2015-12-25 01:35:37 更新

概要

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。いろはルート


前書き

シリアスはもう飽きた!


第六章 今再び、一色いろはは幸せを願う。




第七章 たまに、ラブコメの神様はいいことをする。



 深夜、勉強を終えて、ふと顔を上げると、辺りは静謐《せいひつ》さに包まれている。

 晩夏、まだ残暑の残るこの時期だが、室内は冷房のおかげで過ごしやすい。

 落ち着いた空間に、落ち着いた心。

 考え事をするのには、きっとこんな状況が相応しい。

 ふうと小さく息を漏らし、ソファに深く腰掛け、目を閉じてみる。


 まぶたの裏に浮き上がるのは、この夏の思い出と、それからこれまでのこと。

 先輩、雪ノ下先輩、結衣先輩、はるのん、お母さん。

 親しいと思える人は他にも幾人かいるものの、わたしの心を占めているのはこの面子だ。


 夏休みも今日で終わり、明日から再び学校が始まる。

 文化祭、体育祭、修学旅行、生徒会選挙と、慌ただしい日々が続くこととなるだろう。


 だから、その前に。

 思い出して。

 綯《な》い交ぜの感情を整理して。

 わたしがこれからするべきことがなんなのか考えよう。


 わたしが幸せになるために、わたしはわたしのためになにをしたいのか。

 今、わたしはどんな気持ちなのか。

 悩んでもいい、苦しんでもいい、けれど、もう迷わないように。


 この夏、最初のイベントは、わたしにとって最大のイベントだった。

 たいしたことは起きていない。

 それでも、幸せに満ち溢れた一日だった。

 ずっとこの時間が続いて欲しいと思った。

 日付は八月八日。


 あの暑苦しかった晴天も、まだ手に残る温もりも、熱が蘇るほどの思い出も、ちょっとした沈黙も。

 そして、あの日見た打ち上げ花火を。

 わたしは、絶対に。



 ————忘れない。


 ◇◆◇◆◇


 朝から機嫌がいい。

 空は晴天。

 ふんふんと鼻唄を歌いながらリビングに向かうと、なにやらいい匂いが漂ってくる。

 誰かが朝ごはんを作ってくれているのだろう。

 この匂いは……、卵!

 お母さんなら卵焼き、はるのんならオムレツかなー。


 リビングに入り、キッチンを見ると、そこには悪魔チックなお姉さんがいた。

 オムレツ!


「おはよーですっ」

「ん、おっはよー」


 朝の挨拶をすれば、はるのんは笑顔でふりふりと手を振ってくれる。


「お母さんおはよー」

「おはよ」


 ソファに座って大人しくしているお母さんの隣に座って、朝食の完成を待つ。


「お母さんの役目奪われちゃったなぁ」

「お母さんはゆっくり休んでていーの」


 余命三ヶ月と言われてから、三ヶ月と七日が経った。

 あとどれだけの時間が残されているのだろうか。

 至って元気そうなんだけどなぁ……、多分、我慢してるんだろう。


 わたしに、なにが、出来るだろう。

 あまりこんなことは考えたくないけど、文化祭まで生きていてくれれば……、またわたしなりの努力の結果を見せられるんだけど。


「出来たよー」


 はるのんの声に反応して、ダイニングテーブルに移動する。

 今日の朝ごはんはフレンチのようです。

 ライトーストカナッペにホワイトエッグオムレツ、豆腐のソテー、オートミール。

 野菜も盛り付けられていて、めっちゃヘルシーな感じする。


「朝から凝ってますねー」

「そう? 結構簡単だよ」


 慣れなのか、それとも才能なのか。

 才能だろうな。

 なんでも簡単に出来そうだ。


「いただきまーす」


 美味しい朝食を完食して、皿洗いや洗濯などの家事を済ませる。

 まだ時間があるのでリビングでくつろいでいると、はるのんに声をかけられた。


「見つけたら目一杯邪魔するからねー」


 意地悪な笑みを浮かべてそんなことを言うはるのんに苦笑して、言葉を返す。


「なんですかその宣言……、見つからないように気をつけます。見つかっても逃げます」

「ひっどーい!」


 文句を言いながらもけたけたと笑う。

 四月、生徒会室で会ったときにはこんな関係になるとは思っていなかった。

 六月始めのあの日以来、弱い部分を見せてくれたことはないけれど、一度見たあの涙をわたしはきっと忘れない。


「あの先輩と一緒に行くんでしょ?」


 にやにやといたずらっぽい笑顔でお母さんに訊かれる。

 なんだか恥ずかしくて目を伏せてしまった。


「う、うん……」


 しばらく時間が経ち、支度を済ませて玄関に立つ。

 姿見の前でにぱーっと笑ってみる。

 うまく……出来てるかな。

 いや、うまく笑わなくてもいいのか。

 精一杯、楽しもう。


「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃーい。また後でね」


 わたしと出くわす気満々のはるのんに、また苦笑して外に出た。

 頭上で煌々と輝く太陽。

 いくら楽しくても夏の暑さには勝てない。

 じっとりとした汗が滲む。

 駅に向かうと、夏休みだからか、それとも夜に控えたイベントからか、まだ午前中だというのに常に増してざわついていた。


 群衆の中からお目当ての顔を見つけ出すのにそれほど時間はかからなかった。

 いや、むしろ、最初からそれしか見えてなかったと言うべきだろうか。

 一瞬でも目に映り込めば、どんなに離れていようが見逃さない自信がある。

 なんだこの自信……怖い。


 カツカツとヒールが地面を叩く音が自然と速くなっていたことに気づき、本日何度目かの苦笑。

 それだけこの人のことが好きなんだと改めて実感する。

 近づけば近づくほど急いてしまい、最終的には小走りに近い歩速になる。

 先輩はそんなわたしを見て軽く手を挙げた。

 何気ない動作一つ一つが、わたしの頬を綻ばせる。


「こんにちは——あっ」


 注意散漫とはこのことだろうか。

 目前に迫ったところで躓いた。

 バランスを崩した身体を受け止められる。

 額が先輩の肩に当たる。

 腰に回された腕。

 見上げれば、至近距離にまで迫った先輩の顔。


「大丈夫か? ったく、そんな靴で走んなよ、危ねえだろ……」


 明後日の方を向いて、ぶっきらぼうな口調でそんなことを言いながら後退する。

 そんな先輩の腕に抱きつき、くすりと笑みをこぼすと、ますます顰めっ面になった。


「だって、早く会いたかったんですもん」

「暑い、あざとい、離れろ」

「ダメですよー。ちょっとくらい暑くても我慢しないと。結衣先輩だって折角のデートなら大胆なことしてくると思いますし」


 適当なことを言うと、先輩はじっと考え、わたしに顔を向けて問う。


「そういう、もんか……?」

「そういうもんです! まあ、突き放したいってことならいいですけどね。楽しんで欲しいなら多少の要求は呑んであげた方がいいかと」


 また適当なことを言う。

 わたしがしたいだけだけど、そんなに的外れなことは言ってないからいいだろう、うん。

 いや、あんまり嫌なことさせるのも悪いか?


「どうしても嫌なら断ってもいいですけどね。さり気なく避けるのはなしですよ。結衣先輩、空気読んじゃいますし。理由を説明すれば分かってくれるでしょう」


 どうしますー、と視線で問うと、先輩は再び考え考えして答える。


「そうか……、いや、いい。俺にくっついて喜ぶとか全く想像出来ねぇけど、それくらいならなんとか、なる……多分」


 自分を納得させるようにうんうんと頷き、深く深呼吸を繰り返す。

 デート一つでどこまで真剣なんだこの人……、とは思うが、明確にデートだと認識して遊びに行った経験はないのだろう。

 その生真面目さが嫌いじゃないんだよなぁ……。


「ふふっ、そうですか。なら、そのときは頑張ってくださいね」

「……おう。なんか、悪いな」

「いえいえ、他ならぬ先輩の頼みですからね〜。こういうことでしか力になれませんし」


 総武高三十周年記念イベントの帰り、こんな会話があった。


   ・・・・


「は、花火大会っ、一緒に、行きませんか……?」


 喉でつっかえていた言葉を吐き出す。

 先輩はなにか考えているようだ。

 心臓の鼓動が喧しい。


「……空けとく」


 渋々といった様子で答える。

 心中でガッツポーズ!

 やった、やったよわたし!

 嬉しさで顔をにまにまとさせていると、先輩は言葉を続ける。


「その代わり、ってわけじゃねぇんだけど……、俺からも一つ頼みがあるんだが。いいか?」

「はい? なんですか〜?」

「その、だな……」


 言いづらそうにしながら、周囲を確認する。

 と、しばし固まった。


「小町……?」

「あ、さっきあっちの方に歩いて行きましたよー」

「あぁ……そう」


 呆れたようにつぶやく。

 わたしに向き直りなにやら真剣な面持ちになる。


「まだ、先なんだが……、あー、由比ヶ浜とデ……遊びに行くことになった」


 言い直した。

 デートって単語がもう恥ずかしいのか。


「だから、……なんつーの? そういうとき、どうすりゃいいのか、教えて欲しいっつーか……」

「オッケーですっ! 手取り足取り教えてあげます!」


   ・・・・


 ついでにアドレスをゲットした。

 ようやくアドレスをゲットした!

 なんだかタイミングを逃して聞くに聞けなかったけど、これもずっと欲しかったものである。

 安いなぁ、わたし……。


 よくよく考えれば結衣先輩にでも訊けばよかったのでは……、まあ、いいか。


「そんなことねぇだろ」

「え?」

「ああ、いや……なんでもない」


 わたしは先輩自身の力になれてたのだろうか。

 やっぱり自覚はないのだけれど、なにかを救えていたのなら、素直に受け取っておこう。


「さて、ではでは、どこに行きましょうかー?」


 先輩の顔を窺いながら訊くと、先輩は少し躊躇う素振りを見せ、おずおずと答える。


「……映画とかで、いいか」


 今、とっさに思いついたって感じじゃないな。

 先輩がわたしのために考えてきてくれたんだろうか。

 それは……待て、いい響きだ、もう一度。

『先輩がわたしのために』考えてきてくれたんだろうか。

 それはすごく嬉しいんだけど……どうしようか。


 思索の時間は一瞬だったと思う。

 しかし、勘付かれてしまったらしい。

 先輩は不安げに訊いてくる。


「なんかまずかったか……? 一応、時間も調べてきたんだが。まだちょっと早いから喫茶店に寄るつもりでもあった」


 用意周到!

 プラス十点!

 そういう心遣いはとても素敵です。


「いえ、わたしは特に文句はないんですが……」


 言い辛い。

 言い辛いなぁ。

 別に悪いわけじゃないのだ。

 うーんと頭を悩ませていると、先輩がキリッとした表情で言ってくる。

 いや、なんかフィルターかかってるな、わたしの眼。


「まちがってたなら言ってくれた方が助かる」

「んー、じゃ、言わせてもらいます。率直に言って、まちがえてはいないです。映画をチョイスしたのはベターですね」


 そう。

 映画はいい。

 時間も調べた。

 それまでの時間つぶしの場所も考えてある。

 前の先輩とは比べものにならないほどいい感じです。


「なら……」

「でもっ! でもですよ、今日のこれは予行演習です。それを踏まえて考えてみてください」


 予行演習なのだ。

 なら、それに近いことをしなきゃ先輩のためにならない。


「それを踏まえて……」

「結衣先輩とどこに行くんでしたっけ?」

「ディスティニー・シー、だけど……」

「ですよね。なら今日は座って映画観るよりはー、水族館や、動物園、総合アミューズメント施設でショッピングとかの方がためになると思いませんか?」


 わたしの指摘に先輩は、ほうと感心したような声を漏らす。

 いや、そんなことで感心されても。


「……凄いなお前。ディスティニーに映画ねぇしな。お前と出掛けるってのが頭にあったからな……」

「凄くはないですけどね。あ、でも、わたしのために考えてくれたのはプラスポイントです〜」


 言いながら、ぎゅっと抱きつく力を強める。

 腕細いな……、頼りなーい。


「あ、ディスティニーの場合、二人で相談しながら行くか、結衣先輩ならきっと連れ回してくれるのでプランの心配はいらないですね」


 わたしの「どこに行きましょうか」も、そもそもどこで練習しましょうかという意味である。

 いや、そうなるとわたしが連れ回した方がいいのか?

 まあ、いっか。


「で、どこ行きますー? 近場なら動物園ですかね? ちなみにどのくらいまで予定立ててましたー?」


 綿密な予定が立っているのなら、それを全て水の泡にしてしまうのも悪い。

 しかし、その心配は杞憂だったらしい。


「いや、そんなに考えてねぇよ? どっか買い物行く可能性あるし、また行きたい喫茶店とかあったらアレだしな」

「そですか。んー、じゃあ動物園か、幕張、船橋辺りですかね。まあ、ここでもいいですけどー、その……」


 ちらと先輩を見る。

 意図は伝わったようで、先輩はああと頷いた。


「毎回毎回、千葉だもんな。たまには違うところの方がいいか」

「はい! どこかは先輩に任せまーす。わたしは先輩と一緒ならどこでも楽しいので」


 きゃぴっとウインクをすると、ふっと鼻で笑われた。

 慣れてきたなー、この人。


「んじゃ、動物園行くか」

「はーいっ!」


 元気のいい返事をして、一歩踏み出す。

 が、先輩はなぜか立ち止まってわたしを見る。

 そして鎮痛な面持ちで口を開いた。


「やっぱ暑くね……? 冬なら我慢できるが……、ていうかお前暑くないの?」


 夏真っ盛り。

 照りつける日差しと生ぬるい風。

 暑くないことはないけど。

 んー、と考えるような仕草をして、その質問に笑顔で答える。


「わたしは暑いより楽しいですねっ」

「あぁ、そうね……」


 先輩は諦めたらしく、呆れの感じられる返事をして足を進める。

 そんなに暑いなら譲歩するのもやぶさかではない。

 ぱっと腕を離し、立ち止まった先輩に手を差し出す。

 沈黙。


「……え、なに?」

「腕は離しますから、手を繋ぎましょう」


 わたしの言葉に先輩は固まる。

 差し出された手とわたしの顔とを交互に見て、慌てて言葉を紡ぐ。


「えっ? は? い、いや、ほら、俺汗かいてるから、な?」

「わたしもかいてるんで大丈夫ですよ〜」

「なにが大丈夫なんだよ……」

「一日手を繋げば、多少は抵抗も薄れるかもですし。ほら、先輩早く! 女の子を待たせちゃダメですよー」


 先輩は渋面を浮かべて迷う。

 そのまま数秒が経過。

 腕を伸ばしたままとかどう考えても変な人なんですが、わたし。

 ちょっとキツいし……。


「いや、……無理、マジで勘弁してくれ……」

「はぁー、仕方ないですね……」


 ほっと安堵の息を吐く先輩の隙を見逃さず、ばっと手を取り、指を絡める。

 先輩と手を、手を繋いでしまった!

 やだ、顔赤くなってないかな。


「なっ! ちょっ、待て、離せ。落ち着け、離せば分かる!」


 解こうと力を込めてくる先輩の手をぎゅっと握る。

 おかげで恋人繋ぎは関節が引っかかるので、どちらかが力を入れれば外れないとか、くそどうでもいい知識が増えた。

 ていうか、骨と骨が当たって痛い……。


「嫌です。離したらなにが分かるんですかね……。先輩は繋いで初めて分かることの方が多いんじゃないですか」

「確かに……、いや、そうじゃなくてだな」

「さて、行きますよー」


 手を繋いだまま、先輩を引き摺るようにして歩く。

 モノレールに乗り込むときには諦めたようで、先輩の手から力は抜けていた。

 もはや抜けすぎてわたしが気を抜いたら離れてるまである。

 そんな先輩はさっきからそっぽを向いたままだ。


「……怒ってますかー?」


 不安になって、恐る恐る問うてみる。

 返ってきた先輩の声は弱々しい。


「いや、別に怒ってはいない……」

「えー、ならこっち向いてくださいよぉ」


 空いている右手で先輩の顔をぐいっとこちらに向けると、わたしの瞳に真っ赤な顔が飛び込んできた。

 よくよく見て見れば耳まで紅潮している。

 思わずぽかんとしてしまい、先輩はその隙に即座に顔を背ける。


「マジで嫌だ……帰りたい」


 左手で顔を覆いながらそんなつぶやきを漏らす。

 かぁっと自分の顔が熱くなるのが分かり、ついつい顔を俯かせる。

 それでも離すのは惜しいので手は握ったまま。


 な、なに。

 そんな顔されると思わなかった!

 反則!

 だ、ダメだー、顔熱い、やばい。

 なんか超恥ずかしくなってきた。


 モノレール内はそこそこ騒がしいはずなのに周りの音なんて全く聴こえず、ただ心臓がどくどくと脈打つのだけが分かった。

 うるさすぎる静寂に耐え切れなくなって口を開く。


「……なぁ」

「……先輩」


 声がぶつかる。

 慌てて言葉を発する。


「……なんだ?」

「な、なんですかっ?」

「…………」

「…………」


 うわーっ、なにやってんだろ、なにやってんだろ!

 もう先輩が喋り出すまで黙ってよう……。

 小っ恥ずかしい沈黙が続く。

 ちらと先輩を見やれば目があったので、目で促す。


「……あー、動物園は、よく来るのか?」

「んー……、いえ、そんなに来ませんねー。小学校のときに遠足で行ったきりです」

「へぇ。ま、俺も似たようなもんだな」


 動物園とか男友達と行っても楽しくないし。

 好きな人と行くから楽しいのであって、それ以外ならそんな獣臭い上に歩き回るところ来たくもないまである。


「で? お前なんか言いかけてなかった?」


 先輩と出かけるの楽しいなーうんうん、と一人満足していると、そう問われる。

 なにを言おうとしたんだったか……、ああ、そうだ。


「映画ってなに見るつもりでしたー?」

「なにって、ホラーだな。最初は恋愛にしようかと思ったが……、観終わって嘘臭いとか言うのもアレだろ」


 ホラーか。

 確かに映画観終わって嘘臭いとか文句言うのはちょっとやばい。

 なにがやばいって、とにかくやばい。

 まず、フィクションを嘘臭いとか言い出す時点で頭おかしい。

 フィクションはどこまで行ってもフィクションで、そこに感動もなにもないのだ。

 やっば、なにこの思考……、嫌なやつ過ぎるでしょ、怖い。

 ていうかその論だとわたし頭おかしくなっちゃう。


「それって、先輩も楽しめる感じのやつですかー?」

「んー、まあ、そこそこだな。なんで?」

「デートはお互い楽しめるものが最善だからです。相手を楽しませるのは大事ですけど、全部相手の好みに合わせてたら疲れるじゃないですか」

「それでいいのか……」

「先輩が片想いしてるなら最初だけは相手に合わせるのもアリですけどね。ずっとはダメです」


 そんな疲れる恋はして欲しくないし。

 まあ、先輩に限って自分を偽って相手に尽くすなんてことはないと思うけど。


「それでうまくいって付き合ってもきっと疲れて嫌になりますよ。ある程度お互いが譲歩出来る関係に持ち込まないと。ま、これはそういう機会があったらの話ですけどね」

「片想いねぇ……」

「縁遠そうですねー」


 感慨深そうにつぶやいた先輩にくすくすと微笑み混じりに言うと、ふんっと素っ気ない返事がくる。


「ほっとけ」

「あ、今回は逆パターンですから、結衣先輩が気を遣ってそうだったら、ちゃんと気づいてあげてくださいね」

「……おう、分かった」


 うんうんと頷く先輩を意地悪な笑みを浮かべて褒める。


「いい子ですね〜」

「やめろ」


 子供扱いされ、じろっと睨んでくる。

 きゃー、怖いー。


「ふふっ、まあ、相手が自分に好意があるって分かってたらそこまで深く考えなくてもいいですけどね。女の子は好きな人と一緒にいられるだけで嬉しいもんですから」

「はぁー……そういうもんか」


 いまいちピンと来ないのか、考えるように俯く。

 わたしは先輩の顔を覗き込むように身体を傾けて答えた。


「はい。だから、わたしも今幸せですよ?」

「……は?」

「冗談です。でも、そうですねー……」


 考えるように顎に人差し指を当て、んーと唸る。

 しかし、この先に出る言葉はもう決まってる。

 どうすれば先輩といちゃいちゃ出来るか、今日までずっと考えていた。

 あっ、となにか思いついたような声を漏らし、ぴっと先輩の顔の前に人差し指を立てる。


「折角ですし、今日はわたしが先輩のことが大好きって設定で行きましょうかっ」


 わたしの人差し指を見つめて固まる先輩。

 数秒後にはっとなり、あたふたと声を発する。


「い、いやいや、待て待て、なんでそうなる」

「えー、だって、その方がいい練習になるじゃないですかー? ねっ? せーんぱいっ?」


 手を握る力をほんの少しだけ強めて、こてんと先輩の肩に頭を乗せる。

 は、恥ずかしー!

 あー、暑いなー、夏だなー。


「ここは甘えておくが吉ですよ」

「で、でもなお前……、お前は嫌じゃねぇのか?」


 肩に頭を乗せているために、その顔色は窺えないが、それでも不安そうなのは分かった。


「そこで素直にありがとうって言えないのは、ポイント低いですよー? わたしに出来ることがあるのなら、やらせてもらえると助かります。それに、わたしにそういう人が出来たときの練習にもなりますし」

「そ、そうか……」

「そうです」


 やったー!

 今日は目一杯先輩といちゃいちゃしよう。

 そのまま、わくわくしながらモノレールに揺られること数分、動物公園駅で降りる。

 踏み出そうとすると、先輩が口を開いた。


「一色、その、なんだ……ありがとな」


 急な感謝の言葉にきょとんとしてしまう。

 ああ、さっき素直にありがとうって言えって言ったっけな。

 無駄に律儀な先輩にくすくすと笑みが漏れる。


「いえいえ、ギブアンドテイクってやつです。WIN-WINです。結衣先輩も満足でTotal Winです!」


 横文字を羅列すると、先輩はわざとらしく驚いて乗っかってくる。


「おお、意識高いな」

「恋愛意識だけは高い系ですからね〜」


 わけのわからないことを言うと、わけのわからない言葉が返ってきた。


「お前は向上心高い系って感じだけどな」

「なんですかそれ……、需要ありますかね」

「多分あんまない」


 真顔で言われ、がくっと肩を落とす。

 ないのかよ。


「がーん……」

「がーんって口で言うやつ初めて見たわ。あ、由比ヶ浜とか言いそうだな、かっちーんとか口で言ってたし」


 かっちーんとか口で言う人いたんだ。

 なにで怒ったんだろうか。

 それとも、あれか、ギャグか。


「需要ありますかねっ?」

「いや、多分あんまない」


 ありますよねっくらいの言い方で訊いたが、しれっと躱されてしまった。

 がーん。


「えー! なんかもうアレですね。わたしがなにしてもあんまないって言いそうですねー……」


 はぁーあーとあからさまに残念そうな態度で言う。


「いや、そんなことねぇよ。差別はしない」

「えー、じゃあじゃあ、戸塚先輩ががーんって言ったらどうします?」

「全力で慰める」


 即答だった。

 戸塚先輩って単語が出た時点で言いだしてたまである。

 早押しじゃないんだから……。


「ほら! 差別してるじゃないですか!」

「差別はしてねぇよ、区別だ。戸塚、小町、男、女」

「ちょっ、おかしいですから、それ。なに世界の常識みたいに言ってるんですかね」

「常識どころか理だろ」


 至極真面目な顔で、至極可笑しなことを堂々と宣言している男子高校生がそこにいた。

 わたしの好きな人じゃないと願いたい。


 閑話休題。


「獣臭いですねー」

「動物園に入って第一声がそれとか、お前つくづくかわいくねぇな……」


 呆れたようにぼやく。

 かわいくした方がいいのかな?

 でもなー。


「あはっ、わたし動物とかめっちゃ好きなんですよね〜。だってかわいくないですかぁ?」

「そう言ってる自分がか」

「ほら、そうなるじゃないですかー? ま、先輩と一緒ならどこでも楽しいですよっ」


 にぱーっと笑顔を向ける。

 いつの間にか、先輩は手を繋ぐことに慣れていた。

 いや、諦めて気にしないようにしてるだけか。


「あざとい」

「文句が多いですよー!」


 ぶーぶーと不満を露わにするわたしに意を介さず、先輩は受付でもらったパンフレットを開く。


「んで、どこから周る?」


 なんだか声音が好奇心に満ちているような気がする。

 パンフレットを見る目が少年の目だった。

 く、腐ってない……だと。

 違う、腐ってないわけじゃない……、キラキラ輝く目の中に淀みがある。


「もしかして、結構わくわくしてたりします?」

「な、はぁ? ばっか、そそそんなわけねぇだろ」


 噛みまくりだった。

 そそそって……、くつくつと笑いがこぼれてしまう。

 案外、可愛げあるなー。


「うわ、めっちゃ説得力ないですね〜。先輩は動物好きだったわけですか」

「人間は嫌いだけどな」


 どや顔でダメ人間過ぎるアピールをする。

 全然アピールポイントじゃないんですが、それは。

 不採用確定だよ。


「その補足と先輩、超いらないです」

「お前そういうこと平気で言うのやめてくんない。俺じゃなかったらこの瞬間自殺してるぞ」

「大丈夫ですよー?」


 ふふっと悪戯っぽく笑って握った手を少し持ち上げる。


「ちゃんと、握ってますからね」

「お前そういうこと平気で言うのやめてくんない……?」


 そっぽを向いて、顔を空いた手で覆う。

 やっぱり、必死に堪えていたらしい。

 しかし、これは諸刃の剣である。

 わたしも結構恥ずかしい。

 んんっと咳払いをして、話を戻す。


「さ、さぁ、行きましょうか!」

「お、おう……。っつーか、結局どこから」

「時間はあるんですから、ぐるーっと一周しましょー」

「そうだな……、そうするか」


 手を繋いだまま、ぎこちなく歩き出す。

 第一部、動物園デートの幕開け!

 なんだかもう幸せでお腹いっぱいです。


  ****


 入園して三十分程が経った。

 鳥類・水系ゾーンにははしゃぐ高校生二人の姿があった。


「やばいです、先輩! 鷲ですよ鷲! 超かっこよくないですか! 先輩も参考にすべきです!」

「ばかお前、俺と鷲とか超似てんだろ、あの孤高な感じが俺そっくりだろ! 生態的に考えて俺マジ猛禽類。もうこれから一人称鷲にするわ、俺」

「先輩は孤高っていうより孤低って感じですけどね!」


 ただ一人、他とかけ離れて低い境地にいることの意である。

 なんだこれ、先輩にぴったり過ぎて怖い。

 ちなみに今作った。

 自分の才能が怖い!


「はっ、俺ほどになると常にどん底だからな。上を見るのはやめた。辛くなるから……」

「ちょっ、なに勝手に負の連鎖にはまってるんですか。あ、ハゲワシ! 先輩の未来予想図ですね」


 うっわー、ハゲワシって本当に禿げてるんだー。

 生徒会担当顧問みたい。

 うっわー、嫌な顔思い出した、最悪。


「おい、勝手に俺の毛の未来決めんな! 俺は死ぬまで毛は手放さんぞ」

「毛だけが友達ですもんね」

「なにそれ、寂しすぎんだろ……。いや別に友達とか、い、いらねぇけどな」


 ずーんと気を落とす先輩を無視して、鳥類を観察する。

 やだ、動物園案外楽しい!


「あ、なんか鶴っぽいのいますよー」

「ぽいっつーか鶴だろ、あれ」

「へ? 鶴って絶滅してるんじゃないんですかー?」

「いや、勝手に絶滅させんな。生きてるから、ちゃんと生きてるから。数は少なくても頑張って生きてんだ、あいつらも」


 へー、自然界も頑張ってるわけですね。

 ふむふむと頷きつつ感想を述べる。


「なんかぼっちみたいですねー」

「やめろ、ぼっちは絶滅危惧種じゃねぇよ。絶賛増殖中だわ」

「日本の未来が心配です……」


 ぼっちが増殖中とか先が暗いよ。

 誰か! 誰か友達になってあげて!


「お前ぼっちのスペックなめんなよ。あいつらやることねぇから無駄に技術力高いぞ。日本の技術力はぼっちで成り立っていると言っても過言じゃない。昔から天才はぼっちだしな。逆説的にぼっちな俺天才」


 信じられない!

 なんの説にもなってないんですけど。

 なに堂々と宣言してるのこの人、頭大丈夫かな。


「全く納得がいかないんですが、それは」

「頭で考えるんじゃねぇんだよ。心で感じろ」


 言って、先輩はふっとニヒルな笑みを浮かべる。

 か……、かっこよく、ない。


「なにちょっとかっこいいこと言ってはぐらかそうとしてるんですか。そういうのリアルで言われても寒いです」

「お前そういうのリアルタイムで言われてる俺の身になれよ……。なんだよ寒いって、夏だぞ今」

「悪寒がするって意味ですよー」

「いや、はっきり言わなくていいからね?」


 他愛もない会話をしながら足を進めようと踏み出す。

 が、あぁと立ち止まる。


「どうした?」


 不思議そうな顔をして訊いてくる先輩。

 なんて言おうかな。

 いつも通り、いつも通り。

 そう思っても、なんか恥ずかしくって、少し目を伏せながら先輩に提案する。


「そ、その……、写真撮りませんか?」


 ケータイを持ち上げて、ちらと顔を窺うと自分の顔がにやけてしまったのが分かった。

 慌ててまたうつむき、静かに答えを待っていると、か細い声が耳に届く。


「お、おう……」


 ぐっと心の中でガッツポーズを決めているわたしがいた。

 そうと決まればと、なるべく動物の固まっている位置へ陣取り、適当な人に撮影を頼む。


「ほらほら、先輩! 笑ってくださいよー! ピースですよピース! あ、ピースって知ってます?」

「知ってるわ。バカにし過ぎだろ。これでもプリクラでピースしたことあるんだぞ」

「はいはい、そういうのいいですから」

「なっ、お前信じてねぇな!」


 抗議の声を荒げる先輩をスルーしていると、撮影を頼んだ人から声がかかる。


「撮りますよー?」

「はーい! お願いします!」


 言って右手を繋いだまま、わたしは左腕で先輩の腕に抱きつき、もはやマスターしたと言っても過言ではないキメ顔をばっちりカメラ目線で晒す。


「ちょっ、おまっ」

「はいっ、チーズ」


 カシャっとシャッター音が耳に届き、お礼を言いつつケータイを受け取る。

 先輩はあまり笑っていないが、照れ臭そうな感じなので、まあ、オッケーだな。

 わたしはもちろん満面の笑みである。


「先輩にも送っときますねー!」

「いや、いらねぇよ」

「夏休みですよ!? 毎日わたしの顔が拝めないんですよ!?」

「なんで俺が毎日お前に会いたがってるみたいな言い草なんだよ」

「だってそうじゃないですか」

「ちげぇよ」

「とにかく! 送りますからね! 大切に保管してくださいね! 削除したら怒りますからね」

「えぇ……」


 がっくりと肩を落とす。

 そんな凹まれるとこっちも結構悲しいんですが。


「ふふっ、仲がよろしいんですね」


 唐突に横から声がかかる。

 顔を向ければ撮影してくれた人が立っていた。

 うわ、なんか恥ずかしいな。


 お嬢様然としたその人は、なにかに気づいたらしい。

 一点だけ清楚とはかけ離れて好奇心の色が浮かぶ瞳を、顔ごとわたしたちに近づけ、小さく囁く。


「そ、その、どうすれば、そんなに仲良く出来るのでしょうか? 私、気になります」


 清楚美人の恥ずかしそうな態度に、なんか悪いことでもしてるような気分になってくる。

 なんだこの背徳感は……、そりゃ手も出しにくいわ。

 でも、男は背徳感で獣化《ビーストアウト》するってはるのんが言ってたな。

 そうなると……。


「あの人が彼氏ですかー?」


 ちょっと離れたベンチに座っていた癖っ毛の男に視線を向けて問うと、彼女はただでさえ大きい目を見開いた。


「か……、は、はい。お付き合い、させて頂いてます」


 か、堅い。

 顔真っ赤だし。

 にしても……あれが、彼氏ねぇ。

 覇気がない、やる気がない、元気がない。

 いつもの先輩のような人である。

 しかし、目が腐ってない分、先輩よりイケメンかもしれない。


「どんな人なんですかー?」

「えっと、その、優しい人なのですが、……ものぐさと言いますか」


 ものぐさ!

 マジで先輩かよ!


「あー、あれです。積極的になればいいと思います。恥ずかしさも我慢してアタックアタックです!」

「お前、適当なこと言うなよ……」

「いやいや、適当なんかじゃないですよー! ほら、先輩もわたしと手繋いでドキドキしてるじゃないですか?」

「は、はぁ? してね——痛っ!」


 舌を噛んだらしい。

 口を押さえてじっと睨まれてしまった。

 えー、今のわたしのせいなのー?


「……アタック」

「そうです! とりあえず腕にしがみついてみるといいですよ! 嫌そうな顔しても、好きな人にそういうことされて嫌がる男なんていませんから!」


 とかなんとか言いつつ、先輩の腕にしがみつく。


「いや、お前がやる必要ないから。暑いから」

「先輩汗くさーい!」

「だったら離れろよ……。自分の汗くささくらい自分でよく知ってるから。クラスの女子とかなんであからさまに鼻つまむの? 制汗剤つけると笑われるし。もうどうすればいいの俺」

「あ、あー、ごめんなさい」

「謝んなよ、泣きたくなんだろうが」


 どこもかしこも地雷だらけである。

 カンボジアかよ。

 いや、埋蔵数ならエジプトが一位だったかな。

 基本的に先輩が暗くなるだけだから、まあいいんだけど。

 先輩とくだらない話をしていると、くすりと笑みが耳に届く。


「ふふっ。積極的に、ですね。頑張ります!」

「はいっ、頑張ってください!」


 びしっと敬礼して、清楚美人を送り出す。

 うーん、あの胸、分けてくれないかなー。

 露出は少ないが、夏服のためか揺れているのが分かる彼女の胸部を見てわたしは微かに眉を顰めた。



 清楚美人が勇気を出して腕に抱き着くのを見届けた(えいっとか言ってた、かわいい)わたしたちがゆったりと足を進めると、またしても立ち止まらざるをえない動物が視界に入ってくる。


「先輩! ペンギンですよ、ペンギン! やばっ、超かわいいです! ほら、こっち向いてますよ!」


 ほわーと、ペンギンのかわいさに心奪われていると、横からなにやら豆知識が入る。


「ああ、ペンギンの語源ってラテン語で肥満って意味らしいぞ。そう考えるとあれだな。メタボサラリーマンが営業で外回りしてるみたいだよな」

「へー、物知りさんですね! でもやっぱりかわいーですよー。人間が太ってるのは醜いだけですけど、動物が太ってるのは愛らしくないですか? ぎゅーってしたくなりますよね!」


 あのなんかぼてっとした感じがいいんだよなー。

 別に太ってなくても充分かわいいけど。

 いーなー、このくらいかわいければ人生楽そうだなー。

 悲痛過ぎる願いだった。


「そう言われると……そうかもな。っつーか、なんか意外だな」

「はい? なにがですかー?」


 先輩の言葉を不思議に思って顔を見ると、先輩はわたしと目を合わせてなにやら考える。

 そして、ふむと納得したように頷いた。


「また、かわいーって言ってるわたしかわいーアピールだと思ってた。まあ、人間が太ってるのは醜いってセリフはどうかと思うがな。あいつら太ってなくても醜いし」

「あー、いや、わたしだって本当にかわいいなって思うときくらいありますよー! 先輩のセリフの方がよっぽどなんですが……」


 なんだ太ってなくても醜いって。

 人間なんてそもそもが醜いとか哲学的なことでも言いだすつもりかよ。

 その結論にはもう既に至ってしまっているけれど。


「なんだ計算ばっかじゃねぇんだな、お前。人間なんてそもそもが醜いんだよ」


 そりゃ計算出来ないこともあるし、計算しないときもある。

 ていうか、予想と全く同じ言葉だった。


「先輩はわたしのことをなんだと思ってるんですかね、本当に。だいたい先輩にそんなことしたって意味ないじゃないですか。先輩捻くれてるし、疑い深いし、醜いし」

「ちょっと? 最後のいらなくない?」


 前二つを認めてるあたり、やっぱり先輩は先輩だな。

 どうせなら全部認めればいいのに。


「人間はそもそも醜いならまちがってないじゃないですかー。いつまで猛禽類になってるつもりですか」

「まちがってねぇけど、横にいるやつに言うとかまちがってんだろ」

「先輩にそんな気遣いいらないです」

「お前設定はどうしたんだよ……、いつも通りじゃねぇか」


 完全に忘れてた。

 別に好きな相手に醜いとか言うし!

 最近の女子高生超言ってるし!

 うっわ、最近の女子高生怖過ぎだろ……。


「あれです、ツンデレです! さっきは醜いとか言っちゃってごめんなさい。先輩はとっても素敵ですよ?」


 適当なことを言いつつ先輩の肩に頬ずりすると、先輩は口をへの字に曲げてつぶやく。


「うわ、全然萌えないんだけどそれ。鬱陶しい……」

「ひっど……」


 いつものように、いつも通りに、そんなバカみたいな会話を繰り広げる。

 どれだけ悪口のようなことを言い合っていても、それがわたしとこの先輩とのコミュニケーションの取り方なのだ。

 なんかまちがってるなー。


「あ、アシカ! アシカですよ、先輩! アシカってネコ目なんですよ、知ってましたっ?」


 柵から少し乗り出して興奮気味に無駄知識を披露すると、少し感心したような声音で返事がくる。


「へー、そう言われるとどことなく猫っぽく見えてくるな」

「いや、ネコ目イヌ亜目なんで、どっちかっていうと犬よりだと思いますけどねー」

「へー、そう言われるとどことなく犬っぽく見えてくるな」

「うわー、この先輩適当だなー」


 かくっと肩を落とす。

 アシカと目が合った。

 かわいー!

 ふりふりと手を振ってみると、顔を背けられた。

 かわいくなーい!


「英名はシーライオンらしいですけどね」

「なんだそれ……、まあ、動物の名前なんて基本的に適当だしな。海に住む鹿で海鹿《あしか》だとか、海に住む驢馬《ろば》で海驢《あしか》だとか」


 ふっと呆れたようにため息を吐く先輩の顔を見る。

 信じられないくらいドヤ顔だった。


「きゃー、先輩博学ですねー」

「棒読みやめろ」

「なんかドヤ顔がウザかったんで、つい」


 包み隠さず告白すると、先輩はうげぇと顔を歪めて文句を垂れる。


「なんでもかんでも正直に言えばいいってもんじゃねぇぞ……」

「素直な女の子ってポイント高くないですかー?」

「そういうのを素直とは言わない」


 言って、そっぽを向いてしまった。

 一応、フォローを入れておこうと、なんだか拗ねてしまった先輩に微笑みかける。


「まあまあ、……こんなこと言うの、ゴ……先輩だけですよっ」

「おい、今ゴミって言いかけなかった? なんで追い打ちかけるの? なにお前、俺の敵なの?」

「こんなこと言うの……先輩、だけですよ?」

「なんだこれ、嬉しくねぇ……」

「あはっ。ん、なんか地下通路があるみたいですよー! 行きましょう!」


 項垂れる先輩を引きずって地下通路へと入って行く。

 暗い通路からは水槽の中で泳ぐアシカとペンギンが窺えた。


「なんか水族館っぽいですねー」

「だな」

「暗闇……、後輩……、女子……、繋がる手……」

「おい、やめろ。変なことつぶやくな」

「えー、事実しか言ってませんよー? なんか想像しちゃいました?」

「お前な……」


 いちいち過敏に反応してしまううぶな先輩かわいーと、にやにやしながら歩みを進める。

 地下通路を出て次は草原ゾーン。

 アフリカ・アジア・オーストラリアに生息する草食動物を観れるのだとか。

 先輩がパンフレットを見ながら、なんでライオンが居ないんだとテンションを下げていた。

 が、それも着いてみれば一変。


「おおっ! キリン近ぇ……、首長……」

「キリンもなんかよく見るとかわいい顔してますねー!」

「いやでもこいつかわいい顔して凄まじい脚力誇ってるからな。ライオンすらキックで一発KOらしい」


 ヒキペディアさんから解説が入る。

 ライオンにも勝てるのか、動物を見た目で判断してはいけない。


「だから子供が狙われるとか」

「うわ、げすい」

「そう考えると、人間も動物も似たようなもんだなー。キリンとかなんかお前っぽいわ。近寄ると危険なところとか」


 引きこもりさんがなんか言った。

 聞き捨てならないセリフだ。

 握力検査よろしく手に力を込める。


「へぇ……」

「いや、待て、冗談だから! 痛っ、痛い! 痛い!」

「わたしも痛いです」

「なら」

「心が」

「……いや、マジですまん」


 しょぼーんと本当に反省しているような雰囲気を漂わせる先輩にふっと笑いかける。


「ま、冗談ですけどね。キリンに似てるってことなら、もう一つの方もそうってことですし。わたしと先輩の仲ですから許してあげましょう」

「じゃあ、なんで怒ったんだよ……」


 怒られ損だとばかりにふてくされる。

 そこを察せられないのはポイント低いなー!

 先輩らしいからそれでいいんだけど。


「……わたしも先輩も、照れ隠しが下手くそだってことじゃないですかね」


 ぼそっと地面に向けて言葉を落とす。

 なんか恥ずいな、これ。


「は? あ、あぁ……。なんだ、あれだな、そういうの、言われ慣れてんじゃねぇのか」

「慣れてますねー。そう言われるために生きてきたようなもんですし」


 今までかわいいと言われるように頑張ってきたのだ。

 実際、かわいいと言われたことなんて何度もあるし、わたし自身かわいく出来ている自信はある。


「でも、そこらへんにいる人と、大好きな人に言われるのを一緒にしないでください。わたしは、先輩に言われたから照れてるんですよ?」


 顔が熱いけれど、頑張って先輩に笑顔を見せる。

 先輩は固まってしまう。

 今、脳をフルに使ってどういう意味か考えてるんじゃないだろうか。

 そう思うと笑えてくる。


「……そういう設定だったな。すげぇな、お前。ちょっと危うかったわ。並みのぼっちなら告白して振られてる」

「なんでぼっち限定なんですかね」


 ていうか、並みのぼっちってなんだよ。

 ぼっちのエキスパートとかスペシャリストとかいるの?

 なにその称号、すっごい悲しい。

 でも、うん、チャンスかもしれない。


「あと、先輩なら振りませんよ〜?」

「やめろ、誘惑すんな。俺の黒歴史が増える」


 ガード固くなってた。

 隙が見当たらないなら、削るしかない。


「わたしの手はいつでも先輩のために空けときますね」

「な、なにが目的だ……」

「ハグも腕組みも先輩限定のオートスキルです」

「独占欲まで満たしてくれる……だと……」

「永久オプションで一人でいる時間とアニメ等々の趣味も許容出来ます。もちろん三食食事付きですよ」

「ぼっちとオタクに対する理解も備えてるとか、なんだこの無双感……」

「その代わり頑張って働いてくださいね」

「それは無理だな」


 ダメかー。

 肝心要の部分がダメ人間なんだよなー。

 まあ、最初っから話し方がほぼノリだったけど。


「でも、わたしとしては子供のそばにいてあげたいなーみたいな」

「ふむ……俺が育児するから安心しとけ」

「あそこのお家は〜とかご近所さんに噂されたらかわいそうかなーみたいな」

「人の噂に左右されない健全なぼっちに育てるからオールグリーン」


 全然グリーンじゃないんですが、それは。

 真っ赤だよ。


「先輩みたいに目が腐ったらどうするんですか!」

「そこは小町みたいな次世代を担うハイブリッドぼっちになれば大丈夫」


 小町ちゃんかー。

 かわいい、明るい、話しやすい。

 男だったらかわいいがかっこいいになるのか。

 なんだそれ、最高……あっ!


「だ、ダメです! そんなことになったら子供に悪い虫が!」

「はっ! その可能性は考慮してなかった! いや、待て。俺の子供がそう簡単に騙されるとは思えん」

「確かに……」


 納得してしまった。

 わたしと先輩の子供とか人間不信のスペシャリストになりそう。

 なにそれやばい。

 なにがやばいってマジやばい。


「じゃあ、問題は先輩が働かないことだけですかね。わたしが稼ぐしかないんですかね〜? 編集者ならいいんでしたっけ?」

「年収一千万以上ならぶっちゃけ誰でもいい」


 なんかクズなこと言い出した。

 なんだこのクズ。

 人間の風上にも置けない。


「それ全然誰でもよくないんですけど。二十代前半の平均年収って、確か二百五十万行くか行かないかぐらいですよ」

「だから歳上の女性をだな」

「五十代でも五百万くらいだったかと」

「なんでそんなに詳しいの……、いろはす怖い」

「わたしにも夢を見ていた時期があったってことです」


 愛さえあればいいとか、そんな綺麗事は腐っても口に出せないけれど、叶わない夢は見ないのだ。


「まあ、本気で言ってるとは思ってませんけどね。人生の苦さはよく分かってるでしょうから」

「女子高校生からそんな言葉を聞きたくはなかった……。人生って苦いなぁ」


 言って、黄昏るように空を仰ぐ。

 が、数秒でなにかに気づいたような顔でわたしに向き直り、口を開いた。


「で、なんでこんな話になったんだっけ? なんで俺、お前と結婚して子供作る計画立ててんの? いつの間に誘導されたの? 今更になってめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど」

「そういうこと言われるとわたしもかなり恥ずかしんですが……」


 恥ずかしさが一周回って恥ずかしくなくなっちゃうレベル。

 本当になんでこんな話になったんだろうか。

 確か最初はキリンの話だったのに。

 キリンからなにがどうなって年収の話になるのか、謎過ぎる。

 動物園でなに話してんだろ。


「言う割には恥ずかしそうじゃねぇな」

「先輩もそれほどじゃないじゃないですかー」

「いや、なんか恥ずかしさが一周回って恥ずかしくないみたいな。……変な境地に達した」

「あ、同じこと考えてました」

「は?」

「え?」

「…………」

「…………」


 なんだこの沈黙。

 なんだこの沈黙!

 恥ずかしさが二周目に入ってこみ上げてきた、ただし一周目の恥ずかしさも復活みたいな!


「あー、そう、キリンの話だった。脚長い! 脚細い! 羨ましい! みたいな話だったよな、うん」

「そ、そうで……」


 そうだったっけ?

 いや、まあ、この際なんでもいい。


「そうでしたね! 細いけど意外と蹴りはヤバいんだ的な! ライオンでも倒せるとかやばいですねって感じの!」

「おう、そうそう、そんな感じ」


 ライオンでも倒せるとか実際やばいな。

 キリンの強さを垣間見た瞬間だった。


「人間で喩えたら、いつもは日和ってるけど、本気出せばはるのんを一発KO出来る的な感じですかね?」

「あー、そんな感じかもな。んー……、ん? それ、誰、だろうな?」

「…………」

「…………」


 やっば、全然想像できないんだけど。

 誰だろう。

 そんな人いんのかな。


「世界は広いですからね……」

「……だな。どっかにいるかもな」


 はるのんを一発KO出来る人間、か。

 うっわぁ、なんだそれ。


「会いたくないですね」

「会いたくねぇな」


 見事なハモりだった。

 思わず顔を見合わせ、少し照れくさくなって、くすりと笑みをこぼす。


「案外、似てるところもあるもんですね」

「だな。全然違うのにな」

「人間誰しも誰かに似てるのかもしれません。共感出来るかは別として」


 誰しもが誰かに共感出来るわけではない。

 わたしはあなたに共感している、と口に出すのは簡単だけど、相手の一部分と自分の一部分が同じだから考えが同じなわけではない。

 最終的には全体と全体を比べて違う人間だと認識するのがオチだし、的外れな共感は世界に溢れてる。


 類似点を見出し相手の素行から思考を予測して、自分の感情を上書きしてようやく共感、いや、ここまでして尚分からないときの方が多い。

 ここまで行くとむしろ感情移入って言った方が適切か。


「共に感じる、ね。類語は同感だし、同じ感情を持つって考えると気味が悪いな。まあ、他の誰とも違うってのもそれはそれで気味悪いが」

「それでも、同じ感情だって認めざるを得ないときがありますよね。相手の考えが透けて見えたとき、とか」


 口に出されなくても気づいてしまったとき。

 次にその口から飛び出す言葉が分かってしまったとき。

 誰かがなにをしたいのか読めてしまったとき。


 それはきっと、同じことをしたことがあるから、同じ感情を抱いたことがあるからなのだ。

 人の心理が読める人ほどきっと、人の汚なさをよく知っている。


「まあ、な。一瞬、嫌になるな。でも、やっぱりそういう自分は嫌いじゃない」

「わたしも、汚ない自分は意外と嫌いじゃないです。いえ、嫌いじゃなくなったんですかね」


 どれだけ言葉で嫌いじゃなくなったとか言っても、わたし的にはあんまり好きでもないのだけど。

 その汚なさを受け入れてくれる人が存在するなら、これは持っておいても悪くない。


「俺も案外、お前の汚なさは好きだな。あんま隠してないしな、お前。綺麗なやつの裏側が汚ないのは少なからず衝撃があるもんだが、そんなに綺麗でもないやつの裏側が綺麗じゃなくても清々しいだけだ」


 前言撤回。

 わたしは自分の汚なさがかなり好きです。

 好きな人の好きなものはまとめて好きだ。

 三浦先輩の影響を受けたこのシンプルさもわたし的にかなり好きだな。

 単純思考は楽でいい。


「隠せてないだけですけどね」

「隠せてはいるんじゃねぇのか? 学校では人気者だろ、お前」

「わたしの汚なさが分からない人は、見えてないか、見てないだけです。外面も含めてわたしの汚なさですから。わたしみたいなのは適当に肩書き拾っていい人ぶってれば人気取りくらいわけないですよ」


 見えてないし、見てない。

 見ようとしてない。

 わたしがそうであるように、彼ら彼女らもわたしの内側には興味がない、というより、わたしの一部にしか興味がないのか。

 かわいい子だから、使える。

 そういう感じで人間関係は形成されてるのだ。


「拾ってっつーか、そりゃくっつけただけだけどな。俺が。俺が、お前を巻き込んだだけだ」

「このシール、便利なので感謝してますよ。まあ得た分苦労も増えましたけど、やらなきゃなにも得られない。生産性のない人生は嫌いです。退屈は人をダメにします」


 時間は持て余してはいけない。

 一分一秒使い果たして然るべき。

 目標はあるべきだし、目標が達成出来なくとも、わたしはそれを無駄だとは思わない。

 なにかを得るために使った時間なら、それを惜しむ理由はどこにもない。


 無駄だ無駄だと考えることを放棄すれば、それこそなにも得られない人生になってしまう。

 それをどう活かすかは自分次第だ。

 だから、わたしは多分、これからも悩み続ける。


「強いな、お前」

「強くはないですよ。面倒だと思うことも、逃げたいと思うことも人並みにあります。でも、なにかを得たいのなら、やっぱり自分の足で動いて、自分の目で確かめて、聴いて、触って、五感どころか第六感まで駆使して足掻くしかないじゃないですか」


 人間の弱さなんて、自分の弱さなんて、どうしたって消えない。

 どこかが強ければ、どこかが弱い。

 そんなものは剥がせないから、せめて誰かの前では強くありたい。

 誰かの前では素敵でありたい。


「自分で、か」

「自分で、です。願っても望んでも手に入らない、守れない、近づけない。神様仏様が頼れないなら自力でやるしかないでしょう」


 そんな存在も危ういものに頼るのが、そもそものまちがいだ。

 友達やら先輩やらに頼む方がまだマシ。


「わたしはどうでもいいことは結構他力本願ですが、大切なことは自分でやりたいです。自分で手に入れたものじゃなきゃ、それが本当に大切かどうかも分かりませんからね」

「……本物は、見つかったか?」


 その質問に、少しだけ胸がどきりとした。

 本物。

 あのとき、はるのんの弱さを見たとき、わたしは本物を目標に据えるのをやめた。

 今でも欲しいけど、今でも分からない。

 多分、手にしてみるそのときまでわたしには分からないのだと思う。


「まだ、見つかってません。ただ、本物を追うのはやめました。先輩たちの関係の中にそれを見つけようとするのも、やめました」

「そうか。諦めるのか?」

「いえ、諦めません。けど、見えないものを目標に据えても迷うだけですから。結果としてそれが手に入れば、いつか分かれば、それで上々かなって」


 仮に先輩たちの中に見出したとして、それはわたしにとっての本物ではないのだと思う。

 きっと、その価値観は、その定義は、それぞれがそれぞれ異なる形で抱くもので、最終的には自己満足だから。

 先輩の本物を見ただけでは、わたしは自己満足も出来やしない。


「見えないもの、か」

「もし途中で見えれば、そのときはそれに向かって真っ直ぐ行くと思います。見えなくて手に入ったなら運が良かったんでしょう。見えなかったら、手に入らなかったら、それはわたしには見えないもの、縁のないものだったんでしょう」


 そんな簡単に割り切れるかどうかは甚だ疑問だ。

 だから、わたしはいつまでも求め続けるのだと思う。


「じゃあ、それに関して俺に出来ることはなにもないな。だから、まあ、なんだ。がんば……ってるし、なんも言えねぇな……」

「そういうときは、愛してるでいいみたいですよ」


 小町ちゃんからメールで伝え聞いたセリフを告げる。


「はっ、んなもん言えるか。妹専用コマンドだ」

「なにも言ってくれないんですか〜?」

「見てて……いや、もう見てるしな。なんだ。なんて言えば……、ああ、そうだな。それなら、せめて、願っとくわ」


 願いか。

 願うだけなら誰にでも出来る。

 けれど、他人の未来を願うことは誰にでも出来ることじゃない。

 そこらへんが、わたしと先輩じゃ違う。


「努力には正当な報酬が与えられるべきだが、俺が与えられるものはない。だから、まあ、たった一人の後輩の努力が実を結ぶのを願うくらいなら、やぶさかじゃない、な」

「言ってるうちに恥ずかしくなっちゃいました?」

「は、はぁ? ぜ全然そんなことねぇし。お前が不幸だと雪ノ下も由比ヶ浜も小町も悲しむからな。そういうじめっとした空気は嫌いなんだよ、俺は」


 照れ臭そうに言い訳を付け足す先輩にくすくすと笑いながら、わたしは満面の笑みで言葉を返す。


「ふふっ、そうですかー。先輩の願いなら、わたしは必ず叶えて見せましょう。なにせ大好きな先輩のお願いですからね」

「あぁ、そう……」


 いまだ慣れないらしく、セリフは素っ気なくも分かりやすく狼狽する。

 わたしも慣れてはいないので、やっぱり恥ずかしいのだけれど、それでも、それより。


 ——幸せだな。


 と、そう思った。

 大好きな人に、好きなだけ大好きだと言えるのは、とても素晴らしいことだと思う。

 なーんか、気分が楽になるんだよなー。

 先輩と一緒にいられるのは、手を繋いでいられるのは、他愛ない話を延々と続けられるのは、わたし史上最高で最大に幸福なことだった。


 わたしが先輩にプレゼントを渡す日なはずなのに、わたしが一方的にたくさんもらってしまっているようで少し申し訳ない。

 先輩は、今日を楽しめているだろうか。

 わたしといて、楽しいと思ってくれているだろうか。


「先輩、今、楽しいですか?」

「あ? ああ、自分でもかなり楽しんでるって自覚はある。動物園やべぇな」


 言いながらも、少年のような瞳で動物を眺める。

 その言葉に嘘偽りはなさそうだ。


「そうですか。なら、いいです」


 それなら、今、わたしは、まちがいなく幸せだ。

 幸せのあとに来るのは不幸せだと相場は決まっている。

 だから、これが潰れるくらいの不幸せが訪れるのかもしれないけど。


 ——それでも、今、わたしは、まちがいなく幸せだ。


「えらくご機嫌だな」

「先輩と一緒だからですね」

「……落ち着かねぇ」


 なにがだろうか。

 心臓の鼓動が、という意味ならば、わたしも終始けたたましい音を奏でいる。

 わたしも血の通った人間なのだと常に実感させられるくらいには、熱く脈打っている。

 ドキドキする。


 ちらと先輩を窺えば、ちょうど目が合った。

 お互いに固まってしまう。

 真っ昼間、動物園、周りを人が往来する場所で、ほんの僅かな時間、見つめ合った。

 ばっとどちらともなく視線を外す。

 視線の先にいたのは一頭のシマウマだった。

 シマウマを見て心を落ち着かせるという謎工程。

 ふぅーっと息を吐くと、徐々に視界が広くなる。


「あ」

「ん?」

「先輩、あのシマウマ……ぼっちです」

「ぼっちだな。だからなんだ、また俺に似てるとか言い出すなよ」


 二の句を言われてしまった。

 そんなことを言ってるうちにぼっちだったシマウマは自然と群れに混じる。

 なんだ、たまたまか。


「たまたまだったな」

「ですねー。残念」

「なにが残念だ」

「ぼっち同士惹かれ合うものがあるんじゃないかなーとか」

「バカか。ぼっちは反発すんだよ。相手がプラスなら俺もプラス。相手がマイナスなら俺もマイナス。ぼっち同士が惹かれ合うならぼっちなんていねぇ」

「へぇ」


 と。

 なぜか納得してしまった。

 反発かぁ。

 まあ、このコミュニケーションがあーだこーだと騒がれているご時世にぼっちだというのは、それだけで社会反発なのかもしれない。

 とってもどうでもいいことを考えているわたしでした。


「そろそろお昼にしましょうか」

「ん? おぉ、もう昼か……」


 だいぶゆっくり周っていたからだろう。

 時計の針は十二時を指し示そうとしている。


「んじゃ、行くか」

「はいっ」



  ****


 園内のレストランで昼食を摂る。

 先輩はハヤシライス、わたしはデミオムライスを頼んだ。

 美味しいか不味いかで言えば普通。

 美味しいか不味いかじゃないのかよ!


「先輩はなんで友達作らないんですか?」


 なんとなく。

 本当に、特に意味もなく訊いてみた。


「人間強度が下がるから」

「……は?」


 人間強度ってなんだろうか。

 わたしの知らない言葉が世の中には溢れてるんだなぁ。


「えっと、ごめんなさい。ちょっと意味分かんないです。キモいです」

「キモいは余計じゃないの……?」

「キモいと先輩は切っても切り離せない関係なんです」

「なんだその特別な関係。超嫌なんだけど」

「キモいは友達、みたいな」

「そんな友達ならいらない」


 断固として拒否する。

 心なしかテンションが落ちていた。

 それも一瞬のこと、すぐさま切り替えて話を戻す。


「まあ、俺の場合はあれだ。友達作らないわけじゃなくて、作れないだけだから」

「駄目な先輩だった……」

「うるせぇ、ほっとけ」


 怒られてしまった。

 友達作れないだけ、か。

 友達を作る気がないわけじゃないのか。


「ま、友達を作ることになんの意義があるのかしれませんし、それでもいいのかもしれませんね」

「よく分かってんな。そう、友達なんて作っても卒業したら会わないんだから、いてもいなくてもいいんだよ」

「開き直るところでもないと思いますけど……」

「だいたい、あれだ。そういうの嫌なんだよ。『俺ら友達だろ?』とか『友達なんだからいーじゃん』とか。気色悪い」

「ははぁ……」


 そういうことか。

 友達を作りたくないわけじゃない。

 でも、薄っぺらい友達ならいらない。

 つまり、あれか。


「理想高い系なんですね」

「まあな」

「一人くらい……、いや、二人いるんでしたっけ? 材木? と、戸塚先輩」

「材木座は友達じゃねぇ」

「いやいや、同類じゃないですかー」

「一緒にすんな。俺は中二病じゃない」

「そういう問題ではない気がしますが……」


 まあ、違うというのならそれはそれでいい。

 端からみれば友達にしか見えないけど。


「お前は友達とかたくさんいそうだよな」

「今なんか友達の後ろに(笑)が見えたんですけど、どういうことですかね」

「気のせいだ」


 バカにしくさった態度である。

 まあ、確かに友達と言ってもそんな大切にも思っていない。

 わたしの友達。


「多分、本当に大切な友達は一人しかいませんね」

「へぇ。雪ノ下か? 由比ヶ浜か? 小町?」

「いえ、違いますよー。奉仕部員は大切な先輩方と後輩ですから」


 厳密に言えば、あの人も先輩なのだけれど、しかし、友達だと言われたのだから、友達でいいのだろうと思う。

 わたしの大切な友達だ。


「それ以外ってなると……俺の知らないやつか」

「先輩も知ってますよ。はるのんです」

「は? はる……雪ノ下さん?」


 あ、信じてない。

 まあ、気持ちは分からないでもないけど。

 わたしだって、はるのんと友達とかなんか不思議な感じだ。


「マジで?」

「マジですよー。友達って言われましたから」

「友達ね……」

「信頼とか微塵もないですけどね。親密ではあるんじゃないかと思います」

「信頼、してねぇのか」

「当たり前じゃないですか。あんな人信頼したらいつの間にか死んでますよ」

「確かに」


 納得されてしまった。

 どんだけヘイト集めてんだよ、あの人。

 敵なのだろうか。

 敵だとか味方だとか関係なく、なんでも利用しそうだけど。


「それが、お前の友達の定義なのか?」

「どうでしょうねー。でも、そんな簡単に人を信じちゃうような人と深く付き合いたいとは思いませんね」

「は? どうして」

「簡単に裏切りそうじゃないですか。裏切られそうだし。無垢な信頼心は罪、らしいですよ」

「はぁー、まあ、確かにな。無垢な信頼心が実在するかどうかは分からんが」


 疑うことを知らない人間なんているのかな。

 まだ年端もいかない子供なら、ありえるのかもしれない。

 誰でも信じちゃうやつは、裏切っていることにも、騙されていることにも気づかなそうだから怖い。


「穢れた警戒心なら、実在しそうですね」

「はっ、嫌味か」

「まさか、違いますよ〜」


 嫌味じゃなくて自虐である。

 今、この瞬間、先輩すら疑っている。

 結衣先輩とのデートという建前の奥にどんな目的があるのか。

 目的なんて、ないのかもしれないのに。

 ま、あったところでこっちの方が都合いいから言わないんだけど。


「先輩は……、結衣先輩や雪ノ下先輩のことを信頼してるんですか?」


 結衣先輩の一件で、相手を疑わないことがどういうことかは身に染みているはずである。

 それでもまだ疑わないというのなら、それはそれでいいのかもしれないし、信頼はしないというのなら、それもそれでいいのかもしれない。


「あー、どうだろうな。……多分、してねぇな」

「そうですか」

「誰だって嘘をつくし、誰にも任せちゃいけねぇんだと思う。欠点を見逃すようなことは、もうしたくない」


 欠点を見逃す、か。

 確かに、そういうことなのかもしれない。

 自分勝手に下した評価を押しつけて、そのうえ全てを任せようだなんて、それこそ欺瞞だ。


「優しいだけの人間なんていないって、そんなこと、知ってたはずなのにな」


 感慨深げにつぶやく様は、一見すれば後悔しているようにも見える。

 信頼することがいいことだとは思わない。

 でも、圧倒的悪ではないのだと思う。

 きっと、それで上手くいく関係性もあるのだ。


「まあ、結衣先輩の優しさは、それがあっても余りありますけどね」

「まあな。あんなやつがどうして俺なんかのことをって思うわ。道を踏みまちがえてる気がしてならない」

「ですね〜」

「否定しろよ」


 なんでこんな人を、と思ったことなんて数えきれない。

 けど、多分、もう理屈じゃない。

 どこが好きかと訊かれれば答えられはするけれど、そういうことじゃないのだ。


「どこを好きになったんだろうなーって思うとき、本当よくあるんですよね」


 けたけたと笑いながらそう言うと、先輩は苦い顔を浮かべて嘆息する。


「お前、ちょっとは遠慮しろよ」

「嫌ですよ、先輩に遠慮なんて。先輩のいいところ、結構知ってますけどね」

「言ってもいいんだぞ」

「調子に乗られると困るので遠慮しときます」

「なんでそこだけ遠慮すんだよ。ほんっと、かわいくねぇなぁお前……」

「しょうがないですね、かわいくしようとも思ってないですし。だいたい、そういうことじゃないんですよねー」


 わたしの言葉に、先輩ははてなマークを頭上に浮かべて首を捻る。


「理論とか論理とかって話じゃないってことですよ。ここがこうだからこうだ、とか、説明できるものじゃないんです」

「はぁ、なんか面倒くさそうだな」

「いえ、案外単純ですよー? ただ——」


 どこが好きだとか、そんなことを考えるよりよっぽど簡単だろう。

 曖昧な返事をしつつ、ハヤシライスを口に運ぶ先輩に、にっこりと笑みを向けて答えた。



「好きだから、好きなんです」



 言い切った瞬間、先輩の目は見開かれ、店内にけほけほと咽せる音が響いた。

 しばらくすると、落ち着いたのか、僅かに涙を浮かべて、恨みがましい瞳で睨めつけてくる。

 そんな視線を軽く流して、わたしは再び口を開いた。


「ね? 簡単でしょう? だーい好きですよっ? せーんぱいっ」

「声上擦ってんぞ」

「ふぅ、わたしもまだまだですね。今の超恥ずかしかったです」


 おそらく上気しているだろう頬が熱い。

 視線をそらしてぱたぱたと顔を仰ぐ。


「なら、やんじゃねぇよ……こっちが恥ずかしいわ」


 横目でちらと先輩を窺えば、そっぽを向いていた。

 その横顔が僅かに赤らんでいるのを見て、わたしは満足気な笑みをこぼしてしまうのだった。



 デミオムライスも残り三口に迫る頃。

 先輩はとっくに食べ終わっており、わたしは話題を提供してはスプーンを休め、提供しては休め、をエンドレスにリピートしていた。

 エンドレスとかエターナルとか聞くと、ラブソングが頭に浮かぶ。

『Eternal Love』とかね。

 超どうでもいい。


 残り三口のデミオムライスを一口分掬うと、そこでわたしの脳内にピコンと閃きマークが現れた。

 わたしともあろう者が、お約束を忘れていた!


「せんぱーい」

「あ?」

「あーん」


 そんなことを言って、ずいっとスプーンに乗せたデミオムライスを差し出す。

 先輩の顔が引き攣ったのは言うまでもない。


「お前の敗因は無理矢理口に突っ込まなかったことだな」

「それじゃいつもと変わらないじゃないですか〜。だから、あーん、です」


 ぐいぐいっと近づけると、先輩もそれに合わせて仰け反る。

 強情だなー。


「いや、しねぇから」

「お腹いっぱいだなー。もう食べられないなー。誰か食べてくれないかなー。あ、こんなところにいい先輩が! はい、あーん」

「しないっつの。なんだその茶番」


 早く食えとばかりに手をひらひらさせて、呆れたような顔を向けられる。

 ひどいっ!


「せっかく理由を作ってあげたのに! 合法的にこんなかわいい後輩と濃密な間接キスをするチャンスですよ!」

「なんで俺がいつもそんなチャンス伺ってるみてぇな言い方なんだよ……」

「え? 違うんですかぁ?」

「違ぇよ」


 即答だった。

 そうですか。

 わたしなんてアウトオブ眼中だと、そういうことですか。

 それなら、わたしにも考えがあります。


「あ、チャンス伺ってるのはわたしの方でしたね〜」

「そうそう……って、え? そうなの?」

「先輩と間接キスしたいなぁー」

「お前それなんか色々まずい気がするから、やめよう? な?」


 慌てた様子で宥めてくる。

 わたしの顔の熱さ数倍である。


「じゃあ、あーん」

「だから、しねぇって……」

「……焦らされてます。はっ! もしかして先輩って羞恥」

「やめろ! やめてくれ、頼む。マジで通報されちゃうから。落ち着こう?」


 きょろきょろと店内を見回し、注目が集まってないか確認する。

 すぐに通報とかって単語が出てくるあたり、先輩らしい。


「じゃあ、し」

「しない。しないが」

「え、先輩がさっき小声でこういうプレイがす」

「分かった! 落ち着け! まだ慌てる時間じゃない。オーケー。する、するから、待て」


 やったー!

 半分脅しみたいになったけど、やったー!

 わたし、ナイスファイト!

 先輩はといえば、ふーっと大きく深呼吸をして、覚悟を決めたらしい。

 たかだかあーんに信じられないくらい精神をすり減らしていそうだった。

 わたしのせいですね、ごめんなさい。


「はいっ、あーん、です」


 ものっすごい嫌そうな顔でスプーンをぱくりと咥える。

 抜き取ってあげれば、もぐもぐと口を動かす。


「どうですか〜? 美味しいですかー?」

「……味なんて分かんねぇよ」

「見事に意識しちゃってますね」

「お前、ほんっといい性格してんな……」

「きゃー、こわーい」

「棒読みやめろ」


 あーんしてもらおうと思ったが、これ以上はかわいそうな気がしたので、自分で口に運び、完食する。

 んー、美味しい!

 いい具合に変態化しているわたしだった。


「さてさて、では行きましょうか! さっきのお礼ってことで、ここはわたしが持ちますよ」

「お詫びのまちがいだろ。っつーか、金困ってんだろ? 俺が払うから」

「いいですよ。そのくらいさせてください。いつもお世話になってますからね」


 パッと伝票を取り、会計を済ませるために歩みを進める。

 後ろから届く先輩の声を無視して、代金をさっさと払った。

 店を出ると、先輩がお金を突き出してくる。


「自分の分くらいは出させろ。これは俺が頼んでんだから」

「ダメです。そのお金はそうですねー……、結衣先輩とのデートのときにでも使ってください」

「ダメだ。俺は養われる気はあっても、施しを受ける気はない」

「施しじゃないです。謝礼金です。先輩には受け取る義務があります」

「謝礼を受けるようなことはしてねぇ」


 ぐぬぬっと両者譲らずバチバチと視線が交差する。

 しばらくして、どちらともなく笑った。


「ふふっ」

「はっ」

「なにしてるんでしょうね、わたしたち」

「さぁな。まあ、バカなことやってんじゃねぇのか」

「ですね。ま、そのお金はわたしへのクリスマスプレゼントにでも充ててください」


 これ以上やっても平行線を辿るだけだと分かったのか、先輩は渋々といった様子でお金を財布にしまった。

 そして、ぶっきらぼうな口調で言う。


「ごちそーさん」

「いえいえ。今日はわたしがかっこつける番ってことで」

「それだと、なんか俺がいつもかっこつけてるみてえじゃねぇか」

「先輩はいつもかっこつけてますよ」


 それがかっこいいから、本当に困る。

 手に負えない。


「まあ、かっこつけきれずにキモくなるのが定番ですけど」

「ちょっと? それは酷くない?」

「そうですかね。先輩にはこのくらいでちょうどいいです。……あ、かっこつけるチャンスありますよ!」


 キラキラと目を輝かせて告げると、先輩は首をかしげる。

 しばし考えたのちに思い至ったらしい。

 しかし、うーんと悩む。

 ようやく決心したのか、それとも諦めたのか、片手で頭を掻き、そっぽを向く。


「行くぞ」

「はーいっ!」


 先輩はわたしの手を取って歩き出した。


  ****


 レストランを出て最初に向かった場所は、「家畜の原種ゾーン」という、なんだか子供の寄り付かなさそうなゾーンだった。

 もっとなんかなかったの?

 家畜の原種ゾーンて……。


「なーんか、アレですね……」

「まあ、言いたいことは分かる」

「いえ、別に楽しくないわけじゃないんですよ? トナカイとかバイソンとか見たの初めてですし、それなりに驚いてるんですが」

「なんかピンと来ないよな」

「はい……」


 メジャーな動物を見せられて家畜の原種ですとか言われても、イマイチ驚きがないというか。

 だいたい、なんの原種なのか書いてないし。

 まさかバイソンが既に家畜化されたものですとかないよな。

 それ全然原種じゃねぇからぁ。


「ヤクとバイソンは牛の原種なんですかね?」

「さぁ、どうだろうな。似てるからそれ系ではあるんだろうが……。まあ、そうやって見たほうが興味深いし、それでいいんじゃねぇの?」

「適当だなー。ま、それもそうですね。そうなると、トナカイは鹿でしょうか」

「ぽいな」


 進化、進化ねー。

 何年くらいかかるんだろうか。

 人間も進化するのかな。

 いつか指が六本になったりとか……、うわ、気持ち悪い。


「あ、ニワトリ」

「ほんとだー、ニワトリですねー! ニワトリは……、ニワトリは? ニワトリはー、ニワトリですね」

「だな。ちょっと尾が長いのがなんかアレなのかもしれん」

「ですねー」


 見なかったことにした。

 ていうか、ニワトリって名前な時点でなんだか家畜っぽいんだよなー。

 鶏が先に出来た漢字なのだとすれば、野鶏とかそんな感じならそれっぽい。


「あー、なんか物足りないなーと思ったら、先輩の原種がいませんね」

「ねぇ、それどういう意味?」

「どういう意味って……そのままの意味じゃないですか」


 やれやれとばかりにはぁと息を吐きながら答えると、先輩はむっとした顔をして反論してきた。


「いや、一応言っておくが、俺は家畜じゃないからな」

「え、うそ……」


 そ、そんなはずは。

 先輩が(わたしの)家畜じゃなかったなんて!


「嘘じゃないから。なんで絶句してんだよ」

「生活に役立つような人間にさせるために奉仕部に入れられてるんだとばっかり思ってました。あとほら、専業主婦とか言ってもカレーしか作れなさそうですし」

「なんか大体合ってんのが悔しいんだけど……。あれ? 俺って家畜だったの?」


 おっかしーなぁと首を傾げる。

 そういうノリのいいところ、好きですよ!

 大好きですよー!


「家畜が嫌なら人畜でもいいですけど。人畜さん」

「いや、俺ほどに情に厚いやつとかいないからな。つか、なんだ人畜さんって」

「まあ、クレバーに見えて案外熱いところありますもんねー」

「……やめてくれ。今でも思い出すと布団で悶えてんだからな」


 気持ちは分からないこともない。

 恥ずかしい言葉だと思う。

 でも、だからこそ、きっと、大人になっても忘れられない。

 恥ずかしい台詞には、それだけそのときの感情が乗っているのだ。


「先輩の原種はなんですかね」

「ふむ……親父だな」

「ダメな遺伝子だった……」

「いや、親父は母ちゃんに飼いならされてるから、祖父か」

「先祖代々受け継がれた遺伝子なんですね……」


 ヒト科ヒト目比企谷種。

 全国の比企谷さんごめんなさい。



 気を取り直して訪れたのは小動物ゾーン。

 小動物のかわいさは異常。

 こいつらマジかわいがられるために生まれてきてるんじゃないのか。

 でも、わたしだってかわいがられるために生きてきたようなものである。

 ふふふ、わたしの戦闘力は五十三万です。

 ですが、もちろんフルパワーで戦う気はありませんからご心配なく!

 本当、フルパワーじゃないから!


「先輩! レッサーパンダですよ! うわー、なんですかこれ。笑ってますよ! 可愛すぎじゃないですか! 反則です!」


 くあー、負けたーと項垂れる。

 いやー、フルパワーじゃなかったからね。

 しょうがないね。


「反則ってなんだよ。なんで勝負してんだよ……」

「可愛さで小動物に勝てる人間はいるんでしょうか」

「はぁ? んなもん……いや、いる」

「え、誰ですか!?」

「戸塚」

「あぁ……うん、そうですねー」


 可愛い=戸塚先輩みたいなのやめてもらってもいいですか。

 わたし悲しくなるので。

 目の前にわたしがいるのに……。


「目の前にわたしがいるのにー!」


 思わず叫んでしまった。

 めちゃくちゃ小声で。

 聞こえたかなーと横をチラ見すると、先輩は困惑していた。

 ふふん、しばらく困ってればいいんです。

 どうしたものかと頭を悩ませている先輩を横目に、気付かれないようくすくすと笑みをこぼす。

 ちょっとかわいそうかなー。


「ほら、いつまで悩んでるんですか! 先輩はいつも通り『あと小町も』とか言っとけばいいんですよ」


 ぴっと人差し指を立てて宣言すると、先輩は感心したように、


「はぁー、それでいいのか」

「いや、よくないですけどね。まあ、どうせ先輩だし、それでいいです」

「……日頃の行いに感謝だな」

「そこは悔いてくださいよ」


 なに開き直ってんだ、この先輩。

 全く、しょうがないなぁ。


「そんなんだから先輩なんですよ」

「ちょっと? 先輩って単語を悪口みたいに使うのやめてくれる? え、もしかして悪口だったの? お前は名前呼ぶ価値もねぇとかそういうやつなの?」

「違いますよぅ。なんか名前呼ぶと感染りそうじゃないですかぁ?」

「は? なに? 菌が? 名前呼ぶだけで感染るとか感染力高過ぎだろ。流石ハイスペックなだけある」

「そのハイスペック超迷惑ですね……」

「ばっかお前、俺とか人に迷惑かけないことに関してはマジでプロフェッショナルだからな。まず特別気を張らなくても誰にも気付かれない」

「なんか点呼とか飛ばされてそう……」

「は、そんなもん中三で通過したわ。偶然三年三組だったからな。まあ、やられるよな」

「うわ、リアルで『いないもの』やられてる人とかいたんですね」

「まあ、もともと話し相手いなかったし、ぶっちゃけ出席点呼以外で気付く場面もなかったけどな」

「先生が唯一の証拠とか……」

「よくよく考えたら頭おかしいよな。今なら録音して流せばクビだぜ?」

「いや、その頃でもクビだったんじゃないですかね……。でも、あれですねー。『ライフ』じゃなくてよかったですね」

「お前の席ねぇからはやられたけどな。窓から机が落ちてきたわけじゃないが」

「うっそ……ガチのイジメじゃないですか」

「まあ、なに、悪ノリってやつだな。廊下に机と椅子スタンバッてたし。もしトイレで水ぶっかけられてたら流石に泣いてただろうが」

「悪ノリ……ですか」

「ん、ああ、……悪い」

「いえ、もう気にしてないんでそれはいいんですけどね。なんていうか、しょうもないなと思いまして」

「だな……」


 本当にくだらない。

 そんなことをして何になるのだろうか。

 悪ノリだとか、流行りとか、トレンドとか?

 時代のニーズに応えましたーみたいな?

 わたしはかわいく見られるためにバカっぽく振る舞うこともあるけど、でも、本当のバカにだけはなりたくない。


「まあ、それもこれも今となっては笑い話ですよね。今どきって所詮中途半端なことしか出来ませんし」

「まあな」


 それに、それをされる原因がわたしになかったかと言えば、そういうわけでもない。

 わたしは割りと嫌な女なので、妬まれたり疎まれたり嫌われたりするのは当然とも言える。


「先輩とか感じ悪いし、ハブられるのが自然ですよね〜」

「はあ? 感じ悪さならお前も負けてねぇだろ。気づかれてないつもりだったのかもしらねぇけど、お前が同級生の名前呼んでるとこ見たことねぇし」

「なっ……」


 なんでバレてるの!?

 おっかしいなー、かなり自然に話せてるつもりだったんだけどなー。


「あとあれな。会話の区切りで小さく手を振るの。あれ、絶対『早く消えろ』って意味だろ」

「ちょ、先輩わたしのこと注視し過ぎですから……、キモいですから」

「お前目立つから目に入んだよ。最近特に」

「あー……」


 なんかきゃーきゃー騒がれちゃうからなぁ。

 四方八方から視線飛んでくるし。

 有名人になったようで気分はいいけど、そろそろ自重するべきかとも考えている。

 あまり注目浴び過ぎても(もう手遅れな気もするが)めんどくさい。


「わたしと先輩、真逆ですね」

「だな。釣り合いが取れてちょうどいいんだろ?」


 いつだったかわたしが先輩に言った台詞をニヒルな笑みを浮かべて言う。

 ちょ、ちょっとかっこいいとか思っちゃったよ。

 ふるふると小さく小刻みに頭を振り、煩悩退散してから先輩に向き直った。


「うわなんですかそれ口説いてるんですかなんかかっこよくてムカついたので無理ですごめんなさい」


  ****


「さて、どうするか」

「どうしましょう」


 モノレール駅付近。

 時刻は午後二時過ぎ。

 案外、早く周り終えてしまい、現在頭を悩ませている。


「結構……あれだな。疲れたよな」

「ですね〜。ちょっとはしゃぎ過ぎました」


 高二女子と高三男子は動物園で子供顔負けのはしゃぎっぷりを披露し、夏の暑さと相まって疲労困憊。

 やだ、なんかバカップルっぽい!

 これでも学年一位と国語三位だよ!


 みーんみーんと喧しく鳴く蝉。

 先輩と会ってから気にならなかったこの音も今は煩わしい。


「蝉うるせぇ……」

「ですね……」


 二人してテンションだだ下がり。

 ぶっちゃけ、もともとそんなにアウトドア派でもないのである。

 ショッピングは好きだけれど、街をふらついてカフェでのんびりして、というのがテンプレなので、体力にそこまでの自信はない。

 五時間近くテンションMAXで歩き回れば疲れる。


「暑い……」


 暑い、暑い、暑い。

 さっきから会話が九割がた暑いで占められている。

 お家帰って涼みたい。


「あ! わたしのお家、来ます? ディスティニーだって一切休まず歩き回るわけじゃありませんし」

「あー……そ、え? いや、……いいのか?」

「え、なんですか家に招待したからオールグリーンとか思ってるんですかレッドカードです」

「いや違うから……暑いんだから、いちいち変なこと言うな」


 凄く面倒くさいものを見る目で見られた。


「いちいちとか酷くないですかねー。ま、先輩の器の小ささは信じてますよ」

「嫌な信用のされ方だな」

「で? どうします? わたしは構いませんよ?」

「ん、ああ、別にお前がいいならいい」

「決まりですね〜。ではではっ、レッツゴーです!」


  ****


「ただいまー」


 玄関を開け放つと、リビングの方からおかえりという返事が届いた。

 先輩はボソボソと「お邪魔します」と言いながら、そろーっと侵入してくる。


「ふ、不法侵入……っ、変態さんです」

「いや、なんでだよ。笑わない猫にお祈りとかしてないからね?」

「ゾ、ゾンビ! まさかアンブレラ社が!?」

「中二か。あと普通にそれ悪口だから」

「ヴァンパイア……? ウイルス?」

「結局アンデッドなのかよ……。せめて主人公側にしてくれよ」

「てへ、喰種でしたね」

「ここは千葉だ」

「はぁー、ツッコミますねー」

「お前がボケ過ぎなんだよ……。つーか、ここも暑いんだけど?」


 早く冷房の効いた部屋に連れてってくれとばかりの不遜な態度。

 しかし、その顔はどことなく楽しそうだ。

 漫画読んでよかったー!


「はいはい、どうぞ上がってください」


 先にわたしが靴を脱ぎ、来客用スリッパを出す。


「おう、悪いな」

「いえいえ、お客様ですからね〜」

「そういや、お前漫画とか読むんだな」

「最近はたまに。友達から借りてます」


 クラスメイトに漫画趣味というか、オタクっぽい女の子がいるのだ。

 小説だけならまだしも、漫画まで集めてたらお金が足りない。


「へぇ。名前は?」

「……さ、佐藤さんです」

「鬼ごっこしてそうだな」

「あ、信じてないですー?」

「信じてる信じてる」

「うわー、適当だなー。ま、本当言うと、高坂さんって名前なんですけどねー。読モやってるんですよー?」


 言うと、先輩は読モ(笑)とつぶやく。

 バカにしてるように見えたのは気のせいではない。


「どうでもいいけど読モって単語のケバケバしさは異常だな。仲良いのか?」

「まあ、仲良いことになってますかね、一応。オタクなのも友達以外には隠してるみたいですし」

「一応ってなんだよ、怖ぇよ」

「大丈夫です。もう二度と出てきませんし」

「自由だなぁ、お前……」


 呆れ顔でつぶやく先輩を引き連れて、リビングへ入る。

 わたしの部屋は……連れてってもいいけど、写真をどこに隠すかが問題だな。


「おかえり。予定より早いわね」

「ただいま。うん、ちょっと暑いから休憩ー」


 もともと一度家に帰るつもりではいたのだ。

 いろいろ支度もあるし。


「こんにちは」

「うす……」

「ふふっ、緊張してるんですか〜?」


 身体を固まらせている先輩に、にやにやとした笑みを送る。

 が、先輩はそれどころではないらしく、苦笑いのようなものを顔に貼り付けていた。


「おい、こんなの聞いてないぞ」

「えー、親いないとか思ってたんですかぁ? なに考えてるんだか」

「アホか。居たってこんな対面して話すことになるとは思ってなかったってことだ」

「ま、初対面じゃないんですから、そんな固くならずにくつろいでってくださいよ」

「いや……あのな」


 戸惑ったままの先輩を置いてソファに腰掛ける。

 涼しいー!

 もう少し涼んだらわたしの部屋の冷房つけてこよう。


「いつまで突っ立てんですかー。座っていいですよ」

「あぁ……」


 わたしの声にしたがって先輩はソファに腰を下ろす。

 いまだ緊張しているらしく、その様は面接試験に来た学生のようだ。


「改めてこんにちは。いろはから色々聞いてるわよー」

「色々……ですか」


 じとっとした瞳でわたしを見る先輩に、わたしは笑顔で言葉を贈る。


「先輩かっこいーとかですよ」

「は?」

「嘘です」

「……知ってた」


 知ってたかぁ。

 それにしては残念そうだけどなー。


「本当だったらどうします?」

「どうもしねぇよ。事実だからな」

「うっわ、キモ……」

「ガチで引くのやめろよお前、泣くぞ」

「先輩の泣き顔とか需要ないんで勘弁してもらっていいですか」


 にこぱーっと笑ってそう言葉を返すと、先輩ははぁと大袈裟に嘆息する。

 少しは緊張も解れただろうか。


「ではでは、ちょっと自分の部屋の冷房入れてきますね〜」


 言ってソファから立ち上がり、部屋に向かう。

 部屋の中へ入ると、むわっとした空気が肌に絡みついた。

 うわぁ……暑っ。

 エアコンをつけ、冷房に設定。

 飾ってある写真をはるのんの使っている部屋へと移動させる。

 先輩を呼びにリビングに向かい、扉に手を掛けたところで固まってしまった。


『で? いろはのどこが好きなの?』

『い、いや、別にあいつとはそんいうんじゃないっすよ……』

『あら、嫌いなの?』

『……嫌いじゃないっすけど』

『そうだよね。いろはは私に似て可愛いからなー』

『見た目の話じゃないですよ……。なんていうか、その、あいつは凄いやつなんです』

『凄い?』

『……はい。どうでもいいことはどんどん頼んでくるんですけど、重要なことは誰にも言わないんで』

『心配?』

『はぁ、まあ……、妹が仲良くしてるので』

『比企谷くんの知り合いが一人も仲良くなかったら?』

『それは、その、どうでしょうね。ifを考えることに意味があるとは思えませんけど』

『そんなことないよ。考えること自体に意味がある、なんてことは言わないし、もしあのときこうしていたらなんて考えることには確かに意味はないかもしれない。そうできないからそうなったんだろうしね』

『それなら』

『でも』

『…………』

『でもね、【もしこれからこうなったら】って考えることには意味があると思わない?』

『……当たらないでしょ』

『当たらなくてもいいんだよ。当たったらラッキーだと思っておけばいいし、最悪のケースを想定しておけば柔軟な対応ができる。それに、それを使って自分の気持ちを確かめることだって多少なら可能だから』

『自分の気持ち、ですか……?』

『そう。まあ、あくまでそのときになってみなきゃ分からないけど、でも、もしなったら指針にはなるだろうし。だからさ、比企谷くん』

『なんすか?』

『君は——いろはが君の知り合い全てから嫌われても仲良く出来る?』

『そんなことは……』

『ありえなくない。もしかして絶対なんてものが本当にあるって信じてるの? まさかそんなわけないよね。どうなの? 仲良く出来る? 心配出来る? そばにいられる?』

『……どうですかね。直接話して、見て、聞いて、純粋に一色に非があるのなら——俺や俺の周りが被害を受けた場合に限って——仲良くは出来ないと思います』

『そう。それなら、よかった。ずっとそばにいる、だなんて嘘くさい台詞を吐く子だったらどうしようかと思ったよ。そういう子なら、安心出来る』

『それで、いいんですかね……』

『いいの。純粋にっていうのは、そういうことでしょ? なら、仲良く出来なくて当然だからね。逆に言えば、それ以外——つまり、両者に非がある場合や、いろはに理由があって故意にそうしている場合、誰にも被害がない場合は、君はいろはのことを嫌いにならない』

『まあ……、約束は出来ませんけど』

『約束なんてしなくていいよ。人の印象なんて常に変わり続けるものだから。ただ、君がそういうタイプの男の子、君の中でいろははそういう位置にいるってことが分かっただけで充分だよ』

『そういうことに、なるんですかね……』

『そういうことになるんだよ。どっちつかずの人間は嫌われがちだけど、わたしはそういう子結構好きだな』

『嫌われるくらいなら慣れてるんで』

『うわぁ、悲しいなぁ』

『やめてくださいよ。これも長所なんですから』

『長所なの? 欠点が?』

『欠点て……まあ、それは否定しませんけど。長所であると同時に短所でもあったりするように、欠点が美点なこともある……はず。あると思いたい……ありますよね?』

『え、そこ訊いちゃうの? まあ、あるってことにしとこっかー。人間自分を好きになれなきゃ鬱になっちゃうからね』

『ですよね。俺とか自分大好きなんで鬱対策に関しては絶対があると思ってます』

『いや、それはちょっと気持ち悪いかなー……』


 な、なんて話してんの……お母さん。

 凄いやつ、か。

 なんか恥ずかしいなー。

 わたしなんて全然凄くないんだけどなー。


「せーんぱいっ」


 リビングに入って先輩に声をかける。


「おう。……お前、顔赤いぞ? 大丈夫か?」


 怪訝そうな顔をする先輩。

 顔……赤い?


「えっ、や、その、わたしの部屋めっちゃ暑かったんですよぉ〜。あ、あつーい」


 パタパタと手で顔を仰ぎながらソファに座り、ちらと先輩の顔を伺う。

 先輩もなぜかわたしを見ていて、目が合ってしまった。


「なな、なんですか……」

「別に」


 おずおずと尋ねるも、先輩からはにべない返事が来る。


「なんかありましたかー?」

「あー、まあ、別に」


 なにこの人、すっごい嫌なやつ。

 絶対分かっててやってるし……、そんなんだから友達いないんだよ。


「なんですかー!」

「いや、別に」


 このまま続けていても平行線を辿りそうだ。

 どうすればいいのだろうか。

 知らず知らずのうちに顔を顰めてしまう。


「むぅ……」

「あざとい」

「え……あはっ」


 堪えきれずにくすくすと笑ってしまったわたしを見て、先輩は不機嫌そうな声音で訊いてくる。


「は? なんだよ」

「いえ、その、やっと反応してくれたなーっと思いまして」


 にこにこーっと微笑みかけると、先輩はほんのりと顔を赤くし、片手のひらで顔を覆った。

 あれ? もしかして今、わたし結構恥ずかしいこと言った?

 それを考えると、熱の引いていた顔に再びかぁっと熱が宿る。


「あ、暑いですねー」

「ん、だな……」


  ****


「こんな可愛い後輩の私室に入れるとか感謝してくださいね。本当なら入場料をいただくところですよ」

「入場料とか取る時点で全く可愛くないんだよなぁ……、ちなみにいくらだ」

「え、なんですかそれ訊いてどうするんですか放課後にわたしを待ち伏せして今日金持ってるからお前の部屋連れてけとか言うつもりですか、うーん流石にそれはちょっとわたしでも無理ですねごめんなさい」

「お前の想像力って凄まじいよな……」

「あは、そんなことないですよぉ」

「……褒めてねぇからな?」


 なんて会話をしながら廊下を歩き、わたしの部屋の前に着く。

 準備は万端。

 葉山先輩に簡素だと言われてしまったので、もう少し可愛く模様替えもした。


「では、どうぞー」


 先導して室内に入り、私室を見回す。

 おかしなところは……ない、はず。

 き、緊張するなー。


「へえ——うわっ」


 背後から届く悲鳴に反応して振り向くと、入り口の段差に躓いたのか、先輩が倒れてきた。


「え? きゃっ」


 避けることも出来ず、そのまま先輩に押し倒される形でベッドに仰向けになる。

 いつの間にか閉じていたまぶたを持ち上げると視界いっぱいに先輩の顔が映った。


「え、あ……」


 鼻先が当たり、唇に吐息がかかる。

 顔の両側にある腕と、わたしの両足の間に先輩の片足が入っているせいで身じろぎ一つ出来ない。

 ち、近い近い近い。


「ちょ、せんぱい……ちか」

「わ、悪い」


 先輩も身動きが取り辛いらしく、腕を立て慎重に離れて行く。

 そこでドアの方から声がかかった。


「お茶、持ってきたんだけど……お邪魔しちゃったかなー」

「うわっ」


 声に驚き、先輩が態勢を崩す。

 かろうじて顔は横にずれたものの、身体がかなり密着してしまった。

 近い近い近い近い近い!

 先輩が近い!

 なにこれ、これなんてラブコメ!?

 先輩に床ドンされてるんですけど!?

 せ、先輩の匂いが、汗がー!

 汗臭くないかな……、ていうか、お母さん早く出てって!


「置いとくねー。あ、比企谷くん」

「は、はいっ?」

「避妊はしてね」

「ち、ちがっ!」

「じゃ、ごゆっくりー」


 ガチャと扉が閉められ、室内に静寂が訪れる。


「…………」

「…………」

「と、とりあえず、離れましょうか」

「……ああ」


 自分の部屋で好きな人に押し倒され、現場を母親に目撃され、そのあと当人と一緒に正座で固まっている女子高生の姿がそこにはあった。

 ていうか、わたしだった。


「なんかすいません……」

「いや、すまん……。俺が躓いたのが悪かった」

「押し倒されちゃいましたー」

「やめろ、やめてくださいお願いします」

「冗談ですよーっ! 先輩にそんな度胸がないことは……ん?」

「どうした?」

「い、いえー、なんでもないですよー?」


 な、なんであんなところに『わたしと先輩のツーショット』が。

 写真立てにも入ってないし。

 落とした?

 写真は先輩の背後……、どうするわたし。


「なんでもなさそうには見えねぇけどな……」

「いやいや、なんでもないですってー」


 たらたらと冷や汗が伝い、目が泳いでしまう。

 やばい、これはやばい。

 どうすればいい。

 どうすればこの状況を乗り越えられる?

 まず考えるべきは写真の回収。

 しかし、肝心の写真は先輩の背後。

 さり気なく……さり気なく立ち上がり、あれを拾う。

 それしかない。


「さ、さて、冷房も効いてますし、くつろぎましょうか」


 姿勢を崩すようなフリをして、スッと足をあげる。

 と、テーブルに膝が衝突した。


「痛っ! きゃっ」

「危なっ」


 倒れると近づく先輩の顔。

 なんとか顔面衝突を避け、そのまま倒れ込む。

 頬がくっつき、耳元で吐息の音が聞こえる。

 重ねた身体にはどくんどくんと随分とハイペースな心音が伝わってきた。


 近い近い近い近い近いっ!

 二度目だよ、これ!

 逆バージョンとかいらないから!

 いや、嘘、ごめん、調子乗った、やっぱいる。


「……どいてくれるか」

「あ、はいっ! すいませんっ!」


 下より上の方が幾分かマシだったので、どくの忘れてました。

 とか言えるわけない(真顔)。


 好きな人を押し倒し、さらにその状態を存分に堪能したあと、恥ずかしすぎて枕に顔を埋めてバタ足をしている女子高生の姿がそこにはあった。

 ていうか、それもわたしだった。


「あぁぁぁぁ……」

「おい、キャラ崩壊してんぞ……」

「恥ずかしくないんですかっ!?」

「……それを言うなよ」

「はあ……、もう済んだことですしね。既成事実です」

「どう考えても誤用だし、誤解を招く発言はやめろ」

「なんですかそれ、誤用と誤解かけてるんですか、くっそつまんないですね」

「なんか辛辣になってない? ねえ、気のせい?」


 心なしか涙目になってしまった先輩を見て優越感に浸りつつ、どさくさに紛れて枕の下に隠した写真を手に取り立ち上がる。


「気のせいですよー……。ちょっとお手洗いに行ってきます」

「ああ」


 ガチャと扉を閉め、ふぅと息を吐く。

 疲れた……。

 なんだこの疲労感、動物園パートの五倍は疲れたんですけど。

 文量で比べても6:1くらいだと思うんだけどなぁ。


「戻りましたー」

「お、おう」

「なにどもって——え?」


 ちょっと待ってちょっと待って。

 なんで机の上にわたしと先輩のツーショットが置いてあるの?

 先輩だけが部屋に残ると出てくるタイプのトラップなの?

 この部屋はどれだけわたしを陥れたいの?

 バカなの?

 死ぬの?


 ——考えろ。

 思考をフルスロットルにして打開策を導き出せ。

 なんて言い訳しよう……うぅ。


「あ、あー! これどこにありましたー? 探してたんですよー!」

「あ、ああ、ちょっと仰向けになったらベッドの下になにかがあるのが分かってな」

「あ、そうだったんですかー! よかったー」

「……どうするんだ、それ」

「ど、どうするって……、アルバムに貼っておくんですよ? 写真は思い出ですからね! サッカー部のも奉仕部のも、わたしが撮ったのとか写ってるのは一応、そ、そうしてるんです」

「そう、なのか……」

「えー……っと、ダメ、でしたか?」

「いや、そんなことねぇよ。お前の写真をお前がどうしようがお前の自由だ」

「よかった……」


 セーフッ!

 わたしにしてはよく誤魔化せただろう。

 嘘を吐くのは心苦しいけど。

 まあ、写真があること自体は本当だし、この場合はしょうがない。

 まさか、大好きな先輩の写真だからコンビニでプリントして飾ってるんですよー、とか言うわけにいかないし。

 いや、そっちの方がわたしらしかったかな?

 まあ、いっか。


「ふう……、やっと落ち着きましたね」

「だな。めちゃくちゃ疲れた……」

「すいません」

「……いや、すまん」


 沈黙が重い。

 二連続であんなことがあった後だ。

 これも仕方のないことだろうと思って諦めるしかない。


「落ち着いたら落ち着いたで暇ですねー。なんか面白い話してくださいよー」


 ベッドに転がりながら言うと、先輩はわたしに人差し指を向けて、信じられないほどムカつく顔でなんか言いだした。


「出た〜、なんか面白い話しろとか言い出す奴〜」

「うっわ、それ超ムカつきますね……」


 超殴りたい。


「だろ。ちなみに、『出た〜、出た〜とかすぐ言い出して勝ったような気になってる奴〜』とか言い出す奴もいる」

「なんですかそれ……、なんのギャグなんですか。完全にブーメランじゃないですか……。負け犬臭凄いですね、先輩」

「まあな……ばっか、違っ、俺じゃねぇから」

「やっぱり実体験だったんですねー……」


 しょうもない人だなぁ。

 なんでこんな人好きになっちゃんたんだろう、本当。

 この人に友達が出来ないのって大抵自分に原因があるんだよなぁ。

 でも、好きなんだよなー、やだなー。


「証拠ねぇだろ。録音でもしてたのかよ」

「いや、もういいですよ。それ完全に犯人のセリフですから」

「はぁ、マジでなんなの。お前らの誘導尋問スキル高過ぎだろ、ユニークスキル手に入っちゃうレベル」

「いや誘導尋問っていうか、基本的にホシが勝手にゲロってくれるんで……」

「おい、俺のことホシって呼ぶのやめて差し上げろよ」


 なんで謙譲語なんだよ。

 自分に謙譲語使う人初めて見たよ。

 こういうところがダメなんだよなぁ。

 そういうところも好きなんだけど。


「じゃあマル被で」


 にこっといい笑顔でそう告げると先輩はかくっと肩を落とす。


「お前はどうしても俺を被疑者にしたいのな……」

「先輩を取り調べしちゃいます♡」

「……なんだそれ、なんかエ……なんでもない」

「エー?」

「えー? みたいに使っておちょくるのやめような。つーか、本当最近俺の扱いが酷過ぎる気がするんだが。お前もあいつらも、あと小町も。まあ小町はいいんだけど」


 出たよ、シスコン。

 あいつらっていうのは、雪ノ下先輩と結衣先輩のことだろうか。

 あ、こういうときに使うのか。

 というわけで、わたしは早速先輩の顔に人差し指を向けて、


「出た〜、シスコン奴〜」

「うっわ、それすげぇムカつくな……。お前学習能力高過ぎだろ」


 呆れたようにつぶやく先輩ににこにこと笑みを返す。


「いえいえ、それほどでもありますよー」

「褒めてねぇから……。つか謙遜しろよ」

「えへ。ていうか先輩が常々言ってくるんじゃないですかー。『わたし頑張ってますアピールしろ』って」

「いや、しろとは言ってねぇよ。それにそれ全然頑張ってますアピールじゃないし」

「ですよねー。ふふっ」

「はっ……」


 たまにはのんびりとこういう時間を過ごすのも悪くない。

 夏休みということ七月末から会っていなかったので、先輩充電タイム。

 でも、これバッテリーの持ち悪いんだよなー。

 せめて週一で会わないと……キツい。

 あー、先輩が好き過ぎて辛い。


「まあ、お前は本当に頑張ってるし、凄えからな。特に嫌とも思わねぇよ」


 ……わたしが先輩のことを好きなのは、どう考えても先輩が悪い!


 枕に顔を埋めて、ぐでーっと身体をだらけさせる。

 顔がにやけて力が出ない。

 ジャムおじさん替わりの顔持ってきてー。


「はあ、なんですかー、それ。口説いてるんですかー? もう、先輩ずるいです。そろそろ惚れてもいいですかー?」

「……なに言ってんだお前。暑さで壊れたか?」

「先輩が好きって言ってくれたら治りますー」

「……あぁ、さっきの続きか。だとしても絶対言わねぇけどな」


 やっぱりそういう結論に至るか。

 まあ、分かってたから言ったんだけど。

 保険って大事だなー。


「先輩にフラれたー! 先輩、慰めてください」

「いや、意味わかんねえよ……」

「なんか今日の先輩ムカつくのでー、今日終わるまで設定継続の刑に処します」

「マジかよ、慰めとけばよかった……」


 本気で落ち込んでるし。

 ま、わたしもわたしだよなー。


「先輩」

「なんだよ」

「大好きですー」

「あ、そう」


 大好きな人に本気で大好きだと言って冷たくあしらわれている女子高生の姿がそこにはあった。

 が、それだけはわたしではないと思いたい。

 ……まあ、わたしなんだけど。


「……実際、先輩って本気で誰かから告白されたとして——あぁ、やっぱりなんでもないです」

「はぁ? なんだよ。途中で止められたら気になるじゃねぇか」

「いいんですー」


 告白されたとしてどうするか、なんて……そんなこと訊くまでもない。

 もう、そういう場面に出くわしてしまっているのだから。

 ああ、でも、そういえば訊いておくべきことがあった。


「なんだそれ……」

「先輩、前にどれだけ未来でも結衣先輩の告白は断っていただろう、みたいなこと言ってましたけど、今はどうですかー?」

「……ん、あー、どうだろうな。そのときによるとしか言えねーな……。これだけ見てきたつもりでも、なんにも見えてなかったことが分かっちまったわけだし」

「そうですか。ま、そうですよねー」


 それなら、いい。

 勢いとはいえ、もう一度頑張りませんか、なんて言った手前、一切の望みがないなんてことになられると困る。

 そうであるならば、わたしにも希望があると思ってもいいだろうし。


「……最近、なにをどうすりゃいいのか、分かんねぇよ。まあ、そういうもんなのかも知れねぇけどさ。信じてきたものを信じられなくなったり、欲しかったものが欲しくなくなったり、好きなものが嫌いになったり……」


 感慨深げに、それでいて気怠げに、常と変わらず目を濁らせて、先輩はぼやく。

 好きなものが嫌いになる、か。


「そんなもんですよ、人間なんて——どうしようもない。その点先輩は人間じゃないから楽ですよね」


 ベッドに横になったまま、先輩に顔を向けて間延びした声で言う。

 先輩の気怠さが感染った。


「いや、人間だから。俺めっちゃ人間だから」

「えー、いがーい」

「意外ってなんだよ。人間じゃなかったらなんなんだよ全体」

「ゾ……」


 ゾンビと言おうとして口をつぐむ。

 それじゃ代わり映えしないよなー。

 ぞ? ゾ……、ゾー……。


「……ゾウリムシとか」

「ゾウリムシ!?」


 先輩が珍しく大声でつっこんだ。

 ゾウリムシは流石に驚いたらしい。


「ゾウリムシは酷過ぎんだろ、お前……」

「ゾウリムシがかわいそうですよねー」

「そうじゃねぇだろ」

「え、違うんですか」

「なんか、もういいや……」

「諦めたらそこで試合終了ですよ!」

「いいよもう人生終了してるようなもんだし」

「いじけないでくださいよー」


 だらだらとした動きでベッドから起き上がり、先輩の隣に座る。

 余計嫌そうな顔になった。

 こういうスキンシップなら全然平気なんだけどなー。

 やっぱり自発的なのと突発的なのじゃ心の準備で差ができる。


「別にいじけてねぇよ。慣れてるしな」

「雪ノ下先輩よりマシですよねー」

「どっちもどっちだ」

「ええー、そうですかぁ? 平気でゴミとか言いそうじゃないですか」


 うんうん。

 それどころかゴミがやくんとか言い出すまである。

 あるある。


「いや、お前も言うだろ」

「わたしは言いかけるだけですよー」

「一体どう違うんだよ……」

「全然違うじゃないですか。わたしの方が甘いです」

「お前の方が辛くないと言え」

「ちょっぴりスパイシーな方が甘味が際立っていいじゃないですか」

「世界が辛くて苦いから、甘いものはくどいくらいの甘さでいい」

「ああ言えばこう言う……」

「お前もこう言えばああ言うだろ」

「似た者同士ですねーっ」

「あんま似たくない部分だな……」

「嬉しくないんですかぁー」


 項垂れる先輩にすりすりと身体を寄せると、先輩はいつものごとく離れていく。

 もうこれも恒例と化していた。

 逃げ場のない場所に追い込まないとダメかー。


「なんか悪企みしてないかお前」

「そんなことないですよー」

「はあ。……そういや、今日ありがとな」

「いえいえー。先輩の頼みですからねー」


 頼みか。

 嘘くさいなぁ。


「……今回は多少は先輩の利がありそうだったんでいいですけど、もうこういうのなしですよ」

「……迷惑だったか?」

「違いますよ。先輩と出掛けること自体は楽しいのでいいんです」


 それはいい。

 頼りにしてもらえるのは嬉しいし、一緒にいられるのは幸せだから。


「でも、わたしに気を遣わせないように交換条件みたくするのはやめてください」

「はあ? なんで俺がそんな利益のないことすんだよ」

「利益のないことばっかしてるのに、そんなこと言っても説得力ないです」


 真面目な雰囲気を漂わせてそう言うと、先輩は諦めたように息を吐く。


「はぁ……、いつから気づいてたんだ?」

「最初から怪しんではいましたよ。先輩がデートの練習に付き合ってくれなんて薄気味悪いこと言うから」

「薄気味悪いってお前な……」

「そういうこと、小町ちゃん以外の女子に頼んだりしないでしょ、先輩は」


 だからこういうシチュエーションがそもそもあり得ないのだ。

 小町ちゃんお得だなー。

 でも、妹になったら結婚出来ないからなー。


「まあな……、よく知ってんな。なにお前俺のこと好きなの?」

「だからさっきから言ってるじゃないですかー。大好きですって」


 何回も言ってるんだけどなー。

 まあ、そういう設定っていう設定になってるんだけど。

 でも普通は気づくよな……、気づかないフリが上手な先輩でよかった。

 悪くもあるか。


「おま……、そういうこと言うのやめろよ」

「やめませんよー」

「俺をおちょくるのがそんなに楽しいか」

「超楽しいです」


 にへらと笑みをこぼしながら答えると、先輩は本日通算で十は軽く超えていそうなため息のカウントを一つ増やす。

 苦しんでる苦しんでる。


「わたしがめちゃくちゃいい子で、全く先輩のこと貶さなくて、雪ノ下先輩や結衣先輩から先輩が貶されてても慰めてくれて、控えめにあとをついてくるような女の子だったらどう思います? そっちの方が好きです?」

「なんだそれ……、そういう都合のいいやつはいらねぇよ」

「先輩のことが好きだから、先輩にとってだけ都合がいいのかもしれませんよ?」

「だとしてもだ。そういうのは破綻するって、お前が教えてくれたんじゃねぇか」


 そういえば、そんなことも言ったな。

 へー、ちゃんと聞いてるんだ。

 ちゃんと見ててくれるって、言ってたもんな。


「そうでしたね〜。趣味嗜好を相手に合わせるくらいならまだしも、自分まで作ってたら流石にもちません」


 堪えきれなくなって破綻するか、露呈して破綻するか。

 いい結末を迎えられないことは明白だ。


「だから、先輩のそういう行動も無意識に自分を傷つけている可能性があるってことになりますね」

「それは……」

「しっかり約束してください。もうしないって」

「……分かった。だが、それならお前も、もう変な気遣いはやめろ」

「は? わたしがいつ先輩に気遣ったんですかー」

「いつもお世話になってるからとか言ってなんかすること最近多いだろ、お前」

「んー……? そうですか?」


 そんなことしたっけかなぁ。

 そう言われればしてるような気がしないこともないが、その程度だ。


「無意識かよ……。お前も大概お人好しだよな」

「先輩にはおよびませんよー。ていうか」

「ん?」

「好きな人には無意識でも好かれようとしちゃうもんですよ」


 ふふっと小悪魔じみた笑みを送ると、先輩はうざったそうに顔を背ける。

 これは……チャンス!

 そっぽを向いてしまった先輩の肩にぽすっと頭を乗せると、間近で不満気な声が漏れた。


「近い、離れろ」

「嫌でーす。えへへー」

「あざとい……」

「可愛いでしょう?」

「そういうとこが可愛くねぇんだっつの」

「ツイッターで自撮り写真載せまくって、『わたしマジでブス過ぎるー、自分の顔ほんと嫌い』とかつぶやいてる女が好みですか」


 あれ本当なんなんだろ。

 言ってるわりにめっちゃキメ顔なんだよなー。

 しかもフォロワーに確かにブスだなとか言われるとキレるし。

 ネタなのかな。


「なんだそれ……、すげえ面倒くせぇな」

「先輩も大概面倒くさいですけどねー」

「まあな。お前も人のこと言えねぇだろ」

「ですよねー。ほんっと面倒くさい性格してるなーって自分に呆れちゃうまであります」


 設定は取り消しです。

 本当に先輩が好きです、心から。

 と、さっさと言ってしまえばいい。

 そのときは辛いのかもしれないけれど、きっとその辛さは時間が解決してくれる。

 いつか笑い話に出来る。

 だから。

 だから、今——


「難しく考え過ぎなんですよね〜、わたしも先輩も」


 ——言えるわけない。

 振られたくないのだ。

 振られたくない。

 付き合いたい。

 ずっと一緒にいたい。

 今はまだ、先輩と後輩でいい……。


「……だな。ごちゃごちゃ考えてるわりにはたいした結論も出せねぇし」

「……そうなんですよねー」


 いつか結論が出せるのだろうか。

 いつか勇気が出るのだろうか。

 ちゃんと言えるかな。

 ちゃんと伝えられるかな。

 不安だ。

 憂鬱だ。

 わたしは、受け入れてもらえるのだろうか。


 願わくば——幸せになりたい。


  ****


 花火の音が絶え間なく響き渡る。

 少し離れたところでは屋台が立ち並び、何人もの人が行き交っている。

 喧騒が伝わってくるが、しかし、静かな人気のない木陰。

 闇に包まれたその場所にいるのは、わたしと先輩、二人だけだった。


 どくん、どくん、と胸が高鳴る。

 緊張で手が震え、きゅっと浴衣の裾を掴んだ。

 顔を俯かせたまま視線を右に移すと、細くも男を感じさせる腕が瞳に映る。


『一色……』


 わたしの名を呼ぶ声に反応して顔を上げると、間近に迫る先輩の顔。


『せん、ぱい……』


 熱い吐息が漏れ、頬が紅潮してしまう。

 凄まじい熱気に視界が滲み、しかし、その間にも先輩の顔は近づいてきているのは分かった。

 お互いの息が感じられるほどの距離。

 思わず視線を落とすと、顎を持ち上げられた。

 覚悟を決めて、目を瞑る。


「せんぱ……」

「一色!」


 突然の大声に驚き、はっとなった。


「——はいっ!? え? え?」


 目をぱちぱちと瞬かせて、きょろきょろと周囲を見回せば、どこからどう見ても自分の部屋。


「あ、れ……? 花火は?」

「はぁ? 今から行くんだろ……。お前支度とかあんだから、さっさと目覚ませよ」


 壁ドンは!?

 キスは!?

 顎クイは!?

 夢オチとかマジかよ……そんなーっ!


「うっ……うぅ……」

「なに項垂れてんだよ……」

「うっさいです! 先輩のばーかっ!」


 立ち上がり、時刻を確認すれば確かにいい時間だった。

 先輩に首を預けたまま寝たせいか、ものすごく首が痛い。

 じっとしているわけにもいかないため、支度をするために部屋を出る。


「あ、せ、先輩……」

「ん?」

「その、起こしてくれてありがとうございました……あと、ごめんなさい」

「よく分かんねえけど、まあ、気にすんな」

「では、支度してきます! 結構時間かかるので寛いでてくださいね」

「おう」


 静かにドアを閉め、ため息を吐きながらお風呂場に向かう。

 人の夢は儚い……。



 シャワーを済ませて、リビングに行くとお母さんがソファに座って本を読んでいた。

 読書中申し訳ないが、声をかける。


「お母さんー、浴衣の着付けしてー」

「ん、もうそんな時間かー。最近ゆっくりしてばっかりだから一日が早いなぁ」

「そんな年寄りみたいなこと言わないでよ……全く」

「もう年寄りだよー。それで……浴衣ね、はいはい」


 ちょっと?

 今、一瞬忘れた?

 お母さんがやると洒落にならないからやめて。


 適当に話しつつも手早く着付けが完了する。

 と、流石に暇になったのか、先輩がリビングに降りてきた。


「あ、せんぱーい。どうしましたか、わたしに会いたくなっちゃいましたか」

「いや、違うから。纏わりつくな鬱陶しい」

「ひっどーい! で、どうですか後輩の浴衣姿は? 興奮しちゃいます?」


 桃色に桜柄の浴衣。

 少し子供っぽいかもしれないが、このくらいがわたしには似合っているのだと思う。

 袖を持って先輩の前でくるりと一回転し、感想を訊くと、先輩はぽりぽりと頬を掻きながら答える。


「しないしない。あー、なんだ、まあ、似合ってんじゃねぇの」

「うーん、まあ及第点ですかね。ありがとうございますー」

「採点されてたのかよ……」


 驚きと恐怖に満ちた視線を素通りして、ソファに戻る。

 皺がつきそうで座りづらいな……、先に全部済ませておくべきだった。


「支度、終わったのか?」

「いえ、今からお化粧タイムです」


 よく考えたら今すっぴんなんだよな、わたし。

 まあ、先輩の家に泊まったときに堂々晒してしまっているので、そんなに抵抗はないけど。


「はー……化粧なんてしなくてもよさそうだけどな、お前」

「ありのままのお前が見たいとかそういうやつですか先輩のご要望とあらば……」

「いい、いいから。そういうのいいから」

「むぅーっ。ノリが悪いですね」

「いつもこんなもんだろ」

「確かに……」


 本当にいつもそんなもんだから困っちゃうんだよなー。

 どうにかならないかしら。

 なるわけないか。


「ちなみに、結衣先輩とデートっていうのは本当なんですよね?」

「ああ、それは本当だ。なんて言おうか迷ったけどな。あんまり言いふらすようなことじゃねぇし」

「ですねー。ま、咄嗟に思いつくのはそのくらいが限界ですよ。騙すときは事実を混ぜるのがいいとかって聞きますし、悪い選択ではなかったんじゃないですかね」


 事実、わたしも途中までは気づかなかったわけだし。

 騙すときは事実を混ぜる。

 覚えておこう。

 使う機会があるとは思えないけど。


「参考にはなりましたか?」

「あー、まあ一応はな。由比ヶ浜と一色は違うから全部が全部ってわけじゃねぇけど……ありがとな」

「いえいえ。わたしは先輩の後輩ですからね。頼りにならないかもしれませんが、よければまた頼ってくださいね」


 たいしたことは出来ないし、まちがうこともある。

 だから失敗もするんだけど、それでも、力になれるのなら、力になりたい。

 頼って欲しい。

 近くにいたい。


「そんなことねぇよ。少なくとも俺一人で考えるよりよっぽど頼りになる」

「そ、そうですか」


 この先輩は……、なんも考えずにそういうこと言うのやめて欲しい。

 恥ずかしいっていうか、照れ臭いっていうか、なんか、もう。

 悔しい。


「花火大会、昨年は行ったんですか?」

「ん、ああ」

「へぇ、小町ちゃんとですかー?」

「いや、由比ヶ浜とだな」

「おお、それはそれは……」


 ちゃっかりデートしてるじゃん。

 結衣先輩もああ見えて結構積極的だな。


「お前が考えてるようなことはねぇよ。小町に出店のお遣い頼まれたからついでに一緒に行っただけだ」

「そんなの先輩を動かすための口実に決まってるじゃないですかー」

「……まあ、そうだよな」


 なんだ自分で分かってるのか。

 流石に分かるか、鈍感ではないらしいし。

 わたしの気持ちにはどのくらい気づいてるんだろうか。

 全くということはないだろう。

 今回、理由は言わなかったが、どう思ってるんだろうか。

 対等にするために頼みをでっちあげたわけだから、確信しているわけではないはずだけど。


 花火大会か。

 また行きたいなー。

 まあ、まだ今日は行ってすらいないんだけど。


「来年も、よかったら行きませんか?」

「……考えとく」

「イエスかノーで答えてくださいよー。わたしにも予定があるんですからね?」

「はぁ……分かったよ、空けとく」

「はいっ。お願いしますね!」


 やったー!

 来年の予約完了!

 大学行っちゃったら疎遠になるかもと懸念していたのもあってかなり嬉しい。

 まあでも、先輩が卒業しても小町ちゃんが残るわけだから、先輩に関してはそこまでの心配はしてなかったりする。

 雪ノ下先輩や結衣先輩の誕生日パーティー呼んでもらえるかな……。

 わたしとしては、これからも末永くよろしくしたい先輩たちだ。

 もちろん、葉山先輩や三浦先輩も例外ではない。

 戸部先輩はー、まあ、うん。

 いい人だよね。


「先輩大学では友達作るんですかー?」

「友達なぁ……。出来ればいいとは思うが、なにかと言えば飲みに行ったりするノリにはついていけねえからなー。淡交をもってよしとするくらいの友達ならいいんだけどな」

「先輩は話しかけるのが苦手そうですし、そういう人は積極的に話しかけたりしないものですから、ちょっと厳しそうですね」

「そうなんだよなぁ」


 割りと素で残念そうだ。

 友達、出来るといいんだけど……、先輩の場合はなぁ。


「まずその捻腐った性格を矯正しないとキツくないですか」

「捻腐ったってなんだよ。変な言葉作んじゃねぇよ。つーか、性格を矯正しなきゃ出来ないならいらない」


 出たー。

 変わりたくない宣言。

 でも、それってかなり矛盾してるんだよなぁ。


「先輩って常々変わりたくないようなこと言ってますけど、今の自分だって意識改革によって手に入れたものじゃないですか」


 思い出になった。

 あの頃とは違う。

 そう思えるから過去の自分を自虐的にお披露目できる。

 そうやって過去を捨てるから、前を向いて歩いていける。


「それは……そうだが」

「先輩は好きだとかなんだかんだ言っても捨ててるんですよ。昔の自分を。先輩が好きなのは今の自分でしょう? 昔の自分を自分だと思っていないから、今と違うと思ってるから、笑い話に出来る。バカにすることが出来る」


 きっと、誰だってそうなのだ。

 雪ノ下先輩だって、結衣先輩だって、小町ちゃんだって、葉山先輩だって、三浦先輩だって、平塚先生だって、戸部先輩すらも例外なく、そうして生きていくのだ。

 それは悪いことじゃない。

 自分を守ることになる。


「人の成長っていうのは、多分、獲得というよりは破棄なんでしょう。恋愛脳な自分を、勘違いしやすい自分を、誰かの背を追い続けていた自分を、空気を読んでいた自分を——なにかしら欠点を抱えた自分を。捨てることで前に進む」

「……かもな」

「それは簡単なことじゃないんだと思います。多分、捨てるだけじゃ終わらないからですかね。捨てる、切り離す、でも、忘れはしない。受け入れて初めて堂々と前を向けるんです」


 欠点を簡単に捨てることが出来たなら、置いて行くことが出来たなら、忘れられたなら、それはきっと、とても便利で幸福なことだ。


 でも、それは出来ないし、してはいけない。

 過去の自分を、欠点を認識して、捨てる。

 でも、それは決して不必要なものではないのだ。

 大切な自分自身だから。

 いらないから捨てるのではなく、治したいから、同じことを繰り返したくないから、そういう自分がいたことを受け入れてから捨てる。

 ゴミじゃないから。


「階段島が存在しなくてよかったですね」

「? なんだそれ?」

「あれ? 知りません? 『いなくなれ、群青』」

「読んだことねぇな」

「面白いですよ、青春ミステリ。貸しましょうか?」

「いいのか?」

「はい、もちろんです」


 そっかー、知らないか。

 そんなマイナーでもないと思ってたんだけど。

 ていうか、書店で先輩と会ったときに買ったやつだし。

 まあ、先輩にすすめられたわけじゃないし、しょうがないか。


「話は戻りますけどー。そういうことをして今があるんですから、変わることは悪いことじゃなくて、立派なことだと思います。過去の自分を受け入れられるから、きっとこれからも受け入れられるんだって……そう思ってます。わたしは」


 そう、わたしは。

 そう思ってない人もいるし、そう思っている人もいる。

 半分くらいは共感出来るって人もいて、そこは違うと思うって人もいる。

 あくまでこれはわたしの考えで、先輩の考え方とは違う。


「あと、別に変わらないことが悪いことだとも思いません。捨てずに生きていけるなら、捨てたくないものなら、それは大事にすべきですからね。どこから見ても欠点であるものなんてないんです。どこかが欠けてるのなら、どこかは満ちてるはずですから」


 短所は長所になるし、欠点は美点になる。

 そういえば、そんなことをさっきも聞いた気がする。


「いい加減な人は気さくな人だと言えますし、怠け者だって無理をしない人であるとも考えられます。捻くれていることはユニークであるということだろうし、暗い人は落ち着いている人です」

「もしかして、それ全部俺のこと言ってんの?」

「まさかー、もしかしてなわけないじゃないですかー」

「否定するところそこかよ……」

「ま、そういうわけです。なんか偉そうにいろいろ言っちゃいましたけど、後輩の戯れ言だと思って頭の片隅にでも置いていただければ」

「そんなんでいいのか?」

「はい。多分、今、わたしは先輩にこうなって欲しいって言いたいわけじゃなかったんだと思いますし」


 先輩がどうあろうが、先輩の中核を成すものまでは変わらないのだろうし。

 そこが変わらないのなら、わたしはこの人のことを好きで居続けるだろう。


「そうなのか? なら、どういうことだったんだ?」


 どういうことだったのか。

 今の話で、わたしは先輩にどうして欲しかったのか。

 わたしは先輩になにを伝えたかったのか。

 それは凄く単純なことだ。


「わたしはこういう考え方ですよって、知って欲しかっただけです」


 そうなのだ。

 知られたい。

 知って欲しい。

 わたしがどういう人間なのか。

 どういうことを考えて、どうやって今、生きているのか。

 知って、分かって、理解して欲しい。


「……そっか。それなら、覚えとく。お前がどういうやつなのか。そういうことは、言われなきゃ知れないことだからな」


 なんとなくは分かる。

 接していれば、どういうときにどうする人なのかくらいなら、多少は知れる。

 でも、言わなきゃ知れないことはある。

 どういう考えでそうなったのか。

 どういう気持ちで歩んでいるのか。

 考える頭があれば予想することは出来るけど、本当のところは言わなきゃ知れない。

 それは言っても分からない、伝わらないくらい難しいことかもしれない。

 誰一人にも理解されないことだってあるかもしれない。

 でも、それでも、言わなきゃなにも知ってもらえない。

 伝わらないから、理解してもらえないから、言わなくていいわけじゃない。

 伝わらないからこそ、理解してもらえないからこそ、言わなきゃいけない。

 知ってもらわなきゃいけない。

 知っていれば、知ってもらっておけば、きっといろいろ違うから。


「はい、ありがとうございます! さて、では行きましょうか!」

「おう」


  ****


 夕闇が迫り、いつもなら人気ない時間。

 しかし外は常に比べて喧騒に満ちており、暗くなるにつれて期待は高まっていく。

 幕張海浜公園近辺は人で溢れ、これから夏の一大イベントが始まるのだということを改めて実感させられた。


「人、人、人ですね〜」

「なんだそれ緊張してんのか」

「なんですかその微妙なツッコミ。求めてませんから、十二点」

「点数はしっかりつけるんですね……、しかも厳しいし」


 たこ焼きやらかき氷やら定番の出店が立ち並ぶ通りから少し離れた場所で、ざわめきに圧倒されつつ軽口を叩く。

 うわあ、この人混みの中に入って行きたくないな。

 そんな気持ちは先輩も同じらしく、うへぇと顔を歪ませていた。


「はぁ……行きましょうか」

「なんかお前テンション下がってないか」

「それでもいつもよりは高いですよ」

「あ、下がってるのは否定しないんですね……」


 そこはまあ、否定出来ない部分だ。

 こういうイベントは腐るほど行った経験があるが、それでも好き好んで人混みに突っ込みたいとは思わない。

 これは慣れとかそういう問題じゃなくて、アレルギーとかと似たようなものだろう。


「……やっぱ帰らない?」

「流石にそれは……え、本当に帰りたいです?」

「いや、冗談だけどな。……ああ、いや、悪い。その、なんだ、無神経だったな、今のは」

「はい?」


 先輩の言葉の意味がよく分からず首を傾げてしまう。


「……悪い、なんでもない、忘れてくれ」

「んんー? ……あ」


 ああ、そういうことか。

 そう言えば、あの日以来、先輩の口から帰るという言葉を聞いていなかったような気がする。


「あー……なんかごめんなさい。もう気にしてないです。その、今のは、無意識っていうか」

「無意識……か。すまん」

「いえいえっ、そんな、わたしがなんか過敏に反応しちゃってただけですし……。えと、昔の話です! 今はそんなこと忘れて楽しみましょう!」

「おう、そうだな」


 ざわめきに向けて歩みを進める。

 と、なにか物足りないことに気づいた。


「せんぱーい、わたしこのままじゃはぐれちゃいますよー」

「はぁ? ……いや、ここはうちの学校のやつとかもいんだろ」

「別にわたしは構いませんけど」

「お前が構わなくても俺が構うんだよ」


 恥ずかしそうに頭を掻く先輩の顔を覗き込むようにして、尋ねる。


「迷惑、ですか……?」

「お前……そういうのは卑怯じゃねぇか?」

「先輩も大概卑怯じゃないですかー。ていうか、ぶっちゃけマジではぐれたことあるんで、その方が助かるんですが……」


 申し訳なさそうに眉尻を下げてそう告げると、先輩は困ったような顔になり、直後に長嘆息する。


「はぁ……」


 なんの言葉もなく差し出される手。

 それに手を重ね、指を絡める。


「その繋ぎ方である必要性あるか……?」

「ないです。気分ですね。折角のデートなので」

「デートじゃねぇよ」

「どのあたりがデートじゃないのか小一時間説明してもらっていいですか」


 言うと、先輩は意地の悪そうな顔をして答える。


「そうなると花火は始まるわけだが、いいのか」


 しかしその返答は予想通りである。

 わたしはにこーっと笑顔を向けて、言い放った。


「それはよくないですね! こんな益体のない話はやめて早く行きましょう! 早く!」

「答えを誘導された……」


 絶望と悲観に満ち満ちた表情の先輩を引くように連れて、ざわめきに包まれる前に言うべきことを言っておく。


「あ、ちなみにさっきのはぐれたってやつ、十年前の話です」

「うっわ……このクソアマ……」


 超ガチな暴言を聞き流し、わたしたちは喧騒の一部と化す。

 言葉通りお祭り騒ぎな空気にあてられてか、それとも左手の温もりからか、テンションも上昇してきた。

 まだ時間まで半刻ほどの猶予がある。

 いろいろ見ていれば、目的地に到着する頃にはいい時間帯になっていることだろう。


「夏ですね〜」

「夏だな……マジで夏。暑いし、苦しいし、虫は飛んでるし、マジで夏」

「先輩の夏のイメージ超楽しくなさそうですね……」


 夏と言って、暑い、苦しい、虫、の三つがまず最初に出てくるのなんて先輩くらいだろう。

 普通は海とかキャンプとか、あと花火とか。

 先輩に普通を求めるのは酷か。


「まあな。夏とかいいことなんもねぇもん」

「夏休みがあるじゃないですか」

「おお、確かに……、それが唯一の救いだな」

「わたしとお出かけ出来る、とか」

「……うん」

「わたしの家に来れる、とか」

「…………うん」

「わたしと手をつなげる、とか」

「………………うん」

「なんですかその反応ー!」

「だってな、それいいことなの?」

「嫌なことなんですか……?」

「いや、別に嫌とは言ってねえだろ」


 そういうのを屁理屈だと言うんです。


「わたしと動物園に行きました」

「んん……、そうだな。楽しかった。あれだけはしゃいどいて否定は出来ない」

「ですよねー。では、わたしとここに来れたことも、楽しかったと言って頂けるよう頑張ります!」


 ふふんと胸を張って言うと、先輩は呆れ顔になる。

 そして諦めたように息を吐いた。


「はあ……分かった。分かったよ、認める。今も楽しんでる。だから、なに、そんな頑張るな。頑張るとしても、自分が楽しめるように頑張れ」

「なんですかそれー、わたしは楽しんでますよ。だーいすきな先輩とデートですからね〜」

「……はいはい」


 軽ーく流されてしまった。

 相変わらずそっぽを向いているが。


「じゃあまずはかき氷です!」

「りょーかい」


 歩調を合わせて人混みの中を進む。

 自分が楽しめるように頑張れと言われてしまったので、目一杯頑張ろう。

 最後まで楽しんでもらえますように。

 せめてと、密かにそんなことを願った。


  ****


「あ、いろはす発見ー」


 買いたい物は買い終え、露天エリアを抜けたときのことだった。

 声の方角へと嫌々ながら顔を向けると、やはりと言うべきか、はるのんが手を振っていた。

 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花とはきっとこの人のためにある言葉なのだろう。

 黒地の大人びた浴衣は、その美貌をより際立たせる。


「うわ……」


 視界に入れると同時に顔が引き攣ってしまっていたらしい。

 はるのんは少しむっとした表情になる。


「なにその顔ー。いろはすー?」

「会いたくなかったですー……」


 間髪いれずに本音が口から飛び出した。

 そんなわたしを先輩が驚きに満ちた顔で見る。


「……比企谷くん、いろはすが酷いんだけど、どうすればいいと思う?」

「いや、俺に聞かれても……」

「見逃してくれませんかー? 今日だけでいいので、本当」

「すっごい邪魔者扱いされてるわたし……比企谷くん慰めてー」


 そう言ってはるのんは先輩の腕に絡みついた。


「ちょっ、はるのん! 今はわたしと先輩デート中なんですから遠慮してください!」

「えー、どうしよっかなー」


 先輩の腕が憎むべき豊満な胸に……くっ、わたしに勝てる要素がない。

 絶望しかないよ、なんなのこれ。

 なんでエンカウントしちゃったの。


「そんな残念そうにしないでよー。ね、比企谷くん、今日は楽しかった?」

「はい? ええ、まあ……」


 先輩の返事を聞くと、はるのんは満足気に頷き、ぱっと身体を離した。

 今日は遠慮してくれるのかな、とそう思ったのも束の間、彼女は蠱惑的な笑みを浮かべて言う。


「比企谷くん、昨年わたしが言ったこと覚えてる?」

「昨年……?」


 人の心を惹きつけ、惑わし、最後には喰らう。

 三日月のように吊りあがった口はおぞましさすら感じられた。

 笑顔に込められた嘲笑と侮蔑、次いで先輩の耳に寄せられた口から飛び出たのは、喉奥に苛烈さを秘めた声音。


「——君が選ぶのは、誰?」


 ざわめきが遠ざかる。

 一瞬、思索の渦に飲み込まれそうになった。

 意識を戻せば、喧騒は変わらずそこかしこに溢れている。

 気を抜けば考えてしまいそうだ。

 それがどういう意味なのか。


 しかし、先輩の顔を見てその言葉が意味するところは推測出来た。

 先輩は誰を選ぶのかなんて決めてはいない。

 困惑に彩られた先輩の表情がそれを物語っている。

 先輩はきっと思い出している最中なのだろうが、そんなことを言っていればそもそも忘れるはずがない。

 なら、彼女の狙いは。


 ——自分の都合のいい答えを出させること。


 迷っている、惑わされている。

 それはつまり、それに類する言葉を聞いたことがあるということ。

 騙すときは事実を混ぜて。

 はるのんにとって都合のいい答えがこの場合なんなのか。

 それは容易に想像できた。


 だから、そんなことは許さない。

 手を繋ぐとかそんな可愛いレベルの話じゃない。

 いや、はたから見ればくだらないことか。

 でも、わたしにとっては大事件だ。


「先輩、行きましょう」

「あ、いや……え?」


 優しく先輩の手を引くと、先輩がわたしに顔を向ける。

 目が合うと、先輩は固まってしまった。

 それが嫌で顔を背けると、背中にはるのんの声が届く。


「いろはす? 今、わたしが比企谷くんと話してるんだけど?」

「だからなんですか」


 背を向けたまま淡白に返事をすると、彼女は僅かにイラついているような声色で言葉を返してきた。


「話し中に割って入るのは失礼よ。あと、人と話をしているときは相手の顔を見なさい」


 どの口がそんなことをほざくのか。

 爆発的に怒りが湧き上がってきたが、それは一瞬で冷えていく。

 多分——冷めるってこういうことなんだろう。

 相手がなにを言おうが、怒る気も失せる。

 でも、だからって笑えるわけじゃない。

 笑えない。

 それに対して感情を向けることの無意味さを感じてしまったら、笑えもしないければ、怒れもしない。

 だから。


「……なによ、その顔」


 だから——無表情になってしまうのだ。

 わたしの顔を見た彼女は嫌そうに顔を歪めた。

 そういう顔をされたのは初めてなのかもしれない。

 感情の激発なら慣れたものだろうが。


「なにか文句でもあるの?」

「いえ、特にありませんよ。だって、それも折り込み済みなんでしょう? なら、怒る意味も哀しむ意味もないじゃないですか」


 それこそこの人の思う壺だ。

 いいように操作されて詰む。

 それに、わたしを傷つける覚悟はしているようなことを言っていた。

 それもあるいは、冷めている理由の一つなのかもしれない。


「ふぅん。いろはすも結局、そんな簡単に壊れちゃう子だったんだね。まあ、嫌われるのは慣れてるけど」


 つまらないものを見るような目でわたしを見つめて、そんなことを言う。

 わたしはつい、首を傾げてしまった。

 なにか行き違っている気がする。


「……わたし別にはるのんのこと嫌いになってませんよ?」

「はあ? そんな顔してるのに?」

「どうでもいいですけど、その言い方すっごく嫌です」


 なんかブスだと罵られているような気分だ。

 面と向かって「そんな顔」だなんて言わないで欲しい。


「ていうか、今わたしがどんな顔してるかなんて関係ないじゃないですか。それとも、わたしがこういう顔をしたら、はるのんはわたしのことを嫌いになるんですか?」


 それは凄く悲しい。

 残念だし、惜しい。

 わたしには掛け替えのない存在に嫌われたいと思うような性癖はない。


「……嫌いにならないけど、嫌」

「わたしだって、こういうことされるの、嫌です」


 嫌いにならずとも、嫌になる。

 嫌なものに感情を向けるのは疲れる。

 そういうことだ。

 わたしはさっき、そういうはるのんに冷めてただけだ。

 それが過ぎれば元通り。

 にこにこ笑って、くだらないことを言い合う。


「はぁ……、そう、そういうこと」

「そういうことですよー。嫌なことされれば嫌になるし、邪魔するなら邪魔します。そういう関係でしょう?」

「そうだね……そうだった。いろはすはそういうわけ分かんない子だったね」

「その言い草は酷くないですかねー……」


 わけ分かんない子ってなんだよ。

 わたしからしてみればはるのんの方がよっぽどわけ分かんないよ。


「まあ、わたしははるのんがどれだけ嫌なことしたって嫌いになりませんよ! わたしの大切な友達ですからねっ」


 にこぱーっと満面の笑みを見せれば、はるのんは苦笑する。


「全く……調子狂うなぁー」

「どうでもいいですけど、調子狂うなぁーとジョージ・クルーニーって超似てませんか」

「うっわ、本当にどうでもいい……なんで今」

「え、たった今思ったので……」


 ダメだった?

 そういう場面じゃなかった?


「タイミング考えてよ! 真剣な話してたんじゃなかったの?」

「えぇ……真剣な話まだするんですかぁー?」


 やーだーなー。

 面倒くさいなー。

 なんで遊びに来てるのにそんな辛気臭い話しなきゃならないのか全く意味不明過ぎて困る。

 まあまあ、そんなシリアスな顔すんなよ。


「なに、文句でもあるの?」

「めっちゃあります。ていうか、もう花火始まるので本当行きますね。この続きはまた家でー」

「いや、しないから。ていうか、ちょっと待ってよ!」


 さっさと進もうとすると、空いている手を掴まれた。

 しぶしぶ振り向くと、はるのんがじっとわたしを見つめてくる。


「な、なんですか?」

「……わたしも見る」

「はい?」


 なにをですか。

 そう言葉を続ける前にはるのんが再び口を開いた。


「わたしもいろはすと一緒に花火見たいっ!」


  ****


 ひゅるるという聞き慣れた音が闇に木霊し、直後、夜空に光の花が咲く。

 様々な色に彩られたそれは見慣れているものとは言えど、目を奪われてしまう。

 それは隣の先輩も同じらしい。

 こそりと盗み見ると、ワイド展開されたスターマインを優しげに見つめていた。

 そのことに満足感を覚えつつ、わたしは視線を戻す。


 幕張ビーチ花火フェスタがとうとう幕を開けた。


 これから一時間の間に一万五千発もの花火が打ち上がるらしい。

 絶え間なく続く花火を見ていると、高密度な花火ショーという宣伝文句にも頷ける。


「んー、綺麗だねー」

「ですねー」


 右隣にははるのんが腰かけている。

 本当はチケットがなければ入れないはずなのだが、協賛者ということで入れてもらったらしい。

 ちょんちょんと腕を突かれ、はるのんの方を向くとなにか小包のようなものを渡された。


「これ、後ででいいから渡しといて」

「え? ああ、はい。……だから着いて来たんですね」

「ううん、これはおまけみたいなもんだよ。本当にいろはすと一緒に観たかったの」


 ふふっと笑うはるのんの姿がどこか切なげで、不安に駆られる。

 なにを考えているのだろうか。

 少し後にぽしょりとつぶやかれた言葉はおそらく独り言なのだろうけど、はるのんに意識を向けていたわたしには聞こえてしまった。


「……もう観れないんだろうな」


 それが花火を観れないということなのか、わたしと一緒には観れないということなのかは明確だった。

 一体なにがあるというのだろう。

 しかし、考えて分かるものでもない。

 言ってもらうまでは分からない。

 けれど、それでも、見逃さないようにはしておこうと思った。


「さって、それじゃわたしは戻るよ。比企谷くん、またね」

「……はい」

「いろはすは家でね〜。多分先に着くから、いろはすはゆっくりしてていいよ」

「あ、ありがとうございますー」


 家にいてくれるのは助かる。

 お母さんが心配だから。

 一時間に一回は必ず連絡するようにしているけれど、それでも誰かがそばにいるのとじゃ安心感が段違いだ。

 ひらひらと手を振りながら、おそらく特別協賛者席の方へと向かっていくはるのんを見送り、改めて花火を鑑賞する。


「お前……、本当に雪ノ下さんと仲良いんだな」


 大玉逸品だか尺玉だかという、どデカイ花火が上がっているタイミングで、そう声をかけられた。

 少し考えてしまう。


「どうでしょう、仲良いんですかね……。友達ですけど、別に仲良しこよししてるわけじゃないですし」

「そうなのか? ……雪ノ下さんがあんな態度になってるの初めて見たわ」


 それは、そうなんだろう。

 わたしだって、そういう人だとは思っていなかったし、なにかが違えばそのままだったんだと思う。

 だいたい、さっきの態度だって、どこまで嘘でどこまで本当だったのか怪しいものだ。

 わたしがはるのんを言い負かせられるとは、とてもじゃないが思えない。


「知らないだけですよ、それは。誰もあの人のことを知らないんです。あの人が完璧なんじゃなくて、外面が完璧なだけなのに。怖いから知ろうとしないのか、はるのんが知られないようにしているのかは分かりませんけど」


 そういう意味じゃ、先輩と似ている部分もあるかもしれない。

 誰も知らない。

 知ろうとしてない。

 知られようとしてない。

 だから、勝手に決めつけられて、偽物の比企谷八幡が蔓延する。


「はるのんだって普通に優しくて、普通に意地悪で、普通に可愛くて、当然弱い部分もあるって、そんなこと、当たり前のことなはずなんですけどね」

「そう、なんだよな……。上手く隠してるだけ、か」


 弱い部分のない人間なんていない。

 だから、完璧に見える人はただ隠しているだけだ。


 強固な外面、生まれ持った多彩な才能、計算高い行動、見透かされるような観察力、おぞましい笑み、苛烈さを極めた攻撃的な声音、肚に秘めたなにか。

 確かに、そういう部分はある。

 でも、それは表だ。

 そうならざるを得ない環境で手にした表の顔。


 才色兼備、眉目秀麗、文武両道、容姿端麗。

 加えて、気づく人は気づく毒々しさ。

 薔薇に棘ありとでも言えばいいのだろうか。

 本当に完璧なら嘘くさいが、多少嫌われるような部分があった方が人には好かれる。

 だから、棘をつけた。

 より本物っぽさを出すために。

 わたしはそう感じる。


 おぞましい、怖い、なにを考えているのか分からない。

 そう思うことは少なくないけれど、本当におぞましいのは、完璧を強いる環境だ。


「そうですね。まあ、だからってみんなに知って欲しいとかは思いませんけどね」

「そういうもんか」

「そういうもんです」


 はるのんだって知られたくないだろう。

 それに、はるのんの周りの人だって、そんなはるのんは求めてない。

 強制されているが、それに抗うことでより状況が悪化するのなら、それはしない方がいいのだ。


「偉そうなこと言っても、わたしもはるのんのこと、なーんにも知らないんですけどね」

「俺よりは知ってんだろ」

「でも、理解してないです」

「誰かを理解するのは、難しいことだ」

「難しいからやらなくていいわけじゃないですよ。……難しいことだから、時間をかけてやらないと、です」


 何年かけてもいい。

 その一パーセントでも理解出来るように。

 誤解しないように。


「……逃げたくならねぇのか?」

「なりますよー」


 嫌になれば、諦めたくなるし逃げたくもなる。

 誰だってそうだと思うし、諦めも逃げも悪いとは思わない。

 言いたいことを言わない方が——取り繕って愛想笑いを浮かべていた方が楽だ。


 やらなくてもいい理由を作るのは容易だ。

 わたしがやらなくても誰かがやる。

 わたしが逃げてもどうせたいして怒られない。

 わたしが甘えれば手伝ってくれる人だって沢山いる。

 相手のことを知らなくたって、人間関係は上手くいく。


「でも、わたしは嫌なんです。なにも知らない、なにも伝えない、そういう友達はこれ以上いりません。甘えてばかりいて、楽なことばかり選んでいたから、簡単なことすら出来ない。そういうのはもう、懲り懲りです」

「なにもしなくていいなら、その方がいいと思うけどな……」

「そう思うのは、先輩が人任せにしたことがないからですよ。先輩は逃げたいとは言っても、逃げようとはしないでしょう?」

「そこに問題があって、俺が解決出来るなら、やるだろ。普通」

「いえ、やりませんでしたよ、わたし。だって誰かがやってくれるんですもん」


 わたしと先輩は違う。

 現実的な話をすると、ぶっちゃけ、わたしが言ったようなことを考えている人の方が多いだろう。

 目の前でなにかが起きても、きっと誰かがやってくれる。


「例えばそうですねー……、これはあくまで例えなんですが、今まで先輩がやってきたことっていうのは、先輩にしか出来ないことでしたか? 先輩が動くことでしかその結果は得られなかったと思いますか?」

「そんなことはないな……。俺が出来ることなんて、誰でも出来る」


 そうなのだ。

 わたしも先輩もなにも特別な人物じゃない。

 大枠でカテゴライズすれば、所詮は一般高校生。

 雪ノ下先輩や葉山先輩、はるのんのように特別優れているわけじゃない。

 誰でも出来ることしか出来ない。


 もちろん、先輩は誰にでも出来るわけじゃないことをやれているとは思っている。

 それは矛盾に思えるが、矛盾ではない。

 出来るか出来ないかで考えたときには誰にでも出来ることだけれど、出来るけどやらないか、出来るからやるか、出来ないからやらないのかで考えたときには、誰にでも出来ることじゃないから。


「でも、やらない」


 だから、やらない。

 やれば不利になる、やればなにかを失う。

 そうなったとき、人はやらないことを選ぶ。

 やろうと思えば出来るけど、決してやらない。


「そんなこと……」

「そんなこと、ないって言えますか? 本当に? 心の底から?」


 これは当然反語だ。

 先輩はそれを口にしたくもないのか、ふるふると首を横に振った。


「誰もやらない仕事がどうなるか。先輩はよく分かってますよね」


 分からないわけがない。

 いつだって先輩の世界には先輩しかいなかった。

 だから、そこになにか解決しなきゃいけないことがあって、それが出来るのは、それをやれるのは先輩しかいない。

 正確に言えば、先輩は、誰もやらないようなことが出来るのだ。

 誰にも出来ないことは出来ないけど、誰にでも出来るけど誰もやらないことなら出来る。

 先輩が直面する問題はいつだって先輩の出来事でしかないけど、それは偶然転がってきたわけじゃない。


「誰もやらないから、最終的に先輩の前に落ちてくる。先輩はそういうのでも、嫌々ながらやっちゃいますよね。まるで宿命かなにかみたいに」

「俺がやるしか……ねぇからな」

「やらなくてもいいことではあるはずなんですけどね。先輩が動かなくて困るのは先輩じゃないんですから」


 文化祭でも、修学旅行でも、生徒会選挙でも、クリスマスイベントでも、マラソン大会でも。

 先輩がやらなくて困るのは先輩以外の誰かだ。

 先輩は責任を取る立場にいない。


「やらなきゃ平塚先生に怒られる」

「怒りませんよ、誰も。絶対と言ってもいいです。考えました、けど出来ませんでした。悪くない。雪ノ下先輩に解決出来ない問題を先輩が解決出来なくても誰も怒らない。依頼人だって絶対に解決してもらえるだなんて思ってないですし」

「いや、だって、な……それじゃダメだろ」

「そうですね、そう言うと思いました。先輩のそういうところ、好きですよ」


 決して人任せにしない。

 問題があるなら解決しようと尽力する。

 それが自分以外のことであれば、尚更。


「そう思えるのは、とても素敵なことだと思います。そんな人、そんないませんからね」

「……別に、何人かはいんだろ」

「いるでしょうね。だから、みんなやらない。自分がやらなくても誰かが——先輩みたいな人がやってくれるから」


 自嘲気味に言うと、先輩は納得したような声を漏らす。


「ああ、そういうことか」

「そういうことです。みんなそういう人がいることを知っている。だからやらなかったんです、わたしも」


 今でも、自分に損なことを出来るかと聞かれれば、内容次第でやらないと答えてしまうだろう。

 だってその方が楽だから。

 上手な生き方だと思う。


「でも、先輩の言う通り、それじゃダメなんです」

「そうだな。それじゃダメだ」

「わたしは先輩のようには出来ません。出来てもやれない、やらないと思います。でも、自分のことはやらないとです。自分のことすら自分でやらなかったから、今、なにも持ってないんでしょうね……」