ゲッダウェイ
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目が覚めた、暗いからまだ日の出前なのだろう。
こすってぼやけた目を覚醒させた。午前三時、いつもより二時間も早い起床だ。
「……また、あの夢か」
ここのところ―――いや、前々からずっと見る夢だ。海の上に立っている誰かが、私の名前を呼ぶ夢。
誰かは分からない、何処となく聞き覚えのある声なのは間違いないのだが、それが誰なのかは、分からない。
頭を振り払った。どうせ夢だ。関係ないに違いなかった。四畳半に敷かれた布団を畳んで、私は何となく置き始めていた。
私は、一つ悩みを抱えている。夢見の事ではない、それは些細な事だ。
記憶喪失―――と言う奴だ。
もちろん私は日本語をしゃべれるし、極々平凡な居酒屋店員だから、日常を送る上での不備はない。しかし普通の人と違うのは、昔の記憶が一片たりともないという事だ。
居酒屋のおかみさんに助けてもらったのは半年前、仕入れの帰りに砂浜に倒れていたのだという。それ以前に何していたのか、それが私にはサッパリわからないのだ。
最初に目に入ったのは、天井だった。ずきずき痛む頭を押さえ、私は起き上がった。
ずきりと左の半身が傷んだ、見ると―――左の腕が無かった、包帯を巻かれ肩口から先が無くなっている。
「お、目覚めたんだね」
聞き覚えのない嗄れ声が聞こえ、私はひどくびっくりした。襖をあけ、水呑をお盆に乗せた、日焼けした妙齢の女性がこちらを見ていた。
「あんた、倒れていたんだよ。ほれ、水。喉乾いてるだろ?」
思い出したように、喉がひりひりした。お盆の上の水を片手でひったくるように取って、むしゃぶるように飲んだ。
「げほっ」
咽るが構わず、喉に流し込んで、ようやく一息ついた。傍らの女性は笑ってまた水を持って来てくれた。
「あはは、随分旨そうに飲むんだね。ええと、ナカ、さんかな?」
キョトンとした。何のことだろう?答えなかったら、女性は覗くようにこちらを見ていた。ひっつめにして後ろでまとめた髪が左右に揺れる。
「……違うのかい?てっきりすぐそこに落ちていた小物入れにかいていたものだからさ」
ほら、と渡してくれた小物入れには確かにカタカナでナカと書いてある。
「……」
「ま、いいや。多分こう書くんだよ」
仲、と書いて女性は納得したようにうなずいた、何が何だか分からない。が、少なくとも名前だけは分かったのはいい事だろう。
「……あ、あの」
「お、やっと喋ってくれたね」
口が軽いこの女性は、大きな目をぐりぐりさせて私を覗き込んだ。それに圧倒されながらも、私は口を開く。
「そ、その……私、誰なのか、分かんなくて」
「ん?それは何だい?」
「その……自分の事、忘れたというか……」
「……ふーん、記憶喪失ってやつ?」
疑るように、女性は私の目に、鋭い視線を穿つ。
「……嘘じゃ、ないんです」
「みたいだね」
拍子抜けするくらいあっさり女性は言い放った。
「分かるよ、それは。ああ、ごめんごめん。わたしはこの町で居酒屋をやっててね、客商売やってるとどうしてもこんなふうに覗き込んじゃったりするんだよ。観念してね」
「そ、それは……こっちこそ、すみません」
「良いんだよ……ところで」
女性は胸ポケットから煙草を取り出した、すすめられたが断る。そう、と返されて女性はよどみない仕草で火をつけた。
「どうする?あてはあるのか……ってあるわきゃないよねえ」
その通りだ。現状分かっているのは自分の名前だけ、それ以外は全く何も分からない。覚えてない。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。急に不安になって俯く。
「ねえ、当てがないなら居酒屋手伝ってくれない?私も一人で切り盛りするの忙しいからさ。どう?」
女性は大きな目を近づけてそう言ってくれた。
「いいんですか?私片手ですよ」
「いいよ。ほっとけないし、医者に見せたのは私だよ。まあ出るときは言ってね。この手の記憶喪失っていきなり治るのが定番でしょ?それは困るからね」
「……はい」
それ以来、私は女将さんとともに居酒屋を切り盛りしている。夢を見始めたのも同じころだった。
内容はいつも似通ったものだ。女性が私の名を呼ぶ、そして手を伸ばして、答えようとしたとき、目が覚めるというものだった。あまりによく見るものだから、最近は手を伸ばさず、最後までだらだら見ることにしている。どうせ起きたくなれば手を伸ばせばいいのだから手軽な目覚まし代わりだ。
「おはようございまーす」
起きて最初にやるのは、店の前の掃除だ。女将さんは、職業柄非常に縁起を担ぐ人だから、店の前や店内はいつもピカピカだ。
「お、おはよう。早起きだね、助かるよ」
甚平で、寝起きだとはっきり分かる姿で女将さんは店の前の新聞受けを開ける。習慣らしく歯ブラシを口に突っ込んだまま開いていた。
「えへへ、なんでか目、覚めちゃうんですよォ」
「いい習慣だよ。このまま頼むよ」
やや不明瞭な声で、女将さんは身支度を始めた。今日も忙しくなりそうだ。
漁師の多い町だから、自然皆口が悪い。足板一枚下は深海への片道だから、文字通りの命がけだ。昼食を食べにくるお客も、そういった男性が多かった。
「おい婆、今日の日替わりはやけにしみったれじゃねえか、ケチ」
「ぬかせ、もっと金出せばたんまり出してやるよ」
売り言葉に買い言葉とは言うが、女将さんも、それに応じる漁師さんも、じゃれあいというかなにか気さくな雰囲気だ。
「なー、仲ちゃん。もっと言ってやってくれや」
「応じなくていいよ。仲」
「あ、あはは」
私は笑うしかない。余計な事を言って、下手に怒らせたら女将さんに迷惑がかかるし、それに大柄で威圧的な漁師さんはただでさえ怖い。
「ほらほら、さっさとグダまいていないで仕事いけ。もうそろそろ一回看板だ。次は夜に来てくれ」
「あのなあ、新聞見ていねえのか?最近海は荒れ放題で出ようがねえや」
「だからなんでここに居座るんだよ。とっとと出ろ馬鹿」
漁師さんを追い出して、女将さんは準備中の札をかけた。
「ごめんね、あんまり柄がいい土地じゃなくてね」
仕入の軽トラで海沿いの道を運転しながら、女将さんはそう切り出した。
「あの人もね。前までは腕っこきの漁師だったのよ。でも最近、深海棲艦とかいう化け物が出ているでしょう?」
「そうですね、聞いています」
深海棲艦という海の化け物のおかげで、漁師町は全く大不況だという話だ。新聞では大騒ぎだし、それは私だって知っている。
「艦娘さん?だっけね。その人たちが頑張ってくれるけど、安全を考えるとそうそう漁にも出れないからね。気ィ立ってるの。許したげてね」
「いいですよ。全然いい人だって分かってますし」
最初にあったとき、真っ先に左腕のない私を気遣ったような事を言ってくれたので、感謝の気持ちはあれど、嫌な気持ちになった事はない。
「この道路もさ。所々色が違うだろう?砲撃の後でぼこぼこだったからね、直したんだよ。小康でも完治にはならない、ってのは戦争が終わるまでは同じさね」
戦争、艦娘、の言葉、記憶がないのに、どこか引っかかる言葉だった。残った右手で頭を抑える。
「どうしたんだい?痛いの?」
「いえ、そうじゃないです」
大丈夫、と付け加えて、頭を振った。
仕入と言っても、大したものを入れるわけではない。酒は相当に消耗品だから入れるが、食材となると漁にも行けないから野菜中心になる。
一番人気のメニューは女将さんの作るロールキャベツだ。ちょっとの挽肉をキャベツでつつんで、ケチャップソースで煮つけたそれは、味の濃い事もあってお客さんの酒の肴になっている。
仕入から帰ると、ビールを店の中に運ぶ。片手で運びづらいが、なぜか私は怪力で、片手でビールケースを抱えることが出来た。なんでこんなことが出来るのだろう。女の、か細い腕だというのに。
「いや、助かるよ。この作業は年を取るときつくてね」
「全然、任せちゃってください。私これくらいしかできませんし」
「何言ってんだか。今日も期待しているよ」
女将さんは、そう言って笑った。
私には妙な特技があった。
一つは歌が上手くて、皆の前で歌う事にそれ程抵抗がないことだ。酔客相手に披露していると、狭い町だものだから話題を呼んでしまい、今ではそれ目当て来る人もいるのだという。なのだが、流石に私と同じくらいの子供が夜中の居酒屋になんて来ると、どうにもそぐわない気がしてしまう。
そしてもう一つ、どちらかといえば、こっちの方が私の役には立っている気がする。
マジック、とでもいえば良いのか、要するに奇術だ。何故か記憶を失っても、この手の得意な事は覚えているらしい。酔ったお客にも、そうでない人にも、狭い店内で楽しい思いをしてほしいと思い、半ば遊びで披露していた訳だが、カードマジックを中心としたネタを親父様方は他の飲み屋での話のタネにしたいのか、マジックの種を聞き出そうとして来る。それを引き延ばしたしすかしたりすると、売り上げにつながるのだからぼろいと言えばぼろい。
「なあ仲ちゃん、あんた一体何者なんだ?」
「さあ。私も知りたいんですけどね」
片方だけの腕を振って漁師さんの質問にもそう答える。そんなに大したものだったとは思えないが、確かに気にはなる。いつまでもべったりこのままとはいかないだろうとも。
「おーい、仲ちゃん。一曲頼むよ」
「はーい!それでは皆!仲ちゃんの美声を披露するよォッ」
マイクを貰って、ワクワクする気持ちを抑えず、私は歌い始める。歌っている間だけ、何か分かりそうな気がしていた。
翌日だった。片づけをしている内に日をまたぎかけていたので、女将さんはまだ寝ている。私は片手で箒を担いで店の前の掃除をする。たまに酔ったまま吐いてしまうお客さんが居るので辟易するが、居酒屋の宿命というものだろうと諦めていた。
「あ、新聞」
気まぐれだった、箒を傍らに立てかけ、折りたたんだ新聞の一面だけを読む。戦争中というご時世だから書いてあるのは専ら戦況の事だ。
一面には、綺麗な少女の写真が載っていた。川内……かわうちと読むのだろうか。その娘の笑顔が載っている。
かりり、と頭の中で音がした。なんだろう?この感触は。私は、この娘を―――知っている?初めて見る顔のはずなのに。
不思議な感覚だ。デジャヴ、というのだろう。
違和感は続いた。その大きな写真の傍らにまたある顔写真―――那智という艦娘の写真にも目を奪われた。間違いない、私はこの娘たちを―――川内と那智を知っている。
ハッとなって、私は新聞を元に戻した。馬鹿な事を思っているんじゃない。知っている?知ってて当然だ。四方を海に囲まれたこの国を守る守護天使たち。下手な有名人より有名な娘を知っていないなんて、もぐりに違いない。
「お、おはよう」
びくっと肩が上がった。
「お、おはよう、ございます」
「な、なんだい?どうしたの?元気ないじゃないか」
女将さんは不思議そうにこちらを見ていた。無理もないか、いつも無駄に元気な私を見ているのだから。
「何でもないです、キャハ☆」
「……若いねえ」
おどけた私に、目を細めて女将さんは言った。そういえば何歳なんだろうか、この人。目が大きいものだからおよそ若く見えるが、娘と呼ぶほど未成熟な感じはしない。
「まあいいや。取りあえず、今日は休みだよ。ゆっくりしておいで。たまには大事だよ」
「あ、はい」
この店は花金から日曜はフル回転だが、それ以降の、たとえば月曜日なんかは休みになる。どうせ週初めに金を落とすお客なんていないからというのが、女将さんの持論だ。
「じゃあ少し、出かけますね。せっかくですし」
「はしゃぐのはいいけど、行き過ぎはダメだよ」
釘を刺されて、たははと笑う。寝間着の甚平を着替えて、私は外に向かった。
海風が気持ちいい。海に向かうと、誰もいなかったのがまた良かった。
この砂浜に私は倒れていたらしい。片腕が無く、やけどと切り傷だらけの酷い有様だった、と女将さんは言っていた。ついでに左腕もなかった。止血の技法が施されていたから壊疽も感染もなかったのだと聞いている。
どうして、私は流れ着いたのだろう。何をしていたのだろう。海鳴りは何も答えてはくれない。
遠くを見た。
海上を滑るように奔る、艦娘―――川内だろうか?遠くてよく確認は出来なかった。
かりり、とまた頭の中で音がした。
なんでこんなにも、引っかかるのだろう。ずきりと頭が痛む。
知っているのだろうか、私は、昔彼女たちにあった事でも、あったのだろうか。
考えても仕方なかった、そもそも記憶がないのだ。掘り起こそうとしても、岩盤に突き当たったように、そこから進んでいかない。
私はそのあと市街地をぶらぶらして帰路に着いた。夕方時で、そろそろ夕食の支度をはじめる女将さんを手伝わなくてはならない。
今日のご飯はなんだろうか、そんな事を考えながら帰宅した私は、戸を開けてぎょっとした。
女将さんが泣いていた。
「ど、どうしたんですか?」
私の声に、女将さんが顔を上げる。
「ああ、仲……何でもないよ、すぐ、ご飯をつくるから」
「で、でも……」
「いいから」
ぴしゃりとしたいつもの調子じゃなかった。湿っぽい、女将さんらしからぬ声。
それでも、これ以上踏み込ませまいという強い意志を、私は感じた。
「良いんだよ。楽しかったかい?明日も明後日も明々後日も、頑張らなくちゃならないからね。しっかり、休んでおくれよ」
それだけ言うと、休むようにも言った。断ろうとしたが、大きな目がそれを拒んでいた。
涙の理由を教えてくれたのは、夕食後の時だった。一服をしつつ、顔を突っ伏して女将さんは声を紡ぐ。
「今日はさ……娘の命日なんだ」
初めて聞く話だ。
「十年前も前だから大分昔だけど……ダメだね、歳をとると涙もろくなるよ。うちの宿六はすぐ死んじまったから、娘だけがよりどころだったんだけど……その子もあっさり風邪でね。宿六の残した食堂だけしか残らなかった」
口元に煙草を寄せて女将さんはつづけた。
「久々に娘の夢を見たよ。アンタが居るせいかな。ちょうど生きてたら同じくらい、かな?あんたの歳知らないから勘だけど」
何も口を挟めない。空気の読めない性質ではあるけど、流石にこんな話を茶化す気にはならない。
「気にしないでおくれ」
女将さんはそれだけ言い残す。私は女将さんの肩を触って、堅いその肩をほぐした。
「……私が代わりになりますよ。同じくらいなんでしょう?」
「……可愛い事、言ってくれるね。でも大丈夫さ。覚悟はしている」
どんな覚悟なのかは聞けなかった。私は女将さんの肩をほぐし続けた。
観艦式に行かないか、と女将さんから誘われたのは、その後、二か月ほど経ってからだった。横須賀に置いて大々的な観艦式が行われるらしい。
かりり、とまた音がした。何か、気になる。
「ほら、仲なんかはその手の派手モノが好きな年ごろだろう。私もその手の祭りは好きだからね」
「そうですね。確かに。仲ちゃんそういうの好きですよ」
「お、良いノリじゃないか。では明日だから今日はもう寝ときなさい。どうせあんたは楽しみで寝られないタイプだろう」
図星だ。
横須賀は車で何時間かという距離にある街だ。田舎の漁師町ではなく海軍の御膝元であるから、戦争中の今なんかは本領発揮と言ったところで色々と騒がしい。
人人人、人の集まりだ。特に観艦式の行われる周りは凄い人だかりだ。眉目秀麗の集まりだという艦娘を一目見たいと来た人たちだろう。
私だってそれは同じだ。勇ましいものが好きなのは男女共通の感覚だと思う。私みたいな年頃がアクセサリーや服ばかりに興味があると思われているが、そうばかりでもないのだ。
肩が当たる。白い夏服の軍人だった。
「し、失礼しました」
気が立っているのか。ちらりとした流し目で睨まれる。しかし、その目が憐憫に染まるのが分かった。
彼が見ていたのは、私の左腕だった。気が立っていても、咄嗟に憐れんだのだろう。
「ああ、こちらも失礼」
彼はそれだけを言って去っていった。
勇壮なファンファーレで、観艦式は始まる。海上を滑る艦娘達の入場を拍手と共に出迎えると、向こうも笑いかけて手をふってくれる。
私たちは幸いにも目の前の席をとることが出来た。勇壮な音楽にあわせて、艦娘達のパレードに艦隊運動。見事すぎる動きに目が奪われる。
「……?」
なんでだろう、私はどこか既視感にとらわれていた。この動きを、見慣れている?
馬鹿な、初めて見たはずだ。なのに、なんでこんなに―――。
こけた駆逐艦娘が、慌てて立ち上がる。全く暁は―――暁?
なんであの小さな子の名前を知っている?一回も、あった事すら、見たことも無かったのに。
ずきり、かりり。
頭が、イタイ。中から何かが出たがっているような、そんな痛み。
頭を抱えていると、女将さんが心配そうに私を覗き込んでいた。
「大丈夫?今日は日差しも強いみたいだから気をつけないと」
「あ……はい。ちょっとトイレに行ってきます」
断りを入れて、私は立ち上がる。
全く迷わず、トイレに着くことが出来る。地図も見ず、誰にも聞かずにだ。なぜできるか。見覚えがあるからだ。一回も来たことのない、一般人が入ることも出来ない軍港に、見覚えがある。おかしい。どう考えてもおかしい。
かりり、かりりり。
引っ掛かりはますます大きくなっている。トイレで鏡を見る。変なところは何処にもない。なのに、違和感は消せない。
用を足して、外に出た。
煉瓦造りの軍港は厳めしい、厳めしいのに。
なんでこんなに安堵感があるのだろう。
目の前の建物から、何人かの軍服姿の女性達が出てくる。
あ……
川内だ。
こちらを向いた。
私は何となく頭を下げた。
川内は私の方をずっと向いていた。目を見開いて、駆け寄ってくる。
「ナカ……?」
目の前に来て、口を開く。
「ナカ……よ、ね?」
見ると川内を取り巻いていた周りの艦娘達もこちらに近づいている。
「へ……?」
「あんたっ……何してるんだよ。どうして、すぐ……」
右の二の腕を掴んで、川内が詰め寄る。その時、左腕を掴もうとしてすかぶる。それはそうか、肩口から腕が無いのだし、掴めやしない。
「!」
川内が悲しそうに顔を歪めた。何故、こんな顔をする。同情されるのは慣れているが、流石に砲火に体を晒している艦娘にこんな顔をさせるのは心外だ。
「……なんですか?かわうちさん」
ひびが入った。川内の顔が大きく歪み、ねめつけるような顔になる。
「な、ナカ、ちゃん?」
後ろに控えていた。あれは、神通と潮―――だったか?よく分からない。
「……なんてった?今、あんた、なんて言ったんだ」
「ひ」
低い声だった。たまらず、私は後ずさりをしようとしたが、逆に建物の壁に打ち付けられる。痛い。
「……ふざけんじゃない。私は川内だろ?ねえ、ナカ。心配したんだ。なのに、あんたはふざけて……神通、お仕置きの練習メニュー考えといてよね」
「え、あ、あの」
川内は私を離して向こうに向かった。胸のポケットからマルボロが見えた。
残ったのは神通と潮、そして私だ。気まずい。川内も神通も潮も訳知り顔だが、私だけが何も知らないのだ。
「あ、あの……神通さん?で良いですよね」
「……ナカちゃん。そろそろ怒りますよ。まあ、何はともあれ生還して、私も安心してます。では、行きますか」
「い、行くってどこに」
「……提督のところにですよ。皆心配していましたから」
どういう事だ。私は仲ではあるが、周りの言っているイントネーションとは少しずれている。
「ちょ、ちょっと待ってください!私はただの民間人なんですよ」
「……はあ?」
大人しい容姿の神通から、あらあらしい声が出てきたので、また恐縮してしまう。
「何を言っているんですか?あなたは艦娘でしょう?艦娘が居るのはこの鎮守府です。退役した訳でもあるまいし、寝言は寝ていってください」
「そ、そんな」
言葉が詰まって、出なくなる。手を掴まれて、連れていかれそうになった。怖い。凛とした顔の神通と、大人しい垂れ目の潮が、今堪らなく怖かった。
「おい」
嗄れ声。声の方を向くと、女将さんだ。遅いから様子でも見に来たのだろう。他にも大勢こちらに向かってきている。多分プログラムの隙間なのだろう。
「うちの子に何をしているんだい?ずいぶんじゃないか。艦娘さんってのは、その手の横暴が許されているわけかね?」
「……どちら様ですか?」
神通は柔らかそうな物腰からは想像できない声で、そう言った。
「おお怖、取りあえず離してやっておくれ。怖がっているだろう?そんな目でにらまれたら私だってちびっちまうってもんさ。話なら出来るだろう?」
「断ります。この子はナカ。私達川内型の三番艦娘です。すなわち私の妹です」
「……確かに仲は仲だが、その子とは違うだろう?大体、仲は沈んだと新聞にあったよ。随分と奮戦して、仲間を逃がすのに一役買ったと。ま、宣伝なわけだ。実際どうだったかは私には分からないがね」
宣伝という一言に、神通はピクリとこめかみを動かした。
「……訂正しなさい。宣伝だなんて」
「じゃあ、其処は謝ろう。仲、こっちに来なさい」
神通が手を離していた。憤慨した一瞬のすきに、私は女将さんの後ろに隠れる。
「ナカ!」
「よし、じゃあ帰ろうか」
女将さんは、神通を見もせずに、歩む。
「待ちなさいっ!」
怒鳴って女将さんの腕を掴んだ神通に、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「いいのかい?救国の英雄様が、一民間人に乱暴かね?周りを見てごらん?」
ハッとした。周りには大勢の人が、何をしているのかと興味津々に覗いている。もしここで神通が女将さんを無理に引っ張り込んだら、軍のイメージは急落―――まではしなくてもひそひそ話で、じりじりと落ちていくかもしれない。
神通は舌打ちをしたそうな顔で、女将さんを睨みつけた後、手を離した。
「ありがとさん。武運長久をお祈りいたしますよ」
「災難だったね」
それだけ言うと軽トラに乗り込み、女将さんはキーを回す。私も隣の助手席に乗り込んだ。
「……ホントのところは、どうなんですかね?」
「本当?」
私だって気になるのだ。記憶がない。腕がない。普通にかんがえれば、こんな類の人間は妖しい。そんなのを雇ってくれた女将さんには頭が上がらない。
それでも、昔の事は気になる。どんな人間だったのか。なぜ左腕がないのか。半年も居て、治る兆候すらない。
「本当のところなんてね、どうだっていいんだ」
「はい?」
「言い方悪かったかね。どうでもいいというか、私は気にしてないんだ。金を持って逃げるならもうとっくに逃げているだろうし、情がわくから、この手の泥棒はとっとと逃げるしね」
女将さんは煙草を吸って、咥えたまま喋る。
「だけど、そうするでもなく半年もいてくれたら、どんな子でも可愛いよ。私にとっては仲は可愛い娘だし、あの人たちにとっては、妹なのかもしれない。ま、あそこで意地を張ったのは、あの神通とかいう艦娘が好きになれなかったからだけどね。あの手の自分を信じてやまないような奴は好きになれないんだよ」
それだけなら、良いのだが。
「じゃあ、私にとってどちらを大事にするかという事ですかね」
「そうとも。今はこちらを、大事にして居ただたきたいけどね」
何日かは平穏無事な毎日が過ぎた。女将さん曰く、平穏というのは少なくとも店の備品が壊れない事だという。そう言った意味では、まるきり平和だった。
海の荒れ具合もそれなりに収まり、漁師のお客さんの調子も上々。漁に出られずに鬱屈していたストレスを、今まで出来なかった仕事にたたきつけているのだから健全そのものだ。
しかし、その平穏は唐突に終わることになる。
ある日の昼下がりだった。ランチタイムの片づけをしていると、戸を叩く音がした。
「……はい?」
珍しい時間帯だ。仕入があるわけでもないし、酒は余っている。どちら様だろう。
「空いてますよ。手が足りませんので開けてください」
そういって声をかけると、戸が開いた。二人の女性が立っていた。
一人は背の高い、長い髪を横括りした女性だ。きりりとした顔立ちで、威圧感がある。もう一人は、川内だった。二人とも黒い海軍第一種軍装といわれる厳めしい紺のジャケットを着ていた。
「貴様……野に下ったと聞いて驚いたぞ。ナカ」
大柄な女性がそう言った。
「……海軍の方、ですね。どちら様かは分かりませんが、準備中です」
片方しかない手で、ぞうきんを上げて見せると、大柄な女性はひどく驚いたようだった。
「ナカ……あんた、なんで、そんなに」
川内が、震え声で言った。
「待て……ああ、そうだな。店主が御在宅ならいいのだが」
大柄な女性はかっかしている川内よりは、話を聞いてくれるらしい。前に出ようとする川内を抑えて、私の前にでる。身体が大きいから、威圧感というか、圧迫感が凄い。
「那智さん……」
「任せておけ。大体貴様は逸りすぎだ」
思い出した、この女性は那智だ。艦娘で、私の―――私の、何だ?
「な、頼む。説明しなくてはならない部分も多々あるからな。店主をないがしろには出来ない。ナカ」
那智が、かがむように頼んだ。私は奥に向かって、歩いた。
横須賀鎮守府第三重水雷艦隊旗艦、だとか那智は捲し立てた。長い、役職名のくせして長すぎる。適当な英文字を当てればいいのに。
女将さんは、どこかイラついた調子で、それを聞いていた。
「で、そのなんたら艦隊旗艦のあんたがボロ食堂になんのようさ」
「ま、ま、そうイラつかないでくださいよ。こっちも、ま、なんです。遠くの鄙びた食堂を探すのに手間取ったんですから」
「言うね、まあそりゃそうだろうな」
鄙びた漁港の、鄙びた連中のための店だ。自然儲からない、目立たない。さぞや手間のかかった事だろう。
「それで、四方を海に囲まれた国を守って下さるお方々がボロ飯屋に何の用でございますかね」
「そちらの……ありがとう、美味しいお茶だった」
「あ、どうも」
那智は手を挙げてこちらに来るように言った。
「こちらのナカさん……この方の身元を聞きたいんですよ」
「聞きたい?どういった事だ?」
「それについては」
こちらを、と那智は傍らにおいたバックから資料を取り出した。艦娘名簿録と書かれたそれを、女将さんは開く。
「……!」
顔色が、変わった。視線が私の顔と名簿を行ったり来たりしている。
「こ、これ、は……」
女将さんは私にそれを手渡す。
開いたページには―――私だ。私が、満面の笑みで、こちらを見ている写真。
「……どういう、事ですか?」
私は、冷静だった。少なくともこの中では、那智よりも。
川内が、慌てるようにこちらを見ていた。立ち上がって、詰め寄るように向かってくる。
「何だよ……やめてよ。そんな丁寧じゃないじゃん。ナカは……ナカはもっと天真爛漫で、明るかったでしょう?ねえ……」
片手しかない私は、川内のそれに抵抗できない。那智が止めたが、それを擦りぬくように、川内は手を伸ばしていた。
「やめろ、川内……失礼、この馬鹿が喚きましてね。ですが、こちらも考えなしにこういうところに来ているわけではないという事は理解してほしい、と思います」
女将さんは何も言わなかった。
那智はそのまま、川内を連れ帰った。
「知ってたのかい?」
女将さんは椅子に座ったまま、呟くように言った。煙管に詰める刻み煙草を丸めながら、深い嘆息を吐いた。
私は、机にお茶を出した。煙草とお茶が合うかは分からないが、それでも潤いがあるのとないのは大きな違いだろう。
「……知っていませんでしたよ。記憶が全くないんですから」
嘘ではないよな、と女将さんは念を押した。
「いや、すまないねえ。どうしてもそれだけ知って居たかったんだ」
丸めた刻み煙草を煙管に入れて、女将さんはそれだけを言った。
夜の海岸は、涼しい。月が出ているから、周りに光源がないけれども明るかった。
遠くを見ると、何隻かの漁船だろうか、漁火が見えた。
そうだった、あの夜も―――あの夜も。
靄がかかっていた記憶が戻りかかる。もう少し。
一歩前に進んだ。砂の柔らかい感触が足元に伝わる。
あの夜は、不安定な海上に―――海上に居たんだ。
一歩前に―――怖くても、前に、進むしか。
靄はまた一つ晴れそうだった。
「あ……」
浜風が、強く吹いて行った。靄は何もかも綺麗になっていった。
※
あの日、私は、海上に居たんだ。
横須賀鎮守府から出撃して、物資を満載した補給艦を南方に送りとどける任務だった。那智、川内、潮、曙、霞の五隻と共に、私は護衛任務に就いていた。
元々誰しもが、強い個性の持ち主たちだ。那智は強いリーダーシップは持っていても言い方が辛辣で、駆逐隊からはうとまれていたし、川内は夜間進撃を強く説いた。いかに夜戦が好きだからと言っても、艦隊全員を危険にさらして良いという話にはならない。
霞と曙は、良くも悪くも口が悪い。正直が過ぎるというか、素直ではないというか。軽くあしらえばいいのに真面目な那智はそのままとって諭そうとするからますますこじれる。
今思えば私の役目は、要するに潤滑剤のようなものだったのだろう。軋みやすい歯車を円滑にする。そんな感じの。
「全く……骨が折れる。子供だから仕方ないのだろうが」
那智と話していたのは補給船の上での休憩時間だった。艦娘だって人間とほぼ変わらないのだから休憩もいる。といっても敵艦発見の報があれば、何をおいても飛び出さなくてはならなかったが。
殺風景な休憩室で、軽いシャワーを浴びたらしい那智は潤った髪を丁寧に撫で付けながら、そう言った。私はもう先にいただいていたから寝転んで対応した。
「那智さんはさ。ちょーっとまじめすぎ。潮ちゃんもそうだよ。もっと砕けていいの。那珂ちゃんみたいに」
「貴様は砕けすぎだ。しかし今からあのような態度をとると苦労するだろう?」
「ん、それはそうだけど。そのうち治るよ、あの二人はそれなりーに素直だからね、那珂ちゃんの慧眼は伊達じゃないよ」
「ふふ、それは、頼もしいな」
那智はそう言って二段になっている下のベッドに寝転んだ。
道中は無事だった。行きはよいよい、とは言うが、全く何の脅威もなかったのだからありがたい話だ。
「那珂ちゃんのお蔭だよっ!感謝してよねー」
能天気な事を言うと、護衛艦のローテーションを一緒に組む曙と潮は、どこか呆れたような顔をしていた。まあいい。
「呑気ね、ここからが大変だって言うのに」
「ぼのちゃん元気ないね。つかれたのかな?」
「だれがぼのちゃんよ!馬鹿」
「なーんだ、元気じゃん。じゃあもっと元気出して哨戒任務ガンバロー!」
私はそう言ったが、曙は鼻を鳴らし、潮は苦笑いをするだけだった。
帰り道の空っぽの輸送船は快速で飛ばしていく。早いもので道中の半分の距離までをすぐに来ることが出来た。
「順調だな、川内に代わってくれ。那珂」
夕方になり、輸送船の上から那智が声をかけた。
「りょうかーい。那珂ちゃんオフに入りまーす」
笑ってはいたが、さっきすれ違った輸送船護衛の駆逐隊が、気になる発光信号を残していた。
近海ニ置イテ、敵艦隊ノ信号ヲ確認。数ハ不詳。警戒怠ルベカラズ。
それがすれ違いざまの信号だった。
潜水艦でない事を切に祈る。もし潜水艦なら、真っ先に輸送船が攻撃されるし、先手を取られてしまうと、戦闘が不利になる。
夕方になると、姉の川内は急に元気になった。まったくコウモリみたいな姉だ。夜戦好きは有名だが、ここまで徹底して好きになる必要はないだろうに。
夜間警戒には、潮、曙も追従して当たっていた。この二人も、それなりに経験を積んでいるから、川内の頭に血が上っていたとしても大丈夫だろう。現に、夜戦夜戦と五月蠅い川内を窘めるような声が聞こえて来ていた。
「これじゃどっちが旗艦なんだか分からんな」
舷側に乗りかかりながら右舷の警戒をしている曙を眺めながら、那智は私に声をかける。灯火管制が敷かれているから、甲板上に灯りはない。少し下がって艦内に入れば別だが、私たちにそんな余裕はない。
「まあね、川内ちゃんは、ちょっとあれだから。好きなことには目がないし。今が幸せなんだよ。趣味と仕事が一致していて羨ましい」
「趣味ねえ……」
呆れたように那智が呟く。
「趣味なら、貴様のあれもそうか?アイドル活動」
「あれは本業なの!こっちが副業!」
「いや、それは無いだろう。貴様のトンチキな歌を聴いていたのは第六駆逐隊の連中だけだったというじゃないか」
「いいの!那珂ちゃんは一人でも来てくれたファンを楽しませるのが好きなんだから」
そう言った私を、那智は感心したような顔で見てきた。
「な、何、その顔」
「ああ、いや。案外しっかりした考えしているじゃないか。もっとこう、独り善がりな調子だと思っていたのだ。押し付け気味な」
「ひ、酷い!」
楽しいからやっているのだ。ほっといてほしい。といっても、私だって分かっている。自分には、才能がない。艦娘でも、歌でも。
先頭で、嬉しそうに周りを見渡している川内。やや危なっかしい―――時には私以上に―――川内はカリスマ性に長けている。どんなに絶望的な状況でも、決して弱音を吐かない。時には笑みを浮かべて督戦し、敵を屠っていく。
もう一人の姉、神通は細やかさの塊だ。前までは大人しい、酷く内気な人だったが、錬度を上げていくうちに自信がついて行ったのだろう。頼りがいのある姉になっていった。厳しい指導で、駆逐隊からは恐れられているが、その反面、それが彼女たちの為であることを皆承知しているから、慕われている。
その二人に比べて、私は何だ。
社交的、ではあると思う。だが、それ以外には何かあるだろうか。歌を歌ったり踊ったりすることは艦娘には全く必要ないことだし、それを披露したって―――誰も見てはくれない。
今右舷で警戒に当たっている曙が良い例だ。彼女なんてわざわざ私の私室に訪れてまで言ってきた。
何時だったかの夜だったと思う。川内と神通、私の三人で使う私室を訪れた曙は、数瞬口元をモゴつかせた後、こういったのだ。
「あんたの下手な歌なんてもう聞きたくない、とっととやめなさいよ!」
ぎくり、と顔が強張った事を覚えている。鼻を鳴らしてドアを閉めた曙を追う事も、ドアを開けて冗談をいう事も、私にはできなかった。
何故追う事も出来なかったか、なんて。決まっている。私は怖かったんだ。突きつけられて、それをもう一回言われることで確定されることが。
気にするな、とは川内は言ってくれたけど。
気にしない方が無理だ、それは。
「ま、そんなに気にしなくてもいいだろう。私は存外嫌いじゃないぞ、貴様のトンチキな歌はな」
「ふーん。そうなの、じゃあ今度個人でライブしてあげるよ。とびっきりの奴」
「そいつは勘弁願おう―――ん?」
なんだ、とがっかりした時、水平線の向こうで何か、光った。
空を切り裂く、落下音。鋭く、細い金切声によく似た音。聞き覚えのある音だ。
私は反射的に舷側に捕まった、那智も同様だったが、顔を上げていた。
大きな水柱が立ち、船が揺れる。
「戦闘用意!九時の方向より敵の発砲を視認!被害状況知らせ!」
那智の声が、海域に響く。すぐさま川内の声がした。
「こちら川内!至近弾で小破――――曙、大破!収容急げ!」
聞いたとたん、私は艤装を展開し、海上に飛び込む。スケートの要領で曙の元に向かうと半分沈みかけた曙の手を掴んだ。
「大丈夫?」
な訳はないのだが、取りあえず目に映る損傷は、担いでいる機関と主砲だろうか。曙は失神しているのか目を閉じている。急いで船に戻ると、潮の無線が聞こえた。
「ひっ……ひ、左舷に三隻の敵艦を発見!」
囲まれている、のか。
「艦隊全速!川内、先行しろ!潮は警戒しつつ、敵の動向を知らせ!」
那智も艤装を展開し、左舷の潮の援護に向かっていた。右舷は私に任せたという事だろう。
「あ、あんた……なに、してん、の」
「良かった、気づいたんだ」
曙を船員に任せようとしたときに、彼女は目を覚ました。
「ぼのちゃん、大破したんだから取りあえず撤退してね。後は那珂ちゃんにお任せだよ」
「……うっさい……馬鹿」
元気はないが悪態くらいはつけるらしい。
「なによ!何なのよォ!何が起きたの!?」
今頃になって慌てて舷側から叫んでいる霞を見て、こっそり舌打ちをする。
無理もない。この任務は簡単に済むと思われていた。新人の霞が編成に入れられていることからも、それが分かる。だがこの緊急時には足手纏いにしかならない。
「霞ちゃん!ぼのちゃんを宜しく!」
「は、ハア!ちょ、ちょっと、何なの!」
説明している間なんてない、舷側から身を乗り出す霞をほっといて、私は右舷の敵と対峙する。
目の前には駆逐艦が二隻向かってきている。まだ与しやすい相手とは言えるだろうが、油断は出来ない。
「左舷は任せろ!那珂、右舷は任せたぞ!」
「まっかせなさい!」
カラ元気だが、そこはそれ。どうなっても輸送船は守って見せようじゃないか。
敵艦が先に発砲を始めた。遠すぎる、当たりはしない。暗いから発砲炎を頼りに狙いをつける。川内が夜間偵察機を発艦させたのを確認している。どうやら前方には敵がいないらしいから、そのうちにこっちにやってくるだろう。
「や、やだやだ、怖い」
左舷から悲鳴のような声が聞こえてくる。潮だ。実力はあるのに、気が小さいから、その実力の半分も出せていないのだろう。横にいる僚艦が那智というのも最悪だ。気の小さい潮に高圧的な那智。この場においては良い組み合わせとはいいがたい。
「貴様っ、気合を見せろ!」
怒鳴り声が響いてくる。マイク越しでも聞こえるのだから、大分大声なのだろう。
―――っと、こちらも大変だ。駆逐艦に照準を合わせて砲撃を開始する、初弾の目安にあわせて砲撃だ。
初弾は当たらなかった。まあ仕方ない。初弾は当たらないのが当然だ。それに当たらなくても、目安だから次につながればそれでいい。
魚雷はまだだ、いまだ砲撃で対処する。
「敵艦増援!七時の方向より三隻の駆逐艦を発見!」
悲鳴のような声が輸送艦から聞こえてきた。霞だろうか。曙はまだ手当を受けているはずだから。
「っく……左舷だ、潮が中破、輸送艦に戻したので、左舷は那智一隻!」
枝葉を落とすように戦力が少なくなっている。このままでは全員がやられかねない。
「……霞ちゃん、現在地は」
「はあ?今そんなの関係―――」
「どこなの!言ってよ!」
つい声が荒くなる。負けん気が強いと言えば聞こえも良いが、霞の場合は新兵なのだからこっちのいう事にいちいち反論するなと言いたくなる。
「……横須賀鎮守府よりおよそ二百海里かしら。そんなところよ」
では、間に合わない。現在重巡一、軽巡二の艦隊に対して、敵は艦種不明の上八隻、それも増えないとも限らない。
今のところ報告された艦種は駆逐艦のみだが、それだけで済むはずはない。八隻も居れば、旗艦任務を行うための軽巡以上の艦を連れているはずだ。暗いから艦載機の心配はしなくても良いとはいえ、油断が出来ない。
「……那智さん。ちょっと頼みたいんだけど」
「後にしろ」
にべにもない、堅い声が返ってくる。
「そっちはどうなの?こちらは―――」
砲撃が命中して一隻の駆逐艦が沈んでいく。それを見た私は、輸送艦から少し離れて、七時の方向の敵を叩くために、八時の方向へ向かった。ここなら二つの位置にいる敵艦を叩ける―――十字砲火を受ける危険性はあったが。
「……悔しいが、多勢に無勢だ。このままではまずい」
「こっちはまだまだいける―――って言いたいんだけどさ。みんなこのままじゃあじり貧だし、先に行っててくれるかな。川内ちゃんなら間違いないし」
「……馬鹿抜かすな。まだどれほど敵が居るか、ぐっ……」
くぐもった声が無線から聞こえた。被弾、したらしい。
「……ぬかった、副砲破損だ」
「……那智さん、旗艦は那智さんだよ。目的は何か、分かってるじゃん」
「―――川内、前方に敵艦は?」
那智は先行していた川内に声をかけた。何もいない、はずだ。こういうのを一目散と言うんだろうな。振り返らず逃げるのは。
「敵影なし、鎮守府まで一直線だよ」
那智の声が無くなる、だが、それも一瞬だった。
「命令だ」
そう前置いて、ひどく冷静そうな、少なくとも私にはそう聞こえる声で、那智は言葉を発した。
「軽巡那珂は、殿に立て」
私は了解と言って、輸送艦の後ろに向かった。
「んなっ……おい、那智!何してんのさ!那珂に殿なんて!」
「他に方法があるか?なら聞く。ただし三十秒だけしか聞かんがな」
川内は押し黙った。川内だってそれなりに経験を積んだ艦娘だ。今がどれほどの状況なのか分からないはずがない。
「心配しないでよ、川内ちゃん。私だってアイドルなんだから。アイドルは沈まない、なんてね」
「ば、馬鹿っ、ふざけてる場合じゃ―――」
川内の言葉を、那智がさえぎる。
「三時間だ、それだけ時間を稼いでくれ。そうすれば―――救援に向かう」
それが可能ではないだろうことを、誰もが理解していた。
水平線のかなたに船が消えかかるとともに、敵艦隊が見えた。手袋をはめなおし、照準を合わせて、敵前衛の駆逐艦を何隻かを沈める。当たり所によれば、駆逐艦なんて十五糎三連装砲の餌食だ。
「……やっぱ、居るんだね」
後ろに見えたのは、重巡だった。鎮守府でリ級と呼ばれ、今のような夜戦では戦艦よりも恐れられている。
「いやだなー……」
我ながら格好をつけすぎたかもしれない。今更だが。
敵の砲撃がすぐそばで水柱を上げる。やたらめったら撃っているうちはいい。当たりはしないのだ。
私は駆逐艦をまず狙う。どうせ数の前には敵わない。私が何隻か落として、敵艦隊の脅威を削がなくては。
「……くそ」
撃っても、撃っても、撃っても撃っても、キリがない。次第に敵艦隊の弾着が近づいてくる。盾のように連なった駆逐艦を落としているうちに、重巡の狙いが定まって来ていたらしい。
「ぎゃっ……やだな」
砲撃が命中する。航行にも支障がない。だが、そんなことより、怖い事―――敵の、増援だった。
「那珂ちゃんは人気者だなァ……」
もはややけくそだ。私はサーチライトを灯した。探照灯とよばれるそれは、敵艦の位置を明確にするとともに、私の位置も明確にしてしまう。
気づいたのだろう。敵艦隊の誘因には成功したが、私の元に、すべての艦が向かい、近づいてくる。
「くう……」
砲撃が激しくなる。それでも引けない。探照灯が割られて、光が無くなる。
一瞬だけ見えた敵増援は、重巡一、軽巡一のみだ。駆逐艦は確認できなかった。
「いっ……」
ついに砲が壊れた、どの艦が放ったか分からなかったが、もうどうしようもないほどに壊れている。
抵抗はそろそろ限界だ。ならば、後は動き回って時間を稼ぐだけだ。
「那珂ちゃんのライブ、第二部の始まりです!」
そういって、自分に気合を入れる。最悪武装の全てが無くなっても、足さえあれば、私は逃げ切れる、振り切れる、時間を稼げる。
三時間の約束は、もうすぐ三分の二が過ぎようとしている。副砲と機銃で対応していたが、如何せん火力が足りない。副砲に至っては残弾が尽きかけようとしている。
魚雷に気付いたのは、目の前にいた軽巡に対峙していた時だった。側面に展開していた三隻の駆逐艦から、六つの雷跡。放射線状に迫るそれは、避けようの無い脅威だった。
「あ……」
命中する瞬間、足が焼けるように傷んだ。吹っ飛んだわけではない、がこれ以上の抵抗が、絶望的になるくらいの傷であることは、分かった。
「終わり、だな」
どこかしら訛りのある声がした。薄れていく目から、話しているのが敵艦の主力だったリ級二人であることに気付く。
「よくも、まあ、手こずらせてくれた。どうする?とどめでも―――」
「やめとこうぜ、それよりもこの先にいる連中追っかけた方がましってもんさ。死にかけ相手にして時間を無駄にしたよ」
やめろ、私を相手にしろ。
「じゃ、向かうとするか。やれやれ、南方様に叱られるよ。駆逐艦五隻が沈没、六隻大破だ。残っているのは……」
耳が遠くなる、行くな、行くな。
「そうさな、ま、いいさ、行こう」
進んでいくリ級の足を、私は掴む。離さない、決して。
「……流行んないよ、軽巡さん」
私の頭を掴んで、軽々と持ち上げ、リ級はせせら笑うように顔を歪めた。笑った、のだろう。
「……途中の退席は……那珂ちゃん認めてないんだから」
私は最後に残っていた副砲の残弾を、リ級に向ける。轟音がして撃ちだされた砲弾は顔を掠めて飛び去った。
(外した……)
「……ふん」
リ級はくだらなさそうに顔を歪めて、私を離した。海水が顔を洗って、苦しくなり、あおむけになる。
「なめた真似をしくさって。殺すぞ」
「よせ、構っとる場合か。この後が大事なんだろうが。それなりの艦隊だ。死にかけにかまうこたあねえよ」
リ級は荒々しく話すが、私には関係がない。腕で足を掴んで、一秒だって長く時間を稼ぐのだ。
「これだよ。鬱陶しいったらねえな」
「じゃあ仕方がねえ」
冷ややかな砲身の冷たさが、左腕に伝わる。それは一瞬だけだった。破裂するような痛みに、気絶するような痛感。
「これでそのうちおっちぬだろうよ。追っかけてもこれねえ、いいだろ?こんくらいさ」
「……いくぞ。遅れたが、任務だ」
遠く、どこかに向かっていく敵艦隊を見て、私は口を動かす。行くな、行かないでくれ、私を無視するな。最後に残った武装である機銃で敵艦を撃つが、意にも介さず敵艦の一人も、私を見てはくれない。
最後に、見えた重巡の口元が動いた。
―――ゲッダウェイ。
そう言っていた。
私は流されるままに、海岸にたどり着いた。死にはしなかった。思ったより海岸寄りだったのか、それとも潮目に乗ったのかはわからない。けれども、私は敗北感で一杯だった。
どうしよう、どうしようどうしよう。
敵艦隊を足止めできなかった。那智は心強く援軍を送るとは約束してくれた。だというのに、私は足止めの一つも出来なかった。
「ごめんなさい……」
謝ったって仕方ない。これでもし、闇夜に乗じて、行動中の仲間たちが奇襲にあってしまえば、だれも喜ばない結末になる。
せめて、せめて打電の一つでも打てれば。いや、魚雷の回避に成功していれば。
こんな事態は防げたのかもしれない。私が、私のせいで、私が、足を引っ張ったせいで。
「あぐぅ……ううう」
呻き声と後悔が、わたしのこころを、くろく―――。
「ああああああああああああああああああっっっ!!!」
私は呻き声と叫び声が混じり合った声を上げた―――慟哭だった。
※
全部、思い出した。私が何だったのか、何者だったのか。
「艦娘―――だったんだ……」
どうなるんだろう、そうだったら。
「あやまら、ないと」
ふらつく足で、女将さんの店に向かった。
明け方近い時刻だったが、女将さんはすでに起きて、店の前を掃除していた。
「やあ―――那珂、の方がいいのかな。イントネーションは」
女将さんはすべてを察したようにそう言った。
「……そうです」
「思い出したようじゃないか。いい事だ。素晴らしい事だよ」
「本当にそう思いますか?」
私はそう聞いた。
「どうして、そう思うんだい?」
「私は―――はっきり言って落ちこぼれです。川内さんや神通さん―――お姉さんとは違って立派じゃないし、勇敢でもないんです」
「だから?」
「だ、だから、私が帰ってもいいのかなって」
「馬鹿。そんなの気にしてって仕方ないだろう」
まあ、中に入りなさい、といって私を誘った。
「難儀だねえ、誰だって気にしないよ。あんたがこっちでなんて言われてたか知らないのかい?」
知らない、知っているわけがない。
「国の模範とまで言われていたんだよ、あんたは―――那珂は」
「な、何だってそんな?」
「そりゃそうさ。あんたは十分頑張ったからだ、何なら今日件の艦娘来るんだからそう聞けばいいじゃないか」
臆病な私に、それが聞けるだろうか。
川内は、激怒した。店が震えるような大声で怒鳴り付け、訳の分からない言葉で顔を真っ赤にしている。
「まあまあまあ、堂々堂々」
那智が止めに入っても、川内の怒りの声は止まない。
「ザッケンナコラーッ!スッゾオラーッ!」
「いい加減にしろ!」
「うげえ」
ついには那智が閉め落としてまで静かにさせてようやく静まった。
「……失礼、見苦しいところを」
「本当にな」
あきれ果てたように女将さんはそう言った。
「いや……しかし、那珂。そんな風に考える必要は一つもないぞ。我々の艦隊が無事内地に行きついたのは全て貴様のお蔭だ。どんな罵詈雑言も、この那智が居る限り許すまい。だから那珂、帰って来てくれないか。確かに出撃はできない身体になってしまったかもしれないが、私から進言する。頼む」
那智に頭を下げられた私の答えは決まっていた。
その日の夜は宴会だった。送迎会、といった体で開かれたそれには多くの人が集まってくれた。子供たちは身近で見る艦娘に憧憬をあらわにした顔で見ており、川内も那智もまんざらではなさそうな顔で相手をしていた。
夜遅くまで続いた宴会が終わった後、片づけを終えて私は自室にいた。今日が最後だと思うと、寝れなかった。
「那珂……起きてる?」
女将さんの声がした。
「はい」
そう答えると、女将さんが入ってくる。
「…………」
何か言いたそうな顔だったが、女将さんは何も言わず、座った。
「……その、明日には、横須賀だったね」
「……そうです、女将さんには、本当にお世話になりました」
「いいのさ……娘が帰ってきたみたいだった。楽しかったよ」
それだけだった。それだけで十分だった。
私は泣いていた。女将さんも泣いていた。たったそれだけだった。
翌日、私は迎えに来た川内と那智に連れられて店を出る。
「総員、敬礼っ!」
那智の一言で、私、川内も反射するように頭の上に手をかざした。女将さんは堅い表情で、それを返した。
私は振り向かなかった。振り向けなかった、振り向いたら、涙が落ちてしまいそうだった。
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