2016-12-02 22:52:51 更新

前書き

まさかの第三弾です。章管理ガバガバです。お許しください。章管理とかの問題ではなく垂れ流しになっております。本当にすみません、こうでもしないと終わらない領域まで来てしまいました(熱い言い訳)


 ここ数日、北上の調子はすこぶる沈んでいた。理由は単純であり、不知火が起因だ。

 彼女の周囲で何があったのかわからないが、いつも以上に付きまとう頻度が多くなったような気がする。否、明らかに一緒にいる時間が増えた。

 いつもの不知火なら睦月や同期と摂るはずが自分の席まで詰めかけ、一緒に食べる。しかし何か相談したいことや雑談がしたいわけでもないらしく、黙って正面で食事するのみとなっている。何がしたのか、北上には皆目見当がつかない。食事だけならまだしも終業後や喫煙にまでついてくる――それどころかトイレにだって一緒に攻め込んでくる有り様だ。本当に、目的が分からないし分かりたくもなかった。松崎に密命を下され、自分の監視をしているのではないかと勘繰ったくらいだ。

 今はトイレに行くふりをして三階の窓から飛び降り、喫煙所にまで逃げ込んでいる。自分を労わるかのように、速度の遅い息を吐く。北上の心中を知ってか知らずか、紫煙もどことなく足取り重く大気へ消える。

 不知火が付きまとうだけであれば、まだ多少我慢できる。自分の時間を大事にしている北上にとって耐えがたい苦痛ではあるものの、それを上回る頭痛の種が存在していた。


「妙な懐かれ方をしたものだ」


 例の、黒い蛇である。不知火と時間を共にしていると、決まって顕れるようになった。しかしわかりやすい長髪で北上の精神を煽るでもなく、ただ遠巻きに、北上と不知火を観察しているだけなのである。いっそ何か言ってきたほうが、多少マシだ。

 蛇を見下し、右足で踏み潰す。しかし相手は幻覚。ちぎれた体は煙のように姿をぼかし、一瞬後には元通りの形になった。


「あの頃を思い出すな」


 蛇の耳障りな声が、北上の神経をじりじりと焦がす。


「二年以上前の、まだ大井が生きていた頃もこんな状態だっただろう。あの時はお前が大井から、離れなかったな」


 蛇が北上の足元をうろつく。明らかに、神経を逆撫でさせることが目的の動きだ。


「隣に誰かがいると、気持ちがいいか? 嬉しいか? 楽しいか?」


 北上の脚を、黒が這い上がる。ずるずると、音もなく上る様は不気味の一言に尽きた。


「俺はお前だ。言わずとも心のどこかでは悪い気がしていないことくらい、知っているぞ」


 蛇は続ける。


「誰かの隣は居心地がいいだろうな。大井の隣を思い出すだろう?」


「黙れ」


 北上の声は冷たい。


「次大井っちのこと言ってみろ。殺すからな」


 鋭い目つきで蛇を睨む。しかし蛇は、北上の殺気を意に介したようには見えなかった。


「二年で悲しみが鈍ったか?」


 煙草を挟んでいた北上の指が、硬直する。


「あの日の後悔を、煤けた世界の事を忘れたとは言わさんぞ」


 蛇が耳元へ。北上の顎を、冷や汗がなぞる。


「お前には、誰かと一緒に歩く資格なんてない。罪の意識である俺がいる限り、いつまでもお前の事を見張り続けてやる。許されたと錯覚した瞬間に顕れ、そのことを延々と吹き込んでやろう」


 蛇は止まらない。寧ろ北上を追い詰めるように、言葉を重ねる。


「まさかお前――」


 蛇が、わざとらしく間を作った。


「大井の代わりを、待っているわけではないだろうな」


 呼吸が止まった。喉の奥が締まる。ひゅうひゅうと、呼吸に合わせて北上の視界も狭まる。


「自惚れるな」


 少女の喉に、黒が絡み付く。


「自分が殺した少女の代わりを待つことが、どれほど驕った心か認識しろ。お前には、誰かと一緒に笑う資格すらない。永久に孤独を抱え、闇の底で一人佇み、淡い安寧を貪れ。そうすれば、喪う絶望もお前の心に手を伸ばさん」


「言いたいことは、それだけかよ」


 声を作り、気にしていない体を見せる。


「じゃあさっさと消えろよ。じゃないと本当に殺すぞ」


 ふん、と蛇が笑う。


「殺せるものなら、いっそ殺してほしいものだな」


 蛇が吐き捨てる。


「俺はお前だ。お前がお前でいる限り、俺は何度でも顕れるぞ」


 蛇の影が、蜃気楼のように掻き消えた。

 それと同時に、北上の呼吸も戻る。不足していた酸素を補うべく、深呼吸を繰り返した。肩を上下させ、目を見開いた。冷や汗が止まらない。煙草の味が、吐瀉物のように汚らわしく感じた。

 平衡感覚も崩れる。自分が今どこにいるのか、立っているのか、座っているのか、自分は本当に存在しているのか。心身が大気に溶けるのではないかと思える不安感が、北上の中心から噴き出した。

 吸っていた煙草を、右手で握りつぶす。焼ける痛みが走ったが、今ではそれすら心地よく感じる有り様だ。痛みが、現実感を持たせてくれる。大丈夫、自分はここにいる。感じる痛みが、強い認識を促した。

 呼吸が落ち着いた頃合いを見計らい、北上は顔を上げた。「クソが」と悪態をつき、左手で顔を覆う。これ以上煙草を吸う気にもなれなかったため、渋々しまう。

 右手の火傷が残るかなと考え、切り捨てる。どうせ傷だらけの身体だ、今更火傷跡が一つ増えたところで大した問題ではなかった。

 肺一杯に酸素を取り入れ、長く吐く。

 蛇の出現頻度が、以上に高い。その理由は、紛れもなく不知火であろう。具体的な契機はわからない。しかし、ビアガーデンでライブを共にした時から何かが変わり始めた。北上の中心にある歯車が、ギリギリと異音を奏でる。二年を費やして再構築した自分の心が、悲鳴を上げている。やめろ、これ以上はいけないと声が聞こえる。

 あの闇に戻りたいのか。耳の奥で、自分の声がした。


「……ダメだ」


 ベンチに背中を預け、呆然と空を見る。北上の心中をまるで察しない空は、憎たらしいほどに晴れ渡っていた。

 数分ほどそうして見上げていたら、背後から声がかかる。年頃の少女にしては落ち着き、低い声だ。ここ数ヶ月で、爆発的に聞く頻度が増えた不知火のだ。


「こんなところにいらしたんですか」


 呆れを含んだ、ため息交じりの声がする。振り返れば、予想通りに不知火が腕を組んでいた。眉をハの字にさせ、どことなく咎める眼差しだ。


「探したんですからね」


 何気ない不知火の一言が、北上の中心を掻く。


 待て、待ってくれ。


 少女は自分に言い聞かせる。

 いつかのどこかで聞いたことのあるフレーズが、北上を揺さぶった。

 その言葉を聞くのは、決まって訓練を抜け出し、煙草を吸っているときだった。


「でもやっぱり、ここにいるんじゃないかと思っていましたよ」


 心臓が、跳ねる。全身の血流がうるさい。耳元で太鼓が鳴っているのではないかと思うほど、鼓動が喧しかった。加えて、身体全ての汗腺から汗が噴き出る。晴れた空にもかかわらず、北上は薄ら寒い何かを感じた。


「いい加減、煙草を控えたらどうですか?」


 不知火の唇が、喪くした友との記憶をなぞる。

 一字一句、違(たが)わずに。

 北上の焦点がぼやける。一瞬ではあったが、不知火が消える。代わりに、かつて隣にいた親友が見えた。茶色い髪と柔和な顔立ちが忘れられない、大好きな仲間だ。


「あ……」


 少女が言葉を失う。

 煙草が健康に及ぼす悪影響について説いていた不知火だったが自失した北上に気付き、首を傾げた。

 目を見開き、不規則な呼吸をする少女に不知火が近寄る。異様な発汗をしている北上の肩を、少女が叩いた。


「師匠、聞いていますか?」


 三度叩かれ、北上の焦点が元に戻る。大井の影は消えうせ、目の前には不知火がいた。荒い呼吸のまま、がくがくと頷く。


「大丈夫」


 何が大丈夫なのか分からないまま、北上は繰り返す。「大丈夫だから」


 覚束ない足取りで立つ。早くここから立ち去らなければ。正確には、不知火の傍にいてはいけない。自分の奥を守る鍵が、明らかに緩み始めていた。少なくとも今は、不知火から離れたい一心だった。

 力が入らないせいか、腰が落ちる。浮いた腰が、再びベンチに。早く去ろうと焦る気持ちを嘲笑うように、脚の力が空回りした。

 いつもとの北上とはまるで違うことを察したのだろう。不知火が北上の前へ。


「体調が優れないようですね」


 立たせようと伸ばされた手を、北上は反射的に弾いた。あの手を取ったら、戻れなくなる。直感でわかった。

 不知火が、目を丸める。


「大丈夫、あたしは大丈夫だから」


 うわ言のように繰り返す北上に、不知火の顔つき気が険しくなる。


「全然大丈夫そうには思えません。不知火が医務室まで連れて――」


「大丈夫だって言ってるだろ!」


 鋭い声が、喫煙所を裂いた。

 明らかな拒絶に、不知火の身体が硬直した。


「あたしなんかに構ってないで、さっさと訓練行けよ」


 無理矢理呂律を回し、睨む。

 どうするべきかと視線を往復させている不知火の頬を叩くように、短く吐いた。


「行けよ!」


 今は関わらない方がいいと判断したらしい不知火が、一歩下がる。


「失礼します。あまり無理をされるとお体に障りますので、お気をつけて」


 踵を返し、駆け足で去る。不知火の残滓を、そよ風が掻き消した。

 自分の隣に誰もいないことを確認し、北上は両手で顔を覆う。


「大井っち……」


 か細い声が、両手の隙間から漏れる。


「あたし、やっぱり駄目だ」


 伽藍堂のような声が、地面に落ちた。


「大井っちを殺したあたしだけが、幸せになんてなれないよ」





 潜水艦娘の58から簡素な報告書を受け取った松崎は、「ふむ」と唸った。A4二枚にまとめられた北上の行動記録を見ながら、腕を組む。

 松崎に報告書を渡した58が、ふらふらと執務室を後にする。さすがに数日間不眠での観察は、いくら専門の人間だろうと厳しかったようだ。「たくさん休んでください」と、男が労いの言葉を背中に送った。


「言われなくても、そうさせてもらうでち」


 58が右手を力なく挙げる。58だからこそ北上に悟られずにできた技だ。401は社会や組織に潜ることを得意とするものの、やはり対象の観察では58の力が卓越していた。「58さんにお願いして、大正解でした」と呟く。


「少し、急ぎ過ぎているのでは?」


 同様の報告書を受け取っている大淀が、中指でメガネのブリッジを押し上げる。執務室のソファに腰を掛けている龍驤も、何か言いたげな顔をしていた。


「かもしれませんね」


 松崎はあっさりと肯定した。


「北上さんが正体不明の幻覚――いや、罪の意識に苛まれていることは概ね私も把握していました。しかしいつかは克服していただかないと、困るんです」


「そのためにわざわざ新人教育を一ヶ月押し付け、あまつさえ不知火さんを弟子にさせるよう仕向けたんですか?」


「半分正解で、半分不正解です」


 松崎が人差し指を立てる。


「北上さんの対人関係のリハビリも兼ねて新人の教育を頼んだことは、紛れもなく私が企んだ思惑です。本人には絶対話せない内容ですけど、あくまで裏の目的としてあったことは事実です」


 続いて、中指を立てた。


「ですが不知火さんが北上さんの弟子になるところまでは、私も全く予想できていませんでした。不知火さんの事ですからきっと、もっと同じ方向性で性格の波長が近い――強いて例を挙げるのであれば神通さん辺りを選ぶものかと思っていました。ですが彼女は、北上さんを選んだ」


 松崎の口角が、ぐっと上がる。


「北上さんもそれを拒まなかった。本当に嫌なら原則があるとは言え、交渉にだって来ればいい。しかし彼女はそれしかしなかった。少し前なら考えられなかったこの違いが、どれほど大きなことか分かりますか?」


 松崎にしては珍しく、興奮気味の口調だ。心なしか、話すスピードも速い。


「間違いなく、彼女の中で何かが変わりかけている。不知火さんの存在なのか時間が多少癒したのかは分かりませんが、もう少し上手く馴らせば海への復帰も夢ではありません」


「確かに、北上さんの戦力を陸で腐らせるのは余りに勿体ない。そう思われるのも、一理あるとは思います。費用に合った働きを期待するのであれば、やはり海で果敢に戦ってもらうのが一番でしょう。会計事情を鑑みても、それは間違いありません」


 客観的な事情を淡々と話す大淀の瞳は、黒く醒めきっていた。


「で、仮に海に出たとしましょう。使えるんですか? 北上さんは」


「はい」


 男は即答だった。


「北上さんは、きっと役に立ってもらえます」


 松崎の言葉に、迷いはない。


「艦娘になるためには、まず適性が求められます。つまり何かしらの艦に対する適正が出た時点で、艦娘としての素養や才能がある人であることは間違いありません。その中でも今の北上さんは、あらゆる観点から見て完成された強さを持っていました。先の三代たちも決して弱いわけではありませんでした。戦死せず、しかし艤装に耐えられなくなったため特殊後方支援課に移った猛者です。その彼女たちを差し置いてなお、北上さんの強さは特筆されて然るべきなのです」


「ま、確かに北上ちゃんの戦いはホンマ凄いわ。そこは素直に、松崎クンと同じや」


 サンバイザーを指先で弄り、龍驤が話す。


「おまけにアレは天性や。ノウハウの継承も、教えるとか教えやんとかの問題ちゃう次元なんも、曲がりなりとも元師匠のウチはウチなりに分かっとるつもりや」


 せやけどな――


 つばの下で、龍驤の瞳に影が落ちる。直後、ぎらりと瞳の色が変わった。黄色く、龍の眼を彷彿する力強さを孕んでいた。


「可愛い弟子の北上ちゃんに無理強いさせたりあの時と同じように悲しみ味あわせるつもりなんやったら、命懸けで止めるでな。キミがどれだけ強かろうが、ウチの命粉微塵にしてでも、心中してでもええから止めたるわ」


「滅相もない」


 松崎は両掌を見せる。自分に害はありませんよ、暗にそう示すためのジェスチャーだ。


「勿論孫弟子に相当する不知火さんにも、危機を及ぼさないつもりです。そうした強硬策以外で北上さんの復帰を握るのは、間違いなく不知火さんでしょうね」


「少し話は逸れますけど」


 大淀が書類を仕舞う。日中でも薄暗い執務室で、静かに言葉を手放した。


「大井さんがまだ生きていることを、いつになったら北上さんに言うおつもりなんですか?」


「誤解が生じるような物言いは、控えてください」


 松崎が笑みを作る。


「では訂正します」


 大淀はいつも通りの落ち着いた調子で、言葉を紡いだ。


「大井さんがまだ死んでいない――何かしらの形で現存している可能性が捨てきれないことを、いつになったら北上さんに伝えるのか教えてください」


「わかりません」


 松崎は即答した。


「ですが、今ではないことは明らかでしょう」


 噛み砕くように、男が話し始める。


「大淀さんが言及したことも、嘘ではありませんし本当でもありません。これはあくまで可能性の話で、蓋を開けてみるまでは全く見当のつかない状態なんです」


「ですがこの二年間、大井に該当する艤装を建造することはできていません」


「つまり、一つの鎮守府に同じ艤装が建造できない理論――大島博士の仮説に基づいた考え方をすれば、大井さんがまだ生きているからこそこの鎮守府で大井さんの艤装を建造できない。そうおっしゃりたいわけですね?」


 大淀が首肯する。


「大井さんの艤装はそこまで建造難易度もありません。そのことを踏まえても、やはり二年で一度も出ないことは多少不自然だと思います」


「一理あるわ」


 龍驤も便乗する。


「大島学派が完全に正しいっちゅう不完全な前提があるけど、その前提ありきで考えたらそうなるわな。建造される艤装も、意図的に大井ちゃんの艤装になるのを避けたがっとるくらいにヒットせえへん。本当に死んんどるなら、一回くらい建造されてもええはずや」


 龍驤は脚と腕を組む。眉間に皺をよせ、見かけの年齢からは想像できないほど悩ましげな顔を作る。


「あまりそうやって悩まれると、皺が増えてしまいますよ」


「だあほ」


 松崎の冗談に、龍驤が高い声で返す。


「ウチかて本来なら三十路や。眉間に皺くらい、ナンボでも刻んだるわ」


 それは失礼。軽く詫び、男は結論を下す。


「私としては、できれば限界までお話ししたくないと考えております」


「一応、理由頼むわ」


 龍驤の合いの手に、「もちろんですとも」と添える。


「変化が起きつつあるとは言え、北上さんは未だ不安定――いや、どう転ぶか分からない状況です。察するに、今はできる限り外からの刺激を避けた方が賢明です。そのような中で、もし生きていたとしても安易に伝えるべきではないと思います。こちらで完全に生死の判別、あるいは北上さんが完全に乗り越えることができてからではないと危険すぎます」


「もし生きとるかもしれへんって望み持たせて、調べてみたら死んでましたじゃどうしようもないでな」


「まさしく、その通りです」


 松崎が肯定する。


「想定しうる中で最悪のシナリオだった場合、北上さんの再起は絶望的でしょう。それだけならまだしも、自殺等をされると事態は底を極めます」


 ファイルから新人たちにまつわる紙を抜きだし、男は眺める。


「今年の新人たちをはじめ、北上さんは一部を除いて概ね全体的に人望を集めています。二年前に海を出ることをやめてからも、それに関しては揺るぎありません」


「自殺によって、全体の士気にかかわるとでも?」


 男は顎を引いた。


「加えて鎮守府に対しても不信感を抱くでしょう。この事態は崩れかけているジェンガのごとく、連鎖する危険性すら孕んでいますから。少ない救いと言えば、北上さんがそのことに気付いていない状況だという一点に尽きます。もしくは気付いていない振りをしているだけかもしれませんが、それに救われていることは疑いようのない事実と言っても良いでしょう」


 大淀が目を細める。


「その言葉、信用していいんですね」


「誠実であることが取り柄の私を、どうか信じていただきたい」


 大淀が鼻を鳴らす。


「クソ野ろ――正確に少々難がある司令官ですけど、自分や組織に対する不利益やリスクは削りたいと考えているスタンスは知っているつもりです。ですから、今はその思惑や言葉を信じることといたします」


「ありがたい限りです。あとさらっと上官の事を罵倒しかけるのはおやめください。結構つらいんですからねこれ」


 話が大方まとまった瞬間、扉が開かれる。のそのそと、猫背の雲龍が入り込んできた。ソファで腰かけている龍驤を見つけ、発光する。


「どないしたんや、雲龍」


 先程の苦悶していた気配が消えうせ、母のように暖かい声で雲龍を呼ぶ。大股で龍驤へ接近し、ビニールで梱包済みの羊羹を取り出した。


「間宮にもらったから、一緒に食べよ」


 得意気に突き出す雲龍の顔には、数えきれないくらいの「褒めて」が書かれている、ような気がした。主人から褒美として撫でられることを心待ちにする犬だ。楽しみを隠す気のない雲龍に腰を降ろすよう促し、小さい手で雲龍を撫でた。雲龍は龍驤の腹部に頭を押し当て、ぐりぐりとはしゃぐ。


「なんかすっかりシリアスな雰囲気でもなくなってもたな」


 龍驤が腰を上げる。雲龍がそわそわし始める。主人が散歩に行くことを察した犬のようだ。


「松崎クンもなんでもええからウチに言いや。前線退きかけの骨董品やけど、ちゃあんとお仕事はできるさかい」


「ありがとうございます」


「ええねん。ウチとキミの仲やろ」


 雲龍に引きずられながら、龍驤は部屋を後にした。


「私、珈琲淹れてきますね」


 大淀が席を立つ。「お願いします」と見送り、松崎は深く息を吐いた。


「急がねば……」


 その声は誰に聞かれるでもなく、床へ堕ちた。


 少女は緩やかに瞼を上げる。掠れた視界の中で白い天井を認識し、自分が眠っていたのだと思い出した。なぜ自分が眠っていたのか。北上は記憶の糸を、静かに引きはじめる。喫煙所で蛇と会話し、不知火を突き放し、余りに体調が優れなかったために医務室に逃げ込んだのだ。伺いを立てるより早く、ベッドに倒れ込んだ瞬間記憶が途切れている。余程疲れていたのだろう。壁にかかっている時計によれば、二十一時を多少過ぎている。相当な時間、眠っていたようだ。


「起きたみたいね」


 大人びた、どこか艶のある声が北上の耳を叩いた。白いカーテン越しに、北上は感謝を述べる。


「ありがとうございます、“陸奥”さんのおかげで、だいぶ楽になりました」


 カーテンを薙ぎ、靴を履く。寝過ぎて醒めきっていない眼のまま、少女は椅子で腰かける女を見た。茶色いショートカットとメリハリのある身体が印象に残る女だ。愛くるしい駆逐艦や軽巡たちのような『美少女』と呼ぶより、最早『美女』と称した方がふさわしいほど顔立ちは大人びて、いい意味で年を取り始めた顔つきだ。長門の姉妹艦として強大な艤装を操る実力者ではあるが、普段はカウンセラーとして鎮守府に身を置く秀才でもある。

 戦う際には外しているらしい赤フレームの眼鏡をかけ、白衣を纏っている。椅子に座ったまま、北上にマグカップを一つ差し出した。


「はい、これ飲んで」


「どうも」


 何かしらの紅茶らしい。熱すぎず、それでいて甘味を感じる香りが北上の鼻腔を温めた。

 ソファに腰を降ろし、北上は紅茶を啜る。北上に対して特に何を言うでもなく、陸奥は黙々と患者のカルテを整理している。北上を無視するでもなく、しかし何も聞いてこない乾いた優しさが、今はとにかくありがたかった。紙が擦れる音と何かをペンで書き込む心地いい音だけが、部屋で踊る。

 数分ほどそうしていただろうか。陸奥が緩やかに話を振った。


「最近の調子はどう?」


「まあ、それなりです」


 当たり障りのない返事だ。本当のことを言っても信じてもらえる可能性は低い。何より、誰かに言いたくなるようなものでもなかった。

 優れない顔色と声で大まかな察しがついているだろう陸奥は、静かに頷くのみだ。


「陸奥さん」


 北上が尋ねる。


「陸奥さんにも、艦娘になってから後悔したこととかってあるんですか?」


「後悔?」


 後悔かあと繰り返し、ペンの頭を唇に添える。その仕草を見ながら前世どれだけの徳を積めばここまで恵まれた顔で生まれるんだろうかと、北上は場違いながらに思った。


「正直なこと言うと、艦娘になったことそのものを後悔しているわ、今でも」


 意外な返答だった。カウンセラーとして忙しいながらも鎮守府内で生活を満喫している姿をよく見かけているため、そこまで後悔しているとは思えなかった。

 驚いている北上を見てか、陸奥は悪戯っぽく笑う。その笑みばかりは、少しだけ歳が下がったような印象を抱かせた。


「私、本当は女優とかモデルとかになりたかったのよ。高校生のころは」


 女優やモデル。陸奥のために神が用意した仕事のように北上は思った。行動やしぐさの一つ一つに華と艶を兼ね備えた陸奥であれば、大ブレイクも時間の問題だっただろう。

 しかし、艦娘になった。


「良いのか悪いのか艦娘――よりによって強くて引く手あ数多の“陸奥”の適性が検知された瞬間には家中大パニックだったわ。私たちの時代も艦娘候補は徴兵制ではなく志願制だったけど、それでも断る選択肢なんてなかったもの。断れば周囲からどんな誹りを受けるか、考えるだけで生きた心地がしないわ」


 つらつらと、陸奥は話す。

 話が徐々に重くなり始めてきたタイミングを見計らい、「でも」と声のトーンを上げた。


「投薬のおかげでいつまでもこの顔やスタイルのままって言うのは、正直感謝かしら」


 北上がクスリと笑う。


「ただ、結婚できないのはそれぞれの艦娘次第だけど思うところがあるわねー」


 据え置きの小型冷蔵庫からチョコレートを取り出し、齧る。


「現段階の法律では艦娘って人間でもないし、艦娘になった瞬間結婚の権利もなくなるのはちょっと横暴だと思うわ。結婚に関しても、艦娘になるんじゃなかったかなあって思うときはあるかしら」


 一通りの話を聞き、北上は紅茶を再び喉に通した。


「後悔して、辛くないんですか?」


「辛いわ、とても」


 とても辛く感じているものの声とは思えぬ声色に、北上は首を傾げた。


「でも、それ以上にやりたいことがあるの。私」


「やりたいこと?」


 繰り返す北上に。陸奥は頷く。


「私は薬で結婚できなくなったけど、結婚に対して色んな人に幸せになってほしいって望みがあるの。だからこの戦いが全部終わって陸奥としての艦娘の任が解かれたり外の世界で別の仕事に就けるようになれば、ウェディングプランねーになるわ。それが私の夢、やりたいこと」


「そのために陸奥さんは戦って、カウンセラーもしているんですか?」


「勿論、カウンセラーとしてみんなを支えたい想いもあるわよ。それは誤解しないでね」


 舌先をぺろりと出し、人差し指を立てて他者には秘密にするよう促す。


「後悔も、無いと言えば嘘になるわ。でもそれ以上にやりたいことがあるから、私は戦うの。艦娘の心をケアするカウンセラーとして、ビッグセブンの陸奥としてね」


 にこりと笑う陸奥の顔を見て、北上が反射的に目を細めた。眩しく、羨ましい生き方だった。


「ただ、これはあくまで私の生き方だから。北上ちゃんは北上ちゃんなりの何かが来るまで、急がなくていいわ」


 席を立ち、座っている北上の背後へ。


「焦る必要は、どこにもないもの。自分が本当にやりたいこと、どうなりたいかああ。それを見つけてから、後悔とどう向き合っていくのかを考えなさい」


 すらりと長い手が、北上の頭をくしゃりと撫でた。


「私もみんなも、貴女の味方だからね」


「ありがとう、ございます」


 紅茶に視線を落としながら、北上は謝する。

 殊勝な少女に、陸奥が顔をにやけさせた。


「ねえ北上ちゃん、私の妹にならない?」


「……はあ」


 北上が、気の抜けた声を出す。


「私って艦娘になる前から末っ子だったし、艦娘になっても長門の妹なのよ。だから、一度でいいから妹が欲しかったのよねー。どう?」


「どうとかそうとかの問題じゃないと思うんですけど」


「私がお姉ちゃんだから勿論いっぱい服も買ってあげるわ。間宮にも連れて行ってあげちゃうから!」


「そういう問題じゃなくてですね」


 突拍子もない提案に北上がたじろぐ。せわしなくマグカップを置き、バタバタと逃げるように扉へ。


「今日は本当に、ありがとうございました」


「また何かあったら、いつでもいらっしゃい」


 頭を下げて退室しようとする北上を、「それと」と呼び止める。


「いつもはシャワーかもしれないけど、今日は中央浴場でゆっくり浸かりなさい。自分の身体がお湯と一緒になるんじゃないかってくらいに、のんびりと浸かることをお勧めするわ」


「何から何まで、ありがとうございます」


 北上の退室を確認する。念のため扉を開けて顔を覗かせれば、少女の背は遠かった。あの足取りであれば、今日の所はどうにかなるであろう。安堵のため息を零し、棚から馴染みのある即席紅茶を取り出す。


「妹のジョーク、受けて良かった」


 あれで無反応であれば、相当深刻であったことは間違いない。長時間の睡眠を挟み、心身ともに一度落ち着くといいらしい。まだ北上の崩壊は先と結論付け、念のために記録として残す。北上のカルテを引き抜き、さらさらと所感も加える。

 一通りの作業を終え、うんと伸びる。欠伸交じりの声で、誰にも聞こえないようぼやいた。


「妹、欲しかったなあ」








「不知火はダメぬいです」


 午後八時も少し過ぎ、不知火は居酒屋鳳翔のカウンターに突っ伏していた。席を見れば大小さまざまなグラスが空いており、どれほど飲んだのかが窺える。耳まで赤くなった不知火の肩を叩きながら、睦月が苦笑を浮かべた。


「別に、不知火ちゃんはそこまで不出来じゃないと思うんだけど……睦月なんてほら、いつも叢雲師匠にお尻蹴られちゃうし。はいお水」


「横から割り込んでしまいますけど」


 カウンター奥で魚を捌きながら、鳳翔が言葉を添える。


「叢雲さんはああ見えて熱いけど不器用な人ですから。期待をどうやって表現していいのか分からないから激励のつもりで蹴っちゃうんです。たまったものじゃないかもしれませんけど、そのことだけは覚えてあげてくださいね」


 艦娘歴が近いせいか、鳳翔がそれとなく叢雲に関するフォローを入れる。


「ほ、鳳翔さんそれ本当!?」


「ええ」


 鳳翔は微笑んだ。「寧ろ大した期待をしていないと、結構ドライですから。叢雲さん」


「そっか、睦月期待されてるんだ……」


 瞳をきらきらさせて感激させる睦月とは打って変わって、不知火のテンションはどん底だった。


「それに比べて不知火は師匠に対してまともに気を遣えない雑魚。ダメダメな不知火でダメぬい……フフッ」


 自虐で笑っていた。これはそろそろまずいのではないか。持ち前の感知能力を発揮せずとも、睦月は察した。

 事の発端は休憩時間が終わり、訓練に帰ってきたときからだ。何があったのかはまるで分らないが、不知火にとっては思わしくないことがあったらしい。自信を喪失させた顔で、見るからに落ち込んでいた。

 飲み始めて三十分くらいは取り留めもない世間話があったものの、少しアルコールが回り始めた瞬間不知火が一気に加速した。何かを洗い流すように激しく酒を呷り、今のように抑制が効かない状態に陥ってしまった。幸い睦月はほろ酔い程度で済んでいるため、共倒れになる悪夢だけは回避できるのが救いだった。


「不知火はダメぬい……」


「不知火ちゃんそれ言うの今日で何回目なのかもうわかんないよ」


「ワンパターンなことしか言えなくてすいません」


「……」


 うわあ、面倒くさい。

 声に出すと更なる面倒事が来ることは明白だったため、睦月は心中で漏らした。思えば一年目の雛はみな、余り酒を飲まない。艦娘になる前は中高生だったせいか、酒に対して馴染や愛着のないことも理由の一つだろう。しかし不知火は、鯨飲の言葉がしっくりくるほど飲んでいる――否、酒に呑まれていた。


「老婆心ですけど」


 ぐらぐらと上体を揺らす不知火を横目に、鳳翔が睦月に助言を送る。


「若いうちに潰れておくと、後後のためになりますからおススメですよ」


「そういうことが聞きたいんじゃないんですー!」


「私も若いころは沢山飲んで沢山潰れちゃいましたし、そういうモノだと割り切るのも手ですよ」


「この状況をなんとかする手段を教えてほしいんですけどー!」


「睦月ぃ!」


 鳳翔に助けをと揉めていた睦月の方が、力強く掴まれる。目が据わって泥酔直前の不知火が、曖昧な意識のまま睦月に絡んだ。


「どうしたの、不知火ちゃん」


 安易に誘ったのは失敗だったか。自分の軽率さを悔いかける中、不知火が浮ついた呂律で話し始めた。


「不知火なんかのユーモアも面白みもない艦娘の友達でいてくれて、ありがたきしあわせ!」


「この状況が一番おもしろいよ、不知火ちゃん」


 いつも凛々しい顔つきの不知火がこの有り様だ。


「こんなダメぬいに優しく接してくれる睦月と言う友達に恵まれて、不知火は幸せぬい!」


 不知火ががばりと抱き着いてきた。抵抗することも馬鹿らしく感じた睦月が、されるがままになる。


「不知火はこんなに出来た友達を持てて、幸せです」


 ずずずと鼻を鳴らし始めた不知火に対し、睦月は酔いが醒める。これは自分がしっかりしなきゃいけないな。睦月は自分に気合を入れ直した。


「不知火にはぁ!」


 両腕を広げ、少女が話し始める。


「夢があるんですう!」


 本当に収拾がつくのだろうか。明日の出勤に不知火が生きて臨めるだろうか。諸々の事を考えながら、睦月は聞くことに徹する。


「夢って何?」


「よくぞ聞いてくれまひた!」


 呂律もそろそろ危うい。さりげなくコップに水を注ぎ、不知火に差し出す。焼酎か何かと間違えたらしい不知火が「いただきます!」と叫び、ごくごくと飲む。これを延々と繰り返せば少なくとも不知火マーライオンは回避できるのではないか。睦月は一縷の希望を見出した。


「不知火が艦娘として出世してえ、お金一杯稼いでえ、弟や妹を幸せにするんですう! みんなに大学行かせてえ、幸せな家庭を、不知火が守るんですう!」


「すごく、かっこいいよ、不知火ちゃん」


 泥酔していなければね。

 その言葉は、あえて呑み込んだ。家族のために、艦娘になる。今では殉職率も低い仕事であるものの、危険であることに変わりはない。


「睦月だってそうでしょうよお!」


 語尾を子音で伸ばしつつ、不知火が水を呷る。せめて二日酔いのダメージだけは緩和してやろうと、睦月は水をなみなみ注ぐ。


「睦月だって家族のために、頑張っているじゃないですかあ!」


 不知火が再び睦月に抱き着く。不知火の背中をポンポンと叩きながら、「仕事だしね」と笑う。

そのやり取りを見ていた鳳翔が、ふわりと笑う。子の成長を見守る、母のような慈しみが滲む。


「若いっていいですね。私たちみたいになると、そんなことしたくてもできなくなっちゃいますから」


「鳳翔さんって、何歳くら――」


「秘密です」


 にこやかな笑みをしたまま、包丁をちらつかせた。これは踏み込まない方がいいな。睦月は得意の察知能力を駆使し、にへらと笑う。言及する気はありませんよと、遠巻きに示した。


「不知火ちゃん自身には、夢ってないの?」


「不知火の、夢?」


 ぼやけた声で、聞き返す。

 熱烈なハグを解き、口元だけは真面目に結ぶ。目は依然として座ったままだったが、多少マシな見てくれにはなっていた。


「カッコイイ艦娘になりたいです」


「ストイックだね」


「あわよくば鎮守府内の人気投票で師匠やマスタークラスの皆さんを差し置いて、栄冠の一位に輝きたいぬい」


「台無しだね」


 一瞬で俗に塗れた不知火に対し、水を渡す。


「もっとこう艦娘とか尊敬とかじゃなくて、不知火ちゃん自身の夢ってないの?」


「不知火の夢、ですか」


「そ。やりたいこと」


 水を飲みながら、不知火の目が虚ろになる。何事かを回想しながら、口を開いた。


「もう一度、師匠と音楽したいですね」


 素朴過ぎる願いに、睦月は目を瞬かせた。もっと野心に溢れた何かが来ると思っていたため、反応がわずかに遅れた。


「北上さんと?」


「ええ、師匠と」


 不知火は続ける。


「この前のライブは本当に、夢のような時間でした。あんなに楽しかった演奏は、多分初めてです」


「睦月は音楽よく分からないんだけど、そんなに北上さんってすごかったの」


 不知火は頷く。


「とにかく、優しかったです」


 流れるように、琥珀の液体が入ったグラスを手に取る。ウィスキーだ。睦月が気付いて制止するより早く、琥珀で唇を濡らす。


「師匠と一緒に演奏していた時は、大変ですけどすごく楽しかったんです。大慌てでしたけど心が落ち着くというか、支えられているって実感があって。いつかは不知火も、師匠の事を支えられることができればと、そう思います」


 多少まとまりのない言葉だったが、不知火なりの本心なのだろう。赤らんだ顔と緩みかけている口元が、どこか艶めかしい。


「まあ、それも今日でオシマイなんですけどね」


「急に暗くなったね」


 ジェットコースターも凌駕する落差に、睦月がメスを入れる。


「あんな拒絶のされ方したら、もう不知火はおしまいだぬい……」


「語尾みたいになっちゃってるよ」


「捨てられた不知火は野良猫のように鎮守府を彷徨い、やがて鎮守府の名物野良猫としてメディアに面白おかしく取り沙汰されるに違いありません」


「なんでちょっと面白そうな未来予想図描いたの?」


 睦月が冷静に指摘する。


「一応言っておくけど、師弟制って師匠から関係を断ち切ることできないんだよ」


「お魚くわえた不知火追いかけて裸足で駆けていく愉快な鎮守府のみんなが……えっ」


 不知火が目を剥く。その顔はさながら背景に宇宙を広げた猫のようだ。


「睦月も師匠から聞くまで知らなったんだけど、新人の事を大切にする方針だから、師匠に弟子を切り捨てる権限がないんだって。あえて言及しなかったけど今の替え歌すごく気になるよ」


「それ本当ですか」


 睦月は頷いた。


「だから少なくとも、北上さんから捨てられて不知火ちゃんが野良猫になることはないよ」


「そうなん、ですね……よかった」


 じわりと、目尻に雫をたたえる。まさか泣くと思っていなかった睦月は、大急ぎでハンカチを取り出す。不知火に差し出し、ニコリと笑った。


「不知火ちゃんは、北上さんの事が大好きなんだね」


「大好きと言いますかなんといいますか」


 すんすんと鼻を鳴らしながら、不知火が話す。


「憧れています。聞いた話では相当強く、軽巡の中では誰より勇敢だったらしいです。それゆえに、前線で戦っていらっしゃらない今でも人望があるのでしょう。それが、不知火にとってはとても羨ましいです。なぜ海に出たがらないのか知る由もありませんが、海に出ればきっとだれにも負けないくらい凄いと、不知火は確信しています」


 ちょっと個性的すぎる部分もありますけど。と少女は補足する。


「それでも不知火にとって師匠は師匠であり、ずっと追いかけたい背中でもあるんです。自分もいつか、ああなることができればと」


 水を飲み、息をつく。


「不知火は、少し焦りすぎていたのかもしれませんね」


 少女が呟いた。


「かもね」


 睦月は肯定する。


「艦娘人生きっと長いんだから、ゆっくり知れればいいんじゃないかにゃ」


 のどかに締めくくる睦月に、不知火は細めた目を向けた。


「思えばきっと、睦月に対抗心があったのかもしれません」


「睦月に? にゃんで?」


 不思議がる睦月に、不知火が心中を明かす。


「睦月はいつも、叢雲さんのいろんな話をしてくれます。それに比べて不知火はあまりそういったことがありませんでした。いい意味で仲良く、砕けた関係を見て多分焦りがあったのでしょう。睦月に比べて自分はどうだ? 同期の進歩から置いて行かれていないか? と。だから色々な手段を講じて師匠の事を知ろうともしましたし、今思えば付きまとってしまうようなこともしていました」


 不知火が肩を揺らす。


「叢雲さんの言う通りでしたね。『近道だと思ったら、思いの外遠回りだったってこともある』。本当にその通りだと、痛感しました」


 グラスの水を干す。先と比べて随分落ち着きを取り戻した蒼で、睦月の目を見る。


「不知火は不知火なりに、師匠と付き合っていこうかと思います。少し時間がかかるかもしれませんが、それが一番、不知火らしいと思いますし」


「だね」


 睦月が白い歯を見せる。


「だからって、不知火ちゃんはちょっと行動が極端だよね」


 口元を苦め、不知火は自身の頬を掻いた。


「こう見えて不知火、不器用なんで」


 癖毛の少女が、うんと頷く。


「知ってた」





 自室のドアを前にして、不知火は深々と頭を下げた。


「今日は、本当にありがとうございました」


「いいよいいよ、睦月も楽しかったし」


 にこにこと笑みを崩さない睦月に、不知火は「そう言っていただけると幸いです」と返す。


「今度は、睦月のいろんな話を聞かせてください」


「うん、そうさせてもらうね!」


 人懐っこい笑顔のまま、少女は不知火を気遣う。


「大丈夫? 二日酔いにはならなさそう?」


「お陰様で。水を頂いたおかげで、大分助けられました。ありがとうございます」


 話し方や動作からも大丈夫と判したのだろう、睦月は「また明日ね」と短く告げ、手を振り去った。

 クリアになりつつある頭で、不知火は部屋の中を見渡す。北上はいなかった。いたとしてもどう話していいのかまだ分からない為、ありがたいと言えばありがたい。時計に目を向け、明日の準備をする。


「この時間なら、お風呂入れそうですかね」


 一人ごち、風呂用と決めている鞄に部屋着やタオル等を詰め込む。準備をしながら、睦月を誘えばよかったかと反省する。今日の件を含めいつかお礼を行動で示そう。今日は久しぶりに、一人で大浴場を満喫する。それもいいじゃないか。

 北上に突き放された事実から立ち直ることはまだ難しそうだが、どうにか落ち着くことはできている。あとは時間をかけて、上手い落としどころを見つけるだけだ。


「そうと決まれば」


 不知火がうんと背筋を伸ばす。欠伸交じりに、ふやけた声を出した。


「今日はお風呂でのんびりしましょうか。師匠との距離の取り方も、そこで追々考えていけばいいですし」


 軽率に思いつき、部屋を後にした。




 十分後。不知火は自分の思い付きを猛省した。確かにこの時間になれば、入浴している艦娘も少ない。皆自室で読書や、次週に励む時間帯だ。故に大渋滞を前にした後悔ではない。

 後悔の種が、いつも通りの声で不知火に話しかけた。


「そんなところで突っ立ってないで、入れば?」


 タオルで髪をまとめ上げていたため一瞬誰かわからなかったが、据わっている目でわかる。師匠である、北上だ。気まずいためにとんぼ返りしようかとも悩んだが、北上が手招きをしたためにおずおずと浴槽へ近寄る。さすがにここで断ることは、できそうにもなかった。掛け湯を念入りに行い、「失礼します」と一言。爪先から湯に入り、深い息を吐いた。


「ああああ……」


 至福。溜め息には無限の悦楽が詰まっていた。湯が筋肉を解し、一日の疲れが溶ける。体中を弛緩させ、不知火は息をついた。風呂は人類の糧だ。誰に言うでもなく、不知火は確信する。

 一息つき、思い出した。隣に、日中突き放された師がいることに。途端に、気まずさがじわじわと指先を冷やす。


「おじいちゃんみたいだね、不知火ちゃん」


 北上の指摘に、不知火が「む」と口を曲げる。


「どんな人間だって、風呂を前にすれば無力です。誰でも息を吐くはずです」


「じゃあ加賀もそうなのか、今度賭けてみる?」


 不知火は、ぼんやりと加賀の事を思い起こす。ほぼ付き合いのない空母だが自分に厳しく、物静かである事くらいは知っている。酒を相当に呑んでも、いつもと変わらない顔で顔だけ赤くさせる器用な艦娘である。北上の同期らしいが、本人から加賀に関する情報はほぼ皆無と言っても差し支えなかった。


「加賀さんが、浴槽にですか」


 二人で考える。


「無表情とか真顔とかで入られても、ちょっとアレですね」


「だね」


 北上も同意する。


「じゃあさ、声出して入るの想像してみよっか」


 不知火は青い瞳を上へ向け、空想する。女らしい体つきを湯に差し込み、愉悦の息を吐く加賀を描いた。

 ふっ――と小さく息を吐く。


「そこはかとなく面白いですね」


「やっぱ無言の方がいいかな。加賀のイメージ的にも」


 苦笑いを交わす中、北上がぼそりと零した。


「昼間は、ごめんね」


 思いの外しおらしい一言に、不知火が両手を振った。その余波で、波が荒立つ。


「いえ! アレは不知火にも多大な落ち度がありまして……!」


「いくら調子が優れなかったからって、大人げないと思ってる。ごめん」


 鼻から下を湯に沈め、ぶくぶくと泡立てる。その所作が幼く、不知火はクスリと笑った。


「いいよ、もっと笑っても」


「いえ、大丈夫です」


 謹んで断る。「さて」と、北上が腰を上げた。


「ちょっと、身体洗ってくる」


 湯船から離れた北上に、不知火が追いすがる。


「でしたら!」


 大きな声が浴場に残響する。二人以外いないことが、幸いした。


「でしたら、お背中を流させてください!」


 必死に食いついた不知火だったが、北上の反応は淡白だった。


「はあ……」


 そこで、昼間突き放された光景が蘇る。また強く拒まれるのではないか。その思いが、遅れて少女の足元を心許なくさせた。


「や、やっぱり今の話は」


「いいよ」


 北上が、淡白に告げる。


「なかったことに……は?」


 少女の目が、丸くなった。瞼を何度かおろし、ぱちぱちと瞬く。


「昼間酷いこと言っちゃったし、それくらい全然いいよ」


 罪の意識があったのだろうか、北上は言い終わると同時に顔を背けた。


「早くやんないと、あたしが自分で洗うからね」


 浴場特有の腰かけに座り、シャワーで髪を洗い始める。


「是非洗わせてください、是非!」


 浴槽から出て、少女は慌てて髪を洗う。北上より早く髪を洗い終えた不知火は、北上を待つ。髪を洗い終えた北上が、自身のタオルを不知火に渡した。


「謹んで、お受けいたします」


 その言い方に、北上が肩を揺らす。


「大袈裟じゃない?」


「そのくらい、師匠には敬意を持っているつもりですので」


 石鹸をつけ、北上の背中を洗い始める。北上は不知火がいても平気で着替えを始める性質であるため知っていはいたものの、間近で見る無数の傷跡に不知火は息を呑んだ。一年目の艦娘は、原則半年近くは出撃できない。出撃するとこうなるのか。不知火は、師に聞こえないよう唾を飲み込んだ。無数の傷跡が、北上の身体には刻まれている。中には十センチ近くに達する縫合痕まであり、百足が身体を張っているのかと錯覚するほどだ。その痛みを知ることは、今の不知火にはできない。だが少なくとも自分の想像が及ばないことは、容易に想像がついた。


「やっぱ、気持ち悪いよね」


 あははと笑う北上に、不知火は「いえ」と即答する。


「凄いと思います」


 不知火が続ける。


「これだけの傷を負うほど勇敢に戦われたということが、勲章だと思います。気持ち悪いなんて、とても。傷が多いことは、不知火にとっては凄いことだと思います」


 不知火の真面目な言葉に、北上が意地の悪い声を投げかける。


「艦娘(あたしたち)の世界では、『傷を負うほど戦いが下手』って言葉があるの知ってる?」


「えっ」


 不知火が、ぎょっと目を剥く。先の意味をなぞるのであれば、これだけの傷を負う北上は戦いが下手だということになる。


「えっと、そういう意味で言ったわけではなく……」


 あたふたと弁解を始めた不知火を尻目に、北上が軽く笑う。


「嘘だよ」


 冗談を飛ばした北上に、不知火が尋ねる。


「やっぱり、痛いですか?」


「そりゃあもう」


 北上は軽い調子で応える。


「いっそ死んだ方がマシってくらい、余りの痛みにのた打ち回ることもあったよ」


 遠くへ思いを馳せる北上の声に、不知火は目を細める。自分の知らない、昔の話をしていることは容易に想像がついた。


「それでも、海に出たんですか?」


「昔はね」


 北上の声は軽い。


「じゃあ――」


 じゃあなんで、今は海に出ないんですか?

 その言葉を、喉の根元で押し留める。その言葉を吐いた瞬間、戻れない気がしたからだ。焦らない。そう決めたからには、少しずつでいい。

 代わりに、傷跡を人差し指でなぞった。


「うひゃあ!?」


 北上の、甲高い声が木霊する。普段の彼女からは想像もできないような、少女らしく黄色い声だった。


「おお……」


 不知火が瞳を輝かせる。


「そんな声も、出るんですね」


「不知火ちゃん、明日から格闘訓練三倍ハードにするからね」


 事実上の死刑宣告を言い渡され、不知火は冷や汗を吹きだす。


「触るなら、一声かけるのがマナーじゃない?」


「では、触らせていただきます」


「は?」


 北上が困惑の色を滲ませる。


「本気で触るの?」


「一声かけたので」


 右手の人差し指で、北上の傷跡をなぞる。むず痒いのだろう、少女が背中をよじらせる。


「社交辞令って言葉、不知火ちゃん知らないの?」


「存じぬい」


 不知火が傷跡を指で確かめる。縫合痕は皮膚を無理矢理繋ぎ合わせたせいか、わずかな凹凸が指の腹に伝わる。

 不知火の指に呼応して、北上が身体を僅かに捻る。無数の切り傷が、ざらざらと指先に引っかかった。


「さすがにそろそろ恥ずかしから、辞めてくれると大変助かるんだけど」


 北上の頼みに、不知火は渋々引き下がる。


「続きは、また今度とさせていただきます」


「あたしとしては一生嫌なんだけど」


 苦笑いを浮かべる師の背中を、湯で流す。三度ほど湯をかけ、泡を取り払った。


「ありがと」


 短く礼を言った北上が、不知火のタオルをひったくる。「え」と呆けた不知火に対し、少女はニヤリと笑って見せた。


「次、不知火ちゃんの番だから」


「い、いやいや!」


 師らには慌てて手を振る。


「これはあくまで不知火がやりたかったからしたまでですし、師匠にやってもらうなんてそんな恐れ多いことはとてもではありません!」


「ほら、さっさと背中見せて」


 タオルを取られてしまった今、少女に身体を洗う術はない。このまま出ることも考えたが、身体の水滴を落とさぬまま床を汚すことに罪悪感を抱く。少女は渋々、北上に背中を見せた。


「どうぞ、優しくお願いします」


「普段クソ真面目な不知火ちゃんからそんなこと言われると、なんというか盛り上がるねえ」


「“クソ”は余分です」


 頬を膨らませた不知火に、ごめんごめんと北上は軽快に謝る。タオルに石鹸をつけ泡立てる最中、北上は右手を少女の脇腹に差し込んだ。

 右手人差し指が、不知火の脇腹を撫で上げる。


「わっひゃあ!」


 不知火の声が裏返る。飛び跳ねるような驚き方をした不知火に、北上が腹を抱えて笑い始めた。


「何今の声! 『わっひゃあ』て! オモシロ過ぎるよ不知火ちゃん!」


 不意打ちにより醜態を晒した不知火が、羞恥で耳まで赤く染める。


「ごめんって、仕返しのつもりだったんだけどまさかそこまでびっくりするなんて思わなくて」


 ヒヒヒと笑う北上を尻目に、不知火が恨めしがる声で怨嗟を吐く。


「冷蔵庫のプリン、明日の朝には無いと思っていてくださいね」


「それしたら戦争だからね」


 軽口を叩き合い、北上が不知火の背を洗う。

 数分の無言を挟み、北上がおもむろに口を開いた。


「不知火ちゃん、聞きたいことあるんだけど」


「不知火で答えられることなら、なんでも」


 少女の背中をこすりながら、師は問う。


「なんで、艦娘になろうと思ったの?」


 今まで全く訊かれなかったことを唐突に訊かれ、一瞬幻聴かとすら疑った。しかし、少女は素直に答える。


「不知火には、自慢の兄がいました」


 少女は続ける。


「周囲からの信頼も厚く正義感に燃えて悪と戦う兄は、不知火の憧れでした。あんな兄になりたい。自分も兄のように。そう思う心ばかりが、今思えば肥大していたのかもしれません。不知火の不器用さを知っていながら、“お前の真っ直ぐさは財産だ”と、折に触れて褒めてもくれました」


 ですが――

 不知火が、声のトーンを落とす。


「そんな折、兄が自殺しました。飽くまで聞いた話ですが上層部の汚職を明かそうと戦った結果、自殺にまで追い込まれたと聞いております」


「そいつらへ復讐するために、情報を得るために艦娘になったの?」


「いえ」


 不知火は否定する。


「そうした心積りはありません。ただ兄の名誉を回復させ、兄に誇れる人間になりたいと思ったから艦娘になったまでです。兄のように、不知火も人を守れたらと思っています」


 まあ、

 不知火は苦い声を出す。


「生活の大部分を兄に依存していたがためにのっぴきならない財政になって、妹たちを養うという側面も多分にあるわけですけども。艦娘は民間の中卒や高卒に比べて、稼ぎがいいわけですし」


「……へえ」


 北上の声は淡白だった。背中を向けているが故に、どの様な顔をしているのかは想像するしかない。


「それ、お兄さんが望んでいると思う?」


 自分の何を試しているのだろうか。勘繰りながら、不知火は思いの丈をそのまま話す。


「いえ。寧ろ艦娘になることを反対すると思います、生きていたら。危ないですし、死ぬ確率だって普通に生きているより何倍も高いわけですから」


 不知火の音吐に歪みはない。寧ろ、ある種愚かとも言える愚直さがあった。


「不知火がそうしたいから、そうしているまでです。お金の事や兄の事もありますが、それでも不知火は、人を守りたいから艦娘になりました。今では、胸を張ってそう言えます」


 北上が風呂桶で背中を流す。完全に流し、浴槽へ。

 長い息を吐いて数秒。北上は深みのある調子で呟いた。


「不知火ちゃんは、立派だね」


「それほどでもありません」


 湯に戻った不知火が否定する。


「不知火がやりたいと、望んだことですから」


 言い切り、北上の横顔を見る。


「師匠は、どうして艦娘に?」


 その言葉は、自然に出た。言った直後に踏み込みすぎたかもしれないと思ったものの、自分でも驚くほど滑らかに出た言葉は必死さや焦りもない、思いそのままの声だった。


「あたし?」


 あたしはねえ。と、少女が回想する。


「海が見たかった。かな」


「はあ」


 数秒待つ。海が見たかったことに加えて何かが出てくることを期待した不知火だったが、何も出てくる気配がなかった。


「それだけ、ですか?」


 引け腰で尋ねる。

 いつもの軽い調子で、北上は頷いた。


「うん、そんだけ」


「ええ……」


 不知火は困惑を隠さない。


「もう少し、何かないんでしょうか」


 じりじりと、不知火は聞く。

 右手をひらりと振った北上が、呆れるように声を放った。


「実家が山で、クソオブクソだったんだよね。艦娘になるまで一回も生の海見たことなかったし、腐るほど山は見たから海の近くで死にたい。そんな気分だったんだよね」


 馬鹿馬鹿しいっしょ?

 ヒヒヒと声を出す北上に、不知火は否定できるはずもなく顎を引いた。


「馬鹿馬鹿しいかはともかく、相当奇特だと思います」


 だよねえと、北上は便乗した。


「初めて海に出た感覚、覚えていらっしゃいますか?」


「初めて、ねえ」


 タオルの巻かれた頭に手を当てながら、少女は思い起こす。


「びっくりしたかな。広くて」


「子供みたいな感想ですね」


 不知火の言葉に、北上は唇をへの字に曲げる。


「うるさいなあ。本心なんだからしょうがないじゃん」


「好きですか? 海」


「まあ、好きかな」


 北上が訂正する。


「好きだった、だね。正確には」


 これ以上踏み込んでほしくもないのだろう。多少強引ながらも、会話を終わらせる強さが文末にはあった。以前までの不知火であればもっと踏み込んでいたのかもしれない。しかし、焦ることはない。時間をかけて、話してくれる日が来るのを待つのみだ。


「好きって言えばさ」


 北上が、無理矢理話題を変える。


「不知火ちゃんは、艦娘になる前に好きだった男子とかいなかったの?」


「はあ!?」


 不知火が飛び退く。目を見開き、のぼせとはまた違う赤面を見せた。


「何をいきなり言い出すんですか!」


「何って、女子っぽい会話をしよっかなって」


 悪びれもなく話す北上に、不知火が食って掛かる。


「そんな軽率に威勢を好きになることは言語道断不届き千万! ありえません!」


「ありえないも何も、不知火ちゃんみたいな中学生くらいなら普通でしょ」


 違います。

 不知火が力強く非を唱える。


「不知火は中学生ではありません。中学卒業と同時に艦娘になったため、中学生ではないんです」


「だったらなおさら、色恋の一つくらいあるでしょ」


「ありません。そんな浮ついた気持ちは不知火のどこにもありません!」


 あまりに色恋へ初心な不知火に、北上の中心から言いようのない不安が渦巻き始めた。


「一応聞いておきたいんだけどさ」


 恐る恐る、北上は訊く。


「まさかとは思いたいけど、赤ちゃんはコウノトリが運んでくるとかって思ってないよね」


「馬鹿にしないでください!」


 不知火が食って掛かる。


「如何に恋愛に弱い不知火と言えど、子供がどうやってできるのか程度の知識は持ち合わせているつもりです。発言はさすがに憚られますが、それを知らない不知火ではありません!」


 そうかそうか。

 北上は頷き、質す。


「じゃあそれ、どこで習ったの? まさか自分で調べたの?」


「違います! 断じて!」


 声を荒げる不知火が面白くなり、北上はニヤニヤと笑みを作る。


「じゃあどこで知ったんだろうねー。師匠は気になるなー。気になりすぎて夜も七時間くらいしか眠れないなー」


 しつこい言及に、不知火が顔を歪める。直後、気まずそうに蒼を横へ逸らせた。


「兄のベッド下に、あった本で」


「あっ……」


 北上は察した。同時に、なんといえばいいのかと逡巡する。他人の亡き兄の事をネタにするわけにもいかず、「そ、そっかあ」と無難な言葉を口にした。


「不知火の事より!」


 少女が北上に詰め寄る。ずい。と、顔を近づけた。


「師匠の事をお聞かせくださいよ」


「あたし?」


 肩から力を抜き、北上は眉をハの字にさせる。


「師匠の恋愛遍歴をお聞かせくださいよ」


 話を逸らすためにゴリ押ししたな。そう思いながら、北上は口の片端を上げた。


「あたしはね、凄かったよ」


「凄かった」


 反芻する不知火に、「そりゃあもうね」と言葉を重ねる。


「あたし目当てで高校進学先を決める男子がいたのは勿論、外を歩けば男子が窓からその様子を見守るしラブレターで下駄箱はパンパンになるし、毎日告白されて酷い時には整理券が配られたり友達が告白の順番待ちの列整理を買って出たりするような有り様だったから、本当にすごかったなあ」


「さすが師匠。凄すぎます」


 感激した不知火に、北上はケロリと吐く。


「まあ嘘なんだけどね」


「なんで嘘つくんですか! 信じた不知火の純情を返してくださいよ!」


 浴槽で暴れる不知火に、北上はヒヒヒと笑う。


「それはあたしじゃないんだ、許せ」


「じゃあ誰だって言うんですか」


「“智ちゃん”って友達なんだけど……」


 言った直後、北上が硬直する。自分でも意図しないことを言った者の、顔つきだ。口を僅かにあけながら黙っていた北上が、凄まじい勢いで壁に掛かった時計を見る。

 飛び出すように、少女が浴槽から出た。


「あたし結構入っちゃってそろそろのぼせそうだし、先上がるね!」


「え、ちょっと」


 追いかけようとした不知火に苦笑を送り、早口で捲し立てる。


「不知火ちゃんはゆっくりお湯に浸かってていいよ今日は色々話せて楽しかったしまたしようね日中は本当にごめんね今度間宮で何か奢るからあたしのぼせてぶっ倒れそうだから本当にごめんね、じゃ!」


 マシンガンも戦く速さで言葉をぶつけ、北上は浴場から飛び出した。

 一人取り残された不知火は、喧噪の残滓を耳に宿す。


「随分、慌てていらっしゃいましたね」


 ひとりごち、浮かせていた腰を再び湯につける。温かな浮遊感が、少女の身体を包み込んだ。


「相当、のぼせそうだったんでしょうか」


 嘘だ。

 そのくらい、不知火も理解しているつもりだった。体のいい言い訳に過ぎない事くらい、分からない歳ではない。

 深く息を吐いて、不知火は天井を見上げた。


「“智ちゃん”って誰なんでしょう」


 呟き、瞼を下ろす。

 北上の心に、近づけている実感はあった。距離は未だ判然としないものの、一歩一歩、着実に踏み込めていることはわかる。


「やはり、なかなか話してもらえませんね」


 一人抱える少女の脳裏に、あきつ丸の笑みが浮かぶ。狐のような、人を化かす顔だ。思い出すだけで、若干の殺意が湧くほどには厭らしい笑みを思い出した。


「師匠の過去に、何があったんでしょうか」


 知りたい。

 弟子として、一緒に隣を歩くものとして。

 日に日に大きくなる想いを胸に秘めながら、不知火は同時に言いようのない不安が背後から迫る足音を感じた。


「全て知った時、不知火に何ができるんでしょうか」


 少女の呟きに、応えるモノは誰もいない。





「まずったなあ」


 部屋着で外を歩きながら、北上はぼやいた。不知火を置いて風呂から飛び出し、今は思考を落ち着けるためにも散歩している。春とは言え、夜は少しだけ冷えた。


「あそこまで、話すつもりなかったんだけどなあ……」


 夜の道を歩き、少女は煙草を取り出す。安物のライターで火を点け、ふうと心を和ませた。夜の帳に、紫煙が淑やかに溶ける。コーヒーに砂糖を混ぜたときのような気分だった。

 風呂場での会話を想いだし、北上は息をつく。


「やりたいこと、ねえ」


 足を進め、煙を吐く。

 不知火は、艦娘になりたいからなった。守りたいから、艦娘を続けている。


 対して、自分はどうだろうか。


 仄かな思いが、煙のように胸中に渦巻く。

 何がしたいのか。

 何故、未だ艦娘を辞めることなくここにいるのか。

 まとまらない思考のまま、北上は歩く。寄せては返す波の音が、耳朶を優しく叩きはじめた。いつの間にか、結構な距離を歩いていたらしい。張り出した岬に立ち、何をするでもなく立ち尽くした。


「やっぱ、広いなあ」


 海原を見下ろし、少女は呟く。感想は、今も昔も変わらない。


「随分、楽しそうだったな」


 蛇の声が、足元から聞こえる。来ることが分かっていた北上は、大して取り乱すことなく「お陰様で」と応えた。


「風呂場中に来なくて助かったよ」


「もっと礼を言ってもいいぞ」


 蛇が蜷局を巻き、北上を見上げる。


「なにせ、気を遣ってやったのだからな」


 北上が肩を揺らす。蛇との会話で笑ったことは、初めてと言ってもいいような気すらした。


「そりゃどうも」


 一人と一匹で海を見る。


「悲しみが鈍ったか」


「さあね。あたし自身も分かんないや」


 煙草を吸い、吐く。


「大井を殺した癖にか」


「それを言われると、内心滅茶苦茶痛いんだよね」


「痛い事くらいわかる。俺はお前だからな」


 冗談のつもりなのだろうか。北上は口には出さず、煙を泳がせる。


「冗談のつもりだ。笑え」


「いくらあたしの一部だからって、勝手に家主の思考読むのはデリカシーないと思うんだけど」


 顔をしかめる北上とは裏腹に、蛇は表情を変えない――いや、表情があるのかも判然としなかった。


「今一度訊くが」


 蛇が、北上の足元へ。


「誰かの隣を歩こうと、思ってはいないだろうな」


「うるせえよ」


「イエスかノーで答えろ」


 はぐらかす物言いに、北上が舌を打つ。


「ノーだよ。そこまでして、守りたいわけでもない」


「それを聞いて安心した」


 わざとらしい蛇に、北上の機嫌が折れる。


「あたしの考えていることが分かるなら、わざわざ聞くなよ」


「念のため、だ」


「……あっそ」


 さっさと消えろ。右手のジェスチャーで暗に示す。その仕草を見計らったかのように、背中から声がかかった。


「北上さん?」


 慌てて振り向く。同時に、蛇の姿が消失する。

 北上の背後には川内型二番艦の軽巡洋艦――“神通”が立っていた。

 オレンジの服やトレードマークの鉢金は巻いておらず、緩やかな服装をしている。風呂から上がり、寝る直前らしい。

 軽く頭を下げ、挨拶をよこす。たおやかな会釈であいさつを返した神通が、控え目に北上の横に寄った。


「少し、お話ししませんか?」


 北上は頷く。煙草も、懐に隠した。

 僅かに息を吸い、そろりと話し始める。


「あの子が亡くなってから、二年近く経ちますね」


 神通の言葉に、北上は目を伏せる。


「本当に、すいませんでした」


 いいんですよ。と神通は首を横へ。


「北上さんの事を責めたいから言ったわけではありません」


 ただ――


「もうそんなに経ったのか。と、ただただ驚くばかりです」


 憂いを含んだ声色に、北上は「すみません」と呟く。


「あたしの判断がもっと早かったら、大井っちだって今頃はここにいたかもしれないのに。そうだったら、大井っちの師匠だった神通さんだってあんなに悲しむことは」


「そうかも、しれませんね」


 ぐ。と、北上は言葉に詰まる。


「でも、今更そのことを考えても仕方がありません。少なくとも、私はそう考えています」


 正論をぶつけられ、北上はただただ項垂れる。怒る気もなく責めるわけでもなく、正論を諭す。北上にそのことを、時間をかけて染み込ませるような気長さの含まれた声だ。


「不知火さんは、どうですか」


 無難な質問だ。北上は思っていることを、そのまま話す。


「不器用ですね。一つの事に対して絞る集中力は凄いですが、それ以外があまりに粗末です」


「北上さんとは正反対ですね。北上さんは、なんでもできる印象がありましたから」


「新人時代の話をしないでくださいよ、恥ずかしいですし。神通さんには今弟子はいましたっけ」


「いえ」


 神通は苦笑する。


「今は新人の合同訓練やカリキュラムを組む仕事ばかりでとても弟子を持てる余裕がないので、提督に頼んで特別にお断りをさせていただいているんです」


「あたしと代わってくださいよ」


 冗談めかして言う北上に、「不知火さんが怒りますよ」とい窘めた。


「弟子がいることに、そろそろ慣れてきましたか?」


 まあ――と、少女は曖昧に濁した。


「多少は。ただ、未だに違和感と言うか慣れない部分は多いです」


「たとえば?」


 神通の催促に、北上は素直に話す。


「誰かが隣にいることに、慣れません。同時に、罪悪感も」


 神通は穏やかな面持ちのまま、北上の言葉を待つ。


「ひとつ、訊かせてください」


 喉の奥につかえた言葉を細かく砕き、少しずつ外へ。


「あたしは、誰かと一緒にいていいんでしょうか。大井っちを殺したあたしが、誰かの隣を歩いていいんでしょうか。あたしは、赦されていいんでしょうか」


 隣で佇む神通を見上げる。息を呑み、神通が何かしらの道を示してくれることを願って。

 十秒ほど、沈黙が二人を包む。

 やがて神通が、桜の花びらを連想させる唇で言の葉を爪弾いた。


「それを決めるのは、私ではありません」


 神通は続ける。


「北上さんからしたら私が道を示し、何かしらの指針が欲しかったのかもしれません。ですので敢えて、私は何も言わないことにします」


 神通がクスリと笑った。


「自分のやりたいことに、素直になるのが一番ですよ」


 白魚のように細く長い人差し指で、北上の胸骨を叩く。トントンと、軽い音が胸の中に伝播した。


「心の奥にある、自分の羅針盤を見つめてみては?」


 如何にも教師然とした物言いに、北上は苦い笑みを作った。


「先生時代そのままですね。解決策を伝えることなく、生徒に考えさせえるスタイルは」


「それが、師というものです」


 やんわりと笑む神通が、踵を返した。


「久しぶりにお話できて、楽しかったですよ」


 神通がふと、北上に尋ねる。


「そう言えば、傷の調子はいかがですか?」


 左の脇腹を指差し、調子を窺う。最後の出撃で大井の艤装が欠けた際、勢いよく破片が皮膚を食い破った傷である。今でも身体の組織と癒着してしまい、切除を諦めている傷跡である。


「痛みますか?」


 自身の左脇腹を撫で、北上は首を捻った。


「最近は、あまり痛みませんね大井っちを喪った直後は、酷いものでしたけど」


 それはよかった。

 顎を引くことで暗に伝え、「風邪には気を付けてくださいね」と一言残し岬を去る。神通の背中を見送りながら、北上は煙草を取り出した。

 焔を灯し、息を吸う。

 煙を吐きながら、地面に目線を向けた。


「おい」


 何もない地面に、話しかける。


「いるんだろ。出て来いよ」


 蛇に話しかけるも、黒が出てくることはなかった。

 舌打ちをしながら、「なんだよ」と悪態をつく。


「話したいときに限って出てこないなんて、ホント嫌な奴だねえ」


 ゆらゆらと煙を浮かべる。

 波の音に耳を傾けながら、少女は問うた。


「大井っちが生きてたら、なんて言うんだろうね」


 帰ってくるはずもない答えを待ち、詮無き問いに首を振った。


「ごめん大井っち、今のナシで」


 苦笑で誤魔化しながら、少女は身体を翻す。


「いつか、見つけられたらいいんだけどね」


 少女の囁きは、波に揉まれて泡になった。





 夜の海を、爆発音が駆ける。数秒遅れて、水柱が三本立った。瀑布のように海へ水が戻り、視界が晴れる。そこには、戦艦タ級が海に伏していた。マントで伏せられている自慢の砲身は、今や原形すら留めていない。先の魚雷で、完全に葬り去られたようだ。

 荒い息のまま、タ級が敵を見上げる。


「ナンナンダ、オ前ハッ……!」


 魚雷をけしかけた主そ見て、タ級が口調を荒げた。


「同類ノ癖ニ、何故我々ト戦ウノダ!」


 随伴艦はみな、この一人によって藻屑と化している。駆逐たちとは言え、決して弱いものを連れているつもりはなかった。寧ろある程度の錬度を誇る艦隊であれば相当に戦えると、タ級は少なからず思っていた。

 そう、この瞬間まで。

 ドウシテコウナッタ。

 一年近く前から、正体不明の深海棲艦が暴れているという事実は認識していた。それによって特定の海域では、少なくない被害が及んでいることも、知っているつもりだった。

 しかし、その危険度までは知らなかった――否、知ろうとしなかったのだ。自分たちは負けるはずがない。そうした驕りも含め、今の状況はただただ絶望を誘った。

 顔の上半分を仮面で覆っている深海棲艦は、ただ黙ってタ級を見下ろす。右手に握られた単装砲が、タ級を見据える。


「オ前ノ戦イ方ハ、我々ト違ウナ」


 素直な感想を、タ級は述べる。


「だカら?」


 深海棲艦が、首を傾げる。


「戦うスタイルに、こだわりハありませんカラ」


 深海棲艦が右足をあげる。勢いよく、タ級の腹部に叩き込んだ。


「オ、ゴ……ッ!」


 腹から呼気の塊を吐き出す。呻いた際に開いた口へ、単装砲の砲身を捻じ込む。


「マ、待テ――」


「嫌でス」


 即答。同時に、タ級の頭部が四散した。びちゃびちゃと水面に飛び散るタ級の欠片を睥睨し、未確認艦は立ち上がった。

 穏やかになった海を見通し、不確かな深海棲艦は呻いた。


「北上さんハ、私ガ守りまスから」






第章/獅子身中の虫



 午前八時、松崎はいつもの顔をしながら、書類に目を通していた。


「いつもどおりの、にやけ顔ですね」


 コーヒーカップを置いた大淀が、憚ることなく吐き捨てる。当たりの強い大淀に対して、松崎は苦い笑みを作った。


「こう見えて、結構困っているんですよ」


「それは失礼しました」


 悪びれる様子もなく、大淀は眼鏡を正す。


「提督のにやけ顔は、今日に始まったことではありませんから」


「こういう顔なんです。あまりいじめないでいただきたいですね」


 軽く返し、男は砂糖を滝のようにコーヒーへ。相も変わらず常軌を逸した糖の量に、大淀は辟易した顔を見せた。


「砂糖の量、少し減らす努力はしないんですか?」


「今のところ、する予定は全くありませんね」


「その絵を見るだけで吐き気がするんです。おぞましいくらいですよ」


「散々な言われようですね」


 控える気はありませんけど。

 そう答え、コーヒーを喉へ。少々固形気味の、ずずずと何かを啜る音が聞こえた。その音を耳にし、大淀は一層顔を不快に歪める。


「そんなの飲んでおいしいんですか?」


「美味しいというかなんと言いますか」


 松崎は曖昧に、言葉を捜す。


「私の場合、『飲まなければならない』と表現したほうが近いんですけどね。代替もできるんですが、いかんせんこれに慣れていまして」


「……はあ」


 要領を得ない答えに首を傾げつつも、大淀は追求を諦める。どうせこの男のことだ。何を訊いてもはぐらかされるに決まっている。


「話を戻しますけど、自称何か困っている提督は何に困っているんでしょうか」


 自身の筆記用具を鞄から取り出し、秘書艦用の机に広げる。松崎はコーヒーカップを置き、小さく息をついた。


「隼鷹さんがここのところ、お酒を飲めずに大荒れです」


「ああ、なるほど」


 その一言で、大淀は八割近くを察した。


「例の反日テロリストですね」


 男は顎を下げる。手元の資料を指でつつき、物憂げな溜め息を揺らせた。


「鎮守府内の売店に酒や嗜好品は勿論、食堂等でも使う食料品までもなかなかここもまでたどり着けない状態です。正直、私も堪忍袋の緒がそろそろ切れそうなんですよ」


 慣れた手つきでテレビをつける。いつもと変わらない、外の世界の風景だ。


「しかし世間はどうでしょうかね。そうした事実は一向に報道されていません。道路に座り込んで運送用のトラック等を露骨に足止め等、やることがいちいち厭らしい。これらは警察の方々にどうにかしてもらうとして、この状況を放っておくのは、本当によろしくないんですよ」


「サルが調子に乗ることほど面倒なこともありませんしね」


「それも一理ありますが」


 松崎は言葉を付け足す。


「当たり前の話なんですが、私たちの敵は何も深海棲艦に限っていないんですよ。寧ろ艦娘の皆さんが上手く戦えるノウハウが継承されつつある中、危険であることに変わりはありませんが今までより随分とマシであると言えます」


 問題は――

 男が、自身の左胸を人差し指で叩いた。


「真に恐れなければならない存在は、我々の中に巣食う害虫です。より具体的に言えばテロリスト、艦娘を日本から廃しようと企む反日政治家、加えて宗教団体までいるというよくばりセット状態です」


「アレ、いつごろから出始めたんでしたっけ。あのへんな宗教、名前すら覚えていませんよ」


「色々ありますが、ビッグネームは“深海聖教”でしょうね」


 手元の資料を数枚めくり、男が話し始める。


「深海棲艦を『驕り高ぶった人類に制裁を下す神からの使者』と定義づけ、人類の新たな再生のためには一度深海棲艦たちによって滅ぼされる必要がある――と言うのが、確か彼らの教義だったと思います。人型の深海棲艦は特に現人神扱いされ、どういうわけかその転生したと自称する人間が聖教の幹部をしているそうです」


 まあ尤も――


「そうした幹部は変な奇術見せて陶酔した少女たちに“神技の一端を分ける”と称して性的暴行を強いているという側面はありますがね。あと若い青少年を隔離させて洗脳までしています」


「クズの極みですね」


「誠に残念ながら、否定できません」


 にこやかな笑みを作ったまま、男が「このように」と話す。


「我々は弱みを見せてはいけなんです。その瞬間、内部の敵が団結すると想像するだけで大変です。考えたくありませんがそこに深海棲艦絡みで大きな動きがあったら、全ての鎮守府が大騒ぎになることは目に見えています。それだけは、避けねばなりません」


「その通りだと思います」


 大淀は淡々と同意する。


「で、今日は何かイベントでもあるんですか?」


「どうして、そう思われるんです?」


 肩をあげ、やれやれと少女は首を振った。


「少し、雰囲気が浮足立っているように思えたもので」


 男がニタリと、歯を見せる。


「お察しの通りです。今日はちょっと、外に出かけてきますので」


 提督代理の腕章を大淀に預ける。


「明日の朝には戻ります。代理は龍驤さんか、叢雲さんにお願いしますね」


 さてみなさん――

 松崎が、明るい声で呼びかける。


「お仕事の時間ですよ」


「前置きが長すぎるのね」


 伊19の声が、大淀の背後から聞こえる。先程までいなかった少女たちに、大淀は戦慄を隠せなかった。まるで亡霊。黄昏時に垣間見える、死霊のようだ。

 19をはじめとした潜水士のメンバーがわらわらと机の前に集まる。


「今日はちょっと趣向を変えて、戦闘もありうるとお考えください。ほぼ間違いなく、どなたかは当たると思います」


「本当!?」


 168が瞳を輝かせる。


「相手も相当面倒であるという想定をお願いします。あと、万が一に備えて遺書のご用意を。三十分後にここを発ちます」


 てきぱきと指示を飛ばす松崎に、大淀は半分あきらめた気持ちで尋ねる


「一応聞いておきますけど、何しに行くんです?」


「まあちょっと」


 にこりと微笑み、両手を合わせた。


「ちょっと、宣戦布告に」


 目的地最寄りの駅を降り、適当に喫茶店へ入り、松崎は用件を反芻する。今日鎮守府を出た目的は、外部から呼ばれたためだ。それも、非公式に。

 事の起こりは一週間前、唐突に連絡があった。


 ――政治家や官僚が集うパーティーで、君も出席してくれないか。


 松崎が失笑したことはあ、言うまでもないだろう。なにせ声をかけてきた官僚が、艦娘反対派と仲の良い政治家なのだ。まず間違いなく、ロクな展開にならないことは目に見えている。


「私を殺すのかもしれませんね」


 出された珈琲に砂糖を流し込み、「まあ」と漏らす。


「私を殺したところで、鎮守府が変わるわけではありませんけど」


 どこかで恨みを買っているんでしょうかねとすっとぼけながら、松崎は周りを見渡す。世間はいつもと変わらず、のどかな有り様だ。艦娘たちが日々命を削って汗と血を流し、守られている平和であると、誰も認識していないのだろう。

 事実、松崎は各方面から恨みを買っていた。議員や官僚の弱みを握って莫大な金を強請れば、そうなることも致し方ない。あるいは群を抜いた成績故に、反艦娘団体が焦り始めている線もあり得た。いずれにしろ、中韓やテロ組織にとって好ましくない人間であることは誰の目から見ても明らかなのだ。

 メモを取りながら、目下の問題を列挙する。外にも中にも敵が多い状況で、艦娘は戦えるのか。


「そう考えるとやはり、陸の格闘戦はあった方が望ましいですね」


 艦娘が陸で戦わない保証がない。寧ろ鎮守府内に何かしらのテロを目論んだ武装集団が入り込んだら、間違いなく白兵戦に発展する。艤装は海の上でこそ有用な兵器になる反面、陸ではただの砲台未満だ。機動力が大きく制限されることは、戦闘行為において致命傷と言っていい。


「それは追々、考えますかね」


 メモを仕舞い、勘定を済ませる。

 喫茶店を出て、廃ビルの一角に目を向ける。目測で、二百メートルくらいの距離である。

 何かが、チカリと輝いた。光源に向け、ピースサインを送る。

 松崎は人ごみに紛れ、小型の通信機を起動させる。


「皆さんお仕事です。私をしっかり守ってくださいね」



「――ッ!?」


 ライフルを構えていた男は、本能的に人差し指を引き金から離した。額から、尋常ではない冷や汗が溢れていた。


 なんだ、あの男は。


 男は問う。任された仕事は、一人を暗殺すること。それだけなら特に問題はない。いつも通り殺す。それだけだ。

 しかし今回ばかりは勝手が違うらしく、得意先から別の指示があった。


 ――見せしめも兼ねて、銃で派手に殺せ。どうせ接近して殺すことは無理だからな。


 この時点で、何かを疑うべきだったのだ。何かがおかしいと、警戒して然るべきだった。

 銃を構えた個所に偶然目線が向いたことは、百歩譲ってありうる。元より誰も目を向けないような廃ビルにわざわざ顔を向けることすら十二分におかしいのだが、そこを議論する余地はあまりに狭い。

 問題は、スコープ越しに目を合わせ、あまつさえピースサインすら向けてきた松崎の不敵さだ。

 殺せるものなら、殺してみろ。

 顔にはそう書いてあったような気がする。刺客には、そう思えてならなかった。

 刺客は即座に銃を引く。何だアイツは。なんなんだ。

 銃把を握り直し、舌で唇を濡らす。緊張していたのだろうか、唇はカサカサに乾ききっていた。

 いけるか。男は自身に問いかける。自分の持つ記録と、現状を擦り合わせる。


「……いける」


 結論を下す。大丈夫だ。三百メートル以内なら、間違いなく的を貫ける。今は無風、仕留め損ねる余地はない。

 先の目線は偶然。奇跡に奇跡を重ねた、幸運の賜物だ。

 息を浅く吸い込み、男は再び銃を持ち直す。松崎を探そうと双眼鏡を手にした瞬間、背後からの声が男の背中を叩いた。


「どうせ、アンタじゃ絶対に殺せないのね」


「!?」


 何も考えず、脊髄反射の要領で背後を振り向く。不穏な輩であれば、その場で殺せるよう銃を持ち。

 振り向く途中、伸ばされた腕が銃身を掴む。捻るように引っ手繰られ、あらぬ方向へ投げ捨てられた。


「自分と相手の実力差すらわかっていないような奴じゃ、実力もたかが知れてるのね」


 男は自身の目を疑う。自分から銃を奪った相手は、二十歳にも満たない少女だったのだ。

 輝く瞳に毒々しい髪色。廃ビルにいることも加味し、普通の少女とは言い難い。服装は黒い長ズボンにミリタリーブーツ。上着はフード付きパーカーと、装いだけ見れば珍しくもない少女だ。


 ――なぜここにいる。さっきの標的と、何か関係があるのか。


「と言うか」


 男の心中を察しないまま、少女はぼやく。


「どうせ死なないくせに守るのクソもないと思うの」


 まあでも――


 毒々しい髪を揺らめかせ、少女が凶悪に笑った。


「最近すんごく溜まってたし、オジサンはイクが逝かせてあげるのね☆」




「一応忠告ですが」


 松崎の声が、19のインカムに入る。


「あまり暴れすぎないことと、ご自身の命を最優先でお願いします」


「なんだかんだ、提督は優しいのね」


 笑う19に、松崎は「そうではありません」と即答する。


「誰かが欠けると、その穴を埋めるために莫大な時間とコストが掛かるんです。自分だけの命ではなく、他の諸々も食いつぶされかねないことを念頭に置いてください。そういった観点から“も”、命はお大事に」


「提督ったら、素直じゃないのね」


 19は舌なめずりを一回。右手を臀部やや上へ回す。パーカーを捲り上げ、目当ての物を引き抜いた。ひゅん、と鋭い音が気を裂く。


「オジサンも、あっさり殺されるのが嫌なら精一杯頑張るのね」


 得物を右手に。ボクシングのように右肩付近に構え、左手は少し開いて前へ。

 少女のナイフは、特異な形状をしていた。

 鎌のように湾曲した諸刃を持ち、グリップの終わりには人差し指を通すリングが付いている。カランビットナイフと呼ばれる、特殊な格闘用ナイフだ。グリップエンドリングに人差し指を通し、逆手に握る。これで、武装解除される確率は格段にさがる。

 爛々と輝く瞳で、男を睨む。


「オジサン、名前は?」


 左胸のホルスターからナイフを抜き、男は怪訝な顔をする。


「なぜそんなことを訊く」


「イクなりの流儀なの」


 19が笑む。年頃の少女相応な、花咲く笑顔だ。


「たとえ殺す相手でも、相手の名前は必ず尋ねる。それが流儀なの」


 男が目を上下させる。彼我の距離を大まかに測っているのだろう、順手にナイフを構え、両足をじりじりとずらす。


「Fだ」


 Fと自称した男が、端的に告げる。


「変な名前なのね」


「お前の見た目ほどじゃないさ」


 ひっどーい! と、19が拗ねる。


「まあでも」


 19がけろりと機嫌を変える。


「これで心おきなく、オジサンを殺せるのね」


 二人が足を前に。19より早く、男が動いた。

 右足と同時に、Fが腰を反時計回りに捻る。腰と連動し、握ったナイフをまっすぐに突き出した。

 19が後退させる。つい先程まで喉があった空間を、ナイフが鋭く突いた。さすが殺しの仕事をしているだけあり、殺意を束ねた突きをしている。ひゅんと、ナイフの切っ先が唸る。反撃を許さず、男は即座に腕を引いた。一連の動きに、無駄がない。

 今の一瞬で、19はFの大まかな力を図った。


「オジサン、多分結構強いのね」


 じわりじわりと沸き立つ興奮を、19は笑顔に変換させる。ニタニタと歪んだ笑みが、少女の顔をかたどった。

 リングに人差し指を通したまま、カランビットナイフを回す。空気を裂く音が、少女の肢体を撫で上げる。


「イク、ゾクゾクしてきちゃったの」


 構えを維持し、19は男に接近する。左手を前に突き出したまま、自分の間合いを前に押し込む。19とFの間合いが重なった瞬間、再びFが動いた。

 左から右へ、ナイフを薙ぐ。刃体が少女の柔肌を切る前に、19がもう一歩前へ。側頭部を庇うように右腕を畳み、両者の腕がぶつかる。押し飛ばされぬようほ、左足に体重を注ぐ。19が右腕を横へ。肘を跳ね上げる。それに伴い、男の右腕も跳んで離れた。即座に引き戻される男の右腕を見ながら、19は「あは」と笑う。


「腕を押し付けたままだったら引いた時に切られてたし、オジサン案外厭らしい性格してるのね」


 腰を落とす。左足に集中させていた体重と筋力を、爆発させる。身体が右へ流れる動きに、19は左拳を振り抜いた。

 男の右脇腹に、少女の小さな拳が沈む。

「おご」と、男が空気の塊を吐いた。しかしさすがプロ。歯を食いしばって力を入れ直し、袈裟切りにナイフをけしかける。19が左腕で弾く。距離の近さに焦れたFが、順手から逆手にナイフを持ち替えた。逆手対逆手。ナイフの特製や体格差が大きな要因となるものの、双方の錬度が生死に直結する。優れている方が生き、劣っている方が死ぬのだ。

 それに伴い、交戦距離も密になる。しかし男の背丈は百八十センチ近い。腕の長さも考慮に入れるのであれば、19の不利は揺るがない。


「ますます、楽しくなってきたのね」


 瞳の輝きが強くなる。彼我共に即死の間合い、これからは、今まで以上に慎重な読みと攻防が求められることは明白だ。

 男がわずかに距離を離す――正確には、19と距離を置きたがっていた。19としては体格に大きな開きがあるため、離されて間合いの外から一方的に切りかかられることは好ましくない。腕の引き方から見るに堅実な戦い方を仕掛けてくる刺客だ。攻め気を出し過ぎて不用意に距離を詰めたら、どうなるのかは想像に難くない。


「この時ばかりは、イクの愛されミニマム豊満ボディも嬉しくないのね」


 19の身長は百五十センチ弱。この三十センチは、ナイフ戦闘上大きな意味を持つ。

 Fが長い腕を振る。間合いの外側からの攻撃は、思いの外面倒くさい。ベストな戦い方はFの腕を掴み、右手のカランビットでとにもかくにも切り刻むことだ。戦意が潰えかけた時を見計らい、飛び込む。それで十分だ。

 問題は、そこに至るまでの距離が長い。攻撃的な戦い方ではない分、Fの足元をいかに掬えるのかが大きな課題だ。

 Fに間合いの権利を握られている中、19は少しずつ距離を詰める。あと数センチで、再び二人の交戦域が重なる。静かに空白を埋めようとにじり寄る最中、Fが突如として詰めかけた。左からの切り上げで、19の脇腹を狙う。一転して攻勢に出たFの動きに、19の反応は一瞬遅れた。寸前のところで腰を折り、ナイフをかわす。パーカーに、僅かな切り込みが入った。


「あ!」


 その傷に、19が頬を膨らませる。


「この服、イクのお気に入りなのね!」


 19も前へ。再び、互いの間合いは必殺の領域へ。男はフェンシングに似た半身の構えを取り、切っ先と刃体を19から見れば重なるように構える。ナイフの正確な距離感がぼかされ、間合いを測りにくくさせた。


「オジサンの戦い方、イクは嫌いじゃないのね」


 でも――


「好きでもないのね!」


 19が果敢に攻める。右手にカランビットを持ったまま、ボクシングの要領でフックを放つ。Fの右腕を狙った一閃は、空を切った。

 脅威が去ったことを確認し、Fが再びナイフでの攻撃を試みる。その瞬間に、19が拳を手前に引いた。諸刃の刀身が、Fの右腕を浅く切る。有効な一撃には成り得ないものの、相手の気勢を削ぐくらいにはなるはずだ。


「おあいこさまなのね」


 19は無邪気な笑みを見せる。Fの腕から僅かに流血している様を見て、19は恍惚とした表情を見せた。

 少女は男の目を見る。眉間に目線が収斂している。突きだ。そう予測し、首を左に傾けた。僅かに遅れて、切っ先が眉間のあった場所を穿つ。直後に、Fは右腕を薙ぐ。19の頭を追うように、左へ薙いだ。

 19が顎を引き、腰を落とす。髪の毛を数本掠め、ナイフは再び空振る。振った勢いそのままに、鋭角を描き追撃した。

 左腕の前腕部を男の前腕部に当てる。ブロッキングだ。

 捕まえる。思考を切り替えた19に対し、男が手中でナイフを回転させる。成人男性特有の手の大きさとナイフの軽量さが成せる小技だ。逆手に切り替えたナイフを見て、19は急遽左腕を遠ざける。本来なら掴むかそのままさらに奥まで攻め込みたかったが、逆手のナイフが許してくれそうにもなかった。逆手のまま腕を引かれていたら、19の身体を相当深くまで裂いていたことは想像できる。

 再び順手に戻したFが、ナイフを振るう。ひゅんひゅんと空気を切りながら、19は適切に捌く。ブロッキングし、かわし、刃を交える。得物同士がぶつかり合い、カチカチと音を立てた。どこか動物の威嚇じみた音に、二人の緊張が熱を帯びる。

 拮抗した状態で、19が敢えて大きく一歩踏み込む素振りを見せる。間合いを広く取りたがるFが退く。その瞬間を狙って、19が右手を開いた。


「必殺技、見せちゃうのね!」


 グリップエンドリングに人差し指を通しただけの状態で、カランビットを回す。それと同時に、腕を振り下ろした。間合いの短さを補う、カランビット特有の戦い方である。ナイフ一本分伸びた射程で、外の刃がFの右手を切る。痛みで男の握力が緩み、19が右脚を跳ね上げる。ハイキックが男の腕を捉え、あらぬ方向へナイフが飛んだ。

 跳んだナイフを横目で見送り、男がシフトチェンジを試みる。右フックで、19の顔面を狙った。

 紙一重で躱す。拳の風圧が、19の鼻先を撫でた。


「今更本気になっても、遅すぎるのね!」


 19もボクシングの体勢に構え、Fの攻撃に応じる。鍛錬を重ねた拳が、19に殺到する。全てをやり過ごすことを無理と悟った少女は、いくらかを肩に受ける。たった一瞬、本当に欲しい一撃だけを見極める。それさえ来れば、極論すべて顔に受けてもいい心意気だ。

 がりがりとガードの上から削られつつ、少女は待つ。勝負は、相手が欲の皮を攣らせた一瞬である。

 Fが左腕を引き絞る。察するに、左ストレート。防御を、盛大に崩したい魂胆が透けて見えた。


 それだ。


 腕の中で、19はほくそ笑んだ。ガードを組みながら、腰を捻って右肩を前へ。肘を突き出し、射出されたFの左拳に勢いよく激突させた。

 男の顔が、激痛に歪む。見れば男の左手は、指があらぬ方向を向いている。砕いた。完全にカウンターが決まった瞬間だ。

 とはいえ――


「イクも、結構効いたのね」


 右腕が痺れる。少しの間、満足に動かすことは難しそうだ。

 19が右足の底で男の腹を蹴る。身体をくの字に折り、男の腰が引けた。左手で男の右腕を掴み、腰と落して猫背でFの腹に潜り込む。掴んでいる左手を引き下ろすと同時に、脚を引き延ばした。腕一本の、投げ技だ。男の背中が、強かに地面へ堕ちる。呻きが聞こえた辺り、上手く決まったことを示している。

 好機。

 腕を離し19は振り返る。止めを刺すべく腰を落とした直後、自身の頭を何かが挟んだ。

 男の腰が浮いている。

 次の瞬間、19の視界が百八十度回転した。反射的に右腕を振る。地面に腰を打ち付ける。投げられた。そう気づくのに、一秒かかった。さすがプロ。タダでは殺される気はないらしい。

 しかし19もプロ。右手に握るカランビットの刃には、べたりと赤がついている。咄嗟に振ったら、男の身体のどこかに引っかかったらしい。血の付き方から見て、結構深いことが窺える。

 19が身体を起こす。何かが顔に飛来する。正体を確かめるより早く、本能的に両腕で頭を庇った。

 左腕に痛みが走る。一瞬遅れ、焼けるような熱が左腕に絡み付いた。


「いぎッ……!」


 19が奥歯を食いしばる。腕を下げれば、自身の腕にナイフが刺さっている。Fが右腕を振り下ろした体勢をしており、投げたのだとわかった。先程解除した、男のナイフだ。


「随分、やってくれるのね」


 ナイフを引き抜く。自身の後方遠くへ、放り投げた。

 19は状況を整理する。

 自身は右腕に多少の痺れを抱えている。動かせないではない。

 対して相手は左手を砕かれ、右脚を深く切られている。

 要素だけ見れば、19が優位に立っていた。


「行くのね!」


 19が駆け出す。十二分に勢いをつけ、跳んだ。両足を揃え、男の顔面めがけてドロップキックを放つ。右手で受け止めたFが、ごろごろと背後へ転がる。左ひざをついて立て直す男に押し掛け、右足をあげる。横合いから、首から上を刈り取るような蹴りを放つ。Fが頭を下げ、やり過ごす。蹴りは空振りに終わり、少女の力が横に逸れる。

 その勢いを殺すことなく、19は独楽のように廻る。右拳を、男に向かって振り抜いた。二段攻撃。本命はカランビットだ。

 男が上半身を反らす。回転が速ければ、今頃男のこめかみは貫けていただろう。自分の身体にもある程度ダメージと疲れが溜まっていることを、その時ようやく理解した。

 空振った右腕を止める。先の軌道をなぞるように、左から右へ。19の右腕を、男の右腕が止める。再び、互いの前腕部が衝突した。

 19が腕に力を込める。まだ痺れが残っているせいか、思うように腕に力が入らない。

 どうにかして押し込もうと、上半身を前に。その瞬間、男が19の右手首に噛みついた。直後、空いた右手で少女の首を掴む。


 しまった。


 そう思った瞬間には、手遅れだった。

 焦った。完全に、早く終わらせてしまいたいと欲を出した。その瞬間を上手くあわされ、首を掴まれている。

 いや、それだけでは終わらない。

 男が左足を延ばす。19の身体を押し倒し、マウントを奪った。19は今男の右膝に腹部を圧迫され、首を絞められている。加えて右手は、噛まれて固定されていた。

 ――このっ……!

 悪態をつこうにも、声が出ない。寧ろ咳き込んでしまい、大量の空気を肺から逃した。


「あ、が……」


 酸素が滞る。視界が徐々に霞みはじめた。

 急性呼吸困難――第Ⅱ期だ。19が足をばたつかせる。血中の二酸化炭素濃度が急上昇し、まともに力も出せない。左手で地面を掻く。

 ぼやけた世界で、男の目を見る。獣のような唸り声をあげ、男の目は血走っていた。

 19は左足の裏を地面につける。男から見れば逃げようとしているにすぎないが、19は直前まで悟られないよう左腕を伸ばす。指先が、硬い何かに触れる。コンバットブーツの踵に隠しておいた、プッシュダガーだ。左手の人差し指と中指で挟み、引き抜く。

 意識が朦朧とする中残った力全てを使い、左足で腰を上げた。その動きに連動させ、火だいてをフックの要領で振る。

 男の右脇腹に、プッシュダガーが勢いよく突き刺さった。


「――ッ!?」


 男の力が緩む。

 唐突に突き抜けた痛みに、脳の処理が追いついていないようだった。

 同時に右手の拘束も解ける。

 男が右手で患部を押さえる。

 19の右手が躍る。カランビットの刃が、男の右脇に深く抉りこんだ。そのまま、少女は腕を振り抜く。

 鮮血が、壊れた水栓のごとく吹きだす。

 少女が身体を起こす。痛みと窮地で処理を迷う男の背後に回り、刃の湾曲部を男の首に押し当てた。


「バイバイ、オジサン☆」


 右手を横に引く。その動きはどこか、弦楽器を弾く弓にも似た優雅さを持っていた。

 男の首から、紅の花が咲く。全身から力を抜き、男が頭から地面へ。Fが絶命したことを確信し、19は深く息を吸った。


「久しぶりに、全部を出し切れた相手だったのね」


 満足げに呼吸を整え、男を見下す。目を開いたまま事切れた男の顔に、19は左手を添えた。瞼を下ろさせる。うつ伏せから仰向けに体勢を入れ替えさせ、本人のナイフを持たせる。両手を胸元に寄せ、棺桶に収められるような格好を取らせた。


「人殺しの行く先は、どうせ孤独な闇しかないのね」


 だから――

 19が気に入っているパーカーを脱ぐ。黒のタンクトップが、少女の発育の良さを如実に示す。カランビットを仕舞い、タンクトップの裾を伸ばして隠す。

 布団のように、男の胸元にパーカーを被せた。


「せめてイクの温もりだけは、オジサンの隣にいさせてあげるのね」


 血と埃で汚れた顔を見て、少女がはにかむ。


「イクもそっちに行ったときは、よろしくなのね」


 通信機を起動させ、少女が報告した。


「イク、無事に任務終了なのね」




「お疲れ様でした」


 スーツ姿の松崎が答える。刺客はどうでしたかと言う問いに、19は欠伸交じりの声で答えた。


「すんごく強かったのね。あんなに強いの久しぶりで、イクもちょっと危なかったのね」


「無事でしたし、良しといたしましょう。ただ、怪我がある場合は他の潜水士達を派遣しますので大人しくしていてください」


 で、

 男は話題を変える。


「401さんの方は、調子いかがです?」


 通信の網を広げ、401に回線を繋ぐ。愛らしい声が、どことなく沈んでいる。


「なんていうか、不完全燃焼って言うか……」


 少女の声に歯切れがない。余程、刺客が弱かったのだろうか。


「満足できませんでしたか?」


「まあねー」


 401は、明らかに落胆した調子だった。


「歯応えなさすぎ。五人いたけどみんな投げ殺しちゃった。こんな事ならイクちゃんの刺客がよかったなあ」


「しおいじゃ絶対に殺されてたのね。イクだから勝てたようなもんなのね」


 通信に割り込んできた19に、401が「うっそだー!」と声をあげる。


「そもそもそんな大口叩くのは、組手でコンスタントに一本取れるくらいになってからにするのね」


「でーきーまーすー! イクちゃんに勝つことくらい今のしおいならできますー!」


 回線越しにぎゃあぎゃあと揉めはじめた二人に、松崎は苦い笑みを浮かべる。


「そろそろ通話終わりたいんですけど」


 松崎の一声に、19が「そういえば」と仕切り直す。


「事前に聞いていた情報じゃ殺しに来るのは三組だったけど、大丈夫?」


「あ、忘れてた」


 401も口を挟む。「そんなこと、聞いたような聞いてないような気が」


「ああ、その件ですか」


 松崎の口調は、至って穏やかだ。

 顎を引く。


「ちょうど私も、“片付いた”所ですのでお気遣い無く」


 松崎の足元には、五人の男が転がっていた。皆一様に、絶命している。


「ごめん、てーとく」


 58の声が通信に入る。


「張ってた場所に、刺客こなくて」


「構いませんよ。その代わり、イクさんとしおいさんの回収をお願いします」


「了解」


 通信が切れた。人気のない路地裏に、静寂がおりる。正確には路地裏を抜けてビルに囲まれた、十五畳程度の空き地である。複数名で格闘するには、あまりに十分すぎるスペースである。


「さて」


 地面に落ちた銃を拾い、「チンピラ御用達の安物ですね」と呟く。

 まあでも、


「人間一人殺すくらいなら、安物でも十分ですけど」


 松崎から五メートル近く離れた場所に、一人の男が仰向けで倒れていた。四肢の骨をすべてへし折り、動くことができずにいる死に損ないだ。


「××××××××××××××××××××××!」


 中国人だろうか。語学に深くない松崎は、「はて」と首を傾げる。


「そもそもなんで外国人が私の命を狙うのか、甚だ理解に苦しみますね」


「××××××! ××××××××××!」


「お黙りなさい」


 迷うことなく、引き金を引く。男の左脚に、穴が開いた。同時に、赤が溢れ出す。消音器がついているため、外に聞こえることはないだろう。仮につけていなくとも、外は人通りも多く相当に喧しい。ここで何人死のうが、外の人間が気付くことはほぼないだろう。それほどにまで、世間は無関心だ。


「ああああああああッ!」


「おやおや」


 いつも通りの笑みのまま、松崎は驚きを見せた。


「激痛に対する叫び声は、どこの国も大体同じなんですね」


 新しい知識をありがとうございます。

 軽く礼を添え、再び銃口を男に向ける。


「本当なら尋問して吐かせたいところなんですが、今日は趣向の問題上皆さんに綺麗さっぱり死んでいただきます」


 まだ何か喚く男に、松崎は一切感情を傾けることなく発砲する。

 三発の弾を吐き、銃が沈黙する。弾切れだ。

 物言わぬまま、松崎は近くにあった銃を手に取る。銃弾がこもっていることを確認し、再度男を撃った。びくんと、男の身体が痙攣する。

 合計九発を撃ち終え、松崎は拳銃を放り投げる。白い手袋をつけているため、指紋がつくこともないだろう。尤も、差し向けた“あの男”が事前にこの死もなかったことにするはずだ。


「さて」


 一息つき、懐中時計を取り出す。思いの外時間を使っていたらしい。多少の遅刻は避けられない時間だった。

 ――私も随分、鈍りましたね。

 苦笑を浮かべ、懐から香水を取り出す。両手首と首に吹きかけ、薔薇の匂いを纏う。


「行きましょうか」


 六の死体をそのままに、松崎は路地裏を後にした。



「ずいぶん遅かったじゃないか」


 会場に着いて受付を済ませるや否や、松崎は声をかけられた。聞き馴染にある声に、松崎が笑みを描く。


「剣菱さん。お久しぶりです」


 振り返り、声の主を見る。顔に刻まれた多くの皺と、それを感じさせぬ頑強な筋肉を纏った男がそこにいた。

 かつて松崎に二階級特進を言い渡した、剣菱竜兵だ。今は軍職を退き、政治の仕事についている。時期に還暦が来るとは、欠片にも想像させない剛健さを持っていた。

 剣菱が松崎の背を叩く。頬の筋肉を和らげ、少しだけ温かみが剣菱から生まれた。


「あまりに君が遅いからな。道中死んでしまったのかと思ったよ」


 またまた。と松崎は笑う。


「何度も死んだ身ですから、今更一回増えても大差ありませんけどね」


 剣菱は大きな口を開けて笑った。


「君の冗談は冗談に聞こえないからな」


 ともあれ――

 剣菱は真面目な顔を作り、右手を差し出す。


「また会えて嬉しいよ、松崎君」


 松崎も笑顔で、右手を出した。


「こちらこそ、剣菱さん」


 松崎の右手を握ったまま、剣菱が顔を近づける。何度か鼻を鳴らし、ニヤリと笑った。


「どうやら、ただならない何かがあったみたいだな」


 松崎は眉をハの字に。


「誤魔化せませんでしたね」


 侮るなよ。

 剣菱が短く言い放った。


「衰えたとはいえ、それなりの軍人だったんだ。血と硝煙の臭いくらい、香水でコーティングされていても分かるさ」


 剣菱が顎で、空いたスペースを指す。


「互いに積もる話も、あるだろう。向こうで、少し話そう」





「やはり、道中襲われたか」


 互いの近況と道中の事を聞き、剣菱は煙を吐いた。灰を落とし、「で」と尋ねる。


「君はそれを全員返り討ちにしたわけだ」


「まさか」


 松崎は軽く笑う。


「私も、そこまでスーパーマンではありませんから」


「じゃあどうやって」


 尋ねる剣菱に向かって、男が立てた人差し指を自身の口に当てる。


「私には、頼りになる亡霊のお友達がいるので」


 そのニュアンスで何かを感じ取ったのだろう。唇の片端を上げて、剣菱は納得を示した。


「なんとなくは察したよ。それ以上深入りすると、私も危険だということをね」


「私の事はさておいて」


 松崎が話を逸らす。


「艦娘に関する法案は、まだ実現できなさそうですか?」


 男は渋い顔をし、煙草をもみ消した。傍に置いておいたグラスを手に取り、唇を濡らす。


「正直な話をすれば、難しい」


 剣菱は続ける。


「艦娘は現状、“艦娘と言う人間とは別の存在”としてどうにかこうにか存在を確立させているに過ぎない。謂わば便宜上の、仮初の身分だ。その扱いから民間人等の何ら遜色のない身分に均すことは、今の段階では無理だ」


 艦娘には、人権が存在しない。

 より正確に表現するのであれば、艦娘は国防の備品とほぼ同じ認識なのだ。人間離れした能力を授けるための投薬や失った肢体を復元させる超回復の液体投与、少女の形をした何かが化け物と戦うことも、『人間――ましてや少女がそんなことをするわけがありません。アレは人間ではない何かなのです』と日本が言い訳をするために本人からのサインを求め、人を辞めさせているのだ。人でない何かであれば、そのくらいのことは許されるべきだという日本の解釈である。


「まさか中韓のイチャモンが、ここまで響くとは本当にしてやられたよ」


 艦娘の概念を生み出したのは、島国である日本だ。世界中で暴れ回る深海棲艦たちに対し対等以上の戦力で自国を守り、史上最大級の窮地を日本は退けた。日本は世界中からの感謝と尊敬を集め、世界のトップを走る国に――勿論、なるわけがなかった。


「『少女を戦場に駆り出すことに罪悪感を覚えないのか』なんて、どの面提げて言ってきたもんだよ、まったく」


 忌々しげに剣菱は毒づいた。グラスに入っている酒を呷り、頭を振る。


「向こうは向こうで若者に爆弾を小脇に抱えさせて深海棲艦に突っ込ませた癖に」


 剣菱の言う通り、中韓をはじめとした国々の揚げ足取りで現在の日本は――正確には艦娘が、難しい立場に置かれている。

 深海棲艦に対して優位に立ち回り、破滅を待つばかりだった人類に光が差し始めた瞬間。世界の国々が日本に牙を剥いた。


 ――少女を戦場に立たせるような、非人道的な行いは即刻中止せよ。


「馬鹿馬鹿しい」


 剣菱が吐き捨てる。


「じゃあ艦娘がこの世から消えてみろ。我々は三年で死滅するさ」


 今でこそ多少常識を疑うようなアイデアだが、それしか残されていなかったのだ。日本は特に島国。海の道を確保する重要性は、他のあらゆる国を差し置いて抜群に高い。加えてロクな反撃もできないまま国民が蹂躙される中、それしかなかったのだ。それほどにまで、日本は追い詰められていた。若い兵士は次々戦死し、まともな活路も見いだせない当時にとって艦娘は光。国民すべての、最後の希望と言っても差し支えなかった。


「だからこそ多少強引にでも艦娘を増やし、戦う必要があったのだ。攻勢に出たら、ある程度を押し込むまで手を緩めることは許されなかった」


 独白するように、男は呻く。


「それが今ではこの有り様だ。いい歳した奴らが若者に未来を示せず、何が大人だ」


 右拳を握りしめる剣菱の肩を、松崎が叩く。


「当時はそれしかありませんでしたし、剣菱さんがその決まりを作ったわけでもありませんから」


「そうだが……」


 剣菱は力なく頭を振る。


「私にも娘がいる。だからこそ人間ではなくなり結婚も許されず、子を身籠ることもできなくなった彼女たちが不憫で仕方がない。加えて外の世界すらまともに歩けず、彼女たちには申し訳なさしかないよ」


 剣菱が、大きく肩を落とした。

 艦娘が生まれて日が浅いときには、艦娘も外出ができていた。普通の少女と何ら遜色のない生活を、送ることを許されていたのだ。

 しかし海外の工作員から誘拐され拷問にかけられた挙句惨殺された事件が相次ぎ、日本政府は急遽方向転換。艦娘たちを鎮守府の中に閉じ込めることが、日本にとっても艦娘たち本人にとっても安全だと思い知ったのだ。故に、昨今の艦娘は籠の中の鳥同様に外の世界を歩けない。


「せめて外を歩けるようにさせてやりたいもんだが、外にはクズが多すぎる。最近では海外の勢力以上に政治家と癒着した活動団体や、新興勢力の方が恐ろしい」


 剣菱の瞳に、切れ味が生まれる。決意を抱いている、男の目だ。


「その状況を変えるためにも、私は戦わねばならんのだ。この国の中枢で芯から腐らせようとするクズどもと」


 ところで――

 剣菱がふと、松崎を見る。


「君はなぜ、提督として艦娘を未だに束ねているんだ。君の仕事はとうの昔に終わっている。十分すぎる年金だってあるだろう。それなのになぜ、今日のように危険な思いまでしてこの仕事を続けるんだね」


 何が君を、そこまで駆り立てているんだ。

 瞳で尋ねる剣菱に、「簡単ですよ」と男は答える。人差し指を立て、明快に答えた。


「私の戦争は、まだ何一つ終わっていませんから」


 その一言で、剣菱は瞼を下ろした。


「君もまた、戦っているのだな」


「ええ」


 松崎は明るく応える。


「夭折(ようせつ)した仲間たちの為にも、私はこの国のために戦わねば。大好きだった仲間たちが愛した、この国を」


「聞くのは、少し野暮だったな」


 剣菱が笑う。


「つまらんことを訊いて悪かったな。この歳になると耄碌(もうろく)し始めてな。なんでも聞かねば気が済まんのだよ」


「そんなご隠居みたいなこと言わないでください」


 松崎が笑う。「剣菱さんだって、これからじゃないですか」


 剣菱は右手を軽く挙げた。


「若者がそう言ってくれるだけで嬉しくなる辺り、私もすっかり爺だ」


「私だってもうすぐ四十歳ですからね」


 とてもそうには思えんな。

 一言。剣菱は苦笑した。


「話ができて楽しかったよ、ありがとう」


 差し出された右手を、松崎は握り返す。


「こちらこそ、剣菱さんが元気そうで何よりです」


 右手を握ったまま、剣菱は松崎に耳打ちする。


「もう少ししたら、政治畑(こっち)に来ないか? 君ほど行動力もあってカリスマ性のある人間が、今の日本には必要だ」


 恐悦至極ではありますけど……。

 松崎が、申し訳なさそうに笑う。


「私が政治の職に就いたら、きっと一か月で百人くらい死んでしまうので。敵対勢力の方々が」


「それは残念だ」


 剣菱が肩を揺らす。


「その気になったら、いつでも連絡をくれ。いつでも君の椅子を空けておこうじゃないか」


「私がその気になるまで、剣菱さんもお元気でいてくださいね」


 松崎は懐から、香水の瓶を取り出す。両掌に二回ずつ吹きかける。少々強い匂いに、剣菱は顔を顰めた。


「その匂いは君の趣味か?」


 いえ別に。

 松崎はさらりと返す。


「ただ、匂いは印象に残った方がいいと思いまして」


 では。失礼します。

 軽く頭を下げ、松崎は踵を返す。


「どこへ行くんだね」


 剣菱の問いに、松崎は背中越しに応えた。


「ちょっと色々、野暮用が」



 目当ての男は、すぐに見つかった。他の官僚たちと楽しげに談笑している、反艦娘の政治家だ。名前は確か、岡山と言ったはずだ。欲の結晶をたっぷりと腹に蓄え、弛んだ体が目立つ。

 岡山が知り合いたちと会話を切り上げ離れた頃合いを見て、背後からそっと近づく。五十センチ背後に詰めたにもかかわらず、岡山はまるで気づく様子もなかった。政治家としてはそれなりにのし上がれたのかもしれないが、所詮殺しにおいては素人。薔薇の薫りにも、気付かないようだ。


「先生」


 松崎が後ろから呼びかける。

 岡山が、あからさまに肩を跳ね上げさせた。勢いよく振り向き、松崎を見る。


「え、お、ああ……」


 目線を頭の先から足まで三往復させ、岡山は口をぱくぱくと開閉させた。


「松崎君だったか。は、初めましてだな」


 たどたどしく挨拶し、男は右掌をズボンで荒く拭う。さしずめ殺した予定の男がいたため、驚きも相当なものだったのだろう。手汗の量も、推して知るべしだ。周囲を忙しなく見渡し、岡山はぎこちない笑みを作る。


「今日は君に会えて嬉しいよ。なにせ日本の守護者を束ねる提督殿だ。しかも成績も優れていると来ている。日本の誇りだ」


「お褒めに与りまして、恐縮でございます」


 嘘つけ。

 松崎は内心唾を吐く。

 外国から金を貰い、艦娘たちの居場所を奪おうとしている豚が。

 しかし、松崎の顔は崩れない。


「私は何もしていません。ただ彼女たちが少しでも働きやすいように、陰ながら状況の整備をしているだけですから」


「しかしそうなれば、事務仕事ばかりで体も鈍るだろう」


「お気遣いなく」


 松崎は笑顔で答える。


「今日は道中、なかなか体を動かせましたから」


「なん、だと?」


 訝しがる岡山の傍に、一人の男が近付く。どうやらお付きか何からしい黒服が、岡山に何か耳打ちをする。

 付き人の口が閉ざされる。聞き終えた岡山が、顔から血の気を引かせた。


「貴様……ッ!」


 岡山の口が震える。目は大きく見開かれ、人ならざるものを見る目をしていた。

 化け物め。

 男の顔がそう語る。潜水士達が刺客たち全員を殺したのだろう。今回は趣旨上、全員を殺すことが目的となっている。鎮守府や自身に手を出そうとしたらどうなるか、それを婉曲的に示すためだ。

 松崎が岡山の右手を取る。目にも留まらない速さで強制的に握手を結び、ニタリと笑った。


「この匂い、よく覚えておいてくださいね」


 傍から見ればただの握手だが、岡山にとっては違うらしい。明らかな怯えと畏怖を瞳に宿し、松崎を見る。


「次にこの匂いを嗅ぐ時が、貴方の最期になるでしょうから」


「脅しのつもりか?」


 いえ?

 松崎はとぼける。


「そうならないことを祈ってお過ごしください。私からはそれだけお伝えしたかったので」


「何の話か、私にはさっぱりだな」


「強気に振る舞うことも、政治家の岡山先生にとっては十八番のようなものですかね」


 ですが――


「嘘をつくときは、せめて額の汗くらい拭うことをお勧めします」


 にこやかに忠告し、松崎は背を向ける。


「先生のお友達にも、よろしくお伝えください」


 背中越しに告げて、松崎はその場を去った。

 あと、

 松崎が振り返る。


「先生の“ご友人方”のお片付け、アレは先生でお願いしますね。そうでもしないと、私たちの方が早く捜査の手を伸ばして証拠掴まれるのも嫌でしょう?」


 岡山が唇を震わせる。

 叫んでしまいたい衝動を腹の底に押し留め、唸りを交えた声で返す。


「クソ野郎の人でなしめ」


「ご名答」


 松崎はいっそ清々しいほど、爽やかな笑みを浮かべた。


「なにせ私、亡霊なもので」




第章・MC



 薄暗い執務室の中で、松崎が両手の指を深く絡めていた。その様は、罪人が神に対して許しを請うような、独特の荘厳さと素朴さを感じさせている。


「まさか今年も、この日が来てしまうとは」


 沈痛な面持ちで呟く松崎に、大淀も神妙な顔をして頷く。ずれかけている眼鏡を修正し、顔つきを引き締めた。


「お上も、ホンマ人でなしやで」


 同席していた龍驤が、苦々しげに呻く。「こんなん、上の自己満足やんけ!」


「ですが」


 諦めを滲ませた松崎が顔を横へ振る。


「上の言うことです。ここは逆らわず、素直に従うのが上策でしょう。変なところで、我々が目の敵にされてはたまったものではありませんから」


「せやけど……っ!」


 龍驤が身体を乗り出す。


「こんな横暴、松崎クンは許してええんか?」


「私だって悔しいです」


 松崎が両手で顔を覆う。


「上の勝手な意見で、我々がこんな苦労を被るなんて考えるだけで……」


「じゃあこんなん、無視したればええやん!」


 龍驤の強気な姿勢に、「それはなりません」と松崎は即答する。


「それだけは、できないんです」


 龍驤の瞳の温度が下がる。


「所詮キミも、その程度の男やったんやな」


「私の事は、どれだけ詰っていただいても構いません」


 松崎は強く言い返す。


「ですがこれだけは、何としてでも完遂しなけばならないのです。艦娘としても数多くの任務に従事されてきた龍驤さんなら、勿論ご存知でしょう? 時に人は、自分自身を殺さなければならないということを」


 龍驤が言葉に詰まる。

 二人のやり取りを見かねた大淀が、横槍を入れる。


「これ、本当にどうするんですか?」


「どうにかできていれば、私の心労は軽く済んだんですけどね」


 三人の目線が、机上に集中する。

 目線を集めるは、一枚の紙きれ。

 大本営からの達し状には、こう切り出されていた。


『今年度のマーヴェラス・カード――“MC”について』



 中央食堂で駆逐艦――不知火は盛大な溜め息を吐いた。今日のAランチはうどんと稲荷とかき揚げ。別にそのラインナップに文句が言いたいわけではない。

 問題は机上に鎮座する、『マーヴェラス・カード』と呼ばれる代物についてだ。名刺サイズより少し大きい紙が十枚。輪ゴムで束ねられている。

 なぜ不知火がそれに対して頭を悩ませているのかと言えば、朝の訓練直前に鎮守府内に拡散された松崎の放送からだ。


『おはようございます。本日皆さんそれぞれ十枚ずつ配らせていただいたその紙、必ず十枚誰でもいいので書いて手渡ししてください。書かないと大本営からお叱りの言葉を私が喰らいますしそれを皆さんに還元したい気分ですので、そのつもりで。優秀な当鎮守府の皆さんにおいてはその心配も杞憂かと思われますが、杞憂で終わることを私は祈っております』


 どうやらこの紙は、なにやら毎年先輩艦娘からも反感を買っているらしい。毎年十枚近くの紙を書いて他人に渡す。確かに苦痛だ。

 聞いた話、『その艦娘のマーヴェラスなところを書いて渡す』紙らしい。確かに年長者から反感を買う気持ちもわからんではないと、不知火は思えた。


「マーヴェラスなところってなんなんですか……」


 両手で頭を抱える。あまりに漠然とした内容に、少女はうんと唸った。


「どったの不知火ちゃん、そんなに唸っちゃって」


 睦月が自身のトレイを持って向かいに座る。彼女の昼食はBランチのサンドイッチ定食らしい。軽快に口へ運びながら、睦月が不知火の悩みの種に目を向けた。


「あ、それMCだね」


「そんな略称なんですか、これ」


 冴えない顔で不知火は答える。


「いえ、このマーヴェラスな所って何を書けばいいんですか。全く浮かばないんですけど」


 深い溜め息を吐く不知火に、睦月はさして深刻そうではない顔で答える。


「マーヴェラスなところを書けばいいんじゃないの? その人の」


「……はあ」


 何一つ、答えになっていなかった。


「マーヴェラスって何なんでしょうか」


「マーヴェラスはマーヴェラスなんじゃないかにゃ」


 不知火は再度、盛大な溜め息をついた。両手で顔を覆い隠し、落胆を表現する。


「その、肝心なマーヴェラスの意味を不知火は知りたいわけなのですが」


「えっ」


 睦月が、瞬いた。


「もしかして不知火ちゃん、マーヴェラスの意味知らにゃいの?」


 不知火が、言葉に詰まる。なんと返そうか逡巡する最中、睦月が大きく腕を振り始めた。ジェスチャーの対象は不知火ではないらしい。もっと後方の誰かだ。

 不知火は振り向く。見れば他の同期たちも昼食の盆を持ち、二人の所に歩いているところだった。職場研修や訓練ではよく顔を見合わせるものの、昼食で六人が揃うことは相当珍しいことだ。

 白露をはじめとした四人が、わらわらと席に着く。誰からともなく互いの近況を話しながら、話題は今朝発表された例のモノに切り替わる。


「MCなんて、誰が考えたんだろうねー」


 はあ。と白露は息を吐く。


「師匠が言うには、大本営から毎年この時期になると来るんだって」


 味噌汁を飲みながら、朧がぼやく。やはり彼女も乗り気ではないのだろう。顔つきが優れない。


「一人十枚はさすがに、少し多い気が……」


 MCの束を取り出し、羽黒が怖気づく。まだ半年もたっていない新人たちが十枚も誰かに対して紙を書く。かなりハードルの高い行事だ。

 磯波もこくこくと便乗する。


「涼風師匠が言うには、最低十枚書かないと何か罰があるんだって」


「罰って……」


 睦月が顔を引きつらせる。


「捨てちゃダメなのかな? これ」


 白露の一言に、不知火が「なりません」と即答する。


「これも業務の一環ですから。言い渡された以上、完遂する義務があると思います」


「不知火ちゃんはお堅いなー」


 白露が肩を揺らす。


「でも、書ききれるわけないんだから捨てちゃうのも名案だと思うけどなー」


「やめといた方がいいよ」


 突如降りかかる声に、白露が勢いよく振り向く。その動きに合わせて、他の新人たち五人も声の発生源に顔を向けた。


「送ったMCは後日コピーを取ってちゃんと集計されるし、誰がどう不正したのかは一発でわかっちゃうんだから」


 いつの間にいたのか、川内型一番艦で白露の師匠――川内がそこにはいた。唐突に出現した川内を見た朧が、「忍者だ」と呟く。


「い、いらっしゃったんですね。師匠」


 白露は「あはは」と笑い、先の発言を誤魔化す。全力で保身に走る気概が、その振る舞いから存分に感じられた。


「ちなみに不正すると、どんなことが……」


 恐る恐る尋ねる磯波に対し、川内があっけらかんと答える。


「正座五時間。終業後に」


「ええ……」


 ハラスメントの極みに、睦月が全力で辟易していた。


「今どきそんなの、スポーツ系の部活でもないような気が」


 羽黒の発言に、「でも実際あるんだよねえ」と川内は返す。


「そうなりたくなかったら、どんなことでもいいから頑張って書いて渡すことをお勧めするよ」


 そこでふと、朧が思い当たる。


「随分とお詳しい感じですけど、実際に不正した方からその話を聞いたんですか?」


 いや。

 川内は淡白だ。


「私が一年目のときやらかしたんだ。超シバかれた」


 新人一同が盛大に崩れる。


「まさかの本人だったんですね」


 磯波の苦笑を笑って受け流し、川内が新人たちを見渡す。


「だってぶっちゃけ、面倒くさいじゃん。コレ」


「随分とぶっちゃけましたね」


 不知火が半笑いになる。


「そりゃ面倒くさいよ」


 川内は続ける。


「おまけにルール上、三年以内に同じ艦娘にカード書くのも禁止なんだよね。毎年誰が誰に書いたのかってのも控えがあるから、正真正銘小細工なしの勝負だよ、これ」


「誰が得するんでしょうか……」


 意義そのものを問う不知火の言葉に、川内も首を傾げる。


「まあこれはお上からの言いつけらしいし、ウチだけで撤廃とか不参加とかはできないだろうねー」


 公務員や公的組織は横並び意識が強いしね。

 川内が付け加え、「ま、」と話を結びに導く。


「みんなもズルを考えずに、真っ当に書いた方がいいってことは経験者としてのアドバイス」


 軽快に手を振りながら去る川内を見て、新人たちは顔を突き合わせた。


「これ、不知火たちが考えていた以上に面倒くさいイベントなのでは?」


 朧が頷く。


「大本営も変なこと考えるよね」


「でもこれ……」


 睦月がぼそりと漏らす。


「MCを通じて師匠のご機嫌取りができるかも……!」


「……はあ」


 不知火が息を吐く。


「ご機嫌取り、ですか」


 そうだよ!

 と睦月は言葉を強める。


「いつも叢雲師匠にはビシビシされてるけどこのMCを使って睦月がどれだけ師匠の事を慕っているのかを書けば、師匠も睦月の優しさに心打たれて少しは扱いが改善されるはず! 睦月天才!」


 まるで新しい元素を発見した科学者だと言わんばかりにはしゃぐ睦月の肩に、背後から手が置かれる。


「残念だけど、そんなことにはならないわよ」


「ぎゃー!」


 声だけで誰なのか察したのだろう。睦月が全力の叫び声をあげる。

 睦月の察しが的中し、すぐそばには叢雲がいた。

 しかしさして怒る気はないらしい。叢雲は深い溜め息を吐くだけに終わった。


「し、師匠。今の聞いていましたか?」


 震えながら尋ねる睦月に、「全部聞かせてもらったわ」と師が返す。


「師匠赦して! 睦月まだ死にたくにゃいんです! 実家の家族のためにもお金稼ぎたいし何よりまだ死にたくないんですー!」


 叢雲に抱き着き命乞いする睦月の頭を撫でながら、叢雲は新人たちを見渡す。


「まあこれ、誰も得しないけどあたしたちには少しだけ意味のあるイベントなのよね」


「叢雲さんたち?」


 首を傾げた白露に、「正確には一年目の弟子を持っているマスターランク達にはね」と付け足す。


「それに関しては、綾波から説明しますねえ」


 のどかな声と共に、綾波がテーブルに近づいてきた。弟子である朧の頭を撫でながら、綾波がにこやかに話し始める。


「一年目のみんなには師匠がついている……と言うのはもう言わずと知られている事ですけど、弟子がいるというのはマスターランクにとっても大きな意味合いを持っているんです」


「お給料が増える。的な感じでしょうか?」


 俗な質問をする白露に、「それも間違いではありませんねえ」と応える。綾波特有の溶けるような声と話し方のテンポのせいで、どうもペースを掴みにくい。


「弟子の不手際は師匠の不手際、そういうことよ」


 端的に言い切った叢雲に、綾波が顔に影を落とす。


「なんで綾波の説明を邪魔するんですか? 最古参って、そんなに堪え性がなくても勤まるんですかあ?」


「アンタがトロ過ぎんのよ」


「人間歳を取るとせっかちになりがちって言いますし、そろそろ前線引退を考えてもいい頃合いなんじゃないですかあ? 戦場でせっかちなコトされて、その尻拭いを綾波みたいな後輩たちがするなんて考えただけで寒気がするんですう」


「トロくて攻め時見失うなんて失策に比べたら何十倍も可愛いわ」


 火花を散らす二人の間に不知火、羽黒、磯波が勢い良く割り込む。


「とにかく!」


 不知火が慌てて話の体を整える。


「その話、どういうことなんでしょうか」


「そのまんまの意味よ」


 叢雲が話す。


「師匠と言うのは否応なしだけど、その弟子の一年を預かってるの。そこから一年後……あるいは一年間の新人はみんな師匠の責任になるわ。勿論弟子が優秀な成績を修めたり賞賛に値する行いをしたりすれば『さすがあの人の弟子だな』と思われるし」


「逆に恥ずかしいミスや失敗をすると、『師匠であるアイツはどんな教育をしているんだ』と師匠に指導の疑問視が向かうんです」


 だから――

 未だに腹部へ抱き着いて来ている睦月の頭を小突きながら、叢雲が話す。


「勿論新人たちが使い物になるように師事することが前提なんだけど、自分の株を落とさないよう弟子をちゃんと導くこともマスターズの務めなの」


「だからこの場合、新人のみんながMCに当てずっぽうなことを書いて誰かに渡した時、それを受け取った人は『こいつの師匠はなんでこんな見当はずれなことを書かせたんだ』って思われるわけなんです」


「そう言った諸々含めて、アンタたちも自分の師匠泣かせないような生き方しなさいよ」


 て言うか――

 説明を終えた叢雲が、露骨に顔を顰める。


「なんであたしの説明に割り込んでくるのよ。空気読みなさいよ」


「叢雲さんの方が割り込んできたんじゃないですかあ?」


「後輩だからって容赦してきたけど、そろそろ堪忍袋もブチ切れそうよ」


 ――その割には、説明のテンポ良かったですしなんだかんだ息が合っていますよね。

 そう言ってやりたい不知火だったが言葉を飲み込み、胃液で溶かす。言えば自分に矛先が向かうことくらい、分かりきっていたからだ。


「結論としては」


 叢雲が話を結ぶ。


「アンタたちも師匠に恥かかせないようにしなさいよ」


 未だ命乞いしている睦月を引き剥がし、叢雲は午後の訓練に向かった。


「じゃあ、綾波もこれで」


 育ちのいい微笑を残し、綾波もテーブルを去る。

 思わぬ事情が絡んでいたことを知った雛鳥たちが、互いに顔を見合わせた。


「なんか、結構深刻だね。このMC」


 朧が話す。

 不知火や羽黒も首肯する。


「MCだけじゃなくて、私たちの行動すべてが師匠の評判に繋がるなんて」


「頑張らなきゃ、だね」


 重苦しい空気が流れ始めた矢先、朧が口を開いた。


「とにかくこのMC、六枚は消費できるよね」


「六枚?」


 磯波が指を曲げて考える中、朧が補足する。


「まずはこの新人同期陣でそれぞれ名刺交換みたいに送りあう。これで五枚。さらに自分の師匠に一枚。師匠の事だから大体何書けばいいのか見当つくし、あと四枚は演習やよくお世話になる先輩に書けば十枚いけるんじゃないかな」


 朧の戦略に、睦月が唇をわななかせる。


「朧ちゃんって、もしかして天才?」


 頭脳プレーに面々が感激する。

 名将朧! ノーベル鎮守府賞待ったなし!

 新人たちが一斉に朧を褒め称える中、不知火はふと我に返る。


「師匠にMC」


 ――師匠のマーヴェラスなところって、いったい。


 喜びはしゃぐ五人を見て、不知火は考えたくない可能性を見出した。


 ――もしかして師匠に対してMC書くの、不知火的には一番難しいのでは?



 北上は深い息を吐き、頭を抱えていた。目の前にはMCの束が、クリップで留められている。


「いや。これ無理ゲーでしょ」


 心のままぼやく。なにせ彼女は五年目。二年前に誰に書いたか、覚えている方がおかしいと言えよう。加えて、そろそろネタ切れである。


「そもそもさあ」


 独り言を垂れ流す。ボールペンの尻で机をカツカツ叩き、不機嫌さを露骨に示す。


「誰が得するのこれ。ホントに」


 愚痴を一切隠さず、煩わしさ全開の顔をする。

 三分ほどMCを見つめ、「ダメだこりゃ」と一言。


「吸いたいなあ」


 喫煙所に行ってしまおうか。そう考えた矢先のことだ。


「随分、悩んでいるな」


 日向だ。北上の向かいに座り、口の片端を釣り上げる。


「お察しの通り、お悩み中ですよ。お手上げです」


 北上は両手を耳の高さまで上げる。その様を見た日向が、ニヤリと笑った。


「お前にしては随分、諦めが早いじゃないか。いつもの、蛇みたいな執念はどうした?」


「それはもう、二年前に在庫が切れちゃいまして」


 苦笑する少女に、日向は「そうか」と素っ気ない返事をよこす。


「執念を持っていた時のお前は本当によかった。絶対に沈まない精神力と、それに裏打ちされた技の切れがあったからな」


「嫌味ですか?」


 いんや。

 日向は言葉の尻を上げる。


「私の個人的な問題として、面白いか否かしか言っていない。聞き流してくれて構わないよ」


「生憎」


 北上は肩を竦める。


「今のあたしに、そんな執念を発揮するほどのモチベーションも要因もないんです」


 日向が一瞬、唇を「へ」の字に曲げた。


「なら、仕方ないな」


 日向は頭を振り、席を立つ。


「あの時のギラギラした瞳をいつか見れることを、祈っているよ」


「そんな話をするために来たんですか?」


 過去を掘り起こされたせいか、北上の語調は棘を帯びている。


「そうつれないことを言うな」


 三白眼を北上の頭に向け、先輩は余裕の笑みを作った。


「どうせお前は今年も書くネタがなくて苦しんでいるだろうから、その様を拝みに来ただけだ」


「イイ性格していますね」


「褒め言葉して、受け取っておくよ」


 煙たがる北上に、日向は笑いを向け続ける。


「新人時代からお前はそうやってMCで苦しみ続けていたからな。毎年の恒例行事として、私は高みの見物をさせてもらっているよ」


「わざわざそんなことしに来るなんて、八年目ってそんなに暇なんですか?」


「勘違いするな」


 ハスキーな声で日向が返す。


「忙しい時間を縫って、見物しに来ているだけだ」


「それを暇って言うんじゃないですかね」


「邪険にするなよ。私だって暇つぶしでお前に会っているわけじゃない。大井がいたあの頃みたいにキレもメンタルも最高級のお前と、もう一度手合わせしたいだけだ」


 日向が席を立つ。


「もしお前に守りたいものとか目標とかが見つかってかつてのギラギラした目つきが戻ったら、そのときは連絡してくれ。またお互い死ぬ気で組手ができる日を、心待ちにしているさ」


 北上の肩を叩いて、日向は席を離れる。何しに来たのかまるで見当のつかない来客に、北上の気勢は完全に削がれていた。煙草を吸う気分にならなければ、MCを書く気にもなれない。

 さてどうしたものかと考え始めた頃合いを見計らったかのように、府内放送が響き渡った。


『新人駆逐艦不知火さんの師匠である北上さん。北上さんは至急、医務室までお越しください』




 医務室では不知火が治療を受けている最中だった。全体的に軽傷であるものの、多少の流血もあったらしい。海上での訓練中に負傷したと聞いたからどうなるかと思っていたが、大事には至っていないらしい。


「どうしたのさ」


 尋ねる北上に、不知火は黙ってうつむく。

 別の誰かに答えを求めようにも、不知火を連れてきた新人たちは訓練に戻ったようだ。

 北上は陸奥に目線を向けるも、彼女も右手を自身の頬に当てるだけだ。


「連れてきてくれた新人のみんなにも聞いたんだけど、どうやら転んじゃっただけらしくて。その時に自分の艤装の角が引っ掛かって皮膚が少し深く切れちゃったらしいの」


 縫うほどでもないんだけどね。

 消毒とガーゼ、加えて包帯だけで何とかなるらしいと知った北上はとりあえず胸を撫で下ろす。

 気まずそうに下を向いたままの不知火を見下ろし、「さてどうしたもんか」と北上は腕を組む。

 海に出たばかりならまだしも、海上訓練を一か月程度修めれば転倒はほぼない。余程無理のある起動や急加速をしない限り、そう易々と転ぶことはない。聞いた話では不知火はそれなりに優秀だと耳にしている。基本的な連携行動の訓練で転ぶことは、ほぼないと言っても差し支えないはずだ。加えて海上機動を可能としている足の主機も、ある程度の補助をしてくれる。

 機械周りの整備不良か、本人の致命的なミス。

 考えられることは、この二つに絞られた。同時に、答えはほぼ出ているようなものだ。ここまで不知火本人が落ち込んでいるのだから、自身に重大な落ち度があることを自覚しているのだろう。


「んー……」


 呻吟する北上に、不知火が顔を上げる。


「この度は、本当に申し訳ございませんでした」


 突如謝り始めた少女に、北上は目を丸める。


「急にどうしたのさ。らしくもない」


 いえ。

 短く告げ、不知火は再び顔を伏せる。いつもの不知火らしくない。良くも悪くも正直な不知火は、思ったことは素直に口にする。ここまで勿体つける状況に、師である北上は眉間に皺を寄せた。


 ――こりゃちょっと、重症なんじゃないかね。


 右手で顎を撫でながら、北上は自分の過去を引きずり出す。自分は何かあった時、どうしてもらったか。自分が龍驤の何かを真似できることはないか。師として、先輩艦娘として、不知火にしてやれることはないか。

 あれこれと考え、息を吐く。


 駄目だ。


 龍驤のように口が上手いわけでもない。親身でもない。頼りがいのある艦娘でもない。

 ないない尽くしだな。北上は自嘲した。

 艦娘五年目にしては、あまりにお粗末。この二年は海に出ていないため、実質四年目に等しい。加えて今まで弟子を持ったことのない立場だ。どう接していいのか、普段のコミュニケーションは難しくはないがこうした局面にすこぶる弱い。

 二年間でもっといろんな人に接しておけばよかったかな。北上は、できるわけがないと思いながらもぼんやり反省した。


「あのさ――」


 とにかく何か言わなければ。

 気まずい間を粉砕するために、少女が勢いで口を開く。

 意気消沈した顔つきの不知火に、北上は尋ねた。


「終業時間になったら、バー行かない?」


 分厚いドアを押す。ドアが閉まれば、鎮守府内の喧騒が一気に遠ざかった。湿り気を帯びた、それでいて飾り気の少ないジャズが店内を温める。オレンジの間接照明も相まって、どこか違う国に来たのかもしれないと客に思わせる。


「姉さん」


 カウンターの奥で、店の主である木曾が顔を輝かせた。

 久しぶりと手を振り、二人でカウンター席に腰掛ける。

 いそいそと布巾を手渡し、にこにこと木曾が笑む。


「姉さんが誰かを連れてくるなんて、どれだけ昔の事だろうな」


「そもそもここに来ることも最近じゃ少ないしねー」


 手を拭きながら、終始俯いている不知火に話しかける。


「なんでも、好きなの頼みなよ」


「え」


 不知火が顔を上げる。


「そんなこと、とてもじゃありませんができないです」


「いいよ、凹んだ時こそお酒呑みなって。お金は気にしなくていいから」


「そう言うことじゃなくて!」


 不知火が強く拒む。

 思いの外大きな声に、北上は目を丸くさせた。


「これは、ただならない気配だ」


 木曾がニンマリと、唇の片端を釣り上げた。「バーテンダーとして、癒し甲斐がある」

 だが――


「今日は姉さんに譲ろう。姉さんがこの青二才に向かってどうかかわるのか、俺自身とても興味があるからな」


 北上が舌打ちを放つ。


「少しくらい、助けてくれてもいいじゃん」


「俺は裏方に徹しよう。お似合いの酒を選ぶことに、全力を注ぐさ」


 ちえ。と少女が唇を尖らせた。

 味方の援護がないことを悟り、不知火に向き直る。


「今日の訓練、何かあったの? 詳しい状況は聞いてないんだけど、何か無茶したり考え事でもあった?」


 尋ねられた不知火は、不安げに木曾を目端で捉える。

 その視線を察したのだろう。木曾は両瞼を閉じて、「案ずるな」と一言。


「バーの中であったことは、絶対に外へ漏らさない。それがバーテンダーの使命であり、客に心から安心してもらうための誓いだ。好きなように話せ」


 背後で乱立するウィスキー瓶を物色し始めた木曾を見て、不知火が話し始める。


「今日のお昼に聞いた話で……」


 数分後、通り一遍の話を聞いた北上は「へえ」と無感動に呟いた。


「要はあたしに恥ずかしい思いさせないよう張り切りながら、MCでどう書こうかって悩んでたら転んだわけだ」


「返す言葉もございません」


 さて。

 北上はそこで、顎に手を当てた。目の前で落ち込んでいる弟子にどう言葉をかければいいのか。

 十秒。自分自身に問いかける。

 何か気の利いた一言が出るかもしれないと自分を信じたかったが、「ダメだな」とあっさり諦めた。

 代わりに木曾からペンを預かり、MCに黒を走らせる。


「ストレートに言うけど」


 水で唇を濡らし、北上が話し始めた。


「それって、驕りなんじゃないの?」


 不知火の肩が、びくりと震えた。

 捨てられそうな、子犬のような目を師に向けた。


「新人がなんでも要領よくやって、師匠の株が上がる方がおかしいんだって」


 懐から煙草を取り出す。安物のライターで、火を灯した。木曾が素早く差し出したクリスタル製の灰皿に落とし、少女は続ける。


「不知火ちゃんはさ、色々と面倒くさいことを考えすぎだと思うよ」


 北上は諦めた。


 自分は、龍驤のように口が達者なわけではない。


 師の真似ではなく、自分なりの向き合い方をやってみよう。

 その思いと共に、北上は話す。


「弟子の仕事が何か、知ってる?」


 北上の問いに、不知火は眉をハの字に。

 あれこれと勘繰る不知火に向かって、北上は正面から言葉を叩き付けた。


「精一杯頑張る。これだけでいい」


「精一杯」


 不知火は繰り返す。

 そ。と北上は頷いた。


「新人の頃なんて何も分かんないし実力だって足りないんだから。あたしだって新人の頃はいろんな失敗したし先輩たちから嫌な顔される時だってあったし、師匠に迷惑かけたことだって多いと思うよ」


 でも――


「みんなそうやって迷惑かけてるんだよ。演習でポカしたりミスしたりして、師匠を困らせることもあったよ。でもそれは龍驤師匠だってそうだと思うし、他の先輩艦娘だって最初は同じなんだって」


 煙を吐き、北上はMCをカウンターの上へ。右手で滑らせ、弟子に渡した。


「弟子の仕事は、一生懸命頑張ること、それだけ。苦労するのもあれこれ面倒なこと考えるのも、師匠の仕事。弟子に何か困ったことがあれば首賭けるし、身体張るもんだと思うよ。あたしも初めて弟子持つからよく分かんないけど、多分そんな感じなんじゃないかな。あたしはそうしてくれた、師匠の背中を見てきた」


 渡されたMCを、不知火が捲る。同時に、顔を顰めた。


「『不器用』って……いいところなんでしょうか」


「すごくいいところだと思うよ、あたしはね」


 北上は、ニッと笑う。


「不器用だから、あれこれ手を伸ばせないことはいいことだって。一つ一つ、一生懸命に積み上げることが大事なんだからさ。焦って不用意なことしないで不知火ちゃんは不知火ちゃんらしく、不器用ながらも進みなよ。その結果何かあったら、そこからはあたしの仕事。あたしみたいな軽い頭でいいならどれだけだって下げるし」


 北上が右手を伸ばす。慣れていないのだろう。ぎこちなく、不知火の頭を撫でた。


「師匠の株上げるとか、師匠に恥をかかせないとか、そんなのを弟子が考えなくていいから。変なプレッシャー感じずに目の前の壁に向かって走る不知火ちゃんの方が、あたしは好きだよ」


 たどたどしく頭を撫でる中、不知火が鼻をすんすんと鳴らし始めた。


「まとまんなくて分かりにくい言い方で、ごめんね」


「いえ」


 不知火が首を横へ振った。


「凄く、伝わりました」


 蒼を潤ませながら、不知火が頭を下げる。


「本当に、ありがとうございます」


「お礼なんて、いらないよ」


「このご恩は、必ず」


 堅いなー不知火ちゃん。

 北上が、苦い笑みを浮かべた。堅物を前にして困る姉を見て、木曾も笑う。


「恩返ししたいなら、一つ約束して」


 煙草を灰皿に。

 どこか遠くを眺めながら、北上は話し始めた。


「生きなよ」


 願いは、短い。


「あたしより長く、何があっても、生きな」


 約束してくれる?

 答えを期待する北上の目に、力強く「勿論です」と返した。


「不肖不知火、命に代えてもその約束を守ってみせます」


「命に代えちゃダメでしょ」


 冷静な指摘に、「それもそうですね」と不知火は破顔した。先程までの落ち込み方からは打って変わった明るさが、不知火にはあった。


「どうやら、もう大丈夫みたいだな」


 木曾がグラスを差し出す。「飲め。俺の奢りだ」


 グラスには微量の琥珀が、照明によってあでやかに色を変えていた。艶やかな琥珀色が、バーカウンターの一部を彩る。隣には、水。酒で喉が焼けることを防ぐチェイサーだ。

 グラスを目の高さまで掲げ、一言。

 乾杯。

 師弟が、ささやかに飲み始める。

 直後、不知火が「うぎゃ」と弱音を吐いた。


「これ、凄くきついです」


「だろうな」


 木曾が、一切悪びれる様子もなくカラカラ笑う。


「ブレッドバーボンだ。飲み過ぎには気を付けた方がいい」


「木曾も人が悪いね」


 一口目は舌で舐める程度しか飲まなかった北上が、水を口に。甘い香りを鼻先に燻らせ、匂いを楽しむ。


「このくらいインパクトのある味の方が、今日の事を忘れにくいだろ」


 木曾の提案に、北上は「粋なのかそうじゃないんだか」と笑った。煙草を咥え、吸う。

 軟化した空気の中、二人は取り留めもなく話し始める。


「師匠は新人時代、落ち込んだらどうしていました?」


 煙草を灰皿に。バーボンで唇を濡らし、記憶の糸を手繰る。


「あたしは師匠――龍驤さんと将棋してたよ」


「将棋」


 そ。

 北上は続ける。


「龍驤さんは将棋大好きだから、何も言わずに付き合ってくれたかな。で、あたしが愚痴とか何か言いたくなったりするのをじっと待つんだよ。思えば、あれって結構合理的と言うか戦略的だったなあ」


 意味を図りかねる顔をしている不知火に、木曾が横から補足した。


「沈黙していてもいいからだ。将棋は頻繁に会話するものでもないから、互いに沈黙を貫いても気まずくならん。加えて勝つために考える。そうやって没入することで、自分を落ち着けて気持ちの整理を無意識下に促すことだってできるんだろうな」


 不知火が、「おお」と手を叩く。


「さすが龍驤御大。策士の鑑ですね」


「ま、多分師匠はそこまで考えてなかったけどね」


 ばっさり切り捨て、北上は二本目の煙草を咥える。火を点け、煙を揺らめかせた。


「師匠、そんなキャラじゃないし」


 ええ……と、不知火は肩を落とす。


「要は無理せず、自分のできる範囲でいいんだってば。師匠にとってはそれが将棋ってだけで、それに関して正解不正解はないと思うよ」


 結論付けた北上に、不知火が「では」と尋ねる。


「師匠の場合は……?」


 あたし?

 自身を指差し、北上はニヤリと笑った。


「あたしはそりゃもちろん、これ」


 軽く告げ、グラスを顔の高さまで挙げた。


「やっぱりこれがないとはじまんないよね。お酒は偉大だ」


 わはーと機嫌を良くさせる北上に、妹分が難しい顔をする。


「バーは酒を楽しむ場所だから、あの時みたいに吐いてくれるなよ」


 聞いているのかいないのかよく分からないが、北上は弟子と話し込んでいる。


「師匠も毎年、MCには手を焼いているんですか?」


「そりゃそうだよ」


 灰を落とし、目を据わらせる。


「何が楽しくて眉間に皺寄せながら書かなきゃ駄目なのさこんなん。それで書けなかったら罰って意味わかんなくない?」


 不知火はうんうんと首肯する。


「だからあたしは毎年、この時期になると決まって鳳翔さんのお店かここに来るんだよ。お酒呑みながらだと、それなりに適当な褒め言葉が浮かぶからね」


「業務の一環扱いなら、大目玉喰らいそうですね。その発言」


「実際、業務の一環だけどな。それ」


 木曾の横槍に、不知火がさっと顔を青ざめさせる。

 露骨な焦りを見せた不知火に、「心配するな」と木曾が笑った。笑うと俳優のように男前な笑みを見せる木曾が、グラスを拭きながら話す。


「上のお達しとはいっても艦娘一同から不評なことを察してか、指令もそこまで目くじらててないから安心しろ。せめてもの御目こぼしってやつだろうさ」


「だから、さ」


 北上が、右手で盃を傾けす動作を不知火に見せる。


「不知火ちゃんも、ぐいっと飲んでばばっと書いちゃいなよ」


 真面目な性格ゆえに渋る不知火へ、北上が難色を示す。


「そんなクソ真面目な性格でMC十枚は絶対無理だよ。もっとこう、ざっくりでいいんだって」


「ですがそれだと師匠の教育が疑われそうで……」


 それだよ!

 北上が人差し指で、不知火の頬を指す。


「新人はそうやって面倒くさいこと考えないってさっき言ったでしょ! 寧ろあたしの弟子の癖して理路整然とした論理性溢れる感動的なMC書かれても困るんだって、こっちも!」


「一理ありそうなところが、なんとも言えないよな」


 二人には聞こえないよう、木曾がぼそりと呟く。

 もっとざっくり!

 もっとクリエイティブに!

 もっと本質的に!

 力説する北上と困惑する不知火を見て、木曾が小さく笑った。


「そんな姉さんを見るのは、久しぶりだな」


 水を継ぎ足し、それとなく北上に勧める。未だ逡巡する不知火に、「じゃあ」と師が提案した。


「ためしに一回、木曾に対してMCを書いてごらんよ」


「俺かよ」


 白羽の矢が眉間深くに突き刺さり、木曾はげんなりする。見れば北上は常にニヤニヤとした笑みを浮かべている。それなりに酔っていることは、明らかだ。

 依然として困り顔に不知火が、助けを求めるように木曾を見る。バーのマスターは、肩を竦めて首を横に振った。


「諦めた方がいい。こうなった姉さんには、付き合うしか道がない」


 水を一気に飲み干した北上が、人差し指を立てる。


「飲んだ勢いで書こう。木曾、ショットガン頂戴!」


「その前に」


 再度水をなみなみ注ぎ、グラスを前に。「このグラスの水飲みきったら、出してやる」

 勢いよく水を喉に通す北上の傍ら、木曾は準備を始める。


「あの、ショットガンって……」


「ビビるな青二才」


 テキーラをグラスに注ぎながら、木曾は真剣な眼差しを向けた。


「死にたくないなら、その水を全部飲んでおけ」


 脅迫ともつかない一言に、不知火は慌てて水を飲み干す。

 準備が整ったことを確認し、木曾がショットクラスを差し出した。

 見ただけでは、そこまで注意を促すに値するようには思えない。炭酸水か何かを混ぜたのだろうか、グラスの内側には僅かな気泡があった。合計四グラス、一つ二つの算段らしかった。


「乾杯」


 北上が、右手でショットグラスを覆う。そのまま掴むように持ち、カウンターから浮かせる。


「付き合ってやれ。手袋を取ってな」


 木曾に促され、見よう見まねで右手の蓋を作る。

 二人がグラスを浮かせたことを確認し、北上はショットグラスの底を勢いよくカウンターに叩き付けた。不知火も、思考を放棄して真似る。

 手応えの直後、炭酸の弾ける音がした。

 北上が素早くグラスを口に。不知火も、勢いよくグラスを乾かした。ジンジャーエールが泡状になったためか酒の癖を一切感じることなく、酒が胃に流れ込む。


「その勢いでなんでもいいから木曾にMCを書く! 三秒で!」


 手を叩いて急かされ、とにかく浮かんだ言葉を一言書いた。

 受け取り、木曾が乾いた笑みを浮かべる。


「『イケメン』ってお前、一応俺は女だからな」


「いや、不知火ちゃんはよく分かってる! 木曾の本質を見抜いた実に新鮮で良好なMCだから!」


 北上の喝采に、不知火が「それほどでも」と照れる。


「もう一丁!」


 二人はすぐさま二杯目に手を伸ばす。先と同じ動作で炭酸を暴れさせ、ぐいと飲み干す。テンポよく、二枚目のMCに取り掛かる。


「どうぞ!」


 勢いそのままに、MCを師に渡す。

 中身を確認した北上が、ヒヒヒと笑った。


「あたしも不器用かよ! 手抜きか!」


 師は勢いよく指を鳴らす。


「木曾、ガンガン行くよ!」


 止めても無駄。そう悟った末っ子は、遠い目をして漏らした。


「寝ゲロで死なねえよう、せめて水は飲ますか」


 二人は次々ショットガンを煽り、酒の勢いでMCを書き殴る。ショットガンの種はテキーラとジンジャーエール。衝撃で泡状になるとは言っても、テキーラはテキーラだ。弱いわけがない。小さなショットグラス故にいっぱいの量が少ない事こそ、何よりの救いと言えた。


「ショットガン一杯につき水のグラス一杯飲めよ」


 しかし木曾も慣れたもので、二人が自分たちの部屋に帰ることができるように努める。

 不知火がショットガンを飲み干す。

 ついにお互い十杯目。最後の一枚を、二人は同時に書き終えた。


「司令官に書きました」


「あたしも!」


 交換して読んでみる。

 師弟が吹きだしたのは、同じタイミングだった。


「『全体的に色素が薄い』っていい所じゃないじゃん! これ褒めてないでしょ!」


「師匠の『亡霊みたい』だって褒めていないでしょう!」


 機嫌最高潮の二人が、ケラケラ笑いながら双方の拳をぶつけ合わせる。


「ウチのバーはそう言う感じの店じゃないんだがな……」


 止めようとして、やめる。


「姉さんも、やっと見つけたんだな」


 微笑む木曾が、二人に背を向ける。カウンターの奥から内線専用の電話を取り出し、執務室の大淀へ。


『大淀です』


 執務室にいるらしい大淀はすぐに出た。


「終業時間超えているのに、すいません」


『どうせ今日も日付変わるまで書類書かなきゃいけませんし、お気遣いなく』


 木曾は一瞬、鎮守府の闇を感じる。


「大変ですね」


 お気遣いなく。

 大淀の声は淡白だ。


『で、どの様な御用でしたっけ』


 木曾は二人が酒の勢いでMCを書いており、内容も支離滅裂であることを伝えた。


「今回だけは、二人とも許してやってくれねえかな」


『構いませんよ』


 すぐそばに松崎がいたのだろう。男が割り込んできた。


『今回は特別に、私の胸に留めておきましょう。本来ならそれなりのお仕置きを下して然るべきなのでしょうが、今回に限って許します』


「ありがとう。助かるよ」


 受話器を耳に当てながら、数回腰を曲げる。

 電話を切り、二人に向き直る。店に常備してある酔いを軽減させるジュースを二缶、二人の前に置いた。


「そろそろいい時間だし、これ飲んで二人とも帰れ。今日はお開きだ」



 夜風が髪を梳く。翌日二日酔いで倒れないよう水をしこたま飲み、今は外だ。不知火は先に、部屋に戻っている。

 ベンチに腰を落とし、少女は煙草を咥えた。着火し、「あのさ」と声を出す。


「いるんでしょ? どうせ」


 少女の足元で、闇が凝固した。ずるずると、それは地面を這いまわる。黒い蛇が、蜷局を巻いた。


「鋭いな」


「どうせそろそろ来るころだと思ってたからね」


 煙を吐いた北上の脚を、黒が這い上がる。少女の隣に身体を落ち着ける。

 その様を見た北上は、『腰を落ち着けるって表現があるけど、蛇にも腰ってあるのだろうか』と考えた。訊いても無駄だろう。多分この蛇も、知らないはずだ。


「随分あいつと、仲良くなったものだな」


 いい御身分だ。

 蛇が皮肉を込め、少女に言い放つ。

 北上は苦々しい顔を作る。


「大井の事はもういいのか? 忘れたのか?」


「そんなんじゃないよ」


 眉間に皺を寄せ、煙草の灰を落とす。


「なんて言うか、見てみたくなったんだ」


「なにをだ」


 知ってるくせに。

 毒づき、北上は正直に話す。


「あの子の未来。どんな艦娘になるのかを、どんな弟子を持ってこれから大きくなるのかって、すごく興味があるんだ」


 蛇が首を曲げる。


「報いが怖くなったか?」


「まさか」


 北上は即答する。


「報いから逃げるつもりなんて、さらさらないよ。“その時”が来れば、死んでやるさ」


 だから――


「それまでは……報いのときが来るまでは、不知火ちゃんの前に立って生きていたいかなって、思うんだ」


 携帯灰皿に煙草を放り込み、北上は遠い目をする。

 蛇は、静かに頷いた。


「そうか」


 それ以上何も言わない蛇に、北上は目を丸くさせる。


「てっきりあたしの事薄情者とか人でなしとか仲間殺しとか罵るかと思ってたのに」


「罵ったら、その考えが変わるのか?」


 無理だろうね。

 簡素に答える。


「だからせめて、その時が来るまではあの子の師匠でいてあげたいかな」


「好きにしろ。お前がそう決めたなら、俺は何も言う気なんてない」


 ところで――

 蛇が尋ねる。


「海には出ないのか? 艦娘の師である以上、いつまでも海から逃げ続けるわけにもいかんだろう」


「海、ねえ」


 反芻し、灰を落とす。遠くを眺める北上の瞳は、地平線の果てを捉えていた。


「まだ、無理そうかな」


「なぜだ」


 煙草をもみ消す。懐に投げ入れ、ベンチの背もたれに身体を預けた。


「なんて言うか、やっぱりお前みたいなものがあるからかな」


「人のせいにするのは、感心できんな」


 厳しい態度を続ける蛇に、北上が笑う。


「冗談だよ。要するに罪の意識があるから、どれだけ海が好きでもあたし一人のうのうと海に出ることはあたし自身が咎めるんだ」


 ていうかさ、

 少女は瞳を据わらせる。


「何度も言うけど、あたし自身でそうしたことも分かってるくせに聞くの、相当たちの悪い行為だと思うんだけど」


「俺も全てが分かるわけではない。俺はお前だがお前は俺ではない、そういうことだ」


 少女は苦い顔をする。


「なんかよく分かんないけど、そういうことにしておいてあげるか」


 ベンチから腰を上げ、伸びを一つ。


「今の生活は、楽しいか?」


 蛇らしからぬ、質問だった。

 皮肉か何かなのだろうか。少女には、その真意を推し量ることもできない。なにせ表情もないのだ。

 月を見上げる。八分程度の月だ。


「まあ、それなり」


 そうかと呟き、蛇が話す。


「それはそうとお前、いい加減煙草を控えろ。お前自身の害も加えて、弟子にも受動喫煙がある。弟子の事を大事に思うなら、せめてあいつの前では吸わんことだ」


 突然始まった説教に、北上は唇を尖らせた。


「急に大井っちみたいなこと言って、なんなのさ」


 いや――

 蛇が言い淀む。


「弟子の事を大事に思いたいのなら、そのくらいのことはしてやれ」


 北上は首を傾げる。


「なんかあたし、お前の事がよく分かんないや」


「安心しろ、俺もだ」


 北上が小さく笑う。


「そろそろ冷える。お前もいい加減部屋に戻って寝たらどうだ」


「だから大井っちみたいなこと言うなってば」


 少女が、唇の端を下げる。右手を振り、蛇を追い払う。


「分かったから。さっさとどっか行けよ」


「そうだな。おやすみ」


「おやす……は?」


 目を見開く。反射的に蛇の方を見たが、もう黒は消失していた。

 自分一人が取り残された中、呆然とする。口も半開きにさせ、だらしなさが三割増しになっていた。

 瞬き、蛇からの言葉を思い出す。


「おやすみ、か」


 繰り返し、首を傾げた。蛇からは、初めて言われたような気がした。

 今まで散々嫌っていた相手の態度が、どうもおかしい。少なくとも昨年には、このような話をしたこともなかった。誰かと距離を縮めて話をしていたら積極的に姿を現し、触れられたくない罪の意識を吹き込んできたくらいだ。とりとめのない会話や、まして自分の身体や周りの誰かを気遣う言葉なんてない。蛇も、何かが変わり始めていることは明白だった。

 眉間に皺を寄せ、腕を組む。

 少女は考える。

 そもそも、蛇とはなんなのか。

 蛇は本当に、自分の分身なのだろうか。確かに自分の事を良く知っている。だがそれがそっくりそのまま自分の罪の意識だと言われても、最近ではにわかに信じがたい何かに襲われ始めた。蛇そのものが意思を持ち、自分と対話しているような気がしてならない。

 酒が残る脳で考え、打ち消す。


「ま、いいや」


 本当に大事なことならいつか分かる。

 そう思うことにして、少女は弟子が待つ部屋に爪先を向けた。





第章/駆逐会



 朝。いつも通り郵送物を部屋に持って帰りいつも通り寝ている北上の首を絞めたがいつも通りに吹き飛ばされた不知火は、見慣れない封筒があることに気付いた。宛名には『駆逐艦・不知火様』とだけ書かれている。

 送り主は『駆逐会』、聞いたこともない名前だった。

 中身を透かして何があるのかを窺う不知火を見て、北上は「もうそんな時期か」と呟いた。


「師匠、何やら怪しい暴力団から不知火に果たし状みたいなんですけど」


「不知火ちゃん時折びっくりするくらいアホになるよね」


 師匠が右手を振った。


「それ、暴力団からの手紙じゃないから」


「じゃあなんだというんです」


 格闘戦ばかりで育て方間違えたかなあ。

 そう思いながらも、北上は説明を始めた。


「鎮守府にはいくつかの会があるんだよね。そのうちの一つで駆逐会があって、要するに駆逐艦たちで交流しましょうってワケ」


 ちなみにあたしは軽巡だから軽巡会。

 行間を縫って、付け足す。


「それぞれの会で利権争いでもあるんですか?」


「ないよ。なんでそんな血気盛んなのさ」


「抗争とかもないんですか? 予算を巡って」


「なんであると思ったの? それあったら内部組織ガバガバってレベルじゃなくない?」


 この艦娘、賢そうに見えるがその実身体を作っているモノが筋肉しかないのだろうか。

 北上は僅かの間、本気で不知火の事を心配した。大丈夫かコイツ、と。

 親指と人差し指で、眉間の筋肉をほぐす。

 いや、待て。

 考えてみれば不知火はまだ新人、知らなくて当たり前なのだ。ここまで極端ではなかったが、自分にもあったはずだ。不慣れでよく分からないまま過ごした日々が。

 不知火の場合はただ少し知識に偏りがあるだけで、それを正すのも師の務め。少女から封筒を預かり、話し始めた。


「考えてみればわかるんだけど、同期連中やよく一緒に演習する艦娘とは交流があるけど他の隊も違えば着任の年が離れている艦娘って交流がないでしょ? そういう艦娘たちと集まって同じ艦種の中で仲良くできるようにしましょうって感じの集まりだよ。要するに駆逐艦だけの飲み会かな」


 封筒を破り、中身を弟子に。三つ折りになったA4紙に目を通し、ふむと頷く。


「師匠は軽巡会に出たことあるんですか?」


「いや、ぶっちゃけ面倒だったからサボってる。去年は出なかったし、一年目も出たくなかったんだよねえ。引きずられて出たけど」


 最後の最後まで参加を渋っていたものの、大井に引きずられて連れて行かれたことを思い出す。


「行った方がいいんでしょうか」


 北上は腕を組んだ。

 本当のことを言ってしまえば、行って得られることは皆無に等しい。例え上下の繋がりができても、実際に同じ戦闘行動をすることはない。加えて普通の企業や公務員と違い、いつ艦娘から退き特殊後方支援課に異動するのかすら、分かったものではないのだ。寧ろ艦娘同士の交流よりも、事務仕事における連携の方が大事だろう。互いに見知った顔であれば、内線や行領域を跨いだ話においてもフランクに話せる。

 しかし、一応顔を認知されるくらいの名目で行った方がいいだろう。メリットは乏しいが、ゼロではない。先輩艦娘たちを多少持ち上げ、後々可愛がってもらえるようになるくらいの目的で行けば、悪くはない。所詮は酒の席、真面目なビジネストークをしに行くわけでもない。適当に酒を飲みに行って多少お酌をする。このくらいの認識でいい。


「行っておいでよ。難しく考えずに、ちょろっとお酒呑みに行く感じで」


 ――ちなみに、

 北上は付け足す。


「退役した“元”艦娘の人たちとの飲み会もあるから、まあ頭の片隅に置いておきなよ」


「そんなイベントもあるんですね」


「まあこれは毎年じゃないし不定期なんだけどね」


 部屋着を脱ぎながら、少女が説明を続ける。


「引退した艦娘はみんな鎮守府内の事務作業とか、食堂とかで仕事するんだよね。不知火ちゃんも見たことくらいあるでしょ?」


 不知火は「言われてみれば」と呟く。


「中央食堂でご飯作る人たちも、元艦娘なんですね。てっきり外からのお店かと」


「鎮守府は国防そのものだからねえ。うっかり変な人間を入れない為にも、鎮守府内のメンツは艦娘や元艦娘以外は原則厳禁なんだよ。不知火ちゃんにも近いうちに歴代不知火の飲み会があると思うから、楽しみにしておきなよ」


「師匠も、行ったことあるんですか?」


 あるよ。

 少女の返事は軽い。


「ここの鎮守府じゃたしは四代目なんだけど、先代の三人と一緒に今でもたまに飲みに行くかな」


 北上の着替えが終わり、師は軽く話を締めくくった。


「まあ同期のみんなと話し合わせて、行くか行かないか聞いてみればいいんじゃないかな」



「ぶっちゃけ、行きたくない」


 昼食時、集まった新人たちが駆逐会の話をした瞬間に朧が切り出した。

 速すぎる先制攻撃に、他の面々が拍子抜けした。


「随分性急だね、朧ちゃん」


 白露がかき揚げを食べながら話す。「てっきり皆行くものかと思ってたんだけど」


「だってさ」


 懐から、朧が紙を取り出す。適当な挨拶文や文句の下に、要綱が書かれている。そこを指差し、朧が眉間に皺を刻んだ。


「高くない? これ」


 朧の人差し指は、『参加費』欄を指している。

 その額、五千円也。

 新人が飲み会で払うにしては、あまりに高い。


「言われてみれば」


 睦月が頷く。

 朧は挨拶文を指で丸く囲む。言葉の勢いは静かながらも、強さを帯びている。


「だってこの文章見る限り新人駆逐艦の歓迎会を兼ねているわけでしょ? なのに主賓の私たちに五千円も出させるのが納得できない」


「高いですよね。確かに」


 不知火も、同意を示す。


「別に五千円くらいポンと出せるけど、なんというかそう言うの行くくらいならそれなりに話せる面々と行くだけでいいかなって思うんだけど」


 朧の言うことも、至極真っ当だ。自分の時間を削ってまで年上たちの酒に付き合い酌をし、挙句実費。コストに対して、あまりに不毛と思うのも致し方ない。民間企業では交際費として無料かもしれないが、形式上だけでも公務員である彼女たちはそうもいかない。税金で生活している艦娘たちの、悲しき性だ。

 互いに出方を窺う中、磯波が「そう言えば」と羽黒を見る。


「羽黒さんは、もう重巡会があったんですか?」


「ええ、まあ……」


 羽黒の返事は冴えない。声の質からして、楽しくて楽しくて仕方がなかった――と言ったものではないようだ。


「どうしよっか、駆逐会」


 朧が話しを振り出しに戻す。

 白露が、そろそろと切り出す。


「なんか、行かなくてもいいような気がしてきた」


「だよね」


 朧が親指を立てる。

 二人が束になりかけたところで、不知火は「行きますけど」と平気で答えた。


「えっ」


 朧が肩を跳ね上げる。


「まあ、行った方がいいかと思いますし」


 なんでもないように話す不知火に、朧が身を乗り出す。


「ちょっと待ってよ。それじゃ行かない私たちが常識知らずのゆとりみたいになるじゃん!」


「師匠も行った方がいいとは言っていましたし」


「そう言う杓子定規じゃなくてさあ!」


 白露も朧の肩を持つ。


「そのお金あったらこうやって同期だけで先輩たちに気を遣わないで食べることができるんだよ!?」


「それも仕事の一つだと割り切れば、できないではありません」


「だから仕事終わってからこんなことするのが嫌なんだって!」


「そうだよ!」


 睦月も立ち上がった。両手を挙げ、力説する。


「定時終わってから残業代も出ないのに実費でお酒! しかも先輩たちに気を遣いながら! 拷問だよこれ! そんなことするなら師匠と二人でお酒行った方が有意義だし! 普段厳しいけど睦月が落ち込んだときは師匠凄く優しいし、酔った勢いで新人時代に苦労した話も聞かせてもらえるから師匠とお酒行きたい! 睦月は駆逐会なんて行ってる場合じゃないんだよ! 師匠とお酒呑みたい! 時間外は師匠とお酒を飲むためにあるんだよ!」


 そうだそうだと、白露&朧は間の手を入れる。

 しかし直後に、二人の顔色が青ざめた。

 その変化に気付かないまま、睦月は熱弁を振るう。


「それにこの文章、今日あるのはいいとして一年目は参加するのが当たり前みたいな文面! 明らかに一年目の睦月たちは軽んじられているよ! こうなったら一年目の駆逐艦全員で駆逐会ボイコットしようよ! 睦月たちが歴史を塗り替えるんだよ!」


 拳を握り締めた睦月の熱意を裏返すように、白露と朧はドライな反応を示した。


「いや、あたしは考え直した結果」


「やっぱり行こうかなって」


 掌を返した二人に、睦月は詰め寄る。


「そんな弱気じゃダメだよ! 睦月たちがこの制度を引っくり返すの! 自由にのびのびと、何にもとらわれない艦娘生活をエンジョイするためにも!」


 睦月が捲し立てる量に比例し、二人の顔色が徐々に生気を失う。


「みんなで変えよう。この習慣を、鎮守府を!」


 両腕を広げ、睦月が振り向く。


 叢雲が、腕を組んで立っていた。


 睦月の顔色が、青を通り越して土気色に。

 怒るでもなく悲しむでもない――無の顔を前に、睦月は滝のような汗を流した。


「師匠、いつからそこに」


「アンタが演説を始めたところからよ」


 この流れ、最近よく見ますね。

 不知火はぼんやり考えた。


「本来なら幹事であるあたしはアンタの事をシバき倒す義務があるんだけど」


 今度こそ死を覚悟した顔をしている睦月の顔に、師匠である叢雲が右手を近付ける。

 殺される。

 そう覚悟したらしい睦月が、ぎゅっと瞳を閉じる。

 叢雲の人差し指と親指が、睦月の頬をつねった。

 思いの外軽いダメージに、少女が目を丸める。


「このくらいで、勘弁してあげるわ」


 白髪の年長者が早足でその場を去る。

 睦月はつねられた左頬を撫で、ぼそりと漏らした。


「睦月、まだ生きてる……」


 生の喜びをした睦月が吠えた。「生きてるぅー!」


「叢雲さん、耳まで真っ赤だったよね」


 朧の指摘に、磯波も顎を引く。


「嬉しかったのかも」


「素直じゃないなあ、叢雲さんも」


 白露がニコニコと笑みを浮かべる。


「折角面白いネタができたわけですし」


 不知火が人差し指を立て、それとなく提案する。


「今日の駆逐会は総員参加と言う方向で。で、睦月を叢雲さんに押し付けちゃいましょう。昼間の事があった後最古参の叢雲さんがどんなリアクションをするのか、不知火自身興味がありますし」


 エンタメ性溢れる話題に、皆が盛り上がる。


「不知火ちゃんいいねえ! それ見るために今日は出席! 誰に似たのかわかんないけど不知火ちゃんもクソ真面目だけじゃなくなってきたね!」


「“クソ”は余計です」


 白露が盛り上がる。朧も「それならお金以上の価値がるかも」と乗り気だ。


「私は、みんなからのお土産話を楽しみにしていますね」


 重巡である羽黒は勿論、参加の権利がない。控え目に両手を振って、苦笑を浮かべた。


「鎮守府内でカメラとかビデオの貸し出しあったら納めてくるね!」


 わいわいと盛り上がる六人の頭を、昼休みが残り五分であることを知らせるチャイムが叩く。


「昼からの訓練って、誰が担当だっけ」


 白露の一言に、総員真顔になる。


「……足柄さんだ」


 睦月の一言で、六人はアリの巣に水を注いだように慌てはじめる。遅刻厳禁。よりによって日向を弟子として従えていたあの足柄。怖くないわけがない。

 バタバタと食器を返却口に叩き込み、全速力で集合場所へ駆けた。



 午後六時過ぎ。新人駆逐艦たちは居酒屋鳳翔の出入り口で受け付けを行っていた。受付の係らしい時雨に会費を渡し、店内に。内部はいくつものテーブルが連結されており、貸し切りのようだ。

 机上ではすでにビール瓶が鎮座している。いつもの生活では手を出すことに躊躇する、プレミアムなビールだった。


「これ飲むためだけに、今日来てもいいような気分だったかも……」


 生唾を飲んで、朧は現金なことを口走る。睦月も同じような心境らしい。高価なビールに、瞳を輝かせていた。


「五千円でこれ飲み放題なら、来年も駆逐会出ちゃうかも」


「歴史を塗り替える野望は一日持ちませんでしたね」


 不知火は冷静に指摘する。椅子に腰かけ、周囲を窺う。

 向かいの席に、誰かが座る。

 西洋人形のように愛くるしい、夕立だ。

 不知火は軽く頭を下げる。


「先日は、お世話になりました」


「ぽい?」


 しかし当のドラマーは覚えていないらしい。子犬のように、小首を傾げた。


「ほら、先日ご一緒に楽器したあの……」


 身振り手振りで説明した不知火の手を、夕立がキャッチする。自分の鼻に近づけ、鼻を数度鳴らした。

 直後、夕立の顔がぱっと明るくなる。


「あの時のピアノの子っぽい!」


「え」


 不知火の事を思い出した夕立が、そわそわと身体を揺らせた。


「あの時のライブ最高だったから、また素敵なパーティーしましょ!」


「よろこんで……」


 一体どこでどうやって思い出したのだろうか。


「つかぬ事聞きますけど、どうやって不知火の事思い出しました?」


「匂い!」


 即答だった。


「北上さんの煙草の匂いと部屋の匂いがしたからどこかで嗅いだことあると思ったら、北上さんのお弟子ちゃんだったんだね!」


 それを知らずにライブをしていたのか。

 言いようのない夕立の天然振りに、不知火はキャラの濃さを全身全霊で感じた。


「ねえ、また一緒にライブしたいっぽい!」


 前屈みに不知火へ詰める夕立が、ライブライブ! と連呼する。先輩でありながら妹を持ったような、不思議な気分に不知火は陥った。


「こら」


 尻尾があれば尋常ではないくらいに振っているであろうテンションの夕立を、横合いから叱責する。黒髪と三つ編みが大人しそうな印象を受ける、時雨だ。

 夕立の隣に座り、苦笑を浮かべる。叱られた犬のようにしょげた夕立の頭を撫でながら、「ごめんね」と話し始めた。


「夕立はとにかく人懐っこいからね。犬みたいでしょ。あ、僕は時雨ね」


「いえ、別に犬みたいだとは……」


 流石に先輩を犬扱いするわけにもいかず、少女は言葉尻を濁す。


「遠慮しなくていいよ。こんなこと言っている僕も犬みたいなものだから」


「はあ」


 不知火の冴えない声を聞き、時雨が大慌てで両手をばたばた振った。顔中を林檎のように赤くさせ、必死に言葉を撒く。


「べ、別に犬って言うのはそう言ういやらしい事じゃないからね!? あくまで雰囲気とか髪質とかで犬みたいだってよく言われるくらいで、犬みたいな扱いされることが好きだから犬みたいとか言われているわけじゃないからね!?」


「不知火は何も言っていませんけど……」


 この時雨と言う先輩、夕立のように分かりやすく際立ったクセがないものの潜在的には結構な変化球なのではないか。不知火は心のメモ帳に加筆する。そう考えれば白露は、結構普遍的な性格をしているように思えなくもない。姉妹艦と言えど人間時代は赤の他人。当たり前と言えば当たり前だ。


「と、とにかく」


 自分で乱した場を、時雨は自身で整える。


「なんにしても、これから駆逐艦同士でよろしくね」


 和やかに握手を交わす中、誰かの咳払いが聞こえた。それと同時に、腰かけていた面々の雑談も途切れる。


「定刻となりましたので、駆逐会を始めたいと思います」


 そう切り出したのは、バインダーを小脇に抱えている少女だ。中学生くらいの外見と茶色の短いポニーテールが目立つ、はきはきとした顔つきの艦娘である。制服の意匠が綾波と酷似していることから考えるに、綾波型だろうか。幼さの残る声で、駆逐会の開始を宣言した。


「本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。今年の駆逐会幹事一同を代表して、この場を借りて厚く御礼申し上げます」


 軽く頭を下げる。

 さすが先輩だけあり、こうした堅苦しい場での振る舞い方も板についているようだ。


「申し遅れましたが、今回の駆逐会幹事の一人を務めております綾波型二番艦の“敷波”です。よろしくお願いします。進行も、自分が務めさせていただきます」


 敷波と自称した少女が再び会釈をする。それに合わせて、各々不揃いな拍手を送った。


「では早々ですが、駆逐会会長の叢雲さんから一言、挨拶を頂きたいと思います」


 よろしくお願いします。

 その一声に促され、叢雲が席を立つ。

 全員から注目が集まる立ち位置に。軽く息を吸い、最年長こと叢雲は話し始めた。


「今年もこの季節がやってきました。今更自己紹介も気が退けますけど、叢雲です」


 駆逐艦たちがわっと拍手する。


「本来あたしはこうした場で何を言おうか、毎回困っています。これもかれこれ十回近いので、そろそろネタが切れそうです。これを言うのも、十回近くなってきました」


 先輩陣が、どっと笑った。どうやら、叢雲の挨拶鉄板ネタらしい。口笛等で湧く中、「師匠が敬語使ってる……」と睦月の驚きが聞こえてきた。


「どうにか皆さんから参加いただいているおかげで駆逐会は成り立っています。駆逐会会長としても、お礼を申し上げます」


 そして――


「今年も、元気な駆逐艦が入ってきてくれました。五人揃って今日この場に来てくれた仲間たちに、皆さんから拍手をお願いします」


 叢雲の促しで、新人駆逐艦五人に拍手の雨が降り注ぐ。予期せぬ出迎えに、五人は目を白黒させた。


「まあこんな堅苦しいことばかり言っていても、息が詰まるというものです」


「すでに詰まったっぽいー!」


 夕立の合いの手が、会場を沸かせる。


「そんなわけで、乾杯に移りたいと思います」


 各々がビール瓶を手に。向かいや左右の艦娘たちに、ビールを注ぎ合う。


 不知火と時雨が互いにビールを注ぎ合い、グラスを黄色と白で満たす。さすがプレミアムなビール。泡立ちや色の艶も、一層質の高いもののように思えた。


「では、新たな仲間の歓迎と駆逐会ますますの発展を祈って、乾杯」


 乾杯!

 駆逐艦たちの斉唱が、居酒屋内に木霊する。直後、グラスのかち合う音があちこちで聞こえ始めた。


「乾杯です」


 不知火も、周囲の雰囲気に合わせてとにかく乾杯をする。カチカチとグラスを合わせ、軽く会釈をかわす。

 皆が最初の一口目を飲み、グラスをテーブルに。同時に、拍手が巻き起こった。

 これが飲み会。不知火は勢いに合わせるように拍手を投げた。


「今日は無礼講! 戦果もキャリアも関係なく飲むわよ!」


 叢雲の高らかな宣誓を皮切りに、駆逐会は始まった。


 鳳翔謹製の料理が、次々机に並ぶ。手始めは諸々の前菜や、サラダだ。そこからなだれ込むように、焼き鳥も攻め込んでくる。普段より少し豪華な夕食に、睦月が瞳を輝かせた。


「おいひい!」


 睦月が歓喜の声をあげる。


「今日駆逐会に来てよかったー!」


 反逆を企んでいた張本人とは思えない発言に、他の新人が苦笑する。焼き鳥が終われば、メインの刺身だ。赤身、白身、光り物。隙のないラインナップだ。加えてタコや貝類など、確かにこれだけ出されたら五千円も納得の価格かもしれない。加えてアルコールも呑み放題。これは寧ろ安いのではないか。不知火は一瞬真剣に考えた。


「おかーさん! 麦の焼酎ちょうだい!」


「はいはい、どう飲みますか?」


「ロックで! 睦月は六駆じゃないけど!」


 睦月のジョークに、先輩陣が大きく笑う。

 へべれけになった睦月を見て、不知火はふと考える。大丈夫かあいつ、と。

 心配しながらも天麩羅に舌鼓を打っていた不知火の肩を、控えめに誰かが叩く。見れば磯波や白露が、こそこそと固まっていた。


「あのさ」


 白露が静かに提案する。


「こういうのって、先輩にお酌した方がいいんだっけ」


 言われてみれば、そんなような気がしてきた。加えて今の睦月はある意味無双状態。ここで叢雲に押し付けたら、面白い事になることは火を見るより明らかだ。


「いろんな先輩に挨拶しながら睦月を拾って、叢雲さんでフィニッシュしましょう」


 新人たちがニヤリと笑う。白露はどこから持ってきたのか、ビデオカメラを持っていた。曰く、「鎮守府内の互助会でレンタルがあった」らしい。これで羽黒への土産も作ることができた。

 あとは、新人特有のテンションで暴れるだけである。

 一人一本ずつビール瓶を手に、四人は席を立った。まずは小手はじめに、幹事の敷波だ。


「お疲れ様です!」


 白露が人当たりの良い笑みと勢いで酒を注ぐ。敷波も四人のグラスに酒を注ぎ、乾杯した。


「みんな、駆逐案としての生活には慣れた?」


 先輩らしい会話の始め方に、四人は顔を見合わせる。


「あたしたち駆逐艦は、戦場の要よ。確かに砲撃は貧弱だろうけど夜戦や魚雷は戦艦相手だって十分引けを取らないし、そうした部分に変なコンプレックス抱かないようにね」


 あたしはそれで、一年無駄にしたわ。

 遠くを見ながら息を吐いた敷波を、後ろから綾波が抱きしめた。


「そんなこと言っちゃって。敷波が駆逐艦の重要性しっかり意識して戦ってるの知ってるんだからー」


 にへらと笑う綾波を、敷波が引き剥がそうと柳眉を上げる。


「アンタそうやって酔ったら抱き着く癖なんとかしなさいよ! あとあたしの方が艦娘歴長いんだから、呼び捨ても禁止!」


「えー。でも艦種的には綾波の方がお姉ちゃんだからあ」


 敷波に、綾波が熱烈な頬ずりを仕掛ける。だらしなく顔を緩ませてスキンシップを図る綾波を見て、朧が真顔になった。


「こんな師匠、初めて見た」


 感心する朧の手を、綾波が強く握る。力任せに、綾波は朧を引き寄せた。新人、一人脱落。


「朧ちゃんのこの髪! 可愛いよねー」


 綾波は上機嫌で敷波と朧を抱きかかえる。さながら、ぬいぐるみを絶対に離さない幼女のようにも見えた。敷波は慣れているのだろうか、抵抗すらする気がないようだ。

 綾波から朧を救うことを無理だと判断した新人は、仲間のことを諦める。不用意に手を出して、大打撃を負いたくもない。

 綾波に朧を預けたまま、三人は睦月の元へ。遠巻きからでも十二分に認識していたが、睦月はすでに出来上がっていた。ニコニコと上機嫌だ。


「あれ、不知火ちゃんいつの間に分身出来るようににゃったの?」


「不知火は一人なんですけど」


 またまたー!

 睦月は顔を真っ赤にさせたまま不知火の肩を叩く。


「睦月から見たら今不知火ちゃん三人いるよ! 分身の術じゃんこれ!」


 不知火、白露、磯波が顔を合わせる。どうやら、予想以上に酔っているようだった。しかし酔いの度合いが強いほど面白そうになる気がしたため、三人は睦月を立たせる。足取りの覚束ない睦月を、叢雲の傍まで連行させた。


「なんか私、凄くウキウキしています」


 興奮気味の磯波が、瞳を輝かせる。田舎の少女が少し背伸びをして地方都市に乗り込んだような、微笑ましい高揚感だ。

 三人で睦月を、叢雲の元へ。ついでと言わんばかりに、不知火が叢雲のグラスにビールを注いだ。すでに睦月は泥酔一歩手前。さすがにこれ以上酒を飲ませるわけにもいかなかったため、乾杯の際は水を飲ませた。


「アンタたちに訊きたいんだけど、ウチの睦月はどうなのよ」


「どうなのと言われましても……」


 三人は答えに窮する。あまりにも漠然とした質問だ。


「まあ、良いキャラしていますけど……」


 差しさわりのない答えに、叢雲は安堵の息を吐いた。


「大丈夫? 落ちこぼれていたりしない? ちゃんと友達いる?」


 親のような心配を始めた叢雲に、不知火が苦笑した。


「睦月にはいつもお世話になっています。不知火で友達が務まるのかは分かりませんが、友達だと思っていますよ」


 不知火の言葉に、叢雲はあからさまににやけた。


「そう。友達、ちゃんといるのね……」


 グラスを置いて、叢雲が頭を深く下げる。いきなりの行動に、新人たちはみなぎょっと目を丸めた。


「睦月のと、これから仲良くしてあげてね」


 不知火が両手を振る。


「別にそんな、お願いされるようなことでもないですし……」


 青い目を同期に滑らせる。磯波や白露も、顎を引いて同意を示す。


「寧ろこっちも、これからお願いしたいですし」


 磯波の言葉に、叢雲が頷いた。


「そう言ってもらえると、とても嬉しいわ」


 水の入ったグラスを持って、睦月に突きつける。


「こんないい友達持ったんだから、恥じないようにちゃんと頑張りなさいよ!」


「はあーい」


 水を一気に飲み干し、睦月が師にもたれかかる。猫がするように、自分の身体を叢雲にこすり付けはじめた。


「ししょー!」


 引き攣った笑みをする叢雲に構うことなく、睦月は子猫のように甘える。

 一瞬だけ握り拳を掲げた叢雲だっやが大きく肩を落とし、ぼそり。


「この子、こんな性格だったかしら……」


「睦月は艦娘になる前は長女だったらしいので、他人への甘え方がやっとわかったって感じなのではないでしょうか」


 育て方を間違えたかと首を捻る叢雲に、不知火がそれとなく補足する。

 へえと呟いた叢雲は、椅子に座ったまま膝枕をしてもらうという器用な芸当まで始めた弟子を見下ろす。


「アンタ、甘え方分からなかったの?」


 返事の代わりに、自身の頭をストッキングに包まれた黒にこすり付ける。

 応えは、明白だった。


「きょ、今日だけだからね……」


 もにょもにょと唇を動かせた叢雲が、右手で睦月の頭を撫でる。喉を鳴らした睦月が、目を細める。


「完全に猫ですね、アレ」


「猫ですね」


「猫だね」


 三人がしみじみと感想が述べ合う中、不知火がふと口を開いた。


「そう言えば、叢雲さんには同期っていらっしゃるんですか?」


「随分藪から棒じゃない」


 ビールに口をつけ、叢雲は「そりゃいるわよ」と返す。誰なのかと期待する瞳に気付いたのだろう、叢雲が指を折って数えはじめた。


「あたしに、鳳翔、龍驤、元吹雪に元漣ね。龍驤と鳳翔はみんなも知ってるあの二人だけど、残る二人はもう艦娘じゃないわね」


「じゃあ、残る二人は……」


 訊きかけた白露の言葉が止まる。

 叢雲の瞳が、どこか遠くを見ていた。ここではない、遥か昔の航跡を目線でなぞるような、憂いと寂の含んだ目をしていた。


「吹雪は生きて前線を退いて、今は『村山伊吹』って名前で庶務の担当をしているわ」


 吹雪“は”生きて――

 その口ぶりで、三人は悟った。


「漣は戦死よ。敵を全員撃破したと油断した瞬間に、一発」


 再び酒を飲む叢雲の黄色い瞳に、不知火は既視感を覚える。その答えは、すぐに思い出せた。

 木曾のバーで見せた、自分に生きるよう願った北上の瞳と同じ空気を帯びていた。色は違えど、戻らぬ時に思いを馳せ、「もしも願いがかなうなら」と祈りを落とす者の目だ。

 褪せた目で睦月を眺め、師は一気にビールを飲み干した。


「今から、年長者のつまらない話をするわ。聞きたくないなら、三秒待つからここから離れなさい」


 前置きを据える。三秒を見計らい、叢雲は話し始めた。


「あたしたちが艦娘になった頃には、『命短し笑えよ艦娘』なんて言葉があったわ」


 安易よね。と叢雲は笑う。


「あたしたちのころは、死亡率や前線を退くサイクルも今とは比べ物にならなくて、だから人でも兵器でもない艦娘として、何者であるかよく分からないけど生きている内に精一杯笑っておきなさいって言葉よ」


 年長者は続ける。


「今でもたまに、夢に見るわ。初期の艦娘として仲の良かった漣と、一緒にご飯を食べる夢を。『この任務終わったら、またご飯行こうね』って約束が、今でも耳に残ってるのよ」


 ビールを足して飲む。


「その約束は、もう一生叶わないわ。今でもそれを、ずっと後悔してる」


 不知火は息を呑む。叢雲の目と北上の目が、一致する。何かを喪った、今でもかつての像を瞼の裏に描く者の瞳だと気が付いた。


「二年前の戦線でも、沢山死んだわ。あたしの元弟子だって――先代睦月だってその一人だったわ。まだ教え足りないことも沢山あったのに、あたしの言うことも聞かないで勇敢に戦って散ったわ」


 師匠不孝者の大馬鹿よ。

 叢雲が吐き捨てる。


「だからこの子だけは、一年であたしの全部を教えてあげたい。厳しいとか鬼だとか言われても、教えてあげられることは何でも残してあげたい。後悔なんてもうしたくないから。アンタたちも、後悔だけはしないようにね。誰がいつ死ぬか、分からないんだから」


 つまらない話でごめんね。叢雲が肩を揺らし、酒を呷る。


「師匠も、そうなのでしょうか」


 不知火が尋ねる。


「北上師匠も、大切な誰かをなくされたのですか?」


 グラスを持ったまま、叢雲は黙る。グラスの中にある黄金の液体を揺らせ、瞳を逸らした。


「それも自分で訊くことね。後悔したくないなら」


 睦月を抱きかかえ、叢雲が席を立つ。「じゃ、先にお暇するわ」

 米俵のように睦月を肩で担ぎあげ、叢雲は店を出た。


 しばらく呆然としていた三人だったが、白露が切り出す。


「私たち、艦娘だもんね」


 実感を噛み締めるように、繰り返した。「艦娘だから、戦って死ぬかもしれないんだよね」

 白露の言葉に、不知火は認識せざるを得なかった。

 自分たちは、まだ戦ったことがないことを。飽くまで訓練中として、海を滑ったことしかないことを。


「大丈夫かな……」


 磯波の不安がる声に、不知火は力強く応える。


「訓練しかないでしょう。生き残るために、強くなりましょう」


 シンプル。それでいて力強い言葉だった。


「賛成! 今まで以上にがんばろっか!」


 グラスを掲げた白露が、二人に酒を注ぐ。


「明日から訓練頑張れるように、今日は英気を養うってことで!」


「白露は呑気ですね」


 乾杯のためにグラスを持った不知火が呆れる。


「でも、嫌いじゃないです」


「私も、みんなのこと大好きですよ」


 磯波が付け足す。その中に、朧が駆け込んできた。綾波からは解放されたらしい。グラスを持って、乾杯に混ざる。


「睦月がダウンしてしまいましたが、同期陣のこれからを祈念して乾杯」


 乾杯!


 グラス同士が、力強くぶつかり合った。



「さすがに少し、飲み過ぎたかもしれませんね」


 宴も終わり、不知火はよたよたと部屋に戻る。羽目を外し過ぎたせいか、必死に部屋帰る艦娘は不知火に限った話ではなかった。白露や朧も、頼りない脚で帰っている事だろう。磯波はやたらアルコールに強いのか、いつもと変わらない足取りだったと記憶している。

 部屋の戸を開ける。室内は暗く、北上はすでに布団に潜っていた。床にはセーラー服が散乱しており、それを見たら酔いが少し引いた……気がした。


「師匠も子供じゃないんですから」


 ため息をついて、不知火が床の服を拾い上げる。せめて朝起きたときに気持ち良くなれるよう、最低限畳んでおく。艦娘になる前は家で安全何百何千回と家事をやってきたのだ。酔っていても、セーラー服を畳むくらいからだが勝手に覚えている。薄暗い部屋の中だったが、身体は勝手に動いた。

 ある程度整った服を見て、良しと呟く。時刻はまだ九時を少し過ぎたくらいだ。折角だから、少しだけ片付けよう。不知火は腰を上げた。

 あまり大きな音を立てるわけにもいかない為何に手を伸ばそうかと企む中、部屋の隅に鎮座するチェストが目についた。

 そう言えばと、不知火は記憶を思い起こす。端で静かに佇むチェストが使われていることを見たことがない。なんのためのチェストなのだろうか。不知火は首を捻った。


「まさか」


 考えたくない結論を、思い描く。


「ゴミとか不用品とかがぎっしり詰まっているわけじゃありませんよね……」


 半眼で布団を睨む。師は布団の中で丸くなっているのだろう。頭頂部すら見えなかった。

 怖いもの見たさでチェストに近づく。不知火の恐怖を裏切るように、チェストからは禍々しい気が来なかった。寧ろそれなりに整理されている。本当に北上の持ち物なのだろうか。弟子として不届き極まりない考えだが、普段のだらしなさを鑑みればむしろ当然と言ってよかった。それほどにまで、整理整頓が下手なのだ。

 チェストの最上部に乗っているフォトスタンドが、月光を弾く。今まで気を向けたことすらなかったそれに、少女は手伸ばした。木製の質素なれそが、一枚の写真を収めている。フレームの褪せ方から、つい先日買ったわけではないことは明らかだった。

 僅かに埃をかぶり始めたそれを手で払い、目を細める。明かりを灯すことを憚られたため、月の灯りを頼りに写真を見る。

 写真の中では、五人の少女が移っていた。何名かは、不知火も知っている顔だ。

 綾波に青葉は鎮守府で顔を合わせることも多い。

 加えて加賀。艦種もかけ離れているため親しい話をしたことはないものの、見覚えくらいはある。

 隣には北上が、今では滅多に見ることもない笑顔をしている。最近はよく笑うようになっている北上だが、ここまで花開くような笑顔は一回あるかないかだ。そのくらいい、笑みが弾けている。

 そこで不知火は察する。これは、北上の同期たちなのではないかと。

 故に、少女は眉根を寄せる。

 北上の隣で柔和な笑みを浮かべている少女は、何者なのだろうか。茶色の髪を腰辺りまで伸ばし、北上とは対照的に大人しい笑い方だ。しかし控え目や自分に自信がないわけでもない。芯の強さが、写真越しでもわかった。


「もしかしてこの人……」


 呟き、それに反応したように北上が寝返りを打つ。ごそごそとした物音に、不知火は慌てて写真立てを元に戻す。

 石像のように硬直し、北上が起きないことを確認する。十秒。一ミリも動かないまま黙った。

 起きそうにないことを確信し、溜め息も忘れて出口に向かう。抜き足差し足で部屋を抜け出し、浴場へ。先の光景を忘れるように、向かう足を速めた。

第章/


「提督、後生です!」


「おねがいします!」


 執務室で机を挟み、明石と夕張は揃って頭を下げていた。二人ともよく見るセーラー服や艦娘特有の服ではない。ツナギの、工場等の作業にも耐えうる丈夫な衣装だ。夕張はカーキ色で明石は臙脂色。それぞれの外見に合った配色だ。

 専用の椅子に腰掛けた男は、苦い顔を作る。


「ですがこれ、いささか無茶があるような……」


 渡された計画書に目を通す。

 砲撃だけでは弾数の制限や至近距離で行うことが困難であることを想定され、その打開策として提出された対深海棲艦用特殊戦闘装甲――特装の設計図だ。「頭を上げてください」とひとまず促し、松崎は眉間を指で揉む。

 目線で懇願する二人に、松崎はやんわり拒んだ。


「予算を下ろすのは、ほぼ不可能でしょう」


「えー!?」


 夕張が膝から崩れ落ちる。明石が提督用の机に拳を乱打し、猛抗議を始めた。


「ヤダヤダヤダやりたいやりたいやりたい! 特装の開発もっとやりたいんですー!」


「年甲斐もなくそんなことしないでください。腐ってもお二人は大卒でしょう」


 砂糖塗れのコーヒーを啜りながら、どうしたものかと松崎は頭を痛める。

 夕張と明石は同期だ。同じ大学の同じ学部。加えて同窓生。恐ろしく縁のある二人であり、大学卒業と共に艦娘へ。工業系の大学を出ているだけあり、艤装の開発やメンテナンスの技術もスポンジのように吸収した。元よりメカニックな機構が大好きという感性にも恵まれているのだろう、あらゆる技術や発見に貪欲な二人は、この鎮守府においてもなくてはならない存在であり、松崎も腕前に対しては多大な信頼と安心感を抱いている。文句なしとすら思えるほどだ。


 この貪欲故に生じる病気じみた開発フリーク具合を除いて、である。


 この二人、好きが高じて尋常ならざる数の試作や計画を打ち立てている。鎮守府としては新しい風を送り込む意味合いで大変ありがたいのだが、いかんせん予算を喰う。加えてやりたい開発ができるとこうして執務室まで攻め込み、松崎が許可を出すまで駄々をこねるのだ。大卒で艦娘になり早七年。いい加減、こうした脳に響く抗議を辞めてほしいのが松崎の願いだ。しかし無下に扱うわけにもいかない。なにせ艦娘の基幹を担う仕事だ。艦娘本人も多少メンテナンスの心得があるとは言え、プロフェッサーの腕とは比べ物にならない。その二人に拗ねられることは、できる限り回避したかった。

 後生を連呼する明石に、松崎は穏やかに返す。


「後生はこの前聞きましたから。三回ほど」


「あれは夕張の! 私の後生は二年前に一回使ったきりです!」


「後生の意味をご存知ですか?」


 やれやれと悩む松崎に、明石が両手を合わせる。


「なんでもしますから!」


「なんでも、と言われましても……」


 そもそも従来を超える開発を許可できないのだ。なんでもすると言われても、許せないことは許せない。


「ダメなものはダメですから」


 明石は目を丸めた。


「女の子から何でもするって言われて喜ばない提督って、ホモなんですか?」


「違います」


 即答した。「仕事柄と、まあ体質のせいで生殖願望が乏しいだけです」

 自分たちでは太刀打ちできないと悟ったのだろう、夕張が大淀に駆け寄る。できるだけ関わらないよう静かに業務を遂行していた大淀に、火の粉がなだれ込む。書類を書いていた秘書官が、「うわ」とあからさまに厄介がる声を出した。


「大淀も一緒にお願いして! お願い!」


 対する大淀は淡白だ。


「なんで私がそんなことする必要あるんですか」


 一ミリもずれない正論に、二人が大淀の腰に抱き着く。二人しておいおいと、大淀に泣き付いた。


「私たち同期のよしみじゃん! 助けてよ!」


「後生だから! 後生を一杯あげるから!」


「後生のバーゲンセールですね」


 素っ気なく応え、書類に目線を戻す。腰に二人抱き着いたまま、大淀はペンを走らせる。しかしさすがに鬱陶しいのだろう。いつもに比べるとペンの運びが鈍い。

 わざとらしく溜め息を吐き、「頼むだけですからね」と一言。

 二人が、両手を挙げて歓喜した。


「さすが大淀! そういう優しさ大好き!」


「今度お菓子差し入れするから!」


「勘違いしないでくださいね」


 大淀の声は冷たい。「このままだと業務に支障をきたすので、頼むだけ頼むまでですから」


「なんだかんだそうやって助け舟出してくれる大淀の事、私たちは大好きよ」


 夕張の声に、大淀は「はいはい」と気のない返事を投げる。

 机の前に立ち、大淀は横目で二人を見た。


「まあすぐ傍であったんでお察しかと思いますけど、どうにか許可をしてあげて」


「ダメです」


 喰い気味の却下だった。


「だ、そうですよ」


 切り捨てた大淀が、素早く席に戻る。

 明石と夕張は頭を抱え、天を仰いでいた。二人とも、真っ白な灰と化している。

 あまりの惨状に、松崎はそれとなく話す。元よりすべてを却下するつもりではない。より確証を得るためのデータや指針が欲しいが故に、この計画書に賛同しなかったのだ。


「じゃあ条件として、現段階の特装の関するレポートとお二人の考えるヴィジョンを明確にした提案書をください。提案書如何で、全てを是認することは難しいですが一部善処させていただきます」


 どうでしょう。

 松崎の言葉に、二人が声にならない叫びをあげた。


「っしゃー! 許可貰ったー!」


「やっと開発できるー!」


「ちゃんと計画書出してくださいね。それがないと私も勝手に出来ないわけですし」


 すでに許可を貰った気になってはしゃぐ二人の頭を、サイレンが勢い良く叩いた。

 鎮守府中に響き渡る、深海棲艦の確認が取れたことを知らせる音だ。

 机に置いてある電話の受話器を取り、大淀が耳を傾ける。

 数度頷き、松崎に目線を送った。


「市民からの知らせです」


 松崎の表情は険しい。市民からの深海棲艦発生通報は、信頼性に乏しい。反艦娘の市民団体が誤報を流し、艦娘に無為な出撃を強いた揚句余計にかさんだ予算を鬼の首を取ったかの如くバッシングの材料として仕立て上げてくるためだ。本来なら実際に死傷者が出てからの出撃でもいいのだが、知らせが本物であった場合は対応の遅さを非難される。実害が出たことにより、市民団体の連中が一層つけがることは明白だ。

 どうあがいても、鎮守府側に自由は存在しない。


「編成は?」


「簡易な偵察部隊だと予想されています」


「地点は?」


「B7」


「“モノリス”未実装のエリアですね。誤報じゃないことを祈りましょう」


 さて。と松崎は仕切る。


「折角なので、その提案書の下敷きとしましょう。もし誤報なら、日を改めるということで」


 抱き合って喜びをかみしめる明石と夕張から目線を外し、松崎は府内全てのスピーカーに繋がるマイクを取った。


「深海棲艦の出現です。戦艦“山城”を旗艦とした迎撃艦隊は準備が整い次第、速やかに出撃をお願いします」


 あと――


「明石と夕張さんを急行させますので、特装をもって出撃してください」




「なんで私たちが行かなきゃならないのよ」


 命令を受けた戦艦――山城は肩をいからせた。出撃の準備を整えながら、目つきを一層険しくさせる。


「まあ、提督には提督の考えもあると思うし……」


 フォローを入れた時雨に、山城が向き直る。瞳の下弦を隈に縁どられ、幸薄そうな顔を険しくさせる。


「時雨がそうやって甘やかすから提督だって調子に乗るのよ」


「別に甘やかすつもりじゃ……」


 返事に窮する山城の肩に、長い手が置かれた。


「山城、あまり時雨をいじめては駄目よ」


 山城の姉、戦艦“扶桑”だ。腰にまで届く黒髪と、山城とよく似た薄幸な雰囲気が印象に残る美女である。儚げな雰囲気が、耽美さを纏っていた。

 たしなめられた山城が、唇を尖らせる。


「いじめてたわけじゃなくてたまには強く言わないと、小間使いみたいになった挙句姉さまや時雨に怪我なんてさせたくないし」


 気まずさから目線を逸らす山城の手を、時雨がとる。力いっぱい握り、時雨が笑った。


「山城が実はみんなの事考えて怒ってることくらい僕は知ってるし、上手く表現できないけど根は優しい山城の事、僕は大好きだよ」


 屈託のない笑みをする時雨に、山城も表情を緩める。


「それに、一部はご機嫌みたいだし」


 時雨が目線を左に。それに導かれるように、山城も視線を動かせた。


「久しぶりの出撃! 腕が鳴るー!」


 小刻みに跳ねているのは、最上だ。ぴょんぴょんとステップを刻み、湧き上る鼓動を押さえることができないようだ。


「しかも今日は特装って、つまり『そういうこと』なんだよね!?」


 松崎から下された命令を、各々が思い起こす。


「まあ、『そういうこと』になるわね」


 扶桑の肯定に、最上はくぅー! と喜びを噛み締める。身体の奥底から湧き出る疼きを、悶える声で表現させた。


「偵察部隊相手だから多少遊んでもいいけど、沈んだら容赦しないから」


 辟易した表情で、“満潮”が最上の背中を叩く。

 準備が整ったことを確認し、山城は凛と声を張った。


「迎撃艦隊――抜錨します!」




 轟(ごう)。と、砲弾が大気を蹴散らす。海底から突き出した水柱で姿を隠しながら白露型二番艦――駆逐艦“時雨”が叫んだ。喉に巻き付けている咽喉マイクで、騒がしい中でも仲間同士の連携を図る。


「左舷に“リ級”と“ハ級”! 正面に“ル級改”!」


 身を屈め、時雨は視線を左から右へ。

 咽喉マイクに指を当て、指示を飛ばす。


「最上はリ級を! 僕はハ級! “山雲”と“満潮”は“扶桑型”二人のサポートを!」


「了解」


「はあい」


 命令が伝わったことを確信し、時雨は速度を上げた。相手は駆逐艦一隻。時雨の錬度をもってすれば、倒すことは容易い。

 大きさは三メートル程度だろう。身体の奥から引きずり出している砲身を見ながら、次の着弾点を予想する。

 自分に当たることはない。経験の裏打ちと共に、前へ。ハ級の放った砲弾は、時雨の数メートル左を通過した。しかしそれでも、やはり化け物。砲弾が生むうねりや空間が歪んだと錯覚させる超速度は、雑魚でも同じである。

 ハ級が次の攻撃を繰り出す前に、時雨はさらに速度を上げた。

 ぐん、と視界が狭くなる。それに伴い、舵行の跡が長い尾のように見えた。海上に軌跡を刻みながら、時雨は接敵する。

 何千何万と練習した、必殺の間合い。


「酸素魚雷、準備」


 告げる。

 腿に繋がっているデバイスが動く。がこん、と。

 上向きだった魚雷の発射装置が、海面と水平になる。

 執行準備、完了。

 あとは、断罪の合図のみ。

 青い瞳が、水面に未来を描く。どのタイミングで放てば、敵を屠ることができるのか。

 ハ級が弾を放つ。水柱が立った地点は、二メートル右。先に比べ、正確さが増していた。

 吟味する時間はない。

 意識を引き絞り、呼吸を止める。


 ――そこだ。


 時雨の奥で、獣が唸った。


「発射」


 宣告。

 噴射音と共に、幾本もの魚雷が水中を奔(はし)る。さながら鎖から解き放たれ、一直線に獲物へ向かう獣そのものだ。

 射出から程無く、一際強烈な爆発が起きた。衝撃から一瞬遅れて、爆発音が耳を揺さぶる。防音の準備を忘れていた時雨は、軽く頭を揺らした。多少耳が痛むものの、意識の維持に問題はなさそうだ。

 ハ級が煙を上げながら沈む姿を目視し、喉のマイクに指を当てる。


「ハ級の撃沈確認。最上は調子どう?」


 尋ねながら、顔を振って最上を探す。


「最上さんは、『いつもの』最中よお」


 山雲の報告を聞いた瞬間、時雨は顔をしかめた。





「航空巡洋艦最上、行くよ!」


 宣言と同時に、足の艤装に意識を集める。カチカチと機構が変形する音を耳に残し、一言。


「航空巡洋艦最上、“雷神モード”!」


 足の装備が、悲鳴を上げる。先の時雨より速く、尖った軌道を見せる。急旋回を繰り返す動きは、まさに稲妻だ。

 海原が、前から後ろへ一瞬で流れる。

 最上の変わりようを見たリ級が、焦ったようにも見えた。深海棲艦に感情があるのか今のところ判明していないが、危機に対する感覚はあるらしい。ハ級にも似た、変形している左腕を向ける。駆逐ハ級とは似ても似つかぬ、殺しの迫力があった。リ級や一定以上の深海棲艦は造形が人間に近づくこともあり、人の形をしていながら化け物じみた力を振るう姿はおぞましい。

 リ級の左腕から、弾が放たれる。低ランクのハ級に比べ、異様に精度が高かった。着水の衝撃で、セーラー服が暴れる。

 あと数メートルの誤差で、直撃だった。水柱の余波で生じた飛沫で、最上は前髪を濡らす。


「やるじゃん」


 項(うなじ)の産毛が逆立つ感覚を認知しながら、最上は右手に持った三連主砲を前へ。親指を押し込む。

 三連主砲が火を噴く。鋭く唸る三発が、リ級の手前で着弾。水の壁を作り、最上は動いた。

 左右の主砲を持ち替える。同時に、それらを逆手に持った。要は腕を前に伸ばした際、砲身が後ろを向いていることになる。


「脚部主砲、強制回転」


 最上の指示に、腿に装備されている装備が回転する。がりがりと削る音を経て、砲身を無理矢理後ろ向きに。

 水柱が消えた瞬間にはもう、彼我の距離はほぼゼロだった。


 なぜ艦娘がここまで近く。


 深海棲艦の中にも固定観念があるのだろう。リ級も、あからさまな驚きを見せていた。

 しかし、流石は暴力の結晶体。右の腕を、最上にけしかける。


 それより速く、最上の右腕が動いた。


 アッパーの要領で右腕を振る。その際、右手の親指を押し込む。

 落雷にも似た轟音と共に、最上の右手――正確には三連主砲がリ級の顎を捉えた。

 リ級が仰け反る。

 左拳を構え、スイッチ。

 再び超速の一撃が、リ級の胸部を痛打した。赤いオーラを揺らめかせるリ級が、よろめく。


「――――――ッ!」


 人の言葉ではない何かを吐きながら、リ級は腕を振る。

 しかし接近戦はまるで未経験。最上の敵ではない。

 重い一撃だけは食らわぬよう、細心の注意を払う。相手はエリート。僅かな慢心が、中破や大破を招く。

 躱して、撃つ。

 流して、撃つ。

 爆発音とともに、最上の拳や艤装がリ級の身体にめり込む。今までまるで経験したことのない新しい暴力が、深海棲艦を襲う。

 最上の猛攻に耐えきれなくなったリ級が、僅かに腰を折る。


 その瞬間を、許すほど最上は甘くなかった。


 リ級の両肩を掴み、下へ僅かでも押し込む。同時に、右脚の艤装を調整する。砲身が下を向いたことを確認し、叫んだ。


「最上スペシャル改三!」


 右膝が、音より速くリ級の顎を捉えた。逆巻く落雷の餌食となったリ級の頭が、勢い良く吹き飛ぶ。それと同じくして、巨大な水柱が最上を呑み込んだ。


 水面に静けさが戻った時には、リ級はすでに沈んでいた。

 ふうと息を吐く最上の耳に、時雨の声が届く。


「君のネーミングセンス、やっぱりちょっと変じゃない?」


「そうかなあ」


 最上は首を傾げる。


「僕はこれ、結構気に入ってるんだけど」


「まあ、君がいいならいいけどね」


 諦めを滲ませる時雨と上機嫌な最上の耳に、満潮の忠告が飛んだ。


「扶桑型姉妹の準備完了。“FAMOFS(ファモフス)”発動に備え、各自離脱せよ」



「随分、思い切った投入方法ですね」


 壁の一面がディスプレイに覆われている指令室で、大淀はメガネを中指で押し上げた。


「まあ、いきなり格上相手に試すわけにもいきませんから」


 穏やかに返す松崎が、タブレットを器用に操る。

 隣では大淀と明石が、固唾を呑んで様子を見守っていた。彼女たちにとっては取り組みたい開発に結ぶかどうか、その根拠を作るためのモニター試験だ。祈るばかりだけでなくバインダーやペンを握っている辺り、特装の開発に対して本気なのだろう。


「というか」


 大淀が湿り気を含んだ目でモニターを見る。


「最上さんのアレは是正しなくていいんですか?」


「正直是正した方がいいでしょうね」


 松崎は即答した。


「これから試す特装を使ったわけでなく艤装で相手を殴るということは聞いたことがありません。もともとムエタイを習得されている最上さんだから多少の安心はできますけど、あんな戦い方を新人や若手が真似してしまっては大変ですしね。主砲の砲撃で拳の威力を上げるなんて、常識外れの極致です。発想の柔軟さは素晴らしいですが、本来の用途とはまるで違いますし」


 当たり前であるが、艤装は打撃武器ではない。ましてやそれをボクシンググローブのように扱うなど、もっての外もいい所だ。それを可能としているのは、ひとえに最上の能力が所以している。誰にでも、あのような戦い方ができるわけではない。

 また、特装はそのような攻撃手段を得意とする艦娘に渡すことを工廠の二人は想定しているらしい。艦娘のあり方や従来の戦い方を大きく覆す試みであり、やるには相当な予算の投入が見込まれる。失敗するにしろ成功するにしろ、ある程度の収穫や発見を得るためには額に糸目をつけない覚悟が肝要だ。

 その為にも、特装がコストを注ぐに値するものなのかを見定めなければならない。鎮守府の財政的にも夕張明石の二人からしても、ただの迎撃ではないことは火を見るより明らかだ。


「一応聞いておきたいんですけど」


 大淀が尋ねる。


「なぜ扶桑姉妹に特装を渡しているんです? あの二人以外に現段階では特装を使った練習をさせていないようにも思えますし」


「ありきたりな答えで恐縮ですが、艦隊としての錬度が最も信用できるからです」


 男は続ける。


「“ドベネックの桶”という言葉をご存知ですか?」


「なんですか、それ」


 明石と夕張が小鳥のように首を傾げる中、大淀は「聞いたことと意味くらいなら」と返す。


「本来は植物の生長と栄養等の要素に言及した“リービッヒの最少律”を説明するものでしたが、要は組織のレベルを桶の中の水に例え、桶を作っている板が組織を構成している人員と見立てる。これなら、たとえ一枚の板のみがどれだけ長くとも、一番短い部分から水は溢れ出し、結局水嵩は一番短い板の高さまでとなることですよね」


「分かりやすい解説、ありがとうございます」


 松崎は手を三回ほど叩いてみせた。


「艦隊の場合もそれは当てはまります。どれだけ優れたスターが一人いても、あまりに弱い人が一人混じっているとその艦隊の力は最も弱い方の水準まで下がります。これは艦娘の皆さんが心を持たぬ鉄の塊であれば多少事情が違ってきますけど、皆さんには感情があります。よって狙い撃ちされた仲間に対して庇ったり気遣ったりすることもあるでしょう。そうした純粋な戦闘能力のみでは解決しないのが、艦隊の戦いなのです」


 そうしたことを鑑み――


「山城さんの艦隊は優秀だと言えるでしょう。何か一つに突出した豪華主義性はありませんけど、それゆえにまとまった、ある程度のケースに対応できるだけの柔軟性を持っていますから。加えて旗艦の山城さんやもう一人の戦艦扶桑さんのみならず、駆逐艦の皆さんにおいても実力にムラがない。艦隊としての完成度を見るなら、山城艦隊トップ層に食い込むと私は考えております」


「だからこそ、こうした試みを安心して任せられるわけですか」


 まさしく。

 松崎は顎を引いた。


「ところでお二人は、特装の次なる構想についてはどうお考えなんです?」


 松崎の問いかけに、二人の瞳が輝いた。明石と夕張が松崎に詰め寄る。まるで小学生の授業のように、我先にと話し始めた。


「私たちの考えでは!」


「艤装の本質を一度徹底的に壊してから!」


「全く新しいコンセプトと共に!」


「新しい海戦を!」


「創造する予定です!」


「今までの海戦は砲撃や艦載機等の艤装ありきの戦い方でしたけど!」


「そのステレオタイプを覆す!」


「自身の研鑽と肉体が物を言う!」


「海上戦闘を実現できます!」


 そう、


「「特装なら!」」


「分かりました、お二人の熱意は十二分に伝わったので少し離れてください」


 二人の情熱からくる波状攻撃に、松崎が苦笑を浮かべる。「あと、勢いで押し切るタイプのプレゼンはおやめください。しっかりと論理や必要性に則った、私を納得させることができるプレゼンを期待しています」


「そう言えばもう一つ訊いておきたいのですが……」


 大淀が眉の形を歪める。


「FAMOFS(ファモフス)ってなんです?」


「作戦名です」


 松崎は得意げに話し始める。新しく手に入った玩具を自慢する、子供のような歓喜すら言葉の中に潜んでいる。


「フル・アサルト・モード・オブ・フソウ・シスターズの略です。特装を使って、接近戦闘に特化させた作戦名を便宜上こう名付けました」


 なかなかいいでしょう。

 満悦の体で話す松崎に、大淀は冷たい目線を向けた。


「結構ダサいので、次回発動までに代替案お願いしますね」


 松崎の薄笑いが、硬直する。


「えっ」


「そろそろはじまりますね」


 大淀がモニターに目線を向ける。

 肩を落とした松崎の背中を、明石と夕張の手が優しく叩いた。


「大丈夫、悪くはないよ」


「ちょっと安直だけど、嫌いじゃないから」



「いくわよ、山城」


「準備は万端です、姉様」


 扶桑と山城の目線が合う。同時に、山雲と満潮が持ってきていた塊を足で押した。同時に二人はル級改へ。適当に砲撃を放ち、あからさまな挑発を見せた。


「こっち来なさい!」


「ほおら、こっちよお」


 獣のごとく吠えるル級改が二人を狙い始める。発動に要する下地が、整った。

 漆黒の塊は縦横高さ共々一メートル近い。水切り石のように素早く海上を跳ぶ二つの塊を、それぞれ足で受け止める。すかさず拾い上げ、艤装固定用に胸のすぐ下で巻かれた艤装の一部に右手を寄せる。引っ掛けていた錨型の鍵を外し、デバイスに差し込んだ。


「「第二抜錨、“撃鉄抹殺槍”!」」


 呼応が重なる。同時に、漆黒のデバイスが動いた。


『OK. Standing by』


 男の機械音声だ。デバイスの中心から聞こえたかと思えば、塊が中心を境に二つに割れた。左右に分かれたデバイスがギチギチと音を立て開き、両の前腕部を飲み込む。機械仕掛け特有の部品同士が擦れる音を奏で、二つの直方体が姿を変える。

 擦れる、開く、噛みあう、割ける、ずらす、伸びる、重なる、廻る、捻じれる、密着する、覆う、繋がる、ぶつかる、刺さる、嵌め込む、盛り上がる、締まる、入れ替わる。

 たった一秒未満で無数の機構が脈動し、無機質な黒の塊が姿を見せる。

 二人の特装は、奇怪と表現する他なかった。

 山城の左前腕部には、中世の騎士が持つような盾が装着されている。持つのではなく、腕から離れないよう前腕部を飲み込んだ構造だ。

 加えて右側は、肩から指先までを覆うガントレットがあった。加えて肘から手首までにはリボルバー銃で見るような巨大な回転式弾倉が着いている。不可解な機構は、リボルバー銃の中心部分だけが装備されているようも見える。

 山城の右に立つ扶桑も同じ代物を装備しているが、山城とは線対称の左に必殺、右に鉄壁を携えている。


「艤装、強襲形態へ」


 山城が厳かに告げる。背負っている艤装が、一斉に悲鳴を上げ始めた。ガリガリと、砲身が本来なら不可能な軌道を見せる。前に向いていた砲が、回れ右。艤装がわずかな煙を上げながらも、強襲形態は整った。


「準備どう? こっちは捉えられ始めてるんだけど!」


「やだあ、当たっちゃったあ……小破よお」


 二人のSOSが聞こえる。


「ありがとう」


 山城は淡白に告げた。


「今行くわ」


 身体をやや前向きに。主機の出力を、最大限まで引き上げる。

 ぐん、と速力を上げる。


「山雲と満潮は即離脱。最上と時雨に合流し、増援が来ないかの索敵をお願い」


 山城が手際よく指示を飛ばす。


「姉様、行けますか?」


 横目で姉を見る。扶桑は儚げな表情を浮かべながらも、艶やかに微笑んだ。


「往きましょう山城。二人なら、誰にだって負けないわ」


 駆逐艦二隻が素早く離脱したことを目視し、山城が吠えた。


「こっちだああああああああ!」


 ル級改が振り向く。それと同じくして、砲を放った。改となると実力も格段に跳ねあがっている。螺旋を描いた砲撃は、狙い違わず山城に向かった。音すら置き去りにする速さで、海原を引き裂く。

 戦艦の一撃。同種の戦艦山城や扶桑であれ、真正面から諸に喰らえば大ダメージは不可避。しかし、戦艦は避ける能力に乏しい。自身めがけて唸りをあげる塊に、山城が全力の咆哮をぶつけた。


「あああああああああああッ!」


 

 気合を左腕に籠める。右肩を引く。同時に左肩を時計回りに内へ巻き込む。左足を勢いよく踏み込み、左腕を振るった。

 自動車事故と間違うほどの大音量が、水面に叩きつけられる。

 ル級改の砲弾と山城の盾が、真正面から激突する。

 一瞬、全ての光景が鈍化した。

 強力で振られた盾にぶつかった砲弾が、一気にひしゃげる。同時に盾も、大きな陥没を見せた。ぐしゃり。と、暴力をそのまま潰した音だ。工夫も何もない、力と力のぶつかり合い。

 同時に、激突地点を境に尋常ならざる衝撃が波及する。放射状にそれは拡散し、海面を著しく荒立てた。傍を走る扶桑が腰を落とし、波に足を取られまいと努める。

 左腕を払う。通常と比べ半分以下の大きさにまでひしゃげた砲弾が、蹴散らされた。高密度の殺意が、虚しく宙に舞う。

 通じなかった。自分の攻撃が。

 おおよそ艦娘と思い難い戦い方にル級改も多少戸惑っているのだろう。次弾を、やっと準備する。

 それを許すほど、古豪の二人は甘くなかった。


「撃鉄用意」


 扶桑の言葉に、武装が呼応する。


『OK! Raise the hammer』


 がち、と撃鉄の準備が整う。

 接近の後に待つは、蹂躙だ。

 扶桑の準備が万端であることを確認し、山城が咽喉マイクで駆逐艦に指示を飛ばす。


「一瞬でいいから、あいつの気を引いて」


 了解!

 四人のはつらつとした返事が飛び交う。

 横合いから、ル級改に向かって三の砲弾が飛来する。しかし悲しいかな駆逐の主砲。大きな損傷や決定打を与えることには、及ばない。羽虫のように邪魔を仕掛ける駆逐に、ル級改が顔を向ける。

 ただその一瞬、一秒に満たない時間の欠片でよかった。


「斉射」


 扶桑の宣告。

 後ろ向きに構えられていた砲身が、一斉に火を噴いた。

 無数の水柱が海面から突き出す。

 扶桑の姿が消えた――否、砲撃の勢いを利用して、戦艦に出すことができないスピードにまで達していたのだ。瞬間的な速度では、今や鎮守府内の誰より速い。分厚い装甲と戦艦の象徴とも言える砲身から構成された厳めしい塊が、豪快に空気をなぎ倒しながら進む。

 ル級改に、数秒と掛からず接近した。

 双方の距離は、二メールにも満たない。

 ナンダオマエハ。

 ル級が、そう言っているように感じた。

 扶桑は構わず、左腕を引き絞る。

 全力の突きを、前へ。敵でありながらさすが高錬度。ル級改は両腕の盾と砲台を備えた鉄壁を前に。扶桑の拳が鉄壁に当たる直前、扶桑が叫んだ。


「着火!」


『Fire!』


 撃鉄が降りる。

 大爆発が、左腕のデバイスから轟いた。

 その勢いを利用し、六発分の回転式弾倉に格納されていた杭が凄まじい速度で射出される。

 槍の先端が鉄壁の片方を、一撃で粉々に砕いた。戦艦特有の防御力と攻撃性を兼ねた右手が、一瞬でゴミ屑に。必殺の勢いを殺しきることができず、ル級改は大きく後ろへ吹き飛んだ。水を切りながら、ル級改が無様に転がる。過剰な火薬の反動で、扶桑も左腕を大きく後ろへ振る。そうでもしないと、爆発から生じるエネルギーを逃がせないのだ。

 戦艦が紙きれのように吹き飛ぶ。常識的に考えれば、あまりに非現実的な出来事だった。戦艦と言えば強固な守りと雄々しい砲撃で前線を張る、艦隊戦闘の花形。そのスーパースターが容易く吹き飛ばされるなど、にわかには信じがたいことだ。

 ル級改が立ち直るより速く、扶桑が命令を下す。


「次弾準備」


『OK!』


 男の機械音声は陽気だ。深海棲艦の高硬度の部位を凝縮した杭が引っ込む。ガシャンと撃鉄を再び起こし、弾倉を回転させる。二発目の準備は整った。


「アアアアアアアアアアアアッ!」


 喉が爛れる勢いで、ル級は吠える。左の蒼が著しく発光し、炎のように燃えた。


「姉様お気をつけて」


 山城の忠告が通信で入る。


「向こうもやっと、本気のようです」


「山城も、十分気を付けてね」


 気を配りあい、構える。

 身体を立て直したル級が、左手のみで砲を放つ。半分砕いたとはいえさすが改。戦艦の持つ威力や恐怖感は、健在だ。

 自身に降り注ぐ砲弾の中、直撃しそうなものだけを厳選して盾で弾く。周囲には檻のような水柱が立つが、扶桑は構わず背中の装備を再び斉射した。先と同じ超加速が、真正面から扶桑を打つ。目の前にあった水柱を盛大に貫き、もう一度砲を放つ。限界を超えかけた加速に、扶桑の意識が一瞬遠のいた。


「私が行きます!」


 追いすがった山城が、二段加速で扶桑を追い抜く。コンマ数秒で最高速度に上り詰めた山城が、右拳を引く。

 激しい航跡を残し、次女が一気に距離を畳む。あまりに早すぎる接敵に、ル級が照準を合わせ直す。


「斉射!」


 山城の檄が冴える。

 三度目の超加速で、運動エネルギーも最高潮へ。


「両翼展開!」


 山城の合図に合わせ、砲台が数基ずつ左右を向いた。右の艤装は右へ、左も然りだ。

 ル級の砲が、けたたましく鳴いた。爆発を吹き出し、多数の砲弾が牙を剥く。


「右舷斉射!」


 腰を僅かに落とした山城の左砲が、再び火を噴く。その勢いを利用し、山城の身体が突如左へずれた。戦艦等の艦種以前に、艦娘の軌道をはるかに凌駕している。急旋回による回避はあるものの、ここまで顕著に鋭角的な機動は有り得ない。普段通りの戦い方をしていれば、絶対に見ることができない動きだ。













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