アオヤマ meets おっこ 「春の屋研究ノート」
2018年を代表したアニメーション映画「ペンギン・ハイウェイ」と「若おかみは小学生!」のコラボ小説です。研究熱心なアオヤマに、おっこの周りの3人の謎は解けるのか?
2017年。
私を熱狂させたのは「きみの声をとどけたい」という一本の青春群像アニメーション映画でした。すでにこのサイトでも数本当方が書いて上梓させていただいております。
そして2018年。
夏から秋にかけての豊作ぶりに驚愕しつつも、その評価…興行が伸び悩んだ2作品…「ペンギン・ハイウェイ」と「若おかみは小学生!」の良さをどうにか伝えられないものか、と思いながら、Twitterのフォロワー氏から、「この二作品のコラボ小説なんかあったらいいな」的な提案を戴き、具現化したというのが今作になります。
世界観は、「若おかみ」側をメインに取り、アオヤマ一家が「春の屋」に泊まりに来る、二泊三日を描こうと画策。おっこに付きまとう三体に関してもアオヤマとエンカウントさせることで厚みを持たせようとしました。
2018.10.3 作成開始。
2018.10.7 13000字オーバーまで。
2018.10.11 二泊三日の最後の宿泊シーン(27000字強)に。この結果3万字オーバーはほぼ確実で当方の最多文字数記録更新。
2018.10.12 22:00 第一版 上梓・公開。字数記録更新(36,952字)
2018.10.13 誤字・文章表現訂正。第一版2刷 上梓(37,072字)
2018.10.14 シーンの解釈を映画に合わせたため一部修正(37,638字)。
2018.10.16 第一版4刷 上梓(37,822字)。
2018.10.19 大幅改定の第二版 上梓。
改定点 ペンギン・ハイウェイ 原作小説では「僕」は「ぼく」表記になっていたため、これをすべて修正。
さらに推敲し、一部加筆。38,662字
2018.11.29 小規模改善。38,832字
2018.12.6 小規模改善、ほぼ仕上がり。39,388字
2018.12.8 微修正を再度。39,448字
2019.6.9 第二版 修正完了。39,586字
2020.5.17 「若おかみ」Eテレ上映で二版修正漏れと設定の一部を変更。39,898字
2024.5.4 第二版の再修正。感嘆符の全角化、女将の表記ゆれなど。4万字越え。41,010字
1.
あの夏の日……ペンギンたちが町中にあふれかえり、"海"から発生した大量の水のような液体が町を蹂躙したあの日。
そう。その日はぼくが、お姉さんとお別れをした日でもあった。
お姉さんはにこやかに広場に行き、手を振ったその刹那、突然にその姿はかき消えた。一瞬で消えたその姿を、追いかけることも、探すこともできなかったぼく。悔悟の念ももちろんだが、取り返しのつかない、触れてはいけないものに触れてしまいすべてを壊してしまったかのような、罪悪感にすらとらわれていた。
確かにお姉さんは"私を見つけて、会いにおいでよ"といった。でも、それが可能になるには、少なくとも、ぼくにお姉さんの秘密が解けるまでの知識と理論、要するに時間が必要なのだ。
それがいつになるのか……少なくとも、今日明日でそれが可能になるはずがない。大人になってからでも無理かもしれない。それでも、あの雨の日に書いた唯一無二のお姉さんのイラストは、ぼくが描いたものに間違いがなかった。
ぼくは何度となく、その寝顔を書きとめた一ページに目を落とし、ため息をついてはお姉さんとの思い出にふける日々を過ごしていた。
そんな意気消沈したぼくを見かねたのだろうか、両親が「温泉にでも行かないか」と言ってきた。
内心"なにをバカなことを"と思っていたのは偽らざるところだ。温泉地などというものは、湯治場であり、体の不調を逗留によって治すというのがそもそもの起こりである。少なくとも温泉に行ったところで、ぼくの"心の傷"はいやされるはずがないと信じ切っていた。
「でも、ここの温泉の、このお宿、なんか雰囲気よさそうだぞ」
週刊誌「WAVE」の最新号を手にしていた父がやたらと勧めてくる。
「そうなの?」
父の読んでいた雑誌を母が奪うように取り上げて記事を読んでいる。
「あら、なかなかよさそうじゃない。それに私も好きな神田先生のおすすめじゃあ、ハズレではなさそうよね」
母が言っていた神田というのは神田幸水という小説家のことである。実はぼくの好きな作家さんでもある。『流れのままに』『さっきの先』『おとぎ話に騙されない』は三大傑作と言ってもいいだろう。なぜ小説家が、温泉宿の紹介をしているのか……二人の話を聞きながら疑問符が浮かんでは消える。
この話を小耳にはさんでいた妹が、キャッキャと喜んでいる。まあ、彼女の罪のなさにはいつでも癒される。
あとで両親から雑誌を受け取りぼくも読んだが、取材という名目でここに泊まりに来た、というよりは「なんの気なしに泊まってみたら凄かったので取材対象にした」という感じが文面からもうかがえた。何しろ、あんな写真目線の女将と若おかみがありえなさ過ぎるからである。写真家のプロの手になるものは確定であり、恐らく、作家自身が猛烈にプッシュしてこの旅館を取材対象にあげたんだろう。
でも、と考える。
ぼくの好きな作家さんが猛烈すぎるほど推すこの旅館には、何かある。それが何なのか?疑問が浮かびだすと止まらなくなってしまう。ああ、いつもの悪い癖が出てきてしまった。
ぼくは別に真新しいノートを取り出す。そして、表題にでかでかと書き出すのだった。
「 春 の 屋 」 研 究 ノ ー ト
と。
2.
秋の連休は、そういうわけで行き先がズバリと決まる。観光地に行くというより「宿に行く」という目的の旅行は初めてのことだった。
今までは、ぼく自身の様々な研究対象がぼくに遠出をさせるのを拒んでいたのだが、今年は、すでに”海”も、ペンギンも、いとおしいお姉さんもいない。
「旅行に行きたいなんて、自分から言い出したのって、初めてじゃないかなぁ」
父はそう言ってぼくをほめようとする。
「いや、気になることがあるから行ってみたいと思っただけだよ」
ぼくはクールに返す。「春の屋」の魅力が何なのか、突き詰めたいと思ったからである。
何より客室はたったの5部屋、仲居さんは一人だけ、料理人も一人。接客するべき女将は一線を退いていてもおかしくない70歳代。そして「おっこ」という若干12歳の若おかみ。実質3人で運営しているようなものである。
インターネットでの宿の評判もめちゃくちゃよかったとするものと、案外だったという評価、そして最悪という評価もゼロではなかった。総合的に見れば、平均点以上はあると思うのだが、これだけばらつくのも、人手の少なさと、その時のお客の感情、向き不向きも影響しているのではないかと思う。
親には内緒で価格も調べてみた。家族連れが泊まれる広さの部屋がメインで一室全て込みで3万5千円から。眺望の良さで部屋代が変わり、食事のランクでも微妙に価格差を作っている。今回の我が家の予算は2泊なので10万弱と見た。グルメな母が最上級の料理を注文しているのが確定しているからでもある。
出発当日。遠出には車を使わない父は、普通に新幹線を利用して上京する。せっかくの上京なので、いきなり温泉地に行くのではなく、東京見物をしてから向かうつもりにしていたからである。きっぷを買い求めている父の後ろから、
「帰りはどうするの」
と、あえて父に聞く。
「ンーそうだな。また東京に帰るのも面倒だし、行き当たりばったりかもだが、指定なんかしないで来た新幹線に乗って帰ろうか」
珍しく、適当なところを父は見せた。
「それも面白いわね、帰りは時間に縛られない方がいろいろ楽しめるし」
母もそんな、無計画なプランに賛成する。
「帰りはグリーン車で帰りたーい」
妹が、早くもリクエストする。
「まあ、気が向いたらな」
父はそう言ってはぐらかす。
朝早くに乗ったのぞみはあっという間に東京駅にぼくたち一家を送り届ける。ここで一家は別々の行動をとった。
グルメで鳴らす母は、妹を連れ、さっそく新規オープンしたイタリアンに照準を合わせる。男たち二人は、ひとまず山手線を一周して、東京の広さを実感した。
秋葉原で電脳世界を堪能したぼくと父は、待ち合わせした時間に東京駅の11番ホーム、上野東京ラインの発着する場所に到着する。
あまりの待機列の多さに辟易したのか、両親はグリーン券販売機の方に向かった。お互い、歩き疲れてへとへとなところもあったのかもしれない。
「で、どうだった?」
車内が少し落ち着き、品川駅を出たあたりで、父が母に感想を求める。
「ああ、あそこのレストランね。ソースにひねりがなかったわね。素材はそれなりに新鮮だったけれども。まだまだ、ちぐはぐなのよねぇ」
「でも、私は美味しかったよ、もう一回食べてもいいくらい」
新進気鋭、ローマの3つ星で修業した期待のホープの出したイタリア料理店。幾多のマスコミや批評家の持ち上げるような評価も、母の的確な指摘の前にはかすんで見えてしまう。妹にとっては、母に随行するのは苦痛かな、と思っていたのだが、案外うまくやれていたようだった。
「うんうん。そりゃそうだろう。若干30歳では、この世界ではヒヨッコ同然。これからなんじゃないの」
父もうなづきながらそう言う。
「それから銀座をぶらぶら。東京にしかないブランドもいろいろあって、ちょっと目の保養にもなったわ」
ファッションにも目がない母の東京巡りは、そういうわけで、無事に済んだようだった。
「で、お二人さんはどんな感じの東京巡りだったのかしら?」
今度は我々が報告する番だ。起立こそしなかったが、今回の「春の屋研究ノート」の一角を使って書き出したことを女性陣に語って聞かせる。
「二人と別れて、すぐさま都区内パスを買って、山手線を一周したんだ。ずぅっと観てると人の流れが池袋や新宿、渋谷、目黒といった具合に私鉄との乗換駅やターミナル駅でどっとできるのが面白かったなぁ」
「それだけ?」
妹が突っ込みを入れてきた。
「いや、電車の内装がすごい簡素なんだ。言い方を変えれば乗りつぶす仕様っていうのかな?ほかの私鉄なんかが延命化改造をしてまで使い倒すのとは真逆で、一定の年数使ったら次々取り換えるのが前提になっているみたいに思えたね」
山手線の電車の簡素ぶりには正直びっくりした。首都圏ならではの乗降客数や、もともと儲かっている路線だから、使いつぶすことで陳腐化を避けようとしているのが見て取れたからだ。
「ほう。お父さん、そこまでは気が付かなかったなぁ」
父がぼくの見立てに少し感動する。いついかなる時でも下調べを怠らないぼくだからこそ、導き出された結論というものがある。
「それから秋葉原に寄ったよ。最近の秋葉原は昔の電気街という感じより、萌え系のショップや地下アイドルの公演場所みたいな性格の方が強くなっているって感じたね」
ぼく自身は、最近の秋葉原しか知らない。メイド喫茶の客引きや路上でのパフォーマーもいるかと思っていたが、それらはあまり見かけられなかった。
「アングラ感は、お父さんが学生のころと比べても全く感じなかったもんなぁ」
大学生のころ父はよく通っていたのだそうで、今でいうマイコン、パソコンという言葉が出始めたころだそうだ。
「なんか、そっちの方が面白そうだったなぁ」
妹の感想には嘘がない。母直伝のグルメに目覚めるにはちょっと早すぎたのかもしれない。
列車は、帰宅時間にかかっている、喧騒に満ちているホームに入線しては、乗降客を吐き出し、そして飲みこんでいく。
3.
5時半より少し前に熱海に到着する。特急に乗っていれば、そのまま伊豆急線に直通することもあるのだろうが、さすがにここは乗り換えなくてはならない。
ちょっと前までは夕方の時間帯に温泉街道に向かっていた特急「踊り子」が運転されていたのだが、その運用がなくなってしまっているので、仕方なく伊東線に向かわない在来線の電車に乗ってしまったからだ。
伊東まで30分余り。ここから伊豆急線に入る。速達列車ではないから、すべての駅に律義に止まっていってくれる。すれ違いする駅で、眺望が楽しめるリゾート列車らしいのに遭遇したりしながら、花の湯温泉駅に到着する。
降り立ったぼくは、想像と違う風情に驚嘆する。
このあたりは戦災にもあっていないのだろう、ひなびた、築100年近い建物がずらりと並ぶ温泉街は、時代劇のセットに迷い込んだか、遠足で行った京都の街並みを思わせた。それでも、電柱が全くなく、現代風にアレンジされているとわかるし、環境に配慮してか、電気自動車やハイブリットカーがメインのタクシーや配達車両が斬新に映った。
妹が「歩きは嫌だ」と駄々をこねたこともあるが、実際歩くと、駅から結構な距離がある。タクシードライバーに聞くと、上り坂もあるので結構きついそうだ。ならば、とその話を聞いたタクシーに「春の屋まで」と告げて乗っていくことにした。
車で5分足らず。「春の屋」を正面にした道路で僕たちは降ろされる。目の前の旅館を見て、
"おお、写真とおんなじだな"
と当たり前の感想をボソッと漏らす。
玄関に向かう通路にセンサーでも仕込んであるのか、と思うほどの速さで、大女将の風貌をまとった女将と、写真で見た通りの、華美でない和装のままの若おかみと、仲居さんの歓迎を受ける。
「ようこそおいでいただきました、アオヤマさま」
相対せず、やや斜めに向かって一礼する。和式旅館の歓迎の儀である。こうやって、歓迎されると悪い気は全くしない。むしろ"大事に扱いますよ"という宣言にも受け取れて、来てよかった、と思わせる。
「雑誌を見てきました。なんでも、若おかみさんが頑張り屋さんだとか。うちの息子のいい刺激になればと思い連れてきました」
父の一言で顔がほころぶ一同。実際、ぼく自身は、この旅館の謎に迫りたいと思っている部分があったから、「いい刺激になる」という部分にそれほどの間違いはない。
「なんの。まだまだ足手まといですから……」
孫に当たるのだろうか、女将は謙遜して若おかみを紹介する。
「はい。私がここの若おかみです。よろしくお願いします」
はきはきとした物言い、すっと突き抜けるような声質、もちろん立ち居振る舞いは、彼女がどれほど修行してきたか知らないが、和式の作法にのっとっている、とはっきりわかる。肘を張らないで、手をすんなりと垂らしてお辞儀をするその姿勢だけでぼくは感動してしまった。
ぼくが口をぽかんと開けて、その様子を見ていたことに母が気づく。
「あらあら、そんなに若おかみさんが珍しかったかしらねぇ。早く上がりなさい」
「お兄ちゃん、早く早く」
すでに靴を脱いで上がっている妹がぼくを急かす。
その姿を見て、苦笑している父が受付で宿帳に記入している間に、ぼくと母と妹は、この旅館の中でも眺望が自慢のやまぶきの間に通される。
月見台と言われる、ベランダ様の眺望スペースがあり、そこから下を流れる小川やら、野原を散策する小動物なども見ることができる。外の喧騒とは全く隔絶された異世界にでも飛ばされたかのような感覚。旅館の持つ、パワーというものに圧倒されていた。
ぼくのノートは、そういうわけで、到着してから筆が休まることがない。血眼になってイラストを次々書いていく姿を見て、さすがに父が咎める。
「研究熱心なのもわかるけど、せっかく旅行に来たんだから、ちょっとは楽しまないと……」
「ん?これがぼくの楽しみ方なんだけど……」
こういわれると、父は返す言葉がない。
ぼくのこの何事においても研究を止めない性格というのは、小学校に入ってから急に勃興したものだった。きっかけはとあるテレビのバラエティ番組だった。そこでは"矛盾"をテーマに、【攻撃を絶対防ぐ防具】と【防具を寄せ付けない攻撃】の二者が戦ったらどちらが勝利するか、ということをネタにしたものだった。故事では決着がつかないから、ずれが生じることのたとえにも使われるのだが、どちらかが勝ってしまえば、その時点で矛盾の再現とは言えなくなる。何回かの放送回を見て、ぼくの研究魂が大きく揺さぶられた。
それからというもの、気になったら何でも研究するのが習慣になっていった。今年の夏は、自由研究の課題にしようと思っていた"海"も、ペンギンも、何の成果も得られないまますべて消え去ってしまっていた。だから、気になった旅館である春の屋のことについては、まとめてみたら面白いのではないか、と思っていた。
4.
「なんや、面白そうな一家が泊まりに来たなぁ」
秋の連休ということもあり、アオヤマ一家以外にも2組の利用があった。昔からの常連客だろうか、どちらも年配の夫婦で、面白く感じていなかったウリ坊が、早速アオヤマ一家を"標的"にする。
「あの子、凄いスピードでノートをバンバン消費しているわ。よっぽどここが気に入ったのかしら?」
美陽も、アオヤマのイラスト魔ぶりに感心する。
「僕の見立てでは、かなり研究熱心な方だとお見受けいたします」
どこで手に入れたのか、品薄状態になっているチョコレート味のお菓子をつまみながら、鈴鬼もおっこに報告する。
「うん。どうやらその様ね。気難しそうだったけど、案外打ち解けたら面白いかも!」
おっこにとって、それは意外な感情だった。まるで同級生や友達感覚でアオヤマを見れているところに、である。所詮泊り客でしかないのにこの思いはどこからくるんだろう?おっこは少なからず、アオヤマに好意以上のものを感じていた。
「ああ、あの時の感覚と、似ているわ……」
そう呟いて思い出したのが、神田幸水の息子・あかねだった。彼の境遇はおっこと似たようなものだった。急ではなかったにせよ、肉親との別れをしたものどおし、通じるところがあったのだろう。週刊誌に載る前後から、あかねの方からおっこに文通が始まっていた頃でもあった。
"また一人、友達が増えそうだな"
おっこの心情は久しぶりに見る男の子にやや舞い上がっていたようだった。
「まあ、久しぶりのお子様の泊り客やからなぁ。舞い上がるのはわかるけど……」
見透かしたようにウリ坊が言う。
「けど、なによ?」
「俺らのことがわかるような言動は慎んだ方がエエで」
「どうして?」
きょとんとしたおっこにウリ坊は、頭をかきながら説明する。
「ああ、ここまで言わんとわからんかぁ。傍からみたら、おっこがしゃべっていることしか聞こえへんのやで。さっきから「けど、なによ」とか「どうして」って単語しか言ってないけど、それが聞かれてみ?独り言にしては脈絡なくて、会話の相槌みたいに感じないとも限らんやろ?」
「それは、そうだけど……」
おっこは返答に困る。
「簡単なことじゃない。私達としゃべらなければいいのよ」
美陽がこともなげにそういう。
「えぇ」
そんなことが果たしてできるのだろうか……だが、思い悩むまでもなくすぐさまそれは現実のものとなった。
「あのぅ……」
タイミング悪く、アオヤマがおっこの部屋の前までやってきていたのだった。
「建物の構造とかが気に入ったので見取り図描いていたんですけど、話し声が聞こえたんで、気になって……誰か、他にいるんですか?」
ガラッと突然開いた引き戸の向こうから、ノート片手のアオヤマが首を出している。驚きのポーズで図らずもアオヤマを迎えてしまうおっこ。
「あ、イエ、べっ別に……」
狼狽を隠せないおっこ。それをただ黙ってみている三体。
「そうですか。だったらいいんですけど……」
確かにおっこしか"見えない"部屋の状況にアオヤマは納得するしかなかった。だがここで事件が起こる。
美陽が興味本位から、アオヤマのノートを見ようとしていたのだった。アオヤマの背後に忍び寄り、ノートをぺらぺらとめくっていく。
「ウワ―、めちゃくちゃきれいに書けてるぅ……」
慌てたのはアオヤマだ。風もないのに、ノートだけが"誰か"によってめくられているように感じたからだ。めくられないように押さえつけても無駄だった。そして次の瞬間、
「あっ」
ノートは空中に漂い、それでもなおページがめくられていく。もちろん、美陽がアオヤマのノートを楽しげに見ているのだ。おっこは、とうとう声に出してしまう。
「美陽ちゃん、だめでしょ!お客様のものに触れるなんて……」
「みよ……ちゃん?」
きょとんとした表情でアオヤマは、おっこを見る。
「あっ」
口に手を当てて、しまった、という表情をするおっこ。「アチャー」と声に出すウリ坊。疑念を抱いたアオヤマの、探求心がめらめらと燃えていく。
5.
観念したおっこは、アオヤマにすべてを語る。
「……そういうことなんです。アオヤマ様には、彼らが見えませんか?」
身の上話を語り終えて、おっこはアオヤマに聞く。
「実体としての彼らの存在には気がつかないなあ。しゃべっているにしても声も聞こえないし……」
霊的存在である三体は、いまだにどこにいるのか、見当もつかない。アオヤマは部屋の中をきょろきょろ見渡しつつ、何とか見つけようとする。
「私だけは見えるんで、子供ならだれでも見える、と思ってたんですけど、違うんですね。ちょっと安心しました……」
少しほほを赤らめるおっこ。
「それにしても、若おかみはすごい体験をしてきたんだね。ぼくが同じ立場なら、後追い自殺するか、少なくともこんな風に明るく振る舞っていられないよ」
アオヤマは三体を探すのをやめ、ノートに目を落とす。今更ながら、アオヤマはおっこの今までの生い立ちを思い返しながら、苛烈すぎる半生を思った。
自分にも両親はいる。聡明で生きる指針を時々で示してくれる父の存在は、アオヤマにとってもこれからを生きる上でなくてはならない存在だ。母親にしたって、その確かな舌がちゃんと自分たちの食べる料理にもフィードバックされているから、美食家気取りの行動や散財にだれも文句を言わない。仮に二人がいなくなっても、最後の砦である妹がいる。彼女と一緒に過ごすことができることは、一人ではないことにもつながるし、兄弟のきずなもより深まるだろう。
でもおっこには、両親も兄弟もいない。女の子だから、父親に溺愛されていただろうし、母親の作る味付けにも慣れ親しんでようやく再現できるか、と言ったところだったはずだ。普通の小学生が得られるはずの幸福感をおっこは失っているはずなのに、ここまで明るく振る舞っていられるのだ。
アオヤマは、以前お姉さんにしたように、おっこの肖像画を描き始めた。今までの彼女の経緯や聞かされたことも一緒に書き記されている。その筆致に浮いているウリ坊と美陽、てくてく歩いてノートのそばまでやってきた鈴鬼が声を上げる。
「ウワっ、めっちゃうまいやんけ」
「こんなに美人に書いてもらえるなんて……」
「うますぎるッス」
その声に反応して、おっこはアオヤマのノートを覗き込む。
クリッとした真ん丸な目、これまた真ん丸な顔の輪郭、かっこがふたをしているかのような眉毛、膨らんだ頬、ギザギザに整えられた前髪……特徴をきっちりとらえたアオヤマの描いたおっこの肖像画に、おっこ自身も丸い目をさらに丸くする。
「うわっ、めっちゃうま……いえ、大変お上手で……」
感動のあまりため口でしゃべりかけてしまうほどだった。
「あはは。いいよ、ここではそんなに気を使わなくても。それに、いくら客だからって「アオヤマ様」はこのあたりがくすぐったいからなあ」
アオヤマは首筋あたりを手で触る。
「では、どうお呼びしたらよろしいでしょうか?」
まだ他人行儀、少しかしこまった口調のおっこ。
「それそれ。その堅っ苦しいのが窮屈なんだよね。ぼくの時は「アオヤマ君」でいいんじゃないかな」
アオヤマは、おっこの着ている着物のイラストに取り掛かる。母親の着物姿は見たことなかったが、こうして初めて和服というものを身近で見ると、その機能美、身体のラインを主張しない着こなし、それらすべてに日本の芸術美が込められているように思った。
「ぼくもそのかわり、きみのこと、「おっこ」って呼ばせてもらうよ。年上だけど」
筆も休めずアオヤマはそういう。
「はいっ、それがいいです」
急に明るくなるおっこ。若おかみ、という職業で呼ばれるより、名前で呼ばれることが彼女にとってはアイデンティティーを思い起こさせるのだろうか。
親に付けてもらった名前。「織子」という名前の由来は、織物のような繊細な気持ちでいられるように、ということらしいのだが、今や親が彼女に遺したものは名前しかない。おっこと呼ばれることが彼女にとっての一種の栄養剤にもなっているのでは、とアオヤマは思う。
6.
おっこの部屋を出て、ぼくはガッツポーズをした。
ぼくの第六感は正しかった。若おかみであるおっこの生い立ちはともかくとして、彼女に付きまとっている、ウリ坊と美陽という幽霊、鈴鬼という小鬼に俄然興味がわいたからだ。
とはいえ、ぼくのような現実に見えるものを研究対象にしてきている科学者としては、見えない幽霊であるとか魔物をどう研究しようか、即座に困ってしまった。
困った時は大人に助言を求めるのが一番。ぼくは、夕食のさなかに父に聞いてみる。
「お父さん。目に見えない事象を研究しようとしたときに、どういう視点からアプローチしたらいいと思う?」
メインのステーキを頬張りながら、父に言う。
「目に見えない事象か……例えば?」
ズバリと対象を限定していく父はやっぱりすごい。
「幽霊とか」
「幽霊ねえ。そもそもきみは幽霊は信じているかい?」
父はぼくに問いかける。
「そんな非科学的なもの、あるはずない、と思っていたけど……」
「ん?」
怪訝そうな目で父はぼくを見る。"ここに居るんだ"とは切り出しにくい。
「あるとしたら、それはどういうものなのかなって……」
「そういうことかぁ」
少しワインで口を濡らしながら父は言う。
「幽霊や霊魂って、実際我々の身近に存在しているものではないかっていうのは言われていることなんだけど、目に見えない、ということは、その存在がごくごく小さいものだと考えることができると思うんだ」
「これは意外だな。お父さんは、幽霊や霊魂は存在しているって思っているんだね!」
意外な論調が出てきて、ぼくはびっくりする。
「空気だって目には見えないけど、酸素分子や二酸化炭素がそこら中に漂っているわけだろ?可視化できない、物体として認識できないだけであって、存在自体を否定するのはナンセンスだと思う。科学技術が発達すれば、その見えないはずの幽霊や霊魂も見えるようになるよ」
父の説明は的を得ていて、小学生の僕にもよくわかる。でも本題はそこではない。
「うーん、確かに技術が進めばわかるかもだけど、今このときに研究しようとしたら、どうしたらいいと思う?」
「エエ、今?ここでそれを見たっていうのかい?」
父の驚きに反応したのは母だった。
「ほんと?ここに幽霊なんかいるの?お母さん、ちょっとこわーい」
「私も――」
妹も母に歩調を合わせる。バリバリ怖がっていない茶化すような言い方に、まともに取り合っていない様子がうかがえた。
「うん、まあ、ちょっと……」
それでも現物を見たわけではないので言葉を濁さざるを得ないぼく。
「彼らはおそらく、24時間365日、いつでも活動していられる。見られる方法とかまでは、父さんの専門ではないから難しいけど、いる、ということがわかったのなら、突き詰めてみるのが正しいやり方だと思うぞ」
さすがは父である。ぼくの意見を丸ごと飲みこみ、"やりなさい"と言ってくれる。結果はどうあれ、この3日間は面白いことになりそうである。
食事を終え、テレビの無い部屋で、今日起こったことを矢継ぎ早にノートにしたためていく。二泊三日の小旅行でそんなに発見も、研究したいと思う現象もないだろうと思いつつ、50枚程度のノートに書き綴っていたのだが、早くも初日の夜までに15枚あたりを消費してしまっていた。
そのほとんどがイラストである。「春の屋」の趣あるたたずまいの玄関、客間も、泊り客に無理を言ってまでして、5部屋すべてを網羅する。一番値の張るであろうやまぶきの間を予約してくれた両親には感謝しかない。
そして"2人目"の肖像画がノートに記される。関織子、12歳、「春の屋」の若おかみ、おっこ……そう言った情報も記される。
ページをめくったぼくは、"見えない幽霊をどうやって認識するか"という今回の旅行最大のテーマについて考えを巡らせ始めた。
"ウリ坊に美陽、そして鈴鬼。どうすれば彼らの存在を認められるか……"
小学生で、そこまでの知識のないぼくにとって、久しぶりに骨のある研究対象だった。そして知らないうちに眠りに落ちていた。
7.
布団が変わったこともあるのか、少し寝苦しさから目が覚めてしまった。
いつもならどこかにある時計で時間を確認するのだが、宿ということもあり、すぐさま時間が確認できない。ぼくはフラフラっと廊下に出て、外の風景に目をやる。
とはいっても、真夜中の時間帯の旅館。明りがそこかしこにあるわけがなく、非常灯の緑だけがこのときとばかりに存在感をあらわにしているだけである。田舎らしく、夜空に瞬く星たちは、都会の何十倍も確認できた。
さすがに夜中にノートをまとめるほどの光量は望むべくもない。仕方なくもう一度部屋に戻ろうとしたその時である。
「なあなあ、きみ、アオヤマ君やろ?」
幻聴か?誰もそこにはいないはず、であったのだが...…
突然のように色黒の、年のころならぼくと同じくらいの少年が、前時代的なファッションでそこに突っ立っている。
「うわぁっ」
と大声を出しそうになって慌てて口を押さえる。
「びっくりさせてしもたか?ごめんな。でも、こんな機会がないと生身の人間とはしゃべれへんのや、堪忍して」
その浅黒い少年は両手を合わせて謝罪する。
「と、いうことは、きみが……」
ぼくは、三人の名前を思い出しつつ、その少年に聞く。
「そう!俺がウリ坊。おっこちゃんの友達や、よろしくな」
ウリ坊は、ぼくと握手しようと手を出す。たしかに研究対象が自ら現れてくれたことは小躍りするくらいに嬉しかった。でも、ここで幽霊と仲良くなろうとまでは思わなかった。ばくは少し出しかけた手を引っ込める。
「まあ、無理もないわな。目の前に幽霊が現れたんやから。取り込まれるんちゃうか、とおもうてもしゃーない。ま、よろしくな」
ウリ坊の出した手は、所在なく頭の方に持っていかれる。茶目っ気のある表情にぼくも少しだけ気を許す。
「でも、どうしてぼくの前に……」
ぼくは素朴な疑問を投げかける。
「ほら、よう言うやろ。草木も眠る丑三つ時ってやつ。このころって生身の人間が幽霊に遭遇しやすい時間帯なんや。昔の人はうまい事いうたもんやで」
「え?確かに聞いたことあるけど、その時間帯って、本当にそんなことがあるんだ……」
早寝早起きが習わしのぼくにとって、午前2時ごろなどは完全に夢の中。でも、このときばかりは、目覚めてしまったことを幸運に思った。
「まあ、そういうことや。そうは言うても、こうやって話ができるんも、それほど長いわけではないんやけどな」
会えても、その時間は多くはないことがウリ坊から告げられる。
「そうなんだ」
いつまでも話していられるわけではなさそうだ。ぼくは早速思い浮かんだ疑問を矢継ぎ早にウリ坊に投げかける。
「君とおっこの関係は?」
「高速道路での事故んとき、俺が助けたんがおっこやったんや。子供が死ぬところはもう観たくないんや」
事故で奇跡的に助かったおっこ。その裏にはウリ坊の尽力があったのだ。
「ということは、女将の孫娘と知らずに?」
「事故はホンマに一瞬やった。俺一人の力で何とか救えるのは一人だけやった。たまたま助けたら、峰子ちゃんの身内やった、っていうのが真相やな」
ぼくは、急に知らない名前が出てきて少し戸惑った。
「峰子ちゃん?ああ、女将の名前だったね。おっこから聞いたよ。でも、なんで君は、おっことしゃべれるの?」
ストレートに僕はウリ坊に聞く。
「さあ。一度死にかけた人間は霊界にも片足突っ込んでいるみたいなもんやからな。繋がりがないと声が聞こえたり、俺のことが見えたりすることはないやろなぁ」
時間は気になるが、聞きたいことが次から次にあふれてくる。
「いつからここに?」
「峰子ちゃんを追いかけてようやくここにたどり着いたのが30年くらい前。そこからずっとここに棲みついてる。でも、なんか、おっこを助けて、俺の役目もそろそろかなって思っているところ」
急にウリ坊がしおらしい表情を見せた。
「どういうこと?」
「幽霊って、要するに成仏できない浮遊霊なんよ。それって、例えば峰子ちゃんと両想いなのに、添い遂げられない未練だったり、死んでなお、峰子ちゃんのことを思っていたりする情念が強いからそうなるわけ。でも、おっこを助けて、話していくうちに、もう俺の役目って、終わりに近づいているんちゃうかなって思い始めたんや」
「役目って、なんなの?」
キーワードにはついつい反応してしまうぼく。
「峰子ちゃんのやってる「春の屋」の末永い存続。もうおっこがくじけたりすることはない。峰子ちゃんの跡をしっかり継いでくれる。その道筋ができつつあるから、もう俺の出番はないっちゅうことなんや」
ウリ坊が語りを終えたその時。
「それは実は私も同じなのね」
突然聞こえる女の子の声。
「美陽ちゃん、かい?」
勘のいいぼくはすかさずこう問いかける。
「エエ、そうよ。さっきは驚かせちゃって、ごめんなさい」
大きな目と、7歳くらいの風貌、白いワンピースがやや透けて見えるかのようなスタイル。うちの妹と比べると、体格がややぽっちゃりしているように見えた。謝罪を受け取って、
「同じって、どういうこと?」
と、ぼくは美陽に尋ねる。
「私には、妹がいるのね。その妹と、おっこちゃんとで、来年春のお神楽で二人して舞いを踊ることになるの。その舞いって、いわば旅館業を継いでいくという意思表示、継承式の意味合いもあるの。二人が成り立ちも規模も全然違うけど、旅館の女将として独り立ちしていく。それが実現するから現世にいる必要が無くなった、ということなの」
寂しげに語るその口調に、そのことが近づきつつあるように感じた。
二人の話は実に興味深かった。ノートに書く時間はなかったのだが、一つ一つの内容がぼくをとらえて離さなかった。もっともっといろいろなことを聞きたかったのだが、刻一刻と逢っていられる時間はなくなっていく。
「もう時間もないことやし、せっかくやから、鈴鬼にも会(お)うとくか?」
ウリ坊が提案する。
「ぜひ」
お願いすると、寝ぼけまなこな小鬼の鈴鬼が引っ張り出された。
「ふぁぁ、なんですか、人がせっかく寝ているというのに……」
鬼のくせにいっちょ前に寝たりするようだ。しかも自分のことを「人」なんていっている。吹き出しそうになるぼく。
「さっきのアオヤマ君や。覚えてるやろ?」
ウリ坊が、鈴鬼にそういう。
「おお、これはこれは。僕のことも研究なさっているのですか?」
つぶらな瞳でぼくのことをじっと見ている。しっかりと目の前に現れてはいるが、本来なら、彼は実体があるはずだから、見えていないとおかしい。
「どうやったら、鈴鬼君は、ぼくに見てもらえるのかな?」
一縷の望みを託して、鈴鬼に聞いてみる。
「それは簡単です。僕にごちそうするのです」
「ごちそう?」
鬼の好物ってなんだろう……知見の無い僕には「ごちそう」が何か、わからなかった。
「そう。こいつは甘いものが大好物なんや。明日の朝食のときでもええから、なんかリクエストしてみたらエエで」
ウリ坊がその答えに補完する。
「ふーん。まあそれならやってみる価値はありそうだね」
幽霊とはのべつまくなしあうわけにはいかないし、そこまで霊力はない。小鬼であり、悪事を働きそうにもないとぼけた童顔を見ていると、彼と関わっても実害はないと思えてきた。
「ありがとうございますぅ」
ぺこりと頭を下げる鈴鬼。かすかだが、この3人を研究できる道筋が見えてきた。
「ああ、そろそろ時間やわ。ほなら」
ウリ坊が、タイムアップを告げた。
「また遊びましょう」
美陽もそういってその場から離れる。
「明日の朝ごはん、楽しみにしてます」
鈴鬼も、そういうと、ぼくの視界から姿を消す。
8.
ガバッ!
「おお、おはよう。よく眠れたかい?」
布団の音が父にぼくの起床を知らせたようだ。外ではチュンチュンと、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
昨日の夜の出来事は、なんだったのか……夢か?幽霊の見せた幻か?
「お兄ちゃん、おはようっ!」
妹は相変わらず元気いっぱいだった。ぼくは時々寝込んだりすることもあるのだが、妹は、風邪をひいたことがほとんどないくらいの健康優良児だった。
「おお、おはよう」
そう返事をするのが精いっぱいだった。実際、寝不足が原因しているのか、体がけだるい。
それでも、受付に行って、深夜幽霊たちに言われた通りのことをやってみる。善は急げとばかりに、パジャマのままで、寝癖のついた頭だったのは痛恨の失点だ。
「あのぅ」
受付にはおっこがいた。もちろん、仕事着である若おかみ姿に着替えている。恐ろしく早起きだ。
「ああ、アオヤマ君、おはようって、ぷっ」
吹き出してしまうおっこ。なにが原因なのだろう……ふと見ると、手にはなぜか筆ペンが刺さり、その直前に顔に何かが書かれたような感触があった。窓ガラスにおぼろげながら映るその顔には、しっかりと、ひげが描かれていた。寝癖を笑われたのではなく、この顔の落書きに反応したらしかった。
「ああ、もしかして!」
浮遊するノートが即座に思い出されて、"犯人"の目星がついてしまう。
「多分、美陽ちゃんのいたずら。ごめんなさいね」
「客にまで手を出すとは……ちょっとけしからん!」
とは言ってみたものの、ぼくとしては、怒って関係を断絶するよりは、彼女にそういう手を出させない関係を構築する方が先のように思えてきた。客まで遊び相手にする。彼女は寂しがり屋だから、誰かにかまってもらいたくて、いたずらしてしまうのだろう。
"ん?彼女の遊び相手にぼくがなってる?"
そう考えると、無性に腹が立ってきた。とはいえ、感情に支配されては研究もままならない。むかついた気持ちを抑えつつ、顔の墨を近くの手洗い場で落とす。ついでに寝癖も整えて、仕切り直して帳場にまだいるおっこに提案する。
「それで、物は相談なんだけど……」
「どんなことでしょう?」
何をぼくから言われるのか、興味津々のおっこ。
「朝ごはんにデザートなんか、用意できますか?」
突拍子もない提案をしたつもりだったが、
「ああ。朝食にはついてありますよ。私の考案した露天風呂プリンを召し上がっていただくので」
おっこの返答は意外だった。もともと付いているとは知らなかった。
「付いてるんだ。それならよかった」
胸をなでおろすぼく。
「え?どうしたんですか?旅館の朝食でデザートなんて珍しいけど、それを頼みたいのって、どうして?」
勘の鋭いおっこがぼくに聞いてくる。
「あ、いや、なんでもない……」
悟られまい、と慌ててしまうぼく。
「ははーん、さては甘いもの好きの鈴鬼君に頼まれたなぁ?」
このときのおっこの顔と言ったらない。完全に友達どおしでしか見せない顔のようだった。
「そ、それなら、よかった、じゃあ、そういうことで……」
這う這うの体でその場から逃げ出すしかぼくには手段がなかった。
部屋に配膳された朝食は、少し異様な風景を描いている。僕の目の前には、ほかの三人とは違い、プリンが2個鎮座していたからだった。
「おいおい、いつからそんな甘いもの好きになったんだ?」
「それ、敢えてオーダーしたの?」
「あー、お兄ちゃんだけ、ずるいぃ」
父にも、母にも、妹にも盛大に突っ込まれる。でも、ぼくは知らんふりをしつつ、食後のデザートよろしく一つ目のプリンを食べ、「ああ、いい気持ちだぁ、外で食べたらどんなにおいしいだろう」とわざと独り言を言って月見台に出る。あえて外を見るような体で食べようとするその刹那、もうプリンは消滅していた。すると、あの幽霊たちが言ったように、鈴鬼がぼくの目の前に現れたではないか!
「美味しかったです。ありがとうございました」
ペコリとお辞儀をする鈴鬼。ぼくはにこやかに微笑み、部屋の三人からは見えない位置にいる、目の前の鈴鬼をなでる。
"お、触れられるじゃん!これはすごいぞ"
ぼくの頭の中は、少なくとも小鬼である鈴鬼に関しては研究が進められる、となって、小躍りせんばかりになっていた。
9.
鈴鬼が現実として見えるようになったことは、副次的な効果もあらわにした。
ウリ坊と美陽の声も姿かたちもおぼろげながらとらえられるようになったのだ。そう言えば、閻魔大王は、地獄で鬼を使役しているというではないか。鬼の存在は、現世とあの世の橋渡しになっているのかもしれない。たったプリン一個でここまでとは。この小旅行はさらに楽しいことになりそうな予感にとらわれる。
朝食が終わって、ぼくたち一家は、ひとまず花の湯温泉街を散策することにした。それほど大きくない街並みながら、一軒一軒触れればそこかしこに驚きと発見がある。
「ここのお店はぜひとも訪れちゃってください」
鈴鬼の勧めがあり、家族ともども入ったのは、昔ながらの金平糖を作るお店。おりしも、製作工程を社長自らがレクチャーしてくれているところだった。
「大なべを絶えずかき回して色のついた蜜を回しかけながら形を作っていくのです。少しでも気を抜いたり、火加減の管理を怠ると、うまく形にならない、繊細なおかしなんです」
ガラス越しに見える作業場では、職人が数名、鍋の中を杓のような器具でかき回しながら、別の鍋に入れてある色のついた蜜を適量回しかけては、形を作っているような所作が見て取れた。簡単な所作のように見えるが、一人前になるまで20年は修行が必要、と社長が言ったのに、説明を聞いていた全員が感嘆の声を上げる。
講義が終わって参加者は店内に散らばる。鈴鬼が推したのは、ここの金平糖を買ってもらうためだった。
ぽくは、「ウワ―綺麗だねー」とか言いつつ、鈴鬼に指差されるままにあれやこれやと買い物籠の中に入れていく。
「おいおい、そんなに食べたら虫歯になっちまうぞ、また歯医者さんのお世話になりたいのか?」
父に言われて、
「あっ」
となった。ぼくの家の近くの歯医者の助手だったお姉さんの微笑む顔がすっとぼくの脳裏をよぎる。仮に虫歯になっても、もうあの笑顔には会えない。
父の一言でまた言いようのない思いにとらわれる。
「だ、大丈夫だよ、よく考えて食べるから。それに頭を使うとどうしても糖分が必要になるだろ?」
少しにこやかに応答はしてみたものの、たったワンフレーズでお姉さんを思い出してしまう。ぼくの心の中は少し乱れてしまった。
そのぼくを上目遣いで眺めている鈴鬼に気がついた。
「後でな」
下を向いて、鈴鬼にとりあえず合図しておく。鈴鬼は親指をぐっと立てて「お願いします」と答える。
「なあなあ、俺たちにはお土産、ないんかいなぁ」
ウリ坊がもの欲しそうに見ている。
「幽霊がもの食べたりできるなら、買ってあげてもいいけど」
上の空で、独り言ともとれないようにぼくはつぶやく。
「あ、そりゃそうでした。すんまへん……」
残念そうにしょげるウリ坊。
「そうだわ。私の妹の旅館にもよって上げて」
美陽はそう言って、秋好旅館にまで足を伸ばさせる。温泉街からは少し離れた、高台に位置していることもあって、徒歩で向かうには少し難儀したが、近づいてくると、その威容と風格に、ぼくたちは圧倒されてしまう。
旅館なのか、テーマパークなのか、はたまたアミューズメント施設か?一歩足を踏み入れると、そこはまるで別世界のような趣すら感じさせる。
エントランスからロビーに至るまでに実に3フロア。低層階にはお土産もの屋や、コンビニ的な日用雑貨を扱うお店もあるし、昔ながらの射的やゲームセンター的なスペースもある。
そうかと思えば、別のフロアには、ディスコやスポーツクラブ的な施設、旅館の料理に飽きた人向けの、居酒屋やスナック的なお店が立ち並ぶ、横丁みたいに演出された空間も提供されている。
圧巻は劇場まで併設されていることだろう。泊り客ならもちろん無料で見られる。なんでも先代が大の映画ファンで、これを作るために今の本館に建て替えたというくらいらしい。今日の夜は大作を作られた映画監督が、スタッフや出演者を従えて泊まりに来られるということで、その監督にちなんだ作品が上映されるとポスターで告知されている。
”こんな企画上映みたいなこともできるくらい、秋好旅館って、金、持っているんだなぁ”
スケールの大きさに感心していたぼくだが、泊り客でもないぼくは見られないのでスルーした。
ようやくロビーに到着するのだが、これがまたド派手で圧巻だった。2フロア分はあろうかという高い天井。その開放感が、耳障りな雑音をかき消してくれる。反響しないからざわつきも気にならない。一見さんは必ず奥のカウンターに行かなくてはならないのだが、一度でも宿泊した人は、専用のIDカードが作られ、それをエントランスでタッチするだけで、「今この人がどこにいるか」を探索できるシステムになっている。なので、ロビー階に到着するや、専属のコンシェルジュが荷物を持って部屋に案内するという手はずになっているので、奥までずんずん進む人はほぼいない。
何もかもが斬新で、最先端で、かっこいい。ぼくのノートは、瞬く間に秋好旅館の項だけで10ページを費やしてしまった。ぼくたち一家も、その派手さと凄さに圧倒されて声も出ない。
小一時間ほど逗留して秋好旅館を後にする。ぼくは、さすがにノートの残量が厳しいと悟ったので、秋好旅館で少し値の張る、かっこいいノートを手に入れる。つられて家族全員がなにがしかのお土産を手にすることになった。
「お父さんはこれにしたよ。やっぱりそこでしか買えない一点物でないと」
父の買ったブックカバーは、本革、しかも花の湯牛の革でできている。
「私は、秘伝のおだしの粉末。旅館の味って普通門外不出なのに、なかなかやるわね、って」
料理通の母も目ざとい買い物をしていた。
「あたしはマスコットぉ」
妹の買ったマスコットが、どうやらこの旅館を継ぐ美陽の妹をかたどったものらしいのだが、女の子が好みそうな漫画のキャラクターに似せてある。僕はあの手のアニメーションは見ないのだが、プリ、なんとか?そういう感じのピンクのフリフリがかわいらしい。多分彼女もその手のアニメーションが好きなのだろう。
「いえ、違うの」
空中で美陽がそういう。ぼくの目が何かを物語っていたからだろうか……
「違うって、なにが?」
ほかの三人に悟られないように、上を向いて話しかけるぼく。
「あれ、現実の世界の妹なの。真月っていうんだけど……ほら、あそこ」
旅館から出ようとする僕らのそばを、多分その大監督でも迎えに出ていたのだろう、まさにピンクのフリフリという言葉が的確な少女と、これまたド派手な着物に身をつつんでいる少女の両親らしい夫婦がすれ違った。
「あれが……君の妹?」
「そうよ。もう年はかなり離れてしまったけど」
当たり前だが、幽霊は年を取らない。死んだ時の年齢のままで止まってしまう。だから、7歳くらいの幼女が明らかに年上の彼女のことを妹と呼ぶのには違和感がある。
12歳でおっこと同い年らしいのだが、明らかに風格と自信がみなぎっている。馬子にも衣裳、というが、身なりが人を変えるのか、とこのときはじめて思った。何より驚いたのは、ふっさふさの髪の毛だろう。一度もカットしていないかのような長さをこの年齢で蓄えている。「普通ということが大嫌い」という真月らしく、小学校に入学して以来、一度も髪を切ったことがないそうだ。
「変わっているけど、面白いなぁ」
ぼくは彼女の歩く姿を横目に見ながらそう嘆息した。
10.
歩き疲れたぼくたちは、一旦「春の屋」に退避した。
本当にセンサーでもあるのか、ぼくたち一家が玄関に立つ前に仲居さんと女将は立ち位置に準備して待ち構えている。
ところが、おっこの姿が見えない。
「女将さん、おっこは?」
みんなが靴を脱ぎ終わり、部屋に向かっていくさなか、ぼくだけがおっこの消息を聞く。
「ああ、おっこかい?今、新しいデザートレシピでも考えてるんじゃないかねぇ。厨房に行ってみるといいですよ」
「ありがとうございました」
礼を言うと、すぐさま厨房に向かう。
料理人の康さんの腕前というものにも実は興味があった。ノート片手に厨房にお邪魔する。
「おお、これはこれはアオヤマ様のお坊ちゃま。今朝のプリンのお味のほどはいかがでしたか?」
2個平らげたことになっている手前、あんまり下手なことは言えない。まして「鬼に食べさせました」なんて真っ正直に報告なんかできるはずがない。
「あ、ああ。美味しかったですよ。2個お願いしたのにはわけがあって……」
「ほほう、どんな?」
おっこが若干表情を硬くする。それを認めて敢えて言う。
「せっかくなので付近に現れる小動物にも分けてあげたいな、と思って……」
それを聞いたおっこのホッとした表情。この子の表情の出し方は実に面白い。
「そうでしたか。でも、餌付けになってしまいますので、これからはご遠慮いただけると助かります」
決して叱っているわけではない口調。そう説かれると「もう二度とするまい」と思ってしまう。でもそれじゃぁ鈴鬼は何も食べられないだろうけど……あ、金平糖があったか。
「で、さっき女将さんに聞いたら、新しいデザート考えてるって聞いたけど……」
今度はおっこに聞く。
「そうなの。秋の食材でケーキか、プリンにしたいんだけど、なんかピンと来なくって……」
目の前には「秋の新作デザート」という、企画書というには稚拙な一枚のぺら紙が置いてあるだけだった。
「君は本当にプリンが好きなんだなあ。ふーん、秋の食材、ねぇ……ここらへんで取れる果物って何があるの?」
地元の食材にこだわっているはずの料理。僕の助言は的確だった。
「リンゴか、ブドウ……アッ、康サン!」
「ブドウですよ、お嬢様っ」
康さんはすぐさま冷蔵庫に駆け寄り、でっかい粒のブドウを取り出す。
フルーツ盛り合わせで出してもそん色ないそのブドウを、惜しげもなくフードプロセッサーにかける。種も皮も何もかもが混然一体となった液体は、すぐさま濾される。そこには、搾りたてのブドウジュースが存在していた。
「ちょっと味見してみる?アオヤマ君」
言われるままに飲んでみる。一口含んで、衝撃が走る。
今まで飲んできたブドウジュースは、いったい何だったのか?新鮮なうえに交じりっ気のない濃厚な味が、舌の上でいつまででも主張する。あまりの凄さに、コップを持ったまま一言も発せられない。
「よしっ、これなら!」
ぼくの感動ぶりで、康さんも安心したのか、すぐさま調理に取り掛かる。康さんが調理をしている姿、レシピっぽいものもどんどんノートに書かれていく。ひと時も筆が休まることがない。
でも、肝心のブドウジュースは、いつまでたっても出番がなかった。それどころか、冷蔵庫で冷やされてしまう。ぼくがブドウジュースの去就にやきもきしている間に、ごくありふれたスポンジケーキが焼きあがる。
「ここからなんですよ、お坊ちゃま」
ブドウジュースが冷蔵庫から久しぶりに姿を現す。と思ったら、康さんは、先ほど焼きあがったスポンジケーキをそのブドウ色の海に放り込んだ!
「うわっ」
あまりのことにぼくは驚く。だが、見る見るうちにブドウ色に染まっていくスポンジケーキは、得も言われぬグラデーションを奏で始めていた。
「ブドウは、加熱に弱いので、こうやって生の状態で加工するのが一番なんです。沁み込み度合いも、中心までしっかり吸わせずに、いい塩梅のところで止める。これでしっとりとしたケーキが出来上がるわけです」
試作品を切ってもらう。確かに、完全に沈み切っていないので下の部分にはたっぷりとブドウ色が付いているが、上の方は、スポンジケーキそのものの色が残っている。
そうこうするうちに女将も入ってきた。ジュースをケーキに沁みこませる手法の説明を受け、ケーキの切り口を見て少しうなづく。
「なかなか面白いアイディアだね。和風旅館で出されるミスマッチでアッといわせられるわね」
女将は、試作品を食べ終わって、いい評価を下す。
「でしょう?」
おっこもなかなかの出来映えに満足そうだ。
「そうだね。でも、上下のコントラストはありきたり。中心だけ残っているっていうのも面白そうだけど……」
これで終わりにしないところに女将の矜持を感じたぼく。
「うーん。しっかり沈めないとだめですし、そのためのジュースの量も加減しませんと……」
康さんも、一段上がったハードルに少し首をかしげている。
「まあ、試作としては上出来だよ。あとはしっかり形にしておくれ。お願いしますよ」
ひとまずは合格、ということらしかった。女将が厨房から出て行った後、おっこは、ぼくにハイタッチをしてくる。
「ほんと、アオヤマ君のおかげだよ、ありがとう」
「いやいや、ただ果物の名前を上げるように言っただけだよ。それにジュースを沁みこませるなんて、ぼくのアイディアではないし」
だが、「春の屋」の厨房にお邪魔したことで、ジュースを沁み込ませたケーキの存在に気がつけた。ここは一つ、母にも提案して、ポイント稼ぎとしておくか……
11.
あまりないことらしいのだが、「春の屋」に昼過ぎまで休憩していたこともあり、なぜかぼくたち一家にも賄いが提供された。
「ええっ、そんなこと頼んでもないのに、恐れ入ります」
父が恐縮しまくっている。
「いえいえ、これはホンの気持ちですから……」
出そうとしている康さんも頑としてひかない。
「あなたぁ。ここまでおっしゃっているのですから、その思いを頂戴しないといけないわよ。それにもう作ってしまわれたんだし、私達が食べないと無駄になってしまいますもんね」
なぜか母は康さんの味方をする。それもなんとなくわかっていた。昨日の夕食で出されたステーキの焼き加減にぴか一の評価を下し、盛り付けに和風旅館らしくない部分を感じ取って一気にファンになってしまったかのようだった。朝食もプリンのうまさに声が裏返っていたほどである。
「そ、そこまで言っていただけるなら……」
父は渋々白旗を上げる。まあ、ご厚意ということは料金もかからないし、今からでかけて外で昼食となっても時間も費用もかかる。ちゃっかりしている母の思惑もあったことだろう。
にんまりとしたのは母だけではない。ぼくも昨日の夕食を一口食べて、素晴らしいと感じていた康さんの料理を、まさか昼食でも食べられるとは思っていなかったからだ。
「はい。お粗末さまですが、あかねのオムライスと、秋を感じるケーキです」
茜……秋を感じさせるタイトルかと思いきや、あの雑誌に載っていた、神田幸水氏の息子さんがあかねと言うらしい。ここに泊まりに来た時にリクエストされたのがオムライスのようで、以来、お子様が泊まりに来たりしたときに夕食などで出したりもしているそうだ。
「突発的なお申し出でしたが、ご飯とケチャップ、玉子があればできますからね。私にかかればチョチョイのちょいってなもんです」
裏話を披露する康さん。実は、昨日の夕食の時も板前としてわざわざ部屋まで足を運んで、味のことなどをいろいろ聞いていた。こんなことができるのも、「春の屋」だからこそ。
そのオムライスだが、ぼくは完全に参ってしまった。母が時たま作るオムライスも絶品だが、このオムライスには魂がこもっている。さっきは、材料さえあれば、と康さんは軽く、いとも簡単に言っていたが、それをここまで昇華させるからには、相当の熟練と気持ちが乗っていないと無理である。適度な湿り気のあるチキンライスは、端材である様々な野菜のうまみがあちらこちらからそこはかとなくあふれてくる。もうこれだけで、宝探しをしているみたいで楽しくなってしまう。包む卵は、フワトロにせず、普通に薄焼きの卵。その卵の香ばしさがいいアクセントになっている。
一緒に添えられたスープも確かに半端な材料で作っているとわかるものの、味は一流。こんな具だくさんのけんちん汁みたいなスープにも矜持を感じた。
「ああ、これが。さっき息子が話していたものですね」
母がさっそく興味を示したのが、秋を感じるケーキだった。ジュースを沁みこませる、という手法を母に教えた直後だけに、喰いつきはかなりのものだった。
グラデーションをまとった、ツートンカラーのケーキは、斬新に映ったはずである。上から斜め掛けされているのは、酸味を付加させるためのクランベリージャムを溶いたもの。そばにちょこんと生クリームの絞り出しと、ミントが添えられている。
スイーツにも一家言ある母が一口食べる。
「この下の部分、ブドウは……ナガノパープル、ですか?」
ええ、品種を当てようとしているのか?ぼくは戦慄する。
「いやぁ、奥様。その通りでございます。たまたまあった食材がこれしかなくて……」
「生食で出される食材を惜しげもなく!いやはや、凄いっ」
母が感嘆の声を上げる。
そこから、母と康さんが食材談義に花を咲かせてしまうハプニングも起きた。生クリームは添えるよりも、周りを取り囲むようにすれば、とか、春の屋クッキーでも出せば別の売り上げも期待できますよ、とか。そんなに出しゃばりな方ではないはずの母だが、今日は何かスイッチでも入ってしまったかのようだった。
二人が楽しく会話している間に、ぼくと妹は、やや小ぶりのオムライスを完食する。父も、最初は遠慮がちだったが、一口食べてあまりのうまさに食欲が喚起されたのか、がっつくという表現がぴったりくるほどむさぼり付いていた。父も母も、ここに来て今までと違う人間性があらわになりつつある。花の湯温泉のお湯は、旅館「春の屋」は、泊まりに来た人を丸裸にしていくものなのだろうか……
12.
思いもかけない昼食をよばれたぼくたち一家だったが、疲れからか、両親と妹はうたたねを始めた。
"しめたっ"
ぼくはノートを片手に「春の屋」を抜け出す。
向かった先は、ちょっと目をつけていた神社。「花の湯稲荷神社」と揮毫されている。ぼくは階段を駆け上り、境内に入る。
「おおーい、みんないるかぁーぃ」
大声で呼びつけるつもりはなかったが、その気持ちだけもって、小声で呼びかける。
「おお、ここにおるで」
「わたしも」
「僕は足元にいるんです」
3人がひょっこりと姿を現した。
ほっとしたぼくは、そばにあったベンチに腰掛ける。座れない鈴鬼が不憫になって、ぼくは鈴鬼を抱え上げた。周りからみたら、滑稽な動作だったろう。
「それにしても、どうしてぼくにもきみたちが見えるようになったんだろう?」
素朴な疑問を投げかけてみる。
「さあな。鈴鬼が見えるようになったのと関係があるのかもしれんけど、そればっかりはわからんわ」
鼻をほじりながら、ウリ坊は答える。
「おっこちゃんは、私達のことが見えていたみたいだけど、貴方の場合は、鈴鬼の方が先だもんね」
美陽もそういう。
「鈴鬼は、この謎が解けるかい?」
あえてぼくは張本人に聞いてみる。
「僕が認識できるということは、人外っていう、人ならざるものが見える能力を持ったということです。約束を守ってくれたから、その能力が時間限定で備わった、ということなんです。だからそれは永続的ではなく、一時的なもの。アオヤマ君も、この旅行が終われば、僕たちのことが認識できなくなることは間違いありません」
鬼らしい返答だったが、結局残された「一緒にいられる時間」はもうすぐ終わりを告げようとしていた。何しろ、明日の今頃は、新幹線の車内だからだ。
「僕たちは、大きく移動することができません。霊魂だからと言って、どこにでも出てこれるというわけでもないのです。僕自身は、封印を解かれてしまったので、あちこちで甘いものを食べていくことで命をつながないといけなくなりましたが、幽霊のお二方は、その思いが成就された時に、本当に存在がかき消えてしまうのです」
鈴鬼の説明は続いた。春を告げる御神楽の舞いを二人が演舞するその時に二人の霊魂が天に召される、そしてそれはおっこ・真月の大人への第一歩である、懸念が無くなったら霊はその役目を終える……
「そうなのか」
ぼくは、鈴鬼の説明を一つ残さずメモにしようと試みる。ところが、ある程度書いたところで、ノートがふわりと浮き、せっかく書いた鈴鬼の説明部分だけが何事も書いていないかのように、完全に消滅したのだった。
もちろん、それをやったのは美陽であることは明白だった。
「美陽ちゃん!今度ばっかりは腹に据えかねたぞ、今朝のこともあるし……」
思い出した!顔に落書きしやがって!と思ったが、美陽の瞳はうるんでいる。
「アオヤマくん、せっかくなんだけど……」
今自分たちがいられるのも、霊界の「ご厚意」ということらしかった。生身の人間に存在が知られることはイレギュラーであり、まして、それを論文とかで発表されると、霊界にまで調査・研究の目が入り込んでしまう。そのきっかけを作ることは、許されていない、というのが説明だった。
「うーん」
確かに、霊的なものが今自分だけは見えているのは特殊な現象であり、常に現出するものではない。鈴鬼の説明にもあった通り、おっこにしても、まもなくウリ坊も美陽ちゃんも認識できなくなるようだ。そうなると、仮に今ノートにしたためたことを大人になったぼくが研究しようとしても、その現象が再現できない限り、無理な相談である。記録にも残せない、ということは、この現象がスピリチュアルであり、フィジカルには説明しようがないから、残せないということにつながっていると見たのだ。
「でも……」
ぼくは彼らに最後のお願いをしてみる。
「君たちを描くことはいいだろ?」
三人に聞いてみる。
「エエ、そりゃぁ、もう!」
「美人に書いてくれればそれでいいわ」
「僕が主役でお願いします」
親指をぐっと立てた鈴鬼にウリ坊は
「あほか、俺が主役に決まっとるやろ―がー」
とすごい剣幕でまくしたてる。
「まあまあ、二人とも、けんかしないこと。アオヤマ君にうまく描いてもらえないよ」
と美陽が取りなして、二人は何とか仲直りする。
苦笑するぼくだったが、おっこをきれいに描けていると知っている3人は、競って、自分をきれいに見せようと、いろんなポーズをとってみせる。
30分ほどかけて、3人の集合写真的なイラストを、一人一人は別に15分くらいをかけて肖像的に描いた。
「こんなもんでどうだろうか……」
ぼくは3人に見せる。
「いやぁ、俺って、こんな男前やったかなぁ?」
ウリ坊は、めちゃくちゃ喜んでいる。
「私も、こんなにきれいに書いてくれて……」
美陽ちゃんには、少し大人になった真月あたりの年齢になった姿も想像して描いてみた。
「やっぱり僕の絵が最高です」
鈴鬼の場合は、ぼんやり、というのではなく、実体として認識できたから、書きすすめるのも早かった。小柄で胴体を描かないで済んでいるのもあったかもしれない。
ぼくはノートをパンッ!とやや強めに音を立てて閉めた。
「ぼくの「春の屋研究ノート」の霊界部分はこれで終了。あとはおっこちゃんやお店の方に傾注することにするよ」
そう3体に宣言する。
「そうか。まあ、それが一番やわ」
「いつまでも私たちが見えていると、情が移っちゃうもんね」
「あのプリンの味は、一生の想い出です」
泣きそうになる鈴鬼をベンチから下して、ぼくは言う。
「将来、ぼくほどの研究者に描かれた、初めての幽霊ということでこのイラストは評価されることになるだろうしね」
と、ぼくは誇らしげに言う。だが、
「ああ、そうなるかもな」
「そうあってほしいわね」
「僕も願っています」
と感情がこもらない口調で言う3人。今までと違う対応に、その真意を後になって知ることになろうとは、このときぼくは気が付かなかった…
13.
「どこ行ってたんだよ」
父がぼくのことを心配していたようだった。
「ああ、ちょっとその辺をね……」
実際神社には一時間ちょっと逗留しただけで、そこからあちこち足を運んだのは事実だ。
「そう言えば、おっこちゃんから、お誘いあったわよ、今どっか行ってここにはいません、とは答えたけど……」
「もう、どうしてそれを早く言ってくれないの、お母さんっ」
いうなりぼくは部屋を飛び出す。
すると廊下で、たまたまぼくたち一家の泊まっていたやまぶきの間にお茶を持っていこうとしているおっこに出くわす。
「あああ、おっこちゃん!」
勢い余っていきすぎてしまうぼく。
「ああ、アオヤマ君。お母さんから、話は聞いた?」
お盆を持ったまま、おっこは答える。
「そのことだよ。ちょうどよかった……」
ドキドキしている胸を抑えつつ少しぼくも落ち着く。
「まあ、皆さんお揃いになられたのでちょうどよかったわ」
部屋に向かい歩き始めるおっこ。
「いったい何が始まるんだよ」
そのあとをついていきながら、僕はそう尋ねる。
「まあまあ。あとでおばあちゃんも来るから……」
お茶が運ばれ、一息ついたころにおかみがやってくる。
「本日のお泊まり、誠にありがとうございます」
と一通り挨拶が済んで、女将は言う。
「本日は、秋好旅館でのイベントに、当旅館にお泊りの皆様も、ご招待にあずかりました。なんでも、秋好旅館の泊り客だけではスペースが埋まらないとのことで、急遽近隣のお泊りの皆様も是非に、と言われましたので……」
「へぇ、なかなか豪勢だねえ。我々もお誘い頂くとは……」
父がかなり乗り気になっている。何しろ、父の大好きな一本で、どこかで上映されるとなったら、その場所にはせ参じるレベルなのだ。
「もちろん無料ご招待、ですわよね?」
母が料金を確認する。
「さようでございます。参加いただいた方には謝礼か粗品があるとも聞いております」
にんまりする母。
「私が行っても大丈夫?」
妹が要らぬ心配をする。
「十分楽しめると思いますよ」
仲居さんがフォローする。
「じゃあこれで決まりですね」
おっこがそういう。まあぼくの意見を聞かなかったのは、ぼくが一もにもなく賛成すると思っていたからだろうし、実際、今回上映される「この世界の片隅に」は見てみたかったということもある。
なんと秋好旅館から迎えの車も準備されていた。板前の康さんは、仕込みがあるとのことで、また、仲居さんも留守番を買って出たので、女将とおっこ、そしてぼくたち一家の総勢6人が秋好旅館に向かう。
さっきは人が入る専用の入り口から訪れたぼくたち一家だったが、送迎してくれる車は、関係者専用の車寄せに横付けにされる。今まで見てきた豪華絢爛な表の顔とは似ても似つかない、無表情なコンクリートの打ちっぱなしのたたずまいが、大きくギャップとして印象付けられた。
関係者用の通路を通り、ロビー階に到着したぼくたちを迎え入れてくれたのは、ピンクのフリフリもまぶしい、この旅館の若おかみ、真月だった。
「あら、若おかみさん。お連れいただいたのですね」
おかみとおっこを先頭に歩いていたぼくたちは、ひとまず歓迎の意を告げられる。
「はい。ご紹介します。こちら、アオヤマご一家です」
おっこがぼくたちを紹介する。
「この度はようこそ。小柄で面白味の無い春の屋さんでは、お困りのことも多いことでしょう……」
明らかに上から目線で春の屋を、おっこを貶めているかのように聞こえた。だが、ぼくたち一家は、無表情を決め込む。
「次に花の湯温泉にお泊りの節は、ぜひ、当秋好旅館をご指名いただきたく……」
と言い終わらないうちに母が少し怒気を含んだ口調でこういう。
「エエ。これだけの立派な施設でどんなおもてなしができるか、とくと拝見したいものですわ!」
すでに春の屋のとりこになっている母の一言は、「同じことができるものならやってみなさい」と真月に突きつけた"挑戦状"のように感じた。常に一流を感じてきた母のこの一言に、真月はたじろぐ。
「そ、それではこちらの方へ……」
形勢不利と見たのか、真月はイベント会場である映画館に我々を案内した。
14.
温泉地に映画館、なんて、その昔はワンセットで存在していたようなものだった。卓球にマッサージチェアーは、旅館の中に必ずと言っていいほど置いてあった必須アイテムである。
だが、旅館の中に映画館を作ってしまう発想は、斬新だった。いまでこそ、オンデマンドで映画が見られるし、秋好旅館でも有料で見られるテレビ・ビデオ商材は健在だった。それでも、大スクリーンの魔力には敵わない。そこを先代はわかっていたのだろう。
2スクリーンある劇場のうち、400席余りの大劇場がイベント会場だった。作る施設は一流を目指す先代の意向もあって、近隣のシネコンを凌駕する収容人数にしたところにこだわりを感じた。
「お席はご自由に。あ、それから、これは今回のイベントに参加いただいた方にお渡しする粗品です。どうぞお受け取りを」
真月は人数分手渡すと、そそくさと会場を後にした。
中味は、秋好旅館の刻印の入った温泉まんじゅう2個に、お茶うけに出されるらしい個包装のクッキ-が一袋。旅館のネーム入りのボールペンもあったのだが、旅館的に大盤振る舞い、と思わせて同梱していたのが5000円相当の宿泊券だった。
「タダ券じゃないのね、まあ、そこまで太っ腹ではないか……」
母は、その内容に不満をたらたらと述べる。普段感情をあまりあらわにしない母の怒っているような表情は、久しぶりに見たものだった。この旅館の、分不相応な絢爛ぶりと、やはり真月の態度が癪に障ったのだろう。
「まあまあ落ち着いて。そんなんじゃぁ、映画も楽しめないよ」
父が母を取りなす姿もそうそうみられる光景ではない。父自体は、この映画を何回見たかわからないし、復活上映などで、他県の劇場まで足を伸ばすほどのフリークだが、こうして家族そろって観られることに一種の感動を覚えているのだろう。
そうこうするうちに開演となったのだが、そこからすごかった。
普通司会は旅館のスタッフがすると思うのだが、ここではなんと、出演していた俳優さんが司会役で出てきたのだった。そもそも今回の監督をはじめ、映画のスタッフが花の湯温泉に来たのは新作映画完成の打ち上げ、ということらしかった。司会も、監督に気分良く出てきていただくために、俳優氏が買って出たのだとか。
その俳優さんが、しばしば笑いを取る中で監督が登壇する。割れんばかりの拍手に迎えられた監督氏は、ややおとなし目な口調で語りだす。その冒頓とした語りと裏腹な、写実主義を貫いている作品を見知っているぼくは、そのギャップにしてやられた。
二人の掛け合いもいいころ合いになったころ、「まあ私の話も、もっと聞きたいでしょうけど、本編、そろそろご覧になりたいんじゃないんですか?」と監督氏に問いかけられて、失笑と拍手が同時に沸き起こる。
そして、上映が始まる。
感動と、エンドロール後の拍手の収まらない映画鑑賞は、ぼくにとっては初めてだった。
母は、実は映画はあまり見ない方で、この作品も初見だったようだ。ところどころのエピソードではケラケラと笑っていたのだが、あるシーンを境に黙り込んでしまい、後半は涙に暮れていた。父は、上級者らしく、本来の涙腺励起ポイントより早い段階で嗚咽を漏らしたりしていた。妹にはこの映画は少し難しかったようだが、それでも自分と同年代の女の子の登場と退場には興味を持ってくれたようだ。
映画自体には満足していたぼくたちだったが、居心地の悪さからか、「早く出ましょう」という母に気圧される形で一家は、早々に帰路につく。
「いかがでした?」
なぜかおっこは劇場の外で待っている。
「あれ?おっこに女将さんは見なかったんですか?」
ぼくが聞く。
「あ、いろいろあって……」
おっこの言葉の濁し方で、本当に「いろいろ」あったのだと悟ったぼくはそれ以上聞かないことにした。
「帰りは送りはないみたいですから、歩いて帰りましょうかね」
女将はそういう。
「そうですね。この夕方の空気感も、温泉街ならではですしね」
父が物分かりのいい表情をする。食前の運動としても下り坂だし、悪くは感じない。
20分近くかけて、ぼくたち6人は「春の屋」に戻ってくる。
「おお、おかえりなさい、お嬢様」
「女将さん、おかえりなさい。それにアオヤマ様も……」
出迎えに康さんまでお出ましいただくとは。よほどぼくたち一家のことが気に入ったようだった。
15.
夕食前にひと風呂浴びる。一家は男女別々の風呂場に入り、脱衣して湯船につかる。
「ウワー、気持ちいいー」
花の湯に触れる最後のお風呂。夕焼け空とともに入る湯船はそのお湯の色でもある、やや黄色みがかった色が深みを増しているようにも感じた。
温泉に行くということで当初から「温泉とは」を調べていたぼくにしてみれば、物理的な部分しか考えていなかったのだが、温泉の持つ別の効能というものがぼくをとらえて離さない。
それは、おっこをはじめとした、人のぬくもり、言葉だけで言い表せない感動や感謝、今まで背負ってきたものをひと時忘れさせてくれる癒し。それらすべてがここにあるように感じてきたからである。
一足早く入っていた父が湯船からザバッと上がり、脱衣場に向かっていく。ぼくはまだ余韻に浸りたくて、そのまま浸かっている。
「しっかし、アオヤマ君、ここがお気に入りになってもうたみたいやな」
湯気で実像は定かではないが、その声は間違いなくウリ坊だ。
「ああ、いい気持ちだよ」
これなら独り言ともとれるし、ウリ坊への返答にも使える。もっとも、父はすでにこの声が聞こえない距離にいる。
「さすがに美陽ちゃんはこっちに来ないか……」
霊の世界に男女の区別があるのか、定かではないが美陽はここには入ってきていないようだった。
「ううう……子供の僕には熱すぎるんですけど……」
なんと、鈴鬼が浸かっているとは思いもよらなかった。しかも、その顔は、まるで赤鬼に変身してしまったかのように真っ赤である。
「なんて無茶なことを。いいから上がれよ」
よく見ると体中真っ赤である。
「アハハっ、鈴鬼やのうて、完全に子供の赤鬼やないか」
ウリ坊が腹を抱えて笑い転げている。当の鈴鬼は少しぐったりしている。
「もう、世話が焼けるなぁ……」
ぼくは、桶一杯の水を少しずつかけてやる。体温が下がったからか、ようやくよろよろっと立ち上がる。
「鬼と温泉って、相性とか、悪くないの?」
鈴鬼に聞く。
「ああ、ここの温泉は大丈夫です。誰も拒まないっていうのが売りですから」
「ふーん」
鬼すら受け入れる温泉の秘密。本当に"花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない"のだと思い知らされた。
16.
二泊三日の花の湯温泉の旅も終盤に差し掛かった。「春の屋」で食べる最後の晩餐。
女将ともども、おっこも配膳やら、陶石焼に火を入れたりと、かいがいしく働く。
「よぉく見ときなさい。お仕事というのは、こうしていくのですよ」
母が妹にレクチャーしている。今のご時世、妻が専業主婦でやっていける家庭などどこにもない。旅館の仲居まがいの仕事を一つの例にするのはちょっと違うかもだが、仕事に対する心構えや、隙のない動作のことを言っているのだとしたら、それはそれでいい視点である。
「それにしても、あっという間だったなぁ。君はどうだった?」
父が早くも感想を述べる。聞かれて母はこう答える。
「もう、このお宿の大ファンになっちゃいましたぁ」
満面の笑みをたたえて女将とおっこに言う。
「そう言っていただけて女将として本当に幸せです」
「私も、お世話した甲斐がありました。ありがとうございます」
二人して三つ指ついて礼を言う。すべての所作に旅館業のDNAを感じられた。
「あっそうそう。今日はうちの板長からもご挨拶があるんでした……」
そう言って、女将は康さんを連れてきた。
「この度は、「春の屋」にお越しいただき、ありがとうございました」
康さんは一礼して話を続ける。
「私も、長いことここで板前やらさせてもらっていますが、お客様ほど、料理に対して理解をお持ちの方を存じ上げません」
昨日の夕食の際の会話で、康さんが、何かをつかんだのではないか、と僕は悟る。
「味付けに対しても、素材の扱いに関しても。私が勉強になったのと同時に、「思いこみや古いしきたりは見直さなくては」と教えていただきました」
一呼吸おいて、康さんは続ける。
「そのご教授を今回形にさせていただきました。もちろんさらにアレンジは加えております。どうぞ、ご賞味くださいませ」
深々と一礼する康さん。
ニマァっとする母。この目をしたときに発するのはこの一言だ。
「では授業料!」
ちゃっかり「頂戴」の手のポーズまでつけている。
「まあ、奥様ったら……」
女将が失笑する。つられて康さんも
「あはっ、これは一本取られましたなぁ」
と頭に手をやる。
ぼくとおっこは、くすくすわらっている。
「なんだよもう。冗談言ってる場合か」
父は少しだけ苦言を呈するが、場の雰囲気は和やかだった。理解できずにぽかんとしている妹を除いては。
「では、早速いただきましょう!」
「「いっただっきまーす」」
子供二人の声がやまぶきの間に反響した。
確かにぼくはまだ小学生だ。だが、両親は子供向きの料理は一人分、とオーダーしていた。もう大人の仲間入りをした、と思われるような配膳に二日目もなっていて、ぼくにしてみれば両親と同じものを食べられる幸福に満ち溢れていた。こうして、また一歩、大人に……お姉さんにふさわしい男に一歩近づきつつあるのだ。
焼き物は、落ち鮎の塩焼き。前日はサクラマスだったのだが、一気にグレードアップしている。しかも塩味がどこを食べても同じなのだ。これは母の直伝の手法である、塩水でまんべんなく味をつけるという手法を取り入れたということを示していた。うんうん、とうなづく母の表情で、「実践してくれた」ということが理解できる。
椀ものも、母のアイディアが詰まっている。白身魚のしんじょは、中に食感を生むために、歯触りがよく、色も白く似通っているレンコンを混ぜ合わせてある。ふんわりだと思いきや、サクサク感が出る。康さんはこれに痛く感じ入っていた。
「私ら板前って、基本的に守旧派なんです。新しいことにチャレンジしにくい。和食ならなおさらです。でも、「別の食材を組み合わせる」ことの面白さを今回、奥様に教わりました。いろいろチャレンジしてまいりたいです」
康さんはこういって、母の助言をほめちぎる。たしかに前日食べた同様のしんじょより、「もっと食べていたい」と思えるのは、食感のせいだろうと思った。
肉料理は、ステーキにせず、シチューになっていた。だがこのとろけるような肉のうまみと、デミグラスソースの塩梅が、恐ろしいほどハーモニーを奏でている。和風旅館で洋食顔負けのものが出てくるのだから、びっくりしないわけがない。最後のデザートは、秋を感じるケーキバニラアイス添え。周りがブドウジュースで染められたスポンジケーキ。中心だけが丸くスポンジケーキの色になっていて、逆日の丸みたいな風貌。やや熱い料理が続いたので今回はアイスクリーム添えにしたということのようだった。
「このケーキは本当に斬新。ケーキなのにブドウを食べているような錯覚に陥らせてくれるなんて!なかなかできなくてよ」
レシピを見なおすと、本来入れるべき量より少ない砂糖の量が気になっていた。ケーキ単体で食べたら味気ないはずで、そのバランス感覚は、本当に素晴らしかった。
ほかにもいろいろ感じるところがあったのだが、あまりに感動が大きすぎてぼくはノートにも書き切れないほどだった。
「はあ、食った食った」
父が珍しく格好を崩す。こんなリラックスした父を見るのは初めてといってもいい。
「そうね。私も食べすぎちゃったかしら」
ワインの飲み過ぎか、少し上気した頬を見せつつ母も言う。
「あなたたちはどうなの?」
ぼくたちに状況を訪ねる母に向かってぼくは言う。
「ちょうどいい気分だよ。でも、今日分かったことがあるよ」
「ほほう、なんだい?」
父が興味津々で聞き耳を立てる。
「ケーキやデザートは別腹ってことだよ」
「あっはっはっはっ」
父は大げさに、呵々大笑する。
「こりゃぁいいや、まるで女子みたいな……あっはっは」
涙まで出して笑っている。そんなにおかしいかなぁ?
「でも、本当にこのお宿に来てよかったわね、あなた」
母が言う。
「ああ、雑誌に載ってただけだから、なんかの宣伝もあるだろうと思ってたけど……神田先生か、あの人のルポもこれから読んでみたいなぁ」
この記事だけでこれだけの人が心動かされる。ぼくは文章の魔力というものにも興味が湧いてきているのだった。
17.
「春の屋」で過ごす最後の夜を迎えた。
ぼくは、布団の中に入って、この旅行のことを思い返していた。
最初はお姉さんのことを考えなくて済む、気晴らしの意味合いの方が大きく、旅行も温泉も全く興味が湧いていなかった。それでも、まさか研究してみたくなる対象が、こんなにも出てくるとは夢にも思わなかった。
結果的にこの二日間で、幽霊たちとも出会え、一定の効果はあった。ただ残念なのは、実際の研究に至る端緒を美陽に封印されてしまったので、謎がどこまで解明できるのか、未知数な点だ。でも記録はなくても記憶はある。そこからでもつかめるものはあると信じている。
まどろみ始めてしばらくして。
「おーい、アオヤマクーン」
遠くから声が聞こえる。
「誰だよ、人がせっかく寝ようとしているのに……」
ムックと起き上がり、目をこすりながら声のする方へと歩き出す。
「やあ、俺や、ウリ坊」
そこには、少し輪郭がぼやけた、ウリ坊が立っていた。いや、正確には地面に立っているはずの足は、やや消えかかっている。
「こんばんわ。今日でお別れだね」
一足早めの暇をウリ坊に告げる。
「そうなんや。鈴鬼になんか食べさせたら、もうちょっとは繋がっておれるんやろけど、もうそこまで時間はないしな」
仕方ないな、という表情で語るウリ坊。
「それでも、ぼくは楽しかったよ」
退屈しないで済んだだけでなく、ぼくの研究魂にも火をつけてくれた。三人には本当に礼を言いたい。
「まあ、そう言うてくれると、俺らも成仏できるわ」
達観したようにウリ坊は言う。
「えっ?もうそんなタイミングなの?」
「今すぐとはちゃうで。でも、実際、年が明けて、春になったら、俺らは、この世界ともお別れなんは間違いないわ」
ウリ坊はそういう。
「そうなんだ……」
鈴鬼もそう言っていたし、時間がほぼないのは間違いないだろう。
「なんか、別れるのって、いろいろつらいよね」
相手は実体のない霊魂。お姉さんとはまた違う感情が浮かぶと思っていたのに……ぼくは明日、ここから自宅に帰ってしまうことに少しだけ悔悟の念にとらわれていた。
「そんなことあらへんっ!」
突如、ウリ坊は力強く言う。
「会うは別れの始まりって、よう言うやろ?俺と峰子ちゃんが逢うたのも、おっこと俺が知り合えたのも、アオヤマ君と俺がこうしてしゃべっておれんのも、結局別れることが前提なんや」
別れることが前提……ウリ坊は哲学的なことを言い始めた。
「人と人は、別れるから逢えるんや。別の人と知り合えるんや。そう考えたら、別れる、いなくなるってことも、悲しい、寂しいこととは思えなくなるやろ?」
それは確かにそうだ。人間同士の別れや死別は避けて通れないものでもある。おっこを例にとればいい。彼女は両親を一度に失った。それがあったから、おっこは「春の屋」でいろんな人と会い、人間的にも成長しているではないか。両親の死が彼女をより早く大人にしていると考えられるのだ。
「なんや君にも、別れを引きずっている思いが見え隠れするけど……それって成就しそうにないやろ?」
まるでぼくの心を見透かされているように感じた。霊魂はぼくの持つ霊的なものとコンタクトでも取れるのだろうか?
「う、うん」
言い当てられて、うなづくしかできない。
「それやぁ、それやがな。君が大人になりきれてへんっちゅうところが」
ウリ坊はしたり顔で言う。
「まあ、何もかも忘れろとまでは言わんけど、会うは別れの始まり、を実践してみ?もう会われへん人のことを考えなくて済む時間を少しずつ長く取っていけば、新たな出会った人のために使う時間が増えていくから、勢い考えなくて済むようになる。そうなったら、しめたもんや」
「……」
一縷の望みがぼくにはある。はずだが……お姉さんも人ならざるものだとしたら?本当に実態がなくなっているとしたら?この世にいないとしたら?
「もっと端的に言うたろか?時間がすべてを解決してくれる。いつまでもこだわっていられなくなる。気がついたら忘れているか、その人のことをほとんど考えていない自分に驚くやろうよ」
ぼくはにわかに信じられなかった。時間が解決する。確かに、ぼくがお姉さんに逢うためには、その謎を解明するためには時間が必要だ。二十歳まで三千と七百日強。この謎を解明するには、その膨大な日数でも足りないかもしれない。一日一日を過ごしていく中で、お姉さんという大テーマを凌駕する、とんでもない研究素材が生まれないとも限らない。毎日考えているようで考えないで済む時間が増える。そんなことあるはずないと思っていたのに、「春の屋」に来て、そういう感覚にとらわれていることを知り、ぼくは愕然とする。
「面白い考え方だね。参考にさせてもらうよ」
全面的にウリ坊のいうことは採用したくなかった。受け入れてしまったらお姉さんとの絆が途絶えるように思ったからだ。
「それがええわ。さすがアオヤマや」
いつの間にかウリ坊はぼくを呼び捨てで言い表した。でもそんな些細なことは気にならなくなっていた。
「ところで、美陽ちゃん」
呼びかけると、さっと姿を現した。
「何かしら?」
暗い夜でも彼女の笑顔は光がさしているようだ。
「もういたずらはよした方がいいよ」
ぼくは、極力怒らないで、諭すように話しかける。
「あら、だって楽しいじゃない」
悪びれない美陽。
「君が楽しくても周りが迷惑してんの!」
いらいらしたくはなかったが、さすがに注意するような口調になってしまう。
「まあ、お客さん相手のいたずらは、もうやらないって誓うわ」
美陽はぼくだけでなく、今までやってきたいたずらをしないと約束してくれた。
「それがいいよ。春の屋に迷惑になってもいけないしね」
ふぅと息をする。年下の妹と同い年くらいの幽霊にもてあそばれたままでは帰りたくなかった。
「最後は僕ですか?」
浴衣の裾を引っ張って鈴鬼が声を掛けてきた。
「君のおかげでいろいろ楽しめたよ。本当に感謝する」
そういうと、頬を赤らめる鈴鬼。
「ぼくができることと言ったら、金平糖を君のために置いておくくらい。大事に食べるんだよ」
鈴鬼に対するお礼は、ほかに思いつかなかった。
「はい。分かりました」
鈴鬼の目は、少しうるんでいるように見えた。
「時々春の屋さんに甘いものを"鈴鬼にあげて"と、おっこに渡しておくから、それで凌ぐといいよ」
それをすることで、鈴鬼と、おっこと、春の屋につながっていられる。ぼくながらの名案でもあった。
「まあ、おっこも、鈴鬼のことはわかっているはずだから。って、鈴鬼は消えてなくなったりしないの?」
基本的なことが急に頭の中に浮かんで、僕は鈴鬼に聞く。
「一応鬼ですから、消えてはなくなりませんし、鈴が春の屋にある間はここに留まることになるでしょう。鈴に封印されなくなるほど成長してしまったら、ここからいなくなるかも、ですけど、未来のことはわかりません」
「そうか。君にも分からないことがあるのか……」
しんみりとしたぼくは、夜の闇に浮かぶ月を眺めていた。
あっという間の二泊三日だったが、ここが第二の故郷のようにも思えてきた。それほどぼくの心の中に、春の屋と花の湯温泉は少しばかりの傷をつけてくれた。三人が名残惜しそうに消えていくのを、少しばかり寂しげに見送るぼくだった。
18.
「おお、おはよう。今日はよく眠れたみたいだな」
父に言われて、起きるぼく。昨日は、夜中に起きたりしなかったこともあって、ぐっすりと眠れた実感があった。歩き回って疲れたという部分も影響したのだろうか?
「今日は、熱海の温泉に浸かって帰るからね」
母は、朝食の前にプランニングを済ませていたらしく、すでに対象を絞っているみたいだった。
「ここの朝ごはんとも今日でお別れだな」
父がそういう。父もここの宿がかなり気に入っているみたいだった。
「本当にいろいろお世話になっちゃったわ。特別なこといろいろしてもらったのにほとんど料金になってなかったし」
ペラッと見えた伝票には、12万7千円ほどの記載。あれだけの料理とサービスを考えれば、一泊当たり一室6万円は破格と言ってもいいだろう。
最後の朝食も女将とおっこ、仲居さんも動員して運ばれてくる。奇をてらわない、和風旅館の朝食。パンが定番の我が家では考えにくいことだったが、これはこれで美味しく感じられるし、量もついつい食べてしまう。すべてが素晴らしい出来栄えで、感動しながら食べる。
あっという間の3日間だったが、ひとつだけ、聞いておきたいことがあった。
膳を下げるおっこが部屋にやってきたのを見つけてぼくは声を掛ける。
「あ、おっこ、ちょっと、いい?」
「はい、なんでしょうか?」
"あとはやっとくから"という仲居さんの目配せにも助けられ、ぼくはおっこを月見台に招く。
「個人的にいろいろお礼も言いたかったから……」
ぼくはひとまずそういって感謝の念を伝える。
「いえいえ、こちらこそ、短い間でしたけど、楽しかったです」
幾多の客を向かい入れては送り出す。旅館の仕事とは、それこそウリ坊ではないが『会うは別れの始まり』を具現化している場所なのだと改めて思った。一期一会。それが旅館業の定めであるし、一瞬一瞬が大事なのだと思い返す。部屋の飾りつけ、掃除に始まり、出迎え、食事、入浴、床作り、そして見送り。すべてに心配りと気遣いが感じられるからこそ、春の屋は、たった5部屋であるとはいえ、いまだに存続していられるのだ。
そしてぼくは聞きたかった"疑問"を口に出す。
「これからも、春の屋の若おかみ、いや、女将でいてくれるんだよね?」
ぼくの目があまりに真剣だったのか、「女将」という言葉が斬新だったのか、おっこは驚きのポーズをぼくに披露する。
「ええ、わたしが、女将さんだってぇ?」
でも、順当に行けば、そうなることは必至だろう。多分、ぼくには見えなくなっているが、ウリ坊あたりが
"そらそうやろ。跡取りはおっこ、お前しかおらんのやで”
と言っているだろうし、
"舞いを踊るんだから決まったようなものでしょう"
と語る美陽。
"それなら僕もここにずっといられるんです"
と鈴鬼あたりが言っているかもしれない。
「いやいや、今すぐにってわけではないよ。まだ女将さんも元気なんだから。そのうちにってことだよ」
おっこの驚きぶりにぼくは説明せざるを得なかった。
「ああー、びっくりしたぁ。でも、私がこの旅館を引き継ぐって、もう決めてるから……」
その言葉に迷いは感じられなかった。これなら、ぼくが大人になっても、その時に成長した関織子を見ることもできそうだ。お姉さんを連れてその時を迎えたい、とも思った。
午前10時半。
駅まで送り届けるタクシーが横付けされる。
「みんな―、忘れ物はないかぁ」
父が少し声を張り上げる。
「私は平気」
妹が真っ先に手を上げる。
「ぼくも」
ぼくは少し後ろ髪を引かれそうな口調で言う。
「私は、大丈夫ッ、って、おっとっと」
母のスーツケースは、お土産物や秋好旅館で別途買い求めた様々な食材類であふれんばかりになってしまっていた。車輪を御せず慌てふためく母を見るのはなかなか滑稽だった。
タクシーのトランクがバタン、と閉まる。いよいよその時がやってきた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
父が暇のあいさつをする。
「なにをおっしゃいますやら。これからもどうぞごひいきに」
女将が抑制された口調で言う。
「いつでも遊びに来てくだせぇよ、お坊ちゃま」
ぼくのことが気に入ったのか、康さんに言われてぼくは照れる。
「あ、は、はい。またの機会にきたいと思います」
そう返すのがやっとだった。
「その時はお嬢ちゃんもつれて、ね」
妹と二人で来る選択肢はなかったが、それでも仲居さんは、妹のことが幼い娘みたいに感じたのだろうか。
「では、最後に、おっこ」
女将に促されて、一歩前に出てくるおっこが、最後の挨拶をする。
「この度は、春の屋にお越しいただき……」
「「「「ありがとうございました」」」」
四人の口調が恐ろしく一致する。思わず感動してしまいそうになった気持ちを押さえつつ、ぼくたちは車に乗りこむ。
車の窓を開ける。すぐさまタクシーは駅に向かって走り出す。だが、春の屋の一同は、車が見えなくなるまでお辞儀をしたままで一歩も動かない。その姿を後部座席から見届けるぼく。
「いやあ、凄い旅館だったなあ」
父が、助手席から声を掛ける。
「ほんと。私の中でもベスト3に入るわね」
日本各地を旅行する母にとってみれば、この手の旅館はいくらでも経験しているはずである。その母をして、3本の指に入るといわしめるのだから、春の屋のポテンシャルはすごい。
「私、もっと居たかったなぁ」
妹がぼくと同じ感想を漏らす。
「そうかい!じゃあ、旅館の下働きで春の屋にでも入るかい?それならずっと居られるよ」
父が冗談半分で妹に言う。
「いや、それは、ちょっと……」
急に妹の言葉に元気がなくなっていく。
そうこうするうちにタクシーは駅に近づいてくる。最後の仕上げに花の湯温泉駅を書こうとしてノートを広げる。
その時は異変に気付かず、駅を素早くイラストに落として、熱海に向かう電車を待つ。
ほどなくして電車が入ってくる。今回は、来るときにすれ違った、眺望を楽しめる、リゾート列車っぽい車両がやってくる。
父は、その電車を見るなり、
「これ、乗ってみたかったんだぁ。その昔は「リゾート21」って言って、ここの代表的な列車だったんだよっ」
とすごいはしゃぎぶり。母も眺望が楽しめるとあって、カメラでパチパチ撮りまくっている。
"やれやれ、こどもっぽさ満点だな"とニヒルに思いながら、テーブルのある場所でノートを見開いたときにぼくは違和感を覚えた。
「あれ?」
数ページが空白になっている。ぼくは間違いなく、余白を作らずにひたすら埋めていたはずである。確かに美陽ちゃんに、鈴鬼の語っていたことを消されたのは記憶にあったが……
「ああ、そういうことか!」
そのページの隅に書いた文字までは消えていなかった。そう。あの三人のイラストが消えていたのだった。
「たしかあの時……」
ぼくは三人の言葉を思い出していた。絵をかいた後の彼らの声には感情がこもっていなかった。描くだけ描かせて、「はい、見えませーん」にするつもりだったんだな。三人の悪だくみを今知って、少し怒りたい気分になった。
だが、と思い直す。
あの時、美陽も言っていたように、文字に残される、実体が絵に描かれる。それは霊界にいるものにとって特異な出来事であるはずで、それを許してしまっては後々の立場に影響する。だから、描くことを拒まず、残さない方向に変えたのだな、と思わずにはいられない。
"してやられた"
でも、ぼくには実は「そんなこともあろうかと」一つの策を弄していた。それは筆圧を残すということ。幽霊さんにはペンの色しか消し去れなかったようだが、ペンを走らせた筆跡までには気が回らなかったようだ。
にんまりとしながら、ぼくは鉛筆を寝かせて浮かし絵のように三体を浮かびあがらせようとする。
しばらく紙を黒く汚す作業をしていたが、ふと、その手が止まる。
「いや、これはやめておこう」
絵が消えている理由。それは、このテーマには触れてはいけないものなのだ、と教えてくれるからだ。今ここで三体が浮かし絵でも現れたりしたら、あの幽霊たちに何か災いが降りかからないとも限らない。ぼくは、触れてはいけない世界を知ってしまっている存在なのだった。
そう思いつつ、ぼくはノートを振り返る。結局50枚のノートではまとまりきらず、秋好旅館で買い求めたノートを正式板にしようと画策せざるを得ない分量になってしまった。
そして、そのページでぼくの手はぴたりと止まる。
ぼくにとっての二人目の肖像画。関織子、12歳、春の屋の若おかみ、おっこ……
彼女の献身的な働きぶり、表情がくるくる変わる感情表現、そして、彼女の"闇"。すべてを知ったわけではないが、彼女に触れて、ぼくも「よし、やろう」という気持ちにさせられる。
「そのうち、また、あいに行くからね、おっこ」
ぼくはそういいつつ、ノートを閉じる。気が付けば、熱海駅はもうすぐそこだった。
19.
小学5年生を迎えるその年の春。
「春の屋」からの手紙に、ぼくは少しだけ小躍りする。
「私の舞いを見に来ていただけませんか」
小学6年生……今年中学生が書いたとは思えない招待状。泊りで行くことはさすがに難しいが、その舞いを見るだけなら電車賃だけで済む。もっとも、関西からなので、往復子供料金でも1万円程度はかかってしまう。
ぼくは両親に手紙を見せながら、「おっこの姿を見たい」と懇願する。
だが意外と両親の答えは二つ返事だった。
「おお、あの旅館の若おかみかあ。行ってくればいいよ。お父さんも行きたいけど、さすがに年度末で仕事が空かないからなあ」
「あ、私、熱海の温泉旅館に知り合いできたから、一緒に行こうか?途中まで」
「私も行くぅ」
となって、母とぼくと妹で行くことになった。
旅行当日。母と妹は熱海駅で降りた。ぼくだけ、引き続いて電車を乗り継ぎ、「花の湯温泉」駅に向かった。
数か月ぶりの温泉街は、いつもと変わらぬたたずまいを見せていた。違っていたのは、やはり、梅の香神社の祭礼のせいか、観光客の量が少し多く感じられたことだった。
徒歩で行くとやはり時間はかかるが、ひとまず「春の屋」にあいさつに出向く。
またしても、ぼくが宿泊客でもないのに、なぜか仲居さんが玄関口に立っている。
「ああ、これはこれは、アオヤマ様のお坊ちゃまっ!」
ぼくのことを覚えてくれているとは。仲居さんの目から、驚きと喜びを示す涙を認めてしまった。
「で、おっこは?もう神社ですか?」
「ええ。間もなく始まるかと。お嬢様も喜んでくれることでしょう」
仲居さんの言葉は、少し震えている。
「あれ?女将さんは?」
ここにいるべき人の不在をぼくは感じ取る。
「ああ。今回は、お神楽に琴を弾く係でご出座なさっているのですよ」
仲居さんが答える。
「へえ。女将さん、お琴も嗜まれるのですね」
それは知らなかった。おっこにとってもいい応援団になっていることだろう。
「ああ、もうそろそろ始まるかと。お気をつけてぇ」
仲居さんの言葉に背を押されるように、ぼくは少し駆け出す。
梅の香神社はまさに梅が見どころの神社であり、今ちょうど見ごろを迎えていた。観客も大勢見られたが、まだお神楽は始まっていないようだった。
そしてその時がやってくる。
太鼓の調子に笛が応える。それに琴が見事に調和する。掛け合いが場を盛り上げていくそのタイミングで、二人の少女が、神楽殿に登場する。一人は山犬の面と、毛皮の被り物で、もう一人は紫の被り物だけで華美な装飾はしていない。そう。山犬役がおっこで、もう一人が真月である。真月の立ち位置は、傷付いた山犬が温泉で傷をいやしているのを見た村人ということらしかった。
ぼくは少しだけその光景に見とれる。その刹那、ふいに
「おい、アオヤマっ」
聞きなれた声。久しぶりに聞くウリ坊の声だった。
「おお、ウリ坊」
中空に浮かぶウリ坊は、少しだけ輪郭がはっきりして見える。僕は空を見上げながらそう言う。
「来てくれたんか。オレ、ホンマ嬉しいわ」
「わたしもっ」
そばには美陽がいる。
「美陽ちゃんも。あれ?鈴鬼は?」
「あいつやったら、今でも春の屋に居候しとるで。今頃どっかで甘いもんでもつまみ食いしとるやろ」
「そうか……」
舞の方はそろそろクライマックスにかかろうかというところまで演じられていた。
「ま、アオヤマにも会えたことやし、俺もしっかり成仏できるわ」
「私も、妹の晴れ姿見ないと死にきれなかったから……」
そういうと、二人は神楽殿に飛んで行き、揃っておっこと真月の動きに合わせて踊る。
ほかの人からはウリ坊と美陽の動きは見えていない。ぼくもしっかり目を見開かないと、二人を見失ってしまいそうなくらいおぼろげな存在になってしまっている。
ここに来て、ぼくは悟る。二人は、決して一人ではない。おっこはウリ坊の、そして真月は美陽の魂とともにこれからを生きるのだと。これは単なる旅館を継承するための舞いではなく、独り立ちを宣言するものなのだと。
琴が、太鼓が、伴奏がやや激しさを増す。それにつられるように二人の動きも激しくなる。その時、おっこの表情が少し曇った。何かを探しているようなそぶりだ。そしてぼくも気が付く。神楽殿の舞台にはもう"二人"しかいないことを。
二人の幽霊がきれいにいなくなった花の湯温泉街。それでもこの温泉は、このお湯は誰も拒まない、すべての人を、動物でも癒してくれる存在であり続けていく。いまその決意とともに御神楽が最後の見栄を切って終わる。
観客の拍手はいつまでも終わらない。ぼくも感動して泣きながら拍手している。また、いつか、ここに泊まりに来よう、その時は、もう少し大人になったおっこに逢いに。
筆が乗ると、こんなもんですwww
実際、どちらも複数回鑑賞/世界観はほぼ手の内(もっとも、アオヤマ家をどう描くかは少し逡巡したが)なので、こうなることはわかっていたのですが、手直しに手直しを重ねて、ついに4万字オーバーにまで。単編として当方の字数の最長記録を更新しています。いやはや、お疲れさまでした。
まあ、フォロワー氏からの提案で(とはいっても勝手に書いているだけなのだが)ここまでできたのだから、当方としても大満足です。
ラストシーンは、まるで映画の芳醇な後味を意識しました。これが書きたかった、という〆にしたかったので…
「君の名は。」「きみの声をとどけたい」の登場人物たちも、「春の屋」に泊まらせたいか?って声も聞こえてきそうですが、中流以上でないと春の屋に宿泊は無理(ちなみに宿のモデルになっている京都の旅館のお代は一部屋10万円程度かかるらしい)。なので、ちょっと厳しいものがありますね。まあ、考えなくもないですが、話がうまく膨らむか、どうか。
久しぶりの長編で読みごたえもあると思います。康さんが、アオヤマ君の母に料理のアドバイスをもらうくだりで、真月が教えた手法が言われていますが、前後してしまったところはご愛敬、ということで。
今回初めてSNSでの連携を画策。果たして読者が殺到するかどうか…興味津々であります。
アオヤマ君、得難い経験をしましたねぇ。思いつきで「アオヤマ君が春の屋に泊まったら」とツイートするのは簡単でしたが^^、実際に書くとなるとさぞご苦労だったかと。力作をありがとうございました。
待ってました!
ついにあのペンギンハイウェイのSSが!ウキウキ ワクワク
アオヤマ君が春の屋に泊まるという発想が凄い!
素敵な作品,どうもありがとうございました!
To S.L.KⅡ 様
コメントありがとうございました。
こんなこと言っては何ですけど、「設定を使ってSS書く」ということに立ち入らせてくれる作品なんて、年間何本も出ません。
実際仕掛中のヴァイオレットさん絡みは、なかなか落としどころが見つからず、越年しそう。天気の子、君縄作品も、ここ最近は止まっちゃってますしね。
「若おかみ」とアオヤマとのコラボを提案いただいた方には感謝してますし、何より、こういった視点に立てるのがSSのいいところ。
さすがに鬼滅はいろいろ問題ありそうなんで、アフターとかは書くつもりはないですけどねw
これからもごひいきに。