艦これ短編小説集
様々な艦娘たちの短編小説集です。暇つぶしにどうぞ。何か見たい、どんなのを書いてほしい、とか言っていただける有難いお方はコメント欄でリクエストをお願いします
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小さな影が、上と下に分かれた二段ベッドの上で蹲っていた。背中を壁につけて、俯き、暗い部屋の中で、じっとしていた。下からは寝息が聞こえていた。
小さな影はそのまま、ぽつりとつぶやいた。
「なんで、こんななんだろう……」
朝日が差し込んでいる食堂ではいつものように同僚や友達が朝食を食べていた。横須賀鎮守府第三水雷戦隊。要は輸送任務について回るボディーガードのようなものだ。その艦隊の第三番艦、それが暁の肩書だった。
「おはよう、みんな」
そう声をかけると、姉妹艦の関係にある三人はにこやかに笑って返してくれた。癖のある栗毛が特徴的な雷、その雷の髪の癖を無くして後ろをバレッタでまとめたようにうり二つの電。そしてもう一人。
白い長髪に、静かな目。
「おはよう、暁」
―――響。
暁は頷いて席に座って、朝食を食べ始めた。
違和感、とでも言うのだろうか。モヤモヤとした感情は、この間からずっとあった。
艦隊の中での三番艦というのは旗艦の天龍、次席の龍田の次に権限がある。駆逐隊の指揮は暁の仕事だった。
「……」
それは実際、仕事の多さの示す通りの大変な仕事だった。暁にとって、色々な仕事が各方面からやってくることは苦痛の以外の何物でも無かった。
「暁、これ、処理しておいたから」
「……ありがと」
そんな時、決まって助け舟を出してくれるのは響だ。助かるし、感謝だってしている。なのに。
面白くない。何もかも見通したような静かな目は、暁にとっては憧れでもあって、それでいて一枚上手をいつもいかれているようで、面白くなかった。
今は私が三番艦だ。暁にとってそれは誇りだった。努力して、工夫して勝ち取った、誇りであるはずだった。
「おう、ちび共!遠征任務、行くぞ」
旗艦の天龍はひどく威勢がいい。威勢が良すぎて前のめりになってしまいがちだが、それでも支えたくなるような、姐御肌の持ち主だ。
「あらあら、天龍ちゃん。忘れ物はないかしらァ」
囁くような声で、天龍をしっかりと抑えるのは龍田だ。この二人は磁石の対極のような関係なのだと思う。どちらが欠けてもいけない。そんな感じだ。
私達も似ている。響も雷も電も、居てくれなくてはならない存在だ。それなのに、暁はどこか響に対して劣等感に近いものを感じていた。
「第六駆逐隊、続くわよ!」
暁は大音声の号令で天龍の後ろについた。先頭に天龍、殿に龍田。いつも通りの、単従陣。そのはずだった。
「暁、左舷に艦影が見える。確認すべきだ」
暁の後ろの響が無線で連絡する。駆逐隊の指揮は暁の仕事だ。艦影を見つけたなら、艦橋に居る暁は双眼鏡で確認しなくてはならない。
艦娘というのは不思議なものだ。たった一人で艦を操る能力を持っている。妖精と呼ばれる存在が艦娘の指揮によって動いているから、存在としては艦長に近い。
「了解……どこかしら」
双眼鏡で視認をしようとするが、どこに居るのか分からなかった。再度確認しようと無線を手に取った時、暁の艦首近くに大きな水柱が立った。
「敵発見!七時の方向!」
響のどこまでも冷静な声が艦橋に響いた。龍田が響についてくるよう信号を出し、艦隊も輸送船団を囲むような輪形陣をとる。
「ちび共!仕事だぞ!」
「雷、電!右翼の守りを宜しく!潜水艦にも警戒して!」
指示を出しながら、暁の胸の中にじくりとしたものが残っていた。
輸送船団は無事に輸送先に着いた。後は帰るだけだ。空船だから速力が出るし、回避行動も思うまま、行きはよいよい帰りは怖いとはこの事だろう。
艦橋で指揮を執っていた暁だったが、溜息を吐いて外に出た。そこにいなくてはならない決まりだったが、戦闘配置でもないのに知った事か、そんな気持ちで舷側にもたれ掛る。すぐ近くで響の操る駆逐艦があった。スリムな特型駆逐艦は、スマートな姿がそのまま響の印象に重なり合う。誰かに助けてもらわなくてはならない私とくらべて響はしゃんとしている。私がこのまま指揮をとっていていいのだろうか。暁の頭の中にはそんな思いが渦巻いていた。
帰還してしばらくは何事もない日が続いていた。休暇は大事だ。細かいメンテナンスもあることだし、まとめてもらえることが多い。
「暁」
静かな声が聞こえて、暁は心の中だけで舌打ちした。響だ。
「何?」
「あ、ああ、その、用ってわけじゃないんだけど。ほら、休みだしどこかに遊びに行かないか」
何言ってる。これも心の中を出ない言葉だ。
これが余裕の表れだろうか。私には出来ない。このままだと今まで積み上げた何もかもが、積み木を崩すみたいに無くなってしまいそうで怖くなる。だから錬度をあげようあげようと努力をしているというのに。
「ちょっと駄目ね。これから利根さんに砲撃を見てもらうの。ごめんね」
響はがっかりしたように肩を落とした。
「そ、そうか。じゃあ……」
響はそのままどこかに行ってしまった。どうでもよかった。暁は利根との約束に遅れないように時計を気にしながら歩いた。
別に比べられているわけではない。響は響で、暁は暁で良いところがある。第三水雷戦隊の旗艦の指揮を執っている天龍はそう考えていた。だというのに、一方がひどく意識しているせいでどことなく空気が悪くなっている。
「……なんか喧嘩でもしたのかね?」
「あらァ天龍ちゃん。珍しく考え込んでるじゃない。あしたは雨かしら」
「お前ね。俺だって考えるんだぜ」
「おおかた暁ちゃんと響ちゃんの事でしょう?ふふふ」
薄ら笑いを残して龍田は執務室を出ていった。この手の書類作業は嫌いだから押し付けようとしたが、当てが外れたな。そんな風に舌打ちして、諦めたように作業をしていると、ノックの音がした。
「入れ」
何気なく時計を見た。夕方近くになっていた。
「駆逐隊の指揮を辞めたいだと?馬鹿野郎、何ぬかしてやがる、下がれ」
天龍はいつものような姉御肌の態度ではなく、断定的な声だったが暁は動かなかった。
「いいから、お願いだから外してよ」
諦観が混じったような声を聴いて天龍は立ち上がった。
「てめえ、本当にどうしたんだよ?こないだまでしっかり勤めていたじゃねえか。それがいきなりといえばあんまりにもいきなり過ぎんだろ。理由を言え、俺が納得できる理由をだ」
「気づいてないの?」
驚き半分、軽蔑すら混じったような声で暁は天龍を見上げた。執務机を叩いてでもやるかと天龍は考えたが、暁は怯みもせずに言葉をつづけた。
何回となくバディを組んで、響には何度も何度も敵わないと思い知らされた。例えば執務で書類作業をすれば、暁が万年筆のインクを切らしたり紙を切らしたりするたびに、しっかりとそこに用意してくれるし、書類の不備などのチェックも盤石だ。何度となく、響にその手の職をやらそうとしたが、響は笑って首を振るだけだった。やりたがらないのか、やりたくないのかは分からない。それでも何か面白くなかった。先手をいつもとられ、上をいかれている。
腹立たしい、悔しい、お姉さんは私だ。響じゃない。なのに―――彼女の無表情が、まるで見下しているように見えてしまうのが、それにもまして悔しかった。
「響、今度の任務はあなたが指揮を執りなさいよ。天龍さんには私から言っとくから」
「暁、辞めてくれよ。ガラじゃないし、私は暁の後ろが一番やりやすいんだ」
「そんな事言って。一回くらいやりなさいよ」
「勘弁してくれ暁。頼むから」
そんなやり取りが何回も何回もあった。その度にいとも簡単にはぐらかされてしまう。これもまた、腹立たしかった。
「許可は取ったのか?響が駆逐の指揮を執ることの」
天龍が見下ろして聞いてくる。隻眼の目が、こちらをねめつけるように睨んでいた。歴戦の艦娘である分、ごまかしが利きづらい。
「とったわ」
そのうちね、とは心の中だけで付け加えた。
説明しろ、と響は顔を出来るだけ怖くして言った。いつも囁くような声だからか、やや語勢の強さが出ているだけでなかなか勇ましいように感じる。
「次の作戦でなぜか私が駆逐隊の指揮を執ることになっている。説明を求める。暁」
「そう、良かったじゃない」
「誤魔化すな!」
大声だった。薄い色素に囲まれた、どこか消え入りそうな印象すらもたれることの多い響からすれば異様なほどの大きな声だ。
目が吊り上がり、形のいい眉もそれに付随している。美人がきつい顔をすると怖さにつながるというが、響はまさにそれだ。
「知っているんだよ、暁。キミが天龍さんに直談判したんだろう」
「私が?お姉さんの私がそんな事をするはずないじゃないの」
「小賢しいぞ!どうして私に一言も言わずに勝手に決めたんだ!駆逐隊の指揮は暁の仕事じゃないか。天龍さんも龍田さんも、提督だってキミに期待していただろう。それなのに全部放り出すのかっ!」
いつもは白い頬が赤く染まるのが見えた。暁もかっと頭に血が上る。気が付けば唾を飛ばして語気荒く叫ぶようになっていた。
「五月蠅いわよっ!そうよそうよ、全部投げ出してやるっ!もういいじゃないのっ、私はもう十分よ、もうたくさん、たくさんよっ!」
「な、何を言って―――」
「あんたが、響が有能で、冷静で何でもかんでも簡単にこなせるからよ!すぐにパニクって泣くしかなくなる私なんかより、ずっとずっと指揮するのに向いているからよ、私が判断したんだ、しっ、指揮艦なんかあんたに変わってやるっ、ざまあみろ!」
何を言っているのか、だんだんと分からなくなる。それでもかまわない、勢い込んで言える分、今までの鬱憤が晴れる気がした。
目の前に居る響は茫然とした顔をしていた。暁よりも少しだけ、少しだけ背が高い。それすら、酷く悲しかった。
「あ…っ」
響はふらつきながら近づいてくる。何かされるのかと思いながら身構えていると、立ち止まった。
「……っく、うう」
響が、泣いていた。ほとんど初めて見る光景だ。こんな姿は見たことが無い。それでも間違いなく、響は泣いているのだった。
「そん、そんなことっ、……そんなことない」
少しだけ言葉を詰まらせたがそこは冷静さが身上の響だ。すぐに持ち直して暁に向きなおる。
「……どういう事よ」
冷淡だった。人は自分より取り乱した人間を見ると落ち着けるというが、今の暁はまさにそれだ。
「わ、私は、そんな大それたことできない。指揮なんてごめんだ。だ、だって気を配ることなんてできない。目の前のことに必死にならないと、私は、私は―――ついて行けないんだ」
何言ってやがるんだ、こいつは。暁の感想はそれである。
「買いかぶらないでくれ。私はダメなんだ。皆の期待を背負うなんて出来ない、弱いんだよ、頼むよ響、私を、私を捨てないでくれ」
どういう事なのか、暁は説明してほしかった。弱い、弱いとは何だ。目の前の響が弱いなら私はどうなってしまうのだ。
「……でも、響の方が戦闘上手いじゃない。そんな気にしなくても出来るわよ、私でも出来るんだし」
「やめろ。そんな事言わないでくれ。卑下するな。姉さん」
そんな響は珍しかった。ここまで強情とは思わなかった。
「私は、姉さんを手助けすることが一番好きなんだ。生きがいすら感じているんだよ。だからお願いだ。その生きがいを、取らないでくれ」
懇願するような響の顔には、いつもの冷静さは一かけらもなかった、あるのはただ姉である暁から拒絶されることを恐れる、一人の妹としての顔だった。
「……分かったわ、でも、一回だけお願い」
「な、なんでだい?暁」
「もう天龍さんに言った以上、一回もしないまま翻す訳にはいかないわよ、今度は私が響をフォローしてあげる番。良いわね」
そこまで言うと、響はようやく安堵した顔をして敬礼をした。
「了解だ、暁」
暁も敬礼をし返して、笑った。
――空母になるにはどうしたらいいですか。
艦娘養成学校で授業を行った帰り道、鳳翔はそう尋ねられた。
「空母、ですか」
「そうです」
言葉が少なく、自分よりも高い背丈を持つその彼女はそう言った。目つきがいいとは言えないが、どこかしら純粋さを感じさせる眼を持っている。
「……そうですねえ」
実際、空母艦娘への道は厳しい。それだけ期待されていることもある上にほかの艦種よりも錬成に時間がかかる。そして素質も求められている。この目の前の少女には悪いが諦めが肝心だ。
「一日千射の特訓をすれば、それだけ近づけるかもしれませんね」
諦めさせるため鳳翔はそう言ったつもりだったが、少女は頷いただけでその場からいなくなった。
彼女を次に見たのは、およそ四年の歳月が流れてからだった。
会いたいという人が来ている、といわれて面会室に向かった鳳翔を出迎えたのはサイドで髪を括った冷たい目をした少女だった。
「お久しぶりです」
それだけ言うと、どこか得意げに手を見せてくる。細い、白い指はタコと傷で埋まっていた。
「一日千射。ずっと続けました。おかげで空母になれました。この鎮守府にお世話になります」
敬礼をして鳳翔に辞令を手渡す。
「……」
内心で、鳳翔は舌を巻いていた。本当に出来るとは全く思っていなかったからだ。優秀であることを示す印もついている辞令を彼女に返す。
「了解です。それで……あなたの名前は?」
―――加賀です、正規空母加賀です。
彼女は言葉少なにそう言った。
加賀の行動主義というのは極端だった。どんな時でも努力を尽くした。そして脆いほどに純情だった。
ある時の事である。空母の最先任として弓道場を預かる鳳翔は、ふらりと立ち寄ったそこで酷く泣き崩れている加賀を見た。
「ど、どうしたんです」
鳳翔が声をかけると、加賀は呆けたように、もう駄目ですと繰り返すばかりだった。何がダメなのか。どうしたのかを問いただすと、加賀はポツリポツリと語りだす。
その言葉によれば、だが、加賀が泣いているのはどうやら先の出撃で何隻かの敵空母を逃したのが悔しかったというのだ。
鳳翔は首を傾げた。
確かに先の出撃で加賀を含んだ艦隊は完勝こそ逃したが空母を二隻撃沈させ、戦艦を大破させている。新人としては上出来すぎる内容だった。
「そんなこと……」
「そんな事ではありません。あと二隻、駆逐艦をつぶすことができました」
鳳翔はあっけにとられた。これほどの戦果を挙げたというのに、周りのすべてが大したものという賞賛をあびせているというのに、加賀本人だけは、全くといっていいほど喜んでいなかった。
「まあまあ、無理することはありません。それだけの努力をあなたはしているはずですから」
「そうでしょうか……」
「それはそうです。これでも先任ですよ。信頼くらいしてください」
そこまで言って、ようやく加賀は納得したようにうなずいた。
艦隊のエースに加賀が据えられるまでそんなに時間がかからなかった。一本芯の通ったような姿勢を持ち、威厳的な視線を飛ばす加賀は艦隊の中でも特に存在感があった。
しかし本人だけは何かにとらわれたように戦果を求め続けた。終わらないマラソンを走り続けるような加賀を見て、鳳翔は砂の城を見るような不安感を持ってしまっていた
ある時鳳翔は加賀の手紙を預かった。封筒はここに着くまでの行程の長さを語るようにくたびれていた。
「加賀さん。お手紙きてますよ」
「あ……ありがとうございます」
受け取っていつもの無表情でその封筒を開いた。
鳳翔は傍に居たが、封筒の中の便箋は同様にくたびれていた。よほどの遠くから届けられたのだろう。
「えっ……」
加賀は口元を抑えると目を見開いた。
「……生きてて、くれた」
加賀は静かに泣き始めた、鳳翔は一人にしてあげようと席を外した。
しばらくしてまた部屋に入りなおすと、どこかすっきりしたように加賀は座り込んでいた。
事情を聴けば、先ほどの手紙は実家からのものだったらしい。父親の生還を知らせるものだった、
加賀の父親は陸軍曹長の筋金入りの職業軍人で南方戦線に出征していた。
それが深海棲艦の侵攻で父親の駐留している島が戦場になった。加賀も不安に思っていたが音沙汰は知りようがなく、ずっと気にしていた。
加賀は父親とそりが合わなかったらしい。
軍人である父は厳格で、加賀には全く喧しい存在だった。海軍で艦娘を志願したのはそんな背景もあったようだ。
「……何日か前に輸送船で帰国したらしくて。安心しました」
言葉は少ないが、加賀は喜んでいた。
その後、不安が無くなった事が功を奏したのか、加賀の戦果は上がっていった。敵艦が全く気付かない射程から艦載機を発艦させ全滅させたことも一度や二度ではなかった。
今や彼女は艦隊の大黒柱といってよかった。
彼女の様子が一変したのは休暇の帰省から帰ってきた時だった。真っ青な顔をして、雨だというのに最寄駅から傘すらさしてこなかったようである。同僚の赤城や飛龍が心配する声も耳に入らないといったふうで自室にこもりきりになってしまった。
戦果は目に見えて減っていった。鳳翔は加賀を呼び出した。
「何があったんですか?」
加賀はしょぼくれたように、そう聞いた鳳翔にもたれ掛るような視線を向けた後話し始めた。
父親に会った。
久々に見た父親は、すっかり変わってしまっていた。
時に撫で、時に厳しい張り手をぶつけてきた右腕は肩口からごっそりなくなり、たくましかった身体はやせ細っていた。
人生を賭して奉公していた陸軍はそんな父親を、僅かな恩給と引き換えに退役させた。
父は健康な体躯と、誇りを失い酒におぼれていた。母と姉は父の世話にすっかり疲れ切っていた。
「どうすればいいのか分かりません」
弱り切っていた加賀は気弱な返事をするだけだった。幸いというか艦娘の給料は士官並だから田舎に住む家族の生活費は賄える。
しかしその責任は、加賀の双肩で支えるにはあまりに重いものだったのだろう。鳳翔は何とか励まし、その日はそれで終わった。
加賀の心を取り乱させるものはまだあった。同僚の存在だ。
現在鎮守府の航空戦力は加賀と赤城の一航戦を筆頭に、飛龍蒼龍の二航戦、龍驤鳳翔の軽空母コンビと行った所だが、誰も彼も優秀で特に赤城と加賀の一航戦は甲乙つけがたしだった。
彼女にとって周りは全て自分より優れているように見えた。特に赤城は弓をもって生まれたような才能の持ち主だった。加賀が努力してやることを平然とこなしてしまう。
そのうえ嫌味気の欠片もないのだ。劣等感はますます膨れ上がるばかりだった。
それでも加賀は戦果を残し続けた。幽鬼のようにふらつきながらも、艦隊のエースとしての責任や家庭を支える人間としての重圧に耐えていた。
それが裏目に出るとも知らずに。
空母を中心に運用していた佐世保鎮守府は功績多数だった。もちろんそれは軍令部の知るところになり、戦艦よりも重要視されるのに時間はかからなかった。
そのため各地の鎮守府、泊地などでは空母の取り合いが起きた。
佐世保は鎮守府の中でも海外責任を背負う特異な鎮守府とも言える。管区は朝鮮台湾などの外地にも渡るため、最新鋭の期待の空母を預かるには不適当とみなされたらしい。
真っ先に二航戦が横須賀、鳳翔龍驤の空母が呉の鎮守府に転任が決まった。
鳳翔の転任が決まった時に一番複雑な顔をしたのが、加賀だった。
「寂しい、です」
どうすればいいのか分からないように加賀は顔を歪めて、鳳翔の部屋に居た。
「寂しいのは、私だって同じですよ。でも仕方ないですから」
鳳翔の転任先は呉鎮守府の空母艦娘教官だった。教官になるのは慣れていたが、今回の転属は本格的に戦地から上がり教官をするようにという事だった。
「遊びに行ってもいいですか?」
「勿論です」
言葉が少ない加賀にしては大目に喋った後、敬礼をした。
呉鎮守府での教官任務を行うのは龍驤と鳳翔だった。鳳翔は教官専属として、龍驤は呉鎮守府の防空艦隊旗艦としての任務をおこなっていた。
「長い付き合いよなあ、うちら」
「龍驤さん」
暑そうに部屋に入ってきたのは、龍驤だ。お互い同期で気安い。
「海兵団であって、艦娘学校、横須賀で別れてまた佐世保であって……エライもんよ」
「ながい付き合いですもの……どうしたんです?」
「ああ、手紙。これ郵便係に届いとるから届けに来たんや。加賀やんからやでー」
龍驤も加賀を可愛がっていた一人だ。
「ホンマ、加賀やん寂しがっとるやろ。気晴らしとかもせえへんと訓練訓練やからなあ」
「それは……」
「楽しい事いっぱいあるんやけどな?うちやったらほれ、酒飲むヤニ吸う、ほんでお喋りや。それもせんと弓ばっか撃ちよってまじめすぎなんや」
「そうなんですよね。初めて会った時もそんな具合でしたし」
「うちやって家族しょっとるけどあそこまで追いつめ取らんわ。パンパンに膨らんだ風船よ、そうやん?加賀やんも楽すりゃええんや」
加賀はどこか疲れたような顔をして鳳翔の元を訪ねた。聞けば赤城も転属してしまい、今は葛城という新米艦娘とともに佐世保の空を守っているという。
そこで加賀はしんどそうにしている理由を答えた。
「今、旗艦なんですよ」
どう考えたって加賀には合わない。そもそも元々の才能が乏しいという自覚の下で必死に努力しているのだから、周囲を見渡して指示を出すような真似が出来はしないのだろう。
鳳翔は、ひどく不安になった。加賀に何かしらの気晴らしを与えないと龍驤の言っていたように破裂してしまいそうだったのだ。
「加賀さん。ちょっと」
散歩にでも連れ出すような調子で鳳翔は外に出た。
「合気道……ですか?」
「そう、結構いい気晴らしになるんですよ。集中できますし、何より身体を動かすので余計な事を考えず済みますし」
「は、はあ……」
鳳翔はそれなりに心得があったため、二、三教えると、加賀はぎこちないながらもついてきている。はじめは堅かったが、後々リラックスしたようになっていく。
良い感じだ、と思った。
「はい、ここまで」
加賀は息を吐きながらも、その顔は来た時よりも和らいでいるように見えた。
―――加賀、南方制圧。
そう言った記事が新聞紙上を賑やかしたのはそれからしばらくしてからだった。その頃には鳳翔の教え子と言える艦娘も戦場に出ていたし、空母の活躍も多かったから鼻も高かったのだが加賀はそれをはるかに上回っていた。
そんな英雄が呉に凱旋した。
教え子たちが黄色い声を上げる中、加賀はめったに見せない楽しげな顔をしていた。
「楽しげですね」
「楽しいです」
ほう、と鳳翔は安心した気持ちになった。何かに思い詰めたような顔ではなく、心から楽しそうな、愉悦を味わう顔をしていた。
「何かあったんですか?」
「……馬鹿にされるかもしれませんが」
―――神の域を覗くことが出来ました。
一瞬茫然としたが、加賀は咳払いをしてつづけた。
「合気道の要領で、臍下丹田に力を込めてやっていたんですが、ある時はっきり見えたんです」
「見えた……何がです?」
「敵に向かって真っすぐ向かう艦載機と、敵の向かう進路がびっくりするほどよく見えたんです。葛城……後輩なんですが、彼女が私を揺すってくれるまで、私は気づかなかったんです。気づいて、そのはっきり見えた後の海域には何も残ってなかったんですよ。何があったか、と聞いたら」
「……聞いたら?」
「私がやったらしかったんです」
「らしかった?」
「……本当に不思議なんですが、気づくまで、敵艦隊を全滅させた事も分かりませんでした。葛城曰く、全くいつも通りだったらしいんですけど」
らしい、だった、ようだ。
その言葉はどれも推測で、あまりに具体的ではなかった。加賀も戸惑っているので、鳳翔はもっと分からない。
ただし、加賀にとっては敵を屠るというのが、例えば箸を使うこと、言葉をしゃべることのように、無意識に出来るようになったという事なのだろうか。
―――馬鹿な。そんなわけない。
鳳翔は戸惑いすぎて、そんな一言も言えなかった。
加賀はその後もみくちゃにされた。無理もない、年端のいかない艦娘候補生にとって、加賀のようなベテランはまさしく憧れなのだ。
それこそ映画のヒロインのように映る。鳳翔にとっては不安げな、不安定な一人の後輩に過ぎないが。
敬礼をして帰るまで、加賀はアドバイスをしたり、相談に乗ったり質問に答えたりと、如才のない態度で候補生たちに接していた。
けたたましい電話が鳴ったのは、朝早くの事だった。総員起こしのすぐ後だったから、皆気づかなかったが、すぐ近くに居た龍驤が電話を取り。何かを話していた。
「はいはいこちら、呉鎮守府……なんや、自分こんな朝早く……ああん?加賀やんが……おい、もっと落ち着きィな……なんやて?」
龍驤の顔つきが変わるのを、鳳翔は見逃さなかった。
「分かった、飛ばしてく……お艦!すぐ準備して!」
「な、何が」
―――加賀が乱心した。
どうしたというのか、見当もつかなかった。鳳翔は佐世保に急ぐ海上で何回も何回もざわつく心を抑えようとしたが、どうにもなりそうにない。
ついこないだまであんなに楽しそうな顔をしていたのに。
今までなかった自信というものを、ようやく手にしたのだと思っていたのに。
なぜ、なぜ、なぜ。
答えは出ないまま、艤装を付けた鳳翔と龍驤は佐世保に入港した。
「あ!」
心配そうに周りを見渡していた艦娘が鳳翔と龍驤を見つけると、緊張していると丸わかりの顔で敬礼をした。
「こ、こんにちは!航空母艦葛城です!」
「挨拶は後や。状況を説明せぇ新入り!」
龍驤はイラつくようにそう言った。元来気が長い性質ではない。
古参の艦娘に怒鳴られた新入りの葛城は泣きそうな顔をしたが、何とか状況を説明してくれた。
加賀はいつも通りに起きて、天突き体操を終えた。
その後課業として、弓道場に行ったのだが、横に居た葛城はぎょっとした。
真っ青な顔、そして、何かを、失ったような、そんな顔。
―――ない。ない、どこに……。
加賀はそんなことを呟きながら弓道場での一射をした。
葛城はいつも間近で活躍を見ていた分、加賀のその後の醜態を信じられないような口調で喋った。
「全く当たらなかったんです。的から一番近い矢でも五センチ以上離れていましたから」
「ふーん。そんで、加賀やんは?」
「……あそこにいます」
「何や、そんならうちらに任せぇ。お艦行こうや」
龍驤が気軽に、葛城の指した小屋に向かおうとした。
「あ……、先輩」
「なんや、我儘なんやからな、加賀やん」
そこまで龍驤が言った後重い銃声がした。引き攣った顔で、龍驤と鳳翔は顔を見合わせた。
「……歩兵銃をもって立てこもっているんです。だから、皆参ってて……」
「先言わんかいボケ!」
龍驤は顔を赤くして、葛城を怒鳴り付けた。
鳳翔は冷静に考えていたが、こんなことをする意味は、何なのか分からなかった。
「龍驤さん、ちょっと私が行ってきます。どういう風になっているのか知りたいですし」
「は?いや、お艦、そらあかんで。加賀は興奮しとるし、下手こくと……」
「大丈夫です。大丈夫」
そう言うと鳳翔は小屋に近づいた。
「加賀さん」
「誰」
言葉少なだが、鳳翔には酷く気張っていて余裕のない声に聞こえた。鳳翔ですと言うが、返答はない。
「入りますよ」
「!、ダメです、撃ちますよ!」
「そんな、物騒な事言わないでください。ほら」
ドアを開けた鳳翔は、その数旬後に顔を歪めた。腹に激痛が走った。何とか前を向くと、目を見開いた加賀が居た。
「あ、ああ!あああああ!鳳翔さん!鳳翔さん!ご、ごめっ、ごめんなさい!わ、わたしそんなっ!」
かすれる視界の中で最後に見たのは、待機していた龍驤を初めとする艦娘に組み敷かれる加賀の姿だった。
目を覚ました時、傍には龍驤が居た。長丁場になったわ、と愚痴ってはいたがしっかりと看病してくれているのだから、面倒見のいい人だ。
龍驤は、伝えづらそうに答えた。加賀の事情聴取に同席していた彼女は、加賀の異常ぶりを目にしていた。
「鳳翔さんはどうなりましたどうなりましたうるさくてなしゃあないから切り上げたんや。なんやったんかな、何かを無くしたもう戻らない、て言うとったで」
「……何か、とは」
「知らんわ」
それだけ言うと龍驤は部屋の外に出ていった。出張が長引いた。そんな事を呉に伝えるのだろう。
鳳翔はベッドに寝転んで、この事態をどう持っていくことが正しいのか、考えていた。
加賀は結局一週間の飯抜きと山ほどの始末書、その上一月の外出禁止を言い渡されたらしい。本当なら予備役にでも行かせるのが筋なのだろうがどうか勘弁してくれ、あいつは佐世保の大黒柱だ。そういって気が弱そうな提督は悩ましげに鳳翔に伝えた。
「それは良いですけど……」
「そうか、すまないな」
敬礼して踵を返した提督を尻目に、鳳翔は加賀の元に向かった。
加賀は独房に居た。独房の外から声をかけると生気のない声が返ってきた。
「鳳翔です、良いですか」
「……!」
ドアを開けると、加賀は鳳翔を絞るように抱きしめた。顔はクシャクシャで凛とした表情は全くなくなっている。
「ああ、鳳翔さん……ほんとうに、ほんとうに、すみませんでした」
「え、ええ。大丈夫でしたから」
それよりも、と抱き付いた加賀を離すと鳳翔は一転厳しい顔をする。
「どうして、こんなことを」
「……」
加賀の顔が歪んだ。言うべきか言わざるべきか。そんな逡巡が見て取れた。表情だけは凍り付いたように変わらないが感情は昂りやすい娘だ。すぐわかった。
「無くしてしまったんです」
それだけ言うと、顔を俯けて口を閉じてしまった。
無くした、何を、いや、もしや。
「神の域―――ですか」
ぴくりとした、当たりだ。
「……今日起きたら、何もかも無くなっていました。見える感覚も、当たるという自信も。全てを無くしてしまいました」
もう帰ってくれ、そんな態度で、加賀は俯いてしまった。
鳳翔はどうしたらいいのか分からず、酷く落ち込んだ彼女に何も言わないまま、外に出てしまった。
「加賀やんは魅せられてしまったんかもな」
帰りは電車だった。鳳翔の怪我では海上を進むどころではないとの判断だ。
その電車の中で、龍驤はぽつりとつぶやいた。
「魅せられた―――ですか」
「あれだけ努力して、神さんもそれなりに報いてやろうとしたんやろ。でもな、いつまでもおれんのよ、人間は神の世界に―――そんなものがあるんなら、やけどな」
龍驤は、外を見ながら寂しげに呟いた。
酷く煙っぽい通りだった。焼け落ちた街の道路はどこも砂利道で、其処を走る軽量の木炭トラックは全く人にやさしさを感じさせない排気ガスを出して走っていく。
空ばかりが青かった。そんな街を、私は歩いていた。海軍からの払い下げの復員服と背中に担いだリュックの中にある缶詰数個と毛布、これが全財産だった。
「惨め……」
周りにいっぱいいる人たちは、誰も彼も恥じ入るように下を向いていた。疲れている。誰も彼もが。
これが敗戦国、という事だろうか。たった一年前までは私は、駆逐艦娘としてちやほやされていたとは信じられない。
この国は、深海棲艦という化け物を従えた連合国に敗れた。国中が焼け野原になり、大柄な連合国軍の兵士は我が物顔で私たちの守りたかった国に居座っている。
ふざけやがって、いつかすべてを奪い取ってやる。
そう考える私だったが、その前にこの空腹をどうにかしなくてはならなかった。
焼け跡は、どこまでも続いていた。大勢の仲間が戦場に海底に沈んだ。そんな中でも私―――吹雪はなんとか生き残った。
とにかく何とかしなくては。なんでもいい口にノリをする方法を考えなくては。
「吹雪―――?」
後ろを振り向いた。私のような地味な女の名前を知っているのは海軍時代の仲間くらいしかいない。
長い髪に色素異常の薄い青みがかった色―――叢雲だった。お互い似通った格好をしていた。
「叢雲ちゃん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないわよ。復員局で名前を書いたら当座の日銭と缶詰渡されてそれきりだわ」
要は同じ穴のむじなだ。
「あはは……みんな同じなんだね」
「あんたも?」
「そう。これ見て。全財産」
「……惨めね」
負けた国はどこも惨めだ。当座の日銭の金だってインフレの今は紙くず同然だし、缶詰数個でどう生き延びればいいのだろう。
すぐそばで汚い格好の子供たちが連合国軍の兵士の周りをうろつき、ひざまずいて食べ物を貰っていた。
私の親は生きているのだろうか。いや、考えても仕方ない。そもそも口減らしで海軍に入れられたのだ。家に帰ったところで、そのうち追い出されるのが関の山である。
「このままじゃ、あのお仲間ね」
「これからどうするの?」
「どうするって……あんたはどうするのよ」
「家には帰れないから……叢雲ちゃんは?」
「ウチも似たようなものよ。お互いでしょ?あんたも私も似たような地域だったんだから」
冬にはどこにも行けない程雪が降り積もり、常に天候に怯えて暮らす農家だ。子供のうちなら何とか食わせてはくれたが、今はそうはいかないだろう。
「私は何か商売でもやろうかなって」
「あのね、武士の商法じゃあるまいし私達は素人よ。出来るわけないっての」
「そ、それはそうだけど……」
というか私達って、ついてきてくれるのだろうか。
「大体何をするつもりなの?私たちはガキだし、大人の人がやるみたいに春を鬻ぐ事は出来ないのよ?それでどうやってお金を手に入れるの?」
「で、でもでも。このままじゃあ……」
叢雲は溜息を吐いた。
「まあ、それは後でもいいわ、考えましょう。とにかく缶詰食べてから」
何のかんのといって、叢雲は面倒見のいい同期なのだ。口うるさいし口調はきついけれど、そこには相手に対しての気遣いで溢れている。
私たちは何とか靴磨きで生計を立て始めていた。両方海軍仕込みで機敏だし、靴磨きは上官や先輩のものをやっていたから慣れている。
「はい、上がりました」
「どうも、ほいよ」
中年の、酒臭いおじさんはそうやって紙切れよりいくらかまともになった紙幣を私に握らせた。
「こっちも上がったわ。オーバー、オーバー、オーケー?」
叢雲は隣で長身の、彫りの深い顔立ちの連合国軍の兵士の靴を磨いていた。いやらしい顔で覗いてはいたが、紙幣を渡して去っていった。
「あ、これ軍票じゃない。ちょっと、ウェイト!」
叢雲は急いで兵士の元に向かうとしっかりと話した後に今度は本物の紙幣を貰ってきた。軍票ではあてにならない。向うのでもこっちのでもしっかりとした金を貰うべきだ、と彼女は主張してやまない。
それは吹雪だってよく分かっている。海軍時代南方で軍が刷った紙幣で買い物していたが、終戦後火種以外に使い道が無くなったと聞いている。
仕事は暗くなる前に終わる。ああ、今日も疲れたな。
私たちはバラックに住んでいた。ひどく夏は蒸し暑く、冬は隙間風が吹く。
私も叢雲も、結局のところ食べなくてはならないという最底辺からのスタートだった。靴磨きは、夏は良いとしても冬は手がかじかみ苦しかった。
「イタタ……」
霜焼けになっても薬は買えなかった。精々が正露丸を買うのがやっとといった具合。それでも生き抜くためにはなんだってした。
「なにか考えないとね……」
叢雲が憂いを帯びたようにそう呟いた。食べなくては死んでしまう。夏の間はそこまで心配することもなかったが、冬の寒さはすなわち凍死につながる。そこここで倒れたまま何もできなくなったように目をあけたままの私達と同じくらいの年頃の子供の遺体が目についた。
そうしたとき、叢雲はせめてもの温情か目を閉じてあげていた。
強い人だな。吹雪はそう思った。
私なら、そんなことは出来ない。目の前にいた遺体は、明日の私の姿かもしれない。そう思うと、なんだか怖くなって目をそむけてしまいたくなる。
「吹雪」
叢雲は家に帰り付いた時に、私にそう声をかけてきた。
「あんたも気をつけなさい。案外天突き体操も悪くないわよ。おなかがすいたからってさぼっちゃだめだからね」
年長者のように、叢雲はそう言った。分かってるって、そんな風に軽く返す。
「ところで叢雲ちゃん、はい」
私は行李の中に入れていたものを差し出す。
「?何よ、これ」
叢雲は首をかしげていたが、渡されたものを確認すると嬉しそうな顔をした。
私が差し出したのはマフラーだった。薄手の復員服では風邪をひくだろうと思って、給料をこっそり貯めていたのだ。それに。
「クリスマスっていうんだよね。こんな日にはプレゼントだよ」
私よりも歳が下なのに、しっかりものの叢雲にはせめてプレゼントでもあげたかったのだ。
「こ、これ?高かったんじゃあ」
「まあ、闇市で買ったから少し高かったけど……でもいままでスフの酷いので寒かったでしょ?」
「で、でも……ああもう、あんたも良いの買ったんでしょうね」
「それがお金なくって……一つ買うので精一杯だったよ」
「なあっ!?馬鹿じゃないの!私のを買うくらいなら自分の……」
「いいからいいから。ね、これからもよろしくね。私はどうもうまくないし、叢雲ちゃんが居ないと困っちゃうもん」
吹雪は笑ってそう言うだけだった。
龍驤さんが私達の元を訪ねてくれたのは正月が過ぎて、もう二月になる時だった。
「やれんなあ。敗戦国っちゅうのは」
気楽な開襟服を着て、サバサバしていた龍驤さんは片手にコメを持って来ていてくれた。土産だという。
詳しくは語ってくれなかったが、闇屋で一財を成したという話だ。そう言う話は巷間に溢れているが、身を崩しやすいため強欲に身を任せてしまう事も多いから、潰れたという話も結構聞く。
「でも、これ」
コメを抱えて私はニンマリとする。今時銀シャリなんて何処に行っても高くて買えない。困窮の底にあるような私たち二人にとっては蜘蛛の糸に等しい救いだ。
「ああ、ええんよええんよ。なんせ腹が減るやろう。二人ともポリの目盗めるほど器用やないやろうから」
その通りだった。実際儲かるからとか腹の足しになるからと、数少ない財産の毛布なんかを田舎に持って行ってコメを分けてもらおうとはしたのだが、晴れ着を何枚か持って行ってようやく一升二升のコメだと聞いてあっさり諦めていた。
「育ち盛りなんやさかい、よーけ食わんとな。今日びろくでもないガキばかりやし、気いつけえよ」
実際私たちのバラックの近くにもそう言った子供たちはいっぱいいるのだ。
敗戦国、というのはそんなものなのかもしれない。もうすぐ半年たつが、復興の目途は立っているのかどうか。
「そういや知っとるか」
「何を、ですか?」
「いや。呉でな」
龍驤さんは今、呉に居るらしい。駆逐隊だった浦風や、葛城さんなんかと組んでいると聞いた。
「どうも雪風を見たという話でな。ほれ、あいつ南方での」
「ああ、それは聞いてたわよ。何でも今復員の手伝いをしているとか。軍は解散したんじゃなかったの?」
お茶を汲みに行っていた叢雲が三人分の湯呑を出した。湯呑といっても焼け跡からかっぱらっていったものだが。ちなみにお茶も龍驤さんの差し入れだ。
「阿呆。世界中に日本人は散らばっとるんや、その人らを日本に返さないかんやろ?ウチも打診がきたで。まあ缶詰と毛布渡してほっぽらかしたトコに未練ないから無視しとるけどな」
馬鹿らしい話だと思う。どこへなりと行きなされと言った後に、復員業務に参加しろと来た。ブレブレの体制に苦笑してしまう。
「ま、葛城やらが行ってくれて、あれこれ持って来てくれるから闇屋もなんとかやってけるんやが……ええと、どこまで話したかな……せや。雪風やった」
雪風、あの出っ歯の可愛げのある顔をした少女を思い出す。
「行方不明らしいで。どっか消えてしもうた」
「消えた―――ですか?」
「おうよ。横須賀の、ああここに行くと言って以来行方知れず」
ここである。少なくとも見かけてはいない。
「探してみたいとは思うとるんやがな」
見たらここに手紙でも書いてくれや。龍驤は郵便局の私書箱の住所を書いて渡してくれた。
敵機が真っ直ぐにこっちに向かってくる。突っ込んでくるそれを、私は何もできないように突っ立って眺めていた。
直後、爆発音と破裂して飛散するのは、私の肉体、そして―――
「……なんて夢なの?」
ボヤキだって出てくる。ろくでもない夢だ。
兵士や軍属だった人は、過去の強烈すぎる経験を夢に思い出してしまうのか、こうした嫌な夢を見ることが多いと聞く。
それにしても―――嫌な夢だ。
「……ん」
寝起きだったが、叢雲はいなかった、きっと外に出て今日の用意をしてくれているのだろうと思う。いなくてよかった、と思った。こんな夢を見て感覚を共有するのは御免だった。
闇市がたつのは駅前だとか盛り場の近くだとかに決まっている。人が集まるし、自然何かしらを交換するとなると金が発生する。
そこには半年前まで鬼畜米英と恐れられた連合国軍の兵士も混じっている。人間とは順応の速い生き物なのだろう。
「知っているかい、お嬢ちゃん」
近くで米軍横流しの物品を売っていたおじさんが私にそう話しかけてきた。ヒロポン漬けの人だが、悪い人でもない。薬が切れた時には近寄りたくもないが。
「何がですか?」
靴磨きの道具を取り揃えて座っていた私は、さほど興味もなかったが、少し話に付き合う事にした。
「なんでも連合国軍の兵隊さんがよく死ぬのだそうだよ」
「よく死ぬ?それはまた、どうしてですか?」
「さあ、其処だ。何故か死んでいるってわけじゃないんだ。どうも殺されているらしいんだな、これが」
「こ、殺されて、ですか」
少し驚いたが、それだけだ。腹が空いただの、気にくわないだのといった理由で人を殺す人だっているすさんだ世の中だから、もつ感想もタンパクになる。
「ほら、あっこのMP、えらくそわついているだろう。寝首を……」
「おっさん、だべってないであっち行きなさい」
叢雲だ、ひどく気に障ったような声でおじさんを威圧した。
「な、何を」
「言ったわよね、話しかけないで、って。どっか行きなさい」
「む、叢雲ちゃん」
私は動揺したように話しかけるとこちらも睨まれた。力関係は歴然だ。
「あんたもあんたよ。こんなのに話しかけたらだめ」
それだけ言うと私の手を引いて違う場所に向かった。
叢雲ちゃんは、薬が嫌いだ。
ヒロポン中毒者はその最底辺にあたるらしい。
米兵―――連合国軍の中で私たちのいる横須賀を我が物顔でのし歩いているのがそれであり、強権の持ち主だ。
よくよく注意してみると、確かに何処とない居心地の悪さを感じているような顔をしているような―――そんな気はした。
それから何日かたった、銭湯の帰りの事だ。銭湯といっても焼け残りの集まる場所だし、私達では行けて月一程度だが、小気味よく帰り道を歩いていた時の事だった。
半年前まで何回となく聞こえた声―――悲鳴だった。
「吹雪」
叢雲が声を潜めた。
行くなと。首を突っ込むなと。彼女の目がそう言っていた。
私だって分かっている。行くべきではない。行った所で何の利益もない、むしろ碌な目に合わないことくらい分かっている、はずなのに。
私は悲鳴の方向に駆け出していた。理由なんかない。言うとするなら。
嫌な予感がした。
悲鳴がしたのは路地裏だったらしい。暗い明かりのない路地の中で、ぐにゅぐにゅ、といったわけのわからない粘着質な音がしていた。
「吹雪!あんたっ」
叢雲が肩を掴んだが、それを気に出来ない程、私は目の前の光景から目が離せなくなっていた。
小さな女の子の背中が見えた。だいたいこういったのだけならば珍しくない。米兵にも変態はいる。
女の子が上に乗る状況でなければ。
彼女は忙しげに右手を振り回していた。その手が私からは見えない奥に突かれるたびに、くぐもった声とぐにゅぐにゅとした音が聞こえた。
「ふ、吹雪」
叢雲も気づいていた。肩を強く引いて私をここから去らせようとする。逃げたいのだろう。
私は―――逃げられなかった。
ねえ、なんでなんですか。なんであなたが、こんなことをしているんですか。
答えてよ、雪風ちゃん。
「ああー……」
呻き声を上げて、雪風は上を向いた。
「見られては、駄目ですね」
ぐるりと振り向くと、私たちに雪風は近づく。来るな、止めろ。
雪風の片手には、血でてらてら光る銃剣があった。昨今どこにだって転がっている、闇市を一回りすれば誰だって手に入れることが出来るのだ。
雪風は焦点の合わない目をこちらに向けている。叢雲は必死に私の手を引いていた。
私は、目が離せない。近づく雪風から目をそらさない。
「なんで」
雪風は逃げもしない私を。動揺した目で見ていた。
「なんで、この国の人たちは、ここんなに卑屈になっているんですか。戦って戦って、必死を尽くしたのに、どうして」
雪風は、そこまで言って目を見開いた。私だと気づいたのだろう。私が呉に居た際、少しだけだが一緒だった。
「雪風、ちゃん」
「吹雪さん。なんだ、こんなとこにいたのですか」
気安げな声を出しているのに、なんでこうも怖い顔をしているのだろう。
「雪風」
叢雲のうめくような声が聞こえた。明るみに出た雪風の顔は酷いものだった。髪はぼさぼさ、顔には血が塗られたようになっていた。
「叢雲さんもいたのですか。なんだか同窓会のようですね」
こんな同窓会あってたまるか。
「ねえ、叢雲さん吹雪さん。今、私は呉で復員をしていました。今でも海軍はあるんですよ」
「……しってるわ、龍驤さんが言っていたもの」
「それなら話が早いです。それならあなたたちだってわかっているじゃないですか」
何をだ。
「皆死んでいきました。陽炎姉さんも不知火姉さんも。みんなみんな。なのにそんな過去があった事も忘れて、皆鬼畜とまで言われた人に尻尾を振ってます」
こんなのに。といって雪風は転がっているソレを蹴った。
ソレは米兵だった、首元には突き刺した後があった。
「こいつらを殺すのなんて簡単なんですよ」
―――あそこのご飯は美味しいですよ。
そんな風に言っていた雪風の口から同じような調子で、残酷な事を何食わぬ顔で言う雪風は笑っていた。
「それなのに、皆怖がるように目を反らして怯えてます。もしくは今までより良くなったと迎合までしています」
雪風が一歩近づいた。
「それなら」
また一歩。
「姉さんたちは、妹たちは、何のために死んだのですか。こいつらの横暴を許すためですか」
教えてくださいよ。
私たちは何も言えなかった、喉の奥でねばねばしたものがうごめいていて言葉が出てこなかった。
「わ」
叢雲の震えた声を私は聞いた。
「私たちだって妹や、仲間を失ったわよ。で、でもっ。こんなこと」
「そんな事、聞いてませんよ」
雪風の身内だった不知火と影牢は、戦争中期に亡くなった。お互い艦娘だったが、海上護衛の最中に敵機からの爆弾で轟沈したのだという。
「誰もが諦めています。なら」
雪風は私まであと一歩というところまで近づいていた。
「私だけでも、戦っていいじゃないですか」
「吹雪!」
叢雲が私の居たところと入れ替わるように動く、雪風が銃剣を差そうと動く。
重い破裂音が響いた。叢雲の握っていたモノ―――拳銃からの音だった。
雪風が驚いたような顔をしながら倒れていった。
「……あんたにもらったマフラーのお返しに、と思ってたんだけど。これがこんなところで役に立つとはね」
叢雲は顔を歪めながら答えた。
「む、叢雲ちゃん」
けがはないようだったが、雪風を見続けていた。私は近づいて雪風の様子を伺った。
血だまりが出来ていた。足に当たったのか、滴っていた。
「う、うう……」
気が遠くなりかけているらしい。叢雲を説いて、私は雪風を連れていた。
通り一遍の手当てをすると、失神したままの雪風は寝続けていた。
「いいの?」
叢雲は聞いたが、私はそのまま頷くだけだった。
「雪風ちゃんはさ」
私は口を開いた。
目の前の雪風という子供は、とても純粋な人間なのだ。素直にすべてを受け入れ、目の前にあった事にぶち当たりすぎてしまう。
彼女の中には一つの事しかないのだ。この神州を、この国を荒らす敵の駆逐と、姉や仲間たちの敵討ち。
私たちくらいになれば、そんな事出来るとも考えない。だが、彼女の純粋さはそれを可能だと考えさせてしまうほどのものだ。
「どうしていいか、分からなかっただけなんだと思う。ほら、今までお姉さんや司令官に囲まれて、守りながらも守られても居たからね……」
「そんなのは私達だって」
「ううん、違う。私には叢雲ちゃんがいたし、叢雲ちゃんは……」
恥ずかしくなって口を噤むが、そういう事だ。
「ともかく、そういう事だよ。だから起きてくれたら……」
改めて話し合って、浦風に頼むのが筋だろう。龍驤への手紙も書かなくては。
雪風は先ほどまでの黒い笑みが信じられない程、穏やかな顔をしていた。夢の中では、姉たちとまた出撃しているのだろうか。
「吹雪」
叢雲が私の後ろから肩を掴んで引き寄せる。ちょうど尻餅を尽いたような態勢になった。叢雲は膝立ちで私の背を支えている。
「……私だって、あんたが居なかったら」
聞こえたのは、それだけだった。
眠たい。
私は今、無性に睡眠をむさぼりたかった。それも、この今ののフローリングの上じゃない。寝室にあるベッドの上でだ。
「ああ……眠たい」
だというのに。
私の睡眠欲は、この固いフローリングの上でも心地よく感じてしまうほどだった。
「おい」
何か声が聞こえる。幻聴だ。ここには私以外居ないのだから。
「起きなさい」
しつこい、早く寝かせてくれ。
「瑞鶴先生」
低い、低空飛行を思わせるような通りの良い声で私の背筋も強張った。今、この姿を一番見られたくない人の声だった。
私は自分の身体の力を総動員してなんとか起き上がる。目の前には、冷淡な顔をした一人の女性がいた。
「おはようございます」
彼女との付き合いは長い。海軍時代からの付き合いだからもう八年近くに及ぶだろうか。もちろんずっと一緒に居たわけではない。何年かの空白込みでの時間だ。
「おはようございます……か、石川さん」
「随分だるそうだけれど……大丈夫かしら?」
まあ、とだけ返事をするとフローリングで正座している彼女をテーブルに案内した。
私は当時艦娘というものをしていた。言うなれば海軍の新兵器の搭乗員のようなものだろうか。たった一人の力で艦を動かすというものだ。
たった一人とは言うが、実際は微妙に違う。私たちは艦橋で指揮をとる。指揮に従うのは妖精と呼ばれる生物だった。
それがなんなのか、私には未だわからない。別に分からなくてもいいだろう、原理がよく分からなくても動いているものはいっぱいある。飛行機とか。
彼女は私の先輩だった。一期上で仮とはいえ中尉の階級を持っていた。
「あなたが新入り?」
今でも同じだが、当時からとっつきづらい態度は相変わらずだった。最初は面食らったものだが、慣れてしまえば何という事はなかった。
私が徴兵された一年後に戦争は終わった。何人かの同期は亡くなったが、全体的には少ない被害だったという総評だったと思う。
彼女も―――加賀も生き残っていた。私も何とか復員することが出来た。
復員するとともに困った事になった。職がないのだ。
艦娘の経歴は職歴にはなったが、それは一応機密だったので私の経歴は海軍短期現役満了とだけ記されていた。
仕方なく、私は日雇いや旅館の仲居などのバイトはこなしていたが、それが長続きするものではないとすぐわかった。どうにも私はガサツで器用ではないのだ。三年の月日にわたって払い続けられた軍人恩給がストップしたとき、ようやく私は次の職探しに本気になった。
実に、実にありがたいことだったのだが、私の職はあっさりと決まった。いや、そうなったというべきだろうか。
元々私は小説を読んだりするのが好きだった。そこで一丁今度は書いてみようとしどこかの賞に応募したのだ。
それが受賞し、私は昨日までの無職から一気に小説家までなりあがったのだ。
初めて通された出版社の部屋は小奇麗で、中々新鮮な気分になったものだ。少し太めの偉いであろう人の挨拶に相槌を打ったりしているうちに、出版と契約の話になった。全く有難い事だ。
「それででしてね」
出版社の偉い人だろう彼は話し始めた。かいつまんで言えば、この先も本を出してくれないか、という。
出版は不況だと聞いていたが、どうもこの人は感で動く人のようだった。
「あなたの本はうれる!と思ってはいるんですよ。でも残念ながらこの会社は小さいですからな」
小奇麗だった部屋だが、ビル自体は確かに小さい。
「そこで売れる本をウチが出せば万々歳です。あ、失礼失礼」
私こういったものでしてね、と彼は私に名刺を渡してくれた。取締役と書いていたから、思った以上に偉い人なのだ。そう思った。
「まあ、早い話、こういった契約を持ち出すのも、あなたの才能が抜け出ているからです。いや有難い」
はあとかふんとか適当な相槌しか挟めないような賞賛はいただいたが、結局この人がどう話を持っていきたいのか見えてこない。
「すみません。私はあんまり勘が鋭い方ではないので単刀直入に言ってくれませんか?」
「ああ、失礼しました。ちょっと待っていてくれますか?」
取締役は部屋の外に出ると、ちょっともしない内に帰ってきた。傍らにはスーツを着込んだ女性がいた。
「彼女をつけますので、協力して本を書いてください。という事です」
そこからの話は私の耳には入ってこなかった。
「……」
「……」
この有様だ。両方口を開かない。どうにも気まずくて口にコーヒーを含んだ。
「瑞鶴」
コーヒーを二杯ほどお代わりしたとき、ようやく女性は口を開いた。
「久しぶり、ね。まさかあなたが小説家になるなんてね」
「加賀さん」
目の前の女性の名前を口にした。
「あなたこそ……」
「私は普通よ。あそこに就職しただけ。小さい会社ではあるけどね」
控えめな人だから、主張が少ない。その分大手には縁のない人だとは思っていたがその通りのようだ。
「それよりあなた」
ゲラを机の上に投げ出す。
「案外文章になっているわね。びっくりしているわ」
「は、はあ。恐縮です」
この人は果たして褒めることなんてあるのかと思ってしまうほど、他人を褒めない人だったから私の方がびっくりしてしまっている。
「でもね。言いたくはないけど、直さないといけないところはいっぱいあるわ。表現重複も多いからしっかりね」
上げて落とされるのは、それはそれでキツイ。
「取りあえずは一作出るのだし、問題はその後からね。一作だけ世に出す作家は珍しくないわ。問題はその後よ。次どんな本を出したいのか。それをあなたに聞いてわたしが問題を訂正する。それで行きましょう」
海軍の頃より気さくな調子で加賀はこの話し合いを終了させた。
加賀は生き生きとしていた。軍人を辞めることになった際私は正直に喜びをあらわにしていたが、彼女はそこまで喜んでいるように見えなかった。先輩だからこっちは傅く必要もあったし、何かと新入りに厳しい世界だ。そのせいかさっさと終わって後輩が出来なかった寂しさを上回って、この状況からの解放が嬉しかったのだ。
加賀はどうだったのだろう、無表情だったからとっつきづらさもあってほとんど接していなかった気がする。
「でもなあ」
新作かあ、と口の中だけで愚痴る、そもそもそんな構想なんてしていないのだ。あれは言ってしまえば手慰みである。ここまで大したことになるとは思ってもなかった。
「どうしたもんかねー……」
手の中にあるペンをぐるぐる回しながら考える、メモ帳に適当な言葉を連ねては消していく。
私の家はアパートだ。どこぞの苦労譚に出てくるような塩梅だと思ってくれたら分かりやすい。退役して借りたアパートだが、不動産屋に同情されるほどぼろいものだから掃除が大変だ。
姉は実家に帰って来いとは言ってくれる。艦娘を辞めて故郷の旅館を継いで若女将に収まった姉は昔同様気にかけてくれているのだろうけど私自身はあまり帰りたくなかった。姉には感謝しているが、心配をかけたくなかった。後はイマイチ疎遠なので帰り辛さもある。
「ま、頑張ろう」
私はまたメモを書き連ねた。
「面白くないわね。やり直し」
「ちょっ……」
小部屋に通された私の前に書いてきた原稿が投げ出される。メールで送った文章をプリントアウトしただけのシロモノだが加賀は雑に投げ出して、問題のある点を指摘し始めた。
「いきなり、そんな」
「面白くないというのは語弊があったわね。分かり辛いの」
特にこの辺が。
加賀が指さした先には赤いペンが入っていた。
「この辺りは表現重複が多すぎてダメ。あとは……そうね。難しい言葉が多すぎれば、ハードルは上がるわ」
「といっても……意識してはいないんですけど」
「じゃあこれ、瀑布。この文字を見て連想するのは」
「滝でしょう?当たり前じゃないですか」
「だから、そこよ。普通の人はなかなか分からないの。うちの出す本のメインターゲットは中高生よ?」
「ああ~……」
成程ね、と私は頷いて取りあえずはゲラを見直した。
だいたい大まかな流れはこのままでいいようだ。いけないのは表現と蛇足的な部分の削り、誤字脱字、それだけだった。
「基本はこのままでいいわ。あなたの場合キャラクターは生き生きしてていいんだけど、そのストーリーはまだまだ詰めれると思うわよ」
「そうですかねえ」
どうも海軍時代の印象が強すぎてこの人の饒舌さが気にかかる。抑揚があまりつかない喋り方だから責められているように感じられ、この人は苦労していたんじゃないのかな、なんて考えたりした。
「ま、頼むわよ。瑞鶴先生」
あとね、と付け加えた。
「私はもう加賀じゃないの。本名に戻したから。これあげるわ。出来たら電話して」
渡された名刺には、加賀ではなく石川と書いてあった。
中高生向け、とは言われても私自身は結構迷ってしまう。大体中高生向けの作品ってなんだ。刺激物か?スリル目当てで万引きする連中にはそれがいいのか?
私はメモ書きを書いては消し書いては消しという行為を続けていたが、それが二、三時間に及ぶと気が狂いそうになったので外に出た。
海に近いこの場所は潮の香りがしてくる。磯臭いと言われるこの匂いが私は好きだった。もっとも住居はぼろくなるのはこの場所が原因なのだろうが。
気分転換を目的に砂浜に沿って作られている道路を歩く。こもりきりで仕事をするのはやはり窮屈で、歩くというのは大切な事なのだと痛感する。このままじゃ運動不足になりかねない。というかもうすでに関節が痛くなっている。
「中高生ねえ」
悩むふりをしながらぶらぶらした。加賀から聞いた話だと今度の一本と賞をとったのを合わせて一冊の本にするのだという。小さな出版社だから文庫で出すつもりなのだそうだ。
「有難い、のかなあ」
そう呟きながら、私は散歩をつづけた。
有難い。そう、有難いに決まっている。家賃を払う事に悩まずに済むし、何より私は皆と上手くやれない。ガサツで、相手を怒らすことばかり上手い。だから一人でやっていける小説家という仕事は天職なのだろうが、それだけで食っていけるのかまだわからない。
「不安だわ」
呟きながらの散歩は、案外性に合うのかもしれない。
「早いわね。一つの才能かしら」
数日後、アポを取って出版社を訪ねた私を、加賀はそういって出迎えた。
「あはは……今のところこれしか仕事がないもので」
「ああ、成程。では」
目の前の加賀は黙ってページをめくり始めた。
私の小説というのはコメディだ。いや、そうしたいと意識してかいているというべきか。今のところ加賀が笑ったところを見たことが無いから、そうではないのだろう。
加賀は静かにゲラを読み進めている。私はその間、なんとも居心地の悪さを感じつつ小部屋を観察していた。
清潔感を感じさせる部屋だ。この部屋のあるフロアは狭く、この小部屋も応接室的な使われ方をしているのだろう。考えてみれば結構な扱いなのかもしれない。そこらの喫茶店で応対されても、私は構わないのだが。なんならパテーションで区切られたフロア内でもいい。
加賀はゲラを纏めると、溜息をついて私の手元に戻した。
「いいわね。これで行きましょう」
予想以上に早くOKが出たので不審な表情をしてしまったのだろう。加賀も怪訝な表情で返してきた。
「……何?そんな顔されるのは嫌なのだけれど」
「あ、ああ、いえ。随分あっさりとOKが出たものですから。てっきり延々ダメダメ言われるもんかと思ってましたし」
「失礼ね。私だってこれが上手く行けばボーナスが少し増えるのよ。あなたをいじめるのは簡単だけどうまみがないわ」
酷い事を言うな。資本主義者め、とでも言ってやりたいが、こっちも金を貰っている立場だ。そのうちならともかく、今のうちはそこまで強く出れない。
「うまく描写は出来ているし、まずまずこんなものでしょう。嫁ないものを出された日には破り捨ててやろうと思っていたけど、そうならなくてよかったわね」
「あははは……」
苦笑いだけが出てきた。自然に笑える分、海軍時代より大人になったのかもしれない。
「それでね」
彼女は淡々とした様子で喋る。静かで淡白な様子から、彼女の口は重く見られがちだが、それなりによく喋る。ただ社交性が普通よりやや少ないだけで、話さない訳ではない。
机の上には各種の書類が並んでいた。私はその書類をよけてコーヒーを置く。
「ありがとう」
一度話を切って彼女はコーヒーカップに口をつける。何処となく、大人という感じがした。
「案外悪くないモノね。ここで飲むコーヒーも」
「お口にあって幸いですよ」
軽口をたたきながら、私も席に着く。
「こないだ持って来てくれた原稿。うちの雑誌に載せるわ。少しは話題になってくれればいいけど」
「あ、そうですか」
加賀は契約書を差し出して、何かにと説明を始める。ふんとかはいと言った相槌を挟むが、結局よく分からない。加賀の事だからよろしくやってくれるとは思うが。
「まあ、ここからどうなるかは分かんないですよ。よろしくお願いします」
「善処するわ。これからもよろしくね」
小説はそこそこの話題をさらったようだ。もちろんテレビで特集されたとか、ネットで話題になったといった話ではないけれど、とりあえず重版がかかって少しばかり懐が暖かくなった。
なんとはなしに喫茶店に向かう。懐が暖かいうちに何か良いものでも食べようかな、なんて考えている。
「あー……これとこれを」
かしこまりました、とウエイトレスがお辞儀をした。
なんだか最近、眠たいのだ。きっついコーヒーでも飲まなくてはやってられないという気持ちもあった。
すぐに届いたコーヒーをのどに流し込む。なんとなく加賀の事を思い出した。
あんな飲み方、出来るかな。
少しだけ考えて首を振る。出来るわけない。多分。
苦笑いを浮かべた加賀が家に来た。大掃除の最中だったから私の格好はだらしない。
「お邪魔だったかしら」
「まあ、その。何です。あそこ行きますか」
あそこというのは、私が行きつけている近所の喫茶店だ。濃いコーヒーと甘ったるいチーズケーキが売りで、私はよく利用している。
「そうね」
加賀は素っ気なくそう答えた。
「これ」
加賀は試し刷りだという私の小説を持って来ていた。誰かは分からないが、作品の内容に沿った写真と、作家名作品名が入れられている。私はそんな彼女を尻目に適当な注文を済ませた。
「コーヒーで良いですか?」
「ええ」
やり取りを終わらせると、私は本を手に取る。文庫本で軽く手に取れる。馴染みがいい。
「私はそれなりに良いものが出来たと思っているわ。それとこれ」
封筒を渡される。何だろうと思ったら中にはお金が入っていた。
「これは?」
戸惑う私に、彼女はいつもの淡々さで答える。
「お金。初版の分。本当は振り込みなんだけど、あなたの口座番号聞いてなかったし、直接手渡しなさいって編集長が言ってたから」
「ああ、そうなんですか」
つまりこの本の面倒事を全て加賀がやってくれたのだろう。なんだか申し訳ない。私がやった事は文章を書いて直しただけだ。
「印税ってやつですか」
「そういうやつよ。心配しないで税金と私の手間賃は抜いてあるから」
「おい」
「冗談よ」
抜いたのは税金分だけ。
そう言う加賀は全く顔色を変えないで冗談を言うから、分かり辛い。
なんだかわからないままその封筒の中をこっそりと確認する。およそ十万円だった。今月の家賃くらいにはなる。
「うらやましいわ」
加賀が呟くと同じくしてウェイトレスがコーヒーを持ってきた。
「なんですって?」
「羨ましい」
はっきり聞こえる囁き声。加賀の声を評するとそんな矛盾したものになる。
私はすぐにそれを聞き返さず、コーヒーを啜った。ブラックコーヒーの売りはすぐに目が覚めるこの作用だと思う。お茶請けは無いから口の中が苦い。
「どうにも……大した才能とは自分で思ってないんですがね」
皮肉っぽい言い方になったかな。そんな反省をしてみるが、どうでもいい。自分自身、そう思っているのだ。
なにせあれはどこまでも手慰みなのだ。適当に考えた物語を適当に書き下ろし適当に見直して適当な賞に出した。加賀が居て、適当ではない直しが加えられたのが、唯一のちゃんとしたことだろう。
「大した才能……ね」
加賀は胡乱な目で応じた。
彼女は、どう思っているのだろう。国を護るためとはいえ、最前線で命を散らした仲間が居る。その中で生き残った、といった罪悪感は、新兵だった私にもあった。
そんな日々はすでに遠くなったとはいえ、くさびのように引っかかっているのだ。
「私には無縁だわ」
俯いて答える彼女には劣等感に似た感情が浮き彫りになっていた。
知っている。
彼女は、冷静なように見えて、実は劣等感の塊だと。
コンプレックス、といえば近いのかもしれない。彼女にとって、空母という存在の自分自身が劣等感の呼び水になったのだ。
元々加賀は戦艦希望だったのだという。
戦艦は花形だ。目立つし、カッコイイ。私からすればカッコイイ空母は、片手落ちの存在らしいがよく分からない。
そのセンバツに加賀は落ちた。空母になるのも難関だったが、その難関をあっさりパスした上に劣等感まで抱くのだから、贅沢な話だ。
「無縁なんかでは、ないと思いますけど」
「……本当に?」
「嘘ついてどうするんです」
「そうね……でも、あまりに私は間抜けだわ」
加賀は悟りきったように横を向く。寂寥とした横顔にどきりとする。
「間抜け、ですか」
「間抜けね……あの戦争が終わって、私はどうしていいか分からなかった。故郷の村に帰って歓待を受けても、どこか空気のようにスカスカだったわ」
気持ちなら、それは分からない話でもなかった。極度の緊張を強いられる日々を送り続けた軍人が、平和になった途端足元がおぼつかないというのはよく聞く話だ。
「二年間。何をしていいのか分からないまま過ぎていったわ。挿絵画家をしたり、ウェイターをやったりしたけど続かない。そのまま過ぎていくのかと思ったら、怖くなったわ」
「怖い……ですよね」
「あなたも?」
「ええ。私も」
誰もが同じだったのだ。誰もが。
不安で、自分の在所証明のようなよりどころが欲しかった。小説に居場所を見出した私も、編集に遣り甲斐を感じている加賀も。
「小説に書いているでしょう、温泉街の仲居」
「ええ、それもやったの?」
「まあ。姉が旅館の女将でして。昔やったから出来ると思いましたが無理でしたね」
「なるほど。確かに」
どういう意味だ、と憤慨しそうだったが、彼女の顔が久々に笑顔だったので、抑える。
「やっぱりあなた。面白いわね」
「加賀さんもですよ」
「言うじゃないの」
お互いコーヒーを飲みながら軽口をたたきあった。
苦いはずのコーヒーが、甘く感じられた。
目の前の本、それは一時だけ男の癒しになるものだった。
【加賀】
「海の男というのはですね。溜まるらしいですよ」
「?」
入渠、というのは要するにお休みという側面がある。風呂に入って一服、大部屋でのマッサージなど、疲れをいやす意味合いが強いのだ。
「何が……ですか?」
加賀は首をかしげながら同僚である赤城に尋ねた。何がたまるのだろうか?貯金?たしかに使うところがない分、郵便口座の数字はだんだん大きくなっているが。
「やだなあ、加賀さんったら!」
南雲さんはまじめでしたけどねー、とだけ笑って赤城はマッサージチェアに向かった。
気にはなったが、加賀はそのまま執務室に向かった。最近大がかりな作戦行動があったばかりで執務室の煙草の吸殻などがそのままになっている。
提督、正しくは呉鎮守府第二艦隊司令官。階級は相当なものだが、実戦経験はまだまだ乏しいというのが、考課表からうかがえる彼の人となりだ。
加賀は、そんなパッとしない提督をどことなく気に入っていた。指揮はそれなりだったし、何より彼の真骨頂は前線での戦闘よりも後方の体制を整えることだった。実際この鎮守府に来てからというもの補給の不備を指摘したものは一人もいない。加賀自身も艤装の高コストを嘆いていたが、その高コストの補給をしっかりさせる提督の手腕を高く勝っていた。
加賀の手にはちりとり、ほうき、はたきなどがあった。掃除をするつもりだったのだ。先の大規模作戦では出撃を何度も繰り返し、提督は作戦や補給物資の用意、入渠手配などでろくろく執務室を開けずに頑張っていた。無論掃除などするひまもない。その結果、執務室はひどくだらしない惨状を晒していたのだ。
「汚い……」
お堅いと評される加賀の表情にははっきりと嫌悪感がにじみ出ていた。本人、意識はしていないが几帳面だ。いや神経質といってもいい。実際自室の本棚はきちんとしているし、何から何まで角をピンと立てたくなる性質も相まって加賀の部屋は生活臭のしない殺風景な部屋になってしまっている。
加賀は三角巾を頭に巻き、はたきで本棚や壁などの埃を落とし始めた。掃除の手順は上から下へが一番効率がいい。加賀自身は淡白だが、こうした一つの事を突き詰めるのが好きな性質もあって掃除の仕方にはよどみがない。
「さてと」
あらかたそれを終えると次は電灯周りだ。埃が溜まりやすいので一気にやってしまいたい―――のだが。
「……仕方ありません」
手がとどかない。加賀は別に小柄という訳でもないのだが、こればかりはどうしようもないことだった。
ため息を吐き、仕方なく加賀は執務室の椅子に昇る。あまり行儀の良い真似ではないが、やむを得ない。
しばらくはたきで蛍光灯の周りをはたいていたが、換気のために開けていた窓から風が入る。そしてその風が埃をまき散らして、その結果。
「は、は、ハクショッ」
可愛らしいが身体を曲げる勢いだったため、不安定な姿勢だった加賀のバランスを崩し――
「あ、あわわッ、ふぎゃッ」
回転式の椅子が回って、加賀は盛大に転んだ。
「い、いたたた……不覚だわ」
受け身は取っていたが、それでも痛いものは痛い。起き上がろうとして、加賀はふと執務机の下にあるスペースに目が行った。
「なにかしら?」
興味を惹かれた加賀はそこに手を伸ばす。
派手でけばげばしい見出し、淫靡な色合い。
吹雪のが見たいです。お願いします!
了解しました!すぐさま取り掛かります
リクエストに答えてくださってありがとうございます!
とても良いお話でした!
初めましてgyawaさん。
アニメオタクと申します(私はユーザ登録はしていません)。
作品を暇つぶしに読みましたけど、とても楽しかったです。
それで、SSで書いてほしいのがあるのですがお願いできますか?(ちなみに艦これはアニメで見た知識しかないです)。
提督が隠していたエロ本を偶然発見した加賀さん、金剛さん、大和さん、長門さん、愛宕さん、瑞鶴さん、それぞれの反応と提督に問い詰める言動を描いたSSをお願いします。
面白いです。続き期待です^_^
>>4了解しました、アニメの魅力的な艦娘たちを再現出来るように頑張ります
>>5 ありがとうございます!励みになります