2018-03-31 15:04:39 更新

概要

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
一色いろはルート、10-2作目。
次作はちゃんと次の章いきます。


第九章 いつまでも、目指すべき場所は先に在り続ける。0~5



Epilogue: 彼と彼女のプロローグ    



 まぶたを下ろすと、秋の気配がそこかしこに感じられた。


 いまだ残暑の残る日中とは違い、日没後は肌寒く、カーディガンが必須アイテムになっている。早い日暮れののちにはりんりんと虫の鳴く声が聴こえ、耳を澄ませばよりはっきりと届いた。


 秋の天候は人の心のように移ろいやすく、それがとても儚く思える。昨日はからっからに晴れ渡っていたのに、今日は雨で、しかもその上、数日間続く。なんてことがザラにある。


 わたし、雨嫌いなんで本当に勘弁して欲しいんですけど、天候はどうしようも出来ない。天命を受け入れるのみである。


 こうして考えてみると、秋は台風は来るし、天気はころころ変わるし、昼は暑くて朝晩は寒いし、紅葉は台風に散らされるしで、まったく落ち着ける季節じゃない。もう少し落ち着けよ、思春期の男子かなにかかお前。


 それでもわたしが落ち着くと思ってしまうのは、暑いと言っても比較的穏やかな気候であるということの他に、多分、年の瀬が迫っているという理由があるのだと思う。


 年の瀬、歳暮、年末、何事にも終わりはつきもので、年もまたそれは変わらない。当たり前のようにこうしている今は過去になり、いずれ想い出になる。


 そういう感傷的な気分を呼び起こすのが、秋という季節だ。


 夏休みという大きな折り返し地点を過ぎ、水たまりに浮かぶ紅葉の中やホットコーヒーを飲んで息が白い靄になったとき、ふと形容し難い寂しさにじんとなる。


 ああ、今年も終わるんだなぁ、と。肉まんやおでんを頬張って、冬の到来を間近に感じながら、来年も同じような日々が続くのだろうと特に理由もなく浮かんでいて。


 だから昨年のわたしはまさかこんなことになるなんて想像もしていなかった。これまでと変わらない。女子に後ろ指をさされ、男子に媚び売り、振り返ってみても内容のない一年になるのだろうと半ば確信していた。


 分かっている。人生に大きな変化は起きない。自分にとってどれだけ大きく感じようとも、それは他人にとってはどうでもよかったりする。


 けれどわたしは、わたしの中では、今年は重要な転換期で、今のわたしの行動が大きく未来のわたしに影響するのだと、そう感じている。


 そしてまだしばらくはそれは続きそうだ。


 今年一杯……あるいは来年の初めか、長ければ今年度一杯。休まらない日々が続くだろう。夏休みの終わりにも思ったことで、たかが一ヶ月の間にすでに関係の変化があったのだから、まちがいない。


 動き始めれば終わるまで止まれない気がして、今こうして思索に費やす時間を取っている。この落ち着きのない季節に、強引に中休みを挟んで思い返していたのは終わったばかりの文化祭のこと。あの日、なにをまちがえたのか。それを理解しなければならない。


 雪乃先輩との対立から和解、そして後輩たちに関わる新たな問題発生から解決まで。そう、比企谷小町の問題と川崎大志の問題はすでに解決している。


 だから、わたしにはどこでなにをまちがえたのかが分からない。正直、こんなことをしたところで、なにか解決の糸口が掴めるようにも思えない。


 先輩の家に訪問した際——雪乃先輩と対立したあの日を回想しているときにも感じていたけど、今のわたしに分かるはずがないことなんじゃないかと、薄々感じている。


 問題はいつも予想の外側からやってきて、いつもいつもまさかこんなことになるなんてと思わされている。が、まあ、そもそも予想していたことが起きたところで問題は問題にはならない。 ある程度の予防策を張ったところで、空いた穴から漏れたものが問題となってわたしを困らせるのだ。


 けれど、それでもわたしが、思い出すまでもなく色褪せてすらいない過去を振り返るのは、多分あの後輩たちと同じ想いがあるから。


 黙ってはいられない。なにもせずにはいられない。流れに身をまかせるだけの自分を許すわけにはいかない。


 なにも得られずとも、なにも気づけずとも、前に進まなければならないのに歩むべき道が見えなくて、過去に縋ってしまう。


 冷めたコーヒーで喉を潤して、脳裏に浮かべるは中断した文化祭の記憶。小町ちゃんの生徒会室来訪から文化祭終了までの群像劇染みた想いの錯綜。


 誰もがそうせずにはいられなくて、自分に出来ることをした結果。事の顛末。わたしも渦中にいたのだから、今思えばそう感じるというだけの話だけど。


 直後に振り返っておけば、しばらくは前を向いていられるはずだから。


 わたしはそっと、ソーサーへとカップを乗せた。




6        


 雨が降っていた。


 風はなく、ただ上から下へと雨粒が落ち、地面に打ちつける音だけが響いていた。


 ここ数日続いている秋の長雨は今日で終わるらしく、明日からの文化祭に影響はないだろう。スマホの天気予報も金土続けて晴れマークの降水確率0%。久しぶりの洗濯日和に全国のお母さんもうきうきしてることまちがいなし。


 たった今考えた通り、文化祭は明日に迫っている。あの日、小町ちゃんに口止めされてから一週間以上が経過し、今日の放課後に最後の委員会が行われれば残すは本番のみ。


 文化祭準備は問題のもの字も見せずに滞りなく済み、本日の委員会は明日の段取りを今一度確認して解散することになるだろう。


 実行委員会には小町ちゃん以外の一年生も当然いる。裏サイトの関係で、なにか支障が生じるかもしれないという危惧もあったのだが、それはただの杞憂に終わった。


 たまたま裏サイトを見ていない生徒が集まったのか、見てはいるが否定的な生徒が集まったのか。それとも、小町ちゃんがなにかしらの策を講じたのか。


 可能性としては二つ目が一番あり得そうだが、実のところを言えばどれもハズレ。現時点でもうすでに、大志くんと小町ちゃんを取り巻く悪環境は消え去っている。


 もともとなかったかのように、最初からそうであったかのように、あっさりと呆気なく、すべては無に帰した。誰がなにをしたのか、わたしには分かっていて、だからそれを問い詰めるためにここ——放送室へ来ている。


 昼休みの放送は文化祭期間は休止していたのだが、前日はやってみてはどうかとわたしに勧めたのは副会長だ。呼ぶゲストも副会長の言葉通りにしたため、恐らく一枚噛んでいるのだろう。なんだかハメられたみたいで悔しい。


 と、そのタイミングで、コンコンとノックの音が響いた。


「どうぞー」


 キィと扉を開けて入ってきたのは、お似合いでありながら不思議と二人でいることに違和感を覚える二人だった。ただの生徒なのに下手をすればわたしより知名度が高い。


「……こうして目にすると、本当に珍しい組み合わせですね」

「はは……俺もそう思うよ」

「そうね。私たちが学校で行動を共にすることなんて、まずないから」


 苦笑を零しながら、両名とも慣れたように腰を落ち着ける。


「さて……こんにちは。雪乃先輩、葉山先輩。本日はオファーを受けてくださって、ありがとうございます」


 わたしが笑顔で伝えると、雪乃先輩は眉を顰めて、どこか居心地が悪そうに口を尖らせる。


「……嫌味、かしら?」

「嫌味ですね」

「ははは……」


 面と向かって肯定されては返す言葉がないのか、それとも最初から受け入れるつもりだったのかは判別できないけれど、雪乃先輩は口を噤む。


「……まあ、そう責めないでくれないか。悪意があってやってるわけじゃないってことはいろはも分かってるんだろ?」

「それは……分かってますけどぉ……」


 知っていることと、納得できるかはイコールで繋がらない。わたしはわたしには相談しろと言ったのに、黙ってやっちゃったことに怒ってるんです。


 たとえ、それが小町ちゃんに口止めされていることまで考慮してのことだったとしてもだよ。わたしの預かり知らないところですべて解決しちゃいました、なんて……わたしだってなにかをしなければ、みたいな使命感はあったのに。


「……あなたになにも話さなかったことは、悪いと思っているわ。ごめんなさい」

「うぐっ……」


 そう素直に謝られてしまうと、もうなにも言えなくなってしまう。


 ただ、その言葉が予想を確信へと変えてくれた。現在の状況にこの二人が関わっているだろうというのはあくまで予測に過ぎなかった。いくら辿っても二人の名前は出てこないからだ。


 一人でやるには無理がある。けれど、やり方があの人らしいものだったために、この二人が協力したようには思えなかった。


「そもそも、私の中ではまだ、正しかったのかも曖昧なままだから……」

「巻き込むわけにはいかなかった、なんて言いませんよね」


 先回りして言い訳を潰すと、雪乃先輩は言葉の接ぎ穂を探すように視線を彷徨わせて、押し黙ってしまう。舌戦で負ける雪乃先輩にもの珍しさを感じながら、まあでも割とこの人は感情論になると押され気味だよなと納得してしまったりして。


 ……わたしは、雪ノ下雪乃を知っている。


 それは緩やかなものだったかもしれないけど、確かに関係は変化していき、その過程で彼女と言葉を交わすことで得た経験がわたしの知る雪乃先輩を形作っている。


 だから、雪乃先輩に言い募られたところで恐怖を抱くことはないし、まして今の雪乃先輩に言い負かされるなんてありえない。


「……迷わないでくださいよ。わたしに、信じさせてください」


 雪乃先輩が迷っていたら、先輩たちを信じたわたしがまちがっていたみたいじゃないか。そんなのは嫌だ。迷っている雪乃先輩なんて見たくない。


「まさか、このまま放ったらかしにするわけじゃないですよね?」


 先輩も雪乃先輩も結衣先輩も、誰だってまちがうし、完璧な人間なんていない。そんなのは当たり前だけど、それでもわたしの前ではかっこいい先輩でいて欲しい。


「責めてるわけじゃないんです。なにか考えがあってのことなんですよね? だから、話してください。説明して欲しいだけなんですよ。わたしが、納得できるように」


 わがままだって分かってる。相手に負担を強いている、重荷を背負わせているのかもしれない。それでも、信じると誓ったわたし自身を、ようやく踏み出せた一歩を失いたくないから、わたしは言葉を続け——


「大丈夫だ」


 その言葉はまったく予想していなかった方向からやってきた。


「君にとって俺は信じるに値しないのかもしれない。でも、彼を……彼女を信じられないなら俺を信じてくれ」

「別に……信じるに値しない、なんて、そんなこと……」

「だが、俺を信じてはいない。違うか?」


 否定はできなかった。確かにわたしは彼を——葉山先輩を信じていない。期待していない。どこかで雪乃先輩たちより葉山先輩を下に見ていて、それはダメなんだと感じていた。


 けれど、わたしが考えていたより遥かに葉山先輩は強くて。


「俺がなんとかする。俺を信じてくれないか」

「……本当になんとかしちゃいそうだからすごいですね。少し、変わりましたか?」


 ずっと人の期待に応え続けてきただけのことはある。容易く放たれたにも関わらず、言葉の重みが段違いで、彼なら絶対なんとかすると思わされる。実際、そう宣言した以上は必ず成し遂げるのだろう。


「変わってないさ。俺は変わらない。俺は俺にできることをやるだけだ」


 皆が皆、できることをやろうとしている。それを止める術をわたしは持っていないし、やっぱり止める権利もつもりもない。


 どうにか言葉を返そうと口を開くが、今度は言われっぱなしになっていた彼女が割り込んでくる。ここまで計算していたのだろうかと葉山先輩を一瞥すると、予想通りと言うべきか、口もとは笑みをたたえていた。食えない人だ。


「——正しいのかは分からない。なにか問題があるのかもしれない。でも問題なんてものはいつだって後からでてくるものよ。逐一対処すればいいだけ」


 雪乃先輩は強気に笑って、言い切る。


「いろはさん。今回、あなたの出番はないわ。黙って見ていなさい」


 そうだ。これが、雪ノ下雪乃で、わたしの知る、わたしの憧れた、先輩なんだ。わたしの信じた先輩が自分たちでやりきれるのだと言い切った。


 わたしが二人を信じる理由としては、充分過ぎる。


「——はい」


 笑顔で頷くと、二人とも笑顔を返してくれる。が、話はここで終わりじゃない。雪乃先輩と葉山先輩がここに来たのはわたしと問答するためではないはずだ。そういう覚悟はしてきたんだろうけど、本題は別にある。


「それで、なにか別件ですか?」

「いいえ……別件、ではないわね。だから、少しあなたの力を借りることになってしまうのかしら。格好がつかないわね」

「いいですよ。だって、どうにかしてくれるんでしょう?」

「ええ、必ず。……時間もないし、食べながら話しましょうか」


 頷いて、脇に置いておいたお弁当を手前に寄せる。


 今日のお弁当、実はお母さんの手作りだったりするので、めちゃくちゃたのしみなんですよね。起きたらリビングの電気が点いていて、お母さんが台所に立っていたものだから、すごく驚いた。


「いただきまーす」


 ぱくりと綺麗に焼かれた玉子焼きを口へ入れる。甘さが口いっぱいに広がって、思わず頬に手を当てた。いつだって舌を悦ばせるのは母の味!


 大人になると自然と外食やコンビニ弁当が増えてきて、その味の濃さに慣れてしまいがちだ。しかし、なにかのきっかけで母の料理を口にすると、ときには飽きてしまったりしていた味にほっと息を吐いてしまう。


 そんな実家に帰ってきたような安心感が、身体を包み込んでくれた。ただいま、我が家! やっぱりわたし、お母さんが大好きです!


 味の再現はかなり努力していたつもりだったんだけど、それでもまだまだ追いつけないなぁと思うし、追いつきたくなんてないとも感じる。わたしはずっとお母さんの子どもで、お母さんもまたずっとわたしのお母さんなのだから。


 お母さんは「なにかしてたほうが落ち着くから」なんて言っていたが、多分、本当は少しでも思い出を作っておきたいという気持ちからなんだと思う。


 迎えたくない未来、信じたくない未来だけど、わたしも同じ気持ちだから、止めることなんてできるわけがない。


 もし、もしも、最悪の未来がすぐそこにあるのだとしても、最後までわたしのお母さんでいようとしてくれるお母さんに、わたしは最後まで娘でありたいと、そんな決意とも呼べない願いを抱いた。


 たかがお弁当、されどお弁当……わたし、今、まちがいなく幸せだよ! もぐもぐとおかずを味わいながら、きのこの炊き込みご飯へ箸を伸ばすと、すっと遠慮がちに一枚の紙が視界に入ってきた。


「……美味しそうに食べているところ、悪いのだけれど」

「——べっ、別に忘れてたわけじゃなくてですねっ!?」


 ——嘘です、忘れてました。完全に自分の世界にトリップしていました。ごめんなさい。


 いやでもこれは仕方ないですよ仕方ないでしょうそうでしょうだってお母さんのお弁当食べるのとかもう何ヶ月ぶりなのって感じですしそれにほら話もひと段落しちゃってましたしだからこれは仕方ないことなんですよ!


「……ごめんなさい」


 じぃっと恨めし気な視線を向けられ、結局、謝ってしまった。全く反省していないようで申し訳ないんですけど、その顔かわいいですね、写真撮ってもいいですか。ダメですよね、知ってました。


 雪乃先輩はだいたいどんな顔をしていてもかわいいので、いろんな表情の雪乃先輩が見れるのはとても嬉しくそして悔しいのだが、さりとてやっぱり自分に向けられるのは勘弁して欲しいというのが本音です。


「はあ……とりあえず、それに目を通してもらえるかしら」


 拗ねたような態度を崩して、雪乃先輩はさきほどの紙へと視線を向ける。釣られて紙を見やれば、どうやらそれはなにかの進行表であるらしかった。


「? ……なんですか、これ?」


 内容が気になって手に取ると、目が文字列を追い、詳細が頭に入っていく。しかし、なにをするのかが分かっても、どうしてするのかがまるで理解できず首を傾げてしまった。


「え、いや……え? これ、やるんですか? 放送で?」


 静かに頷く雪乃先輩の意思は固い。逃げ道を探すようにもう一人に目を向けるが、そちらも覚悟を決めたような顔をしていて、拒むことはできそうになかった。


「……大丈夫、なんですか」


 理由も聞かずに拒否するつもりはもともとなかったけど、信じると決めた以上は問い詰めるのにも後ろめたさを感じて、ただ、それだけを直裁に訊ねた。


 見据えた瞳は欠片もブレず、迷いなく開かれた口からは断定的な言葉が紡がれる。


「大丈夫よ」

「……そうですか。なら、もうなにも訊きません」


 雪ノ下雪乃が大丈夫だと言い切った。迷いも憂いもなく、はっきりとした口調で未来を保証した。それをわたしは信じた。


 誰かを信じたことを後悔する日が、いつか来るのかもしれない。あのとき自分でやっていればと未来で過去に縋ることになるのかもしれない。


 けれど、あのとき信じていればと後悔するよりマシに思えた。


        × × × ×


 放課後のことである。


 文実が予定通り早々に終わり、今日は早く帰れるぞとうきうきしていたわたしは、なぜか紫煙漂う喫煙スペースにて、威風堂々とかゴツゴツした字面の似合いそうな女教師と向かい合っていた。……いや、なんで?


 これが噂に聞く「花金前の最後のお仕事」なのだろうか。社会に出れば断りづらい誘いが次から次へとやってくるという。特に金曜の夜は翌日が休日ということもあり、上司から飲みに誘われることが多いのだとか。家に帰るまでがお仕事ですか。


 今更ですけど、学校の敷地内に喫煙スペースがあるのってどうなんでしょうか。詳しいことは、わたしには分からないんですが。


「難しい顔をしているな」

「帰ろうと思ってたのに……」

「ははっ、それは悪いことをしたな。……だが、どうして引き止められたのかは君も分かっているはずだ。違うか?」


 さらっと受け流されてしまっては頷くしかない。なぜ平塚先生に呼び止められたのか、心当たりがないとは言えないだろう。一波乱ありそうだなと、もとから考えてはいたし。


「でも、それ当事者わたしだけじゃないですし……主犯はどこぞの先輩っていうか、先輩たちですし。わたしなにもしてないですし」


 なんでわたしだけ……というのが、わたしが口を尖らせている理由である。子供っぽい自覚はあるけど、この人はわたしのことを大人だなんて思っていないだろうし、それでいい。


「そんなことは知っている。……なにか勘違いしているようだが、別に私は怒るつもりで君を連れて来たわけではないよ、一色」

「こっちだって、そんなの知ってますよ……だいたい先生、わたしのこと怒ったりしないじゃないですか」


 怒られたことなんて一度もない。叱られてばかり。自分に不利益が生じるとしても、いつも生徒のためになにかをしている。親のようだ。これは言ったら怒られますね。


「先生こそ、なにか勘違いしてるようですが、別にわたしは本気で拗ねているわけじゃないんですよ? 騙されましたね?」


 ふんすと自慢気に胸を張ると、平塚先生は面食らったように固まって、それから破顔する。


「教師を騙すとは関心しないな?」

「でも、帰りたかったのは本当ですもん。これで話を素直に聞けるというものです! 仕方のない措置だったんです!」

「……屁理屈ばかり得意になっていくな、君は。誰に似たのか……」


 額に手を当てて、ふぅーっと煙を吐き出す。……そんなに困られると、こっちもなんだか申し訳なくなってくるのでやめてくれませんか。


「お、お話を続けましょう!」

「……そうだな。昼の放送の件だ」


 でしょうね。それしかないですよね。


「職員室で話題にでもなってましたか?」

「……いや、そもそも実在しない人物だからな。陰口を言っていた生徒がスケープゴートにするために広めた噂。そんな認識だよ」

「だいたい合ってますね」


 まったく予想出来ないものではないという辺りに、性格の悪さが滲み出ていて笑ってしまう。


 教師には誰かの身代わりにする目的で流された噂であることに気づいておいてもらわなければ、後々、面倒だろう。ぜーんぶ予定通り、か。


「決定的な部分が違うだろう……。まあ、いい。裏サイトの存在自体は問題になっているが、それが露見するきっかけとなった昼の放送は特に注目されていない、というのが現状だ」

「じゃあ、他になにか問題でも?」


 わたしの問いに、平塚先生はふるふると首を横に振る。


「私が個人的に君と話しておきたいと感じただけだ」

「……さっきも言いましたけど、わたし、ほとんどなにも知りませんよ?」


 この件に関しては先輩たちに任せてある。これからどうするのかさえ、わたしは聞いていない。前日にあんな放送をしたのだから、文化祭中にアクションを起こすのだろうが。


「これまでのやり方とは違うからな。あれが誰の策であるのか、予想するのは難しくない。ただ、それを容認するというのも、同じくこれまでとは違う点だ」


 そこまで聞いて、ようやくどうしてわたしが呼ばれたのかを理解した。


 昼に行った放送の件ではあるけど、放送自体に疑問があるわけじゃなくって、平塚先生はわたしの心境の変化を訊ねるためにわたしを連れてきたんだ。


「……小町ちゃんと大志くんの問題には、気づいてたんですか?」

「気づいてはいた。しかし、そういった問題に対して教師が表立って出来ることはほとんどない。下手をすれば、状況を悪化させる要因になりかねないからな……」

「あー……」


 いじめを止めるために生徒の前で話をした結果、よりいじめが過激なものになる、みたいな。


 そういうことする人って先生はやっぱり恐いから抑止力にならないこともないんだけど、結局、見ていないところで倍やられるのがオチなんだよね。


「先輩たちに伝えなかったのは……小町ちゃんに?」


 平塚先生は申し訳なさそうに頷く。


「できると、隠しておいて欲しいと、当事者に言われてしまうとな……信じてやりたいという気持ちが勝ってしまう」

「……それを狙ってのことだったんですかね」

「恐らくな」


 平塚先生に大志くん、先輩に伝わりそうなルートは両方潰してあったわけか。


 なんとかできる自信があったのか……それとも、他になにかあるのか。直接聞いてみなければ分からないけど、今更問う理由もない。


「……万全を期すなら、わたしにも事前に口止めしておくべきでしたね」


 わたしが違和感を覚えて先輩たちに相談した時点で、小町ちゃんの現状がバレるのは決定していた。疑われていない状態で隠すのは難しくないけど、一度疑われてしまうと途端に難易度は上がる。


 そもそも相手が悪い。先輩を相手にして隠し通すなんて、わたしだって「言わない」くらいしか方法が浮かばない。


「気持ちは分からなくもないですけどね……」


 まだ知られていないのにわざわざ口止めをするのは躊躇われる。それに……そこまでして隠して、本当に隙のないくらいに穴を埋めて、誰にも手を伸ばせなくしてしまうのはとても怖い。


 いざというときに抜け道があるのとないのとではストレスが段違いだ。いつでも届くところに甘えられる場所があるから、人はもう少し頑張ってみようと自分を鼓舞できるのだと思う。


 小町ちゃんの気持ちは分かる。自分でなんとかしたいという想いも、こうして無理矢理に問題を取り払われてしまったあとのやり切れなさも。


 だから、わたしはまだ正しいのか分からずにいる。


 迅速な解決が求められる案件ではあったけど、本人の意思を無視してまですることだったのか。助けを求められるまで待つべきだったのではないか。


 止められたかと言えば、止められはしなかった。でも、小町ちゃんのためにわたしができることがなにかあったのかもしれない。


 けれど、そういう考えはあったけど、それでもわたしは信じると決めてしまったのだ。


「小町ちゃんを助ける。それができる。雪乃先輩はわたしにそう言い切りました。多分、自分の意見としてじゃなくって、総意として……」

「そうか。なら、君も私と同じだな」


 困ったように笑って、平塚先生はくしゃりとわたしの頭を撫でる。かっこいい先生の手はどこまでも優しくて、やっぱり女性なんだと、場違いな感想を抱いた。


 この人は〜っぽいとか、〜みたいとか、〜な感じとか、上辺の印象はころころと変わって、まるで違う人になってしまったように思うときがある。


 けれど、ふとした拍子に姿を見せる本質に変化はなくて、ああやっぱりこの人はこうなんだなと思い直す。


 ——人はそう簡単には変わらない。


 誰かの言いそうな言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。


 職員室を出ると、校舎内にはまだ生徒があふれていた。大半は文化祭の話をしているけれど、明るい雰囲気に混じって刺すような攻撃性のある言葉が耳に飛び込んでくる。


 気持ち悪い……吐き気がする。こんな状況を進んで作り出すなんて、理解できない。


『後輩に嫌がらせしてたんだって』

『家で妹を虐めてるとか』

『葉山先輩が言ってるんだからまちがいないんじゃない?』

『雪ノ下先輩も言ってたよね』

『そういえば、お昼の会長の放送で』

『ていうか、裏サイトとかなに時代なのって感じでしょ』

『LINEとか使ってないんじゃない』

『性格悪そうだから友達いないだろうし』

『名前、なんだっけ』

『ひ、ひ……ヒキタニ、じゃないっけ』


 逃げるようにして学校から出た。振り返って見た校舎は夕陽に照らされて大きな影を作っていて、今の状況を風刺しているようだった。


 物があるのなら影をなくすことはできない。


「せんぱい……」


 信じて、ますからね。


 祈るように目を閉じて、それから背を向けて歩き出す。


 家に着く頃にはあたりは真っ暗になっていて、なんだか嫌な予感がした。




    7



 とうとうやって参りました文化祭一日日!


 オープニングセレモニーはつつがなく終わり、今は各自文化祭を楽しんでいる。小町ちゃんの挨拶はそれはもう堂々としていた。立候補の理由に複雑な事情はあったけれど、もとから向いていたのだろう。


 オープニングセレモニーの盛り上がりのおかげか、校内の活気はわたしの予想をいくらか上回っている。と言っても今日はあくまで校内のみ。明日の一般公開は来場客がいるため、さらなる盛り上がりを見込めるだろう。


 まあ、一日目は一日目で内輪ノリの楽しさがある。まーたどっからか「ヒキタニ」とかいう単語が聴こえてきたし。ヒキタニって誰だよ。


 前日に放送で印象を強めたおかげか、文化祭が始まっても尚、ヒキタニなる人物の悪評は広がり続けている。昨晩、裏サイトのチェックをしてみたが、どの学年もヒキタニの話で持ちきりだった。


 小町ちゃんや大志くんについてはほとんど触れられず、名前が出てもそれは「かわいそう」とか同情するものばかり。


 二年生や三年生の空気は『雪ノ下さんや葉山くんの後輩をいじめるなんて許さない』みたいなものに変わっている。そうなれば、実情を知る一年生も従わざるを得ないわけで……つまり、見事に先輩の策は成功したというわけだ。


 学校全体の空気を変えることで、強制的に一年生の空気も変える。


 大志くんが生徒会長になってやろうとしたことと似ているけど、大志くんを正とするなら、先輩のは負だろうか。負けと先輩の相性の良さは異常。


 ちなみにそんな先輩は今、わたしに見つめられて目をそらしている。


「……別に、問い詰めようなんて思ってませんから」

「後ろめたいと思えるようになっただけマシよね」

「あはは……」


 場所は元奉仕部の部室。実害の出てくる可能性が高いため、仕事をサボってここに避難中というわけだった。


「ま、まあまあいろはさんっ! お兄ちゃんも小町のためにしてくれただけですし!」

「だから怒ってないってばーっ!」


 みなさんわたしのことをなにか勘違いしていませんか。わたしはそんなことで怒っ……らないこともないけど、今回は怒ってないんですよ。本当です。


 だいたいわたしも加担したようなものですし、ただ、なにも言わずにやろうとしてることにちょーっと拗ねていたりはしますけど。


「じゃあなにしに来たんだよお前……仕事しろ」

「せっ、先輩に言われたくないんですけどっ!」

「俺の仕事は葉山がやってくれてるからな。人に仕事を押しつけて取る休みってなんでこんなに安らぐんだろうな……」

「今、すごく最低なことを言ってる自覚ありますか……」


 仕事のしたくなさに磨きがかかっている……そんな成長は見たくなかった。


「比企谷くんはいつも最低よ?」

「ひ、ヒッキーだって、ちょっとくらいいいところあるよ!」

「少ないのは認めるのかよ……」


 悪意のある刃物とない棘に刺されていた。自業自得だと思った。


 いや、ほんと先輩は根本的に問題だらけなんだから、これ以上増やすのはまずいと思います。わたしにだって許容限界はあるんですよ?


「文化祭は実行委員会にほとんどの仕事を押しつ……任せてあるから生徒会の仕事は少ないんですぅー」

「押しつけてるって言いかけてんじゃねぇか……昨年になかった仕事が入ってたのはお前の仕業か」

「い、いや、だってほら、それは先輩が問題起こすから仕方なく……」

「問題はもとからあって、俺が起こしたわけじゃない」

「ああ言えばこう言う……」


 頭が痛くなってきた。ほんと、この人変わらないなぁ。なんでこんな人のこと好きになっちゃんたんだろ……それは考えると抜けられない沼だ。


「いろはさん。その男と言い合っても時間の無駄よ」

「そんなの知ってますよ!」

「知ってんのかよ……共通認識なの?」


 納得がいかないといった様子で首を捻る先輩に、つい笑みが漏れてしまった。


「楽しんでるだろお前……」

「えー、そんなことないですよぉー」


 ぶっちゃけちょっと楽しんでいるところはある。夏休みが明けてから、奉仕部のメンバーが部室に揃うのは初めてだし。


「はぁ……それで? なにしに来たんだ?」

「用がないと来ちゃダメですか?」

「そうは言ってねぇだろ」

「ふふっ、まあ、用はあるんですけどね」

「あるのかよ……」


 恨めしげな視線がどこか心地よかった。わたしにはサディストの素質があるのかもしれない。


 さあ先輩! 跪いてわたしの足を舐めるのです! ……この妄想はダメですね、わたしの心が保ちません。


「少しくらいは種明かししてくれてもいいんじゃないかなーとか」


 ぐるりと集まっていた顔を見回すとほぼ全員に視線をそらされた。どんだけ後ろめたいんだよ。自覚があるだけマシなのかな。


「っつっても、もう気づいてるんじゃねぇのか?」

「だいたいは把握してるつもりですよ? でも、結局は全部予想なわけじゃないですかー?」

「いろはちゃんの予想……ほとんど当たってるよねいつも」

「預言者かなにかなのかしら……」

「ちょっと、自分の立場が悪くなったからってわたしに矛先向けるのやめてくださいよ!」


 預言者ってなに! 事実を組み合わせて予想してるだけだから! 預言できるなら、こんなことになる前に全部終わらせてるから!


「私の立場は悪くなってなんていないわよ。協力はしたけれど、賛同したわけではないもの」

「共犯者の言い訳はいいですから……」


 ああ言えばこう言う人ばっかり! 類は友を呼ぶって、あれほんとだね……わたしも自覚はありますよ、ええ。


「とにかく! なにがどうなってこうなってるんですか? ていうか、ほんとにこれ大丈夫なんですか!? 三年生のスレッドとか超荒れてますけど!」


 総武高裏サイト。利用者の人数は多分そんなに多くなかったはず……なのに、ここに来て爆発的に書き込みが増えている。特に顕著なのは三年生のスレッドだ。


 葉山先輩と雪ノ下先輩による効果が一番大きんだろうけど、目を通していくと戸部先輩や三浦先輩、他にも三年生の名前が情報元として上がっているのが目に留まった。


 わたしだって全部信じて任せるつもりだったけど……ここまで大きくなってどう収まりをつけるのか見当がつかない。


 もう一度それぞれへ目を向けると、なぜか揃ってきょとんとした表情になっていた。しばらくその状態が続くと、雪乃先輩がなにか思い至ったように声を出す。


「あぁ……気づいてないのね」

「……へ?」


 落ち着いた態度につい間抜けな声を漏らしてしまった。


「気づいてないってなにに……」

「あれ、全部サクラだからな」


 言われた言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。こくり、唾を飲み込んでようやく脳がそれを受け入れる。


「え……まじですか」

「まじだな」

「いや、だって、あれ、三年生ほとんど……」


 数人がサクラで書き込んでいるっていうレベルの流れじゃなかった。三年生が二年生や一年生にそんな話をしている場面も何度か見かけた。


「三年生には『そういう嘘を下級生に流してほしい』って言ってあるのよ。『他にも手伝ってくれそうな人がいたら頼んで』とも」

「そ、そんなの、どうやって……あ」

「ええ。彼の人望を使えば、特に難しくもなかったわ」

「優美子も戸部っちも手伝ってくれたし、他のクラスの子もみんな協力してくれたんだよ」


 影響力の強い人……スクールカースト上位の人を中心に『これは嘘である』と前置きした上で広めてもらったってことか。


 葉山先輩が三人に話して、三人がそれぞれ三人に話してとねずみ算式に全体に伝わったわけだ。


「鬼に金棒、って感じですね……」


 先輩一人ではできなかったことを、協力者を使って実行する。その協力者の強さも文句なしなので、たちが悪いというか。


「なにか別のやり方があったのかもしれないとは思うけどな……浮かばないんだから仕方ない。変わらないなら変わらないなりに、やり方がある」

「それが、先輩の……先輩たちの見つけた道なんですね」


 確認するように二人に目を向けると、二人は首を横に振る。あれぇ?


「あなたのそのやり方、私は今でも嫌いよ」

「あたしもこっちの気持ち考えてほしいって思うかな……」

「えぇ……ここでそういうこと言う?」

「お兄ちゃんだからね、仕方ないよ……」


 妹にまで呆れられてる先輩だった。


 ただ、否定した割に二人は穏やかな笑みを浮かべていて、教室内の雰囲気は変わっていない。なんなら、ちょっと緩んだまである。お互いの顔を見てそっと頷くと、彼女たちは対照的な態度で言葉を紡いだ。


「嫌だけど……でもさ、変わらないんじゃどうしようもないじゃん? 受け入れるしかないっていうか、こういう人なんだって諦めるしかないっていうか」

「そうね。賛同はできないけれど……それでも、あなたらしいとは思うから。最低なままでいればいい」

「……貶さないと気が済まないのかよ」


 憎まれ口を叩きながらも、やっぱり照れくさいのか先輩は視線をそらす。そんな三人が懐かしくて、ほっと息を吐いた。


「こういうこと、一度したわよね……繰り返し、なのかしら」

「さぁな……でも、いいんじゃねぇのか、それで。まちがえないとか、無理だろ」

「ふふっ、そうね」


 一度した。その言葉は気になったけれど、訊ねるのはやめておいた。誰だって同じ過ちを繰り返しながら生きている。それを誰かと共有しているのなら、わざわざつつくのも申し訳ない。


「さて、それでですが……この状況はどうにかなるんですよね? 今更詳細は聞きませんけど、もう一日目は終わっちゃいますし、明日ですか?」


 わたしの問いに先輩はかぶりを振る。


「えっと、それじゃあ来週ですか? 二年生と一年生には事実として伝わってるんだから、早めに収拾つけた方がいいと思いますけど……」


 先輩はもう一度首を振って、それから立ち上がる。


「今日だ」

「え……?」


 わけのわからないままに、先輩は扉を開く。続いて、雪乃先輩と結衣先輩も後を追うように立ち上がった。


「由比ヶ浜さん。ちゃんと歌詞は覚えてきたわよね?」

「う、うんっ! ……多分」

「多分じゃ困るのだけれど……まあいいわ。あなたに合わせる」


 廊下に出て行く三人を追って、引き止めるように声をかけた。


「えっ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 今からって、もう終わりですよっ?」

「そうだな。だからついでに全部終わらせるんだよ。……こいつらがな」

「本当、重要なところで頼りにならない男ね。まあ、任せなさい」

「えっと、歌詞……歌詞……」

「由比ヶ浜さん……しゃんとしなさい」


 なんだか格好がつかない先輩たちは、とてもこれからなにかをするようには思えない。なのに、ただ、いつも通りにしているだけなのに、なぜか安心感が胸を満たして。


 手を伸ばせば届きそうな背中が、すごく遠く感じた。


        × × × ×


 ついさっきまでざわざわと喧騒に包まれていた体育館が、一つまた一つと並んだ蝋燭の火を消していくように静けさに包まれていく。


 暗幕に太陽光がシャットアウトされている都合で、ステージに立つ五人の顔は見えず、来るべきときを待つようにじっと佇む人影が確認できるだけだった。


 ——しん、と。


 風が止み、波の揺らめきさえも途絶える。ただ、水面下には何色もの期待に彩られた魚が今か今かとその光を待ちわびていて、静寂と呼ぶのも躊躇われるほどの熱気が自らの身体を焼き焦がすほどに空間を満たしていた。


 そうして、長く長くどこまでも終わらないように思われた沈黙の中で、どくんどくんと脈打つ心臓の音が会場に集まった全員と重なったとき——



 スポットライトが辺りを照らす。



 それはまるで夜がいきなり昼に切り替わったみたいに唐突で、目が眩んでしまうほどに鮮烈で、それなのに一瞬たりとも目が離せなくて。


 閉じるのを忘れていたまぶたを、瞳の渇きを感じてようやく一度だけ瞬きする。それほどに見逃したくない[[rb:青春 > もの]]がそこにはあった。わたしが憧れ、羨み、いくら手を伸ばしたって届きそうもないほど素敵な先輩たちの輝きが、確かにあった。


「……すごい」


 プロのミュージシャンのライブとかそんなのには到底及ばないはずなのに、なによりも価値があるものに感じてつい本音をそのままこぼしてしまう。


「ほんと、すげぇよな」


 呆れ気味な口調で、ずっと隣に立っていた先輩が同意する。どこか誇らしげで、同時に悔しげで、諦めにも似た感情が込められた言葉がずしんと心に落ちる。


「たとえ、あそこに立っていなくても、先輩も——」


 横に視線を動かしながら紡いだ言葉は、先輩の顔を捉えた瞬間に止まってしまった。だって、目に飛び込んできた先輩の表情は、わたしが慰める必要なんてないほど清々しい笑顔だったから。


 ——ダメだなぁ。勝てないなぁ。


 慌てて顔を背け、下唇を噛んで落ちかけた雫を留める。


「なんか言ったか?」

「いっ、いえ、なんでも!」


 わちゃわちゃと手を振って誤魔化し再びステージへ視線を向けると、まだ雪乃先輩たちがなにかをしていることに気づいた。そうだ、わたしは別に演奏に感動しにきたわけじゃない。


 体育館の入り口。ステージから最も遠いところにいるせいで、いまいちなにをしているのかはわからない。でも、雪乃先輩が胸ポケットからなにか紙のようなものを取り出したのは辛うじて認識できた。


 万雷の拍手鳴りやまぬ中、雪乃先輩は紙を持ったままステージマイクに手を掛ける。目線が紙に向いていないことから、どうやらカンペではないらしい。そもそも、雪乃先輩がカンペを見て話す姿も想像できないけど。


 異様な雰囲気を感じ取ったのか、前列から後列へドミノ倒しのように拍手が止まっていく。二度目の沈黙。けれどそれは明確に一度目とは異なっていて、息を押し殺してしまうほどの緊張感が充満していた。


 態度一つで場の空気を一転させるなんて、誰にでもできることじゃない。さすが、と言うべきか。わたしですら肉食獣から姿を隠す草食動物みたいな気分になってしまう。


 恐怖を抱くことはない? 笑わせる。それはわたしに対して雪ノ下雪乃がそういう顔を見せないから、別の側面しか見えていなかったから、そう感じただけだったんだ。雪乃先輩は——ううん、誰だって。誰だって、優しさを主にした顔と冷たさを主にした顔があって、それ以外にもいろんな姿があるはずで。


 だから、わたしの知らない誰かと話す雪乃先輩は、わたしの知らない雪乃先輩なんだ。相手が『みんな』であるときも含めて。


 ちらと横目で先輩を一瞥すると、先輩はいつもと全然変わらない表情でステージを見ていて、ほっと息を吐く。そして、わたしがそちらを見るのを待っていたかのようにタイミングよく、それは始まった。



「——総武高裏サイトを知っていますか?」



 唐突に放たれた質問に、生徒の海に波が立つ。しかし、その波紋が広がることはなく、誰もが雪乃先輩の言動を見守っていた。


「ここ最近生徒の間で噂になっているため、一度は耳にしたことがある人も多いと思います。総武高裏サイトに悪口を書き込んでいたとされているヒキタニという名も」


 静寂の中で、雪乃先輩は言葉を続ける。


「先に断言しておきますが、ヒキタニという生徒は存在しません。なぜならこれは、私を含めた数人で校内に広めた嘘だからです」


 再び体育館内がざわめきに包まれる。


 ……というかこれ、先生に止められたりしないのかな。まあ、バンドメンバーにはるのんがいる時点でなんとなく察しはつくけど。


「静かに。嘘を流した理由については今から説明します」


 一言で静まった空間は、最初よりもピリピリとしている。状況が状況だから、異様な雰囲気にストレスを感じている生徒も少なくないだろう。


 恐らく、誰もがもうこの先の展開を予想している。


「私が嘘を流した理由は、ヒキタニという生徒が嫌がらせを行なっていたとすることで、嫌がらせの被害者——私の友人を悪意の矛先から外すためです」


 その声色にどこか苛立ちを感じて、少しだけ真犯人を哀れに思った。雪ノ下雪乃を敵に回すだなんて、運の尽きとしか言いようがない。


「ヒキタニという生徒の存在が嘘である以上、その生徒が行なっていた嫌がらせには別の生徒が関与しているということになるのは理解できると思います。では、それは誰なのか」


 そこで雪乃先輩はずっと手に持っていた紙を掲げる。


 ……まさか、あの紙に名前とか書いてあったりしないよね、流石に。距離近い人は見えるだろうし、それだとやってることがただの晒し上げになってしまう。


「IPアドレス、というものを知っていますか?」


 ——そういうことか。


 納得すると同時に、不安が浮かんできた。我慢出来ずに隣の先輩へと声をかける。


「……いいんですか、これで」

「どうだろうな。いいとは言えないが……一番効果的ではある」

「でも、これじゃ……」


 IPアドレス自体は別にたいしたことはない。それ単体で住所を特定することなんて出来ないし、もちろん本人の特定も不可能。けれど、時と場合によっては大きな武器にもなる。


「総武高裏サイトに書き込まれていた数々の悪口は名誉毀損に該当します。いいですか、これは犯罪です。学校内だから、子供だから、そんな理由で許される行為ではなく、起訴すれば加害者が誰なのかもはっきりと分かる。軽い気持ちで人の尊厳を踏みにじるような輩は一生自らの犯した過ちを悔やみながら生きればいい」


 これでは、まるで脅迫だ。危ない橋を渡っている。


 でも、それを雪乃先輩が理解していないとは思えない。止めるべきか……そんな気持ちを抑えて壇上を見つめた。


「——ですが、これは私の意見でしかない。被害者がそれを望んでいない。……人の心に傷をつけたという自覚を持ち、己を恥じ、この場のみで留めてもらえることを感謝して生きなさい。助かったなどとは思わないことね。IPアドレスなんてものを仰々しく持ち出すまでもなく、私たちは犯人が誰であるのか見当がついているのよ」


 自分を落ち着かせるように息を吐いて、



「……次、同じことをしてみなさい。私は絶対に、あなたを許さない」



 ぞくりと背筋に悪寒が走る。きっと、ここにいるすべての生徒がわたしと同じような気持ちを抱いていることだろう。


 ……な、なにあの人、めっちゃ怖い。


 泣きそうなんですけど! わたしなんにもしてないのに! とばっちりじゃん!


「最後に、文化祭というイベントに水を差してしまったこと、必要だったとはいえ嘘を広めてしまったこと、以上二点について謝罪を。……本当に、申し訳ありませんでした。ただ、覚えておいて。誰かを貶めるということは、あなた自身の首を絞めることと同義なのよ。では、この話は終わりということで」


 すっと紙を胸ポケットにしまって、雪乃先輩含めバンドメンバーが頭を下げる。顔を上げると、雪乃先輩は思い出したように、


「あ、演奏、聴いてくれてありがとう。注目を集めるため、舞台に立つため、とは言え、あなたたちが送ってくれた拍手は純粋に嬉しかったわ。気にするなというのは無理でしょうけど、明日の一般公開、楽しみましょう」


 こうして、文化祭のステージという華々しさには不釣り合いな演説は幕を閉じたのだった。


        × × × ×


「もーっ! めっちゃ怖かったんですけど! ていうか、めっちゃ心配しました! 先に聞いておけばよかったです!」

「ご、ごめんなさい……少し、熱くなってしまって」


 文化祭一日目が終了し、戻ってきた元奉仕部部室。雪乃先輩に詰め寄るわたしの周りには、先輩や結衣先輩の他にも何人かのスペシャルゲストが各々楽な姿勢で居座っている。


「ま、面白いもの見れたしいいんじゃない?」

「よくないですから! ていうか、なんでこんなことして誰も先生に呼び出されないんですかっ? 絶対はるのんがなんかしたじゃないですか!」

「えー、わたしなーんにもしてないけどなー」


 ぴゅーぴゅーと口笛を吹いてしらばっくれるはるのんはかわいいんだか恐ろしいんだかよくわからない。なんなの、この人。なんでこの学校の教師にマウント取れるわけ?


「はるさんは現役の頃からそうでしたよね〜」


 ぽわぽわ〜と天然ものの貫禄を見せながら城廻先輩が言うと、はるのんはふふんと自慢気な顔になって、


「そんなことないわよ。今のほうがうまくやれるもん」

「そんなことでどや顔しないでください!」

「話には聞いてたけど、こうして実際に見るとすごいな……」


 声のほうへ顔を向けると、若干離れた位置にいる葉山先輩がありえないものでも見るような目でわたしを見ていた。


「? なんの話ですか?」

「……いや、陽乃さんによくそんな態度でいられるなと思ってさ」

「確かに、想像よりだいぶ親密そうね……」


 二人とも妬んでるとも羨んでるとも取れるような口調だった。……そんなに変かなぁ。わたしは普通に話してるだけなんだけど。


「へへー、いろはすの友達ポジションはわたし専用だから、雪乃ちゃんにはあげないもんねー」

「だ、誰も欲しいだなんて言っていないでしょう」


 ゆ、雪乃先輩が照れてる! ふへへ、わたしも雪乃先輩のこと好きですよ!!


「雪乃先輩も大切な人です」

「あぁっ! いろはすが裏切った!」

「人聞きが悪いですよ、これは戦略的媚び売りです」

「媚び売りって言っちゃってんじゃねーか……」


 すかさず先輩がツッコミをいれてくる。ボケはツッコミがいないと成り立たないからね!


「それにしても、スムーズでしたよねー。……もしかして、お兄ちゃんが出てないから?」

「いや、俺今回功労者でしょう? なんでそういうこと言うの? ……まあ、IP開示請求して訴えろっつったのは雪ノ下だが」

「……一度、通った道だから」


 ああ、なるほど。雪乃先輩にも似たような経験があったから、前例に倣って同じことをやっただけってことか。


「で、でもほら、段取り考えたのはヒッキーだし!」

「自分の名前を使って悪意の矛先を変えるとか、思いついても普通やらないだろ……」

「うっせ。二、三年が知ってる名前のほうがやりやすかったってだけだっつーの」

「比企谷くんはもっと自分を大切にしたほうがいいと思うなぁ。めっ、だよ」

「……はい」

「まあ、お兄ちゃんらしいよ……うん。喜ぶべきか悩みどころだけど」

「ていうか、功労者っていうならいろはすでしょ。最初に小町ちゃんのこと気づいたのいろはすなんだし」

「へ?」


 ベンチに座って胴上げを見ていたら、いきなりこっちに走ってきた。みたいな突拍子のなさに驚いてしまう。わたしが固まっていると、次々に同意の声が飛んできた。


「確かに、いろはさんが気づかなければそもそも問題を認識すら出来なかったのよね」

「やっぱりいろはちゃんはいろんなことに気づけるんだね」

「部活でもいつも周りを見てるからな……本当に助かってるよ」

「え、あれ? 私だけ話についていけないよー……」

「いろはさんは人のこと考えすぎな感じもしますけどね」

「確かに……まあ、でも、それがいいところなんじゃねぇの」


 若干一名話に混ざれない人がいるとか、そんなことを気にしている余裕がない。なにこれ、主人公マンセータイム? 待って、わたしの人生、一切わたしつえー出来てないから待って!


 ……ふ、普通に恥ずかしいんですけど。


「い、いや……今回わたしなにもしてないですし。その、褒められてもどんな顔すればいいか分からないというか」

「笑えばいいと思うよ」


 はるのんがまたもどや顔で言う。


「エヴァネタかよ……」

「おー? 比企谷くんさっすがー! 語っちゃう? お姉さんと語っちゃう?」

「……こういうこと言ってるやつに限って、台詞しか知らなかったりするんだよなぁ。ていうか、離れてください」

「あー、ひどーい! その通りだけど!」

「当たっちゃったよ……」


 よ、よーし、うまいこと流れた?


 ほっと息を吐くと、はるのんからウインクが飛んできた。気を遣わせてしまっただろうか……いや、そもそもはるのんのせいでしょーが! 騙されるとこだった!


「それでは、そろそろ帰りましょうか。明日もあるのだし」


 そうだ。なんか全部終わったっぽい雰囲気だったけど、明日は一般公開で、むしろ明日が本番みたいな……あれ?


「そもそもなんではるのんと城廻先輩が校内にいるんですか?」

「てへっ」

「はるさんが来てって言うから来ちゃったー」


 うわぁ。なんでもありだな、この人……。この学校の教師がもっとまともだったら来れなかっただろうことを考えると、不真面目でよかった……のかなぁ?


「でも本当にさっき、演奏するためだけに来ただけだから、ちゃんと普通に入ってきたんだよー」

「演奏って、そういえば昨年は葉山先輩じゃなくて平塚先生だったんでしたっけ」

「そそ。流石に静ちゃん巻き込んでやるわけにはいかないでしょ? わたしとめぐりくらい弾ける生徒探すのも手間だし。だから、わたしたちが来て、静ちゃんだけ入れ替え」


 なるほど……。言われてみれば確かに、と言う感じだ。あの場に平塚先生も立っていたらいろいろと面倒だろう。


「そういうこと。じゃ、今度こそ帰ろっか」

「あ、はい」


 そんなこんなで解散。


 ぞろぞろと教室から出ると、雪乃先輩と結衣先輩は鍵を返しに職員室へ、はるのんと城廻先輩も平塚先生に顔を見せに行くということで二人の後を追う。葉山先輩は三浦先輩を待たせていたらしく、急いで階段を降りていき、残ったのはわたしと先輩と小町ちゃんだけ。


「うーん、小町もなんか用がある気がしてきました! では!」

「えっ! 待っ——あー……行っちゃった」

「はぁ……」


 隣からは呆れ気味なため息。視線だけで問うと、顎で帰るぞと促された。それに従って歩き始め、昇降口を出る。


「んじゃ、俺チャリだから」

「あ、はい……」


 変に気を遣わせてこの様とか、わたし本当に成長しないな……。


 そういえば、文化祭が終わったらまた先輩との繋がりが切れちゃうんだよなぁ。スパッといくわけじゃないけど、やっぱり定期的に会う機会がなくなれば疎遠になってしまう。


 明日までになにか別の策を……いや、ていうかその前にこれ、チャンスなんじゃないの?


「あ、あのっ」


 背を向けて歩き出した先輩に声をかけると、先輩は半身だけこちらに向ける。


「なんだ?」


 ゆ、勇気を出すんだ。そう、ほら、夏休み前には出来たんだから、今回も出来る。よし行けわたし! 今こそいつもの脳内シュミレーションを活かすとき!


「あー、あの、明日って、その、なにか予定……とか」

「明日? 文実の仕事があるだろ」


 うぐっ……違うのに! ちゃんと働くつもりがあるところになんだか社畜っぽさを感じつつ、もう少し踏み込んでみる。


「えっと、そういうのじゃなくてですねー? 誰かと回ったりとか、しないのかなー、みたいな……雪乃先輩とか、結衣先輩、とか?」

「いや、しねぇけど」

「本当ですかっ!」

「お、おう……?」


 意図せず勢いが出てしまったせいで、若干引かれてしまった。……そんな後ずさらなくてもいいじゃないですかー! 仕方ないじゃん!


「それなら、その……わ、わた」

「わた?」


 い、行けっ! 言うだけ! 言うだけならタダ!


「——わたしと一緒にっ、回りませんか!」


 い、言えたーっ! やった、やったよわたし!


 脳内で小躍りしていると、先輩はぼそりと返事をしてくれる。


「……別にいいけど。どうせ暇、だしな」

「……っ」


 あー! もうお家帰りたい! 早く布団でバタバタしたい! 嬉しい! 嬉しい……嬉しいっ。言って、よかった……っ!


 それからどうやって家に帰ったのか、正直あまり覚えていない。ともあれ、そんな形で、文化祭一日目は無事——かどうかは微妙だけど——終了したのだった。


 この後、めちゃくちゃ布団でバタバタした。




    8


 こんにちは! みんなの生徒会長、一色いろはです! 嘘です、わたしは先輩のなのでごめんなさい! へへへ……わたしの頭の中がうざすぎる。


 まあ、そんなことはどうでもいいんですけど、とうとう始まりました文化祭二日目! 昨日の件を引きずっているかと思いきや、やっぱり人間自分が関係ないとどうでもいいらしく、大変盛り上がっております!


 さすが人間! わたしも人間! みんな人間! 嫌なことからは目を背けて、面倒なことはすぱっと忘れて、自分本位に生きていこうね!


 ……意図せず皮肉みたいなことを言ってしまった。そんなにまちがっていない辺りに、なんだかどうしようもない虚無感を覚える。


 そんなこんなで文化祭二日目ももうお昼間近。いや、どんなこんなだよ。いちいち関係ない話が入ってくるの、本当になんとかしたい!


「……なにしてんだ」

「ひぅっ!?」


 背後からいきなり声を掛けられて変な声が出た。咳払いをして誤魔化しつつ振り返ると、そこには待ち侘びた顔がある。


「ひぅっ!?」

「いや、なんで顔見てからもう一回やったの? 嫌がらせ?」


 腐った眼がわたしを睨む。


「……な、なんだ先輩でしたか。昼でも動けるゾンビかと思いました」

「弱点ねぇのかよ」

「あはは、やだなー! ゾンビって時点で穴だらけみたいなものじゃないですかー!」

「こいつ……」

「ま、冗談はさておき」

「おい」


 緩む頬を抑えられないまま、意識的に笑顔を作った。それはなにか隠したいことがあるとか、そういう話ではなくて、ただ純粋に笑顔を見せたかっただけ。笑顔が見たかっただけ。


「こんにちはっ、先輩。お仕事おつかれさまです!」


 びしっと敬礼すると、先輩は呆れたようにため息を吐いて、口もとに薄い笑みを滲ませる。


「お前もな」

「わたしは副会長に全部お任せしてあるので全然元気です!」

「大声で言うことかよ……」


 実際には午後の仕事だけ頼んだだけだったりする。副会長も書記ちゃんも快く承諾してくれた。そもそも別にたいしてやることがあるわけでもないから、あの二人はあの二人でリアルが充実した文化祭を楽しむんだろう。あー、爆発しねーかなー。


 不穏な思考から帰ってくると、先輩に怪しげな視線を向けられていた。そ、そんな見つめられると照れちゃうんですけどー……とか、そんなことはまったくなかった。


「……なんですか」

「いや、お前ってくだらないこと考えてそうなとき顔に出るなと思って」


 おっと、すごく失礼なことを言われた気がしますよ! でもそれよりもっと気になることある!


「な、なな、なんですかそれ! どんだけわたしのこと見てるんですか!」

「二人しかいねぇのに他にどこ見るんだよ……」

「はっ! もしかして今の口説いてましたかお気持ちは嬉しいです今から文化祭デートですねでもちょっと気が早いです後夜祭まで待ってくださいごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げるとわたしの予想に反して呆れ笑いは耳に届かない。疑問に思って顔を上げると、先輩はわたしを見て楽しげな笑みを浮かべ——って、ええ? なんですかその顔! なにちょっと楽しそうにしてるんですか、わたしのほうが楽しいんですけど! わたしの勝ち!


 ……やっぱりわたしの負け?


「久しぶりに聴いた気がすんな、それ」

「……そうでしたっけ? というか、そんなテンプレみたいに思われても困りますけど」


 確かに思い返してみれば減っている気がしなくもない。そもそも、夏休みが明けてから雪乃先輩のことやら小町ちゃんのことやら文化祭やらなんやらで先輩と気兼ねなく会話する機会がほとんどなかったし。


 厳密に言えば、もっとずっと前からそうで今もそうなんだけど、それは今はいい。


「そういうこと言ってられる余裕があるってのは、いいことだろ」

「ま、まあ、そうです、ね……? えと、あの、なんかキャラ違いません?」


 そういうの、やめてくれません? なんかくすぐったくてしんどいんですけど。クレーム案件なんですけど。


「べ、別に違わねぇだろ、つーか、腹減ったしそろそろ行こうぜ」


 照れ臭そうに話題を変える先輩に、くすりと笑みが漏れた。うんうん、それでこそわたしの先輩ですよ!


「最初はどこ行きましょうか! クラスから見て回ればいいですかねっ? どのみち体育館には行かなきゃですし」

「だな。なんか行きたい場所とかあんのか?」


 言われて少し考えてみる。クラス展示……一年はそもそもクラス展示がなく、校内の飾り付けを担当しているから除外するとして、二、三年でなにか目ぼしいところあったかな。


 わたしのクラスは確かメイド喫茶的なことをやる予定だったはず(しっかり覚えてない)。そこそこ女子のレベルは高い(らしいという話をいつだったか耳にした)ので、それなりに繁盛していそうだ。


 ちなみにわたしは一度も顔出してない上に、準備も一切関わってないので実際にどうなってるのかは知らない。


「結局、物珍しいものとかがあるわけではないので、知り合いのいるクラスを回るのが無難ですかね」


 最後までまったく関わらないのもアレなので、自分のクラスにも顔を出してみよう。……流石にね。ちょっと良心が痛むし。


「まずはわたしのクラスから! そのあと三年生のクラスを回って、体育館がゴールということで!」

「おう。んじゃ、行くか」


        × × × ×


 そんなわけで、やってきた二年生フロア。廊下には人がまばらに行き交っている。……人口密度低いな。


 この学校、もともと一部の三年生の知名度(葉山先輩や雪ノ下先輩)が凄まじいために、集客に難があるかもしれない、とは思っていたけど、予想以上にガラガラだった。


「……そんなにチョイスは悪くないはずなんですけど」

「葉山とか他の学校のやつも知ってるレベルだからな……仕方ないと言えば仕方ない」


 流石葉山先輩、他校に対する宣伝効果も持ち合わせているんですね! 在校生が三年生の展示に集中し、他校も葉山先輩効果でそちらに。加えて、特に影響を受けていない人も盛り上がっているところに集まる。見事なまでに負の連鎖にハマってます! すごい!


 ……午後になればあっちから流れてくるんだろうけど、これじゃつまんなそうだなぁ。


「お前のクラスは?」

「あ、わたしは2-Bなのでそこですよ! ……まあ、わたしはなにもしてませんけど」


 ぼそっと付け足した言葉もちゃんと聞いていたらしい。なにかダメなやつを見るような視線を向けられた。


「わ、わたしは生徒会とか文実とかありましたし! 先輩こそ、クラスの手伝いしたんですか!」

「……俺もしてないけどな」

「ほら!」


 どうせそんなことだろうと思った! 先輩はわたしと同じでなにか理由があれば、そういうことからは逃げるタイプの人だって、わたしは知ってるんです!


「でもお前の場合、お前がいた方がクラスメイトのモチベーションも上がるんじゃねぇのか」

「? そんなことないと思いますけど……こうしていなくてもなんとかなってるわけですし」


 ……そう、いてもいなくてもなんとかなる。社会はそういう風に出来ているんです。むしろ代わりがいないほうが組織としてはよくないからね。お前がいないと困る、とかただのパワハラだからね。


「そんなもんか」


 つぶやいて、先輩は歩き出す。合わせて足を動かしながら自分のクラスへ目を向けると、受付の女生徒が机に肘をついて暇そうにスマホを弄っていた。


 ……いくら暇だからって、もうちょっと接客態度を。なんて、手伝ってもいないわたしが言うのもアレだけど。


 そのまま近づいていくと、わたしたちの足音に気づいたのか女生徒が顔をこちらに動かす。


「あ、会長!」


 いや、会長じゃなくてさ……わたしの名前は一色いろはなんですけども。


「来てくれたんだー!」

「……ま、まあ、自分のクラスだから」


 なんだか興奮気味のクラスメイトに若干距離を置きつつ言葉を返す。やっぱり来ないほうがよかったかなぁ……なんて思っていたら、がしっと腕を掴まれた。


「なに? 彼氏?」

「——い、いやいやいやいやいやいやいや! 違うからっ! 全然そういうのじゃないからっ! ただの先輩だから!」

「なんだ、つまんないのー。どうせなら葉山先輩とか、雪ノ下先輩とか連れてきてくれれば宣伝にもなったのに……ま、いいや。ほら、入って入って!」


 ぐいぐい腕を引かれて教室の中に入ると、歓談しているクラスメイトの姿が視界に映った。当たり前のようにお客さんはいない。


「みんなー、一色さんが彼氏連れてきたー!」

「——なっ!? 違うって言ったじゃんっ!」


 暇を持て余したクラスメイトがぞろぞろとわたしたちを取り囲む。……なんだ、この状況。どうしてこうなった。


「……人気者だな」

「嬉しくないです……」


 あれやこれやと質問を投げてくるクラスメイトから解放されて、ようやくテーブルに着くとメイド服を着たウェイトレスが注文を聞きにやってくる。


 ……安っぽいな。高校の文化祭感があっていいと思うけど。


「その服、ドンキ?」

「あ、分かる? 流石生徒会長、目が肥えてますねー!」


 なんだそれ、敬語やめろ。


「どう? かわいい?」


 短いスカートをひらひらさせて、くるくると回転する。先輩を一瞥すると、ちらちらと視線を向けていた。……これは、あとで雪乃先輩に報告ですね。


 それはさておき、メイドコスJKは確かにかわいい。店に入るだけでお金取られそうな感じがびしばしする。具体的に言えば顔がいいかな。多分、なに着ても変わんないよ、君なら。


「いいんじゃない、かな……うん」

「なにそれ、微妙ーっ! 彼女が好みの服装じゃなかったときの彼氏かよ!」

「例えが細か過ぎる……」


 わたしは彼氏いたことないからわかんないけど、もし先輩がそんな反応をしたときのために覚えておこうと思った。ありがとうJK。わたしもJKだろーが。


「で? なに飲む? なに食べる? っても、選べるほどないけどね! さあ決めろ! 私にはもう時間がない!」

「時間がないって……」

「あと三分で上がりなんよね、私。はよ」

「あ、はい」


 豪快な性格だな、この子……一周回ってモテそうだ。顔はいいし。


 しかし、なににしよう。食品衛生の都合でどうせすべて出来合いのものなので、食べれないほどまずいものが出てくることはないだろうけど。


「先輩は決まりました?」

「ん? ああ、このベーグルにする」

「ふむ……うーん。……えっと、おすすめ、とか、ある?」


 自分のクラスのおすすめをクラスメイトに訊ねるなんて、とか言わないで。わたしにもちょっと後ろめたさはある。


「おすすめ? ないよ、そんなの。だいたいどれもまあまあそこそこの味しかしないよ!」

「そういうこと言っちゃう……?」


 大丈夫なのか、わたしのクラス……。というか、こうしてまともに話してみると、案外悪くない。わたしが距離を置いていただけで、そんなに気にする必要もなかったのかな。


「決められないなら私にお任せでもいいよ!」

「……じゃあ、それで」

「よっしゃ、生徒会長スペシャルひとーつ!!」


 叫ぶと同時に「そんなメニューはねぇ!」という声が飛んできた。……本当に自由だな、この人。


「ちょっと待っててねー!」


 とことことクラスメイトはパーテーションの奥へと消えていく。多分、あそこに食品やらなんやらがあるんだろう。


「自由なやつだな……」

「ですね。わたしも初めて知りましたけど」


 見ようとしてこなかった。避けてきた。だから、彼女たちのことをわたしは知らない。わたしの中の同級生は『集団で人を貶めるやつら』というところで止まってしまっている。


「お前な……もう少し関わってやれよ」

「先輩に言われたくないんですけど!」

「俺は求められてないからいいんだよ」

「はぁ……まあ、そうですね、善処します」


 多分、誰だってそういう人間になりうるのだと思う。わたしも、先輩も。


 たまたま集団から外れる側になってしまっただけで、それが自分ではなかったなら、今頃加害者になっている可能性は普通にある。


 そうやって、境遇によって立場が変わってしまうのが人というもので、だから、わたしが悪だと感じる人にだって善性があって、わたしは一つの側面を見ただけに過ぎない。それは夏休みが明けてから頻繁に感じていることでもある。


 どんな人間も元は善人だとまでは思えないけれど、悪いところばかりを挙げて避けるのは少しだけもったいない生き方かもしれない。


「損は、したくないですからね」

「損?」

「先輩みたいにはなりたくないという意味です」

「なんで急に貶してきたんだよ……」


 苦い顔を浮かべる先輩に、笑みが漏れた。すると、先輩も笑って、しばらく笑いあっているうちに注文が運ばれてくる。


「お待たせしましたーっ! なんかいい雰囲気のとこ、お邪魔します!」

「……茶化さないと気が済まないの? このクラス」

「そんな怒んないでよー、ここは私の奢りだから! ほら、人の金で飯を食え!」


 どんっと机に置かれたのは、ベーグルとサンドイッチ。続けてアイスティーが二つ。


「いや、奢りって……」

「いいのいいの! じゃ、あとは二人でごゆっくり〜」


 さっさと去って行く背中を見送って、サンドイッチに視線を戻した。


 そんなに高いものじゃないとは思うけど……ていうか、そこまで怒ってないんだけど。あとでちゃんと返さないと。受け取ってくれなさそうだなぁ。


「なんか怖いな、これ食うの」

「……分かります。怪しさ満点です」


 サンドイッチ自体は普通のミックスサンドだ。玉子とシーチキンのやつとか、レタスとハムのやつとかがある。


「まあ、心配してても仕方ないですし、食べましょうか」

「……そうだな」


 サンドイッチを一口食べると、確かにまあまあそこそこな味がした。だからと言ってあんなに正直に言わなくてもと思った。


 ちょこちょこ会話をしつつ食べ終えると、次はどこに行こうかという話になる。


「雪乃先輩のクラス見てみたいですね」

「絶対来んなって言われてんだよなぁ……」


 クラスメイトに手伝いを頼まれたと言っていたし、もしかしたら雪乃先輩をメインになにかやっているのかもしれない。……行かないわけにはいきませんね?


「わたしが行っても怒られることはないでしょうし、行きましょうか」

「……少しは俺のことも考慮してくれませんかね」

「……おぉ」


 返答に驚いていると、先輩は不満気な顔を見せる。


「なんだよ」

「いえ、別に……その、待ってるとか言い出すかなーと思ってたので」

「いや、そういうこと言うと怒るだろお前……」


 思わずほぉーっと眺めてしまう。やっぱり、ちゃんと見ててくれてるんだなぁ。なんだか気恥ずかしい。


「詳しいですね」

「うっせ」


 今更照れ臭くなったのか、先輩は席を立つ。出口へ向かうと、そこには制服に着替えたさっきのクラスメイトがいた。


「やっほー」

「……お金、払うから」

「いやいやいや、いいからいいから! その代わりにちょーっとお手伝いをして欲しいなーって」


 手を合わせてウインクをしてくるクラスメイトに、やっぱり顔がいいなとか失礼なことを思いつつ言葉を返す。


「いや、返すって……」


 そも、先輩とのデート中である。出来れば邪魔なく楽しみたいというのが、わたしの望み。こんなの、この先何回あるかわかんないし。


 わたしが意識的に嫌そうな顔を浮かべて、完全にただの嫌なやつになっていると、クラスメイトは笑顔のまま、


「でもさー、一色さんさー、クラスの準備も一回も手伝ってくれなかったしさー」

「うぐっ……そ、それは」

「分かってるよ? そりゃ生徒会長だし? いろいろ忙しいとは思うんだけどー、それにしたって一回も顔出さない上に当日のシフトにも入ってないとかどうなのかなーとか……思ったり?」


 それに関してはごめんなさいとしか言えない。わたしにだって後ろめたさとかはあるんですよ、一応。ぐっさぐさ刺してくるのやめてくれます?


「クラスでなにやるのかちゃんと知っててくれたのかなーとか」

「ぐぅっ……」

「放送で宣伝とまではいかないけど、なにかしらしてくれたりするのかなーとか」

「うぅ……」

「まさか当日先輩とデートとかしてるわけないよなーとか……?」

「あーっ! もう! 分かった! 分かりましたっ! なにすればいいのっ!」

「さっすが生徒会長!」


 なにが流石だ……言わせたようなもんだろーが。恨めし気に視線を送っても、なんなく躱されてしまう。彼女は口もとを吊り上げ、先ほどまで着ていたであろうメイド服を取り出して言い放った。


「これ、着て?」


        × × × ×


 雪乃先輩の所属クラスであるJ組はかなりの賑わいを見せていた。廊下に待機列が伸び、ただでさえ人が多くて進みづらいのが動かない列のせいで悪化している。


 そんな列に並ぶこと十五分。ようやく教室へ入ることが出来た。わたしと先輩が入ると視線がわたしたちへと集まり、次第に散って——いかない。注目を集めながら歩みを進めると、固まっていた集団が割れ、中から珍しい格好をした美女が出てきた。


「……その格好はなに?」


 美女——雪乃先輩に訊ねられ、ため息が漏れる。


「わたしのクラスの衣装です……」


 彼女——富士塚みつかという名前らしい——からの頼みは、メイド服を着て校内を周り、暇があれば宣伝して欲しいというものだった。


 わたしは快く承諾するしかなかったので、こんな状況になっているというわけだ。……それにしても、その緑の制服はなに。


「雪乃先輩こそ、どうしたんですか」

「……これは、その、頼まれて」


 恥ずかしそうに肩を抱いて俯いてしまう。どこかで見たことがある特徴的な緑の制服。中には白いワンピースを着ていて、不思議な雰囲気を出すそれを見つめていると、隣にいた先輩がぼそりとつぶやいた。


「劣等生かよ……」


 どうやらアニメのコスプレだったらしい。J組って頭のいい真面目な生徒が集まってるイメージだったけど、こんなこともするのか。


「……あなたには、来ないようにと言ったはずだけれど」

「連れてきちゃいました」


 これで責められるのは先輩に悪いので、すかさずフォローを入れる。雪乃先輩はため息をついて、


「まあいいわ……。お金を払った以上は客なのだし、待ち時間の間にあの中から選んでおいて」


 言って、雪乃先輩は集団の中に戻っていく。あの中、というのは恐らくホワイトボードに貼ってある写真付きの衣装リストのことだろう。


 J組のクラス展示はコスプレ写真撮影。雪乃先輩を含め、コスプレをしたJ組の生徒とツーショットが撮れるらしい。


「雪乃先輩は十人待ち……でも、折角ですし雪乃先輩と撮りたいですよね」

「……俺は」

「雪乃先輩と撮りたいですよね」


 後が怖いのか拒否しようとした先輩を半ば無理矢理に合意させて、またも列に並ぶ。雪乃先輩は写真を撮ってはパーテーションの裏で着替え、また写真を撮ってはパーテーションの裏で着替えを繰り返す。……忙しそうだな。


 ちなみに、盗撮防止のため許可なしでの撮影は禁止だ。撮れるのはツーショットのみ。接触も禁止。雪乃先輩は終始死にそうな顔でなんとか笑顔を作っている。


「笑顔を作ったりとか、するんですね」

「するだろ、愛想笑いくらい。なにも変わってないなら、そもそもこんなことしてないだろうしな」


 それもそうか。過去の雪乃先輩には想像もできないけれど、今の姿には納得できる。


 これが雪乃先輩の努力であるのなら、それは賞賛されるべきだと思った。優秀であるがゆえに人に弾かれながらも、結衣先輩や先輩と関わることで自ら心を開く。それは誰にでも出来ることじゃない。わたしだって、クラスメイトが普通の人なんだってことにさっき気づいたばかりだ。


 ……本当、いつもいつも、わたしより先にいるなぁ。


 少しでも列の消化を早めたいのか、どの衣装がいいのかを聞いてきたスタッフ的役回りの生徒に希望を伝えてしばらく待つと、ようやく順番が回ってくる。雪乃先輩は先輩の姿を見て微かに驚きながらも文句を言うことはなかった。


 先にわたしが希望した衣装——進撃の巨人のミカサと同じ格好になった雪乃先輩がパーテーションから姿を見せる。


「……どう、かしら」

「めっちゃイケメンです。ずっと前から好きでした。わたしと付き合ってください」

「……頭がおかしくなったのね、いい病院を紹介するわ」


 はっ、つい告白してしまった。しかも振られた。


 それもこれも雪乃先輩が悪い。なんで女キャラのコスプレしてるのに男装にしか見えないんだよ。元ネタがかわいいより美人でかっこいい造形なのも影響している。


 髪が伸びたミカサはこんな感じなんだろうか。


「で、でも、本当にかっこいいです!」

「は、早く撮りましょう……」


 さっさと済ませたいのか背を向けて指定の位置へ移動し始める雪乃先輩に慌てて声をかけた。


「ちょっ、待ってください! その、えっと……一枚、撮っちゃダメですか? 雪乃先輩一人のやつ」

「……早くしなさい」


 渋々ながらも了承してもらい、貴重な姿をスマホのカメラロールに保存した。……帰ったら現像しよ。そのうち進撃の巨人にハマるかもしれない。


「では撮りましょう!」


 ちなみに、ツーショットもスマホによる撮影だ。個人のスマホをカメラを起動した状態でJ組の生徒が預かり、一枚写真を撮って終わり。ポーズの指定は出来るらしい。もちろん常識の範囲内で、だけど。


「なにか指定のポーズはある?」

「いえ……というか、わたし今メイドなんですよね」


 絵面がひどい。世界観がなんか違う。まあ、これはこれで記憶に残るか。


「見た目が普通じゃないので、普通に撮りましょう」

「……言い方に悪意がないかしら」

「そんなことないですよー」


 なんて言いつつ、ツーショットを撮り終える。


 先輩が選んだのは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』から鶴見知利子。赤いフレームの眼鏡が印象的だ。なぜか知らないけれどまったく違和感が仕事をしなかった。


「……赤いフレームも似合うな」

「そ、そう、かしら……ありがとう」


 なんだこれ……これが噂に聞く八雪。悔しいけどお似合いです。悔しい……悔しい。わたしだってきっといつか八色とか呼ばれるんですからね。マジですからね。


 自分で招いた事態にも関わらず、ぐぬぬと睨んでいると、いまだにわたしに視線が集まっていることに気づいた。


「あ、二年B組、メイド喫茶やってまーす! 今なら富士塚みつかっていう二年生の中でもかなりかわいい女の子が『おいしくなぁーれ♡』って耳元で囁いてくれるらしいです! ……多分。よければぜひ!」

「なにをしているのよ、あなたは……」

「宣伝です」


 まあ、半分くらい嘘だけど。


「そんなこと言ってなかっただろ、あいつ……」

「せめてもの復讐です」


 自業自得の状況とはいえ、ちょっとくらい意趣返しをしておかないと心が晴れない。ちなみに富士塚さんがクラスに残っているのは本当だ。「かわいいからこのまま続けたら?」って言ったらやる気満々で着替えていた。ちょろい。


「では、また」

「おう」

「はい」


 雪乃先輩と別れて廊下に出る。さっきよりは空いてきたかな。気持ち動きやすくなっていた。


「次はどこに行きましょうか……先輩は何組でしたっけ」

「俺はC組だが……由比ヶ浜はD組だぞ」

「あぁ、一緒になれなかったんでしたっけ」


 当たり前のように同じクラスだと思っていたが、奉仕部は全員クラスが違う。そうなると結衣先輩と三浦先輩は同じで、葉山先輩も確か同じだっただろうし、他は……戸部先輩?


「戸部先輩はどのクラスでしたっけ」

「俺と同じだな……葉山と離れたからか、やたら話しかけてくるんだよな、あいつ」

「ふぅん。まあ、戸部先輩はどうでもいいんですけど」

「どうでもいいなら訊くなよ……」


 項垂れる先輩を横目に、とりあえず歩き出す。


 葉山先輩のクラスか。なにをしているのかは把握してないけど、また混んでそうだなぁ……。


「D組はなにやってるんですか?」

「……なんか劇とか言ってたけど」


 劇? 劇といえば昨年も葉山先輩は主役で劇に出ていた覚えがある。またBLなのかな……そっちの趣味はないんだけど。


「行ってみりゃ分かんだろ」

「そうですね」


 そんなわけで相変わらず注目を集めながら移動。D組にも行列が出来ているかと思いきや、思いのほかその数は少ない。少し並んで受付に辿り着くと、そこには見知った顔があった。


「あ、結衣先輩」

「ヒッキー、いろはちゃん! やっはろー」


 ひらひらと小さく手を振る結衣先輩に手を振り返して、さてと話を本題に移す。


「結衣先輩のクラスは劇をやってるって聞いたんですけど……」

「そうだよー! 丁度、隼人くんと彩ちゃんがいたから、昨年の『星の王子さま』をもう一回やろうかってことになって」


 へぇ。まあ、それなら劇の練習も少なくて済むだろうし、衣装も昨年のがあるだろうしで楽なのかな。人が少ないのはその影響か。


「でも、ほら、それだけだとつまんないからって、今年はもう一つ『白雪姫』もやってるんだよね」

「えっ、すごいですね……主役は誰が?」

「隼人くんと優美子だよ!」


 ……葉山先輩の負担が。あの人ならなんだかんだでやり切るんだろうし、心配しなくてもよさそうだけど。


「それにしても、三浦先輩ですか……よかったですね」

「うん、そうだね」


 本当に嬉しそうな顔をする。かわいいというのももちろん一因ではあるんだろうけど、多分、結衣先輩が人から好かれるのはこういうところなんだろう。


 友達の幸せを自分のことように喜べるから、相手からも想ってもらえる。それはいつか結衣先輩が出来ないと苦しんでいたことで、もちろんあのときとは状況が違うけれど、根幹の部分はなにも変わらない。


 他人を思いやれる。わたしには出来ないことが、わたしにはない優しさが、この人にはある。……敵わないと、思わされてばかりだ。


「結衣先輩は出ないんですか?」

「あー……、あたしは、ほら、台詞とか覚えらんないし」

「な、なるほど……」


 納得できてしまう。こう、うまくフォロー出来る術を身に付けたい。ていうか、変な地雷を踏まないようになりたい。


「でも、それならどうしてこんなに空いてるんですか?」


 気まずさを取り払うように話題を変える。


 実際、気になっていたことでもある。新しい演目があるのなら、もっと混んでいてもよさそうだけど。


「ああ、ここで待たれても邪魔になっちゃうから、チケット渡して時間になったら来てくださいってことにしてるんだよね」

「映画館みたいな?」

「そうそう。どうせ入れる人数も一回の時間も決まってるし。だったら開演まで自由にしててくださいって感じで」


 賢い。J組みたいに回転率を上げられる内容なら下手にどこかに行かれるより待ってて貰った方がいいんだろうけど、劇とかになってくるとこういうやり方も出来るのか。


「いろはちゃんたちはどうする? 白雪姫? 星の王子さま?」

「えっと、白雪姫で……いいですよね?」

「おう」


 頷いた先輩を確認して、結衣先輩に目を向ける。


「白雪姫は……午後一時からだから、次だね。はい、これ」


 渡されたチケットには時間と席の位置が記されている。午後とはいえ、流石に席を選べるほど空いてないか。


「一時……どうします? もう少しですけど」


 現在時刻は十二時四十分頃。あまり動いて遅れるのもバカらしい。


「ここで待ってるには長いよな……」

「そうなんですよねぇ」


 かと言って、他に行く場所があるわけでもない。うーんと二人して悩んでいると、結衣先輩が苦笑しつつも提案してくれる。


「ヒッキー、自分のクラス行ったの?」

「……行ってねぇけど」

「なら、行ってみなよ。戸部っちがなんかやってるみたいだし」

「戸部なぁ……」


 戸部、戸部かー、戸部? と、あんまり乗り気ではない様子。わたしも正直どうでもいいけど、ここで悩んでいても時間の無駄なのは確かだ。


「行ってみましょうか」

「……まじ?」


 そんな嫌そうな顔しなくても。


「そもそもなにやってるんですか?」

「知らん……戸部がなんかやるって言ってたのは覚えてる」


 知らねーのかよ。情報がなにも増えてない、すごい。わたしも人のことを言えた立場ではないけれど、先輩のほうがいくらか酷い。目くそが鼻くそを笑うようなものか。


 目くそです、どうぞよろしく。


「一回くらい顔だしといたほうがいいよ」

「そうですよ、流石に」

「一回顔出してそんな目に遭ってるやつをみるとな……」

「行きましょうか!」


 なんか腹立つ視線を送られたので強制連行が決定した。因果応報? なんか違う気もするが、とりあえず先輩にも似たような不幸が訪れますようにと願っておこう。


「到着です」

「到着もくそもねーだろ」


 隣なので数歩で着く。受付にはまたも見覚えのある顔。


「お、ヒキタ……は今よくないんだっけ。比企谷くん」

「もとからその呼び方を許可した覚えはないけどな……」


 ヒキタニはタブーなのか。まあ、それもそうか。嘘だと前置きしてあったにしても、あれだけ校内に広まった名前だ。今は文化祭でどこに誰がいてもおかしくない。避けておいたほうがいい。


「まあまあ、それで? デート?」

「違っ——」

「デートですっ!」


 にやついている海老名先輩に言い切ると、先輩に睨まれた。だって、デートですもん。誰がなんと言おうとデートですもん!


 だいたい、集合場所決めて、二人で文化祭回って、それでデートじゃないなんて、よくそんなことが言えるものである。デートじゃなかったらなんだよ、散歩かなにかなんですか?


「お前な……あんまりそういうこと言って評判落ちたらどうすんだ」

「そんなことで落ちる評判なんていりませんよ」

「愛されてるねぇ」

「あ、愛っ、愛してないですからっ!」


 なにを言いだすんだこの人! わたしが先輩を愛してるとか、そんなことあるはずない……こともないけど、まだ秘密っていうか、いや、秘密に出来てる自信もないけど。ああああぁぁぁぁあああっ! 面倒くさいっ! 面倒くさっ! わたしの頭の中面倒くさっ!


「そんな顔赤くして怒らなくても知ってるつーの……」

「怒ってないですから!」


 違ぇよ! 怒ってるんじゃなくて、照れてんだよ! 気づけよ! あー、もう、バーカバーカ! 自分だって顔真っ赤なくせに!


「こんなとこでイチャつかないでくれるかなぁ?」

「誰のせいだとっ……!」


 ていうか、イチャついてないから! イチャついてるっていうのはもっと、こう、抱きしめられるとか、そういう……わたしが先輩に抱きしめられる?


 んんっ、こほん。もうこの話は終わり! 閉廷! 解散!


「……なんでもいいんで、入れてもらえますか」

「はーい、んじゃお二人様ねー」


 入場料がかかるタイプのクラス展示らしい。受付でお金を払って中に入ると「おぉー」という感嘆の声が教室内に響いた。


 視線の集まる先に目を向けると、戸部先輩がマットの上でお辞儀をしている。……タキシード? 微妙に似合ってるのがなんかムカつくな。


「なんですかあれ」


 テーブルに座って、事前に受付で選んでいた飲み物を飲みながら問う。


 暗幕で光が閉ざされており、室内は薄暗い。


「戸部がなんかやってんな」

「それは知ってますけど」


 情報量の少ない先輩だ。さっきから戸部先輩がなんかやってるくらいの情報しか出てこない。どれだけクラスに関わってないんだこの人。


 ふぅん、と思いながら眺めていると、戸部先輩はわたしたちを見つけたのか、マットから降りてこちらに近づいてくる。う、うわ、こっち来なくていいのに!


「おっ、いろはすと比企谷くんじゃん!」

「よう」

「こんにちは〜」


 さらっと流して終わりにしたいなーなんて思ったところで、戸部先輩相手にそううまくいくはずもなく。


「なに? デート?」

「そうですよ、なんですか文句でもあるんですか」

「うぇっ!? まじ? あ、もしかしていろはすが前に——」

「戸部先輩?」


 こんなところでなにを言いだすつもりだ。じろりと睨めつけると、戸部先輩はぱちんっと勢いよく両手を合わせて申し訳なさそうな顔をする。


「おっと、悪ぃ! つか、比企谷くんとかまじなんも手伝ってくれねぇしよぉ、来ねぇかと思ってたわ」

「悪いな……文実とか、あとまあ、いろいろあったから」

「いや、別に責めてるわけじゃねぇからいいんだけどよ。あ、比企谷くんもこれ着ちゃう? いろはすもなんか変な格好してっし」

「変なは余計です」


 わたしだってしたくてしてるわけじゃないっての。ていうか、戸部先輩の「比企谷くん」めっちゃ違和感あるな……ヒキタニヒキタニ言ってたから。


「いや、着ねぇから……」

「えぇー、そりゃないっしょー」

「えぇー、それはないですよー」

「うわ、うぜぇ……」


 割とガチのトーンでうざい頂きました。ちょっぴり心が傷ついた。しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。わたしばっかり恥ずかしいの不公平だしね!


「まあ、先輩がタキシード着るのは決定として」

「おい」

「戸部先輩はなにやってるんですか? こんなとこで話してていいんです?」


 わたしの言葉に、戸部先輩は分かりやすく表情を変える。


「っべー、そうだったわ! 俺、まだ途中なんだわ! んじゃ、いろはすも比企谷くんもまたな! 衣装あっちにあっから!」


 急いでマットに戻ると、それに合わせてマット付近だけがライトで照らされ、音楽が流れ始めた。ジャンルで言えばR&Bか。ダンスでもするんだろうか、と思っていたら本当にダンスが始まった。


 ブレイクダンスってやつで、戸部先輩は跳んだり跳ねたり転がったりと激しく身体を動かしている。なんでタキシード着てんだ、あの人。


「……動きにくそうだな」

「ですよね……」


 ああいうのって、ラフな格好でやるんじゃないの? 知らんけど。


 そんなのでも出来てしまう辺り、戸部先輩の運動神経の良さを再確認させられた。サッカーも普通に上手いんだよな、あの人。……結構スペック高いな? うるさいだけで。


「で、先輩は着るんですよね?」

「いや……」

「着るんですよね?」


 頷きしかいらない。わたしに引く気がないことを悟ったのか、先輩は長々とため息を吐き出して、非常に不服ですがみたいな表情で頷く。


 露骨に嫌がられている。……そんなに嫌?


「えっと、まあ、どうしても嫌なら、いいんですけど……」

「着るからいい」


 素っ気ない返しに、それ以上なにかを言うこともできずにちびちびと飲み物で乾く喉を潤す。一通り終わったのか、パッと照明が点いて瞬きをする間に先輩は立ち上がった。


「……そんなことで怒んねぇから。いちいち気にすんな」

「うぐ……」


 はー、ほんと、この人なんなの? 全部お見通しですか? わたしのこと大好きなんですか? でもごめんなさいわたしのほうが大好きなんで!



        × × × ×


 傾き始めた陽光が顔を照らして、思わず手で影を作る。窓から見下ろした校庭には多くの人が行き交っていて、離れていても熱気が伝わってきた。


「……こんな格好で、こんな場所で、なにしてるんでしょーね。わたしたち」

「俺が聴きてぇよ……」


 呆れてるのか疲れてるのか判然としない声音にくるりと振り返ってみれば、長机に体重を預ける先輩がいる。こうして顔を見たところで、結局どちらなのかは分からなかったけど。


 強いて言うなら、一番近い答えはどちらもだろうか。


 はぁ……と、もう一度嘆息を繰り返して、暑苦しそうに上着を脱ぐ。いつもとは違う上着。タキシード姿の先輩は見慣れなくて、つい見つめてしまう。


「なんだよ」

「あっ、いえ……珍百景じみてるなぁ、と」

「……知ってる」


 言うまでもなかったらしい。似合わない……わけじゃ、ないんだけど、やっぱりいつもの制服のほうが似合っている。これはこれで面白いからいいんだけど。


「文化祭にいい思い出が出来たと思えば、悪くはないですかね」

「……いい思い出?」


 あれのどこが、というような視線。確かに酷い目にはあった。なにせメイドと目の腐った男のタキシードだ。目立たないほうがおかしい。注目を集めてしまったせいで、奉仕部の元部室に避難するなんて事態にもなっている。


 でもそんな悪目立ちだって、文化祭という魔法の舞台にかかれば笑い話に昇華出来てしまう。ちょっと失敗したけど、あれはあれで楽しかったですね、なんて感じで。


「黒歴史だって、自虐ネタになっちゃうんですから、こんな経験がいい思い出になるのも難しくはなさそうじゃないですか」

「……黒歴史はいい思い出ではないけどな、まちがいなく」


 肯定してるんだか、否定してるんだか。苦々しく顔を歪めて息を漏らした先輩は椅子を引いて腰を下ろす。ワイシャツ姿で頬杖をついてこちらを見る様が、どこか懐かしかった。


「そうやってるの、一番似合ってますね」

「褒めてんのか、それ……?」

「ちょー褒めてますよ」


 くすくすと笑いながら目の前に座った。


「……変わりましたね」


 一年前とは、格好だけでなく状況も違う。わたしは沢山の人と関わって、奉仕部は廃部になり、そういういろいろを経て、今、あの頃なら考えられないシチュエーションの中にわたしと先輩はいる。


 変わった。変わらないと思っていたものが、変化した。その中には当然、いい変化も悪い変化もあったんだろうけど、先輩のこれはどっちなんだろう。


「今回のこと、これで良かったと思いますか?」


 先輩はしばらく考え考えした後に口を開く。


「どうだろうな……昨日も言ったが、なにか別のやり方があったのかもしれないとは思う。それでも俺があれを選んだのは、あまり時間を掛けたくなかったというのが一つ。単純に思いつかなかったっつーのが、一つ。普通に腹が立っていたっていうのもあるな。……だから、なにを思いついたとしても、結局ああしてたんじゃねーか。知らんけど」


 はぐらかすようにそっぽを向く先輩をじっと見つめた。


 違う。わたしが聞きたいのはそうじゃない。それは答えになっていない。わたしは昨日の夜、今回の件について少し考えて、それでこうして訊ねているのだ。


 先輩が、それについて考えていないとは思えない。そも、先輩にはむしろ、それこそが懸念だったのではないだろうか。あのときの先輩の顔を見る限り、多分、答えは出ているはず。


 それをわたしは聴きたい。先輩の答えを、先輩の考えを、知りたい。


「……はぁ」


 諦めるように、本日何度目かのため息。ちらとわたしを一瞥して、顔を逸らしながら独り言ように口を動かす。


「……分かってる、今のは答えになってない」

「言いたくないなら構いませんよ、それでも」


 人それぞれにタイミングがある。わたしにだって、言えることと言えないことがあって、言えることでも言えないときがある。先輩にとってタイミングが悪いのなら、無理にとは言わない。いつか話してくれれば、とは思うけど。


 黙り込む先輩に、今日はダメだろうと判断して席を立つ。すると、先輩はぽしょりと小さく声を漏らした。


「……良かったかどうか、それは分からない。良くなかったと言えば、そうなんだろうな。実際、問題は解決してない」


 問題。小町ちゃんと大志くんへの悪意を取り除いて問題を解決したようにも見えるけど、それは違う。


 物があれば影を取り除くことは出来ない。人の悪意を消し去ることなんて不可能で、だから小町ちゃんへの悪意という名の影はより大きな闇——ヒキタニへの悪意で覆い隠しただけ。それをそのまま晴らせばまた影は浮き彫りになってしまう。


 すべて嘘だったとバラすだけでは、また小町ちゃんは被害を受けることになっていただろう。でも、バラさなければいずれ先輩が肩代わりをする未来が訪れていた。


 小町ちゃんにも大志くんにも、更に先輩にも悪意を向けさせないためには、悪意を更に別のところに移すしかない。だから、先輩たちは問題を解決しておらず、悪意は今も尚、存在している。


「俺に留めておけばよかったとは思うし、俺はいいとも言った。でも、あいつらはそれを許さなかったし、俺が現時点で罪悪感を覚えているかというとそういうわけでもない」


 悪意の移動先である加害者は、これからの学校生活に苦労するだろう。あの演説は加害者は雪ノ下雪乃と葉山隼人の敵であると宣言したようなもので、それは全校生徒を敵に回したと言っても過言ではない。


 二人とも、それを理解した上で壇上に上がった。先輩もまた、二人——結衣先輩も加えれば三人——が、誰かを傷つけることを容認した。


「やらなければよかった、なんてことは言えないな。俺はあいつらが自分のために誰かを傷つけることを受け入れたし、あいつらに助けてもらうことを、助けてもらったことを、喜んでいる自分がいるのも確かだ」

「やけに素直ですね」


 からかうように言うと、先輩は自嘲気に鼻で笑う。


「別にお前のためじゃない。話すと決めて、こうして語っている以上、嘘を吐いて後悔するのがバカらしいだけだ。そんなの保身となにも変わらないだろ」

「……それって、わたしを騙すのが嫌だってこと、ですか?」


 驚きつつ言葉を返すと、先輩もまた驚いたような顔をして、


「そういうことに、なるんだろうな」


 ——それを含めても、変わったと言えるかは微妙なところだが。


 独白を漏らして、先輩はようやくわたしへ目を向ける。交わった先にある瞳は相変わらず濁っていた。


「前は……頼られる自分に価値を感じていた気がする。雪ノ下雪乃っていう俺より遥かに優秀なやつでも出来ない——いや、しないことをして、そういう自分に酔ってたんだろうな。一人で生きていたつもりだったのに、自分を肯定する理由をいつのまにか相手に求めてた」


 重く落ちていく言葉には様々な感情が込められていた。言いたくもないことを言わせてしまっている気がして口を開くも、先輩は首を横に振って口を挟むなと意思表示をする。


「だから、雪ノ下が俺の中の理想と違う行動を取れば勝手に残念に思ったし、少しでも理想に近づかせようと躍起になった。……それが、お前には恋愛感情に見えたのかもしれないが、違う。なんて表現すればいいのかも分からない。気色の悪い、歪なそれを敢えて恋と呼ぶのなら、相手は他人ではなく自分だったんだろうな。自己愛に溺れて、他人を自身に付加価値をつける道具としか思っていない、ただのクズだ」


 吐き捨てるように語気を荒くする先輩は、いつの自分を見ているのだろう。わたしに向けられているはずの視線は、わたしではなくどこか遠い場所を見ているようだった。


「だからと言って、現状を良くなったと言い切ることも出来ない。一緒に傷つく、汚れ役を共有する。それは関係を深めるのには御誂え向きの美談で、誰かと共に生きるなんて寒気のする空々しさを綺麗に覆ってくれる隠れ蓑だ。片方が落とすことを望み、片方が落とされることを望む。雪ノ下や由比ヶ浜が俺のためになにかをしてくれることで自身に価値を与える。自分は助けるに値する存在なんだと思うことで充足を果たす。本質的にはなにも変わっちゃいない」

「それはっ……」


 制止を聞かずに声を出したわたしを、先輩は言葉を続けることで止める。


「一人でやることを放棄したわけじゃないし、誰かに手を差し伸べられる生き方を選んだわけでもないんだよ。自分に価値を与えてくれる存在ははっきりいって魅力的で、今でもその感覚が麻薬のように貼り付いてるが、それでも、なんとかしなきゃいけないと感じる。それぞれが独立し、必要であればお互いを助ける。そういう関係性こそが正常で……俺が、求めるものなんだ」


 先輩の求めるもの。それをわたしは一度聞いている。あのときはっきりと明言されなかった曖昧なものの正体がこれだ、ということなんだろうか。


「見つけられた気がしてた。手に入れられたと勘違いしていた。似通っているが、根幹のところはまるで違うものに縋っていた。俺が求めるもの……本物は、それなんだ。そういう話を、あいつらにはもうしてある」


 お互いの良いところ、悪いところ、理想とは違う部分や差異を認め、受け入れる。自立して、支え合うことの出来る関係。


「それはそれで、お互いの傷を舐め合うような汚いもののような気もするけどな。仕方ねぇだろ……欲しいと思ったんだから」

「……どうして、わたしに?」

「話の流れが七割、伝えるべきだと感じたのが二割、あとの一割は……なんだろうな。言いたくなった、とでも言えばいいのか」


 ほとんど流れかよ。がくっと肩を落としてしまう。わたしともそういう関係になりたい、とかそういう言葉が欲しかったですよ、わたしは。悔しい。


「はぁ……じゃあ、今回の件はその一歩目ってことになるんですかね」

「かもな。よく分からん。……小町には悪いことをしたな。あいつもあいつなりに考えてたみたいだし」


 横から入って力技でどうにかしてしまったのは、確かにどうかと思う。まあ、小町ちゃんなら「ほんっと、ごみいちゃんは仕方ないんだから……」とかなんとか言って許してくれそうだけど。


「前置きが長くなったな。……たとえ、今回の件で傷を負うことになるやつがいたとしても、これで良かった。俺はそう、信じたい」


 自信のない答えに、らしさを感じる。わたしが知っている先輩らしい答え。それは結局のところ先輩の側面でしかないけど、前よりは見えているもの、知っているものが増えているから、わたしはその言葉を素直に受け取ることが出来る。


 ——本当に、変わったな。


 少しくらい近づけたと、もう少しで届くと、そう感じていたのに、目の前の先輩は遥か遠くにいるような気がして、そっと頬に手を当てる。


「なっ……」


 混乱する先輩に微笑みかけて、わたしも答えを示した。


「いつか、追いつきますから」




 わたしの大好きな先輩たちはいまだ成長途中で、止まることなく進んでいく。だから、いつだって、目指す場所は先に在り続け、一向に距離は縮まる気配がない。


 けれど、ならわたしは、先輩たちより半歩大きな一歩を、先輩たちより一秒早く前に出して、いつか必ず追いついてやるんだ。



「——覚悟しててくださいね」



Prologue: 彼女と彼のエピローグ


 無事に終了した文化祭。制服へと着替えたわたしは、まだ賑やかな校内を歩き、生徒会へと歩みを進めていた。


 片付けるまでが文化祭。生徒会役員は後始末へと駆り出され、諸々が終わってこれから生徒会室で仕事である。仕事仕事仕事仕事、もう仕事は沢山だ。逃げたい。


 さりとて、仕事というものは勝手に進んではくれないため、向かうしかない。働くしかない。わたし、一色いろは! 社会の歯車やってます!


 あまりに嫌過ぎて頭が悪くなった。


 まあ、これが終われば夜は打ち上げだ。先輩含め奉仕部のメンバーとプラスアルファによる打ち上げに、わたしも誘ってもらっている。ふふふーん。おっと、つい鼻唄が。


 それも致し方なきこと。だって、楽しみなんだもん。


 アホなことを考えながら足を動かしていると、見知った顔を見つけた。


        × × × ×


「「「かんぱーいっ!」」」


 ほとんどがジュースや烏龍茶で構成された乾杯に、かつんっと小気味良い音が響いた。ぐいっと烏龍茶を飲むと、漠然と心にあった文化祭終了の事実が確かな輪郭を帯びてくる。


 ……終わったんだなぁ。


 たった一ヶ月そこらの期間しかなかったのに、なんだかとても長かったような気がする。具体的には、九ヶ月くらい掛かった気分。


 はぁーっと長いため息を吐き出すと、横から声を掛けられる。


「お疲れさま」


 顔を動かすと、優しい微笑み。手に持つジョッキにはハイボールが注がれている。くいっと呷れば首筋から鎖骨までが露わになって、なんだかドキドキした。


「いろはすのえっち」

「なぁっ! え、えっ……そんなのじゃないですから!」


 にひひと漏らした笑顔はさっきのものとは全然違っていて、作りものであることが分かる。顔に出てしまったのか、はるのんはふっと息を漏らして、くしゃりとわたしの頭を撫でた。


「気にしないで。外向きなだけだから」

「……はい」


 気にするなと言われても、やっぱり気になってしまう。ここのところ、はるのんの様子もおかしいし。なにか力になれればいいけど、わたしなんかがこの人に出来ることなんて考えても浮かばない。


「ほら、楽しみなさい。お姉さんからの命令だぞ」


 言い終えると同時、うなじになにか冷たいものが当たる。


「ひゃああっ!?」


 びくりと身体を震わせると、はるのんはこれ以上ないくらいに大爆笑して、わたしはうなじから背に垂れた水滴に不快感を覚えながら睨めつける。


「ごめん、ごめん……ぶふっ」

「反省してないじゃないですかー!」


 そんな風に戯れていると不安は抜けて、ふと周囲に意識を向ければ「やっぱり、あれ書いたのお前かよ……」なんて台詞が耳に届いた。


 そこには材……材、座、なんとか先輩や戸塚先輩と歓談する先輩の姿がある。どうやら、今日観た劇の話をしているらしい。そういえば昼間も、海老名先輩がいないのに誰が脚本を書いたんだ、みたいなことを言っていた。


「ふはははは! 我がシナリオにひれ伏したか!」

「なんのパクリだよ」

「あ、分かっちゃった?」

「どっかで見た気がしたからな……」


 普通に考えれば、白雪姫なんてわざわざ脚本を書かなくても本を借りてくれば済む話なんだけど、わたしが観た白雪姫はわたしが知ってるものとは違っていた。


 どちらかといえば良くなっていた……のかなぁ。意外性とか先輩と一緒に見たとかもあって好印象になってる気がしないでもない。ともあれ、楽しめたのは事実だ。


「いろはさん」


 ぼんやり眺めていると、今度は前方からわたしの名を呼ぶ声。


「聞いたわよ。話をしたらしいわね」

「あ、はい……まあ、少し」


 状況的には二人のいないところで三人のプライベートな部分に触れてしまったということになる。あくまで先輩の話とはいえ、いい気はしないだろうな。なんてびくびくしていると、雪乃先輩は笑って、


「立ち止まりはしないけれど、そうね……待っているわ」


 意味がわからずに首を傾げてしまう。少し考えると雪乃先輩がなにについて——わたしのどの台詞に対して返事をしているのかが分かって、顔が熱くなった。


「き、聞いたって、それもですか……」

「比企谷くんを責めないであげて。『なにか言っていたか』と彼に訊ねたのは私だから」

「う……はい」


 あのときは気持ちが盛り上がって、ちょっと恥ずかしいことをしてしまったので、出来ればあまり思い出したくない。


 なにさらっと頬に手当ててんだよ! いつもそんなこと出来ないだろわたし! ふざんけんな、勇気をくれ! 思い返して死にたくなるのもなんとかして!


「なになに? なんの話〜?」

「はるのんには関係のない話です!」

「あー! いろはすがわたしのこと除け者にするぅー! お母さんに言いつけちゃうからね!」


 たどたどしい言葉遣い。もう結構酔っているらしい。普通にめんどくさい。


「姉さん……いつまでいろはさんの家に寄生しているつもりなのよ」

「寄生なんて人聞き悪いなー。ちょーっと厄介になってるだけじゃない。ねぇ?」

「……まあ、別に迷惑ではないですけど」


 嫌だというわけでもないし、わたしがお世話になっているというのもある。どちらの味方も出来ずに曖昧に頷くと、雪乃先輩はため息を漏らした。


「……いろはさん、姉さんを甘やかすのはやめて」

「甘やかしてるつもりは……どちらかと言えば、甘やかされてるような」

「もっと厳しくして欲しい?」

「……勘弁してください」


 ただでさえしんどいのに家の中でまで厳しくされたら死んじゃう。相手がはるのんとなれば尚更だ。わたし、打たれ弱い雑魚なんでお手柔らかにお願いしたい。


「それにしても、雪乃ちゃんがあんなことするなんてねぇ……」


 口もとを吊り上げていやらしい笑みを浮かべる。雪乃先輩は眉を顰めて、正面からはるのんを睨んだ。打ち上げには不似合いな雰囲気を漂わせて火花を散らせる二人を止めようと口を開くと、それより早く雪乃先輩が力を抜く。


「……安い挑発ね。私たちは確かに加害者に敵意を向けさせたけれど、最低限のフォローはしたわ。規模を抑えては意味がないのだし、まちがえたとは思わない」


 最低限のフォローというのは、恐らく全校生徒に対し『いじめは犯罪だ』と言い切ったことを指しているのだろう。やろうと思えば法的な措置も可能だと、犯罪を行うなら覚悟しておけと、忠告という名の脅迫によって移りゆく影を小さくする。


 それがどこまで効果的なのか、わたしには分からないけど。


「まちがってる、なんて言ってないでしょ。でも、そんな言い訳をするってことは、負い目があるってことなのかなぁ? 自分に自分は悪くないんだって言い聞かせてるようにしか見えないけど。それって逃げてるだけ——」

「——いつまでも母さんから逃げているあなたに、そんなことを言われる筋合いはないわ」


 再び睨む合う両者に口を挟むことも出来ず、傍観していた。いつのまにか全員が雪乃先輩とはるのんを見ていて、テーブルは嫌な静けさに包まれている。


「逃げることも、誰かを傷つけることも、大切な人を助けるためなら受け入れられる。出来るところは一人でやればいい。一人で出来ないなら誰かの手を借りればいい。簡単なことじゃない。……ただ、私はまだ、自分のために大切な人が汚れるのを受け入れきれていないから、言い訳を連ねてしまうこともあるけれど」


 そこでようやく視線が集まっていることに気づいたのか、雪乃先輩は自分を落ち着かせるように吐息を溢して、寂しげにはるのんを見つめる。


「いつか、きっと、受け入れられる。私が大切だと思う人にも汚いところはもとからあって、そんなの、人間なのだから当たり前のことなのに、いつのまにか私の見ていた側面が相手のすべてなのだと思い込んでいた。それは、まるで期待を裏切られたようにも感じるけれど、違うのよ」


 思い馳せるようにしばらく目を瞑って、雪乃先輩は照れ臭そうに頬を緩める。


「いくら汚れていたって、悪いところがあったって、私が大切に想う側面がなくなるわけではない。どんなに相手を知っても、私が好きな相手は私の好きな相手で、なにも変わらない。綺麗な石の裏が傷だらけだったからって石を恨むのは、いくらなんでも自分勝手が過ぎるというものよ。裏を知って尚、綺麗な部分を尊いと思うのなら、そんな傷だらけの部分だって相手の一部として大切に想える」


 こっちの顔が熱くなってしまう台詞に、思わず結衣先輩と先輩へ視線を動かした。二人とも差異はあれど恥ずかしそうにしていて、なんだか和んだ。


 視線を戻すと、雪乃先輩はわたしを見ていて、わたしが首を傾げると「他人事じゃない」と報せるようにウインクが飛んでくる。


「……え?」


 戸惑っているうちに雪乃先輩の顔ははるのんへと戻る。


「私は距離を詰められることで、自分から避けていた相手にも良い部分があること、悪い部分があることを知れた。……姉さんには、感謝しているわ」


 唐突にそんなことを言われて、はるのんは面食らったようにまぶたをぱちぱちと瞬かせる。


「……えっと、雪乃ちゃん? そういうの、恥ずかしいから」

「私は大丈夫だから……姉さんも、もっと、自分から近づいてみたらいいと思う。姉さんの周りには姉さんが思っているより姉さんのことを考えている相手がいるのよ。後輩とか……妹、とかね」

「ゆ、雪乃ちゃんが……い、いろはす? 雪乃ちゃんが、デレた……」

「わ、わたしに言われても困るというか……その、破壊力が凄まじいのでやめて欲しいというか、事前に言って欲しいというか……」


 さっきのウインク、なに? わたしを殺しに来てませんか? はあー、ほんと無理、尊い。無理、しんどい。ていうか顔熱い。


「なんか暖房強くない? この店」

「分かります」


 だいたい、後輩とか言って、わたしを巻き込むのやめて欲しい。いや、そりゃ先輩だって結衣先輩だってはるのんの後輩なんだけど、あの言い方からするに、絶対わたしのこと言ってるし。


 ……はるのんのこと、考えてないとは言えないけど。


「雪乃ちゃんがそういうこと言い出すと、わたしが意地の悪い嫌なやつみたいじゃない!」

「誰もそんなこと思ってないわよ」

「うぐっ……な、なんなの? 今日、どうしたの? 熱とかあるんじゃない?」

「そうね、あるのかも」


 微笑みは格別のもので、はるのんはとうとう俯いてしまう。珍しい光景。解けた緊張間に、テーブルは再び談笑する声に包まれていく。


 文化祭が終わっても祭りの熱は後を引いて、浮ついた気持ちは失敗を誘発したりもするけれど、こういう熱なら悪くない。


 そんなことを考えながら、また一口、熱っぽい頭を冷やすように烏龍茶で喉を潤した。


 もう、氷は溶けていた。


        × × × ×


 日没後の暗い道を先輩と並んで歩く。日中は暑さが残っているけれど、夜は比較的涼しくなってきたから、静かに吹く風が心地いい。


「ごめんなさい。送ってもらっちゃって」

「気にすんな」


 本当ははるのんと一緒に帰る予定だったんだよなぁ。はるのんは雪乃先輩の反撃を受けて先に帰ってしまったのでわたし一人での帰宅となったのだが、そこに小町ちゃんが先輩に家まで送りなさいと命令した。わたしが断る間もなく決定し、今に至る。


 先輩と二人きりで帰れるという状況はわたし得だからいいんだけど。ただ、なんだか前より会話を弾ませるのが難しいというか、緊張して言葉が出てこなかったりすることがあるので、ヘタレな自分に呆れてしまったりもする。


「……小町ちゃん、気にしてなさそうでよかったですね」

「あぁ。……一応、小町とも話はしたしな」


 あの笑顔、あの言葉を思い出すと、胸が痛くなる。それを防げたと考えれば、無理矢理にでもなんとかしてしまったのも悪くはなかったのかもしれない。


「問題は……大志か」


 そろそろ家に着くという頃、話題に上がったのは川崎大志だった。彼もまた、小町ちゃんと同じく集団の悪意に晒された被害者だ。小町ちゃんとは違い問題を取り払いきれなかったため、今もなお、被害を受けていると言える。


「生徒会長選挙立候補の件、ですよね」


 今回の件で、大志くんが生徒会長になりたい理由はなくなってしまったが、立候補自体は既に成立してしまっている。状況の改善は出来ても、そればっかりはどうしようもない。


 でも、今の学校の空気なら、この段階で立候補を取り消しても悪いほうに動く可能性は低い気もする。あくまで低いだけで、確実な手法じゃないけど。


 それはわたしも懸念していたことで、そして既に、わたしが解決してしまったことでもある。


「それに関しては、もう、大丈夫です」

「は?」


 今日の文化祭終了後、生徒会室に向かう途中で大志くんを見つけた。校内にヒキタニの噂が広まったときからいろいろ考えていたわたしは、大志くんに声を掛け、問題解決を約束したのだ。


「大志くんが生徒会長選挙に出るにあたって、心配なのは他の立候補者に票が集まり、惨めな思いをするというところですよね。それはわたしが昨年、先輩に言われたことでもあります」


 雪乃先輩にも結衣先輩にも、絶対に勝てない。お前は惨敗してクラスメイトに笑われるんだ。


 そんなことを言われた記憶がある。なかなか辛辣だ。そんなの、先輩に言われなくたって分かってるんだって、ぶっちゃけめちゃくちゃ腹が立った。泣かなかったのが不思議なくらい。


「でも、昨年とは違うところもありますよね。大きなものは二つ。三年生——雪乃先輩や結衣先輩、葉山先輩といった面々は立候補できないという点。もう一つは、なぜか生徒会が人気になってしまったことで、立候補者が増えるという点です」


 ピースを作って見せると、先輩は頷く。


 そうだ。あのときとは状況が違う。だから、あのときは悪手でしかなかった方法も、今なら有効な手段となる。


「この二点を踏まえれば、他の立候補者に票を取られて大差で落選し、嘲笑に晒されるという問題を解決するのは難しい話じゃない」

「……つまり?」

「——生徒会長に、立候補しました」


 どや顔で言い放つと、先輩は目を丸くして手で顔を抑える。


「自分で言うのもなんですけど、わたしの人気って結構すごいっぽいんですよね。ほら、今回の総武高裏サイトにもわたしの名前があったんですけど、むしろ書いた人が叩かれてたりしましたし」

「いや……それは、お前」

「だから、わたしが立候補してわたしがほとんどの票を吸ってしまえば、大志くんを含め、わたし以外は票が並ぶ。わたしに負けたなら仕方ないっていう言い訳もできる」


 我ながら完璧じゃないだろうか。これしかないとすら思う。これなら、誰も傷つかずにすべてを終わらせられる。


 それくらい自信があって、わたしはまた褒めてもらえるかもなんて期待していた程なのに、先輩は俯いてなにも言ってはくれない。


「先輩……?」


 不思議に思って訊ねると、先輩は俯いたまま口を動かす。それは余りにも小さな声でわたしの耳には届かなかった。そして、首をかしげると同時、



「——そうじゃ、ないだろ」



 震える声に鳥肌が立った。たった一言、たった数文字、それだけで先輩が怒っていることが分かる。けれど、どうして怒っているのかが分からない。


「え、えっと……」


 なにをまちがえた?


 必死にまちがい探しをする間に、先輩は顔を上げる。その瞳は震えるほどに冷たくて、静かな住宅街に拒絶にも似た声音が響いた。



「——お前は、なにも、分かってない」



 開きっぱなしになっていた口は乾いて、掠れた声しか出ない。そもそもなにを言うべきかも分からない。


 ここで先輩と別れたらダメだ。そんな予想だけが頭に浮かんできて、背を向けた先輩の手を掴んだ。が、それはすぐに振り払われてしまう。


「悪い、帰るわ。……ここまでくれば、いいだろ」


 わたしの返事も聞かずに去っていく背中を、呆然と見つめていた。


 心地よく感じていた風が、離れた瞬間に冷たく感じる。


 家屋から漏れる光のせいか、しばらくして見上げた空に星は見えない。


「なにが、ダメだったのかな……」


 漏れ出た問いは、十月の空に溶けて消えた。






——次章——

第十章 されど、違えた道は交わらず、交わした想いは違え始める。


後書き

 第九章完結です。
 コメントや応援、ありがとうございました。

 第十章は四月一日から更新開始を予定しています。


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2018-03-23 17:00:31

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1: SS好きの名無しさん 2018-02-18 17:10:54 ID: qJJk0LED

ずっと前から好きでした( ˙-˙ )
頑張ってください

2: SS好きの名無しさん 2018-02-22 03:09:29 ID: BTNUhDB6

おお、2年ぶりぐらいに覗きに来たら復活してましたか!これは嬉しい。これからも頑張って下さい!


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