2020-02-28 21:21:42 更新

概要

誰も書かない「アメ」の物語。もうここしかぼくの存在意義は見いだせない、とばかりに超特急で作りました。


前書き

「天気の子」ではいろいろ創作もしようと試みてたんですよ、わたくしも。
でもねえ。pixiv系の職人さんに一気に書かれてしまって、しかもその出来が当方が嫉妬するレベル。
もうほだひなのアフターも、前日譚も、書く余地がない。書いたとしても二番煎じ……
だけど、一番どうとでも書けるキャラクターがいることに気が付きます。
そう。それが猫の「アメ」です。
そして都合のいいことに「アメ」で書いている人は今のところいません!!
そうなりゃあとるものもとりあえず。
一気書きの弊害も多々ありますが、まずは雰囲気をお楽しみください。
製作過程
2019.9.20 「アメ」で一本書くことを決意。
2019.9.23 7000字オーバー。須賀の事務所には入っている。
2019.9.24 1万字オーバー。8/21のとっかかりまでは書けた。
2019.9.26 14000字オーバー。子猫・アメ最後の登場まで。
2019.9.28 第一版第一刷 上梓。16918字
2019.11.24 別創作と整合性をとるため文言修正。第一版第2刷 上梓。16938字


名前はまだない。

都会の片隅で、先輩の猫たちには邪険にされ、人間からは追い立てまくられ、ぼくは孤独だった。


ここ・新宿歌舞伎町は、眠らない街だ。

深夜になっても、食べ残しや食材のきれっぱしといった人間にとっての"ゴミ"は常に産出する。

ゴミ箱に放り込まれる塵芥こそ我々にとってはごちそうである。

もちろん、取り合いになることはない。

自分の必要量以上は食べることができないからだ。

生後間もないぼくにとって、その必要量は、他の猫やネズミ、カラスたちがつついた後の残飯で十分だった。


だが、雨続きになった東京で、客足は少しずつ減っていく。

勢い、ごみの量も少なくなっていく。

でもゴミを必要とするライバルたちは減ることがない。

一日は何も食べずに雨水だけでしのいだが、2日目になって、さすがに体に堪えてくる。


降りやまない雨に仕方なく、雑居ビルの軒先で雨露をしのぐ。

「ぐうーーー」

誰かに聞かれたんではないか、というくらいお腹が鳴る。猫も空腹時には鳴るのだ。

"あー、今日も一日おまんまの食い上げかぁ……"

仕方なく雨宿りしていたビルから出ようとして、ふとあった缶コーヒーの空き缶に当たってしまう。

カンカンカラーン……

誰もいない雑居ビルのロビーに響く空き缶の音。

だが、そこに居たのは、うずくまっていた人間だった。

ぼくはきょとんとした目でその人間を見る。

人間からは忌み嫌われる存在だと思っていた自分。だが、その人間は違っていた。

「東京って、こえーな」

攻撃するでもなく、無視するでもなく。その人間は幼そうな声でそう言ってくる。

ぼくは、その言葉に反応する。

"君こそどうしたんだい?こんなところでうずくまって……"

話が聞きたくなって、ぼくはその人間に近づいていく。

すると、好意を持ったと思ったのか、その人間は、何やらパサついたものをぼくによこした。

(うわぁ、飯だ、助かったぁ―――)

今まで食べたものの中で、最も味のしない変な食べ物だったが、臭いで「これは大丈夫」と思えた。

「でも、オレ、帰りたくないんだ、絶対に……」

その人間は、ぼくが食べている様子を見ながら、そう言って又小さくうずくまってしまった。

わずか一個の妙に味のしない食べ物だったが、空腹は満たされた。

食べ終わって少し呼びかけてみるのだが、その人間は疲れからか、寝入ってしまっている。

食べるものだけ食べて立ち去りがたかったが、ふいに訪れた、3人の人間の姿を認めて僕はその場を離れた。

雨をよけながら軒沿いに歩いていると、盛大に空き缶入れがひっくり返る音が背後からした。

少し振り向くと、さっきぼくに施しをくれた人間が路上に突っ伏している。

多分さっきの三人組に、そこに居ることをとがめられたのだろう。

空き缶を拾い集めているその人間を少し哀れには思ったが、何かできるわけではなく、ぼくは又夜の新宿をさまよった。


ぼくがその人間……ホダカ、とか言ったか……と再会したのは、三日後だった。

場所は新宿大ガードのそばの自販機。さすがに食べるものもなくなって、今度は自分がうずくまっていたのだった。

通り過ぎる人間たちは無関心を装っていた。

そんなところに生後間もない猫がいるとは思っていなかったのだろう。

「あ―のどが渇いた」

そう言って自販機に近づいてきたのがホダカだった。

はじめてあった時に比べると、明るさが増している。

ガチャン!!

何かが自販機から吐き出される。

シュパッと炭酸系の音がする。たまらず一息で飲むホダカ。

「あー、旨い。こうでなくっちゃ」

そう言って立ち去ろうとしてぼくを見つけたのだった。

「あれ?君はあの時の……」

ぼくのことを覚えてくれていたらしい。

"よく覚えていたね。ちょっとびっくりだよ"

そう言って答えた。

「あーあー。前より痩せちゃったねぇ。それじゃぁだめだよぅ」

そう言って、前にくれたパサついた食べ物を、今度は二つ目の前に出してくる。

"おお、これはありがたい。感謝するよ"

パサついているその食べ物も、雨にぬれると言いようのない柔らかさを作り出す。ただ味のないのはいつも通りだ。

「今、ぼくも居候の身だから、飼うことはできないかもだけど、どこかでちょくちょく会えない、かな?」

ホダカの無茶ぶりだ。お互い連絡が取れるわけないのに、そんなことができるわけない。

"まあ、運がよけりゃあ、なぁ"

そう言うだけ言ってみる。

ホダカがぼくの頭を撫でてくれる。ぼくにとって初めて触れる人間の温かみだった。


さらに三日後。

縄張り争いが激化した一角にぽつんと開いた空白区にぼくは素知らぬ顔をして滑り込んだ。

雑居ビルの細い路地。出てくるゴミの量があまり多くないのが敬遠されたのかもしれない。

だがぼくはうれしかった。浪々の身からようやく卒業できるからだ。

いろいろな妨害を撃退したりするうちに、ホダカにその格闘場面を見られてしまう。

「あー、ここをねぐらにできたんだね」

奮闘するぼくの姿を見て、ホダカはそう理解してくれた。

"ああ、一国一城、とまではいかないけどこれでしばらくは安泰だよ"

ぼくはそういって呼応する。

「よかったね、君。あ、そうだ。アメって呼んでいい?」

ふん。ぼくの名付け親になって、えらくなったつもりでいるのかな?この子は?

"まあ、好きにすればいいさ"

とニヒルに鳴いたつもりだったが、内心嬉しかった。

ホダカがぼくをどう思っているかはわからないが、野良猫のぼくに名前はそもそも分不相応だ。

「じゃあ、きみは今日から、アメね」

まるで唯一無二の親友でもできたようにホダカは微笑みを浮かべる。

いや、実際その時はホダカは自分を見失っていた時期でもあったから、ぼくの存在は大きかったのだろう。

そうやって、ぼくとホダカの付き合いは始まっていく。


雨の降り止まない東京にあって、時々にホダカに逢えるのはぼくにとっては好都合だった。

ただ、彼がぼくの好物と理解してしまっているのか、あの味のしないパサパサしたものしかくれないのには閉口していた。

それでも、食べると何やら体中が調子よくなるのだ。

仲間内に話を持ちかけると、

"それって栄養が多いんじゃねーか?味がないだけで"

"変なもんでも入ってんじゃね?"

と、その食べているものが本当にぼくたちにとって安全かどうかまではよくわからなかった。

そんな付き合いが続いた1週間後。

いつものようにホダカはあのパサついたものを目の前に出してくる。

無心でむさぼり付く僕を見ているホダカだったが、ふと、こういい始める。

「実は、ぼくが居候しているところ、スガさんって言うんだけど、アメを飼っていいって言ってくれたんだ」

あえてぼくは反応せず、もうすぐ食べ終わる直方体の食べ物に対峙したままでいる。

「なあ、うちに来るかい?」

覗き込むように言ってくれるホダカ。

"まあ、これから夏になるしなぁ。雨に濡れるのも嫌だし"

これぞ猫なで声、という甘ったるい鳴き声をホダカにしてやる。

「そう!よかった。じゃあ、今日からアメはぼくと一緒だよ」

少し体は濡れているのに、ホダカはぼくを抱え上げる。大事な宝物のように抱かれて運ばれるぼく。

ホダカは、傘を肩と首で器用に支えて、ぼくを住処へと案内する。


「スガさーん、ただいまぁ」

ホダカはスガとか言う人の住んでいる事務所に入っていく。

はじめて感じる人間の家、部屋。いろいろなにおいが充満しているが、インクのにおいはやはり強烈だった。

「おお、おかえり。あ、それがお前のいってた猫か?」

ぼくを認めてスガはそう言う。

「うん。ぼくにもなついてくれたから、ここで飼うのも大丈夫だと思うよ」

「でもなあ。オレ、ペット、はじめてなんだよなあ」

「あ、ぼくが面倒みるよ。極力スガさんには迷惑かけないから」

「まあ、そういうことならしゃーねーな」

そう言ってスガはぼくを抱きかかえる。

「おーおー。まだ子猫じゃん。これだったら、飼いやすいかもなぁ」

「意外におとなしいんだよ」

「みたいだな。これならオレの手でも追えそうだな」

二人が話している間に、扉がまたガチャリと開く。

「圭ちゃん、ただいまぁ」

入ってくるなり、凄い香水の匂いにぼくは鼻が曲がりそうになる。

「おお、ナツミか。どうだった、先方の様子?」

「ええ、うまく取材できたわよ。あとは肉付けしてくれるアシスタント次第ってところね」

親指をぐっと立てて、ナツミは報告する。

「おお、いい仕事が舞い込んだぜ、ホダカ」

「でも、ナツミさんのインタビューって突っ込み甘いところとかあるから……」

「あぁ?!。ホダカ、私の取材が下手だって言いたいの?」

「いや、そうじゃないけど、もうひと押しあってもなぁって……」

「まあまあ。落ち着けって、二人とも。今日はアメちゃんも我が家に来てくれたことだし」

「え?なんのこと?」

ナツミは首をかしげる。彼女には知らせてなかったようだ。

「ほら」

不器用にぼくを抱き上げる、というよりつるし上げるスガ。

「あぁ、子猫ぉ。うち、ペット飼ってくれないからこういう癒しが私も欲しかったのよ」

「だろう?ホダカが拾ってきたんだ」

「捨て猫だったのぅ?」

「あ、でも、ぼくには慣れてますから」

「ふぅーん。でも、この子の食い扶持が増えるんだけど……」

「「あ」」

男たち二人の呆けぶりは今思い出してもおかしい。

「そんな余裕はうちには本当はないんだけどね……」

財布を管理しているナツミにしてみれば、たださえ居候って言っているホダカにぼくが加わる。頭が痛かったことだろう。

「子猫の面倒見るくらいの余裕はないわけじゃないけど、ちょっとそこのオッサンには頑張ってもらわないとだね!」

ナツミはそう言ってスガにはっぱをかける。

「ネ、猫くらいの食い扶持ならちょっと頑張りゃ……」

おどおどしながらスガは答える。

「僕も頑張りますっっ」

ホダカが力強く答える。

「まあ、ホダカ君の友達みたいだし、無下にも追い出せないしね……」

ナツミはぼくに顔を近づける。香水かと思っていた匂いは、顔に塗っている化粧品が出しているものだった。

"うわっくっせ"

と一鳴きしてナツミの顔から避難する。

「おいおい、嫌われちゃったんじゃないの?」

半笑いでスガが言ったと思えば、

「ナツミさん、いろいろ塗りすぎてるから……」

止めのようにホダカも上からかぶせてくる。

二人の男にさんざん言われたナツミ。

「し、失礼なっっ」

ぷいっと横を向いてキッチンの方に歩き出すナツミ。ただ、ここに居る三人とも、猫嫌いというわけではなさそうだった。

ようやくぼくの飼い猫人生がここから始まるのだった。


三人の生活を見ていると実に面白い。

そもそもここに住んでいるのはホダカとスガ。ナツミは実家から通ってきているのだった。

まず7時にホダカは起き出して来て、掃除やら洗濯、朝食の準備をする。若いくせにトイレ掃除もやっている。

準備が整ってスガを起こしに行き、8時半ころになってナツミが事務所に入ってくる。ぼくも含めて全員で朝食を食べる。

9時を少し回るころ、スガがそわそわして、ホダカに「先に整理券とっておいてくれよ」と何かの使い走りを命じる。

ぼくには何のことかわからなかったが、スガが遊ぶために順番を取らせていたのだった。

10時少し前に、スガは事務所を出ていく。おそらく並びをホダカと交代するためだろう。その姿をナツミは黙ってみている。

10時を少し回ってホダカが帰ってくると、今度はナツミが「今から取材に行くよっ」といってホダカと連れ立って出かける。

そう。ぼくに朝飯を用意してからというもの、ぼくには誰も構ってくれないのだ。

仲間が増えた、というほどではなかっただろうし、だいたいぼくはここにいても何の手助けもできない。

だから、邪魔にならないように、ちょこんと座っているか、所在なく部屋をウロウロするくらいしかできない。

昼を少し回ってナツミとホダカが帰ってくる。

「いい調子でしたね」

「癖の強そうな人だったけど、面白かったわね。彼の話し」

そう言いながら、二人分のドリンクをナツミが作る。ものほしそうに見ていたわけではないが、

「あ、そうそう。アメくんにも、ね」

そういって平べったい皿にミルクが注がれる。

大好物、というほどではないが、ちょっと母の味がしないでもないミルクは一服の清涼剤だ。

ぼくがペチャペチャ飲んでいるさなかに、スガが帰ってくる。2時過ぎだ。

「あ、その顔は「私負けましたわ」って感じかな?圭ちゃん」

「バカ言え。呑まれる前に帰ってきたんだよ」

「てことは?」

「うん。2万5千円勝ち。たまにはAタイプも面白いよなぁ」

「え?じゃあ、あの新台、座らなかったんですか?せっかく一番取ったのに……」

ホダカの落胆ぶりが痛々しい。

「ああ、世話になってる先輩に譲った。その代わり軍資金恵んでもらったけどな」

「ふーん。じゃあ、今日の夕ご飯は奮発する?」

目を輝かせるナツミだったが、

「その前に電気代だろ」

スガの一言で現実に引き戻される。

「あ、忘れてた」

そんなやり取りがあって、スガは得意先に電話をかけ始め、ナツミとホダカは記事を作るべくパソコンに座って作業を始めた。

「えーっと、題名は……」

「『霊はやっぱりソコに居る』でいく?圭ちゃん?」

「もうちょっと、こう、煽情的なんがいいかなぁ。『霊があるから生きていられる』て、どうかな?」

「えー全然煽情的じゃないっすよぉ」

「じゃあ、ホダカ、何か言ってみろよ」

「『何もかも霊のせいだっ』て、どうですか?」

「まあ、霊が引き起こした事象についてだからなあ。まあ、サブタイトルはいるかもだけど、少年、採用!」

「えー、まーじすっか」

「まあまあ。もっといいの浮かんだら言ってよ。とりあえずそれで枕から仕立てていって」

「はい。分かりました」

「あたしは前回の連載の続きね」

「おお、好評みたいだから筆致落とさないでくれよ」

「任せてっ」


そうやって各自が仕事に打ち込みだすと、ぼくの出る幕は完全になくなる。

当然ソファーの上でふて寝するか、それにも飽きたらまた部屋の中を歩き回るくらいしかない。

たまぁにスガがぼくにちょっかい出してくるのだが、それほど激しくは反応しない。

ぼくといろいろ戯れながら「そこの論調、単調だな」とか「この段落もっと肉付け」とか言ってホダカの原稿にスガはダメを出す。

ホダカはその指示を半ば受け止め、半ば首をかしげながら文章に仕立てていく。

キーボードをひたすらたたく音と、スガのへりくだった電話口の応対にぼく自身も退屈してしまう。

5時を少し回り始めたところで、ナツミの手が止まる。

「ああ、そろそろ夕飯の支度するけど、今日は何がいい?」

「そうだなぁ。まあカレーとか、簡単なんでいいぜ」

「カレーが簡単?あれって意外と皮剥いたり煮込みに時間かかったりするんですけど?」

「あ、ぼくも手伝いますよ」

ホダカもきりがいいのか、キーボードを打つ手を止める。

「ホダカくんは具があった方がいい派?」

「はい。ぼくはごろごろジャガイモがないと」

「おー、ホダカ、オレもなんだよ。あれがないとカレーじゃないよな」

「えー、私は具なし、ていうか全て溶け込んだ状態派なんだけど」

「ああ、2日目とか3日目とかにそうなりますよね。それはそれでぼくは好きですけど」

「どっちが好みなんだよ、ホダカ?」

「あ、やっぱり具が主張している方が……」

「へぇ、混然一体となったルゥを否定するんだ……」

「いや、それも捨てがたいけど……」

「「どっちなんだよっっっ」」

二人に詰められているホダカも面白かったりする。


それでも、二人して台所に立ち、家事をしている様子は、案外様になっている。

ホダカは包丁も持ったことがない少年のはずだが、器用に玉ねぎをみじん切りにできているし、何より手際がいい。

ナツミは火元で炒めをやっているのだが、ベテランの料理人かと思えるほどの腕前を見せる。

「ちょっと危ないわよ」

そういってワインを鍋に入れたと思ったら、フランベ。ぶわっと炎が上がる。

"うぉー、あぶねえ"

ぼくもつい声に出してしまう。

「ちょくちょくやるんだよ。うちが紙まみれなのを知っててさ」

食事の前にたまらず缶ビールを開けて飲んでいるスガはホダカに説明する。

「あら、たまにはいいじゃない、いいお肉も買ったんだし」

悪びれずナツミはそう言う。

それでも、本格にこだわるナツミのカレーは、そこまで時間がかからずに完成する。

生野菜サラダが添えられた食卓は、「個人で盛ってね」とばかりに、炊飯器とカレー入り鍋がそのままで出される。

「まあ、これの方がいいでしょ?」

ナツミはそう言う。

「まあオレたちはこれでいいけど、この子の分は?」

三人の視線が僕に注がれる。

「ああ、ご心配なく。カレーの味付けする前に少しだけ取り分けてしょうゆベースで味付けしたのあるから」

ナツミはぼくのために別誂えの肉じゃが風のおかずを用意してくれたのだった。

「あい、アメくん、どうぞ」

小皿に添えられた肉じゃが的な何かとごはん。これがまた飛び切り美味しかった。

食卓の上でも、ご飯が米粒一つ残らない状態で3人が貪り食っていたのが印象的だった。

「残ったカレーは冷凍しとくから」

洗い物をするホダカとは別に、ナツミは容器にカレーを移している。

「ああ、助かるよ。で、今日は何時まで?」

「9時まではいようかな」

「まあ、あらかた格好がついたら帰っていいから。親父さんもうるさいんだろ?」

「別に。ここにいることは両親だって知ってるし」

「まあな。でも、入り浸りもなんだから、たまには……」

「それはわかってるわよ」

少し機嫌を損ねたのか、ナツミはパソコンから目をそらし、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

「おいおい、帰りバイクだろ?」

「あ、そうだった……」

ったく……と言いつつ、スガは、ナツミの開けた缶ビールを飲む。

「今それほどでもないから、あまり根詰めてこなくてもいいぜ」

スガがそういう。

「そうは言っても、締め切りもあるし、次の取材もしたいし……」

そういって、ホダカとぼくの方をナツミは見る。

その目は、少しうつろだった。何かを求めているようで何物にもなりたくない、そんな宙ぶらりんな目だ。

刹那、バタンっとノートパソコンの閉まる音がする。

「うわー」と伸びをするナツミ。

「今日のところはいいところまで進んだし、また明日取り組もうかな。で、明日は取材のアポあるの?」

「明日かぁ、あ、晴れ女絡みの気象研究所の先生の所に行く予定、入ってるわ」

手帳で確認しながらスガは言う。

「何時だっけ?」

「15:30だけど、どした?」

「それならちょうどよかった。13時にJKとの待ち合わせあるのよ」

「それも晴れ女絡み?」

「そう。よさそうなネタをくれそうな予感がするのよねぇ」

「じゃあ、明日も朝からだな」

「そんな感じね」

「おっしゃ、お疲れ。また明日な」

「お休み。ホダカ君もお休みぃ」

「あ、お休みなさい」

ホダカは少しお辞儀する。

「さあて、こっちは今日の取材分、一気に固めるぞぉって、まだこれだけしか書けてねーのかよぉ?」

「あ、ご、ごめんなさい」

「もうちょっとは早くなってくれよな」

「しょ、精進しますぅ」

深夜遅くまで、二人はああでもないこうでもないと議論を戦わせて原稿を仕上げていく。

それを横目に見ながら、ぼくは眠りに着いていく。


7月下旬。

スガは、一人でどこかに出かけていく。今日の行き先は、遊び場ではなさそうだった。

なぜなら、こんな会話がナツミとの間で交わされていたからだ。

「あれ?圭ちゃん、今日はおめかしして、どちらまで?」

「ああ、ちょっと、お義母さんと逢ってこようって思って……」

「ふーん。ひょっとして萌花ちゃんのことで?」

「まあ、それもあるけど、なんかこう、嫌われたまんまでいるってのも、気持ち悪いもんだろ?」

「そりゃ、そうだけど……でもあのお義母さん、堅物そうだよぉ」

「知ってるよ。そんなこたぁ」

「まあ、ミイラ取りがミイラにならないように、発言には気をつけて」

「バ、バカ言え。そ、そこまで落ちぶれちゃあいねえよっっ」

バタン!!と荒々しく扉が閉められる。

「あーあー、圭ちゃん、大丈夫かなあ……」

言ってるそばでホダカはというと、テレビの前でさっきからうーん、うーんとうなっている。

気になって近づいてみると、ノートに何やら書きつけては、そのたびに「うーん」とか言っている。

そのころ、ナツミは、原稿の手を止めて、動画サイトを見て回っていた。

「ちょっとすごいよ、これっっ」

その弾むような、何か宝箱でも見つけたかのような声質にぼくも気にならざるを得なかった。

それは、水が何かの生物の形をしているかのような形で存在しているという珍しい動画集だった。

「うーん、確かに魚に見えなくもないですけど……これが空から降ってきたって言うんですか?」

ホダカが疑念たっぷりの口調でナツミに問いかける。ぼくも気になってしまっている。

「触ると消えちゃうんだって、ほら」

と言いながら、大きめの塊が、触れられた瞬間、シューという音とともに崩れていく動画をぼくたちに見せる。

「うわっ」

"マジッ?!"

ホダカとぼくは期せずして声を上げる。

「ほら、前に取材に行った大学の先生が言ってたじゃん、空は海よりもずっと深い未知の世界だって……」

ナツミは熱弁を振るう。

「何かの生物があの雲の中に居てもおかしくないって」

「それが……この……魚?」

「かも?!ねえ、これってすごくなぁぃ?」

宝箱の中に目指す宝物が入っていたかのように上気してナツミは言う。

「なるほど……あ、これって記事にしたら稼げるかも!」

ホダカは現実主義まるだしでそう言う。こういうところは確かに子供だ。

ぼくはいつの間にかナツミの側に立っていた。

「え?なによ、それ」

"つまんねー"

ナツミの代わりにそう付け足して置いた。

「稼げるって。君、だんだん圭ちゃんに似てきたよ。つまんない大人になりそう」

一刀両断されてホダカは返答に窮する。

「せっかく見つけた晴れ女に嫌われないようにね。これからデートでしょ?」

「いや、デートとかじゃなくて、確認って言うか……」

すべてを言い終わらないうちにナツミが

「じゃあ、就活いってきまーす」

と踵を返したのだ。ぼくも気が付かなかったが、彼女から嫌な臭いがしなかったから今日は寄り添えていたのだ。

「ええ、就活って?じゃあ、この事務所は?」

「こーんなとこ、腰かけよぉ」

見たことのないパリッとした就活スーツに身を包んだナツミがそそくさと事務所を出ていく。

ナツミの座っていた座布団の上から、ぼくは

"デートなんだろ?"

と一声かけてみる。

「だからデートじゃないってば……」

とホダカは言うんだが、その顔には、初々しさが漂っていた。


8月になった。

「晴れ女」の家に行った日から、ホダカの様子が変わっていった。

逢ったその日には、夜遅くに帰ってきたと思ったら、とてつもないスピードで小さいテルテル坊主をたくさん作って傘にぶら下げる。

それが終わると、今度は、人の頭がすっぽり入る球形の工作を夜どおし行っていた。

「なにやってんだよ、ホダカ……」

スガの忠告も耳に入らない。一晩で作らないといけないとなった時のこのパワーにぼくも圧倒される。

人間、やればできるんだなあ、と思った。ホダカに工作の才能があるとこのときぼくは初めて知った。

それから、ホダカは事務所の仕事にかかわりが薄くなっていく。

ぼくが起き出すより前に、ホダカは事務所から出かけることが多くなっていた。

もともといてもいなくても回っていた事務所。ホダカも「今日は出掛けますから」とだけ言ってどこかに行ってしまう。

それでもスガのために朝食は用意して出かけている様子だった。

ぼくの食事の用意が面倒くさくなったのか、ナツミが毎日のように料理しないからかわからないが、スガはキャットフードに頼りだした。

ただ、ぼくの今までの浪々の身からすれば食べられるだけで満足だった。

「おう、たんとおあがり」

小さな器にこれでもか、と盛ってしまうスガ。まあ、気持ちはうれしいのだが、食べづらいったらありゃしない。

「さあってと……って今日もホダカはバイトかあ。まあ、自分の稼ぎは自分で勝ち取らないとな」

ぶつぶつ言いながら、彼は大好きな、並びを必要とする遊び場に出向く回数を減らして仕事に邁進する。

ホダカが当てにならない、となって、ナツミと取材に行くことも多くなっていたのだが、るすの間、ぼくの食事は忘れず用意してくれた。

スガはそのあたり、律儀である。ぼくもスガといる時間が長くなっていたこともあって、スガにだんだんとなついていくようになる。

数日後。

急にホダカの態度が大きくなったのをぼくは肌で感じた。

それは今までのひもじさ・貧しさからくる自信のなさではなく、「この東京でやっていける」という確信が芽生えたことに気が付いたからだ。

ホダカが変わったのは確か月曜日のことだったと思う。

ニュースでは、「JRA史上3番目の単勝高配当でる」とか言われていたが、これが起因しているのか、どうか?

とにかくそれからの帆高は何をやってもうまく行く好循環の中にいたかのようだった。

「いってきまーす」

今日も今日とて、ぼくとスガをほったらかしにして、ホダカは朝早くから出ていく。なんでも、今日は神宮外苑の花火大会。

晴れ女の、ヒナとか言う女性の着付けやら、運営サイドとの打ち合わせで、朝から駆り出されていたのだった。

「んあーー、どこへぇ?」

スガが寝ぼけた声で問いかけるが、もうホダカは出掛けた後だった。

「まったく、オレにばっかりアメの世話焼かせやがって……なあ、いい加減ご主人らしい事しろってんだよな」

スガはぼくに話しかける。

”まったくだよ、誰がご主人かわかんないよ”

と言いつつも、今はスガの方が一緒に居る時間が長いので、ぼくとしては好都合だったりする。


ホダカは「晴れ女が金になる」と思ってそれを使って稼いでいたのだった。

晴れ女を使った一種の金もうけは、しかし、神宮外苑花火大会で素性がばれたこともあり、実施不可能なオーダーが舞い込んでしまう。

最初はこなそうとしたようだが、圧倒的なオーダー残にチームが音を上げてしまったようだ。

まあ、あとでホダカから聞いた話なんで、この時点ではどういうことが起こっていたのかは知らなかった。

そしてもう一つ。

「なあ、ナツミ?この「お天気、お届けします」ってサイト。もしかして晴れ女が商売始めたってことなのか?」

「あ、圭ちゃんも気が付いた?私もちょっと気になってたのよ」

さすがオカルト雑誌に投稿するだけのことはある。こういった信ぴょう性の薄いサイトでもしっかりアンテナに引っかかってくる。

もっとも、サイトを立ち上げてかなりの時間は経っていたし、ネットで話題になってからの後追いとも考えられる。

「ああ。局所的に晴れるとか、どう考えてもおかしいだろ?」

「そうよね。こないだ他の番組でも、取り上げてたわよね。でも、あまりに局所的でレーダーとかには写らないんだって」

二人の議論は留まるところを知らない。

「ちょっと試しにオレ、使ってみようかな?」

「えー、なんて理由付けんの?」

「ほら、雨降ってると、お義母さん、萌花と合わせてくれないじゃん?それをどうにかしたいんだよ」

「ああ、それ、ちょっとおもしろいかもだね。自分の欲求も満たされるし、晴れ女の取材もできるから」

「だろう?ちょっとポチってみるわ。まあ、抽選とか、先約あったら無理かも、だけど」

で、実現したのが8月21日土曜日のことだった。


ぼくは一人で留守番をしていた。

無理もない。待ち合わせ場所は芝公園だったようだが、晴れ女ビジネスの担当者も依頼人も全員そこに居るのだから。

6時半過ぎにスガ、そしてナギという少年というより子供が事務所に入ってくる。

「あー、今日は楽しかったなぁ」

スガがそういうと、

「今日はありがとうございました」

児童らしからぬ礼儀の正しさでナギはスガに敬礼する。

「おいおい、そこまでかしこまらなくってもいいんだぜ。オレたちは依頼した、きみたちは任務を全うした。それだけじゃないか」

その姿勢が意外だったのか、スガはナギの肩に手を当てて言った。

「でも、あれで、実は最後の「晴れ女」なんです」

ナギは内情を始めて打ち明ける。

「えっっっ」

期せずしてスガは声を上げてしまう。

「神宮外苑の花火大会で素性がばれたことや、100%で晴れるとわかって、依頼が殺到しちゃったんだ」

ナギは辞める理由を話し始めた。

「数の上で出来っこないし、時間帯も被りまくって追いきれなくなったんだ。だから、姉ちゃんの誕生日までの仕事で終わろうって」

ナギは少し寂しそうな顔をする。

「まあ、な。ナギ君ももうすぐ学校だし、いつまでもこうしてるわけにはいかんよな」

夏休みのバイト感覚と思っていたスガにしてみても、今辞めるのはいいタイミングになったんじゃないか、と感じていた。

「そのうち、取材もさせてくれよ。ナツミに担当させっから」

スガはナギにそう提案する。

「ああ。また姉ちゃんに話もっていっとくよ」

少し気落ちしたナギの声。

だが、その時!

「済みませーん」

玄関の扉が少し空いて、誰かが呼びかけている。

「んあ?誰だよ、こんな時間に」

スガは立ち上がり、玄関口に向かう。

「ああ、これはこれは。スガ……ケイスケ?さん、ですね?」

そこに居るのは、警官を従えた初老の刑事っぽい男性だった。

「あ、はい、そうですけど、なんかあったんすか?」

後ろめたいことをしているとは思っていないスガに畳みかけるようにその刑事は言う。

「この写真の少年に、見覚え、ありませんか?」

そこに映っていたのはホダカだった。

スガはとっさに「奴が」と言おうと思ってすぐに言葉を変えた。

「誰です、この少年?」

「いや、このあたりでウロウロしているって証言がありましてね」

「だから、この少年だか、ガキがなにしたっていうんですか?」

「あなたですよ」

「はぁ?」

スガが声のトーンを明らかにあげた。慌ててぼくはスガの元に駆け寄る。

「この少年の行方、本当にご存知ない?」

その刑事は執拗に問いかける。

「知るわけないでしょう、見たこともないのに……」

しらばっくれてるな、という表情の刑事はそれでもその言葉には反応しない。

「まあ、知ってても知らなくてもいいんですがね。あなたが、この少年と連れ立って歩いてるって証言もあるんですが」

少しだけスガの顔色が変わっていく。

「しつこいなあ、刑事さん。知らんものは知らないんですって」

必死に自分をかばうかのようなスガ。

「この少年、行方不明者届が出てるんですよ」

「だから?知らないオレがどうにかできるんですか?」

「その男の子をどうにかしているんじゃないかと……誘拐とか、殺害とか......」

「もういい加減にしてくれよ、証拠もないくせに……」

「まあ、とにかく、見つけたら警察に連絡してくださいよ、お願いしますね」

そう言い残すと刑事たちは出て行った。


後ろで聞いていたナギは少し震え上がっている。

「スガさん!ホダカって……そうだったんだ……」

ナギは、ホダカの素性を知らないで今まで付き合っていたのだろう。その秘密が明らかになっていく。

「しらばっくれたけど、どうせ連中のことだ。またここに足を運んでくるだろう。とりあえず、このことを知らせとかないとな」

スガは電話をかける。相手は、今、ヒナと一緒に居るホダカだろう。

「あ、もしもし、俺。今、うちに警察が来てさ……うん。そう。お前のこと、いろいろ聞いて回ってたわ」

スガは、ホダカであろう相手にいろいろと聞いているようだった。

「家出人ていうだけで刑事は動かんさ。お前、心当たり、あるんじゃないか?」

スガはそう聞くが、彼の返答まではわからない。

「まあ、いまからナギを送ってくから。話はその時にでも」

スガは、どういうわけか、ホダカの身の周りの一切を荷造りし始めた。まるで追い出すかのように。

「後は又送り返せばいいか。とりあえずこんなもんだろう」

スガが独り言を言って、ナギと連れ立って車で出て行った。ぼくは又一人ぼっちになった。


スガが戻ってきたのは19:40頃だ。すでに大量に降った雨の影響はそこかしこに出ていたようだったが、なんとか事務所に戻れたのだった。

バタン!!

荒々しく扉が開く。肩で息をしているスガの顔からは生気がうせていた。

ぼくのことなどお構いなく、彼はバーカウンターに入り込み、強めの酒を物色し始める。

「Maker's Mark」と書かれたバーボンを手にし、ロックで一杯、また一杯と、グラスを重ね始める。

禁煙していたはずなのに、自分のデスクから煙草を持ちだして、吸い始めた。もう、ぼくも注意する気も起らない。

そうこうするうちに疲れたのか、彼は寝息を立て始める。

ぼくも何もすることができずうずくまるだけなのだが、部屋の中が真冬のような気温になっていることにようやく気が付いた。

しばらくして、裏口がガチャリと開く音がする。

「うーさむっっ」

それはナツミの声だった。

「ちょっと圭ちゃん、8月に雪だよ、とうとう世の中狂って……」

と言いかけて、スガの寝ている姿を見つける。

「ちょっと圭ちゃん……」

起こそうとするナツミ。

「アスカ……」

寝言なのか、夢で出会えたのか?スガの言葉はぼくには聞き取れなかった。

ピピッッ

ナツミがエアコンを入れる。もちろん暖房に、だ。

その温風が鼻をくすぐらせたのか、起きてすぐの須賀はくしゃみをする。ぼくも風が冷たく感じて体を小さく丸める。

二人は会話を始める。

だが、不思議と二人の会話は頭に入ってこない。身体が硬直化していたからか、それとも二人の会話が高尚過ぎたからか……

ただ、ぼくには体を動かされたことで印象深いナツミの行動だけは記憶に残っている。

「ダサイにゃー」

そういってぼくを抱えるように持ち上げてスガに見せつつ代弁するようにさせたことだった。

ぼくはそんなことより、寒くて凍えそうだったことしか記憶がない。猫は寒さに弱いのだ。

その日以来、ホダカの姿はこの事務所から消えてしまうのだった。


あの晴れが最後の晴れだったのだろうか。

2021.8.22、お昼過ぎまでの晴れをぼくは堪能した。もっとも、スガに抱きかかえられ外に出た時に

"どこにでも行けよ、お前の飼い主はもういないんだから"

とばかりに道端に置かれた時は、何とも言えない寂しさがこみ上げて、思わずスガを見上げてしまった。

そこへやってきたのは昨日やってきた刑事だった。

刑事がホダカがつかまりながら逃げだしたことをスガに告げる。

その時、ぼくはとっさにスガに抱きかかえられる。

「でも、俺には何の関係もないですから」

そういいつつ、スガは又事務所に戻り、ぼくをソファーの上に置いた。

ホダカの置き土産、忘れ形見。「もう故郷に戻った」と思ったからスガはぼくを手放そうとしたのだろう。

でも、まだ都内に居る。逃げている。

それを知ってぼくをまだ保護していたくなったんだろうな、と今なら思える。

スガがホダカに自分の若いころを思い起こさせているとかまではわからない。

でも、確かなのは、ぼくがホダカみたいに見えた、ということだろう。

そうでなければ、あの時に絆は消えていておかしくない。

初老の刑事とスガは話している。だが、それはぼくにとっては何か、遠い世界のことのように思えた。

「その少年、代々木の壊れかけのビルに行けば、その子に会えるんじゃないかって、言ってたらしいですよ」

去り際、その刑事は聞かれたわけでもないのにボソッとつぶやく。

「そんな話、してどうしようっていうんですか?」

目をはらしたスガが聞く。

「いや、あなたに、できることがあるんじゃないかって、そんなことを考えちまったもんですから。後片付け、ご苦労様です」

警官たちが去っていく。スガは、ぼくのことなどお構いなく、水没を免れた車に飛び乗ってどこかに出かけていく。


その日の夜。

とうとう事務所には誰も戻ってこなかった。

次の日も、その次の日も。だれ一人戻っては来なかった。

ただ、猛烈な雨が降りしきっていることもあって、ぼくも外に出よう、とか、食べ物を探そうとは思わなかった。

4日目の朝早くにスガとナツミは二人して事務所に戻ってくる。

「なによ、これ、圭ちゃん!!」

床上浸水して4日目。ふやけた書類に封筒が散乱して、足の踏み場もない。ソファーも水を吸ってしまって座ることすらままならない。

何より、腐敗臭が半端ない。湿度も高い夏場のことゆえ、水の腐った匂いが部屋の中に充満していた。

「いやぁ、片付ける前に飛び出しちまって……」

鼻をつまみながら、処理を始めるスガ。

「こりゃ、片付ける前に措置が必要だわっ」

そういうと、ナツミは、どこかに出かけていき、防毒マスクのようなごついマスクで顔を覆った。

「そこまで臭い、凄いかぁ?」

スガは、ナツミがいない間も大半がゴミと化した資料の選別に追われていた。

「凄いなんてもんじゃないわよ。よく平気でいられるわね」

もごもごとくぐもった響きでナツミは言う。

「だって……ここは、アスカとの思い出の場所だぜ」

そういって手を止めるスガ。

「オレの……オレたちのやったことって、間違ってたのかなぁ」

スガはホダカを逃がそうと警官たちと格闘し、ナツミはホダカの逃走を手助けした。

二人が略式起訴で済み、だから数日で外に出られたのはぼくにとってはラッキーだった。

「間違っちゃいないわよ。私たちの中では……」

ナツミははっきりという。それはそうだ。彼女はマスクを外していたからだ。

「世間がどういおうと、オレたちは間違っていないってことか……世界の方が狂っちまっているのかもなぁ」

遠い目でスガは虚空をみつめる。気が付くと壁紙にも色とりどりの斑点……カビが繁茂してるのだった。

「ま、とにかく一からやり直しだ。しばらくナツミにも付き合ってもらうぜ」

「私なんかでいいの?」

「他に誰がいるってんだよ」

うふっと、ナツミが笑う。

”お二人さん、いい加減ぼくに気づいてよ”

弱弱しく鳴いてぼくは存在感を出す。

「おお、アメか?よく生きてたなあ」

スガがほうずりしてくる。

「ちょっと痩せちまったなあ。ごめんなぁ」

それでも4日生きていられたのは、水没を免れ、封の開いていたキャットフードのおかげだった。

それからのスガは、人が変わったように仕事に邁進した。


2021年は暮れていく。

2022年3月。

「で、どうするんだ、ナツミ?」

スガがナツミに聞いてくる。どうやら進路のことらしかった。

「うーん、就職浪人も性に合わないし、かといってバイトで食いつなぐのもなぁ」

「だぁかぁらぁ?」

少しイラついた表情でスガは聞く。

「圭ちゃんがよかったら、ここで働いてもいいって思ってるんだけど?」

あっけらかんとナツミは言い放つ。

「おまえなあ、そんな簡単に言うなよ。腰かけだったんだろ? ホダカから聞いたぜ」

キーボードを打つ手を休めずスガは言う。

「あ、あのガキ……じゃなかった。まあ、どっかに滑り込めると思ったんだけど、世の中甘くなかったわ」

アハハ、と言いつつもその笑いは凍り付いている。

「とはいえ、実はうちも人手不足でね……」

「え?どういうこと?」

ヒマで仕方なかったはずのK&Aプランニングだったが、「晴れ女」の記事を上梓してから一気に仕事が舞い込み始めた。

スガ一人では追いつかず、別のライターに外注する始末。就活と卒業に必死でナツミは疎遠にしていたことも影響していた。

「まあ、ヒナちゃんさまさまだよ」

「いや、案外、アメのせいかもね」

「え?この猫がぁ?」

スガがぼくを見て言う。ミルクを飲んでいたぼくは、怪訝そうな目で見るスガの視線を感じてしまう。

「ほら、招き猫ってあるじゃない、置き物の。あれって猫が、手で招いているように動作するからなんだよ」

「んなこたぁ知ってるよ。なんで、アメが招き猫なんだよ?」

スガは、まだぼくの方を見ている。

「考えても見てよ。ホダカ君が連れてこなけりゃ、アメはいないんだよ。商売繁盛になったのはアメがいるからって考えられない?」

必死に説明するナツミ。

「ま、まあ、確かに、ホダカが起点になっているのは間違いないわな。ヒナちゃんと知り合えたのだってそうだし……」

スガもちょっと振り返るそぶりを見せて考えている。

”まあ、ぼくがいるから、ってことでいいじゃないの”

けだるそうにそう答えてみる。

「ほら、アメくんもそう言ってるよ」

「嘘付け、猫語なんかわからないくせに」

「そう言ってるわよ、このドヤ顔っぷり見てよ」

「なんか、オレに似てきたよな、こいつ」

「あぁ、そうかもっっ、圭ちゃんに似てふてぶてしくなってきたよね」

「その一言余分なんだけど」

「まあまあ」

「あ、締め切り締め切り」

「私は夕飯の食材買って来まーす」

ミルクを飲んで一息ついたぼくは、キーボードの打ち付ける音を子守唄代わりにひと眠りすることにした。


後書き

もはや私の出る幕のない、「天気の子」二次創作。
これほど早く職人さんたちが腕によりをかけるとは思いもよりませんでした。二人の後日譚も、高井/安井刑事も、須賀ですら書かれてしまって八方ふさがり。
で、結局「アメ」にフォーカスせざるを得なくなったというわけです。
ただ、アメに特化したことで、ちょっとだけ救われた面もあります。それはアメがサブキャラとして、ストーリー上で重きを置かれていないことでした。
よって、書かれていないシーンを創造・創作できる利点があります。水浸しの事務所からの”生還”のシーンとかです。
敢えて2年半後のアメを書かなかったのは、そこに移る際のストーリーは別で書ける、という思いからでした。また、「晴れ女」記事で仕事が舞い込み、好転したというきっかけだけであの事務所が想起できるからです。
とにかく難産、ではなかったですが、猫の気持ちになって書くのはなかなかに難しかったですね。


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