2015-07-27 00:56:06 更新

概要

 六月十八日、総武高校では球技大会が開催された。だが、その前日奉仕部では、由比ヶ浜結衣が誕生日前日となって奉仕部を退部する事件が起きていた。部室での比企谷八幡とのやりとりがきっかけにあるようだが、一緒に部室にいた一色いろはは一部始終を見ておらず、さらに結衣は部室から去った後、雪ノ下雪乃に八幡は正直だというような謎の言葉を残していた。この一件で結衣と向き合う決心をしたいろはは、結衣の誕生日である球技大会の間、これまで結衣と関わってきた出来事を思い出しながら、結衣の心境の変化の理由を探っていく。


前書き

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
いろはルートになります。


第四章 いつの間にか、雪ノ下陽乃は居座っている。





第五章 そして、由比ヶ浜結衣は離れ去る。



 空は曇っていた。

 雨は夜からだと我が家のテレビもわたしのケータイも言っているので、今日のイベントには問題ないだろう。


 いや、待てよ。

 ここのところ、天気予報に騙されることが多い。

 迂闊に信じるべきではないのかもしれない。

 未来は誰にも分からないのだ。

 いい方向に、つまり晴れるのならいいけど、最悪を考えて動くのが常。

 雨は早くに降り、嵐吹き荒れ、教室の窓ガラスが……んなわけない。


 どうしようもないことを壮大に考えているわたしだった。

 まあ、降ろうが降るまいが折り畳み傘を持ってきたわたしに死角はない。


 グラウンドにはそこかしこでおしゃべりが始まっている。

 わたしは地べたに座り込み、朝方引かれたばかりの白線の内側をぼんやり見つめていた。


 相手方の選手と向かい合う六人の男子。

 その中に知り合いはいない。

 特に応援する気もなく、開会式が終わって一番近くの腰を下ろせる場所がここだったってだけ。


 体操服を着た男子が手元のストップウォッチを見つめている。

 目力が凄い。

 実は見つめ合ってるんじゃないだろうか。

 たかだか時間を測るくらいで、ちょっと張り切り過ぎだろう。

 一年生か? まあ、肩の力抜けよ。

 やっば、超偉そうだな、わたし。


 こそこそとわたしの周りでわたしの話題が耳に入る。

 あれ生徒会長のーとか、一色さんだーとか、そういうの。

 一緒に試合見る?

 なんて言って誘ってしまいそう。

 悦に浸っていると、ざわざわとした周囲の音を笛の音が分断する。

 コートの中では男子サッカーが、少し離れたところでは女子ドッジボールが、体育館ではバレーとバスケが始まっているだろう。


 とうとう、総武高の全校行事である球技大会が開幕した。


 総武高に入学して一年と少し。

 昨年印象に残っている年中行事は文化祭と体育祭。

 一ヶ月の準備期間が設けられている文化祭の方が数歩勝るといったところだろうか。

 協調性や親和性を高めるとかなんとか。

 それはそれは、御高説ごもっとも。

 大変よろしい。

 輝く青春の一ページってね。


 その裏にわたしが関わってないのなら、盛り上がる雰囲気に充てられてそれなりに楽しいだろう。

 なにもそこまで本物だ偽物だと水を差すつもりはないし。

 それに、わたしはそういうのはやめたし。

 学生に喜ばれること請け合いだ。

 こうして生徒会長をやってる今、クラスの出し物製作にたいした参加も出来ず事務に追われる羽目になるんだろうけど。


 体育祭は昨年に至るまで影の薄い存在だったらしい。

 どうせなら影の薄いままにしておいてくれればいいものを、昨年の生徒会長であるめぐり先輩が余……よりよくしてくださった。

 一度注目を浴びれば、必然次年度にも期待がかかる。

 数十の成功によって手に入れた名声が、一つの失敗によって罵声に変わるなんてのは、自明の理。

 めんどくさいこと請け合い!


 もちろんこれは印象に残った年中行事であって、他にも様々な行事がある。

 例えば、入学式や卒業式。

 二年生なら修学旅行に校外学習、職場見学。


 今日行われている球技大会も当然、そのうちの一つ。

 球技大会に関しては各部活が勝手にやってくれるので、わたしがなんの負担もなしに楽しめる数少ない行事である。

 別にバレーやドッジボールに並々ならぬこだわりを持っているというわけではないけど、人の作った飯がうまいように、自身がなにもしないで遊べるのは楽でいい。


 そういう意味で、今日という日を心待ちに……はしてなかったな。

 球技大会を認識したのは一週間ほど前に参加種目を決めたときだ。

 ああ、そんなのもあったなと思った。

 この一週間は、「授業が潰れた上に球遊びに興じられるなんて! フラストレーションの発散にちょっと頑張ろうかなー!」などとうずうずしてた。


 もう、はっきり言うけど。

 結構楽しみだった!


 なのに、なのに……うぅ。

 哀愁漂わせて悲観に暮れていると、肩をポンポンと叩かれる。

 振り向くと、八重歯がチャームポイントなあの女の子が……、とか思いつつ振り向く。


「あ、小町ちゃん」


 本当にあの女の子だった。

 おお、と少し驚いていると、小町ちゃんはにかっと人好きのしそうな笑みを浮かべる。


「こんにちはーっ。隣、いいですか?」

「うん? うん、いいよー」


 小町ちゃん一人らしい。

 まあ、特に珍しくもない。

 この子も結構単独行動を好む習性があるのか、一人で気ままに歩いているところをよく見かける。

 兄に似たのか。

 それとも遺伝か。

 優性遺伝子なのだとすれば、家族単位でこうなのか。

 嫌な遺伝だ。


「いろはさんはなにに出るんですかー?」


 出場種目を聞かれて、言葉に詰まる。

 気づかれないようにため息を吐いて、答えた。


「……なんにも」

「え? どういうことですか?」

「今日は体調不良で見学なんだよねー……」


 その旨が記載され、保険医の判が押された紙をひらひらと見せる。


「だ、大丈夫なんですか?」

「んー、大丈夫だよー。仮病だし」


 そう、仮病なのだ。

 実際には有り余ったエネルギーを発散したい衝動に駆られている。

 でも、今日は出るわけにいかない。

 球遊びをしている暇はないのだ。

 この球技大会が終わるまでに、わたしには考えなければいけないことがある。


「んん? え、あー、そういうことですか」


 納得して、顔に影を落とす。

 多分、小町ちゃんの推測はまちがってないだろう。

 はぁと再び漏れたため息が空気を重くする。


「なにか、当てがあるんです?」

「まだ全然分かんないよ……」


 なにも分からないわけじゃない。

 認めたくないだけだ。


「その、雪乃さんは……、いろはさんは関係ないと思ってますよ。『一色さんはそういうことをする人ではない』って言ってましたし」


 なに、それ。

 まるで、そういうことをする人がいるような言い草だ。

 実際、そうは思ってないんだろうけど。

 ただ、そうなると、雪ノ下先輩も今ごろ眉間に皺を寄せていることだろう。


「わたしじゃないかぁ。それだと」

「そうなんですよねぇ……」


 言って、小町ちゃんは深い息を吐いた。

 わたしじゃないのなら、一人しかいない。


   ・・・・


 昨日の話である。


 決勝トーナメントを一回戦で敗退し、インターハイという大きな大会が終了した土曜日に、わたしは葉山先輩と戸部先輩に押し切られる形で、一週間ほど休みをもらった。

 昨日の放課後、テスト勉強と迷いはしたが、中間が終わったばかりだし、休むときは休もうと奉仕部の部室で本を読むことにした。


 これがなかなか面白くて、結構読み入ってしまった。

 ジャンルはミステリー。

 先日、お母さんが読んでいたやつだ。

『このミス一位』とか書いてあるだけあって、面白い。

 残念ながら『このミス一位』は別の作品らしいけど。


 本を読むようになってから気づいたことだが、どうやらわたしは本を読んでいると周りの様子が気にならなくなるらしい。

 面白いものとなれば、なおさら。


 昨日は午前中に雨が降って蒸し暑かった。

 午後は晴れて、窓から梅雨時にしては心地いい風が入ってきていたので、雪ノ下先輩の定位置近くに腰を下ろした。

 読書をするのなら、それなりにいい環境で読みたいと思うのは自然なことだと思う。

 先輩も基本は本を読んで黙りこくっているので、特に問題はなかった。


 小説は二章を読み終えて、一区切りついたところでふと顔を上げた。

 手元のケータイで時刻を確認すると、小一時間経過していたことに気づく。

 そのタイミングでがらりと扉が開いた。

 入ってきたのは雪ノ下先輩で、なにか困惑したような顔をしている。

 平塚先生に用事があるとかで職員室へ行っていたらしい。

 なにか困るようなことでも言われたのだろうか。

 不思議に思っていると、もう一つ不思議なことが増えた。


 部室にわたしともう一人しかいなかったのだ。

 ついさっきまで三人いたはずなんだけど。


「ねぇ。私がいない間に、なにか……あったのかしら?」


 その疑問にわたしは思考を巡らせる。

 なにかあったかな?

 わたしが聞きたいくらいだ。


「いや……」


 そう口ごもったのは先輩だった。

 相も変わらぬ腐った目だが、心なしか顔色が悪い。

 先輩の態度を見て、雪ノ下先輩は一瞬だけ眉をひそめる。


「今、部室の前で由比ヶ浜さんとすれ違ったのだけれど……」


 言い辛そうに歯噛みする。

 その間、誰も言葉を発しなかった。

 あまり居心地のいい静寂ではない。


「退部、すると」

「え……」


 絶句してしまった。

 先輩は沈黙を貫いているが、その顔は驚愕の色に染め上げられていた。


「目が、腫れていたわ。……泣いていたの?」


 先輩はその問いには答えず、小さくつぶやく。


「……そうか」


 何があったのか分からなかった。

 奉仕部に入り浸るようになって、もう半年。

 一月からほとんどなにも起こってないはず。

 結衣先輩と先輩の関係が悪かったということはないだろう。

 昨日だって、普通に会話をしていた。

 小町ちゃんとは楽しげに話していたし、雪ノ下先輩とも親しくしていた。


 それが、なんで、いきなり退部?

 わたしが本を読んでいる間に一体なにが起こったのか。

 先輩は顔を俯かせたまま固まっている。


「そうか……」


 再び紡がれた声は震えていた。

 答えたというよりも、自身を責めるような口調だった。

 なにかを考えている様子になった先輩に、雪ノ下先輩は優しく語りかける。


「比企谷くん? なにか知っているのなら話してもらえると助かるのだけれど」


 その言葉は先輩には届かない。

 しばらく考えたのちに、ぼそりと声を漏らす。


「……俺の、せいで」

「何が? 由比ヶ浜さんのことなら、あなたのせいではないわよ。さっき、」

「いや……。悪い、帰るわ」


 雪ノ下先輩の言葉を最後まで聞かず、先輩はしおりを挟んだ文庫本をバッグに突っ込み、部室を飛び出して行く。


「あっ……」


 先輩を捉えるように伸ばされた雪ノ下先輩の腕は何も掴めず、教室には廊下を走る音だけが響いていた。

 追いかけたのかな。

 開け放たれた扉を呆然と眺めていると、先輩を目で追っていた雪ノ下先輩がわたしに向き直る。

 唇は戦慄いており、混乱しているのか表情はなかった。


「……一色さん、何があったの?」


 わたしはただ、ふるふると首を横に振ることしか出来なかった。


   ・・・・


 奉仕部には、部員の誕生日を祝う習慣がある。

 こんな言い方をすると、昔からの風習みたいだけど、当然そんなことはない。

 みんな仲良しってだけだろう。


 口争いが絶えないというよりかは、痴話喧嘩が絶えない奉仕部。

 喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったもので、聞くところによると、昨年度は結衣先輩の誕生日も祝ったのだとか。


 あれ?

 せ、先輩は……?

 い、祝ったんだよね、きっと。

 わたしが聞き及んでないだけだよね!

 あ、でも先輩は夏休みだから。

 うんうん、それならしょうがない。

 雪ノ下先輩の誕生日は冬休みなのに祝われてた気がするけど、それならしょうがない。


 ……なにか問題が起きても、絶対に今年はわたしが祝ってあげますからね。

 脳裏に浮かぶ一人ぼっちな先輩に敬礼。

 小町ちゃんがいるから問題ないかな。


 先輩の誕生日はさておき、今年も当然結衣先輩の誕生日を祝うことになっている。

 もう誕生日プレゼントは買った。

 準備万端、あとは当日にそれを渡して祝いの言葉を告げるだけ!


 ちなみに今日は六月十八日。

 先輩が心待ちにしていた『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11』の発売日!

 そして、結衣先輩の誕生日は六月十八日。

 つまるところ、その当日が今日なのである。


 おいおい、わたしの誕生日プレゼント代どうするの、とか言うつもりはないけど、やっぱりもったいないことはもったいない。

 出来ることなら渡したいし、仲直りして欲しい。


「退部届けはまだ出されてないみたいなんですけど……、退部してもまた入れるんですよね?」


 小町ちゃんの疑問はもっともだ。

 なにかペナルティがあったら大変だろう。


「うん、いつでも入部できるよー。まあ、それより」

「そうですね……」


 問題はそこじゃない。

 本当なら昨日、何かトラブルが起きたらしいと分かった時点ですぐに動くべきだった。

 先輩も結衣先輩も帰っちゃっててどうしようもなかったとはいえ。

 一日経っただけでも遅いくらい。


 自由に動けるのが今日しかないし、今日は木曜だから、明日コンタクトが取れなければ土日だ。

 今日の放課後か明日には退部届けを出すだろうし、そうなればいよいよ決意は固くなる。

 揺らいでくれるのならいいんだけど、祈りや希望を当てにはできない。


 球技大会は通常の授業と同じくらい時間を取るけど、誰がどれに参加しているのか分からないし、避けられる可能性も視野に入れれば話す機会はそう多くない。


「小町はほとんど事情を知らないんですけど、昨日、結衣さんといざこざがあったんですよね。でも、理由が分からないと」


 小町ちゃんは、たまにはクラスメイトとのコミュニケーションを深めないとだとかで、昨日は居合わせていなかったからな。


「わたしは本読んでただけだからねー……」

「そうなると、やっぱりお兄ちゃんがなんかしたってことになりますね……。でも、それだと雪乃さんに聞いた話と違うんですよねー」


 ふぅと息を吐く小町ちゃんに尋ねる。


「雪ノ下先輩がなんか言ってたの?」

「あれ? 聞いてないです?」


 昨日はあの後すぐ帰った。

 一言二言言葉を交わしはしたが、帰宅中は無言だった……よね。

 こくりと頷くと、小町ちゃんは、


「小町も聞いた話だから曖昧なんですけど」


 と前置きして言う。


「お兄ちゃんのことを『優しい人だ』とか『正直な人だ』とか言ったらしいですよ。悪口ではなかったはずです」

「……それ、本当に昨日の話?」

「昨日ですよ。今朝、たまたま雪乃さんと会ったんで聞いたんです」


 全く聞いていない話だった。

 聞くタイミングもなかったけど。

 そうなると、結衣先輩は「退部する」と「先輩は優しい人だ」、「先輩は正直な人だ」と言ったことになる。

 意味を繋げれば「退部はするけど、先輩のせいじゃない」ということになりそうだ。


 とすると、結衣先輩に退部を決意させたのはわたしということになる。

 でも、わたしは本当に本を読んでいただけだ。

 と言っても、なにも憶えてないし聞いてないというわけじゃない。

 部室に入る前に少し話をしたし、本を読んでいても気が逸れたことはあった。

 それでも、やっぱり、それだけだ。


「……単純な話じゃないってことかな」

「そうですね」

「小町ちゃんは、先輩からなにか聞いてないの?」


 聞くと、小町ちゃんは苦々しげな表情になる。


「あー、聞こうとは思ったんですけどね……。喧嘩しちゃいそうになっちゃって、気まずい感じです」

「そっか……、無理矢理聞くのは無理と」


 理由を突き止めないことには、どうにもならないか。

 しかし、どうにも昨日に原因があるとは思えない。


「ちょっと、思い出さないとかなぁ」

「思い出す?」

「うん。今までのことを、ねー。だってどう考えてもおかしいでしょ。先輩と結衣先輩だよ? 一日で、数十分の間に退部って……ありえないよ」

「それも、そうですね……でも」


 言葉を詰まらせた小町ちゃんを引き継ぐように、その先を言う。


「難しいね」

「はい……」


 わたしがいくら思い出したところで、必要な情報が全部集まるとは到底思えない。

 それに半月以上、奉仕部には顔を出していなかった。

 わたしが五月上旬のように顔を出し始めたのは月曜からだ。

 全てはわたしのあずかり知らないところで始まって終わっていたのだとすれば、考えるだけ無駄。


 ただ、まだ口に出して言えるほどではないけど、わたしには少し心当たりがある。

 考えようと思い出してみれば、ここ数ヶ月の間に妙なところがないでもない。

 結局、推測に過ぎず、どれもこれもが的外れに終わるかもしれないけど、このままでいいとは思わない。

 そのために見学許可を得たのだ。

 ただ眺めてるには長すぎる。


「知りたいことが出来たら訊くね」

「はい! 小町も考えてみます」


 結衣先輩に退部して欲しくないのは小町ちゃんも同じだ。

 考える時間はたっぷりある。

 やるだけやろう。


「ではでは、小町はそろそろ試合がありますので!」


 ざっと立ち上がり、可愛らしく敬礼する小町ちゃんに微笑みを返す。

 また、と言おうとすると、小町ちゃんが「あ」と声を漏らす。


「いろはさん、あんまり抱え込まないでくださいねっ! 今回の件、いろはさんにはなんの責任もないです。また、前と同じことにならないように……お願いします」


 語尾にいくにつれて悲しげな顔になる小町ちゃんを見ていると、ちくりと胸が痛んだ。

 やっぱり、奉仕部の中ではわたしの行動はそう取られているのか。

 まあ、どういう意図でも心配はかけるべきじゃないなぁ。


「では、また後ほど!」

「うん」


 にこっと笑ってグラウンドを駆けていく小町ちゃんの背中をぼんやりと見送った。

 小町ちゃんはきっとこういう意味も含めていたのだろう。


 わたしがいくら正確な推理をお披露目したところで、最後は結衣先輩が決めることだ、と。


 非情なわけではなく、ただ、わたしのことも大切に思ってくれているだけだ。

 だが、それでもわたしは考えなければいけない。


 正直に言えば、わたしのせいかもしれないとは僅かに思っている。

 話が昨日だけでなく、さらに過去へと遡るのなら、知らず知らずのうちに傷つけている可能性は大いにある。

 わたしがやったことなら、わたしが片をつけるべきだ。


 ただ、わたしだけでは分からないことも多いし、まちがえても気づかない。

 部員に話を聞く必要がある。

 しかし、先輩に関しては長話をしている余裕はない。

 正確な推測を立てて話しかけなければ逃げられてしまう。


 以前、こう思ったことがある。

 わたしは知って欲しい、理解して欲しいという気持ちばかり先行して、理解することを蔑ろにしていたんじゃないだろうか、と。

 わたしは結衣先輩のことをどこかで蔑ろにしていたんだろうか。

 昨日、先輩が去った後、部室に残ったわたしに雪ノ下先輩が尋ねてきた。


『……一色さん、なにがあったの?』


 なにも答えられなかったわたしに、雪ノ下先輩は小さく声を漏らした。


『そうよね……。あなたが見てるのはこの空間であって、部員ではないもの』


 そんなことはないと即座に否定出来なかったのは、多分その言葉が正鵠を得ていたから。

 これだけ長く奉仕部に入り浸っていて、挙句奉仕部が好きだと喚いて、それでも尚、わたしは見ていなかったのだ。

 知ろうとしてこなかった。


 わたしの態度は、少なからず誰かを傷つけていたのかもしれない。

 事実、わたしは結衣先輩のことをほとんど知らない。

 誕生日だって知ったのはつい最近のことだ。


 関心がなかったわけではない。

 結衣先輩のことは好きだし、誕生日を知れば憶えていようと思う。

 でも、それはきっと、傍目から見れば無関心とさして変わりがない。

 今からでもその取り返しがつくだろうか。

 この球技大会の間に人を理解しようだなんて、無謀に思える。


 けれど、これが罪だと言うのなら、結衣先輩の退部は罰だ。

 どうしても償う必要がある。

 犯した罪は消えないけれど、その程度で償おうなんて虫のいい話だけど、出来ることはやるべきだろう。



  ****


 目の前にある白線の内側では、既に第二試合が始められている。

 生徒数が無駄に多いためグラウンドが何分割かされ、奥でも同時進行で試合が繰り広げられていた。

 脇ではドッジボールもやっている。


 総当たり戦なんてやればバカみたいに時間をくって到底一日では終わらないので、トーナメント。

 サッカーは一試合二十五分の四試合同時だ。

 昼休憩はちゃんとある。

 決勝だけは二十分ハーフで行われるらしい。

 勝ち上がってきて二十分ハーフって結構キツいと思うけど、ちゃんと考えてるのかな。


 思ったより時間が流れるのが速い。

 既に九時半を回っていた。

 なるべく速やかに過去を思い出さければ。

 思い出せる過去はせいぜい今学期が始まってから限界だ。

 今学期で印象的な場面は、一番古いものだと、四月下旬。

 校内学習の前日だったと思う。


 その日は……、確か今日とは違って快晴だった。

 ただ、今日よりはいくばか寒かった。


   ・・・・


 生徒会では急ぎでやる仕事がなかったため、ある程度雑務を済ませて早々に解散した。

 部活が休みなために奉仕部の部室に向かって歩く。

 なんだかんだ疲労が溜まっていたのだと思う。

 唐突に甘いものが飲みたいと思い、踵を返して自販機へ向かった。


 その自販機の前に怪しい人影。

 なにやら目の腐った男がMAXコーヒーを購入している。

 怪しい。

 これは怪しい。

 理不尽な疑いをかけながら、その人物にそろりそろりと近寄る。


「せーんぱいっ!」


 声とともにぽんっと肩を叩くと、怪しい人こと先輩はびくぅっと肩を跳ねさせる。

 くすくす笑っていると、振り向いた先輩にじとーっと睨まれてしまった。


「びっくりさせんな……。マジでびびったわ」


 ふうと心を落ち着かせるように息を吐く。


「あはっ、ごめんなさーい。で、こんなところで何してるんですかー?」

「久々に依頼がきたんだよ」

「はあ」


 全く答えになってない気がするのはわたしの気のせいなんだろうか。

 今日、奉仕部に、誰かが、なにかを、なぜか、依頼にきた、ので部室から出た。

 せめてなにを依頼にきたのかまで言って欲しいところである。

 What?


「なんの依頼ですか」

「恋愛相談、だと」

「あぁ、そういうことですか」


 それは納得。

 大方女生徒の相談か。

 まあ、誰しも親しくもない異性に恋バナなんて聞かれたくないだろう。

 十中八九噂のタネになる。

 先輩の場合はそんな心配は無用なんだけど。


「だから、呼ばれるまで待機」

「暇人ですねー」


 いたずらっぽい笑みを浮かべて言うと、先輩はドヤ顔で切り返してくる。


「まあな」

「うっわ、う……さぎとか最近イチオシなんですよねー、そう言えば」

「それは流石に無理あんじゃねぇか……」


 呆れ混じりのため息を吐いてベストプレイスへと足を動かす先輩に着いて行く。


「ですねー。うざかったです」

「いや、改めて言わなくていいから」


 当たり前のように先輩の隣に腰掛け、先輩がMAXコーヒーを一口飲んだのを確認してその手から缶を奪い取る。

 口をつけてこくりとまろやか? で甘ったるい液体を速やかに喉を通して笑顔で返した。


「あっま……。お返しします」

「お前なぁ……。それ、何度目だよ」


 わたしが口をつけたタブの辺りを見て、うへぇと嫌そうな顔をする。

 おっとー、その反応は傷ついちゃうなー。

 割りとマジで。


「じじゃん! ここで問題でーす! わたしとの間接キスは何度目でしょうか?」

「は?」


 なんかアホを見るような目で見られた。

 すっごいイラっとくる。

 訪れる静寂。


「…………」

「ちょっ……なんか言ってもらわないと、わたし恥ずかしいんですけどー」

「ならやんなよ……、お前だけが恥ずかしいと思うな」


 ふいっと顔を背けた先輩の態度に頬が緩んでしまう。

 にやけ顔に歯止めがきかない。


「なんかそれ飲んだらむしろ喉渇いてきたので、口直しになんか買ってきまーす」

「おう、戻ってくんな」

「ひっど……」


 辛辣な言葉に口を尖らせるが、この感じがたまらなく好きなわたしだった。

 やだ、Mっ気があるのかしら。

 自分の将来について頭を悩ませながらも、自販機でミルクティーを買い、再び先輩の横に腰を下ろす。


「戻ってきちゃいましたー」


 にこぱーっと輝く笑顔を送ると、先輩は悲嘆に暮れる。

 ため息までつく始末。


「はぁ……残念だ」

「ちょっとは遠慮しましょうよ……。なんか最近わたしの扱いが雑な気がしますー」


 むむーっと頬を膨らませる。

 先輩は、はっとバカにするように笑う。


「そりゃ、勘違いだな」


 おお、脈アリか!

 と、ちょっと期待してその真意を尋ねる。


「そ、そうですかねー?」

「ああ、だって最初から適当だしな」

「それは聞きたくなかったです……」


 扱いが雑!

 よくない!

 これはよくない!

 どうしてこうなった!


「もっとなんか、ほら、こう、あるじゃないですかー。女の子には優しくするものです」

「悪いな、女の子は騙す生き物だから信じないことにしてんだ。常に、冷静に冷徹に、自分に厳しく女の子にもうちょっと厳しくリア充は死ね」

「うっわぁ」


 リア充にたいして当たり強過ぎでしょこの人。

 なに?

 リア充に親でも殺されたの?

 なんだかわたしはマシな方なんだなぁと思えてきてしまった。


「まあ冗談だ」

「いや、冗談じゃなかったらドン引きです。今頃隣にいません」

「やっぱ冗談じゃない」

「ちょ、意見変更するとこおかしくないですかね」

「いや、そんなことはない」


 なにこの人!

 そこまでぞんざいに扱わたら、流石のわたしも結構凹むんですけど。

 むすーっと顰めっ面を浮かべてふんっと顔を背けた。

 そのまま、ばしばしと先輩の肩を叩く。


 特に反応を示さない先輩を不思議に思い、ちらと目をやると柔らかく微笑んでいた。

 先輩の自然な微笑みは結構レア。

 テニスコートに戸塚先輩でも見つけたのかと思ったが、テニス部も今日は休みなのか見当たらない。


「あ……」


 一つの可能性に行き着き、無意識に漏れた声に反応して先輩が顔を背ける。

 どうやら気分が落ちているのが態度に出ていたらしい。

 それでこの適当な扱いというわけだ。

 既にわたしの脳からは完全に暗い考えは吹き飛んでいた。


〝ありがとうございます〟


 口の中でそうつぶやいて、不器用な優しさに浸った。



 それからは世間話を交わしつつときを過ごす。

 終わったらメールすると言われていたらしく、そのメールを待っているわけだけど。


「遅いですねー……」

「ん、だな……」


 かれこれ三十分ほどこうしている。

 話が盛り上がっているのだろうか。

 恋愛相談、ねぇ。

 ああ、恋愛相談と言えば。


「そういえば、雪乃先輩とどうです?」

「なにか変わったように見えるか?」

「いえ、見えないです」

「なら、そういうことだ」


 やる気ないなー。

 やる気のやの字すら見せない。

 お節介だというのは分かってるけど、どうにもあれこれ言いたくなってしまう。


「先輩の心情的にはどうですか?」

「どうって……別に前と変わんねぇよ」

「そうですかぁ」


 どうしたものだろうか。

 勝手にくっついてくれればいいんだけどなぁ。

 よしと思えてない自分がいるのも確かで、ほっとしていたりする。

 心地いいぬるま湯、か。

 恋愛くらいは、それでもいいんじゃないか。

 矛盾を肯定する弱い自分に自嘲じみたため息が漏れた。


「恋愛って難しいですねー」

「恋愛検定一級はどうした」


 ああ、そんなのもあったな。


「取消です」

「なんだそれ……。嫉妬で葉山を刺し殺したりでもしたのか」


 刺し殺したら取消処分になるのか。

 嫉妬に狂う。

 わたしはそこまで無茶苦茶にはなれない。


「そこまでいくと有段者ですね」

「段まであんのかよ」

「いや、適当です」

「お前な……」


 呆れた表情になった先輩に微笑みかけると、ふっと鼻で笑われた。

 なんてひどい男なの!

 どの辺りに好きになる要素があるのか今一度検証してみる必要がありそう。

 いや、ないな。

 さっきの不器用な優しさでお腹いっぱいです。


「暇ですね〜」


 くあと隣から欠伸が聞こえ、それにつられてわたしも欠伸をした。


「だな」

「はぁー……」


 ため息を吐いて、購買の方へと首を動かす。

 同時に固まってしまった。


「あ」

「や、やはろー……」


 胸の前で小さく手を振りながら近づいてくる結衣先輩。

 いつからそこに。

 メールって聞いてたから、完全に油断してた。


「ゆ、由比ヶ浜……」


 悪いことでもしていたかのようにバツの悪そうな顔になる。


「あー、依頼は済んだのか?」

「あ、うんうんっ! もう終わったよー! えと、喉乾いたからヒッキー呼ぶついでに来たんだけど……」


 言い淀む結衣先輩。

 どの辺りから聞いていたのか。

 雪ノ下先輩の話をしてるときはいたのだろうか。

 淀みがあるのは言い辛いことのある証。

 正直言って思い当たる部分がそこしかない。


 ぶっちゃけ、部室内であまり恋愛関係の(と言っても、奉仕部の人間関係に関わるものに限っての)話をするのは避けていた。

 意識的に、ではないけれど。

 無意識的にでもそうならざるを得ない場面に遭遇してしまったのだから、そうなるのは自明の理。


「その、恋バナみたいな? ……してたの?」


 きゅっと握られたブラウスの裾に皺が寄る。

 俯いた顔の眉間にも、皺が寄っているのだろうか。

 別にそんな聞かれて困るような話はしていなかったはずなのに、なにを言っていいかもわからず妙な沈黙が生まれる。


「あ、あははー……、なんか、ごめん。聞かれたくない」

「そ、そういうわけじゃないですよー?」


 ようやく飛び出した否定の言葉はなんだかとても説得力のないものになってしまっていた。

 なにを慌てることがあるというのか。

 大げさに捉えすぎだ。

 予想と予測、勝手に決めつけて勝手に判断して。

 誰かが傷ついているかどうかなんて、その誰かにしか分かるわけないのに。


「その、雪ノ下先輩の話をしてたんです」

「うん」


 ちぐはぐな感じがしないでもない返答。

 聞いていたのだとすれば、そこまで不思議な返答でもないか。


「雪ノ下先輩と先輩、最近どうなのかなーって思いまして」

「そっか。ゆきのんとヒッキー、お似合いだもんね」


 少し、意外だった。

 でも、よくよく考えてみれば、おかしなことではないんだろう。

 たかだか半年見てるだけでも雪ノ下先輩と先輩はいい関係だと思うのに、一年以上一緒にいて思わない方がおかしい。

 主観的意見が重なることは多々あることだ。


「そんなことねぇだろ……。それ、雪ノ下に言うなよ。絶対、機嫌悪くなるから」

「あはは……確かに」


 そういう話題で気分を悪くする雪ノ下先輩の姿は容易に想像できた。

 どう見ても本気で怒っているように見えないのが微笑ましい。


「なんでそんな話してたの?」

「別に俺が振ったわけじゃねぇよ」


 先輩の言葉に反応して、結衣先輩がわたしに顔を向ける。


「……傷ついた分だけ、なんて言いませんけど、ちょっとくらいいいことがあってもいいと思いません?」

「そうだね……、ヒッキーはいっつも」


 いっつも、一人で始めて、一人で考えて、一人で戦って、一人で終わらせてしまうから。

 それがいけないことだなんて、今の先輩を見て、先輩の周囲の人間関係を見て、言えるわけがないけれど。

 でも、だからって、いいことだなんて口が裂けたって言えっこなかった。


「お前らの言ういいことが俺にとってもいいことだってのは、傲慢じゃねぇのか」


 その言い分はよく分かるけど、この場面で言っちゃダメでしょう。


「それは、あれですか。雪ノ下先輩なんて眼中にないってことですか」


 言って、ふぅんと冷やかな視線を浴びせる。

 自分の発言を取り繕おうと先輩は慌てて口を動かす。


「いや、違う違う。そうじゃなくて、だな。あー、もう、好きにしろ……」


 くすりと笑い声が聞こえた。

 そちらに目をやれば、結衣先輩が楽しそうに笑っている。


「そういえば、恋愛相談ってどんな内容だったんですかー?」

「ん? えっと、なんかねー、同じ部活に好きな人がいるんだけど気まずくならないように進展したい、とかそんな感じだよ」


 へぇ。

 何部なんだろ。

 気まずくならないように進展、か。

 結構、難しそうだな。


「それで、どうしたんです?」

「それが、結構話したんだけど具体的な案が決まらなくてさー」


 はぁと肩を落として息を吐く。

 二人とも恋愛経験豊富ってわけではないんだろう。

 アプローチをかけられることは多いんだろうけど。


「今、どういう関係なんですかね」

「んー、結構話すことは多いみたいだよ」


 話すことは多い、か。

 会話が出来るなら大して難しくもなさそ……いや、そんなことないわ。

 わたしの隣にいる人とか、会話が出来たところで全く落とせる気がしないし。


「とりあえず、部活メンバーで遊びに行くとか」

「あ、遊びに行く約束はしてるみたいなんだけどねー。なんか乗り気じゃないみたいでさ」


 乗り気じゃないね。

 もう脈ナシだから他の人にチェンジした方が……、自分が出来ないことを人に言うもんじゃないな。

 まあ、わたしに関係ないからどうでもいいけど。


「先輩はどう思いますー? 男子からの意見が聞きたいです」

「あー……、乗り気じゃない、な。あれじゃねぇの? 趣味嗜好が合わないとか」


 趣味嗜好が合わないかぁ。

 そういうのでモチベ下がったりするのかな。


「どうだろ……、そこまで深い話は聞いてなかったなー」

「何年生なんですかー?」

「三年だよ。一年のときに仲良かった子で……、何回か告られたりとかはしてるから、そんなに顔は悪くないと思うんだけど」


 結衣先輩と仲良くなるっていうと、派手派手しい感じか。

 何回か告られるくらいなら、本当に顔はいいんだろう。

 問題は性格か?


「ぶっちゃけ、性格の不一致とかしかなくねぇか」

「そんな芸能人の破局理由みたいな!?」

「いや、だってなぁ?」


 同意を求めるようにわたしを見る。

 わたしもなんだかそんな感じがしたので、軽く頷く。


「どんなに顔がよくても苦手なときってありますよねー」


 葉山先輩だって万人にモテるわけじゃないだろうし。

 わたしの返事に、先輩は腕を組みうんうんと首肯する。


「あるな、超ある。俺くらいになると、むしろ女子全般が苦手。特にお前とかな」

「いや、なんでわたしだけ特別みたいな……、はっ! もしかして口説いてますか」

「違う違う。なんでそうなんだよ……、お前ポジティブにもほどがあんだろ」


 ポジティブ……、ポジティブっていうのかこれ。

 楽観視してるわけじゃないんだけどなぁ。


「先輩がネガティブな分、釣り合いが取れていいじゃないですかー」

「なんだそれ。は、もしかして口説い」

「違います。流石にそれはキモいです」

「……せめて最後まで言わせてくれてもよくない?」


 やだなー、最後まで言わせるわけないじゃないですかー。

 最後まで言われたら、そうですとか口走って振られるとこまで見えるよ。


「なんか疎外感……」

「あ、あー! ごめんなさい」

「わ、悪い」


 ついつい盛り上がってしまった。

 なんだか軽口を叩き合うのが日常的になっている気がする。

 少しは近づけたのかな。


「苦手かー……」

「苦手だからって仲良くなりたくないとは限りませんけどねー」


 誰に向けるでもなく虚空に消えていった言葉に反応すると、結衣先輩は小首を傾げる。


「そうなの?」

「そうですよー。苦手って思うのには、それなりに相手のことを知らなきゃいけません。だから、最初は苦手でもいいんじゃないかなーってわたしは思いますけどね」


 先輩の女子に対する苦手意識は、先入観に雁字搦めにされちゃってるからなんの参考にもならないけど。


「そっか。そういうのも、あるんだ」

「そうです。多少なり苦手に思ってもらってた方が、ギャップとかあるかもです」


 ギャップ萌えってやつです!

 ギャップ、ギャップとつぶやいてる結衣先輩がかわいくてしょうがない。

 わたしの周りにわたしよりかわいい人が多過ぎて困る今日この頃。


「さすが一色。かわいいは作れるって実はお前が作った言葉だろ」

「まさか。わたしはもともとかわいいですよ〜」


 きゃはっと笑ってみせると、うげぇと先輩の顔が歪む。


「そういうところがかわいくねぇんだよなぁ……」


 まあ、自覚はないこともないです。

 でも今さら態度変えれないでしょ。


「先輩に思われてもなー」

「ああ、そうね……」



   ・・・・


 部活は月曜休みが多いから、その日は月曜だったと思う。


 思い返してみると、やっぱり違和感がある。

 結衣先輩の言動、態度に。

 そういうことをする人だっただろうか。

 本当になんにも知らないんだな、わたし。


 いつの間にか第二試合が終わり、時刻は十時過ぎ。

 もうすぐ三試合目が始まる頃か。

 いい加減お尻が痛い。

 ここで座っていても誰にも会えないな。

 雪ノ下先輩に聞きたいこともあるし、少し移動しよう。


 雪ノ下先輩、か。

 雪ノ下先輩はあの日どんな感じだっただろうか。

 そういえば、部室に入ったときに小町ちゃんは居なかったな。

 まあ、奉仕部に入部しているといっても、活動に力を入れているわけじゃないからしょうがない。

 後期からは内申点アップのために生徒会に入るって言ってたし。


 雪ノ下先輩の態度はそんなに変わってなかったと思う。

 わたしが暇だからと、先輩と雪ノ下先輩に勉強教えてもらうように頼んで勉強を始めると、結衣先輩はうずうずと見ていた。

 それを雪ノ下先輩が、


「由比ヶ浜さんは、やらないのかしら?」


 とか言って誘うと、結衣先輩は顔を明るくして、勢いよく頷いた。


「……難しい」

「その言葉、全教科で聞いたのだけれど……」

「あはは……、なんで出来ないのかなー。……もっと、簡単なはずなのに」

「それは私が聞きたいわね」

「ごめんねー、あたしバカだから」

「いえ、謝ることではないわ。誰にでも得手不得手があるもの。その……、一緒に、頑張りましょう?」

「うんっ、ありがと!」


 そんな他愛もない会話を思い出した。

 あのときはなんの教科をやっていたのだろうか。

 二人とも微笑んでいたのは憶えている。


 立ち上がると、ざっとわたしの背後で立ち止まる音が聞こえた。

 振り返れば、それはわたしが探そうと思っていた人物だった。


「雪ノ下先輩……」

「一色さん、こんにちは」


 微笑みはいつもより儚げだった。

 なにかを失ったような、そんな笑み。

 雪ノ下先輩にとっては、掛け替えのないものだったに違いない。


「こんにちはー。今から、ドッジボールですかー?」

「ええ。一色さんも、かしら?」

「いえ、わたしは今日は見学してるんですよー」

「そう……」


 わたしを見て、顔を俯かせる。

 気づかれても問題はないけど、そんなに暗い顔をされると困る。


「その、昨日は……あんなことを言ってごめんなさい。一色さんが気にすることではないわ」

「分かってますよ。でも、見てなかったのは事実ですからね……」


 雪ノ下先輩は事実を言ったに過ぎない。

 謝られる謂れはないし、わたしが勝手にやっているのだから、そんな気にしないで欲しい。


「もう、無理なのよ……」


 その言葉に目を見開いた。

 驚きしかない。

 雪ノ下先輩が諦めるところなんて、そうそう見られるものじゃないし。

 なんにもしないで諦めるような人じゃないから。

 なんにもしないで……?


「結衣先輩と……、話したんですか?」


 ゆっくりと首を縦に振る。


「話した、とは言えないのかもしれないわね。取り付く島がないという感じで……、比企谷くんも見つからないし」

「そう、ですか」


 けれど、それは、まだなにも原因が分かってないから。

 なにか、結衣先輩を引き留められるキーワードを見つければ、あるいは。


「雪ノ下先輩、一つだけ、いいですか?」

「……あなたは、諦めないのね。なにかしら?」


 諦めない、か。

 そんなんじゃ、ないと思うけど。

 訊きたいことは決まっていた。

 回想するまでもなく。


「昨日、部室から出た結衣先輩とすれ違ったんですよね? そこで、奉仕部をやめると聞いた」


 雪ノ下先輩は頷く。


「その時、結衣先輩は先輩のことをなんて言っていたんですか? 小町ちゃんに聞いたんですけど……、『優しい人』とか、『正直な人』とか。本当にまちがいなくそうだったんですか?」


 問い詰めるような口調になってしまった。

 雪ノ下先輩が昨日、結衣先輩とどんな会話をして、どういう流れでこの言葉を聞いたのかは知らないけど、これに意味がないとは思えない。


 雪ノ下先輩は怪訝そうな顔をして真実を語り、ドッジボールのコートへと向かっていく。

 いつになく小さく見えたその背中を見送りながら、心の中で何度も言葉を繰り返す。

 雪ノ下先輩はこう言った。


「いえ。由比ヶ浜さんは、『真っ直ぐな人だよね』と、言ったわ」


  ****


 グラウンドを抜けて、昇降口に向かって歩く。

 サッカーはトーナメント制だが、ドッジボールは違っただろうか。

 いや、下手をすればドッジボールの方が時間がかかるし、そんなことはないだろう。

 バスケやバレーは疲れるから、プレイ時間を短くして休憩時間を余分に取っているのか、昇降口には結構な数の生徒がいた。


 あまりうるさいと考えに集中出来ないので、その脇を抜けて廊下を歩き、廊下に置かれたソファに腰を下ろす。

 小町ちゃんはどこにいるか分からない。

 雪ノ下先輩には今のところ訊くべきことはない。

 あの謎の言葉意外に注視すべき点は恐らくないだろう。

 気になったら、また訊けばいい。


 あと、思い出すべきことはなんだろうか。

 そもそも、奉仕部にいた日があまり多くはない。

 奉仕部を離れる原因になった偽告白イベントは生徒総会の一週間後だったか。

 依頼が月曜で、その後は関わりが薄かったから把握できない。


 結衣先輩の顔を見たのは、ここ一週間と、偽告白イベント以前。

 その期間で印象に残っている場面はやはり多くない。

 それほど重要とも思えないけど。

 しかし、先輩と結衣先輩の関係に問題があるのだとすれば、あれはもしかしたら一大事だったかもしれない。


 その日は確か、土曜日だった。

 母の日の前日だ。


   ・・・・


 生徒総会の動議が決まり、盛り上げるための布石も打った。

 それにより生じる問題も先生との直談判で解消し、あとは当日を待つばかり。

 土曜である今日は、来月始めにある定期テストに備えて勉強に励もう。


 そう意気込んでテーブルに教科書を広げた。

 時刻は昼過ぎ。

 部活を終えて帰宅し、すぐにシャワーを浴びて昼飯を済ませ、準備万端。

 というところで、玄関の開く音が聞こえた。


「いろはすー」


 その侵入者はわたしの名を呼びながらリビングに入って来たかと思うと、こう言った。


「出掛けるよ」


 ぽかんとしてしまったのはしょうがないことだと思う。


「出掛けるって……、どこにですか?」


 ていうか、拒否権は?

 わたしの人権が著しく侵害されている。

 これは重大な問題だ!


「まあ、移動しながら説明するよ」


 あ、行くことは決まってるんですねー。

 頑なに拒否する理由もないけれど。

 勉強への意気込みはどこへやら。

 支度をして、見慣れた高級車へ乗り込む。


 降りてから見上げた空は曇り始めていたので、雨が降らないか気がかりだった。

 天気予報は一日中晴れだと言ってたんだけどなぁ。

 また騙されてしまったらしい。

 無垢な信頼心とか罪だなマジで。

 八つ目の大罪に認定されるレベル。


 そのまま、目的地の建物の前で佇む。


「本当に来るんですかー?」

「来るよ。比企谷くんはまだ寝てたみたいだから、遅れるかもだけど」


 まだ寝てるとかマジか。

 もう一時近いんだけど……。

 しばらく待っていると、まず一人目が到着した。


 清潔感のあるというか、お淑やかなというか、それらしい服装だった。

 特に手荷物はないらしい。

 バッグとかは持ち歩かない主義なのか。

 それとも持ち歩くほどのものがないのか。


「こんにちは〜」

「こんにちは。……あなたも来ていたのね」


 じろっとはるのんを睨む。

 睨まれた方はふんふんと楽しそうに鼻歌を歌っているが。

 よく来たなこの人……、とか思っていると、はるのんがそれを察したのか答えを告げる。


「比企谷くんが来るなら、来ないわけにはいかないよねぇ」


 ああ、そういう。

 人質かよ。

 雪ノ下先輩は呆れたようにため息を吐いて、こめかみを押さえる。


「身内が迷惑をかけると知って、放っておくわけにはいかないでしょう……」

「あはは……」


 ただただ乾いた笑いが漏れた。

 混ぜるな危険だな、これ。


 直後に二人目が姿を現わす。

 こちらも手荷物はない。

 そもそも、荷物が必要な用事でもなかったし、それが当たり前なのかもしれない。

 派手派手しい……、今どきのギャルだなぁと思う。

 わたしはギャル系ではない、かといって清純派でもないけど。


「やっはろー!」


 少し離れたところから、駆け寄ってくる。

 その挨拶をしながら駆け寄ってくるのは、出来れば控えて欲しいなとおもってしまった。

 通行人が注目すること……、くすくす笑われてるし。


「由比ヶ浜さん、こんにちは。その挨拶、出来れば外では控えて欲しいのだけれど……」

「いきなりダメ出しだっ!?」


 そんなにかなぁ、とわたしに視線を向けた結衣先輩から目を逸らしてしまったのは仕方がないよね。

 あからさまに気を落とされると、悪いことをしたような気分になってしまう。


「ガハマちゃん、ひゃっはろー」

「陽乃さん、やっはろーですっ!」


 うそ、なにそれ流行ってんの?

 にこやかに手を振るはるのんに目をやると、なんだか楽しげなのが不気味だった。

 心の中で嘲笑ってそうだな、怖い。

 この人は、どこか結衣先輩を軽く見ている節がある。


「小町ちゃんには着いたら連絡するように言ってあるから、行こっか」


 よく先輩が来る気になったなと思ってたけど、そういうことか。

 小町ちゃんにほいほい着いて行ったら、ここに着くと。


 はるのんに追従する形で、建物へと足を踏み入れていく。

 はるのんのテリトリー。

 大学である。


「なんかどきどきするねー」


 その気持ちは分かる。

 見学会でもないのに、大学に足を踏み入れるのは妙な特別感があって結構どきどきする。


「そうかしら。私はそうでもないけれど」


 言葉の通り、雪ノ下先輩は落ち着いていた。

 わくわくしてる雪ノ下先輩というのは見てみたいが、そうそう見れるものでもないか。


 車内で聞いた話によれば、はるのんの知り合いが映画研究会だかに所属していて、最新作が出来たので試写会に来ないかということだった。

 映画は嫌いではない。

 別に好きでもない。


 ぶっちゃけ、先輩と一緒に見れるならなんでもいい。

 隣座ろーっと。


「いろはちゃん……? なににやにやしてるの?」

「えっ! や、なんでもないですよー」


 あっぶねー、と冷や汗をかきつつも足を進める。

 はるのんが入った教室は、普通に明るい部屋だった。

 もう準備万端! あとは見るだけ!

 みたいな状態かと思っていたので、拍子抜けした。

 どっちにしろ、先輩たちを待つことになるので、暗い部屋で過ごすよりはよかったと思う。


 部屋の中には一人の女性が椅子に腰掛けていた。

 はるのんが手を振ると、立ち上がって歩み寄ってきた。


「連れてきたよー」

「ああ、よく来た」


 はるのんも類稀な美貌の持ち主だと思うけど、この人もこの人で美女といっても問題ない容姿をしていた。

 類は友を呼ぶと言うけれど、そういうカテゴリーで集まるのもあり得る話かもしれない。

 それぞれ挨拶を済ませて、適当に椅子に腰掛ける。


「今日は招きに応じてくれて、ありがとう」


 真面目な人なのだろうか。

 あまり表情に変化がない。

 招き……、か。


「相変わらず、堅いなぁ」

「別に堅くしているつもりはない」

「そんなの主観でしょ。わたしがどう感じたかが問題なの」


 すっごい傲慢なことを言っている相変わらずなはるのんだった。

 でも、なんだか仲良さげでいい感じ。


「それはともかく」


 と話を本筋に戻す。

 そして、手に持っていたものを掲げてみせる。

 ディスクだ。


「今日、君らに時間を割いてもらったのは、これを見てもらうため。これは、陽乃から聞いているかもしれないけれど、私の所属する映画研究会で撮影したものよ。これを見て、是非とも率直な意見を聞かせて欲しい」

「楽しみです」


 と結衣先輩。

 試写会とは、どうやら本当に試写会らしい。

 でもなんで。

 疑問を覚えたので、わたしは訊いた。


「それだけでいいんですかー?」


 彼女は真っ直ぐにわたしの目を見てくる。

 射竦めるような視線に圧迫感を感じながら、続ける。


「見て、感想を言うだけですか?」

「それではおかしいかな」

「え、だって、もしわたしたちがその映画を見て批判したとしても、取り直せるわけじゃないじゃないですか? 本当の試写会みたいに宣伝のためでもないだろうし……、なにか目的があるんじゃないんですか?」


 わたしははるのんが見たいと言い出して、ついでにわたしたちにも見せてくれるものだと思っていた。

 でも、彼女の話を聞く限りでは、はるのんが招かれたらしい。

 なら、なぜ。


「もっともな疑問ね。確かに、ただ見てもらうわけではない、と言いたいところだけど、私は試写会だとは一言も言っていないわ」

「え?」


 ……あぁ、そういうことか。

 確かに、試写会だと言っていたのははるのんだった。


「ただの上映会ってわけですかね……」

「そういうこと。でも、よく見てるわね。感心した」


 ここにきて初めて微笑む。

 バカにされてるような気がしてならない。


「……思い込みは得意なんです」

「そう自虐的にならないで欲しい。考えてもらうことがないわけではないから、まちがってはいない」


 まちがってはいないか。

 そういうことなら、少しは恥ずかしさも薄れる。


「そうなんですかー?」

「あぁ。今、言ってもいいけど、まず見てもらったほうが効率的だと思う。どう?」


 効率的と言われてまで、今訊く理由はない。

 わたしが首肯すると、彼女は満足したように大きく頷いた。


「別に無理強いはしないから、気楽に見てもらえるとありがたい」

「はい」


 答えると、しばらく無言が続く。

 唐突にはるのんの友人が立ち上がった。


「……まだ、全員揃っていないようだけど、いつ頃着くか分かる?」


 彼女がはるのんに尋ねると、はるのんは首を捻る。


「んー、どうだろ。そんなにはかからないと思うけど?」

「そう。それなら、私は少し離れる。着いたら連絡してくれればいい」


 言って、出入り口へと足を進めた。


「りょーかーい」


 部屋を出るときに一瞬振り返る。

 本当に一瞬だったからよくは見えなかったけど、微笑んでいたと思う。


「気を遣わせちゃいましたかねー……」

「ううん、そういう子なんだよ。あんまり誰とも仲良くしないって感じの」


 へぇ、まるで、


「比企谷くんのようね……」

「先輩と一緒にしたらかわいそうですよー」


 わたしは、どっちかっていうと雪ノ下先輩に似てる気がしたけど。


「確かに……、失言だったわ」

「ここにいないのに、ひどい言われようだ!?」


 結衣先輩が少々オーバーな感じなリアクションをする。

 にしても……、暇だ。

 なにかないだろうかと室内を見回す。

 すると、脇に本棚が置いてあるのが目に入った。

 立ち上がって近づいてみる。

 映画に関する資料が多かったけど、関係ない雑誌や文庫本なんかもそこそこあった。


「これって、読んでもいいんですかねー?」


 背表紙を眺めながら訊く。


「うん? いいと思うよー」


 許可を得たが流石に文庫本を読む気はないので、適当な雑誌を引っ張り出して持っていく。

 表紙に『これで意中の彼もあなたのものに! 最強デートプラン!』、とか書いてある偏差値の低そうなやつ。


「いろはすこういうの興味あったの?」

「いえ、全く。でも、暇つぶしにはなりそうじゃないですかー?」


 主に紙面記事をバカにする方向で。


「デート……」

「デートかぁ……」


 なんかつぶやいてる乙女が二人。

 やっぱりちょうどいい代物だった。


「ディスティニー、スカイツリー辺りはやっぱり鉄板なんですかねー」


 ほーとか、へーとか言いつつページをめくる。

 ディスティニーには因縁が……。


「ディスティニーで告ると振られますよー、気をつけてください」

「えっ!? そうなの?」

「そうです。ソースはわたし……」

「え、あぁ、……な、なんかごめん」


 謝らないで!

 傷が深くなるから!


 どうやらこれはあまり新しいものではないらしい。

 イルミネーションの名所なんかが載っている。


「マザー牧場に、ドイツ村……、なんか有名どころしか載ってないですねー」


 なに? こう、穴場的なのが知りたい!

 雑誌で紹介されたら穴場じゃなくなるけど!


「あ、水族館とかいいよねー!」


 先輩と水族館……。

 なんかつまなそうだな……、いや、動物好きなところあるし、イルカショーとか結構楽しめそうかも。


「スケートデートなんてものもあるのね」


 雪ノ下先輩が興味深そうに言う。

 そのお相手は先輩だろうか。

 スケートとか出来んのかな、あの人。


「おぉー? 雪乃ちゃんは誰と行きたいのかなー?」

「べ、別に行きたいとは言っていないでしょう」

「素直じゃないなぁ」


 くつくつと愉快そうに笑うはるのんを雪ノ下先輩が睨む。

 仲良いなぁ。

 言ったら怒られそうだから言わないけど。

 ふと窓に顔を向けると、空は、さぁ今から雨を降らすぞと言わんばかりに曇っていた。


「雨降りそうですねー……」

「そうね。天気予報では、晴れると言っていたけれど……」

「なんかさ、最近あてにならないよねー!」


 本当、それ。

 最近っていうか、前から結構な頻度で天気予報は外れているけど。

 ここ最近、晴れて欲しいと思ったときに騙されることは多い気がする。

 外れたほうが記憶に残るだろうから、実際はそんなことはないのだろうが。


 しばらく話していると、いきなり音楽が鳴り始める。

 誰かのケータイが鳴っているらしい。

 ケータイを取り出したのははるのんだった。

 メールだったようで、すぐにポケットに仕舞って立ち上がる。


「小町ちゃん着いたって。迎え行ってくるねー」

「あ、わたしお手洗いに行きたいんですけど」


 立ち上がると、


「私もいいかしら」


 と雪ノ下先輩も立ち上がる。


「ん、じゃあついでに案内するよ。着いてきて」


 はるのんに着いて行き、お手洗いの前で一旦別れる。

 さっきの部屋へと戻ると、既に先輩と小町ちゃんは来ていた。

 はるのんのご友人も戻ってきていらっしゃる。


「こんにちはっ」

「よお」


 もの凄く不機嫌そうな顔をしている。

 内心では既に諦めているだろうから、これはきっと意地だろう。


「いろはさんこんにちはですっ!」


 小町ちゃんは相変わらず元気だなー。

 天真爛漫すぎて、雨が降り出すかもしれないのを忘れそうになるまである。

 まさか天照大神なの……、だとしても狐の嫁入りになるだけだけど。


「そういえば、映画ってどのジャンルなんですかー?」


 訊くと、はるのんの友人は眉を顰める。


「言っていなかったの?」

「あははー」

「はぁ……。ジャンルはミステリー」


 ミステリーか。

 あんまり詳しくない分野だ。


「ミステリーって、推理的なやつなんすか?」

「そう思ってくれて、差し支えない」


 推理、推理……。

 わたしに推理が出来るとは思わない。

 謎を解くことよりも、どういうトリックでどうなるのかに期待を膨らませて見た方が楽しそうだ。


「比企谷くんは推理とか得意そうだよねぇ」

「なんすかそれ……。別にそんなことないっすよ」

「ふぅん、そう」


 また苛めて……。

 先輩ちょっと怯えてるじゃないですか。

 怖い怖い。


「では、そろそろ始めるわ。席は適当に着いて」


 言葉に従って、手近な席へ……、と思ったけれど、先輩の隣が空いていたのでそこに座る。

 暗幕が下ろされ、暗闇が訪れる。


 映像は突然現れた。

 大学の一室だろうか。

 部屋には六人の男女がいる。

 窓が映っているが、その外を見れば時刻が夕方近いことがわかる。

『あの事件のことを語るには、やっぱりここから始めた方がいいだろう』

 そんな語り口で、物語は始まった。



 終わってみれば、あっという間の出来事だった。

 映画自体が、そんなに長くなかったというのももちろんある。

 エンドロールを見ながら、ほぅと感嘆するような息が漏れた。


 わたしははなっから推理する気もなかったので、どうなるのかに期待していたわけだけど、いい意味で驚かされた。

 大学生の作ったものだという先入観があったから多少出来がよければ凄く見えるなんて、意地悪な言い方をするつもりはない。

 よく出来ていたと思う。


 わたしは自分のことを素直だとは思わないけれど、だからといっていいと思ったものを褒められないような人間ではないつもりだった。

 だから、自然に拍手を送っていたのも、おかしなことではないはずだろう。


「拍手をいただけるほど良い出来だったか?」


 暗幕を上げながら問う。

 拍手をし始めたのはわたしなので、わたしへの質問なのだろう。


「よかったです。個人的には、すごく」


 小難しい言葉をべらべらと並べ立てるより、この方が伝わると思った。


「そうか。なら、よかった」


 明るくなった視界で、はるのんの友人が微笑んでいたのは、今度こそはっきりと見えた。


「技術的にはどう思う」


 わたしに向き直って再び問う。

 なんでわたしに訊くのか謎である。

 そういう点において、というか、映画技術とかにそこまで詳しくないわたしとしては、良いか悪いかの二択しかないんだけどな。

 しかし訊かれてしまった以上、なんかしら具体的なことを言うべきだろう。


「それもよかったと思いますよー。序盤はカメラワークが雑な気もしましたけど、それをトリックとして使っていたと分かった今なら、あのくらい分かりやすい方がいいと思いますし。演技もなかなか自然な感じで」

「そんなに絶賛されるとは思わなかった。ありがとう」


 案外、よく笑う人だ。

 笑うと言っても、口元を少し緩めるくらいのものだけど。


「叙述トリックって言うんですかね、ああいうのって」


 先輩が訊くと、軽く頷いて答える。


「そう、よく知っているわね」

「ミステリー小説とか読まないわけじゃないっすからね」


 先輩はミステリー小説とか読むタイプなのか。

 わたしも読もうかな。


「最後凄かったよねー! みんなカメラ目線になってさ。バクシンの演技ってやつ?」


 爆進ってなに。

 どこ行っちゃうの。


「それは迫真の演技と言いたいのかしら……。そうね。カメラマンが七人目の登場人物だというのは確かに面白かったわ」

「視聴者側には謎に見えるけど、登場人物には自明のことだったってわけだね。わたしも流石に分からなかったなぁ」


 各々感想を漏らす。

 みな満足しているようだ。

 そろそろ本題というか、事前に言っていた考えて欲しいものとやらを訊きたい。

 その想いが伝わったのか、はるのんの友人は口を開く。


「満足してもらえたようでよかった。でもまだ、この映画は完成していない」


 その意味するところにはすぐ思い当たった。

 わたしじゃなくても分かるだろう。

 当然あるべきものがなかった。


「タイトルがないってことっすか」


 先輩が訊くと、結衣先輩だけがあぁと驚きの声をあげた。

 タイトルがないのはある意味でインパクトがあったから、憶えていて当然。

 だからって結衣先輩を批難するつもりはない。

 内容についてあれこれ感想を言えるのなら、あれを忘れるくらい真剣に観ていたということだろう。


「どうだろう。よければ、この映画にタイトルをつけてみない」


 誰も反論はしなかった。

 わたしたちの態度を肯定と捉えて、それぞれに紙とペンが配られる。


 タイトル、か。

 わたしにネーミングセンスはない。

 そもそもネーミングをしたことがないけど。


 小町ちゃんが言った。


「『古丘廃村殺人事件』ッ! とかどうですかねっ」


 舞台は古丘町の廃村だから、ということでだろう。

 しかし流石に安直過ぎやしないか。

 それに、それだとなんだかサスペンスドラマみたいな感じだ。

 あれは館モノの密室殺人に見せかける叙述トリックを使った作品だから、そぐわない気がする。


 周囲の沈黙を否定と捉えたのか、小町ちゃんはまたもうーんと首を捻る。

 小町ちゃんが再び思いつく前に、雪乃先輩が口を開く。


「『見えていなかったモノ』とか、どうでしょうか」


 おお、なんかそれっぽい!

 モノってカタカナなのがいい。

 初見なら気にしないだろうけど、観終われば「モノ」が「者」だったことに気づく。


「んー、見えていなかったっていうより、見えないフリをしていた、じゃない?」

「そうね……」


 確かに、犯人であるカメラマンは「いない者」として扱われていた。

 アナザーみたいな。

 理由はなく、端的に言えばイジメを受けていたという話だけど。


「『I’ll Be There』とか、かえって格好悪いかな」


 はるのんがそう提案する。

 そこに居る、か。

 英題にしなければ推測されやすいとは言っても、英題が似合うような雰囲気ではない。


 みなが考えているために、沈黙が室内を包む。

 それを破ったのは、先輩だった。


「『万人の死角』とか……、ちょっと格好つけ過ぎですかね?」


 万人の死角。

 わたしは内容に即していると言えるいいネーミングだと思う。

 先輩だからという贔屓目がないかと言われれば、はっきりないとは言えないけど。


「いいタイトルね。それに決めよう」


 それまでの表情の乏しさからは考えられない晴れ晴れとした笑顔が、そこにあった。

 かくしてタイトル未定の映画は完成し、わたしたちは教室を後にした。


 昇降口に向かう途中で結衣先輩が忘れ物があると言って戻ったが、それ以外は特になにもなく門を抜ける。

 わたしを含めて五人全員が門前に立ち、挨拶を済ませて別れようと思うと、はるのんの声がそれを制止した。


「それで、比企谷くん。なにか言いたいことがあるんじゃないの?」


 そのはるのんの疑問は、正直言ってわたしも持っていた。

 タイトルが決定した後から先輩の表情が優れなかったから。


「え、そうなの? ヒッキー」

「え、いや、ないっすけど……」

「またまたぁ。いいから言ってみなさい」

「いや……、はぁ」


 ため息には諦めが滲んでいた。

 まあ、逃れられる相手じゃないことは、先輩もよく分かっているだろう。

 反抗するだけ無駄だ。


「その、なんか嘘っぽいなと思っただけですよ」

「へぇ、なにが?」

「タイトル未定っていうのが、です」

「どうして?」

「笑顔が作りものっぽかったんで」


 わたしも、それは思った。

 あのタイミングであの晴れ晴れとした笑顔は、いかにも狙ったタイミングでやったような気がしてならなかった。


「笑顔が、ねぇ。なんでそう思ったの?」

「……なんとなくですよ」


 嘘だ。

 なんとなくなんかじゃない。

 見たことがあるからだ。

 見抜いたことがあるからだ。

 目の前のこの人が、よくやるものだったからだ。


「そ。ふふ、本当、比企谷くんには全てお見通しなんだねぇ」


 苛烈さの滲んだ声に、足がすくんだ。

 いつか生徒会室で見たっきり、わたしは見てなかったアレだ。

 紛い物だ。


「そんなんじゃ、ないですよ」

「で? どう思う? なんでわたしたちに頼んだんだと思う?」


 さっきまでの苛烈さは既に消え去り、子供のように興味深々な様子で訊く。


「どうって……、単純に気に食わなかったんじゃないっすかね」

「気に食わなかったって、どうしてそうなるの?」


 結衣先輩がさらに追求する。


「じゃなきゃ部外者に頼まねぇだろ。気に食わなかったけど、他に案がない。真っ向から気に食わないと言うのは関係に亀裂が入りそうだから最終手段にしたいって普通ならそう思う」


 みんなで作ったものなら尚更だろう。

 褒められて喜ぶのだから、褒められるつもりでつくったはずだ。

 よりよく出来るのなら、追求することが出来るなら、しようと思う。


「だから、外部からそういうことが出来そうなやつを呼んで、見てもらって、出してもらった代案を自分の意見として提案する。雪ノ下さん、何人か連れて来いとか言われてたんじゃないんすか?」


 先輩が問うと、はるのんは口の端を吊り上げた。


「せーかいっ! よく分かったね」

「そんなの、誰だって分かるでしょ」

「そんなことないよ。雪乃ちゃん、分からなかったでしょ?」

「ええ……」


 雪ノ下先輩は少し悔しそうに唇を噛む。

 本当に負けず嫌いだな。


「比企谷くんは、人の心理を読み取るのが得意だもんね」

「……そんなことないですって。だいたい当たってるか分かんないっすよ。こんなもん予想でしかない」

「心理……」


 ぽつりと鼻先に水滴が当たった。

 空を見上げると、ぽつぽつと再び顔に当たる。

 先輩と小町ちゃんは持参してきたらしい折り畳み傘を差した。


「降ってきましたねー……。帰りましょう」

「雪乃ちゃんとガハマちゃんは傘持ってないでしょ? 乗ってく?」

「そうね」

「あ、お願いします」


 そんな感じで、上映会は終わりを迎えた。

 雨は土砂降りになった。

 やっぱり、天気予報は当てにならない。


   ・・・・


 今は何試合目だろうか。

 こうして人気のない廊下に座っていると、周囲の情報からは時刻は把握できない。

 ケータイを見れば、時刻は十時半を迎えようとしていた。

 もうすぐ、三試合目が終わる頃か。


 一回戦目が全て終わるのに四試合分の時間がかり、二回戦目が全て終わるのに二試合分の時間がかかる。

 準々決勝と準決勝は一試合分ずつ。

 全部で九試合目まであるわけだ。

 九試合目、決勝がタイムリミット。


「おっ、いろはさんっ! よく会いますねー」


 声の方を見ると、小町ちゃんが近くにいた。

 そのままわたしの隣に腰を下ろす。


「調子はどう?」

「バレーが負けちゃいましたー。でもそれ以外は二回戦進出です!」

「おー、頑張ってるね」


 そのまま二回戦を突破すれば準々決勝だ。

 この時点で全ての競技をやり終えたなら、五試合目が始めるまで暇そうだな。

 わたしのクラスはどうだろう。

 全然把握してないや。


「いろはさん、なにか訊きたいことはありますか?」

「……ちょっと待ってね」

「はい」


 わたしは先輩に訊くことをまとめるつもりで考えていた。

 ただ、ここで小町ちゃんに会えたのは運が良かったかもしれない。

 自分以外の視点がある、確認が出来るのはありがたい。

 訊きたいことなら二つあるけど、片方は……、小町ちゃんには訊けないな。


「そうだなー。例えばわたしが、『友達に恋愛相談を受けたんだけど、好きな人が評判のよくない先輩でどうすればいいか迷ってるみたい。どうすればいいと思う?』とか言ったら、どう思う?」


 なんだか妙にリアルな例え話だな。

 小町ちゃんはきょとんとして、それからわたしのことをまじまじと見ながら答えた。


「いろはさんは迷ってるんだなぁ、手伝ってあげたい、と思います」

「まあ、あくまで例え話だけどねー」

「分かってますよっ。いろはさんがどうしたいのかは、三月に聞きましたし」


 ああ、あれは……、嘘に近かったけど。

 まあ、まちがってはいないだろうからいいか。

 わたしが黙り込んでいたので次の質問がないと思ったのか、小町ちゃんは立ち上がる。


「それでは、小町はお邪魔になりそうなので」

「え、いや、邪魔なんてことないよ!」

「でも、一人の方が考えやすいんじゃないです? こんなところで考えてるくらいですし」

「それは、まぁ……」


 言い淀むわたしを見て、小町ちゃんはにかっと笑う。

 しかし、雪ノ下先輩のように、どこか哀しみがある。

 このままじゃ、ダメだよなぁ。


「なんとか、したいね」

「はい……」


 なんとかしなくちゃ。

 自分のためじゃなくても、必ず。


「ダメだって分かってるんですけど、結局、頼っちゃってますね……。ごめんなさい」

「わたしが勝手にやってることだから、気にしないで」

「……気になりますよ」


 か細い声で吐き出された言葉に、心の内に潜めていた罪悪感が刺激される。

 顔を見れなかった。

 わたしのしたことが否定されてしまうようで、怖かったから。

 きっついなぁ。


「では、また」

「うん、またねー」


 俯いたまま、言葉だけで見送る。

 どうしようか。

 もう一つ、訊きたいことがあるけど、それは雪ノ下先輩に訊くしかないか。


「一色、こんなところでなにをしているんだ?」


 不意に、そんな声が聞こえた。

 落ちていた視線が、そのすらりとした脚を捉える。

 顔をあげれば、微笑みを浮かべた独身女教師がいた。


「平塚先生……、こんにちはー」

「ああ、こんにちは。サボりとは関心しないな」


 膝に見学を証明する紙が置いてあるというのに、ずばり言ってくれる。

 信用ないなぁ。


「なにを悩んでいる」

「奉仕部の……聞いてませんかー?」

「そのことなら、一色には関係のないことじゃないか?」


 厳しい意見であるように思えるが、その声音はいつにも増して優しげだった。

 反語みたいだ。


「関係ありますよ」

「そうか。では、どう関係している」

「そんなの決まってるじゃないですかー。あの部活、好きなんですよ」


 答えると、平塚先生は笑った。

 わたしも自分でおかしなことを言っている自覚はあった。

 でも、そういう理由を取り繕う必要があったんだと思う。


「そうか」

「はい、そうです」

「けどな、一色。どうにもならない問題もある。それだけは覚悟しておくべきだ」

「はい……」


 分かってる。

 どんなに考えたって、どうにもならないことはある。

 考えるのがわたしなら、尚更。


「そして、どうにもならなくても君の責任ではないということを知っておくべきだ」


 分かってる。

 責任がどうとか、理念がどうとか、責務がどうとか、信念がどうとか、そんなものはどうでもいい。

 わたしがいくら責任をこの手に取っても、先輩の背負った責任はなくならない。


「まあ、私はきっとあの子たちならどうにかすると願っているけどな。今までもそうだった」

「今までもそうだから、これからもそうだとは限りませんよ」

「はっ、かわいくないやつだなぁ」


 わしゃわしゃと頭を撫でられた。

 子ども扱いされてるなぁ……、平塚先生には高校生の子どもがいてもおかしくないなと思った。


「わたしは……、わたしに出来ることをやります」

「なにが出来る?」

「……さぁ。でも、自分の中での最善がそれなんです。誰にも、まちがえて欲しくないですから」


 まちがえなくて、いいはずだから。


「まちがえて欲しくないか……。それは、まちがえたことに気づいてないだけかもしれない」

「気づかない方が幸せなこともあります」

「気づいた方が幸せなことだってあるだろう」


 そう返されてしまっては、言葉が出ない。

 どちらの方が幸せかなんて、どちらかしか試せないのだから比べようがない。


「いくら最善だと思っても、まちがえるときはまちがえる」


 まるで、自分がそうだったかのような口調だった。


「常にまちがえているものだと思って生きたまえ。正しいやつはいるのかもしれないが、正しいことなんて一つもない。世界が正しくないからな。それでもやるか?」


 常にまちがえている。

 そんなものに意味があるのだろうか。

 いや、ある。

 客観的に見てどんなにまちがっていようと、わたしにとっては正しい。

 前のやり方ではどうしたって誰かを傷つけてしまうことは知っている。

 だから、今度は違う形で。

 多分、本音はやりたくないんだけど。

 いや、どうだろう。

 きっと、どちらも本音だ。


「やります。それが、わたしがわたしに与えた仕事ですからねー」

「仕事か。なら、やりたくなくてもやらなければならないなぁ」

「はい」


 仕事を便利な言葉だと思ったのは、これが初めてだったかもしれない。

 こんな初めては嬉しくもなんともないけれど、自身を正当化するにはこれしかないのだ。


「仕事を逃げ言葉に使う時点で、まちがっていると思うが……。君はもう少し、自分に正直になった方がいい」


 正直。

 別に嘘をついているわけでは、ないんだけど。

 あぁ、平塚先生になら訊いてもいいか。


「先生、わたしが先輩のことを『真っ直ぐな人』だと評価したら、どう思いますかー?」


 わたしの言葉を聞いて、平塚先生は沈黙する。

 そしてなにか呟いた。

 よくは聞こえなかったけど、たぶん「由比ヶ浜がそんなことを」というよくなことだったろう。

 わたしもあまり想像できない。


「下手な皮肉だと思う」


  ****


 なにを大切にして、なにを切り捨てるかは、今までの人生、自分の性格、人間関係によって形成される。

 切り捨てる、というとなんだか物騒だけど、要は軽んじているか重んじているかという話だ。

 それぞれの人生観によって、好き嫌いからなにから変わってくる。


「先輩って人間関係が希薄ですけど、なにがどうしたらそんな消極的になるんですか……?」


 上映会の翌日。

 部室でそんなことを尋ねた。

 すると先輩は人を馬鹿にしたような口調でこう言った。


「はっ、俺は消極的なんじゃねぇんだよ。周りが俺にたいして消極的なんだ」


 なにを自慢気に言っているんだろうこの人は、と思った。


「まあ、話し掛けても避けられちゃいそうですもんねー」

「平気でそういうこと言うのやめてくんない?」


 なんの気なしに言った言葉がどうやらクリティカルヒットしてしまったらしい。

 目が常にないほど濁っている。

 濁度半端ない。


「ま、まぁまぁ、ヒッキーが進んで誰かに話し掛けるとかありえないし」

「お前、それフォローになってると思ってんの?」


 はぁとため息をこぼす。


「話し掛けられてもたいしたこと言えなさそうですねー」

「は? いやいや、俺ほどになると『打ち上げ……、来る?』とか聞かれたら、『聞くの忘れたけど、もう予約してあるから絶対来んなよ』って意志が透けて見えるからな。行かない、と気の利いた返事ができる」


 被害妄想も甚だしい気がするけど、案外マジでそんな意味が含まれてそうだから怖い。


「うわぁ……」

「全然、気が利いてる気がしないんですが、それは。まあ、先輩はなんでも分かっちゃうんですもんねぇ」


 からかうように言うと、先輩はあからさまに顔を顰める。

 くすりと笑みを浮かべると、ふっと笑った。

 冗談をマジだと思わないところは、だいぶいいかも。

 本気の告白を冗談や悪戯として扱いそうなところは、最悪だけど。


「まあ、大切なものがあるんだからいいんじゃないですかね」


 言うと、二人とも硬直する。

 目を伏せると甘ったるい沈黙。

 嫉妬しちゃうなぁ。


「い、いろはちゃんは大切なものとかないの?」


 結衣先輩に訊かれ、少し考える。

 そして、いつの間にか顔をあげた先輩の瞳をじぃっと見つめて言った。


「……先輩、とか」

「は……?」

「なーんて。今のどうです? ぐっときませんでしたっ?」


 てへっと笑うと、先輩は呆れたように息を吐く。

 もう何回呆れられてるか分からない。

 大切なもの、か。

 正直に、冗談粧さずに答えられるとすれば……。


「家族ですかね」


 結衣先輩は、へえと拍子抜けしたような声を出した。

 その反面、先輩の顔は少し真剣なものになっている。


「結衣先輩はどうです?」


 と訊くと、結衣先輩はむむっと顔を顰めて、考える。

 ふっと視線を足元に落とし、明るく言った。


「約束、かな」

----


 あの時、結衣先輩が「へえ」と気の抜けた声を出したのはよくわかる。

 たいして愉快な話題ではなかったとはいえ、もう少し凝った答え、もしくは恋愛とでも言った方が盛り上がったろう。

 高校生が「大切なのは家族です」などと言われて感心したりはしない。


 ただ、先輩には伝わっただろう。

 わたしの言葉の意味が、しっかりと。

 ありきたりに響いても、わたしの答えにはわたしなりの意志があった。

 ということを踏まえて考える。


 約束。

 結衣先輩はそう言った。

 あのときは、たいして意味を考えなかった。

 しかしわたしにはわたしなりの意志と事情があったように、結衣先輩にも結衣先輩なりの意志と事情があったと思うべきだった。


 なにか、大切な約束があるからあんな言葉を並べたのだろう。

 なぜなら結衣先輩は、約束を挙げたときに俯いていたから。

 その仕草には気づいていたのに、その意味を考えていなかった。


 先輩がわたしの内心を僅かにでも知っていると思えるのは、ゴールデンウィークにほんの少しだけわたしの想いを話したからだ。

 それに対して、結衣先輩とそうした時間を持ったことはない。


 わたしが好きなのは先輩だからとか、そんな言い訳は出来ない。

 小町ちゃんとも雪ノ下先輩とも対面して言葉を交わしたことはあるから。

 結衣先輩だけ、だ。

 結衣先輩を軽く見ていたつもりはないけれど、結果が全てだろう。


 時間は半年以上もあった。

 たいした時間ではないと思う人もいるとは思う。

 心を測るには少ないという人もいるとは思う。

 でも、しようとしてこなかったやつにそんなことを言う資格はない。


 目の前の人間をまともに見てこなかったツケを、瓦解すれすれになってようやく取り返そうとする。

 間抜けな話だ。

 どれだけ自分を罵ったって進展することはないのに、こんなことを考えてしまう。


 どうにかしなければ。

 なんとか理由と原因を解明して、理解しなければ。

 今頃、どの面下げて説得すればいいのかわからないが、既に方法はそれしかない。


 真っ直ぐな人、下手な皮肉。

 三つの考え方がある。


 一つ目は、雪ノ下先輩の記憶違いで、結衣先輩は全く別のことを言ったのだという考え方。

 けどこれは希望的観測にすぎる気がする。

 総武高の雪ノ下雪乃といえば文武両道、才色兼備、眉目秀麗と謳われる完璧が人の姿をしたような人物だ。

 それが押しつけられた看板だとしても実力があるのは事実。

 そんな簡単な記憶違いなんてしない。


 二つ目は、結衣先輩は確かにそう言ったが、それは純粋に先輩のことを真っ直ぐだと感じたからだという考え。

 これもいまいち頷けない。

 どこをどう見たら、先輩のことを真っ直ぐだと感じるというのか。

 結衣先輩だって先輩が捻くれていると言われているのは知っているはずだし、先輩が捻くれているのは自他共に認める揺るぎない事実。


 となると、やはり三つ目の考え方、結衣先輩は先輩に皮肉を言いたかったというのが妥当になる。

 でも、これも……、納得出来ないんだよなぁ。

 あの結衣先輩が、そういうことをする人物だとは思えない。


「はっ……」


 そういうことをする人物だとは思えない。

 どういうことをする人物かなんて知らないくせに、なに言ってんだろ、わたし。


 雪ノ下先輩の追求を許さないためだと考えれば、ぎりぎり頷けるか。

 言いたくはなかったけど、言った。

 雪ノ下先輩が小町ちゃんに言葉を変えて伝えていたのは、雪ノ下先輩もそれが皮肉だと分かっていたからだろうし。


 そうなると雪ノ下先輩は、部室に入ってきたときも嘘をついたことになる。

 先輩のために嘘をついたのだ。

 全部、希望だけど、そう考えないとキツい。


 しかし、やはりまだ納得がいかない。

 結衣先輩と先輩が上手くいっていないとは、思ったこともなかった。

 昨日の放課後が決定的だったのは疑いない。

 ただ、それまで不穏の芽が全くなかったのかと言えば、そうでもなかったと思う。

 妙だなと思ったことはあった。


 ぶっちゃけ、あんまり思い出したくはない。

 今でも、焦りが残っている気がする。

 日付も曜日もはっきりしている。

 あれも土曜だった。

 先週のだ。

 決勝トーナメントを一回戦で敗退した日のことだ。


   ・・・・


 部活を終えて真っ直ぐ家に帰った。

 お母さんは通院しているので、今頃病院だろう。

 鍵は開いていた。


「ただいまー」


 はるのんがいるのかと思って入ったが、返事がない。

 昼寝でもしているのかと首を傾げつつ、靴を脱いで自室に向かった。

 今日は暑かったから汗ばんだ身体がひどく不快だ。

 着替えを持って脱衣所へ向かうと、ちょうど脱衣所の扉が開き、はるのんが出てきた。


「お、おかえりー♪」


 バスタオルでぐしぐしと髪の水気を取る魔王系お姉さんはいつにも増して機嫌がよさそうだった。

 嫌な予感がする……っ!


「ただいまです。出掛けるんですかー?」

「うん、ちょっとねー。夜は戻って来るよー」


 リビングに去っていくはるのんを見送ることなく、パパッとシャワーを浴びて、すっきりした身体でリビングへ向かう。


 魔王がソファに鎮座していた。

 勇者はどこだろうか、とかくだらないことを考えていると、ちょうどテレビでなんかソレ系のアニメが流れていた。

『ま、負けるわけには』とか『ふははは! 貴様如きが我に勝てるわけがないだろう!』とかなんとか。

 うっは、超つまんなそう。


 新・魔王がそれを見てくすくすと笑っている。

 やだ、怖い。

 どこが面白いの。

 一周回って面白いのかな。


 テーブルの一角を占めているはるのんの様々な私物、はるのんセット(命名、わたし)の中の化粧ポーチを取り出して、化粧を始める。


「コーヒー、飲みます?」


 と訊くと、


「うん、飲むー」


 と返ってきたので、キッチンに向かう。

 途中でダイニングテーブルに置かれた昼食らしきものが目に入った。


 オムライスっぽい。

 お腹が空いていたので丁度いい。

 お母さんだろうか、はるのんだろうか。

 コーヒーを淹れながら尋ねる。


「これ、はるのんが作ってくれたんですかー?」

「え? ううん、お母さんだよー。今日はわたしが振る舞おうかなーって思ってたんだけど、気づいたら目の前にオムライスが……!」

「そんなわけないでしょ……。それなんてホラーですか」


 けたけたと笑うはるのんに律儀にツッコミを入れつつ、アイスコーヒーの入ったマグカップを差し出す。


「お、ありがとー。あ、アイスコーヒーだ。アイスな気分だったんだよねー」

「なんですかそれ……、寒そうですね」


 アイスな気分て。

 よく分からない言葉を使う人だ。

 ニュアンスで伝わればそれでいいのだろうけど。


「今日は暑いからねぇ……、わたしも冷たくならないと」

「変温動物だったんですね」


 そんなどうしようもないやり取りをしながら、お母さんの手作りオムライスを食べる。

 うん、お袋の味!


「そういえば、前にアイスコーヒー作ってもらったのってちょうど二週間前じゃない?」

「そうでしたっけ?」


 何回か作っている気がするけど、まあ、二人分を同時に作るのはそんなに多くない。

 それぞれ自分で作る方が多いし。


「そうだよ。あの日も暑かったなぁ」


 あまり暑いのは得意ではないのか、うへぇと顔を歪ませる。

 二週間前、二週間……。

 ああ、あの日か。

 確かにあの日は暑かった。

 汗が凄かったから、アイスコーヒーを作ったのだ。


「そんなこと、よく覚えてますねー」

「いろはすだって思い出そうと思えば、いつでも思い出せるんじゃない?」

「う……、まぁ」


 確かに、いつでも思い出せる。

 わたしの記憶力も結構単純な仕組みだなと思った。

 オムライスを食べ終え、食器を洗ってソファでゆったりくつろぐ。

 勉強はもう少し後でもいい。


 ぼんやりと眺めていたアニメは、さっき見たあの場面がオープニングだったらしく、倒された魔王が転生して生前出来なかった気楽に過ごすというのを実現せしめるために奮闘していた。

 ううん、やっぱりアニメは興味が湧かないな。

 反面、はるのんは愉快そうだった。


 しばらくすると、はるのんは唐突に立ち上がる。


「あ、そろそろ行かないと」


 そう言ったはるのんの顔がやけににやけていて、冷や汗が伝った。


「いろはすは今から勉強するんだよね?」

「え? はい、まあ」

「そ、ならいいや。それ、食べていいから」


 指差さした先に目をやると、テーブルの上に紙袋が置かれていた。


「なんですかこれ?」

「びわゼリー。おいしいんだってー」

「へぇ……。ありがとうございます」


 どういう風の吹き回しだろうか。

 まあ、貰えるものは貰っておこう。

 一応、警戒はするけれど。

 ゼリーなら冷やしておこうと思い、紙袋を持って冷蔵庫へ向かう。


「じゃあ、行ってきます」


 ぱちっとウインクをしたはるのんにさらに警戒レベルを高めた。

 やばい。

 なにか企んでいる顔だ。

 寒いのは冷蔵庫の扉が開いているからだということにしておこう。


「い、行ってらっしゃい……」


 玄関の扉が閉まる音が耳に届いて、しばし考える。

 ……出掛けようかな。

 でも、外は暑い。

 目的もなく時間を浪費するのはいただけない。

 中間テストは終わったけど……。


 なにがあるのだろうか。

 勉強するかどうかを聞いてきた、それはイコールで家から出ないことを確認したのではないか。

 家にいることでなにかが起こるとすれば……、なんだ。

 全然分からない。


 分からないことを考えるほど、無駄なこともない。

 とりあえず、勉強しよう。

 と、勉強を始めてみたものの、落ち着かない。

 そわそわして集中出来ない。


「はぁ……」


 ため息が漏れるのとほぼ同時だったと思う。

 来客を報せるチャイム。


「え……?」


 誰か来た。

 このタイミングで誰か来た。

 はるのんの刺客か。

 ちょっとドキドキしながら、テレビドアホンを見る。


「えっ」


 思わず固まってしまった。

 あぁ、そういうことか。

 出掛ければよかった。

 外にいたのは四人。

 先輩、結衣先輩、雪ノ下先輩、小町ちゃん。


 なにしに来たのか分からないほどバカではない。

 十中八九、先日の依頼の件だろう。

 居留守を使おうかと一瞬迷ったが、はるのんが知っていた以上、意味はないだろう。


「開いてるので、どうぞ」


 そう告げると、特に返事もなくがちゃりと玄関の扉が開く音が聞こえた。


「お邪魔します」


 先行して入ってきたのは雪ノ下先輩だった。

 全部、話したのだろうか。

 タイミングが悪い。

 もうちょっと遅ければ、過去のこととして忘れ去られただろうに。


 来てしまったものは仕方がない。

 とにかくリビングに通して、適当に座ってもらう。

 わたしはソファの両端に一つずつあるオットマンのうち右手側に座り、テーブルを挟んで向こう側に先輩が、ソファに三人が腰かけた。

 それぞれの顔をぐるりと見回す。

 なんだか、気分が重い。


「みなさんお揃いで、どうしましたー?」


 わたしの白々しい質問に、突き刺すような視線が飛んできた。

 ぐっ……これはキツい。


「あなたが分かっていないとは、思わないけれど」


 冷やかな眼差しは暑さを忘れるのには充分過ぎた。

 雪ノ下先輩が暴露したのだろうか。

 いや、気づく要素はいくらでもあった。

 誰でも気づけたなら、遅かれ早かれといったところか。


「も、もう終わった話じゃないですかー」


 依頼人の情報くらい知っていると思っての発言だったが、どうやらまだ伝わっていないらしい。

 事前に言ってなかったのだろうか。

 きょとんとした表情になる四人に、その意を伝える。


「あの、もしかして……、別れたの知りませんでしたー?」


 おずおずと訊くと、


「え……」


 と、誰かが声を漏らした。

 やっぱり知らなかったらしい。


「別れたって、え? 本当に?」

「本当ですよー。振られました」

「い、いつ!?」


 興奮した様子で訊いてくる結衣先輩を宥めながら、質問に答える。


「今日の朝ですよー」


 今日の朝、一通のメールが届いた。

 内容は、今日の午後遊びに行かないか、というものだった。

 もはや恒例と化したお断りメールを送信して、支度をしていると、再びメールが届く。


 その内容こそが、わたしの待ち望んでいたもの。

 長々しく言い訳みたいなことが書き連ねてあり、一気にスクロールして最後の一文に目を通す。

 そこには、ただ一言、別れようと書かれていたのである!

 おかげで今日は朝から上機嫌だった。


「そうなんだ……、よかった」


 よかった、か。

 失恋話を聞いてよかったと言うのもおかしな話だが、わたしとしても、よかった。

 まさか一ヶ月もたないとは思っていなかったけど、それだけ適当な人間だったのだろう。

 早くて困ることもない。


「ですのでー、お話することはありませんね」


 出来る限り明るい声で言った。

 沈黙。

 最初よりはマシな顔つきになっていたけど、やはりまだ気まずい雰囲気。


「一色」


 呼ぶ声に反応して、先輩を見る。


「なんで、こんなことしたんだ?」

「なんでって……、そうしたかったからですよ」


 思っていたより、弱々しい声が出た。

 そうしたかった、はずなのに。


「本当にそうか?」

「本当に、そうです」


 誰がなんと言おうと、わたしはああしたかったのだ。

 後悔はしてない。


「それなら、今回の件はいい。でも、もうああいうのはやめてくれ」

「それは……でも、誰も傷ついてないですよ?」


 そう、誰も傷ついてない。

 決して、誰も。


「傷つく傷つかないの問題じゃないんだよ。人間生きてるだけで誰かを傷つける。誰も傷つけないなんて、最初っから無理なんだ」

「そんな……」


 だって、でも、そんなこと言ったら、言ってしまったら、おしまいだろう。


「で、でも、そしたら、先輩がやってきたことに……、わたしがやったことには、一体なんの意味があったのか……」


 分からない。

 そんな身も蓋もないようなことを言われてしまったら、なにも分からない。

 結局、わたしのしたことで誰かが傷ついてしまっていて、しなくても誰かが傷ついた。

 ああ、そうか。


「わたしは……、しないことで傷つく誰かがわたしの大切な人なら、することで知らない誰かを傷つけることを選びます」

「することでも大切な人が傷つくとしたらどうする」

「それなら、別の方法を考えます」


 そう、それでいい。

 そういう結論で、わたしはそうしたはずだった。


「そりゃあ無理だ。どうしたって、傷つく。誰にも知られないなんてことは無理だし、今まで俺がやったことも、今回お前がやったことも、結構嫌なことだからな」


 それはそうだろう。

 嫌なことしてる自覚はあった。

 でも、どうでもいい相手なら気にならないから。


「傷つけないなんて無理だ。それに、もし出来たってそんなもんは主観でしかない」

「いいじゃないですかー。わたしの見ている世界はずっとわたし主観なんですから」


 だから、いいのだ。

 見えないところになにがあっても、神は名乗れないから、あくまで主観で見続けるしかないから。


「かもな」


 言って、先輩はさらに言葉を続ける。


「ただ、お前がどんなに平気だって言っても、それを心配するやつがいるっていうのは、知っておくべきだと思う」


 ふっと嘲るような笑みが漏れた。


「それ、先輩が言うんですかー……」

「はっ、なに言ってんだよ。俺だから言うんだ」


 ニヒルに笑う先輩が、悔しくもかっこよく見えた。

 先輩だから、か。


「俺だから、言える」

「自信家ですね」

「まさか……。自信なんてねぇよ。ただ、両方経験して、ようやく知れる立場もあるって、それだけだ」


 両方経験して、か。

 大切なものを守っていた先輩と、大切なものを……、いや、それだと。


「先輩も、心配してくれたんですか……?」


 いつの間にか伏せていた顔を、僅かに持ち上げて恐る恐る問う。


「……気になっただけだ」

「全く……、捻デレさんですねぇ」

「やめろ」


 間髪入れずに返ってきた制止の言葉にくすりと笑う。

 心配、かけちゃったか。

 まあ、そうだよなぁ。

 そうじゃないかとは、思ってた。


「……分かりました。もう、ああいうのはやめです」


 ぶっちゃけ、わたしも二度とやりたくない。

 なんらかのプラス要素があるならやるけど、こうなってしまうのなら、意味がない。

 先輩が結衣先輩や雪ノ下先輩の立場を理解出来たというのなら、ちょっとは救われるかなー。


「これからも、仲良くしてくださいねっ?」


 微笑みを送ると、それぞれから笑顔が咲いた。

 特に結衣先輩はいい笑顔だった。


「せっかくですから、ゆっくりしていきませんかー?」


 なんでこんなことを言ったのか。

 自分でもバカだったと思う。

 ただ、まだ微妙に重い雰囲気を和らげたかったのかも。

 小町ちゃんと結衣先輩が乗り気で、雪ノ下先輩と先輩はそれに従う形でうちに留まることとなる。


「なんか……」


 なんか食べますかー?

 と、言おうと思ったけど、そういえばはるのんからゼリーを貰ったなと思い出す。

 あのタイミングで食べていいよと言ったのなら、みんなで食べなということだろう。


「ゼリーあるんですけど、食べますー?」


 聞くと、目を輝かせたのが二名。

 いや、と遠慮気味なのが二名。

 拒否でないのなら、問題はない。

 立ち上がると、雪ノ下先輩が口を開いた。


「私も一応、お菓子を持ってきたのだけれど……」


 横に置いてあった紙袋から、個分けされたお菓子の入っていそうな平べったい長方形の箱を出す。

 葉山先輩といい雪ノ下先輩といい、誰かの家に来るときにはなにか持参するのが普通なのだろうか。

 あまり高校生の常識ではない気がする。

 好意を無碍にするつもりはないけど。


「ありがとうございますー」


 箱を受け取ってキッチンへと向かう。

 そのまま箱を開けるより盆にでも盛った方がいいだろう。

 箱の中身はパウンドケーキの詰め合わせだった。

 ゼリーを食べるのだから、当然スプーンも用意しないと。


 いろいろと抱えてリビングに戻ると、テーブルの上にあった雑誌やらなにやらは脇に片付けられていた。

 はるのんの私物だけが相変わらずテーブルの一角を占めている。


「これ、おいしいねー」


 結衣先輩が頬を緩ませて言う。


「ですねー!」


 小町ちゃんもうんうんと頷く。


「びわは千葉の特産だからな」

「そうね」


 千葉愛に溢れた二人だった。

 特産だからゼリーが美味しいということにはならないと思うが、成分表示でも見たのだろうか。

 千葉産じゃなかったらウケる。


「いただきものかしら?」

「や、はるのんから貰ったんですよー」


 入手経路を伝えると、雪ノ下先輩の眉がぴくりと跳ね、先輩の手が止まる。


「そう、姉さんが……。怪しい」

「なに企んでんだあの人……」


 はるのんが疑われ過ぎてて結衣先輩と苦笑する。


 びわゼリーは終始好評だった。

 確かに美味しい。

 いいお値段がしそうだ。

 はるのんが帰ってきたらお礼を言おう。


 まったりとしている雰囲気の中で、ちらちらと視線が動いてしまう。

 やはり気がかりだ。

 どうしてあれがテーブルに残っているのか。

 わたしが用意をしているあいだに、片付けをしてくれた。

 他のものはそれぞれ脇に避けてある。

 けど、はるのんの私物だけは残された。


 偶然だろうか。

 いや、あれはテーブルの上にあった物の中で最もかさばっていた。

 今だって少し邪魔そうだ。

 これから食べ物を広げようというのに、普通ならまず除けられるべきもののはず。

 それがまだ残っている意味を、誰かがつつきはしないだろうか。


 わたしは既にひとつ失策を犯している。

 しかし、どうにも避けられない話題だろう。

 幸い、話題は逸れていったが、なるべく気をつけよう。


 雪ノ下先輩の持ってきたパウンドケーキは甘すぎず、びわゼリーという糖分たっぷりなものを食べたあとにはちょうどよかった。

 時間的に小腹がすく頃ではあったし。


「いろはちゃんは、ペットとか飼ってないの?」


 きょろきょろと室内を見ながら訊く。


「はい。ペットは飼ったことないですねー」

「そっかー。あんまり、好きじゃないのかな?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけどー、家に誰もいないことも多いので」


 構ってやれないのなら、わざわざ飼うこともないだろう。

 飼いたいと思ったことがないでもないが、高い金を払わせてまで強請る気は起きない。


「結衣先輩は犬を飼ってるんですよね?」


 いつだか部室で雪ノ下先輩と話していた。

 なんかおいしそうな名前だった気がする。


「うん、かわいいよー」

「懐かれてないけどな」

「そんなことないし!」


 むすっと頬を膨らませて先輩を睨む。

 そういえば、先輩の家には猫がいたな。


「ヒッキーだって、懐かれてないくせに」

「そ、そんなことねぇし」

「確かにお兄ちゃんには懐いてないなー」

「そ、そうか、そうなの……?」


 先輩が項垂れていると、雪ノ下先輩が小さく「猫……」とつぶやく。

 そんなに猫が好きなのか。

 そのつぶやきは全員の耳に入っていたらしく、視線が雪ノ下先輩に集まる。

 自らが注目されていることに気付き、雪ノ下先輩は頬を赤らめて咳払いをする。


「犬と猫といえば、昨年の打ち上げでもそんな話しましたよねー」


 へぇ……、打ち上げとかずるい。

 なんの打ち上げだろうか。


「あー、文化祭のね。結局ヒッキーはなに派になったんだっけ?」


 文化祭か。

 それなら、まだ先輩と知り合ってないや。


「なに派っつーか、あれは趣味の話だったろ」

「猫……」


 雪ノ下先輩が再びつぶやく。


「え? 犬じゃなかった?」


 結衣先輩が即座に否定。


「猫……」


 冷気を纏った声音で繰り返されるつぶやき。


「犬だよ犬!」


 食らいつく結衣先輩。


 なんだこれ……。

 なにこの犬猫論争。

 打ち上げでこんなことしてたのかこの人たち。

 呆れながら見ていると小町ちゃんと目が合い、苦笑する。


 ぐぬぬと両者一歩も譲らず、ついにその矛先が先輩へと向けられた。


「比企谷くん、猫だったわよね?」

「ヒッキー、犬だよね!?」


 あまりに勢いのある言葉に先輩はたじろぎ、心を落ち着かせるように深呼吸したのちに答える。


「戸塚だ」


 ……は?

 固まったわたしとは対象的に、結衣先輩と雪ノ下先輩は「あぁそうだった」と言わんばかりに、呆れの表情を浮かべる。

 全然、話が見えてこない。

 なんで急に戸塚先輩が出てくるのか。

 戸塚派とかあるの?


「あ! ていうか、さいちゃんじゃなくて、うさぎ派になったんだし!」

「そうだったか……?」


 うさぎ派という謎の第三勢力。

 戸塚先輩がうさぎ派で、先輩は戸塚派→うさぎ派になったと。

 なんだそれ……、意味わかんない怖い。

 打ち上げでなにしてんだこの人たち。

 内輪ノリってこういうこと言うんだろうな。


 仲良いなぁ、この人たち。

 多分、わたしの知らない先輩をいっぱい知ってて、先輩もそれぞれのことを知ってるんだろうな。

 そういうの、いいなー。

 わたしにはきっと超えられない壁だ。

 ぼーっと見ていると、ちらとわたしに視線を向けた結衣先輩と目があった。


「あっ、ごめん、いろはちゃん! 知らない話されてもつまんないよね!」

「えっ、あ、いえ、そんなことないですよー? 見てるのも結構楽しいです」


 遠くから見てた方が、楽しいんだと思う。

 綺麗で、輝いてて。

 中に入ったら、わたしに足りないものが分かってしまうから。

 中に入っても尚、近づけない事実に気づいてしまうから。


「……また」


 声を出したのは雪ノ下先輩だった。


「また、遊びに来てもいいかしら?」


 社交辞令だろうと思った。

 けど、そう言ってもらえるのは嬉しかった。


「もちろんですよ〜」

「あ、あたしも!」


 はいっと手を挙げる。

 この人は優しいな。

 優しい女の子、か。


「小町も行きますー! 当然、お兄ちゃんも」

「えぇ……」


 嫌そうな顔を浮かべる先輩。

 いつも通りすぎる。


「あ、でも、このあたりって結構入り組んでるから、あたし迷っちゃうかもだなぁ……」

「そうね……」


 言った結衣先輩よりも、共感した雪ノ下先輩の方がなぜか深刻そうだった。

 方向音痴さんなのかな。


「あれ?」


 小町ちゃんが首を傾げる。

 先輩、雪ノ下先輩、結衣先輩を順々に見て、言う。


「今日、迷わずにここに来ましたよね? 雪乃さんか結衣さんが来たことあるんだと思ってたんですけど」


 ちょっと時間が止まったような気がした。



 ここで来たか。

 犬猫論争が始まって完全に気を抜いていた。

 まさか、わたしと関係ない話になることで、そういう発展の仕方をするとは。


 いまから話を逸らせるだろうか?

 いや、多分もう遅い。

 既に話題は提起された。

 ここから無理に横槍を入れれば、どうしてこの話題を避けるのかと思われて余計な注意を引きかねない。


 小町ちゃんの質問は、はるのんの私物が示唆する真実に直結しかねない危険なものだ。

 けど、まだ逸れる猶予はある。

 苦しいけれど、早く別の話に移ることを祈りつつ、今はおとなしくしているしかない。

 あの人もそれを分かってればいいんだけど。


 いや、いっそのこと今言ってしまえばいいのか。

 でも、今まで言ってなかったのなら、なんか変に詮索されそうな気もする。

 そうこう考えていると、わたしの懸念は一言で払拭された。


「そりゃ、雪ノ下さんからメール来たからな」


 先輩の言葉に、雪ノ下先輩はこめかみを押さえ、結衣先輩は乾いた笑いを溢す。


「姉さん……」

「あはは……、陽乃さんか」


 訪れる沈黙。

 ちょっとはるのん?

 一体どんなことしたら、名前を出しただけで沈黙作れるの。

 名前を言ってはいけないあの人かよ。


「そ、そういえばさ!」


 と結衣先輩が沈黙を破る。


「恋愛相談の件、どうしよっか」


 恋愛相談っていうと、四月末にあったあれか。

 あれまだ続いてたのか。

 友達だから最後までみたいな感じだろうか。


「俺は依頼者の顔も名前も知らないから関わりようがないんだが……」


 顔も名前も知らないって……。

 ああ、でも、まあ、そうか。


「それで、告白したみたいなんだけど、振られちゃったらしくてさー……」


 全然、話聞いてなかった。

 それでって、一体どこに接続してるの。


「同じ部活なんでしたっけー?」

「うん。気まずいから部活辞めたいけど、部活に迷惑かかるし、それで気を遣わせるのも悪いしって」

「あー、そういうのありますよねー」


 あるある。

 わたしみたいにマネならそんな気負うこともないんだろうけど、選手とかならそんな簡単には辞められないだろう。

 引退はまだ先なんだろうか。


「その男の方も気まずいんじゃねぇのか?」

「んー、どうだろ……」


 この二人みたいに喋れるならいいんだろうけど、そう簡単にはいかないだろう。

 それとも、そういうことなんだろうか。


「ヒッキーは、気まずいって思ったらどうするの?」

「俺なら、そんなんは時間が解決してくれるだろうから、ほっとくな。流石に相手に退部されたら居心地悪いが……」

「そっか。そういうのも、あるんだ」


 時間が解決してくれる、か。

 解決出来ないものもあると思うけど。


 そんな話をしているうちに、いつの間にかお盆は空になっていた。

 どんなにうまく食べても、テーブルの上にはパウンドケーキのカスが落ちる。

 お盆を片づけてから台拭きを持ってきて、拭くときに、


「邪魔ですね」


 さりげなくそうつぶやいて、わたしははるのんの私物を脇にどけた。

 心の中でほっとため息を吐く。

 これさえどかしてしまえばもう心配はない。

 コーヒーを淹れ直そうとカップを持ってキッチンへ。

 順々に淹れていると、横から声をかけられた。


「一色、布巾」


 横を向くと、先輩が台拭きを持って立っていた。


「わたしは布巾じゃありませんよー」


 視線を戻して、コーヒーを淹れながら答える。


「小学校の教師みたいなこと言うな。ここ、置いとくぞ」

「はーい」


 続けて、少し声量を落として言う。


「黙ってたんですね」


 僅かの沈黙の後で、同じく声量の落ちた声が聞こえる。


「あぁ……、まあ、なんか、言いそびれてな」


 さっき、先輩はわたしの家への道順をはるのんから教えてもらったと言った。

 あれは本当だろう。

 でも今日じゃない。

 メールは確かに来たのかもしれないが、先輩は前に一度この家に来たことがある。


「でも、お前も黙ってたろ」


 不満気な先輩に言葉を返す。


「わたしは言う機会がなかったですからね」

「ぐ……」


 二週間ほど前。

 偽告白イベントの次の週だ。

 その日のはるのんも今日と同じでやけににやにやしていた。

 なんか嫌な予感がするなぁと思っていたら、先輩が訪ねてきたのだ。


 目的は今日と同じ。

 しかし、そこははるのん。

 見事にちょっかいを出して、結局先輩は雑談をして帰ることになった。


「まあ、黙ってりゃ分かんねぇだろ」


 そうでもないから緊張したのだ。

 黙っていれば分からないと言うが、先輩は言葉よりも雄弁に、自分があのリビングに来たことがあると表明している。


 雑誌やらなにやらは片付けられていたのに、はるのんの私物だけはテーブルに残っていた。

 それは、あれがはるのんの私物だと知っている人間の仕業でしかありえない。

 つまり、この家に来たことがある人間があの四人の中にいることを示している。


 事実、はるのんは先輩がリビングに来たとき、いつも通りソファの左側に腰掛け、話している間もはるのんセット(命名したくせに全然使ってなかった……)をちょくちょく触っていた。


 先輩がなにをされてどれだけはるのんにびびっているのかは知らないが、名前を出して沈黙するくらい印象に残っているのなら、忘れることはない。

 道案内のときに黙っていたのなら、はるのんセットもどかすべきだったのだ。


 まあ、わざわざ言うことでもないから言わないけど。

 言って挙動不審になられても困る。

 ……こんなことを考えている時点で、わたし自身は先輩が訪問した件を「言う機会がなかったから言わなかった」のではないと気づく。


 秘密の共有は結束を深める最大の手法なのだ。

 ……実際は、なんかバレたら睨まれそうで怖いから。


   ・・・・


 こうして思い返してみると、上映会でのあれも妙に思えてくる。

 あれはいくらなんでもおかしかった。

 記憶を遡ることで、もしかしたらという思いが固まりつつある。

 でもまだ、曖昧な思いつきに過ぎない。

 やっぱ、話を聞かなきゃ話にならない。

 ややこしい言い回しだ。


 先輩はどこにいるだろうか。

 時刻はもう十二時近い。

 あと一時間もすれば、昼休憩だ。

 ベストプレイス付近で待つこととしよう。


  ****


 固い。

 外に座るのは間違いだった。

 三十分程度座っただけでお尻が痛い。

 購買付近に設置されているベンチに腰を下ろす。


 思い返してみると、恋愛相談が関係してくることが多いな。

 いや、上映会のときはそんなことはなかったか。

 あのときはあのときでおかしなことがあった。

 恋愛相談と言えば、昨日もそんな話が耳に入ってきた気がする。

 ただ、その内容を語れるのは、直接話していた当人たちだけだろう。


 グラウンドからわーわーと歓声が聞こえてくる。

 ずる休みというのもあまり気分がいいものではない。

 学校にいて、全てをサボっているのだ。

 そりゃ罪悪感もわく。


 しかし、きゃーきゃー応援している暇はないのだ。

 考えなければ。


 今朝、球技大会がスタートして間もない頃、わたしはこう思っていた。

 昨日は、わたしと先輩と結衣先輩の三人で部室にいた。

 それから雪ノ下先輩がやってきて、結衣先輩が退部すると言ったことを伝えた。

 それは大筋でまちがいない。


 ただ、ここまで記憶を辿り、雪ノ下先輩や小町ちゃん、それに平塚先生からいくつかの話を聞いたことで、その数十分の放課後がどれほど重要だったかが薄々分かってきた。

「本を読んでいたからなにも憶えていない」では済まされない。

 意味があるとするならば、記憶を蘇らせない道理はない。


 それが事実であるかはさておき、先輩は結衣先輩の退部は自分のせいだと思い、その責を引き受けるつもりでいる。

 わたしがなんとか探し出して、話を聞かせて欲しいと言ったところで「お前には関係ない」と一蹴されるのがオチだ。

 先輩も意地っ張りだからなぁ。


 先輩の足を止めなければいけない。

 そのためには昨日の放課後の数十分になにがあったのかを思い出し、一つの推理をつきつけなければいけない。

 つまり、先輩自身はなぜ結衣先輩が退部したと思っているのか、を。

 わたしにはそれが分かる気がする。


   ・・・・


 正確な時刻は分からないけど、まだ日は暮れていなかったと思う。

 生徒会室を出て、特別棟四階にある教室、奉仕部の部室へと向かった。

 読みかけの文庫本がもう少しで終わるので、読んでしまおうと思っていた。

 誰もいない廊下を歩くつもりでいた。

 が、少し手前で誰かがうろうろしているのが目に入ったのだ。


 いつの間にか足を止めて、しばらく傍観していた。

 その人物は同じ道を行ったり来たり、少し先にある半開きになった部室の扉の中を覗いたりしている。

 なにか入り辛い雰囲気なのだろうかと思った。

 わたしも依頼が来ているときは入り辛いし……、でも、彼女は部員だ。

 明らかに挙動不審だった。


「こんにちは〜」


 声をかけると彼女はびくっと肩を震わせて、ギギギと油の足りてないロボットのような動きで首を捻った。


「い、いろはちゃん……、やっはろー」


 結衣先輩がなぜここでうろうろしていたのか。

 わたしに分かるわけもない。

 ただそれでも、なにか気まずそうにしているから、見なかったフリはできない。

 当たり障りなく訊いてみようと知恵を絞る。


「えっと……、あれですかねー。あの、ドアが開かなかったんですか。立て付け悪いですもんね」


 我ながら下手くそな気遣いだったと思う。

 別にドアの立て付けが悪くてもうろうろはしない。


「え、あー、そうそう!」


 そうだったらしい。

 目がすごく泳いでいる。

 横目でわたしを見ると、逆に訊いてきた。


「いろはちゃんは奉仕部に?」

「そうですよー」

「そっか……」


 何気ないつぶやきだったけど、当てが外れたと思っていることは分かる。

 告白でもするつもりだったのだろうか。

 だとすれば、なにか用事があるとでも言えばよかったかな。


「今日、小町ちゃんもゆきのんもいないみたい」

「え? 雪ノ下先輩も?」

「うん。なんか、平塚先生に呼ばれたんだって」


 へぇ……、ん?

 そうなると。


「え、先輩部室でも一人ぼっちってことですか……」

「あはは……、そうだね」


 うわー、かわいそー。

 いや、清々するとか思っそうだな。

 きっと、悠々と読書を楽しんでいるだろう。


 それを邪魔するのがわたしの務め。

 とか、迷惑な企みを脳裏に浮かべ、そろそろ立ち話も切り上げようと行き過ぎようとすると、


「い、いろはちゃん!」


 と引き止められた。

 足を止めて振り返る。


「えっと……、その、ちょっとこっち来て」


 手招きしながら離れていく結衣先輩についていく。

 部室から少し離れたところで密やかな声で話を切り出した。


「いろはちゃんは……、その、好きな人とかいるの?」


 どきりとした。

 いると分かっていて訊いているのだろうか。

 それとも、本当に気づかれていないのだろうか。

 なんと答えればいいのか。

 隠す意味もないし、正直に言えばいいか。


「……いますよー」

「そっか。それは、その、この前まで付き合ってた人じゃないんだよね?」


 問いというよりも、確認に近かったかもしれない。


「まぁ、はい」

「そっか……。そうだよね」


 わたしに向けられたとも思えない小さなつぶやき。

 お義理っぽく、


「結衣先輩はどうなんですかー?」


 と訊くと、結衣先輩はなぜか嬉しそうにかぶりを振った。

 ぽかんとしてしまったのは仕方ないことだったと思う。

 てっきり、まだ先輩のことが好きなものだとばかり思っていたから。


「今のところ、そういうのはないかなー」


 たはは、と困ったように笑う。

 なにかおかしいなとは思った。

 しかし、その疑念は直後に発せられた威勢のいい声によって霧散させられてしまう。


「行こっか」


 先行して歩く結衣先輩の肩は少しばかり元気がなさげで、声とは対象的だった。


 部室に入ると、先輩は予想通り読書をしていた。

 わたしたちを目で捉えると、「よう」と軽く挨拶して読書に戻る。

 結衣先輩が自分で紅茶を淹れようとしていたのを見て危機感を覚えたが、自分の分だけだったので安心した。


 教室の中は午前中に振った雨のおかげでジメジメしていた。

 最初は先輩の斜め向かいに座って読書をしていたが、窓を開けると心地いい風が吹いていたので、ついでにドアも開けてそちらに移動した。


 視線を本に落とすと、椅子を引く音がした。

 目を上げると、結衣先輩が先輩の目の前に座っていた。

 特に気にするでもなく目で文字を追い始めると、先輩と結衣先輩の話し声が聞こえてきた。



 それから、どれくらい時間が経っただろう。

 ガンッと鈍い音がして没頭が破られた。

 それほど大きな音ではなかったが、注目するのには充分だったと思う。

 顔を上げると、先輩が椅子に座ったまま身を屈めていた。

 文庫本はテーブルに伏せられている。


 足をテーブルにぶつけたとか?

 いや、それならテーブルが揺れるはずだ。

 そこで、いつの間にか結衣先輩の姿がなくなっていることに気づいた。

 まあ、それほど不思議なことではない。

 用事があって帰ることがないわけではないだろうし。

 とにかく、先輩に声を掛ける。


「先輩」


 大声ではなかったが、届かないほど小さく言ったつもりもなかった。

 しかし先輩は身じろぎもしない。

 もう一度、今度は念のために声を大きくして呼びかける。


「先輩?」


 先輩はびくりと身を震わせた。

 ゆっくりと体勢を戻していき、まだ少し傾いているところでわたしに顔を向ける。

 青ざめている、と感じた。

 が、青ざめる原因がない。

 廊下側は暗がりなので、そう見えただけだろう。

 その推測を裏づけるように先輩は、


「なんだ?」


 と訊いてきた。

 気のせいかと思い直し、


「いえ、なんでもないですー」


 と返す。


 気づくと外は風が強まってきていた。

 部室内を吹き抜けていく。

 まだ日暮れではないけど、少し気温も下がってきた。

 わたしは窓を閉めるために立ち上がった。


 席に戻り、また本を読み始める。

 次に顔を上げたのは、二つの章が終わったときのこと。

 一回目に顔を上げた時点で二つ目の章に入っていたので、それほど時間は経っていなかったと思う。


 もうあと一章で終わるので読み切ってしまおうかと思ったけど、時計を見れば小一時間経過していた。

 解決編を家で読もうかここで読もうか悩んでいるとドアが開き、雪ノ下先輩が入ってくる。

 雪ノ下先輩は戸惑いながら、そして少し心配そうに訊いてきた。


「ねぇ。私がいない間に、なにか……あったのかしら?」


 口ごもりながらも先輩が「いや……」とつぶやくと、雪ノ下先輩は廊下を振り返って、ひそめた声でこう告げた。


「今、部室の前で由比ヶ浜さんとすれ違ったのだけれど……退部、すると」


   ・・・・


 時刻は十二時半頃。

 今から準々決勝が始まり、準決勝と決勝を残して昼休みを迎える。

 そこで、先輩と話していたら昼食を食べる時間がなくなる可能性を考えるに至った。

 やばい。

 いくら動いていないとはいえ、お腹は減る。


 ばれないようにどこかで早弁しよう。

 購買がやっていないので今日ばかりは先輩も弁当だろうけど、お弁当を残して持って帰るのは嫌だ。

 そうして教室に寄ってお弁当を持ち、特別棟の屋上の扉を開いてから気づく。

 別に遅弁でも問題はなかった、と。


 誰もいない屋上で早弁とかなんか青春っぽいな、曇ってるけど。

 とかくだらない思考をやめて、エネルギーを補給しつつ考える。


 わたしは、結衣先輩が退部するに至った理由は、結衣先輩の失恋から昨日までの数十日間の中にあると思っている。

 そういう疑いをもって記憶を辿れば、確かに奇妙だと思えることはいくつかあった。

 小町ちゃんと平塚先生、雪ノ下先輩にした質問の答えも、それらの疑問を裏づけたと思う。


 だが先輩はどうなのか。

 昨日の様子を見る限り、先輩は結衣先輩の退部理由に心あたりがある。

 その理由を、数十日かけて鬱積させていったとおもっているのだろうか。

 それとも昨日一日、放課後の数十分にだけ理由があると思っているのだろうか。


 もし数十日の中に理由があると思っているのなら、こういうことになる。


 先輩は自分が結衣先輩を追い詰めていることを自覚していた。

 明確な敵意、悪意でそうしたとは言い切れないが、少なくとも昨日結衣先輩が退部を申し出たとき、「ああ、自分がこれまでああいうことをしてきたから、結衣先輩はやめていくのだ」とすぐに分かるくらいには自覚的だった。

 これは端的に言って、いびって追い出したという構図になる。


 もし数十分の間に理由があると思っているのなら、こうなる。


 先輩は昨日、わたしが文庫本で主人公の謎解きに胸踊らされているあいだに、結衣先輩を決定的に怒らせるようなことをしてしまった。

 結衣先輩は怒り、「こんな人とは一緒にやっていけません!」とばかりに退部した。

 こちらは感情の激発ということになる。


 ……どちらなのか。


 結衣先輩はまちがいなく、数十日の間に鬱積させていった。

 だからこそ、「真っ直ぐな人」だなんて使い慣れてもいない皮肉を使ってまで離れたがった。


 しかし、では、先輩は結衣先輩に心理的圧力をかけ続け、退部に追い込んだのか?

 考えるべきことはなんなのか、少しずつはっきりしていく。



 お昼を食べ終えると、時刻は昼休みを迎えていた。

 さて戻ろうかと立ち上がると、扉が開いた。


 硬直してしまう。


『まさか生徒会長が見学届けを出してまで見学をしたくせに応援どころか観戦もせずに立ち入り禁止なはずの屋上で早弁していたなんて』


 と、思われたらおしまいだ。

 わたしの高校生活は暗闇にまっしぐら。

 幸い、扉を開くと隠れる位置に立っていたので、急いで扉のついた出っ張った部分の裏へと隠れる。


 扉が閉まる音が聞こえて数秒待ち、そっと覗くと少し奥には先輩が背を向けて座っていた。

 わたしが安直だった。

 そりゃあ、なんかしら追求されると分かってていつもの場所で食べるわけもない。


 どうしようか。

 考えは纏まっている。

 当たっているだろうとは思う。

 けれどどうやって声を掛ければいい。

 一人で抱えて、きっともう謝る決心までついているだろう人に、それは違うと否定するのか。

 それ以外にも、声を掛けたくない理由はあった。

 もっと、汚い理由が。


 でも、それをしなければ、奉仕部は居心地の悪い空間へと変わる。

 だから、ただ見ているわけにはいかない。

 ぎりと唇を噛む。

 行こうと腹を括る。

 ほとんど同時に信じ難いことが起きた。

 先輩が不意に振り向いたのだ。


 ばっちり目があった。

 もう行くしかない。

 ゆっくりと歩み寄る。

 先輩は逃げはしないものの、こちらを振り向きもしない。


 たった数歩の距離だ。

 たどり着くのに十秒もいらなかった。


「まさかこんなところで食べるなんて、予想外でした」


 これは本当だ。

 いや、考えれば推測は出来ただろうが、そんなことを考えようと思わなかった。


「じゃあなんでここにいんだよ……」


 わたしがなんのためにここに来ているのかは分かっているのだろう。

 だから、読まれたと思ってるのだろうけど、


「ただの偶然です。先輩がもうちょっと遅かったら先輩のベストプレイスに行ってましたよー」


 言いながら、向かい合うように座る。

 無言になった先輩に続けて言葉をかける。


「食べながらでいいので、お話を聞かせてくれませんか。結衣先輩と話がしたいんです」


 目を伏せて黙々と弁当を食べる先輩に顔を向けたまま、返事を待つ。

 やがて先輩は、つらそうな声音でこう言った。


「あれは俺が悪かったんだ」

「昨日のことですよね」

「お前には関係ない」


 先輩が責任を抱え込んでしまうことは予想していた。

 ただ話を聞かせて欲しいと言うだけでは拒否されるだけだと分かっていたから。

 それでも案外キツいな、これ。


「昨日の話を聞きたいんです。結衣先輩はなにか勘違いしてると思うんですよ」

「……お前の気持ちは嬉しい。でもな、俺の問題だし、どう考えても俺のせいだ。自分のことは自分でやる。当たり前のことなんだよ」


 こうなるんじゃないかって思ってた。

 漏れそうになるため息を堪えて、自分の言葉ができるだけ強く先輩に届くよう願いながら、わたしは言った。


「違います」


 尚も伏せたままの顔に言い聞かせる。


「そうじゃないんですよ。結衣先輩は、マグカップを壊されたから怒っているわけじゃないんです」


 終始伏せられていた顔が、ようやく上がった。



 先輩はしばらく固まったまま、再び視線を落とすと徐に口を開いた。


「見てたのか」

「いえ、見てはいないんですよ。だから、詳しいことは知りません」

「は? 見てない?」


 顔を上げて疑念の込められた眼差しを送ってくる先輩に言う。


「体勢を崩しているのは見ました。あとは、ガンッと鈍い音がしたのを聞いただけですね。まあ、なんとなく分かりました」

「聞こえてたのか……」

「やっぱり、隠そうとしてたんですね」


 苦笑いする。

 昨日の数十分の記憶を辿り、ガンッという音を思い出した。

 その時もいきなりなんだと思いはしたけど、先輩が特になにも言わなかったので、大したことじゃないんだろうと忘れていた。


 だが、その音でわたしが小説から引き戻されたとき、部室にはわたしと先輩しかいなかった。

 そしてもし、先輩がなにもしていなかったなら、その後で「先輩」と呼びかけたときに当然返事をしたはずだ。


 では、あの音はなんだったのか。

 仮になにかと聞き違えたのだとしても、やっぱりその後の呼びかけには応えたはず。

 それが一度目は硬直したまま、二度目は少し青ざめた顔で、しかし平素と変わらぬ態度で応えた。


 その意味はその場で分かってもよかった。

 つまり先輩は、わたしに対しなにかを隠したかったのだ。

 なぜか。

 そんなのは決まってる。

 まずいと思ったことをしたからだ。


「あのガンッという音は、床にマグカップが当たった音だったんですね」

「……そうだ」


 そんなに大きな音ではなかったから、床に着いてすぐ掴めたのだろう。

 しかし、どこかが破損した。


「わたしが二度呼びかけたことは憶えてますか?」

「二度……?」


 やっぱり憶えてないか。

 相当ショックだったのだろう。

 一年以上も愛用されているマグカップを壊してしまったら、わたしだって固まる。


「憶えている方は平然と返事を返しましたよね」

「あぁ、そりゃあな……」

「悪いことをしたと思ったら、とりあえず露見しないようにしたいですもんね」


 これはわたしが偽告白を偽ではなくしたときに、奉仕部に顔を出さなくなったのと似ている。

 むしろその方が不自然なのに、それでも隠したくなってしまうのだ。

 先輩は頷いた。


「それに考えてみたらどう考えてもおかしかったんです」

「なにがだ?」

「雪ノ下先輩は結衣先輩は泣いてたって言ってたじゃないですかー? 泣くほどのことなら、部室を飛び出していったんじゃないかって思うんですよね」


 再び頷く。


「なら、机の上にマグカップがないのはおかしいじゃないですか。わたしも雪ノ下先輩も、片付けなんてした覚えがありません」


 だとすればマグカップは一体どこへ行ったのか。

 先輩が持ち帰ったか、結衣先輩が持って行ったのか。

 なぜ、持ち帰る必要があるのか。

 マグカップに関連するなにかが起きたから。


「音がしたときもなかったですし」


 ガンッという音と、そのときなかったマグカップと、それを持ち帰る理由。

 もうマグカップを破損した以外にはない。


「わたしが声をかけたとき、まだマグカップは先輩の手にあったんですよね」

「あぁ……」


 だから、身体が傾いていた。

 わたしに隠したのは咄嗟にだろう。

 結衣先輩にはその場で謝るつもりだったとは思う。

 そういう人だから。

 家に持ち帰って修理するなり、弁償するなりする気はあったはずだ。

 けど、それだけでは済まなかった。


「昨日、先輩がマグカップを落としたとき、結衣先輩はいませんでした。でも、結衣先輩はお手洗いかなにかに行っていただけ。だからすぐに戻ってきた」


 昨日、ガンッという鈍い音の後、わたしは窓を閉めた。

 風が通ったということは、多分あの時点でもまだ部室のドアは開いていたと思われる。

 ところが、雪ノ下先輩が来たとき、ドアを開けて入ってきたのを憶えている。


 ということは、誰かがそのドアを一度閉めていなければならない。

 それが結衣先輩だったのだろう。


 あのときは用事で帰ったのだと思ったが、そういうわけではなかった。

 結衣先輩は一旦中座して、戻って来て、それから本当に帰った。

 そのときにドアを閉め、部室の前で雪ノ下先輩に会って、入部しないと伝えたのだ。


 戻ってきたのは、わたしが読書に戻って数分後じゃないか。

 雪ノ下先輩が来たとき、それほど時間は経っていないと感じた。


「そこで、先輩の手にしていたマグカップが破損しているのを見た」


 先輩は浅く頷き、ゆっくりと話し始めた。


「……悪気はなかった。由比ヶ浜が席を外して、また本を読もうと思ってしおりを挟んで閉じておいた本を開いたら、しおりが風で飛んだんだ。それを拾おうとしたら、マグカップに手が当たった」


 ああ、だから机に伏せてあったのか。


「落ちた直後に掴めたが取っ手が取れちまって、一瞬頭が真っ白になった。どうしようかって考え出したところでお前が声をかけてきた。

 とっさにマグカップを隠して返事をした。隠す必要なんてなかったのにな……。むしろ相談するべきだった。どうすればいいのかも分かんねぇし」


 仕方のないことだと思う。

 パニックになってしまう気持ちはよく分かる。

 隠したのを責めようとは思わない。

 ただ、どういうわけか、結衣先輩にはその光景がわたしとは違うように見えた。


「すぐ後に由比ヶ浜が戻ってきた。まさか、あんな顔をされると思ってなくて、正直、なんて言えばいいかも分からなかった。

 俺の手からマグカップを取って、震えた冷たい声で『ばいばい』って言って出て行ったんだ。自分でもバカじゃねぇかと思う。それでやっと、取り返しのつかないことをしたんだって気づいた……」


 先輩の肩は震えていた。

 取り返しのつかないことか。


「たかだか、マグカップを一つ壊しただけじゃないですか」

「そりゃ、俺にとってはたかがマグカップだ。でも、由比ヶ浜には由比ヶ浜の大切にしているもんがある」


 先輩は弱々しい声で、言葉を続ける。


「本当のこと言えば、お前に声を掛けられて数秒後にはもう落ち着いてた。あいつは笑って許してくれるとか、思ってた。でも、そうじゃない。気づくのが遅かった。誰にだって大切なものがあんのなんて、分かってたはずなのに……。由比ヶ浜が怒るのも当たり前だ」


 分からなくもない。

 確かに、誰にだって大切なものはある。

 でも、そうじゃない。


「それで、どうするんですか?」

「球技大会が終わるまでに、謝るつもりだった。弁償代も持ってきたから。……昨日は追いかけても遅かった」


 先輩の認識からは当然そうなるだろう。

 誠意を尽くして謝れば許してもらえるかもしれない。

 もし本当にマグカップだけが問題だったなら。


 だが昨日起きたこと、先輩と結衣先輩の間に起きたことはそうじゃない。

 結衣先輩は先輩がマグカップを壊したのを見てどう思っただろう。

 それは最後の一藁ではあったかもしれないけど、全てではない。

 だから、わたしは言った。


「まだ、やめた方がいいですね。無駄です」

「だな」


 先輩は小さく頷く。


「マグカップのせいじゃないのなら、無駄だ。でも、それなら」


 黙り込み、しばらく考えていた。

 やっぱり、こういうことには敏感だ。

 すぐに顔を上げ、わたしを見ると寂しげに言う。


「俺は多分、知らないうちに由比ヶ浜を傷つけてたんだな……」


 そういうことになってしまう。

 昨日、部室に入る前、結衣先輩は奇妙なことをしていた。

 部室のドアは半開きになっていたから、中を見ることが出来た。

 先輩が一人でいることを知って、ためらったのだ。

 さっきわたしが先輩を見つけて、話しかけるのをためらったように。


 先生に呼び出されたとき、なんの用か分からずドアの前に立ち、腹を決めるために自分の頬を叩く。

 これから好きでもない人に告白しなければならないと分かっていて足がすくみ、先輩の不安そうな顔を思い出して踏み出す。

 そういう決意を固めるための儀式が、あの行動だったのだろう。


 つまり、結衣先輩は挑むような覚悟で部室に向かったのだ。

 最初から先輩と対決するつもりだった。

 わたしが現れてがっかりした素振りを見せたのも無理はない。


 先輩は箸を止め、一面を雲が覆う天を仰ぎ、そしてため息を吐いてつぶやいた。


「信じて欲しいとは、言えねぇな」

「なにをですか?」

「そんなつもりはなかったんだってことを、だ。俺は由比ヶ浜にとって、嫌なやつだったったってわけだ。でも、そんなつもりじゃなかった……。今でもなにが悪かったのか分からないが……、それを信じて欲しいなんて言えない」


 なにを間の抜けたことを、と思った。

 どうしてそうなるのか分からない。

 先輩は基本的に頭がいいくせに、やっぱりどうも人の気持ちが分かってない節がある。


「今更ですよー、そんなの」

「だな……」

「先輩が嫌がらせをしたなんて思ってたら、球技大会を見学までして一日中考えてるわけないじゃないですか。とっとと見切りをつけて、ストレス発散に勤しんでましたよ」


 先輩ははっと顔を上げる。

 わたしは微笑んだ。


 ここが一番の賭けだった。

 先輩はわざとやったのか。

 表では仲良くしつつも、裏では結衣先輩を傷つけ、退部させるように仕向けたのか?


 根拠は「違うと思う」というところにしかなかった。


 様々な情報が、先輩はわたしの知らないところで自覚的に結衣先輩に圧力をかけていたということを示している。

 それを明確に否定する材料はなかった。

 曖昧になら、予測でいいなら、いくらでもあるけど。


 でも、わたしは先輩を見てきた。

 少なからず先輩のことを知っている。


 わたしに生徒会長を押し付けてまで奉仕部を守ろうとした。

 クリスマスイベントでは積極的に手伝ってくれた。

 本物が欲しい、と熱い本音を吐き出して今の関係を手にした。


 雪ノ下先輩の誕生日を祝っていた。

 三浦先輩の依頼を解決することに尽力していた。

 初デートに行ったときは意外と細かいところまで見ているのを知った。

 スケジュール的にキツいフリペ作成だって、断ろうと思えば断れたのに手伝ってくれた。


 結衣先輩の告白を断ったときに、瓦解しないように自分の言葉で伝えていた。

 三月のデートでは、わたしのことを知りたいと言ってくれた。

 泊まったときには、本物が見つかるといいと言ってくれた。

 小町ちゃんの合格を傍から見れば引くくらい喜んでいた。


 わたしの誕生日に誕生日プレゼントまで用意して祝ってくれた。

 お母さんが倒れて気分が落ちているときには、肩を貸してくれた。

 頑張ると言ったら、見ててやると返してくれた。

 生徒総会も手伝ってくれた。


 名前も知らない男子の問題を解決しようとしていた。

 勉強を教えてくれた。

 心配してくれた。

 そして、なにより、今、こうして、些細なことで怒ったのを不思議にも思わずに謝ろうとしている。


 だから、違うと思った。

 絶対に違うと思った。

 先輩がそんなことするわけないって。


 普通の高校生よりかなり捻くれててものぐさで無愛想だけど、先輩が結衣先輩を追い出したんたんじゃないと思った。


「と思った」という感情的な判断に賭けた結果、「結衣先輩は過去数十日にわたって先輩から圧力を感じていたが、先輩にはそのつもりはなく、あくまで昨日の数十分のやりとりで怒らせたとしか思っていない」という構図が見え、わたしはさらにそれに賭けた。


 そしてどうやら、賭けには勝ったらしい。


「一色……」


 だがあいにく、その先を聞いている時間はない。

 もう昼休みも終わり頃だろう。

 球技大会が終わる前に全てを明らかにし、さらに結衣先輩と話さなければならない。


「で、昨日はどんなことを話したんですか?」

「……分かった。話す」


 それからすぐに、小声でこうつぶやいたのはわたしにも聞こえていた。


「……、いつも通りのはずだったんだけどな」


   ・・・・


 昨日は本を読んでたんだ。

 ラノベだ。

 前に言った『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』。

 最新巻が出るから読み直してた。


 誰かが廊下にいるのは気づいてた。

 特に見る気も起きなかったから、そのまま本読んでて、それが誰なのか分かったのは一色が来てからだ。

 一色と話してたやつの声は由比ヶ浜だった。


 最近、由比ヶ浜が俺から距離を取ってるっていうのは実は気づいてた。

 告白があってからだから、ずっと気にしてんのかと思って、気がかりだった。

 五月にお前に見抜かれたのもこのことだ。

 だから、昨日は距離感が戻った気がしてほっとした。


 最初は俺が読んでた本の話をしたな。

 ラノベはどう面白いのかとか、あたしでも読めるかなとか言ってたから、いくつか紹介した。

 ああいうのは案外嬉しいんだよ。


 んで、なんだったか……。

 ああ、そう。

 料理の話になって、最近頑張ってるから今度味見して欲しいとか紅茶を上手く淹れられたとか楽しそうに言ってた。

 それまではいつも通り、アホっぽい感じで。


 思えば、こういうのは前置きだったんだろうな。

 由比ヶ浜は最初から話そうと思ってたことがあったんだろうと思う。

 由比ヶ浜や雪ノ下の言葉の裏を読もうなんて今は考えてなかったんだ。


 言葉が途切れたら、しばらく俯いてなんか言いたそうにもじもじしてたな。

 俺はそういうときになんて言っていいかなんて、もちろん分かんないわけで、待ってた。

 何分か経って、由比ヶ浜は小さく息を吐いて、いつもの明るい声でこう言った。


「そういえばね、恋愛相談の子さ、結局辞めれずにいたら相手が辞めちゃったんだって」


 俺は概要が分かんねぇから意見し辛いわけだけど、一応俺も部員だからと思って話を合わせたんだ。

 ただ一人の男が役に立つ機会もそうそうねぇしな。


「そうなのか。そいつとしてはよかったんじゃねぇの?」


 そう言うと、由比ヶ浜はちょっと顔を強張らせた。


「んー、でも、自分のせいでって思っちゃってるみたいだから……、どうかな」


 少し返答に迷った。

 そうなれば結局、どっちにしろってことになっちまうわけだし。

 で、考えた。

 もし、自分が本当にそういう状況になったらってな。

 だから例えば、由比ヶ浜が辞める一歩手前まで気にしてて、俺がそれを察したとするならどうするかって感じで。


「そうだな。まあ、気にはなっちまうよな。でも、相手に気にさせるくらいならよかっただろ。俺だって、俺のせいでと思いながら部活やるのは嫌だと思う」


 由比ヶ浜は真剣に聞いてたから、俺も俺なりに真剣に考えて答えたつもりだ。

 そしたら由比ヶ浜は自信なさげな声でこう言ったんだ。


「でもさ、辞めることはないんじゃないかなって……、思うんだけど」


 確かに、それ以外にも選択肢はあったんだろうと思う。

 前に俺が言ったみたいに時間が解決してくれると考えるのもアリだ。

 でも、辞めちまったもんはしょうがねぇだろ。

 そう思って、俺は言った。


「それはそうだけどな。辞めるくらいキツかったのかも知れないだろ。それに、どうせもうすぐ引退だろうしな。だいたいそれを言ったらその女子も辞めることを視野に入れてたんだから、同じだろ?

 気まずい空間は嫌だが、だからってどうしようも出来ないし、我慢できないならどっちかが辞めるしかなかったんじゃねぇか」


 由比ヶ浜は考え込んじまった。

 俺は友達のことでそんなに真剣に悩める由比ヶ浜のことをやっぱり優しいやつだと思ってた。

 しばらくして由比ヶ浜は、俺にも一発で作り笑いだと分かる笑い方をして、


「そっか」


 と言って席を立った。

 で、


「ちょっと席外すね」


 って言って部室を出て行ったんだ。

 一色……、やっぱおかしくねぇか。

 俺と由比ヶ浜は、昨日、たいした話はしてねぇよ。

 してねぇよ……な?


   ・・・・


 先輩がそう言うのは分かる。

 確かにそれだけ聞けば「先輩は恋愛相談の件を親身に考え、受け入れなければいけない現実を受け入れるように促した」という話になる。

 たいした話もなにも、結衣先輩とはなんの関係もない。


 でも、わたしは他にもいくつかの話を聞いている。

 結衣先輩が恋愛相談にどういう意志を込めてたのかも今更ながらに分かってきた。

 それを踏まえて先輩の話を聞けば、昨日の放課後、結衣先輩の中で起きたことがなんだったのか、なんとなく分かる気がした。


 この球技大会が始まる前から、わたしはなにかが行き違っていると気づいていた。


 最初に小町ちゃんが、再び雪ノ下先輩が、そして平塚先生が、最後には先輩が言った。

 わたしに責任はない、というようなことを。


 実は、正直それはどうでもいいと思っている。

 責任云々じゃない、わたしはわたしの大切なものを守りたくて、同時に先輩がわけもわからず悪者認定されるのが嫌だっただけだ。

 それがわたしならいい。

 でも、そうじゃない。


 ああでも、わたしの中のおぞましい部分を否定したくてっていうのも、あるか。


「他に、なにか訊きたいことはあるか?」


 最も重要なことは聞いた。

 ああ、そうだ。


「先輩のクラス。女子の戦況は?」

「バレーは早々に負けたな。ドッジボールは今やってるはずだ。それだけか?」


 もう特にはないだろう。

 必要な材料は出揃った。


「はい、充分です」


 自然と下がっていた顔を上げる。

 先輩と目が合った。

 いつになく真剣な顔にたじろぐと、先輩は言った。


「悪いな、一色。後は任せた。多分もう、俺の言葉は由比ヶ浜には届かないんだろう。あいつだけが、外れちまったんだから。

 だが……、由比ヶ浜がなにかに悩んでいるのなら、助けてあげて欲しい。思い違いがあったなら、もう一度解き直して欲しい。もう由比ヶ浜が奉仕部に来ることはなくても、それだけは……」


 わたしもそう思っている。

 けれど、半分くらい不正解だ。


「違いますよ、先輩。さっき言ったじゃないですか。『まだ』、やめた方がいいって」

「まだ……?」

「はい。だから、最後には先輩の言葉が必要です。わたしなんて結局部外者なんですから。結衣先輩が奉仕部に戻るかどうかは、先輩次第です。昇降口で待ち伏せてでも必ず話をしてください。頼みましたよ」

「……分かった」


 小さく頷いた先輩に満足して、わたしはグラウンドへと向かった。


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 時刻は二時。