ハラショー、マイラバー
海未ちゃんがデリヘル呼んだらえりちが来た話、完結。
μ'sとか関係ない世界観、二人とも三十路です。
「…そう、ですか」
あの人が店を辞めた。
「いえ……今回はやめておきます。すみません」
ホームページを最後に見たのはいつだったか。スマホの履歴はたまに美容院が混ざる程度で、あとは店ばかり。一言伝えて欲しかったと言ってもどうしようもないけれど、怒りに似た思いがこみ上げた。
「馬鹿馬鹿しい…」
気がつけば安いカップ酒ひとつ入った袋をぶら下げて佇んでいた。深夜2時、コンビニ前。何かに依存しなければ仕事はおろか生活すら出来ない事が情けなかった。1人部屋に居ることが嫌でせめて散歩でもと思ったが、人と話したのはお巡りさんから職質された事とコンビニでポイントカードを差し出した時だけ。仕事以外の時、私はどんな生活をしていたのだろう。こうも味気なく、面白みのないものだったか。
公園の植え込みに腰掛る。ぱきゅ、と軽い音を立てて瓶のフタを開ける。3LDKは1人に広すぎたか。ティーセットを新調したことも、化粧品を変えた事も無駄になってしまったけれど、部屋をこまめに掃除したことは良かったか。全てはあの人の為だったけど。
「馬鹿馬鹿、しい…」
鬱陶しい脳内を鎮めるため、安酒を一息に流し込む。彼女にとって私は数ある客の1人でしか無い。私は売り物である彼女の身体を定期的に買っていた。彼女は仕事を辞めた。それだけじゃないか。
この歳になって外で泣くことを非常に恥ずかしく思った。分別も何もないゴミ箱に袋ごと捨て、唇が裂けることを危惧しながら帰った。
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「留守、か……」
私の知る限りでは、彼女は明日休日のはず。とはいえこんな時間にインターホンに出る人がいるか、と立ち尽くす。深夜2時、マンションのエントランス。彼女の住所は知っていても、彼女個人の電話番号ひとつ知らない関係の弱さに頭痛すら覚えた。手帳に付いているメモ欄で置き手紙のひとつでもと思ったが、ここ数ヶ月の仕事に忙殺され、かつてのシフトやお客の情報で隙間無く埋まっていた。忙しくなるきっかけになった彼女の名前はメモ欄の一番初めに小さく書いてあった。
あなたに恋をして、あなたがリピートしまくるおかげでたくさん稼いで、たくさん汚れました。書けるスペースは残ってないから、今の無し。
このまま帰るわけにもいかず、なにか手頃な紙でもないかとカバンを漁るが、さっき寄ったコンビニのレシートくらいしかないことに溜息が漏れた。どうしてこう大事な時に。レターセットとは言わずとも、気の利いた一筆箋くらい持っていたかったと反省しつつレシートの裏に書く。目立つよう彼女のポストに挟んでマンションを後にした。
「…何やってんだろ」
駅に向かったって終電はとうに行った。履歴からタクシーを手配する。来る時思ったけどここまでタクシーだと結構かかるのよね。彼女はいま何をしているのだろう、不貞腐れて寝てしまったのか。はたまた残業か。それとも、似合わないくせにまずい酒でも飲んでいるのだろうか。
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そろそろスーツの上に一枚羽織らないと冷える。コンビニ袋をぶら下げて歩く午後7時。仕事でもしないと気が狂いそうになり、午後から休出にしてしまった。結局、何かに依存しなければ生活できないのだなと再度実感する。
カップ麺と作り置きのおかずをもさもさと頬張る。テレビからは家電に詳しい芸人があぁだこうだと議論を交わしている。絶妙なタイミングで入るスーパー字幕、ツッコミ、笑い声。ふと今の自分を笑われているように思えてしまい、チャンネルを変える。
お気に入りの風俗嬢に逃げられて、休日に仕事しなければ精神を保てない女。情けない字面である。気づけば休日のはずだった今日はあと数時間しか残されていなかった。そういえば新聞すら取りに行っていないと、テレビに映る野球中継を見て思った。
「……はぁ」
新聞、電気代の通知、コンビニのレシート。どこかの子どもの悪戯だろうか、私はこんな些細な事にすら腹を立てているほど荒んでいるのか。どうせ今夜もろくに眠れないだろう、またコンビニに酒でもと踵を返すと。
一番会いたくて、でも今だけは、この瞬間だけは絶対に会いたくない人が、いた。
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部屋では野球中継が垂れ流され、カップ麺の容器には割り箸が刺さったまま。「片付けるので10分待ってください」と半泣きの顔でドアを乱暴に閉められるまでの数秒で見えた、彼女の隙。同じ人間なのだなという思いが、勝手に築き上げてきた劣等感を壊す。
「急に来ることないじゃないですか」
そういえばスーツ姿を初めて見た。子どものようにむすっとした顔がスーツとちぐはぐで、それでいて似合っているものだから可笑しかった。
「ごめんってば、一応書き置き残したんだけど」
「れ、レシートはないでしょう、ゴミかと思いました」
「ごめん……」
さっきから謝ってしかいない。いや、謝りに来たのだけれど、本題に入る前にここまで謝るとは。知りあって結構経つけれど、こんな風に改まって話すのは初めて。流石に緊張する。
「あの、本題なんだけど」
「……はい」
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彼女はいつもの軽い態度とは違い、顎に重りでもつけているかのように、ゆっくりと話し始めた。言葉を選んでいるというより、用意してきた言葉が言い出せないという感じ。
私がリピート指名を入れ続けたためボーナスが出たこと、評判も上がって私以外の客も増えていたこと、ここ数ヶ月で年収以上稼いだこと。そして私以外の客は全て男性だったこと。
「……もういいかなぁって、思ったの」
「そうですか…」
「…だからね、もう電話しても私は居ないの」
「実は昨日、電話しちゃったんです」
「あ…ごめんなさい…海未の連絡先とか、そういえば知らなくて」
もう何度も何度も会っているのに、電話番号はおろか彼女の本名すら私は知らない。歪で不思議な関係。仕事上、個人情報を出す事はタブーなのだろうと察しはついていたけれど、今なら。
「今なら、えりさんの連絡先…聞いてもいいですか?」
「えぇ、もちろん…携帯、貸して?」
私の携帯に手際よく連絡先を打ち込む彼女。これで、彼女を直接呼べる。なんだってお話できる。彼女を手に入れたような気さえしてくる。
「…はい、一回電話かけてくれる?」
携帯の画面には、絢瀬絵里の文字。初めて見る彼女の名前。えり、って源氏名じゃなかったんですね。
私ずっと、あなたの名前を呼んでいたのですね。
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この部屋の玄関にもすっかり慣れた。するすると靴を履き、傘を持つ。
「…絵里、あの、また連絡します」
「私しばらく無職だから、いつでも待ってるわ」
私無職だから、と口にして情けない気持ちになる。少なくともこんな顔で言う台詞ではなかった。
「おじゃましました」
……思っていた事、半分も言えなかった。大事な事も、一番言いたかった事も。
本当はこれ以上汚れたく無かったから店を辞めたの。海未に触れるたび話すたび、あまりに綺麗だから嫌になったの。仕事にならないくらい、あなたの事が好きになってしまったの。
「馬鹿みたい、ね……」
ガコガコと低音を響かせながら、エレベーターが登ってくる。本当は告白するつもりだった。鞄を膨らませているのは泊まるための用意。晴れの日なのに持っている傘は、明日が雨の予報だったから。自分の自意識過剰さが恥ずかしさを超えて腹立たしい。次にここに来るのはいつになるのだろう。もしかしたら海未はすごく怒っていて、もう2度と連絡をくれないかもしれない。
エレベーターに乗り込んだ時、どこかの部屋で乱暴にドアを開けるような音が聞こえた、気がした。
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彼女の連絡先を手に入れた。彼女の携帯にも、私の名が登録された。短い時間に色々なことが起こり、何が何だかわからないまま幸せな思いだけが空回りしていた。
……本当に連絡したら来てくれるのだろうか、そんな思いが影を差す。馬鹿みたいに怒って、へこんで、喜んで、その先はあるのだろうか。年甲斐もなくムキになるのは、あなたの事が好きだからか。
告白なんてした事ない。初恋なんて覚えていない。女同士とか初恋だから、なんて考える余裕が無かった。もう会えないのではないかという恐怖、一緒にいて欲しいというプリミティブな衝動が身体中の堰を切る。ストッキングのまま、ドアを蹴破るように開けた。
「え、絵里…!」
エレベーターに頭から転がり込む。彼女は洒落たビー玉みたいな目を見開いて驚いていた。頭おかしいとか、思わないでくださいね。
「海未…あの、どうしたの」
「いっ、しょに、今夜…だけじゃなくてあの、すき、です」
他所様の告白なら何度も見た、もっと知っているはずでしょう。初めての恋が、告白が、こんな情けなくて不細工なものになってしまうとは。
「……っ」
「あぁごめんなさい、告白なんかしたことなくて、下手でごめんなさい…あの、ご、ごめ」
「海未」
違う、謝るんじゃなくて、そうじゃなくって。まんまるだった彼女の目はいつの間にか冷たいと感じるほど細く、ぼたぼた涙を流す私を見据えていた。
「海未、私はね…汚いよ?」
「…そんなことな」
「あなたが思ってるよりたくさんの人に身体を売ったの」
彼女は顔色一つ変えず、音読でもするように話す。
「キスだってセックスだって毎日してた…煙草咥えさせられてもあちこち触られても変な声出して、お金貰って生活してたの」
「…っ」
「……海未の事好きよ、大好き。でもあなたとは釣り合えない。海未を汚したくないの。」
この人、は
「…かん、けいないじゃないですか……!」
「……え…?」
「私、絵里のことが好きで…絵里も私が好きで」
「でも」
「私が一緒にいて欲しいってお願いしてるんです、だめですか」
「……海未」
「汚いとか汚したくないとか、そんなことどうだっていいです」
怒っている。焦っている。興奮すらしている。引いたら二度と戻れないから、なんとしてもここで。
「私は絢瀬絵里が好きです……から、おつっき、あいを」
「うみ……」
彼女の目が、眉根が、口角が、ぐしゃっと歪む。きっと私も同じ顔だろう。
「…園田海未と、お付き合いしてください」
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