2023-03-04 19:36:32 更新

概要

先日書きました、MEISTERの細部を継ぎ足した完全版となります。


前書き

「映画大好きポンポさん」の中の劇中劇である、「MEISTER」は、ポンポさんの原作と脚本が根底にあります。それを想起しつつ、当初考えていた分量にやや足りない内容で一本書かせてもらったわけですが、これはこれで不十分すぎる、ということで、今回、この一作目を起点にして、肉付けをしたというのが本作になります。

2022.8.15 完全版作成を企図。
2022.9.11 完全版の第一版完成。14,592字。
2023.3.4 誤字発見+表現の修正。14,620字。


1.序章

数千人は入る、巨大なシンフォニーホール。外壁にはでかでかと「名指揮者・ダルベール、復活!」「渾身の指揮術、ここに極まれり!」といった煽り文句も踊る、巨大なバナーが何本も風にたなびいている。

それらを横目に見ながら、観客たちは、ホールに吸い込まれていくのだが、その表情は一様に硬かった。

"今まで、どこで何してたんだろう?"

"復調した指揮を見られるのかな"

観客たちは、席に着きながら、口々に期待ではなく不安を述べたてる。

何しろ、ダルベールが表舞台から姿を消して、はや2年の歳月が流れていたからだ。しかも、演目は、その2年前に失敗に終わった、マタイ受難曲。その昔なら、キャンセル待ちすら一向に出ないプラチナチケットだったが、空席もちらほら確認できている。

"なんで、味噌のついたこの演目なんだろうか"

"そもそもまともに指揮棒、振れるのかな?"

そんな観客の不安や心配を一手に引き受けて、ダルベールが舞台袖から姿を現す。

確かな足取り、伸びた背筋、なにより確固とした意志を感じられる登場に、すぐさま、会場の空気が安ど感に包まれる。

"これなら、大丈夫だ"

ダルベールの一礼に、彼の指揮術を再び見られる高揚感で満たされた観客は、演奏が終わってもいないのにスタンディング・オベーションを彼に捧げる。

一分はしただろうか、深々とした礼を切り上げ、ダルベールは会場を見回す。まだ拍手は止まない。その音は、ダルベールに再び"帝王"という威厳を思い起こさせた。頃合いを見計らって、彼は、譜面台に少しだけ目をおとす。それが合図だった。

拍手は急速に収まり、観客も再び座り始めた。観客の聴く姿勢が整うまで、ダルベールは、静かに時を待った。

にこやかに譜面を手繰るダルベール。彼の両手がさっと上がる。カチャカチャと管楽器たちの準備する音。深呼吸を一つして、ダルベールは、堰を切るように指揮棒を振り下ろした―――。


2.かすかなほころび

世の中には名指揮者といわれる人物が大勢いる。カラヤン、サイモン・ラトル、佐渡裕。世界のオザワも忘れてはならない存在だ。

群雄割拠のオーケストラの指揮者の中でも、唯一無二の指揮術を操っていたダルベールは、いつしか"帝王"という二つ名をほしいままにしていた。

今日もその彼の指揮術の一端が開花する。観るものを魅了する、圧倒的な指揮棒さばき。だが、彼の研ぎ澄まされた聴覚は、瞬時に演奏者の違和感を感じ取る。もちろん気付いたからと言って、演奏を止めるわけにはいかない。少し苦虫を噛み潰した表情で演奏を終える。

演奏者同様、指揮者も汗だくである。ダルベールも、控室に入って身支度を整えるべく着替えている。そこに、プロモーターのコルトマンが入ってくる。

「やあダルベール。素晴らしい指揮だったよ!」

コルトマンとダルベールは旧知の仲。コルトマンのお膳立てがなければ、幾多のコンサートは開かれず、成功もしていなかっただろう。

「ああ、指揮は素晴らしかった。それは当然だ」

ダルベールは、賛辞で労をねぎらったコルトマンにそういう。だが次に放った言葉はコルトマンにとっては意外なものだった。

「次からは、カスみたいなフルートを捕まえてこないでくれ、コルトマン」

よほど腹に据えかねているのか、ダルベールは鏡に向かって吐き捨てるように言った。

「おいおい、彼女にいくらかかったと思っている?」

トップクラスの奏者を集めるのもプロモーターの仕事。いきなり否定から入ってきたダルベールに、コルトマンも口答えせざるを得ない。

「それは君の事情だ。舞台に立てば私が法律だ」

コルトマンの言い分に一切首肯することなくダルベールは問う。

「わかっているだろう、私は誰だ?」

鏡越しに映るダルベールの表情は、憤懣やるかたないと言ったところか。

「わかったよ帝王。……それより、今度の公演を成功させれば、世界規模で君の評価は不動のものとなるぞ」

コルトマンは、負のオーラを放っている、機嫌の悪そうなダルベールを怒らせまいと、ソファーに座りながら、別の話題を振る。

「今さら名誉を求めて何になる。私は私の道を行くだけだ」

袖のカフスボタンを留めながらダルベールは続けた。

「次の演目は、マタイ受難曲だ」

「え?アリアかぁ?」

自信たっぷりに語ったダルベールから、思いもよらない演目を聴かされて、コルトマンはあっけにとられる。

「何か異論が?」

コルトマンの意外な表情にダルベールも気がかりになってこう尋ねた。

「君が指揮すれば完璧なアリアが聴けるだろう。譜面通りにはね。ただ、アリアは感情を乗せることが大切だ」

釈迦に説法よろしく、コルトマンはその提案の危険性を告げる。

「さすがは長年付き合っただけのことはある。感情を乗せる指揮は私には不向き、というわけか」

もはや血を分けた兄弟か、というくらいお互いを知り尽くしているコルトマンの分析にダルベールは脱帽する。

ただコルトマンの指摘もあながち間違ってはいない。譜面通り……一切のアドリブや変調を認めないきっちりした無機質な合奏だ、と評価する評論家もそれなりに居る。

「だから私にはできないと?」

そう言いつつ、コルトマンの正面に座ったダルベールは、

「もう一度聞こう、私は誰だ?」

と、コルトマンを威圧し押しつぶさんばかりの口調と迫力で彼をねじ伏せた。

その勢いに気圧されるように、

「わ、分かったよ、ダルベール。さっそく準備に取り掛かるよ」

と言いつつ、コルトマンは、ほうほうの体で控室を脱出した。


部屋を出て、コルトマンは、ため息を一つはいた。

若かりし頃、ダルベールの非凡な才能を見出したのは、コルトマンだった。ただ、彼は、ダルベールを甘やかし過ぎた。

気に入らないと、コンプライアンス何するものぞ、帝王の威厳をそのまま舞台に、練習場に持ち込んでしまう。勢い、傲岸不遜な態度で振る舞う。コルトマンに対する要求はエスカレートし、演者の交代/入れ替えは日常茶飯事。日程や公演場所の変更といった無理難題も数えきれない。それでも、コルトマンは、ダルベールの下僕よろしく、彼の意のままに公演の維持を図ってきた。

だが、さすがに今回の言い草にはコルトマンも腹に据えかねるものを持っていた。何しろ、ダルベールが一刀両断したフルート奏者は、コルトマンが三拝九拝して連れてきた超一流。彼女が、ダルベールのお眼鏡にかなっていないはずはなく、むしろ対等。

"もしかして、自分よりレベルが高い演奏をされて、やっかんでいるのか……?"

疑い出したらキリがないことに気が付いたコルトマンは、ダルベールの真意を探るのを止めた。

"いずれ痛い目を見ることになるぞ……"

コルトマンは、危惧しながらも、次回公演の段取りを組み始めた。


3.瓦解

なぜ、ダルベールは、次の演目に、マタイ受難曲を選んだのか?

興行界はこの"謎"に迫ろうと躍起になっていた。

何しろ、マタイ受難曲は、全編をやるとなると、実に2時間越えの大作だからだ。ダルベールの体力の問題、準備が整うとは思えない公演までの猶予期間、いいパフォーマンスの出せる環境。この作品には一筋縄ではいかない困難が目白押しだった。それにダルベールは、気づきつつも、今まで同様何とかなる、と楽観的だった。

コルトマンの尽力で、今回も素晴らしいメンバーが集合した。だが、彼らが自分の中での最高のパフォーマンスを披露したとしても、ダルベールは決して首を縦には振らない。それどころか、

「譜面をちゃんと読んでいるのか?もう一度、はじめからだ!」

自尊心の高さがそうさせるのか、思い通りにならない苛立ちが具現化するのか。いずれ劣らぬ一流の奏者に楽譜を投げつけるパワハラまがいの光景は、公演日が近づくにつれてその頻度を増していく。言い争いも、喧嘩寸前のつかみあいも、一度や二度ではない。

音楽に真摯過ぎ、それしか生きがいの無いダルベールは、この公演を成功させることに集中するあまり、周りが見えなくなってしまっていた。

そしてついに、ダルベールは匙を投げる。

「ダメなんだ、アイツらじゃ」

コルトマンに窮状を訴えるダルベールだが、それはコルトマンを困惑させるだけだった。

「気でも狂ったか、ダルベール?公演は二週間後だぞ。奏者全員を入れ替えるなど、無茶だ!」

寄せ集めの楽団が、一枚岩に固まるまでに必要な時間は、思っている以上にかかる。入れ替えればまた一から振り出し、だが、今のままで行ったところで、惨状は目に見えている。長年の付き合いで、今までさんざんしりぬぐいをしてきたコルトマンも、遂に堪忍袋の緒が切れた。

「私は降りるよ、ダルベール。せいぜい恥をかくといい」

孤立無援となったダルベールは、それでも公演だけは何とかこなそうとする。だが、まとまりを欠く楽団が、珠玉の演奏を披露することは決してなかった。

"帝王、失墜" "無様なパフォーマンス" "まとめられない指揮者は不要" "リハーサル不足は歴然"

新聞は、こぞって、かつて"帝王"とまで言われた男の凋落ぶりを半ば嘲笑を込めて書き立てた。当然の結果は、余計にダルベールをいらだたせた。

続く公演は、奏者そのものが揃わない異例の事態を迎え、途中で打ち切りとなった。本来なら多大な違約金がダルベールにのしかかるところだが、コルトマンが大半を肩代わりすることで損害は最小限に食い止められた。

音楽を演じる場を奪われたダルベールは、酒におぼれ、ほぼすべてを失いかけていた。


公演のあとしまつも終わったある日、コルトマンは、ダルベールの部屋を訪れた。

「不用心だな、ダルベール。鍵もかけないなんて……」

部屋に入ってきたコルトマンは、グランドピアノの前の椅子に腰かける。

その言葉に、虚ろに顔を上げるダルベール。帝王の威厳はどこにもなく、完全に生気を失っていた。部屋は荒れ放題。ワインのボトルは十数本転がり、部屋を彩っていた観葉植物は、あわれ、水も与えられず無様な枯れ様だった。癇癪を起したのだろうか、新聞の切れ端は散乱し、食べかけの食品が腐臭をまき散らしていた。

息をするのも難しい空間の中で、コルトマンは、続けた。

「君とは長い付き合いだ。私だって責任を感じている」

彼は、グランドピアノの上の写真立てに目をやる。そこには、ダルベールと、その妻マリナ、そして一人娘のライラが写っている。

「もう何年になるかな、君の奥さんが娘を連れて出ていったのは……」

家族同然の付き合いをしているコルトマンだから、ダルベールの家庭についても知らないことは何一つない。

「……なぜ今その話を?」

ダルベールは、消え入りそうな声でコルトマンに聞く。

「休養が必要だと思ってな。少し自分を見つめ直してみたらどうだ」

コルトマンは、スイス・チューリヒ行きの航空券をピアノの上に置いた。

「私から音楽を奪ってしまったら、何も残らんじゃないか……」

天井を見上げてダルベールは嘆息する。


4.安息

二日後。

ダルベールの姿は国際空港にあった。手には古びたスーツケースが一つだけ。行き先は、スイス・チューリヒだ。

「ああ、ダルベールさん、遠征なさるんですか?」

ビザが商業用ではないことに入出国管理官は目ざとく指摘する。

「いや、ちょっと旅行したくなってね……」

有名人の性、とでも言うべきか、痛くない腹を探られて、ダルベールは少しむっとした表情を見せる。

ふぅん、というような顔つきで、管理官はパスポートにドンッ!と印鑑を押した。

"旅行したからって、どうだというんだ……"

ダルベールは、スイス行きの飛行機……もちろんファーストクラスだ……に席をうずめても、まったく感情を動かさなかった。行かない選択肢もあったはずだが、チケットを破り捨てなかったのは、コルトマンの温情には報いたかったからだ。

チューリヒ空港に降り立ったダルベールは、行くあてもなく、スイス国内をさまよった。気分転換で訪れている、風光明媚なスイスであるのに、彼の目には、全てが灰色に見えていた。

何よりも、逗留期間中に、ダルベールはあることを知ることになる。それは、ダルベールであることをほぼ指摘されたことがないことだ。

ベルンに泊まっても、ジュネーブで街を歩いていても、帝王とまであだ名されているはずの彼が、周りから好奇の目で見られることはほとんどなかった。せいぜい、宿帳に記名したときに、クロークが驚くくらいで、特別扱いも、サインを求められることも、一緒に写真に納まることも一切なかった。

そしてダルベールは悟る。"自分はもはや時代遅れで、用なしなのだ"と。有名人で、一時期はメディアが取り上げない日はなかったダルベールの世界的な地位は、ここ数カ月で、見事なまでの没落ぶりを本人に見せつけたのだ。

それでも、町からでも見える荘厳な山並みに澄んだ空気、何よりゆったりとした時間が、ぎすぎすしていたダルベールの心情を少しは和らげていった。

そんなダルベールの、スイスでの逗留生活も、終わりを迎えようとしていた。

"あの高みのむこうには、何があるんだろうか……"

泰然とそびえるアルプスの山々。動じない胆力というものをひしひしとダルベールは感じ取る。

いつの間にか、ダルベールの足は、自然と、アルプスのふもとに向かっていった。

電車を乗り継ぎ、着いたのは、ちいさな宿場町だった。

宿など予約しないで、ダルベールは田舎道を少し前かがみになりながら歩いていく。今自分の目の前には雄大な景色が広がっているはずなのに、それに対峙することができないでいる。

"このオレが、帝王のオレが、この景色に気圧されている?!"

足元しか目に入らないダルベールは、それでも、歩みを止めて、風景と一体化することを拒んだ。

その老人の歩く姿を一人の少女--地元ではそれなりに歌の上手いリリー--が、みつめていた。


5.リリー

何の予約も取らずに訪れた宿場町ではあったが、たたずまいが気に入ったこともあって、ダルベールは、ここに逗留しようと思い立つ。

だが、なかなかダルベールのお眼鏡にかなう宿は見つからない。結局、彼は、町で一番大きい、老夫婦が営むコテージ風の山荘に宿を求めた。

「いらっしゃい」

声をかけたのは、老夫婦にとっては孫娘のリリーだった。

"あ、さっきの人だ……"

リリーは心の中でつぶやいた。

「部屋を所望したいんだが……」

ダルベールは、そう言って、空き部屋の有無を確認する。

「ええ。空いてますよ。おすすめは、最上階の……」

リリーが言い終わらないうちに、

「では、その部屋を頼む」

ダルベールは事務的にそう言った。

「え……ハイ、わかりました」

宿帳を差し出しながら、リリーは"変わった人だな”と一人密かに思った。

「ここには観光で?」

リリーは、いつものセールストークで、客人の心をほぐそうとする。

「いや、何がしたい、というわけではないんだ」

自発的に訪れたスイスではないから、こういう答えがダルベールの口から出るのも当然だった。

ただ、この回答にリリーは目を輝かせる。

「だったら、ここで、いろいろなことをして、楽しみましょう!」

受付の机から、飛びださんばかりに、リリーはダルベールに話しかける。

「いろいろなこと?」

ただ、宿に泊まって、ぼぉっと一日を過ごす。それしか目的の無いダルベールはリリーの提案を聞く気になる。

「山歩きとか、ピクニックとか。魚釣りも楽しいですよ!!」

リリーは、ごく当たり前のアクティビティを列挙する。だが、ダルベールは、眉一つ動かさない。

「え?山歩きも、魚釣りも、したことないの?」

年を取っているからそれなりに経験していると思っていたリリーは、虚を突かれる。

「それが音楽に何の足しになる?」

ダルベールは、こんな片田舎で、子どもの遊び同然の"演目"を演じることは考えになかった。

リリーは、このダルベールの片意地な態度に、少し機嫌を損ねたのだった。


逗留二日目。

ダルベールは、リリーに言われた、山歩き、というものを初めて体験する。

とはいっても、それらしい装備を持っていないダルベールにとって、革靴での山道踏破は、一種の苦行でもあった。

そろそろ宿に戻ろうか、という頃になって、急に天候が怪しくなる。アルプス特有のガスがあたりを覆い始めたのだ。

宿に向かうべき道を外れたダルベールは、気が付くと、放牧されたヤギの群れに不用意に近づきすぎていた。

右を向いても、左を見ても、ヤギの息遣いと、メーメーとなく泣き声しか存在しない。

ダルベールにしてみれば、家畜と言っても、動物とほぼ触れ合ったことがないから、ただただ恐怖におののくしかなかった。

ヤギがダルベールとの距離を詰めてくる。ヤギの群れとはじめて対峙したダルベールは、その場から動けなくなってしまう。

そこへ、小さな手が差し伸べられた。

「大丈夫、怖くないよ」

ガスの発生で、方向感覚を失うと予見できたリリーが、ダルベールを迎えに来ていたのだった。

ダルベールは、安堵の表情を浮かべた。彼女の機転、触れたぬくもり。忘れかけていた感情が一つまた一つと花を咲かせるようにダルベールの心に取りついた。

「さ、こっち」

リリーの先導でダルベールは、無事に宿にたどり着けた。この日を境に、ダルベールは、リリーと親交を深めていった。


宿にはそれほど客が来るわけでもなかったので、リリーは、ダルベールの専属コンシェルジュみたいな立ち位置を満喫していた。

ダルベールも、リリーの素朴な考え方、何者にも染まっていない純粋さにどんどん惹かれていく。

そう、若かりし頃の家庭を持っていた過去を思い出させるくらいには……


6.過去

ダルベールの人生の大半は音楽とともにあった。

幼少期に、勉強熱心な母親に、ピアノのレッスンをつけてもらって以降、ダルベールは音楽のとりこになっていく。

地元の音楽学校は首席で卒業。俄然、ダルベールの名前は業界にとどろく。著名な交響楽団からオファーが来ればそれに応え、大きな成果をもたらした。類まれな演奏術は、ピアニスト・ダルベールの名声を不動のものにした。

そんなある日のこと。

「なあ、お前、指揮者、やってみないか?」

ダルベールのマネージャー的な付き合いをしていたコルトマンが、彼の楽団を持たせようと画策したのは、20年ほど前のことだ。

「え?オレが指揮者だって?」

ダルベールの脳裏に当時のことが思い出された。


「ただのピアニストで終わるつもりか?よくよく考えてみろ。年を取ったら、演奏なんてまともにできなくなるんだぞ。80歳のピアニストなんて、見たことないだろ?」

若さが武器、であり、人気絶頂であるダルベールは、第二の人生について全く考えていなかった。だが、コルトマンに言われてみて、ダルベールにも思い当たる節があった。ベテラン、といわれる人は、知らず知らずのうちに表舞台から姿を消していることに。

「その点、指揮者は、年を取っても第一線だ。年齢が円熟味を増すからいい音楽が奏でられるんじゃないか。世界のオザワだって、あと何年現役なんだろうな」

立ちっぱなしで指揮棒を振っているだけ、と思われがちだが、指揮者の出来不出来が演奏の趨勢を形作っていることはダルベールほどの音楽家なら一瞬で理解できる。

「いや、それでも、俺にはピアノしかないから……」

ピアノを弾く手が指揮棒を振る手に変わる。たったそれだけのことだが、ダルベールの意固地で、凝り固まった考え方は今に始まったことではない。

それでもコルトマンは、ダルベールの前に新聞の切り抜きを差し出した。

「これを見ても、そう思うんなら、ピアノと心中すればいい。俺はお前の才能にかけているんだよ」

コルトマンが取りだしたのは、新興の交響楽団が、急逝したメインコンダクターの代役を内外に募集している記事だった。

「お前なら、できるって」

コルトマンの一押しで、ダルベールは、指揮者の道を歩み出したのだった。


妻・マリナと知り合ったのもちょうどこのころだ。

指揮者も板についてきたころに、とある劇場で、「ファンなんです」と名乗りを上げて、楽屋まで突進してきたのがマリナだった。その積極性も手伝って、ダルベールとは親密な交際に発展、半年後にゴールインした。

だが、恋愛と家族生活は、当然のように異なってくる。マリナは、音楽しか興味の無いダルベールの本質に、日を追うごとに気が付いていく。それでも一粒種を宿して、それなりに楽しい三人の生活が始まる予感に満ちていた……はずだった。

しかし、若き気鋭の指揮者は多忙を極める。あるときは欧州に、あるときは東アジアに。世界を股にかける活躍は、勢い家族との関係性を日に日に薄らがせてしまう。

そんな関係に嫌気がさしたのか、マリナが、一人娘・ライラを連れて、家を飛びだしたのだ。

ダルベールは、二人に付いた弁護士から、養育費の支払いと居場所の詮索をしないようにと告げられ、渋々許諾した。

そんな生活が1年続いたある日、意を決して、ダルベールの元に訪れたマリナは、一通の書面を携えていた。

右下には、マリナのサイン。離婚届だった。

「あなた、これにサインしてちょうだい」

マリナの抑揚のない口調にダルベールも怖気づく。

「おい、待ってくれよ。なにもここまでしなくったって……」

マリナの攻撃にダルベールは防戦一方だった。

"養育費だって払っている。籍を抜く必要がどこにある?"

形勢を変えようと、ダルベールは、愛娘の話題を切り出す。

「……ライラは幾つになった……?」

だが、振り切っているマリナに懐柔策は通じない。

「あなたに会わせる気はないわ」

最後の接点をも否定されて、ダルベールは天を仰ぐ。

「バカげてるよ、こんなこと……」

家族といえない数年間を過ごしたことはダルベールもわかっている。だからと言って縁まで切ることはやりすぎではないか……

ダルベールが困惑しているさなかに、止めのようにマリナは言う。

「なら今選んでちょうだい。私たちか、音楽か」

マリナは、ダルベールをにらむように見つめる。だが、ダルベールは、気圧されるように目を背けてしまう。

「……それがあなたの答えよ」

無言のダルベールに、吐き捨てるようにマリナは言い放つ。会話は無用とばかりに、マリナは座っていた椅子から立ち上がって、部屋から去ろうとする。

「……私に音楽をあきらめろと?」

せめてもの抵抗をダルベールは見せる。

「あなたは私たちを見ていなかった……両方はないのよ、ダルベール」

カバンを肩にかけ直して、部屋を出ていく直前、マリナは言う。

「最後に一つだけ。あなたの音楽は確かに素晴らしい。だけど、いつか弾いてくれたアリア、あれだけは最低の出来だったわ」

そう言い終わると、マリナは部屋から立ち去っていった。

夕暮れがあたりを支配し始める。そばにあったピアノを弾き始めるダルベール。その音色からは、怨念とも悔悟の念とも取れない、幾多の負の感情が巻き起こり、ダルベールを暗黒の淵へといざなっていった。


7.本心

逗留三日目。

「おはようございます」

ナタリーは、ダルベールのための朝食の準備をしていた。起きて、食堂に降りてきたダルベールに朝の挨拶をしたのだった。

「おお、おはよう」

少し照れながら、ダルベールは応じた。

「昨日は、よく眠れましたか?」

コーヒーをサーブしながら、リリーは、ダルベールに聞く。

「ああ、昨日みたいなヒヤヒヤドキドキは久しぶりだったからね」

童心に帰ったようにダルベールは笑みをたたえて答えた。

「それはよかったです。今日は、夜になる前に、湖に出かけましょう」

リリーは提案する。

「何をするんだい?」

興味津々な様子でダルベールは聞く。

「魚釣り。このあたりの魚って、夜行性だから、夜でないとうまくかかってくれないの」

リリーはそう解説する。

音楽家にとって、指先は身体の中で最も大切にしなくてはならない部位である。指揮者だから全ての指を守らなくてもいいが、ピアノや弦楽器奏者なら、針や魚の鋭い歯に直接触れる釣りは、ケガをしてしまうリスクを考えると取り組みたくない趣味の一つである。今のダルベールは、引退同然。釣りをして指を怪我しても誰も咎めるものはいない。

その日の夕方。早めの食事を終えたダルベールとリリーは、あたりが暗くなり始めた6時前に宿を出る。

リリーに気を許していることもあって、ダルベールは、これまでの軌跡をリリーに語って聞かせた。

昔はプロのピアニストとして名をはせていたこと、指揮者としての駆け出し時代、そしてちょっと前まで"帝王"とあだ名されていた黄金期の功績の数々。年寄りの自慢話に辟易していても不思議ではなかったが、リリーは、"別世界の人の話って、面白い"と、食いつくように聞き入っていた。

邪魔が入らなかったこともあって、ダルベールのボルテージはますます上がっていく。

「私は帝王と呼ばれてきた。全てを音楽にささげてきた!」

そう言い切ったダルベールだったが、リリーの一言がずしんと心に響いた。

「誰のために?」

彼女にしてみれば何気ない発言だったのかもしれない。だが、ダルベールには、その一言に簡単な答えすら用意できなかった。


ダルベールは困惑した。そしてリリーの言葉がいつまでたっても脳から離れていかない。

「誰のために?」

誰のために音楽を奏で続けていたのだろう?観客か、はたまたプロモーターか、ただのノルマのためだけか?

釣り糸を垂らしながら、ダルベールは自問自答する。

虫の鳴き声しか聞こえない静寂の中に身を置いてでさえ、ダルベールの心はざわついていた。

「あ、引いてますよ」

リリーの声に、ダルベールは現実に引き戻された。

「お、おお、これは、かなり、で、デカいぞ!!」

バレないように慎重に糸を手繰り寄せつつ、相手が弱ってきたところで一気に引き上げた。

体長40センチはあろうかという魚が釣りあがる。

「こ、これはなんていう……」

とダルベールがリリーに聞こうとした刹那、魚が最後の抵抗を見せて、身体をしならせる。

とたんに飛沫が上がり、相当な水滴がダルベールを襲う。予想だにしない攻撃にダルベールは声を上げて驚く。

リリーは、そんな子供みたいな反応をするダルベールを見て、ゲラゲラと笑っている。

「お、おい、君、ちょっとは私の身にもなってくれよ」

腹を抱えてまだ笑っているリリーにダルベールはそんな弱音を吐く。

「で、でも……おじさんって、本当は楽しい人なんだって、よくわかったから……アハハ……」

今まで誰にも見せたことのない、丸裸のダルベールを、リリーは目撃したのだった。


8.懇願

ダルベールは結局、リリーと一週間余りを過ごした。このわずかな期間で、ダルベールは、全てのことを理解した。

今まで自分が意固地だったのは、機械的な演奏を要求していたからだと気づいたのだ。

コルトマンも「譜面通りのアリアなら君にはできる」といっていた。忘れていたもの、足りなかったものに背を向けてただ"譜面通り”の音楽を演者に要求していただけだった。

"そこにすべて書いてあるだろう。もう一度初めからだ!"

一流の奏者に悪態をついたシーンが甦る。

「なんだ?譜面が間違っていて、お前が正しいと言いたいのか?」

ダルベールの詰問に、その奏者は、おののきつつ、こう反論する。

「……ただ、お聞きしたいことが……」

その後に告げられる決定的な一言をダルベールは予想していなかった。

「あなたにとって、アリアとは何ですか?」

本質をついた質問に、ダルベールは、答えに窮する。しかしそれでも、頑として、感情を伴わない、平板な演奏ばかりを要求した。

それが、アリアでの公演の大失態につながっていったのだ。

自分は正しい、帝王の威厳は絶対……それがなぜ崩壊したのか、今回のスイス行きで改めて感じたのだった。

ダルベールは、地元に戻ってくると、早速コルトマンに「会いたい」と言って呼び出した。

コルトマンは、待ち合わせのカフェで、すでに席について自分を待っているダルベールを見つける。

「久しぶりだな、ダルベール」

コルトマンは、憔悴しきっていると思っていたダルベールが、むしろ血色のいい顔いろになっていることに素早く感づく。

「話というのは、コルトマン」

彼が椅子に座るや否や、ダルベールはさっそく話を切り出す。

「俺の至らなさがようやくわかった。もう一度、俺に、アリアをやらせてはくれないだろうか」

想像もつかないダルベールの提案、いや、懇願、と言った方が近いか。生活資金に窮して自分を頼ってきたくらいにしか思わなかったコルトマンは思わず、

「は?」

という反応を示した。

「今までの不義理はなかったことになんかならない。それはわかっている。しかし、ここで終わってしまったら……」

ダルベールは、悔悟をにじませた口調でコルトマンに迫った。

「急に呼び出したと思ったら……気でも狂ったか、ダルベール?アリアをもう一度やりたいだと?」

あまりにバカげている提案に、出されたコーヒーに手を付けず、コルトマンは、代金をテーブルの上に置いて席を立った。

店から出ていこうとしたコルトマンに、ガタっという音が耳に入る。振り返ると、ダルベールが土下座をしている。店に居る客全員がことの趨勢を見守るべく、二人に視線をやっている。

「おい……勘弁してくれ、ダルベール」

頭を抱えつつ、コルトマンはその行為を冷ややかに見ていた。

「私は知らなかった……いや、忘れていたんだ。魚の匂いも、雨で滑ったときの痛みも、ヤギの泣き声も……」

「?何を言って……」

コルトマンは、ダルベールの口上の不可解さを口にする。

「大事なのは感情だ。記憶だったんだ。それをあの子は思い出させてくれた」

コルトマンは、スイスで何かあったな、と推察する。あの頑固なダルベールを大きく変える、何かが。

「今ならできる気がするんだ!」

土下座をしたまま、ダルベールはひときわ大きな声で叫ぶ。

「君はもう"終わった"んだ。なぜ諦めないんだ」

コルトマンは、冷静にダルベールに問いかける。

「……それでも……」

しぼりだすように、ダルべールは感情を吐きだす。

「私の音楽に、あの日のアリアが必要なんだ!」

コルトマンは確信する。希代の名指揮者が、感情を得たら、とてつもなく凄い公演が完成することを。

「今すぐYesとは私の口からは言えない。少し、預からせてもらえないか」

コルトマンはそう言って店から出ていく。

ペタンと、床にしゃがみ込んだダルベール。想いを伝えきった彼の頬に一筋、光るものがあった。


9.再演

ダルベールが指揮する、マタイ受難曲公演は、"帝王"が復活しているかどうかを見極めたいとする観客が一定数居たこともあり、満席には至らなかったものの、それなりの入れ込みで初日を迎えた。

その公演に、ダルベールは三人を招待した。一人はリリー、そして、マリナとライラ親子だ。

2時間以上に及ぶ演奏が始まった。

ダルベールが指揮棒を振り下ろす。そのファーストコンダクトで、大半の観客は息を飲む。

彼の指揮に柔らかさと、慈しみを感じられたからだ。以前の帝王という名をほしいままにしていたころなら、確実に堅苦しい、譜面通りの指揮にしかならなかったはずだ。ダルベールの指揮術は、新たなステージを得て、一層の進化を遂げたのだ、とファンならずとも理解できる。とげとげしい、個の音どうしがぶつかり合う演奏ではなく、麗しい交響曲--シンフォニー--が奏でられていた。

この演奏を目に焼き付けようと前のめりになるもの、あまりの出来に感動して滂沱の涙を流すもの、聞き入って自己陶酔しているもの。会場のボルテージは知らず知らずのうちに上がっていく。

独唱曲でもあるアリアの場面で、会場の雰囲気は最高潮に達する。それは、ダルベールが、あの時に感じた、音楽への情熱を取り戻した瞬間がそこに具現化したからだ。


リリーは、自分の名前の由来になったという、百合が一面に咲いている草原にダルベールを連れていく。

「きれいでしょ?私も、こんな人になりたいなぁって……」

と言いながら、彼女は、祖母から教わったマタイ受難曲の一節を口づさみはじめた。手には、数本の白ユリの花。

「リ、リリー?その曲……」

ダルベールは、驚きながらリリーに向かってこう叫ぶ。

リリーが振り返った刹那、一陣の風が吹く。乱れる髪を押さえながら、リリーは、風に舞う花びらの中で歩みを止めていた。


ダルベールは、このときの心情を今の指揮にぶつけたのだった。一陣の風と、舞う花びらが会場に居た人たちすべてに在りし日を思い出させる。

真っ先にその感情を受け止めたのがリリーだった。

「これが、あなたのアリア……」

知り合ってまだ半年経つか経たないか。一緒に過ごしたのも一週間足らずだ。正直ダルベールのすべてを知っているわけではない。でも、年端もいかないリリーであっても、ダルベールの想いはしっかりと受け止められた。

2階の関係者席で聞いているコルトマンも、その時、若かった頃を思い出していた。

「まったく、ダルベール、お前というやつは……」

居酒屋で将来について語り合ったあの日、意見が分かれて仲違え寸前にまで行った頃、二人して老いながら、それでも第一線で働き詰めの自分たち……。情熱に浮かされて過ごしてきた道程がありありとコルトマンの脳裏に浮かんだ。

「すべてを音楽に捧げたからこそ、か」

コルトマンが彼の生きざまを総括していた時。

「あ、指揮者の人、笑ってる?」

ライラが、ふと見せたダルベールの笑みに気が付く。

「見つけたのね、アリアを……」

マリナも少しだけ笑みを浮かべている。

「ママ……?」

恍惚とした表情のマリナにライラは声をかける。

”音楽の中に眠っている夢や思い出……あなたはそれを、聴くものすべてに呼び覚ますのね……孤独と引き換えに……もう聞くことのない、不器用で最低な、私たちだけのアリア……”

マリナの脳裏には、まだ家庭を捨てきれていないダルベールが、幼いライラを子供用のピアノであやしているシーンが浮かんできた。あの頃の私たちは、幸せだった。でも、それは、もうかなわない。

「不思議……」

ライラが呟く。

「なんだか、懐かしい感じがする……」

物心つく前に離婚し、母に育てられたライラは、目の前の指揮者が自分の父親であることは、マリナから明かされていなかった。それでも、聞くに堪えなかったダルベールのアリアであっても、懐かしんでくれている。マリナは、心底音楽に浸っている娘の表情に笑みを浮かべるのだった。

”ああ、これだ。思い出した”

指揮台のダルベールは、自分の幼少期の、母と奏でたピアノを思い出していた。純粋に音楽が好きだったころの自分。白ユリには、純血や威厳と言った花言葉がある。あの時、リリーが見せてくれた白ユリこそが、自分に音楽の素晴らしさ、いとおしさ、なにより「好き」を思い出させてくれたのだ。


演奏が終わる。

数秒の沈黙。

次の瞬間、会場に居た全員がスタンディング・オベーションを演奏者に、ダルベールに与えている。

1分、2分、3分……拍手はいつまでたっても鳴り止まなかった。

翌日の新聞の芸能欄には、賛辞しか書かれていない見出しが躍っていた。

”ダルベール、華々しい復活” ”満足度200%” ”今年一番泣ける演奏” "帝王の新たなる境地”……

ダルベールは、自分の新聞批評を満足げに読み終わると、スクッと立って、携帯に手を伸ばした。

「ああ、コルトマン。次の公演の演目だけどな……」

こうして、大絶賛の内にマタイ受難曲公演は幕を閉じた。

そして、人は、ダルベールのことをこう呼んだ。帝王ではなく、「匠<MEISTER>」と。


後書き

「別に、ファイル名変えなくても」というお声もあるでしょうが、今回あえて【完全版】と命名したのは、大きく加筆修正しているというところを強調したかったからです。
実際旧作と比べると2000字程度増量してます(12,304字)。無駄に感じられたりくどいと思える表現を削り、さらに追加しているわけです。別物とまで大仰に言うつもりはないですが、より細部にこだわって書いている部分もあります。
ここ最近、トレーナー業に時間を割かれてしまい、文筆活動が滞り気味ですが、もう少しけっばってみたいと考えてます。


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