血河の決壊
いま 幾度か 我が上に
試練の嵐 哮るとも
断固と守れ その正義
進まん道は 一つのみ
ああ 悠遠の 神代より
轟く歩調 うけつぎて
大行進の 往く彼方
皇国つねに 栄あれ
―――森川幸雄 作曲 『愛国行進曲』 三番より―――
テーマは「戦争と艦これ」です。
この物語は、拙策「屍山の慟哭 (http://sstokosokuho.com/ss/read/1418) 」の続編となっています。単独の物語とはなっていないので、よろしければ前作と一緒にご覧ください。
また当方未熟者ゆえ、皆様のご意見を頂戴したく思っておりますので、遠慮なくお申し付けください。
また、今後は仮想戦記の色合いが濃くなるかもしれません。比例して艦これ要素が薄くなるかもしれませんので、予めご了承ください。
※一部は史実を参考にしましたがフィクションです。実在する人物、地名、団体・組織等とは一切関係ありません。
※“皇国”軍の部隊名は漢数字(Ex.第三軍)、“共和国”軍の部隊名はアラビア数字(Ex.第25軍)という書き分けをしております。お読みになる際の助けになれば幸いです。
雪のちらつく灰色の空を赤い焔が照らす。その下にある街は、いや、街だったものは、死者と死体の成りそこないないが蠢く、魔女の釜の底だった。
その地獄の中で、二つの影が動いていた。彼は、凍傷を負いながらも最後の部下と共に廃墟の中を駆け回っていた。銃弾の飛び交う中を走り続け、やがて彼は探し人を見つけることが出来た。
――少尉殿、第二分隊は壊滅し、第三分隊も敵中に孤立しました。第一分隊との連絡も取れません。中隊に援護を要請しましょう。
肩で息をしながら、彼は上官に向けて報告した。上官は壊れた建物の壁に寄りかかりながら小さくうずくまっていた。顔を伏せたまま微動だにしない。
――少尉殿、このままでは我が小隊は全滅です。少尉殿!
非礼を承知で彼は上官の肩を揺らした。そして彼は全てを察し、部下の方に振り返ると首を振った。彼の上官は固まってしまっていた。零下二十度を下回るこの廃墟に放置された死体は、文字通り凍り付いてしまうのだ。
上官に最後の敬礼を捧げようとした瞬間、どこからか銃声が響いた。小さな悲鳴と共に、生暖かいものが頬に飛び散る。彼が狙撃されたと気付いて咄嗟に地面に伏せるより早く、横にいた部下が地に伏せた。
――無事か、シュタイナー。
自分の体に穴が開いていないことを確かめながら彼は自分の部隊で最後の戦友となった部下に声をかけた。返事はなかった。
――……おい、シュタイナー?
今度は生暖かいものが手に触れた。嗅ぎなれた、生臭い鉄の臭いが漂ってくる。
顔を左に向けると、まるで死神にでも出くわしたのかのように目を見開いて、苦悶の表情を浮かべる彼の部下だったものが転がっていた。その目の黒い色が、まるで渦を巻いて周りの景色を全て飲み込むような感覚に襲われた。それが彼には、非業で不毛な死への抵抗のように感じられた。地に這いつくばったまま、まだ温かみの残る部下に手を伸ばすと、突如渦の中に飲み込まれ始めた。少しずつだが、真っ暗な空間に吸い込まれた左の腕から感覚がなくなっていく。
これが死の感覚なのか。気持ち良いものではないが、どうせ死ぬならもう少しの辛抱だ。そう意を決めた途端、全ての意識が闇に溶けていった。
そして、彼は目覚めた。低い日の光が木の葉と枝の間から僅かに零れ、小さな和室に朝が来ていること告げていた。
「夢、か」
あの夢を見るのは久しぶりだ。かれこれ半年ぶりくらいになる。だが、あれからまだ一年と数カ月しか経っていない。過去ではあるが忘却出来るほど遠い話でもないのだ。
彼は嫌な汗で全身びしょ濡れになっていた。冷える前に着替えてしまおう。そう考えた時、甘い香りが鼻孔をくすぐった。
横になったまま左の方を向くと、そこには彼の左腕を枕に眠る少女の寝顔があった。
スッと通った鼻筋と、潤いを持った少々薄い唇を中心に、誰が見ても整った容姿をしていた。僅かにはだけた浴衣から、小柄な体系には不釣り合いなほど成長した胸が呼吸に合わせて小さく揺れている。乱れた黄金色の髪が、艶めかしさを更に強めていた。
「……変な夢を見たのはこいつの頭せいか」
空いた右手で頭をかいた後、寝ている間に人の布団に勝手に入り込んできた愛い少女の柔らかな髪の毛を撫でた。そして、痺れて感覚がなくなってしまった左腕を救出するため、右手で自分の使っていた枕を器用に動かし、少女の頭の下に置かれた左腕と入れ替えた。
起き上がり時計に目をやる。午前五時半、ずいぶん早く起きてしまった。
音を立てずに洗面や着替えなどの身支度を整えると、ちらっと少女の方に目をやり、鞄を小脇に挟んで足早に部屋を出ていった。
一人、小さな和室に残された少女は、彼の足音が遠くに消えていくのを確認すると、目を閉じたままため息をついた。
「提督のいけず……」
1 帝都 1944年 4月29日
皇都の官庁街、赤レンガで出来た海軍省庁舎の一角には、軍令部と呼ばれる機関が入居している。海軍の作戦指導や部隊編成などのいわゆる軍令を担当するこの機関の一室では、今後の海軍の方針を決めるための論議が、昨夜から夜を徹して行われていた。ただしそれは、深海棲艦に対抗するためのものではなかった。
「これは敵前逃亡、と言う他ない!」
軍令部作戦部長である間崎中将は机を叩きつけながら力説した。
「北方鎮守府に与えられていた命令は、担当海域の確保と接近する敵勢力の排除である。しかるに、北方鎮守府司令長官の葛木少将は上級司令部たる第五艦隊の指示を仰がず、あろうことか独断で任務を放棄した! これを敵前逃亡と言わずに何というか!」
大の陸軍嫌いで有名な間崎中将は、すっかり禿げ上がった頭にうっすらと汗を浮かべながら得意顔で口角泡を飛ばしていた。彼は、陸軍叩きの千載一遇の好機を逃す術はないと考えていた。
一同は彼の発言に賛成のようで、次々に陸軍と葛木に対する批判を口にし始めた。それに対して、黙々と資料をめくっていた眼鏡をかけたスーツ姿の老人が疑問を挟んだ。
「だが、名前だけとはいえ、我々はあのちっぽけな軍港に鎮守府という冠を授けてしまった。鎮守府は艦隊の根拠地であり、艦隊が鎮守府の上に立つことはない。このことを陸軍が利用して、第五艦隊が北方鎮守府の上級司令部であることを否定して来たらどうするね」
そのようなことは想定済みですとでも言いたげな、憎たらしい表情を浮かべながら間崎が返した。
「御手洗閣下の仰ることはごもっともであります。しかし、北方鎮守府はあくまでも海軍内での通称であり、これを設けた陸軍側の正式名称は『西部アリューシャン前線要塞』であります。ですから、司令長官が陸軍少将だったのです」
御手洗と呼ばれた老人は資料から視線を逸らさずにいた。まだ喋り足りなそうな間崎に続いたのは、眠たげに目をこする軍令部次長の古田大将だった。
「我々はやつらに艦隊を貸してやっただけであり、北方鎮守府というのは便宜上の呼び名に過ぎない。あくまでも北方鎮守府は陸軍の施設である。それに加えて、陸海軍中央協定では『西部アリューシャン前線要塞は第五艦隊の指揮下に置かれる』と定めてある。向こうとしてもここを攻めるのは苦しいだろう」
「然り、北方艦隊はあくまでも海軍指揮下にあったのです! それをどう勘違いしたのか、越権行為であるにもかかわらず艦隊の指揮権を勝手に掌握し、あまつさえ敵前逃亡を図るとは、陸軍の腰抜けには呆れてものも言えません!」間崎中将が再び割って入った。
なるほどな、と老人は呟いた。資料から視線を上げ、机を囲む一同を見渡す。会議に参列した将校は、階級が低い者でも飾緒を付けた中佐、高いものは古田軍令部次長のような大将までおり、まさに海軍の頭脳たちと言っても過言ではないだろう。
「諸君らの気持ちはよく分かった」
そんな中、一人だけ異なる雰囲気を醸し出しているこの老人は、みなの視線が自分に集まっていることを確認すると静かに口を開いた。
「要するに、だ。君たちはこの機に陸軍を徹底的に叩き、艦娘の運用は海軍が単独で行うべきだと主張したいのであろう。違うかね?」
「ご明察の通りです、閣下」
そう言って立ち上がったのは、角ばった顔の大佐だった。第五艦隊首席参謀長、赤垣大佐である。
「どうやら陸軍は北の“共和国”と一戦交える気のようです。もしそうなれば長期戦は必至ですが、深海棲艦の発現により海上輸送路という大動脈を止められていた我々にはそんな余力などありません。しからば、我々がまずすべきことは南方の資源地帯の再確保であり、そのためには主攻、助攻を含めて艦娘の大量投入が不可欠になります。駆逐艦の一隻たりとも、奴らに渡してはなりません!」
赤垣大佐の言葉は、他のほとんどすべての海軍将校の本心を代弁していた。勢いづいた参列者たちは、徹夜であることを忘れたかのように次々と陸軍叩きの試案を挙げ始めた。
まるで水を得た魚のように議論が白熱する真ん中で、赤垣大佐は間崎中将と共にその中心にあった。赤垣が時折浮かべる、下卑た薄笑いに気づいた人間はいないようだった。
一方でスーツの老人は議論には全く興味を示さず、静かに立ち上がりカーテンを捲った。まぶしい朝日が差し込み目を細める。そして誰に向けて言うでもなく、小さく呟いた。
「艦娘を陸上決戦兵器に、か。やつらもなかなかどうして、面白いことを考える」
2 熱海 1944年 4月29日
早朝の潮風を浴びながら、彼は砂浜に立っていた。
沖の方では数隻の漁船が浮かんでいた。深海棲艦のせいで漁の行える範囲が狭くなってしまった漁師たちの生活に、彼は一瞬だけ思いを馳せた。
「待たせたか?」
後ろから声をかけたのは、白いスーツを着て帽子をかぶった男だった。
「さっき来たところだ」
彼は振り返らずに答えた。男は横に並ぶと、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
そのまま二人は何も言わずにいた。
声の代わりに波の音だけが流れる。男は早くも三本目の煙草に火をつけていた。
「わざわざ私服で来いとは、随分とめんどくさいことを言うんだな。俺の私物は全部海の底だと知っているだろう」沈黙に堪えかねたのか、彼から切り出した。
「密談だからな、まずは形からだ」
「密談、ね。こんな所で密談か」彼は鼻で笑った。
「こっちにも立場があってな。万が一にも貴様がうちの司令部などに来ようものなら、“南征派”を刺激しかねん」
煙を吐きながら男は答えた。
「同じ陸軍と言えども、一様に“北伐派”なわけではない。四百万の陸軍の中には、第二部長の岩城少将のように“共和国”との戦争に反対している将軍もいるし、表だっていないだけで、若い士官の連中には“南征派”のシンパが相当数いるのでな。自他ともに認める“北伐派”である俺自ら参上したわけさ」
「ありがたいね」と嫌味を含んで彼は答えた。大きなため息を一つついてから、彼は小脇に挟んでいた鞄を差し出しながら言った。
「それにしても、わざわざ精鋭師団の連隊長閣下を使わすとは、市ヶ谷台は随分とお忙しいようで」
男は鞄を受け取り、中を確認しながら返事をした。
「深海棲艦の本土進攻に備えて無理をして大陸から二個師団も引き抜いた上に、機動打撃師団なんて御大層なもんを八つも造ったんだ。奴らの活動が小康状態である今、俺ら実戦部隊は大いに暇を持て余しているのさ」
やがて中身を全て見て、望み通りのものだったことを確認した男は「確かに受け取った」と小さく言った。それを確認した彼は、ようやく男の方を向いて言った。
「約束は守ってもらうぞ、飯塚」
「俺を見くびるなよ、葛木」
飯塚と呼ばれた男は鞄を抱え直し彼の目を、葛木の目を見て返した。
「北方艦隊に所属していた艦娘の処遇については、嫌がらせや懲罰部隊への配置がないよう海軍側に約束させる。それと貴様の副官、ではなかった、秘書艦と言うんだったな、あの子に関しては現在の任務を継続させる。以上の二点に関しては、この飯塚中佐が“北伐派”全将校を代表して保証する」
それを聞いて満足したのか、葛木は笑みを浮かべると右手を差し出した。飯塚は、静かに葛木の手を握り返した。固い握手を交わしたのち、去り際に思い出したように飯塚が告げた。
「それとな、海軍の連中が騒いでいるようだが、軍法会議は決して開かせん。貴様の身の安全も同様に俺が保証する」
葛木は少しだけ驚いた顔をしたが、昔を思い出して納得したように言った。
「お前は幼年学校の頃から変わっていないな、飯塚」
「貴様と比べてれば、同期の奴らはみんな変わっていないさ」
飯塚が笑ってそう返してくれたことが、葛木にはありがたかった。「売国奴」と、「裏切り者」と、そう呼ばれるものだと覚悟していたからだった。
海には相変わらず人気がなく、砂浜には波の音だけが響いていた。
葛木は一人立ち尽くしていた。“北伐派”への根回しを終えて肩の荷が下りたからだ。当面は上層部の判断が下るまで謹慎という名の休暇を楽しむだけである。ああ、そう言えばあいつはどうするのだろう。海軍に呼び出されたりはしないのだろうか。そんなとりとめのないことをぼんやりと想像していた。
突如視界が暗くなった。同時に、聞きなれた声が首の後ろ辺りから聞こえてきた。
「だーれだ?」
「……お前を連れてきた覚えはないぞ、はち」
後ろから小さな笑い声が零れた。
葛木は小さな、色白で細い手を優しく掴んで彼の顔から外した。
振り返るとそこには、今朝方彼の布団に潜り込んでいた少女が悪戯な笑顔を浮かべながら立っていた。先刻と違うことは、桜の柄の入った淡い空色の着物を着ていることと、トレードマークである赤い縁の眼鏡をかけていることだった。足元には何やら大きな旅行用鞄が置かれていた。
この少女の名前は伊号第八潜水艦。通称は『伊8』だが、近しい者は「はち」と呼んでいる。
「お前が海軍の刺客だったら、俺はあの世行きだったな」頭をかきながら葛木は言った。
「潜水艦の基本は、隠密行動ですからね」
はちは右手を上げて、手刀で葛木を切るふりをした。
「音もなく忍び寄り、後に残るは亡骸のみ。まさに海の暗殺者です!」
えへへ、と屈託のない笑みを浮かべる少女に、葛木は困ったような表情を浮かべながら尋ねた。
「それで、もう一度言うがな、はち。俺は暗殺者をここに連れてきた覚えはないぞ」
葛木の問いに対して、少女は首をかしげてしらばっくれた。葛木はやれやれとため息をついた。
「それだけ着飾ってるんだ。まさか後をつけてきたわけじゃあるまい。どうしてここがわかった」
「偶然ですよ、偶然」
少女は相変わらず素知らぬ顔で応じた。
「小官は偶然にも昨日、提督が早朝にこの海岸へ『散歩に行く』ことを知り得たのであります!」
仰々しく敬礼してみせる少女を尻目に、先ほどよりも大きなため息をつきながら葛木は右手で額を押さえた。
「お前、あの手紙を勝手に見たな」
「はっちゃんは、提督がお散歩に行ってたってことしか知りませんよ」
「ああそうか、それならそれでいい」
葛木は半ば投げやりに返した。彼は、口ではどうしてもこの少女に勝てないのだ。
「それで、こんなところまで来て一体何の用だ?」
「Ja, Ich will Stelldichein!」
太陽のような笑顔を浮かべ、“皇国”訛りの強い“帝国”語で少女は言った。
小さく「Stelldichein」と口の中で繰り返した葛木は、合点がいったように返した。
「約束してたな、シュトーレン」
少女の笑みが、まるで花が開いたように大きなものになった。
「さ、早く行きましょう提督! 切符はもう買ってあります!」
「切符ってお前、どこに行くつもりだ」
「どこって……Stelldicheinって言ったじゃないですか!」はちは腰に手を当てて頬を膨らませながら言った。
「皇都ですよ、皇都。こんな片田舎じゃろくな材料もないですし、それにシュトーレンは一、二週間くらい寝かせるんです! それまでの間、皇都を遊びつくすんですよ!」
そういうと、はちは足元の鞄を葛木の右手に押し付け、左手を取った。
「お、おい待て、準備も何も出来てないぞ!」
「着替えと貴重品は全部その鞄に入れてあります! 諸々の準備や手続き云々は、このはっちゃんに全てお任せを!」
幸せそうに葛木の腕にしがみつきながら、はちはゆっくりと歩き始めた。
「Stelldichein」、それを“皇国”の言葉に直せば「逢引き」、現代で言うところの「デート」である。
3 横須賀 1944年 5月3日
「納得いかない」
黒髪をツインテールでまとめた航空母艦『瑞鶴』は、膨れっ面で窓の外から青空を眺めながら呟いた。空を自由に飛ぶ鳥を羨ましく思ったのは初めてだった。なぜならば彼女は今、横須賀鎮守府の海軍刑務所に収監されているからだ。
その理由は、二週間ほど前に彼女の所属していた『北方艦隊』が、根拠地である『北方鎮守府』ごと敵中に孤立し、司令官であった葛木陸軍少将が上級司令部に無断で撤退してしまったからだ。
必要な手続きを踏まない軍事行動は、当然のことながら処罰の対象となる。瑞鶴らが所属していた北方艦隊と北方鎮守府は解体され、『北方鎮守府の戦い』と後に呼ばれることとなる一連の戦闘についての調査という名目で、生き残った北方鎮守府の主要な関係者はみな拘禁されていた。
「なんで私たちがムショに叩き込まれて、あいつは高級旅館に外泊なのよ!」
瑞鶴は吐き捨てるように言いながら悔し紛れに壁を拳で叩いた。
「看守が来ちゃいますよ」
壁に寄りかかりながら本を読んでいた、桜色の髪をした女性が無感情に返した。
彼女は駆逐艦の艦娘、『不知火』。先の戦いにおいて最も活躍した艦娘の一人である。
彼女が先の戦いで挙げた戦果は、軽巡一撃沈、駆逐艦一大破、空母一、駆逐艦二中破、戦艦一、空母一小破である。これは駆逐艦一隻の挙げた戦果としては破格のものであり、敵艦隊が既に損傷していたことを勘定に入れても、特別な改修を行った彼女のずば抜けた優秀さを明確に示していた。それでありながら、不知火がこのような形で拘禁されていることは、傍から見れば不遇をかこっているようにしか見えないかもしれないが、本人は自らの過去と現在の役割からすれば当たり前のことだろうと考えていた。
本来六人程度が収容される雑居房には瑞鶴と不知火の二人しかおらず、嫌に広く感じた。二人の他にも、当初は瑞鶴の姉にあたる『翔鶴』や、軽巡洋艦『阿武隈』、重巡洋艦『摩耶』『利根』の四人もおり、つまりは先の戦いの主力となった面々が共同生活を送っていた。しかし、それも一週間足らずで終わってしまった。瑞鶴と不知火を除く四人は皇都の大本営に出頭を命ぜられ、残されたのがこの二人ということになっていた。
不知火は怒りが収まらない様子の瑞鶴を尻目に、まるで教科書を音読するかのようにつまらなそうに言った。
「提督は特務とはいえ将軍ですから。処遇が違って当たり前です」
「それよ!」
瑞鶴は不知火の方に勢いよく振り返った。
「特務士官制度は海軍のもので、しかも上限は大尉まででしょ? 陸軍の特務少将なんておかしいじゃない?」
不知火はピクリとも表情を変えずに聞いていた。
「第一、あんな若造が将軍閣下なんてこと自体がおかしいのよ。そうは思わない?」
素知らぬ顔をしていた不知火が反応したは、「若造」という言葉だった。読んでいた本を閉じて床に置くと、呆れかえったように言った。
「確かに提督は将軍としては異例と言って差し支えないほど若いですが、それでも今年で三十二歳ですよ」
「…………はぁ!? さ、三十二歳!? う、嘘でしょ?」二十歳そこそこだと思っていた瑞鶴は素っ頓狂な声を上げた。
「本当です。童顔ですけど、提督の生まれは1912年6月21日です」
開いた口が塞がらない、といった表情で固まる瑞鶴を気にも留めずに不知火は続けた。
「陸大こそ中退ですが陸士は予科も本科も優秀な成績で卒業していますし、そもそも提督の階級は勅令に基づく特別の地位ですから……」
そこまで言ってから、不知火はハッとした顔になった。余計なことを喋りすぎた。案の定、瑞鶴は興味深そうに尋ねてきた。
「ずいぶん詳しいのね」
「上官のことですから、多少は知っておくべきです」
「それじゃあ物知りな不知火さんに質問なんだけど」
嫌な予感がするのと、それが的中するのとはほとんど同時だった。
「なんで我らが秘書艦サマまでもが少将閣下と同じ待遇なんですかね?」瑞鶴は嫌味ったらしく尋ねた。
口は禍の元とはよく言ったものだと思いながら、瑞鶴の問いに対して不知火は沈黙で答えた。
しばらくすると、今度は瑞鶴が呆れ顔をして言った。
「……あんたってさ、嘘つくの苦手でしょ」
「なんでそう思うんですか?」
「この状況で黙り込んだら無言の肯定でしかないじゃない。『知らない』と言えばどうとでも繕うことが出来たのに」
「……そうですね、覚えておきます」
不知火の素っ気ない態度に少しずつ苛立ちを覚える瑞鶴だったが、なるべく感情を押し殺した声で皮肉っぽく言った。
「『提督について知っていることは全部話すから、アツタ島での出来事は秘密にしておいてくれ』とでも言うのかと思ってたわ」
「言ったら応じてくれましたか?」
「応じる訳が無いでしょ!」
アツタ島、北方海域に浮かぶ孤島。現在も敵中に孤立しているキス島と違い、書類上は「全部隊が撤退済み」のはずの島だった。だが、瑞鶴は見てしまった。そこに少なからぬ兵がいたことを。彼らは餓えと極寒に苛まれ、北方鎮守府司令長官の命令で持っていた燃料と被服、そして最後の食糧を瑞鶴と僚艦に提供したのち全員自害した。
彼らは生きる希望を絶たれたから死を選んだ。つまりは私に彼らから物資を接収するように命じた葛木に殺されたのだ。言い換えるならば、葛木は私にアツタ島の兵士たちを殺させたのだ。瑞鶴はそう考えていた。故に、瑞鶴は葛木を憎んでいた。
「そうでしょうね、私もそう思います」
徐々に熱くなる瑞鶴とは全く正反対に、不知火から返ってきたのは、まるで氷のように冷たい視線と興味のなさそうな声だった。
「秘密にしておくに越したことはないですが、そもそもあの島での出来事は彼らの守備隊編入を拒んだ海軍にとっても口外されたくないことですから。提督叩きの材料にはなりませんよ」
むしろあなたの立場が悪くなるだけでしょう。不知火は鋭い目つきでそう付け加えた。
瑞鶴は睨み付けながら返した。
「そんな矮小な話じゃない!」怒鳴り声が部屋に響く。
「私やあいつの立場なんて些細なことはどうでもいい! 私があの島のことを明らかにするのは、無能な軍上層部の不正を正し、アツタ島に眠る兵士たちの名誉を回復するため、ただそれだけよ!」
感情を爆発させる瑞鶴を見て、不知火は表情に出してはいないが心底驚いていた。瑞鶴の真っ直ぐな瞳とその信念に、不知火は困惑していた。
「自分や大切な戦友たちのため」ならば不知火も死を辞さない覚悟が出来ている。「遺族のため」というのもまだわかる。だが、「死人の名誉ため」にここまで必死になれる理由はなんだろう。不知火は黙ってしまった。
俯いて考え込んでいる不知火の代わりに、カツカツと軍靴の音を響かせながら看守が現れた。
看守はめんどくさがっていることを隠さずに、私語を慎むよう強い語気で注意した。
怒鳴り声を上げてしまった瑞鶴は反論など出来ず、小さく首を垂れた。そして監視のつもりか、看守は不機嫌そうに房の前に背を向けて立った。
これでさっきの話は先延ばしになった。瑞鶴はそう考えたに違いない。頭の後ろに腕を組んで壁に寄りかかり目を瞑った。
だが、不知火は違った。突如顔を上げると立ち上がり、看守の方に歩いて行った。気づいた瑞鶴が呆気に取られている間に、不知火は看守に声をかけ、何やら囁くとスカートのポケットから紙のようなものを取り出し、看守の手に握らせた。
「……三十分、いや、二十分だけだぞ」看守はそう言うと歩いて行ってしまった。
完全に置いてけぼりを食らった瑞鶴はポカンと口を開けて呆けていた。
「さ、人払いは出来ました」瑞鶴の方に向きかえりながら不知火は言った。
「な、何したのよ……」
「あなたの知らない軍人の顔を使っただけです」不知火はにべもなく答えた。
不知火はじっと瑞鶴の目を見つめていた。自分の思い付きが確信に変わったことを確かめると、ゆっくりと口を開いた。
「瑞鶴さん、不知火はあなたの純粋さが羨ましいです」
仮面のような無表情を崩さずに不知火は言った。瑞鶴は、まだ状況が飲み込めていないようだった。
「あなたは高潔な軍人たろうとしている。立派な武人であろうとしている」
これが、『瑞鶴の真っ直ぐな信念はどこに根差しているのか』という疑問に対する、不知火の出した答えだった。武勇の誉れ高き純忠の士、そんな輝かしい軍人への憧れこそが彼女の原動力となっているのだろう、不知火はそう確信していた。
瑞鶴は無言のまま頷いた。
それを見た不知火は「なるほど、それは素晴らしいことだと思います」と言った。そして間髪入れずに、瑞鶴の憧れを短く吐き捨てた。
「ですが、それが不知火には鼻持ちなりません」
言いながら、不知火は内心で自嘲していた。これは嫉妬なのか。そうかもしれない。知らなくていいことを知らないでいられる瑞鶴が、知りたくもないことを知らされてしまった不知火には許せなかったのかもしれない。
「だからあなたには、本当のことを打ち明けます。信じる信じないはお任せします」
人のことを、軍のことを、艦娘のことを、私は知りすぎてしまった。別に知りたかったわけではない。だが、私に選択権など与えられていなかった。過去の情景が不知火の脳内を駆け回る。
それ故に、何でも思い通りになると信じている、夢見がちなこのお嬢様が腹立たしかった。
「知りたいのは提督のことでしたっけ? それともはちさんのこと? それとも……艦娘のことですか?」
突然饒舌に喋り出した不知火とは対照的に、瑞鶴はまだ状況を飲み込めていないようだった。しかし、不知火はそんなことお構いなしに話を進めた。
「何でも遠慮なく聞いてください。今ここには、人ならざるモノしかいません」
4 幌莚 1944年 5月29日
1944年初春、聯合艦隊は対深海棲艦反攻作戦についての大綱をまとめ、4月15日にはこの作戦計画の実施がほぼ決定した。それによると、作戦は大きく二つの段階に分けられていた。
第一段作戦は即ち南方再侵攻作戦である。なお、この作戦はあ号作戦と総称される。
深海棲艦の跳梁跋扈により海上輸送ルートを寸断された“皇国”が真っ先に成さねばならないこと、それは南方資源地帯の再奪取であった。幸いにして南西諸島海域の深海棲艦は比較的弱体であり、全艦が高い練度を誇る聯合艦隊の手にかかれば鎧袖一触だろうと予想されていた。
あ号作戦は時間との戦いであり、二カ月以内に完遂することが絶対条件であった。というのも、それ以上時間をかけてしまうと国内の燃料が完全に枯渇してしまうのだ。燃料が無ければ艦娘は動けない。
南西諸島海域最大の油田があるパレンパンを押さえることさえできれば、同地域からは“皇国”の年間消費量を上回る石油が採れるため、特に早期にここを陥落させることが“皇国”が戦争を継続する上での絶対条件となっていた。言うなればあ号作戦は、南方資源要域攻略作戦であった。
続く第二段作戦は、極東洋西部から深海棲艦を駆逐しようという野心的なものだった。
第二段作戦は主に四つの作戦から成っている。あ号作戦の継続としてポートモレスビー攻略を目指し更に南方海域へ進撃するMO作戦。北方海域アリューシャン列島を東進するAL作戦。一、二航戦を基幹とした空母機動部隊によるMI島攻略を目的としたMI作戦。“皇国”と赤道を挟んで南側に存在する“連合王国”の植民地“濠州”と“合衆国”を分断するFS作戦。この四つである。さらに、これら四つの作戦が無事成功すれば、極東洋における“合衆国”最大の根拠地、現在は深海棲艦の中心地となっているハワイ泊地の攻略も自ずと視野に入ってくる。
これら第二段作戦が完了すれば、“皇国”は深海棲艦が発現する以前よりも版図を広げることになる。それは深海棲艦への勝利だけではなく、戦争状態にある“合衆国”への勝利にも繋がっていた。つまりこの反攻作戦は、対深海棲艦だけでなく連合国との戦いにおいても優位に立とうという目的があった。FS作戦などはその象徴と言えるだろう。
国家の命運を賭けた対深海棲艦反攻作戦、その第一段作戦の開始は当初は五月の頭を予定されていたが、北方海域において北方鎮守府の戦いがあったため三週間ほど延期され、5月25日と決まった。なお、MO作戦は7月28日、AL及びMI作戦は、8月8日の発動を予定している。
一連の作戦開始に先立つ1944年5月9日、旧北方艦隊所属艦で次の配属先が決まっていなかった瑞鶴、不知火、伊号第八潜水艦の三者に対して辞令が下った。
瑞鶴は、朧、秋雲、翔鶴と共に第一航空艦隊麾下の第五航空戦隊を編成することとなった。参加する作戦はあ号作戦及びMO作戦とされ、さらにMO作戦は短期間で終了すると見られているため、修理と補給の後にMI作戦にも参加することとなった。
不知火は、第五艦隊麾下の第二水雷戦隊所属第十八駆逐隊に配属となり、AL作戦の主力を担うこととなった。書類上の艦種は駆逐艦のままだが、彼女の艤装は内地の工廠にて改良を加えられ、実質的には重雷装駆逐艦となっていた。
そして伊号第八潜水艦は、新設される陸軍海上機動第五旅団隷下の艦娘陸戦隊の高級副官に任ぜられることとなった。なお同隊の指揮官は、葛木陸軍少佐となることが内定している。
あ号作戦の開始を五日後に控えたこの日、不知火は幌莚の第五艦隊司令部にいた。
一カ月ぶりの北の大海は、良き戦友や慕う上官との思い出を呼び起こした。一方で、彼女の眼前には陰鬱な空気が漂っているように感じられた。嫌いな人間と会わねばならない、そんなときに錯覚する息苦しさである。
「……以上が旧北方鎮守府内偵報告になります」
不知火は手元の書類から目を逸らさずに素っ気なく言った。彼女の前で椅子に座る男は満足げに頷いた。報告を終えた不知火は書類を手渡した。
「参謀長、お尋ねしてもよろしいでしょうか」不知火はいつもの無表情のまま言った。
「なんだね」
「生粋の“南征派”である参謀長が、艦娘の陸軍配備に裏で手を回したのは何故ですか」
赤垣大佐は、エラの張った顔に、見る者に不快感を覚えさせる笑みを浮かべた。
「陸軍と話をつけたのは私ではない。海軍省の広田中佐だ」
「波風を立てることを嫌う典型的な官僚である広田中佐が、わざわざ独自に陸軍と交渉するなんてありえません。あり得るとしたら誰かから命じられたか、或いは圧力がかけられたくらいですが、後者であればそんなことが出来るのは参謀長、広田中佐が四年前に起こした婦女暴行事件を闇に葬ったあなたくらいなものです」
赤垣は驚いたような表情を見せた。しばらくするとまたニヤニヤ笑いながら、仏頂面の不知火の目をじっと見据えた。そして背もたれに深く寄りかかりながら「良く調べたものだ」と呟いた。しばらくすると体を起こし、机の上に肘を置いて手のひらを組み、もったいぶったように言った。
「私は今年で四十三になる」
彼は十八で海軍兵学校に入校し、卒業後は在“連合王国”大使館付き海軍武官を務め、二十九歳の時には海軍大学を優秀な成績で卒業し、その後は幾つかの艦隊参謀や軍令部での勤務を経験して今の第五艦隊参謀長の地位にいる。所謂エリート街道を突っ走ってきた男だった。
「私はな、“南征派”である以前に海軍将校であり、軍人としての栄達を望んでいる。そのために有用ならばなんであろうと利用させてもらう。それだけだ」
「陸軍に艦娘を三隻渡すことが、参謀長の栄達に繋がりますか」
赤垣は机の引き出しから南方産の高級葉巻を取り出して火をつけた。ゆっくりと紫煙を吐き出しながら、もったいぶって答えた。
「簡単な話だ」
灰皿に灰を落とし、再び下卑た笑みを顔面に張り付けながら続けた。
「陸軍は来るべき“共和国”との戦争のために一隻でも多くの艦娘が欲しい。我々海軍は一隻たりとも陸軍にくれてやる義理はない。だからといって喧嘩をしても始まらない。私は陰ながら、その仲裁をしただけだ。陸軍は、今まさに我々が喉から手が出るほど欲しいものを持っているからな」
そこまで言われて、不知火は納得した。
海軍が艦娘の実用化に成功してから、陸軍が譲渡を要求していた艦娘の総数は、戦艦四隻、空母二隻、巡洋艦十五隻、駆逐艦二十隻の計四十一隻にのぼる。これは旧北方艦隊の倍以上の戦力であった。海軍としてはようやく見つかった深海棲艦への対抗手段を、そう易々と別の目的に転用させるわけにはいかない。北方艦隊の貸与を例外として、一切の要求を突っぱねていた。
だが先月の頭に、陸軍から10万トン分の船舶の割り当て変更の打診がもたらされたことで状況に変化があった。10万トンという数は海軍の船舶保有量の一割を超えるものであり、海軍は無視することが出来なかった。と言うのも今回の反攻作戦は、当初輸送船の船腹量不足により、第二段作戦はMO作戦のみが予定されおり、AL、MI作戦は状況の変化に応じて発動するとされていたのだ。陽動のAL作戦が海域の天候を考慮すると春から夏にかけてにしか実施出来ないため、AL、MI作戦は実質一年ほど延期されることになっていた。
このような状況での陸軍の輸送船割り当ての申し出は海軍にとって渡りに船だったが、その一方で見返りである艦娘の譲渡には軍令部や聯合艦隊を中心に慎重論が強かった。また強硬な反陸軍将校団の反発もあって二週間ほど続けられた交渉は失敗に終わった、はずであった。
しかし、第五艦隊はAL作戦にしか出番がない。旧北方艦隊が一戦交えたことにより、現在の北方海域における深海棲艦の勢力は少なからず弱体化しているはずであり、時間を与えることは戦力回復の機会を与えることに他ならない。反攻作戦の開始前に陸海軍の艦娘譲渡問題で妥協点を見出さなければ、赤垣は武勲を挙げる機会を先延ばしにされるばかりか、いらぬ危険を冒す羽目になる。「戦機を逃さない」それこそが、陸軍の艦娘保有が赤垣の栄達の繋がるという意味なのだろう。
おそらく赤垣は、表立った交渉が打ち切られた段階で広田を陰で操りながら陸軍と水面下で再交渉を続け、艦娘三隻と引き換えに船舶割り当てを勝ち取った、といったところではないだろうか。
そこまで考えた不知火は、悪寒を覚えざるを得なかった。もしかするとこの男は、そのために北方鎮守府を見捨てたのだろうか。
陸軍指揮下での艦娘運用の失敗、ただでさえ陸軍の艦娘保有を否定しうる材料であるのに、加えて北方鎮守府の上級司令部である第五艦隊の参謀長が、その失敗によってもたらされた損害を交渉材料として広田に提供すれば、陸軍は頭が上がらないだろう。交渉の主導権は自然と広田の、つまりは赤垣の手に渡る。
そして赤垣は、交渉がまとまれば広田を「陸軍に魂を売った裏切り者」として徹底的に叩き、海軍主流派である“南征派”における地位を崩さず、代わりに失うはずだった武勲を挙げる機会を得る。そして不知火たち旧北方艦隊が挙げた戦果をかすめ取る形で、北方海域を制圧した功を誇るのだろう。
他者を自分の目的達成の踏み台としか考えていないのか。不知火は、こんな人間の部下として命がけの戦場に身を置くことが今更ながら恐ろしくなってきた。
「そう怖い顔をしなさんな」
吸い終わった葉巻を灰皿に押し付ける赤垣の顔に浮かぶ嫌らしい笑いが、不知火の不快感を更に増していた。
「そのことを、曽根崎司令長官はご存知なのですか」
「いや、あの人は北方艦隊が解体された分のおこぼれをもらえるとしか思っていない。老いて目先のことしか考えられなくなったのさ」
ニヤついた笑みを浮かべた赤垣を前にして、もはや不知火はこの男の顔を見たくなかった。目を閉じると「わかりました。それでは失礼します」と早口で捲し立てて敬礼をすると、回れ右をして足早に部屋を出ていった。
扉を閉め息を吐く。だが腹立たしいことに彼女の脳裏には、先ほどまでの赤垣の不愉快な笑顔がこびり付いていた。
そして幸か不幸か、赤垣と会ったことで不知火はあることを確信するに至った。
北方鎮守府では先の戦いが勃発してすぐに幌莚へ状況報告と救援要請の通信文を送っていた。それだけではなく、戦いが終わった後にも瑞鶴の航空機を飛ばして緊急の救援を要請していた。しかしそのどちらも幌莚や大本営には届いていなかった。後者は事故で片付けられ、前者に至っては葛木の責任逃れだと大本営で糾弾されていた。
一体何故こうなったのか。赤垣が握りつぶしたのだ。そうに違いない。時期的にも陸軍との船腹・艦娘交換交渉が暗礁に乗り上げた頃と合致するし、何よりも先刻の彼の口ぶりは不知火の疑惑を裏付けるに十分であった。
赤垣が横槍を入れなければ、北方鎮守府には必要な救援が行われ、葛木の独断による鎮守府放棄という事態にはならなかったかもしれない。不知火がこうして嫌いな人間の下で働かねばならないのも、ようやく馴染め始めた部隊を解体させられたのも、敬愛する上官が不本意な批判を浴び左遷されたのも、全てあの男のせい……。
「……これだから海軍の将校は」
誰もいない廊下で小さくそう漏らした不知火の眼光は、戦艦も顔負けの殺気を放っていた。
5 尾鷲 1944年 6月1日
「特Ⅱ型駆逐艦一番艦『綾波』、着任の挨拶に参りました!」
「同じく特型、暁型駆逐艦二番艦『響』、これからよろしく」
椅子に座る葛木の前で、二人の年幼い女の子が敬礼していた。
綾波は濃い目の茶髪をサイドテールで束ねていた。着用しているのが髪の色と似ている濃いブラウンのセーラー服であり、艤装さえ装備していなければ都会の女学生と言われても疑う者はいないだろう。頬っぺたが柔らかそうだ、などと他愛のないことを葛木は想像していた。
一方の響は空色の瞳と、腰まで伸ばした雪のような白い髪が特徴的だった。彼女が着ているのが白いセーラー服でなかったら、神話に出てくる妖精か天使だと言っても信じる人間がいそうなほどだった。
葛木からすると、外見上だけ見れば全く対照的な二人の共通点は、幼さの一点のみに感じられた。
駆逐艦の艦娘というものは驚くほど幼い。年齢にして十代前半ほどではないだろうか。葛木自身も北方鎮守府で初めて目にした時、こんな小さな子が本当に戦えるのかと心配になったほどである。その心配は、実戦を目の当たりにして彼女たちに対する非礼であったと思わされたのだったが。
とにもかくにも、今後はこの二人と、彼の左後ろに立つ金髪の少女だけが部下になる。特務が外れ、正式に陸軍の階級が与えられた葛木は、可能な限り威厳をもって言った。
「ご苦労。私が君たちの上官になる葛木だ。知っての通り、君たち二人は艦娘史上初の、同時に陸軍史上初となる艦娘陸戦隊の中核を担うことになる。その覚悟だけはしておくように」
二人は「はっ!」と返事をしながら敬礼した。緊張した面持ちの綾波と、不知火のようなポーカーフェイスの響は、やはり対照的だった。
綾波と響の二人が退室した後、葛木は振り返りながら後ろに立つ少女に尋ねた。
「はち、秘書艦のご意見を伺おうか」
「提督、私はもう秘書艦ではないですよ。正式に提督の副官に任命されたと言ったはずです」
まだ陸軍の軍服が届いていないため、これまで通り海軍の白い第二種軍装に身を包んだ伊8は、右手で眼鏡をかけ直しながら答えた。彼女の階級章は中尉のものになっていた。
「ああ、そういえばそうだったな。だがそういうお前も、俺はもう提督ではないぞ」
「それどころか」と言いながら、彼は襟の部分を指さした。そこには、少佐の階級を示す襟章が付けられていた。
「佐官の一番下っ端に格下げされてしまった」
「提督は提督だからいいんです!」
おどけてみせる葛木に、はちは腕を組んで頬を膨らませながら返した。
「はいはい。それで、あの二人が陸軍に売られたことに対する副官殿の所感は?」
少女は首をかしげながらうーんと小さな唸り声を上げた。
「綾波さんは艤装の故障があったから、陸戦用改修にかこつけて修理を陸軍に押し付ける腹でしょう。響さんは、穿ちすぎかもしれませんが“共和国”びいきです。対“共和国”戦線に投入されたら通訳になるとか、そういう気遣いではないことだけは確かですね」
戦力としてはどうかと聞かれた少女は、それは提督の専門だと思いますと返した。
全くもって仰る通りだ、と答えた葛木は椅子から立ち上がり、本棚から一冊の冊子を取り出した。
「海上では貧弱な駆逐艦の12.7㎝連装砲も陸では十分すぎるほど強力だ」
そして冊子を机の上に滑らせた。勝手に葛木の椅子に座っていた少女は興味深そうにページを捲った。
「“共和国”の主力戦車であるT-34相手に、“帝国”の三号戦車の3.7㎝砲では全く勝負にならなかった。四号戦車の短砲身7.5㎝砲でも正面からでは厳しい。まともに対抗できるのは8.8㎝対空砲の水平射撃くらいだった。あいつなら重装甲のKVだろうと撃ち抜ける」
「アハト・アハト!」
「8.8㎝対空砲」に反応して、はちが勢いよく顔と嬉しそうな声を上げた。一方の葛木は「またか」とでも言いたげな顔をしていた。“帝国”で活躍している8.8㎝ FlaKを、この少女は好いていた。おそらくはこの少女の名前と同じ「八」だからだろう、葛木は勝手にそう考えていた。
葛木は机の上に腰かけた。指揮官が机に座り、その副官が椅子に座る。一見すると異様な風景だが、この二人はいつもこうだった。再び少女が冊子に視線を落とすのを確認し、葛木は話を戻した。
「アハト・アハトで凶悪な砲になるんだ。12.7㎝砲なんて代物なら現存の全戦車の装甲を抜けるだろう。加えて、艦娘はあの姿に艤装を装備しただけでの撃ち合いを前提に造られている。自分の主砲と同クラス以上の砲撃を一発や二発食らっても沈まないような構造になっているし、なによりあのサイズだ。戦車砲や対戦車砲で当てること自体が神業に等しい。要するに、艦娘が最強の陸上兵器であることに疑いようがないってことだ。うちのチハで相手しようとしても、まあ赤子の手をひねるようにねじ伏せられて終わること疑いない」
少女は冊子を読み終えると一旦閉じて机に置いた。そして再び手に取ると、ページをパラパラとめくって最後の方の総括の部分を開いた。この冊子は、開戦劈頭に鹵獲したとある“合衆国”戦車の調査報告書だった。そして総括の項目には、“皇国”の主力戦車である九七式中戦車と鹵獲した戦車の主砲、装甲、機動力、整備性、その他あらゆる点の比較が記載されていた。
「九七式は中戦車なのにM3軽戦車以下の性能だったんですか」
はちは驚きと呆れを含んだ声を上げた。表情は後者のものだった。
「だからこそ、艦娘は陸軍にとって都合が良いのさ。陸軍は大した戦車を持たずに猛獣のような“共和国”戦車と戦うつもりでいる。だが深海棲艦の登場によって予算は海軍が中心になり、新型戦車の開発も既存のものの改良、量産も思うように進まない。そんな状況下で、陸上での運用可能性があり強力な対戦車戦闘能力を持つ兵器を海軍が造ったとなれば、陸軍が飛びつかない理由はないだろう」
「海軍と仲の悪い陸軍らしからぬ発想ですね」
「陸軍だって艦娘の独自開発はやってるさ。だが、あきつ丸とまるゆが“共和国”との戦闘に投入されて大きな意味があると思うか? 悪いが、あの二人は陸だろうと海だろうと戦力に数えられないと俺は思うね」
残酷なまでに現実的な葛木の論評に、はちは少しばつの悪そうな表情を浮かべた。
「陸戦で役に立たなそうな潜水艦の艦娘は、黙秘権を行使します」
それを聞いた葛木は、思わず吹き出してしまった。
「副官まで戦闘に駆り出さなきゃいけないほどの戦況にしてしまったら、俺は指揮官失格だな」
はちは頬杖をつきながら、嬉しそうに口角を上げて言った。
「ふーん、じゃあ提督は、はっちゃんが危ない目に遭わないようにするって約束してくれるんですか?」
「残念ながら無責任な約束はしない主義なんでな」
そう言うと葛木は机から降り、少女の方に向き直った。
「だが、お前を死なせるつもりはない。これだけは誓っても良い」
「ふふっ、期待していますよ、提督」上官への全幅の信頼を、少女は満面の笑みで表した。
春の昼下がり、こうして小さな約束が交わされた。見知った者からすると当たり前の、見知らぬ者からしたら思わず赤面してしまいそうな、小恥ずかしいやり取りだった。
「そうだ、お茶でも入れましょうか?」
「お、気が利くな」
「この前提督が作ったシュトーレンが残ってます。一緒に食べましょう!」
しばらくしてこの部屋を訪れたある下士官は、幼い女性副官とコーヒーを飲みながら呑気に外国の菓子を食べる指揮官を見て、いたく不安になったという。
6 “共和国”首都 1944年 7月10日
“共和国”は、1917年に起きた革命によって誕生した世界初の社会主義国家である。その広大な国土は二二〇〇万平方メートルにも及び、大陸の総面積の内、実に四割を占める巨大国家だ。国是である社会主義の下に労働者の国を謳っており、富の独占のない平等の国であるとしている。当然のことながら、社会主義という政治体制の都合上、共産党による強力な一党独裁が確立している。
1944年7月10日、この日の“共和国”首都上空は一日を通して雲が無く、夜は月が赤々と輝いていた。そんな空の下、怪しい月明かりと楽しげな家々の明かりに照らされたクレムリンでは、“共和国”軍首脳部による祝勝会が開かれていた。
「За Родину!(祖国のために!)」
立派なカイゼル髭を生やした男が乾杯の音頭を取った。彼は“共和国”共産党書記長にして人民会議議長と“共和国”連邦会議議長を兼ねるこの国の独裁者、ジュガシヴィリだ。彼は徹底した権力の集中と膨大な数の粛清により独裁を確立した男だった。
「За партию!(党のために!)」
「За товарищ Джугашвили!(同志ジュガシヴィリのために!)」
「За Победа Великой Отечественной войны!(大祖国戦争の勝利のために!)」
長いテーブルを囲んだ軍服の男たちは、上座のジュガシヴィリに向かい一斉にグラスを掲げた。
彼らがご機嫌なジュガシヴィリに招かれて上等なシャンパンやウォッカ、ワインにコニャックを味わっているのは、“共和国”軍が六月末に行った夏季大攻勢『バグラチオン』作戦が大成功を収めたからだ。参加兵力は一八九個師団、兵員二五〇〇〇〇〇人、各種火砲四五〇〇〇門、戦車・突撃砲六〇〇〇輌、航空機七〇〇〇機という空前の大軍で、“共和国”軍は“帝国”軍になだれ込んだ。
津波ような“共和国”軍の攻勢の矢先に立たされたのは、“共和国”軍に比して三割五分程度の七〇〇〇〇〇人の兵力しか持たない“帝国”中央軍集団だった。不幸にも、“帝国”中央軍集団は貴重な戦車部隊を北方軍集団に移動させた直後であり、彼らの手元には一個装甲師団しか残されていなかった。
結果は火を見るよりも明らかだったが、“共和国”軍が決定的な勝利を収めた。攻勢開始から二週間ほどの間に、“帝国”中央軍集団は全三十八個師団中二十五個師団、三〇〇〇〇〇人以上の兵を失った。同時に“帝国”は開戦以来占領してきた“共和国”領東部を全て失い、逆に“帝国”の衛星国がある東欧地域が“共和国”の前に丸裸同然の状態となってしまった。
このバグラチオン作戦の成功により、“帝国”と“共和国”の戦争の趨勢は決した。“共和国”は“帝国”に勝利した。“帝国”首脳部を除くほとんどすべての人間が、同盟国である“皇国”ですらそう考えた。
“共和国”軍の指導者たちは勝利の美酒に酔いながら、“帝国”軍に辛酸を舐めさせられ続けてきたこの三年間を思い、感慨にふけっていた。大粛清によって弱体化した軍、“帝国”軍の陸空一体の電撃戦、猜疑心の強いジュガシヴィリによる死守命令、全てが最悪の状況から始まった彼らの祖国防衛戦争、大祖国戦争は今まさに彼ら自身の手によって勝利を収めつつある。
「同志クラスノフ、君の活躍は我が国の歴史書に未来永劫綴られることだろう!」
いつになく饒舌なジュガシヴィリがまず声をかけたのは、“共和国”軍の英雄と目されるクラスノフ元帥だった。
「ありがとうございます、同志ジュガシヴィリ。これで私も、大恩ある祖国と党に恩返しが出来たのではないかと安堵しております」
クラスノフはあくまで冷静に応じた。開戦当時は、歯に衣を着せぬ物言いでジュガシヴィリと衝突することの多いクラスノフだったが、“共和国”軍随一の将軍である彼の手腕はジュガシヴィリとて認めぬわけにはいかず、幾つもの勝利によって少しずつ信頼を勝ち得たのだった。
「ははは、同志元帥は謙虚だ」
「とんでもありません。今回の作戦の成功も、我が軍兵士の献身と同志ジュガシヴィリの指導の賜物であります」
「君の才能と忠誠心は、我が国にとってどんな高級な宝石よりも貴重だ。今度の活躍を期待しているよ」
「はっ! ご期待に沿えますよう、微力を尽くします」
クラスノフの返事に満足したジュガシヴィリは頷くと、周りを見回して話を聞いている者がいないことを確認すると、クラスノフに顔を近づけ耳打ちした。
「ところでクラスノフ君、私はそろそろ次の戦いを見据え始めるべきでないかと考えている。君はどう思うかね?」
それを聞いたクラスノフも辺りを見回し、言質を取られぬよう慎重に答えた。
「命令とあらば、必ずやかの島国に赤旗を翻らせますが、そのためにはまず確かな情報と入念な準備が必要です」
それを聞いたジュガシヴィリは髭をいじりながら俯いた。やがて顔を上げると、簡単な挨拶を済ませてクラスノフの元を去っていった。
ジュガシヴィリが次に声をかけたのは、赤い顔をして三杯目のウォッカをあおりながら同僚と会話するコルニーロフ大佐だった。
「気分はどうかね、同志コルニーロフ」
「は、はっ!」
慌てて敬礼しようとするコルニーロフと彼の同僚を手で制したジュガシヴィリは、目配せしてコルニーロフ以外を下がらせた。
「同志ジュガシヴィリ、小官に何か御用でしょうか」
「うむ、こんなことろで聞くのもなんだがな、例の件についてだ」
「例の件」という言葉で一瞬にして酔いが醒めたコルニーロフは、自信満々の表情を浮かべながら小声でジュガシヴィリに耳打ちした。
「はっ、明日にでも正式な報告書にして局長を通じてお伝えしようと思っておりましたのですが、つい先刻、その件について現地の工作員から新たな情報が届きました」
「ほう、どういうものかね」
「情報によりますと、“皇国”軍の南方作戦は順調に推移し、資源地帯の占領に成功しつつあるようです。第二次作戦は予定通り今月末に開始される見通しで、それに伴い大陸での大規模行動は早くとも来年の春以降になるだろうとのことです。また、動員される兵力は、現時点では三年前に行われた『東特演』と同等程度の模様ですが、南方作戦が一段落して再編を行った後に増員される見込みが高いそうです。予想される兵力は……」
次々と語るコルニーロフの報告にジュガシヴィリは驚いていた。なぜなら、彼の報告は“共和国”軍情報局のものよりも正確だったからだ。ジュガシヴィリは悦に入って喋り続けるコルニーロフを制して質した。
「それで、例の部隊は参加するのかね」
「はっ、どのタイミングで投入されるのかまではまだ判明しておりませんが、彼女らがいなければ今回の計画は成り立たないとの噂が“皇国”陸軍上層部では漂っている模様です。間違いないでしょう」
「ならば部隊の規模は判明したか」
「はい、部隊名は海上機動第五旅団、というそうです。旅団と銘打ってはいますが、機動歩兵三個大隊を基幹に、機関砲隊や多数の輸送用舟艇で構成される輸送隊らで増強された、実質的には歩兵連隊といったところでしょう。肝心の艦娘陸戦隊には、現在は小型艦三隻が所属しているそうです」
ジュガシヴィリは持っていたグラスの中身を一息で飲み干すと、未だに半信半疑といったような顔でコルニーロフの目を見て尋ねた。
「実に興味深い報告だがコルニーロフ君、その情報は本当に確かなのかね?」
「はい、同志。間違いありません。信頼できる者からの情報であります」
コルニーロフの力強い視線からは、絶対の自信が滲み出ていた。
7 皇都郊外 1944年 10月9日
――あの人が、提督が軍人として戦うのは、はちさんのためです。あとはそうですね、おまけとしてなら、私や瑞鶴さんら旧北方艦隊の面々を含む部下たちも守る対象に入っている、やもしれませんが。
――個人のために戦うなど“皇国”軍人としての心構えがなっていない? そんなの当たり前じゃないですか。瑞鶴さん、あの人はこの国に恩義など一切感じておられません。
――軍人は皇帝陛下と御国の御為に戦うべきだ? 御国に対する御奉公? ……ふふふ、はははっ! いや失礼、でも笑わずにはいられないですよ。
――理由ですか。いいですよ、この不知火が存分にお聞かせいたしましょう。
秋時雨の中に一つの人影があった。軍服の上に黒いマントを纏った彼の手には花が握られていた。
振り返ると遠くに村落があり、その他は小さな林と、雨で霞む地平線の向こうまで田畑が広がっていた。
丘の上にあるそこは、墓地だった。彼はしゃがみ込むと石碑の前に花を置き、静かに手を合わせた。雨音だけが辺りを包み込む。
しばらくすると、雨とは別の音が地面を叩く音が聞こえてきた。
「誰だ」
彼は振り返らずに言った。足音の主は立ち止まり、戸惑いを隠せない声で答えた。
「えっと、瑞鶴……です」
紅の唐傘をさした彼女は、竜胆色の弓道衣と枯茶色の袴を着用していた。
「そうか」
彼はようやく立ち上がると瑞鶴の方に向き直った。
「久しぶりだな。それが噂の改装後の格好か」
「どうも、お久しぶりです」
顔を逸らしながら瑞鶴は答えた。どうにもきまりが悪そうな様子だった。
「それで、俺に何か用か」
「用事と言うほどのことじゃ……」
そわそわしている瑞鶴が、花束を後ろ手に隠していることに彼は気づいた。
「誰から聞いた」
「不知火から。……今日が七回忌だって言ってたから」
「そうか」
彼は一歩下がると目配せした。瑞鶴は俯きながら、彼が置いた花の横に自分のものを置いた。彼女の前にある石碑には「葛木家」と掘られていた。瑞鶴は立ったまま数秒だけ手を合わせた。
雨は小雨になりつつあった。雲の隙間からは青空が見え隠れする。二人は言葉を発することもなく、駅に向かってあぜ道を歩いていた。やがて葛木は、何か言いたげだが言い出せない風な瑞鶴を見かねて話かけた。
「海軍の方はどうだ。近海からは深海棲艦を追い出せたようだが」
「……あ号とMO、AL作戦は成功したわ。キス島のことは、もう聞いてるでしょ」
「ああ、救援は間に合わなかったそうだな」
葛木は無感動に言った。それまでの瑞鶴であれば食いついていたはずだが、顔をしかめただけだった。
「MI島の方はどうなった。勇ましい大本営発表を聞く限り、あの島は落とせたのだろう?」
「MI作戦は……目的は達成したけど、あの本土攻撃で全部ひっくり返っちゃった。以後は中部海域での殲滅戦に力を入れるためMI島とMO方面は放棄、ハワイ作戦は無期限延期よ」
そうか、と小さく呟いた葛木は先月の戦いを思い出していた。
対深海棲艦反攻作戦が佳境に入った九月半ば、“皇国”軍は激戦の末にMI島を占領し、同島の奪還を図る深海棲艦空母機動部隊を撃破。極東洋における制海権を手中に収めた、はずだった。
ところがMI島沖決戦の終了と前後して、本土南西諸島近海にて深海棲艦の接近が確認された。二隻の戦艦棲姫を中心とした本土侵攻部隊の攻勢を前にして、本土に残されたわずかな艦娘による防衛線は瞬く間に崩壊した。
“皇国”軍と政府首脳の緊張は、戦艦棲姫が本土南部において強襲上陸を図ろうとした瞬間にピークを迎えたが、陸軍の沿岸配備師団が決死の足止めを行い、内陸部に拘置していた予備の航空機と砲兵部隊が投入されると形勢は逆転。最終的には再編された海軍本土残留艦娘部隊の夜間襲撃が決定的な打撃を与え、辛くも撃退に成功したのだった。
「そちらには都合が悪い話だが、あの戦いにはうちの部隊も動員されてな、陸上での艦娘運用に問題なしとされたよ。近いうちに増強されるって話だ」
「……そう」
視線を合わせようとせず、煮え切らない態度を崩さない瑞鶴。再び両者の間に雨と靴の音だけが流れた。
どのくらい経っただろうか。遠目に駅が見えてきたところで瑞鶴は立ち止まり、重い口を開いた。
「貴方のこと、誤解していた」
葛木は表情を変えずに瑞鶴の方を向いた。瑞鶴は、既に葛木の方を見据えていた。
「ご両親のこと、聞いたわ。あなたの過去には同情する。それでも……」
瑞鶴は一度視線を逸らし、もう一度葛木の目を見据え直して言った。
「いや、だからこそ、貴方は多くの者のために戦うべきだ! 僅かな仲間だけでなく、この国のために!」
瑞鶴の言葉に、葛木は鼻白んだ。ここにいるということは、彼の過去を知っているはずだ。その上で言っているのだから不快にならない訳が無い。
「俺を裏切ったもののために戦え、と?」
「悪いのはあの村の一部の悪意ある人だけでしょ。“皇国”臣民の全員が、ご両親の敵だったわけじゃないわ」
「なるほど、或いはそうかもしれないな。だが、俺にとってはあの村の悪意が全てだ。他の街々でどんなに愛想笑いをふりかけられても、俺の手で守るには値しない」
冷静な、それでいて冷徹な言葉と視線を浴びせる葛木に対して、瑞鶴は一歩も譲らなった。
「じゃあ言い方を変えるわ。私には私の戦う目的がある。貴方にはそれを妨げないと約束してほしい。私はこの国と、全ての戦友たちのために戦うわ。これは貴方の戦う目的に反するものじゃないでしょ?」
何を勝手なことを、と思いはしたものの葛木は返事をしなかった。ひたすらにジッと、瑞鶴の目だけを見ていた。どこまでも透き通る純粋な、綺麗な瞳だった。若さと希望に溢れる、真っ直ぐな瞳だった。
「勘違いしないでよ。私は貴方を許したわけでも、信頼しているわけじゃないから。ただ、貴方がこれを約束してくれるなら私は、迷い無く戦える。だから……」
そう言って傘を畳むと、瑞鶴は背筋を伸ばして踵を打ち付けた。先刻までの煮え切らない態度は消え失せ、意を決したような毅然とした表情をしていた。
「翔鶴型航空母艦二番艦『瑞鶴』、本日付で陸軍海上機動第五旅団艦娘陸戦隊に配属となりました。以後よろしくお願いします」
瑞鶴は文句のつけようのない完璧な海軍式敬礼をした。葛木は面食らっていたが、数秒して全てを理解した。先ほどの自分勝手な瑞鶴の意見は、つまるところ彼女なりの着任の挨拶だったのだ。言うなれば、彼の過去を配慮することが、彼女にとって最大の譲歩だということだろう。
なんとも不器用なことだ。どれだけ強力な兵器としての一面があろうとも、中身は見た目相応の女の子という訳か。だが、もしかしたら俺も、昔はこんな感じだったのかもしれないな。葛木はそう思いながら答礼した。
「ようこそ、瑞鶴。海軍随一の幸運艦の着任を、我が陸軍は心から歓迎する」
雨はもう止んでいた。雲間から差し込む日の光の下では、燃え盛るように真っ赤な彼岸花が咲き誇り、火花のような花弁には幾つもの輝く雫を携えていた。
――提督の御父君は、連隊長として大陸に出征されました。そして、そこで亡くなられました。
――戦場での名誉の戦死は軍人の本懐……? なるほど、瑞鶴さんの目にはそう映るかもしれませんね。
――順を追って説明していきましょう。まず陸軍の基本戦術は機動戦、包囲殲滅です。御父君の連隊もそのような訓練を重ねていました。ところが、その出征で連隊が投入された戦場は、典型的な、そして状況の悪い陣地戦でした。
――狭小で泥濘の覆う土地、堅固な陣地に徹底抗戦の意志を持って立て籠もる敵を前に機動や包囲をする余裕はなく、さらに砲弾不足と不十分な火力支援の下では陣地の突破には肉弾攻撃に頼らざるを得なくなったため、連隊長たる御父君には選択の余地もないまま損害ばかりが拡大していきました。
――二カ月にも及ぶ激戦の結果、三八〇〇名の連隊のうち一三〇〇名が戦死、二一〇〇名が負傷し、ほとんどすべての部隊が本国から送られてきた補充隊と入れ替わったそうです。
――問題はその後です。当時、連隊長の家族は連隊の駐屯地に居住することとなっていました。一人息子だった提督は当時陸大の生徒で帝都におり、ご実家には提督の御母君が一人で暮らしておられたそうです。
――ああ、瑞鶴さんは陸軍の徴兵制度についてご存知ないか。徴兵された者は、その本籍地か居住地を連隊区とする連隊に入営するのです。つまり提督の御母君は、御父君の連隊の兵たちの故郷に住んでいたのです。
――次々と棺となって無言の帰宅をする夫や父。生きて帰って来た者も手や足や目がない。それも自分たち家族だけではありません。お隣さんも、向かい側の家も、そのまた向こうの家も同じです。
――そうなると戦死者の遺族たちやこれから兵を送る家族たちが何を思うか、考えるまでもありません。彼ら、そして彼女らは徒党を組んで、指揮官の無能さを指弾し始めたのです。
――夫に代わって遺骨の出迎えや葬儀、慰霊祭などに出席するたびに無能な連隊長、人殺し連隊長と罵声を浴びせられ、しまいには石を投げられ、御母君は追い詰められていきました。とどめを刺すように、責任を痛感した御父君が戦場で自決なさいました。厳密には、損害の責任を取らされた、という表現が正しいでしょう。
――やがて、御父君の葬儀のため急ぎ帝都の陸大から帰って来た提督が、割られた窓ガラスの隙間から目にしたのは、床に転がる拳ほどの石と、天井の梁からぶら下がる御母君の遺体だったそうです。
――瑞鶴さんは仰いましたね、『名誉の戦死』と。無茶な戦場に放り込まれ、その責任を押し付けられて死なされることが名誉の戦死ですか。
――瑞鶴さんは仰いましたね、『御奉公』と。戦場で奮戦する人の家族を害することが奉公に対する御恩ですか。
――戦争で家族を失った人は数多いるでしょう。ですがこの国は、提督のご両親の命と名誉を奪ったのです。軍と地域社会、この国の上下両方が、です。
――こんなことがあれば、御国のために軍人を志していた提督が、その御国に裏切られたと感じるのはごく当然のことではありませんか。
――それでもまだ、自分の大切なもののためにだけ戦うのが間違っていると、あの人は間違っていると、本心から言えますか?
8月29日、MI作戦の天王山とも言える“皇国”艦娘艦隊対深海棲艦空母機動部隊の艦隊決戦の最中に発生した深海棲艦による本土強襲は、実戦部隊の損害こそ大きくなかったが、“皇国”軍部に様々な意味で一撃を加えた。端的に言えば、“皇国”陸海軍のパワーバランスを一転させたのだ。
1944年の夏まで、客観的に見れば“皇国”にとって最大の脅威は深海棲艦だった。そして深海棲艦と戦うのは海軍であり、陸軍と比べて海軍の影響力が大きくなるのは自明の理である。
しかし、8月29日の本土強襲事件、神聖不可侵な皇土を深海棲艦に侵されかけるという大不祥事は海軍の立場を一気に悪くした。
加えて、この失態を除けば、あ号作戦を始めとする一連の対深海棲艦反攻作戦を成功させ、当面の脅威を排除していていたため、海軍を特別視する状況ではなくなっていたのも、海軍の発言力を弱めた理由に挙げられるだろう。
一方の陸軍はその発言力を大いに強めた。大陸の向こう側にある同盟国が敗北しつつあり、“共和国”の次なる矛先は“皇国”であるという強迫観念じみた確信があったことと、深海棲艦に代わる新たな脅威は“共和国”であり、それと相対するのは陸軍であると喧伝していたからだ。さらに、海軍の失態である本土強襲を足止めし、予備兵力で打撃を加え「尻拭いをしてやった」ということもあって、海軍に対して強く出るようになった。
MI作戦が一応の成功を見た9月3日、皇土防衛の責務を怠ったとして軍令部総長の高田大将と聯合艦隊司令長官の立花大将が揃って辞任し、即日予備役入りしたことで海軍の影響力は一気に弱体化した。
海軍に代わって皇土防衛の立役者となった陸軍は、陸軍大臣の清水大将を辞任させ後任を指定しないことで海軍寄りの豊田内閣を総辞職に追い込み、9月8日に組閣の大命が下った平林陸軍大将を中心に陸軍の拡充に走った。
その結果、陸軍は再来年までに多数の戦車師団から成る機甲集団軍を新設することと、海軍は航空母艦『瑞鶴』と巡洋艦『摩耶』を陸軍に引き渡すことが短期間のうちに決定された。
このような陸軍の増長に対し、海軍が異を唱えることはほとんど不可能となっていた。
そんな状況を追い風にして、1944年11月末、深海棲艦の発現以来、大陸での目立った軍事行動を控えていた“皇国”陸軍が、新たな作戦を立案した。
作戦名は『一号作戦』、大陸の北清地域から南に進撃し、佛印までの鉄道ルートを打通、南方地帯から鉄道により資源を輸送しようというものだった。これは二四〇〇キロにも及ぶ距離を打通しよう大規模な作戦であり、動員兵力は十八個師団と六個旅団を合わせて五〇〇〇〇〇人にも上る。これらの兵力には帰還した南方の部隊と本土の部隊も含まれるため、編成と移動のため作戦開始は翌年五月以降とされた。
一号作戦の概要を知らされた時、多くの軍人は驚き、一部の者は違和感すら覚えた。
仮に旧シン国全土を支配下に置こうというのであれば、鉄道線の打通ではなく、軍閥の中心都市を攻め、彼らの瓦解を誘うのが筋なはずだ。それに、深海棲艦の発現で大陸に孤立した軍閥はもはや“皇国”の敵ではない。今や陸軍の主敵は“共和国”に他ならない。“皇国”と“共和国”の大陸国境線は北側にあり、大陸南方に大兵力を向けることはあまり意味がない。
なぜなら、先のあ号作戦により資源地帯の南西諸島海域から本土近海にかけての深海棲艦を駆逐したからである。深海棲艦が本土近海を跳梁している状況であれば、鉄道による資源の陸上輸送は意味があるが、大陸の貧弱な鉄道の護衛にかかる手間暇や輸送量を鑑みれば、今や安全となった海上ルートを用いた方がよっぽど効果的である。
“共和国”と旧シン国の両方を無視して大陸を南下するというのだから、この作戦に疑問を生じる者が現れるのは無理らしからぬことだった。
既に展開中の北清派遣軍単独で作戦を行わないことも疑問を呼んだ。わざわざ本土から増援を送らなくても、精鋭北清派遣軍だけで弱体化した軍閥程度粉砕することが出来る。問題となっているのは兵站、つまり補給だけであり、彼らが欲しているのは時間をかけて再編された部隊ではない。物資と輜重兵だった。
内外から見ても不可解な作戦、不可解な兵力動員。陸軍中央の動向はどうにも疑問尽くしだったが、これらの疑惑は10月14日の航空母艦『瑞鶴』陸軍編入という一大事にすっかり覆い隠されてしまっていた。
その本当の目的が明らかになるのは、翌1945年の夏まで時を待たねばならない。
◇
1 尾鷲 1945年 7月20日
「綾波、貴様だけ遅れてるぞ!」
後方でアイツが叫んでいる。瑞鶴は全身を汗まみれにしながらその声を遠くに聞いていた。
視線は前だけを、真っ直ぐに伸びる舗装されていない道路だけを見ていた。ジリジリと真夏の陽射しが照り付け、陽炎がゆらゆらと地平線を揺らしていた。日光を遮るような大きさの雲のない青空が憎らしい。
瑞鶴は、はッはッと短い呼吸を続けながら、一時間以上にもにわたる炎天下の長距離走を耐えていた。
「響、ペースを上げるのは良いが後でへばっても知らんぞ!」
艦娘は、艤装を展開した状態であれば桁外れた身体能力を発揮できる。しかし、そうでなければ見た目通りの少女に過ぎない。幼い駆逐艦が、こんな条件下でマラソンをさせられてはたまったものではないだろう。
瑞鶴の苛立ちを強めていたのは、暑さと疲労だけではない。彼女らが辛い思いをしているのに、上司だけが楽をしていることが解せなっかった。
「あと3kmで大休止だ。立ち止まるな、走れ!」
チラリと後ろを見やる。涙やら汗やらで顔じゅうをぐちゃぐちゃにした綾波を、自転車に跨りながら涼しい顔して叱咤する彼女らの上官、艦娘陸戦隊隊長、葛木陸軍少佐を瑞鶴ははやり好きになれなかった。
その後、瑞鶴が二十分ほどかけて目的地である彼女らの駐屯地に辿り着くと、先頭を走っていた摩耶は兵舎の前の木陰で息を切らしながら仰向けに寝転んでいた。
「あっちぃ……」
「摩耶、だらしないわよ」
「んなこと言ったってよぉ……」
上半身を起こしながら、摩耶は不満そうに何かを言おうとして、兵舎から人影が出てきたことに気づいた。
「お疲れ様です」
カーキ色の半袖襦袢を着た眼鏡の金髪少女が声をかけた。手に持ったお盆には、二つの湯呑が乗せられている。それを見た摩耶は飛び起き、つかつかとそちらの方へ歩いて行った。
「おう、気が利くじゃねえか、はち」
摩耶は湯呑を受け取ると遠慮せずに飲み始めた。まだ苦しんでいる仲間がいるのに、と思わんでもなかったが、瑞鶴も体の欲求には抗えず、はちの下へ向かった。
湯呑をひったくると、瑞鶴も中身を一気に飲み干した。ぬるい水が体に染みわたっていくのを感じる。冷たい水などという贅沢はいらない。ただの一杯の水だけで体中が潤いを取り戻しつつあるのがわかった。
口元を拭いながら湯呑を返した瑞鶴は、嫌味たっぷりに言った。
「事務作業の方は進みましたか、副官殿」
「ボチボチ、ですね」
しかし、はちはそんな瑞鶴の態度を全く意に介していないようだった。それどころか、辺りを見回すと逆に瑞鶴に向かって尋ねた。
「ところで、提督の姿が見えませんが、どちらに?」
悪意の空回りほど虚しいことはない。瑞鶴は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。見かねた摩耶が代わりに答えた。
「駆逐艦のお守りだよ。多分もうすぐ、ってほれ、噂をすれば影だ」
摩耶が指さした方に視線を向けると、門の向こうにべそをかきながらフラフラと走る綾波を、葛木と響が叱咤激励している姿が見えてきた。
三人の姿を確認したはちは、嬉しそうに微笑むとお盆を置いて兵舎へ戻っていった。
満身創痍の二人は、瑞鶴と摩耶の下に辿り着くと同時に地面にへたり込んでしまった。無理もない。この炎天下で一時間半も走りっぱなしだったのだ。瑞鶴や摩耶ですら根を上げそうなほどだったのだから、駆逐艦の二人が辛くないわけが無い。
自転車を門の衛兵に預けた葛木は、既に休憩を始めている部下たちに向かって歩きながら言った。
「ご苦労だった。これより大休止を取る。摩耶、副官を呼んでくれ」
葛木の言葉に摩耶が反応するより早く、彼の副官は兵舎を飛び出すと駆け足でやって来た。
「お疲れ様です。はい、どうぞ」
その手に握られていたのは汗を拭くための手拭いと、キンキンに冷えたサイダーだった。
「ああっ、ズルいぞ! はち、アタシたちの分は!?」
「駆逐艦の二人にだけ、との指示がありましたので」
はちは微笑を浮かべつつ応じた。膨れっ面の摩耶が、はちから耳打ちされる葛木に視線を移す傍らで、響がハラショーと言いながら瓶の蓋を開けていた。
「……んくっ、んくっ……うん、やっぱりこれは良いな」
「うああっ、おい響、全部飲むなよ! アタシにも少し寄こせ!」
「ニエット。残念だけど断るよ」
「響ぃッ!」
摩耶と響がちょっとしたコントを繰り広げている一方、綾波は地面に座り込んだまま俯いていた。瑞鶴は、綾波が声を殺して泣いているのだと気付いた。 肉体的疲労よりも、一人だけ付いていけなかったことが悔しいのだろう。声をかけるべきか否か逡巡していると、葛木が綾波の分のサイダーを瑞鶴に渡した。
「お前が慰めてやってくれ」
それだけ言うと、瑞鶴の反応を見る素振りもなく行ってしまった。その横には、はちがピッタリとくっついていた。
部下を泣かせた始末を押し付けられたと感じた瑞鶴は、憤りを禁じえなかった。
不知火から彼の過去を聞かされ、その境遇には同情した。自分とは掲げる理想が異なることも理解し納得した。
それでも、やっぱり嫌いなものは嫌いだ!
瑞鶴は内心で思い切り舌を出してから、気を取り直して綾波の方へ歩みを進めた。
見上げると、まぶしい太陽が燦々と光を浴びせてきた。視線の向こうまで広がる真っ青な空と、遥か上空に浮かぶ小さな雲。時は1945年7月20日、制定されてから四回目の海の記念日を迎えた“皇国”は、束の間の平和の中にあった。
葛木が服装を正し、旅団本部へ顔を出したのはその日の午後三時頃だった。
軍帽を小脇に抱え、旅団長の執務室のドアをノックし、返事を確認すると中へ入った。
「葛木少佐、入ります」
中にいたのは、軍服の上から肥満体型だとわかる中年男性だった。丸々とした顔には玉のような汗が浮かんでおり、卓上に据え付けられた扇風機を抱きかかえるようにしていた。
彼は三上少将、海上機動第五旅団の旅団長であり、葛木の直属の上官にあたる。
「首尾はどうかね」
三上は気怠そうに尋ねた。
「上々、とは言えませんが万全を期しております」
「フン、今更体力づくりなどしているようで、実戦に間に合うのかね」
「お言葉ですが、艦娘の体力不足が問題となったのは、先月から艦娘の運用体系が変わったからであります」
艦娘は本来、水上での運用が大前提とされていた。だから艤装を展開していれば移動は海面を自動推進するようになっていた。
ところが、陸上で運用するとなると話は変わってくる。陸軍技術研究所が血眼になって開発した陸上用艦娘艤装は、数トンから数十トンにも及ぶ艤装の重量を表面地表に広く分散させるまでに留まり、海上同様に滑走するような機動を行うことは不可能だった。つまり、艦娘の陸上での移動は徒歩とならざるを得なかったのだ。
幸いと言うべきか、海上機動第五旅団に設置された艦娘陸戦隊は、敵前強襲上陸を目的としているため陸上での想定移動距離は短く、陸上用艤装が徒歩移動になることは問題とされなかった。しかし、先月になってから急な指示が軍中央から与えられたことで事態は一変した。
「長距離行軍ヲ想定シタ訓練ヲ実施スベシ、何も不思議なことではあるまい。戦果を拡張するためには機動力が必要だ。我が第五旅団には他の海上機動旅団違い戦車隊がない。その代わりが君の艦娘陸戦隊なのだ。戦車と同等の働きをしてもらわねば困るよ」
暑苦しい顔をしながら涼しい表情で言いやがる、と葛木は食い掛かりそうになったのを必死に堪えて答えた。
「閣下、前から申し上げております通り、戦車と艦娘ではその運用方法も長所も違います。この二つを同列に扱うのは艦娘の本来の力を損ねることになります」
この会話をするのは、葛木が三上と初めてこの場所であった時以来二回目だった。それを覚えているのか、三上は神妙な顔で言った。
「少佐、私が君に求めているのが何だかわかるかね」
そんなのわかるか、と言いたくなる気持ちを押さえ、当たり障りのないことを言おうとした矢先、三上が口を開いた。
「命令への服従、ただそれだけだ。偉そうに意見することじゃない」
葛木の脳裏に鋭い痛みが走った。
「この際だから言っておこう。敵前逃亡同然のことをした君を、私は一切信頼していない」
嫌な予感はしていた。人の見た目は内心を表す。この醜い狸のような男が、軍隊の膿のような存在だということに、葛木は遅まきながら気が付いたのだ。
「私はね、皇軍兵士として当然のことながら、退却が大嫌いだ。そんなことをするくらいなら持ち場で死ぬべきだと思っているし、今後そのような事態に陥ったらそうするだろう」
勝手にしてくれ。その代わり俺たちを巻き込むな。一人で死んでくれ。葛木は顔に出ないようにしながら、内心ではこれでもかというくらい毒づいていた。
「退却によって勝利を得た戦訓など存在しない。勝利を掴むのは攻撃によってのみであり、光輝ある我が皇軍は決して退却などせんのだ」
視野狭窄に陥った我が軍の悪例をそのまま形にしたような男だ。三上のご高説を拝しながら、葛木は呆れるあまりため息が出そうだった。
「よりにもよって上級司令部の命令もなしに独断で北方鎮守府を放棄した君を、上層部が軍法会議にかけなかったのは理解に苦しむ。いいかね、君がもしも同じことを私の下でやろうとしたら、その場で銃殺してやるからな。肝に銘じておけ」
「はっ、承知いたしました。して、ご用件はそれだけでしょうか」
「……いや、本件はこっちだ。」
葛木を罵倒するのに気を取られ、本来の用件を忘れていた三上は頭をかきながら引出しを開き、書類を机の上に滑らせた。
「君の申請していた陸戦隊直轄兵站部隊は却下された。旅団直轄の輜重部隊を強化することで十分だろうとのことだが、私も同感だ」
葛木の眉がピクリと動いたことに三上は気が付かなかった。葛木は不快感を気取られないように、出来うる限り申し訳なさそうな声と表情を作った。
「はっ、無茶を申しました」
その後、二人は二つ三つの事務的なやり取りをした。大陸への部隊移送が順調に進み、一号作戦が近いうちに開始されること、第五旅団は大本営予備として内地に留まるが、いつでも戦地に発てるよう準備しておくことなどが伝えられた。
用が済んだことを確認すると、葛木は一礼して退室した。
大股で廊下を歩き、急ぎ本部を出る。ようやく頂点から沈み始めた太陽はまだ燦々と陽射しを照り付けており、歩き始めるとすぐに汗が噴き出てきた。
手団扇で仰ぎながら陸戦隊の兵舎に戻り自分の執務室の扉を開けると、そこには彼の忠実な副官が待っていた。
彼女の用件は、艦娘とその装備を含めたあらゆる造艦事務を司る海軍の艦政本部から、瑞鶴が新型戦闘機の配備を要求したことへの返事が来たことについてだった。返事の内容を要約すると以下の通りになる。陸軍の管轄下に入った艦娘の装備については陸軍が責任を持つべきであり、海軍としては一切の要求を受け入れるつもりはない。
瑞鶴……。報告を聞きながら、葛木の脳裏に瑞鶴の顔が浮かんだ。嫌悪感丸出しの表情をしている。嫌いな人間、つまり葛木と接した時の顔だ。
「俺もあんな顔してたのかね」
呟きながら葛木は自嘲していた。瑞鶴から見た俺は、俺から見た三上か。そりゃあんな顔にもなる。
「提督……?」と、心配そうな顔してはちが声をかけた。
葛木は返事をせずに、目を瞑り椅子に深く腰掛けると深く息を吐いた。はちは音を立てずに彼の後ろに回り込むと、背中から首元に抱き着きながら耳元で囁いた。
「大丈夫、私がついています」
顔のすぐ横にある、少女の優しい微笑みが葛木の眼前に浮かんでくるようだった。
「全く……お前には敵わないよ」
2 尾鷲 1945年 8月9日
昇り始めた太陽が赤く染める台風一過の空から、中島製「光」一型エンジンの爆音が響き渡る。海の上空を行く小さな点は、250kg爆弾を吊り下げていた。それらに乗る、「妖精」と呼ばれる操縦士たちは、視界の向こう側に白い砂浜と、内陸側に覆い茂る林の中に擬装した攻撃目標を確認した。
彼女らの任務は露払い。湾港外部で待機中の摩耶たちが突入する前に、湾内を狙える沿岸部の大型火砲を潰すことだった。
「一番機目標視認、座標修正」
朝日に照らされながら洋上で航空攻撃の指揮を執る瑞鶴の脳内には、先行する九九艦爆からもたらされる情報が浮かび上がっていた。事前に彩雲による偵察で判明していた情報と照らし合わせると、発見した攻撃目標は合計で十二門。全て林や山の斜面に擬装されている。瑞鶴が指揮する第一次攻撃隊も全部で十二機。目標が重複しないよう、細心の注意を払う。
「第一次攻撃隊、進路そのまま。接敵まであと六十秒……」
瑞鶴は落ち着かないでいた。理由は、随伴艦がいないからだ。空母が一隻、丸裸で浮かんでいるなど自殺行為でしかない。だが、文句を言っている暇はない。攻撃開始まで、あと二十秒である。
「……こちら瑞鶴、間もなく爆撃を開始します」
《おう、こっちもいつでもいけるぜ!》
無線の向こうの摩耶に向かって小さく頷くと、瑞鶴は各爆撃機へ指示を下した。
「第一次攻撃隊、攻撃開始!」
瑞鶴がそう言うのとほぼ同時に、陸上からは点にしか見えない九九艦爆が一斉に牙をむいた。操縦桿を真っ直ぐ前に倒して急降下する機、操縦桿を横に倒して機体を横転させながら降下する機、各々得意な方法で目標に向け高度四〇〇〇から急降下を開始した。
翼が、機体が風を切る音が響く。速度計は時速500㎞を超えていた。全機、青々と茂った木々に向かい直角に近い角度で落ちてゆく。
先頭の一番機は高度六〇〇で爆弾を投下した。後続機もそれに合わせて爆弾を投下、それぞれ機体を引き起こして退避していった。
そんな中、二番機だけはまだ降下を続けていた。
高度五〇〇、まだ引き返さない。高度四五〇、まだ操縦桿は動かさない。高度四〇〇になって、ようやく爆弾を懸吊しているアームが250kgの火の玉を放り投げた直後、二番機は操縦桿を思いっきり手前に引き、機体を引き起こした。後方で爆発音が響き、爆炎が空に昇り、舞い上がった木の葉と木片、それに土砂が音を立てながら地面に落下した。
「戦果を確認……一番機、目標命中、撃破確実。三番機、目標至近、目標大破。四番機、目標命中……」
瑞鶴は第一次攻撃隊の戦果を司令部に通達した。撃破確実は九、残り三つも至近弾によって大破ないしは打撃を与えていた。
「本部、このまま第二次攻撃隊を突撃させます」
上官からの返事を待つまでもなく、瑞鶴の決断は済んでいた。既に第二次攻撃隊の戦爆型零戦十二機は、快足を飛ばして攻撃目標を視界に捉えていた。
《第二次攻撃を許可する。残敵を殲滅しろ》
「了解! 第二次攻撃隊、突入始め!」
第一次攻撃隊が仕留め損ねた三匹の獲物に対し、十二機もの零戦が襲い掛かる。勝負は、一瞬のうちに終わった。
「目標完全に沈黙! 摩耶、突撃をッ!」
《よっしゃあ! 響、綾波、付いて来い! 陸戦隊、吶喊する!》
爆撃を受けて煙を挙げる湾内に向け、摩耶率いる艦娘陸戦隊が前進を開始した。上空には瑞鶴の零戦十二機と九九艦爆六機がいつでも近接支援を行えるように待機していた。
濃紺のセーラー服を纏った摩耶を先頭に、響と綾波が縦列陣で砂浜に突撃を開始する。
30ノットで湾内に突入。陸上からの攻撃は、非常に散発的なものだった。先の爆撃の効果は大であったようだ。二つから三つほどの数の小さな砲が火を噴き、機関銃が僅かばかりの抵抗を試みている。だが、小口径の速射砲も機関銃も艦娘たる摩耶たちの敵ではない。摩耶は意に介することなく無線に向かって叫んだ。
《抵抗は微弱、このまま突撃を敢行する! 全艦、全速前進、衝撃に備え!》
もはや瑞鶴の航空支援も必要ない。通常の艦船ならば侵入不可能な浅瀬にまで歩みを進めた摩耶がついに砂浜に座礁する寸前、無線から慌てた声が聞こえてきた。
《演習終了! 繰り返す、演習終了! 総員、直ちに戦闘を中止せよ。繰り返す。本日の演習はこれにて終了とする! 艦娘は全艦直ちに帰投し指示を待て!》
突然の演習中止に、瑞鶴も摩耶も、綾波も響も戸惑っていた。予定ではこのまま摩耶と綾波、響の三隻が砂浜への強襲上陸を、瑞鶴がその航空支援を行うはずだった。
一人ぽつねんと海面に浮かんでいた瑞鶴は、艦載機の収容作業が終了し次第帰投することにした。
いったい何があったんだろうか。それにしても、説明もなく打ち切りなんて……。
陸軍に移ってから十ヵ月、訓練に訓練を重ねた瑞鶴は、ようやくの本格的な実戦演習がいきなり中止になったことに、ふつふつと怒りが込み上げてきていた。
しかし、彼女の怒りを向けられた葛木とその副官は、陸戦隊の中で最も混乱していた。さらに言うと、混乱の極にあったのは彼らだけではなかった。
それはあまりに突然の出来事だった。大本営からの緊急電が、旅団本部に舞い込んだのである。
『本八月九日未明、大陸ニ展開中ノ東北軍ハ“共和国”ト戦闘状態ニ入レリ』
『〇六〇〇時ヲ以テ一号作戦ハ無期限延期。東北軍ハ全面的対“共和国”作戦ノ発動ヲ準備』
『海上機動第五旅団ハ東北軍ニ編入、総軍直轄予備トスル』
3 九家仔 1945年 8月8日
それはまるで、野に火が放たれたかのように、加速度的に悪化していった。
この日の夜も、“皇国”第九国境守備隊に所属する鎌田は、持ち場の第二監視哨にいた。いつもと何も変わらない、月の綺麗な夜だった。黒々と覆い茂る木々が白く照らされ、音もなく風に揺れていた。
南部国境線に位置する琥春正面、その九家仔付近を守備する第九国境守備隊は国境線に沿って陣地を構築しており、そのため長らく紛争が絶えない地域だった。
しかし、1939年のハルハ河事件と“皇国”東北軍の大敗北以降、両国間の国境紛争は急速に減少し、1941年に欧州方面で“帝国”と“共和国”の戦端が開いたこと、“皇国”の南方侵攻が開始されたこともあり、“皇国”“共和国”間の紛争はほとんど起こらなくなった。
鎌田が第九国境守備隊に配属されたのは、ちょうど“共和国”との中立条約が結ばれた頃であった。中立条約が結ばれたとはいえ、両国は友好国になったわけではない。国境を守る国境守備隊は、両国が開戦した時に敵軍の矢先に立つことになる重要な部隊だった。
彼にとって“共和国”は、近くて遠い奇妙な隣人だった。長年の仇敵であるが今は手出しが出来ない。ちょうど今から一年ほど前、南方で海軍を中心とした大規模な反攻作戦があったため、東北軍を含む大陸方面の陸軍部隊には静謐保持の絶対が厳重に言い渡されたのだ。
この時、“共和国”の斥候が、国境の内側に設けた警備線を侵入するまで防衛行動を取らないという極めて消極的な国境警備要綱が制定され、これに基づいて鎌田は一個分隊ほどの仲間と共に国境警備の任に就いていた。
生来の怠け者である鎌田は、この処置によって“共和国”の脅威が増すことよりも仕事が減る喜びを覚えていた。
実際、今年の春に入ってからは国境付近での“共和国”軍の活動が活発になっていたが、国境を超えて侵入してくることは稀であった。例え侵入してきても斥候が数名程度、それも活動らしい活動もないまま短時間で引き揚げていく上に、向こうは決して警備線を超えるほどには深く足を踏み入れてこなかったため、鎌田の危機感を揺り起こすほどには至らなかった。
敵さんもなかなかどうして、加減がわかっているじゃないか。国境付近で斥候が蠢動するたびに、鎌田は地区隊本部へ電話で報告する傍ら密かに感心していた。
鎌田の上官も、更にその上から静謐保持を厳命されていたため、彼の報告に対して紋切り型の返事しかしてこなかった。
八月八日午後九時、その日の夜も鎌田はいつもと同じ報告をして、いつもと同じように感心して、いつもと同じように監視哨の小屋の中でこっそり煙草をふかすはずだった。
九時十五分、いつもよりも遅い本部からの返事が鎌田の元へもたらされた。
――第二監視哨は全力を以て敵勢力を撃破せよ。
――直ちに照明弾を打ち上げ攻撃を開始せよ。至急一個小隊を増援に向かわせる。
――これは“共和国”の侵略行為である。
徐々に鎌田の脳が指令を理解していくのと同時に、体中から血の気が引いて行くのがわかった。五分ほど逡巡したのち、驚きを隠せないままの声で部下に指示を下した。
ニコライ・イワノビッチは、頭上を飛び交う弾丸の風切音におびえながら顔を地面に押し付けていた。彼は“共和国”第59国境警備隊の一兵卒だった。
ニコライ達の分隊に与えられた任務は、国境線付近で示威行動を行い“皇国”側の反応を確認すること、可能であれば敵陣地と地形の調査を行うことだった。彼らはこの初夏から繰り返されるこの簡単な任務を、定期便と呼んでいた。
今日もただの定期便のはずだった。“皇国”軍は拍子抜けするほど腰抜けで、悠々と国境を超えても何もしてこなかった。鉄条網の一つでも壊してみるか、そんな話が出ているくらいだった。
しかしどういうことか、今夜の“皇国”軍はいつもと違っていた。国境線を超え、しばらくしたところでいきなり“皇国”側の丘の上から銃撃が始まった。
任務前に「もうすぐ俺にガキが産まれるんだ」と耳にタコができるほど言ってきた先輩のイワンチェンコは、胸を撃たれて冷たくなっていた。
行軍中に「母ちゃんが病気なんだ」としょぼくれながら言っていた戦友のコベレフは、足を撃たれて声にならない呻き声を上げていた。
いつも偉そうにふんぞり返っている分隊長のボリスは、増援要請の信号弾を打ち上げた直後に飛んできた弾丸によって脳漿をぶちまけていた。
ニコライは、ただ地面に這いつくばって弾雨が止むのを待つしか出来なかった。だが、待てども待てども銃撃音が止む気配がない。それどころか、むしろ強くなっていることに気が付いた。
恐る恐る顔を上げると、“皇国”軍の打ち上げた照明弾に照らされて、丘の上で蠢く小隊規模の黒い塊たちが目に入った。もしかしたら既に包囲されているのではないか。恐怖で押しつぶされそうになるニコライの耳に、待ち望んだ“共和国”語が飛び込んできた。
――味方だ! こっちも援軍が来たぞ!
ニコライは一瞬で地獄から天国に引き上げられたかのように感じた。虎口を脱した錯覚に飲まれていた彼の目は、たった今据え付けられた機関銃の銃口が、彼に向けて火を噴いたことを捉えていなかった。
4 東檸 1945年 8月8日
もうすぐ日付が変わる夜半の空を照らす照明弾を、“皇国”第九国境守備隊第一地区隊長の原口は不安げに見つめていた。
原口は最近になって予備役から現役復帰されられたばかりの大尉である。彼自身の体調が万全でないだけでなく、まだ着任したばかりで部隊の状態も地形も陣地すらも把握しきっていない。
そんな原口の救いは、消極的な国境警備要綱だった。“共和国”軍の挑発行為があったとしても、これがある限りは大規模な紛争にはつながらない。その間に部隊を完全に掌握し、地形と陣地を把握するつもりだった。
しかし、恒例となっていた“共和国”兵による国境侵犯の報告を守備隊本部に行ったところ、彼に下された命令はいつもの静謐保持ではなかった。
――第九国境守備隊は、“共和国”軍の侵略行為に対して断乎たる反撃を行う。
原口は混乱しつつも古参下士官たちと協議し、すぐさま敵と接触した第二監視哨への攻撃命令と増援の手配を行った。
第二監視哨からの報告では、“共和国”軍の斥候は分隊規模。一個小隊ほどの戦力を送れば一気に粉砕できるだろう。何も守備隊が全力で出張る必要もない。
小隊が到着すればカタがつき、日付が変わる前には些細な小競り合いで終わるだろう。原口はそう自分を納得させていた。
それが楽観だと気が付いたのは午後十時過ぎ、増援に出した小隊長から緊急電が飛び込んできた時だった。
――敵、一個中隊規模の増援を確認。我が方の損害拡大しつつあり。至急増援を求む。
まずい、と原口は思わずこぼした。このままでは第二監視哨が落とされる。原口は冷や汗を流しながら守備隊本部へお伺いを立てた。
返事はすぐにもたらされた。
――現在、第三軍に増援を要請中である。要請が受け入れられ次第、可及的速やかに第十九師団が反撃を開始する。第一地区隊は持ち場を死守し、味方の来援まで持ちこたえよ。
本部から心強い連絡を受け、原口とその部下たちは安堵の吐息を漏らした。一方で、衝突が起きてから抱えていた漠然とした不安が徐々に薄れていくのを感じていた。
その不安の根源が、小さな国境紛争が大規模なものへ、そして“共和国”との全面戦争へ急転直下してゆくことへの危機感であると、原口が最も恐れていたことであると彼らが思い至ることは遂に無かった。
5 アレフィエフ 1945年 8月9日
アレフィエフにある“共和国”極東軍第25軍の司令部では、もうすぐ夜明けであるというのにもかかわらず電話がひっきりなしに鳴り響いていた。
――第126狙撃師団より報告、“皇国”軍の急襲を受け被害甚大。敵兵力不明なるも、かなりの大兵力であると認む。戦線の長期維持は困難。
――第92狙撃師団、第一線との通信未だに回復せず。師団司令部は増援を求めています。
――各地の飛行場が攻撃を受けています。侵入してきた敵機の数は百機を超える模様。損害は現在集計中。
第25軍の司令官シトニコフは、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、飛び交う報告を聞いていた。
いみじくも“皇国”の予想通り、“共和国”極東軍は近い将来に“皇国”と戦争をするつもりだった。しかし、それはあくまでも『近い将来』の話だった。
現在、欧州方面では“帝国”との大祖国戦争が最終局面を迎えており、夏の終わりにはオーデル=ナイセ河を突破し、帝都へ雪崩れ込むことが出来るだろう。主戦力のほとんどを投入している欧州戦線が決着してから、冬の間に歴戦の猛者たちを極東方面に引き抜き、年が明けて雪が解けたらちっぽけな島国を葬り去る。“共和国”極東軍首脳部は来春早々の開戦を予定していた。
兵力だけで言えば、 “共和国”極東軍は“皇国”東北軍よりも数が多い。しかし、極東軍は多くの兵力を欧州方面に引き抜かれて久しいのに対して東北軍はベテラン揃いだ。しかもシン方面で最前線にいる部隊を引き抜いてくることも可能であり、練度の面では“皇国”軍に分があるといえる。
このように、1945年の夏の時点では、“共和国”は“皇国”に対して必ずしも圧倒的優位に立っているわけではなかった。さらに、クレムリンから年内の開戦はないという通達がなされていたため、前線には弛緩した雰囲気が流れていた。南部国境線に布陣する極東軍第25軍の司令部もその例外ではなかった。結果として、それを逆手に取られた形となった。
薄明の中で電話に叩き起こされたシトニコフは、司令部で部下から報告を受けると真っ先に第25軍の北を守る第1軍の司令部に電話をかけた。第1軍司令官のユマシェフによると、“皇国”軍は第1軍の戦線には大規模な攻撃を仕掛けていないようだ。
電話を切りながら、シトニコフの脳内には“皇国”軍の攻撃意図が浮かび上がってきた。
第1軍の守るハンカ湖西南地域は平坦な地形が続いており、大軍の移動に適している。一方、その南に位置する第25軍と国境線の間には天然の障害であるオーストラヤ山がそびえており、いわゆる険難地であるため大軍の移動には向かない。
そのため、“皇国”軍の攻勢はカンハ湖方面である可能性が高いとみて、第1軍は重厚な陣地帯を構築していたのに対して、第25軍の防備は比較的薄い状態であった。
今回、オーストラ山前面に位置する第92師団、126師団が大規模な攻勢を受け、第1軍に動きがなく、かつ第1軍とのつなぎ目に位置する第105師団の陣地は平静であることを合わせて考えると、“皇国”軍の意図は明らかだった。
――奴ら、時期だけでなく場所でも我々の裏をかくつもりだ。
忌々しい猿め、と毒づくシトニコフだったが、彼をさらに窮地に追いやる報告が舞い込んできたのはちょうど煙草に火をつけた時だった。ラブチェフスクにある極東軍司令部と電話でやり取りをしていたグロフ中将が、ハンカチで汗を拭きながら彼の元へやってきた。
――極東軍司令部は、第1軍からの戦車師団移転を認めませんでした。現有戦力で戦線を維持せよとのことです。
グロフの報告を聞き終えると、シトニコフは目を瞑ったまま紫煙を揺らした。そして煙草を握りつぶしながら拳を机の上に叩き落した。スチール製の灰皿が、乾いた音を立てながら吸殻を散らした。
戦争は、まだ始まったばかりであった。
6 皇都 1945年 8月10日
「カタパルトの調子が悪いのじゃ!」
目黒の海軍技術研究所の廊下に、場違いな明るい声が響き渡った。そこにいた全員が声の方に振り返ると、ツインテールの女の子が子供のような笑みを浮かべて立っていた。
群衆の中の一人、海軍技術少佐の田島は渋面を浮かべると、見なかったことにして立ち去ろうとした。彼女の目的が彼であることは明々白々だったからだ。彼女は早歩きの田島の後ろをついて行った。
「むう、つれないのう。せっかく吾輩が来てやったというのに」
「私は忙しいんですよ、利根さん」
田島は心底嫌そうな声色で言った。しかし、この艦娘が人の話をまるで聞かないということは、この一年ほどの間に利根が技研に入り浸っているうちに実証されてしまっていた。
「なんと! 吾輩の訪問よりも大切なことがあると言うのか!?」
仰々しく驚いてみせる利根に、田島は大きなため息をつきながら立ち止まると周りに人がいないことを確認し、小さく彼女に耳打ちした。
「あなたのお友達の第二次改装計画がお流れになったんですよ。今からその後片付けと急ぎの仕事です」
「なぬ? しかし、摩耶の改二構想は陸軍への配置転換と同時に中止になったと聞いておったが……」
「防空重巡洋艦改装は、技研が膨大な予算と時間をかけてつくった一大計画です。そう簡単に捨てられない。違う重巡で出来ないかと水面下で継続していました。結局は摩耶さんにしか適性がないことが判明し、その返還交渉も先ほど不発に終わったので正式に中止されたというわけです。これで満足ですか?」
合点がいったといったような顔で手を打つ利根。これで帰ってくれるかと一安心した田島だったが、利根は我関せずといった風に言った。
「それじゃあちょうど手の空いたところのようだし、カタパルトの修理改善と……そうじゃ、ついでに吾輩の改二計画について話を聞かせてくれんかのう!」
田島はガクリと肩を落とした。
「あのですねえ、そういう話は艦政本部に持って行ってください! 私は今、それどころじゃないんですよ。“共和国”の空襲に備えてこれから防空巡洋艦計画を防空駆逐艦計画に差し替えるという重要な任務がですね……。第一、私の専門は電探であって、カタパルトとか航空機関連は別の部署に行けとあれほど……!」
「まあまあ、固いことを言うでない。お主がこっちで活躍しているのも、大切な計画の中心になっているのも、北での経験が活きているからじゃろ? ここは一つ、戦友のよしみでな、技術少佐!」
利根の言っていることは正しかった。去年の春、旧北方鎮守府を訪れていた田島は、深海棲艦の攻撃に際し急遽艦娘の改装を行った。軽巡洋艦『阿武隈』への戦艦砲装備、駆逐艦『不知火』の重雷装艦改装、どちらもそれまでの常識を覆すものであり、研究所内での彼の評価は跳ね上がった。異例の速さでの少佐昇進はその表れと言えるだろう。
だから、同じ北方鎮守府で戦ったもの同士仲良くしようという利根の言い分にも一理あった。しかし、今日ばかりはそうも言っていられない。仕事が山積みであるだけでなく、“共和国”の空襲が行われる前に電探連動型高射砲を備えた防空駆逐艦娘を水面に浮かべなければならないのだ。
「お帰りください」
「そこを曲げてなんとか頼む! 今日はちょっとした土産もあるのじゃ!」
利根は肩にかけていた鞄から平べったい箱を取り出すと、箱の中から琥珀色の液体の入った丸型の瓶を見せつけた。
「比島で手に入れたブランデーの逸品じゃ! ……疑っておるな、だがこれは本物じゃぞ。なんせ“合衆国”の領事館でもらったものじゃからな!」
利根を置いて歩き出だそうとした田島の足が止まった。手土産があるなんて初めてのことだ。チラッと利根の方を見た田島は、彼女の笑みの中で目だけが笑っていないことに気が付いた。
彼は空いている会議室に利根を招き、鍵を閉めると椅子に座って抱えていた書類を机の上に置いた。利根はまだ酒の話をしていた。
「本当は筑摩と飲もうと思っておったのじゃが、お主にくれてやる。感謝するのじゃ!」
利根の話を無視してブランデーをひったくり足元に置いた田島は、これまた大きなため息をつくと手帳と鉛筆を取り出した。
「で、用件はなんです」
それを見て一瞬ニヤリと笑みを浮かべた利根は、向かい合うように椅子に座ると真剣な顔つきで話し始めた。
7 幌莚島 1945年 8月11日
内地は蝉しぐれ真っ盛りの八月だというのに、さほど気温の上がらないここ幌莚島に置かれた“皇国”海軍第五艦隊司令部の第二作戦室には、若い女性たちが十名ほど集まっていた。彼女たち全員に共通していることは、まだ幼さの残る顔立ちをしていることだった。この娘たちこそ、第五艦隊を構成する艦娘たちだった。
椅子に座る艦娘たちの雑談が溢れかえる小さな部屋は、作戦室と呼ぶよりも国民学校の教室といった趣だった。
不意に扉が開き、二人の人影が姿を現した。途端、全員が会話を止め起立し、入室者の方を向くと一礼する。
二人は歩きながら静かに答礼した。一人はスカイブルーのセーラー服に、金色の長髪を二つのお団子でまとめていた。もう一人は鼠色のブレザーを着て、桜色の髪を水色の髪留めで短く結んでいた。見るからに緊張しきりの前者とポーカーフェイスで飄々とした後者、二人は敬礼から服装、髪型まで全く対照的だった。
セーラー服の女性は教壇の横に立ち、一同を見渡すと震える唇を開いた。
「だ、第一水雷戦隊旗艦、阿武隈です。これより、秘書艦の不知火さんから新たな作戦の説明があります。全員心して聞くように!」
阿武隈の上擦った声に、一瞬部屋の空気が緩んだ。しかし、教壇の前に立った不知火の氷のように冷たい視線と声が、再び一同を緊張の坩堝へと突き落とした。
「秘書艦の不知火です。皆さんに集まっていただいたのは他でもありません。今後の方針が決定しました」
不知火は阿武隈に目くばせをした。あたふたしながら数秒かかってやっと意味を察した阿武隈は、立ちっぱなしだった一同を着席させた。
気が利かないというか余裕がないというか。不知火は呆れながら同時に心が和むのを感じていた。第五艦隊内で唯一の戦友は、今もあの時も変わっていない。それが不知火には嬉しかった。惜しむべくは、これらが表情に一切出ないということだった。
不知火本人としては和やかな雰囲気で、聞いている側からすると唾を飲むのもはばかれるほど張り詰めた雰囲気で、不知火の話が始まった。
みなさんもご存知の通り、我が国は一昨々日の深夜から“共和国”と交戦状態に入りました。まもなく大本営から宣戦布告が発表されるでしょう。
“共和国”との戦争は主に陸軍の管轄となりますが、我々海軍にも重要な使命があります。“共和国”海軍の極東洋艦隊撃滅と、“共和国”の沿海部に点在する海軍基地の破壊、この二点です。
予想される極東洋艦隊の戦力は、巡洋艦二、駆逐艦十三、潜水母艦二、潜水艦一〇五、敷設艦十五、高速魚雷艇及び高速警備艇それぞれ一〇〇、掃海艇十九、特務艦三一など、合計で三七〇隻を超えるとみられます。
極東洋艦隊は、戦艦や空母のない小型艦を中心とした艦隊ですが、一〇〇隻以上の潜水艦に加えて二〇〇隻の高速小型攻撃艇を擁しており、これらに通商破壊を徹底されると非常に厄介です。
特に、この極東洋艦隊の母校であるウラジオ軍港は、“皇国”本土から大陸への船舶輸送ルートを遮るには絶好の位置にあり、これらを放置することは大陸に展開中の陸軍の崩壊を招く恐れがあります。
敵艦隊は当然このウラジオ軍港を中心に展開しているものと思われますが、大陸沿海部には大小さまざまな海軍根拠地や停泊地が点在しており、ここからゲリラ的に出撃してくる可能性も排除しきれません。
既に舞鎮所属の通常艦船が内海の警戒にあたっていますが、哨戒網は十分とは言えませんし、何よりそれでは埒があきません。よって艦娘部隊によって敵海軍基地を攻撃、敵艦隊を燻し出し、それらを一気に叩くことになりました。
我が第五艦隊の役割は助攻になります。大陸沿海部以北にある北部極東洋艦隊の根拠地、北サハリン、オホーツク、カムチャッカの海軍基地の破壊です。北部極東洋艦隊の戦力は極東洋艦隊と比べても微々たるものですが、基地の位置的に敵の内海へ飛び込むことになります。簡単な任務ではないことだけは覚悟しておくように。
『聯合艦隊司令長官ハ深海棲艦ニ対スル作戦ヲ続行シツツ“共和国”極東洋艦隊ヲ掃討撃滅シ、且陸軍ノ対“共和国”作戦ニ協力スべシ』
大海令は既に下されました。追ってさらに詳細な作戦と命令があるでしょう。各員の奮闘を期待します。
それと、各戦隊隊長は机上演習を行うのでこの場に残ってください。質問がなければ本日は以上で解散とします。
8 旧都 1945年 8月18日
車窓から見える景色は、新緑の山々と紺碧の空が組み合わさった、この国の原風景そのものだった。
一面に広がる田畑の青々とした海の中に時々、ぽつりぽつりと老人たちの姿が見える。曲がった腰をさらに曲げ、農作業に勤しんでいた。電車の向こうでは、そのような景色がいつまでも続いているようだった。
一方、蒸し暑い車内はほぼ満席だった。その中で、軍服を着た男女が向かい合って座っているのがひと際目を引いた。四人掛けの座席を二人で使っているのは、ほぼ満席の車輌で彼らだけだったからだ。二人の後ろの座席では、四人の女の子たちが静かに寝息を立てていた。
「してやられたな」
「やられましたね」
葛木とはちの二人は手元の書類から目を離さずに呟いた。
嘆息を漏らす葛木に、はちは一枚の紙を手渡した。受け取った葛木はそれに目を通し、署名をすると再び少女に返した。それらは作業的に、機械的に、視線を合わせることなく繰り返されていた。
8月12日、“皇国”は“共和国”に対して宣戦を布告した。対する“共和国”側も翌13日に宣戦布告を行い、政治的・外交的手続きを終えた両国は本格的な戦争へと突入した。
両軍が衝突した8月9日から東北軍へ編入されていた第五海上機動旅団は、同日中に大陸への移動が命じられていた。各種書類によれば、8月18日の第五旅団は大陸に近い北九州地方へ移動している最中であった。
「敵の分隊に対して小隊を、敵は小隊に対して中隊を、敵の中隊に対して大隊を。そうやって相手の反応を見ながら徐々に戦火を拡大し、小さな諍いを国家規模の戦争に仕立て上げる。よくもまあここまで綿密に計画したものだ」
葛木は目線も手の動きも変えずに喋っていた。
「“共和国”軍は、“帝国”が総力を挙げて、それこそ北欧や西方の占領地をがら空きにしてまでして構築したオーデル=ナイセ河最終防衛線の突破に思いのほか手こずっている。雪解けと共に終わると言われていた欧州戦線も、この分だと秋いっぱいまで長引くだろう。となれば、この時期に極東で戦端を開くことによって最も利益を得るのは東北軍だ。これは奴らの謀略と見るべきだろうな」
一部の軍人の間では、東北軍の少壮将校たちが独断専行したのだろうという話題で持ちきりだった。一方で、それが万人に対して説得力を持っているわけではなかった。
「けど、“共和国”もなんで国境侵犯なんて挑発をしたんでしょうか。それも一度や二度じゃなく、一カ月以上も続けて、です」
欧州戦線が最終局面を迎えているこの時期、“共和国”が極東で事を構えるのはどう考えても得策ではない。ならば“共和国”こそ静謐保持には万全を期すはずである。にもかかわらず、彼らは東北軍を挑発し、東北軍は待っていましたとばかりに戦端を開いた。彼女のように、何らかの意図を感じる者も少なくはなかった。
「そこは俺にはわからん。しかし、“共和国”が本気で東北軍を挑発していたのだとすればこれは大事になるぞ。向こうは準備万端で我々を迎撃するわけだから、主攻の第一方面軍は壊滅的打撃を受けることになるだろう」
「いくらなんでも、そこまで間抜けな東北軍じゃないと思いたいですが……」
葛木は手を止めると、車窓に肘をついて変わり行く景色を眺め始めた。
「この戦いがどちらによって仕組まれたものだったにせよ、厳しい戦いになる。この前の戦いよりもな」
はちは顔を上げ、彼女の上官の顔を見据えた。遠くを見つめる葛木の表情は憂いに満ちていた。彼の視線はのどかな田舎の光景を捉えていなかった。彼の眼下には、脳裏にへばりついて離れない赤と黒と白で彩られた街の記憶が広がっていた。
彼女は小さな手を伸ばし、葛木の空いている手を握ろうとして、途中で手を止めた。手のひらを見つめ、軽く握りしめるとそのまま足元の鞄に手を伸ばした。
車両前部の扉が開き車掌が入って来たのは、彼女が中から新たな書類の束を取り出す寸前だった。
「本列車は、間もなく西舞鶴駅に到着します」
車掌の言葉を聞いて、車内の下士官たちが色めき立った。
彼ら海上機動第五旅団は、公式には八月下旬に北九州地方から内地を発し、九月中旬に戦線に投入という動員計画が立てられていた。しかしそれはあくまでも、敵のスパイを欺くための欺瞞情報に過ぎなかった。第五旅団の目的地は舞鶴鎮守府、皇国海側にある“皇国”海軍最大の軍港だった。
周りの雰囲気に当てられたのか、眠りこけていた瑞鶴が目を覚ました。
「あれ、目的地、着いたの?」
寝ぼけ眼をこすりながら、座席から身を乗り出し尋ねる瑞鶴に、葛木はただ一言、まるで自分自身を奮い立たせるように言った。
「さあ、戦争をしに征こうか」
9 舞鶴 1945年 8月25日
“皇国”海軍の皇国海側最大の基地、舞鶴。 “共和国”の脅威に対抗するため造られた、もっとも大陸に近い軍港である。
この地には“皇国”に四つしかない鎮守府が置かれ、さらに駆逐艦建造を得意とする工廠を備えている。名実ともに海軍の主要根拠地の一つだ。
太陽が一番高いところに陣取り、燦々と真夏の日差しを降り注ぐ昼下がり、舞鶴鎮守府庁舎の一室に珍客が訪れていた。
朱色の鉢巻き、白銀の長髪、白の弓道着と深紅の袴、黒い胸当て。彼女が部屋の扉を開けるや否や、瑞鶴の喜びの声と熱烈な抱擁が出迎えた。
「翔鶴姉、久しぶり!」
「もう、瑞鶴ったら」
飛びかかるような勢いで抱き着いてきた瑞鶴に面食らいながら、姉らしい柔和な表情で抱き返した。
「久しぶり、元気そうでなによりだわ、瑞鶴」
摩耶は二人を尻目に、相も変わらず仲の良いことで、と思いながら机に頬杖をついていた。その右横では響が無関心そうに麦茶を飲んでいる。瑞鶴の横に座っていた綾波だけが、どうしたらいいのかわからずにハワハワしていた。
翔鶴は瑞鶴から身を離すと摩耶の方を向いた。身を起こした摩耶は、椅子の背もたれに寄りかかると思い切り足を組みながら、「よっ」と左手を小さく上げた。
「摩耶も、変わってないわね」
「アンタも、格好と艦種以外は変わってないみたいだな」
「そのつっけんどんなところ、私の知っている摩耶で安心したわ」
ふん、と摩耶は鼻を鳴らして視線をそらし、そしてわずかに口角を上げた。それが彼女なりの喜びの示し方だった。それがわかる翔鶴は何も言わずに微笑み返した。
「あ、あのっ!」
意を決したように、椅子を蹴って立ち上がったのは綾波だった。
「初めまして、あ、綾波と申します。瑞鶴さんからお話はかねがね……お会いできて光栄です!」
綾波は腰を直角に曲げて頭を下げた。
大袈裟な挨拶に少し困惑した翔鶴だったが、綾波という名前にピンと来たようだった。
「顔を上げて、綾波さん」
「は、はいっ!」
恐る恐る、綾波は面を上げた。
「初めまして、綾波さん。妹がお世話になっています」
そこには笑顔で右手を差し出す翔鶴の姿があった。
「えっ、そ、そんな、私の方が瑞鶴さんにお世話になりっぱなしで……!」
両手を勢い良く振って否定する綾波。
「私、体力がなくて、訓練でも足を引っ張ってばかりなんです……」
綾波は俯きながら呟くように言った。表情には謙遜よりも暗い影が差していた。
小柄な綾波は、国民学校の高等科生徒と同程度の背丈しかない。実際、生身の身体能力は十二、三歳の女子平均と同じくらいだった。
一回りも二回りも体格差のある瑞鶴と摩耶、同じような身体つきで身体能力に優れる響、艦娘陸戦隊の実働小隊四人の中で最も戦闘能力が低いということは、綾波にとって小さからぬコンプレックスとなっていた。
そんな自己嫌悪に憑りつかれた綾波を叱責したのは、瑞鶴だった。
「またあんたはそんなこと言って!」
大股で綾波の前まで歩いてきた瑞鶴は、両の手で綾波の頬を引っ張った。
「自分を卑下したところで何も変わらないからやめろって、何度言ったらわかるの!」
綾波は涙目になりながら、声にならない声でごめんなさいと繰り返した。
その様子を見ていた翔鶴は、どこか嬉しそうだった。そして赤くなった頬をさする綾波にやさしく語り掛けた。
「綾波さん、あなたはもっと自信を持って大丈夫よ」
綾波は涙で潤んだ瞳を見開いた。何かを言おうとし口ごもる彼女を、翔鶴はあやすようにゆっくりと続けた。
「引っ込み思案だけどとても素直で心優しく、大変な努力家で将来有望な後輩だと瑞鶴から手紙で聞いています。まるで妹が出来たみたいで嬉しいとも。ね、瑞鶴?」
「ちょ、ちょっと、翔鶴姉!?」
それまでむすっとしていた瑞鶴の顔が、一瞬にして茹で上がったように真っ赤になった。
「あなたは、あなた自身が思っている以上に大切に思われています。だから、瑞鶴のためにも自分を卑下しないでください」
信じられないといいたげな表情で話を聞いていた綾波の目に、それまでとは違う涙が浮かんでいた。
「妹を慕ってくれてありがとう。これからも瑞鶴をよろしくね、綾波さん」
「……はいっ!」
再び差し出された翔鶴の右手を、綾波は今度こそ強く握り返した。
「話はまとまったかい?」
つまらなそうな顔をした摩耶が、ぶっきらぼうな口調で言った。瑞鶴が露骨に不快な表情で、少しは空気を読みなさいよ、と睨み付けた。だが当の摩耶はどこ吹く風だった。
「湿っぽいのはこれくらいにして、茶でも飲みに行こうぜ。積もる話もあるわけだしさ」
「おやつか。いいな、力を感じる。私はあんみつが食べたい」
「昨日も食べただろ! それに、アタシは甘いものが好きじゃないって何度言わせるんだ!」
「知ってる。摩耶の分も私が食べるから安心して頼んでくれ。スパスィーバ」
「あのなあッ!」
摩耶と響の漫談にすっかり毒気を抜かれた瑞鶴はため息を一つつくと、二人の掛け合いを楽しそうに見ていた翔鶴の手を取り歩き出した。摩耶と響も、どちらの奢りかを話し合いながら部屋を出ようとしていた。そのときだった。
「ず、瑞鶴さん!」
綾波の一声に、部屋にいた全員が振り向いた。瑞鶴は翔鶴の手を放し、袖で涙を拭う綾波の前に立った。
「あの、綾波……が、頑張りますから!」
綾波の大きな声が部屋に響いた。
「……ばーか」
小さくそう言うと、瑞鶴は綾波にでこピンをかました。
「そんな気張んなくていいってのに、まったく」
やれやれと首を振る瑞鶴を、綾波は不安そうに見上げていた。余計なことを言ってしまったのだろうか、そんな心配が綾波の胸をよぎった。しかし、それが杞憂だということは時を待たずに判明した。
「あんたがいつも一生懸命なのはみんな知ってるんだから、これからも今まで通りやればいいの。その結果に文句なんて、誰にも言わせないわ」
瑞鶴は顔をほころばせ白い歯を見せた。数秒遅れて、綾波の表情にも花が咲いたような笑みがこぼれた。
続編待っていました!!
楽しみにしています!
頑張ってください!!
カヤックさん、ありがとうございます!
当面の間は更新間隔が少し空きそうですが、最低でも週一か十日に一度くらいのペースでやっていきたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。
更新ありがとうございます!!
さとうきびさんの文章表現が、本当に格好良くて大好きです。
自分でもこんな重厚感のある文章が書ければと……
兎にも角にも、楽しみにしております。
名無しカッコカリさん、自分にはもったいないお言葉をいただきまして恐縮の限りです……!
ご期待に添えるよう、これからも精進してまいります!
更新待ってます