やはりわたしの青春ラブコメはまちがっている。7
今章で一旦シリアスとはお別れです
さよならシリアス、ひさしぶりコメディ。
ただ、今章は私情により1日の更新分量が少なくなります。
ごめんなさい
第五章 そして、由比ヶ浜結衣は離れ去る。
探偵ごっこは二度とやりたくない。
と、そう思った。
四日前、日付は六月十八日、結衣先輩の誕生日に行われた球技大会の最中にわたしは頭を使って結衣先輩の退部理由を探った。
はっきり言って、ああいうのは性に合わない。
どこもかしこも継ぎ接ぎだらけで、推理になってない推理。
性に合わないというか、出来ないのだ。
向いてない。
よくよく見てみれば穴だらけで、ていうか見返すまでもなく欠点だらけで、感情を基点にしていたからブレまくっている。
最初から最後まで建前で、最初から最後まで本音だった。
分かっている結論から目を逸らして違う結論を導き出そうとしていたけど、両方正しかった。
結局、わたしに人の心理なんて分かりはしないのだ。
理論や論理、最初に見えて然るべき部分が全く分からない。
代わりに見えるものもあるけれど、これは読心術とかそんな高尚なもんじゃない。
ただ、分からない。
出来ないから、分からないだけなのだ。
己の中に莫大な感情が渦巻いているから、それに従わない理由が分からないだけなのだ。
それを隠せる方法を知らないだけなのだ。
だから、感情は分かるときがある。
それが綺麗なものだろうと汚れたものだろうと。
信じきれないが、信じたいとは思っているから。
汚穢しているが、無垢な気持ちもあるから。
本当に分かっているのかは定かでないが(というかむしろ、葉山先輩のときは分かっていなかったが)、理屈やお為ごかしを取っ払って、論理が飛躍し、理論が破綻して、ただそこに残った感情。
自分がないから、影響を受けやすく、いろんな誰かに似ているわたしには自分のことように考えられる。
類似点を見出せばこそ、そこに取り入って主観的に感情を推測して決めつけることが出来る。
なにを悲しみ、なにを喜び、なにが好きで、なにが嫌いか。
それが、分かるような気がするのだ。
実際には分かっていないだろう。
そりゃあそうだ。
他人の気持ちが分かるほどに、わたしは超能力者していない。
それでも、分かった気にはなれる。
共感めいたものは覚えられる。
だから。
最初から分かっていたから、否定したくなった。
結衣先輩が退部したのは、雪ノ下先輩や先輩やわたしを大切に思いながらも、妬み、友達の幸せを祝福出来ない自分の汚さを知られたくなかったから。
そんな自分が嫌だったから。
そして、どう足掻いても否定できない好意を先輩に寄せていたから。
それは酷くわたしの気持ちに似ていて、だからこそ球技大会が始まる前には(なんなら結衣先輩が退部した瞬間に)とっくに分かっていた。
例があれば、似ていると思えば、より強く自分が汚いと認識させられた。
理屈をくっつけたかった。
誰がどう思ってそうなったのではなく、なにがどうなってそうなったのか。
感情以外のところに理由がないかと記憶を辿って、過去を探って、違和感を見つけて、下手くそに縫い合わせて、どうにか形になった。
理屈と膏薬はどこへでもつく。
だからわたしでもなんとかなった。
しかし無理にこじつけた理由や論理は剥がれやすい。
剥がしてしまえば露わになるのだ。
傷が、汚れが、欠点が。
半端に感情が分かるから、全然理論が組み立てられないから、隠したいものも隠せない。
はるのんはわたしのことが分からないと言うが、それは当たり前だろう。
上辺を見透かしてわたしの感情を知ろうとしたって分かるはずもない。
露呈しているものの裏側を見たってなにもないに決まってる。
隠そうとはした。
隠したいとは思っている。
隠せてもいないのに、隠せているつもりで、曝け出したいとかバカみたいなことをずっと思っている。
矛盾だらけだ。
けど、全てわたしの感情なのだ。
こんなもの誰にも分かろうはずがない。
どんなに人の心が分かる人でも分からないと言うに違いない。
どれも本当なのだから。
作り笑いを際限なく生み出す仮面は着けていたいけど、着けていたくないし。
奉仕部は在り続けて欲しいけど、分解されて欲しい。
結衣先輩に戻ってきて欲しいけど、戻ってきて欲しくない。
頑張りたいけど、頑張りたくない。
頼りたいけど、頼りたくない。
逃げ出したいけど、逃げたくない。
どっちも本音で、本当のことなのだ。
先輩が好きで近くにいたいという気持ちと、先輩に幸せになって欲しいと思う気持ちを使って取捨選択することは出来る。
けれど、その二つに優劣をつけることは出来ないから、今回のように板挟みになることがある。
わたしはどちらを優先すべきだろう。
どちらか一つに絞れば、選択も出来る。
分かっている。
そんなこと分かりきっているのに、出来ない。
僅かにどちらかに傾くことはあっても、どちらかを消すことは出来ない。
あるいは、自分が先輩を幸せに出来るのだと割り切れれば。
先輩の持つ関係が崩壊しても、わたしが破壊しても先輩を幸せに出来ると……、そんなこと出来るはずもない。
一度、明確に敵意をもって自覚的に不幸せにしてしまったら、わたしに心を許すわけがないのだ。
今回のようにはいかない。
「一色さん」
声に反応して深い思索から意識を戻せば、帰り支度をしている雪ノ下先輩の姿が映った。
顔を動かせば先輩もいる。
雪ノ下先輩は微笑んでいて、先輩はいつも通り無愛想な顔をしている。
小町ちゃんは困ったような顔で笑い、俯く。
一体、どこに行ったのだろう。
わたしの憧れた空間は。
いや、確かにここではあるのだ。
しかし、違う。
一人、足りない。
別にこの空間は上っ面だと批難するつもりはない。
先輩は先月中旬、結衣先輩の誕生日に本音をぶつけたはずだ。
雪ノ下先輩だって、少なからずコンタクトは取ったはずだ。
小町ちゃんだって、なにかしら動こうとしたに違いない。
だから、これが今の姿だ。
しかし、この空間の中に一人、罪悪感を憶えているやつがいる。
出来ることをやらずに、こうなることを望んだやつがいる。
本来、居座っていてはいけないやつがいる。
そう思えてきてしまうのだ。
あの日、あのとき、きっと。
雪ノ下先輩に全てを伝えて雪ノ下先輩が結衣先輩と話せば、元通りになっていた可能性は高かった。
分かっていて、それでも尚、わたしはその選択肢を潰した。
だいたい、部外者が結衣先輩を止められる道理がない。
雪ノ下先輩に全て暴かれ、受け入れられ、そうしてここに残るならまだしも。
時間がなかった、結衣先輩の気持ちを考えた、と言い訳するのは簡単だった。
四月、奉仕部の人数が減らないようにと思ったはずなのに、いざそのときが訪れるとこれだ。
「どうしたの?」
「その、わたし……、」
言えない。
悪意をもってそうしたわけではないけど、言えない。
分かっていて、でも、欲に溺れてしまった。
こんなものが欲しかったわけじゃ、ないはずなのに。
そうじゃないはず……、それすら自信を持って言えない。
「……いえ、なんでもないですー」
「そう」
言って、曖昧な笑みを溢す。
それを見ている先輩すらも、眉を顰める。
見て見ぬフリをして扉へと足を進めた。
部屋を出る直前、振り返った。
そこにいたはずの人はいない。
その優しさが、哀しそうな微笑みが、思慮深い心が。
問うのだ。
わたしのしたことは本当にまちがっていなかったのか、と。
責めるのだ。
この空間を壊したのはお前だ、と。
自分で壊した空間に浸れる無神経な自分。
時間と共に薄れていく罪悪感。
これでよかったと少なからず思っている自分に反吐が出る。
あまつさえ自分に天秤が傾いてきたと思っている自分に吐き気がする。
それでも、笑う。
気づいて欲しかったわけじゃない。
しかし気づかれてしまう。
気づくと入り込んでいるのだ。
欲望に満ちた心の中に。
そして問いを繰り返しているのだ。
はっとなって上げた瞳に映るのは心配そうな顔をした雪ノ下先輩。
気を遣わせている。
今日の昼、雪ノ下先輩とは少し話をしたから、こうなると分かっていた。
分かっていても来てしまった。
責任とかを感じているわけじゃない。
感じていたら、ここに来てはいない。
罪悪感とか、出来ることをやらなかったとか、居座ってはいけないだとか。
これっぽっちも思っていない瞬間があるのが気色悪い。
悔やんではいない。
しかし、省みるべきなのに。
「心配かけてごめんなさい。帰りましょう」
再び笑いかける。
先輩たちは納得しかねた表情で歩を進めた。
****
昨日発表された期末順位は念願の学年一位だった。
なぜか喜びも感動もなかった。
もっと他に考えるべきことがある。
半月近く、ずっとテスト勉強に逃げていた。
だから、そろそろ考えなければいけない。
しかし、考えたくないことを考えるのは本当に疲れる。
だから、今日だけは、今のこの時間だけは、そのことを忘れよう。
「ただいまー」
本来この家の住人ではない人が午後十一時を過ぎた頃にやってきた。
今日は遅くなるとメールで聞いていたから、別段不思議はない。
ただ、どのくらいの時間か正確に聞いていないので、お母さんにはさっき寝室に戻ってもらってしまった。
リビングに入ってきたその人に声を掛ける。
「おかえりなさい。ていうか、もう完全に家族みたいになってますねー」
「まぁねー」
ふふんと何故か誇らしげに笑うとソファに腰掛ける。
今日は本当の家族に会ってきたのだろう。
どこか疲れた表情をしている。
しかし、もう少し頻繁に帰ってあげて欲しい。
三十周年記念イベントの件で父親と何度か顔を合わせているが、毎度愚痴を聞かされるのだ。
娘が一人も家に帰って来ないだとか、こんなことなら一人暮らしなんてさせなければよかったとか。
まあ、家に帰って疲れるならしょうがないとは思うんだけど。
反抗期とか言ってたけど……、うちの居心地がいいのだと前向きに捉えておこう。
はぁとため息を漏らしている横顔に苦笑して、声を掛ける。
「はるのん」
「んー? なに?」
「誕生日おめでとうございますっ」
はいっとプレゼントを差し出すと目をぱちくりさせた。
なんで知ってんの、って顔だ。
戸惑ってるはるのんかわいい!
「雪ノ下さんに聞いたんですよー」
「え? いつ?」
「えーと、先週ですね。誕生日は帰ってくるかなぁ……って嘆いてました」
「そっか……」
まじまじとわたしの持つ小包を見る。
そんな怪しいものじゃありませんよー。
おずおずと手に取り、しばらく見つめる。
なんだろ、あんまり友達に祝われたりとか経験ないのかな。
「あ、開けていいの……かな?」
顔は手元の小包に向いたまま、視線だけわたしに向けて訊いてくる。
ここまで美人の上目遣いは女のわたしでもなんだかどきどきする……。
ていうか、もうはるのんのものなんだから開けちゃいけないわけがないだろう。
「もちろんです」
微笑みながら頷くと、はるのんはゆっくりとリボンを解いて包装紙を剥がす。
化粧箱の形は長方形で色はダークグレー。
高級そうだが、別にそんなに高くはない。
なんだか不安になってきた。
喜んでもらえるだろうか……。
「ボールペン……?」
箱の中には光沢のある白い布が敷かれていて、その中心にボールペンが納まっている。
ボディーにネオピンクのレジンが使用されたちょっと大人っぽいボールペン。
「あ、あー……っと、アクセサリーとかにしようかと思ったんですけど、はるのん一杯持ってそうだし、財布とか買えるほど予算ないし、アロマとかは使うか分からないしで結構悩んだんですけど」
ボールペンを摘んで眺めているはるのんに言い訳みたいにべらべらと言葉を並べ立てる。
「その、渡すなら使って欲しいなって思って、でもやっぱり……微妙ですよね〜」
顔を窺うようにして訊くと、ゆっくりと頭を横に振る。
「ううん……、嬉しい」
胸の前で、ボールペンを壊れ物でも触るようにそっと両手で掴むと、わたしの顔を見て真剣だった顔を綻ばせる。
「ありがと」
不意打ちの満面の笑みに、不覚にも見惚れてしまった。
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って違う違う!
なにときめいてんだ、わたし。
なんではるのんとラブコメしてんの……。
いくらなんでもまちがい過ぎでしょ。
「いえいえ、いつもお世話になってますから、そのお礼も兼ねてってことでー」
「高かった?」
「いえ、そんなに」
予算を数百円オーバーくらいだ。
ボールペンとしては高い気がするけど、問題無い。
喜んでもらえたのなら、それで満足。
「そっか。大切にする」
その気持ちはありがたいけれど、嬉しそうに微笑むはるのんを見て少し不安になる。
「仕舞っとかないでくださいねー?」
「えっ」
心底驚いたような顔をされた。
「えって……、使わなきゃ意味ないじゃないですか」
「だって、使ったら壊れるんだよ?」
そんな当たり前のことをマジ顔で訊かれても困る。
消耗品にしたのは失敗だったかもしれない。
「なら大切に使ってください。ボールペンなんて雑に扱わなければそうそう壊れませんよ」
なんにしてもそうか。
「で、でもさ……」
「誕生日プレゼントなんて来年も再来年もあげますから……」
「そっか、でも、んー……分かった」
こくこくと頷く。
なんだこのかわいい生き物。
こんなの飼ってたっけ……、うちはペット飼ってないと思ってたけど。
「誕生日プレゼント……、友達からもらったのは初めてだなぁー、ふふっ」
ボールペンを掲げてにやにやしている。
嬉しそうでなによりです。
わたし友達だったのか。
なんか嬉しいなぁ。
友達、友達か……、なんて甘美な響き!
「初めて、ですか」
「うん。わたしに寄ってくるのって、なんかお金目当てだったりとかだから。まあ、利用してあげるんだけどねー」
利用ってなに、怖い。
怖い怖い、あと怖い。
まあ、はるのんみたいなタイプだと、上辺での交友関係が多くなるのは仕方ないか。
「前に大学連れてったときに紹介した子は友達だけど、淡交をもって良しとするタイプだし」
友達って言えるのは数少ないのだろうか。
やだ、その中に入れたとか嬉しい!
「いや、わたしもそうだと思ってたんだけど。案外、嬉しいもんだね。だからって率先して誕生日聞いたり教えたりはしないけど」
実際、そういうタイプじゃないもんな。
別に欲しいってわけでもないだろう。
貰ったら嬉しい。
それだけだ。
「あ、ケーキとかは食べてくるだろうと思って用意してないんですけどー……」
「うん、食べてきたから大丈夫。ていうか、これで充分かな。ありがとね」
「い、いえいえ……」
そんな手放しで喜ばれるとなんだか照れてしまう。
お母さんからもプレゼントがあることを教えようと思っていたけど、また明日の朝のお楽しみってことにしておこうか。
「ねぇ」
「はい? なんですかー?」
「ガハマちゃんのこと、まだ悩んでる?」
悩んでる。
そりゃ、悩んでいるとも。
頭をフル回転させてどうすればいいのか考えている。
しかし考え始めたのは昨日からだ。
テストが控えていて纏めることも出来ず、ここまできてしまった。
「もう気にしなくていいと思うよ。雪乃ちゃんが声かけて戻ってこなかったなら、いろはすが突き止めても、雪乃ちゃんが突き止めても多分変わらなかったと思うし」
どうだろうか。
結果はもう出てしまっている。
だから、ifには様々な可能性がある。
でも、それに意味はない。
考えたってどうしようもないのに、いつまでも考えてしまう。
「わたしはガハマちゃんとは話してないし、ただのかまってちゃんで辞めたなら半月も待てないでしょ。もって一週間、早くて三日で謝りに行くんじゃないかな」
「話してないって……見てなかっただけじゃないですか。一人だけ、除け者にして」
「まぁね。でも、今考えるのはそこじゃないよ。重要なのは、半月経っても戻ってきてないって事実だけ。それだけ覚悟決めてたなら止められないんじゃないかな」
「そういうもんなんですかね……」
どうやっても止まらなかったなら、誰がやっても一緒だった。
その理屈は分かる。
全ての可能性は試せないから、結果を受け入れるしかない。
ああすればよかった、こうすればよかったと悩むのは無駄。
本当に、無駄、なんだろうか。
「そういうもんだよ。雪乃ちゃんたちがどうしても連れ戻したいなら動くだろうし。いろはすは奉仕部じゃないんだから、ラッキーだと思っておけばいいじゃない」
ラッキーだったのかな。
釈然としない。
そう思いたくない自分がいる。
わたしが動いたことに、それを否定したいという理由が含まれているから、それだとわたしが動いた意味は……、意味はあったか。
先輩への疑いは晴れた。
それは充分な結果だ。
「それに、ガハマちゃんも気にしてる風じゃなかったんでしょ? だったらいろはすは前向かないと」
「前、ですか」
前を向いたってそこになにがあるのか。
なにを失ってなにを手にしたのかも理解できてないのに、進める未来なんてあるのだろうか。
ていうか、気にしてる感じじゃなかったのは、あくまでわたしの前でだけだ。
「後悔してるわけじゃないなら、乗り越えた壁はきっといろはすのこと支えてくれる」
そうなのだろうか。
それでいいのかもしれないと思ってしまい始めている。
それで、本当にいいのだろうか。
正解は分からない。
結果が出たって正答が判明しないのに、そんなの分かるはずもない。
分からないことは考えるだけ無駄だ。
けれど、考えなければ解ける問題も解けない。
まちがったとは思っていない。
正しかったとも思っていない。
今までは、正しいとは思えた。
客観的に見てどれだけまちがっていようと、わたしにとっては正しいと思えていた。
今はそれすら思えない。
果てしない矛盾が存在している。
なら、結衣先輩が辞めるならわたしはもう奉仕部には行きませんとでも言えばよかったのか?
そんなことをして無理矢理繋ぎとめた空間になんの意味がある。
そこにはもう空っぽの薄ら寒い空間しかない。
それなら、今の空間の方がいい。
多分、なにもしなかったらなにもしなかったでどうにかなるのだ。
時間が解決してくれる問題というのは、こういうものだろう。
無理矢理繋ぎとめた空間に意味はないけど、悩み苦しみそうして訪れた喪失には意味があると思う。
今は悲しいけれど、あの人たちはそれを受け入れてしっかり一人で歩いていける。
これは、願望か。
結衣先輩にとっては、あの部室から去ることが幸福だった。
手に入らないものを追い続けて、友達とくっついたとき、それを喜べないから、それなら去った方がお互い楽だと。
では、先輩の幸福はなにか。
本物の関係を手に入れること。
であれば、本物の関係に結衣先輩が入っていなくても、幸福にはなれるんじゃないのか?
先輩たちは結衣先輩が話してくれたとき、説得して、それでも離れるのなら止めるつもりはないだろう。
わたしはただ傍観していればいい。
これも決めつけに過ぎないな。
しかし、わたしが先輩に与えたい幸福はそれだろうか。
そこがいまいちはっきりしない。
矛盾だらけで自分のしたいことがよく分からない。
なにをしてるのかもよく分かってないのかもしれない。
この半月、いろいろな人に様々なことを言われた。
一度、思い出してみるのもいいかもしれない。
ここには聞いてくれる人もいる。
綯い交ぜな感情の糸を解きほぐさなければ、断ち切らなければ、雁字搦めにされそうだから。
****
「こんにちは」
総武高校内放送。
この日のゲストは雪ノ下先輩だった。
いつだかの葉山先輩のように、放送室に向かうと既にそこにいて、わたしを濡れた瞳で捉えると柔らかく微笑む。
もう、あの日から四日が経過していた。
こうして事件は思い出になっていくのだ。
「こんにちは〜」
挨拶を返して放送室の扉を開け、向かい合ってお弁当を食べる。
お弁当を作り始めてもう三ヶ月は経った。
主観的には中々上達していると思う。
「これ、わたしにしては上出来じゃないですかー?」
静かに食事を摂る雪ノ下先輩に声をかける。
すると、雪ノ下先輩はわたしのお弁当をまじまじと見て、微笑みながらこくりと頷いた。
「そうね。凄く上達しているわ。でも、あなたはやれば出来るのだから、わたしにしては、というような言い方はやめた方がいいわね。もっと自信をもっていいと思う」
なんだか大絶賛されてしまった。
自信か、自信がないわけじゃないんだけどな。
自分を信じるという点においては過剰なくらいだ。
むしろ自分しか信じてないまである。
「行き過ぎた自信は敵を作りますからね。処世術ってやつですよー」
言葉を返すと、何故か雪ノ下先輩は顔を顰める。
「……それは私のことを言っているのかしら?」
「ちっ、違います違いますっ!」
慌てて否定すると、ふっと表情が柔らぐ。
くっ……弄ばれた。
穢されました!
「雪ノ下先輩は最近自信なさげですからね」
「そんなことは……、はぁ。ないとは言えないわね。いえ、むしろ最初から自信なんてなかったわ。近くにあんな姉がいたのでは、ね」
「ああ……」
まあ、分からなくもない。
あの人は本当なんでもやれそうだ。
なんでも出来る人間なんていないから、結局イメージなんだけど。
偶像崇拝なんて柄じゃないから、期待も尊敬もしてないけど、恐怖の大王ってはるのんのことなんじゃ……、とかたまに思ってしまうときはある。
だって、すっごい怖い笑い方するときあるんだもん、あの人。
「悪いわね。身内が迷惑をかけて」
「え、いえいえ、むしろお世話になってますよー」
「姉さんがお世話……? そんな恩の押し売りみたいなことをするとは思えないけれど、なにを企んでいるのかしら……」
優しさがイコール企みになってしまっている。
気持ちは分かるけど。
なに考えてるか分かんない人って、なにか企んでそうで怖い。
「利害が一致したから助けてくれてるだけですよ」
「利害の一致、ね。先月にあなたがやったのも……、姉さんが企てたことなのかしら?」
「いえ、それはわたしが出した答えですよ」
わたしとしては、はるのんの望む答えを出したつもりでもいたのだけれど、しかし、それを望んではいなかった。
それに、はるのんがいようといなかろうと、わたしはああしただろう。
結果的にはるのんの望みに繋がったと思っただけで、はるのんの望みのためにあんなことをしたわけじゃない。
「そう。では、先週のもあなた自身の意志で動いたのね」
「はい」
それは紛れもなくその通りだった。
悩もうが苦しもうがそれだけは不変のものである。
はるのんが前日にあんなことを言ったのは、わたしを止めようとしたからなんだろうか。
わたしが結衣先輩の退部を止められるとでも思っていたのだろうか。
可能性を潰しておきたかっただけか。
いや、わたしの逃げ道を作ったのか。
「……あなたには、感謝しているわ」
沈痛な面持ちで吐かれた言葉に、ぽかんとしてしまう。
「はい?」
「由比ヶ浜さんは落ち着いたら話に来ると言っていたのでしょう? それはあなたのおかげだから」
「え……、や、そんな」
そんなことを言われるためにやったわけじゃない。
恩なんて感じてもらえるようなことはやってないし、例えやっててもやっぱりそれはわたしのためだろうから。
わたしのせいではあっても、わたしのおかげだなんてことはない。
誰かのせいだなんてことも本当は言いたくないけれど、お前のせいじゃないと言われるより幾分かマシな気がした。
「由比ヶ浜さんのことは奉仕部の問題だから、後は私たちに任せて」
・・・・
私たちに任せて、か。
任せていいのだろうか。
信用していないわけじゃない。
ただ、放棄していいのか悩んでいるのだ。
放棄しなかったにしろ、どうすればいいのか悩んでいるのだ。
感謝、わたしのおかげ……。
わたしに一体なにが出来たんだろう。
確かに結衣先輩は後日話に行くって言ってたけど、それはもともと決めていたことかもしれない。
あの日、なにを得て、なにを失ったのだろう。
なにを与えて、なにを奪ったのだろう。
得たものが失ったもので、与えたものが奪ったもの。
難しいな。
だいたい、雪ノ下先輩ならわたしがなにもせずともなんとか由比ヶ浜先輩と話をしていただろう。
〝もう、無理なのよ……〟
いや、一度、諦めていた。
放っておいてもまた立ち上がっただろうか。
どうだろう。
選ばなかった道がどうなったのかなんて、わたしには知るよしもない。
知ったところで、どうにもならないのだが。
「なんとなく、その壁は支えにはなってくれない気がします。乗り越えたわけじゃないくて、ただ、横を通り過ぎただけですから……」
斜め後方に存在する見えない壁を意識しつつ、わたしははるのんにそう答えた。
そうして、続けてこう言った。
「雪ノ下先輩に、感謝しているとか、あなたのおかげとか言われたんですよねー。わたしはなんにもしてないんですけど」
なんにも、してない。
正確に言えば、感謝されるようなことはなんにもしてない。
「感謝っていうのは、そういうものだよ。自覚的な善行は偽善でしかない。相手に言われて初めてなにかを救えたことに気づくの」
自覚的な善行は偽善でしかない。
妙に信憑性があったのは、はるのんの声音が常日頃聞きなれたものではなく、職場見学のときに垣間見た暖かさを宿していたからだろうか。
それとも、そういう場面を見たことがあるからだろうか。
例えば、ボランティア活動。
あれは、ともすれば懺悔に見える。
破壊し続けた自然環境、奪い続けた人の命。
失ってからその尊さに気づき、取り返しのつかないものを今になって取り戻そうとする。
自らの過ちに罪科に、なにかを救うことで免罪符を与えようとする。
そんな信仰的理由ならまだマシか。
むしろ、自身の存在理由の確保や、正当化の側面が強い気がする。
募金してる俺すげー、献血してるわたしえらーい、ゴミ拾ってる俺マジ人格者。
そんな感じで、自分は誰かを救えている、自分は社会に必要だと自己暗示をかけるのだ。
やばいな、これ。
すごい下衆い。
ちょっと大袈裟に考え過ぎた。
ともあれ、人の行動原理なんて基本的に自己欲求を満たすため。
裏も表もなく誰かのために動くなんて、そんなやつがいるのなら、正直病院行った方がいいと思う。
「救えてる気はしませんよ」
一体全体、なにを救えたというのか。
わたしはただ自分の都合で動いて、最後はしっかり終わらせることも出来ずに立ち尽くしてただけだ。
「それはいろはすが考えることじゃないもの。問題は相手がどう思ったかであって、いろはすの意思は関係ない」
わたしの意思は関係ないのか……、理不尽だな。
感謝されるようなことはしてないし、むしろ肚の中には黒い感情が渦巻いてる。
そんな状態で感謝なんてされても、辛い。
多分、完全に悪者になるようなことはしてないんだけど、うしろめたさの残るときに純粋な気持ちを真っ向からぶつけられては、なす術はない。
うちのめされてしまいそうだ。
「それでも、なんか、罪悪感みたいなのがあるんですよ……」
こんな風に語ってしまっているのは、わたしも例に洩れずこの苦しみから解放されたいと願っているからなのだろう。
きっと、全て吐き出せば楽になれるんだと。
「いろはすが悪いわけじゃない。ガハマちゃんのことは奉仕部の問題でしょ? 止められなかったのは奉仕部の責任だよ」
雪ノ下先輩と似たようなことを言われた。
わたしはわたしに責任があるとは思っていない。
ただ、なにか居た堪れない気持ちになるのだ。
****
なにもしないまま一週間が過ぎ去った。
なにかしなければ、と思えば思うほど圧倒的スピードで時間は過ぎていく。
なにかしなければ……、本当にそう思ってるんだろうか。
ただ、なにか考えなければいけない気はしている。
ぼんやりとしてはっきりしない。
いや、むしろ、はっきりしているものが沢山あり過ぎてごちゃごちゃしている。
やりたくないことは、やらない。
わたしは先輩の近くにいきたい、わたしは先輩に幸せになって欲しい。
近づくのを優先すれば先輩の幸せは失われたままだし、幸せになるのを優先すれば距離は縮まらない。
先輩の幸せか……、本当にそれだろうか。
別に今のままでも幸せなんじゃないのか。
それなら……、あんな顔しないよな。
わたしが動いたからこうなったのか。
結衣先輩が語ったのは自己嫌悪的な理由だったけど、わたしや雪ノ下先輩に遠慮して奉仕部から離れたんだろうか。
「はぁ……」
放課後、生徒会室からグラウンドに向かう道中でため息を溢す。
待って、わたしの幸せ!
わたしの幸せって一体……、なんだこの哲学的思考、怖い。
わたしの幸せより、今は先輩の幸せだ。
でも、そもそも人を幸せに出来るほどハッピーライフ送ってないんだよなー。
余裕ないっていうか。
「ため息つくと幸せ逃げますよー」
「そんなことで逃げる幸せなんて、こっちから願い下げだよ……、ん? ひゃっ!」
いつの間にか脇に八重歯がキュートな愛くるしい女の子が……、なにこの子、怖い。
いつからいたの、っていうか、なんでこんなところにいるの。
「こんにちはですーっ!」
常と変わらず明るい挨拶をしてくれる小町ちゃん。
驚きでおかしな声を出してしまったので、咳払いをして挨拶を返す。
「こんにちは〜。こんなところでなにしてるの? 奉仕部は?」
「後は若いお二人でー、って出てきました」
「ああ、そう……」
そんなお見合いみたいな。
部室に二人っきりになったところで雪ノ下先輩と先輩の距離が縮まるとは思えないけど……、こんな状況だし。
「冗談ですよー! 今は部活停止期間ですし。……どうかしました?」
小町ちゃんが視線の落ちていたわたしの顔を覗き込むようにして訊いてくる。
そう言えば、そうだったか。
サッカー部は昨年の選手権、今回のインターハイと過去に見ない活躍をしているので、七月のインターハイに向けて練習しているから忘れてた。
生徒会はイベントのせいで仕事あるし。
どっちも三年生は控えてもらってるけど。
「あ、ううん、なんでもないよー」
一瞬、こんな状況でよかったと思った。
いいはずないのに……、いいはずないのかな。
わたしにとって好都合ではある。
しかし果たして、このままでいいのだろうか。
「奉仕部は最近、どう?」
「んー、そうですねー。普通……ですよ、一応」
一応、ね。
一応、普通っていうのは、どの程度普通なのだろうか。
わたしがいないときも変わりなく前とは違う空間なのだろう。
変わりなく前とは違う空間、とかなんか凄いアレだな。
これからはあれがいつも通りになるのだろうか。
「いろはさんはどうです?」
「んー、七月の三十周年記念イベントが結構大変かなー。それ以外は特に……」
特にないな。
サッカー部の高校選手権は夏休み入ってからだし。
わたしの返答に小町ちゃんは神妙な顔をして頷く。
「ほうほう。お兄ちゃんとどうなのかなーって意味だったんですが……」
「ああ、……ごめん」
そりゃそうだよなー。
生徒会の近況報告なんて聞いてもなにも面白くないだろう。
「先輩とかぁ……。報告出来るような進展があったらよかったんだけどねー」
ずっと停滞だよなー。
どこに出掛けたわけでもなし。
先輩とお出掛けしたいなー!
花火大会誘うつもりだけど……、来てくれるかな。
一世一代の大一番。
常にそんな感じか。
どれもこれもわたしにとっては大事件に違いない。
「そうですかー……。やっぱり、その、遠慮してるんですかね。あの、結衣さんのことで」
それが本題か。
悩んではいるけど、遠慮はどうだろう……してるのかなぁ。
別にそういうんじゃないな。
「単に機会がないだけだよー。最近忙しいし」
「それなら、いいんですけど」
俯いた小町ちゃんの顔を窺うことは出来ないけれど、なんとなく暗い顔をしているだろうことは分かった。
これで、いいのだろうか。
このままじゃ、ダメなんだろうな。
「いろはさん、いつも考え事してるみたいなので……。小町的には前みたいに笑ってて欲しいなって」
笑ってて欲しいか……、そんなに俯いてたのかよ、わたし。
いや、でも、話すときはいつも笑顔だったと思うけどな。
「わたしはいっつも笑顔だよー」
「そうですか……」
目前に迫る昇降口。
下駄箱から靴を取る。
小町ちゃんはギリギリまで着いてきてくれた。
「ではではっ、愛してますよいろはさんっ!」
なんか求愛された。
ぴっと可愛らしく敬礼している。
可愛いけど、それ……なに、流行り?
最近の流行には着いていけないなぁ。
「愛してるよ小町ちゃんっ」
余裕だった。
「ばいばーい」
「はーい! また」
背中を向けて歩き出す。
数歩行ったところで、背後から小さなつぶやきが届いた。
「そういうの、笑顔っていいませんよ……」
・・・・
笑顔じゃない。
そう言われた。
笑えていなかったのだろうか。
笑えていなかったというと、ぶっちゃけた話、四月から笑っていない気もするけど。
小町ちゃんが言っていたのは、あくまで最近のことだろう。
やっぱ余裕ないんだろうなー。
焦りとか嘘とか疲れとか誤魔化すために笑顔を振り撒いていたけれど、今回のはキャパオーバーしてるんだろうな。
すっごい他人事みたいな思考だった。
切り離したい。
人のことうだうだ考えてる方が楽でいい。
結局はその人が決めることだし。
わたしには関係ない話だから。
いくら他人事っぽく考えたって、どうするか決めるのはわたしなんだよねー。
あのときは遠慮はしてないと思ったけど、本当のところどうなんだろうか。
無意識に遠慮してるのかな。
そんなことはないと思う。
ただ、ちょっと考え込んでしまうことが多いだけなんだ。
わたしだって負担を減らせるなら減らしたい。
それでも、踏ん切りがつかない。
感謝、わたしのおかげ。
遠慮、笑顔でいて欲しい。
そんなこと、言ってもらえる資格ないのにな。
「責任とか、感じてるわけじゃないんです。わたしの行動でああなったんだと思ってますけど、やらなければよかったとは思ってないんです」
正しかったのか分からない。
でも、それはしっかり終わっていないから、判断がつかないだけなのだ。
まだ、終わってない。
まだ、なにか出来るから。
「それなら、いいじゃない。放っておいても、いろはすが困ることはなんにもないでしょ?」
そう、きっと、放っておいても問題ない。
なんとかなるのだ。
いや、この場合は、なるようになるか。
わたしが掴まなくても、わたしが動かなくても、きっと先輩たちはなんとかする。
わたしは外からそれを見ている。
それがわたしと奉仕部の薄い関係。
でも、だからってそれでいいのかと訊かれれば弱い。
「困らないですけど、いいかどうかは分かりません」
善と悪に分けられるような明確な違いがあれば判断できる。
でも、そんなものないんだ。
「もっと自分のこと考えた方がいいよー」
「自分のことしか考えてませんよ」
自分のことばっかりだ。
こうして悩んでるのも結局、後味が悪いからだし。
「結衣先輩が退部したのを気にして遠慮してるとか、そのことで悩んで下手な笑顔浮かべてるとか思われると……、騙してるような気分になるんです。それが嫌なだけなんです」
結衣先輩が退部したから遠慮してるわけじゃなくて、自分の汚さが露呈するのが怖いだけ。
結衣先輩のことで悩んでるわけじゃなくて、汚い部分を必死に隠そうとして疲れてるだけ。
「そう思っててもらった方が好都合じゃない。だって、バレたくないんでしょ?」
それはそうなんだろう。
そうなんだろうけど、本当にいいのだろうか。
隠すべきではない気がしてならない。
****
期末テスト三日目。
生徒会を執行するわけにもいかず、そうそうに学校から出ていた。
目的地は書店。
読む本がなくなってしまったので買いに行くというわけだ。
もちろんお小遣いで、だ。
辿り着いたはいいものの、買いたい本が決まっていない。
どうすればいいんだろう!
やっば……、小説とか自分で買ったことないよわたし。
どこになにがあるのかも分からないし。
先輩のオススメを思い出してみよう。
まず、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』。
なんだか変な名前だ……、本当に面白いのかな。
次に、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』。
ああ、ダメだ。
なんか嫌な予感がする。
あと、『妹さえいればいい』。
ダメだ。
やっぱり嫌な予感がする。
他には、新妹……、うん、ダメだ。
なんだこの異常なまでの妹押し。
怖いよ……、あとキモい。
ま、まあ、オススメとか言っても、本棚見たときにそんな名前の本があったってだけだし、うん。
気を取り直して店内を見て回る。
なんか、これ買おうって思えるのがない。
棚と棚とを蛇のように移動していると、毛色の違った本がずらりと並んだコーナーに出た。
隣接するように漫画コーナーがある。
これが……、ラノベ。
表紙が九割……、いやそれ以上で女の子の絵だ。
うわぁ、ちょっとわたしが買うのはハードル高いなー。
棚の端まで移動してそう思い、踵を返すと見覚えのある人がいた。
「せんぱーい」
わたしをその腐った目で捉えると同時に顔を歪ませる。
まさかこんなとこで会えるなんて!
アイビリーブインディスティニー!
ディスティニーランドでなら、振られてもその日の内に新しい恋が始まるって噂流してあげようかな!
「うわ……」
割りと素でうわって言われた。
いつも通り過ぎて、もうショックがない……だと……。
「うわってなんですか……。はぁー、先輩の心ない対応で傷ついたなー」
冗談めかしてかくっと肩を落とす。
「あー……、いや、悪い。これがデフォルトなんだよ」
「え……」
先輩が謝った。
すぐに謝った。
ちょ、ちょっとこの人大丈夫?
「なんだよ」
「ね、熱でもあるんですかー? いつもなら、ほら、もっとこう……、追い払う感じじゃないですか」
驚きでじろじろと見ながらそう言うと、先輩はあからさまに眉を顰める。
「は? なにお前、追い払われたいの?」
しらーっとした視線を向けられてしまった。
追い払われたいだなんて、そんな!
顔を俯かせて、上目遣いで言葉を返す。
「そんなわけないじゃないですかぁ。わたしのことなんだと思ってるんですかねー。そういうプレイは、ちょっと……」
「違う違う。なんでそうなんだよ……」
呆れたようにため息を吐く先輩ににこにこーっと笑顔を見せると、続けてため息が吐き出された。
この感じ、なんか久しぶりだなー。
とりあえず、目的を達成しなければ。
「それでですねー、わたし本を探してるんですよねー?」
少し首を傾けて言う。
「いや、なにひと段落ついて話題変えましたみたいな雰囲気出してんだよ、省略し過ぎだろ。全体、どれでなんだよ。ていうか、聞かれてもお前がなにしてたかなんて分かんねぇよ。今現在本を探してないことは分かるけどな」
「つ、つっこみますねー」
おお、と少し仰け反りながらぱちぱちと手を叩く。
たった一言にここまで突っ込まれるとは思ってもいなかった。
というか、つっこまれるとも思ってなかった。
「お前がボケてんだろうが……」
「今のはスルーしていいところですよ……。話題変えただけですし」
ボケたつもり一切なかったんだけど。
「そういうのは先に言おうな」
「いや、先に言ったらなんかわたしがバカみたいじゃないですか。察してくださいよ……」
今からボケますけどつっこまないでくださいねー、とか言わないでしょ普通。
もうそれがボケだろ。
「ぼっちにそんなスキル求めてんじゃねぇよ……」
なにか目当ての本があるのか、棚に目を移して指で背表紙を追いながら答える。
その背中は心なしか寂し気だった。
周囲に負のオーラを撒き散らしている気さえする。
なにこの人、業魔化しそう……。
「先輩。目当ての本が見つかったらでいいので、わたしになにか面白い小説教えてください」
「ラノ」
「一般で」
「……おう」
なんだか落ち込んでいる。
ラノベ、ラノベかー。
わたしに合うかなぁ……。
んー、でもなんかギャグっぽいんだよなー。
いや、つい最近まで読んでたミステリーも結構ギャグ入ってたし、意外といけるかも。
好きな人が好きなものは好きになりたいしなー。
「やっぱり、ラノベも一冊紹介してください」
「え? ……お、おう」
おお、ちょっと嬉しそうだ。
なんだ単純なところもあるんだな、この人。
「あ、あれですよ? 妹とかなんか倫理規定に触れそうなやつはNGですよ?」
面白くても、ちょっとわたしには買う勇気も家に置いておく勇気もない。
知り合いにシスコンがいると重ねてしまいそうなのが怖い。
「分かってる……、つーかお前もしかしてあれだろ。俺がそういうのしか読んでねぇと思ってんだろ……」
「あははー、当たり前じゃないですかー。だって、一番印象に残ってるタイトルとかエロマ」
「やめろ。やめてください、お願いします」
綺麗なお辞儀だった。
タイトルにインパクトがあり過ぎてちょっとペラペラと捲って見たけど、あれも妹がメインキャラで出てくる小説だった。
そんな名前の人は知らないっ!
「こんなところで女子高校生にそんなことを言わせるとか、やばいですね」
「お前が勝手に言ったんだろ……」
目当てのものが見つかったのか、棚から本を抜き取ってわたしに顔を向ける。
「で? なんか方向性は決まってんのか」
やれやれといった様子で尋ねられる。
わたしはそんな先輩に苦笑してから、ふふんと満足気な顔を見せて言った。
「面白いので!」
先輩の顔が歪んだのは言うまでもないことだと思う。
結局、『いなくなれ、群青』、『春季限定いちごタルト事件』を個人的な印象のみで選出し、先輩には『キミとは致命的なズレがある』というライトノベルを勧めてもらった。
ちょっとワクワクしてる。
「じゃあな」
書店を出てすぐ、先輩はそう言って背を向けた。
神経を疑う。
もうちょっとなんかないの。
「ちょっと、待ってくださいよー!」
急いで駆け寄り、ワイシャツの袖を掴む。
「ん? なんだよ」
振り向いた先輩は相変わらず無愛想な面持ち。
遊びに……、は行かないな。
テスト期間中だし。
「ど、どっかで勉強していきませんかー?」
断る理由もないだろう。
それでも難癖つけて逃げようとしそうだなぁ。
どうだろうと顔を窺う。
「あー、サイゼでいいか?」
……やっぱ熱あるんじゃないのかな。
大丈夫かな、わたしは心配です。
だが、帰すのは惜しい。
せっかく先輩と一緒にいられるんだから。
「大丈夫ですよーっ」
やったーと心の中でガッツポーズをしつつ、先輩の隣を歩く。
サイゼに入ると、ちらほらと学生が目に映った。
どこもかしこも期末テストかな。
学生が増えるとただでさえうるさいファミレスがさらなる喧騒に包まれていた。
勉強してんのかな……。
席に座りドリンクバーを頼んでドリンクを取りに行き、テーブルに教科書やらノートやらを広げる。
ちらと先輩を窺えば、音楽プレイヤーを取り出してイヤホンを着けるところだった。
このうるさい中で勉強するには、確かに欠かせないアイテムだろう。
わたしも先輩に倣ってケータイにイヤホンを繋ぎ、音楽を聴きながら勉強を進めた。
先輩が近くにいると思えば、妙にやる気が出た。
わたしと先輩の間に一言も会話がなくても、同じ時間を共有しているのだと思うと、一時的にでも心が晴れる。
キリのいいところで一旦休憩。
顔を上げると、先輩と目が合った。
「やっぱお前、真面目だな」
腕を組んで感心したように言う。
「そうですかねー? 先に見据えてるのはお金なんですけど」
「金のためだろうがなんだろうが、目的に向かって努力出来るってのはすげぇんじゃねぇの」
「その論でいくと先輩も凄いってことになりますよ」
照れ隠しのようにそう答えると、先輩はふっと短い息を吐く。
「俺の場合は赤点取って補習したくねぇだけだからな。それに、今まで通りやってるだけだ」
んー、と考える。
今まで通りか……。
「目的の大きさは関係なくないですかー? ずっと続けられるのはそれだけで凄いと思いますし、先輩は真面目ですね」
「急に始めたのが続く方が凄いだろ」
互いに互いを褒め合うという妙な構図が出来上がっていた。
先輩が諦めたように笑みを溢す。
わたしもタイミングを合わせて笑った。
途端に先輩の顔が険しくなる。
「お前さぁ……、なんつーの? そんな無理して笑わなくてもいいんじゃねぇの」
小町ちゃんにも言われた言葉だった。
わたしの笑顔はそんなに無理してるように映ってるのか。
自分の顔なんて自分では分からない。
「四月からずっとそれだよな、お前」
どくんと心臓が跳ねた。
四月からと、今、確かにそう言われた。
思えば、お母さんが倒れたときにもすぐ見抜かれていた。
あのとき、先輩はそれまでのことを踏まえて「なにかあったのか」と聞いたのだろうか。
「四月の最初からそれだし、五月入ってからもっと、由比ヶ浜が退部して……。言いたくないことがあんのはしょうがないんだろうけど、いい加減見てられねぇ」
そんなに酷かったのか。
ずっと隠し通せているとばかり思っていた。
知らないフリをしていてくれたのか。
「や、やだなー、そんなことないですよー?」
取り繕うように答えると、先輩は眉を顰めてわたしを一睨みしたのちにため息をついた。
「……お前になにがあったのかは知らないし、別に無理には訊かねぇけど、雪ノ下にくらいは相談してもいいんじゃねぇの」
相談か。
人に言えるほど纏まってもいないのに、そんなこと出来ない。
あんまり、言えるようなことじゃないし。
「俺も雪ノ下も小町も由比ヶ浜が退部したので、やっぱ、なんつーか、気分が重いんだけどな。雪ノ下も小町もそれ以上に一色のこと心配してた」
分かってる。
心配をかけてしまっているというのは自覚してる。
それでも、迷ってしまう。
どうしても一歩が踏み出せない。
相談できるような立場でもない。
「でも、頑張らないと……なんです」
「頑張ってんだろ、もう。別に辛いときは辛いでいいと思うけどな」
辛いときは辛いでいい。
それでいいのか。
辛いときに無理して明るく振舞わなくてもいい。
それでもいいのかもしれない。
「心配、かけたくないんです」
「もうかけてる。手遅れだ」
その通りだった。
それならもう、奉仕部には行かない方がいいのかもしれない。
それでも行っちゃうんだろうなぁ。
「どうすればいいのか分からないんですよ……」
「……他は知らねぇけど、由比ヶ浜の件はお前に責任はねぇよ。お前のせいじゃねぇから、あんま気にすんな」
聞きたくない。
やめて欲しい。
そんなこと言ってもらえる資格ない。
・・・・
「バレたくないですけど……、でも、隠してると心配かけちゃうんですよ」
妙に勘の鋭い人がいるから。
感謝、わたしのおかげ。
遠慮、笑顔でいて欲しい。
責任はない、わたしのせいじゃない。
わたしを擁護するような言葉ばかりがずらずらと並ぶ。
これに甘えていいのだろうか。
甘えはいらないと、そう思ったはずなのに。
……ダメだ。
これはダメだ。
こんな勘違いをさせたままじゃ居心地が悪い。
でも、なんて言えばいい。
自分の気持ちも整理できないのに、どう言葉にすればいい。
「心配してもらえばいいんじゃない? わたしは辛いですーって、縋って頼れば楽だよ。今までそうやってきたんじゃないの? 進路相談のときはそんな感じだったじゃない」
そうだった。
確かに、そうやって甘えてきた。
ただ、あれは中身のない辛さで、本当はなんにも辛くなんてなかったんだ。
ただ、気を引きたくてやっていただけで、今回とは違うんだ。
「もう、甘えるのはやめたんです。誰かにやってもらっても、なにも……手に入らないから。一人で出来ないから誰かに頼るなんて、正直に伝えることも出来ないのに誰かに縋るなんて、そんなことはしたくないんです」
わたしの気持ちの問題だから、わたしが解決しなきゃいけない。
誰にも言えないなら、わたし一人でやるしかない。
「ならずっと悩み続けるしかないね。受け入れられない、伝えることも出来ない、実行も出来ない。いろはすはわがままだねぇ」
本当、わがままだ。
なにも出来ないくせに現状をどうにかしたいだなんて、どうしようもない。
思い出すべき相手は奉仕部ではなかったのかもしれない。
わたしには甘過ぎる。
どうしても甘えたくなってしまう。
****
テストが終わり、土曜日。
テスト中は流石に停止していた部活動も今日から再開。
いつも通りにマネージャーの仕事をこなし、さあ帰ろうというときだった。
「いろは」
声に反応して首を動かせば、葉山先輩がいた。
その顔は真剣なものになっている。
「葉山先輩……、どうしましたー?」
「少し、話したいことがある」
結衣先輩のことだろうか。
それ以外に心当たりはない。
もしかして告白……?
そんなわけないか。
「場所、変えましょうか」
頷いた葉山先輩を連れて校舎裏へと足を踏み入れる。
ここに来るのは、もう三度になる。
いい思い出が一つもない。
「聞いたよ。結衣が奉仕部を辞めたんだってな」
特に間を置くでもなく、そう切り出された。
もう半月だ。
聞き及んでいてもおかしくない。
「どうするつもりなんだ?」
「どうするって……」
わたしがなにかすると確信しているような台詞だった。
なにか、するのだろうか。
なにかしなくちゃいけないとは思っている。
なにが出来るんだろう。
「なにも出来ないですよ……」
「そうかな」
そうだ。
なにも出来ない。
わたしは部外者だし、わたしにはどうしようもない。
どうにも出来ないことだってある。
「結衣は奉仕部には戻りたがってないように見える。だが、戻りたがっているようにも見える。俺には分からないけど、君なら分かるんじゃないか」
「……まさか。分かるわけないじゃないですか」
分からない。
他人の考えなんて理解できない。
人の心を読むとか、そんな能力はない。
言ってくれなきゃ分からない。
「君は……、今なにがしたいんだ?」
なにがしたいんだろう。
わたしは。
やりたいことは二つ。
両立、出来るのかな。
「君はやりたいことしかやらないんだろ? 誰のためでもないとも言っていた」
そう、やりたいことしかやらない。
誰のためでもなく、自分のために。
わたしが今、一番大切なものはなんだろう。
一番、やりたいことは、なんだろうか。
「君は俺とは違って、なにかを選べる。なにで迷っているのかは分からないけど、選ばないことは勧めない。一度選ばなかったら、これからもきっと選べない」
選ばないという選択は出来ない。
葉山先輩のように出来る自信はないし、そもそもそれはわたし自身が許せない。
でも、どっちを選べばいいのか。
「なにがやりたいのか分からないなら、なにがやりたくないのか考えてみるのも、アリかもしれないな」
なにがやりたいのか。
わたしは先輩に近づきたい。
わたしは奉仕部には今まで通りでいて欲しい。
なにがやりたくないのか。
わたしは先輩から離れたくない。
わたしは奉仕部を壊すようなことはしたくない。
どこまで妥協出来るだろうか。
わたしが近づくことも離れることせず、とりあえず現状維持を望めばなんとかなるのだろうか。
大切な人の不幸を糧に好きな人に近づくような真似はしたくないとは思っていた。
同時にそれでもいいかもとも思っているけれど、どっちにしたってデメリットがあるから、得しないんだよなぁ。
「結衣が退部した理由に身に覚えがあるのか?」
ないとは言えない。
わたしが結衣先輩を追い詰めた人の中に加わっているのは事実だし、こんなすっきりしない気持ちになっているのは、あのとき出来ることをやらなかったからだ。
「それをそのままにしておくのは弱い人間のやることだと、俺は思う。あくまで俺の意見だ。なにをやるのか決めるのは君だからな」
そのままにして、先輩に近づく。
今までわたしはどうしてきたのだろう。
多分、そういうことはしてこなかったんだと思う。
そうしたら、きっと、いつか、後悔する。
「もう何度も自分の中で繰り返していると思うけど、俺からも訊かせて欲しい。結衣が退部して、君は自分自身にも原因があると分かっている。奉仕部は君にとって大切な場所だ。結衣も君にとって大切な存在だと思う」
大切。
大切なのか。
わたしは結衣先輩のことが好きだ。
でも、大切なのか?
先輩も、雪ノ下先輩も、小町ちゃんも、葉山先輩も、はるのんも、みんなわたしにとって大切な人に違いない。
では、結衣先輩はどうか。
考えるまでもなかった。
今まで知ろうとしてこなかった。
それは誰が相手であっても共通することだ。
けれど、わたしを知って欲しい。
そう思う相手は限られている。
その中に、結衣先輩が入っていないわけがない。
なら、結衣先輩は——
「君はどうしたい?」
・・・・
あのとき、わたしはなんと答えたのだったか。
確か、答えられなかったんだと思う。
わたしはどうしたいんだ。
ようやく、答えが見えてきた気がした。
弱い人間だと、否定に近いようなことを言われたから。
それが他ならぬ葉山先輩だったから。
先月の頭、わたしは葉山先輩にわたしのことを話した。
理解できそうにないと言われた。
でも、理解する努力はすると言っていた。
それがこういうことなんだろうか。
わたしは強くありたい。
弱みにつけこんで、楽な道にそれて、優しさに縋るようなことはしたくない。
結衣先輩の退部の件を見過ごすのはそういうことだ。
それはやだ。
お母さんに胸を張れない。
後ろめたくて、先輩にだって顔向けできないに決まってる。
それなら、もう、ほとんどやることは決まった。
あと、少し。
どっちが大切なのか、あと少しではっきりする。
「確かに、わたしはわがままです。先輩に近づきたいから、そのためには結衣先輩がいない方が楽だって分かってるのに。受け入れられなくて、まだ戻ってき欲しいと思ってます」
どうしようもないほどわがままで、それでも、どっちもやりたいことで。
「わたしが離れるか、結衣先輩が離れるかってところがもう、間違ってたんです。どっちも……」
「どっちもは出来ないと思うけど」
出来ない、のかな……。
出来ないかどうかはやってみなきゃ分からない。
やらなきゃなにも始まらないし、始まったものを終わらせることもできない。
……ていうか、どっちも同時にやる必要なんて、ないんだ。
どっちを先にやればいいのか、どっちが今大切なのか、それを考えれば、自ずと答えは導き出せる。
****
期末テストが終わり、土日を挟んで、月曜日。
明日ははるのんの誕生日だ。
誕生日プレゼントはもう買った。
ボールペンという微妙なチョイスになっちゃったけど、喜んでもらえるかな。
期末順位は一位。
頑張った甲斐があった。
けど、それで喜んでいる暇はない。
あと十日も経てば、結衣先輩が退部して一月になる。
未だ、なにをどうすればいいのかも分からない。
先輩たちや小町ちゃんと話しをしたりもしたけど、どうにも考えが纏まらない。
というか、今日までテスト勉強でろくに考えることも出来てなかった。
なにをどうしようか。
学校では周りがうるさくて集中出来ない。
うるさいのにこんなことを話せる人は誰もいないし。
ぼーっと、考え事をしながら渡り廊下を歩いていた。
相手が避けないなら基本的に避けてくれる。
それでなくとも、なんだか最近は基本的に避けられがちだ。
クラスメイト以外は遠巻きに見てくるだけ。
飛び交う噂は気分の悪いものじゃない。
なんだか、人気者になった気分だ。
唐突にどんっと衝撃が走り、尻餅をついてしまった。
買ったばかりの缶ジュースが中庭に転がる。
誰かにぶつかったのだということはすぐに分かった。
顔を上げてみれば、わたしを見下ろす金髪ゆるふわウェーブが目に映る。
やっば……、調子乗りすぎた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫」
「ねぇ」
わたしの言葉を遮った声は高圧的で、びくっと肩が跳ねる。
ていうか、三浦先輩なんで特別棟の方から……、奉仕部に相談でもしたんだろうか。
「はい……? なんですか〜?」
答えながら立ち上がる。
もう奉仕部の帰る時刻に近い。
出来れば手早く済ませて欲しい。
「あんた、ユイがなんで部活やめた知ってる?」
「え?」
……そういうことか。
なにか結衣先輩の様子がおかしかったりしたのだろうか。
大方、奉仕部に突撃してきたのだろう。
「? 聞こえなかった? 知ってるかって訊いてんの」
ぎろりと凄みのある視線を浴びせてくる。
怖い……、この人怖い。
やだ、なんでわたし絡まれてんの。
コンビニ入ろうとして、駐車場にたまってる高校生に絡まれる男子中学生の気持ちが今になって分かった気がした。
「まあ……、一応」
「ふぅん、そ。ちょっと顔貸しな」
言って、中庭に設置されたテーブルへと歩いていく。
きょ、拒否権は……?
いつまでも突っ立っていると、三浦先輩は振り返って睨む。
ないですねー、そうですよねー。
向かい合うように座る。
頬杖をついてわたしをじーっと見てくる三浦先輩。
なんの用かはだいたい分かったけど、どうすればいいの。
黙っていると、三浦先輩はくるくると自分の指に髪を巻きながら口を開く。
「あーしは、なに? 細かいこと分かんないけどさ、ユイは部活辞めない方がよかったと思うわけ」
「はぁ」
気のない返事になってしまった。
結衣先輩がどう思ってるのかなんてわたしには関係ない話しだろう。
「ちゃんと決めて辞めたって言われたけどさ。前の方が楽しそうだったし……」
ああ、この人はこの人なりに心配してるわけか。
でも、まあ、友達にも話せないことはある。
「あんたはどうなん?」
「はい?」
「だからさぁ、ユイが部活辞めて、あんたから見てどうなのってこと。理由、知ってんでしょ?」
理由を訊く気はないのか。
この人やっぱりいい人だな。
こういう人がいれば、わたしも学校で友達が出来たのかな。
「……そうですね〜。結衣先輩はそれでちょっとは楽になったんじゃないかなって思います。でも、別の方法があったんじゃないかとも思います」
「そ……、別の方法ってなに?」
「ちゃんと話して、納得してからってことです」
そう、納得してから。
わたしも納得出来てない。
多分、誰も彼も納得なんて出来てないんじゃないかな。
「納得、出来てないと思ってるってこと?」
「そうですね……、わたしも納得出来てないですし」
「あんたはユイが部活戻った方がいいと思ってるわけ?」
それは、どうだろう。
半分は思ってない。
半分は思ってる。
それを決めかねているわけだ。
「どっちなんでしょうねー……。わたしもあんまり整理出来てないので」
「そう。……っつーか、あんた大丈夫?」
「へ?」
なにが大丈夫じゃないんだろう。
わたしの頭がって話しだろうか。
なにそれひどい!
「あんさぁ、あんた誰が好きなわけ? 隼人狙いっぽかったのに、なんだっけ? なんか変なのに告って付き合ったらしいじゃん。一ヶ月も経たずに別れるし。さっきも今も調子悪そうだし」
そんな調子悪そうだろうか。
三浦先輩にまでそんなことを言われるとは。
負のオーラでも纏っているのかと不安になる。
誰が好きなのか……か。
わたしが好きなのは先輩で、もう多分ずっとそう。
「葉山先輩もその男子も、好きじゃないです。ただ、好きな人はいます。付き合ったのは、まあ、色々理由が……。調子悪いのは、多分、迷ってるからだと思います」
答えると、三浦先輩は驚いたように目を丸くする。
なんだ、もう勘付かれていたものだと思ってたけど、そういうわけじゃなかったらしい。
「好きじゃないんだ……、そっか。それなら、……へぇ」
つぶやくと、再びわたしに強い眼差しを向ける。
「迷ってるってなに? やりたいことやんなよ。あーしに刃向かってきてたくせに、なにに迷ってるわけ? 自分のやりたいこと、ちゃんとやんな」
三浦先輩は葉山先輩に近づきたいという一心だろうから、そんな真っ直ぐなことが言えるんだ。
わたしはそうじゃない。
それだけじゃないから、いつまでもいつまでもうだうだ考え込んでる。
「やりたいことが二つあるんですよー……」
「はぁ? なら、二つともやればいいんじゃないの?」
随分と傲慢なことを言う。
そんな簡単に言われたら出来そうな気がしてくるから怖い。
「……あんた、今なにがしたいわけ?」
奉仕部が前の空間に戻って欲しい。
それと、先輩に近づきたい。
「最初に浮かんだのがあんたのしたいことなんじゃないの?」
奉仕部を元の空間に戻す。
本当にそれがわたしのしたいことなんだろうか。
「……ユイを戻せとか、そんなん言わないけどさ。好きなやついんなら、そいつの大事なもの、全部好きになれないと無理っしょ」
どうやら、勘付かれたらしい。
そういうのは敏感に分かるんだろうか。
「誰がいたって最後に奪ってやればいいんじゃないの。ぐだぐだ考える前に行動しな」
横暴だ!
悩んでるこっちがバカらしくなってくる。
最後に奪ってやればいいか。
奪えるのかな……。
俯いていると、三浦先輩は立ち上がり、わたしを見下ろして言う。
「あんたが人に言われなきゃ出来ないやつだとは思わない」
自分で決めて、自分でやる。
それが出来る。
わたしは、出来るはずだった。
「あーし、まだユイから理由訊いてないけど、待つつもりない。誰かがやってくれんの待ってたら本当にどうしようもなくなってるかもしんないから。あんたは、違うの?」
誰かがっていうのは、わたしの場合、奉仕部のことだろう。
わたしは奉仕部がやってくれるのを待っているわけにはいかないのか。
いつか話に行くと言っていた。
それを待ってたら、もうそのときにはどうにもならなくなってるのかもしれない。
そこで、後悔する。
それなら、今、後悔しない選択を。
「ま、あんたがどうしようと自由だけどね。じゃ、あーし帰るから」
わたしに背を向けて歩いていく三浦先輩の背中は常になく大きく見えた。
そのまま見ていると、ぴたりと止まって振り返り、再び口を開いた。
「あ、あーし、あんたの味方する気はないから」
・・・・
堂々と敵対宣言されてしまった。
それも、なんか凄くいい笑顔で。
奉仕部を元の空間に戻す。
それがわたしの優先事項。
このまま先輩に近づいても居心地が悪いだけだから。
「どっちもは出来ないかもしれません。でも、それは同時にやろうとしたらです」
まず、なにをするのか。
わたしはどういう空間にいる先輩が好きで、先輩にどういう空間にいて欲しいのか。
「ガハマちゃんが戻ったら、いろはすは比企谷くんに近づけなくなるんじゃない?」
「そんなこと、ないです」
「どうして?」
どうしてだろう。
分からない。
結衣先輩がいても、雪ノ下先輩がいても、わたしは今まで通り先輩に近づくために努力を続ければいいのだ。
近づけないのかもしれない。
それでも、このままじゃダメだから。
「どうしてもです」
「答えになってないじゃない」
「答えなんて分かりません。ただ、わたしがしたいことがそれなんです」
今の先輩を手に入れたってなんにも嬉しくない。
だから、それじゃダメなんだ。
でも、先輩の幸せを願うからこうするわけじゃない。
わたしはわたしのために。
だいたい、自分が幸せになってないくせに、誰かの幸せ願うなんてアホらしい。
「……前に、言ったじゃないですか。わたし、大切なものは全部欲しいんです。でも、手に入らないから失わないようにしてたのに、勝手に壊れそうになってる。今回は、そこにつけ込めるような気がしちゃんたんですよね」
あの、空いた席に座れるような気がした。
だから、迷った、躊躇した。
でも、きっとわたしは代わりにはなれない。
「やっぱ……ダメですね。あの人たちに必要なのはわたしじゃなくて結衣先輩なんです。なら、やるべきことは、するべきことは、一つしかないんです」
たった一つ。
全部大切だから、全部守る。
「ありがとうございます。はるのんに話したおかげでちょっと整理出来ました」
人に話を聞く、聞いてもらう。
自分以外の視点があることで、綯い交ぜな感情がすっきりした。
もう、決めた。
多分、伝えきれない。
理屈じゃないから。
うまく言葉には出来ないけど、まあ、それはなんとかなるだろう。
「ありゃ……、失敗したなぁ」
つまんなそうにぼやく。
それに苦笑して、わたしは言葉を返した。
「期待外れでごめんなさーい」
久々に笑えた。
そんなわたしを見てはるのんも笑みをこぼす。
「ううん、概ね期待通り。いろはすはそれでいいよ」
****
感情を人に伝えるのは難しい。
人になにかを伝えるときは理論立てて筋の通ったことを言わなければ、なにを言っているのか理解し難いからだ。
正しく伝えるなら、正しく理解しなければならない。
なら、わたしなんかが人になにかを伝えるなんて、筋道立てて考えるなんてはなっから出来るわけもない。
そういうの向いてない。
出来ない。
無理、もう無理。
もういい加減疲れた。
ただでさえ球技大会の日に丸一日使って論理だ推理だくっそつまんないことをやったんだから、報われなきゃむかつく。
どうしてわたしは悩んでる。
どうしてわたしが悩んでる。
ここ三ヶ月くらいずっと悩んできた。
多分、これからも悩み続けるんだと思う。
それは仕方のないことで、そうやって生きてくんだって、そんなこと分かってる。
でも!
でも、自分でしたことを自分が疑ったり、自分でしたことを正しいと思えなかったり、そういうのはなんか嫌!
フラストレーション溜まりっぱなしだよ、全く。
「こんにちはー!」
最近はぶっちゃけ生徒会がかなり忙しい。
だから、奉仕部に来るのもいつも帰っている時間の数十分前になってしまっている。
その数十分を思索に費やして、全然先輩とくっつけないなんて!
どうしてこんな無駄なことをしていたのか分からない。
頭おかしいんじゃない?
あれ……、そういえば、このイベントってあんまり負担になりそうにないから請け負ったんじゃなかったっけ?
まあ、いい。
そんなことより今はやるべきことがある。
「よう」
「一色さん、こんにちは」
「あ、こんにちはーっ!」
三人とも笑顔で迎えてくれた。
今でもここは、わたしにとって暖かい空間に違いない。
もっと、暖かった。
きっと時間が経てば、元に戻る。
でも、そうじゃない。
そうじゃないんだ。
結衣先輩は落ち着いたら話に来ると言っていた。
だから、待つ。
待つのは悪いことじゃない。
でも落ち着いたらっていつ?
卒業した後かもしれない。
それじゃ、意味ないんだ。
そのときにはもう完全に結衣先輩は気持ちの整理が終わっていて、どうしたって戻ってくることはない。
戻る場所もない。
わたしは、今、元通りになって欲しい。
わたしの汚い考えはともかく、それがわたしのしたいこと。
だから、そうする。
それは誰かの気持ちを踏み躙っているのかもしれない。
けど、多分、今、踏み出さなきゃいけない。
わたしが先輩に近づくのなんて、それからでも遅くない。
真ん中に設置された椅子を動かすことなく腰をおろす。
目の前には誰もいない。
六月十七日までは確かにいたのに、もういない。
ただ、いつか誰かが座るのだと主張するように椅子だけが取り残されていた。
その空いた空間はわたしじゃ埋められない。
その椅子には座れない。
だから、取り戻すしかない。
「今日は依頼があるんですよー」
不思議と言葉に詰まることはなかった。
一度決めてしまえば、こんなもんだ。
拒否されるのが怖いわけじゃないから、こんなもんだ。
「ただ、断ってもいいです」
断れたって構わない。
そしたら、ただ一人でやるだけだから。
一人で出来ないから頼るわけじゃない。
宣言するだけだ。
可能性が上がるのなら、やれることはやる。
「……なにかしら?」
雪ノ下先輩が訊いてくる。
先輩と小町ちゃんもしっかり顔を向けてくれている。
言いたいことは纏まってないけれど、物怖じしないのなら関係ない。
「わたし、いろいろあって、結衣先輩を説得できなかったのはわたしに問題があったと思ってるんですよねー」
そこは言えない事情だ。
流石に先輩との距離を縮めたいがためになんて言えるわけない。
「どうにもならなかった可能性もありますけど、少しでも高い可能性を自分のために放棄しました」
これは言わなければならないことだ。
これを隠していては、とても手伝ってくれなんて言えない。
「それをまちがっていたとは思ってません。後悔もしてないんです。本当ですよー?」
あのときこうしていればなんて考えることに意味はない。
だから後悔はしないし、わたしはわたしのしたことを、わたしが出来たことを否定しない。
「でもですね、わたしが欲しかった……、いえ、わたしが居たかった空間はここじゃないんです」
過去を否定はしない。
けれど、現在は否定する。
まだ変える余地が残っているのなら、精一杯足掻く。
自分で手にした未来じゃなきゃ、きっと後悔する。
「わたしは結衣先輩に戻ってきて欲しいんです」
本音と言えば本音で、建前だと言えば建前だ。
今回はこれを選ぶ。
それでまた欲しいものではなかったのなら、また繰り返せばいい。
同じことを繰り返して、繰り返して、それで、その先になにかがあるはずだって、そう思えたから。
「でも、無理矢理戻ってきてもらっても意味はありません。そんなもの、いりません」
それははっきりしている。
そんなもの欲しくない。
そんなものが見たいわけじゃない。
「だから、結衣先輩自身が納得して、またここにいたいと思ってくれるように動きます」
自分で戻ってきたいと思えたなら、それを拒否はしないだろう。
そこから先は先輩たちが話し合うしかない。
「結衣先輩はいつか話すって言ってましたから、それを待つっていうのは英断だと思います。だから、先輩たちを否定するつもりはないんです」
それはそれでいいと思う。
もしかしたら、気持ちが曖昧なまま話しに来るかもしれない。
もしかしたら、説得すれば戻ってきてくれるのかもしれない。
けれど、わたしは、「もしかしたら、……かもしれない」なんて曖昧模糊とした言葉に縋りたくはない。
「でも、いつかっていつですか? わたしは待ってられません。わたしは、今、戻ってきて欲しいんです」
今なんだ。
いつの間にか取り返しのつかないことになっているくらいなら、気づかぬうちに退部を決心されているくらいなら、自分で壊す。
それがどれだけ自分勝手な行動かは分かっている。
でも、こうだからこれは出来ないなんて言っていたら、いつまでたってもなにも出来やしない。
わたしが先輩に想いを伝えられないように。
「わたしは結衣先輩のこと全然見てなかったですし、知りませんでしたし、多分そんなに知りたいとも思ってません」
知ろうとすればあんなにも簡単に、球技大会が始まる前に知れたのに、知ろうとしてこなかった。
これからも知りたいとは思わないだろう。
先輩のこともそんなに知りたいと思っていないのだ。
でなければ、四月の時点で見つけていたあの不安を早々に切り捨てるはずがない。
大切なことをこの瞳から落として、逸らして、逃して、溢して、過ごして、外して、損なって、そんなんじゃどうしてたって大切なものを守れない。
わたしはただ知って欲しいばっかりで。
「でも、知らなきゃいけないことを見逃すつもりはもうありません。もっと早く気づければこうならなかった。それなら、知るべきことは見るべきものは、しっかりって、そう思ったんです」
理解できるものは感情だけだけど。
それだって、よくまちがうことがあるけど。
それでも、勝手に推測して勝手に決めつけて、こんな感じだろうと推定することすらしなかったら、なにも見えない。
「わたしの知らないところで全て終わってるなんてそんなことは許さない。まだ、終わってない。失くしてしまったものを取り戻す方法なんて知りませんけど、それでも、やらなきゃなにも始まらないじゃないですか……」
語調が荒くなっていた。
どうにかして、伝えよう伝えようって。
思っていることをほとんど口にして、届くは分からないけれど、それでも伝えなきゃいけないから。
伝えるなんて難しいこと出来てる気がしないけど、感情を吐き出すくらいなら出来るから。
筋が通っていなくても、並べ立てることは出来るから。
「自分で終わらせなきゃって思ったんです。あのとき、全部言えなかったからっ、ちゃんと終わらせることも出来なかったから」
まだ続いてる。
まだなにか出来る。
自分で終わらせなきゃ、自分で始められない。
自分で始めたことじゃなければ、自分の歩く道すら分からない。
誰かが作ってくれた道を歩くのは簡単だけど、誰かの人生をなぞって生きても得るものはなにもない。
ただ、失うだけだ。
その誰かを見失ったら、道すらなくなって、ようやく踏み外していたことに気づくんだ。
「だから、だからっ……、わたしは」
落ち着かせるために浅く深呼吸をした。
わたしはなにをしたいか。
わたしはなにをするのか。
もう一度、はっきり。
「わたしは結衣先輩と話します」
しっかり話して、わたしの気持ちも知ってもらう。
そうじゃなきゃ、納得出来ない。
「話して、それでも結衣先輩の気持ちが変わらなかったら、そのときはそれで納得します」
それならそれでいい。
ちゃんと話して、終わらせられたんだったら、それでいい。
どうしようもないことだから、なにもしなくていいわけじゃない。
なにもしなかったら、どうしようもないことだったかどうかも分からない。
「これだけは、言いたかったんです。自分勝手だって分かってます。それで壊すことになるかもしれないっていうのも分かってます。すっごい迷惑なことしてるんだろうなって自分でも思います。部外者なのに、関係ないのに、首突っ込んで、最低だって思われてもしょうがないと思います」
結局、先輩たちからしてみれば、どこまでいっても部外者でしかなくて、無関係なやつなのだ。
しゃしゃり出てきて、勝手なことを宣って、全てを壊そうとしてる邪魔者でしかないのだ。
「でも、わたしにとっては、わたしのことなんです。ここはわたしの大切な場所で、わたしに関わる大事なことなんです」
大切なものをただ失うだけなんて、そんなのは嫌だ。
大切なものをわけもわからず失った先輩を手に入れたって虚しいだけなんだ。
「だから、そうですね……、なんて言えばいいんですかねー……、その」
最後になんて言えばいいのだろう。
わたしは自分にとって正しいことをしている。
けれど、それは先輩たちにとってはきっと悪いことで……、だから、
「ごめんなさい」
頭を下げる。
許してもらえるとは思ってない。
当然だろう。
勝手にぶち壊そうとしているやつを許せるはずもない。
だから、失敗したらもうここには来れない。
「一色さん、顔をあげなさい」
命令口調なのに、その声音は柔らかかった。
すごく、落ち着く声。
顔を上げて見た雪ノ下先輩は微笑みをたたえていた。
「比企谷くん」
微笑んだまま先輩の名を呼ぶ。
「なんだ?」
先輩はなんでもないことのように返事をする。
その問いに答えず、雪ノ下先輩は小町ちゃんに目をやる。
「小町さん」
「はいはいっ! なんでしょうか!」
小町ちゃんもいつもの調子で答える。
そして、雪ノ下先輩は言った。
「一色さんの依頼、受けるわ。いいわね?」
否定も反論も受け入れそうな優しい声。
しかし誰も否定することはなく、二人は首を縦に振った。
****
生徒会を何度も途中で抜けるわけにもいかず、次の週の月曜。
放課後、奉仕部の扉を開くとそこには結衣先輩だけが座っていた。
後に聞いた話によると、奉仕部メンバーも結衣先輩と話すつもりだったらしい。
そこにわたしが来た。
そして、今日がその決行日。
各々聞かれたくない話もあるだろうから、一人ずつ面接のような形で話し合う。
わたしとしては都合がいい。
「結衣先輩、こんにちは〜」
「いろはちゃん、やっはろー……」
わたしが一番最後だ。
もう、何も言わなくてもいいのかもしれない。
結衣先輩は顔には涙の跡がくっきりと残っていて、まぶたは腫れて、すでに満身創痍という感じだった。
いつも通りの位置に座っている結衣先輩の前に腰を下ろし、一応、訊いておく。
「もう、戻る気になりました?」
結衣先輩は申し訳なさそうに笑って答える。
「……うん。もう充分。でも、本当にいいのかなって思う。それに、折角話せる機会だから、いろはちゃんの気持ちも知りたいな。みんなには今日話したけど……、最初から知ってたのはいろはちゃんだけでしょ? だから……」
話したっていうのは、自分の感情のことだろうか。
だとすれば、相当勇気を振り絞ったに違いない。
好きな人に自分の汚い部分を伝えるなんて、わたしには怖くてまだ出来ない。
「そうですか……。なら、わたしからも……って言ってもろくに考えてきてないんですけどね」
「えぇ……」
苦笑しつつ、不満気な声をあげる。
こういう顔が出来るなら、本当にもう充分なんだろう。
「なんか上手く纏まらなくて、だから、今思ってること言います。伝わるかも分からないんですけど、それでも訊いてくれますか?」
「うん、もちろんだよ」
「ありがとうございます。あ、最初に言うことだけは決めてあります」
そう、最初に言うべきことがある。
あのとき、言葉を返せなかったから。
「わたし、結衣先輩が退部したときによかったって思いました。結衣先輩と雪ノ下先輩はわたしには越せない壁だと思ってましたから。それに、わたしは部外者ですし」
ここにいると、分かってしまう、思い込んでしまう、わたしじゃ勝てないってことを。
わたしの言葉を聞いて、結衣先輩は少し驚いた様子で訪ねてくる。
「えっ、でも、球技大会休んでまであたしのこと考えてくれてたって……」
休んでまで、考えた。
一日中。
どうすれば、わたしはこの汚い感情を消せるのかって、それだけのために。
「そういうの、気持ち悪いじゃないですか。だから、なんとかして消せないかなって……、でも結局消せなかったんですよねー」
「そっか……」
「あのとき、雪ノ下先輩にバレてたらどうしました?」
訊いても今更どうしようもないけど、もやもやとさせたままさせたままは嫌だった。
どういう結果になっていたのか、知りたかった。
「どうだろ……。今はいろいろあってあのときとは違うから……、それでも、変わらなかったのかなと思う」
「そうですか」
それなら、それでいい。
なんだか凄くすっきりした。
「でも、多分、最後のはゆきのんには言わなかっただろうな」
「それは、わたしより雪ノ下先輩の方が先輩に近いと思ってるからですかー?」
「そうかも。いろはちゃんならどう?」
「わたしが結衣先輩の立場でも多分、雪ノ下先輩には言わなかったんじゃないかなって思います」
それくらい遠く感じるのだ。
それに、この気持ちは多分、雪ノ下先輩には分からないから。
そういう意味で、あの人は綺麗な人だと思う。
違う部分を見れば当然、汚い部分もあるんだろうけど。
「そっか。なんか、似てるね……」
どこか似ている。
わたしと結衣先輩のそういうところは確かに似ている。
「ですねー。でも、ただ似てるってだけです」
ちょっと似てるけど、全然違う。
だから、結衣先輩のことはなんにも分からない。
「だねー。似てるだけじゃ分かんないもんなぁ」
「分かりませんよねー。結衣先輩の気持ちなんて全然、これっぽっちも小指先程にも分かんないです」
「そんなにっ!?」
大げさに驚いてくすくすと笑う。
暖かい。
少し冷めていた空間が、また暖かくなった気がした。
やっぱり、この人がいなきゃダメだった。
「そんなにですよー。だいたい、あれじゃないですか? そんな簡単にあなたの気持ちは分かるとか言われたくないじゃないですかー?」
「確かに……そうかも」
「分かるもんかって思いません? 分かってたまるかって……思います」
分かったフリされても全然嬉しくない。
そんなんで分かるなんて言わないで欲しい。
なにが分かるんだって思う。
「まあ……そうだね、言いはしないけどね」
「言えませんよねー」
流石に言えないけど、思う。
そう思うから、そういうのはいらない。
「似てるから分かる。そんなものただの主観でしかないんですよね。分かったつもりになって、そう、分かったつもりで偉っそうな口聞かれるほど腹が立つことってないですよね」
それが的外れなら尚更。
わたしもそういうところあるから、気をつけないとなぁ。
「でも、なんで分かってくれないの? とかって思っちゃうんですよね」
「あ、それ分かる」
くすりと笑って同意する。
わたしだけじゃない。
なんで分かってくれないんだって。
こんな簡単なことなのに。
そう思ってる人がわたし以外にもいることに少しだけ安堵した。
「知って、分かって、理解して、って思うんですよね。でも、それって凄く傲慢なことだと思いません?」
わたしの問いに結衣先輩はこくりと頷く。
「酷い矛盾ですよね。どっちかにしろよって思うんですけど、どっちかになんて出来ない」
どっちも本心だから。
そういうことでこの間までずっと悩んでいた。
「分からないままにしておきたくないし、かと言って分かりたくもない。そんな矛盾だらけの自分が嫌で嫌でしょうがないんです。今日、来たのも、結衣先輩に戻ってきて欲しいけど、戻って来て欲しくないって感情にケリをつけるためです」
そう、そのために。
もう、そんな矛盾はめんどくさい。
今、やれることをやりたいから。
「そっか……、そうなんだ。なんかあたしのためじゃないって言われると、ちょっと楽だね。いろはちゃんはいろはちゃんのためにやってるんだね」
わたしはわたしのために。
そのことが分かってもらえた。
わたしも少しだけ胸が軽くなった。
「そうです。わたしは自分のためばっかりですからね。結局何が言いたいかってことなんですけど、単純な話、結衣先輩が持ってる汚いものって人間なら多かれ少なかれ持ってるってことです」
みんな、みんな持ってる。
雪ノ下先輩だってきっといつか持つものだし、或いははるのんだって持ってるかもしれない。
結衣先輩が持ってるものに限定しなかったら、多分誰もが持ってるものだ。
「なにも恥じることじゃないし、悪いことじゃないんです。だいたいあれです。人間なんて基本汚く出来てるんですから、そんなこと悩んでも仕方ないんですよね」
悩んだって消えないし、悩んだから綺麗になるわけじゃない。
綺麗なのがいいだなんて、そんな考え自体がまちがってる。
「だから、いいじゃないですか。そのままで。汚いままでいいじゃないですか」
言うと、結衣先輩は顔を俯かせ、ブラウスの胸のあたりをぎゅっと握りしめてつぶやく。
「いいのかな……」
弱々しい声に断言した。
「いいんです。むしろなんにも汚れてない方がおかしいんですよ。汚れてようやく人間です」
「あはは……、そういうの、棚を上げるって言うんじゃないの?」
「それは、棚に上げるですかね……? ちょっと違う気がしますけど」
どうなんだろう。
棚に上げるっていうか。
棚に上げて話してるわけじゃなくて、この話が棚に上げる作業って感じする。
「まあ、なんでもいいです。棚上げ上等じゃないですか。なにも、他人の幸せを喜べない自分を嫌悪する必要なんてないと思います。当たり前なんです。自分の幸せ願えてそれで半分です」
自分の幸せ願わなきゃ。
自分が幸せになること考えなきゃ生きてなんていけない。
「願っても、いいのかな」
「いいんですよ。あ、願いっていいですよね。なんか無垢な感じしません? だから綺麗事なんですけどね。願いなんて叶わないんですよ、大抵。だから、なにかを願うのは自由だし、そうやって願えるのはすごく素敵なことだと思います」
それは素敵なことだ。
けれど、でも、それだけじゃ、どうにもならない。
綺麗なままじゃなにも手に入らない。
「でも、願っても叶わないし、望んでも手に入らない。だって自分で動いてないんですから、手に入るわけないんですよね」
「あたしは……自分で」
「分かってますよ。結衣先輩が頑張ってたのはもう、知ってます」
結衣先輩は頑張った。
でも、ここで終わっちゃダメだから。
「でも、だから、泥だらけになって、心が汚くなってでも、醜く足掻かなきゃいけないって。まだ終わってないんですよ」
「終わってないのかな……」
「終わってないです! もし終わってたって、また始めればいいんじゃないですかっ? わたしはなんの価値もない願望抱くくらいなら、先輩に抱きつきたいですっ」
言うと、結衣先輩は目を見開いて、口元を両手で覆う。
「……は、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいですよ! 自分でもなに言ってんだか分かってないんです! でも、そうしたいんです!」
もっと先輩の近くにいたい。
先輩とデートしたいし、抱きつきたいし、間接キスしてドキドキしたい。
ずっとそばにいたいし、出来ることなら付き合いたい。
わたしだけで独占したい。
「結衣先輩は違うんですかっ? 本当に心の底から友達の幸せを喜べないから先輩から離れたいなんて思ってますか? 満足してますか? 手に入れたいって思ってるんじゃないんですか?」
「……思ってるよ。思ってるけど、どうしようもないし……」
「どうしようもないかどうかは、本当にどうしようもなくなってから決めればいいじゃないですか。誰かの幸せを願うなんてまだそんな時期じゃないです」
まだ、まだやれることはある。
まだ諦めていいときじゃない。
「それで、そうやって、自分の幸せ掴んでやっと誰かを幸せに出来るんです。それで一人前ですよ。自己満足も出来ないのに誰かを満たせるなんて思い上がりも甚だしいです」
「そんなこと……」
「思ってないならいいですけどね。わたしには結衣先輩の気持ちは分かりませんし」
分からない。
分からないから、ただ感情をぶつけてるだけだ。
「結衣先輩が満足してないのに、あの人たちが満足するなんて、自分一人の不幸が誰かの幸福に繋がるなんて、そんなことあるわけないって結衣先輩は先輩の隣で散々経験してきたはずじゃないですか」
「……そうだね。それは今日、よく分かった」
なにを言われたのだろう。
それでも、そう思えているのなら、いいことだと思う。
誰か一人の犠牲は全員の悲しみになる。
誰も幸せにならない。
「だから、もう一回頑張りませんか。わたしにとってはかなり強敵なので、正直なにやってんだろうなって感じなんですけど、でも、あれですね。強敵が立ち塞がるとかなんか熱いじゃないですか」
「そんな漫画みたいな理由なの!?」
適当に取ってつけただけだから、そんなことはないと思う。
けど、多分、結衣先輩がいないまま先輩に近づいてもなにも得られない。
「打ち倒して手に入れるのは宝物だと相場は決まってますからね。わたしは宝物、欲しいです。結衣先輩にとってわたしが強敵ならわたしは必死に足掻きます。だから、結衣先輩も足掻いてください」
わたしのよく分からない理由に結衣先輩はまたもくすくすと笑って、濡れた瞳の奥に炎を宿す。
「じゃあ、ライバルだ」
「あはっ、ですね〜。あ、ついでに言うと、打ち倒した敵は仲間になるのがテンプレです。打倒雪ノ下先輩ですね」
勝てるかなぁ……。
ラスボスだ。
まだレベルが足りない気がする。
「ゆきのんと勝負かぁ。自信ないなぁ……」
「わたしもあんまり自信ないです……。あ、親友との決闘も胸熱ですよ」
「そうなの? ていうか、よくそんなこと知ってるね」
「……先輩と平塚先生、あとはるのんに染められました」
五月、泊まりに行ったときのつまらない漫画はよく覚えている。
あれはつまらなかったなー。
「あぁ……」
「まあ、もしわたしが雪ノ下先輩を超えられたら——裏切るかもしれませんけど」
いたずらっぽく笑ってそう告げると、結衣先輩は少し慌てる。
「えっ! な、なら、あたしも裏切るかもしれないよー?」
「あはっ、いいですよー。それで」
それでいい。
そんな綺麗な友情ごっこはするつもりない。
どうせ誰も信頼なんてしてないし。
「さて、これでわたしの演説は終わりですかね。雪ノ下先輩と先輩からなにを聞いたのか分かりませんが、多分わたしが一番支離滅裂じゃないですかねー」
「かもね。まさか漫画の話になるとは思ってなかったなぁ」
わたしも思ってなかったです。
まさかそんな方向に行くとは。
「思ったこと次々口にしただけですからね。分かんないとか言いましたけど、分かるって思うとき少なからずありますし」
結衣先輩の瞳を改めてしっかりと捉えて、わたしが一番言いたかっただろうことを伝える。
他人事みたいだな。
「出鱈目なわたしですけど、これからも後輩やらせてもらえると助かりますー」
にぱーっと笑いかけると、結衣先輩も笑う。
わたしはスカートのポケットから一枚の紙を取り出し、机の上に広げた。
横にボールペンも置く。
「入部届け、持ってきました」
「えっ……、準備いいね……」
「まあ、生徒会でも管理しますからね〜」
ふふんと自慢気に言ってみせる。
結衣先輩は苦笑してペンを手に持つ。
「本当に……いいのかな」
「いいんですよ。なんなら理由もつけましょうか。自分の理由なんて後で探せばいいんですから。どうせ戻ればすぐ見つかると思います」
戻ればきっと、戻ってよかったって思える。
ここにいたいって思える。
「だから、そうですねー……。ああ、奉仕部にはもう四人分の部費が支給されています。生徒会としては四人で働いてもらわなくちゃ損です。これは生徒会命令です。結衣先輩、奉仕部に入部してください」
偉ぶってそんなことを言うと、結衣先輩は笑って頷く。
「うん、ありがと」
「ちょっと、かっこつけすぎましたかね」
「そんなことないよ? あたしはあたしなりに理由、探してみるよ」
そう思ってもらえたならよかった。
けど、その笑顔はわたしにはまだまぶしかった。
放課後の教室。
夕陽が差し込み、暖かなオレンジ色に包まれていた。
嬉々としてペンを走らせる結衣先輩と、それを見ているわたし。
結衣先輩の頬は夕陽のせいか赤らんでいて、わたしも多分赤らんでいる。
本当は夕陽のせいじゃないけれど、気恥ずかしい気持ちは誤魔化したいから夕陽に責任を押しつけてしまおう。
「やっぱり、こういうのは性に合わないなぁ……」
照れ隠しから、そんなことをつぶやいてしまった。
****
「はるのんと一緒に来てね。なんかあったらすぐ連絡して、絶対だよ」
三十周年記念イベント当日。
家を出る際にお母さんに念押しする。
そんなわたしを見て、お母さんは苦笑して答える。
「はいはい。いろはは心配し過ぎだよ」
「心配くらいしか出来ないんだから、それくらいはさせて」
なにも力になってあげられない。
大切な人だから助けてあげたいのに。
なにも教えてくれないから、なにも出来ない。
なにか出来ないかと常に考えてはいるけど、結局、そのまま二ヶ月半が経過した。
余命三ヶ月。
漢字でたった五文字の単語を頭に浮かべるだけで、ぞわりと悪寒が走る。
せめて、笑顔で。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
家を出るとき、扉を閉めた後にドアハンドルを握ったまま立ち止まってしまうことがある。
扉を隔てて、家の中でなにかが起きたんじゃないかと心がざわつくときがある。
蘇るのだ。
記憶が。
鍵の開いた扉。
返事のこない不安。
リビングから漏れる光と、焦げ臭い匂い。
焼け焦げた野菜炒め。
誰かがいた痕跡があるのに、誰も見えないリビング。
その奥になにがあるのか。
目をそらしたくなる恐怖。
荒くなる呼吸。
思うように動かない足。
辿り着いた先にあった絶望。
再び開いたら、また同じことが起きてるんじゃないか——と。
パッとドアハンドルから手を離し、踵を返した。
夏本番。
太陽はぎらぎらと輝き、数歩歩いただけで汗が滲む。
ただ、つーっと背中を伝った汗は、不自然なほど冷たく感じた。
・・・・
今日が終われば明日からは夏休みだ。
文化祭までには間に合わない可能性もあったので、はるのんの伝手を使って出来る限り盛大なものにした。
とは言っても、来るのは生徒と卒業生、保護者くらいのものなので、大したことはないのだが。
あまり貸しは作りたくなかったが、こうでもしなければ、残り数日でわたしの成果を見せるチャンスはない。
期末テスト一位は褒めてもらえたけど。
そういう意味では、イベントを任されたのはラッキーだった。
……夏休みは旅行にでも行こうかな。
ちなみに、イベントは高校では行われない。
式典、イベント、祝賀会と三部に別れており、式典とイベントは千葉県文化会館で行われ、祝賀会はホテルで執り行われる。
祝賀会に関しては、まあ、同窓会に近いな。
式典が教員の進行でつつがなく終わる。
しかし、まだ会場は静けさを保っていた。
当然本校の生徒がいるわけだが、空気に厳粛さが漂っているのを察したのだろうか。
そんな厳粛じゃないんだけどなー。
「それでは、只今より第二部、総武高三十周年記念イベントを開催致します。進行役を務めさせて頂きます、生徒会長の一色いろはと申します。不慣れな部分も多々あるかと思いますが、心を込めて務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します」
堅っ苦しい挨拶を終え、引き続きプログラムを進行していく。
基本的には金にものを言わせたイベントである。
アウトソーシング!
それある!
イベントは予想以上の盛り上がりを見せ、なんの問題なく終わった。
わたしにしては上出来だ。
ああ、わたしにしてはなんて言い方はやめろって言われたっけ。
流石わたし!
その場でやるべきことを済ませて市民会館を出ると、一つの集団が目に映る。
足早に駆け寄ると、全員が笑って迎えてくれた。
「おつかれー」
はるのんが言うと、続いてそれぞれから労いの言葉をかけられる。
なんか照れ臭いなー。
「そんな疲れることはしてませんけどね。はるのんの伝手使ってスポンサー集めて、外部発注してって感じで……」
企業側からしてみれば費用対効果は低いし、いい迷惑だったと思う。
とりあえず媚びは売っておいたけど。
「それでもあなたが企画したのだから、あなたの成果だと言っていいと思うわ」
雪ノ下先輩が微笑み混じりに言うと、由比ヶ浜先輩がそれに追従する。
「そうそう! 正直さ、ほら、学校のイベントだからあんまり期待してなかったんだけど、凄かったよ!」
「まあ、お金かかってますからねー」
「わたしは紹介しただけだけでしょー? プレゼンがうまくいってなかったらどこの企業もスポンサーになんてなってないよ」
はるのんまでもがわたしを褒めだす。
なんだか、にやにやとしていて怖いけれど、ここは素直に受け取っておこう。
「あ、ありがとうございます」
「小町も楽しかったです! いろはさんのおかげですねっ!」
「いや、わたしだけでやったわけじゃないからねー?」
あくまで生徒会全体で動いていた。
わたし一人じゃ出来なかった。
「頑張ったんだから、もうちょっと胸張ってもいいんじゃねぇの」
「そうだよー? いろはすはちょっと自分を卑下し過ぎ」
そうなのかな。
ちゃんと出来たのかな。
おろおろとしていると、お母さんと目が合う。
「よく頑張ったね」
お母さんの笑顔を見て、わたしは成長出来たのだと認められた気がした。
真実も現実も残酷だから、楽も甘えも優しさもいらないと思った。
でも、たまには、辛くて苦くて厳しいものを超えたあとなら、ひとときだけ優しさに包まれるのも悪くない。
・・・・
「それで……、話したいことってなんですかー?」
千葉市民会館から最寄りの飲食店で、わたしは雪ノ下先輩、結衣先輩、小町ちゃんと向かい合っていた。
わたしたちが座っているのは個室で、なんだか高級そうな雰囲気が漂っている。
こんなところ初めて来たな……と、きょろきょろしてしまう。
結衣先輩はわたしと雪ノ下先輩、先輩を交互に見てそわそわしている。
小町ちゃんはなんか立会人みたいな感じだ。
雪ノ下先輩はどう切り出せばいいのか迷っているように見える。
席の関係で先輩はわたしの隣。
先輩はわたしの隣!
頑張ったわたしへのご褒美!?
返事がないのでくだらないことを考えていると、結衣先輩が沈黙を破った。
「あ、あのねっ! その……」
最初こそ勢いがよかったが、それも徐々に尻すぼみになっていく。
そんな言い辛いことなのかな。
……まさか、結衣先輩と先輩が付き合ったとかじゃないよね。
や、それはやだ。
ど、どうしよ。
「いろはちゃんはさ、一月からよく奉仕部来るようになってて、それでっ……」
そういう話じゃなさそうだ。
なら、どういう話だろう。
途切れ途切れにでも伝えようとしてくれてる結衣先輩からは懸命さが伝わってきて、真剣に聞かなければいけないという気持ちにさせられる。
「あたしたちさ、生徒会よく手伝ったりしてさ……、その」
自分の中で言葉が纏まっていないのだろうか。
それとも、と考えたところで、結衣先輩の言葉を引き継ぐように雪ノ下先輩が口を開く。
「私たち、結構気にいっていたのよ」
「? なにをですか〜?」
首を傾げて問うと、雪ノ下先輩はふっと表情を和らげて答えた。
「あなたがいる空間を」
その表情が妙に清々しくて、わたしはようやくこの人を見れたのだと思った。
今まで見て来なかったツケは、大きい。
けれど、まだ取り戻す時間はある。
だから、なにも見逃さないように、改めて四人に順々に視線を巡らせる。
「四月から、あなたが奉仕部に来なくなって、すぐに気づいたわ。なにかが足りないって」
わたしはこの人たちの一部になれていたのか。
その事実に驚きを隠せない。
なにがどうしてそうなったのか分からない。
いや、そんなの分からなくたっていい。
理屈なんてどうだっていい。
ただ、そう思ってくれただけなんだから。
雪ノ下先輩は瞳に真剣さを宿して、わたしの瞳を捉える。
わたしはそれを真っ直ぐ見返した。
「あのとき、私があなたに言った言葉はきっと、自分自身にも向けていたのだと思う」
あのとき。
薄暗い屋上で、微かな光の下で。
雪ノ下先輩は——
「言わなければ絶対に伝わらない」
と、そう言ったのだ。
本当に、こんな感じの眼で。
その通りだ。
言わなくても分かるなんて、そんな関係はきっと破滅しか招かない。
「本当、失くしてから気づくなんて……、どうしようもないわね」
「そんなこと、ないです」
そんなことない。
そんなことは、絶対にない。
言わなきゃ伝わらないことがあるのなら、失くさなきゃ、傷つかなきゃ分からないことだってきっとある。
それに、それにそれは——
「それはっ、まだ、失くしてないものだと思います。わたしはここにいます。いつだって、近くにいて、ずっと、ずっと……、その中に、入り、たかった……っ」
気づけば、視界は滲んでいた。
その関係を目にして、ずっとそれだけが欲しくて、それ以外はいらなくて、それ以外のものなんてどうでもよかった。
でも、全然近づけないから、見てる方が綺麗だって、そう思ってた。
なのに、どうやったって近づけないから見てようって思ったのに、どうしても諦めきれなくて、無理にでも関わって、手を伸ばして、汚れても醜くてもいいから、それでもって。
「そうよね……。こんなに、近くにいた。あなたが苦しんでいるのは分かってて、でも、言えなかった」
言えなかったのは、仕方がないと思う。
わたしだって、なんにも言えてない。
いつも、教えてもらってばっかりで、自分で、一人で、そう願ったって、どうしたって隣に誰かを置いておきたくなってしまう。
なんにも伝えられないのに、勇気が出ないのに、待ってくれているのに甘えて、見過ごしてきた。
「五月に、あなたがああいう行動に出たとき、一瞬、ほっとしたの。でも、すぐにまちがえたのだと気づいた。それと同時に、よりあなたの存在が大きくなった。……多分、私だけではないと思う」
雪ノ下先輩の言葉と同時に、結衣先輩が首肯する。
先輩はどんな顔をしているのか、隣にいるとどうしても見ようとしなければ見えない。
「問題を無視することはやっぱり出来ないけれど、誰かが傷つくのを容認することもするべきではないのだと思ったわ。あのときの答えはきっと、『彼に現実を知ってもらうこと』だった」
わたしも思った。
自覚させた方がよかったのかもしれないと。
それに、あれは問題を消しただけだから、きっとまた似たような問題が出てくる。
彼自身が解かなければ、それは終わらない。
「彼は被害者だけれど、それをされる理由があったのではないかと思うわ。もちろん、ただ気に食わなかっただけという可能性もないわけではないけれど」
そうされる理由は確かにあった。
それに気づいたときに、わたしは行動すべきだったのかもしれない。
前提条件に彼を傷つけないことを加えてしまったからこそのミスだ。
わたしはまちがえたのだ。
自分がしたことを否定するつもりも、後悔するつもりも、微塵もない。
けれど、自分の出来なかったことは悔いるべきだ。
まちがいは受け入れて、訂正するべきだ。
また同じまちがいをしないために。
「六月。由比ヶ浜さんが退部したときにも、あなたに助けてもらった」
「あ、あれはっ、ていうか、その前のも、わたしはわたしがやりたくてやったんですよ」
それだけは違いない。
わたしはわたしがやりたいことをやったのだ。
六月の行動は正しかった。
でも、好みの結果にならなかったから、また上書きした。
「それでも、私はあなたに感謝しているわ。あなたがあのとき動いてくれていなかったら、私は……多分、諦めてしまっていたと思うから」
もう無理なのだと言っていた。
放っておいたら、そのまま、奉仕部は一人減ったまま続いていたのだろうか。
減っていたのだろう。
はるのんの立てた計画に穴があったとは思えない。
「あたしもさ、その、いろはちゃんが来てくれてなかったら、話しをしようとは思ってなかったと思う……」
いつの間にか、なにかを救えていたらしい。
そう言えば、はるのんが言ってたな。
相手に言われて初めてなにかを救えたことに気づくのだと。
問題は相手がどう思ったかであって、わたしの意思は関係ないのだと。
「わたしは、わたしの行動にはっ、意味が、あったんですか……? 本当に、救えてたんですかっ?」
「ええ、あなたの行動に私は救われたわ。今月あなたが来てくれたときも、私たちはいつ呼び出すか悩んでいたから……」
そうだったのか。
それは聞いていなかった。
わたしの行動には意味があった。
ちゃんと、救えた。
大切な人を助けられた。
わたしはわたしのやりたいことが出来ていた。
その事実で胸が一杯になって、こみ上げてきた想いは涙になって、頬を伝う。
泣きたいときは沢山あった。
けれど、涙は出なかった。
なぜだか分からないが、泣けなかった。
強くならなきゃ、いけないから。
きっと、そう。
涙は自分を弱くする。
悲しくて流す涙は自分の正しさを否定しているようで、怖かった。
後悔はしたくなかった。
自分はまちがってない。
自分はまちがってない。
そうやって、縛ってきた。
でも、これなら悪くない。
嬉し涙なら、いくらでも流していい。
自分が出来たことをわたしは喜んでいいはずだから。
声は震えて、息は不規則に漏れる。
みっともない。
けど、今だけは。
この喜びだけは、素直に受け入れたい。
「でも、このままではダメなのよ」
「うん。いろはちゃんは、あたしたちにとって大切な人だから」
涙が途絶えない。
わたしの近くにはこんなにも優しい人たちがいた。
これからも、それにただ縋るような真似はしないけど、もっと話そう、もっと、もっと知って欲しい。
もっと、知りたい。
いっぱい話して、意見が分かれて、お互いのことを分かってるから否定出来て、そんな関係になりたいから……。
「……もう、お前は奉仕部で欠かせないものだってことだ。一人でやることは悪いことじゃない。でも、一人で抱えんな。困ったら相談しろ。奉仕部はお前みたいなやつのためにある」
欠かせない。
わたしはこの人たちにとって大切なものになれた。
ようやく並べた。
隣に立てた。
すんっと鼻をすすって、涙を拭いつつ答える。
「……っ! はいっ。ありがとう、ございます……」
きっと、また繰り返すのだと思う。
繰り返して、繰り返して、そのたびに近づいて、そのたびに離れて、まちがって、正して、いつか、その心に手が届く。
不幸なこともある。
幸せだから不幸なことがあってもいいとは思えない。
けど、幸せなことがあれば、わたしは立ち上がれる。
どんなに不幸でも。
どんなに哀しくても。
隣に大切な誰かがいるから。
前にもこんなことがあった。
あのときははるのんだった。
あのときも知りたいと思った。
多分、こうしてようやくそう思えるのだ。
わたしはもう蔑ろにするつもりはなかったけど、知りたいと思えたなら、もうなにも見逃さない。
****
「んじゃ、俺チャリだから。またな」
「皆さん、また夏休み明けにっ!」
ついでにご飯もそこで済ませ(雪ノ下先輩に奢ってもらってしまった)、店を出て二人と別れる。
数歩行ったところで、わたしは言うべきことを忘れていたことに気づいた。
「雪ノ下先輩、結衣先輩、ちょっとわたし用ができました! 帰っててもらって大丈夫です! では、また夏休み明けにっ!」
捲し立てるように言って、踵を返す。
「えっ!?」
「一色さんっ!?」
驚愕する声を無視して、先輩の進んで行った方向に走り出す。
やばいやばいやばい。
完全に忘れてた!
こんなことなら連絡先聞いとけばよかったー!
周囲の目も気にせず街中をダッシュすること数分。
たらたらと自転車を漕いでいる先輩を見つけた。
でも、もう足が……っ。
すぅと空気を吸い込む。
「せんぱーいっ!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。
無事に声は届いたらしく、先輩は自転車を止める。
汗を拭い、息を整えながら近づいていく。
小町ちゃんが荷台から降り、そろそろと遠ざかっていくのが窺えた。
辿り着くと、先輩は困惑した様子で尋ねてくる。
「ど、どうした……?」
また葉山先輩をダシにしようかと思ったけど、それはやめた。
すごく勇気が必要だったけど、それでも、わたしがこの人と一緒にいたくて、隣にいて欲しくて、誘うのだから。
一緒に行きたいから、とは言えないけど、練習だと言わないだけでも、わたしにとっては充分な進歩だと思う。
「あの、ですねー……」
なんだか気恥ずかしくて、心臓がうるさい。
髪が垂れてきて、ようやく俯いてしまっていたことに気づいた。
垂れてきた髪を耳にかけて、ちらと先輩の顔を窺えば、しっかりと目が合って、少し頬が熱くなる。
でも、ここで顔を逸らすわけにはいかない。
自分に嘘は吐かない、と何度も誓った。
我思う、故に我あり。
どれだけ他人を疑おうが、信じられなかろうが、そう思っているわたし自身は確かにそこにいる。
だから、自分に嘘は吐かないと誓っているわたしは確かにいて、それは嘘ではないのだと思う。
しかし、嘘は事実と曲がっていると認識出来るまで、嘘ではない。
認識しなければ、一生気づけない。
認識しようとしていない自分も、確かにそこにいたのだ。
正直になれ、と何度も言われた。
四月から全て見透かしていての発言だったのなら、全くもって恐れ入る。
わたしだってあんなことになるまで気づけなかったわたしの気持ちに気づいていたんだから。
いや、わたしも気づいてはいたのだ。
それは元々あった気持ちなんだから。
心の中で、いつも「出来ないから」と嘯いていた。
先輩は雪ノ下先輩のことが好きだから、わたしには出来ないから。
そうやって、あのときからずっと諦めてきた。
無自覚的に、同時に自覚的に、【なんの根拠もなく】放棄してきた。
二番目、三番目の理由を作って、逃げ道を作って、高い壁から逃げてきた。
それは建前だと、はるのんと話したあの晩に分かっていたはずなのに。
わたしは全部欲しいのだと、まるでそれだけが第一目標かのように謳ってきた。
別にこれまでの行いがまちがっていたと悔やむ気はさらさらない。
どれもこれも、明確な意味はあったし、明瞭な意義があった。
未来は見えないのだから、そのときそのときで自分は正しいと思える行動をしてきた。
だから、それ自体はいいんだ。
でも、隠せもしない汚い感情と共にそれから身を背けてきたのはダメだった。
全部欲しい、大切なものは全部欲しい。
紛れもない本心。
だが、この手に掴みたいものはそれだけじゃない。
決めた。
決意した。
諦めていた感情を。
憧れていた思想を。
求めていた欲求を。
必ず、この手に掴むと。
理解されたい。
本物が欲しい。
大切なものを大切にしたい。
ここに改めて追加すべき項目。
先輩を、じゃない。
わたしが……、わたしはっ!
————幸せに、なりたいっ!
したいだけでは絶対に終わらせない、必ずなる。
もう二度と諦めない。
誰にも負けない。
今まで頑張ってきた。
だから、居場所が見つかった。
それに、大切な友達も出来た。
やって無駄なことはない。
やらないことは時間の無駄だ。
なら、これからもわたしは頑張ろう。
これはそれを叶えるための小さな一歩だ。
喉でつっかえていた言葉を、吐き出す。
「は、花火大会っ! 一緒に、行きませんか……?」
先輩は少し逡巡したのちに、渋々といった様子で答えた。
「……空けとく」
―次章―
第七章 たまにラブコメの神様はいいことをする。
ーーーー
明日から第七章となります!
ついに六章ですね!まってました〜
やっとコメディが帰ってくるんですね。おかえりコメディ!
今まで、ずっとシリアス続きだったので、やっと心を落ち着かせて読むことができます!まぁ、まずは由比ヶ浜を連れ戻してからだと思いますけどね笑
ってことで、応援してますのでこれからも頑張ってください!
早くいろはとのイチャラブがみたい!
待望の6章!!!!
ずっとシリアスが続いてましたからいろはすの心境を考えただけで病んでました笑
八幡とのイチャイチャ超絶楽しみにさせてもらいますね!!!!!!
イチャイチャまでのカウントダウンが…!!
楽しみにしてますねd(^_^o)
いろはすの母親とか、はるのさんとか、雪ノ下の感情は、とか、もういろいろ気になり過ぎて…。
早くいちゃこらしろー。笑
本にするなら買うので教えて下さいね!
応援しております!
シリアスも好きなので、ずっとシリアスでも私は好きですよ!!
やっとコメディですね。待ってました‼ コメディが来てくれて嬉しです。これからも頑張って下さい!!早く八幡たちの関係が戻ってほしい!
シリアス展開からついにラブコメ展開、
とても楽しみにしていました!
応援しているので頑張ってください!!
P.S.
部愛想ではなく無愛想です。
※7
ありがとうございます!
修正しました!
ここのはるのんは可愛いですね(≧∇≦)
シリアスからは一旦お別れです
一旦だと!?
毎日楽しみにしてます!
シリアス…長かったですけどまだ終わらないようで…
はやく奉仕部の面々+いろはすで仲良くしてるところが見たい!!
てかイチャコラも見たい!!
頑張ってください!!
まあ、はんのんみたいなタイプだと、上辺での交友関係が~
となってます
はんのん→はるのんだと思います
※11
ご報告ありがとうございます!
修正しました!
はるのんは たまに天使だと思う。いろいろ捗る。
もっと、いろ☆はすって感じの見たい読みたいいろはっしゅされたい。
やっと六話おめでとです!!
はやくいろはとのいちゃラブみたいです
八幡が「誘われたらとりあえず断る」ぼっちスキルを発動しないだとっ…!
ナイスだこの野郎!!d(*´▽`*)b
いつも読むの楽しみにしてます。
無理せずこれからも頑張ってください。
おぉ!! なんかいい感じに……
期待しまくる。
一気に六章読みました。別に読み返して熟読した訳じゃないので読み落としもあるかもだし、雪ノ下や比企谷と何を話したのかもわかんないけど、前の章であんな風に退部したら普通戻ってくるに来れないんじゃないですかね。
この間の由比ヶ浜の心境の変化って自分の汚い部分を知って退部して、いろはの説得により、自分の中の汚い部分、傲慢さ(傲慢さなんて誰しも持ち合わせているとは思うが)を受け入れ、また自分の退部によって事態(奉仕部内の色恋沙汰?かな)は解決しないということを理解したからって感じですかね。
うーん、それでもまた入部するのはキツイかな。
いろはのお母さんはどうなるのかな...?
⇒18 の愛が重い。
正直途中いろ母のこと忘れてた。 19⇒夢兎sに任せようではないか。
よっしゃ!!!
7章にとんでブックマークや!!
楽しみすぎてつらい(°_°)
重かった食べたら胃もたれする系ss