2016-02-28 21:28:59 更新

概要

いろはすSSです。三年になった八幡のオリジナル展開って感じです。 →さあ、今回はお待ちかねのイチャラブ回!八幡のイチャイチャっぷりを楽しんでね!(ポロリもあるよ!)/今回も長くなってしまい、纏まらずに中間になってしまいました……優しい気持ちで、ダラっと読んでくださいね。


シリーズものなので、初めての方は↓からどうぞ。


一色いろは・被害者の会 ~黎明篇~





※※※※※※※※※※


~前回までのあらすじ~


一色いろはを始めとしたブルジョワ階級が専横する総武高校。


明日のパンの目処さえつかず、追い詰められた八幡・戸部・副会長は『一色いろは・被害者の会』を結成する。



夏休みに入るも、スカラシップ錬金術に失敗し金欠に悩む八幡。


一方、先代生徒会長・城廻めぐりは、従業員が斃れて人手不足に陥ったホテルを救うため千葉市内を奔走していた。


やがて運命に導かれるように、津田沼に集結した十人の戦士たち。


それでなんかいろいろ辛いこともあったけど、みんなで意気も揚々に、一路、銚子を目指すのであった……



前回 一色いろは・被害者の会5~風雲篇(前半)~





※※※※※※※※※※


ピピピ、と無機質なアラーム音が室内に響く。


発信源たるスマホに手を伸ばし、まだ半分微睡んだ目で画面を見ると「AM 5:30」と信じられない時間が示されている。


はて、なんで自分はこんな時間に設定しているのか……?


寝ぼけた頭で首を捻るも、見慣れぬ天井や部屋の備品を見ている内に徐々に置かれた状況を思い出す。


……そうだ。


ここは銚子で、今日はバイト初日なのだ。


早速、朝からシフトを入れている。早く準備をしなければ……


そこまで思い出すと、俺はガバッと身を起こし、手早く洗顔を終えてグジグジと歯を磨く。


タオルで口元を拭う頃には、隣の部屋からもアラーム音とドッスンドッスンと慌ただしく床を踏む音が響いた。


壁が薄いのか、っべー!っべー!などと騒がしい声まで聞こえてくる。


寝起きからテンションたけぇな、あいつ……




俺たちは昨日、これより始まる六泊七日の短期バイトのシフト決めと、その間利用する従業員寮の部屋割り、そして業務に必要な研修の数々をこなしていた。


ちなみに部屋割りの内訳は以下の通りである。


女子は一色と書記ちゃん、川崎とめぐり先輩がそれぞれペアに。


野郎連中は戸部と大志に、副会長と会計クン。……そして俺はぼっちと、これ以外考えられない組み合わせとなっている。


うっかり戸部と同室になったりしたら、血を見ずに過ごせる自信がなかったので、独り気ままに過ごせる環境は大変有り難い。




そんな訳で、二段ベッドの上階は既に俺の荷物置き場と化している。


そこから支給された作務衣を取り出して袖を通すと、白い頭巾を頭に巻いて、やや厚手に作られた黒の足袋を履く。


最後にぐいっと強めに帯を締めれば、身嗜みは完了である。


よし……どこからどう見ても家系ラーメンの店員にしか見えないぜ!




……さて、これからどう動けばいいかは、昨日行われた研修で概ね把握している。


自室を後にし、まずは食堂兼共用スペースまで足を運ぶと、テーブルにはおにぎりがずらりと並んでいる。


適当に二、三個口に放り込み、味噌汁で流し込むと、内臓が働き始めたのか、気力が体内から漲ってくるようだ。


頬を叩いて気を引き締めると、いざ出陣の心持ちである。


――よしっ行くぜっ!


タイムカードをガシャンと入れて、スタッフルームから勢い良くフロアに飛び出ると、俺は早速ぼけらっとクロークに突っ立った。


「……」


やわらかな朝の日差しが、窓を通り抜けて館内を優しく照らしている。


チュンチュンと雀ののどかな鳴き声をBGMに、外に目を向けると昭和チックな町並みと、更に奥には広大な太平洋が広がっている。


民家の雰囲気と相まって実にノスタルジックな風情である。


「……」


「……」


はい、暇ですね。


……面白いほどにやることがない。


共にクロークに立つ俺のパートナー……先輩従業員トメさん(76)も、朝に一度会釈を交わしたのみで、さっきから微動だにしていない


「……」


「……」


……生きてる?


ちらりと覗くと、トメさんはウンウンと頷きを返した。よ、良かった……


……かように予期せぬ気懸かりもあったが、しかしこの退屈さは狙い通りである。



朝のシフトは六時から十時……この時間、客の出入りは非常に少ない。


クロークとは要するに荷物・貴重品を預かったりする場所なのだが、短期バイトに託されているのは、もっぱら靴の取り扱いと言っていい。


このホテルでは、客にリラックスしてもらうためか、靴は玄関のロッカーで預かる形式を取っている。


貴重品保管の依頼については、手続き面でやや煩雑な部分があるが、このような申し出は殆ど無いらしい。


なので、出番といえばチェックインの際に、客とロッカーの鍵を紐付けする時ぐらいのもので、あとは基本暇なのである。



この仕事に必要とされる徳目は忍耐と沈黙……まるで俺と川崎に誂えたような業務ではないか。


何よりコミュニケーションをほとんど必要としないのが素晴らしい。


「……君、ここに置いてるサンダルって勝手に使っていいのかな?」


うふふと内心ほくそ笑んでいると、カウンターの向こうから、気安く社畜が話しかけてきた。


ホテル内では、客は浴衣姿で過ごすのが一般的だが、この社畜は場にそぐわない全身スーツ姿である。


……どこかで見たような顔だとも思ったが、お客さまの一人に違いない。


おそらく、ちょっと散歩がてら外出したいのだろう。


「あ、どぞどぞ、自由に使ってください。それお客様用のサンダルなんで……お帰りの時に、こちらのカゴに戻していただければ……」


「……なるほど、ありがとう」


ぴっと片手を上げると、社畜はサンダルをつっかけて、朝もはよからどこぞへと繰り出していった。


……とまあ、こんな具合に、客とコミュニケーションが合ったとしてもこの程度である。


他にもいろいろ雑務はあるが、どれも子供の使いレベルの内容で気楽なものだ。



ぬるい……


こんなぬるい仕事……一生やっていたいな……



あまりに暇なのでフロアの様子を窺うと、同じく朝にシフトを入れた戸部・副会長・会計くんの姿が見える。


このホテルには立派な食堂があるのだが、多くの客は部屋での食事を希望するらしく、フロアスタッフの三人は朝食の御膳を持って部屋から部屋へと駆けまわっていた。


時折、廊下に据え置きの内線で、忙しなく連絡する様子が見受けられる。


「ウェーイ!一〇三のお客様、昼食も部屋で摂りたいってことなんでー、いわゆる変更系のアレ?……オナシャスッ!」


「梅の間撤収しまーす!次もあるから御膳の準備急いで下さい!」


「ウェーイ!」


「三〇四号室!お子さんがお漏らししちゃったみたいです。すぐに布団を持って降りますので、替えの用意を……!」


「ウェーイ!」


わぁ……なんか大変そう……


あいつらも受験生ではあるのだが、人員の都合上、多忙なフロアスタッフに組み込まれていた。


俺と川崎は実に運が良い。


というよりも、いち早くバイトを申し出たのが良かったのだろう。


先んずれば人を制すなどというが、もうぶっちゃけ早い者勝ちなんだよね……世の中って……


というわけで、三人に於かれましては勝手にバイト行きを決めた一色さんをお恨み下さいね……


忙しさというのは、得てしてその鬱積が同僚に向かうものだ。


こちらに累が及ばぬよう、南無南無と心の中で合掌する。




……それにしても、何やら変な状況になったものである。


生徒会メンバーと一緒に、しかも泊まり込みでバイトをするなど、つい先日までは考えもしなかったことだ。


まあ、もっと言うなら、俺のような奴が生徒会に名を連ねていることそのものが変テコな話なのだが……


ともあれ、いずれも想定外のことだというのに、不思議と嫌悪感や違和感を覚えない。


あるいは覚えなくなった、というべきか。


以前の俺は、こうした類のイレギュラーをあまり好まなかったのだが……



バタバタと忙しそうにフロアを走る彼らを見て、ふわりと、胸の中で何かが緩んだ。


自らの内から生じた仄温かな想い……言いようのない感覚に少し戸惑っていると、突然カウンターの向こうから声をかけられる。


「……悪い事しちゃったかなぁ、三人には……」


誰ぞと見ゆれば、今度は私服姿のめぐり先輩である。


どうやら様子を窺いに来たようで、カウンター越しに不憫な目を三人に向けている。


「無理にお願いしちゃったけど……受験勉強とか大丈夫かなぁ……?」


「まあ、副会長も会計くんも成績かなり上の方なんで、そんな心配せんでも良いと思いますよ」


「……でも戸部くんとか、見るからに成績悪そうだし……」


うーん……まあ、でもあいつ勉強道具すら持ってきてないからな……なんかウェイウェイいってるし、全く問題ないだろう。


むしろ存在そのものを脳内から消したほうがいいまである。


「あんな奴のことはどうか気にしないでください。考えるだけ時間の無駄です」


「そ、そうかな……いいのかな……?」


どうもその事に責任を感じておられるようだ。


なおも浮かない顔のめぐりんだったが、俺を見ると、途端にほわっと頬を緩める。


「うん、でもちょっと安心したよ……比企谷くんは楽しそうに働いてるみたいだね!そんなに笑ってるなんて……ちょっと意外だな」


言われて、俺ははっと頬に手を当てる。


自分では気付かなかったが、いつの間にか笑みを浮かべていたようだ。


めぐり先輩にからかうような視線を向けられ、些か面映ゆくなってしまう。


「いや、なんていうか……そうっすね、ちょっと嬉しいっす」


「比企谷くん……」


「あんまり今まで、こういうのしたことなかったっていうか……得難い経験で、本当に新鮮っていうか……」


「……嬉しいな……気を遣ってるんだとしても、君がそんな事を言ってくれるなんて……」


じぃんと目を潤ませるめぐり先輩。


この人は、いつかのように、きっと俺なんかのことも気に掛けているのだろう。


……であれば、安心させる意味でも、今、心からの想いをこの人に伝えるべきではないだろうか……?


あるいは、心に浮かんだこの想いを、口に出すことで形にしたかったのかもしれない。


俺は微笑みを浮かべたまま、なるべく優しい声音でめぐり先輩に告げた。


「俺はこんなに暇なのに、あいつらは超忙しい……それがなんだか嬉しくて、自然に笑みがこみ上げてくるんすよ」


「君、相変わらず最低だね!?」




※※※※※※※※※※


……そんな心温まる一幕の他には特に山場も谷間も無く、あっという間に朝のシフトを終えた。


昼の間は真面目に受験勉強に勤しむと、ちょうど区切りがつく頃には夕方シフトの時間である。


勉強に疲れて、ぼうっと霞む頭を振ると、俺は再び作務衣に着替えバイト場に向かう。


そこに、朝昼とぶっ続けで働いていた副会長、戸部、会計クンの年長組三人が、ちょうど仕事を終えたのかスタッフルームに入って来た。


ここは寮とフロアの間にあるので、スタッフが出入りする上での中継地点のようになっているのだ。


「はぁ、やっと終わりか……思ったよりきつかったよな……」


「あるわー……引退して体なまってっから腰に来るったら……くぅー!」


「……しかしこのホテル、ところどころ設備が古いよね……内線の機器も相当年代ものだし……」


「もうほんとそれ!昭和感あるわー、操作もやたら複雑だし!」


「あれいちいち面倒だよな……台数が少ないから誰かに使われてることもあるし……」


「ちょっと非効率なんだよね……」


……早くも不満があるようで、ガヤガヤと三人愚痴話に花が咲いているようだ。


ふーむ……内線の機器ねぇ……


……まあフロア組はいろいろと大変らしい。


哀れんだ目で見ていると、やがて俺に気付いたのか、戸部が襟足をワッシャワッシャと掻き上げて、ズビシとサムズアップを向ける。


意味が分からなかったが、俺はそれに手だけで鷹揚に返すと、気合を入れるべくバチンと両手で頬を叩いた。


戦場が俺を待っている。


――さあ、仕事の時間だ!ヒアウィーゴー!


タイムカードをガチョンと押し、扉を開けて颯爽とフロアに踊り出ると、そのまま軽やかにステップを踏んで玄関に向かう。


前任の川崎とバトンタッチすると、再び俺はクロークにぼけっと突っ立った。


「……」


……相変わらず暇である。


「……」


「……」


マジかよ……こんなんでお給料貰えるなんて……


うわぁ頑張ろう。ビッグになろう。


決意も新たに、案山子の如く屹立していると、一色たち年少組とめぐり先輩の姿が見える。


朝のメンバー同様にチョロチョロ忙しく駆けまわっているようだ。


めぐり先輩などはキャリアがあるようで、その仕事ぶりは年少組に比するとキビキビと効率がいい。


……それでも人員不足のせいか、余裕があるようには見えず、やはりパタパタと走り回って忙しそうだ。


それに対してこっちは暇といったらない。いずれやろうと思って残していた事務仕事も、前任の川崎が全て片付けてくれたようだ。


……結局、チェックイン時に少々忙しい場面があっただけで、その後も殆どの時間ぼけっと突っ立って過ごした。


んー……こんな楽でいいんでしょうかね……?



※※※※※※※※※※


こうしてバイト初日の労働を全て終えると、俺は夕食を求めて従業員用の食堂兼、共用スペースに赴いた。


既に何度か利用しているため、勝手は分かっている、


物欲しそうに棚口で待っていると、すぐに板前さんの一人があいよっと食べ物を運んできてくれるシステムなのだ。うむ……ご苦労。


今日は魚の煮物に、海鮮サラダ、豚汁……とシンプルながら、いずれも食欲をそそるメニューである。


ご飯をどっさり茶碗に盛ると、うぃーと行儀悪く胡座をかいてその辺の食卓に付く。


ろくに働かずに食う飯はすこぶる旨そうだ。


さっそく箸をつけてモリモリ食べていると、ちょうど書記ちゃんもシフトを終えたのか食堂に姿を表した。


ふらふらと足取りも危うげにトレイを運び、俺の隣にちょこりんと腰掛ける。


「お疲れさん」


「お、お疲れ様です……疲れました……」


はーっと大きな息をつく。


フロアの方はやはり肉体的に大変なご様子。昼夕と連続で働いていたようで、書記ちゃんは疲労困憊といった面持ちである。


「……シフト二連続は堪えたろ?夕方とか特に忙しかったんじゃねぇの」


「そうなんです、チェックインの時間って固まるんですね……夕方シフトは要注意ですよ……」


夕方シフトは十四時から十八時。そしてチェックインは十五時辺りに集中する。


そうなるとフロア担当は給仕や清掃といったルーティンに加え、客を部屋まで案内する業務が上乗せされてしまうのだ。


見る限り、これがなかなか目が回って大変っぽい。


「今日はお客様が少ない日だったらしいです……なのに、こんなに疲れちゃって……今後忙しくなったらどうなっちゃうんでしょう?」


ちまちまと煮魚の骨を選り分けながら、不安を口にする書記ちゃん。


ふむ……行きの電車ではアドバイスしそびれたが、今こそ俺の出番だろう。


「……隠れてサボる場所の目星をつけたり、なんか仕事してるフリをして誤魔化すんだ。書記ちゃんならきっと大丈夫だ」


「は、はぁ……」


咄嗟の割に良いアドバイスができたと思ったが、書記ちゃんが俺を見る目は冷たい。


分かってた。これじゃない……本当は八幡も分かってた……!


「ま、まあほら、あれだ……慣れてきたら余裕の方も出てくるんじゃねぇの」


「そうですね、頑張ります。ふふ……」


くすりと笑って、今度は受け入れてくれる。


こんなしょうもないアドバイスもないと思うのだが、しかしこの子、こういうのが好きなのよね……ええ知ってましたとも……


今後は慎重に言葉を選びたい。


書記ちゃんポイント獲得の道は険しいのだ。




……などと取り留めもない話をしたり、互いの仕事の情報交換などを行っていると、不意に厨房の方から怒鳴り声が聞こえてくる。


「ったくよぉ!せっかくの芸術品がああもう……!なんでぇあのスーツ野郎!」


恐る恐る目を向けると板前のボスっぽい人……板長さんがこめかみに血管を浮かべ、床を足で踏み鳴らしながら食堂にやってくる。


……いかん、これはやばいヤツだ。関わってはいけない。


不条理なパワハラの予感に、俺は目を合わせないよう明後日の方に顔を向けた。


ああいう感情をぶりぶり表に出して憚らない人……苦手なんだよなぁ……


剣呑剣呑……


「ああ……いらつくぜチクショウめ……おっ!? そこのは新入りだな、ちょうどいいや!」


だが努力虚しく、板長さんはズンズンこちらに近づいてくる。


無視を決め込む訳にもいかず、俺は板長さんの方にきゃるん☆といたいけな顔を向けると、突然食卓の上にどかっと大皿が乱暴に置かれた。


見ると、それは豪華な造りの盛り合わせである。


わあ……お刺身の宝石箱や……!


「せっかくの造りだってのによぉ、さっきキャンセルが出ちまったんだ! ……お前ら食い始めたばっかだろ?それ良かったら食ってくんねぇか」


「え、えー!? いいんですか? ……こ、こんな本格的なの初めてです……」


書記ちゃんが目を丸めて驚く。確かに我々学生では、まずありつけない立派な造りの盛り合わせだ。


こういうのって安くても三~四千円ぐらいするんじゃ……


ほぇーと二人して、きらびやかな海の幸に見入っていると、板長さんは俺達のリアクションに気を良くしたのか、にっと人好きのする笑顔を浮かべる。


「おぉよ、まったく無礼な客が居たもんだぜ!誰かの腹に収まらねぇと、こっちも作った甲斐がないってもんだ! ……って訳で、これ食って明日の英気を養ってくんな!二人だったらこれぐらいペロリだろ?」


言って、がっはっはっと笑いながら厨房に下がっていく。


正直ちょっと苦手なタイプの人だったが、そんな印象など覆るほどのスペシャルギフトである。


「わぁ、すごい……こんな贅沢しちゃっていいんでしょうか……?」


「ラッキーだな……有り難く頂こう」


降って湧いた僥倖に、きゃいきゃいと二人大盛り上がりである。


世の中には刺身をご飯のお供にできない可哀想な人もいるらしいが、俺は全然余裕である。


豪華なおかずに、ご飯がご飯がすすむくん!


テカテカと脂で輝く色鮮やかなマグロを、わさびを溶いた醤油にべっちゃりつけて、白米と一緒にモリモリ食べる。


ふと書記ちゃんの方を見ると、彼女はわさびを少量ちょんちょんと刺身に乗せては、身に醤油を少量浸し、はむはむとお行儀よく頂いている。


あら、お上品ね……育ちが良いのかしら……?


お、俺もね、外のお店で食べる時は、ちゃんとそうやって食べるんだよ?


隣でわさび農家の老夫婦が食べ方を監視してるかもしれないもんね……!




……などと誰にともなく心中で弁解しつつ、引き続き豪華な海の幸に舌鼓を打っていると、今度は食堂の入り口がドタバタと騒がしい。


何事かと目を向けると、作務衣姿の一色と大志が息を切らせながら入ってくるところだった。


「五分間の食事休憩貰いましたー!」


「まかないお願いしたいっす!」


入るや否や、二人は棚口から厨房に身を乗り出して叫んでいる。


間もなく「あいよー!」という声と共に、丼が二つ差し出された。


「賄い二丁上がり!お前ら、もうそこで立って食っちまいな!」


「えーー!立って食べるんですかーー!?」


「五分しかねぇんだろ!座ると心が折れちまうぞ!」


「むぅ……ところでこれって、何丼ですかー?」


「魚のその辺の切れっはしを煮しめて丼にしたもんだ!見た目は悪いが味は良いぞ!ほら早く食え!」


「うぅ……」


ちょうど今、夜のシフトで働いているところらしい。


仕事中の従業員には、俺達とは違う賄い飯が支給されるようだ。まあつっても、この煮物を御飯の上に載せただけなんだろうけど……


……それにしても、わずかな食事休憩に、しかも座らせてさえ貰えないとは、何とも哀れなことである。


二人はひぃーと悲鳴を上げるも、観念したのか立ったまま丼ぶりをかっこみ始めた。


「あ、なにこれ本当に美味しい……」


「旨いっす!……け、けど、座ってゆっくり食べたい一品だったっす!」


大志が漏らす泣き言に厨房がどっと湧く。


一方の一色はむぅ……と目を座らせつつ、頬を膨らませて変則丼をかっこんでいた。


なんかリスみたいだなあいつ……



それにしても愉快な気分である。心の中にぱあっと明るい光が差すようだ。


おやおやー?


あらあらまあまあ、大変ねぇ一色さんも……!


普段偉そうにしている一色が扱き使われている様を見るのはとても気分が良くて、思わず下卑た笑みがこぼれてしまう。


そんな俺の負のオーラを察したのか、一色がはっとこちらに顔を向けた。


「あ……せんぱい!……う、うぅ……」


お行儀悪く立ったまま食べているのを見られたのが恥ずかしかったのか、顔を赤くしてジト目で俺を睨みつけてくる。


しかし、俺達が食べているのものを見ると、目を剥いてこちらに駆け寄ってきた。


「ちょ、ちょっと二人共!何食べてるんですかー!?」


ちっ、気付いたか……卑しい奴め……


「どーして私を差し置いて、そんな豪華な造りの盛り合わせを……!」


「客のキャンセルが出たとかで、板長さんが俺達にくれたんだよ」


「そうだよ……たまたまだよ、いろはちゃん!たまたま……!」


「む、むぅ……!」


怒ってそうなっているのか、食べてるからそうなっているのか知らないが、一色の頬はパンパンに膨れ上がっている。


なんかフグみたいだなこいつ……


あと、ほっぺたにごはん粒いっぱい付いてるんですが……


「悪いなぁ、一色……俺達ばっかりこんないいものをゆっくり食べさせてもらって……」


言いながら一枚、箸で摘んで高く掲げると、何を期待したのか一色はあーんと口を開ける。


そのキラキラした眼差しと、ぽかんと空いた口を横切って、俺は刺身を自分の口の中に放り込んだ。


「あー!」


「ん?これはマイワシの刺身……野趣溢れつつも、口には不快感が微塵もなく、噛み締めた瞬間に豊潤な味わいが舌の上に広がっていく……」


「ひ、比企谷先輩、煽っちゃダメですよ!」


言いつつ、書記ちゃんも俺と同じものをはむっと口にする。


「……あ、本当ですね……生臭さも無くて、やっぱり海から近いのが良いのかなぁ……おうちの食卓じゃ、ちょっとこういうのって無いですよね……」


「ぐ、ぐぬぬ……!」


さすが書記ちゃん、天然でガンガン心を抉ってくる。


俺の嫌がらせと、書記ちゃんのダブルバインドが功を奏したようだ。


さぁて一色さんのほっぺたは、一体何処まで膨れ上がるんでしょうねぇ……


「ほら、会長!早く食わないと女将さんに大目玉っすよ!」


「先輩!覚えてといてくださいよ!」


大志に諌められると、一色は小悪党のような捨て台詞を吐いて引き下がる。


はぁ……また勝ってしまった……


本当いろはすってばちょろいわー、略してちょろはすだわー……


もう何度目かも知れない完全勝利に、そろそろ飽いてきちゃったとこまである。


いい加減、敗北を知りたい……



引き下がった後も、ちらちらとこちらに恨みがましい視線を向ける一色だったが……


「うぅ……こんなの絶対、一週間保たない……」


などと、泣き言を漏らしてしまう。


……いうて、こいつもまだ未熟な十七歳の女子高生である。頭も身体も、特に胸元など至らないところが多い。


歳相応の脆さを見せられ、さすがの俺も些か哀れみを覚える。


ちょっと虐めすぎちゃったかな……?


「やっぱり……やく計画を…………実行……権を……掌握して…………先輩……酷使シフト……」


かと思えば、何やら小さな声で一人ぶつぶつ呻いていて、すごく怖い。


年齢に吊り合わないその不穏なオーラに、さすがの俺も些かの恐怖を覚える。


……あと何か後半、看過してはいけないワードが混じっていたような気がするゾッ!


「な、なんか言ったか?」


「なんでもないです」


しれっと応える一色だが、やがて食事を終えると、大志に促されて再び戦場に戻っていった。


なにか不穏な気配を感じたりもしたが、少なくとも心配は無用のようだ。


それにしても、人の不幸は最高の調味料として知られているが、豪華な造りがさらに何割増しかで堪能できた気がする。


「はぁー……至福のひと時だったな、なあ書記ちゃん?」


「何か引っかかりますけど……でも、そうですね、これで明日からも頑張れそうです!」


ぐっと両手を握り、にこりんと笑顔を浮かべる。


そんな心温まるイベントも交えつつ、バイト初日は和やかに過ぎていった。


あー、もう本当ぬるいわー……


楽勝だな……ホテルバイト……


もしかしてこれって俺の……天職なのかな……?



※※※※※※※※※※


さて、アルバイトも二日目だ。


こういうのは大抵一番つらいのは初日である。


仕事に深度を要求されない短期バイトは一通り業務をこなせば、あとは結構、精神的に楽なのだ。


しかし、それはあくまで俺たち受付組の話であって、フロア組はそう簡単にはいかないらしい。


単純に肉体的な負荷が高いのもあるが、客ごとに常に移ろう状況はパターンと言うものがなく、精神面でもタフさを要求されてしまうのだろう。


昼のシフトには一色と戸部・副会長の下僕コンビが入っており、二階のフロアを主戦場に、三人共あっちへバタバタ、こっちへバタバタと、今日も今日とて忙しない。


「大変そうですなぁ……」


などと一人つぶやく俺はというと、本日は二階にある遊戯スペースで番のお仕事をしている。


今日は川崎とシフトが重なっており、ペアでこの区画を担うこととなったのだ。


現在は卓球台利用者から徴収した代金と、ゲーム台に溜まった硬貨の勘定を手分けして行っている。



さてこの遊戯スペース……古臭いアーケードゲームばかり居並んでいるが、思いのほか利用者は多い。


見やると浴衣姿でタバコを吸いながら、お父さん達が死んだ魚のような目で麻雀ゲームに興じているのだ。


わざわざ休暇を取って家族サービスに来たのだろうに、あぶれてしまったパパン達が昼間から捨牌を選ぶ様は哀愁が漂っている。


そんな中、この場にそぐわない全身スーツ姿の社畜が一人混ざってゲーム台に座っている。


まるで醜いアヒルの子のようである。



などと思っていると、社畜は突然バン!と台を叩いて、皆の目を引く。


「ば、馬鹿な……!金入れた瞬間、CPUに地和あがられたぞ!?ファーーック!」


お金を入れて、捨て牌を切った瞬間、ゲームが終わってしまったようだ。


一昔前の麻雀ゲームってそういうのあるよね……


しかし社畜の激しい剣幕に、ゲームコーナーの雰囲気が一気に重くなる。


すっかり白けてしまったのか、一人、また一人とお父さん方が席を立ち始めてしまう。


いつも通りがうまくいかないこともあるわ……あまり気負わないで――もっと楽しんでいきましょう!


……などと、内心で必死の励ましを送るも、残念ながら場の空気は良くならず、ついには社畜以外、全員その場を去ってしまう。


中には、あと一歩で全裸という台もあったのだが……


あーあ……


ぽつねんと一人取り残された社畜だが、さすがにバツが悪いのか、こちらに申し訳なさそうな顔を向けてくる。


……その様子がなんとも滑稽で、俺は顔を背けて、思わず独りほくそ笑む。


「あ、ちょっとゴメン……悪いんだけど手伝って欲し……ヒッ!?」


息を呑むような声に気付き、ふとそちらを見ると、川崎が怯えた表情を浮かべて立っている。


前を向き直せば、父さんが残した熱いエロ画……


……ふむ……この光景……見ようによっては俺が女の子の半裸CGをガン見して薄ら笑っていると取れなくもないシーンだ。


だがそれは大いなる誤解である。


「ち、違うぞ川崎、俺は断じて裸を見てウヒウヒ笑ってた訳じゃない……!」


「あ、や、それは良いんだけど……そ、そういうの男子って好きなんでしょ?」


などと言いつつ、両手で体を隠しながら俺から一歩距離を取り、ゴミでも見るかのような視線を向ける。


うん、これは口では理解を示しておきながら、その実全く承知していないという女の子の例のアレですね……


「……大志もベッドの下とか本棚の裏によく隠してるし……なんか巨乳とか、ナースものっていうの……?」


う、うん……その情報いらないです……


大志の性癖とか、青春の迸りとか知りたくなかった……わざわざ言う必要なかったですよね……?


「掃除の邪魔になるから、見つけたらそれとなく机の上に置くようにはしてるんだけど……」


だからやめてやれ、母ちゃんかお前は。


「……な、何だよ、何か用があったんじゃねぇのか」


これ以上は大志が哀れに思えたので強引に話を戻すと、川崎も思い出しのたか、取り繕った様子でコホンと咳払いする。


「……ゴメン、ちょっと手伝ってくれない?鍵が開かなくてお金を取り出せない台があってさ……」


言って、ゲーム台の料金口に鍵を差すのだが、なるほど中々開かないようで、ちらと困った顔でこちらを窺う。


「どれ貸してみろ……この台古そうだから、ちょっと立て付けが悪いんじゃねぇの」


「うーん……鍵が違うのかな……?」


代わってやろうと手を伸ばすと、再び開けようと試みる川崎の手と触れ合ってしまう。


「う……」


「あぅ……」


当たった箇所のすべすべとした感触が気恥ずかしく、思わず手を離すと、川崎の方も同様に鍵から手を離してしまう。


支えを失った鍵束は物理法則に従い、チャリーンと音を立てて床に落ちる。


「わ、悪い!」


「あ、ご、ごめん……!」


その鍵束を拾おうと互いに腕を伸ばすと、またもや手が重なった。


「う……」


「あぅ……」


慌てて手を引っ込めて、二人して固まることしばし。


あうあうはわわと互いに顔を赤く染めて、首だけカクカク上下していると冷たい声が上から降ってくる。


「ほほう……私が忙しく働いてる間に、お二人はなんだかとても楽しそうなことをなさってますね……」


「いっ、一色!?」


「ひ、ひいぃっ!?」


その地を這うような恐ろしげな声音に、思わず尻餅をついてしまったが、それも無理からぬ事。


可愛い声を上げてへたり込んだ俺を、冷徹に見下ろしているのは……一色いろはその人である。


「こんな事もあろうかと哨戒に出て正解でした……まったく油断も隙もないですね」


えーと……なに、哨戒?……初代かな?


何を言っているかよく分からなかったが、一色がじろりと川崎を睨む。


「あ、や、これは違くて……!そのピコピコの鍵が開かなかったから、これに手伝ってもらおうと思って……!」


あわあわと取り繕う川崎だが、一色の視線は先輩相手とは思えないほどに冷たい。


それにしてもピコピコて……


なぁ、母ちゃんなんだろ……?あんた……


「これはもう今日から動かないといけませんね……」


一色はギロリと怖い目を俺にも向けると、くるぱっと身を翻しプリプリしながらフロアの方に消えていく。


なんなのあいつ……超怖いんだけど……


あと、このホテル、ちょっと冷房効きすぎじゃないですかね……?



※※※※※※※※※※


突然の寒気に覆われたゲームコーナーだったが、無事集金も終えると、やることも無くなってしまう。


川崎が書類仕事のため奥の事務室に引っ込むと、監視の目も無くなり、のびのびボケッとできるようになった。


実に幸せな時間帯である。


フロアの方に目を向ける余裕が生まれ、相変わらず皆が忙しく駆けまわるのを慈愛の心で見守っていると、何やら一色の様子がおかしい。


考え事をしているようで、一人動作が緩慢なのだ。


あんな調子では女将さんに見つかったら怒られちゃうんじゃ……?


内心ヤキモキしていると、折り悪く当の女将さんがめぐり先輩と一緒に廊下の向こうから歩いてくる。


いろはすー!逃げて超逃げてーー!


すると、一色ははたと顔を上げ、脇を通り過ぎようとした戸部の袖を引っ掴む。


「ちょ!?いろはす……?俺これからトイレ掃除すんだけど……!」


などと声を上げる戸部など我関せずと引っ張っていくと、今度はやはり近くに居た副会長も捕獲される。


「か、会長!?俺これから風呂場の清掃なんだけど……な、なんなんだよ、もう……!」


などと喚く副会長の腕をがっちりホールドすると、二人を引き連れて女将さんの方に駆けていく。


下僕ツートップを引き連れながら、一色は何やら女将さんに訴えかけている。


何を話しているのか、ここからではよく聞こえないが、女将さんはやがて得心したように頷くと、ひょいと上を指差した。


それを受けて、一色達は三人してドヤドヤと階段を登っていってしまう。


「……なんだあれ……?」


何か一色が女将さんに提案していた様子だったが……


どうにも気になってしまい、近くに居ためぐり先輩に声をかける。


「城廻先輩……なんか一色達、三階に上がっちゃったみたいなんすけど……なんすか、あれ……?」


「う、うん……三階の小宴会場が一時間後に使われるんだけど、そのセッティングを今からやってもいいか?って女将さんに打診してたみたい……」


「自分からっすか……?」


「うん、そう言ってたような……暫くの間チェックインはないから、早めに終わらせておこうって思ったのかも……」


はぁー……なんだあいつ……?急にやる気出して……


それに俺の教えを早速反故にするとは……相変わらず反骨の相の持ち主である。


「でも偉いよね!バイト二日目なのに、会場の予定にも目を配れるなんて……一色さん、全体が見えてるのかも……!」


めぐり先輩が心底感心したように言う。


そ、そうね……まあ、話半分には俺の教えを守ってるみたいね……


さて、あいつめ……一体何を考えているのやら……などと思っていると、程なく三階から入れ替わるように会計くんが降りてくる。


「ん?……おう、どうした会計クン。今日は三階の担当じゃないのか?」


「ああ、会長の指示でね……従業員同士の連絡手段について、これから女将さんと打ち合わせをするんだ……」


……な、なんじゃそりゃ?


めぐり先輩に顔を向けるも、そこは聞いていないようで、フリフリと首を横に振る。


「女将さんと打ち合わせってなんだよ?」


「昨日会長とも話したんだけど……このホテルって、連絡するのに今時据え置きの内線を使ってるだろ?それがちょっとおかしいんだよね……」


「う、うん……確かに内線は古いかもだけど……おかしいっていうほどかな?」


首を傾げるめぐり先輩に会計くんがキュピーンと目を光らせる。。


「無線のWifiが行き渡ってる割には、インフラが一部古すぎる……どうにもちぐはぐな気がするんです……比企谷もそう思わないか?」


「お、おう……?そうかな?そうでもないような……」


いきなりそう言われてもなぁ……昨日もこいつらそんな話をしていた気がするが……


咄嗟のことに対応できず、返事もおろおろと上擦ってしまう。


すると後ろから、いきなり女将さんがぬっと表れた。


ひ、ひいぃっ!?


現れるなり険の深まった顔で俺達を睨めつける。


「あまり褒められた話じゃないから黙ってたんだけど……そこに気付くとはね……」


ゴゴゴ……!と剣山のように鋭く研ぎ澄まれたオーラを発する女将さん。


だがそれを会計くんは真っ向から受け止めている。


「他の従業員にも聞きました……。以前にネットワークを使って従業員同士スマホで連絡する仕組みを導入していたというじゃないですか……それがどういう訳か頓挫してしまった……このホテルには何か秘密が隠されている」


「……もうそこまで嗅ぎつけていたとはね……あの一色って子の差し金か……」


「僕に見えてるのが単なる縄の切れ端か……それとも蛇か……確かめさせて下さい」


あ、あの……ちょっとお二人共……?


突如、俺を挟んで緊迫する会計くんと女将さん。


っていうか会計くんは……何のドラマを見たのかな……?


「面白い子だね……それを知ってどうしようっていうんだい……?」


「旧態依然とした連絡手段が、人員配置の非効率をもたらしている……この部分にメスを入れたいんです」


急に経営批判をおっ始める会計クン。


……さっきから何なんだろうこのノリ……ビッグコミックオリジナルかな?


このビジネス漫画のような展開に巻き込まれるのは非常に面倒くさい予感がしたので、俺はさっさとこの場を離れようと一歩後ずさる。


「じゃあ俺はここで失礼しま……」


言いかけると、女将さんはフッと影のある笑いを浮かべ、懐からスマホを取り出した。


そして、そのスマホを何故か俺の方に投げて寄越す。


慌てて受け止めると、すかさず会計くんが後ろから画面を覗き込んできた。


「こ、これはホテル用のアプリ……!? 業者が専用に作ったって感じですね……会長の言うとおりだ……アプリは本当に合ったんだ……!」


ラピュタが本当に合ったような口調で、会計くんが驚愕する。


見ると、スマホには何やらグループウェアっぽいアプリが導入されているようで、それっぽいボタンが画面を埋め尽くしている。


ヘッダの部分には当ホテル名が表示されており、確かに学校なんかでも見る専用ソフトのような出で立ちだ。


って、ちょっと待って……?なんで俺巻き込まれてるのかな……?


二人でやってくれないかな……


「そうさ、お客様に無線LANを提供するだけでなく、従業員同士の連絡に使えないものかとね、数年前にシステムに投資して両方の仕組みを導入したのさ……」


ほうっと息をつき、遠い目をしながら口にする女将さんだったが、途端にその表情が険しくなる。


「……結果、お客様への無線環境は今も問題なく稼働してるけど、従業員の連絡手段としてはついに定着しなかったのさ……どうしてだと思う?」


「うぅ……ぱっと思いつかない。こんな立派なアプリなのに一体どうして……!」


俺の後ろからスマホを覗き込みつつ、頭を抱える会計クン。


いやスマホ……君が持って欲しいんだけど……


俺抜きで出来ないのかな……この小芝居……


二人して違う理由で顔を暗く沈めていると、女将さんはクックと鼻で笑って、俺達に見下したような目を向ける。


いよいよ芝居がかってきた。


「その理由が分からないようじゃ、交渉の余地はないね……メスを入れるなんてとてもとても……」


「いや、なんでだよ」


思わず素のツッコミが口を突くが、女将さんは小芝居を続行したいようで無礼をスルーする。


クックックと笑いながら謎のもったいぶりを見せてくる。なんだこの女将……


「くそ……ここまで追い詰めたのに、決め手に欠けるなんて……!」


会計くんは会計くんで、なにやら苦悶の表情を浮かべてブツブツと呻いている。


こいつもキャラ安定しねぇな……


……いよいよ付き合いきれず、この異次元から離脱すべくスマホを会計くんに押し付けようとする。


しかしさっきから頭を抱えたまま受け取ってくれない。


……お?もしかして、わざとやってんのか?


どうも一色や下僕コンビのアホっぷりが、会計くんにも伝染しているような気がする……



しかし、こうなったら、この場で頼れるのはただ一人である。


懇願の目をめぐり先輩に向けるも、両拳を握りしめて逆に俺に期待の目を向けている。


さっすがめぐりん、全く頼り甲斐がないぜ!


「比企谷くん、なんとかならないかなぁ?」


「何か糸口はないか?比企谷……」


「いや、もう本当俺もこういうのわかんねぇから……なんかボタンいっぱいあるし……」


何気なく漏らした俺の一言に、女将さんが雷に打たれたようにはっと目を見開く。


「じゃあそういう訳なんで、俺これから仕事あるんで、ここで失礼しま……」


「それだ比企谷!分かったぞ……オーバーシューティング……つまり『多機能すぎて使いこなせない』……これが従業員に定着しなかった理由だ!」


「いや……あの……」


っていうか、そんな単語知らんがな。お前が思い付けよ……


俺が呆れた顔を会計くんに向けていると、その脇でガクリと女将さんが膝を床につける。


「……くっ!やるね……!」


……さっきからこの人のキャラ崩壊も凄い。


「その通りさ……ここの従業員……私を始め半分は高齢者だからね……導入時は皆の意見を聞き入れて、景気よくあれやこれやと詰め込んだけど、いざ運用すると機能が多すぎて訳が分からなくなっちまったのさ……!」


すごい格好悪い内情を女将さんが吐露する。


そうして跪いた女将さんの肩に、会計くんがそっと優しく手を載せた。


「そうと分かれば僕にも出来ることがあるかもしれません……アプリのボタン……減らしましょう」


「でも……私たちは、ボタンを押したつもりが、間違えて下の段のをうっかり押しちまうような『ろくにタッチパネルを使えない老人』ばっかりなんだよ!?」


「ボタン……大きくしましょう」


「やって……くれるかい?」


「はい……アイコンも、のぺっとしたデザインにします」


「……会計クン、PCはあの部屋だよ。さあ着いておいで……」


会計くんに肩を支えられながら、よろよろと二人はスタッフルームを目指す。


交わした言葉の数々はどれも非常に格好悪かったが、外面だけはなんだか感動的なシーンに見えなくもない。絶対気のせいだが。


「済まないね……私達、バツが悪いもんだから、今さら契約してるSEにこの事を言い出せなくて……」


「良いんですよ、そんなの……」


いや、良くねぇよ、言えよ。


保守管理費もったいねぇだろ、知らんけど。


……そんな俺の内心の叫びなど何処吹く風で、隣でめぐり先輩がにっこり笑う


「なんだかよく分からないけどいい感じに収まったね……女将さんは普段は気丈だけど、時折ああして脆さを見せるんだ……」


「ボロ出るの早かったっすね……」


もう五分も続けば着の身着のままバックレているところだったが、しかしようやくこの茶番も終焉を迎えたらしい。


安堵の息を付いていると、突如女将さんは背筋をシャキンと伸ばしてこちらに振り返った。


「ああ、比企谷くん」


「……はい?」


「すまないけどね、そういうわけでフロアの人員が足りなくなったから、受付は川崎さんに任せて、あなたはフロアスタッフをやって頂戴」


「……は?」


「一色さん達や会計くんが居ないから、あなたにフロアに出てもらいたいって言ったんだよ」


「……へ?」


「いいからさっさとお行き!何をチンタラしてるんだい!」


「は、はいぃ!?」


まごまごしていると、どえらい剣幕で怒られる。くそ……さっきまで弱ってた癖に……!


フロアスタッフの仕事も研修で少し行ったため、仕事の内容はだいたい分かってるのだが、昨日の皆の様子で激務であることは分かっている。


い、嫌だ、絶対に働きたくない……!


俺は意を込めて、めぐり先輩に非難の目を向けた。


――ちょっとぉ!?話が違うんすけどー!


めぐり先輩は、俺の必死の訴えを真っ向から受け止めると、コクリと一度頷いた。


そしてぐっと拳を握って天にえーいと振り上げると……


――うん、一緒に頑張ろうね!えいえいおー!


などと、まったく見当違いのアイコンタクトを俺に返してくるのであった。


もう本当に全然頼りになんないなこの人!





……こうして徒手空拳、展開についていけないまま荒野(フロア)でぼっと突っ立っていると、早速怒声が飛んで来る。


「おい新入り!何突っ立ってんだ!早くトイレの掃除行って来い!」


「それ終わったら配膳お願い!返事は一回!もっとはきはきと!」


「あ、君、そろそろ搬入の時間だから迎えに入って!ほら、顎引いて!猫背で歩かない!研修で何してたの!あ、それ終わったらお風呂場の掃除もお願いね!」


「フロアの仕事じゃなくて悪いんだけどー、君ーちょっと芋の皮むき手伝ってくれないー?」


急に現れた先輩従業員達に次々と扱き使われてしまう。


何なの……こいつら……一体今までどこに隠れてたの……?



あ、あれ……ちょっと待って……おかしいな、まだバイト二日目だよね?


楽だったのは、最初の一日目だけだったのかな……?


ふ、ふえぇ……労働辛いよぉ……




※※※※※※※※※※


バイト三日目……


俺は苦悶の表情を浮かべて、食堂のテーブルに頬杖をついてブーたれていた。


思い返すだに腹立たしい。


……昨日は大半をフロアに立たされ徹底的に扱き使われてしまったのだ。


フロアが一段落ついたと思えば、すぐさまクロークや各受付に差し戻され、かと思えば今度は調理補助や事務処理の打ち込みまで、忙しいところに急行するマルチな働きを、何故か俺一人要求されるようになっていたのだ。ひー、これは陰謀じゃよー!


結局昨日は受験勉強どころでなく、仕事が終わるやいなや疲労困憊でさっさと眠ってしまったのである……


マジふざけんな、今からでもバックれてやろうか。


……とも思ったが、女将さんに窮状を訴え、本来の業務に戻れるよう打診してからでも遅くはあるまい。


憤懣やるかたない精神状態だったが、今日は朝礼があるとのこと。


遅めの朝食を摂って、そのままぶすっとテーブルに鎮座していると、共用スペースにはいつになく大勢の従業員たちが集まってくる。


間もなく女将さんがやって来ると、従業員たちは立ち上がり威勢よく挨拶をする。


その女将さんの後ろには会計くんが両手に箱を抱えながら付いてきており、どういう訳か一色も女将さんの傍らにピッタリと位置している。


従業員たちの挨拶に女将さんは頷いて返すと、手で押しとどめ、皆に座るよう促す。


「揃ってるようだね……じゃあ、早速だけどいろは……みんなに説明してもらえるかい?」


「了解でーす!……じゃあ会計さん、ヨ、ロ、シ、クですっ☆」


いつの間にか女将さんにファーストネームで呼ばれているのも気になったが、一色は、すぐさま会計くんにあざとくバトンタッチする。


「ゴホン……皆さん、まずはこの端末を手にとってください」


言って、会計くんが箱をひっくり返すと、中から小さなスマホががらがらとテーブルに散らばっていく。


従業員たちは我先にとスマホを手に取ると「おお……」などと、どよめきの声を上げる。


皆さん……ノリノリですね……


「今後、従業員間の連絡にはこの端末を利用してください」


会計くんが説明を始める。


聞けば、かつて頓挫したシステムを今日から復活し、スマホ端末での情報のやり取りを再び試みるのだという。


昨日の話から大体察しはついていたが、アプリの機能を大きく排除した限定版を利用しての再チャレンジということらしい。


利用する機能は通話と、位置確認の二つだけという思い切ったシュリンクダウンを行ったようだ。


しかし会計くんの分析の結果、これだけでもフレキシブルな人員配置が可能になり、現在の人員不足を解消して余りある成果を出せるというのだ。


スマホアプリの運用と、簡易なルール変更でそれは可能だとのことで、早速、皆にグループウェアの使い方と運用における新ルールを説明する。


さすが結果にコミットする会計くんである。


っていうか、何やっちゃってるのかな……この子……


よくわからないんだけど、そういうのって一日で出来るものなの……?


「会計クン……なんか凄いね……ねぇ?比企谷くん……」


「は、はぁ……」


隣でめぐり先輩が感心したように、自分のスマホでアプリをぬるくぱぁ……と弄っている。


BYODとか言うやつで、プライベートなスマホでもアプリさえ入れれば問題なく動くように設計されているらしい。


使い方も簡単で、確かにこれならお年寄りの方でも操作できそうだ。


「でも、これってセキュリティとか、その辺大丈夫なのか……?」


「その辺は昨日テストしてみたけど、さすがに元はプロが作っただけあって、セキュリティも帯域の管理も全く問題ない感じだね。メモリ管理に至っては匠の域に達していたよ……」


などと訳の分からないことを仰る会計くんですが、なんか大丈夫らしい。


「……まあ、そう大層なカスタマイズをしているわけではないんだ……元あったものの機能を制限して、デザインを変えてるだけだし……その点の修正とデバッグは念入りに行なったつもりだ。すぐ元に戻せるようにもしてるしね……」


相変わらず何を言ってるのかよく分からないが、とにかく大丈夫らしい……


俺の質問を皮切りに、他の従業員からも疑問の声が出てくる。


「使い方はわかったけど、業務時間中にスマホをいじってるのをお客様に見られたらまずくないかな……?」


「む……それは……」


方向性の違った質問だ。


咄嗟のことに答えあぐねる会計くんに、一色が後ろからしゃしゃり出てくる。


「それはですねー、こうやってー、紐を通して首からぶら下げてたら、いかにも業務用って感じになるじゃないですかー?だから大丈夫ですよっ!」


などと、説得性の欠片もない説明がなされる。


「なるほど、それもそうだな……」


……が、あっさりと納得される。


ちょ、ちょっと!?そこはもう少し突っ込んでいこうよ!


小娘に世間の厳しさを叩き込む方向で頑張ろうよ……!


あと、あいつが当然のように女将さんの横に立っているのを誰か突っ込もうよ……!


そんな俺の内心の咆哮も虚しく、従業員たちはアプリやルールについての質問を会計くんに投げかけ、会計くんも、つっかえながらも何とか答えていく。


結構大きなルール変更だと思うのだが、連絡手段については従業員も以前から不満を抱いていたらしく、割と好意的に受け取られているようだ。


機能が大幅カットされたことから、高齢の従業員達もこれならワシでも使えるぞい!と息巻いており、先輩従業員のトメさん(76)もスマホを手にコクコクと頷いている。本当に分かってんのか。


「そういうわけで、僕はしばらくこのシステムの面倒を見ます。比企谷は今後も呼びかけに応じてフロアの方に参加してくれ。その分川崎さんに負担が行くと思うけど、悪いけど頑張ってくれないかな」


え……ちょっと待って、俺今日もフロア担当するの……?


「いや、ちょっと待て……俺は……」


不満を言おうと口を開きかけるが、近くに居た川崎はキリッとした表情で一歩前に出る。


「わかったよ、慣れてきたから大丈夫だと思う……なんとかこれの穴は埋めてみる……!」


そんな決死の表明をされると口を挟みにくくなるんですが……


「使ってみると不満もいろいろ出てくると思います、そういう時はすぐに言ってください。溜め込むと問題点が隠れてホテルにとっても良くないですから」


「あ、いや、だから俺はフロ……」


「だいたい質問は出尽くしたようですね……」


俺が言葉を発しかけると、被せるように一色が一歩前に出る。


こ、こいつ……


どうやら俺の不満や鬱積は埒外らしい……


「会計さん、ご苦労さまです。下がっていいですよー」


一色の指示に、会計くんは影のようにスッと姿を隠し、それを確認すると一色は女将さんの方に振り返る。


「以上です!女将さん!」


「……ご苦労だったね、いろは」


いやいや、こいつ全然働いてないですよ!?一体何がご苦労だったのかな……!


「連絡手段については、前から改善要望が出ていたからね、人員が少ない今だからこそ、思い切って再導入に踏み切ってみたよ!さっきいろはが言ったように、不満や要望があればすぐ報告すること!とりあえず今日はこれでやってみましょう」


いやいや一色さん何も言ってない!この子何も言ってないヨ!


さっきから何であいつの手柄みたいになってるのかな……?


だがそんな俺の疑問などかき消すように、「はいっ!」と従業員たちが元気良く応え、女将さんと一色は腕を組みながらウムと満足気に頷いた。


なんかあいつ、完全に女将さんの側近みたいになってるんですけど……


「他の従業員にはまた別途説明の機会を作っておくよ、じゃあ皆、仕事に懸かってちょうだい!」


パンパンと手を叩くと、従業員たちは闘志十分といった面持ちで、スマホを首に掛け、それぞれの持ち場に散っていく。


「さあ、この後すぐにバスから三組のお客様がお越しになるよ! めぐり、いろは、比企谷くんの三名は大阪から来たお客様にあたって!」


「はいっ!」


ビシッ!と敬礼する新旧生徒会長だが、俺はまだ展開に付いていけない。


なし崩しに色々決まってしまったが、フロアの仕事など真っ平御免である。


この狂った状況を打開すべく、俺は意を決して女将さんに訴える。


「あの女将さん、俺……!」


「比企谷くん、遠くからお越しのお客さんは特に丁重に扱うのがウチの流儀だよ」


「は、はぁ……でも俺……」


「慣れない水だ、よく気遣っておあげ……」


「はぁ……でもぅ……そのぅ……俺……」


「さあ、なにグズグズしてんだい!早く行きな!」


「は、はいですぅ……!」


何故か俺の前では一貫して厳粛な女将さんであった。


く、くそ……!なんで俺にはいつも拒否権がないんだ……


なんで昨日から俺の発言に、みんな言葉を被せて来るんだ……


こんなの絶対おかしいよ……!


あとこのホテル、なんか全体的におかしいよ……!



※※※※※※※※※※


突如俺に訪れた不遇の数々……、元を辿れば全て一色の陰謀なのは明らかだった。


一色いろは……もはや俺にとっては天狗のような存在である。


こいつじゃ!全部こいつの仕業じゃ!


……と、まあそんな感じで言いたいことは多々あるのだが、しかし例のごとく何か企みがあってのこと……という気もする。


真意を探ろうと、その横顔をじいっと凝視すると、俺の視線に気付いたのか、一色はきゃるん☆とあざとい笑顔を返してきた。


イラッと来たので、首根っこを引っ掴み頭頂にスマホをねじ込もうとすると、間もなくバスが正面口に停められ未遂に終わってしまう。


「お客様が来たよ……比企谷くん、一色さん!行くよ……!」


「先輩、後でお相手してあげますから♪」


少し乱れた衣服を直すと、一色はばっちーんとウィンクをかます。


き、きー!


軽くあしらわれ内心でヒステリーを起こしてしまったが、頭はホットでも行動はクールでダラっとしているのが俺の流儀だ。


そんな訳でダラっと行くぜ……!


女将さんの指示通り、俺達のチームは大阪から来た壮年期の男性客三名を相手どる。


でんがなまんがなと騒がしいおっさん共を適当に迎えつつ、すかさず、めぐり先輩と手分けして三人分の荷物を持つと、一色はおっさん達を先導して部屋まで案内していく。


……うん、これもおかしいですよね……普通めぐり先輩が案内するんじゃないかな……キャリア的に……


しかし当のめぐり先輩が何の疑問もお持ちでないご様子なので、内心忸怩たる思いで後に続く。


「大阪からお越しになったんですねー、どうぞ銚子を楽しんでくださいね☆」


敬語がいろいろと至らない気もするが、コケティッシュ(死語)な一色の振る舞いにおっさん共は好感のようで、和気藹々と部屋まで歩を進める。


部屋に着くと、めぐり先輩がてきぱきとお茶とサービスの干物を用意し始めた。


俺と一色もマニュアル通り、窓を開けたり、服をかけたり、座布団を配置したりと案内時のルーティンをキビキビとこなしていく。


そんな中、傍らでおっさん共がくつろぎ始めると、まもなく女将さんが部屋にやってきて客達と挨拶を交わす。


なかなか無駄がなく良い流れである。


そうして男性客二名が女将さんと談笑する中、あぶれてしまったのか窓辺にいた客の一人が、一色に向ってフランクに話しかけてきた。


「なぁ、お嬢ちゃん、日の出ってどんぐらいで見られるんや?」


「えっ?」


日の出は銚子の名物だ。お正月でなくとも、これを目的にわざわざ遠方から来る人もいる。


しかし咄嗟のことに一色は言い淀んでしまう。


名物であることは知っているだろうが、時間までカバーする者は千葉民でも多くはあるまい。


……ここは俺の出番だろう。差し出がましいかもしれないが、横から口を挟む。


「……四時四十五分ぐらいっすかね」


「ああ、やっぱ関西に比べると早いんやね。さすが銚子やなぁ……」


「日の出はここの窓からもご覧いただけますし、二〇分ぐらい歩いて犬吠埼まで出れば良い日の出が拝めますよ。すぐ向こうには君ヶ浜もあるんで撮るものには困らないっす。カメラをお持ちならぜひ……」


「君ヶ浜か!関東舞子って奴やな……ああ~楽しみやなぁー……海に沈む日の入りとかも見れるんかな?」


「この時期はちょっと……でも名洗港とか銚子マリーナまで出ていただければ、屏風ヶ浦に沈む夕日が見られるっすよ。そうでなくても絶景なんで、ここまでお越しになられたんならぜひ」


「そうそれな!なんやったっけ、ドーバー?」


「はい、東洋のドーバー」


「ええやんええやん、おっちゃんそれも楽しみに来たんや……」


せやろせやろ、分かってるやん、このおっちゃん……


まあ、ワイも屏風ヶ浦とか一回も見たこと無いんやけどな……


……とまあ至らぬ所もあるのだろうが、おっちゃんはひとまず俺の答えに満足していただけたようだ。


この程度の質問であれば、俺の千葉愛だけで十分に応答可能……


「ちなみに日入の方の時間はいつなん?」


「今の時期だと午後七時ちょい前ぐらいですかね。六時半ぐらいから張ってもらえれば……」


「ほうかほうか、ありがとやで……やー、兄ちゃんにツアー組んでもらいたいな!」


まあお上手……!


浪速のリップサービスに呵呵と二人で笑い合う。


……と、ふと周りを見ると女将さんを始め、一色もめぐり先輩もぽかんと呆気にとられたような顔でこちらを見ている。


いかん、何かまずい対応があったのだろうか。思い返せば言葉遣いとかあかんかった気がする。


でもね!私に接客なんかさせる貴方達だって悪いのよ!


などと内心で力強く逆ギレすることで精神の安定を図ったが、結局お咎めはなかった。


やがて、あーやないこーやないとおっちゃん達は和気あいあいと観光プランを立て始める。


その邪魔をしないように、小さく挨拶すると、四人してそっと部屋を出た。


「ふぅ……」


どっと出て来た手汗を、頭に撒いた頭巾で拭う。


愛想の良い人たちではあったが、やはり接客業だけはしたくないものである。こんなの一日何回もしてたら心が張り裂けそうだぜ……


しかし関西の方々に千葉の名所を布教できたのは有意義だった。


かつてない充実感に浸っていると、めぐり先輩が腕を掴んで、興奮気味に上下に揺する。


「すごいっ比企谷くん!笑顔はちょっと気持ち悪かったけど……名所だけじゃなく、時間までチェックしてるなんて偉い!本当に偉いよっ!」


言って、頭をなでりこしてくる。


わぁっ……!みんな見たかな?千葉を愛していると、こうしてほんわか癒し系先輩に頭を撫でてもらえるんだよ!


これはもう千葉県民と言わず日本の全国民あますとこなく千葉を愛するべきだよねっ!


故郷なんてかなぐり捨てて、みんなで千葉を愛そう!


めぐりッシュヒーリング(※直接触れることにより対象の体力・精神力の全回復。年上でありながらあどけない無邪気な笑顔にギャップ萌え効果も付与。相手は死ぬ)で英気を養っていると、女将さんと一色が怖い顔でこちらを見ながら、ヒソヒソと何事か密談している。


一方でなんなのあの人達……超怖いんですけど……


「千葉ヲタなんですよあの人……それはもう気持ち悪いぐらいに」


「案内役に適任だね……少々笑顔が気持ち悪かったけれど……」


それに、なんでみんなして、いちいち気持ち悪いって結びで締めるのかな……?


「それにあの子……関西のノリに合っている……?西の方が来たら接待させるといいかもしれないね……」


「合ってます合ってます!番で埋もれさせるにはもったいないですよ!」


合ってねぇよ。勝手に決めんな。


あと関西人がみんな陽気でノリノリだと思うなよ。


どの街にも……いろんな個性が……あるんやで?


「そうだね、こうなったらシフトも変えるよ。朝にたくさん入ってもらってたけど、比企谷くんについては夕方を中心に組み直しましょう。ピークの三時に合わせて彼に客室案内をやってもらうのが適材適所だね」


「はいっ!それが良いと思います!今後先輩はフロア係ってことで……!」


「え……」


待って欲しい……これは契約違反だ……


口約束だって契約だし、証言だって立派な証拠になるのである。


法治国家である日本で、こんなモラハラだかパワハラだかが許されて良いものだろうか?



俺は脇に居ためぐり先輩に目で訴えた。


―― めぐりん、こんな横暴がまかり通っているのだけれど……!


俺の真摯な眼差しを受けて、めぐり先輩もきゅっと眉を釣り上げて応える。


―― うんっ!頑張ろうね比企谷くん!私全力でサポートするよ!


そしてほわっと顔を綻ばせると、ウンウンと頷く。


……ええ、もう期待してませんでしたけど全く通じてませんね……なんだよこの人超可愛いな……



「比企谷くん、聞いたとおりだよ。今後あなたは正式にフロアスタッフをやってもらいます……すぐにシフトを手直しするから、今日からよろしくお願いね」


「は……はいですぅ……」


わ、わぁ……みんな見たかな……千葉愛深きゆえにこんな悲しい結末に至ることもあるんだよ……


こんなに苦しいのなら……こんなに悲しいのなら……千葉愛などいらぬっ!


そういうわけで、みんな自分の故郷を大切にねっ!


「さあっ!次は広島からお越しのお客さまだよ……!お行き!」


「はいっ!」


「はいですぅ……」



かくして、俺は正式にフロア組への転身を余儀なくされた。


ついに伝家の宝刀・バックレを抜こうとも思ったが、右腕は一色が凶悪な顔を浮かべながらガッチリホールドしている。


左腕はめぐり先輩がほわっと微笑みながら両手で持ち添えており、笑顔とは裏腹に完全に捕獲体勢である。


「さあ、頑張りましょうね!せんぱいっ!」


「比企谷くん、ファイトだよ!」


新旧両会長に半ば引き摺られるように、俺たちは次なる客を迎えに再び玄関口に向かう。



……このあと、めちゃくちゃ接待した。



※※※※※※※※※※


休憩こそ入れたものの、ほとんど八時間ぶっ続けで働いたため疲労困憊である。


俺の考えつくされた両立シフトは早くも崩壊し、明日もこのような配分で働くことになっている。


部屋に戻るとあっという間に日も暮れてしまい、空腹を抱えてズルズルと食堂まで足を引きずる。


「ヒキタニくーん!」


まかない飯をトレイに乗せて、ふらふらと足元も頼りなく歩いていると、そこには戸部と副会長が居て、こちらに手を振ってくる。


「……あれ?お前らってシフト夜じゃなかったか……?」


「それがさー、なんか急に昼夕に変えられてさー!はー、もう超しんどかったすわー……!」


「俺も忙しい夕方に変えられた……新しいシフト表もらったんだけど、かなり大幅に変更されちゃったみたいだ……」


「お前らもか……」


聞けば二人もシフトをいじられて、突然の変更に振り回されているらしい。


おそらく、俺同様、裏で一色の手が回っているのだと思われる。


もしかしてシステム再導入によって生じた歪みを、俺達被害者の会で帳尻をつけているんじゃなかろうか……?


しかし連絡手段の改革といい、シフトへの介入といい、あいつは一体何を企んでいるのやら……


考えただけで気疲れしてしまい、食卓に顔を伏せてしまう。


戸部も同様で、頬がコケていつもより若干目元も暗い。


疲労と絶望に二人してどよーんと暗く沈み込む。


……だというのに、副会長は何故か一人ニヤニヤと笑っている。


「……なんだよ、なんか良いことあったのかよ……」


何故だか苛ついてしまいジト目で睨みつけるも、副会長は全く斟酌する様子がなく、頬が一層だらしくなく緩んだ。


「いやぁ、シフトを無理やり変えられちゃったんだけどさ、おかげで明日の昼、書記とシフトの空きが一致したんだよな……」


「え、何それ……どゆこと?まさか……副会長……」


「忙しいのは忙しいけど、なんだかんだで仕事にも慣れてきたし、だから明日はちょっと一緒に海でも行こうかなって」


なん……だと……


戸部だけでなく、俺の顔も険しくなる。


受験生がそんな……書記ちゃんと海に行っていいと思ってるのかこいつ……なんて非常識な……!


「いやぁ……どんな水着なのかな……書記ってああ見えて結構スタイルが良い気がするんだよな……着痩せするタイプっていうか」


「爆ぜろ」


「え?」


「……いや、このハゼの天ぷら美味いなって思って」


「あ、ああ、今の時期、利根川河口部でよく釣れるんだってさ。まかないでこんなの食べられるなんて有り難いよな」


独り幸せそうな顔で、ハゼの天ぷらをおかずにご飯をモグモグする副会長。


駄目だ……突けば突くほどにこちらの惨めさが顕になってしまう……


逃げるように目を逸し、戸部と顔を見合わせる。


「……ヒキタニくん、いろはすってば何考えてんのかなー?」


「俺に聞くな……お前にわからんかったら、俺もわからん……」


「んなことねーと思うけど……」


戸部は箸を咥えて両手を自由にすると、新たに配布されたシフト表とにらめっこを始める。


やがて「あ……」と口を開けて、箸をテーブルに落としてしまう。


「……なんだよ、なんか気付いたのか?」


「あ、や、まあ……明日には分かんじゃね?」


……なんじゃそりゃ。


その勿体ぶった態度に、妙に腹が立ち、何か言ってやろうと口を開きかけると、戸部が「ん」と手を前に出してくる。


「ほら、ヒキタニくん二杯目行くでしょ?お代わりしてきてやんよ」


「……む……悪いな」


「良いって良いって!俺も行くからついでついで!」


副会長は相変わらずニタニタと幸せそうな顔をしているが、戸部も一転して朗らかな顔になっており、鼻歌交じりに上機嫌な様子で棚口まで歩いて行く。


時折、にへっと鼻の下を伸ばしたりして不気味だったが、なんとも腑に落ちないことである。


俺もシフト表に目を通すが、夕夜と二連続で登録された新たなシフトを見るだけで憂鬱な気分に陥ってしまう。


朝方起きて昼までずっと受験勉強して、夕方からみっちり労働とか拷問とも思えるスケジュールである。


一色の意図など考えている場合ではない。


せめて今日の夜に勉強を進めるだけ進めておきましょうかね……


憂鬱なため息が出るばかりで、せめての救いは飯の旨さだけであった。まいうー。



※※※※※※※※※※※※※※※※※


その夜、俺は共用スペースに隣接する小部屋に入ると、気を取り直して受験勉強に勤しむ。


このまま予定が狂うと、一色に負けたような形になって、非常に気分が悪くなるに違いない。


ガリガリとペンを走らせ、英語の長文問題を解き進めていく。


空欄補充の問題は不得手としていたが、最近は数をこなすことで何となくコツが掴めてきた気がする。


僅かに垣間見えた言語の法則性。


朧気な仮説を立証すべく、次の問題、次の問題へとガムシャラに手を伸ばす。


答え合わせに入ると、解説を熟読しながら、足りなかった語彙を単語帳に書き足していく。


特記すべきことがあれば、それを小さく書き留めるのも忘れない。


繰り返し行っているこの作業の頻度も、春頃に比べれば随分と減った気がする。


珍しく進歩の手応えを感じたので、その勢いのまま次の項に手をつけようとすると、コツコツとドアがノックされた。


振り向かずに「うーい」と声だけ返すと、間髪入れずにドアが開けられる。


なんとなく、その間やタイミングだけで、訪れたのが誰なのか察しがついてしまう。


「あー、またこんなところで受験勉強してる……」


「……アホか。邪魔しに来たんなら帰れ」


すげなく返すも、一色は怯みもせずに部屋にするすると入って来て、後ろから俺の手元を覗き込んでくる。


「うわ……長文問題……これちょっと制限時間短くないですかー?」


「なんか、M大の英語は疾さが求められるらしい……」


「えー自信ないなー……文章読んでる間に時間がなくなっちゃいません?こういうのって……」


「馬鹿正直に精読してたら間に合わねーな……ざっと読んでなんとなく内容掴むのが重要らしい……って、お前にゃ関係ねーだろが」


「そーなんですけど……」


言って肩から手を離すと、後ろでゴロンと寝転がってしまう。


……んー……ちょっと鬱陶しいですね……この子……


「いや、お前マジで邪魔だから、用言ったらさっさと出てけよ」


言いつつも、英語の長文をざっと読み進めて大枠の解析を試みる。


「今、皆さんと共用スペースでトランプしてるんですけどー、先輩も混ざりません?」


「混ざりません」


「……先輩以外みんな参加してるのに……」


気付けば、川崎やら会計クンやらがさっきまで居たはずなのに、いつの間にかもぬけの殻になっている。


集中しすぎて、出て行ったのに気付かなかったようだ。


「先輩が混ざったら、全員集合なのになー……」


背中の向こうから、一色の非難がましい声がする。


……見るまでもなく、今こいつがどんな表情で、どんな体勢を取っているか想像がついてしまう。


きっと、仰向けで天井でも眺めながら、ぶーーと頬を膨らませているに違いない。


「行く気がない奴誘ってもしょうがねぇぞ……諦めろ」


「そうですね……誘ってもどうしようもない人は誘いませんよ、無意味ですし……」


……どこか既視感を覚えるやり取りだ。


問題に目を向け、ペンを走らせつつも、不思議な事に一色にも意識が向いている。


まるでどこかの剣豪の境地だ。


少し楽しい気分になってしまい、そのまま言葉を紡いでいく。


「……だろ?どうしようもない奴誘っても意味ねーわな……」


「そうですよ……そういう人は誘うんじゃなくて……」


続きの言葉を待つその一瞬だけ、英語の問題文が頭から離れる。


ペンも紙から離れて、静止すること暫し。


「誘うんじゃなくて……来るように仕向けるんです」


その言葉を聞いて、思わず鼻からフヒッと空気が漏れた。


冬だったらきっと鼻水が出ていたことだろう。


そんなこちらのリアクションが面白かったのか、後ろの一色からも、くぐもるような笑い声が聞こえる。


畳に顔が近いのだろう。今はうつ伏せになっているのだと思われる。


ひとしきり笑うと、一色ははぁーと気だるげに息を吐く。


「はー……。 先輩は面白いですねー……」


「面白くねぇよ、ほら、さっさと出てけ」


しっしと空いた手で、出て行けのジェスチャーを示すが、そんなものを意に介する奴ではないので、これは無意味な行為だ。


案の定、返事はなく、代わりにじっと背中に視線を向けられているのを感じる。


「……こういうのも良いですよねー」


「……何がだよ」


「こう、先輩は浪人してー、家を追い出されてー、それで下宿に住んでるんですよ。そして勉強する先輩の背中をじっと眺める、可愛い後輩……」


嫌な設定だな……


あとそのシチュエーションなら、背中見てないでお前も受験勉強しろよ。


「あれだな、昭和のやつ……神田川の世界だな」


「それですよ、下宿にはお風呂がないからー、夜は一緒に銭湯に行くんですよねー」


今時そんなアパートも少ないだろうが……


「風呂場出たところで待ち合わせするんだよな、確か」


「いいですよねー、ああいうの超健気でポイント高いですよね?」


「お前は銭湯から出たら、絶対待たずに先に家帰ってそうだけどな」


「先輩にだけは言われたくないですよ!」


もっともな言い様だと思わず頬が緩むが、そのまま問題を読み進め空欄を埋めていく。


それきり一色は言葉を潜め、俺も無心でペンを走らせると、ついにその項の問題を解き終える。


早速答え合わせをすると、驚いたことにノーミスであった。


この問題集では、初めてのことだな……


思わぬ出来栄えに自慢気に一色の方を振り返る。


「パーフェクト!」


ドヤァ……!と顔を向けるも、しかしリアクションがない。


見ると、一色はうつ伏せたまますやすやと寝息を立てていた。


なんか静かだと思ったら……


「おい、こんなところで寝るんじゃねぇよ」


背中をさすって起こしにかかるが、むにゃむにゃと返すのみである。


……が、ふと、小町がリビングで寝落ちしていた時と、完全に同じノリで起こしていたことに気付く。


慌てて手を引っ込めて、後頭部をガシガシ掻いて誤魔化す。


軽率だった……他所様のお嬢様に俺はなんてことを。


でもどうしましょ……? 起こさないとまずいよね、これ……


首筋にペンでもぶっ刺してやれば起きるだろうと、狙いを済ませると、一色はうーんと呻きつつ寝返りを打った。


ゴロンと仰向けになる一色の姿を見て、少し動揺する。


勉強中は一瞥もしなかったので、これまで気付かなかったが、一色は風呂に入った後なのか浴衣姿になっており、髪もアップに纏めていつもと随分印象が違う。


こいつは輪郭だけ見れば、すいっと綺麗なカーブを描いており、なかなか可愛らしい造形をしている。


途端に気恥ずかしくなり、慌てて視線を下げると、今度は更に驚いてしまう。


襟がはだけて胸元が顕になっており、もう少しでブランシャール(※ブラジャーの隠語。ブラジャーとはっきり言うのは恥ずかしいから)が見えてしまいそうなのだ。


咄嗟のことに、ドキドキと胸が早鐘を打つ。


……やはりこいつは妹ではないのだ。


そんな当たり前のことを今更認識してしまう。


とても見ておられず、はだけた部分を直そうと手を伸ばす。


……が、すぐに引っ込めた。


「……っぶねぇ……」


独りごちて、ふぅ……と一つ大きな息をつく。


いやー、なんつーか……もう分かってるんだよなぁ……


これってあれでしょ?襟元を直した瞬間にそこの扉がバターンと開いて、例えば川崎辺りが「あ、あ、あんた一色に一体何を……!」とか、


あるいは書記ちゃんがやって来て「見損ないました比企谷先輩。そんなことだけはしない人だと思ってましたのに……」とか、


もしくはめぐり先輩がいきなり現れて「比企谷くん……がっかりしちゃったな。やっぱり君は不真面目で最低だね」とか、


なんかそんな感じのこと言われて、最後は俺が半泣きで土下座する……だいたいそんな展開が待ってるんでしょ?


分かっちゃってるんだよなぁ……



この因果律のトリガーとなるのは、おそらく俺が一色の衣服を直すこと。


あるいは何か事に及ぶと誤認されるような体勢をとったその瞬間を狙われる。


……分かっているのだ、全て。



いかにお色気っぽさを出さずに、一色を自室に連れ戻せるか……。これはそういう勝負なのだ。


お姫様抱っこは愚行の極み。おそらく持ち運ぼうとした瞬間に、あの扉は開かれるだろう。



危ないところだった。


この土壇場で冷静になれる辺り、やはり今日の俺は冴えている。


さっきの問題集もパーフェクトだったし……いよいよ確変の時期が訪れたのかもしれない。


このクールな状態で、俺はささっとプランを組み立てた。


……まずは荒っぽく引きずって、角にあるベッドに一色をどっせいと放り投げるのが宜しかろう。


そして放り込んだら、タオルケットでグルグル簀巻にした後に、ワッセワッセと掛け声も高らかに肩で担いで一色の部屋まで持ち運ぶ……というのが今考えうる最善の行動だ。


そこにはセクシャルな要素など欠片もないはず。


こんな事してる奴が居たら、俺なら指差してゲラゲラ笑うところだ。


「……OK」


プランは建てた。あとは実行するだけだ。


俺は一色の両足首を持ち、ずるずる引き摺ってベッドに近づける。


……だがここで思わぬアクシデントが発生した。


引き摺る毎に、浴衣の裾が引き上げられてしまうのだ。


既に太ももが大きく露出されている。これ以上引きずるとパンプキン・シザース(※パンツの隠語。以下略)が見えてしまうだろう。


「ふむ……」


損切りできるのは一流の投資家の必須条件だ。俺は直ちに作戦を中断し、事態の収集を図るべく修正案を練る。


……こいつは太ももだけ見れば、華奢ながらもプニッと柔らかそうで、なかなか可愛らしい造形をしている。


普段スカートから伸びるのとは違い、浴衣から覗く足というのは、得も言えぬ色気を醸しだしており、凝視しているとなんだか落ち着かない気分になってくる。


元に戻したいのはやまやまだが、とにかくまずいのはこれ以上動かせないことだ。


少しでも衣服がズレれば下着が見えてしまうという非常にタイトなこの状態。


そして無理に直そうとすれば、それが因果律のトリガーとなるのは火を見るより明らかで、瞬く間に隣の共用スペースから、誰かが飛び込んでくるだろう。


ならば俺に、比企谷八幡に出来ることは……


――あっ、そうか。


別にベッドに放り込まなくても、その場でタオルケットでぐるぐる巻きにして部屋に運んでしまえばいいんだわ。


八幡たら迂闊っ!


てへぺろっと自らの頭を小突くと、若干心に余裕が生まれてくる。


俺はベッドの上に積まれたタオルケットを持ち出すと、寝そべっている一色の横にふわっと広げる。


あとはこいつを転がして、タオルケットで簀巻にすれば万事解決である。


最初からこうすれば良かったな……


なんでベッドまで運ぼうと思ったんだろう……?


俺は一色の横に位置すると、そいやっと転がしにかかる。


……だがここで思わぬ事態が発生した。


「うーん、むにゃむにゃ……」


転がされるのを嫌がった一色が身をくねらせ、肩の部分がどんどんはだけてしまうのだ。


白く艶めかしい肩が露出され、ブランシャールの紐が見えてしまっている。


ど、どうしよう……なんかどんどん服が脱げていくんですけど、この子……


あられもない一色の姿に、ドキドキといよいよ鼓動が鳴り止まない。


寝ていてさえ、俺の心を惑わせるこの小悪魔め……


もういっその事、声を上げて起こすことにする。


この状態で目を覚ませば、どうせまた鬱陶しいことを言うに決まっているのだが、背に腹は変えられない。


「おい、一色!起きろ、風邪引くぞ!」


「はーい……うへへ……」


しかし呼びかけも虚しく、一色は一向に目を覚まさない。


この子ったら、寝言で返事するタイプなのね……


起こすのがくっそ面倒くさくて、一旦嵌ると遅刻を重ねるタイプだ。


「一色さん?起きていただけないかしら……?」


「えへへ……わかってますってもう……」


言いつつ全く目を覚ます気配がない。


あかん……


俺はガクリと膝を付く。


万策……尽きた……


もっと大きな声を出せば起きてくれるかもしれないが、そうすれば声を聞きつけ、誰かが共用スペースからやって来てしまうだろう。


さりとて、この状態で肩など触ろうものなら、因果律の定めに従い、やはり誰かがやってくる。


神よ……我を見捨て給うたか……バーカ!バーカ!


顔を覆ってその無能ぶりを呪っていると、一方の一色はなんともあどけない顔で、安心しきったご様子だ。


「……すぅ……」


相変わらず可愛らしく寝息を立てている。


こんなところで無防備に寝るぐらいだ。


……おそらく、自分は男として認識されていないのだろう。


不甲斐ないと思わなくもないが、しかしこいつは俺をある程度信頼してくれているという証左でもある。


「ほぇ……」


とそこで、色気もへったくれもない寝言が漏れる。


思わず苦笑が漏れてしまう。


こっちは必死だっていうのにな……


なんだか難しく考え込んでいるのが、心底馬鹿らしくなってきた。


彼女に付き合っていると、よくそんなことを思わされる。


こんなあどけない顔を見せられれば尚の事だ。



扉の方を見る。


「……」


――馬鹿らしい。なにが因果律だ。


これも結局、俺が勝手に沸き上がっているだけの事であり、例のごとく心の中で防壁を築いていたというだけの事だ。


取り囲まれた壁の中には、度し難いほどに臆病な自分がいる。


過剰で過敏で敏感な、傷つきやすい自分がいる。


そして、それは時に化物のように肥大化して、自分を、ときに関わる他者までも苦しめる。


「とっくに分かってたはずなのにな……」


独りごちると、頬を両手でペチンと叩いた。


……この子をきちんと部屋に送り届けてあげよう。


その前に、はだけた衣服も元に戻してやらんとな。


襟に手を伸ばし、正してやろうとしたその瞬間――



バターン!




……と、ノックもなしに扉が勢い良く開いた。


「比企谷くーん!今みんなでトランプしてるんだけど……君もちょっと休憩して……」


現れたるは、めぐりんはじめ女性陣三名。


だが俺と一色の姿を見るなり、皆はうはうあわわとアホみたいに口を開閉させる。


「あ、あ、あんた一色に一体何を……!」


「見損ないました比企谷先輩。そんなことだけはしない人だと思ってましたのに……」


「比企谷くん……がっかりしちゃったな。やっぱり君は不真面目で最低だね」


三者三様に罵られる。


分かっていたのだ……すべて……


定められた因果の中、時の理に縛られて生きる……どうも俺です。



※※※※※※※※※※


「少年H・少女Iの寝込みを襲う」の報は瞬く間にメンバーに知れ渡った。


しかし俺の論理的かつ誠実な弁明と、最終的には半泣きで土下座したのが功を奏したのか、朝、一色が目を覚ます頃には、事態の沈静化に成功していた。我ながらすごい頑張ったと思う。


……という訳で、バイトも四日目。いよいよ折り返しである。


いつもの早い時間に目を覚まし、朝食を食べていると、一色も起きてきたのか食堂にやってくる。


そして俺を見つけるなり、ニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべながらこちらにやってきた。


「おはようございまーす♪せんぱいっ」


「お、おう……」


「昨日、勉強部屋で寝ちゃったと思ったんですけど、目が覚めたら自分のベッドで寝てたんですよねー」


ちらちらと上目遣いでこちらを見てくる一色。


「これってどういうことなんでしょうね?ね?どうやって運んだんですかー?」


どうやら何も知らされていないらしい。


くそ……こいつ……呑気なことを言いやがって……俺があの後どれだけ苦労したか……どれだけ枕を涙で濡らしたことか……


ちなみに一色は川崎さんがお姫様抱っこで丁重に部屋までお運びしました。


「お前もう勉強部屋は立ち入り禁止な」


「なんでですかー!」


などと朝もはよからやり合っていると、従業員の中でもベテランのフロア長が作務衣姿で食堂までやってくる。


そして一色の姿を見つけると、食卓まで歩み寄ってきた。


「おはよういろはちゃん、ちょっと明日の人員配置の件で相談したいんだけど……」


「あ、はーい」


と他所行きの笑顔で応じる一色に、フロア長は資料を見せながら何やら説明をしている。


……まだバイト四日目なのに、既に上層部メンバーの仲間入りをしている……


異常とも言える適応力に内心震えていると、一色は突如パンパンと顔の横で手を叩いた。


すると前触れもなく、Tシャツ短パン姿の副会長が上からスチャッと現れる。


「どうしたんだ、会長? ……俺もう一眠りしたかったんだけど……」


突如表れた副会長に、フロア長は若干引いていたが、一色はすぐに資料を副会長に渡すと、あらましを説明する。


「明日の夜間のシフト、どうやっても人員が足りないっぽいらしいんですよねー。なんとかならないですかねぇ……?」


「あぁ、明日は大宴会場が使われる日だもんな……でも常時張り付く必要はないんだろ?だったらこうやって給仕チームをふた手に分けて……」


……副会長は人の配置がなかなか上手い男で、生徒会でもよくこうした光景を目にする。


一色のざくっとしたアイディアに、具体的な肉付けをしていくのが彼の役割なのだ。


そのやりくり案に、ふむふむとフロア長が頷く。


一色といえばキョロキョロと二人の顔を見比べるのみである。


「……という風にしたら良いんじゃないかな?これだったら、後一人か二人増員するだけで賄えると思うんだけど……」


「なるほど。OKです、行っていいですよ副会長」


「役に立つと良いんだけど……じゃあ俺は顔でも洗おうかな……」


言うと影の中にスッと消えていく。


うん……でも学校外での忍術の使用は控えてもらいたいな……


「ということですが、どうでしょう?フロア長」


首を傾げていたフロア長だったが、一色に声をかけられると、我に返ったように応じる。


「う、うん、いいアイディアだな!さすがいろはちゃん!」


「いやー、私なんて……ほんっと全然大したことないですよー」


きゃーと頬を覆って恥ずかしがる一色だが、本当に全然たいしたことない。


全部副会長の考えなのだけれど……


昨日もそうだったが、なんでこの子が偉いってことになってるのかな……?


釈然としない思いを抱きつつも、やがてフロア長がお礼を言って去って行くと、一色もトレイに朝食を乗せて俺の隣に腰掛けた。


シフトもないので二人して朝食をゆっくり食べていると、今度は女将さんが共用スペースにやって来た。


手には御膳を持っており、そのまま棚口の前まで歩を進めると、厨房内の板長さんに声をかける。


「板長さん、一〇三のお客さま、また食事のキャンセルだってさ……」


女将さんのよく通る声が厨房に響く。だがその声は少し呆れが含まれているようだ。


間もなく、厨房の中から甲高い奇声が発せられた。


「くぅーーーーーーーー!またかよ、金持ちってやつぁ!せっかくのメヌケだってのによぉ!」


どうやら、一昨昨日に引き続き、またキャンセルが出てしまったらしいのだ。


「キャンセル料はきちんと頂いてるんだ。そう怒るもんじゃないよ」


「でもよぉ……!うぅ~~~っくしょうめ!朝から気分がワリぃぜ!」


女将さんに優しく諭されるも、憤懣やる方ないといった声で悔しげに唸る。


そこでふと女将さんがこちらに目を向けた。


ふむと頷くと、こちらに皿を持ったまま歩み寄ってくる。


「いろは、比企谷くん、お前さん達、なかなか見事な働きだからね。……特別だ、これを二人でお食べ」


「わぁー、いいんですか?」


手をぽんと合わせて、一色が歓喜の声を上げる。


う、うん……でも、女将さんは一色さんの何をどう評価したのかな……?


解せぬ……などと思ったりもしたが、そろそろどうでも良くなってきた。


キャンセル品のおこぼれに預かるのは、俺としては二度目の果報である。


薄紅色の刺身を乗せた大皿が、コトリと食卓に置かれる。


「わーありがとうございますー!美味しそー♪」


「味わって食べるんだよ」


笑顔満面の一色に、女将さんはコクリと頷くとそのまま食堂を去っていった。


やがて姿が見えなくなると……


「……でもわたし、起き抜けはあんまりたくさん食べられないタイプなんですよねー」


などと嘯きやがる。


世の中には、決して優しくしてはいけない邪悪な個性というものがあるのだ……女将さんの目を以ってしても見抜けないとは……


「……なんかこの前、先輩達が食べてたのに比べるとしょぼいですし……」


「まあな……」


一色の言うとおり、今回のお刺身は以前にありついたキャンセル品と違い、色とりどりの海の幸……という感じではない。


器も地味で、造りも一種類のみである。


「……メヌケとか言ってましたよね。分かります?」


「俺も知らん」


言いながら無造作に一枚箸で拾うと、二人してべっちゃべっちゃら醤油に浸して、口の中に放り込む。


「んー、モチっとしてますけど、なんか淡白ですね……」


「そこそこ美味しい……のかな?歯ざわりとかは癖になりそうな感じではあるが……」


「まあ、普通に美味しいですね」


「そだな、普通に旨い……」


何の刺身かも分からず二人してもちゃもちゃと咀嚼する。


すると、また年配の従業員が食堂に入ってきて、一色の姿を見るなり大きな声を上げる。


「いろはちゃーん!ちょっといいかなー!」


「あっ、総支配人さん!どうしたんですかー?」


総支配人……だと……?


こいつ、いつの間にそのようなパイプを……?


「ちょっと明日の打ち合わせなんだけどね、いいかな?短期バイト代表して話を聞いておいて欲しいんだけど」


「今行きまーす!先輩、私もう、ごちそうさましますんで、すみませんが食器の後片付けお願いしていいですか?」


「お、おう……そりゃいいが」


「あっ、行く前に、ここからこっち貰いますね」


言って、がさっとふぐの刺身をさらうように豪快に何枚かいっぺんに取ると、まとめて口の中に放り込む。


「……起き抜けは食べられないんじゃなかったのか?」


「ふぉほふぉほ、ほいひいふぉふぉふぁ、ふぁへふぁふぇふんふぇふよ」


そこそこ美味しいものは食べられるらしい。


「……後にして貰ったほうがいいんじゃねぇの?」


「ふぁやふやっふぁわはいほ、ふぉほふぁほほふぉふぇいがふふっひゃいふぁふひ」


早くやっちゃわないと、このあとの予定が狂っちゃうらしい。


意味がよく分からなかったが、そのまま一色は頬をぱんぱんに膨らませながら、支配人の元に走っていってしまった。


それにしても、なんてお下品なのかしら……育ちが悪いのかな……?


いいつつ俺も残りの刺身をいっぺんに箸でつまむと、わさび醤油にべちゃっと漬ける。


こうやっていっぱいヒゲタのさしみ醤油に漬けると、ご飯がいっぱい食べられるよね!


お代りするのも面倒なので、一色の残したご飯にも手を付ける。


正体不明の刺身をおかずに白米かっ込みマンと化していると、戸部と会計くんも朝食を摂りに食堂にあらわれた。


「……お?ヒキタニくーん、美味しそうなの食べてんじゃーん!」


「女将さんから貰ったんだよ。なんかメヌケとかいうの……」


いうと、二人の表情がピシリと固まる。


普段クールな会計くんもぎょっとして、皿を指差す。


「ひ、比企谷……メヌケって超高級魚だぞ……?」


「この辺じゃアコウダイのことだべ?キロ数千円はくだらないんだけど……ヒキタニくん知らなかったん?」


なん……だと……


力が抜けてポロリと箸を落とす。キロ数千円……だと……?


「デパ地下とかで売ってるけど、ほんのちょっとしかパックに入ってないのに千円ぐらいするんだよね」


「ウチじゃ半額シール貼ってる時しか買わないわー」


そんな高級な食材だったのか……


俺は……俺はなんてもので白米をかっこんでいたのか…… しかも卑しく醤油をベッチャラベッチャラ漬けて……


「ないわー」


呆れたように首を振る戸部。


こいつに無知を指摘されると自殺したくなるほどムカつきますね……


しかし一色も全く認識せず、有り難みもなくがっついていた。


ど、どうしよう……この事あいつに教えたほうが良いのかな……?


言わなかったら後で怒られるような気がするし、言っても怒られるような気がする。


逡巡の輪の中に迷い込むも、俺は残りわずかな切れ端を、じっくりと味わって食べるのであった。



※※※※※※※※※※


豪勢な朝食を終えると、勉強道具を持って小部屋に入る。


中には既に川崎や会計くんが居て、珍しい事に戸部も机に向かって勉強をしている。


「……うす……あれ?お前、勉強道具持ってきてたのかよ……」


挨拶がてら声をかけると、べーべー唸っている戸部に代わって、その傍らに座るめぐり先輩が答える。


「ネットに問題集があったから、それをプリントアウトして使ってもらってるの。タブレットがあれば参考書や辞書代わりにもなるし……」


「なるほど……どうにでもなるもんすね」


へぇと感心した目を向けると、めぐり先輩はえへんと得意気に慎ましい胸を反らせる。


……この人は今までも時間が空いていると、こうして部屋に訪れ、俺達の勉強を見てくれていたのだ。


大学には推薦で入っただけあって、普段から成績は良かったらしい。


特に文系科目が得意のようだが、戸部に教えられる程度には理系科目にも通じている模様。


二人を横目に俺も奥の方にある机につくと、問題集を広げた。


「お、みんな揃ってるな……めぐり先輩もおはようございます」


しばらく勉強に勤しんでいると、やがて副会長もやってきて戸部の隣によいしょと腰を下ろす。


……珍しいことに、これで年長組が全員集合したことになる。


受験組のことをずっと気に掛けていためぐり先輩も、少し安心したのかウンウンと嬉しそうに頷く。


そうして、時折質問が来ては、あれこれとみんなに教えていためぐり先輩だったが、ひとしきり対応を終えると、俺のところにもやってきて手元を覗き込んでくる。


「あれ……これってM大の問題集……比企谷くんM大を受けるの?」


「あっ、はい。第一志望っす」


そう応えると、皆もほうと顔を向けてくる。


「へー!前にスピーチで行ったとこだべ?」


「あ、それ聞いたよ……一色さんすごく上手なスピーチだったって!……確か今年の交流会はM大でやったんだっけ?」


「はい、ビルみたいですごく立派な学舎でしたよ……上手く行ったら、来年比企谷はあそこに通うことになるのか……」


そんな副会長の呟きに、めぐり先輩がふりふりと首を横に振った。


「ううん、あそこは三、四年生が通うんだよ。文系だったら最初の二年間は杉並の方にある和泉キャンパスを使うの」


「へぇ……」


「一、二年時に単位の取りこぼしがあると、和泉とそっちのキャンパスを往復する羽目になっちゃうんだ。これを別名『和泉返し』っていって、文系の学部からは恐れられてるんだよ……!」


「うへぇ……」


なんか聞いたことがあるなそれ……しかし何駅もまたいで通学するなんて、想像するだに気の滅入る話だ。


キャンパスを数多く持つマンモス大ならではの逸話だが、それにしても……


「……城廻先輩、詳しいっすね」


聞くとえへらえへらと笑いながら、自らの顔をちょいちょいと指差す。


「だって私も、M大生だもん」


「えっ!?」


俺だけでなく、一同驚きの声を上げる。


川崎などは片膝を立て、身体ごとこちらを向いて驚愕の顔を浮かべていた。


……が、俺と目が合うと、急いで座り直した。


なんでしょうね……一体……


「比企谷くん、上手く行ったら来年は同じ大学だねっ!わからないところはない?私見てあげるよっ!」


言って、ふんふんと上機嫌な様子で手元の問題集に顔を突っ込んでくる。


うーむ、嫌な奴と……具体的には戸部とか材木座と一緒だと思うと憂鬱なところだが、この人が待っていると思えば俄然やる気も湧いてくる。


我ながら安易だが、これはちょっとしたモチベーションに繋がる。


うわぁ頑張ろう。


決意も新たに問題集に取り組んでいると……


「……副会長、これいろはすが知ったら……やばくね?」


「……ああ、死桜が咲くかもしれないな……この話は内密に……」


ボソボソと物騒な話し声が、区切り板の向こうから聞こえてくる。


何言ってんだ……あいつらは……?


訝しげな顔を向けていると、突如バン!とノックも無しに扉が開かれた。


「ひ、ひいぃっ?!」


「あわわ……!」


「ヒィ!ぜ、全部ヒキタニくんが悪いべ!」


三人して身を強張らせるも、そこに立っていたのは一色ではなく書記ちゃんだった。


「……どうしたんです、そんな驚いて……?比企谷先輩がまた何か……?」


そう、この中に一人……裏切り者がいる……近い内に制裁を加えねばならないだろう。


あと書記ちゃん?「また」って何かな……?


この子は一体俺をどういう目で見てるんでしょうねぇ……


「書記……これからはノック……忘れないでね?」


副会長が引き攣りつつも優しく咎めると、書記ちゃんはてへぺろと頭を小突いて、持ってきていたお茶と魚の干物をそれぞれの席に置いて回る。


どうやら差し入れに来てくれたようで、なんと気の利く子なのだろうと、皆も感動に打ち震える。


しかもお腹を壊さないようにと、冷えた麦茶でなく、熱したものを持ってきてくれるこの配慮。


加えて、俺の分だけ少し温めに淹れてくれるこの気遣いように至っては、さすがの俺も副会長の爆発を祈願せざるを得ない。


……だが、書記ちゃんは給仕を終えると、戸部と副会長のすぐ側にちょこんと座り、ボソボソと今度は三人で何やら話を始めた。


「なるほど……めぐり先輩もM大に……」


「そうなんよー……もしいろはすがそれ知ったらさー……やばくね……?」


「それは咲きますね……死桜が……」


またも物騒な会話が聞こえてくる。


しかし、めぐり先輩はあちらの会話など全く無関心のようで、ニコニコとご機嫌麗しく参考書を捲り、時折「なつかしー」などと回顧に浸っている。


まああいつらは放っとこう……アホ三人は捨ておいて、めぐり先輩の方を向く。


「じゃあ城廻先輩は、普段はその周辺に下宿してるんすか?」


「それなんだけどね……あの辺は家賃がどこも高いから、私は少し外れたところに借りてるんだ……あっ、今度お部屋に招待してあげるよ!」


「――!」


ガツッと机に何か当たったような音がして、何事かと目を向けると川崎が膝を抑えて一人もんどり打っている。


大丈夫か?と目を向けると、川崎はシュバッとすごい勢いで元の姿勢に戻った。


あの子はあの子で、さっきから一体何やってんでしょうね……?


一方で、また区切り板の向こうから囁き声が漏れ出している。


「……ほら、あんな事言ってるべ?」


「箝口令敷いたほうが良くないか……?」


「それだといざバレた時に、連座粛清が始まっちゃうんじゃ……」


高校生の、しかも生徒会とは思えないワードがあちこちに散りばめられているんですが……


内心で戦慄していると、またもバーン!と前触れなしに勢い良く扉が開かれた。


「ひ、ひいぃっ!?」


「ヒィ!」


「ひ、比企谷いい加減にしろ!」


「違っ、比企谷先輩が悪いのっ!」


四人して身を強張らせるも、そこに立っていたのは一色ではなく大志だった。


「……あれ?皆さんお揃いっすね……姉ちゃんだけかと思ったのに……」


あー……び、ビックリした……


我に返った俺たちが怨嗟の目を向けると、大志は怯んだ顔で一歩後ずさる。


「な、なんか皆さん怖いっす……またお兄さんがなんかやらかしたんすか……?」


ははぁん?と軽蔑の視線を含ませて俺を見る大志。


こいつにもあとで制裁を加えるとして……だ。


……裏切り者は一人では無くなったようですね……


副会長と書記ちゃんをギロリと睨むと、二人は露骨に目を逸らした。



……それにしても、年少組はどうもノックを怠るきらいがある。


川崎もさすがに見かねてか、めっとを指を立てて大志を叱責する。


「大志、悪い癖だね……ちゃんとノックしないとダメだよ。……で、あたしに何か用?」


川崎にそう言われると、大志は思い出したようにはたと顔を上げる。


「そうだった……姉ちゃん、明日、このホテルに来る芸能人が誰か分かったんだよ……!」


「そ、そんなこと!?……後でいいでしょ、姉ちゃんたち勉強してるんだから……」


川崎の言うとおりではあるが、しかし、ここで話を止められると却って気になってしまう。


皆ペンを止めて、大志の方に顔を向ける。


「姉ちゃんそういうけどさ……来るのは、なんとあの『サイケネス中原』なんだよ!?」


「サイケネス中原だって!?」


「マジかよ!アガるわー!」


「へぇ……」


皆一様に色めき立つ中、川崎は切れ長の瞳を大きく見開き、呆然としている。


「え……嘘……サイケネスが……そんな、来る訳ない……」


川崎の手から熱い麦茶が入った湯のみがぽろりとこぼれ落ち、近くに座っていた戸部の膝を濡らした。


「熱ッ!おわぢゃ……!か、川崎さん!こぼれてる、こぼれてるから!」


そんな愉快なBGMが流れる中、俺は記憶の糸を手繰る……



―― サイケネス中原


まだ俺達が小学校の低学年時だったろうか? ……大志に至ってはまだ保育園児だったかもしれない。


そんな俺達の物心がつくかつかないかの頃に、ギガトン級の一発ギャグで、日本の老若男女を沸かせた元大スターである。


連日連夜テレビで彼を見ない日は無く、かつて街の広告はサイケネスの姿で埋め尽くされたとも聞く。


まさに一世を風靡したサイケネスの芸は、俺達の心に強烈な足跡を遺しており、その一発ギャグの切れ味は今でも鮮明に思い出すことが出来る。


「もう随分長いことテレビで見てないが……こんなところで営業に出ていたのか……」


「パチンコ店とかの営業で食べてるとか聞いたことあるよ……」


副会長の呟きに、会計くんも少し寂しそうな顔で合いの手を打つ。


そう、そんな彼だったからこそ、驚くと同時に、少し悲しい気分にもなってしまうのだ。


昔の有名俳優や大御所とまで言われたタレントが、地方局のテレビショッピングに出演するのを目にした時に覚える切なさ……あれに近い。


かつて日本の頂点に上り詰め、お笑い界のレジェントとも言われたあのサイケネスが……今は百人前後のトークショーで営業をしているなんて……


栄枯盛衰……盛者必衰の理……溺れるものは藁をも掴む、か……


「信じられないっすよね!感動っすよね!」


だが大志はそのような哀愁を感じないらしく、実に純粋にサイケネスの到来を楽しみにしているようだ。


「もうすっかり過去の人だろうが……」


「関係ないっすよ……そんなの……サイケネス中原は、俺と姉ちゃんの心を救ってくれた……神様のような人なんす」


「え……嘘……そんな……さ、サイケネスが現実にいるわけ……ないよ……」


「姉ちゃん落ち着いて……!そうとう変なこと言ってるよ!?」


そしてこの姉弟に、過去一体何があったのか……?


うん……凄く……どうでも……いいです……




などと受験勉強そっちのけで、皆で大騒ぎしていると、ふと何かおかしいことに気付く。


「ちょっと待て……なんだこの総武高率……?」


今更ながらの俺の疑問に、皆もはたと顔を見合わせる。


「本当だね……珍しい……夜以外でこんなに集まるなんて……?」


「シフトはバラけて取ったはずなのにね……」


みんなして首を傾げるも、見やると戸部だけがニヤニヤと意味深な笑みを浮かべている。


その瞬間、バターンと突如ノックも無しにドアが開かれる。


開かれたドアの先……皆一斉にその姿をまぶしげに見つめる。


そう、現れたるは我らが首領・一色いろはその人である。


Tシャツにホットパンツ姿で、麦わら帽子のつばをクイと指で上げ、不敵な笑みを覗かせているではないか。


……だが、その腰には既に空気注入済みの浮き輪が巻かれており、いろいろと台無しになっている。


「フフフ……全員集合したようですね……」


腕を組み、片方の足裏をドアの外枠に押し付け、あくまで格好をつける一色。


いやお前、それ本当にアホっぽいからな……



しかし、事ここに来て、俺は一色の意図をようやく理解する。


戸部が昨日気付いたのはこの事だったのか……



会計くんを使って、ホテルの通信手段を改革したのも……


バイトのリーダー的ポジションに立ち、女将さんに取り入ってシフトに介入したのも……


いろいろ俺にツケを回したのも……これは絶対に許さないが、


とにもかくにも、すべては訳があってのことだったのだ。



一色がここまでやる気を出した理由……それはただ一つ……!



「それじゃー、次のシフトの時間まで、みんなで海で遊びましょうー!」


ぽかーんと口を開けていた皆だったが、やがて得心が行くと、わぁー……とぱちぱちと拍手する。


俺はというと、乾いた笑みを浮かべるしか無い。


「無理にお誘いはしませんけどー……先輩ももちろん来ますよね……?」


ニタァ……と意地の悪い笑顔をこちらに向ける。


ここまで見事にやられると、こっちとしては反抗する気力すら湧かない。


今回に関しては、こいつは見事、有言実行したという訳だ……


「了解だ……会長……」


そう答えると、一色は満足気に笑って、特に意味なく俺の腕をバンバン叩いた。


「そうと決まれば、先輩はさっさと海岸に行って、場所取りしといてくださいねっ!」


「はいはい……」


「はぁー……一色さん……凄いな……こんなこと考えもしなかったよ……」


ほえーと未だにあんぐり口を開けて驚いているめぐり先輩だが……


そう褒めたものではない。


あれに付いて行くのは結構辛いのですよ……?



……ともあれ、一色の司令は下った。


ならば俺は迅速にそのミッションを遂行しなければなるまい。



※※※※※※※※※※


銚子の東海岸。酉明浦とも言われる沖を見渡すと、千葉市民には普段見慣れない太平洋が大きく広がっている。


波の強さは東京湾とは比較にならない。荒々しい波が時折力強く岩を叩き、白い飛沫が上がるさまは、いかにもTHE・海という感じで見ているだけで心が踊る。


そんな荒々しい海だからして、銚子は意外に海水浴場が少ない。


数少ないスポットの中から俺たちが選んだのは長崎海水浴場だ。


超近いというのがその理由である。



地元民から長崎プールとも呼ばれるその海水浴場は、沖を岩礁で固めて、波の強さを緩和しているらしい。


岩に囲まれ、こじんまりとしたスペースはなるほどプールと呼ぶにふさわしい。


同時期の東京湾に面した海水浴場に比べると、明らかに人も少なく過ごしやすい。


これはちょっとした穴場じゃないですかね……?



ホテルから借りたパラソルを適当な位置に刺して、ビニールシートを広げる。


海を臨んで遠く左に見えるは関東最東端の犬吠埼の灯台だ。


右を向くと、すぐ近くに岩場が広がっており、磯遊びに興じる子供たちの姿が見える。


少し古ぼけた町並みの背景もあわせるに、日本人の原風景とも言うべきノスタルジックな雰囲気を醸し出している。



岩礁の向こうには荒々しい波が打ち寄せては返していく。


遙か太平の彼方と、将来に思いを馳せるのはどこか似ている気がする。



……ふと思う。


……俺は一体何をしているんだろう。


受験生なのに……




今頃同年代の受験生は、それはもう必死こいて勉強しているはずである。


まあ実際のところは息抜きがてら遊びに行ったりもするのだろうが、それにつけてももっと有意義な時間を過ごしているはずである。


例えば撮り溜めしていたアニメを崩したり、ネカフェに入り浸って古今のコミック全巻読破したり……


ふいに材木座の姿が目に浮かんだ。


いかん、これこそもっとも無意味な時間だ。


一般的に、有意義な時間の過ごし方といえば……


辺りを見渡すと、年配や子供連れの家族こそ多いものの、カップルの姿もそこかしこに点在している。


皆きゃっきゃウフフと楽しそうで、なるほどアレこそ有意義な時間といえるのかもしれない。


そんな中、ひときわ騒がしいカップルが俺の目を引いた。


「あっはっは!ホラホラ、どうした書記~!」


「うふふっ、もう、やめてくださいよー副会長さん!髪にかかっちゃう……」


た、楽しそうだね……君達……


見やると早速副会長と書記ちゃんが、浅瀬で水の掛け合いっこをしている。


書記ちゃんは白と黒、上下色違いのシックなビスチェビキニを着用している。顕になった肩はいかにも健康的な雰囲気を醸し出しているが、一方でトップスからお腹にかけては白いレースで纏われており、彩られた花柄の上品さに目を引かれてしまう。


なお書記ちゃんは副会長の予想通り着痩せするタイプのようで、小柄であるにもかかわらず、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。


華奢な感じの一色より、随分とメリハリが効いている。


可憐な外見の薄皮一枚下に、こんなやんちゃボディを隠していたとは……書記ちゃん恐ろしい子……


あと副会長はなんか黒っぽい海パン履いてた。野郎は適当に行こうと思います。




二人は俺の白けた視線など何処吹く風で、きゃっきゃと水を掛け合っている。


しかし水なんてかけ合って一体何が楽しいんだろう……アホじゃないでしょうか……


あんなのは十年以上前に俺と妹が通りすぎた道である。


それに二人の水の掛け合いは俺に言わせれば児戯に等しい。漫然と掛けあっているだけで、そこには意志や戦略といったものがまったく感じ取れないのだ。


かつて妹と水を掛け合って遊んでいた時、俺は小町の呼吸のリズムを読み、息を吸う瞬間を狙って鼻元に水をかけていた。


小町はやがて呼吸もままならなくなったのか「もうお兄ちゃんと海で遊ぶのやだ~!」とついには逃走し、親に泣きついていたものだ。


あの時の小町の可愛さったらもう無かった……


ちなみにすぐさま親父に拳骨を食らったのだが、あの時の痛さったらもう無かった……


それはともかく一日一祈願。今日はもう二回目だけど副会長が早く爆発しますように……



パラソルの影で南無南無と手を合わせて祈っていると、ぴとりと背中に誰かの手が触れた。


おへひょうと可愛く反応して振り返ると、水着姿のめぐり先輩がほんわかと微笑んでいる。


「比企谷くん!いい場所が取れたねぇ、ご苦労様!」


わぁっ、めぐりんの水着姿だぁ……!


めぐり先輩のビキニは濃紺をベースに、鮮やかなハイビスカスの花柄で彩られている。パレオは慎まやかな胸元を隠すように覆われているが、長く伸びた手足がより強調されて、スタイルの良さを際立たせている。


書記ちゃんと違い大きく開けられた腹部のラインも目に眩しく、明るく輝く健康的な肢体の中にも、色合いと合わせどこか大人の色気を漂わせている。


「副会長も書記ちゃんも楽しそうだね~、ねぇ比企谷くん、私達もあれやろうよ!」


言うが早いか、めぐり先輩は俺の手を引き、キャイキャイはしゃぎながら浅瀬に駆けていく。


そして俺から距離を取ると、水をぴゃっぴゃっと掛けてきた。


こちらも適当に水をすくってめぐり先輩の方に放ると、小さな水の塊が顔に直撃した。


「きゃっ!あははーやったなー!」


言いつつ、めぐり先輩は依然楽しそうで、相変わらずほんわかぱっぱ、めぐめぐぱっぱと水を掛けてくる。


「えいっ、えいっ」


「おわっ、しょっぱ!口の中入ったっすよ!」


「さっきのお返しだよー!」


きゃいきゃいと騒ぎながら、水を掛け合う。


うわぁ……何これ、すごい楽しい。


これはあれだよね、髪とかにかからないように慎重にかけてあげないといけないよね……


俺は適当にぴゃっぴゃっと胸元を狙って水をかける。


そうして至福の時間を過ごしていると、お使いに行っていたのか、戸部・会計くん・大志の三名が焼きそばやらジュースを抱えて傘の下までやってくる。


はいはい、海パン、海パン、海パン。三人とも海パン履いてました。


「城廻先輩、素敵な水着ですね」


「スタイルもシュッとしてて見目麗しいっす!」


「ウェーイ!」


荷物を置くと、三人もドヤドヤとこちらにやってくる。


ちっ、煩い連中が来やがった。


お前らは遠くの岩場で男三人磯狩りにでも興じていればいいものを……


あと何がウェーイだ。もっとちゃんと言葉を尽くして褒めんかい。


これだからボキャブラリーの貧困なロン毛は困る。


それはともかく、俺達は四人で一斉にめぐり先輩に水をかけ始める。


皆も狙うは胸元のパレオのようで、アレが水で濡れて体に張り付くといろいろ捗ると考えているのだろう。


全くもって救いようのない連中である。そんなんだから彼女とか出来ないんじゃないですかねぇ……




そうしてしばし遊んでいると、ついに真打ち登場とばかりにあの方がやってこられた。


「……大志、あんまりそいつらと遊ばないほうが良いよ……」


などとド正論をつぶやきながら、ヒーローが遅れて現れる。


……川崎沙希さんの登場である。


一見はオーソドックスな黒のビキニ。


だがよく見ると胸の縁にはフリルの処置が施してあり、ボトムの両脇も同様に波状のひだが添えつけられている。


全体的にシックな佇まいの中に僅かな可憐さを覗かせるあたりに川崎のセンスの良さが窺える。控えめでありながらも、僅かな自己主張を垣間見せるのは彼女の性分もよく表しているのではないだろうか。


長身からすらりと伸びた手足はモデルの中にあっても遜色ない。そしてはっきりくびれた腰から視線を上に向けると、慎ましい胸が揃う女性陣の中にあって圧倒的なメロンさんを備えている。これにはもう八万点を上げるね!



大志だけは身内故の気恥ずかしさか、無言で目を逸らしているが、川崎の登場に男性陣たちから一斉に歓声が沸く。


「おー!やっぱり川崎さんはスタイルが良いな……」


「水着もよく似合ってる……長身だとビキニってこんなに映えるんだなぁ」


「ウェーイ!」


「ウェーイ!」


「お、お兄さん……?」


野郎どもから歓喜の声を受けて、川崎は胸元やお腹を腕で隠して身を捩る。


「ちょっ、あ、あんまジロジロ見ないで欲しいんだけど……」


あらあらまあまあ……


川崎さんったら照れてらっしゃるんでしょうか。可愛いとこあるじゃないですか……


あれほど俺にパンツを見せつけて眉一つ動かさない冷徹ぶりだったのに、どういう心境の変化なんでしょうね……?


ニヤニヤ下卑た笑いを向けていると、あわあわと身をくねらせている川崎と目が合う。


すると突如、キッと人を殺めそうな酷薄な視線を俺に投げつけてくる。


「……あんま見ると殺すよ……」


ひぃ!ど、どういう心境の変化なんでしょうね……


やっぱ怖いわこの人……でもなんで俺だけそんな反応なのか……解せぬ……



ガンを付けられ傷心の俺だったが、ざっくと砂を踏みしめて最後の一人がやってきた。


誰あろう……生徒会長・一色いろはその人である。


「はーい!皆さんお待ちかねの私ですよー!」


一色は何か白いフリフリした水着を着てた。


以上。


「……みんな揃ったし、あそこのスペースでビーチバレーでもやるか」


「お、いーね、ヒキタニくん!なんか罰ゲームでも付けちゃう!?」


「ははっ、いいな!じゃあジュースを賭けてみんなでやろう」


「負けないっすよ!」


「……なんか、私だけ皆さんの反応が薄いような気がするんですが……」


一色の声を掻き消すように、近くで荒々しく波が立った。



※※※※※※※※※※


……と、言うわけで、皆でビーチバレーに興じる。


千葉における至高のフェミニンを自称する俺は、女性陣でも難なくトスを上げられるよう軌道を計算してボールを供給する。


女性たちにレシーブなどさせてはいけない。両腕を大きく挙げてトスで和気藹々と回してリレーを繋げていくのがビーチバレーの基本だ。


特に川崎さんにはそのような配慮が必要で、もう本当にメロンって素晴らしいなと思いました。


男性陣も俺の啓蒙に理解を示したのか、やがて積極的にボールを回してくるようになったので、俺はただひたすらに女子にボールを上げるという作業に専念した。


そうしてしばらく哲学的な遊戯に興じていると、やがて川崎が腕が疲れたと戦線を離脱する。


「そうか……残念だな。だったら俺も喉乾いたから休ませてもらうわ」


「……なんか今日は先輩のゲスさが際立ってるような気がするんですが……」


一色が変質者でも見るかのような視線を向けてくる。


何言ってるのこの子……アホじゃないのかな……?


「私達も休憩しよっかー」


「え!?もう終わり?まだできるっしょや?」


などという声も上がるが、川崎の離脱を皮切りに、皆も疲れてしまったのか傘の下で休憩を始める。


俺もジュースを求めて海の家まで行こうと腰を上げると、一色も立ち上がってはちょこちょこと俺の後を付いてくる。


それを気配で察しながら、なんとなく早足気味にせかせか歩いていると、男二人連れが視界に入った。


よく日に焼けて、身体も鍛え込んでいる。髪を染めてサングラスなどをかけており、ニヤニヤと物色するかのように浜辺に目を向けている。


なんとなくナンパ目的なあんちゃんに思えたので、俺は歩みを遅くし、一色の到着を待つべく、後ろを振り返った。



……改めて見てみると、一色はやはり人目を引く容姿をしている。


白のセパレートの水着に上下共フレアが付いており、スカート型のボトムからは可憐な足が伸びている。全体的にいかにも一色らしい趣向で彼女の雰囲気によく合っていた。


一色はこうして身体だけ見れば、それなりに可愛らしいフォルムをしている。


豊満という程ではないにしろ、華奢な中にも女の子らしい膨よかさを兼ね備え、手足の長さもバランスが良い。


俺にはその気が知れんが、一人で歩いていれば、声をかけられる可能性が2%……


あるいは、もしかしたらその四十倍ぐらいはあったりなかったりするかもしれない可能性が無きにしもあらずと言えなくも無いくさい。



というわけで、一色が追いついたのを確認すると、再び並んで海の家を目指す。


見れば、一色はニヤニヤと悪い笑みを浮かべてこちらを覗き見ている。


「先輩、そういうことなら手を繋ぎましょうよ!」


言ってしゅっと手を伸ばしてくるので、俺はそれを鬱陶しげに払って、再び一色の前をズンズン歩く。


「もう……それ訳分からないですよ……」


ぶーたれつつも、一色は俺に追いつき、二人並んで海の家をくぐった。


食事などもここで摂れるようだが、海の家価格というやつで、どのメニューもいちいち高値が付いている。


ラーメンなど一杯八百円である。


「……こういうところのラーメンって美味しいんですかね?」


ジュースをちびちび飲みながら、席についてしばらく涼んでいると、一色も値札を見たのかそんなことを言う。


「海の家のラーメンなぁ……」


あれは何と言っていいか……答えあぐねていると、この場にそぐわない全身スーツ姿の社畜が俺達二人に顔を向ける。


社畜はずっと俺たちの隣に座っていたのだが、認知しないようこれまで必死に無視していたのだ。


……しかし努力の甲斐無く、ついに向こうから話しかけてきた。


「今時は中華料理屋のラーメンでも結構美味しかったりするけど……こういうところのラーメンはそうだな……学食のラーメンの味……っていえばわかるかな?」


「はぁ……ちょっと分かんないんですけど……学食って経験したことないんですよねー」


あの、いろはちゃん?


知らないおじさんに声をかけられても応じてはいけないのよ?


「麺もテキトーで化学調味料満載……味も単調であんまりにもチープだ。専門店とは比べ物にならんよ……でも、それでも懐かしくて無性に食いたくなる時がある……そんな味さ」


「はあ……」


「おい、相手すんな」


「人生でもとりわけ楽しい時期に食ってたから、脳が美味しいと錯覚しているのかもしれないな……」


「……なるほど、給食とか無性に食べたくなるのと似たようなもんですかねー?」


「はは、それは近いな」


「だから相手すんじゃねぇよ」


一色の手を取って立たせると、急いで海の家を後にする。


そんな俺達に、社畜は片手を上げて背中で別れの挨拶をする。


本当になんなの、あのおっさん……あと、ちょっと格好いい仕草なのが腹立つ。


「……やっぱりあの人先輩に似てますよねぇ」


絶対そんな事ないと思うのだけれど……


って、何……?君知ってる人……?



※※※※※※※※※※※


海の家を出て暫く歩く。


手を繋いだままだった事に気づき、振りほどこうとするも、しかし今度は一色がそれを離さない。


はぁーと溜息をつく。


生徒総会の後からというもの、こういうシーンが多くなった。


学校などで他の生徒の目が触れるところではそんなことはしないのだが、何かの折で二人きりになると、こうしてペタペタ手を繋いでこようとする。


こいつにしてみれば、それまでもよく行っていた「袖を掴む」という行為の延長でしかないのかもしれないが……


少し強引に手を引き剥がすと、一色は残念がるでもなく、不満を見せる訳でもない。


これもいつもの調子で、代わりにまた、じっと例の視線を俺に向ける。


そして例のごとく、俺はその視線に耐えられず、顔を明後日の方にそむけた。


……あるいは、こうして反応を見るために手を握ってくるのではないか……とさえ思ってしまう……



このまま皆がいるところに戻るのもなんとなく躊躇われ、俺はそのままザブザブと海の中に入っていく。


「えー!?もしかして泳ぐんですかー?……髪濡らしたくないんですけどねえ……」


「付いて来なくていいって……みんなのとこ戻ってろ」


それだけ言い残すと、水の底を蹴って遊泳区域の最奥部を目指す。


距離的には短いものだ、本気で泳げば十秒やそこらで着いてしまうだろう。


ざっぱざっぱと泳いでいると、まもなく地元民から「たんこ島」といわれる大きな岩が視界の端に止まる。


子供たちはそこに取り付いて、きゃっきゃと楽しげにはしゃいでいるが、それを余所目に俺はもう少し奥の方まで泳いでいく。


ブイが近くに浮いているので、これ以上は進むなということなのだろう。


泳ぐ手を止めると、この海水浴場を取り囲む岩の一つに取り付いて、太平洋の向こう側を覗いてみる。


すると、向こうから、思いの外力強い波が押し寄せてきてビックリしてしまう。


「……こわ」


素直な感想が、口をついて出る。


しかしこの岩礁が、外海の強い波を緩和してくれるようで、子供でも安心の海水浴場となっているのだろう。


いわば防壁のような役割を担っているのだ。


積み上げられた岩礁と、その輪の中で楽しむ者達。


それを思わず自分の姿と重ねてしまう。



……ふと振り返ると、一色がぷあぷあ言いながら、こちらまで泳いできている。


いや、どうして来ちゃうの……この子……


やがて追いついた一色を溜息交じりに迎えると、彼女も岩にとりつき、押し寄せる波にひゃーと感嘆の声を上げる。


「わは、ダイナミックですねぇ!」


俺などは少し恐ろしくなってしまうが、こいつには程よい刺激なのか顔を綻ばせてはしゃいでいる。


……やはり何か根本的に、性質が違うのだろうと思ってしまう。


「引き波が怖いから、あっちの方行くぞ」


言って、南の端を目指して、またもざっぱざっぱと泳いでいく。


「あー!待ってくださいよー」




独りで生きるというのは、いわばこの岩礁から守られるのと同じ状態だ。


何も期待しなければ、何かに傷つけられることもない。危険に晒されることもない。


だが俺の望みに形を為そうと思うなら、あるいは挑もうと思うなら……


その時、この岩礁を取っ払わなければならない。



誰かと共に歩むとは、そういうことだ。


何かを望むというのも、そういうことなんだろう。



困ったことに、欲しいものはいつも外側にある。


……そのことを、俺はもう知っている。知ってしまっている。



「太平洋、超すごいですねー!……カメラとか持ってきたら良かったです!」



依然一色はわーきゃーと騒がしい。


その姿を見て、思わず笑いがこみ上げる。



この外海からの波が、困難な事態を象徴していたとして、


それをきっと俺は、もとい俺たちは対処できるはずだ。


まだ起こってもいない未来だから、楽観しているというのはあるのだろう。


単に考えが浅いだけ……高をくくっているというのもあるかもしれない。


それでもこの脳天気な笑顔を見ていると不思議とそう思えてしまうのだ。



「ほら、先輩、向こう見てください、サーファーですよサーファー!あはは、転がってる!」


「まあ、こんだけ波が強いと難しそうだよな」




……あの子も大概、脳天気で快活だった。


しかしこいつとは、少し種類が違うようにも思う。




「……」


「何考えてるんですか?さっきから……」


「あ……や、まあ別に……しょうもないことだ……」


言われて、ふいと視線を背ける。


本当はしょうもないことではない。少なくとも俺はそう思っていない。


ただ口に出すと、それはひどく冒涜的なことで……なんとも自分が醜く、気味の悪いものに思えてくる。


「……言ってくれたら、こっちも楽なんですけどねー」


「いちいち言わんでも分かってくれたら、こっちも楽なんだけどな……」


誤魔化すように、口の端を曲げて下卑た笑顔を向けてやると、一色は呆れたような視線を返す。


そして、はーっと息をつくと、真面目ぶった顔をした。


「……まあ、言った言わんは、どっちでもいいですよ……分かったらいいんです、わたしは」


「……」


「何でも知ってたいなーって」


じっと真摯に向けてくるその目の意味が、分からない訳ではない。


……俺は、これをもう知っている。


いつか向けられていたものに、それは少し似ているからだ。


「――!」


と、そこまで思い至り、再び顔を背ける。


……横目でチラリと覗き見ると、そんな俺を、一色はブクブクと顔を半分海面に沈めながら眺めていた。


もはや髪が濡れるのを気にしている様子はない。




―― 罪悪感は日に日に深くなる。


しかし、よほど意識を変えようと思っても、それは容易ではない。


こいつの前では澄ました顔で取り繕うも、一旦、自らのおぞましさを自覚すると、もう顔をまともに見せられなかった。


聡い奴だ。……わずかでも隙を見せれば、こいつは気付いてしまうだろう。


それが今の俺には、もっとも恐ろしいことだった。


再び、岩礁が自分と重なって見える。


俺が本当に守りたいものは……一体なんなのだろうか。



無体のない、曖昧な思考に沈みかけた、その時だった。



不意に、ひやりとした感触が腹の底から込み上げてきて、得も言えぬ恐怖に身震いする。


「ふー……、わたしそろそろ浜辺に戻りますねー!」


ひとしきり堪能したのか、一色が俺にそう告げる。


そして、泳ぎ去ろうとする一色のその肩を、俺はがっしと掴んでしまった。


「……行かないでくれ」


「……え?」


ほとんど無意識に手を伸ばし、自覚もなしに、そんなことを口走る。


―― 衝動を抑えきれなかった。


「聞いてくれ、一色」


もう一つの肩を掴んで、やや強引にお互い向き合う姿勢を作る。


見やると、一色は顔を赤く染めており、その瞳はわずかに潤んでいた。


「あ、あの……これって……」


この表情……一色は聡いところがある。


……もしかすると、俺がこれから何を言わんとしているのか、だいたい察しがついているのかもしれない。


いつもと逆で、視線を合わすのが恥ずかしいのか、一色は海面に顔を俯ける。


それを咎めるように、俺は思わず大きな声を出してしまった。


「こっちを向いてくれ!」


「あ、あの……!でも、でも……」


「あ、や、すまん、大きな声出しちまってよ……怖いのは禁止だったよな」


「それはいいんですけど……あ、あの、それって……」


「自分のことながら不甲斐ねぇけどよ……俺にはお前しかいないんだ、こんな事言えるの」


「それって……」


ドクドクと胸が早鐘を打つ。


おそらく自分の顔も、今羞恥で赤く染まっているのだろう。


それでも言わない訳には行かなかった。


ちっぽけな自尊心など、何処かに置いていくべき時が人生にはあるのだ。


それが今なんだろうと思う。


自分を取り囲む防壁を捨てなければいけない。


こいつになら言っても大丈夫だ。それだけの蓄積があるのだと信じて……


「一色、あのよ……」


「は、はい……」


一色はもはや耳まで顔を赤く染めて、ぼうっとこちらに顔を向けている。


近くでまた大きな波が岩を叩いた。


白い飛沫が俺達の間を抜けていったが、それでも互いに目を合わせたまま顔を逸らさなかった。



「一色……俺……」



――意を決して、俺は口にする。










「……海パン、脱げちまった」


「……へ?」



「いや、気分よくここまで泳いでたんだが、いつの間にかスッポ抜けてたみたいなんだわ」


「……は?」



見ると一色は、俺のことを磯から出てきたウミウシでも見るかの如き目を向けている。


無理もない、本当に我が事ながら、恥ずかしいやら情けないやらで、汗顔の至りである。


一旦気が付くと、なんかお腹ヒンヤリしますし……


「悪いが、ちょっと一緒に探してくれねぇか。すまんな、こんなの頼めるの……俺にはお前しかいないんだ」


「は、はぁ……もうなんと言ったらいいか……一体何考えて生きてるんでしょうね……この人は……」


呆れた一色だが、はたとこちらに目を向ける。


「ちょ、ちょっと待って下さいよ!ってことは今、先輩すっぽんぽんって事ですよね!?きゃー!ちょっと離してください!はなーしてー!!」


バタバタと暴れだして、俺の手から逃れようとする一色。


「おいこら暴れるんじゃねぇよ!わっ馬鹿、エロ!下向くな!こっち向け、こっち!」


水面下では、ぽろーんと教育に良くないものを露出しているので、あまり暴れられると惨事に繋がりかねない。


「と、とにかく思い出してくださいよ!どこら辺で脱げたのか!」


「うーん、最初の岩に取り付いた時はこの違和感は無かったんだよなぁ」


「ってことは、この辺でしょうかね……他には無いですか?」


「悪戯な波にさらわれちまったんだと思う。一際強い波があっただろ?その時かなぁ……?」


「うー……参考にならないですね……もうなんでも良いですから、とにかく洗いざらい思いついたこと言ってみてください!」


そう言われてもなぁ……


「とにかく何でも教えて下さい!」


「……そういや去年林間学校でよ、俺が風呂場の脱衣所でパンツを降ろした瞬間、戸塚が入ってきたことがあってな……あん時も恥ずかしかったわ……」


「いや……その情報はいらないです」


なんなのこの後輩……


人が心の障壁を取り払い、明け透けに想いを打ち明けているというのに……


さっきから、ちょっと態度がつれなくないですかね?


「……あ、私の水着のスカートのフレア部分取り外せるんですよ。これを巻いてホテルまで戻れば……」


「はみ出しちゃうんじゃないですかねぇ……」


それに、そんな姿で歩いている男が居たら、俺なら目撃次第通報しちゃうゾ!


「引き波があるからな……案外岩とかに張り付いてるかもしれん」


「わっ!?先輩、私の前に立たないでくださいよ!そ、そんな粗末なものを見せられても困るんですけど!」


言って、耳を引っ張り、海中に沈めようと下に引いてくる。


「ちょ待て、お前、そんなことしたらひっくり返っちまうだろうが!」


抵抗しようともがいていると、浜辺にいた戸部が俺たちの方を訝しげな顔で見ている。


バシャバシャと一色と掴み合っているが、遠目には溺れているように見えるかもしれない。


嫌な予感がする……


被害者の会のメンバーは以心伝心。アイコンタクトで大方の意図を伝え合うことが出来る。


―― ヒキタニくん!?大丈夫?もしかして溺れてる?


案の定、戸部がそんなテレパスを俺に伝えてくる。


それに対して俺は優しく微笑んでゆっくりと首を振った。


―― 心配するな。これは全然違う。頼むからそこにいてくれ……!ステイッ!


意志が通じたのか、戸部は頷くと、くるりと俺達に背を向けた。


ほっと胸をなでおろしたのも束の間、戸部はパラソルの下で焼きそばを食べていた面々に声をかけると、それに応じてか皆でドヤドヤと海に入ってきた。


「待ってろ!会長、今行くぞーーー!!」


「今助けるべ!ヒキタニくん!落ち着いてーーーー!!」


副会長と戸部のよく通る声に、ライフセーバーの兄ちゃんもこちらに気付いたのか、すごい良い走りっぷりで向かってくる。


「わわわ、せ、先輩、どうしましょう!?なんかみんなすごい勢いでこっちに向かって来てるんですけど!」


見ると、全員総出でこちらに向かってきており、ロスタイムの最後のセットプレイみたいになっている。


ふ、ふわぁぁ……これシーズン2始まって早々、最大のピンチだよ……


一色と肩を抱き合い、迫りくる皆の救援をただただ震えながら待つ。


俺の黒歴史がまた一ページ……



観念しようとしたその瞬間、影が頭上を走り、一瞬太陽の光を遮った。


「あれは……」


太陽を背に飛沫を纏って煌めくのは、未紛うこと無くマイパンツである。


かつて、これほど神々しく輝きを放つ海パンを俺は見たことがない。


間もなく、べちゃっと海パンが水面を叩くと、急いで拾って足を通す。


「た、助かった……」


それにしても一体誰が……?


投げ入れられた方向を見ると、浴場の脇に広がる岩場の上に、この場にはそぐわない全身スーツ姿の社畜が立っていた。


ニヤリと笑うと、こちらにぐっとサムズアップを向けてくる。


……わぁ……社畜さん!




※※※※※※※※※※


岩場で磯遊びに興じていた社畜のおかげで、九死に一生を得た。


こうして俺のひと夏のMAPPA体験は皆に知れ渡ることもなく、事態は沈静に至ったのである。


皆でぞろぞろとホテルに帰る途上、隣で一色がにこっとこちらに笑顔を向けてくる。


「良かったですねっ、先輩!大事にならなくて……ププ……」


言い終わらない内に、にこやかだった笑顔はやがて意地悪く歪んでいく。


一色にこれ以上ないぐらいのゆすりネタを提供したのは悔やまれるが、まあ、しかしあまり恐ろしくもない自分がいる。


多分、二人きりの時にからかわれて、俺がただただ赤面するだけのことだろう。



……それにつけても有難いのは社畜である。


ここは個人的に謝礼を送るのがマナーであろう。


社畜はこのホテルの客だが、従業員である俺が直接部屋に押しかけるのは良くないような気がする。


なので、私服に着替えてロビーに赴くと、うろちょろとその姿が現れるのを待つ。


「やぁ君、さっきは大変だったね」


ほどなく、スーツ姿で現れた社畜に駆け寄ると、俺はお礼を述べる。


「ありがとうございます。さっきは本当に助かりました。あの……これ、つまらないものっすけど……」


……と共に、さっきホテルから買い入れたビールの小瓶を差し出した。


少し困った顔をする社畜だったが、溜息を付くと苦笑して瓶を受け取ってくれる。


「……まあそうなるよな。じゃあ、遠慮無く頂いておくよ。ありがとう」


当初、社畜はもっと暗い顔をしていたと思ったが、出会う度に顔の険が取れていっているように思える。


初めてサイゼであった頃に比べると、雲泥の差だ。


「それにしても若いってのは良いもんだな……昔を少し思い出したよ」


「はぁ……」


「とりわけ、君は俺の学生の頃に良く似ている」


「は、はぁ……」


う、うん……でもそれはちょっと嬉しくないかなって……


社畜はそう言い残すと、ビールの小瓶を指に挟み、ちんと鳴らしながらクールに去っていった。


出逢う度に格好良くなっていく気がするが、本当にあの人なんなんだろう……?




※※※※※※※※※※


さて、アルバイトも五日目だ。


一色のせいで思わぬ激務となったが、期限までは残すところあと二日だ。


ここに来て、俺もすっかりこなれてしまったので、フロア業務の不安はあまり無い。



……しかし今日は夕方に大きなイベントを控えている。