脳内ラジオ(新装版)
2018年より執筆しております当方のオリジナル作品です。
この度、一本化(完結を含めて)しようと思い立ち、旧来の設定等を少し変更しながら書き上げました。
ご査収いただければ、と思います。
「脳内ラジオ」という設定は、長年温めてきたものです。一人の中年男子が呟く、届かないはずの独り言が少しずつ届いていく。そしてそれは国のありようまで変えていく。それが正なのか、どうか?
藤堂健一の想いがどうつながっていくのか、これをどう変えていけばいいのか?
マスコミがマスゴミといわれて久しい中で、藤堂のつぶやきがもたらしたものは何か、を問うものにしたいと考えています。
2021.5.4 やや不十分ながら脱稿。 44,114字
2024.5.28 完成に近づけるべく、推敲。当方の文章レギュレーションに準拠。44,894字。第一段階終了。
2024.5.30 第二段階終了。45258字。
2024.6. 第三段階。ラストに物語を追加。47000字を突破。
2024.6.4 第三段階完了。47856字で一応のフィニッシュ。
午後9時25分。
都心から2時間弱かかって到着するT県のひなびた駅に、その男は降り立つ。
5時に会社を終え、長年通っている立ち飲み居酒屋でいくばくかの"補給"をして、いつもの電車に乗ってここまでやってきたのだった。
「ピーッ」
車掌の扉を閉める合図が、やたらと響く。気が付けば、あたりはうっすらと雪化粧していた。
跨線橋を渡り、定期を自動改札にかざして駅を出て行く。足元を踏みしめる雪の感触は、凍るでもなし、さらさらというでもなし。ボタ雪が降り積もったような、ざわざわとした感覚しか伝わってこない。
それでも男は軽快に足元を滑らせていく。
人家もまばらになり始めたその時。時計の針を確認していた男は突然しゃべり始めたのだ。
「はい、只今時刻は、午後9時30分になりましたぁ。ここからはわたくし、藤堂健一のざっくばらんのコーナーでお届けしたいと、おもいまぁーす」
完全に独り言だった。周りが聞けば、明らかに"おかしい人"呼ばわりだろう。だが、彼にとって、この自分で自分語りをするという、その日一日を振り返る動作としては、日記に書いているようなものだと思っていたから、何も恐れるものはなかった。この時間帯、仮にすれ違ったとしても一人や二人。そばを通り過ぎるときにボリュームを絞れば相手にもそれとなく聞かれない。車が相手ならなおさらだ。
自分の中の想いや気持ちを言葉に出す。藤堂のDJのような癖というか、趣味というか、こんな行動に立ち入らせたのは、昨日今日の話ではない。
小学生時代、いじめられっ子だった藤堂にとって、自分で自分を慰めるような心情を吐き出す場というものがどこにもなかった。だが、たまたま聞いたラジオで、藤堂は「俺が自分でパーソナリティーやればいいんだ」と思い至る。
以来30年余り。社会人になってストレスからか、ますますDJの真似事は堂に入り、人がいない場所のみならず、仕事中でも、人に聞こえない程度でぶつぶつ言ったりしているようにまでなっていく。もちろん自分で何を言っているのか、理解しながらしゃべっているのは当然のことである。彼の中では、自分でラジオのごとくしゃべることで、精神の安定を図る、いわば薬のようなものになりつつあったのだった。
その日は、いつもにもまして興に乗っていた藤堂は、自宅を通り過ぎ、近くの公園まで一人語りをしながら歩き続けていた。自宅の中でも一人であることも手伝って、しゃべりどおしなこともよくあるのだったが、自宅以外からの"中継"も、珍しいことではなかった。
「それにしても今日も寒かったですねぇ。スタジオのあるここも、すっかり雪化粧しちゃってますが、お住まいの皆様はどんな感じでしょうか……」
様々なネタを繰り出す藤堂。今日は昨今喧しくなっている政治ネタを披露し始めた。
「それにしても、ここ最近の与党野党のかみ合わない議論はどうにかならないものですかねぇ。それでなくても、決まっていかない政治ばかりになってますし、それが税金で運営されているって思うと正直腹立たしい限りです……」
藤堂は、思いのたけを虚空に向かってぶつけ始めた。
野党が繰り出す与党のスキャンダルは、せいぜいゴシップ誌の噂レベルの事柄ばかりであり、確たる証拠も出てこない。それどころか、逆に同様の事案が野党から噴出して"ブーメラン"として帰っていく。結局予算委員会なのに予算のことはほぼ語られず、本会議でも空転に等しい時間の浪費が顕著に表れていた。
「あの人たちって、税金で自分たちが食っていられるってことをどこまで認識してるんでしょうかね?国益のこととか、日本の未来のこととか、全く議論している風がない。議員になったら、任期の間は仕事しているふりでもして、野党ならありもしないネタで与党を責め立て、与党は与党で受け流しておけばいいわけですからね。そんな人の遊び場に国会が、選挙があるわけではないんですけどね……」
藤堂のボルテージはますます上がっていく。こうなると、独り言の域を少し超えて、周りで聞き耳立てなくても聞こえるレベルの声になっていく。
だが、公園のベンチでカンペもキューシートもない状態でしゃべり続けていた藤堂は、はっと我に返る。
時計を見ると10時45分。"あ、しまった"という顔を藤堂はする。
「いやあ、少し興が乗りすぎましたねえ。今日のところはこんなところで〆たいと思います。本日もご清聴いただき、ありがとうございました……」
座ったまま一礼して、藤堂は自身のマイクを切る。満足いく"放送"ができたからか、藤堂の表情は晴れ晴れとしていた。
翌日。
寝床から起きだした藤堂は、一つ大きく伸びをする。
今日も今日とて、生活のために行かざるをえないオフィスに向かって、2時間近くを移動にかけなくてはいけなかった。
毎日のルーティン。苦痛に思ったことは一度や二度ではないが、慣れというものは恐ろしい。
さすがに朝の段階では、藤堂の精神状態は、追い詰められているわけでもないので、独り言を話して、安寧を取り戻すまでには至らない。
藤堂の最寄り駅は、電車の始発駅にほど近いこともあって、少し出発を早めれば、確実にターミナル駅までは座って移動できる。今日もそのパターンを踏襲して、藤堂は電車を待つ列の一員になっていた。
藤堂の後ろに、年のころなら20代前半だろうか、夫婦なのか、付き合っているだけなのかわからないが、カップルが並びかける。
「いやあ、昨日のラジオ、ちょっと刺激的で面白かったよなぁ」
男の方が水を向ける。女性の方は、スマホでニュースのチェックに余念がないのか、画面ばかりに気を取られているので返事も生返事だ。
「ふーん、そう」
「いや、だって、最近のマスコミって、ネット以下だって言われているからね」
藤堂は苦笑する。ネットの方が正確に情報発信していると思っていたし、それに基づいて一人語りもしている。パーソナリティーによっては、局の方針や、色に染まらずに放送する人もいることは知っていたが、藤堂自身は、自分の一人語りの事しか頭になく、他人の放送は高校生になって以来、FMですら聞かなくなっていた。
男は、女性の気をひこうとするのか、まだしゃべっている。
「税金泥棒だってズバッと言ってくれるパーソナリティーなんて今はどこにもいないと思ってたからね」
藤堂は、昨日自分がしゃべった内容と似通ったことを言うパーソナリティーがいるんだ、くらいにしか感じていなかった。
「あ、それはそう思うけどね」
税金泥棒というワードが耳に入って興味を持ったのか、女性も携帯から目を離して、男の意見に賛同する。
「それにしても、うまい事言ってくれたわ、ええっと、誰だっけ……」
名前が思い出せない男性に、
「あ、ほら、「太陽にほえろ!」の刑事部長役って言うので覚えていたじゃない?」
とうとう女性も、携帯から目を離して男性の方を向いて言う。
「ああ、思い出したよ、藤堂さんのラジオだ」
『藤堂さんのラジオ』というフレーズに、藤堂自身は喰いつかなかった。
自分のしゃべりが電波に乗っているはずがない、という先入観があったからだ。だいたい、藤堂の発言は、誰聞くこともない、ただの独り言である。当然電波で飛ばしているわけでもなく、聞こえていたとしても、半径数メートルの範囲の人間でしかない。しかも、それは、誰かに聞いてもらうための"放送"ではない。仮にこの男性が聞いていたとしても、電波に乗せた音声なはずがないのだ。
"まあ、同姓の藤堂ってパーソナリティーがしゃべったんだろうな。それにしても、偶然って恐ろしいなぁ……"
入ってきた電車に足を踏み入れ、ほぼ定位置にドカッと腰かけながら、不思議な一日の始まりを実感していた藤堂。だが、その日の何気ないカップルの会話がすべての始まりだったとは、その時藤堂は知る由もなかった。
「おはようございまぁす」
電車に乗った時間が早い分、会社の到着も勢い早くなる。何人かの同僚の姿を認めて、あいさつする藤堂。
「ああ、藤堂課長、おはようございます」
藤井ミキが藤堂に声を掛ける。
入社6年目。結婚もしているリア充の見本のような彼女。彼女の仕事っぷりは、会社の中でも一目置かれる存在だった。キャリアウーマンという単語は、彼女のために作られたものではないか、とさえ、藤堂は思っていた。
「ああ、藤井さん、おはよう。今日も決まってるねぇ」
中間管理職として、上からの圧力と下からの突き上げをうまく御さないといけない藤堂にとって、できることなら部下からの離反や反旗は避けて通りたいところだった。その中にあって、藤井を真っ先に味方につけたことで、その思いは軽減されていた。
"彼女を怒らせたり不機嫌にさせては"
いつものように、おべんちゃらであっても藤井を持ち上げる藤堂のこの発言は、一種の日課のようでもあった。
「いやぁ、課長。そんなことないですよぉ」
藤井は藤井で、この発言を受け流す。彼女にしたところで、上司と一戦交えるつもりはさらさらない。毎日を異状なく、平穏に過ごすためには、朝の時点で平静を装わないといけないと悟っていた。
「あ、そんなことより、聴きました?昨日のラジオ?」
その藤井から、デスクに座りかかろうとした藤堂にこんな言葉を投げかける。
「え?ラジオかい?ここんところ聞いたこともないなぁ。車に乗ってもCDとかだし」
藤堂は、カバンの中から書類を出しながらそう答える。
「エエ、私もね、ラジオなんてほんと久しぶりだったんですよ、そしたら、なんか、凄い正論言ってるパーソナリティーさんがいてね……」
聞けば、彼女は、飲み会の後、都内の自宅に向けて、タクシーを拾って帰宅しているさなかに、その放送を聞いたようだった。
「私も、ラジオって言うか、マスコミって、自分の都合のいいことばっかりしか言わないから、こんな正論、言っちゃう人がいるんだぁ、って感心してたんですよ」
気が付けば、藤井は、藤堂のデスクのそばまで来てしゃべっている。
「ふーん」
藤堂は、今朝の出勤時のカップルの会話を少し思い出していた。時間とかは聞けなかったが、どうやら、正論を歯に衣着せぬ口調で言うパーソナリティーがいるらしいことははっきりした。
「ちなみになんだけど……」
藤堂は興味本位で聞く。
「それって何時ぐらいのこと?」
「そうですねぇ……」
思い出そうとする藤井。
「あ、飲み会が終わったのが10時過ぎで、タクシー拾うのにちょっともたついたんで10時15分くらいじゃないかと思いますけど?それが何か?」
時間を聞かれるとは思ってなかった藤井は逆に藤堂に聞く。
「いや、そんなにすごい人の放送なら、一度聞いてみたいなって思ったから」
藤堂は、偽らざる気持ちを吐露する。本当にそんなパーソナリティーっているのだろうか。いたら凄いことなのにな……
「あ、それ、私も実は思ったんですよ」
藤井は藤堂と意見を共にする。そこははっきりと、ただの同調と違う口調で言う。
「それで、昨日のラジオの番組欄調べたんですけど、それらしい番組なくって……」
藤井の表情は落胆と言うより、むしろ怪訝なものだった。
「なんなんでしょうね、私が聞いたラジオって……」
そう言うと、藤井は自分のデスクに向かい踵を返す。
藤堂は、今朝のカップルのみならず、藤井からの証言で、少しだけ不安に駆られる。
ラテ欄に載っていない番組、藤堂というパーソナリティー、時間は、昨日まさに自身が独り言をしゃべっていた10時過ぎあたり。ただの独り言が電波に乗るはずがなく、まして、都心から100Km以上離れている田舎でしゃべっていることが聞こえるはずがない。だが、藤堂のしゃべりを"聞いた"人がいる可能性がごくわずかでも浮上してきている。
「まさか、ね……」
それでも、藤堂は、そう言って、事態を収めるしかやりようがなかった。独り言が電波に乗るなど、ありえないの一言だったからだ。
その日、藤堂が所属する販売部の業務はスムーズに進んだ。いつも納期ギリギリでしか納めないメーカーが、5日も早く納品してきたことだけでも十分特筆すべきだったが、部内でも新規開拓に成功するなど、いいニュースしか聞かれない状況だった。
10時過ぎに始まった定例会議では、全国の支店や営業所の売り上げ状況をチェックするのだが、これも好調だった。
「バーゲンを少し早くに仕掛けたのが奏功したかな、春物の」
スライドを見ながら、社長が今日の売り上げの成功要因を言い当てる。
「今年は寒いですけど、だからこそ季節を先取りしたバーゲンが当たったんだと思います」
販売を統括する藤堂が補足する。
「そこは、藤堂君の先見の明だよ。寒いから売れない、じゃなくて、寒くても売るのが我々の使命だからね」
社長は、ご満悦の表情で続ける。
「冬物も依然好調ですし、ダブルの効果はあるんじゃないですかね」
販売部長も乗っかってくる。
「まあ、在庫がお金に変わるのは願ってもないこと。この調子で明日以降もお願いしますね」
社長は満面の笑みでもって会議を〆る。部長の手が藤堂の肩に乗り、こういわれる。
「よくやったな、藤堂」
藤堂としても、ただ単に会社の歯車でいるのは忍びなかった。自分で会社を、業界を変えてやるんだ、という意気込みが勝ってきている。
藤堂のいるアパレル業界は、ただでさえ競争が激しいうえに、トレンドの見極めが難しい。はやる色一つ間違えただけでも在庫の山になってしまう。だからこそ、ファッション誌を使って、流行を誘導しておいてから商品化するのが常套になってきつつあるのだが、それもやりつくしている感があった。だから、年始すぐのバーゲンに春物を取り入れたのだった。
年始の段階で春物に手をつけるのはあまり得策とは言えないという意見もある中で、強行した結果、両者が売れるということが販売データからも明らかだった。藤堂の施策は当たったわけである。
あまりほめない部長の一言は、藤堂にとっても報われる一言だった。次期部長は無理でも、少なくとも一歩それに近づいたことは実感できていた。
「いやぁ、今のところ、春物バーゲン、大当たりのようだよ」
会議から帰って開口一番、販売部の面々に藤堂はそう報告する。
「よかったですね。課長」
口々に成果をほめたたえる部員たち。
「でも、そうなってくると、今年は、夏物も十分用意しないといけないかもですね」
藤井が声を掛ける。需給担当の藤井にしてみれば、春物が枯渇した後のことが気になっていた。
「それなんだけど、藤井君」
藤堂は言う。
「夏物は、むしろアイテム増やして、ロット少な目で行こうと思ってるんだよ」
真逆な販売方針を藤堂は提案する。
「春物は、アイテム少なめでしたもんね」
藤井はそういって補完する。
「で、なんでそう思ってるかって言うと、今年は少し冷夏予報だからだよ」
天候の先行きを予想することは、まさに一か八かの賭けである。
「だからあまり売れない、と」
藤井は藤堂の予測に乗っかってみる。
「そう。今年は実はここまで寒くなるとは思ってなかったけど、春物をドンと行こうと決めていたからね。だから、ロットも増やして、廉売できる体制を作ってたんだよ」
今回の冬・春物の仕掛けの内幕を藤堂は言う。
「春物早期バーゲンも、実はコミコミだったんですね」
藤堂の大胆な戦略に、藤井は納得した。
「ここまで厳冬になるのは想定外だったけど、おかげで春物を安く提供できる素地につながってくれた。天候様様だよ。だから、ラニーニャ現象を信じたいと思っているんだ」
冷夏予想は長期予報の範疇でしかないし、外れることも大いにある。それでも、何らかの指標がないと戦略は立てられない。
「それは考え方としてありですね。春秋物って際物のようで、使い勝手いいですもんね、夏冬って、両極端だし」
藤井も長年この業界にいるからサイクルも理解している。
「そう。だから今年は秋物はドカンと行くよ。藤井さんもそのつもりで発注、お願いしますね」
総括して、藤堂は藤井に言い渡す。
「わかりました」
藤堂の予想が吉と出るか凶と出るか?そんなことは終わってみるまでわからない。だが少なくともここまでの予想は的中している。藤井も、その慧眼にかけてみようと思った。
今日の藤堂は、極めて機嫌がよかった。
そもそも、自分の施策が当たったことが何よりの褒美でもあるが、それにもまして、自分が中心で世界が回っているような、そんな感覚にまで陥らせてしまうほど、藤堂は舞い上がっていた。
それでも退社するころには、翌日の業績や売り上げのことが頭をもたげてくる。好事魔多し。一寸先は闇はアパレル業界でも同じこと。一夜明けたら地獄が待っているかもしれなかった。
それでも行きつけの立ち飲み屋で、少しだけ高級な地酒をおごって自分をほめる藤堂は、少しだけ饒舌になっていた。
「いやあ、今日ほどうまくいったのって、何年ぶりだろなぁ」
誰に言うとなく、藤堂は口ずさむ。
ところが、その声に一人の男性がびくっと反応する。藤堂はそれに気がついていない。
その男性は、グラス片手に席を藤堂の隣に移していく。突然席を代わって、わざわざ隣にやってきた男性を藤堂は、怪訝な目で見る。
「あれ、どうかしましたか?」
突然の来客に戸惑いつつも、藤堂は相手に声を掛ける。藤堂にしてみると初対面だ。まあ、この店の常連かもなので、藤堂を知っている可能性はあったが、相手は、じっと藤堂の目を見たまま身じろぎひとつしない。
「まったく、変なお方だねぇ。私になんか用ですか?」
さすがに気味が悪くなった藤堂は、相手に話をさせようと水を向ける。
「あのぅ、もしかして……藤堂さん、ですか?」
相手は、初対面であるはずなのに藤堂の名前を言い当ててきたのだった。
「え、私の名前?なんで」
"あ、そうか、名札付けたまんま会社出ちゃったかぁ、間抜けだなあ"
藤堂は自分で自己紹介していりゃ、世話ないな、と苦笑した。しかし背広の胸ポケットにも名札がついたままではなく、カードホルダーも持っていないことにすぐに気がつく。
「いや、その声に聞き覚えがありましてね。いつも聞かせてもらってますよ」
そう言うと、相手は焼酎のお湯割りを頼みつつ、それで口を濡らす。
「いや、貴方は私を知っているかもしれないけど……あなたはいったい誰なんです?」
藤堂は、今日の朝からの出来事を反復し始めていた。藤堂という名のパーソナリティーがやっている、ラテ欄に載っていない番組。そして、声を頼りにまた一人、藤堂がラジオをやっていると信じて疑わない人が出てきたのだった。
「あ、申し遅れました、そこら辺のサラリーマンの、鮫島 勝です」
そう言うと、その男、鮫島は名刺を取り出した。亜細亜水産株式会社 海外事業部長……
ふーん、という面持ちで藤堂は名刺を見る。年齢までは書いてなかったが、50代手前で、藤堂とほぼ同い年のように見えた。
「あの……その……鮫島さんが、なんで私なんかを……」
もしかしたら、取引先のお偉方、社長か部長か?と最初思っていたが、クライアントですらなく、会社名も聞いたことがなかった。それでも藤堂のことを知っている鮫島。疑問を鮫島にぶつける。
「いやだなぁ、ほら、ラジオ、やっていらっしゃるんでしょ?」
今日3例目の”リスナー”の登場。藤堂は又か、と思いつつも、なんで声が届いているのか、不思議で仕方なかった。
「え?わたしが、ラジオ?冗談言ってもらっちゃあ、困るなぁ」
さすがにここまでくると、確信的な物言い過ぎる。藤堂は、さっきの返礼とばかりに名刺を取り出し自己紹介する。
「小山田ニットの藤堂健一です」
まるで商談相手に渡すように、少し力強く藤堂は名乗った。
「あ、どうも……いや、私の勘違いでしたか……」
名刺を確認して、鮫島がそういう。少し落胆した面持ちに藤堂はかわいそうになってきた。
「まあ、ここで知り合ったのも多生の縁です。少し飲みましょうか」
二人は、初対面な割には、昨今の政治の話題や、スポーツに関して意見をいろいろ述べていく。
「官僚の一言一句で為替が動いちゃうんですからね。ちょっとはわきまえろって言いたくなりますよ」
メートルが上がってきたのか、鮫島は饒舌に政府批判を始める。
「御社は、為替の動きが直撃しますからね」
藤堂は、まずは話を合わせる。藤堂の会社も、為替には敏感にならざるを得ないが、契約時と引き渡し時で為替のレートが変動したとしても、契約時のレートが優先されることになっているので、一喜一憂しても仕方ないのだ。他方、現金取引も多いと聞く、取引量が半端ではない大手水産会社の部長にしてみれば死活問題なのは理解できる。
「でしょう?自然な動きとかなら納得も行くんですが……」
すでに5杯目になろうとしている、鮫島の焼酎のお湯割りも空に近くなっている。
「で、ほんとの話……」
急に鮫島が声を潜めて藤堂に聞く。
「バイトかなんかでしゃべってるんじゃないですか、ラジオで?」
鮫島がまた、その話題を蒸し返す。
「だぁかぁらぁ、ラジオ局にも出入りしたことないって、何度も言ってるじゃないですか」
その質問、すでに何度も聞かされていた。飽き飽きして否定を繰り返す藤堂。
「ほんとにぃ?」
完全に酔って充血している鮫島の目は、少しだけ気味悪く見える。
「ああ、ほんとですよ。それに、私、これから山奥に帰らないといけないんですから」
今までなら、ワンストップドリンキングで済ませて、7時過ぎには電車の中の人になっているべきが、すでに8時を回っている。帰れば10時越えは必須だ。
「そうなんですね。これはお引き留めして悪かったですね」
鮫島がふいに謝る。
「でも、なんか、話が合いそうですよね。今日は今からは無理ですけど、いずれ場所を変えて、飲みませんか?」
半ば社交辞令のように、藤堂は鮫島を誘う。
「それは面白いですね。私も普段言えない愚痴なんかを聞いてもらいたく思ってますから」
鮫島もそう言って答える。
「そうですね。まあ、ここでちょくちょくは顔を合わせるでしょうから、またの機会っていうことで」
藤堂は、少しだけ慌て気味に、その場を離れて、急ぎ足で駅に向かう。
何とか座席にあり付いた藤堂は、今日一日を振り返る。
きっかけは朝のカップルの会話からだった。そして、同僚の部下である藤井の発言。そして、飲み屋で見知らぬ男性から声を掛けられる。
薄気味悪い事象ではあるが、現実問題として、そういうことを聞かされるとは夢にも思わなかった。
自分だけが納得する形の独り言。それが、赤の他人に、ラジオの電波として受け入れられていることが、正直信じられなかった。21世紀もかなり進行してきているが、機器を使っていないのに、第三者に自分の声が届くはずがない。
だから否定して回ったわけだし、そんなこと、起こっていたら奇跡である。
「でもなぁ……」
藤堂は、もしかすると、と思い始めていた。なにより、声を聞いていて、藤堂だと認識できる、鮫島のような人が出現している。これって、状況証拠としては十分なのではないのか?
"だったら、誰が、何のために?"
まるで、彼のしゃべる後ろから、棒みたいなマイクが伸びてきて、声を拾い、電波に乗せている?それくらいしか思い当たる節はないが、それでも意図がつかめない。
「わからないことだらけだなぁ……」
思考に思いを巡らせたからか、いつもにも増して飲んでしまったからなのか、乗車してほどなく、藤堂は居眠りを始めてしまう。
藤堂を載せた列車は、春の訪れを感じさせる空気とともに、 T県方面へ向けてひた走る。藤堂はといえば、すっかり眠りこけている。
何度目かのストップアンドゴーを繰り返した列車は、ようやく藤堂の最寄り駅に到着する。
帰巣本能が働いたのか、びくっと飛び起きた藤堂は、少し慌てた様子で列車から降り立つ。さっきまでは春の装いだった空気感は、ここまで北上すると、春近しを感じさせない気温で藤堂を出迎える。
なじみの駅員が”あれ、今日遅いなぁ”と言いたげな顔をして藤堂を見る。少し酔っている藤堂には、その駅員の心配りも感じられず、ただ前を凝視して、自動改札に触れる。
明日も普通に出勤の藤堂にとって、11時になろうとする時間帯の帰宅は、確実に翌日に影響する。それも、痛飲している現状ならなおさらだ。加齢とともに、酒の許容量も減ってきているとは認識している藤堂だったが、今日ばかりはさすがに飲み過ぎた……
しかし、それでも、彼の心の中の”カフ”は今日もご機嫌にスイッチを入れてくる。
「はい。少しばっかり遅くなりました。今日も藤堂健一のラジオ時事放談にお付き合いください……」
思い立ったらしゃべる。それが藤堂の流儀だった。酔いに任せてしゃべったことも一度や二度ではない。ほかのメディアでは考えられない出演者の飲酒。電波に乗っていないからこそ、自分のやりたいようにやるのが藤堂流でもあった。だから、コーナー名もその日の思い付きで決まっていく。
「今日はちょっといいことがありましたので、若干ほろ酔い気分ですが、ご容赦くださいませぇ」
商店街を抜け、人家もまばらになっていく道中で、そろそろとボルテージは上がっていく。今日はテレビ番組に対して大きくかみついた。
「まあそれにしても、昨今のニュースや報道番組って、知らせなくてはいけないことにはだんまりで、いざ報道したと思ったら、偏向か切り貼りの印象操作。それに踊らされる一部の視聴者が、またその偽情報を拡散したりしていますが、それって反政府運動そのもの。いつの世にも、今の政府に相いれない勢力は存在しますけど、それでも、程度の低い示威行為では、誰も付いてこないことにいい加減、パヨクの人たちは気付くべきでしょうね」
ネット界隈では当たり前になっている、パヨクを使ってしゃべることも、藤堂にとっては、一般名詞みたいな感覚だ。どうせ誰も聞いていない独り言。自由にしゃべることが精神衛生上もよかったりする。
家に着くと藤堂は、まずネクタイを緩めつつも、さっきの続きをしゃべり続けている。
「パヨクの人たちが一発逆転を狙うなら、今の政府や与党に対抗できるカリスマ政治家が必要なんじゃないですかね?小物界の小物とか、フルアーマーとかでは役者不足かなあ、なんて思ったりしています」
と、ここで藤堂は冷蔵庫から、敢えてビールではなく、ウーロン茶を取り出す。
「ではここでいったん水入り。コマーシャルです」
うまい事言ったつもりだが、もちろん誰も聞いていない。家族が誰もいなくなった広い我が家でしゃべる藤堂は、誰にもひびかない”演説”をやり続けている。
もともと藤堂には家族があった。妻もめとった。子供もできた。だが子どもたちはさっさと独立し、都会でそれぞれの生活を忙しくしている。長男は一家に似合わず上級公務員に合格、中央官庁で辣腕を振るっているらしいし、長女も高校卒業と同時に結婚、たまのメールでは、少なくとも不幸せに感じる文言は見受けられていない。
子供を送り出し、夫婦二人きりになった藤堂家を突然の悲劇が襲う。妻の急逝である。単なるインフルエンザが死に至るなど、藤堂本人も、恐らく死んだ妻でさえもいまだに信じられないでいるのではなかろうか……その愛しい妻が亡くなって、早いもので3年になる。
「ふぅ」
缶入りのウーロン茶を半分ほど飲み干した藤堂は、ふと祭壇に飾ってある妻のにこやかな写真に目を止める。
「みつえ……」
藤堂の口から、久しく語っていない妻の名がこぼれる。少しだけ感傷的になった次の瞬間、
「はい、それでは先ほどの続きとまいりましょう。いかにして野党の人たちが今の状況を打破できるのか?それにはカリスマ性が大事だと言いましたが……」
藤堂の熱弁は、深夜を回っても依然として続いていた。
次の日。
酔った反動もあって、放送に時間を費やした藤堂だったが、それでストレスが発散するのか、今日はかなりいい寝ざめになった。
寝不足とは感じられないながらも、身支度を済ませ、いつもの時間の電車に乗るべく駅に向かう。
乗り込んだ藤堂だったが、今日は、明らかに周りの話題の仕方が違っている。いつもなら、昨日の夕刻からのバラエティ番組を見たかどうか、とかニュース報道がどうとか、になるところのはずだが、藤堂には身に覚えのある話題ばっかりだったからだ。
若いサラリーマン風の二人はこんな会話をする。
「それにしても、カリスマ性のある野党議員って誰かいたっけ?」
「はぁ?そんなのどこにいるってんだい。大体野党なんて、支持率ほぼないに等しいんだろ?」
「それはそうだけど。でも、まあ今の与党のやり方もあんまり承服しかねるんだよな」
「そうかぁ?野党の攻め方の方が気分悪いよ」
ほかのグループの会話。
「知らせてはいけない内容ってさ、例えば?」
「簡単な、それでいて一番わかりやすいのは、通名報道だろうな」
「なに、それ?ツウメイって?」
「別名を名乗ることが許されている人たちがいるんだよ。そういう人たちって、本名を別に持っていて、都合がいいように使い分けているんだよ。日本人になりすますためにね」
「へえ、知らなかったなぁ」
「意外に日本人に知らされてないことって多いかもよ。あの土地絡みでもな。あとはググるなり調べるといいよ」
藤堂は、車内全体が、藤堂が昨日、一人でしゃべっていたことをネタにしていることに戦慄を覚える。
現与党や政府・内閣を批判ばかりするテレビ局やニュースキャスターが、報道しない自由を行使していることをあえて暴露するはずがない。それを知っているのだとすれば、それは藤堂がしゃべったことをもとにしているとしか考えられない。
そもそも今のテレビ番組は、寄ると触ると思い出したように、不正な土地取引のネタに絡めて、様々な与党・政府の疑惑追及に汲々とし、国会の論戦も、実際にやってほしい国防とか、経済対策とかがほったらかしになったまま。それに対して異議を唱え、まともな国政に立ち戻るよう提言するコメンテーターなど皆無に等しかった。藤堂がしゃべったことが大きく共感を得ていることに、藤堂自身も安堵すると同時に"日本も捨てたものではない"と一人うなづいていた。
だが!
その思いと、"それが伝わった"こととは切り離さないといけない。独り言がまるでラジオのごとく、人心にしみわたっていく恐怖。この大疑問を解決しないことには、これからうかうか独り言も言えなくなってしまう!
しかし、藤堂は暢気に構える。「ああ、目覚めてきている人が増えたんだな」くらいにしか認識していない。藤堂の焦りは所詮その程度のものだった。
会社に入ってからも、藤井はじめ、社員は、昨日の”放送”のことで持ちきりになっている。
「いやぁ、あのパーソナリティーの人、ずばずば言ってて気持ちよかったわぁ」
「ね?聞いてみてわかったでしょ?そんな人がラジオやっているって今の日本では奇跡だとさえ思うのよね」
藤堂は、”あ、多分俺がしゃべっているって思ってないから他人事みたいに思えているんだろうな”と感じる。確かに藤堂と名乗ってはいるが、ありきたりの苗字だし、ラジオ越しに聞こえる声は、本人と気づかれない可能性だってある。いつから課員たちが聞き始めたのかはわからないが、少なくともそのパーソナリティーが、自分の上司であると気が付いているものは誰一人いなかった。
「でも、それって、どうやったら聴けるんです?ラジオ局はどこですか?」
藤井としゃべっていた後輩が問いかける。
「ああ、それね。私もどこの局かよく知らないんだぁ……」
藤井がバツ悪そうに答える。
「藤堂課長は、どこの局でやってるか、ご存知ないですか?」
さっき藤井に疑問を投げかけた若手の社員が藤堂に聞きなおす。
「んあ?ラジオの事かい……」
周りが藤堂の独り言をネタにしているさなかに、"俺がやっているんだよ"などと正体をばらすわけにはいかない。知らずにいられるならその方が幸せだからである。ふとしたいたずら心が藤堂に芽生える。
「どこだっけなぁ……首都圏放送じゃなかったっけか?」
本当に適当に答える藤堂。自身が"創設"した、存在していない社名だったが、これでひとまず収まればいい……
「あ、ほんとだ。ラテ欄に記載があったの、知らなかったわ」
藤井が表記を認めて安堵する。だが、思いつき、架空であるはずのラジオ局が新聞に載っているだって?
慌てて藤堂も、経済新聞を広げる。ラテ欄には、見慣れた放送局に交じって「首都圏放送 1548」と書かれている欄が目に入る。
"うそっ"
藤堂は目を疑った。自分の頭の中の妄想だけであるはずの会社。それがどうして堂々と新聞に?
もうすぐ朝礼という時間だったが、藤堂は慌ててパソコンを立ち上げ「首都圏放送」と検索をかけてみる。
そこには、ヒット数も数千をくだらない検索結果がずらずらと列記されている。
”俺の脳内の妄想や空想が現実のものになっていっているなんて……”
トップに来ていた会社のHPにアクセスする。そこには、放送内容、タイムテーブル、パーソナリティーの写真までご丁寧に飾ってある。
そして、藤堂は、心臓が止まりそうになる。
そこには、笑顔で微笑み、完全にカメラ目線の自身の写真が飾られていたからである!
変な鼓動を奏でる心臓と、噴き出しているであろう冷や汗を感づかれないように、藤堂はパソコンをそっと閉じた。
しかし、これで昨日からの変な現象はすべて説明がつく事象ということになる。藤堂は昨日からの変な事態を思い返していた。
電車を待つホームでのカップルの会話、藤井の証言、そして鮫島という男との邂逅。翌日になってからの大々的な放送の広がり。 自分が勝手に作り上げて誰も知らないはずのラジオ局が少なくともWEBには存在している件。すべて、突然のような出来事なのだった。はっきりしていることは、藤堂が思い描いている、自分の脳の中の出来事がなぜか具現化しているということだった。
"一体、誰がこんなことを……"
思い当たる節など全くない。一番のサプライズは、どこで披露したわけでもない架空の会社のHPが出来上がっていることだった。時々、実際の番組らしく、局の名前を紹介したりはしていたのだが、それとて独り言の範疇。それを聞いた人がいたとしても、会社までたち上げるか?
ふと、藤堂は、確認しようと思い立つ。
「あ、課長、そろそろ……」
藤井が朝礼を始めるよう促す。藤堂も、もやもやを取り払い、とりあえず、朝の日課に取り組む。
朝礼は3分足らずで終わった。
藤堂は、先ほど確認しようと思ったことを行動に移す。それは、少し前の新聞の閲覧である。もちろん、見るのはラテ欄のみ。いったい、いつから「首都圏放送」の欄ができているのか、を探れば、自ずと答えは出ると思っていたからである。
ところが、藤堂の想いとは裏腹に、ラテ欄には、延々と……一週間分ではあるが、首都圏放送の欄は存在していた。
ふぅ、とため息をつく藤堂。自席に深く腰掛け、又ため息。仕事の書類が手元にあるのに、藤堂には全く手につかなかった。
とにかく、謎だらけなのだ。今日の新聞のラテ欄を覗くと、首都圏放送の欄は、午前中から、何気に埋まっている。これは不思議でもある。藤堂がしゃべっている時間帯は、電車を降りた夜の9時頃。時間が前後することはあるのだが、ここではまるでいっぱしのラジオ局のようにきっちりとしたタイムテーブルで組まれている。だいたい、藤堂が作った……想像の中のラジオ局なのに、ほかのパーソナリティーがいることの方が滑稽といえた。彼らとラジオ局の関係もよくわからない。
"まさかね"
たまに聞く競馬中継用のラジオが引き出しにあるのを確認した藤堂は、久しぶりにAMラジオにチューニングする。もちろん周波数は1548KHzだ。
『きょうも、みんなのラジオ・コースケとともにでお楽しみくださぁぃ!』
意外に若そうに聞こえる、コースケとか言うパーソナリティーの掛け声がイヤホン越しに聞こえた。
"た、確かに放送してるわ……"
またしても藤堂は、悪寒に襲われる。背筋がゾクゾクしている。全身がけば立ったような感覚が取り付く。
なぜ、それが可能になったのか、誰の仕業なのか、そもそもこれってなんの意味があるのだろうか……繰り言のように、頭の中を謎がひたすらにループする。どれひとつにも答えを見出せない。藤堂は、本当に頭を抱えてしまった。
それでもお昼時までは、何とか精神状態をフラットに装いつつ、業務をこなす。昼からは、夏物のオーダー会議が持たれていたこともあり、些細なことに関わっている暇はもとよりなかったという側面もある。
書類を書き上げ、ほっとした刹那。藤堂は、ふとある”挑戦”を試してみようと思い立つ。
ご飯を食べに出かける風を装いつつ、会社を出る。片手にはラジオが握られている。すでに電源は入っている。
「お昼のひと時、いかがお過ごしでしょうか?ハニー大前のリクエストアワーでお楽しみください」
この時間帯は、リクエスト番組をやっているのか...…藤堂はそう思いながら、独り言を始める。
「昨日はすっきり眠れたって人も多いんではないでしょうか。何しろ与党・総理の関与がほぼ払しょくされたわけですからね。そりゃぁ留飲もさがろうってもんですよ」
藤堂は、自分のしゃべりがラジオで流れないかとやってみたのだった。だが、その声は電波に乗ることはなかった。
5分ばかり、力を入れてしゃべってみたものの、ラジオからは自分の声が流れることはなく、相変わらず、やや声優っぽい感じのDJが仕切る番組が何事もないまま放送されているのだった。
若干落胆しながらも、藤堂はコンビニに入る。何か変わったことでも起こっていないかと思ってのことだった。
店内にいたのは、今日の昼食を物色しているOL、近くで勤務しているサラリーマン、旅行で日本にやってきた外国人、親子連れ。
町の賑わいには何ら変化も見いだせなかった。
「まあ、そらそうだわな」
仮に自分の妄想や考えていることが現実になったとしても、大抵の人にとってそれは影響しない。自分のテリトリー外のことだからだ。関わりがある事柄だから自分事のように思えるだけで、実際、今の今まで妄想で作っていた放送局が実体化しているなんて夢にも思っていなかった。
自分の独り言にしたって、誰が聞いていようが、自分のポリシーを発表しているだけのことだ。聞いてくれる人がいることはありがたいとはいっても、それ以上のことを考えてまでしゃべっているわけではない。独り言から生産性が生まれるはずがないと思っていたからである。
藤堂は、おにぎりとパックお茶をレジまで持っていく。
「いらっしゃいま……」
コンビニの店員が言葉を飲みこむ。藤堂は、きょとんとした面持ちで店員を見る。
「あ、貴方って、藤堂さんですよね?」
ああ、また名札もって出てしまったのか。って言うか、それでも名指しで呼ばれるって何が起こったんだ?
藤堂の困惑が片付かないままに店員は次の句を告げる。
「いつもラジオ、聞かせてもらってますっ」
店内に響き渡る声。一斉に藤堂に視線が集中する。その声が合図だった。
「あ、あの藤堂さんかよ」
「奇遇ですねぇ」
「この近くには取材でも?」
「会えてうれしいですわ」
店内にいたほとんどすべての人が藤堂に挨拶を交わし、握手を求め、にこやかに去っていく。
藤堂は、驚きあきれてその光景を見送る。なんで俺みたいなのが有名人に?
そう思った藤堂は、今朝の光景を思い出す。放送局HPで、にこやかにカメラ目線で写真に納まっている「自分」の存在を思い出したからである。
”ああ、それでか。ネットってすごいなぁ……”
次の瞬間、かぶりを振る。感心している場合ではない!曲りなりでもダブルワークしている、というのなら、会社が認めていようがいまいが、納得はできる。でも、自身は、この首都圏放送に雇われたわけでもなく、DJとして収まっているわけでもない。なのに、話題ばかりが先走っている。藤堂が思っているよりも、状況の進行具合は急速といえた。
そして、悪いことに、とうとう会社の上層部にも話が伝わってしまう。昼食から戻ってくるや否や、藤堂は、社長室に召喚される。
「まあ、藤堂君、掛けたまえ」
社長の小宮が藤堂に席を勧める。
「エエ、はぁ……」
事態がどこに向かうのか、自分でもわからない状態の藤堂は、社長に呼ばれたことで意気消沈していた。だが、言い訳はするまいとも誓っていた。何しろ、自分の独り言だけが世の中に流布しているだけなのだ。それを説明してみるしか方法はなかった。
「さてと。どこから話そうかな……」
先ほどの威厳たっぷりの口調とは打って変わり、世間話でもしようとするかのような小宮に、藤堂はむしろ恐怖する。
「まず、私から礼を言いたい。よくぞ発言してくれる気になってくれたなって」
藤堂の頭の中を?マークが何個も、何十個も浮かんでは消えていく。褒められていることが理解できなかった。
無言を貫いている藤堂のことなどお構いなしに、小宮は続けた。
「私も2、3日前だったか、君のラジオをたまたま聞いたんだよ」
その日の内容は、今の野党のやり方を糾弾するものだった。原稿とか話題にするネタ帳とか、メモがあるわけではないが、藤堂の記憶には少し残っている。
「最近のマスコミって、真実とは真逆のことばかり。明らかに反政府集団だよ。よくもここまでねつ造したり、切り貼りしたりできるものだなって憤っていたところだったんだ」
小宮は、後ろ手に組んで、所在なく机の前を往復する。
「そしたら聞こえてきたのが君のラジオ。ここまで歯に衣着せぬパーソナリティって誰だろうなって。で、調べていたら、君の写真がでかでかと写っているじゃないか」
アチャー。頭を後ろにそらし、左手でおでこを押さえて"やられた"のポーズを藤堂はする。
「でも、君の言っていることは正鵠を射ている。日本という国の危機に対峙していることがわかって、よくこんな人を引っ張り上げたなってと感じたんだよ」
窓際を往復しながら、小宮は続ける。
「で、俺はその放送局に問い合わせをしようと思ったんだ。君がどのような経緯でDJするに至ったのかを知りたくてね。ところが、どのルートもつながらないんだよ、メールも電話も」
さすがは社長だ。今までの藤堂が、ほんの少しでも浮気をしてほかの会社に出入りする性分ではないことを見切って、ことの真相を確かめようとしていたのだった。
「で、俺は考えた……」
立ち止まり、藤堂を見据える。一瞬の間を取って、小宮は言う。
「放送局のサイトはともあれ、君の発言には骨がある。芯がある。それだけで十分じゃないかってね」
少しのドヤ顔を小宮は藤堂に近づける。
「あ、あのぉ」
藤堂はとうとう我慢ならず、おっかなびっくり声を出す。
「俺って、怒られに来たんですよね?」
「アッハッハッハッハ」
小宮が、部屋はおろか、フロア中に響かんばかりの大声で笑い出した。
「怒る?俺が?どうして君を叱る?そんな理由がどこにある?」
またしても疑問符がまとわりつく。
「言論の自由が保障されているこの国で、君を罰することなど誰ができるもんか。会社がどこにも存在していないのに、放送できているってことは何らかの手段を使っているってこと。ユーチューブ的な何かだろうけどな」
放送の仕組みに明るくない小宮の出した結論はその程度だった。
「君は何らかの手段でこの局の存在を知り、発言した。確かにHPには君の顔写真があったが、君は雇われたり、給料もらったりしているわけではないんだろ?」
社長の質問が始まった。
「エエ、まったくその通りです。会社の存在すら知りませんから」
さすがの藤堂も"僕の頭の中のラジオ局です"と正直に話す気にはなれなかった。それを言ってしまったら、即座に放逐されるところだっただろう。
「まあそんなことだろうと思ったよ。会社が勝手に肖像権を侵害するなんて、マスコミですらやってしまう時代だもんな……」
小宮は、藤堂に話を聞き、ようやく安堵する。
「話は以上だ。会議もあるんだろ?さあ、行った行った」
「え?おとがめなし、ですか?」
藤堂はまだキツネにつままれている。
「だから、君を処罰なんてできはしないよ。それとも、ラジオのパーソナリティー一本やりで生計立てたいって言うんなら、今すぐここで辞表書いてもらってもいいけどな」
にこやかそうに見えて、実際は怒気を含んでいた小宮の口調に、藤堂は慌てて一礼して社長室を出た。
社長に呼ばれた藤堂の一件は、社内に瞬く間に広がった。藤堂がラジオDJをやっていることも付け加えて。
「それにしても、課長がパーソナリティーやっていたとはねぇ」
「藤堂の話ってどんなんだろ?聞いてみたいな」
「なんか政治的なネタばっかりらしいですよ」
「それもありなんじゃない?一方方向からしか放送しないから、今のマスコミたちは」
様々に話題が飛ぶ。
販売部も同じだった。
「もお、課長も人が悪いんだから……」
藤井がさっそく会議から戻った藤堂に言い寄る。
「俺がしゃべっているんだよって言ってくれりゃいいのに」
「そうですよ、水臭いなぁ」
「でも発言するって大事なんだなって思いましたよ。ここ最近の藤堂指数ってうなぎのぼりですから」
課員が思い思いに藤堂のことを言い募っている。
「なんだなんだ、その藤堂指数って?」
藤堂は思わずそのワードに突っ込みを入れる。
「あ、つまり藤堂さんの政府擁護の姿勢を示す指数ですよ。野党を攻撃する舌鋒がすごければポイントアップってな具合ですよ」
「それは初耳だな」
いや、今日という日は、初耳だらけのことばかりで、どっと疲れが出ている。藤堂にとって入社以来、一番神経を使った一日だったといっていい。
ともかく、会社の人間には藤堂がラジオに出演していることはまるわかりになってしまった。だが、社長が一切処分しないことや、昨今のYoutuber的な立ち位置でやっているんだろうというコンセンサスも得られていき、むしろ好意的な目で見てもらえるようになっていった。
以前にもまして"放送"に力を入れ始めた藤堂は、遂に自宅をスタジオ化する計画をぶち上げる。
社長が使っていそうな大仰な木製の机を買い求めて、自室に据え置く。あえて卓上マイクもしつらえて語っているようにも工夫したりしていく。
ここで落ち着いてしゃべるようにしたことで、帰宅途上の一杯飲みはこの日を境に激減する。自分の声がどういう仕組みで電波に乗っているのか、いまだ不安だった藤堂だが、事態は日に日にすさまじさを増していく。
どこからともなく藤堂の顔写真があちこちに拡散。おかげで朝仕事に出かける前段階で、いや、自宅を出た直後からまるで出待ちでもしているかのようにファンと思しき人々がずらっと並んでいるありさま。最初は2,3人だったものが、数日を経ずしてあっという間に20人以上に膨れ上がった。まるで藤堂が、一団を引き連れて出勤しているような風景が、展開されるようになった。
通勤に使う駅でも、その集団的行動と、藤堂本人の顔とが一致してくる人たちから、挨拶を次から次に受ける。電車に乗っても、挨拶攻め、昨日の放送でひと談義など、今までの生活は180度変わってしまった。
会社に着いてからでも、その流れは変わらない。もともと素性は明かしていなかったはずなのだが、ここ最近の個人特定術の凄さは藤堂のような"有名人"を白日の下にさらす。身元がわかれば、後の特定作業など職人にかかれば一発。おかげで会社には、励ましやお褒めの言葉が藤堂宛にかかりまくるといった状況になった。首都圏放送自体は存在していないけれども、不思議な放送をしているパーソナリティーは実在する。そこに引かれている人たちが、藤堂を一種の救世主的に崇め奉ろうとする動きになりつつあった。
帰宅時は、さすがにサングラスや帽子などで変装して会社を出る藤堂だったが、それでも何人かには捕まってしまう。這う這うの体でやり過ごしながら、今まで通っていた一杯飲み屋に久しぶりに立ち寄る。
「ああ、あの日以来だな……」
それは、鮫何とかという人に声を掛けられた日……ええっと、いつだっけ?そもそも誰だっけ?
頭の中をいろいろ検索するのだが、答えが見つからない。と、思っていると、突然に肩をたたいてくる誰か。
「お久しぶりですね、藤堂さん」
その顔には見覚えがあった。
「ああ、お久しぶり、ええっと…...」
記憶を手繰り寄せる藤堂より早く、相手は身元を明らかにする。
「鮫島ですよ、サメジマ」
鮫島が、自己紹介する。
「そうだった。すっかり忘れてしまってましたよ」
藤堂は少し恥ずかしそうに言った。社交辞令とはいえ、"飲みに行きましょう"なんて誘っておきながら忘れてしまっているのだから、世話はない。
「それにしても、ここ最近の活躍ぶり、凄いですね」
鮫島は、相も変わらず、焼酎の水割りを片手にそうつぶやく。
「いや、それほどでも…...ていうか、鮫島さんもラジオを?」
もう否定することもおっくうになって、あっさりと認めつつ藤堂は聞く。
「エエ、御出演の時は必ず聞いてますよ。ラテ欄見るのが最近は楽しみでね」
にこやかに語る鮫島。
「そうですか……」
藤堂は、一応ファンの生の声を聞きつつも、暗澹たる気持ちになっていた。
そもそものきっかけは、藤堂の独り言。誰聞くとない一人語りがなぜか電波に乗っていることだった。反政府側にスタンスをとっている既存のマスコミとは違う、物事を正面から見る姿勢。ねつ造や切り取りを一切しないで、伝えるべきことを伝える。この方針だけで世間から支持を受けられるとは思っても見なかった。それだけ、世の中の人たちは、バイアスのかかった既存マスコミの報道に我慢ならなかったんだろうと思われる。
ほかのパーソナリティーやコメンテーターたちも、いわゆる保守層や偏向報道に怒っている人たちがほとんどで、内容はどれも似通っていたりするが、藤堂の語り口が面白いのか、人気の上では上位に近かった。
しかし、どうあれ、なぜ放送されているのかという根源的な疑問がいまだに解けていない。誰がその声を拾っているのか、どういうシステムで放送されているのか……そもそも首都圏放送という会社がないのにどうして放送できているのか?
藤堂は、鮫島のくれるエールをそこそこ真に受けながらも、声が彼の元に届くメカニズムを突き止めたいと思っていた。
「それはそうと、今日も、ですよね?」
鮫島は言う。
「ええ。今日はだから、あんまりお酒は入れないですぐ帰りますよ」
藤堂は返す。
「まあ、普通のラジオ局ならアウトでしょうけど、ね。あそこの局って結構自由ですからね」
鮫島は、なぜかその架空のラジオ局を知っているようなそぶりを見せる。
「ラジオ局、ご存知なんですか?」
意外な一言に藤堂は少し喰いついた。
「いやいや。自由って言ったのは、そのスタイルとか時間配分とか。飲んでもOKなんてあんまり聞かないんだけどね」
鮫島は、何か都合の悪いことでも言ったかのように、少し照れながらグラスに口をつける。
「だって、私だって、スタジオでじっくりしゃべっているわけではないですから」
藤堂もそういって鮫島に返答する。
「あれ?そうなんですか?」
今度は鮫島が意外な表情を浮かべる。
「自宅に帰ってからですよ、しゃべっているのって」
確かにスタジオっぽくしてはあるが、あくまで格好だけだ。
「ええ?電波を出す機械とかスタジオまがいのがそこにあるとか……」
今度は鮫島が自分の疑問を何とか解決しようと、藤堂に語らせようとする。
「そんなの、持ってるわけがないでしょう。電波に関する法律だってあるし、むやみに設置できないことくらい、わかってますよ。それがないのに放送できていることが今の私の最大の疑問点、なんですけどね」
藤堂はそういってグラスを空にする。
「へぇ。そうだったんですね」
鮫島が少しだけ理解したような顔つきになる。
「だから、最初お会いしたときに「ラジオなんかやってない」って言われたんですよね」
鮫島が藤堂の発言の意図を理解したように言う。
「少なくとも自発的に番組に出ようとは思ってませんでしたよ。単なる独り言の延長でしかないですから」
空になったグラスを藤堂は見つめる。
「それでも、いまはこうして時代の寵児になろうとしている……」
鮫島の目は、藤堂をうらやんでいるようにも見えた。
「止めてくださいよ、そこまで持ち上げるの」
照れ隠しも半ば、藤堂はそういう。
「まあ、この後のこともありますから、引き留めずにおきましょう。またいずれ、放送抜きでお話ししたいですな」
鮫島はそう言う。
「それがいいかもですね。DJが表の職業になってもかなわないし……」
藤堂もそう言って、居酒屋を出る。そしていつものように帰りの電車の中の人になる。
今日も饒舌な中で放送を終える。そうはいっても、タイムキーパーやら、CMいれなどのタイミングなど、周りにスタッフもいないのに番組としての体裁は奇妙なほどに整っているのだという。完全生放送であるにもかかわらず、だ。
「とにかくおっかしいよなぁ」
新しく買った書斎机に頬杖をつきながら、藤堂は"どうやって放送されているのか"というその一点がどうしても知りたくなっていた。
日曜日がやってくる。
「よぉし、謎解きに取り掛かるか……」
藤堂は、ほかのパーソナリティーや出演者に、コンタクトを取ってみようと思い立つ。そうすれば、自分の心の中に巣くっている、もやもやの一角が、少しでも晴れるのではないか、と思ったからである。
今度は藤堂側が、パーソナリティーたちを検索する立場になる。あっという間に数人がリストアップされる。
「えっと、神奈川県横浜市在住、大宮、浦安……結構あちこちにいるみたいだなぁ」
だが、藤堂は一人の人物にぶち当たる。
「アレ?兵庫県の人もいるぞ?なんなんだこれ?」
首都圏放送と銘打っておきながら関西人も放送できている。謎解きのキーパーソンにするにはもってこいの人物なのではないか、と思えてきた。
名前は上条 忠義。尼崎在住、とあった。
新幹線に飛び乗り、新大阪駅で下車。マップアプリを駆使して最寄り駅を検索し、ここから乗換案内。4両編成の各駅停車に乗り込み、細かい駅間を何度かやり過ごして目的の駅にたどり着く。
工業地帯のど真ん中、という下町情緒あるれる駅に降り立ち、住所を頼りに上条宅を探す。果たせるかな、いとも簡単に目的の地は発見される。
周りを同じようなデザインの住宅が立ち並ぶ、建売住宅で開発されたような場所だったが、子どもたちが道路で遊べているくらい、治安はしっかりしているようだった。
藤堂は、上条の表札のかかった門の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
「あ、あのぅ、どちら様ですか?」
応対に出たのは30代の女性。この時点で藤堂は"あ、奥さんか"と理解する。
「あ、わたくし、こういうものです」
出てきた女性に名刺を差し出す。
「その……藤堂さんが何の御用でしょう?」
関東からのぶしつけな訪問客。相手がいぶかるのも無理はない。
「こちらに、忠義さまっていらっしゃいますよね」
単刀直入に藤堂は聞く。
「え、ええ。亭主ですけど、それが何か?」
見ず知らずの男性が夫の名前を知っている……気味悪がっているのがありありとわかった。
「実は一度お目にかかりたいと思いまして、こうやってはせ参じたんですが、御主人はご在宅ですか?」
ラジオの事は奥さんに言うべきではないとばかりに、ただ逢いたかったと口にした藤堂。
「誰か、俺に来客かぁ?」
応対する妻の後ろから声がする。
「エエ、藤堂さんって方。あなた、ご存知?」
振り向きざまに少し声のトーンを上げて上条の妻は声を掛ける。
「トウドウ?え?もしかして!」
玄関口に向かいながら上条はもしやその人では、と思い至る。
そして二人は対面する。
「ああ、藤堂さん!」
「あなたが上条さんですかぁ」
まるで古い知り合いだったかのように二人は握手し、抱き合った。それをぽかんと見つめる上条の妻。
「あ、ちょっとこれから藤堂さんと出掛けるから。小一時間したら戻ってくるから」
早口で上条はまくしたてる。
「え?買物はどうするの?」
妻は怪訝そうに上条に聞く。
「そんなのあとあと。こりゃぁどえらいことになりそうだぞぉ」
部屋着のままだった上条は、早速身支度を整え、外で待っている藤堂を伴ってそぞろ歩きを始める。
「いやぁ、どうしてここがわかったんですか?」
上条は少し上気した顔で藤堂に問う。
「そりゃぁ、ネットを使えばチョチョイのちょいってなもんですよ」
藤堂は、少し身振り手振りを交えて上条の家を特定できた経緯を話す。
「でも少しだけ残念なんですよねぇ…...」
藤堂はちょっとうつむいてそう言う。
「なにがですか?」
上条は、藤堂のしょげぷりが気になって聞く。
「エエ。ここに来れば放送がどうやって送られているのか、の回答が得られるって思っていたんですけど…...」
藤堂は、なぜ上条を訪ねてきたのか、ことの経緯を事細かく話し始める。二人は公園のベンチに腰掛けて論議を始めた。
「いや、それは私も思てたことなんですよ。首都圏にしか流れていないから、私の場合、私が放送しているなんてこと誰も知らへんし、こうやって訪問されたのだって今日が初めて。そもそも放送しているなんて、これっぽッチも思ってないんやけどね」
上条は、自分が首都圏のパーソナリティーになっていると知らされたのは、ネットの情報からだったという。
自分では聞いたことのないラジオではあったが、放送されているとなるとどうしても聞きたくなる。それで関東にいる友人に録音してもらってそのデータをもらって、初めて首都圏で自分の声が流れていると知ったのだという。
「そうでしょ?上条さんの場合も、独り言か、何かですか?」
藤堂は、突っ込んで話を聞く。
「ええ。実は今の嫁と付き合うまでは、極度の対人恐怖症やったんですよ。カウンセリングで直りはしましたけど、なんていうんかな、もう一人の自分が現実の自分を見ているようにも思えてきて、それでその架空の自分と対話するようになっていって、それが今につながったりしているのかな、って思てます」
上条が事情を説明した。
「じゃあ、やっぱり独り言、ですか?」
藤堂もそのあとが気になって上条に聞く。
「そういうことなんかなぁ。私の場合は、さっきも言ったように二人で掛け合いしているような独り言になりますけど」
上条がそういう。
「そうですかぁ」
藤堂は、他人のはもちろん、自分の放送ですら好き好んで聞こうとは思っていなかった。なので、上条の放送も内容とかは全く知らない。
それでも、まさか圏外と言ってもいい関西にもパーソナリティーがいて、その音声がどうして流れるのか、全く見当もつかなかった。ここに来れば少なくとも疑問の一端でもつかんで帰れると思った藤堂だったが、収穫はないに等しかった。
失意のうちに帰ろうとした藤堂だったが、
「ここまでご足労していただいたんやし、昼食でもご一緒にどないですか?」
上条はこう提案する。
「いや、今日来て、いきなりそれじゃぁ。それにラジオをやっていること、奥さんには知られてないんでしょ?」
藤堂は聞く。
「あ、え、エェ。そうなんですよ……」
恥じ入るように上条は答える。二人の関係がラジオ繋がりであるとわかった時、上条の妻が何と反応するか。
「だったら、今日はいったんお暇させてもらった方がいいと思いますけどね。奥さんには上条さんからうまく説明しておいてくださいよ」
藤堂は、上条に後を一任する。
「ええ?どないしよう……」
どう説明したらいいか、戸惑う上条。
「そこはホレ、取引先の知り合いとか、以前お世話になったことがあるとか……ラジオ繋がり以外なら何でもいいでしょうよ」
それくらいは考えてよ、と言いたげに藤堂は言う。
「そうやね。相手を納得させられたら、それでええんやからね」
上条も深く考えすぎないようにと思いを新たにした。
「あ、せっかくですから、連絡先でも交換しときますか?こちらに来られた時にも便利だし……」
藤堂はそういってSNSのアカウントなどを、上条と交換する。
「あんまり疑問は解けませんでしたけど、逢えてよかったです」
藤堂はそういって上条と握手する。
「本当に放送されていたんだなって実感しましたよ。ありがとうございます」
上条も握手しながら、現実がそこにあることを喜んだ。
帰りの新幹線の中で、藤堂は、読んでいた週刊誌の記事に思いを巡らせた。
"動画配信の新潮流 生放送アプリがマスコミを駆逐する!"
システムはいたって簡単なようだった。それまでは動画サイトと紐付きで、動画データをアップロードしないとみられなかったものが、生放送アプリを使えば即座に放送され、見逃してもサイトにデータが残るので、ユーザーはスマホの前で放送するだけで済んでしまうのだった。
藤堂も参加しているラジオも、同じような仕組みで放送されるのかもしれない。だが、そのアプリの存在もこの雑誌で初めて知ったレベルであり、当然藤堂のスマホにはアプリは入っていない。アプリなど知らないままでただ漠然としゃべっているだけ。それでも電波に乗って声が届いている。依然として、藤堂をはじめ、DJたちの声が電波に乗るための仕組みやシステムにはわからないことが多すぎる。
新幹線を終点の東京で降り、自宅方面に向かう上野東京ライン直通の電車を待っているさなか、藤堂の携帯が鳴動する。
それはついさっき連絡先を交換したばかりの上条からだった。
「ああ、上条さん、早速の電話、ありが……」
話す藤堂を無視するかのように上条が早口でまくしたてる。
「あなたと別れてから、変な奴に付きまとわれてまして……」
「え?何のことですか?」
要領を得ない藤堂はつい聞き返してしまう。
「隠れて電話しているんですけど...…あなたのところにも来るかもしれませんから、気を付けて」
それだけ言うと、藤堂からの電話は切れていた。
「何の事やら、さっぱりだよ……」
すぐに折り返そうとした藤堂だったが、取り込み中らしい雰囲気を感じ取り、敢えて返信をかけなかった。
だが、その藤堂にも、怪しい人影が数名、様子を窺うように尾行していたことを本人は気がついていない。
自宅に向かう電車の中の人になる藤堂。サングラスをしている時間帯ではなかったのだが、それをはずすと顔バレするのは必定だったので、そのままにしていた。
途中のO駅で客がどっと入れ替わる。藤堂の向かいに座ってきたのは、なんと、鮫島だった。
「!」
気が付く藤堂だったが、サングラスがうまくカムフラージュしているのか、鮫島は向かいの人物が藤堂だとは気がついていない様子だった。
話しかけようと思ったが、相手はスマホを凝視しながら何やらメッセージを打ち込んでいる。届いたメールにでも返信しているのだろうか…...あえて知らん顔をしていた藤堂だったが、藤堂の携帯がSMSの着信を知らせる。
「なんだぁ?」
その文章を読んで、一気に血の気が引く。
”あえて声掛けしてくれなくてよかった。実はあなたは命を狙われている。死にたくなかったらいう通りにすること”
鮫島からのSMSだった。ゆっくりと顔を上げる藤堂。鮫島はその行為にも知らん顔を決め込む。
慌てて藤堂はその言葉に返信する。
”ぼくはどうすればいいんですか?”
漢字に変換することも忘れて送信する。すぐさま、鮫島から返信が来る。
”自宅最寄り駅とは違う駅、手前でいいので下車すること。相手を巻くためにはそれしか手はない”
「そうはいっても……」
藤堂は、変な汗をかきまくっている。先ほどの上条の件があるので、相手が動き出した、とまでは推察できるのだが、その相手が誰で、藤堂をどうしようとしているのか、が全く分からない。鮫島の弁によれば殺されることもありえるということだろう。
”俺って、そんな悪いことしたかぁ?”
その間にも電車はひた走っている。一駅経るごとに乗客の数も減ってくる。そして藤堂は一計を案じる。
”その人たちって私の最寄り駅知ってるんでしょ?”
鮫島に問いかけて見る藤堂。
”ただの連れ去り部隊みたいだからその可能性は低いかと。でも知っていてもおかしくない”
電車は一駅、また一駅と、藤堂のいつも使う駅に近づいていく。デッドラインである一つ手前の駅ももうすぐだ。
”だったら、俺は普通にいつもの駅で降りますよ”
”えっ”
入力する前に驚愕の表情を浮かべる鮫島。
”そのかわり、鮫島さんには少し芝居をしてもらいたいかな、と”
そういうとうつむきながらニマッと笑う藤堂がいた。
とうとう藤堂は、一つ手前の駅で下車することなく、電車は、次に停車する、藤堂の最寄り駅に向かって発車する。
じわじわと動き出す電車。おもむろに電話をもって会話をはじめる藤堂がいた。それもかなりの大声である。
「もしもし?ああ、恭子、おつかれぇ。今日はどんな感じだった?え?キャンセルぅ?それはいただけないなぁ、もっとしっかりクライアントはひきつけておかないとぉ」
もちろん、藤堂お得意の一人語りである。電車の中は2割程度しか乗客がおらず、藤堂の話ぶりで眉をひそめる人も少なからずいた。
「え?ああ、確かに君のせいではないかもしれないけど、実際キャンセルだったんだろ?そこは事実を認めてくれないと……」
まさに電話口でほかの誰かとしゃべっているかのような渾身の芝居。興が乗ってき始めたころに、鮫島が合いの手を出す。
「あの……電車の中ですから、ここは少し控えめに……」
小声で忠告する鮫島に、にらみを利かせる藤堂。
「あ?なんだよ、そんなに俺の声が迷惑なのかよ?」
電話の内容がトラブルに見舞われているだけに、気が立っている藤堂は、鮫島の投げかけに悪態で応じた。
「いや、でも、電車の中では通話はおひかえくださいって何度も……」
鮫島は藤堂に食い下がる。
「そりゃわかってるよ、でもなんで俺にだけそんなこと言うんだよ、ええ?」
そう言っているさなか、電話していたことを思い出した藤堂は『悪い、あとでかけ直すわ』と電話にしゃべりかけて、鮫島と対峙することに傾注する。
「俺には俺の事情ってもんがあんだよ、そこに関わってもらいたくないだけ、わかる?」
藤堂は鮫島相手に芝居を続行する。引き出しの少ない鮫島にとってどういう風に事態を”悪化”させればいいのかがつかみ切れていない。
そうこうするうちに、ただならぬ雰囲気を察した乗客が通報したのだろう、車掌がすっ飛んでやってくる。電車は、駅間の長い鉄路をひた走っている。
「ど、どうされました?」
車掌のその問いかけに、
「俺が電話したのが気に入らないっていうから、少し口論になったってだけのことですよ」
この"芝居"を主導している藤堂は、すべてを引き受けつつ、車掌に弁明する。
「そういうことですか。一応車内のマナーは守っていただきませんと……」
車掌がそう言って、引き下がっていく。
「まあ、それはオレにも落ち度があるね。今後気をつけますよ」
少ししおらしくなった藤堂は、見ず知らずの体である鮫島に少し反省の色を示す。
「いやぁ、少し俺も舞い上がってしまってて……気を付けますよ」
鮫島も謝ろうとする。
「反省しているかもしれねぇけど、オレの電話を邪魔したのだけは許せねえなぁ、おぉ?」
落ち着いてきていた藤堂の感情メーターが、またしても上がり始める。そうこうするうちに電車は、藤堂の下車駅に近づきつつあった。
停車して扉があく。それがちょっとした合図だったのだろう。藤堂が鮫島の胸倉をグイッとつかんだ。
「さっきから気に入らないことばっかり言いやがって。ちょっとここで降りろ」
鮫島と藤堂は、もつれるように駅に降り立つ。二人のただならない雰囲気を感じ取ったほかの乗客も、振り向きながら推移を見守るだけである。その中には、藤堂をつけてきている不審な人影もあった。
「おいお前、とりあえず駅長室まで行こうや」
引きずるように鮫島を連れていこうとする藤堂だったが、ここで鮫島の反撃が始まる。
「ああ上等だとも。胸倉つかんだだけで傷害未遂だからな、ああ、揃っていこうじゃないか」
藤堂の腕を振りほどいて、すたすたと歩きだす鮫島。改札内にある駅長室に先に駆け込む。
「あ、あのう……ちょっと相談に乗ってもらっていいですか?」
鮫島は少し声を忍ばせてそこにいた職員に話しかける。
「どのようなご用件で?」
それを言っているさなかに藤堂がいきりたちながら駅長室に入ってくる。
「この野郎、どうしてくれようか...…」
と意気軒昂に怒鳴っていた藤堂だったが、もちろん駅員たちとは顔見知り。
「ああ、藤堂さんも。どうしたんですか?」
とっさに藤堂は身を隠す。後をつけてきた二人組が改札を出ずに駅長室をうかがっているのが確認できた。
「ふぅ。ここまでの芝居はうまく行きましたね」
鮫島は藤堂に言う。機転が利きすぎる一芝居は間違いなく、つけてきた賊たちにとっては想定の範囲外だからだ。かといっていつまでも駅長室に籠城よろしく、居座るわけにもいかない。二人は駅員たちに事の次第を話し始める。つけてきた連中は、鮫島に絡んできていた者たちで、それをいさめようとした藤堂にも絡んできたのでやむなく芝居を打った、と説明した。
話し終わって数分。
「さあて、ここからどうしたものか」
藤堂は、今でもまだ立ち去ろうとしない二人組をちらちらッと確認しながら鮫島に言う。
「まあ、簡単なことなんだけどね」
鮫島が言う。
「これから、ちょっと所轄で臭い飯でも食べますか?」
こともなげに言う鮫島。
「ええ?」
ほどなくパトカーが一台やってくる。制服は着ているが、実は鮫島の部下でもある。
「ああ、ご苦労さん。では連行、よろしく」
鮫島がやってきた制服に声を掛ける。
「大丈夫ですよ。犯人じゃないんですから」
一人が緊張する藤堂に話しかける。二人に両脇を抱えられつつ、藤堂はパトカーの後部座席の人となる。それを見届けた不審な二人組は、その駅で下車することもなく折り返しの電車に乗って元来た道を戻っていく。
”ばかめ、不正乗車で摘発してやるからな。せいぜい追いかけられればいいよ”
鮫島は、2人の人相や風体をメールで鉄道警察隊に飛ばした。ほどなく2人は不正乗車のかどで、現行犯逮捕されるという間抜けぶりをさらしたのだった。
地元の警察署にしょっ引かれてしまった藤堂だったが、警察署に着くなり、大歓迎で迎え入れられた。
「おお、貴方が藤堂さんですか、初めまして」
署長まで出てきて挨拶を始める始末で、署内は日曜の夜だというのに大きく盛り上がっていた。
そこに鮫島が遅れてやってくる。捜査車両に乗らず、タクシーでここまでやってきたのだった。
「ああ、これは署長。いろいろご足労掛けました……」
鮫島は、温厚そうな署長にあいさつし、傍らにいる藤堂に向かってこう言い放つ。
「藤堂健一、君を電波法違反の疑いで逮捕する。20時18分、執行」
同乗していたパトカーの二人組が藤堂の両脇に立つ。しかし、その腕はしっかりと藤堂に絡みつき、藤堂は身動き取れなくなってしまう。
先ほどまでの歓迎ムードは一変、周りは驚愕の面持ちに満ち溢れていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
藤堂は、唯一動く口でもって抗議する。
「え?法律違反を取り締まるのが公僕の義務なんだけど、何か不満でもあるのかな?」
突然豹変した鮫島の真意がいまだにつかめない藤堂は、(これは何かの間違いだ)と内心ぶつぶつ言いながら事の推移を見守る。
近づいてきた鮫島が藤堂に向かってこういう。
「ああ、今更だけど、あの名刺はホンのお近づきのしるし。本当はこれなのさ」
さっと身分証をひけらかす鮫島。だが、そこにあったのはとてつもないものだった。
警視庁ではなく、警察庁公安7課。ここ最近のインターネットにおける右派左派の過激な情報発信に対して目を光らせている部署であり、現にいくつかのヘイトと呼ばれる案件にも公安が関わっていた。
「こ、公安……」
藤堂だって、そう言った言葉を知らないわけではない。とてつもない組織が動いていることをいまさらながら知らされる。
「さあて、これから取り調べになるんだけれども、心の準備はよろしいかな?」
少し笑顔になって鮫島が言う。これからが楽しみだとさえ感じられるそんな笑顔だ。
「そ、そんなこと言われましても……」
口ごもる藤堂。
「いや、ここはひとつ穏便に……」
今まで笑顔で接してきた署長も鮫島に取りなすように諭す。
「まあ、ここから先は公安の案件ですから。皆さんは関わりにならない方が身のためですよ」
少し声を張り上げて鮫島は言う。
それだけ言い残すと、鮫島は、部下にしっかりと抱きかかえられている藤堂を連れて、捜査車両に乗り込む。赤灯はしまわれ、警察署から一路東京・霞が関に向けて車は走りだす。
「さあて、藤堂さん……」
少し警察署から離れてようやく鮫島が口を開く。
後部座席でくつろぎ、笑みさえ浮かべる鮫島に対して、藤堂は、犯人にされてしまったショックで、なにも耳に入ってこない。
「あれ?まだびっくりしちゃってます?」
少し格好を崩す鮫島だったが、それにも藤堂は反応しない。
さすがの鮫島も"まいったなぁ"という顔をする。
「あのね……逮捕って、逮捕状ないとできないのって、知ってますよね?」
急に鮫島が当たり前のことを言い始める。
「そうですよね……」
藤堂はここでも生返事のままだ。変にしゃべって言質を取られまいとしている行為の表れでもある。
「それに逮捕って知っての通り、手錠がつきもんなんですわ。私人逮捕でもない限り」
作法にのっとってない逮捕劇。藤堂も今までの経緯を思い出しながら、ようやく
「あっ」
と、気がつき始める。駅から警察署まではともかくとして、鮫島が逮捕と言ってからでも手錠は嵌められていない。
「そろそろこの大芝居に気がついていただきたいものですなぁ」
電車の車内で芝居を仕掛けた相手に、逆に芝居を仕掛けられる。藤堂の感情は千々に乱れていた。
「えっ?ど、どこからが芝居でどこからが本当なのか……」
藤堂は狼狽する。電車に乗ってからの一連の動きを思い返しながら、藤堂は芝居と現実の境界を見つけ出そうとする。
「じゃあ、その前に……」
藤堂は、一気に攻勢に出る。
「あなたの本当の肩書をお示しいただきたい」
きっと鮫島をみつめる藤堂。もう騙されない、という気概を見せたともいえる。
その、色をとりもどした瞳に少し安堵しながら、鮫島は謎解きを始めた。
「まず、あの身分証はフェイクじゃない。本物ですよ」
少しトーンを落として鮫島がしゃべる。信用してもらおうとしている口調だ。
「そぉかなぁ」
今までのことを考えれば、なんでもハイハイと鵜呑みにはできない。疑心暗鬼になっている藤堂はすかさず疑問の目を向ける。
「まあ、今までのことを考えれば疑うのも無理はない。じゃあ、どうやったら信じてもらえますか?」
鮫島の当惑した表情が、少し藤堂を安心させる。
「この車両にだって、警察無線はあるでしょ?」
藤堂は搦め手から攻めることを思いつく。
「もちろんありますとも」
鮫島は自信たっぷりに答える。
「だったら、被疑者を連行しますって、連絡入れました?」
藤堂は、運転している前の二人が、そういった行為に至っていなかったことを指摘する。
「あ、いや、それは、すでに知らせてあることで……」
藤堂の思いもよらぬ攻撃に鮫島もたじたじとなる。
「おかしいですよね。僕が被疑者だとして、身分の照会もしていないなんて……」
何度か交通違反などで、パトカーの中で行われる取り調べを基準にしても、藤堂だから何もしないでいい、という風に感じ取ったのだ。つまり藤堂であることをこの人たちは"知っている“ことの表れである。
「だから、本当のことが知りたいんです。あなたはいったい、何者なんですか?」
藤堂は、鮫島をにらむように見据えていった。
「うはぁ、藤堂さんには敵わないなぁ。警察の動きに倣っていない、素人丸出しの逮捕劇だから仕方ないかぁ」
感の良さを鮫島が褒める。そういうと、おもむろに胸ポケットをまさぐり、名刺を出す。
「これが本当の私の肩書。混乱させてしまって申し訳ない」
そういうと、鮫島は藤堂の方を向いて深々と頭を下げる。
謝罪の気持ちは伝わったが、名刺に目を落とした藤堂はさらに驚愕する。
内閣官房付 内閣情報調査室 調査官 鮫島 比登志
な、内閣!要するに国の中枢にいる人々だということだ。
「一つ、伺ってもいいですか?」
藤堂は素朴な疑問を投げかける。
「どうして私の命が危ないって知っていたんですか?」
その目は、じっと鮫島を見ていた。
「ああ、そのこと。それについては、今は何もお話しできないのでね。ご容赦いただきたい」
表情はにこやかだが、その眼光は、深入りするでない、と一喝するかのような鋭さをはなっていた。藤堂は、それ以上聞くことができない。
「では質問を変えます。私にどんな用なんですか?」
藤堂は別の方向からなぞ解きに挑んだ。
「ウム。それなら答えられます。今日は、皆さんに、ある組織の立ち上げに関わってもらいたいのです」
鮫島はこともなげにあっさりという。
「え?みなさん?わたしだけじゃないってこと?」
自分だけがしょっ引かれているとばかり思っていた藤堂はその一言に反応する。
「ということは……」
藤堂は、大阪の上条のことを思い出していた。
「エエ。あなたが会っていた大阪の人も、こちらに向かっていることでしょう。おそらく、我々の担当が不審な動きをしてしまったんで警戒されたんだと思います。おおむねあのラジオ局に出ていた人たち全員が一堂に会するはずですよ」
車は、ようやく都内に入っていく。
「い、いったい、なにがはじまるんです?」
期待はどこにもなく、ただ何かが始まることしかわからない状態。藤堂はそうつぶやくと身を硬直させる。
「まあ、そう心配しなさんな。悪いようにはしませんから……」
そう言われても、これまでの数時間、ジェットコースターのような感情の起伏にとらわれている藤堂にとって、今から始まろうとすることに不安しか抱けていなかった。
車は、1時間強かけて、霞が関に到着する。合同庁舎が立ち並ぶまさに日本の中枢。車寄せにザザッと横付けする藤堂の乗った車は停まると、素早く助手席の男が扉を開ける。
「こ、ここは……」
あたりをきょろきょろする藤堂に、
「あんまり声を立てない方が身のためですよ」
鮫島が藤堂に注意する。この場所自体も聞いてはいけないようなのだ。
「さあて、そろそろ皆さんとご対面ですよぉ」
建物の中をしばし歩いて、100人程度が入られる会議室のような場所に案内される。
扉を開くと、そこには、80人程度の人々があちこちでひと固まりになって談笑している。
「おや?」
藤堂は気が付く。藤堂と鮫島一行のように、スーツで身を固めた数人の傍らに平服を着た一人がいる、というグループだらけだったのだ。
「そろそろ気がついてこられましたか?」
鮫島が、この様子からどう洞察するか、知っているかのように藤堂に問うてみる。
「これって、みんなDJしている人ですか?」
藤堂はおっかなびっくり答えてみる。いくら国の組織だからって、ここまでのことをやってのけるとは……
「エエ、よく気がつきましたね」
鮫島はこともなげにそう告げる。その答えが合図だった。鮫島はことの経緯を話し出す。
「まず、私たちがあなた……藤堂さんを知った経緯から話しましょうか」
今までのもやもやがきっと解き放たれる! 藤堂は少し目を輝かせる。
「そもそも一般人が、政治的な発言をしたところで、誰の目にも止まるものではありません。せいぜいSNSで発信するくらい。ところが、私の諜報員が独り言で政治ネタを延々しゃべっているヘンな人がいる、と告げてきたのです」
ここでいったん区切った鮫島。
「あ、実はその変な人って藤堂さんじゃないんです。もっと前に当たる、美山という人が始まりなんです」
いくら正論を言っていたとしても「ヘンな人」呼ばわりされるのはあんまり気持ちのいいものではない。少しだけ表情を曇らせた藤堂だったが、次を聞きたい、というような顔をする。
「で、その美山さんにもいろいろ尽力いただいて、政権批判をする層に媚びないようなラジオ放送を作りましょう、ということになったんです……」
続けようとする鮫島に、
「ちょっと待ってください」
手まで上げて、藤堂は鮫島の語りをストップさせる。
「何か疑問点でも?」
鮫島は藤堂の好意にいぶかる表情を見せる。
「いまどきなんでラジオ、なんですか?」
21世紀にもなって、前時代的ともいえるラジオがどうして……藤堂はつい口にしてしまったのだ。
「まあまあ。先を急がないでくださいな。ラジオになった理由も今からわかりますから…...」
鮫島は、藤堂の勘の良さは調査以上だなー、と改めて実感する。
「なんでラジオか?理由は設備投資がそんなにいらないからなんです」
鮫島はそういう。
「でも、動画サイトを使えば今やだれだって配信できる時代じゃないですか……」
藤堂はまたしても突っ込みを入れる。
「じゃあ、その動画サイトが観れない、観方がわからない層の人はどうすればいいですか?」
今度は鮫島の逆襲だ。ネットリテラシーのある層以外に今の野党の無茶苦茶ぶりを伝える媒体が存在していない、そして、高齢層ほどオールドメディアである新聞やラジオ・テレビを無批判で信用する部分がある。そこに目をつけたのである。
「だから、誰でも聞けるラジオを使ったんです。新聞は、さすがに部数が必要になるし、印刷工場や配達員というリソースがかかる。テレビは、放送免許もさることながら設備投資が半端ない。かたやラジオは、音声データだけなので、ぶっちゃけ、アプリさえ起動できればサーバーからデータを読み込んで擬似的に放送することだって可能です」
鮫島がシステムを披瀝する。藤堂のしゃべりを拾うのは、超小型のドローン。屋内でしゃべっている音もばっちり拾える、指向性マイクと、彼のしゃべりだけを抽出するサンプリングソフト、しゃべりを瞬時にデータ化してホストに送る伝送システムまでを備えている、内閣府の秘密兵器ともいえる代物だった。
「もともとは、秘密裏に謀議を行う極左組織の、共謀罪立件のために作られたもの。でも、彼らもこのシステムの存在に気がついて、すぐに地下に潜ってしまいましたからね。せっかくできたシステムなので、逆の方向にしてみるか、というのがここまでの経緯なんです」
鮫島は説明を終える。
「じゃあ、どうして私に?」
白羽の矢の立った自身の選考理由を問う藤堂。
「ああ、それも簡単なことです。ドローンとは別に、人海戦術で、あちこち検索して、見つけたのがあなたなんです」
鮫島はその問いにこう答えた。
「ふーん」
納得のいかない藤堂だったが、確かに人目があっても、しゃべりだけはやめていなかった。それを見つけられて、DJの一員にさせられるとまでは想像できるわけがなかった。
「じゃぁ、あの会社は?」
次の疑問『首都圏放送』に藤堂はフォーカスする。
「会社がないのに放送しているのはおかしな話。なので幽霊会社をそれらしく見せているんです。電波の割り当てや放送免許も、官製ラジオ局だからあっという間。それでも表向き新規ラジオ局誕生、と大々的に宣伝せず、正論だけを取り上げるスタイルを貫いているというわけです」
鮫島の説明には矛盾点は見受けられない。藤堂が指名されたところだけは疑念があったのだが……
「あ、そろそろ「御館様」の登場ですよ」
そういうと鮫島たちはすぐに身なりを整えてその人物の登場に備える。
スポットライトとともにその人物は壇上の演台に近づいていく。その姿は、まぎれもない、官房長官の仲村だった。
「えー皆さん。えー、今日は遠路から来られた方もいらっしゃるということで、えー、ご足労いただきまして恐縮であります」
合いの手の「えー」が口癖の仲村らしい語りが始まった。
「遠くは大阪に、えー、新潟ですか。えー、本当に突然のことで、えー、申し訳なく思っております」
さすがに聞き取りにくく、イライラもする藤堂だったが、彼の口からどんな真相が語られるのか、かたずをのんで見守るしかなかった。
「えー、さて、今日お集まりいただいたのはほかでもない。えー、これまで秘密裏に動いておりました、政府支援系のラジオの、正式なキックオフを、この場で宣言したいと、えー、思っておるからであります」
おおっという感嘆の声と同時に、ぱらぱらっと拍手も起こる。
「え?今までのって、試験的な放送だったんですか?」
藤堂は小声で鮫島に確認する。
「エエ。そういうことです。なので今まで大々的に宣伝も広報もしてこなかったのです。でも、一定の効果も評価もいただいてきている、というのでこうして正式発足となったわけでして」
鮫島が言う。
「そういうことですか……」
藤堂はとりあえず納得する。だが、すぐさま疑問が浮かぶ。
「エ?てことは、僕の立場は、どうなるんですか?」
まさか専業のDJになるのか?そんな風に藤堂は思っていた。
「あ、そのことですか。それは今から発表がありますよ」
まるで仲村の語る言葉を知っているかのように鮫島は言う。
「ここにおいでいただいている皆さんには、えー、ラジオ局の職員兼ディスクジョッキーとして勤務いただくことになります。現在無職の方におかれましては、えー、そのまま特別公務員としてご勤務いただきます。えー、現在職業をお持ちの方は、嘱託DJという形で当ラジオ局に加わっていただきたいと、えー、思っております」
仲村の発言に藤堂は少し機嫌を悪くする。
「なんかすっげぇ差別されてるみたい…...」
「そうは言いますけど特別公務員って、決して高給じゃないですからね。そりゃ試験も何もないで公務員ですから。そんなに甘くないですよ」
鮫島は藤堂にそう言ってなだめる。あとで聞いたところでは、アルバイトに毛が生えた程度の給与しかなく、一般の公務員とは2ランク以上は下という評価だった。一方の嘱託の方はというと、2か所から給与をもらっている形になるので、確定申告は必要だが、そこまでの高給がもらえるわけではなく、むしろ簡単なアルバイト感覚で勤めてくれればいい、ということのようだった。本当に小遣いが数万円増える程度の収入と聞いて、少し安堵する。
ラジオ発足のキックオフ日から数日。
予想通り、「政府系のラジオ局発足」に、既存のメディアは、揃いも揃って発狂に近い論調をこれでもか、というほど出してくる。
「プロパガンダ」
「ヒトラーの手法をまねる政権」
「彼らの伝える真実はどこまで本当か」
「自由な制作スタイルで大丈夫か?」
「既存メディアの全否定する政権の横暴」……
「まぁた、この記事かよ……」
もはやWEBサイトでしか見なくなった新聞の社説には、「責任のない一般人の投稿動画レベルをメディアと呼べるのか」と強い口調で述べられている。発表があって糾弾・指摘・攻撃が後を絶たない。
概略を受け取った藤堂は、自分が政府の「コマ」のように使われることになることには、若干不安も幻滅もしていた。それがやりたくって独り言を言ってきたわけではないからだ。それでもラジオの向こうのリスナーに正しい情報を発信し、それに触れることで覚醒してもらい、日本をよくしようという理念のもとに今まで放送をやってきたことには、自負と確信があった。
日々の放送は、正式発表があってからも毎日のように続けていた藤堂ではあったが、まだいろいろと不安も疑問も残っていた。最大の懸案事項は、あの日、鮫島に投げかけた、『なぜ命を狙われることになったのか』についての回答を本人からもらっていないことだった。
殺されることにはあまり未練はない。そこそこに生きたし、仮に殺されても一応藤堂の血筋は自分で終わることはなくて済みそうである。土地や建物も、残った誰かがうまくやってくれるであろう。
だが、理由もわからずに凶弾に倒れる、という不遇な死だけは避けたかった。死に値する何かがそこにあるから殺される。本来なら許される行為ではないが、殺す側の「理」がわかれば対処のしようもある。そして、それに対する覚悟もできる。
何かがわからないままで日々を過ごさなくてはいけない。もっとも、それをストレスに感じても仕方がない。藤堂の日々は、以前にもまして舌好調な放送と仕事の二本柱で過ぎていく。
「藤堂くん!」
あまり衝突してこなかった販売部長の澤田に語気強く呼ばれたその日。
「ちょっとできすぎなんじゃないの、今年」
怒られるとばかり思っていた藤堂にしてみればてのひら返しとまではいかないものの、気持ち悪ささえ漂う口調にただならぬ雰囲気を感じ取った。
「ええ?そうですか?」
しらを切る藤堂。
「何をご謙遜。夏物、在庫管理がしやすいってお店の評判もいいし、何より正札でバカ売れしているそうじゃないか」
実は、そこは藤堂の見込み違いでもある。ラニーニャ現象で冷夏予想と見込んであんまり攻めた販売計画にしなかったのだ。前年売れ数比110ほど、アイテム減の分を数量でこなす計画だったわけだが、見た目はうまく立ち回っている。だが、夏物終盤の8月まで商品が持つかどうか……今の藤堂の不安の種はそこにあった。
「今の酷暑が続くと売れ行きも鈍化するでしょうしね。結構露出少な目のアイテムが多いですから」
藤堂の見立てはやや悲観的だったのだか、
「だからいいんだよ。うまくバーゲン用が残るじゃないか」
澤田は自信たっぷりに藤堂に言う。
"(そこまで残らんと思うけどなぁ…)"
藤堂の心の声はそうつぶやく。
「で、今日呼んだのはほかでもない。秋物は、夏と比べてアイテムが増えているんだが、これの意図するところを聞きたいんだよ」
もう生産が始まっている秋物のことをほじくり返すように澤田は聞く。
「ああ、その話ですか……」
まったく、俺のプレゼンを聞いてないのまるだしじゃんと思いながらも、藤堂は秋アイテム増加のコンセプトを語り始める。
「ああ、なるほど。夏絞った分、秋は、豊作、多彩なアイテムで、ってことか……」
澤田は納得する。
「なので、ディスプレイも、あまり使わない果物とか野菜なんかも使ってイメージしようと思ってます」
藤堂の販売戦略は型にとらわれていない。
「ほうほう。それは大胆だな」
奇抜なアイディアと思ったのか、澤田は目を丸くする。
「服屋に野菜とかって、ミスマッチのようですが、もちろんそれらをデザインにも取り入れてますので整合性は取れています」
藤堂は、すでに数か月前に語ったことを繰り言のように澤田に言っている。
「そうこなくっちゃあねぇ。デザイン部もいい腕の職人ぞろいだしな」
澤田の眉尻は下がったままだ。
「なので、秋商戦は、少し早目にキックオフしたいと考えてます。お盆前には商品が並ぶようにすでに手配済みです」
準備はすでに整っている、と藤堂は澤田に宣言する。
「それは素晴らしい。最近、本当に腕を上げたねぇ」
感嘆とともに澤田は目を丸くする。
「それもこれも、部長のご指導ご鞭撻があればこそ……」
上げたくはないが、こうでも言っておかないと後々がやりにくくなる。
「わっはっは、そんなにおだてるなよ、アハハハ……」
ポン、と藤堂の肩をたたきつつ、澤田は部屋から出て行く。
せっかく褒められたはずなのに、藤堂には、ため息しか浮かんでこなかった。
「ただいまぁ~~」
販売部に戻った藤堂は、少し落としたトーンで帰ってきたことを報告する。
「で、部長の呼び出し、なんだったんですか?」
まだ席にも付いていないのに藤井は喰いつくように藤堂に語り掛ける。
「あ、ああ。夏物好調と、秋物のコンセプトを聞かれただけ」
言葉少な目に聞かれたことに答える藤堂。
「え?それだけですか?」
藤井が声に出して聞くのと同じことを課員たちも思っているのがありありとわかる。
「ああ、マジでそれだけ。まあ、怒られるよりはよっぽどましだけど」
次に控える販売部の会議用の資料を準備しながら藤堂は答える。
「まあ、そういうことならよかったですわ」
藤井が少し含みを持たせた応答をする。
「ん?そういうことじゃない話でもされると思ってたのかい?」
気になった藤堂が藤井に水を向ける。
少し伏し目がちになって言うべきかどうか逡巡しているそぶりを見せていた藤井だったが、意を決したように藤堂のそばに近寄ってくる。
「課長の後任の話ってなにもご存知ないんですか?」
藤堂の耳元で藤井がささやく。
びっくりした藤堂は、想いっきり眼を見開いたまま藤井をみつめる。
「そういうことですか……」
なにも知らされていない。藤井は藤堂の驚きの表情ですべてを悟った。
「ま、そのうちいやでも知ることになるでしょうからね」
藤井は、それだけ言って、会議室に消えていく。
藤堂は、自分がこれからどうなっていくのか、不安で仕方なかった。
心ここにあらず、の藤堂は、何度も藤井を始め課員たちにたしなめられながら、会議を進行していった。小一時間の「冬物コンセプトと製造計画」を議題にした会議は終了する。
それでも藤堂は心中穏やかではないままだった。特に藤井の発言は聞き捨てならない。俺はどうなっていくんだろう……
そこに、携帯電話が着信を知らせるバイブレータを振るわせる。主は何と鮫島だった。
トイレに行くそぶりを見せつつ、部屋から離れて、藤堂は電話を受ける。
「もし、もし……」
少しトーンを落として藤堂は話しかける。
「やあ、久しぶりですね。元気してましたか?」
鮫島は明るく答えた。
「急にどうしたんですか。私、仕事中ですよ」
まだ小声で話す鮫島だったが、
「そうなんだ。いま会社なんですね?なら都合がいい。いまからそっち行きますよ」
その言葉にお構いなし、といった感じで鮫島は早口で応じた。
「え?な、なんの話ですか……」
何やら事態が動いている。藤堂はあまりのことに震え出していた。
「まあまあ、悪いようにはしませんて。それじゃあ、あと5分後に」
有無を言わせぬ言動で鮫島は言い放つ。
「ええぇ、ちょっ、ちょっと」
もう通話は途切れていた。
本当に5分後、鮫島は藤堂の会社に来ていた。数人の部下を引き連れて。その場には社長も、販売部長もいた。
「…...ということで、急なことなんですが、藤堂さんには、お国の大事、ということでそちらの方に回っていただくことになりました」
社長やら部長がいろいろと話したりしているのだが、藤堂にしてみれば、今自分の身に何が起こっているのかが全く理解できなかった。
え?会社を辞める?ラジオ局に取り込まれる?それってどうしてそうなるの?
頭の中のパニックは、そう簡単に収まらなかった。ただここで抗ったところでどうなるものでもない。少しだけ冷静に物事を見ていた藤堂は、まずはこの流れに身を任せようと思い始めていた。
「それでは、藤堂君からも一言」
そう社長に言われたのだが、販売部はもとより、会社中の人間が、藤堂が何を語るのか、かたずをのんで見守っている。
藤堂は重い口を開け始める。
「…...突然のことなのは私にとっても同じです。もう衣料に関われなくなると思うと、自分が決めたことでもないだけに残念です。これからどうなるのか、私にもわかりませんが、次の職場でもうまく勤めていきたいと思います。急なお別れでなにもできませんでしたが、後のことはよろしくお願いいたします」
藤堂は一礼したが、拍手はまばらだった。
「それじゃあ、引継ぎとかもあるでしょうから、30分後にまたここに来ますよ。それまでに済ませておいてくださいね」
鮫島は、これ以上ない笑顔で藤堂に迫る。その笑顔が不気味に映った。"断ったらどうなるかくらいわかっているだろうな"の裏返しに見て取れたからだ。
鮫島は部屋から出て行ったが、監視役なのだろうか、鮫島の部下らしい2名が販売部の部屋に居残っている。
やりにくくてしょうがないが、仕事の後片付けの方が大事である。私物をひとまず取りまとめ、社内資料は、部下の藤井に投げるように手渡していく。
「ああ、冬物の販売計画、数字はもう少し盛ってもいいかもな」
資料に冬物の文字を認めて、藤堂はそう指示を出す。分かったとも何とも言わずに藤井は資料を整理している。
「急いでくださいね」
監視役の一人が耳打ちする。
「わかってるよ!邪魔しないでくれるかな?」
さすがに気が立って藤堂はめったに上げない怒鳴り声を張り上げる。
時間はなくなっていくが、引継ぎは意外に簡単に終わった。藤堂の後釜に着いては、販売部長が兼任することになっているようだった。
「まあ、急ですからね」
藤井が理解を示す。
「そういうわけだ。退職金ってくれるだろうけど、こんな辞め方になるとは夢にも思わなかったよ」
椅子の背もたれに寄りかかりながら伸びをした藤堂はそういう。
「とにかく、身体には気を付けてくださいね」
藤井が最後のねぎらいの言葉をかける。
「まあ心配すんな。取って食われるわけでもあるまいし」
乾いた笑いで場を和ませようとしたが、かえって逆効果だった。
「あ、準備整いましたか?」
販売部の扉が少し空き、鮫島が顔を出した。
「エエ。何とか終わりましたよ」
忌々しそうに藤堂は吐き捨てる。
「ならよかった。今、社長さんともお話していて、最大限の配慮を戴けるそうですよ、よかったじゃないですか」
鮫島が言う。おそらく退職金の話だろう。
「本当ならまともに勤め上げて、もらいたかったですけどね」
嫌味を込めて藤堂は言う。
「まあ、終わったんならさっそくご一緒しましょうか」
出てくるように言う鮫島。藤堂は、重い腰を上げて販売部の部屋を出る。
周りの視線が痛いほど刺さってくる。こんな形で会社を去るとは、まるで被疑者のような面持ちである。
それでも気丈に藤堂は振る舞った。最後までしんみりしたり、困惑した表情では、今までしてきたことに自信がないと思われるからだ。
大部屋を出る最後の扉。藤堂は、ひときわ大きな声で
「ありがとうございましたっ!」
と言った。その声にかなりの拍手が浴びせられる。深々と一礼して、藤堂は鮫島と一緒に社屋を出て行く。
鮫島と、監視役の二人が乗っている黒塗りの車両の中の人に、藤堂はなっている。
「いやあ、それにしても見事な退社劇。感服いたしました」
後部座席で並んで座っている鮫島と藤堂。鮫島は、そんな言葉で藤堂をほめる。
「それで、これから一体俺はどうなるんです?」
不機嫌なままの藤堂は、核心に迫ろうとする。
「あれ? 話、聞いてなかったんですか?」
とぼけたような口調で言う鮫島。
「あんな話、心ここにあらずな俺が聞けるわけないでしょうが」
藤堂は、流されるままだったそれまでを変えようと思っていた。
「まあ、繰り返しになりますけど、要するに藤堂さんには、特別公務員になっていただくってことですよ」
再びの説明に少し嫌気を感じながら、鮫島は話す。
「なんですか、その、特別公務員ってのは?」
聞いたことのない文言に藤堂は聞く。
「こんな感じなんですよ」
鮫島は、タブレットで「特別職」のWIKIPEDIAを藤堂に見せる。
「国家公務員の中でも特別な存在。一番上は内閣総理大臣ですけど、その次が国務大臣。あとずぅっと来て、藤堂さんはこのあたり」
鮫島が指さしたのは、給与額が913000円の枠のところだった。
「と言いたいところですけど、今回特例法が施行されて、政府系の放送に従事するものは役職に応じて別途設定されることになったんですよ」
「へえ。ここまで高給じゃないんだ」
藤堂が少し顔をしかめる。
「むしろその逆ですよ。藤堂さんの貢献度が高いので、年収1500万をベースに考えてますよ」
それには少し藤堂が飛び上がった。今の給与でも別段不服はなかったのだが、一気に年収が3倍近くに増える。
「ただし、デメリットもあるんです。今までのように自分の言葉ではしゃべられなくなります」
鮫島は少し影をまとってそういった。
「え?もしかして台本通りでないといけないってですか?」
高給と同時に失う矜持。プロパガンダの片棒を担ぐことになるのでは。藤堂の想いはさらに混迷を深める。
「政府の方針です。要するにメディアが使えるってわかったから、このラジオをプロパガンダに利用しようと思い立ったわけです」
鮫島の状況説明は藤堂にとっては想定内だった。
「まあ、それはわかるけど……それって逆効果になりませんか?」
メディアの世論操縦は、昔ほどでないにしてもやり玉にあがる事項でもある。藤堂は、今の自分の言葉の発信でも民衆が動いたのに、堂々と国が動いて大丈夫なのか、と思っていた。
「まあ、そこのところはご心配なく。ただ……」
渋る鮫島に藤堂は畳みかける。
「ただ?その後が聞きたいですね」
「今までのようには行かなくなりますよ。前だって、危害が加えられそうな一歩手前まで来たことを忘れたわけではないでしょうに」
真剣に語る鮫島の言葉に、数か月前の電車の中の出来事が思い浮かぶ。
ヒットマンと思しき連中に付けられた藤堂を、鮫島と二人で機転を利かせて救出したあの駅での立ち回り。その後はぱたりと暗殺者の影は見えなくなったが、それもこれも、人気DJとして一定の認知度も上がっていたから、ケガなり死亡でもしたら、マスコミにあることないこと書かれるのが目に見えていたからでもある。その裏には、鮫島たちのフォローがあることは薄々藤堂も感じていた。
「そう言えば、そうでしたね」
舌の根がからからに乾いている。藤堂は、あの時の恐怖感をいまさらながら思い出したからである。
「これからどうすればいいんですか?」
藤堂は鮫島に聞く。
「まあ、一人での外出は控えていただきたいですし、何だったら、スタジオに住み込んでもらいたいくらい。今あなたをはじめ、憂国系のDJに何かあったら、それこそ他のマスコミの思うつぼ。相手方にしたって、追い詰められていますから、何をしでかすかわからないですしね」
「要するに、私一人の体ではなくなったってことですかね」
鮫島の説明に戦慄する藤堂であったが、この放送に加担した時点でこうなるかも、と考えていた部分があったこともあって、いざその現実が見えてくると、むしろ決意は固まっていった。
「まあ、そういうことです。ご不便をおかけします」
鮫島が頭を下げる。
「その代わり、私を護ってくださいよ、ここまで命かけて放送するんですから」
藤堂も相手の決意をさらに引き出そうとする。
「お任せください。ご自宅に戻ったら、それがはっきりとわかりますから」
車は、片田舎の藤堂の自宅近くまで来ていた。
藤堂は、車窓に目をやる。すると、真新しい監視カメラが、駅から電柱2本ごとに、藤堂の通勤ルートに沿って設置されているのをはっきりと確認した。
「あ、これって……」
あまりに目立つ筐体のカメラにむしろ違和感しか感じられない。
「そうです。これだけあれば、いくら犯人でも襲おうとはしないはずですしね」
それでも顔を覆い隠してしまえば、画像を解析されることは難しくなる。
「でも敵もさるもの、ですよ」
藤堂はいう。
「ああ、二の手、三の手は打ってありますよ」
そう言うと、車は藤堂の家の前に横付けした。
降りてあたりを見回した藤堂は、白いワンボックスがこちらを凝視しているのを確認した。それも2台。
「あれって?」
「あれが二の手です。うちの監視部隊を24時間張り付かせてます」
「ほっほう」
そして鍵を開けて中に入ると、なんと屈強な男性がすでにうちの中に入っている。
「うわっ、なんなんですか、これ?」
「ああ、言うの忘れてました。ボディーガードをお付けしているんでした」
「じゃあ、それが三の手?」
藤堂が念を押す。
「まあ、そういうことです」
したり顔で鮫島はいう。
「なるほど。分かりました。まあここまでしていただけるんでしたら、私も心置きなく放送できますわ」
藤堂は、万全の守りに胸をなでおろす。が、それはあまりにできすぎているようにも感じてきていた。一介の発言者をどうしてここまで守らなくてはならないのか?
「でも、これって、税金、ですよね?」
納税者としての義務からか、藤堂は素朴な疑問を投げかける。
「そうですよ。でも、ここまでしてあなたやほかのDJたちを護る理由がもうすぐしたらわかりますよ」
鮫島は、含みを持たせつつそう言った。”もうすぐしたら”。その意味を藤堂は数日後に知ることになる。
強制退職から三日後。
藤堂は、自宅でほぼいつも通りのDJをこなしていた。唯一変わったことといえば、事前にしゃべる内容は打ち合わせをしたうえで決めていたということである。台本通りでは、視聴者から喝破されるし、本心から出た言葉ではないのだから、伝わりも弱いはず。そう信じていた藤堂は、本筋から外れなければ自分の言葉でしゃべってもいいという確約を得てずっとこなしてきていたのだった。
「今日も一日、お疲れさまでした」
フロアディレクターと、放送上の肩書で呼ばれている小清水が声を掛ける。彼ももちろん、政府の中の人である。
「あ、はい」
憲法改正の利点を今日は力説した藤堂は、それでも"言わされている"という感覚をぬぐえない放送を続けていた。
「あ、そうだ、藤堂さん」
小清水がスタジオである自室から出ていこうとする藤堂に声を掛ける。
「今日の夜のニュースは必見ですよ」
にやけ顔で藤堂に言う。
「ああ、そうなんですか……」
自分がニュースを作っているという手前、普通のニュース番組を見ることはなくなっていた。
「もうそろそろですから、一度見てくださいよ。きっと腰を抜かしますよ」
相当詳しい中身まで知っていそうな小清水の誘いに、
「ああ、それもそうですね」
と言いつつ、リビングのテレビの前に藤堂は陣取る。
7時になった。
公共放送のニュースが流されている。
「本日のトップニュースです。
政府は、現在の民放放送の在り方や、公共放送の正確性などを論議する諮問会議を設立すると同時に、現在の放送業に関わる免許の一時取り消しや廃業を促す、いわゆる”メディア法制”の強化に乗り出すことを発表しました。これまでの放送や報道に関わる恣意的な選択や優先順位を見直すと同時に、一方的な糾弾や世論誘導などに関わる報道をしたものには強力な罰則を与えることを骨子としています。具体的には、・SNSを不特定多数に伝えるメディアと認定したうえで、そこでのデマ・誹謗中傷・事実無根の発言をしたものに今まで以上の罰則を与える ・放送免許を与えられている民放の場合、一方的な視点での論調を排し、両論併記としない番組や、他国や特定の外資系企業に配慮した報道を繰り返した場合には、免許の停止・停波、免許のはく奪や巨額の賠償金、最終的には廃業までできる法整備を行う というものです。公共放送もこの範疇に入るとされ、特にニュース報道については、世間で話題になっている事象については必ず周知徹底するように配慮するなどの方向が示されています。
今回の政府方針を受けて、一部メディアは大きく反発していますが、正しいことを正しく知りたい保守層や昨今の偏向報道に嫌気を差している一般層には支持されるものとして、政府与党は今国会の重要法案として成立を急ぐ考えです……」
「ふーん、ようやく政府さんも重い腰を上げたかぁ」
藤堂は、テレビのスイッチを切りながらそう言う。
「いや、これって我々の成果ですよ」
小清水が力説する。
「ええ?ほんとにぃ?」
藤堂は冗談だと思ってまともに取り合わない。
「ええ。間違いありません。これはDJ皆さんの意識の高さの勝利ですよ」
ガッツポーズまでして、小清水は強調する。
「だったら、いいんですけどね……」
それまでは是々非々でやってきた藤堂は、今や政府の代弁機関のような立場になり下がっている。そしてとうとう、メディアが政府に盲従するような法律ができる。これは政府にとって負の偏向が、正の偏向に変わるだけで、偏向報道であることには変わりない。藤堂は、国全体が危うい方向に向かってしまうのではないか、と危惧するようになっていく。
藤堂が専属DJになって3年が過ぎた。その間に世間は大きく変わった。
すべてのメディアの報道姿勢が完全に政府寄りになり、一部の動画がこの状況に警鐘を鳴らしている程度の状況にまできれいに塗り替わったのだった。
藤堂自身も、収入と今の生活に満足してしまい、政府の姿勢を舌鋒鋭く批判することなど全くなくなってしまった。政府擁護のベッタリ姿勢が鼻につくようになり、独り言でやっていたころとはキレも論調も生ぬるく感じられていた。
しかし、藤堂自身は、それでいいとは思っていなかった。そもそも、台本ありきでやっているDJまがいであり、今や特別正しいことを言っているわけでもなくなっているからだ。
常に正しいことに真っすぐだった藤堂。遂にある日、この政府の方針に反旗を翻した。
生放送の番組コーナーに、政府批判を紛れ込ませたのだった。そう簡単には見破れないように誇張したつもりだったのだが、放送終了後、鮫島が藤堂の家に数名の捜査員を連れてどかどかと入ってきた。
「おや、これは鮫島さん。どうしたんですか?血相変えて……」
薄々感づいている藤堂は、鮫島のただならない雰囲気に”殺られる”ととっさに思った。
「いやあ、藤堂さん、さっきのあれは、いけませんなぁ」
殺気を覆い隠そうともしないで、鮫島が藤堂に詰め寄る。
「そうですか?僕はそうは思いませんけどね」
直接的に言及したわけではないから、モノは取りよう・考えようという方針で鮫島を説得しようと試みる。
「いや、少しでも疑念を持たれると、それが際限なくループするんでね、不確実なしゃべりはしてほしくないんですよ」
鮫島は今にも拳銃を手に持ちそうな勢いになっている。
「だったら、私をどうするつもりなんですか?」
藤堂は、いよいよ鮫島に答えを出させる。
「これが相当なんですけどね」
鮫島は、藤堂に歩み寄ると、その額に拳銃を突きつけた。鮫島に同行していた捜査員と思しき面々も等しく銃を構えている。
「とはいえ、人目もある。藤堂さんの御子息だって、父親の血に染まった家には住みたくないでしょう」
少し表情を緩めた鮫島は、別の捜査員に目配せする。
指示された捜査員は、拳銃を手錠に持ち替え、藤堂の手首にガチャリと嵌める。
「特別公務員服務規程違反で、逮捕状を執行する。午後4時25分!」
藤堂の番組放送終了から逮捕状が出るまで、ほんの数時間。タイミングを狙っていたとしか考えられない素早さだった。
「ぼくのDJ稼業もこれで終わりですか?」
藤堂は、恨めしそうに鮫島を見上げる。
「そりゃまあ、そうだろうね。命が取られなかっただけでもありがたく思わなきゃ」
あえて藤堂の方を向いて語ろうともせず、前をきっと向いたまま、鮫島はその問いに応える。
「まあ、これで一般人に戻れるのか……」
藤堂のつぶやきを肯定も否定もせず、鮫島は、車に乗せられて連行される藤堂を見送った。
「藤堂さん。あんたは深くかかわりすぎた。もう普通の生活には戻れないよ」
藤堂には聞こえないくらいの小さな声でそういって、少しやるせない表情を見せた鮫島は、めったに吸わないたばこを取り出し、ひと吸いした。
「どれ。ニュースでも見るか……」
主のいなくなった藤堂家のテレビを、鮫島はつける。
「……次のニュースです。
政府は、3年前に設立した政府系のラジオ局を、一定の成果が上げられた、として、数か月後をめどに廃局することが、関係者への取材で明らかになりました。一部番組担当者の暴走にも似た放送姿勢が問題視されていることも、廃局の動きに拍車をかけたものと思われます。総務省の複数の幹部が明らかにしたもので、廃局後は、従事者の一部は引き続き、公共放送に関われる優遇措置が取られるものの、大多数は特別公務員の職を解かれるものと思われます。
税金を使って運営してきた政府系ラジオ局は、政府の指針や方針、取り組むべき課題などを論議する場所として一定の成果は上げられましたが、正しく広報するメディアがほかに出てきたこともあり、役目は終わった、と判断した模様です。早ければ2か月後、遅くとも年内にはこのラジオ局の放送を終了し、清算するとしています」
鮫島の顔が少しゆがんだ。
10年後。
「いらっしゃいませ」
藤堂は、小さな洋品店を自宅最寄り駅近くに構えて、営業していた。
逮捕されて数週間。ラジオ局が廃局に至ることもあって、起訴はされたが、罪一等が減じられ、罰金刑で済んだ。
家を手放さなくてはならないほどの巨額の罰金ではなかったが、思い出深い実家は、子息に譲って、自分は借家住まいをしていた。
あの騒動から10数年たっても、藤堂の独り言癖は直っていない。それどころか、政府系アナウンサーから解放されたことで、改めて配信者としてデビューすることを選んだ藤堂は、いまやチャンネル登録者数数十万人の、立派なインフルエンサーに名乗りを上げている。
「人生、何が起こるかわからんもんだな」
動画を上げれば必ず万の単位で視聴され、ときたまほかの政治系YouTuberとのコラボ動画も撮影するなど、活躍の幅は、ますます大きくなっていった。
そういった収益が、今の洋品店の決して楽ではない経営を支えている。
「あ、久しぶり」
藤堂が店をやっているという、風のうわさを頼りにして、鮫島がやってきた。
「これはこれは。私を嵌めてくれた張本人が何の用ですかな?」
嫌味たっぷりに歓迎する藤堂。
「いや、それは、その……」
頭を掻きながら藤堂に歩み寄って、突然土下座する鮫島。
「あなたの人生に深い傷を負わせてしまって、申し訳ないっ!」
額を店の床のリノリウムにこすりつけている鮫島を冷ややかに見ていた藤堂。
「いや、過ぎたことですし、あなたに謝ってもらって、店が繁盛するならいくらでもやってほしいところですけど……」
困惑気味の藤堂がそういって、鮫島に歩み寄る。
「どうせここに来たってことは、あなたにも、それなりに動きがあったんでしょ?」
洞察深く鮫島に聞く藤堂。
「そうなんです。リストラに遭いまして……今、あの放送に関わった人たちのところに謝罪行脚している最中です」
鮫島は自分の立ち位置を解説する。
「まあ、人間、安住の地なんて、そうそう持てるものじゃないってことですよ」
藤堂も、鮫島も、政府に振り回された被害者だ。共通点を見出した藤堂は、早々と店じまいを始めた。
「え?まだ日も高いのに……どうしたんです?」
いぶかる鮫島を尻目に閉店作業が終わり、店先にはシャッターが下ろされた。
「まだ、一度もやってないじゃないですか。コレ」
奥の棚から一升瓶と湯飲み茶わん二つを持ってきながら、藤堂が言う。
「ああ、二人で飲み会、ですか」
鮫島の顔が明るくなる。
「僕は社交辞令が嫌いでね。ああ、ようやっと長年の約束が果たせるわ」
感慨深げに日本酒を二つの茶碗に注いだ藤堂は、
「人生万事塞翁が馬。生きてるだけで丸儲け。新しい鮫島さんの人生に、乾杯!」
そういって日本酒を飲み干した。
鮫島は、めったに見せない涙をこらえながら、冷たくはない日本酒の底から湧き上がる温かさに感じ入りながら同じく杯を乾かした。
その姿を見た藤堂は、うんうんうなづきながら、一人涙に暮れていた。それにつられて鮫島は男泣きした。
二人は、夜が更けるのも忘れて昔話に興じた。もう帰ることのない時間。それでも藤堂にとっても、鮫島にとっても、人生の一ページを振り返るいい機会になった。
宴もたけなわになり、二人してしたたかに飲んだ。
「せっかくだから、僕のチャンネルで、しゃべっていきません?」
藤堂がフランクに言う。
「え?いいんですか?」
鮫島は乗り気のようだ。
「まあ、うちのチャンネルは、逮捕されるようなことさえ言わなければなんでもOKなんで……」
ドヤ顔を鮫島に見せながら、藤堂は、放送のスタンバイを始めた。
「はい、皆さんこんばんわ、50代のおっちゃんの一刀両断チャンネル、本日も開催でございます。本日は珍しく、ゲストをお呼びしています……」
にこやかに、カメラの前で独り言をしゃべっている藤堂にとって、今が至福の時でもあった。
初号投稿から、実に2年以上。完成に近づけるまでにさらに数年。いつまでもダラダラ書く・未完でほおって置くのは性に合わないので、ここらで完結しようと思い立った次第です。
時、あたかも、「N○Kをぶっ壊す」なんて言うスローガンを掲げた政党ができたり、この文面の中でも言及している外国人に対する資本規制とか、メディアがおかしな方向に向かっていることを断罪するメディアは一つも出てきません。唯一の公共放送も、料金の高さや恣意的報道が止む気配を見せないなど、依然として改革の機運は高まったままです。
本当の意味の国営放送の設立が望まれるところですが、それは別の意味の偏向を生むのではないか、ということでこの作品を締めさせてもらってます。
長編に改定して4.4万字越え→4.7万字越え。まあまあな出来になったかな、とは思っています。一部盛り上がらなかった部分がある(関西行きのその後とか)ことは承知していますので、折りを見て完成に持っていきたいと思ってます。
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