2016-12-02 22:46:32 更新

概要

少女は問う。残された意味を、再び歩く覚悟を。


前書き

※設定に対する個人的な解釈や改変があります。お気を付けください。
※提督や鎮守府内のお店の店員は話の都合上、オリジナルキャラとなっております。
※艦隊これくしょん/木漏れ日の守護者1の続きです。

 コメント等、お気軽に何でもいいのでお待ちしております。趣味全開ですが、なにとぞ、よろしくお願いします。


第九十二章 幕間1



 少女は、地面に腰を降ろしていた。辛抱たまらず家から飛び出し、懐中電灯等のろくな明かりを持たないまま森の中を走れば足を捻って転ぶ事くらい、わかっていたはずだ。田舎で生まれ育った人間であれば、四歳児だって知っている常識である。


「あーあ」


 少女はわざとらしく息を吐いた。袴に似た高価な装いや黒の三つ編みも、今や泥と葉に塗れてみずぼらしい。最寄りの木に背を預け、少女は呟く。


「これ、もしかしたらあたし死ぬんじゃない?」


 考えてみれば無理もない。自分がなんのために生まれてきたのかもわからないままありとあらゆる決まりで縛り付けられ、抜け出してきたのだ。家の人間からしても、言うことを聞かない厄介者を死んだことにして、他の者を都合よく操れるようにしたほうが遥かに手間暇も少ない。おまけに死を悲しんでいるかのようなポーズの一つでも葬式で見せれば、御家の評判は鰻登り待ったなしだ。少女は命と引き換えにしがらみから逃げ延び、お家は厄介者を消して新しい人材を見繕うことができる。正にウィンウィンだ。

 自分のことを助けに来る人間なんて誰もいない。直感的に、少女はそう悟った。


「あー、死ぬのか。あたし」


 力なく呟く。否定する声も肯定する誰かも、いるはずなかった。


「そうかそうか、それであの家から逃げれるんだったら安いかなあ」


 励ますように繰り返し、その声が小さくなる。


「ホント、どうしようもなくつまらない人生だったなあ」


 少女は自身の半生を省みる。

 山奥の由緒正しき家の長女として生まれ、六歳くらいになるまでは大層可愛がられたことを覚えている。しかし将来自分は顔も名前も知らぬ男と結婚させられると知り、それに伴い趣味や友人付き合いも著しい制限をかけられた。

 お前は我が家のために結婚をし、子を孕み、血を繋ぐのだ。


 祖母をはじめとした忌々しい大人たちの声が、少女の鼓膜を削る。何百何千、ややもすれば何万回と聞いたおきまりのフレーズだった。

 しかし幅の狭い友人交流と部活の一環として演奏していたベースだけが、少女がこの世界を楽しむ理由だった。そのベースを目の前で折られた瞬間、少女はこの世の全てがどうでもよくなった。生きる理由も消え、同時に全て吹っ切れた。


 出てやる。


 その一言を残して家を出て、今に至る。


第九十三章 幕間2




「死ぬなら死ぬでいいんだけど」


 少女は心の底から、それが悲願だと言わんばかりに音吐を吐いた。


「せめて一回だけでも、テレビやネットだけじゃない本物の海が見たかったなあ」


「良子さん!」


 突如自分を呼ぶ声に、少女は顔を上げる。懐中電灯の明かりが草木を掻い潜り、一人の少女が姿を見せた。


「智ちゃん」


 少女が呟く。少ない友人の一人、〝三ノ宮智香〟だ。部活ではギターを担当し、最も仲のいい相手と言っても過言ではなかった。スタイルもよく顔立ちも優雅で、艶めく茶色の髪も含めて全てが美しく、自慢の友人である。

 その智香が、なぜここに。


「なんできたの?」


「良子さんを探すために決まっているじゃないですか!」


 智香が声を荒げる。


「急に家を出て行ってから何時間も帰ってこないって知らせを聞いて、私もこうして探しに来たんですから!」


 本当に心配したんですよ! と智香が激昂する。長年の付き合いがあるものの、智花がここまで怒る瞬間を良子は始めて見た。


「でも、生きているようで安心しました」


 智花が胸をなでおろす。その智香に向かい、良子は言葉を投げつけた。


「探してくれた智ちゃんには悪いけど、あたしあの家に帰るつもりはないから」


 続ける。


「あたしが死んだほうがあの家にとっては都合いいだろうし、あたしだってあんな家に戻るなんて死んでも嫌だから」


 良子に向かい、智香がやんわりと笑った。


「実は私も、先程家を出てきたところなんです」


「はっ?」


 良子は聞き返す。


「良子さんの家があまりに横暴だったので、家にあった木刀振り回してひとしきり暴れた後に探しに来たんですよ。だから私も、どんな顔して戻っていいのかわかりませんし戻るつもりもありません」


「お、おお。そうなのね。智ちゃん怖いね」


 思い切りの良すぎる智香の行動に、良子は若干引いた。育ちの良さを体現した智花がどのように暴れたのか、良子はある種の怖いもの見たさで心惹かれた。しかもよく見れば智香はやや大きいリュックサックを背負いこんでいる。家から出るため入念な準備の後に大暴れしたことを考えると、智香の強かさと生真面目さに良子は吹き出した。


「じゃあ、あたしたち揃って家無しってヤツだね」


 あはは、と良子は笑う。


「これからどうしよっか?家借りるにも住所欄に書けるところないし、家のない少女を雇ってくれるバイトなんてないしねー」


 そのことなんですけど、と智花が切り出す。

 腰を曲げて右手を良子に差し出す。暗闇の中でなお輝きを失わぬ笑顔で、智香は口を開いた。


「私と一緒に、〝艦娘〟にならない?海も見れるから」






第九十四章 お世話係就任



 ガンガンと、さながら頭の中で大鐘が鳴り響くような頭痛で北上は目を覚ました。

 異常に目が乾く。眠りが浅い証拠だ。


「ああああああああ」


 呻き、昨夜の出来事を思い返す。龍驤と話したところまでは思えている。新人たちに柄にもない昔話をしたことも、忘れたかったが幸か不幸か覚えていた。それ以降は、何一つ覚えていない。

 ぐらぐらと天地が上下する中、北上は必死の思いで昨日を思い出す。しかし、飲み過ぎて昏倒してからは何も覚えていなかった。強いて言うのであれば、随分懐かしい景色を見たくらいだろう。


「なんで今更あんな夢……」


 漏らし、身体を起こす。いつ脱いだのか、自身の装いは下着だけであった。色気もない上下を見て、はたしていつ脱いだのかと首を傾げる。

 その拍子に、自身の隣に誰かがいることにようやく気付いた。万全な状態であれば決して犯さないような失態だ。慌てて見れば、不知火が健やかな寝息をたてている。不知火も例に漏れず、下着姿だ。まだ発達が追いついていないのか、スポブラである。


「は?」


 北上は我を見失う。


 なんで?


 水分が著しく不足した脳で考える事数秒。少女は見当違いな結論に至った。


「ぎゃあああああああああああああああああ!!!!」


 同時に絶叫する。壁すら粉砕してしまうのではないかと思えるほどの大音量で、叫んだ。


「おかされたー! あー!」


 大音量で跳び起きた不知火が北上をなだめる。


「師匠落ち着いてください、不知火は介抱しただけです」


「じゃあなんで不知火ちゃんも脱いでんのさこのケダモノ! 変態!」


「それは不知火が途中で疲れで寝てしまったからですけど」


「そんなことどうでもいいんだよ! 泥酔させて犯すなんて人間の風上にも置けないね!」


「それは誤解ですから」


 淡々と否定する不知火に構うことなく、北上は錯乱する。


「大井っち助けて! あたしの純潔が蹂躙されたー! あー!」


 あまりにも聞く耳を持たぬ北上に、不知火のこめかみにあった血管が一本切れた。プツンと音をたて、少女を突き動かす。みっともなく外へ出ようと逃げる北上の腰を、背後から抱きかかえる。


「人の話を――」


 一瞬腰を落とす。

 直後、膝を全力で伸ばす。同時に鍛えた背筋を引き延ばす。


「聞けええええええええええええええええええッ!」


 ブリッジをするかのような勢いで北上の身体を持ち上げる。そのまま一片の容赦なく、北上を床へ叩き付けた。


「うぼああああああああああああああああああああああ!」


 朝の陽ざしが差す中、北上の断末魔が響いた。




「落ち着きましたか?」


「おかげさまで」


 不知火のジャーマンスープレックスによってKOした北上にこんこんと事情を説明し、師匠であるはずの北上は今や正座だ。


「今回は紛らわしいことしてしまった不知火にも非がありますけど……」


 言いながら、周囲を見渡す。


「なんですか? この部屋」


 かつての大井なき今、部屋は散々だった。脱いだきり放置されたジャージをはじめ菓子の袋も床に転がり、やりたい放題とはまさにこのことを言うのだろう、不知火はなんとなく直感した。


「部屋と生活が乱れすぎです」


 不知火は強く言い切る。


「部屋の乱れは心の乱れ、心の乱れは全ての乱れ!」


 強い語調を添え、不知火は正座を崩さぬ北上に人差し指を突き付けた。


「よって不知火は、師匠の生活矯正を請け負います。師匠の生活習慣や整理整頓が是正されるまで、あなたと生活を共にする所存です」


「ええー」


「返事!」


 ぴしゃりと、有無を言わせぬ語調に北上が怯む。


「はいはい」


「はいは一回! そもそもそう言った態度が私生活に影響を見せるのであって――」


 不知火の説教は、それから二時間続いたという。

 二日酔いで死にかけていた北上にとって、この二時間が地獄以上の苦行であったことは言うまでもない。





第九十五章 悪魔1


「以上が朝礼の内容です。他に質問や連絡がある方はいらっしゃいますか?」


 毎朝行われる朝礼の終わり際、松崎が一同を見渡す。さすがに全艦娘を執務室に詰め込むわけにはいかない為、各艦隊の旗艦や師匠筋の艦娘のみに限定されている。

 誰からも声が出ないことを確認し、松崎が「補足ですけど」と話し始めた。


「再来週、一日だけですが禁煙デーを設けます。外の世界では一週間の禁煙週間ですが、鎮守府は一日だけとします。本来なら設けなくてもいいんですが、お上に後ろめたい気持ちを抱くことも憚れますので、喫煙者の方は各位ご留意を」


 では、解散。

 その一言を境に、各々が部屋を後にする。これから艦娘たちは演習や海の見回り、はたまた商業船の護衛のために働く。どれをとっても日本の安寧を守る、無くてはならない仕事だ。


「さて、」


 短く呟き、松崎は肩を回す。「私も、今日は張り切って働きましょうかね」


「提督」


 大淀がバインダー片手に男の傍で控える。


「今日は午前中一杯席を外すご予定でお間違いは?」


「ありませんよ。もしも何かあれば、皆さんに対して上手く対応をお願いします。もしどうしようもないことがあるのであれば、お呼びいただいても構いませんので」


 畏まりました。短く告げ、大淀は部屋を出た。

 その姿を見届け、松崎はクロゼットを開ける。中には公務用の服をはじめ、医者が手術で用いる緑のエプロンもかかっている。

 松崎は一瞬の躊躇も見せず、それを着た。ポケットにゴム手袋が複数セットあることを確認し、クロゼット内に設けられた数字板に二十五桁の数字を打ち込む。

 ずず、とクロゼットが横に動く。自分の打ち込んだ数字列があっていたことに安堵しながら、隠し通路へ入る。背後ではクロゼットが再び動き、元の位置へ。通路が完全な闇に呑み込まれる。

「設計しておいた本人が言うのもアレですが」


 誰に言うでもなく、松崎は呟く。


「灯りの一つくらい設置してもよかったかもしれませんね」


 光が一切入り込まない中、松崎は慣れのみで足を前へ。執務室の暖かさとは打って変わって、身体の芯を冷やされるような冷気が首筋を舐める。

 闇の中で階段を下り、扉を三つ開ける。ようやく、少し開けた場所へ出た。

 慣れた手つきで壁に手を這わせ、点灯。オレンジ色の灯りが、優しく花開いた。


「おはようございます、こんにちは、こんばんは」


 柔和な口調であいさつをする。相手は、部屋の中心で座っている一人の女だ。

 俯いていた女が、緩やかに頭を上げる。目の下には黒々と隈が刻み込まれており、精神的な摩耗と相まってどれほどの疲労が蓄積されているのかは、誰の目から見ても明らかだ。

 対象が生きていることを確認し、松崎は話す。


「現在は午後十時、ごめんなさい嘘です。ひょっとしたら午前九時ぐらいの気もしますし、ひょっとしたら正午だったかもしれません。はたまた午後五時くらいだった気がしてきましたし、さっきまで覚えていたんですがすっかり時間を忘れてきてしまいました」


 歳は取りたくないですね、と笑う。


「現在の時刻が分からず不安ですか?」


 男は尋ねる。

 不安ですよねえと、相手を思いやるような口調で話す。


「唐突に拘束されて、どのくらいの時間が経ったのかもわからないなんて不安ですよね。心中お察しします」


 自由にしてあげる気はありませんけどね。

 男はさらりと付け加える。


「なんで」


 かすれた声で女が尋ねる。


「なんで、こんなひどいことをするの?」



第九十六章 悪魔2



「ほお、まだ知らない振りをされますか」


 松崎は女を見る。女は椅子に腰をくくり付けられている状態で、両腕は眼前のテーブルに縫い付けるかのような形で固定されていた。加えて十指は強制的に開かれており、不穏極まりない拘束方法だ。


「そう言えば、自己紹介がまだでしたね」


 男はニコリと笑い、自身の胸元に手を添える。


「私の名前は松崎城酔。短い間ですが、どうかよろしくお願いしますね」


 はてさて。と男は首を傾げる。


「貴女のことはなんとお呼びすればいいんでしょうかね。なにせ名前が多すぎて、困ってしまいます」


 女の目が、一瞬だけ細くなる。


「貴女の部屋に、何十種類ものパスポートが見つかりました。それぞれ名前は違いますから、本当の呼び方が分からないんですよね」


 男は続ける。


「女性の部屋に押し入るのは気が進まなかったのですがご安心ください、女の部下に漁らせましたので」


 何を安心していいのか分からない物言いだったが、女は首を振る。


「なんの話? 全く分からないわ」


「おままごともそろそろ終わりにしましょうよ、王神美(ワン・シェンメイ)さん」


 女が、ぐっと言葉を詰まらせた。


「貴女たちがどんな目的で大学に入り込み、学生たちに何を吹き込んだのかをお聞かせ願えますか?」


「本当に何の話なのよ、全く分からないわ!」


「分からないのであれば、ちょっと面倒ですがその体にお尋ねするしかありませんね」


 部屋の隅から、男が一振りのハンマーを取り出す。片手で扱える、日曜大工風のハンマーである。


「教えていただけないのであれば、アイスブレイクとしてゲームでもしませんか?」


「ゲーム……?」


 疲弊した顔で女が尋ねる。

 ええ、と頷いた松崎は、右手を指揮棒のように振る。


「所謂ロールプレイングです。確かあなたを筆頭にしたデモサークルは反艦娘を大きな声で主張していらっしゃいましたよね? 『野蛮な艦娘に頼らず、艦娘に関わる全てを廃棄し、対話によって深海棲艦との和睦を実現する』でしたっけ、そのような旨だと存じております」


 ですので――

「王さんには日本を演じていただきたいと思います。今の王さんは、艦娘をすべて手放した丸裸の日本です」


 私は深海棲艦の役をしますね。と、松崎はあっさり告げた。


 それと同時にハンマーを利き腕である右に持ち替え、全力で振り下ろした。

 王の左小指が、一瞬でひしゃげる。


「あぎ……ッ!」


 叫ぶのを、寸前で堪える。奥歯を全力で噛み締め、猛獣のごとき呼吸で痛みを誤魔化す。

 折れた。

 否、砕けた。

 松崎の一撃で、王の左小指は粉々になっている。一応指と認識できないではないものは赤い血を周囲に散らし、机を黒々と侵していた。


「不思議ですねえ」


 松崎はとぼける。


「普通の一般人なら、一回こうすれば全力で泣くはずなんですけど」


 まるで一般人に試したことがあるかのような口ぶりに、女の奥歯がカチカチと鳴る。

 なんだコイツは。

 女は素直に恐怖した。躊躇なく、笑顔でここまでできるものなのか。


「ルールは至って簡単」


 男は話す。まるで御伽噺の序章であるのように柔らかく、穏やかな語り方だ。


「貴女がご自身の身を守る術は『対話』のみです。大して私は、全力で貴女に暴虐の限りを尽くしたいと思います。深海棲艦はご存知の通り対象を差別・手加減しません。その習性に則り、私も一切手加減することなく仮想日本である貴女に攻撃を加えますね」


 右手を振り上げ、叩き付ける。

 左手の薬指が、粉砕する。


「ああああああああああああああッ!」


 我慢できずに叫ぶ。目尻に涙を溜め、喉が擦り切れるほど大きな声で叫んだ。


「いいですねえ、切羽詰まったかつての日本みたいです」


 懐かしいです。

 男は呑気に、女の絶叫に対する感想を述べた。



第九十七章 悪魔 3


「そこまで忠実に再現していただけるのであれば、私も張り切って深海棲艦の暴力性を再現しないといけませんね」


 三発目。左中指が砕ける。爪に縦横無尽の亀裂が入り、地が滲んで溢れ出す始末だ。王は咆哮と表した方が近しい叫びを以て、痛みに抗う。


「さて、国土の三割が大打撃を受けました。これはピンチですねえ」


 言うが早いが、左手の人差し指を割る。ハンマーに多少の血が付着していたせいか、潰す際にぐしゃりと、やや水の音がした。

 最早気力を根こそぎへし折られた女に、松崎は平然と言い放つ。


「ほら、早く対話を試みたらどうです? 何もできないまま日本は世界地図から消滅してしまいますよ」


 松崎は嘲笑う。


「それとも、貴女たちに命令をけしかけた人間たちの存在を吐いていただけたら、命だけは保証しましょう」


 息も絶え絶えになっている王が、深く息を吸って答える。


「何の話か、全く分からないわね」


「あ、手が滑っちゃいました」


 潰したはずの左小指に、もう一度ハンマーを振り下ろす。熟れすぎたトマトが床に堕ちたかのような、不快感を多分に含んだ水音と破砕音が響いた。


「あが、ぎッ……!」


 理性を持った人の声とは到底思えない呻きが漏れる。


「これで左手の小指は復興不能ですね。日本で言うと北海道北部でしょうか、残念ですがもう人が住めるような場所じゃなくなってしまいましたね」


 にこにこと笑みを絶やさない松崎に、王は愕然とした目を向ける。


「貴女方が積極的に掲げる対話はどうしたんです? 早くその方針を私にお見せくださいよ」


 ハンマーをペンでも回すかのような気楽さで、くるくると弄ぶ。


「どんな内容でもいいじゃないですか。全米が涙するような、胸に訴える内容でもいい。はたまた戦うことの非合理的差をこんこんと説明するプレゼンテーションでも構いません。非武装で四方を海に囲まれた島国日本は、貴方たちのヴィジョンではどうやって脅威に立ち向かうのか、見せてください」


 にこにことした顔を崩さない松崎に、王が口を開く。


「悪魔!」


 続ける。


「クソ野郎!」


 止まらない。


「畜生!」


 牙を剥き、大音量で松崎を罵った。


「外道!」


 声が残響する。

 ひとしきり吐いて満足した女は息を荒げ、松崎を強く睨む。

 唐突に浴びせられた罵詈雑言に、松崎は口を半開きにさせた。

 非常に驚いたような顔つきのまま数秒。

 やっとの思いで、男は言葉を返した。


「まさか、今ようやく気付いたんですか?」



第九十八章 手紙1


 駆逐艦不知火は、起床の喇叭が鳴る前に起きた。開いているのか閉じているのかも判然としない目をこすり、周囲を見る。

 師匠である北上は勿論寝ている。三つ編みも就寝時は解き、波打っていた。

 不知火が北上と部屋を共にするようになってから、北上の部屋は格段と綺麗になっている。北見曰く「綺麗すぎて落ち着かない」とのことだが、どちらの方が快適に思われるかは一目瞭然だ。

 整然とされた室内を見わたし、「よし」と呟く。いつも通りの服に着替え、そっと部屋を出た。


 一年目の新人には、欠かせない仕事がある。


 部屋を同じくする艦娘たちへ送られる、“手紙”の回収だ。

 今どき手紙なんて古臭い。そういった声が鎮守府内にもあるが、艦娘たちを取り扱ううえで致し方ない制度なのだ。

 艦娘に、電子機器は基本許可されていない。秘書官や一定以上の地位に腰を落としている艦娘以外は、所持を禁じられている。情報の漏えい等を考えた際、持たない方が鎮守府の運営上都合がいいためである。元より艦娘は鎮守府を出ない為、持たなくとも不都合があるわけではない。

 勿論艦娘には著しい制約を強いているとして、その事情も勘案しての高給である。

 そのように家族との繋がりも希薄になるため、手紙を利用している。艦娘への手紙は一度各鎮守府の受け室で保管し、そこから後方支援課の面々が各部屋へ振り分ける。部屋に関する規定がないため好き勝手に部屋を行脚する艦娘は、愚痴の的だ。


 朝の涼しい風に前髪をなびかせながら、不知火は各部屋のポストが並ぶ部屋へ。そこで偶然、睦月と鉢合わせた。睦月も部屋着ではなく、いつもの服装だ。


「おはよ、不知火ちゃん!」


「おはようございます」


 奇遇だねと話す睦月に、不知火も柔和な態度で話す。


「最近は、ちゃんと起きれているようですね」


「まあねー」


 あははと苦笑し、睦月は自身の後頭部に手を当てる。


「叢雲師匠すごく怖いし、起きざるを得ないって言うか……」


 ポストを漁りながら話を聞く。手袋越しの指先に紙の感触を確信し、不知火は顔を綻ばせた。


「うんにゃ、不知火ちゃん手紙来たの?」


 ええ。

 そう答える声は、どこか弾んでいる。


「実家の家族から」


 不覚にも、口角を上げる。

 その様を見た睦月が、唇を突き出した。


「いいにゃー不知火ちゃん。睦月は一昨日来たばかりだし……」


 拗ねている睦月が続ける。


「やっぱり、家族から手紙が来ると嬉しいよねー。あの叢雲さんだって、睦月がお手紙渡すと可愛い顔しちゃうんだからお手紙様様だよ」


 あの叢雲がそんな顔をするのか。不知火はもたげた好奇心を、紙一重で押さえつけた。




第九十九章 手紙2


 そこでふと、不知火は思い当たる。


 ――師匠は、手紙を受け取ったことがないんじゃないでしょうか。


 不知火が記憶を掘り起こす限り、自分が北上宛の手紙を持ったことがない。いつも自分宛の手紙や、あったとしても互助会関連の回覧だ。実家や置いてきた家族から、北上を指名した手紙が来たことはないだろう。

 勿論、まだ日が浅いため不知火が知らないだけかもしれない。半年に一回程度の手紙かもしれない。


「ね、不知火ちゃん」


 不知火の憶測に、睦月の声が割って入る。


「家からの手紙って、どんなことが書いてあるの?」


 睦月はねー。と、少女が続ける。


「大体弟とか妹とかのことだよ。学校であった面白い事とか、好きな人ができたって話とか」


 不知火ちゃんは?

 睦月の問いかけに、不知火は考えながら封筒をくるくる回す。名前を書いたのは、おそらく次女だ。少女特有の丸い字が愛くるしい。


「大体、同じようなものですよ」


 不知火は続ける。


「家であったこととか、下校中にあったこと。近くの公園では季節の花が咲き始めたとか、他愛もない事ばかりです」


「だよねえ」


 睦月がにへらと顔を崩す。


「家にいたら絶対気にしないようなことが、鎮守府(ここ)だと凄く珍しくてありがたい事みたいに感じるよねえ」


 不知火は頷く。


「家族にとっての当たり前を守るためにも、不知火たちは頑張らなければいけませんね」


 だよね! と同調する睦月が、時計を見て慌てて身体を翻す。


「早く師匠の所にお手紙届けなきゃ。じゃね!」


 ぱたぱたと大急ぎで帰る睦月を見て、不知火は苦笑した。叢雲の元でも変わらず、ちょこまかと慌ただしい性格は治っていないらしい。それがある種睦月の可愛い部分だと言ってしまえばそうなるため、叢雲も敢えて矯正はしないのだろうか。

 起床の喇叭が、声高に朝を告げる。これは二年目の仕事らしい。将来的に、不知火たちも担う仕事になる。


「不知火も、帰りましょうかね」


 誰に言うでもなく呟き、少女は部屋に足を向ける。

 爆睡している北上をどう起こそうか。朝一番の困難を前に、不知火はそのことだけを考えるようにした。




第百章 朝の攻防1

「師匠、朝ですよ」


 布団を剥がし、北上の肩を揺する。しかし北上はなお健やかな寝息をたて、夢の中だ。

 あまりに無防備な姿をさらしている北上に、不知火は「仕方ないですね」と肩を揺すった。


「また今日も、“アレ”するんですね」


 はあと息を吐く。そこから流れるように、北上の腹に跨った。


「行きますよ」


 聞こえていないながらも宣言し、両手を北上の首へ。


 そのまま、両手に全力を込めた。

 ぎり、と締まる感触を確信する。


 その瞬間、北上が目を開いた。同時に、北上の両手が不知火の胸元へ。しかし何かを握るわけでもなく、北上の両腕は不知火の内肘を押し込む。まっすぐに腕を伸ばしていた不知火は、肘が折れたことで上半身を一気に落とす。その瞬間、右腕に北上の左腕が絡み付く。

 しまった。そう思った瞬間には、右脚にも北上の左足が絡み付いていた。

 不知火の視界が回転する。

 察するに北上が自身の右半身を勢いよく跳ね上げ、固定された左半身も相まって梃子の原理が働いたようだった。

 たった数秒で、身体の上下が反転する。

 気が付けば、不知火に対して北上がマウントを取っている状態だ。不知火が北上の首を絞めて。五秒と経っていなかった。

 未だどこかうつらうつらしている北上だったが左前腕で不知火の喉を圧迫し、右手は拳を構えている。

 眠気を存分に含んだ声で、北上は話す。


「どうする? 続けるー?」


 不知火は潔く、首を横へ。


「不知火の負けです」


 その声を聞くや否や、北上が右腕を振り上げる。


「ちょっ……」


 不知火が防御を図るより早く、北上の拳が不知火の頬を掠めた。

 じわ、と冷や汗が滲む。


「せめてあと三秒、脱出の方法を考えるべきだったね」





第百一章 朝の攻防 後



 北上がゆらりと起きる。緩慢な動きで着替えを始める北上の身体は、痛々しい生傷で覆われていた。火傷跡や、縫合痕が百足のように少女の身体に刻まれていた。北上自身そのことに頓着しないせいか堂々と着替えているが、不知火は何度見ても慣れることができずにいた。地獄と錯覚する戦いに身を投じていた、動かぬ証拠だ。

 その傷を視界から逸らしながら、不知火は何度目か分からない質問を投げた。


「これ、いつまで続けるんですか?」


「不知火ちゃんがあたしの弟子である限り、ずっとかなー」


「こんなことする部屋、睦月や磯波たちの同期に訊いてもやっていないそうです」


 北上の弟子になって、朝の一連は恒例行事と化していた。

 不知火がマウントを取り、北上に攻撃を仕掛ける。どちらかが負けを認めるまで、マウントの奪い合いや攻防を続ける。

 敗者は勝者に食事や甘味を奢るルールなのだが、何回試みても不知火が勝てたことはない。睡眠中の北上にマウントを奪っているアドバンテージがあっても、だ。


「あたしから一本取ってから、そういう提案はしなよ」


 半眼の北上は続ける。


「確かにこんなシチュエーション海じゃほぼないだろうけど、陸と海が全く別物なんてことはないんだからさ。咄嗟にどう動けるか、それで勝負が決まるのはたとえ空でも同じだよ」


三つ編みを作りながら、北上は続ける。


「その咄嗟を、あたしから頑張って吸収してみなよ。その反応速度は、きっと無駄にならないから」


「その件ですけど」


 不知火が常に抱いていた疑問をぶつける。


「師匠、本当に寝ていますか?」


「当たり前じゃん」


 北上の返答は早かった。


「そんなに、素早く反応できるものなのでしょうか」


「あたしも考えて動いてるわけじゃないよ。反射」


 なんでもないことのように言う北上に、不知火は右頬の筋肉を痙攣させる。


「ま、そうなれるくらいに頑張りなよ」


 先朝礼行ってるねー。と、軽い足取りで部屋を出る北上の背を見ながら、不知火は呟いた。


「正真正銘の、化け物ですね」


第百二章 親鳥保護者会 1



「みんな、最近弟子はどうよ」


 午後八時、新人たちの師匠筋たちが珍しく卓を囲んでいた。皆各々にビールやチューハイを片手に、肴を囲んでいる。

 今日はそれぞれの師が弟子を取り、二か月を迎えようとしていた。それを境に、それぞれの師匠たちが情報交換や悩みを共有し、より良い鎮守府にしていこうと綾波が提案した集まりである。

 この組み合わせが珍しくて仕方がないのだろう、居酒屋鳳翔内にいる他の艦娘たちが、物珍しそうに横目で六人を窺っていた。

 頬をほんのり染めた“叢雲”が、カシスオレンジをちびちびと呑む。ご意見番としても名高く、鎮守府の古株だ。


「最近の新人は甘いわ! 睦月なんてあたしがちょっと厳しい指導するだけですぐ音を上げちゃうんだから!」


 吐き捨てるように愚痴をこぼす叢雲に、八年目の“金剛”が笑って返す。鼻の下にできたビール髭を親指で拭い、にこり。


「デモ、睦月ガールがしょげた後にちょっと言い過ぎたかなってしょんぼりする叢雲も可愛いデスよー」


「はあ!?」


 叢雲が声を裏返す。


「なんでそんなこと知って……じゃない! そんなわけないじゃない!」


 テーブルを乱打しながら叢雲が話す。


「なんであんな軟弱なチビを弟子にしたのかって自分を責めたくなるの! 本当よ!?」


 叢雲の言い様に、五年目の“綾波”が「まあまあ」と窘める。聞くと心が温かくなるような、柔らかさに溢れた声だ。


「どれだけ優秀な子だってまだ新人ですし、それに叢雲さんの指導はスパルタだと聞き及んでいます。しょげない新人の方が珍しいですよ」


 綾波のフォローに、三年目の“涼風”が便乗する。お猪口を使わず徳利のまま日本酒を呷り、男前な笑みを見せる。


「新人、しょげてナンボよ! その経験が活きるんだ! あたいだって新人の頃に散々『うるさい』って怒られて、今のあたいがあるんだぜ!」


「それで矯正された方なのね、涼風ちゃん」


 北上が呆れたように漏らす。


「私も涼風に賛成かなー」


 四年目の川内型――“川内”が頷く。静かに麦焼酎を喉に流し、遠くを見る。


「私だって『お前は夜戦馬鹿すぎる』って怒られて、今の静かな私があるようなもんだし」


「この二人のエピソードじゃ説得力皆無ネー」


 金剛が肩を揺らす。北上も、素直に賛同する以外なかった。


「とにかく!」


 叢雲が仕切り直す。酒にはあまり強くないのだろう。顔は先程より赤い。


「あたしが言いたいのは、もっと新人はビシビシ鍛えるべきなのよ! 軟弱すぎて、海に出たら一瞬で死んじゃうわよ!」


「なんだかんだ、叢雲は優しくていい子ネー」


「だからそんなんじゃないの! あたしの育て方を疑われるのが嫌なの!」


 リンゴのように顔を赤化させた叢雲が吠える。


「じゃあ、試してみませんか?」


 綾波が、ぽつりと提案する。

 卓の時間が、止まる。


「本当に自分の弟子が軟弱か、本当に自分の育て方が間違っているのか。それを新人たち自身が証明するんです。師匠(わたし)達のために」


 北上は、内心で口笛を吹いた。

 なるほど、なかなか面白い提案だ。




第百三章/親鳥保護者会 2


「イイねえ、痺れるねェ」


 北上は賛同する。何か面白い事が起きる。直感がそう告げていた。ここで乗らなければ、きっと後悔する。本能のまま、支持した。


「あたいも大賛成だ!」


 涼風が声を荒げる。


「火事と喧嘩は江戸の華! ここで退けばどの顔提げて江戸に帰ればいいか分かんねえやべらんめえ!」


 べらんめえの使い方が正しいのかどうかはまるで別の問題として、涼風も乗り気であることは間違いないようだ。

 川内もせわしなく身体を揺らす。


「いいね、それ。テンションあがる。夜戦と同じくらいテンションあがる」


 金剛は無論、断るはずもなかった。


「スペシャルな発想デース! ワタシの育てた羽黒ガールが新人の中でストロンゲストであることを、この場で証明してみせまーす!」


「冗談じゃないわ」


 先程までの熱意とは裏腹に、叢雲の反応はドライだ。


「そんなことして何になるっていうの? そんな暇あったら、一発でも多く砲撃の練習した方が有意義よ」


 氷のような冷たさを見せる叢雲に、綾波は穏やかな笑みのまま言い放った。


「逃げるんですか?」


「――あ?」


 叢雲の声が、1オクターブ下がる。


「仮にも龍驤さんや鳳翔さんクラスの最古参の一人と認知されている叢雲さんともあろう歴戦の艦娘が、綾波みたいなたかが五年目の提案から尻尾を巻いて逃げるんですか?」


 それとも――

 綾波は続ける。


「ご自身の指導に自信がないことを、睦月さんの軟弱さにすり替えているんじゃありませんか?」


 一連の台詞を前に、金剛が苦笑する。


「綾波、愛くるしい顔して吐く言葉がドブ未満ネー」


「煽るねえ」


 北上も、綾波の煽り振りを楽しみながら鑑賞する。同期とはいえ、青葉などに比べるとかなり浅い付き合いをしていた。五年目にしてやっと見た側面に、内心歓喜する。


「叢雲の姉御、ここで逃げちゃ江戸っ子の風上にも置けねえぜ!」


 囃し立てる涼風に対し、叢雲は「私、長野出身だから江戸っ子じゃないし」と冷ややかなツッコミを入れる。


「ここまでコケにされて、逃げるんですか? 叢雲大先輩」


「いい加減にしないと、その可愛らしい顔を凸凹(デコボコ)にするわよ」


「HeyHeyなんデスカー」


 金剛が軽く腰を上げる。叢雲の攻撃性に煽られたか、凶悪な笑みを必死に隠していた。


「弟子たちが戦うより速く、ワタシたちが戦うんですカー?」



第百四運章/親鳥保護者会 4



 川内も頬を釣り上げ、犬歯を見せる。


「私の時間。私の戦いだよ、夜戦は」


「おうおうおう! ここまで盛り上がっちゃ混じらねえのは一生の恥ってもんだ!」


 六人の中で、熱が渦巻く。皆一様に、陸で動くことに飢えているのだ。外出は許されず、鳥籠同然の鎮守府で生活している。海で自由に動くように、陸でも暴れ回りたいと願うことは当然と言っていい。なにせ投薬で身体機能や若さは格段に向上したにもかかわらず、普通の皮を被れと言う方が難しい。

 店内が、大きくざわめく。

 当たり前だ。皆それなり――或いは破格の武勲や実績を持った猛者たち。彼女たちが全力で暴れまわったら、居酒屋鳳翔はどうなるか分かったものではない。


「皆さん、随分元気がいいんですね」


 そう告げて卓に寄ったのは、店主である軽空母鳳翔だ。右手になぜか剥き出しの包丁を握っている。


「火花を散らして競い合うことはいいことですが、ここは居酒屋です。喧嘩をしたいのであればお外でやって、どうぞ」


 静かな殺意に、六人は勢いを削がれる。包丁が、ギラリと光った気がする。まさかこの包丁までも空気に当てられ、血を求め出したのだろうか。

 しかしそれも束の間。鳳翔は頬を膨らませ、卓の端を見た。


「提督も勝手にお酒を飲んでいないで、何か言ってくださいよ」


 六人がばっと首を回す。鳳翔が言った通り、松崎はテーブルの端で刺身と日本酒を堪能していた。六人がこうして驚いていることから、誰一人として松崎が接近していたことに気付かなかったのだろう。相も変わらず、亡霊みたいな男だ。

 一応顛末を見届けていたらしい松崎はおしぼりで口元を拭き、人差し指を立てる。


「ここで師匠級(マスターランク)の皆さんが戦っても意味がありませんし、ここは私に企画を委ねていただけませんか?」


 どういうことかと首を傾げる一同に、男は続ける。


「折角なので、六人のお弟子さんたちがこの二ヶ月でどこまで錬度を上げたのかを鎮守府全ての方に見ていただいてもいいんじゃないか、と思いまして」


「さすが旦那、話が分かる!」


 涼風が感激する中、叢雲の顔つきは依然として渋い。


「まあ、そうなりますよね」


 そんなこともあろうかと。

 そう言いながら、松崎は自身の内ポケットをまさぐる。

 ひらりと、二枚の紙切れを取り出した。


「これは、『鳳翔さんの甘味を享受できる券』です」


「なん……だって」


 川内が唾を飲む。





第百五章/親鳥保護者会 5


「皆さんも噂の一つくらい聞いたことがあるんじゃないですか? 『そのチケットを手に入れたら、この世全ての幸せを掌握した気分になれるスイーツを一度だけ味わえる』と。普段甘いものを作らない鳳翔さんが腕によりをかけて作る甘味。どれだけの血を流しても得られるものじゃありませんから」


「大げさですよ……」


 松崎の説明に、鳳翔は顔を赤くして照れる。大変どうでもいいことだったが、握ったままの包丁が気が気でない。北上は、誰に悟られるでもなく冷や汗を流した。


「まさか実在したなんて……」


 叢雲が、ごくりと生唾を飲んだ。いったいどんなスイーツなのだろうか。誰も知らない伝説の甘さ。考えただけで、優越感と舌が味わう幸福感の二段重ねで涙が出そうだ。


「――やるわ」


 叢雲が、鋭い目を向けた。


「ここまでお膳立てされて、退くわけにはいかない。最古参の一人として、鳳翔さんの料理大好き艦娘として」


「決まりですね」


 松崎が、にっこりと笑った。


「詳しくは追ってご連絡します。それまでに、お弟子さんには最愛の手ほどきをしてあげてください」



第百六章/シン・大乱闘艦娘シスターズ1


 週明け。鎮守府のグラウンドでは、特殊ステージが開設されていた。世間でよく見る屋外球場のように、後方へ行くほど徐々に席がせり上がる観客席まで備わっている。本物のドームや球場と比べると見劣りはするが、それでも十二分に本格さが滲み出ている。当たり前だが税金を使うわけにはいかない為、毎月給料天引きされる互助会費からの出資だ。

 ぐるりと取り囲んでいる客席の中、六角形の競技用リングが鎮座する。縦横十五メートル程度だろうか、非常に大きい。

 その傍らで、マイクを握り締めた青葉が声高に叫んだ。天気は快晴。青葉の声がよく通る。


「みなさんおはようございます、今日! この日を! 待ち焦がれた人も多いんじゃないでしょうか!」


 艦娘たちがぞろぞろと列をなして席に座る中、テンションの高い青葉は捲し立て続ける。


「始まりは一週間前! 居酒屋鳳翔で起こった綾波さんの煽りから始まりました! 名目上は『新人たちの錬度の再認識』とのことですが、それは飽くまで建前でしょう。この一戦は、師匠たちのプライドを賭した代理戦争なのです!」


 席が着々と埋まる。噂によれば、殆どの艦娘が寄ってたかって有給休暇を申請したらしい。


「ちなみにこの勝負、警備シフトの都合上来れなかった艦娘や繰り返し見て遊びたい物好きのために録画しております。DVDのお求めの際は青葉、寮内内線114-514番までお願いします!」


 商魂を逞しくさせているのは、何も青葉だけではない。

 野球場でよく見るようなビアガールもいる。ビールを入れたタンクを背負った、あのビアガールだ。


「本場ドイツのビールどうですかー! 日本のビールにはない、芳醇なホップ感! 今日限定で飲めますよー!」


 ドイツ艦のZ1――“レーベ”の愛称で親しまれている“レーベレヒト・マース”と同じくドイツ艦Z3――“マックス”と呼ばれている“マックス・シュルツ”の駆逐二艦が、ドイツの伝統的な衣装であるディアンドルを着ながら声を張り上げていた。ディアンドルは本来労働着であったため質素だったが、今はそうでもないらしい。二人とも可愛らしく、小奇麗な装いだ。

 ドイツ艦の二人が、本場ドイツのビールを売る。これだけで飲む価値があるのだろう、次々に求める声があがり、金銭が宙を舞う。場の熱気が、じわじわと立ちこめることが分かった。


「さて、そろそろ会場も満員! 立ち見の人までいる始末です!」


 じゃあそろそろ行きましょう! 高らかに宣言し、青葉が右手を高く揚げる。


「選手、入場ー!」


 会場が、わっとうねる。

 その熱気を束ねて、青葉が声を枯らす。



第百七章/シン・大乱闘艦娘シスターズ2



「エントリーナンバー1、“小さな巨人(リトルジャイアント)”睦月選手!」


 睦月が、穏やかな足取りで入場する。

 歓声が、一層大きくなった。


「小さな体躯に大きな闘志! マスター叢雲の下でしごかれたその力、今こそ会場を蹂躙します! この演習はマスター叢雲も非常に気にしているため、負けることが許されないのでしょう。睦月選手のやる気も段違いです!」


 睦月型の姉妹たちが、腰を上げて両手を振った。どうやら即席の応援歌まであるらしい。姉妹たちが息を揃え、『L・O・V・E! 頑張れ睦月!』とはしゃぐ。

 それに応えるかのように、睦月は自信ありげな顔で拳を上げた。


「お次はエントリーナンバー2、“壊し屋(スクラップメイカー)”朧選手!」


 綾波型の面々が、沸き立つ。お手製の横断幕まで広げ、すっかり部活の全国大会じみた雰囲気である。

 朧の足取りは落ち着いていた。

 やや弾むような足取りで、身体を戦闘体系へ切り替える。


「マスター綾波とは奇しくも同型! 強固な絆の前にはあらゆる苦難も塵芥(ちりあくた)! この勝負の吹っかけ人ともなったマスター綾波が満を持して推す、注目の新人です!」


 三人目が姿を見せる。

“夕立”や“村雨”が、黄色い声をあげた。


「エントリーナンバー3、“変幻自在の多面相(トリックスター)”白露選手! 伊賀生まれのニンジャマスター川内から師事を受け、めきめきと実力を伸ばしている実力派! 陸上殺法が今日も敵を屠るのか!」


 アイドルじみた動きで、白露が一気に走る。両手を広げ声を出し、ファンサービスに余念がなかった。

 白露のアクションで、白露型の姉妹以外も盛り上がる。

 大きく息を吸って、青葉は右手を振る。

 その動きに合わせ、四人目がリングイン。


「エントリーナンバー4、“静かなる暴風雨(サイレントストーム)”磯波選手! マスター涼風と真逆のテンションが生み出す奇跡の化学反応! ちなみに今日の下着はマスター涼風の指示によってサラシと褌だそうです! 勝負下着といったところでしょうか!」


 磯波が顔を真っ赤にさせて俯く。

 下着をマイク越しに暴露され、今すぐ帰りたいような顔である。気の毒な娘だ


 さてお次はこの選手!

 青葉の声と共に、妙高型の三人が両手を挙げた。


「エントリーナンバー5、“黒翼(ブラックフェザー)”羽黒選手! マスター金剛の愛弟子にして新人唯一の重巡洋艦! 今日もその四肢が慟哭を求め唸るのか! 今演習においては優勝最有力候補との声が大きい彼女です!」


 羽黒が恥ずかしそうに右手を挙げる。その挙動に呼応して、観客席が燃え上がった。


「さて最後はこの選手! エントリーナンバー6、“血みどろの猟犬(ブラッドハウンド)”不知火選手!」


 陽炎型の姉妹が声を出す。プリントされた団扇まで持ち出し、プロ野球さながらの盛り上がりだ。


「初日の挨拶でマスター北上から痛烈な腹パンを被った彼女ですが、今なおマスター北上の下で腕を磨いていると聞きます! 鎖から解き放たれた猟犬は、生き血を求め今日も駆けます!」


 不知火は悠々と、足を進める。

 六人がリングに上り、中央へ。ジャッジの三人である鳳翔、“飛鷹”、“瑞鳳”の三人が新人たちにルールを説明する。

 その詳細を、青葉がマイクで拡散する。


「ルールは至って簡単、なんでもあり(バーリ・トゥード)! 眼球への攻撃と噛みつくこと以外は、なんでもOK! 馬乗りになって殴るもよし、複雑な関節技を仕掛けることも問題ありません!」


 鳳翔たちのチェックが終わり、六人がそれぞれの端へ。じりじりと、会場の熱が再び高まる。さながら、爆発寸前のポップコーンを思わせた。

 ジャッジ三人のアイコンタクトを受け、青葉が天を仰いだ。


「それでは行きましょう! 時間無制限なんでもあり! スタートです!」


 開戦のゴングが、会場を突き抜けた。




第百八章/シン・大乱闘艦娘シスターズ3



 ゴングが鳴っても、六人は驚くほど静かだった。六角形のリング上で、自分以外をそれぞれ睨んでいる。

 観客も開幕早々に乱闘が始まるものだと思っていたのだろう。予期せぬ静寂に、ざわざわと焦れる。

 ある種異様な光景に、青葉がマイクを振り回した。



「これはどういうことでしょうか、誰一人として動きません!」


「まあ、そりゃそうやろ」


 青葉の隣で腰かけていた軽空母――龍驤が応える。机上には『解説』と書かれたプレートが立てかけられ、今日の解説役らしかった。


「今回はチームなんてないし、自分以外全員敵や。そん中で誰が誰を狙うのか、自分はそれに便乗するのか、はたまた横腹に一発ぶち込むんか、そういったやり取りがあるねんな」


 龍驤の発言に、青葉は「ほう」と感心した。


「つまり、様子見ということでしょうか」


 龍驤は頷く。


「ヘタに飛び込んで、ボッコボコになるのが一番アカン。全体の均衡を考えることができるくらいには、雛も成長したってことやろ」


 ニヤニヤとリングを見る龍驤とは対極に、青葉の顔色は優れない。


「この状況が続かれても、実況できないんで青葉困ります……」


 唇をヘの字に歪める青葉へ、龍驤が麦茶を差し出す。


「まあどうせ、すぐに声枯れるで今のうち飲んどき」


 サンバイザー型の帽子を整え、龍驤は断言する。


「均衡なんちゅうのは、得てして軽いモンで崩れるんや」




第百九章/シン・大乱闘艦娘シスターズ4



 ――これは、少々参りましたね。


 不知火は、誰にも聞こえないよう胸中で漏らした。青い瞳をスライドさせ、五人の様子を窺う。他の艦娘も概ね同じなのだろう。互いに視線のキャッチボールをしながら、どう動くのかを遠巻きに眺める。

 六人が気軽に動けない理由は、横や背後を取られることを極端に恐れているためだ。誰かを狙った瞬間、残りの四人は間違いなく戦闘中の二人に殺到する。無防備な部位に痛烈な一発で、手堅く沈めることは目に見えていた。

 構えは続けたまま、不知火は脳内で算盤を弾く。誰を狙うのが得策か、どう戦えば生き残れるのか。


「なんと言うか、思いの外しょっぱい試合ですね、これ」


 マイクを切ることすら忘れていたのだろう、青葉が漏らす。

 うるさいと言ってやりたい気持ちを抑えながら、不知火は僅かに、すり足で前へ。誰を狙うのかは決まっていない。しかし始まった瞬間に最速で動けるよう、できる限りの準備を整える。他の新人たちも、集中力を束ねる。

 六人とも、何かを境に嵐が吹き荒れることを確信していた。問題は、その嵐がいつ巻き起こるのか見当がつかないことである。


「あ、ちょっと待って」


 睦月が止める。

 何事かと、五人の視線が集まる。

 見れば、睦月が「へ、へ……」と言いながら上半身を反らしていた。


「へくちっ」


 五人の脚力が、一気に爆発する。

 五つの暴力が、睦月に押し寄せた。


第百十章/シン・大乱闘艦娘シスターズ5



 ぐん、と視界が狭まる。そのまま転んでしまうのではないかと思えるほどの前傾姿勢で、不知火は駆ける。狙うは、一番槍だ。他の艦娘も同じらしい、開始時の目論見はとうの昔に忘れ、五人が一斉に睦月の元へ。作戦云々以上に、本能で動いた。敵に隙ができた。だから襲う。


「え、ちょっと……!」


 睦月がぎょっと目を剥く。しかし叢雲から指導されたせいか、再びボクシングの構えを取るまでにコンマ五秒と掛からなかった。考えるより、先に身体が動いたらしい。

 一番手は、不知火だった。隣にいたが故の、アドバンテージだ。


「恨みはありませんが……」


 右拳を引き絞る。


「最初に沈んでもらいます!」


 放つ。突き出した腕に螺旋を混ぜる。疾走の勢いと鍛えた錬度が生み出す、最高の一撃だ。まともに喰らえば、重巡すら深手だ。


「均衡が崩れたァ――――――ッ!」


 青葉が叫ぶ。その声すら裂く、高速の一突きだ。

 不知火のヴィジョンでは一撃で睦月の頬を捉え、意識を刈り取っていた。

 しかし貫いたのは、虚空。最大最速の右ストレートを、難なくかわされた。

 睦月が不知火の右を抜ける。追いすがろうと腰を切ったと同時に、ぞわりと背筋が逆立つ。

 何も考えず、腰を落とした。

 豪風が、一瞬前まで頭があった地点を突き抜ける。当たっていたら終わっていた。それに伴う痛みを考え、生唾を呑み込んだ。

 不知火が体勢を立て直す。

 先の一撃は、羽黒によるものだった。腕を振り抜いた姿勢の少女と目が合う。さすが重巡、迫力が駆逐艦と比べ段違いだ。


「横から攻撃とは、いい心がけですね」


 自分も当初は目論んでいたことを棚に上げ、不知火は挑発する。

 しかし、羽黒は動じない。寧ろ決意を込めた瞳で、不知火を睨んだ。


「お願いです」


 羽黒が懇願する。


「降参、してください」


「――なんですって?」


 聞き返した不知火に、羽黒は声を大きくさせる。


「降参してください。傷つかないうちに」


 羽黒が構える。緩く開いた左手を前へ、右拳は右頬付近へ寄せる。両足の爪先は、僅かに内を向いていた。


「今日の私は、手加減できないんです」



第百十一章/シン・大乱闘艦娘シスターズ6


 静かな、それでいて熱を孕んだ声だった。


「私は、どうしても負けるわけにはいかないんです!」


「羽黒選手、満ち溢れる意気込みが見て取れます。彼女にしては珍しいですね」


 青葉が冷静に分析する。


「マスター金剛、何か彼女に檄を飛ばしたんですか?」


『保護者席』とプレートの立った長テーブルの一角で座る金剛が、にこやかな笑顔で返す。


「実に単純で、一位以外なら羽黒ガールが毎晩つけているポエム付き日記を鎮守府の掲示板に陳列させると言っただけデース」


 会場が、凍結する。

 鬼だ。

 奇しくも会場内が、一つにまとまった瞬間だった。


「デスので」


 金剛が続ける。


「今日の羽黒ガールは、まさに勝つための鬼。痛い目に遭いたくなかったら、素早い降伏が身の為デスよ」


 清々しい暴虐さに、青葉のテンションが振り切れた。


「なんというゲス、なんという悪魔! こんな事があっていいのでしょうか! 乙女の日記を明るみに晒すという外道の宣告! 青葉の中でたった今、鎮守府内の畜生ランキングが更新中であります! ちなみに一位は怖くて伏せます! 次点でマスター金剛となっております! あと正直なこと言うと青葉は羽黒さんの日記が読みたくて仕方がないです! 青葉気になります!」


 大喜びの実況を適当に聞き流し、不知火は構えた。


「本気で危ないから、諦めろと?」


 羽黒はこくこくと頷く。

 その様を見届け、不知火は深く息を吐いた。


「不知火も、随分舐められたものですね」


 首を回し、両手の指を絡める。ばきばきと関節を鳴らし、羽黒を見上げた。

 瞳には、青々とした炎が灯る。


「手加減なんて元から無用。沈める気で、かかってきてください」


 羽黒が、瞼を下ろす。


「これもまた、避けられない戦いなら――」


 目を見開く。


「せめて一思いに、ノックアウトさせてあげます!」


第百十二章/シン・大乱闘艦娘シスターズ8


 羽黒が距離を詰める。重巡以上特有の、幅広のストライドだ。

 勢いがある。それでいて、落ち着いた目をしていた。

 不知火は切り替える。正面からの打ち合いでは不利。一瞬の隙を縫って、寝技に持ち込む。

 決意と同時に、踏み込んだ。羽黒の右腕をかいくぐる。二度目だが、背筋が凍る剛腕だ。重巡でこれとなれば戦艦はどうなるのか。考えただけで、気が遠くなりかけた。

 ここで焦ると、待つのは破滅。慎重に窺い、一瞬で牙を突き立てねばなるまい。

 不知火は息を吸う。

 できる、自分ならできる。

 意識を尖らせる。次の攻撃をかわした瞬間に飛び掛かる。

 そう決意した、次の瞬間だった。


 羽黒が横を見る。突き出した左手で横合いから迫る突きを弾き、剛腕を放つ。闖入者は羽黒の腕を受け流し、不知火と羽黒の中間地点に立つ。

 吹雪型九番艦――磯波だ。

 唐突に混じった磯波に、不知火は冷たい。


「人の得物を、横取りする魂胆ですか」


 構えたまま、磯波が応える。


「そんなつもりはありません」


 踵を返す。不知火と向き合い、地味で大人しい彼女とは思い難いほど芯の通った声を出した。


「私は、強くなりたい」


 続ける。


「艦娘になれば、全て変わるなんて夢を見ていました」


「よそ見ですか!」


 背後の羽黒が、一撃必殺の突きを放つ。

 大気が歪む一撃を、磯波は身体を回すことだけで受け流す。

 功を焦った羽黒の上半身が、前へ。その勢いに合わせるかのように、磯波の掌底が羽黒の側頭部を捉えた。


「が……ッ」


 痛打を被った羽黒が、ごろごろと転がる。一瞬の交錯に、不知火は唖然とした。


「なんということでしょう、あの重巡洋艦羽黒を一蹴しました! 信じられません、こんなことがあっていいんでしょうか!」


 フルスロットルの青葉が喚く。


「ダークホースです。ここにきてまるで予想していなかった展開が青葉たちを襲っております!」


 羽黒が派手に吹き飛んだことで、会場のボルテージが一気に上がる。ある種暴力的ともいえる歓声が、選手たちの頬を強く叩く。


「でも、それは大間違いでした」


 八卦掌特有の構えを見せる。広げた両手を前に。左脚を前にして、不知火に向き直った。





第百十三章/シン・大乱闘艦娘シスターズ8


「誰より変わらなければいけなかったのは、自分そのものでした。だから私は、この場で少しでも変われたことを証明してみせます」


 普段自身のなさそうにおどおどしている磯波が、意思のある、力強い目をしていた。


「私のことを信じてくれている涼風先生の為にも自信を持って逃げ出さず、堂々と!」


 決意を叫ぶ磯波に対し、不知火はふんと鼻を鳴らす。


「いいでしょう。その決意、不知火が粉々に砕いてあげます」


 白手袋の着心地を確かめ、構える。

 磯波の八卦掌に近しい、両手を僅かに突き出した構えだ。しかし背筋を伸ばした磯波とは違い、不知火は背を多少曲げている。

 先に仕掛けたのは、以外にも磯波だった。

 すり足で、不知火の懐へ滑り込む。移動のエネルギーを腰の回転に揺らせ、掌打を放つ。


「やっ!」


 不知火はそれを、左手の甲で受け流す。体重が乗った、良い一撃だった。突きを放った瞬間を見計らい、不知火は左手をけしかける。腕を掴み、そのまま関節技へ持ち込む目論見だ。

 掴む。それと同時に、磯波の腕がするりと抜けた。


「――ッ!」


 不知火は思い出す。八卦掌において拳を握らない理由の一つとして、掴まれても抜けやすいことがあった。

 舌打ちする間も惜しみ、空いた右手を伸ばす。

 されど、時すでに遅し。

 不知火を中心にして円を描くかの如く、磯波が不知火の背後へ回る。傍から見れば不知火がつまらない不注意で見失ったようにしか見えないだろう。

 不知火からしたら、磯波が唐突に消えたように映るはずだ。故に、対処も遅れる。

 背後に回った磯波が、ゆらりと体を揺らす。


「はい!」


 直後、自身の背中を不知火のわき腹付近へ打ちつけた。対応を練れなかった不知火の身体が、ゴム毬のように跳ねる。不知火はリングで一度バウンドし、その勢いを以て体を起こす。一見効いていないようにも見えるが、余裕のない顔つきと荒い息がそうではないことを物語っていた。


第百十四章/シン・大乱闘艦娘シスターズ9



「上手いなあ、磯波ちゃん」


 保護者会席で頬杖をつく北上が、ぼんやり漏らす。


「マスター北上、今の一瞬をどう考えますか?」


 青葉からの疑問に、北上は腕を組む。


「かなりいい線だよね。なんて言うか、動きに迷いがなくてちょっと驚いたよ」


 あたぼーよ! と涼風が吠える。


「なんたってアタイの弟子だ。迷いなんてシャリに混ぜて喰っちまったぜ!」


「涼風さんらしい、超絶精神論ですね」


「そもそも」


 青葉が苦笑する中、北上が付け加える。


「八卦掌って一見変な踊りしながら戦うような拳法なんだけど、その実すごく激しいんだよね。身体を動かすし体重移動だって大変。八卦掌に限った話じゃないんだけど、攻めるか守るかってのは凄く使い手の写し鏡みたいな部分が濃いんだよねえ」


 故に――

「迷いなく攻めの姿勢を持って行った磯波ちゃんは、全力で褒めてあげたいかな」


 北上の解説を聞きながら、不知火は息を整える。

 強い。

 試験が終わったばかりの磯波とは、まるで別人だった。

 認識ヲ改メヨ。

 脳内で、信号が明滅する。あの時の同期ではない。みな、変わっているのだと改めよ。


「やりますね」


 呟き、周囲を見る。磯波にはじかれた影響で、羽黒と磯波の戦禍から外れている。

 その代わりと言っていいのか――

「にゃしし」


 不敵な笑い声が、不知火の耳を叩く。

 声の発信源へ青を向けると、睦月型の長女がにやりと笑っていた。彼女の付近では、朧と白露がリングに突っ伏していた。

 ショートのくせ毛を揺らせながら、睦月はボクシングのステップを刻む。

 朧と白露を一瞥し、不知火が尋ねた。


「睦月さんは、一人でお二人をさばいたんです?」


「まさに!」


 睦月が応える。


「睦月はもう、あの時の弱虫じゃなくなったんだよ」


第百十五章/シン・大乱闘艦娘シスターズ10


 得意気に話す睦月の傍で、白露が体勢を立て直す。

 がくんと腰を落とし、その勢いで腕を突き出した。

 虚をつく一撃を、睦月は難なくかわす。寧ろ懐に潜り込み、白露の左頬に右フックをねじ込んだ。しかし流石は北上の元で多少は修業した身。器用に受け身を取り、再び果敢な攻めを見せる。緩急を使い分け、瞬時に睦月へ迫った。


「――っは!」


 直前で、ぐるりと回る。その勢いを載せるように、裏拳を放つ。ボクシングの姿勢を崩さぬ睦月が、右手のダッキングだけで弾いた。白露の顔に、焦りが滲む。

 上半身を仰け反らせ、焦らす。

 攻めるかどうか逡巡を見せた睦月に、白露が一瞬で接近する。反らした上体を戻した勢いに体重移動を加算させ、ぐんと近づく。

 山谷のあるテンポで、睦月のリズムを崩す。

 睦月の足が、僅かな迷いを見せる。その一瞬を広げ、白露が右手を放った。穿つような穿孔を加え、睦月の喉へ。

 反射の要領で、睦月も腕を出した。それと同時に、頭を傾げる。

 両者の腕が交錯する。

 睦月の右ストレートが、白露の左頬を抉った。白露の突きは、紙一重で首を掠める。

 白露の表情が歪み、受け身もとらないままリングへ崩れる。クロスカウンターがもろに入ったことは、誰の目から見ても明らかだった。


「決まったあああああああああ! 睦月選手のクロスカウンターです、これは痛い! 白露選手はピクリとも動きません、脳震盪でしょうか!」


 青葉が左手を振り回す。睦月型の姉妹が拍手喝采する中、睦月は堂々と拳を掲げる。自身を持った睦月の挙動に、会場が大きく盛り上がる。

 一連の動きを見て、不知火は苦い顔をした。直接組み手をすることがほとんどなかったため情報に乏しかったが、この上なく厄介な手合いであることは嫌というほど認識できた。恐らく、真正面から糞真面目な戦闘をしても勝てないだろう。負けるつもりもないが、勝つヴィジョンが浮かばない。未来の攻撃が分かる敵に、どう勝てというのだろうか。



第百十六章/シン・大乱闘艦娘シスターズ11


 物は試し。明後日の方向を指差す。


「あ、甘味処間宮謹製の特製エクレア」


「ほんとにっ!?」


 かつてない速度で睦月が左へ腰を捻る。口の端からは唾液を垂らし、集中力は爆散していた。

 細かいことは考えず、不知火は突っ込んだ。スライディングをするかのように靴底を滑らせ、真横に伸ばした右腕を睦月の腰に引っ掛ける。余った移動エネルギーをそのまま使い、ぐるりと睦月の腰をホールド。


「うえ!?」


 そこでようやく、睦月は自分の危機を悟った。遅い、あまりにも遅い。


「拘束された状態では――」


 不知火は両脚に力を込める。太ももが硬化し、筋肉のフル稼働を物語る。


「お得意の回避は使えないでしょう!」


 膝を伸ばす。連動し、背筋を軋ませた。ぎしぎしと、体中の筋線維が歓喜する。

 上半身を反らし、膝を曲げる。即死級のジャーマンスープレックスが、睦月を襲う。


「にゃしいいいいいい!」


 断末魔と共に、睦月の背中がリングに突き刺さった。

 不知火が手を放しても、復帰する兆しが見えない。

 完全な騙し討ちに、会場の空気がなんとも言えないわだかまりを抱える。されど不知火は構うことなく、両腕を掲げてガッツポーズを見せつけた。それを契機に、会場が再び沸き立つ。所詮ビールをしこたま飲んでいるものが多い会場だ。細かいことは気にしない方針らしかった。

 そう、一人を除いて。


「あんなの反則じゃない! ノーカウントよ!」


 最古参の一人である叢雲が、保護者席で異議を唱える。

 叢雲の抗議を、龍驤が冷ややかな目で見る。


「まあこれ、なんでもありやしな。騙し討ちもアリってことで」


「そんなの認めないわ! 後日ちゃんとルールも明文化して仕切り直しよ!」


 断固異議ありの姿勢を崩さぬ叢雲に、綾波がにこやかな顔で話しかける。


「見苦しいですよ、先輩」


「ああ!?」


 唾すら飛ばしかねない勢いで、叢雲が振り向く。目線の先では綾波がいつも通りの笑みをたたえ、麦茶をストローで飲んでいた。




第百十七章/シン・大乱闘艦娘シスターズ12



「勝ちは勝ち、負けは負けです。自分の指導不届きをルールのせいにするのはやめましょうよ。これ以上、大先輩としての格を落としたくないでしょう?」


 こめかみに青筋を立て叢雲は歯を剥く。


「言わせておけばペラペラと安い口車が大セールじゃないの……!」


 綾波は「はて」と首を傾けた。


「事実しか言っていない気がするんですけど、何か問題が?」


 あ。

 北上は直感した。

 これは戦争が起きるな、と。


「そろそろあたしの堪忍袋がブチ切れそうよ」


 表情筋を痙攣させ、叢雲が親指でリングを指す。そこでは新人たちが師の名誉をかけて戦っているのも関わらず、だ。


「一発戦(ヤ)ろうじゃない、久々に切れちゃったわ。ここでの生き方を教えてあげるわ」


 対する綾波はいつもの笑顔だ。


「そろそろ世代交代を促す頃合いかなと思いましたし、良いですよ」


 睨みあう二人を見ながら、北上はなんとも言えない顔で煙草を咥える。

 自分に火の粉が降らないことだけを、ただただ念じながら。


「これはどういうことでしょうか、マスターズたちも火花を散らせております!」


 保護者席から噴き出る殺気に気付いた青葉が歓喜の声を振りまく。目もイキイキとしており、早く次の爆弾を、と念じて止まない者の顔つきだった。

 北上は、「さて」と腰を上げる。このままでは大惨事に巻き込まれる。見るのは好きだが、進んで火中の栗に対してヘッドスライディングを決め込むほどの阿呆ではない。

 誰にも悟られないよう離れかけようとした矢先、首根っこを力強く掴まれた。

 ふわりと、宙づりの猫のような気分を味わう。


「さあ、PartyTimeの始まりデース!」


 宣言と共に、北上の世界がぐんと流れる。


 投げられた。


 そう気づくのに、コンマ数秒要した。

 まさか自分が砲弾のように飛んでいるとは。焦るより、寧ろ感心する感情が勝った。砲弾は、この速度を生きているのか。

 凄いな。そう思うと同時に、北上の身体がリング外の壁にめり込んだ。漫画のような効果音と共に、背面全てが鈍痛で軋む。一撃で失神しなかったのは、ほぼ奇跡といっても差し支えない。


第百十八章/シン・大乱闘艦娘シスターズ13



「マスター金剛、まさかの他の師匠たちもリングへ投げ込んでおります! そして北上さんは壁にめり込んでおります! 投げ飛ばされた北上さんの勢いから見て時速100キロはくだらないでしょう、この場にスピードメーターがなかったことが悔やまれて仕方ありません!」


 めり込んだ壁から抜け出し、荒い息で立ち上がる。あまりのダメージで、脚はがくがくと笑っていた。普通の人間なら即死だろう。自分が艦娘として投薬していることに、心の底から感謝した。しかし防御面では心許ない艦種ゆえに、意識を保つことが限界である。


「あー! 困ります! マスター金剛そんな暴挙は困ります! おやめください! ありがとうございます! 思わぬサプライズに青葉は見ていて楽しいですし映像もばっちりおさまっております! ですが建前上困ります! あー!」


 本音と建前が著しく混同した青葉の実況が、頭の中で空回りする。しかし師匠陣の乱入が客にとってはこの上なく面白いのだろう。歓声があちこちで爆発し、会場の熱が体感で三度上がった。


「ありえないっしょ、これ」


 呆然と呟き、北上は拳を構える。

 身体は限界に近い。しかし、何の許可も得ないまま自分を投げ飛ばしあまつさえ壁にめり込ませた金剛は一発叩き込まねばなるまい。北上の中に潜む野性が、牙を剥く。


「金剛ォおおおおおおおおおおおおおおお!」


 叫ぶ。駆け出そうと一歩踏み出した矢先、涼風の背が自分めがけて猛烈なスピードで迫っていた。涼風を介した延長線上で、金剛が投擲終了のポーズをとっている。


「あっ……」


 北上は悟った。


「よけらんねえわ、これ」


 車以上の速度を見せる涼風の背が、北上に激突する。衝撃を受け流すことも弾き返すほどの余力も残っていなかった北上は、数十秒前と同じように壁にめり込んだ。


「おっご……」


 身体中の空気が、無理矢理押し出される。あまりの衝撃に、眼前がちかちかと明滅する。

 それから数秒と経たないうちに、北上の意識がブレーカーのように落ちた。



第百十九章/青葉失踪



「ええ、はい。畏まりました。ではご自愛なさって」


 執務机に備え付けられていた電話を切り、大淀は憚ることなく舌打ちを一つ。革張りの椅子に腰かけた龍驤に、ぼそぼそと耳打ちした。


「隼鷹さん、今日は二日酔いのため急遽休みたいと」


 ほいほいと相槌を打ち、龍驤が書類にペンを走らせる。いつもなら松崎がいる場所に臙脂色の服を着た少女がいる現状は、なかなか新鮮だ。

 見れば、龍驤の左腕には『提督代理』の腕章が巻かれている。


「まあみんなもお察しやと思うけど、今日と明日松崎クンはお休みや」


 朝礼で、龍驤はいの一番に告げた。朝礼に集まった艦娘たちに手際よく書類を配りながら、龍驤が説明する。


「慣れとる娘もおるやろうけど松崎クンが留守中はウチが提督の代わりするで、なんかあったらウチまでよろしく。もしウチが見当たらんかったら、大淀ちゃんか叢雲ちゃんでええわ」


 それと――

 少女が付け足す。


「北上ちゃん、金剛、川内、涼風、叢雲ちゃん、綾波ちゃんは反省文今日中な。先日の大騒動の件。金剛は二倍の原稿用紙十枚」


「No!」


 金剛が勢いよく拒む。


「なんでワタシだけそんなに多いんですカ!?」


「君が一番暴れたでやろ」


 龍驤の目は冷たい。


「あれで北上ちゃん丸半日気絶したし、自分の愛弟子の羽黒ちゃんぶん投げて三時間失神させるとか反省促すとかの問題ちゃうで、本来なら」


 淡々と事実を突き付けられ、金剛が肩を落とす。


「他になんか、連絡ある娘おるけ?」


 龍驤の促しに、青葉型二番艦――“衣笠”がゆっくりと手を挙げる。おずおずと、一枚の紙を龍驤に差し出した。


「なんや? これ」


「朝起きたら、青葉の机にこんなものが……」


 龍驤が目を通す。同時に、口の両端を著しく下げた。

 紙には短く、こう書かれていた。


『一泊二日でどこかへ行ってきます。探さないでください  あおば』


第百二十章/松崎の休日1


 がたごとと揺れる車両内で、青葉は一人ほくそ笑んでいた。席を数メートル離し、松崎が座っている。

 青葉は周囲の客に悟られないよう、一人でニヤニヤと笑みをこぼした。


 ――来ちゃいました。青葉、ここまで来ちゃいました!

 事の起こりは、実に単純だった。

 偶然、運の要素が絡んで、青葉は早朝に松崎を見かけた。いつもの落ち着いた物腰ではなく、どこか急ぐような足取りであったことが印象的だ。

 加えて、服装も違っていた。通常は白を基調とした軍服だが、今朝の彼は違う。なんとスーツだ。今まで見たこともない恰好のせいで一瞬誰かわからなかったのは、内緒の話である。

 いつもと違う服装で、急いでどこかに向かう。

 この要素だけで、青葉は閃いた。


 さては、どこかへ行くのでは?

 そう考えた青葉は早かった。爆睡している衣笠に尻拭いを押し付けるような形で置手紙を残し、財布を掴み、最低限の荷物と変装だけ施した。

 今の青葉は、いつもの活発な姿ではない。花柄のワンピースを纏い、つばの広い帽子を被った少女だ。いつもの青葉を知っている同僚たちなら、きっと気付かないだろう。

 そもそも青葉がここまで動こうとした理由は、たった一つ。


 ――何か一つでも、司令官の面白い新事実を持って帰らなくては!

 青葉の心は、ある種の使命感で燃えていた。

 鎮守府内の艦娘で、松崎のことを詳しく知っている艦娘は少ない。寧ろほぼいないと称しても、差支えがない。それほどにまで、松崎は謎に包まれているのだ。どのような組織から提督として選ばれたのか、家族はいるのか。そういった基本的な部分すら、青葉は知らない。きっと先輩である日向や金剛たちですら、知らないだろう。

 以前青葉が龍驤や鳳翔に尋ねたことがあったものの、適当にはぐらかされてしまった。この反応は何かただならぬことがある裏返しだと解釈していいだろう。青葉のジャーナリズムが、鎌首をもたげた。

 駅の売店で買ったサンドイッチを頬張りながら、青葉は決意を固める。


 ――どんなことでも構いません、司令官の面白い一面を捉えてみせます!

 少女の思惑露知らず、電車はただただひた走る。

 がたごと、がたごと。



第百二十一章/松崎の休日2


 降りた駅は、比較的栄えている地区だった。まさか青葉が尾行しているだろうとは欠片も思っていないらしい松崎は、軽快な足取りで改札を抜ける。青葉もそれに倣い、するりと会計を済ませる。電子会計故に無駄な時間も生じず、文明の力強さを少女は実感した。

 人ごみをかき分けながら、青葉は男との距離を測る。不用意に近付けば、気付かれることは請け合いだ。こそこそと背後をつける青葉の眼前に、数名の男が唐突に道を塞いだ。何事かと顔を上げれば、三人の男がニヤニヤとした顔を浮かべていた。見た限り、二十歳越えているかどうかの年齢だ。三人はそれぞれ髪を染め、自己主張が激しいピアスや着崩した服も相まって行儀のいい青年たちとは言い難かった。

 一人は帽子を被り、ガムを噛んでいる。

 二人目は硬貨を親指で弾いて遊び、最も目つきが悪い。

 三人目は色つきのサングラスをかけ、浅黒く日焼けしていた。

 自分になんの用だろうか。そう考える青葉に、一人が口を開いた。


「ねえお姉さん、今暇?」


「……はあ」


 青葉が、冴えない声を出す。一体なんなんだ。


「ちょっと俺たちと遊ぼうよ。ね?」


 青葉はしばし呆然とする。二秒ほど硬直して、ようやく察した。


 ――もしやこれ、漫画にありがちなナンパなのでは?

 そこで青葉は正気に戻った。まさかここまでベタな漫画的展開が自分を待ち受けていたことに、都会への畏敬の念を抱く。人が多いと、こんなイベントもあるのか。

 茶色く髪を染めた一人が、馴れ馴れしく青葉の左手首を掴む。


「ねえいいっしょ? お姉さん可愛いし、そういう感じのサムシングでやっちゃおうぜ?」


「え? は?」


 都会の言葉遣いを全く理解できていない青葉だったが、二つの事だけは理解できた。

 一つ目。この男たちは、自分の何かを狙っている。

 二つ目。男たちに構っていては、松崎が遠のくばかりだ。

 遠くなる松崎の背を見ながら、青葉は歯噛みする。



第百二十二章/松崎の休日3


「ねえいいでしょお姉さん。俺らと一発、ね?」


 軽薄な笑みを浮かべる一人が、青葉の腰に手を伸ばした。


「うひゃあ!」


 鎮守府では決して出さないような声を出す。北上に聴かれたら「女の子みたいな声だね」とケラケラ笑われそうだが、今はそれどころではないのだ。なんとかして、この窮地を脱出しなければ。なんのために自分がリスクを冒してまで鎮守府を抜け出してきたのか分からない。

 腰に回していた男の手が、尻に近づく。


「可愛い声ー」


「ほら、続きはホテルで聞かせてよ」


「ウェーイ」


 ノリに着いて行けない青葉だったが、ここで暴れるわけにもいかなかった。こんなところで騒ぎを起こせば駅員や警備員が飛んでくる。そうなれば、時間のロスは明白だ。それは、何がなんでも避けたい。


 ――ならば!

 青葉が右腕を鞭のようにしならせる。格闘技等を習得していなくても、腐っても艦娘。一般人には認知不能なスピードで、一人が親指で弾いて遊んでいた効果を空中で掠め取った。なんとも羽振りがいいことに、五百円硬貨二枚だ。


「あっ、ちょ待てよ!」


 威勢よく青葉へ掴みかかろうとするより早く、少女は自身の右手に全力を込める。ぎりぎりと、金属の曲がる音がした。

 青葉が無言で右手を広げる。

 掌(たなごころ)には、ひしゃげた金属が二枚。かつての、五百円玉だ。投薬された艦娘だからこそできる、埒外の筋力だ。


「どいてください」


 青葉が低く忠告する。

 変わり果てた五百円玉を見て、三人は顔から血の気を失った。飛ぶように脇へ寄り、頭を垂らす。


「姐さん、どうぞ!」


 三人の声が、綺麗に揃う。

 できる限り穏便に済ませた青葉は、にこりと笑った。


「ありがとう。恐縮です!」


第百二十三章/松崎の休日4


 思いの外遠くに行っちゃったなあ。青葉は軽くぼやいた。

 歩道橋を歩きながら、青葉は遠い松崎を見る。グレーのスーツを着た松崎が、ふと足を止める。何を見て足を止めたのか。青葉は注意深く観察する。

 見れば、花屋だった。個人経営の、小さくもまとまった面構えの花屋である。人通りの多い中、喧噪を離れ、木陰でひっそりと咲く花を思わせる、愛おしさすら感じる店の雰囲気だ。緑を意識した壁の塗装や、丸みを帯びた天井のフォルムも好感が持てる。

 その店へ、松崎はするりと入る。小さい店内へ突撃するわけにもいかず、青葉は渋々歩道橋の上で待機した。頬杖を突きながら、ぼんやりと待つ。その傍ら、歩道橋から街並みを見下ろした。

 人が、忙しなく歩いている。スーツを着て電話をし、打ち合わせのアポイントメントを取りながら歩くサラリーマン、ランドセルを背負って下校中の子ども、美味しい夕食を作ろうと買い物帰りのエコバックを運ぶ母親、中学生か高校生か判然としないカップル、赤本を広げてプレッシャーと戦う受験生、ふらふらと歩く年配。

 彼らの生活は、自分たちが支えている。

 青葉も艦娘になる前は高校生だった。当時、授業で教師が言っていたことを思い出す。


 ――艦娘がいないと、今頃日本は消滅しています。それほど日本の食糧自給率は低いですし、食べ物は輸出入に頼りきりです。


 自分たちがいないと、日本は消滅する。

 その言葉を、青葉はなんとなく思い出す。

 整備された道路も、街灯も、喧噪も、笑い声も、帰る場所も、消えるのだろうか。あるいは弔われない骸(むくろ)のように、誰にも惜しまれず、労われることなく、風化するのだろうか。

 青葉の後ろを駆け足で急ぐ少女たちが、明るい声で話している。


 今日発売だよね、あのCD!

 きっと自分たちが居なければ、CDを待ちわびることすら叶わぬ夢になるのだろう。歩を速める少女たちを横目で見ながら、青葉は思った。


「そう考えると……」


 青葉は漏らす。


「青葉たちって、結構すごい仕事しているんですねえ」


 そこで、ふと疑問に思う。


「なんで艦娘って、もっと大々的に賞賛されないんでしょう」


第百二十四章/松崎の休日5


 日本を守る、大袈裟に言ってしまえば守護神だ。特に日本は島国。艦娘のいない日本は、当時の教師が言ったように夢幻になるだろう。

 それにもかかわらず、なぜこうも有難味がないのであろうか。どうせなら特大ポスターの一つでも掲げ、艦娘様々の謳い文句くらい付けてもいいだろう。実績と称賛のされ方が、明らかに釣り合っていない。

 おかしいですねえと呟いた青葉の瞳に、グレーのスーツが映る――松崎だ。

 いつも通りの顔をした男だが、入店時と明らかに変わっている。

 花束を持っていた。白百合が目を惹く、鮮やかな色合いの花束である。花を大事そうに手に持つ男を見て、青葉の頭上でライトが勢いよく灯った。


 ――女か!

 青葉は確信した。

 青葉の記憶が正しければ、松崎の年齢は三十代後半。いつもは鎮守府で暮らしているが、実家に妻や子供――或いは恋人を残していても何一つ不自然ではない。

 少女の女としての勘が、けたたましいほどはしゃぐ。


 ニュースだ。

 一世一代の大ニュースだ。


 斜め掛けの鞄からメモとペンを取りだし、ニタリと笑った。


 ――司令官の秘密、青葉が暴いちゃいます!

 鎮守府内の新聞を出すならば、そんな記事を書こうか。見出しはどうしようか。少女は脳内でホワイトボードを掲げ、何人もの自分がああだこうだと議論する。

 王道を往く記事にしろ。

 面白おかしく書き立てろ。

 悲哀を込めて綴るべし。

 自分の中で、意見が幾重にも交錯する。迷う。この迷いこそ、記事を起こす醍醐味といえた。この瞬間が、最も楽しい。

 カメラは持ち合わせていないが、相手の女を克明に描写できる自信はあった。なにせ高校生のころは、記者に憧れていた。新聞や週刊誌を読み漁り、どんな文を書くのかを学んだ。

 靄に包まれた松崎の全てを、丸裸にしてやる。

 謎の使命感を宿した青葉は、爛々と瞳を輝かせ男の歩幅をなぞる。

 右手にペンを、左手にメモを。


「青葉出撃……いえ、取材しまーす!」



第百二十五章/松崎の休日6


 松崎が向かった先は、公園だった。遊具や緑も充実した、子供たちにとっては楽園のような場所であろう。昨今は何かと規制が激しく、球技すら許されない公園があることは青葉も知っている。しかしここはどうだろうか。友人同士や親子で、楽しそうにボールを投げ合っている。

 松崎は、如何なる用でここへ来たのだろうか。

 数十メートルの距離をとりながら、青葉は注意深く男の顔を見る。いつもの笑みをたたえた男は、何を見ているのだろうか。

 青葉は男の目線をなぞる。三十メートル近く離れたところであろうか、黒髪の女がそこにいた。肩甲骨付近まで伸ばした髪をポニーテールでまとめ、動きやすいジーンズとシャツを着ている。身長は概ね百五十センチ後半。顔がまだ見えないから判然としないものの、雰囲気や落ち着いた動き方から察するに三十歳手前だろう。まっすぐに伸びた背筋が好意的な女性だ。

 松崎が一歩踏み出す。

 口を開き、右手を伸ばしかける。

 それを遮るかのように、一つの影が女に迫った。五歳程度の、少年だ。サッカーボールを小脇に抱え、女の脚にすり寄る。女は少年を抱きかかえ、くるりと回った。

 青葉は目を細める。

 一瞬だけ見えた女は、柔和な顔立ちをしていた。血色も良好。満面の笑みで子供を抱き上げる顔は、母が持つ特有の慈しみに溢れていた。白い歯を見せて笑う女に、松崎が手を伸ばす。


「――ッ!」


 その手を、松崎が唐突に引っ込めた。

 何事か。

 そう思った青葉の視界に、答えが飛び込む。

 背丈は松崎と大差ないくらいだろうか。一人の男が、横合いから女に駆け寄る。ビジネスマン然とした、さわやかな短髪や笑顔が印象的な男だ。走って女の元へ近寄った男が、左腕で女の腰を抱き寄せる。ぐいと引き寄せ、女が抱いていた子供の額に頬を当てる。目を細めた男が、女の頬に唇を寄せた。

 端的に表現してしまえば、まさに幸せな家庭の理想形といえるだろう。男と女が愛し合い、家庭を大切に守っている。

 青葉は胸中から、言い様のない何かがせり上がる思いに駆られた。

 自分たちは食料や物資を守ることで、この光景を守っているのだ。未来を育てる輪を、間接的に繋いでいるのだ。

 自覚と同時に、誇りが膨らむ。肺の体積が大きくなったと錯覚するほどに、大きく息を吸う。

 そこで、青葉は自分の目的を思い出した。慌てて、松崎に視線を戻す。

 幸せの結晶を見た松崎は、一瞬だけ目尻に皺を寄せる。開けていた口も閉ざし、踵を返す。目当てと思われた女には何も告げず、松崎は緩やかに歩きはじめた。

 双方を見た青葉が、メモも忘れて硬直する。


「これってまさか……失恋?」


 唾を、無理矢理呑み込んだ。


「青葉、見ちゃいました……」



第百二十六章/松崎の休日7


 次に松崎が向かった場所は、岬だった。艦娘にとって馴染み深い、波音が聞こえる。寄せては返す命の吐息が、青葉の心をふわりと撫でる。波の音を聞いて安心するあたり、自分はつくづく艦娘なのだと自覚した。

 適当な木陰に身を隠し、青葉は松崎を見守る。

 松崎は道中、通り抜けた商店街で適当な日本酒を一つ見繕っていた。350mlの、小瓶だ。

 岬には、一つの石碑が佇んでいる。壁のように立ちはだかるそれは、松崎の行く手を塞いでいるかのようにも見えた。

 様子を窺っていた青葉が、場所と持ち物――加えて先の流れから予期したくないことを思い浮かべた。


「まさか司令官、ここから飛び降りるんじゃ……」


 青葉の顔から、血の気が失せる。

 止めるべきか。

 僅かに腰を上げた時点で、はたと思い留まる。自分は本来なら、ここに存在しない身だ。そのような状況下で突然木陰から動物のように飛び出したら、松崎はどう思うだろうか。あの男の事だ。前後の状況を無視して、まず青葉を滅することに専心するはずである。法律ではどうなっているのか知らないものの、鎮守府内のルールでは外出厳禁――場合によっては厳罰を科すことも辞さないと周知徹底されている。「そんなルール知りませんでした」では、済まされないのだ。そして相手はあの松崎。ばれたらどうなるか、想像するだけで膝が震えた。


 しかし自分の上司が飛び降りるかもしれない。態度や在り方に少々――多大な問題がある男とは言え松崎がいるからこそ殉職率が低く、鎮守府が円滑に運営されていることもまた事実だ。松崎を、まだ失うわけにもいかない。巡り巡って、その負債が自分たちに牙を剥くことになるのだから。


 ――本当に飛び降りそうなら、青葉は止めます。


 逸る気持ちを抑え、青葉は腰を落とす。いざとなれば自分は艦娘。陸上選手級のスピードやスポーツ選手並みの筋力も夢ではない。松崎を止めることも、さして難しい事ではない。

 いつでもスタートできる心構えだけを携え、少女はペンとメモを取った。


第百二十七章/松崎の休日8


 左手に持った花束を、松崎はそっと石碑の前に置いた。右手の小瓶も、一緒に添える。

 背筋を伸ばした松崎が、石碑に向かって微笑んだ。


「皆さん、お久しぶりです」


 咥えた煙草に火を着ける。

 紫煙を揺らし、男は静かに話し始めた。

 ここにいない、誰かに向かって。


「鮫島さん。鮫島さんから貰ったジッポ(これ)、私まだ使っているんですよ」


 何度見ても、酷いセンスですよね。

 松崎は肩を揺らす。右手に持つのは、髑髏の装飾が仰々しいデザインのジッポライターだ。


「部下に見せたら、派手すぎて引かれちゃいました」


 ジッポを懐に仕舞う。


「武田さん。武田さんが大好きだった日本酒、ちゃんと買ってきましたよ。“向こう”でも、ご自身の肝臓を労わってください」


 小瓶に目を向け、松崎は穏やかに諭す。

 煙草を一本箱から取り出し、石碑へ。


「東雲隊長。隊長が好きな煙草、ちゃんとここに置いておきますから」


 見せつけるように、パッケージを揺らす。紺色の中で鳩がオリーブを咥えている、特徴的な入れ物をした逸品だ。


「“昔”は煙草一本吸うのもすごく苦労しましたよね。なにせお酒同様、超高級品ですし」


 懐かしむように、松崎は続ける。


「でも、最近では煙草の値段もずいぶん落ち着いてきました。“あの時”みたいに、一本を皆で一口ずつ吸って分け合うなんて、昔話になっちゃいましたよ」


 ポケットから、木の欠片を取り出す。“香車”と書かれた将棋の駒を、置く。

 ぱちん。と、小気味のいい音が響く。


「桑原先輩。先輩が愛した日本文化も、日本も、生き残っていますよ。私が先輩に勝つことはついにありませんでしたけど、ああだこうだ話しながら打っていた局、大好きでした」


 松崎は申し訳なさそうに、自分の頬を掻いた。


「本当は川上くんにも何かお土産をと思ったんですけど、銃器大好きな君のためにここで銃出すわけにもいきませんし、それらしいのは持ってきていないんです。すいません」


 代わりに――

「これでどうか、何卒」


 一枚の写真を取り出す。ずらりと銃が並んだ、好きな者が見れば心躍る一枚だ。

 全員にあいさつを終えた松崎が、携帯灰皿に煙草をねじ込む。


「私は相変わらずそれなりにやっています。個性的な部下たちのお世話しながら、どうにかこうにか支えてもらっています。ですがまだ戦いは続いています。私の戦争は、終わっていないんです」


 一拍置き、松崎は敬礼を一つ。右肘を真横に突き出し、二の腕と地面を水平に。機敏な動きと相まって、惚れ惚れする手際だ。


「ですから、私はまだ“そちら”に行けません」


 男が、ニタリと笑った。松崎にしては珍しく、攻撃性や獰猛さを纏った笑みだ。


「“亡霊の鼻歌(ゴーストノート)”に、終わりなんてありませんから」



第百二十八章/松崎の休日9


 遠巻きから眺めていた青葉が、はてと首を傾げた。どうやら飛び降りる気はなく墓参りをしているようだったが、拭えない違和感が青葉の胸中を濁す。

 何かがおかしい。自分が知っている、何かと違う。

 メモを取りながら、松崎の風貌を大まかにスケッチする。卓越した絵心はないものの、棒人間に服を着せてそれらしく描くことならできた。

 がりがりとペンを動かし、敬礼を描き写す。


「あ」


 そこで、少女は気付いた。

 敬礼のやり方が違う。

 艦娘は海の守護者だ。よって、敬礼の方法も海軍や海で戦う者の様式に準じる。要するに肘は前に出す。掌を相手に見せないよう、手首を少し自分の方へ巻き込む。松崎の敬礼とは、似ても似つかぬ外見だ。小学生が見ても、別種のものだとわかる位に異なる。


「あのやり方は、寧ろ陸の……」


 黒が途絶える。

 青葉は「うそ」と漏らす。府を出る前にはインクもあった。現に分解して確認しても、まだ残りは潤沢にある。

 祈るような気持ちで右手を動かす。どうにかペン先を回転させ、インクを引きずり出す。


「やった!」


 歓喜の声を漏らす。

 続きを。そう思い頭を上げる。しかし、松崎の姿はない。忽然と、まるで彼自身が亡霊であったかのように消えていた。

 思わず立ち上がる。数秒前までいた男がいない。移動したとしてもたかが数秒前、完全に見失うとは思えなかった。

 背筋を伸ばし、慌ただしく首を振る。右へ左へ。視力に多少の自信を持っていた青葉だったが、男の背中はどこにも見当たらなかった。


「えええええ……」


 青葉は肩を、がくりと落した。

 はあと息を吐く。気落ちした青葉を嘲るかのように、風が髪を撫でる。


「折角ビッグニュースの予感だったのに」


 逃がした魚は大きいとよく言われるが、青葉はその意味を深く噛み締めた。確かに、悔しさも相まって実際の何十倍も惜しい。


「人探しですか?」


 気落ちしている青葉は、背後からの声に何も考えず応える。


「ええ、折角危機を冒して尾行したのに見失っちゃって……」


「それはそれは、残念ですねえ」


 ねっとりとした声が、青葉の頭に入り込む。

 どこかで聞いたことある声ですねえと思った瞬間、周囲の空気が突如冷え込んだ。

 ぞわりと、全身の産毛が凍ったような錯覚に陥る。青い瞳を下にずらす。

 血に塗れた巨鎌が、青葉の首に添えられていた。

 生唾を呑み込む。勿論幻覚だ。数秒後には、鎌が霧散していた。しかしその鎌があたかも実在していたと思い込む程度には、濃厚な恐怖が青葉の心を覆い尽くしていた。


「私も、ちょうど人を探していたところなんです」


 何度も聞いたことのある声が、少しずつ青葉に近寄る。


「こんなところでお会いするなんて奇遇ですねえ? 青葉さん」


 震えのあまり、奥歯がカチカチと鳴る。

 油が切れた錻力(ぶりき)を思わせるぎこちなさで振り向く。

 青葉の背後では見失ったはずの男――松崎がいつも通りの笑顔でそこにいた。


「ちょっとお付き合い、お願いできますかね?」


 がくがくと、青葉は頷く。

 自分の最後を悟った青葉は、胸中で別れの言葉を告げた。


 ――お父さんお母さん、先立つ不孝をお許しください。ちょっと、深入りしすぎちゃいました。





第百二十九章/松崎の休日10



 女子たちの、きゃいきゃいとはしゃぐ声が聞こえる。女子大生と思しき少女たちはスマートホンのカメラ機能で自分たちを何度もとり、忙しなくSNSへ投稿している。テーブルの中心には巨大なパンケーキが鎮座し、山のように盛られた生クリームを見るだけで青葉は言い様のない吐き気に襲われた。あれが全部自分の胃に収まったら、脳が溶けるのではないだろうか。少女は本気で、心の底からそう考えた。

 しかし世の女子たちは何がありがたいのかそれを次々に口へ放り込む。互いに写真を撮りあい、食べる片手間で写真を撮っているのか、写真のネタを集めるために食べているのか錯綜したような状況だった。テンションの差はあれど、概ねどのテーブルも同じようなものだ。

 青葉の真正面に座った男――松崎はにこにこと上機嫌だ。


「すみませんねえ。こんなところに連れ込んじゃって」


「いえ、別に……」


 尾行が露呈した青葉は、松崎に引きずられるようにしてパンケーキ店へ入った。自分の中では身体全ての骨を粉々に折られた後に簀巻きにされてどこかの海へ沈められるものかと思ったが、この展開は想像の斜め上を駆けた。

 なぜ、こんなところに。


「ずっと、こういう店に一度行ってみたいと思っていたんです」


 青葉の疑問を見透かしたように、松崎が話す。


「ですけど、やはりいい歳した男が一人というのも中々勇気がいるような気がしたもので」


 苦笑を浮かべる松崎の横に、店員が近付く。


「大変お待たせしました。こちら“エベレスト”です」


 提供されたパンケーキは、その名に恥じぬボリュームだった。

 ケーキの量は特筆するほどの事もない。しかしクリームの量が、常軌を逸していた。縦はどう控え目に見積もっても50センチはくだらない。これは人間が食べていい類のモノなのか。加えてチョコレートをはじめとして様々な色のソースがクリーム上を乱舞している。

 青葉は生まれて初めて、食べ物に対して恐怖や畏敬の念を抱いた。

 慌てて店員を見る。しかし店員はにこやかに「ごゆっくりどうぞ」と告げて去るのみだ。一瞬キッチンや店舗サイドが致命的なミスを起こしたのではないかと期待したが、そうではないらしい。店は、至極まっとうな精神状態でこれを持ってきたようだ。

 周囲もざわめく。何あれと女子の一団が漏らし、しきりにスマートホンのシャッターを切った。奇しくも自分が恐れた感情は正しいのだと、青葉は心底安心した。

 松崎が両手を合わせる。


「では、いただきます」


 松崎が両手を使い、次々にクリームを削る。勢いよく減っていくクリームを見て、青葉はただ呆然と見守る。松崎の事を面白おかしく少女たちが撮影する中、男は我関せず食べ続ける。

 蹂躙。

 この単語が、青葉の脳内で点滅する。世界最高峰の山を冠したメニューが、なす術もなく男の胃へ消える。自分は何か悪い夢でも見ているのではないだろうか。心のどこかで、青葉はこれが夢であることを願った。

 しかし青葉の祈り虚しく、松崎の蹂躙が続く。時間にして十分も経っていないだろう。大皿には何も残らず、虚無だけが寝転がっていた。

 あまりに一方的な捕食に、店内は静まり返る。たった一人で、気が遠くなるほどのクリームを胃に収めた。中には人ならざるモノを見るような目をした客もいる。寧ろそのリアクションが妥当だと、青葉は思った。

 もう一度、男は手を合わせる。


「御馳走様でした」


 軽く頭も下げ、腰を上げる。


「お会計、お願いします」


 店員がたじろぐ。放心した青葉の頬を、男の声が緩く叩いた。


「出ましょうか」




第百三十章/松崎の休日11



 次に青葉が連れてこられた場所は、地下の薄暗い店だった。嗚呼、自分はここで葬られるんだな。青葉は悟った。同時に、暗部に踏み込んで消されたときは死亡年金とかもないんだろうなと考えた。手紙では父も無理の効かない身体になってきたと聞いている。両親のために少しでも何か残せることはないだろうか。

 遺書も書かせてもらえないんだろうなあ。青葉は諦観を呑み込んだ。


「何か飲みましょうか」


 カウンター席に腰掛け、松崎が提案する。


「……はっ?」


 ここで殺されるとばかり考えていた青葉は、間の抜けた声を出す。目を丸くさせる青葉とは対照的に、松崎は慣れた様子で店員に声をかける。


「カシスオレンジで」


 青葉さんは?

 目線でそう尋ねられ、青葉は反射的に口を開いた。


「じゃ、じゃあ青葉もそれで」


 そこでようやく、青葉は周囲を見る余裕が生まれた。

 間接照明を多用し、部屋全体が薄暗いオレンジ色で満ちている。小雨のようにジャズが転がり、心をひどく落ち着けた。

 カウンターの奥では、黒い髪をオールバックに撫でつけた店員が粛々と準備を進める。店員の背後では、さまざまな酒瓶が行儀よく並んでいた。

 察するに、バーらしい。


「そんなところできょろきょろせずに、こちらに座ったらどうです?」


 松崎の誘いに、青葉は恐る恐る従った。手拭を受け取り、手を拭う。布巾を載せる皿は銀。高級感が、青葉の心をひどく場違いなものにさせた。

 笑みを崩さぬ松崎に、青葉は覚悟を込めて尋ねた。


「ここで青葉を、処分するんですか」


 きょとんと、松崎が呆ける。松崎のみならず、店員も毒気を抜かれたような顔をしていた。


「――そんなまさか」


 くくくと笑いを噛み殺しながら、松崎が答える。店員は接客業の人間という立場上笑うわけにはいかないのか、下を向いて堪えていた。

 その和やかな雰囲気に、青葉は胸を撫で下ろした。


 よかった。自分は許されたのだ。


「こんなところで始末してしまったら、私が処分したと府の面々に宣言するようなものですから」


 許されていなかった。一度は去ったはずの絶望が軽快に右手を振り、「ヤッホー」と帰ってきた。青葉としては、一生顔も見たくなかったものである。数秒の幻覚だとしても、血みどろの巨鎌が首に押し当てられるのはもう御免だ。僅かな尿意さえあれば、失禁していたくらいには恐怖を覚えたことは間違いない。


「カシスオレンジです」


 バーテンダーが、グラスを差し出す。器の中で、液体が二層に分かれていた。下の三割程度は黒。本来ならもう少し明るい色をしているのかもしれないが、照明のせいか黒に見えた。

 上部はオレンジが乗り、自分が今で親しんだカシスオレンジとは似ても似つかぬ代物だった。

 グラスを受け取った松崎が、器を目線の高さまで持ち上げる。


「乾杯」


 青葉は、たどたどしく倣う。鎮守府の中にも木曾が運営するバーがあるものの、慣れない場所のせいか緊張した。いつもの元気さが、青葉の奥へ引っ込む。

 目線をどこに定めていいのか分からないまま、青葉は逃げるような気持ちでグラスに口をつける。一口飲んで、呆気にとられた。


「美味しい」


 異様に薄いグラスを眺めながら、青葉は素直に感想を漏らした。


「太陽の味がするっていうか、オレンジの味がするっていうか……」


 言った直後に、はっと気づく。


「カシスオレンジですからオレンジですよね! 当たり前ですよね!」


 あははと大袈裟に笑い、テンションで誤魔化す。

 その様を咎めるでもなく、松崎は緩やかにグラスを置いた。


「そんなに、硬くならなくても大丈夫です」


 松崎は懐から煙草を取り出し、髑髏のジッポで火を灯す。灰皿に煙草を仮置きし、いつもの笑みを浮かべた。


「折角ですし、色々話しましょうか」



第百三十一章/松崎の休日12



 紫煙が揺れる中、松崎がバーテンダーを指差す。


「彼の事は気にしなくても大丈夫です。私の古い友人ですし、私が提督であることも知っています。青葉さんが艦娘だと露呈しても、何の問題もないですからご安心を」


 話に挙がった男が、軽く頭を下げる。


「山田です。何卒」


 青葉も、会釈を返す。

 さて。と松崎が話し始めた。


「今日は、なんで私の後ろをこそこそと尾行していたんですか?」


 カシスオレンジを口に運び、青葉は正直に話す。鎮守府を抜け出した時点で罪は重い。それに加え、相手は怪物じみた松崎だ。嘘が通用する相手とも思えなかった。


「司令官がいつもと違う服や様子でしたから、何かビッグニュースがあるのかと思ってあとを尾けました」


「収穫はありましたか?」


 松崎の問いに、青葉は難しい顔を作る。

 あったと言えば、あっただろう。


「なんというか、一層謎が深まったというかなんというか……」


 歯切れの悪い青葉に、松崎が人差し指を立てた。


「この際ですから、私でわかる範囲ならお答えしますよ」


「いいんですか!?」


 食いつきの良い青葉に、男は「ただし」と添える。


「今日見たり聞いたりしたことは、絶対に他言無用です。絶対です」


 強調する松崎に、青葉は頷くことで了承を示した。


「つかぬ事ですけど、他言しちゃった場合は……」


「生まれてきたことを、後悔していただきます」


 さらりと告げる松崎に、青葉の表情筋が硬直する。これは重大な情報があっても公開はできないな。感覚的に悟った。


第百三十二章/松崎の休日13



「司令官は、いつから青葉が尾行しているって気付いていたんですか?」


「電車乗る前には、気付いていました」


 青葉は愕然とした。気付くにしては、早すぎる。


「どうやって気づいたんですか? 後ろ振り向いたり鏡を出したりしていなかったのに」


 松崎は、なんでもないように言った。


「私には百の目と千の耳がありますから。なんでもわかります」


 やや詩的な表現を用いる松崎に、青葉は怪訝な顔を見せる。しかし事実として、尾行が露呈していることは確かだ。詳しい手段はわからないものの、それらしい何かがることだけはわかった。

 カクテルで唇を濡らす。

 これを訊いていいのだろうか。僅かな躊躇いが青葉の喉を締め上げたが、口を開く。


「公園での女性って……」


 ああ。

 松崎は恥ずかしそうに頬を掻く。


「妹です」


「……妹?」


 期待していた応えと異なり、青葉は硬直する。


「ええ。実家の妹です」


「恋人とか、奥さんじゃなかったんですか?」


「青葉さんは面白い事を仰いますね」


 松崎は握り拳を、口元に当てる。


「私に結婚願望はありませんし、そうしたものは遥か昔にどこかへ忘れてしまったモノでして」


「妹さんなら特に気にせず、軽く元気な様子を見せに行けばいいんじゃないですか?」


「それができれば、理想なんですがね」


 バーカウンターに視線を落とす。サックスのソロが、沈黙を彩る。

 深く入りすぎたか。そう考え始めた青葉に、松崎は話し始めた。


「私は“亡霊”なんです。本来なら、生きていない人間ですから」


 どういうことだ。

 意味を図りかねる青葉に対し、男は言葉を重ねる。


「過去に、私は任務上殉職した扱いになっていますから。そんな人間が今更しれっと現れて、混乱させることはあまりに忍びない」


 元気であることも確認できましたし、それ以上は望みません。

 軽やかに締めくくった松崎に、青葉は何も言えなかった。



第百三十三章/松崎の休日14


「任務上殉職って、どういうことなんですか? 今は生きているじゃないですか」


 まさか本当に亡霊なのではないか。青葉は一瞬本気で考える。この男なら、それもあり得ると思えてしまうことが何より怖かった。


「そもそも――」


 青葉は質問を重ねる。


「司令官は一体、何者なんですか? 日中の敬礼は、青葉たちのモノとは明らかに違っていました。どういった経緯(いきさつ)で司令官になっているのか、そう言った基本的なことすら、青葉たちは知らないままなんです」


 青葉の目には、怯えや迷いがなかった。

 もっと知りたい、この男の事を。その思いで、視線が定まる。


「青葉さん」


 松崎が、困ったように右手を揺らす。


「こういったことは、知らなくても業務に支障がありませんし」


「ですが、司令官でわかる範囲ならお答えいただけるってさっき聞きました」


 青葉は食い下がった。

 ふう。と息を吐く。カシスオレンジを飲み干し、男は尋ねる。


「何が、青葉さんをそこまで駆り立てるんです? 誰かの知られたくない過去を面白おかしく書き立てたい、ジャーナリズム精神ですか?」


 松崎にしては、珍しい皮肉だ。グラスの縁を親指でなぞる。

 数秒沈黙した青葉が、静かに言葉を紡ぐ。


「初めは、そのつもりでした」


 素直に打ち明ける。


「司令官の面白い何かを暴いてやろうと、最初は思っていました」


 グラスを呷り、空に。


「ですけど、今日司令官を見て思ったんです。司令官も人間なんだって。一緒に命を預け合う人間の事を全く知らないなんて、寂しいじゃないですか」


 一呼吸挟む。


「だから知りたいんです。司令官の事。他のみんなは知らないことになったとしても、青葉だけは、司令官の事を、ありのままの司令官を、見てあげたいんです」


 松崎を真正面から見つめる青葉に、男の方が折れた。適当なウィスキーを頼み、口に含んだ。

 細い左目で、バーテンダーを見やる。

 バーテンダーの山田は、落ち着いた声で松崎の背を押した。


「話してもいいんじゃないのか。お前が信用できると感じたら」


 松崎は、二本目の煙草を取り出す。

 火を灯し、突き放すように話した。


「驕りが過ぎますよ。青葉さん」


 ぐっと、少女はたじろぐ。


「ですが」


 紫煙を吐き、松崎が付け足す。


「松崎少将ではなく、ただの男である松崎の過去なら多少お話ししましょう」


「お前も素直じゃないな」


 からかってきた山田に対し、松崎がむっと無間に皺を寄せた。鎮守府の中では絶対に見ることができない、力の抜けた素の表情だった。

 軽い咳払いを挟み、松崎が口を開いた。


「先程の条件でもいいのなら、何でもお答えします」


 煙を吐く。紫煙が、男の顔をぼかすように大気へ溶けた。


「どうぞ。何なりと」


 松崎の了承を得た青葉が、今日の目的を尋ねる。


「今日は、妹さんに会うことが目的ではなかったんですか?」


 男は顎を引く。


「アレは私の心がぶれなかったら、という謂わばオマケです。本来やりたかったことは、しっかりできましたから」


 ウィスキーで唇を濡らす。

 グラスの空いた青葉に、山田が次の一杯を滑らせる。


「ささやかですが、私からのサービスです。チャイナブルーというカクテルで、アルコール度数も少ないのでご安心ください」


 低い声で告げたバーテンダーに、少女が軽く頭を下げた。


「そんな、わざわざありがとうございます」


「礼を言いたいのは寧ろこっちです」


 山田が目尻に皺を作る。綺麗な歯を見せ、松崎を指差した。


「偶然とはいえ、こいつが部下を連れてきてくれるなんて夢のように嬉しい事ですし。たまに来る時も昔の思い出話ばかりで、自分の事を全然話さない男ですから」


 せめてものお礼です。

 そう付け加え、グラスを差し出す。淡い青をした、透き通ったカクテルだ。

 おずおずと、口をつける。ライチの爽やかな味が、喉に風を送る。

 一息ついて、話を戻した。


「じゃあ、今日の目的って……」


 言葉尻を濁した青葉に、松崎は胸ポケットから一枚の写真を取り出す。加えて服の内に提げていたドッグタグを、カウンターの上へ置いた。


「墓参りですよ。戦友たちの」


 吐いた煙が、渦を巻く。名残惜しそうに消える紫煙を、松崎は穏やかに見届けた。


「司令官は、どこから来た人なんですか?」


「コウノトリに運ばれて……なんて冗談を期待してはいませんよね」


 冗句を添えて、松崎は話し始める。


「なんとなく御察しはついていらっしゃると思いますが、私は陸軍の人間でした。ですけど、実際に所属していたのは一年にも満たなかったと思います」


「なら、どこにいたんですか?」


 青葉の真っ当な質問に、松崎が煙草を灰皿へ。

 浅く息を吸い、静かに尋ねた。


「“ゴーストノート”という言葉を、ご存知ですか?」


「ごーすとのーと……?」


 首を傾げた青葉に、松崎が人差し指を立てる。


「私も詳しくないんですが、どうやら音楽用語の一種だそうです。楽譜には載っていない、しかし存在する音。陸軍から引き抜かれた私は、“対深海棲艦特殊改造深化小隊”――まあこれを私たちは面白がって亡霊の鼻歌(ゴーストノート)と呼んでいましたが、そこで戦っていました」


「そんな部隊、青葉は聞いたこともありませんでした」


 ごもっともだと思います。

 松崎は軽く答えた。


「艦娘の歴史について、どのくらいご存知ですか?」


「精々、教科書レベルとちょっとネットで齧った程度の知識です」


 正直に答えた青葉に、松崎は微笑んだ。


「学校では多分、『深海棲艦という怪物が出現し、数年後に艦娘が生まれた』くらいのモノでしょうか」


 松崎の予想に、青葉は首肯で是とする。


「そんな都合のいいことが、あるんでしょうかね」


 唐突に、男が声のトーンを落とした。


「常識的に考えてみてください。例え深海棲艦に対抗できる術があったとして、それをいきなり今まで戦ったことのない女性や少女に適応させると思いますか? 普通、戦う覚悟ができている軍人や気概を持った男が優先されると思いませんか?」


 松崎の問いかけに、青葉は至りたくない考えに手を伸ばす。


「それって、要は実験台があったってことですか?」


 ご明察。

 そう答え、松崎は酒を含む。


「そしてそれが私たち――ゴーストノートです」


 右手の開閉を繰り返し、男は話す。


「今でこそ艦娘は深海棲艦の心臓を核とし、そこから作られる“艤装”で戦うことができていますが当時はそんなに便利なものではなかったんです」


 毒を以て毒を食らう。

 そう告げ、自身の胸元を指差した。


「故に私たちは、深海棲艦の一部を自身の身体に移植させます。その力を随時引き出し、戦いました。中には拒否反応が強く、前線に出る前の死亡率は九割以上だったと聞きます。しかし生きている人間にそのような施術をすることは非倫理的でしたから、書類上殉職の扱いとし、私たちは亡霊として戦うことになっていたんです」


 居ないはずの死霊が、戦場で歌う。

 故に亡霊の鼻歌、ゴーストノート。


「――そんなことが許されて」


「ひどい話だと思いますか?」


 青葉の言葉を横切り、松崎は話す。


「でも、そうするしかなかったんです。当時は今みたいな余裕がなく、国や家族が踏み荒らされる可能性だってありましたから。とにかく使えそうな人間に手術を施し、使い捨て同然の戦いを強いられていました。そういう時代だったんです」


 写真を、青葉の元へ滑らせる。束の間の安息だったのだろうか。六人の男たちは全員眩しいほどの笑顔で、肩を組み合っている。今とあまりに違う松崎の態度に、青葉は一瞬誰か認識できなかった。しかし特徴的な前髪が、松崎を松崎として認知させていた。


「私たち六人はあらゆる戦場を転々とし、戦ってきました。勿論完全に非公式で暗黒の舞台ですから、どれだけ戦っても表彰されることはありませんでしたが」


 冗談めかして肩を揺らせた松崎に、青葉は問う。


「司令官以外の皆さんは……」


「今は“向こう”で、安らかに眠っています」


 その一言で、察した。

 松崎が、最後の一人であることを。


「正直、提督の話が来た時も断ろうと思っていました。なにせ一度死んだ身ですし、艦娘の出現によって戦況も比較的安定していましたから。私が無理に出しゃばる必要がありませんでしたしね」


 ですが――

 男は言葉を重ねる。五枚のドッグタグに指を絡ませ、どこか遠くへ顔を向けた。


「志半ばで夭折した仲間が愛した日本の為にも、私にまだできることがあるのなら。そういった気持ちで今の職に就いています。まあ断れば殺されていたでしょうしね」


 上手にできているのかは分かりませんけど。

 男は気恥ずかしそうに笑った。肩から力が抜けた、松崎の素顔だった。


「いつも、そうやって自分を出していけばいいと思うんですけど」


 青葉の指摘に、松崎は首を横へ。


「今の方が、何かと都合がいいんです。必要以上に相手を踏み込ませると情が移ってしまいますし、それは何かあった時に致命的な弱みになりえます。ですから私の身に何かあった時にはさっぱり切り捨ててもらえるよう、一定の距離を置くべきです。それが艦娘の皆さんにとっても鎮守府にとっても、ベストだと思います」


「でも、それって寂しいじゃないですか」


「寂しいとか寂しくないとか、単純な問題ではありません」


 松崎は切り捨てる。


「本来私は亡霊ですから。いつ消えても良いようにしているにすぎません。その一環として後進の育成だって急務です。私が居なくなってからも続く鎮守府を、作らねばなりません」


「そんなこと聞きたいんじゃありません!」


 青葉が、声を張り上げた。

 唐突な音量に、山田が勢いよく振り向く。叩き斬られた沈黙に、ジャズの鼓動が上滑りを起こした。白々しく、ギターの柔らかいソロが響く。


「じゃあ司令官はいいんですか!? 自分を押し込んでまで、誰にも言えない何かを抱えたまま消えてもいいんですか!?」


 青葉は嫌です!

 力強く、少女が目を開く。


「もっと仲間を頼っていいじゃないですか! 弱みを見せてもいいじゃないですか! 亡霊だって幽霊だって、青葉たちにとっては仲間です!」


 少女が言いきる。

 松崎は、しばし唖然としていた。

 直後、青葉はさっと顔を青ざめさせた。酒の勢いもあったかもしれない。しかし上官――まして鎮守府のトップに食って掛かるような物言いは、明らかにやりすぎと言えた。

 心拍数が跳ね上がる。

 松崎が右手を挙げる。殴り飛ばされるか。びくりと肩を強張らせる青葉の心境を裏切るように、男は自身の後頭部を掻いた。


「まさか、この年になって部下からお説教を喰らうとは」


 参りましたね。と松崎は呟く。


「お前も説教喰らうことなんてあるのか」


 山田がカラカラと笑う。

 松崎が、苦い笑みを浮かべた。


「私も、まだまだですね」


 ですが――


「所詮理想論。ですがその理想が私にとって、嬉しい言葉であったことは事実です。ありがとうございますね、青葉さん」


 松崎が歯を見せる。その顔に、青葉は目を丸くさせた。五年務めている青葉だったが、こうした笑い方を初めて見たような気がした。いつも口の端を釣り上げ、薄気味悪い笑みしか作らなかったために斬新だ。


「あ、いえ……こっちこそ出過ぎた真似を」


「まあ、これからも自分を出すことなんてする予定ないんですけどもね」


「ファッ!?」


 青葉が声を裏返す。


「この流れでそれに行きつくんですか!? 青葉驚きのあまり変な声出ちゃったじゃないですか!」


 もう一度、松崎が白い歯を見せる。


「青葉さんに知っていただいているだけで、私はもう十分報われています」


 その一言に、青葉が頬を軽く染める。


「その言い方は、ちょっと卑怯です」


「『卑怯』が服を着て歩いているようなものですから」


 松崎は軽く答える。


「それに、私はまだ死ぬわけにはいきませんから」


 ドッグタグを首に提げる。


「彼らは歴史の澱に消えたモノ。私だけが、この五人の生き様や最期を知っている人間ですから。彼らが命を賭して守ったことを見届けるためにも、そう簡単に死ぬ気はありませんから」


 松崎が腰を上げる。「そろそろいい時間ですし、お暇(いとま)しましょう」


 会計を済ませた松崎の背へ、山田が声をかけた。


「今度は部下、全員連れてきてもいいぞ」


 冗談めかして笑う山田に、松崎は背中越しに告げた。


「いつか全てが終わって静かな海になったら、それも検討しておきましょう」


 店を出て、空を見上げる。入店時に比べ、闇が完全に降りていた。

 そこで、松崎がふと思い出す。


「それはそうと青葉さん、帰ったら反省文の提出をお願いしますね」


「……えっ?」


 青葉がキョトンとする。


「鎮守府から脱走するのは本来殺処分級の不届きです。ですが私は寛大なので、原稿用紙二百枚で特別に赦してあげます」


 唖然とした青葉が、勢いで吐いた。


「鬼! 悪魔!」


 松崎がニッと笑う。子供のように、あどけなさを残した顔だ。


「私、なにせ亡霊ですから」



第百二十九章/禁煙パラダイスロスト




「今日は禁煙デーです。そのことを十二分に留意し、お勤めを果たしてください。以上」


 朝礼を、松崎が軽やかに締めくくった。

 主要艦たちの返事を境に、少女たちがぞろぞろと執務室を去る。


「今日は随分と、ご機嫌でしたね」


 大淀の声に、松崎は「それほどでも」と応える。先日提出された師匠級六人の反省文に目を通しながら、コーヒーカップへ砂糖を落とす。怒涛の勢いで砂糖が黒へ溶けるさまは、見ていて吐き気を催した。


「毎回思いますけど、そんなに砂糖摂取していたらそのうち死にますよ。糖尿病で」


「私にとっては、これでも足りないくらいです」


「ついに最後の砦である味覚も壊れたんですか」


「さも他の部分はすでに壊れているような物言いはお辞め頂きたい」


 大淀の辛辣なコメントへ、松崎は冷静に切り返す。

 砂糖珈琲を飲み、松崎は笑みを深める。


「そう言えば」


 松崎が大淀を向く。彼女は秘書艦用の机で書類を捌いている。毎日尋常ならざる数の書類と格闘している大淀だが、今日は桁を間違えているのではないかというくらいに山積みだった。


「大淀さんも、今日は煙草を控えてくださいね」


 その一言に、大淀がばっと振り向く。そのはずみで、眼鏡がずれる。


「知っていたんですか」


 勿論。

 松崎はさらりと答える。


「私には百の目と千の耳がありますから。そのくらい耳に入ってきます」


 差し詰めお抱えの潜水艦娘たちに見張りでもさせているのだろう。誰にも見られていない自信があったために、薄気味悪さが尋常ではない。


「あと、煙草の匂いもありますしね」


「えっ」


 大淀は反射的に、鼻に袖を押し当てた。臭いがつくほど吸ってはいないはずだ。そのために、わざわざ匂いが少ない銘柄を選んでいる。この男は、警察犬以上の嗅覚があるんだろうか。大淀は本気で考えた。


「嘘ですよ」


「……ちっ」


 冗談か。大淀は迷いなく舌打ちを放った。あえて聞こえるよう、出力最大の舌打ちである。


「一応上司の前でそのような態度はご遠慮ください」


 穏やかに諭す松崎に、大淀が態度を切り替える。


「というか今日の喫煙デー、絶対に守らない人がいると思いますけど」


 大淀の懸念を、松崎は笑顔で受け止めた。


「でしょうね。奇しくも私だって同じ考えです」


 言いながら、机上に備え付けられているマイクをたぐり寄せる。鎮守府全体のスピーカーで出力される、いわば全体放送用の機器である。


「そんなこともあろうかと、今日はちょっと趣向を凝らせてみました」


 喫煙所に訪れた北上は、「うげえ」と声を漏らした。唇の端を下げ、不満げな様子を存分に晒す。煙草を吸おうと喫煙所に向かえば、公共用の大きな灰皿が撤去されていた。軽い足取りで煙草を吸いに来たというのに、吸わせてもらえないとは何事か。北上は、がくりと肩を落とした。


「ま、このくらいでへこたれる北上さまじゃないんだけどね」


 ベンチに腰掛け、ポケットを漁る。引き抜いた右手には、携帯灰皿が握られていた。


「まっちゃんが考えることなんてお見通しなんだよねえ」


 意気揚々と煙草を咥える。安いライターで火を灯し、煙を吸う。

 癌の素を肺に満たし、北上は大きく息を吐いた。その爽やかさは、暑い日に冷えたビールを飲んだ音吐に似ている。


「あー。禁煙デーに吸う煙草、サイコーに美味いわー」


 北上は満面の笑みを浮かべる。煙を揺らしながら、目線を上へ。北上の晴れやかな気持ちを映すかの如く、空は一面の蒼だった。


「北上先輩」


 自分の名を呼ばれ、北上は顔を左へ。そこには翔鳳型二番艦――“瑞鳳”が呆れた顔をして立っていた。半眼で、腰に手を当てている。

 軽を含めた空母組にしてはメリハリに欠ける身体とあどけない外見だけ見れば中学生に見えてしまう瑞鳳だが、艦娘歴は四年目だ。それなりのキャリアを踏み、戦績も申し分ない中堅だ。


「今日、禁煙デーなんですけど」


「ん、知ってる」


 北上はいけしゃあしゃあと答えた。見せつけうように、煙を吐く。


「禁煙デーだからこそ、煙草の旨みが一層肺に染みるよねえ」


 ずーちゃんも吸いなよ。

 北上の提案を、瑞鳳は拒んだ。両腕をクロスさせ、首を振る。


「今日禁煙デーですし、あの提督の事なんで破ったら何があるか」


 大丈夫大丈夫。

 北上は軽く笑い飛ばした。


「何もないって。寧ろ何をするっていうのさ」


 いつもは煙草を嗜む瑞鳳も、この時ばかりは強情だった。毎年禁煙デーはあるものの、北上は守ったことがない。加えて大した罰則も用意されていない為、怯える必要性もない。所詮、形だけのポージングだ。


 北上は、そう思っていた。


「えー、あー。テステス」


 府内スピーカーから、男の声が聞こえる。少し高い、松崎の声だ。


「皆さん、今日はご存知の通り鎮守府禁煙デーとなっております。しかしどうやらお一人、ルールを守らず喫煙するなどという不届きな艦娘がいる、との情報を入手いたしました」


 北上は煙草を咥えながら、やれやれと息を吐く。


「そんな奴、艦娘の風上にも置けないよね」


「一応言っておきますけど、多分先輩の事だと思います」


 瑞鳳の冷静な指摘に、北上はにへらと笑う。


「確かに」


「というわけで」


 どういうわけなのか知る由もないが、松崎は一際明るい声をスピーカーに載せた。


「四年目以下の艦娘で北上さんを捕獲、あるいは北上さんの煙草を押収できた方には特別任務手当として私のポケットマネーから十万円を差し上げようと思います。ちなみに十人で協力して捕まえ山分けして十等分など、裁量は各々にお任せしますので。五年目以上の皆さんは申し訳ありませんが、各自演習や任務の続行をお願いします」


 では。

 松崎が朗々と宣言する。


「緊急任務――“北上さんハント”執行といたします」


 放送が終わると同時に、鎮守府全体に緊張が走った。

 どこからともなく、慌ただしく駆けずり回る音や怒声が聞こえる。


 探せ、見つけろ。

 どこにいるんだ。

 殺す気で捕まえるぞ。どうせ死なないんだ。


 北上はそっと、煙草を携帯灰皿に押し込んだ。その場から去ろうと腰を上げた瞬間、瑞鳳と目が合う。

 これはまずい。

 北上は直感した。

 素早く構え、瑞鳳を睨む。


「まさかずーちゃん、あたしを捕まえるなんて間抜けなコト考えてないだろうね」


 いやいや。

 瑞鳳はにこにこしている。


「私一人で北上さんに勝てるわけありませんし」


 その言い方に、違和感を抱いた瞬間だった。


「こっちだああああああああああああ!」


 瑞鳳の幼児体型からは想像できないほどの大音量が、宿舎や演習場へ吸い込まれていった。


「ああああ!」


 北上が慌てて、必殺のボディブローを瑞鳳の腹へ捻じ込む。もろに受けた瑞鳳は、なす術もなく膝から崩れ落ちた。

 瑞鳳の意識が途切れていることを確認し、踵を返す。


 まっちゃんいつか殺す。


 その決意を胸に、北上の逃走劇は幕を開けた。


 鎮守府内を北上は駆ける。五年目以上の艦娘たちはそこまで大きな関心を寄せていないようだったが、四年目以下の執念は凄まじいものがあった。普段の振る舞いからは想像できないほど殺気立ち、北上を追っている。

 木陰に隠れながら、北上は周囲の様子を窺う。どこを見ても、北上を追う若手たちで一杯だ。

 随分面倒くさいことになったなあ。北上は煙草の箱を取り出す。そこで、ふと気が付いた。


 ――どうせ狙いはお金なんだし、この煙草放り投げて終わりでいいんじゃない?


 考えてみればこの結論に尽きる。別に北上を捕獲するだけが全てではない。煙草の箱を餌のように投げ、後は逃げてしまえば大団円だ。直後に煙草の箱を巡って地獄絵図が展開されるものの、北上にとっては大団円であることは間違いない。なにせ脅威が去るのだ。若手がどうなろうと北上の範疇ではない。

 よし。

 不毛な逃走劇を断ち切るべく、北上が木陰から飛び出る。


「お前たちが欲しいのはこれだろ!」


 高らかに告げ、四年目以下の注目を集める。見せびらかすように煙草の箱を掲げる。


「あー、あー。テステス」


 その間を、松崎の声が割って入った。若手たちの顔が、スピーカーを向く。何事かと、北上も動作を止めた。


「そろそろ北上さんが煙草を手放す頃合いですので、急遽ルールを変更します」


 まさしくこのタイミングである。

 アイツには百の目と千の耳でもあるんじゃないか。北上は当てはないがそう思った。


「この瞬間から、煙草の箱に対する懸賞金は五万円とします。それに伴い、北上さんご本人を捕獲した際は十五万円とします。ちなみに期限は今日の午後五時――ヒトナナマルマルまでとします」


 では。

 軽い理調子で松崎は放送を切る。

 放送の終わりを見届け、北上は煙草をポケットに仕舞った。こうなってしまっては、たとえ五万円だろうと絶対に自分の元へ攻め込んでくるはずだ。

 四年目以下の目が炯々と輝く。

 ま、そりゃそうだよね。

 誰に言うでもなく呟き、速攻で身を翻す。


「やれ!」


 鋭い声が飛ぶ。それすら置き去る勢いで、北上は駆けた。


「まっちゃんいつか絶対殺す!」


 正午過ぎ、北上は面倒な一団とエンカウントした。最上と三隈ペアである。


「やった、僕たちついてるね!」


 はつらつとした最上の声に、三隈が頷く。


「ええもがみん、これで十五万円も手に入れたと同然ですわ」


 二人が素早く構える。芝生が茂る休息所だ、多少手荒に投げてもコンクリートやアスファルトにぶつかっても大丈夫だろう。北上はそれだけが心配だったため、安心した。松崎の戯れで誰かをうっかり殺すことは、あまりに忍びない。北上も、気乗りしない身体を奮い立たせる。


「北上さん、一応確認ですけども……」


 三隈が控え目に尋ねる。


「三隈ももがみんも、手荒に扱うつもりはありません。このまま大人しく捕まってもらえると、大変助かります」


 穏やかでいかにも育ちのいい、やんわりとした提案だ。確かに三隈の言う通り、抵抗せずに大人しく捕まれば面倒事もない。

 しかし北上は、鼻を鳴らした。


「生憎、あたしはそんなに素直じゃないからね」


 何より――

 続けながら、ボクシングのステップを刻んだ。


「あたし捕まえた十五万円で豪遊なんて、気に食わないんだよねえ!」


 吠える。犬歯を見せる北上に、最上がニコリと笑った。スポーツ少女然とした、爽やかでありながら女らしさを備えた笑みだ。


「さすが北上さん、そう来なくちゃ!」


 最上は腰を落とし、左足を前へ。左腕の前腕部を立て、左上腕や肩を庇うように据える。右手はボクシングの元祖も言える、右頬に添えた。

 小刻みなステップで、北上は距離を目測する。一番避けたいことは、挟まれることだった。三隈が最上から遠ざかり、それとなく包囲網を広げる。二者と自分の距離が均一になるよう、北上も位置をずらす。しかしこのままではいつか挟まれる。その前に、片方にある程度の打撃を与えておきたい。

 呼吸を絞り、集中する。

 勝負は数分。加えてこの騒ぎを聞き付けた獣がやってきたら、大混戦は避けられない。地獄の窯が大口を開けることは、目に見えていた。


 三分だ。


 北上は覚悟を決める。三分以内にこの二人を沈めなければ、地獄で踊ることになる。

 目標を定め、感覚を尖らせる。

 風が凪いだ。草木も泣き止み、一瞬だけ、世界が凍結した錯覚を覚える。

 その沈黙を裂くようにして、三隈が右足を爆発させた。


 ――来るッ!


 大気を貫く、三隈の突きが北上を襲った。音すら忘れる、高速のストレート。迫り来る縦の拳を、北上はスウェーでやり過ごした。回避は睦月の感覚が常識外れに鋭かったためであり、誰にでもできるわけではない。その点において睦月は、すでに北上が到底得られない天性を兼ねていると言ってもよかった。

 三隈の拳が、北上のガードを浅く削る。多少のダメージは必要経費と割り切っていたため、北上は甘んじて受けた。

 一番避けたことはどちらかの腕を捕捉され、詰将棋のようにできることをじわじわ制限されることだ。

 截拳道は詠春拳からの流れを受け継いでおり、その中で相手の攻撃を制限しながら攻撃する技もある。小股一歩未満の間合いにおいて、一対一で三隈はほぼ最強と言っても差し支えなかった。それほどにまで、截拳道とは攻撃的で実用性に長けている。

 さがった北上に、三隈が距離を詰める。三隈のパンチに合わせ、北上は左手を前へ。三隈の右前腕部に触れ、力を外に逃し、軌道を逸らした。

 通常であれば、外した攻撃を修正するために右手を取り下げる。しかし三隈はあろうことか右前腕部を北上に制することを許したまま、一歩踏み込んだ。前腕部を力ずくで、北上に押し付ける。北上も切り返すために左前腕部を当てる。傍から見れば、彼我の前腕部で鍔迫り合いをしているようにも見えた。


「黐手(チーサオ)か……ッ!」


 北上が呻く。できる限り避けたい局面が、牙を剥いて襲い掛かってきた。


「くまりんこは見かけによらず、随分強引だね」


 北上の軽口に、三隈は上品に応える。


「三隈、押しの強さには一家言ありますの」


 三隈は左手もけしかける。同じように前腕部をぶつけ合い、両者は沈黙した。詠春拳特有の、黐手(チーサオ)と呼ばれるトレーニング術だ。互いに身体の一部分をつけあうことで挙動の前触れを察知し、錬度が高くなるにつれて最適な行動解を事前に得ることができる。この状態が長引けば黐手(チーサオ)に関して上手の三隈が、北上の癖を把握するのも時間の問題だ。

両者前腕部を押し付け合いながら、行動を図る。見ようによっては、オスのシカが角をぶつけ合っている姿にも見えた。

 拮抗を演じる。

 三隈が前に、北上は後ろに。

 北上が前に、三隈は後ろに。

 一対一であれば、不利であることは変わらないが長期戦も辞さない。しかし今は数に劣る。一刻でも早く、この膠着を振りほどくことが先決だ。

 攻めるか。

 自分の中に潜む、自分が囁く。

 やるしかない。北上は覚悟を決めた。

 北上は右手を下げる。これで、片腕だけの黐手(チーサオ)だ。

 突然の挙動に、三隈は眉をひそめる。


「三隈の黐手(チーサオ)が怖いんですの?」


「うん」


 少女の挑発を、正面から肯定する。


「今のくまりんこ黐手(チーサオ)で絶対殺すマンだからさ、あたしはあたしのやり方で沈めさせてもらうね」


 左腕に力を込める。上半身だけで三隈を圧倒することは不可能。北上は誰よりもそれを自覚していた。戦艦クラスの剛力があればそれも夢ではない。しかし北上は腕力や耐久性にも劣る艦種だ。力だけでは、どうにもならない。

 片腕だけの黐手で、双方は様子を窺いあう。じりじりと、日焼けのような感覚が北上の頬を焦がした。三隈の身体を視線が抜ける。最上は囲むようなこともせず、いつでも飛び出せるよう二人を見守っていた。

 北上は左足を前に。それに合わせ、左腕もぐいと押す。身体の左側面を押し付けるように、一歩。


「焦れましたね!」


 三隈がにやりと笑った。そのまま自身の身体を、背後にスライドさせる。それを見計らい、北上は左足に力を込めた。先程まで押し込んでいた勢いを、一気に殺す。違和感に気付いた三隈が、目を見開いた。

 当然だ。釣れたと思っていたら唐突に手ごたえが消失し、自分の十八番が崩れ去る。今の拮抗を再構築しようと三隈が右腕を前へ差し向ける。一瞬だけ力が釣り合っていたものの、突如北上の抵抗が消えた。

 え。

 と思うより早く、北上の右手は三隈の右手首を掴む。


「まだまだ青いね、くまりんこも」


 眼前の蛇がニタリと笑い、牙を見せた。


 北上は右腕を強く引く。左右の足を滑らせ、三隈の右側へ回り込む。右脚を軽く跳ねあげ、左足を鉄棒の逆上がりじみた勢いで蹴りあげる。回し蹴りのような勢いで、三隈の頭を左脚が跨いだ。瞬時に左足の高度を下げ、左膝窩(しつか)――膝の裏で三隈の首を引っ掛ける。

 行ける。

 その確信と共に、右脚を上げて左脚と絡ませる。両脚で三隈の首を挟み込む形へ持ち込み、腹筋が唸る。

 北上の上半身が腹筋と勢いの力で、三隈の背中――広背筋へ迫る。蛇のように絡み付いた。 体勢の崩れた三隈が、遠心力に抗う力を持ち合わせているわけがない。前転するように三隈の腰が前に折れ、芝生に腰を打ち付けた。安全なフィールドでなければ、尾骶骨を砕きかねない技である。

 間一髪受け身を取って衝撃を軽減した三隈に、北上は挟み込んだままの両脚をギリギリと絞める。いつもは余裕に満ちた三隈の表情が切羽詰まったものとなり、首の拘束を解こうと躍起になる。

 それを許すほど、北上は甘くない。


「ちょっと眠ってて!」


 疎かになった腹部へ、左拳を叩き込む。技術やノウハウを完全に無視した、威力極大偏重のハンマーパンチだ。


「おぼっ……」


 三隈の脚がびくんと跳ねる。直後に脱力し、完全に仕留めたことを確信させた。


「くまりんこ!」


 最上が慌てて駆ける。先の技は時間にして二秒。あまりにダイナミックな攻撃を前に、最上の足が遅れた。

 さあ次だ。北上は脚を解き、腰を上げる。

 しかし唐突に背後から掴まれた引力で、不覚にも腰を芝生に落とす。尻餅をついて多少痛いものの、それどころではなかった。

 雷神が目の前に迫っている。

 何事だ。振り向けば、三隈の右腕が北上のセーラー服の端を握っていた。


「もがみんと一緒に、可愛い服をいっぱい買うんですの……!」


 なんという執念。なんという根性。

 完全にシャットダウンしかけた意識を無理矢理繋ぎ、北上の体勢を崩した。この状態から最上の破壊衝動をやり過ごすは、無理だ。如何に技術力があれど、それは発揮できるコンディションに身を置いているときに真価が出る。ぺったりと腰を降ろしている状態では、捌くことも絡め取ることもできなかった。


「行くよ!」


 最上の右足が消える。

 反射的に、北上は両腕を交差させた。


 轟。

 と雷鳴じみた脚撃が、北上の右側頭部を掠めた。正面から当たっていたらどれほどのものか。考えるだけで、心臓が早鐘を打った。遅れて、冷や汗が噴き出る。


 外した?


 少女は眉根を寄せる。北上は尻餅をついており、最上程度の錬度を持っていれば、通常外すようなことはない。

 何があった。

 そう思いガードを下げると、最上はバタバタと忙しなくもがいていた。見れば、顔に白い紙が数枚貼りついている。


「なにこれ……なにこれ!?」


 最上は顔に着いた紙を引き剥がす。本人にとっても完全に予想外の襲撃だったらしく、あからさまに狼狽していた。

 北上は目を凝らす。最上の顔に張り付いているそれを、自分はどこかで見たことある。正確には龍驤が、よく使っていたものだ。


「――式神?」


「よォ北上チャン。随分ピンチなんじゃない?」


 声に引かれ、顔を後ろへ。長身の女が、ニタニタと北上を見下ろしていた。

 陰陽型の意匠をあしらった、特徴的なデザインの服である。緋色の袴がベースの飛鷹型2番艦軽空母――“隼鷹”だ。鋭い目つきと常に悪巧みを考えているように思われる精悍な顔つきは、鷹よりも鴉と称した方がしっくりくる。七年目の、ベテランだ。


「どうも、助かりました」


 北上の礼に、隼鷹は「いいってことよ」と返す。懐からスキットルを取り出し、口をつけた。

 銀色をし、映画では外国人がよく蒸留酒を入れて外出先で携帯している水筒だ。隼鷹はそれに、常にお気に入りの酒を入れている。数多い艦娘でも、余りある戦果によって例外的に勤務時間中に飲酒を許可されている麒麟児でもある。軽空母に関して理解の浅い北上でも、あの龍驤が隼鷹を“天才”と言ったなら信じるしかない。


「助けてほしい?」


「いえ」


 北上は即答した。


「ありがたいですけどこれはあたしの問題ですし、隼鷹さんに頼んだら何せびられるか分かったもんじゃないですから」


「つれないねえ北上チャンも、まるであたしがゴミを啄む鴉みたいな言い方しちゃってさ」


 実際そうでしょ。そう言ってやりたい衝動を抑え、立ち上がる。三隈の意識は途切れたらしい、楽に立ち上がることができた。

 いつの間にか、最上も戦線に復帰していた。しかし体勢の整った北上へ攻撃できるのか。顔には、明らかな迷いが浮かんでいた。


「というか隼鷹さん、何の目的でこんなところに。あと七年目なんであたし捕まえても無効ですよ」


「あたし今日、オフなんだよね」


 で、と続ける。


「ヒマしてたら北上チャンが困ってるっぽいし、ここは優しいあたしが救いの手を指し伸ばしてあげようじゃないかってね。北上チャン助けるのに、年齢のルールは発表されてないし」


「よく言いますね」


 北上は苦笑を浮かべた。


「なんにせよ、一回目助けていただいたのは感謝していますよ。でもそれ以降は良いですから」


 言い終わり、構える。最上を蹴散らし、遁走する。まずはこれを遂行せねばなるまい。あとのことは後で考えたらいい。

 呼吸を整え、最上を見据える。

 そこで、北上は後方から重圧を感じた。背後で立つ隼鷹のモノではない。さらに遠く、走って向かってきている。

 収斂された暴力。衝動が服を着て歩く。そう形容しても差し支えないほどの重圧と気配が、高波のように押し寄せていた。


「北上……」


 低い声で、女が唸る。

 身長百七十センチ後半、黒い髪をなびかせた長門型一番艦の戦艦――“長門”だ。アスリート然とした肢体に引き締まった筋肉は、ギリシアの彫刻師が魂を削って彫ったと言われても納得するほどの美しさである。特に腹筋の凹凸が際立ち、見る者の羨望を集める。

 艦娘歴十年目の、戦艦部門のエースだ。

 バキバキと指を鳴らしながら、長門が歩く。それだけで木々が恐怖で泣き喚き、舗装された通路に亀裂が入るような迫力だ。


「貴様に恨みはないが、沈んでもらおう。十五万はこの長門が頂くぞ。ついでに煙草の五万円もだ」


「ちょっと待って」


 冷や汗が止まらない。北上は必死に右手を出して、待ったをかける。


「まずいから。ここでゴリラ放し飼いにしたら全員死ぬから」


 先程まで北上と戦おうとしていた最上も、長門の登場により完全に意識を逸らしていた。北上への戦意も完全に根元から折られ、今は長門の一挙手一投足に全神経を注いでいる有り様だ。


「あっさり捕まるのは癪なんだけど、ゴリラ相手に生きて帰れる気もしないんだよねえ」


「長門さん十年目ですよね!? この戦いは無効ですよ!? 戦っちゃダメですからね!?」


 最上が必死に正論をぶつける。鎮守府内最強火力を誇る化け物が戦う気を漲らせてやってくれば、寧ろ最上の行動こそ最も本能に即しているとも言えた。最上は勿論北上ですら、長門と戦って生きていられる自信はない。特定の技術や格闘技を持っているわけではないものの、それを補って余りある腕力。破壊の権化とも言えるすべてを砕く一撃を、戦艦長門は持っている。


「正確には、私が金を貰うつもりなど毛頭ない。こんな児戯にも等しい企てに、興味はない」


 すらりと伸びた腕を回しながら、長門は続ける。


「しかし第六の駆逐艦から頼まれては、私も放っては置けないんだ」


 小学生程度の四人組が、北上の脳裏に浮かんだ。

 あいつらいつかシバく。生きていたらの話だが、北上は未来の自分に誓った。


「というか、こんなヤバいのさすがのまっちゃんでも許さないでしょ」


「あー、テステス」


 まるで見計らっていたかのように、松崎の音声がスピーカーで拡がる。


「年長者を使役して戦う代理戦争方式ですが、逃げ惑う北上さんが面白いで可とします」


 ……なんでこんなサイコ野郎が提督してんの?

 神を信じない北上だが、この時ばかりは全知の神に尋ねたい気分に駆られた。


「ですが無制限による年長者使役は面白みに欠けますし何より北上さんが死んでしまうため、五年目以上の参戦は三分のみとします」


 妥協案としての救いの手を提示され、北上はほっと胸を撫で下ろした。このルールであれば、どうにか生き残れないでもない。


「なるほど」


 スピーカーから顔を戻し、長門が構える。


「なら余計に、急がねばなるまいな」


 構えだけ見れば、ボクシングのそれに見えなくもない。しかし長門の戦い方は、格闘技と言っていいほど洗練されているものではない。


「長門さん頑張ってー!」


 幼い声に、北上の注意が逸れる。

 見れば、四人の少女がぴょんぴょんと跳ねながら長門に声援を送っていた。第六駆逐隊の、少女たちのである。


「頑張ってほしいのです!」


「レディーに敗北なんてありえないわ!」


「大丈夫、長門さんなら絶対勝てるわ」


「凱旋、楽しみにしてる」


 各々の応援を受け取り、長門が力強く親指を立てた。


「任せろ、絶対に狩ってやる!」


 一連の始終を見ていた北上は、醒めきった眼で見ていた。


「駆逐艦、あーウザい」


 両腕を広げて格闘技選手のようにアピールし、その様に第六の面々はきゃっきゃと沸き立つ。


「手伝おっか?」


「冗談」


 隼鷹の提案を、北上は跳ね除ける。


「三分くらいなら、なんとかなりますって」


 北上が構える。攻撃ではなく、防御に特化した構えである。手を軽く広げ、受け流しや逸らしに徹する。戦艦の最高峰相手に、真正面から殴り合いをできるはずがない。まして今回は三分間の制限がある。無理にリスクを冒して、戦う義理はどこにもない。自分は攻撃をやり過ごすだけでいいのだ。それ以上は、危険すぎる。

 本来なら尻尾を巻いて逃げてもいいのだが、陸で長門から逃げられる自信がない。筋肉量とストライドが段違いだからだ。海でなら分があるものの、陸では不利なことだらけだ。


「さっさと決めようか」


 長門の宣言に、北上は頷く。


「三分間、キッチリ逃げ切ってみせますよ!」


 長門が右脚を伸ばし、左足を前へ。それだけで、数メートルあった間合いが一瞬で潰れた。双方は、一メートルの距離を挟むのみとなった。


「――はっ?」


 北上の、間抜けな声がこぼれた。


 ――迅(はや)くない?


 そう問うより早く、長門が右腕を振りかぶる。工夫も技巧も蹂躙する、筋肉の奔流。破砕の使徒。

 筋肉質の右腕が、北上のこめかみを狙って横薙ぎに振られた。考えることを放棄し、北上は膝を曲げる。

 一瞬前まで頭があった地点を、必殺の腕が通過した。

 完全な空振りだったにもかかわらず、風圧が北上の頭頂部を撫でる。十センチ以上の余裕があってなおこの有り様だ。直撃は、死を意味する。

 自分がいま生きていることを含め、北上は己の直感に感謝した。

 長門が、左手をぐんと伸ばす。北上は右腕で慌てて弾き、女の掴みを拒否した。掴まれた瞬間が、死ぬ瞬間である。子供が持っているぬいぐるみのように振り回され、地面に叩きつけられた日には全身の骨が粉になるレベルだ。

 殴られてもいけない、掴まれてもいけない。

 一瞬のミスが、地獄の底へ繋がっている。

 その認知と共に、長門の体躯が何倍も大きく見えた。さながら怪獣映画に出て東京を破壊し尽くす化け物だ。それほどの破壊力と圧を、彼女は有している。


 ダメだこれ。


 北上は悟った。

 逃げ切れない。自分はあと一分以内に捕まり、このゴリラに殺される。

 直感と同時に、北上は下がる。

 あらゆるものをかなぐり捨て、隼鷹へ顔を向けた。


「隼鷹さん助けて!」


 当の隼鷹は、肩を竦める。


「さっきは助けなんていらないってフラれた気がするんだけどなー」


「それは謝るから!」


 長門との距離を測りながら、北上は懇願する。


「このままじゃ死ぬから! お願いだから助けてください!」


 じゃあ……。

 と、隼鷹が自身のスキットルを人差し指でつつく。鷹のレリーフを刻まれたスキットルが、ぎらりと輝いた。


「これ一杯分の、とびきり美味い蒸留酒と引き換えってことで」


 長門の蹴りをかわし、北上が叫ぶ。


「それでいいですから! とびきりいいお酒買ってあげますから!」


「交渉成立――ってな」


 隼鷹が、指を鳴らす。

 パチン――と、水を打ったような静けさが訪れる。

 隼鷹の服から、式神が数枚するすると抜け出す。


「長門さん相手じゃ、部屋の式神全部使っても難しいだろうなあ」


 呑気に隼鷹がぼやく。

 その言葉に呼応し、北上の足元に黒が落ちた。より正確には、影だ。

 何事かと、北上が顔を上げる。

 空を食らいつくすほどの白が、群れを成して飛んでいた。

 あれが全て式神なのか。

 北上は戦慄する。“天才”で済まされないほどの底を垣間見、少女はただ唖然とした。あの長門ですら、桁外れのスケールに目を丸くしている。純白の龍が、うねっている。突如現れた怪物に、第六駆逐隊の少女たちは怯えていた。小動物のように、互いの体を寄せ合っている。


「艦載機状態だとこうも上手くいかねえんだけど」


 口笛を吹きながら、人差し指を立てる。紫色の炎が灯り、踊るように右手を動かせる。

 細長い人差し指が、虚空に“勅令”の二文字を刻んだ。


「式神状態なら、“このくらい”お手のモンだってな」


 スキットルに口をつける。舌で唇を濡らし、ずらりと並んだ歯を露出させる。


「……少し、離れていろ」


 長門が第六に、注意を促す。


「北上チャンも、逃げるなら今の内だぜ」


 隼鷹が、獰猛に笑う。

 北上は素直に頷き、長門から遠ざかる。一定の距離を置いた北上が、背を向け逃走した。最上もそれに倣い、三隈を抱き上げこの場から離れる。

 巻き込む心配がないと確信した隼鷹が、アルコールで塗装されて特有の艶を持った唇で告げた。


「怨敵駆逐(おんてきくちく)・急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」


 糸を張ったような、鈴なりにも似た凛とした声。

 いつもの隼鷹からは想像できないほど、威厳に満ちた表情をしていた。

 白の龍が、長門めがけて牙を剥く。全長三メートル近い白龍が、ごうと襲い掛かる。

 大きく開いた顎(アギト)が、長門を呑み込む。白の瀑布が、長門を埋め尽くす。雪崩のように猛る純白が、隼鷹の指示で姿を変える。命令を下す隼鷹は、紫の炎が灯った人差し指を優雅に揺らす。熟練の指揮者が振るかのように、人差し指を右へ左へ。

 先程まで龍の形をしていた式神たちが、長門を中心として球形に。さながら巨大な卵型の檻だ。内部の長門は、無数の式神によって身体を拘束され、動くことすら難しいだろう。


「長門さん!」


 暁が叫ぶ。

 隼鷹は軽く息を吐き、肩を揺らした。


「長門さんよ、出し惜しみはナシにしようぜ。このままじゃ不完全燃焼だ」


 数秒の、沈黙がおりる。つまらなさそうに隼鷹が肩を落とした。


「ま、天才のあたしの前じゃ長門さんも敵わないってところか。もう少し遊べると思ったんだけどね」


 呑気に呟き、隼鷹は檻へ近づく。


「悪いけど、ちょっとの間封印させてもらうから。五分くらい」


 封印の呪印を書くため、隼鷹が檻に指を這わせる。

 人差し指の炎が、一瞬掠れた。


「――ッ!?」


 隼鷹が、慌てて飛び退いた。

 直後、檻から長い腕が突き出す。生じた隙間に両手を引っ掛け、力任せにこじ開けた。ガラスが割れるような音が、式神の檻から響く。


「おおおおおおおおおおおおおッ!」


 獣のような咆哮をあげ、長門が檻を粉砕した。

 その様を見て、隼鷹が口の片端を痙攣させる。


「マジか……」


 後退しながら、人差し指を切る。球形態の式神群が、一斉に隼鷹の周囲へ。


「そう来なくちゃつまんねえよなァ!」


 隼鷹も吠える。

 ある程度の距離があることを確信し、隼鷹は両の手を合わせる。

 ぱん。と、簡素ながらも力強い音だ。


「あたしのオリジナル必殺技だ」


 深く息を吸う。


「心の臓まで味わいなッ!」


 式神たちが、再構築される。折れ、重なり、交わり、かみ合い、一つの形を作る。

 生まれた白は、巨大な上半身だ。甲冑を着込んだ、髑髏。


「ほぉ……」


 二メートル近い髑髏を前に、長門が吐息を漏らす。


「随分大物じゃないか」


 長門が拳を構える。


「こういうぶつかり合い、好きだろ?」


 隼鷹の挑発に、長門は真正面から肯定した。


「お前も中々、分かっているじゃないか」


 髑髏が右腕を引き絞る。大砲のような一撃が、大気を貫く。

 長門は腰を低く、左半身を前に。反時計回りに腰を回転させ、一瞬遅れて右腕を振った。

 双の拳がぶつかる。同時に、爆発音にも似た大音量が轟く。僅かに時をずらし、拳の衝突点から衝撃波が放射状に拡散した。あまりの衝撃に付近の地面が捲り上がる。隼鷹と長門の長髪が、忙しなく揺れた。

 一度目の衝突が終わる。

 両者が一斉に右拳を引く。

 髑髏の左が出る前に、長門が一歩。今度は右半身を前へ。

 先と同じく、二度目の衝突で長門が左を放った。

 大地を揺らす激突で、再び波紋が広がる。

 両手を合わせたままの隼鷹が、顔をしかめる。


「冗談だろ……?」


 式神の左腕を見て、隼鷹は顔を青ざめさせた。

 拳の衝突で、左腕に亀裂が走っている。正確には腕の形を保つための、式神自身が持ち合わせる強度に限界が来ているのだ。それによって互いに着いている状態に綻びが生じ、崩壊寸前となっている。


「ふむ」


 顔色を変えないまま、長門が呟いた。


「私の方が、少し硬かったみたいだな」


 左脚を前に。全身と連動し、右腕を振った。

 握り締められた右拳が、髑髏の左手を捉える。着弾点を中心に、三度目の衝撃が巻き起こる。長門の右腕が、堂々と振り抜かれる。

 髑髏の左手が、砕け散った。形を留めることができなくなった式神たちが、はらはらと緑に堕ちる。

 長門が、長いストライドを活かして隼鷹に詰め寄る。


「アンタ化け物かよ!」


 隼鷹が、咄嗟に髑髏の腕で遮る。立ちはだかった白の壁を一切気にも留めず、長門は右腕を突き出す。一回目の衝突で耐久度が大幅に置いた腕で、長門を止めることはできなかった。腕を貫き、長門の長い腕が隼鷹の首へ。大きな手で、隼鷹の首を捉えた。


「がっ……」


 隼鷹の集中力が乱される。隼鷹の集中力を糧にしていた髑髏の式神が、ばらばらと崩れる。爪先が、地面から離れた。


「お見事だよ、長門さん」


 隼鷹が、息も絶え絶えに話す。


「これ以上邪魔しないよう、あたしに一発トドメ刺しておいた方がいいぜ?」


「その必要はない」


 長門が隼鷹を下ろす。無事に解放された隼鷹が、首を傾げる。


「三分だ。これ以上は動けん」


 隼鷹の肩を、長門の右腕が優しく叩いた。


「私の負けだ。お前には勝てたが北上を追えなくなった。試合に勝って、勝負に負けたようなものだ」


 背中を翻し、長門が歩く。第六駆逐隊の眼前で、深々と頭を下げた。


「済まない。ビッグセブンでありながらこの体たらくだ。お前たちの焼くなり煮るなり、好きにしてくれ」


 頭を垂らす長門に、第六の面々がわっと群がる。


「大丈夫!? 怪我はない!?」


「хорошо(ハラショー)。すごく恰好よかったよ」


「あそこで北上さんを追わずに隼鷹さんと戦った誇りの高さは、レディにふさわしいわ!」


「長門さん労いのために、今からみんなで間宮に行くのです! 勿論お代はちゃんと各自なのです!」


「……ありがとう」


 長門を中心とし、五人が手をつなぐ。先程までの激闘と打って変わって、穏やかな触れ合いだ。


「あー、テステス」


 松崎の声だ。最早恒例行事になった、スピーカーでのアナウンスである。


「長門さんはまだ勤務時間中なので、速やかにお仕事へお戻りください」


「なん……だと?」


 目を見開き唖然とする長門の後方で、隼鷹はスキットルで酒を呷った。


「ま、そりゃそうだわな」





 北上はひたすら走っていた。この大騒動も、一時間と残っていない。日が落ちつつある中、北上は若手たちに追われていた。

 舗装された道を駆け抜け、一人の少女を見つける。


「龍驤さん!」


 北上が歓喜の声をあげる。

 ベンチに座る龍驤は休みなのだろう、私服だ。眼鏡をかけて、文庫本を片手に風を楽しんでいた。

 龍驤が顔を上げ、苦笑を浮かべる。


「北上ちゃん、随分大変なコトに巻き込まれとるねんな」


 息を切らせた北上が、両手を合わせる。


「お願い龍驤さん、匿って!」


 龍驤の表情が、露骨に拒む意思を浮かべた。


「ウチまで面倒なことに巻き込まれるん、めっちゃ嫌なんやけど」


「あたしが逃げた方角と全く別の方角教えるだけでいいですから! 師匠お願い!」


 元愛弟子の口から出た “師匠”の響きに、龍驤は唇をもにょもにょと動かせる。そわそわと肩を動かせ、面映ゆさを表現する。


「ま、まあそこまで言うなら適当にやっといたろ。ウチに任しい」


 北上がぱっと表情を咲かせる。


「ありがと! このお礼はちゃんとするんで!」


 せわしなく告げ、北上は東に向かって走り出した。

 元弟子の背中が遠くなる様を見届け、龍驤は再び文庫へ視線を落とす。


「やっぱり弟子は、どんだけ経ってもかわええモンやな」


 呟く。同時に、大きな影がぬっと龍驤を覆った。白い髪が印象に残る、雲龍だ。


「どうしたん。急に来て」


 龍驤を見下す雲龍が、無言で隣に腰掛ける。そのまま上半身を傾け、白い頭を龍驤の腿に載せた。


「今の弟子は、私」


 澄んだ声で呟く。頭のベストポジションを探るべくもぞもぞ動く雲龍を見て、龍驤は「なるほど」と見当をつけた。

 小さい手で、雲龍の頭を撫でる。ふわふわと雲のように柔らかい髪を指先で遊びながら、龍驤は苦笑する。


「今の弟子は雲龍やで。ウチは誰にも取られへんから」


 本当に犬みたいだな。龍驤は肩を揺らす。

 飼い主がどこか行ってしまわないか、心配で心配で仕方がない大型犬だ。

 龍驤の言葉を聞き、「ん」と雲龍が返す。流れるように瞼を下ろし、寝息をたてはじめた。


「おいおいおい……」


 懐から懐中時計を取り出し、時間を確認する。本来なら未だ就業中だ。

 叩き起こして訓練に向かわせようか。そう思い右手を挙げたが、辞めた。安心しきって寝顔を晒す雲龍に対し、張り手ではなく撫でることを選んだ。先も感じた、柔らかい毛質が少女の顔を綻ばせる。


「本来ならド叱られるモンやけど」


 龍驤は一人ごちる。


「こうして寝れるんも、戦況が落ち着いとるでやろうなあ」


 健やかに眠っている雲龍の顔を見ながら、龍驤は呟く。


「できることなら、こんな日が一生続けばええねんけどなあ」


 それから三十分ほど、龍驤は追っ手を適当に受け流していた。時には北上を見なかったと嘘をつき、時には見当はずれの方角を指差すこともあった。


「お尋ねしたいのですが」


 その声に、龍驤はやれやれと文庫を閉じる。これで何度目だろうか。五を超えてから、数えることをやめたのは確かだ。

 顔を上げる。スカイブルーの瞳とすらりとした背筋が特徴的な少女――不知火だ。


「不知火ちゃんやん、久しぶり」


 お久しぶりです。

 軽く応え、不知火は龍驤を見つめる。


「師匠がどこへ行ったのかを教えていただきたいのですが」


 適当なことを言おうとしたものの、ふと思い留まる。他意はなかったが、訊いてみたいことがあったためだ。


「不知火ちゃんも、賞金目当てなんけ?」


「いえ、別に」


 不知火は淡々と答える。


「純粋に、師匠を取っ捕まえたい所存です」


「なにゆえ」


 龍驤の提起に、不知火が背筋を一層正す。澄んだ瞳で、龍驤を真正面から見つめ返す。


「それが規則であるからです。今日の就業時間中は禁煙デー。それを破った人間は、師匠であっても捕獲するべきだと考えております」


「クソ真面目で、北上ちゃんが苦手なタイプやな」


 ケケケと笑う。


「で、就業時間ギリギリに抜け出してきたわけか」


「抜け出したわけではなくてですね……」


 不知火が気まずそうに視線を逸らす。


「どうやら不知火が相当そわそわしていたようで、先輩たちから気を遣っていただき、早めに切り上げることと相成りました」


 龍驤は瞳を上へ。演習や訓練中もどこか落ち着きない不知火を想像することは、思いの外簡単だった。思わず、笑みをこぼす。

 そこでふと、悪戯心が鎌首をもたげた。

 眼鏡を中指で押し上げ、東を指差す。


「北上ちゃんは東やで」


「ありがとうございます」


 爽やかな礼を述べ、不知火は爪先の向きを変える。


「疑わんの?」


「直感ですが」


 慎ましい唇で、不知火は考えを打ち明ける。


「龍驤さんはきっと、不知火の事を試しているのかと思います。師匠の事ですから、きっと捻くれた方角を指差すよう龍驤さんに頼んでいるかと」


 ですが――


「今一瞬迷うような素振りがありましたし、あえて裏をかいて正しい方角を指しているような気がしてなりません」


「照魔境か」


 息を吐く。考えをそっくりそのまま見透かされていた。ただの気まぐれだったが、ここまで綺麗に見抜かれてしまっては大先輩の立つ瀬がない。はあと呟き、両手を挙げた。


「北上ちゃんは東行ったで。てっきり他の方角へ走ると思っとったのに、これはちょっち凹むわ」


「それも致し方ない事かと」


 表情を変えず、不知火は返す。


「不知火には、他人の嘘を見破る特殊能力がありますので」


「マジかいな」


「冗談ですよ」


 少女が唇を緩める。顔つきが一切変わらない為、不覚にも本気に捉えてしまった。

 口元を僅かに緩め、不知火は去った。あえて雲龍に言及しなかったのは、彼女なりの気遣いかもしれない。

 駆ける不知火の背を見て、龍驤はニヤリと笑った。


「走り方、よう似とるな」


 もぞもぞと、腿の上で寝ていた龍驤が動く。大きな口を開けて欠伸を一つ。暢気すぎる寝起きに、小言を言う気力が根こそぎ刈り取られた。


「おはようさん」


「おはよ」


 寝そべる雲龍の腹が、ぐうと鳴る。そろそろ終業の時間だ。


「メシ、行く?」


 雲龍は何度も首を縦に。心なしか機嫌のよさそうな雲龍を見上げ、龍驤は文庫本と眼鏡をしまう。


「何食べたい?」


「おでん」


 シンプルなリクエストに、小さな大先輩が破顔する。


「ほな、鳳翔さんとこ行こか。確か鳳翔さんのおでん大好きやろ?」


 表情は変わらないものの、どことなくきらきらとしたものが雲龍の周囲に現れる。龍驤も最近ようやく知ったことだが、雲龍は嬉しくなると発光する。原理はまるで不明だ。

 その前に――

 龍驤が唇の片端を持ち上げる。


「ちょっち寄りたいところがあるから、そこだけええか?」



「あー、来ちゃったかこれ」


 北上は面倒くさそうに呟き、吸っていた煙草を携帯灰皿に捻じ込む。視線の先では不知火が、右手を差し出していた。


「終業まであと十分もありませんが、煙草は時間まで没収させていただきます。さあ」


「そういう態度、あたしは駄目だと思うんだよね」


 右手で煙草の箱をくるくると回しながら、北上は笑う。


「そもそもそんな対応であたしが大人しく煙草を渡すとでも思った?」


「いえ」


 不知火は即答した。


「ですが一応、勧告は出しておこうかと」


 言うねえ。

 北上がしみじみと呟く。


「で、無理だったときは心おきなく実力行使に出るわけだ」


 中指や人差し指を、パキパキ鳴らす。


「それ、できると思ってんの?」


「できるできないの問題ではありません」


 北上に倣い、不知火も指のストレッチを始める。同じく、威嚇とも取れるような音が鳴る。


「やらねばならないんです、規則ですから」


「規則……ねえ」


 北上は腕を広げる。やれやれと、頭を振った。


「つまんない生き方だね」


「レールから外れればいいというわけでは、無いと思いますけど」


「見逃してくれたら、煙草の箱五万円分あげるけど?」


「いりません」


 即答だった。


「賄賂で得た悪銭なんて、絶対にいりません」


「お堅いねえ」


「それに――」


 不知火が続ける。


「いつもの教えではなく、今日はお互い本気で組めそうですから」


 思惑を聞き届け、北上は歯を剥いた。尖った犬歯が光る。


「不知火ちゃんも好きだねえ」


 目を僅かに細め、北上は構える。


「やってやろうじゃん」


 右手に煙草の箱を持ったまま、左手を前に。左足も前にずらし、オーソドックスな構えを見せる。


「勝利条件はどうする?」


 北上の問いかけに、不知火が返す。


「終業のチャイムが鳴った瞬間に、煙草の箱を持っていた方が勝者です」


「イイね、シンプルだ」


 ひゅう。と息を絞る。


「不知火ちゃん、加減ができるなんて努々(ゆめゆめ)思うんじゃないよ」


「勿論ですよ」


 不知火は不敵に笑う。


「貴女の怖さは、よく知っているつもりです」


 不知火も構える。北上と同じく、左手足を前に。

 硬直状態を作ってしまえば、北上は楽に立ち回れる。なにせ時間切れを待てばいいのだ。あとは不知火が焦れて、軽率な行動を起こすまで張るだけだ。目線を上下に動かし、一挙手一投足に気を配っていることを暗に告げる。これだけで、不知火は攻め込みにくい心象になるはずだ。

 生兵法をうって火傷するか。考えを巡らせた北上を裏切るように、不知火が声を張り上げた。


「行きます!」


 右足――より正確に表現するのであれば指の付け根が地面をける。スライドするように、不知火は北上に肉薄した。


「ッシ!」


 ほぼノーモーションの、左ジャブ。初めて戦闘訓練をした時に比べ、見違えるほど垢抜けていた。

 北上は落ち着いて、一歩。右足を斜め四十五度前方に。それと噛みあわせるかの如く、両腕を動かせた。

 不知火の左腕が伸びきる刹那を狙いすまし、腕を振る。

 右前腕部で相手の手首を打つ。全く同じタイミングで、左掌を放つ。狙う先は、膝の裏――肘窩(ちゅうか)だ。

 挟み込むようにぶつける。伸びていた腕が、外の力によって前触れなく折れる。不知火の体重が、僅かに前へ傾(かし)いだ。

 極まったことを確認し、北上は右腕を反時計回りに。それに伴い不知火の左腕も外へ。自身の左肘を空中に固定させ、前腕部をぐるりと回す。不知火の肘窩を叩いた勢いを、そのまま回転に載せる。

 がら空きになった不知火の顎に向けて、北上の裏拳が迫った。

 不知火は咄嗟に右腕を出す。両者の前腕部が、激しくかち合った。


「また黐手(チーサオ)かあ」


 北上が苦笑する。


「黐手は日中したからもう懲りてんだよねえ」


 北上の左と不知火の右の前腕部がぶつかり合う。互いに一歩も譲らぬ競り合いで、北上は不知火の目を盗み見た。

 基本は北上を見ているが、僅かに煙草の事を気にかけている。制限時間という制約のせいか、多少焦っていることは明らかだ。

 北上の中で蜷局を巻く蛇が、ニタリと笑む。

 思いついた瞬間、北上は行動に移した。


「ほい」


 右手の煙草を、彼我の中間地点に落とす。

 不知火の視線が、明らかに下へ注がれた。考えるより早くとはまさにこのことで、不知火が腰を落とす。

 まるで無警戒な不知火の顔向けて、北上は右膝を突き出す。無慈悲な膝蹴りだ。


「――ッ!」


 左腕で咄嗟に庇う。名残惜しそうに煙草を諦めた不知火が、鋭い目つきで北上を睨む。


「ちょっと卑劣過ぎでは?」


「あたしいつも言ってるよね?」


 不知火の言葉を、正面から鼻で笑う。


「『使える物は何でも使え』って」


 そうでしたね。と不知火は呟く。

 片腕の黐手状態が続く中、不知火は右腕のあり方を変える。剣の鍔迫り合いのような状態から改め、右肘を自身の脇へ寄せる。同時に手のひらを返し、手の甲が地面を向くように整えた。


「へえ」


 北上は敢えてそれを中断させるでもなく、手首を曲げる。不知火の右手首に引っかかるように置いた。


「ッシャ!」


 不知火が四本指を揃えた状態で突く。四本貫手(ぬきて)と呼ばれる、空手や少林寺拳法に見られる局所を突くときに用いる技だ。力が一点に集中するため、脇腹や喉等の急所に対して絶大な威力を誇る。不知火はそれを、躊躇うことなく北上に差し向けた。

 四本貫手を前にし、北上は落ち着いた動きで腕を下ろす。押さえつけるように、不知火の抜き手を下へ逸らした。同時に貫手を、今度は不知火に突き出した。

 不知火が右腕前腕部を上へ。腕が互いに密着していた状態であったため、北上の突きが上へそれる。

 あと数瞬反応が遅かったら。考えるだけでもおぞましかった。その証拠に、前髪が風圧で揺れる。瞳まであと僅かであったことの、動かぬ証拠だ。


「あれ、不知火ちゃん黐手できるんだっけ」


「多少は」


 冷静さを装う不知火に、北上は「へえ」と返す。


「じゃあ折角だし、こんなのどうよ!」


 北上の左足が前へ。蛇のように動く脚が、煙草の箱を狙った。


「なっ!」


 思惑を察した不知火が、慌てて右脚を動かす。互いの足をぶつけ合い、まるでサッカーだ。一つしかない煙草の箱を巡って足を交錯させ、脚の黐手だ。時には身体を直接狙うような膝蹴りをフェイントとして織り交ぜ、双方威嚇の応酬を繰り広げる。不知火の背後から吹き抜けた風が、二人を煽っているようにも思えた。戦いの炎よ、燃えろ燃えろ。風がそう言っているような気がした。

 不知火が自身の首元に手を伸ばす。赤のリボンを解き、黐手を解く。右逆手と左順手でリボンを持ち、北上を見据える。脚の小競り合いが中断される。煙草を中心にして、両者体勢を立て直す。


「紐かあ」


 黐手の解けた北上が、右拳を構える。左手は軽く開き、左目から三十センチ前方で揺らめかせる。東南アジアでは伝統的な格闘技――“シラット”だ。

 不知火が目を配る。その蒼を、北上はつぶさに観察した。紐を使ったロープ・ファイトを試みたということは、何かしらの拍子に片腕を拘束、あるいは首を狙いに来ている事だろう。ロープ・ファイトは北上自身あまり使わない為、教えていなかったはずだ。

 しかし、自発的に不知火は使ってきた。

 頭使うようになったね。

 北上は、内心呟いた。

 自分から攻める術を教えていない為、考えられる攻撃はただ一つ。北上の一撃を確実に刈り取る、カウンターだ。

 左手で北上は距離感を整える。この左手は攻撃を受け流す防御用に加え、相手にテリトリーを主張する事前策、加えて距離感を図る自衛の役割が大きな意味合いを占めている。その為、その左手に対して攻撃を仕掛けてもほぼ意味をなさない。躱されるか、受け流される結果が見えているためである。不知火も北上からシラットを習う過程で理解しているのだろう。迂闊に仕掛け、重心や体勢を崩す凡ミスを押し留めている。

 不知火の視線が、北上の右手に固定された。右以外に攻撃が来ないと、山を張ったらしい。


「その姿勢は、ちょっと感心しないんだよねえ」


 北上が牙を剥く。

 左手を、勢いよく不知火の顔へ差し向けた。確かに防御のために使う手だが、攻撃をしない手ではない。

 迫り来る左手に、不知火が反射する。上半身を反らし、素早く両腕を北上の左腕へ。紐を数周させて拘束させようとする瞬間を狙い、北上は右フックを放った。狙いは不知火の左わき腹。筋肉も薄く、上手く穿てば呼吸も難しくなる箇所である。

 不知火が、大慌てで腰を引く。不格好な回避であったが、大ダメージを紙一重でやり過ごす。北上の右拳が、虚しく空を切る。

 ヒットには至らなかったが、北上の概ねの狙いは実りつつあった。

 不知火が、次の攻撃を決めかねている。来ないと思っていた左手が襲来し、咄嗟の対応を嘲笑うかのように右フックをけしかけられている。当たらなかった――は所詮結果論である。不知火の判断が未熟であったことに、間違いはない。

 格闘戦は、何も技術の巧緻だけで決まるものではない。最適及びその一瞬に即した判断こそが、勝敗を分ける。如何に秀逸な技を持つ黒帯保持者も、判断を誤れば格下に負けることはざらである。

 不知火は、自身の判断に自信を抱きかけているようだった。その証拠に、目線が煙草と北上を往復している。

 頃合いを見計らい、北上が動く。あえて爪先で、煙草を蹴った。軽快に跳び、箱は不知火の後ろへ。取るかどうか逡巡した少女の肩を、北上は両手で強く押した。不知火は数歩よろめき、慌てて右肩を前にする半身の姿勢を整える――より早く、北上は動いていた。

 小股一歩、助走をつける。ドロップキックをするかのように、北上が足を前にして跳んだ。 左脚は挟み込む勢いで相手のひざ裏に叩き込み、体勢が崩れかけている瞬間に右脚の蹴りを入れる。ベトナムの総合武術、“ボビナム”の足技だ。足技が極まり、不知火が背中から地面に倒れ込んだ。北上自身も跳ぶ瞬間に右脚の蹴る向きへ身体を捻っていたこともあり、綺麗に転がる。地面に腹や胸を着け、落ちていた煙草の箱を拾い上げた。


「二回も同じ手に引っかかるなんて、甘いね」


 素早く脚を引き抜き、北上は笑う。念のため、大股二歩分の距離をとった。これで、足元に絡み付かれる心配もないだろう。僅かに火照った顔を、風が正面から冷やす。


「これで、あたしの勝ちは決まったかな?」


 服に着いた砂を叩き落としながら、北上は余裕の表情を見せる。「向かい風が気持ちいいわあ」と、余裕すら見せる始末だ。


「向かい風……」


 不知火が呟く。


「それは、どうでしょうか」


 終わった気でいる北上に反して、不知火は冷静だった。寧ろ、笑っている。


「師匠にしては、少し場所のとり方が甘かったようですね」


 何を言っているのか。首を傾げる前に、海からの風が吹いた。それと同時に、身体を起こしてしゃがんだ姿勢の不知火が両手を掲げる。


 ――なんだ?


 その答えは、目の痛みとなって顕れた。

 瞳に涙が滲む。予期せぬ痛みに、左腕で顔を覆った。

 砂か!

 目をこする最中、右腕に何かがぶつかる。一瞬遅れて、右手の中にあった感触が消えていた。


「あっ!」


 思わず北上は叫ぶ


「それずるくない!?」


 どうにか瞼を上げると、不知火の背中はすでに遠くにあった。


「使える物は何でも使え――貴女の教えですよ!」


 背中越しの言葉には、どこか勝ち誇った響がある。追いすがろうとした北上の頭を叩くかの如く、就業のチャイムが鳴り響いた。

 嗚呼と呻き、顔を空に向ける。


「マジかー」





 不知火は駆ける。終業のチャイムを聞き届けながら、少女は達成感で内心飛び跳ねるほどの高揚を感じていた。チャイムが、勝利のゴングのように感じる。勝者のみ浴びることを許された、悦楽の音だ。

 自分の右手に煙草の箱があることを確認し、不知火は走る。


 やった。やった!


 息を切らせながら、達成感を噛み締める。北上からモノを奪えた。あの北上から、だ。

 走ることを続ける。今止まってしまえば、有り余った感情を叫ぶことで代替してしまいかねないからだ。世界が前から後ろへ流れるさまを、激しい呼吸で見送る。心臓が早鐘を打ち、身体を巡る血液速度が上昇する。それに伴い、脳から何かがどくどくと分泌されているような気がした。北上と格闘した際の痛みが、薄れる。

 高揚の濃度が、徐々に薄くなる。それに伴い、走る速度を少しずつ緩めた。いつもの勤務に加えて格闘したのだ。脚も、かなり疲れている。

 電車が目的地に向かってゆっくり速度を落とすように、不知火もゆっくり減速する。駆け足から早歩きに、さらに普通の歩きながら、呼吸を整えた。

 心臓が落ち着き始める。鼻から息を吸い、口から吐く。身体の芯を溶かす熱も、冷静さを取り戻し始めていた。

 完全に足取りを緩め、不知火はふとあるスペースを見つけた。禁煙所だ。終業と同時に、灰皿をセッティングされているらしい。いつも通りの灰皿が、そこにはあった。

 少女が自分の右手に目線を送る。視線の先には、煙草の箱。


「そう言えば」


 不知火が、ぼそりと呟く。


「煙草って、どんな味なんでしょうか」


 自分が今まで、一度も吸っていないことを思い出す。酒は多少飲むが、煙草に関しては一切触れてこなかった。別に法律で禁止されているわけではない。寧ろ艦娘になった時点で、人間ではない“艦娘”と言う存在に生まれ変わるのだ。酒を飲むも煙草を吸うも、年齢制限の法から適応外になる。人間と艦娘は、見てくれだけは似ているものの全く別の存在なのだ。

 煙草の箱を開ける。数本と、準備がいいことに小型のライターまで入っていた。こうすることでライターをなくさないのか、と、どうでもいい感想を漏らす。

 きょろきょろと、不知火は視線を巡らせる。周囲に誰もいないことを確認し、灰皿の傍へ。高鳴る鼓動を見て見ぬ振りし、一本咥える。先の達成感とは別の理由で、心拍数が早まった。

 右手の親指を動かせる。安物のライター故か、何度か擦った。

 火が点る。煙草の先端を炙るように火を当てているつもりだが、着火しない。口の中に、何も来なかった。これが煙草の味なのだろうかと、少女は首を傾げた。

 そこで、ふと思い出す。記憶が正しければ、火に晒しながら息を吸っていたような気がしないでもない。火がついた直後に北上は煙を吐いていたため、多分この仮説は間違いではない。

 すっと、何も考えずに全力で息を吸った。

 肺を、紫煙が制圧した。


「!?」


 不覚にも、煙草やライターを落とす。あまりの不味さに、一瞬気を失いかけた。


「おっほ、ごっほ!」


 大袈裟なほど咳き込む。

 まずい、苦い。あとすこぶるまずい。


「なんでこんなの、有り難がって吸うんでしょうか」


 不知火には理解できません。

 そう付け足し、落とした煙草を灰皿へ。火種が底の水に触れ、名残惜しそうにジュウと呻いた。




「なかなか、面白いもん見たなあ」


 宿舎の屋上で、龍驤が視線を落としている。真下では不知火が好奇心で煙草を吸うものの、見事に大失敗を喫した一部始終が繰り広げられていた。

 隣の北上が首肯する。


「ま、吸い方教えてなかったですしね」


 ていうか――

 北上が唇を尖らせる。


「龍驤さん、不知火ちゃんにあたしの逃げた方角正直に教えたんじゃないでしょうね」


「どうやったかなあ」


 龍驤は声のトーンを上げ、知らない振りを演じる。


「ウチも歳やでなあ。昔のことは忘れてもたわ」


 この身なりで年齢を引き合いにされても、今一つ実感がわかない。しかし彼女は紛うことなき最古参の一人であり、察するに三十歳は超えている。他の艦娘たちと比べ、年齢を重ねていることは確かだ。


「じゃ、お礼もなくていいですよね。忘れたなら」


「なんか正しい方角教えた気がせんでもない気がするわ。知らんけど」


「……」


 龍驤の即答に、北上が乾いた笑いを浮かべる。この少女は、どこまでが本気なのだろうか。

 はあと息を吐く。


「そうしょげんなや」


 龍驤が北上の背を叩く。


「弟子っちゅうんは、師の想像を超えるくらいの速さで成長するねん」



「まあ、そうですよねえ」


 身体を翻る。フェンスに背中を預け、しみじみと呟いた。


「あんなにクソ真面目だったのに、まさか砂を使ってくるとは思いませんでしたね。完全に油断していました」


 その感想を、龍驤は満足そうに聞き届ける。


「だんだん似て来たな、北上ちゃんに」


「あたしにですかあ?」


 北上が露骨に嫌がる。


「そんな邪険にしたるなや」


 龍驤が笑う。


「そんだけ、必死に師匠の背ェ追っとることの裏返しなんやで」


「そんなもんですかねえ」


「そんなもんや」


「じゃああたし、龍驤さんとどこが似ていると思います?」


 北上の質問に、龍驤が腕を組む。うんと唸り、人差し指を立てた。


「優しくて、まじめで、かっこよくて、賢くて、人間の鑑ってとこが似たんやろうなあ」


「ここぞとばかりに自分を持ち上げましたね」


 冷静な指摘に、龍驤はヒヒヒと笑う。

 元師弟の会話に、雲龍がぬっと割り込む。気を遣って少し離れていたのだが、龍驤の事が恋しくなったようだ。真後ろから、龍驤を抱き上げる。


「おでん」


 雲龍の催促に、龍驤は破顔させる。


「よし、じゃあ行こか」


 雲龍が再び発光する。小柄な龍驤をひょいと持ち上げ、自分の肩に載せる。肩車だ。これだけ見れば、どちらが年上か分かったものではない。

 階下へ降りる最中、北上はぼんやり呟いた。


「煙草の吸い方、今度教えてあげよっかなあ」




On Fire



「でねー、叢雲師匠ったら酷いんだよ……」


 向かいに座る少女――睦月は緑茶を啜りながらぼやいた。話を聞いていた不知火は、「はあ」とこぼす。


「ちょっと書類の提出が遅れたからってすごく怒っちゃってさあ」


「それは睦月に落ち度があるのでは?」


 冷静な指摘をして、茶を啜る。


「師匠は結構古くからの艦娘で、こうした事務手続きが少しでも滞ると結構庶務の人たちが混乱するんだってさ」


 秘書官時代の知識なんだってさ。

 睦月の締めくくりを聞き終え、不知火は感心した。


「食事を一緒にするたびに、叢雲さんの色んな情報が出てきますね」


 睦月がきょとんとする。どことなく、真顔になった猫を連想させる顔つきだ。


「まあそりゃ、毎日いるなら色々わかってくると思うんだけど……」


 不知火ちゃんはそうじゃないの?

 目線で尋ねられ、不知火は腕を組んだ。弟子入りして数か月が経とうとしているものの、新しく知ったことは限りなく少ない。食べ物の好みも知らない有り様だ。酒と煙草を愛する――程度の認識だ。


「思えば、不知火は師匠の事を全然知りませんね。ある程度寝食を共にしているのに」


 不知火の一言を拾い、睦月がにやりと笑む。


「不知火ちゃんだけに、『知らぬ』いってね」


 どうだ。

 そう言わんばかりに自慢げな顔をしていたため、不知火は右腕を伸ばす。睦月の左頬を、無心で抓った。


「あびゃあー!」


 睦月が悲鳴を上げる。どうやら軽度の脅威や攻撃性のこもっていない攻撃は、予知できないらしい。不知火の中に、小さい仮説が芽生えた。


「にゃにすんのさ不知火ちゃん!」


 瞳に涙を溜める睦月を見て、右手を放す。


「あまりに自信満々なしたり顔だったので、つい」


「ついって……」


 頬をさする睦月が、人差し指を立てた。


「折角だし、北上さんの事を少しくらい知ってみるのもいいと思うよ」


「知る……ですか」


 そう!

 睦月が強く顎を引いた。


「これからも師弟関係は続くし、独り立ちした後でも何かと相談できる人がいると心強いし。そうした繋がりを築くためにも、お互いの事を知るのは大事だと思うよ!」


 図らずも、不知火はなるほどと深く感心した。睦月の言うことは、理にかなっている。弟子を卒業した後も、関係は続くのだ。


「一理ありますね」


「でしょ!?」


 不知火の納得に、睦月が上半身を乗り出す。


「でも具体的に、どうすればいいのでしょう」


 不知火が続ける。


「和室で互いに趣味を訊き合えばいいのでしょうか」


「お見合いだねそれ」


「師匠をパイプ椅子に座らせて、スタンドライト浴びせながら問い詰めれば訊けますかね」


「それ取り調べだね」


「ダメですかね?」


 素の表情で尋ねる不知火に、睦月が自身の眉間を押さえる。


「不知火ちゃん、たまにそうやって抜けてるところあるよね」


「万策尽きましたねこれは……」


 真剣極まりない顔で白状する不知火に、睦月はただただ苦い顔を浮かべた。


「もっと他にあると思うんだけど……」


「じゃあ睦月には、何か妙案でもあるんです?」


 不知火のパスに、睦月は自信ありげにウィンクした。しかしできないのか、両瞼がおりた。


「モチのロンなり!」




 その日の夕方、不知火や睦月を含む新人たちと北上は屋外のテラスにいた。七人だけではなく、多くの艦娘が和気藹々と談笑している。机の上にはビールジョッキ七つと、料理がずらりと並んでいる。毎年この時期から始まる、鎮守府のビアガーデンだ。勿論税金で賄うためにもいかない為、毎月給料から天引きされる互助会費で運営されている。毎年好評であるため、酒を愛してやまない那智や隼鷹をはじめとした蟒蛇(うわばみ)たちは結構な額をこの催しに寄付しているとも聞く。あくまで噂だが、松崎の援助も多大な支えになっているらしい。


「で、なんであたし呼ばれたの?」


 半眼の北上に対し、不知火が返す。


「折角ビアガーデンの時期が始まったそうですし、ここは久しぶりに師匠とご飯でも。と」


 半分嘘であり、半分本当だ。

 本来不知火のみで訊けそうであればよかったのだが、睦月が不可能と判断。多少の人数と酒を飲むことで不知火自身が訊かなくても他の何気ない会話で北上の過去や人間性が垣間見えることも期待した、睦月のファインプレーだ。


「お金に関しては心配ご無用です」


 不知火が、発達途上のまま止まってしまった胸を反らす。


「今日は不知火の奢りです。なにせ臨時収入があったもので」


 その一声に、雛鳥たちがわっと湧き上る。羽黒や朧、磯波もニコニコと破顔していた。

「そう言えば煙草取られたなあ」と、北上は反芻した。


「じゃあ幹事の不知火ちゃん、一言よろしく!」


「えっ」


 白露のパスに、不知火は硬直する。


「……一言?」


「幹事なんだから、ズバッとかっこいい挨拶をどうぞ!」


 白露が右手の握り拳を不知火に向ける。マイクのつもりらしい。

 何も用意していなかったのだろう。不知火は数秒ほど凍結し、ジョッキを掲げた。


「今日は呑みましょう。乾杯」


 あまりに杜撰な挨拶だったが、タダで飲み食いできる魔力の前では些末な問題らしい。皆「かんぱーい!」と弾ける声と共にジョッキをかち合わせる。

 睦月だけがただ一人、「あちゃあー」と呻いて顔を手で覆った。




 七人で楽しげに食事を摂る。ビアガーデンでありバイキングに近しい形態であるため、各々が好きなものを取ってくるやり方だ。それぞれの皿を、不知火は凝視する。

 羽黒は全体的に彩りを重視した皿である。肉や脂は避け、カラフルな野菜や果物が盛り付けられている。ドリンクもビアガーデンであるにもかかわらず、カクテルだ。睦月が尋ねるに、「ビールは太りやすいから」との事らしい。答えた直後に赤面させる姿が、いちいちいじらしかった。

 顔を赤くさせた羽黒を見て、睦月はビールジョッキを引っくり返す。


「羽黒ちゃん、女の子だねー」


「一応不知火たちも女の子ですからね、今は艦娘ですけど」


 磯波も羽黒と同じように、全体的な色彩バランスを重視して盛り付けているらしい。ポテトサラダが好きなのか、一際盛られたポテトサラダが印象的だった。

 白露はソーセージ尽くしである。とにかく食べる、食べまくる。鋼のように硬い意思が、盛り付けとなって顕れていた。本当の意味での肉食系女子だな、と、不知火は感想を抱いた。ここまでわかりやすい人間性も珍しい。

 朧の皿に視線を移す。朧はうどんを啜っていた。数あるメニューの中でそれか。そう言いたげな不知火の顔を察したのだろう。朧が先に口を開いた。


「実家の方が、美味しいかな」


 引っ掛かる物言いに、不知火は「はて」と首を傾げる。


「うどんなんて、市販ならどれも同じなのでは?」


 朧は首を振る。


「アタシの実家、うどん屋なんだ」


 思わぬ過去が、転がり込んできた。六人の注目が集まる。


「うどん屋ですごく美味しかったんだけど悪い奴らに騙されてね。店はギリギリ存続できてるんだけど、毎日ヒイヒイ言ってたよ。お父さんは毎日電話で誰かに謝っていたし、お母さんは必死に他の仕事もしながら家を支えてた」


「それをなんとかするために、艦娘に」


「んー、まあそうなんだけどそうじゃないって言うか……」


 不知火の言葉を、朧は曖昧な音で濁す。


「手前味噌だけど、アタシん家のうどん最高なんだよね。だからそれをもっと多くの人に食べてほしいし、そのためにはお店の存続が大事だから。お店のためって言うよりアタシのエゴかなあ」


 親には最後まで反対されたし。

 笑顔で付け足す朧に、白露が上半身を乗り出した。


「すごいよ、それで艦娘になれるなんて!」


「私も、すごいと思います」


 磯波の声に、羽黒が首肯で便乗する。


「そ、そうかなあ」


 まさかそこまで賞賛されるとは思っていなかったのだろう。朧は落ち着かない視線を左右に揺らせた。


「じゃあさ!」


 白露が声を張り、提案する。


「この戦いも全部終わって外に出られるようになったら、みんなで一緒に朧ちゃんの実家のうどん食べよ!」


 賛成!

 少女たちの賛同が重なる。


「でも――」


 終わりなんて来るんでしょうか?

 口を開きかけた不知火の足が、誰かに軽く蹴られた。席の構成から察するに、真正面の北上のモノらしかった。


「それを言うのは、無粋だよ」


 不知火が何を言おうとしたのか分かっていたらしい。それだけ告げて、ビールジョッキを呷った。


「そうかもしれませんね」


 言葉を呑み込む。戦いが終わった時のことを意気揚々と語る仲間たちを見て、不知火は根拠のない焦燥に駆られた。


 来年もまた、こうして六人が揃うのでしょうか。


 少女の懸念は、宴の喧騒で掻き消された。


 言いようのないわだかまりを誤魔化すように、不知火はソーセージを齧る。外の皮に前歯を刺し、ぐっと力を込める。じわりと、脂ののった汁が出た。

 美味い。不知火は子供のような感想を漏らす。次は唐揚げだ。自分が今まで唐揚げと比べ、何かが違う。正確に表現すれば、白い何かがついていた。揚げる際の粉が違うのだろうか。不知火は首を傾げる。

 唐揚げを口に運んだ瞬間、不知火はぎょっと目を剥いた。

 しっかりと時間をかけて揚げられているのだろう。二度揚げの手間を怠ることなく、温度にも気を配って揚げた唐揚げは衣がサクサクと少女の歯で崩れる。加えてフォークで刺すことや酒に浸けることも済ませたのだろう。揚がった肉が固くなるどころか、寧ろジューシーさすらあった。

 自分が食べたどの唐揚げよりも、群を抜いて美味い。口の中に残った脂を流すようにビールを含み、再び唐揚げにフォークを伸ばす。唐揚げだけで百個は食べられるのではなかろうか。小学生のような感想を、この時ばかりは不知火も本気で抱いた。それほどにまで、美味い。最低限で飽きのない味付けがなせる魔法だ。

 一つ、もう一つ。

 次々に胃へ唐揚げを叩き込む不知火の耳に、睦月の声が当たった。


「不知火ちゃん。今日の目的忘れてない?」


「えっ?」


 きょとんとした少女に、睦月が人差し指を立てた。


「北上さんの事をいっぱい知るための飲み会でしょ」


「……忘れるはずがないじゃないですか」


「なんで今一瞬間が空いたの」


 半眼になった睦月を見ない振りし、不知火は「さて」と心を整える。北上もそれなりに飲んでいるのだろう、機嫌が多少上を向いている。

 何を話すのか。まるで考えていない不知火だったが、とりあえず口を開いた。


「師しょ――」


「北上さあああああああああああん!」


 ハスキーな声が、虚しく踏み潰される。横合いから北上に向かって、黄色い何かが飛来した。

 奇襲かと新人が身構える。

 師匠のせいで変な耐性がついてしまいましたねと、不知火はぼんやり考えた。

 唐突にやってきた黄色い何かが、北上の腰に抱き着く。


「北上さん助けてほしいっぽいー!」


「どうしたの“夕立”ちゃん」


 北上に突撃した艦娘は白露型の四番艦――“夕立”だ。犬の耳に見えなくもない跳ねた髪やあどけない仕草とは打って変わった人形じみた顔立ちが目を惹く、四年目の艦娘だ。

 ほろ酔いにもかかわらず臨戦体系を取った六人に、北上は右手で落ち着くよう促す。どうやら、敵意やそれに類する何かがあるわけではなさそうだ。

 北上の腰に抱き着き、夕立が頭を北上の脇腹にぐりぐりと擦り付ける。


「今日ライブの予定だったのに任務でドタキャンされたっぽいー!」


「そりゃ災難だったね」


 ビール片手に、北上は適当に対応する。


「だから今日のライブできないっぽい!」


「そっか。頑張って」


「慰めが聞きたいわけじゃないっぽいー!」


 北上が、あからさまに辟易した顔を見せる。適当にはぐらかすためか、左手で夕立の頭を撫でる。夕立は嬉しそうに頭を振った。まさに犬である。

 その様に、不知火は「むっ」と目を細める。なんだあの扱いは。心の中で、言い難い靄が生まれる。


「不知火ちゃん、まさか嫉妬かにゃ?」


 不知火の表情を目ざとく察した睦月が、ニマニマとした笑みを浮かべる。


「別に」


 不知火は素っ気なく告げた。


「ただ、不知火にはそんなことしてくれた記憶がないものですから」


「それを嫉妬と言うんだよお」


 得々とした顔つきの睦月を、不知火が睨む。


「ですから、そういうモノじゃありませんから」


 睦月と不知火が言い争う中、夕立が涙声で北上に縋りついていた。


「お願いだからライブ手伝ってほしいっぽい! 今日は一曲だけだから!」


 北上は「んー」と唸る。

 数秒考え、ビールのジョッキを机上へ。親指で鼻下の泡を拭う。


「いいよ。久しぶりに」


「本当!?」


 夕立の顔に、花が咲き乱れた。


「北上さん大好きっぽいー!」


 顔を押し付ける夕立に、北上が両腕で引き剥がす。


「そろそろウザいから離れて。ウザい」


 北上が力づくで引き剥がす。

 そのやり取りを見ながら、不知火は喉元に何かがせり上がる感覚を覚えた。じりじりと、熱を帯びて渦を巻く。


「で、それでメンツ足りるの?」


「あと、ピアノが欲しいっぽい」


 あたしだけじゃダメじゃん。北上が苦い顔をする。


「いくらあたしでもベースしながらピアノするなんて変態技できないからね」


「誰かピアノできる人が欲しいっぽいー」


 新人たちが、それぞれ顔を見合わせる。互いに「できる?」「無理」と、目線で会話を交錯させた。

 頼れる人間を今から改めて探すのか。

 そう思われた中、不知火が右手を挙げる。真面目さを体現した、すらりとまっすぐな右腕だ。


「ピアノなら、不知火が」


 全員の注目が集まる。


「できんの? 不知火ちゃん」


 北上の何気ない一言に、不知火ははきはきと返す。


「こう見えて、腕にそれなりの覚えがあるつもりです」





「急にどうしたのさ。別に先輩の夕立ちゃんに気を遣わくってもいいんだよ?」


 ベースをチューニングしながら、北上は不知火に話しかける。難しい顔をしながら音程を合わせる。北上本人のモノではなく、夕立曰く“時雨”の私物らしい。漆黒の、時雨らしい一本と言えるだろう。


「お気遣いなく」


 不知火はむっつりと返す。


「不知火はちゃんと弾けます」


 どこか棘を含んだ語調に、北上の腰が引ける。


「不知火ちゃん、なんか怒ってる?」


「いえ」


 不知火は淡々と答える。


「いつもの不知火ですけど」


「いや、絶対違うって」


 親指で確認をしながら、北上が続ける。


「ちょっと声低いし、目もよく見ないと分からないけど少し細いよね。ちょっと前なら見逃したけど、そのくらいの変化なら分かってるつもりだよ」


 反射的に手を顔に寄せようとした不知火であったが、間一髪で思い留まった。そうしてしまえば、自分が怒っていることを言外に認めるようなものだ。

 ――いつも最低限の付き合いしかしないものの、それがわかる位には自分の事を見ていてくれたのか。

 緩みかける唇を気合で引締め、不知火はさも気にしていない空気を作って口を開く。


「夕立さんは師匠にとってどんな人なんです?」


「別にー」


 北上は淡白だ。


「たまぁーに楽器一緒にするくらい。特別仲良しでもなんでもないよ」


「ずっとご一緒に?」


「いんや」


 首から楽器を提げるストラップの長さを調節しながら、北上は答えた。


「夕立ちゃんとは一年前くらいからかな」


「それ以前も鎮守府内で楽器はされていたんですか?」


 不知火の問いに、北上が顔を背けた。


「まあ、ギターの子とね」


 おや。と、不知火は首を傾げる。本来ならもっと言及して然るべきだったが、何かがそれを押し留めた。勘が、まだ尚早だと告げる。

 たった一瞬、自分と北上の間に何か線が引かれるような錯覚を見た。瞬きの内にそれは消えうせ、北上は顔の向きを戻す。不知火もそれに倣えば、簡易ステージの前に艦娘がぞろぞろと集まっている。皆ジョッキやグラスを片手に、今か今かと曲の始まりを心待ちにしているようだ。

 手袋を外し、椅子の高さを整え、不知火は眼前のピアノを睨む。一体どのような予算編成がなされたのかは不明だが、グランドピアノである。一説では松崎の寄付らしく、それが本当であれば松崎の底しれない思惑に眩暈を覚えた。そもそも、これほどの財力がどこに眠っているのだろうか。提督になれば、ポケットマネーの一環なのだろうか。考えれば考えるほど、謎が深まるばかりである。

 浅く息を吸い、こうした発表の場がいつ振りかと回想する。

 兄が自殺するまで、ピアノの習い事は欠かさず通っていた。家に置いてあった安物のピアノも毎日叩き、妹たちを楽しませたものだ。本来なら売ってしまってもよかったのだが、生前の母がそれなりに名の知れたジャズピアノ奏者であり、母親たっての願いで売却はしていなかった。兄も折に触れて「好きなら絶対ピアノをやめるな」と釘を刺していたため、艦娘になってからは縁遠くなってしまっていたが、不知火にとって馴染みの深い楽器だ。

 譜面立てにずらりと並んだ楽譜の一枚目に瞳を向ける。

『On Fire』と、端的に記されていた。

 日本語に訳すと『素晴らしい』や、houseを付けると『観客を沸かせる』と言った意味合いにもなるスラングの一種だ。ラテン系のドラミングとピアノのやり取りが目玉の曲である。それなりの自信はある。母が元気だったころは何度か手ほどきをしてもらい、一人であれば年齢よりも熟したそれなりの演奏を見せる自信だってある。

 しかし合わせたことのない人間同士でどうにかなるのか。もし失敗して滅茶苦茶にしてしまったらどうなるのか。最悪のヴィジョンが、瞼の裏でちりちりと明滅する。

 勢いよく自推した勢いが、今や消し炭になりつつあった。

 酒を煽ってハイになりたいが、それを許すほど甘い曲ではない。今のアルコール量が、ギリギリと言えた。


「不知火ちゃん」


 穴が開くほど楽譜を見ていた不知火の頬を、北上の声が叩く。

 勢いよく顔を向けた不知火に、北上が右手でピースサインを作った。

 人差し指と中指で、唇の両端をぐいと押し上げる。笑えと、暗に言っているのだ。


「折角の音楽なんだから、楽しんじゃいなよ」


「ですが……」


 言い淀む不知火に構うことなく、北上が人差し指と中指で自身の両目を指差す。


「なんかあったら、あたしに目線送って。なんとかしてあげる」


 なんとかしてあげる。

 限りなく無責任極まる物言いだが、北上が言えば本当になんとかなってしまいそうだから不思議なものだ。


「はい」


 短い返事で不知火の気力を推し量ったのか、北上が意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「じゃ、振り落とされないようにね」


 振り落とされる?

 何のことだ。尋ねるより早く、夕立が動いた。


 ――始まる。


 この緊張感は、一人では味わえない。

 いい意味で肌を焼く緊張に、不知火は舌で唇を濡らした。事前の打ち合わせでは、最初北上が存在しない。正確には聞こえの映えによって、ベースはいない方がいいのだ。ドラムとピアノで掛け合いを一分三十秒近く行い、そこから誰もが知る曲の本文へ突入する。

 つまり、最初の一分半は自分しか頼れる人間がいない。その孤独感が、不知火の肺をきつく締め上げた。


 夕立が、緩やかにスティックを掲げる。グリップ部分が赤く、以降先端までは黒の自家製スティックだ。一瞬遅れて、それが魚雷モチーフなのだと不知火は気付く。センス云々は人それぞれだが、面白い着眼点だなと感じた。

 夕立の左足が上下する。その挙動に合わせ、プラスチック製のジャムブロックが音を立てる。叩けばポコポコと音の鳴る、今やラテンの主役打楽器だ。ポンポン、ポン・ポン・ポン。と、それだけであれば多少間抜けな音が響く。

 クラーベと呼ばれるジャムブロックのリズムパターン上から、左右のスティックでスネアドラムやタム――要は太鼓に該当する部分を叩く。様々な音に時折シンバルやカウベルの音を添え、音の厚みを何層にも増やす。それだけでドラムソロになってしまうのではないかと錯覚してしまいがちになるが、不知火は慌てて上半身を前に傾けた。

 両手で、ラテンドラムの上へピアノサウンドを載せる。指を動かし、ラテン特有のリズム感を損ねぬよう神経を尖らせる。ワンポイントで、音の塊を差し込む。

 音の密度を増やす。クラシックのように腰を落ち着けた音ではない。今にもすべてを放り出して踊りそうな、弾ける音だ。故に、音の着地点を見極めて正確に音を置かねばなるまい。

 対して夕立はやりたい放題であった。不知火の緊張をまるで知らない振り――いや、本当に認知していないのだろう。恐る恐る音を差し込む不知火を煽るかのように、スティックの回転率を高める。複雑なストロークを絡め、緩急をつける。


 ――いや、待て待て待て。


 音の落差が生まれないよう、必死に音数を増やす。


 ――なんだこれは。


 心中で、炎が燃える。焦りにも似た、感情の奔流だ。

 この曲ならやったことがある。

 その自信はあった。しかし今はどうだ、夕立のされるがままだ。

 当たり前であるが、両手両足でそれぞれ別の挙動をするのは相当に困難だ。しかし現に夕立は左足でジャムブロックを叩くペダルを踏み、右足でバスドラムのペダルを押している。加えて両手が躍るように四方八方へ飛び交い、左足から刻まれる異なる音質のクラーベに頼るしかなかった。今や、それが命綱だ。それをロストし(見失っ)たら最期。テーマに入るまで何もできない、お飾りに成り果てる。

 適切なポイントで、正しい音を運びこめている。ただ、今一つ夕立特有の波に乗れていないことは感じていた。酒の入った艦娘たちはそうでもないようだが、奏者自身が痛感しているのだ。間違いない。

 しかし総崩れは起きていない。

 大丈夫。

 不知火は自分に言い聞かせた。すぐにテーマだ。テレビや何かで一度は聞いたことがあるだろう、有名なフレーズが始める。そうなればベースである北上も混じってくれる。そこまで持ちこたえろ。誰に言うでもなく、不知火は気力を絞った。

 夕立のフィルが終わる。


 今だ!


 不知火が、音を叩き込んだ。誰もがどこかで聞いたことのある、お馴染みのテーマ進行だ。

 ピアノの一音に、ベースが見事に刺さる。ピアノのコード進行と、全く同じ動くをベースが魅せる。一気に広がった音の厚みが、不知火を安心させた。

 やった。また始まって二分も経っていない。しかし一曲やり終えたほどの心的疲労が、少女の肩にのしかかる。

 知っている艦娘も多いのだろう。テーマに入った瞬間歓声が弾ける。目立ったミスがないことを客の反応から窺い、不知火は胸を撫で下ろした。そこでようやく、不知火や北上に目線を向ける余裕が生まれた。


 ――あげるっぽい。


 夕立の口が、そう動いたように見えた。

 あげる? 何を?

 それを実感したのは、歌でいう所のサビに突入した瞬間だった。


 ぐん――と、夕立がスピードを上げた。


「――はっ?」


 不知火がぎょっと目を剥く。

 これ以上早くしてどうするのか。

 心の声を聞き届けるはずもなく、猛犬がドラムで唸る。敢えて喩えるのであれば、手綱を持っているものの力強い犬に引きずり回されているような感覚だ。それほどにまで、夕立のやりたい放題が極まっている。

 幸いテーマでやりやすい部分だ。先の掛け合いでこのスピードを出されていたらどうなっていたか。考えるだけで、気が遠くなった。

 必死に追いすがる中、北上のベースが音量を上げる。少しでも夕立に届くよう、音量バランスを崩さない限界まで音を上げる。そうすることで、ベースのラインを不知火は拾う。どう弾けばいいか、今では北上が全ての支えだ。重音が通じたのか、夕立か少しだけ落ち着く。

 曲が一瞬、完全に落ち着く。

 すかさず目配せし、不知火は打鍵した。ピアノ、ベース、ドラムのトリオが同じ長さの音を刻むフレーズだ。並が大きくなるイメージで、一音刻むごとに大きく叩く。二回繰り返し、再び大本命だ。

 北上が釣竿を手繰るようにベースを動かす。今や二人がかりで、夕立の暴走を間一髪抑え込んでいるような有り様だ。

 ふと、二人の目が合う。


 大変そうだね。


 北上の黒い瞳が、不知火に語りかける。


 そっちこそ。


 不知火の蒼も、それに応えた。

 不覚にも、唇が緩む。二人で必死に食らいついているにもかかわらず、なぜか楽しく思えてきた。先のテーマ以前よりも、腕が軽い。

 北上の音を糸口に、ピアノを入れる。正確には続いているピアノの速度を整えた。北上もまた不知火のピアノを聴きながら、夕立が速度を落とすようそれとなく後ろ寄りのグルーヴを作る。

 北上が編む音の糸に、不知火はただただ口を開けるしかなかった。

 別に目立った超絶技巧をしているわけではない。夕立のように目に見えて、インパクトのある技術を披露していない。故に気づかれないかもしれないが、それに救われている不知火にはひしひしと実感できた。

 先走る夕立のリズム感を損ねず、それでいて不知火がどうにかついていけるベースラインを編むことで、三人がそれなりに噛みあった演奏をしているように見せかけているのだ。どっちつかずになることなく、北上は北上で自身のリズム感を抱いている。その上で、均衡を保ったまま曲を進めている。これがどれほど難しい事か、実際にやってみれば、想像を絶する。少なくとも不知火には、できる気が欠片もなかった。

 十指を鍵盤に叩き付ける。その間隙を縫い、ドラムのフィルが駆け抜ける。数回繰り返しながら、不知火は北上を睨んだ。


 ――休ませてください!


 視線で必死に訴える。本来ならピアノソロであるが、できる気がしなかった。少なくとも、少し心身を休めたい。

 不知火の切羽詰まった表情と裏腹に、北上が演奏しながら涼しい顔で口を動かす。


 ――ちょっと早くない?


 ――ホント無理なんで、お願いします。


 目線で会話を終了させ、北上が顎を引いた。

 指をせわしなく動かせ、高い音から低い音へ滝のように音程を落とす。低音を沈めるように鳴らし、不知火は息をついた。本来なら彼女のピアノソロが始まるところではあるものの、北上がやってくれると言うのだ。自分はとにかく休みたい一心で、腕をだらんと脱力させる。

 力の抜けた不知火を一瞥し、北上が唇を歪めた。


「じゃ、やっちゃいましょー」


 軽く呟き、立ち上がる。

 北上のソロだ。察した観客が、一斉に歓喜した。

 膝を曲げ、上半身を軽く反らす。

 右手の親指が、ベースの弦を叩く。直後に左手の三本指で押さえつけ、ミュートを効かせる。間髪入れずに右手の人差し指の先端で弦を引っ掛け、弾く。切れ味のある、際立った音が響いた。スラップと呼ばれる奏法で、北上は音を並べる。さすがの夕立も自己主張を控え、バスドラムで四分音符の単調なリズムを刻むことに徹し始めた。

 左手の指で弦を押さえ、その弾みで音を鳴らす。本来なら右手で弦を弾いて初めて鳴るものだが、鍛錬次第で片手で鳴らすこともできるのだ。左手でベースラインを演じ、土台が消えないうちにスラップでキレのある音を載せる。スラップの音は全てにおいて粒が揃い、


 ――いや、待て。


 不知火はベースの音に耳を澄ませた。確かに下地となる低音が響き、その上にスラップを重ねている。

 なぜそれを、一人でできる?

 奏者は北上ただ一人。しかし音だけを聴けば、ベースは少なく見積もって二人程度はいるべき手数だ。実際の数と、本来の音数の乖離が激しい。

 なんだこれは、化け物か。

 今更ながら、北上の手腕に戦く。

 以前龍驤が言っていた、歓迎会でもこのようなことをしたのだろう。ここまでできれば大盛り上がり必至どころか、ベースで多少食べることだってできる。認めたくないが、北上は全ての部分において紛れもない天才であると痛感した瞬間だ。

 タップダンスでも踊るかのように、軽妙な音を両手の指で弾き出す。途中で右手の指で複数の弦を鳴らす。ギターのようなサウンドに、「それはベースの仕事じゃありませんよ」と少女が呟く。


 ――それにしても、


 身体を上下させながら両手を忙しなく動かせる北上を見ながら、不知火がぼんやりと感想を抱く。


 ――師匠も、こんな顔するんですね。


 今の北上は、いつもの顔と似ても似つかぬ有り様だった。口角を釣り上げ、目尻に皺を刻んでいる。普段のどこか冷めた顔をした彼女と見比べたら、人違いを起こしてしまうかもしれない。それほどにまで、平時との変化が激しかった。

 激しく音を刻みながら、北上が「わー!」と叫ぶ。それに煽られるかのように、客も叫び返す。ぴょんぴょんと跳ねながら、身体で曲を歌う。

 あまりに楽しそうな北上を見ながら、不知火は頬を緩めた。


 ――いつもそうやって、笑っていればいいんじゃないですか?


 そこで、ふと北上と目が合う。緩んでいた顔を慌てて修正し、北上を見返す。

 目から滲むニュアンスだけで、真意を測る。どうせ会話は、掻き消える。


 ――次、ソロね。


 不知火には、そう言っているような気がした。

 不知火が、生唾を呑み込む。

 できるのか。自分に問いかけた。

 化け物に囲まれているこの場で、自分にできることはあるのか。

 首を振ろうかと、顔を上げる。北上と再び目があった際、開始前の言葉が脳裏を駆けた。

 ――なんかあったら、なんとかしてあげる。

 誰かに、背中を叩かれた気がした。


「約束ですよ……」


 半笑いで、少女は両手を高く掲げた。


「なんかあったら、なんとかしてもらいますからね!」




 北上が軽く息をつく。自分のソロを客の歓声が見送る。その熱気は汗ばんだ額に、程よい労わりを与えた。即興のソロにしては、それなりに悪くないはずだ。最近はあまり弾いていなかったせいで、少し鈍ったかもしれない。少しずつベースもリハビリしようかなあと、北上はそれとなく思った。

 ピアノが跳ねる。低音から高音へ、一足飛びに駆け巡る。急激な落差を作り、メリハリの渦へ客を巻き込む。

 ふと、不知火のピアノが止まった。夕立も驚異的な反応速度で、ドラムを止める。

 静寂が、唐突に落ちた。客も急に訪れた静けさに、面食らった顔をする。

 時間にして一秒半。北上が慌てて両手をベースに寄せた。

 それを嘲るかのように、不知火がピアノを再開させる。押っ取り刀で気合を入れた北上が、身体を前につんのめる。拍子抜けした北上の背中を、堅実な低音とめまぐるしい中高音が炎のように駆け上がった。敢えて客のテンポを乱すサプライズに、客も沸き立つ。

 わざとか。

 恨めしげな目線を投げる北上に対し、不知火が両腕を上下させたままぺろりと舌を覗かせる。その挙動に、北上は不覚にも目を丸めた。


「へえ」


 呟き、口の片端を釣り上げた。


「そんな顔、できるもんなんだね」


 ニッと笑いながら鍵盤を乱打する不知火を見ながら、北上は呟いた。


「ずっとそうやって、笑ってりゃ可愛いのにね」




 頭が軽い。

 腕はもう限界だ。序盤で散々振り回され、今は自分でも認知できないくらいに鍵盤を叩いている。しかし次から次へ浮かぶフレーズを、勝手に指先がなぞっていた。もっと、もっと弾きたい。その思いが、不知火の腕を急かせる。

 不思議と、表情筋が緩んだ。

 楽しい。今まで弾いたどの曲より、何倍も。

 弾きながら、不知火は思いを馳せる。ここまで心折れることなく耐え凌ぐことができたのも、道中北上が手を牽いてくれていたからだ。師の手を離れ、不知火は一心不乱に踊り狂う。

 自分は一体どうなってしまったのか。この腕は、本当に自分のモノか。

 そう考え、思考を打ち切る。

 いつものような面倒くさい話は後だ。今は、これだけに集中したい。

 歯を見せ、「や!」と吠える。通常であれば、考えられない行いだ。

 夕立のドラムが本格的なセットをはじめ、北上も構える。

 そろりそろりと、二人が割り込んできた。


「もうひと頑張りするっぽいー!」


 夕立が張り切り、熱量が倍加する。同時に、落ち着いていたテンポが一瞬で加速した。

 上体をやや後ろに傾ける心持ちで、曲のグルーヴ感を維持する。

 一瞬でも油断すれば引きずり込まれかねない中、再び北上と目が合う。両者ともソロが終わり落ち着いているのだろう。いつもの顔つきだった。


 ――もう少し、頑張れる?


 北上の目線が尋ねる。


 ――貴女となら、どこまでも。


 敢えて伝えず、肩を軽くあげるだけだ。知られたら、どんなからかいを受けるか分かったものではない。言いたいことは、自分の奥底に沈めた。

 夕立を二人で宥めながら、終わりまで走る。

 再び、曲のメジャー部分に入る。ここから、終焉まで一直線だ。

 最後の気力を振り絞り、指を下ろす。

 夕立のドラムが、空白を彩る。

 最後は三人が顔を合わせ、一斉に音を放つ。見事に揃った音の粒が、ステージの上で花火さながらに弾けた。

 客の大反響を浴びながら、三人は手を振る。全精力を使い果たした夕立は、倒れ込むかのようにドラムの椅子から離脱した。あれだけ大暴れすれば、体力が枯渇するのも無理はない。

 滝のような大歓声に、不知火は目を細めた。自分一人では得られなかった、達成感だ。

 三人を讃える拍手が、次第に粒ぞろいへ変わる。乱れの少ない拍手が連発され、観客席から声が飛び込んだ。


 アンコール! アンコール!


 次なる一曲を所望する客の声に、二人が目を合わせる。

 北上は「たはは」と笑った。


「いい演奏も、やりすぎるとこうなっちゃうのね」


「名誉なことでしょう」


 不知火は続ける。「響かない演奏なら、アンコールももらえませんし」

 北上がベースを構える。


「じゃ、やりますか」


 即興のセッションでまたもや観客を熱の渦へ叩き込んだことは、殊更言うまでもない。



「あー疲れた」


 唐突に誘われたライブも無事終わり、北上はガーデンから少し離れたベンチに腰を降ろしていた。先の興奮を落ち着けるように、夜風が少女の前髪を撫でる。身体の芯から冷やすために、ビアガーデンから拝借した瓶ビールに口をつけた。瓶の天地を逆向け、苦みが喉を突き抜ける。喉が渇いて火照っているときには、ビールが何より美味いと確信している。

 一息つきながら、遠くの喧騒に思いを馳せる。まだ二十時程度であり、一部の酒飲みたちはこれからも飲むつもりなのだろう。騒ぎが衰える糸口がまるで見えなかった。

 煙草を咥え、火を灯す。酒と一緒に嗜む煙草は、何にも代えがたい陶酔感がある。肺を苦みで満たし、穏やかに息を吐いた。

 紫煙が消え入る様を眺め、少女は記憶を遡る。自分の中にあるアルバムを、ぱらぱらと捲った。

 あの日も、今日のように騒がしい夜だった。大井がギターをかき鳴らし、自分がベースを刻んでいた。どんな曲であったか、他の奏者は誰がいたか。そうしたことも忘れてしまうほど、記憶は風化しつつある。三年近く過去の事であろうか、それすら、自分の中で消えつつあった。


「二年か……」


 友を喪くした日々を想う。

 もう二年か。もう一度呟き、煙を吐いた。


「随分、傷心じゃないか」


 どこからともなく、声が聞こえる。変成器でも使っているのかと思うほど、雑味の多い声だ。男とも女とも判然としない声が、北上の鼓膜を掻く。瞳を下に向ければ、黒い蛇がとぐろを巻いていた。蛇が牙を見せ、少女を見上げる。


「久しぶりだな」


「久しぶりじゃん」


 蛇が器用にベンチを這いあがる。少女の隣に身体を落ち着けた。


「随分、他の奴と仲良くなれたみたいじゃないか」


 目の色が、あからさまに違うぞ。

 蛇が続ける。


「不知火とかいう小娘か、お前に随分懐き始めている。お前もそれに、応えかけているな」


「そんなんじゃないよ」


 北上は蛇を見ない。


「あの娘は、そういうのじゃないから」


 少女の言葉を聞き、蛇が少女の身体を這いあがった。長い胴体で少女の身体にまとわりつき、首を囲む。


「どけよ」


 意に介さないまま、北上は煙草を吸い続ける。いつもの飄々とした北上からは考え難い、氷のように冷たい声だった。


「まさか、忘れたわけじゃあるまいな」


 蛇の言葉に、北上は煙の混じった声で応える。


「『報い』はいつか受ける」


 ただ――


「それは今日じゃないし、報いを下すのはお前じゃない」


 少女の返事に満足したのだろう。蛇は北上から離れる。


「努々(ゆめゆめ)忘れるな」


 蛇の声が、少女の心臓に巻き付く。


「俺はお前の罪の意識だ。逃げられるなんて、思わない方がいい。自分だけ生き残っておきながら、のうのうと幸せを享受するなど思わんことだ。あの弟子だって、いつか死ぬ。お前が殺すに決まっている。その悲しみに溺れぬよう、距離を間違えるなよ」


「とっとと消えろクソ野郎。ホルマリンに漬けるぞ」


 瞬きの間に、蛇が消えうせる。

 勿論本物の蛇が喋っていたわけではない。全ては北上が見た、幻だ。


「忘れるもんか」


 煙に中に、言葉を溶かす。


「忘れられるわけ、無いだろ」


 携帯灰皿に煙草をねじ込む。右手が、僅かに震えていた。


「北上さーん!」


 はつらつとした声が、少女の背を叩いた。振り向けば、不知火も含めた新人六人が、グラス片手に手を振っていた。またテーブルに戻ろうかとも考えたが、ふと不知火の青い瞳と目線があった。


 ――お前が殺すに決まっている。


 蛇の言葉が、反芻される。

 振り返していた手を、北上は下げた。


「ごめん、今日はちょっと飲み過ぎたから帰る」


 苦笑を浮かべ、右手を頭の後ろに。残念そうな顔をする雛鳥たちから逃げるように、北上は踵を返す。全てを捨てるような勢いで、北上はその場から去った。


「で、お互いの事よく知れたの?」


 ビアガーデンから数日経ち、睦月は昼食の席で不知火に尋ねた。顔を合わせることが多いせいか、同期の中ではすっかり不知火と睦月の組み合わせが定着しつつある。

 噛んでいた白米を飲み込み、不知火は首を傾げた。


「正直、あまり」


「ええー!?」


 睦月が頭を抱えた。


「あれだけいい演奏しておいてそのオチはないよ不知火ちゃん!」


 何が問題だったのかと考えようとする睦月を見ながら、不知火は先日のことを思い起こした。

 唐突に始まった演奏もアンコール含め見事にやり切り、再び北上と酒を飲もうとしたときのことだ。同期たちと北上を呼び、ふと目があったことを覚えている。その翌日からだろうか、妙に北上が距離を置くようになった気がした。

 別に、北上は特別接触を試みるような性格ではない。弟子を数ヶ月も続けていれば、分かることだ。

 しかし今まで以上に、内側へ踏み込ませないような距離感を感じていた。だが会話の数は確実に増えている。特に意味もない世間話だってするようになった。

 だが、なにか目に見えない線とでも言うのだろうか、如何とも確認しがたい不明瞭な感覚が不知火の足を止めている。それが北上から発せられる無言の圧力であることは心の底では感じていたものの、なぜ接触を拒むのか。それが不知火には理解できなかった。


「何か不知火に、言いたくないことでもあるのでしょうか」


 神妙な顔をする少女に、睦月がにやりと笑う。


「じゃあ!」


 睦月が人差し指を立てる。


「『深淵の文書庫』に行ってみれば?」


 聞き慣れない単語に、不知火が首を傾げる。


「なんです? それ」


 睦月が膨らみかけた胸を反らし、自慢げに語る。


「師匠が言ってたことなんだけど、地下にあるその文書庫にはここの鎮守府全ての情報が眠っているんだって。だから北上さんの事に関してもわざわざ本人に聞くまでもなく、その文書庫で資料探せばいいんじゃないかな?」


 ほう。と不知火は感心した。睦月は少々横着が過ぎる時があるものの、それを補って余りある好奇心を持っていた。故に、こうしたことにも詳しいのだろう。


「それは、どこにあるんですか?」


「この建物の、地下だよ」


「地下?」


 不知火は首を傾げた。そもそも、地下へ繋がる階段なんてあっただろうか。鎮守府の事情に明るくはないものの、ある程度慣れたつもりでいる。そのような状態だが、地下への階段を見つけたことなどない。自分の調査不足なのだろうか。


「そこに行けば、北上さんの色んな資料が見れるわけですか」


 多分ね。と睦月は保険を掛ける。


「睦月も師匠から聞いただけだから、実際に行ったことがないんだよねえ」


「そういったことをご存知な叢雲さんも、凄いですよね」


 睦月は自慢げに人差し指を立てる。


「師匠は鎮守府でも最古参の一人だし、いろんな事情に詳しいんだよねえ」


 地下へ繋がるメモを取り出しながら、好奇心の強い少女がふと思い至る。


「もしかして睦月も行けば、師匠の恥ずかしい過去が見れるかも……!」


 自分天才か。

 閃いた睦月の顔には、そう書いてあった。


「師匠は自分の本名が嫌いだって聞いたことあるし、その弱みを握れば扱いの改善につながるかも! 睦月天才!」


 うきうきと瞳を輝かせる睦月とは打って変わって、不知火の表情が冴えない。


「どうしたの? 不知火ちゃん」


 不思議がる睦月にもわかるよう、不知火は右手を顔の高さまで上げる。手袋に包まれた白い人差し指で、睦月の後方を指した。

 睦月が顔を後ろへ。同時に、さっと顔が青ざめた。


「師匠の弱みを握ろうだなんて、良い度胸してるじゃない」


 叢雲だ。腕を組み、ニヤリと笑っている。

 青い顔のまま、睦月が愛想笑いを浮かべる。


「師匠、いったいいつから後ろに……」


「私の恥ずかしい過去が見れるかもしれないってくだりからよ」


 よりにもよって、一番聞かれたくないところから聞かれていた。

 睦月の表情が凍る。反して、叢雲は満面の笑みだ。


「師匠強請(ゆす)って待遇の改善なんて片腹痛いわね。今日の訓練はそんなこと考える暇もないくらいにヤキ入れてやるわ!」


 巻き添えを恐れた不知火は、机上のメモを音もなく懐へ。大事になる前に去ろうと、トレイへ手を伸ばす。


「そこの新入り」


 思惑がばれていた。自分も何か折檻を受けるのだろうかと、反射的に背筋を伸ばした。いつ腹へパンチが来ても良いように、腹筋に力を込める。


「なんでしょうか」


 はきはきと返答する不知火に、叢雲の湿った目線がぶつかる。


「近道だと思ったら思いの外遠回りだったってことも、あるわよ」


「……?」


 不知火は頭上に疑問符を浮かべる。


「まあ本来正式な申請書を司令官に出さなきゃダメなんだけど、私の権限で赦してあげるから行ってらっしゃい。これ見せれば、中でうろつくことくらいならできるから」


 叢雲が、腕章を投げる。白の腕章には『臨時提督代理・叢雲』と刺繍があった。


「こんなの、お借りしてもいいんでしょうか」


 ちゃんと返しなさいよ。と叢雲。


「あと、私の過去を嗅ぎまわったらタダじゃおかないから」


 目つきを尖らせる叢雲に、不知火は両手を振って意思がないことを示す。


「ありがたく、使わせていただきます」


 踵を返す。午後からは自習の時間だ。この時間を使って、行けばいい。


「あー! 師匠ごめんなさい赦して! あー!」


「いつまでも抵抗するんじゃないわよ! ホラ昼からみっちりしごいてやるわ!」


 背後での悶着には触れないよう、そそくさと足を速める。


「不知火ちゃん助けて! タスケテー!」


 不知火が振り向く。


「今度間宮のスイーツ御馳走するので、それで何卒」


 睦月の悲鳴を聞きながら、不知火は呟いた。


「睦月は犠牲になったのだ。」



 メモが記されていた場所に着いたとき、不知火は苦い顔をした。北上が雛鳥たちに課した試験の会場でもある、今は使われなくなった旧宿舎だ。外壁を見て、メモを再び見る。メモには紛れもなく、現在不知火がいる場所を指していた。

 こんなところに、何があるのか。

 懐疑的な気分に駆られながらも、不知火はメモを頼りに壁を見る。壁はレンガだ。メモによれば、所定のレンガを順序通りに押すことで地下への扉が開くらしかった。


「そんな魔法の世界の扉じゃあるまいし……」


 言いながら、念のため周囲を見やる。どうやら他の艦娘に見られることは厳禁らしく、他に誰にもことを確認するようメモには書かれていた。

 二度視界を巡らせ、誰もいないことを確認する。自分しかいないことを確認し、不知火は恐る恐る順番通りのレンガを右手で強く押す。確かにただのレンガではないらしい。僅かにへこむような手応えを、不知火は感じた。

 ずんずんと、次々にレンガを押す。

 所定のレンガを全部押した。

 しかし、何か起きる気配はない。

 十秒待ち、不知火は大袈裟に溜め息をついた。


「何かと思えば、ただの都市伝説ですか」


 睦月にはなんて説明しようか。そう思いながら踵を返すと同時に、かすかな地鳴りを感じた。

 ずずずと、何かが動く。

 万が一に備えて構えながら背後を振り向けば、レンガの配置が変わっていた。正確には、人が一人通れるほどの隙間が生まれていた。

 鼻で笑っていた不知火が、あんぐりと口を開ける。

 信じがたい事ではあったものの、事実は事実だ。

 丁寧に下へ降りるための階段までついている。

 浅く息を吸い、不知火は階段を下りた。



 階段を下りて、不知火は息をついた。


「お化け屋敷ですか、ここは」


 全体的に、フロアが薄暗かった。加えて立ちはだかるように本棚がそびえ立ち、来訪者になんとも言えない圧迫感を与えている。所々に橙の照明がありながらも暗いため、不知火は集中力を尖らせて歩きはじめた。まずは、書庫全体の地図を探すことから始めなければならない。書庫の面積は、控えめに見積もっても相当な広さだ。加えて棚によって縦にも本が積まれている。自分一人だけでは、探せないことは明白だ。

 緩く開いた左手を前に、握った右拳を右頬付近に。何があっても対応できるように、すり足で歩を進める。

 二分ほど進んだところで、大きい机に行き着いた。照明でも持ってくるべきだったかと悔やみながら、不知火は机上に目線を落とす。

 数枚の書類が、宛所なく置かれているようだ。相当長い間放置されているのだろうか、端がわずかに風化し始めている。

 一枚を適当に取る。薄暗さも相まって、何が書いてあるのかも判然としない。

 何か有益な情報がないか。そう願いながら机上を漁る不知火の背後から、絡み付くような声が聞こえた。


「おや、見慣れない顔でありますなあ」


「――ッ!?」


 不知火が、背後を振り向く。構えを崩さぬまま、周囲に気配を巡らせる。つい先程までは、周りに誰もいないはずだった。北上に仕込まれたが故に、そのくらいのことはできるはずだ。しかし、それを勘案しても気配に気付けなかったことは不知火を十二分に動揺させた。

 走る鼓動を深い呼吸で宥めながら、不知火は心を落ち着ける。机から少し離れ、敢えて誰かをおびき寄せるような配置を作った。少しでも近づけば、全力で投げ飛ばす心意気だってある。


「そう気張らなくとも、自分は危害を加えるつもりはありませんぞ」


 声がした方を見る。視線の先では、一人の少女が椅子に座っていた。


「何か、文書庫に御用ですかな?」


 幽霊か。不知火は思った。

 マントの下には詰襟の黒服。被る帽子も黒だが、恐ろしいほどに肌が白い。美白と言う言葉ではお収まり切らない、病的なまでの白さだ。幽霊でないのなら吸血鬼か。十字架も銀の銃弾も持っていないことを、不知火は冗談半分で悔やんだ。


「文書庫に、少し調べたいものが」


 警戒心を解かないまま、不知火は少女を睨む。


「そう怖い顔を、しないでいただきたいでありますなあ」


 少女がおどけながら腕を広げる。


「最古参以外でここに訪れるとは、並々ならぬ事情があると踏んでいるのでありますが……」


 少女が目を細める。


「お名前を、窺ってもいいですかな?」


「陽炎型二番艦の不知火です」


 少女が「ほお」と息をつく。


「あまり聞かない名であることから察するに、どうやら新入りですな?」


 値踏みするような視線が、不知火の身体を舐めまわす。湿り気を帯びた眼差しが、どことなく松崎に似ているような気がした。あの底知れぬ、何か深い獣が舌なめずりをしている錯覚を覚える目つきだ。この少女の場合、攻撃性と交換するように厭らしさが多い。相手の価値や本質を、底から剥き出しにさせようと狙っている者の目だ。


「不知火も名乗ったことですし、そちらのお名前を教えてください」


 不知火の要求に「嗚呼これは失礼申した」と、相手は右手で顔を覆った。いちいち芝居がかった挙動だが、どうにも咎めにくい。俗な言い方をするのであれば、しっくりくるのだ。


「自分は、陸軍の特種船丙型の“あきつ丸”であります。何卒」


 ニタリと笑うあきつ丸に、不知火が尋ねる。


「あきつ丸さんも、文書庫に何か用が?」


「否」


 あきつ丸は短く否定する。


「何を隠そう不肖あきつ丸、ここの文書管理を提督殿から一任されているのであります」


「ずっと、ここにいるんですか?」


 如何にも。

 あきつ丸の返事は軽やかだ。


「このあきつ丸、昔は陸からのスパイとしてこの鎮守府に送られたでありますがその企みが提督殿に露見してしまい、今ではこの文書庫の管理を任されているのであります」


「元スパイですか。よく生きていられましたね」


「提督殿には恩義しかありませんぞ」


 あきつ丸はしみじみと呟く。


「まあ自分の件を上手く使って陸を強請ったりしたそうなので、提督殿にとっても美味しいサプライズだったらしいですぞ。噂では、陸から強請ったお金で私設部隊を作ったとかどうとか」


 映画の見すぎではないかと思う不知火だったが、素朴な疑問が浮かんだ。


「文書庫は、元とは言えスパイに任せていいポストなんでしょうか」


「甘く見られては困りますぞ」


 あきつ丸が、人差し指を揺らす。


「なにも最初からこうした場所にいるわけではありませぬ。最初は厠(かわや)の掃除から始まり、着実に信用を積もらせた賜物なのであります」


 なんとも地味なスタートだった。


「裏切りを考慮して、あと数人に任せるべきかと思いますけど……結構杜撰ですね」


「裏切りは、余程のことがないと有り得ないと言っておきますぞ」


 あきつ丸が脚を組む。


「俗な話、海の方が優れた待遇で内心もう陸には戻りたくないでありますなあ。暗い所にずっといられることも含め、今更陸へ送り返されたりすることは御免こうむりたいのであります」


 非常に正直な理由だ。良くも悪くも、信用していいのだろうか。松崎にしては、少し甘い気がしないでもない。


「まあ身体の一部に爆弾を埋め込まれているので、ちょっとでも怪しい企みを抱いたらドカンですぞ」


 全然甘くはなかった。完全に殺す気だ。


「色んな要素が絡んで、自分は海軍に絶対の服従を誓っているのであります。その様たるや、まさに主人に腹を見せる犬の如しですぞ」


 自慢げに話すあきつ丸に、不知火が不信感を滲ませる。


「こんなに薄暗い所で、文書管理ができるんです?」


 手袋越しの人差し指で、あきつ丸は自分の目を指す。


「自分、こう見えて夜目も効くのでありますよ」


 それに――

 あきつ丸は続ける。


「もしも文書を盗む不届き者がいてもこの暗さでは迅速な脱出は不可。加えて自分の庭ですから、取り押さえもスムーズにできるのであります」


 この暗さで動けるのか。

 にわかに信じがたい話ではあったが、本人が言うことを否定していても仕方がない。不知火は無難に首肯しておいた。

 また、本当に文書管理を担っているのであればこれほど都合のいい役者もいない。見取り図があっても山のように積まれた束から北上に関する何かを探すことは、苦行以上の何物でもないからだ。案内役がいるのであれば、望んだ書物を見繕うくらい容易いだろう。

 叢雲から借りた腕章を渡し、告げた。


「探していただきたい、文書があるのですが」


「ほほお」


 ニタニタとした笑みを貼り付けながら、あきつ丸は腕章を受け取る。


「確かに叢雲殿の、正真正銘の腕章ですなあ」


 不知火に返し、「さて」と尋ねる。


「お望みは、何にまつわる文書ですかな?」


 思い出したように、あきつ丸が「そう言えば」と付け足す。


「つい先程叢雲殿から連絡があったので、叢雲殿に関する資料の開示は一切できませんぞ。あしからず」


「叢雲さんの資料ではないので」


 一呼吸置き、青い瞳をあきつ丸に向けた。


「北上さんのことについて、いくつか知りたいことが」


「……はて」


 あきつ丸が、わざとらしく首を傾げる。


「幻聴ですかな? 今北上殿に関する資料を求められた気がするのでありますが……」


「ならもう一度言いましょうか」


 不知火が、同じ語調で繰り返す。


「北上さんの資料を、見せていただけないでしょうか」


「北上殿の資料……?」


 あきつ丸は眉の形を変える。ハの字に歪め、眉間に皺を寄せた。


「いくら叢雲殿の腕章を借りてきたとはいえ、何の因果もない艦娘の資料をお見せするわけにはいかないでありますなあ」


 肩を竦めるあきつ丸の頬に、不知火が短い言葉を投げつけた。


「繋がりならあります」


「一応窺っておきますが、その心や如何に」


「弟子だからです」


 繰り返す。


「不知火は、北上さんの弟子だからです。だから少しでも、あの人の事が知りたいんです」


 歯切れよく答える不知火とは裏腹に、あきつ丸の反応は淡白だ――いや、どう反応していいのか分からないような顔をしている。


「……弟子?」


 鬼火でも見たかのように、あきつ丸の顔つきが変わる。信じられない怪奇現象を目の当たりにしたような呆け振りだ。


「確かに師弟制は存在するでありますが、あの北上殿が弟子を?」


 不知火が頷く。何がそれほど面白かったのだろうか、あきつ丸は天井を仰ぎ腹から笑い声をあげた。


「はっはっは! これは愉快! 上等な落語を嗜もうとも、ここまで可笑しいことも中々巡り会えませんぞ!」


 腹を抱え、大きく口を開ける。挙げ句脚すらバタバタと前後させ、面白さを身体で表現していた。

 突然すぎるキャラの変わりように、不知火が口を半開きに。

 一通り笑ったあきつ丸は「これはお見苦しい所を」と告げ、目尻の涙を拭った。


「ついにあの北上殿も、誰かと一緒に歩く日が来たのでありますなあ」


 感慨深そうに呟くあきつ丸に、不知火が痺れを切らす。


「で、師匠の文書は一体どこにあるんでしょうか?」


「秘密ですな」


 ハスキーな声が、転がり落ちた。


「は?」


 聞き返す不知火に、あきつ丸はわかりやすく言葉を砕く。


「北上殿の、文書は、お見せできないと言っているのであります」


 歪んだ口元をするあきつ丸に対し、不知火が青筋を立てる。


「あまり、不知火は暴力的なことが好きではないのですが」


 前置きを据え、右拳を握りしめる。


「先輩格とは言え、どうしても拒むのであれば身体に聞かせていただきましょう」


 血気盛んな不知火を見て、あきつ丸が「いやはや」と漏らした。


「若いということは、なんとも羨ましい限りでありますなあ」


 されど――


「若さとは、時に愚かの代名詞でもあります」


 ちん――と、鈴に似た音が聞こえる。

 一瞬の空白を経て、不知火の前髪が数本切れる。はらはらと、薄暗い部屋を踊りながら落ちた。


「変な気を起こして、師を悲しませるの感心しませんなあ」


 見れば、あきつ丸の左手には鞘に収まった日本刀があった。いつ、どこから出したのか。全く認知できなかったが、相当な技量を持ち合わせている事だけは伺えた。暗がりとは言え、認知できない速さと鍛錬を兼ねていることは明白だ。

 しかしあきつ丸は何かが不満らしく、「やや」と呟き唇を尖らせた。手袋付きの右手で、鞘をトントンと叩く。


「鍔鳴りがするとは……近いうちに直してもらわなければなりませんな」


 さておき――

 あきつ丸は話の接ぎ穂を思い出す。


「文書をお見せしない理由は、大きく二つであります」


 人差し指を立てる。


「一つは、このような邪道に頼って情報を得ていいのかと思うのでありますな」


 あきつ丸は続ける。


「北上殿は、不知火殿がこうして過去を探っている事もご存じないのであろう。そこで不知火殿が過去を知っていたのであれば、却って不知火殿の信頼にもかかわりますな。本当に知りたいのであれば、本人が話してくれるのを待つしかなかろう。要は、北上殿にとって不知火殿がそれに値する人物になればいつかその時が来ると、自分は思っているであります」


 真っ当なことを言うあきつ丸に、少女が続きを促す。


「では、二つ目の理由とは」


「単純にはぐらかした方が面白くなりそうだからでありますな」


 反射的に、腕が動きかけた。しかし殴りかかっても効果が薄いことは、悔しいが先の一瞬で思い知った。その代わりと言わんばかりに、ゴミを見るような目で見る。


「性根が腐っていますね」


「結構結構」


 あきつ丸は相好を崩した。


「なにせ自分、性根の悪さと手段を選ばぬ手管が取り柄であります」


 貴重な時間を割いて収穫なしか。不知火は肩を落とし、踵を返す。これ以上ここにいても、得られるものはないだろう。とぼとぼと、上へ続く階段に足を向ける。


「アドバイスと呼べるほど上等なものではありませぬが」


 あきつ丸の声が、背中に当たった。


「北上殿はああ見えて細いお方。どうか、傍にいてあげてほしいであります」


「はあ」


 冴えない声で返す。そういえば以前龍驤にも似たようなことを言われたと、仄かに思い出した。


「もう二度と、北上殿に悲しい思いをさせないでいただきたいでありますぞ」


 それと……。

 あきつ丸が人を化かすような笑みではなく、どこか柔和な微笑みをたたえる。


「裸の付き合いでも、されてみてはどうであろうか」


 不知火が足を止める。


「ただ、早まってはいけませんぞ」


「どういう意味合いで言っているんですかね、それ」


 背中越しに言葉を投げる。


「他意はありませんぞ」


 文書庫の番人が、ケラケラと笑った。


「一緒にいる時間を増やされてみてはいかがですかな? そうすれば、お互い心の距離が詰まるのも早くなるように思えますぞ」


 当たり障りのない助言だが、不知火は右手を緩く挙げる。


「ご親切にどうも。一つの参考意見にさせていただきますね」


「礼には及びませんぞ」


 それと――と付け足す。


「次遊びに来る祭は、一言内線で知らせてもらえればお茶菓子くらいは出しますぞ」


「随分と、贔屓にしてくださるんですね」


「勿論であります」


 幽霊の声が、確かな輪郭を帯びた。


「不知火殿の目には、輝きがありますからな」


 あきつ丸は続ける。


「我々のように長いこと艦娘をやると、その色も霞んでくるのであります。自分には、その輝きが眩しくもあり、少し羨ましいのであります。故に、その輝きがどうなるのかを見守る一端として、多少の贔屓はさせてほしいのでありますな」


「でも、文書は見せてくれないんですよね」


 左様。番人は頷く。


「そうしたものは、本人から手に入れて初めて価値があるものでありますからな」


 あきつ丸は右手を耳の高さにまで上げ、いつも通りの顔で少女を見送った。


「北上殿には、よろしく伝えておいてほしいでありますぞ」














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1: たぬポン 2016-10-31 08:11:34 ID: k2rHSO8B

ストーリーもいいですしキャラクターも個性豊かでとても面白いです(o´∀`)b
それに、とても読みやすいのでするする読めちゃいます(ゝω・)
個人的には戦闘シーンが好きです(≧∇≦)b
特に金剛が盛大に暴れたシーンが一番のお気に入りですね(●´∀`●)


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