし。
むしろ、逆効果だったかな。
比企谷くんに会わないって手もあったんだけど、ま、この前までの状態を鑑みるに、それでも変わらなかっただろうね。
いや、会わないだと比企谷くんが自分の気持ちに気付いちゃう可能性もあったから、どっちにしろわたしには嫌われるように振る舞うって選択肢しかなかったのかな。
え?
もちろん気付いてたよ。
君が気付いてないってことに、わたしは気付いてた。
だから、その方向を雪乃ちゃんに向けられるように頑張ったんだけどね。
そもそも、わたしが出題者であることに気付いていた君が、わたしが悪ぶってるのに気付けないわけなかった。
まあ、君はそれを誇大解釈して、わたしが君の矯正のために動いていたなんてバカなことを思っちゃったみたいだけど。
ほんっと、世の中ってものは、ままならないなぁ。
わたしの行動全てがわたしの思惑とは逆方向にいっちゃうんだもん。
雪乃ちゃんが卒業式に告白するのは、事前に分かってた。
止めたんだけどね。
雪乃ちゃんをああしたのはわたしだけど、それを考えたら失敗だったかな。
一度決めたら揺るがないのは昔からだったけど、勝算のない戦いに挑むほどじゃなかったし。
そうなってくると、いよいよわたしに出来ることは限られてくる。
雪乃ちゃんが振られるのは確実。
なら、そのあとどうするか。
君を突き放すしかない。
突き放して、一人にさせて、時間が解決してくれるのを待つしか手はなかった。
解決したところで、雪乃ちゃんを仕向ければいい。
でも、それも失敗だった。
いろはちゃんが比企谷くんを追いかけたのは完全にイレギュラーだったね。
ずっと離れてた人と、ずっとそばにいてくれた人、どっちを選ぶのかは明白。
万策尽きたって感じ。
こんなにイライラしたのは初めてだよ。
イライラし過ぎて、母にも八つ当たりしたんだからね?
喧嘩して追い出されたわよ。
どうしてくれるの?
なんて、君のせいになんてしないけど。
でも、わたしは少なからず君を恨んでるってことは、忘れないで欲しいな。
今になって君の前に現れたのも、八つ当たり。
だいたいさぁ、わたしは会社を継がないとだし、自由な恋愛なんて許されてないのよ。
君がどんなにわたしのことが好きだったって、仮にわたしが君のことを好きだとしても、わたしと君じゃ釣り合わない。
絶対に付き合うことはなかった。
そうじゃなくても、そんなことはあり得ない。
もう気持ちを失った君にこんなことを言うのも、多分、八つ当たりなんだろうけど、わたしは君のことなんか好きじゃない。
嫌いじゃなかったけどね。
比企谷くんは珍しいタイプだから、割りとお気入りだったけど、それだけ。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
昔の話だけど。
今は——嫌いかな。
わたしは比企谷くんのこと、嫌い。
雪乃ちゃんを選んでくれなかったし。
鬱陶しかった。
そういう、なに?
好きとか、恋とか、子供みたいなの、煩わしいんだよね。
二年経ってもまだ諦めてないみたいだし、呆れちゃったよ。
逃げてばっかりで、忘れようとして、ダメダメで、そんなガキのことをわたしが好きになるとでも思ったの?
ふふっ、思ってないから、言えなかったんだよね。
振られるのが怖くて逃げるなら、最初から好きになんてならなければよかったのに。
雪乃ちゃんのことを好きになってくれればよかったのに。
本当、卑怯だよね、君は。
負けたっていいよ。
弱音を吐くのも構わない。
でも、忘れるのと逃げるのは許さないよ?
君はずっと、覚えておくべきで、立ち向かうべきだった。
そして、木曜日。
君に会いに来た。
さっき言った通り、憂さ晴らしが主な目的だった。
からかって気持ちを踏み躙ってやろうと、蹂躙してやろうと思ってた。
本当はさ、気持ちを奪う予定なんてなかったんだよ?
だって、わたしは、わたしにそんな漫画じみた特殊能力があることなんて知らなかったんだし。
だからまあ、仕掛けを打ったっていうのも、九割九部嘘。
でも、わたしの予想としては、あのタイミングしか考えられないから、一部は本当。
君の心と重なったのはあのときだけだし。
朝起きたらびっくりしたよ。
自分の中に知らない感情があったんだから。
016
「中に……? それは、どういう……」
俺は陽乃さんの言葉を理解しかねて、そう言葉を挟む。
俺は確かに奪ったとは言ったが、まさかそれが文字通り、奪ったのだとは思っていなかった。
陽乃さんの文言通りなら、俺の感情が、今まさに、この人の中にあることになる。
それはつまり——つまり、俺の抱えていた感情が陽乃さんに吐露されたということで——めちゃくちゃ恥ずかしいことだ。
予想済みの質問だったようで、しかし予想済みの質問だからといってちゃんとした回答が用意されていたわけでもないらしく、
「さぁねー。わたしは、わたしが比企谷くんを恨む強い念がスーパーミラクルを起こしちゃって、心が重なったときに移植されたんじゃないかなーとか思ってるけど?」
と、陽乃さんはなんだか適当なことを言う。
なんだ、スーパーミラクルって。
胡散臭い。
俺を怒らせるために、わざとそんな言い方をしているようぇさえある。
そんな物言いから判断すれば、陽乃さんの話は信用には値しないような気もする。
「さ、わたしの話はそれで終わりだよ。終わり、終局を迎えた。比企谷くんとの関係は破局かな? まあ、これで分かったでしょ。わたしが君から気持ちを奪ったのは、あくまでわたしの身勝手な逆恨み。八つ当たり。まちがっても比企谷くんのためなんかじゃない。だって、わたし、君のこと嫌いだし」
だから、感謝することもない。
そう、陽乃さんは言った。
その言葉に俺は見透かされたような気持ちになる——そして、教えられたような気持ちになる。
ああ、そうか。
ひょっとして、俺は。
陽乃さんに——感謝したかったのか。
それで、納得したかったのか。
その道は今、指摘を受けたことで、閉ざされてしまったわけだが。
「比企谷くんの想いは、多分、時間で解決する問題ではあったんだと思う。けど、それがいつになるかは分からない。雪乃ちゃんはなんだかんだ今でも比企谷くんとの交流を取り戻したがってるみたいだから、あるいはそれも理由にあるかもね。比企谷くんだってそれは変わらない。違うかな?」
違うとは言えない。
俺はあのときの空間に今でも未練があるし、後ろめたいものがなくなった今、取り戻せるなら取り戻したい。
それに、そのうち帰ろうかなんてことを思ったりもした。
「だから、わたしがこうして奪ったことはラッキーだったと思ってくれればいいよ」
「……思えると思いますか? そんな風に」
失った想いに対して、ここまで残虐に振られて、ラッキーだと思えるほど俺は変態じゃない。
俺がマゾだったらよかったのに。
「思えばいいけど、思わなくたって別にいい。比企谷くんの気持ちなんてどうでもいいしね。そんなもの知ったことじゃない。それとも——奪い返してみる? この気持ちを」
言って、陽乃さんは自分の胸に手を当てる。
なんとも言えない。
こんな斬新な羞恥プレイがあるだろうか。
「そんなこと——するわけないよね」
じゃあね、と陽乃さんは言いたいことだけ言って、この部屋から出て行こうとする。
いや、言いたいことだけ言って、という言い方は変か。
彼女は俺の聞きたかったことを、すべて語ってくれたのだから(聞きたくもないことまで、ぺらぺらと)。
それ以上なにを望むというのか。
「——ばいばい」
陽乃さんは一度だけ振り返って、いつか聞いたことのあるセリフを落として——俺の視界から姿を消した。
その残虐性を秘めた笑みが、ひたすらに自虐的だったのは何故だろうか。
017
小さな頃好きだった漫画を大きくなって嫌いになったり、逆に、昔は意味の分からなかった小説を、今は味わい深く読んでいたりする。
好きな人を嫌いになったり、嫌いな人を好きになったり、価値があったものがどうでもよくなったり、捨ててきたものを惜しんだりする——そんなあれこれの繰り返しこそが、人生であり、また生きていくことなんだとすると、それが空しくないと言えば嘘になる。
だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きていくべきなんだという文言の、なんと仰々しく、また空々しいこと。
思い出だと思っていたものを忘れてしまい、くだらないと切り捨てたものが必要になって——そんなことを考え出したら、人生には後悔しかなくなってしまう。
まあ、後悔というなら、俺は人生のおおよそ全てに悔いているが。
果たして、俺は陽乃さんに何と言えばよかったのだろう。
『やっぱり、その気持ちを返してくれ』
と言うべきだったのだろうか?
そうやって格好つけるべきだったのだろうか?
自ら不利益を被る、一本筋が通った奴の振りをするべきだったんだろうか?
だが、俺には言えなかった。
お礼も言えなかった。
俺は結局されるがままで、流されるがままで、当然彼女に何かをすることは出来なかったし、あれだけ——というほどでもないが——探していた陽乃さんに会えたというのに、彼女の方から会いに来てくれたというのに、なに一つ出来なかった。
陽乃さんの話を聞いて。
落ち込んだだけだ——暗い気持ちになっただけだ。
俺は何をする気にもなれず、自堕落に、殺風景な部屋の、ベッドの上にうつ伏せに倒れるだけだった。
だるい。
明日も学校だ。
今度の土日には、休息も兼ねて千葉に帰ってみようか——千葉に。
「そう、なんだよな……。俺はもう、苦しくない。自分の意思で、あの場所に戻れる。卒業式から、前に進める——」
つぶやきながら——俺はそのまま寝入るつもりだった。
寝て起きて、すべてを忘れられたなら、すべてを夢のように思えたらどれだけいいだろう——そう思いながら。
だが、そんな願いも叶わなかった。
うとうととしかけたところで、いつの間にかベッドの横に転がっていたケータイの着信音が鳴り響いたのだ。
手を伸ばして取ってみれば、液晶画面に表示されているのは、いと愛しき妹の名前だった。
——妹さえいればいい。
「……あー、もしもし」
『あ、お兄ちゃん? ……こんな時間に寝てたの? 夜寝れなくなるよー?』
「まさか、今からサッカーしようと思ってたところだ」
『お兄ちゃんがサッカーとか……、なにそれ? 面白くないよ?』
厳しい妹様だった。
やっぱり、妹もいなくていい。
……さすがにそれは冗談が過ぎるか。
「ほっとけ。で? どうした」
『あー、うん。じゃ、用件だけ』
小町は神妙な声で言った。
『昨日お兄ちゃんに頼まれてた陽乃さんのこと、分かったから連絡したんだけど』
「ああ……それか」
そう言えば、夜に連絡するとかなんとか言ってたな。
俺はどうしても自分の声に気怠さが混じってしまうのを申し訳なく思いながら、小町に言った。
「すまん。折角聞いてもらって悪いんだが、陽乃さんとは今日、会えたから」
『え? 会えた?』
「おう」
できれば会いたくはなかったというニュアンスが滲み出る俺の言い方に、小町は引っかかったのかと思ったが——しかし、そうではなかったらしい。
『……いやいや、そんなわけないでしょ。なに? 分かっててからかってる?』
「え? いや、からかってねぇよ。そんなわけないって言うけど、実際に今日、さっきまで」
『会えるわけないの』
小町は言う。
やはり神妙に、俺のことを気遣うように。
『だって陽乃さんは……、もう、死んじゃってるんだから』
018
『先週の木曜日。交通事故だったって。居眠り運転で歩道に突っ込んできたトラックに轢かれて』
トラックに轢かれて。
コンクリートの建物とトラックに挟まれて。
即死。
ということらしかった。
見るも無惨な死に様だったろう。
あの人はかなり運のいい、俗に言う『持ってる人』だと思っていたが、結局、運命なんてそんなものなのかもしれない。
呆気ない。
と、祟りにでもあいそうなことを思ってしまったのは、多分、さっきまで喋っていた相手が死んでいたとかいうフィクションじみたこの状況のせいだろう。
そういう意味では、既に祟りにあってるとも言える。
小町の台詞にはたびたび「まさか」という単語が含まれていて、この世の誰より事故死が似合わない人だったのに——と言わんばかりだった。
確かに、事故死とかは俺向きだな。
そうは言ってなかったか。
そんなくだらないことをいくら考えたところで。
事故死の似合わない女だって、事故で死ぬ。
そんなことは当たり前だし、これは揺るぎない事実なのだった。
雪ノ下陽乃は死んだのだ。
それも、つい最近。
トラックに轢かれたのだ。
……だったら、俺がさっきまで会っていた、美貌の女は誰だったんだ?
同姓同名の別人か?
それとも陽乃さんの名を騙るそっくりさんか?
それは違う。
見た目には多少の変化があったし、雰囲気も変わっていたし、記憶や思い出なんて調べることができる。
でも、違う。
彼女はまちがいなく雪ノ下陽乃だった。
頭のてっぺんから爪先まで、確かに雪ノ下陽乃だった。
根拠はない。
それでも彼女は。
俺の知る。
俺のかつての想い人——雪ノ下陽乃だった。
「……そうか。だったら、あの陽乃さんは、幽霊だったのか」
俺は布団に転がって、天井を仰ぎ見ながら、そう呟いた。
その答え自体は、すんなりと驚きなく、俺は受け入れることが出来た。
あんな超能力があるなら、あり得ない話ではないとかそんな安易な発想ではなく、そう思えば、いくつか納得できることもあるからだ。
まず不法侵入。
あの人は確かに『小町に合い鍵を借りた』と言っていたが、あれは明らかな嘘だ。
それならなんで、小町が陽乃さんが死んでいたことで驚いていないのか謎だ。
もしも、死ぬ前に借りたのだとしても、やっぱり辻褄が合わない。
それなら、小町は連絡先を改めて訊いていたはずだろうし、そうでなくても、何日も連絡もなく戻って来なかったら気になって調べるなりする。
もしも彼女が幽霊であったなら、扉をすり抜けるくらいのことは容易でやってのけるだろう。
次に、届いたが返って来ないメールと、使われていない電話番号。
これは恐らく、契約者が死亡したために解約したのだろう。
Wi-Fiにでも繋いでいれば俺のメールは届いているだろうが、事故死を考えると壊れている可能性の方が高い。
しかし、壊れたから、解約したからといってメールはサーバーに溜まるだけで、メーラーダエモンさんから俺に
メールが届くことはない。
そして、あの予知とも言える一色への助言。
勘で片付けるのは厳しいだろう。
俺の気持ち云々はさておいても、もとより彼女がそんな超常的な存在だったのだとすると、すっきりする。
細かいことを言えば、靴もいつでもどこでも取り出せるのかもしれないな。
なら、二人だけなんだろうか。
俺と一色、だけなんだろうか。
陽乃さんが、見えたのは。
もしくは、陽乃さんを、見たのは。
陽乃さんの目的が、生前からあれだったとすれば、それに必要な人にのみ彼女が見えたのだと思ってよさそうだ。
しかし、だとすれば。
それは決定的な失敗談になるように感じられる。
俺なんかから感情を奪うより、雪ノ下に会って話でもしてあげた方が有効活用だと言える。
あくまで彼女が指定できるのなら、だが。
こんなことを思うのは、もちろん負け惜しみだろう。
なんだか騙されたような気分だし、してやられたような気分だし、実際罠にかけられもしたんだろうから。
しかし、一方で、だからどうしたんだ、というような気持ちもある。
昔の知り合いが、どこか知らない場所で死んでいただけの話だ——仮にその時、彼女の死を聞いていたなら、葬式には顔を出していたかもしれないが。
そんな簡単に終わらせられるのも、感情が奪われたおかげ、か。
かわいそうだとは思っても、悲しいとは思わない。
思わないはずなんだ。
だけど——じゃあ、なんなんだ、この気持ちは。
いてもたってもいられない、まして寝てなんていられない、この気持ちは。
許されるはずだ。
そもそも罪ではないはずだ、ここですべてを忘れてしまっても。
陽乃さんとのことは、それこそお化けでも見たんだと思って、忘れてしまえば——今すぐには無理でも、きっと時間が経てば忘れられる。
人の記憶なんて曖昧なものだ。
一生忘れられないようなトラウマも、いつかは過去になる。
こんなあり得ない出来事だって、きっと散々だったって笑い飛ばせる。
「……よし」
意を決し。
俺は立ち上がって、支度を始めた。
「帰るか」
019
特になにを考えるでもなかった。
唐突に、帰りたくなった。
新幹線に乗り込み、凄まじい速さで全てを置き去りにして千葉に帰った。
俺の通っている大学は千葉ではないものの、近隣だ。
千葉まで電車で二、三時間ほど。
終電までまだかなりの時間があるし、問題はなかった。
時刻は十一時。
俺は本当に千葉駅に立っていた。
本当に帰って来たんだな、としか言えない。
電車に揺られただけだ、自分の足で歩いてすらいない。
けれど、帰ってこれたという事実は、俺を清々しい気分にさせた。
地元に帰って来たのにわざわざホテルに泊まるのもなんなので、歩いて家まで帰る。
このくらいは、自分の足でしたかったのだろうか。
こうして、千葉の光景、空気を一身に味わいながら歩くと、過去の記憶が蘇ってくる。
二年の春が転機だった。
きっかけは一枚の紙。
いや、多分、あれがなくても、俺はいつかあそこに入れられていただろう。
暴力教師のありがた迷惑によって。
もうすぐアラフォーか……、結婚していると、俺も安心できるんだが。
特別棟の四階。
なんの変哲もない教室。
斜陽に溶け込む少女。
雪ノ下雪乃との出会い。
思い返せば、すっげぇ嫌なやつだったなぁ、あいつ。
ぬぼーっとした人とか言われたし。
奉仕部に入部して、最初の依頼人が由比ヶ浜だ。
俺と、雪ノ下と、由比ヶ浜。
この三人に限るのなら、一枚の紙ではなく、入学式のあの事故が転機だったのだろう。
本当に、いろいろなことがあった。
いろいろなやつと関わった。
いつの間にか、あの空間を気に入っていた。
大切になっていた。
壊れかけたことも、繋ぎ止めたことも、やり直したこともある。
俺の高校生活があの部屋に詰まっていると言っても過言ではない。
と。
物思いに、しかもどうしようもないノスタルジィに浸り始めた俺の意識を、現実へと引き戻す無粋なクラクションの音が響いた。
びくっと身体を震わせ、考え事をしていたせいでふらついていた足取りをしっかりさせる。
そうして歩こうとして、ふと不思議に思う。
横に車が停まったままなのだ。
なぜかと横を向けば、それは見覚えのある黒塗りの高級車だった。
思わず固まっていると、後部座席のドアが両側とも開き、中から見慣れた——いや、見慣れない美女が二人降りてくる。
「あら、ゾンビでも歩いているのかと思ったら、比企谷くんじゃない。久しぶりね」
「やっはろー、ヒッキー。久しぶり」
「うわ……」
意味の分からないタイミングの良さ——この場合は悪さかもしれないが——に、軽く引きつつ、俺は大人びた雰囲気を漂わせる部員二人に言葉を返す。
「よお。久しぶりだな」
つか、由比ヶ浜はまだそれ使ってんのかよ。
020
「相変わらず腐っているのね」
「まあな。これが俺の持つ唯一の長所だ」
「長所なんだ……」
「ばかお前、これ短所だったら俺はおおよそ全て短所になっちまうだろうが」
「え? 違うのかしら?」
「え? 違うの」
「なんでそこでハモるの? 久々に会った同級生にたいしてキツくない? 泣いちゃうよ?」
「やめなさい。通報するわよ」
「この状況だとマジで捕まりそうじゃねぇか、やめてくれ」
「冗談よ」
「当たり前だ。冗談じゃなかったらビビるわ」
「でも、泣くのはちょっと……」
「由比ヶ浜さん? それも冗談だからね?」
というようなやり取りをし、誰ともなく笑う。
雪ノ下の生息地は今でも変わらずあのマンションだったらしく、連行されて今に至る。
俺の前にはスパニッシュ系の食事が並んでいた。
飯を食っていないからコンビニに寄らせてくれと告げると、作ってやると言われたのだ。
これも相変わらず、金を払ってもいい美味さである。
「にしても、こんな時間までなにしてんだんだ?」
「あら、あなたはいつから私のプライベートを探れるほど偉くなったのかしら? ゲスがやくん」
「ゆきのんと二人で外食してたんだよー」
「はぁん。外食か。免許は取ってねぇのか?」
由比ヶ浜に答えを明かされてしまい、少し悔しそうな顔をしている雪ノ下を見なかったことにして話を進める。
しかし、雪ノ下は無視されたのだと思ったらしく、ふんと分かりやすく怒りを示した。
「ゲスがやってなんだよ。本当にただの悪口じゃねぇか」
「……遅い。そんなことで許すほど私は甘くないわよ。だいたい、今までのだって全部ただの悪口よ」
「その注釈はいらなかったと思うんだがな……。変わんねえな、お前も」
「あなたと一緒にしないでくれるかしら。ひどく不愉快だわ」
うーわ、めんどくせぇなこいつ。
まあ、しかし、この面倒くささが嫌いじゃない。
今、おそらく俺は、この時間を楽しんでいる。
「その、なんだ……悪かったな」
今までのこと全てを含めて謝罪すると、雪ノ下と由比ヶ浜はしばし固まったのちにくすりと笑う。
そして、意地の悪そうな表情を浮かべた。
「足りないなぁー」
「足りないわね」
「う……」
俺が言い淀んでいると、二人は顔を見合わせて、少し逡巡してから口を開く。
「でも、まあ」
「そうね」
なにか示し合わせたように俺に向き直り、そしてゆっくりと頭を下げた。
「「ごめんなさい」」
その謝罪に、今度は俺が固まってしまった。
ぽかんとしていると、二人は謝罪の理由を告げる。
「私たちも、あなたに選択を迫ってしまったから」
「うん、そういうこと。別にヒッキーだけが悪いんじゃないよ。それに、ヒッキーはちゃんと答えてくれたし」
「いや、でも……な」
「そりゃなーんにも言わずに他県の大学行っちゃったのは怒ってるけどね?」
「ええ、電話もメールも繋がらなかったことも。当然、怒っているわ。一発くらい頬をはたきたいくらいよ」
「……すまん。そんなことでいいなら、構わずやってくれ」
覚悟を決める。
そのくらいはされても当然だ。
一方的に、別れを告げたのだから。
しかし、雪ノ下は然とした態度で言う。
「嫌よ。触りたくないもの」
「お前な……」
はあと息を漏らす。
それは呆れではなく、安心からきたものだ。
もう、戻れないかもしれないという不安があった。
でも、俺はこうして戻っている。
それは、こいつらのおかげだ。
「卒業してすぐは辛かったけど……二年も経てばさ、それなりに整理もついちゃうんだよね」
時間が解決してくれた。
そういうことなんだろう。
俺が弱かっただけで、彼女たちは強い。
しっかりと前を向いて歩いているのだ。
「それで?」
「なにかあったの?」
と。
おもむろに——二人は、俺の懐に入ってきた。
きっかけがあったとすれば、俺が飯を食い終わったことぐらいだろうが、きっとそれとは無関係に——離れようが、近づこうが、二年経とうが、大人になろうが、こいつらはやっぱり、こいつらなんだなあ、と思わされる。
変わっても変わらなくても。
成長してもしなくても、雪ノ下と由比ヶ浜だ。
「……ままならねぇんだよ」
俺は言う。
久し振りに会った同級生に、いきなり、愚痴のトークから入ってしまう自分を情けなく思いながら。
「なんかうまくいかない。俺はすごく不安定なんだ」
「あなたが不安定なのは今に始まったことじゃないでしょう?」
痛いところをつかれた。
とても痛い。
が、咳払いをして話を続ける。
「まあな。たぶん、長く千葉を離れて、ホームシックになったんだろうな」
「ヒッキーの千葉愛はちょっとキモい」
マジで千葉最高。
超やすらぐ。
「ていうか、それだけ? ヒッキーはあたしたちと離れて寂しかったーとかないの? あたし寂しかったんだけど。ね? ゆきのん」
「い、いえ、私は別に……」
「ね?」
「え、ええ……」
ひどく不満気に肯定する。
雪ノ下は本当、由比ヶ浜には逆らえないんだな。
「まあ、俺は……、寂しくなかった——って言えば、嘘になるな」
「もっと素直に言えばいいのに」
「そうよ、比企谷くん。素直に言いなさい」
「言えるか、そんなもん」
つーか、雪ノ下は完全に逆恨みだろ。
しかし、二人がそう思ってくれていたというのは、嬉しい。
たとえ社交辞令だとしても——いや、社交辞令を言うような仲じゃねぇか。
だから。
だから、俺は。
「それで? 何がうまくいかないのかしら?」
「そんなこと言うなんて、ヒッキーらしくないね」
「俺らしさ……な。そんなもん、とっくに見失っちまったな」
残ったのはこの腐った目と、逃げ腰と、美化した記憶だけだ。
もう、なにもない。
「見失った? あなたが? 自分を?」
「ああ。俺らしさって、なんなんだろうな、全体。お前らは、自分らしさってなんだと思う?」
「あたしらしさかぁ——なんだろうね。でも、あたしにとってのあたしと、ヒッキーにとってのあたしは違うんじゃないかな」
「そうね。そういう意味では、私たちらしさ、というものは、あなたが決めていたのではないかしら」
俺が、俺が決めていた。
なら、彼女らにとっての俺らしさはきっと、彼女らが決めていたのだろう。
それでは、俺らしさとは。
そもそも、らしさってなんだ。
そんなものは、他人の評価でしかないのかもしれない。
「なら、俺らしさとか、お前らしさとか、そんなものの実態は誰にも分かんねぇのかもな」
らしさなんてもんは結局願望で、こいつららしいと思う行動は俺がこいつらに願っていたもので、俺らしい行動はこいつらが俺に望んだもの。
いくら願ったって、いくら望んだって、そんなものは偽物だ。
なら、それなら、俺はなんなんだ。
「かもしれないわね。ただ、ここでこうしているあなたはあなたで、由比ヶ浜さんもやっぱり由比ヶ浜さんだわ。私も私。それだけは違いないと思うのだけれど、それではダメなのかしら?」
そういうことで、いいのかもしれない。
俺もこいつらも、きっと誰だって、相手のことはおろか自分のことだってよく知らない。
知らないから知っている部分だけを望んでしまう。
知らないなにかを知るのが怖いから——知ってしまったら戻れないかもしれないから。
でも、きっと、それじゃダメなのだ。
偽物のままじゃダメだ。
知らないからまちがえるし、勘違いもする。
すれ違っていずれ失ってしまう。
……それは、それだけは嫌だから。
知らないまま失いたくないから、俺はこいつらのことを知ろうとして、その末に本物を手にしたのだ。
「それでいいのかもな」
失う。
そう。
俺は既に、いろいろ失ったのだ。
俺は、心に空いた穴を意識する。
人の心なんて誰にも見えないから、こいつらには俺が今どんな状態かは分からないだろう。
この数日で痛感した。
あの気持ちは、もう十分に俺の一部だったのだと。
そして、それでも、その上でいつかは、俺が切り離さなければならないものだったんだと。
あの想いが、逃げた罪に対して背負った罰だというなら、その罰を、俺はやり遂げなければならなかったのだ。
逃げて、忘れようとすることは許されなかった。
償わなければ、ならない。
「……お前らは、死んでまでやりたいことって、あるか?」
あの人は、死んでまで俺をからかってやりたかったらしいが、どうもそれは信憑性にかける。
「幽霊になる人間と、そうでない人間の違いって、なんだろうな。まさか全ての人間が幽霊になるわけじゃないだろうし。だとすれば、その区別はどこでつくと思う?」
からかってやりたいがためにこの世に残れるのなら、この世は幽霊で溢れているだろう。
まさか、見えないだけで本当に溢れているのだろうか。
それとも、陽乃さんの逆恨みは凄まじいほどの怨念だったのだろうか。
とすれば、悔いがあるかないかなのだろうか。
やり残したことがあるとか、恨みがあるとか、そういうところで変わってくるのか——だが、そんなことを言い出したら、死ぬにあたって悔いを残さない人間なんているはずがない。
誰だって、なにかを残して死んでいく。
「さあ。というより、私はそもそも、オカルトは信じていないから、どうでもいいわね」
ああ、そういや、こいつ、俺が入部するにあたって受けた『部活の名前当てクイズ』で、幽霊なんているわけないじゃない、とかなんとか言ってたな。
諦めてもう一人の方に顔を向けてみる。
「幽霊かー。んー、やっぱりやり残したことがあるとかが定番じゃないの? でも、みんなが幽霊になれるなら、死ぬのも案外怖くないよね」
「確かにな。どう考えても、死んだ後の方が楽そうだし」
「そこで楽をする考えが浮かんでくるあたり、やっぱり比企谷くんなのね」
「いや。やっぱりってなんだよ。今まで信じてなかったの?」
「ゾンビと比企谷くんの境界線を彷徨ってたわ」
「なんでお前はそこまで俺をゾンビ扱いしたいんだよ……」
ひどいな、本当。
とても告白してきたやつだとは思えない。
「まあ、いい。……質問を変える。幽霊が存在するとして、成仏するべきだと思うか?」
「そうね……。本当はそうなのかもしれないけれど、でも私は、親しい人の幽霊なら成仏して欲しくないと思うわ」
「だねー、あたしもそんな感じ」
親しい人の幽霊なら。
そう言ったとき、雪ノ下の眉尻が僅かに下がったのは気のせいではないのだろう。
彼女はきっと、陽乃さんを思い浮かべているのだ。
あの人は、まだいるのだろうか、この世に。
まだ彷徨っているのだろう。
まだいる気がする。
なんの理由もなく、そう思った。
「今の状況を、なんとかしたいんだ」
十二時を迎えようとしている時計をぼんやりと見つめながら、俺は言う。
「でも、このまま放っておくのが一番いいってことが、なんとなくだが分かってる」
「放っておくのがいい? どうして?」
雪ノ下は素朴に訊く。
事情を何も説明していないのだから、そんな質問が帰ってくるのも当たり前だ。
「誰も困ってないから」
無言が空間を支配する。
しかし、二人とも眉を顰めていた。
「誰も困ってない。誰かが助かったことはあっても、誰かが困ってるなんてことはない。放っておけば、多分、時間が解決してくれる。それに、もしかしたら、放っておくことでこれから先、誰かが助かるかもしれない。それなのに、自分勝手な気持ちで、俺が口を挟んでいいはずがないだろ?」
あの人が成仏していないのだとすれば、あの人はいつか、誰かの気持ちを奪って誰かを幸せにするかもしれない。
そうなるなら、止める必要はない。
こんなことを言われても、こいつらにはわけがわからないだろう。
何一つ説明しないままに、とにかく愚痴だけを捲くし立てられても、返すアドバイスなんてあるはずがない。
一色や小町が雪ノ下たちになにかを話したとは思えないし、実際、俺は、
「よくわからないわね」
「……うん」
と、身も蓋もない感想を返されてしまった。
それでも、話すだけで随分と楽になった。
気がする。
してしまう。
これはつまり、陽乃さんが正しいということなのだろうか——だったら、こんな気持ちもいつか時間が解決してくれるのだろうか。
多分、してくれるんだろうな。
遣る瀬無さも切なさも。
いつかは思い出になり、そして忘れることができる。
そうして前を向いて歩いていける。
だったら——
「でも、比企谷くん」
と。
しかし雪ノ下と由比ヶ浜は、こんな支離滅裂な俺の話を受け止めた後——身も蓋もない感想の後に、驚いたことに、言葉を続けた。
「誰も困っていないというのは、嘘よ」
うんうんと由比ヶ浜は首肯する。
「え?」
「だって、ヒッキー困ってるじゃん」
「だって、あなたが困ってるもの」
雪ノ下は言う。
「そしてそれは、あなたが動く理由に充分なるわ。あなたが困っているのは、あなたにとって何よりの重大事件なはずなのだから」
「それにヒッキーが困ってるとあたしも困るよ! ゆきのんも困るし、小町ちゃんも、いろはちゃんだって、平塚先生も、隼人くんも、中二も、さいちゃんも、みんな困るよ!」
ふふんとどうだと言わんばかりに、由比ヶ浜はその豊かな胸を張る。
目に悪——いや、いい。
温かみのある言葉というより、当たり前な、それは、ひと肌に触れたような温度の言葉だった。
しかし、そうか。
そうだった。
由比ヶ浜は、こんなことを普通に言えてしまう恥ずかしいやつだった。
「困っているあなたを救えるのは、あなただけよ。私たちにもサポートなら出来るけれど」
「……けどな、雪ノ下。そんな俺の気持ちなんて、いつかなくなっちまうもんなんだぜ? 全部時間が解決してくれる」
「それは確かにあなたらしいわね。そうやって、自分のことは適当に済ませるところ——嫌いだわ」
正面から冷ややかな視線と、凍るような声音で放たれた言葉を受け、言葉を紡ぐことも出来ずに固まってしまう。
そんな寒々とした空間を暖かい声が和らげだ。
「ていうか、それ、ヒッキーは本気でそう思ってないよね。時間に解決してもらってもいいなんて、思ってない」
「そんなこと」
俺の否定の言葉を遮って、由比ヶ浜は言葉を続ける。
「だってさ、ヒッキーは、そういうこと本気で思ってたら、相談なんてしてこないもん。それはあたしが決めたヒッキーらしさなのかもしんないけど……でも、そんな感じ……。もしかして、誰かになにか言われた?」
確かに、そうだったかもしれない。
俺は時間が解決してくれるからどうでもいいやなんて思ってることでわざわざ相談なんてしない。
そういうやつだ。
「まあ、な……。いろいろ、言われた」
陽乃さんに、好き勝手言われて、納得していた。
「気にしなくていいわよ、そんなもの」
雪ノ下は、そんな『好き勝手』を、ここであっさり一蹴する。
「あなたは今、あなたが言われたあなたを演じているだけ。それは、あなたであってあなたではないわ。そんなことしているから見失うのよ。ねえ、比企谷くん。あなたから、卑屈と陰湿と最低を取ったらなにが残るの?」
そんなものは、もはや俺ではない。
ひどい言われようだが。
「卑屈で最低で陰湿な比企谷くんが、誰かに言われた自分なんて虚像を見ているなんて、おかしな話だわ。一体、いつからあなたは誰かに合わせられるほど偉くなったのかしら?」
比企谷くんは、比企谷くんのやりたいようにやってけばいいのよ——どうせ人の目には入らないんだから。
雪ノ下は俺を見据えてそう言った。
「それでも、どうしても、比企谷くんが周りに融和されて生きていきたいというのなら、そうすればいい。私は止めないわよ。ただ、納得がいかないなら、なんとかしなさい。そこに問題があって、自分に解決する術があるのなら、解決する。それを教えてくれたのは、あなたでしょう」
「……そっか」
そうだった——俺はもっと、最低であるべきだった。
誰かの意見に流されて、どうしようもなくなるなんて——確かに俺のキャラじゃない。
俺らしく、なかった。
いや、俺じゃ、なかった。
雪ノ下の言葉に、俺は立ち上がった。
「お前の意見に納得した。確かに、俺は誰かに合わせて生きていくなんて無理だ。そんな高尚な技術があったら、今頃リア充ライフを満喫してる」
そして言う。
「だから戦おうと思う」
戦おう。
めんどくさいが、俺の問題だ。
他人に責任を押しつけておくわけにはいかない。
「戦って負けてくる」
「負けちゃうの!?」
「当たり前だろ。負けることにおいて、俺は最強だ。俺が負けられない相手はいない」
「はあ……呆れた」
雪ノ下はこめかみのあたりを抑えて項垂れる。
なんだか懐かしいポーズだ。
「まあ、いいわ。頑張りなさい。……なにか私たちに出来ることはあるかしら?」
「いや、ない」
もしかしたこいつらにも陽乃さんは見えるのかもしれない。
しかし、ここから先は俺にしか出来ないことだ。
そうだ。
俺も卒業しなければならない。
あの二年前から前を向けた気がした。
だが、そんなものは幻想だった。
だから、頼ってしまった。
一人でもやっていける俺にならなければならない——戻らなければならない。
本当ならば、そんな俺を、今日、こいつらには見せるべきだったのだ。
俺はなにも変わっていないと、堂々宣言するべきだった。
そういう意味でも、俺はひとりになんて、なっていなかった。
これから一人になる。
また、一人になる。
結局、導き出した答えは一色と話したときと同じだ。
でも、それでいい。
同じことを繰り返していくのが、俺という人間なのだから。
「そう」
「そっか」
雪ノ下と由比ヶ浜は、用無しと言われた癖に、なぜか嬉しそうに、そんな風に言うのだった。
「おう。強いて言うなら今度、同窓会でもしようぜ。戸塚に会いたいし」
「あなた……本当に変わらないわね」
「あはは……ヒッキーキモい」
021
深夜一時頃、久々に実家に帰って、自分の部屋が倉庫になっていることに、家族の俺への扱いの酷さを感じながら、ソファに横になる。
俺は、どうすればいいのだろうか。
方針は決まったものの、方法が決まってない。
方針と言っても、戦うとかいう漠然としたものでしかない。
どうやって戦えばいいのだろうか。
どうすれば、もう一度、陽乃さんに会えるのだろうか。
可能性があるとすれば一つ。
俺が、陽乃さんのことを好きだった気持ちを思い出すことだ。
これについては、さほど問題はない。
というか、もう半分くらい好きになっている。
陽乃さんが会いに来たのは、多分、失敗だった。
俺があの人を探すのに必死にならなかったのは、そのことも理由にある。
もう一度会ってしまって、また好きになるのが怖かったのだ。
あの人の、ああいう、自分を悪者にするような態度は、高校時代の姿と重なって、そういう気持ちが湧き出してくる。
明日、家に帰れば、陽乃さんに会えそうだな。
案外、楽だった。
なら、その後でどうするか。
選択肢は二つある。
一つは、この想いを、陽乃さんに渡してしまうことだ。
その際に適当にいい台詞を繕って、ちゃんとお別れを言うというのも物語としては悪くない。
すいません、ありがとうございました、さようなら。
割りと後味よく収まりそうだ。
だが、もちろん、俺はそんなものは選ばない——選べない。
選択肢は確かにあるかもしれない。
なんならまた逃げるのも一手だ。
だが、無理だ。
俺にはその選択肢を選ぶ権利がない。
俺はいつから何かを選べる立場になった。
だから——
感情を撒き餌に陽乃さんを呼び出し、あまつさえお越しいただいたその幽霊を退治しようなんて、わけのわからないストーリーを、この物語の結末として選ぶのだった。
いや、正確には退治しようとして、返り討ちにされる、か。
陽乃さんはそんなこと望んじゃいない。
が、俺はあの人の望む俺であろうとは思わない。
あれだけの嫌ってるアピールをされたって、それは変わらない。
だいたい、嫌われることなら慣れてる。
拒絶も嫌悪も二十年間浸ってきた俺の世界だ。
それが普通。
なら、その普通の敗北を、俺は受け入れられる。
例えいつか失ってしまうものであっても、それを失うのなら、自分の手で。
「もう二度と会うことはないと思ってたんだけどなぁ。比企谷くん」
次の日の昼。
家に帰ると、予想通り陽乃さんが佇んでいた。
そしてその瞬間、やっぱり、俺はこの人が好きなのだと思った。
「まさかこの短期間でとはね。比企谷くんちょっとわたしのこと好き過ぎじゃない?」
そんなことは俺が一番分かっているので、出来れば言わないで欲しかった。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
「いると思いましたよ、雪ノ下さん」
「いると思ってて、昨日散々なこと言われた相手の前にのこのこ現れるとか、もしかして比企谷くんってマゾヒストだったの? お姉さんは結構サディスト寄りな自信あるから、案外相性いいかもね」
あんたはサディスト寄りどころかドSだろ。
そんなくだらないことを言いつつも、陽乃さんの眉間には皺がよっている。
どうやら、かなりご機嫌斜めらしい。
「まあ、だとしても、わたしは君のこと、嫌いだけど。さ、比企谷くん。早くこっちおいでよ。また生で押し当ててあげるからさ」
その提案はとても魅力的だったが、腕を切るような想いで俺はその場に踏みとどまる。
陽乃さんとしても、無理やりというは面倒なのだろう。
あるいは案外、労ってくれているのかもしれない。
それもありなのかもしれない。
あくまで衝突を避け、問題を先延ばしにし、解決を未来に委ねるというのも、十分にありなのだろう。
俺の考えとは違うってだけだ。
陽乃さんは正しい。
彼女はおおよそ全てが正しい。
俺は正しくない。
基本的に俺はまちがっている。
でも、そんな誰かの正しさより、俺は自分のまちがった主張を押し通す。
「嫌ですよ」
俺は言った。
「わざわざ会いに来てくれた、知り合いの姉に冷たくしたくはないですが——」
「嘘。比企谷くんいっつも冷たかったじゃない」
「いや、そこで横槍入れないでくださいよ。それは、あれですよ。多分、好きな子に意地悪したくなるの原理」
「照れ隠しだったの?」
「いや、まあ、そうだと思えばそうなんじゃないですか……」
「まあ、知ってたけどね。ていうか、冷たかったことの言い訳なんて訊いてないんだけど? 論点を逸らさないでちょうだい」
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
最初からこんな調子で大丈夫かよ、俺。
「そんなことどうでもいいですよ。とりあえず、これは渡せません」
「……どうして」
「さあ。どうしてなんでしょうね」
陽乃さんの問いに、俺は半ば本気で困る。
理由なんてあるのか。
「それも、照れ隠しかな?」
「……かもしれませんね」
つい、目を伏せてしまった。
そして、気づき顔を上げる。
「強いてあげるとするなら——俺があなたを見ていられないからですよ」
「見ていられない? なら、見なきゃいいじゃない。逃げは十八番でしょ?」
怪訝そうな彼女に俺は首を振る。
その通りだ。
でも、仕方ないじゃねぇか。
俺には陽乃さんが——見えてしまうんだから。
俺が陽乃さんを好きだからなのか、陽乃さんが俺を嫌いだからなのか、それともその他のことなのか、理由は分からないが。
俺には陽乃さんが見えるのだ。
見えるからこそ——見ていられない。
「見たくもないものが、見えてしまうんだから、それはどうしようもないじゃないですか。だから、見ていられないんですよ」
陽乃さんはわけが分からないといった風に首を傾げる。
なかなか愛らしいが、そんなことは今どうでもいい。
「雪ノ下さん、俺の話を聞いてもらえませんか。聞いて、それで、どうにもならないなら、その後はこの想いは渡します。それで諦めます」
「ふうん。別にいいけど」
意外とあっさりと、陽乃さんは了承した。
なんだ、存外に信頼されたもんだな。
あれだけ嫌いだと言っておいて。
あれが事実なら、だが。
そういう点では、ある意味陽乃さんは俺を騙せている。
俺は確かに多少はあの頃より他人の気持ちを——純粋な感情を——考えられるようにはなったが、だからと言って、そういうのを前向きに捉えたりはしない。
そういうことをする人だと知っていながら、まだ、それを確信出来ずにいる。
だからもし、あれが嘘なら、陽乃さんは見事に俺を騙せている。
だから、とりあえず、でも、なんとなく、本当に感情を伝えれば、多少は見抜けるかな、なんて適当なことを思っている。
それ以外ないなら、それをやるしかない。
「その前に一つ、訊いておきたいことがあるんですが、いいですか?」
これは、一応、訊いておくべきだろう。
どういう結果になるか分からないにしろ、もし成仏したくないのであれば、成仏させてしまった場合、俺はその気持ちを背負って生きるべきだ。
「んー? なに?」
「雪ノ下さんは、その、成仏する気はないんですか?」
陽乃さんの座るベッドの真向かいの位置に腰を下ろしながら、俺は訊いた。
しかし、陽乃さんは、
「え?」
と言った。
「あははっ! なにそれー、わたしが気持ちを奪えることにかけての比喩? それともなんかの冗談? もしかしてまた照れ隠しの意地悪? どれにしても、趣味悪いぞー? そんな言い方だと、まるでわたしが幽霊みたいじゃない。それより比企谷くん、先にお手洗い借りてもいいかな? なんか長い話になりそうだし」
「え、ああ……いいですよ。ご自由に」
俺は彼女の申し出に、そんな風に応じながら——果たして、どんな表情をしていたのだろうか。
すぐに顔をそらしてしまったから、その表情を彼女に読まれてはいないはずだ——それにしても、背中が、肩が、全身が震えていることを、隠せてはいないかもしれない。
「ありがと」
と、陽乃さんはいったんベッドから立ち上がり、お手洗いへと向かった。
彼女の姿が見えなくなると同時に、俺は長いため息を吐き出す。
マジかよ。
このケースは想定外だ。
雪ノ下陽乃——彼女は自分が死んでいることに気付いていない。
自分が幽霊であることを、分かっていない。
自分が、死んでいるという自覚がない。
轢かれて潰れたことを——忘れているのだ。
「そんなこと、あんのかよ……」
いや、あるんだろうな。
考えてみれば、自分が死んだことに気付いていない幽霊の話なんて、昔からよく伝わっているじゃないか。
だから——自分が死後の世界の住人だなんて、そんな途方もないことを飲み込めない者だって大勢いておかしくない。
誰だって。
自分が死んだなんてこと認めたくないだろうし、それ以前に、考えたくもないだろう。
陽乃さんが、いかに完璧超人だからと言って、自分の死を受け入れることができる人間だとは限らない。
そもそも、受け入れたくないから受け入れていないのではないのかもしれない。
知らないから受け入れられないという可能性も十分にある。
嘘をついたわけじゃなかった。
彼女は本当に、俺に憂さ晴らしするために小町に鍵を借りて、ここまで来たのだと信じている——そんな風に思うことで、認識のつじつまを合わせている。
だから、成仏もなにもない。
何も分からないままに、彼女は俺から想いを奪い、憂さ晴らしをしようとしている。
「……そうか。そうなのか——俺がこれからしようしているのは、そういうことなのか」
なんだこの重圧は。
俺はこれから、かつての想い人に——否、現在進行形で好きな人に、お前はもう死んでいるんだと教えようとしているのだ。
なんだそれ、漫画じゃねぇんだから……。
漫画なら、そんな台詞も格好よく決まるのかも知れないが、しかし現実においては残酷なだけだ。
でも、俺はやるんだ。
残酷なことをするのだ。
今更やめることはできない。
俺はもう、そうすると決めたのだから。
その結果、さまよえる幽霊を、生産性のない行為に取り組んでいる幽霊を——この世から解放することができて、それはある意味、人助けにも似た行為なのかもしれない。
でも、それで気を楽にすることがあってはならない。
決して、あってはならない。
陽乃さんが俺から想いを奪うことで、結果的に俺を助けることになるのとそれは同じだ——結果的な善など、なんの免罪符にもならない。
自分の意志で動く正義は、偽善だけれど——誰かに言われて初めて気づくのが本当の善なのだとしても——俺は彼女を救おうとしているんじゃない。
ただ。
彼女が俺の、好きな人だから——そう。
見てられないから。
退治しようと思っているだけなんだ。
俺がやらなくてもなんとかなる。
多分、時間が解決してくれる。
それでも、俺がやるんだ。
俺がやりたい。
やらなくてはならないなんて、義務感のようなことは言わない。
そうだ、突き詰めれば、もっと単純なことなのかもしれない。
俺は陽乃さんに。
あの人に——ちゃんと好きだと言いたいだけなんだ。
あの人からも。
あの人からも離れて一人になりたい。
卒業したい。
「お待たせ。さ、いつでもどうぞ」
お手洗いから戻ってきて、陽乃さんはさっきまで座っていたベッドの上へ、再び腰を下ろす。
時間にして三分くらいだろうか。
覚悟は出来た。
勝ち負けをつけよう。
負けたなら負けたでよし。
勝ったなら勝ったでよし。
ついさっき気づいたことを踏まえると、僅かに勝算が上がった気がする。
負けることにかけて最強なんて言っておきながら、脆弱なもんだが、やっぱりこの勝負には勝ちたかったというのが本音だ。
だって、そりゃあ、俺だって、振られるのは嫌だ。
「……って言っても、どこから話しましょうか」
「最初から」
そんなことを平然と言われ、まあ、時間はあるしと俺は最初からつまびらかに語ることになった。
「最初。六月、でしたっけ? 由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに来た日だから、六月ですね。雪ノ下さんと出会ったのは」
「だねー、懐かしい」
「出会ったって言うと、なんかロマンチストみたいで気色悪いですから、出くわしたの方が適切か」
言い直すと、陽乃さんはあからさまに顔を顰める。
「なにそれ、わたしが化け物みたいじゃない」
「いや、だって、俺的には化け物に出くわしたみたいな心持ちでしたよ。そんな強固な外面貼り付けてる人なんて、初めて見ましたし。なんだあれって感じでしたね」
本当、あんなのがいてもいいのかと思ったが、その前に雪ノ下雪乃という女に出会ってしまっているので、幾分か驚きは薄れていたようにも思う。
「それから、何度となく雪ノ下さんとは遭遇しましたけど……」
「その言い方やめて。その、なに、モンスターに遭遇したみたいな。わたしだって女の子なんだよ? 気に入らない」
いや、気に入らないとか言われても困る。
本当にそんな感じだったし。
「俺は毎回毎回、出くわすたびにビクビクしてたんで、それ以外に適切な言葉が浮かんでこないです。勘弁してください」
「はぁあ……かわいくないなぁ」
「すいませんね」
「で?」
自分が途切れさせた癖に早く話せと言わんばかりの態度に苦笑しつつ、俺は話を進める。
「林間学校の帰り、文化祭実行委員、ドーナツショップ、葉山の付き添い、進路相談会、マラソン大会後の呼び出し、バレンタインイベントに、何日か後に学校でも……これ以上はキリないですね」
そう。
もうその後はかなりの数遭遇している。
どんどん頻度が増えていっていたように思う。
「そのどれもが、大抵、悪役としての登場だった」
「そりゃあね。雪乃ちゃんのためだったし」
今更なに言ってんのと言いたげな視線を浴びせてくる。
「その時に気付いてませんでしたけど、俺はそのたびに惹かれてたんだと思います。そういう化け物じみた雪ノ下さんに」
「ちょっとそれは失礼かなぁ? ん? もう一度言ってごらん? 誰が化け物だって?」
怖い。
最後マジだったよ、声が。
「こ、言葉の綾です。ていうか、褒め言葉ですよ」
「化け物だと褒められて喜ぶ女の子はいないよ。覚えておきなさい、童貞少年」
「童貞はこの場合余計ではないんですかね……」
ぐっさりえぐられた。
確かにまずかったのかもしれない。
でも今実際に化け物なんだよなぁ。
「じゃあ、えっと、魔女とか」
言った瞬間、ぴきっとなにか、漫画で血管が浮き上がった時のような音がした、気がした。
「なに? もしかして、比企谷くんわたしに喧嘩売ってるの?」
「違いますよ。いや、まあ、ある意味では、まちがってないこともないですけど」
「ふぅん。そう」
明らかに機嫌が悪くなっている。
言葉選びには気をつけよう。
「とにかくですよ。俺はそういうあなたに惹かれていた。ってこんなこと何度も言わせないでくださいよ、恥ずかしい」
「いや、わたしだって結構恥ずかしいんだけど……そんな、ねぇ?」
ねぇとか訊かれても、困る。
というか、そんなことで狼狽えられても困る。
反応しづらい。
「ま、まあ、そういうわけです。それで、俺は三月辺り、いや、二月辺りから違和感を覚えていた。あの指摘は雪ノ下を想うのなら逆効果でしたね」
「ううん、あれはあれでよかったのよ。雪乃ちゃんに自覚させるのも含めてのことだったから。言ったでしょ? 比企谷くんのためじゃないって」
「そう、でしたね」
そうだった。
全部、俺のためじゃない。
俺のためじゃない。
しかし、それは本当に全部、雪ノ下のためだったのかどうかは微妙なところだと思う。
「それはともかく、その違和感がなんなのか、ずっと気になっていて、それの正体が分からないことには、俺は安易に彼女らの想いに首を縦に降ることは出来なかった」
「そういうとこ真面目だよね、比企谷くんって。まあ、そういうところは嫌いじゃないけど、嫌いだな」
どっちだよ。
「……だから、こんなところまで逃げてきた。それで一年と少し前にようやく気づいたんです。自分の気持ちの正体に」
ようやくだ。
気がつくのに二年近くかかった。
どうかしている。
「でも、拒絶が怖かった。それに、嫌悪が恐ろしかった。だから、敗北から逃げ続けた」
卒業式の日に、ばいばいと言われてから、俺は会うのが怖かった。
嫌われていることを認めるのが怖かった。
その恐怖だけがこびりついていた。
「一色に甘えてました。なにを求めるでもなく、ただ、いて欲しいときにいて、いなくてもいいときには現れない一色に。だから、俺は悪くないんだと思えた」
本当は俺しか悪くないのに。
逃げて逃げて、ずっとひきづってうじうじとしている俺が悪いのに。
だから、自分すら嫌いになった。
とうとう、嫌いになった。
「そのまま一年が過ぎました。一色は隙を見てはアピールしてきましたが、俺はそれに答えられなかった。答えるわけにはいかなかった——答えたくなかった」
それは多分、失いたくないから。
着いてきてくれた一色を遠ざけたくないから。
気持ちには応えられないのに、そばにはいて欲しいだなんて、わがままにもほどがある。
「忘れられるはずがなかった。時間が解決してくれるにしても、俺は長い間これに縛られ続けることになったはずだ」
そうなるはずだった。
木曜日に——
「雪ノ下さんが来なければ」
「そうね。感謝しなさい」
「ありがたいと思いましたよ」
嬉しいとも思った。
まちがいなく喜んでいた。
苦しみから解放されて。
痛みから解放されて。
「でも、ありがたいなんて思っちゃダメだった。納得なんてしちゃいけなかったんです」
「……いいじゃない、それで。わたしも幸せ、比企谷くんも幸せでハッピーエンド。何が不満なの?」
「全部」
ままならない。
思い通りにいかない。
そんなのはいつものことだ、慣れてる。
思い通りにいかせるほどの能力は俺にはない。
だが、それは諦めてるだけであって、気に入ってるわけじゃない。
「二年も燻っていた自分も、一色に甘えてた自分も、困っていることも、雪ノ下や由比ヶ浜を困らせたことも、雪ノ下さんになにかしてもらわなければならなかったことも、雪ノ下さんに悪役を押しつけたことも」
そう、全部だ。
今までのこと、全部。
この二年間の全て。
「おおよそ全てが気に入らない」
「それは思い違いよ。別にわたしは押付けられてなんていない」
「だとしても。そういう言葉を吐かれている現状すら気に入らない」
「ならどうするのよ」
そんなもの、決まっている。
俺のために誰かが困って、誰かが優しくしてくれて、誰かに助けてもらう。
そんなのは嫌だから。
それなら。
それなら——
「返してもらいます」
その場を。
その座を。
「そろそろ、汚名を挽回しないといけませんからね」
「それでいいの?」
「それでいいんです。俺はもっと最低な人間だ。誰かのためになにかが出来るだなんて自惚れちゃいない。誰かになにかしてもらえるほど偉くもない。自分のことは自分で。当たり前のことだ」
いつだってそうしてきた。
俺の世界には俺しかいなくて、だから自分の問題は自分で解くしかなくて。
「自分で終わらせなきゃ、自分で始められない。自分で始めたことじゃなければ、自分の歩く道すら分からない。誰かが作ってくれた道を歩くのは簡単だけど、誰かの人生をなぞって生きても得るものはなにもない」
それはその誰かのものであって、俺のものじゃない。
俺が選んだ道だから、俺は納得して歩いていける。
「ただ、失うだけだ。その誰かを見失ったら、道すらなくなって、ようやく踏み外していたことに気づくんです」
他人の道を歩くわけにはいかない。
陽乃さんがいなくなれば、俺はまた道が見えなくなってしまう。
そういうのはもう懲り懲りだ。
「すいませんでした」
まずは、謝罪だ。
誠心誠意謝る。
自分の過失だから。
「それと——ありがとうございました」
そして、感謝だ。
でも、それで終わりじゃない。
そこでは終わらない。
「でも、もういいです。それは、俺の気持ちで、俺の想いで——俺の記憶だから。俺が、背負います」
俺は、誰かを信じて任せるなんてことはしたくない。
それでうまくいかなくても自分一人を責めればいい、誰かを責めたくなんてない。
誰かを恨みに思うのは、恨みに恨みきれない。
それは優しさでも責任感でもない。
自分のことなら諦めもつくが、人にされたことでは諦めがつかないだけだ。
あのときあいつに任せなければ、そのときそいつに頼らなければ、そう思って生きていくのはとても重苦しくて遣る瀬無い。
なら、一人でやってしまう方がいい。
自分一人の後悔なら、嘆くだけで済む。
自分で決着をつけられたのなら、俺はまた始められる。
「それは、失くしちゃいけないものだったんです」
俺の想いは、俺のものだから。
押しつけちゃダメだ。
奪われちゃダメなんだ。
「だから、お願いします。俺の想いを返してください。もう、自分で出来ますから。自分で、一人で——出来るから」
日本人の最終奥義、DOGEZAを使って懇願すると、静かな空間にふっと微笑が落ちた。
そして——胸に空いた穴が埋まったのが、俺には分かった。
022
「ほら、返したわよ。やってごらん」
雪ノ下さんは腕を組んで、足を組んで、高慢な態度でベッドに鎮座しながら、そう言い放った。
俺は微かな頷きを返して、胸の内にある戻ってきた想いと、つい最近新しく生まれた想いを意識しながら、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、告げる。
「雪ノ下さん、ずっと前から好きでした。俺と付き合ってください」
ありふれた台詞。
俺にそんなロマンチックな口説き文句は言えないし、似合わない。
伝わるなら、これでいい。
「——いいよ」
数秒の沈黙。
……え?
「……いや、え?」
「あら、気づいてたんじゃないの? 比企谷くんのこと嫌いって言ったのが嘘だってこと」
「……まあ、気づいてました」
気づいてた。
幽霊になっていることに気づいていないのなら、俺の想いを奪ったあとも何故存在しているのか。
なにかしら残っている理由がある。
それに、嫌いだ嫌いだという言葉は、俺に言っているというより、むしろ自分に言っているようだったから。
気づいてはいたが、
「けど、最後まで貫くんだと思ってました」
「あははっ、そんなの無理に決まってるじゃない。好きな人からの告白を断れるほど、わたしは強くないわよ」
「そう、なんですか?」
「嘘」
くつくつと笑う。
くそ、弄ばれた……。
しかしまあ、本気で驚いていたわけじゃない。
そういう可能性もあるんだろうかとは思っていた。
それはきっと、夢の中で、断らないと言われたからなんだろうが。
「でも、比企谷くんのことが好きだっていうのは、本当だよ。だから、君に会いに来たの」
「それは……どういう」
正確な意図を掴みかねて問うと、陽乃さんは天井を仰ぎ見て、はぁと悩ましげに息を吐いて言った。
「わたし、結婚するんだ」
「へぇ……」
「えー? それだけなのー? もっとさ、こう、駆け落ちしようとかないわけ? わたしはそのために家出までしたんだけど?」
「いや、すぐ捕まるでしょ」
それに、結婚はしないから、いい。
結婚する予定だっただけだ。
「……それもそうね。ま、そういうわけだから、君とは付き合えないよ」
「それがなければ、付き合えるんですか」
思わず訊いてしまった。
陽乃さんは目を見開いて、俺をまじまじと見る。
「もう、結婚しなくてもいいんですよ」
「それは……どういう」
言うのは躊躇われた。
信じてもらえるか分からない。
「あなたは、もう、死んでるんですよ」
大真面目な顔で、そんなことを言うと、陽乃さんはくすくすと笑った。
そうして、なんだか納得したような顔になる。
「そっか」
「はい」
「そっかー! わたし、死んじゃったのかー。六日経っても誰も追いかけてこないわけだ……そっか、そういうことかぁ」
ぱたんと布団に倒れこみ、なんだかぶつぶつとつぶやいたかと思えば、そのままの状態で尋ねてくる。
「なんで死んだのかな?」
「トラックに轢かれて」
「ぷっ……くくっ、あはははっ! ははっ……は、はぁ、はぁ……。なんだ、人間、呆気ないもんだね」
「……ですね」
「よし!」
そんな声とともに陽乃さんは勢いよく身体を起こす。
その瞳には少しだけ涙が滲んでいて、儚げに思えた。
「じゃあ、付き合おっか。わたしが成仏するまで」
「は、い……」
「なーに泣きそうな顔してるのよ。こんな美人のお姉さんと付き合えるのに、嬉しくないの?」
陽乃さんは立ち上がって、俺の方に寄ってきたかと思うと、そっと俺の身体を抱き寄せる。
朧げで儚げで、今にも消えしまいそうな——
「……雪ノ下さん、もう、身体が」
——その腕で。
軽い。
存在が。
そこにいるのに、そこにいないような。
希薄さをもった身体。
「そうだね、消えかかってるね。そうなると、わたしは最後に比企谷くんと付き合いたかったのかな?」
「案外、乙女なんですね……」
ふっと呆れたように笑うと、陽乃さんはむーっと唸って、俺の頬をつねる。
「それ、どういう意味かなー?」
「ちょっ、痛いですって」
——痛くなかった。
なにも痛くなかった。
もう指は見えなかった。
陽乃さんは底抜けに明るい声で言う。
「比企谷くん、ちゅーしよっか」
「……は?」
「ちゅーだよ、ちゅー。わたしからの最期のお願い。お姉さんのファーストキス、奪って」
一方的に言って、まぶたを下ろす。
綺麗だった、この世のものとは思えないくらいに。
——唇が重なる。
冷たい。
ひどく冷たい。
この世のものではないと、意識させるくらい。
「ふふっ。これで心置きなく逝けるよ」
「よくそんな恥ずかしいこと言えますね……」
「どうせ死んじゃうからね」
「ああ……」
幽霊ジョークだった。
新ジャンル確立。
全然笑えない。
「さて、そろそろかな」
言って、するりと陽乃さんは俺から離れ、立ち上がる——いや、立ち上がるというよりかは、浮かび上がると言った方が近い。
もう、その身体は胸辺りまで消え去っており、現在進行形で全体が薄ぼんやりとしてきている。
この状態で、幽霊と言われれば、確かにピンとくる。
「あ、そう言えば、雪ノ下さ」
「陽乃」
「え?」
「陽乃って呼んで、最期くらい、ね」
「陽乃、さん」
「ふふっ。ん? なにかな? 八幡」
台詞だけ見れば木曜日の再会を思い出させるような感じだった。
「渡すものがあるんです」
そうだった。
そのせいで、帰りが昼過ぎになってしまったのだ。
休んだツケは大きい。
俺は友達いないし。
「なに?」
バッグを漁り、目当ての袋を見つけ出してさっさと開けてしまう。
もう死んでしまうのだし——と、冗談みたいなことを思いながら、陽乃さんの首に腕を回し、それを着ける。
実際には、腕がないから。
「ネックレス? なにこれ、どうしたの?」
「なにこれって、今日が何の日か忘れたんですか?」
陽乃さんはしばらく考え考えしたのちに、あっと声を漏らし、柔らかい微笑みをたたえた。
「陽乃さん。誕生日、おめでとうございます」
——ありがとう、ばいばい。
そんな言葉を口ぱくで言って、目の前から陽乃さんの幽霊は消失した。
ネックレスが床に落ち、じゃらと音を立てる。
俺一人しかいない部屋に。
数秒後、頬を伝った雫がぽつりと床を濡らす。
……情けない。
俺はベッドに仰向けに寝転がり、顔に手を当てながら、
「——さようなら」
と、ひとりごちる。
結局、俺は勝てたのだろうか。
勝ちも負けも分からない。
ただ、なんとなくスッキリしていた。
多分、それでいいのだ。
それを認めて、俺は卒業出来た気がした。
何かを。
023
その日の夜。
俺はこんな夢を見た。
「多分、これから比企谷くんはいろんなことを経験して、また同じような失敗をする。でも、きっと、また同じように解いていくんだろうね。そんな黒歴史、失敗談を冗談混じりに話していくことで、そうやって、そのときの問題は思い出になっていく。忘れていく。忘れるから繰り返す。
でも、それでいいんだよ。生きているうちに、いっぱい後悔して、いっぱい失敗しなさい。死んでしまったらそこで終わりだからね。わたしは幽霊になれたけれど、比企谷くんがなれるとは限らない。
そういう意味では、いろんなものを残すのもいい。後悔も、家族も、友人も、仕事も。死ぬときに自分の周りに自分の生きた証が残っているのなら、それは幸せなことだと思うから。
ああ——そっか。わたしはきっと、自分の周りになにもなかったのが寂しかったのかもね。比企谷くんも寂しかったんじゃない? 一人で生きれる、一人で出来る、でも、一人でいなきゃいけないわけじゃないもんね。
要するに、比企谷くん、今回の話っていうのは、君にとってそういうことだったのかな?」
陽乃さんの、その言説には俺はすんなりと納得できた。
今まで通りに。
そういうところは結局、最初から最期まで変わらなかったな。
しかし、俺だって、少しくらい意見することはある。
「……そうかもしれませんね。でも、それだけじゃないんじゃないですかね」
寂しかったから。
それだけじゃない。
それだけなら、あのとき想ったように、俺はこんな行動には出ていなかっただろう。
「多分、今回の話は、ずっと好きだった人と付き合えて、嬉しかったっていうだけの話です——」
陽乃さんはくつくつと可笑しそうに笑って言う。
「いつからそんな台詞を言えるようになったの?」
「夢の中でなら、そのくらいは」
「ふぅん、生意気になったもんだね」
「俺は元からこんな感じですけどね。知りませんでした?」
俺の問いに陽乃さんは不満気に口を尖らせる。
わざとらしい。
「知らなかったー」
「俺らしくないですかね」
ふっと呆れにも似た息を吐きつつ、言葉を返すと、陽乃さんは朗らかに笑って答える。
「比企谷くんは比企谷くんだよ」
「……そうですね」
俺は俺だ。
どんなになったって、俺に変わりない。
だから、俺はきっと、そんな俺を好きになれるのだと思う。
「じゃ、陽乃さん。また、いつか」
「うん。またね」
そして、俺は目を覚ます。
時刻を確認して、しばらくくつろぎ、支度を終えて家を出ると、ちょうど一色が現れた。
一色はにへらと笑って挨拶をする。
「こんにちはーっ!」
「おう」
二人で千葉に向かう。
二日連続で大学をサボるなんてお咎めをされることはない。
今日は創立記念日だ。
千葉に着いたのは四時頃。
雪ノ下本家に向かうと、雪ノ下が出迎えてくれた。
まだいろいろと済んでいないらしく、お墓参りが出来るのはもう少し日が経ってからということだった。
ちなみに、雪ノ下は陽乃さんが亡くなった関係で本家へと戻ることになったらしい。
そうなれば母親との衝突は避けられないだろうが、それに関して俺に出来ることはない。
雪ノ下の問題で俺に出来ることがなにか決めるのは雪ノ下だ。
なにかあるのなら手伝うし、なにもないならそれでいいし。
仏壇の前に座り、静かに目を瞑る。
昨日まで家にいた人物の仏壇の前で手を合わせるというのは、なんだか不思議な心地だった。
それでも、いつか、この、不思議さもなくなってしまうのだろう。
さてと立ち上がり、二人を伴って集合場所へ向かう。
その集合場所——食事処には、既にみなの顔が揃っており、久々の再会に軽い挨拶を交わす。
なんだかんだと文句を言われてしまったが、それは甘んじて受け入れるべきだ。
大概のことは俺が悪い。
縮小同窓会のような催しは、明日も変わりなく通わなければならない大学のこともあり、九時頃には解散となった。
そして、俺たちは来た道を辿る。
電車で帰宅中に俺は、先週の木曜から始まった奇怪体験について一色に話す——今だからこそ、終わったあとだからこそ、話す。
終わってみると、そして話してみると、まるで大したことではなかったような気がするが——それでも聞いて欲しかった。
「そうですか。まあ、いつもなら一笑に伏すところなんですが」
「一笑に伏しちゃうのかよ……」
「伏しちゃいますね、余裕で」
「しかも余裕だった……」
一色はこほんと咳払いを一つして、話を戻す。
「わたしも実際にはるさん先輩を見ちゃってますからね。信じざるを得ないでしょう。まあ、なんですかね……お疲れ様です」
「そうだなぁ、めちゃくちゃ疲れた」
本当に疲れた。
出来れば二度とこんなことはしたくないものだが、やっぱり繰り返すんだろうな、俺は。
「それでも明日からも学校に行かなきゃですよ」
「……知ってる」
嫌だなぁ、学校。
学校という文字が既に嫌だ。
まあ、学校に行ってなければ今この瞬間もあり得なかったのだと考えれば、なんとか行く気がわかないことも——ない、か。
「これからはガンガン行きますからね!」
「なんだそれ……」
ドラクエの作戦?
ガンガン行こうぜ?
「勘弁してくれ……、お前と飯食べてるだけで白い目で見られてんだぞ俺」
「いいじゃないですか、別にー」
「よくねぇよ」
本当、良くない。
特に恋愛とかに縁なさそうなやつらからの視線な。
あれはダメだ。
同族嫌悪的な意識が働く。
「食堂でイチャついてんじゃねぇよ爆発しろクソ、とでも言いたげだもんなぁ、あいつら。それ俺の台詞なんだけどな」
おっかしいなぁ、どうしてこうなったんだ……マジで謎。
だからと言って、一色を無理やり突き放そうとは思わない。
ただ、まあ、これからはちゃんと答えようと思う。
今まで都合のいい存在にしてしまっていたから、そんないいやつはもういらないから、一人で歩いていけるから——頑張ろう。
「うわ……先輩、最低ですね」
了
完結です!
なんか予定外に時間がかかってしまったので二作投稿出来ませんでしが、楽しんでもらえれば幸いですね。
と言っても、オマージュ、というかパクりなので楽しんでいただけたのは俺の実力ではありませんがw
ともあれ、ここまでお読みいただきありがとうございました!
\はるのん誕生日おめでとう!/
やはりわたしの青春ラブコメはまちがっている。の方も、よろしければお読みください!
7/8まで楽しみにさせていただきます。ところで、質問ですが
003より
"ま、それはともかくとして、俺、比企谷八幡は数月前に三年生になった。
たった一人になって、二年以上も月日が流れたのだと考えると、なかなか感慨深い。"
005より
"十九歳、もうあと一ヶ月と少し経てば二十歳になるというのに子供扱いされるのは勘弁願いたかったが、どうにも逃げられそうにない。"
数ヶ月前に大学三年生になったのであれば、八幡は既に20歳になっているのではないですか?
完全に足し算間違えてますね、すいません
修正しておきます!
ありがとうございます!
元ネタ知ってるけど読んでて十分面白いよ!
完結楽しみにしてる^o^
はるのん(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)…
汚名って挽回でしっけ?
完結ありがとうございます
おつ!
※5
汚名挽回は御用ではなく、意図的です。
分かりづらくて申し訳ありません。
化物語も俺ガイルも好きだから楽しくて一気に読めたー
本編?も楽しみにしてるねー
汚名を挽回するという言葉が良かったです。いかにも八幡らしい。
感動しました!
…元ネタはなんですか?どうしても知りたい!!
※11
元ネタは物語シリーズより『花物語』です。
アニメ化してるので、よかったら見てみて下さいね!
とても素晴らしいものを読ませていただきました。
陽乃と八幡の心理描写が繊細で深く、彼ららしさがひしひしと伝わってきました。本家にも劣らない作品でした。陽乃推しとして作者様の作品に出会えたことが本当に嬉しいです。
素敵な作品をありがとうございました。