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襦袢はぐっしょりと濡れていた。

　ひどい夢を見た。自分の機関部が破壊され、青く暗い海に沈んでいく。思い返しても怖くなっていく。

「……く、あああ……」

　もう私は眠ることが出来なくなっていた。

「加賀さん？」

　朝食を食べている私の前に、第一艦隊の旗艦を勤める赤城がやってきた。心配するように、テーブルの対面に座り込む。

「随分調子悪そうだけれど」

「そう、ですか？」

　よく分かるものだ。流石に勘の鋭さには長けている。誤魔化さなければ。

「少し面白い本があったもので。夜更かしをしすぎてしまいました」

「そう？それならいいけど……加賀さん、無理しないでくださいよ。あなたがいなければ艦隊が回ってかないんだから」

　赤城は真顔でそう言った。やめてくれ、そんな大した存在じゃないんだ私は。艦隊を任されている赤城は、いつもこうやって私にリコメンドを求める。すなわち私の意見を聞き、その意見が、艦隊を動かす。明らかに可笑しい話だ。赤城は艦隊旗艦、私は二番艦に過ぎない。

「過分な言葉です」

　正直な感想を述べたが、赤城は納得のいかない表情を浮かべた。またか、とでも言いたそうな顔だ。私の方こそ、赤城の考えは読めない。

「加賀さん……望むなら私の方から第二艦隊の旗艦に推薦しますよ。提督も納得してくれるでしょうし」

「いえ、とても無理です。第二艦隊は今のままが一番いいとおもいます」

「加賀さんはそれでいいんですか？私はとても助かりますけど」

「そういってくれるだけで望外の喜びですよ。では。今日は非番なので」

　そういって強引に席を立つ。そうでもしなければ、去り辛い

　勘のいい赤城のことだ。きっとこの秘密にしている私の心中だって、簡単に読み切っているに違いない。そんな赤城と席を共にするのは辛い。

　

　私、加賀という艦娘は鎮守府の空母でも大分古株の存在だ。だからこそ、皆一目置いてくれるのだろう。そうでなければ理由がない。私室の机で今度の報告会で使うという資料の作成を行っていた私は、息を抜こうとして椅子の背もたれにもたれる。

　なんで私は、こんなところにいるのだろう。

　そんな考えがよぎった。

　深海棲艦と呼ばれる存在が海を荒らしはじめて三年。様々な少女が艤装をつけて艦娘になり、海を縦横無尽に駆け巡った。加賀はその艦娘の一期生だ。

　別に望んだわけではない。軍がどういう訳だかは分からないが、私の家に来て両親と話し合った。そして話し合った末、私は気が付いたら航空母艦加賀というコードネームをつけられて海の上だったという訳だ。

　説明は後手後手で行われた。深海棲艦という存在が突如として現れた事。艦娘という、大戦中の記憶を持つ少女たちを見つけ出して、深海棲艦に立ち向かうという事。その第一期生として自分を迎え入れるという事。

　何故とか、どうしてとかは聞かれなかったし、拒否権もなかった。否応なしに戦いに巻き込まれ、謎の存在とやらと戦った。苦しいことばかりだったが、周りが頑張っている以上置いてけぼりをくらうわけにもいかず、歯を食いしばって耐えている内に、周りからの視線が変わっていくことに気付いた。

　見て、あれが加賀さんよ。

　知らない艦娘から敬称付で呼ばれるようになり、いつしか同期の赤城と共に私は第一艦隊に配属になった。

「加賀さん、ここはこれでいいかしら」

　赤城はどんな作戦でも私の横に立って、海図を片手にそう言った。そこにどんな意図があって意見を求めているのかは分からなかった。もしや周りから鉄面皮と呼ばれるほど、無表情な私に気を使ったという訳でもあるまい。

「ええ、いいと思います」

　そう言うと赤城はにこやかになる。そして決まってこう付け加えるのだ。

「ありがとう。加賀さんが言うのなら安心ね」

　屈託のない笑みに、思わず顔を背けたくなった。そんな笑みを向けられるほど大した事をしているわけでもないのに、赤城は背中を押されて勇気が出た、とでも言わんばかりに意気揚々となる。

「あの、赤城さん」

「ん、何？」

「……いえ、なんでもありません」

　屈託のない笑みを、曇らせるような無粋な真似はしたくなかった。

　いつの日からか、私は仮面をつけるようになった。無表情で、傲慢という仮面。どんな戦果を持って帰ったとしても、当然とばかりに鼻を鳴らし、背筋を伸ばして威厳を出す。

　本当はちっぽけな癖に。そんな心中の声は強引に黙らせた。

　鎮守府の艦娘たちは、口々に私を褒めた。賞賛した。加賀に任せれば全て安心だ。何事も上手だ。

　そんな風評が広まるにつれて、私の心はささくれ立っていく。実体のない自分に大風呂敷に広げられ、ちっぽけな自分が分不相応な大きさの風呂敷の中心にいるような感覚。

　やめて、褒めないで。これ以上私を惨めにさせないで。

　第一艦隊のメンバーですら、私を褒めた。気づいているくせに。私の鈍足が艦隊の足を引っ張っていることは誰だって知っているはずなのに。みんなにこやかにこう言うのだ。

　―――加賀が居れば、安心だ。

　何が安心なものか。限られた資材を馬鹿食いする自分の艤装を、何度海に叩き込みたくなったことか。そしてその割に大した戦果を挙げられない自分を何度も恥じて、消え入りたくなった事か。

　赤城、金剛、吹雪、北上、大井、利根。鈍足の自分とは違い、三〇ノットで艦隊運動を行える快速艦の彼女たちの足を引っ張る自分は、どんな惨めな艦娘だろうと思った。

「あの、赤城さん」

　何回目だろう、この問いかけは。執務室で第一艦隊の艦隊進路をボード片手に考えていた赤城は、嫌そうな顔一つせず加賀の方に向き直った。

「なにかしら、加賀さん」

「今度の作戦、私を第一艦隊から外してくれないでしょうか」

　そう私が口にすると、赤城は目を瞬かせた。

「へ？」

「次の作戦は、快速艦で挑むべきです。私より駆逐艦を入れる方が良策だと思います」

　無表情という仮面が、外れかかる。それでも構わない。

　ふう、と溜息が聞こえた。赤城は訳知り顔でボードを置き、私の肩に手を置く。

「疲れているんですね、加賀さん。間宮に行きましょ。ちょうど羊羹の引換券をもらったところだったんです」

　なにも聞いていない。そんな態度で赤城は答える。

「疲れていません。古来より兵は拙速を尊ぶと」

「加賀さん」

　有無を言わせないような芯の通った声が、執務室を緊張させる。赤城というカリスマの権化が、目の前の私を凍てつかせる。

「あなたの力は必要なの。あなたが居なくては、第一艦隊は戦力半減よ」

「あ、う……で、ですけど……」

　声が、震える。仮面をはめなくては。はめなおさなくては。私が私ではなくなる。

　震える声は、俯いて顔に手を当てることで誤魔化した。

「大丈夫よ。ね」

　そう念押しするように、赤城はそう言ってボードに向きなおった。この話はお終い、そんな言葉が聞こえてくるような、そんな態度だった。

　新しい空母が来る。そんな話があったのは、深海棲艦との戦いが続いて一年ほどが経った頃だった。そのころには艦娘の数も大分増えていたし、私も赤城も後輩が増え、先輩としての立ち居振る舞いに気をつけなければならなくなっていた。

「正規空母の後輩が来るそうですよ」

　いつものように第一艦隊の執務室で作戦を考えていた赤城が、私にそう言った。

「そのようですね、赤城さん。当面は私たちで面倒を見なくてはならないでしょうけど」

「まあ仕方ありません。空母の艦娘になれる子は少ないですから」

　どうか有能であってくれ。そう願わずにはいられない。

　私はそろそろ限界だった。身の丈に合わない扱い。尊敬の目を向けてくれる後輩たちに対する罪悪感。仮面をかぶり続けるのも疲れた。

「ところで加賀さん、この作戦、これでいいかしら？」

「……いいと思います」

　どうせ赤城のこの口上も、責任逃れと自己欺瞞によるものなのだ。万が一作戦が失敗に終わった時に、こう言うだろう。加賀さんだって良いって言いました、と。そして私はどちらにしろ謗りを逃れることは出来ない。

　別に構いはしない。どうせ風呂敷が破れて小さな私が露見するだけの事だ。情けないと言いたければ言えばいい。

　そんなぐずついた私の心とは裏腹に、赤城はまたいつものセリフで締めくくった。

　なんだってこんな田舎めいたところに鎮守府があるのだろう。いや田舎めいた場所だからこそあるのか。市街地にこんな馬鹿でかい施設があった日には、軍部の人気はガタ落ちってものだろう。

　バスから降りたのは二人だけだった。まあ道理か。こんなフジツボとフナムシしかいないような場所で降りる人は限られている。

「ついに来たわね……ふふふふ」

　横のブロンド美人、姉の翔鶴が昂る気持ちを抑えきれないのか含み笑いをする……気持ち悪いなあ、間違いなく美人なのにこういうところがあるからモテないんだ。まあ、その煽りというかなんというか、私は綺麗な翔鶴姉の天真爛漫な妹というポジションを労せずに手に入れている。花は翔鶴姉に任せて私は団子を手に入れるって寸法よ。

　翔鶴姉の気持ちも分からなくもない、私だって胸に来るものがある。深海棲艦と人類が戦い始めてもう一年。その間に、人類側に有利な戦いが出来ているのは艦娘のおかげであることを疑うものはいない。

「翔鶴姉、もっと口元を締めた方がいいよ。だらしなく見えるし」

　艦娘は、大戦中の艦の記憶を持った少女たちである。姉妹関係に艦娘適合者がいると、それがそのまま姉妹艦として適合する場合が多い。私と翔鶴姉もそれに漏れず、姉妹揃って艦娘になることになった。

　翔鶴姉にも、私にも艦名以外の本名はあるにはあるんだけどここでは言わない。戦争が終わるまでは艦名で呼ばれるのが艦娘のルールだし、どっちかに統一しないとややこしいしね、こういうのって。

　……っと、意味のない考えが多すぎた。さっさと着任の挨拶を済ませないと。

　挨拶は極々簡単なものだった。秘書艦という同年代の艦娘と、少しトウのたったおじさんがあれやこれやという説明を聞くのが少々辛かっただけだ。

　それにしてもなあ、ここ広すぎない？ほとんどすべての日常をここで過ごすから大きいのは当然なんだけど、こう広いと―――

「ここ……どこ？」

　―――必然的に迷子になるっての。

　なっさけないなあ、私。ひょっとして翔鶴姉以上にはしゃいでいたのかなあ。

　さっきまで横にいたはずの翔鶴姉はどっか行っちゃったし、どうしようもないねこれ。

　こんな時は落ち着くことが大事。大丈夫、迷子になったからって轟沈するわけじゃない。歩いて行けば人に会うし、ここは日本だから最低限の会話くらいは出来るし、地図でも見つかれば万々歳。それだけの事。

　それからたっぷり三十分は歩いただろうか。当方絶賛迷子継続中だ。まさかこうも広いなんて思わないじゃない。

「うーん……参ったなあ……」

　もう弱音が口に出る。街からずっとバスに揺られて、ついたとたんに目的地の分からない強行軍実施と来れば、泣きが入るのも仕方ない。

　そんな弱り目の私に、ついに救いの手が現れた。目の前に現れたのは、見るからに関係者らしい女性だった。青いスカートに、弓道着。見てすぐに分かった。今や誰もが知っている空母加賀だ。

（う、うわあ～、本物だ。本物の加賀さんだ）

　目の前の物陰からパッと出てきたのが、連日新聞やテレビを賑わす女性だったものだから、私の心臓はバクバクうるさくなる。間近で見る深海棲艦を屠る英雄は、とてもきれいだった。

「……民間人は立ち入り禁止よ」

　その言葉にズッコケそうになった。いや仕方ないんだけどさ。私は私服だし、衣嚢に軍属関係の書類は全部詰め込んでいるからすぐに出せない。

「み、民間人じゃありません。本日より着任しました、航空母艦瑞鶴です！」

「……それを証明する書類は？」

「そ、それは今この中で……」

　伺うように加賀は瑞鶴を見る。

（う、うわうわうわ、そんなじろじろ見ないでよ）

　はあ、と溜息が聞こえた。

「……まあいいわ。赤城さんから話は聞いているし……着いてきて、寮まで案内するわ。着任の挨拶、もう済ませているでしょう？」

「は、はい」

ふいとふりかえって前を行く。なんてことのない所作だというのに、無駄が全くなくオーラがあるように見えた。田舎娘と花魁ほどの差がある。

（なんだか……悔しいな）

　初対面だというのに、これほどの差を見せ付けられるとなんだか悔しい。

　目の前を行く加賀は確かに有名人の発するオーラがある。だが、私とは同年代だ。同じ人間で艦娘だ。経験こそ大なる差があるにしろ、同じ人間だ。絶対に追いつけない事があるはずない。

「加賀さん」

　声をかけると、振り返ってこちらを向いた。射貫くようにまっすぐみられると、何もされていないのに背筋が伸びた。たじろぐが、負けてはいられない。

「この後、弓のご指導をお願いしたいんですけど」

　その言葉を言うのに、それなりに苦労した。

分かっている、青二才の私に付き合っていられるか、なんて気持ちでしょうよ。でもこっちだって相手がどれほどのものかしっかりと認識しなきゃ、どこを目指せばいいのか分からないじゃないの。

　加賀は何も言わなかった。そして一息ついて口を開いた。

「ええ、いいわよ。でも先に荷物を解いてから」

　それだけ言うと、加賀は先に歩いて行った。

　寮は二人部屋だった。翔鶴姉と同じ部屋らしい。正直助かる。気心知れた人が一緒というのは。

　私服から艦娘の艤装をつけるための服に着替える。どっからどう見てもただの弓道着で、着心地も弓道着なのだが、軍の技術を惜しげもなく使ったもの……らしい。ホントかなあ。

　何はともあれ、着替えて外に出ると、加賀は待っていてくれたようで腕を組んで立っていた。

（う……威圧感あるなあ。何もしてないのに悪いことしたみたいだわ）

　きりりとした顔立ちだからか、怖さがより際立つ。その上無表情ばかりだから余計にだ。

「行きましょう。弓なら弓道場にあります」

　返事も聞かずにせかせかと歩く。その一挙手一投足に気品がある。本当に同年代なのだろうか。年齢だけなら一つ上であるだけなのに、ずっと大人びて見えた。

　　弓道場に着くと、にこやかに加賀を迎える赤城の姿があった。少しは落ち着いたはずの心臓が跳ねあがる。なにせ赤城といえば加賀以上に有名な存在だ。この国の守護天使は、魅力的な笑みで加賀に笑いかける。

「加賀さん、お疲れ様です……そちらは？」

「瑞鶴だそうです。弓の稽古をしてほしいというので」

「そう。よろしくね、瑞鶴」

　言葉少なにそう言われたが、それだけで舞い上がってしまいそうだった。浮かれそうになる心を叱咤して、にやつく口元を引き締める。

「はい！」

　とはいえ、それだけを言うのが精一杯だった。

　弓道の稽古は空母の艦娘には必須だ。艦載機の妖精が帰依されている弓矢を射って発進させる。狙い通りの場所に射るには、練習あるのみだ。

「やってみなさい」

　加賀にそう言われるが、弓を射るのは難しい。私自身艦娘養成の学校に入るまで触った事すらなかったからあまり慣れているとは言えない。

「……やっ！」

　真っ直ぐ飛んだ矢は、的から少し外れる。あちゃあ、いけないいけない。

「ははは……お慰みってやつで」

　そこからの三射はなんとか的に当たってくれた。ほっと胸をなでおろす。着任早々全く当たらないなんて恥ずかしいことにならなくて良かった。

　ほう、という感嘆の溜息が聞こえた。見ると赤城だ。感心したように顎に手を当てて的を見ている。加賀はその横で凛とした顔を崩さない。何となく対照的で可笑しかった。

「……次は私が」

　加賀が前に出る。背筋をピンと伸ばして、的を凝視する。たったそれだけの事なのに、弓道場全体が緊張感に包まれる。

（……！）

　構えて、ややもすれば荒々しい動作だが、弓が躍動し矢を放つ。文句のないど真ん中に命中した。間髪を入れずに二射、三射。全てが真ん中に当たる。

（な、何なの、この人）

　そして最後の四射目。美しい射形から放たれた矢が、最初に当たった矢の後ろに突き刺さった。そこまでやってから、加賀が息を吐く。

「お見事です。加賀さん」

　にこやかな態度だが、赤城は自分の事のように誇らしげだった。

「いえ、その……たまたまですよ。後輩の前で下手な真似できませんから」

　そう言うと加賀は胸をなでおろしたように息を吐いた。なぜだろう、完膚無きまで見せ付けられた実力差だったのに、加賀は誇るでもなくただ安心していただけだった。

　その後、私は翔鶴姉と合流してそのまま射形の練習をしていた。加賀や赤城は慣れているし、実績もある。そんな人たちと真っ向からぶち当たっても勝てやしない。

　それでもいつか。そんな思いだけは捨てたくなかった。力量を見せ付けられた後でも。

　

　

　羨望、羨んで望むこと。読んで字の如くだ。目の前で射形を取り、矢を放つ瑞鶴を、私は羨んでいる。当たり前のように的に当てて、素直に感情をむき出しにする少女は赤城と同じように、艦娘になるべくしてなったような雰囲気があった。

　彼女は非常に才覚に恵まれていた。私のような手探り時代の遺物とは違い、きちんと見込まれてスカウトされているのだから当然だが。

「もう少し力みを無くしなさい。力んだって上手くいかないわ」

「はい」

　横からモノを言われるのは嫌なのだろうが、すぐに修正できる器用さが瑞鶴にはあった。少々素直すぎて表情に出てしまうのが玉に傷だったが。

　その高い修正能力で真ん中に矢を立てると誇らしげに胸を反らせる。どこか子供っぽく、幼さを残す笑顔をすぐに出せる彼女が羨ましかった。

　午後の艦隊行動でも、第二艦隊に配属された彼女は高い運動性と小回りを見せた。見学していた第一艦隊の誰もが感心したように目を細める。

「あやつ、やるのう。おい加賀、ライバル出現という奴じゃな！」

　第一艦隊の同僚である利根がカラカラ笑いながら話しかけてくる。自信に満ちた笑みを崩さないのは、心の底から自分を信じることが出来ているからだろう。

　私は、そうではない。それでも仮面をかぶりなおして年季の入った演技で彼女の目をごまかす。

「まだまだよ……ふん」

　わざとらしく鼻息まで付けた。利根はうむ、と頷いて目線を艦隊行動に移す。勘はあまり鋭い訳ではないから誤魔化しやすい人だとはおもう。お蔭で助かっているのだけど。

　先の演習で、第二艦隊が三〇ノットでの艦隊行動をこなした。それも空母が二隻居る状態で。そんな情報が昼休みに掲示板に張られると艦娘で込み合っていた食堂は沸き立った。無論戦艦もいないという条件下ではあったが、それを込みとしてもたいしたことなのは間違いない。

　事実を突きつけられると、私の心はざわついた。第一艦隊を瑞鶴と入れ替わりにおいだされるかもしれないという、ちょっとした寂しさ。自分に相応の場を貰えるかもしれないという嬉しさが、私の中に同居していた。

「加賀さん……いいですか？」

　それから二週間ほどたった。朝食時に赤城が加賀の傍に立つ、ついて来いと言いたいらしい。食後のお茶を啜っていた私は湯呑を置いて立ち上がり、赤城の後をついて行く。

「噂なのですが……いえ、違ったなら謝ります。瑞鶴の第一艦隊入りを推薦する書類を書いたというのは本当ですか」

　その通りだ。私が書いて、使う機会がほとんどない印鑑まで押して上申した。

「ええ、そうですが」

　赤城は納得していないような顔をしている。

「じゃあ加賀さんは第二艦隊の旗艦に？」

　そう思うのも当然だ。弾薬の代わりに貴重な物資であるボーキサイトを大量に消費して戦う空母艦娘は艦隊に何隻も入れれはしない。この鎮守府では原則二隻までと決められていた。三隻も配属されるのは余程の大作戦くらいである。

　そして第一艦隊の空母は赤城と私。そして赤城は旗艦だ、象徴としての役目もある旗艦はそうおいそれと変えれるものではない。

「いえ」

　その答えにますます赤城の顔が曇っていく。皆目見当がつかないとでも言うように首を振った。

「では、どうするんですか」

　分からないという風に聞いてくる。赤城の勘の鋭さは今お休み中らしい。廊下で私たちが話していると人目を引くのだろうか、食堂の入り口から顔をのぞかせる子や何の気もないという風情でこちらを見ている子たちが何人かいた。

「そう、ですね」

　赤城だけには話しておいた方がいいかもしれない。そんな考えが浮かんだ。戦艦や重巡の艦娘ならともかく赤城はずっと一航戦としてバディを組んできた仲だ。このままいきなりだと道理に反する気がした。

「私は、このまま控えにでも回ろうかと思っています……瑞鶴も翔鶴も素晴らしい空母艦娘ですから」

　赤城があっけにとられたように目を見開いていた。余裕を持って物事に臨む赤城にしては珍しい表情だ。見れば周りで聞いていた艦娘達も、呆けたような顔をしていた。今更何を言っているのか、言われなくても知っているよ。そんな声が聞こえてきそうだ。

「私のような鈍足でどこまで出来るか分かりませんが、出来れば瑞鶴を指導して、ゆくゆくは私と入れ替わってくれれば……」

「加賀さん」

　仮面がまた、外れかける。赤城の声を聴きながらも、私は言葉を重ねた。

「も、もちろん赤城さんにはご迷惑をおかけしてしまいます。ですが、彼女たちは新鋭で、この先第一艦隊を、赤城さんを支えてくれます。だから……」

「加賀！」

　耳元がしびれた。耳を抑えようとして手を伸ばしたが、その前に目の前の赤城が私の胸倉を掴んで引き寄せる。

　こんな彼女の顔を、私は見たことが無い。烈火のように真っ赤になった顔。そして興奮しているのか息を荒くついている。周りの艦娘もあまりに怒っている赤城を止められず、驚いたままの姿勢で固まっていた。

「……二度とそんな事を口にしないで」

　静かに、有無を言わせないような口調でそう言った。手が震える。心の中はパニックだったが、周りの目がある。仮面を付け直し、恐怖心を外に出さないようにした。

「赤城さん……」

「いいから！分かったって言いなさいよっ！」

　冷静に対処、出来ただろうか。目の前の彼女の顔に、私は戸惑ってしまう。

　いつもそうだ、赤城はわたしを持ち上げる。そうされたって少しも嬉しくない。だってそうじゃないか。誰が見たって赤城は艦隊旗艦の、私ですら憧れそうな魅力的な人で。私は自分が自覚してしまうほどのポンコツで。提督も、他の艦娘も分かっているはずなのに。私より瑞鶴の方がいいって知っているはずなのに。

　使い潰したいのなら、そう言ってくれれば割り切れるのに。期待させないでほしい。私は皆が思っている以上に、単純だ。

「……分かりました、二度と口にしません」

　仮面は、外れかかったままだった。

　苦しい。どうしたって苦しい。夜、私は赤城との共同部屋でそう感じた。消灯時間で、二段ベットの下からは赤城の寝息が聞こえる。

赤城は私を使い潰したいのだ、ツギハギだらけの私と違い、第一艦隊の旗艦の赤城はエリートだ。そんなエリートがそれ以外の理由で何故私なんかに構うのだ。

　決まっている。そうした方が都合が良いのだ。せいぜい多くの艦載機を放つことくらいしかとりえのない私が出来るのは、潰れるまで敵を屠ることだけ。そうして出来た死骸の山と私の残骸を横によけて、第一艦隊は進軍していくのだ。

「……死にたく……ありません」

　この呟きも、苦しさも、涙と同じように流し出せればいいのに、と思った。

　どうにも身に入らない。私自身のむらっけがあるからかもしれないが、大した戦果が残せていない。まいったな。

　今日も第二艦隊は大した戦果がないまま帰投。あるとするなら雀の涙程の燃料を拾ったというくらいだ。気まぐれな羅針盤は行きたいところだけに行ってくれない。

「うーん……仕方ないのか」

　第二艦隊の部屋で、旗艦を勤めていた五十鈴がどうにもならないように呟いた。艦娘学校では三期上にあたるから顔見知りだ。

「瑞鶴ももっと艦載機の錬度上がらない？今日も三回ミスってるし、あなたならもっとやれるでしょ？」

「……すみません」

「不貞腐れないの。今ならいいけど明日から苦労するわよ」

「といいますと？」

　ぴらりと書類を机の引き出しから出す。更紙だが命令書だった。

「どうも明日から一大作戦の開始らしいわ。あなたは明日から第一艦隊に転属よ」

　ぞわりと震えた。怖いからじゃない。赤城や加賀、金剛といった艦娘たちと共に第一艦隊を固められるのが誇らしすぎたからだ、武者震いとでも言おう。五十鈴に送り出されて第一艦隊の部屋に向かう。加賀は教官代わりにあれこれ教えてくれるからありがたい存在だし、赤城は社交的な性格だから、私自身この転属は有難いことだった。

「我が世の春が来たァァァッ！」

「わっ？五月蠅いわよ！さっさと行った行った！」

「合点！では失礼！うっふふふふ♪」

　鼻歌を歌いつつ私はスキップしながら敬礼をして執務室をでる。一大作戦に自分が選ばれたという名誉、その名誉をお世話になっている先輩方と共に味わえるという得難い機会。その時の私はハッキリと浮かれていた。

　第一艦隊の執務室では旗艦の赤城がにこやかに私を迎えた。横にはいつものように加賀がいたが、いつもよりも少し離れた場所で立っている。

「期待、しているわ。この作戦で、南方海域の制海権を確固たるものとします」

　どこか奥歯にものが挟まったような言い方で、対面的には笑っているのにどこか影があって私を歓迎しているようには見えない。控えている加賀も浮かない顔を浮かべていた。

（はははあ、これは）

　きっとまたくだらないことで喧嘩したのだろう。おやつのアイスを加賀が食べたとか、とっておきの羊羹を赤城が食べてしまったとか。全くいつもは仲がいいのに食べ物程度で喧嘩なんて案外可愛いところがあるものだ。

「はっ！空母瑞鶴、ご期待に応えます！」

「ええ、では加賀さん。作戦概要を説明してあげて。私は艦隊の行動計画を立てたいので一人にして下さい」

　加賀を見て、赤城が言った。加賀は少し遅れて返事を返した。

二人して執務室を出て、廊下を歩く。まだ昼下がりで、窓からは日が射していた。加賀の顔に陰が重なって表情が良く見えなかった。

「瑞鶴」

声がした。一瞬誰が声をかけてきたのか分からなかったが、それが加賀のものだと分かってぎょっとする。いつものように芯の一本通ったような声ではなく、ふやけたような声だった。

「は、はい」

　加賀が私の方を向いた。私は言葉を失った。加賀の顔にはくっきりとクマが浮かんでいた。元気がなさそうなのも合点がいく。

「あなたにとって、初めての作戦がこの一大作戦というのは大変だと思うけど、いつも通りやってくれれば、なんとかなると思います」

それだけ言うと、また前を向いた。おかしい、加賀の性格からして何とかなるなんて台詞は、まったくそぐわないものだ。

（なんだろう、この違和感）

　目の前を行く、教官代わりだった先輩が、酷く遠く見えた。

「心配されなくても大丈夫ですよ。私だってしっかり頑張ってるんですから」

　ガッツポーズまでして見せる。そうすると加賀は少しだけ微笑んだ。どきりとする。いつも無愛想な彼女が見せる微笑みが、凄く魅力的だった。

「頼もしいわ、頼むわね」

　加賀はそのまま食堂へ向かった。昼時だった。

　……嫌な天気だ。雲に覆われていて上空の視界が悪い。

　もっともよい戦闘日和というのは快晴と言われている。薄曇り、だからといって今日のような日は暗すぎて敵機を見つけづらい。どうせなら雨でも―――と思って内心首を振る。それでは発艦が困難だ。視界が悪いのは艦艇にはよくても搭乗員の妖精にしたら地獄だ。

　南方方面に向かい、艦隊は進んでいく。単従陣をとり、旗艦の赤城が先頭、次点に私、それに瑞鶴、金剛、北上大井の重雷装艦が続く。今回の作戦では私たちの鎮守府以外にも多数の艦艇が参加しているようだ。彼女たちとも密に連絡を取り合って進んでいく。

「私、吹雪さんの代わりにこの艦隊に配属されたんですよね」

「そうよ、いま彼女は別の艦隊を率いて作戦行動中らしいけど」

　全艦艇の中でも、指折りの錬度を持つ吹雪は私の同期生だ。徴兵されたときの年齢は違うが瑞鶴からすれば大分先輩なのは間違いない。

「あまり気負う必要ないわ。やるべきことをする。それだけで十分よ」

「は、はい」

　本当はもっと喋って、緊張を緩めたかった。真一文字に結んだ唇は集中しているというよりも緊張している証拠なのだ。何故だか周りは集中と受け取っているが。

　前を行く赤城は遠くを見通していて、何を考えているのだか分からない。あれ以来、赤城とは話していない。話しかけようとしても赤城はこちらを向いてはくれない。寂しかったが、仕方がない。分からない話ではない。情が湧いたら、使い捨てづらいのだろう。会敵予想地点は間近だった。誰もがしっかりと自分の艤装をチェックし、艦載機の矢をつがえていく。

「加賀さん、索敵機、お願いね」

「はい」

　彩雲という索敵機を飛ばす。これで会敵がどこで、敵艦隊がどのくらいの規模かを確認できる。

「加賀さん」

　索敵機を飛ばして、しばらく経った時だ。私が直掩の制空隊を飛ばそうとしていた時、同じく艦攻隊を用意していた赤城が隣から話しかけてきた。

「なんですか」

　平静を装って話す。嫌になる。自分のすべてを、横で艦爆隊の用意をしている瑞鶴のようにさらけ出せたならどんなにか楽だろうか。そう出来たら、もっと自分が好きになれるのかもしれない。

「この作戦後に話したいことがあります、いいですね」

「……いいですけど、このタイミングで言ったらフラグにしか聞こえませんね」

「関係ありません。加賀さんも私も、この艦隊全員が栄光の第一艦隊です。磯臭いヘドロじみた深海棲艦なんかに負けたりしませんよ」

　随分口さがない言い方に、つい吹き出しそうになる。赤城はこんな言い方を滅多にしない人だったが、真っ直ぐに前を向いていて、茶化すために言ったわけではないようだった。

「分かりました……敵の艦隊を発見。数が……っ！」

　背筋が凍る。そして凍った背筋にムカデが這い回るような感覚だった。

「加賀さん？」

「……敵艦隊は戦艦タ級三、空母ヲ級二、駆逐ロ級一、全艦がEliteです」

　赤城の顔が一瞬呆けかけたが、すぐに気を取り直したらしい。戦闘準備を下命し、本人も艦攻隊を発艦させる。続いて瑞鶴も艦爆隊を発艦させていた。加賀は直掩機を出した。

「……偵察機が撃墜されました。敵も艦載機を発艦させた模様」

「全員対空戦闘用意！」

　タ級との会敵より、艦載機の方が早いと判断したのだろう、赤城がそう命令を下す。的確な判断だ。私の偵察機が落とされたのは悲しいが、悲しんでいる暇もない。位置からして何分もしない内にやってくるはずだ。

　対空戦闘となれば、制空隊を率いる私が一番重要だ。艦攻隊を率い、艦載機の指揮の責任を負う旗艦の赤城、艦爆隊で敵を爆撃し、黒煙を蒸かさせ目標を明確にさせる瑞鶴。

　そのふたりからすれば、制空隊を率いる私の役目はややもすれば地味に映る。しかし決して気を緩めるわけにはいかない。特に直上からの急降下爆撃には要注意だ。

「敵機発見！数は五〇以上！」

　瑞鶴が叫んだ。指をさして示す方向は艦隊の左舷だった。曇天に、ゴマをまいたような影がある。まだ直接の機種は分からない。しかし見つけた以上、制空隊に命令を下した。

「左舷、距離六〇〇！制空隊、攻撃開始！」

　発動機をうならせて、制空隊の駆る烈風が敵機に向かっていく。それでも全機を向かわせることは出来ない。万が一、雲に切れ目でも出来たなら、そこから爆撃隊が来る。それが、一番怖い。

　ゴマ粒がばらけていく。そのゴマ粒の隙間を縫って、赤城が率いる艦攻隊、瑞鶴の率いる艦爆隊が向かっていく。その援護にも、何機かの直掩気がついていった。

「全機撃墜とは行きません。対空砲火もよろしくお願いします」

　私の制空隊は、これだけは私の劣等感を払しょくしてくれる存在で、数も多い。それでも何機かはかいくぐって艦隊まで来てしまう。

「了解デース。三式弾の用意はばっちりヨー」

「へいへい……対空は苦手なんだよねえ」

「北上さん、私の後ろにどうぞ。お守りいたします」

　金剛、北上、大井、といった第一艦隊の僚艦たちは様々な反応をしながらも、対空戦闘の用意をする。本当は利根や吹雪といったメンバーもいるのだが、艦隊は六人で構成されるので、八人いる第一艦隊の同僚たちはローテーションを取っている。

　この三人は、砲撃雷撃ならこの上なく頼りになるのだが、こと対空となるとどうにも頼りない。金剛は三式弾の装備はあるが、本分は蠅叩きではなく戦艦を撃沈させることだし、北上大井はそれこそ対艦攻撃のスペシャリストだ。彼女らの魚雷に屠られた深海棲艦は十や二十ではきかない。それだけに対空戦闘には疎かった。

　私は、対空戦闘を始めたその三人を尻目に、瑞鶴の元に向かう。指揮中だから目を離すわけにはいかないが、それでも対空は先の三人に比べればよほどましだ。

　瑞鶴は気の毒なほどに緊張していた。よくぞ発艦させられたものだ。震えていたが、それをみっともないとは思えない。

「大丈夫？」

「だだだ、大丈夫ですよ。敵の艦載機が来ても私にはこの噴進砲があり、ありまし、すから」

「むちゃくちゃね……」

　まるで七面鳥のように顔色をコロコロ変える瑞鶴を見て、少しだけ落ち着く。考えてみれば瑞鶴は初の実戦なのだ。緊張して当たり前である。

「しっかりしなさい。そのうちあなたも先輩になるのよ。その先輩が不安そうだったら後輩は嫌がるわよ」

「は、はい」

　実戦こそが最大の鍛錬だ。私の後任を任せるにしても、よほどの下手くそだと、私のちっぽけなプライドに関わる。

「まあ、いいわ。いい？今来ている三機の雷撃機。あれを落としなさい」

「うええっ！？ちょ、ちょっと、加賀さん！」

　返事はせずに任せる。こっちだって育成したいが、制空隊の面倒を見なくてはならない。

　制空隊は一進一退を繰り返している。ただ、どうしても機数が負けてしまっている。圧倒的な量に質で補うとはいえ、限度があった。

「対空砲火、開始！」

　赤城のその一言で、耳を覆いたくなる破裂音が辺りをつつんだ。対空機銃、噴進砲、三式弾。火花が空を覆っていく。曇天の空が明るくなった。

「わ、わ、わ」

　瑞鶴が転びそうになりながら噴進砲を撃ちつける。ついつい笑いそうになった。が―――

　上から、やはりやってきた。直上からの急降下。私はそれに落ち着いて対処する。はじめから空中で直掩隊を待機させたのはこの時の為だ。

「敵機直上！赤城さん、面舵！」

　私の声は届いたらしい。すぐに面舵を取り、爆撃をよける。敵機が慌てて機首を起こすが、減速を恐れてか、見当違いの場所に爆弾が落ちる。

「助かりました、装備換装を急がせてはいるのですが……やはり慢心はダメですね」

「本当、お願いしますよ」

　苦笑いしながら、赤城が近づく。私はともかく、赤城が損傷でもしたら士気にかかわる。

「どうやら第一波は退けたようですね……」

　襲撃にも切れ目がある。ここでようやく小休止とばかりに飛び立っていった艦載機が戻ってきた。すぐそこで艦隊防空をしていた制空隊は殆ど無傷だったが、艦爆艦攻隊についていった直掩機にはやはり未帰還機が多かった。

　仕方がないことだが、直接の敵機との戦闘ならともかく、対空射撃には対抗策がない。せいぜい動いて当たらない事を祈るだけだ。

　還ってくる艦爆隊も艦攻隊もボロボロだ。中には赤城や瑞鶴まであと少しというところで海面に突っ込んでしまう機体もあった。それでも確認したら戦果は撃沈確実一隻、大破ないし中破二隻と十分なものだった。

「上々ね。加賀さん、第二時攻撃隊の発艦を急がせます、直掩機を」

「了解、ヨ―ソロー」

　収容した烈風を整備し、また発艦させる準備を急がせる。

　ふと傍らを見た。唇を青紫色にした瑞鶴が、葉を鳴らしながら、上空を見つめていた。

「瑞鶴？どうし……っ！」

　目を疑った。上空から、直掩隊の帰還を狙ったのだろう。深海棲艦の艦爆隊が木の葉のように腹を翻し、重力の力も味方させて急降下を始めていた。

　どうしてだ、しっかりと準備していたというのに。私はまた、繰り返してしまうのか。

「直上！」

　赤城も首を上げた、艦隊は先頭を行く彼女が動かなければ動かない。蒼白な顔面だったが、責任感からか、声を上げた。

「全艦面舵！」

　だが、遅い。水柱が上がり、爆弾が爆発する。

　悪運の強さだろうか、空母は発艦困難となる中破になった艦娘はいなかった。私が至近弾、瑞鶴も小破程度で航行には支障のない損傷だ。赤城も無傷で、私は胸をなでおろす。

　しかし随伴の三人はそうではなかった、金剛が中破、北上と大井に至っては魚雷発射管を粉々に砕かれる大損害で、戦闘続行は不可能なほどの大破だった。

「……こういう事も、あるよねえ」

「くっ……海の藻屑が調子に乗って……」

　大破の二人は、それでも機関には影響がないらしい。それでも、戦闘海域に置くには危険すぎる。私は赤城に近づき、話しかける。

「赤城さん、撤退を進言します」

「……もう少しで他の艦隊と合流できる海域です、せめて私達空母だけでも」

　赤城は悔しげに顔をしかめた。自分が無傷なのが歯がゆいのだろうか。しかし敵に戦艦がいる以上、この戦力で相対するのは無謀だ。先ほどの戦闘中もこちらに進路を取っていたならば、会敵はそう遠くない。

「敵艦隊もそろそろ来ますし、この戦力では片手落ちです。今この時間にも艦隊は来ますし、タ級にヲ級、合わせて五隻という編成からしても、相対している艦隊が主力と見て間違いありません」

　話しているうちに口の中がかさかさになる感覚があった。敵主力艦隊と相対しているという事実が私にのしかかる。それでも、二番艦として、純然たる事実と、建設的な意見を述べなくてはならない。

「敵の主力艦隊を引き付けるという任務は果たしています、それだけでも十分です」

「……」

　赤城は、何も言わなかった。しかし事実を咀嚼するに連れて、顔が険しくなる。

「……敵戦艦の射程外に逃れて、第二次攻撃隊を発艦させます。およそ六〇海里後退し、敵を撃滅させます」

　前進か後退か、赤城が取ったのは折衷案だった。悪い案ではないがどっちつかずなのが気にかかった。

　初めての戦闘でアドレナリンがダバダバ出てたのは間違いない。痛みに弱いとよく言われる私が小破にも気づかなかったし、加賀に言われた通りの雷撃機三機撃墜も出来たのだから。

　でもそれは、敵の攻撃があって水しぶきでぐしょぬれになるまでだった。攻撃を受けた場所はジクジクと痛み、敵の攻撃がどこから来るのか分からず怖くなった。

　これが実戦、なんだ。

　加賀はそんな中でもいつもと同じような能面ヅラだ。正直化け物だと思う、赤城も加賀も頼もしさを通り越して、怖い。

　幸運艦は伊達じゃない。現に第一艦隊の三人が大破中破しているのに、私は小破で済んでいるし、赤城や加賀も無事だ。

　そんな中、異変は折衷案で後退している最中に起こった。

　目の前を走っていた加賀が、突然落伍し始めた。私の横をよぎり、金剛、北上、大井に抜かれていく。私を含めた全員が、怪訝な表情をしていた。

「加賀さん？」

　赤城が私に先頭を任せて、落伍した加賀の元に向かった。艦隊は止まる。

「機関部損傷！？……何ノットなら航行できますか？」

　それだけが私の耳に届いた。北上がいつもの飄々とした顔を崩し、大井も心配げな顔をする。

　赤城もだ、いつもの柔らかい微笑みを湛えた顔は歪み、決断を迫られた旗艦の顔をしていた。変わらないのは加賀の能面ヅラくらいだった。

　加賀は赤城にだけ聞こえるような小さな声で話していた。私には聞こえない。しかし、何を言ったのかはわかった。赤城の顔色が変わったからだ。

加賀は遅くても航行していたから、止まっていた艦隊に追いついていた。

「ですから」

　加賀が言葉を紡ぐ。

「私が殿をします。どちらにしても私に合わせるとそのうちに追いつかれます」

「だからって置いて行けるわけないでしょう！どうやって勝つつもりですか！」

　赤城が必死な形相で、加賀を説得していた。周りにも聞こえたのだろう、みんなぎょっとした顔になる。もちろん私もだ。

　加賀が殿、そして敵戦艦が少なくとも二隻はのこっているだろう状況下で、たった一人の殿。それが指すのは、まさに捨て固まりだ。そもそも鈍足の加賀は、今や動いているのか分からない程の速度で移動していた。

「空を見てください。もう少しで雨です。それなら視界が途切れますので、安心ですよ」

「降るって決まってるわけじゃない！曳航、曳航します。瑞鶴、手伝って！」

「瑞鶴、私の代わりに二番艦を勤めなさい」

「ちょ、ちょっと……」

　こんなに取り乱す赤城を見るのは初めてだ。長い黒髪を振り回して絶叫している。金剛に北上、大井も周りを囲んでなだめようとする。

「早く、二番艦に回って……」

「違う！曳航だ！曳航！瑞鶴、用意して！」

「で、ですが……」

　どっちのいう事を聞けばいいのだ。直属の上官の加賀か、それとも旗艦の赤城か。

　決まっている、赤城だ。私だって加賀を捨て置くなんて嫌に決まっている。

「赤城さん、あなた艦隊旗艦でしょう。私ひとりに構ってて艦隊を危険にさらす気ですか」

「五月蠅い！あなたを失う訳にはいかないんです！」

「瑞鶴、二番艦に着きなさい」

「私の話を聞きなさい！加賀！」

　もはやばらばらだ。他の三人は意見を待つみたいにどこ吹く風だし、私を助けてはくれない。

　すぐそこまで迫った深海棲艦、そして加賀は動けない。かといって構っていたら追いつかれて終わり……私は声を発した。

「了解……二番艦に就きます」

「瑞鶴！」

　赤城が悲鳴のような声を上げるが、加賀は微笑んだ。初めて見る、はっきりとわかる加賀の笑み。

「正解。これで私の指導は終わり、後はよろしく頼むわ」

「加賀さん！何を……」

「こっちに来なさい、瑞鶴。御褒美を上げます」

　私を呼び寄せる。加賀は何かを渡した。

　それは烈風だった。加賀の自慢の艦載機、この国の空を護り続けたものだった。

「まあ……あなたなら、使いこなせるはずです。さ、早く」

　それだけ言うと、振り向いて艦隊とは正反対のほうへと向かっていく。

　赤城が、加賀の方へと向かっていった。それを私と金剛で止める。

「嫌だ！加賀さん、待って！」

「赤城さん、止めてください！」

　流石に空母の私と、戦艦の金剛が二人がかりでは抵抗できない、いやいやとするように首を振り、腕を振り回すが無駄な抵抗だ。

「こんなの……こんなの、認めません！旗艦は私です！私の言う事を聞きなさい！」

「艦載機の指揮権は私がもらいましょう。撤退の指揮は金剛に移譲します」

　断定的に、静かな声で加賀は命令を発した。赤城が旗艦なのに、加賀が指揮を執っているようだった。

「嫌だ！嫌だァ！加賀さっ、加賀さん！」

「残念ですが……」

　それだけだった。敬礼をし、亀の歩むようなスピードで加賀は艦隊を離れた。私はそっちを見ずに、赤城の腕を掴んで前に進んだ。

　初めて自分に素直になれた気がした。自分の居場所なんて、これが正当だ。

　赤城はあれだけの醜態を晒して大丈夫だろうか、いや心配ないだろう。ご飯でも食べれば、私の事など忘却のかなただ。

　捨石。なんて自分らしいものだろう。鈍足の私らしい最期だ。

　そこまでは考える事が出来た。一人で立つ水面はどうにも寂しいが、気楽だった。手元にある艦載機は大した数が居ない。もっともたくさんいた制空隊の烈風は瑞鶴に移譲したし、ゼロ戦隊しか手元にはなかった。

　手が震えた。弓を構える手も、どうしようもなく震えた。歯が鳴る。

　怖がるな、後悔してももう遅い。良いのだ、私が居なくなっても、瑞鶴が居る、翔鶴がいる。赤城も健在だ。私が居なくなったから、困ることは何一つない。たった一つの誇りだった烈風も渡した。

　たった一つだけ、悔いる。初めての正規空母の後輩だった瑞鶴の成長を見ることが出来ないのが惜しかった。

　敵機が見えた。第二次攻撃隊だった、艦爆隊艦攻隊、せめてもの抵抗で、指揮を執る。

　何機か撃墜したが、焼け石に水だ。ゴマ粒のような敵機は近づいて、機関損傷で動けない私に爆撃し、雷撃する。訓練の目標艦よりも大人しい私は良い的だった。引き裂くような痛みに顔を歪める。それでも、私はこうして揺さぶられるしかない。後ろには一機も通さない。それだけに集中していた。

　水柱が上がる。ついにきた。敵艦隊の中核を為す戦艦。それも二隻。砲弾が近くに落ちる。

　私には艦爆隊も艦攻隊もない。つまり、あの二隻に対する対抗手段がないのだ。

　それでも、私は捨石としての任務を果たさなければならない。二隻をあえて無視し、敵機の撃墜に集中する。

　もうすぐ、雨が降りそうだった。そうすれば驟雨に紛れて撤退が出来るかもしれない。わらよりも細い希望に、私は縋った。

　狂乱、赤城の様子はそんな言葉がぴったりだった。六十海里下がってアウトレンジをする予定は木端微塵になり、艦隊が母港へ引き下がると、赤城はすぐさま用意を始めた。補給も整備もなしに、だ。

「馬鹿者！何をやっておるのじゃ！」

「補給、補給して！」

「赤城先輩落ち着いて！」

　第一艦隊の利根、北上、吹雪が必死に赤城を止める。利根がうしろから羽交い絞めにし、北上が説得、吹雪も赤城の腕をとっての止めようだが、赤城は衣にも解さないように前に進もうとする。

「離しなさい！行かなきゃならないんですよ！早く行かなきゃ加賀さんが……」

「いくって……もう夜ですよ！」

　必死の形相で吹雪が止める。私達空母は夜には全くの役立たずだ。それでも、赤城の気持ちは痛いほどよく分かった。私だって救えるモノなら救いたい、加賀の存在はそれほどまでに大きなものだ。

「吹雪……さん」

　ついつい呼び捨てにしかけたが、吹雪に話しかける。吹雪の方も私が正規空母だからかやや遠慮気味に、こちらを向いた。

「駆逐隊で、夜間の捜索艦隊を出せない？他の鎮守府からの報告ではあそこらはもう敵艦隊も引いたそうだし」

「……行けなくも、ないですね。分かりました。すぐに編成して向かいます。全速でね」

「私も」

「赤城さんは補給！行った行った！」

　恨めしそうな目を私に向けるが、知ったこっちゃない。どちらにしても赤城の出来ることはこれっぽっちもないのだから、大人しく飯でも食っててもらおう。

　駆逐隊が戻ってきたのは夜明けすぎだった。急の出撃お疲れ様だが、労う前に確認しなくてはならなかった。

「加賀さんはっ！？」

　赤城が鬼のような形相で、吹雪の両肩をつかんだ。

「……探しましたが、どこにも姿はありませんでした。その代りに、これが……」

　駆逐隊を率いていた吹雪が赤城に何かを渡す。その表情は俯いていて見えなかった。

　赤城が手渡されたのは空母艦娘の命とも言える航空甲板を模した腕当てだった。真っ二つに真ん中から割れて、半分になっていた。加賀の名前が彫ってあった。

　私は息をのむ、傍らの赤城は―――その甲板を慈しむように撫でていた。

「うそ、ですよね……加賀さんは……」

　その顔は、怖いくらいに穏やかだった。

「また海域を探したいのですが、明日から大荒れで……」

　吹雪は無念そうにそう言った。

　絞り出すような声が横から聞こえる。赤城が腕当てを抱え込むように崩れ落ちた。

　慟哭だった。赤城だけではなく、第一艦隊のメンバーのものも混じり、部屋に嗚咽を充満させた。それは一番付き合いの浅い私でも理解が出来た感情だった。

　二番艦とはいえ加賀は間違いなく第一艦隊の大黒柱だった。誰もが彼女に頼っていた。旗艦の赤城ですら、加賀を信頼し作戦の意見を全面的に採用したくらいだ。

　加賀は表情を全く変えない、お地蔵さんのような存在だったが、安心感を与えてくれるような包容力に長けた人だった。

「うわあああああああ！！！！」

　誰もが、頭を抱え、瞼から涙を流した。加賀という、大きな柱が無くなった。そう思った。

　やはり、私は悪運強いらしい。つくづくそう思う。南方特有のスコールのおかげで深海棲艦の追撃を振り切ることが出来た。

　しかし、その強い悪運もそろそろ種切れらしい。スコールで私も自分がどこにいるのか分からない。どこへ向かったものか分からず、取りあえずスコールがやむまで投錨し、その場にとどまる。

　赤城は無事だっただろうか、深海棲艦との戦闘中命中した砲弾のせいで腕当てを落としたし、中破したせいで艦載機の矢も無くしてしまった。

　やけくそ気味だったのだろう。どうせなくても構うまいと弓まで投げ捨て、そのまま逃げた。これが万が一帰投したときどんな扱いになるのかが怖くなったのは、取りあえず安全が確保されてからの事だった。

「……」

　スコールが止んで深夜になり、私は目の前にあった島に座礁した。疲れから砂浜に寝転ぶ。ざらざらとした感触がほほに当たり、何時間かぶりの揺れない地面を満喫した。

　気が付くと、陽が高く上っていた。快晴だ。眠ってしまっていたのだろう。喉が酷く乾き、水が欲しくなる。立ち上がろうとしてよろけるが、何とか気を取り直して、砂浜から南方産の木が生い茂る森へと歩を進めた。

　森の中には粗いとはいえ道があった。この海域は制海権が安定しないからか基地をつくろうにもつくれないと聞いていたが、この島は別だったようだ。少し進んだ先にはあばら家のような小屋があった。

　日本語だ、つまりここは友軍の基地―――嬉しかったが、荒れようからして人はいなく、中に入ってもほこりまみれだった。随分と人が入っていないようだ。

「……通信機も壊れているわね……」

　当然か。機密書類と通信機は真っ先に処分される。幸い寝台は壊されていなかった。

「……先に喉をうるおさないと」

　声がかすれる。喉の渇きはそろそろ限界だ。潮風にさらされ続けた喉は痛いほど乾燥していた。

　あっけないほど、その問題は解決した。すぐそこに川があった。泥もなく、珍しいほどの清流だ。井戸代わりにしていたらしい。夢中で顔をうずめ水を飲む、甘露のような味がした。

　水を飲み、一息ついてようやく今の状況を整理できるだけの余裕ができた。先ほど見たあばら家は哨戒基地のようだ。日誌もなく、書類もないからいつから人がいないのかは分からない。

「艤装の点検……はいいか。壊れているし」

　機関部はもはやどうしようもないほどに壊れていた。それを捨てる。そこまでやって安心したのだろう、眠くなった私は哨戒基地の中に入り寝台で横になった。

　鎮守府はお通夜だ。しばらくこんな雰囲気がつづくのだろう。無理もないか、今まで艦娘が沈んだという事が無いせいで皆、この状況に戸惑いを感じている。皆が食事時に席に着くときが最も顕著だ。一斉に箸をとる艦娘の中に、いるべき人がいない。加賀の席だけが空席だった。

　それでも、私や赤城や翔鶴姉は彼女の席を片づけることをしない。ひょっこり帰って来てくれるんじゃないか、そしてまた青二才の私を窘めて、赤城の補佐をしてくれるんじゃないか。そんな事ばかりを、考えてしまう。

「瑞鶴」

　体面に座っていた赤城が、私に話しかける。何日も泣いた彼女の目は腫れぼったくなっていた。

「あなたは正式に第一艦隊のメンバーになります。加賀さんの後釜として……頑張って下さい」

　後釜、の後の言葉が出るまで赤城は苦悩したようだ。それでもその苦悩を一拍の時間で済ます彼女は、やはり強いのだろう。

「……了解です」

　そう言う私だって、まだ割り切れていない。もっともっと習いたかった。教えてほしいことがたくさんあった。どうして私は、もっと加賀に教えてほしいと言えなかったのだろう。そう悔やんでも、もう遅いのだ。

「良い子ね……明日からまた攻勢を仕掛けます。だから今日は酒保にでも行きなさい」

　多分、いけない。行ったら酒浸りになるのが目に見えている。赤城も同じなのだろう。いつも多めに食べる赤城が、ひどく少ない食事量で済ますのを見て、そう思った。

　結局遊ぼうにも、遊ぶ気が無いとどうしようもない。加賀が居なくなってもう一週間たつというのに、未だにこんな鬱屈とした空気が漂うのは耐えられない。

　私は弓道場に居た。静謐とした環境が欲しかったのだ。ここに来ると加賀を思い出してしまうから心苦しいのに、それでも来たくなる。

―――力まないの、リラックス。

　加賀の声が聞こえた気がして、振り返る。誰もいないのに。

「ははは……私も結構、きてるのね……」

　そう笑って、悲しくなる。

　親しいと言えるほど一緒にいたわけじゃないのに、彼女がいないだけで、こんなに自分の気持ちがざわつくなんて思いもよらなかった。

　いや、違う。鎮守府全体が、私が帰還し加賀が居なかったとき、不審な目を向けていた。

　いっその事私が残ってれば良かったのかもしれない。そうすれば加賀だって帰れたのかもしれないのに。針の筵だった。

　慣れるとここの生活も悪くはない。自生している木の実で空腹をゴマかすことが出来るし、水もある。服も粗末な甚平のようなものが何枚かあったため、衣食住の苦労はない。

「でも……いつまでも居たくはないわね」

　救難信号の一つでも出せればいいのだが、懐中電灯は電池切れだったし火をおこすことも出来ない。せいぜい友軍の艦艇が来た時に声でも手旗信号でもしてみるのが精一杯だろう。制海権の奪いあいをしているこの海域でそんな悠長な事が出来るようになるまで、どのくらいかかるかわからないが。

「どうしようもないわね……天に運を任せるという奴かしら」

　それでも、ここがややもすれば鎮守府よりも居心地がいいのは、やはり私の小さなプライドを刺激する存在がいないからだろう。カリスマ性に秀でる赤城も、天才の瑞鶴もいない。比較対象となる存在が無いだけで、こんなにも気楽になれるのだ。

　遠くで爆音がし、光が上がる。交戦している。それでも、それを見て、私がその場に入ることが出来るとは思えなかった。

　交戦は夕方まで続いていた。ずっと見ていたかったが、どうせ爆音と光、それに砲撃の音が散発的に聞こえるだけだ。

艤装の一部と言われていた弓道着を破ってタオル代わりにして川で水浴びをし、木の実を集めてそれを歯ごたえも味もなくなるまで咀嚼して空腹を誤魔化す。今なら私は駆逐艦並の低コストだ。

夕方、水平線の向こうに黒煙が何本か立ち上っているのが見えた。あの煙の下に、見知った戦友たちがいない事を祈りつつ、私は浜で座り込んでいた。

第一艦隊は、今もどこかで戦っているのだろうか。私は忘れ去られていても、あの艦隊を私は忘れない。片思いじみた考えだが、あの艦隊に私の籍はない。やっと私という足手纏いの枷を無くし、瑞鶴という天才を入れた事でようやく機能しているのだ。

考えるな、忘れろ。今は命をつなぐことだけを考えるべきだった。

　最後の戦艦を夜戦で仕留めたのは、超近距離まで近づいた北上の雷撃だった。南方海域の制海権を握っていた深海棲艦の親玉を屠ったのは、私でも赤城でもなかった。

　仇、取りたかったな。

　そう考えて、馬鹿言うなと自分を諌める。艦隊で考えれば仇をとれているのだ。

「敵の艦隊の撃滅を確認……帰還しましょう」

　私はそう言うのに、赤城はそこから動かない。

「……先に帰っててくれませんか。加賀さんを探したくて」

「赤城さん」

　諌めるように、きつい声を出す。それでも意に介さず赤城は言葉を重ねた。

「瑞鶴、旗艦について。私の事、気にしなくていいから」

「帰りますよ」

　この言葉を出すのに、苦労した。そしてその後も。

「加賀さんは沈んだんです。探したっていませんよ」

　言った後、後悔した。艦隊の空気がぴしりと堅くなる。私も、皆も、認めたくない現実だったのだ。加賀が沈んだという事を。もう二度と戻ってくれない事を。

　しかし、いつかは認め、突きつけられなくてはならない。私たちは、第一艦隊なんだ。この海域を制圧したなら、他の海域の攻勢に向かわなくてはならないのだ。

　赤城が、怒りのこもった目をこちらに向けた。

「あんたに何が分かるってのよ……」

　肩を掴まれる。爪を立てられて、顔が思わず歪む。

「ずっと一緒にやってきた仲間が！沈みました、はいそうですか、で納得いくと思ってるの！？出来るわけないでしょうが！？」

　大声だった。いつでも余裕を見せて、冷静だった赤城の、まぎれもない怒りが私にぶち当たる。

「じゃあどうすればいいんですか！」

　私も、売り言葉に買い言葉と声を荒げる。それが何にもならない事は承知の上だ。それでも感情的になって茹った頭を冷やせない。

「深海から引き揚げろって言うんですか！諦めなきゃならない時もあるんですよ、なんでそれを分かってくれないんですか！」

「この……っ！」

　赤城の拳が振りあがって、私の頬を殴りつける。睨み返すが、怯みもせず、もう一発殴られた。

　一発だけなら、黙って受けようと思っていた。私だって加賀を見捨てた張本人という罪悪感がある。しかし二発目を受ける理由なんてない。私は赤城の奥襟を取って膝を腹に打ち付ける。

　ぐふ、とくぐもった声がして、赤城の身体がくの字に折れた。そこまでやって、ようやく金剛と北上が私を止めた。

「そこまで、です。瑞鶴さん、赤城先輩」

　仲介、とばかりに私と赤城の間に吹雪が入った。整った顔が険しく歪む。そしてその後におなかを抑えてしゃがみこんでいる赤城に、視線を合わせようとして吹雪もしゃがんだ。

「赤城先輩。私も瑞鶴さんに賛成です。状況から見て、加賀さんは轟沈ないし大破炎上後に沈んだと考えるのがふつうです」

「嘘よ！」

　頽れながらも、赤城はそう叫んだ。クマの濃くなった目の下に、充血気味の目をした彼女は一目で相当疲れている事が見て取れた。

　吹雪は辛そうに、それでも淡々と事実であろう事を述べていく。考えてみれば、吹雪だって辛くないはずはない。加賀の腕当てを見つけたのは彼女だったのだし、年齢に差はあるとはいえ同期で艦娘になった関係だ。それでも悲しみを、私のような後輩に悟らせまいと押し隠している。

「誰に迷惑をかけているわけでもないでしょう！勝手にさせてください！」

「かけてます。赤城先輩は艦隊旗艦ですから、私たちを指揮してくれなきゃいけない立場なんです。赤城先輩、お願いします」

　吹雪はそういって頭を下げた。赤城は泣きそうな顔をしていた。

「あなた、運良い人。これ違いないね」

　私に水を渡した浅黒い女性は、片言の日本語でそう言った。

　運がいい。確かにそれは間違いない。貨物船の医務室でベットに下半身を置き、座った私は水を飲みほす。

　浜に座っていた私が、とおりすがった貨物船に拾われたのは全くの偶然だった。

「私たち、いつもあそこ通らないよ。それが通る。ルックアトディスザアイランド、あなた居た。これ大変運いい事ね」

「どうも……」

　如何せんいつもと違って、彼女らはとても突っ込んで話す。私の不愛想な態度などお構いなしだ。英語はサッパリだが、目の前の彼女もそこまで得意じゃないのか、時折口元をモゴつかせて言葉を探していた。

「あなた艦娘ネ。私の国、艦娘凄い言われてルヨ。海、怖いのいる。怖イの、船襲うネ。艦娘、怖いのやつけた。私達助かる。だから、助けた」

「ありがとう……」

「この海も、行く来る出来る、艦娘お蔭ネ。前までオシノギ、出来ないかた。それ出来る、オシノギしてマネーくれる。皆ハッピーね」

「そう」

　言葉少なに返すしかない。浅黒い肌にひっつめにした髪型をした女性は、私よりか年嵩だったがよく喋った。自分の出身、出自。それだけじゃなく、この貨物船の目的、行先。私以外同年代の同性がいないからか、医務室から出ていったとしても、少しすれば帰って来て私に笑いかけた。

「運良い人、なんでアイランド居たネ？」

「……恥ずかしいけど、負けて逃げたの」

　見知らぬ人だからか、この航海が終わればもう二度と会う事もないだろう気安さもあって口が軽くなった。

「恥ずかし？ホワイ？」

「……他にも艦娘が居たのだけど足手纏いになっててね……見捨ててくれって言ったの」

「リアリィ？皆それ、リョカイしたか？」

　彼女の片言は早口なので、時折つんのめりそうになる。私は、思い出しながら話した。

「……分かってくれたわ。私が提案したのだし」

「あなた自殺好きネ？もたいないよ」

　突き刺さるような言葉だった。私を見降ろす彼女の目が怖かった。

「私、艦娘知らないネ。バット、あなた今普通ネ」

　艤装が無くては、艦娘はただの人間だ。不老という副作用がある以外は、だが。

「皆、寂しはずよ。あなた置いてく、怖いの、あなた殺す、皆悲しい。友達死ぬ、これやな事に違いないネ」

「そう……ね」

　多分違うだろうけど、とは心の中だけで言っておいた。彼女の疑心を増やしたくはない。

　それでも、その言葉が心のどこかに、引っかかったのは確かだった。見知らぬ女性が、全く公平な意見を言ってくれたからかもしれない。

　翌日、貨物船は港に入港した。

「あなた、仲間のトコ帰るネ。仲間生きてる、これ分かる嬉しい事ヨ」

　そう言って、彼女は自分の仲間がいるであろう貨物船へと戻っていった。

　成程、偶然とは恐ろしい。たまたま入港した港の街が、私の鎮守府の最寄だった。随分な偶然だが、私が孤島から帰ってくる確率よりは高いだろう。

「もう忘れられているでしょうけど……」

　―――仲間生きてる、これ分かる嬉しい事ヨ。

　女性の言葉が、頭をよぎった。そうだ、せめて生死くらいは明確にしなくては、あれこれ文句が出るかもしれない。幽霊扱いになっているかもしれないが、それでもいい。

　私は、鎮守府行きのバスに乗り込んだ。

　

　バスは海沿いの道を行き、一時間ほどで鎮守府前のバス停に着いた。

　久々に見る鎮守府の正門は荘厳に見えて、私を入れるのを拒んでいるように見えた。入り辛いな……やっぱりやめようか、そんな風に逡巡して、周りをウロウロする。

　やはり、今日は止めておこう。せめて気持ちを落ち着かせたい。また街に戻って、お酒でも飲んで美味しいものでも食べてから、改めて考えればいい。

　結局、私は何を怖がっているのかも理解できていないのかもしれない。いや、違う。

　いらないと、面と向かっていってくれたら楽だった。しかし、そう言われるのも私は嫌だったのだ。突きつけられてしまえば、また私は消え入りたくなる。頭がこんがらがった。つまるところ、私は何がしたいのだろう。

　バス停で、私は舌打ちする。次のバスまで時間が空いている。私はベンチがあったから寝ることにした。

　ベンチに座って、一息ついた時、目の前に人が居た。見慣れた、見慣れた顔が目を見開いて、持っていた手提げ袋を落としていた。

　瑞鶴。

　幸運艦にしては、最近貧乏くじを引かされ気味だと思う。赤城はあれ以来口をきいてはくれないし、第一艦隊全体にぎすぎすとした雰囲気が漂っている。

　当然か。私を含めて、個性の強いメンツの集まりだ。誰も彼もが自分の思い思いにものを言うせいで作戦がちっとも纏まらない。本来なら赤城がまとめなくてはならないが、その艦隊旗艦は自信が無さげに虚空を見つめ、視線をうろつかせるだけで判断を明確にしてくれない。

　やはり、加賀の存在は大きかったみたいだ。私自身香加賀との作戦行動はあの一回のみで、確信があるわけではないのだが。それでも、何かが欠けているのは分かる。赤城のうろつく視線は、加賀を探すものなのかもしれない。

「お使い……？なんか買うの？翔鶴姉」

「ええ、ちょっと頼みたいの。私これから哨戒だから……」

　同室の翔鶴姉が困ったように笑って、そう頼んできた。翔鶴姉は今第三艦隊で、哨戒や近海警備の仕事に従事している。昼間はともかく夕暮れや朝方が一番忙しいから、こうして買い物を頼まれることが多い。今が一六〇〇すぎだから、今から買い物に行っては哨戒開始時刻の一七○○まで間に合わないと踏んだのだろう。

　買うものは鎮守府内の酒保では買えないものだった。私は買い物のメモを貰い、外出の手続きをとって外に出た。

　無事に買い物を済ませると、私は店の主人に礼を言って鎮守府に帰ろうとした。もうすぐ夕食時だ。艦隊ごとを班として食事をとるから、最近憂鬱で仕方がない。赤城は加賀の席を未練がましげに見つめるし、吹雪は赤城の痛ましい姿から目を背け、大井と北上はひそひそ話をする。行き場のない金剛は、私とばかり話している。談笑するでもなく、暗い食卓だ。

「はあ……」

　この状況が、いつになったら好転してくれるのだろう。どうにか、なってくれないかな……

　　帰る道すがら、バス停のベンチに女性が座っていた。軍属関係の者が大半を占める町だから私服姿の若い女性は珍しい。

　何だろう、艤装をつくっている会社の、新しい営業さんだろうか……そう考えていると、ぎくりとした。戸惑い、驚き、困惑。どれも似た感情だが、その時の私の心中を表すには、そのどれもが当てはまらない。

　加賀、だ。やや痩せて、いつもサイドで結っていた髪が卸され長くなり、俯いていて顔に前髪がかかっているから分かり辛いが、間違いないという確信すらもてた。

「……加賀、さん？」

　そう呼ばれて、目の前の女性が顔を上げた。胡乱な表情だったから寝ていたのかもしれない。それでもその表情は見間違えることのない、加賀のものだった。

　私はもっていた手提げを落とす。ドラマでよく見るシーンを、私がやるとは思わなかったが、それくらい困惑していたのだ。何故ここに？三か月も前に死んだのでは？生きてた。そんな思考の渦に巻き込まれて、茫然とした。

　はっとしたとき、加賀は目の前から消えていた。一瞬幽霊かと思ったが、すぐに私から逃げ去ろうとしていた加賀を見つけ、私は追っかけて行った。

　加賀は足がそこまで速くない。路地を利用して駆逐艦顔負けの小回りを発揮するが、私の方が速いという自負があった。それくらいしか加賀に勝てるものが見当たらないが。

　奥の路地は袋小路になっていた。何とか塀の上を乗り越えようと小さくジャンプを繰り返している加賀を見据え、私は近づく。振り返った加賀は、いつもの傲岸な顔を忘れ、小動物のような弱弱しさを見せていた。

「は……はっ……加賀っ。さん。逃げること、ないでしょ」

「……」

　加賀は塀にへばりつくような姿勢でこちらを向き、顔を振る。

　近づいてみて、初めて私よりも加賀は小さい事が分かる。大した違いではないが、並べば分かる程度の違いではあった。

　なんだか悪い事をしているみたいだ。近づきながらそんな事を思う。目の前まで近づくと加賀は顔を覆ってしまった。何もかも嫌になったとばかりに背中を塀につけて、ずるずると座り込んでしまう。

「か、加賀さん……」

「なんで……」

　ぽつりと、加賀の声が聞こえた。

「わざわざ、私を追っかけてこないでもいいじゃない……何したいのよ？」

　何言っているのかが分からない。なんでって、死んだと思っていた仲間が生きていれば、そして逃げたなら追いかけるに決まっているじゃないか。

「あなた、もう……第一、艦隊でしょう。私の席なんて、もう残ってない」

　嗚咽を吐きながら、加賀はそう言った。頭が熱くなる。七面鳥なんて不名誉なあだ名が付けられてしまうほど、コロコロ変わる私の表情は今怒りの顔だろう。

「加賀さん、どういう事です」

　顔を覆ったまま俯いている加賀を見据えて、やや低めの声色で語り掛ける。吐き出すように、加賀は話した。

「だ、だって、皆優秀で。私は、ゆっ、優秀なんかじゃなくって、赤っ、城さんは庇ってくれるけど、その度に惨めで……瑞鶴が来た時、やっと、まともな艦隊になってくれ、ると思ったのに……」

　加賀の独白に呆れそうになる。優秀じゃない？まずそこからしておかしい。彼女が優秀じゃないなら、鎮守府の誰もが番外になってしまう。

「私だけ、足手纏い、で。せめて殿くらいはまともにしたくて」

　ぷつりと音がした。堪忍袋の緒が切れる音だと分かったのは加賀の腕を掴んだ時だった。

　顔を覆っていた手をどけようとして腕を掴む。顔を見せまいともがくが、強引に開く。引き攣った顔に、涙の浮かんだ目尻があった。

「加賀さん、帰りますよ」

「か、帰るって。もう私死んでるんじゃ」

「線一本引いただけでしょう。確かにもう作戦から三か月も立ってるから公報では轟沈扱いでしょうけど、ここにあなたがいる以上どうでもいいんですよ」

　そう言われて、加賀は観念したように俯いた。

　嫌だ、いやだ、イヤダ。行きたくない、そう思うのに足が動いてくれない。鎮守府の正門を抜けて、周りの艦娘の視線が痛い。どのつら下げて帰ってきたんだ、艤装も何もかも無くしやがって。彼女たちからすれば、そんな気持ちだろう。特にボーキサイトの補給をしてくれていた駆逐隊の艦娘たちには、どんな顔をして会えばいいのだろう。

　赤城にも、会いたくなかった。金剛にも吹雪にも利根にも北上にも大井にも会いたくなかった。瑞鶴にはもはや会ってしまい、右手を掴まれているから逃げようがない。

「いいですか？今から皆呼びます。さっき言ってた事、しっかり言ってくださいよ」

　死刑宣告だった。仮面を外せと、そう言っているのだ。

「言わなきゃ、許しませんからね」

　第一艦隊の執務室に集まった誰もが、私を見て呆然自失としていた。死んだと思っていた人間が生きていた、という時の顔を拝めるのはそうそうないだろうな……と私は呑気に考えていた。

「生きておったのじゃな……加賀よ！」

　真っ先に駆け寄ってきたのは利根だった。ほころんだ口元が、喜びを表している。彼女の単純さが、私にとっては好ましくもあり、親しくもあった。

「吾輩、あの作戦にはカタパルトの故障で参加できんかったが、おぬしがそう簡単に死なぬことは分かっておったぞ！」

　素直に肩を叩いて歓迎してくれている利根の単純さに触発されてか、周りの金剛、大井、北上、吹雪も私を見て、各々が各々なりの反応を返した。

　瑞鶴もやれやれとばかりに、私を見据える。

「どうよ」

　その賢しげな顔に得意げな表情を出すのやめてほしい。なんだか悔しいから。

「加賀さんはこのくらい頼られているんだから。胸を張っていいのよ」

　嘘を吐くな、そう言い返そうとして睨まれる。頼りになる？こんな鈍足ポンコツ空母に頼るな。そう言い返したら、どんな顔をするだろう。

「あ……恥ずかしながら……帰ってきました」

　それだけを言うのが精一杯だった。その言葉に周りの目が不審に染まるのが分かった。

「恥ずかしながら？どういう意味じゃ？吾輩難しい事はようわからんでな、説明を頼むぞ」

　切り出しはやはり利根だった。さっき瑞鶴に言ったことをまた繰り返し、仮面を外す。ちっぽけなプライドが剥がされ、むき出しにされる。

　周りの顔色が変わった。色が付いたとしたら七色になっていただろう。その中でも分かりやすいのは利根だ。真っ赤になって眉間にしわが寄っている。

「馬鹿も休み休み言えっ！」

　小柄な彼女が唾を飛ばしながら叫んだ。その勢いの前にタジタジになりながら、彼女を見やる。

「自分が優秀じゃないじゃと！？足手纏いじゃと！？何を言っとる！お主のおかげで成功した作戦が山とあろう！お主のおらぬ間、吾輩達がどれだけ苦労したと……っ！」

　全て、赤城のお蔭だ。そう伝えようとして、ようやく気付いた。赤城、旗艦の赤城はどこにいる？手狭な執務室にいない事はすぐに分かった。

「聞いとるのか！」

「赤城さんは、どこに？」

　それを聞かれたとき、利根は水をかけられたかのように大人しくなった。しゅんとしたのではなく、動揺したように真顔に戻った。

「……赤城なら、私室じゃ。お主の部屋よ。じゃがのぅ、おらんで良かったかもしれぬ」

　そう言って、間をとり、利根はつづけた。

「今のお主の言葉を聞いたら、吾輩達巻き添えを食ったかもしれんからな。あやつ、あれで結構感情的じゃからの」

　それだけは同意だった。赤城は感情的になることが度々ある。追い詰められたときなどは特に……と考えた時、あの海戦での感情的になった赤城が目に浮かんだ。

　あの時赤城は本当に、焦っていたのだろうか。私を心配する演技じゃなかったのだろうか。まさか。

「案外、加賀さんって馬鹿でしょ」

　赤城の部屋に行こうと歩いていた私に、横を歩いていた瑞鶴がそう言った。イラついたが、瑞鶴は私のそんな感情をほっといてつづけた。

「どう考えれば加賀さんが無能っていう結論に落ち着くのか理解できないし、そもそもそうだったら皆言いますよ。使えないから外せって」

「だって……言えない事、あるでしょう？私はその、無愛想だし」

　今でも駆逐艦の子からは怖がられていると思う。私が話しかけると泡ついて逃げる子が何人かいるし、露骨ににらまれることもあるのだ。

「そりゃあ……まあ、そんな事もあるかもだけど」

「……船速も戦艦なみに遅いのに、機動部隊なんて私が名乗っていいのか迷うし……だからあなたが来てくれて、ようやく私も肩の荷が下りると思ったのに……」

「名誉が肩の荷とか」

「……肩の荷よ。私はせいぜい鎮守府防衛隊でもやっているのがお似合いよ」

「……それ赤城さんにも言ってくださいよ、怒るだろうけど」

　ついてきたことを後悔した。二段ベッドの下段で布団にくるまっているのは赤城……なんだろうと思う。問題はそこだけじゃない。周りが散らかりまくっているのも問題だ。

　だが、一番の問題は目の前に釣り下がっているロープの輪っかだ。ご丁寧にもふみ台まで付いている。幸い赤城が釣り下がっていたという事は無かったが。

「……赤、城さん？」

　加賀も恐る恐るという感じに、声をかけた。小声だったせいか、布団は動く気配すらなかった。

　加賀も様子見とばかりに動かなかった。仕方がない。私はベッドの縁を掴んで、しゃがみこんだ。

「赤城さん……瑞鶴です。起きてますか？」

「……」

　返事がない、まさか首をくくっているのではないだろうな、と嫌な予感がしたが確かめない訳にもいかない。

「失礼します」

「ひっ……！」

　細い声が聞こえた。起きていたらしい。赤城は枕に顎を載せクマの目立つ顔で、瑞鶴を見ていた。枕元にはメモ用紙と鉛筆が転がっていた。作戦概要らしき書き起こしがあったが、それを乱暴に黒塗りして消した後があった。

　これが、つい三か月前まで艦隊旗艦として皆を率いた赤城だろうか。私には信じられなかった。

「……どうしたらいいのか、分からないの。作戦を立てても立てても、失敗しそうで……ねえ、瑞鶴……」

　暗い声だった。皮肉めいた笑いすら浮かべて、赤城は起き上がる。

「こんなの旗艦失格よね……あなたたちを引っ張っていかなきゃならないのに……こんなに脆いだなんて」

　泣きいるような調子だった。頬もこけている。そこで、赤城が目を見開いたのが分かった。私の後ろの加賀を目にしたのだろう。信じられないモノを見た、という風に驚いている。

「加賀、さん……？」

「……恥ずかしながら、帰ってきました」

　敬礼をして、俯きながら加賀は言った。なぜ、この期に及んでまだそんな態度をとるのだろうか。

　赤城は跳ね起きた。私を突き飛ばして加賀の身体を触る。いててて、床に落ちていた文具が刺さった。

「……赤城さん」

「触れる……幽霊じゃない！」

　赤城は、加賀に抱き付いた。背中に手を回し、もたれるように加賀を包む。そして大泣きが始まった。かれつくすほどに泣いたはずなのにまだまだ涙が出ていた。

　私の方からは加賀の困惑した表情しか見えなかった。困ったように私を見てきている。

「加賀さんっ……加賀、さんっ……」

　嗚咽としゃっくりで、赤城の声は何を言っても明瞭としない。ありゃりゃ、私は大した邪魔者だ。さっさと行くとしよう。ドアの裏に居て待ってればいい。加賀にウィンクをして、私は部屋を出た。

　瑞鶴が出ていったから、私と赤城の二人になり、気まずさが増す。しゃくり上げて泣く赤城をどうすればいいのか分からない。

「生きてて、くれっ、た……ひっ、ひっ」

　意外だった、赤城がこんなに泣いてくれるのが。私が帰ったところで口やかましい奴が帰ってきた、とうっとうしがられるのがせいぜいだと思っていた。

　私は泣いている赤城の頭を撫でる。カリスマの権化のような彼女に胸を貸すのは得難い機会だと思った。

「雨はきちんと降ってくれました。赤城さんも、御無事でよかったです」

「ふぐっ……ひっ……！」

「貴女が無事なら、私はどうなったっていいのです。第一艦隊も、あなたさえ無事ならば何とでもなりますから……」

「ち、違っ、う。私、一人じゃ、な、何もっ、出来なく、って」

「いいえ。あなたが居てくれれば、良いのです」

その後は、会話にならなかった。赤城は泣き疲れたのだろう、クマが目立った顔だったから安眠も出来なかったらしい。もたれたまま安心したように寝息が聞こえた。

私は赤城を傍らに置いて、ベッドを整えて改めて寝かせた。

散らかり放題の部屋を掃除して、ふと気が付いた。ぐしゃぐしゃの部屋の中、二段ベッドの上段は全く手が付けられておらず、加賀が整えた時のままになっていた。赤城はここだけは手つかずのままにしていたのだろう。

深夜になって掃除が終わった時、赤城が起きあがった。不安そうに首を回して周りを確認し、私を見て安堵の表情を浮かべる。

「良かった……夢じゃなかったんですね」

　取り乱さずに、そう言葉を発して赤城がベッドから出てきた。

「ホントに、心配していたんですから。ようやく第一艦隊も元通りです」

　笑顔を浮かべた赤城を見ながら、加賀は苦い思いを外に出してみたくなった。他の面々に仮面を外した私を晒して、赤城に対しても言わなければならないだろうと思ったのだ。

「その事なのですが……今のままの第一艦隊が一番だと思うのですが」

「は？」

　笑顔が一瞬で真顔になる。気圧されるが、黙らずにつづけた。

「瑞鶴がいる以上、私のようなポンコツが居座るなんてできません。私は、その……管内警備部に移ろうかと思います」

　その言葉を言い切って、赤城を見る。震えていた。何かまずい事を言っただろうか。動揺しながらも、私は言葉を重ねる。

「き、機動部隊に、私のような鈍足が居てはダメです。皆の頑張りを無にするような」

　そこまでしか言えなかった。俯いた赤城が上目づかいながらこちらを睨む。そして、涙を流していた。

「どうして……」

　かろうじて平静な声が聞こえたかと思えば泣きながら、綺麗にした部屋をまたぐちゃぐちゃにしていく。私は巻き添えを食いながら必死で彼女を止める。

「なんでわかってくれないの！私は……私はあなたをこんなにも信頼しているのに！」

　それをいった赤城が、私の両手を持って床に押さえつける。私も、赤城に組み伏せられる形になった。

　逃げられない。真っ直ぐな視線に射ぬかれて、目をそらすことすら許してくれない。仮面を、はぎとられる。そして付け直させてくれない。

「……赤城さんは、自分を信じれているでしょう。私は、そうじゃないもの。いつも、いつも機動部隊の艦隊運動を阻害する原因はこの私。なのに、皆優しいから……甘えてしまった」

　一度開いてしまった口元は閉じることが出来なかった。スルスルと、今まで言えなかった本音がだらしなく出ていく。

「責めずに、私の良いところだけ見てくれる。でも……本当はいつも苦しかった。金剛のように砲撃で敵を倒すことも、皆の盾になることも出来ない。北上や大井のように雷撃でとどめも刺せない。利根のように明るくない。吹雪のように間に立てない。瑞鶴のように高速じゃない。そして、赤城さんみたいに皆を取りまとめることなんてできない。そう考えると、嫌になってしまうんです。せめて皆を、この第一艦隊を護りたかった。だからあの殿だけは譲れなかったんです。やっとお役にたてそうでしたから」

　赤城に対しての釈明じみたものを終えて、また説明を続ける。

「瑞鶴も、翔鶴も、素晴らしい後輩です。赤城さんは気にくわないかもしれませんが、私は自慢の後輩だと思っています。それでなくては、推薦などしません、一航戦の誇りにかけても」

　ぽたりと、赤城の涙が私の頬に落ちる。まだ泣いている、こんなに泣き虫だっただろうか。いつもの彼女の強い姿とはかけ離れている。

「なんで……そんな事、言うんですか」

　一瞬何を言っているのか分からなかった。赤城はつづけた。

「貴女がいないと、第一艦隊はダメになるって、私言ったじゃないですか……私の言葉はそんなに信用なりませんか！？」

「私を使いつぶしたかったのではないのですか？私は最後の御奉公と思ったのですが。そうすれば瑞鶴にバトンタッチしやすいですから」

「……っ！」

　私が思った事をぶつけてみた。赤城は顔を真っ赤にさせた。これは行けない。爆発の予感がする。

「馬鹿っ！！！」

　耳鳴りがした。赤城は言葉が上手く出てこないらしい。それでも馬鹿を連呼している。

「貴女が！加賀さんがいない時、私がどんな気持ちだったか、分かりますか！」

　どんな気持ちって……。そんなの決まっている。

「口うるさいのがいなくなって、せいせいした……とか」

　バチン、と音がする。頬を張られたのだろう。赤城の片手でまとめられた私の両手では抵抗する、しないの話ではない。

「どうしてですか！どうしてそこまで自分を否定するんですか！信用してくださいよ！」

「……じゃ、どんな気持ちだったんです。あと、手を離してください。逃げませんから」

　赤城は渋々と手を離してくれた。向きなおり、正座して赤城に相対する。

「……自信が、無くなりました」

　私と同じように正座した赤城は、そう切り出す。いつもの柔和な表情ではなく、陰鬱な顔だ。自信の裏付けのような笑顔がなくなった赤城は、どうにも頼りない印象を受ける。

「艦隊旗艦なのに、作戦行動を立てても不安だったし、この作戦が正しいのか間違っているのか、誰も助言してくれません……」

　当然だった、赤城は旗艦として誰彼となく信頼されている。誰も反対意見を出さないのは信頼の裏返しみたいなもののはずだ。むしろ反対意見を述べる者は勇気を賞賛されるくらいのものだ。

　それに、彼女はいつでも自分の考えに自信を持っていたはずだ。だから助言などいらないモノだと思っていた。

「加賀さんが、居てくれなくて、見放されたみたいで……不安で不安で仕方なくて……怖くて……」

　赤城の顔はどんどんと俯いていく。私は黙って聞き続けた。

「ねえ、加賀さん……私だって、あなたと同じように自信がない時もあるんです。それでも、指示を出さないわけにはいかないし、判断を下さなきゃいけないんです。どんなに怖くても」

　皮肉のような顔を浮かべる。彼女のあの笑顔も、私と同じような虚実の部分があったという事か。

「それでも、貴女に聞いて、了解を取ることで、少しだけその怖さもなくなる。あなたが居れば、私は安心できる」

　俯いた顔から、淡々とした口調で赤城は独白をつづけた。

「私は、しょせん看板に過ぎません。第一艦隊旗艦赤城、これはただの表向きの看板です。本当なら、ここに加賀と入っているのが道理なんです」

　こんなにしおらしい赤城を見るのは、私自身初めてだった。自信に満ち溢れていた彼女は、私と同じような、小さな存在だったのかもしれない。

「貴女が居なくなって……私がどれだけ有名無実な存在だか分かりました。作戦を立てても、貴女が居た頃のものには及ばない。それでも、私は旗艦だから逃げられない。情けない話でしょう」

　皮肉じみた冷笑を浮かべた顔を上げて、赤城は私を見た。本心から驚いていた。こんなにも彼女から評価されてるとは思わなかった。

「だから、もう……私を見捨てないでくださいよ……加賀さん」

「……わかりました」

　それだけは、返事をした。仮面が、砕けたような音がした。

「ほらね。言ったとおりでしたでしょ？」

　翌日、久々に笑顔の戻った赤城を見て、第一艦隊の誰もが息を吐いた。よかったよかった、大団円とはこの事だ。

　朝食後の、課業前の休み時間に、私は加賀に会いに行った。そこで冒頭のセリフだ。

「これで、いいのかしら？」

「いいに決まってるじゃない。私もようやく肩の荷が下りますよ。第一艦隊って肩こっちゃって」

　全く、皆の見本なんて楽じゃない。誰もが模範として私たちの戦闘を扱うものだから、自然堅苦しいものになりがちだ。

「まー、私はのんびり第二艦隊でやらせてもらいますよ。加賀さんが戻って来てくれて助かっちゃいます」

　つい何日か前までの陰惨な食卓ではないだけでいくらかマシだ。

「その事なんだけど……当面あなたは第一艦隊らしいわ」

「へ？」

　我ながら間の抜けた声が出る。加賀は能面ヅラでつづけた。

「南方海域の制海権を手に入れた事で、燃料の安定供給の目途が立ったみたいだし、ボーキサイトも前より支給が増えるから……らしいわよ」

　加賀は表情がまるでぶれない、それでも考えていることは分かりやすい。多分喜んでいてくれているのだろう。

「ビシビシ鍛えてあげます。それでは、これで」

　加賀はそれだけを言い残して何処かにいった。私の口元も緩んだ。これからどんな風になっていくのかが楽しみで仕方なかった。

「そうそう、言い忘れていたわ」

「うわ！気配消して近づかないでよ！」

「ごめんなさいね……さて、瑞鶴？私があなたに譲った烈風、今どうなっているの？」

「えっ！？あ、いやーその……この前の出撃で、ちょっと、ね？」

「……」

　沈黙が怖い。早く何か言って。

「頭にきました」

　

　気が付いたら医務室だった。何があったかは分からない。どうせ加賀が何かしらしたに決まっている。くそう。

　医務室のベッドを出ようとしたとき、傍らにあった机に書置きがあった。加賀の字だ。

「……っ。素直じゃないんだから」

　私はにやけそうになる口元を引き締めて、第一艦隊の執務室に向かった。

『ありがとう、瑞鶴』