2019-10-31 22:46:19 更新

概要

またしても当方しか書けない「第三者」視点の帆高ストーリー。


前書き

と大見得を切っては見たものの、実際帆高の2年余りの神津島での生活を書いている人はそこそこにいらっしゃると思います(pixiv界隈の職人さんたちは侮れませんからな)。
保護観察処分に反応した私の、彼と向き合う保護司の物語は、果たして有用なのか、どうなのか?

2019.10.14  上京直後の帆高ストーリーを断念し、神津島ストーリーに転向。
2019.10.19  5000字まで。帆高と保護司・白石の関係が紡ぎ始める。
2019.10.22  1万字まで。
2019.10.26  12000字まで。帆高のカミングアウト直前。
2019.10.31  公約通り上梓。16160字/第一版


2021年10月。

50歳になったばかりの白石 浩一の元に、法務局から一通の手紙が来る。

「おお、久しぶりだなあ」

白石の手は少しうれしさから、小刻みに震えている。

差出人は保護観察所。彼に「保護司委嘱」の辞令が発せられたのだった。


彼の職業は普通の物書き。そこそこに売れている小説家だった。その彼が「保護司」という職業に一種の興味を持ったのは、あるドキュメンタリーがきっかけだった。

「非行少年はどこに行く」というタイトルだったか。そこで描かれる、熱血だけれども更生に一切の手を抜かない保護司に惹かれたのだった。

札付きで少年院に入れても出たと思ったらまた戻ってくる。業を煮やして、保護観察処分に変え、その少年と保護司が向き合うことになるのだが、親と子かと見間違うほどにその少年は更生を果たしていくのだ。

「こんな世界があるんだなぁ」

少し名も売れてきた白石は、興味本位というより、小説の題材にでもなれば、という下心もあって応募する。ところが、意外に保護司も人手不足なのだろうか、そうした不純な動機でも(もちろん応募時にはそんなことは表に出さないが)、合格してしまった。


ただ無給のボランティアなので、いつでも受け入れるというわけにはいかなかった。自身の創作を犠牲にしてまでやる仕事ではないと思ってもいたからだった。執筆がひと段落したときに彼は「今から行けますよ」と法務局に申し出る。そして保護司としての生活を始めるのだった。彼のわがままが許されているのも、人手のなさと、彼なりの仕事ぶりが一定の信頼を生んでいたからでもあった。

「あれ?いつもと様子がおかしいなぁ」

白石は、委嘱辞令の後段に、出頭命令が付記されていることに首をかしげる。

今までは「だれそれの保護司になりました」くらいの文言で、基本的に出掛けることはない。少年院から連絡が来て、「一度面談しましょうか」が仕事の第一歩だからである。

なので、今回の事例は今まで数回やった保護司の中では異例といえるものだった。

保管していた今までの辞令と見比べる白石だったが、やはり今回の辞令は異なっている。

「うーん、よくわからんが、行くだけ行ってみるか……」

3日後に指定されている出頭日時に、彼は東京保護観察所に出向く。


「おーこれはこれは白石さん」

人懐っこい笑顔で、所長の菅井は白石に握手を求める。

「あ、は、ハイ……」

菅井のマイペースに白石はやられっぱなしである。

「まあ、掛けて掛けて」

左手でソファーを示されるのだが、右手は握手したままだった。

「あ、は、ハイ……」

ようやくその手が外され、白石はソファーに身をゆだねる。

それを認めて、菅井もドッカッと音がするくらい勢いよくソファーに座る。

「今日来てもらったのはほかでもない、この子の面倒を見てもらいたいんだよ」

菅井はガサゴソと封筒の中から書類を取り出す。

「森嶋 帆高……くん、ですね」

白石は名前をとりあえず音読する。

「そう」

菅井は大きくうなづく。

「でも、なんで私なんです?」

白石が書類から顔を上げて菅井の方に向き直る。

「ああ、ちゃんと読んでくれなきゃあ。小説家の君らしくもない……」

ニコニコしたままの菅井だったが、最後の一言は白石のプライドを少し傷つけた。

白石は再度書類に目を通す。

「現住所は……か、神津島?!」

思わず、読み間違えてしまう白石。

「そう。いやあ、さすがにこんな島の住民が保護観察処分になることがなかったから……」

ほかの保護司に声をかけたが、全員断られて、最後に白石に回ってきたのだった。

「まあ、きみも今まで大概わがまま言ってきてくれたからね。今回お断りなら、解嘱しちゃうよ」

解嘱……もう保護司でいられなくなる、ということ。笑いながら冗談半分のつもりか、菅井はそう言う。

「いや、それはちょっと……」

自分から辞める、というのならまだわかるが、辞めさせられるのは白石のプライドが許さなかった。

「じゃぁ、引き受けてくれるね?」

急に真顔になって身を乗り出して、菅井は白石に返答を求める。

「あ、はい。分かりました……」

その言葉を聞いてニコォっとする菅井。

「そうか!それはよかった。赴任は船便の都合とかもあるから、あとは役場と相談してくれればいいよ。あ、住まいも用意させてあるから」

基本ボランティアの保護司だが、住居を変わらないといけない辺鄙な場所に行く際には、補助が国から出る。

もちろん、島との往復の乗船料も、経費扱いとなる。ただ、菅井によると、「帰っていいのは月2回」と決められたそうだ。

白石は、ごく限られた荷物だけをもって、秋の長雨が続く都心からやや陰欝な面持ちで竹芝桟橋に向かった。


神津島港に「さるびあ丸」が入ってくる。定刻とほぼ同じ10時過ぎだ。白石は、はじめて渡った孤島の風景に少しだけ目を見張る。

「白石さーん」

駆け寄ってくる人がいる。役場の服を着ているので、白石もその人の方向に近づいていく。

「あ、お待ち申し上げておりました。どうぞこちらへ」

荷物を持たれて、白石はその役場の担当に付いていく。

役場の車に乗り込み、バタン、とドアを閉めて、二人はシートベルトを締める。

「わたくし、村の教育委員会の堤って言います。どうぞよろしく」

わざわざ名刺を出してくる堤。ちょっと戸惑いながら白石はそれを受け取る。

「あ。白石です。どうぞよろしく」

助手席で少し頭を下げる白石。

「しかし、先生が保護司をやっておられたなんて知りませんでしたよ。ぼく、先生の大ファンで……」

「ああ、そうですか……」

作家先生に逢えてテンションの上がる堤と対照的にまだ心の晴れない白石。

ほどなくして車は一軒の家の前で止まる。

「お待たせしました。ここが先生のお住まいになります」

白石の目が点になった。

昭和時代に建てられたと思しき木造平屋建て。中は確かに広かったが、一人暮らしの身には持て余し気味だ。

「ところで、インターネットは……」

仕事上も含めて、ネットは今や生活必需品。だが、堤の答えは意外だった。

「ああ、固定電話に付随するネットはありませんよ。Wi-Fiなら用意できますけど……」

無線Wi-Fiは速度が安定しないので好みではなかった。それでもないよりましか……

「あ、帆高君でしたよね?ご担当になられるの……」

「ええ、そうですが……」

白石は荷物を降ろしながら、答える。

「今日、学校で逢う手はずを整えてますので、お迎えに上がりますよ」

堤は、白石のキャリーバッグを手渡しながらそう言う。そして堤は役場に帰っていった。

船着場からここまでわずか30分。白石は、「これは大変なことになったぞ」と、改めて思い直す。

ここには何もないからだ。より正確には、必要最低限しかない。島の住民はわずか1600人強。ここに大都会のような潤沢な施設は必要ないからである。

何もかもが「島唯一」のものだったりする。ガソリンスタンドも、コンビニも、郵便局も。村役場周辺だけが少し栄えているだけだった。

暇・退屈になっても、出掛ける先にはこれまた何もない。遊び場が全くないのだ。

白石は、昼ご飯は、当座のカップ麺で済ませ、堤が迎えに来るまで、荷ほどきと部屋のレイアウトを考えることに腐心した。


15時過ぎ。

「白石さーん」

堤が迎えに来た。その横には、久しぶりに見る顔が並んでいた。

「おお、宮前さん!!」

白石より少し若い、40代の宮前と呼ばれた男性も少し恰好を崩す。

「白石さん、久しぶり。ちょっと太りましたね?」

保護観察官・宮前 輝夫はそう言って白石をいじる。

「宮前さんこそ。ちょっと白髪が混じってますよ」

二人して雑談に余念がない。

「そうでしたか。宮前さんが帆高君の……」

「ええ、担当観察官です」

車に乗り込んで、二人は会話を続けていた。

「で、どんな子なんですか?」

逢う前から興味津々の白石は帆高に話題を振る。

「びっくりしますよ、お逢いすれば」

含みを持たせて、宮前は本当のことを言わない。

「びっくりするんだ。それは私レベルでもですか?」

ますます期待と興味がわいてくる白石。

「ああ。きっと、会ったことのない対象者でしょうね」

にんまりとして宮前は言う。

白石だって、これまで10数人に関わってきた。きっちり更生できたもの、また院に逆戻りしたもの、あるいは精神を病んでしまったもの……すべて成功、という保護司人生ではなかった。

結局白石たち、保護司は、その人の人生の責任者にはなりえない。自分の人生は自分が決めるからだ。せいぜい道を踏み外さないように支えるくらいしかできないし、それ以上は過剰に映ってしまう。

だから成功事例より失敗の事例の方が多いし、それはタッグを組む保護観察官との相性もあったりする。実は宮前とのコンビでは成功している比率が高い方だった。

"種明かししてくれないなんて……これはよっぽどの人物なんだろうな"

少し鼓動が高まりつつあるのを押さえながら、白石は高校の校舎の中を、宮前と堤とともに歩いていく。

空き教室に案内された三人は、帆高の到着を待つ。

ほどなくして、帆高が先生に連れられて入ってくる。

「森嶋 帆高です」

ペコリとお辞儀をする帆高に白石の目は丸くなった。

そこに居たのは、虫も殺せないような、きゃしゃな、それでいてどこか物憂げな瞳の帆高が立っていたからだ。

「え?本当に?」

白石は宮前の顔を覗き込んだ。

「ええ、彼をよろしくお願いしますよ、白石さん」

ポンッと、宮前は白石の肩をたたく。本当に、森嶋帆高は、保護観察を受けないといけない人物なのか?白石は何もかもが信じられなくなっていた。

「これからのこともありますから、二人に……してもらえませんか?」

白石はおずおずとした口調で提案する。

「ああ、その方がいいですね。白石さんが主役なんですから」

宮前は明るくそういって、堤と、帆高を連れてきた教諭とともに教室を後にする。


二人きりになった白石と帆高。

「ちょっと……座ろうか」

ようやくのことで白石は口を開く。

帆高にあってから、自分の感情が整理しきれていない。なぜ彼は保護観察処分になったのか、なにが彼をそうさせたのか、そして今のこのおとなしさは単なる演技なのか、どうなのか?

「ハイ」

と小さく返事をして帆高は椅子に腰かける。白石は立ったままだ。

「まずは自己紹介から。今度赴任しました保護司の白石浩一です。どうぞよろしく」

帆高に一礼する白石。

「あ、はい。ぼくが森嶋です」

帆高はフルネームで応じなかった。

「いやあ、君にあって驚いたよ」

所在なく教室を歩き始める白石。

「いやね、観察官の宮前さんからすごい少年だって聞かされていたからね……」

帆高は白石の言葉を黙って聞いている。

「それが逢ってみたら、非行なんてこれっぽっちも犯せないような君がいるんだよ。正直まだ驚いたままだよ」

もう自分の感情を吐露するしか整理のしようがなかった。白石はありのままの自分の中身を帆高に曝け出す。

「君のことは書類でしかよく知らないんだ。これから更生していくにあたって、ぼくは君のことが知りたいんだ」

ようやく帆高の元に近寄って、帆高の目を見る。

だが、そこにあったのは、これからを真っすぐ生きようとする眼ではなかった。

そこにあったのは、まるで今の空のような、陰鬱で、どこか上の空、と言った趣の眼だった。

「僕のことを知っても、どうにもならないと思いますよ」

帆高は反抗的にそういう。だが、その言葉は少しだけ白石に道を与えてくれた。

今ここで信頼関係を築かないと、後々面倒なことになる。知られたくない過去が彼の心を閉ざしているのだとしたら……

「まあ、それはおいおい聞いていくことにするさ。それにしても……」

白石は帆高の左頬の傷が少し気になっていた。

「その傷、大丈夫……」

言いかけたその時、帆高が椅子を荒々しく引いて立つ。

「ほっといてくれよ。初対面のオッサンに何がわかるって言うんだよ」

言葉は確かに棘がある。だが、彼の表情は明らかに憂いをたたえていた。

"あ、これは聞いてはいけないことだったんだ"

白石はこの言葉で彼の頬の傷は心の傷と同意義なのだと悟った。

「わかった。もう聞かないよ」

瞬時に形勢が不利と悟った白石は、帆高との会話をここで打ち切った。


「で、どうでした?」

帰りの車の中で宮前は白石に聞いてくる。

「いやあ、これは闇の深そうな少年ですねぇ」

白石は偽らざる想いを披露する。

「そうなんですよ。本当のことは決して言ってくれないんです。だから、本来なら少年院送りになるべきところが保護観察で済んでいるんだと思うんです」

宮前は独自の視点でそう言う。

改めて白石は帆高のデータに目をやる。

森嶋 帆高 16歳。 罪状 銃刀法違反 公務執行妨害 未成年者略取 鉄道法違反 道路交通法違反 窃盗未遂……

白石も、ここまで罪状が並んだ少年に対峙することは一度もなかった。ほとんどが重犯……同じ罪状を繰り返すからだ。

「でも、明らかに院ですよ、罪名だけ見れば」

白石は顔を上げて宮前に問う。

「だろう?まあ、親御さんの強力なプッシュもあって、保護観察どまりになったのかも、だけど……」

「でも、何です?」

「嘘かほんとか知らないけど、担当した刑事たちも処分を寛大に、とか申し入れていたんだとか、なんとか……」

「へえ」

帆高が何をしてきたのか、どうして補導され、保護観察処分になったのか……白石は、帆高が語らないのなら、自分で帆高に迫ってみたいと思うようになっていった。


保護司は、ある程度、保護観察対象者に対して知ることができる。いくら個人情報が、とか言っても、その罪を犯した経緯であるとか、実際の自供内容とかを知らないと更生に役立たない面もあるからだ。

裁判記録から、担当した警察官……刑事はすぐに知れた。

白石は、二人の刑事……高井と安井に逢うことに成功する。

「ああ、帆高君、ですよね」

年配の安井が、何か昔のことを思い出すようにそうつぶやく。

「まったく、あいつには翻弄されましたよ」

頭をかきながら高井はそう言う。

「まあまあ。白石さんが聞きたいのは君のことじゃないから」

安井の細い目が少し和らいで見えた。

「ああ、そうでしたっ」

よほど煮え湯を飲まされたのか、高井の表情は常に苦々しく見えた。

「で、帆高君ですけど、お二人が減刑の嘆願をしたって言うのは、本当ですか?」

まるでマスコミの記者のように、白石はそう質問を投げかける。その手にはメモとペン。

「ああ。ウソ、ではないですよ。我々捜査陣も調書を検察に送るときに意見書をつけるときがあるんです」

安井が言う。

「もちろん、全てが採用されるわけではないですよ。でも、彼の場合は守りたい女性のためを思っての行動ではないか、と結論付けたからです」

高井は少し表情を和らげてそういう。

「その……守りたい女性って、何なんですか?」

白石は、突然入ってきた情報に翻弄される。

「彼が彼女にしていた女性ですよ」

安井はかみ砕いていう。

「彼によれば、空から連れ戻したとか言ってましたけど……まあ、そんなことありえませんけどね」

また高井が頭をかく。その言葉に少しだけ白石は興味を持つ。

「白石さん」

安井が席を立ちながら言う。

「帆高君のことはいくらでもお話しします。だが、彼女のことは私らには無関係で何も知らない。これ以上は聞かんでください」

その顔からは苦渋にあふれた想いが受け取れた。知っていても話せないのだ。そういっているように思えた。

「また何か、奴のことで知りたいことがあったら、いつでも連絡ください」

高井はそう言って安井とともに応接室から出ていく。白石は、帆高に少しだけ近づいたように思えた。


島に戻った白石は、帆高と面会しようと何度もアタックする。だが、やれ体調不良だの、試験勉強だの、ではぐらかされてしまう。

無意味に時間だけが過ぎていく。

報告書は電子メールで逐一宮前の元に届けられていくのだが、さすがに1カ月進展がないことにしびれを切らせて、宮前が島に乗り込んでくる。

「白石さん、ちょっと気合が足りないんじゃないんですか?」

宮前も何人かの観察対象者を面倒見ている。離島に渡るわけにはいかないので白石に任せたわけだが、こんな結果とは。

宮前が愚痴りたくなるのは当然といえた。

「申し訳ないです」

実際に結果が出てないからそういって謝罪するしかなかった。

「いや、帆高君が一筋縄でいかないのはわかりますけど……逢えない、というのはいくらなんでも度が過ぎますよ」

大都会・東京でなら時間が取れないとかは理由の一端にもなる。情状酌量もあるだろう。でもこんな隔絶された離島で逢えないとは!

「私が行って、引きずり出してきましょうか?」

宮前の剣幕は相当のものだった。

「あ、そこまでしなくても……」

「何か秘策でもあるんですか?」

宮前がそういっているさなかに呼び鈴が鳴る。

「ほら、噂をすれば、だ」

白石は少しにやけて呼び鈴を鳴らした本人を迎えに行く。

「打ち合わせでもしてたのかい?今、宮前先生もご在宅だぞ」

白石は、スリッパに履き替え廊下を行く帆高に話しかける。

「え?そうなんですか……」

帆高の表情が暗くなる。帆高と宮前は、それほど相性がいいとは言えなかったからだ。

「よう、森嶋君」

部屋に入ってくる帆高を認めて明るく振る舞う宮前だが、言いようのない感情もにじませていた。

「東京に居るときは素直だったのに、ここに来てから、白石さんに面倒ばかりかけているそうじゃないか」

白石が三人分の飲み物を作っている間、帆高と宮前二人だけになっていた。

「そうは言っても……」

帆高はその言い分に応じられないそぶりを見せる。

「そんなに、ぼくのことが気に入らないのかな?」

コーヒーと茶菓子をトレーにのせて、もってきた白石が言う。

「いや、そういうんじゃなくて……」

帆高はまだはっきりと意思表示しない。

「まあ、せっかく三人で話しているんだ。包み隠さず話してくれてもいいんじゃないのかな?」

少し砂糖を多めに入れながら、宮前は帆高に畳みかける。

「でも、ぼくって、どんなに悪いこと、したって思っているんですか?二人とも……」

「え、それは、その、調書にもあったけど、銃を拾って発砲もしているし、何しろ君は逃げているじゃないか」

宮前は今更そんなことを言い出す帆高に少しいらいらして言う。

「でも、あれは……」

帆高は少し言い訳に近い口調をする。

「陽菜……彼女を助けたかったから」

帆高はそう言う。だが彼女の名前を白石は聞き逃さなかった。

「へえ。君にも彼女がいたんだぁ。いま、どうしてるの?」

白石は、正攻法をあきらめ、このラインで帆高を攻略しようと試みる。

「どこで何してるか、知りません。連絡も取ってません」

帆高はありのままを告げる。

「それはおかしいなあ。この島に居るんじゃないの?」

白石のその言葉には”裏”があった。本音を引き出すためにかまをかけたのだ。

「いえ、東京です。家出をしている時に知り合いました」

相手の聞き方を不審に思った帆高は、言葉を選びながら返答する。

その姿に、白石は感じ入る。”できるな……”

あえて彼女のことを聞こうと思ったのにはわけがある。彼の頭の中に少し分け入ってみたかったからだ。

このやり取りで白石は”帆高って相当賢いな”と実感する。いや、彼の意志の固さだろうか?

質問には答えている。だが、核心にまでは至らない。うまく交わせている。そして、彼女には達せられないようにうまくオブラートに包んでいる。

それは彼が、彼女……ヒナ、と聞こえたようだったが、その彼女を護りたい、触れさせまいとした結果だったと感じたのだ。

そして同時に、”俺のことなどわかってくれなくていい”という帆高の内面の堅さを強調する。

要するに彼は”強い”のだ。白石をはじめ、大人が寄ってたかっても崩せないほどの確固とした内面。それを帆高は図らずも露呈したのだった。

「そう、かぁ……」

白石は、結局彼女から帆高を攻略することもままならなくなってしまった。


帆高とは曲りなりにでも会えたことで、その場に来ていた宮前に対しても顔が立った。

帰る手段がない宮前は、とりあえずその日は白石の家に泊まることになった。

「それにしても、帆高君て、ほんと、強いですね」

白石は、メートルが少し上がったところで、饒舌に話し始める。

「君もそう思うだろ?俺も担当当時、一番厄介だって思ったもんな」

雨続きでナマ物はなく、アジの開きを肴にしながら、宮前も述懐する。

「本当に罪の意識がある人は更生させられるって思うんですけど、自分のやったことは正義だって思っていると難しいですよね」

白石は、今までの経験も踏まえてそういう。

「そこなんだよ。帆高君の難しいところは」

箸を白石に向けながら宮前は言う。

「すべての出来事が、彼女……陽菜ちゃん、だっけ?のためにやったことになっている。彼は行く先々で軽微だけれど無視できない犯罪を犯しているんだけれども、そこに罪の意識はないって思うんだよな」

宮前はそう続ける。白石もうなづきながら聞いている。

「だから、我々に御鉢が回ってきたのもわかるような気がするんだよな」

宮前はそう締めくくると、缶ビールを煽って空にする。

「それは彼が罪を犯していない、からですか?」

白石は宮前に尋ねる。

「考えても見てくれよ。公務執行妨害だって、転び公妨だろ?窃盗未遂も転がってた自転車に手をかけただけ。拾った銃が本人曰くオモチャだったって認識なら、発砲できるとは思わなくて当然。たまたま兄弟と行動を共にしただけで未成年者略取は牽強付会。せいぜい、線路の上を走った鉄道法違反くらいだろ?まあ、保護された警察から逃げ出したのはニュースにならなかっただけましだと思うし、その分の警察の落ち度も当然あるからね」

宮前は、帆高がそこそこの罪状があるのに院に収監されなかったのは、罪が軽微すぎるからだと考えていた。

「それでも、だ」

宮前は別の缶ビールを白石の冷蔵庫から持ち出す。ブシュッと音を立てて開けた宮前は一口飲んで続ける。

「彼を更生させないといけない、と考えた家庭裁判所の決定は絶対だからな」

思いつめたような宮前の眼は、白石に新たな決意を芽生えさせる。

「僕に出来ることって、何かありますかね?」

白石は宮前にそういう。

「今までと一緒でいいんじゃないですか?」

「え?」

白石があっけにとられる。

「寄り添うだけ。理解してあげるだけ。今までそうしてやってきたじゃないですか」

ニマッとした笑顔を見せて、宮前は残りを一気に飲み干した。

ぐしゃぐしゃと宮前につぶされる空き缶。前を向きたいのだけれど、どうにもならない焦りが彼をそうさせたのだろうか。

白石もその行為に感じるところがあった。


白石は、翌朝、宮前を船着き場に送り届けて、「帆高の両親にあってみるか」と思い立つ。

宮前も、「基本、私たちには協力的ですよ」という言葉をもらっていたので気兼ねなく帆高の両親がいる郊外……といっても元が田舎なのでこの言葉があっているかはわからない……に向かった。

帆高の家は、そこそこの大きさがあり、2階建て。堤によれば、森嶋家は、島に入植者として入った世代からの由緒ある家柄だそうで、今回の家出からの非行については、ご両親も心を痛めていると聞いた。

農家としては、一二を争う生産高を上げている森嶋家。家のたもとに広がる農地でその理由も知れた。

「こんにちはー」

声をかける白石。

冬に入ろうかという農閑期。両親は、こたつでくつろいでいた。

「ああ、あなたが来られた保護司さんですね」

母親の時子が上がるよう促す。

「よくいらっしゃいました」

父親の船生も歓迎の意を表す。

「お邪魔します」

通されたのは、12畳ほどある客間だ。

「最近の調子はどうですか?」

あまりに単刀直入すぎて、

「それは、帆高のことですか、農業の方ですか?」

と船生に突っ込みを入れられてしまう白石。

「ああ、これは失礼しました。帆高君のことです」

白石は、顔を赤らめながら、そういう。

「ああ、あいつなら、元気にやってますよ。私たちの話も聞いてくれるようになりましたしね」

「そうそう。家出する前なんか、お父さんに歯向かってばかりで……」

時子がお茶を出しながらそう言う。

「帆高君とはあまりそりが合わなかった時期があったんですね」

家出に家庭の事情が絡むのは日常茶飯事。だが、家出から帰ってそれが解決していることに白石は少し驚いた。

「いやぁ、家出の効果ってこんなにあるのかなって正直思いましたよ」

船生は煙草に火をつけながら言う。

「だってそうでしょ?勉強もまともにしてくれない、口を開けばいさかいばかり。そりゃ、手の一つも上げたくなりますよ」

ひきつった笑いを船生は白石に見せる。父親の性格もなんとなくわかってくる。

「ところが帰ってきたと思ったら、あいつ、勉強を始めたんですよ。普通に。たしかに逮捕されて保護観察なんて格好の悪い顛末だとは思いますけど、いい薬になったんじゃないか、と思ったら、家出したのも、悪くなかったのかもなって……」

白石は、悟った。父と和解したのではなく、さらに父と隔絶する道を帆高は選んだんだということを。

関わるとロクなことがないと帆高は思ったんだろう。だから家を飛びだし、新天地を見つけようとした。結果彼女と呼べるかどうか知らないが大切な人もできた。だが、所詮は高校生。元の鞘に収まる以外に帆高には道がなかったのだ。

逃げ出したのに元の木阿弥。ならば、同じ手段で反抗するのではなく、堂々と島から出られる方策は何か、帆高は考えた、と白石は考察する。それが、勉強なのだと思ったのだ。

「おかげさまで成績も上り調子ですよ。皆さんのおかげです」

丁寧に頭を下げる船生だったが、白石の心は晴れない。帆高は又この両親から逃げようとするからだ。

二人に逢って、帆高本人のことは聞くまでもない、と思ったが、一つだけ気になっていたことがあった。

「そうですか。それだけ聞けば安心です。お二人も、帆高君のことを温かく見守ってください」

白石がそう言って席を立とうとする。

「おや?もっといろいろな話を聞きたいんじゃないか、と思ってましたのに」

時子が残念そうな口調で白石に言う。

「いや、お二人に逢えてよくわかりましたから」

と言いながら、

「帆高君の進学については、どうお考えですか?」

と切り出してみる白石。

「ああ、あいつが大学行きたいって言うなら喜んで送り出しますよ。その欲も出たからの勉強だとも思ってますしね」

船生はそう言う。

「家業の方はどうされるんですか?」

白石は聞く。

「誰かに農地は貸してもいいし、自給自足できればそれ以上は望んでません。枯れる一方の我々には分不相応ですよ。若いもののやりたいようにしてもらえばいいんじゃないかって思ってますけどね」

船生はそう答える。そこそこに蓄えもあって、あくせくしないで済む余裕がもらたした言質でもあった。

どうやら船生は帆高に家業を継がせるつもりもなさそうなのだ。

バラバラにしか見えない森嶋家。帆高が、家出に至った原因の一端がここにあるようにおもえた。


かくして白石と帆高は関係をもっていく。時間が薬というのか、帆高の居丈高な態度も会う毎に薄らいでいく。

白石と初めて迎えるクリスマスには、白石が帆高を誘って二人でケーキを頬張るまでにいい関係が築かれつつあった。

「白石さん、ちょっといいですか?」

あれほど毛嫌いしていた白石の家に、ほぼ毎日寄るようになる帆高。2学期の終業式の日にそう言ってくる。

「どうした?」

白石は言う。

「久しぶりに、東京行ってみたいんですけど」

帆高の要求は、意外なものだった。

「あれ?知らなかった?さるびあ丸、雨のせいで竹芝桟橋水没しちゃってしばらく休航なんだって」

長雨の影響は、じわじわと都民の生活に不便を強いらせはじめていた。

「でも、飛行機が……」

どうあっても東京に行きたいと思う帆高は食い下がった。

「そう来ると思った。とっくに一杯で、一月中は満席だよ。唯一の交通機関だけど、羽田も早晩ヤバいって言われてる」

実は白石も帰る手段を断たれて困っている部類だった。

「そんなに……」

「今までの常識では考えられない降水量で、降り続いているものだから、土木工事もはかどってない。このままだと、海抜ゼロメートル地帯はほぼ壊滅だそうだ」

「大変じゃないですか」

帆高はいまさらながら、驚く。

「今日の新聞だよ。飛行機でくるようになったから比較的最新だけど、かなりまずいよ」

白石は帆高に新聞を手渡す。そこには東京の惨状がほぼ全面に渡って記載されていた。

「侵食する海面 ふ頭機能不全に」「お台場水没危機 フジテレビ放送継続に懸念」「ディズニーランド 横浜緑区に移転決定」「羽田空港 年内で運用停止 4空港で受け入れ検討」「急騰する土地価格 丘陵地に熱視線」「円安・株安いつまで 市場にあきらめムード」「海面上昇止まらず 対応に追われる諸国」「下がる求心力 世界に無視される日本」……

「これが……今の……」

極力日本、東京の今には触れずにいた帆高だが、こうやって示されると、自分のした"決断"が、どれだけ大それたことだったのか、と思い知らされる。

「まあ救いは、日本全土じゃないこと。東北や北海道は近年まれにみる豊作だし、名古屋や大阪は海面上昇に対策始めた。遷都の話も出てるけど、御所がある京都が最有力だそうだ」

白石は、没落する一方の今の首都圏は早晩崩壊すると達観していた。水の力には逆らえない。地下鉄はすでに廃業状態、今まで東西を結んでいた乗り入れネットワークは脆くも崩れた。地下に受配電施設をもつ高層ビルは大都会のなかで生ける屍と化し、その骸を晒すだけになっている。タワーマンションも、価格の暴落が止まらず、買い手も見つからず、大半が廃墟のように空き部屋だらけになっている。白石の住んでいた蒲田周辺も、水没の危機が身近になったこともあり、仮住まいのつもりだったここに住民票を移したばかりだった。

「これでも、行きたい?東京」

白石は帆高に問う。

帆高は、紙面から、まだ目を離せずにいる。

やや間があって、帆高は答える。

「いや、やっぱり、止めときます。こんな東京にするつもりなかったのに……」

帆高の呟きに、白石は違和感を覚える。

「帆高くんさ。『こんな東京にするつもり』って、どういうこと?」

白石は、心に浮かんだ疑問を素直にぶつける。

帆高は、少し動揺した素振りをみせたが、それでも白石の顔を真っ直ぐ見据えて、決意を固める。

「わかりました。全てお話します」

帆高は、少し深呼吸して、態勢を整える。

そして、帆高は、今の東京がこの有り様に至る経緯をゆっくりと語り始めた。


白石が知りたいと思っていた、帆高のこれまでは、調書に書かれている以外、本人の口から聞かない限り知り得ないことである。

家出に至った理由、東京での生活、"彼女"との出会い、そして彼が彼女を"取り戻した"経緯、今の東京の状況……

まるで一編の物語のようだ、白石は、帆高の語りを聞きながら、本当にそう感じていた。

「今の僕がここに居る理由。そして、白石さんがここに居る理由。いまお話したことがすべてです」

帆高は小一時間ずっとしゃべりっぱなしだった。

彼の想いを白石はどこまで汲み取ったかわからない。何しろ、後半部分は、「そんなこと起こるわけない」と思って聞いていたからだった。

だが、仮にそれが物理的には不可能でも、精神的には可能なんではないか、と思ったりもするのだ。

帆高は陽菜を空から連れ戻した、といっていた。実際彼にはその感覚が残っているといっている。上空数千メートルから落下傘もなしで無傷で地上に降り立つことなど絶対無理である。

でも……

白石はこう思う。

"彼の、彼女に対する思いが、万有引力の法則をも凌駕したのだとしたら……"

いやいや。

白石はかぶりを振る。

"そんなこと起こるはずない。でも、帆高もその陽菜って子も生きている……"

白石は堂々巡りを始めてしまった。

だが、目の前の帆高の単なる作り話、とするにはあまりにできすぎているのだ。この期に及んで帆高が嘘やでたらめを言うとも思えない。

「それで……彼女とはどうなんだい?」

白石はその話題を頭の片隅に追いやり、今にフォーカスし直す。

「え……実は連絡の取りようが、なくて……」

帆高が言うには、彼女と連絡先……電話番号とか電子メールとかを取り交わしていないという。そもそもその陽菜という子は携帯を持っていなかったそうだ。

「ふーん、今どきの子にしては珍しいなぁ」

携帯を持っていないと知って白石は腕組みして感心する。

「じゃあ、東京で、いい仲の彼氏ができてるかもよ」

白石は意地悪くそういう。

「……それなら、それでも、かまわないです」

相手の煽りと知りつつ、帆高は冷静に答える。

「僕にとっては、今の天気より、陽菜と一緒にいる……繋がっていることの方が大事ですから」

決然と帆高は言い放つ。その心根に白石は背筋が伸びた。


少し前にさかのぼる。

白石は、帆高のことを聞こうと、何度か東京に赴き、高井や安井に話を聞いていた。

「帆高君ねえ。いまどき珍しい、まっすぐな少年でしたよ」

警察署の近くのソバ屋で白石と安井はそばをすすっていた。

「そうなんですか?僕にはそりが合わないのか、何もしゃべってくれないんですよ」

白石は、お気に入りのもりそばをたしなんでいる。

「ああ、それは白石さん、お気の毒。あはは」

笑いにケンこそなかったが、苦労している自分が少しみじめになった。

「だから、こうして話をさせる極意を承りに来たんですから」

恥を忍んでここまで来たのに、白石はやるせなかった。

「ああ、これは失礼。ですが、白石さん」

丼をテーブルに置いた安井が言う。

「彼は真っすぐですから、曲がったことは嫌いなんですよ」

安井は語りだす。

「女の子を助けるために自らの命も差し出そうとしたんですから。それを思えば、我々も彼にどこまで迫れたか、は、自信、ないんですけどね」

つゆを飲み干した安井が続ける。

「彼が真っすぐなら、我々もそれと向き合わないと。我々が邪だと彼は心を開いてくれませんよ」

安井はそう言って丼を返却口に戻す。

「そういうの、一番お得意の保護司の方に説教じみてしまいましたかなぁ?」

安井は少しニヤッとして、店から出ていく。白石のもりそばは、乾燥し始めて色が変わっていた。


白石は安井の言葉を思い出し、反省する。

彼は、彼女のことしか考えていないのだ。だから、銃を使ってでも、水商売に向かわせなくしたのだし、彼女のためを思って晴れ女の仕事を始めたり、"ずっと一緒に居たい"と思ったり、空に昇ってしまった彼女を連れ戻そうとしたりしたのだ。

今、目の前に彼女が現れたら、彼はどうするのだろう、どうなってしまうのだろう?

白石はそこまで一途な恋愛に至らなかった自分の青春時代を思い返し、帆高のことをうらやましく思うと同時に、応援したくなっていた。

「……逢いに行っても、いいよ」

白石は、根負けしたかのように帆高に言う。

「いや、やっぱり、止めときます。白石さんにも迷惑掛かるし」

許可がいる旅行をするには、宮前にも一言必要だ。それに飛行機の順番がいつ来るともわからない。

「うん、まあ、そうだな。船が動き出してからでも遅くはないんじゃないかな」

白石は気休めでそう言ってしまう。だが、結果的に船が運航できるようになったのは2年後の1月。海面上昇のスピードがおさまり、竹芝桟橋に変わる施設が出来上がるのを待たなければならなくなった。


2024年。

帆高は白石の手助けもあって、無事に東京の大学への進学を果たす。本来、保護司は対象者の私生活にまで入り込むことは忌避されているのだが、白石は、自分がドキュメンタリーで見た、二人三脚で更生する姿を自分でもやってみたかったのだ。

邪魔の入らない田舎暮らし。執筆活動にはもってこいだった。もちろん、島で帆高レベルの保護観察者が次に出てくるまで、白石の保護司としての役割はなくなる。事実上、保護司で無くなる日も近づきつつあった。

帆高の卒業式。白石は、保護者席の末席を汚していた。

「ありがとうございました」

着飾った時子が声をかける。

「今日も雨ですけど、こんな晴れ晴れしい日は久しぶりです」

同じく船生も握手を求めてくる。

「あ、いえ、こちらこそ……」

照れくさくなって、白石は体育館を飛び出す。外は、いつも通りの雨だった。

傘もささずに忌々しげに空を見上げる白石。

「この天気を作ったのが帆高と陽菜、なのか?」

ボソッとつぶやいて、白石は

「そんなことあるわけないだろっ」

と声に出して言う。

天気は確かに変わった。東京近郊だけに雨が降り続くトンデモ気象。それが一日も休むことなく、2年半も続いているのだ。

気象学者も、首をかしげるばかり。対策が後手に回ったこともあって、水没した面積は何万ヘクタールにも及ぶ。

それでも、雨が降ってもできる工法や材料が開発され、水没を免れた地区の建物の新築や改修工事、塗装工事なども動き始めた。

すでに都心中心部への水の侵攻は止まっており、"復活"に向けた動きも本格化を始めていた。

あの少年がこの世界を変えた張本人だなんて、誰が信じるだろう?

彼が連れ戻したという陽菜が"晴れ女"で、そのせいで東京都心の雨が降り続いているなんて、誰が信じるだろう?

水没してしまった東京の惨状と、ここまでになってしまうことを、誰が信じるだろう?

疑問が白石の頭の中を渦巻く。

それでも彼らは生きていく。この世界がここまで狂ってしまっても、生きなくてはいけないのだ。

白石は、空を見上げながら、遂に押さえていたものがあふれ出てくる。

それは彼らを不憫に思う気持ちではなく、真っすぐに突き進む帆高と、帆高を思い慕っているだろう陽菜に涙したのだ。

帆高の強さを2年余り見てきた白石は、彼の強さが、この世界をまたいい方向に変えるのではないか、と思っていた。

それができる帆高が自分の手から離れるときに立ち会えることを、白石は誇りに思っていた。


卒業証書を手に、帆高は白石の元に歩み寄っていく。

「白石さん、今までありがとうございました」

ぺこりと頭を下げる帆高。

「いやいや。君が普段通りに生活してくれただけで、オレは何にもしてないからな」

照れ隠しも兼ねて、白石は謙遜する。

「白石さんのおかげで、大学にも行けましたし、なんとお礼を言っていいやら」

帆高はまだ白石に礼を言い足りない様子だった。

「まあ、オレのことより、そっちの新生活の方はどうなんだい?」

白石は、話題を変えた。

「あ、いい場所が見つかったんでそろそろ引っ越します」

聞けば学校至近の東小金井に良いワンルームを見つけたといっていた。

「そうか。まあ、今日でオレの仕事もおしまいだ。明日からは、自由に羽ばたいてくれていいんだぜ」

白石はそう言いつつ、帆高の肩をたたく。

「はい。そうさせてもらいますっ」

力強い帆高の一言。

「もう、大丈夫だよな」

白石は少し目を潤ませながら帆高に言う。

「はい、僕は……僕たちは大丈夫です」

帆高の眼も、陽菜に逢えるうれしさからか、少しうるんで見えた。


後書き

オリジナル人物を出して物語を形成するのは、いたって簡単だと思うんです。だって、設定も何もかも自由にできますからね。例えば白石の設定も、本来の保護司とは全然違うと思ってます(パートタイム的な保護司っているんだろうか?聞いてみよ)。
帆高が過ごした家出から地元に戻った2年半余り。この"余白"を埋めたいな、と思ったわけです。
ただねえ。分厚くする必要ってあるのかな、と思いました。帆高がどういう思いで2年半を過ごしたのか。
それを本人でない私たちが彼の中に分け入ってすべてを知ったように描くのってどうなんだろう?
なので、保護司という第三者が帆高をみつめた、という体にして、彼の目線で見た帆高をかきたいと思ったわけです。
この中で出てくる登場人物は、帆高の本当の内面を知ったとは思えません。それは、私がそこまで彼のことを書かなかったせいかもしれません。
しかし、その根底には、彼は「問題を起こさず、ひっそりと息をひそめるように」という言葉からもわかるように、感情の発露を控え、誰にも語らずに過ごしたと思えるのです。だから、保護司の白石だけは、彼の本当を知るのだけれど、それがすべてではない、というところに余韻を持たせています。
重ければ、字数が多ければ、というものでもありません。帆高の内面をもっともっと掘り下げて書きたいと思う時が来たら、やりたいと思います。
まずは10月中に完成できたことを自分で自分をほめたいと思います。


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