海から来た人
嵐の夜。とある島に男と一つのジュラルミンケースが漂着する。名前もなく、地図にもない、もう終わってしまった島に流れ着いた彼には記憶がない。そんな彼と艦娘の物語。
SS初投稿です。妄想垂れ流すのでよろしければ読んでってください。
めちゃくちゃ好き勝手書いてますけど、応援とか付くと嬉しいですね。なんか読んでもらえてるみたいで。
ちなみに五章構成です。(プロローグ、一章、二章、三章、四章、終章)
これは第一部です。
終わると第二部に続きます。
昨晩の大嵐が嘘のような快晴であった。
雲ひとつない青空が水平線の彼方まで続いている。
照りつける太陽の日差しは暑すぎるくらいだ。
夏も終わり、秋へと向かうこの時期は徐々に涼しくなっていくのだが、台風一過となった今日は一段と気温が高い。
薄手のパーカーを羽織ってきたことを少し後悔しつつ、彼女は歩きなれた道を進んでいく。
目的は海岸だ。
肩に担いだ釣竿と手に持ったバケツを見れば彼女の目的は一目瞭然だろう。
食糧調達は重要な仕事の一つだ。
彼女の成果ひとつで今晩の皆の笑顔が決まると思えば一際責任も感じる。
もちろん山で畑を耕している分や、罠を仕掛けて野生動物を捕まえているので全責任が彼女に掛かっている訳ではないのだが。
少し湿った土を踏み歩いて草木を掻き分ければ舗装された道に出る。
コンクリートのしっかりとした足場を暫く歩くと防波堤の向こうに砂浜が見えた。
岬の灯台から少し離れたこの位置は個人的によく釣れるお気に入りの場所である。
この場所で調子が悪い場合は違う場所でも釣るが、基本的に彼女は好んでここを使用していた。
よく釣れるという理由以外に単純にこの場所が好きなのかもしれない。
「いい天気なのです」
ゴミを捨てる人がいないから綺麗なこの砂浜も、台風の影響で色々なものが流れ着いていた。
流木や金属片、ジュラルミンケースや人間。
「なのです?」
いやいや、人間はおかしい。
「なのです???」
思わず二度見してしまう。
が、間違いなく波打ち際に人間が倒れていた。
「大丈夫ですかっ!?」
叫び、慌てて駆け寄る。
その人は成人男性だった。
見た目二十代後半~三十代前半だろうか。
ボロボロの布きれになってしまった衣服が辛うじて残っているが、布で隠しきれていない地肌には生々しい傷跡が残っている。
裂傷、火傷、打ち身と怪我のオンパレードだ。
触れてみると体が酷く冷たい。とても人肌とは思えないが、確かに呼吸はしている。
限界まで衰弱してはいるものの、まだ生きているのだ。
「しっかりしてくださいっ!!」
医療設備はない。
治療できるような知識を持つ人物はこの島にはいない。
けれども目の前の命を見捨てることは出来ない。
「死んじゃだめなのですっ!」
懸命に呼びかけて抱きしめる。
自分の体温を分け与えるためだ。
「もう、目の前で誰かがいなくなるのは見たくないのですっ!!」
それがたとえ見知らぬ誰かだとしても。
そこは忘れ去られた島であった。
地図上に存在しない島。
地図から消された島。
そこは行く場所を失った者がたどり着く、最後の楽園。
瞼が重い。
目を覚ましたいのだが、何故かいくら頑張っても瞼が開くことはない。
気合と根性で強引に瞼を見開いた。
激痛が走る。
両目が痛い。
真白だ。
何も見えない。
まるで久方ぶりの情報に脳が混乱しているかのようだ。
しかしそれも徐々に慣れていく。
まず目に入ったのは見慣れない天井だった。
ひび割れだらけの天井だ。
蛍光灯にもひびが入っていて使い物になるとは思えない。
この部屋の光源は右手側の窓から存分に注がれる太陽の光だけだった。
自分が横たわっていることを理解して上体を起こそうとするが体が動かない。
それどころか腕も動かなかった。
動かせて指程度である。
無理に動かそうとすると体中に激痛が走る。尋常ではない痛みだ。
我慢できるレベルのそれではない。
痛みに泣き叫びたいが、どうやらまともに言葉すら発せられない状態らしい。
口から出たのは掠れた喘ぎ声だけだ。
「起きたのですかっ!」
声の方向を向きたいが、首を動かすことさえもまともに出来ない。
何とか瞳だけ動かして声の方向に視線を向ける。
そこには慌てて駆け寄る小学校高学年程度の少女がいた。
セーラー服に淡い桃色のパーカーを羽織っていてとても可愛らしい。
後頭部に纏めた髪型が特徴的な少女である。
「よかったのです。目が覚めて……」
「い、……い、あ……?」
君は?そう声に出したかったのだがまともに言葉にならなかった。
「? ……えっと、君は? ですよね? 電です」
いなずま。変わった名前だ。少なくとも女の子に付ける名前ではないだろう。
もっと話したい。
もっと聞きたいことがある。
けれども、体力の限界のようだった。
これ以上は意識が持たない。
抵抗する間もなく意識を手放す。
「大丈夫なのですかっ?」
心配そうな彼女の、電の声を最後に。
暗転した。
目を覚ます。
いったいどれだけの時間意識を失っていたのだろうか。
やはりまだ体は動かない。
「あ――っ、おお、…………」
喉と舌の調子は多少回復したようだ。
が、まだ本調子には程遠い。
「目が覚めたみたいだね」
知らない声だった。
電ではない。
今度は声の方向に顔を動かせた。
「き、み……、は?」
「私? 艦娘よ。川内型一番艦の川内。よろしくね」
「か、……ん、むす?」
かんむす。聞き覚えのない単語だった。
「え、うそ? 艦娘を知らないの? このご時世に??? あれ? 別に艦娘って機密事項とかじゃなかったよね? 一般的に知られていたと思うけど……」
どうやらかんむすとやらを知らないのは常識知らずに分類されるらしい。
「生死の境を彷徨っていたんだけど、思っていたよりも元気みたいだね。どう? 少し自分のこととか話せる?」
「……………………」
分からない。
知らない。
何も知らない。
何も覚えていない。
何一つ、思い出すことが出来ない。
「おれ、……は、だれ、だ……? こ、こ…………は、ど、こだ?」
「うぇえ……」
川内と名乗った美少女は言葉に出来ない複雑な表情で唸った。
「もしかして、記憶喪失?」
「わから、ない。……な、にも、おもい、……だせない、ん、だ……」
再び堪えがたい睡魔が襲いかかってくる。
どうやら体力の限界らしい。
少し話しただけでこの様だ。
情けなくて涙が出る。
夢を見ていた気がする。
内容は覚えてない。
が、ろくでもない夢だったのは間違いない。
そう、悪夢と呼ばれる類のものだ。
それを振り払うように目を覚ました。
「……ここは」
「び、びっくりしたのです」
感覚で分かる。相当体力が回復している。
長時間使っていない筋肉は相当訛っているだろうが、生命力が戻っていることは確かに実感できた。
何より言葉を紡ぐことが苦痛ではなくなっている。
ということはかなりの時間を寝ていたということではないのだろうか。
「俺が前回目を覚ましてからどれ程経過している?」
「え? えっと……、三日なのです」
三日も寝続けていたらしい。
「ここはどこなんだ?」
「………………名前のない島。忘れ去られた場所、なのです」
答えにくそうに悩んだ後、小さな声で彼女はそう言った。
「君が、俺を助けてくれたのか?」
「そういうことになると思います。電が偶然海岸で倒れていた貴方を見つけたのですよ」
「そうか、ならまずは命の恩人に感謝を……。ありがとう」
上体はまだ起こせない為、声と目で誠心誠意感謝の意を伝えた。
「どういたしまして、なのです」
記憶喪失。確か川内という少女がそう言っていた。
「どうやら、俺は記憶喪失というやつらしい」
「はい。川内さんから話は聞いているのです。ゆっくり体を癒しながら、思い出せばいいと思うのですよ、慌てる必要はないのです」
優しすぎる。
天使なのだろうか。
見た目小学生なのにあまりにも対応が大人すぎる。
「体力が戻ったら恩返しを必ずする。約束しよう」
「あとのことは考えなくていいのです。今は自分が回復することを優先してください」
叱られてしまった。
だが彼女が言うことももっともだ。
死に体の自分が何を言っても説得力がない。
不言実行。
自分が動けるようになったとき、彼女に恩返しをする。そう己に誓えば済む話だった。
「病み上がりで申し訳ないのですが、無理にでも何か、食べられます?」
「……固形物は多分無理だと思う。わがままを言って申し訳ないが」
「正直で助かるのです。……そうですね、栄養価の高い飲み物から持ってくるのです。それに慣れたら今度はおかゆに挑戦してみるのです」
面倒見が良すぎる。
この子は自分の母親ではないかと錯覚してしまう。
「君は大人びているな」
「……大人になるしか、なかったのですよ」
「え?」
「なんでもないのです」
そう言い残して彼女は部屋から出て行った。多分飲み物を取りに行ったのだろう。
「確かに大人だが、どうして時折悲しい影を帯びた表情をするんだ……」
独り言は部屋に寂しく木霊した。
名前がないと困りますね。
その電の一言がきっかけだった。
自分の名前すら覚えていない彼は、その流れで電から仮の名前を貰うこととなった。
海から来た人だから、【海人】そう名付けられる。
その日から彼は海人と名乗ることとなった。
海人の世話は主に電と川内が行っている。
二人とも面倒見が良くとても気が利くので不便はない。
このボロボロの建物には他にも艦娘がいるらしいのだが、現状海人はこの二人しか見たことがなかった。
この狭い部屋が世界の全てである海人にとてってはこの世界に訪れない人物はいないも同然なのだ。
だが電や川内との会話の節々に確かに他の人物の影はちらほら見受けられる。
それと同時に二人が意図的に他の艦娘との接触を防いでいる節も見られた。
不自由はないが隔離されている窮屈感ははっきりと感じ取れる。
他愛のない会話と徐々に回復する体。過ぎ去っていく毎日。
気付けば、海人は一人で立ち上がり、松葉杖があれば歩くことも可能なまでに回復していた。
「信じられない回復力なのです……」
「海人、元気になったねー」
「全部君たちのおかげだ。本当に感謝しかない」
部屋の中を松葉杖で歩き回り、一息ついたところである。
「えーっと、俺はこの部屋から出たらまずかったりするのか?」
「そんなことはないのです」
「うーん、確かに入っちゃいけない場所はあるけど、そこさえ気を付けてもらえれば問題はないと思うよ」
隔離されていたのは気のせいだったのだろうか。
あまりにもあっさりと外出許可が出てしまう。いや、部屋から出ることを外出というかは定かではないが。
「そうか、ならリハビリついでにこの建物を見学したいんだが……」
「いいんじゃない? 電が付き合ってあげなよ、夜型の私にはもうそろそろ限界……。自分の部屋で一眠りしてくるね」
そう、川内は昼夜逆転の生活をしているらしいのだ。
理由を聞いたところ夜が好きだからと言っていたのを覚えている。意味が分からない。
実は日中は電、日没から日の出までが川内と二交代で二十四時間海人を看病していたらしく、この二人には頭が上がらない思いだ。
「ではこの鎮守府を案内するのです」
「ちんじゅふ?」
「……失言でした。忘れてほしいのです」
「まぁ、君が忘れろと言うなら俺は忘れるが」
鎮守府。漢字にすればこうだろう。
確か海軍の軍港を指す言葉ではなかったか。
ここは鎮守府である。いや、鎮守府であった。という表現の方が正しいのかもしれない。
そして電はその話題を嫌がっている。
彼女が嫌がっているのだ。海人がその話題に触れないし考えないと決める理由にそれ以上は必要なかった。
故に彼は考えることをやめた。
それがこれから己の不幸を歩む道になるとも知らずに。
彼女との出会いは鮮烈であった。
初めて寝たきりだった部屋を出て数秒の出来事だ。
向けられたのは凍てつく絶対零度の瞳と研ぎ澄まされた鏃。
張りつめられた弦はその脅威を打ち放つ寸前だ。
「まっ、ままままま待つのですっ!」
「電?」
「加賀さん、この人は違うのです敵じゃないのですっ!!」
慌てて射線上に躍り出た電は海人を庇うように立っている。
こんな年下の少女に守られては情けないことこの上ないが、こちらはまともに動けない怪我人でもある。致し方ないだろう。
恥ずかしいことはもちろん恥ずかしいが。
「――そう。貴方が例の人なのね」
「怖い顔してどうした? 殺人鬼にでも見えるか? よく見てみろこっちは無害な怪我人だ」
おどけた様子で挑発的に海人は言う。
顔は笑っているが背中には冷や汗が流れ落ちていた。
電が止めに入らなければ間違いなく射抜かれていただろう。
理由も動機も不明だが彼女は明確な殺意をもって海人を狙っていた。
「命が惜しいなら、あまり私に近寄らないことをお勧めするわ」
言い残して加賀と呼ばれた少女は立ち去る。
「……とんでもない美女だけどそれ以上におっかないなぁ」
「色々あって加賀さんは人間嫌いなのです。ごめんなさい」
「電が謝る必要はないだろう。もしかして、俺を他の艦娘と接触させなかったのはこういうことか?」
「なのです……」
電と川内は海人の身を守ってくれていたのだ。
窮屈と思っていたことを心の中で謝罪する。
「えーっと、気を取り直して案内頼みたいところなんだが」
「はい?」
「いまので体力使い果たした。情けないのは分かっているが、また明日でいいか?」
「そうですね。無理はよくないのです」
実際は体力的にはまだ余裕がある。
しかし、現状を把握していない状況でこの建物を歩き回るのは命がいくつあっても足りないだろうという判断からだった。
いくら電が一緒にいるとはいえ、他にも加賀のような艦娘がいないとも限らない。
死と隣り合わせの散歩をする度胸は海人にはなかった。
今晩、川内にでも少しここがどういう場所なのか聞く必要がある。
電は教えてくれるだろうが、彼女は何故かそういう話をするとき悲しい表情をする。彼女の悲しむ顔はどういう理由であれ見たくはなかった。
それは自分の身の安全よりも優先されることだ。
「夜は良いよね~、夜はさ」
それが彼女の口癖であった。
窓の外には僅かな雲と丸い月と数え切れないほどの無数の星が輝いている。
宝石を散りばめたような空を眺めている月明かりに照らされた彼女はとても美しい。
川内はとても綺麗な少女なのだ。
「俺のことを看病するために傍にいるって話。俺の身の安全を守る意味もあったんだな」
「ん? まぁついでにね。そんなに深く考える必要はないよ」
加賀の冷たい視線とあからさまな殺気は海人を殺すことに躊躇いがないことの証明だった。
いや、もしかしたら殺したくてたまらないのかもしれない。
「俺は加賀に何かしたのか?」
「海人が何かした訳じゃないよ。加賀さんは人間が嫌いなだけ」
「殺したいほどに?」
「そうなるね」
どれだけのことが彼女にあったのだろうか。事情を知らない海人には推し量ることは出来ないが並大抵のことではないだろう。
「ここでいったい何があったんだ?」
川内は夜空を眺めたまま口を開こうとしない。
話す気がないのか、あるいは話すことが出来ないのか。
諦めて話を変えようと思い至った頃、ゆっくりと川内は呟いた。
「ここは、昔鎮守府だったんだ……」
鎮守府、電の口からも聞いた言葉だった。
「沢山の艦娘がいてね。加賀さんや電、私もその一人だった」
黙って川内の言葉に耳を傾ける。
「端的に言うと、この鎮守府は敵の攻撃を受けて壊滅したのよ」
そのような気はしていた。
この部屋でしか生活していないが、あまりにも建物にひび割れや歪みが多いのだ。
それはもう老朽化や経年劣化では説明できないレベルである。
「鎮守府の設備の九割は破壊。所属していた艦娘の七割が轟沈。ここの責任者である提督は襲撃で命を落としてしまった。その生き残りが大本宮に連絡することも叶わず、ここでひっそりと暮らしているわけ」
経緯と境遇は把握した。
が、疑問が残る。
「それと加賀の人間嫌いのどこに関係があるんだ?」
「その襲撃ね。大本宮の作戦だったの。私たちは囮として切り捨てられて、裏切られて、捨てられたんだ」
兵器として生まれて。
海域を取り戻すために戦って。
そして最後は人間に裏切られ捨てられる。
人間への憎悪が、堪えきれぬ殺意が宿って当然だった。
「……川内は人間を恨んでいないのか?」
「どうだろうね。ここには心が壊れてない艦娘なんていないからさ、私の感情はもう歪で理解して貰えるとは思えないかな?」
窓辺にいた川内は音もなくベッドで横たわる海人に近付いていた。
近い。
吐息が触れる距離。
視線と視線が至近距離でぶつかる。
「夜戦が愛おしいの。私には夜戦しかないの。でも夜戦が出来ないの。夜戦が出来ないと生きている意味なんてないの。でも死ぬと夜戦も出来ないし。もうどうにかなりそうだけど、海人が来た」
呼吸が止まる。
底の知れない泥沼のような瞳に射抜かれて動けない。
「人間がいれば夜戦が出来るかもしれない。だから生きてもらわないと困る。加賀さんに殺されたら困るの」
焦点の定まっていない瞳がどこかを凝視する。
目の前にいる海人を見ていない。
底冷えする雰囲気に心臓が止まりそうだった。
「ねぇ、私に夜戦、……させてよ」
狂気に染まった少女が、目の前にはいた。
「じゃないと、私が――しちゃうよ?」
最悪の寝覚めだった。
昨晩のことは覚えている。
覚えているが、あれは夢だったのだろうか。
夢であってほしかった。
悪夢だと思いたい。
「大丈夫なのですか? 凄く顔色が悪いですけど……」
彼女も、電も川内のように心に闇を抱えているのだろうか。いや、昨日の川内が現実のものと決まった訳ではない。
心配そうにこちらを見る電に心配ないと断って深呼吸をする。
昨晩のことが全て現実だと仮定しよう。
その場合、川内は確実に壊れている。
そして加賀は人間に憎悪と殺意を抱いている。
おまけにこの元鎮守府は壊滅状態で、生き残った艦娘は全員心が壊れているらしい。
最悪の状況だった。
ここは島だと聞かされている。
逃げ場はない。
なかなかホラーな状況と言えるのではないだろうか。
改めて自分のことを考え直す。
恐らく一度死にかけたこの命。もうないものと考えれば不思議と恐怖は消えていった。
拾ったのは誰だ。
救ったのは誰だ。
電と川内だ。
体が動くようになったら恩返しすると心に誓ったのは誰だ。
自分自身だ。
どういう目的で救われたかなど些細な問題でしかない。
電と川内の為にこの命を使う。
明確なまでに提示された望み。夜戦がしたい。あれが夢でも妄想でもない、彼女の嘘偽らざる唯一の目的ならば、それを叶えるのがこの命の使い道に他ならないだろう。
海人は松葉杖を掴んで立ち上がった。
死ぬ訳にもいかないが、この部屋で閉じこもっている場合でもない。
夜戦をする方法を知る。
そして電の望みを知り、叶える。
それがこれからの行動指針だ。
「電、俺はここのことがもっと知りたい。だから少し付き合ってくれないか?」
「……ここのことを知りたい、のです?」
「ああ、君のことも」
失った記憶も、ここに流れ着く前の自分も不思議と気にはならなかった。
それよりも目の前の少女の為に何かをしたい。
そんな単純な感情が彼を動かす原動力となっていた。
「何も知らず、深く関わらず。安静にして記憶を取り戻してこの島から出ていく方が、きっといいのです……」
色々な感情が織り交ざった複雑な声色だった。
そこに隠れた拒絶の意思が分からない訳ではない。
この行動が正しいかなんて分からない。
けれども。
そう動かずにはいられなかった。
「え?」
彼女の手を握りしめる。
「俺がどういう奴かなんて覚えてないが、どうやら目の前で悲しい顔をする女の子を見て見ぬふりすることは俺の感情が許さないらしい」
電の瞳を見て宣言する。
「たった今、決めた。俺は電が心の底から笑えるようにしてやる」
「笑う、ですか?」
「そうだ」
「どうして……」
「俺がそうしたいからだ。理由なんて他にない」
だいぶ恥ずかしい台詞を大真面目に言ってのけた気がする。
いや、間違いなく言っていた。
急に恥ずかしくなった海人は慌てて手を離し、電に背を向けた。
「とりあえず案内頼む。俺はここについて何も知らないんだ」
「わ、分かったのですっ」
彼女の声が若干涙声だったのは気のせいだろうか。
恐らく赤く染まっているだろう顔を見られたくない海人は確かめることが出来なかった。
海人がいた部屋は宿舎の一室であった。
三階建ての宿舎の一階の一番奥の部屋が海人の部屋だ。その正面が電の部屋で、隣が川内の部屋らしい。
三階建てと言っても、三階は建物の損傷が激しくとても住めるような状態ではないらしい。
もちろん誰も住んではいない。
二階は辛うじて数個だけ使用できる部屋が残っているようだ。
食堂と書かれた扉の向こう側は窪んだ地面があり、壁はなく、空が良く見えたのが驚きの光景だった。
恐らく食堂には広々とした部屋とそれに続く調理場があったのだろうが、今は見る影もなく朽ちてしまっている。
クレーターのように窪んだ地面が着弾した砲撃の威力を物語っていた。
この宿舎には壁が存在しない場所がいくつも点在している。
襲撃時の痛ましい姿のまま残っているからだ。
「この宿舎には何人の艦娘が住んでいるんだ?」
「えっと、ここにいるのは加賀さん、川内さん。それに鈴谷さんと山城さんですね」
知らない艦娘があと二人いるらしい。
殆ど崩壊した宿舎で無事な設備はトイレ程度のものだった。
「そういえば料理とか風呂はどうしているんだ?」
「調理場は少し離れた場所に簡易のものがあるのでそこで。お風呂は皆水浴びで済ませているのです。たまにドラム缶を使ってお風呂を沸かすときもありますが」
かなり原始的な生活を送っているらしい。
トイレも水洗は働いておらず、バケツの水を流して使っているようだ。
「これ、もうちょっと工夫出来ないものか? 補修すれば使えそうな設備もあるじゃないか、技師や材料が足りないのか?」
「違うのです。基本的に艦娘は【提督】の許可が下りないと行動制限が厳しいので、設備の補修も修理も自分達では出来ないのですよ」
「なんか、酷い話だな」
「艦娘は兵器ですから。強大な力を持っている以上、首輪をつけるのは当然のことなのです」
それは艦娘を管理する人間側の都合だ。
彼女らからすればそれは当然のことではない。
「他の艦娘に会いたいんだが」
「加賀さんは分かりませんが、山城さんは山で畑の世話を。鈴谷さんは仕掛けた罠の確認に行っていると思うのです」
「罠?」
「山の獣道に仕掛けて野生動物を捕まえているのですよ。鳥やハクビシンは美味しいのです」
「それは、随分とたくましい生活をしているというかなんというか……」
なるほど。この島で自給自足の生活をしているらしい。
ある程度元気になったら食糧調達も手伝う必要があるだろう。
「海人さんを見つけたのも、電が食糧調達で釣りをしようとしたところだったのですよ?」
「食糧ではなくて厄介者を釣らせてしまって申し訳ないな」
「気にしないでください」
厄介者という点は否定されなかったのが少し悲しい。
事実だから仕方がないのだが。
「……鈴谷と山城ってどっちが安全だ?」
「加賀さんより危険な艦娘はいないと思うのですが、その二人で言えば鈴谷さんの方が温厚だと思いますよ? 色々な意味で」
「色々な意味で?」
「山城さんは精神的に削られると思います」
「精神的に削られる?」
どういうことなのだろう。
会うのが少し怖い。
「会いに行くとしても山道か……」
宿舎は森の開けた部分に建てられている。
右を見れば海。
左を見れば山。
そんな中腹に今は位置しているのだ。
視線を自分に向ければこの虚弱な体を支えているのは松葉杖である。
山道を歩き続けられるとは思えない。
「まぁ、……無理だろうなぁ」
「ですねぇ……。それなら後で部屋に鈴谷さんを呼ぶですか?」
「頼んでいいか?」
「はい。それなら一回部屋に戻りましょうか、海人さんも疲れているでしょうし」
確かに適度な疲労はあった。
良いリハビリにはなっただろう。
「そうだな、戻るか」
加賀に遭遇する前に。とは心の中で思った。
「注意点があるのです」
「注意点?」
鈴谷がもうすぐ来るという連絡をしに来た電は続けて注意点について促した。
「鈴谷さんがたまに変なことを言うかもしれません。理解出来なくても、否定だけはしないでください。話を合わせるか、無視してください。いいですね?」
「まぁ、なんとなく分かった」
「気を付けてくださいね。最悪海人さん死んでしまうのです」
「死んでしまうっ!?」
「はい」
意味不明だが死ぬ訳にもいかないので電の言うことを守ることにする。
それにしても要点の掴みにくい注意だった。
ノック直後に開かれる扉。
入室を促す間もない。ノックの意味が問われる。
「チーッス!」
明るい声が室内に響き渡る。
見るからに快活で元気そうな美少女が飛び込んできた。
見た目女子高生程度の年齢だろうか。
「か、いと? だっけ? 電と川内に面会謝絶って言われてたから会えなかったけど、これでも結構気にしてたんだよーっ?」
「お、おう。……そうなのか」
元気パワーに圧倒される。
なんというか若い。
若さの元気に押しつぶされる感じだ。
「俺は実は記憶喪失らしい。どうしてここに漂流してきたのかも分かってないんだ。だから暫くここで世話になると思う。怪我人でただ飯食らいだが、元気になったら恩は返すと約束する。だからよろしく頼む」
「お堅いなぁー、大丈夫、大丈夫。電から色々聞いてるし、元気になるまで世話してあげるから鈴谷に任せなさーっい」
「ありがとう。助かる」
「熊野も手伝ってくれるっしょ?」
突然鈴谷が隣の虚空に向かって話しかける。
そこにはもちろん誰もいない。
「そんなこと言ってー、結構好みの見た目なんじゃないの?」
しかし鈴谷はまるで誰かと会話しているような素振りで独り言を続けていた。
熊野って誰だ? 出かかったその言葉を飲み込んだ。
電の注意点を思い出したのだ。
『鈴谷さんがたまに変なことを言うかもしれません。理解出来なくても、否定だけはしないでください。話を合わせるか、無視してください。いいですね?』
これはつまり、鈴谷の中に存在する熊野という人物を否定するなという解釈で正しいだろう。
故に熊野を疑問視することは出来ないものと考えるべきだ。
「電が言っていたのはこのことか?」
鈴谷に聞こえない小声で電に呼びかける。
「なのです。気を付けてください」
「分かった」
熊野という、推測するに鈴谷と近しい艦娘がそこにいると想定して言葉を選ぶ。
「熊野も鈴谷も迷惑かけるかもしれないが、よろしく頼む」
「本当にお堅いなぁー、大丈夫心配しなくても鈴谷も熊野もチョー優しいから」
「そうか、安心した」
鈴谷の精神状態には何ひとつ安心出来ないが。
「ところで鈴谷はここの提督をどう思っていた?」
危険とも思いつつ、少し踏み込んでみる。
隣で電が青ざめた顔で海人を見ていることが気になるが、それよりも鈴谷の返答に度肝を抜かれた。
「??? 提督ならそこにいるじゃん。もー、変なこと聞かないでよー。本人の目の前でそういうこと聞くのズルくない? 流石に鈴谷もハズいって言うか……」
彼女の中ではこの部屋に提督がいることになっているらしい。
つまり彼女の認識する世界では提督は死んでいないことになっている。
鈴谷は、現実を受けいれていない。
確かにこれは心が壊れていると言って間違いないだろう。
人間という種族に殺意を覚える加賀。
夜戦というものに異常な執着を見せる川内。
現実世界を受け入れず、夢の世界で生きる鈴谷。
誰もが壊れていた。
歪で不安定な世界で生きていたのである。
「そう、だよな。……変なことを聞いてすまない。俺も病み上がりで疲れているみたいだ。申し訳ないが、鈴谷とはまた今度話すということで、今日はこれくらいにしてもらっていいか?」
正直色々精神的余裕がない。
「うーん、そうだね。また今度ね。じゃあ、ほら熊野行くよ? 提督もぼーっと突っ立ってないで」
慌ただしく去っていく。
鈴谷ただ一人が。
「……電」
「鈴谷さんの世界は――」
呼びかけに答え、電が答える。
「――幸せな時間のまま、止まっているのです」
現実逃避の一種だろう。
精神病と言っていい。
「熊野って娘は?」
「襲撃で轟沈したのです。……鈴谷さんの目の前で」
「……そう、か」
言葉を失う。
この鎮守府には、悲しみがあまりにも多すぎる。
未だ心の闇を見せない電。
彼女は平気なのだろうか。
それとも、まだ心の根を見せていないだけなのだろうか。
「電が心から笑えない理由が、少しずつ分かってきたよ」
笑えるわけがない。
こんな世界で。
「もうやめるのです。これ以上は、海人さんがつらいだけなのです」
優しい子だ。
とても。
改めて思う。
天使のような子だと。
だがそれは屈強な心の壁を幾重にも重ねた言わば強がりだ。
あまりも悲しい出来事の連続から心を守る為に生まれた高く強固な壁の奥は。
きっと泣いている。
助けを求めている。
海人の妄想だろうか。
それでも。
心の思うままに。
全てを失った身だからこそ。
何も持たない命だからこそ。
心に従うのだ。
この子を助けたいと。
心の奥底から笑わせたいと。
強く願うのだから。
「覚悟が足りなかった」
「海人さん……?」
「明日は山城に会う。もう終わってしまったなんて二度と言わせるか、……俺がここから始めるんだ」
強く、誓う。
「不幸だわ……」
「異論なし」
「なのです」
先程までいた場所を見上げて溜息を吐く。
もう戻ることは出来ないだろう。
「だから忠告をしたのに。私と一緒にいると不幸になりますよって」
どこまでも憂鬱な彼女は元気の欠片もない表情で見上げる。
海人も一緒になって見上げると天井は遥か遠い。
何故ならば、自分たちが落ちた大穴のさらにその向こうにあるからである。
そう、海人らは老朽化した床を踏み抜いて下まで落下してしまったのだ。
床下はかなりの空間が広がっており、大穴までは遠く自力で戻るのは難しいだろう。
薄暗い空間に男一人と艦娘二人が途方に暮れていた。
時は遡ること十数分前。
昨日の宣言通り、海人は電に頼んで山城と出会うことにしていた。
電の持ってきてくれた朝食を味わいつつ、話を切り出したときに電は複雑な表情をしていた。
曰く。
「山城さんは加賀さんとはまた違った意味で危険なのですよ」
「人間に殺意を持っているってことか?」
「いえいえ、そんなことはないのですよ。山城さんは他者に感情を抱くほど自分にも他人にも期待なんてしてはいないのです」
気になる言い回しだが、今は先を促した。
「尋常ではない不幸体質なのです。それも周りを巻き込むレベルの」
「不幸……か」
「万全の状態の海人さんならばともかく、まだ完治していない状態では会わせることが心許ない程度にはヤバいやつなのです」
命の危機レベルの不幸が訪れるらしい。
「もう少し時間を置いて完治してから会うことをお勧めしますよ?」
「いや、今日会うよ。思い立ったが吉日とも言うだろ?」
「山城さんと出会うのに吉日なんて一年のどこにもないですよ?」
酷い言いようだった。
基本的に天使な少女だが、たまにさらっと鋭い毒舌を挟む気がする。
「とにかく声をかけてくれ。なんなら俺が足を運ぶぞ」
「不幸の吹き溜まりである山城さんの部屋に行くなんて自殺行為なのですっ」
「いや、いくらなんでも言い過ぎじゃないかっ!?」
山城という艦娘はここまで言われるような不幸体質なのだろうか。
にわかには信じがたい。
「……と、とにかく呼んでくれ。会ってみないと話にならない」
「分かったのです。けど、電はちゃんと忠告したのですよ? 後悔しないですね?」
「俺は今から化物にでも会うのだろうか……」
暫くすると控えめなノックと共に電が戻ってくる。
「連れてきたのです」
「私に自ら会いたがるなんて狂人は貴方?」
出会い頭に人を狂人呼ばわりしたのはとんでもない美人だった。
加賀に負けず劣らずといったところだが、まるで死人のような覇気のなさが儚さを飛び越えて脆さを演出していた。
全体的に暗いというか、重いというか。
こう、負のオーラが充満しているイメージだ。
「狂人ではない。俺は海人だ。ここで暫く世話になるだろうから、挨拶をと思ったんだよ」
「酔狂ね。……わざわざ自分から不運に近付く必要もないでしょうに」
発言が全体的にネガティブ思考である。
暗く重い汚泥に絡みつかれたかのような気分は気持ちの良いものではない。
これが精神を削られるという言葉の意味なのだろう。
確かに元気というか、生気というか。プラス方向のエネルギーを根こそぎ奪われる気がした。
「とりあえずお茶をどうぞ、なのです」
置いた瞬間湯呑が割れた。
「……ほら」
「いやいや、偶然だろう」
電がひきつった顔で固まっている。
山城は湯呑の置かれたテーブルに備え付けられた椅子に腰かける。
「きゃっ」
そのまま転倒した。
彼女が腰かけた瞬間、大きな音と共に椅子ごとひっくり返ったのである。
「大丈夫かっ!?」
「大丈夫なのですっ!?」
「……不幸だわ」
ちなみに山城の下着は白であった。
一瞬だが盛大にまくれたミニスカートから見えたのである。
「椅子の足が腐っていたみたいですね」
山城に怪我がないことを確認した電は壊れた椅子を調べて言う。
「ま、まぁ偶然だろう」
意識せず声が震えた。
この不幸はまさか本物で、これ以上の災難が己にも降りかかるのではないだろうかという不安からの焦りである。
嫌な汗が流れ始めた。
色々聞こうと思っていた内容が全部頭から吹っ飛んでいる。
何から切り出したものかと悩んでいるうちに、山城はよりいっそう暗い顔をして背を向けた。
「これ以上迷惑をかける前に出ていくことにします」
海人は気付く。
もしかして彼女はほんの僅かかもしれないが期待していたのではないだろうか。
電曰く、自分にも他人にも期待していないと言っていたが、それならば入ってきた時よりもより一層暗くなる理由が見当たらない。
人間ならば違うかもしれない。
そんな淡い期待があったから来た。
そして期待するということは彼女も本当は一人でいたくない。しかし、優しさ故に遠ざけることでしか己の不幸から周囲を守れない。
そんな不器用な娘であるかもしれないのだ。
これは根拠のない海人の想像だ。
けれど、何故か直感がその想像は間違っていないと訴えている。
「待て」
「……まだなにか?」
「俺は山城、お前ともっと話したい」
「どういうつもり?」
警戒心しかない声色で答えつつ、山城は立ち止まった。
「どういうつもりもなにもない。ただ俺がお前と話して色々聞きたいだけだ。怪我人の暇を舐めるなよ?」
「暇ならそこの電と話せばいいじゃないですか。私は暇じゃないので」
「山城、お前物凄く不幸だな」
「知っています」
当たり前のことのように答える。
「けど、電が散々忠告してきたからどの程度かと思えばそこまででもないよな。もっと凄いのを期待していたんだが、期待外れもいいとこだ」
「……頭でも打ったの?」
「まだ足りないって言っているんだよ。そもそも俺はその不幸とやらの被害にあっていない」
正気を疑う目で山城と電がこちらを見ていた。
「海人大丈夫です? 記憶だけでなく知性も忘れたですか?」
電は時々言うことがいちいち酷くはないだろうか。
「私に関わると最悪死にますよ?」
「そもそも不幸ってお前の思い込みじゃないのか? 不幸だと思っているから不幸を呼び込むんだろ?」
わざと挑発的に言う。
山城の怒りを買うためだ。
マイナス側の感情でも持てばそれは立派な興味だ。
他人に期待するということだ。
無関心が一番いけない。
彼女は心を殺して無関心を装っているだけだ。
心が壊れている訳ではない。
山城はまだ救いがある。
少なくとも海人にはそう見えた。
「何も知らない人間が、好き放題言って……っ!!」
「じゃあ教えてくれよ。山城、お前の不幸ってやつを」
「後悔しても知りませんよ――」
明らかな怒りの感情を持って山城が言う。
山城の視界を掻い潜ってさり気なく海人に近付いていた電が、彼女に聞こえない小さな声で海人に聞く。
「どうしてわざと挑発するようなことを言ったのです?」
「嫌われてもいいから、俺に感情を抱いて欲しかったんだよ。彼女にはまだ救いがある」
「……だと、いいのですけど」
またあの表情だ。
悲しみを帯びた影のある表情。
電のこの表情が、海人にはたまらなく苦しい。
「よし、不幸。来るならこいよ」
言った瞬間。
みしり……、と。何かが軋む音がはっきりと聞こえた。
音源は足元だ。
気になって下を見てみれば、電から海人。そして山城を結ぶように無数の亀裂が走っており。
崩れた。
一瞬で。
浮遊感と暗転する世界。
声にならない悲鳴が三つ。
ほんの少しの間と。
体を打ち付ける激痛。
盛大に吹き上がる粉塵が視界を覆い、小さな破片が頭上から降り注いでいる。
「っ……」
「痛いのです……」
「いたた……」
時は戻って。
「成程な、山城の不幸本領発揮ってわけか」
言いつつ近くに松葉杖が落ちていることに気付き、安心する。どうやら一緒に落ちてきたらしい。これがなければ海人はまともに移動することが出来ない。
「ここまで大きいのは久しぶりなのです」
服に付いた埃を払いながら電は立ち上がり、海人に手を差し伸べた。
遠慮することなく掴み、海人も立ち上がる。
「貴方達元気すぎじゃない? 頭おかしいんじゃないですか?」
頭に積もった木屑を払いながら山城は言う。ちなみに落ちた姿勢が悪く、純白のパンツが丸見えである。
これも不幸の一環なのだろうか。
「どうせ同じ不幸なら苦しむより楽しんだ方が得だろ?」
「やっぱり貴方、頭がおかしいんじゃ……?」
「それとパンツ丸見えだぞ、ありがとうございます」
「え? きゃっ……ぐえっ!」
驚いた声から、恥ずかしがって慌ててスカートを抑える声。最後にそれでバランスを崩して乗っていた瓦礫から落ちた呻き声である。
「美女のパンツが拝めたんだ、お前の不幸も捨てたもんじゃないな。なぁ? 山城」
「死んでください」
温度のない瞳で睨まれる。
構わなかった。
瞳に温度はなくとも、声色に乗った感情には確かに温度が感じられたからである。
「それにしてもどうするかなぁ……、というかここどこだ?」
辺りを見渡す。
薄暗くてよく見えないが、かなり広い空間のようだ。
床下にこんな空間を作る理由があるとは思えない。
ということは。
「電、この宿舎って地下室があったのか?」
「いいえ。……少なくとも電は知らないのです」
山城を見る。
「知らないわよ。そんな話一度も聞いたことがないもの」
足元の埃や木屑を払ってみると、明らかに人の手が加わったコンクリートの床が見えてくる。
間違いなく人工物だ。
「ここは鎮守府だったんだろ? 緊急避難用の隠し通路や隠し部屋が地下にあったとしても不思議ではない……か?」
「そう言われると確かに電も山城さんも設備の全てを把握していた訳ではないですが」
「そんなことより、ここからどう上に上がるかが問題なんじゃないですか?」
山城が言うが、海人は首を横に振る。
「加賀は俺が会いたくないし、鈴谷はこの時間山だろう? 助けを呼ぶのはちょっと現実的じゃない。ここが意図的に作られた地下室なら、上に繋がる道が絶対にある筈だ」
「……と、なると問題は明かりなのです?」
海人の意図することを素早く察した電はこの空間が暗く、光源が落ちてきた穴しかないことから明かりが必要だと言う。
そうなのだ。
上への道を探索しようとしても、光源がなければこの薄暗い場所を捜索することは容易ではない。
「これは……?」
呟いた山城は足元に転がっていた筒状の物を拾う。
それは懐中電灯であった。
「おお、一緒に落ちてきたのか。ナイス山城、お前ツイてるじゃないか」
「どうせ電池切れとかいうオチで――」
「海人さんの部屋のなら、最近電池入れ替えたばかりなのです」
「しょ……」
山城がスイッチを点けた懐中電灯は明るく彼女の前方を照らしている。
「嘘……」
「幸運だな、山城」
「本当に幸運ならまずここに落ちてないですよね?」
「それはお前の不幸。でも、これもお前の幸運だ。不幸、不幸って嘆くのは構わないけどな、せっかく訪れた幸運を見逃していたら勿体ないだろ?」
「説教ですか、偉そうに」
「そう固く考えるな、それよりも探索しよう。……探索って言うとなんか少しわくわくしてこないか?」
「凄く分かるのです」
分かるのか。
意外な方向から力強い賛同が来て少し驚く。
電はこういうのが好きらしい。
こうして三人の地下探索が始まった。
山城の懐中電灯で周囲を調べてみたところ、落ちたのは十畳ほどの広さの部屋だった。
部屋と言っても何かがある訳ではない。
コンクリートの床と壁で囲まれただけの正方形の部屋だ。
何かが置かれている訳でもない。
強いてあげるのならば、上から一緒に落ちてきた椅子や机や床の破片が散乱している程度だ。
この部屋から通じる道はたった一本のみ。
扉もなく、人ひとりが通れる大きさの長い一本道がずっと続いていた。
行き止まりの無駄に広い地下部屋。用途が不明だが、備蓄庫と考えれば辻褄が合うかもしれない。
「ここにいても仕方ないだろう。進むか」
「なのです」
元気に答える電とは対照的に静かに頷くと二人についてく山城。
松葉杖を使ってはいるものの、安定した足取りで海人は歩いていく。
「海人、歩き方がしっかりしてきましたね。これなら松葉杖卒業も近いかもです」
「はやく卒業したいところだ。松葉杖には感謝しているが、ないに越したことはない」
酷く埃っぽい道を進む。
飾り気のない道はまっすぐに伸びていて、心なしか徐々に下っている気がした。
暫く歩くと道幅が若干広くなってきた。
そして小部屋のような空間に出る。
「ここは……?」
小部屋は奥に長細く伸びている長方形だった。
左右の壁に小部屋がいくつもあり、突き当りの壁に見るからに頑丈な扉がある。
左右の小部屋は鉄格子で覆われている。
それ以外は窓一つないコンクリートの壁に覆われた作りになっていた。
「おいおいおい、これ、独房。……だよな?」
その小部屋には誰もいないが、そこが誰かを閉じ込める作りになっているのは明白だった。
何故こんなものが地下に。
「電知っていたか?」
「し、知らないのです」
「驚くほどのことでもないでしょう」
冷静な声で山城が呟いた。
静かな地下の部屋にその冷めた声は嫌に響き渡る。
「こんな時代です。捕虜を捕まえておく場所、規律を破った者を懲罰する場所があっても不思議はないでしょう?」
確かに言われてみれば確かにそうだが。
そんなものが宿舎の地下に、それも誰も知らずにひっそりと存在しているのは異常ではないのだろうか。
なによりこの空間には嫌な空気が漂っている。
誰もいない筈なのに。
何も聞こえない静かな場所の筈なのに。
何故か彼の耳にはすすり泣く声や、甲高い悲鳴や、怨嗟の呻き声が聞こえてくる気がするのだ。
ここにはあまりにも悲しい空気が溢れすぎている。
「……先に進もう。ここは少し、気分が悪い」
「ですね。驚きましたが、今は地上に戻るのが優先なのです」
突き当りの扉を開く。
長年手入れされていないだろう蝶番が静かな部屋に音を立て、その先にはまた長い道が続いていた。
「なんかこの先もっとヤバいものありそうな気がしないか?」
「でもここまで一本道なのです。引き返す意味もないですよ?」
「進むしかないのよ。……不幸だわ」
三人は覚悟を決めて歩き始めた。
今度は思ったよりもすぐに突き当りにぶつかる。
右を見ればまた重厚な扉があった。
左はまた長い道が続いている。
「どうするよ?」
「右の扉を調べるのです」
恐れを知らないのか、何かが吹っ切れたのかやけくそなのか。
電が重厚な扉を押す。
すると驚くことに扉は静かに開いた。
故に海人は扉をよく観察する。その周囲も念入りに。
そんな海人の異様な雰囲気に驚いた様子の山城が声をかけた。
「そんな怖い顔で急にどうしたのですか?」
「いや、少し気になることが……」
「――開かないのです」
少し遠くから電の残念そうな声がする。
どうやら彼女は一人で先に進んでいたらしい。
扉の先はさらに下りの階段になっており、また扉があるようだ。
扉を前に電が困った顔で言った言葉が、開かない。つまり扉が壊れているか、鍵が掛かっているのだろう。
「鍵か?」
「感触的にそうなのです」
電はどこか残念そうな雰囲気だが、階段が下りということは恐らく出口には繋がっていないだろう。
さらに、海人の推測が正しければこの先はまだ見ない方がいい。
「反対の道に行こう。ここは行き止まりらしい」
「二分の一はやはり外れを引くのね」
そう言って山城は来た道を戻る。
電もそれに続き、そして海人は二人に聞こえない声で呟いた。
「いいや、山城。当たりだよ。……こっちが」
そこから先は地獄だった。
幾重にも続く分かれ道。どこまでも続くと錯覚するようなまっすぐの道。方向感覚の狂う代わり映えのしないコンクリートの壁。部屋という部屋には出会わなく、ただ延々と道と扉と分かれ道の連続だ。
たまに行き止まりすらある。
完全に迷宮であった。
誰がどのような目的で作ったのかは不明だが。
恐らく海人らはゴールから迷い込んだのだ。
あの場所にたどり着かせない為だろう迷宮が、そこにはあった。
もうどこをどう通って来たのか覚えていない。
同じ道を繰り返している気もする。
気の遠くなるような歩みの末。
三人は気付けば外に出ていた。
「た、……助かったのか?」
「みたい、なのです」
「不幸だわ……」
「異論ねぇわ、確かにお前の不幸はすげぇよ」
でもな。
そう言って海人は続ける。
「俺は面白かったよ。またお前と不幸を味わいたい」
返事はなかった。
いや、油断すれば聞き逃しそうな程の小さな声で。
微かな呟きで。
「物好きね」
と、確かに彼女は言った。
それだけで満足だった。
「ところで」
電が額の汗を拭きながら言う。
「ここはどこなのです?」
二人を現実に引き戻す言葉を。
そこは洞窟の出口だった。
周囲は木々に覆われている。
斜面の間にある僅かな平地が彼らのいる場所だった。
どう考えても山の中である。
なんで地下からこんな場所に出るのだろうか。
一難去ってまた一難。ここから宿舎まで帰らなくてはならない。
忘れかけていた疲労が一気に襲ってくる。
「あっれー、どうしたの? こんなところに三人で」
そんな三人を聞き覚えのある声が呼びかけた。
「貴方は……」
「鈴谷さん、なのですっ!!」
「女神か、お前っ!!」
「え? え??」
状況を理解していない鈴谷は三人の異様な盛り上がりに若干引き気味だったが、ほぼ遭難に近しい三人からしたら救いの神にしか見えなかった。
「鈴谷頼む、宿舎まで案内してくれっ」
「べ、別にいいけど。どうしたの三人とも、埃まみれでばっちいよ?」
こうして三人は無事に宿舎にたどり着けたのであった。
鈴谷と分担した本日分のノルマをこなすのも慣れてきた。
手伝いを申し出たのはもう七日ほど前になる。
地下迷宮での体力限界までの徒歩が良いリハビリになったのか、そこから海人の体力は一気に回復していった。
体力が戻った海人はまず食糧調達の手伝いを申し出たのだ。
そうして始まった鈴谷の仕事の手伝い。
電の釣りは道具が足りず、家事はスキルが足りない上に女所帯では気を使うことも多く、山城の手伝いは嫌がられる。
その為、消去法で残ったのだがやってみると意外にこれが面白い。
罠の準備も、仕掛ける場所も考えることが多く。
仕掛けに捕まった野生動物を見るととても嬉しい。
おまけに夕飯が豪華になるのだから良いことだらけだ。
「慣れたからと言って油断はいけない。こういうのは慣れ始めた頃に怪我をするものだと相場が決まっている」
海人は慣れた様子で山道を進んでいく。
宿舎付近の森はもうほとんど把握していた。
昨晩仕掛けた罠は全て回収したが収穫はない。こうなると鈴谷の方で収穫があったのを祈るしかなかった。
時間的にはまだ余裕がある。
今後の収穫の為に未開地を探索して良さそうなポイントを探すのも悪くない。
そう考え、海人は今まで入ったことがないエリアまで足を延ばした。
結果、それは彼の運命を大きく変えることになったのだが。
今の彼はそれを知る由もない。
森の奥にひっそりと隠れるようにその建物はあった。
とても綺麗な建物だ。海人らが暮らしている宿舎と比べると襲撃された跡はなく、老朽化もそこまで酷くない。
宿舎と似たような造りの建物だが、見た目の綺麗さが段違いであった。
庭には美しい花々が咲き誇り。
建物に寄り添うように立つ樹には枝からブランコが設置されていた。
心温まる穏やかな空気を感じ取った海人は吸い込まれるようにその建物に近付いていく。
「おじさんだぁれ?」
そんな彼を呼び止める声が足元から聞こえた。
声の主に視線を向ければそこには電と同じくらいの年齢の少女が海人のズボンを掴んでいる。
「君は?」
「わたし? わたしはあかつきっていうの。おじさんは?」
「俺は海人だ。えーっと、君も艦娘なのか?」
「かんむすってなに?」
どうやら艦娘を知らないらしい。
いや、海人ももともとは艦娘を知らなかったのだから偉そうなことを言うつもりはないのだが、一般常識の範疇だと川内は言っていた。
それを知らないというのは少しおかしい気がする。
彼女は艦娘ではないのだろうか。
「ここには君以外にも誰かいるのか?」
「うん、いるよぉ。たくさん」
無垢な笑顔で彼女は笑った。
年相応の無邪気な笑顔。
電も、このような顔で笑う頃があったのだろうか。
「ついてきてーっ」
そう言って走り出す。
見た目以上に幼すぎる気がしないでもないが、とりあえず海人は彼女についていくことにした。
彼女が案内したのは建物の中だ。
中も痛みなどはなく、よく掃除された綺麗な状態だった。
「君はここに住んでいるのか?」
「そうだよー」
建物の玄関には一人の少女がいた。
「あ、はまかぜだー」
あかつきと名乗った少女は元気な声で人形を抱いて立っている少女に飛びついた。
「わっ、暁。……この人は?」
かなり警戒した様子でこちらを見ている。
「しらないひと」
とりあえず敵意はありませんよ、という意思を込めて笑顔でお辞儀をしてみた。
「俺は海人だ。電って女の子に拾われた身の上なのだが、彼女のこと知っているか?」
「電のことは知っていますが。電の、……拾った、人?」
「記憶喪失でこの島に流れ着いたんだ。何も知らない無害なおっさんだからそう警戒しないでくれるか? 素敵な胸のお嬢さん」
親しみを込めて渾身の冗談を言ったつもりだったがかなり滑ったらしい。
加賀にも似た冷たい視線でこちらを見ている。
あれはゴミを見る目だった。
「冗談だって、そんな怖い顔するなよ……」
「初対面の相手の身体的特徴をあげつらうのは感心しませんね」
「褒めたんだけどな……」
あまり胸のことを言うのは彼女の琴線に触れるらしいのでやめることにした。
とりあえずここがどこなのか知りたい。
彼女が電を知っているならば、電もここのことは知っている筈だ。
しかし海人は聞いたことがない。
話さなかっただけなのか。
あるいは黙っていたのか。
それが海人のためであるのかも分からない。
最悪海人はここの存在を忘れ、ここに来なかったことにする必要がある。
「ここはどこなんだ?」
「……電から何も聞いていないのですか?」
「まぁ、聞いてないな」
「では私から説明出来ることはありません」
「そこをなんとか」
ちょっと強引に頼み込む。
ここがどういう場所なのか知らないと、海人としてもどうすればいいのか判断出来ないからだ。
「困りましたね。どうしましょうか、提督」
豊満な胸に押し付けられている人形に向かって、彼女は確かに提督と語りかけた。
「おっふ……、お前、鈴谷と似たようなパターンか」
彼女にはあの人形がいなくなってしまった提督に見えるのだろう。
粗末な人形を抱きしめ見つめる彼女の瞳は虚ろで力がない。
「えーっと、提督さんはなんて言ってるんだ?」
「? その位置で聞こえないのですか?」
聞こえる訳ないだろう。という言葉を飲み込む。
「ちょっと聞き逃してしまって。すまない」
「ここは色々な理由で戦場に出られなくなってしまった艦娘を預かる宿舎だ。それ以上は教えることは出来ない。……提督はこう言ったんです」
戦場に出られなくなった。
それは過去の話だろう。
この島は鎮守府としての機能を失っている。敵の攻撃により壊滅したこの島に戦力はなく、地図からも消えている。拠点としての価値は無に等しい。
生き残った艦娘が隠れ潜むように生きているのが現状の筈なのだ。
浜風という少女はあの人形を提督と思っている。そしてその提督とは彼女の記憶からなる仮想人格だ。
故にその記憶も情報も過去のものと言える。
ここは過去、戦えなくなった艦娘を預ける施設だった。
では今はなんの為の施設なのだろうか。
電や川内らがこっちで生活しない理由が何かあるのかもしれない。
「浜風、ここには他にも艦娘がいるんだろう?」
「――あんまり深追いすると危ないよ?」
背後から聞きなれた声がする。
振り向くとそこには当たり前のように川内がいた。
気配を感じなかった。まるで忍者のような登場である。
まだ日が昇って間もないと言うのに彼女が起きているのは珍しい。
「こんな時間に寝てないとは、どういった風の吹き回しだ?」
「嫌な予感がしたからさ、海人探してみればこんなところ見つけちゃってまぁ……」
「出ていけっ!」
悲鳴のような絶叫が鳴り響いた。
発したのは鬼のような形相で川内を睨みつける浜風である。
あまりの豹変ぶりに彼女に抱き着いていた暁が泣き喚く。それでも構わず浜風は殺気さえも感じさえる切羽詰まった表情で川内を睨みつけていた。
「ここはお前がいていい場所ではないっ!」
「おいおい、急にどうした。落ち着け……」
海人が呼びかけるも聞こえている様子がない。
「お前らの所為で提督は……っ、あれ、提督はここに、いるの、に、……いない? どうして、いない?」
人形を持つ手が震えている。
彼女は人形を見つめたままぶつぶつと聞き取れない言葉をつぶやき続けていた。
「海人、行こう。ここは触れちゃいけない。私がここにいても色々、思い出させちゃうだけだしね」
川内に促されて渋々立ち去る。
「おい、浜風って子、平気なのか?」
「浜風も暁も大丈夫だよ。暫くしたら都合がいいように記憶が改竄されて、また自分の世界に帰れる」
「……意味、分からねぇぞ」
「知らなくていいことだよ。ここのことは忘れて、……じゃないと」
立ち止まって川内はまっすぐと海人の眼を見る。
「加賀さんに殺されちゃうよ?」
あれだけ川内に言われたにも関わらず、次の日には懲りずにここに足を運んでしまっていた。
それだけ海人の中で暁と浜風が気になったということだろう。
見た目以上に精神年齢が幼い暁と、提督が死んでしまったことを受け入れられずに人形を提督と思い込んでいた浜風。
あの二人はあまりにも危うい。
川内は平気だと言っていたが、実際この目で見て確かめないと安心出来なかった。
遠目で眺めるだけでいい。
接触する気はない。
そんな軽い考えで例の建物に向かっている最中のことだった。
「ぽい?」
「どうしたんだい? 夕立」
その二人に遭遇したのは。
「あー、こんにちは」
とりあえず挨拶をした。
挨拶は人間関係の基本である。とりあえず出会い頭にしとけば、相手に悪い印象を与えないものだ。
誰にも見つからないように険しい道を選んで移動していたのが悪い方向に作用した。
突然視界が開けた頃にはもう二人は目の前で隠れる暇などなかったのである。
どうやら二人は籠を背負って山菜を集めていた最中らしい。
草むらから飛び出した男を見て黒髪の方の少女があからさまに警戒していた。
「こんにちはっ」
「君は誰だい?」
元気に愛想よく返事した金髪の少女を庇うように、黒髪の少女は前に出る。
「俺は海人。怪しい者じゃないぞっ!」
「自分から怪しい人だって言う人はいないよね?」
確かにその通りである。
「えーっと、そうだ。俺は電の知り合いだ」
「だからって僕が君を信じる理由にはならないよね」
かなり警戒心が高い娘のようだ。
それとも、金髪の少女が無軽快な分。黒髪の娘が守る為に意識しているのかもしれない。
「えーっと、浜風と暁は元気か?」
この建物に住んでいる人物の名前を出せば警戒心が薄れるかとも思ったが。
「どこで彼女たちのことを知ったの?」
相変わらず黒髪の少女の警戒が緩まることはない。
「昨日ここでだ。……何をそんなに疑っているんだよ、別に俺は何も企んでないし、お前らに何かしようとも考えてない」
精神誠意答えたつもりだ。
これでだめならこの場を離れて日を改めるしかないだろう。
ここで無理に彼女たちと話しても心象を悪くするだけだ。
「……ふぅ、信じるよ。君の瞳に悪意を感じないからね」
変わった判定方法だが信じてもらえればなんでもいい。
浜風と暁があのあとどうなったか気になるのもそうだが、この二人にも興味が湧いてきたところである。
「改めて俺は海人だ。よろしく」
「時雨だよ。僕の後ろにいるのが――」
「夕立っぽい!」
予定外ではあるがここは開き直って堂々と様子を見に行く方が早いだろう。
そう決めると行動は早かった。
「浜風と暁に会いたいんだが、案内してくれないか?」
「一応忠告しておくけど、二人に何かしようものなら僕が容赦しないからね?」
「しない、しない。ただ、……元気かどうか見たいだけだよ。本当にそれだけなんだ」
「うーん、二人はいつも元気っぽい?」
「そうか、ならいいんだが。一応自分で見ておきたいかな」
「分かったよ、ついてきて」
そう言って歩き始めた時雨についていく。
なかなかハードな一日になる予感がした。
「随分な量の山菜を集めたなぁ……」
「皆の分だからね、これでも足りないくらいだよ」
時雨は背中に背負った籠の中身を確かめながら言う。
「皆ってここにはそんなに沢山艦娘がいるのか?」
「凄く沢山いるっぽい!」
あのボロボロの宿舎には五人の艦娘がいて、この綺麗な建物には沢山の艦娘がいる。
何故分かれて住む必要があるのか。
昨日の浜風の豹変を思い出す。
「ここってまだ人が住むスペースってあるのか?」
「まさかここに住み着くつもりなの? 別に構わないけど、食事はちゃんと自分で準備してもらうからね?」
「いや、住む場所は間に合っている。興味本位だ」
どうやら住居スペースに空きがない訳ではないらしい。
そして電らはここの存在を知っている。
理由があってここにいない。もしくはここにはいられないと考えるべきだ。
ここは特別な場所なのだろう。
海人に話せないくらいに。
果たしてここについて調べていいのだろうか。これ以上踏み込むことは誰かの迷惑にならないだろうか。
そういった迷いがない訳ではなかったが、彼の直感が告げていた。
この場所のことを知らない限り、電の心からの笑顔が戻ることはないだろう、と。
「ここだよ」
時雨に案内された場所では折り紙を折る暁と彼女を見守る浜風の姿があった。
まるで姉妹のような関係にも見える。
その部屋は十畳以上あるかなり広い部屋で、子供用の机と椅子があり、壁には拙い技術で描かれた子供の絵が飾られていた。
まるでそこはそう、知識にある幼稚園を連想させるような部屋だ。
子供部屋、なのだろうか。
暁の他にも同じような年頃の娘が何人か見受けられる。
が、違和感も同時にあった。
やはり見た目に対しての行動や立ち振る舞いが幼すぎる気がするのである。
「……もしかして、精神的ストレスからくる幼児退行者を集めた部屋、なのか?」
誰にも聞こえない声で呟く。
そう考えれば辻褄は合う。
いや、もしかしてこの建物そのものが精神の壊れた者を隠し、守るための場所なのではないだろうか。
比較的まともである者がボロボロの宿舎で生活し、食糧を確保する。
違う。
それでは川内を見た浜風の豹変の説明がつかない。
おまけに鈴谷も十分こちらで生活するに値する壊れ方だと言えないだろうか。
「海人、難しい顔をしているっぽい?」
「あ、ああ。ちょっと考え事を、な」
考えて答えが出るとも思えないが。
とにかく浜風と暁の無事は確認出来たのだ。
彼女らに気付かれて昨日の記憶を掘り起こすのもよくないだろう。
そう決めたら行動は早い。
素早くその場を立ち去る。
「もういいのかい? 二人には声をかけないの?」
「遠目で元気だと確認出来ればそれでいいよ。案内ありがとな」
そう言い残して海人はその場から離れた。
「こりないねぇ」
宿舎へ戻る途中、山道を歩く海人に声をかけたのは川内だった。
なんと声が聞こえたのは樹の上からである。
「忍者か己は」
「加賀さんに殺されないように見守ってあげているのに」
「頼んでないし、お前自分の目的の為だろ。まぁ、感謝はしているが」
海人が加賀を危機に思っているのにも関わらず、ある程度自由に行動出来るのは川内の護衛があるからだった。
別に彼が頼んだ訳ではないが、川内は自分の夜戦をしたい。という望みの現状唯一の可能性である海人を守らざるを得ない。結果的にある程度の安全が保障された状況となっている為、行動の範囲が広いのである。
それでなければ加賀との遭遇を恐れてまともに歩けないだろう。
「そういえばあれ以来加賀を見ないが、彼女はどうしているんだ?」
「奇跡的に行動範囲が被ってないだけだよ。遭遇しそうになったらわざわざ注意しないといけないし、遭遇したらかなり面倒だから私としては助かるけど」
「加賀はあの建物を知っているんだよな?」
「もちろん。全員知っているよ」
川内はどこまで答えてくれるだろうか。
試しに気になる部分を聞いてみる。
「どうして俺に教えなかった?」
「聞かれてないし、必要もないからかな」
無難に答えられた。
「浜風はお前を見て、どうして豹変したんだ?」
「トラウマだからだよ。私を見ると思い出したくない記憶を思い出すんじゃない?」
聞かれたことには答えるが、必要以上に情報は出さない。そのような雰囲気を感じた。
「トラウマ? 思い出したくないってなんだ?」
「それはね――」
簡単なことだよ。
そう川内は言う。
冷めた瞳で。
温度の欠けた声で。
感情をどこかに置き忘れてきたかのような様子で。
「私たちが提督を殺したからだよ」
息を飲む。
「……冗談じゃ、ないんだよな?」
「こんな悪趣味な冗談言う趣味はないかなぁ」
笑いながら言う。
が、笑いごとではない。
「そのせいで壊れた艦娘もいるんだぞ?」
「本当にそう思うの?」
「どういう意味だ?」
「……これ以上は知らない方がいいよ」
言い残し、川内は姿を消した。
姿をくらまし、気配を消しただけで恐らくこちらを監視するように近くにいるのだろう。
彼女は海人を守る為にいる。
本当に守る為だろうか。
あるいは本当に監視する為に彼女はいるのかもしれない。
見られたら困るものがこの島にはある。ということなのだろうか。
海人の想像でしかない。
根拠のない想像だが、嫌に現実味を帯びていた。
はっきりと悪夢を見たと認識していた。
認識していたが、その夢の内容は覚えていない。
悪寒を感じての突然の目覚め。
水滴が、頬を伝った。
さらに一滴、唇に水滴が触れる。
それは鉄の味がした。
月の光を反射して輝く鉄の塊。
それを握りしめる二人の少女が、寝ている海人を挟むように向かい合っている。
鉄が反射する月の光が赤い液体に遮られていく。
ぼやけた視界と寝ぼけた頭が徐々に明白になる。
彼の目の前にあるのは包丁の先端であった。
刃を血まみれの手で握りしめるのは川内で、その柄を加賀が握りしめている。
混乱する頭を叱咤し、状況を整理した。
加賀が深夜に海人を殺すために襲撃。振り下された包丁を川内がぎりぎりのところで止めた。
そんなところだろう。
「どうして邪魔をするのかしら?」
「まだ、死んだら困るの」
「この場所を壊される訳にはいかないの、貴女にも分かるでしょう?」
「分からないよ、私には夜戦だけあればいい」
「そう、貴女はそうだったわね」
沈黙。
川内の血が海人の顔を濡らす。
「お、おい、そんな物騒な物二人で握りながら人様の顔の前で仲良く談笑とは対応に困るんだが……」
陽気な対応を試みたが、声が震えていまいち格好付かなかった。
「あら、起きていたの? そのままおやすみなさい」
「それ、もう二度と起きないお休みって意味だよなっ!?」
「海人、ちょっと待っていてね。この分からず屋を叩きのめすから」
一触即発な雰囲気だ。
是非ともやめて頂きたい。
「加賀」
「貴方に名前を呼ばれると気色悪いわ、やめて。本当にやめて」
「……ひでぇ言いようだなおい。それよりも、なんで俺が殺されなくちゃならないのか説明願いたいんだが。改善出来るなら善処したい」
「貴方が人間だからよ」
善処しようがなかった。
「人間をやめろ、ってか?」
「死ねばいいのよ。それで全て解決するわ」
「出来れば俺が生き残る方向でご検討願えないだろうか?」
「海人を殺させはしないよ。私が全力で阻止する」
川内の強い意志を秘めた眼差しが加賀をまっすぐに射抜く。
「……夜戦については私がどうにかするわ」
「無理だよ。加賀さんは艦娘だから」
彼女は断言した。
「全てを失ってでも守った楽園を私から奪う気?」
「失ったのが自分だけだと思っているなら、大きな間違いだよ。神通のことも、那珂のことも、私は一秒たりとも忘れたことなんてない」
海人には理解の及ばない会話が続く。
訪れたのは長い沈黙だった。
息苦しい静寂が海人の精神を削っていく。
「……今日は、手を引きます」
沈黙を破ったのは加賀だった。
包丁から力を緩めた彼女は何事もなかったかのように部屋を立ち去っていく。
「ふぅ……、良かった。夜とはいえ、流石に加賀さんとやり合うのは私としても危なかったし」
「川内、お前その手平気なのか?」
「ん? へーき、へーき。心配してくれてありがとね」
笑う川内には先程までの緊迫した殺気は感じられない。
「お前がいなかったら死んでいた。ありがとう。礼を言う」
「お礼は言葉じゃなくて、夜戦で返してね。いつか、絶対夜戦してよね、約束よ!」
重い約束だった。
川内にとって夜戦とはどういう意味を持つのか、海人は理解していない。
けれども、それがとてつもなく重く大切な意味を持っていることは分かる。
それを理解して尚、海人は快諾した。
「約束するよ。必ず、君と夜戦をする」
「……それなら、絶対海人のことは守るわ。私が、命を懸けて」
記憶を取り戻してこの島から逃げるという選択肢を最初から放り投げた海人にとって、加賀の脅威というのはかなり重要な問題だった。
記憶が戻るならそれに越したことはないのだろうが、この島から逃げるというのは少なくとも電と川内に恩返しをしなければ選べない選択だ。
よって海人は加賀に殺される前に夜戦を行い、電の笑顔を取り戻す必要がある。
あるいは加賀の殺意の原因を解消し、彼女と打ち解けるという手段もあった。
だがそれらは全てこの島がどういう状況にあって、かつてこの島で何があったのか詳しく知る必要がある。
事情に詳しい人物に聞き出す、もしくはそれが掛かれた資料を手に入れる。現実的な方法としてはそのくらいだろうか。
「と、いう訳で加賀に殺されたくないので協力してくれないか?」
「どうして私なんですか?」
自分が頼られたのが意外だったのか、山城は驚いた様子で聞き返した。
「そもそも私の部屋を訪ねてくるなんて自殺行為ですが、自殺願望がおありで?」
「川内は夜戦のためなら協力するんだろうが、詳しい話は教えてくれない。何か理由がありそうな雰囲気だ。電もそういう話は暗い顔をするから避けたい。命を狙っている加賀は論外として、鈴谷は下手をすると危険な雰囲気がある。俺が現状安心してこういう話が出来るのはお前しかいないんだよ、山城」
「消去法ってことじゃない」
「違うって、なんでそうマイナス方向に考えるんだ? 俺はお前だから頼っているんだ。そこは間違えて欲しくない」
山城は落ち着かない様子で視線を逸らした後、俯いた状態で呟いた。
「歯の浮くような台詞を言って……」
「確かに恥ずかしい台詞がさらっと出てくるんだよな。自然に出てくるから、記憶を失う前からそういう性格だったのかもな」
言った瞬間。
激しい頭痛に襲われる。
「あんたが司令官ね。ま、せいぜい頑張りなさい!」
「あなたが提督なのね? よろしくお願い致します」
誰かを、思い出しそうな気がする。
「信じているからね」
「――が、必ず。お守りします」
誰の声だろう。
とても聞き心地の良い、聞き慣れた声だ。
とても大切なことを思い出せそうな気がする。
「大丈夫?」
不安そうな声。
目の前の、心配そうな顔でこちらを見る山城の声だった。
「あ、ああ。すこぶる平気だ」
「……の、割には凄い汗ですけど」
「本当か?」
額を拭う。
確かにかなりの量の汗であった。
懐かしく嬉しいと、同時に恐ろしい記憶なのかもしれない。
体が思い出すことを拒否している。
「とにかく、加賀を何とかしたい」
「無理ですね」
「断言するな!?」
この強い断定はやはり山城も詳しい事情を知っているのだろう。
この島の、隠された過去の話を。
「この島でいったい何があった?」
「大本宮に裏切られ、敵に襲撃されて壊滅した。たったそれだけ」
「それだと川内が言っていた。私たちが提督を殺したって話に繋がらないんだよな」
「……あの子、そんなことまで話しているの?」
どうやら山城が息を飲む程の情報だったらしい。
「私たちって多分この宿舎にいる五人のことだろ?」
「どうせ貴方は隠しても嗅ぎまわるのでしょう? そうです、その通りです。加賀、電、川内、鈴谷、私ともういなくなってしまった人たちのせいであの人は亡くなった。どう? これで満足?」
「だからこの五人は山奥の建物に近付けないのか。提督の死の象徴はそれを受け入れられない艦娘には刺激が強過ぎる」
今度の衝撃は相当だったらしい。
山城はたっぷりと十秒近く息を飲み、言葉に詰まった。
言うべき言葉を探し、見つからず。
困った末に、溜息を吐き出すという結論に至ったらしい。
盛大な溜息の後、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「見つけてしまったのですか」
「ああ、偶然な」
「忘れてください」
「断る」
「お願いします」
あまりにも想定外な動作に今度は海人が驚きのあまり声を失ってしまう。
それは土下座だった。
美しい所作で、誠心誠意の土下座を山城が行っていたのである。
「どうして、そこまで……」
「私たちが、命懸けで守って。全てを捨ててでも得たものを、壊さないでください」
「顔を上げてくれ、俺はお前にそんな悲しい声を出させるために来た訳じゃない」
「諦めてくれるまで、顔は上げません」
「…………」
海人は黙って床に置かれた山城の手を握りしめた。
「何がお前たちをそこまで縛る? どうしてそこまでして得たものを笑顔で言えない? 俺はそんな悲しい顔で語る言葉に幸せなんてないと思う」
「貴方にっ……、何が分かって――」
「分からないけど、……分からないから! 頼む! 分かる、努力をさせて欲しい」
「余所者の貴方がどうしてそこまでして……」
「知っているからだ」
何を?
顔を上げた山城の瞳がそう訴えていた。
「お前たちの温かさを、だ。優しく、温かい心が何かに縛られて苦しんでいるのを見ていられない。お前も、だ。山城、何がお前をそこまで責め立てるのか俺には分からない。けど、加賀の言う楽園なんてものはここにはない」
「じゃあ、私たちはどうしたら……」
「俺がやる」
軽い言葉ではない。
覚悟を決めた。
命懸けの一言だった。
文字通り、拾ってもらった命、その全てを持って。
「俺が、お前らを全員救って笑わせて幸せにしてやる」
「無理よ……」
「まぁ届かないよな、分かっている。まだ出会って間もない短い期間だ。事情の知らない男が言っている言葉が胸に響かないのは百も承知だ」
山城の手を引いて立ち上がらせる。
その瞳をまっすぐ見て真摯に言葉を紡いだ。
「信じなくていい。期待もしなくて結構。ただ、見ていてくれ。言葉で無理なら、行動で見せてやる」
「……それなら、構わないけど」
「ありがとう」
心から笑う。
笑わせようとする男自身が笑えなければ彼女たちの心からの笑顔を取り戻すなんて夢のまた夢だからだ。
故に、満面の笑みで微笑んだ。
それを見た山城の頬が若干、桜色に染まったのを海人は気付かない。
どうして彼女らを救うことにこんなにも必死なのだろうか。
海人は疑問に思わないこともない。
確かに助けてもらった恩はある。
彼女たちの温かく優しい心にも触れてしまった。
が、それだけではないだろう。
この心の奥底からあふれ出てくる感情。
それはきっと衝動だけ渦巻いて、その出所は今の自分には理解できないものだろう。
記憶の彼方に消えてしまった失われた過去。
それがこの感情の原動力である気がする。
艦娘を助けないといけないという病的なまでの衝動。
それが彼を突き動かしているのだろう。
だからどうした。
海人は開き直る。
己が助けたいという思いに偽りがなければ、それでいい。その衝動の根源なんて、些細な問題でしかない。
今度こそ救う。
今度こそやりとげる。
「おいおい、今度こそって……」
前回とはいつのことだ?
夜は彼女の時間だった。
かつては騒ぎ立てた夜も、今の彼女は静かに夜空を眺めるだけである。
窓の外から見える景色は変わらないのにも関わらず、自分自身は驚くほどに変わってしまった。
妹たちを失った痛みは常にこの身を焼き尽くすように疼いている。
後悔はない。
けれども、自責が鎖となって体を縛り付けているのも事実だ。
彼は希望となるのだろうか。
この偽りの楽園を壊す一因となってくれれば幸いだった。
あれだけの犠牲を経て、ようやくたどり着いた場所がこんなところではあまりにも救いがなさすぎる。
川内は自室の窓から顔を背けた。
何気なく視界を移したのは月の光を反射していたジュラルミンケースだ。
海人と共に流れ着いてきた物で、電曰く彼の傍にあったのだと言う。
現状は預かっているが、記憶を取り戻せば彼に返す日も来るかもしれない。しかし今は彼に渡したところで意味のある物ではない、何故ならそのジュラルミンケースは暗証番号でロックされているからだ。
そして電と川内の共通の感想であるこのジュラルミンケールから嫌な気配がする。という感覚も気になるところだ。
恐ろしい禍々しさと同時に抗いがたい魅力のようなものを放っている。
これを本当に海人に渡して良いのだろうか。
それが取り返しのつかない事態に直結しないのだろうか。
そんな嫌な予感ばかりが脳裏を過る。
気のせいと割り切れるような軽い予感ではない。
海人は最近色々と調べ回っている。必要なことだ。
加賀が危険視して動き出す前に彼には自らの力で真実に辿り着き、そして己の答えを導き出してもらいたい。
それまでは彼女が彼を守るのだ。
それが彼女自身の望みに繋がると信じて。
暁は見た目的には電とそう変わらない年齢だろう。
しかし中身は相当年齢差がある。
しっかり者でどこか大人びた雰囲気のある電に対し、彼女はとても幼く幼稚であった。
そして純粋でとても素直だ。
幾度も通い、徐々に会話を積み重ねていった海人は浜風や時雨からそれなりの信頼を勝ち取っていた。
他の艦娘とはあまり話す機会を見つけられてはいないものの、顔を見れば軽く挨拶する程度の関係性は作れている。
今日の暁を暫く見ていて欲しいという浜風の頼みも、その信頼あってのことだった。
「かいと、きょうはなにしてあそぶの?」
「よっし、今日はかくれんぼでもするか」
この建物周辺では野生動物は滅多に出ない。
その為、比較的安心して遊び回ることが出来る。
「それ、一緒に混ぜてもらってもいいかな?」
声をかけてきたのは銀髪の少女だった。
見た目的には暁と同じくらいの年齢だろう。
確か名前は。
「ひびきっ」
暁がそう言って元気に彼女に抱き着いた。
そう、響という名前の少女だった。
「あまり君とは話したことがなかったが、暁の話に良く出てくるから知っているよ。俺は海人、よろしく」
「こっちも暁がよく話しているから色々知っているからお互い様だよ。響だよ、よろしく」
互いに握手して挨拶を済ませる。
「噂は色々聞いているよ。なんでも毎日のようにここに通い詰めては幼い娘を籠絡する為に頑張っているとか」
「違うからな。籠絡とか一切考えてないからな」
「冗談だよ」
冗談なら笑ってほしい。
真顔で言われては反応に困る。
「もう一人、呼んでもいいかい?」
「ん? 別に俺は構いやしないが」
「スパスィーバ」
「なんて?」
「……ありがとう、という意味さ」
何語なのだろう。
浅学な海人には分からない。
彼女が連れてきたのはどこか電に似た少女だった。
彼女もまた、同じような年代の見た目だった。
電よりも少し快活で明るい雰囲気をしている。
「雷よ、よろしくね!」
「海人だ、よろしく頼む。で、この四人でやるのか?」
「そうだね。暁もそれでいいよね?」
「うんっ」
どうやらこの三人はとても仲が良いらしく、暁もとても楽しんでいる。
かくれんぼは鬼を交代しながら何度も行った。
まるで姉妹のように仲睦まじい三人を微笑ましく思いながら、楽しい時間は過ぎ去っていく。
それは雷が鬼となって隠れるまでの時間を大きな声で叫んでいるときのことだった。
ブランコが備え付けられた大きい樹の影に隠れた海人の隣に響が座り込んだのである。
「お、ここに隠れるのか。それなら俺は違うとこに行くよ」
「いいや、そのままでいい。……少し、話しがしたくてさ」
「俺とか?」
「そうだよ」
海人も彼女の隣に腰かける。
「お前も俺が何かしないか疑っているのか?」
「違うさ。少なくとも君のことを信用している」
「信頼してくれるのは嬉しいが、理由がないとちょっと怖くもあるな?」
信頼されるほど彼女は海人のことを知らない筈だ。
「まだ生きている。それが信用に足る理由だよ」
「どういう意味だ?」
「加賀さんに殺されてないのだろう? 何も企んでいない。何もしていない。そして海人を生かそうとする艦娘が少なくとも一人はいる。最低限の信頼を置くには十分過ぎると思うよ?」
「そりゃどうも……」
あまり嬉しくない類の信頼の置き方であった。
が、信頼してくれているに越したこともない。
「暁が少し変なのは分かっているだろう?」
「いや、まぁ見た目に対して中身が大分幼いなとは感じるが」
「昔はああじゃなかったのさ。……いや、昔も変に子供っぽいところはあったけど」
「……彼女も提督が亡くなったことが原因で壊れてしまったのか?」
「? ……ああ、そうか。君はまだそこで止まっているのか」
会話が繋がっていない。
彼女が何を言って言うのかよく分からなかった。
「いまはまだ分からなくてもいいさ。それよりも、君の味方は今どれほどいる?」
「俺の味方?」
「そう。君が死ぬのを望まない、君の為にあるいは加賀さんと戦ってくれそうな娘だよ」
敵意がないならかなりの数がいるだろう。
が、味方となるならば話は別だ。
電は優しいが、加賀を敵に回してまで仲間になってくれるかと言えばあまり自信はない。
裏の事情はあれども、現状完全な海人の味方と言えるのは川内だけかもしれない。もう少しで、という条件を付ければ山城も入るだろう。
「……今は、一人だけだ」
「そう、それは心細いね。ならこの響が、二人目になるよ」
それは意外な提案であった。
想定外と言っていい。
「お前が俺にそこまで入れ込む理由はなんだ?」
「賭け、だね」
「賭け?」
「海人、君に賭けたいんだ。この見かけだけの楽園を終える為に」
楽園。
それは加賀が口にした言葉だ。
けれども、海人はこの現状を見て楽園だと思うことは出来なかった。
「目的をはっきりさせよう。私は電を助けたい」
「電を?」
「今も尚、孤独にいる電を助けたいんだ。あの子を一人にしたのは私たちだ。他の誰もない、私たちが傍にいてあげなきゃいけないのに、それが出来ない」
とても悔しそうに響は呻いた。
「暁だけじゃない。私も、雷もちょっと壊れている。それが足を引っ張っているし、その原因が彼女にあると電自身が思っている限り、私たちが何をしようと彼女を苦しめる結果になってしまう」
「俺に何か出来るのか?」
「分からない。けど、可能性はある」
響は続ける。
「期待しているよ。君を守る一人になるというのは前払いだよ。君の信頼を得るための、私からの精一杯の誠意だ。今後、川内と協力して君を守るし、君が仲良くしたいと思う艦娘との橋渡しもする」
「それよりも、俺はここで何があったのかを知りたい」
ここでは過去に何かがあった。
それが今の彼女たちを縛り付けているのは間違いないのだ。
ならば、それを知らなければどうすることも出来はしない。
「残念だけれど、私も詳しいことまでは知らないし。私が知っている範囲のことも教えられない。艦娘は色々と制約が多くてね」
「行動の制限っていうのは、言葉も含まれるのかよ……」
「詳しいじゃないか。そう、司令官。つまりは【提督】の許可がないと私たちは機密に触れることは言うことが出来ないんだ」
「みーつけたって、二人で何しているのよっ? 隠れる気あるの?」
「見つかってしまったね。海人、話の続きはまた今度」
「ああ」
この日、響という味方が増えた。
「加賀ってどれくらい強いんだ?」
「鬼だね」
強さを聞いたら強さとは思えない単語が返ってきた。
それは川内の自室でのことである。
まだ日中の為、爆睡していた川内を叩き起こした形になるので彼女の機嫌はかなり悪い。
響が海人の護衛に追加されたことを知った川内は、気兼ねなく日中爆睡出来る昼夜完全逆転生活に戻れたばかりなのである。
「正面からやり合えば私と響でも勝てないかなー。夜の私でも一対一ならギリギリ勝てないくらい」
「空母型なんだろ? 白兵戦も強いのか?」
「強いよー。練度がもともと電と同じくこの鎮守府で最高だったし、徒手空拳でもかなり強い。素手で演習相手の戦艦を叩きのめすくらいには強いね」
確かに鬼だった。
「電が戦ってくれるなら心強いけど、味方同士での戦いなんて電は絶対にしないだろうし。私、響、山城の三人で当たれば、真正面からでも勝てそうかな。……で、沈めるの?」
「沈めねぇよっ!? 発想が怖いわっ!!」
「なんだてっきり」
てっきりなんなのだ。
こちらはこっちの命を狙う加賀の戦力が知りたかっただけである。
「加賀と交渉したいんだよ」
「交渉?」
「そうだ。せめて俺の命を狙うなんてことのないよう説得したい」
が、交渉なんて同じ立場。同じ戦力同士でなければ起こりえない。
故に彼女の戦力を知りたかったのだ。
「つまりは、俺の背後に川内、響、山城を連れてようやく互角なのか」
「まぁそれなら一方的にやられる心配はないだろうし、加賀さんも無茶はしないだろうけど。……話を聞いてくれるかは怪しいなぁ」
「そこは考えがある」
川内と響の協力は間違いない。
と、なれば問題は山城と加賀だ。
山城は加賀を敵に回してまで海人の味方になってくれるのか。
そもそも居場所が不透明な加賀を捕まえることが出来るのか。
「うーん、やり方次第では電も仲間に引き込めるね」
「電も、か?」
「うん。目的が話し合いなら電も協力的だろうし、電がいれば加賀さんも強引な手段に出る可能性がかなり低くなるね」
「電ってそんなに強いのか?」
「そりゃ長門さんとかがもういない今や、加賀さんが認める艦娘なんて電くらいしか残ってないと思うよ?」
長門。聞いたことのない名前だった。
きっとかつての襲撃で沈んでしまった艦娘の一人だろう。
「分かった。電、山城の協力が取り付けられたら加賀を探そう」
決まったら行動が早いのが海人の長所だ。
まずは一番近い電の部屋に向かう。
が、留守だった為、続いて山城の部屋に向かった。
電は恐らく釣りにでも出掛けているのだろう。
「うわぁ……、山城さんの部屋に躊躇なく入るなんて海人凄いねぇ」
「前も入ったけど、何事もなかったぞ?」
「入るなり失礼な人たちですねぇ……」
山城は迷惑そうな顔で呟く。
海人の主観だが、以前よりも暗さがマシになってきている気がした。
「いきなりで悪いが、山城。お前に頼みがある」
「なんですか、本当にいきなりですね」
一息置き。
海人はまっすぐ山城を見る。
すると目を逸らされてしまう。
「おい、大切な話なんだ。そっぽ向かないでくれ」
「嫌です」
頑なに拒否される。前途多難であった。
「まぁいいか、山城。俺の味方になってくれないか?」
「……どういう意味で?」
いきなり味方と言われても確かに困るだろう。
海人は噛み砕いて説明することにした。
「俺の命を加賀が狙っているのは知っているよな?」
「ええ、それはまぁ、明らかに狙っているので」
「俺はそれをやめる交渉をしようと思っている。で、その為に護衛が欲しいんだよ」
「なるほど、だから味方ですか」
最悪、加賀と敵対してでも守ってほしい。
故の味方。
協力者では物足りない。
「私が必要なんですか?」
「え? あ、ああ、まぁ」
「私じゃないとダメなんですか?」
「お、お、おお? おう?」
「歯切れが悪いですね……」
袖を引かれる。
引いたのは川内であった。
そのまま彼女は小声で囁く。
「海人、山城さんに何したの?」
「は? なにって何も……」
「ちょっと黙って山城さんの目を見つめてみて」
「なんで?」
「いいから!」
言われるままに山城の目をまっすぐ見つめた。
今度は顔を背けられなかったが、徐々に山城の頬が赤くなっていくような気がした。
暑いのだろうか。
「やっぱり」
川内がそう呟く。
「どうなんですか、私が必要なんですか? それともそうじゃないんですかっ!?」
顔を赤くした山城がまくしたてる。
「海人、これもう既に落ちているよっ!」
「落ちている? どこに?」
「ああ、もう鈍感かっ!? とにかく真剣に君が必要だって言えば味方になるから。きっと命懸けで守ってくれるわよっ!」
意味不明だったが。
とにかく味方にはなってほしい。
海人は出来うる限り真剣に言う。
「山城、お前が俺には必要だ。どうしてもだ。頼む、味方になってくれっ!」
「そ、そそそ、そうですか。し、仕方ありませんね。そこまで言うのなら、味方になってあげなくもないですよ」
こうして味方が一人増えた。
続いては響だったが。
こちらは一声だった。
「頼む、加賀との交渉で護衛をしてほしい」
「快諾しよう」
即答である。
これにて川内、山城、響という戦力が揃った訳だ。
これに電が加われば完璧であった。
あとは加賀に話を聞いてもらい、せめて命を狙うのだけはやめてもらう。
別に良好な関係を築こうだなどとは思ってはいない。
攻撃的な姿勢をどんな形であれ、やめてもらえればいいのである。
電の協力を取り付けるため、海人は彼女のお気に入りの釣りスポットに向かう。
「それは良い考えなのです」
加賀との話し合いを提案した海人に対する、電の返答であった。
やはり友好的。平和的な解決には彼女も前向きな姿勢らしい。
「協力してもらえるか?」
「もちろんなのです」
話は終わった。
そこに複雑そうな表情で響が前に出てくる。
「電、久しぶりだね」
「……響ちゃん」
非常に重苦しい空気が場に流れる。
「あの二人やっぱり複雑なあれなのか?」
海人は川内に問い掛けた。
「うーん、第六も色々あったけど、電と響はまだ何とかあれじゃない感じだよ?」
川内に続き、山城も答える。
「響は気にしていないけど、電が避けていた筈ですよ。彼女からしたら自分の罪と対面するようなものでしょうし」
詳しく聞きたいが、どうせ彼女らは制限のせいで話せはしないのだろう。
軽く流し、海人は二人の様子を見つめた。
「やっぱり、戻ってくる気はないのかい?」
「電には、その資格がないです」
「大好きな人と一緒にいるのに資格なんて必要がないだろう?」
「雷ちゃんにも、暁ちゃんにも、会わせる顔がないのです」
「それは電の思い込みだ……っ」
「この話は、あまりしたくないのです」
まるで見えない壁でもあるみたいだった。
響は壁の外側から必死に呼びかけるが、電には届かない。
いや、届いているが電が必死に逃げているのである。
「ええい、じれったいっ!!」
見ていた海人は我慢できずに叫んだ。
響の腕を掴む。
さらに電の腕も掴んだ。
「響、お前電のこと好きか?」
「当然じゃないかっ!」
「電、お前響のこと嫌いか?」
「そんな訳ないのですっ! あり得ないのですっ!!」
「じゃあ好きか?」
「大好きなのですっ!!」
海人は笑う。
「じゃあ難しい話はなしだ。互いに好きなら、一緒にいればいい。細かい話も事情も俺は知らないけど、今お前らが一緒に笑えない理由なんてありはしねぇよ!」
「でも、電は……っ、幸せになっちゃ、いけないのです……」
「ばかかお前? この世に幸せになっちゃいけない奴なんかいないし、そんな理由も存在しない」
二人の手を繋ぐ。
「俺が全部引き受ける。よく分からないが、問題は全部俺に投げていい。俺が解決するし、責任は全部俺の所為でいい。難しいことはなしだ。お前ら一緒にいたいなら何を我慢する必要がある? 俺はそういうのが嫌いだ」
「むちゃくちゃなのです……」
「そうだね。でも、電。私も海人と同じ気持ちだ。大好きな人同士が一緒に笑えない理由なんてないさ、確かに色々あるけど。でも一緒に解決出来る筈なんだ」
「一緒に、いても良いのですか?」
「雷や暁は確かにまだ時間がいると思う。まだ何も解決してないけど、少なくとも私はもう平気だよ。時間が解決してくれた。もう、私は電の傍にいることが出来るんだ。今までごめん。もう、電を一人になんて絶対にしないさ」
それを聞いた瞬間。
響の優しい声に壁を打ち砕かれた彼女は。
泣き崩れた。
今まで彼女を支えてきた虚勢が崩れたのだろう。
抑え込んできた感情が溢れ出て、涙や嗚咽に変わっていく。
そんな電を響は優しく抱きしめた。
電の頭を撫でながら、響は言う。
「スパシィーバ。海人、君を信用してよかった。最大の感謝を……」
「俺は何もしてないよ」
言いながら海人は後頭部をかく。
照れくさいのである。
「川内、山城。行こう」
暫く二人だけにしてあげようという提案だ。
川内と山城の二人は頷いて海人についていく。
電が泣き止むまで、響は彼女を撫で続けた。
鏃を向けられたのはこれが二度目だった。
張りつめた弓は海人の眉間を狙っている。
何故だろう。
恐怖すべき対象である彼女が。
どうしてか、海人には怯える少女に見えてならない。
「私の前に姿を現したということは、殺される覚悟がやっと出来たのかしら?」
「殺される覚悟で来たなら、わざわざこんなに引き連れて来ないだろ」
海人の背後には彼に寄り添う四人の艦娘がいた。
電、川内、山城、響の四人だ。
彼女らがいるから海人は安心して加賀と対峙出来る。
「俺はまだ死ぬ気はない」
加賀は電に見つけてもらった。
どこにいるかも分からない彼女をいとも簡単に見つけた電は、海人たちが待つ場所に連れてきたのだ。
加賀は出会った瞬間、弓を構えた。
いつでも飛び出せるよう川内と響が構える。
無駄打ちはしない主義なのか、構えたまま加賀が動くことはない。
重苦しい空気が続く。
「死にたくないのなら、ここから出ていきなさい。ここは貴方がいていい場所ではないわ」
「そうか? 俺は結構気に入っているぞ、ここを」
「貴方が気に入るかどうかの話ではないのよ」
「……ふぅ、加賀、提案がある」
海人は突然切り出した。
「提案とは?」
「俺が邪魔で目障りで仕方ない加賀と、とにかく殺されたくない俺。川内や響まで巻き込んで長いことやり合うのは不毛だとは思わないか?」
加賀は静かに首を横に振った。
「貴方がさっさと殺されるか、この島から立ち去れば終わる話よ」
「いやだね」
それは出来ない。
過去の自分がいったいどうしてこの島に流れ着いたのかは知らない。が、少なくとも今の海人はここにいることを望んでいるのだ。
「だから今日はっきりさせよう」
「はっきり?」
「勝負だ、加賀。俺とお前の一騎打ちで、俺が勝てば俺の命を狙うのをやめろ、見逃せ。お前が勝てば好きにしろ、殺されても文句は言わない」
単純だろ?
そう言って海人は笑った。
その頭を、電がはたいた。
「……っ、いってーなっ!」
「何考えているのですっ!?」
「海人、頭おかしくなったのっ!?」
「自殺行為だわ……」
「気でも触れたのかい?」
酷い言われようである。
どうやら加賀という相手はそう言われても当然の強敵のようであった。
「そう……。勝負の内容はなにかしら?」
「加賀、お前白兵戦得意なんだってな?」
「……正気?」
白兵戦を挑もうとしている海人に対し疑惑の視線を向ける加賀。あるいは愚か者を見る侮蔑の視線だったかもしれない。
「正気も正気だ。一対一の模擬戦でお前に勝負を挑む」
「私には受ける理由がないわ」
「というか海人やめなって、勝てるわけがないしっ!」
川内が海人の腕を掴む。
「ひでぇな、やってもないのに結果なんて分からないだろ」
「分かるのです。海人は人間、対して加賀さんは艦娘。それだけでも理由としては十分過ぎますが、それ以上に加賀さんが強過ぎるのです……っ」
電が反対側の腕を掴み海人を説得する。
「なるほど、じゃあこうしよう。俺は模擬戦用の武器を使用して、加賀は徒手空拳。さらに俺は一撃でもクリーンヒットを入れられたら勝ち、加賀は俺を降参させるか意識を奪えば勝ちってルールでどうだ?」
「だから私が受ける理由がない。と言っているのだけれど」
「自信がないのか?」
わざと嘲笑するように言う。
しかし加賀は表情筋を一切動かさず、感情を乱した様子は窺えない。
「その程度で挑発のつもり? 受ける理由がないと言っているのよ。その勝負、貴方に得があって私に得がないもの」
「勝って当たり前の勝負で得が欲しいとは我儘な奴だ」
「話にならないわ」
海人は大きく溜息を吐く。
そして続けた。
「じゃあ得をやろう」
「?」
「賭け金上乗せだ」
にやり。と、海人は笑う。
川内と電の腕を優しく振りほどき、海人は弓を構える加賀へとまっすぐ近付いていく。
「はわわ、海人頭おかしくなっちゃったのです!?」
電が頭を抱えて座り込んだ。
「ちょっといい加減にしなよ、私との約束破る気なのっ!?」
「川内」
海人は慌てて追いかけてきた川内の額を指で突いた。
「俺を信じろ」
額を両手で押さえた川内が上目使いで小さく呟く。
「裏切ったら許さないから……」
「信じていいんですか?」
遠くから山城が言う。
「当然だ」
自信満々に海人は答えた。
「勝算はあるんだね?」
響は問う。
「勝つ気しかないぞ」
「そうか。なら思う存分やるといい」
軽く拳を上げて答えた。
遂に加賀の目の前までたどり着く。
手を伸ばせば届く距離。
そして弓はまだ海人の眉間を狙い続けている。
「興味あるか?」
「どうしてそう思うのかしら」
「興味ないなら射るだろ?」
「否定はしないわ」
この距離ならば加賀以外に聞かれる心配はない。
「――――」
海人の言葉に加賀の表情が豹変する。
微塵も表情を変えない鉄仮面が一瞬で崩れたのだ。
それほどの言葉を海人は発したのである。
「どうだ? やる気になったか?」
かつてはあった演習場は現在使い物にならないらしい。
その為、宿舎から近い開けた場所で行われた。
徒手空拳の加賀と、模擬戦用に刃引きされたコンバットナイフを構えた海人が相対する。
審判役は電が引き受けた。
電以外の人物には任せられないと加賀が発言したためだ。
この三人を遠巻きに見つめる艦娘の姿がある。
川内、山城、響の三人である。
「どっちが勝つと思う?」
川内が険しい表情で言った。
「普通に考えれば加賀でしょうね」
至極当然の事実を山城が答えた。
「だよね」
それに異論を挟む余地はない。川内も肯定する。
結論は出ていた。
それでも海人は何かをやらかす。そんな気がするのもまた事実だった。
「あの自信が気になるよね。海人、負ける気がしてないって感じだった」
「怪我が治ったばかりの病み上がりの体でどうする気なのかしら?」
海人はついこの間までベッドから出られない程にやつれていたのだ。最近でこそ鈴谷と一緒に山道を回れる程に回復しているものの、病み上がりと言って差し支えない。
例え海人が万全の状態であったとしても、艦娘と人間の間には絶望的な性能差がある。
艦娘はナノマシンによって改造された人間だ。
体内にナノマシンを持つ人間は身体能力を中心に、様々な能力が向上する。さらに艤装という特別な装備とリンクすることでその能力をさらに二倍も三倍も向上させることが可能なのだ。
艤装とリンクしていないとはいえ、艦娘の身体能力は普通の人間を軽く凌駕する。
基本的な性能差がもう既に絶望的だが、加賀はその艦娘の中でも高い練度と経験を誇っていた。
勝ち目がない。
この模擬戦を見ている全員が加賀の勝利を当然と思い、そして海人が勝利する情景が微塵も浮かび上がってこない。
それでも、彼の勝利を疑う者はいなかった。
「準備は良いのですか?」
電の声に加賀は頷き。
海人は笑顔で答える。
「一瞬で意識を奪ってそのまま安らかに殺してあげます」
「ひとついいことを教えてやろうか?」
「興味ありません」
「……そうかい」
徒手空拳。武器を持たない加賀は自然体で立っている。
隙だらけのようにも見えるが、油断すれば一瞬で喰われる威圧感もあった。
「では、開始の合図をするのです。いいですね?」
海人はコンバットナイフを利き手に軽く握り構えた。
構えが様になっている。少なくとも、素人のそれではない。
「どうやら心得があるようですね?」
「らしいな」
電が大きく息を吸い込む。
「始めっ!!」
踏み込み、ナイフを振るう。
開始と同時、先手必勝で飛び出したのは海人だった。
かなりの速度だったが加賀は冷静だった。素早く彼の手首に手を置いてナイフの軌道を止める。
そこから関節を決めてナイフを落とす予定だったが、海人が素早く反対の手で顔面を狙った為、関節を中断してそれを防ぐ。
防いだ腕を海人が絡め取ろうとする。
流れるようなよどみのない動き、相当訓練を積んだ者の動きだった。
それを捌いて開いた空間に再びナイフが飛び込んできた。
上半身を逸らして突きに対応する。
伸びた腕を掴もうとするも、引きが早く捕まらない。
加賀が体勢を整えた頃には海人は彼女に背中を見せていた。いや、これは後ろ回し蹴りである。
素早く一歩引いてそれを躱す。
回し蹴りの隙を突いて攻撃しようにも、続くナイフの牽制で踏み込めなかった。
完全に油断していた。
人間だと思って見下していた。
身体能力では圧倒しているが、近接格闘戦の技術ではどちらが上か怪しいところだ。
「――っ」
此処までのやり取りで加賀は意識を完全に切り替えた。
弱者への一方的な暴力ではなく、自分を脅かす脅威として排除する。
海人がナイフを持った腕を後ろに投げるように振りかぶった。
体で腕が隠れる程の大振りである。
明らかな隙だった。
誘いの可能性もある。
引いて様子を見るか、受けて反撃を狙うか。
加賀は後者を選択した。
左手で大振りの一撃を防ぎ、残った右手で反撃を狙う。そこで気付く、海人のその手にナイフが握られていないことに。
彼の左手が、ナイフを持った左手が振るわれる。
刃の部分を防いでしまえばクリーンヒットと十分に言えるだろう。それでは加賀の敗北だ。
彼女は膝を突き上げて海人の腕を跳ね上げた。
互いに体勢は悪い。
加賀はバックステップで距離を開ける。
奇しくも、全く同じタイミングで海人もバックステップをしていた。
額に汗が一滴。
呼吸も荒れている。
激しい運動をした訳ではない。
この短い凝縮された時間に行った駆け引き、技術の交差が加賀を疲労させたのである。
海人とは、それほどの実力者だったのだ。
「……実力を隠していたの? 嫌味な人」
「悪いがこちとら記憶喪失だ。……自分が近接格闘術でここ数年負けなしだって最近思い出したって言ったら信じるか?」
「冗談。……ではないようね」
加賀は着物の上半身を脱ぎ始めた。
雪のように白い肌が露わとなる。
さらしに巻かれた豊満な胸も丸見えである。
「どうしたいきなり、ストリップか?」
「襷があれば良いのだけれど、今は持ち合わせがないのよ」
帯から垂れ下がった部分を腰で結び、加賀は再び構えた。
「袖を振るって戦えるほど、甘い相手ではないようですし。鎧袖一触とはいかないようね」
「本気ってことか」
「ええ」
「嘘でしょ……」
呆然と呟いたのは川内だった。
「驚いたね。私たちの護衛が本当に必要だったのか疑わしい強さだ」
響が感嘆の声を上げた。
「海上の演習はおろか、地上の白兵戦演習でも負けなしだった加賀と互角ですって? ちょっとありえないんじゃないかしら……」
山城は我が目を疑うように何度も目を擦っている。
「海人ここに流れ着く前には陸軍にでもいたのかな?」
「可能性としては高いかもしれない」
電も驚いていた。
間近で見ていたからこそ分かる。
人間という低い基礎性能。病み上がりという万全ではない体。それでも尚、加賀と拮抗するその実力。近接戦闘における技術では彼は彼女を上回っていた。
信じられないことだ。
加賀でさえ比肩する者のいない実力者だが、それを凌駕するとはもはや意味不明である。
「これなら、もしかして……」
「さっきの言葉の続きだ。加賀、ひとついいことを教えてやる」
「……聞きましょう」
「思い出したことはまだまだ少ないが、どうやら俺はここに来る前は艦娘に白兵戦を教えていたらしい」
驚くことではなかった。
これだけの実力者だ。どこで誰に教えていても不思議ではない。
人間であるということを度外視すれば、彼女だって教えを乞いたいほどだ。
「それでだ。俺は艦娘相手でも負けたことがない」
「私に勝てる理由にはならないわね」
認めよう。
加賀は目の前の男が自分よりも上手いことを受け入れた。
しかし、それは彼が彼女より強い証明にはなりえない。
もとより身体能力には埋められない差があるのだ。
おまけに相手は回復途中の病み上がり。
利用しない手はない。
今度は加賀から仕掛けた。
踏み込んでからのナイフを警戒しつつ、打撃を狙い。絡め、捌き、隙を見せれば獰猛に関節技を狙いにいく。
技術で上回る必要はなかった。
こちらが相手を上回る必要はない。
互角でいい。
多少劣っていても構わない。
とにかく仕掛け続け、休む間を与えないことを徹底した。
激しく動き、細かい攻防を続けるのだ。
削るべきは、その体力なのだから。
海人は焦っていた。
弱点を冷静に突かれているからだ。
体力の差。これほど明確で誤魔化しようのない差もないだろう。
艦娘と人間という差はもちろんのこと、海人は病み上がりである故の体力の低さを隠しきれない。
このまま膠着状態が続けば不利なのは間違いなく海人だった。
早期決着を望んでいた。
思った以上に加賀が強かったのだ。
最初の連撃で一撃を入れられなかったのは実は痛恨の痛手であったのである。
それでもまだ、負けた訳ではない。
しかし体力が尽きるのも時間の問題だ。
仕掛けるならば今しかない。
海人は体を深く沈め、まるで時を切り取ったかのようにその間合いを詰めた。
加賀の瞬きに合わせたため、彼女の反応が僅かに遅れる。
体を捩じりながら地を這うように右手を振り上げる。
上半身を逸らして躱す加賀。だが海人のその手にはナイフはない。
さらに体を前に倒して距離を詰めた海人は残った左手、ナイフを握った本命を振り上げた。
「二度も同じ手は――っ」
ナイフの腹を掌打で叩く。
横っ面を殴られたナイフの軌道は大きく逸れ、握力の限界か、海人の左手からすっぽ抜けたナイフは真上に飛んでいく。
海人は勢いを殺さずに体をそのまま半回転し、右足を前に投げ出す。地面に叩きつけるように踵をぶつけ、そこを中心に爪先を半回転させる。
加賀の足に絡ませ、軸足を刈り取るためだ。
上半身を逸らし、掌打を放った加賀の重心は後ろにある。それを支えているのは一本の軸足だ。それを失えば当然転倒するだろう。
その隙を見逃してくれる相手ではない。
しかし躱す手段も受け流す手段も加賀にはない。故に、力技を行使した。
艦娘という優れた肉体。それを酷使し、極限近く肉体を鍛え上げた加賀は、この崩れた体勢でも地面を踏み抜く蹴りが放てる。
軸足でない足で地面を踏み抜く。
陥没した地面に埋まった足は、移動こそ困難なものの。これで体勢を崩す心配はない。
海人渾身の足払いは失敗に終わる。
安定した軸足に足を引っかけた海人は諦めない。
そこを支点に自身の体勢を一瞬で立て直し、さらなる攻撃を試みる。
しかし体力の限界を迎えたのだろう。
その動きにキレはなく。
右手も、左手も、加賀にあっさり拘束されてしまう。
「……右手も使えず。左手も使えず。移動も出来ない、か」
「そう、終わり。……ね」
加賀が勝利の宣言をする。
海人は笑う。
諦めた男の笑いではなかった。
「その心意気は評価するわ。でも、私は自分を曲げない。曲げられない」
「く、くくく……。加賀、お前は何を言っているんだ?」
おかしくてたまらない。
そんな様子で海人は笑い続ける。
「壊れたのかしら?」
「ばかやろう。右手も左手も、移動も出来ない。全部お前のことだよ、加賀」
「?」
「チェックメイトだ」
加賀の肩が叩かれる。
かなりの強さだ。
結構痛い。
何か尖ったもので。
誰が。
「え……?」
違う。
叩いたのではない。
ぶつかったのだ。
先端の尖った、刃引きされた。
模擬戦用のコンバットナイフが。
高く放り投げられたナイフが、放物線を描き。
重力に従って加賀に落ちてきたのだ。
刃の部分があの高さからぶつかればクリーンヒットと呼べるだろう。
「悪いな、体力の限界だ」
こうして、海人は全てを使い切り意識を手放した。
「どうしたのですか?」
「どうもしてないが」
彼女の優しい声色にぶっきらぼうに答えた。
「それにしては難しい顔をしていましたけど」
「顔に出ていたか……」
「悩み事なら相談に乗りますけど?」
「……実は」
声は思い出せる。
鮮明に、だ。
しかし顔が思い出せなかった。
曖昧な輪郭だけが背景に浮かび上がっている。
暗転。
「――に落ち度でも?」
凛とした声。
それは強く正しくまっすぐな声色であったが。それと同時にどこか危うさもあった。
それが心配だったのだ。
彼女は優秀だった。
その実力は折り紙つき。故に手を焼いたのである。
暗転。
悩みを聞いた彼女は提案する。
「それなら、一対一でやっつけちゃいましょう!」
普段の物腰に似合わぬ過激な発言であった。
しかし相手は自分など及ばぬ身体能力を持つ。腕に多少覚えはあっても、とてもではないが真正面から戦って勝てる自信はなかった。
けれども彼女は言う。
絶対大丈夫だと。
必ず出来ると。
自分以上に自分を信じる彼女には戸惑ったが。
それで覚悟は決まった。
もとより白兵戦における腕はかなりのものだと自負している。競ることは可能だろう。
そこに決め手が加われば可能性がない訳ではない。
奇策。
彼は妙手を思いついた。
そして訓練を始めた。
隠れて何度もナイフを頭上に放り投げる。
怪しまれぬようよろけ、握力の限界が来たように見せかけ、綺麗に頭上から目的の場所にナイフの刃を落とす練習を続けた。
――故に、彼は。
映像が途切れる。
はっきりとしたことは覚えていない。
が、自覚はあった。
これは夢だ。
そして内容を少しは覚えている。
瞳を開け、瞬きをした。
「……なるほど」
何度も練習し、成功した経験があったからこそあのような芸当は成功したのだ。
過去に同じ方法で強力な艦娘に白兵戦で勝利したことがあったからこそ、海人は自信に満ち溢れていたのだ。
「目覚めたのですか?」
その声は様子を見に来た電のものだった。
「ああ。……俺は勝ったんだよな?」
「はい。加賀さんは『約束は守ります』と、言っていたのです」
「それは良かった。正直、もう二度としたくない……」
「海人、凄かったのです」
「あんな曲芸偶然上手くいっただけだ」
ベッドから上半身をお越し、苦笑しながら言う。
「海人、記憶戻ったのですか?」
「いいや、全然。自分が近接戦闘術に少し覚えがあることくらいだ」
「少しってレベルじゃないと思うのですが……」
「小細工弄してなんとか生身の艦娘に勝てる程度だよ。艤装を持ち出されたら手も足も出ない」
自分で言っていて首を傾げる。
艤装とはなんだ。
あまりにも自然に口を出たため言い慣れた言葉、のような気もする。
「艤装を知っているのです?」
「いいや、知らない。……違うか、覚えていない、だ。俺は多分知っていた、のだと思う」
不思議な感覚だが、どうやら記憶がある程度戻りつつあるのかもしれない。
「艦娘はともかく、艤装はそれなりに艦娘に関わりのある人しか知らないのです。もしかしたら海人は昔艦娘に関わるお仕事をしていたのかもですね」
「……そういえば、どうやら俺はここに来る前は艦娘に白兵戦を教えていた、らしい」
「そうなのですか?」
「ああ、いや。おぼろげな記憶だからあまり自信はないのだが」
なんとなく。
そのような気がする。
その程度のあやふやな記憶だった。
「えっと……、海人が起こした今回の出来事はちょっとこの島を色々変えてしまったのです」
「というと?」
「提督亡きこの島のルールは、今まで実力主義でした。その頂点にいたのが加賀さんなのです」
電は物凄く微妙な表情になる。
「それが変則ルールとはいえ、一騎打ちで負けたとなれば――」
「なれば?」
「それを知った艦娘の中には海人をヒエラルキーの頂点だと思う娘もいるのです」
「つまり?」
「率直に言えば犬が懐いたのです」
「は?」
意味不明である。
その次の瞬間。
突然この部屋の扉が開け放たれ、一つの影が飛び込んできた。
構える間もなく逃げる間もなく、海人はその影に抱きつかれる。
「うお、いったいなんだっ!?」
「海人、凄いっぽい!」
聞き慣れた声だ。
飛び込んできたのは見慣れた金髪の頭である。
「夕立じゃないか、お前なんでここに?」
「海人がいるからっぽい!」
「僕たちは海人の陣営に加わりに来たんだよ」
夕立に続いて、彼女とは対照的に穏やかに部屋に入ってきたのは時雨だった。
「陣営?」
「ということになっているのです」
「意味が分からんのだが」
曰く。
色々と問題を抱えていたこの島は、提督という絶対的な統治者がいなくなってからはもっとも実力のある加賀がまとめていたらしい。
悪く言えば、支配だ。
それに全て納得して従っていた艦娘は少ない。
が、混乱や争いを避けるためにも住み分けや秩序は必要であった。
そこに突然現れた漂流者の海人。
彼はこの島の艦娘の多くに知られており、少なくない数と顔見知りであり。
そして彼に付き従う艦娘が数人いる。
それは海人陣営と言っても過言ではない。
はっきりと形となっていなかったそれは、加賀を海人が打ち倒すという構図ではっきりと形になった。
本人が望まなくても、この島の住人はそう判断したのだ。
この島の秩序を守る加賀。
この島に新たな風をもたらす者、海人。
そして加賀の絶対的な力が揺るいだからこそ動き出す者。
そんな力関係が構築されつつあるのだという。
にわかには信じがたい。
というか信じたくない。
海人は別にそんなものに興味は一切ないのである。
「めんどうくさいことになっているなぁ……」
溜息がこぼれた。
「という訳で、僕らは海人の仲間になりたい。君の指示には極力従う。だからお願いしていいかな?」
「いいも何もそんな陣営ないぞ」
「あれ? おかしいな、響に陣営に加わらないかって言われて来たのだけど」
「あいつ勝手になにやってんの!?」
悲鳴にも似た絶叫が部屋に響く。
「あ、やっと海人起きたね」
入り口からから川内が顔を出す。
「主役がいつまでも寝ていたらだめだってば、私だって頑張ってこんな時間に活動しているのに!」
「……川内、まさかお前も一枚噛んでいるのか?」
「まーね」
「なにしてくれてんの……」
「折角海人が作ってくれた好機、逃す訳にもいかないじゃない?」
輝かしい笑顔で言われる。
彼女のこの笑顔は夜戦に一歩近づいた顔だろう。間違いない。
「ちくしょうどうなっているんだよ……」
「えーっと、電は止めたのですけど」
「頑張って止めて欲しかったかなー」
「夕立、海人の仲間になるっぽい!」
「いや、勝手に決めるなよ!?」
「だめっぽい……?」
「やめろ、うるんだ目で上目使いはやめろ! 良く分からない罪悪感がっ」
「僕も夕立も忠犬のように忠実な使える艦娘だよ?」
「そういう問題じゃないんだよ!?」
騒々しい部屋から静かに電は退室する。
彼女に川内は問い掛けた。
「電は、海人陣営に入らないの?」
「……遠慮しておくのです。電がいると、きっと響ちゃんが困るのです」
そのまま立ち去る電を見て川内は溜息を吐いた。
「まだ解決には遠い、か。……海人、頑張ってよね。まだ始まったばかりよ?」
犬に絡まれる海人に視線を戻し、哀愁を漂わせた川内は誰にでもなく呟いた。
蜘蛛の巣状に広がった亀裂の中心に彼女の足跡が残されていた。
足跡と呼ぶにはあまりにも深いその穴は加賀の一撃によって陥没した地面だった。
体勢の悪い状態で放ったにも関わらずこの威力。普通の人間である海人が直撃すれば膨らみ過ぎた風船のように破裂してしまうだろう。
当然即死だ。
「……俺よくあんな化物に勝てたな」
もう一度やれと言われて出来る自信がない。
というかもう二度と艦娘と真剣勝負ほしたくなかった。
命がいくつあっても足りないからである。
「ん?」
亀裂の一部分が太陽の光を反射して光った。
海人はその光のもとに近付いていく。
ひび割れた地面にそれは落ちていた。
この付近には勝負していた海人と加賀、そして電しか近付いてはいない。
激しい動きをしていたのは海人と加賀のみ。そして海人に心当たりがない以上、これを落としたのは恐らく加賀だろう。
それは鍵であった。
武骨で頑丈そうな一本の鍵。
それが必要となる場所に海人は心当たりがある。
「やっぱり持っていたのは加賀か」
これが落ちていたのは偶然だった。
海人は別にこれを求めてここに来た訳ではない。
それでもこの鍵を持っているのが加賀だという確信は持っていた。
周囲に誰もいないことを確認すると海人はそれを拾って懐にしまう。
「嫌な推測ばかり当たってしまうのは世の常だな」
まだその鍵があの場所の鍵だと決まった訳ではないが、ほぼ間違いはないだろう。
この鍵で行ける場所に何が隠されているのか。幾つか検討はつくが、確信はない。
「見つけたっぽい!」
「うえっ」
夕立に見つかってしまう。
そう、海人はそもそも彼女らから逃げ回っている途中だったのだ。
振り切って一息ついていたところだったが、間抜けにも見つかってしまった訳である。
夕立がいるということは近くに時雨もいるのだろう。
急いで夕立と反対方向に駆け出そうとするが、一歩を踏み出す前に硬直してしまう。
目の前に時雨がいたからである。
どうやら背後を取られていたらしい。
「やっと追いつめたよ」
「勘弁してくれ……」
項垂れるように頭を垂れ、体全身の力を抜く。
全身で崩れ落ちるように重力に従って体を地面に向かって投げ出し。
ある瞬間に地面を蹴って落下の力を全て前進の推進力へと変えてしまう。
海人が加賀戦で見せた身のこなしで、相手の意表をついて刹那の間に間合いを詰めることが出来る技である。
普通ならば反応することは出来ない。
しかし相手は普通ではなかった。
海人の踏み込み反応し、素早く進路を塞ぐ。
正面衝突を避ける為に海人は急停止して、後退しようと試みるも。
「うげっ」
背後からの衝撃で呼吸を詰まらせた。
「捕まえたっぽい!」
それは背後からの夕立のタックルであった。
勢いそのままに海人は地面に倒れる。
「鬼ごっこもう終わりっぽい?」
「こちとら真面目に逃げていたのに、そっちは遊び半分かよ……」
「楽しかったからまだやりたいっぽい」
半分ではない。十割遊んでいる。
「どうしてそんなに嫌がるんだい? 味方が増えるのは好都合じゃないのかい?」
頭上から時雨の声がする。
「陣営とか主とかそういうのがなんとなく嫌だ」
「なら仲間とか味方ならいいのかな?」
「……それなら、まぁ」
海人の陣営。新たな勢力。そんなものは興味がない。というかむしろない方がいい。
故に陣営に入りたいとか、主になってほしい。という頼みは受け入れられない。
指示に従うだとか。
命令に背かないだとか。
理由はないが凄く嫌なのだ。
対等な立場がいい。
例えば友達や仲間、そういった意味合いならば喜んで受け入れられた。
「僕としては手綱を握ってくれる主人という関係が好ましいのだけど」
「絶対に嫌だぞ」
「難しいことはどうでもいいっぽい!」
抱きついたまま夕立は言う。
「海人は、きっとここを変えてくれる気がするの。だから夕立はそのお手伝いをするっぽい!」
「それは俺を信じてくれるってことか?」
「ぽいっ!」
一際大きい声。
元気なそれは肯定の証だろう。
「とりあえず、離してくれないか?」
「海人が受け入れてくれるまで絶対に離さないっぽい」
「分かった。とりあえず協力者、味方ってことなら受け入れるから。だから離してくれ」
控えめとは言い難い程に存在感のあるやわらかい物体が背中に押し付けられて落ち着かないのである。
夕立が離れ、解放された海人が立ち上がると目の前には深刻な剣幕で見つめる時雨の姿があった。
「どうしようもなく汚れてしまった僕と夕立を、救ってほしいんだ」
「汚れて?」
「僕と夕立は提督の命令で――」
時雨の言葉が不自然に途切れる。
「――――っ」
彼女がどれだけ必死に叫んでも出るのは掠れた吐息だけだ。
「もしかして、艦娘の制限で言葉が出せないのか?」
「……残念ながら、そうみたいだ」
ということは、彼女は提督の権限で禁止される機密に触れるようなことを言おうとしていたらしい。
それを知るには制限に触れない範囲の言葉から推測するか、どうにかして制限を解除する他ない。
「海人、僕たちは全面的に君に協力する。だからまずは手に入れるべきなんだ」
「手に入れるって何をだ?」
「この島の全権さ」
全権利を手に入れる。
それはつまり。
「海人は僕たちの提督になるべきだ」
時雨が言い放つ。
提督。
に、なる。
瞬間。
激しい頭痛と。
断片的な映像が。
駆け抜ける。
聞き取れない程に乱雑に流れる音と共に。
脳裏を嵐のように暴れ狂う。
「君を、――の、提督に任命する」
「鎮守府に、――が、着任しました」
見知らぬ土地。
知らない筈なのに、見覚えがある。
自分と、一人の艦娘と、ダンボールから始まった。
艦娘が増え。
時には失敗し。
それ以上に成功して。
前に進んだ輝かしい毎日。
「なんでしょう。……守りたい気持ちが、溢れてしまいます。仲間も……、そして、提督……。貴方のことも」
指輪。
を、彼女に渡し。
そして。
裏切り。
許されない。
認められない。
例え反逆者と罵られても。
この命を賭してでも。
阻止しなければならない。
しかし失った代償はあまりにも大きくて。
指輪。
そう、指輪。
白銀の、
――否。
漆黒の指輪が。
「しっかりしてっ!!」
揺さぶられて自分が地面に蹲っていることに気付いた。
両手を夕立に押さえつけられている。
目の前には両肩を掴んで揺さぶる時雨の姿があった。
痛い。
喉が痛い。
自分の体を見れば血だらけになっていた。
両手の爪が真っ赤に染まっている。
どうやら、自らの手で自らの喉をかきむしったらしい。
頭が痛い。
あり得ない倦怠感が体を鉛のように重くしている。
「俺は、いったいなにを……」
「いきなり叫びだして自分の喉をかきむしったんだよ。慌てて夕立と抑え込んだけど、凄い力で暴れて抑えきれなくて」
「海人、もう平気……っぽい?」
何かを思い出したのだ。
しかし何を思い出したか忘れてしまった。
まるで思い出すことを本能が拒絶しているかのようだ。
ひとつ、分かったことがある。
海人はかつて失敗したのだ。
そして失った。
絶対に失ってはならないものを失ってしまった。
「……俺は、提督になれない」
懺悔するように呟く。
「とにかく、宿舎に戻って治療しよう。凄い出血だ」
二人に連れられて歩く。
足取りは酷く重かった。
穏やかな時が流れる。
流れる雲に頬を撫でる優しい風。
磯の香りと、波と共に揺れる釣竿。
海人は水面に沈む釣り糸を静かに眺めていた。
彼の喉には包帯が巻かれていて酷く痛ましい。
「頭をからっぽにして釣り糸を眺めているだけって落ち着くよな」
「なのです」
隣には同じく釣りをしている電がいた。
釣りに海人を誘った張本人である。
「ありがとう。気を使わせたようだ」
「そんなことないのです。ただ電が海人と一緒に釣りをしたかっただけなのですよ」
優しい嘘だ。
彼女は何かを思い出し、喉をかきむしった出来事以来、若干ふさぎ込んだ海人を見るに見かねて気分転換になるだろうと釣りに誘ったのだ。
そしてそれは見事に成功している。
何せ海人は釣りをすることによって落ち着きを取り戻し、暗い感情しかなかった心にゆとりを得られたのだ。
「電、この島に提督は必要だと思うか?」
踏み込んだ質問であった。
この島において提督とはとても重い意味を持っているらしい。
それは誰かの希望であり。誰かの幸せな記憶であり。誰かの不幸であり。誰かの罪の象徴であったりした。
それぞれの艦娘にとっての提督というものがあまりにも違い過ぎて、この島にはかつて提督が複数人いたのではないかと疑う程だ。
ここの提督はどのような人物だったのだろう。
そして新たな提督は必要なのだろうか。
それは海人で良いのだろうか。
そもそも、提督という言葉を切掛けに己が狂う程の記憶を思い出した海人に、それを務めることが可能なのだろうか。
「…………」
長い沈黙であった。
もとより返答は期待してはいない。
しかし、電は答えた。
弱々しく、小さい。とてもか細い声で。
「電には、分からないのです……」
どれ程の感情が込められた言葉なのだろうか。
絞り出すようにこぼれた言葉は海人の胸に重く沈み込む。
「そうか……」
再び静寂が訪れる。
波の音だけが二人を包み込む。
二人の目線はじっと釣り糸を見つめたままだ。
「……電の罪を、少しだけ聞いてくれませんか?」
「俺でいいなら、聞くぞ」
ゆっくりと、電は語り始めた。
第六駆逐艦隊の、過去を。
第六駆逐艦隊は、
暁。
響。
雷。
電。
の四隻で構成されている。
四人はとても仲良しでいつも一緒だった。
背伸びをして強がりだらけ、だけど四人の中心となっていた長女の暁。
口数は少ないし、感情表現が苦手でマイペースだけどしっかり者の響。
世話焼きでお節介だけど器用に色々こなせる雷。
「そして末っ子の、電。なのです」
「暁、あの娘が長女だったのか?」
海人の知る彼女は長女というよりは電よりも年下な印象を受ける。
「暁ちゃんは、一番司令官さんを慕っていたのです」
その言葉で色々と察した。
彼女は提督の死という事実に心が耐えられなかったのだろう。
「艦娘の制限であまり詳しい話は出来ないのですけど」
電は奪ったのだという。
加賀を含む一部の艦娘が関わった計画。それは大本宮が仕掛けた囮作戦だった。
その囮作戦が招いたのは鎮守府への襲撃。そしてその結果、提督は死んでしまった。
数々の仲間が冷たい海の底へと沈み。
慕っていた提督は亡くなった。
その痛みから現実を逃避した艦娘は心を病んでしまったのだ。
電は提督を失ってでも守りたいものがあった。
けれど、提督を慕っていた暁は提督を失った悲しみから憎しみを抱き。電を恨みたくないという気持との板挟みに耐えられず、全てを手放して童心に帰った。
「……暁ちゃんは私を見ると、司令官さんのことを思い出して苦しむのですよ。だから、電と暁ちゃんは絶対に会ってはならないのです」
電の瞳は冷たく熱を失っている。
「雷ちゃんも暁ちゃん程ではないですけど、司令官さんが大好きでしたから。電を見ると悲しい顔をするのです。なら、いっそ、もう。司令官さんと電のことを忘れてしまえば……」
声色にも温かさがない。
「……自分も騙せない嘘じゃ、俺を騙すなんて土台無理だぞ」
「嘘、……なのです?」
海人は釣竿から片手を離し、電の額に持っていく。
「ひゃ……っ。い、痛いのです」
デコピンだ。
「忘れて欲しくない。もう一度仲良くしたい。って、顔に書いてあるぞ」
「かもしれませんね。……いえ、電はきっと今でもあの頃のようにしたいと願っているのですよ」
「そうすればいいじゃないか」
「簡単に言わないでくださいっ!」
「簡単だろ。響とは出来たじゃないか」
「響ちゃんは、あまり司令官さんと仲良くなかったですし。それに、響ちゃんは本当のことを知って……」
「やっぱりな」
電の言葉で海人は自分の推測が間違っていないことを確信した。
「おかしいと思った」
「なのです?」
「艦娘は機密のことは話せない。しかし電はこうやって話している」
どういうことなのか。
つまりここまでの会話は機密に触れない範囲ということだ。
大本宮が計画した極秘の作戦が機密に触れない。そんな馬鹿な話もないだろう。
「大本宮が計画したっていうのは半分嘘だな? 本当は加賀ら一部の艦娘が計画して、実行した。その結果が鎮守府襲撃と提督の死か。いや、……もしかして提督が死ぬところまでが計画だったってことはないよな?」
電は信じられないものを見る目で海人を見ていた。
「まさか断片的な情報で、推測したのですか?」
「推測? 妄想だろ、こんなもの。最悪を想定しただけだ。でもな、世の中常に最悪の想定が当たるものだ」
困ったことに、な。と、海人は笑って続けた。
「艦娘の反応や病み度。立場や意見の違いは知っている情報量の差からか。響はかなり知っている。逆に暁は全く知らない。電はほぼ知っている。加賀は、全て知っている。そんなところか」
「……驚いたのです。海人は実は恐ろしい人なのですか?」
嫌な評価を頂いてしまう。
嬉しくはない。
「……おい、電。あれ、なんだ?」
海人が指を差す。
嫌な予感がした。
記憶にはない。
知らない。
忘却の彼方に消えている。
が、知識として脳には残っていた。
あれはとても危険なものだ。
あらゆる負の感情を纏った脅威。冷たい海を支配する圧倒的な存在。
深海より来たりし、人類の仇敵。
「そんな……、どうして、ここに、いまさら……」
釣竿が、彼女の手からするりと抜け落ちる。
「深海棲艦が、どうしてこんな場所に……っ!?」
遥か遠く。
視界の限界点まで離れた場所に。
それはいた。
非常に重苦しい空気の中、電が良く通る声で全員に言う。
「今日集まってもらったのは、とても重要なことについて話し合いたいからなのです」
「それは構わないわ。それより、この面子はどういうこと?」
加賀はそう言いながらその場にいる全員を見渡した。
電。
川内。
山城。
鈴谷。
ここまでは構わない。いつも通りと言えるだろう。
しかし、
響。
時雨。
夕立。
ここが分からない。
彼女らには加賀自らがこちらに近付くことを禁じていた筈である。
楽園と名付けた宿舎で暮らしている筈なのだ。
そして一番気に食わないのは。
「……どうして貴方がここに?」
海人を睨みつけて言い放った。
「俺の部屋に俺がいて何が悪い。というかお前らなんでこんな狭い部屋に集まっているんだよ、他にいい場所なかったのか?」
加賀は溜息を吐きつつ。
続いて時雨や夕立、そして響を睨む。
「ここに来ていいなんて許可、私は出した記憶はないのだけれど?」
「夕立は海人のいる場所にいるだけっぽい!」
「僕たちは海人の仲間だからここにいる。それ以上の理由はないよ」
「……言ってなかったね。申し訳ないけど、私は海人に付くよ。加賀さんのやり方では、電が幸せになるとは思えない」
「……そう」
加賀はそれだけ言うと静かに電に先を促した。
一悶着あると思っていた海人は緊張を緩める。
「単刀直入に申し上げるのです。……深海棲艦が、来たのです」
空気が凍るとはこのことだろうか。
海人と電を除く誰もが驚き動揺し、呼吸さえも忘れて固まっている。
「ちょ、ちょちょちょ、待ってよっ! ここはもう壊滅状態で味方にも敵にも認識されてない筈でしょっ!? 加賀さんもそう言ってたしっ!!」
混乱するまま言葉を並び立てる鈴谷に対し、加賀は冷酷な声で呟いた。
「最近、この島を大きく変えた人物がいるのではなくて?」
その意味に誰よりも早く気付いた時雨が苛立ちを隠さずに噛みついた。
「こう言いたいのかい? 海人が呼び寄せた、と」
「可能性の話よ。記憶がないのでは過去に何をしたか、そしてここにどんな目的で来たのか分からないでしょう」
「そりゃそうだ」
決定的な決裂を生む前に海人は認めた。
仲間割れをする意味はないし。加賀の言葉に否定する箇所が見当たらなかったという理由もある。
「だが現状の問題はそれじゃないだろ? 原因が俺なら殺せば解決かも知れないが、もう来てしまった深海棲艦をどうするかは一つも解決しないだろ?」
「貴方の首を晒して飾っておけば相手も戦意喪失する可能性もあるのではないかしら?」
「なるほど。それなら俺を殺すか? 加賀」
「……約束は、守ると言ったでしょう」
悔しそうにしながらも、その一言を言い終えると加賀は黙った。
「では、ここにいる全員でこれからの対策と対応を考える方向でいいですか?」
電がまとめる。
それに異を唱える者がいなかった為、次は具体的にどうするかという話に移る。
川内が手を挙げた。
「深海棲艦が来たって具体的にどういうことなの?」
「そうですね。そこを詳しく話していなかったのです」
咳払いを挟んで電が続ける。
「これは海人と一緒に釣りをしていたときのことなのです」
最初に見つけたのは海人であった。
水平線ギリギリの豆粒のような影をはっきりと認識した彼の視力は驚嘆に値するが、それ以上に電の目に映ったモノは驚愕だった。
かつては幾度も戦った敵。
深海棲艦の姿がそこにはあったのである。
駆逐イ級が数隻。恐らくは偵察隊だろう。
それが不気味な静けさを纏ってこちらを観察していたのである。
こちらが認識しているのだ、当然向こうも電と海人を認識しているだろう。
身を隠してももう遅い。敵に、気付かれてしまった。この島に生き残りがいることに。
幸い深海棲艦はそのまま去って行ったが、今後さらに強力な艦隊を率いて襲撃してこないとも限らない。
故に慌てて宿舎に戻り、この面子を招集したのである。
皆を守る為には、知恵と力を振り絞るしかない。
「……向こうの宿舎には、深海棲艦の姿を見ただけでフラッシュバックを起こしかねない艦娘もいるのですから、なんとしても近付けさせないのです」
強い意志で、電は宣言する。
「でもこちらには戦力の欠片もないですよね? 艤装も使えなければ、設備も防衛用の機能も全て使用する権限がないうえ、殆ど壊れているのに」
山城が絶望的な状況を淡々と告げる。
「ですが、やるしかないのです。勝つことは無理でも、追い払うだけなら……」
しかし、どれだけ意見を出し合っても解決案は提示されなかった。
決まった事と言えば、警戒態勢として常に鎮守府前方海域に見張りを設けることだった。
これに対し、今夜は私がやる。と立候補した川内に見張りは決まり。この会議は終わった。
会議の終わり。
解散した後の海人の部屋に残っていたのは海人と電と響だった。
「電、お願いがあるんだ」
真剣な表情で響はそう切り出した。
「お願い、なのです?」
「暁に会ってくれないか?」
「……」
複雑な表情で電は沈黙した。
返す言葉が浮かばないのだろう。
無粋かとも迷ったが、それを見た海人は強引に背を押した。
「いいじゃないか、会ってみれば」
「でも……」
「ダメだったら骨は拾ってやる。俺に八つ当たりしてもいい。罵倒したって構わない。泣くのもいい。だからやってみよう。何もしないよりよっぽどいい」
深く、深く悩んだ電はゆっくりと頷いた。
「会って、みるのです。……暁ちゃんに」
「雷にも、だよ?」
「もちろんなのです」
「スパスィーバ。……感謝するよ、電」
こうして三人は山奥の宿舎に向かった。
海人という男はとても不思議な男であった。
今まで動くことのなかった歯車をいとも簡単に動かしてしまう。
長年の軋みも痛みも吹き飛ばして止まってしまった時間さえも動かしてしまうのだ。
彼は記憶のない不自由な身だ。
己が何者かさえ知らない。
しかしこの島の誰よりも自由だった。
この地とこの地の記憶に縛り付けられた艦娘達とは大違いだ。
彼は感情のままに動く。
理性がない訳ではない。事情に疎い訳でもない。察しが悪い訳でもなく。
全て理解して尚、彼は進むのだ。
痛みに苦しむ者に、苦しめ進めと叱咤する。楽な方向に逃げることを許さない過酷な道へと誘導するのだ。
そして彼も気付けば一緒に歩いている。
本当に不思議な男であった。
もしもこの鎮守府にいたのが彼のような男であったならば、あのような悲劇は起こらなかったのではないだろうか。
そう思えて仕方がない。
「もうすぐ着くのですね」
足が重い。
一歩一歩にかなりの労力を要する。
心が、拒否しているのだ。
恐れているのだ。
「凄い汗だな、大丈夫か?」
「平気なのです。心配しないでください」
強がりだ。
しかし、強がらなければここから一歩も進むことが出来ない。
宿舎へ近付くという意味ではない。
あの日から、電は停滞しているのだ。
そこを超えなければ、電にとっての本当の意味での明日は一生来ることはないだろう。
「もしかして無理をしているんじゃないか?」
「響ちゃんが気にすることはないのですよ。逃げ続けていましたが、いずれ向かい合わなくてはいけないことだったのです」
暁も雷も現実を受け入れなければならない。
雷も自分がしたことの結果をしっかりと受け入れなければならないのだ。
それがこの島を変えた者の責任なのだ。
加賀だけに背負わす訳にはいかない。
何故ならば、電は全てを知ったうえであの作戦に参加して全てを終わらせたのだから。
「着いたのです」
あの日。
襲撃の夜が明け。
数々の艦娘が沈み。
提督が亡くなった翌日の朝だ。
数え切れない後悔と、自責とで苛まれつつも得た楽園がそこにはあった。
かつては楽園だと思っていた場所だ。
この隠れた宿舎を見るのはあの日以来である。
今はもう、楽園には見えなかった。
「これは確かに電たちが手に入れたもので、そしてまだ足りないのですね。……ここはまだ途中なのです。電たちはまだやりきってない」
二人の姿は宿舎近くの広場にあった。
綺麗な花畑に座って二人で花の冠を作っている。
雷に作り方を教えてもらっている暁の姿にかつての面影はない。見た目こそ一緒だが、中身が全然違っていた。
相変わらず現実を受け入れられず、子供の心に逃避しているのだ。
自分の世界に逃げ込んでいるのだ。
恐ろしい。
これが良かれと思ってやった結果だ。
目の前のこの悲劇が電の手に入れたものの姿だった。
認めたくはない。
逃げたい。
手を握られる。
握ったのは海人だ。
温かく力強い手は彼女を支える優しさがあり。
そして同時に彼女から逃げる手段を奪った厳しい手であった。
「大丈夫なのです」
力強く言い放ち、その手を離すと電は二人に近付いていく。
「お久しぶり、なのです」
「あら、電じゃない。ずっとこっちに顔見せないから心配していたんだから!」
ごく自然な対応で、雷は返した。
あまりにも平然としたその返事に電は逆に驚いてしまう。
まるであの日に戻ったかのような感覚だ。
幸せだった、あの日常に。
「やあ、二人とも元気かい? 今日は電を連れて来たんだよ」
続いて響も声を掛けた。
「だから響も昨日から姿が見えなかったのね。後ろにいるのは、海人じゃない? どうしたのよ、こんなに急に」
「どうしても、二人に電の姿を見せたくてね」
響も安心して力を抜く。
緊張の糸が緩んだ。
その時だ。
「いな、ずま……?」
その声が。
暁の声が聞こえたのは。
「しれい、かん、……は?」
「え……、司令官?」
暁の言葉に雷も表情を変えた。
静止する時間。
誰も何も言わない。
呼吸さえも躊躇われる空間で。
突然。
「あ、ああ、……っ」
雷の言葉にならない絶叫が鳴り響いた。
「――――――っ!!」
誰も反応が出来なかった。
あまりの豹変と、いきなり過ぎる出来事に脳が機能していなかったのである。
雷は手にしていた花の冠を投げ捨て、電に飛び掛かったのだ。
無抵抗のまま電は押し倒される。
抵抗する意志なんて、そもそもなかった。
「どうして、電がついていながらどうして司令官はっ、私が近くにいればっ、……私ならっ!!」
地面に電のその小さな体を何度も叩きつけて。
「私なら助けられたのにっ!!」
花びらが舞う。
「死なせることなんてしなかったっ!!」
艦娘の膂力によって地面が揺れる。
「どうしてっ、どうして助けられなかったのっ!? どうして司令官を、見捨てたのっ!?」
一切抵抗しないまま。
なすがままに身を任せ。
電は小さい声で呟いた。
「ごめんなさい」
「どうしてっ!!」
響が飛び出す。
よりも早く。
小さい影が飛び出した。
「やめてぇっ!!」
それは暁だった。
「もうやめてぇっ! おねがい、いかずち、おねえちゃん、やめてよぉ……」
必死の鳴き声だった。
幼くたどたどしいながらも、純粋でまっすぐな声だった。
「……暁」
雷は電を掴んでいた手を離す。
「こわいよ……、いつものやさしいおねえちゃんにもどってよ……」
泣きながらもはっきりとした声で言いながら、彼女は雷に抱きついた。
「でも……」
「ちょっと落ち着こうか、冷静に話をしよう。雷、目を逸らすのをやめるんだ」
響がその隙に間に入って優しく語りかけるように言う。
「目を、逸らす……?」
「司令官はもういないし、それは誰のせいでもない。勿論電に責任なんてない」
「でも……っ!」
感情を持て余した雷は何かに囚われたかのような虚ろな瞳でこちらを見ている。
そんななか、暁が電を見て。
感情を失った声で言い放った。
「あなたはだぁれ?」
そこが、彼女の限界であった。
雷を突き飛ばし、電が走り去ったのである。
「海人っ!!」
半分悲鳴のような響の声に。
「分かっているっ!」
叫ぶように答えながら、海人は電を追う。
全力疾走である。
しかし体力が違い過ぎた。
どんどんその距離は離れていく。
それでもなんとか食らいつこうと歯を食いしばりながら山道を駆け抜ける。
すると、突然電は足を止めた。
そのおかげで何とか追いついた海人はゆっくりと彼女に近付いていき。
後ろから、無言で抱きしめた。
「よく、……頑張ったな」
「だめだったのです」
「そう、か」
「途中で逃げちゃったのです。……自分がしたことの結果なのに、最後まで受け止められなかったのです」
「いや、電はよくやったよ」
泣いていた。
電は声を抑えながら、体を震わせ。
静かに泣いていたのだ。
海人は出来うる限り優しく抱きしめて彼女が泣き止むまで待った。
『あなたはだぁれ?』
その言葉を聞いた彼女の顔は本当に辛そうだった。
どれだけ雷に叩きつけられても、鋭い刃のような言葉を投げかけられても表情一つ変えず全て受け入れていた彼女が。
たった一言で、感情を抑えきれない程の衝撃を受けていた。
泣いていた。
泣かせたのは誰だろう。
考えるまでもない。
自分だ。
暁だ。
彼女を悲しませることは許さない。
何故か。
姉だからだ。
姉は妹を守る義務がある。
姉、なのだろうか。
頭が痛い。
考えたくない。
逃げ出したい。
もう辛いことは嫌だ。
こんな苦しい世界にはいたくない。
幸せな世界に行くのだ。
辛いことも、寂しいこともない。
優しい世界に。
頬に、痛みが奔った。
じわりと、熱が広がる。
「何をしているのよ、響っ!」
雷が叫ぶ。
響が暁の頬を叩いたのだ。
「それだけは許さない」
「え?」
「何から逃げようと好きにするといい。でも、電のことを忘れる事だけは許さない」
泣きそうな顔で、響は言う。
「私たちの妹だろう? 絶対に独りにはしてはいけない筈だろう?」
懇願するように、響は言う。
「辛いことから逃げて幼児退行したいならすればいい。でも、電を忘れることは、それだけはダメだ。ダメなんだ。絶対にそれはしちゃいけない」
存在の否定に他ならない。
そんなの、あまりにも酷すぎる。
「忘れる……?」
何を忘れているというのだ。
何を思い出せというのだ。
分からない。
両の頬を手で挟まれた。
響の、温かい手だ。
真っ直ぐと、瞳が合う。
視線がぶつかる。
吐息の触れる距離で。
彼女は言う。
「心を休める時間は十分にあった筈だ。もういいだろう? 私たちに会いに来た電の勇気に答えてあげても、いいだろう? 一緒に、あの子を迎えに行くんだ」
真っ暗だ。
何も見えない。
そんな場所だ。
そこは何も聞こえず、何もない。
深淵のような場所だ。
そこに彼女は鎖で縛られていた。
身動きが取れない。
が、もとより動く気もないので構わなかった。
そんな静かな部屋をこじ開ける音がする。
やめてほしい。
此処は壊さないで欲しい。
ずっとここで、静かに。何も考えず、感情を持たずに過ごしたいのだ。
けれど、彼女の声はそれを許さない。
「もういらないのかいっ!?」
黒い壁に亀裂が入った。
「諦めたのかっ!?」
光が僅かに差し込んだ。
「それでいいのかっ!?」
揺れる。部屋全体が振動している。
「捨てていいのかい? もう暁には電は必要のない存在なのかいっ!?」
縛られている彼女の目の前に、誰かがいた。
「もう、いいでしょう?」
「…………」
答えられない。
その誰かは自分であった。
「幸せだった日々に逃げ込みたい気持ちは良く分かるわ」
自分の影だ。
「でも、新しい幸せを手に入れる為に前に進まないとね?」
鎖は自分の思い込みであった。
最初から何も自分を縛ってなどいない。
自由だった。
踏み出す勇気だけが足りなかったのだ。
「貴女が知っていることは本当に全てのことなの?」
狭い部屋はもうどこにもない。
「現実を受け入れる準備は出来ている?」
それが最後の言葉だった。
暁は目覚めていた。
目の前には響がいる。
その後ろには雷がいる。
妹たちだ。
覚えている。
もちろん電も。
立ち上がる。
そして走り出した。
会わなくてはならない。
彼女に。
頭を撫でる優しい手のひらの感触を覚えている。
大きくて力強く、そして温かい。
ちっとも素直に喜べなかったけれど。
それでも本当は大好きで仕方がなかった。
「頭をなでなでしないでよ! もう子供じゃないって言ってるでしょ!」
なんてことを言っても、朗らかに笑って撫で続ける。
そんな彼が大好きだったのだ。
暁は鎮守府では二期勢と言われる期間に建造された。
初期艦である電や、初めて建造された戦艦である扶桑、初めて建造された空母である加賀を中心とした一期勢の後続となる形だ。
どうしても一期勢とは練度の差があった為、第一線に配備されることは少なかったが、それでも演習や遠征には頻繁に選出されていた。
同じ第六駆逐艦隊であり、姉妹艦でもある響や雷も二期勢である。
雷を含めたこの四人は仲良しで部屋も一緒でいつでも一緒だった。
ある梅雨の日のことである。
雨ばかりの空を眺めて電は口を開いた。
「てるてる坊主を作るのです! こうやって、ここを、こう! できたのです、可愛いのです!」
そこに暁が通りかかる。
「梅雨かぁ……、ちょっとしょぼーん。あ、電。それ、てるてる坊主? やるじゃない!」
暁の声を聞いて雷も寄ってきた。
「電、てるてる坊主作ってるの? 可愛いわね! 作り方教えて? ……なるほど、分かったわ!」
二人は電に習っててるてる坊主を作り始めた。
「電のてるてる坊主、いいな。かわいい。暁のそれは……、なんだい? 怪獣?」
そんな三人のもとに響もやってきていつも通りの面子となる。
響の言葉に暁が怒り。
雷が笑いながら暁に詳しく教えて。
電が困ったように笑い。
最後は四人とも笑顔で気付けば空は晴れ渡っていた。
「どうしたんだい? 四人で楽しそうにして」
それは穏やかな声だった。聞き慣れた声である。
見上げればこちらを覗き込んでいたのは優男であった。
彼こそがこの鎮守府の最高権力者、提督である。
「なるほど。てるてる坊主か、いいね。君たちのおかげでほら、もうこんなに晴れている」
とても穏やかで物腰の柔らかい人だ。
だから駆逐艦たちも安心して話せた。
一部の艦娘からは弱弱しい、なよなよしている。男らしくない。日本男児にあるまじき。なんて厳しい評価をもらってはいたが、少なくとも暁はこんな提督が大好きだった。
「司令官も一緒に作る?」
誘ってみる。
と、彼は苦笑いで答えた。
「したいのは山々だけど、今日の秘書艦は加賀さんなんだよ。遊んでいたら僕が怒られてしまう」
「私はそんなに心が狭く見えますか?」
本人が後ろにいた。
加賀である。
提督の顔が面白いくらい青くなる。まるで信号機のようだ。
「べ、別にサボっていた訳ではないですよ、加賀さんっ!!」
「分かっています。駆逐艦の娘たちとコミュニケーションを取っていたのでしょう? 提督として大事な仕事です。私はそんなことまで邪険にするように見えますか?」
「見えませんっ!!」
めちゃくちゃ立場が弱く情けなかった。
けれども、それが私たちの提督だ。
「加賀さんの許可も出たんだし、一緒に作りましょ?」
「はわわ、司令官さんと一緒なのですっ!」
「雷が教えてあげるわ、どんどん私を頼ってよね!」
「とりあえず暁はその怪獣を何とかしようか……」
こんな穏やかな日々が、ずっと続くと思っていたのだ。
「よく頑張ったね」
そう言って優しく褒めてくれる声が、大好きだった。
「と、当然よ!」
相変わらず素直にはなれなかったけれど。
本当は嬉しくてたまらなかった。
「いつも頑張ってくれているからね、これで間宮さんのところでアイスでも食べてくるといいよ」
「え、ほんとっ!? じゃなかった……っ、一人前のレディーとして、受け取るわ」
全然素直じゃない暁を提督は嫌な顔ひとつせずに、大切に。本当に大切に扱ってくれていた。
暁は、艦娘は兵器だというのに。
なかには艦娘の人権を認めず、道具のように使い捨てにする提督もいると聞く。
潜水艦に休憩なしで延々と出撃させ。
轟沈前提での出撃もあるという。
海域で大破しても、敵を倒すために前に進めと命令するのだと言う。
酷い話だ。
「ん? どうしたんだい? 僕の顔に何かついているのかな?」
「なんでもないわよっ!!」
照れ隠しにそっぽを向いてしまう。
本当は暁ももう少し素直になりたかったのだが、どうしても上手くいかない。
どうしても照れくさいのだ。
彼女自身でも自分のことを面倒くさいと思うのに。
彼はそんな素振りを一切見せない。
お人好しで優しすぎるくらいであった。
「ありがと」
彼には聞こえない小さな声で呟いた。
「暁ちゃん」
ある日、電に呼び止められた。
彼女にしては珍しく、いつになく深刻な表情をしていた。
「どうしたのよ、電」
「その、ちょっと言いにくいのですが。……司令官さんとは、あまり仲良くし過ぎない方が良いのですよ」
言われたことが予想外だったので暁は凍りついてしまう。
これは嫉妬なのだろうか。
正直電と提督の付き合いが長いのはよく知っていたが、彼女がそこまで彼に想いを寄せていた印象はなかった。
決めつけてしまっては電を傷つける恐れがある。
姉としては慎重に言葉を選ばなければならない。
一人前のレディーはここで選択を誤らないのだ。
「えっと、……電は司令官のことが好き? なの?」
直球であった。
選択誤り過ぎである。
「ち、違うのですっ。そんなんじゃないのですっ!」
慌てる妹は物凄く可愛かった。
「えっと、ならどうしてよ?」
「それは……、言えないのです」
電が暁に秘密。
色々と衝撃が走る。
今までにないことだからだ。
どんな心配事も悩みも打ち明けてきた電が言えないこと。
「心配しないで、どんなことでも聞いてあげるし、口は堅いのよ!」
ここは姉の威厳全開で親身になるべきだと思った。
ゆっくりと彼女の悩みを聞きだして一緒に解決方法を考えてあげる。
当たり前だ。暁は電の姉なのだから。
しかし、そこに冷徹な声が割り込んだ。
「電、余計なことを言わないで。……今が大事な時期なのは、分かるでしょう?」
「加賀、……さん?」
冷気を帯びているかのような雰囲気の彼女が、そこにはいた。
昔から表情筋が死んでいる。だとか。
感情表現が苦手。だとか。
言われていたが、最近は誰も寄せ付けぬ殺伐とした雰囲気を纏っていると噂の加賀である。
実際に目にしてみれば、なるほど確かに尋常ではない雰囲気であった。
「すみません……」
「どうして謝るのよ、電。別に私たちは普通に話していただけじゃないのっ!」
「暁、暫く電に関わらないで。……彼女の覚悟が鈍るわ」
圧倒的な迫力に何も言い返せない。
どう考えても加賀の言っていることは滅茶苦茶だ。
しかし、いくら正論を振りかざそうと。通じるとは思えない。
そう暁に確信させる、壮絶さが。その時の加賀にはあった。
「……暁ちゃん」
「電……」
「ごめん、なさいっ!」
言って彼女は立ち去ってしまう。
気付けば、加賀ももういなかった。
「ああっ」
暁は呻きながら地団太を踏む。
「もうっ」
そして天井に向かって叫んだ。
「なんなのようっ!!」
走る。
全力で走る。
彼女が駆け抜けただろう道を一直線に。
何故か、彼女がどこにいるのかはっきりと分かった。
右腕が小枝にひっかかり、勢いよく肌が裂け鮮血が飛び散るが構わず疾走する。
一秒でも早くたどり着き。
謝り。
もしも許してもらえたのなら。
今度は絶対に離れないと約束するのだ。
一度は守れなかったあの約束を。
躓く。
体勢を整える余裕はなかった。
全力疾走の勢いのまま体が投げ出され、地面に打ち付けられる。
何度も木の根や石に体をぶつけながら転がった。
痛い。
体中が痛い。
無視して立ち上がった。
むしろこの痛みに感謝した。
電の心の痛みはきっとこの程度ではない。
これでは罰には生ぬるいのである。
立ち上がり、流れ出る血潮を振り払って再び走り出す。
伝えたい言葉が。
溢れ出る気持ちがあるのだ。
運命の日の前夜。
彼女はとても暗い表情をしていた。
よく笑い、朗らかで明るかった姿は見る影もない。最近の電はいつも考え事で固い表情をして、深刻そうに悩んでいた。
きっと電はこれから起こる出来事を知っていたのだろう。
いや、きっと引き起こした張本人の一人に違いない。
演習帰り。
部屋に戻る前に海を見ようと電に誘われた。
海岸沿いをゆっくりと歩きながら、電は口を開く。
「暁ちゃん、電はきっと皆に恨まれるのですよ」
「……? どうしてよ、電は優しくていい娘じゃない。皆電のこと大好きよ? もちろん私だって」
「そうだと、……良いのですけど」
暁の言葉を聞いても電は表情を変えない。
明るさのない、どこか悲壮感漂う雰囲気だ。
けれども、迷いを切り捨てた覚悟を持っているのも感じ取れた。
彼女の中で結論は出ているのだろう。
その結果を全て受け止める自信がない故の暗い表情だと推測出来た。
「暁ちゃんは司令官さんのこと好きですか?」
「え……、そ、それは……」
素直になんて話せない。
恥ずかしいからだ。
けれど。
電の顔を見たらそんなことは出来なかった。
彼女の笑顔を取り戻すためならば、暁はなんだって出来る。
暁は電の姉なのだから。
「す、……好きよっ! 頼りなくて情けないけど、優しくて不器用で。頭をなでなでする手があったかくて」
「……そうですか。電も司令官さんのこと好きだったのですよ。本当はずっと好きでいたかったのです」
不思議な言い回しであった。
「きっと暁ちゃんは私を許せないと思うのです。でも、優しいから憎み切れなくて自分を傷つけてしまうのです。だから……」
一呼吸置き。
電は暁を誘った理由だろう言葉を言い放った。
「――私を恨んでください。嫌いになってください」
「嫌よっ!」
思ったよりも大きい声が出て暁自身驚いた。
それ以上に電が驚いていたが。
それほどまでに嫌なことだったのだ。
「何があっても私は電を嫌いになんてならないわっ! だって私電のこと大好きだものっ!」
本心だった。
少なくとも、その時は。
「ありがとう。……なのです」
「もう、そんなこと言ったらダメなんだからっ。ぷんすかっ!」
電の姿が見えた。
海人と二人で話している。
泣いていた。
電は泣いていた。
震えている。
泣かしたのは暁だ。
絶対に嫌いにならないと約束したのに。
暁は逃げた。
現実から目を逸らし。
辛い世界から優しい自分の世界に逃げたのだ。
電を見捨てて自分だけ逃げたのである。
「はぁ、はっ、……はぁっ」
荒い呼吸を整え。
叫ぶ準備をする。
その日は本当に酷い一日だった。
穏やかな海を突如埋め尽くす深海棲艦。
圧倒的な戦力が突然島を襲った。
誰もが必死だった。
練度が高い艦娘は当然。練度の低い艦娘も全てが出撃した。
本来はこの鎮守府が支配している正面海域は混戦で荒れ果てた。
飛び交う砲撃と雷撃。
何隻轟沈させても敵が尽きる事はなく。
消耗戦に耐えられなくなった艦娘が次々と暗く冷たい海に沈んでいった。
そして提督の行方不明という情報が流れた瞬間、前線は瓦解した。
本来の力を出し切れず、一隻また一隻と敵の凶弾に倒れていく。
まさにそこは地獄であった。
地獄を絵に描いた風景が広がっていたのである。
誰もがもう終わりだと絶望するなか。
さらにとあることに気付く者が現れた。
全ての戦力を投入した総力戦であるはずが、この鎮守府の最高戦力である艦娘数隻が見当たらないのである。
いなくなった提督。
見当たらない艦娘。
嫌な予感が脳裏を過る。
突如、深海棲艦の足並みが崩れた。
ここが勝機だと確信した誰かが叫んだ。
突破しろと。
全ての弾薬を尽くしてでも、この包囲網を抜けると。
幾度も着弾した鎮守府はもう半壊状態である。防衛機能もマヒしている。
全ての艦娘が海上に出撃している以上、宿舎にいる艦娘もいない。
あの島に守るべきものは存在しなかった。
ならば生き残る為に。
包囲網を突破する必要がある。
死に物狂いだ。
無様に。
あがいた。
結果、包囲網を抜けた先には。
加賀。
山城。
川内。
鈴谷。
電。
の五隻の姿があった。
圧倒的戦力を持ってその五人は包囲網を内側から破壊した。
合流した艦娘を守るように前に出て。
激しい交戦が暫く続き。
気付けば。
静かな海が戻っていた。
「もう、大丈夫なのですよ」
暁と響と雷に近付いた電は言った。
その言葉に安堵したが、疑問は残る。
彼女らはどこで何をしていたのか。
重症者の手当てなどをある程度行い、一息ついた段階でほぼ全ての艦娘が無言で五隻に説明を求めた。
無言の圧力に答えたのは加賀だった。
「これは大本宮の作戦だったのよ」
そう切り出す。
曰く。
深海棲艦の本拠地の一つを叩くためにその防衛線力を薄める必要があった。
故にそこに近いこの島を囮とし、時間を稼いだ。
その間に鎮守府の主力及び提督は大本宮の主戦力と合流。本拠地を叩くという作戦らしい。
「どうして何も教えてくれなかったのですかっ!」
誰かが叫ぶ。
誰もが思っていたことだ。
「敵に知られる訳にはいかなかったのよ。秘密裏に進める必要があったの」
許せなかった。
いったいどれだけの犠牲を出したと思っているのだ。
「結果、敵の本拠地は壊滅させられたわ」
「だからってっ!」
「勘違いしていないかしら?」
冷酷な声で。
感情の一切ない、機械のように淡々と。
「私たちは、兵器なのよ?」
作戦でいつ捨て駒となってもおかしくはない。
「……そういえば長門さんや、扶桑さんは?」
他にも熊野や赤城といったこの鎮守府でもかなりの有力者が見当たらない。
そもそも、加賀が全て説明しているが。
この鎮守府の総責任者である提督が説明するべきではないのだろうか。
何故提督の姿が見えないのだろうか。
電が顔を伏せた。
唇を噛んだ山城の口から血が流れる。
鈴谷が、濁った色の瞳で虚空を見上げていた。
川内は一歩前に出て、加賀の代わりにその決定的な言葉を吐き捨てた。
「沈んだ。……作戦で生き残ったのは、私たちで全員よ」
「え?」
「は?」
「なに、それ?」
「嘘、……でしょ?」
誰もが呆けた顔で現実を受け入れられないなか。
加賀はさらに畳みかけた。
「提督も、亡くなったわ」
その先はあまり思い出したくはない。
さらなる地獄だった。
発狂と阿鼻叫喚。誰かが自傷行為を始めれば、誰かは加賀に襲い掛かり。
そして暴走する艦娘を全て。
加賀。
電。
川内。
山城。
鈴谷。
のたった五隻が力によって抑え込んだ。
酷い、光景だった。
この暴動が原因で亡くなった艦娘もいた。
暁も。
覚えていないが。
もしかしたら、電に暴力を振るったのかもしれない。
見たくなかった。
目を背けたかった。
こんな現実はいらなかった。
提督がいない世界は辛くて耐えられそうにない。
電を恨んでしまいそうだった。
憎いと思えば、あるいは楽だったかもしれないが。
暁は電が大好きだった。
故に、感情を捨て。
心を閉ざして。
自分の奥底に閉じこもる道を選んだのだ。
「いなずまっ!!」
叫び声はとても澄んでいて凛と響いた。
暗い底にいた感情はそのたった一言で引き上げられる。
聞き慣れた声だ。
間違える筈もない。
彼女だ。
本来の、暁の声だ。
彼女が戻ってきたのだ。
涙で歪む視界。
海人の向こう側。
全身血だらけで、走る少女の姿。
電は確かに見た。
全力でこちらに向かってくる暁の姿を。
「暁ちゃんっ!!」
震える声で彼女の名前を呼ぶ。
「電、私――っ」
消えた。
音も。
視界も。
なにもかも。
反応して動けたのは奇跡に近い。
このままでは海人が死ぬ。
そんな野生の動物染みた直感が予知のように働き、体が勝手に動いていた。
海人を抱きかかえて地面に押し倒す。
己の体を壁にするように。
その脅威から守った。
小さい体だが、ないよりはましだろう。
背中を叩く飛礫と爆風。
鼓膜を叩く音の暴力。
揺れる地面。
懐かしい、火薬の香り。
それは砲撃だった。
砲撃による一撃が空からここに振ってきたのである。
煙で何も見えない。
耳が機能していない為、何も聞こえない。
暫くして、海人が無事であると確認できた電は、暁の安否を気に掛ける。
「暁ちゃんっ!」
返事はない。
両手で砂埃を掻き分けるように彼女の姿を探し求めた。
見つけた。
暁の綺麗な黒髪を。
駆け寄り、倒れている彼女を抱き起す。
抱きかかえた手が、何かで塗れた。
どろりとした感触。
鉄の臭い。
一陣の風で砂埃が舞い、視界が晴れる。
暁の腹部は半分近くが欠損していた。
右足も曲がってはならない方向に曲がり、骨が飛び出ている。
いくら頑丈な艦娘とはいえ、助かるか怪しい重症だ。
「かはっ、かはっ、ごほっ」
暁が咳き込み血を吐く。
「そんな、いやなのです……」
涙がさらに溢れ出ていく。
それを、血だらけの暁の指が拭った。
「……ごめ、……ん、なさい」
血を吐きながら、暁は呟く。
「独りに、して……かはっ」
焦点が合っていない。
恐らく、目が、ほとんど見えていないのだろう。
「寂し、かった、……よね?」
「話さないでください、傷が、広がるのですっ!」
「もう、独りに、は……、ぜったい、に、しな――」
暁が意識を失う。
砲撃の方向を睨んだ。
海だ。
正面海域。
遥か彼方。
そこに、深海棲艦がいた。
「どれだけ――」
喰いしばった口から血が流れる。
握りしめた拳から血が溢れる。
「どれだけ奪えば気が済むのですかっ!!」
暁を抱きしめ、力の限り叫んだ。
「許さないのです……」
船渠が活用出来ない状態では、暁は助からない。
どうあがいても、抱きしめた命は尽きる。
彼女を抱きしめて泣いて喚くのか。
ここで何もせず終わるのか。
否。
電はその選択を選ぶには、あまりにも汚れすぎた。
憎しみが、憎悪が原動力となる。
『沈んだ敵も、出来れば助けたいのです……』
『戦争には勝ちたいけど、命は助けたいって……。おかしいですか?』
知ったことか。
綺麗事はもう捨ててしまった。
大切な、大好きな人が言ってくれた優しい少女はもういない。
これだけのものを奪われて。
黙っている優しさなんて必要ない。
許さない。
一隻残らず駆逐するまで絶対に許しはしない。
「――してやるのです」
憎悪が突き動かす。
優しく、暁を寝かせて。
「ころしてやるのです」
電は飛び出した。
その瞳はほんの少し、紅く光る。
突然の出来事の連続に脳の処理が追いつかなかった。
電と叫んだ暁の声。
それに答える電の声。
その後、激しい爆音と共に意識を失った。
どれ程の時間が経過したのだろか。
辺りは荒れており、若干焦げている。
木々はなぎ倒され、地面は抉れていた。
電の姿はそこにはなく、血まみれの暁が地面に横たわっている。
頭を振って強引に脳を目覚めさせると、慌てて暁に走り寄った。
彼女の容体はかなり悪い。足は複雑骨折及び骨が皮膚を貫いて飛び出している。
さらに酷いのは腹部だ。その半分以上がなくなっている。そこからの大量の出血が地面に血だまりを作っていた。
この状態でも尚、暁は生きていた。
僅かに呼吸をしている。
意識はなく、体も冷たい。
だが、生きているのだ。
どうすればよいのか分からない。
艦娘の驚異的な生命力により奇跡的に生きてはいるものの、その命も風前の灯と言えた。
動かしてはいけないだろう。
しかし、放っておいては死んでしまう。
「暁! 海人!」
その声は響の叫び声だった。
走って駆け寄る彼女の後ろには雷の姿もある。
「響、暁の状態が相当まずいっ! どうすればいいっ!?」
響は暁の体を見ると息を飲み、顔を真っ青に染めるものの。数秒で落ち着きを取り戻し、触れずに傷の具合を確かめる。
「まだ大破と呼ばれる損傷レベルだから、今すぐ死ぬってことはない。けど、船渠がないここでは治療のしようが……」
「響、私のこれなら――」
そう言って雷はあるものを差し出した。
「それは――」
「ずっと前に司令官に渡された、応急修理要員の妖精さんが込められた装備よ。……使ってなかっただけだから、使用許可は必要ないわっ!」
「なんだかよく分からないが、これで暁は助かるのか?」
「うん、問題ない筈だよ」
「なら悪いが暁のことは頼んだ」
そう言って海人は海を睨む。
「海人は?」
「電を探す。ついでにあの海から来た奴らをなんとかしないとな……」
「今一番の脅威がついでかい?」
「ついでだろ。あんなもんに振り回されてたまるか。俺はもう二度と深海棲艦に人生を左右されるのはごめんだ」
そう言い残し、海人は走り出す。
暁を介抱する響と雷。
響は海人が走り去った方向を見ながら呟く。
「海人。……電を、頼んだよ」
それはあまりも早すぎる強襲であった。
斥候が来てから本隊合流までの期間があまりにも短すぎた為、準備不足だった島はなす術もなく砲撃を食らってしまったのである。
水平線に敵影を確認した時には既に遅かった。
川内が何かをするよりも早く、砲撃は弧を描いて山の中腹に命中した。
皆のいる宿舎の方向に打たれたが、あれでは飛距離が足りないだろう。
そう目算した川内は冷静に次の行動を考える。
一番に報告すべきは誰だろう。
電か。
海人か。
いや、二人は確か山の宿舎に向かったはず。
となると近いのは加賀だろう。
そう決めると早かった。
川内はその場を飛び出すと、一目散に加賀のいる場所へと向かった。
道中山城に会う。
「今の音はっ!?」
「敵襲よ! 準備も何も出来てないけど、戦えない娘には非難を、僅かでも戦える艦娘は……」
川内は重い一言を告げる。
「命を賭けてでも、あれを追い返す」
「……!!」
山城が息を飲む。
「ここを放棄して逃げるのは……」
「ここを失って心を壊した娘が生きていけるとは思えない。やるしかないわ」
山城の提案を一蹴し、川内は切って捨てる。
「とにかく避難が優先。山城さんは急いで誘導をお願いっ!」
「川内はどうするの?」
「……戦力を集めて、戦う」
「無謀ね……、最悪死ぬわよ?」
「約束、したんだよね……」
「約束?」
「海人と。……だから夜戦するまで、死ねないかな」
言い残し、再び走る。
ボロボロの宿舎の前、厳しい目で海を睨みつける加賀の姿があった。
「川内、これは……」
「ご想像通り深海棲艦よ」
「早過ぎる……」
そう、あまりにも早過ぎた。
これではまるで巡回していて偶然見つけたというよりも、ここにいると分かっていて斥候を飛ばしたかのようだ。
「絶望的ね……」
「でもやるしかない」
川内はかつて鎮守府があった位置を眺めながら言った。
「せめて艤装だけでも使えればあんな奴ら……」
「ないものねだりはやめましょう。あるもので何とかするしかないわ」
「名案でも?」
「私が全て射抜きます」
「……加賀さんにしては面白い冗談だね」
苦笑いする川内に対し、加賀は黙したまま表情を崩さない。
「……え? マジ?」
「当たる距離まで近づいて、まだ私が生きていれば良いのだけれど」
頭を抱えたくなったが現状、そういうレベルの追いつめられ方をしているのだ。
海上では手の施しようがない。
なんとか陸地、あるいは海岸まで誘い込み、白兵戦を仕掛けるしかない。
問題はどうやって誘うかだ。
ある程度の犠牲を伴う搖動しか思い浮かばない。
「私が敵を引き付ける。だから他の皆は迎え撃つ準備を……」
「……貴女に出来るの?」
「出来なきゃ皆死んじゃうんでしょ? やるよ。絶対に、成功させるから」
決死の覚悟で言う。
「却下だっ!」
それを否定するのは野太い声だった。
その声の主が肩で息をしながら近寄ってくる。
かなりの距離を走ってきたのか、彼は汗でびしょびしょであった。
「素人が口を出さないで」
「弓もって当たる距離まで特攻するのが玄人なのか?」
「……聞いていたのね」
「でかい声だったからな」
海人は汗を拭うと二人を見据えた。
「何を暗い顔してやがる。まだ何も始まっちゃいないし、終わってもいないぞ」
笑いながら川内の肩を掴む。
「自分を犠牲にだなんて二度と考えんなよ? 二度と夜戦させないぞ」
「それは困るっ!!」
「それに、囮にするなら俺だろう。俺が来たからあいつら来たと考えるのが濃厚だろ?」
川内が今度は怒る。
「何言ってんのさ、海人を犠牲にしても意味ないわよっ!」
「それはとてもいい考えね」
「加賀さんっ!!」
非難する声色で川内が叫ぶ。
「……俺が死んで困るなら、川内。知恵を貸せ、俺が来てから。いや、俺が来た日。何かがこの島で変わらなかったか?」
「え? そりゃ海人が色々艦娘の心を変えていったとは思うけど」
「違う、物理的な面でだ。例えばほら、何かが壊れたとか。何かが出来たとか。……そう、俺以外に何か流れ着いていたりしなかったか?」
川内が、息を飲む。
「トランクケースっ!!」
「は?」
「トランクケースよ! 海人と一緒に流れ着いたの。あれ、海人の記憶が戻ったら渡そうと思って私の部屋に置いてあるのっ!」
海人が怪しげな表情で笑う。
「それだ!」
「深海棲艦がそれを狙っていると?」
「恐らくな」
加賀の問いに海人は明るく答える。
「トランクケースを囮に奴らを陸付近まで引き寄せる。白兵戦が仕掛けられれば、勝機はあるんだろ?」
「弓が届く距離なら、出来ることもあるわ」
加賀が自信を持って答える。
「加賀は戦力を集めて迎撃ポイントを定めて迎撃の準備、川内はトランクケースを持って来てくれ。……俺がそれを持って奴らを引き付ける」
「私に命令しないで」
「無謀だよっ」
「うるせぇ黙って従え。まだ終わりにしたくはないだろ?」
海人はそれどころではないのだ。
「それよりも、電を見なかったか?」
「電? 一緒じゃないの?」
「じゃないから聞いているんだ」
「……隠し倉庫に向かうのを見たわ」
加賀が渋々と言った様子で答える。
「尋常ではない雰囲気だったから気になったのよ」
「その隠し倉庫ってどこだっ!?」
加賀から詳しい場所を聞き出す。
「助かった」
そう言い残し、海人は再び走り出す。
「海人、夜戦するまで死んだらだめだからね!」
「お前もなっ!」
川内の叫びに答え、無我夢中で隠し倉庫に向かう。
背伸びばかりで不器用な姉だったと思う。
けれどいつもまっすぐな感情をぶつけてくれた。
愚直だが温かい。天使のような優しさだ。
それが何よりの支えだった。
そう、電は支えられていたのである。
辛いとき。苦しいとき。折れそうなとき。いつも彼女が傍にいた。
それがどれほど嬉しかったか。
それを奪われた。
固いコンクリートの床を走る。
許さない。
奪った存在を。
死の鉄槌を与えるのだ。
島に隠された倉庫。
そこには破損を免れた貴重な艤装が保管されている。
電の艤装もそこに隠されていた。
それがあれば深海棲艦に対抗出来る。
否、電ほどの練度であれば圧倒することも不可能ではない。
暁の笑顔を思い出す度に握りしめた拳により一層の力が入る。
暁の最後の言葉を思い出す度に床を蹴る力がより強くなる。
視界が赤い。
これは怒りの赤だ。
憎しみという感情が心を埋め尽くす。
その衝動に身を任せた。
全てを破壊し尽くす。
大切なモノを奪う存在は塵ひとつ残さず消し飛べばいいのだ。
どうして暁が傷つかなければならないのだ。
何も悪いことをしていないのに。
彼女は電と違って綺麗なままなのに。
この醜い心と違って、透き通った心だというのに。
この理不尽な世界が許せない。
燃える。
負の感情を燃料に。
心の奥底で黒い何かが燃え上がる。
それが力となり、電に無尽蔵の活力を分け与えた。
どれだけ走っただろうか。
辿り着いたのは、とても広い部屋だった。
どこからか海に繋がっているのだろう。
部屋の半分は水面が広がっている。
水面から底が確認出来ないほどに深い。
無造作に鎖で縛り付けられた艤装が並んでいた。
その中の一つをすぐに見つけた。
自分がいつも使っていた艤装だ。一目見れば一目瞭然だった。
駆け寄り、触れる。
触れただけで分かった。
これは眠っている。
艦娘とリンクすることで驚異的な戦力となる兵器。
それは提督の許可がなければ使用することは出来ない。
リンク出来なければ、ただの鉄の塊である。
「お願いっ!!」
叫ぶ。
喉が千切れそうな声だ。
「どうか、力を貸してっ!!」
泣き叫ぶ。
両目に滴を溜めながら、電は懇願するように艤装に額を擦りつける。
「電に、あいつらをやっつけるだけの、力を、……お願い、なのです……っ!」
どんな戦場も常にともに戦ってきた相棒だ。
どれだけ傷ついても最後まで応えてくれた。
「艤装がないと……、復讐出来ないのです。暁ちゃんの、仇を取れないのです……」
けれど、艤装は一切の反応を示さない。
沈黙したまま、電の問い掛けだけが空しく部屋に木霊する。
「どうして……、なのですか……っ」
理由は明確だ。
提督の許可がないから。
許可がなければ艤装は動かない。
兵器なのだから。
管理システムは徹底している。
当然だ。
「一度だけでいいのです、このときだけで……」
溢れ出る涙が止まらない。
暁のことを思い出す。
彼女のように。
響も、雷も。
仲良くしていた艦娘達も。
皆。
いなくなってしまう。
奪われてしまう。
それは嫌だった。
暁のことを撃った奴らを許せない。
憎んでいる。
憎悪を抱いている。
けれど、それ以上に。
生きている命を守りたい。
これ以上失っていい命なんてない。
守りたい。
せめて、この島に残った艦娘は。
右手で艤装を叩く。
「動け!」
左手で艤装を叩く。
「動け、動け!」
繰り返されるそれは遂に彼女の皮膚を斬りさいて鮮血が飛び散る。
構わず繰り返す。
「動け、動け、動け動け動け動け、動けぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
繰り返される金属を叩く音が不意に止んだ。
電の両手首に優しい温かさを感じる。
「俺が許す」
それは海人の声だった。
「……何を、ですか」
「全てだよ」
「全て?」
電は光を失った瞳で、希望を失った声で。
「もうやめてくださいっ!」
叫んだ。
「なんなのですかっ、電は強くないのに。優しくも、ないのに。だれも、かれも、頑張れ、やれ、出来る。任せたって。好き勝手に、背中を押して。押すだけ押して、勝手にいなくなってっ!!!」
掴んでいた海人の両手を振り払う。
今度は彼の胸板を叩く。
「知らない方が良かったのですっ! 変えようなんて、頑張らない方が良かったのです。何ひとつ救いなんてなかったのです。何もよくはならなかった。全部電が悪いのですっ!」
「それも許すっ!」
「――っ!」
言葉を失う。
「意味が分からない、……のですよ」
「お前が誰にも話さないからだ。……こんな小さな体に抱え込んで。辛かったろ? 苦しかったろ?」
抱きしめた。
電の小さな体を、優しく。
包み込むように。
「お前がどれだけの秘密を知って、それを誰にも言わずに抱えて戦ってきたかは分からない。だから俺にもそれを少しくらい背負わせてくれ」
「どうして、そこまで……」
「背負うと決めたんだ」
「教えてください……、海人、貴方は何者なのです?」
「俺は……」
海人は静かに告げた。
「お前の提督だよ」
「ふぇ?」
「ああ、そうだ。今から俺がお前の為の、お前だけの提督になってやる。だからお前の全てを俺が許すし、お前の抱える全てを俺が背負ってやる」
「あ、頭がおかしくなったのですか???」
抱きしめたまま、海人は彼女の頭を優しく撫でた。
「誰かに頼るのに理由がいるなら、お前の痛みを分け合うのに資格がいるのなら。【提督】って肩書は不足か? なにならいい? 俺は何にだってなってやる」
ふっと。
強張っていた肩の力が抜ける。
出会ってから。
いや、その前からずっと。
何かを知ってから張り続けてきた電の虚勢。
張るしか道がなかった彼女が。
「……頼って、いいのですか?」
「ああ」
「信じていいのですか?」
「ああ」
「海人はいなくなりませんか?」
「加賀にも殺されん男だぞ、俺は」
「海人は裏切りませんか?」
「命をお前に握られていても構わない」
「……一緒に地獄を歩いてくれますか?」
「冗談じゃない。俺はお前と一緒にもっといい道を歩いてやる」
「もう、頑張らなくてもいいのですか?」
「お前はお前のままでいいんだよ。俺は全て受け入れてやる」
力弱く。
けれど確かに、電の両手が海人の背中に回される。
「胸を借りて、いいですか?」
「好きに使え」
それから電は泣いた。
声が嗄れるほどに泣きわめいた。
それはまるで幼子のように。
感情をそのままに吐き出す、産声のような泣き声であった。
暫くして電が落ち着くと、彼女はあることに気付く。
「……そんな、信じられないのです」
「どうした?」
「艤装が、全て起動しているのです」
それを聞いた海人は笑う。
「何を驚く必要がある? 俺はお前の提督だろう?」
「……そんなばかな、なのです」
しかし事実として電の艤装はリンク可能状態である。
他の艤装も対象の艦娘がいればリンク可能だろう。
というか、あの程度戦力ならば電と加賀だけでも十分だった。
「電、他の艦娘を呼ぶぞ。……反撃、開始だ」
「集まったのはこれで全員か」
隠し倉庫に集まった艦娘を見渡して、海人は言った。
彼の隣には電が寄り添っている。
「そうだよ、ここにいる全員がこの島の戦力の全てってこと」
持ってきた銀色のトランクケースを足元に置きながら、川内は答えた。
「この忙しいときにわざわざこんな場所に呼び出した理由を聞きましょうか」
重要な要件でなければ覚悟は出来ているか? とでも言いたげな様子で加賀は海人を威圧している。
「海人の指示なら、僕はどんなことでもやりきる覚悟だよ」
「夕立もっぽい!」
電に倣うように時雨と夕立も海人の傍に駆け寄った。
「戦艦級がいないのが問題か? せめて重巡がいれば違うだろうが、鈴谷は?」
「鈴谷と山城さんは二人とも避難誘導で忙しいかな」
「それも重要な仕事だな、仕方がない」
諦めて切り替える。
「ひとつ、いい報告がある」
海人は隠し倉庫の艤装を指差した。
「ここにある艤装が使えるようになった」
「……冗談を」
「冗談言える状況か?」
加賀の嘲笑のような一言を一蹴する。
「使えるようになった理由は正直分からない。だが、俺はこう考えている。俺が提督になる覚悟を決めたから、提督としてこの島に認められたから艤装の使用を許可する権限を得たと」
海人に向かって飛び出した加賀。が、それを一瞬で夕立と時雨が押さえつけた。
我を忘れ、殺意むき出しで飛び掛かった故に油断していたのか。それとも怒りで周囲が見えていないのか。
加賀は簡単に夕立と時雨によって地面に押さえつけられ、身動きを封じられる。
「海人に手は出させない」
「っぽい!」
そして海人を庇うように電も加賀の進路を塞いでいた。
それでも尚、加賀は暴れて海人を殺そうともがいている。
「冗談でも、口にしていい言葉じゃないわっ!」
「冗談ではない。大真面目だ」
庇う電に大丈夫だ。と微笑み、彼女の前に出る。
そして加賀の顔を正面から見て言った。
「お前が【提督】に並々ならぬ殺意を抱いているのは予想出来た。それでもこれは譲れない、そしてお前は一つ勘違いしている」
荒い呼吸で暴れ続ける加賀に言い聞かせるように。
穏やかに海人は言葉を続けた。
「俺は電だけの提督だ。彼女の為の提督だ」
それがどれだけの効果を持っただろうか。
暫く新井呼吸を繰り返した加賀は大人しくなる。
「離してちょうだい、もう。落ち着いたわ」
「どうする?」
時雨が指示を求める。
海人は迷わず解放するように促した。
ゆっくりと立ち上がった加賀に殺意はなく、こちらを襲う様子もない。
「いやー、戦力が一人消えなくて良かったよー」
加賀の背後でナイフを構えていた川内が笑う。
「いや、お前はちょっと笑えねぇよ」
「そう?」
「とにかく、揉めている時間はないだろう? この艤装使ってあいつらを蹴散らすぞ」
「なのです!」
「分かったよ」
「パーティーの時間ね!」
「私に任せといて!」
「……」
元気に答える者のなかで加賀のみが沈黙する。
「加賀、頼めるか?」
改めて、彼女を見て海人は語り掛けた。
「……鎧袖一触よ」
「よし、期待しているぞ」
五人の艦娘の顔を見て海人は言う。
「お前らの艤装は残っているか?」
全員が頷く。
「状態はどうだ?」
「問題ないのです」
「いけるよ」
簡易的なチェックを済ませた艦娘達から出撃可能であると判断した海人は、改めて提督として指示を出す。
「よし、なら全員艤装とリンクして――」
「ちょっと待って!」
指示の途中で時雨に止められた。
「どうした?」
「こんな時に申し訳ないんだけど、どうしても確認しておきたくて」
「早めに頼むぞ」
「じゃあ、単刀直入に。……海人は僕らの提督では、ないってことなのかな?」
「? いや、まぁ俺は電の為の提督になると宣言したが、別にお前らの提督でも構わな――」
「だめなのですっ!」
今度は電に遮られる。
「電、ちょっといいところだから黙っていてくれないかな?」
「嫌なのです。時雨はポッと出てきてズルいのです。海人は電の提督なのです、譲れないのです!」
「……それは我儘じゃないかな?」
「こっちの台詞なのです」
「はいはい、やめやめ。喧嘩は後でね。今はそんな場合じゃないでしょ」
珍しく自分の意見を押し通す電と時雨の口喧嘩を川内が強引に止める。
そして電にだけ小さい声で呟いた。
「ようやく、無理をする必要がなくなったようで嬉しいわ」
「貴方たち、そこでいつまで遊んでいるつもり?」
既に艤装を装備して水面に立っている加賀が言う。
もう滅茶苦茶であった。
しかし、それでいいと海人は思った。
ここは軍隊ではないのだ。
守りたい人の為に尽くす者たちが集っただけに過ぎない。
「皆出撃の準備だ。この島を、守るぞ」
単縦陣。
慣れた様子で五人は陣形を作り出した。
通信による意思疎通は出来ない。
肉声による情報交換のみで艦隊指揮を行う必要がある。その難しい役割を旗艦がこなさなければならない。
あまりにも劣悪な状況だが。
それでも尚、旗艦である電には余裕があった。
制空権を掌握するのは、味方にすればこれほど心強いことはない存在である加賀だ。
砲撃は駆逐艦とは思えない火力を有する夕立と時雨の二隻である。
そしてもしも戦闘が長引いて夜戦に突入したとしても、夜戦の鬼である川内が控えている。
十分過ぎる戦力だった。
誰もが幾度も実践を経験した熟練艦である。
おまけに地獄のような海域を経験し、生き残った実績もある。
いくらか実戦勘が鈍っていたとしても、それを補って余りある尋常ではない練度がその強さを支えているのだ。
「懐かしい感覚ね」
「加賀さん、大丈夫? 外さないでよね?」
「川内。貴女、……誰に物を言っているの?」
冷笑ひとつ。
それと同時に加賀が放つ。
制空権を握る一手を。
張り詰められた弓弦から放たれた矢は大気を切り裂きながら上昇し。
途中で光と共に複数の艦載機へと変化する。
それらは加賀の意図を正確に読み取って忠実に働く手足となるのだ。
通常では考えられない速度で飛翔する艦載機はしかし乱れることなく、美しい軌道を描いてまるで空を泳ぐかのように飛行する。
それらは加賀の目であり、耳である。
得た情報は洩れなく加賀へと伝えられていた。
「空母は見当たらないわね。重巡や軽巡、駆逐が殆どよ。……ただ数が多い。軽く数えただけでも三十隻はいるわ」
尋常ではない数だ。
「フラグシップが見当たらない。これだけの数を率いるからには恐らく戦艦級でしょうね」
情報を口頭で伝えた加賀は意識を集中する。
「仕掛けるわ」
そう呟いた瞬間。
前方を飛ぶ艦載機が航空戦を仕掛ける。
対空装備が充実している訳でもなく、空母が控えていることもない。結果、一方的な攻撃となった。
それは圧倒的な蹂躙である。
回避行動が遅れた深海棲艦を漏れなく捉えていく。
過ぎ去る爆雨は一瞬で敵勢力を削り取った。
「……やはり、久しぶりだと調子が出ないわね」
「十分過ぎるくらい成功しているじゃない……」
呆れるように言いながら、川内が前に出る。
「加賀さんの平均値が高すぎるのです」
電がそれに続く。
「僕は右から行く」
「それなら私は左ね!」
時雨と夕立。息の合った二人は阿吽の呼吸で左右に曲がると敵影に向かって加速した。
航空戦からの砲撃戦。その距離に近付いた途端に陣形を崩して散開。本来はあり得ないことだ。
だが、個々の技量が尋常ではなく高いこの艦隊に関しては常識が通用しなかった。
少なくとも、これだけ実力差がある相手の場合。下手に陣形を維持するよりも、散開して個々の判断に任せる方が被弾も少なく、なにより敵を各個撃破した方が効率も良い。
通信手段のない状況ではこれが最善だと電が判断したのである。
その判断は正しかった。
重巡リ級が島に向けて砲身を向ければ。
「させないのです!」
電がピンポイントでその砲身を砲撃し、阻止する。
砲撃の雨を掻い潜り、全速力で突き進んだ川内は目標の目の前。触れられる距離。まさに零距離で砲撃を繰り出し、その分厚い装甲を撃ち抜いていた。
「次!」
そして再び穿つ目標を定め、銃弾のように飛び出していく。
「僕たちの島を襲撃したことを、……後悔する暇さえも、与えないよ」
慈悲なき声が響く。
それを置き去りに素早い身のこなしで海面を滑り、幾度も砲声を響かせる。
砲身が震え、大気を弾く度に一隻。また一隻と沈んでいく。
正確無比な砲撃が駆逐艦とは思えない火力を持って襲い掛かる。
その反対側では。
金髪の少女が犬のように海を飛び跳ねていた。
彼女もまた、踊るように砲撃を回避し。
そして次々に深海棲艦を屠っていく。
「これじゃあ物足りないっぽいーっ」
あれだけの戦力を。かなりの数の深海棲艦を相手にして、戦いというよりは一方的な蹂躙に近い。
当然の結果であった。
何故ならば。
加賀や電は最高練度に到達しており。
川内も最高練度にかなり近い。
夕立や時雨も一般的な鎮守府において主戦力級の練度である。
さらに彼女らの最後の戦いは本当に過酷で鮮烈なものだった。故に、それを乗り越えた彼女らにとってこの程度の戦場は児戯に等しい。
「気を抜かないで、まだ相手の主力は出ていないわ!」
周囲警戒を怠らず、常に索敵を続けていた加賀が叫ぶ。
「出てくるまで敵の数を減らすっぽい!」
「そうだね、主戦力級が出る前に雑魚は減らしておきたい」
時雨と夕立がそう言うと、さらに砲撃の精度と速度を上げていく。
「電、注意して」
前に出過ぎた夕立と時雨のフォローで後詰をしていた電に近寄った川内は、自分も周囲に気を配りつつ注意を促した。
「どうしたのです?」
「嫌な感じがする。首の後ろがこうチリチリする感じ。……こういう時は敵に奇襲されることが多いから」
「川内さんの予感は当たりますからね」
油断はしていなかった。
しかし、想定外だったのだ。
電と川内の中間が突然盛り上がった。
海面が山のように隆起し、空目掛けて伸びていく。
否、それは海の中から浮上したのだ。
紅く輝く特徴的な瞳が電を射抜く。
「そんなっ!?」
「まさか、下からっ!?」
深海棲艦。
深海より来たる脅威。
それが、文字通り海から突如現れた。
潜水艦ではない。
これは。
「戦艦レ級!?」
冗談ではない。
鎮守府正面のような、深海棲艦の本拠地から遠い場所で遭遇していいレベルの敵ではない。
本来ならば十全に準備して万全の艦隊をぶつけて尚、足りないような相手なのだ。
「やばい、やばい、やばい、やばいっ! 流石にレ級は聞いてないっ!!」
巨大な砲身が川内を捉える。
冗談ではない。
あんなものに直撃すれば木端微塵である。
全力で回避行動を行い、とにかく照準を合わせられないように動く。
「前回こいつとやり合ったときどうなったっけっ!?」
「うちの最高戦力をぶつけても大破撤退なのですっ!!」
「うん、これは無理だっ!」
川内と電の意見が一瞬で一致する。
「面白くなってきたっぽい!」
叫びながら飛び出したのは夕立だった。
海を蹴って跳躍した彼女はレ級の砲身を悠々と飛び越え、頭上から砲撃を直撃させる。
二発、三発とすれ違いざまに。
爆炎が舞い、水柱が飛沫を上げて視界を覆った。
着水する夕立。
の背後を砲弾がすれ違う。
危なかった。
あと少しでもずれていれば直撃であった。
視界が晴れる。
そこには無傷で砲身をこちらに向けるレ級の姿があった。
「無傷っぽいぃぃぃぃぃっ!」
「下がるよ。夕立、流石にあれは無理だっ!」
川内が彼女の腕を引いて一度レ級から距離を取る。
「私たちの火力じゃとてもあの装甲を突破できないのです」
そこに電も合流する。
深海棲艦の戦力は大分削ったが、そのフラグシップであるレ級がいる限りこちらに勝利の目はない。
「なんであんな化物級がこんなところに……」
「あんなのが暴れ回っていたらいつか誰かしら被弾するっぽい……」
「でも島に近付ける訳にもいかないのです」
重い空気が漂う。
あそこにいるのは海上の悪魔である。
幼い風貌とあどけない表情とは裏腹にその性能は驚異的だ。
真白な髪とそれを覆うフードの下に隠された赤い瞳が、獲物を狙う猛禽類のような動きでこちらを見つめていた。
体よりも大きな尻尾が暴れ回り、その砲身はこちらを狙っているものの、いつその脅威が島を狙うかは分からない。
「どうしようか? 僕たちは電の指示に従うよ?」
かなり深海棲艦の数を減らした時雨も合流する。
「状況はかなり厳しいようね」
周囲の索敵を終えた加賀も時雨の後ろにいた。
「周囲に敵影はないわ。こちらに察知されず、海底から奇襲なんて意味不明な芸当、あの化物でしか出来ないと考えれば、現状敵の戦力はこれで全てね」
「…………」
電は暫く黙って思考を整える。
ゆっくり考えたいところだが、残念ながら時間的余裕はない。
「幸い練度も機動力も高い艦娘が揃っているのです。レ級の標的となって時間を稼ぐ囮役と、その間に残りの深海棲艦を沈める役に別れましょう」
「人選は?」
「遠距離から援護できる加賀さんと、回避の優れた夕立さん、時雨さんが囮を。その間に電と川内さんで敵の数を減らすのです」
「正しい判断だと思うわ」
「加賀さんは絶対に被弾しない距離で援護を」
「当然ね」
言い残し、進路をレ級と並走する方向に切り替えた。
「夕立さんと時雨さんは互いをフォローしながら絶対に無理はしないでください」
「了解したよ」
「任せるっぽい!」
二人はレ級目掛けて進路を取る。
「川内さん、急いで敵の戦力を削るのです。なるべく早く囮側に合流したいですから」
「もちろん、じゃあ始めようか」
獰猛な瞳を滾らせて川内はこちらを狙う駆逐級に狙いを定めた。
加賀の飛ばした艦載機が縦横無尽に空を駆け回り、隙を見つけては攻撃を開始する。
が、その殆どが敵の艦載機との撃ちあいで無力化されてしまった。
「……戦艦相手に制空権の取り合いで互角とは、屈辱です」
加賀の珍しく悔しげな声がこぼれた。
「夕立、そっち狙っているよ!」
「気付いている……っぽい!」
体全身を使って夕立が進路を変更する。
重心を移動させることによる強引な進路変更は、普通の艦娘であれば転覆していたであろうが、彼女の驚異的な身体能力とバランス感覚により成立する。
本来夕立が数秒後いただろう場所はレ級によって放たれた砲弾が着弾していた。
天を穿つほどに舞い上がった水柱がその威力を物語っている。
直撃したら無事では済まないだろう。
雨のような飛沫を浴びながら夕立はフェイントを絡めた左右への揺さぶりでレ級へと近付いていく。
これが囮であることを察せられないように攻撃も行う必要がある。
夕立の砲撃が正確に放たれ、飛び出した砲弾はまるで吸い込まれるかのようにレ級へと向かっていく。
直撃。
本来であれば中破まではいかなくとも、小破程度は望める一撃だが。
レ級は無傷。
ほぼダメ―ジを負っている様子がない。
「……やっぱり火力不足みたい」
「危ないっ!」
時雨が叫び、夕立の服を掴んで引っ張る。
夕立の髪の一部を抉り取って砲弾が通り過ぎた。
時雨が夕立を引っ張っていなければ今頃夕立は一撃で轟沈していただろう。
「気を抜かないでっ!」
「ごめんっぽい……」
こちらの攻撃は相手の装甲を突破できないが、相手の一撃はこちらを沈めて余りある威力を持っている。
一瞬の油断が命取りとなるミスの許されない状況が連続して続いている。
いくら練度の高い艦娘とはいえ、長時間極限の集中を続けるのは無理があった。
体力的に、限界が来るのは時間の問題である。
「今度は僕が前に出る。夕立は援護をお願い」
「任せて!」
二人が海上を駆け回る間も加賀は制空権を得ようとしていた。
しかし、どれだけの技巧を凝らしてもレ級の支配する領域を突破することが出来ない。
夕立と時雨を相手にしつつ、加賀の仕掛けに完璧に対応するとは信じ難い技量である。
まるでたった一隻の深海棲艦が、高い技量と練度を重ねた艦隊のように感じられた。
「けれど、隙はどこかにあるはず……」
圧倒的な制空力。
驚異的な火力。
破格の装甲。
化物と呼ぶに相応しい性能だが、弱点はある筈なのだ。
現状あの化物級の戦艦を倒す方法は欠片も見当たらないが、それでもやらなければ何も守れない。
全てを失ってしまう。
それは許せなかった。
せめてここに長門がいれば。
扶桑がいれば。
ないものねだりだ。
もういない存在に頼るのは弱さである。
そんな弱さ、加賀には許されない。
彼女がいれば。
心の奥底で嘆く弱い自分。
瞳を閉じればいつも赤い肩翼がいる。
もう一人の自分。
一心同体。二人で一人の片割れ。
それに頼りそうになる未熟さを。
加賀は捨てた。
「……どんな手段を使ってでも」
弓を弾く手に力が宿る。
意志という確固たる力が。
「待たせたのです」
「雑魚は片付けたよ」
寄り添うのは電と川内。
準備は整った。
全力で、レ級を打ち倒す準備が。
「どう? 加賀さんの目から見て突破口は見えた?」
「現状、絶望的ね」
「でもやるしかないのです」
排熱と弾倉の装填を素早く行う。
「燃料も弾薬も余裕がありません。この戦い、そう長くは続けられないのです」
「私も実は雷撃は残り一発。砲撃も心許ないかなぁ……」
残弾チェックを済ませた川内が呟く。
実情を知れば知るだけ劣勢だった。
「とにかくあの二人より前に出て、休ませないとそろそろ限界の筈よ」
「了解」
「なのです」
レ級に向かった二人を見送り。加賀は再び制空権を奪うために集中を高めた。
それと同時進行でなんとかあの化物を倒す方法を模索しなければならない。
「こちらの余力を考えれば残る猶予は五分程度、というところかしら」
五分を超えれば全火力をレ級に叩き込む余裕はない。本当の意味で勝つ可能性がゼロとなる。
そうなればもはや残された道は退却か時間を稼いで緩やかに敗北するだけだ。
それまでに突破口を見つけだし、ワンチャンスに全力を投入するしかない。
夜戦まで持てば川内の戦力強化も伴って装甲を突破する可能性もあるだろうが、そもそもそれまでは確実に持たないだろう。
こちらは後衛による支援もなければ補給手段もないのだ。
これから、嫌な五分間となりそうである。
時は少し遡って。
海人は走っていた。
今日はいったいどれ程の距離を走っただろうか。
息は荒いし、足も痛い。
それでも走らなければならなかった。
海人は海を背に、山を走る。
避難誘導を進める山城や鈴谷の姿を探して。
その手にはジュラルミン製のトランクケースを持っている。
電たちの勝利を疑っている訳ではない。
しかし、物事に絶対はないのだ。
もしかしたら電たちは力及ばず危機的状況に陥るかもしれない。その場合を見越した用心のための一手。万が一の布石。それをこれから準備しに行くのだ。
故に、一心不乱に走る。
体力の限界を超えようとも。
レ級の砲弾が頬を掠める。
それでも構わず時雨は構えた砲身から放った。
直撃。しかしやはりダメージを与えた実感はない。
全速力での移動を続けているため、燃料の減りが早い。このまま続ければもうあと数分も持たないだろう。
目に見えて減る燃料と弾薬が、極限の集中で削れた精神力をさらに追い詰める。
精神だけではない。
肉体も、死と隣り合わせの状況で体力が尽きかけている。
彼女を支えているのはともに戦う夕立の存在だった。
「次の砲撃を躱したら仕掛けるよ!」
時雨が叫ぶ。
返答の代わりに夕立が海を蹴る音が聞こえた。
レ級の一撃は重い。当たれば間違いなく大破か轟沈だろう。
しかし集中すれば躱せる。
激しい爆音が聞こえ、夕立と時雨の間を凶弾が過ぎ去っていく。
瞬間、二人はレ級へとまっすぐに加速した。
合図もなしに同時に魚雷が放たれた。
その魚雷と並走するように海を走り。
着弾直前で二人は真横に飛び、レ級に向かって十字を描くように砲撃を放った。
雷撃と砲撃の同時攻撃。
それを、意に介せず。
レ級は時雨に向かって砲身を構えた。
これは躱せないタイミングだ。
夕立も間に合わない。
直撃。
間違いなく轟沈だろう。
時雨は諦めて瞳を閉じた。
「やめてよね」
その呟きと同時に時雨の目の前で激しい音が炸裂した。
それはレ級の砲身を撃ち抜いた砲撃の音である。
その砲撃を放ったのは時雨に向かって疾走する川内であった。
川内は時雨の腕を掴んで引っ張る。
「諦めるとか。……後で海人に怒られちゃうじゃん」
「助かったよ。今のは流石にヤバかった」
時雨は答え、川内から離れて自走を始める。
「大丈夫なのですか?」
近くにはいつの間にか電もいた。
「なんとかね。でも、夕立も僕も燃料と弾薬が底を尽きかけているよ」
「電と川内さんも、なのです。もう、余裕はないのですよ」
レ級から一先ず距離を置いた夕立も合流する。
レ級の砲撃の危険域から少しだけ外れた距離だ。
「どうする? こっちの火力じゃあの馬鹿みたいに分厚い装甲を突破出来ないけど」
川内が敵の様子を警戒しつつ、電に言う。
「…………矛盾ってことわざ知っていますか?」
「知っているけど、なんでいま? 関係ある?」
「最強の盾を貫く方法は最強の矛なのです。そして現状最強の矛はあそこにあるのです」
「……電、それ本気?」
「普通の発想じゃないね」
「マジっぽい?」
「私は賛成ね」
「加賀さん、いつの間に……」
格納庫の艦載機はあと二度しか放てない。
その貴重な一発を弓につがえて加賀は構えた。
「現状、一番有力な攻撃方法に違いないわ」
「でもどうやって?」
「電が囮になるのです」
その場の全員が唖然とする。
「一発くらいなら、来ると分かっていれば耐えられないこともないと思うのです。砲身を砲撃で逸らせることが可能なのは先程川内さんが実証済み。電に二発目の止めを撃つ瞬間は、誰がどう見ても明らかなタイミングなのです」
「成程、そこを狙う訳ね。……その作戦、乗りましょう」
「電、本当に大丈夫なの!? あの威力見たでしょ!? 戦艦でもなきゃ耐えるなんて」
「一発くらい、気合でなんとかするのです」
悩む時間はそうなかった。
誰もが一撃で電が沈む未来を否定出来なかったが、それ以上の作戦を思い浮かばない。
「ならせめて僕が囮を……」
「砲撃の威力はただでさえ足りていないのです。一番威力の低い電が適任でしょう」
全員を納得させる強い意志を込めて、電は言う。
「迷っている時間はないのですよ、大丈夫なのです。電は絶対に沈みません」
「レ級の航空戦力を完全に無力化するわ。この数分間、一航戦の誇りに賭けて上空からの攻撃は一切させません」
「狙いを悟られないように追いつめる必要があるでしょ? 私が零距離で魚雷を叩き込むわ」
「なら僕と夕立が援護するよ。残る魚雷は全部川内さんに渡すね」
「電は川内さんの後ろをついて行って。夕立が全力で守っぽい」
それぞれがそれぞれの役割を素早く理解し。
そして仕掛けた。
遠巻きにレ級と並走していた五隻は、素早く進路を変更し突撃する。
まずは加賀が艦載機を飛ばした。
僅かな時間でいい。
ほんの数分間。電の策略が実行されるまでの短い時間。
完全にこの空域を支配する。
続いて川内が疾走した。
電、夕立、時雨から預かった魚雷を隠し持ってレ級目掛けて駆ける。
当然迎撃しようとレ級が砲身を構えた。
それを時雨と夕立の砲撃が妨害する。
彼女らの火力では装甲を突破できない。
相手は砲弾に直撃しても無傷な化物だ。
けれど、その衝撃で狙いを定まさせないことは十分に可能であった。
レ級の砲撃は川内から大きく外れる。
レ級の副砲が川内の艤装を叩く。
火花を散らせ、跳弾が肌を貫く。
血飛沫をまき散らし。
けれど減速しない川内は一気にその間合いを詰めた。
掲げられた巨大な尻尾。
それが振り下される。
限界まで引き付け、左肩でいなす。
いなしきれず、肩が外れた。とんでもない威力である。
激痛が走る。
構わず。
無事な右腕で。
レ級の懐目掛けて魚雷をばら撒き。
水面を叩いた尻尾を足場に蹴って飛び上がる。
魚雷をばら撒いた川内はレ級の遥か上空。
魚雷散らばる懐目掛けて、夕立と時雨の砲弾が飛ぶ。
着弾と同時。
戦艦の砲撃以上の衝撃波が起こった。
激しい爆風に川内が吹き飛ばされる。
耳が痛い。
爆音が鼓膜を叩いたのだ。
耳鳴り。
荒れ狂う海。
黒煙に包まれた視界。
その奥に、こちらを見る紅い瞳を確かに見つけた。
バランスを崩して着水する。が、そこにはレ級の砲身が向けられていた。
最悪のタイミング。
回避は不可能。
零距離で複数の魚雷を起爆させても無傷。
だが、これは電の作戦の前の布石に過ぎない。
放たれる圧倒的火力。
標的は当然川内だ。
その前に小さな影が現れた。
電だ。
川内を庇い、己の体を盾に。
両腕で顔を防いだ電が砲撃に直撃した。
轟音と同時、血飛沫が川内の体を濡らした。
尋常ではない量だ。
目の前の電が、崩れ落ちる。
それを反射的に支えようとして。
「……川内さんっ」
なんとか絞り出した電の声。
私を信じて。大丈夫だから。自分の仕事を、遂行して。
そこに込められた意味を正しく理解した川内は。
砲身をレ級に向ける。
そこには電に止めを刺そうと同じく砲身を構えた悪魔の姿があった。
誰が見ても、二度目の砲撃のタイミングは明らかだった。
故に、それに合わせることもたやすい。
夕立の砲撃がレ級の砲身を真横から殴った。
続いて、時雨の砲撃がそれに続く。
二度も真横から殴られた砲身は電ではなく、全く別の方向を向いていた。
川内がさらに砲身を砲撃する。
撃たれ、反動で砲身の向いた先はレ級の体だ。
最強の矛は、最強の盾に向けられていた。
だが僅かに角度が甘い。
レ級の強力な砲撃が放たれる瞬間。その砲身を逸らして自分自身に向けてやる。それが電の作戦であった。
が、足りない。
火力が僅かに。
それを、電の気合が補った。
轟沈手前だった。
大破と呼んでいい。
沈まないのが不思議な重症だ。
満身創痍と言えるだろう。
彼女は三度の砲撃では火力が足りない可能性までも読んでいた。
故に、撃たれた瞬間。既に砲身をそこに向けていたのだ。
あとは放つだけ。
放たれる砲撃。
一秒にも満たない僅かな時間。
刹那を切り取った連携。
それは電の砲撃が決定打となった。
レ級の砲身は己の胸、その中心を向いており。
そしてどうしようもなく。
その最強の矛は放たれた。
鳴り響く砲声と共に、その頑強な装甲を撃ち抜いた砲弾が鮮血の道筋を残して空に消えていく。
体から吹き出す血飛沫が海を染めた。
ゆらりと。
その巨体が傾く。
それでも尚、倒れることはなかった。
沈んではいない。
静寂。
静まり返った海に、小さい声が響いた。
「イタイノ……」
小さいが不思議とはっきりと聞こえる。
深い悲しみと怨嗟の混じった混沌の声が。
レ級の口から紡がれる。
「イタイノ。イタイ、イタイ、イタイ……」
痛いと繰り返しながら。
その口は歪に歪んでいく。
形作ったのは笑顔だった。
けれども、深い悲しみの色で染まった瞳は一切笑ってはいない。
「アナタモ、イタイ、ナル?」
首を傾げ。
呆然と立ち尽くす電と川内に砲身を向けた。
が、放たれる前にその砲身は何かにぶつかって逸れる。
放たれた弾丸は川内の艤装を貫通し、背後の海面に突き刺ささった。
ぶつかったのは時雨だった。
全速力で砲身に突撃し、その衝撃で逸らしたのである。
「逃げるっぽい!」
「夕立さん」
「それがね……」
見ただけで分かった。
川内は満身創痍な上に艤装が半壊している。
電は轟沈寸前の状態でとても航行できるような状態ではない。
かといって、夕立が二人を引いて逃げられるかと言えば怪しい。が、考えている暇はない。行動しなければ沈むだけである。
「ちょっと荒っぽくなるっぽい」
夕立は電を右手で抱きかかえて、川内の手首を左手で掴んで全速力で離脱を始める。
やはり二人を運ぶのは無理がある。
馬力が足りない。それでも歯を食いしばって推進力を上げた。
ここで燃料を使い切る覚悟である。
背後では、きっと必死に時雨が時間を稼いでくれているのだ。一分一秒たりとも無駄には出来ない。
「あれでも……、ダメなのですか」
「致命傷は与えた筈なんだけどね。様子を見る限りじゃ追いつめたと言うよりは、逆鱗に触れたって方が正しいかな?」
「二人とも黙っているっぽい、下噛むよ!」
夕立は川内と電を投げ捨てた。
勘であった。
野生動物染みた超直感により、背後からの脅威に気付いたのである。
己の全身全霊を総動員して体を横に倒す。
故に直撃は免れた。
鈍器で殴られたような感触。
激しい爆音が鼓膜を叩き、世界の音を消してしまう。
視界を染めるのは赤。
恐らくは己の血飛沫だろう。
そして次いで海の青。
砲弾が着水し、舞い上がった水柱が夕立を包み込む。
やけに右肩が熱い。
意識を失いかけた己を鼓舞するように舌を噛んだ。
激痛を激痛で上書きし、なんとか切れそうな意識を保つ。
落ち着け。
まだ死んではいない。
体は動く。
足は動く。
手は、右手の感触がない。
左手は無事のようだ。
水柱の中で夕立は恐る恐る右腕を確認した。
右肩が抉られている。
おびただしい出血量だった。
千切れかけの右腕がぶら下がっている。
艤装もかなりの損傷を受けていた。
それでもまだ、沈んではいない。
撃たれてからどれ程の時間が経過したのだろうか。
時雨は無事なのか。
電や川内は。
そして、レ級の自発装填まであと何秒か。
とにかく、この場にいるのはまずい。水柱が消える前に動く。
前か、後ろか。
否、電を投げた右側だ。
素早く冷静に判断し、夕立は飛び出す。
が、飛び出したはいいがバランスが取れない。艤装半壊と右腕負傷による影響だろう。
細かい調整をしている暇はない。
艤装の設定をオートからマニュアルに切り替え、無理やり自分でバランスを書き換えた。
その場しのぎだが動けば問題はない。
衝撃で吹き飛ばされたのか電は思ったよりも遠くに浮かんでいた。
海面に浮かぶのが精一杯と言った様子で自ら移動できる状態には見えない。
急いで抱えようと試みるも、右腕は使えない。左手で抱きかかえた。
「夕立さん、その腕っ!」
「腕の一本や二本で立ち止まる余裕はないっぽい」
電が力の限り夕立の右肩にしがみ付いた。
止血をしてくれているのだ。
「助かるっぽい」
川内を回収しようとするが、貧血で意識が落ちかける。
血を流し過ぎたのだ。
そこに、赤い瞳が向けられた。
レ級の、冷たく悲しい死の視線だった。
当然、砲身が向けられる。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
時雨の慟哭。
彼女が飛び出し、レ級に飛び掛かった。
レ級自身の砲撃で穿った傷口に、時雨はその砲身をねじり込む。
そして間髪入れずに放つ、放つ、放つ。
「それ以上、僕の大切な人に手を出させないっ!」
放つたび、レ級の絶叫が響く。
耳が痛くなるような高い悲鳴、まるで不協和音のようなそれが。
怒りの声に切り替わる。
「イタイ、イタイ、イタイ、イタイ……」
時雨の体が真横に吹き飛ぶ。
巨大な尻尾に横から薙ぎ払われたのだ。
「時雨っ!」
夕立が半泣きで名を呼ぶ。
「借りるわよ」
そこにいるはずのない人物の声だった。
「え?」
連装砲を奪われた電が信じられないものを見る目で彼女を見た。
「どうして?」
その人物は空を舞う味方に最後の指示を出すと、弓を投げ捨ててレ級へと真っ直ぐに飛び出した。
「加賀さんっ!」
そう、そこにいたのは後方で制空権を掌握している筈の加賀だったのだ。
艦載機が爆撃を繰り返しながら頭上から急降下していく。
それはレ級を攻撃し、そして同時にその周囲にも余波が広がった。けれども、まるで示し合せたかのように加賀はその合間を縫ってまっすぐと距離を詰めた。
頭上からの攻撃が煩わしいのかレ級は加賀に構っている余裕がない。
加賀は小さく謝罪の言葉を告げた。
「ごめんなさい」
これは無力な自分が大切な艦載機に酷い命令を下したことに対する懺悔だった。
つまりは、体当たりによる特攻。
頭上から艦載機が流星のように降り注ぐ。
レ級に直撃しては爆ぜ、散っていく。
加賀は締め付けられる胸の痛みを捨て去り。
そう、手段は選ばない。
と、誓いを支えにレ級に飛び掛かった。
あの悲鳴は確かに効いている証拠だ。
己が穿った傷口。
そこに攻撃を繰り返すのは間違いではない。
時雨が残した連装砲を掴み、さらに電から借りた連装砲をその傷口にねじり込む。
そしてその両方で砲撃を繰り返す。
何度も。
何度も。
この化物が、朽ち果てるまで。
真横から尻尾が襲いくる。
それを、頭上から急降下した艦載機がぶつかって逸らす。
そうやって得た時間で可能な限り砲撃を繰り返した。
レ級の絶叫が、徐々に力のないものに変わっていく。
いける。
やれる。
ここで、この化物を沈める。
そう確信した加賀の胴体を。
何かが貫いた。
加賀の血で赤く染まるレ級の腕。その手刀が加賀を貫いていたのだ。
「――くふっ」
口から、大量の血を吐き出す。
「イタイ? ネェ……イタイノ?」
赤い瞳は凍てつく瞳と、歪んだ笑みでこちらを覗き込んでいる。
「かはっ、これでも、……倒れないと言うの……?」
絶望が、笑っていた。
「ウフフ……、フフ、イタミヲ、アナタモ。……ネェ?」
動かない体。
薄れゆく意識。
限界を超え、何故生きているかも分からないような死の淵にいる。
それでも意識を手放さないのは、いったい何故なのだろうか。
夕立の止血の為、残っていた力を全て使い果たした電は力なく夕立に抱かれるままだ。
電を抱く、彼女もまた絶望で諦めていた。
酷い顔色である。
どれだけの攻撃を試みても倒れない化物に心を折られ、そして右肩からの出血で朦朧とした意識は彼女の生気を吸い尽くしていた。
時雨も真横からあの巨大な尻尾に殴打され、かなり打ち所が悪かったのだろう。意識を失って海面に浮かんでいた。
加賀は貫かれた腹部を抑えて蹲っている。
彼女もかなりの重症だ。
少なくとも、もう動けるような状態ではない。
そんな中、川内が。
精根尽き果て、気力も尽きただろうそんな状況で。
砲身をレ級に向けていた。
「絶対に諦めない」
瞳が、死んではいなかった。
「諦めてやるもんか」
震える砲身を必死に定めて。
「生きて、……帰るんだ」
引き金を引く。
しかし、砲弾は放たれない。
無情にも、弾切れの空しい音だけが大気を響かせた。
「フフフ……」
レ級は笑う。
絶望の笑みを浮かべ。
どこまでも冷え切った瞳が射貫く。
そこには、死そのものが大口を開けて待ち構えていた。
ゆらりと。
巨大な砲身が電と夕立に向けられる。
流石に打つ手がなかった。
諦めたくはないが。
もう、本当に全てを尽くしたのだ。
あらゆる手段を試した。
持てる全ての技量と知識、それらを総動員しても届かなかったのである。
ただ、単純な話。
火力が足りなかったのだ。
正規空母、軽巡洋艦、駆逐艦の構成ではあの理不尽に分厚い装甲を突破できない。
練度や経験では越えられない不条理な事実。
走馬灯が過る。
幸せだった記憶。
辛かった記憶。
それらが脳裏を駆け抜けていく。
電は正しかったのだろうか。
その自問は常に彼女を縛り付けていた。
知ったうえで選択した。
こうなることを覚悟して実行した。
けれども、もしもそうしなければ幸せな日々は続いたのだろうと思うと胸が痛む。
しかしそれは表面上の幸せだ。
誰かの犠牲の上で成り立つ屍の上の花畑だ。
難しい事を考えると、最近は海人の言葉が響く。
難しく考えるなと。
幸せになれと。
幸せになる努力をしろと。
彼は言うのだ。
確かにそうかもしれない。
もしも次があるならば、電は幸せになる為に努力したいと思う。
あの頃のように、四人で仲良く。
笑顔で温かく。
そこに、海人がいれば。
それは幸せな日々だろう。
ゆっくりと瞳を閉じた。
その瞼から、滴が零れ落ちる。
それは後悔と無念からくる悔しさの涙だ。
「――さよなら」
無慈悲な凶弾が放たれる。
直撃コース。夕立と電に逃げる手段はない。
爆音。
着弾した砲弾が弾け、大気を弾き。
硝煙をまき散らし。
海を叩き、飛沫を上げ。
けれど。
いつまでも痛みがやってこない。
即死故、痛みを感じる間もなく沈んでしまったのだろうか。
だが、冷たくはない。
海底の凍てつく水が体を包み込むことはなかった。
それどころか温かい。
そう、これは人の体温だ。
冷え切った夕立の体温ではなく、温かい。
覚えのある、温かさ。
「人の妹に、なにしているのよ?」
目を開ける。
そこには幾度も見た、後姿があった。
艤装を背負い、長い髪を風に遊ばせる二人の姿が。
片方は黒く。
片方は銀色の。
「どうやら、間に合ったようだね」
「え?」
間抜けな声が出た。
「もう、大丈夫よ。よく頑張ったわ、電」
彼女を抱きしめていたのは雷だった。
「雷ちゃん?」
「ごめんね、いままで本当にごめんね。でも、もう大丈夫だから、もう二度と離れたりなんか、しないからっ」
響が今まで見たことのない鋭い眼つきでレ級を睨んでいた。
「いいかい? 私は凄く怒っているんだ。大切な妹をここまでしてくれてね」
「あら奇遇ね、私もよ。れでぃーにあるまじき言い方だけど、言わせてもらうわね」
薬莢を弾き出し、連装砲を構えた暁が叫ぶ。
「泣いても許さない、海の底に沈むまで叩きのめすわっ!」
二人が砲撃を放つ。
しかし駆逐艦二隻の砲撃程度、あの化物に通用する筈もない。
ところが、レ級に直撃したのはそれを遙に上回る砲撃の嵐だった。
物量、火力。その全てが今までの比ではない。
レ級の頑丈な装甲を貫いてダメージを蓄積し、そしてその体を後方に押しのけていく。
雷に抱きかかえられた電は見た。
その懐かしい光景を。
それは艦隊だった。
力なく項垂れる夕立を抱きしめた鈴谷が砲撃し。
力尽きた川内を庇うように前に出た浜風が砲撃し。
海に浮かぶ時雨を回収した北上と大井が雷撃し。
後方で島風と天津風が砲撃し。
そのさらに後方で戦艦である山城が全砲門にて一斉砲撃を繰り出していた。
雷撃が海を覆い、砲撃が空を覆う。
「どう、して……、みんな」
深海棲艦は辛い記憶の象徴だ。
見るのも恐怖の対象の筈。
それが、どうして。
こんなにも、沢山の仲間が、駆けつけて。
「海人が、言うのよ」
雷は思い出しながら言った。
「避難する皆に、頼む。力を貸してくれって。このままでは大切な人がいなくなるかもしれない。それはきっと後悔する。誰もが皆後悔するって」
涙が、溢れる。
「俺には力がない。だから手を貸してくれって。どうしても無理な人もいる。それは仕方がない、でも、ほんの少しでいい。勇気を出して、前に進んでくれって。必死に、叫ぶの」
この、感情はなだろうか。
言葉に出来ない。
「俺は無力だから、でも痛みも辛みも全部背負うから。ぶつけていい、預けていい。俺を頼っていい。俺は死んでもお前らを裏切らないし、お前らが望む限り絶対に死んでやらない。お前らを笑わせ続ける。幸せにしてやる。……だから、俺に力を貸してほしいって」
「どうしてだろうね」
響は言う。
「絶望を味わって希望なんて捨てていた筈なのに」
暁が続ける。
「あの人の言葉が瞳の曇った艦娘の心を照らしちゃったのよ」
雷がそう綴った。
無数の砲撃を受けて尚、レ級は攻撃の意思を緩めない。
赤い瞳がさらに輝く。
「イタイ、ネェ、カエシテ、……カエシテッ!」
砲身が再び電を向く。
響と暁が再び砲弾に砲撃して防ごうとする最中、あり得ない声が戦場に響き渡った。
そこにいる筈のない、本当にあり得ない。可能性の欠片もない人物の声が。
「へいっ、そこのレインコート被ったキュートなハニー、お探し物はこいつかばかやろうっ」
能天気な声だった。
「ばっ、ばかなのですかっ!? どうして海人がここに!?」
島風が牽引する小型のボートに乗り込み、銀色のジュラルミンケースを片手に叫ぶ海人の姿がそこにはあった。
レ級の反応は凄まじかった。
冷えた温度のない瞳が我を失ったかのように怒り一色に染め上る。
「カエセッ、カエセッ、カエセッ!!」
無我夢中で砲弾を乱射した。
それを島風が驚異的な舵捌きで回避していく。
本人だけでなく、牽引するボートまで余裕で回避しているのだからその技量の高さは異常なレベルだった。
「いいぞ。その調子だ、島風。あとでご褒美だっ!」
「本当ですかっ? やったーっ!」
海人と島風は完全にレ級の的になっている。
どうやら推測通りこのケースが目的で間違いないらしい。ならば作戦通り。
「いいか、皆。狙いはあの傷口だ。一度で決めるぞっ」
海人が叫ぶ。
不思議なことにそれを聞いた艦娘の戦意が上昇していく。
誰もが集中力を高め、深海棲艦を見た恐怖を忘れ。過去の辛い記憶を一時的だが払拭していくのだ。
それは心地良ささえも感じさせる、海人の提督としてのカリスマであった。
「島風、頼むぞ。俺の命お前に預けたからなっ」
「まっかせてくださーっい!」
縦横無尽に島風は海上を踊る。
レ級の砲弾はまるで遊ばれているように的を射ることが出来ない。
そんな隙だらけのレ級の傷口に全火力を集中させることは、この練度の艦娘達にとっては簡単すぎる作戦であった。
故に、あまりにも呆気なく。
その決着はついた。
「主砲、よく狙って、てぇーっ!」
山城の号令に合わせ、全ての砲弾が吸い込まれるように傷口に着弾する。
一瞬の静寂。
レ級は赤く輝いていた瞳の光を消し。
崩れるように、静かに。
海へと帰っていった。
「お……、終わったのですか?」
電が問う。
「ええ、帰りましょ? 私たちの居場所へ」
雷が答え。
「島へ、ですか?」
再び電が問う。
「違うよ」
響が否定した。
「あそこによ」
暁が指さす。
そこには彼女たちの提督がいた。
島風に牽引され、ゆっくりと近付いた海人は電に微笑む。
「俺が、ここの提督だ。文句あるか?」
「まさか、ないのですよ」
ちょっとだけ残念だが。
私だけの提督ではなかったのか。
と、思いもしないが。
「なに不貞腐れているんだ? お前は俺の特別なんだから。しっかりしてくれ」
「はわわっ!?」
赤く染まった頬は、夕暮れの光で気付かれなかったと信じたい。
そう、気付けばもう夕暮れだった。
夕暮れは帰る時間だ。
帰るのだ、島に。
海人のいる、島に。
レ級との死闘が終わった夜。
海人はその場所に行かなくてはならなかった。
恐らく彼女が頻繁に顔を出していただろうその場所に、誰かが代わりに出向かなくては下手をすれば死んでしまうことだってあり得る。
故に、海人はその鍵を持って行かなければならないのだ。
疲労困憊である。
本当は今すぐ布団に潜り込んで横になって夢の世界に飛び込みたい。
それでも、やらなければならないのだ。
この島の新しい提督として。
床が陥没してしまった部屋は使えない為、海人は新しい部屋を用意された。
その部屋から最初に使っていた部屋に戻る。
陥没した床はボロボロの板で簡易的に塞がれているだけで、簡単に外すことが出来た。
あらかじめ用意していた梯子を使い、下に降りる。
そこからの道筋は覚えていたので迷うこともない。
帰りは梯子があるので簡単に帰れるだろう。
相変わらず不気味な独房のような部屋を抜け。
うるさく鳴く蝶番の扉を進み、そして目的の場所にたどり着いた。
以前ここに来たとき、海人はあることに気付いた。それはこの重厚な扉が静かに滑らかに動くことだ。
明らかに誰かの手が加えられている。
蝶番に油でも差したのだろう。
一つ手前の扉はそんな様子はなく、動きは重いし蝶番も鳴る。何故だろうか。
簡単だ。
片方は頻繁に使用して、片方は使用していないからである。
そして重厚な扉の先には下りの階段があり、以前ここを訪れた時、海人は扉の時点で違和感を持っていた為、よく周囲を観察していた。
電と山城、そして海人の他に誰かの足跡が残っている。埃が薄く積もっていた為、よく見ればはっきりと分かったのだ。
そして階段先の開かない扉。
鍵のかかった部屋。
加賀の落とした鍵。
ここまで揃えば馬鹿でも推測が出来る。
この場所には加賀が頻繁に訪れていたのだ。
そして彼女だけが知る秘密がそこにはあるのだろう。
加賀との一騎打ちの時、海人は切り札としてこの情報を使った。
俺は地下の秘密を知っている。明かされたくなければ、一対一を受け入れろ、と。
その時の加賀の豹変ぶりも確信を持つに至った理由の一つである。
そしてこの先に待ち受けるものも、海人はある程度推測出来ていた。
「……悪い予想ってのは当たるもんだ」
本当に、嫌になるほどに。
鍵を差し込み、開く。
扉が開く。
真っ暗闇の廊下が続いていた。
歩く。
自分の足音が嫌に響く。
その気配に気付いたのか、奥から声がした。
「今回は随分と遅いじゃないか? 遂に見捨てられて餓死させられるのかと思ったよ」
男の声だ。
進む。
部屋に出た。
真正面に檻がある。
ちょうど部屋を真ん中で遮るように柵が設けられているのだ。
これは独房だ。
薄汚れた服を着た男が独房の奥で壁に寄り掛かるように座っていた。
薄汚れてはいるが、その白い服装には見覚えがある。
「加賀、じゃないのか。君は?」
「海人、という」
「艦娘じゃないのか?」
「人の名前を聞いたんだ。お前も名乗れよ」
「僕かい? 名乗るほどの名前もないよ。……僕はここの提督だ」
やはり。
そこにいたのはここの提督であった。
死んだ筈の、提督。
「見て、しまったのね」
背後から加賀の声がした。
「……腹に穴が開いているのにここまで来るとは思わなかったぞ」
「嫌な予感がしたのよ。鍵をなくしたのも、貴方との模擬戦の後だったわ」
「まぁ、おれが拾った推測もするか。当然だな」
加賀が、弓を引いた。
幾度見た光景か。
海人の眉間を鏃が狙っていた。
「俺を殺さない約束だろう?」
「……ええ、でもここを見たからにはここから帰す訳にはいかないわ」
加賀は静かに宣告する。
「貴方もここに入ってもらうわ」
最後まで読んでくれた方、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
およそラノベ一冊分強の文量となります。これはSSではないw
とりあえず記憶喪失の男が提督となるまでのお話です。
第六駆逐艦なんかもお話のメインとなっています。
どうでしょうか、ご満足頂けたでしょうか? 好き勝手書ききった僕は満足です。
これは一部となりますので続く二部も、よろしければ読んでやってください。
防諜のために地図から軍事施設のある場所を抹消するというのはよくあることよね
いいですね!これからどうなるのか期待してます!
それと、行間はあけた方が読みやすいですよ!
1〉どうして地図から抹消されたのか。それがこのお話の主軸ですねー。
2〉応援コメントありがとうございます。行間については手直しするかちょっと考え中です。
登場してほしい艦娘募集します。
(話の都合上どこか壊れてしまっている可能性が高いですが)
反応がないと僕が凹むので気軽にコメント下さいw
それと行間狭くて読みにくいって声が多ければ、(この文量直すのだるいと思っている)僕が重い腰を上げます。
浜風!( ≧∀≦)ノ
6>浜風了解です。出します(壊れてますが)
浜風ちょっとまだキャラ掴めてないので変かもです。
おお、とーごさんの浜風たのしみにしてます。
9〉コメントありがとうございます。(心が)壊れてますが、それでも良ければ……( ・ω・)
戦艦レ級
深海凄艦はもう少し出るのは先ですねー。
応援や評価ポチってくれる方、ありがとうございます!
励みになります!
案外こういうやつもよみやすいのでおけですえ
続きがきになるー((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
14〉ありがとうございます!
続きも頑張って書きますね。
とーご
なんかアカウントログインがサーバーエラーが出て出来なくてしばらく更新出来ないかもです。
アカウント回復しました。
それと評価4付けてくれた人は、出来ればで良いのでついでにコメントでどこが今一つだったのか書いてくださると嬉しいです。
島風と天津風とかお互い依存した感じで出してほしい
18〉ありがとうございます!
そういう具体的なのだと出しやすいです。
話の流れ的にぜかましとかは第六駆逐艦編の話が終わってからなのでちょっと後の方になりそうです。
実はこの話結構長くて、まだまだ続きます……。
良かった。冒頭にあった五章構成の四まで来てたみたいだから展開にヒヤヒヤしてました。
続き、長く楽しみに待ってます
21〉五章構成というのはこの漂着から第六駆逐艦編までの第一部のことですね。これが終わると続きの第二部を用意しています。
紛らわしくてすまぬ……( ・ω・)
続き書きたいけど、仕事忙しくて書けないってばよ……( ;∀;)
何時も更新楽しみにしています。
ところで、被弾した時の描写が随分と生々しいのですが、何か参考にしたものがあるのでしょうか?
宜しければ、参考がてらに教えてください。
24〉更新遅くてすみません、読んでいただいてありがとうございます。
被弾の描写ですが、結論から言うと参考はありません。強いてあげれば奈須作品辺りに影響受けてますかね。
でも個人的に参考にしてる作家さんは橋本紡です。
なるほど納得しました。
コメントありがとうございます。
自分も奈須作品には、結構影響を受けました。
PV5000超え嬉しいですね。
読んでくれた方には感謝です。
第一部、第六駆逐艦編はもう少しで終わりです。
続く第二部は加賀編です。
二部の方も読んでもらえたら幸いです。
風邪で高熱出してちょっと更新休んでました。
きたきた!これだけ応援したくなる提督ポジの主人公も久しぶり。
順番待ちきれないほどに、皆を立ち直らせて欲しいなぁ
29〉コメントありがとうございます。
直球な感じの主人公を目指しましたので、応援したくなると言ってもらえると嬉しいです。
第一部が書き終われば、提督としての海人と艦娘の小話的な短編も作りたいですねぇ……。本編で掘り下げられなかった艦娘とかそこらへんでやりたいです。
続きが楽しみ過ぎる!無理せず頑張ってくださいね!
32〉コメントありがとうございます!
続きが早く書きたいですw 無理せず頑張ります!
11>レ級遅くなりましたが、登場させました。化け物ですね。電たち大ピンチですw
というか文字数が足りるか怪しくて私もピンチ……
何時も更新楽しみに読んでいます。
星4つの評価をした理由ですが、今回の艦隊戦に際し、大変申し訳ないのですが作風の中で、戦場特有の強いて言うなら泥臭さと言うのが薄い印象を受けました。
電達は最高練度ゆえ、確かに三十隻の艦隊相手に無双を誇るのでしょう。
ですが、やはり扱うものが戦場なのでもう少し描写にも戦場特有の泥臭さい香りが欲しいと思いました。
長文大変失礼しました。
執筆頑張って下さい。応援しています(`_´)ゞ
36〉今回はレ級がメインの相手なのでその取り巻きは流しで書いてたところがあり、ちょっと手抜き感があったかもしれません。ご指摘の物足りなさはそれが原因かもしれません。レ級との交戦はかなり激しくなる予定なので、そこで巻き返えせるよう頑張ります。コメントありがとうございました。
作者です。
めちゃくちゃ久しぶりに更新しました。
生きてます、失踪してませんw
とんでもなく仕事が忙しかっただけです。
続きを再開します。
待ってた!
39〉ありがとうございます。
待ってもらった分面白くなるよう頑張ります!
第二部は構想だけ出来てて、プロットまだ出来てないのでちょっと先になります。
コメントとかで応援されるとやる気出て作業が進むかも(催促)
冗談ですw
僕自身書きたいので早めに作っちゃいたいと思います。ではでは。
更新お疲れ様です、ワクワクしながら読ませてもらってます
本編はまだまだ先が長そうなのでじっと待つとして、球磨型の二人がどんな様子で楽園組だったのか凄く気になります
こういう舞台で孤立しがちな島風には天津風がいる辺りも新鮮
あえて全部は語らないのも素敵ですけどもし機会があるようなら楽しみに待ってます
42〉感想ありがとうございます!
島風、天津風、北上、大井は本編で言うところの海人と面識はあるが関わりは薄い艦娘たちとなります。
二部から話の表に出てくるのですが、今回のレ級戦でちょっと顔出しだけさせた形になりますので、しっかりそこら辺も書く予定です。
あれ!?後半部分のデータ消えました!?
編集したらなんか飛んじゃいました。
今修復できないか問い合わせてます。
(実はバックアップあるのですぐに戻せるんですけど、消えた理由が不明なので触らないようにしてます)
自力で修復しました。
バックアップをコピペしたので推敲もしてない原文ままなので誤字脱字多いかもです。
後日推敲します。
天津風と島風が…嬉しいッ!!しかし天津風に台詞がァァァ…
47>これの続きで天津風もっとでばんありますよー。【海から来た人Ⅱ】ってやつです。
今更ですが、最近の話見てるとこのレ級ってもしや割と悲しい……?
49>そこら辺の謎が明らかになるのは恐らくⅣあたりなのでお楽しみに。