2017-10-21 17:27:40 更新

概要

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
いろはルート10作目。


前書き

読むときに邪魔なので、まえがきは活動報告に移しました。

10万字に収まらない気がするので、次回更新は別作品という形での更新になるかもしれません。


第八章 それでも、彼ら彼女らの繋がりは途絶えない。





第九章 いつまでも、目指すべき場所は先に在り続ける。





0        



 夏休みが明け、約一ヶ月ぶりに学校生活が始まった。


 わたしも伊達に十年以上学生やっていない。そのことに特別驚きを感じることはなく、当たり前のように登校し、もはやテンプレ化した「あ、久しぶり~! 夏休みどうだったー?」とかそんな話をクラスメイトとする。


 ……そのはずだったんだけど、どうにも考えてしまう。


 当たり前かぁ。と、口の中でつぶやき、浮かんでくるのは今は亡き謎の部活。優しい微笑みと、快活な笑顔と、卑屈な嗤《わら》い。


 なんというか、つい最近、当たり前が終わってしまったからか、少し敏感になってしまっている。


 もちろん、夏休みが終わったら学校が始まるなんて当たり前のことなんだけど、高校二年の秋って一回きりなんだよなぁとか、そんなセンチメンタルなことをふと思ってしまうのだ。


 高校二年の秋が終わって、三年の秋が来て、卒業後初めての秋が来て、そういう繰り返しを、昨年との違いを意識しながら過ごせることに僅かばかりの優越感を感じながら――


「はあ……」


 ――それでもやっぱり、口から出たのはため息で。


 終わってしまったものは仕方がない。納得しきれたかと問われるとちょっと弱いけど……しょうがないから、どうしようもないから飲み下す。だから、ため息の理由はそこじゃなくて、それより一歩先にある。


 なんて言えばいいんだろう。こう、「すっごくかわいいバッグを見つけたのに手持ちがなくて、しかも数量限定だった」みたいな、そういう、手詰まり感。


 そう、手詰まり。行き詰まり。さっきの例えになぞらえるなら「他のいろんなアイテムを手に入れるためにお金を使ってしまって、本当に欲しいものを買えない」という、言ってみればそういう心境だった。


 先輩個人だけではなく、雪ノ下先輩と結衣先輩、二人にも重きを置いたせいで、奉仕部という便利な空間を失ってからも先輩にベタベタ出来る理由を作れていない。


 もう数ヶ月で一年が経つのに、生徒会長になった件を出汁にするのは気が引けるし、そもそも任期終了が近い。小町ちゃん経由で、という方法はあるけど、あんまり何度も使ったら怪しまれるだろうなぁ。


 怪しまれるのを避けたがっているあたり、小心者感がすごい。


 小町ちゃんを経由したらしたで、先輩は二人きりになるのを抵抗してくるのもそれにばかり頼りたくない理由の一つだったりする。別に、どうしても、二人きりになりたいわけじゃないけど……ほんとに。


「はぁーあ……」


 どうしよ。今年度に入ってからというもの、そんなに頻繁に顔を合わせることはなかったし、ぱっと見たいした変化はないんだけど。まさか、いつでも会えると思っていたのがそうじゃなくなるだけで、ここまで心に響くなんて。


 ……ずるい。


「はぁぁぁぁぁ……」


 本日何度目かのため息。魂まで抜けていきそうなそれを吐いたからか、なんだか疲れてしまった。自然と膝を抱えて俯く。つーっとザラザラとしたアスファルトを指でなぞったりとかしちゃってる自分に気づいて、またしても長嘆息。


「はぁー……」

「人のベストプレイスで何回ため息吐きゃ気がすむんだよ、お前……」

「だって、だって、仕方ないじゃないですかぁ。わたしだって、いっぱい頑張ってるつもりなのに……本当、ままならないなぁって――えぇっ!?」


 ばっと後ろを振り向くと、相も変わらぬ腐った瞳――初めて見たときよりだいぶマシになったように思えるけど、それでもよくて泥水――と視線がぶつかる。


 いつからそこに……さすが先輩。マジで一切気配に気づかなかったんですけど……やだ、なんかわたしまで悲しくなってくるよこれ。


「先輩アレですね……アサシンとか向いてそうですね……」

「よく言われる」


 でしょうね。特に雪の下どころか雪そのものみたいな人に言われてそう。まあ、もう結構雪解けが進んでいる気もするけど。


 雪ノ下先輩と言えば、あの二人って今はどこでお昼食べてるんだろう。まだ元奉仕部の部室使ってるのかな……それなら先輩も一緒に食べればいいのに。いや、無理か。部活という理由があるならともかく、お昼を進んで誰かと食べるような人じゃない。


 誘われたら行くのかなぁ……そしたら一人の時間を邪魔する申し訳なさがなくなって、わたし的にはめっちゃ嬉しいんだけど。二人きりのチャンスがなくなるという意味では、めっちゃ辛い。……もうちょっとこのまま放置しとこ。


「その、すみません……急にお邪魔しちゃって」


 とりあえず、謝っておく。まずは下手にね。下手に出ることで交渉を円滑に勧めるためのご機嫌取りをするのだ。


「……別に俺の家じゃねぇんだから謝る必要ないだろ。ここは俺のベストプレイスなのであってマイプレイスじゃない。故に誰がいようが俺に文句を言う権利はない」


 うーん、まあ、予想通りと言えば予想通りの返し。ていうか、思ったけど、先輩相手に下手に出るとか下策にもほどがあるでしょ。下に行かせたら右に出るものはいないよこの人。


「じゃあ、毎日来ますねっ?」

「すみません、それは勘弁してもらっていいですか」


 即答だった。ひっどいなぁ、もう。こんなかわいい現役女子高生と一緒にご飯が食べれるなんて泣いて喜んでもいいくらいなのに。なんならお金取ってもいいまである。大人になったら本当にお金払わなきゃ体験出来ないものなわけだし。


 お金払えば体験出来ちゃうあたり、先輩の目とタイマン張れるレベルで世の中腐ってるなぁ。これはもう先輩の目が腐るのも仕方ないと頷いちゃう。うんうん。


「せーんぱい。ちょっと目輝かせてみてくださいよ」

「なにその無茶振り、こっわ……」


 この子なに考えてるのん? とばかりに驚愕に満ちた顔で見つめてくる。気持ち距離が遠くなったのは気のせいだ。たぶん。そのはず。……気のせいですよね?


 しっかし、目の輝いた先輩、ねぇ……。一度見てみたい気もするけど……想像した限りではちょっと。


「ていうか、俺の目が輝いてたら気持ち悪いだろ……」

「ですね……」

「同意されちゃったよ……」


 後輩に同意されて悲しさ増し増しメガマックス! それはアウトレットですね、千葉にもあるよ! 意図せずポロリもあるよ! みたいな語感になってしまった。


「まあ、そんなことはどうでもいいんですけど」

「あの、辛辣過ぎませんかね……?」


 今傷心中なんだけど? と、恨めしげに睨め付けてくる。誰だよ、わたしの先輩傷つけたの。許すまじ。


 ……このくらいの冗談なら、大丈夫かな。あのとき、先輩が言ってくれた言葉をすべて鵜呑みにしたわけじゃないけど、それでも、それを疑いたくなかった。


 それは、わたしにとって都合がいいからなのかもしれない。先輩の言葉を信じた方が、今まで通り、変わらない関係でいられる。だからわたしは信じたいっていう、汚い考え方なのかもしれない。


 いや――そうじゃない。そんなちょっとした欲じゃない。


 たぶんそれは、「こういう理由で信じたい」ではなく、「誰かを信じたい」なのだ。信じるということそれ自体に意味を見出している。信じることで負担を減らそうとしている。


 疲れたなぁ……。無意識に楽をしようとしてしまう。誰かを頼ろうとしてしまう。それがいいことなのか、悪いことなのかも、もうよく分からないんだけど。


「そうですかね、いつもこんな感じじゃないですかー?」

「いつもそんな感じなのがおかしいんだよなぁ」


 言いながら、ふっと諦めたような笑みをこぼす。見上げる空は晴天、どこか浮ついた学校の雰囲気が、迫る祭りを意識させる。


「それで? なんかあったのか?」

「平塚先生の愚痴が最近酷いんですよね~。またご友人が結婚したらしくて」

「……本当、早く誰か貰ってやれよ」


 今度はなにを手に入れてくるのだろうか。一人で楽しめるものであることを願う。当たり前のようにペアで当てるもんな。しかも二枚とか三枚とか。すっごーい! あなたはペアチケットを当てるのが得意なシングルなんだね! ぶん殴られそう。


 ……ていうか、それを餌に異性にアピールすればいいのに。折角ペアチケットが当たってもわたしたちに渡してしまうところが、どうしようもなくいい先生だった。


 この時代にあそこまで生徒に関心を向けられる先生は稀だろう。この学校、他の面子が酷いので反面教師になってる可能性もあるけど……そういう諸々を考えても、やっぱり出会えてよかったと思う。


 平塚先生がいなければ、昨年度の生徒会選挙でわたしは結構ダメージを受けていただろうし。


「見る目がないですよねー、まったく。わたしが男だったら惚れてますよ」

「本当にな……いい縁があることを願うわ」


 現役で恩師の未来を願うわたしと先輩だった。早く誰か貰ってあげて!


「そういえば」


 と、折角振って貰ったのを誤魔化したにも関わらず、なんだかうまいこと話を持っていけずに、結局流れをぶった切る。そんなわたしに分かりやすい態度を示すでもなく、先輩はもぐもぐとパンを頬張りながら続きを促してくれた。


 やっぱり、ずるいなぁ。


「もうすぐ文化祭じゃないですかー?」

「ああ……」


 昨年のことを思い出したのか、露骨に嫌そうな表情を浮かべる。事の詳細ははるのんから聞き及んでいるので、特別不思議に思うこともない。いや、単にみんなでなにかをするということに対して苦手意識を感じているだけだろうか。


 文化祭での一件を引きずるほど気にしている感じはしない。……しないんだけど、それでも言いづらいというのがこの面倒臭い性格の嫌なところ。


「それで……わたしが生徒会になってから初めての文化祭で、ちょっと不安があるなぁみたいな。その、昨年いろいろあったみたいですし」

「なるほど……まあ、確かにいろいろあったなぁ。いや、でもあれって記録には残って……」

「聞いたんですよ、はるのんから」


 確かに記録にはなにも残っていなかった。文化祭で心が浮つくのは仕方ないし、このくらいの問題は起こるだろうと思える程度。なにがまちがってるって、それを書いた文化祭実行委員がちょっと信じきれない目の前の人物なことだよ。


「先輩の活躍、とか言うとダメージになりそうですね」

「……まじでやめてくれ」


 恥ずかしさからかそっぽを向いてしまう。たとえ、先輩のおかげだったとしても、その行為は素直に褒められるものではない。それしか道がなくてもそれは変わらないのだから、つくづくこの人は生きづらい性格をしていると思う。


 素直に褒められなくても、表立って称賛出来なくても、知っていること、理解していることが僅かにでも救いになれば、あの日、車の中ではるのんの独り言を黙って聞いた意味もある。


「……正直に言うと、本当はあんまり頼りたくはないんです」

「へぇ……お前は一人でやって、一人で終わらせてる気がするけどな」


 全然そんなことないんだよなぁ……これまで一度だって一人で終わらせられたことがあっただろうか。ない。


「いつだって、誰かに助けられてここまで来ました。一人でなんでも出来るなら、きっと今ここには来てないですよ」


 わたしは自分一人でなにかを成すことが出来ない。足りないものが沢山あることを自覚している。だから、わたしにないものを持つ先輩に惹かれて、そういうきっかけからいろんなことを知って、今ここにいる。それは疑いようもない事実だ。


 とは言え、今回は本当に不安を解消したくてここに来た、というわけではない。


 わたしがここに来たのは、手詰まり感をどうにかしたかったからだ。このまま、徐々に距離が空いて、いつか話すこともなくなるようなことになるのを避けたかったからなのだ。


 その手段としてこれを選ぶことに、躊躇がなかったと言えば嘘になるけど、やっぱり、どうしても勝てない。


 幸せになりたいという気持ちに勝てない。


 会いたいという気持ちに勝てない。


 好きだという気持ちに勝てない。


 好きだから、どうしようもなく抗えない気持ちがあるから、一番したくないことをしてでも接点を作りたい。


「……頼っても、いいですか」


 ずるいのは、他でもないわたし自身だな。すんっと鼻から吸った空気に潮の匂いを感じながら、そんな自虐めいたことを思った。


 しばらくの沈黙。時間にして一秒にも満たないそれをしばらくと感じたのは、多分、わたし自身の気持ちがどうにもはっきりしていないからだ。


 想いに勝てないと言うからには、当然、抗おうとする気持ちがあるわけで。わたしの中では負け確定の断って欲しいという気持ちと、勝ち確定の断らないで欲しいという気持ちが勝敗を決して尚争いあっている。


 ダメだなぁと思う。情けないなぁと感じる。それを黙らせるほどにこの人が好きなんだって思って、ちょっと嬉しくなって……それで、少し胸が痛くなる。


 勝てるのかな、あの二人に。わたしと先輩が結ばれていることを想像するのは、あまりに現実味がなかった。けれど、やっぱり幸せになりたい。近くにいたい。だから、先輩に手伝って欲しい。だからこそ、口に出した。


 ようは、言った時点で確信していたのだ。先輩が断らないことを。これは言うまでが勝負で、わたしの気持ちがはっきりしてようがしてなかろうが関係の話。さっき考えた通り、勝敗は決してる。割り切れずに考えちゃうけど、それはもう仕方がない。


 と、そんなわたしの気持ちに応えるように先輩はがしがしと頭を掻きながら照れ臭そうに、


「まあ、それは別に構わんが……」


 やった! 嬉しさが態度ににじみでそうだった。けれど、先に続いた言葉に、堪えるまでもなくそれは霧散する。


「……それを言うなら、俺だけじゃねぇんじゃねぇの?」

「え……?」


 わたしの間抜けな声が、潮風に流れていった。


        × × × ×


 からり、先輩が教室の扉を開く。入れ、と視線で促され、嫌々ながらもそれを顔に出すわけにはいかず、なんでもない風を装って教室へと足を踏み入れた。


 窓が空いていたのか、道が出来た空気が風となって吹き抜けていく。室内だからか、外より幾分か過ごしやすい気温に迫る秋を感じつつ、廊下にまで届く声で談笑していた二人に目を向けた。


 突然わたしがやって来たことにきょとんとする二人にちょっとかわいいなとか思ってしまう。やっぱり勝てる気しないんだよなぁ。


「一色さん……?」

「いろはちゃん、どしたの? 珍しいね」

「こんにちはです~」


 挨拶を交わして足を進めると、後ろから扉が閉められた音が背中に届いた。


「えっ! ヒッキーまで……なに、なんかあったの?」

「あら、いたのね……本当に気づかなかったわ」

「さすがにそれは俺も傷つくんだけど……そんなに影薄いですかね」


 口もとをひくつかせて、わたしに視線を向けてくる。とりあえず頷いておくと、まじかよ、と割りと本気でショックを受けていた。室内に入っただけでダメージ受けるとかもはや特技ですよ、それ。


「いや、流石に冗談ですけどねー……?」

「うんうんっ! ほら、むしろヒッキーって存在感あるっていうか! よくみんなびっくりしてるもん!」

「慰めるの下手すぎるでしょう? なんでいるだけでびっくりされてんだよ、それ絶対直前まで気づかれてねぇだろ」

「悪目立ちするのは得意なのだから、目立っているというのもあながち間違いではないと思うわよ」

「その補足説明いらないから、超いらない」


 やめて! 先輩のライフはもうゼロよ! 本当にゼロだよ、なんなら元からゼロまである。勝負する前に負け決まっちゃってる。


 くすくすと笑う雪ノ下先輩に先輩も微かな笑みを浮かべた。


「まあ、とりあえず二人とも座ったらどう? なにか話があるのでしょう?」

「あ、はーい」


 言われて、わたしが勝手に自分の定位置だと思っている席へと腰を下ろす。本来は依頼者の席だけど、まあ、もう奉仕部という部活はないわけだし、実質わたしの席でいいでしょ。


 なんて考えから、どうして二つの席が片付けられていないのかというところに意識が向いて、つい口もとが綻んでしまった。勘違いじゃないといいなぁ。


 一人でにまにましていると、三つの視線を感じてはっとなった。そこには三者三様の温もりがあって、最近緩みに緩んでいる涙腺がじんわりと熱を帯びる。本当に、この顔触れには弱い。


「それで? なにがあったのかしら?」


 雪ノ下先輩の言葉に追従するように、結衣先輩が太陽のような笑顔でうんうんと頷く。先輩に目を向けると、こくりと首肯された。そうじゃないんですよぉ……。


 八方塞がり。もちろん、先輩が好意でこうして機会を作ってくれたということに関しては、はっきり言ってめちゃくちゃ嬉しいじゃ足りないレベルなんだけど。けど、違うんです……わたし別に、そんなに困ってないんです、ごめんなさい。


 なんというか罪悪感が半端じゃない。嘘をついて近付こうとした罰がこれなら、ちょっと厳し過ぎませんかね。


 ぐぬぬ……どうするべきだろう。いや、先輩に本当のことを話せない時点で、普通に考えて一つしか選択肢ないんだけどね。でも、この二人まで騙すなんて、それはちょっとわたし的に違うっていうか。


 いつまでも口を開かないわたしに三人は不思議そうな顔をする。……言うしかない。自業自得ですね、仕方ない。


「あの……もうすぐ、文化祭じゃないですかぁ?」

「……そうね、来週の頭には文実やクラス展示を決めるのではないかしら」


 それがどうかしたの? と雪ノ下先輩はこてんと首を傾げる。そんな仕草一つ取ってもかわいい。筆舌に尽くしがたい。ずるい。


「それで……昨年、いろいろあったみたいですし、わたしも初めてですし、ちょっと不安かな、みたいなですね……?」

「……あなたが?」


 どれだけ過大評価されているのだろう。訝しげな表情を浮かべる雪ノ下先輩に、うっと喉が詰まる。わたしそんなに出来る人じゃないんですよ……まあ、今回に関しては本当に見抜かれた形になるけど。


 黙り込んだわたしをどう思ったのか、ふむと真剣な顔で思索にふける雪ノ下先輩に、結衣先輩がわたしと雪ノ下先輩の顔を交互に見ておろおろとする。


「え、ゆ、ゆきのん? 手伝って、あげないの……?」


 結衣先輩にとっては即答することだったらしい。そういう純粋な好意もとても嬉しくて心がずきずき痛むので勘弁してください、本当に。わたしのライフももうゼロだから!


「比企谷くん」

 唐突に顔を横に向けて先輩へ声を掛ける。

「ん?」

「あなたはもう、承諾してるのよね?」

「……まあ、一応、そうだな」

「そう。なら、少し席を……いえ、もう時間もないわね。申し訳ないのだけれど、教室に戻ってもらえるかしら」


 申し訳ないのだけれど、という部分に引っかかりを覚える。引退旅行の一件で意識的に態度を和らげているのだろうか。……どうも、そういう感じじゃないんだよなぁ。


 それもあるのかもしれないけど、それだけじゃない気がする。これは自分のために先輩を追い出すことになるから謝っているというより、誰かのためにというのが近いんじゃ……誰かって、そんなのわたししかいないわけで。


 つまり、わたしの件で追い出される先輩がわたしに悪印象を持たないように、ということになる。その程度で先輩が不満を持つとは思えないけど、念のためなら不思議じゃない。でも、ここで先輩を追い出す理由が、よく分からない。


「分かった。……ああ、でも、報告は頼むぞ」

「ええ……あ、でも、そういえば、私、あなたの連絡先知らないのだけれど」


 いまだに!? 流石にもう知ってるもんだと思ってたよ……どんだけ距離詰めるの下手くそなのこの二人。結衣先輩いなかったら絶対一切進展なかったでしょ。


「そうだった……由比ヶ浜に聞いてくれ。んじゃ」

「ええ、悪いわね」

「……気にすんな。邪魔になるのは俺の百八の特技の一つだ」

「誰も邪魔だなんて言ってないじゃない。必要性があるから頼んでるのよ」

「お、おう……」


 なんだかいつもの罵倒がない雪ノ下先輩に、比企谷くんがそそくさと教室から出て行く。やっぱり、引退旅行の件がかなり大きそうだった。待って、雪ノ下先輩が毒舌じゃなくなったら、いいところしか残らないんですけど! 勝てる気しないんですけど!


 絶望に満ちた目で見つめていると、それに気づいたのか、雪ノ下先輩は困ったように眉尻を下げて口を開く。


「なにか、まずいことでもしてしまったかしら……?」

「あ、いえ、全然!」

 まずいですけどね! めっちゃ焦ってますけどね!

「そう……それなら、いいけれど。それで、一色さん」

「……はい」


 真剣な瞳に思わず居住まいを正す。と、雪ノ下先輩はわたしが想像もしていなかったようなことを口にする。


「あなた、本当に私たちに手伝って欲しいの?」

「え……」

「比企谷くんに、手伝って欲しかったのではないの?」


 比企谷くんに、と強調され、完全に見抜かれていたことを理解する。なるほど、それで……。結衣先輩もなんとなく状況を察したのか、あ、と声を漏らした。


「そう、ですね……先輩に手伝って欲しかったです」

「やっぱり……でも、そうね、私もあなたの味方ばかりする、というわけにはいかないから……」


 雪ノ下先輩がちらと横目で結衣先輩へ目をやると、結衣先輩も雪ノ下先輩を見ていて、両者の視線がぶつかる。すぐにそれを逸らした雪ノ下先輩は恥ずかしそうに咳払いをした。


「ゆきのん……」

「……由比ヶ浜さん、その、暑いのだけれど」


 ひしっと雪ノ下先輩にくっつく結衣先輩を特に退けることもせず、説得力のない台詞を吐く。本当に、優しい人だと思った。


 ……考えてみれば、雪ノ下先輩はもとから優しい人だった。比企谷くんとのコミュニケーションの取り方があの舌戦だったというだけで、そこには悪意など皆無なのだから、わたしの立場はたいして変わっていない。言ってみれば、もともと窮地だった。うーん、それはそれでかなりまずい。


「話を戻すわね。私はどちらかに肩入れは出来ない。だから、こういう状況になってる以上は一応、私は一色さんを手伝うという程にするというか、文化祭の件で大変なら助力するけれど、比企谷くんとの関係についてはどちらの手伝いも出来な――」

「――ううん、いいよ」


 雪ノ下先輩の言葉を遮って放たれた言葉に、ばっとその人の顔を見てしまった。ここで、どうして、その言葉が出てくる?


「結衣先輩、まだ好きだって言ってたじゃないですか……」

「す、好き、だけど……その、なんていうのかなぁ」


 曖昧な笑みに心が騒つく。自分が、この時々思いやりが過ぎる人に言いたくもない言葉を吐かせてるんじゃないかと、そんな考えが脳裏をよぎる。


「わたしのためにとか、そういうの、なしですよ……」


 本気でやめて欲しい。自分のことは可能な限り自分でやるから、大切な人にも自分を優先してもらいたい。犠牲ありきで手に入れたって素直に喜べない。


「そういうんじゃ、ないんだけどなぁ……」


 たははと言葉に出来ないもどかしさを伝えるように苦笑する。


「なんだろーね。……こう、認められた、のかな」

「認められた……?」


 なにを。なにを認めたら、自分の好きな人を積極的に奪われようと行動出来るというのだろう。わたしには到底分かりそうもない。


「そう。……いろはちゃんとか、ゆきのんに勝てなくて悔しくて、それでも好きで諦めきれなくて、大切な友達か後輩が好きな人と結ばれても喜べない、祝ってあげられない……。多分、そういうあたしを、認められたの。汚い自分を認められて、だから全然優しくなんかなくたって、汚くったって、それでいいんだって」

「それは……」


 本音をぶちまけたからだろうか。あのとき、あの場所で。それとも――そうして浮かんでくるのは、散々泣き腫らして目を真っ赤にして笑う、いつかの結衣先輩の姿だった。あれも、この場所だった。


 ……違う、両方なんだ。両方あって、結衣先輩はわたしが見つけられなかった答えを見つけた。


「なーんだ、よかったんだ。って、すっきりしちゃって、そしたら、喜べる気がしたんだよね。ゆきのんかいろはちゃんのどっちかがヒッキーとうまくいって、多分……泣いちゃうんだけど、でも、『おめでとう』って、言ってあげられるような、そんな気がしたの」


 ずるいと、本心からそう思った。そうやっていつも、この先輩たちはわたしより早く成長する。だから、いつまで経っても追いつけない。結衣先輩は勝てないなんて言うけど、わたしからしてみればわたしのほうがよっぽど勝てる気がしない。


「……でも、だからって、なにも諦めなくても」

「諦めてるわけじゃ、ないよ」


 真正面から、本心だと強調するような強い語気で言われ、気圧されそうになった。


「諦めてるんじゃなくて、今は、自分の幸せより、いろはちゃんに幸せになって欲しいって思う」


 結衣先輩から目をそらせずにいると、すぐ近くでくすりと誰かが笑った。その笑みが、どこから来たものかはしらない。でも、その人にとってこういうものは――感情を真正面からぶつけられて押し切られてしまいそうな状況は好ましいものだったのだろうと思う。


「いろいろ返したいの。いろはちゃんにはなにかをあげたつもりなんて、ないかもしれないけど……ちゃんと返しとかないと、ダメなんだよ。そのまま、ヒッキーに近付いても、多分、後悔するから」


 最後に、結衣先輩は快活な笑いを見せて、


「全部、あたしのわがまま。だけど、聞いて欲しいな。ううん、言って欲しい」


 そうして、にこにことわたしの言葉を待つように口を閉じた。逃げ場を探すように雪ノ下先輩に顔を向けると、雪ノ下先輩は意地の悪そうな笑顔を見せてくれる。……わあ、とってもいい笑顔ですね。


 追い詰められた感じだ。……いいのだろうか。ここで、言っていいのだろうか。それは、わたし自身にやっぱり結衣先輩になにかを与えたつもりがないというのもあるし、そんな簡単に人を頼ってもいいのかというのもあるし、結衣先輩も先輩のことを好きなのにというのもある。


 ちらと自然と下がっていた視線を戻すと、勢いよく頷かれて三つ目が消された。もう一度、その隣を見て首肯され、二つ目が消された。そして、ふと蘇る、今ではずっと仲良くしたいと心から思える友達の台詞。


 ――感謝っていうのはそういうものだよ。相手に言われて初めてなにかを救えたことに気づくの。


 ああ。全部潰されてしまった。最後の最後に背中を押してくれたのが、あの人で、そのことにちょっぴり嬉しくなって頬が緩む。……多分、逃げ切れない。いや、逃げたくない。


 ごくり、緊張から生唾を飲み込んだ音がやけに大きく聞こえた。


「……手伝ってもらっても、いい、ですか?」

 絞り出した声は震えていて、改めてぶっきらぼうな先輩に感謝を告げる。先輩が連れて来てくれたから、今こうして新しい関係を築けるのだから。

「ええ」

「うんっ」


 まるでそうするのが当たり前のように了承した二人に、目頭が熱くなる。誤魔化すように窓の外を見ると、同時に予鈴が鳴った。


 澄み渡る空から吹き込んだ昼にしては冷たい風。それが、夏の終わりを意識させて、微かに寂しさを覚える。けれど、前を見ればそれを埋めるような確かな温もりを感じて、気付けば破顔していた。


 どうか、この空の続く先が、快晴でありますように。


 教室から出たとき、閉められていく扉の隙間から明日を見て、密かに願った。




1        



 土曜の空は快晴だった。なんだか願いを叶えてもらったような気分になる。遥か先まで続く青の先に分厚い入道雲。風向きから考えて、あれがこちらにくることはないだろう。天気予報でも晴れだったし。


 ……天気予報の話はやめとこう。何度あれに裏切られたかわからない。予報は所詮、予報だ。本当あいつらまじで当てになんないからなぁ。


 気を取り直して目的地に向かって歩みを進める。と、遠方に見知った顔を見つけた。けれど、なんだか様子がおかしい。……なにきょろきょろしてるんだろ。


 どうせ目的地は同じだし。と思いながらゆっくり近づいて行くと、彼女は意を決したように頷いて、想定外の方向へと足を向けた。あっれ、そっちじゃないんですけど。


 ……そういえば、いつだったか、方向音痴っぽいこと言ってたっけ。


「雪ノ下せんぱーいっ!」


 駆け寄りながら声を掛けると、雪ノ下先輩は振り向いて、どこか安心したような表情を見せる。やだ、かわいい。やめて! 勘弁して! その顔、絶対先輩に見せないでくださいね!


「一色さん、こんにちは」

「はいっ、こんにちは~」


 にこにこと満面の笑みを浮かべる雪ノ下先輩にこっちまで口元が綻んでしまう。なにこれ、デレかな? そんな邪気の無い笑顔向けられるとどきどきするんですけど。ツンデレじゃなかったのこの人。ぶっちゃけ、今はもうツンの方が珍しいくらいだけど。


「先輩のお家はこっちですよ~。この道まっすぐです」


 わたしが進行方向を指で示すと、雪ノ下先輩はかぁっと顔を赤らめる。かわいいんだけど! この短時間で何回褒めさせる気だよ、この人! それで先輩はなんでいまだにこれに落ちてないの? 目腐ってんの? あ、腐ってたわ。


「わ、分かっていた……わよ?」


 ぽしょりと弱々しげに吐かれた言葉に、なんだか背徳感を覚える。なんでだよ。


「い、行きましょうか」


 恥ずかしさからか先行して歩く雪ノ下先輩に着いて行くと、早々に十字路を曲がろうとした。あっれ今まっすぐって言ったよねわたし。どこのマリモ剣士だよ。よくここまで来れましたね……。そんなに恥ずかしかったのかな?


 慌てて雪ノ下先輩のシャツの袖を掴み、ちょいと引くと、なんでもなかったように雪ノ下先輩は正しい道を進み始めた。なにも言うなという感情がひしひしと伝わってくる。


「ふふっ……」

「なにがおかしいのよ……」

「いえ、雪ノ下先輩かわいいなーと」

「かっ、かわ……そ、そうね、当然よ。言われるまでもないわ」


 本当かわいいなー。思わずぎゅっと腕に抱きついてしまう。白シャツは薄手で、中も軽い服装をしているためか体温が伝わってきた。


「一色さん、その、あ、歩きにくいわ……」

「あ、思ったんですけどー、いろはでいいですよ?」


 話聞いてた? とばかりにわたしに視線を送ってくるもすべて流す。と、雪ノ下先輩は諦めたように息を吐いて、


「なんでこう、私の周りには話を聞かない人が多いのかしら……」

「雪ノ下先輩相手に会話で距離詰めようとしたら寿命尽きちゃうからじゃないですかね」

「っ……。あなた、随分と無遠慮な言動をするようになったわね……」

「誰のおかげだと思ってるんですかー」


 くすりと笑って言うと、雪ノ下先輩は一瞬言葉を詰まらせて、それから口を開く。


「おかげの使い方が、まちがっていると思うのだけれど……」

「まちがってないですよ。だって、嬉しいですし、すごく感謝してるんです。だから、仲良くしてくれてありがとうございます! わたし、雪ノ下……じゃなくて、雪乃先輩、大好きなんですっ!」


 ふふんどうだ、と勝ち誇ってみせると、雪乃先輩は顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。美人の困り顔って、なんていうか、こう、ぐっとくるよね。いいと思います、すごく。


「あ、ありがとう……その、私も、い、いろはさんのこと、好きよ?」


 うわーっ! なにこれ! なにこれ! どきどきする! やばいでしょ。言ってることは同じでも、わたしのそれとは破壊力がくらべものにならないんですけど! ごめんなさい先輩……雪乃先輩はわたしが貰いますね。


「雪乃せんぱーいっ!」


 すりすりと擦り寄る。なんでしょうね、雪ノ下の女児はわたしを虜にするフェロモンでも纏ってるんだろうか。はるのんといい、雪乃先輩といい、なんでこんなにかわいいの。


「……暑いのだけれど」


 言いつつも、微笑みが漏れている。わたしの恋敵《ライバル》強すぎるなぁ。……まあ、先輩を好きになってる時点で、いい人じゃないわけないしなぁ。その論でいくとわたしもいい人になれちゃうじゃん、win-winかよ。


 するりと離れてるんるん気分で歩き出す。と、たいした間もなく雪ノ下先輩が遠慮がちに声を出した。


「……由比ヶ浜さんも、あなたも……どうして私に」

「あ、そういうの、なしで」


 言い切る前にぶった切るとじろりと睨めつけられた。


「別に理由とかいいじゃないですか。そんなの、気にしなくても。今こうしてることは確かな結果で、未来における過程なんです。いろんなことがあって、満足出来る結果を得たなら、次に考えるのは未来のことですよ。楽しい未来の話を、それを得るための現在《いま》の話を沢山しましょうよ……それに」

「……それに?」


 なんて言えばいいのだろう。わたしがこの人と一緒にいたいと思う気持ちは、どう表せばいいのだろう。多分、的確に表現しようとすると、余裕で陽が暮れる。だから、それなら、こうなる、のかな。


「それに、多分、だいたい一緒ですよ。雪乃先輩と」


 ――いや、これはわたしの願望だ。


 願いだ。望みだ。わたしと同じかそれ以上に、雪乃先輩にわたしのことを想っていて欲しいという、わがままだ。


 でも、それでいいんだ。なにかを願ってもいいんだ。期待してもいいんだ。誰でもじゃない。わたしの大切な人だから、素敵でかわいいわたしの先輩だから、雪乃先輩だから、そう思える。


 ――わがままを言ってもいいのだと、そう思う。


「そう……それなら、そうね。楽しい未来を話しましょう、みんなで」


 みんな、という言葉が雪乃先輩の口から出たことに少し驚いた。でも、そのみんなが示す人物が誰なのか、はっきり分かって、そのことに頬が緩む。


 それはなにかを強制する空間じゃない、集団で個を貶めることもなければ、誰かの言葉に無責任な肯定をすることもない。言い合うし、傷つけ合うし、協力する。輪と呼ぶには歪で、集団と呼べるほど纏まりもない。だから、その『みんな』は確かにわたしの求めた空間だった。


「でも、少し意外ね」

「? なにがですか?」


 首を傾げて訊ねると、雪乃先輩はくすりと笑って、それから答える。


「あなたは、未来なんて分からないから考えることに意味はない、とか言いそうだから」


 ぎくりとした。なぜそれを……どこまでも見透かされてる気がしてならない。けど、反論の余地はある。


「確かに、そう思ってます。今でも」


 不確かな未来を考える、なんて、そのことになんの意味があるのかとは感じる。最悪の未来を想定して、最善を尽くした方がダメージは少ない。つまらないけど、最も安全な考え方だ。


「楽しい未来を考えること、それ自体に意味はないです。でも、みんなで楽しい未来を語ることには意味があるんじゃないですかね。だって、それは、楽しい思い出という結果になるじゃないですか」


 たとえ、それが叶わなくても。思った通りにいかずにより悲しさが増しても、きっとそれを後悔はしない。楽しかった思い出を、雪乃先輩や結衣先輩、小町ちゃんや……先輩と過ごした思い出を意味がないと切り捨てることは出来ない。きっとそれは、わたしが頑張る理由になってくれる。情けないわたしの、背中を押してくれる。


 あのとき先輩たちと語っていなければ、なんて、そんなことを考えるのはわたし自身が許せない。わたしが出来なかったのは、わたしのせいなんだから。


 ……出来ないことは多いだろうけど、せめて、その数は減らしていきたいなぁ。


「着きましたね」


 落ち込みかけた気持ちを誤魔化すように、たんっと一際強く地を蹴る。丁度真横にきた家のインターホンを押すと、ぱたぱたと玄関の向こう側から駆け寄ってくる音が聞こえてきた。


「いろはさんっ! 雪乃さんっ! ようこそいらっしゃいましたー! さ、どうぞどうぞ!」

「小町ちゃん、こんにちは~」

「こんにちは」


 どうぞどうぞたいしたものは出せませんが兄なら出せますよ、とかおかしなことを言う小町ちゃんに苦笑しつつ、家に上がる。案内されるままにリビングに向かうと、いつぞや見た光景。


「よう」

「とても人を呼んでおいて取る態度だとは思えないわ……さすがね、昼寝がやくん」

「お前それ褒めてるつもりなの? ていうか誰だよ、そんな名前の人は知らねーよ」

「さすがですね、オタがや先輩」

「いや、意味通じてるってことはお前も同類だからね? ていうか、なんで俺の中学のあだ名知ってんの?」


 家に上がって最初の会話がこれとか……やはり、わたしの青春ラブコメはまちがっている。でも、あれだよね、やっぱり客が来たって分かってるのにソファに寝そべってんのはどうかと思います。結論、先輩が悪い。


「……由比ヶ浜さんは、まだなのね」


 それぞれ好きなように腰を下ろし、一息吐いてからきょろきょろと家の中を見回して、寂しそうに言う。ゆっりゆりだな、この人たち。どうでもいいけど、ゆっりゆり、って字面めっちゃ頭悪そう。


「わたしがいますよー」


 近付いてぴたっと肩を寄せる。雪乃先輩は猫っぽいと思ってたけど、結構寂しがり屋さんで、なんていうか、わたし得です。ずっとそのままで。


「別に、寂しいとか、そ、そういう意味じゃない……わけでも、ないけれど」

「……なにお前ら、いつの間にそんな仲良くなったの?」


 先輩が仲間になりたそうな目でこちらを見ている。どうする?


「羨ましいですかー? 雪乃先輩の左肩、今なら空いてますよっ」


 一瞬の沈黙。


「いや、いかねぇから……」

「ちょっと考えませんでした今?」

「考えてない! 全然、これっぽっちも、考えてない!」

「……そんなに否定しなくてもいいじゃない……」


 小さな囁きが隣から聞こえて、そしてそれはどうやら、先輩にも聞こえていたらしい。


「……は?」

「なんでもないわ」

「いや、だって、今」

「私はなにも言っていない、そうよね?」


 絶対零度の眼差しだった。……ちょっと冷房強いのかなー? なんか寒気がするんですが。


「お、おう……」


 納得いかないながらも頷く。それでいいんです。世界には触れてはいけないこと、というものがあるんですよ。


 こほん、と話を打ち切るようにわざとらしい咳払いをして、雪乃先輩は横に置いていた紙袋を膝に乗せる。


「そういえば、一応、手土産を持って来たのだけれど……ご両親は」

「んなもんいらねぇよ……親は休日出勤で朝から出てった」

「そう……多忙なのね。どこかの誰かとは違って……どちらがどちらの反面教師になっているのかしら」

「ねえ、ついでに殴ってくるのやめてくれる? 通り魔かお前は」


 苦々しい顔で姿勢を起こす。急所に当たったらしい。


「失礼ね……少しオブラートに包んだじゃない」

「刃物包んでも意味ねーんだよ!」

「拳よ」


 ああ言えばこう言う、こう返せばああ返される、相性いいなーこの二人。


「でも、残念ね……その、私は、事故の件でのご挨拶にも伺っていないのだし、お会いしたかったのだけれど……」

「はあ? まだ気にしてんのかよ、そんなの」

「そ、そんなのってあなたね……一歩まちがえたら死んでいたかも知れないのよ?」

「死んでねーだろ。だいたいもう二年以上前の話だぞ、覚えてねーから、うちの親」


 なんだかすごく悲しいことを聞いた気がする。気のせいですよね……ていうか、嘘ですよね、嘘だと言って。


「折角持って来たんだし、食おうぜ」

「あなたに持って来たわけではないのだけれど……というか、その分は別で用意してあるからそれで我慢しなさい」


 ため息を吐きながら、バックの中を漁る。なにやら小包を取り出して、立ち上がりかけた雪乃先輩を小町ちゃんが押し留めた。


「あー、やりますやります! 小町がやりますので、雪乃さんは座って兄と談笑を!」

「? 別に愉快ではないけれど」

「ナチュラルにひでぇ……」

「冗談よ」


 片目を細めて言われ、先輩は口を閉ざす。ちょっと、今のわたしにもやってくださいよ! ほとんどウインクだよ! ずるい!


「じゃあ、お願いしてもいいかしら」

「はいっ! かしこまりですぅー! 小町にお任せー!」


 びしっとあざとく敬礼して、小町ちゃんは台所へと消えていく。ていうか、本当、誰かが先輩と仲良く話してると徹底して口を挟んでこない。側にいてにこにこにやにやしながら見守っているところに愛の重さを感じた。なにこの兄妹……。


        × × × ×


 本当のところを言えば、なにも変わらないものだとばかり思っていた。


 これからも、同じようにしんどくて逃げたくなるような道を進まなければならないのだと思っていた。一人で、どこにあるかも分からないゴールに向かって走り続けなきゃいけないんだって、そう、思ってた。


 一人であることにいつの間にか縋っていた。一人で出来ることがすごいことなのだと誤認していた。


 誤認――勘違いと言い換えてもいい。派手な勘違いだ。なにもかもすべて勘違い。最初からずれていた。わたし自身が自覚しないままずれていた。


 一人なんて、かっこよくない。


 必要とされて、意味があると認められて、驕っていた。自分はすごいやつなのだと、多分、そんな風に感じていた。意識の底で。


 仕方ないのかもしれない。きっと、いつまでも整理がつかないから、なんでそうなったのか理由が分からなくて、ただ褒められた記憶だけが残って、知らぬ間に一人で出来る気がしてしまったんだ。それは、わたしには止められない。


 なにも変わってなどいないのかもしれない。なんて表層で感じながら、奥の方でなにも変わっていないと決めつけていたから、こんなに驚いてる。


 理由なんていいじゃないか、とは言ったけど、ぶっちゃけ実は今、正反対のことを思っていたりする。


 理由こそが大事なんだ。満足のいく結果を出せたと感じるけど、じゃあそれはすべて最初っから最後まですんなりとうまくいっていた? そんなわけがない。何回も泣きたくなったし、やりたくないと叫んだ。


 紆余曲折あって、それでようやく求めた結果が得られたんだから、それを省みるのがどうでもいいわけがない。


 いつもこの三人がいた。いつだって、そこで一人見守っていてくれた。毎日おかえりを聴けるようになった。だから、過程はとても大事で、理由もすごく大事。


 例えば、ほら、なんでこんなに柔らかいのか――とか?


 ちょーっと支離滅裂なことを考えてしまっていた。ちょっとだよね? 大筋こんな感じだったよね? そんなに記憶力がないから、何ヶ月も前の頃の自分の気持ちなんてそっくりそのままは思い出せないけど、ここ最近のに関しては、改めて思い返してみればそんな感じだったかなぁ、と思わないでもない。


 うーん、いまいち集中出来ないなぁ。こう、もっと没頭したいんだけど、うまくいかない。どうしてもわけのわからない思考回路になってしまう。それはもともとか。


 とにかく……少しでも気を緩めると意識を持っていかれそうだった。


「……! ……っ!」


 どんどんと床を叩いてみるも、どうにも意思疎通が出来ていないように感じる。……落ち着いて、考え事に戻ろう。そう、思考の渦に飲まれて、息も忘れるほどに。


 理由、だったっけ? えと、確か、わたし、おっぱいが柔らかい理由を……違う。そんな話はしてない。なんだっけ。


 ……いや、無理でしょ、やっぱり。そんなに考えることないもん、今。どっちかっていうと今幸せだからこれから落っこちそうって感じがす……やめよ、怖くなってきた。


「んー……っ! んー……っ!」


 もがもがと口を動かすも、どうやらこれもダメらしい。……やば、なんかクラクラしてきた。


「い、いろはちゃんは、あたしとも、その、友達なんだからねっ!」


 どうでもいいから離してください……柔らかいいい匂い息出来ない……。おっぱいに挟まれて酸欠で死亡、とか絶対に嫌な死に方ランキング堂々一位まちがいなし。


 よろよろと伸ばした手がふに、と柔らかいものに当たった……なんだろうこれ。今の体勢を考えると……お腹? 結衣先輩のお腹……なんだそれエロい。


 欲望混じりにぐにぐにと感触を楽しんだ。うへへ、肉付きのいい身体ですねぇ。


「ひあっ……っ!」


 どんっと、衝撃とともに顔面が凶器から離され、反射的にすぅっと息を吸い込む。作戦は成功した。……ほんとに作戦だよ?


「――はあっ……はぁっ……し、死ぬかと思いました」


 無意識に今まさにわたしを殺さんとしていた物体を睨みつけていた。なんてわがままなボ……凶器。ちょっと、わたしも欲しいんですけど。得たくても得られないものに殺されかけて、正直半泣きなんですけど。


「ご、ごめんね!」


 ゆっさゆっさと凶器を揺らしながら犯人もとい結衣先輩がわたしの背中をさすってくれる。ようやく落ち着いてきた頃、改めて室内を見回した。


 あ、そうだ、先輩のお家にお邪魔してるんだった。あまりに凶悪な出来事に襲われて忘れていた。これが小説だったら冒頭1000文字くらいわけのわからない独白をしているところだった……小説じゃなくてよかった。


「それ……どうなってるんですか」


 じーっと結衣先輩の胸をガン見しながら訊ねると、結衣先輩は恥ずかしそうに胸を隠して――全然隠しきれてないけど――それからぼそぼそとつぶやく。


「べ、別になにもしてないし……」


 出たよ、特になにもしてないやつ! ……なんか前にも似たようなこと聞いた気がするんですが、まあ、気のせいでしょう。


 ちなみにここに先輩はいない。今は女子勢による先輩の部屋物色タイムなのだ。それはもう嫌がっていた。あれー? ケータイは簡単に渡すのに部屋を見られるのは断固拒否ってことはつまり……見られて困るものがあるんですね? うふふ。


 とは言え、わたしは一度すでにこの部屋に来て物色した経験がある。まあ、わたしがうっかり口を滑らせたせいでこうなってるんだけどね。


 さて、とベッドに腰掛けて、顔に染みついた感触から意識を逸らしつつ、先輩方に目を向けた。


「えー……っと? なんの話してましたっけ……」


 そもそもどうしてわざわざ先輩の部屋の物色なんてしているんだったか。


 確か……まず、結衣先輩が来たところで、それじゃあ今日の本題たる『文化祭のお手伝い内容』について話そうか、という流れになったはずだ。


 それで、その辺りから妙に二人から視線を感じていて、うまいこと先輩を除いた三人になる方法を見つけたわたしはその理由を訊こうと、世間話を装って「そう言えば前に来たことがありましたねー」なんて話題を振って、雪ノ下先輩が食いついて、そうそう……それで、先輩の部屋を探検しようということになったわけなんだけど。


「――私たちがするのは文化祭の手伝いではないから、ある程度先に口裏を合わせておきましょう、という話をしていたのよ……」

「あ、それですね……それで、それでなんで窒息」

「あなたが私との関係を『大切な友達が出来たみたいな気分です』とか言うから……」


 ああ、そうだ。なんで急に呼び方を変えたのかと訊かれてそうやって……いや、正確には、今まではるのんくらしかいなかったから、って感じのことを言ってしまったせいで結衣先輩に必要以上の情けをかけられてしまった。つまり同情の抱擁だった。


 同情された上に殺されそうになるなんて……自分でもなに言ってるか全然分かんない、すごい。


「お二人とも、大切な先輩ですよ」

「わ、分かってるし……でも、その、だって、あたしも、いろはちゃんと友達になりたいんだもん……」

「ああ……」


 同情じゃなくて嫉妬だった。いや、すっごくどうでもいい! 嬉しいしかわいいけど! どっちでもいいです! ていうか、どっちにしろ大切なんで!


「嫉妬深い、は若い男性の嫌う女性の特徴ランキング一位らしいですよ」

「し、嫉妬とかっ、そんなんじゃないし! ていうか、ヒッキーに嫉妬とか……そんなの……それ、ほんと……?」


 わちゃわちゃとかわいらしく手を動かしていた結衣先輩は、いつの間にか真顔になっていた。ちょっ、もう一人も真顔になってるんですけど! しかもこれ多分無自覚!


 口を挟んでこない辺りが、興味ないフリしてるつもりらしいことを教えてくれる。……うーん、やっぱり、いや、今はいいか。


「いきがったチャラ男100人くらいのアンケートなんで、先輩がどう思うかは知らないです。……わたし的には真逆な気はしますけど」


 ほっと、二人はシンクロしたように息を吐いた。ていうか、嫉妬してる自覚はあるんだなぁ。ぶっちゃけわたしも独占欲強い方なので、是非先輩にはあのわけわかんないあざとさを直して欲しいです。


「話を戻しましょう」


 きりり、と真剣な表情で言う。そんな顔しても、さっきの見てましたからね!


「文化祭実行委員、っていうのが、まあ、一番無難なんじゃないですかねー? 本格的にやばくなる可能性もないわけではないですし」

「そうね……でも、あなたとしては私たち二人が一緒についてくる、というのは好ましくないのでしょう?」

「うっ……」


 痛いところを突かれた。わたしがこの前、先輩にだけ声を掛けたのは、大声でそう叫んでいるようなものだしね……嫌なわけじゃないんだけど。


「そこはまあ、出来ればって感じで……雪乃先輩も結衣先輩も、わたしにとっては大事な先輩ですし、お膳立てされたところで告白するわけでもないのに後ろめたいかなーみたいな……」


 たはは、と苦笑いをこぼすと、二人は顔を見合わせてきょとんとする。それからわたしを見て、


「あら、そんなこと」

「意外かも」


 意外って……わたしだって罪悪感くらい感じたりしますし。どんなイメージ持ってるの?


「いろはちゃんって、もっとこう、わがまま? な子だと思ってた……」


 言ってから、同意を求めるように雪乃先輩に視線を向ける。と、雪乃先輩もこくりと頷く。


 わがままとか……ちょっと酷くないですかね。わたし、大切な人相手にそんなわがまま押し通すような人間に見え……いや、それ先輩相手によくやってたわ。


「で、でも、大切だから……その、わたしだけいいのかなって……そういう、感じなんですけど……」


 窺うように顔を伏せながら目だけ向ける。と、雪乃先輩はこてんと首を傾げてついでに眉根も寄せた。


「よく分からないわね……あなた、なにか勘違いしてないかしら?」

「勘違い、ですか……?」


 なにを勘違いしてると言うのだろうか。別に、特別おかしなことを言ってるつもりはないけど……。


 困惑するわたしを見かねたのか、雪乃先輩は不満気に口を開いた。


「なら訊くけれど……奉仕部は週に何日活動していたかしら?」

「? 五日、ですよね」


 質問の意味がよく分からない。なにを今更と言う感じだ。


「では、私や由比ヶ浜さん、比企谷くんはそのうち何日部活に顔を出していたと思う?」

「……五日? わたしは、途中から週に一度程度しか顔出せてなかったので、誰かが決まった曜日に来てなかったとかは把握出来てないんですけど」

「合っているわよ。最後の質問は『あなたは何日奉仕部に来ていたか』だったのだけれど、それは今言ったからいいわね……私の言いたいこと、分かるかしら?」

「…………」


 今のなんか意味あったの? 奉仕部の活動日数と、部員の出席日数と、わたしが顔を出した日数が、どう解釈すれば勘違いに繋がるのか。


「……本当に分からないの?」


 結衣先輩が不安そうに訊ねてくる。そんな不安そうにされても……え、本当になに。うんうんと頭を悩ませていると、はぁと呆れたようにため息を吐かれた。


「……私と由比ヶ浜さんは、あなたが週に一度程度しか顔を出さなくなってから廃部までの期間で考えると、あなたの五倍、比企谷くんと同じ時間を共有しているのよ」

「それは……そうですけど。でも、別に二人きりってわけじゃないですし、それに、わたしが意図してそうしたわけじゃないですよ……?」


 そんなことは分かっている。でもそれは、わたしがこの二人に手伝ってもらってまで先輩と二人きりになりやすい状況を作ってもらう対価にはならない。


「――自分が今までなにをしてきたのか忘れた、なんて言わせないわよ」


 冷ややかな瞳が、過去のことを思い出させた。


「あれは……っ、わたしが、勝手に」

「そう……なら私たちも勝手にやることにするわ」


 毅然とそう言い切った雪乃先輩は、ふっと寂し気な表情に変わって、それから泣きそうな声で、


「いつまで……一人でいるつもりなのよ……っ」

「ゆ、雪乃せんぱ――」


 びっくりして声をかけようとしたわたしを手で制して、雪乃先輩はぎり、と下唇を噛む。その、これ以上ないほどに悔しそうな表情から目が離せない。


「あなただけが――あなただけがっ、大切だと思ってるなんてっ……そんなわけないじゃない……っ!」


 荒々しく漏らした吐息が、雪乃先輩に持っていたイメージとは違っていて、なんだか違う人を見ているような気分になる。こんなに怒っている彼女を初めて見た。その相手が自分だということに、いまいち現実味がわかない。


「そんな……ことは……」

「……言っているようなものよ。そう、言われてる気分なのよ……っ。あなたと同じくらいっ、私は――わた、しはっ……あなたの、ことを」

「ゆきのん……落ち着いて」


 そっと、抱きしめるように結衣先輩が嗚咽を漏らす雪乃先輩を宥める。


「……いろはちゃん。あたしも……ゆきのんと同じこと、思ってるよ」

「なんで……」


 いまだ状況への理解が追いつかないわたしに優しく微笑んで、結衣先輩が口を開く。


「……いろはちゃんは『わたしだけ』なんて言うけどさ、そう思ってるの、いろはちゃんだけだよ。……いろはちゃんはあたしが、ううん、ゆきのんとかヒッキーもだけど……似たようなこと言われたら嫌じゃない?」

「それは……場合に、よります」

「その場合が今なんだよ。自分は助けられたって、しっかり隣に立ちたいって、そう思ってるのにさ……相手は全然そんなつもりなくって、守られる立場にしかなれない。言葉で受け入れてくれても、態度でいらないって言われる。それって、結構、辛いよ……」

「そんな、つもりは……」


 ――なかっただろうか。言い切れないのが、その証明に他ならなかった。表層では頼っているつもりで、心の奥ではそう思ってない。だから、こうなる。


 いつまで一人でいるつもりだと怒られた。似たようなことを、この人と似たような人に言われた記憶がある。……なにも変わってなかったんだなぁ。


 わたし自身が自覚しないままずれて、そうして亀裂が走った空間。これを、修復出来るだろうか。わたしに。



 その疑念こそが、そこでわたし一人しか考えていないことこそが、きっと、今回の問題点なのだろうと、それに気づかない限り無理だなんてことは、当然、今のわたしに分かるはずもなかった。


 零れ落ちる雪乃先輩の涙を見ながら、わたしはただ、どうすればと頭を悩ませる。


 一人で。


        × × × ×


 居心地が悪い。ギスギスした、というよりは、なにかあったのになにもなかったかのように振る舞う空間。別に無理してというわけではないし、どちらかと言えばなにもなかったフリなんて出来てないんだけど。


「どうしたんだ、お前ら……」


 呆れたように先輩が言葉を漏らす。それに答えていいものかどうか迷っていると、雪乃先輩が先に口を開いた。


「なんでもないわ」

「つってもなぁ……目赤くなって」

「なってないわ。あなたこそ目が腐っているわよ」


 つーんと目が見えないようにそっぽを向く。なんだかかわいくてつい笑みを漏らすと、ぎろりと睨まれた。……はい、すみません。


 先輩は雪乃先輩の暴言には取り合わず、結衣先輩に目を向ける。結衣先輩はさきほどから終始苦笑い。それでなんとなく察したのか、先輩は最後にわたしを見て、優しく微笑む。


「また一色か」


 微笑みは格別のものだったけど、台詞は聞き捨てならない。どういうことですかね。


「ちょっ、またってなんですかね……その言い方だとまるで前にもわたしがなにかやったみたいに聴こえるんですがー?」

「やってないつもりでいることに驚きなんだが……怒るべきか?」

「……ごめんなさいです」


 しぶしぶ謝ると、隣からくすりと笑い声が聴こえた。どちらだろう、いや、見なくても分かる。


「でもでも……その、今回はわたしにだってちゃんと意見があるんですよ」

「ふぅん……まだ、そういうことを言うのね」


 ぐさっぐさっと鋭い言葉が刺さる。痛いです……ちょっと大人気なくないですかね。


「やめろって……」

「ゆきのん、落ち着いて。ね?」


 苦笑しつつ二人が雪乃先輩を止めると、不本意そうにしながらも雪乃先輩は口を閉じた。


「あー、まあ、なにがあったのかは訊かねぇけど……ちょっとした喧嘩って認識でいいのか?」


 これ以上話がずれるのを面倒に思ったのか、先輩は結衣先輩に向かって訊ねる。別にわたしだって答えられますから! 雪乃先輩が過敏に反応してるだけだもん、絶対……多分。


「うーん……どうだろ。だいたい合ってるかなぁ」

「喧嘩なんて、してないわよ……どっかの誰かが鈍いから――」

「はい、ダメだよーゆきのん」


 結衣先輩に言葉を遮られて、雪乃先輩は驚いたように目を見開く。わたしも少し驚いた。結衣先輩は雪乃先輩側だと思ってたんだけど。


「あたしは今回、ゆきのんも結構、言葉が足りなかったんじゃないかなって思う。……なんか、その、なんて言えばいいかよく分かんないんだけどさ、もっと安全な方法? もあったんじゃないかなぁ」

「なるほど……まあ、だいたい分かった」


 二人のやり取りを見て、先輩は納得したように頷いた。


「この件に関しては、由比ヶ浜に任せてよさそうだな」

「あ、うん。でも、ちょっと時間、かかるかも……」


 正直に言って、よく分からないというのが本音だった。結衣先輩がどう見ているのか、先輩になにが分かったのか、わたしにはよく分からない。


 誰かを大切に思うのが、そんなにいけないことだろうか。もちろん、反省はしてるし、関係を修復したいとも思うけど、わたしばかりが助けられるというのは、やっぱり受け入れられない。


「先に言っとくが、基本的に俺は関与しない」

「「え」」


 雪乃先輩と声がハモる。まさかそんなことを言われるなんて、という感じだ。突き放すような言葉に、狼狽えてしまう。


「で、でも、あなただって、分かっているのでしょう……?」

「ああ、分かるよ。雪ノ下の気持ちも分かるし……一色、お前の気持ちも分かる」

「ならっ……」


 どうしてと口にするまでもなく、先輩はわたしの疑問に答えた。


「でも、それはお前の問題だろ。お前と、雪ノ下の問題だ。いや、由比ヶ浜も一応当事者なのか……まあ、どちらにしても俺が間に入ってどうこうするのは違うだろ」


 正論になにも言い返せない。


「お前らの問題は、お前らが解決すべきだ。違うか?」

「違わない……ですけど」


 初めてのことかもしれない。今まで、先輩は頼れば手伝ってくれていた。それが、ここにきて、自分でやれと言われた。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。


 わたしに、出来るのかな……。


「じゃあ、この話は終わりでいいな。ああ、文化祭に関しては当初の予定通り手伝うから安心しろ」

「そういうことじゃないんですけど……」


 なんだか納得がいかない。手伝うと言ったり手伝わないと言ったり、そこになんの違いがあるのだろうか。文化祭だって、言ってしまえばわたしの問題だ。


 ちらと横目で雪乃先輩を見れば、彼女もまた似たようなことを思っていそうな顔をしていた。わたしと雪乃先輩の問題……。それを解決すれば、もっと近付けるかな……それなら、やる価値はありそうだけど。


 下手をすれば、離れてしまいそうな気もする。そこが心配だ。手放したくない。せっかく得られた関係を、大切なものを失いたくない。文化祭が終わるまでに、どうにか溝を埋めたい。


「……一応、分かりましたと言っておきます」

「不満気だな。そんなに難しい話はしてないつもりだが……いや、第三者と当事者じゃ、そりゃ認識の違いもあるか」

「? よく分からないんですけど」

「こっちの話だ」


 なんか腹立つ。こう、完全に手綱を握られている気がする。手のひらで踊らされていると言ってもいい。人形劇の人形になった心持ちだ。むむむと唸っているうちに、先輩は本題へと話を戻す。


「んで、文化祭の件だが、具体的にどう手伝えばいい?」

「えっと、わたしとしては、実行委員になっていただいて適宜サポートという形が無難かなぁと思うんですけどー……」

「だよなぁ……働きたくねぇ」


 顔に濃い影を落としてダメ人間みたいな台詞を吐く。いつも働かせてばかりですみませんね……面倒はなるべくかけないよう頑張るので、くっそ長いため息やめてもらえますか。


「……まあいい。それでいく――」

「私はクラス展示の手伝いを頼まれているから無理よ」


 唐突な拒否に、先輩はなにかを考えるように頬づえをつく。しばらくして顔を雪乃先輩へと顔を向けた。


「クラス展示……? お前が、友達と……?」

「失礼ね……。わ、私だって……少しは変わっているつもり、なのだけれど」


 雪乃先輩の雰囲気は以前よりだいぶ和らいでいるし、クラスメイトとそれなりの仲を築いていても特別おかしくは感じない。国際教養科はクラス替えないし。


 でも、雪乃先輩が拒否したのは別の理由からだ。それは、先輩の部屋での会話を思い出せば容易に判断出来る。


 つまり、これが『勝手にやる』ということなんだろう。ここでわたしが無理に頼んでも、まだ問題が発生しているわけじゃないから不自然だし……大人気ない!


「……由比ヶ浜は?」

「あー、あたしも優美子に……ごめんね」

「謝る必要はねぇけどな……」


 この追い詰められてる感じ……辛い。普通に辛い。


 素直に喜べばいいのかなぁ。気を遣ってもらって、ありがとうございますって。一応、わたしが頼んだことではあるし、ここはむしろ開き直ってしまったほうが正解な気もする。


 素直に、とか、わたしの一番苦手分野なんですけど……。ちらっちらっと雪乃先輩に恨みがましい視線を飛ばしていると、それに気づいたのか、雪乃先輩はこほんとわざとらしく咳払いをする。


「……手伝わない、というわけではないわ。経過観察だけなら比企谷くんだけで事足りるでしょう。なにか問題が起きたら、いえ、起きる予兆があれば報告して。そのときはいろはさんを優先する。必ず」

「雪乃先輩……」


 力強い言葉に、喜びと申し訳なさがごちゃ混ぜになる。そうやって言ってもらえるのは、すごく嬉しい。出会ったばかりの頃とは関係が変わったと、時間が経つにつれより親密になれていると、そう感じる。


 でも、やっぱり、それを感じて浮かんでくるのは――だからこそ、なのだ。


 幸せになりたいと願った。本気で叶えたいと叫んだ。けど、雪乃先輩にも、結衣先輩にも、わたしは幸せになって欲しい。先輩だけじゃなくて二人も見て、空間じゃなくて人物を見て、より想いが増した。


 三人をくくるものはもうなくなってしまったから、そこに割って入っていいのかという躊躇が肥大する。それは手を止め、足を止める。……これだから、二人に相談するのは嫌だったんだ。見なければ、気づかないフリをして抜け駆けすることも出来たのに。


「……言ったじゃない。私も――あなたが好きなのよ」


 ほのかに色づいた頬を緩めてそんな殺し文句を言われたら、返す言葉が出ない。……本当に、ずるい。心の底から素敵な人だと言える。


 ……なんとか、しなきゃ。いまだなにをどうすればいいのか分からないけど、もう傷つけたくない。傷つけないことが無理だとしても、傷つけない努力はすべきだ。


 怒られたくない。悲しませたくない。大切な人だから。


 そんなことすら満足に出来ない自分に嫌気がさす。とは言え、出来ないのはもう慣れっこだ。満足に何かを成せたことなんて、ほとんどなかった。ずっと、嫌なことがあって、失敗して、泣きたくなって、自分のことが嫌いになりそうで……そういう中で足掻いてきたんだから。


 今回もなんとかする。必ず。


 出来るはずだ。徹底的に瓦解してしまったわけではない。雪乃先輩の態度からわたしに対する負の感情は読み取れないし、多分、ちょっとしたすれ違いみたいなもののはずだから。


 正直に言えば……ほとんど、なにもしなくてもいいのかもしれない、とは思っている。なんとなく、わたしが言われるままに甘えれば、それで解決するような気がしないでもない。でも、そうして解決した問題は、また後になって出てくる。


 問題の先送りはしない。文化祭の件を片付けながら、迅速に終わらせるべきだ。


「……雪乃先輩。わたしはやっぱり、よく分かりません。わたしも同じ気持ちだからです……でも、なんとかしたいなって思います」

「そう……なら、どうしたらいいと思う?」

「……少し、考えてみます」

「そういうところよ」


 言われた言葉の意味が、わたしにはまだ、分からなかった。




2        



 くつくつと笑い声がリビングに響く。笑ってはいけないという思いは一応あるのか、必死に押し殺している様が逆に腹立たしい。


 結局、諦めてひとしきり盛大に笑った後、彼女は涙目になりながら口を開いた。


「ふふっ、あはは……んんっ。はぁ……それで? いろはすはどうしたいの?」


 仕切り直すように真面目な顔してますけど、犯した罪はそう簡単に消えませんよ!


 なーんてことを思いつつ、なんだかんだでやっぱり感謝もしつつ。面倒くさいツンデレキャラみたいな思考の傍らで、その問いになんと答えるべきか、あるいは応えるべきかを思索する。


 素直にゲロるの一本道だった。


「どうしたい……って言われましても。どうにかするしかない、としか」


 吐露したのは紛れもなく今の心情だった。


 そう、どうにかするしかないんだ。いや、どうにかしたいのか。それがわたしのしたいこと。考えるまでもなく、雪乃先輩と和解したいと思う。あれを喧嘩と呼ぶのかはともかく。


「うーん。これ雪乃ちゃんで大丈夫かな……」

「ちょ、それどういう意味ですかね」


 改めてはるのんに視線を向けると、想像よりも少しだけ真面目な表情が瞳に映った。


 それは責めているようなものではなくて、どちらかと言えば『案じている』に近い。彼女はたまにそんな顔をする。


 心配を掛けてしまっていることに罪悪感を覚えないと言えば嘘になる。どれだけ親密になれたとしても、なるたけ迷惑になるようなことは避けたい。たとえ、相手がそれを迷惑だと感じていなかったとしても。


 けれど、相手への負担を容認している自分も確かにそこにいたりする。それがはるのんに対してだけのことなのか、それともわたしが親しいと思っている相手すべてになのかは分からないけど。


 ……こうじゃないな。本当は分からなくなんてない。


  確かにと言うからには、当然、わたしには明確にその差異が感じ取れているわけで。じゃあ、先輩たちへの負担を容認している自分はいるか。というと、断言は出来ないものの、いないに近いだろうとは思う。


 わたしははるのんだから――雪ノ下陽乃だから、こんな相談をしているのだ。


 その答えに、わたしはすんなりと納得出来た。心の中で、彼女は話してもいい相手だと認識していた。それは、今まで先輩たちのことを報告してきた故のものだろう。相手の利になるから、と自分の心を誤魔化して相談出来る。


 ただ、それだけでは誰でもよかったかのようにも思える。


 ポジション。立ち位置。例えば、はるのんと雪乃先輩が入れ替わっていたら、わたしは雪乃先輩に同じことをしていたんだろうか。


 きっと、していなかった。


 先に考えた通り、わたしは雪ノ下陽乃だから相談している。それだけは断言出来る。


 つまり、それはイコールでこういうことになる。


『わたしは雪ノ下雪乃だから相談していない』。


 差別的だ。もちろん、誰に対しても同程度の感情を向けなければいけないと思っているわけじゃないけど。誰も彼もが大事なんだと言いながら差を作ってしまっていた。わたしが雪乃先輩の立場なら正直嫌だ。


「なるほど……」


 そういう意味か。


 なんだか分かってきた。雪乃先輩がどうして怒ったのかも、はるのんの言葉の意味も。そっか……だから、雪乃先輩で大丈夫か、なのか。


「あれ? もう気づいたの?」

「……はい。まあ、なんとなくですけど」

「なーんだ。つまんないのー」


 つまんないって……まったく。はるのんはいつもそうだ。


「そもそも、こうなることが分かってて言ったんじゃないんですかー?」


 わざわざ表情を変えてまでヒントを出してきたんだから、予想していなかったというほうが嘘くさい。はるのんが嘘くさいのは平常運転か。


 ちょっと甘やかされている気がしないこともないが、わたしがはるのんに甘やかされるのは今に始まったことじゃない。あんまり意識したくないけど。


「どうだろうねぇ……期待はしてたと思うけど」

「期待、ですか」

「そ。いろはすは下手にわたしが動くより、自由にやりたいことやらせといたほうが楽しいし? たまーに口を挟むくらいで丁度いいのよ」


 酷い言い草だった。人の悩みを楽しむなんて、いい趣味してますね。確かに手を出されないほうがやりやすいとは言え、なんだか癪だ。


「……ん?」


 ちょっと待った。期待、なんて言葉で誤魔化しはしたけど、結局のところはるのんはわたしが気づくのを予想していたと考えて間違いないはず。でも、それを予想するにはわたしがはるのんのことをどう思っているか理解していなきゃいけないわけで。


 ていうか、そもそも直前の台詞からして明らかだ。彼女はハナから自分と雪乃先輩がわたしにとって同じ位置にいると考えてはいなかった。


「でも、別に操られたって感じじゃないんですよね……」

「操られた? ああ……ぷっ、あははっ!」

「な、なんですか……」


 そんなに的外れなことを言ったつもりはなかったんですけど。もしも、わたしがこうしてはるのんに頼ってしまうところまですべて計算づくだったとして、そのことを驚きはするものの不思議には思わない。


 この人ならそのくらいやってのける。と、そう感じる。それすらもはるのんによる印象付けなのかもしれない。実際、大概のことはやってのける人だけど。


「……別にさ、いいんだよね」

「? なんの話ですか」

「わたしの話」


 ふふっと妙に色っぽい笑みを漏らす彼女は、まるで朝顔に滴る朝露のようだった。無意識に手を伸ばすと、辿り着くよりも早く、ぽすっと頭に手が乗せられる。


「大丈夫……まだ当分いるから」


 言葉の意味はよく分からなかった。髪を撫でつけるように動く手のひらがすごく心地よくて、なんだかうとうととしてくる。


「いいの、他人にどう思われても。そんなのはいつだって自由に出来るから」

「恐ろしいですね……」

「本当にそう思ってる?」

「……思ってないです」


 心から恐ろしいと思ったことがないと言い切れるわけじゃない。多分、何度かはあるし、これから先ありそうでもある。ただ、今この瞬間は思わない。それだけ。


「素直でよろしい。……そうだね、いろはすには割と甘くなってる気がする。わたしにもなんでなのかはよく分かんないけど……まあ、わざわざ厳しくする必要もないだろうし」

「甘々でお願いします」

「んー、気分が良ければ考えてあげようかな」


 厳しいお姉さんだった。


「……でも、仕方ないからわたしを頼っちゃうのくらいは見逃してあげるよ」


 やっぱり、最初っからはるのんを頼るようになる方向に誘導していたんだろうか。だとすれば、今まで雪乃先輩たちの話を聞きたがっていたのは演技ということになる。


 ……それはそれで、おかしい気もするんだよなぁ。


「成り行きだよ」

「成り行き?」

「うん、成り行き。たまたま成り行きでそうなっちゃっただけ。別に、いろはすに信用してもらおうとか、頼ってもらおうとか考えてたわけじゃない」


 成り行き……。


「はー……、とりあえずはなんとなく納得しました。でも、そうなると、はるのんはどこからわたしがはるのんを頼ってることに気づいたんですか? 今回も今までも、わたしは訊かれたことに答えていただけですよね?」


 何度か助言を受けたことはある。思い返してみれば、はるのんに話すことで整理出来たこともあった。けれど、わたし自身にそんなつもりはなかったわけで。


「そうだねぇ……。ポイントはいくつかあったけど、確信するほどのものじゃなかったし、いろはすは基本的に自分でやるって意思が固かったから、どこからってはっきり言えるほど明確じゃないかなぁ」

「じゃあどうして――」

「――そうであって欲しかったのよ」


 台詞を切られて言葉が喉で詰まる。ぐっと飲み込むと、今度は放たれた言葉の意味に意識が向いた。


「……それって」

「わたしらしくないかな」


 照れ臭そうに笑うはるのんがとてもかわいらしくて、別人を見ている気分になる。確かに、こんなのははるのんらしくない。


「でも、らしくないのが本質なんですよね?」

「ふふっ、よく覚えてるね」


 そりゃあ、大先輩のお言葉ですからね。


 ところで話は戻りますけれども、その笑顔破壊力高くないですか? かわいすぎじゃないですか? 惚れてしまってもいいですか?


「……誕生日のときも思いましたけど、そっちの方がかわいいですよ」

「なっ、なによいきなり……」

「あ、照れてますね~?」

「て、照れてないから! あー、もうっ、からかわないでよー……」


 はー? なんだこの天使! いつもの大魔王ハルノンはどこに行ってしまわれたのだ! 二度と帰ってくるな! まあ、あれはあれで嫌いじゃないけど。


「はいっ! もうこの話はおしまい! いろはすも答えは出たでしょ!」

「はーい」


 笑いながら同意しておく。はるのんの場合、あんまり茶化すと後が怖いからなぁ。……わたしがはるのんを茶化す、か。あのはるのんを、陽乃さんを……三月のわたしに言ったら絶対信じてもらえないだろうな。


 たった数ヶ月、たった半年。それだけの期間でたくさんのことがあって、いろいろと関係が変わった。これからも目まぐるしく変わっていくんだろうか。


 そんな感傷的なことを考えていると、きぃと扉の開く音が耳に届いた。二人揃って目を向けると、そこにいるのは当然一人しかいないわけで。


「お母さん……まだ起きてたの?」

「ん。本読んでたらちょっと夜更かししちゃった」


 いたずらが見つかった子供みたいな顔でお茶目に笑う。あなた何歳だと思ってるんですか。元気なのは別にいいけど。


「もー。いつでも読めるんだから、そんなに慌てて読まなくてもいいのに」

「読書っていうのは、途中で閉じるとそれはそれで眠れないものだよ。ねー? お母さん」

「ねー? 陽乃ちゃん」

「そこ、かわいいことしない」


 ねー? じゃないよ、まったく。ていうか、はるのんのお母さんじゃないですし! お母さんはわたしのお母さんだもん! 仲がいいのはなによりだけど!


「あ、いろはが拗ねた」

「え、いろはす拗ねたの? ジェラシー?」

「拗ねてません!」

「怒ったー」

「こわーい」


 あー、もうなんだこのコンビ! 絶妙にうざい!


「お母さんはさっさと部屋に戻る」

「えー、たまにはいいでしょー。お母さんも夜のお勉強会に参加したーい」


 なんだよ夜のお勉強会って……確かにその通りだけど、なんか卑猥。……わたしの思考がおかしい? いえ、そんなことはないはずです。みんなこう。


「まだ十二時前だし、いいんじゃない? たまには」

「……はあ。そうですね、たまには」


 実際、大人が起きてても特別おかしな時間じゃない。いつもは規則正しく生活してるんだし、たまにはそういう息抜きも必要だろう。


 無理に戻らせてはるのんに要らない心配をされるのも避けたいし。


「やった~。ふふっ、ありがとうね、いろは」

「べ、別にわたしなにもしてないし……」

「じゃあ、深夜の女子会スタートー!」


 お勉強会じゃないのかよ!


「……ていうか、女子?」

「ほう。いろはすはなにか言いたいことがあるみたいね。怒らないから言ってごらん?」


 ただならぬ圧力を二方向から感じた。それこそがまさに二人の女子感を薄めている気がしたけど、わたしはそっと口を噤む。余計なことは言わないに限る――!


「反省しているようなので、今回は罰ゲームで手を打ちましょう」

「うんうん、それがいい」

「ありがとうござ……い、ます? え? 罰ゲーム?」


 おかしい。全然許されてないじゃん、これ。女性との会話で年齢に関するツッコミを入れてはいけない(戒め)。


「なににしよっかなー」

「あ。お母さん、比企谷くんとどこまで進んだのか聴きたいなー」

「ぶふっ……くくっ、ふふふっ、あははははっ!」

「ちょっ、笑い過ぎですから!」


 失礼な! わ、わたしだってちょっとくらい進歩があったり……なかったりしますし。具体的に言えばないですし。いや、ないのかよ。泣きそ。


「もしかして、なんにも進展ないの?」

 まさかそんなわけないだろう、とでも言わんばかりだった。

「ぐっ……」

「お家にまで連れて来ておいて?」

「うっ……」


 不甲斐ない娘でごめんなさい。いやでもわたしなりに頑張ってるときはありますし実際夏休み明けに危機感覚えて行動したしそれは評価されていいと思うんですよええ。


「押し倒されてたのに……?」

「あれは事故!」


 あ、あんなの押し倒され……あ、うぅ。恥ずかしくなってきた!


「ちょっと待って、押し倒されたの? わたしその話聴いてないんだけど」

「掘りかえさなくていいですから! ただの事故ですから!」


 なんなのもう……わたしが一体なにをしたっていうんだ。こんな辱めを受けるようなことをしただろうか! 否! よろしい、ならば戦争だ!


「は、はるのんはどうなんですか! 好きな人とか……ほら、その、葉山先輩とか」

「へ? 隼人? なんでそこで隼人が出てくるのよ……」

「あれ? なーんだ……外れか」


 もしかしてーと思っていた程度だったけど、実際に言われてみると意外だという気持ちが強い。なんでだろう……どこかではるのんと葉山先輩がお似合いだと感じていたというのが、妥当な線か。


「……ふぅん」

「な、なによ……」

「いえ別にー」


 でも葉山先輩は絶対はるのんのこと好きだと思うんだよなー。だからと言って、葉山先輩に協力するとかはないけど。他人の恋愛にそこまで積極的にはなれない。


 そもそもそういうのって、冗談半分で手を出したところで楽しいのは第三者だけなんだよなぁ。


 ……ああ、なるほど。つまんなかったのか。当てが外れて面白くなかったから「えー、いがーい」という謎のリアクションが胸の内に沸いてきたわけだ。わたしも中々ミーハーだった。今時の女子高生だからね、仕方ないね。


「うーん……好きな人はいないんですか?」


 結局、続けてしまった。でもちょっと気になりますよね、はるのんの好きな人。


「え、その話続けるの?」


 ええ、ミーハーなんで。心の中で開き直りつつ言葉を返す。


「人を弄るということは、もちろん自らが弄られる覚悟もあるということですよね!」

「からかったのはいろはすが先じゃない!」

「それはそれ、これはこれです!」

「ずるいっ!」


 どう見ても子供の言い争いだった。すぐ脇からくすくすと笑い声が聴こえているけれど気のせいですね。気のせい気のせい。一休み一休み。


「陽乃ちゃんの好きな人、お母さんも知りたいかも」


 まさかの参戦だった。ナイスアシストだよお母さん!


「お、お母さんまでぇ……っ!」


 二対一の状況に珍しく……いや、今ではそんなに珍しくもないけどはるのんがたじろぐ。母は強し。ですが、お母さんはわたしのお母さんですよ。そこのところ忘れないように。


 でも、なんだかんだ言いつつはるのんも楽しげではある。都合のいい解釈をしている可能性もほんのちょっとある。いじめはない。


「……好きな人なんて、いないよ」


 ぽつりと漏らした言葉がどこか弱々しくて、なんだかひるんでしまった。けれど、即座にその弱さは霧散する。


「でも、強いて言うなら――」


 頬が紅く色づく。上目遣いでわたしを見たはるのんは迷うように視線を動かした後に、もう一度こちらを見て口を開いた。


「――いろはす、かな」


 一瞬、時間が止まった気がした。




「…………え」

「ぐふっ……」

「……え?」


 なんか変な音が聞こえましたよ、今。


「くっ、くふっ……くくっ」


 聞き間違いではないらしい。そしてどうやらその音は、今しがた爆弾発言をかましてきた俯いた女性が発生源のようだった。ぷるぷると肩が震えている。


 ああ、そう。うんうん、なーるほど。わたしこれ知ってる。ほら、三、二、一。


「あはははははははっ! もう無理っ、我慢出来ない! あははっ、ははっ、はぁっ……はあっ、や、おなか、いたい……くふっ」

「――騙しましたね!?」

「ひっ、引っかかるのが、悪い……ふふっ、のよ」


 こ、この悪魔……ていうか、これ、以前わたしが先輩にやったやつじゃねーか! 引っかかってどうする一色いろは! しかも相手女性だよ!


 ……ぐぅ、悔しい。割と本気で悔しい。これ多分、つまりそういうことだよね。ああ、悔しい……。


「……ふふっ、いいじゃない。いろはすも、わたしとおんなじ気持ちだったってことでしょ?」


 とっても素敵な笑顔でした。本当にありがとうございます。


「そうですね……不本意ながら」

「ひっどーい」


 言いつつも、まったくショックを受けてる様子がない。


 べ、別にわたしははるのんに好かれたいと感じてることくらい自覚してましたし。別にはるのんだけじゃないですし。別に、別に、別に……くぅ。やっぱり恥ずかしい。


「なんだかこう……相手に言われると妙な恥ずかしさがありますね。自分で言うぶんにはいいんですけど」

「あ、それちょっと分かるかも」


 似たもの同士だった。わたしが似せているだけなのかもしれない。一緒にいて、こんな風になれたらなと思うことは少なくないから。


「なに女同士でいちゃいちゃしてるの……」

「「やめて、いちゃいちゃはしてない!」」


 盛大なハモリに、とんでもない恥ずかしさが襲ってくる。ああ、ああ……恥ずか死。ちらと横目で見やればなんとも言えない表情をしたお姉さん。


「自爆テロじゃないですか……なにしてるんですか」

「そ、そんなつもりじゃなかったのよ……」


 後悔の念が滲んだ声音だった。こうしていると、はるのんも人の子である。というか、実際に交流を持ってみれば噂が一人歩きしているように思えてくるので、初見でやべーやつだと思われることが多いだけなんじゃないの?


 スペックは割とガチで化物お姉さんなわけだし、わたしも度々この人ならなんでも出来るかのように錯覚するので無理もないけど。総合的に見ればやべーやつだしね。


「まあいっか」


 けろりとした顔で立ち上がったはるのんは、すたすたと台所へ向かう。コーヒーでも淹れるんだろう。


「わたしの分もお願いしまーす」

「お母さんはー?」

「んー、じゃあお願いしようかな」


 はーい、と返事が届いて少しの沈黙。台所を一瞥して、お母さんがぼそりとつぶやいた。


「……そんなに気にしてないか」

「どうだろうね。案外向こうで恥ずかしがってるかもよ」

「いろはすー、聴こえてるぞー?」


 地獄耳だった。下手なことは言えないぞ……。


「でもここだけの話、はるのんはわたしのこと大好きだからね」

「――ちょっ、いろはすっ!?」


 ふふん、聴こえてるくらいのことで怖気づくわたしではありませんよ!


「まーた、いちゃいちゃしてる……」

「いちゃいちゃはしてないってば!」


 どこがしてないのとでも言いたげな瞳だった。どこって、こう……どこだ。とにかく、別にいちゃいちゃしてるわけではない。わたしは先輩といちゃいちゃしたい。そう、先輩といちゃいちゃ……。


「なんで顔赤くしてるのよ……」

「ひゃっ……いや、これはうん、べ、別になんでも?」

「あ、分かった! 比企谷くんのこと考えてたんだ」


 即バレした! 待って、そのにやけ面やめて!


「いーなぁ。青春だなぁー」

「うぐっ……」


 どこかへ走り去ってしまいたい。切実に。

 だって仕方ないじゃん。先輩のこと考えたら、わたしの頬だって緩んじゃうよ。これはもう自然の摂理だよ。森羅万象の理《ことわり》だよ。


「大好きなんだ?」

「ああっ、もうっ! 悪いっ!?」

「きゃー、いろはが怒ったー!」

「怒ってないっ!」


 ぎゃーぎゃーと騒いでいると、ことりと諌めるように三つのグラスが置かれた。


「近所迷惑」

「「はい……」」


 攻撃力の高い四文字熟語だった。家主が居候に怒られるという奇妙な構図。


 え? 四文字熟語じゃない? 漢字四文字で構成された熟語はすべて四文字熟語と呼べるんです! 狭義とか熟合度とか細かいことは知りません!


「陽乃ちゃんも騒いでたくせに……」

「子供か」

「あっ、いろはひどい」


 余りに子供っぽい言い訳だったので、ついつっこんでしまった。まあ、わたしはお母さんの茶目っ気のあるところも大好きですけどね。マザコンなんで。


「ふふっ、でもなんだかいいわね、こういうのも」


 お母さんの言葉に、はるのんと二人揃って頷いてしまう。


 こうして、なんでもない話できゃーきゃー騒ぐのも、悪くない。気心の知れた仲だから、そう思える。出来ることなら……ずっと。ずっと先まで、こうしていたい。


 そんなことを考えると、やっぱり浮かんでくるのはあのことで。でも……どのみちずっとなんて存在しなくて、結局のところ早いか遅いかの違いなんだとしても。


 それでも。


 わたしはこれからも、それだけはずっとと願い続けるのだと思う。


「……あれ? なんかしんみりさせちゃったかな?」


 慌てた様子でわたしたちを交互に見るお母さんに自然と笑みが漏れた。


「わたし……これからもたまにこうやって三人で話がしたいです」

「そうだね……うん、わたしも」


 テーブルからグラスを取り上げて手の中で揺らすと、からころと氷が音を鳴らす。手のひらから伝わってくる冷たさが、心を包み込むような温もりを強く感じさせた。


 じんわりと染み渡るこの温かさの名前はなんだろう。


「さって、じゃあみんなにドリンクが行き渡ったところで、女子会続行といこうかな!」


 はるのんがグラスを顔の高さまで持ち上げると、わたしとお母さんも自然とそれに続いた。


「「「乾杯」」」


 かつんと小気味いい音がリビングに響く。笑いの絶えない会話。多分、この日の夜は今までで一番賑やかな夜だった。


        × × × ×


 ベッドに横になるとふっと力が抜けた。もともと気を張っていたつもりはないけど、やっぱり心のどこかは緊張していたのかもしれない。


「……いつかはバレること、なんだよね」


 相手はあの雪ノ下陽乃なんだから、もう勘付かれてしまっているという可能性も少なくはない。わたしの、お母さんについて。


 疲労で倒れ、病気が見つかったために自宅療養中というところまでは話したけど、その病気がどのくらいの重さなのかについては隠している。心配をかけたくないというのが、一番の理由だ。


 ……こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、ぶっちゃけはるのんは他人なんだから、話すべきだとも思えない。これは我が家の問題だ。


 わたしがはるのんの立場なら話して欲しいと思ってしまうのだとしても。はるのんの問題を他人事だと切り捨てられないほどに親密になれたと感じているとしても。たとえその選択がはるのんを悲しませる結果に繋がるのだとしても。


 多分、どこまでいっても、だとしてもだ。どんなifを連ねても、どれだけ事実を重ねても、すべてはだとしてもに集約して、出てくる答えは話さないに行き着く。


 相手を信用しているとか、信頼しているとか、そういうことじゃなくて……むしろ、だからこそ話せない。


 はるのんに限った話じゃなくて、お母さんでも、先輩でも、雪乃先輩でも、結衣先輩でも、誰であってもなんでもかんでも全部打ち明けられる相手なんていない。


 それはとても寂しいことのように思えるけど、本当は全然そんなことはない。


 仲のいい友達にしか話せないこと、どうでもいい人にしか話せないこと、家族にしか話せないこと。みんなそうやってカテゴリ分けして相手によってなにを話すかを決めている。みんながやっている、当たり前のことだ。


 なのに。


「なのに……どうして」


 どうして、こんなに苦しいんだろう。


 苦しさを差し引いたとしても、結論は話さないになるんだけど、感じなくてもいい後ろめたさが襲いかかってくる。隠していることが、まるで悪いことかのように思えてくる。


 すべて話してしまえばこの苦しみからおさらばできるんだろうか。もしできたとしても、それはそれでまた別の悩みを抱えてしまいそうだけど。


「……はあ」


 息を吐いたところで妙案が浮かぶわけもなく。結局、今までそうしてきたんだから、これからもそうするというのが一番楽な道だった。


 どんなに小さくても、自覚的な変化は労力を要する。もっと省エネな方法があればいいのに。まあ、そんな方法があったところで、『やりたくないことはやらない』が貫けないわたしには到底無理な気もするけど。


 ……いつまでも解決しないことに思考を割くより、もっと別の事柄に目を向けるべきか。雪乃先輩のこと、とか。


 はるのんの言葉に『はーい』と返事をしたはいいものの、これはこれでまだ納得しきれてなかったりする。


 だって、はるのんと雪乃先輩とじゃいろいろ違ってくるわけですし。たとえば、親密度だったり、歳や性格、他にもいろいろ。なにからなにまでとは言わないものの、別人なんだから当然別なんですよね。


 そして、それには『状況』ももちろん当てはまる。


 はるのんに先輩たちの近況を報告しながら相談することと、雪乃先輩や結衣先輩に先輩との恋を手伝ってもらうこととでは、はっきり言って全然違うでしょというのがわたしの見方。


 相手にデメリットがあるのとないのとじゃこちらの行動しやすさも段違いだし。そういう意味でははるのんに話せないことと似ている。


 相手にデメリットがあるという不安。相手に心配をかけるかもしれないという不安。どちらも不安がストッパーになって、アクセルを踏めずにいる。踏み出すことがいいことなのかもよく分からない。


 わたしが素直に甘えてしまえば解決するのかな。


 新たな悩みが出てくる可能性を考えないものとして、そういう解決法を取るという選択肢はある。誰かを頼って、誰かに頼られて、そうやって生きていくのは一見協調性があって素晴らしいことにも思えるし、実際悪いことではないんだろうけど。


「でも、なぁ……」


 浮かんでくるのは、甘えて楽をしていた自分だった。


 半年近く頑張ってきた。どこかで甘えてしまっていたりすることはあったけど、頑張ってきたと言える。雪乃先輩たちに肯定してもらえたわたしを、わたしも肯定できる。


 だから、ここで戻ってしまうのは嫌だ。労力をかけて変えてきた自分自身を捨ててしまうようなことは避けたい。


 一方的に甘えることと助け合うのは別だなんて、そんなことは分かってる。


 それでもそういう不安を持ってしまうのは、多分、わたしがわたし自身の弱さを自覚しているからだ。わたしは弱い。どうでもいいことで不安になるし、ちょっとしたことで泣きたくなるし、ほっとけばすぐ誰かに頼りきりになってしまう。


 そういう自分が出てくる隙をなるべく埋めたい。強くあろうとしていなければ、逃げ出してしまいそうになるから。


 だいたい、どうして手伝うなんて言えるんだろう。雪乃先輩たちが先輩とくっつく可能性を高めることなんて、わたしだったら絶対にやりたくない。……わたしの心が醜いだけなの?


 そりゃわたしだって先輩に『雪乃先輩と付き合えるように手伝いますよ』なんてことを言ってはいたけれど、本気で手伝うつもりなんてこれっぽっちもなかった。


 実らない恋に諦めがつくようにとか、お手伝いを口実に近づきたいとか……自分で考えといてなんだけど、ちょっとどうなのそれ。


 うーん、これ、やっぱりわたしが汚いだけなんじゃ……。いやいや、一応先輩に幸せになって欲しいって理由もありましたし? ああ、それは建前だった……確かにあったはあったけど。


「やーめた……」


 ちょっともう無理。眠いし、頭回らないし、頭回らないのはもともとだ。


 頼る、か。雪乃先輩も、結衣先輩も、大好きなのになぁ……。はるのんも、お母さんも、みんなわたしの大切な人だ。


 大切な人とどうでもいい話で盛り上がって夜更かしして、せっかく今日はすごく楽しかったのにもったいないことをしてしまったかもしれない。


 終わりよければすべてよし。今のうちに今夜の女子会を思い返しておこう。女子かどうかについてはもう言及すべきでない。


 先日の雪乃先輩の件で少し落ち込んでいた気持ちが、だいぶ回復したように感じる。喧嘩したわけではない……はずだから、そこまで大きなダメージを受けていなかったのも大きいけど、心にゆとりが生まれたのは本当。


 そのおかげか真面目にどうするか考えられたし。考えただけで結論は出なかったけど。


「ふふっ……」


 笑みは自然と溢れた。明確な言葉があったわけじゃないけど、自分が愛されていることがはっきり分かる。それがたまらなく嬉しくて……ああ、そっか。


 ――あの温もりを愛と呼ぶんだ。


 詩的な脳内にふっと息が漏れて、それからゆっくりと目をつむる。グラスの奏でたかつんという音を脳裏に浮かべると、過去の記憶が蘇った。


 だいぶ昔、まだわたしが幼い頃のこと。テレビで見た乾杯をやってみたくて、お母さんにせがんだことがある。あのときお母さんは笑いながら付き合ってくれたけど、今も覚えていたりするのかな。


 というか、なんでわたしは忘れちゃってたんだろ。大事な思い出なのに……ううん、今だから大事に思えるんだ。


 大事か大事でないかなんて、そんなことを決めるのは大概後になってから。あの頃のわたしは当たり前に思っていた日常がこんなにも大切になるなんて考えもしなかった。


 簡単に忘れてしまうこともある。いつのまにか忘れてしまっていることもある。脳に詰め込める思い出は限られているから、大事だと思ってもいつかは忘れてしまうかもしれない。


 でも。


 わたしはこの日、アイスコーヒーでした乾杯を忘れない。きっと。




3        


 わたしが気持ちを整理したりするのが苦手だってことは、これまでのことで身を持って知ってる。いっぱい疲れて分かったことが欠点とか、それなんて悲劇?


 正直、ちょっと泣きそうなレベルで思い知らされたので、これ以上はやめてくださいというのが本音なんだけど、恐らくこれからも付き合っていかなければならないんだろう。なんてハードな人生だ。


 ついでに言えば、問題を解決したりするのも苦手だし、なんなら得意なことなんてありはしない。それでも強いて言うなら人の顔色を窺うのはちょっと得意かもしれない。


 典型的な現代っ子だった。自分の得意なことがなんなのかよく分からないまま生きている人は少なくないと思う。あくまでわたしの主観だけど、周りにも結構いるし。


 だからと言って、それがそのままでもいい免罪符にはなったりはしない。しないんだけど、みんなが同じなのはどこかで安心してしまいがちだ。


 周囲に溶け込むことが、いまどきの学生の第一試練と言っても過言ではない。遅れればバカにされるし、早ければそれはそれで妬みのタネになる。


 ……待て、そんなことはどうでもいいんだ。わたしはただ、わたしがなにも出来ないポンコツだってことをひたすらぐちぐちぐちぐち冗長に思考していたいだけなんだ。


 だって、そうすれば――今が一番下ただと思えば明日に希望を持てるから。これぞまさにディストピア。間違えた。ダメ、ディストピアはダメだ。……明日がユートピアならそれもアリ?


 人生毎日ユートピアが最善最高に違いなかった。


 ともあれ。


 かくもあれ。


 そんなことを考えている暇があるなら、さっさと打開策に思考を向けろという話でして。ともあれかくもあれはぶっちゃけまったく関係ないしな。


 無駄な思索を続けていられるくらいにはすっきりすっからかんになっている脳内が無性に恨めしかった。そりゃ昨日なんだかんだで安眠でしたしね。甘さに甘えて思考放棄しましたしね。


 ええ、ええ。そういうことです。


 今の今になって、いまだに雪乃先輩案件に対する策が浮かんでいません。もう放課後だよ、どうすんの? 今から文実の会議なんですけど?


 昨晩のうちにしっかり考えておけばなぁ。まあ、それをしていたところで、なにか浮かんでいた気は微塵もしないんですけどね。失敗の理由付けというか、遣る瀬なさの捨て場所として選んだというだけで。


「さーって……」


 ぴたり。今まで動かしていた足を止め、喧騒の漏れる教室の扉の前で立ち止まる。平行作業は得意じゃない。ゴミ箱に放り込んだ案件は後で復元するとして、まず目先のことに集中しましょうね。


 がらりと扉を開くと、喧騒は一瞬途絶え、それからいくらかボリュームの下がったガヤ音が室内を包む。一人でじっとしてる人も何人かいるけど、大抵は顔見知り同士で来ているっぽい。


 いいなぁ。わたしもペアになった男子と文化祭を通じて親密度が高まって、当日「一緒に回らない?」とか誘われるような青春を送りたかったなぁ。


 腐った目をした男子を見ながらそんなことを妄想してみたものの、アレが誘ってくる光景なんてどう頑張っても浮かんでこなかった。すごい。


「ぴったりですかね」

「会長。もう少し時間に余裕を持って……」

「あははー、間に合えばいいんですよ。間に合えば」


 遅れなければオーケー。なにせ、優秀な副会長がいますからね! もうなんやかんやで一年近い。誰かが欠けたところで特別支障が生じることはないだろう。


 既に書類も配り終えてるようですし、いつの間にか生徒もおしゃべりを辞めている。厚木先生が腕を組んで突っ立ているのが一役買っていそう。


「じゃ、始めましょうか」

「はい」


 というわけで、第一回文化祭実行委員会の幕開けです!


        × × × ×


「えー、それでは、文化祭実行委員会を始めます」


 ざっと見渡したところ、欠席者はいなそうだ。初日から欠席してくるような人間がわざわざ委員会に入るわけもないか。


 それにしてもなんだか雰囲気が堅い。厚木先生本気出し過ぎ。


「一応、先に自己紹介を。生徒会長の一色いろはです。よろしくお願いします」


 軽くお辞儀をするとほぼ全員から返ってくる。一見、真面目である。とても生徒会長を悪ふざけで推薦したりする学校の生徒とは思えない。わたしはまだ許してないからな。この中にはいないけど。


「えっと、ちょっと空気重すぎじゃないですかね……。学年問わず初めて運営側に回るという方もいると思いますが、普通にやれば普通にこなせるものです。特別難しいことがあるわけではないので、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ~。わたしが出来るくらいですからね!」


 ちょっとウケた。今ほど自分のセンスのなさを恨んだことはない。


「会長、自虐はいいので進行を」

「ちょっ、自虐とか言うのやめてもらえます!?」


 めちゃくちゃウケた。ふ、副会長め……わたしを利用しましたね?


「こほん。ではではまずは、実行委員長の選出から始めましょうかー。誰かやりたい方いますかー?」


 予想通りと言うべきか。手は挙がらない。


「ふむ……。まあ、わたしがやっちゃってもいいっちゃいいんですが、仕事が増えるのはちょっとアレだし……あ、今のなしで」


 ぶふっとどっかの誰かが吹き出したけれど、実際こっちはこっちで仕事があるんですよ。本当に。わたしも初めてのことだから兼任は出来れば避けたいところ。


「立候補が出ないのであれば、ここは二年生から推薦という形での選出になりますかね?」


 ちらと平塚先生に視線を送ると、うんと頷きが返ってくる。基本的には自由にやっちゃってよさそうだ。


「立候補なり推薦なり、ある人は挙手してくださーい」


 それでもまだ手は挙がらない。どうせ別のクラスのこの先関わるかも分からない相手なんだから適当に推薦しちゃえばいいのに。


「これもないとなると……そうですねぇ。わたしが選ぶか、最悪じゃんけんになりますけど」


 進学校のくせに自主性のない連中だ。何様だよ。


 二年生は割と真面目なタイプが集まっているし、その中から適当に選出しようかなぁ。いやでも、それでなんにも出来ませんでしたとかじゃ困るしなぁ。主にわたしが。


 もう一度三年生を除いた実行委員に一人ずつ目を向けてみると、大概の生徒が逸らす中、一人だけ目を合わしてくれる子がいた。


 ……いや、でもなぁ。いいのかなぁ。


「えぇっと……小町ちゃん」

「はいはいー? なんでしょうか」

「やってみる?」


 わたしの言葉に、生徒たちがざわつく。ですよね。


「えぇっ、小町がですか!? でも、まだ一年ですし……」


 そこなんだよなぁ。わざとらしいリアクションはさておき、前例のないことをやってもいいものかどうか。


「あー……、でもよくよく考えればわたしも一年で生徒会長になってるし、慣例は規則じゃないんだから別に従う必要もない、のかな? 厚木先生」

「やる気のあるもんにやらせりゃええ」

「平塚先生は……」

「特に問題はないだろう。まあ、結局、一色の仕事が増えるということになるのが問題にならないのであればの話だが」


 ちょっと、いい笑顔で人の問題発言掘り返すのやめてくれませんかー? 問題と問題発言掛けてるつもりかもしれないですけど、全然うまくないですからー。


「じゃあ……やる?」

「いろはさんがよければ」

「わたしの話は置いといて!」


 どっと笑いが起こる。いや、笑ってんじゃねーよ! 人の恥で和みやがって!


「はあ……とりあえず自己紹介しよっか」

「はーい」


 特に不安そうな表情も見せずに立ち上がる。肝が座っているというか……もともとやるつもりだったんだろうけど。それならそれで先に一言くれればよかったのに。


「えっと、一年A組の比企谷小町です。中学のときは生徒会長を務めていたため、多少こういう役割には慣れています。とは言え、初めての挑戦だということは変わらないので、みなさんのお力をお借りしながら文化祭成功に向けて頑張りたいと思います。よろしくお願いします!」


 ……これは考えてきたな? 尚更、どうして先に言ってくれなかったんだと思うけど、用意周到なのは素晴らしい姿勢である。ぱちぱちと拍手をすると、他の生徒も続いた。


「それじゃここからの進行は小町ちゃんにお任せー……っと、その前に他の役割決めか。ちょっと時間を取るので、議事録に目を通して希望するものを決めてくださーい」


 わたしの言葉に従って、各々が雑談をしたりしつつ考え始める。五分もあれば大丈夫かな。


 手持ち無沙汰になってしまった。腰を下ろして時計の秒針を目で追うという暇人の中の暇人がする暇つぶしに興じていると、横から声がかかる。


「慣れたものだな」

「これだけやってれば慣れもしますよ」

「仕事が増えるから嫌、はどうかと思うが」

「……く、口が滑ることもあります。ていうか、そんなのみんな思ってることじゃないですかー」


 そうそう。仕事なんて少ない方がいいに決まってる。あ、普通思ってても口にしないとか、そういう反論いらないからね。


「比企谷は君が連れてきたのか?」


 平塚先生が顔を向けた先には、腐った目で議事録に目を通す(フリをしながら妹をガン見している)男子生徒がいた。いや、隠せてないから。


 もしかして、これ先輩にも言ってなかったの? こちらに視線を飛ばしてこない辺り、やりたかったらしいというところについては気づいてるみたいだけど。


「保険、ですけどね。昨年はいろいろ大変だったみたいなんで」

「なるほどな……積極的に頼るつもりはないと」

「たかが学校行事。それも毎年の恒例のイベントですよ。さっきも言いましたけど、普通にやれば普通にこなせるものです。それこそ、実行委員長に問題があったりとか?」

「今回は異例だが?」

「小町ちゃんはあれでなんだかんだスペック高いですからね。適宜サポートすればそれなりにこなせちゃうと思います」


 だいたいわたしが先輩にお手伝いを頼んだのも、別に文化祭にとても不安があるとかじゃなくて、ただの接点作りですし。もとから本気で頼る気なんてさらさらない。


 たとえ文化祭実行委員長がどうしようもない役立たずになってしまっても、わたしがすべてやってしまえばいいとも思っていた。生徒会は生徒会で仕事があるけど、わたしがこっちに専念したところで破綻するほどのものではない。


 身内(生徒会内)のみに負担を留めて終わらせられるのであれば、それがベストだろう。本来関係のない人まで巻き込むことになるのは、避けるのが当たり前だ。


「あくまで一人でか。その姿勢は褒めるべきものなんだろうが……私としては、もう少し先輩面させてやって欲しいところだな」

「先輩は……いつまでも、先輩ですよ。わたしの、先輩です」


 もし頼ることがなくなっても、わたしが一人でいろんなことが出来るようになっても、会うことがなくなっても、いつまでも変わらず先輩だ。


 それは変わらないし、変えたいとも思わない。先輩がわたしの先輩であるように、わたしは先輩の後輩でいたい。


「本当に困ったら頼りますよ。でも、そうならないように頑張るのがわたしの役目です」


 それが――それだけが、わたしを生徒会長に推してくれた先輩に出来る、唯一のことだ。


「……本当に困ったときに意地になるタイプだから言っているわけだが」

「うぐっ……」


 痛いところを突かれた。


「いや、違うんですよ、わたしだってもとからこうだったわけじゃないんです。そう、紆余曲折あった末にですね……だからわたしが悪いんじゃなくて社会が悪いっていうか」

「比企谷みたいなことを言うな」

「うぐっ……」


 傷口をえぐられた。


「さ、さぁーて、そろそろ決まりましたかね~?」


 ぱっと教室内を見渡すと、どうやら問題なさそうだ。しらーっとした視線を横から感じたけれど、気のせいだと思い込むことにした。


「よさげですかね。よっし、じゃ小町ちゃん、ここからよろしく」

「あ、はーい」


 とことこと特に緊張した様子もなく歩いてきた小町ちゃんは、なにを訊くでもなく自然と進行を引き継ぐ。


「では、まずは宣伝広報からー。やりたい人いますかー?」


 いたら挙手してくださーいと、まるで子供を相手にしてるように自ら手を挙げながら言う。その気安さからか、ちらほらと希望者が出て早々に決定し、幸先のいいスタートだ。……本当に放っといても大丈夫そうだな。


 さすがハイブリッドぼっちと言うべきか。いや、ぼっちは別に関係ないか。


 前に先輩から聞いた情報によると学業はあまり芳しくないようだが、頭が悪いわけではないらしい。まあ、テストで点を取るのと仕事が出来るのとでは全然必要な能力が違うので、そういう要素の共存もありえるのだろう。


 わたしもどちらかと言えばそのタイプ。今はテストの点が悪いなんてことはないけど、一年時は特別いい点を取った記憶はないし。


 努力でなんとかなることは、誰にでも出来ること。こういう生まれ持った性質や環境によって培われた技能こそに人間の真価はあるのだなぁ。


 なーんて、どうでもいいこと考えてたらいつのまにか終わってた。あれ、これもしかしてわたし要らなくない?


「いろはさん、決まりましたけどどうします?」


 一応、必要だったようだ。なんとか生徒会長の威厳は保たれたか……正直、そんなもんどうでもいいけど。いや、よくはないですね。失言でした。


「……えーっと、今日は所属を割り振れればそれで充分だから、それぞれ顔合わせ済ませたら解散でいいよ」

「――とのことです! 各自固まって自己紹介? を済ませたら解散してくださーい」


 なんて粗略な指示だろう。まあ、そのくらい気楽に構えてもらっておいたほうがこちらもやりやすいからいいけど。わたしも割と適当だしね。


 自己紹介にそこまで時間がかかるわけもなく、ばらばらと纏まりのない集団が退室していく。


「……小町はー」

「待機」

「ですよねぇー……」


 へへへー、と笑って誤魔化しているが、そんなかわいいことをしてもダメです。そのうちお兄ちゃんも来るでしょ。


 と、予想した通り、当然だと言わんばかりにまっすぐ先輩はこちらに歩み寄ってきた。ほら、来た。シスコンが来た。わたしのこともそのくらい愛し……こほん。


「小町」

「やだなー、お兄ちゃんってば! そんな深刻な顔しちゃって! ただでさえ目が腐っててやばい人なのに、顔に濃い影なんて作っちゃったら指名手配犯にしか見えないでしょーが! ほらほら、笑顔笑顔ー! 小町だよ?」

「小町だな」

「うん」

「小町」

「……はい」


 なんだがデジャヴを感じるのは気のせいでしょうか。わたし、真剣な顔をした先輩に名前を呼ばれて必死に誤魔化すんだけど最終的に「はい」しか答えられなくなる女の子のこと知ってる気がする。……誰だろうね。


 とても他人事とは思えない状況に同情してしまう。別にそんなに怒ることじゃないじゃんねー? 怒ってるわけじゃないんだろうけど。


「お前、少しは事前に相談とかをだな……」

「それはほら仕方ないっていうかさー、小町だって文化祭実行委員になろうと思ったの今日のHRのときだし? ぱっと思いついたらぱっと実行しちゃうのはお兄ちゃんもよく知るところでしょ?」

「そりゃあまあ、どうせそんなことだろうとは思ってたけどな……でも、もう少し考えてから行動しろ。一色が言った通り、確かに慣例は規則じゃない。だが、それは辞書の中での話だ。現実じゃ、慣例だってルール足り得るんだよ」

「うぐっ……」


 珍しく言葉に詰まる小町ちゃん。なんかこれも知ってる気がするんだけど、しかも最近も最近、ついさっきとかそういうレベルで記憶にある。……気のせいでしょう。


「……会長」

「あ、生徒会も今日は解散でオッケーです。ちょっと例年と違うこともありましたが、変に意識せずいつも通りでいきましょう。お疲れ様でしたっ!」


 揃って返事が来る。……うん、大丈夫、足並みは揃ってる。なにか問題が起きれば生徒会で会議でも開いて対応していけば大事にはならないだろう。


「今までと違うことをやるってのは、目立つことと同義だ。下手をすれば悪目立ちして余計な苦労をすることになる。そんなこと、お前だって分かってんだろ」

「分かってるけど……でもだよ、お兄ちゃん。変革を求めるなら、ときには多少リスクを犯してでも行動しなければならないんだよ!」

「お前はどこの革命家だよ……」


 はあーっとこっちも気が重くなるような長いため息を吐くと、先輩はようやくわたしに顔を向ける。


「一色……お前も止めてくれればよかったものを」

「ま、まあ、小町ちゃんならなにか考えがあってことだと思いますし? ね?」

「はい! その通りだよお兄ちゃん! 小町もいろいろ考えてるのに、理由も訊かずに責めるばっかりなんてひどいお兄ちゃんだよ!」


 虎の威を借りたように威勢を取り戻す。あ、あの小町ちゃん、わたしそんなに強くないから抑えて抑えて……。


「でも実際、小町ちゃんには能力がありますし、わたしもそこらへんのやる気のない生徒にやらせて全部尻拭いするより助かるかなー、なんて……。小町ちゃんの処遇を決めるのは、まず話を訊いてからでも遅くないんじゃないかなー、なんて……」


 窺うようにちらちらと視線を飛ばすと、先輩はまたしても大きなため息を吐いたのち、ぽりぽりと頭を掻く。


「確かに……言い訳の余地は与えるべきだった」

「お兄ちゃんは捻デレだなぁー」

「茶化すな」

「はーい」


 ちろとお茶目に舌を出した小町ちゃんに、呆れたように息を漏らす。ともあれ、両者落ち着いたようである。


「で? どうして文化祭実行委員長なんて面倒な役に立候補したんだよ。ぶっちゃけ、中学の生徒会長の経験なんてほぼ役に立たんぞ」

「進行は結構スムーズでしたよ?」

「あれはどっちかつーとアレだろ……こいつの対人スキルが高いだけ」

「なるほど」


 納得してしまった。コミュ力高そうだもんな小町ちゃん。お兄ちゃんと違って。


「なんだかんだで物事をいい方向に持っていく能力があるのは認めるが……」


 0スタートで絶対うまくやると言い切れるほどではない、と。どうだろ、それは見誤っている気もするけど、なにせ十幾年をともに過ごした家族の言うことである。わたしの適当な分析よりよっぽど信頼性が高い。


 先輩が見つめる先へとわたしも目を向けると、当の本人は特に焦るでもなく芝居がかった咳払いをしてから口を開く。


「そこだよ、お兄ちゃん」

「? どこだよ」


 ごもっともだった。出だしから踏み外している……なんか不安になってきましたよ?


「だーかーらー! 生徒会長の経験が役に立たないってところ!」

「はあ、……それが?」

「小町はここではただの新入生なんだよ。……新入生って肩書きを掲げるにはちょっと時間が経ち過ぎてるけど、とにかく生徒会長でもなければ、他学年にもそこそこ名前が知れてる安定した地位もないわけ!」

「だからこそ、わざわざリスクのある行動をすべきじゃねぇんだろうが……一瞬で敵地になりかねないんだぞ?」


 たかだか学校内のカースト争いで敵地なんて表現は大袈裟な気がするけど、わたし含め、現役の生徒からしてみれば結構重要な問題だったりする。


 地元でそこそこの進学校であるこの高校にだって、くだらないことをする連中はいるのだ。わたしが生徒会長になった経緯もだが、他には例えば裏サイトの存在だったり、他には……すぐ浮かんでくるものはないけどいろいろ。


 ヒキタニなんていう誰かも知れない人間の尾ひれが付きまくった噂で盛り上がれるんだから、実名で広まったときにはどうなるかは想像に難くない。


「リスクって言ったって、そこまで気にするほどのもんじゃないでしょ。特に目立ってないってことは、失敗してもたいして気にされないってことだし」

「いや、目立つことしたんだからリスクは大きくなってんだろ」

「ぐぅっ……でもだよ、これはチャンスなんだよお兄ちゃん! すべては生徒会長になるための布石なの!」

「ああ、そういえば役員になるって言ってたっけ」


 行く行くは生徒会長にってことか。


「そんなに急いですることかそれ……? だいたい、この学校の生徒会長の椅子なんて、誰かが本人の許可も取らずに勝手に集めた三十票でほぼ当選確定になるレベルの倍率だぞ……」


 ほんとそれ。いつでも空けてるよ? うぇるかむだよ?


「来年生徒会選挙に出るときにはお前も充分盤石なコミニティ作れてんだろうし」

「……そんな甘くないよ。凄いんだよ? 今の生徒会長の人気! ちょっと教室で聞き耳を立てれば誰かがいろはさんの話ししてるんだよ!?」

「えっ、そんなに?」


 わたしが驚いてしまった。まさかそこまでわたしの人気が出ているとは。確かにすれ違えばお忍びで街に遊びに来た芸能人のような扱い受けるけど。……ふむ、それを考えるとこの肩書きもなかなか捨てたもんじゃないですね。


「……だいたい言いたいことは分かった。つまりアレか。ここで多少の苦労やリスクを犯してでも名を売っておき、さらにさらに次期生徒会メンバーになっておけば、来年の選挙で票を集めやすいと。そんなことのために文実の委員長なんかに立候補したと。そういうことか?」

「そんなことって酷い言い草だなぁ……。でも、ま、そゆことだよ」


 小町ちゃんの頷きに、先輩はなんだか納得がいかないという表情をする。同じく、わたしもなにかが引っかかる。


「えっと、ちょっと訊いてもいいかな」

「はいはい、なんでしょうか」

「今まさに生徒会長やってるわたしが言うのもなんだけど……それ、リスクに対して得られる対価がちっぽけ過ぎない?」

「…………」

「だってさ、だってだよ? こんなものになったところで本当に益があるのなんて精々『生徒会長になった経験がどうたら』って大学受験だったりで言えるだけだよ? 内申が上がるとかアレどこまで本当なのかよく分かんないし」


 うんうんと大きく頷いて、先輩が追撃する。


「学校内でいくら有名になったところで、そんなもんここから一歩出りゃなんの役にも立たねぇしな」

「…………」


 沈黙は語っていた。そこまで考えていなかった、と。


「……もうなっちゃったものは仕方ないですし、このくらいにしませんか?」

「……だな」


 そこには、呆然とする少女をただ憐れな目で見つめる二人の姿があったという。完。


 とはいかなかった。


「お兄ちゃん……困ったら助けてくれるよね?」


 うるうると瞳を潤ませて上目遣いをする妹に、お兄ちゃんは呆気なく撃沈する。


「当たり前だろうが」

「やったー! さすが小町のお兄ちゃん! 愛してる! あ、今の小町的にポイント高いっ!」

「お兄ちゃんのポイントはただ下がりだけどな……」


 世話の焼ける妹を頼む、と言いたげな視線に、もともとそのつもりだったし逡巡することなく首肯する。わたしも先輩面したいしね。ちょっとお転婆な後輩の面倒を見るくらいなんてことはない。


 話が終わったところで、三人揃って教室を出る。窓から見える空はもう赤く染まっていた。今度こそ、完。


「じゃ、わたし鍵返しに職員室寄るので」

「おう、また明日」

「あ、はい、また……明日」


 なんだこれ、ちょっと嬉しいぞ。また明日、だって! そうだよね、よく考えなくても明日も明後日も、これから向こう一月くらいは毎日のように放課後顔を合わせるんだよね! やっば、めっちゃモチベ上がるんですけど!


「小町ちゃんも、またねー。明日からよろしく」

「はいっ! こちらこそ不束者ですが……」

「嫁にでも行くのかよ……」

「貰っちゃってもいいですか?」

「いいわけねぇだろ!」


 本気の否定だった。心なしか小町ちゃんも引いている。


「ゴミいちゃん……」


 今さっき縋りついていた相手に向けた台詞とは思えない。さすが妹。家族の絆は強いんですね……先輩と家族、か。いやいや、なに考えてんのわたし。そういうのまだ早いから、捕らぬ狸の皮算用だから。


 いつかと思っている辺り、腑抜けた脳内だった。


「それじゃ」

「ああ」


 そうしてわたしたちは、それぞれ別の道を歩み始める。正確には二対一だけど。


 ぼんやりと夕焼けを眺めながら足を進めていると、自然と思索に入った。……なーんか、気になるんだよなぁ。


 小町ちゃんとの会話で覚えた引っかかり。実はそれはまだ解消されていなかったりする。あの質問自体も本当に訊きたいことではあったんだけど、こちらに関してはそもそもなにに引っかかっているのかわたしにも分かっていない。


 小さな違和感。


 他にも考えなきゃいけないことがあるので、放ってしまうのが一番いい気がしている。けど、なぜか捨てきれない。


 それは小町ちゃんが先輩の妹だからなのか、わたしにとって大切な後輩だからなのか。それとも、他の要因が絡んでいるのか。



 結局、その違和感の正体に気付かぬまま、そして雪乃先輩との案件へも答えを出せぬまま。


 一週間が経過した。




4        



「静かですねぇ」

「……だな」

「嵐の前の静けさってやつですかね」

「不吉なことを言うな」


 のんびりと空を眺めながらパンを頬張る。もぐもぐもぐ、ごくごくごく、パンお茶パンお茶パンパンお茶。気づいただろうか。パンパンには注目しなくてよし。


 こほん。そう、なにを隠そうこのわたし、今日はお弁当ではないのです! じゃじゃーん!


「つか、お前いつも弁当じゃなかったか?」

「タイムリーな話題提供ありがとうございます」

「は?」


 こちらの話です。


 わたしが手に持つは食べかけのメロンパン、そしてもはやゴミと化したチーズ系おかずパンの入っていた袋。パン食、しかもコンビニ感だだ漏れだった。


「なんと今日は寝坊してやりましてですね」

「なぜ上から」

「パンをコンビニで買い求めてあげたというわけなんですよ」

「上からいろはすなの……? お前なんか疲れてない? 大丈夫か? 相談乗るぞ?」


 頭のおかしな人間を見るような目で、割とガチな心配をされた。心に深い傷を負いました。責任取って毎日わたしに味噌汁を作ってください。


「……自覚はあります」


 脳内でわけのわからないプロポーズをしている時点でお察しだった。それはいつものことかもしれないとも少しだけ思った。少しだけ、さきっちょだけ。……いや、さすがのわたしでもいつもここまで下品ではないはず、だと思いたい。


 まあでも、現役女子高生の考えていることなんて九割下だ。わたしが言うんだからまちがいない。そういう事前知識を得てから見ると、わたしの思考も特別おかしくはないでしょう。わたしだってなんとなく下ネタが言いたい気分なときは普通にあるのです。


 どこぞのSNSで男性器や女性器の名前を叫んだり、ことあるごとにおっぱいおっぱい言ってるようなアカウントよりはマシなはずだ。おっぱいについてはわたしも言いたいことがないとは言えないけれど。


 そういや、ああいうことをSNSでつぶやいちゃう人は現実でストレスを感じていたりする、みたいな論をどこかで見かけた覚えがある。


 これはわたし、疲れていますね?


「なんかあったのか」

「なんかあったんですかねぇ……多分あったんでしょうねぇ。なにがあったのかわたしもよくわからないんですけど」


 ぜんぜん分からないきーみのーこと、ぜんぜん知らないうちにーいぇい、心奪われるなーんてーことあーるーはーず……あるんだなぁ、これが。しかも割と重症なんだよなぁ。


 ま、わたしがいつ先輩のことを好きになったのかについては置いといて。


 さて、わたしはなにがあってなんでこんなに疲れてるんでしょう。これまた全然分かりませんねぇ。いや、一応分かってはいるんだけど、そんなの雪乃先輩と小町ちゃんの件しかないんだけど、うーん。


 イマイチ人に話せるほどまとまっていない。しかも、小町ちゃんに関しては、本当にただ『引っかかる』というだけ。どこに引っかかってるのか見当もつかない。


「……とりあえず、口に出してみたらどうだ」


 うーんうーんと身体を左右に揺するわたしを見兼ねてか、先輩がそんな提案をする。が、小町ちゃんのことなので適当に口に出すのも躊躇してしまう。余計な心配事を増やすのは……こんなところに来ておいてなにを今更。


「はあ……」


 雪乃先輩には全然素直に相談なんて出来もしない癖にこうしていることに後ろめたさを感じながら、それとこれとは別だなんて言い訳をして口を開く。


 実際、別なはずなんだけど……。


「小町ちゃんの、ことです」

「……小町?」


 ふっと声のトーンが落ちる。分かりやす過ぎる変化に、やっぱやめとくべきだったかなぁなんて典型的な後悔をしつつ、言葉を続けた。


「はい……その、なんか引っかかりませんか?」

「……文実は特に問題なく進んでるだろ」

「あ、そこはまあ、そうですね。慣れるのも早くて……小町ちゃんでよかったです。心配は杞憂でしたかね」


 文化祭実行委員が始動して一週間、問題と呼べるようなものは起きていない。生徒会という固まった地盤があるのが大きな理由だと思うが、小町ちゃんの適応能力の高さも一役買っているのは事実だ。


「昨年は、生徒会はあんまり口を出さなかったんですか?」

「……基本的には委員長を主導に動いてたな。ただそれは委員長が二年で、しかも立候補だったからだ。やる気さえあるなら多少のミスはカバーは出来るっていう判断。もっと言えば、委員長を立たせてあげたいって想いもあったんじゃねぇの。……今となっては分からんけど」


 なるほど。今回は一年生だから、そもそも意識が違うってことか。確かに実行委員長が二年生だったなら、わたしも遠慮していたかもしれない。


 前回の件を知っていたので、ダメそうなら早々に置物実行委員長と化していただろうな、とも思うけど。だって、嫌ですもん。ギリギリになって尻拭いすんの。


「それで? そのことじゃないんだろ?」

「あ、はい」


 当然のように話は戻される。けれど、先輩の反応を見るに、恐らく先輩は違和感を覚えていない。わたしだけだ。


 別に小町ちゃんが実行委員長になったことに対してなにか不安があるわけではない。でも、正体が分からない以上はまったく関係ないとも言い切れない。


 だから、わたしだけ。わたしだけが小町ちゃんに対して不信感を抱いている。疑っている。そのことを、正直に言ってしまっていいんだろうか。


 ……いつだったかも似たようなことがあった。


 あのときは先輩だった。誰もが信じる中で、わたしだけが先輩を信じきれず、そしてわたしは――


「……お前が小町に対してなにかしらの不安を感じても、そのことに怒ったりはしねぇよ」

「よく分かりますね……」

「……顔が同じなんだよ」

「顔……?」

「お前、最近、夏休み前と同じ顔してんだよ」


 その言葉に、不覚にも笑ってしまう。


 そっか……そっかぁ。戻っちゃってるのか。前と同じなのか。……しんどいなぁ。


 せっかく頑張って手に入れたはずだったのに。同じ場所に立てたはずだったのに。意味があったんだって認められたはずだったのに。


 繰り返し、か。……どこで間違えたんだろう。ううん、そんなのは分かりきってて、でも分かりたくなくて。


 それでも。


 それでも、立ち上がらなきゃいけなくて。


 踏み出さなきゃいけなくて。


「話を……」


 何度も繰り返すんだ。それはもうとっくに決意していたことだ。忘れてしまっていただけ――違う、怖がって逃げていただけだ。


 間違えて、正して、戻って、進んで、でもそれは多分、前よりも大きな一歩で。


 紛れもなく、前進で。


「話をしましょう、先輩」


 顔が見れなかった。恥ずかしくて。


 でも、先輩はなにも言わず、ただ黙って聴いていてくれる。わたしの、告白を。


「小町ちゃんの、話です。それで……雪乃先輩の話でもあります」


 だから、ここじゃない。今じゃない。


「放課後、生徒会室に来てください。――三人で」


 予鈴が響く中、先輩は短く答えた。


「おう」


        × × × ×


「ではでは、本日は解散で! お疲れ様でしたーっ!」


 小町ちゃんの元気な挨拶が教室に響く。今日も今日とてなんの問題もなく文化祭実行委員は終わり、少しの心配すら圧倒的な呆気なさで消し去ってしまった。


 一週間前よりはいくばか纏まった集団が退室していき、事前に休みを伝えてあった生徒会メンバーも挨拶とともに教室から出る。廊下から入り込んでくる常より高揚した声が、徐々に迫る祭りを意識させた。


 そんな光景を見送って、室内に残ったのは三人だけ。わたしと、先輩と、小町ちゃんだ。


「お疲れ様でしたっ」


 にかっと八重歯の煌めく笑顔を見せて、小町ちゃんは敬礼をする。なんだそれ、かわいいなおい。わたしも真似しちゃうぞ?


「お疲れ~」


 そんな感じでアホなことをやっていると、先輩はいつのまにか側に来ていて……いや本当に気づかなかった。本職アサシンでしょ、この人。


「お兄ちゃんもお疲れっ!」

「お疲れ様です」

「おつかれさん」


 どうでもよさげに言葉を返して、こちらを一瞥してから小町ちゃんに声をかける。あーとか、んあーとか、なんだか言いづらそうにする先輩から目を背けてしまう。


「……先、帰っててくれ」

「んん? んー? あ……あー、ほうほう、なるほど。了解だよっ! じゃ、あとは若いもの同士ー」

「そういうんじゃないっつの」

「そういうのじゃないからっ!」

「ありゃ? 違った? なーんだ、じゃあ、うーん、なんだろ……ま、いっか! そんじゃお兄ちゃん、小町は先帰ってるよ! 遅くなってもいいからねっ!」


 最後にぱちっと華麗にウインクをかまして、たったっと小走りで出て行く。


 いや、このタイミングで取り残されると、ハモったせいで気まずさ500倍なんですけど。フォローしてってよ。酷いよ酷いよ。


「えー……っと、その」

「……自販機でも寄ってくか」

「え? でももう待ってるんじゃ」

「あいつらには遅らせて伝えてある」


 歩き出した先輩を見ながら、どうしてわざわざそんなことを、と考えた。何も言ってくれない背中は止まることなく離れて行く。


 慌てて追いかけて隣に並ぶと、ぼそりとつぶやきが耳に届いた。


「……必要だろ」

「? ……それはどういう」


 思わず首を傾げてしまう。わざわざ先延ばしにしてまで、自販機に寄る理由なんてあるだろうか。途中で職員室に鍵を返して、結局なにも分からないまま自販機の前に辿り着く。


 先輩は当たり前のようにマッ缶と紅茶を買って、押しつけるように紅茶を手渡してくる。その変わらない不器用さに苦笑しながらありがたく受け取った。


「……誰かになにかを相談するってのは、すげぇ勇気がいることだ。めちゃくちゃ疲れる。相手に対してなにか思うところがあると、特に」

「あー……ふふっ」


 どこか遠くを見つめて吐かれた言葉に、浮かんできたのは一つの台詞。


 先輩はわたしがそれを口にするともううんざりだと言うような顔をするけど、後悔はしてないんだと思う。あのとき、あの二人に本心をぶつけたことを。


 きっと、悩んだはずだ。それこそ何日もかけて向き合ったはずだ。


 だから、そういうことなんだろう。


「……ありがとうございます」


 ぐいっと紅茶を飲み干すと、喉が熱を帯びて次いで身体がぽかぽかしてくる。ペットボトルをゴミ箱に放り込んで、そっと息を吐いた。


「――行きましょうか」

「行ってこい」


 そのちぐはぐな会話に笑ってしまう。


 踏み出した一歩は今までにないくらいに軽い。迷いのない足取りは瞬く間に目的地との距離を詰めていく。逸る気持ちはすれ違う生徒の声すらも掻き消してしまう。


 足を止めずにまっすぐに生徒会室へ。胸の高鳴りが加速する。高揚と呼んで相違ない感覚だった。まるで全速力で野原を駆け抜けているような爽快感。


 ――どうしてだろう。


 今ならなんだって出来る気がした。もちろん、そんなのは気のせいだ。人は急に技能を獲得したりしない。わたしはわたし。一色いろはのまま。それ以上でも、それ以下でもない。


 けれど、それでも。それを自覚して尚、なんでもやってしまえる――なんにだって挑戦出来ると思えるのは、貰ったからだ。勇気を、先輩に。


 冷静に考えれば、こんなに堂々と向かえていることに疑問すら覚える。昼休みからずっと思索に耽ってはいたけど、策なんてなにも浮かんでない。


 雪乃先輩との件をどう解決するか、小町ちゃんに感じた違和感をどう説明するか。それはとても重要なことのように思えるし、実際重要なことなんだろう。だからこそ、わたしはここ最近その二つの事柄に頭を悩ませてきたわけなんだし。


 でも、多分、いいんだ。


 先輩に勇気を貰ったから、わたしは今からあの二人に悩んでることを相談出来る。先輩との進展を手伝う件について納得したわけじゃないし、そこはまだこれから話し合わなきゃいけない。……そうだ、そういうことか。


「そっか……」


 ――話し合わなきゃいけない、んだ。


 話し合わなければいけない。相談しなければいけない。自分で考えて悩んで困ったら、頼らなきゃいけない。一度、言われたはずだ。思い出すまでもない。そもそも忘れてない。しっかり覚えてて、けどそれはダメなんだって甘えなんだって、蓋をして閉じ込めてきた。


「……一人で抱えちゃ、ダメ、なんだ」


 でも、だけど。そんな言葉ばかり浮かんでくる。口にしても理解しきれない。納得しきれない。どうしてダメなんだと思う。一人でやっちゃいけないのかと思う。相談出来るからって、すべてを受け入れたわけじゃない。


「一色?」

「……あ、ごめんなさい」


 無意識に止めていた足をもう一度動かす。前へ進む。


 纏めるんだ。ううん、纏めなくてもいい。纏めなくてもいいから、わたしの気持ちを、わたしの考えを、浮かべ続けるんだ。


 三人の前でなにを話すとか、なにを聞くとか、そんなのは今はいい。スピーチじゃなくて、これはただの自分語りなんだから。頭の中にあることをそのまま話せばいい。


 わたしはこういう人間なんだって、こういう考えを持っていて、こういう人が好きなんだって、知ってもらう。それは……そう。


「言わなければ、絶対に伝わらない……」


 それを話し合いと呼ぶのか、わたしには分からない。何度も考えて、その数だけ頼ってはいけないという答えが出てきた。だから、これはきっと変わらない。いつまでも頼りたくなくて、自分でやりたくて。


 でもそういう人間なんだって伝えることには、きっと違う名前がつくのだと思う。ただの憶測でしかない、気づかぬうちに負担を強いているのかもしれない。普通にありえる。わたしの考えがまったくその通りでしたなんて、その方がおかしい。


「せんぱい……」


 自分の声が震えていることに驚いてしまう。


「どうした」

「……いや、その、着きましたね」

「そうだな」


 会話が続かなくて誤魔化すように扉に手を掛ける。けれど、いつもは軽く開け閉めしているはずのそれが何故かとてつもなく重くて、手が動かなかった。


「まだ、いないと思うが」


 気遣うような声音に、下唇を噛み締めた。……悔しい。歩き出したときは確かに勇気があったはずなのに。今ならなんだって出来るって、そう思えたのに。どうして。


「……怖いのか」


 図星だった。そうだ、怖いんだ。相談だけだったならそこに怖さはなかった。だって、それは自分のことじゃないから。けれど、自分語りをするのなら、当然、不安が出てくる。


 理解されない不安、拒絶される不安。大切なものを失ってしまうという未来が、わたしの動きを制限する。大切なもののためならと思えることもあるけれど、大切だからこそと思ってしまうこともあるんだ。


 葉山先輩のときにこれがなかったのは……別になかったわけじゃないか。ただ勢いで話してからやってきたというだけで、やっぱり怖さはあった。


「……たとえば。たとえばの、話です」


 これはズルなんだと分かっていた。けれどそうせずにはいられなかった。話したくないわけじゃない。むしろ知って欲しいという気持ちのほうが大きい。


 でも、いつまでも完全に信じきれないから、話すことで失ってしまうという不安を否定することができない。口だけでもなんでも、否定のために言葉が欲しかった。


「……わたしが、自分でも認めるほどすごく汚い人間で、場合によっては友人の幸せを願えなかったり、他人であれば傷つけても問題ないと考えていたりするとします……」

「酷いやつだ……」

「ちょっ、まだなにも訊いてないじゃないですかーっ!」


 まあ、訊きたかったのはそういうことで合ってますけど……なんだか釈然としない。


「はぁ。酷いやつ、ですよね……わたしもそう思います。だから、誰にも、理解してもらえないんじゃないかって、思って……」


 世の中、悪人より善人のほうが好かれるに決まってる。共感するなら善い行い善い考え方にこそするだろうし、わざわざ性格の悪い人間を理解しようとする必要はどこにもない。


 だいたい、自分の性格が悪いことを知っていて、その上で相手に受け入れてもらおうだなんて都合がよすぎる。そんなのはエゴでしかない。自分勝手で、他人任せな、最低の行為だ。


 誰かに受け入れて欲しいなら、他人に理解して欲しいのなら、自分から寄り添うべきなんだ。変化を相手に求め、理解されることをただ望むばかりの人間には、きっと誰も近寄らないし、運よく側に行けたとしても離れていくに決まってる。


 でも、変わるというのはすごく難しいことだ。自覚的に自らを良い方向へ変えていける人もいるのかもしれないけど、わたしにそんな器用なことが出来る気はしない。


 ていうか、出来るならしてる。変えられないから何度も同じまちがいを繰り返して、戻ったり進んだり、悩んで逃げ出したくなったりする。


 相手に変化を強要することは出来ないししたくもない。自分を変えることも出来ない。なにも出来ない。わたしはいつも、なにも、出来ない。


 ただ、今のわたしが精一杯努力してきた末のわたしであることを、彼女たちは肯定してくれたし、それがあったからわたしもそれだけはそうなんだと思える。この先の未来で良い関係を築けるはずだと、築きたいと、築かなければならないと。そう、思える。


 ――だから。


 だから、そのための一歩を踏み出さなきゃいけない。分かってる。しなきゃいけないことは、分かってる。分かった。理解した。あとは、行動、するだけ……。


 それが、その一歩を踏み外す可能性が、なによりもの恐怖だった。


「……誰にも理解されないなんて、そんなことはない」


 落ちた気持ちをすくい上げるような言葉。けれど、続けて耳に届いたのは、分かりやすい慰めを否定する残酷な現実。


「――なんて、それこそ、そんなことねぇよな」

「……そう、ですよね」


 そう、そんなことは当たり前にある。


「誰にも理解されないやつはいるし、誰も理解しようとしないやつもいる。言うだけなら簡単だが、生まれた場所も育ってきた環境も違う他人を理解するなんて、そもそもそんなことが出来るのかすら怪しい」


 痛烈な追い討ちだった。ここ、慰めるとこじゃないんですかね。なにも言い返せずに睨め付けていると、先輩はふっとなんか勝ち誇ったように息を漏らして、


「でもな、出来るんだよ」


 不覚にもかっこいいと思ってしまった。その、当たり前のことを当たり前だと言うような姿に。でも、ちょっと狙い過ぎですごめんなさい。あとさっきの仕草普通にムカつきました。


「どこソースですか……」

「結婚出来ない女教師」

「あとで報告しておきますね」

「それだけは勘弁してくれ。ていうか、シリアスな雰囲気だっただろ今……台無しじゃねぇか」


 人の話を遮って最初に壊そうとしたのはどこの誰でしたっけ。……それがこの人の優しさであることは知っているので、特に責めるつもりはないというか、むしろ感謝してますけどね。ええ、ありがとうございます。


「……ていうか、それ受け売りじゃないですか」

「だからだろ」


 間を空けず返ってきた言葉に首を傾げてしまった。だから、なんだというのだろうか。


「受け売りだから。俺の言葉じゃないから。どこかの誰かの言った背景の分からない台詞だから。無責任に信じてもいい」

「なんですか、それ……」


 ふっと肩の荷が下りたような気持ちになる。誰かに預けてはいけない、押し付けてはいけない、わたしが背負っていかなければならないものではなかったんだろうか。


 いや、そんなことはない。それは確かにわたしがこれからも責任を持って所持し続け、悩み苦しみ答えを出すべき問題だ。だから、ダメだ。まちがってる。


「わたしの不安は、わたし自身で……」


 おかしいな……もともと不安を否定する言葉が欲しかったはずなのに、素直に飲み込めない。先輩の言葉じゃないからか。先輩の言葉がよかったのか。それとも……口だけの慰めが欲しかったのか。


 自ら進んで吐く弱音ならよくて、相手にこれでいいんだと言われると納得出来ないなんて、なんて面倒なプライドだろう。でも、そんなプライドだって、わたしの在り方なんだ。


「いいだろ、別に。どっかの偉い人がこう言ってるからそうなんだろうなでなにが悪いんだよ。どうしてわざわざすべて抱えようとする。お前が悩むべき、考えるべきはそこじゃないだろ」


 わたしが悩むべきところ。わたしの不安。それは誰にも理解されないかもしれないという不安だ。先輩に勇気をもらってしまうこともあるけれど、基本的には自分で拭わなければならないもののはずだ。


 自分の足で立ち向かって、自分の手で拭う。そうやって、自分の選んだ道を、自分で切り拓いた道を進んでいくべきだ。


 だって、もし違うなら……今までのわたしを。


「自分のことは自分で。当たり前のことだ。けどな、自分で出来ないことだってあるし、立ち止まってたら解決しない問題もある。選ぶんだよ。なにをするのか、なにが重要なのか、そのためにどうするべきなのかを考えて、選ぶんだ」

「わ、わたしは選んで……」

「お前のそれは、選んでるとは言わねぇだろ」


 容赦のない否定の言葉が胸の奥まで深々と突き刺さる。痛い。多分、先輩だから。先輩に言われてるから、大切な人に否定されてるから、こんなに痛い。


「あれを解決したい。でもその前にこれも解決しなきゃいけない。さらに目の前にはこのこともある。……これのどこが選んでんだ? なにも選んでない。なにも選べてない。優柔不断なだけだ」

「……そんな、言い方」


 違う。言うべきはそんなことではない。言い方がどうのこうのなんて、今はどうでもいいことのはずだ。それに、多少キツい言い方であったとしても、先輩の目を見れば責めているわけでも怒っているわけでもないことは分かる。


 叱られているのだ。お前のやり方はまちがってると。こういうやり方があるのだと教えられているのだ。けれど、ついさっきまで不安に思っていたことそのものが起きて、どうしようもない言い訳ばかりが頭を巡る。


「どうにかしたいことをどうにかするには、手段を選んでる暇なんてねぇだろ。迷ってる暇なんてねぇだろ。違うか?」


 どこかで聞いたことがある台詞だった。なにかを成すためなら迷わずに選ぶ。選ぶだの、選ばないだのとややこしいけれど、つまりは、最も重要なことを解決するために不安を切り捨てろということだ。


 それはわたしが、あのとき――五月、奉仕部に舞い込んだ問題を解決するためにしたことと同じ。どうして今は出来ないんだろう。


 その不安を切り捨てる勇気がないから。


「勇気が……ないんです」

「だから貰えばいいんだろ。そこらへんの言葉に。選ぶんだよ。不安を適当な言葉で誤魔化すっていう選択肢を、選ぶんだ。それはまちがいなく、お前自身の選択だろ」


 うまいこと乗せられている気がする。そういえば、前もそうだった。あのときも、先輩の口車に乗せられて、わたしは今こうしている。


「いいんですかね……」

「いいんだよ」

「自分でやらなきゃいけないことじゃ、ないんですかね……」

「自分でやってるだろ」

「もぉ……そんなの、屁理屈じゃないですかぁ……」


 泣きそうになりながら抗議の視線を向けると、先輩はいつも通りふてぶてしい態度で、


「はっ、屁理屈は俺の108の特技の一つだからな」


 堂々と言い放つ姿に、なんだか感心してしまう。この人と話していると、悩んでいたのがバカらしくなってくる。……本当に、素敵な先輩だ。


「あと、まあ、なんだ。お前は確かに酷いやつなのかもしれない。でもな、俺のほうがもっと酷いやつだ」

「なにを急に……」

「……でも、そんなやつを理解しようとしてくれるお人好しな人間だっているんだよ」


 連想したのは二人の女性。それなら確かに、わたしなんかが不安に思うことじゃなかったのかもしれない。先人がいるんだから、確かな証拠があるんだから。


「悩むなとは言わない。いくつも悩みを抱えることだってある。生きてりゃ仕方のないことだ。けどな、それはもう一歩先であるべきだろ」


 もう一歩先。理解されるかどうかではなく、まず話してみてその結果如何で悩めということか。理解されたならされたでよし。されなかったなら、そこでどうするか考えればいい。行動しなければ、そこにすら辿り着けない。


「はぁ。分かりました」


 納得、してしまった。でも、ちょっとだけ、悔しい……。


「あ、ふふっ。――先輩に、乗せられてあげます」


 少し驚いたような顔をした辺り、先輩も覚えていたのだろう。意趣返しというわけではないけれど、なんだか胸がすっとした。


 そうして、ようやくわたしは生徒会室の扉を開ける。


 どう頑張っても開けられる気がしなかったのに、いざ決意してみれば呆気なく扉はわたしたちを迎え入れた。


        × × × ×


 長い沈黙だった。


 より正確に言うならば、声を出せなかったというべきか。口はパクパクと動いているのに、なにを言えばいいのか分からなくて、想いが音にならない。


 硬直したわたしの耳に苦笑いが届く。ひとまず口を閉じて、それから目を向ければ呆れたようにこめかみを抑える黒髪美人。横に立つ朴念仁はこちらに目を合わせようとしない。


「……いるじゃないですか」


 ちょっと話をしてちょっとした決意をして、それからやっとの思いで入った生徒会室は、どこぞの先輩の言が嘘であることを証明してくれた。


 雪乃先輩と結衣先輩へもう一度目を向けて、すぅっと息を吸い込む。


「いるじゃないですかっ!」


 恥ずかしいぃぃぃ! 反応から察するに、わたしたちの会話は筒抜けだったのだろう。触れてこないのがなによりも辛い。


「……連絡はしたはずだけれど」


 その言葉に勢いよく横へと顔を動かすも、先輩は明後日の方向を見たままだ。……これは、知ってましたね? 知ってて騙しましたね!?


「せーんぱい? わたしになにか、言うことがありませんか?」

「……とりあえず入っちまえば、あとはなんとかなると思った」

「ぐっ……」


 よく考えなくても元凶はわたしだった。責められることを覚悟してそうしたと言うのなら、それに対して文句を言うのは筋が違う。


 けどさぁ……っ! それでも……うぅ。


「そもそも、あんまり得意じゃねーんだよ。なんつーの? ほら、誰かの考えを上から否定するとかな……何様だって話だろ」

「……それは分かりますけどっ」


 分かる。言われれば確かに、先輩はそういうタイプではないとも思う。


 もしあの嘘がなかったとしても、わたしの勇気がなかったなら、どの道恥ずかしい思いをしていた。それも充分に理解している。けど、その理解に心が追いつかないんですよ!


「別に否定じゃなくてもよかった。たとえば、美辞麗句を並べたてるでも、お前が扉を開きさえすれば、それで。……だからと言って、さっきの話が嘘だったってわけでもないんだが」


 言われずともそこは心配していない。あくまで手段の一つとして行動したのだとしても、先輩がわたしに適当な嘘を吐いたとは思っていない。


 だからこそ……辛い。この行く宛のない恥ずかしさはどこへ埋めればいいですか。生徒会室前で泣きそうになった過去はどこに隠せばいいですか……捨てられない辺りにわたしのちょろさが窺える。


 だって先輩との思い出ですもん! 捨てられるわけないよね!


「いろはさん。このままでは話が進まないのだけれど」

「あ……はい。すみません……」


 呼びつけて置いていきなりこれじゃ申し訳ない。ここは素直に謝っておく。タイミングを見計らって淹れたであろう紅茶の香りがちくちく胸を刺すけれど。


「屁理屈がやくんのことは一旦置いておきましょう」

「置いておく気ありますっ!?」

「ふふっ……ご、ごめん、いろはちゃん」

「いえ……謝らないでください」


 余計に辛くなります。


「とりあえず座ったら? 立っていて疲れたでしょう」

「わざとやってますよねっ? そうなんですよねっ!?」


 ここぞとばかりに弄ってくる。なんて大人気のない先輩だ。そんな気安さを心地よく感じてしまう自分が憎い。これから、もっと仲良くなりましょうね!


 泣きそうになりながらも席に着く。そっと紅茶を飲むと、じんわりと熱が全身に行き渡った。別に寒くはないし、どちらかと言えば気温は高いけれど、なぜだかほっとしてしまう。


「はぁ……」

「落ち着いたかしら?」

「……はい。まあ、一応」


 雪乃先輩なりに緊張をほぐそうとしてくれたのだろう。その気遣いには感謝する他ない。茶化されたおかげで、恥ずかしさも幾分かマシになったし。


「……なに?」

「あ、いえ」


 つい熱い視線を送ってしまっていた。いや、それは冗談ですけど、見つめてしまっていたのは事実だ。……やっぱり、嫌われたってわけじゃないんだよね。


 もともと分かっていたことだけど、喧嘩してるわけでも好感度が下がったわけでもない。これはちょっとしたすれ違いみたいなものだ。


 雪乃先輩はわたしのことを想ってくれているし、わたしも雪乃先輩のことを想っている。けれど、価値観の違いで意見がぶつかり、対立するような構図になってしまった。

 この問題を解決する方法は、三つある。


 一つ目は、わたしが折れて雪乃先輩の意見に合わせること。


 多分、一番簡単な方法だ。事の発端——先輩のお家ですでに思いついていた案で、同時にその場で切り捨てた案でもある。


 これじゃダメなんだ。そうやって顔色を窺って、誰かの意見に合わせて、納得したフリをして、波風を立てず、なあなあなまま良好な関係を築くことはしたくない。


 別に悪い事じゃない。協調性があって、正しい友達付き合いだろう。長い時間の中で徐々にお互いを知っていき、最終的にはお互いがお互いのことを理解しているかもしれない。


 きっと、早いか遅いか、少し深いか少し浅いか、その程度の違いしかない。でも、いや、だからこそ、嫌だ。嫌なんだ。


 いつだって、本気でいたい。全力でいたい。大切な人と仲良くなるための大きな一歩を踏み出したい。十歩掛かる距離を、五歩で詰めていきたい。


 好きな人と仲良くなる過程に、手加減をしたくない。


 ここで楽な道を選んだって、それは後悔という形で未来のわたしに降りかかる。そんなのは目に見えてる。いつだって後悔ばかりだ。後悔しないように、後悔していない、そんなことをいくら思ったところで、何度だって道をまちがえて、何度もやり直す。


 結局、どんな道を選んだって後悔はするのかもしれない。けど、それは新しい道を後から見つけたときだから。楽な道を選ばなかったわたしを、わたしは悔やんだりしないから。


 だから、わたしは、その案を選ばない。


 二つ目は、雪乃先輩がわたしに合わせてくれること。


 これは一つ目と同じくやりたくないし、やらせたくない。ここで折れる雪乃先輩なんて、わたしは見たくない。


 そもそも、そんなことを考えるまでもなく、雪乃先輩が折れないだろうことは言を俟《ま》たない。だって、雪ノ下雪乃はわたしと同じで意地っ張りだから。


 となれば、三つ目。


 ここに来るまでに気づいたことであり、扉を開けるのが怖くなった理由でもある——話し合う、というところに結論は行き着くのだった。


 話し合う、という表現が適切かどうかについては、わたしが思いつかない以上はさて置くとして、じゃあなにを話すのか。なにを語るのか。


 わたしのことを、語るんだ。


 わたしはわたしのことを知って欲しいから、わたしはこう思っていてこういう人間なんだって、知って欲しいから。


 まだ、怖い。


 怖くてたまらない。否定が怖い。拒絶が怖い。無理解が怖い。誰にも知ってもらえないことが、誰にも受け入れてもらえないことが、怖い。


 普通に考えれば、先輩を理解しようとしている二人がわたしのことも理解しようとしてくれるかどうかなんて分からない。


「……だ」


 ——信じるんだ。


 好きな人を、大切な人を信じる。期待する。わたしがなによりもしたくないことを、する。じゃなきゃ話せないから。怖いから、自分のことを丸め込まなきゃ前に進めないから。


 今だけでいいから。


 他人を信じろ。


 いつのまにかじゃなくて、自分の意志で。


 わたしのために、こんなところに集まってくれた人たちのことを信じろ。


 信じてみたいじゃなくて、もっとはっきりと。


 ——でも、そんなやつを理解しようとしてくれるお人好しな人間だっているんだよ。


 先輩の言葉を信じろ。


 ——いろはちゃんは『わたしだけ』なんて言うけどさ、そう思ってるの、いろはちゃんだけだよ。


 結衣先輩の言葉を信じろ。


 ——あなただけがっ、大切だと思ってるなんてっ……そんなわけないじゃない……っ!


 雪乃先輩の言葉を、信じろ。


 いっぱい話して、意見が分かれて、お互いのことを分かってるから否定出来て、そんな関係になりたいのなら、まずは信じるんだ。


 期待も信頼も、裏切られるのは怖いけど。


 誰かに信じて欲しいなら。


 理解して欲しいのなら。


 怖いことを、するんだ。


 相手に寄り添い、相手を信じなければ、なにも得られはしない。


 誰も信じてないやつなんて、誰にも信じてもらえないに決まってる。自分ですら自分を信じきれないから、こんなところで躓くんだ。


 今なんだ。今、ここで乗り越えておくべきなんだ。


 だから。


 ——誰かを信じるわたしを信じろ。


「……せんぱい」

「……なんだ」

「結衣、せんぱい……」

「うん」

「雪乃先輩……っ」

「なにかしら?」

「わたしのっ……わたしの、話を、聞いてください……っ!」


 三者三様の返答が同時に耳に届く。けど、拒否を意味する言葉は一つとしてなくて、


「あぁ……もぅっ、ここから、なのに……っ」


 まだ始まってもいないのに、視界が滲む。かたり、物音に反応して、左手で涙を拭いながら空いている右手の平を見せる。


「だいじょうぶ……ですからっ。自分で、一人で、出来る、からっ……」


 一人で出来る。自分の力で立ち向かえる。自分で出来ないから、この人たちを頼るわけじゃないんだ。支えが欲しいから信じるわけじゃないんだ。


 一人で立って、一人で歩ける。同じ道を進むわけでも、同じペースで進むわけでもないけど、それでいい。ただ、同じように歩いていきたいだけだから。


 わたしのことを、知って欲しいだけだから。


 一度大きく深呼吸をして、思いきり目元を拭った。


「……雪乃先輩との件を話す前に、聞いて欲しいことがあります。わたしの、話です」


 もう一度泣くかもしれない。ぼんやりと頭の片隅でそんなことを考えながら、ぽつりぽつりと、わたしは語り始める。わたしの気持ちを。


        × × × ×


 一人でやることが、いいことなんだと思っていました。


 先輩に褒められて、雪乃先輩や結衣先輩に肯定してもらえて、自分はすごいやつなんだって、錯覚でもしてたんですかね……。


 呆れちゃいますね、今まで一人で出来たことなんて、一つもなかったのに。なんでこうなっちゃったんでしょうか……何度も言われてたことなのに。


 わたし自身、気づいてはいたんだと思います。先輩たちに何度も言われて、悩んで困ったら相談するべきなんだって。


 でも……それでも、それが出来なかったのは、ちっぽけなプライドとか、いろんな欲のせい、なのかなぁ。


 わたし、褒められるのは慣れてるんです。褒めそやされる、というか。ウケのいい態度を取って、男子からかわいいって言われて、一種の防衛措置でもあったんですけど、そのときも天狗にはなってましたね。


 知ってました? かわいいと友達って出来ないんですよ。……え、なんで知ってるんですか。


 あー、ほら、わたし、かわいいじゃないですか? そっちの努力は怠ったことなくて、お母さんも蝶よ花よみたいな感じで甘やかしてくれたから、今までずっとかわいかったんです。


 当然、もともと男子から告白されたりすることも多くて、それが原因で、女の子の友達とかほとんど出来たことなかったんですよね。


 でも、それっておかしいじゃないですか。わたし、なんにも悪いことしてない……ただ、かわいかった、頑張ってかわいくあろうとしただけなのに、わたしよりかわいくないやつが、集団になって「ブス」とか「調子に乗るな」とか、言ってくるんですよ。


 ふざけんなですよ……そんなの、わたしよりかわいくないのが悪いのに、悔しいなら努力すればいいのに、人の足を引っ張ることにばっかり時間使って。


 そんなことで一人にされたら、頑張ってるわたしがバカみたいじゃないですか。頑張るのが、悪いことみたいじゃないですか。


 だから、それからはよりかわいくなろうとしました。どんな男子だってわたしの味方になってくれるくらい。……実際、うまくいきましたよ。ま、女子はほとんど敵になりましたけど。


 頑張るのは、悪いことじゃないんです。頑張るのは正しいことなんです。誰かの努力は、人を幸せにするんです……だって、お母さんはいつも、わたしを幸せにしてくれました。


 否定、しちゃダメじゃないですか。わたしが、わたしのために頑張ってくれたお母さんを否定するわけにはいかないじゃないですか。


 ……ごめんなさい。ちょっと、話がずれちゃいましたね。


 そういうわけで、わたし、褒められることには慣れてるんです。貶されることにも慣れてますけどね。……あの、ここ、笑うとこですよー?


 そういう慣れで、変にプライドが高くなっちゃったんですかね、意地を張り始めるとキリがなくて。困っちゃますね?


 ただ、それだけだったんです。それだけ……かわいいだけ。わたしには他になーんにもありませんでした。かわいくなれたのだって結局、お母さんのおかげですし。


 だから、嬉しかったんですよね……すごいって言ってもらえて。もっと褒められたくなっちゃったんです。いっぱい頑張ればいっぱい褒めてもらえる。


 でも、どう頑張ればいいのか、よく分からなくて。わたし、なにも持ってないから……。なんでもかんでも他人任せにしてきたツケですね。ふと見てみたら、わたしの手の中、空っぽだったんです。


 十七年も生きて、自分で手にしたものがなんにもないって……それじゃダメじゃないですか。そんなの、わたしにだって分かりますよ。


 だから、なんですかね。すごいって言ってくれた人を、すごいって思える人を真似してました。いつのまにか真似てて、一人でやらなきゃダメなんだって、一人で歩いていかなきゃダメなんだって。でも、そうじゃないんですね。


 一人でやるのは悪いことじゃない。でも、別にかっこよくなんかなくて、すごくもなくて、当たり前のことなんですよね。誰かに頼れて、誰かを信じられることはとても重要なことなんですよね。


 分かってるんです。わたしが誰も頼らないのはプライドと呼ぶことも出来ない、ただ駄々をこねてるだけなんだってこと。けど、やっぱり褒めて欲しいって気持ちがあって、認めて欲しいって思っちゃって。


 もっとって、そうやって欲張っちゃうんです。


 汚い人間ですよね。自分のことしか考えてない。自分が褒めて欲しいから、そのために頑張るなんて、理由と結果が逆になっちゃってます。


 でも、わたし……そんな自分が嫌いじゃないんです。


 頑張る理由を他人に求めると、その人がいなくなったときにどうすればいいのか分からなくなっちゃうじゃないですか。その点、自分のためならわたしが死ぬまでなくなることはないんですよ。これ……すごく、楽なんですよね。


 そっか……楽なんですね。楽を、していたんですね。楽な道を進んでいたんですね、わたし。だから、今、こうなってるんですね。


 ようやく、納得出来た気がします。


 そういうダメな部分があるなら、雪乃先輩の言葉にも頷けちゃいそうです。……けど、ダメなんです。そういう自分は、好きになれないんです。


 誰かに頼るのもやっぱり楽をしてるって感じちゃうんですよ……。頑張ってるって自覚がないと、まっすぐ前を向けない。


 それに、雪乃先輩と結衣先輩だからっていうもあります。二人に、頼りたくない……一緒にいたいのに、仲良くして欲しいのに。ううん、だから、ですね。いつまでも追いつけないから、追いつきたいから、頼りたくない。


 だいたいわたし、先輩たちになにかしてもらっても返せる気がしないんです。自分のことばっかだから……場合によっては先輩たちの幸せを素直に祝ってあげられなかったりするかもしれない。


 嫌なんですよ……そういうのは嫌なんです。貰ったものを返せないような人間になりたくない。わたしは汚いから……ダメだから……せめて、大切な人の前でくらい綺麗でいたい。もし、そんなことになったら、お母さんの前で堂々と出来ないから……あぁ、いえ、今のは違くて。


 一人で出来るように、なりたいんです。誰かを頼るとしても、それは最後の最後にしたい。当たり前のことを当たり前に出来るようになりたい。


 見ていて、くれませんか……。


 わたし、一人で、やってみたいんです。


 かっこよくなくてもいい。


 すごくなくてもいい。


 ただ、先輩たちの隣に立ちたい。


 理解して欲しいなんて、言えませんね。


 こんなの、わがままなだけですもん。


 ……そういう、感じです。わたしは、そういう人間なんです。


 聞いていただいて、ありがとうございました。


        × × × ×


 すべてを言い終えた気はしなかった。当然だろう。お母さんのことについては隠していたし、そもそも語る気がないんだからすべてもなにもない。


 ただ、頭に浮かんでいたものに絞ればおおよそ吐き出せたように思える。多分、言いたいことは言えたはず。……カンペとか作っておけばよかった。


「要領を得ないわね」

「うぐっ……」


 鋭利な刃が胸に突き刺さった。これだけ長々と語りながら、一端も理解してもらえなかったのだろうか。予想以上に辛い。


「でも、まあ、及第点、かしらね」


 ふっと優しげに息を吐いて、雪乃先輩は微笑む。


「それは、つまり……?」

「あなたの考え方、私とあなたと意見の違いを概ね理解した、ということよ」

「ぅ……ちょっと、待って、ください……」

「本当に涙腺が緩いわね……」


 誰のせいだと……! あなた方三人全員被疑者ですからね!


「ただ、賛成はしかねるわ」

「っ……そう、ですよね」


 分かっていたこと、覚悟していたことだ。もし理解されたとて、それに同意してくれるかどうかは別問題。理解してもらえただけよかったと捉えるべき。


「けれど、納得はしてあげる」

「納得……?」

「そう。まあ、私が上から目線で言えるようなことでもないのだけれど……あなたの気持ち、分かるから。意地を張る気持ちも、なにかを成さんとするその意思も」


 苦笑する雪乃先輩に、首を傾げてしまう。


 なにか、あるのだろうか。他の二人へ視線を動かすと、そちらも同じような表情を浮かべていた。なんだか仲間はずれにされた気分です。


「姉さんから、聞いてないのね」

「はるのんから……?」

「いえ、知らないのならそれでいいわ。あまり知られたいことでもないし。私にも、あなたと似たようなときがあった、ということだけ、知っておいて」

「雪乃先輩にも……」


 その言葉に、特別疑問を覚えなかったのは、わたしが雪乃先輩が意地っ張りであることを知っているから。雪乃先輩自身が言っていたことだ。


 同じことをしている。そして、雪乃先輩はすでにその問題にはケリをつけている。なら、わたしにも出来るのだろうか。


「ええ。……そうよね、人それぞれタイミングというものがあるわよね」

「ゆきのんもなんだかんだ長かったもんねー?」

「ゆ、由比ヶ浜さん……今、その話は」

「えー! なんですかそれ! 気になるんですけど!」

「今はあなたの話でしょう」

「……はい」


 身も凍える冷たい声だった。氷の女王は健在か……。


 わたしが震えていると、雪乃先輩はふと思い至ったように小さく声を漏らし、それからもう一度わたしを見据えた。


「……急かすようなことをしてごめんなさい。勝手に、はもう止めるわ。まあ、クラス展示があるのは本当だから、どのみち文実になることは出来なかったのだけれど」

「でもゆきのん、本当はなりたかったんじゃないの?」

「……いい加減なことを言うのはやめて」


 照れたように顔を背ける。そんな仕草一つがわたしがどれだけ想って貰えているのかを伝えてくれる。どうしようもないくらいに嬉しくて、また泣きそうになった。ずるい。


「はぁ。とりあえず、その話は置いておいて……いろはさん」

「は、はい」


 真剣な眼差しを受け、自然と居住まいを正してしまう。張り詰めた空気、ではない。けれど、緩んでいるわけでもなくて。


 真意を見逃さないとばかりにじっとわたしを見詰める瞳には、寂しさが滲んでいる気がした。疑われている、ということに対して戸惑いはない。信じてもらえないのはわたしのせいだ。


 あの寂しさを埋めたい。信じて欲しい。だから、真っ直ぐに視線を返した。


「こうして今、あなたは自分の話をして、それから私たちと話し合ってくれている。それは、あなたの選択ということでいいのよね?」

「はい……わたしが、選んだことです」


 自分で話そうと決意したのだ。乗り越えられたのかは分からないけど、それは確かなこと。


「そう……なら、いいわ。頼って欲しいわけではない……とは言えないけれど、それはただのエゴだもの。でも、なにかがあったのなら説明くらいはして欲しい。あなたがどんな状況にあるのかということは、あなたの口から聴かない限り分からないから」


 話すことそれ自体に意味がある。ということだろうか。語ることでなにか負担をかけてしまうかもしれないという可能性を考えれば、素直に頷き難い。


 でも、頷くんだ。わたしは信じて欲しいから。その過程にある不安は切り捨てるんだ。生徒会室に入ったときと同じように。たとえ、勇気がなくても。


「……分かりました」

「そう。なら、あなたを信じるわ」


 くしゃりと子供のように顔を綻ばせる。


「……はる、のん?」

「? 姉さんが、どうかしたの?」

「——あっ、いえ」


 初めて見た……。今まで笑っているところを見ることは何度もあったけど、それはあくまで微笑むという表現に収まるものだった。綺麗というよりかはかわいいが似合う笑顔。


 一瞬見間違うほど雪ノ下陽乃にそっくりだった。


「雪乃先輩……そんなふうに笑うことも、あるんですね」

「そんなふう……?」


 自覚がないのか……。女のわたしでも見惚れてしまいくらいかわいい笑顔なのにもったいない。いや、でも、はるのんも自覚的にやってるわけじゃないもんな。


 はぁ、勘弁してくださいよ……。たまに見せるその表情が、どれだけ他人を虜にしていると思ってるんですか。雪ノ下の女児はやっぱりずるい。


「……なんでもないです」

「そう? それならいいのだけれど」

「はい。じゃあ、この話はここで……」


 先輩が空気になってることも考えて、話を切り上げようとすると、雪乃先輩がそれを止める。


「待って。いろはさん、まだあなたに言いたいことがあるの」

「なんですか……?」


 わたしの問いに、雪乃先輩は「これは別に、あなたのことを否定するわけじゃないのだけれど」と前置きをしてから答える。


「……私には、あなたが自分のことしか考えていない利己主義な人間だとは思えない」

「それは……でも、実際、そうですよ……」

「その点について議論するつもりはないわ。あなたのことを理解しきれていないから……こうしろとかああしろとか、適当なことは言えない。私にはそうは思えないということを知って欲しいだけ……だから、これはただのお願い」


 目を伏せた雪乃先輩はどこか自信なさげで、そんな姿が珍しくて、とても印象的だった。


「……もっと、自分のことを考えて」


 再びわたしを見据えた雪乃先輩は先と変わらぬ瞳のままだったから、その一瞬でなにを思っていたのかは読み取れない。けど、不思議と、しっかり心に留めておくべきだと感じた。


「それだけよ。話してくれて、ありがとう」

「こちらこそ……ありがとうございました」


 そして、とうとう話は本題へと移る。


「わたしとあなたの件については解決した。本当は私も……いえ、聴いた以上は私たちも、こういう場でしっかりと話しておくべきなのかもしれないけれど、後日でも問題はないでしょう。というか、そもそも、私の思い違いでなければ私たちは事あるごとにあなたに話をしているはずだから、今更わざわざ畏まって伝える必要もないわよね」

「うっ……」


 その隙あらば精神なんとかなりませんか。ぐっさぐさ刺さるんですけど、わたしの心針山みたいになっちゃってるんですけど。


「それで? まだなにか話すことがあるのでしょう?」


 どこからでもかかって来なさいと言われている気分。余裕たっぷりの微笑みを見るに、まちがっていないだろう。あー、もう、分かりましたよ! はいはい、話せばいいんでしょう! 話せば! やってやりますよ!


「場は整いました。また要領の得ない話ですが、覚悟はいいですか」

「望むところよ」


 不覚にもかっこいいと思ってしまった。ほんと、なんなのこの人! 勝てる気がしないんですけど! と、まあ、ふざけるのは大概して、ではどう話そうかと考えを巡らせる。


 しかし、そうやって思索に耽ったところで、結局、思案に余るのだ。先輩に相談した時点で分かりきっていたことだった。……そのまま言うしかないかなぁ。


「その、小町ちゃんのこと、なんですけど」

「小町さんの?」

「はい。えっと……なんて言えばいいんですかね」


 文化祭実行委員発足から一週間。目立ったことは特になにもない。小町ちゃん自身にやる気があるおかげか、全体のモチベーションは高く、進行は順調そのものだ。


 小町ちゃんもなにか分からないことがあれば、すぐに生徒会に相談してくれるし、わたしの気づかないうちに水面下で問題が発生しているということも、恐らくはない。


 違和感があったことを鑑みて、生徒会メンバーにも頻繁になにか気づいたことはないか確認しているけれど、今のところそういった報告はない。


 だから、根拠は違和感があったというところにしかなく、それでいてその違和感についてわたし自身はっきりしないままなために、納得や理解を得ることは難しい。


「……違和感がありました。でも、なにに対して違和感を覚えたのか、わたしにも判然としないというのが今の状況です」

「とりあえず、いいんじゃねぇのか、それで」

「いいんですかね……」


 もともと要領を得ない漠然とした不安の吐き出しだと言えば、それまでだ。ただ、纏まりのない話は、相手に不安を与えるだけ与えてそれで終わってしまう危険がある。


 これがどうでもいい相手のことならともかく、小町ちゃんへの不安を適当に植え付けるのは出来れば避けたいところ。


「話し合いって、そういうもんだろ。発表会じゃないんだから、筋の通った話なんて誰も期待しちゃいない。思ったことを一つ一つ挙げていけばいい。それで新たな気付きを得られれば儲けもんだろ」

「比企谷くんにしては、まともなことを言うじゃない」

「……俺はいつもまともなことしか言ってねぇよ」

「あはは、それはどうかなぁ……」


 先輩のスキル発動。陣地作成(但し、敵陣)。多分、効果は敵のチャージを1進めるとかそんなん。デメリットしかねぇな!


「……続きは」

「あぁ、はい。……いや、続きもなにも、それだけみたいな? 一週間なにも起こらなかったし、気のせいだったのかも……?」


 なんて言いつつも、わたし自身は気のせいだと思っていない。自分の勘に全幅の信頼を寄せているわけじゃ、もちろんないんだけど……。


「本当に? あなた、本当に『ただの気のせいかもしれない』なんて、思ってるの?」

「ぐっ……思って、ません」

「思ってもないことを言わないで。話し合いに至っても尚、抵抗があるのは分かるけれど……ここで曖昧なことを言って後々大事になったら、後悔するのはあなたなのよ」


 そう、後悔するのはわたし。責められるのもわたし。きっと責められることはないだろうと思っているのもわたしで、わたし一人に責任があるのなら、わたしだけで片がつくならそのほうがいいと考えているのもわたしなのだった。


 楽をしている。甘えている。


 誰にも話さないことや話すことが出来ないことは、確かに辛かった。


 でも、誰かを巻き込んでしまうこと、責任の所在を分散してしまうことには、一人でやることとは別種の辛さがある。自分の手に負えなくなる怖さがある。


「……でも、違和感があった、とか言っても、ようは直感でしかないですし……」

「いろはちゃんの直感って結構当たるじゃん」


 素直な言葉に面食らってしまう。そう真正面から言われると、誤魔化しようがないんですよね……。確かに、わたしの直感はよく当たる。


「そうね。まあ、当たっていようとなかろうと、この中の誰かがわざわざ伝えてくれたことを蔑ろにするわけがないのだけれど」


 雪乃先輩の台詞には共感出来た。いろんなリスクがあるのにも関わらず相談してくれたのなら、軽く扱うことはない。……同じ、気持ちなんだよなぁ。


 雪乃先輩とわたしは同じ気持ちを向けあっていて、でも、雪乃先輩のほうがわたしより遥かに成長している。目指すべき場所は、どれほど遠いのだろう。


 追いつきたい。わたしの背中を押すのは、その気持ちだけだった。


「……五月のこと、覚えてますか?」


 ぴくり、とそれぞれが微かに反応する。


「あのとき……わたし、止めましたよね。それも、直感みたいなものだったんです」


 纏まった意見に、空気に、水を差してでも自分の意見を言った。でも、肝心の理由は『先輩の瞳に不安が見えた』とかいう根拠にもならないものだったから、口に出来なくて、先輩たち側の問題も絡んで説得することは出来なかった。


 今回は先輩たちには問題はない。しかし、対象的にわたしの意見はより希薄なものになってしまっている。状況や経験値の違いもあり、否定されることはないだろう。とは言え、自覚があるのに相手の優しさに頼りきりになるわけにはいかない。


 五月の依頼に関するわたしの想いを打ち明ければ、その希薄さに信憑性を持たせることが出来るのでは。わたしが何ヶ月も前の話を持ち出したのは、そんな考えからだ。


 実績は分かりやすい判断材料になる……だからこそ、な部分もあるけれど。


「先輩の瞳に、不安が見えたんです」


 不安や、迷い。それがあったから、わたしは問題の解消をした。


「直感。……目の動きやちょっとした仕草、いつもとは違う反応に微かな疑問が生まれるんです。意識してやってるわけじゃないんですけど」


 なぜか、写り込んでくるのだ。まるで、見逃すのを許さないとでも言うように。……わたしとしては、もっと他のことも見逃さなくなりたいんですが。


「だから、小町ちゃんもいつもと違うんだと思うんですよね。どこが違うのかは分からないんですけど……」

「……比企谷くん」

「俺は、小町がいつもと違う、とは感じない」


 そうなんだ。実績というのなら、先輩以上に実績を持つ人はいない。だからこそ、わたしの話には信憑性がなくて、信じてもらうには相手の優しさに頼るしかなくなってしまう。


 策は潰えた。ここは明るく振る舞って流し、先輩たちにはとりあえず注意だけ向けておいてもらえばいいだろうか。いいもなにも、そうするしかないんだけど。


「だが……」


 わたしが話を纏める前に、先輩が口を開いた。しかし、言葉は遮られ、代わりに別の声が耳に届く。


「そういうこと、あると思う」

「……どういう意味?」


 雪乃先輩の問いに、結衣先輩は首を傾げつつも答える。


「うーん、なんて言うのかな……その、ゆきのんとかヒッキーの前では隠してないけど、ママには言えないことみたいなのがあたしにもあって。だから、小町ちゃんもそういうことなんじゃないかって……違う、かな」


 なるほど、と思ってしまった。それはつい先日わたしも考えたことであり、今回わたしがしたことでもある。


 友達だから話せること、家族だから話せること、どうでもいい人だから話せること、誰だってそうやってカテゴリ分けして誰になにを話すか決めている。


 わたしはもちろんのこと、結衣先輩も、雪乃先輩も、先輩も。それぞれに目を向ければ、納得したような表情をしていた。だから、当然——比企谷小町だってそうなのだ。


「……違わないわね。私にだって、言いたいことや言えないことはあるもの。そう、そういうこと……。比企谷くん、あなたが言いかけたのも同じことで合ってる?」


 先輩はかぶりを振る。


「いや。それはそれで確かにと思うが、別のことだ」


 別のことなら、小町ちゃんがいつもと違うかどうかについてのことだろうか。さっきまでの話の流れを考慮すると、一番自然だ。


「……最近、小町がいつもと違うと感じたことはない。だが、高校に入学して環境が変わった影響か、中学の頃とは違うと感じることはたまにある」

「例えば、どんなことですか?」

「あー、服の趣味、とか……。あと、今まで食べてなかったものを食べるようになったり、もう中学生じゃねぇんだなって思わされることが多いな」

「なる、ほど……」


 分からないでもない。成長期というのは、得てしてそういうものだろう。自分の知らないうちに食べれなかったものが食べれるようになっていたり、進学に比例してお小遣いが増え、買えなかったものが買えるようになったりする。


 中学のときとは付き合う友人のタイプが微妙に変わったりするし、場合によってはそのことで四苦八苦したりもする。……わたしはいつも八苦十六苦くらいしてますけどネ!


 まあ、わたしの話はともかく、分かりやすい節目で起きる変化というものは、納得しやすく、だから見逃しやすい。先輩が口に出したのも、そういう旨意があってのことだろう。


「えっと……それって、なんか変なことなの?」


 むむむむむむと唸っていると、結衣先輩がわたしと先輩の顔を見て、それから雪乃先輩へ視線を向ける。


「つまり、高校に入ったことによる変化だと感じていたけれど、実際には違う要因による変化だった。みたいなことがあるかもしれないってことでいいんですよね」

「ああ」

「へぇー……」


 先輩が頷くと、結衣先輩は感嘆の息を漏らす。すごいことをしたわけではないのでなんだか恥ずかしいけれど、悪い気はしなかった。畳み掛けるように、結衣先輩は言葉を続ける。


「やっぱり、いろはちゃんっていろんなことに気づけるんだね」

「え、や、そんなことはない、ですけど……」


 わたしが分かることなんて、大抵は他の人も分かっていることだ。褒められるようなことではないし、誇れることでもない。


 しかし、結衣先輩は、わたしのそんな謙遜を容赦なく切り捨てる。


「そんなこと、あるよ。球技大会の日も、そう思ったもん」

「あれは——」

「いろはちゃんは思い出しただけって言うけどさ、ちゃんと見てなきゃ思い出せないよ、普通」

「でも、あんなことになるまで気付けなくて……」


 そうだ。気付けなかった。知っていたとして、覚えていたとして、思い返さなければ気付けないのなら、それは見ていなかったことと同義だ。


「無意識的? ってやつなのかもしれないけど……最終的に気付けたならいいんじゃないかなぁ、それで。あたしはそう思う」


 ずるい。本人にそんなことを言われたら、なにも言い返せない。


「なにが、言いたいんですか……?」

「あたしは、もう納得したよってこと。小町ちゃんのこと」


 ああ、そうか。この人は、わたしがなんでわざわざ昔の話を持ち出したのか理解していて、だから、もう充分だと——わたしの言葉を信じると、言ってくれているのだ。


「ヒッキーも、ゆきのんも、そうだよね」


 相変わらず笑顔のまま、結衣先輩は二人に顔を向ける。そこに強制する雰囲気はなかったから、二人の頷きも本心からだったのだろう。


「ありがとうございます……」


 しんみりとしている暇はない。というか、もう散々して、いい加減にみっともないので、ここはシャキッとしておきたい。……ちっぽけなプライドだ。


「違和感があった、というところについて、納得していただけてなによりです。……なら、それを前提としてなにかおかしな点がないか考えてみましょうか」

「そうね……。小町さんがなにかを隠しているとして、それがなんなのかも分かるかもしれない」


 前提を設定出来れば、多少の予測も可能になる。違和感のタネがどこにあるのか、最初から思い出すのが手っ取り早いか。


「まず、実行委員長になった点ですが……ちょっと考えなしかな、と思いました。詰めが甘い、というか、強引というか」


 態度や口調から嘘を吐いているとは考えにくく、結局、残酷な現実を教えただけになってしまったが……そもそも、小町ちゃんは本当にそんなことも予想していなかったのだろうか。


 これは、疑問というよりは反語に近い。


「少し考えれば分かりそうなことだからな……」

「そうなんですよねー。今までの小町ちゃんを考えると、分からないほうが不自然というか」


 たまに抜けているところがあるので、あからさまなものではない。ただ、それも違和感の一部と考えてよさそうだ。


「生徒会長になるための布石。都市伝説の内申点アップは放っておくとして、なにかメリットありますかね……」


 こんな仕事、一見どこにもメリットなんてないように見えますけど……わたしが教えて欲しいくらいなんですけど。メリットとは。


「人気取り、か」

「あー、言ってましたね、そういえば」


 他には……生徒会のメリットなんて考えても分かるわけないか。ここは小町ちゃんの言葉通りのものだということにして、他のこと……。


「後悔していた割に、実行委員長は真面目にやってるんですよね。かなり順調ですし、うまく行き過ぎてるみたいな……あ」

「どうした?」

「いえ……」


 どこかに歪さを感じていた。違和感の正体とはまた別だけれど、日が進むごとに出どころの分からない奇妙な感覚があった。


「……うまく、行き過ぎてる」


 こじつけなのかもしれない。難しいものじゃないと言ったのはわたしだし、ちゃんとやればちゃんと出来るものであることに変わりはないけど……イレギュラーがあったにしては、余りに順調過ぎないだろうか。


「違和感があるのに、文実ではなにも問題が起きない。これって、なにか意味がある気がしませんか?」


 文化祭実行委員長に力を入れると、どんなメリットがあるだろうか。どんな理由があれば、『一年生が一つのミスもせずに』進めるのだろうか。


 核心に、触れた気がした。




5        


 輝く太陽は水溜まりに反射して、きらきらと光が散る。蒸発した水分は空気中に漂い、うだるようなとまではいかないものの、湿度が高くじめじめとした日の放課後のこと。


 ぱたぱたと忙しなくワイシャツの胸元を動かしながら、わたしは生徒会室に向けて廊下を歩いていた。風はなく、日の当たらないここですら不快指数が高い。海のない夏なんて滅んでしまえ! バルス!


 金曜ロードショーにて放映されていた某ジブリアニメの影響を受けたのが丸わかりな脳内だった。滅びの呪文をもってしても、夏の撲滅は難しいか。


 いやー、行きたかったですよね。海。先輩と海。別に川でもいいけど、川には虫がいるからなぁ……海にもいるか。虫も滅べ! バルス!


 某ジブリアニメの影響を(略)。


「副会長〜。先に行ってエアコンつけといてくださいよ〜」

「……嫌だよ」

「書記ちゃんと二人で、ほら。わたし、自販機寄ってくるんでー」

「会長」

「……じょ、冗談じゃないですかー。や、やだなー」


 本当に、冗談の通じない男はこれだから。日本男児たるもの、もっと余裕を持たないと! ほら、書記ちゃんも顔赤くしてるし。なんだこいつら。滅びろ! バルス!


 書記ちゃんと副会長が夏休みの間に付き合ってたと知ったのは、最近のことだ。まあ、それはどうでもいいので置いておくとして。


「だいたい、そんなに距離ないだろ……」

「そこはまあ、ありがたいですよねー」


 今は文実を終えて、生徒会室に戻っている最中。会議室から生徒会室は、渡り廊下を通ってすぐだ。この廊下を渡り切れば、ほら、そこに……?


「……誰かいますね?」

「……川崎さん、かな」


 川崎? なんか聞いたことあるな、その名前。副会長が知ってるってことは三年生だろうか。となると……聞き覚えがあるのは先輩関係で、か。


 その川崎さんとやらは、いくらか背の低い男子生徒を伴っている。目つきが鋭いので、パッと見た感じだと、なんだか子分を引き連れているみたいだ。


 近づいていくと、足音に気付いたのか、川崎さんはこちらへと顔を向けた。ポニーテールにされた青みがかった黒髪が揺れる。睨むような視線に、自然と歩みが遅くなった。


「生徒会長って、あんた?」


 ぎろり、真っ直ぐわたしを見る。どうやら、生徒会長が女であることは知っていたらしい。有名になったところで、興味ない人は興味ないってことか。


 っていうか、怖い! 怖いんですけど! わたしなんかしました!?


「えぇっと……はい、一応」

「話、あるんだけど」


 ここで初めて、川崎さんは副会長と書記ちゃんへ目を向ける。


「あー……、じゃあ、会議は明日、ということで」

「……分かった。また明日」


 ぺこりとお辞儀をして去っていく書記ちゃんの背中を見送って、改めて川崎さんへと向き直った。なんだかバツの悪そうな顔をしている。……敵意があるわけじゃないのかな。


「……別に、そういうつもりじゃなかったんだけど」

「え、わたしにお話があるわけじゃなかったんですか」


 聞かれて困る話なら、と思って解散したのに……早とちりだったか。いや、でも、その目はどう考えてもそういう意味にしか取れませんって。


「姉ちゃん、顔怖いから……」

「怒るよ大志」


 ほーん、姉弟なのね。……にしても似てないな。弟くん……大志くん? はお姉さんと違ってのんびりした顔をしている。


「なに」

「あっ、いえ、なんでもー。ささっ、立ち話もなんですし、どうぞどうぞー」


 扉を開けて中へ入るよう促すと、大人しく従った。もの珍しそうにきょろきょろと室内を見回す二人を横目に、紅茶を用意する。


 茶葉の香りに反応したのか、川崎さんははっとなって、こちらへと目を向けた。


「そこまでしてもらわなくても……」

「えー、でももう用意しちゃいましたしー。なんだか訳ありな感じですしー?」


 生徒会室の前に佇んでいた二人の表情は暗かった。平時も落ち着くけれど、重苦しい話になるなら尚更、嗅覚くらいはリラックスさせたいよね。


 ちなみにこの紅茶の葉は雪乃先輩から頂いたものである。生徒会ではよく書記ちゃんと二人で楽しんでいる。副会長? ノンノン、女子トークに男の席はないのですよ。


 落ち着かない様子の二人をとりあえず椅子に座らせて、わたしも腰を休ませる。間にデスクが二つあるため多少距離を感じるが、まあ初対面なのだからこのくらいがちょうどいいだろう。


「まずは自己紹介ですかね。初めまして、生徒会長の一色いろはです」

「……川崎、沙希」

「えっと、川崎大志っす。は、初めまして」


 お見合いのような自己紹介だった。お姉さんはさてはあれかな? 人見知りってやつかな? なんとなーく分かってきたぞ?


「川崎さ——先輩、生徒会室は初めてですか?」

「あ、うん……まあ」

「ふふふ、分かりますよー。わたしも初めて入ったときはちょっとどきどきしてました。あれからもうすぐ十ヶ月……そっか、もう、十ヶ月も前なんだ」


 何度も思っていたことだけど、こうしてふとしたときに以前との違いを感じると、とても長かったような気がしてくる。あっという間でもあって、ようやくでもあって、感慨深い。


「懐かしいなぁ、生徒会選挙」


 ぴくりと、わたしの言葉に二人揃って反応する。……これは、いきなりビンゴかなぁ?


 ふっと自嘲気な息を漏らしてしまう。いや、実際に自嘲しているのだろう。話し辛いことなら、と思って適当に探っていたわたしの性悪さに。


「——さて。世間話はほどほどに、今日はどのようなご用件で生徒会に?」


 軽く首を傾げて訊ねると、川崎先輩はきゅっとカップを持つ手に力を入れる。緊張は空気中に伝播し、大志くんへ。ひりついた空間に、つい、わたしも背筋を正してしまいそうだった。


「その、生徒会選挙のこと、なんだけど」


 想像していた以上にすんなりと、その言葉は出てきた。


 言ってしまえば安心したのか、川崎先輩はほっと息を吐いた。ちらと大志くんを一瞥すると、こちらはガチガチのままだ。頼りのお姉ちゃんが緊張していたのだから、気持ちは分からないでもない。慣れない場所であることも影響しているだろう。


 しかし、選挙のことか……。もしかしてーとは考えていたけど、本当にくるとは、というのが素直な気持ち。なにしろ、まだ一ヶ月以上先の話である。


「立候補はもう受け付けてますが、立候補で出馬しますよーって話じゃなさそうですね。はあ……やっぱり推薦なんて失くせばいいのに」

「……生徒会長なだけあって、話が早いね」

「はい? ……ああ、いえ、そんなたいしたものじゃないですよ」


 誇れるような話じゃない。経験があるというだけだ。


「ほんっと、懐かしいなぁ。……それで、当事者は弟さんということでいいんですよね」

「……はい」


 意外なことに、そこで返事をしたのは弟さん——大志くんだった。深い呼吸をして、意を決するように真剣な眼差しを向けてくる。


「……大志」

「言っただろ。このくらい、自分で出来るって」


 そこでようやく、わたしは自らの認識違いに気づいた。


 ……お姉さんを頼ったわけじゃなくて、お姉さんのお節介だったのか。人を見かけで判断するのはよくないな、なんて当たり前なことを浮かべながら、大志くんの挙動を見守る。


「……多分、一色先輩の想像通りっす」


 一色先輩!? え、待って、なんだその素敵な響き! もう一回!


「え……一色先輩?」


 どうやら声に出てしまっていたらしい。大志くんは引き気味に呼んでくれる。やめて、引かないで! 川崎先輩もそんな目で見ないで!


「……し、仕方ないじゃないですかぁ。わたし後輩と話すこととかないんですもん」

「え、意外っすね……有名なのに」


 出たよ、有名。ぶっちゃけわたしなんもしてないけど、なんでそんなに有名なんだろう。わたしがかわいいから? そうに違いないな!


「んー……有名だから、なのかなぁ。ほら、雪乃先輩……えっと、三年生の雪ノ下雪乃先輩、知ってるよね?」

「あ、比企谷先輩と同じ部活の」

「そうそう。話したことあるの?」

「うっす。何度か……」


 奉仕部に依頼でもしたのだろうか。反応から察するに、自分から話しかけるほどの仲ではなさそうだ。そっか……雪乃先輩を知ってるってなると、そうだなぁ。


「……じゃあ、三浦先輩は? 三浦優美子先輩」

「前に生徒総会? とかいうやつで雪ノ下先輩と戦ってた人っすよね」

「戦ってたって……」


 だいたい合ってるからなんとも言い難い。確かにあれはバトルだった。


「まあいいや。三浦先輩も有名人なわけだけど、たとえば、三浦先輩と廊下ですれ違ったとして話しかける?」

「……いや、その、ちょっと怖いっすね。それに、俺は三浦先輩のこと知ってますけど、三浦先輩は俺のことなんて知らないと思いますし」

「それだ」

「どれっすか……」


 困惑気味の大志くんに、わたしは丁寧に説明する。先輩だからね! わたし、先輩だから! 後輩の分からないことは、先輩のわたしが教えてあげないとね!


「だからさ、有名人がそこら辺歩いてたとして、結局のところ面識がないと話しかけるまではいかないんだよ」

「……なるほど。言われてみれば、そうっすね」

「それでも何人かは話しかけてくるけどね……会長って呼ばれることの方が多いかなぁ」


 わたし、生徒会長である前に先輩なんだよ。もっと先輩って呼ばれたい!


「あのさ……話、全然進んでないんだけど」

「へ? あーっ、すいません!」


 完全に忘れていた。いやでもね、うぶな一年生から親しげに『先輩っ』って呼ばれたり、いきなり呼び止められて緊張した声で『せ、先輩……っ』って呼ばれたりしたいわけですよ。


 その点、先輩はずるいよね。なんでって、ほら、すでにわたしがいますし? 後輩成分はわたしで補給できますし? ていうか、わたし以外に後輩とかいらないまでありますし?


 先輩は、わたしだけの先輩でいいんです!


「……えっと、大志くんの生徒会選挙についての話ですよね」


 分かってるから、そんなに睨まないでくださいよぅ。


「一応、確認するけど、いたずらで選挙に推薦されたってことでいいのかな」


 わたしの問いに、大志くんは神妙な顔でこくりと頷く。


 まーた、面倒くさいことするやつがいるな、ほんとに。とは言え、この件についてはさほど問題にはならないだろう。小町ちゃん情報によれば、生徒会って人気あるらしいし。


「なにもしなくても生徒会長になることはないと思いますよ」

「は?」

「い、いや、そういう意味じゃなくって……なんか生徒会人気出てるらしくて、多分、選挙も倍率高くなると思うんですね。だから……」

「そういうことじゃなくて……大志」


 大志くんに目を向けた川崎先輩につられて、わたしも視線を動かす。と、大志くんは覚悟を決めたような顔で、


「——俺、生徒会長になりたいんです」


「……え?」


 今なんて? 思わず難聴系ラブコメ主人公になっちゃうレベルでびっくりしたよ?


 幻聴の線を疑って大志くんを改めて見やるも、真剣な表情は変わらない。どうやら、聴き間違いとか空耳とかってわけではないらしい。……まじ?


「いや、えっと……え? 生徒会長に? 大志くんが?」

「うっす」


 うっすじゃなくて、そこははいだろ! 野球部か! 今更過ぎるツッコミだった。


「理由を聴いてもいい……?」


 正直に言えば、大志くんが生徒会長になれるとは思わない。小町ちゃんの口ぶりや大志くんのわたしに対する反応から、生徒会に人気があるのは確かな事実だろう。


 そうであるならば、葉山先輩や雪乃先輩のようなとまでは言わないけれど、その劣化版である二年生の中で人気の男子や女子が立候補する可能性は充分にある。大志くんがそれを上回る得票数を上げるのは現実的じゃない。


 でも、そんなことは分かってるはずだ。わたしに言われるまでもなく、自分が今ここに来ている原因を考えれば、自ずと結論はそこに行き着く。


 だから、頭ごなしに否定する気はない。というか、応援するつもりですらある。


 だって、それはわたしも通った道だから。


 彼が、それでもと言うのなら——


「……みんなを見返したいんすよ」


 悔し気に表情を歪めて、けれど滔々と理由を述べる。


「みんな、俺なんかがなれるはずないって思ってる……」


 そこには確かな意志があった。たとえ、動機が不純だと言う輩がいたとしても、わたしはそれこそが尊いものなのだと言い返してやる。


「先生に相談しても、そのまま誰にも投票されずに落選しても、どっちだっていいんすよね。俺を笑い者にしたいだけなんすよ、あいつら」


 彼の決意はたまたま標的になってしまったから灯ったものだけど、往々にしてきっかけなんて些細なものだ。弱者には勝者になりたいと願う権利がある。


 自分を守るための行動を制限することなんて、他人には出来はしない。


「……嫌なんすよ、そういうの。誰かに笑われるのも、こそこそ話してる内容が気になったりするのも、なにも変えられない自分も」


 痛いほど伝わってくる想いに、胸が疼く。開き直ってしまえば、たいしたことではなかった気もする。しかし、あのときわたしもまたそれに晒され、傷つき、どうにかしたくて、あの場所へ行った。どう変わろうと過去は変わらない。


 結局、経験者たるわたしが言えることなんて一つしかなくて、でもそれだけじゃ多分だめだから。……違う。ちゃんと聴きたいから。


「大志くんの気持ちは分かった……最初から分かってたのかな」

「……じゃあっ」

「——でも、それって、わたし関係ないよね?」

「っ……」


 わたしには関係がない。生徒会長はわたしだ。でも、生徒会長になりたい生徒を助ける義務はない。生徒会長になりたいのなら、本来、自分の手でなるべきだ。


「生徒会長になりたいなら、勝手になればいい。頭使って、悩んで、苦しんで、努力して、みんなを見返せばいい。違うかな」


 当たり前のことだ。自分のことは自分でやる。なりたいものになれないのは自分が悪い。落選したなら、諦めるしかない。


「管轄外。わたしが請け負うべき案件だと感じない。生徒会長になりたいから生徒会長に頼むなんて、そんなのただのズルだよ」

「……っでも、なりたいっす」


 ずきずきと胸の痛みは増していく。当たり前だ。こんなの特大級のブーメランなんだから。目的は違えど、根底の部分は同じ。自分を守るために奉仕部を訪れた。先輩を頼った。


「わたしが手伝ったって大志くんがなれるとも思えないけど」

「あんた……そんな、言い方っ」

「姉ちゃんっ!」


 大志くんに止められて、川崎先輩は渋々口を閉じる。


「生徒会長に手伝ってもらっても勝てないっていう、からかわれる材料が増えるだけで終わるかもしれない」


 デメリットなんて腐るほどある。なにもしていない人をバカにすることが出来るんだから、なにかがあれば立場はより一層悪くなるだろう。


「こういうことをされるってことは、それだけ生徒会長から離れってるってこと……分かるよね。ならないほうが、目指さないほうが安全かもしれないよ?」

「それでもっ……!」


 揺るがない。まっすぐに見据えた目標から、一瞬たりとも目を離さず、言い放った。


「それでもっ、生徒会長になりたいっす……。手伝って、ください」

「——うん、分かった」


 先ほどまでとは打って変わって呆気なく了承したわたしに、大志くんはぽかんと口を開いて間抜け顔になる。


 わたしだって、後輩の切なる願いを聞き届けてあげるくらいの器量はある。なんてったって、先輩だからね! ただ、どのくらい本気なのか確認だけしておきたかった。上から目線に思うかもしれないが、そこは先輩目線ということにしておいてくれるとありがたいなぁ。


「それじゃあ、詳しい話を聞かせてもらおうかな」

「あ、はいっ!」


 意気込んで話そうとする大志くんに、わたしも少し居住まいを正した。しかし、大志くんははたとなにかに気づいたように口を噤み、隣へと顔を向ける。


「姉ちゃん……もう、大丈夫だから」


 言葉の端からいてくれてよかったという気持ちが読み取れた。やっぱり、姉弟っていうのはお互いが安心材料になるものなんですかね。わたしには分からないんですけど。


 わたしの周りの兄妹や姉妹は上の子が世話焼きな場合が多いけど、下の子もなんだかんだ言ってお姉ちゃんやお兄ちゃんが好きなんだろうか。


「……分かったよ」


 大志くんの気持ちを尊重してか、川崎先輩もなんとか納得してくれたらしい。


「あんたも……その、なに、ありがと」

「ふはっ。いえいえ! あとはお任せください!」


 悪い人じゃないんだろうなぁ。確信しました。


 川崎先輩の退室を見届けて、大志くんは改めて口を開く。


「どこから、話せばいいっすかね……」

「時間もあることだし、最初からでいいよ。大志くんのこと、わたしなんにも知らないから」

「うっす……」


 照れた様子の後輩に、ははーんとしたり顏になってしまう。


 これだよ、これ! 分かりますか、先輩! わたしと二人きりになった男子生徒はこうあるべきなんですよ! まったく、見習ってほしいものですね! 


 でも、そんな先輩もわたしは好きです! のろけじゃねーか!


「えっと……実は、あんまり友達を作るのが得意じゃなくて」


 内気なイメージはある。というか、気弱そうだ。ただ、自分から話しかけるのが得意じゃない人は別に珍しくもない。それは友達ができない決定的な理由にはならない気がする。


「でも、知り合いの一人が同じクラスだったんで、最初は話せる相手もそれなりにいたんすよ……」


 進学したばかりなら、とりあえず同じ中学だった友達とグループを作るのが一番手っ取り早いだろう。わたしはそんなものいませんでしたけどね!


「それなら、どうして?」


 一度グループを作ってしまえば、大抵の場合、一年は安泰だ。クラス替えで孤立することはあっても、いきなり途中でハブられる可能性は低い。


 とすれば、大志くん自体に問題があるのだろうか。純朴少年にしか見えないけど……まあ、そういう純朴さが仇になることがないとは言いきれないのが辛いところ。


「いや、その……知り合いが結構人気者で」

「はぁー、なるほどね……。妬まれたわけだ」


 男同士でもそんな修羅場があるのか、なんだかホモの匂いがするな。どこかで誰かが鼻血を噴き出している気がした。……気のせいだね。


「っても、一人に妬まれたくらいでみんな離れてくもんなの? 上っ面っていうか、なんていうか……」


 しょうもないなぁと思わざるを得ない。そんな人間関係、失ってしまったほうがかえって得な気もするが、そういうわけにもいかないのが学生の心理か。


 ……わたしも昔は必死になって関係継続を図っていたが、さりとて、長続きするものでもない。疲れる、というのは「もうどうでもいいや」と投げ出してしまう理由に余裕でなる。


「一人っていうか……その、総武高裏サイトって知ってますか?」

「あー……、話は聞いたことある、かな」


 あの日は生徒総会の日だったか。三浦先輩がそんなことを言っていた覚えがある。


「興味ないから見てないけど……」


 匿名でごちゃごちゃ毒吐いてるやつなんて、どうだっていい。勝手に言ってろって感じだ。なんなら、見なければ知ることもないので、ずっとそこから出て来るなと言いたい。


 大志くんはなんだか感心した様子でわたしを見て、それからまた暗い表情になる。忙しい子だ。もっと気楽に生きようよ! ……わたしが言うと妙に空々しいな。


「で? 裏サイトがどうしたの?」

「相手と、取り巻きが俺のことを書き込んでて……二年生の大部分が、そういう空気になってるっていうか」

「へぇ……」


 随分とねちっこいやつに目をつけられたな。ご冥福をお祈り申し上げます。


 それにしても……想像していたよりも結構な人数がやってるんだろうか。裏サイトなんて今どき珍しいって気持ちが大きいけれど、好きな人は好きなのかもしれない。ツイッターとかフェイスブックとかグループラインとかも、本質的には変わらないし。


「うーん……見してもらってもいいかな?」


 裏サイトそれ自体に興味もあるが、どういう書き込みをされているのかを確認しておきたい。文面から判断出来ることもありそうだ。


 話の流れで分かるだろうと、わざわざ意図を伝えはしなかったが、大志くんは気まずそうに視線を逸らした。


「……あ、ごめん! スマホ触られるの嫌な人だった?」


 わたしは特にそういうことを気にしたりはしないけど、大事なものというのは人によって違う。自分が違うからといって他人にもそれを求めたりはしない。


「いやっ、そういうわけじゃないっす! 全然見られても平気っす!」


 勢いのある否定にちょっぴり驚いてしまった。


「ふぅん……怪しいなぁ。なにかえっちなサイトでもブクマしてるのかなぁ?」

「してないっす! 見せます! ちょっと待ってくださいっ!」


 慌ててスマホを取り出していくらか操作したのち、大志くんはずいっと差し出してくる。……本当にしてないのか、つまんないの。川崎先輩に報告したら面白そうだったのに。


 受け取って画面を見ると、そこにはよくある個人サイトを模したようなレイアウトが映し出されている。背景が黒、文字が白で超絶見にくい。……媚び媚びだなぁ。


 少しホラー寄りの配色からは秘密の場所っぽい雰囲気が感じられて、生徒に広まったのも分からないではない。虫を呼び寄せる光と似たようなものだろう。


 意図的ななにかを想像してしまいそうだが、それは深読みってやつだ。こんなの、暇つぶし目的以外に作る意義がない。


「スクロールしていい?」


 念のため、重ねて許可を取り、それからページを下へ動かす。すると、まず目に入ってきたのは、予想外な名前。


「……わたし?」


 一色、生徒会長、そんなワードの入ったレスが続いている。どうやら、今はわたしのことを話す流れらしい。こいつら、わたしのこと大好きかよ。


「うわぁ、なにこれ……」


 生徒会長が二年の男子生徒をたぶらかしてこっ酷く振ったとか、生徒会長はヒキタニという男子生徒と付き合っているだとか、どれもこれもが噂に尾ひれがついたものや完全な捏造。


 ふざけんな! わたしだってどこぞのヒキタニと付き合いたいよ!


 ……まあ、悪意のある誹謗中傷が少ないだけましなのかなぁ。あってもことごとくスルーされている。各学年のスクールカーストトップにわたしの信者でもいるんじゃないの、これ。


 なんか悪巧みとか出来そうだ。……やらないけどね?


 しばらくスクロールしていると、一年生の話題になる。ちなみに、どうやらこれ学年ごとのスレッドと全校のスレッドが標準であるらしい。多分、個人でも建てることが出来るんだろう。


 やけに凝っている。こんなことしてる暇あるなら勉強すればいいのに。


 わたしが見ているのは一年生のスレッド。さっき、わたしのことを話しているいくつかのレスに向けて、スレ違いだと批判するレスがあった。一年生のスレッドでは一年生の話を、と決まってるんだろう。


「——あ、やっと出てきた」


 川崎大志という文字を流し見ていた瞳が拾う。言うほど話されてないじゃん。


「……検索使ってないんすか?」

「は? 検索出来るの、これ?」


 早く言ってよ! 知らない一年生への悪口を延々眺めてたわたしの時間!


「虫眼鏡みたいなマークが右上にあると思うんですけど……」

「あー、これか。ツイッターにもあるやつだ」


 ほうほう、と頷きながら虫眼鏡のマークをタップし、『川崎 大志』と入力する。検索検索ゥ! なんて便利な世の中だ!


 ざーっと、ヒットしたレスが並ぶ。うわ、すっごいなおい……。


「大志くん、大人気だね……」

「はは……嬉しくないっす」


 今のは言っちゃいけない冗談だったね。ごめんね。


 見ているだけで気分の悪くなるような罵詈雑言。だいたい同じIDのレスが始まりとなっているので、これが恐らく主犯なのだろう。


 腹立つなぁ。わたし全然関係ないけど、他人の悪口とか話されて気分いいやつとかいないからね? 絶対こいつ、裏で嫌われてるよ。……あ、ここが裏なのか。


「はぁ。……え?」


 嫌悪感に襲われながらも一つ一つレスを読んでいると、ふと一文が目に止まった。


 そこにはよく知る名前があって、わたしは自然とその名前を検索する。表示されたのは、大志くんといい勝負の批判や非難。


「……大志くん、これ、なに?」


 顔を上げて問うと、大志くんはスマホを見せてもいないのに目を伏せて、辛そうに唇を噛む。その姿を見て、わたしの違和感はすべて消滅した。


        × × × ×


 悪意というものは、瞬く間に蔓延するものである。


 人の意思は空気を伝い、コミュニティにルールを作る。家族という最小単位のものから国という大枠まで、大なり小なりどんな関係にもそれは当てはまる。


 学校は社会の縮図だ。近い将来、飛び込んでいかなければならない社会の中で、どう人間関係を築いていくかを感覚的に学ぶ。


 嫌なことをされても我慢しなければならないときがあること。


 発言力のある人間の気まぐれで、立場を失う可能性があること。


 個性はしばしば、他人の悪意を自らに集める原因になるということ。


 先生が教えてくれない、そんなことを学び、ときには傷つき、嘆き、足掻き、諦め、夢を忘れ、最後には折り合いをつけて、大半は社会へと出て行く。


 嫌なことに嫌だと言わず、孤立を受け入れ、自分を殺す。そうしてようやく、生きやすい世の中になる。心を削り、平らに均して、誰かが秀でれば足を引っ張り、誰かが遅れれば足蹴にして、正しくないことを正しいのだと嘯き、そうやって生きていく。


 正しさは、潔白さは、清廉さは、自らを守ってはくれない。


 上に立たなければ空気は変えられない。変えられないものは空気に絶対的な忠誠を違うしかない。嫌なら閉じこもるか、逃げるか、自らがその立場になるか。


 多分、だから彼は勝ちたいのだ。


 自分が貶められたことに対する悔しさはもちろんある。それを変えたいという気持ちもある。けれど、なによりも嫌なのは、自分を守ろうとしてくれた誰かが傷つくこと。


 自分のせいで人が傷つく。


 正しいことをした誰かを、正しくないやつが傷つける。


 それが嫌だから。そんな誰かを守りたいから、彼は生徒会長になるのを決意し、ここまでやって来た。称賛されるべきだと思う。


 その願いは、聞き届けられるべきだと、心の底からそう思う。


「……はぁ」


 淹れ直した紅茶を啜って、ゆっくり息を吐き出した。


 大志くんが退室したばかりの室内には、どこかまだ熱が漂っている。熱……心のうちで薫る正しさ。ようやくここで吐き出せたんだろう。葛藤は想像に難くない。


 勝って欲しい。手に入れた空気を使って、正しさを存分に振るって欲しい。でも、わたしに手伝えることが本当にあるんだろうか。


 生徒会長になる、という目的を達成するにあたって、わたしが表立って出来ることなんて精々応援演説くらいだ。わたしの人気がどれほどのものなのか知らないけど、それだけで勝てるほどじゃないはず。


 一年生のほとんどが敵だと考えると、三分の一は捨てて、三分の二を取りに行くのが妥当……なのかなぁ。一年生のスレッドには、わたしの悪口を歓迎しない空気があったから、何割かは取り込めそうな気がしないでもない。


 ……まだ一ヶ月あるし、こっちはとりあえず保留でいっか。


 優先順位をつけなければならない。火急の案件が発生してしまったので、そちらから片付けるべきだろう。


 しかし、こちらはこちらでわたし一人で考えるわけにもいかなかったりする。いや、わたしがやってもいいんだけど、報告が必要なんだ。


 ……今日は帰って、明日集まってもらおう。


 悩み事は一旦仕舞い込んで、落ち着くためにもゆったりとした所作で紅茶を口に運ぶ。やだ、わたしってば優雅! これが放課後ティータイム!


 と、そんな空っぽな脳内を諌めるように、コンコンと扉をノックする音が響いた。……こんな時間に誰だろ。平塚先生かな。いや、平塚先生はノックしながら開けるな。


 文実後からの川崎姉弟訪問だったため、文化祭準備で残っている生徒はいるだろうが帰った生徒も少なくないだろう時間になっている。そもそも、生徒会に用件があるならこんな中途半端な時間ではなく、文実直後や帰りのHRが終わってすぐに来るだろうし。


「はーい。どうぞー」


 結局、誰だか予想出来ずに入室を許可すると、扉はそっと開いて、ぴょこっと馴染みのある顔が飛び出してきた。その人物はにひっと無邪気に笑って、それから全身を晒す。


「どもどもです。いろはさんっ」

「小町ちゃん……」


 突然の来訪に驚いてしまう。が、それは最小に留まった。誰が来るのか予想出来てはいなかったけど、小町ちゃんが訪れること自体は予想外ではなかったから。


 そのうち来るだろうとは考えていた。だから、胸の内にあるのは、まさかこんなにもすぐに対面することになるとはという驚き。


「……随分、早かったね」


 確信していたわけではなかったらしい。わたしの言葉に反応して、能天気な表情にふっと陰がかかる。本性……というと大袈裟かもしれないが、今まで見たことのない比企谷小町の側面を目にしているのはまちがいない。


「……やっぱり、聞いたんですね」


 あちゃーっとお茶目なリアクションをするものの、そこに常日頃感じていた活発さは欠片もなかった。でも、これまで猫をかぶっていたってわけじゃないと思う。


 ただ、笑えないくらい深刻な事態になっているというだけ。


「見つけた、って言ったほうが正確かな。話の流れで総武高裏サイト見ちゃって」


 大志くんが渋ったのは、そういうことなんだろう。


 知り合いという言葉から勝手に中学時代からの同性の友人だろうと考えていたけれど、大志くんは一言もそんなことは言っていない。どんな関係なのかまでは聞いていないから分からないが、大志くんの知り合いというのは小町ちゃんのことだった。


「……黙っててくれませんか?」


 頼みと表現するには語気が強い。話すのは許さないという強い意志がそこにはあって、だからわたしには頷くことしか出来なくて。


「いいよ。黙ってる」


 すんなりと了承したわたしを訝しむように、小町ちゃんは目を細めた。真偽を見抜こうとする鋭い眼差しを向けられて、なんだか寂しくなる。……信じてもらえない、か。


 なるほど。確かにこれはキツい。


 今になって、雪乃先輩の気持ちが理解出来た気がした。


 誰かに疑われるということ。信頼されないということ。そもそも得難いものであるのは分かっていたが、それを直に体感するのがこんなにも胸の苦しくなることだったなんて。


「ありがとうございます」


 信じたわけじゃない。変わらない目つきがそう教えてくれる。


「……理由、訊いてもいいかな」


 このまま帰すことに言い知れぬ不安と躊躇いがあって、扉に手を掛けた小さな背中に言葉をぶつけた。少しの間を空けて、小町ちゃんはこちらを見ないまま答える。


「心配、かけたくないじゃないですか。……|わたし《﹅﹅﹅》ももう、高校生ですからね」

「……なに、それ」


 薄ら寒さを覚えながら、重ねて問う。振り向いた小町ちゃんは満面の笑みを浮かべて、


「——大人になっただけですよっ」


 去っていく後輩に一言声をかけることも出来ず、閉まっていく扉を見つめていた。目をつむると、いまだ消えない熱がまぶたの裏に回想を映し出す。


        × × × ×


「大志くん……これ、なに?」


 答えない大志くんに僅かないらだちを感じながら、もう一度具体的な質問を投げかける。


「どうして小町ちゃんが、こんなことになってるの……?」


 画面に羅列されている陰口はすべて小町ちゃんに対するものだ。話の流れでわざわざ名前を書かない場合もあるだろうことを考慮すると、実数はもっと多いはず。


 ここまで恨まれるようなことを小町ちゃんがするとは考えにくい。というより、あの子はコミュニケーションはうまくやる子だろう。少数に妬まれることはありそうだけど、それは組織に属するなら避けられないものだ。


 ともあれ、これで小町ちゃんにあった違和感の正体は掴めた。


 小町ちゃんが実行委員長になった理由。先日、先輩たちと話したときには、核心に迫りながらも掴みきれなかったそれ。


 空気というものはいくつもの層がある。仮に大枠を学校とするなら、その中に三年生、二年生、一年生の空気がそれぞれ触れ合いながら存在していて、さらに各学年の中にクラスがあり、最後にはグループがある。


 そして、囲われてはいないものの、学年ごとの枠の大きさはもちろん違う。それこそが学校全体の空気への影響力の違い。


 声のでかさと言うと悪し様に聴こえるかもしれないが、結局のところそういうことだ。年功序列の根深い日本において、先輩の言葉に表立って反論する後輩はいない。両者に接点がない場合はその限りではないが、今は省く。


 小町ちゃんが被害を受けているのは、一年生の中だけ。けれど、陰口を叩かれる対象になってしまった者が容易く変えられる程度のものではない。ヒエラルキーは最下位に限りなく近い。弱者の言葉が聞き届けられることはない。歴史を変えてきたのはいつだって強者だ。


 直接的に変革をもたらすことは出来ない。努力がどうとか、やる前から諦めるのはどうとか、そういう次元の話じゃない。一人ではどうしたって出来ないことというものは存在する。


 なら、どうするのか。直接が無理なら間接でいけばいいのだ。


 大は小を兼ねると言う。学校の空気が変われば、必然的に一年生の空気も変わるだろう。これはただの予想だが、なにも一年生すべてが小町ちゃんに明確な悪意を抱いているわけじゃないはずだ。


 主となっている人物に従う形で、あるいは流されて、集団の意思は決まる。個人の意向ではない。それなら、より上の集団に変えてもらえばすべては解決する。


 その手段として選んだのが、文化祭実行委員長になる、ということなんだろう。


 文実というもの自体は裏方だ。特に目立つことはなく、文化祭が成功したとて称賛されることはない。けれど、実行委員長は表に立つことが何度かある。


 加えて、小町ちゃんは一年生だ。話題性は充分。さらに、二年生、三年生は覚えているはずだ。昨年の文化祭実行委員長の涙を。


 小町ちゃんという個人が上級生の承認を得るための土台はもう整っている。


 なにかのきっかけでさらに悪化する可能性がないとは言わない。なんにだってリスクはある。もっと安全な解決方法がないわけじゃない。


 こういう類のものは、時間が解決する問題だ。放っておけば、次第に飽きて風化していく。待つのも一つの手。


 でも、本人は嫌なのだろう。今、変えたいのだろう。これに賭けたいのだろう。それなら、わたしに否定することはできない。今、なにかを成さんとするその気持ちを、なにもせずに黙ってはいられないという想いを、理解しているから。


 そして、最後にはやっぱり、どうしてという疑問に回帰する。


 どうしてそこまでするのか。当事者だからという理由が初めにあるのは分かっていて、でもそれだけでは納得出来ない。


 なぜ小町ちゃんがこんなことになっているのか。それが知りたくて、じっと目の前の男の子を見つめていた。彼は観念したように息を漏らして、そっと口を開く。


「知り合いがいたって、言いましたよね。さっき」


 薄々気づいてはいた。思考する中で、そうなのかもしれない、と。


「あれ、比企谷さんのことなんすよ……」


「……でも、さ。人気、だったんでしょ? 小町ちゃん」


 大志くんが小町ちゃんと仲良くしていたことで、他の男子から恨みを買った。下らないが、よくあることだ。


 けど、小町ちゃんなら選べたはずなんだ。大志くんを見捨てて、周囲に合わせてやり過ごすことだって出来たはずなんだ。


「最初は、俺だけでしたよ……。でも、比企谷さん、ああ見えて結構優しいんすよ」


 今にも壊れてしまいそうな笑み。その奥には熱をもった気持ちがある。


「『なんとかするから、大丈夫』って、笑って言ってくれたんすよ。俺なんかのために……俺が人見知りだったせいなのに、全部っ、俺が悪いのにっ」


 それは違うのだと、そんな慰めを言ったところで意味はないだろう。適当な言葉をかけたって、敵意も罪悪感も消えてくれはしない。


「おかしいじゃないっすか! 気に入らないってだけで誰かをバカにして、なんにも知らないやつが指差して笑ってっ! そんなの、まちがってる……っ!」


 ああ、と確信した。同じなんだ、きっと彼女も。


「笑いたいときに笑えない! 泣きたいときに泣けない! 言いたいことも言えない! まちがってることも正しいことも、全部、全部っ、ごちゃ混ぜでっ! 誰かの言った通りにするのが、大人になるってことならっ——」


 正しさを知っていて、いつかは受け入れなければならないことだと分かっていて、でも、そんな風になってしまう自分が怖くて、じっとしてはいられなかった。


「——俺は大人になんてなりたくないっ……!」


        × × × ×


 大人になるということ。


 折り合いをつけて、空気に隷属し、自らを守るということ。


 そうせざるを得ない環境に立たされ、尖った自分をすり潰すということ。


 自分に嘘をつき、周囲を誤魔化し、いろんなことを諦めて、人は生きていく。誰だってそうだ。仕方のないことだ。ありのままに生きていけるほど世の中は正しくない。


 まぶたを持ち上げて、睨むように閉まった扉を見た。


 小町ちゃんの行動自体を否定する気はない。彼も彼女も想いは同じで、ただ自分に出来ることをしようとしているだけだ。止めようとも思わない。


 ——でも、小町ちゃん。


「ダメだよ……」


 その笑顔は誰も幸せにならないから。


 わたしは、それを知っている。






——続き——

第九章 いつまでも、目指すべき場所は先に在り続ける。6~7


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